#北陸道総鎮守
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2024.08.10(土) google口コミ4.0の「敦賀きらめき温泉リラ・ポート」の露天風呂で、夏空と百日紅の紅い花を眺めながら、うとうと気分。 その後北陸道総鎮守 越前国一之宮「氣比神宮」南参道口前にある「miko cafe」(京都の企業が運営している)で、小腹を満たす。 評判通り、おしゃれで美味しかった。 帰りに近くの「天清酒万寿(てんせさかまんじゅ)店」で「酒まんじゅう」をお土産に購入した。
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飛鳥時代
"物部氏"は、古代の中央豪族・有力氏族の一つ。軍事・警察・裁判をつかさどり、朝廷に奉仕しました。《仏教》が伝来した際は、それを拒む排仏派(保守派)でした。
大和国山辺郡を本拠地とした有力豪族で、初代天皇の神武天皇より前に、大和に鎮座した神・邇芸速日命の子孫であり天神系の神別氏族とされます。
邇芸速日命(にぎはやひ の みこと)は、『日本神話』に登場する神。祭祀を司どる物部氏の祖神とされ、神武天皇より先に大和に鎮座したことがこの神話に明記されます。神武天皇の前に、出雲系の王権が大和地方に存在したことを示す説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説もあります。
物部氏は、初代天皇の神武朝より大王家に仕えた氏族であり、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌し、有力軍事氏族へと成長していきました。
▽物部氏の職掌の箇条書き ・屯倉の設置と管理 ・軍事や朝鮮南部との外交 ・医療と呪術 ・狩猟や飼育、食物供献儀礼 ・殯儀礼
6世紀、第29代天皇・欽明朝になると、朝鮮半島南部にある百済国の"聖明王"から贈られた仏像を巡り、大臣の蘇我稲目を中心とする《崇仏派》と、物部尾興や中臣鎌子を中心とする《排仏派》による政争が起こりました。
物部氏の諸氏流は以下の通りです。
▼東国の物部氏 中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられた記録がある。
▼下総物部氏 千葉本拠を持つ物部の祖先伝承に、物部が坂東に進出し征圧したというものがある。香取神宮と物部氏の関連も指摘された。
▼尾張物部氏 東海道の愛知県西部に、かつて物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫だったと伝えられる高牟神社を残す。
▼石見物部氏 物部神社(島根県大田市)は、出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。
▼備前物部氏 岡山県に備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。
朝廷の親衛軍を率いて物部氏は栄えましたが、6世紀の中頃に《仏教》の普及に反対し、🐎"蘇我馬子"と皇族の連合軍との戦に敗れ、そのために滅亡しました。
物部氏が史実として確かになるのは、雄略朝(西暦457~479年)の物部目(もののべ の め)辺りからで、継体朝(西暦507~531年)の🦌物部麁鹿火(もののべ の あらかい)が大連となったのは事実だとされます。
🦌麁鹿火は「磐井の乱」で将軍に任命され、筑紫(九州)豪族の磐井を打ち倒し、そうして敏達朝に物部守屋が大連となりました。
磐井の乱は、西暦527年に百済の要請を受け、朝鮮半島南部へ出兵しようとした将軍🦌物部麁鹿火の率いる大和朝廷軍の進軍を、筑紫豪族の磐井が阻んだものの鎮圧された王権間の戦争。
大和王権軍は百済の要請を受け、奈良から朝鮮半島南部へ向かうため九州に入りましたが、一方の筑紫豪族は新羅の要請を受けて、それを待ち構えて阻もうとしました。
『記紀』によると当時の大和王権は百済と強い繋がりがあり、筑紫豪族は新羅との繋がりがあったとされます。
当時は大和王権以外にも大きな勢力がいくつかありましたが、筑紫の豪族は、大和の次に栄えていた吉備国にも匹敵する勢力を持っていました。
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吉備国は、昔話『桃太郎』に登場する"きびだんご"でも有名です。
第30代天皇・敏達天皇は、"織田信長"で有名な織田家を輩出した「橘氏」の先祖にあたります。
物部氏は、大臣の蘇我氏と並び、6世紀の朝廷にとって大きな影響力のある氏族でした。
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"蘇我氏"は、古墳時代~飛鳥時代に勢力を誇った有力豪族です。『記紀』では、神功皇后の三韓征伐で活躍した武内宿禰(たけしうち の すくね)を祖としています。《仏教》が伝来した際に、それを積極的に取り入れた崇仏派(推進派)が蘇我氏であったとされます。
7世紀の東アジアは、隋の王朝を滅ぼした唐が、律令制度に基づく国家制度により大帝国に成長し、朝鮮半島や日本列島をうかがっていました。
朝鮮半島南部では、長く続いた高句麗・新羅・百済の覇権争いが、唐の影響によりバランスが変わり、日本と連合を組んでいた百済が劣勢に陥った状況でした。
日本には、敗走した百済人や、日本に共闘を求める新羅からの渡来人が渡って来て、豪族たちの力関係にも影響を与える存在となっていました。
こうした中で、長らく続く百済との友好と支援を強化するため、勢いを増す新羅や唐との関係を重視する豪族同士の対立が昂じて行きます。
新羅・唐との連携を強めようとしたのが崇仏派の蘇我氏でした。
蘇我氏は、大陸からの移民を部下として多く採用し、大和政権の財政を掌握するようになりました。
しかし、それでも当初はライバルの物部氏の方が勢力が大きかったようです。
538年に《仏教》が公伝した際に、欽明天皇は《仏教》の受容について臣下に相談しましたが、崇仏を主張する🐎蘇我馬子の父・稲目に対し、物部尾輿(おこし)が「国津神(出雲国の祖神)の怒りを招く」と反対しました。
この崇仏論争がきっかけで、蘇我氏と物部氏は激しく対立するようになったのです。
🐴"蘇我馬子"は仏法を信仰し、日本初の本格的な寺院、飛鳥寺の建立を発願しました。一方で、崇仏派の政敵である物部守屋と衝突し、西暦587年に蘇我馬子と聖徳太子はタッグを組み、物部氏を抹殺しました。
蘇我馬子の息子の"蘇我蝦夷"(えみし)と、さらにその息子の🦌"蘇我入鹿"🐬は、皇帝の位を蘇我一族に最も近しい"古人大兄皇子"(ふるひとのおおえのみこ)に継承させようとしました。
それに伴って入鹿は、同じ��皇位継承権のある"山背大兄王子"(やましろのおおえのみこ。聖徳太子と蘇我馬子の娘の子)の一族に戦を仕掛けました。
これにより、蘇我入鹿は聖徳太子直系の一族を滅ぼしました。
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"中臣鎌足"は、日本最大の氏族"藤原氏"の始祖。聖徳太子の思想を引き継ぎ、隋や唐の学問を取り入れ、帝中心の政治制度を作りたいと考えましたが、その思想の実現のために蘇我氏は邪魔な存在でした。
こうして中臣鎌足は、皇位継承権のある"中大兄皇子"(なかのおおえのみこ)と協力して、蘇我氏を滅ぼしました。その後、中大兄皇子は、帝を辞退し、補佐役として皇太子となりました。
『日本書紀』の評によれば、帝となった中大兄皇子の叔父で第36代天皇"孝徳天皇"は《仏教》を尊び《神道》を軽んじたとのことです。
百済国の滅亡
西暦662年に、唐と新羅が手を結び、百済を陥落させました。それでも百済兵は各地で抵抗しており、古くから百済と交流のあった大和王権は、そこに援軍を送ることになりました。
幾度かの戦ののち大和王権の水軍は全滅し、百済も滅びました。大和王権は唐の進軍を警戒し、こうして福岡に大宰府が設営されました。
この時点で、朝鮮島南部は新羅の支配下になりましたが、北朝鮮より北の一帯は、凄まじい武力を持つ騎馬民族🏇高句麗の領土でした。
高句麗
高句麗は当時最強とまで謳われた重装の騎馬隊を有していました。
高句麗の二番目の統治者ユリ王は、王国の創始者である聖チュモの長男で、彼の生涯は他の朝鮮統治者と同じく『三国志』に記されているとのことです。
唐と新羅は協力し、この高句麗を挟み撃ちにして殲滅しました。
二箇所から同時に攻められると、兵力を二つに分割しなくてはなりません。兵士の数が10万の場合、南北同時に攻められたら5万ずつに軍を分ける必要があるので、兵力が2分の1になってしまいます。似た状況下に第一次世界大戦でイギリス・フランス・ロシアに挟み撃ちにされたドイツ帝国などが挙げられます。
4世紀頃に近畿地方を中心とする勢力の倭国も高句麗と戦を交えましたが、その時に高句麗の騎馬戦力に触れ、戦に馬術が必要だと考えられ始めたようです。
これが倭人が乗馬を始めたきっかけとも言われます。
日本に馬が初めて登場するのが5世紀頃で、弥生時代に魏で執筆された『三国志〈魏志倭人伝〉』には「倭に馬は無し」と記述されていました。
群馬県
大和王権が🐴蒙古馬を輸入し始めた頃、馬は権力の象徴でもありました。古墳時代の群馬県域に〝馬形埴輪〟が多いのは、権力をアピールするためだと考えられます。
馬の導入により、大和王権(近畿地方)と《群馬文化圏》を繋ぐルートが確保され、群馬にも大規模な古墳や、熟練された〝はにわ〟作製の技術が伝来しました。
重要文化財・国宝に指定される〝はにわ〟のうち、40%は群馬県から出土されました。
資料の群馬県ホームページによると、群馬県域の〝はにわ〟は、6世紀の中頃から群馬以外では見られない高度な発達をとげました。そうして有力な豪族がこぞって多くの〝はにわ〟を並べたために《群馬文化圏》の熟練〝はにわ職人〟が育成されたとのことです。
この人間国宝級の職人技は、高句麗の騎馬隊も称賛するに違いないでしょう。
〝はにわ〟の起源は、弥生時代の特殊壷や特殊器台と呼ぶ葬儀用の土器とされます。時代を追って家形や器財形などの形象をかたどった次世代の〝はにわ〟が追加され、古墳時代の中期になって実績と信頼の〝人物埴輪〟や〝馬形埴輪〟が作出されたのです。
2012年から5年を費やして群馬県が実施した古墳総合調査により、県内に1万3249基の古墳が確認されました。
このことから群馬県は東日本最大の古墳大国であるとも言えるでしょう。
フランク王国
飛鳥時代のヨーロッパでは、西ローマ帝国を滅亡させたゲルマン王国が300年のうちに滅びましたが、その中でフランク王国だけが発展し、西欧の中心勢力となっていきました。
5世紀後半に建国されたフランク王国は、西ヨーロッパのほぼ全体を治め、現在のドイツ・フランス・イタリアの基礎がつくられました。
宗教面では"ローマ教皇"を中心として、《キリスト教》の信仰が人々のよりどころとなりました。
▲サン・ピエトロ大聖堂の内装
イタリアのサン・ピエトロ大聖堂は、カトリック教会の総本山。世界最大級の教会堂建��。ルネサンス時代・バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、第一級の芸術家たちがその造営に携わりました。創建は4世紀ですが、今の聖堂は二代目(1626年)です。
《カトリック教》の典礼音楽に「グレゴリオ聖歌」があります。ラテン語の祈りの言葉にメロディをつけた聖歌で、中世まで育まれてきました。フランスでは現在もグレゴリオの教会や修道院があり、神に捧げる祈りの歌を聴けます。
日本でも使用される階名の「ドレミファソラシ」は、西暦1000年頃に修道士で音楽理論家のグィド・ダレッツォが考案したとされます。
グレゴリオ聖歌は数が多く、聖歌隊も覚えるのが困難な状態でした。そこでグィドは『洗礼者聖ヨハネ賛歌』の歌詞(ut〈do〉, re, mi, fa, sol, la)を当てはめて音楽教育に取り入れました。
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当時、典礼音楽のメロディは口伝で伝えられていましたが、音の動きを示すネウマという記号から、四線譜に音符を書き込む楽譜が考案され、さらに五線譜に発達をとげました。
ちなみにトイレの歴史は以外と古く、6,000年前の古代メソポタミア文明には、すでに下水道と水洗型のトイレが使用された痕跡が発見されました。
紀元前2,200年前のイラク北部シュメール時代の遺跡や、バビロニア王国(現トルコ)の都市ウル、古代ギリシャ文明やインダス文明にも下水道はありました。
