#鮨まるふく
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朝からがっつり掃除しまくった。
おかげでHPは午前中でなくなってしまった。
昼飯は「うどん」である。
目についたものを適当に載せた。
つゆも麺つゆ。
3分もかからずにできる。
うどんとそばなら、ぼくは圧倒的にそばの人だが、家人が圧倒的にうどんの人なので在庫はうどんとなる。
まあ消化にはいいらしいから許容する。
iPhoneのアプリをつらつらと見ていたら"Leica LUX"なるものを見つけた。
ライカと堂々と謳っているから、一体どこ製なのかと思ったら本家ライカのアプリだった。
こんなふうにExifなんかもいれられる。
課金すると色々できるみたいだが、そのまんまなら普通のカメラアプリと変わらない。
使うかね、これ。
晩飯は「鶏ちゃん」「小松菜の炒め物」「つぼニラ」など。
「鶏ちゃん」は「けいちゃん」と読む。
岐阜あたりの名物料理で、鶏肉とキャベツを味噌やにんにくなどで炒める。
まあこれがメシがすすむ。
しかし昨日からちょっと食い過ぎなのだ。
昼にサバを焼いて食って写真を撮り忘れたと書いたが、実は鯖寿司を作ろうとしてしくじったのである。
しくじったとはいえ鮨飯は1合分作ってしまっていて、これはなんとかしないといけない。
そんなわけでなんとかしてしまったのである。
今日は今日で冷凍うどんを解凍して作ったのだが、実に中途半端な量が残っていて一玉半くらいを食ったのだ。
そんなわけでメシがすすむお菜であるにも関わらず、白飯はいつもの1/3程度にした。
軽い拷問であった。
ごちそうさん。
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2024年6月27日木曜日
病院の待合室にて21
くちずさむ歌はなんだい?思い出すことはなんだい?(3)
私が道を盛大に間違えたおかげで(せいで、じゃないです)、ビジネスホテルに着いた頃にはもう午後四時過ぎになっていた。中がどうなっているか未だによくわからないエレベーターみたいな立駐に車を突っ込んでチェックインし、荷物を部屋に放り込んで街へと繰り出した。駅の近くにホテルを取ったと思っていたのが、間違えて歓楽街の近くにホテルを取っていたおかげで(せいで、じゃないです)、すぐに良さそうな飲み屋があった。準備中とある。「何時からですか!」「五時!」まだ五時にもなってなかった。何軒か見て回ったが、最初のところが良さそうだったので、歓楽街をぶらぶらしたり、ソープランドのキャッチのおじさまに「どうですか?」と聞かれたのに対して「お疲れ様です!」と返したり(私が)、全ての成人した徳島県民が一度は待ち合わせしたことがあるであろう「アクティ前」の植え込みの階段になっている部分に腰を下ろしたりして時間を潰した。五時になった。「いいですか!」「七時までな!(七時からは予約でいっぱいでよ)」ということで無事に居酒屋に入店した。ビールだー!やったー!私がアルコールを口にする��は去年の忘年会/送別会以来のことなのだ。Tくんも私と同じように盛り上がっていたが、この人お昼もラーメン屋で瓶ビール飲んでました。私は忘れていません。ともかく乾杯だ。
あなたの人生には後悔がありますか?私にはあります。ここのお店で私たちが注文したメニューは、鯖の棒鮨、阿波尾鶏の唐揚げ、馬刺し、そして多量の生ビールだった。ねえ…お料理少ないって。どれもめちゃくちゃおいしかったのに、話に夢中で全然追加注文しないでやんの!ビールばっか飲んで!もっとお料理注文しないと!本当に後悔!いや、私が悪いよ、Tくんは全然悪くない。私がどんどん食べてどんどん注文すべきだったよね。そうしないとTくんも食べづらいよね。徳島の美味しいものをこれでもかと持ってきてもらうべきだった。何のために徳島に来てもらったのか。あのお店また行こう。今度は予約していこう。それは別の誰かと行くか、一人で行くということになるような気がする。ごめんねTくん。Tくんがまた来るって言うんなら止めないけどさ。(お料理の写真も当然撮ってません)
私たちが夢中になって話していたこと、そんなのはもちろん昔話だった。今年で四十歳になる中学の同級生ふたりが居酒屋で夢中になって話すことなんて絶対に昔話だった。例えば。
「あのさ、僕ら主催ライブをやったよね?あれってさ…高校生になってたっけ?」
「いや、あれは中三の時だよ。あの時ね、なんかみんな煙草吸ってたでしょ?ガイアの前の道でもみんな普通に吸ってたから、近所の人なのか分からないけど、知らないおばさんに『あんたたち中学生でしょ?みんな煙草吸ってるけど、いいと思ってんの?』って言われて、『ああー、私高校行けない可能性出てきたなあ』ってぼんやり不安になったもん」
「あれ中三の時だったんだね。信じられないなあ。今でも夢だったんじゃないかと思うよ」
そう、私とT君で組んでいたバンドは主催ライブを行った事がある。あれは中三の…あれ?なんとなく春休みにやった記憶があるから、まだ中三になってないのかな?それとも中学卒業と高校入学の間の春休み?まあともかく、バンドメンバーである私とT君ともう一人のドラムを叩いてた子は、まだ全員十四歳か十五歳だった、と思う。会場はclub gaiaというクラブだった。JR沼津駅から徒歩六分(今調べました)、現在はもう閉店してしまったようだが、当時はもちろん営業中で、おそらく昼から夜にかけてはバンドのライブ���どをやっていて、深夜帯はパーティーを中心としたクラブ営業をやっていたのではないかと思う。今ですらこんなあやふやな想像しかできないが、当時はそんなことは何ひとつ知らず、ありきたりな憶測すら出来ていなかったはずなのに、よくやったもんである。そもそも我々はこのclub gaia を電話帳で発見した。我々は電話帳を本当によく活用していたバンドだった。練習スタジオ(いわゆるリハスタ)が実はもっと近所にあるのではないか、と思って電話帳で探し、「スタジオなにがし」みたいなのを見つけて「あった!」と思いチャリで行ってみると、「バレエ・スタジオだった!がっかり」ということはザラだった(電話してから行きなよ。電話帳でしょ)。レコ屋を探してみたり、ライブハウスを探してみたり、同級生の自宅の電話番号を探してみたり(本当の話である。当時の我々は電話帳から同級生の家電(いえでん)を探し当てるくらいの能力は備えてしまっていた。携帯なかったしね。いきなり自宅に直電し、「君!ドラムに興味ないか!あるなら我々とバンド活動をしようではないか!」と勧誘したりしていた。今考えると完全にどうかしている)電話帳は情報の宝庫だった。そして電話帳の「ライブハウス/クラブ」の欄に載っていたお店のひとつがclub gaiaだった、と思う。我々捜索隊はそれを電話帳に発見するやいなや、ただちに現場に急行した(電話しなよ。まあ今考えるとビビってたんだと思われる。あと電話する用件がない。建物を見たいだけだから)。gaiaは割と住宅街の中にあり、我々の持つ手がかりは住所しかないため(実際は電話番号も知っているけども)捜索は難航したのだが、日没前に見つけることができた。「おおー、あるんだ」と言ってその日は帰った。中学生は本当に暇である。本日の我々くらい時間が有り余っていた。
我々のバンドは「パンジー」と言って、もちろん花の名前からとったのであるが、「パンクでノイジー」というとても中学生的な意味もあった。パンジーは後に「ルーラ」という名前になったり、「べとべとさん」という名前になったり、「べとべとさんとぶるぶるちゃん」という名前になったりしたが、ここではパンジーという名義で統一する。パンジーはgaiaで主催ライブをする前に、国道一号線のとある交差点の北東にあったすみや(同じ交差点に「すみや」というグループのお店は三店舗あり、北東にあるのが楽器屋とスタジオ、南東がパソコン館、南西がCD屋だった。ちなみに北西はファミマ)の二階のスペースで開催されていた”Get in Live”(「入れライブ」て)で2回演奏した事があった。その二回のライブを経て、我々はライブハウスなどでも演奏したい!と思ったのだ。普通はブッキングライブに出よう、となりそうなもんなんだが、そういう仕組みは知らなかったのかな。あと沼津にはそういうライブハウスが多分なかった。三島にはゴリラハウス、富士にはアニマルハウスというライブハウスがあって(動物ばっかり。かわいい)、多分ブッキングライブなどもやっていたと思うが、我々は沼津市民だから沼津でライブしよう、レペゼン沼津!…と思ったのかな?忘れました。
中学生で主催ライブを行うなんてもの凄いことのような気がするが、細かいことは全然覚えていない。ここから先は(何ならここまでも)すべてうろ覚えですので、そこんとこよろしくお願いします。我々も含めて多分バンドは四つ出た。パンジーと飲波波波(ヤンパパパと読みます。金岡中のバンド)とあと二つのバンド(名前は失念)。もちろん昼の時間帯。私たちはなぜか最初に出たような気がする。演奏は多分めちゃくちゃ。コピーがメインだけど、オリジナルも演奏したような気がする。演奏が終わって誰かに「お疲れ様です」って言われて、「わあ、ミュージシャンみたい!」って嬉しかった記憶がある(そこ?)。クラブを借りるお金を捻出するために前売りチケットを売ったと思う。チケットはgaiaの人がデフォルトみたいなやつを作ってくれたのか、我々で作ったのか覚えていない。当日券で来る人もいた気がするが、いずれにせよライブの途中から適当になり、最終的にはフリーライブみたいになった。めちゃくちゃお客さん入ってた。そしてほとんどの人が煙草を吸っていた(みんな中坊。高坊もいたのかな?)。ライブはかなり盛り上がっていたと思う。gaia使用料の精算時、あんなに人が入っていたのに、お金が少し足りなかったので、「どうしよう…」となっていたら、対バンの誰かが「なに?足りないの?じゃあちょっと金作ってくるわ」と言って街へ消えていき、金を作って戻ってきた。お金って作れるんですね。全て終わって最後にみんなでフロアを掃除した。めっちゃ吸い殻落ちてた。あんなに大量の吸い殻を見たのは、四十年近く生きてきたがあの時だけである。
確かに今でもこんな主催ライブをしたのはあんまり信じられない。というか飲んでる時はこんなに細かく話していない。細かく話せば良かった。絶対盛り上がったのに。あとこの文章を書くに当たっても、あの時話しておけば、視点がもうひとつ増える事で正確性を増す事ができたのに。またしても後悔。後悔ばっかり増えている。酒の席の反省なんてしてはいけないのかもしれない。
