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ミーレ食器洗い機 入れ替えキャンペーン実施中!


ミーレ食器洗い機入れ替えキャンペーン実施中!
ミーレ食洗機への入れ替えを検討中の方に朗報です。
日本製食洗機からの入れ替えも
海外製食洗機からの入れ替えも
現状のキッチンキャビネット一部撤去しての設置も
古いミーレ製の食洗機からの更新も
全ての方がその対象となります!
ミーレの食洗機をご採用頂いた方にオフィシャルオンラインストアで使用可能なクーポン¥5,000-分を5枚(計¥25,000-ぶん)差し上げる入れ替えキャンペーンを実施中です。
この機会をぜひご利用ください。
ただし本キャンペーンはミーレ正規代理店でご購入のお客様限定のキャンペーンとなり、クーポンがなくなり次第終了となります。
最寄りの代理店は以下にてご確認ください。
全国販売店一覧
またクーポンの使用期限は2023年12月31日までとなっておりますのでご注意ください。
お問い合わせはおホームページのお問い合わせフォームよりお願い致します。
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「エヴァンゲリオン」シリーズに登場する組織を名乗り、防災情報を「国内最速」のレベルで発信し続けるSNSアカウントがある。今や気象庁も認める社会インフラの一つとなった「特務機関NERV(ネルフ)」だ。当初は19歳の大学生による無許可のファン活動だったというNERVが、最速と呼ばれる防災情報組織に発展した背景には何があったのか。アカウントの設立者でセキュリティー会社「ゲヒルン」(東京)社長の石森大貴さん(34)の歩みを追った。(時事ドットコム取材班キャップ 太田宇律) ◇学生起業「すぐにつぶれると」 大学生だった石森さんが、ツイッター(現X)上に防災情報を発信するアカウント「特務機関NERV」を立ち上げたのは、2010年2月のこと。エヴァンゲリオンに登場するNERVは、謎の敵「使徒」と戦う組織の名称だ。「突如現れる使徒は、現実世界で言う災害のようなもの。当初は、全国の警報や避難指示を自動投稿するだけのアカウントで、ただのファン活動でした」(石森さん) エヴァと出会ったのは、主人公の碇シンジと同じ14歳のとき。幼なじみがDVDを貸してくれたのがきっかけで、「新劇場版」の公開時には映画館に何度も足を運ぶほど熱中した。大学在学中に知人の勧めで起業したときも、社名はエヴァにちなんで「ゲヒルン」に決めた。「頭脳」を意味するドイツ語だが、ファンにはNERVの前身組織名として知られている。 石森さんは設立当初のゲヒルンについて、「若手エンジニアを集めたイベントの開催や、ウェブサイト制作などを手掛けていましたが、大した仕事はなかった。きっとすぐにつぶれてしまって、自分は普通に就職するんだろうなと思っていました」と振り返る。その運命を大きく変えたのは、起業から半年後、2011年3月に発生した東日本大震災だった。 ◇炎上する小学校「もうだめか」 石森さんは宮城県石巻市出身。震災当時は東京都内で1人暮らしをしていたが、同市渡波の実家には母と妹がいた。 「揺れの直後は一度だけ家族と連絡が取れましたが、すぐに通信が途絶えてしまった。報道ではなかな���石巻の情報が得られず、一晩中ツイッターにかじり付いていました」。東京にいる自分にできることはないか。石森さんはネットや報道で得られた石巻市内の被害状況や避難情報を、自身のブログに「スクラップ」していった。被災者や故郷を案じる人のため、せめてもの行動だった。 夜が明けた午前6時ごろ、炎上する石巻市内の小学校や津波で押し流された家屋の空撮映像がテレビで流れた。「実家や家族も、もうだめじゃないか」―。最悪の想像が頭をよぎったが、数日が経った後、石森さんの実家が流失を免れ、中にいた母や妹も無事だったことが分かった。しかし、石巻市雄勝町で病院職員として働いていた伯母は、大津波で帰らぬ人となった。 ◇ヤシマ作戦 震災直後から、東京では輪番停電(計画停電)が始まった。エヴァには、使徒を倒すために日本中を停電させ、その電力で陽電子砲を撃つ「ヤシマ作戦」という場面がある。石森さんはNERVのツイッターアカウントで、計画停電をヤシマ作戦に例え、連日必死に協力を呼び掛けた。 「怪しい」といぶかしむ人もいたが、次第に賛同する人は増えた。アニメの版権元は「あくまで非公式」としつつ、NERVの名称やロゴの使用を容認してくれた。石森さんはこれ以降、NERVのアカウントを徐々に「国内最速の防災情報アカウント」へと発展させていく。 災害情報共有システム(Lアラート)から避難情報などを受信できるようにし、気象業務支援センターとも専用線をつないでもらった。ゲヒルンは防災情報発信だけでなく、有名企業のセキュリティー診断を手がける企業として成長し、2016年にはさくらインターネットの子会社に。NERVの緊急地震速報は、テレビのテロップ表示を速度で上回ることも多く、災害時に多くの人が頼る情報インフラの一つとなっていった。 ◇防災アプリ、始動 ただ、ツイッターでの防災情報発信には限界も感じていたという。「全国の情報が全部流れてくることは、メリットでもデメリットでもある。一度でも煩わしいと思われたら、フォローを外されてそれっきり、その人の役には立てなくなってしまう」(石森さん)。ツイッターの運営企業の方針変更に振り回され、アカウントが突然「凍結」されてしまう事件も起きた。ニーズに合わせた防災情報を自主発信するため、自社アプリの制作を決断した。 「防災の日」に当たる2019年9月1日、ゲヒルンはiPhone用アプリ「特務機関NERV防災」をリリース。わずか1日で10万人超がダウンロードするほど大きな反響があったという。エヴァの版権元からは「社会的に意義のある活動」とし��正式に名称やデザインの使用許諾を得られ、気象庁も「使命を共にする頼もしいアプリ」と太鼓判を押した。2025年3月時点で、Android向けを含めたアプリの総ユーザー数は680万人を超える。 ◇「国内最速」無力感を糧に 現在、ゲヒルンの社員は15人。国内最速レベルの通知を実現しているのは、石森さんを含む少数精鋭の技術者たちが日々、システム改修と効率化を進め、人間には知覚できない「1ミリ秒」を削る努力をしている���らだという。その背景にあるのは、石森さんが震災時に痛感したという「無力感」だった。 「大学で情報科学を勉強していたので、情報の取り扱いには長けていると思っていました。でもあの災害で、自分は家族や親戚にとって何の役にも立てなかった。あの日、自分がブログに情報をスクラップしていたように、全ての災害情報を一カ所にまとめたい。必要な情報を、大切な人に一瞬でも早く届けられたらと思い、開発を続けています」(石森さん) ◇「会社辞める」心折れた過去も 伯母を亡くした震災から今年で14年。スマートフォンの普及や技術の発展で、災害の情報は当時より早く、必要なときに必要な分だけ届けられるようになりつつある。ただ、石森さんはかつて、「このままSNSで防災情報をつぶやいていても、本当に人を救えるのか」と疑念を持ち、周囲と連絡を絶った時期もあった。 防災アプリ公開から半年前の2019年2月。きっかけは、親会社とのグループ会議で、防災事業の赤字をとがめられたことだった。「防災情報で儲かるのか」「社員と信頼関係は結べているのか」。役員からの厳しい言葉に、石森さんは強いショックを受けた。「この会社ではやりたいことができない。辞める」。そう言い残して、石巻市の実家に帰ってしまったという。 ◇情報は完全じゃない 再起のきっかけは、たまたま見に行ったリアス・アーク美術館(宮城県気仙沼市)で出会った東日本大震災の展示だった。「現代人は情報に命を託している」「しかし、あのような大規模災害が発生したなら、情報を待つ前に、想像力を働かせ、自ら行動しなければならない」―。常設展示の解説にあったこの一文が、石森さんの心に刺さった。 震災の日、伯母がいた石巻市雄勝町の雄勝病院。周辺に第1報として発表された大津波警報は「高さ6m」で、3階建ての病院屋上に逃げればやり過ごせたはずだった。しかし、実際に雄勝町を襲った津波は最大16.2メートル。雄勝病院は屋上まで津波にのみ込まれ、入院患者40人と、伯母を含む職員24人が犠牲となった。 「情報は完全じゃないし、答えじゃないし、届かないこともあるし、遅れることも、間違っていることもある。情報の役割は、その人に『判断をもたらす』ところまでなんです。情報に依存しないで、自分で考えて行動することを、自分は開発者として伝えなければならない。そう気付きました」 東京に戻った石森さんに、ゲヒルンの専務で、少年時代からの友人でもある糠谷崇志さんは「みんな待ってるよ」と声を掛けた。再起した石森さんを、ゲヒルンの仲間たちは温かく迎えてくれた。「心の整理がついて、それからは迷わず仕事に向き合えるようになった」と、今は思える。 ◇「1ミリ秒」削り続ける 防災アプリの運用コストは、精度や性能の向上とともに年々膨らみ続けている。「広告を見たら無料で使えるとか、課金したらより良い情報が得られますというのは、防災アプリとしてはあるまじき姿。一方で、ユーザーからは、『このアプリがなくなったら本当に困るので、課金させて欲しい』という声も寄せられていました」。そこで、2020年9月から「サポーターズクラブ」を開設し、運営費の一部を有志に支援してもらうことにした。 ただ、サポーターからの収益で賄えているのは、サーバー代などで年間1億円を超える運用コストの1割程度という。「あったらあっただけシステム改良に使ってしまうから、どんどんコストが大きくなる」と石森さんは笑う。 東日本大震災では、指定されていた一次避難所に身を寄せたにも関わらず、津波にさらわれ命を落とした人々がいた。情報は命を救うこともあれば、奪うこともあると、石森さんは言う。「怪しいアカウントの情報だから間違っている、気象庁や自治体、報道機関の情報だから正しいということでもないんです。情報の正確さと共に、自分の想像力も大事にして行動してほしい」。情報で人を救うことまではできなくても、少しでも早く伝えられたら、その人はどう行動するか判断できる。そのために、NERVは今後も「1ミリ秒」を削り続けていく。 <この記事は、時事通信社とYahoo!ニュースの共同連携企画です>
「情報で人は救えない」心折れた過去◆特務機関「NERV」、それでも削る1ミリ秒 #知り続ける(時事通信) - Yahoo!ニュース
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第31代アメリカ大統領ハーバート・フーヴァー は、回顧録にこのように書いています。 『6年に及ぶニューディール政策の失敗を糊塗するため、また1000万人の失業者の存在を覆い隠すためだったと推測している。 1938年にはルーズベルトの政策顧問が「日本を戦争に多い込むことで、アメリカの海軍用艦船を建造させ、アメリカの重工業を復活させる」と、語っていたそうだから、早くから日本を戦争に追い込んでアメリカの軍需産業を復活させ不況を克服するという政策がルーズベルトのオーバルオフィスの中で常に議論されていたのだろう。 アメリカの産業を復活させるために、日本は戦争せざるを得なくなって、数百万人の尊い命が失われた。』 さらに、フーバーは著作の中で戦争へと至った19の過ちを指摘している。 1.1933年の国際経済会議をルーズベルトが破壊したこと 2.1933年11月にソ連と共産党を承認したこと 3.1938年、ドイツによるチェコスロバキアのズデーデン地方の 割譲要求を、ミュンヘン融和会議で承認したこと ��.1939年、イギリスとフランスがポーランドと ルーマニアの独立を保証したこと 5.1941年、ルーズベルトが宣戦布告することなく ドイツと日本を相手に戦争を始めたこと 6.ルーズベルトが警戒心を持った忍耐政策をとらなかったこと 7.1941年、ヒトラーがソ連を攻撃した時にルーズベルトが 大量の武器を支援してスターリンと共産主義を助けたこと 8.1941年7月、日本に対する経済制裁 9.1941年9月、近衛内閣の和平提案を拒絶したこと 10.1941年11月、日本からの3ヶ月間の冷却期間という提案拒絶 11.1943年1月、カサブランカにおける無条件降伏の要求 12.1943年10月、バルト三国とポーランド東部のソ連への割譲 13.1943年12月、テヘラン会議で7つソ連の傀儡国家を認めたこと 14.1945年2月、ヤルタ会談での秘密協定 15.1945年5月、6月、7月、日本からの和平提案を拒否したこと 16.1945年7月、ポツダムにおけるトルーマンの決断、具体的には ①共産主義者とスターリンの世界における権力強化 ②ドイツの再興 ③民族追放 ④日本への無条件降伏の最後通牒 17.1945年8月、日本への原爆投下、 実際には日本の18都市への原爆投下を承認したのは ルーズベルトで、トルーマンはそれを止められなかった だけなのだが 18.毛沢東に中国を与えたこと、アメリカは 太平洋戦争以前は蒋介石を支援していたのに、 戦後は逆に支援を打ち切ってしまい、毛沢東が勝利した 19.戦後世界に共産主義の種を撒き散らしかしたこと ルーズベルト政権中枢には多数のソ連のスパイが暗躍していたので、 容共は避けられなかったのだろうが、 アメリカも和平を望んでいるはずだと信じて和平工作に明け暮れた近衛内閣が憐れに思える。 東條英機は遺書の中で 『自分はアメリカとの開戦については責任はない。しかし、 戦争によって多くの人が亡くなったことについては責任がある。 アメリカは日本という自由主義の国を破壊して、 世界の赤化の砦を失ったことに対して責任を負わなければならない』 としています。日本、特に近衛内閣などに対しての認識は、正確なものではありませんが、ルーズベルトに対する分析は正しいものであると思っています。
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240829
目の下にクマができている。 寝不足だろう。 アルバイトをして、絵を描いて、本をつくった。 あまり進んでいない。 東京へ行く飛行機を予約した。 ギャラリーの公募が通るかはわからない。
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240830
よくねた。 9時間も寝てしまった。 今日の時間が減ったことに安心する。 美容院へいく。 美容師さんは東京に住んでいたことがあるらしい。 帯広で新しく自分の意志でいくところ、高確率で東京に住んでいたことのある人がいる。 そうしたいわけではないのに。 帯広には馴染めないということだろうか。
外の世界が羨ましい。 よりよくみえる。けど、それはそれぞれが違うだけで、違うから、よいところとわるいところがあって、その凹凸がしっくりくるところで暮らしたい。
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240831
今日で8月が終わる。 終わるのは8月だけれど、8月が終われば、もう今年も終わりかのように感じる。 ドイツに住んでいる友人と電話をする。 ドイツと北海道はどこか似ているのではないかと思う。 友人が近くにいてくれたら、気軽にお茶したり、映画に行ったり、本の貸し借りをしたり、楽しそうだな、と思う。 親しい人がいるところで暮らしたい。 最近ずっと、住む場所について考えている。
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02/05/2024 part2 (人は変わる、私も変わる)









