#香港歴史博物館
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中国に駐在する日本の垂たるみ秀夫大使がおよそ3年の任期を終え、日本への帰任を前に記者会見を開きました。 外務省で中国語を専門とする、いわゆる「チャイナスクール」として40年近い外交官生活の大半を中国との関係に費やすなど、キャリア官僚としては異例の経歴を歩んできた垂氏。 習近平国家主席への権力集中が進む中国で、何を目指し、何を感じたのか。離任を前に開いた記者会見の全文で迫ります。 離任の記者会見を行った垂秀夫大使とは 垂大使は、昭和60年に外務省に入り、中国語を専門とする、いわゆる「チャイナスクール」の出身として、中国・モンゴル課長や領事局長、官房長などを歴任し、およそ3年前から中国大使を務めてきました。 いわゆるキャリア外交官は、専門とする国以外に欧米先進国などへも赴任するのが通例ですが、垂氏が駐在したのは中国、香港、台湾で合わせて18年。異例の経歴です。 中国共産党の高官だけでなく、民主化を求め政権に異を唱える人たちにも人脈を築いてきたと言われ、中国政府が日本の政策を批判したときには、SNSも使ってすぐに反論するなど、異色の外交活動が注目を集めたこともありました。 その垂大使の離任に当たっての記者会見は、12月4日午後、北京の日本大使公邸で1時間あまりにわたって行われました。 以下、その全文です。 会見 (垂大使 冒頭発言) 皆さん、こんにちは。こんなにたくさんお集まりいただいて感謝いたします。離任記者会見ということで、ちょっとピンとこないですけれども、こういう機会をいただいたことに御礼申し上げたいと思っています。 中国駐在 垂秀夫大使 私は12月6日に任務を終え、この地を離れて日本に帰国することになっています。振り返れば大使の期間もさることながら、40年近い外交官生活の大半を中国関係に携わってきたという意味でそれなりの感慨はあります。 国民の税金で養っていただいたといいますか、公僕として、長年、力をためてきた知見とか経験とか人脈、これらを生かして、何とか大使の任務を、最後のご奉公をかろうじて勤めあげられたのではないかなと安堵しています。 後ほど皆さんから日中関係や中国の問題で質問があると思いますので、最初は私が大使として何をやってきたか、その時どういう気持ちでやってきたかという内容を簡単にご紹介、ご説明させていただければと思います。 私が中国大使として着任したとき、この場で記者会見が開かれました。そこで私は大使館の今後の大きな柱として2つのことを申し上げました。1つは日系企業支援、もう1つは邦人保護、邦人の安全確保でした。 まず日系企業の支援という点については、日々のいわゆるビジネストラブルへの対応、これはもちろんのことながら真剣に取り組んだつもりです。 また、中国で行うビジネスが昔に比べれば非常に難しくなっている昨今、どちらかというと互助団体的であった中国日本商会の組織改革を提案し、大きく改革していただきました。 その結果として、今年の春から日本商会は会長職が固定化されました。また、これまでの任務以外にもロービングや調査業務、発信機能、これらを非常に強化する力強い団体に変貌しつつあるところです。いいスタートを切れたのではないかと思います。 中国日本商会 本間哲朗会長(左)の記者会見 先ほど申し上げました難しい中国ビジネス、とりわけ経済安全保障という観点からも非常にいい動きではないかと思っています。 次に在留邦人の安全確保という点についてです。私は普段から同僚に対して、(大使館の)政治部にいようが経済部にいようが広報文化部にいようが、すべてが領事担当官であると。そう何度も言って常に館内の意識改革を行ってきたつもりです。 私もかつて領事局長を担当した身です。ひとつひとつの領事案件、本当に、なんというか、普通の事務処理で済ませてはいけないような非常に厚みのある案件がたくさんあるんですね。 そうしたときに、もし事件・事故が起きた時に当事者が自分の肉親であったらどうかと。自分の父親が、自分の兄弟が、自分の子どもが事件・事故に遭ったらどういう対応をするかと。常にそういうつもりで対応しようと皆で確認し合ってやってきたつもりです。 ときには涙を流すこともありました。それでも領事担当の同僚は非常によくやってくれたと思います。邦人の安全確保、邦人保護という点はわれわれの大きな柱でした。ただ、この邦人保護、在留邦人の安全確保という観点から申し上げれば、今年の3月に起きた、国家安全当局に拘束された在留邦人の���がまだこう留されているという状況につきましては、私個人としては極めてじくじたる思いです。 社員が拘束された大手製薬会社「アステラス製薬」 この2つの大きな柱に加えて、私は1つの試みを提案しました。それは何かといいますと、この大使公邸の開放です。この北京には多くの外交団がいます。その数ある外交団の中でもわが日本大使公邸は、その美しさ、あるいは格式の高さ、いずれの点においても最も優れた素晴らしい大使公邸だと自負しています。 調度品もたくさん素晴らしいものがありますし、平山郁夫画伯とか絹谷幸二画伯の絵がかけられているなど、本当に美術館、博物館のような大使公邸です。春には桜が美しく咲きますし、秋には紅葉が見事に色づきます。 北京の日本大使公邸の庭園(垂大使撮影) その美しい庭園も抱えたこの大使公邸を在留邦人に使っていただく。そういう試みでした。この公邸の建設はもちろん、維持管理は全て国民の税金で行われている。そういう観点から言えば使っていただいて当然であると。そういう出発点でした。 当初は、在留邦人の方も半信半疑のところはあったんですけれども、何度もわれわれが使ってくださいとお勧めしているうちにいろんなことで使われ、コロナの時期もありましたが、それでも私の任期中に120回を超える公邸開放、公邸の利用が行われました。 例えば企業間のMOU(基本合意書)の調印式だとか、あるいはジャズのコンサートだとか、あるいは剣道の試合だとか、あるいは某大学の同窓会だとか、もういろんな形で使われました。時には日本人学校の子どもたちを中心にこいのぼり参観、あるいはひな祭り参観、そういうことに使われたこともあります。 大使公邸で開かれた 日本の特産品などをPRするイベント(2023年3月) 普段、公邸とあまり関係がないと思われるような方々には、例えば駐在員の配偶者だとか日本人学校のPTAの方々には一般参観日も設け、対外開放する日もありました。そういう試みを行って、これまで十分に使っていただいたと思っています。この試みは非常に上手くいったのではないかと思っています。 さて、中国で仕事を行っていく上では、特に私の任期中はコロナが非常に蔓延まんえんしている時期でしたし、また、ちょうど去年は日中国交正常化50周年、今年は日中平和友好条約締結45周年というエポックメイキングなこともありましたが、時には厳しい勤務環境の中で日本ではちょっと考えられないようなことが起きることもありました。 閉鎖された武漢の海鮮市場(2020年) 例えば、去年の50周年の関係では、在留邦人の人たちが手作りで祝うために、いろんな交流事業、文化事業を準備したり用意したりしましたけれども、それを日中関係が悪いという状況の中で、コロナを理由に何度も延期されたり中止されたり、そういうことがありました。 また、われわれとしてはなかなか受��入れがたいような理由で、日本の政策を批判されるようなこともありました。そういう時、多くの日本の人たち、とりわけ中国に長く勤務しているような人たちには「中国だからしょうがない、郷に入っては郷に従わないといけない」と理不尽なことを受け入れてしまうきらいが、私はあるのではないかと思っています。 そうしたときに民間の人、それぞれの個人はなかなか言いにくいんだと思うんですね。立場上も言い難い、企業の人も言い難い。でも私は日本の大使として、しっかり主張すべきは主張する必要があるという気持ちで、必要に応じておかしいことはおかしいということを声にしてきたつもりです。 ただ、ここで大事なことは、相手に対して物申すようなときには、その基準が、私は日本の大使ですから、日本の国益、あるいは日中関係をしっかり維持し大局を守っていくためにやるということが基本であるべきだと思っています。 決して反中とか嫌中とかいう感情で批判したり物事を判断したりしてはいけないと自分を戒めてきたつもりです。私のそうしたやり方についてどう評価されるのかについては、これは私自身が決める話でもありませんし、日本の皆さん、あるいは世論が決めることでもないんだと私は思っています。私は常々歴史が決めるものだと。歴史が評価してくれると考えて仕事をしてきたつもりです。 日本では外交に関する資料は30年後には公表されることになるわけですね。その将来の、歴史家か評論家かわかりませんが、そういう人たちがどう評価するのか、判断するのかということが私にとっては一番大きな基準であると、そういうつもりでやってきました。 私は常々同僚に対して、歴史に耐えられる外交をやろうと。歴史に恥じない外交をやろうと。今、その時々を過ごすためのアリバイ作りのためだけの外交をやってはいけないと、そういうことを訴え続けてきました。同僚は皆、本当にそれに応えて非常によくやってくれたと思っています。 そういう意味においては、ちょっととんがっているかもしれませんが、そういう上司、大使を持って非常に大変だったと思いますが、私の同僚は本当によくついてきてくれて非常に良い仕事をしてくれたと思っていて感謝しかありません。 先般、サンフランシスコで岸田総理大臣と習近平国家主席との間で日中首脳会談が開かれました。一番大事な点として、日中両国は全面的に戦略的互恵関係を推進することを再確認するということが示されました。私は非常によい会談だったのではないかと思っています。 日中首脳会談(アメリカ サンフランシスコ 2023年11月) これからが実は大変だと思います。大きな方向性を示すこと、これは何とかやれました。ただそれを具体化、実現していくことが、実はある意味ではもっと大事である、そう思っています。そうした意味では、引き続き日中双方の外交当局、あるいは政府全体がともに努力して、日中関係をさらに高みに押し上げていく必要があると。建設的、安定的関係を強化していく必要があると考えています。 冒頭申し上げましたように、40年近い外交官生活において、18年間、中国大陸、香港、台湾と勤務して参りました。私なりに一生懸命やってきたつもりです。精一杯駆け抜けた外交官生活だったのではないかと今思っています。何の後悔もありません。「風光霽月」の心境です。非常に爽やかで、思い残すことは何���ないと、そういう心境です。 私の第2の人生の夢は、何らかの形で写真の世界で生きていけないかなと考えています。そのことを考えると、また非常にチャレンジ精神が出てくるという意味では、風光霽月と言いながら、また気持ちが震え上がってくるところがあります。中国も、日本も、あるいは台湾も、自然の美しさや一般庶民の喜怒哀楽には何の変わりもありません。私は中国大陸で撮りためてきた写真、そして日本、台湾で撮りためてきた写真、これらを多くの日本の方に示して、共通点をしっかりと伝えていくことによって、日中関係の更なる強化をお手伝いしたいと思っています。 垂大使が撮影した中国の農村 冒頭私からのご挨拶は以上です。 質疑応答 中国に長らく携わってきた外交官として今の日中���係についてどのような感想を。また今後の日中関係はどのようにあってほしいと考えるか。 今の質問で思い起こすのは、去年、日中国交正常化50周年のときの大使館公邸での記念レセプションです。私はそのレセプションの挨拶で、こういう風に日中関係をたとえました。これまでの日中関係はジェットコースターのようだと。上がったり下がったり、良くなったり悪くなったりだと。 遊園地で遊ぶジェットコースターは楽しいでしょうが、日中関係というジェットコースターに乗っている両国民はたまったものではないと。今後はジェットコースターではなく、ゆっくりゆっくり走る普通電車がいいのではないかと。要は、日中関係はしっかりと安定的に関係を構築していくことが大事だということを申し上げたつもりです。 日中関係が安定化するためには、やはり一番大事なものは日中間の意思疎通だと思います。日中は永遠の隣人であるのはこれはもう間違いのない事実なんですね。互いに引っ越すことはできないんです。