つづく
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to taste:
味わう(あじわう)
味見する(あじみする)
味がする(あじがする)
食べる(たべる)
飲む(のむ)
経験する(けいけんする)
food vocabulary
1. 食べ物 たべもの tabe mono Food
2. 日本料理 にほんりょうり nihon ryouri Japanese Cooking / Japanese Dish / Japanese Food
3. 朝食 ちょうしょく chou shoku Breakfast
4. 朝御飯 あさごはん asa gohan Breakfast
5. 昼食 ちゅうしょく chuu shoku Lunch
6. 昼御飯 ひるごはん hiru gohan Lunch
7. 夕食 ゆうしょく yuu shoku Dinner
8. 晩御飯 ばんごはん ban gohan Dinner
9. 夜食 やしょく ya shoku Supper
10. おかず okazu Side Dish
11. お八つ おやつ oyatsu Snack / Refreshment
12. 弁当 べんとう bentou Box Lunch
13. 駅弁 えきべん ekiben Train Station Box Lunch
14. 御飯 ごはん gohan Meal / Cooked Rice
15. 刺身 さしみ sashimi Sliced Raw Fish
16. 寿司 / 鮨 / 鮓 すし sushi Sushi
17. 天婦羅 てんぷら tenpura Tempura / Deep-fried Fish and Vegetables
18. 牛丼 ぎゅうどん gyuu don Rice topped with Beef and Vegetables
19. 親子丼 おやこどん oyako don Rice topped with Boiled Chicken and Eggs
20. 天丼 てんどん ten don Rice topped with Deep-fried Prawns & Fishes
21. 鰻丼 うなぎどん unagi don Rice topped with Glaze-grilled Eel
22. 鰻 うなぎ unagi Eel
23. 豚カツ とんカツ tonkatsu Pork Cutlet
24. カレーライス kare- raisu Curry and Rice
25. 鋤焼き すきやき suki yaki Thin Slices of Beef cooked with various Vegetables in a Heavy Iron Pan
26. お好み焼き おこのみやき okonomi yaki Thin and Flat Pancake cooked on a Hot Plate with bits of Meat, Seafood and Chopped Cabbages
27. 鉄板焼き てっぱんやき teppan yaki Grilled Meat cooked on Iron Plate
28. 焼き鳥 やきとり yaki tori Grilled Chicken / Broiled Chicken
29. 蛸焼き たこやき tako yaki Octopus Dumpling
30. 焼きそば やきそば yaki soba Pan Fried Noodle
31. 餃子 ギョウザ gyouza Dumpling stuffed with Minced Pork and Vegetables
32. 茶碗蒸し ちゃわんむし chawan mushi Steamed Egg Custard in Tea Cup
33. しゃぶしゃぶ shabu shabu Japanese Style Hotpot
34. 味噌 みそ miso Miso / Bean Paste
35. 味噌汁 みそしる miso shiru Miso Soup
36. ラーメン ra-men Ramen
37. うどん udon Noodle made of Wheat Flour
38. 蕎麦 そば soba Buckwheat Noodle
39. 餅 もち mochi Sticky Rice Cake
40. 餡パン あんパン anpan Japanese Bun filled with Red Bean Paste
41. 牛肉 ぎゅうにく gyuuniku Beef
42. 豚肉 ぶたにく butaniku Pork
43. 鶏肉 とりにく toriniku Chicken Meat
44. 羊肉 ようにく youniku Mutton / Lamb
45. 魚 さかな sakana Fish
46. 海老 / 蝦 えび ebi Prawn / Shrimp
47. 蟹 かに kani Crab
48. 豆腐 とうふ toufu Tofu / Bean Curd
49. 卵 たまご tamago Egg
50. 食パン しょくパン shoku pan Plain Bread / White Bread
51. 玉葱 たまねぎ tamanegi Onion
52. 胡瓜 きゅうり kyuuri Cucumber
53. 醤油 しょうゆ shouyu Soy Sauce
54. 酢 す su Vinegar
55. 山葵 わさび wasabi Japanese Horseradish
56. 油 あぶら abura Oil
57. 砂糖 さとう satou Sugar
58. 塩 しお shio Salt
59. 胡椒 こしょう koshou Pepper
60. 調味料 ちょうみ
りょう choumi ryou Seasoning / Condiment / Flavoring / Spices
Japanese English
1. yasai Vegetables
2. daikon raddish
3. nasu egg plant
4. nin jin carrots
5. bareisho(jagaimo) potato
6. satsuma-imo sweet potato
7. negi onion
8. tama-negi onion bulb
9. nin-niku garlic
10. kyuuri cucumber
11. kyabetsu cabbage
12. kabocha pumpkin
13. tomato tomato
14. kinoko mushroom
15. toomorokoshi corn
16. sato-imo taro
17. mame beans
18. daizu soy beans
19. shooga ginger
20. takenoko bamboo shoot
21. niga-uri bitter guard
22. horensoo spinach
23. seri parsley
24. hakusai chinese cabbage
アスパラ asparagus
おくら okra
かぼちゃ pumpkin
きゅうり cucumber
ゴーヤ bitter gourd
ごぼう burdock
さつまいも sweet potato
しいたけ shiitake mushroom
じゃがいも potato
ズッキーニ zucchini
だいこん Japanese radish
たまねぎ onion
ちんげんさい bok choy
トマト tomato
なす eggplant
にんじん carrot
ネギ leek
にんにく garlic
ピーマン green pepper
ブロッコリー broccoli
まいたけ hen-of-the-wood
モロヘイヤ Egyptian spinach
ルッコラ arugula
れんこん lotus root
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【神奈川】箱根「強羅鮨」
【帰れマンデー】珍しいネタを使ったお寿司が豊富『強羅鮨』#宮脇花綸 #東晟良 #槙野智章 箱根裏ルートで絶品グルメ探しの旅 2024/9/30放送 神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300-693 #帰れマンデー #タカアンドトシ #オズワルド伊藤 詳しく見る↓
強羅駅「強羅鮨」 食べログでcheck! 新鮮な海の幸をふんだんに使用したこだわりの寿司が味わえるお店 特に、地元産の食材を積極的に使用しており、地域の味覚を堪能できるのも魅力の一つ。 長年の経験と確かな技術を持つ職人が、一つ一つ丁寧に握る寿司は、まさに芸術品。 シャリとの絶妙なバランス、ネタの鮮度、そして口の中でとろけるような食感は、他の寿司店では味わえない絶品。 住所 神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300-693 TEL 0460-83-9231 ホームページ 強羅鮨-箱根・強羅の寿司屋 箱根・小田原で採れた恵みを最高���場所で大切な人と。強羅鮨では、自然の恵みを余すところなく楽しんでいただきたいという想いから、コース料理を提供させていただいております。こだわりの創作料理と鮨をお楽しみください。… ホームページをcheck! 行く前に!見どころ&口コミをチェック 強羅鮨(…
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二篇 下 その一
さて、二人は、蒲原の宿場に着いたのだが、ここには、お大名様が着いたようで、あちこちの旅館の厨房はてんてこまいの大騒ぎである。
その様子を北八はじっと見ていたが、何かを思い付いたように、 「おい、弥次さん、ちょっとこの風呂敷包みを持っててくれ。」 と、手渡して、 「どうする。」 と、聞く弥次郎兵衛に、 「いや、ちょっとの間だけだ。」 と、言い残し、てんてこまいの旅館に上がり込んで、片隅のほうにちょこんと座った。 そこの旅館の女中たちが次々とお膳を運んで、大勢のお客に据えてゆく。 北八は、すました顔で 「おい、ここへも一膳。」 と、言うと、女中は、 「はいはい。」 と、据えて行く。