特に古代ローマは下水道網が発達しており、紀元前7世紀に完成した下水道は現代も使用されています。
ところが5世紀頃に上記の西ローマ帝国が滅びると、古代ローマ式のトイレは失われ、ヨーロッパのトイレ事情は古代文明以下に転落してしまいます。中世ヨーロッパまでのトイレ事情は、この場では差し控えたいと思います。
1830年代のロンドンで感染症コレラが蔓延したのをきっかけに、よう���く衛生観念が芽生えてトイレ事情が改善され始めました。産業革命の時代まで、ヨーロッパでも水洗式トイレは広く普及していなかったのです。
モンゴル帝国と中世までの後継国
▲モンゴル帝国の重騎兵
遣隋使篇
時は607年。隋は高句麗との戦に苦戦していました。
聖徳太子の読みでは、その戦を有利に運ぶために、隋は救援を要請するはずだと考えました。遠くを味方にして近くを攻める「遠交近攻策」という伝統の戦略があります。
隋を師範とし、尊敬してこれからも学びつつも、国との関係は対等になりたい。冊封体制から分離して自立し、独立した国を目指したいと聖徳太子は考え、国書でその考えを表明しました。
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」 ◆現代語訳:「おれのほうが上や―!」
せんえつながら筆者が思いますに、日本がど��ような国なのか、また国として認めていただいた暁にはどのような朝貢ができるのかというPR文をしっかりと書いた方が良かったのでは……。
飛鳥時代に入るまで、日本に正式な文字体系はなく、歴史書もありませんでした。たとえば弥生時代の邪馬台国に関する情報も日本側には一切残っていません。古墳時代までの日本は歴史の始まる有史時代の前段階、つまり先史時代だったのです。
日本初の歴史書は聖徳太子と蘇我馬子らが漢文でまとめて執筆したとされます。平安時代にひらがなが考案されるまで、歴史書は漢文で書かれていました。
『記紀』は「先祖代々これまでに��伝で伝えられてきた伝承をまとめたもの」とされますが、言い伝えにしては情報量がかなり多いので驚きです。
■神代文字|世界の文字
日本にも古代文字があったという見方もあります。
▲鏡背古字の模写
鏡背古字(きょうはいもじ)の礎となった斎部(いんべ)文字は、斎部氏と橘氏の���家間で極秘裏に使用された文字。織田信長は平氏の子孫を自称していましたが、それは世渡りのためで実のところ斎部氏・橘氏の子孫だともいわれます。
飛鳥時代のまとめ
飛鳥時代とは、"推古天皇"が即位した6世紀末から、平城京遷都までの約120年間を指します。飛鳥時代は、中国と朝鮮半島からの《仏教》伝来にともない、古墳時代から脱皮し、新しい文化を発展させた時代でもあります。政治・経済・社会・文化ともに大変革が試みられました。そうして天皇を中心とした律令国家になった点において、日本国家成立の時代ともいえます。
推古天皇は日本初の女性天皇です。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘です。第30代天皇・敏達天皇の皇后になり即位され、その後の政治は聖徳太子と、確執のおこる以前までは叔父の蘇我馬子によって支えられていました。
飛鳥が都に選ばれた理由は、当時は渡来人の力を得て急速に勢力を増していた豪族・蘇我氏の影響が考えられています。蘇我馬子は飛鳥周辺の開発に力を入れ、587年に国内初の本格的な寺院の飛鳥寺を発願しました。
古墳時代の始まりは、邪馬台国が初期の大和王権(政権)に移行する頃で、大和王権の大王たちは、古墳を築き、権勢を誇示しました。飛鳥地域には古墳時代中頃に朝鮮半島から多くの渡来人が新しい技術を携えて日本列島にやって来ました。そうして古墳時代の後半から、多くの渡来人が歴史の表舞台に登場するようになりました。
飛鳥時代は、王権をめぐっての激しい争いが起こり、豪族の間でも対立が深刻化し始めていました。飛鳥時代直前に伝来した《仏教》に関して、崇仏派(左派)の蘇我氏と、排仏派(右派)の物部氏との争いがその一例として挙げられます。
物部氏は国津神(出雲王朝。出雲大社に祀られる神)の子孫、蘇我氏は天津神(大和王権。伊勢神宮に祀られる神)の子孫とされます。つまりこの政争は「天津国」と「国津国」という《神道》における2つの宗派の争いだったという側面もあります。
聖徳太子は、推古天皇が即位した時期に摂政として政治をよく助けましたが、その政策は《仏教》を基調とするものでした。天皇中心の統一国家を築き上げるため、冠位十二階を定め、憲法十七条を制定し、史書の編纂をはじめたのです。
飛鳥時代の東アジアは、589年に隋が中国の南北朝を統一するとともに、朝鮮半島において諸国間の戦闘が激化した動乱の時代でした。618年に隋が滅んで唐がおこると、唐は律令によって国家体制を整え、その影響力は周辺諸国に波及し、国際情勢は大きく変化しました。遣隋使・遣唐使が派遣されたのもこの時代で、朝鮮半島は7世紀まで百済・新羅・高句麗の三国に分かれていました。日本は皇室とゆかりのある朝鮮諸国の百済と交流をかさねましたが、663年の唐・新羅による連合軍との戦(白村江の戦い)で、日本と百済の連合軍は惨敗を喫し、百済国は滅亡しました。
645年の大化の改新や、672年の壬申の乱後は、天武天皇によって持統天皇の時代になりました。694年には飛鳥から【藤原京】への遷都がおこなわれました。飛鳥時代は、大陸の制度や技術、文化を積極的に導入し、文明化を推し進めた時代でもありました。《仏教》の伝来と定着はその先駆けであり、冠位十二階・十七条憲法の制定、飛鳥寺の造営などは、新しい政治思想や宗教観に基づく国づくりの始まりとみることができます。
飛鳥京に続く【藤原京】は、中国の条坊制に基づく日本最初の都城であり都市の誕生でもありました。条坊制とは、中国・朝鮮半島・日本に見られる都市計画で、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路と、東西の大路を碁盤の目状に組み合わせた左右対称・方形の都市プランのことを指します。「飛鳥文化」という語には、飛鳥京・【藤原京】の地が、政治や文化としての飛鳥時代の文化、という意味と、美術史上の区分としての仏教を中心とした文化、という意味の二つがあります。
【藤原京】
【藤原京】は、壬申の乱により即位した天武天皇の計画により、唐の都城を参考にして造営された日本で初めての本格的な都市です。 藤原京の大きさは、南北約4.8キロメートル、東西約5.2キロメートル。藤原宮を中心とする新都【藤原京】は、それまでの飛鳥の宮都とは大きく異なっていました。
特筆すべき点は、全体計画のもとに築かれた日本初の中国式の都城であること。先進の中国・朝鮮の都城を模し、東西路「条」と南北路「坊」を碁盤目状に配す条坊制としました。その中心をメインストリートの朱雀大路が南北に貫きます。
《儒教》の教典『周礼』において、「王城は一辺9里の正方形で、側面にはそれぞれ3つずつの門を開く。城内には、南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、幅は車のわだち(8尺)の9倍とする。中央に天子の宮、その東に祖先の霊を祀り(宗廟)、西に土地の神を祀る(社稷)。前方、南には朝廷、後方、北には市場を置く」とあります。
二分された京の東側を「左京」、西側を「右京」とし、街区は格子状に整然と区画されました。都全体が秩序正しい方形を成します。当時の推定人口は3万~5万人。近年の発掘により、京域については平城京をしのぐ日本最大の古代都市であったことも明らかになりました。ちなみに、【藤原京】とは近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には「新益京(あらましのみやこ)」と記されています。
しかし【藤原京】は、わずか16年で廃都となりました。なぜこれほどの大都市が短命で終わってしまったのか通説によると、湧水が起きる沼地が多かったため、ゴミや汚水処理が追いつかなくなったため、飢饉や疫病・自然災害が頻発したため、大阪湾と都を結ぶ河川の水運が不便だったためと、諸説ありますが、真相は依然として謎に包まれたままとのことです。
飛鳥時代は《仏教文化》が導入された時代で、日本文化の基礎が花開いた時代でした。飛鳥寺や法隆寺などの壮大な寺院が建立され、仏教建築や仏像製作などの荘厳な飛鳥文化が生み出されました。飛鳥文化の中核をなしたのは、朝鮮半島からの渡来文化であり《仏教》とともに寺院造営のための建築、土木、庭園、彫刻、絵画、工芸、芸能など多様な技術・文化が導入されました。
特に百済国は、中国南朝の梁から入手した教義・書物やさまざまな文明要素を倭国に伝えました。しかし《百済仏教》のみが伝来したというわけではなく《高句麗仏教》《新羅仏教》や、遣隋使・遣唐使を通じた《中国仏教》、《儒教》や《道教》も伝来しました。
インド発祥の《仏教》と梵語のお経が漢文に翻訳され、その漢文のお経が日本に伝来するまで、およそ千年ほどの歳月がか��ったとされます。
《日本仏教》における《真言宗》の教祖"弘法大師・空海"が、初めて遣唐船に乗ったのは804年のこと。その前年にも難波から遣唐船が出航しましたが、嵐に遭遇して失敗しました。満を持して翌年に再び難波を出発した空海は、四隻の船団の第一船に乗っていました。
瀬戸内海を通って九州に着き、それから肥前の港を出航しましたが、翌日にまた暴風雨に遭って船団は離散し、ぶじに大陸に漂着したのは四隻のうち空海の乗った第一船と第二船の二隻だけでした。
空海が遣唐使船に乗って出港した頃は、日本に羅針盤や気象に関する知識はなく、船も箱を海に浮かべたようなものだったので波で簡単に沈みました。8世紀の遣唐船ですべての船が無事に往復できたのは一度だけ。遣唐船が4隻なのは、一隻だけでも唐にたどり着くためだったのだとか。
その後、空海は平安時代初期の806年に修行を終えて、唐より命がけの航海を終えてぶじに帰国しました。そうして816年に高野山金剛峯寺を開創されました。
日本文学の原点といわれる『万葉集』には、文学作品としてもすぐれた飛鳥時代の歌謡が多数収録されており、中には橘氏を下賜された"橘三千代"の和歌も収録されています。
◆参考資料:公益財団法人・古都飛鳥保存財団
飛鳥時代の歴史には、いまだ解明されていない問題が残されており、今後の調査研究を待たなければならないことも数多くあります。
飛鳥時代の年表
523年〈朝鮮〉桓武天皇の先祖・百済の武寧王没 528年〈朝鮮〉新羅に《仏教》伝来 534年〈中国〉北魏が東西に分裂 538年〈日本〉百済より《仏教》伝来 562年〈朝鮮〉新羅が隣国の大加耶を滅ぼす 584年〈日本〉蘇我馬子、自宅に百済伝来の仏像を造る 586年〈朝鮮〉高句麗、長安城へ遷都 589年〈中国〉隋が中国を統一 592年〈日本〉崇峻天皇が暗殺され、推古天皇即位 593年〈日本〉聖徳太子が摂政となる 607年〈日本〉小野妹子らを隋に派遣(遣隋使) 611年〈中国〉隋、三回にわたり高句麗遠征 624年〈朝鮮〉高句麗・百済・新羅が唐の册封を受ける 663年〈日本〉日本&百済の連合軍、唐&新羅の連合軍に大敗。百済滅亡 667年〈朝鮮〉唐と新羅が協力し、高句麗を征服 672年〈日本〉壬申の乱 676年〈朝鮮〉新羅が朝鮮半島を統一 694年〈日本〉【藤原京】に遷都
◆参考資料:公益財団法人・古都飛鳥保存財団
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《カードキャプターさくら》ヒロインの苗字"木之本"は、現・奈良県の大和国土市郡木之本村が起源とされます。近年では奈良県を始め、近畿地方に多い苗字です。
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"大道寺"姓のルーツは大道寺氏。中臣鎌足(藤原氏)の子孫とされます。現在の京都府綴喜郡宇治田原町の大導寺が発祥。大道寺家は《室町時代》中期に伊豆国へ向かい、北条氏の重臣として仕えました。
洗礼者ヨハネの賛歌
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▲グレゴリオ聖歌「洗礼者ヨハネの賛歌」
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敦賀市の気比神宮へお参りにいきました。
気比神宮は702年に創建された北陸道の総鎮守とされる神社。