国が違う以上、それぞれ国益を背負っているという意味において、ときには立場の相違だとか摩擦だとかがあるのは正常なことだと思うんです。自然なことだと思うんです。だからそれを恐れる必要は全くないんだと思うんですね。 恐れないといけないのは日中間で意思疎通がなくなることです。摩擦や意見の相違があればあるほど、本来であれば、日中の意思疎通は強化されなければならない。そういうふうに思います。首脳間から本当に民間レベルの交流に至るまであらゆるレベルで意思疎通が行われると。そういう関係が私は望ましいし、それが安定した日中関係につながるのではないかと思っています。 邦人保護の観点から。ことし3月に男性社員が拘束され、いまだ解放されていない。大使は11月28日にみずから領事面会に臨んだ。どういう思いで、なぜこのタイミングで臨んだのか。 サンフランシスコの日中首脳会談で、岸田総理は習近平国家主席に対して、できるだけ早期の釈放を要求されています。 それを受けて、この北京の一番の最前線で働く、なおかつその責任者である私が、そのための仕事を行うということ、これは、当然、まずやらないといけないことであると言えると思います。 さらに申し上げれば、私みずからが領事面会に行く必要があるとずっと考えていました。いろいろ事情があってそれは成し遂げられませんでした。 実は私による面会は領事面会としては8回目で、それ以前に7回領事面会が行われていました。その時、毎回、私は面会に行く同僚にメッセージを託していたんです。「われ��れとしてはこの問題にしっかり取り組んでいくので気をしっかり持ってください」という趣旨のメッセージです。 今回、私が帰国することになり、やはりこのまま何もなしに本当に帰っていいのかと。私は、それは人の道ではないと。許されるのであれば直接会って帰国するという報告と、私の任期中に結果的には助けることができなかったことについてのお詫びを伝える必要があると感じていました。それが人の道であると感じていました。 また、私が行くことによって、例えば、メディアが関心を持ってくれ、日本政府としてこの問題にしっかり取り組んでいるというメッセージにもなると考えました。そして、非常に重要なことだと思いますが、この問題は決して風化させてはいけないと、忘れてはいけないと。多くの関係者の中でこの問題がだんだんと話題に上らないようになってはいけないと思っていましたので、私は自分が行くことが必要だと感じていました。 日中関係に関連した質問を。コロナが明けたあともビザの免除が回復しない状況。日本から中国を訪れる人が少ない状況になっている。今後何に期待するか。 人の往来が極めて少ない。とりわけ、日本から中国に来る人の数が極めて少ないです。いろんな理由があると思います。そもそもビザがなかなか取りにくい。昔はノービザということもありましたし。中国から日本へ行く旅行者、こちらも一番多かったときに比べればまだ半分にも達していません。ただこちらはそれでもそれなりの人が日本に行ってくれてはいます。 結果として何が起きるか。何が起こっているか、どういう影響があるかと申し上げれば、生の中国を見る機会があまりない、等身大の中国を知る機会がなく、中国に対する理解が深まらない。 上海 あるいは、万が一中国に対して誤解を持っていたとしたら、それにもかかわらずそれが増長してしまう、それが減じることもない、そういうことにも繋がってしまいます。 いずれにしろ、相互理解が深まらないということが、間違いなく起きています。昨今の日本人の対中感情の低さを表すいろいろな世論調査がありますが、それを見てもそのあたりは歴然と出ているのではないでしょうか。 広報スタイルについて。中国が発表した後に日本側が反論するという広報スタイルがあったと思う。それは垂大使から始まった形式だと思うが、この狙いは。 私どもからすれば、受け入れがたい理不尽な批判等もあったとき、あるいは申し入れがあったときには、われわれとしてあるいは私個人として、しっかり物申す必要があります。歴代の大使も同様にやられ、しっかりと反論されておられたと私は思っておりますし、信じております。 ただ、今おっしゃられたようなことが、私のやり方が特別に見えているのであれば、若干違いはあるのかもしれません。一般論で申し上げて、例えば中国側が私どもに申し入れをした時、私は必ず、あるいは歴代の大使もきっと同じだと思いますが、必ず反論する、あるいは日本側の立場を言う、日本としての申し入れを行うのです。 ところが、中国は国営の新華社通信がそれを流す場合、われわれの発言は完全に無視されるわけです。中国側の言い分しかないわけです。私はそれでいいのかと考えました。ある問題において、日本の大使が呼びつけられて、それに関する報道が中国側の一方的な主張しかこの世に出ない、それでいいのかという問題意識がありました。 ことばが悪くて申し訳ないのですが、中国が出していないのに、私どもがけんかを売る形で、われわれから直接出すということはなかったと私は信じています。中国側が出した時に、われわれが必ず反論すると。われわれも主張していることを出すということは確かに行いました。この世に中国だけの主張しかないことにならないように心がけたつもりです。 日本の(メディアの)皆さんを批判しているわけではありません。日本の皆さんは非常に立派なんです。中国側の主張も、日本側の主張も書かれるんですね。喧嘩両成敗じゃないですけど、大体、一応2つ書かれるわけです。最初の頃、私の主張がすごくちょっとしかなかった時もありましたが、だんだんと相当たくさん書いてくれるようになりました。 中国側はどんなことをしても自分たちのことしか書かないんです。それでも皆さん(日本のメディア)は書いてくれる。私はそれを信じて、中国側の主張しかないということになってはいけないと思ってやってきました。これは私の信念でやったことです。今後どうかということについては、私は申し上げる立場にありません。 大使の任期中、中国では習主席が3期目に入るという政治的に大きな動きがあった。3期目の習主席が率いる中国と日本は今後どう向き合っていくべきか。 極めて大事な、いい質問なんですが、私もまだ現役ですので、なかなか入り込めない部分もあり、答えが奥歯に物が挟まってるような言い方になるかもしれません。 中国は非常に変わってきています。どんどん変わってきています。それに応じた付き合い方、あるいは対中政策を考えていく必要があると思っています。一般論として言えば、私は首脳会談、この重要性がますます大事になっているんではないか。そういうふうに申し上げられるとこの場で言っておきたいと思います。 習主席になってから社会の統制が非常に厳しくなってきている。中国の人たちの価値観も多様化している。中国は社会統制の厳しさに耐えうるのか。また、仮に内側から変えようという動きが出てくる可能性があるかどうか、その場合日本としてサポートするようなことができるのか。 敏感な質問ですね。とても大事な質問なんですよ。いつもみたいに完オフ※だったらいくらでも喋りますが、ここは完オフではないので、そうした意味において申し上げればですね、今、言われたように、中国社会、社会統制がどんどん強くなってきているんじゃないか、それを内側から変えようとする力があるのではないか等々、そういう見方が存在していること自身、私は承知しています。そういうふうにだけ申し上げておきたいと思います。また日本がそれにどういう風に関わっていくべきなのか、あるいは関わっていくのがいいのかということについては、私はまだ現役ですので、お答えを差し控えさせていただきたいと思います。ご理解ください。 完オフ 「完全オフレコ」のことで、取材相手の名前や発言内容など一切を公表しないこと。 福島の処理水の対応をめぐり日本産の海産物の全面禁輸が続いている。この問題について今後どのように対応していくのか。 福島第一原発での処理水の放出(2023年8月) 私の見方で申し上げれば、今回の首脳会談でも2つ大事な点があったと思います。1つは、日中関係の位置付け、戦略的互恵関係を再確認すること。もう1つは、処理水の問題について。日中が、例えば専門家どうしがしっかり意見交���する。そういう形で互いにこの問題の解決に向けて知恵を出すといった方向性を確認したことだと思っています。 もちろん日本としては、今の「ALPS(アルプス)」の処理のやり方について、政府の一員として絶対的な自信を持っています。そうではありますけれども、一方で隣国の中国が別の意見を持っていることに対して、その意見、その主張は一切聞かないと、耳も貸さないというような姿勢は必ずしも適切ではないと思っています。 日中の関係当局、あるいは専門家どうしの意見交換、これを通じて、何とか着地点を見いだしていく、一刻も早く中国側の水産物の全面禁輸を解除するために努力することが大事だと思っています。 大使の在任中に最も印象に残っていること、また離任に当たって心残りなことがあれば。印象に残っている中国の指導者は。エピソードなどあれば紹介してほしい。 まず最も印象がある出来事、これはもういろんなことがありました。コロナについては、皆さんも同じように経験された方はたくさんいらっしゃると思いますが、特に去年の今頃なんかもう大混乱でしたしね。隔離生活も長かったりと、いろんなことがもう走馬灯のようにあるので、どれがと言われるとなかなか難しい。 PCR検査場に並ぶ人々(北京・2022年11月) 中国の古い友人、それから新しい友人とまた深い付き合いができたということも私にとっては極めて印象のあることでした。 あえて1つ申し上げれば、先般の日中平和友好条約締結45周年の際に中国が釣魚台迎賓館で行った記念レセプションで、私は大使としてスピーチする機会を与えていただきました。私はその中で、戦略的互恵関係、これが生み出された経緯を紹介するとともに、日中は戦略的関係の再構築が必要であると訴えました。スピーチが終わったあと、壇上から降りてきたときに、皆が座っている中で、1人、王毅中央外事弁公室主任兼外交部長が立ち上がって私のところまで迎えに来て、「大使、スピーチは良かった。素晴らしかった。ぜひ、戦略的互恵関係を再構築しよう」ということを言って、握手を求めてきたことは、とても印象のある出来事だったと思います。 日中平和友好条約45年の記念式典で垂大使に話しかける 中国 王毅外相(右・2023年10月) 何かやり残したことについてですが、私はやり残したことは、あえて言えば先ほどの邦人拘束の件です。 それ以外に申し上げれば、私は大使になってこういう大使館を作りたい、こういう気持ちで大使としての仕事をやろうと思っていたことについては、ほぼできたと思っています。もちろん、私が独りよがりにできたというよりも、私の同僚たちがしっかりついてきてくれたことが一番大きな理由です。私が思い描いていた大使館像、これをしっかり作れたと思っています。そういう意味では何ら思い残していることはないというのが私の心境です。 それから、心に残った指導者、中国側の指導者でいいですよね。これは、長い外交官生活の中でということで申し上げれば、私はやはり、あえて中国側のことを申し上げます。 日本はまだ何とか頑張ってらっしゃる方がいらっしゃる中で、本当にリスクを取って日中関係をしっかり進めていくんだとか守っていくんだという指導者が、今やそう多くないというかほとんどいない。 そんな中にあって、思い起こせば2009年。��しいことは申し上げられませんが、2009年に、ある場で引退された曽慶紅※さんに会う機会があったんですね。そこで曽慶紅さんに、私の方から1つ質問したんです。曽慶紅さんは、中央組織部長で、いわゆる江沢民さんの側近中の側近であった方ですが、2002年4月だったと思いますが、訪日し��いるわけですね。 曽慶紅そう けいこう氏とは 元国家副主席。江沢民前総書記に近い実力者で、日本の政界にも幅広い人脈をもっていた。習近平氏が中国政治の表舞台に出てきた背景に、曽氏の影響力もあったといわれている。 なぜその訪日が大事だったかというと、実は当時、小泉総理の時代で、小泉総理自身が靖国神社に参拝した直後だったんです。その直後に、曽慶紅さんは日本を訪問されたんです。日本といっても大分県でした。確か私の記憶が間違いなければ武漢と大分のチャーター便を飛ばすか何かそういう話だったかと思います。 私は聞いたんです。「なぜ日本に行けたんですか。いろいろ反対とかなかったんですか」と。 