こんな混雑の中では誰も気がつかず、北八は思っきり食ってしまうと、隙を見て手ぬぐいをひろげ、椀に盛った飯を一膳すばやくあけて、手ぬぐいにひっ包むと、やがてこそこそと逃げ出し、向かいの軒下で待ちくたびれている弥次郎兵衛の所に戻ってきた。
弥次郎兵衛は北八に気がついて、 「何処に、行ってたんだ。」 と、問い掛けると、 「へへへ、聞いて驚け。俺は、飯を腹いっぱい食ってきた。」 と、北八は、腹を叩いて見せる。
弥次郎兵衛、 「粋な女のいる宿へ泊りたいものだが、何とかならないもんなかな。」 それに答えて、 「安い宿に泊まろうってのに、粋もひょうたんもあるものか。 はて、どこが宿かさっぱりわからねえ。」 と、あっちこっちの家をのぞき歩き、軒下に寝ている犬の足を踏んで、北八は、大声あげて食いつかれ、 「アイタタタ。」 「キャァンキャァン」 と、犬の声。
<駕の底>
そこへ、担ぎ売りの鮨屋の声がする。 「鯵のすゥし、鯖のすゥし。」 ちょうどいいと、北八が、そのすし屋に声をかける。 「おい、鮨屋さん、ここらに木賃宿、ほら、安い宿はないかね。」 問い掛けられたすし屋は、 「ああ、向こうの突っ端の家がそうだ。」 と、指差して言う。 「はい、お世話さま。」 と、北八らは、教えられた家の門口の前にいってみた。 「はい、御めんなせえ。」 と、弥次郎兵衛は、その家にずっと入りこんでみれば、畳の四、五畳も敷かれようかという部屋一間に、仏壇と破れかけている衣装箱が、一つきりという殺風景な部屋だ。 亭主は六十近い親仁で、囲炉裏の端で縄をなっている。 中央の囲炉裏の自在鍵に吊した鍋では、何かがぐつぐつ煮えている。 その周りに、客らしい巡礼者が三人いる。 どうやら、そのうち、寄り添って火にあたっている二人は、六十ばかりの親仁と、十七八の娘の親子のようにみえる。 娘は巡礼の時の衣装のままで、あかぎれだらけの足を伸ばして火にあたっている。 その時に、この家の女房らしい婆さんが、二人に気がついて、松の枝をへし折り、囲炉裏へくべながら、 「ほれ、こっちへ入らっしゃりませ。」 と、声を掛ける。 北八は、 「わしらを今夜泊めてくれませんか。」 それに答えて、ここの親仁が、 「ええ、どうぞ。ほれ、そこに水がある。足をすすいで上がってください。」 と、進められて、足を洗いながら北八、 「弥次さん見ろ。いい巡礼が泊まっている。」 と、十七八の巡礼の娘を、ちらちらと見ている。 弥次郎兵衛も、そうだというように肯くと、 「本当にこいつは、目ざとい奴だ。空腹が最大の調味料ってとこか。」 と、笑いながら足を洗って座敷へ上がる。
客の一人が、北八を見ながら言う。 「さあ、ここに来て火にあたりなさい。」 北八は、声をかけて来た客の方をちらっと見て、座敷に上がると、 「ほれ、弥次さん、もっとそっちへ寄ってくれ。」 と、例の娘のそばへ割り込んで座る。
主の婆は囲炉裏の鍋をおろして、 「さあ、粥ができた。みんな食べましょう。」 と、ふたを取って、かき回している。 弥次郎兵衛は、舌なめずりして、 「これは、温かでうまそうだ。」 と、いうと婆はじろりと弥次郎兵衛を見て、 「いいや、あんた方のじゃない。これは、この人たちのだよ。」 と、巡礼者にだけすすめる。
巡礼の爺は、申し分けなさそうに、 「いや、今日もらった米は、発育の悪い米ばかりだったし、石ころもいっぱいまじっていたから、きっと、これを食ったら腹が重たくなるんだろうけど。」 婆は、 「ほれ、あんたの米も三合ばかり、あったから、あんたも、そこへ分け��食べなさい。」 と、てんでに茶わんよそると、食べだした。
つづく。
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『赤だし』といえば関西はお鮨屋さんで
頼む汁物です。
これがまた美味しいのですよね。
赤だしと言ったら魚のアラやネタ残りのものなどが
良い味を出してくれる上に、出汁が極上になり
おかわりをいただきたいぐらい美味しい。
私の子供も大好きな赤だし。
赤だしといえば名古屋と有名です。
イチビキさんやマルサンさん、まるやさんなども
用途に応じて使い分けており
基本はカクキューさんの八丁味噌をしております。
ちゃんと無添加で奥行きがある深い味わい。
赤だし味噌は基本的にだし入りのものも多く、だしを取らずとも
使えるものがあります。もちろん合わせ味噌など調合味噌でもだし入りはあります。
関西でいただく赤だしは基本的には出汁はしっかりと入っているものも多いです。
名古屋でいく店舗かでいただいた赤味噌ベースの料理は出汁の味がとても薄く違いを感じました。
名古屋で昔ながらのうどん屋さんでも同様で、出汁の味わいが本当に薄いので
サラッとした味わい。
名古屋で好みだなという赤だしをいただいた場所は中村区でしたかね。
とても美味しい記憶があります。丁寧な味付けでした。
普段から味噌煮込みうどんなどは作りますのでしっかりと出汁も素材から出る出汁。
そして八丁味噌、三河味醂などこれらで作り上げるので
お店に行くとうーん物足りないぐらいでしたが。
物価高騰で原材料の質を下げざる終えなく、結果、この味なのかなという印象。
単価は高いので残念です。
チェーン店ではない個人店では、もともとだし入り赤みそで出汁の味はせずなので
それが通常の調理なのかもしれませんね。
けれど、魚を使う場合などは臭みを考えても、出汁は鰹だしを加えるほうが美味しくなりますね。
具材なしなら尚更、プラスで鰹出汁を使うとかなりお店の美味しい味わいに変わります。
あと、魚などをふんだんに具材を入れるならなお美味しい。じゅんさいなども美味しいです。
赤だしには山椒が美味しい。
三つ葉や茗荷や、木の芽など季節に応じた薬味がまた旬の美味しさを
引き立ててくれます。
お店のような赤だしは我が家でも大人気。
皆おかわりするぐらい美味しく、味噌の種類は我が家は何種類も何種類もありますので
それぞれ使い分けておりますよ。
料理って幅広い変化が科学。
料理研究家 指宿さゆり
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11月9日 九死に一生(その1) みなさん、ごぶさたしています。お元気ですか? まだ進行中ではありますが、心がだいぶ元気になってきたので、少し書いておきます。 実は、2023年8月24日10時、自宅事務所で仕事中、突然上半身に激痛が走りました。それは下腹部全体から始まり、胸部に波及していきました。 椅子から滑り落ち、床にはいつくばって耐え、武道前進でトイレに向かいました。そのときは、経験したことのない激痛を「前夜に食べた鮨にいたアニサキス」ではないかと疑っていたからです。 ところが吐こうとしても何も出ず、寝室にいきベッドに横たわりました。それから4時間、激痛に耐えていましたが、まったく収まる気配もない。そこで妻に頼んで救急車両で都立病院に搬送してもらいました。 即刻検査をしてもらうと、救急医から「このままICU(集中治療室)に入ってもらいます」と告げられました。24時間、絶対安静。家族も含めて完全に面会謝絶となります。今、会っておきたい人かせいたら、すぐ連絡してください。 病名は、急性大動脈解離。そのときは初めて聞く名称だと思いましたが、ICUに運んでくれる看護師さんから「びっくりしたでしょう。でも大丈夫。九死に一生を得たんですから、がんばりましょう」といわれた時、思い出しました。 30年ほど前、父の死に立ち会ったときに聞いた病名が大動脈解離。父の場合、大動脈の解離(亀裂)が心臓の近くまで達し、担当医からは「この亀裂が心臓に達したら助かりません。覚悟しておいてください」と言われました。 熊本に赴任していた兄に連絡し、飛んできてもらいました。しかし、彼の到着を待たずに翌日、父は「やってしまった」と口にした後、黄泉の国に旅立ちました。享年74歳。私は67歳で、父と同じ病気に罹ったことになります。 ICUの病室に入る前、長男、長女が会いにきてくれました。一人1分くらいで、話しができます。私は「ついにゆく みちとはかねてききしかど きのうけうとは おもはざりしも」と頭に浮か��だ辞世の句を伝えたのです。 結果的に、ICUには7日間、お世話になりました。1日目は、一睡もできませんでした。というのも、ドラマの知識ですが、冬山で遭難した人が「眠ったら死ぬぞ」と言われていた気がしたからです。 点滴と酸素マスクでスパゲッティ状態の私は、強い痛み止めを処方されていたので激痛は減っていたのですが、5分ごとに酸素マスクを外そうともがき、24時間時間、常に監視していてくれる看護師さんに直されました。 「廣川さん、酸素マスクを外してはいけません。外したら死にます。しっかり息をしてください。わかりますか。生きましょう。自分で生きようと思わなければ、このまま死んで仕舞います。わかりますか。もっと生きてください」 それから7日間、右にも左にも動けず、寝返りもできないまま、ひたすら絶対安静の時間のなかにいて、モルヒネで痛みは減少したものの、数分に一回、幻覚を見て死にたくなり、看護師さんが飛んできてくれる日々が続きました。 ICUで、絶対安静の身体も苦しかったけれど、もっと苦しかったのが、どこにも外界の情報がないことでした。面会謝絶は、情報謝絶であり、心から「このまま死にたい」と思えるほど「圧倒的に不自由な状態」だったのです。 ものごころがついたときから、いつも自由な時間につつまれていた自分にとって、初めて、自分の意思ではどうにもならない場所に入り、「出してくれ。自由にしてくれ」と叫びたくなるような閉塞感に襲われていたのです。 そんな私に、ICUの看護師さんは、延べ10名ほどが交代で、つきっきりで励ましてくれました。私はイビキが強く、いわゆる無呼吸症候群なのですが、呼吸が止まると看護師さんが飛んできてくれます。 「廣川さん、わかりますか。息をしなければ死んでしまいます。生きましょう。はい、息を吸って、吐いて。そうです。その調子。続けてください。息を吸って、吐いて。一緒に、血中酸素濃度を上げましょう」 ICUの7日間、一滴の酒も飲まず、食事も摂らず、ひたすら点滴の力で命をつなぎました。