#代車でドライブ
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1988年のこと、私はサンタモニカの専門研究所のコンサルとして働いていた。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の分析ルーチンをセットアップしていた。私は、核酸に関するものであれば、何でも分析ルーチンのセットアップについては多くを知っていた。私がポリメラーゼ連鎖反応を発明したからだ。だから彼らは私を雇ったのだ。
その一方で、後天性免疫不全症候群(AIDS)は、何かしら私の良く知らないことだった。だから、私はこのプロジェクトの進捗とゴールの報告書を書こうとしたときに気づいたのだ、私が書こうとする宣言を裏付ける科学リファレンスの無いことに。つまり「HIVがエイズの原因としてありそうだ」と。
私は隣の机のウイルス学者に聞いてみた。彼は必要無いというのだ。同意できない。特定の科学的発見やテクニックがあまりに確立されていて、そのソースがもはや現代の文献では参照されていないことは本当だ。しかし、HIV/エイズのケースについては、そうではないように思える。私にとってこれは本当に驚きだったが、致死的で治療法の無い病気の原因を発見した者が、科学論文で継続的に参照されないなどということがだ。その治療がされ、忘れられる以前にだ。しかし、すぐに私はわかった、確実にノーベル賞ものだろうが、その者の名前を誰も思い出せないのだ。
もちろん、この単純なリファレンスは、どこかにあっただろう。でなければ、数万の公務員と多くの尊敬される科学者が、25歳から40歳の間の多数の同性愛者や静脈内薬物使用男性の悲劇的な死を、一つの狭い調査チャンネルで研究し解決しようとしても、許されなかっただろう。他すべての池が空と立証されるまでは、全員が同じ池で釣りなどしない。公開論文がなければならない。あるいは、いくつかが共に示すことだ、HIVがエイズの原因としてありそうだと。なければならないのだ。
私はコンピュータ検索を行ったが、何も出てこない。もちろん、コンピュータ検索では重要なものを見逃してしまうことがある、単に正しいキーワードを入れなかっただけでだ。科学的問題について確実にするには、他の科学者に聞くのがベストだ。それが理由で、ナイスなビーチ付きの遠い場所で科学カンファレンスが開かれるのだ。
私は、仕事として多くの会合やカンファレンスに行ってきた。エイズについて話す者が���れば誰でもアプローチする習慣だった。そして彼あるいは彼女に聞くのだ。私の「HIVがエイズの原因でありそうだ」という、ますます問題になっている宣言について何をリファレンスとすれば良いのかと。
二年間にわたる10か15の会合の後、私は極めて怒っていた。誰もリファレンスを示せなかったからだ。心に形成されつつある醜い結論を、私は気に入らなかった。21世紀の黒死病と見なされるようになった病気に対するキャンペーン全体が、その起源を誰も思い出せない仮説に基づいているのだ。これは科学にも常識にも反している。
最終的に、HIVとエイズ研究の巨人に質問する機会に恵まれた。パスツール研究所のドクター・リュック・モンタニエである。彼がサンディエゴにスピーチに来たときだ。これは最後のチャンスだろう、怒りを見せずに私の小さな質問を聞くことができるだろう。そして、モンタニエは答えを知っているだろうと考えた。
見下すような困惑を見せながらモンタニエは言った、「疾病対策センター(CDC)のレポートを引用したらどうでしょう?」
私は言った。「それはHIVがエイズの原因としてありそうかという問題に取り組んだものではありませんよ。そうじゃないですか?」
「違いますよね」と彼は認めた。疑いなく、私が行ってしまわないかと思っている。彼は、周囲の小さな人の輪を助けを求めるように見た。しかし彼らはより確実な答えを待っていた、私と同じく。
「では、SIV(サル免疫不全ウイルス)の仕事を引用したら」と良いドクターが提示した。
「それも読みました、ドクター・モンタニエ」と応答した。「この猿に起こったことはエイズとは似てもいません。それに、その論文は二ヶ月前に出たばかりですよ。私が探してるのはオリジナルの論文です。HIVがエイズを起こすと、誰かが示したものです」。
ドクター・モンタニエの応答としては、素早く立ち去り、部屋中の知り合いに挨拶してまわることだった。
(その事件の後の)数年前の私の車の中にシーンを移そう。私はメンドシノからサンディエゴにドライブしていた。他の者と同じように、私は欲した以上に多くエイズについて知ることになっていた。しかし、未だに知らないのだ、その原因がHIVであることを誰が結論づけたのか。サンバーナーディーノ山に近づくにつれ、私は眠くなってきた。ラジオを付け、エイズについてしゃべってる男を聞いてみた。彼の名はピーター・デュースバーグだった。バークレーの有名なウイルス学者である。彼のことは聞いたことがあったが、論文も読んでないし、講演も聞いたことがなかった。しかし聞いてみたら、ギンギンに目が覚めた。彼が正確に説明していたのだ、HIVとエイズの関係についてのリファレンスを見つけるのに、なぜ私がこれほど手こずったのか、その理由を。何も無かったのだ。��まだかつて、HIVがエイズを起こすことを証明した者はいない。私は家に着き、米国化学学会の会合で彼の考えを話してくれるよう、デュースバーグをサンディエゴに招いた。最初はほとんど疑っていたのだが、視聴者はそのレクチャーにとどまっていた。そして二時間の質疑応答があり、部屋の時間になるまで個別に話し続けていた。全員が持ち込んだ疑問よりも多くの疑問を残していた。
私はピーター・デュースバーグが好きだし、尊敬している。彼が必ずしもエイズの原因を知っているとは思わない。それについては不同意だ。しかし、我々は共に、何がエイズの原因で無いかは確信している。
HIVと呼ばれるウイルスがエイズという病気を引き起こすなどと、一体全体なぜほとんどの人々が信じているのか、何の理由も我々は発見できなかった。単純にこれが真実であることを示す何の科学的証拠も無いのである。
それとまた発見できなかったことは、なぜ医師がAZT(Zidovudine)という毒性の薬を人々に投与するかだ。彼らはその血液中にHIVに対する抗体が存在するという以外は何の症状も無いのである。実際のところ、我々には理解できない、いかなる理由であろうが、なぜ人間がそんな薬を接種するかを。
我々には理解できない、これらすべての狂気がどうして生まれたのか、そして両者ともバークレーに住み、我々は本当に奇妙ないくつかの事柄を見てきた。我々は過ちを犯すのが人間であることは知っている。しかし、HIV/エイズ仮説は最悪の間違いである。
私はこれを警告として強く言いたい。デュースバーグはこのことを長く言ってきた。この本を読むのだ。
キャリー・B・マリス
1993年ノーベル化学賞受賞者
キャリー・マリス:Inventing The AIDS Virus序文 | 字幕大王
我々は馬鹿であることが期待される
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女子中学生に性的暴行をしたとして埼玉県警川口署に逮捕されたトルコ国籍で自称解体工の男(20)が、難民認定申請中で仮放免中だったことが8日、同署の調べで分かった。男は���ルコ生まれ日本育ちの在日クルド人で、事実上の「移民2世」という。調べによると、男は1月13日午後10時半ごろ、川口市内のコンビニ駐車場に止めた乗用車内で、東京都内の10代の女子生徒に性的暴行をしたとして7日、不同意性交などの容疑で逮捕された。同署によると、男は先に来日していた父親を頼って幼少期に来日し、地元の小中学校に通っていた。卒業後は家業の解体業を手伝っていたと供述している。男は父親とともに難民認定申請中で、入管施設への収容を一時的に解かれた仮放免中だった。自宅はさいたま市内だが、川口市北部の隣接地域だった。男は自身の運転する車で、SNS(交流サイト)を通じて知り合った都内の女子中学生らや、日本人男性らとドライブに行くことになった。女子生徒らは横浜方面に向かうと考えていたが、車は都内から川口市内へ直行。女子生徒らは車内でスマホを使ってやり取りして逃げ出そうとしたが、犯行現場のコンビニ近くで降ろされ、被害にあった女子生徒だけが車に残されたという。男は「日本人女性と遊んだが暴行はしていません」と容疑を否認。同署はトルコ語の通訳を介しながら調べを進めている。川口市内では近年、一部クルド人と地域住民との軋轢が表面化。「2世」とみられる若者らによる車の暴走行為やあおり運転も問題となっている。