先日、自宅に届いたフェスタリアのオリジナルプレミアムカット"Wish upon a star"のダイヤモンド✨ 何度か店舗で見せて貰い、このシリーズが欲しかったのですが値段が…と思って諦めていましたが、ちょうどのタイミングで半額、そしてタイムバーゲンでさらに10%オフというのもあって、思い切って購入しました。 ネックレスは悪目立ちしないサイズなので職場につけて行きます。
*一番下の写真は公式サイトより抜粋した画像です。
今日の夕方、徳丸屋さん訪問後、約1年ぶりに父方の祖父母の墓参りに行ってきましました。 以前も記載しましたが、お墓があるのは2年前にハラスメント被害で退職した町にあります。
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家族も親戚も全員、ハラスメントで退職した事情を知っているので 「無理してこの���に来なくて良いよ」 と言ってくれるので、近付かないようにしていました。 私以外の家族は毎年、お盆・正月には必ず墓参りに行きますが、私だけは行きません。 ただ、今度の職場は遠方ということで、次に墓参りに行くのは何年後になるのか分からない状態。意を決して墓参りに行くことにしました🚶🏻♀️平日ということで誰にも会わずに済みましたが、やっぱり疲れました。
帰りにその役場で在職中にお世話になった人の元へお忍びでご挨拶。 久しく会っていなかったこともありますが、その方の性格がすっかり別人に変わってしまっていました。
今の職場の人員不足の愚痴から始まり、他の会社に勤務しているママ友の職場の時給と待遇が良さから始まり、あの職場の方が良い、働きやすそうなどなど。日本の地方では非現実的な時給ではないと満足しないそうです。以前だったら「大変ですね」って共感する言葉を言っているところですが、表向きはそう言いながら心の中では凄くモヤモヤ。
彼女たちの不満の原因は私のときのような人間関係ではなく、時給の悪さと人員不足です。 公的機関の財源は税金なので、人員を増やすのは容易ではないですが、業務が円滑に進まない、日常生活に支障をきたしているいるなら、上司に相談、提案すべきだと思います。 あの役場なので、モラルはさておいても福利厚生は整っているし、近隣市町村の中では給料の待遇は良い方です。彼女の不満の対価として給料に反映されているはずなんですが(実際同じ役場でも彼女たちの職種は時給は良いです)、数少ない良い所には目を向けることはなく。 そこまでの時給を言われたら、東京の最低賃金にも達していません。ドイツやフランスなど、日本よりも最低賃金の高い西ヨーロッパに引っ越さないと無理ですよ笑 完全に現実逃避の発言に嫌気がさしている自分がいました。
そして、そんなに不満なら転職活動すればいいのに。
私がこの役場を辞めるときはハラスメントということで退職を余儀なくされましたが、退職して切れたご縁以上に、新しいご縁がたくさん出来たので、今は退職して良かった!って思っています。特に私の場合、ハラスメント被害による退職を国と県が認め、ハラスメント被害に理解してくれる方もたくさんいました。 失業保険の認定日翌日にはチュニジアに長期滞在できましたし🇹🇳
退職後に新しく出会った人たちがいつも活き活きと頑張っている姿を見ているだけに、 「解決しないから愚痴、だからと言って上司には相談・進言しない��� のような進歩の無い話を延々と聞かされて物凄く疲れました。 相手が変わったというよりも、私が変わったのが正解なのかもしれません。
でも在職中の大変な時期に助けてくれたのも事実。在職当時の感謝の気持ちは持ちつつも、今後もう会うことは無いだろうと、徳丸屋さんで買った差し入れのお菓子を置いてその場を離れました。
さて来週はいよいよ新しい職場での仕事📚