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北陸道総鎮守、気比(けひ)神宮。 奈良の春日大社、広島の厳島神社と 並び称される「日本三大大鳥居」のひとつ。 境内のの「角鹿」は「つぬが」と読み、 いまの地名「敦賀」の地名発祥地。 なお、「気比」は、「御食津(みけつ)」から 「食(け)」、「霊(ひ)」、つまり 食物神から転訛したという説があるそう。 したがって、気比神宮の主祭神は 「気比大神」または「御食津大神」とも称される。 さすが、海産物朝貢地!! 海人族!! #気比神宮 #御食国 #御食津 #松尾芭蕉 #北陸道総鎮守 #北陸道総鎮守越前國一之宮 (氣比神宮) https://www.instagram.com/p/ChI234Qv89Z/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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Fukui Happiness Map Travel Ver. 撮影地⑩ 次の撮影地は、#気比神宮 。我が地元 #敦賀 の市民の拠り所。#日本三大鳥居 ⛩が特徴。#北陸道総鎮守 、越前國一之宮の格式の高い神社です。歴史も古く、建立は飛鳥時代とされていて、#松尾芭蕉 も#おくのほそ道 で訪れたという由緒ある場所。 ・ 毎年9月には屋台がところ狭しと並ぶ#敦賀まつり が開催されます。#クルーズ船 🚢来航時には外国人でいっぱいです! ・ #福井 #visitfukui #マップトラベル #福井縣 #MapTravel #ゴープロのある生活 #幸福度1位 #travelgram #japantrip #japantravel #マイトリ #フォトジェニック #ここにitta #ファインダー越しの私の世界 #cooljapan #インスタ映え #旅行好きな人と繋がりたい #福井旅行 #ダレカニミセタイケシキ #福井のいいところ #日本の絶景 #到福井縣旅遊就選MapTravel (気比神宮) https://www.instagram.com/p/BxpJJJTHP6k/?igshid=rcdp7kxffeev
#気比神宮#敦賀#日本三大鳥居#北陸道総鎮守#松尾芭蕉#おくのほそ道#敦賀まつり#クルーズ船#福井#visitfukui#マップトラベル#福井縣#maptravel#ゴープロのある生活#幸福度1位#travelgram#japantrip#japantravel#マイトリ#フォトジェニック#ここにitta#ファインダー越しの私の世界#cooljapan#インスタ映え#旅行好きな人と繋がりたい#福井旅行#ダレカニミセタイケシキ#福井のいいところ#日本の絶景#到福井縣旅遊就選maptravel
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北陸道総鎮守で越前国一宮とされる朝廷から特に重視された【神社】気比神宮/福井県敦賀市
気比神宮とは 気比神宮(けひじんぐう)は、福井県敦賀市曙町(ふくいけんつるがしあけぼのちょう)にある越前国一宮だ。 この地は古くから朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝とされ、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。 伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。 ご祈願、厄除け、神前結婚式なら、氣比神宮 » 氣比神宮について…
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大正12年、相模湾北西部を震源地とするマグニチュード7.9の関東大震災では、東京の小菅(現・東京拘置所の前身)、市谷(旧・東京拘置所の前身)、巣鴨(旧・東京拘置所と現・府中刑務所の前身)、豊玉(旧中野刑務所)の4刑務所と横浜、浦和(黒羽刑務所の前身)、小田原少年刑務所(現・拘置支所)、千葉の各刑務所は大破し、甲府、静岡の刑務所も災害に遭いました。 この日、小菅刑務所には、懲役10年以上の長期受刑者が約1300人おりましたが、外塀、工場、倉庫などは全壊し、建物の倒壊で受刑者3人が圧死した外、10数人が重軽傷を負う災害を受けました。 その時の小菅刑務所の典獄(刑務所長)は有馬四郎助(59歳)でした。 彼は、警察官から転職し、明治10年代に北海道集治監(当時の国立刑務所)の看守長を振り出しに、網走監獄の長になり、山縣有朋内務卿の懲戒主義に従って、監獄内の暴徒を鎮圧し、規律の乱れを正した功労者でした。 彼は、北海道でいくつかの集治監を勤めていた間、キリスト教の留岡幸助教誨師との出会を機に、次第に、力の行刑から愛の行刑へと転向し、小菅刑務所では、クリスチャン典獄と呼ばれていました。 当時、行刑局では、受刑者には威嚇と苦痛を与え、罪業の重さを感じさせ、法と良心の前に平伏させるべきであるという意見が支配的でしたが、彼はこの方針を批判し、厳しさは同情に根ざしたものであるべきだと主張しました。 この考えに沿って、刑務官が長剣を帯びるのに反対し、規律違反者への減食罰を禁止し、行状の良い受刑者には所内で独歩を認めたほか、横浜刑務所と小菅刑務所の近くに不良少年少女のための感化院を開くなど、彼の進歩的な行動はしばしば刑務所長の権限を越えるものとして、行刑局内では顰蹙を買いました。 こうした彼の方針が試されたのが関東大震災でした。 受刑者たちは、突然、自分たちを閉じ込めていた外塀が全壊したのをまのあたりにしました。 しかし、愛の典獄と慕われていた有馬典獄の恩に報いようと、受刑者たちはこぞって、逃亡しようとする者を引き止め、怪我人を助け、破壊された建物を整理し、広場に建てたテントで数日間生活をしながら、収容しきれない受刑者向けのバラックを急造するなど励みました。 広場には 「典獄」 と墨書したムシロを立て、所長の所在を示し、1日3回、半紙1枚に謄写印刷した教誨文書を配布するなどして心情安定を図りました。 翌日には陸軍工兵隊が駆けつけ、11月半ばまで軍の救援を受けたほか、食料、建築資材を他の刑務所から調達しながら受刑者たちは刑務所の敷地内で生活しました。 その一方で、受刑者500人を他の刑務所へ順次移送しましたが、それまでの間、一人の逃走者も出ませんでした。 この奇跡のような出来事は海外にも伝わり、高く評価されました。 関東大震災で最も大きな被害を受けたのは、横浜でした。 「神奈川県震災誌」 によりますと、当時、横浜市には、約10万世帯、44万人が住んでいましたが、全世帯の95%が罹災(63%が焼失)し、死傷者は,市の人口の7.6%に達しました。 横浜刑務所には受刑者が約1100人いましたが、そのうち死者は48人、重傷者は50人、一方、職員の死者は3人、重傷者は幹部2人、看守そのた16人を出しました。 地震の最初の一撃で居房、倉庫、女子拘置区の一部が倒壊し、それに続く余震でレンガ造りの外塀、工場、舎房、官舎が全壊し、隣接の民家からの出火が構内に燃え移り、受刑者たちも加わっての消火にもかかわらず、断水で夕方までに刑務所はほぼ全焼しました。 構内も付近の学校、寺院など大きな建物も破壊され、受刑者を収容する場所がなく、このため午後6時過ぎ、椎名通蔵所長は監獄法第22条により、傷病者を除いて受刑者821人を集め、解放を宣言し、傷病者は急造のバラックに収容しました。 この時点まで、逃走者は一人も出ませんでした。 ��糧の調達は、海軍の協力で無線電信を使い横浜市から米の配給を受けました。 監獄法では、解放した受刑者は24時間以内に刑務所か警察署に出頭することになっていましたが、解放期間を9月8日の午前6時までとし、それまでの間に、565人が自発的に戻り、その後もさみだれ式に戻って来た者もいました。 当時、横浜刑務所は根岸(現在の磯子区)にありましたが、9月8日と9日の両日、営繕工事に必要な受刑者を除いて、430人を磯子海岸からボートに乗せ、巡洋艦夕張で名古屋刑務所へ移送しました。 刑務所の復興計画は直ちに始まり、昭和2年に現在地(港南区)へ移転したのです。 関東大震災では、死刑囚、受刑者、被告人など約千人を収容していた市谷刑務所のほか、巣鴨刑務所、豊玉刑務所でも外塀、建物が倒壊するなど甚大な被害を受けましたが、いずれの施設でも逃走者は出ませんでした。 関東大震災以後の震災では、昭和53年6月の宮城県沖のマグニチュード7.5の地震で、宮城刑務所と隣接する仙台拘置支所の外塀、総延長約2千メートルのうちほぼ半分が倒壊したほか、木造の舎房、工場、などが倒壊し、断水、停電の被害を受けましたが、暴動、逃走事件は起こりませんでした。 また、平成7年1月のマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災では、神戸刑務所は深刻な被害は免れましたが、暴動、逃走、その他の保安事故はここでも起こりませんでした。 このような災害時の建物、外塀の倒壊、混乱した生活の中で、何故、日本の受刑者たちは逃走を企てないのでしょうか、これはまだ、科学的に解明されていない問題です。(
災害! そのとき刑務所は : 断想
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日本三大木造鳥居のひとつ、敦賀市に坐す北陸道総鎮守氣比神宮の大鳥居。 江戸時代前期の1645年に建てられ高さは36尺(10.93m)あり、国の重要文化財に指定されています。 神社巡りの中で一度は見てみたい景色のひとつと思います。 #福井の神社のある風景 #氣比神宮 #神社巡拝家 http://bit.ly/2KVb3Ie (氣比神宮) https://www.instagram.com/p/B3A87vtl9FT/?igshid=f5jy9litmwe
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韓国でベストセラーとなった『反日種族主義』の編著者、李栄薫元ソウル大教授は21日、東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し、同書について「韓国現代文明に沈潜している『原始』や『野蛮』を批判した」「韓国人の自己批判書だ」などと説明した。慰安婦問題やいわゆる徴用工問題についても見解を述べた。冒頭発言の全文は次の通り。
◇
私と同僚研究者5人が書き、さる7月に出版した本『反日種族主義』は、韓国現代文明に沈潜している「原始」や「野蛮」を批判したものです。こんにち、韓国はその歴史に原因がある重い病を患っています。 個人、自由、競争、開放という先進的な文明要素を抑圧し、駆逐しようとする集団的、閉鎖的、共同体主義が病気の原因です。一言で言えば、文明と野蛮の対決です。私は世界のどの国もこのような対決構図から自由な国はないと思います。
世界中のどの国も、その近代化の歴史において、このような対決構図による危機を経験していない国はありません。日本も1868年に明治維新を遂行して以来1930年代に至って、国家体制の大きな危機に瀕したことがあります。1948年に成立した大韓民国も、やはり建国70余年で大きい危機を迎えています。
危機の兆候は非常に深刻です。下手すると、この国の自由民主主義体制は解体されるかもしれません。本『反日種族主義』は、そのような危機感から書かれました。韓国人たちに危機の根源がどこにあるのかを叫びました。それは、ほかでもない、われわれの中に沈潜している野蛮な種族主義であると告発しました。
世界の先進社会の構成員は、自由人としてその活動範囲が世界に延びている世界人です。
ある社会が先進化するということは、そこに属する人々が自由な世界人として進化することでもあります。大韓民国の建国は、このような自由、開放、永久平和の先進的理念に基づいてなされました。
その後から今まで、この国が、第2次世界大戦以後に成立した数多くの新生国の中でまれにみる大きい成功を成し遂げたのは、このような世界が共有する先進理念に服したためです。
1965年に韓国と日本の間で国交正常化がなされたのも、このような理念に基づいてのことでした。国交正常化を推進した朴正煕大統領は、わが国民に歴史の旧怨にとらわれないで、アジアの模範的な反共産主義、自由民主の国家として自信感と主体意識を持ち、日本と対等な位置で新しい未来を開いていこうと訴えました。
それ以降の日本との緊密な協力関係は、韓国経済の高度成長を可能にさせました。1990年、盧泰愚委大統領は、日本の国会で次のように演説しました。
