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【中原敏一さんインタビュー 「面白いモノを届けたい」 "ユーザー上がり"のトライスポーツ代表が宿す、目利きと製品に託す思い】 - cyclowired : https://www.cyclowired.jp/news/node/321980 : https://archive.vn/25TOL 2020/04/09 - 16:34
トライスポーツ代表、中原敏一さんへのインタビューを紹介する。マニアックなブランドを多数取り扱う「目利き」やTNIブランドのこと、ホビートライアスリートから脱サラし、独立したからこそ心に宿すユーザー目線の思いとは。兵庫県神戸市にある本社で話を聞いた。
{{ 図版 1 : トライスポーツ代表を務める中原敏一さん。神戸にある本社で話を聞いた photo:So.Isobe }}
{{ 図版 (省略) : 「面白いモノを届けたい。その思いは30年間変わりません」 photo:So.Isobe }}
兵庫県神戸市の、六甲山を眺める国道2号線沿いにトライスポーツ本社はある。高さのある1階がメイン倉庫で、階段を上がった2階は事務所スペース。もともと材木屋だったという年季の入った5階建ての建物は、どこを歩いても秘密基地感満点でわくわくしてしまう。事務所に通していただくと、代表を務める中原敏一さんが迎えてくれた。
トライスポーツといえば、マニア垂涎の超軽量カーボンパーツやアイディア商品を数多取り扱う��少し変わった代理店。これまでジップ、エンヴィ、スピードプレイ、ファクター、セラミックスピードなどを日本に広めたのはトライスポーツだったし、最近で言えばビッグプーリーをいち早く日本に紹介したのも、鼻に装着する器具「タービン」をヒルクライマーの間に流行らせたのもトライスポーツだ。
「やっぱり面白いモノを届けたいですよね。超軽量のサドルとかハンドルとかはほとんど商売にはなりませんが、話題にはなりますから。竹のフレームとか...。とにかく、楽しかったらいいんちゃいますかね」
と、屈託無い笑顔を浮かべる中原さん。世界を飛び回り、自分で目利きしたものを国内に届けるスタンスは30年前の創業時からずっと変わらない。現在取扱ブランドは90社にものぼり、超ニッチなブランドも少なくない(というかむしろ大半だ)。
「平成元年、42歳の時に脱サラして、新神戸でトライアスロンショップを始めたのがスタートです。でもその時、まだ全然トライアスロンはメジャーじゃなかったのでどこにも製品がない。だったら自分で輸入してしまおうと思ったんです。ジップも全然無名だった頃、アメリカの展示会で見て、これは良い、ぜひ日本に紹介したい、と。でも僕らはまだ小さい会社だから断られちゃって(笑)。でもその後、縁あって向こうから取り扱って欲���いと言われてスタート。選手サポートにも力を入れましたし、それから日本国内でも有名ブランドになりましたよね」。
{{ 図版 2 : 倉庫に置かれているコレクションを見せてもらった。これはマーリンのカーボンフレーム photo:So.Isobe }} {{ 図版 3 : カーボンフレームにチタンの飾りとエンド。非常に凝った作りだ photo:So.Isobe }} {{ 図版 4 : ジップはトライスポーツ創業初期に扱ったビッグブランドの一つ photo:So.Isobe }} {{ 図版 5 : マクマホンサイクルのチタンフレーム(年式不明) photo:So.Isobe }} {{ 図版 6 : 新品のスリングショットを発見 photo:So.Isobe }}
トライアスロンを楽しんでいた中原さんだが、40歳の誕生日には東京?赤穂(最短で620km)を32時間で走破するなど、3種目の中で最も好きなのがバイクだったという。どうしたら速く走れるのかを常日頃考え、その中で機材に対するノウハウも溜まり、優れた商品を見極める力にも繋がった。そして、同社の歴史の中で築いてきたコミュニティも大きく関わっているという。
「例えばエンヴィを(国内で)最初に取り扱ったのは弊社ですが、あそこのトップはもともとポール・リュー(超軽量カーボンホイールで名を馳せたリューレーシング)の下で技術者として働いていたんですよね。リューレーシングを扱っていた時から��交があったので、日本で売るならトライスポーツにお願いしたい、と言ってきたんですよ。そういうのも含めて偶然ですよね。全ては」。
「結局ね、当初は会社も小さかったから、小さなブランドしか扱えなかったわけですよ。最初は金回りが悪くて神経性の下痢になったりしたんですが、コツコツ30年。小さくて面白い製品を扱ってることは、なぜか今も変わりません。これ良いね、って言ってもらえるブランドが多いのは、まぁツイてただけですわ(笑)」。
{{ 図版 7 : サドルやビッグプーリーが人気だというTNI }}
海外ブランドの輸入販売代理店を務める一方、トライスポーツはオウンブランド「TNI」を展開することでも知られている。アルミやカーボンを使ったアイテムはコストパフォーマンスに優れ、そのクォリティは一流ブランド製品に勝るとも劣らない。そしてその第1作となったのがBENTOBOX(ベントーボックス)。今やトライアスリートの必需品となり、バイクパッキングでも欠かせないトップチューブストレージを世界で初めて製品化した人こそ、中原さんだった。
「お弁当も入れられるから、ベントウボックス。こんなんあったらええな、って思って作ったんですよ。で、それをアメリカで売ろうと決めた時にTNIっていうブランドを付けました」と中原さんは言う。
現在サドルやCo2ボンベ、ビッグプーリーなどが好評だというTNIブランド。低価格で販売することの裏側には、自身の経験に基づいた確固たる信念があるという。
「僕のサラリーマン時代はね、給料が安くてとても高い部品は買えなかったんですよ。神戸から自転車走らしてウエムラパーツさんに買いに行ったり、いろいろやってましたね。そういう経験があるから、値段もできるだけ低く設定できるように、例えば通関作業なんかは全部自社でやるよう工夫してます」。
「え、TNIの由来ですか? アメリカでBENTOBOXを売るときに トータル・ニュー・アイディアとかテクノロジー・ニーズ・アイディアとかいう意味付けがあったりもしましたが、、。"トライスポーツ・ニホン・イチ"? 全然違いますよ。ハハハ」。
{{ 図版 8 : 2019年から取り扱い開始となった4iiii }} {{ 図版 9 : ドイツの新興タイヤブランド「ウルフパック」 photo:Makoto.AYANO }} {{ 図版 10 : 「まだまだ頑張りますよ。いいモノを見つけたいと思います」 photo:So.Isobe }}
現在、トライスポーツ取り扱いブランドのうち、パワーメーターの4iiii(フォーアイ)、国内認知度も上がってきた英バイクブランドのファクター、そして新興タイヤブランドのウルフパックの伸びが好調だという。
「中でもウルフパックは良いブランドだと思いますね。いろんな会社のコンパウンドを作ってきた専門家のオウンブランドなので、今すごく注目されてますよ。一般的にタイヤは有名メーカーが強いので新しいブランドは売れないんですが、セールスも好調です。これも何かの縁ですよね。」
平成元年に、42歳で起業してから早30年。73歳になった今でも中原さんの勢いは少しも衰えない。
「コロナ騒動が収束したら、また海外にどんどん行って、いいモノを見つけたいと思います。まだまだやれるとこまでやりますよ」
text&photo:So.Isobe
●リンク {{ トライスポーツ : http://www.trisports.jp/ }}
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玉屋愛好会 @loveloveroute21 - 午前0:35 ・ 2021年12月16日 : https://twitter.com/loveloveroute21/status/1471141949126365190 : https://archive.ph/UxEYa
昔の拾い画像ががが
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【「きみたち日本人は腹が立たないのか」チェ・ゲバラは、広島の原爆資料館で憤った。】 - https://www.huffingtonpost.jp/entry/guevara_jp_5f2b936dc5b6b9cff7ed109b : https://archive.is/jWLlp 2020年08月06日 17時29分 JST | 更新 2020年08月12日 11時19分 JST 安藤健二
妻に宛てた絵はがきで「平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い」と広島訪問を勧めていた。
{{ 図版 : エルネスト・チェ・ゲバラの写真 Joseph Scherschel via Getty Images }}
キューバ革命の伝説的英雄として知られる、エルネスト・チェ・ゲバラ。31歳のときに広島を訪問した。革命のわずか半年後、1959年7月25日のことだった。
{{ 【ゲバラ画像集】 : https://www.huffingtonpost.jp/entry/gazowaku_jp_5f2bd515c5b6b9cff7eda1d8?hee : https://archive.is/zWaMv }}
国立銀行総裁として、通商代表団を率いての来日。当初のスケジュールでは、広島訪問の予定はなかった。
しかし、8月6日の原爆投下の日を前に、「他の日程をすべて犠牲にしても、原爆慰霊碑に献花したい」というゲバラらの強い願いから予定は変更。フェルナンデス大尉と駐日キューバ大使の2人だけが随行して、大阪から急きょ広島に向かった。交通機関は、夜行列車で行ったという説と、飛行機を利用したという2説がありはっきりしていない。
■《県庁職員、ゲバラの問いかけに「ぎくっとした」》
ゲバラらが原爆慰霊碑に献花する姿を、中国新聞のカメラマンが撮影している。花を手向けるフェルナンデス大尉の後ろで、戦闘服姿のゲバラはうつむき加減で直立していた。その後、一行は原爆資料館を約1時間かけてじっくりと見学した。
館内のさまざまな原爆被害の陳列品を見る中で、それまで無口だったゲバラが突然、通訳担当の広島県庁職員の見口健蔵氏に英語で問いかけた。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
ゲバラが原爆の惨禍に憤りをみせた瞬間だった。三好徹氏の「チェ・ゲバラ伝 増補版 」(文春文庫)の中で、見口氏は「眼がじつに澄んでいる人だったこと��印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています」と回想している。
■《「平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い」》
広島訪問時、ゲバラは妻のアレイダに宛てて絵はがきを送っている。毎日新聞によると、そこには以下のように書かれていたという。
============≫ 「私の愛する人。今日は広島、原爆の落とされた街から送ります。原爆慰霊碑には7万8000人の死者の名前があり、合計は18万人と推定されています。平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い。抱擁を。チェ」 ≪============
ゲバラは1961年にキューバで工業相に就任したが、やがてキューバを離れた。1967年にボリビアでゲリラ活動中、政府軍に射殺された。39歳だった。
ゲバラが原爆の恐ろしさを伝えたこともあり、キューバでは原爆教育に力を入れるようになった。