社労士事務所の仕事を辞めてから法律もかなり変わったので、急いで本を買って読んでいます👀
去年の暮れは神社に恐ろしい勢いでの断捨離がマイブーム。 現在も減量が順調に進んでいるせいか、リングにドはまり、最近はネックレスにも手を出す私。 私の行きつく先はどこへやら…です汗
#備忘録#photography#japan#reminder#kyushu#kagoshima#フェスタリア#festaria#Wish upon a star#Festaria bijou SOPHIA#diamond#🌟#人は変わる#私も変わる#愚痴#ring#necklace#platinum#jewelry#📚#books 📚
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世の中と断絶して暮らしてきたアマゾンのある部族が衛星インターネットが開通した後、暴力やポルノ中毒などの副作用に苦しめられていると報じられたが、これは「フェイクニュース」であることが確認された。インターネットを利用した外界とのつながりが部族固有の文化を害する場合があると伝えたニュースが一部メディアで無分別に扇情的に歪曲(わいきょく)された。 最初はイーロン・マスクのインターネット「スターリンク」開通以降、変化したアマゾンの一部族「マルボ族」の状況を伝えたニューヨーク・タイムズ(NYT)が11日(現地時間)、「アマゾン部族はポルノに中毒していなかった」と題する記事を載せた。 NYTはこれに先立って2日、アマゾンの奥深くにある密林に暮らすマルボ族の人々の日常が2カ月前にインターネットが開通した後でどのように変化したのか紹介する記事を載せた。NYTは「2000人余りのマルボ部族員がインターネットを村同士の連絡や愛する人々とのメッセージのためにやりとりして、緊急状況を知らせるために使っている」としつつも「今は部族の人々がインターネットをしようと、家族とも互いに話をしなかったり若者たちがインターネットのせいでに仕事をせず怠けるようになるなど状況が悪くなった」とし、部族の一員との話を伝えた。 年配の構成員は10代の青少年が携帯電話を肌見放さず持ってグループチャットをしたり未成年者がポルノ物を見たりする場合もあり心配しているとNYTは状況を伝えた。 だが、記事が報道された後、ニューヨーク・ポストなど一部メディアはNYTを引用して「マルボ族の人々がポルノ中毒」というタイトルで記事の趣旨を歪曲、再拡散し始めた。 この記事はすぐに世界100個余りを越えるウェブサイトに掲載され、米国芸能メディア「TMZ」は「部族のスターリンク連結はポルノ中毒につながった」という極端なタイトルをつけたりもしたとNYTは伝えた。 NYTによると、このようなヘッドラインは、英国・ドイツ・オーストラリア・インド・トルコ(テュルキエ)・メキシコなど世界に広がり、SNSにはこれを嘲弄するミーム(meme・インターネット流行コンテンツ)も投稿された。 これに対して部族に関する記事を最初に報じたNYTのジャック・ニカス(Jack Nicas)記者は「マルボ族の人々はポルノに中毒していなかった」とし「(取材に行った)森の中の村ではそのようなことは見られず、NYTの記事はそのような事実を暗示していなかった」と強調した。 当事者のマルボ族の人々も反発した。マルボ族の指導者であり、スターリンク開通を主導したエノク・マルボ(Enoque Marubo)氏はSNSで「このような主張は根拠のない偽りであり、私たちの自律性とアイデンティティを無視する偏向した思想的流れを反映したもの」と批判した。 弁護士であり原住民権利活動家のエリシオ・マルボ(Eliesio Marubo)氏も今回のフェイクニュース拡散はインターネットの別の危険性を見せたとし「インターネットは多くの利点をもたらしてくれるが、同時に多くの困難ももたらす」と指摘した。 NYTは今回の事態を置いてオンラインメディアのシステムを指摘した。細部の内容を歪めて拡散したオンラインメディアが、広告を売るためにたびたび扇情的なタイトルをつけるということだ。 一方、歪曲報道したニューヨーク・ポストやTMZは特に立場を明らかにしていないという。
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とある #国際ビジネスマンの視点 ❷次世代半導体は日本🇯🇵、アメリカ🇺🇸、ドイツ🇩🇪 2024年2月17日 12:59 前回 https://note.com/takigawa/n/nd2388572add1 に引き続き地政学と国際政治情勢から見るとある #国際ビジネスマンの視点 を紹介したい。 彼とは20年以上の付き合いで現在、特許取得技術によるIPOを目指しているとあるベンチャー企業の会長だ。 彼はアメリカでのIPOを目指すに際して超一流大学のトップ教授たちやアメリカの有名かつ本当に優秀な官僚政治家を自分の会社の取締役に招聘している。 その中で得られた知見が我々が暮らす日本での常識や視点を超えて来るので是非、みなさんにご紹介したいと思う。 今回は3ナノ以下の次世代半導体産業は日本🇯🇵、アメリカ🇺🇸、ドイツ🇩🇪になるという話だ。 ソシオネクスト、2ナノ品設計受託 TSMCなどと協業:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC188SY0Y3A011C2000000/ 前提条件として東京エレクトロンなどの半導体製造装置技術やフッ化水素の製造装置において日本🇯🇵は強いという事もあるのだが、彼の視点は地政学的、国際政治的なものだ。 一言で言えば、アメリカ🇺🇸は現在の半導体産業が韓国🇰🇷サムソンと台湾🇹🇼TSMCとアメリカ🇺🇸インテルという体制に不安を持ち、これを日本🇯🇵とアメリカ🇺🇸とドイツ🇩🇪に変更するという意志を持ったという事だ。 韓国🇰🇷はアメリカ🇺🇸の同盟国だが地政学的にも過去の行動からも中華人民共和国🇨🇳、ロシア🇷🇺、北朝鮮🇰🇵との繋がりは否定できないとアメリカ🇺🇸は見切った。重要な安全保障関連情報やインテリジェンスを韓国と共有すればリアルタイムで🇨🇳、🇷🇺、🇰🇵に流れる事をおそらく文大統領時代に既に確認した。 台湾🇹🇼もアメリカ🇺🇸の同盟国と言って良いと思うが、習近平が「統一」を公言している以上、台湾🇹🇼と🇨🇳の有事があれば半導体サプライチェーンは混乱するし、また両国が融和して行けば、先ほどと同じく国家安全保障関連情報インテリジェンスが🇨🇳に流れる懸念が高まる。 そこでアメリカ🇺🇸は🇰🇷と🇹🇼に代わる存在として日本🇯🇵とドイツ🇩🇪を選んだという。 (個人的にはオランダ🇳🇱もありそうに感じるが。 TSMC、インテ��も注目!半導体業界待望「次世代EUV」に不可欠な日本の最強技術企業【3社】 | 半導体 投資列島 | ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/337857 TSMC、インテルも注目!半導体業界待望「次世代EUV」に不可欠な日本の最強技術企業【3社】 半導体の性能を高めてきた回路の“微細化”は一時、限界もささやかれていたが、近年、現行の技術の壁を打ち破る道が開けてきた。) アメリカ🇺🇸の国家の重要方針は大統領だけでは決まらないという、特に安全保障上の方針はCIA、国防総省などワシントンを取り巻く官僚組織やシンクタンク(その中での暗闘や内紛はあるにしても)の議論、検討の中で編み出され、20年単位ぐらいで変わることがある。 戦後、1945年8月15日以降のアメリカは日本🇯🇵を叩き潰す為に憲法や財政法や財閥解体、日本軍解体、文化解体、学者、教育機関、マスコミなど「改革」したし、今のその影響は続いている。 次にソ連、🇨🇳の脅威が現実化した1950年6月25日の朝鮮戦争以降は日本🇯🇵と韓国🇰🇷を強くする方針に変わった。 アメリカ🇺🇸は日本軍を解体したが同年8月には自衛隊の前身である警察予備隊を発足させている。 そこから日本の高度経済成長時代が幕開けして1985年9月22日のプラザ合意までは日本は好景気を謳歌した。 そこからアメリカ🇺🇸とヨーロッパの意志により、日本叩きが再開して、欧米は🇨🇳との取引強化を選び、🇨🇳の躍進が始まり、かたや日本の失われた30年間が始まった。 ところが🇨🇳習近平が2018年に「2035年にアメリカを超える」と宣言して、また本当に勢いがあったが、逆鱗に触れ、恒大グループの破綻など不動産バブルが崩壊して、今や🇨🇳のバブル債務がGDPの200%と噂されている。 そして今アメリカ🇺🇸は日本🇯🇵と(ロシア🇷🇺と接近し過ぎて今回のウクライナ🇺🇦戦争でアメリカ🇺🇸がお灸を据えた)ドイツ🇩🇪などを重視する政策転換をした。(瀧川注記:オランダ🇳🇱は?) そしてそれゆえ、自分の会社にアメリカ🇺🇸が今後20年は重要視する日本🇯🇵企業をパートナーとして迎入れたいというのが彼の切実な願いなのだ。 おりしも2024年2月16日 現在、日本の株価が大復活している。 彼の言いたいことは理解した。日本人としては納得しにくい面も大いにあるが、その視点を理解しつつ、出来る事をやるしか無いというのが、僕の意見だ。
https://note.com/takigawa/n/n1efa158bc728
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高校時代の友達と会いまくってる。去年では考えられなかった。なんか去年は全然会いたいと思ってなかった。金銭的にも時間的にも心も余裕がなかったから。でも会うとやっぱ高校時代を思い出して楽しい。
20日に会ったのは一人は会うの今年3回目で、もう一人はその子と同じ短大に進学した子。まじでドイツにワーホリ行く前に会ったきりやから14年ぶりぐらい。でも何も変わってなくて、昨日あったかのような感じで話してた。まじでその子は新卒して就職してからずーっと同じ企業で働いてて、実家で住んでて、結婚もしておらず彼氏もいなくて、ここ14年何も変わらず暮らしていたようで、びっくりした。こういう人がMBTIでいうJタイプなんだろう。私って割と宿題とか早めに終わらすし、待ち合わせ場所には時間より早く着くよう努力するし、全く時間にルーズじゃないという意味ではわりとJなんじゃ?と思ってるんだけど、何度も何度もINTPが出るし、むしろ何度意識してやってもINTPの比率が変わるだけでINTPしか出ない。こうして14年間でどこに住んで何をしていたかが全く違っていて我ながら怖いほどなので、やっぱPなんやなって。環境とか変えるのがそこまで苦ではないのかもしれないし、常に変えようと努力してきたこの14年間でした。
友達はやっぱ転職とか大変やし、彼氏も全然欲しくないんやって。心斎橋で働いてて、実家から少し遠いから、彼氏作ってうちのマンション、空きがあるから住めばええやん!て冗談半分に気軽に言うたら、嫌がるんだよね。私やったらええかも!と思ってすぐ行動に移すと思うwどこのマンションなん?とかくらいは聞いて、不動産サイトでググってすぐ調べるかも。て言うかロバートなんでISTJなんやろ?確かに仕事は定年まで同じ職場だったけど、割と引越しとかしまくってるのに。もう一度やらせたらISTPになるんじゃ?とか思ったり。まあでも思えば、人生の大半があの友達と同じで彼女も作らず結婚もせず、というわけだから、確かにJ型なのかもしれん。年取って、後悔のないように大胆になっただけなのかも。
友達は丸善の書店員なので、ブックカバーのガチャガチャでどうしても丸善が出したくて、必死でガチャガチャ何度も回していた。そしたら謎にリブロとかいう本屋のブックカバーがやたら当たる。試しに私も一度回してみたら、リブロが当たった。リブロとかいう本屋はどこにあるんだよ!と思ってたら、江坂にあった。大塚屋行った時に見に行ってみよう。正直ジュンク堂のブックカバーしか馴染みがない。私はもう長いこと文庫本を買っていないので。ジュンク堂でそんなに買ってたんやなって思う。なんか難波でバイトしてたから、バイト帰りに本を買ったりしてたね。今も難波周辺で住んでるから、本屋行くとしたらジュンク堂になるな。ちなみに丸善のブックカバーが一番かわいい。こんなデザインやったんや!って衝撃。