「こんにち、われわれは、自国を守れなかった自らを自省するだけで、過ぎ去ったことを思い返して誰かを責めたり、恨んだりしません。次の世紀に東京を出発した日本の若者たちが玄界灘の海底トンネルを通り抜けてソウルの友達と一緒に北京やモスクワへ、パリとロンドンへと大陸をつないで世界を一つにする友情の旅行ができるような時代を共に作っていきましょう」
韓国人がこのような認識と国際協力にもっと専心していたら、今頃より自由で豊かな先進社会を作れたはずです。
しかし、その後に展開された歴史は、それとは違う方向に進みました。歴史は、大きい費用を払ってこそ、ほんの少しの進歩を許すのかもしれません。
1993年に成立した金泳三政権以来、「民主化」と「自律化」の名の下で、韓国社会に深く沈潜してきた野蛮な種族主義が頭をもたげました。日本との関係は、協力から対立に転��しました。北朝鮮との統一政策では、「自由」の理念に代わって「わが民族同士」という民族主義が優位を占めるようになりました。
韓国の「自由民主主義体制」と北朝鮮の「全体主義体制」が連邦の形態で結合した後、統一国家へ前進できるという幻想が国民的期待として成立しました。
1992年に提起されてから今までの27年間、韓日両国の信頼と協力を妨げてきた最も深刻な障害は、いわゆる慰安婦問題です。
朝鮮総督府と日本軍の官憲が日本軍の性的慰安のために、純潔な朝鮮のおとめを連行・拉致・監禁したという主張ほど、韓国人の種族主義的な反日感情を刺激したものはありません。
度重なる日本政府の謝罪と賠償にも関わらず、この問題が韓国で鎮定されることなく、むしろ増幅してきたのは、それが当代韓国人の精神的動向、すなわち「反日種族主義の強化」という傾向に応えたからです。
私は、本『反日種族主義』の中で、さる27年間この問題に従事してきた韓国と日本の研究者たちと運動団体を批判しました。彼らは元慰安婦たちの定かでない証言に基づいて、慰安婦の存在形態とその全体像を過度に一般化する誤りを犯しました。
彼らは朝鮮王朝以来、こんにちまで、長期存続した性売買の歴史において、日本軍慰安婦が成立した1937年から1945年の8年間だけを切り取る間違いを犯しました。日本軍慰安婦制は、近代日本で成立し、植民地朝鮮に移植された公娼制の一部でした。慰安婦制は、公娼制の軍事的編成に他なりません。女性たちが軍慰安所に募集された方式や経路も、女性たちが都市の遊郭に行ったそれと変わらないものでした。就業、廃業、労働形態、報酬の面でもそうでした。
韓国における慰安婦制は1945年以後、都市の私娼、韓国軍特殊慰安部隊、米国軍慰安婦の形へと、さらに繁盛しました。1950年代、60年代において、韓国政府によって慰安婦と規定され、性病検診の対象となった女性の数は、1930年代、40年代の娼妓と慰安婦に比べてなんと10倍以上でした。彼女たちの労働の強さ、所得水準、健康状態、業主との関係は、1930年代、40年代に比べてはるかに劣悪なものでした。
既存の研究は、このように韓国現代社会に深く浸透した慰安婦制の歴史には目をつぶっています。この点は、既存の研究者と運動団体が犯した最も深刻な誤りといえます。
さる27年間、韓国において慰安婦問題が悪化してきたのは、関連研究者たちと運動団体の責任が非常に重いです。彼らはまるで歴史の裁判官のように振る舞ってきました。彼らが元慰安婦を前に立たせて行進するとき、彼らを阻止できる何の権威も権力も存在しませんでした。彼らがこの問題に関する日本政府との協約を破棄するよう叫ぶとき、韓国政府は黙従しました。彼らは政府の上から君臨しました。国民の強力な反日種族主義が彼らを絶対的に支持したからです。
彼らは強制連行説と性奴隷説を武器にして、日本の国家的責任���追及してきました。
その執拗(しつよう)さは、日本との関係を破綻にすると言っても過言ではないほど盲目的でした。
皮肉にも、強制連行説と性奴隷説は、日本で作られたものです。ある日本人は、朝鮮の女性を強制連行した自身の犯罪を告白する懺悔録を書きました。ある歴史学者は、性奴隷説を提起して、韓国の研究者と運動団体を鼓舞しました。それは、歴史学の本分を超えた高度に政治化した学説でした。
彼らは、韓国の社会史、女性史、現代史に対して何も知らない状態でした。彼らの韓国社会と政治に対する介入は不当であり、多くの副作用が派生されました。
今のところ、両国の関係を難しくしている徴用工問題も韓国人の種族主義的な視点から提起されたものです。信じがたいかもしれませんが、2005年に盧武鉉政権が被徴用者に補償を行う当時まで、韓国ではそのことに関する信頼できる論文や研究書が一つも存在しませんでした。
(韓国)政府は、1939年から日本に渡った全ての朝鮮人を徴用の被害者と見なしました。その中には、1944年の8月以後の、本当の意味での徴用だけでなく、以前からあった日本の会社の募集や総督府の斡旋(あっせん)も含まれていました。
募集と斡旋は、当時の政治情勢からみて、まったく圧力がなかったとはいえませんが、あくまでも日本の会社との契約関係でした。彼らに加えて、韓国政府は連鎖移民の形で日本に自由渡航した人々まで徴用の被害者と見なしてしまう、笑ってはすまされない寸劇を演じました。
以降、何人かの韓国人がより多くの補償を求めて国境を越えて日本でも裁判を起こしました。彼らは皆、徴用ではなく募集と斡旋の経路で日本に渡った人たちです。自国の国際的威信などには見向きもしない彼らの「僭越(せんえつ)」は、彼らだけの責任ではありません。
韓国の反日種族主義は、彼らの国際的裁判を支持しました。彼らは日本でも心細くありませんでした。慰安婦問題のときと同様、いわば「良心的」日本人が彼らを物心両面で支援しましたが、結果的には両国の信頼・協力関係を阻害するのに寄与しただけです。
歴史の進歩は、遅い速度でしか進まないようです。
韓国は人口が5000 万以上でありながら一人当たりの所得水準が3万ドル以上の世界で10カ国もない先進グループに属しています。それでも、この国の精神文化には19世紀までの朝鮮王朝が深い影を落としています。朝鮮王朝は、明・清の中華帝国の諸侯国でした。朝鮮王朝は、完璧に閉鎖された国家でした。
中国は世界の中心として、日本は海の中の野蛮人として認識されていました。人間の「生と死」の原理は、自然宗教のシャーマニズムに多く規定されていました。個人、自由、利己心、商業を正当化する政治哲学の進歩はないか、微弱でした。
その結果、18世紀から19世紀の朝鮮の経済は、深刻な停滞を招��ました。人口の多数は、なお原始と文明の境界線でさまよっていました。さる20世紀に渡って韓国人の物質生活には実に大きい変化がありました。しかし、人々の社会関係、精神文化、ひいては国際感覚において本質的な変革はありませんでした。私は、こんにちの韓国の反日種族主義を以上のような歴史的視座から理解しています。 こんにち、韓国で日本は理解の対象ではありません。もっぱら仇怨の対象なだけです。日本が韓国を支配した35年間は恥の歴史なだけです。それに対する客観的評価は、「植民地近代化論」と言われ、反民族行為として糾弾されます。その結果、こんにちの韓国人は、自分たちの近代文明がどこから、どのように生まれてきたのかを知りません。こんにちの韓国人は、自分の歴史的感覚において朝鮮王朝の臣民そのままです。同様に、こんにちの韓国人はこんにちの日本を旧帝国の延長として、ファシスト国家として感覚しています。
本『反日種族主義』の日本語翻訳と出版には多くの煩悶(はんもん)がありました。すでに指摘したように、本『反日種族主義』は、韓国人の自己批判書です。
自国の恥部をあえて外国語、しかも日本語で公表する必要があるかという批判を予想することは難しくありません。それでもわれわれが出版に同意したのは、それが両国の自由市民の国際的連帯を強化するのに役に立つだろうという判断からでした。
広く開かれた国際社会においてその波長が国際的でない事件は一件もありません。韓国人が患っている病もそうです。病気は知らせた方がよいです。
実は、われわれのそのような悩みは本『反日種族主義』の韓国語版の出版のときからありました。それでもわれわれの主張に多くの韓国人が応えてくれました。
建国70年に、少なくない韓国人が自由理念に基づいた世界人として成熟しました。全国の主要書店で本『反日種族主義』は、 総合ベストセラー1位の地位を相当な期間占めました。それは正に望外の事件でした。
遅いながらも、歴史は着実に進歩の道を歩みました。そのような期待を本『反日種族主義』の日本語版にも懸けたいです。韓国人には自身の問題を国際的な観点から省察する好機になるでしょう。また、日本人には、韓国問題を、「親韓」��るいは「嫌韓」という感情の水準を超えて前向きに再検討できるきっかけになれると思います。
韓国と日本は、東アジアにおける自由民主主義の堡塁(ほうるい)です。この自由民主主義が、韓半島の北側に進み、大陸にまで拡散できることを望みます。
このような歴史的課題のため、韓日両国の自由市民が、お互いに信頼・協力する必要があります。
本『反日種族主義』がそのような国際的な連帯を強化するのに、ほんの少しでも役立てば、それ以上の喜びはありません。
最後に、本『反日種族主義』の日本語版の出版をしていただいた文芸春秋様には感謝の気持ちを申し上げたいです。また、韓国に対するご��情と憂慮のお気持ちでこの本を購入していただいた日本の読者の皆さまにも御礼申し上げます。以上です。
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20190715(月、海の日)
北陸道総鎮守 越前国一之宮 氣比神宮(けひじんぐう)
中池見湿地(なかいけみしっち、2012年にラムサール条約湿地に登録)、花はネジバナ(捩花、別名モジズリ(綟摺)、花言葉:思慕)
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#長浜 から #福井 へ 途中、#敦賀 通過時に、#気比神社 の前を通ったので、ちょっと #参拝 しました。 名前は聞いた事あるが寄ったことがない所 よく見ると、北陸道総鎮守なんですね。 神社には小学生がたくさん 遠足なのかな? 何度もほのぼの。 これでまた、今日からの #北陸 での活動が守られるかな?ってお祈り (氣比神宮) https://www.instagram.com/p/CUWiaQ-ltXk4pnyEUHhK0EELai8KF5dBEn1gLk0/?utm_medium=tumblr
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【福井県謡曲古跡めぐり若狭/嶺南編】4箇所目 番外編その1 2021/3/18
弥美神社の能舞台
《福井県三方郡美浜町宮代》
神社名 彌美神社
境内社名 二十八所社、天満社
旧社格 県社
主な祭典
王ノ舞
大御幣押
特殊神饌
御祭神
室毘古王
建御雷神
天兒屋根命
布都主神
比咩大神
大山衹命
由 緒
『神社明細帳』に「由緒創立不詳、式内にして、又若狭国神階記に正五位耳明神とあり、社号 嘉禄2年(1226)以降28所宮ト称せし所、明治2年小濱藩廳より弥美神社ト復称せらる。同五年に郷社に列せらる。明治41年4月26日神饌幣帛供進神社に指定。大正14年1月8日に県社に列せられ、同年1月21日神饌幣帛供進の神社に指定済」と記している。
御祭神の室毘古王は、第九代開化天皇の皇子の日子坐王と沙本之闇見戸売との王で、若狭之耳の祖なりと古事記にみえ、亦、『神社私考』に「古この耳地を領れる耳別の氏人ありて、室毘古を祖神として祀れるにやあらむ」と延べている。
28所宮���ついて、『弥美神社記』に「文武天皇の御宇大宝二年(702)壬寅春、日月両輪を始め奉り、天照大神国家守護の霊社二十八所の名影を、白幡に秘して耳の川辺帯て、深山の空地に天降らせ給い(中略)御敷地を宮代村と名付け候なり。伊勢大神宮、八幡、春日、丹生、平野、松尾、加茂、稲荷、大原、石上、大和、住吉、龍田、広瀬、梅宮、吉田、広田、祇園、天満、気比、熊野、金峯、白山、熱田、十禅師、上下、日吉、三輪大明神」と28所の神名が挙げられてある。由緒について、『神社私考』は、「(前略)いにしへ弥美神社、此処に在て衰へ給ひたりしを嘉禄(1225~27)に再興して今の社地に移し奉りて二十八所の神と称し、其旧趾にも小社を建て、地主の神と称へるなるべし」と推定している。弥美神社は、耳庄の総鎮守で、古くから領家、国主等の崇敬が篤く、社殿の改築補修、社領の寄進などがあった。例祭には、王ノ舞、獅子舞、浦安舞、乙女舞、ヨボの木の御幣などが奉納される。