7日後、絶対安静と面会謝絶は続いたものの、一般病棟に。そのときは、1カ月以上、ベットで安静にする生活が続くとは思っていませんでした。 ICUから一般病棟に移れたとき、別の看護師さんでしたが「よかったですね。よくがんばりました。廣川さんは、まさに九死に一生を得ましたね」と言ってくれたのです。ああ、とにかく助かったらしい…と思っていました。 その後、都立病院での40日間の入院から退院し、大動脈解離の再発防止のための動脈瘤切除の手術をするために私立病院にも通うようになったのですが、手術してくれる先生も、同じ言葉を使われました。 先生は、都立病院から申し送りされたCT資料を見て「廣川さんの場合、脚から腹、そして胸部まで大動脈の解離(亀裂)がみられます。ところが、心臓の手前で亀裂が止まりました」 「え? どうして止まったのでしょう」 「理由は、わかりません。こんな激しい亀裂が全身をめぐったのに心臓までは達していません。達していたら、緊急手術をしても助かったかは、わかりません。九死に一生を得たのですから、再発防止も、がんばりましょう」 私は、ICUに入って「こんなに苦しいなら、不自由なら、死んでもいいから自由にさせてくれ」と思い続けた自分を、後悔していました。みんなが、生かしてくれた生命なんだと、ようやく理解していたのです。 11月10日 九死に一生(その2) 2023年8月24日16時ころから、私は7日間、都立病院のICUに隔離され、絶対安静と面会謝絶の状態に入っていました。 仕事も途中で放り出し、生れて初めて救急車で救急病院に搬送されたのですが、アニサキスによる腹痛だと思っていたので「急性大動脈隔離」だったと知り、本当にびっくりしました。 まったく、そのような人生が待っているとは考えてもいなかったからです。亡き母を二度、救急車で搬送したときは、息子として付き添っている立場。そのときは、自分が搬送される未来があるとはつゆ、知りません。 それまでは、テレビのニュースや映画のワンシーンでしか見たことのないICUに、自分が運ばれていくなんてことも、考えたことはなかったのです。とうに還暦を過ぎていたので、十分、ありうることだったのですが。 まず、おどろいたのが、右へも左へも寝返りが打てないコト。両手には点滴の針が刺さり、クチと鼻は透明な酸素マスクで固められています。水を飲む場合だけ、外されるマスクは、本当に「邪魔くさい」ものでした。 ICUのベッドに横たわったときは看護師さんに「ここが有名なICUなんですね」などと余裕で減らず口をたたいていましたが、次第に「これは大変なことになった」と自覚していきました。 初日は(その1)で記したように、このまま眠ったら死んでしまうのではないかという不安と緊張から、興奮して一睡もできませんでした。そして、たぶん何百回、何千回と「夢」を見たと思います。 ロシアの文豪ドストエフスキーのデビュー作「貧しい人々」か、獄中の出来事を描いた「死の家の記録」か、あるいはそのどちらかの「あとがき」で読んだのかは定かではありませんが、そこにこんなことが書いてありました。 ドストエフスキーは、学生のときに書いた「貧しい人々」がベストセラーとなり文壇デビューしたわけですが、その後、「無神論者」として、ニヒリズムに侵されて、時の政権への反対運動に身を投じます。 ところが、逮捕され、獄中で様々な犯罪者たちと出会い、そのあげく非民主的な裁判で「死刑」を宣告されました。そして、縛り首になる日がきました。 神父に最後の説教を受け、目隠しをされて13階段を上り、首に縄を回され、あとは床が抜けるだけという状態。その13階段をゆっくりと歩いていく数分間に、ドストエフスキーは、それまでの自分の人生についての夢をみたのです。 その数分間は、無限に近い「夢の時間」だったそうです。 そのエピソードを知ってから、私はこう確信していました。死ぬときは、自分も人生をふり返り、たくさんの���をみるに違いない……しかし、ICUで絶対安静にしていた私は、人生を夢でふり返ることはありませんでした。 代わりに、今まで見た記憶がない、キラキラしてサイケデリック調の世界に行き、そこで何かを作っているシーンや、見たこともない人にプレゼンをしているシーンや、凄い物語を思い付いてノートに書いているシーンをみました。 ところが、そのサイケ調ではあるものの、やたらリアルで細かい字まで見えている「成果物」を、どこにも保存することができません。ノートをしまう引き出しも、パソコンも、伝えるスマホもありません。 あ、どうしよう。せっかく思いついたのに、保存がきかない。きっと目を覚ましたら、何を創り出したのか忘れているのだろうな、という意識が沸き上がり、そこで目を開けると、ICUの天井があるのです。 天井には緊急手術用の大きな照明が1つあり、それは幸いなことに私のいた天井で光ることはありませんでしたが、何だか脳に直接働きかけて未来の夢を見させている新しい装置のように感じていました。 ああ、そうだ。私は、きっと何も残せないまま死んでいくに違いない。死ぬことは、成果を保存できずに、ただ、消えていくことなのか。死にたくない。もっと何かを作り、それを保存して、みんなに伝えたい。 そう考えたとき、いつも強い不安に襲われました。このまま、プツンと世界が終わってしまう。何も遺すことなく、自分が生み出した世界を誰に伝えられることもなく、ただ終わってしまう。それが、今、目の前にある現実なんだ。 そして、私は手元にあるナースコールを押すか、あるいは狂ったように酸素マスクを外してしまうか、衝動的に何らかのアクションをとっていました。ICUの看護師さんは、いつも、何百、何千回と、いつも飛んできてくれたのです。 ICUで隔離されてから二日目か三日目、カーテンを吊るしている金具のところに異変があるのに気づきました。私は、看護師さんに聞きました。「あそこにある文字は何ですか」 看護師さんは「ああ、文字が見えますか。それは幻覚です」と言います。「え? 看護師さんには見えないのですか」「はい。私には見えません」「そんな…では、カーテンの下にある、ひらひらしているその文字は、ありますよね」 「ああ、カーテンの影が文字に見えているのですね。それも幻覚です。気になりますか。」「はい」「興奮すると身体にさわりますから、専門のスタッフを呼んでおきます」「では、本当に幻覚なんですね」 それから小一時間もたたないうちに、白衣を着た、目を見るだけで美しさが匂い立つ精神科医がやってきて、私の話し相手になってくれました。彼女は、私が何をしている人か尋ね、根気よく、幻覚について聞いてくれたのです。 11月11日 九死に一生(その3) 2023年8月24日に急性大動脈解離でICUに運ばれた私は、24時間絶対安静を強いられる中、激痛を緩和してくれるモルヒネのせいで、さまざまな幻覚を見るようになりました。 私が見ている幻覚について、精神科の女医さんが解説してくれました。「夢から覚めても、幻覚は実際にみえるものです。もちろん廣川さんにしかみえていませんが、薬がぬけていけば、自然に見えなくなるものです」 キラキラした瞳で「どんなふうに見えているか、教えて」と女医さん��小首をかしげる。彼女との距離は、規則なのか、2メートルほどあった。それ以上近づくと、私の心の範疇に入り込んでしまうのかもしれません。 私は、「カーテンの上、金具のあるはずのところには、筆で漢字4文字の言葉が書いてあります。崩してあるから正確には読めませんが、なんだか京都の禅寺で写生をした般若心経ではないか。そんな気がしています」と応えました。 白衣の彼女は、す、と半歩だけ前に来て、私の目を覗き込んだ。私は、夜に見ていた夢の話をしたかったが、どんな内容だったか、すでに忘却していた。それで、夜中に感じていたことを話しました。 いままで、いつも情報につつまれていました。朝起きればBGMを流し、スマホのメールをチェックする。新聞を読み、気になる記事があればテレビをつけてNHKのデジタルかBS1でニュースを見ていました。 本も雑誌もSNSも、見たい時に開くことができた。それが当たり前の日常として、ずっと続いていたんです。ところが、ICUに入ってから、すべての情報が遮断されています。今、何時なのかもわからない。 朝食も昼食も夕食もなく、飲み会もない。ただ、絶対安静の姿勢でいる。こうして先生と話すときは鼻から酸素を吸っているけど、夜は酸素マスクでがんじがらめになっている。 ICUに入った当初は、酸素マスクや点滴や、じっとしていること自体が不自由で、逃げ出したいと感じていました。でも、今は違う。私が耐えられないのは、情報の遮断です。これまで、したことも考えたこともない状態でした。 不自由で息が詰まるのではなく、何もない真っ暗闇のなかにいる感覚。情報がない世界、それが死ぬということなんだと意識すると、ぞっとしました。今、まさに暗闇のどん底にいる自分が意識されてきたのです。 もう、ここから出たい。情報に触れたい。行きたいところに行きたい。人に会いたい。想い出の中、夢の中ではなく、街を歩き、空を見上げ、自由に歩き回りたい。そして好きな人たちの声を聴き、話しもしたい。 煎じ詰めると、私は「もっと生きたい」と、「まだ死にたくない」と、女医さんに訴えていたのです。逆に言えば、情報から遮断されていることそのものが「黄泉の国の入口」になると気づいていたことになります。 女医さんが、「お仕事は?」と聞きました。これまで「ビジネス作家」と応じていたのですが、黄泉の国の入口でうろうろしている私は、「しがない物書きです」と応えました。一度、言ってみたかったのです。 「凄い。どんなものを書かれるのですか」私は、迷うことなく「パズル小説」と応えました。「あら、面白い。私、パズル大好き」私は、パズル小説について、かんたんに説明しました。 ところが、ICUでは絶対安静なので、しばらく、といってもたぶん1分もたたないうちに、ピコピコ音がして看護師さんが飛んできました。「血圧、上がってます」女医さんが謝り、「また来ます」と小さく手を振りました。 次に、彼女が姿を見せるのはICUを出て一般病棟のベッドに移ってからのこと。私は、まだ絶対安静のままでしたが、ひとまず生命の���機は去り、意識も明確になり、幻覚は収まっていました。 それから3回、彼女は話に来てくれました。私は、主に自分の生い立ちについてしゃべりました。彼女に、自分の存在について、原点となっている経験について、聞いてほしかったのでしょう。 