2017年の {{ 産経WEST : https://www.sankei.com/west/news/171013/wst1710130001-n2.html : https://archive.is/s4KzD }} は「現在でもキューバでは毎年8月6日と9日に国営放送で特番を組み、初等教育で広島、長崎の原爆投下について教えているという」と報じている。
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【“LGBTは種の保存に反する”趣旨の発言 自民 簗和生衆院議員】 - NHKニュース : https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210521/k10013044931000.html : https://archive.is/Obhu6 2021年5月21日 21時30分
自民党の簗和生衆議院議員が、党の会合で、LGBTと呼ばれる性的マイノリティーの人たちをめぐって「生物学上の種の保存に反する」という趣旨の発言をしていたことが分かりました。
20日開かれた自民党の内閣第一部会などの合同会議では、党が国会への提出を検討しているLGBTの人たちへの理解を促進するための法案を議題に意見が交わされました。
複数の出席者によりますと、この会議で簗和生衆議院議員は、LGBTの人たちをめぐって「生物学上の種の保存に反する」という趣旨の発言をし、ほかの出席者から問題視する意見が出たということです。
■《簗氏のコメント「会議は非公開 発言内容 答えるのは控える」》 簗氏は、NHKの取材に対し「会議は非公開のため、内容や発言について答えるのは控える。LGBTなど性的少数者をめぐる理解の増進は必要なことだと考えている」というコメントを出しました。
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【河井元法相 起訴内容の大半認める 議員辞職意向も 買収事件で】 - NHKニュース : https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210323/k10012930281000.html : https://archive.is/0RykY 2021年3月23日 17時59分
公職選挙法違反の買収の罪に問われている河井克行元法務大臣は、23日から始まった被告人質問でこれまでの無罪の主張を一転させて、起訴された内容の大半を認め「政治不信を招き、弁解の余地は全く無い」と謝罪しました。 そして議員を辞職する意向を表明しました。 元法務大臣の河井克行被告(58)は、妻の案里元議員(47)が初当選したおととしの参議院選挙で現金を配ったとして公職選挙法違反の買収の罪に問われています。 23日から東京地方裁判所で始まった被告人質問で、河井元大臣は「全般的に選挙買収を争うことはしない。妻の当選を得ようという気持ちがなかったとは言えない」と述べ、これまでの無罪の主張を一転させ、起訴された内容の大半を認めました。 主張を変えた理由について元大臣は「一緒に頑張ってくれたスタッフや支持者、妻の当選に泥を塗るのではないかと思い、潔白を主張してきたが、認めるべきことは認めることが政治家としての責任の取り方だと考えた」と述べました。
そして「愛している自民党の信頼を傷つけてしまって申し訳なく思う。国民や県民の皆さんにも政治不信を招き、民主主義の根幹をなす選挙の信頼を損ない、弁解の余地は全くない」と謝罪しました。
また、弁護士から「議員としての出処進退をどうお考えか」と尋ねられると、15秒ほど沈黙したあと、背筋を伸ばし「衆議院議員を辞することとしました」と述べ、辞職する意向を表明しました。
そのうえで「すべての責任は私のみにあり、いかなる処罰であっても引き受ける覚悟だ」と述べました。
一方で「妻と共謀した事実は一切ありません」と述べたほか、一部の事務所スタッフなど10人に対しての現金の提供については、買収に当たらないなどとして、引き続き争う姿勢を示しました。
■《広島市民からは「辞職は当然」の声が相次ぐ》
河井克行元法務大臣が23日の裁判で、無罪の主張を一転させて起訴された内容の大半を認めたうえ、議員辞職の意向を表明したことについて、広島市の市民からは辞職は当然だとする声が相次ぎました。
この中で、70代の女性は「ここにきて覆すのであれば、最初から説明してほしかったですし、本当に腹立たしいです。議員辞職は当たり前だと思います」と話していました。
また、起訴された内容の大半を一転して認めたことについて、40代の女性は「なぜ今になって変わったのかわからず、最初から素直に認めてほしかったです。不信感しかありません」と話していました。
また、63歳の男性は「政治家のことなので一転して認めたことに驚きはありません。世の中の流れからして方向転換しないといけないという窮地の選択ではないか」と話していました。
■《加藤官房長官「批判 重く受け止めたい」》
加藤官房長官は、午後の記者会見で「個別事案なので、政府としてのコメントは控えたい。河井氏は法務大臣の経験者だが、その経験者についての刑事裁判が行われていることは大変残念であり、国民の政治不信を招いたという批判もあることを重く受け止めたい」と述べました。
また「選挙は民主主義の基本であり、当然ルールにのっとって対応していくことが、法務大臣の経験者であろうとなかろうと、強く求められている。政治家は、その点もしっかり自覚して対応するよう、当然心がけていかなければならない」と述べました。
一方、記者団が「買収に使ったとされる資金の原資に、自民党本部から振り込まれた1億5000万円が使われた可能性についてどう考えているか」と質問した���に対し、加藤官房長官は「公判に向けて、さまざまな調査がなされたものと承知している」と述べました。
■《自民 森山国対委員長「選挙で買収などあってはならず」》
自民党の森山国会対策委員長は、記者団に対し「かつての同僚議員として寂しい気もするが、政治家の責任の取り方として決断したのだろう。裁判の結果がまだ出ていないが、選挙で買収などあってはならず、民主政治の根幹に関わることでもあり、気をつけていかなければならない」と述べました。
■《自民 佐藤総務会長「議員辞職は当然 罪は償うべき」》
自民党の佐藤総務会長は、記者会見で「罪を認めているところもあるということなので、議員辞職は当然ではないか。私は河井元大臣と同期なので、いろいろ複雑な思いはあるが、やはり行ったことに対する罪は償うべきではないか」と述べました。
■《立民 安住国対委員長「遅きに失した 説明責任を果たしていない」》
立憲民主党の安住国会対策委員長は、NHKの取材に対し「遅きに失したと思う。本来であれば説明責任を果たしたうえでの議員辞職であるべきだ。国会でも一切説明をしておらず、こういう辞職のしかたは納得がいかない。自民党総裁としての菅総理大臣にも説明責任が及ぶことになる」と述べました。
■《国民 玉木代表「民主主義の根幹揺らぐ重大な事態」》
国民民主党の玉木代表は記者団に対し「本人はこれまで無罪を主張してきたが、一転、買収を認めた。民主主義の根幹を揺るがす重大な事態だ。自民党にも前代未聞の違法行為の全容を解明し、説明する責任があるので厳しく求めていきたい」と述べました。
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中野晃一 Koichi Nakano @knakano1970 - 午後0:32 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/knakano1970/status/1369128891357351943 : https://archive.vn/RLqWT すごいよなー、山田真貴子広報官ってスガ父子の言うこと何でも聞いて東北新社の外資規制違反をスルーして行政歪めた疑いがあるのに、給与一部自主返納して入院して辞職して後は民間人だから調査できませんって総務省が言っておしまいなんだよ。ほとぼりが冷めたらシレッと天下りするね、必ず。 ≫――――――≪ 吉岡晋太郎 @TTFa9FXevRbj7HT - 午後1:52 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/TTFa9FXevRbj7HT/status/1369149083546357761 : https://archive.vn/RBMSq 返信先: @knakano1970 @lautream 加計学園のときの首相秘書官柳瀬唯夫は、退職後NTT・東芝の関連会社の役員を経て、今NTT株式会社の副社長だということです。(wikipedia) ≫――――――≪ HMJ05100820 @0510_mmk - 午前1:39 ・ 2021年3月10日 : https://twitter.com/0510_mmk/status/1369326872480387074 : https://archive.vn/t3Mus 返信先: @knakano1970 @kochoshobo 甘利明の例が既にありますネ ≫――――――≪ otto1180(ヒークン) @09211180otto118 - 午後9:07 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/09211180otto118/status/1369258647692349441 : https://archive.vn/7yq7b 返信先: @knakano1970 退職金満額で五千万? [ふくれ顔] ≫――――――≪ 地球ねこ @chikyuneko - 午後1:47 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/chikyuneko/status/1369147852341927937 : https://archive.vn/msqlf 返信先: @knakano1970 @GmaMs12 しかも免職でなく辞職だから、山田元広報官 は退職金がたんまり貰えます。さすがです。 ≫――――――≪ 梅都利和 @oHDhCtNj2v4tcxO - 午後2:22 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/oHDhCtNj2v4tcxO/status/1369156678910758914 : https://archive.vn/Bmpzj 返信先: @knakano1970 @ihsns1 2020年開学した大学 山田 真貴子 超客員教授 {{ 山田 真貴子|���報経営イノベーション専門職大学【iU】|ICTで、まだない幸せをつくる。 : https://www.i-u.ac.jp/academic/people/detail.php?id=284 : https://archive.vn/n1see }} ≫――――――≪
中野晃一 Koichi Nakano @knakano1970 - 午後0:32 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/knakano1970/status/1369128891357351943 : https://archive.vn/RLqWT
吉岡晋太郎 @TTFa9FXevRbj7HT - 午後1:52 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/TTFa9FXevRbj7HT/status/1369149083546357761 : https://archive.vn/RBMSq
HMJ05100820 @0510_mmk - 午前1:39 ・ 2021年3月10日 : https://twitter.com/0510_mmk/status/1369326872480387074 : https://archive.vn/t3Mus