「ミミ」の呼称とその意味の存する古称について、『福井県史(通史編1)』に、藤原京(649~710)跡出土木簡に「三方評耳五十戸」「三方評耳里」「美々里」と記したものがある。この「耳里」(耳五十戸・美々里)の里名は、平城宮(710-784)跡出土木簡に「若狭国三方郡耳郷中村里」や「三方郡弥美郷中村里」とかみえるように律令制下の郷里制においても郷名としてひきつづき認められていた。現在の美浜町耳川流域一帯に比定され、耳川東岸には式内社の弥美神社があり、北陸道の弥美駅も、この付近と考えられている。律令制下の郷名としては、ミミというのは若狭のものが全国唯一である。
神代巻の神名に忍穂耳尊・手研耳・神八井耳尊。第2代綏靖天皇の諡号神渟名川耳尊。また、王族の坂田耳子郎・豊聰耳皇子などに用いられているが、上蜘蛛大耳や耳垂・和泉陶津耳・但馬の前津耳・但馬の大耳・莵狭の耳垂などにみられるように、「耳」は姓の制より古くから人名や地名に付し、その他の豪族への敬称であったとされた。即ち、これらの地は、元来「ミカタのミミ」が居たところで、遠敷郡に式内社の若狭比古神社の祭神「比古」に劣らぬ古称で、耳川や弥美神社の呼び名も、その他名から生じたものとみられる。
若狭は、ヤマト朝廷の「御食国」として早くから聖塩を貢上しただけに、その首長と配下の民衆には特別の配慮をしたものと思われる。と述べている。
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2021
滋賀県大津市の天台宗総本山・比叡山延暦寺です。 標高およそ800メートル。冷たく澄んだ空気が辺りを包んでいます。 毎年、大みそかに行われる鬼追い式です。怒り、ねたみ、むさぼり。 人間の煩悩を鬼に見立て邪気を払う行事。 新型コロナウイルス感染防止のため 参拝者は例年より間隔を空けて、見守ります。 4月、緊急事態宣言を受け 比叡山では1か月にわたって拝観を停止しました。 最澄が山を開いた 1200年前も疫病や災害が多い時代でした。 人々の苦しみを取り除こうと彫られた薬師如来。 織田信長による焼き打ちなど 幾多の苦難を乗り越え現代に祈りをつないでいます。 ことしも除夜の鐘が打たれます。 (鐘の音) (鐘の音)
香川県高松市。 街を見守る弘法大師、空海です。 四国八十八ヶ所霊場の一つ八栗寺(やくりじ)。 ことしは新型コロナウイルスの影響で お遍路に来る人が8割減りました。 久々のにぎわいを見せた大みそか。人が密集しないよう スタッフを増員するなど感染対策を講じています。 (お経) お遍路をもてなしてきた地元の人々。 ことしは、そのにぎわいが失われました。 人々が感染の終息への願いを託したものがあります。100巻の写経です。 かつて空海が写経で疫病を治めたという逸話にならいました。 外出自粛が呼びかけられる中多くの人が自宅で書き写しました。 逆境の日々をみんなで乗り越える。 離れていても同じ思いが込められています。 (お経) 街に、にぎわいが戻りますように。 (鐘の音) (鐘の音) 2人≫こんばんは。 高瀬≫2020年は感染の拡大によって日常が大きく変わりました。 石橋≫東京では、きょう新たに1300を超える人の感染が確認されています。 帰省や初詣を控えているという方も多いのではないでしょうか。 高瀬≫そういうときだからこそ全国各地の様子をお届けしながら一緒に新しい年を迎えたいと思います。 石橋≫ここは、東京・調布市の深大寺(じんだいじ)です。 奈良時代に開かれ、厄よけや疫病(えきびょう)退散の御利益があるとして 信仰を集めてきました。 高瀬≫ことしは列に並ぶ人が密集しないようさい銭箱を2倍以上の大きさにしました。 石橋≫さらに一度に300人が集まっていた護摩祈祷(ごまきとう)も一組ずつ祈祷を受け速やかに離れるようにしています。 (お経) 高瀬≫信仰の中心になっているのは実在した僧侶元三大師(がんざんだいし)です。平安時代疫病に苦しむ人々を救うため鬼に姿を変え疫病神(やくびょうがみ)を追い払ったと伝えられています。 石橋≫その元三大師は秘仏としてこの鏡の奥に祭られています。 今回、特別に撮影が許可されました。 高さは、およそ2m。 鎌倉時代に作られた鎌倉時代に作られた日本最大の僧侶の像とされています。
来年、感染拡大の終息を願って205年ぶりに寺の外で開帳が行われる予定です。
高瀬≫誰も想像しえなかった一年の終わりに穏やかな日々への思いをはせます。
石橋≫それでは年越しを迎える各地の様子を見ていきます。
華やかな夜景が広がる横浜です。クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスでの集団感染から大きく揺れた一年になりました。 600ほどの店が軒を連ねる中華街。
ことし初め中国で感染が広がると街から感染者が出ていないにもかかわらず差別や風評被害にさらされました。
対策を徹底してきた中華街では密を避けるために年越しの神事も見物客を8分の1に制限しました。
「苦しいときこそ皆で華やかに年を越したい」。
思いを込めて舞います。
舞がささげられるのは媽祖廟(まそびょう)です。媽祖は災害や疫病などから人々を守るとされる女神。世界各地に建てられ華僑の心のよりどころになってきました。
感染拡大の終息。そして、商売繁盛への願い。苦難を経て年越しを迎えることができたことに感謝する中華街です。
原田≫雪の降りしきる大みそかとなりました鳥取市の白兎(はくと)神社です。因幡の白うさぎのけがを大国主命(おおくにぬしのみこと)がこの地で治したという神話から病気平癒の御利益があるといわれています。初詣を待つ人々の中にはこんな方もいます。こんばんは。
≫こんばんは。
原田≫なんとロボットです。
手を振っていますね。これ、実は離れた場所にいる人が操作をしているんです。
鳥取市の中山美智子さんです。中山さんは、全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病で入院しています。
目の動きでパソコンを操作することでロボットを自分の分身のように動かします。
この1年、新型コロナの影響で家族との面会が難しくなりましたがこのロボットによってようやく、それがかないました。
実はもう一台ロボットがあります。これは夫・和夫さんが操作しているんです。和夫さんも難病を患っていて外出が難しい状態です。
ロボットを通して、2人は久々に再会することができました。 ロボットのレンタルを行う代理店の協力で念願だった、お二人での外出が実現したんです。
では美智子さんにお話を聞きます。 声を出すのが難しいので合成音声でお答えいただきます。
美智子さん久しぶりの2人での外出ですけれどもどんなお気持ちですか?
ロボット(美智子)≫夫と離れていて体調が気がかりでしたから久しぶりに話ができてうれしいです。来年は夫の体調がよくなりコロナも落ち着いて家で一緒に生活できるよう願っています。
原田≫和夫さん何を祈られますか?
ロボット(和夫)≫一日も早くよくなって皆さんに助けられてまた2人で暮らせますようにとお祈りしたいと思います。
原田≫お二人ありがとうございました。
離れていても同じ景色を見ていたい。2人の思いが詰まった初詣です。
7月記録的な豪雨が襲った熊本県。65人が犠牲となり今も2人が行方不明です。特に大きな被害を受けた人吉(ひとよし)市にある青井阿蘇神社は「青井さん」と呼ばれ親しまれてきました。国宝のかやぶき屋根の楼門(ろうもん)など5つの建造物が被害を受けました。
球磨(くま)川が氾濫し境内には1mを超える高さまで水が押し寄せました。復旧作業を行ったのは地域の人々でした。地域のよりどころがよみがえりたみ、むさぼり。人間の煩悩を鬼に見立て邪気を払う行事。
新型コロナウイルス感染防止のため参拝者は例年より間隔を空けて、見守ります。
4月、緊急事態宣言を受け比叡山では1か月にわたって拝観を停止しました。最澄が山を開いた1200年前も疫病や災害が多い時代でした。人々の苦しみを取り除こうと彫られた薬師如来。織田信長による焼き打ちなど幾多の苦難を乗り越え現代に祈りをつないでいます。
ことしも除夜の鐘が打たれます。
(鐘の音)
(鐘の音)
香川県高松市。街を見守る弘法大師、空海です。四国八十八ヶ所霊場の一つ八栗寺(やくりじ)。ことしは新型コロナウイルスの影響でお遍路に来る人が8割減りました。
久々のにぎわいを見せた大みそか。人が密集しないようスタッフを増員するなど感染対策を講じています。
(お経)
お遍路をもてなしてきた地元の人々。ことしは、そのにぎわいが失われました。人々が感染の終息への願いを託したものがあります。100巻の写経です。
かつて空海が写経で疫病を治めたという逸話にならいました。外出自粛が呼びかけられる中多くの人が自宅で書き写しました。 逆境の日々をみんなで乗り越える。離れていても同じ思いが込められています。
(お経)
街に、にぎわいが戻りますように。
(鐘の音)
2人≫こんばんは。
高瀬≫2020年は感染の拡大によって日常が大きく変わりました。
石橋≫東京では、きょう新たに1300を超える人の感染が確認されています。帰省や初詣を控えているという方も多いのではないでしょうか。
高瀬≫そういうときだからこそ全国各地の様子をお届けしながら
一緒に新しい年を迎えたいと思います。
石橋≫ここは、東京・調布市の深大寺(じんだいじ)です。奈良時代に開かれ、厄よけや疫病(えきびょう)退散の御利益があるとして信仰を集めてきました。
高瀬≫ことしは列に並ぶ人が密集しないようさい銭箱を2倍以上の大きさにしました。
石橋≫さらに一度に300人が集まっていた護摩祈祷(ごまきとう)も一組ずつ祈祷を受け速やかに離れるようにしています。
(お経)
高瀬≫信仰の中心になっているのは実在した僧侶元三大師(がんざんだいし)です。平安時代疫病に苦しむ人々を救うため鬼に姿を変え疫病神(やくびょうがみ)を追い払ったと伝えられています。
石橋≫その元三大師は秘仏としてこの鏡の奥に祭られています。今回、特別に撮影が許可されました。高さは、およそ2m。
ことしも「青井さん」で年を越すことができます。拝殿には全国から大量の支援物資が届きました。新型コロナの影響でボランティア活動が制限される中寄せられた復興へのエールです。
「がんばれ熊本」。
熊本では今も4000人以上が避難所や仮設住宅などで暮らしています。
「青井さん」とともに復興の道を歩みます。
石橋≫再び、東京・深大寺です。
高瀬≫各地の様子を見ていますと離れていても心はつながっていたい一つでありたいという気持ちが伝わってきます。
皆さんにとって、2020年はどんな年だったでしょうか。
石橋≫さあ、新しい年を知らせる除夜の鐘です。
(鐘の音)
(花火の音)
(汽笛)
(爆竹の音)
横浜港の汽笛と魔よけの意味が込められた爆竹。新年を迎えた中華街です。ステージには色鮮やかな獅子が現れました。
(獅子舞の音)
頭を噛(か)んでもらうと厄(やく)を祓(はら)い福が来るといわれる獅子。中華街の祝い事に欠かせない人気者です。
2人≫明けましておめでとうございます。
高瀬≫2021年令和3年の幕開けです。
石橋≫新年を迎えここ深大寺でも人々が初詣に訪れていますが例年より、その数は少ないようです。
高瀬≫ことしは混雑を避けるため旧正月に当たる2月中旬までを参拝期間として分散初詣を呼びかけていくということです。
石橋≫皆さんはそれぞれの場所でどんな思いを抱きながら新年を迎えているのでしょうか。全国各地の様子を見ていきましょう。
ことしは、うし年。4時間ほど前に生まれたばかりの子牛も新年を迎えました。こちらの子牛が着ているのはちゃんちゃんこ。体温調節が難しい子牛を元気に育てるための習慣です。北海道・足寄(あしょろ)町の牧場です。
現在の気温はマイナス17度。北海道でも、とりわけ寒さが厳しい、この町では寒さに強い乳牛が人々の暮らしを支えてきました。今夜も数頭の牛が出産を予定しています。牛たちを見守るのは牧場主の山下和洋さんです。
牛を育てて40年。僅か2頭から始め今では830頭になりました。
山下≫おいで、おいで。
新型コロナウイルスの影響で牛乳や乳製品の消費は大きく落ち込みました。「どんな困難に直面しても牛の歩みのように一歩ずつ進んでいく」。 新年を迎え決意を新たにしています。
再び、比叡山延暦寺です。最澄が亡くなって1200年という節目の年を迎えました。国宝根本中堂(こんぽんちゅうどう)