女子中学生に性暴行の容疑者、難民申請中のクルド人 トルコ生まれ川口育ちの「移民2世」 「移民」と日本人 - 産経ニュース
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2024年9月1日(日)
ツレアいが代表を務めるボランティア団体・MQJ(メモリアル・キルト・ジャパン)、今日はニュースレターの印刷・発送作業の日だ。いつも通りの小規模家内工業、昨晩編集した原稿を修正し、京都市市民活動総合センターで印刷作業、自宅に戻って折り込みと封入、夕方には京都市中央郵便局で発送、慌ただしくも何とか予定通りに作業を終えることが出来た。後期授業開始まで3週間、明日からは夏休みの宿題を頑張るのだ。
5時15分起床。
体重は850g増。
洗濯機回す。
朝食は奥川ファームの蕎麦、野菜、果物とヨーグルト、豆乳。
洗濯物干す。
珈琲を淹れる。
毎年12月に開催する<メモリアルキルト展in京都>、今日は会場利用の申込日、午前9時に彼女をひと・まち交流館まで送る。最初に予備抽選、その後本抽選、いつもより時間がかかったが何とか希望通りの日にちで場所を確保できたとのこと。その連絡を待ってニュース原稿を持って私がひと・まち交流館へ、予約していた印刷室で作業終了。
自宅に戻ったのが12時35分、息子たちにはサッポロ一番、彼女には伊勢うどんを用意する。
13時過ぎにJcomの担当者来訪、古くなったチューナーの交換について説明を受ける。現在のもはブルーレイドライブが付属しているが、新しいものにはその仕様がなく、外付けドライブが必要とのこと。キャンペーンの利用で¥30,000のキャッシュバックがあるのとことで、チューナー交換に同意、工事日が9/13(金)午前中と決定した。
早速amazonで外付けハードディスクとブルーレイドライブを注文する。
続いて、ニュースレターの折り込み・封入作業。朝のうちにラベルを打ち出し、封筒には料金別納のスタンプを押しておいた。今回の印刷は180部、郵便料金値上げでメール配信をお願いしているが、結局郵送分は約130部。2時間程度で作業を終えて、彼女を京都市中央郵便局まで送る。窓口で発送作業を済ませ、ヨドバシで買い物を済ませた彼女が戻ったのが17時、やれやれ。
彼女と三男でココに点滴、私は夕飯準備。
昨日のすき焼き用牛肉をかさ増しし、奥川ファームのオクラをフィーチャー。
録画番組視聴、日本の話芸。
三遊亭兼好 落語「大山詣り」
初回放送日:2024年9月1日 三遊亭兼好さんの落語「大山詣り」をお送りします(令和6年7月5日(金)昭島市・FOSTERホールで収録)【あらすじ】神奈川県伊勢原の大山は��民の信仰を集め、連れだってお参りに行く小旅行は江戸時代から盛んだった。長屋の一行は、先達(せんだつ:お参りを引率する役目の人)と、旅の間はけんかしない、もし暴れたら坊主にする、と約束して大山詣りをする。参詣を終えた最後の夜になって、熊さんが大酒を飲み…
名探偵ポワロ
第4話「死との約束」/ Appointment with Deathシーズン 11, エピソード 4 中東シリアで遺跡見学ツアーに参加中のポワロは、考古学者ボイルトン卿の家族と遭遇する。再婚した妻であるボイルトン夫人は威圧的で、連れ子の息子レイモ ンドと2人の娘キャロルとジニー、婆やのテイラーは常にビクビクしていた。その夜、ポワロは、「あの女に死んでもらおう」と話すキャロルとレイモンドの会 話を耳にする。
今夜も私は途中でダウン。
今日は車移動のみで、リング完成は無理。
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海外の田舎をドライブしてきたが、携帯の電波はつながらず、商店や飲食��は現金のみでWiFiなし、道順は観光案内所でもらった紙の地図のみ、というデジタルデトックスな1日を体験できた。たまにこういう日があるとリフレッシュによい。(もっとも本当に脱デジタルしたければ現代の自動車には乗れない。
Xユーザーの1T🍵Tさん
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おかんと二人で早朝ドライブ和歌山の桃の直売所へ🍑珍道中2024!
インター出口が閉鎖されており、30分のロス!車内でわーわー騒ぎながらやっと到着!
平日朝の8時半くらいからこの行列!みんな折りたたみ椅子を持参して慣れた様子。犬や赤ちゃんを連れている人もいました!
一人一箱という決まりがあるので赤ちゃんも要員なのです!
時期や時間によって、売り場に届く桃の量にばらつきがあるのでどの箱サイズをどのタイミングで買うのか見極めが難しい!
2時間並んだ!
おかんは近所の人やお友達にも聞いて、代わりに買っていた!
無事に買えたあとは近くのスイーツショップで糖分補給🩷
丸ごと桃のパフェも美味しそうだった!!
桃珍道中の帰り道の途中「キーンって耳鳴りがした時って霊が近くに来ているんだって〜」って、おかんが何気なく話したのが妙に心に残った。
数日間の桃源郷のような帰省から東京へ出発する時、きぃーーーんって耳鳴りがした👂
あ、耳鳴り!って言ったら、おかんが「おばあちゃんが近くにいるんだわ」って言った。
耳鳴りがするたび、これからは胸が温かい気持ちになると思う🐣
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クロンズEUツアーまとめ
5/1 バルセロナ 空港でライアンと合流し、プロモーターの友人宅にお世話になる。バルセロナの街を堪能。サクラダファミリアの禍々しさは我々の精神を蝕んだ。私は初っ端から換金に失敗し、詰む。唯一のオフ日である。この日はひたすら観光に勤しんだため、特筆すべきこと無し。また、バンド内でダントツの英語力の乏しさを誇る私は、奇声や奇行によってその存在感をアピールすることを決意。
5/2 トゥルーズ 初日からカマすも宿に入れず路頭に迷い全員死亡
5/3 パリ 全員モデル並みにイケまくったパリのパンクス、そして狂気に満ちたオーディエンス…我々は仕上がりまくった演奏でパリのベニューに伝説を刻むも、私は宿でお化けと遭遇し眠れず、詰む
5/4 ロンドン 遂に憧れの倫敦…友人たちとの再会、カッコ良すぎるベニューと対バン、全てが輝いて見えた…のだが自分たちのライブ中に(詳細省く)し、落ち込む。しかし人情溢るロンドンっ子たちの優しさに包まれ、泣く
5/5 アントワープ 最高のベニュー、最高のホスピタリティー、最高の飯、ヨーロッパの厳かな街並みと鳥たちのさえずりにブチ上がるも観客10人
5/6 グロニンゲン 数々のアーティストが訪れた伝説のベニューにて新たな歴史を刻む。月曜なのに満員のオーディエンス、あまりに美しい街並みと沈む夕日、カッコ良くも優しくポムポムした若者たち…恐らく本ツアーのベスト。ここにきてヨーロッパの哀愁が本気を見せ��きた。
5/7 ライプツィヒ スクワット会場にて演奏…だけどこれどう見ても普通のライブハウスじゃないの?でも違法らしくて撮影絶対禁止らしい。この日は真夜中の廃墟にてドイツ人のネッ友とビジュアル系とゴスに関するオフ会をして楽しかった
5/8 プラハ 何故かチェコで大人気なクロンズ。ステージに上がった瞬間に大歓声、美味過ぎるビール、宿泊先のホテルでロックスター気分を味わうもドライバーのライアンに悲劇が訪れる。ちなみにプラハは本ツアーで一番楽しみにしていたが街並みがディズニーシーすぎて全然好きになれず終わる。観光客多すぎ
5/9 ミュンヘン ゲルマンの深緑に隠されたお婆ちゃんの別荘みたいなベニューと素晴らしいスタッフ達、健康的な食事、お洒落でカッコイイ人々…言葉で言い表せないほど美しい日。生涯忘れないだろう。個人的に本ツアーのベスト。そして対バンのTRAPISONDAは今回のツアーでダントツに凄かった。全員必聴 https://trapisonda.bandcamp.com/album/demo
5/10 サンテティエンヌ 地獄の10時間ドライブを経て辿り着いたのは、恥辱と糞尿に満ちた悪意の街だった… 最悪の対バン、テキトーなプロモーター、殴り合いの喧嘩、そして便座のないトイレ…我々の精神は限界に達した
5/11 バルセロナ 最高が約束された1日のはずが、全てのボタンを掛け違えたような意味不明な1日に。溢れる老害、相次ぐ機材トラブル、虚無をブーストする日本食、そして炎上するベースアンプ…個人的には本ツアーダントツのワースト。でもハコのスタッフたちのユルいノリは面白かった(ちゃんと話したかったが私の英語力の無さ&向こうもあんま英語喋れずで終了)終演後、オカモトさんが機材車にシンバルを忘れ、詰む
初日 泊まるはずの宿には何故か先客がいた
宿の番犬 レミーくんと私 巴里にて
憧れのロンドンにてはしゃぐ我々 この後まさかあんな事が起こるなんて誰が予想出来たろうか?
