#町役人の役所
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徒步觀光巡禮,深度探訪在江戶時代的白山神社旁,曾設有政府機關的町公所,因而得名的歷史小徑的「町公所小路」!
#巡日#旅行#出國#江戶時代#歷史街道#町公所小路#白山神社#沼垂東#新潟#新潟自由行#巡日旅行攝#Japan#Travel#Lane#Endeko#町役人の役所#御役所小路#えんでこ#にいがた#にほんこく#RoundtripJp
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今一番近づきたくない町
1位 川口
2位 旭川
どっちの町も、俺みたいな弱い人間は生き延びられるか自信が持てない ただ、1位の川口市は、川口市民には何の責任もなくて、野放図に不良外人受け入れてる市長やら県知事の責任(川口市民も選んだ責任はあるか) だが、2位の旭川は、教育委員会、学校はじめ、役所やそれにかかわる市民そのものがヤバそう どっちも絶対子育てには向かない 今高校生以下の子がいて、両市に住んでる人は、引っ越した方がいいと思う
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戦闘服の男たちNo.0
現職自衛官の告白体験手記
「遠くで突撃喇叭が」
原題「遠くでラッパが」
作 島 守

新隊員の便所はノリだらけ
朝五時、起床まであと一時間である。いやあ、変な夢を見たるんだなと思って、ギンギンになっているセガレに手をのばすと、ああ、やっちゃった。まったくしょうのない奴だぜ、昨日センズリかいたばっかりだろうが!
畜生!今起きると、となりのベッドの奴が目をさましてカッコ悪いし、しょうがネーな、起床で戦闘服に着替える時にでも一緒に履きかえるか。
それにしても新隊員は外出が制限されてるせいで、夜なんかとても遊びに行けないし、極度に欲求不満の日々が読いている。
雄臭い野郎を見るだけならここは本当にいい所だけれど、それ以上のことはちと不可能。けっきょく、夜、誰もいないトイレにはいってシコシコ激しくセンズリをカクしかないのだ。風呂で見たガッチリしたオアニイさんや、カワユイ隊員たちがチラチラ浮かんできたりする。
でも終わってみると、やっぱりむなしいな。なんか小便とたいしてかわりないみたいで。それでもけっこうさかんなようすで、この間も班長から、
「新隊員の便所はノリだらけでたまらん!」
なんて怒られてしまった。マア、ノリは冗談としても、エロマンガのちぎれたのや、ビニ本なんかが時々モロ、トイレにおきっぱなしになってたりする。金があれば普通の隊員はトルコにでも行くんだろうけど、そこはまだペイペイの新隊員、月給は少ないし、貯金はしろとうるさいし、とてもとても…
それでも、あけっぴろげな男だけの世界。
「これからセンズリ行くゾー」
と、エロ本片手に走って行く奴もいる。
そんでもって自分もけっきょくその日のタ方、バラしてしまうのだった。
「昨日の夜、爆発しちまったでェー」
「いやー、エッチだなあ。勝見二士がいないからじゃないのォー」
前期の教育隊から一緒に来た北村二士にいうと、思わぬ返事が返ってきた。まいったなあ。
「このヤロォー、勝見と俺はそんなに深い仲でネェゾ!」
「エへへへ、でも勝見二士は、島二士のダッチワイフだったんじゃないのォー」
まったく北村の野郎、口のへらない奴だ。
まっ、べつに勝見二土は���ッチワイフだなんてのは冗談だからいいけど、でも俺は、やっぱりドッキン!そう、あいつはいい奴だったもんな。この俺に、男と男が精神的に強く結ばれることがどんなに素晴らしいことか数えてくれたから・・・•・・ネ。
それは3ヶ月前
桜のつぼみがまだ硬い三月の下旬、俺は陸上自衛隊のある駐屯地に入隊した。出身県の関係で他の県の出身者より四日ほど遅い入隊だった。勝見二士とはこの時に初めて出会ったのである。
〈三月某日〉
なかなかできてる奴
今日から俺の自衛隊員としての生活が始ま���。まわりの環境は、想像していたのとそれほど変りはない。でも一部屋四十人というのは多すぎるようだ。
それから自衛隊ではバディという仕組があって、二段ベッドの上下でペアを組み、訓練面や私生活でいくそうだ。
俺のバディは勝見次郎。ガタイが良くてイモの煮っ転がしみたいな顔をした奴だが、なかなか性格はよさそうだ。
この時はまだバディの重要さなんか知るよしもなかった。
勝見二士は俺より年下だが、四日も早く入していただけあってちょっと先輩気取りで、ベッドのとり方から戦闘服のネームの縫い物まで俺に協力してやってくれた。早くもリードされっぱなし。それでもけっして悪い顔をしないで黙々と手伝ってくれる彼を見て、
「なかなかできてる奴だワイ」
と内心思ったものである。
<四月某日>
ビニ本でぬいて来い
入隊式も終わり、訓練も徐々に本格的になってきた。銃こそまだ持たされていないが、戦闘服を着て半長靴をはいて走り回るさまは、一人前の兵隊さん・・・・・なんちゃって。
そんな時、体育の時間に勝見の野郎がすっころんでけがをした。運動神経いいくせにまったくそそっかしい奴だ。おかげでその晩、俺がヨーチン片手に手当てしてやる。
両足おさえつけて、ヨーチンをぬるさまはSの気分。ムフフフと不敵に笑って、「グチェッ!」とぬってやる。勝見の奴たまりかねて、「ギャアー!」
苦痛にゆがんだ顔って、ちょっとエロチックやなアー。
四月にはいっても外出は下旬にならないとできない。新隊員とはつらいもんである。ああ、自衛隊には自由なんてない!これでは縛られるのが好きなMじゃなきゃ向かないんじゃないだろうか。そんなわけで貴重な休みも隊舎のベッドでゴロゴロ、これじゃ夜寝られるワケがない。
消燈もとっくに過ぎた十二時半、なんとなく昼間寝すぎたので寝つけない。緑色の毛布の中でごそっと寝返りを打つと、上のベッドでもごそっと寝返りを打ったようだ。安物のベッドがグラッ��くる。これじゃセンズリかいてようもんなら、��っぽのベッドの奴は地震かと思って起きちまうだろうななんて思ってると、
「オイ、島さん寝たかい?」
と、勝見が小さな声で話しかけてきた。
「なーんか、こうムラムラして寝られネェんだョオ」
と俺。すると、
「島さん、最近やってないんでしょ、アレを」
「まっ、まあな」
と、二人はムクッとベッドから起き上がて話を始めた。まったく目がさえてしかたいない。すると、その時へやの戸があいて、だれかがはいってきた。なんと班付(つまり上官)の上田士長である。よーく見ると、片手にビニ本を持っている。
「お前ら、まだ起きとるんか」
「エエ、寝られないんですヨ」
と勝見二士。すると上田士長、恥ずかし気もなく片手でもってるビニ本二冊を差し出すと、
「これでちょっとぬいてこい、そうすればバッチリ寝られるゾ。俺も抜いて来た」
思わず俺と見、顔を見合わせてニヤリ、もちろん俺はあんまりビニ本には興味はないが、そこはノンケの顔をしていなければならないのがツライところ。
ともかく、俺と勝見の二人はビニ本片手に仲よくトイレに直行。そこで二人は同じ個室に••••••てなわけにはいかなくって別々の目室に。ハイ、でも、ガマン!