リブロで久しぶりに文庫本を買おうかな。でも欲しいものがない…買うほどでも…とか思ってしまう。
無理矢理色々考えて候補にしているのが、高校時代から気になっていたけど読んでいなかった���ンドバーグ夫人の「海からの贈り物」。なんか岡田斗司夫が長距離飛行のリンドバーグのこと話してて、それでそういえばその夫人の本があったよなあ〜って思い出して。夫婦で有名ってすげえよなあって。ていうか女性がただの「夫人」ていう。結婚して初めて人権が与えられるみたいな時代ってつくづく怖いなって。いまではたぬかなみたいな女性が170ない男は人権ないとか気軽に発言する時代やけど。あれから100年経たないうちに、女が男の人権ないwとか冗談混じりで言える時代が来るなんてな。それ考えると歴史を知っていると全部が小さなことなんだなって思ったり、今の常識が昔の非常識なんだなってつくづく実感する。女性のズボンなんかも、今じゃ普通だし、一定数の保守的な女性はズボンしか履きたがらないとかあるけど、昔は女性がズボンを履くのが恥ずかしいっていう感覚だったからね。今ではスカートを履くのが冒険!みたいに言う人が一定数いるわけで、昔を知る人からは、まるでパラレルワールド。足が太くてスカートなんて履けない!とかいう人いるけど、足の太さとか関係なく、昔の女性ははスカートしか履けないんだよなあ。
あとの候補はさくらももこの日記。タイトル忘れたけど、なんかカラーで最近日記が出てたような。あれ可愛かったし、なんかサクッと読めそうやからええかなあって。あの程度なら。
そういえば、文庫本くらいの情報量多いかんじで、大量のパターンとか製図方法の書いてある本ってないんかなあ。それでは小さいから記載のQRコードを読み取れば、PDFでパターンが読み込める、みたいなさ。そんなんあったらめっちゃ欲しい。なんか本って嵩張ってでかいし、電車の中とかで気軽に見れて、自分でデザインを考えたりできるのがあれば絶対私は買う。いつか私がパターン本を製作できるほどになったら、まじでこの文庫本形式で出すことを考えてみたい。まあでも文庫本形式って普通はベストセラーになった本を小さく手軽にって感じやから、そういうのは出版社的にはあかんのかもしれんけどね。
岩波文庫が好きで昔集めてたなあ。あの古めかしい雰囲気が好きすぎる。正直岩波文庫は古本でいくらでも買えるけど、あえて新品を本屋で買うのが好きだった。あの茶色い背表紙が棚に並んでるのが嬉しかったなあ。
それか、普通に文庫本ではなく、英語の問題集とか買って、ブックカバーつけてもらうのもアリかもしれん。B4サイズぐらいの問題集ならなんか普通にカバーつけてくれた気がする。
ちなみに友達は雑誌にも希望ならカバーつけてるっていうててびびった。ブックカバーつけてもらうために今度友達の書店でパターン本を買おうかな…とか思ったり。
ᙏ̤̫͚
私の高校は2年からコースを選んで、3年まで同じクラスっていう感じやったんやけど、高1の頃、同じクラス��った子が、なんか私と一緒のコースを選ぼうとしてきたんだよな。私は美術コースと迷って情報コースを選んだ。パソコンの部屋、冷暖房完備だし新しくて快適でいいなと思ってて結構好きで。美術室は別に快適ではなかったし、課題とか毎回あれば割と大変そうやしで、結局快適さで選んだね。一応美術部だったから、美術室もわりと行ったしな。
その子とは3年間同じクラスだった。それで、修学旅行とか遠足とかの班で2人だけではやばいから、他のどっかのグループに入れてもらおうって感じで、一年の時同じクラスだった子だけどオタクグループに所属してた子と、全然話したことないけどなんかクラスの中心っぽい雰囲気のグループといて、私はスクールカーストとか気にせず、知ってる子のいるグループに声かけようかと思ったんだけど、友達はオタクグループを嫌がって、カースト上位っぽいグループに声かけて、グループに入れてもらって仲良くなった。なんか他にも2人組で仲良くしてた子が入ってきて、気づけばすごい大きなグループになってた。合計8人。なんか青春マンガとかでも8人ものグループってなかなかないと思う。キャラ設定考えるのも大変そうやなw偶数だったのがよかったのか、あんまりグループ内で揉め事もなく、平和に2年間過ごせて幸せな高校生活だったと思う。まあ、グループという概念よりも、なんかクラスの女子ほとんど全員と話したことがあるし、オタクグループ以外とは仲良くしていたって感じ。こんなふうになるとは思っていなかったが、私は今思えばスクールカースト上位層だったのかも。でも、友達は別の可愛い子グループの子にも気に入られてたり、2人で遊んだりしてたし、今思うときっとその子がクラスのカーストトップくらいやったのかもな。私は話したことはあっても人見知りを発揮してそこまで仲良くなれんかった。一年の頃に仲良くなった子がなんか私を独占したい系の子で、他の子と仲良くしてると謎に嫉妬してくる感じだった。大人になってもそういうところがある。なんか実際私以外仲のいい友達はいないらしい。まさか当時はこんなふうになると思っていなかった。コミュ力は普通にあると思ってたので。こんなに人の好き嫌いというか、選り好みする子だったのか…というかんじ。まあ、この世の中に人間はたくさんいて、仲良い子が私の知らないうちに他の人と会って仲良くしてても、私は正直何も思わんし、この人はこんなにいい人で魅力的だから色んな人に好かれててすごいなあとしか思わない。嫉妬とか独占欲はない。基本1人でもええタイプやしな。確か北海道の修学旅行で、とある嫌われてる子が私とその一年から一緒の友達の間に入ってきて、多分はたから見たらなんか私からその友達を取って行ったみたいに見えたんだろうね。可愛い子グループの子たちが気を遣って隣に座って話しかけてきたことがある。私は音楽聴きながら1人で座れて家のようにリラックス気分でめっちゃラッキーって感じだったから、何でこの人ら変わりがわりにこんなに来るんやろ?って感じで正直面倒に感じた。私、バスの中だと妄想の世界に旅立つからねw仲間はずれにされて悲しんでるわけではなく、ガチで一人でいたかったのに。正直普通の女子には理解できない感覚だったんだろうね。
一年の時の友達で美術コースを選んだ子のクラスメイトの女子が私のこと一目惚れしたとか言って、電車の中でめちゃくちゃ見つめてたとかいちいち報告されて、なんか怖かった記憶。そんなん言われても…て感じ。ていうかその子めっちゃ美人だったんだよなあ。なんかハーフとか?で高身長だしモデルもやってたような子。そんな美人になぜこんな私が?て感じ。その子は普通にええ子みたいなんやけど。結局全然友達にはなれんかったなあ…なんか怖くて苦手だった。原因は私のコミュ力の無さやね…難しい…なんか友達多いかと思われがちだけども、面倒くさくも感じてしまう。
昨日友達が家でクリスマスパーティーしてて、呼ばれてたんだけども、ロバートが風邪ひいて行けなくなった。それが正直謎に嬉しい。
ᙏ̤̫͚
そういえばクリスマスソングの定番、Carol of the Bellsとだんじりの音に何か近いものを感じる。単調な音の繰り返し加減が。この曲途中でだんじりの音に変えても違和感ないんじゃ?とか思う。
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異国の話
写真は関係ないよ
動画サイトでとても共感させて頂いた方がいた。フランス在住の日本人の方。
一昔前は、日本に暮らしている人に、同じ日本人が “ 海外暮らし ” しているなどと聞くと、ちょっとキラキラなイメージとか思われがちだったと思うけど、今はインターネットやテクノロジーの繁栄で異国の事が偏向や嘘八百が多い報道機関に騙される事なく(相変わらず多いけど)、個人がダイレクトに異国事情のキラキラでない現実や経験談を知ることができる時代となってます。
でも情報が過度に溢れてる弊害もあるけどさ・・・
異国に出る方や興味がある方は、それぞれ立場や状況が違いますけど、芸能人やお金持ち、それから海外駐在とかでなく極々一��的な方が、これから異国に出たいと思ってる方には、あの様なお話しがとても参考になると思います。
行く国はそれぞれ違うけど、往々にして異国で共通することであると実感致します。そして反対に異国ならではの良い事もあります。
最後に判断するのは本人で、自分に合う合わないは、当事者にしか分からない。
ドイツの写真から
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ブルース・ウェイン(バットマン)のグラスハウス