otto1180(ヒークン) @09211180otto118 - 午後9:07 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/09211180otto118/status/1369258647692349441 : https://archive.vn/7yq7b
地球ねこ @chikyuneko - 午後1:47 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/chikyuneko/status/1369147852341927937 : https://archive.vn/msqlf
梅都利和 @oHDhCtNj2v4tcxO - 午後2:22 ・ 2021年3月9日 : https://twitter.com/oHDhCtNj2v4tcxO/status/1369156678910758914 : https://archive.vn/Bmpzj
山田 真貴子|情報経営イノベーション専門職大学【iU】|ICTで、まだない幸せをつくる。 : https://www.i-u.ac.jp/academic/people/detail.php?id=284 : https://archive.vn/n1see
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【C・W・ニコルさん死去 環境保護活動家で作家、79歳】 - 朝日新聞デジタル : https://www.asahi.com/articles/ASN445QZXN44UCVL004.html : https://archive.is/E1mjY 2020年4月4日 18時29分
{{ 図版 1 : C・W・ニコルさん。自分で育てた「アファンの森」を背に=2012年、長野県信濃町 }} {{ 図版 2 : 講演をするC・W・ニコルさん=2019年4月 }} {{ 図版 3 : C・W・ニコルさん=2007年12月、長野県 }} {{ 図版 4 : C・W・ニコルさん=2007年12月、長野県 }} {{ 図版 5 : C・W・ニコルさん=2009年、東京都港区赤坂1丁目 }} {{ 図版 6 : C.W.ニコルさん=2009年12月、長野県信濃町 }} {{ 図版 7 : C・W・ニコルさん=2009年7月、東京都港区赤坂1丁目 }}
環境保護活動で知られる作家のC・W・ニコルさんが3日、直腸がんのため長野市の病院で死去した。79歳だった。葬儀は親族のみで営んだ。喪主は妻真理子さん。後日、お別れの会を開く予定。
英国ウェールズ生まれ。カナダやエチオピアで海洋哺乳類や野生動物の保護に取り組んだ。1962年に空手の修行で初来日、75年の沖縄国際海洋博覧会でカナダ館の副館長を務めた後、80年から長野県信濃町の黒姫に拠点を置いた。荒れ果てた里山を購入し、「アファンの森」と名付けて間伐や除草などによる森の再生活動を始めた。
テレビ出演や全国での講演会などで森づくりの必要性���伝えた。95年に日本国籍を取得、2002年に設立した「C・W・ニコル・アファンの森財団」の理事長に就いた。主な小説に、和歌山・太地の鯨捕りを描いた「勇魚」やファンタジー小説「風を見た少年」などがある。05年に英国の名誉大英勲章を受けた。
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【谷垣さん、車いすになって見えたもの パラの意義「感動じゃない」】 - 京都新聞 : https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/154444 : https://archive.is/jCYPR : https://archive.is/Uj8XX : https://archive.is/qdrrt 2020年2月14日 10:29
{{ 図版 : 東京パラリンピックを契機とした社会のあり方について語る谷垣さん(東京都世田谷区) }}
2016年夏、趣味の自転車で転倒し頸髄(けいずい)損傷の大けがを負って政界を引退した自民党前幹事長の谷垣禎一さん(74)。障害当事者となった立場から、東京パラリンピックに向けてさまざまなメディアや公の場で思いを発信している。京都新聞社のインタビューに応じ、多様性を尊重する社会のありようや障害者スポーツの意義について語った。
―――自転車の事故に遭った時、何を考えたか。
「直後は集中治療室にいたが、回復してくると、リハビリで少しでも動けるようにということが目標になった」 「自転車に乗るときには余計なことを考えないように、と私は周囲に言ってきた。例えば、消費税の税率をいつ上げようかとか、衆院解散を打つ手があるかどうか、とか。そういうことを考えないようにして、走ることに集中するのがいいとくり返してきた」 「ところが、あの事故の瞬間は、そういう浮き世の心配事を考えたのがいけなかった」 「自転車なんか乗っているからこういうことになる、と言う人はたくさんいる。だがものは考えようだ。脊髄損傷などになった人は、それ以前に運動をしていたのとそうでないのでは回復の度合いが違うと医者に言われた。70歳過ぎまで、暇があれば自転車の遠乗りや峠道に挑んだが、そういう意味で悪いことではなかった」
―――退院して街に出て、新たに見えてきたこと、感じたことは?
「バ��アフリーと言われるが、車いすでは移動���にくいのが実情だ。私は政治も引退しているが、もう少し若ければやっぱりできるだけ働きたい。でも、東京都内を地下鉄で移動するのは相当大変。朝はものすごく混んでいる」 「その反面、リハビリ病院や介護に当たる人たちからは、車いすに対する理解はずいぶん進んできたと聞いた。車いすの人の移動を手伝おうと思っている人も多いと思う」 「ただ、車いす利用者に道を譲るときに具体的にどうしたらいいのか、必ずしもみんなが理解しているわけではないだろう。安全に譲ったり譲られたりするためには、限られた公共空間をどのようなルールでシェア���ていくかが課題になる。そこまで意識して考えている人はどれぐらいいるのだろうか」
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―――昨年の参院選で重度障害のあるれいわ新選組の候補者2人が当選し、国会もバリアフリー化が進む。政治家の意識が変わるという意味でも大きいことではないか。
「私も入院中は(衆院議員の)バッジをつけていたから、衆院事務局に登院について問い合わせると、どのように着席するかを検討してくれた。れいわの2人についても、階段をなかなか登れないといった部分は解決できつつあるだろう」 「でも、基本的に1人じゃ動けない。介助者は保険制度の範囲内で来てくれるシステムになっている。介助者は他の障害のある人のお手伝いもしていて、時間制限などのルールがある。くるくる予定は変えられない」 「私が政治活動を続けようと思ったら、やっぱり専属で介護する人が常に付き添ってくれないと難しい。保険であらゆることをまかなおうとすれば、保険財政が持つのかという話にもなる」
―――パラリンピックでは、障害のあるアスリートが驚くような能力を発揮する。さまざまな人が輝ける場所が社会にあることを伝えるショーケースになる。
「けがをしてからパラスポーツの方とお会いする機会が増えた。パラサイクリングで世界チャンピオンになった杉浦佳子さんは脳機能障害や三半規管障害がある。三半規管障害を持った人がどうやって曲がるのか、と思い杉浦さんに聞いたことがある」 「自転車はハンドルを曲げて曲がるのではなく体を傾けて曲がるものだが、杉浦さんは、最初は前を走っている人の動きを見て曲がっていたそうだ。一般の人も彼女の努力に感動すると思う」 「一方で、パラスポーツの意義は、よく鍛えたなと感動することじゃなくて、むしろ障害を持った人が楽しみを見出してやっていけることにあり、人が見て感動するかなんてどうでもいいことじゃないか、とも思います」
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―――パラリンピックは社会を変革する重要な契機になるとも言われる。何が変わると思うか。
「パラリンピックの場合は障害者に光やスポットを当てる。世の中は健常者だけで成り立ってるわけじゃない。障害者��どういうふうに個性を生かしていくかという機会の一つです」 「多摩川の河原で車いすマラソンの練習している人をよく見かけます。使っている機材はすごく高価。(自転車の経験から)オールカーボンでオーダーメードだと1台100万円を下らないように見える。あるいは、もっと高いかもしれない。パラスポーツはいろいろお金がかかるだろうし、場所を探すのもなかなか大変だと思う」 「健常者のスポーツも、ラグビーが盛り上がり、プロリーグ化して発展させていこうとしている。スポーツの発展段階はいろいろ。昔は学校スポーツが中心だったが、今盛んなスポーツはみんなプロ化につながっている」 「トップアスリートは前よりも競技に集中できるようになった。1964年の東京五輪は、当時のIOC(国際オリンピック委員会)会長は徹底的なアマチュアリズムでした。それからガラッと変わった。要するにスポーツはみんな産業化している。なぜ8月に暑い東京でやるのかという問題は、五輪もスポーツという人間活動を産業の一環としていく流れがあるからこそ、その金を集めるためにスポンサーがつかなきゃいけない。いいか悪いかは議論もあると思うが、少なくとも産業化することによってより多くのスポーツで、より多くの能力のある人が能力を発揮しうる状況はできている」 「パラスポーツが産業化しうるものになるのかはわからない。優秀な人は企業がバックアップしている。東京大会の後、そういう動きがどうなるか、というのがまず第一の試練だろう。東京大会の盛り上がりがそのままに、というのは難しいかもしれない。でも、ある程度は維持していくことができるか。それが当面の課題じゃないかなと思う」
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【「このままでは原発はなくなる」 田中俊一前規制委員長、信頼回復失われた】 - 福井新聞ONLINE : https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/990893 : https://archive.is/DH02q : https://archive.is/1ovd1 2019年12月11日 午後5時00分
{{ 図版 : 「原子力エネルギーについて国民全体で議論すべきだ」と語る田中俊一氏=茨城県ひたちなか市の自宅 }}
関西電力の役員らが、福井県高浜町元助役の森山栄治氏(故人)から計約3億2千万円相当の金品を受け取り、福井県職員の現職・OBら計109人も受領していたことが明らかになった問題で原子力規制委員会の田中俊一前委員長に思いを聞いた。田中氏は規制委員長時代に高浜3、4号機の再稼働を認可した。
―――関西電力役員らの金品受領問題をどう受け止めたか。
「遺憾であり残念。福島第1原発事故以降、(関電が)東京電力に代わり電力事業者のリーダーとして、信頼回復に努めるべきだとの思いを持っていた��、それが裏切られた思いだ」
************
―――背景をどう見る。
「関電と高浜町の元助役のような『持ちつ持たれつ』の構造はこの問題だけに限らない。日本の原子力事業では、原発立地自治体と国、電力事業者の間によく言えば『共存共栄』、悪く言えば『もたれ合い』の構造がある。実際、福井県もこれまで関電の原発事業だけでなく『もんじゅカード』を使ってきたところがある。正当な理由があれば否定することではないが、原子力を人質のように扱ってきたところもあり、根本では今回の不祥事とつながる点がある」
―――田中氏と高浜原発への関わりは。
「自らが規制委員長として3、4号の再稼働を許可し、現地を視察し地元の皆さんへの説明も行った。高浜は再稼働後、緊急停止につながるような大きなトラブルを起こさずに現在に至っており、少しずつ信頼回復への実績を積んできていたと認識していたが、そうした信頼がこの問題で失われたのではと思うと、とても残念だ」