アントワープのカフェイでポジパンについて語らう異邦人たち
オランダはグロニンゲンの図書館にて調子に乗る私
ライプツィヒの廃墟にて ドイツのネッ友とオフ会の図
チェコでは王族のような歓待を受けた
本ツアー最強の対バン TRIPISONDAの皆さんと我々 ミュンヘンにて
「お前らの為にケーキを作った!食え!」サンテティエンヌではプロモーターのエゴが炸裂した
バルセロナの写真は一枚��撮っていないので、代わりにライアンの可愛い写真を見てください
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初日舞台挨拶レポート
昨年9月に行われた第80回ベネチア国際映画祭で初上映されて以来、世界各国の映画祭、劇場での上映が行われてきた本作。この日は待望の日本公開初日ということで、初日舞台あいさつの会場となったBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下は超満員。そして映画上映後、スクリーンで繰り広げられる圧倒的な物語の余波に浸っていた様子の観客の間からは自然と拍手がわき起こった���
そんな熱気あふれる会場内にやってきた大美賀は緊張の面持ちで、「今日までものすごく緊張していたんですけど、(映画上映直後に)皆さまが手をたたいてくださっていたのを聞いて。良かったなと思っております」と安どの表情。濱口監督も「完成してから9カ月くらいですが、ようやく日本で公開できまして。本当にうれしく思っております。今日はよろしくお願いします」と感激した様子を見せた。
本作主演の大美賀は、もともと濱口監督の『偶然と想像』にスタッフとして参加しており、イベントではその時のメイキング写真が紹介されるひと幕も。だがその後、自分が映画の出演者となり、ベネチア国際映画祭のレッドカーペットを歩き、そして日本での映画初日を迎える。その当時からすると予想もつかなかった人生に「これを超えるハイライトが今後、自分に訪れるのかどうか」と笑顔を見せた大美賀。
濱口監督も「フランスでは2週間早く公開されることになったので、わたしもパリに行ってお客さまと一緒に映画を観たんですけど、結局この人(大美賀)はずぶといなと思ったんですよね。今日も戦隊もので言ったらレッドの位置、どセンターに立っているわけですが(笑)」と冗談めかして会場を笑わせつつも、「究極そういうのができちゃう人だというのは、頼む前は知りませんでした。でもこの映画をつくる前、脚本を書く前にロケ場所などのリサーチをしていたんですが、そ��時はドライバーとして入ってもらっていました。しかしカメラの前に彼に立ってもらったりしているうちに『あれ、いいかも』という気持ちになって、ここまで来たので。見る目があったなと思っております」と自負してみせた。さらに、フランス、ドイツ、イタリア、韓国、香港で公開中の本作(今後もアフリカを除くほぼ全ての地域で公開予定)が、フランスでは1週間で7万人の観客が訪れたことも明かされ、会場からは驚きの声が上がった。
グランピング場建設計画の説明会のシーンの話になると、「あのシーンは本当に緊張しました。2日間かけて撮ったわけですが、最初の方は本当に頭が真っ白になりましたね」と振り返った大美賀。『偶然と想像』にはエキストラ的な感じで少しだけ出演したことはあったものの、本格的な芝居をしたのは初ということで「これ以上ない景色を見ています」と語る大美賀に対して、会場からは大きな拍手が鳴り響くなど、俳優・大美賀均が観客に受け入れられている様子がうかがえた。
そしてこの日はもうひとり。小坂も、もともとは濱口監督の『ドライブ・マイ・カー』に車両部として参加していたスタッフ出身の俳優であった。濱口監督が「彼はもともと俳優なんですが、その時は車両部として入っていて。その時に『僕もチェーホフが好きなんです』と言われて。トラックを運転している人からチェーホフが好きと言われたんで、ギャップ萌えをしてしまいました」と笑いながら語ると、その言葉に補足するように小坂が「あの映画では、車両部と監督だったので、なかなか話せる機会がなかったんですけど、最後に話���機会があって。僕も(同作に重要なモチーフとして登場する)『ワーニャ伯父さん』が大好きで、(『ドライブ・マイ・カー』の)台本に感動したので。そのことを伝えたのがはじめて会話をした時でした」と振り返った。
それゆえ本作で濱口監督の演出を受けることとなり「しあわせでしたね」と笑顔を見せた小坂。「それこそ『ドライブ・マイ・カー』の時に、こういうところでお芝居をしたいなと感じていたので。濱口監督は、お芝居をする、という環境づくりにこだわってる方なので、そういう場所でやってみたいなと思っていたんですが、僕もそれが急に実現したので。それが幸せでしたね」としみじみ付け加えた。
主人公・巧の娘、花を演じた西川も本作で忘れられない印象を残すが、彼女はオーディションで選ばれたという。「短い台本にちょっとアドリブを入れてやったりとか。そんなに難しいことは言われなかった」と振り返った西川。濱口監督も「実のところ大美賀さんと一緒にしゃべってもらうというところがメインだったんですけど、西川さんはいい感じで距離があったというか。他の子でも、大美賀さんと本当に親子のように話せる子もいたんですが、西川さんは大人として喋っているような感じがあって。それが良かった」と大美賀との相性が決め手だったことを明かす。大美賀との芝居も「家で自分のお父さんと話すみたいに緊張せずに、普段通りに話しました」という西川に対して、「すばらしいと思います。普段、お父さんと話すようにできないと思うんですが。助けられました。ありがとうございます」と頭を下げる大美賀。そんなほのぼのとしたやりとりに会場も笑いに包まれた。
一方、2015年の映画『ハッピーアワー』に出演していた渋谷。本作は久々の濱口組となったが、「わたしも濱口さんも大きくは変わっていない気がしましたが、ふたりともちょっとずつは大人になっているかなと思いました」と笑うと、「実際に撮影が始まって本読みに入っていくと、『ハッピーアワー』の時にみんなとやっていたことが、さらにどんどんブラッシュアップされていて。また一緒にできてうれしかったです」と感慨深い様子。濱口監督も「『ハッピーアワー』の時がはじめてだったと思うんですが、その後も彼女の舞台を観に行ったりもしていて。渋谷さんは『ハッピーアワー』の頃もいいと思っていたんですけど、その良さを失わないまま、俳優として成長しているものがあった。だから今回、この役は渋谷さんでいけるかも、というインスピレーションがあった時にお願いしたら受けてくれたので。一緒に仕事ができて良かったです」と晴れやかな顔をみせた。
本作が生まれたきっかけとなったのは音楽家・石橋英子から濱口監督への映像制作のオファーだった。そこからふたりは試行錯誤のやり取りを重ね、「従来の制作手法でまずはひとつの映画を完成させ、そこから依頼されたライブパフォーマンス用映像を生み出す」ことから生まれたのが石橋のライブ用サイレント映像『GIFT』と、本作『悪は存在しない』である。残念ながらこの日は石橋は不在だったが、石橋からは手紙が寄せられ、その手紙を渋谷が代読することになった。
「ちょうど昨年の今ごろ、この映画のために音楽をつくりはじめました。それが昨日のことのような、まるで遠い過去のことのような。時間の感覚が分からなくなるくらい、この作品はわたしの人生にとって大切に作品になりました。わたしがライブのための映像を濱口さんに依頼したのが発端ではありますが、心の大きな濱口さんやプロデューサー、参加してくださったスタッフの皆さま、キャストの皆さま、お一人お一人のこれまでの人生、すばらしいお仕事によって、このようなすばらしい作品になったと思いますし、そのことを心からうれしく思います。感謝の気持ちでいっぱいです」と感謝の思いがしたためられたその手紙は、さらに「そのような大事な映画の、大事な初日に伺えないことは本当に残念で、悲しくて、悔しいです。本当はこの映画の舞台あいさつの後に、夜中の便でイタリアの映画祭に『GIFT』の上映のために向かうつもりでしたが、25日と26日では、飛行機代がありえないくらいの差があり、ゴールデンウィークを本当に恨む次第でございます。いいことばかりでもつまらないと自分を言い聞かせながら、今はイタリアに到着したばかりのボンヤリとした頭で、迎えの車を待っているのでしょう。ただただゆったりと映像と一緒に身を委ねて、楽しんでいただけたらと思っております。自分が関わっていても、本当に何回観ても飽きない作品だと思います。末永くよろしくお願いします」とつづられていた。
そんな大盛り上がりの舞台あいさつもいよいよフィナーレ。最後に濱口監督が「初日に来ていただいてありがとうございます。皆さまがどう思われたか分かりませんが、皆さまの感想をどこかで目にすることができたら、それがどのようなものでも本当にうれしく思います」と呼びかけると、「フランスでこの映画を観ていた時に、この映画を支えているのは映ってる人たちだなと。本当にすごいなと思いながら観ていました。それは撮影現場でもそう思っていたんですが、ひとりひとりが存在として輝いている。わたし自身そういう印象を持ち、感動したので、ぜひ多くの観客に観ていただきたいなと思います。ひとりひとりのありようとか、仕事を観ていだけいたらと思います。この映画、末永く、よろしくお願いします」と会場に呼びかけると、観客からは万雷の拍手が鳴り響いた。
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久しぶりのテキサス。11年振り。まだPjが修士を取り終えたばかりで、PimmyがAustinに住んでいた時に、Austinに行ったのが最後。今回は、Austinより少し南のSan AntonioでAARの年次会議があるので参加。仲間で出す本の会議や、来夏ローマの世界哲学会議の準備会合、自分の発表、研究者仲間内の夕食会などは全て月曜日に上手くスケジュール調整できてしまったので、金曜日から土日は遊ぶ。Dallasから飛んできたPimmyと空港で集合して、早速、テキサスといえばBBQ。巨大ベビーバックリブを食す。
SanAntonioはメキシコとの領土争いの時に、Rooseveltが拠点とした場所。今回宿泊したMengerホテル内には、Rooseveltがメキシコからの独立のために中心的に戦った12名のカウボーイを集めた酒場、Menger Barがある。彼らが戦闘拠点としたAlamoという場所は、元々はスペインからのミッションが立てた修道院。そこに立てこもってアメリカ人が戦ったので、テキサスがアメリカの一部になっている。Texas prideの中心地でもある。