「生きていて、よかった」と言われるたびに、私は嗚咽しました。言葉にできない何かを伝えたくて、それでもまったく伝わらないもどかしさもあり、涙があふれてきたのです。 彼女がいたのは1回10分程度と思うのですが、去ったあと、私は幻想にひたりました。マスクで顔はわかりませんでしたが、たとえば村上春樹のノルウェイの森にでてくる哀しい少女の雰囲気がありました。 生死の瀬戸際にありながら恋愛感情に励まされるのは一つの発見でもあり慰めでした。二度と戻りたくないICUを卒業(と私は言ってました)した後、私は恋愛経験をなぞることで、絶対安静を維持することができたのです。 そして、退院したらパズル小説「愛夢永遠」を書き始めようと強く願っていました。愛夢永遠というのは、20年前に書いた自伝小説で、メルマガで配信していました。ところが収集がつかなくなり、原稿用紙で500枚ほど書いて中断。 それを、今度はパズル小説にしてみようと思い立ったのです。我ながら、ほんとうに懲りないですね。 11月12日 九死に一生(その4) 人は誰でも、「死」というものがあることを知っていますし、いずれ自分も「死」の瞬間を迎えることは、直観的にわかっています。ただ、それが「どんな瞬間」なのかは、想像できません。 私も、2023年8月24日にICUに運ばれ、身動きができない状態に置かれるまで、数々の「人の死」に向き合ってきたにもかかわらず、死ぬということの本質がわかっていませんでした。 死について考えてしまうと、結局「死んで見るまではわからない」し、死んでしまっては「もう何もわからない」から。結局、自分は一生、生きている間は、「死」について理解することはないだろうと、思っていました。 しかし、ICUで私は、明らかに「死」の姿に触れていました。「あ、このまま終わるのかもしれない」と思える瞬間が、何度か、あったからです。すぐ目の前に「終焉」がありました。 あ、ここに陥ると、死ぬな、と思ったのです。それは、とても苦しい時間でした。息をしたくても身体が動かず、脳内に快楽物質も出ず、ひたすら苦しい。これが続くなら、もう耐えられない。 天国も地獄もなく、ただ「終わってほしい」という感覚。もう、止めたいという感覚。それが「死」の正体なのだと思いました。生きるのを止めたい、そう感じたら、その向こうに「死」があるとわかるのです。 他の人は、もともと、どう「死」を迎えたのか、私は知ることはできません。しかし、私にとっての「死」は、単純に「もう生きている状態を止めたい」と感じたときに、そこに姿を現した気がしています。 私は、1日、90分しか眠れません。もう20年くらい、そんな生活をしています。もちろん、90分では休息が足りませんので、起きてトイレに行き、水を飲んだら、再びベッドに入ります。そこでまた、90分間ほど眠ります。 それを3~4回、くりかえすと、目をつむっても眠れなくなります。あ、今日はもう眠れない、と思った���、それが起床の時、そんな生活を続けてきました。 ところが、ICUでは、90分も眠ることができません。24時間、食事をすることも、トイレに行くことも(膀胱から直接排尿されるので尿瓶も必要ありません)原稿を書くこともありません。 ひたすら、じっとしています。ですから、いつも起きているし、いつも眠っている状態。そこには考えている自分しかいませんでした。しかも、考えたことを「記録に残す」こともできません。 このまま、ずっとICUに居続けるのかもしれないと考えた時、「死」というものが身近にいました。死は、生きることができなくなることだったんです。当たり前のようですが、2023年8月24日まで、そのことを私は知りませんでした。 そして、「生きることができないかもしれない」から「生きることを止めたい」と思ったとき、私には「生きたい」という力が、ぜんぜん沸いてこなかったのです。それまでは、ここで死んでなるものかという思いがあった。 しかし、ICUで3日目あたりに、「もういいや。生きるのをやめてもいい」という気になっていたのです。そんなときに、苦痛が襲い、息ができなくなり、もがいていると、自然に「死にたい」と思っていたのです。 そして、それを救ってくれたのが「廣川さん、生きましょう。もっと生きてください。ここであきらめたら、死んでしまうんです」と、叫んでくれた若い看護師さんでした。 私は、「ああ、ここで終わるのか」という思い、「終わりにしたい」という思いでいた自分に、怒っていました。外から見たら、きっと自分は「死んでいく」ように見えていたのです。 自分もまた、「終わりでいい」と思い、「終わりが来た」と思っていました。そして、ドストエフスキーが語ったように「一生の夢」を見ることなく、プツンと生命の糸が切れて、終わるのだと感じていました。 それは、日々、眠るときと同じかもしれません。自分は、毎日、疲れ果てて眠るときに、「死んでいた」のではなかったか。だから、90分後に目を覚ました時、自然に「ほっ」として、起きていたのではなかったか。 起きれなくなる、それが「死」の正体。 そんなことを考えながら、私は「廣川さん、ちゃんと呼吸してください。深く吸って、吐いて。吸って、吐いて」「どうしました」「血中酸素濃度低下」「ほんとだ」「呼吸していません」「廣川さん、もっと生きましょう」 男性と女性の看護師さんが、それからつきっきりで、私の枕元で「吸って」「吐いて」と繰り返してくれました。たぶん、1時間くらい私は合いの手に合わせて、酸素マスクから出てくる酸素を吸い続けました。 その呼吸が、あまりにも強く、深く、長時間続いたせいで、私の肺はあちこちで破れ、血液がたまり、猛烈に痛み始めました。翌朝、検査をすると、肺の20%ほど「水」がたまっていると診断されました。 この「水」が引くまで、1カ月かかったのです。しかし、そこで何かを乗り越えられたおかげで、何とか生き延びることができたのだと、今はわかっています。 ICUと、医師と看護師さんちたが、私を救ってくれたのです。 11月12日 九死に一生(その5) 急性大動脈解離でICUに入り、寝返り厳禁の絶対安静、家族もふくめての面会謝絶で外界から閉じた時空間で、私は7日間、暮らしました。 ICUには、特別の時間が流れています。私は、身体の自由を奪われ、生死を何かに託していました。生きていることが当たり前だった場所から、いつ、生きるのを止めてもいい場所に移っていたのです。 それで、病状が落ち着いているときには、何もすることがないので、しかも未来について考える気力がわいてこないので、どうしても過去のことに思いを馳せることになります。 とくに「死」と向き合っていた時代を想い出そうとしていました。せっかく「死」が向こうからやってきているのに、それについて何も考えないというのも、間が抜けています。 私は、生れてから順番に、いつ、死ぬことを意識したのか、思い出していました。おそらく、最初に「死」について考えたのは、小学校1年か2年生のときでした。 私は、鉄棒ができなかったので、一人で逆上がりの練習をしていました。何度目か、冷たい鉄棒を握る手がかじかんできて、身体が空中にあるときに、手が離れました。落ちてしまった私は、地面に後頭部をぶつけてしまったのです。 私は、すり足で家に帰りました。後頭部に「瘤」はありません。そのことが気になってしまい、食事ものどを通りません。夜、床についても、目が冴えてしまって眠れず、やがてしくしくと泣き始めました。 テレビ番組で見たのか、誰かに教わったのか。私は「後頭部を打つと内出血で死ぬことがある」という知識を持っていました。幼い子どもは、このまま死んでしまうことを確信していたのです。 母が、眠らない私に気づき、声をかけました。「どうしたの? 何かあったの?」私は鉄棒から落ちたことを報告し、「死んでしまうかもしれない。怖いよう」と訴えました。 死ぬことが、どのようなことなのか、まだ考えたこともなかったのですが、直観的に「死んでしまう」と感じ、不安で気が狂いそうになりました。母は、私を抱きしめ、大きな温かい手で後頭部をなでてくれました。 「痛いの痛いの、飛んでいけ」 翌朝、目覚めたとき、眠った場所に戻れたことが、とても幸せなことだと理解しました。 あれは、小学4年か5年生の夏。乳首が硬く、ふくらんでいることに気づきました。これもテレビからの知識だと思いますが、私は自分が乳がんになったと思い、愕然としました。 何日も悩み、百科事典で「がん」を調べ、図書館に行き、近くの書店で大人が読むがんの本を読みました。わからない漢字がたくさんあるものの、だいたいのことは、わかりました。 1週間も経つと、乳首のしこりは、もっと大きくなっていました。泣き虫だった私は、一人、ふさいでいました。母は「風邪」だと思い、小学校を休みにして、かかりつけ医の片田先生のところに連れて行きました。 片田先生は私に「どうしました」と聞くので、私はシャツをたくしあげて胸を突き出し、「乳がんになりました」と伝えました。 先生は「ほう、乳がんですか。どれどれ」と胸に触れ、乳首をつまんで「大丈夫、これは乳がんではないから、心配はいらないよ」とにっこり。1週間ほどふさぎ込み、死んでしまうのかと考えていた私は、そこで救われたのです。 中学1年か2年の初夏。私は、最寄り駅である東上線の上板橋駅から小川町駅まで行き、そこから三峰口の峠に向かう山道に入りました。とくに登山用の服装はしていません。 小学生の頃、家族でピクニックに来たことを想い出し、一人で歩いてみたくなったのです。そして数時間かけて峠の頂まできて、景色に見とれてしまった。気が付くと、夕暮れ時になっていました。 もちろん、私は夜の山がどんなものか知りません。経験もありません。ただ、あわてて下山しなければいけないことは、わかっていました。小学生のときに一度歩いた山道とはいえ、懐中���灯もありません。 足元は、どんどん暗くなっていきました。幸い、月明りがあったので、まったくの暗闇にはなりませんが、場所によっては足元どころか、数メートル先に黒いカーテンが引かれたようになっています。 灯りのある山小屋も、売店も、電灯のある電信柱もない山道を、私は、ゆっくり、足場を確認しながら下っていきました。 私は、「死」を意識していました。今度は、助けてくれる母も、かかりつけのお医者さんもいません。携帯電話もなく、山道に自販機はありません。ただ、知識が少しありました。 整備されているハイキング用の山道から外れてはいけないこと。