#ポリティカル・コレクトネス
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ポリコレそのものが悪いんじゃあないんですよ。クリエイター側が、作品の面白さではなく、如何に作品がポリティカルにコレクトネスであるかどうかを追い求めるようになることが問題なのです。これはモラルハザードです。企業が利益追求ではなく、社会的な正義を追求するのは最悪の行為です。
佐々木鏡石@『じょっぱれアオモリの星』、12/28発売さんはTwitterを使っています
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のんびりしているのか、慌ただしいのか、良く分からない日々のまま、ローマへ行く。フランスの一泊二日旅行後は、Hendrik君と食事する。ドイツは流石に精神治療や心理学が盛んなだけに、色々と身近にいる困った人々を分類して説明する事に長けている。日本みたいに蓋をするのではなく、言語化して、どういう時の何が問題行動のパターンとして表れるのか、的確に分析してくれる。
折角の北ドイツなので、Schwerinという小さな町も訪れる。Schwerin城がある。その後、海が見たくてWismarまで足を伸ばす。海は黒かった。青い水が見たい。ここは、湖も川も海も黒い。憂鬱要素しかないドイツ。風景も、のっぺりして油絵のようである。日本の風景のように活きていないのだ。そしてゲイウィークのため、フォーシーズンズは一早く虹色にライトアップ。金持ちの左翼に迎合。あー。。。いかにもドイツ左翼である。腹では真逆を思っているのに、ポリティカル・コレクトネスで意に反することをやるから、イライラしているドイツ人たち。イタリアに一時避難。だけど、発表準備なにもできていない。。。ローマから行けるところは、行くぞ。ぶはは。学会なんて、つまらんエゴの塊どもの発表会じゃ。ワシは学会なんてサボるのじゃ。
っというわけで、中継地のミュンヘンに到着。ルフトハンザなのに、ディレイ。荷物を珍しく預けたから、少し心配だけど、ミュンヘンなら大丈夫かな。。と思う。台湾のオリンピック選手団を見かける。ワシのミーハーな友人は、パリに早速、オリンピック観戦に行っているらしい。ワシは、9月にオリンピック終わってから行く予定。北京オリンピックの時も、オリンピック終わってから初中国上陸したっけねぇ。京劇と万里の長城を見に行く旅だったっけ。良く行ったワシ。
友人によると、パリは雑然、騒然としているらしい。そりゃそうだろ。バリバリパリっ子のパリジェンヌ、コリーヌねーさんはとっくにパリから脱出。今頃パリに行く奴なんて、みんなお登りだろうから、そりゃ京都みたいな感じなんだろうと想像する。セーヌで水質悪く、トライアスロン練習できないと聞くと、ハンブルグでも泳ぐのに泳げないってどんだけ汚いんや。。。と、道頓堀の方がキレイやったんかい。。。と感心する。おフランス人、体臭やばい奴多いけど、出すものもバッチイってこったな。あな恐ろしや。
ミュンヘンは、空が青く、久しぶりに太陽を見る。暑い。けど、暑くても空が青くて太陽が照っている方が幸せなのではないか。。。と思うようになったワシ。クーラーあるなら、えーやん。。。位の気分。さて、ローマに飛びますよ。荷物も無事に向こうでretrieveできますように。
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カナダのジャーナリストが陥りがちな怠惰な習慣の一つが、カナダとアメリカが同じ国であるかのように語ってしまうことだ。アメリカで何が悪いことが起こっていると、カナダでも同じことが起こっていると彼らは思い込んでしまうことからも明らかで、この思い込み故に彼らは実際の取材に���かない。
ジョセフ・ヒース「なぜカナダの大学教授は学生を恐れないのか:アメリカの大学がポリティカル・コレクトネスに席巻された理由」(2015年6月8日) – 経済学101
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2023/09/30
2023/09/30 BGM: Tom Waits - (Looking For) The Heart Of Saturday Night
今日は早番だった。仕事が終わったあと、グループホームに戻って夕食を摂る。その後ZOOMを立ち上げ、ぼくが参加している「発達障害を考��る会」のウェブサイト制作班のミーティングに参加する。そこでウェブサイト制作のために(まず親睦を深めるという目的で)「自己紹介」と「そもそもなぜウェブサイトを作ろうと思うか」「特に誰に見せたいか」といったことをそれぞれが語った。ぼく自身も自分の思うところを述べる。この「発達障害を考える会」が立ち上がったあの日……ぼくはまだ40歳だった。いまぼくは48歳なので、40代を丸ごとこのミーティング/グループの活動と並走してきたということになる。このグループの活動を通して、そもそも1人では何もできなかった(お米も炊けなかったし、洗濯機のボタンをポンと押すだけの洗濯すらできなかった)自分は少しずつ自立に向けて成長してきたのだった。一番最初のミーティングの舞台となった古民家カフェを提供して下さったオーナーの方に「発達障害を考えるミーティングをやるから、よかったら来ませんか」と言われて……それでぼくは深いことも何も考えず「ぼくが仕事やこれまでの半生で体験してきたことを話せればいいかな」と思って、それで参加して……ああ、あの出会い、あのミーティングからすべては始まった。それから何とワンダフルな日々を過ごしたことだろう。