Mengerでは4泊するので、角部屋のAlamoが見える良い部屋をあてがってくれた。土曜日は朝、ダラダラしながらUNESCO遺産になっているカトリック修道院の午後からの半日ツアーに申し込む。BrunchをTexmexで有名なレストランへ歩いて行く。San AntonioはRiverwalkといって川沿いの道が整備されており、川に沿って街が形成されようとしている。ここ二十年位でwalkable cityへ改造していっている。世界遺産は、スペインのミショナリーが建てた教会や共同生活場所。フランシスコ会や、ベネディクト会が主に来ていたらしく、イエズス会の強欲的ながめつさから思うと、フランシスコ会やベネディクト会は少し性格が異なる。アメリカンインディアン達を教化していくと同時に、機織り、鋳造などの技術も伝授したらしい。見物の後はJazzバーへ。満席といって断られたので、適当に夕食を取っていると、受付のボーイがわざわざ探し��来てくれた。ノーショーだから、席を半額で売りたいという。店にしたら二重の商売だが、有り難く、半額なだけにショーの半分だけを聞く。やっぱり、アメリカのJazzは良い。身体に音楽が染み込んでいるのが良く分かる。でも、この日は良く歩いて、Pimmyによると27000歩も歩いたらしい。
日曜は、またダラダラして、Pimmyが行きたかった有名なパン屋カフェに行く。注文が届くのが遅いと文句を言ったら、注文していなかった私の分のホットチョコレートもサービスでくれた。お昼過ぎにはPimmyを見送り、学会発表準備の結論部分を練る暇もなく、Yale時代の教え子、WayneがAustinから車をぶっ飛ばして2時間もかけて会いに来てくれる。
Wayneはずば抜けて優秀だった。お母さんが大好きな甘えん坊の次男坊。お兄ちゃんと一緒に日本を訪ねてくれた時は、二人を山梨ドライブへ連れ出した。暫くお互いに忙しく、全然連絡を取っていなかったのだが、NYにいる時に、そういえば、WayneってAustinにまだ住んでいるの?とダメモトで聞いてみたら、なに~!!!って感じで会いに来てくれた。金土日は、彼女の誕生日で小旅行中だったのに、彼女をAustinの家に連れて帰ってから、わざわざ来てくれた。ありがたい。
Wayneは、この4年ほどFacebookで働いていたらしいが、12月からはAI関係会社で決算状況をAI判断させるサービスを提供するらしい。Facebookでも、決算関係プログラムを統括していたらしい。コロナ禍で相次いでお父さま、お母さまを心筋梗塞で亡くされたらしい。もう2年前だよマキ。。。ようやく、立ち直ってきたとこなんだよ。。。と。そんなWayneを見ながら、私の方が大泣きする。毎週のようにお母さんやお兄ちゃん、お父さんの話をしては嬉しそうにしていたWayne。無邪気さが無くなり、急に大人っぽくなったと思ったら、苦労していたんだ。お兄ちゃんがいて良かった。。。と。そして、ボストン出身の彼女はお父さんが脳腫瘍宣告を受けて3ヶ月で亡くなるなど、若いカップルは、私の知らない間に、大変なコロナ時代を過ごしていたらしい。人に会わなくて良かったから、本当に助かったねと、段々、昔の無邪気な笑顔に戻る。
今度はいつ会えるのだろう。お兄ちゃんの側に住みたいからと、お兄ちゃんが家を買ったGeorgia、Atlantaに引っ越すらしい。それと同時に転職。彼女は、もうずっとオンラインでの仕事なので、どこに住んでも同じ。彼女ができた時は嬉しく、私にまで報告してくれたっけ。僕は未来に希望を抱いていたいんだよ、マキ。と微笑む。心優しいWayneは、昔のWayneのまま。そして、人生は色々あるね。疲れる。。。と溜息をつく。
Wayneだけでなく、今回はTianyuやYui、Tucker先生と、ほぼ10年程度会っていなかった友人達と再会できた。彼らは、まるで昨日までと変わらない。普通に、つい昨日も会っていたような感覚なのだ。人生の生き方やスタンスが変わらない。結婚やら何やらで人格が変わるように感じる人間は、やっぱり、元々が底浅い人なのかなぁなどと思う。本質は、変わらないでいてほしいが、それが変わったように感じさせる時点で、人間として底浅いっていうことなんだろうな。主体的に人生を生きていないで、周りに流されるバカの証拠でもあるが。。。それに気付かない、気付けないのだとしたら、家族といえど、もうアホすぎて付き合いきれんやろ。。。とも改めて思った。
世界中散らばっている若い友人達。私はなんて幸せ者だろう。Wayneは別れ際に、マキは何も変わっていない。マキはマキのまま。安心した。というかホッとした。Yaleを思い出した。と、ボソボソ恥ずかしそうに言っていた。ちゃんと言語化できているだけ偉い。やっぱり、Wayneはお母さんに可愛がってもらっただけに、性格が可愛いのだ。私はWayneのお姉さんを自負していたが、また、思い出した。お姉さんを自負している分、彼らみたいな良い人間達の精神的拠り所になり続けて上げられるようにと。
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2023/08/20
きょうが最終日の上野のマティス展、チケットを取りそびれて、会場も激混みで当日券も恵まれないだろうから、同じくきょうが最終日のアーティゾン美術館の抽象画展に行くことにした。が、来館する時間を指定しないといけなく、当初11:30までに行くつもりで予約したが、身体が重く身支度が捗らず、自宅のトイレの中で13:30までの予約に変更。電車を乗り継いで最寄りの東京駅へ。珍しく中央線で座れた。到着してお手洗いに行きたかったが、見当たらずそのままアーティゾンに入館。最初は同時代作品ごとの微細なタッチの違いに感動したが、そのあとはキャンバスに1色だけ塗っただけみたいなものが続き、まぁ面白いんだけど、これってどうやってして評価を受けるまでに至ったんやと考え出してしまってなんか疲れた。けど、楽しかった。模写禁止で撮影OKだったこともあり、スマホのカメラでパシャパシャしてる人が多くて、熱心やなと思いつつも気が散った。人が多くて疲れた。カタログも完売してたし、関連書籍の販売とかもなくて、結局ショップでなにも買わずに帰宅。早歩きで駅へ。日傘が裏返る。ビル風か。
新宿に戻り、紀伊國屋に行く。村上春樹ってそういえば、ドライブ・マイ・カーが入ってた短編集くらいしか読んだことなくて、この際読んでみようかなとふと思い立って、『風の歌を聴け』をひとまず買うことに。あと、パラパラめくって読めそうだった、川上未映子との対談本?も買った。そのあと、店内に町田康の特集コーナーがあり、文庫がずらっと並べられてたので、『くっすん大黒』を。最後に、今年は詩をよんでみようと思って、まずは田村隆一『腐敗性物質』にしてみた。文庫本4冊でざっと3000円はこえるなと思うといやになった。なんで紙切れで紙の束を買わなあかんねん。わけわからんなほんとに。もっと人と関わることにお金を使えばいいのに一人で楽しみこもることを促すような使い方。インスタ開くと中高の同級生が恋人とデートなり、地元のツレと草野球なりして週末を過ごしてるっつうのに、じぶんはこんなことしてる。レジの付近を右往左往しながらも、でも、手に取った4冊を買わないと思うことはなかった。買うのだろうけど、買ってしまうまえにそうしたかったのだと思う。あれやこれや言うよゆうが必要。帰る。満員電車。帰宅してすぐに米を炊いて、キーマカレーを作る。トマトを刻んで入れた。トマト分の水気を計算してなくて、シャビシャビ感はあったものの味は文句無し。これはひとに振る舞いたい。
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【LUIRE】2002.7
最近のdoubleを知るための40の質問
1 「Driving All Night」のコンセプト ▷ 夜のドライブ。真夜中に東京の高速道路を1人で走ってるイメージ。
2 どんなときにドライブしたい? ▷ 息が詰まりそうなときかな。風に当たったりして、開放感に身を委ねる。
3 乗ってみたい車 ▷ スタイリッシュなオープンカー。ボディカラ は、深みのあるメタリック系がいい。
4 ドライブのときに聴きたいCD ▷ 西海岸のヒップホップ。
5 どんな男性の車に乗りたい? ▷ 女性に「キレイだね」って言えちゃう人。だけど、アンパンマンみたいに優しい人。見た目は、 超カッコ良い人(笑)。
6 どんな車の助手席に乗りたい? ▷ 車は何でもいいかな。
7 カップリング 「You Got to」 について ▷ワタライさんのヒップホップトラックがすごくアグレッシブな感じ。
8 GTS feat.double 【I Miss You】 ▷ジャンルは違うけど、音楽ってところで理解し合ってる感覚だったから面白かった。
9 リミックスアルバム 「Gee (GTS)Presents double Greatest Remix] ▷ 新鮮。 中でも 「Uh Huh」 のリミックスがびっくりした。
10 作詞作曲 ▷ 曲を作る段階で、書き始める。詞とメロディが同時に浮かんでくることが多い。
11 プロデュース ▷ 自分がいちファンだったらこう見えてくれるとうれしいなっていうことを、反映させているかな。
12 今井了介 ▷ 一緒にやり始めてから長いので、コミュニケションも取りやすくて、楽しいレコーデイングをさせてくれる。
13 DJ WATARAI ▷ サウンドとは対照的で、とても穏やかな感じの人。
14 S-WORD について ▷ とてもカッコ良いラップを入れてもらって、光栄です。
15 最近ハマってるCD ▷ モンテル・ジョーダンの 「Montell Jordan」
16 気になるアーティスト ▷ アリシア・キーズ。 この前ライブを見たんだけど、彼女があそこまでワルだと��思わなかった。すごくヒップホップでストリー トなライブだった。あとはアシャンティ
17 最近、感動したライブ ▷ アリシアとメアリー・ブライジ。メアリーは、想像以上にスゴかった。
18 最近感動したPV ▷ ジョージ・マイケルの「Freak」。
19 2001年のベストディスクは? ▷ アッシャー 「8701」。
20 ヒップホップ/R&B以外でのフェイバリットミュージック。 ▷ 特にないかな。
21よく行くCDショップ ▷ 決まってないけど、渋谷のHMVが多い。
22 よくチェックしてる雑誌 ▷ あんまりないけど、 「LUIRE」 (笑)。私、ラジオとかでも言ってるんですよ。あとは「Black Hair」 とかの洋雑誌。
23 最近読んだ本 ▷ 収納のかな。 それにマンガ。「稲中卓球部」とかのギャグマンガが好き。
24 最近観た映画 ▷ DVDだけど、「ニュー・シネマ・パラダイス」の完全版。
25 好きなブランド ▷ ガルシア、マルケス。ディオール、シャネルも好き。
26 アーティスト、double のファッション ▷ 人に見られるってことを、ちゃんと考える。それに、普段できないような格好をするのがいいかな。
27 プライベート double のファッション ▷ プライベートでは他人にどう思われようと、 着たいものを気分で着るかな。
28 どこでショッピングを? ▷ 青山、代官山が多い。
29 チャレンジしてみたいファッション ▷ 露出系。向こうのアーティストと比べれば、まだまだだからね。
30 最近買った化粧品 ▷ シャネル。 色ものやキラキラ系のチーク。
31 好きな香水 ▷ シャネル。
32 美容の秘訣 ▷ 逆立ち!
