#今晩のおかず
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なう(2023/03/10 19:30:47) 今夜はカラスガレイの煮付け🐟 肝の煮付け食べたいなぁ🥺週末 魚のアメ横行こうかな??? #カラスガレイの煮付け #もずく酢 #月見おくら #奈良県産苺ならあかり #家飲み #おうち居酒屋 #おうちごはん #お家ごはん #おうちごはん部 #おうちごはんlover #今日の晩ごはん #TodaysDinner #晩ごはん #晩ごはん記録 #献立記録 #自炊記録 #てづくりごはん #手作りごはん #てづくりごはん365 #cooking #cook365 #タベリー #フーディーテーブル #クッキングラム #キッチングラム #いいね返し #夫婦ごはん #ふたりごはん #豊かな食卓 #家庭料理 最近映画も飽きてきたしGWの予定でも 立てよーと思て新潟⇔ベトナム直行便の 予約をしようと思たら何と😳⁉️ 新潟からはホーチミンでもハノイでもなく ダナン行きの✈️しかないやとー😱?💦 ダナンみたいなビーチリゾート行くんやったら ベトナムじゃなくてもえーわ😭 ベトナムさを感じたいのに何でダナンなん😫 成田空港まで7時間かけて車かバスで行くか 関���でトランジットして割増で行けば ホーチミン行けるけど無駄にしか思えん😭 せっかく新潟空港歩いて行ける範囲に住んでるのに 成田やら大阪まで行ってから…なんて事は 絶対したくない😂😂😂 昨日ベトナムるるぶも買ったのに最悪や 新潟空港使えねー🤪仕切り直しやな😢 https://www.instagram.com/p/CpmwJJCyai3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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#サッポロビール #冬物語 #冬にしか出会えない #TheWintersTale #サッポロ冬物語は1988年日本で初めての冬季限定ビールとして誕生しました #発売以来30年以上もの時を超えて愛され続けてきた冬物語が今年も登場 #冬にしか出会えない深みのあるコクとキレの良い後味をじっくりとお楽しみください #会社員かずやの晩酌 https://www.instagram.com/p/Cm5rAd2v6UM/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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一週間の夏休みを取得して、先週またバンコクへ行って来た。
夕方空港に到着、1時間後にはホテルにチェックインしたが、程なくしてバンコク在住の白人のセフレダディからの到着確認メッセージが。支度して直ぐに向かうと言うと、今晩はデカマラのタチリバのタイ人も参加と。
久しぶりの休みで、更に3Pと聞いて急いで支度し、ワクワクしながらダディの住むマンションを訪問すると、ロビーにそれらしい俺より若めの男っぽい筋肉質な男前のタイ人が。迎えに来たダディが俺とタイ人両方に挨拶したので、今晩の相手と判明。お互いに笑顔で挨拶交わしてそのまま部屋へ。
リビングのテーブルには早速準備されたPが3本準備されていたので、それぞれケツ割れやハーネスに着替え、コックリンク装着して早速フライト開始。タイ人は自分で刺せないと言うので、ダディの指示により俺が刺してやることになり、3本並んでいるPから適当に1本取って最初にタイ人に。彼の腕はしまった筋肉質で羨ましいほどの血管バキバキだったので、スムーズに刺注出来た。ゆっくり注入終わるや否や彼は腕を上げながら咳き込むと同時にハアハアと目を見開いてそのまま超興奮状態に。その姿を見て俺もダディも興奮してしまい、それぞれ急いで注入。ダディがどれだけ仕込んだのか知らないが、俺も咳き込んでそのまま全身がカーッと熱くなり鼓動と息が早くなった後は、完全変態モードに。
急な超エロモードに入った俺達はその場でお互いの乳首を触りながら3人でベロチュー。気付くとダディとタイ人が俺の両乳首に吸い付いていて、俺はヒクヒクしながらビンビンになったチンコからケツ割れを通してガマン汁垂れ流し。それを見たダディが即座にしゃがみ込んで俺のケツ割れから染み出したガマン汁をベロベロと舐めはじめ、タイ人もそれに続いて俺のチンコをケツ割れから引っ張り出してビチョビチョの俺のチンコをしゃぶりまくり。
その興奮状態のまま、隣のベッドルームに移動。既に準備されていたエロビデオが流れる中、ベッドの上で3人でチンコしゃぶり合い。俺はダディのデカマラにしゃぶり着きながらタイ人にチンコしゃぶられて更に興奮。俺はダディのデカマラから金玉、そのままケツ穴を舐め回したが、タイ人も同じく俺のケツの穴を舐め回すので、あまりの気持ち良さに喘ぎ声とガマン汁が止まらない状態に。
その後はダディのエロいケツをタイ人と交代で掘り合ったが、タイ人がダディを掘っている時のプリプリしたケツを見て興奮して、掘っているタイ人のケツの穴を後ろから舐め回し、そのままガマン汁ベチョベチョのチンコを後ろから挿入。柔らかくてグチョグチョのダディのケツ穴も気持ちいいが、タイ人のプリケツの締まったケツ穴もかなり気持ち良かった。続いて俺がダディを掘っていると今度はタイ人が俺のケツの穴を舐め回し、指を突っ込んで来たかと思うと、おもむろにギンギンのデカマラを押し当ててきた。ゆっくり入れてくれと頼むと、タイ人はゆっくりとデカい鬼頭を押し込み始めた。すると、ダディがPopperを俺の鼻に持って来たので、それを深く吸うと、同時にタイ人のデカマラがグイッと押し込まれたが、不思議と痛みは殆どなく、堀りながら掘られる気持ち良さと変態なエロさが増して、むちゃくちゃ狂いまくった。しばらく連結したまま堀合っていたが、気付くとタイ人が俺のケツにイッちゃったと。それを聞いたダディがすぐさま俺のケツ穴を確かめるように両手で開くと、確かにザーメンがドロッと流れ出したのを見て、チュパチュパとケツ穴からザーメンを舐め取り、タイ人と俺にキスしながら口移し。3人でタイ人の濃厚なザーメンを舐めまわしながらキスしていたら、俺もたまらずイキたくなり、ダディとタイ人に顔射。二人はお互いの顔にかかった俺のザーメンを舐めまわし、その二人とザーメンキスしながら一回戦を��了。
その後はイチャイチャしながらの休憩を挟みつつ、翌日の昼まで更に2回追加+時々煙追加してエロく狂いまくってやりまくった。
最後はダディのデカマラで掘られ、何故かまた俺のケツに中出しされて、それを二人の口で吸い取られて、俺に口移しでザーメン向けまみれでキスしまくるという形で終了。その時には部屋の中も、三人の口もザーメン臭が漂っていたが、それが何故かエロくて心地良かった。
終了後は三人でシャワーを浴びてしばらく軽食を取りながら談笑して別れた。
その3日後、ダディからもう一度会おうとお誘いが来たので、喜んで向かったことは言うまでもない(その時のまたエロい絡みはまた気が向いたらレポートするかも)。
次回また行くのが楽しみでたまらない。
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戦闘服の男たちNo.0
現職自衛官の告白体験手記
「遠くで突撃喇叭が」
原題「遠くでラッパが」
作 島 守

新隊員の便所はノリだらけ
朝五時、起床まであと一時間である。いやあ、変な夢を見たるんだなと思って、ギンギンになっているセガレに手をのばすと、ああ、やっちゃった。まったくしょうのない奴だぜ、昨日センズリかいたばっかりだろうが!