こんなことを書けば口さがない人から大笑いされるとも思うのだけれど、ぼくはあの当時、40を過ぎても独立できず親と同居して暮らしていた。酒は止めたばかりだった。そしてミーティングがあって、そこで月イチのミーティングに参加するようになって、シェアハウスに住まわせてもらうようになりそこで自炊を試み始めて味噌汁を作ったりお米を炊いてみたりして……洗濯はいまでも続けられている。風呂にもきちんと入るようになった(こんなベーシックな、常識的なことさえ酒に呑まれていた頃はできていなかったのである)。まさに人とのつながり、関わりによって可能となったことである。「もし」「たられば」は危険かつ無益なことだけれど、それでも「あの日、あの出会いに恵まれていなければ」と思ってしまう。あの日、「いえ、ぼくはミーティングは苦手なので遠慮します」といって家に引きこもっていたら? そうすればいまのジョブコーチの方、あるいは他の友だち・仲間との出会いもなかったはずだ。自立への足がかりもつかめなかっただろう。そう思うと「出会いの力」「コネクションの力」の神秘・奥深さについて思いを馳せてしまう。人は人と関わることによって、傷つきもするけれど確実に強く、また大きくなれる。そうぼくは確信する。
��きどき「自分はどうしてこんな大きな���で、堂々としゃべれるようになったのだろう」と思ってしまうことがある。もっとぼくは『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のシロツグ(森本レオ)のような静かな訥々とした喋りにあこがれていたのだった。いまのぼくはでも、ガヤガヤとしゃべる人間になってしまった。40歳のあの「出会い以前」の頃……人前でしゃべる度胸・自信なんてこれっぽっちも持っていなかった。まして英語でしゃべるなんてとんでもないことで、母からも「お前はなんでそんなに自分に自信を持てないのかなあ」と言われたことがあった(いまでもこれはぼくの傷に……というと違うけれど、でもこれに関しては思い出すと赤面してしまう)……それがいまやこんな厚顔無恥な人間になってしまった。それはこの8年間のその「発達障害を考える会」との関わりを通して、つまりその関わりあってのことだ。先にも書いた、自炊を学んだりEvernoteの使い方を学んだり、近所の山にメンバー同士で遊びに行ったりぼく自身のアルコール依存症について告白したり……そんなことを8年間を通して行ってきた。それが少しずつ、こんな風にぼくを変えたのだ。人は変わる。そして世界だってそれに応じて変わりうる。常識すら変わる。
いま、ぼくは自分自身を誇れる。このミーティングを通して確実に変わった自分自身に自信を持っている。そんな自分自身を晒せることに誇りを持つ。でも、これはこのグループの活動あってのことだ。人は変われる。誰だって変わりうる可能性を秘めている。これもぼく自身の確信だ。そんなことをウェブサイトを通して(つまりこのグループの活動を「可視化」「見える化」することで)もっと世間にお教えしたいと思った。日本のみならず世界的に発達障害はこれからの社会問題のトレンドの1つとなるだろう、とぼくは信じる。発達障害を考えることはLGBTQやポリティカル・コレクトネスを考えたりすることと並んで「人の多様性」「人間が持ちうる潜在的な能力/可能性」を考えることだ、とも思う……またしても話が難しくなってしまった。ひらたくまとめれば、ぼくは自分を語りたい。変わってきた自分、ここまで変わった自分を示したい(いや、当たり前だけどぼくは「自分が完璧超人だ」なんて言うつもりはこれっぽっちもないです)。これから録るつもりのPodcastや、可能ならその「発達障害を考える会」のサイトでこうしたことがらについて発表できればと思った。そんな感じで今日を閉じた。
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米国では顕著なものとして、「ポリティカル・コレクトネス」を追求する大学の学部における、いわゆる「ウォーク」(Woke。社会正義に対する意識が高いこと。必ずしもネガティブな言葉・現象ではないが、あまりに過剰になり、異なる意見や他者への敬意を欠くと批判されるケースもある)の問題もあります。 そこでは、あらゆることがマイクロアグレッション(意図的か否かにかかわらず日頃の言動に表れる、偏見や差別に基づく見下しや侮辱)とみなされ、攻撃されています。
欧米人と日本人の考え方の違いと、日本を揺るがした「あの事件」の裏話─「ノエマ」編集長が語る日本 | 加藤周一や磯崎新の分析は当たっている | クーリエ・ジャポン
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金原ひとみが語る、文学でしか救済できない領域 「間違っていることを正しい言葉で語る側面がある」
2021.07.25 10:00
写真=林直幸、文・取材=篠原諄
金原ひとみが語る、小説の領域 今、小説や文芸シーンに思うこと
ーーデビューからこれまでの間に、小説や創作に対する考え方に変化はありましたか? 金原:あまり変わっていない気もしますが、やっぱり子どもを生んだこと、(2012~18年に)フランスに移住したことで、他者の存在が大きくなったとすごく実感しています。子どもが生まれる頃まで、毎日パソコンしか見ないような生活を送っていました。会うのは編集者と作家と仲のいい友達くらいでした。本当に閉じた世界の中で、自分の考えの純度を上げていくことに専念していました。
子どもができて、海外移住をすると、いろんな人とかかわらざるをえなくなりました。海外ではまったくもって孤立して生きていくことは逆に難しくて。好きじゃないけれど、仕方なく付き合うようなこともあって、理解できないけれど、そういう考え方もあるんだと否応なしに知る機会が増えました。小説でも、完全なる他者を入れ込むことができるようになったと思います。
ーー金原さんは今の文芸のシーンについて思うことはありますか? 最近の本は読みますか?