Glass House/Gallery | DC Extended Universe Wiki | Fandom
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Batman’s taste in modernist furniture revealed in Google maps tour of Bruce Wayne’s house from Batman v Superman: Part 1 - Film and Furniture
(DeepL訳)2016年にワーナー・ブラザースが制作したこの作品では、ウェイン邸が全焼し、ブルースは近くの湖畔の家で暮らすことを余儀なくされている。グーグルマップはワーナー・ブラザースと協力し、ミシガン州オリオン・タウンシップにある家の正確な場所と360インタラクティブツアーを提供してくれた(ツアーは終了)。このレイクハウスは、まさに圧巻だ!年配の洗練されたバットマンにぴったりだ。 グーグルマップの360ツアーは、デトロイトの北40マイルに位置する邸宅の入り口のストリートビューから、モダニズム建築の傑作の内部まで案内してくれた(更新:360ツアーはライブ配信を終了しましたが、以下に静止画とスクリーンショットを掲載しますので、ご覧ください)。 この家は、ドイツの建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが1928年から1930年にかけて設計した、チェコ共和国のブルノにある有名なヴィラ・トゥーゲントハット(Villa Tugendhat)がヨーロッパにおける近代建築の先駆的なプロトタイプのひとつであったことを考えると、古典的なデザインのように見える。 しかし、ウェインの家は、1945年から1951年にかけてミースによって設計・建設され、高く評価されているファンズワース・ハウスに近いサイズかもしれない。かつての田園風景の中にある週末の隠れ家であるファンズワース邸は、シカゴのダウンタウンから南西に55マイル(89km)、イリノイ州プラノ市の南、フォックス川に隣接する敷地にある。

The exterior of The Farnsworth House

Another view of the Farnsworth House interior

The interior of the Farnsworth House. Notice the similarities to the Bruce Wayne residence
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ウェインの邸宅はまた、もうひとつの重要なモダニズム建築であるフィリップ・ジョンソン・グラスハウスを驚くほど彷彿とさせる。