曽慶紅さんは非常に満面に笑みを浮かべて、「日本には私の友人2人が待っていた。1人は野中広務さんで、1人は大分県の平松知事だ。日本の友人が待っているので、私は行かなければならないと思った。私は、2人の指導者に許可をもらった。1人が江沢民さん。もう1人が外交担当の副総理であった銭其シン【※王へんに、深のつくり】さん。2人とも喜んで行ってきなさいと言ってくれたから行きました。友人が待っていたから私は行ったんだ」と。私は本当にリスクを取ってでも日本を訪問する、日中関係を進めるという素晴らしい人だなと感じました。私にとってはとても心に残ったやり取りでした。 曽慶紅 元国家副主席(右・中国共産党大会 2022年) 改革開放で多くの日本企業が中国に来て経済交流を進めてきたが、足元では中国での事業リスクの高まりもあって対中投資意欲を大きく下げているという実情もある。中国で日本企業がおかれている状況や日中の経済関係は今後どうなっていくと考えるか。 私は2つのアプローチが大事だとつくづく思っています。1つは攻め、1つは守り。現実問題として、改革開放以降、日本経済、日本のビジネス界は中国との間の経済交流・経済往来を強化させてきました。ある統計によれば、今や中国大陸に、拠点数を入れた数字で申し上げれば、3万以上の日本の会社あるいは拠点があると。中国大陸の中で最も大きなプレゼンスを示しているのが日本企業なんです。 日本経済を考える上で中国経済を抜きに語ることはもうあり得ないと思います。もちろん、中国経済の大きなマーケット、これも非常に魅力的ですし、イノベーションやデジタル経済など、日本から見ても極めて目を見張るような動きを示していることもあります。どういうふうにして日本経済としてこれを活用していくのかというような視点は非常に大事だと思います。そうした意味では、中国との経済関係を能動的にしっかりと強化していくということはとても大切だと思っています。 日系企業の自動車工場 一方で、中国でビジネスをやっていく上で、今どんどんと難しくなっているわけです。いろんな問題も生じてきています。まず最初に中国経済��のものが、特に今年に入って、あるいは去年ぐらいから、非常に不景気である、デフレ気味の状況を示しているということもあります。それはまだ1つの経済の状況ですが、それだけではなくて、例えば、よく言われる自立自強のサプライチェーン、あるいは自国産品を優遇するような政策があります。 表面的には否定するんですが、内外差別を行っているのではないかと思われるような対応も見受けられます。業種によっては強制的な技術移転というような動きについても、われわれはいろいろ相談を受けていることも事実です。そういう経済安全保障的な側面から見ても、しっかりと守り、しっかり脇を締めて、中国経済、中国とのビジネスをやっていく必要があると。 私は両方が大事だと思っています。決して守りだけではダメだ、もちろん攻めだけでもダメで、攻めがあって守りだと考えています。 「ゼロコロナ」政策について。大使は着任から隔離を受け、終了まで全部見届けた。日本と全く違うスタイルをとった「ゼロコロナ」政策をどう総括するか。 着任のときは2週間でしたね。10日ではなくて2週間の隔離生活でしたが、総括は、私が行うのではなく本来中国政府ないしは中国共産党が行うべきものです。実際もう何度も総括していて、中国政府・中国共産党としては勝利宣言を行っているので、それに私が横から総括するっていうのは変な話かもわかりませんが、印象だけ申し上げます。 正直申し上げて、前半期は、「ゼロコロナ」、一種の真空状態を中国の中でつくる。そのために隔離を2週間だ3週間だ、地域によっては2か月要求しているところがあったわけですね。そのかわり、そこに入れば無菌状態、実験室みたいな状況をつくって。実はそれはそれでうまく回っていたのも事実なんですね。 ところがオミクロン株の流行となって、それはもう効果を発せられなかった。オミクロンの威力、伝染力がもっと強かったんですね。私は政策を変更するタイミングを逸したんではないかと個人的には思っていますね。そのタイミングは相当間違ったんじゃないかと。それが私の印象です。その結果、後半の方は極めて、世界的にもまれに見るようなロックダウン等があったり、北京では「弾窓(タンチュアン)」という経験した人でないとわからないような政策がとられたり、いろんな不可思議なことがありました。最後は大混乱の中、「ゼロコロナ」政策が取り下げられていく。全体としての評価については、私の個人的印象だけを申し上げれば、タイミングがうまくいかなかったというか、良くなかったと思っています。 弾窓タンチュアン 「ゼロコロナ」政策のもと、スマートフォンの「健康コード」と呼ばれるアプリに表示されたポップアップメッセージのこと。感染者が出た地域に行ったと認識されると、濃厚接触者でもないのに「あなたはリスクが高い地域を訪問しました」と表示される。この表示は自分では解除できず、数日間建物へ入れなくなったり公共交通機関の利用ができなくなったりする。 米中関係について。サンフランシスコで米中首脳会談が行われたが、今後も米中対立の構図は続くとみられている。今後、米中対立が深まる中で日本の役割は何か。また日本政府として現状、どのくらい日本の役割を果たせていると考えるか。 米中首脳会談(2023年11月) 日本大使としての立場で第三国どうしの関係である米中関係について、表だった評価をするのはなかなか難しく、差し控えないといけないんですけれども、一般論として申し上げます。 米中関係の安定化は、日本としては非常に希望しているところです。今回のサンフランシスコにおける米中首脳会談についてもいろいろな論調があるのも承知していますけれども、私は今回の会談を歓迎しています。 日本がどういう役割を発揮するかということについて。アメリカはわれわれの同盟国であり、日米同盟という強固な信頼関係のもとで、われわれは必要に応じて中国に対して対話を重ねながら、必要な時には中国に対して大国としての責任を果たしてもらえるように働きかける。そういうふうに考えています。 拘束された男性社員に領事面会をした判断理由として、帰国の報告と、任期中に結果として救出できなかったお詫びを伝えたいということだった。実際に伝えて先方の反応はどうだったのか。 すみません、私の発言、私の思いはお伝えした通りですが、先方の方の発言、対応等については私の立場上、紹介するのは恐縮ですが、差し控えさせていただければと思います。 (12月4日 BS国際報道2023 などで放送) 垂氏が大使として赴任する前に行ったインタビューの記事はこちら
中国・習近平体制と対峙した垂秀夫大使 ゼロコロナ 邦人拘束 日中・米中関係 離任前に何を語った? | NHK
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問���代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜��遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑���臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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2024/11/16 8:00:16現在のニュース
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自己紹介(𠮷田真子)
2024年4月1日に入社いたしました、𠮷田真子(よしだまこ)と申します。自己紹介をさせていただきます。
まずはじめに、先日は東京と大阪にて歓迎会を開いてくださってありがとうございました。大阪支店の建築室への配属から早くも半月が過ぎ、大阪支店のみなさんに助けていただきながら新しい環境に少しずつ慣れてきたこの頃です。
明るく前向きに誠実に業務に向かい、ひとつずつ着実に自分の力を伸ばしていこうと思っております。日々の生活を楽しめるように勉強していきます。よろしくお願いいたします。
以下より、プロフィールと私のことを4つほど特筆して紹介させていただきます。
ーーーーープロフィールーーーーー
出身地 京都府京都市 誕生日 8/15 大 学 近畿大学大学院(広島) 研究室 都市歴史
●好きなもの 運 動 バスケットボール 趣 味 旅行、制作など 食べ物 手羽先、カレー 場 所 海、���場、雑貨屋 建 築 円通三匝堂、Therme Vals (Peter Zumthor) 本 石造りのように柔軟な ー北イタリア山村地帯の建築技術と生活の戦略ー ーーーーーーーーーーーーーーーー
①性格 小4から高3まで、9年間バスケットボールを続けてきました。中高でキャプテンなどもやっていました。なんでも一発でできるタイプではなかったですが、コツコツ励むことが得意です。 良くも悪くもマイペースなところがあるので、何事も周囲のペースを見ながら取り組むことを意識するようになりました。よく楽観的な人間に見られます。
(高校生のとき)
また、実はインドアな面もあったので、ほかより友達が多方面にいた10代だったと思います。書道や茶道を習っていたり、テーブルゲームや絵を描くこと、手芸、ぼーっとすることも好きでした。 今年度からも、趣味を謳歌して社会人生活を楽しみたいと思います!
②大学で考えていたこと 【研究】 都市歴史分野の中でも特に「産業史」と「都市構造」に興味を持って活動していました。地域の経済活動の軸となる産業が、都市を発展させ、建築を豊かに作り上げてきたことに強くエネルギーを感じていたからです。史料の情報を古地図に照らすと、人間の活動が手に取るように浮かんでくるのが面白いところです。 調査対象地は、瀬戸内とイタリアでした。私が掘り起こしてきた産業のほとんどがすでに近代化によって消失したものでしたが、絹産業(ボローニャ)や弁柄産業(吹屋)、精���業(内子)、柑橘産業(瀬戸内、関前諸島)、漁業などがありました。
(内陸都市の産業での発展に興味を持ち、山と運河と海の関係性を比較していろんな図を作成していました。)
【設計】
上の写真は広島尾道で撮ったお気に入りの一枚です。猫に道を通せんぼされている郵便屋さんです。信号の無い歴史的市街地の一時停止ルールは、猫でした。風景も含めてこの写真をよく見ると、それぞれの町のルールは都市構造や都市空間の中にあることを感じます。都市や建築空間の中にある人間の予測不能な行動が面白くて好きです。
この一枚から着想し、2022年度日本建築学会設計競技に応募し、日本3位をいただきました。読み手を意識したレイアウトとプレゼンテーションの仕方を工夫して挑み、1位が見えていたので後悔もありますが、こういう反省が私の原���力になっています。
(尾道に教室分散型の小学校を提案し、どの地方でもよくある社会問題を都市空間の個性によって解き、地域の価値を生かせないかと考えていました。)
③広島での生活 大学で広島県東広島市に18歳から6年間住んでいました。実家の災害避難所である京都の二条城にも入場したことがないので、おそらく京都より広島のほうが思い出が多いと思います。
右 尾道で岩登りをしました。
左 西条酒祭りにて美酒鍋を食べました。
④学生時代の趣味 高校生の時は日本で十分やわ〜と思っていたのですが、大学生になってなぜか複数回、海外旅行に行きました(イタリア、フランス、スペイン、スイス、カンボジア、香港、台湾)。バイトで貯めたお金はすべて国内か海外への貧乏学生旅行につぎ込んでいました。イタリアの南部は特にご���がおいしかったのが印象的です。
でも、英語はほとんど話せません。パッションとボディーランゲージが相棒でした。景色を見たり、博物館に行ったり、まち歩きをしたり、人とコミュニケーションをとったりすることが好きです。
自己紹介は以上になります。私は多趣味なので、いろんなことに興味を持って楽しんでいる人間だと思います。またぜひ、面白そうなことがあれば教えてください。
これから、気を引き締めて勉強し、経験を積んでいきたいと思います!明るく働きます!どうぞよろしくお願いいたします。
𠮷田真子
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ペルシャ絨毯買取 - ペルシャ絨毯 売れない
ペルシャ絨毯買取-口コミ-専門店港区ペルシャ絨毯 売れない !