金原:今年から朝日新聞の書評委員をするようになって、幅広くいろいろな本を読むようになりました。自分史上すごく読んでいる時期です。最近は文芸にかぎらず、ポリティカル・コレクトネス的、フェミニズム的な本の刊行が増えていると思います。新刊本のリストをいただくんですけど、毎回女性やフェミニズムがテーマになっている作品が多くあります。
ーーそうした作品を読んで、金原さんはどのように感じますか?
金原:もちろん現実的には、より差別の少ない社会を目指すべきだと思っています。ただ同時に社会全体が正しい方向に進む中で、どこがこぼれ落ちるのか。文学でしか救済できない領域は、どこにできていくのだろうと最近よく考えます。
小説というのは、間違っていることを正しい言葉で語る側面があると思うんです。これから先は誰が排除されていくのか。たとえば、老害と切り捨てられてみんなに嫌われる高齢者男性、警察に突き出されるような痴漢かもしれません。そういう人は誰からも共感を得られず容赦無く袋叩きにあうようになっていく。でも小説というのはある程度、誰からも共感されず、みんなから「死ね」と思われるような人たちのためにあると思っています。
「テクノブレイク」では、最後のほうで主人公がゴキブリに自分を投影するシーンがあります。「どんなに命の平等が叫ばれても、ゴキブリは別枠だ。汚くて、気持ち悪いからだ」と。みんなから嫌悪されて、排除を望まれる人たちがいる。私はそういうゴキブリとしての言葉を書き残していきたいんです。
■書籍情報 『アンソーシャル ディスタンス』 金原ひとみ 著 価格:1,870円(税込) 出版社:新潮社 https://www.shinchosha.co.jp/book/304535/
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2022年に読んだ本
「シブヤで目覚めて」アンナ・ツィマ
「開局70周年記念 TBSラジオ公式読本」武田砂鉄
「わたしのマトカ」片桐はいり
「数字が明かす小説の秘密」ベン・ブラット
「82年生まれ、キム・ジヨン」チョ・ナムジュ
「天才たちの日課」メイソン・カリー
「天才たちの日課 女性編」メイソン・カリー
「フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者」シャルル・ぺパン
「白孤魔�� 源平の風」斉藤洋
「白孤魔記 蒙古の波」斉藤洋
「白孤魔記 洛中の火」斉藤洋
「白孤魔記 戦国の雲」斉藤洋
「白孤魔記 天草の霧」斉藤洋
「白孤魔記 元禄の雪」斉藤洋
「白孤魔記 天保の虹」斉藤洋
「にぎやかな部屋 改版」星新一
「ポリティカル・コレクトネスからどこへ」ハン・トンヒョン 清水晶子 飯野由里子
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トランプは、2016年の選挙戦を通じて、極端なポリティカル・コレクトネスの愚行を非難し「アメリカが再び『メリー・クリスマス』と言える国に」と訴え続けてきました。 そして当選後の12月13日には、ウィスコンシン州での遊説で「18カ月前、私はウィスコンシンの聴衆にこう言った。いつかここに戻って来たときに、我々は再び『メリー・クリスマス』と口にするのだと。……だから、みんな、メリー・クリスマス!」と聴衆に呼びかけ、喝采を浴びています。 そもそもアメリカ合衆国という国は、イングランドで宗教上の迫害を受けてきた人々が、1620年にメイフラワー号に乗ってプリマスに移住してきたのを皮切りに、その後、プロテスタントの各宗派が各地にそれぞれのコミュニティ、すなわちステイツ(states=州)をつくり、それが連合してできあがったという“建国の物語”があります。 そこから、かつては「アメリカは、プロテスタントの白人が自らの信仰を守るために建国した国なので、WASP(=White:白人、 Anglo-Saxon:アングロ・サクソン、 Protestant:プロテスタント)が国家の指導層を独占するのは当然」という考え方が常識とされていました。 もちろん「WASPに非ずんば人に非ず」とばかりに、有色人種・ユダヤ教・イスラム・カトリック・仏教などを迫害するといった行為は、非難されるべきです。 しかし、他人の信仰に口を出すわけでもないのに「メリー・クリスマス」と口にすることさえタブー視される社会というのは、やはり異常といえるでしょう。
「メリー・クリスマス」と言えなくなったアメリカ社会の問題(2/2) | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ)