―――関電には厳しい目が注がれている。使用済み燃料の中間貯蔵施設の立地地点の明示が困難な状況だ。
「個人的には、海外の多くの国と同様、使用済み燃料を乾式容器に収納し、しばらくは原発敷地内で保管することがいいと思っている。敦賀地区は浦底断層があるので、原発の再稼働や増設は相当困難。中間貯蔵施設なら可能性はあるかもしれない。乾式容器であれば100~200年は安全に保管できるので、その間に国民とじっくり議論し処分方法を決めるのがよい。急いで最終処分地を探しても見つからない」
≫――――――≪
―――日本の原発の将来は。
「福島第1原発事故で崩壊した信頼は、新規制基準に基づいて再稼働した原発の安全稼働により少しずつ回復していた。しかし、今回の問題で再び崩れ去った。今は与党内ですら脱原発の雰囲気が強い。このままでは、おそらく原発はすべてなくなる方向に向かうだろう」
「ただ、この問題だけの議論とは別に、温暖化防止やエネルギーの安定供給の観点から、原子力の在り方をもう一度議論しないといけない。火力の比重が増えれば温室効果ガスが増加し、再生可能エネルギーが増えれば国民の電力料金の負担が大きくなる。中東に大きく依存している原油の確保を巡っても、中東情勢に一喜一憂することにもなる。来年は、原発の営業運転が始まってちょうど50年。この問題を機に、原子力エネルギー利用について原点に立ち返って、さまざまな観点から国民全体で議論すべきだ」
―――福井県民は何ができる。
「国内最大の原発立地県に住む福井県民は原発事業を左右する『キーマン』。原発の立地県、立地自治体として、改めて原子力利用について���広い観点から議論し、考えていただきたい。原発関連の方が周囲にたくさんいる環境では、議論は難しいところもあるかもしれないが、この際、関電の本音もよく聞いて、その上で原子力との共存を図る道を探っていければ幸いだ」
■田中俊一(たなか・しゅんいち)氏 東北大工学部原子核工学科を卒業し1967年、日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)に入所。2004年副理事長。日本原子力学会会長、原子力委員会委員長代理を歴任。11年3月の福島第1原発事故後、福島県で除染活動に取り組む。12~17年に原子力規制委員会の初代委員長を務め、現在は同県飯舘村の復興アドバイザー。福島市出身、74歳。
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ホーボージュン @hobojun - 午前0:53 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hobojun/status/1222910626059571200 : https://archive.ph/82lg3
【訃報】今朝(1月30日朝)、作家の田渕義雄さんが永眠された。病気をされて自宅で療養されていたそうだ。僕は『OutdoorEquipment』誌の駆け出しライター時代、何度も川上村のご自宅を訪れ、焚き火の熾し方から管理社会からの外れ方まで、アウトドアの真髄を学ばせていただいた。ただただショックだ。 ≫――――――≪
ホーボージュン @hobojun - 午前1:01 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hobojun/status/1222912720544006145 : https://archive.ph/AKZHN
毎月川上村(田渕さんはその地を“寒山の森”と呼んでいた)の工房から編集部に届く原稿はとても詩的で美しく、しかし反骨精神と皮肉が込められ、僕らは書き手として嫉妬し、��して憧れていた。 ≫――――――≪
ホーボージュン @hobojun - 午前1:03 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hobojun/status/1222913187240017920 : https://archive.ph/3wi9e
あの頃、僕らアウトドアライターが��といっても当時はそんな言葉すらなかったが)憧れていた巨星のひとりが田渕さんだった。 ≫――――――≪
ホーボージュン @hobojun - 午前1:08 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hobojun/status/1222914600758169600 : https://archive.ph/whCAF
当時の田渕さんはソローに傾倒し、俗世に背を向けて寒山の森でひたすらストイックに生きることを目指していた。求めるのは詩と犬とフライフィッシングのみ。なかでもフライフィッシングへの傾倒は常道を逸脱していて「我、開眼せり!」と叫んだ日は、僕ら若手もドン引きだった。 ≫――――――≪
ホーボージュン @hobojun - 午前1:14 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hobojun/status/1222915919267000321 : https://archive.ph/nkSmp
そんなストイックな生き様と対照的だったのが田渕さんが翻訳をした『メイベル男爵のバックパッキング教書~最低の費用で、最高のハイキング、登山、アウトドアを楽しむために』だ。アクティブで、ファニーで、ファンなこの本は、90年代のバックパッキングブームを過ごした者にとってはバイブルだった。 ≫――――――≪
ホーボージュン @hobojun - 午前1:31 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hobojun/status/1222920231980421120 : https://archive.ph/yN9t2
1978年のコリン・フレッチャーの『遊歩大全』を芦沢一洋さんが翻訳しなければ、そして1980年に刊行された「Backpacking: Baron Von Mabels」という風刺漫画のようなペーパーバックを田淵義雄さんが『メイベル男爵』に翻訳しなければ、この極東の島国にバックパッキング文化など絶対に芽生えなかった。 ≫――――――≪
ホーボージュン @hobojun - 午前1:38 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hobojun/status/1222922094159155201 : https://archive.ph/1zsVt
そんな憧れの人と僕は焚き火を囲む機会を何度も頂いた。傍らには伊藤孝志兄や堀田貴之兄や遠藤昇編集長がいた。みんなにとって田渕さんは憧れの存在だった。いつかなりたい星だった。僕の場合は“詩”だった。泥臭いアウトドアや旅の毎日を田渕さんのように詩に乗せて書きたい、そう思っていた。 ≫――――――≪
ホーボージュン @hobojun - 午前1:43 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hobojun/status/1222923195864403970 : https://archive.ph/5J6Yf
いつか美しく、反逆的で、詩のような文章を書いて、田渕さんが教えて下さったOutdoorLifeにご恩を返そうと思っています。 Rest in peace. 安らかにお眠り下さい。 ≫――――――≪
hikersdepot @hikersdepot - 午後7:12 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hikersdepot/status/1223187192664621056 : https://archive.ph/zx5qn
田渕義雄さんのご冥福をお祈りいたします。
わたしも学生時代に夢中になって読んだひとりです。いま読み返しても新たに気づかされることがあります。 田渕さんを知らない若い世代の方々にも読んで欲しい一冊。自由に考える、自由にふるまう、その自由を支える自分の掟について考えさせられます。
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hikersdepot @hikersdepot - 午後11:19 ・ 2020年1月31日 : https://twitter.com/hikersdepot/status/1223249446386819072 : https://archive.ph/2joRO
ULというコトバが目新しく注目されたりしたけど、その本質的なことは田渕さんの時代から普遍的に���ウトドアで語られていたことに過ぎない。外見を変えただけ。 自然の中で、人力による旅の中で、本当に大事なことにトレンドなんてない。その真ん中にあるものはいつの時代もきっと変わらない。 ≫――――――≪
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フリート横田 @fleetyokota - 午後8:01 ・ 2020年1月15日 : https://twitter.com/fleetyokota/status/1217401504182591488 : https://archive.ph/BUDhG
昨日も新橋駅前に靴磨きの婆ちゃんが座っていた。昭和6年生まれの89歳だよ。昭和46年からここに座る。戦災者救済目的以来の道路占有・使用許可は新規に出ることはない。もう稼がなくて良くなっても通う。こういう方は一言で魂を打つ言葉を持って生きている。「お金じゃないの。私は人を待ってるの」
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カナ* @ExcellencyRozen - 午前9:00 ・ 2020年1月16日 : https://twitter.com/ExcellencyRozen/status/1217597460299694080 : https://archive.ph/emCTI 返信先: @fleetyokota
「私の名前は“幸せな子"。だからみんなに幸せをあげたい」の中村幸子さんですね。
この方に靴を磨いていただくと出世すると言われている縁起の良いおばあちゃんです。
どうかずっとお元気で、まだまだ現役を続けていただきたい。
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【NYタイムズ東京支局長指摘 「大新聞は国民を見下している」】 - 日刊ゲンダイ DIGITAL : https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/158019 : https://archive.fo/bZgmc 公開日:2015/03/16 07:00 更新日:2016/10/17 04:37
{{ 写真 : 来日して12年になるマーティン・ファクラー氏(C)日刊ゲンダイ }}
■《国の根幹が変わるのに、新聞が反論を載せない異常》
相変わらず安倍政権の支持率は高いが、不思議なことだ。庶民にアベノミクスの恩恵はまったくないし、イスラム国の人質事件は最悪の結末に終わった。政治とカネの醜聞が噴出し、大臣がまた辞任した。そんな中で、安倍政権は平和憲法をかなぐり捨てる法整備を進めているのに、世論は怒るわけでもない。その理由を尋ねると、来日して12年になるニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏からは明快な答えが返ってきた。
「報じない大メディアが悪いのです」―――。
―――この調子でいくと、今月中にも自衛隊が世界中に出ていって、戦争協力する法案が提出されることになります。国の形が完全に変わってしまうのに、日本人は関心も示さない。どう思いますか?