では今、10年がかりの大規模な改修が行われています。屋根を覆っていた銅の板はすべて剥がされました。横40m、高さ25mの屋根は新たに葺(ふ)き直されます。貴重な木造建築の今しか見られない姿です。
建物の彩色はいったん、落として創建当時の姿に塗り直されます。山が開かれて以来守り伝えられているものがあります。最澄がともしたと伝わる不滅の法灯(ほうとう)です。
「一隅を照らす心」、つまり「一人一人が今いる場所で最善を尽くす心」を持てばよりよい世界につながると説きました。
ともし火とともに最澄の思いは受け継がれてきました。ことし、不滅の法灯から分けられた、ともし火が全国を巡ります。
不安な時代を照らす光が各地に広がります。
静岡県熱海市です。毎年およそ300万人の宿泊客が訪れる観光の町です。古くから旅人を守る神社として知られる來宮(きのみや)神社です。新年を迎え静かに参拝が始まりました。
(祝詞)
本殿では祝詞が読み上げられています。参拝者たちの願いを届ける神事です。氏子の多くが携わる観光業は大きな打撃を受けました。温泉旅館を経営する藤間崇史さんです。従業員とともに熱海の魅力を紹介する動画を配信するなど模索を続けてきました。
町に活気を取り戻すためできることはすべてやる覚悟です。境内の奥にあるのは国の天然記念物のクスノキ。樹齢は推定2000年です。高さは20m以上。長年、風雪に耐え今も成長を続けています。その生命力にあやかろうと人々は周りを一周します。
新たな年もこのクスノキが見守っています。
原口≫群馬県前橋市のアパートです。こちらの部屋にはことしこそはという思いで新しい年を迎えられた方々がいらっしゃいます。
皆さん明けましておめでとうございます。 選手たち≫おめでとうございます。
原口≫東京オリンピック・パラリンピックに出場するアフリカ・南スーダン共和国の陸上選手団の皆さんです。事前合宿のために1年あまり前に来日されたんですが去年、大会は延期。さらに新型コロナウイルスの影響で帰国が困難になったこともあってここで共同生活を送っています。こちらはふだんの練習の様子です。ホストタウンの前橋市では近くの運動場を無償で貸し出すなどして練習に集中できる環境を整えてきました。
多くの選手が日本に来てから自己ベストを更新しているそうです。選手たちは地元の人たちとも交流を重ねてきました。市内の���稚園や小・中学校へは10回以上、訪問しました。そして、こちらは地域のお祭りに参加したときの写真です。
皆さん、今では前橋を第2のふるさとのように感じているそうです。 この一年間、皆さんは日本語の勉強もされました。書き初めをしていただきました。 「金」「メダル」そして「平和」。 母国、南スーダンでは長く紛争が続いてきました。
スポーツを通して平和をもたらしたい。そんな気持ちを込めたそうです。
男子1500mに出場するアブラハム選手です。ことしこそ晴れの舞台に立って家族に活躍する姿を見せたいそうですね。
アブラハム≫メダルを取って南スーダンと前橋の皆さんを喜ばせたいです。 原口≫ありがとうございます。
遠く離されたふるさとそして前橋のために選手たちは新たな一年のスタートを切ります。
高瀬≫ことし、大きな節目を迎える場所があります。復興への道を歩み続ける東日本大震災の被災地です。
真っ暗な海に沿って再建した町の明かりがともります。東日本大震災の発生から10年を迎える宮城県石巻市洞源院(どうげんいん)です。
(太鼓の音)
被災地を望む本堂では新年の祈祷が始まっています。あの日から5か月の間ここにはおよそ400人が避難し共同生活を送っていました。壁には今も当時の約束事が貼られています。
「元気よく挨拶をしましょう」。
(太鼓の音)
人々は支え合いながら復興への険しい道を歩んできました。亡くなった人々の魂を鎮めるお焚(た)き上げです。全国から送られてきた千羽鶴も節目のことし 火にくべることにしました。避難所、仮設住宅そして、暮らしの再建。
いつもそばにあった千羽鶴を感謝を込めて焚き上げます。被災地の将来を担う子どもたち。人々に見守られ元気に育っています。
東日本大震災からまもなく10年。未来への希望の鐘です。
(鐘の音)
石橋≫ごく普通の日常のありがたさそして人々のつながりの大切さ改めて感じますね。
高瀬≫私たちも皆さんとつながっています。変わってしまった日常。だからこそ
新しい年を、このことばとともにスタートさせようと思います。2021年が皆さんにとって…。
2人≫すばらしい年になりますように。
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索引
NHKは,2017年8月13日,恒例の日本軍悪玉論にのっとった番組のひとつとしてNHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」(五十分)を放送した.それにとどまらず「大きな反響があった」として五ヵ月後の今年一月二十一日,二倍の長さに再編集してBS1スペシャル「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」(百分)を放送した 七三一部隊とは関東軍防疫給水部の通称である.防疫給水部は日本陸軍に置かれた疫病対策を目的と��た医務と浄水を行う部隊だ.七三一部隊が細菌戦の研究も行っていたのは事実だが,細菌兵器の人体実験や中国での実地使用については見方が分かれている これらの番組では,今回NHKがロシア国立音声記録アーカイブで発見した,「ハバロフスク裁判」における被告と証人の音声テープを証拠として関東軍による細菌兵器の人体実験と実地使用を事実として報道した なぜ今ごろ六十八年も前のハバロフスク裁判なのか.私は「死人に口なし」の故人被告を当時の音声テープを持ち出して一方的に裁く「第二のハバロフスク裁判」(今度は欠席裁判)を意図したと見ている.ふたたび極悪非道な犯罪者として断罪したのである ハバロフスク裁判とは,ソ連極東のハバロフスクで一九四九年十二月二十五日から十二月三十日までの六日間,主に関特演(関東軍特種演習)や関東軍防疫給水部,いわゆる七三一部隊などに関して抑留日本将兵を裁いた軍事裁判のことである.ハバロフスク地方は十五万人以上の日本人を抑留した最大の抑留地であり,かつ最後に日本人「戦犯」を集結させた収容所もあったし,日本人向けの宣伝新聞「日本新聞」を編集発行した場所でもあるから象徴的な意味を持っていた
NHKはこのハバロフスク裁判が公正な取調べに基いた公正な裁判であるとの前提で,音声テープをあたかも鬼の首を取ったかのように放送した.しかし,ソ連における「戦犯」裁判に公正な取調べも公正な裁判もなかったことはとうに明らかなのだ.この番組には共産主義独裁国家の司法制度に対する理解がまったく欠けているといわざるをえない まず日本���のシベリア抑留が国際法(ジュネーヴ条約)とポツダム宣言の「日本兵は速やかに帰国させるべし」との規定に違反する不法な長期抑留であった.加えて,「戦犯」裁判は,弁護士の接見など容疑者の正当な権利などかけらもない密室での強要,拷問などを伴う長期の尋問によってでっちあげられた尋問調書を証拠として,まともな審理も弁護もないままあらかじめ決めた判決を言い渡すだけの形骸化した裁判だった.私はかねて日本人「戦犯」受刑者は無実の囚人だと論証してきた
その「戦犯」裁判のひとつであるハバロフスク裁判も後述するようにフェイク(偽)裁判,もしくは暗黒裁判である.それゆえ,この裁判での被告の供述と証人の証言は,たとえ当人の肉声テープであっても真実を証明する証拠と認めることはできない.言い換えれば,このテープには裁判での証拠能力がない 念のために申せば,音声テープの証言内容がすべて嘘だといっているわけではない.ハバロフスク裁判の虚妄性を踏まえた上で,個々の証言が真実なのか真実でないのか,厳密かつ公正に検証すべきなのである まずNHKは大好きな日本国憲法の第三十八条第二項をよく噛みしめてみるべきだろう 《強制,拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は,これを証拠とすることができない》 これは近代法の大原則である.国内の冤罪裁判には過敏なほど反応をするNHKなのだからこの条項の重要性はもとより承知のはずだ.仮に強制,拷問,脅迫はなかったと仮定しても,ソ連で四年の長きにわたって抑留・拘禁されたなかでの供述というだけで法廷での証拠能力は否定されるであろう ソ連はシベリア抑留の当初から捕虜にした日本人軍民のなかから「戦犯」を捜し出して裁くという行動を意図的に取った.満洲,北朝鮮,樺太,千島に侵攻したソ連軍は,悪名高い「スメルシュ(防諜特別管理局)」を使って日本人軍民の「戦犯」容疑者を摘発し拘束した.摘発の対象となったのは山田乙三関東軍総司令官などの高級将校,憲兵,特務機関員だけでなく警察官,司法関係者,行政幹部,満洲国協和会関係者,民間会社の役員などの「前職者」も含まれた.もちろん七三一部隊の隊員もターゲットになっていた ソ連内務省捕虜抑留者管理総局の昭和二十四年三月二十二日付の資料によれば,八八七〇人もの日本人が「戦犯」容疑者として登録され,うち二〇六人が七三一部隊員となっている.このなかからソ連当局が公開裁判に出廷させるのにふさわしいと認定した人が東京裁判とハバロフスク裁判に被告や証人として出廷させられ,二六〇〇人余りが二十年,二十五年といった長期刑を宣告された ソ連では逮捕―取調べ―裁判―判決という形式は一応あった.しかしそれらの内実は西側の司法制度とは大きくかけ離れたものだったのだ.若槻泰雄の『シベリア捕虜収容所』などによれば,密告が奨励され,拷問が常套手段として使われ,自白が偏重され,裁判ではまともな弁護が行われず,実行行為ではなく企図や思想や職務が裁かれ,欠席裁判が横行し,銃殺や過重な長期刑が科されたのである 容疑者は監獄か収容所で取調べられるのだが,夕方から始まって深夜や明け方に及ぶのが常だった.寝静まった夜更け,薄暗い電灯の下で尋問されるだけで恐怖を覚えさせる.不眠と疲労で意識がもうろうとするなか自白を迫るのは一種の拷問だった.取調官が拳銃をちらつかせて脅すこともよくあった.このほか絶食,減食,水攻め,寒冷攻め,脅迫,暴力などがあった
以下はNHKによる捏造虚報情宣 731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~ 戦時中,細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊,関東軍防疫給水部,通称731部隊.この組織の全貌を知る手がかりがロシアのモスクワで発見された.命を守るべき医学者が,なぜ人体実験に手を染めたのか.70年の時を経て明らかになるその真実とは 人体実験を主導したエリート医学者 当事者たちの肉声を記録した22時間に及ぶ音声テープ.終戦から4年後,731部隊の幹部らを裁くために旧ソ連で開かれた軍事裁判の音声記録だ.細菌兵器開発のために,生きた人間を実験の材料として使ったと証言されていた
「秘密中の秘密というのは,細菌戦をもって攻撃をやるという研究をやったということと.それから人体実験を行ったという2つの点であります」(関東軍 梶塚軍医部長の証言) 731部隊が実験を行っていたのは,中国東北部の旧満洲にある秘密研究所.実験材料とされ,亡くなった人は3,000人に上るとも言われている.NHKが収集した国内外の数百点に及ぶ資料から,軍人だけでなく,東大や京大などから集められたエリート医学者たちも,人体実験を主導していた実態が浮かび上がった.専門知識を持った医学者が集められ,組織されたことで,実験が大規模に進められていったのだ 中国東北部ハルビンの郊外20キロに,今も731部隊の本部跡が残る.部隊は,周囲数キロに及ぶ広大な敷地で極秘に研究を進めていた.四角い3階建てのビルには最先端の研究室が並び,その中央には周囲から見えない形で牢獄が設置され,実験材料とされた人々がとらわれていたという