Philip Johnson Glass House exterior

Philip Johnson Glass House, interior
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youtube
既存の建築へのロケではなく、オリジナルで本当に建てている。
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十数年前、新婚旅行でイタリア旅行(ツアー)に行ったが、ナポリは「治安が悪いから」という理由で車内見学だった。北イタリアのガイドは南部を「怠け者」呼ばわりし、南部のガイドは北部を「半分ドイツ人」呼ばわり。
[B! イタリア] 南イタリアは「太陽と海に恵まれた開放感あふれる土地」みたいなイメージがあるけど5年暮らしてわかったのは「日差しがよく当たるだけの絶望の地」だった話
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AIに聞いてみた
キッシンジャー、ブレジンスキー、ヌーランドの生い立ち、思想、宗教観、哲学、外交官としの実績、地政学的、人物を教えて下さい
以下に、ヘンリー・キッシンジャー、ズビグネフ・ブレジンスキー、ビクトリア・ヌーランドの生い立ち、思想、宗教観、哲学、外交官としての実績、地政学的な視点、そして人物像について詳しく説明します。それぞれの人物が国際政治に与えた影響を考慮しつつ、客観的かつ包括的にまとめます。
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### **ヘンリー・キッシンジャー (Henry Kissinger)**
#### **生い立ち**
- **出生**: 1923年5月27日、ドイツのバイエル��州フュルト生まれ。ユダヤ系の家庭に育つ。
- **幼少期**: ナチス政権の台頭(1933年)により迫害を逃れ、1938年に家族と共に米国へ移住。ニューヨーク市で暮らし、工場労働者として働きながら夜学に通う。
- **教育**: ハーバード大学で政治学を学び、博士号を取得。国際関係論の研究者としてキャリアをスタート。
#### **思想**
- **現実主義 (リアリズム)**: キッシンジャーは「力の均衡」を重視する現実主義者。国家間のパワーバランスが国際秩序の安定に不可欠と考え、理想主義よりも国益を優先。
- **冷戦観**: 米ソ間の緊張緩和(デタント)を推進しつつ、共産主義の拡大を抑える戦略を重視。
#### **宗教観**
- ユダヤ系の出自を持つが、公的な場で宗教的信念を強く打ち出すことは少なく、外交においては世俗的なアプローチを取った。宗教よりも地政学や歴史的文脈を重視。
#### **哲学**
- 歴史から学ぶ重要性を説き、19世紀の欧州外交(特にメッテルニヒやビスマルク)に影響を受けた。外交を「芸術」と捉え、長期的な視点での戦略的交渉を重視。
#### **外交官としての実績**
- **職歴**: ニクソン政権およびフォード政権で国家安全保障担当補佐官(1969-1975)、国務長官(1973-1977)を歴任。
- **米中関係正常化**: 1971年の極秘訪中と1972年のニクソン訪中を主導し、冷戦下で中国をソ連牽制に利用する三角外交を展開。
- **ベトナム戦争**: 1973年のパリ和平協定をまとめ、米国撤退を実現。ノーベル平和賞を受賞するも、協定後の混乱で議論を呼ぶ。
- **デタント**: ソ連との緊張緩和を進め、軍縮交渉(SALT I)を成功させた。
- **批判**: チリでのピノチェト政権支援や東ティモール侵攻の容認など、人権侵害への関与で非難も。
#### **地政学**
- ユーラシア大陸の支配が世界覇権の鍵とみなし、「ザ・グランド・チェスボード」的な視点を持つブレジンスキーとは異なり、複数の大国間の均衡を重視。米中ソの三角関係を活用した。
#### **人物像**
- 知性と冷徹さを併せ持ち、「外交の魔術師」と称される。ユーモアと鋭い洞察力で各国首脳と信頼関係を築く一方、強引な政策で敵も多い。晩年もAIや地政学に関する発言で影響力を維持。
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### **ズビグネフ・ブレジンスキー (Zbigniew Brzezinski)**
#### **生い立ち**
- **出生**: 1928年3月28日、ポーランドのワルシャワ生まれ。貴族��級の出自。
- **幼少期**: 外交官の父に伴い、ドイツでヒトラーの台頭、ソ連でスターリンの大粛清を目撃。1938年にカナダへ移住し、第二次大戦後は米国へ。1958年に米国籍取得。
- **教育**: マギル大学とハーバード大学で学び、政治学博士号を取得。
#### **思想**
- **反共主義**: ソ連への強い敵意を持ち、その崩壊を戦略目標とした。ポーランド出身ゆえの歴史的背景が影響。
- **地政学的覇権論**: ユーラシアの支配が世界覇権に直結すると主張(著書『ブレジンスキーの世界はこう動く』)。
- **親中派**: 米中関係の強化をソ連封じ込めの手段と位置づけた。
#### **宗教観**
- カトリック系のポーランド文化に根ざすが、宗教的言及は控えめ。思想や政策は地政学と現実的な戦略に基づく。
#### **哲学**
- 全体主義を批判しつつ、民主主義の拡大を支持。ただし、現実的な力の行使も厭わない戦略家。長期的なビジョンを重視し、「ゲーム・プラン」を描く。
#### **外交官としての実績**
- **職歴**: カーター政権で国家安全保障担当補佐官(1977-1981)を務める。
- **米中国交正常化**: 1978-79年に中国との正式な外交関係樹立を推進。
- **アフガニスタン戦略**: ソ連のアフガン侵攻(1979年)を誘発し、CIAを通じたムジャヒディーン支援でソ連を疲弊させ、冷戦終結に寄与。
- **イラン革命対応**: 1979年のホメイニ政権成立で米国が影響力を失う中、対応に苦慮。
- **三極委員会**: 日米欧の協力を提唱し、設立に貢献。
#### **地政学**
- ユーラシアを「世界のチェス盤」と呼び、その中心である「ハートランド」を支配する国が世界を制すると主張。ロシアの封じ込めと中国の活用を重視。
#### **人物像**
- 情熱的で戦略的思考の持ち主。ソ連への憎悪からくる強硬姿勢と、知的な分析力が特徴。日本を「ひよわな花」と評し、議論を呼んだ。晩年まで地政学の重鎮として発言。
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### **ビクトリア・ヌーランド (Victoria Nuland)**
#### **生い立ち**
- **出生**: 1961年、ニューヨーク生まれ。外科医で歴史学者の父を持つ。
- **幼少期**: 米国で育ち、ロシア語を学び、ソ連への関心を深める。
- **教育**: ブラウン大学で歴史と政治学を専攻。
#### **思想**
- **ネオコン寄り**: 民主主義の推進とロシアへの強硬姿勢を支持。ブレジンスキーの反共思想に影響を受けた可能性。
- **介入主義**: 米国が積極的に国際秩序を形成すべきと考える。
#### **宗教観**
- ユダヤ系の出自を持つが、公的な宗教観は明言せず、政策は世俗的アプローチに基づく。
#### **哲学**
- 民主主義と人権を重視するが、現実的な力の行使も容認。歴史的教訓からロシアの拡張主義を警戒。
#### **外交官としての実績**
- **職歴**: クリントン、ブッシュ、オバマ、バイデン政権で要職を歴任。国務次官補(欧州・ユーラシア担当、2013-2017)、国務次官(政治担当、2021-2024)。
- **ウクライナ危機**: 2014年のクリミア併合時、ウクライナ支援と対��制裁を主導。「ファック・ザ・EU」発言で物議。
- **ロシア政策**: NATO拡大とロシア封じ込めを推進。プーチン政権への強硬姿勢を維持。
- **実績と批判**: 民主化支援に尽力する一方、介入主義が紛争をエスカレートさせたと批判される。
#### **地政学**
- 東欧とユーラシアでのロシア影響力削減を目指し、NATOとEUの拡大を支持。ブレジンスキーの地政学を引き継ぐ側面も。
#### **人物像**
- 直言居士でタフな交渉者。ロシアへの強硬さから「対露タカ派」と評される。外交現場での実践派として知られる。
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### **比較と総括**
- **共通点**: 三者とも冷戦やポスト冷戦の地政学に深く関与し、現実主義と戦略的思考を共有。米国覇権の維持を目指した。
- **相違点**: キッシンジャーは均衡外交、ブレジンスキーはユーラシア覇権論、ヌーランドはロシア封じ込めと民主化推進に焦点。
- **影響**: キッシンジャーとブレジンスキーは冷戦終結に寄与し、ヌーランドは現代のロシア-西側対立を象徴する存在。
これらの人物は、異なる時代背景で米国の外交戦略を形作った巨人と実践者です。質問があれば、さらに深掘りします!
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芥川賞作家・羽田圭介が描く、オルタナティブライフの最前線。必要最低限の物だけで暮らす「ミニマリスト」の主人公。 着想のきっかけは、「人生を最大化する」「物より経験」など、ミニマリストたちがブログやSNSで口々に発するフレーズが酷似していることへの違和感だったという。 流行りの「意識高い系ミニマリストライフ」はことさら精密に描写されており、砂上の楼閣の頂点に位置するような確かな基盤を持たない、かりそめのアーバンライフが説得力を持って展開されていく。 都合の悪い記憶もろとも巻き込んで行われる断捨離。そこに買い足された自分好みの「心地良い物だけに囲まれた」暮らし。自身が運営するコミュニティ。理想を説く一方で、モノを売る。株式投資で利益を上げ、金はしっかり稼ぐ。 主人公自身、みずからが展開した自説に飲み込まれ、やがて、それは狂信的な核心に変わっていく。信者達との会話、恋人とのコミュニケーション、皆が一様に持つMac book pro。 主人公のまわりに、緩やかに展開される信者たちの群像。それは第二次世界大戦後にドイツ系移民が北米で展開し、一大ブームを形成した「ヒッピー」の跡を継ぐ存在のようでもあった。日々更新され、進化する、煩悩の現在
Amazon.co.jp: 滅私 : 羽田 圭介: 本
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【かいわいの時】明治三十七年(1904)7月7日:市電に二階付き電車登場、営業許可(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
大阪市電が開業して3月後の明治36年の暮れ近くに完成納入された二階付電車5号車は、余りに珍しい構造であったため、なかなか使用許可が得られず、翌年明治37年7月にようやく営業に出すことができたと伝えられています(略)二階付電車が走ったのは、わずか7年あまりで、明治44年11月には四国愛媛県の松山電気鉄道(後に伊予鉄道に合併)に売却されました。大阪市電の看板電車がなぜこんなにはやく見切りをつけられたかのかは謎につつまれています(『保存車両ガイドブック(緑木編)』2010より)。
同書では、「一時は夜間に投光器をつけて夜景を楽しんでもらうサービスをしたところ、風紀上よろしくないと警察方面からクレームがついた」というエピソードも披露されています。また、産経WEST「絵ハガキ時空散歩」では、「こののっぽの電車は明治37(1904)年に導入され、乗客には眺望の良さで好評だったという。ところが、この眺めの良さが仇となった。沿線住民から「家の中をのぞかれる」という苦情が出たため、短期間で廃止」とあります。調べてみると、電気車研究会『鉄道ピクトリアル 478』(1987)の「高松吉太郎 カメラと機関車を胸に抱いて(4)」が初出だと思われます[註]。『大阪市電-路面電車66年の記録』(1980)には言及がありません。
全車両売却されたのは事実ですが、それはヘルブランド台車を採用した初期10両(うち3両が2階付)すべてであって、2階付電車に限ってのことではなかったようです。この台車は、貿易商がドイツから輸入し京浜電気鉄道に預けてあったものの内、10台を大阪市が譲り受けたもので、第5回内国勧業博覧会の開催に間に合わせようと、最も早く手に入る台車を選んだことが採用理由であったと伝わっています。大阪市電としての活躍期間は短く、明治44年(1911)から大正3年(1914)にかけて全車両が売却されています。
明治44年には、乗客の急増に対応するため、台車2基を備えたボギー車*75両の導入を決めており、どうやら、輸送力増強のためのモデルチェンジが売却理由だったようです。しかし、売却車両と同型の単車(台車1基)30両も新たに導入されており、また、件のヘルブランド台車がその後20年以上も使用され続けたことを考えると、わずか7年で御役御免とはいかにも早すぎます。新車両の選定に絡んだ大人の「諸事情」があったのかも知れません。 *ボギー台車を装備した車両をボギー車と呼ぶ。ボギー台車とは、車体に対して水平方向に回転可能な装置をもつ台車の総称である(ウィキペディア)。
[註]大阪市電が創業時の築港線に2階建電車を走らせたことは有名な話である。市の中心部に路線を延長する段階でこのダブルデッカーの増備はとりやめとなった。まちなかではこの2階から市民の生活がまる見えになるという、今でいえばプライバシーの侵害といった苦情が原因らしい。「高松吉太郎 カメラと機関車を胸に抱いて(4)」『鉄道ピクトリアル 478』1987より。
(写真)「(大阪名勝)築港の電車」1906_12
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2024.2.13tue_tokyo