ペルシャ絨毯の買取相場は?高価買取りのポイントもご紹介 インテリアとして人気の絨毯は、希少価値が高い品も少なくはありません。 中でも独特の模様が美しいペルシャ絨毯は、そのほとんどが高額で売買されています。 その価格に驚く方は多いと思いますが、根強いニーズを持つことが理由です。 インテリアとしての人気はもちろん、世界中にコレクターがおり、状態がよい品は数百万円で取引されています 業者の買取でも高値が期待できますので、���し不要なペルシャ絨毯をお持ちであれば、売却を検討してみ���のもよいでしょう。 ペルシャ絨毯買取 国内でNO1 ! ペルシャ絨毯を高く買取します。
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オリエンタルラグに関するよくある質問-ペルシャ
ペルシャ絨毯買取
ペルシャ絨毯ナインペルシャ手織り絨毯ラグ絨毯玄関マット敷物緑色ペルシャイランナインウール絨毯キリム … ギャッベペルシャ絨毯シルクカーペットペルシャキリムなど自宅買取します。 大切にされてこられたペルシャ絨毯を買い取りしております。長年の経験による幅広い分野に精通した鑑定査定士が、ご依頼いただいた品を適正に評価。お客様に信頼・ご満足いただける買取値段をご提示致します。
【ペルシャ絨毯】の買取価格、相場と詳細について
買取可能です。やはり絨毯という特性上、古いペルシャ絨毯には経年劣化したものが少なくありません。それでもペルシャ絨毯は多くの人に愛されているため、産地や絵柄、サイズなどによっては高額での買取も可能となります。汚れやシミが買取価格に影響する可能性はありますが、できるだけ高額での買取に努めさせて頂きます。 手織り絨毯のなかで、最も古い歴史と伝統を誇り、敷物としての実用品でありながら、その領域を遥かに凌駕し芸術品としての域にまで達したペルシャ絨毯。 ペルシャ絨毯の起源はギリシャ神話や聖書によると、4000年から5000年前に遡ると言われていますが、文献以外にそれを証明するものが無く、未だにその起源は定かではありません。 しかしながら当初は現在の私たちが目にするようなパイル織でなく、獣毛を固めたようなものであったとも言われています。 絨毯は実用品であった為と、石のような堅固な素材でない為、太古のもので現在残っているものはほとんどありません。 ペルシャ絨毯に使われる素材は、良質の天然素材。 主なものとして扱われるのは、絹・羊毛・木綿の3種類で、イランの土地の風土に生まれ、育まれた天然の繊維��糸に紡績するところからペルシャ絨毯は始まります。 植物を主原料とした天然染料によって染色されますが、近年では天然染料の入手難しさとコストの削減のため化学染料をによる染色も行われています。 しかし長い年月の中で深まる味わいや艶めきは、天然素材ならではのものです。 インテリアとして絨毯を選ぶ際に重要視されるデザイン。 部屋そのものの印象を大きく変えるデザイン、その文様や柄はペルシャ絨毯ならではの精緻さと芸術性に溢れ、あらゆる歴史と伝統を継承しています。 実用品であり美術品のペルシャ絨毯は使い込むほど味わい深く堅牢度を増し、年月が経つとともに進化し、芸術品としての価値��高めていきます。 イランが世界に誇るこの絨毯は、ペルシア王朝時代から織り継がれてきた、歴史の産物。 気の遠くなるような手間と時間をかけて織り上げられたペルシャ絨毯は、経年変化による独特の艶と風合いを楽しみ、いつまでも永く使っていくことが出来る美しいインテリアであり最高の芸術品です。
ペルシャ絨毯 売れない
東京のペルシャ絨毯について質問する
ペルシャ絨毯専門店ですので、絨毯を買いたい、売りたい、下取りしたいなど、何でも合ったら是非ご自由にご連絡ください。 弊社持ってる絨毯全部博物館のアンティークや高級な絨毯なので、何卒ご検討よろしくお願いします ペルシャ絨毯コレクション(limited Edition) 持ってるお店なので、全てのについては、国内でどちらのペルシャ絨毯の店舗や展示会で出てこない絨毯です。 日本の株式会社でしっかりやってますが、世界中から限定の絨毯や博物館に見る絨毯だけを販売します。 それで、価値がある、値段が落ちない、100%有名な作品しか持ってないです。 作ってる匠さんの手から一個一個でコレクションしてますので、世界1のペルシャ絨毯の品質と本物が保証ですのでご���心してください。 基本的に出品してる絨毯は日本にありますが、買う前に必ず連絡してください。 宜しくお願いします。 お問い合わせ テーマに関連する販売に関する質問がある場合、または単に挨拶したい場合は、連絡先ページからメッセージを送信してください ①絨毯の写真をお送りしてください。 ②その後電話番号を入力してください。 ③それでペルシャ絨毯買取専門店日本第一の一番高く無料査定します。
※買取強化エリアおよびスピード引き取り対応可能エリア 【東京23区】 千代田区 中央区 港区 新宿区 文京区 台東区 墨田区 江東区 品川区 目黒区 大田区 世田谷区 渋谷区 中野区 杉並区 豊島区 北区 荒川区 板橋区 練馬区 足立区 葛飾区 江戸川区 【東京都下】 八王子市 立川市 武蔵野市 三鷹市 青梅市 府中市 昭島市 調布市 町田市 小金井市 小平市 日野市 東村山市 国分寺市 国立市 西東京市 福生市 狛江市 東大和市 多摩市 稲城市 羽村市 あきる野市
ペルシャ絨毯 買取価格
ペルシャ絨毯 売れない ペルシャ絨毯買取 国内でNO1 | ペルシャ絨毯 売れない! 高額買取が期待できるペルシャ絨毯の種類 シルクを使用したタブリーズ産ペルシャ絨毯では、買取価格は40万円前後が相場。 … 「クムシルク」とも呼ばれ高級ペルシャ絨毯の代名詞で10~30万円程度が買取相場です。 カシャーン産ペルシャ絨毯は、ほとんどがウール製で買取相場は10万円~25万円前後です。
ペルシャ絨毯買取 自宅のクローゼットに大きなペルシャ絨毯があります。汚れやホコリを落としていませんが査定してくれますか? 古くて汚れのあるペルシャ絨毯の査定も承っております。どの程度の汚れかを査定士が確認しますので、まずはお問い合わせください。
ペルシャ絨毯の買取相場はいくら?高額買取が期待できる種類を紹介
ここでは、ペルシャ絨毯の買取相場はどの程度になるのか、ペルシャ絨毯の価格は何で決まるのかといった情報をまとめています。 高く買取してもらうためのポイントも紹介しているので参考にしてください。 ペルシャ絨毯の買取相場一覧表 ペルシャ絨毯の種類 買取相場 クム産ペルシャ絨毯(縦192cm・横135cm) 35,000~55,000円 タブリーズ産ペルシャ絨毯(縦250cm・横246.5cm) 300,000~400,000円 イスファハン産 ペルシャ絨毯(縦350cm・横252cm) 200,000~300,000円 カシャーン産 ペルシャ絨毯(縦202cm・横138cm) 20,000~40,000円 クム産ナーミ工房製 ペルシャ絨毯(縦290cm・横198cm) 100,000~300,000円 ニーシャープール産ペルシャ絨毯(縦375cm・横293cm) 10,000~50,000円 カシマル産ペルシャ絨毯(縦322cm・横235cm) 40,000~120,000円 トルクメン産ペルシャ絨毯(縦115cm・横76cm) 5,000~25,000円 ——— 無料出張 対応エリア 全国の出張購入をサポートします。 ショッピングブーストゾーン全国からカーペットを集めています! ショッピングをサポートするエリアは、 東京、神奈川、千葉、埼玉、いばらき、栃木、軍馬、愛知、静香、新潟、長野、山梨、京都、大阪、福岡、山口、大分、佐賀、福井県、熊本です。 ペルシャ絨毯買取専門店港区 ペルシャ絨毯を高く買取します。 全国でもご利用いただけますので、上記以外の方も大歓迎です! 無料評価をご利用ください。 土日・祝日も休まず営業!どしどしお問合せください!
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ペルシャ絨毯
高額買取 ペルシャ絨毯を少しでも高く、 他社に負けない価格で高額に買取いたします。 相談・出張・査定料 全て無料! ペルシャ絨毯買取 ペルシャ絨毯ナインペルシャ手織り絨毯ラグ絨毯玄関マット敷物緑色ペルシャイランナインウール絨毯キリム … ギャッベペルシャ絨毯シルクカーペットペルシャキリムなど自宅買取します。 大切にされてこられたペルシャ絨毯を買い取りしております。長年の経験による幅広い分野に精通した鑑定査定士が、ご依頼いただいた品を適正に評価。お客様に信頼・ご満足いただける買取値段をご提示致します。 ペルシャ絨毯は、歴史や使われる素材などの特徴によって、買取価格に違いがでます。 これから、買取の依頼を検討されている方にとって、自身のもつペルシャ絨毯が高く売れるかは気になる点ではないでしょうか。 今回、買取価格に影響する特徴と、ペルシャ絨毯の種類ごとの相場、高く売るコツについて解説していきます。 ペルシャ絨毯は元々の価値が高く、買取でも高値が狙えるアイテムの一つです。 後述するように素材や状態、産地などが影響するものの、状態がよければ数十万円で買取してもらえる可能性があります。 富裕層やコレクターのニーズがある ペルシャ絨毯が高値で買取されている理由は、富裕層やコレクターのニーズがあるからです。 ペルシャ絨毯は手織りで作られており、機械生産のように全く同一の模様を生み出すことができません。 そうした特徴から世界中の富裕層だけでなく、コレクションしている人も多いのです。 ペルシャ絨毯を愛してやまない人は後を絶たないことから、買取相場も安定しています。 捨てる前に査定だけでも受けてみよう ペルシャ絨毯は非常に価値の高い品物ですが、「どうせ売れない」と考えている方も中にはいらっしゃると思います。 確かに状態次第では売れない場合もありますが、処分する前に査定だけでも受けてみましょう。 売れないと思っていたペルシャ絨毯が意外な高値になるかもしれません。 査定が無料の業者も多いため、売却を検討する価値は十分にあります。 Read the full article
#アンティークのペルシャ絨毯は価格が高騰する#オリエンタルラグに関するよくある質問-ペルシャ#お客様手数0円#ペルシャ絨毯の買取相場#ペルシャ絨毯は高価買取りが狙えるアイテム#富裕層やコレクターのニーズがある#捨てる前に査定だけでも受けてみよう#高く売るにはコンディションが重要
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最近買った本と読んだ本
台湾の清朝頃の伝奇を元にした漫画。婚姻と女の処遇とそれに伴う怪奇の話。怪奇現象の起こる時代物ミステリーで面白かった。絵が良い。
「守娘 上」シャオナオナオ [コミックス] - KADOKAWA
イラストと史料で見る中国の服飾史入門 古代から近現代まで
中国の服飾史入門 - マール社 (maar.com)
中国の服飾に関するヴィジュアルブック。時代毎の流れをざっと見るのに良い。調べものをするときの足掛かりに。巻末に、掲載した資料の所有博物館リストがあるが掲載図版と個別に紐づいているわけではないので目安。
これは以前購入した横浜ユーラシア文化館の企画展『装いの横浜チャイナタウン ―華僑女性の服飾史』の図録。いわゆるチャイナドレスと認識されている服、旗袍ひとつとっても様々な変遷があり正解の型が決定的にあるわけでもなく、一概にこの服がこの時代のこの国のこの民族のアイデンティティであると述べにくい。とはいえ服飾のイデアのようなものがあって、「あの時代のあのスタイル」という特徴や印象はあり、服飾史は深淵である。
昨今の中国の若者の間で漢服ブームがあり、SNSでもバズってるのを見かける。日本のド観光地に住んでいる私の感覚でも、大陸からの観光客で漢服スタイルで出歩いている若者が時々いて、ああー本当に流行ってんだな~と感じる。(たぶんここ4,5年以内ぐらいの感覚)
漢服リバイバルの服は時代衣装ガチ勢もいるが、漢服のスタイル抽出したカジュアルめなデザインもあって多様である。
SNSでは大陸の各国で「我々の民族衣装とは何か」で結構もめているのを見かける。なんのどこの民族や国がこのスタイルの起源であるかとか、どの歴史史料の何を復元してこの形なのか? などなどしょっちゅうけっこうもめている印象がある。文化は混交していくものなので、史料から言えることもあるだろうけど共同体の意識としての価値観はまた色々違うだろうし様々なポイントで明確な線引きは難しいだろうなあと思いながら見ている。
このファッションのニュアンスたぶん日本では90年代~2000年代のロリータとかゴスロリや原宿のデコ系の服飾ブーム、その後展開しているゆめかわなどの感じと「若者文化」のニュアンスでは近いんではという気がする。若者がアイデンティティを自国・自分の民族の歴史に求めるか、架空の世界に求めるか、というか。自分を作っている最中なのだろうと思う。