畜生!今起きると、となりのベッドの奴が目をさましてカッコ悪いし、しょうがネーな、起床で戦闘服に着替える時にでも一緒に履きかえるか。
それにしても新隊員は外出が制限されてるせいで、夜なんかとても遊びに行けないし、極度に欲求不満の日々が読いている。
雄臭い野郎を見るだけならここは本当にいい所だけれど、それ以上のことはちと不可能。けっきょく、夜、誰もいないトイレにはいってシコシコ激しくセンズリ���カクしかないのだ。風呂で見たガッチリしたオアニイさんや、カワユイ隊員たちがチラチラ浮かんできたりする。
でも終わってみると、やっぱりむなしいな。なんか小便とたいしてかわりないみたいで。それでもけっこうさかんなようすで、この間も班長から、
「新隊員の便所はノリだらけでたまらん!」
なんて怒られてしまった。マア、ノリは冗談としても、エロマンガのちぎれたのや、ビニ本なんかが時々モロ、トイレにおきっぱなしになってたりする。金があれば普通の隊員はトルコにでも行くんだろうけど、そこはまだペイペイの新隊員、月給は少ないし、貯金はしろとうるさいし、とてもとても…
それでも、あけっぴろげな男だけの世界。
「これからセンズリ行くゾー」
と、エロ本片手に走って行く奴もいる。
そんでもって自分もけっきょくその日のタ方、バラしてしまうのだった。
「昨日の夜、爆発しちまったでェー」
「いやー、エッチだなあ。勝見二士がいないからじゃないのォー」
前期の教育隊から一緒に来た北村二士にいうと、思わぬ返事が返ってきた。まいったなあ。
「このヤロォー、勝見と俺はそんなに深い仲でネェゾ!」
「エへへへ、でも勝見二士は、島二士のダッチワイフだったんじゃないのォー」
まったく北村の野郎、口のへらない奴だ。
まっ、べつに勝見二土はダッチワイフだなんてのは冗談だからいいけど、でも俺は、やっぱりドッキン!そう、あいつはいい奴だったもんな。この俺に、男と男が精神的に強く結ばれることがどんなに素晴らしいことか数えてくれたから・・・•・・ネ。
それは3ヶ月前
桜のつぼみがまだ硬い三月の下旬、俺は陸上自衛隊のある駐屯地に入隊した。出身県の関係で他の県の出身者より四日ほど遅い入隊だった。勝見二士とはこの時に初めて出会ったのである。
〈三月某日〉
なかなかできてる奴
今日から俺の自衛隊員としての生活が始まる。まわりの環境は、想像していたのとそれほど変りはない。でも一部屋四十人というのは多すぎるようだ。
それから自衛隊ではバディという仕組があって、二段ベッドの上下でペアを組み、訓練面や私生活でいくそうだ。
俺のバディは勝見次郎。ガタイが良くてイモの煮っ転がしみたいな顔をした奴だが、なかなか性格はよさそうだ。
この時はまだバディの重要さなんか知るよしもなかった。
勝見二士は俺より年下だが、四日も早く入していただけあってちょっと先輩気取りで、ベッドのとり方から戦闘服のネームの縫い物まで俺に協力してやってくれた���早くもリードされっぱなし。それでもけっして悪い顔をしないで黙々と手伝ってくれる彼を見て、
「なかなかできてる奴だワイ」
と内心思ったものである。
<四月某日>
ビニ本でぬいて来い
入隊式も終わり、訓練も徐々に本格的になってきた。銃こそまだ持たされていないが、戦闘服を着て半長靴をはいて走り回るさまは、一人前の兵隊さん���・・・・なんちゃって。
そんな時、体育の時間に勝見の野郎がすっころんでけがをした。運動神経いいくせにまったくそそっかしい奴だ。おかげでその晩、俺がヨーチン片手に手当てしてやる。
両足おさえつけて、ヨーチンをぬるさまはSの気分。ムフフフと不敵に笑って、「グチェッ!」とぬってやる。勝見の奴たまりかねて、「ギャアー!」
苦痛にゆがんだ顔って、ちょっとエロチックやなアー。
四月にはいっても外出は下旬にならないとできない。新隊員とはつらいもんである。ああ、自衛隊には自由なんてない!これでは縛られるのが好きなMじゃなきゃ向かないんじゃないだろうか。そんなわけで貴重な休みも隊舎のベッドでゴロゴロ、これじゃ夜寝られるワケがない。
消燈もとっくに過ぎた十二時半、なんとなく昼間寝すぎたので寝つけない。緑色の毛布の中でごそっと寝返りを打つと、上のベッドでもごそっと寝返りを打ったようだ。安物のベッドがグラッとくる。これじゃセンズリかいてようもんなら、片っぽのベッドの奴は地震かと思って起きちまうだろうななんて思ってると、
「オイ、島さん寝たかい?」
と、勝見が小さな声で話しかけてきた。
「なーんか、こうムラムラして寝られネェんだョオ」
と俺。すると、
「島さん、最近やってないんでしょ、アレを」
「まっ、まあな」
と、二人はムクッとベッドから起き上がて話を始めた。まったく目がさえてしかたいない。すると、その時へやの戸があいて、だれかがはいってきた。なんと班付(つまり上官)の上田士長である。よーく見ると、片手にビニ本を持っている。
「お前ら、まだ起きとるんか」
「エエ、寝られないんですヨ」
と勝見二士。すると上田士長、恥ずかし気もなく片手でもってるビニ本二冊を差し出すと、
「これでちょっとぬいてこい、そうすればバッチリ寝られるゾ。俺も抜いて来た」
思わず俺と見、顔を見合わせてニヤリ、もちろん俺はあんまりビニ本には興味はないが、そこはノンケの顔をしていなければならないのがツライところ。
ともかく、俺と勝見の二人はビニ本片手に仲よくトイレに直行。そこで二人は同じ個室に••••••てなわけにはいかなくって別々の目室に。ハイ、でも、ガマン!