33 ストレス発散法 ▷ ゲーム(プレステ2)。特にハマってるのは「バーチャファイター4」。
34 大好物 ▷ 和食。 幼いころは、ハンバーグと海老フライが大好きだったのに。
35 好きな酒 ▷ ディタ・グレープ。
36 好きなドリンク ▷ まろ茶。
37 今、一番やりたいこと ▷ 海外旅行。パリ、イタリアに行きたい。 好きな家具もイタリア製が多いので、いろいろと見たい。
38 今一番欲しいもの ▷ 持ち家。 ロケーションも良くて、天井も高くて、すごく広い 100平米くらいの家。家族で住みたい。 それに犬を買いたいなあ。 チワワをね。
39 結婚願望は? ▷ したくないんだけど、したい。 平凡な家庭を築きたい。
40 最後に、次作はどんなアルバムになりそう? ▷ バラエティに富んだアルバムになると思いますね。
#LUIRE#200207#DOUBLE#ダブル#Double_Japan#DoubleSACHIKO#SACHIKO#サチコ#DoubleTAKAKO#TAKAKO#タカコ#SuperSister#J_RandB#JRnB#RandB#QUEENofRandB#WeRandB#y2k#2000s#00s#雑誌#2002
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モンゴル遠征2023
1年ぶりの投稿になります、5年の石原です。 夏休みということで田舎のおばあちゃん宅に来ていますがのんびり過ごせると思ったらなんのその、やれ倉庫の解体に墓掃除と体力仕事を任されぐっすりと眠れる日々が続いています。
今回は4年ぶりとなる海外活動について報告します。 お話ししたいことが沢山あって何を書くべきか混乱していますが特に印象に残っていることを厳選します。
今回の目的は海外登山。 モンゴルは東南アジアの国々とは違いヒルがおらず(以前のボルネオ島遠征で寝袋にヒルが侵入し血だらけになったという話を聞いていた)、大抵の山が登れば日本人初登頂という話を聞いて決めました。ありがたいことに小林、近藤、廣瀬、田宮、岡本と5人の後輩たちが志願してくれました。私を含め男子2人女子4人。上智らしい男女比で企画がスタートしました。
9/3 3隊に分かれて成田を出発しました。全員が無事に合流できるのか内心ひやひや。
初飛行機・発海外の田宮。荷物にナイフを隠し持ちしっかりと検査官に見つかっていました。
乗り換えの待ち時間が20時間近くあったため、韓国で出国し明洞の街でサムギョプサルを食べました。お店のお母さん、プルコギって言い張ってたけどあれやっぱり注文ミスだよな、、、
9/4 1時間近く遅延が発生し韓国・仁川空港から飛行機に乗ること約4時間。モンゴルの首都ウランバートルに到着しました。街では排気ガスをまき散らしながら大量の自動車が渋滞が起こしていました。信号も秩序もない道路を慣れた手つきで運転しているのかと思いきや現地人もまあまあな頻度で接触事故を起こしているようでした。
大通りはそれなりに整備されていますが裏道��入った途端未舗装の道路と怪しげな雰囲気が漂います。
今回の活動では日本で予めアポを取っていたモンゴル人ドライバー、セーギーに車を運転してもらい目的地の山を目指しました。英語は全く通じませんがドライブ技術はピカイチで、道路もネットもない地の果てで山脈と長年の勘を頼りにおおよその方角を導き出していました。
目指す山は首都から約600㎞離れたIkh Bogd。標高は3957mで山の南側から2600m地点のベースキャンプまで車で向かいます。翌日アタックザック���ピストン。山頂はとても広く平らになっていて僅かに残雪があり後半は急峻な岩山のように見えました。
下の写真正面に見えているのがIkh Bogd。もう少し近づくとなかなかにかっこいい山でした。
しかし、思い通りにはいかないのが海外というやつですね。なんとこの山、東西に400㎞以上に渡り裾野が広がっていることが判明しました。(確かに写真にも収まっていない…)北側から南側に抜けるのに2日かかると分かり、当初の予定を変更し北側からアタックするという苦渋の決断に至りました。南側からのアクセスでは頂上まで1300mの高低差でしたが北側からだと2000mを一日でのピストンしなければなりません。北側からの登山を想定していなかったため地図はなく、スマホは圏外。登頂の可否以前に登山自体に不安を感じました。Ikh Bogdを選択した時点である意味敗北だったのではないか…切ない考えがよぎりました。
その後、思いがけず麓の別荘ゲルに遊びに来ていた子供たちと仲良くなり鬼ごっこに熱中したことで悲しい感情は吹っ飛びました。
この後とんでもない裏切りが待っているんですけどね
翌朝4時起床で山頂まで半分弱の所にあるgreen lakeとBlue lakeを目指すことにしました。湖には古代生物のようなビラビラのひれをしたエビみたいなやつが泳いでいたり崖をヤギの群れがめえめえ鳴きながら渡り歩いていて可愛かったです。見慣れない地形や植物が散見され海外登山の醍醐味を味わうこ���が出来ました。出発前から楽しみにしていたモンゴルハムスターも遠目に見ることができました。
湖から先も時間が許す限り進もうとしましたが、いくら探してもその先の道を見つけることができませんでした。当時は悔しくて南側北側…と夢に出るほどでしたが、今となってはそもそも北側から登頂する人間なんていないのだろうと開き直っています。砂とガレ場の急斜面で人が通った形跡なんてなかったんですもん。
飲めると書いてあった沢 ヤギと共有だったけど気持ちよかったあ
登山の後はメンバーたちがモンゴルでやりたいことを実行しました。
美しい草原
放し飼いされた馬が草をむさぼっていました。近くまで来ても絶対に触らせてくれないんですよねえ…
憧れのゲル
宿泊した時うっすらと雨が降っていましたがしみこむ気配もなく、想像以上に快適で安心感のある居住空間でした。
ゴビ砂漠
夜には延々と続く草原の上に信じられないほど綺麗な星空が広がっていました。言葉にするとありきたりな表現にしかならないことが残念です。
電気が走るシャワー、モンゴルウオッカを飲み干すゆうか、鍵を投げる田宮、、、思い出があふれてきますが長くなってしまうのでこの辺にしておこうと思います。
モンゴル遠征悔しさ半分、達成感半分というところでしょうか。
後輩たちにいつかリベンジしてほしいです。
5人に沢山助けられました。ありがとう。
色々トラブルあったけどモンゴルめちゃくちゃ楽しかったわ!