『三毛猫モブは猫缶を稼ぎたい Mobu’s Diary』【電子有】 « 書籍・ムック | 玄光社 (genkosha.co.jp)
香港出身のイラストレーターさんのコミック。絵が好きなので買った。
「お江戸ふしぎ噺 あやし」宮部みゆき [角川ホラー文庫] - KADOKAWA
宮部みゆきの江戸もの怪談小説を皇なつきが漫画化したものの文庫化。好き。
筑摩書房 現代オカルトの根源 ─霊性進化論の光と闇 / 大田 俊寛 著 (chikumashobo.co.jp)
ずっと積んでたのをやっと読んだ。日本の新宗教(いわゆる新興宗教と呼ばれるもの)に通底する諸々の概念はどこからきたものかを解説している。
現代のオカルトの諸々は概ね19世紀のダーウィン進化論から派生してブラヴァツキー夫人の神智学を経由してユーラシア大陸の宗教を混交してシュタイナーなども通ってヒトラーの諸々の愚行もあってアメリカ大陸で科学の価値観と混ざったり古代の文明の何かと混ざったりヒッピー文化的になったり健康に関する概念と混ざったりして現代にいたる、という感じで詳しくやっていこうとすると頭痛のするカオスなのだが、この新書ではかなり要素を絞ってきれいに俯瞰できるように書いてあってすごく親切だった。筆力を感じる。19-20世紀の世界のオカルトの思想の流れをさらったあとで、日本の新宗教ではどのようにそれらを内包しているか、が描かれている。
日本の新宗教と書いたが、日本の新宗教も様々ある。事件を起こしてニュースになってる団体から、発足時期は政府によって弾圧されたものの現在は「あるよね」ぐらいに受け入れられていたり、ひっそり信仰を維持しているものまで色々で、この本でピックアップされている新宗教の団体はその中でも大きな事件があったり話題になりやすいところの解説なので、その点は留意。
オカルト入門にもってこいの新書なのでは、と思ったけど、これは自分がある程度ジャンル者だからそう感じるのか、ちょっと興味ある、ぐらいで読んでもそうなのかわからない。
あと、オカルトの難しいところは、批判的に書いている文章にも関わらず読者側が「そういうものが存在するのか!」と目覚めてオカルトにハマってしまう人もまあまあいて、���会いが勧誘ではなく批判だったりすることがあるので本当になんとも言えないのだ。
繰り返し言っておきますが、私はオカルト分野のものは色々読みますが信仰はしておらず(ただし無宗教というわけではない)、どちらかといえばオカルトに対して批判的な立場なのですが一周回って「あーそういうのあるよね、あるある、わかる、とっても身近」って言ってしまいがちなので、迂闊に話題にすると親和的な肯定派と読まれるので難しい。
まあべつに事件沙汰になるようなことをするのでなければ個人が何を信じていてもかまわないのでかまわないのだが、日本は宗教と政治が分割できない国なので(昨今の宗教団体との癒着以前に、天皇制が存在する時点でそうなのだ)、社会のありよう的になんとも言い難い。めんどう。
オカルトに関して批判する立場とは言ったが否定派とは言い難く(だってもう思想体系としては存在しているものだし整合性なんてこの世のたいていのものにはない。折り合いがあるかどうかだけ)、オカルトを嘲笑するためにオカルトジャンルのものを読んでるんではない。他者の文化がマジで何言ってるかわからんので分かりたくて色々読んでるうちに随分遠くまできたなというか、自分と違うものに触れる方法の難しさみたいなものがある。
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G01 『ゴジラ』(1954)
スタッフ 製作:田中友幸、監督:本多猪四郎、特殊技術:円谷英二/音楽:伊福部昭/原作:香山滋 、脚本:村田武雄、本多猪四郎
出演:宝田明、河内桃子、平田明彦/鈴木豊明、 山本廉 /村上冬樹、堺佐千夫/小川虎之助/菅井きん/橘正晃、池谷三郎/手塚勝巳、中島春雄/高堂國典/ 志村喬ほか
第1作『ゴジラ』はモノクロ(白黒)映画。画面は暗く、ボロボロで、役者のセリフもちょっと聞き取りづらい。70年も前の映画であるから、それは仕方がない。映像の保存状態が悪いのは古い日本映画の宿命である。
逆に言えば、それだけゴジラの歴史は長い。映画の解説というよりは歴史の授業になるが、制作・公開されたのは1954年=昭和29年で、太平洋戦争に敗れ、アメリカ・イギリス・中国ら連合国に対して無条件降伏をした1945年=昭和20年から、まだ10年も経たない頃だった。同じ年に公開された日本映画の名作は『七人の侍』『二十四の瞳』など。そして『ゴジラ』……やはりゴジラは日本の歴史の一部なのかもしれない。なにせ公開の2年前、サンフランシスコ講和条約が結ばれる1952年=昭和27年まで、日本は独立国家ですらなかった。 日本はアメリカを中心とするGHQ(連合国軍総司令部)によって占領されており、 非日常の暮らしが続いていたという意味では、まだ戦争は終わっていなかったのだ。これは現代の人間が「終戦記念日は1945年8月15日」と頭ごなしに覚えてしまうと逆に見えなくなってしまう事実で、 ゴジラと戦争の記憶は現代の人間が思うよりずっと近い場所にいる。
特撮マニアであれば当然知っていることだが、単にゴジラを単なる日本生まれの怪獣としてしか認識してい��い人は果たして知っているだろうか。ゴジラはアメリカによる水爆実験の放射能を浴びることによって生まれた古代の生物であり、広島・長崎に落とされた原爆の被害者と同じ、被爆者で���る。そして、映画公開の8ヶ月前の1954年3月に発生した「第五福竜丸事件」も無視できない。遠洋漁業に出ていた日本のマグロ漁船がアメリカの水爆実験に遭遇し、船員が被曝。平和な時代が来たはずなのにまたもや核兵器による日本人の犠牲者が出てしまい、大きな社会問題となっていた。だからゴジラが海から現われて文明を破壊しにやってくるのは自然か、あるいは神か、何者かの怒りを代弁する行為でもあり、人類が犯した罪をことさらに意識させるものであった。それならゴジラにはその元凶であるアメリカで暴れてもらうのが筋という気もするが、たまたま日本の近海を住処にしていたゴジラは大空襲の記憶もまだ生々しい東京に上陸。ようやく復興の兆しが見えてきた街はゴジラによってふたたび破壊し尽くされる。この理不尽な悲劇の連鎖もまた、戦時中の延長にあるものではないだろうか。ちなみに、映画の中に出てくる「原子マグロ」というセリフは、「第五福竜丸が戻った静岡の焼津港で水揚げされたマグロには放射能が含まれている」という風評被害が出回ったことを指している。
また、昭和20~30年代の日本映画では、登場人物の肉親が空襲や戦闘で亡くなっていたり、かつて豊かだった一家が戦争を境に貧乏になっていたり、まだまだ日常に戦争が残っていた時代の映画には、戦争映画でなくてもそういう設定が当たり前のように出てくる。本作に登場する芹沢博士(平田昭彦)もそうした設定のもとに描かれる人物で、右目は眼帯で隠れており、それについてはほとんど説明がないのだが、これは戦争で負傷したものだと思われる。そんな社会的背景のさなかに生まれた大怪獣・ゴジラが映画のスクリーンの中でどのように暴れ、観客にどのくらい大きな衝撃を与えたのか? もしかすると、この映画を観ることで当時の日本人の気持ちを追体験できるかもしれない。
多くの観客に共感し、楽しんでもらうために、映画はしばしば「社会を写す鏡」になる。例えば、生物が放射能を浴びて巨大化、あるいは凶暴化する…という設定は、 『原子怪獣現わる』や『放射能X』など、『ゴジラ』より少し早い時期のハリウッ��産のモンスター映画ですでに見られたものだが、唯一の被爆国である日本人がこの設定で映画を作るとなると、単なるエンターテインメントを超えた説得���がおのずと含まれることになる。監督の本多猪四郎(ほんだ・いしろう)が終戦までの8年間、映画の現場を離れて従軍していたことも『ゴジラ』に託されたテーマと大きな関係があるだろう。かくして単に怪獣が街を壊すだけの娯楽映画だったはずの『ゴジラ』は、結果として「社会を写す鏡」になった。公開初日=11月3日から観客は映画館に長蛇の列を作り、その一方で新聞や雑誌といったマスコミからは『ゴジラ』は時事ネタをうまく取り入れ、ジャーナリスティックな視点を持った「反戦・反核映画」として、一定の評価もされることにもなった。
本作の特撮場面を手がけ、のちに『ウルトラマン』などを生んだ特技監督・円谷英二(つぶらや・えいじ)のクレジットは「特殊技術」。あくまでも技術スタッフの責任者、といったところだ。それに当時は「特撮映画」という言葉はまだ生まれていない。映画の歴史の初期からいわゆる特撮を目玉にしていた作品は忍者が忍術を使うチャンバラ映画などいくつかの例があるが、『ゴジラ』以前は「トリック映画」「見世物映画」などという説明がついていた。インチキで、安上がりで軽い。そんなニュアンスが読み取れる。ところが『ゴジラ』はどうだろう? 日本人に戦争のトラウマを蘇らせることも厭わない、容赦のない破壊スペクタクル。未来に生きる我々が戦時中の空気感を知ろうと思うなら、(もちろん戦中の作品を観るに限るのだが)もしかするとこの映画を観たほうがよりとっつきやすい形でわかるような気がするのだ。当然のことながら、この戦争の影を引きずった陰鬱なムードは戦後の復興を経て、シリーズが進むごとに消えていく。その後ゴジラは2代目、3代目と続いていくので、本作のゴジラは「初代ゴジラ」とも呼ばれている。昭和29年という時代のなかで傷つき、苦しみながら産声を上げるゴジラの初姿を、しっかりと見届けてほしい。
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特別回: 長崎旅行編
今回の旅行を一言で: 旅のパートナーとしてのりおっぴは偉大。
7月2日
・お昼の便で成田から長崎へ。
・タイムズの72時間パックで新型ノアを借りる。
・旧香港上海銀行長崎支店記念館に行く。
・軍艦島デジタルミュージアムに行く。
・大浦天主堂とグラバー邸の目の前まで行くが、なぜか中に入る失せる。
・長崎孔子廟中国歴代博物館の目の前にも行くが、入場料600円の文字が目に入り、またも入る気が失せる。
・三八ラーメン大浦支店で皿うどんを食べる。太麺って言うの忘れてがっかり。
・日栄湯(入湯料400円)へ行った。良き。
・長崎水辺の森公園で車中泊。ワイン2本開けて死ぬほど酔った。どうやら、田村→川本隆史(zoomゼミ)→高野と通話をはしごしてたらしい。どうやって寝たか記憶がない。3mmくらい自己嫌悪。
7月3日月曜日
・出島和蘭商館跡へ行く。あまりの天気の悪さと二日酔いでぐでぐでになり、15分くらいで退散する。でも、めちゃおもろしかったから年パス買った。
・デイリーヤマザキの駐車場で2時間ほど横になって休憩する。
・長崎原爆資料館へ。有料の音声ガイド使ってみた。かなり良かった。これから博物館では積極的に使おう。その後近くに路駐し���3時間ほど昼寝する。
・出島和蘭商館跡にもう一度いく。なにせ年パス買ったから入り放題。無料ガイドツアーやってたから参加する。なかなか良かった。
・皿うどん食べる。今度は太麺。やっぱり味の素は偉大だ。
・別の銭湯(入湯料400円)に行く。前回のところもそうだったが、東京ではなかなかみられないノスタルジックな銭湯がまだまだ多く長崎には残っている。
・夜に山本と合流する。そしてこの日3回目の出島和蘭商館跡に行く。
・稲佐山展望台で、”1000万ドルの夜景”を見る。夜景って本来ブルジョワのものだって思ってるから特に違和感なかったけど、下品なキャッチコピーだって言われてハッとした。
というか、まさかこの夜景を二度も見ることになるとは、いやはや人生はわからん。
ちなみに前回はめちゃくちゃ見晴らしよかったけど、今回は濃霧でなにがなんだかって感じだった。
・道の駅 夕陽が丘そとめで車中泊。半額の寿司を3パックかって、地酒で流し込む。
7月4日月曜日
・遠藤周作記念館へ行く。
・音浴博物館へ行く。ここはめちゃくちゃ良かった。
・海上自衛隊 佐世保史料館 (セイルタワー)へ行く。
・500ml缶ビールを5本とスト缶1本を買い込み、佐世保バーガーも3つ買う。酒を3Lも飲んでバカなのかな。
させぼっくす99で車中泊する。結局カラオケ大会になった。
7月5日火曜日
・旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館(市民文化ホール)へ行く。なかなか香ばしい展示だった。
・旧佐世保無線電信所(針尾送信所)へ行く。ヘルメット着用義務があり被る。あまりの顔のデカさにヘルメットが浮く。
・途中蕎麦屋に寄る。帝国ホテルの元シ���フがいるらしく、シャリアピンステーキを格安で食べることができた。もちろんそばも素晴らしい。
・四次元ぱーらーあんでるせんに一瞬寄る。たくさん人が並んでた。
・14:30のフライトで東京へ。
・帰宅してクタクタになったから、熱い風呂に入り酒を飲み優勝する。
・むくむくと気分が上がってきてジムに行けそうな気がしてきた。歩きの道中でpodcastsの収録もしてジムもする。ぼくって天才だ…!