「オッ、スケニ本だぜ、もうビンピンだァ」
「タマンネニナー。でもあんまりおっきな声だすなァ、不寝番がびっくりして飛んでくるゾォー」
なんてことを話しながら、お互いに実況中継をし合う。洋式トイレなのですわってカケるのでらくなのだ。となりの個室からのすっとんきょうな声がとだえた。奴も本気になってきたようだ。こっちがたまんなくなるようなあえぎ声が聞こえてくる。思わず俺の手の動きも早くなる……。
すると、突然奴の声、
「ウッ!ウッーウ」
畜生、俺より早く終わりやがったな。
奴の家は海辺の町で漁師をやっている。中学、高校と、よくアルバイトを兼ねて家の手伝いをしたそうだ。そのためか潮で鍛えられた体は浅黒く、区隊で誰にもまけないくらいの逞しさを持っている。そんな奴から海の話を聞くのが俺も好きで、いろいろと聞いたものだった。サザエの採り方なんか、実に詳しく話をしてくれたもんだった。
<5月某日>
好きになったのかな?
知らないというのは恐ろしい。いつものように勝見二土から海の話を聞いていた俺は、なにげなく聞いてしまった。
「じゃ、なんで家の仕事を継がなかったんだい?」
「親父が許してくれなかったんだよ」
「どーして?」
「・・・・・・兄貴が海で死んだからさ••・・生きてれば二十七歳さ。よく晴れてベタなぎの海にもぐったきり、サザエ採りにネ、兄貴、上がってこなかった」
淡々と話し続ける奴は、やっぱりいつもと違っていた。
「やっぱり親は親なんだな。二人も海で死なせたくはないんだろうな。いくら俺がねばってもだめだった。今の俺なんて、丘に上がったカッパさ・・・・・・・」
と、彼は言う。いやいや、丘に上がったカッパなんてとんでもない。奴の体力は区隊のトップをいつも争っている。俺だって気力じや負けないつもりだが、やっぱり体力検定だとかではっきり数字に出されると、どうも一歩も二歩もゆずってしまう。
「漁仲間の人から最近よく言われるんだ、兄貴に似てるって」
彼はこう最後に明るく付け加えた。なんか、この話を聞いているうちに、自分が奴に引かれていることに気がついてきた。なんとなく奴のことを、俺は他の班員とは違う目で見ているということに・・・・・・。
俺、奴のこと好きになったのかな?
まだ五月の下旬だというのに、真夏のような暑さが続く。そんな太陽の下での戦闘訓練は、まだ自衛官として一人前の体力を持ち合わせてない俺たちには、とてもキツイ。
たかが4.3kgの小銃が自分の体じゅうの汗を吸いまくる。気がつくと小銃から滴がしたたるほどに汗でぬれている。
地面だってこんな間近に見つめることなんてあったろうか。地にふせた俺の目の前にあるのは、青々とした草が高々と繁っている姿と、小さな虫たちの世界��った。
一瞬、自分が虫けらになったような気がする。ふと隣を見ると、3メートルほど離れて奴がこっちを見てニヤリとした。埃にまみれた顔から白い歯がチラリとのぞく。ほんの数秒の間の静けさが何時間にも感じる。

すると突然、頭上で班長の大声が響く!
「目標、前方の敵!」
「突撃!前へ!」
銃をかまえると全力で走りだす。核の時代にこんなことが役に立つのだろうか、もうバカになるしかないな。班長の号令が頭の中を素通りして直接手足に伝ってゆく。俺も奴も、そして愛すべき仲間たちも、死ぬ時はみんな一緒・・・・・なんだろうな。
<六月某日>
レイプごっこ
3ヶ月の前期教育も大詰めをむかえてきた。今月の末には、俺も奴もバラバラになって全国の部隊のどこかの駐屯地に配属されることになるだろう。なんか、そう思うと、とてもせつない。でも、俺と奴は違う道をたどらなければならない。希望も適性も違うから。だからあと数週間、思いっきり悔いのないようにガンバッテいく。それが今の俺たちには一番なの
だ。
営内近は1班12名前後いる。学校の教室の約2倍ほどの大きさの部屋に、実に40人の隊員が詰め込まれ、2段ベッドで毎日の訓練生活を送っている。もちろん性格もさまざまであるが、そんな隊員たちが40人も一つの部屋にいる姿は、なんとも壮観で異様でもある。しかも全員、スポーツ刈りか坊頭で、体格もこの六月ごろになると個人差こそあれ、すっかり逞しくなってくる。
その中にはやっぱり俺以外にも、男が好きな奴がいるらしい。時々どっか���らか、〇〇二土と二士が二人でトイレにはいって行くのを見たなんて話を耳にすることがある。
うまいことやってるなあなんて思うけど、やっぱり毎日寝起きしている仲間の前ではなかなか、そんなことできるワケがない。それでもよく俺たち二人は皆の前で冗談を飛ばし合う。
「オッ、いいケツしてんなあー、たまんねえぜ!」
「バーカ、今夜はもう予約ズミダヨ」
「ベッドあんまりゆらしてこわすなヨ。下で俺が寝られネェからヨ」
「じゃペーパー貸してやっから、センズリでもかいてきな!」
なんてやり合ってると、周りの仲間も悪乗りしてきて、なにがなんだかわからないうちにレイプごっこ(つまり解剖というやつ)が始まったりする。どんなバカ力の持ち主でも二十人ぐらいにせめられたんじゃ手も足もでない。アッというまにスッポンポン。一回やられるとくせになるみたいで、次の獲物をさかす。でも気がつくと、一番必死でやってるのは俺みたい。
<六月中旬某日>
こみ上げてくるような話
今日から前期教育で最初で最後の野営(泊まりがけの野外訓練)が始まった。
午前中に寝泊まりするテントを設営する。
午後からは小銃手用の掩体(一種の個人用の隠れ穴…ここに隠れて首と銃だけ出して、敵を狙う)を掘った。
1グループ6人で3時間ほどで仕上げなければいけない。
もっぱら俺は現場監督のように地面に穴を掘る設計図を引く。そして奴は、パワーショベルのようなバカカで他の仲間四人とともに穴を掘る。もちろんきっかり時間内に仕上がった。
野営で俺たちが使うテントは、二人用の小さなもので、朝起きてみると足が外に出ていた、なんてことがしょっちゅうある。もちろん奴、勝見二士と一緒である。
一日めの夜は夜間訓練もあり、ビールも一本入ったので、二人はろくに話しもしないで寝てしまった。
二日の夜、目が冴えて眠れない。久しぶりに奴と俺はいろんな話しをした。酔うと滑舌になる勝見。入隊する前の事や、これからのこと、もちろん女の話しだって出てくる。俺は当然聞き手に回るわけだが、それでも奴は初体験の話や、彼女にふられてしまったことを、こっちが感心するほど克明に話してくれた。
なんかこみ上げてくるようなものも感じるけれど、それは明日の厳しい訓練にとかして流してしまおう。
三日めは、昼間の行軍が災いして床についたら、またまた、あっという間に寝てしまった。それでも就寝前、点呼に来る班長が、
「お前ら、あんまりいちゃつくなよ!」
「いやーあ、昨日なんて島さんが寝かしてくれないんスよ。まいったなあ」
なーんて冗談も飛ばしてくれて、言葉の中だけど、楽しませてくれた。
<前期教育終了7日前>
愛すべきパワーショベル
今日は最後の体育だ。項目はなんと苦手の障害走。外見に似合わず���?)体力のちと足りない俺には恐怖の時間である。だが、今回はなんと二人でペアになってやれというのである。当然勝見二土と組むことになる。よし、やるぞ!