そして、下山していくと、どこかで舗装されている車道の近くに出る。その後、しばらく車道と並行して山道が続く。そんな場所がありました。 2~3時間ほど下山すると、車道を走る車のライトが空の空気を照らして動いていくのが見えました。まだ少し距離はありましたが、車道には街灯があったのです。私はハイキング道を逸れ、山肌を上り始めました。 その後は、残念ながら覚えていないのですが、長ズボンはズタズタになり、両手は傷だらけになっているものの、私は車道を歩いていました。車とすれ違った記憶はありませんが、やがて東上線の駅に着くことは確信していました。 駅舎は無人で、もう終電はありませんでしたが、そこは見知った場所。そこで夜が明けるのを待ち、始発で帰りました。 その頃、私は父が所有する3畳ひと間、トイレ共用、炊事施設はないアパートで一人ぐらしをしていましたから、三度目の「死」を考える時間を持ったことは、父も母も気づきませんでした。 12月19日 起死回生(その1) 2023年8月24日に、突然救急搬送され、ICUで7日間、生死の際まで行って幻覚をみていた私ですが、思い起こせば、その日は突然にやってきたわけではありません。半年前から血圧が高くなってサプリメントを飲んでいました。 この年の夏は地球沸騰といわれる極端気象で、東京も真夏日が続いていました。おまけに、仕事をしている事務所のエアコンが故障し、熱風だけでしのいでいました。半年前から右足がふくれ。足の爪の一部は壊死。 そこにコンサル業界の本の執筆が重なり、30年前のような忙しさ。どこまで肉体を酷使できるか、自分でも先が見えないまま、「これまでやってきたのだから、何とかできるだろう」と高をくくっていたのです。 正直、なめていました。こんなことでつぶれるわけにはいかないと、根拠のない自信をもって、突き進んでいたのです。その結果が、20代から走り続けた結果が、突然の急性大動脈解離だったのです。 ICUで、天井しか見られない時間を過ごしながら「ひょっとしたら、このまま死んでしまうのか」と気づいたのですが、すでに手遅れ。私は、自らのチカラで、この危機を乗り切ることしかできませんでした。 しかも、おそらく、たまたま、生き延びたにすぎません。帝京大学医学部の教授に言われました。「ほら、心臓の手前から両足の部位まで、大動脈が避けているでしょう。これが、心臓の手前で、とまっている」と。 私は「なぜ、心臓の手前で?」と聞くと教授は「理由は、わかりません。心臓のところも、裂けていても不思議はなかった。だから、九死に一生を得たということになります」と。本当に、危なかった。 そして、ICUから出て1ヶ月ほど安静にして回復を待ち、退院。その後、見つかった身体の「懸念材料」を、具体的なは3ヶ所で発見された腫瘍の検査と、それが終わってから「カテーテル」を通して血管の状態を調べました。 血管が丈夫でなければ、退院しても、いつかまた大動脈解離になるか、知れたものではありません。もちろん、塩分を控え、高血圧を治し、肥満状態を変換するなどの体質改善を勧めながら、最後の難関に向かいました。 それは、左足の付け根にあった「大動脈瘤」の処置です。大きさが3.5センチもあり、いつ破裂してもおかしくない状態。ここを適切に処置しておかなければ、社会復帰はありえません。 私は、帝京大学医学部の医師のみなさんに命運を託し、開腹手術にチャレンジすることにしました。大変難しい場所にできた大動脈瘤なので「決して簡単な手術ではなく、後遺症のリスクも1割と、この手のものにしては高い」とのこと。 それでも、私の答えは決まっていました。せっかく九死に一生を得ることができたのだから、起死回生ができる身体にするためにも、医師の腕にすがることにしようと、それこそ腹をくくっていたのです。 12月19日 起死回生(その2) 療養中に、考えました。人間は、あっけなく死んでいくものなんだとわかった上で、それでも生きている間に何をしたいか、日々意識していこうと思っていました。 今しか生きられない宿命に生まれた自分。ただ、その今も、いずれ終わりが来ます。68年間、終わるということを経験せずに生きてきた自分は、何と幸運だったことか。 何の準備も、心構えもないまま「まだ先のこと」と思っているうちに、激痛に見舞われ、病院に搬送されてICUに入っていたのです。 寝返りも禁止された7日間。15分くらい眠っては目を覚まし、口を覆ったマスクを外そうとする。それに気づいた看護師が飛んできて、私を止めた。 「外したら、死にますよ」「生きましょう、頑張って」そのとき、私は悟りました。みんな、こうして死んでいくんだな、と。自ら、終わりにしてしまうのだな、と。 それくらい、生きるという選択肢は、肉体的に苦しかった。こんな苦しいことが続くなら、もう終わりにしたいと思っていたんです。 1月7日 起死回生(その3) 新年、あけましておめでとうございます。パラダイムシフトが起きているなかで迎えた元旦、書初め、2024年初の通院と、初詣は除いて、だいたいのイベントを終えて、ようやく一息ついています。 今年も、厳しい時代は続くと思いますが、みなさん、身体に注意して、健康第一でお過ごしください。無理を重ねると、いつしか、私のように起死回生を狙う道しかなくなってしまいます。 さて、本文は、起死回生の3回目になります。前回は、途中で用事が入って、中断したままになっていました。しかし、年が変わったのですから、新たな気持ちで、起死回生について期しておきたいと思っています。 2023年8月24日に���急入院してから、2024年1月7日現在、私はお酒を一滴も口にしていません。二十歳を迎えてから、私はお酒を呑まない休肝日は、累積しても30日に満たないと思います。 というのも、眠る前に、晩酌をするか、もの思いにふけりながらいっぱいやるか、いずれにしろ、今日が人生最期の日かもしれないと感じ、生きている幸せをかみしめなければ、寝床に入れなかったからです。 とくに、ここ10年は、一回に90分以上、睡眠することができなくなっていました。そう、今、急性大動脈解離での入院は必然だったと考えているのは、そんな自分の身体の構造が、それこそ身をもって感じていたからです。 ということで、今回は、ここまで。薬を飲み、軽いリハビリをして、無理ない程度に仕事をする時間です。 1月11日 Facebookページ 二十歳のとき、南池袋にあるスナック・サンフラワーに、足しげく通っていました。夜の8時ごろから翌朝6時まで開いている店でした。 お客さんがいなければ、水割り1杯300円で飲ましてくれました。ママが、貧乏学生を応援してくれたんです。 私はカウンターの入口近くに陣取り、お客さんが来るまで、ママと話したりして休んでいました。 あるとき、カウンターの一番奥に、地味な服装をした女性が座っていました。たぶん夜9時ころ。カウンターには、私と彼女しかいませんが、端と端で飲んでいたことになります。 ママが、私に小声で教えてくれました。 「あのこ、あきちゃん。ヒット前に、たまに来てくれた。有名になっても、ちっとも変わらない。ヒロちゃんも見習いなさい」 私が、サンフラワーに通っていたのは半年くらいですが、ずいぶん勉強になりました。ご冥福をお祈りします。
死んだ(はずの)人からのメッセージ | えちごトキめき鉄道社長(いすみ鉄道前社長) 鳥塚亮の地域を元気にするブログ
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Sushi Hibari: 2023 Year-end sushi in Gifu
Thanks for all "MY" hard work this year. I was mistaken about one day before the end of the year holiday, and already made reservations for the Shinkansen and sushi for lunch, so I took an early New Year's break with one day paid. We had lunch at Sushi Hibari in front of Gifu Station.
今年もお疲れ様でした。 会社のお休みが12/28からだと思っていたら、実���12/29からだったので、1日有給を使って早めにお正月休みに入ります。
年末のランチは岐阜駅前の「鮨ひばり」にて。
なんだかんだ年末のお寿司はこちらになりがちなのは、年末はすでに「鮨とも成」さんがお休みに入っているからです。
・2021年GWの訪問はこちら ・2022年末の訪問はこちら
毎回思うんだけど、このお寿司屋さんが入っている商業ビル、閑散としすぎてると思うわw
お昼ではございますが、お休みに入りましたので、もちろんおビールいただきます。
(酒屋さんへの注文を間違えたそうで、この日はまさかの生ビールなし...まあ瓶ビールでもいいけどね...どっちにしろプレモルだし。)
オレンジ色の内子のねっとり感が最高。
お寿司はヤリイカからスタート!
しっとりムチムチ、塩がきいていてさっぱりしていて美味しい。 ここのお寿司はあったかいシャリで、かなり小ぶりな握り。
お次は鰤。
血合いの部分がなくて、鰤っぽくない見た目。
お次は鰹。
こちらも血合いの部分がなくて、全然鰹っぽくないみため。 口に入れると、鰹の風味はしっかりしながらも、細かな脂のノリでねっとりしていて、今日イチだったなあ〜。
お次は縞鯵。
あんまり縞鯵に見えないね。
お次は鯵。
美味しい〜!背の青い魚らしい旨味で美味しい〜!
ホタテ。
今日のホタテは北海道 噴火湾のものとのこと。 包丁が入ってトロトロの口当たり、甘みが広がって最高。
甘海老。
右の甘海老のプリっとした形がセクシーな下半身みたいに見えるw
セクシー!!!
小肌。
そこまで酸味の強くない、優しい締め具合の小肌。
まぐろちゃん。赤身のヅケ。
ここのお寿司、いい感じにシャリに空気を含んでいるからか、お皿の上に乗せた瞬間にシュンって沈むのよね。いかにふんわりしているかがわかるなあ...
そして中トロちゃん。
中トロちゃんはかわいいなあ。
車海老。
この車海老、ぜんぜんパサパサしてなくて、すごくむっちりしっとりしてて、殻由来の香ばしさもあって美味しかった〜!
締めは穴子。
かわいい���!