「オッ、スケニ本だぜ、もうビンピンだァ」
「タマンネニナー。でもあんまりおっきな声だすなァ、不寝番がびっくりして飛んでくるゾォー」
なんてことを話しながら、お互いに実況中継をし合う。洋式トイレなのですわってカケるのでらくなのだ。となりの個室からのすっとんきょうな声がとだえた。奴も本気になってきたようだ。こっちがたまんなくなるようなあえぎ声が聞こえてくる。思わず俺の手の動きも早くなる……。
すると、突然奴の声、
「ウッ!ウッーウ」
畜生、俺より早く終わりやがったな。
奴の家は海辺の町で漁師をやっている。中学、高校と、よくアルバイトを兼ねて家の手伝いをしたそうだ。そのためか潮で鍛えられた体は浅黒く、区隊で誰にもまけないくらいの逞しさを持っている。そんな奴から海の話を聞くのが俺も好きで、いろいろと聞いたものだった。サザエの採り方なんか、実に詳しく話をしてくれたもんだった。
<5月某日>
好きになったのかな?
知らないというのは恐ろしい。いつものように勝見二土から海の話を聞いていた俺は、なにげなく聞いてしまった。
「じゃ、なんで家の仕事を継がなかったんだい?」
「親父が許してくれなかったんだよ」
「どーして?」
「・・・・・・兄貴が海で死んだからさ••・・生きてれば二十七歳さ。よく晴れてベタなぎの海にもぐったきり、サザエ採りにネ、兄貴、上がってこなかった」
淡々と話し続ける奴は、やっぱりいつもと違っていた。
「やっぱり親は親なんだな。二人も海で死なせたくはないんだろうな。いくら俺がねばってもだめだった。今の俺なんて、丘に上がったカッパさ・・・・・・・」
と、彼は言う。いやいや、丘に上がったカッパなんてとんでもない。奴の体力は区隊のトップをいつも争っている。俺だって気力じや負けないつもりだが、やっぱり体力検定だとかではっきり数字に出されると、どうも一歩も二歩もゆずってしまう。
「漁仲間の人から最近よく言われるんだ、兄貴に似てるって」
彼はこう最後に明るく付け加えた。なんか、この話を聞いているうちに、自分が奴に引かれていることに気がついてきた。なんとなく奴のことを、俺は他の班員とは違う目で見ているということに・・・・・・。
俺、奴のこと好きになったのかな?
まだ五月の下旬だというのに、真夏のような暑さが続く。そんな太陽の下での戦闘訓練は、まだ自衛官として一人前の体力を持ち合わせてない俺たちには、とてもキツイ。
たかが4.3kgの小銃が自分の体じゅうの汗を吸いまくる。気がつくと小銃から滴がしたたるほどに汗でぬれている。
地面だってこんな間近に見つめることなんてあったろうか。地にふせた俺の目の前にあるのは、青々とした草が高々と繁っている姿と、小さな虫たちの世界だった。
一瞬、自分が虫けらになったような気がする。ふと隣を見ると、3メートルほど離れて奴がこっちを見てニヤリとした。埃にまみれた顔から白い歯がチラリとのぞく。ほんの数秒の間の静けさが何時間にも感じる。

すると突然、頭上で班長の大声が響く!
「目標、前方の敵!」
「突撃!前へ!」
銃をかまえると全力で走りだす。核の時代にこんなことが役に立つのだろうか、もうバカになるしかないな。班長の号令が頭の中を素通りして直接手足に伝ってゆく。俺も奴も、そして愛すべき仲間たちも、死ぬ時はみんな一緒・・・・・なんだろうな。
<六月某日>
レイプごっこ
3ヶ月の前期教育も大詰めをむかえてきた。今月の末には、俺も奴もバラバラになって全国の部隊のどこかの駐屯地に配属されることになるだろう。なんか、そう思うと、とてもせつない。でも、俺と奴は違う道をたどらなければならない。希望も適性も違うから。だからあと数週間、思いっきり悔いのないようにガンバッテいく。それが今の俺たちには一番なの
だ。
営内近は1班12名前後いる。学校の教室の約2倍ほどの大きさの部屋に、実に40人の隊員が詰め込まれ、2段ベッドで毎日の訓練生活を送っている。もちろん性格もさまざまであるが、そんな隊員たちが40人も一つの部屋にいる姿は、なんとも壮観で異様でもある。しかも全員、スポーツ刈りか坊頭で、体格もこの六月ごろになると個人差こそあれ、すっかり逞しくなってくる。
その中にはやっぱり俺以外にも、男が好きな奴がいるらしい。時々どっかからか、〇〇二土と二士が二人でトイレにはいって行くのを見たなんて話を耳にすることがある。
うまいことやってるなあなんて思うけど、やっぱり毎日寝起きしている仲間の前ではなかなか、そんなことできるワケがない。それでもよく俺たち二人は皆の前で冗談を飛ばし合う。
「オッ、いいケツしてんなあー、たまんねえぜ!」
「バーカ、今夜はもう予約ズミダヨ」
「ベッドあんまりゆらしてこわすなヨ。下で俺が寝られネェからヨ」
「じゃペーパー貸してやっから、センズリでもかいてきな!」
なんてやり合ってると、周りの仲間も悪乗りしてきて、なにがなんだかわからないうちにレイプごっこ(つまり解剖というやつ)が始まったりする。どんなバカ力の持ち主でも二十人ぐらいにせめられたんじゃ手も足もでない。アッというまにスッポンポン。一回やられるとくせになるみたいで、次の獲物をさかす。でも気がつくと、一番必死でやってるのは俺みたい。
<六月中旬某日>
こみ上げてくるような話
今日から前期教育で最初で最後の野営(泊まりがけの野外訓練)が始まった。
午前中に寝泊まりするテントを設営する。
午後からは小銃手用の掩体(一種の個人用の隠れ穴…ここに隠れて首と銃だけ出して、敵を狙う)を���った。
1グループ6人で3時間ほどで仕上げなければいけない。
もっぱら俺は現場監督のように地面に穴を掘る設計図を引く。そして奴は、パワーショベルのようなバカカで他の仲間四人とともに穴を掘る。もちろんきっかり時間内に仕上がった。
野営で俺たちが使うテントは、二人用の小さなもので、朝起きてみると足が外��出ていた、なんてことがしょっちゅうある。もちろん奴、勝見二士と一緒である。
一日めの夜は夜間訓練もあり、ビールも一本入ったので、二人はろくに話しもしないで寝てしまった。
二日の夜、目が冴えて眠れない。久しぶりに奴と俺はいろんな話しをした。酔うと滑舌になる勝見。入隊する前の事や、これからのこと、もちろん女の話しだって出てくる。俺は当然聞き手に回るわけだが、それでも奴は初体験の話や、彼女にふられてしまったことを、こっちが感心するほど克明に話してくれた。
なんかこみ上げてくるようなものも感じるけれど、それは明日の厳しい訓練にとかして流してしまおう。
三日めは、昼間の行軍が災いして床についたら、またまた、あっという間に寝てしまった。それでも就寝前、点呼に来る班長が、
「お前ら、あんまりいちゃつくなよ!」
「いやーあ、昨日なんて島さんが寝かしてくれないんスよ。まいったなあ」
なーんて冗談も飛ばしてくれて、言葉の中だけど、楽しませてくれた。
<前期教育終了7日前>
愛すべきパワーショベル
今日は最後の体育だ。項目はなんと苦手の障害走。外見に似合わず(?)体力のちと足りない俺には恐怖の時間である。だが、今回はなんと二人でペアになってやれというのである。当然勝見二土と組むことになる。よし、やるぞ!