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2024年4月3日水曜日
病院の待合室にて15
自分が想像できる最高のことを言わなくてはならない
「自分が想像できる、一番、酷いことをしなくてはならない」
この一文は、吉田アミさんが2007年に発表した「サマースプリング」という小説のキャッチコピーで、私は今もこのコピーを忘れられずにいる。吉田アミさんの肩書は当時、前衛家/ブロガー/ヴォイス・パフォーマーとなっており、私も吉田さんの声がたくさん、声のみがたくさん入っている、『虎鶫』というタイトルの、Improvised Music from Japanというレーベルから出ていたアルバムを持っていて、もちろん何度も聞いている。しかし、今もなおそのコピーは忘れていないのに、私は『サマースプリング』を読んだことがないし、持ってもいない。恐らく絶版か品切れになっている。何かが刺さったら触れた方がいい、触れずとも買っておけ、とはこういう時の為の、私の中にある箴言である。誰が言ったわけでもないが、こう思ってる本とかCDいっぱい買っちゃうマンは少なくないはずである。
なぜこのコピーが刺さったのか、その理由は割と明確で、それは私が小学校の低学年の時に、国語でディベートについて習った時のことを思い出させたからだ。ディベートの授業は衝撃だった。普段の国語の授業のひとつが、何十年も経った今も、一人の生徒の心に残っているのだから、教育というものは大切だ。
授業で教えられた内容によると、ディベートとは、ある意見について賛成か反対か主張する、もしくはAかBのどちらかに付いて、こちらの方が正当だと主張する。そして話し合い、第三者がどちらに説得されたか判定する、といったものだった。まず衝撃だったのは、自分が思ったのと反対の側についても良い、ということだった。その時の議題は女子と男子のどっちが得か、というものだったと思う、確か。いま考えると結構ポリティカル・コレクトネス的におや?と思わせる内容だけど、一応30年くらい前のことである(1994年と考えると割と最近。あと、それくらい前のことなので、ぜんぶ記憶違いの可能性もある)。そして女子が「男子が得」側、男子が「女子が得」側について、ディベートしたのだ。
幼い私にとって、自分がそうだと思ってない方について、そちらを擁護するというのは、思いもよらない考え方だった。つまり私は、私の意志と関係なく、どちらにだって付くことができる。私はこの時、客観性というものを獲得したのだと思う。幼い私は男子(たぶん)で、今となってはどちらが得だと思っていたかは分からないが、何となく男子を擁護するものかと思っていたのに、女子を擁護することとなった。
そして次に衝撃だったのは、本当はそうだと思ってる方の弱点を探して攻撃する、ないしは、本当はそうだと思ってない方の美点を探して褒め称えるということだった。A案とB案を公正に評価すること。もっというと、A案とB案を同時に過大評価し、同じく過小評価することが許されたのである。ここで私は恐らく、主観を消すことがかっこいいという価値観を得たような気がする。そして、相手が言われて最も嫌なことと、相手が言われて最も嬉しいことを同時に探すようになった。これは、ディベートの授業を学校のチャイムが終わらせてもしばらく続いていて、今は他人に対してはあまり考えないようにしているが、自分に対しては続いているような気がしている。私が言われて最も嫌なことを、私は絶えず探している。そして、私が言われて最も嬉しいことの方はいつの間にか探さなくなっていた……いや考えたらそんなことないかなと思います。たぶん。
冒頭に引いた『サマースプリング』のコピーが、そういう考え方を参照しているかは、読んでいないので分からない。「しなくてはならない」なので全然違うような気がしてきた。読まないとそういうことになる。先ほど、他人に対しては、最も嬉しいこと或いは嫌なことを考えないようにしていると述べたが、他人に対しては公正に評価しようとかいうより、思ったことを言った方がいいような気がしているからだ。あとまあはっきり言って、公正に評価できたからといって、嫌なことの方は思っても相手に言えないし、嬉しいことの方を言ってあげたいのが基本的にはある。大体において人間というのは最高なものなので、言われて嬉しい方を言って、相手を盛り上げてあげたい。これが本心かは言わずにおきますけど。
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【ポリコレ】どうして「ポリティカルコレクトネス」を気にしすぎるとエンタメは死ぬのか?