隊長の合図でスタートし、戦闘服姿で障害物を切りぬけていく。高さニメートルの垂直の壁あり、幅一・五メートルの溝あり、まったくとんでもないコースだ。やっぱり勝見の奴は早い。確実に障害をこなしてゆく。時々日に焼けた顔でこっちをふり向く。そうだ、奴がいるから今俺は、三カ月間ここまできたんだ、汗と埃は今、大きなエネルギーと変わって俺たちに吸い込まれてゆく。奴が好きだ、そう、心の中で叫んでやる、
「好きだ」と。
ふと気がつくと、目の前にロープが下がっていた。最後の難関のロープ登りである。畜生!俺が最も苦手とするやつだ。それでも登らなければならない。一段階一段階と手足を使って登るのだが、なかなか上へ進まない。
畜生!もうだめだ、あと五十センチでロープのフックに手が届くに・・。すると、そ畜生!もうだめだ、あと五十センチでロープのフックに手が届くのに…。
すると、その時である。足をなにか、すごい力で下からさ押れた。グーッと上に上がる。フ、フックに手が届いた。やったあ!思わず下を見る。そう、俺の足の下には勝見のこぶしがあった。奴は満身の力で、俺を下から押し上げてくれたのである。
この野郎!お前はやっぱりパワーショベルなんだなあ。
<前期教育終了6日前>
自衛隊部隊はラッパの音と共に、毎朝8時に国旗掲揚、夕方5時に国旗降納がある。
俺の前に整列している奴の後ろ姿の敬礼を見るのもあと数回しかない。教育終了後に別の部隊に進む事に決まったからだ。
日に焼けたうなじを目に対み込んでおこうと思う。毎日、一緒に行く食事も別れが近いせいか会話が少なくなったような気がする。
そろそろ身辺の整理を始める。ダンボールに荷物をつめる時、背中に後ろで見ている奴の視線がやけに気になる。
<前期教育終了4日前>
パンツの隙間から半立ちのものが…
教育打ち上げの研修旅行で、ある山奥の温泉に行った。
やはり百名近い短髪の青年集団というのは一般の人々に奇異に見えるようで、必ず「お仕事は何ですか」なんて聞かれる。もちろん醜態をさらす飲み会に制服なんて着ていくワケがないから、わからないのは無理もない。
「皆さんお若いですネ。今年入社したので��か?」
「ハアー、そうです」
「いい体している人ばかりですけど、どんな仕事ですか」
「まあー(モゴモゴモゴ)」
「ガードマンかなんかですか?」
「似たようなもんですネ」
と、けっこうおもしろがって遠回しに話をするんだけど、後ろから当然、
「島二土!」
なんて階級で呼ばれるもんだから、わけ知りの人にはバレちゃう。そしてその夜ー。
バカ騒ぎのうちに飲み会も終わり、各班ごとにひっそりと部屋に集まって二次会が始まる。ビールの本数が増えるに従って、歌が出る。かわるがわる歌う員の歌声をバックにして、俺も奴も仲間たちも、この三カ月間の訓練をいろいろ思い出していた。苦しかったことしか浮かんでこない。
でも、俺たちはその中で同期愛ということを学んだ。
いつのまにかみんな寝てしまっていた。もう外は白みかかっている。
突然、俺の寝ている毛布に奴が割り込んできた。肌がふれ合う。奴の匂いがする。すぐいびきかく。でも、なんとなく手が出せない。チラリと下を見る。パンツのすき間から、奴の半立ちしたものが見える。そういえば、いつか俺も言われたっけなあ。
「島さん、立ったチンポぐらいしまって寝てろよナ。思わずさわりたくなるだろが!」
奴が不寝番をやっていた時見られてしまったようだ。まったく助平な奴だと思った。でも俺のほうが助平だったりして。
「俺、眠ってる時って何されてもわかんねえんだよなあ」
と奴がカマをかけてくる。
「バーカ、もうやっちゃったヨ。でも1万円のダッチワイフのほうが気持ちよかったぜ」
と俺。してやられたというような奴の顔。
そんなこと思い出しながらいいチャンスの中、俺も寝てしまった。
<前期教育終了日>
再会をめざして頑張ろう
とうとう、今日という日が来てしまった。
俺も奴も違う部隊へ行ってしまう。場所も離れているので、顔も見られなくなるかもしれない。両手で握手をして別れた。
遠くでいラッパが鳴っている。戻は出なかったが、心で泣いてしまった。ありがとう、リスの目をしたパワーショベル、勝見次郎よ。日に洗けて埃にまみれながら走り続けた道を、ふり返りながら前を行く。奴だから、今日まで.....。
そして今…
新隊員後期教育が始まって1ヶ月半。前期教育から一緒に教育を受けている北村二士が手紙を見せてくれた。勝見二士と同じ部隊に行った高田二士からだった。
<あ、そうそう、この間の手紙に島さんが夢精したって書いてあったネ。あ��文、勝見二士に見せたら、「まいったなあー」って口ではいってたけど、ニヤニヤしてたぜ。島さんに会いたいって伝えといてくれとのこと>
俺も奴に会いたい。こんど会うのはいつのことだろうか。
「士、別れて三日を経たるは刮目して待つべし」
お互い、目をみはる再会をめざして頑張ろうじゃないか。人は出合いと別れを通じて成長するのだから。
そして後日談…2024年
題名「遠くで突撃喇叭が」は第二書房が付けた題名。
原題は「遠くでラッパが」である。今どき戦闘訓練で突撃喇叭なぞ吹かない。この時代の薔薇族には戦記物を書ける文字通り百戦錬磨の先輩がたくさんいたから仕方ないが、俺の指したラッパの音は毎日部隊で鳴らされる国旗掲揚、国旗降納のラッパである。
勝見二士(仮称)は俺が見込んだとおり自衛隊員募集パンフレットの表紙を飾った。
残念ながら2任期(4年)で退職。
再会は果たせなかかった…親父の後を継いで海に出たそうだ。
新隊員当時の写真。小説に出てくる面々。
その他の隊員と再会したのは地下鉄サリン事件。不幸な事件であったが、それぞれが一線で任務についていた頼もしさを感じた。
もちろん俺も新隊員の教育をする先任陸曹になった。
その後俺も2等陸曹で依願退職。約15年の自衛隊生活を終了。鳶職となり予備自衛官で約10年、1曹まで務めた。