7:00起床 昨夜、明日は永田町と下北沢のダブルヘッダーだから早く眠ろうと思っていたけれど、なかなか寝付けず。いろんなことを考えていた。だけど起きて青空見たら寝不足も気にならない。心情とは面白いね。
政治、とりわけ東京のことを考えるようになったのは住み始めた23年前の2001年頃。思えばさらには2011年東北大震災がきっかけだったように思う。福岡、佐賀時代は自分のことばかり見て、ちっとも想像が外に及ぶことはなかった。まったく褒められない酷い時代。
2019年の終わり、パンデミックが始まって「痛い、なぜこんなに痛いんだ?こんな状態だったんだ。いつからだったんだよ。」とダイレクトに心に生まれた痛さにようやく気付き世の中を見始める。とっくに人生はそうとう進んでいたね。酷い私の時代はずっと続いてたよ。
起きるコロナ禍が始まる頃、世界のこと、日本のこと、気候変動から始まる「全てのイシューは地続き」をつくづく実感した。その後興味を持って行き始めたスタンディング、マーチ、ダイイン、対話集会、プロテストレイヴと、その中にある様々な言葉を拾い探す努力をし始める。そして今日、たまたま二つの集会スピーチ、コールとそれに対話ライブとが重なり2つの梯子する日になった。
15:00 毎日お昼ご飯の代わりのおやつをしているからそんな毎日のルーティンは普通にして行きたいとお昼3時頃、コーヒーを入れおやつを仕込んだ。この頃くらいから朝に少し興奮した気持ちも随分落ち着いていたね。おやつとコーヒーは大事。
その後、カメラと荷物を抱え出かける。少し早く出たから散歩代わりに「LOST AND FOUND Tokyo」へ歯磨き粉を買いに歩く。おかげでよりカームダウンした気がする。いつも思っていることはなるべく熱狂しないということ。だいたいそれで失敗するし、必ずそんなことでくよくよする。
18:30 地下鉄に乗り国会議事堂前で降りる。久しぶりの国会議事堂は怪しく光っていた。いや、たぶん申し分無く思っていたら『今日の国会議事堂は穏やかな光を放っていたな』になったのかな?いくつかの集まりのコールと僧侶の人が立ち奏でる読経聞いた。様々な人の心が国会議事堂をつつむ。

すでに始まっている国会議事堂前行動、近づくにつれ遠くてもよく通るチャント、コールが聞こえ出す。到着したと同時に小原隆治さんのスピーチがはじまりその一節の「正義を語る事を、止めよう。Let's talk about injustice.。I will not be silenced by injustice. 」が深く心に残り、しかも小原さんの歌うようなチャントに『すべてはリズムなのだ』ね。
21:00 時計を見ると21:00。まだスピーチの方は続くんだけれど、ダブルヘッダー二つ目、下北LIVE HAUSで開催されている「9Party」へ急いで向かった。入るとすぐにsakumagのメンバーでグラフィックデザイナー、ラッパーのnatsumeさんがいた。「しいねはるかさん」がライブ中。私たちも「9Party」に出演した時にご一緒したシンガー。音はもちろんのこと、しいねさんの言葉はいつも心に残る。あんな風に話せる人になりたいと毎回思うよ。その後、浅沼優子さん、佐久間裕美子さんがドイツとアメリカからリモートで対話に参加された。LIVE HAUSのスガナミさんが司会進行。思えばこんなに重要なお話で、遠くにあって間近に聞ける環境を作るスガナミさんのアクティビティーが本当に素晴らしい。とはいえ、あっという間の90分余り。もっとお二人のそしてみんなの話も聞きたかったな。



今世界中に起きる、イシュー、クライシスを少しの時間だったけれど分かち合えたと思える時間だったよ。そして内容もさることながら、とにかく全てが優しいのだ。みんなが、その漂う全てが優しい。浅沼さん、佐久間さんのお話、エントランスに並ぶsakumagの本や地下BOOKS、バックパックブックス、ふるさとの店の本、しいねさんの歌、sakumagクルーのセレクトする音、そしてお好み焼きがくちゃん、チャーベさんが焼くお好み焼き。実際、ライブ中も対話中もずっと『ジュージュー』と素晴らしく優しいSEがフロアーに降り注いでいたね。