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VSEか…
まあ個人的にいろいろ思うところはあるけど、できるだけ前向きな書き方をしよう。以下はあらかじめ吐き出しておく毒
電車の本質は軽量化なんですよ。軽量化は列車性能の向上にとても効果的だし、軽量化を極めれば浮いた分をほかの性能に廻すことができる。だから軽量化を怠ってはいけないんです
ロマンスカー・VSE(50000形)はこれまでの11両連接から長さそのままで10両連接にした。本来そんなことすると軸重が重くなるので「よほどのことがない限り」11両連接で行くべきなんですよ
それをロマンスカー・VSE(50000形)では10両連接にした。なぜだ
「10両にすれば左右対称になって美しいから」
馬鹿じゃねーの? ホントこの一点で駿馬が駄馬になったといっても過言じゃないんだけど、増えた軸重はどうにかして軽量化で何とかするしかない。車体をアルミにするのはいい方法だ。これで鋼体質量が3割くらい軽くなる。窓を小さくするのはどうだ。剛性を確保できるからさらなる軽量化が期待できるから考慮すべきデザインだ。何よりも剛性が小さなアルミボディなら衝突時の変形を考慮してある程度ののりしろを確保しておくのが鉄道事業者としての誠意だろう
しかしロマンスカー・VSEは「幅4mの窓」を採用した
呆れてものが言えない。安全よりも展望が大事か? 正面からぶつかったらやわなアルミボディでは開口部からグシャっと行くぞ?
そうでなくてもこんなバカでかい開口部をつくったらやわなアルミボディでどうやって剛性を稼ぐんだ。しかも軽量化のためにVSEの展望席はアルミ���シングルスキン構造だ。きしむボディに防音の難しいシングルスキン。カーブのたびにたわむボディ。これでフラッグシップトレインをつくれと言われた日本車両製造の心境やいかばかりか。日車はキレていい
とはいえそこはさすが日車というか、この無理難題をちゃんとまとめてきた。N700Sなんかでも使われているアルミ削り出しの技法でムクのフレームを作って剛性を確保。連接車の構造上ストレスが最もかかるのは車端部なので、ここを強くすればあとは中央に梁を一本入れておけば「なんとかなる」。当初デザイナーは「8m幅の1枚窓」を要求したそうだが、これを蹴っ飛ばした日車の見識は素晴らしい
車体に関しては日車の技術力以外褒めるところが何一つないんだけど、足回りは小田急の意地が感じられる一級品で俺大好きなんよ。何といってもMB-5110モータをギアリング4.16で回す。もう最高にしびれるじゃないですか。「小田急は速くなくてはいけない」というロマンスカー・SE(3000形)からの信念がビンビン伝わってくるじゃないですか
もちろんこんな浅いギアリングだといかにトルクのある三菱モータでも出足がきつくなる。そこで11台車中8台車にモータを吊っちゃうあたり小田急のファナティックさが伝わってくるというものです。こんだけモータがあればコントは1C4M×4基で問題ない
それにしても、だ。こんだけモータを吊ってさらに駆動方式はWNドライブ。特急車としての静粛性はどうなんだと思ってしまうんだけど、ここでギアリング4.16が生きてくる。これだけギアリングが浅ければモータはそんな高回転で回らない。モータの騒音は回転数に比例するから多数のモータを低回転で回せば問題ないだろというこの深い見識にしびれなければいけない
WNドライブも現代では相応に進化していて、バックラッシの適正な管理でかなり騒音を抑え込めているからまあ、小田急的には自信があったんだろうね。それにシングルスキンで騒音のウイークポイントとなりそうな先頭部の台車にはモータを吊ってないし連接車なら台車は客室にかからないからこれも問題ない。しかもロマンスカー・VSE(50000形)は車体傾斜装置の関係で連結面が800mmも空いてるから騒音源から客室がさらに遠くなる。素晴らしいデザインだ
いやー、ほんと「ただただ早く走るためのセッティング」。さすが小田急と言わざるを得ない。こんなファナティックなセッティング決めてるのと言ったら、ほかには東武100系スペーシアくらいじゃないかな
それゆえに思うんですよ
ロマンスカー・VSE(50000形)が、これまで通り11連接だったらどんなに速く、静かで、エレガントだったんだろうなと。小田急はね、ロマンスカー・LSE(7000形)でt1.6の鋼板をボディに使うような、走りに命かけてる会社なんですよ。関東民鉄で小田急ほど「スピード命」のセッティングを組んでる会社は皆無と言っていい。車両の軽量化と足回りのセッティングに命かけてる会社なんですよ。ロマンスカー・GSE(70000形)のT台車ってM台車より車輪径が50mm小さいんですよ? 今時こんなことやる会社小田急以外にありますか?
だから、ちゃんと剛性を保った適正な大きさの窓を配置した、アルミダブルスキンの12.5m連接車……乗ってみたかったなあ。きっとレールの上をすべるように、タンタンタンと連接車独特の小気味よいリズムを奏でながら複々線を走り抜けたんだろうな
返す返すも、残念だ
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強い台風の影響で激しい雨に見舞われた8月29日。浜松市のマンション一室は静寂に包まれていた。 時刻は午後2時半過ぎ。窓際のイスには、袴田巌(88)が深く腰掛け、目を閉じてくつろいでいる。半年前から飼い始めた保護猫「ルビー」が、棚の上から巌の目の前のテーブルに飛び移った。 「ひどい雨ですね」。問いかけに、無表情の巌は「ああ」と短く答える。午後3時が近づくと、同居する姉・ひで子(91)にヒゲをそってもらい、いつも通り支援者が運転する車に乗ってドライブに出掛けた。普段と変わらない日課。「雨でも巌には関係ないから」。ひで子がつぶやく。 拘禁症――。1966年に強盗殺人容疑などで逮捕された巌は、無実を訴えながら死刑判決を受けた。2014年に釈放されるまで半世紀近く身体を拘束され、心を病み、今も意思疎通が難しい。 釈放から10年。穏やかな暮らしの中でも「異変」は随所に見られる。「猫もお金が必要だから」と言って飼い猫に千円札を渡したり、新聞を手に取って「死」という文字をじっと見つめたりすることもあった。 巌の心がむしばまれていった様子は、ひで子が自宅で保管する7000枚超の手紙から見てとれる。逮捕直後から巌が母やひで子らに宛てて、獄中から書いたものだ。 <神さま。僕は犯人ではありません>(1967年2月頃) <私も冤罪(えんざい)ながら死刑囚><私がなんの罪を犯したというのだ>(73年11月) 1960~70年代は無実を訴える言葉が丁寧にしたためられていた。 だが、80年に死刑が確定してから変化が見られるようになる。 <悪魔は電波攻撃により(私を)傷つけようとした。しかし、私はそれらを全てブロックして笑い飛ばしたのである>(87年10月) 意味のわからない文章も書かれ、字体も崩れていった。そして95年を最後に、巌からの手紙は途絶えた。 私は無実 叫んだ手紙 袴田巌さんからの手紙を手に取る姉のひで子さん(8月29日、静岡県浜松市で)=高橋美帆撮影 〈今朝方母さんの夢を見ました 元気でした 夢のように元気でおられたら私はうれしいが お母さん 遠からず真実を立証して帰りますからね〉 袴田巌(88)の姉・ひで子(91)が今年5月、本人に代わって再審公判の最終意見陳述で読み上げたのは、弟が拘置所からの手紙にしたためた母・ともへの思いだった。 この手紙が書かれたのは、逮捕から3年が過ぎた1969年10月。ともはその1年ほど前に亡くなっていたが、巌にそれを伝えることはできなかった。ひで子は「母親と一生懸命文通していた。そんな巌に知らせるのは、さすがにかわいそうだった」と振り返る。 6人きょうだいの末っ子だった巌。家族には、方言で末っ子を意味する「おとんぼ」とも呼ばれた。母は巌を特別にかわいがった。 〈お母さんお元気ですか〉〈お母さんも苦がたえ無いですね〉〈あまり無理をしない様に〉 逮捕から数年間、巌の手紙は母宛てのものがほとんどだった。母の証人出廷が決まると、〈事件となんの関係もないのだから、自信を持って来て下さい〉と安心させようとした。 無実を信じたともは病で寝たきりになっても、息子が戻ってくると期待して「巌はダメかいね」と問いかけ続けた。その姿を見るのは、ひで子にとってもつらかったという。ともが息を引き取ったのは68年11月。静岡地裁による死刑判決の約2か月後だった。 巌が母の姿を夢に見たことを手紙で知ったきょうだいは「もう黙ってはいられない」と、返信で死を伝えた。巌はのちの手紙でこう振り返っている。 〈人生で最も悲しい時が迫るのを感じ体中一気に凍るような衝撃〉〈この事実が何かの間違いであることを神に祈った〉 死刑判決は80年に最高裁で確定した。ひで子の手元には、80年代のものを中心に巌が獄中でほぼ毎日書いた7000枚超の便箋がある。拘置所で面会した際に「何でもいいから書いて」と伝えたからだ。「巌が元気でいるという証しが欲しかった」と、ひで子は言う。 内容は事件のことにとどまらなかった。拘置所での日常、死刑確定後に入信したキリスト教への信仰、自身が打ち込んだボクシングの選手たちへのメッセージ。便箋いっぱいにつづられていた。 80年代は死刑事件で再審となった4人の死刑囚が相次ぎ無罪となった時期でもあった。面会した弁護士らから話を聞いた巌は〈今度は私の番だ〉と期待を抱いた。だが、その日はなかなか訪れない。 〈豊かな正しさと希望の夜明けは見えています。