2024年現在、自衛隊に残った同期たちは全て定年退官している。
俺を薔薇族、さぶに引っ張ってくれた木村べん氏も他界された。
読んでもらって分かる通り、肉体関係は無くとも男同士の愛情はある事への感動を自衛隊で得ることができた。
職務上死の覚悟を要求される世界。
その感動をセックス描写のない小説でも構わないからと木村べん氏に書いてみないかと言われて作ったのがこの作品。
べん氏に銃を持つ手ではイラストは描けなくなると言われて、好きなメカ画も共同で作品表紙等で書かせていただいた。もちろん最初で最後。ben &tetsuは勉&(鳶)徹って言うこと。
文中漢数字が多いのは縦書きの影響。

「遠くで突撃喇叭が」掲載誌表紙
もう一つ参考にしてさせていただいた本。
1974年芥川賞受賞作品「草のつるぎ」
実はエロ度こちらの方が数段上。戦闘訓練の打ち上げで全員でセンズリこくシーンがある。実話だからノーカットなんだろう。
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今日も晩酌なし。晩飯のおかずは刺身。ご飯大盛りにしたけど、あっという間に食ってしまった。米が美味いのか、魚が美味いのか、その両方か。
ちなみに米はつや姫。
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20240725 日没後の海で
6連勤が折り返した。夕食を食べた後、思い立って海を見に行く。太陽が沈んだばかりの海は薄明るく、急にきた夕立の後で白く霞んでいた。夜勤明けのぼんやりとした体を湿った海風が包む。
最期って誰がどうやって決めているんだろう。モニターをつけて心臓の動きや呼吸の状態を常時みてはいるけれど。誰にもその時は分からなくて。
苦しそうな呼吸の音と苦しそうな表情。呼吸の数値が下がってきたり、痰がたまってきてるような音がすると、口や鼻から管を入れて痰を吸い出す。気管の奥の奥に張り付いたようにある痰を吸い出すと、血が混じる。それでも吸い出さないと呼吸の値は下がって苦しくなる。
やっていることが苦しめているのか苦しさを軽減しているのか分からなくなる。それでも正常な値に近付けるためにやる。
付き添っていた息子さんは一晩中隣で���親の息の音や時々出る苦しそうな声を聞いて、どう思っていたんだろうか。元気で、というのもおかしいけれど大きな変化も無く入院生活を送っている間は、もちろん離れて暮らしていて、たまに会いに行って顔を見るくらいで、父親が何を思ってどんな毎日を過ごしてい���かなんて、もしかしたら気にもしなかったかもしれない。私だってきっとそうなる。軽んじているわけでは無くて、自分の生活を守るのに一生懸命で、何も無いことについ甘えてしまう。
もう本当に何人ものお看取りをした。
夜間帯に逝くことがなぜか多い。日勤よりも長い時間勤務しているからそうなるのかもしれないけれど。夜の力に引きずられてしまうのか、人知れず行きたいと思うからなのか。
その人が生きてきた人生の最期の瞬間、最期の時、一人の人間が の人生が幕を閉じるまさにその時に立ち会うというのは本当にすごいことで。家族さえも間に合わない時、私一人が、その人が息を止め、心臓の動きを止めるその時を見届ける、ということももちろんある。
もう少し待って、あと少し頑張ったら家族が来るから。そんな気持ちで声をかけ体をさする。家族との約束事で、無理な延命はしない。家族到着まで心臓マッサージをしたりもしない。心拍が落ちてきてしまったらもうできることはない。
私が見ているのはひと晩だけ。朝が来たら日勤のスタッフが来て申し送る。家に帰ってからもつい考えてしまう。あの人はどうだろう。今晩も苦しい夜を過ごしているのだろうか。と。
自分の意志で何もかも決めて生きているような気がしているけれど、自分がどんな最期を迎えたいかなんてことは自分では決められなくて。だからこそ自分の意志で色んなことができるうちに、努力をしたり楽しんだり、存分にしないといけないんだろうなと思う。
自分が本当に自由でいられる期間は、思いのほか短い。
会いたい人には会おう。やりたいことをやろう。
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2月20日に何とか↑相手見つかり
今入れて気持ち良いと書いたのですが
確かにその時はネタも悪くは無く良い感じだと思って始まった訳ですが…
昨日2月22日夕方迄の地獄への入口になるとは知らないで居ました…
その相手とはX105に今から会える人と募集して居た人に俺がメッセ出したのですが…
↑てから数時間経って追加用に🧊仕入れ様と🅿さんに連絡を取ったのですが
今回は仕入れた商品が駄目なネタで今差し替え商品待って居るので今回は間に合いそうも無いのでと言われ
結局追加無しで翌日朝迄過ごし俺は仕事が有ったので1晩寝ずに過ごしました
俺が仕事へ行く時に今日帰って来る迄部屋に居ては駄目か?と聞かれこの時に帰って貰えば良かったのですが明らかに何かおかしい感じがしてヤバイかもと思い
俺は一旦仕事へ出て3時間で自宅へ戻り
そうしたらネタを届けて貰える様にしたと言い出して それにもう少しこの部屋に用事が有るからと俺には理由の解らない事を言い出し…俺に会う前の日も20メモ入れたと言って居たので効き目が抜け無いのかも?位で居たんです俺は明日も仕事有るから��りもう入れられないと相手が仕入れたネタ15メモだけ買って多分夕方前に追加…相手は22メモ…
それから何か独り言を小声で話して居るのでキマリ過ぎて幻想とかなのか?と俺は何も知らないので思って居たんです
そして数時間後からは独り言と言うよりも誰かと話しをして居る様な感じに思えて…おかしい…俺はキマリ過ぎでは無い様な気がして来て…
俺はその日も寝ずに朝迄
相手は夜寝て居た様に思えるが唸り声を上げたりして…
お願いだからここで死なないでくれと
マジで思いましたから!