こうなっているのは2つの大きな要因がありますね。��とつは自民党一強、野党不在の政治状況。もうひとつはメディアが安倍政権を怖がって批判を控えていることです。
≫――――――≪
―――やっぱり、怖がっているように見えますか?
見えますよ。日本はいま、これまでとは全く異なる国家をつくろうとしている。憲法に基づいた平和主義を守るのではなく、米国や英国の仲間になろうとしている。果たして、それでいいのか。大きな岐路、重要な局面に立っているのに、そうした議論が何もないじゃないですか。これは本当に不思議なことです。恐らく多くの国民は、戦後以来の大きな変化が起こっていることすら知らないんじゃないですか。私は何も新聞に反安倍のキャンペーンをやれと言っているわけではないんです。安倍政権はこういうことをやろうとしているけれども、そこにはこういう問題点や危険性がある。こういう別の意見もある。せめてさまざまな立場の見方を紹介して、幅広い議論を喚起することが必要なんじゃないですか。
―――しかし、それすら大新聞はめったにやらない。何か安全保障の問題はタブー視されているような印象すらありますね。
≫――――――≪
なぜ、タブー視されるのでしょうか。9・11の直後、米国では国を守るためには団結しなければダメだという危機感がメディアの批判精神を鈍らせました。これは大きな失敗でした。あの時こそ、メディアは冷静になって、きちんとブッシュ政権に問うべきだったんです。本当にイラクに大量破壊兵器はあるのか。本当に、この戦争をしなければいけないのか。しかし、それをやらなかった。それと同じ失敗を日本のメディアは犯そうとしていますね。いま、日本の国家はどういう危機に直面しているのでしょうか? 台頭する中国への不安や懸念ですか? イスラム国の脅威ですか? そんな小さなことでジャーナリズムが批判精神を失うのでしょうか。
―――イスラム国の人質事件ではニューヨーク・タイムズ紙に掲載された風刺画が非常に印象に残っています。「イスラム国は平和主義から逸脱する日本を後押しするか」というタイトルで、車夫(=日本人)の鼻先にイスラム国の旗をぶら下げ、「憲法改正」の車を走らせる安倍首相が描かれていた。キャプションには「安倍晋三“大統領”は復讐を呼びかけた」とあった。
ニューヨーク・タイムズの論評を扱う部署には複数の風刺画家がいます。そのうちのひとりがアイデアを提示した。私が関わったわけじゃありません。
≫――――――≪
■《権力を見ない新聞を国民が信じますか?》
―――ということは、米国人は一般的に安倍首相のことを、そういう目で見ているということですね?
そうだと思いますね。ひとりがアイデアを出して、みんながそうだね、と賛同したわけでしょうからね。
―――それなのに、日本の大メディアは風刺画どころか、安倍政権が人質救出に何をしたのか、しなかったのか。イスラム国と戦う国への2億ドル支援演説の是非もほとんど論じていませんね。
私は中東で調査をした���けではありませんが、東京から見ている限り、安倍政権はあらゆるルートを駆使したわけではないでしょう。最初からあきらめていたように見えます。身代金の支払いにしても早い段階から拒否しているし、この事件を政治的に利用し、テロに屈しないと宣言して米英の一員であることを国内外にアピールするのが狙いだったように感じました。
≫――――――≪
―――人質救出に全力を挙げると言っていましたけどね。
政治っていうのは、みんなそんなもんですよ。オバマ政権も一緒です。ただ違うのはメディアが政府の言い分をうのみにするかどうかです。私は列強の仲間入りをしたいという安倍首相が悪いとは言いません。彼は素直に自分のやりたいことをやっている。それは就任前の言動から容易に推測できたことです。問題はそれに疑問も挟まず、従って何の質問もせず、説明も求めないメディアの方です。だから、安倍首相が積極的平和主義を唱えれば、多くの国民が何の疑問も持たずに“そんなもんか”と思ってしまう。ここが危険なところです。
―――積極的平和主義で、米国と一緒になって戦う。それが日本を守ることになる。こういう主張の政治家、官僚、学者、評論家たちは、米国がやっていることが正義であるという大前提に立っていますね。ただし、そういう人々の多くは、アーミテージ元国務副長官に代表されるジャパンハンドラーと呼ばれる人としか付き合っていない。このほど、ファクラーさんが出された孫崎享さん(元外務省国際情報局長)との対談本、「崖っぷち国家 日本の決断」(日本文芸社)の中には、こういうことが書いてあって、本当に驚きました。ハンドラーという言葉は「犬を扱う」ようなイメージだというし、そのジャパンハンドラーの人々が米国を動かしているわけでもない。これは非常におかしなことだと思います。
≫――――――≪
ジャパンハンドラーの人々は非常に保守的で、オバマ政権にも入っていないし、決して米国の意見を代表しているわけではありません。それなのに、自民党の政治家や外務省の官僚はジャパンハンドラ―に頼ってしまう。
―――対談本でファクラーさんは、「ジャパンハンドラーは『既得権益集団』で、コンサルティンググループなどをつくり、強欲な商売をしている」とおっしゃっていた。
鳩山政権の時に脱官僚を唱えた瞬間、日米関係がぶっ壊れたでしょ? あんなにすぐ壊れるものかと驚きました。このことは日米のパイプがいかに細いかの裏返しです。一部の自民党の政治家や官僚とジャパンハンドラーとの付き合いしかないのです。日米関係に関わっている人は非常に少数で、そういう人が同盟関係を管理している。だから、普天間基地の移転問題にしても辺野古しかないという結論になってしまう。もっと幅広い人脈と付き合っていれば、さまざまな意見、選択肢が出てくるはずです。
≫――――――≪
―――集団的自衛権についても、それが日米同盟では当たり前ということになってしまう。
確かに戦後70年間、米国と一緒にやってきて、ある意��、安全だった過去の実績はあります。でも、今後もそれでいいのか。平和憲法を捨てず、平和主義を貫く選択肢もあるし、鳩山政権や小沢一郎氏が唱えたようなアジア重視の道もある。どちらがいいかは国民が考えた上で決めるべきです。
―――ところが、日本人には、それを判断する情報すら与えられていないんですよ。新聞が選択肢すら報じないものだから。
日本のエリートの上の方で、物事が決まっている。大きな新聞はそちらの方を見て記事を書いている。そんな印象ですね。新聞社は読者の側に立って、権力を見ていない。権力者の側に立って、国民を見下ろしている。そんなふうに感じます。こんな新聞を国民は信じますか?
≫――――――≪
―――このまま米国追随路線をエスカレートさせたら、この国はどうなっていくと思われますか?