とてもかわいい。
見返してみたら、2021年の初訪問の時は塩かタレか選べたんだけど、今回はみんなタレになってたなあ。塩食べたかったなあ。
最後にまぐろ巻き。
大将が「若いのに巻かせていただいてもよいですか?」とのことで、若手の方が巻いてくれました。緊張するよね〜。修行頑張って欲しい。
まぐろ巻きは若手が巻いてくれてももちろんうまいです。
玉子焼→カステラでフィニッシュ。
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2023/09/17
一日だけ京都にいた。京都国立近代美術館の展示を見たいと思ったからだった、あまり深いことは考えずに、なんとなくでも興味が湧いたら、それを単なる錯覚だとか抑えずに、とりあえず軽い気持ちで見に行ってみようというモードにあり、それを実行したかった。職場にコロナに感染した人がいて、自分のデスクに近い人だし備品を共用してた人だったので、最近の体調不良からして自分はグレーだと思われるし、今までにあまりない感じの深刻な頭痛がきていつもの薬が効かないということでいよいよこれは、と暗い気分になって仕事を早退した日の夜、22時くらいの夜行バスで向かった。どうもお腹の調子が悪い。でもバスに乗ったら平時の感覚が戻ってきた、たっぷりある移動中に山本精一の本を読もうと思って、財布とかと一緒にリュックに入れた。途中の鮎沢SAは涼しくていい匂いがした、自分の知っている少し昔の夏休みの匂いに近く、下界とは違ってさわやかだった。人の気配がなく、私にはまだ逃げ場があると思える、曇っていて星は見えないけど、この場所は多分自分の味方であり続けてくれるはずだ。途中で酔わない程度に本を読む、やっぱりこの人は頭がおかしい。お腹の調子が悪いしこんな寝不足じゃ、小学生の頃なら吐いていただろう、あんまり眠れないまま5時半に京都駅前に着き、時間的にまだ真っ暗だったら嫌だなと思っていたが思いの外明るくなっていて安心した。国道1号を北へすすみ、日がのぼる頃の鴨川を見たいということでどんどん歩いていった、くるりの「ロックンロール」を聴きながら歩くと歩くスピードと合ってて、人も全然いないし人の匂いも全然なく、空気はすずしく、なんとなく自由って感じがあり気分が良かった。高瀬川を渡り、左にカーブするコンクリートの橋を渡る、急に開けて広い川が見える、東側の山の稜線が朝靄と朝日でぼんやり霞んでいる、いいなあと思う、だんだんお腹が空いてきたけどそのままお寺とか神社に行くのがいいかもと、近くにあった豊国神社を参拝した。そのまま川の東側の小道を北へ進むと良さそうな和菓子屋さんがあったけど朝早すぎてやっていない。五条まで来て、川縁に降りてたもとを歩いていった。白鷺とかゴイサギとかカモとかカラスとかがいる、朝の方が川の水もきれいに見えて断然良い。とにかく朝が早すぎて落ち着けるところがそんなになく、疲れない程度に歩くしかなかった。8時半くらいまでぶらぶらして、期待外れだった朝ご飯のお粥をお腹に押し込み、地下鉄に乗って蹴上まで行き、今度こそ「インクライン」を見るんだと思っていたのに、結局やっぱり「インクライン」がどこにあるかわからず、以前来たのと同じルートで南禅寺に行き、水道橋と、本堂の龍の天井画を見た。もうこの辺りで気温が上がってしぶとい暑さに疲れ始めていた。やっぱり同じルートでそのまま平安神宮の方に琵琶湖疎水の脇を歩いて、美術館についたが微妙に開館まで時間があったので、その辺を一周してから入館。朝早いのに若者が結構きていて京都ヤングの文化程度の高さを感じた。眠すぎて時々急に電池が切れたように意識がブラックアウトする。工芸品が所々ケースなどに入れず直に展示されているので万が一そっち側に倒れ込んじゃったりしたら非常に危ない。何度か前や後ろに倒れそうになりながら、そのため監視員にうっすらマークされながら一個一個見たんだけど、やっぱり時代が新しくなるにつれてつまんないというか、何をこいつらはしたかったんだろう、みたいな気持ちが湧いてきて飽きてしまった。60年代までは工芸品とオブジェの境界に迷うような姿勢が見えて、それが作品に直結してる感じがして良かったけれど。最後の部屋まで来てやっと意識が安定してきたので、また最初の方の部屋に戻って展示のストーリーを確認しながら見た、まあ話は分かったがなんかやっぱりつまらないので、単純にいいと思った展示物だけを見て終了し、コレクション展の階に行くと、やっぱりいい絵があったので、安心した。山崎隆の屏風絵《神仙》、《歴史》、村山知義のリノカット、伊藤久三郎の《人々》。これらを見られただけでも収穫だということにする。広くて明るくて客もあんまりいない、すいすいと自分のペースで回って、気分がいい。正常な空腹を感じたので、ああ自分は元気になったんだと安心し、東山からまた地下鉄で二条城前まで行き、頑張って微妙に体力を消耗する暑さの中を歩いていったのに、ちょっと一人で入るのに勇気が必要なカフェでは、狭い待合スペースにイケイケの若者、いや、文化に明るそうな高踏そうな?若者たちが鮨詰め状態なのが見え、すぐに心が閉じてしまって踵を返した、東西の太い道路を横切って、写真のギャラリーに行って、展示を見て、川崎祐という人の写真集を買った、東京で今個展開催中らしい(知らんかった)。最後にまた鴨川を見たかったけれど東海道新幹線の遅延の報を知り、しょうがないのでもう駅に向かう。やたら店内の暗いコンビニで適当に買ったアイスを食べながら日陰を歩く、どこもめちゃくちゃ混んでいて全ての人を黙らせたい衝動が起こったがナチュラルな関西弁は聞いていてそこまで気分が悪くない。京都駅で家にお土産を買って、結局定刻通りに運行しているらしい「ひかり」に乗る、名古屋まで30分くらい、忙しなさすぎてあんまり感傷?に浸ることもなく、でも夕方の車窓はやっぱり美しく、斜め後ろの座席の家族連れがうるさいな~ってことすら流せるくらい順調、定刻通り名古屋について颯爽と下車したら名古屋はまた死ぬほど人がいて、面食らった。改札近くのトイレも駅ビルのトイレもどこも全然空いてなくて、夕ご飯を買いたかった売店も観光客らしい人たちで大混雑していて、たかが名古屋のくせにと軽くイラついた。やっとのことで名古屋屈指の古い地下街の、そのまた地下(地下駐車場の)のお手洗いで用を足し、普通にバスにも間に合った、隣席は発車時刻ギリギリで乗り込んだ黒人の若いお兄さんだった。一瞬、バスジャックされたりしたらやだなとほんの一瞬思ってしまった(彼は終始、携帯などには一度も触れることなく、黒いリュックを抱えて多分寝ていた)。窓がでかいバスで、サッサカ暮れていく空と、高速の防音壁と、一瞬だけ帰ってきた名古屋の街とをゆったりした気分で眺めた、高速に乗る、というのはどこか、挑むみたいな気持ちになる。これからのとてつもない長い距離と時間に、後ろに去っていく風景に、空の色に、それがすごい好きだった。とてつもなく長い距離、というのが私にとっては重要なのです。とてつもない距離とそれが抱えている時間に次第に倦んでいく感覚さえ自分にとっては。こんなにも離れていたということ。これから���れていくということ、小さくなっていくことの寂しさと安心。夕方の名古屋高速はいい。伊勢湾岸道に入り、羅針盤のアルバムを聴きながらうとうとしていると、早々に「足柄から大井松田まで渋滞25キロ通過60分」の表示を見かけた。終電には間に合うかなと思って途中のSAで悠長にソフトクリーム(静岡茶味)を食べてたら、どんどん渋滞が伸びて40キロとかになっていた。横浜から首都高の入り口までも渋滞が始まってるということで地獄が待ってるらしかった。終電に間に合わなかったら交通費をいっぱいにケチった旅行が丸潰れになる~とか焦り始めていると、いざとなったらなんと父が東京駅まで出動してくれるという連絡が。ありがて〜けどそれもまた問題だよと思う。こんな年齢になった娘などもうどこで痛い目にあっていようがのたれ死んでようが放っておけばいいのにと思う。バスの運転手さんは非常に優秀な人と見えて、比較的空いている道ではちゃんとそれなりのスピードで走っていく。特に工事で端っこの車線が慢性的に通行止めの道でも、ガンガン右車線で飛ばしていき、どんどん後ろへ車が抜かされていくのが面白かった。この快調なスピードの上にいないとわからない音楽ってあるよね、ということで、くるりやスピッツやフジファブリックや奥田民生を聴いた。絶対そうなのだ。おなじみの足柄SAにたどり着くと、またものすごい数の車が集まっていて駐車場はごった返していて交通整理をする警備員さんが怒号ともつかない叫びで駐車できずあぶれた車、というかドライバーをさばいていた。御殿場を過ぎて雨が降ってきたけど、いつの間にか雲が切れて止んでいて、夜空はすごく澄んでいて星がいくつも見えた。こういう経験も、夏休みとか冬休み特有のものだった。渋滞でノロノロ進む車内でまた例の本を開く。人や動物に簡単にすぐ殺意を抱いたりしていて忙しそうで笑える。そもそも自分はこういう文体ににハマるたちだし、かなり真理らしいことを言ってたり考え方の極端さには共感すらしてしまうが、憤りとかマイナス?の力が増大した時の思考の飛躍と行動・言動が怖すぎて(ときどき時代錯誤感もあるし)、この人が父親でなくて本当によかった。歌声がいい、歌詞もいい、ギターもすっごいカッコいい、しかし。で、そんなこんなで終電に間に合うか、間に合わないか本当に微妙な時間になってきていたが、運転手さん��的確でメリハリある優秀な運転のおかげで遅れは1時間弱だった。心身ともにきついこともめちゃ多い仕事とは思うがやっぱり運転がうまい人はかっこいい。あと夜行バスは疲れている時はもちろん基本的には交通手段の選択肢から外すべきだ。どうせ眠れないから。ふらっとどこかへ消えたいと思った時、忙しない旅程を組むと感動する余裕も大して持てず帰ってきたときに何も変わっていない自分にただ、ただただ絶望する。0時前の混んでいる中央線快速、火でもつけたい気持ちに駆られつつ、急に疲労が襲ってきてまた意識がガンガン途切れて忘れたはずの吐き気も出てきて、薄めた地獄みたいだった。
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続・常用漢字
前回作成した川越の常用漢字案。見直したところたくさんの文字を見落としていました。
今回はその文字を紹介します。
まずは、単語にしないとわかりにくい文字からです。「」が川越案で追加した常用漢字です。 末「裔」、「閾」値、「厭」戦(えんせん)、「閻」魔、「叡智」、「顆」粒、怪「訝」(けげん)、 驚「愕」、「刮」目、「迂闊(うかつ)」「贋」作(がんさく)、 「臥」薪「嘗」胆、摩「訶」不思議、「詭」弁、「拮」抗、任「侠」、「欣」喜、霊「柩」車、 「寓」話(ぐうわ)、秘「訣」、推「敲」、「咄嗟」(とっさ)、狭「窄」、対「峙」、 「洒」落、「娑」婆、「饒」舌、上「梓」、「絢爛(けんらん)」、「燦」然、「截」然、 「讃頌」、「鍼灸」、「隧」道、明「晰」、「餞」別、叱「咤」、「啖呵」(たんか)、 冒「涜」、「辻褄」、「娼」婦、「荼毘」、「屠」殺、投「擲」、 「胚」芽、風「靡」、「菱」形、「孵」化、紺「碧」、 「匍匐」(ほふく)、「勿」論(もちろん)、「溌剌」(はつらつ)、 「烙」印、勇気「凛凛」、「濾」過、「狼藉」です。 次に、動詞・形容詞です。 「炒める」、「淹れる」、「曰く」、「賤しい」、「痒い(かゆい)」、「湛える(たたえる)」、 「漉す(こす)」、「佇む(たたずむ)」、「齧る(かじる)」、 「騙す」、「綴る」、「訛り」、「孕む」、「嵌める」、「拵える」(こしらえる)、 「眩しい」(まぶしい)、「仄か」(ほのか)、「儚い」です。 1文字でも意味が分かる漢字は、「諺」、「雫」、「其」(それ)、「巷」(ちまた)、 「之」(これ)、「筈」(はず)、「囮」(おとり)「卍」、 生き物に関する漢字では、「犀」、「牝」、「駱駝」、「鰐」、「鴬」、「雁」、「雉」、 「牡蠣」、「蛤」、「蜆」、「鮑 」、「鮃」、「鮟鱇」、「虻」、「蜘蛛」、「蜻蛉」、 「蝸」牛(かたつむり)、「蚤(のみ)」、「麒麟」、「鳳凰」、「鰓」、「爬」虫類、 食べ物に関する文字では、「肴」、「鮨」、羊「羹」、家族に関する漢字は、「倅」、「舅」、 植物・自然に関する文字では、「藁」、「檜」、「瓢箪」、「菖蒲」、「葡萄」、「榊」、 「楓」、「葦」、「韮」、「甜」菜、「蕪」、「蔦」、「薔薇」、「茗」荷、「琥珀」、 道具・工作物に関する文字では、「檻」、「鋏」、生け「簀」、「櫛」、「杵」、「簾」(すだれ)、 「什」器、「硯」、「筏」、「蝋燭(ろうそく)」、「俎」板(まないた)、手「榴」弾、 「毬」、「箏」、「笙」、「蓑」、 服飾に関する文字は「紬」、「褌」、「絨毯」、草「鞋」(わらじ)、丁「髷」 建物・工業に関する文字では、暗「渠」(あんきょ)、草「庵」、「煉」瓦、 「埠」頭(ふとう)、「嵩」上げ(かさあげ)、「窪」地、「茅葺」、「剪」定、 城「址」、「梃(てこ)」、「楔(くさび)」、「瑕疵(かし)」、「鉋(かんな)」 体・病気に関する漢字は、「痰」、「朦朧」(もうろう)、末「梢」神経、「浣」腸、「臀」部、 伝統に関する漢字は「噺」家(はなしか)、「囃」子(はやし)、「涅槃」、「梵」語、「籤」 気象・四季・年月に関する文字では、「凪」、「霙(みぞれ)」、「靄(もや)」、「霰(あられ)」 「霹靂(へきれき)」、「芒」種、啓「蟄」、「皐」月、「閏」年、 数に関する漢字は「也」、「廿」(にじゅう)、「卅」(さんじゅう)、「垓」、「澗」 地名では日本三名園の「偕楽園」の、「偕」