ポリコレと言うエンタメ界の嫌われ者 ポリティカルコレクトネスとは、「政治的に正しい」事で、転じて「正しい表現」を一般的に指す。 ポリティカル・コレクトネスが創作活動にもたらす影響についてで過去にも触れたが、ポリコレは適正にフィルタとして使えば有用に働く。 だが、間違えた使い方で例えば、ポリコレ色で染め上げたり、ポリコレヤスリで作品の尖った良い部分ごと全部を削っていけば、腐ったポリコレを適応されたエンタメは、いとも容易く息の根を止められてしまう。 ポリコレ失敗作代表として近年では、Horizon Forbidden WestやThe Last of Us Part II等が一部から圧倒的な酷評をされたり、『ロード・オブ・ザ・リング 力の指輪…
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ポリティカル・コレクトネスもLGBTQ+も本邦のSNS言論空間では賛同者・批判者共に基本、海外の事例を都合良く援用(またはミスリードを誘うキャプションが付けられた出所の怪しいソースを元に論難)し、論争のダシにする事しか考えて無い気がする。
さて、元投稿は『LGBTQ+は現在の免罪符』としているが元来キリスト教圏において同性愛は宗教上の罪とされており、時代が進むに連れそれへの対抗運動が勃興するのは必然と思う。
なので、『免罪符』という表現は適切ではない。個人的に元投稿が指し示しているのは権利主張の無制限の拡大に対する危惧だと思案する(でなければ、LGBTQ+が免罪符〜という発想にはならないから)。
それに関しては仮にそうなった時にでも、改めてゆっくり考えればいいと思う。それで今日明日誰かが死んだり日本が滅亡する訳じゃねぇし。
※てか、最近のSNS定番紛糾トピック(例:男女、ツイフェミ表現の自由、与野党支持者 etc...)って、何か『皇国の興廃この一戦にあり』とか『殲滅戦』みたいなムードになってるよね。そんなにツンケンしてて疲れねぇのかな?
近年のSNS言論空間において『認知戦』への警鐘が叫ばれて久しいが、判断を誤らない為にもセンシティブ/センセーショナルなトピックほど距離を置くか、興味があっても速報的に情報収集しない様努めたいものだ。
※因みに、アントン・ラヴェイが提唱するサタニズムはキリスト教的価値観の純然たるアンチテーゼなので、興味があれば調べてみて欲しい。
※あと、めっちゃ補記・修正したのでReblogの際はご注意を。
LGBTQの類い。
現代新たにキリスト教的な「原罪」を作り出して「免罪符」売りつける商売なわけだ。
キリスト教世界ではそれがすごくハマるんやろな。。
一方、八百万の神がいる日本、そういうのはハマらない。
民衆を統治するために歪に作り込まれたキリスト教が道徳規範みたいなの押し付ける感じとちがって日本の神は人間に興味が無い。元々民族がどうのこうのいう話もない。
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カナダの大学は、大衆向け教育ビジネスを行っているのだ。カナダの大学は何世代にも渡って国民を包摂してきたが、そのうちの何万人かは最近やってきた移民達であり、大学は彼らに中流階級へのアクセスを与えている。高級なアメリカの大学は、極少数の人に向けてハイソなニッチ教育を提供するビジネスを行って、上流階級へのアクセスを与えている。これは本当に根本的な違いだ。 次に、アメリカの大学は、天文学的な学費を請求している。上位10校のほとんどが、4万��千ドル以上の授業料を請求しているが、さらに学生をキャンパス内で住まわせており、一年当たりで合計6万ドル以上請求している。対照的に、トロント大学では、文系や理系の学位を取得のための一年当たりの授業料はわずか6千ドル強たらずであり、学生は自宅を含めて好きな場所に住むことができる。 この天文学的な学費のため、アメリカの高級大学は、所謂「顧客サービス志向」を強めている。こういった高級大学が、顧客を「不快にさせる」のを心配するのは不思議でも何でもない。学生を不快にさせれば、親から電話がかかってくる。親から年6万ドル以上搾り取ってるも同然だからだ。 また、アメリカの大学は、セメスター〔学期の半分〕単位で授業料を請求しているので、大学は秋学期に退学者を出さないことに極端なまでに神経質になっている。受け入れ可能な学生数は、学内の居住スペースで制限されているので、クリスマス前に学生を失うと、学年の残り期間で、寮の部屋に空きがでてしまう。この結果、アメリカの大学寮は、後期の授業分を予めオーバーブッキングしたり、半期ごとに登録を行ったりして、1月に空室ができた場合に新しい学生を押し込めるよう、航空会社やホテルのような「イールド・マネジメント [1]訳注:利益を最大化するために、需要動向を予測して商品価格を調整する経営手法 」を実行するようになっている。 私が強調言及したいのが、アメリカの大学は、この天文学的な学費を重視するあまり、学生に留まってもらうのに全力を尽くようになっていることだ。もしアメリカの大学で、学生がいくつか単位を落としたら、アドミニストレーターから、「大丈夫ですか? 希望するなら相談に応じますよ」と確実に電話がかかってくる。キャンパスでこのような雰囲気が醸成されるのは、私の見解では甘やかしの温情主義でしかないのだが、アメリカ人がこれを望んでいるのだ。