朝になり俺は仕事有るから起きて帰る準備して欲しいと言ってもちょっと待ってくれと中々準備してくれずに…
仕舞いには今日もここに居させて欲しいと…
本当の事言うと信じて貰えないだろうから言いたくは無いけど言うので信じる信じないは俺が決めるから言わないと解らないと言うとこの部屋には今人が5人居て
その人達が僕に意地悪を仕掛けて来るので話し合いがしたいと…
はぁ?ですよね!?普通
それは俺には関係の無い事何でしょ?と聞くと関係無い
これは僕とこの部屋の人達の問題だと…
なら申し訳無い仕事行くので帰って自分の家で話ししてくれと言うと
この部屋に居る人だからこの部屋じゃ無いと駄目だと言うので
もう時間無いから無理だから��言うと渋々帰りの準備仕出したかと思うと
この部屋の人達が僕に嫌がらせをして
警察に連絡を取った場合は俺にも迷惑が掛かるかも知れないからと言い出して
はぁ?これって何?一種の脅迫?
でも俺もこいつに警察に通報されても困ると思い仕方無く仕事早く帰るから
その時迄は居ても良いけど夕方には必ず帰って貰わないと相方が帰宅してしまうから困るのでと伝えると
それ迄にはこの部屋の人と話し付けるからそうしたら家にタクシー呼んで帰るからと言う約束をして…
仕事を早く終えて急いで帰宅すると一応服は着て居て それでもずっと2時間位部屋の壁等を見ながら小声で話しをして居て…俺は仕事中に彼の状況を検索して調べて置いたので大体の事を把握して居ましたので誰か居るの?と聞くと警察官が2人と婦人警官が1人居ると ほら見えるでしょ?と言うので俺には見えませんし用事も無いのでとにかくもう帰る用意して貰わないと俺も2日寝て無いし食事も3日食べて無くて倒れそうな位辛いのでと説明をして俺は専門家でも無いからこれは俺が勝手に思って居る事だけど君は誰か専門家の人に頼った方が良いと思いますよ
俺は何の力にもなれないしと言うと
専門家って?聞くので精神科のドクターが良いと思うと言うと精神科のクリニックには睡眠薬貰いに行ってると言うので
クリニックじゃなくて病院それも大きな病院で相談すれば心の痛みも取れると思うよと話しをしてタクシーを呼ばせて帰って頂きました…
3日間楽しかったですと…
それじゃ良かったですと返しましたが
彼の帰った後もう俺は大声で疲れたーと
1人叫んで仕舞いました!
多分俺の推測では彼の病名は統合失調症…
脳の病気…
でもちゃんと精神科に通って投薬して
治らない病では無いらしいですが本人1人では無理でしょうね…親族の協力無しでは
そして昨夜は麦酒飲んで御粥食べて寝られて良かったです!w
もう2度と絶対に関わりたく無いです
きっと病気さえ無ければ悪い人では無いのかと思いますが…
部屋の物は何も無くなった物も無く
それだけでも良かったです…
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夏と海
旅行から帰ってきてまずすべき事は花屋に向かうことだ。花がない部屋にいることが耐えられないから。あまりモチは良くないけれどすごい種類の花がひしめき合っていて、おしゃれで、車も比較的停めやすく、夜7時までやっているお花屋さんを知っている。大抵のお花屋さんは6時までしかやっていないので、この1時間は大きい。家に入る前に借りている駐車場へ行き、愛車にキャリーケースを積んで20分ほどかけて花屋へ行く。このお店の向日葵を1本ずつください、できるだけ元気な子を選んで欲しいです、とお姉さんに頼む。その日は向日葵だけで5種類置いてあった。最近本当に向日葵の品種が多くて楽しい。
キャリーケースとお花を抱えて、家に入るとムッと熱気が立ち込めていた。3日間真夏に留守にすると簡単にサウナだ。クーラーを22度に設定して、パワーモードにする。向日葵の茎を切って、高さを調節しながら飾る。旅行に合わせて切花は終わるように調整していた。でもドウダンツツジは買ってから1ヶ月立っていたのにあまりにも元気だったので、捨ててしまうのがはばかられてできるだけ涼しいところに置いて��いたのだけど、連日の38度では到底耐えられなかっただろう。カリカリになった葉をむしり、枝を鋏で切り、なんとか元気なところだけ残してみたけれどすっかり悲しい姿になってしまった。元気な枝を何本か向日葵の花瓶に入れる。
ここでようやく玄関に置きっぱなしにしていたキャリーケースを拭き、中身を全部出す。とりあえずざっくり片付けてキャリーケースを仕舞い、適当にごはんを食べる。いつもの日常だ。
ところで、4年程遠距離恋愛をしていると長いですね、と驚かれることが増えた。そして一年に数回しか彼に会わない、-正式に言えば会えないのだけれど、と言おうもんなら途端に訝しげな顔になって、付き合ってる意味があるのかやら、遊ばれてるだけなのではやら、20代がもったいないから他の男と遊べばいいやら好き勝手言われる。はいはいどうぞご勝手にという気分だし、ほとほとうんざりだ。じゃあ逆に付き合ってる意味って何、遊ばれてたら何、あんたと違ってビッチじゃないし男に依存しなくても生きていけるから平気、となる。
反対に友人には礼らしいと言われたりもする。私は1人でいることが苦ではないし、つまらなくもないし、単独行動が好きだ。毎朝毎晩お花の水を替えて、ラジオ体操を無音でして(暗記しているので頭の中で音楽を流している)、毎日本を読んで、好きな店員さんからしか物を買わず、思い立って1人で美術館やらバレエやらを見に行く。自由にヒタヒタに浸かっている。フレンチトーストの気分。幸福だ。
1人でいても楽しい。2人でいるともっと楽しい。それが私と彼のスタンスで、盆と正月のような逢瀬を心待ちにしている。今回も人生で念願の夏に島で自転車に乗る、という旅ができて本望だ。彼といる夏はいつも暑くない。
それでももちろん楽しいからこそ別れ際が寂しくなったりするので、林真理子のエッセイを2冊買って読み切った。いつもと同じ状況をつくっておけば寂しくないと信じて。結果、林真理子は偉大ということが分かった。
会いたくないは嘘だし、会えなくても平気も嘘だけど、会えると嬉しいし楽しい。4年付き合っててもこのスタンスでいられる遠距離恋愛に少しだけ感謝してる。小さじ1杯ぐらい。
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国���北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を���める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えて��まったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中���政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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生活のバタバタが多分落ち着いた気がする。家の近くに馴染みのスーパーマーケットがなくて悲しくてどうしようと思ったが、灯台下暗しのまいばすけっとが意外と優秀なことに気づき買い物に行っている。一通り生活できるようになったかと思えば恋人の滞在により布団と枕が必要になった。両方を寝返り中に向こうが奪うことにブチ切れていたら今度の給料日で欲しいものを買ってくれる事になった。恋人に文句を伝えられるようになって2年目に���る。