それなのに何故か脈打ち踊る確かな喜びと豊かな希望の光が迫ってこない〉 焦りが精神を病ませたのか、文面には徐々に意味のわからない言葉が増えていった。電波が攻撃してくる、悪魔がいる……。91年には手紙が途切れがちになる。「へのへのもへじでもいいから書いて」と伝えた姉の願いは届かず、差し入れを求めるはがきも95年に途絶えた。 巌は長い身柄拘束で拘禁症を患い、ひで子や支援者に支えられている。2014年3月、地裁の再審開始決定とともに釈放されたが、心神喪失状態と判断され、昨年10月からの再審公判に出廷することはなかった。26日の判決内容は、浜松市内の自宅でひで子から直接伝えられる予定だ。 巌は1967年の手紙にこう書いた。 〈神さま。僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます。此処(ここ)静岡の風に乗って、世間の人々の耳に届くことを、ただひたすらに祈って僕は叫ぶ。お母さん〉 半世紀以上にわたる、心の叫びだ。 静岡県一家4人殺害事件で、強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌被告。26日に静岡地裁で言い渡される再審判決では無罪となる公算が大きい。袴田さんの人生を翻弄してきた事件と裁判を改めて振り返る。(敬称、呼称略。手紙は原文を一部補って掲載しています) ◆静岡県一家4人殺害事件=1966年6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)のみそ製造会社の専務宅が全焼し、専務(当時41歳)と妻(同39歳)、次女(同17歳)と長男(同14歳)の他殺体が見つかった。袴田さんは80年に死刑が確定したが、2014年に再審開始決定が出て釈放された。再審開始は昨年3月に確定した。
獄中から無実を叫んだ手紙「遠からず帰ります」…願いは母に届かず、拘束半世紀で壊れた心(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース
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日曜日午後2時、電波越しの達郎
山下達郎がずっと嫌いで、好きだった。山下達郎(以下、達郎)は両親が好きな歌手で、わたしの理解では、あまり好みがオーバーラップしない両親ふたりにとっては珍しく共通の趣味のひとつとして楽しめるのが達郎の歌だった。それでも片方が好きで片方が嫌いな歌も存在するので、家族でのドライブのときにかけられるナンバーはかなり限られる。ゆえにわたしは「達郎のいろいろな曲を知っている」というよりは、「いくつかの限られた曲を聴き込んでいる」という嗜み方だ。でもそうしたわけで、幼い頃から達郎の歌声には親しんでいた、もうそれは否応なく。
嫌いだった理由はふたつある。ひとつに、その継ぎ目のないシームレスな声が、幼いわたしにはサイレンを彷彿とさせて怖かったのだ。そもそも町の防災サイレンが苦手な子どもで、火災予防週間になると余分に多く鳴るサイレンに耳を塞いで布団に潜り込んでいたくらい、わたしは「ぬるっと迫り来る音」が怖かった。すなわち達郎の歌声の繋ぎ目のなさは、わたしにとって人間離れしているもののように感じられた。それはすごい声を持っているからだということはのちに理解した。
もうひとつの理由は、両親が好きなものだから、同じものを好きになるまいとするある種の生存本能だと思う。エビデンスなしに書くけれど、ほら、自分と遠いDNAの人を人間は嗅ぎ分けられる、なんて言うじゃない。あれみたいなことだと思うのだが、子供の頃のわたしには両親が好きなものをたまにあえて避けたくなる機能が働くことがあった。
でも大人になってみると、達郎の歌はあまりにもわたしの耳にこびりついていることに気づく。何より、達郎の音楽をかけたり、達郎の日曜のラジオを聞きながら家族でドライブに行く図は、のちのち楽しい思い出として脳裏で再生された。一方で、自分の周りでは達郎を同じ濃度で聞いている友人がいなかった。高校、大学、または大学院での友人の中には自分たちの親世代に人気の歌手を好んで聞く人が何人かいて、それぞれの人が別の歌手のコアなファンだった。それにやや憧れて、わたしは達郎の曲が好きで聞くよ、なんてアイデンティティのように言うこともあった。
実際アイデンティティのひとつではある。両親はわたしの名前のインスピレーションを達郎の曲から得たらしい。国際ヨットレースのために書かれた曲を聞いて、帆を張ってさわやかな風を受けて海を進むヨットの図を思い浮かべたところから真帆という単語(何を隠そうこれは名前以前に船のとある状態を示す名詞なのである)に行き着いたと聞いている。
そう知って実際の曲『Blow』をCDプレイヤーでかけてひとりで視聴したときに、わたしは曲の渋さにびっくりしてしまった。それまでも耳にしていたがタイトルと中身が一致していなかった。この曲のことだったのか。『ドーナツ・ソング』のようなポップなほうをイメージしていたら、どちらかというと湿度が高いほうの曲。メジャーではなくマイナー。クラシックで言うところのレチタティーヴォのような感じ、というのは、まるで言葉を話すように歌われる曲で、文章にちょっと抑揚を強めに付けたら結果的に音程がついた旋律に聞こえる、そういう作りの曲だ。達郎の声のシームレスっぷりが遺憾無く発揮される。
そのときすでにヴァイオリンを弾いていたわたし、すなわち器楽奏者のわたしにとっては、レチは掴みづらくて苦手だった。もっとリズムがはっきりしていてほしかった。聴音能力もまだ未熟で、あまりに言葉然としている旋律は、絶対音感がありながら音高がわからなくなるくらいだった。器楽の人間ゆえに、今もそうだが、歌詞を聞き取る能力が弱い。言葉を単語としてではなく音として捉えてしまうので、言葉の存在感が強いと、わたしの耳はバグを起こしてしまうのだ。その曲はそれ以前から何度も聞いていたにも関わらず、わたしは達郎が何を言っているのかひとつもわからないでいた。
実際には普通に4拍子だし音高も楽譜にきっちり起こせるほうの曲だが、当時のわたしは、自分の知っている拍子と音高に明瞭に当てはまらない旋律にいらいらした。でも、両親はこの曲に良い印象を抱いたからこそ、大切な曲として聞き続けているのだと思うと、その愛を受け止めたかった。そしてわたしはヴァイオリンのお稽古の中で経験していた ― 第一印象で好きになれない曲も、根気強く付き合うと好きになれることがある、という現象を。きっとこの曲の良さがわからないのはわたしがまだ幼いからだろう、この良さがわかるまで何度も咀嚼していこう、とわたしは思ったのだった。
しかし達郎の歌の歌詞が聞き取りにくいというのは、一種の共通認識らしい。達郎のラジオ『サンデーソングブック』の中で忘れ難いエピソードがある。ある日のリスナーからのお便りで、「『LOVE GOES ON(その瞳は女神)』の歌詞の一部が空耳でどうしても『あけみ』に聞こえるけれど、それだと脈絡がないので絶対に違うはず、なんと言っているのですか」というものがあった。結局本来の歌詞は「アルケミー」のはずなのに「あけみ」という名前のように聞こえて仕方ないというオチだったはずだ。ちょうど、ひとりの女性への想いを歌い上げる曲なので、その女性が「あけみ」だという想像まで伴うところに可笑しさがあった。
このお便りを読み上げた達郎は、おもしろがっている様子だったが、答えを絶対に言わなかった。しつこくらい何度も「正解は歌詞カードを見てください」を繰り返して、答えを言わない達郎を、小学生のわたしは「意地悪な人だなあ」と思った。確かに、当時は音楽を聴くと言ったら必ずCDを買っていたはずだから、歌詞カードはそこにある。よほどお便りを出すより簡単に歌詞はわかっただろう。リスナーの人はそれでもお便りを出す手間をかけたのは、達郎との交流がほしかったわけで。ただ達郎のラジオを聞いてお便りするような人なら、そうした「意地悪さ」も嬉しがったかもしれない。そもそも、お便りが取り上げられただけでクジを当てたようなものだもんな。
でもわたしは、答えをその場で発表したほうがみんな楽しめるのに、と思った。わたしはそのあと曲がかかるまで該当箇所が思い浮かばなかったので、お便りへのコメントを聞いている間、すごくフラストレーションが溜まった。でも達郎流に言うなら、それで思い浮かばない人にまで親切にする義理はないのだろう。そういう人に“僕の音楽は必要ない”のかもしれない。
ちなみにその後しばらく空耳に関するお便りがいくつか続いた記憶がある。リスナーたちは「実は聞き取れない歌詞あるよね」と共感したのだろう。達郎はやっぱり、歌詞カードを見ろとしか言わなかった。ちなみにわたしは「高気圧ガール」をいつも「高気圧ケロロン」と空耳する。
嫌いだったはずなのに、すでにここまでで2500字以上も達郎の思い出を語っている。掘ればまだ出てくる。『新・東京ラプソディー』に準えて、母からはわたしに対して、自転車は国道246号線でしか乗らないでほしい、しかもおしゃれな緑色の自転車で、というかなり限定的なリクエストがあった話とか、中学時代の担任の先生が『クリスマス・イブ』を授業中に歌い出した時に、わたしはその曲の先の展開を知っているがゆえに「oh~yeah」という素人が真似をすると事故になりそうな部分で先生がどうするのか先回りして心配になってしまう話とか(先生は達郎風をやりきって教室は静まり返った)。それだけ達郎の歌はわたしに染み付いている。