以上が、アメリカの大学のビジネス・モデルである。 このことで、アメリカの大学の多くでは、学生を落第させたり、盗用を禁ずるルールを強制するのを辞めているも同然となっている。さらに、提供している講義の内容も、学生に過大に迎合することになっている。カナダとアメリカの大学が同じことをやっていると想定しているなら、この制度の違いに気づいていないことに他ならない。 カナダの巨大公立大学は、良くも悪くも、「顧客の苦情」から完全に隔絶されている。私はトロント大学に20年いるが、授業中の発言や行動からなんらかの否定的な反応受けたことは一切ない。むろん、このことは、別の問題を引き起こすが、学生の意見に怖気づくようなことは一切ない。 (このカナダの状況は、初学年で学生の半分を中退させる���ランスの大学ほど酷くはない。ただカナダでは、もし学生が単位を落としても、誰も確認の電話はかけてはこない、とだけは言っておこう。) カナダとアメリカの間には、キャンパスの政治風土に大きな影響を与えている、もう一つの大きな違いがある。アメリカの左翼の学生や教員は、政治的エネルギーやフラストレーションを発散する場がほとんどないことだ。民主・共和の両政党は硬直化しており、本質的に腐敗している。結果、政府の変革に向けられるべき巨大な政治的エネルギーが袋小路に陥っており、この巨大エネルギーがキャンパスの政治に捻じ曲げられて放出されている。 言い換えれば、アメリカのインテリは、政治制度から完全に疎外されているのだ。大学を浄化すれば、幅広い政治変化をもたらす重要な第一歩になる、とアメリカのインテリの多くが信じ込んでいる。しかしながら、これは大抵、インテリの自暴自棄に表れに過ぎない。アメリカのインテリ達は、自身の国において意義ある政治変化を一切もたらせないと認識しているので、自身がコントロールできる小さな世界の片隅に関心を向けている。 対照的にカナダは、信じられないほどダイナミックな政治制度を保持している。政党へは非常にアクセスしやすく、参入障壁も低い。前回の総選挙の後、モントリオールの知り合いの大学教授のグループ間で行われた興味深い会話を耳に挟んだのだが、教え子がどれだけ国会議員に選出されたのを情報交換したらしい。カナダにおいて大学生であれば、国会議員に立候補できるのだ。なのにキャンパス政治で乱痴気騒ぎするだろうか? カナダの大学生が過激な行動に従事するとしたら、社会正義に関する抽象的な考えよりも、学生自身の経済的な関心(授業料の引き下げや、資金保証のよりの高額化)が主であってきている
ジョセフ・ヒース「なぜカナダの大学教授は学生を恐れないのか:アメリカの大学がポリティカル・コレクトネスに席巻された理由」(2015年6月8日) – 経済学101
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ここ最近、ゲーム関連でダメージ受けてる事が多く、へばっております。モヤモヤの吐き出しでございます。
良いこともあったんですよ!ソニーがプレステ5のアクセシビリティコントローラー出したとか。
XBOXも前から純正アクセシビリティコントローラーありますね。
任天堂はHORIさんのコントローラーがあります。
プレステのイン��ビューで“ストリートファイター6などの競技シーンでは改造コントローラーを禁止されるので、純正アクセシビリティコントローラーが出来るまで大会に参加できない人が出ていた”って書いてあったので、任天堂も純正アクセシビリティコントローラー出してくれると良いですね。スプラトゥーン3とか大会ありますから。
こっからです、モヤモヤ話。
プレステ5でスパイダーマン2が出ましたね。ピーターとマイルズのW主人公だそうです。「楽しそうだな〜」と色々検索して回ってたんですよ。そうしたら…
ファミ通がレビューで「大小さまざまなシーンに多様性を意識させられる道義的側面に堅苦しさを感じるが基本的にはエンターテイメント第一の作り」って、あったらしいですね…Web版のレビューでは無かったので、雑誌の方だと思われます。
いや、あの、これ、スパイダーマン!
ヒーローにして隣人!大いなる力には大いなる責任が伴うのでは?…と、実写映画とスパイダーバース1作目しか観てない私は大混乱したのですが、他のメディアだと道義的側面は薄いんですか?
…だとしてもファーストのビッグタイトルなんで、たくさんの人に遊んでもらいたいんじゃないですかね…アクセシビリティコントローラーも出したばっかだし…何でストーリーが合わない部分があるのを多様性のせいにするんだろうな。ゲーム内で描写される人が増えると困ることがあるんだろうか。そもそもマイルズの経緯って…とか今もグルグルしています。
それに合わせて、ゲーマーの人もな、「ポリコレがあるなら、遊ばなくていい」とかな、元Twitterであったんですよ…
何かな、XBOXの情報流してたり、洋ゲー考察系のYouTuberとか、ペルソナのファンの一部の人はポリティカル・コレクトネスに否定的…というか、雑に捉えているというか、合理的配慮がなんで存在してるのかっていう経緯まで考えてなくて、無視されがちな人々のこと排除したままでいいんだ…と、ぐっちゃぐちゃです。
もー、自分はこういう事に苦しんでいるけれど、投げ捨てない様にゲームを遊んでいこうと思います!