23:30 家路に辿り着きふと歩数を見ると1万5千歩の文字。寝不足だし今日はあっという間に眠るなと思うも、1日の出来事を反芻するよにまた朝からを思い出していた。この日記みたいに。ただ私がこうやって日記を書いている「今」も世界はジェノサイドをタイムラインで見ている。そのことに憤りまた眠れぬ夜になってしまいそうだけど、私がいくら眠れなくなったとて辛くなったとて何も変わらない。だからこれからもアクティビティ続けようと確認した2月9日。

明日の朝起きたら「全ては夢」だったってならないのかな?それではおやすみなさい。
チャーベさんの広島風お好み焼き美味しかったなー。
26:00就寝(たぶん)
-プロフィール- ムトウサツキ Small Circle of Friends & STUDIO75. @scof75
ムトウサツキとアズマリキの2人組。1993年、イギリスの人気DJジャイルス・ピーターソン主宰、United future organizationのレーベル”Brownswood”よりデビュー。以来17枚のフル・アルバムをリリース。2005年にはインストゥルメンタルに特化したサイド・プロジェクト「STUDIO75」をスタートアーティストのトータルプロデュースからbeat製作も多数。最新は、BASI、maco marets、kojikojiなど。Small Circle of Friends最新は12th AL” cell ”とセルフミックス “Another cell”。サツキはリユーステーラー「75Clothes」展開。2024年はSmall Circle of Friendsの30周年イヤー。13枚目のアルバムリリース予定です。音楽と服で毎日を暮らしています。
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study abroad diaries 〜北京編〜
大家好~!!早稲田大学文化構想学部3年の下田葉月です!
9月からの1年間、中国の清華大学に交換留学しています🐼
アジア圏、特に中学へ留学する人はかなり少数派なのではないでしょうか、、(私が知る中でもWICでは私しかいないような、、)
私自身準備を進める段階からなかなか中国留学の情報は出回っていないなという風に感じているので、特に中国に興味のある人、留学を考えている人の参考になればと思います🌼

↑故宮博物館(明と清の時代の宮殿、紫禁城)
① 北京と清華大学について

清華大学は中国の首都北京の海淀区というところにあり、北京首都国際空港から車でおよそ50分の場所に位置しています。北京大学と並んで中国で最も有名な大学であり、中国各地から優秀な学生たちが集まる場所です。北京にはこれ以外にもたくさんの大学がありますが、清華大学のキャンパスは北京内で最も大きい面積を誇り、なんと早稲田大学の約15~20倍ほどです、、
このような環境の中で生活するうえで欠かせないのが、自転車です!!私は小学生の頃に自転車で転んで以来トラウマで一切乗っていなかったのですが、大学内での移動で徒歩ではなかなか限界があったために、大学で自分の自転車を買いました✨(9000円くらいでした)
今では自転車技術も向上し、大学の中でも外でもどこへでも自転車に乗っていきます!!
でも北京には交通ルールや秩序がほぼないので、たとえ信号が青でもしっかり確認して車の合間を縫って走らないと本当の本当にひかれます、毎日がスリル満点です。
中国ではレンタルの自転車も充実していますが、殆どの人が自分の自転車か小型のバイクを持っています。日本と比べ物にならないほど自転車とバイクが多いですが、道が平坦で広いため比較的走りやすいです。(でも日本よりはるかに危険です)

↑ピーク時の大学内、誰も譲らないのでよくぶつかります
② 学習面
私は交換留学の言語プログラムなので、とっている授業はすべて中国語の授業で固定です。授業は毎朝8時からはじまり(毎日6時半起きです、、)午前中には終わります。私のクラスには日本、韓国、タイ、ベトナム、フィリピン、ドイツ、オーストリア、オランダ、カナダ、アメリカ、ロシア、キルギスからの学生が集まっていて、その年齢も様々です。私はクラスで最年少ということもあり、中国に留学に来る人は院生をはじめとした年上の人が多いなあという印象を受けます。
中国に留学してみて驚いたのが、中国にルーツを持つ日本の留学生の多さです。私の周りでも体感9割ほどが両親のどちらかが中国人だったり、もともと国籍が中国であったり、または昔中国に住んでいた、など何らかの形で中国につながりを持っています。ここが他の国への留学とはちょっと違うところなのではないかなあ、と個人的に感じています。
ルーツを持たない留学生のうちでもほとんどが日本の大学で中国語を専攻している学生なので、そのどちらでもない私はかなりレアなケースだと思います、、。上のような事情から中国語がもともとできる子が多いのでコンプレックスを感じることもありますが、今はそんな自分に誇りを持てるようになり、元々中国語が好きなので楽しんで勉強できています✨
毎日顔を合わせることもあり韓国のクラスメイト2人と日本のクラスメイトの4人ですごく仲がいいのですが、全休の日や週末にみんなで北京の色々な場所へ遊びに行っています!!実は北京にはユニバーサルスタジオもあるんですよ❤️



(上から天坛公园、万里の長城、ユニバーサルスタジオ北京)
③ 生活面
渡航前からなんとなくこんなところかな、、というイメージはありましたが、予想以上に北京は何もないところです、、。広大な中国の首都ですが、政治の中心という要素が大きいのか、不思議なことに都市の雰囲気がなく、日本に北京と似た都市はないとも言われます。
私は留学する大学を決める時に首都だから北京かな、と思って実際多くの大学が集まる北京を選びましたが、特に上海に住んでいた人や言ったことのある人はみんな上海がいいと言います(東京に似ているみたいです!)😭
そんな北京は、最近は気温が日に日に下がり、今12月の今日は最高気温がマイナス5度、最低気温がマイナス13度です、、。4日後にはマイナス20度になるそうです😥
とにかく体験したことのないような寒さで、露出しているところがあると痛いのでおしゃれもできません泣
ここで、皆さん気になっているであろう、中国の食事についても紹介したいと思います🌸「美食の砂漠」と揶揄されることもある北京ですが、首都であるという特徴ゆえ様々な地方の中国料理を食べることができます!!私はほとんどの食事を大学の食堂ですませていますが、一食100~200円ほどで食べられて、種類も豊富でとても美味しいので飽きることがありません。私は特に辛いものが大好きなので、中国の暮らしや食に適応できています!
外で食べる火鍋や羊肉串などの中国料理は絶品なので、一度食べたら病みつきになること間違いなしです!ほかにも北京にはたくさんの韓国料理屋さんや日本料理屋さん(居酒屋)があり、様々な料理にありつけます!洋食もあることはあるのですが、中国料理で完結している感が強く、日本よりは期待できないと思います、、。



美味しくて種類豊富な飲み物が安く飲めます💕
④ 最後に
最初は中国の食や環境に適応するのが大変で中国に来て何度もおなかを壊し(急性腸炎にもなりました)、肺炎にもなりました。公共のお手洗いなどは、清潔な日本に比べるとやっぱり少し難易度が高いので、中国に住むことは色々な面から忍耐力を要します、、。
さらに中国はビザをはじめとしたすべての手続きがすごく複雑で厳しいので、それを1つ1つこなすのにも体力と精神力が必要です。また、ライン、インスタグラム、ツイッター、Google、ユーチューブなどの普段頻繁に使うSNSが中国では政府の規制により使えないので、VPNを使用する必要があるなど中国留学には独自の厳しさがあるようにも思います😭
しかし、皆さんにお伝えしたいのは、中国はすごく素敵な国であるということです。観光地に行けば何千年もの長い歴史をその美しい景色から感じることができ、食べ物の種類も豊富で飽きることがなく、さらに中国の方は情熱的で優しい方がすごく多いです。
もともと中国語と中国に興味があり留学を決めましたが、やっぱり素敵な国だなあ、と毎日のように思いながら生活しています✨
中国はビザの手続きの煩雑さやなんとなくのイメージからなかなか行きにくい国ではあるかもしれません。しかしながら、旅行に行くにも留学するにも素晴らしい国なので、みなさんぜひ目を向けてみてください!!
少しでも中国留学の実態と中国の魅力をお伝え出来たなら嬉しく思います!最後までお読みいただきありがとうございました💐再见~!!

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