隊長の合図でスタートし、戦闘服姿で障害物を切りぬけていく。高さニメートルの垂直の壁あり、幅一・五メートルの溝あり、まったくとんでもないコースだ。やっぱり勝見の奴は早い。確実に障害をこなしてゆく。時々日に焼けた顔でこっちをふり向く。そうだ、奴がいるから今俺は、三カ月間ここまできたんだ、汗と埃は今、大きなエネルギーと変わって俺たちに吸い込まれてゆく。奴が好きだ、そう、心の中で叫んでやる、
「好きだ」と。
ふと気がつくと、目の前にロープが下がっていた。最後の難関のロープ登りである。畜生!俺が最も苦手とするやつだ。それでも登らなければならない。一段階一段階と手足を使って登るのだが、なかなか上へ進まない。
畜生!もうだめだ、あと五十センチでロープのフックに手が届くに・・。すると、そ畜生!もうだめだ、あと五十センチでロープのフックに手が届くのに…。
すると、その時である。足をなにか、すごい力で下からさ押れた。グーッと上に上がる。フ、フックに手が届いた。やったあ!思わず下を見る。そう、俺の足の下には勝見のこぶしがあった。奴は満身の力で、俺を下から押し上げてくれたのである。
この野郎!お前はやっぱりパワーショベルなんだなあ。
<前期教育終了6日前>
自衛隊部隊はラッパの音と共に、毎朝8時に国旗掲揚、夕方5時に国旗降納がある。
俺の前に整列している奴の後ろ姿の敬礼を見るのもあと数回しかない。教育終了後に別の部隊に進む事に決まったからだ。
日に焼けたうなじを目に対み込んでおこうと思う。毎日、一緒に行く食事も別れが近いせいか会話が少なくなったような気がする。
そろそろ身辺の整理を始める。ダンボールに荷物をつめる時、背中に後ろで見ている奴の視線がやけに気になる。
<前期教育終了4日前>
パンツの隙間から半立ちのものが…
教育打ち上げの研修旅行で、ある山奥の温泉に行った。
やはり百名近い短髪の青年集団というのは一般の人々に奇異に見えるようで、必ず「お仕事は何ですか」なんて聞かれる。もちろん醜態をさらす飲み会に制服なんて着ていくワケがないから、わからないのは無理もない。
「皆さんお若いですネ。今年入社したのですか?」
「ハアー、そうです」
「いい体している人ばかりですけど、どんな仕事ですか」
「まあー(モゴモゴモゴ)」
「ガードマンかなんかですか?」
「似たようなもんですネ」
と、けっこうおもしろがって遠回しに話をするんだけど、後ろから当然、
「島二土!」
なんて階級で呼ばれるもんだから、わけ知りの人にはバレちゃう。そしてその夜ー。
バカ騒ぎのうちに飲み会も終わり、各班ごとにひっそりと部屋に集まって二次会が始まる。ビールの本数が増えるに従って、歌が出る。かわるがわる歌う員の歌声をバックにして、俺も奴も仲間たちも、この三カ月間の訓練をいろいろ思い出していた。苦しかったことしか浮かんでこない。
でも、俺たちはその中で同期愛ということを学んだ。
いつのまにかみんな寝てしまっ��いた。もう外は白みかかっている。
突然、俺の寝ている毛布に奴が割り込んできた。肌がふれ合う。奴の匂いがする。すぐいびきかく。でも、なんとなく手が出せない。チラリと下を見る。パンツのすき間から、奴の半立ちしたものが見える。そういえば、いつか俺も言われたっけなあ。
「島さん、立ったチンポぐらいしまって寝てろよナ。思わずさわりたくなるだろが!」
奴が不寝番をやっていた時見られてしまったようだ。まったく助平な奴だと思った。でも俺のほうが助平だったりして。
「俺、眠ってる時って何されてもわかんねえんだよなあ」
と奴がカマをかけてくる。
「バーカ、もうやっちゃったヨ。でも1万円のダッチワイフのほうが気持ちよかったぜ」
と俺。してやられたというような奴の顔。
そんなこと思い出しながらいいチャンスの中、俺も寝てしまった。
<前期教育終了日>
再会をめざして頑張ろう
とうとう、今日という日が来てしまった。
俺も奴も違う部隊へ行ってしまう。場所も離れているので、顔も見られなくなるかもしれない。両手で握手をして別れた。
遠くでいラッパが鳴っている。戻は出なかったが、心で泣いてしまった。ありがとう、リスの目をしたパワーショベル、勝見次郎よ。日に洗けて埃にまみれながら走り続けた道を、ふり返りながら前を行く。奴だから、今日まで.....。
そして今…
新隊員後期教育が始まって1ヶ月半。前期教育から一緒に教育を受けている北村二士が手紙を見せてくれた。勝見二士と同じ部隊に行った高田二士からだった。
<あ、そうそう、この間の手紙に島さんが夢精したって書いてあったネ。あの文、勝見二士に見せたら、「まいったなあー」って口ではいってたけど、ニヤニヤしてたぜ。島さんに会いたいって伝えといてくれとのこと>
俺も奴に会いたい。こんど会うのはいつのことだろうか。
「士、別れて三日を経たるは刮目して待つべし」
お互い、目をみはる再会をめざして頑張ろうじゃないか。人は出合いと別れを通じて成長するのだから。
そして後日談…2024年
題名「遠くで突撃喇叭が」は第二書房が付けた題名。
原題は「遠くでラッパが」である。今どき戦闘訓練で突撃喇叭なぞ吹かない。この時代の薔薇族には戦記物を書ける文字通り百戦錬磨の先輩がたくさんいたから仕方ないが、俺の指したラッパの音は毎日部隊で鳴らされる国旗掲揚、国旗降納のラッパである。
勝見二士(仮称)は俺が見込んだとおり自衛隊員募集パンフレットの表紙を飾った。
残念ながら2任期(4年)で退職。
再会は果たせなかかった…親父の後を継いで海に出たそうだ。
新隊員当時の写真。小説に出てくる面々。
その他の隊員と再会したのは地下鉄サリン事件。不幸な事件であったが、それぞれが一線で任務についていた頼もしさを感じた。
もちろん俺も新隊員の教育をする先任陸曹になった。
その後俺も2等陸曹で依願退職。約15年の自衛隊生活を終了。鳶職となり予備自衛官で約10年、1曹まで務めた。
2024年現在、自衛隊に残った同期たちは全て定年退官している。
俺を薔薇族、さぶに引っ張ってくれた木村べん氏も他界された。
読んでもらって分かる通り、肉体関係は無くとも男同士の愛情はある事への感動を自衛隊で得ることができた。
職務上死の覚悟を要求される世界。
その感動をセックス描写のない小説でも構わないからと木村べん氏に書いてみないかと言われて作ったのがこの作品。
べん氏に銃を持つ手ではイラストは描けなくなると言われて、好きなメカ画も共同で作品表紙等で書かせていただいた。もちろん最初で最後。ben &tetsuは勉&(鳶)徹って言うこと。
文中漢数字が多いのは縦書きの影響。

「遠くで突撃喇叭が」掲載誌表紙
もう一つ参考にしてさせていただいた本。
1974年芥川賞受賞作品「草のつるぎ」
実はエロ度こちらの方が数段上。戦闘訓練の打ち上げで全員でセンズリこくシーンがある。実話だからノーカットなんだろう。
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夏旅2024 新潟散策 - スナップ集
新潟旅 最終回は、道中に撮影したスナップ写真をご紹介。
長岡生姜醤油ラーメン もやしトッピング
長岡駅にて乗り換え待ちを兼ねたお昼ご飯に頂きました。ほんのり生姜が香るあっさり醤油ラーメン。��いしかったですが、薄味好きな私にはちょっと塩辛すぎる気も、たっぷりもやしがあってちょうどよかったかも。
風味爽快ニシテ
新潟のご当地(?)ビール。スッキリした飲み心地で、日中大汗をかき干上がった身体に染みわたりました。おいしすぎてついつい飲みすぎた…。
町中の歩行者用信号
雪国の自動車用信号が縦向きなのは知っていましたが…、横向きの歩行者用信号は初めて見た。調べてみると雪国故のアーケードが多い新潟県内では、アーケードの高さの都合上、縦向きでは人に接触する恐れのある場所では横向きの信号機がポピュラーらしい。
新潟市水族館内の公衆電話
スポットライトに照らされた公衆電話に惹かれてしまい一枚。このタイプの公衆電話を最後に使ったのは…、まだ携帯電話を持っていなかった中学生時代なので、20年近く前になっちゃうのかな。当時と変わらぬ姿で佇むのが愛おしい。