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映画感想『クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝』
【あらすじ】 かつてしんのすけが誕生した「しばた産婦人科」そこで取り違えがあったという。ひろしとみさえの子だとして、珍蔵という男の子がやってくる。しんのすけを産んだという女性のちよめは野原家と一緒に家族になることを提案する。その夜、忍者の集団が野原家を襲撃、ちよめと一緒に外に出たしんのすけが、珍蔵と間違えられ忍者の里につれて行かれて…。
余談なのですが、尼�� 騒兵衛『忍たま乱太郎』の乱太郎・きり丸・しんべぇに似せたキャラクターが3人居たのも面白かったです。
アクションシーンは相変わらず素晴らしく、しんのすけたちに迫る危機への演出も、背景美術も美しいのです。
もう少し取り違えであるとか、取り換え子についてなど深堀できる部分もあったのではないかと思いますが、全体をとしてよくまとまり、強いメッセージある一作だと思います。
■おじさん政治批判 2020~2021年は ・政治家の会食問題 ・国会でワニ動画を見る政治家 ・森喜朗わきまえ発言 と実は政治のトンデモも盛りだくさんだったんですよ。うちの国いっつも盛りだくさんなんで忘れがちなんですけど。 特に「ワニ動画」については映画『劇場版センキョナンデス!』を見るとゾッとできます。現在は沖縄知事選に迫ったドキュメンタリー『シン・ちむどんどん』の上映チケットが販売中です。どちらも素晴らしい作品でした。 【映画】『劇場版センキョナンデス!』公式サイト https://www.senkyonandesu.com/ 【映画】『シン・ちむどんどん』公式サイト https://www.shin-chimudondon.com/
●ワニって何? という方へ ワニ動画騒動とは、自民党平井議員が「検察庁法改正案」の国会論議中「ワニの動画」を見ていたことが問題視された事件。改正案は後に見送られた。 このニュースはフェミニズムにとって重要で、「#検察庁法改正に抗議します」のハッシュタグアクティビズムを始めたのが「笛美さん」という個人のフェミニストで、笛美さんは現在もinstagramなどでフェミニズムに関する情報をわかりやすく発信されている。青い肌のキャライラストが特徴。 HUFFPOST:「ワニ動画」で有名に。平井卓也氏とは?デジタル担当相に内定 https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f615da6c5b6e27db13465d2 47ニュース: 偶然でなかった、考え抜かれた“つぶやき” 「#検察庁法改正案に抗議します」笛美さんインタビュー https://nordot.app/636507705121358945 【笛美さんのinstagram】https://www.instagram.com/fuemiad/
しんのすけが風子と一緒に城に潜入した後、母親と一緒に帰る風子の後姿を見送り、のどかな風景を一人歩いて帰る���しいシーン…のはずなのに、しんのすけが一人でその場所に居る不安定さを演出する印象的なシーンになっています。親と繋がれる唯一の機器であるスマホを撫で、「もしもーし」と語るシーン、そして眠るときにも離せないつながりを求める演出は胸が締め付けられる、零れ落ちるような美しさがありました。 続いて……、しんのすけが生まれて、子どもの目線とひろし、みさえの視線、家族がいる風景と畳みかけてくるあのシーンは「幸せ」といえるでしょう。
そして、その幸せを奪っているのが村のオジサンたちによる利権なのです。
■ジェンダー クレヨンしんちゃんはどうしても「家族」という部分が避けられないという問題があります。それでも、今作はフェミニズム視点の批判あるジェンダーをしっかりと取り入れている子ども向けアニメ映画になっていました。 しんのすけが忍者の里で男の子用の緑色の忍装束を用意され、「オラこっちがいい」とちよめが昔着用していた薄いピンク色の服を選び、着たいから着るシーンは、明確な「男児寒色、女児暖色」問題に触れており、「着たい方を着ていいんだよ」というメッセ―ジになっています。 東洋経済ネット:「おもちゃとジェンダー」老舗メーカーが挑む難題 https://toyokeizai.net/articles/-/607517 ママトーク:売り場区分廃止、誰でも購入しやすい色… おもちゃ選びに男女の性差なく https://mamatalk.hokkaido-np.co.jp/article/234654/
また、幼少期から性による差を植え付けられ「私は女の子だから長老にはなれない」と言っていた風子の存在や、男たちの会食で静かに酒を注ぐ秘書、子どもを妊娠しつつ珍蔵のために暖かな場所を求めたちよめ、そしてそのちよめをぞんざいに扱う村長の存在などは、映画を飛び越えた男尊女卑を描いています。 しんのすけが涙するシーンも、いままでのクレヨンしんちゃんなら「男の子は泣かない」と言われていたと思います。 「辛いときは泣いたって良い」「感情を爆発させてもいい」今まで描かれなかった“らしさ”の呪いを解く演出だと思います。こうした失われたものを取り返す演出は、「ポリティカル・コレクトネス(道義的公平性)」といえる表現なのですが、なぜかポリコレは悪しざまな言葉に思われているというネットミームの影響問題があります。