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#Nowpraying for #peace in #Hongkong People made history. So people can make history. #香港歴史博物館 #学び #知性 #教養 #香港 (Hong Kong Museum of History) https://www.instagram.com/p/B1uQXe8hbZx/?igshid=1qhirw9yvh5fp
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622 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2021/04/16(金) 13:03:55.74 ID:9SSiHJ3o中国は文革で品格方正な人を一掃しちゃったからなあ物理的にも論理的にも623 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2021/04/16(金) 14:55:00.47 ID:k59rSN1R>>622歴史が苦手なので、解るように教えて下さい643 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2021/04/16(金) 22:20:13.84 ID:WBLIhY2p>>623中国は文化大革命の際に、知識人や宗教人や文化人を反革命分子として弾圧した共産主義自体がこれら層を労働者の敵扱いしていて「泥と汗にまみれて働くのが尊い」て考えが根底にある伝統文化や伝統産業の従事者達も、旧王朝の庇護を受けていたからと迫害対象返還前の香港映画の「覇王別姫」は、中国文化を尊重してくれたのは日本軍で共産党は迫害して破壊する存在だった、て皮肉な現実が描かれている(なので現在は香港では視聴は困難な作品)654 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2021/04/17(土) 05:28:49.56 ID:Eo/UHGDK>>643日本人が中国のツボとか書とか画とかを結構持ってたから、今中国人が買い戻してるんだよね。655 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2021/04/17(土) 07:43:11.28 ID:QqAg4hn6>>654文化大革命の時に文化財は破壊対象だったんだよね反革命分子とされた層が持っていたから旧弊な社会の象徴として貴重な青銅器とか潰されて農機具とか、毛沢東の銅像にされたまた、文化財を目利きしたりメンテナンスする人も迫害粛清されたので技術が断絶文革後も貴重な書画をセロテープで補修するてのが国立レベルの博物館とかでも当たり前のように行われた(その後、香港や台湾に逃れた人を呼び戻したり、担当者を国外に留学させたりで今はかなりマシな状態に)昔、上野の国立博物館で中国と台湾の双方の故宮博物院展が開催されたが文化財の保存状態は素人目にも歴然とした差が有った
続・妄想的日常
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2021.6.27(日)
昼過ぎまで雲が多くいつパラッと来てもおかしくないよな空模様。空気はモワッとして夏の空気。夕方近くは北九州(門司港)にいて、快晴が広がってました。
牛めし松屋でカレーを食べて、
原田駅でキハ66・67の団体臨時列車「リバイバルながさき号」の様子を撮影するつもりが出発が遅れてしまい間に合わず。
列車は原田から筑豊本線を上りました。どこかで追いつけないかと車で追いかけてみたものの列車には追い付けません。3度ほど列車の姿を目にしましたが差を広げられるばかりでした。停車時間が長いことを期待した直方駅も停車時間は長くもなく、列車が先に出発してました。これから先は市街地に入るばかりです。「こうなれば」と、北九州都市高速のはぼ端から端まで利用して列車の目的地である門司港へ向かいました。
↓ 門司港駅オリジナルの入場券(料金は通常の170円)
まもなく17時 ~ 入線は 17:33 の予定。
青空が広がってました。
歴史がありそうな蛇口をホームで発見。
415系
711系に813系を連結 ~ 2番のりばのこの列車が出発した後に臨時列車は入線しました。
先頭車につけられていた「シーサイドライナー」のヘッドマークは外されて、
乗客の皆さんは22時過ぎに再び乗車して、長崎まで夜行列車を体験しながら戻ります。それまで、列車は留置線で待機です。
(入線・入替の様子はまたいずれ)
↓ 鉄道博物館の展示車両
駅舎の先は門司港
帰りは一般道を通って帰りました。今日は日曜日でしたが交通量は少ないようで一般道もスイスイ進めました。
信号停車中 ~ ここの交差点を左折です。
田川・飯塚・八木山バイパスを通りました。交差点を曲がったのは数えるほどで、ひたすら真っ直ぐです。
交通量が少ないからでしょうか、殺人的なスピード(どう見ても100キロ超え)で信号無視をする車(運転手)がいました。交差点を青信号に変わって曲がろうとした目の前をぶっちぎっていきました。端から止まる気がないのか、止まれないとみて逆にアクセルを踏んだのか知りませんが酷すぎます。福岡市内で時速100キロ超で中学生���撥ね殺しといて「メーター見てなかったので何キロ出てたかわからい。50~60キロくらかな。」などとすっとぼけた運転手がいましたが、同じです。場所は香春町採銅所付近の国号322号線バイパス(新線)から旧線にでる交差点でした。福岡の運転手は逮捕後、「あおり運転が癖になっていた。」と言ってたそうで、近所の人は「いつかこんなことになるんじゃないかと思っていた。」そうです。日ごろから危険な運転を繰り返していたようです。(死亡事故は5月、福岡市早良区の城西橋。あの場所で100キロ走行はあり得ません。)
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Unknown Image Series no.8 #2 鈴木のぞみ「Light of Other Daysー土星の環」 Nozomi Suzuki "Light of Other Days - The Rings of Saturn"
void+では、Unknown Series no.8 #2 鈴木のぞみ個展「Light of Other Days-土星の環」を7月31日より開催いたします。本シリーズ2回目となる鈴木は、何気ない日常の事物に潜む潜像のような記憶の可視化を、写真の原理を通して試みています。その作品は静かで控えめでありながら、写真の本質をとらえた独自の構造と豊かさ、広がりがあり、見る人の想像力に働きかけます。
近年は、東京都写真美術館、埼玉県立近代美術館、MOTサテライトなどの国内の主要な美術館や場で発表を続け、昨年は、ポーラ美術振興財団在外研修員としてイギリスのロンドンとベルファストに滞在していました。この地で鈴木が出会ったアンティークの眼鏡や舷窓、そして、ベルファスト出身のSF作家であるボブ・ショウやイギリスを旅したドイツの作家W・G・ゼーバルトの書物からインスピレーションを受けた本展は、帰国後初の個展となります。
また、今回は、埼玉県立近代美術館学芸主幹の梅津元氏をゲストに迎え、作家にメールインタビュー*を行います。Unknownシリーズにおいては初の試みとなります。この記録はvoid+のHPで後日発表予定ですので、個展をご覧になるとともに、ぜひお読みくださいますようお願いいたします。
(*大変申し訳ございませんが、予定されていたトークイベントは、感染症流行のため中止となりました)
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<展覧会概要>
■タイトル:Unknown Image Series no.8 #2 鈴木のぞみ「Light of Other Days-土星の環」 ■会期:2020 年7月31日(金)— 8月21日(金)14:00-18:00 ■メールインタビュー:鈴木のぞみ+ 梅津元(埼玉県立近代美術館学芸主幹/芸術学) ■会場:void+ 東京都港区南青山3-16-14, 1F ■定休日:日、月、祝日 ■お問合せ:[email protected]
[主催]void+/Unknown実行委員会 [企画]カトウチカ [協力]rin art association/Pola Art Foundation
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Light of Other Days -土星の環 について
イギリスで過ごした日々の中で、写真の黎明期とともに発展したヴィクトリア朝とそれ以降の土着的な文化において、人々のまなざしを拡張した事物の潜在性を顕在化したいと思索していた。
展覧会タイトルの《Light of Other Days》は、ベルファスト出身のSF作家であるボブ・ショウによって1966年に書かれた短篇から引用している。物語の中に登場する、過去の光を遅れて届ける魔法のガラスである〈スローガラス〉という発明品は、それ自身が写真そのもののようである。
《土星の環》は、晩年を東イングランドで過ごしたドイツの作家 W・G・ゼーバルトによって1995年に書かれた書物のタイトルから引用した。脱線と連想を繰り返しながら、ヨーロッパ帝国主義の史実と文学への思索による断片が、イギリスの地を巡礼するゼーバルトの足どりとともに散りばめられ、記憶を想起するような書物だ。
私はこれらの書物を参照し、事物に残された痕跡からその来歴を辿ることを試みた。かつての人々の営みへと想いを馳せ、事物に宿る記憶のようなまなざしを写真によって可視化してみたい。〈スローガラス〉を通してそれぞれの事物が孕む小さな物語と私たちのまなざしが交叉し、新しい物語が紡がれる場となることを願って。
(2020年6月 鈴木のぞみ)
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まなざしの余白
展示空間には、円形のまなざしが浮遊している。窓、眼鏡、ルーペ、カメラ・オブスクラ、望遠鏡、そして人間の双眸……。
それらは何を見てきたのか。鈴木の紡ぎだす空間は、それ自体がカメラの構造を孕んでもいる。そこでは、時間と光に関わる事物のイメージ、形、物語が浮遊しながら連鎖する。
本来、生命も意思も持たないはずの事物が、感光性を与えられ、身体とまなざしを獲得する。客体であったはずのものが主体となる。その透明なまなざし。これらの蒐集された事物を使っていた人々は、すでにこの世界にいない。だが、人とは別の時間を蓄積してきた事物はまだそこに残っていて、かつてそこにあった風景や物語のかけらを写し出し、見る人の感情を揺さぶる。過去の光と影、言葉を写した一片は、人々を果てしない時間の旅に誘う。空間を訪れた人々の間で共有されながら、その内面で個々に変化する物語。小さき事物のまなざしの余白は、見えざるイメージと物語で満ちている。
死者、生者、事物、空間、時間、光、あらゆるまなざしと記憶が交錯する場で、私たちはその中の一粒となり、全体ともなるのだ。
カトウチカ(Unknown Series キュレーター)
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鈴木のぞみ SUZUKI Nozomi
1983年 埼玉県生まれ。東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程在学中。何気ない日常の事物に潜む潜像のような記憶の可視化を、写真の原理を通して試みている。現前しているが不在であるという性質を持つ写真を事物に直接定着することで、写真に触覚的な身体のようなものが付与され、過ぎ去りゆく時をいまここに宙づりにする。近年の主な展示に「あした と きのう の まんなかで」(はじまりの美術館、2019)、「MOTサテライト2018 秋 うごきだす物語」(清澄白河、2018)、「無垢と経験の写真 日本の新進作家vol.14」(東京都写真美術館、2017)、「NEW VISION SAITAMA 5 迫り出す身体」(埼玉県立近代美術館、2016)など。受賞歴多数。平成30年度ポーラ美術振興財団在外研修員としてイギリスにて研修。
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梅津元 UMEZU Gen
埼玉県立近代美術館学芸主幹。専門は芸術学。同館での主な企画(共同企画を含む)に「DECODE/出来事と記録ーポスト工業化社会の美術」(2019)、「版画の景色 現代版画センターの軌跡」(2018)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相ー大地》が生まれるまで」(2005)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「<うつすこと>と<見ること>ー意識拡大装置」(1994)など。ギャラリーαMでの企画に「トランス/リアルー非実体的美術の可能性」(2016-17)がある。美術手帖や展覧会カタログなどに寄稿多数。
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<Unknown Image Series no.8 展覧会>
未知のイメージを創出する
イメージが持つ力と本質を探り、未知のイメージを創出する。
この世界においては、日々膨大なイメージが生まれては消えていくが、ときに稀有なイメージが出現する。今回の参加アーティストは、三田村光土里、横山奈美、鈴木のぞみ、山元彩香、庄司朝美の5名。連続する個展の形式をとる。各回のトークイベントとテキストのゲストには、光田由里、梅津元、飯田志保子、中村史子、中尾拓哉らを招く。 シリーズの終了後にはバイリンガルの記録集を制作し、本というメディアにおいても新たな表現の展開をはかっていく。
女性たちがつくるイメージ
Unknown Imageのシリーズは、イメージをテーマに、今、注目すべきアーティスト一人一人の作品とその世界を深く掘り下げ、その可能性をさらに見出していく場でもある。今回は、はからずも全員が女性アーティストとなった。
初回の山元彩香は、言葉の通じない国で神秘的なまでの美しさと暴力性をもつポートレートを撮影する。被写体の名前や意識すら剥ぎ取り、空の器にしようとしても残るものとはなんなのか。鈴木のぞみは、写真や時間の原理の静かな探求者である。生命なき事物に「視線」と「記憶」を出現させ、写真に身体のようなものを与える。横山奈美は、絵画の大きな歴史と私的な小さな歴史を交錯させ、日常の取るに足らないものたちの美しさや、明るく輝くものの背後にある存在を描き出す。庄司朝美の描線は、舞台のように見る人を引き込む物語性と、生命と死のエネルギーに満ちた身体的絵画空間をつくり出す。三田村光土里は、このシリーズではもっともキャリアの長いアーティストである。ごく私的なイメージや言葉の数々は、写真、映像、オブジェ、ドローイング、インスタレーションとなるが、それらは個人の物語やアートの枠組みを越えて普遍性を帯び、見る人の心を捉えて離さない。そして、ゲストは性別や年代は幅広いが、いずれも芸術の発生の現場において、極めて優れた批評の言葉を紡いできた方々である。
美術史において、かつて周縁の存在であった女性アーティストたちは、今、最先端にいる。彼女たちがつくるイメージはどのようなものなのか。なぜそれを生み出さねばならなかったのか。参加者の出自やキャリア、テーマ、歴史や現在の状況との向き合い方、その目指すところも様々である。だが、彼女たちの存在と彼女たちがつくるイメージは、それぞれに強く鮮やかだ。その未知のイメージは見る人を深く静かに揺るがし、世界に多様な変化を生み出す力ともなっていくだろう。
カトウチカ
<Unknown Image Series no.8 今後のスケジュール>
#3|庄司朝美 [会場/会期]未定
ゲスト:光田由里(DIC川村記念美術館学芸員) *開催を予定していたHIGURE 17-15 casですが、新型コロナウイルス感染症を考慮した上、当面の間休廊することとなりました。新しい会場と会期が決まり次第、発表いたします。
#4|横山奈美 [会場]void+ 2021年5月(予定) ゲスト:飯田志保子(キュレーター)
#5|三田村光土里 [会場]HIGURE 17-15 cas 2021年(予定) ゲスト:中尾拓哉(美術評論家)
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Unknown Image Series no. 8 #2 “Light of Other Days – The Rings of Saturn,” an exhibition of work by Suzuki Nozomi, will open at void+ on July 31. In this second exhibition in the series, Suzuki endeavors to render visible by means of photographic principles the memories, akin to latent images, that dwell in mundane, everyday objects. These works may be calm and understated, but their unique structure, richness, and expansiveness, which together capture the essence of photography, mean they are sure to fire the viewer’s imagination.
Recent years have seen Suzuki present work in major museums and other venues around Japan, including the Tokyo Photographic Art Museum, Museum of Modern Art, Saitama, and MOT Satellite, and last year she also spent time in London and Belfast on a POLA Art Foundation overseas study grant. This exhibition inspired by the antique spectacles, portholes and similar objects Suzuki encountered during her stay in the UK, plus books by Belfast sci-fi writer Bob Shaw, and the German author W.G. Sebald, who traveled around Britain, will be her first solo show since returning to Japan.