2人で記念日の確認で「7月31日だったよね…?」となっている。ベッド上で、私のことどう思っている?、と聞くとこうなる。抱かれなくなって1年経とうとしている。抱かれなくなってというか、行���に飽きがきた。嘘。本当はしたいよ。遠ざかって上手く誘えず、多分向こうも、そう。
うまく眠れない日々が続く。今朝も1時間毎に目が覚めていたが6時になってカーテンをガバッと開けて無理矢理起床した。朝に囚われてる気がする。洗濯機に溜まった洗濯物を回して干して寝具も洗えるものは洗い干した。9時半くらいに落ち着くと眠気が来て身を任せて昼まで寝た。ポケモンスリープ入れようかな。寝る前のスマホも老けるからやめたいのにASMRを見ながら寝ないと眠れない。人がいたらまた違うけど。
女神に手紙を書いた。先日スライサーで利き手の親指をやってしまい、痛みが引いてきたので漸くといったところ。恋人いる前でスパッとやったのである意味よかった。止まらない血にパニックになって涙が出てたけど一緒に止めてくれて絆創膏も買ってきてくれた。(あの高いやつ)毎晩飲む錠剤を出すのに手間取っていたら開けてくれた。新生活に向けて購入したスライサー、危険なのでご注意を。話は戻るが女神とは夏終わりにデートする。帰りを気にせずに会えることがとても嬉しい。異動した際、女神からは「おかえり!ずっと待ってたよ!」と言ってくれた。
引っ越してから欠かさず湯船に浸かっている。バブの安い日に色々買いだめをしている。実家でもバブを使っているので、バブが〜と話すと恋人と間違われる。そんな私のバブはパーマをかけて寝癖でブロッコリーみたいになった写真を送ってきた。プロッコリーぺぴちゃん。またイラスト化してロック画面にする予定。
朝夕と移動は立ちっぱなしなので家くらいで編み物。いつになったらケースになるんだと思いながらもひたすら編む。本日都内のセリアに向かったら欲しい毛糸がなくて落ち込んだ(1箇所)。デニムラボの4番見つけたら教えてください。
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おはようございます。
宮城県仙台市は曇り空です。
昨日は朝から職人さんの中塗り作業準備をしてから、明日11日から15日までの五日間、宮城県仙台市の夢メッセみやぎにて開催される、全国やきものフェアinみやぎの展示会準備をし、お昼過ぎからは仙台へ車移動。
予定通りに夕方前に到着し、近くのスーパーにて買物後にチェックイン。
会期中の衣服やらアレコレと部屋で整え、晩酌後には知らないうちにZzz
そして今日はこれから展示会の搬入日。
今日もアレヤコレヤと有りますが、一人焦らず一つ一つコツコツ頑張ります。
皆様にとって今日も、良い一日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec
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5社の就職試験を受け、なんと5社すべてから内定をいただきました。 誰にでもできるシンプルな作戦ではあるのですが、実際にやるとなるとすこし大変かもしれません。けれど、どうしてもコピーライターになりたかった私は、自分が編み出したこの方法を実践することで、内定がもらえるだろうという自信のようなものがありました。なぜならその方法は、日本中の誰も(きっと)やったことがない方法だと思っていたからです。 ということでさっそく、その手の内を明かしますね。こたえは簡単。 「写経」です。 わかりますでしょうか? 一般的にはお坊さんがお経をひたすら写し取る作業のことを指しますよね? コピーライターの場合もほぼ同じ意味です。「過去の(名作といわれる)コピーを手で書き写すこと」。これだけです。本当にこれだけのことを行うだけで、試験を受けたすべての会社から内定をもらうことができました。 ちなみにこの写経、コピーライターを志す人や、若いコピーライターなら、経験済みという人も多いと思いますし、上司から「やれ」と言われることもありますよね。それほど“ベタ”な方法なわけです。それでもこの方法で内定がもらえると自信があったのは、人とはちがうやり方を発見したからです。 前置きが長くなってしまいましたが、さっそく具体的な方法をお伝えします。 それは“圧倒的な量”をこなすことです。 あまりにも単純でしょうか? がっかりしたでしょうか? すみません… けれどもなぜわたしが、そんなサルでも思いつくような方法を実践しようと思ったのか。その経緯も説明しておきますね。 わたしは当時、宣伝会議が主催する『コピーライター養成講座』に通っていました。 (…) さまざまな講師の方に、“定点観測をするように”、尋ねました。 「コピーライターになるために今やっておいたほうがいいいちばんの練習ってなんですか?」 シンプルな質問です。答えの中でもっとも多かったのが、さきほど紹介した「写経」だったのです。さらに偶然なのですが、当時読んだ広告業界への就職に関するの書籍の中で、ある人がこう言っていました。「コピー年鑑の1年分のすべての文字を書き写しました」。 よし、これだ! 未経験のじぶんがコピーライターになるための方法はこれしかない! そのときそう思ったんです。 けれど1年分じゃその人の真似で終わってしまいます。倍の2年分にしようか? いやいや、それだとインパクトは弱いかな…。思いきって5年分! うーん…中途半端? ということで結論、 10年分のコピー年鑑を写経しました。 これがわたし流の、すべての会社から内定をゲットした方法です。 さて、やるべきことは決めたものの、そのためにはコピー年鑑を入手しないといけません。ご存知の方も多いと思いますが、コピー年鑑といえば1冊約2万円!もする高額書籍です。若かったジブンが簡単に購入できる書籍ではありません。そこで近所の��書館を何件かはしごして、10年分を手元に入手しました。10冊すべてを自宅のデスクに積み上げると壮観でしたが、これをすべて写すのかと思うと、果てしない道のりにも感じました。 (…) さて、準備が整いました。コピー年鑑は最初から写していきます。TCC賞、審査委員賞、部門別コピー、新人賞という流れだったかと思います(現在の年鑑では新人賞が前の方に来ていますね)。とくに新人賞の受賞者は年齢や作品が大きく取り上げられていたので、勝手にライバル視していました。 また、ひとつの広告に絞ると、キャッチコピー⇒リードコピー⇒ボディコピー⇒そして小さな文字で書かれた注釈まですべてを写します。肉眼で見えない部分は、“100均”で購入した虫眼鏡を使って読み取りました。コピーの良し悪しなんて当時はまったくわかりません。それでもコピー年鑑に掲載されている時点ですべてお手本だと思ってひたすら作業を続けました。 (…) 写経の過程でたくさんの発見もありました。コピーを写すことでいいとされるコピーを知識として知ったということはもちろんですが、それ以外にも、毎年掲載されているコピーライターの名前は嫌でも覚えます。また、その人の文体までなんとなくわかってきます。