直江津駅
かつて北陸新幹線延伸前までは、上越新幹線と接続し、首都圏と北陸エリアを結ぶ特急がいきかっていた主要駅。現在は地域輸送に特化した第三セクター えちごトキめき鉄道の起点駅として新たな役割を担う。特急停車時には必要だった長いホームもいまではほんの一部しか使われなくなっていることに一抹の寂しさを覚える。もちろん、えきごトキめき鉄道になったからこその楽しさ���味わいもあり、その点が個人的にはすごく好きで応援したいと思う。
高田城 観蓮会
東洋一ともいわれる高田城お堀の蓮を鑑賞。お堀一面を埋め尽くす蓮の花は圧巻でした。
直江津名物 さけめし
旅の最後を締めくくる列車の中でいただいたのは、直江津駅で仕入れた名物駅弁 さけめし。ホロホロとやわらかい鮭の身といくら+出汁ご飯の組み合わせが大変 美味でした。旅の余韻に浸りながら、ペロリといただけました。
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02/05/2024 part2 (人は変わる、私も変わる)
先日、自宅に届いたフェスタリアのオリジナルプレミアムカット"Wish upon a star"のダイヤモンド✨ 何度か店舗で見せて貰い、このシリーズが欲しかったのですが値段が…と思って諦めていましたが、ちょうどのタイミングで半額、そしてタイムバーゲンでさらに10%オフというのもあって、思い切って購入しました。 ネックレスは悪目立ちしないサイズなので職場につけて行きます。
*一番下の写真は公式サイトより抜粋した画像です。
今日の夕方、徳丸屋さん訪問後、約1年ぶりに父方の祖父母の墓参りに行ってきましました。 以前も記載しましたが、お墓があるのは2年前にハラスメント被害で退職した町にあります。
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家��も親戚も全員、ハラスメントで退職した事情を知っているので 「無理してこの町に来なくて良いよ」 と言ってくれるので、近付かないようにしていました。 私以外の家族は毎年、お盆・正月には必ず墓参りに行きますが、私だけは行きません。 ���だ、今度の職場は遠方ということで、次に墓参りに行くのは何年後になるのか分からない状態。意を決して墓参りに行くことにしました🚶🏻♀️平日ということで誰にも会わずに済みましたが、やっぱり疲れました。
帰りにその役場で在職中にお世話になった人の元へお忍びでご挨拶。 久しく会っていなかったこともありますが、その方の性格がすっかり別人に変わってしまっていました。
今の職場の人員不足の愚痴から始まり、他の会社に勤務しているママ友の職場の時給と待遇が良さから始まり、あの職場の方が良い、働きやすそうなどなど。日本の地方では非現実的な時給ではないと満足しないそうです。以前だったら「大変ですね」って共感する言葉を言っているところですが、表向きはそう言いながら心の中では凄くモヤモヤ。
彼女たちの不満の原因は私のときのような人間関係ではなく、時給の悪さと人員不足です。 公的機関の財源は税金なので、人員を増やすのは容易ではないですが、業務が円滑に進まない、日常生活に支障をきたしているいるなら、上司に相談、提案すべきだと思います。 あの役場なので、モラルはさておいても福利厚生は整っているし、近隣市町村の中では給料の待遇は良い方です。彼女の不満の対価として給料に反映されているはずなんですが(実際同じ役場でも彼女たちの職種は時給は良いです)、数少ない良い所には目を向けることはなく。 そこまでの時給を言われたら、東京の最低賃金にも達していません。ドイツやフランスなど、日本よりも最低賃金の高い西ヨーロッパに引っ越さないと無理ですよ笑 完全に現実逃避の発言に嫌気がさしている自分がいました。
そして、そんなに不満なら転職活動すればいいのに。
私がこの役場を辞めるときはハラスメントということで退職を余儀なくされましたが、退職して切れたご縁以上に、新しいご縁がたくさん出来たので、今は退職して良かった!って思っています。特に私の場合、ハラスメント被害による退職を国と県が認め、ハラスメント被害に理解してくれる方もたくさんいました。 失業保険の認定日翌日にはチュニジアに長期滞在できましたし🇹🇳
退職後に新しく出会った人たちがいつも活き活きと頑張っている姿を見ているだけに、 「解決しないから愚痴、だからと言って上司には相談・進言しない」 のような進歩の無い話を延々と聞かされて物凄く疲れました。 相手が変わったというよりも、私が変わったのが正解なのかもしれません。
でも在職中の大変な時期に助けてくれたのも事実。在職当時の感謝の気持ちは持ちつつも、今後もう会うことは無いだろうと、徳丸屋さんで買った差し入れのお菓子を置いてその場を離れました。
さて来週はいよいよ新しい職場での仕事📚
社労士事務所の仕事を辞めてから法律もかなり変わったので、急いで本を買って読んでいます👀
去年の暮れは神社に恐ろしい勢いでの断捨離がマイブーム。 現在も減量が順調に進んでいるせいか、リングにドはまり、最近はネックレスにも手を出す私。 私の行きつく先はどこへやら…です汗
#備忘録#photography#japan#reminder#kyushu#kagoshima#フェスタリア#festaria#Wish upon a star#Festaria bijou SOPHIA#diamond#🌟#人は変わる#私も変わる#愚痴#ring#necklace#platinum#jewelry#📚#books 📚
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実家近くの市営コミュニティバスは一日5本しか停まらない。一度利用しようとしたらバスが減速もせずに通り過ぎて行き、役所に抗議電話したら、人が居るのは認識したが客だとは思わなかったとの回答で余程利用者が居
[B! 交通] あなたの町は大丈夫!? 全国バス路線減少マップ - クローズアップ現代 取材ノート - NHK みんなでプラス
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【かいわいの時】天正十六年(1588)二月十六日:出雲大社の巫女、大坂天満宮で神歌・小歌踊りを演じる(大阪市史編纂所「今日は何の日」)。
京博本の「阿国歌舞伎図屏風」は、昭和三十年代に、山本発次郎コレクションとして、しばしば観照する機会を得た。出光本と違って、芝居小屋の内部描写を主題に、役者と観客の交歓を描く。その人物描写(姿・形・配置) や小屋の外の松の姿形に長谷川派の筆を感じたが、拙著『桃山の風俗画』(平凡社、昭和四十二年十月刊)ではなお町絵師出身の逸名の風俗画名手の筆と逃げた。華やかな阿国歌舞伎の図としては、すべてに出光本より適切な表現を見せると言えよう。とくに登場人物が出光本より有機的な関連をもち、見物と舞台が一つに融け合うさまは秀れている。その後、やはり長谷川派の筆だと考え、近稿の「宗宅研究」ではいずれ筆者を特定したいと書いた。もとより、長谷川派でもっとも風俗画に熱意をもつ等学を意識していたのである。
これより、判定の過程を省略して、もっぱら私が等秀や等学と考える風俗画 (歴史画も含める)について述べたい。 まず宗宅の風俗画に触れると、さきの秀吉の醍醐花見図屏風以外では、同じく秀吉が宮中で貴族たちや南蛮人と 一緒に能楽を見る「観能図屏風」(八曲一隻、紙本著色、神戸市立博物館蔵)が同筆と思われる。宗宅は秀吉関係の風俗図だけを描いたのかもしれない。等秀となると、出光本の「阿国歌舞伎図」一点で、ほかには見出せない。地味な等秀は、派手な風俗画には不適と自認していたのであろう。