731部隊が編成されたのは1936年.当時,日本は旧満州に進出し,軍事的脅威となっていたソ連に対抗するため細菌兵器を開発していた.細菌兵器は当時,国際条約で使用が禁止されていたが,部隊を率いていた軍医 石井四郎は,防衛目的の研究はできるとして開発を進めた.部隊の人数は最大3,000人.石井は細菌兵器開発のため,全国の大学から医学者を集めていた 極秘だった731部隊の研究活動を公にしたのが,終戦の4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判,ハバロフスク裁判.今回見つかった音声記録では,部隊の中枢メンバーが,人体実験の詳細を証言していた Q 人体実験はどのように行われたのか,できる限り詳しく話してください 「昭和18年の末だと記憶しています.ワクチンの効力検定をやるために,中国人,それから満人(満州人)を約50名余り人体実験に使用しました.砂糖水を作って,砂糖水の中にチブス菌を入れて,そしてそれを強制的に飲ませて細菌に感染をさせて,そして,その人体実験によって亡くなった人は,12~13名だと記憶しています」(731部隊 衛生兵 古都証人) 医学者たちの指示の元で,致死率の高い細菌を使って人体実験を繰り返したと語られた 「ペストノミ(ペストに感染させたのみ)の実験をする建物があります.その建物の中に約4~5名の囚人を入れまして,その家の中にペストノミを散布させて,そうしてその後,その実験に使った囚人は全部,ペストにかかったと言いました」(731部隊 軍医 西俊英)
当時,日本軍は日本に反発する中国やソ連の人を匪賊(ひぞく)と呼び,スパイや思想犯としてとらえていた.ロシアで発見された資料には,逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は,裁判を経ずに部隊に送られたと記されている.その中には,女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されていた こうした人体実験に,大学から集められた医学者たちは,どう関わっていたのか.当時を知る元部隊員,三角武さんは事実を知ってほしいと今回初めて取材に応じた.部隊が保有する飛行機の整備に携わった三角さんは,医学者の実験のため,囚人が演習場へ運ばれたときに立ち会っていた.囚人は頭を丸坊主に刈られ,「マルタ」と呼ばれていたという 「杭を打ってね,ずーっと杭を打って,そこにマルタをつないどくんです.実験の計画に沿って憲兵が連れて行って,“何番の杭に誰を縛る”とかって,“つなぐ”とかっていう,やるわけね」(三角さん) 三角さんたちは少年隊員と呼ばれ,1年間,細菌学などの教育を受けた.指導したのは全国の大学から集められた優秀な医学者だった 「薬学博士だとか,理学博士,医学博士なんてえのが,いっぱいいますからね.だから『731部隊』って言えば,そういった各界の権威が集まってましたよ.」(三角さん) 元少年隊員の1人,須永鬼久太さんは,731部隊の戦友会が戦後まとめた名簿を保管していた.載っていたのは731部隊に集められていた医学者たちの出身大学と名前.こうした人々は軍に所属し,技師と呼ばれていた NHKはこの資料のほか,現存する部隊名簿や論文から技師の経歴を洗い出した.その結果,最も多くの研究者を出していたのは京都大学,次いで東京大学だったことが明らかになった.少なくとも10の大学や研究機関から,あわせて40人の研究者が731部隊に集められていた
「技師」となった医学者たちは,軍医と並ぶ将校クラスとして位置づけられ,731部隊の中枢にいた.エリート医学者が部隊の研究を主導していた 大学と731部隊の知られざる関係
なぜ,これほど多くの医学者が731部隊に関わることになったのか.取材を進めるうち,部隊と大学の知られざる関係が浮かび上がってきた.最も多い11人の技師が確認された京都大学.京都大学大学文書館で,731部隊と大学の金銭のやりとりを示す文書が初めて見つかった 細菌研究の報酬として1,600円,現在の金額で500万円近い金額を受け取っていたのは,医学部助教授だった田部井和(たべい・かなう).致死率の高いチフス菌を研究していた田部井は,731部隊設立後まもなく赴任し,研究班の責任者になった 田部井がそこでどんな実験をしていたのか,部下が証言している 731部隊 衛生兵 古都証人:チブス菌を注射器でもってスイカ,マクワ(うり)に注射しました.そしてそれを研究室へ持って帰って,菌がどのように繁殖したか,または減ったか等を検査しました.そして完全に菌が増殖してるのを確かめてから,それを満州人と支那人に,約5~6名の人間に対して食べさせました 通訳:果物を食べた哀れな人間は,どうなったんですか 古都証人:全員感染しました 同じ時期,京大からは医学者7人が部隊に赴任.取材を進めると,教え子たちを部隊へ送ったとみられる教授たちの存在が浮かび上がってきた.大きな影響力を持っていたのが,京都帝国大学の医学部長を2度務めた戸田正三.戸田は軍と結びつくことで多額の研究費を集めていた 戸田の研究報告書には,陸軍などから委託された防寒服の研究で8,000円.軍の進出先での衛生状態の研究で7,000円.現在の額で合わせて2億5,000万円にのぼる研究費を得ていたことが記されていた
軍と戸田が関係を深めるきっかけとなったのが,満州事変だ.傀儡国家・満州国が建国されると,国民はそれを支持.こうした世論の中で,大学は満洲の病院などに医師を派遣.現地の人々を病気から守る防疫活動のためとして,ポスト争いを始める.東大や慶応大などと競いながら,京大は派遣する医師の数を急増させていく こうした中,大学への影響力を拡大したのが731部隊だ.部隊内で石井に次ぐ部長を歴任した川島清は,731部隊には,昭和15年度だけでも今の金額で300億円の国家予算が与えられていたとハバロフスク裁判で証言している.巨額の予算を動かしていたのが731部隊の部隊長,石井四郎だ.京大医学部出身の石井は,母校の指導教官の1人だった戸田と関係を深めていた 教え子が書いた回顧録(雑誌「国民衛生」)には,戸田が中国の731部隊の関連施設を繰り返し訪れていたことが記されている.戸田と関係が深い教授の研究室からは8人の医学者が,京大全体では11人が731部隊へ赴任したことが分かっている 京大に次いで,多くの研究者が731部隊に集められた東京大学.取材に対し「組織として,積極的に関わったとは認識していない」と回答している.その東大の幹部が石井と交流していた事実が,取材から明らかになった.医学者で東大の総長を務めた長與又郎だ 遺族の許可を得て入手した長與の日記には,総長時代から石井と接点があったこと.そして退任後の昭和15年,731部隊の本部を長與が視察した際,水炊きを囲んだ歓迎会が開かれ,石井や東大出身の部隊員らが同席していたことが記されていた
東大からは戦時中,少なくとも6人が集められたことが分かっている 石井が大学の幹部と結びつく中で,集められていった医学者たち.医学者の中には,731部隊に送られた経緯を詳細に書き残していた人もいた.京大医学部の講師だった吉村寿人は,基礎医学の研究で多くの命を救いたいと医学者を志したという.国内で研究を続けたいと思いながらも,教授の命令には抗えなかったと回想している 「軍の方と既に約束済みのような様子であった.先生は突然,満州の陸軍の技術援助をせよと命令された.せっかく熱を上げてきた研究を捨てることは,身を切られるほどつらいことであるから,私は即座に断った.ところが先生は『今の日本の現状からこれを断るのは,もってのほかである.もし軍に入らねば破門するから出て行け』と言われた」(吉村の回想「喜寿回顧」より) 生理学が専門だった吉村は,731部隊で凍傷の研究を命じられた.当時,関東軍の兵士たちは,寒さによる凍傷に悩まされていた.その症例と対策を探る目的で人体実験を行っていた様子が,裁判で語られていた 「吉村技師から聞きましたところによりますと,極寒期において約,零下20度ぐらいのところに監獄におります人間を外に出しまして,そこに大きな扇風機をかけまして風を送って,その囚人の手を凍らして凍傷を人工的に作って研究しておるということを言いました.」(731部隊 軍医 西俊英) 「人体実験を自分で見たのは,1940年の確か12月頃だったと思います.まず,その研究室に入りますと,長い椅子に5名の中国人のその囚人が腰を掛けておりました.それで,その中国人の手を見ますと,3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました.残りの2人は指がやはり黒くなって,ただ骨だけ残っておりました.吉村技師のそのときの説明によりますと凍傷実験の結果,こういうことになったということを聞きました.」(731部隊憲兵班 倉員証人) 吉村は部隊で凍傷研究を進めながら,満洲の医学会で論文も発表していた.論文には様々な条件に人体をおいて,実験していたことが記されていた.絶食3日,一昼夜不眠などの状態においてから,零度の氷水に指を30分浸けて観察していた 部隊から高額の報酬を受け取っていた京大の田部井は,実験室での研究から実戦使用の段階へと進んでいく.開発していたのは細菌爆弾.大量感染を引き起こす研究を始めていたのだ.一度に10人以上の囚人を使い,効果を確かめたと部下が証言している
「安達の演習場で自分の参加した実験はチフス菌であります.それは瀬戸物で作った大砲の弾と同じ形をした細菌弾であります.空中でもって爆破して,地上に噴霧状態になって,その菌が落ちるようになってました.そして菌が地上に落ちたところを,被実験者を通過させたのと,それから杭に強制的に縛り付けておいて,その上でもって爆破して,頭の上から菌をかぶせたのと2通りの方法が行われました.大部分の者が感染して,4人か5人か亡くなりました」(731部隊 衛生兵 古都証人) 医学者は なぜ一線を越えたのか 本来,人の命を守るべき医学者は,なぜ一線を越えたのか.それを後押ししたとみられるのが日本国内の世論だ
1937年,日中戦争が勃発.中国側の激しい抗戦で日本側の犠牲も増えていった.日本軍は反発する中国人らを匪賊と呼び,掃討作戦を行った.政府もメディアも日本の犠牲を強調する中,匪賊に対する敵意が高まり,世論は軍による処罰を支持した そうした時代の空気と研究者は,無縁ではなかった.731部隊以外でも学術界では匪賊を蔑視する感情が広がっていた.それを示す資料が北海道大学で見つかっている.当時の厚生省が主催する研究会が発行した雑誌「民族衛生資料」だ.染色体を研究する大学教授の講演の記録には,軍に捕らえられた匪賊を,生きたまま研究材料としたことが,公に語られていた 「匪賊が人間を殺すならば,その報復ではないが,その匪賊を材料にしてはどうかと思いついた.死んだものは絶対にだめである…染色体の状態が著しく悪くなる.匪賊一人を犠牲にしたことは,決して無意義ではありません.これほど立派な材料は従来断じてないということだけはできます.」(「民族衛生資料」 北海道帝国大学教授 講演録) 14歳の時に731部隊に入隊した三角さんは,匪賊は死刑囚だから実験材料として利用して良いと教えられたという 「『こういう時代なんだから,そうしなきゃ,俺たちがやられるんだよ』と.そういった考えでしたね.口には出せないです.かわいそうだとかなんとかということを見ても,口に出せない.出したら,非国民だとやられちゃう.そういった雰囲気というか,そういった一般的な風潮がそうだったんです」(三角さん) 戦争が泥沼化していった1940年代.731部隊は中国中部の複数の都市で少なくとも3回,細菌を散布.細菌兵器での攻撃は国際条約で禁止されていたが,日本は批准しないまま秘かに使用した 「私がおりました間のことを申しますと,昭和16年に第1回,それから昭和17年に1回,中支において第731部隊の派遣隊は,中国の軍隊に対して細菌武器を使用しました.」(731部隊第一部(細菌研究)部長 川島清) さらに民間人にまで感染を広げる目的で,中国の集落に細菌をまいたと証言されていた 使われる細菌は,主としてペスト菌,コレラ菌,パラチフス菌であることが決定しました.ペスト菌は主としてペストノミの形で使われました.その他のものはそのまま水源とか井戸とか貯水池というようなところに散布されたのであります」(731部隊第一部(細菌研究)部長 川島清) そして戦争末期の1945年8月9日,ソ連が満州に侵攻,731部隊はただちに撤退を始める.部隊は証拠隠滅のため,全囚人を殺害.実験施設を徹底的に破壊し,箝口令をしいた.少年隊員の三角さんは,このとき死体の処理を命じられた 「その死体の処理に『少年隊,来い』って言って引っ張られて行って,死体の処理を各独房から引っ張り出して,中庭で鉄骨で井桁組んでガソリンぶっかけて焼いたわけ.焼いて全部焼き殺して骨だけにして,今度骨を拾うの.『いや,戦争っていうのがこんなものか』と.戦争ってのは絶対するもんじゃないと.つくづくそう思いましたね.ほんとにね,1人で泣いた」(三角さん) 人体実験を主導した医学者たちは,ソ連の侵攻前に,特別列車でいち早く日本に帰国.戦後,その行為について罪に問われることはなかった.