In a first for the Unknown series, there will also be an email interview* with the artist, courtesy of Umezu Gen, curator at the Museum of Modern Art, Saitama. A transcript of the interview will be posted at a later date on the void+ website, as an informative accompaniment to the exhibition.
*We regret the scheduled talk event has been cancelled as a measure against COVID-19 transmission.
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<Exhibition>
■Title: Unknown Image Series no.8 #2 SUZUKI Nozomi “Light of Other Days-The Rings of Saturn” ■Exhibition Period: 2020.7.31(fri) — 8.21(fri) 14:00-18:00 ■Email Interview: SUZUKI Nozomi + UMEZU Gen(Curator, The Museum of Modern Art, Saitama / Art Studies) ■Venue: void+ 3-16-14, 1F, Minamiaoyama, Minato-ku, Tokyo ■Closed: Sundays, Mondays and holidays ■Inquires: [email protected]
Organized by void+/ Unknown executive committee Curated by KATO Chika In cooperation with rin art association / Pola Art Foundation
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About “Light of Other Days – The Rings of Saturn”
During my time in the UK, I mused on the idea of revealing latent images of objects that have served to expand the human gaze, in the context of the vernacular culture of Britain since the Victorian era, a period in which the nation’s development coincided with the dawn of photography.
The title of the exhibition, “Light of Other Days,” is taken from a short story written by Belfast sci-fi author Bob Shaw in 1966. The magical “slow glass” of the story, an invention that delivers delayed light from the past, could for all the world be photography itself.
“The Rings of Saturn,” meanwhile, is borrowed from the title of a 1995 work by German author W. G. Sebald, who spent his later years in the east of England. Sebald’s English pilgrimage is accompanied by scattered snippets of thought; meditations on the true history of European imperialism, and on literature, laced with digressions and connections, as if recalling memories.
Using these works for reference, I attempted to trace the history of objects from the marks left on them. Turning my thoughts to the endeavors of past people, my aim is to use photography to render visible the memory-like gaze that dwells in objects, in the hope that through “slow glass” the little narratives filling each of these objects will intersect with our gaze, and create settings for the spinning of new stories.
(SUZUKI Nozomi, June 2020)
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A blankness of gaze
Circular gazes—windows, eyeglasses, magnifiers, camera obscura, telescopes, and pairs of human eyes—float in the gallery space.
What have they seen? The very space spun by Suzuki also harbors the structure of a camera, images, shapes and narratives of things related to time and light, floating and forming links therein.
Things originally devoid of both life and thought are given photosensitivity, and acquire body and gaze. What should be objects, become subjects, all clear gazes. The people who used these collected items are no longer of this world. Yet, accumulating a different time from humans, they remain, describing pieces of the landscapes and narratives once there, and stirring complex emotions in those who see them. Fragments portraying the light and shadow, the words, of the past, invite people on an endless journey through time. Stories are shared among those who visit the space, each changing within each visitor. The blank gaze of these small items is suffused with unseen images and narratives.
In a place where dead and living, objects, space, time, light, all manner of gazes and memories intersect, we constitute just another tiny piece, and also, the whole.
KATO Chika (Unknown Series curator)
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SUZUKI Nozomi
Born 1983 in Saitama, Japan. Currently in the doctorate course of Intermedia Art at Tokyo University of the Arts. Suzuki Nozomi attempts to visualize, through the principles of photography, the memories resembling latent images submerged in innocuous everyday objects. Fixing photographs, which have the characteristic of being present yet absent, directly to objects, she assigns photographs something like a tactile body, suspending passing time in the now. Recent group exhibitions include “In the middle of tomorrow and yesterday” (Hajimari Art Center, 2019), “MOT Satellite 2018 Fall: To Become a Narrative” (Kiyosumi-Shirakawa, 2018), “Photographs of Innocence and of Experience: Contemporary Japanese Photography vol.14” (Tokyo Photographic Art Museum, 2017), and “New Vision Saitama 5: The Emerging Body” (The Museum of Modern Art, Saitama, 2016). Among a number of other awards, she was recipient of the POLA Art Foundation Grant for Overseas Research in 2018, under which she studied in the UK.
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UMEZU Gen
Curator, The Museum of Modern Art, Saitama, specializing in art studies. Exhibitions he has organized/co-organized at MOMAS include ”DECODE / Events & Materials: The Work of Art in the Age of Post-Industrial Society” (2019), “A View of Prints: Trajectory of the Gendai Hanga Center” (2018), “100th Birth Anniversary, Q Ei” (2011), “Artist Project: Toward the Emergence of Sekine Nobuo’s Phase – Mother Earth” (2005), “Donald Judd 1960–1991” (1999), and “Visualization in the End of the 20th Century” (1994). He also organized as guest curator the Gallery αM series “Trans / Real: The Potential of Intangible Art” (2016-17). He has contributed a great number of essays to the art magazine Bijutsu Techo, as well as to art catalogues and books.
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<Unknown Image Series no.8 exhibitions>
Creating unknown images
Exploring the power and essence possessed by images, to create unknown images.
A vast number of images are generated every day in this world, only to vanish, but just occasionally, some extraordinary images do emerge. The artists in this eighth Unknown exhibition are Mitamura Midori, Yokoyama Nami, Suzuki Nozomi, Yamamoto Ayaka, and Shoji Asami, who will stage consecutive solo shows. Those serving as guests for the talk events for each of these shows, and providing the texts, will include Mitsuda Yuri, Umezu Gen, Iida Shihoko, Nakamura Fumiko, and Nakao Takuya. After the series is finished a bilingual document will be produced, thus extending the exhibition into another form of expression: that of the book.
Images made by women
The Unknown Image series is also an opportunity to delve deeply into the individual work of some of today’s most noteworthy artists and their worlds, identifying further possibilities for each. This time, albeit not by design, all the artists are female.
Yamamoto Ayaka, featured in the first of the exhibitions, travels to countries where she does not speak the language, and takes portrait photographs suffused with a beauty and violence verging on the mystical. What is it that remains even when everything is stripped from her subjects, down to their names and consciousness, in an attempt to turn them into empty vessels? Suzuki Nozomi is a quiet explorer of the principles of photography and time. Endowing non-living things with a “gaze” and “memory” she gives her photos something like a physical body. Yokoyama Nami blends the vast history of painting and small personal histories to depict the beauty of everyday, insignificant things and what lies behind the bright and shiny. Shoji Asami’s lines create a narrative quality that draws the viewer in like a stage, and a corporeal painterly space suffused with the energy of life and death. Mitamura Midori is the artist in this series with the longest career. Her many very personal images and words are presented in photographs, videos, objects, drawings and installations, that go beyond individual stories or the confines of art, taking on a universal quality that irrevocably captures the heart of the viewer. The guests, meanwhile, are a varied lineup in terms of age and gender, but all individuals on the frontlines of art creation, of superb critical talent.