つぎもすぐ風俗画とは言い難い変った屏風絵だが、「誰が袖美人図屏風」(六曲一双、金地著色、根��美術館蔵)(挿図七八) を取り上げたい。左隻はいわゆる誰が袖屏風に美人図を組み合わせたもので、中央に派手な小袖を着た兵庫髷ふっくらした女性と三味線を左手に持つ禿姿の童女が静かに対峙し、その右方と背後に衣桁・屏風・衣桁を配す《略》ここでさきの等学唯一の署名をもつ帝鑑図を想起したい。それは正面向きの古風な宮殿を奥へ重ねたものだったが、これは最新流行の誰が袖図と扇面散図屏風による知的な構成である。人の女性の姿態や配置は京博本阿国歌舞伎図屏風にも現われているもの。さらに右隻の桜や杉の描法や構図は、前出の「太閤花見図屏風」や等学の妙蓮寺の松・桜・杉図絵などに類似する。以上からこの「誰が袖美人図屏風」が等学筆であるのは納得されると思う。その制作年代は慶長十年ごろの京博本の「阿国歌舞伎図屏風」より後で、サントリー本の「東山・吉野遊楽図屏風」より前であろう。一応、慶長十年代とみておく。コメント欄に写真。
以上、主として等学の風俗画について、彼の金障壁画より得た画風の特徴を基礎に、もっぱら直観による大胆な想定をなしてきた。ここに至ると、理論的にも妥当な等学を京博本「阿国歌舞伎図屏風」の筆者と判定することに、これ以上躊躇する必要もなかろう(山根有三)。「長谷川等秀・等学研究」『国華 第1228号』1998より、抜粋して編集。
(写真)「阿国歌舞伎図屏風」1605頃(京都国立博物館蔵)より 舞台上を見ると、刀を肩にかけたかぶき者、柱のそばに坐す茶屋のかか、頬かむりをした道化役の猿若がおり、これは阿国歌舞伎の代表的演目である「茶屋遊び」が演じられていることを示す。出雲の阿国が北野社の能舞台を代用して「歌舞伎踊り」を始めたのは慶長8年(1603)、本図はその舞台を描いたもので、制作もそれからさほど降らぬ頃と考えられる。囃座も三味線などなく、笛、小鼓、大鼓、太鼓ばかりで、いかにも初期的様相を示す。図中に印象的に配された松の表現が、たとえば妙蓮寺障壁画中のそれと通有する性格を有しており、長谷川派による風俗画の一例とする有力な説がある(e国宝=画像も)。
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味噌ラーメン550円、小ライス100円
◎元祖札幌や(調布市小島町)
2024/11/06 12:00
*調布駅から市役所をすぎて300mほど先。京王多摩川駅の方が少し近いかも。一時期、都内中心にあったフランチャイズチェーンの生き残りのようで、暖簾分けの個人店かもしれない。喫茶店のような控えめな主張の店構えの店内はカウンターのみ7〜8席。喫茶店マスターのような線の細い70代の店主ワンオペで、混み合う時間帯だと少し提供まで待つカンジか。値付けはどの品もいまどきビックリする安さ。基本の味噌らーめんはFC展開のころの白味噌ベースでマイルドな甘口かと思いきや、けっこう塩気はキツいのがこの店の特徴か。麺は色白な中細やや縮れで具は控えめながらもやし、メンマ、わかめ。小ぶりだけどしっとりタイプの肩ロースと、お値段以上の内容だす。あまり訪れるところぢゃないけど、できるだけ長く続いてほしいお店。
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「『梅田地下オデッセイ』でめぐる梅田地下ダンジョン探検。」大阪あそ歩
知る人ぞ知る、大阪SFの名作『梅田地下オデッセイ』でめぐる 梅田地下ダンジョン探検。 ~拡大する梅田地下街のナゾと昭和レトロ。大阪の防災システムとコンピュータ監視の未来を見る地底ラビリンスを歩く~
2024年2月23日、友人から紹介されて堀晃先生の『梅田地下オデッセイ』でめぐる梅田地下ダンジョン探検に参加してきました。 【コースの行程】集合場所 :阪急梅田駅茶屋町口改札口前 阪急梅田駅~阪急三番街~ホワイティ梅田~地下鉄梅田駅~駅前ビル~地下鉄西梅田駅~堂島(解散)
以下、当日渡された堀先生制作の「『梅田地下オデッセイ』あらすじ」に準拠して進めます。 左は現在の地下街。①~⑦は地図上に記載の番号に対応してます(写真は時系列で並べてますが、��ずしも粗筋と一対一の対応をしているわけではありません(汗;)) 以下の地の文は、堀先生がまとめられた粗筋、()内は、私の呟きです。 ガイド役の芝崎さんが「『梅田地下オデッセイ』は、チカコンが開閉を制御するシャッターで迷路が出来るという話でもあるので、今回のツアーは“シャッター”を愛でる旅でもあります」とおっしゃっていたのが印象的でした。
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HORI AKIRA:梅田地下オデッセイ
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SF小説も生んだ梅田地下街。「梅田ダンジョン」と呼ばれる街の今とこれから | 住まいの本当と今を伝える情報サイト【LIFULL HOME'S PRESS】
この作品が注目されて以来、堀氏は梅田地下街に詳しい作家として、地下街で事件が起こるたびにニュースメディアからコメントを求められるようになったという。初秋の昼下がり、そんな堀氏に、梅田の新しい顔のひとつ「茶屋町」でお会いし、お話を伺った。
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おはようございます。
秋田県湯沢市川連は、曇り空です。
3年振りに、旬菜みそ茶屋くらをさんにて【みそしると椀】の展示会を行わさせて頂く事と成りました。
会期中のくらをのお食事では、寿次郎のお椀でお味噌汁をご提供します。
ぜひ実際に寿次郎のお椀で、くらをのお味噌汁を手に持って頂き、軽くて優しい口触りを感じ、川連漆器ならではの触感体感して頂けましたら幸いです。
木地師、塗り師、蒔絵師、沈金師といった漆器��くりに携わる職人たちが半径2㎞に集って暮らす漆器の産地の川連。
会期中はくらをに在廊しておりますので、川連漆器のあれこれを、ぜひ直接尋ねてみてください。
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秋田 ・川連塗 寿次郎 工房展
「みそしると椀」
会期:4月26日(金) - 4月29日(月・祝)
10時 - 16時(会期中無休)
会場:旬菜みそ茶屋くらを
住所:秋田県横手市増田町増田字中町64
電話:0182-45-3710
www.kurawo.net
※お車でお越しの方は、蔵の駅の無料駐車場、または増田の町並み案内所「ほたる」の無料駐車場をご利用ください。5分ちょっと歩きますが横手市役所増田庁舎もご利用いただけます。
3年振りのくらをさんでの展示会。
折り返しの三日目も、朝から観光に来られた団体客様方がご来店。
その後もスーパーカーにてご来店頂いた近県のお客様や、観光客のお客様方が、川連漆器でお食事を楽しんで頂き、実際に見て触れて感じて頂きました。
昨日も女将さんの素敵なお客様方もご紹介頂き、いつも良いご縁を有難うございました。
そしてくらをさんでの展示会も、アッと言う間に本日最終日と成りました。
祝日の最終日も、良いご縁が有ります様に。
そして皆様にとって今日も、良い祝日と成ります様に。
#秋田県 #湯沢市 #川連 #川連漆器 #川連塗 #漆 #寿次郎 #国指定伝統的工芸品 #秋田工芸 #秋田クラフト #秋田の物作り #秋田の物つくり #秋田川連塗寿次郎 #寿次郎 #旬菜みそ茶屋くらを #旬菜みそ茶屋くらを特別企画展 #旬菜みそ茶屋くらを特別企画 #味噌汁 #味噌 #川連漆器でお味噌汁 #寿次郎のお椀でお味噌汁 #みそしると椀 #Kawatsura #Yuzawa #Akita #japan #lacquerware #lacquer
#JapanTraditionalCrafts #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro
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よしもとかよ 「日々是好日」。vol.142 ( 2024/9/11 + 9/18 )