そうして音楽が染み付いていることで、音楽を作った人の思想も無意識のうちにインストールしているのではないかという気がしてきて、恐ろしくなってしまったのが、先日のあの『サンデーソングブック』の発言だった。名前にもまとった達郎の影に、わたしは恐れ慄いた。もし両親が達郎のことを擁護したら、わたしは両親に絶望してしまうとも思ったし、もし両親が達郎の発言を知らないとしたら、知らないままでいるほうが家族の幸せかもしれないとも考えた。でも ― その数日後に両親と顔を合わせたときに、両親のほうから言及があった。達郎の件の発言にものすごくがっかりして、冷めてしまったこと。これまで何十年も楽しんできた時間を、��無しにされた気分になったこと。実際のラジオを聞いて、その語り口にもがっかりさせられたこと。
わたしは考えた。確かに真帆という名前のインスピレーションは達郎の歌から得たものだった。でもその歌の歌詞には全く出てこない言葉で、それは両親が見つけてあつらえてくれたものだ。こうして一緒に達郎にがっかりしたと言える両親が選んでくれたものであり、何より、ここまでおおよそ30年は、わたし自身がこの名前に自分の生き様を刻みつけてきた。この名前が司る人格は、誰のものでもない、わたしが形作ったものだ。むしろ達郎なんかに影響されて、この大好きな名前に残念なイメージを持たせられて堪るか、とも思った。
思い出は色褪せた。そこに流れる達郎の曲を、わたしたちは今は楽しめない。でもそこにあった家族の団らんまで色褪せさせて堪るもんか。わたしはこれからも思い出を大事に抱えていく。でも、そこにあった音楽を愛せなくなる出来事があったことも、忘れない。
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20230705
車を買い替えたいと、ここ一年くらいずっと考えていたがついに新しい車を契約してきた。思えば今の車は気分転換のための手段としての側面が強くて、実用性や先のことを考えての選択ではなかった。この先もきっと3.5Lなんてばかでかい排気量の車には乗らない気がする。
おまけに今の車は2人しか乗れない。実際それで不便したことが何度あったかというと、どうせデートに行く時に助手席に乗ってもらうくらいのものだから不足はなかったのだけれど。いろんなところに行ったな、こっちに来てからのドライブはみんなあの子と一緒だったから。車幅が1.8m強あって、でかいでかいと散々文句を言っていたけれど、今の乗用車ラインナップを見ているとそれほど大きくもないみたい。なんだかんだいい練習にはなった気がする。ステアリングは重たいけれど、素直で操作しやすい素性のいい車だった。2年弱で2.2万キロ、今までありがとうフェアレディZ。また誰かにかわいがってもらえるといいね。
そして迎える次の車、今どき知り合いでも乗ってる人の少ないセダンタイプ。自分の車の好みはどんなだろう?って、車を買ってから考えていたのだけれど「幼稚園児が描くような形をした車」に落ち着きそう。重心位置が低いと車が安定するので、扱いやすく感じる。荷物はSUVなんかと比較して乗らないけれど必要十分で、まあそれもよいでしょう。Zでもあんまり困らなかったし。積載だと今度のはなんと後席がある!友達'sと出かけられるね、いいね。何回人を乗せるかはわからないけど。
そして、買い替えの最大の理由。運転支援と安全装備が今どきなみの水準になること。隣に人を乗せておでかけすることが最近は多く、300kmくらい走ると流石に夕方ごろは疲れが目立ってくる。道路脇に鹿とか猿とかいることもそこまで珍しくなくて、ヒヤッとすることも何回かあった。そう考えるとドライバーとしての責任という観点からも欲しい装備だった。車に求める性格が楽しさから安全性に変わった自分の心境の変化を、すこしうれしく思う。もちろんないよりは遥かにマシというだけであって過信はしていないし、改めて同乗者の安全を担保できる運転を心がけていくことに変わりはない。けど、何かの意思決定をする時に、大切に思える誰かがいてくれることを本当にありがたく思う。
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10代くらいから20代前半くらいまで、どういう訳か精神的にあまり安定しているとは言い難い状況が続いていた。けれど、最近はそうでもなく並の人のフリができているように思う。フリなのか、本当に落ち着いているのかは自分でもよくわからない。でも、すごく楽に生活できている。先のことにあまり不安はなくて、ある程度の余裕を持った状態を維持できているので、他人と関係を結ぶ上でも楽をできているように思う。というか、端的に言うと今のパートナーがすごくできた人で、なんか知らんけどめっちゃ楽…となっている。ありがたいことだと思う。
だからこそこの人は今までどんな風に生きてきて、何を選んできた人なのだろうかというところに思いを馳せることがままある。楽しいことばかりでなかったことは断片的に聞いたことがあるけれど、それでもどのように受け止めるか次第でこういう人格も作れるもんなんだな、と感慨深くて、しみじみうれしい。あなたを苛む過去をなんとかして和らげてあげたい、と思えるような人に出会うことは時たまあるけれど、あなたがあなたでよかった、と手放しで思える人は本当に少ない。そんな彼女にとっても自分は良き人間であろうと思えるので、なんだか間違えなさそうな気がするから安定していられるのかも。好循環、って感じ。わたしたちには何ができるのか、これからちょっとずつ確かめていきたい。
なーんてことを、彼女がお休みをもらって友達とどこかへ遊びに行っちゃったので、暇だから書いてみたのでした。今、とってもしあわせです。
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2023 first half
2023年の上半期を振り返ってみる。
1月
せっかく地元に帰ったのに、元旦に弾丸で県外にドライブ。ついでに弾丸でアウトレット行って全然今必要じゃない夏物を買う。
2月
目標月収を達成。吸い取られる税金に泣く。
ついに最後の親知らずを抜歯。過去イチで痛い。これが最初の1本じゃなくて本当によかったと思う。
地元の友達が、半日かけて熊本に遊びに来てくれる。草千里をご案内
3月
人生初のいちご狩り。美味しかったけど3月なのに暑くていちごがぬるい。
初めての天草!一人ドライブ。海がきれい。ドーナツに衝撃を受ける。今まで食べた中で一番おいしい。
4月
東京出張でオフィスに2回目の出社。楽しかったけど思いきり体調を崩す。1週間後に控えている沖縄に向けて死ぬ気で治す。
同僚と1週間の沖縄ワーケーション。airnb初利用。沖縄の虫は大きい。マンゴーパフェが美味しすぎたのでもう1回食べたい。
熊本に来て1周年を迎える。
5月
人生で2人目のカメラマンさんとのポートレート撮影。写真の空気感ドンピシャで好き〜!(記事サムネイル)
ミッフィー好きな友達がはるばる遊びに来てくれたのでハウステンボスのミッフィーコラボカフェに行く。うっかりミッフィーが好きになる。
絶対似合わないと思っていたワイドバングに挑戦してそこそこ好評を得る。
仕事で思い悩むことが多すぎて本格的に精神が参る。周りがいい人すぎるから逆に困る。
6月
福岡日帰り旅行の帰りに駐車場が故障し、1時間半閉じ込められる。檻と化した駐車場の中から、パチンコ店に違反駐車している人たちの帰路を10人近く見送る。
紫陽花とポートレート撮影。花×人はやっぱり素敵だ。
宮崎初上陸!残り九州は鹿児島だけ!
同居人の誕生日にリファのシャワーヘッドを買う。自分もちゃっかり恩恵に預かる。
撮影会にモデル&カメラマンとして初参加。友達以外のポートレート撮影は初めてで、大いに刺激を受ける。
撮影会の1週間後くらいに勢いに任せて初フルサイズに手を出す。もう直ぐ届くはず…
下半期に向けて
タイ旅行に行く。
好きな髪型を見つける。
もっと身体しぼっていく。
UIUXもっと勉強する。
好みのカメラストラップとカメラバッグを買う。
撮影・被写体どちらでも自分の好きな表現を創り上げていく。
最低もう1回モデルの撮影をする。
レタッチのスキルをあげる。
55mmの単焦点をひたすら使い倒して作例をnoteにまとめる。
構築中の写真の作品サイトを公開まで繋げる。
ジップスライドに乗る���
ここで総評。
なんだかんだ、「はじめてだな〜」みたいなことにチャレンジする半年だった気がする。熊本にきてから知り合いが特にいないので、ポートレートのカメラマンは全然やっていなかったけど、ひさびさにやったらやっぱりめちゃくちゃ面白かったしもっともっとやりたくなっちゃった。
仕事については、実力以上のことが求められたり、入社してからというもの���やったことないことしかやっていない」という毎日なので、ぜんぶ伸び代〜〜!という気持ちはありつつもしんどいのは間違いない。何がしんどいのかもう少し分解すると「私のこれまでの経験をフルに活かせます!」といえないこと。私もわからないのでとりあえずやってみるしかない。聞かれたってわからないから全部調べる。とにかく時間がかかる。脳死でできる仕事がない。笑 周りにいる人たちは本当にすごくて、「自分が力が及ばない」ことに申し訳ない気持ちになるばかりだけど、でも胸を張っていえることは、一年前より明らかに成長しているってこと。知識も、使えるものも、どんどん増えているのが振り返ってみた時に気づいた。 そのときすこし気持ちが楽になった。昔の自分よりは確実に成長している。だからこのまま頑張っていこう。
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