やはり増えすぎました。これ、よく考えたら川越が割と漢字知ってたという説出てきたな… ということで、前回追加した文字とあわせて半分以下まで絞り込みます。
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2023/02/25 石岡市デジタル商品券の期限が2月末で失効になるので、加盟店の三店舗に予約電話を入れても、法事等や営業していなくて、最後に14時までは大丈夫と言われた、新富鮨でランチタイム‥‥‥ 商品券を使い切るため、握り寿司の極上(椿)に生ビールとふぐひれ酒を美味しく頂いてから、現金払いしか取り扱っていないと思った「ディスカウントドラッグコスモス」で、デジタル商品券は利用できると石岡市のネット情報を調べて、全て期限内に使い切って一件落着( ー̀дー́ 多面的機能支払交付金事業で発注した防草シートの工事を点検‥‥‥ 篭田山山荘で定例の麻雀会 #iPhone日記 #石岡市デジタル商品券 #新富鮨 #握り寿司極上(椿) #ふぐひれ酒 #生ビール #防草シート工事 #篭田山山荘 #麻雀 (新富鮨) https://www.instagram.com/p/CpLQNO3ytxi/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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\カウンター個室で極上の江戸前鮨を堪能🍣/ 鮨職人を独占できる鮨屋さんが昨年オープンしたと聞き行ってきました✨ その辺の鮨屋さんと違って、 【鮨職人独占】のカウンター個室で 帝国ホテルをはじめ、ホテルオークラ、 六本木グランドハイアットなど、 日本を代表する一流ホテルの鮨店で腕をふるった鮨職人が握ってくださり、 天ぷらの名店「天一」で腕を磨いた 日本料理の達人が天ぷら担当な贅沢なディナーを✨ お料理ですが、その日厳選して仕入れた食材を使用した おまかせコースのみなので、 苦手なものをお伝えして… *全てのお料理の写真がないですが… 先付 味が染みてて美味しい春のふき モロコ、海老しんじょう お椀 若竹のお吸い物 刺身 ・大間の鮪 ・白エビ ・アジ 大間のマグロ…口の中でとろけて 私も溶けそうなくらい美味しい😋 続いて ・紅彩塩の白塩付きのすみイカ ・炙り金目鯛 ・赤貝 ・海老の天麩羅 ・大間のマグロ 赤身 ・ふきのとうの麦わら帽子😄 ・青森県産のヒラメ ・茶碗蒸し 蓋を開けてすぐに卵の色が濃いって思い 伺うと蘭王の卵を使われているとか 具材は、生麩、銀杏他 ・小肌 ・卵焼き ・白子天ぷら ・ウニ ・九州天草 車海老 ・大間マグロ 中トロ ・穴子 ふわふわしてて美味しい デザートにあまおう🍓 と満足感の高い鮨と職人さんの話題に 素敵な夜を過ごしました✨ 場所は、神田駅すぐ近くですが、 行きは三越前から徒歩6分 帰りは秋葉原駅まで徒歩10分の距離でした 先月泊まったホテルの2軒先だったので、 ホテルに宿泊予定の時は、予約したい✨ 贅沢な時間は、大切な人と利用したいですね💕 デートや記念日、会席、商談にもオススメ 鮨しいな @sushi_shiina 東京都千代田区鍛冶町1-9-19 GEMS神田 4F 050-5590-2214 【月~土】17時~23時(L.O22時) #食べ歩き #神田寿司 #日本橋寿司 #カウンター個室 #寿司しいな #神田グルメ #東京グルメ #東ぐる #東ぐる公認アンバサダー #東京グルメレポート #sushi #japanesefood #藤本祐子グルメ写真 #フードアナリスト #フードアナリストyuko #yummy #刺身 #sashimi #japanesefood #followme @yuko_fuji3 https://www.instagram.com/p/CnUTI7dpgu1/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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Excellent "Kobakogani" ever @sushi_marufuku We had super yummy huge Kobakogani and Aged Sushi / Jyukuseizushi last night ♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪ As always, every dishes are amazing art for my eyes and then heavenly umami and textures transmitted from the tongue to the brain!! Thank you so much Taisho (^人^) (鮨 まるふく) https://www.instagram.com/p/Cmd9EunSw0_/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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【神奈川】横浜「山喜鮨」
【タカトシ温水の路線バスで】夏季限定 旬の穴子丼『山喜鮨』#かなで 夏の鎌倉~夜の八景島 2024/8/31放送 神奈川県横浜市金沢区町屋町19-9 #タカトシ温水の路線バスで #ぶらサタ #ぶらぶらサタデー #タカトシ #3時のヒロイン 詳しく見る↓
海の公園南口駅「山喜鮨」 食べログでcheck! 1928年(昭和3年)の創業以来、地元で愛され続けている老舗寿司店 その魅力は、新鮮な海の幸をふんだんに使用した江戸前寿司だけではなく、 長きにわたり受け継がれてきた伝統の味、地域との深い結びつき、そして温かいおもてなしが、多くの食通を魅了し続けている。 夏季限定の「穴子丼」は新鮮な穴子をふんだんに使用し、職人の丁寧な仕事によって作り上げられるその味わいは、まさに絶品。 住所 神奈川県横浜市金沢区町屋町19-9 TEL 045-701-3969 ホームページ 山喜鮨-寿司 江戸前 金沢 昭和57年に創業した、江戸前の寿司屋「山喜鮨」です。 地元…
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超絶パノラマスペクタクルな佇まいのこの夜景、地上41階、地上215M 真正面に東京タワーと摩天楼が見える大人ラグジュアリーなBar&Lounje MAJESTICさん❣️ 夜景とバーが素敵で最高のご馳走になるのは、もちろん併設のレストランがあるので お料理がしっかり楽しめます。 シーフードメインの食材の味が生かされたお料理❗️✨ 夜景を楽しみながら、非日常感たっぷり、落ち着いたら空間でゆっくり会話を楽しむことが出来ます✨デートはもちろん、ハイエンドな女子会、リーマンの接待にも、窓側確約ラグジュアリーコースがおすすですよ❣️🗼 @barlounge_majestic 【アミューズ】 majestic名物のウニのフランカクテルスタイル❗️上はコンソメジュレと北海道産雲丹 下は雲丹生クリームとしじみのお出汁 【前菜】 サーモンのタルタルを黒米にのせ、旬野菜とアボカドソース🥑新鮮なタルタルと黒米が、フレンチ鮨的で、最高の組み合わせでした❣️ 【鮮魚料理】 本日入荷の愛媛県産真鯛のポワレ スープ仕立て。 身がふんわり、皮がパリパリこうばく、塩気が最高。ソースのクラムチャウダーとの相性ばっちりでした 【メインディッシュ】 牛サーロインとオマール海老のサーフターフを、両方とも激レアで❣️ ぷりぷりんオマールととろけるサーロイン、アメリケーヌソースと黒トリュフソースが絶品でした❣️ 【デザート】 栗のモンブランとほうじ茶ジェラート、ひたすら東京タワーをバックに映えまくります。 【ワイン】2000本が眠る巨大ワインセラーにはフランス・イタリア・カリフォルニア・ニューワールドからFish Bank TOKYOのお料理にあう1本を常備取り揃えてます。
季節に応じて7種類以上のグラスワインを選定し日本の四季の味わいに併せたペアリングを楽しめます🍷 #barlounge_majestic #記念日デート #記念日ディナー #夜景バー #夜景デート #新橋バー #新橋ディナー #新橋グルメ #チーズ天使#カクテル #ワイン #夜景の見えるバー #汐留ディナー #東京タワー夜景 #lilystudio #夜景がキレイ #夜景の見えるレストラン #荒川リリー #majestic #cocktails #wine #夜景が見えるレストラン #夜景が綺麗 #東京タワーが見える店 #tokyotower #夜景が見えるbar #銀座グルメ #銀座バー #barandlounge_majestic #汐留シティセンター (Bar & Lounge MAJESTIC) https://www.instagram.com/p/ClminOAy7XP/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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. 【熟成鮨 まるふく】 熟成寿司が売りの西荻窪 まるふく様へ笹兄と。 人生初体験の熟成鮨。熟成されたネタの旨みがどれもすごかった。 一貫づつ何日熟成の〇〇というように、大将が丁寧に説明してくれて、小料理と握りが交互にやってくる構成。 全部美味しかったのですが、中でも海老味噌と、自家製の海老の殻から作った海老塩で食べる甘エビが最高に美味しかった。 手間のかかる一品一品に感動。 歳を重ねる度にお世話になりたいお店。 笹兄ありがとう。 ✂︎-------------------------- #sushi #白子焼き #あん肝 #海老塩 #カワハギ #春ノ薫風紀土 #鶴齢 #宝剣 #mastersdream #鮨まるふく #西荻窪グルメ #20200228 (鮨 まるふく) https://www.instagram.com/p/B9I6NCMJzqH/?igshid=x4fuj6utxrs5
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