細かい点でいうと、「ボディコピーってこれくらいの長さが一般的なんだな」など、そういった感覚もついてきます。10年分を通して見ると、じつは毎年同じような作品が掲載されていることも知りました。そのため作業に飽きてしまう日もありましたが、言葉を変えれば“飽きるほどやる”ということは、覚えてしまったということでもあありますよね。とにかくとても大切な経験だったと思っています。 さて、作業自体は楽しかったのですが、困ったこともありました。朝から晩まで写経を続けていると、8時間くらい経過したところで、目の前がチカチカして、軽い眩暈のような状態になるんです。遠近感がつかめず、立ち眩みがするのです。心ではもっと書きたいと思うのですが、その症状が発症したら作業は終了と決めました。1日約8時間。1冊を写し終えるのに5日くらいかかっていたと思います。 10年分を3か月で写経完了! 写経したコピーが書かれたプロジェクトペーパーは、さきほども言ったようにパンチ穴をあけて、リングファイルのいちばん背幅が厚いものに綴じていきます。10年分ですから相当の厚さになります。重量も5kgくらいはあったでしょうか。 ちょうどその頃、養成講座も修了するタイミングでしたので、就職活動も開始しました。養成講座の受講生だけが見られる求人票や、マスメディアンのサービスを利用しました。当時は地方在住だったため、面接のためには上京の必要がありました。交通費をなるべく抑えたかったので、なるべく面接は1日にまとめるようにして、その結果、5社を1日で受けられるようにスケジュールを組みました。 ※書類選考は半分ほどの割合で通過しました。 “写経ファイル”は、キャリーバッグに入れないと持ち運びができないほどの大きさにふくれあがっていました。ですが、面接で毎回そのファイルを見てもらうと、必ずといっていいほどウケます。若干ひかれていたかもしれません。「なにそれ?」「こんなヤツ初めて見た」「誰もやったことないんじゃない?」「うちで決めちゃえば?」などなど…。手ごたえを感じるたくさんの言葉をいただくことができました。 未経験者がコピーライターという肩書きを手に入れるためには、どうすればいいのか。内定から逆算して行動できたことがよかったと思います。元々、学生時代に行った就職活動もけっこう好きでした。いろんな会社にタダで葉入れて、話が聞ける。そしてもちろんたくさん落ちました。そんななかで自分をアピールする方法を考えないといけないということも学びました。 どうすれば、「人と差別化できて」「インパクトを残せて」「いっしょに働いてみたい」と思ってもらえるか。 そういった視点で準備をすることが重要です。しょせん私自身は、実際としては“経験ゼロの若造”なわけですから。それでも「おもしろいヤツだな」と思っていただけると、次のステップに進めるのではないかと考えていました。結果としてすべての会社から内定をいただくことができましたが、正直そこまでの結果は予想していませんでしたけど。 この方法を実践すれば、すべての会社とは言わないまでも、ある程度の確率でいいところまで行けるのではないでしょうか。もちろんもっと楽でスマートな方法もあるかもしれません。でも、本当にかなえたい夢のためなら、努力はできると思います。逆に、これくらいの努力ができないのであれば、あなたはあまりコピーライターには向いていないかもしれません。 ちなみにわたしの場合は、電通や博報堂に入社することよりも、コピーライターになる方が重要でした。 結果として10年以上がたった今も、毎日楽しく働くことができていますし、「会社行くの嫌だなぁ」と思ったことは一度もありません!
未経験でコピーライターの内定を“確実にもらう”方法(実証済み!)|ai0167
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2024.6.6 thu
長女は一晩で回復して今日は友達とランチですと。
次女だけなので作り置きのおかずで簡単に。
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今日も晩酌なし。晩飯のおかずはさんまの塩焼き。今シーズン初さんま。
明日からの土日が最後の大一番か。
#さんまの塩焼き
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昼飯はコンビニなので写真はなし。
帰宅後30分で作る晩飯は「豚と厚揚げの生姜焼き」である。
歩いて行けるところに旨い豆腐屋があるので、そこで油揚げや厚揚げも買う。
今日はそこの厚揚げを生姜焼きに使った。
豚はしょうゆで下味をつけて小麦粉を軽くふってから焼く。
たれは生姜をすりおろして、しょうゆと酒。
勘のいい人ならお分かりかと思うが土井善晴さんのレシピである。
土井先生のレシピは使う調味料が少ないのがいい。
明日からまた三連休。
とりあえずしっかり寝よう。
ごちそうさん。
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20240709 ぐるぐると考える日
昨日紫陽花の植え替えを済ませておいて良かった。今日は軽く眩暈がする。多分生理が近いせい。こんなに生活リズムがめちゃくちゃなのに月のものはきちんと来るのが不思議。自覚できる予兆もちゃんとある。それがあると、あぁ明日か明後日だな、と思う。それまでの気分の落ち込みはまあまああるけれど、最中の痛みは全く無い。
なので、今日は何に対してもやる気が無かった。
午前中に歯医者の予約を入れていたので、それまでに家のことを済ませる。歯医者の帰りにホームセンターに寄って花の虫や病気用のスプレーを買おう、とぼんやり考えながら運転していたら歯医者の手前にあるホームセンターの駐車場に入ってしまった。バカなの?と思ったが、どうせだし目的のスプレーを買って歯医者に向かった。予約時間ギリギリだったけど間に合ったのでよしとする。
歯医者では詰め物をしてもらった。歯医者さんがぎゅーぎゅーと力を入れて詰め物を詰めている時に、���っているピンセット?の先がズレて私の上顎に突き刺さってとても痛かった。ごめんなさい!と謝ってくれて、治療後に歯科助手さんが 「大丈夫だと思いますけど、少し血が出てしまったのですみません。」 とワンタフトブラシと歯磨き粉をくれた。刺さった直後はとても痛かったけれど今はもう痛くない。
詰め物と下の歯の噛み合わせが気になったのも、晩ご飯を食べたら気にならなくなった。慣れたのか咀嚼の結果詰め物が押し込まれたのか。
今夜は三日月か。月齢3.6。少し赤くて細い月がきれいだった。沈みかけた月は家の庭からはもう見えなくなっていたので近くの歩道橋まで歩いて見に行った。
日が落ちると吹く風はそれなりに涼しくて、半袖から出ている腕を、ほんのり昼間の熱気を見え隠れさせながら撫でていく。湿度もそんなに感じないし、これなら窓を開けて眠れるかもしれない、と思う。猫たちが脱走しちゃうからできないけれど。
月を撮っていたはずがいつの間にか交差点を撮ったり歩道橋を撮ったり。そんなことをしていたら月は雲に隠れてしまった。
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