漫画版の話になりますが、みさえはパートに出たことがあり、尻を揉まれる・いびりに遭うなどのハラスメントを受け、それと闘い1���で退職する(そして様々な職員から拍手される)という話があります。 漫画・アニメ内でみさえは昔から他者、そして画面の向こうにいる視聴者を応援、喝を入れるパワーある女性でもあり、一方で母親という役を受け入れ、過酷な子育てを引き受け、父ひろしの晩酌を優先するなどジェンダーステレオタイプな専業主婦であるという一面もあり、この辺がみさえに対して複雑な感情を抱く点です。
それから、妊婦のちよめに対し、「赤ちゃんはどこから来るの?」と質問したしんのすけに限らず、子どもが誕生するまでの経緯について「はぐらかす」のは良くないと言われています。子どもが欲しいと思った時に、「男性と女性の身体の中にある細胞が触れ合い、母親のおなかの中で育つ」、どうやって触れ合うのか? という問いに、「大切な人と性行為をする」ことをしっかり伝えることは、自分の、他人の肉体に対する敬意にも繋がる重要な教育なのです(しかも日本社会は性教育について非常に遅れています)。 COSMOPOLITAN: 子どものうちから性教育を!被害者にも、加害者にもさせないためにhttps://www.cosmopolitan.com/jp/trends/lifestyle/a43613427/sex-education-for-children/
■見ている側が気付けない“偏見” ヘソにふたをするために忍者の里の人々は動物に変身できる「もののけの術」を使える屁祖隠家を利用します。屁祖隠家が使っていた「もののけの術」ですが、本来は里の子どもたちが遊びのために使っていた術であったことが物語後半明らかになります。つまり、想像力豊かならばだれでも使えるのです。 しかし、何よりそれ以上に、「もののけ」とは名だけで、想像力を駆使すれば人間さえ召喚できるとひまわりが証明します。 珍蔵の父、祖父は術を使い言葉が伝わりにくい動物になってしまいますが、なろうと思えばより強い人間に、より強い自分にもなれたはずであるという部分は、視聴する側でさえ最期まで気付けなかったバイアス(偏見)だと思います。
OPのケツメイシ「スーパースター」に始まり、ラストソングの緑黄色社会「陽はまた昇るから」も素晴らしく、30周年にふさわしい素晴らしい映画として���とまっていたと思います。 30周年、そして31周年おめでとう、しんちゃん。
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読んだ読んだ
ポリコレ棒警戒論者について考えたので読みなおし ポリコレは死語、以上
千葉雅也のこと何も知らないけどそういう論者だろうなと思ってたら、そういう本(『「超」ポリコレ宣言』、レビュー読んだ)まで出してたわ
ポリコレということばを使わずに、ただただフェミニズムやクィア理論を使って分析するか〜の気持ちに
本のレビューで「ポリコレに潜むファッショ」とかいう文言を見かけて、なんかへとへと…… だけどこの記事でふれられているように、「正義」には盾つかないのに「多様性っぽさ」には何か言わなきゃ気が済まない(アンパンマンがバイキンマンの行為についてパンチしても何も言わないのに、アンパンマンに同性愛カップルが出てきたら「ポリコレだ!」と言うだろう、という例は多分マジでそう)みたいながばがばな意識なんだろうから、もういいけど…… この語から離れよう、急にめちゃ疲れたわ
別に「いいとされるもの」の傲慢さや問題点をあばくのはいいけどさ、それが何を喚起する/しているのかは考えたほうがいいだろ……(差別にお墨付きを与えたり、人権ずたずたのままでいいとすることにつながるし、右派が溜飲を下げることを奨励してなにが楽しいんだろうと思う)
わたしが露悪的なものが嫌いなのって、それが「周縁の提示かつ実践によって、中心を拡張あるいは解体する」というわたしが是とするやり方ではなく、中心と周縁を読み違えた上で、みずからが中心に乗ったままだということを意識せず、(権力関係を考えればまったくそうではないのに)剥奪感や被害者意識の溜飲を下げているからなんだよな〜、その露悪になんの格好良さも信念も感じないわ 信念を持ってやれよ、貫けよ
「正義に反抗しちゃう俺、格好良い」みたいなの、いい加減やめな〜〜(わたしの「露悪」のイメージ、これ)、そこでの「正義」って「正義」として遵守されていないし権力持ってないからね…… そんなに「正義」に反抗したいなら、権力持っていればなんでもありの現状、つまり「権力=正義」に反抗すればいいのになと思うんだよな マジでそこがずっとわからない 露悪、自らの立ち位置がわかってないからなのか、めちゃくちゃ権威主義的なムーブだなとしか思えないわ なんで後ろの構造が見えずにただ現状を積極的に肯定することにリソース割くんだろう?
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