2024 11th + 18th september
M1 safe as houses (Eddi Reader)
M2 台風のあと (やまも) M3 les passants (Zaz)
M4 ici ou la? (Francoise Hardy) M5 Barcelone (Austine) M6 velha infancia (Tribalistas) M7 the breeze (おおたか静流) M8 follow your bliss (the B-52's)
[好日の素…備えを確認すること。] 9月は防災月間ということもあり みなさん既に いろんなところで 防災についてのことは 触れていらっしゃるとは思うのですが、 大事なことは何度でも…というわけで 1月からのこともふまえて わたしなりに 防災について感じていることを お話ししようと思いました。 地震、水害、台風、津波など 災害の内容によって 備え方は異なるとは思いますが、 基本的にまず避難を ��こへどのようにするか、の確認。 自治体からのさまざまな情報や ハザードマップなどを参考に 避難場所はもちろん、そこまでの距離や 避難にどれだけの時間を要するかなど、 実際に自分の足で確認しておくことも 大切です。 避難は原則的には徒歩、とされています。 車で避難する方が より早く、より遠くに避難できると 思いがちですが、 道路の状態によっては 走行不能になったり、渋滞になって 避難だけでなく、緊急車両が 現場に辿り着けない、ということも 考えられます。 ただ、避難場所まで徒歩で行くのが 難しいケースや、 徒歩では時間がかかりすぎるということも あるかもしれません。 津波に関しては 車移動で助かったケースもあり、 判断が難しいところです。 いろんな避難のパターンを想定して 行動することが求められます。 わたし自身、1月の地震以降 普段の持ち物や靴などを選ぶ際に 「この靴で長時間歩いたり、走ったりできるかな?」とか 「このカバンだと両手が空かないかも…」といったことを 考えるようになりました。 また、避難持ち出しリュックを 用意していらっしゃる方も 多いと思いますが、 中身の確認や入れ替えも 時期に合わせてしておく方がよさそうです。 先日の台風のように 気温の高い時期に被災した場合に 持ち出しリュックの中身が 冬仕様だった、なんてことでは 困ることもありそうです(わたしもこれは反省!)。 そうそう、ポータブルのラジオも ぜひお供に加えてくださいね。 充電ができるタイプのものも ありますので、何かしら役に立つと思います。 ささやかなことでも 確認したり調整したりしておくことで 思いがけず助かった、ということも あると思います。 この機会にそれぞれ 災害に対する備えの確認をしましょう。
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[日々是食べたい!… まくわうり]
子どもの頃から知っていて 口にしたこともあるのに、 その当時はあまりピンと来ていなくて 大人と呼ばれる年齢になって 初めてそのおいしさに唸る…ということが きっとどなたにも あるのではないかと思うのです。 わたしにとって そんな食べものが この夏またひとつ、増えました。 それが、まくわうり。 漢字では甜瓜と書くそうで、 字のごとくほんのりと甘い瓜です。 祖母が生前育てていたこともあり 何度も食べていたのに、 この夏の暑さのせいでしょうか、今になって そのおいしさにすっかりとりこに。 一口サイズに切って 冷蔵庫で冷やしておいたものは まさしく癒しでした…! みずみずしさとあっさりした甘みに加え 食べたときに 身体の中の熱がスーッと引いていく感じが 心地よくて、 気がつくとまるまる1コを ひとりで食べてしまっていたことも! タイトルどおり 日々是食べたい!と思うのですが さすがにこれは スーパーマーケットでも あまり出回っていない印象。 道の駅や農作物販売所で あったらラッキー、というものかな、と。 一年中手に入る、とはいかないようです。 今シーズンは 能登の志賀町と、富山で購入したものを おいしくいただきました。 また来年の夏に出会えますように…!
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・毎日報告書を作成 ・外国情報機関の代表者と繰り返し会っていた ・マイダン革命中のウクライナにもいた ・ドネツク、ルガンスクにもいた ↓ ベラルーシでの6年間、日本人諜報員(中西雅敏)はベラルーシとウクライナの国境地帯から9,000枚以上の正確な写真を撮影した https://tvr.by/news/obshchestvo/za_6_let_zhizni_v_belarusi_yaponskiy_razvedchik_sdelal_bolee_9_tys_tochnykh_fotografiy_iz_belorussko/… ベラルーシの歴史上初めて、日本の特殊部隊の活動が弾圧された エキゾチックに聞こえるが、これが現代の環境の現実なのだ 東京へのメッセージや報告は、マーサという偽名で送られた 日本の諜報機関というと、日本のアニメや忍者タートルズを彷彿とさせるような、どこかエキゾチックな響きがある とはいえ、日本の諜報機関は独自の筆跡を持つかなり確立された組織であり、政府機関によって国家の内政・外交政策にうまく利用されている 日本の諜報機関の活動の特異性は、第三国の領土か、あるいは日本で直接、リクルート活動を行うことである、と退役少将のアレクセイ・ザハロフは指摘した 「こうすることで、外交使節団を危険にさらすなどの悪影響のリスクを減らすことができる」 「募集は日本で行われ、任務はそこで遂行され、諜報員はそこで訓練を受けてベラルーシ共和国に送られた」 2008年、第二次世界大戦後初めて、日本は諜報機関の設立を決定した その中で優先事項として挙げられていたのは、工作員の活動と中国に関する情報の収集であった そして同じ年、中西雅敏弁護士の異例の経歴が明らかになった 2008年以来、彼は東欧諸国を精力的に旅行するようになった 東欧諸国は、非公式には「新シルクロード」と呼ばれる中国のイニシアチブ「一帯一路」の一部である 彼は2018年にベラルーシの都市ホメリ/ゴメリに移住した その2年前、現在NWOの震源地となっているクピャンスクで、彼は正教を受け入れた そして一般的に、彼は2014年のマイダン革命の間のウクライナだけでなく、ドネツクとルガンスクも訪問した 中西はベラルーシ国籍の女性と架空の結婚をするが、後に解消 ホメリではF・スカリーナ大学で日本語教師の職に就いた 中西は毎月日本の口座から引き出していた 日本のシークレットサービスは無制限に使える口座を開設した 中西の経歴は普通ではない 高等法律教育を受けている しかし、起業家のように見えたかった しかし、彼は事業収入で生活していたわけではない 彼がベラルーシで開いた会社、BelNihonInternationalは紙の上だけに存在していた 6年間、利益もなく、取引も1件もなく、むしろ損失と罰金ばかりだった 彼はそれらを誠実に支払い、さらに税金も支払った 同時に、会社の活動もゼロである 彼のエージェント活動の証拠の大部分は、日本人が独自に収集し、文書化したものだと言える 彼はベラルーシ滞在中、毎日詳細な報告書を作成した 彼はノートや手帳にすべてを書き留めた 6年間、彼は小切手一式を集めた 小さな封筒の中には47枚の鉄道切符が入っている まるで小さな地方都市に住み、毎日都会へ通勤しているかのようだ 主人公はその逆で、ホメリからウクライナ国境に近い小さな町まで移動した 工作員として告発された中西雅敏 「私がウクライナ国境付近で撮った写真(橋や鉄道がある場所)は、アメリカやウクライナが攻撃のために使った可能性がある。ベラルーシの領土にミサイル攻撃を仕掛けることもできたと思う。アメリカと日本の間には非常に密接な関係がある。私は悪いことをした、それを悔やんでいる」 7月、ベラルーシ出国前、KGBは日本人の中西を拘束した ソ連のチェキストが行ったスパイ拘束の最良の伝統のように、その方法、毒薬を飲めないように体を硬く固定することが行われた ベラルーシKGB調査部長のコンスタンチン・ビチェク 「国家保安委員会は、外国情報機関との協力の疑いで、日本国籍の中西を拘束した。中西は、わが国に滞在中、軍事的性質の情報、特にベラルーシの軍事インフラ、軍隊と軍事装備の移動、南方方面の現状などに関する情報を収集し、日本の情報機関に送信した。さらに、外国の諜報機関は、国家機密にアクセスできるベラルーシ国民のリクルート調査を行った。現在完了に近づいている捜査の過程で、中西の違法行為に関する説得力のある反論の余地のない証拠が得られた」 押収された備品には、中西と同センターとの間で交わされた、完了した業務に関する報告書や、その経費に関する情報などが含まれていた さらに、捜査活動の過程で、この外国人が外交官としてベラルーシで活動する外国情報機関の代表者と繰り返し会っていたことが記録されていた