イスラム国のような事件がまた起こりますよ。米英豪仏などと同じ一員になれば、彼らの敵が日本の敵にもなる。日本人はそこまでの覚悟をしているのでしょうか。いずれにしても、民主主義国家でこれほど異常な一党支配の国は私の知る限り、見たことがない。戦前と似ていると言う人がいますが、野党不在で政権と違う意見を許さないという雰囲気においては、似ているかもしれません。健全な民主主義に不可欠なのは議論なのに、それを忘れているとしか思えません。
(聞き手=本紙・寺田俊治)
▽マーティン・ファクラー 1966年生まれ。ダートマス大卒業後、イリノイ大、カリフォルニア大バークレー校で修士。ブルームバーグ東京支局、AP通信東京支局、ウォールストリート・ジャーナル東京支局などを経て、ニューヨーク・タイムズ東京支局長。近著に「崖っぷち国家 日本の決断」(日本文芸社)。
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【怒りと涙の訴え 16歳 グレタさんを知っていますか?】 - NHKニュース : https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190924/k10012096351000.html : https://archive.fo/4BYFE 2019年9月24日 17時16分
「あなた方が話すことは、お金のことや永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり」 国連の温暖化対策サミットで各国の代表を強い口調で非難し、早急な温暖化対策を求めたスウェーデンの16歳のグレタ・トゥーンベリさん。活動を始めてわずか1年余りで、国連の温暖化サミットに招待されました。8歳の時に地球温暖化のことを知ったというグレタさんを知っていますか?
■《2018年8月 1人で始めた座り込み》
高校生のグレタ・トゥーンベリさんは去年の8月、毎週金曜日に学校を休んで、スウェーデンの国会議事堂の前で座り込み、地球温暖化への対策を訴える活動を1人で始めました。 この活動はSNSで世界中の若者の共感呼び、#Fridays For Future=未来のための金曜日と呼ばれました。
グレタさんは8歳の時に地球温暖化のことを知りました。世界の国々が温暖化の進行に対処できていないと危機感を持ったといいます。そして「温暖化は学校をさぼるよりも悪いことだ」と考え活動を始めました。
たった1人で始めた活動は瞬く間に広がり、国境を越えて多くの会議や集会に招待されるようになります。
■《2018年12月 「子どもの未来奪っている」》
去年12月にはポーランドで開かれた地球温暖化対策の会議「COP24」に招待されました。その中で「大人はわが子を誰よりも愛していると言いながら、子どもの未来を奪っている」と演説。このスピーチでグレタさんの活動は世界に広く知られようになります。
ノルウェーの国会議員はグレタさんをノーベル平和賞の候補に推薦したことを明らかにしました。
■《2019年2月「大切な勉強の時間を無駄に?」》
学校を休んで活動を行うことに批判もありましたが、ことし2月21日にはEU=ヨーロッパ連合の会議で演説。
「『大切な勉強の時間を無駄にしている』と言われるかもしれないが、政治家たちはこの数十年間を何もせず無駄にしてきた。私たちは温暖化の問題解決まで活動やめない」と決意を語りました。
■《2019年3月 世界120か国 若者が行動》
3月15日。グレタさんの呼びかけに共感した若者が日本をはじめ欧米やアジアなど120以上の国や地域で地球温暖化対策呼びかけるデモを行いました。
パリでは約2万9000人が集まり、16歳の男子高校生は「地球を守るために僕たち若い世代が自分たちの未来のために動かないといけない」と訴えました。グレタさん自身もスウェーデンの首都 ストックホルムでデモに参加し、「自分たちの未来のためにこれからも活動を続けていこう」と呼びかけました。
■《2019年5月 温暖化サミットに招待される》
5月28日、国連のデ・アルバ事務総長特別代表は記者会見で、ことし9月の国連総会で開催するハイレベル会合にグレタさんを招待していることを明らかにしました。
■《2019年7月 「『未来のための金曜日』に贈られた賞」》
7月21日にはフランス北西部のノルマンディー地方に招かれ、平和に貢献した個人や組織を表彰する「自由賞」を受賞。
式典でグレタさんは「この賞は自分だけでなく『未来のための金曜日』に贈られた賞です。みんなで取り組んでいきましょう。私たちの運動は始まったばかりで求められている変化はまだ起こせていない。運動を続けなければならない」と呼びかけました。
■《2019年7月「ヨットでNYに行きます!」》
グレタさんは温室効果ガスを排出するとして飛行機を利用しないようにしています。EU議会で演説した時もローマ法王に拝謁した時も移動は鉄道で、「環境のために私は飛行機に乗りません。時間はかかりますけどそれだけの価値はあります」と話しています。
国連の温暖化サミットに招待され、移動手段を検討していたグレタさん。7月29日、みずからのツイッターに「良いニュースです。ニューヨークでの国連の温暖化サミットに参加します」と書き込み、モナコのレースチームのヨットに乗せてもらい大西洋を横断すると発表しました。
■《2019年8月 夏休み「まだやることはたくさんある」》
8月5日、スイス西部のローザンヌにグレタさんの活動に賛同する高校生や大学生など450人余りが夏休みを利用した集まりました。グレタさんも参加しました。
「去年、多くのことが起きたが世界全体の温室効果ガスの削減にはつながっていない。まだやることはたくさんある。(9月の温暖化対策サミットに招待されていることについて)世界の指導者が私たちの声を聞き、科学の声を聞いたと証明する機会になる」
■《2019年8月 NYに到着 200人が出迎える》
8月14日、ニューヨークへ向けイギリス南部の港をヨットで出発したグレタさん。「船酔いとか多くの挑戦がありますがやり遂げます」 太陽光パネルで必要な電力を賄いながら約2週間かけて大西洋を横断、28日、マンハッタンのふ頭に到着しました。
約200人が出迎え、歓迎のために訪れた17歳の男性は「彼女が起こした行動がこれほど大きな波になるとは想像できませんでした。ニューヨークでも若い人々の心に訴えかけて行動の波を広げてくれると思います」と話していました。
■《2019年9月「次の機会にも参加して」》
ニューヨークに到着したグレタさんは、国連総会を前に活発に活動を続けます。
恒例の金曜日となる9月13日、首都ワシントンで地元の高校生と 集会を開きました。グレタさんは「私と一緒に行動してくれてありがとう。次の機会にも参加してください」と呼びかけていました。
■《2019年9月 「良心の大使」受賞》
国際的な人権団体「アムネスティ・インターナショナル」から人権を守るために活躍した人に贈られる「良心の大使」の賞を受賞。16日の授賞式でも「世界での温室効果ガスの排出量は今も増え続けている。今こそ行動するときです。誰もが変化を生み出す力を持っているのです」と力強く呼びかけ、会場は大きな拍手に包まれました。
■《2019年9月 オバマ前大統領「世界を変えているね」》
9月18日にはオバマ前大統領と面会し、オバマ氏から「世界を変えているね」などと声をかけられると、グレタさんは「若者たちは皆、熱心です。どんな小さな個人でも世界に影響を与え、変化をもたらすことはできます」と応じていました。
この日は、アメリカ議会下院の公聴会にも出席して訴えました。 「私の言葉ではなく、科学者の声に耳を傾けてください。科学のもとに皆が団結し行動してほしいのです」
■《2019年9月 世界150か国 400万人 過去最大規模のデモ》
9月21日、国連の温暖化対策サミットを前に若者が中心になって温暖化対策を訴えるデモが世界各国で一斉に行われました。
ニューヨークやベルリンなどでは参加者が数十万人規模となり、主催者側は世界全体でデモの参加者が400万人を超えたとして、温暖化対策を求めるデモとしては過去最大だとしています。 ニューヨークのデモでグレタさんも訴えました。 「私たちはただ傍観するつもりはない。科学のもとに団結している。世界の首脳の目を覚まさせ行動を起こさせたい! 私たちには安全な未来を得る権利がある!」 今回のデモでニューヨーク市の教育局は、公立学校の児童、生徒100万人以上に学校を休んで温暖化対策を訴えるデモに参加することを許可する異例の対応を取りました。
■《2019年9月 温暖化対策サミット 怒りと涙の訴え》
9月23日、国連の温暖化対策サミットでグレタさんは各国の代表を前に演説しました。 「私が伝えたいことは、私たちはあなた方を見ているということです。そもそも、すべてが間違っているのです。私はここにいるべきではありません。私は海の反対側で、学校に通っているべきなのです」と語り始めたグレタさん。「すべての未来の世代の目はあなた方に向けられています。私たちを裏切るなら決して許しません」と強い口調で非難し、早急な温暖化対策を求めました。
■《訴えはトランプ大統領にも届くか…》
地球温暖化対策に懐疑的なことで知られるトランプ大統領は当初、温暖化対策サミットに出席する予定はありませんでしたが、急きょ姿を見せ、周囲を驚かせました。15分程度で退席し発言はしませんでした。グレタさんの演説を会場で聴くこともありませんでした。
■《温暖化対策を求める機運 かつてなく高まる》
地球温暖化対策を求める機運はかつてなく高まっています。そのきっかけともなった16歳のグレタ・トゥーンベリさん。
ことし12月には南米チリで行われる地球温暖化対策の会議「COP25」にも参加する予定です。