アメリカは人体実験のデータ提供と引き替えに,隊員の責任を免除したのだ 多くの教え子を部隊に送ったと見られる戸田正三は,金沢大学の学長に就任.部隊との関わりは語らないまま,医学界の重鎮となった.チフス菌の爆弾を開発していた田部井和は,京都大学の教授となり,細菌学の権威に.凍傷研究の吉村寿人も教授に就任.「自分は非人道的な実験は行っていない」と生涯否定し続けた 「私は軍隊内において,凍傷や凍死から兵隊をいかにして守るかについて,部隊長の命令に従って研究したのであって,決して良心を失った悪魔になったわけではない」(吉村の回想「喜寿回顧」) 今回発見された音声記録.その最後には,被告たちが自らの心情を語った発言が残っていた.731部隊の軍医,柄沢十三夫は人体実験に使われた細菌を培���した責任者だった.戦争が終わってから初めて,罪の重さに気づいたと語っている 「自分は現在平凡な人間といたしまして,自分の実際の心の中に思っていることを少し申してみたいと思います.私には現在日本に,82になります母と,妻並びに2名の子どもがございます.なお,私は自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております.そうして��始懺悔をし,後悔をしております.私は将来生まれ変わって,もし余生がありましたらば,自分の行いました悪事に対しまして,生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております」(731部隊 軍医 柄沢十三夫) 柄沢は刑に服した後,帰国直前に自殺したと伝えられている 今,私たちに問いかける医学者と731部隊の真実.それは日本が戦争へと突き進む中で,いつのまにか人として守るべき一線を越えていった,この国の姿だった この記事は,2017年8月13日に放送した 「NHKスペシャル 731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 を基に制作しています この番組は nhk-ondemand で配信中 上記はNHKによる捏造虚報情宣
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12.ロシアの朝鮮進出
問い7:朝鮮の近代化とその阻止>12.ロシアの朝鮮進出
目次は こちら
12.ロシアの朝鮮進出
朝鮮国王の高宗がロシア公使館に移ったこと及びロシアの干渉に関して、『韓国の歴史教科書』の「近代的改革を推し進める」の176ページに次のように記されています。
【三国干渉で国際情勢が変わると、王室はロシアとアメリカの力を借りて日本の内政干渉から抜け出そうとした。
(中略)
高宗は日本の干渉から抜け出すためにロシア公使館に居所を移した(俄館潘遷)。そして金弘集をはじめ開化派の役人を排除し、改革を中断した。】
また、同書の「近代主権国家をうちたてようとする」の178~179ページには、次のように記されています。
【高宗の俄館潘遷により日本の干渉からある程度抜け出したものの、ロシアをはじめとする列強の利権侵奪は一層激しくなった。政府は国家の自主的地位と国王の権威を取り戻すために努力した。
(中略)
一方、ロシアは軍事教官と財政顧問を派遣して朝鮮の内政に干渉し、釜山の絶影島を租借しようとした。】
そして、182~183ページの「経済侵略に立ち向かう」には次の記述があります。)
【ロシアは鉱山採掘権や森林伐採権を独占し、アメリカも雲山金鉱の開発権を独占した。
(中略)
独立協会はロシア、フランスなど列強の利権侵害を糾弾した。さらに列強の利権侵害を制度的に防ぐため高宗に献議六条を捧げ、外国に利権を与える時と借款の導入および条約締結の時には、各部の大臣と中枢院議長が合同で署名することを求めた。】
『日韓併合小史』の124ページ「6 ロシアの進出と日本」には次の記述が有ります。
[李王らの露館潘遷と同時に、李範晋らは国王を擁して、金宏集らを逆賊という名目のもとにこれを捕らえ、金と鄭秉夏とを殺し、いったんのがれた魚充中も逃走の途中に殺してしまった。兪吉濬、金充植、趙義淵、張博、権濚鎮、李斗璜、禹範善、李軫鎬らは皆日本へ亡命している。
こうして李範晋らはロシア公使館内で新内閣を組織し、総理大臣金炳始、内部大臣兼総理大臣署理朴定陽、外部大臣兼学部大臣李完用、軍部大臣李充用、支度部大臣伊要求、宮内大臣李載純、法務大臣兼警務使趙秉稯となったが、間もなく趙秉稗が農工商大臣、李範晋が法務大臣と警務使を兼任することになった。
以後一年間、朝鮮国王と王世子(皇太子のこと)はロシア公使館に滞在、ここで政務をとっていた。この間にロシアは着々とその勢力をのばしたことはいうまでもない。すなわちロシアは二名のロシア人顧問をいれ朝鮮政府の財政軍事を監督し、士官20名に朝鮮軍隊の訓練に当たらせ、ソウル市内にロシア語学校をつくった。
ロシアはさらに日本の勢力を抑えるために欧米資本の導入をはかり、各種利権の譲渡も、この露館潘遷中に行ったものが多い。たとえばつぎのとおりである。
1896年 3月 京仁鉄道敷設権 米・モールス
4月 咸鏡北道慶源鐘城鉱山採掘権 露・ニシチェンスキー
4月 平安北道雲山金鉱採掘権 米・モールス
7月 京義鉄道敷設権 仏・グルニュエル
9月 茂山鴨緑江鬱陵島伐木建 露・ブリュネル
1897年 3月 江原道金城郡堂峴金鉱採掘権 独・オルター
このうち京仁鉄道の敷設権は1894年の日韓暫定合同条款によって、いったん日本に許可されたものを、着手が遅れたという理由でアメリカ人に再譲渡されたものである。]
また、ロシアは1898年2月には釜山の影島の租借を承認させ、3月には露韓銀行支店を漢城(ソウル)に設置しました。
さらに、1899年4月には、ロシアは馬山浦一帯を租借すべく、その地域に杭を打ち込んで、意図を明確にしました。釜山の近くの島と馬山浦にロシアの軍事基地が出来れば、日本の目と鼻の先ですので、日本にとって脅威です。日本はこの情報に驚いて、釜山にいた商人の迫間房太郎氏の名義で、ロシアが杭を打ち込んだ区域内の私有地を買収して、事なきを得ました。
引き続いて、ロシアは1902年に5月には、既に獲得していた森林伐採権の実施を始めると通告して、60余人のロシア軍人と、馬族の頭目が率いる80余人が龍巌浦(鴨緑江の朝鮮側の河口近く)やってきて、ここに軍事的拠点を造り、10月になると砲台を築きました。ロシアは森林伐採権の実施を口実にして軍事基地を構築したことが、『日韓併合小史』の「6 ロシアの進出と日本」に記されています。
ロシアの極東における動向について、『日韓併合の真実』の「露日戦争と李朝終焉」の「アジアがはじめて西洋を破る」の214ページに記していますので、その要点を以下に転載します。
[ロシアはアレキサンドル三世の時から、極東を支配下に置くことを、企てていた。1860年に日本海に面するシベリア沿海州に、軍事拠点として新しい町がつくられ、ウラジオストック(ロシア語で「東方支配」)と、命名された。ウラジオストックが築かれた1860年といえば、日本で元号が明治に変わる8年前のことだった。
ロシアは極東において軍事的な地位を、着々と強固なものにしていった。ロシアは日本に対する三国干渉が成功した後、清から遼東半島の旅順と大連を租借し、旅順港に堅固な大要塞を築いて、5万人近い兵力を配置していた。南満州はロシア軍が充満するようになった。
ロシアはアレキサンドル三世が日清戦争の始まった1894年に死ぬと、ニコライ二世が26歳で即位した。ニコライ二世はドイツ皇帝のビルヘルム二世と従兄弟だったが、二人はアジアにおける征服を競った。
(中略)
光武8(1904)年2月8日に露日両国が断交したのを受けて、日本艦隊が旅順港外で交戦したことから、露日戦争が始まった。
(中略)
この時、ロシアは南満州と遼東半島に32万の大軍を展開していた。]
このとき、朝鮮の実態はロシアの属国に近い状態だったのです。このロシアの朝鮮における存在と動向は当時の日本にとって大きな脅威でした。
このロシアの動向について警戒していたのは、日本だけではなく、イギリスとアメリカでした。イギリスは地球規模でのロシアの南下政策を阻止して自国の権益を守ろうとしていました。そこで、ロシアに対する利害が一致した日本と日英同盟を結んだのです。うがった見方をすれば、イギリスは日本の費用と日本人の血でロシアの極東での南下を阻止する策略をしていたともいえます。
アメリカはすでに朝鮮に金鉱の独占採掘権があり、さらに満州の権益の獲得を狙っていました。アメリカは朝鮮の金鉱で大儲けをしていたのです。そこで、ロシアが朝鮮で存在感を増すことを危険視していて、朝鮮と満州からロシアを排除したい思いが日本と一致していました。その結果が、1905年7月に日本の桂太郎首相とアメリカのルーズヴェルと大統領の特使タフト(陸軍長官)の間で締結された秘密外交協定となり、アメリカと日本はフィリピンと朝鮮の支配権を相互に認めたのでした。その「桂・タフト協定」の内容を『日韓併合小史』の「9 朝鮮併合への過程」の217ページ「日本の朝鮮併合と米英の態度」より要点を引用して次に記します。
[1905年7月27日午前、桂伯爵とタフト長官との間に長時間の機密の会談が行われた。
第一、前略。桂伯爵は、(中略)日本はフィリピンに対し、如何なる侵略的意図をも有していないことを積極的に開陳した。
第二、桂伯爵は日本の外交政策の基本的原則は極東における一般的平和を維持することであると述べた。それ故、前期目的を達成するための最善の、かつ唯一の実際的方法は、日、米、英三国政府の間に善意の了解を形成することである。
第三、桂伯爵は朝鮮問題に関し、朝鮮は日本が露国と戦った直接の原因となったところであるから、戦争の理論的結果として半島問題を完全に解決することが日本にとって絶対に重要であることを述べた。 もし朝鮮がそのまま放置されたならば、朝鮮は必ず無思慮に他国との協定又は条約を締結する習癖を繰り返すこととなり、かくして、戦前に存在した国際的紛糾を再現するであろう。
右の状況にかんがみ、日本は朝鮮が旧態に戻り、日本をして再び外国との戦争に突入せざるを得なくするようなことを阻止するため、断乎たる手段を取らざるを得ないことを感じている。
タフト長官は桂首相の見解の正当性を十分に認め、(中略)日本が朝鮮に対して宗主権を設定してその範囲としては、朝鮮が外国との条約を締結するには日本の同意を要することは、今回の戦争の理論的結果であり、かつ、東洋における永久の平和に直接寄与するであろうという趣旨のことを述べた。 同長官は、これについての保証を与える権限は有していないけれども、彼の判断によれば、ルーズヴェルト大統領はこの点に関する彼の意見に同意するであろう、とのことであった。
1905年7月 (国務省雑件書類、第三部)
ルーズヴェルトはまた、7月31日、タフトに電報して、「貴下の桂伯に語ったことばは、凡ゆる点に於いて正しい。桂伯に対し、貴下の言は直ちに余の言なる旨を伝えられよ」といっている。また、1908年11月30日に交換した、ルート(国務長官)・高平(駐米公使)覚書の協定案でも、日本の朝鮮支配は、重ねて承認された。]
上の「桂・タフト協定」には、「朝鮮は日本が露国と戦った直接の原因」との桂首相の見解が記されています。これは朝鮮におけるロシアの存在を強化させている高宗と当時の親ロシア朝鮮政府の施策が、日本のロシアに対する恐怖心とイギリス・アメリカの警戒感を引き起こし、日露戦争をせざるを得ない状態���日本を追い込んだことを意味しているといえます。
当時のロシアは、満州を占領して朝鮮国境の北方には32万の大軍を駐留させ、遼東半島の旅順と大連を租借して旅順を5万の兵が駐留する大要塞軍港として、ウラジオストックの都市にも艦隊が停泊して、朝鮮半島南部の釜山と馬山浦の近辺にロシアの拠点を造ろうとうごめいて、朝鮮と日本を侵略しようとする野望を隠そうとしていません。このようなロシアに大韓帝国の高宗皇帝と親ロシア派政権がすり寄っていました。そして1903年7月、龍岩浦(鴨緑江河口)に軍事拠点を構築したことによって、ロシア南下の危機感は現実的なものとなったのです。
元が大陸と朝鮮半島を支配下に置いた時、朝鮮と元の聯合した大軍が日本へ攻め寄せてきたことがありました。今度は、ロシアが朝鮮を支配下に入れて、ロシアと朝鮮が聯合した大軍が再び日本を攻撃する可能性を未然に防ぐために、日本の為政者は決断を迫られたのです。これが日本国の存亡をかけ、多くの日本兵を犠牲にした日露戦争でした。
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