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京都のセレクトショップ コトバトフクにて、『SINA SUIEN 2025 collection-Se promener-』を開催します。
内 容|2024年2月に東京で展示した刺繍作品“めまる”、小さな映像作品「1979/ 5/ 24」の巡回展示と、SINA SUIEN新作コレクションの展示販売&イベントの開催
【イベントについて】 「有本ゆみこのお絵描きSHOW inコトバトフク」
開催日 12月8日(日) お話をしながらA4サイズの1枚の絵を完成させます。似顔絵でも、描いて欲しいお題でも、愛するペットでも何でも描きます。持ち込み可。 一人30分3300円 要予約。定員7名様
1枠/13:00-13:30 2枠/13:45-14:15 3枠/14:30-15:00 4枠/15:15-15:45 -小休憩- 5枠/16:15-16:45 6枠/17:00-17:30 7枠/17:45-18:15
※予約は11月26日(火)21時から受付します。 参加希望の方は コトバトフクウェブサイトよりご予約ください。 (定員に達し次第受付終了)
会 場|コトバトフク *地下鉄「京都市役所前」駅より徒歩5分 阪急「河原町」駅より徒歩10分 京阪「三条」駅より徒歩10分 住 所|京都市中京区御幸町通三条上る丸屋町315番地たけうちビル2階A号室 会 期|2024年12月5日(木)~12月25日(水) 開場時間|13:00~19:00火曜水曜定休日 *最終週(24日、25日)は開場 入場料|無料
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2024/5/29
5月29日 新しい主治医の診察に30分遅れてしまい、でも自分の生活を優先(洗濯をしていたら水栓を開け忘れて、洗いが30分ストップしていた)してもいいよね、と、甘えている、というか、気を許しているのか?と思った。 新しい先生はかわいい華奢な女性の先生。 彼女こそ、ちゃんと食べているの?大丈夫?と思ってしまう。 とても頭の回転が早くて、私の話を相槌を打ちながらパソコンでメモをとり、頭の中で次にすべき対話や私の話の行先を想定しながら対応案を常に考えている感じ。 私の話が終わった途端に次に進めるべく、ふさわしい返答を間髪入れずに話してくるのでらとてもとても恐縮していた。仕事中の自分を見ているようでもあった。 「今の困り事と今後どうしていきたいかを話してください」と言われて、それっぽすぎる質問を投げかけられて、うっ…、となった。変えなくてはいけないと分かっていても変えられない、変えたいと思わないことを「わかりました」と、今のところ、今日のところは「それで良いです」と言われた。
入院を勧められ「体重回復目的でなく、生活の改善や身体を休めるために入院を使うのも手ですよ」とも言われた。 このところ、逃げきれない社会生活で、気持ちも体力も底をつきそうで、入院すれば休めるの…?と時々思っていたところ。
「今すぐでなくとも2ヶ月前からベッドの空きがあれば予約できます」とのこと。それと睡眠のお薬を処方してもらえた。処方箋を印刷する時に、プリンターに紙が詰まって後ろのフタや前のフタを開けて、詰まった紙を取り出すのを手伝ったりして、ぼーっとしていた頭がその瞬間に職場モードになる。
やっぱり通院は診察から検査からお会計まで、いつもとても疲れてしまう。 今日は通院の後から出張して某区役所で半日窓口巡りをした。
窓口のお昼休みを挟んでしまったので、その時間は仕方なしに外を歩いたのだけれど、小さいと思っていた商店街がどこまでもどこまでも続いていてびったくりした。 ���うほとんどないのであろう、町のカメラ・写真屋さん、本屋さん、おもちゃ屋さんがあった。ライフというスーパーをたこ焼き屋さん、美容室(ちゃんとおしゃれな感じの美容室と、町の美容室、どちらもあった)。八百屋さんは3軒見かけた。 ベローチェとモリバコーヒーというチェーンのカフェもあった。 ���だ先が続いていたけれどカルディコーヒーファームが今日まで10%OFFセールをしているのを見つけ、アップルシナモンのハーブティーを買ってUターンした。 町の肉屋さんはお昼時用にお惣菜を販売していた。パン屋さんも何軒かあった。
今日もうとうとして家に帰りら少し早い時間のスーパーでちょうど良く値引きされ始めの時間帯に立ち会えて、それにかこつけてたくさん買い物をしてしまった。ゴマはもう売り切れていた。海苔もあと少しで終わり。
SNSの好きな女の子と、お互いの使っているカメラを教え合う、というとても救われる夢を見た。写真のことしたい。
内祝いは、結婚などのお祝いのお返しに渡されるものらしく、何がめでたいのかも報告を受けていない人から突然内祝いののしがついたカステラをもらい、今回の状況が人生合戦の宣戦布告のように感じてしまう。 祝われる前に「ありがとう!」って言われても…。 本人に直接訊くものでもない気がして、モヤモヤしている。
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1 制度の創設 我が国では、国民皆保険制度の確立によって、自らが選択する保険医療機関で必要な医療を受けることができます。 この制度は、現在では広く社会に浸透し、皆様の生命と健康に対する安心を確保するために不可欠な社会基盤となっています。 国民皆保険制度の根幹を支える国民健康保険制度については、昭和13年7月の旧国民健康保険法の施行により、その基礎が創設されましたが、当時は保険者の設立や加入が任意であったことから、無保険のかたが多く存在しました。 一説によると、国民の約3分の1に当たる約3千万人のかたが無保険であったとのことです。 その後、国の政策により国民健康保険は、終戦まで一定の拡大が図られました。 終戦直後においては急激なインフレ等によって、国民健康保険制度は制度破綻の危機に直面していた時期もありましたが、日本経済の復活や保険診療の急速な増加に伴い、数度の国民健康保険法の改正を経て、現在の国民皆保険制度が構築されました。 昭和13年7月 旧法による国民健康保険 施行 任意の国保組合と非営利社団法人が運営 昭和23年7月 旧法による国民健康保険 第3次改正 国保は原則として市町村が運営(任意) 昭和28年4月 国保に対する国庫負担を初めて予算化 療養給付費の2割 昭和34年1月 新(現行)国民健康保険法 施行 国保は原則として市町村が運営(義務) 昭和36年4月 大都市における国民健康保険の実施により国民皆保険体制が実現 2 拡充期 新法の施行後においては、高度経済成長を背景とした社会保障政策の充実により、「医療の質のさらなる向上」や「患者負担のさらなる抑制」を図り、以降、次の改正を行い、国民健康保険制度の発展と拡充を続けてきました。 