(関連ニュースに、国連の温暖化対策サミットでグレタさんが行った演説の全文 {{ https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190924/k10012095931000.html : https://archive.fo/CYYb3 : https://benediktine.tumblr.com/post/187921536656/ }} を掲載しています。あわせてお読みください)。
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【アレックス・モールトン博士葬儀】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30395578.html : https://archive.fo/QyQB3 2012/12/20(木) 午後 8:56
アレックス・モールトン博士の葬儀が、19日正午よりブラッドフォード・オン・エイヴォンの聖三一教会で行われ、無事終りました。出席者はおよそ500人。人数が多いので立っている人も多く、花は親類の花のみの受付でした。トニー・ハドランド氏と甥のショーン・モールトン氏のインタヴューがBBC4で流されたということです。
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【アレックスをめぐる回想10】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30392801.html : https://archive.fo/yS8ms 2012/12/19(水) 午後 7:26
いままでに、これも書かれたことがない話ですが、アレックスの「自転車観」は歳とともに「角がとれてきた」様子でした。また、英国に於いてすら、彼は自転車趣味の人たちからたいそう疎まれていました。
そのきっかけとなったのは、彼が用いた「classical bike,クラシカル・バイク」という用語でした。本当なら「classic bike、クラシック・バイク」と言ってもよかった。クラシックには「明らかな歴史的な成果や達成」の感じがあります。クラシカルにはそれと同時に「古めかしい」「時代遅れ」というような意味も含まれてきます。
私がアレックスとつきあうにつれ、モールトニアと言われる人たちからクリスマスカードが来るようになりましたが、そのなかにサンタが自転車に乗っている絵が少なくなく、「サンタはモールトンに乗るべきだが、、」とか「どうしようもない自転車に乗ったサンタの絵だが、、」とか、レギュラーサイズ・ホイールの自転車をバカにする言葉がならんだカードがよく送られてきました。
彼は「青本」のなかでは「古めかしいフォームから、この自転車と言う驚くべき機械を、はるか別の進化段階の先まで、モールトン自転車という創造物でもって行くのが自分の意図するところだ」というようなことを言っていました。それが90年代の赤本には「私は自転車に興味のある人たちには、どのようなタイプの自転車が彼らの好みであろうと、自転車に乗りサイクリングを楽しむようにうながしたい」とかなり柔らかくなっています。
それが最晩年には「果たして小径車は正しかったのか?」と言い始めています。
これは私自身何回か聞きました。またコヴェントリー大学でも、 「レースにも勝った、しかし、本当に理論的にそれは正しいのか?この図を見てくれ、ワシは小さいタイヤのほうがころがりが良いことも実験した、、、」 と語っていますが、これには別の話があります。
アレックスは長らく自分が全外皮応力構造(モノコック)の自転車の祖は自分だと思っていました。ところが日本へ来て、三菱が第二次大戦後、飛行機のジュラルミンパネルでモノコック・フレームを作っていたのを発見してショックを受けました。その後、鳥山新一先生が第二次大戦より前に小径車でサイクリングをしていたのをみて、もっとショックを受けました。自分がパイオニアだと思っていたのが先達がいた。アレックスは「イノヴェィティヴ・エンジニア」という単語を自分を説明するのに使い始めます。
私も同じようなことを言われましたが、私は、 「レースで勝っても、証明不可能なものがあるのではないか?」というようなことをアレックスに言いました。たとえばシトローエン2CVはたいへん運転して楽しいクルマですが、その魅力はレースで勝って証明することはできません。むしろ、速く走り、速くコーナーが回れ、壊れず、レースに勝つ、と言うベクトルのみが評価基準ならば、一番選ぶべきは日本車かドイツ車になってしまうのではないか?そういう話をしたのを覚えています。
アレックスが自転車のことを語る時、それは祖父の乗っていたハンバーからはじまって、1950年代にカーリーバック・へチンズを買ったところからスタートする。そして「へチンズのカーリバックはまったく機能しなかった」と繰り返し語っています。
私はそれに関してはちょっと違った意見をもっていまして、それはアレックスにも話しました。じつは私はへチンズのカーリバックの特許出願用紙を見たことがあります。それには一切『サスペンション的な効果』のことは書かれていません。それは名前も「ヴァイブラント・フォーク」であって、音響振動のような微細な振動を伝えないようになっていると言う説明が特許文書にあります。またバックフォークのシート部への溶接部分への応力集中を分散する役割を果たす、と書かれています。実際に強度試験をすると数十パーセーント破壊が起こる限界が高まることが確認されています。それを「サスペンション」として比較するのは意味のない比較であると言いました。
一方で、アレックスはケンブリッジ大学時代、いったい自転車は何に乗っていたのか?私は非常に興味があったのです。講義から講義までは自転車に乗らなければ間に合いません。ケンブリッジの学生はほぼ100%自転車で移動しています。アレックスはこの問いには答えませんでしたが(クラシカル・バイクとのみ。メーカーは知らないと言っていました)、私はロードスターに乗っていたものと思っていました。私はモールトン車に乗った時、第一印象は「ああ、これはホイール径の小さいロードスターだ」と思いました。
そのかなり長めのホイールベース、かなり寝たシートとヘッドアングル。ふわふわしたサスペンションはまさにBROOKSのバネ入りサドルのロードスターをほうふつとさせました。
自転車を製作する時、「どういう乗り味のものを作るか?」という乗り味のイメージなく製作することはできません。可能性は無数にあるからです。誰もが思うことですが、ロードスターは重い、タイヤが肉厚で重くべたつく。ロードスターの乗り心地が好きな人は「これが軽く、足回りがもっとスイスイ走れ、ブレーキが利いたら」ということです。
この点を英国の自転車愛好家にぶつけてみたことがあります。ロードスター愛用者はみんな「自分もそう思う」と答えました。
しかし、皮肉なことにケンブリッジで学期のはじまる時に最後まで売れ残っている中古車は小径なのです。経験的にみんな、特に雨の日にはきわめてスリップしやすく、パンクした時は一瞬にしてタイヤがリムから外れ転倒はまぬがれない。道路の継ぎ目でもハンドルを取られる、などを知っているからです。
アレックスはそうした小径のデメリットをどこまでエンジニアリングでカヴァーできるか?というのに生涯を賭けたのだと思います。それを改良し続けるイノヴェーションのエンジニア。
私はBSMにかかわったので、計5台Fフレームの車輌を買って乗ってみました。アレックスは、 「でかした。キミもとうとうモールトニアか!」 と喜んでいました。しかし、都心までの往復はつらかった。人間エンジンはモーターのようにコンスタントに馬力をアウトプットし続けることはむずかしい。半日乗って疲れてくると、出馬力は0.2-0.3ぐらいに落ちます。そうすると、こぐのをやめると、するする速度が落ちて、車輪の慣性を利用して筋肉を休ませることが出来ない小径は実に辛いのです。そうして疲労が溜まって集中力が落ちた時は、道路の継ぎ目などでヒヤッとする。ただし、Fフレームのほうが右ひざはトラスより楽でした。 「ロスを少なくするためにフレームは可能な限り固くないといけない。」 とアレックスは言っていましたが、サラブレッドでもセメントの上を全力疾走したら脚を壊すでしょう。生身の肉体はそうした「自然な柔らかさ」がどこかにないといけないと私は思います。
その点をアレックスに「Fフレームは『箱』にまたがったような感じがしない、また膝にもやさしい感じがする」と言いました。その時、トラスの巾をすこし狭くして、ペダルを踏み込んだときの横剛性を少し落としたほうがいい、と提言しました。カタログにも載っておらず、自分の一台だけを所有して乗っている時は気がつきませんが、アレックスの最後期のトラスフレームは巾が狭くなっています。最後まで改良に余念がなかった。
アレックスはそういう得失はすべて承知していたと思います。それをどこまでエンジニアリングで改良して良くできるか?モールトン車は彼の一生を賭けた、その偉大なる実験であったと思う。
ミーティングがあった時、私は乗って行く車両がないと言いました。 「Fフレームはどうした?」 「譲ってしまいました。あれは過去ですから。」 「そうか。キミとキミの友人はどんな車輌で来ても許す。それは英国車だろうな?」 「はい。」 「古い英国車か?」 「はい。」 「それならなお結構。英国のエンジニアリングの流れをみんなが眼にする良い機会だ。」 アレックスは排他的な人ではありませんでした。
ある時、THE HALLで、ある夜、食事のあと、アレックスは珈琲を淹れようとお湯を沸かしにキッチンへ行きました、そのあと、 「BBCの10時のニュースを見る」 と言って、テレビを点けました。やがていびきをかいて寝てしまいました。私はしずかにキッチンへ行って火を止め、テレビを消しました。アレックスは目を覚ましたのですが、 「アレックス、今日は長い一日だった、疲れているのでもう珈琲はやめて寝たほうがいい。」 「それもそうだ。」 そのつぎの一言は意外なものでした。 「しかし、床に就くまえにどうしてもキミに訊きたいことがある。まだキミを寝かせるわけにはゆかない。」 「それはどういう質問ですか?」 「ある男が、小径のほうが優れていると思って、それを使えば自転車がより良いものになると信じて、一生努力したとしよう。しかし、その理論が間違っていたとしたら?仏教ではどうなる?地獄に落ちることになるのか?」 私は即答できませんでした。 「カソリックでは自分が正しいと思っていてやっていても、間違っていたら罪は罪、告解をしないといけませんし、ルター派なら自分の信念にもとづいてやったことなら許される。しかし、そういう罪の考え方は仏教では聞いたことがありません。」 そこで体勢を立て直して答え、長い会話になりました。それをここにすべて書くわけにはゆきません。
ただ、アレックスは人の「個性」というものが、死後も残るとは考えにくい、と言っており、それは生まれつきの傾向と性格がさまざまな経験と体験と知識を取捨選択してつみ重ねてかたちづくられるものだ、との考えでした。
レオナルドは自分を『経験の弟子』と言っていました。
その時、アレックスの本棚にはレオナルド・ダ・ヴィンチの本があって、ミケランジェロもラファエロの本もなかったのを思い出しました。レオナルドは晩年、人はさまざまな体験と経験を重ねて智慧をつけてゆくが、それらも死を境に「無」に帰する、と言っていた。
「しかし、誰かの個性というのは、時として会った人に強烈に焼き付けられるのではありませんか?私はこのごろ、もうずいぶん昔に亡くなった祖父や父や自転車の師のように喋っている自分を感じてハッとすることがあります。それこそが『火の洗礼』と昔の人が言った事ではないか?と最近は思えるのです。その偉大な個性の一部が自分の中で生きはじめ、伝えられてゆくのだと思います。今は亡き彼らの声を、いまだにありありと頭のなかに聞くことができます。」 「それはまさにそのとおりだとワシも思う。個性は他人にも焼きこまれるな。それは影響よりもっと強いものじゃ。ワシもいままで一緒に仕事をした人たちの一部が自分の中で生きているのを感じる。」 アレックスは満足したようすで、 「今宵は充実した夜だった。これで珈琲は無しで寝るとしよう。ナイトキャップはどうじゃ?」 そう言って、新しいローヤル・サルートの封を切って、グラスに注ぐと二人で乾杯したのでした。
アレックスはながらく、別れ際に 「ワシが生きていたらまた会おう。」 というのが口癖でした。バイパス手術の前には形見にするつもりで彼のセーターを私にくれています。それがいまや、本当の形見になってしまいました。
これからの時代、アレックスのような人は二度とあらわれないでしょう。心よりのご冥福をお祈りします。
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【アレックスをめぐる回想9】 - 英国式自転車生活 : https://blogs.yahoo.co.jp/tenzen194/30392060.html : https://archive.fo/8xDtR 2012/12/19(水) 午後 0:31
そのアレックスの歴史観でしたが、第二次世界大戦のことの話になりました。ドイツ嫌いのアレックスにドイツ人の親戚がいたことは、まずほとんどの人がご存じないでしょう。
アレックスとバートランド・ラッセルの「ナチズムの起源」の内容やアラン・ウッドとラッセルの内容を話していた時、ラッセルが「第一次世界大戦のあとの賠償金を戦勝国がドイツからとるにあたって、ドイツが未来永劫返しきれないようなシステムをつくりあげ、彼らがハイパーインフレにみまわれ、また自分たちの自信を徹底的にうちくだかれた。もし、戦勝国があそこまでドイツをいたぶらなければ、あそこまでのナショナリズムのナチスはあらわれなかっただろう」と言う見解を示しているのを私が話したところ、アレックスは、 「ワシもまったく同感だ。第一次世界大戦のときのドイツは、英国やフランス、オランダが持っていたような植民地を自分たちドイツも持ちたいと思ったのじゃろう。ワシの親類のオットーはよく地団太を踏んで『君達英国やフランスやオランダは、広大な植民地をもっている。どうしてそれと同じものを持とうとドイツがするのをいつも阻止しようとするのか」と言っておった。これは日本も同じだったのではないか?あの時代は世界は植民地の時代じゃった。19世紀まで鎖国をして江戸時代は数百年間、拡大政策をとらないできた日本ははじめて世界を見た。その時西欧列強はみんな植民地を持っていた。『なぜ我々がやってはいけないか?』と思ったんじゃろう。マンチュリアはロシアも狙っていた。日本はロシアに戦争で勝っていたし、そこへ出て行ったのだろう。悪いことをやっていたのは西欧諸国もみな同じだ。あの時、開国から数十年しか経っていなかった世界を良く知らない日本が悪いお手本をコピーしたのは、一方的に責めるわけにはいかない。その日本自身も、うかうかしていたら西欧列強の植民地になりかねなかったのだから。」
アレックスはそういう見解をもっており、さらに技術者というものは、いかなる政治体制のもとでも自らの仕事に没頭するものだ、と言って、日本の航空技術者のやりかたはすばらしかった、I respect that.とゼロ戦や隼に讃嘆を惜しみませんでした。実際、「ゼロのエンジンが見たい」というので彼を須田町にあった交通博物館まで連れて行ったこともありました。
TAROさんが英国から日本へ帰って来たときのこと、新宿の焼き鳥屋へ二人で行った時のことです。 「R&Fさんさぁ。オレはすごく気になってることがあるんだ。博士のとこにナチスのV2ロケットの模型があるじゃない。あれってナチスが作ったホンモノの模型なんじゃないかな?」 「そんなのあったかな?気がつかなかった。」 「このくらいの大きさでさ。あれって、博士の世代とか地位考えても、ドイツから戦後戦利品で流れたとしか思えないよね。あんなの作ってどっかが売り出したなんて話聞いたことないもん。今度聞いといてよ。」 TAROさんの仕事の背景を考えたら、聞けばおねだりをしたように思われるので、私に訊いて欲しかったのでしょう。さらにTさんは、 「博士ってどうして結婚しなかったのかな?恋人が戦争で死んだとかあったのかな?今度会ったら訊いてみてくださいよ。」 「何言ってんだ。そんなこと訊けねえよ。自分だって会うんだから訊いてみたらいいじゃないか。」 「いや、オレも訊けない。それが訊けるのはR&Fさんだけだよ。」 結局二人とも訊けませんでした。
ある時こんなことがありました。ある自動車関係者の集まりが行われて、泊りがけの宴会に私とアレックスは招待されたのです。もうドロドロの宴会で演歌が流れ、アレックスは耳を塞いでいました。その時、アレックスは宴会のあとに部屋割りが出たのですが、一番離れた部屋へぽつりと一人だけ割り当てられました。そのとき自動車会社の社員が独り者のアレックスを茶化してからかうようなことを廊下で5~6人でしていたのですが、きわめてセンシティヴなアレックスは日本語がわからないにもかかわらず、すべてがわかった。 「ワシが心臓が悪いのがわかっているのに一人だけ隔離したように泊めるというのは、あやつらはどういう了見だ。何を考えて誰がやったか、おおかたの見当はつくが。」 「いや、自分も一言ちょっと文句を言いに行きますが、Don't you worry.私が移動して同じ部屋に入ります。」
私はその抗議は、ある意味「意思表示」だったと思います。アレックスはあの巨大な屋敷で何十年も一人で住んでいたわけですから。
翌朝はしごくご満悦で。 「日本の山の中はじつにいい。タタミの部屋で目覚めるのも最高じゃな。時間があれば山の絵でも描きたいところじゃ。」 部屋風呂もシャワーがないから、朝は温泉でみじたくだ、とアレックスを温泉に連れてゆき朝風呂。 「これは贅沢なもんじゃ。日本人はたいへんめぐまれている。これはローマの皇帝もかなわない生活ではないのか?こういうことをやっていれば確実に寿命はのびるだろうな。」 たぶん、あれがアレックスの唯一の温泉体験だったのではないか?
彼はそれ以外にもたいへん仏教や東洋思想に興味を持っており、じつによく本を読んでいました。
「ホテルに英語版の仏教聖典がおいてあるじゃろう?あれをある時読んでみた。それがなかなかいいことが書いてある。」 彼にはよくその手の本を探してくるように頼まれました。ある時、ウイスキーを飲みつつ二人で孔子の最後の逸話を話していました。アレックスはしばしば「死」のことを語りました。 「なんというのかな、もう少し遠くまで、ワシの自転車をもって行っておきたいんじゃ。自分が逝ってしまったあとは、その自分の自転車だけが判断の対象になるわけだからな。」 彼が、「もうこれを永久保存版にしてもよい」と区切りをつけたのはパイロンでした。 「これは、もうエア・ルームに入れてよい。」
その孔子ですが、最期は弟子たちにかこまれて、彼らの手をとって、 「自分はよい一生を送ることが出来てたいへん幸福だ、しかもこうして友と弟子にかこまれ、手を握り何の不安もなくこの世を去ってゆくことが出来る。」 そういうような話を私は小林秀雄がどこかで対談していたのを読んでいて、うろおぼえでアレックスに話しました。孔子の死に方は悪くない、と。アレックスは感に堪えないようすで、 「う~~ん、じつにすばらしいな。ワシもこの世を去る時はそうありたいもんじゃ。」 実際、アレックスの死はそれに近いものであったようです。
回想、あと1話書こうと思います。
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