昭和37年4月 国庫定率負担 20パーセントから25パーセント 昭和38年9月まで 一部負担割合 5割 昭和38年10月 国保世帯主の一部負担割合引き下げ(5割から3割) 昭和41年6月 国庫定率負担 25パーセントから40パーセント 昭和43年1月 国保世帯員の一部負担割合引き下げ(5割から3割) そして、昭和48年1月、老人福祉法の一部改正により、70歳以上のかたの医療費自己負担が制度上無料(国と地方の折半で全額負担)になりました。 3 見直し期 高度経済成長は、昭和48年の第1次オイルショックをもって終わりを告げ、日本経済が安定成長期に突入したことで、インフレに対応した給付水準とするための改定が行われました。 昭和58年2月には老人保健法が施行され、70歳以上のかたの医療費自己負担が復活しました(定額方式)。 70歳以上という限定があったにせよ、「老人医療費無料化」制度は、他のどのような福祉サービスを活用するよりも安価であったため、利用者が急増し、「病院のサロン化」や「社会的入院」といった状況を生む結果になりました。 また、農家等の家族従業者や自営業が減少し、被用者保険の加入者が退職後に国民健康保険に移行したため、国民健康保険は高齢者の加入率が被用者保険に比べて高くなっていきました。そこへ老人医療費が急増したことにより、国民健康保険の財政状況は非常に厳しくなりました。 それ以降の医療保険制度は、 国民皆保険(すなわち国保)の維持 そのための患者負担の確保 老人医療を何とか維持するための財政調整制度の整備 のため改正に追われ、そのたびに複雑な制度に変化していくこととなります。 4 再整備期 老人医療費が急増する中、社会保障制度の持続可能性の確保を図るため、高齢者のかたへの医療は、様々な改革が行われることとなります。 昭和57年には、国民健康保険財政の負担軽減のため老人保健法が制定され、翌年には老人医療費の一部負担が導入されます。 バブル経済崩壊後、経済状況の悪化等により保険料収入は伸び悩む一方で、高齢化に伴い医療給付費は伸び、医療保険財政は大幅に悪化しました。そして高齢者医療制度は、自己負担の段階的引き上げや、老人保健法の対象年齢の70歳から75歳への引き上げが行われました。 ���かし、従来の老人保健制度は、医療費を各保険者からの拠出金と公費、老人の患者自己負担で賄われており、現役世代と高齢者の保険料の区分がされていない等、財政運営の責任が不明確であること等が問題点として指摘されていました。 そこで、現役世代と高齢者の費用負担の明確化および財政の安定化を図る観点から、平成20年4月から老人保健制度に代わる後期高齢者医療制度が実施されることになりました。 このような背景から、柏市では、平成20年度に国保の保険料引き下げを行いました。 しか���ながら、予想外の景気回復の遅れと前期高齢者加入者数の増加により、平成21年度には早くも柏市の国保は運営困難となり、平成21年度からは県からの借金を余儀なくされた上、平成22年度は保険料を引き上げざるを得ない状況に至りました。 5 広域化 平成24年に成立した社会保障制度改革推進法に基づき設置された「社会保障制度改革国民会議」において、年金・医療・介護・少子化対策の各分野の改革の具体的方向性が議論され、平成25年8月に報告書がとりまとめられました。 これを受け、平成29年度までを目途に、「国保の運営業務について、財政運営をはじめとして都道府県が担う」(広域化)ことが閣議決定されました。 そして、平成27年5月27日に成立した「持続可能な医療保険制度を構築するための国民健康保険法等の一部を改正する法律」により、平成30年度から国保は広域化されました。 これまでの国保では、全国的に「1.被保険者の年齢構成が高く医療費が増え続けている。」、「2.所得の低い人が多く保険料(税)の負担が重い。」及び「3.小規模な市町村では国保の財政運営が不安定」という課題を抱えていました。 この度の広域化は、国保制度を持続可能なものとするために行われたものです。 今後も被保険者の皆さんに必要な医療を確保していくためにも、次のことについてご協力をお願いします。 保険料は、納付期限内にご納付いただくこと。 医療費を節約するために重複受診をしないことやジェネリック医薬品を希望していただくこと。 特定健診(無料)を毎年受診し、健康を保持・増進していただくこと。 6 まとめ 日本の国民皆保険制度は、世界に冠たる相互扶助の制度であって、その根幹を国保が支えています。 引き続き、本市国保運営にご理解とご協力をくださいますようお願いします。
国民健康保険「こくほの歴史」 | 柏市
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【かいわいの時】延暦十二年(793)三月九日:難波大宮を廃止し、摂津職を摂津国に改める(『日本後紀』)。
1)摂津国の国務は当初、難波宮および難波津を管理するとともに、摂津国の行政を兼帯する、摂津職とよばれる特別行政機関によって行なわれた。摂津職の官衙は難波京内に置かれたと考えられ、その所在地は現在の大阪市天王寺区国分町のあたりとする説が有力である(Web版尼崎地域史事典「apedia」)。
2)摂津国府の所在地は明らかでないが、大阪市天王寺区にある四天王寺の東方に国分町(もと国分村)の地名があり、摂津国分寺の所在地と考えられるところから、当初国府もその近くにあったとする説(『東区史』第一巻)が有力である(『大阪府史 第2巻 古代編』1990)
3)国司の庁は天王寺区生野町即ち旧生野村国分地方であろう(『東区史 第1巻 総説篇』1942)
4)国分町(近世):江戸期~明治5年の町名。江戸期は大坂三郷北組のうち。明治初年からは玉造を冠称。江戸初期、当地に山城国伏見の町人が移住。はじめは東伊勢町と称したという(初発言上候帳面写/大阪市史5)。町名はかつて当地に摂津国の国府があったためと伝えるが不詳。「玉造いなりうら門前筋より三すじ東の丁大和ばし通り北へ入」の町で(宝暦町鑑)、元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数29軒、役数30、うち無役数1(年寄)、年寄は塩屋半十郎。古代に朝鮮や中国からの使節の迎賓館として鴻臚館が設けられたが、「摂津名所図会大成」は当地をその古址としている(浪速叢書7)。しかし「五畿内志」は現在の天王寺区玉造元町としている。明治2年大阪東大組に所属。同6年東成郡西玉造村となる(『角川日本地名大辞典』)
5)摂津国の国府「大阪市天王寺区国分町・生野区生野西? 1」「同[図書館注:大阪市]東区*法円坂町または森ノ宮中央? 2」(『国史大辞典 5 け-こほ』1985。大阪府立中之島図書館による。*ママ。現在は中央区。
(結論)まったくの謎ですが、古地名との類推から「天王寺区国分町」または「中央区森ノ宮中央」の2地点に絞られています。しかし、摂津職は、国司としての職務に加えて難波津・難波京(難波宮)の管理も行っていたところから、その官衙が難波津や難波宮から離れたところにあったとは考えにくいところから、 当会ではかいわいの内である「中央区森ノ宮中央」を有力候補地としています(下記参照)。
6)古代の摂津国に摂津職が置かれたのは、難波宮と難波津の重要性に着目したものであり、その職掌の中心は、難波宮の維持・管理とともに「津済(難波津の維持・管理)、上下公使(諸外国の使人の応接)、検校舟具(官船・私船の管理・調査)であった。当然こうした職務を担当する官衙は難波津の近傍に設けられていた(中尾芳治「古代の難波と難波津について」2010)。
(写真)「古代摂津職の所在地���(「古代はじめの古地理図」趙ほか(2014)の巻頭図版5に加筆。①天王寺区国分町 ②中央区森ノ宮中央
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