Once a marginal presence in art history, female artists are now at its cutting edge. What kind of images do these artists make? Why have they felt the need to produce them? The artists participating in these exhibitions have different origins and career trajectories, different ways of engaging with their themes, with history and current circumstances, and different aims. Yet their presence, and the images they create, are without exception strong and vibrant. Their unknown images will quietly shake the viewer to the core, and likely serve as a force for many types of change in the world.
KATO Chika
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<Unknown Image Series no.8 exhibitions schedule>
SHOJI Asami Venue and period: TBD Guest: MITSUDA Yuri (Curator, Kawamura Memorial DIC Museum of Art) *HIGURE 17-15 cas, where the exhibition was to be held, is closed for the time being in light of the COVID-19 pandemic. The new dates and venue for the show will be announced as soon as they are determined.
YOKOYAMA Nami @ void+ May 2021 (TBD) Guest: IIDA Shihoko (Curator)
MITAMURA Midori @ HIGURE 17-15 cas 2021 (TBD) Guest: NAKAO Takuya (Art critic)
写真:森政俊 2枚目の舷窓の写真:鈴木のぞみ
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イタリアにおける新型コロナウイルス感染状況は、凄まじいばかりだ。「全土崩壊前夜」といった類の煽り気味で絶望的なニュースが飛び交う。
だが、なぜイタリアでこれほど感染が拡大したのか、といった視点が決定的に欠落しているように思える。
そこで、鄧小平が断行した対外開放、つまり「中国人の移動」という観点からイタリアを襲っている惨状の背景を考えてみたい。
おそらくイタリア社会における中国人――その大部分は対外開放以後に海外に「走出去」して飛び出して行った新華僑世代――の振る舞いを捉えることで、ヨーロッパ全体を覆いつつあるパンデミック危機の背景を知ることが出来るはずだ。
中国人がいないと米作りが成り立たない 今から7、8年ほど前になるが、香港の中国系書店で『“不死的中国人”――他們干活、掙銭、改変着意大利、因此令当地人害怕』(社会科学文献出版社 2011年)なる書籍を購入した。
地下にしっかりと根を張りながら咲き誇るタンポポの表紙に魅かれたと同時に、日本語に訳すと『“不死身の中国人”――彼らは働いて、カネを稼いで、イタリアを変えている。だから土地の人に怖がられる』となる書名が醸し出す反中・嫌中の雰囲気が気になったからだ。
それにしても不思議に思ったのは、この本が北京の出版社から刊行され、しかも香港の中国系書店に置かれている点だった。
じつは、この本は中国人が著したものではなく、2人の若いイタリア人ジャーナリストがイタリア全土を駆け巡り、イタリア社会で生きる中国人の姿を克明に綴った
『I CINESI NON MUOIONO MAI:LAVORANO,GUADAGNANO,CAMBIANO L’ITALIA E PER QUESTO CI FANNO PAURA』(R.Oriani&R.Stagliano Chiarelettere 2008)
の翻訳である。
筆者にはイタリア語が分からないので、翻訳の出来不出来は判断のしようがない。が、なにはともあれページを追ってみた。
すると、中国人のイタリア社会への逞しくも凄まじいばかりの浸透ぶりが、溢れんばかりに綴られていた。
たとえば西北部の穀倉地帯として知られるピエモンテでのこと。
1980年代末に「紅稲」と呼ばれる雑稲が突然変異のように発生し、増殖をはじめ、稲の生産を急激に低下させた。ところが紅稲は除草剤や除草機では駆除できない。やはり1本1本を人の手で丁寧に抜き取るしかない。だが、肝心の単純労働力は不足するばかり。
そこへ、農家の苦境をどこで聞きつけたのか、大量の中国人がやって来た。イタリアで半世紀以上も昔に忘れ去られてしまった田の草取りの方法のままに、彼らは横一列に並んで前進し、紅稲を抜き取っていく。
<7、8月の灼熱の太陽を受け泥に足をとられながら、手足を虫に咬まれ、腰を曲げ、全神経を紅稲に集中する。想像を超える体力と集中力、それに一定の植物学の知識が必要だ。紅稲は一本残らず抜き取らなければ正常な稲に害が及ぶ。抜くべきか残すべきかを知っておく必要がある>(同書より抜粋)
過酷な作業ながら収入は少ない。だが喜んで中国人は請け負う。
ある日、田圃で中国人が脱水症状で倒れた。彼らに「健康を考慮し、明日からは10時間以上の作業を禁ずる」と告げた翌日、雇い主が田圃に行ってみたが、誰もいない。慌てて宿舎に駆けつけると、彼らは荷物をまとめて立ち去るところだった。
「毎日10時間しか働けないなんて、時間のムダだ」と、口々に言う。雇い主は、「中国人は疲れることを知らない。気が狂っている」と呆れ返る。
かくして同書は、「中国人がいないとイタリアの米作りは成り立たなくなってしまった」と嘆く。
「中国人って1カ所には留まらない」 農業に次いで、大理石の石工、ゴミ処理工場労働者、ソファー・皮革・衣料職人、バー、レストラン、床屋、中国産品の雑貨商などが中国人に依存するようになり、中国人はミラノを「イタリアにおける中国人の首都」にして、ありとあらゆる産業を蚕食していった。
その大部分は浙江省や福建省の出身者で、多くは非合法でイタリア入りしている。教育程度は他国からの移民に比較して低く、それゆえイタリア社会に同化し難い。
苦労をものともせず、倹約に努めるという「美徳」を備えてはいるものの、それ以外に目立つことといえば博打、脱税、密輸、黒社会との繋がりなど……。どれもこれも、胸を張って誇れるビジネスではない。文化程度の低さは、勢い生きるためには手段を選ばないことに繋がる。
これがイタリアで増加一途の中国人の現実である。
イタリア人は彼らを通じて中国を知る。だが中国人は、そんなことはお構いナシだ。
子供をイタリアの学校に通わせ、イタリア人として育てようとしている両親もいることはいるが、カネ儲けに邁進しているので、学校や地域社会で偏見に晒されている子供の苦衷なんぞを推し量る余裕も意識も持ち合わせてはいない。
同書の著者が、アンナと呼ばれる20歳の美しい中国娘に「夢は?」と尋ねる。すると彼女はこう答える。
<夢! そんなもの知らないわ。中国人って1カ所には留まらないものなの。あっちがよければ、あっちに行くわ。おカネの儲かり次第ってとこね。この地に未練なんてないの。もう14年は暮らしたけど、とどのつまりは行きずりのヒトなのネ……>
この印象的なシーンで、同書は終わっている。
アンナも他の中国人と同様に「とどのつまりは行きずりのヒト」なのだろう。
だが、新型コロナウイルスが「行きずりのヒト」と共に世界中を動き回ったとするなら、イタリアのみならず人類にとっては、やはり危険過ぎるというものだ。
対外開放でカネ・ヒト・モノが流入 1975年の時点で、イタリアでは400人前後の中国系住民(旧華僑世代)が報告されているが、鄧小平が対外開放に踏み切った1978年末から7年ほどが過ぎた1986年には、1824人になっている。
以後9880人(1987年)、1万9237人(1990年)、2万2875人(1993年)へと急増していったが、彼らは新華僑世代である。1990年代半ば、新華僑はイタリア在住外国人としては6番目の人口を擁していた。
1986年から1987年の間の1年間に見られた5倍以上の増加の主な要因は、1985年1月にイタリア・中国の両国間で締結(同年3月発効)された条約によって、イタリアへの中国資本の進出が促された点にある。
人民元(カネ)と共にヒト、つまり中国人労働者が大量にイタリアに送り込まれるようになった。また中国料理・食品(モノ)への嗜好が高まったことも、中国人労働者(ヒト)の流入に拍車を掛けたはずだ。カネ・ヒト・モノが中国からイタリアに向かって流れだしたのだ。
新華僑世代も旧華僑世代と同じように、同郷・同姓・同業などの関係をテコにして「会館」と呼ばれる相互扶助組織を持つようになる。1980年代半ばから1990年代末までの10年ほどで十数個の相互扶助組織が生まれた。これこそ新華僑世代増加の明らかな証拠だろう。
商品の発送元は温州市 彼らは強固な団結力をテコに、自らの生活空間の拡大を目指す。
たとえば、2010年前後のローマの商��地区「エスクィリーノ地区」には、衣料品、靴、皮革製品などを中心に2000軒を超える店舗がひしめいていたが、その半数は中国人業者が占めていた。
現在はそれから10年ほどが過ぎているから、その数はさらに増したと考えて間違いないだろう。
彼らが扱う商品の発送元は、浙江省温州市である。温州は、遥か昔の元代(1271~1368年)から中国における日用雑貨の一大拠点として知られる。新型コロナウイルスを巡っては、2月初旬に湖北省武漢市に続いて封鎖措置を受けた。
ローマの商業地区と新型コロナウイルスによって危機的レベルにまで汚染された中国の都市がモノとヒトで日常的に結ばれていたことを考えれば、イタリアの惨状が納得できるはずだ。
友人のイギリス人は、感染拡大の背景にはイタリア人の生活様式もあると指摘する。
イタリア人はオリーブやトマトといった健康的な食生活によって、肥満の多い欧州先進国においては珍しいほどに長寿国で、高齢者が多い。周辺先進国に比べて核家族化が進んでおらず、3世代同居も珍しくない。特に高齢者には敬虔なカトリック信者が多く、教会でお椀を共有してワインを飲む習慣があるという。
であるとするなら、中国人の「移動」という極めて今日的要因がイタリアの社会的・文化的伝統という“宿主”を得たことで、被害の拡大に繋がったとも考えられる。
中国人の数は40万人超 いま手元にある『海外僑情観察 2014-2015』(《海外僑情観察》編委会編 曁南大學出版社 2015年)を参考にし、近年のイタリアにおける中国人の状況を素描しておきたい。
中国人の人口は全人口の0.49%で30万4768人(2013年1月1日現在)。これに非合法入国者を加えると、実際は40万人超ではないか。
中国系企業が集中している地方は西北部のロンバルディア(1400社)、中部のトスカーナ(1万1800社)、東北部のヴェネト(8000社)、北部から中部に広がるエミリア・ロマーニャ(6800社)であり、貿易を主にして2万5000社前後。他にアパレルや製靴関係が1万8200社、レストラン・バー・ホテルなどが1万3700社を数える。
「イタリアにおける中国人の首都」であるミラノを見ると、イタリアが2008年のリーマンショック以後、経済危機に陥ったにもかかわらず、中国系企業、殊に食品関連は急増。同市で外国からの移住者が経営する600社のうち、中国人移住者のそれは17%を占めている。
アパレル産業の中心でもある中部のプラトでは、人口20万人余のうちの3万4000人を中国人が占めている。じつに7人弱に1人だから、一大勢力だ。彼らは有名ブランドの下請けから始まり、いまや伝統的な家内工業的システムを駆逐し、新たなビジネス・モデルを構築しつつあるという。
2014年4月、東北部のパドヴァには中国人経営のアパレル・チェーン店「CVG」が創業し、有名なファストファッションブランドの「H&M」や「ZARA」のライバルとして急成長を見せる。イタリアにおける中国系企業の小売り最大手は「欧売集団」で、イタリア全土で34軒のスーパーマーケットを経営しているという。
――以上は飽くまでも『海外僑情観察 2014-2015』に基づいたものであるが、ここからもイタリア社会への中国人の浸透度がある程度は理解できるだろう。
AC AFP via Getty Images AC Milanのイメージ写真 「ACミラン」の経営にも中国の影 「イタリアにおける中国人の首都」ミラノの象徴といえば名門サッカーチームの「ACミラン」だが、ここの経営にも中国人が大きく関係していた。
2014-15年シーズン終了後、ACミランのオーナーだったシルヴィオ・ベルルスコーニ元首相は、タイの青年実業家「Mr.Bee」ことビー・テチャウボンとの間で売却交渉を始め、2015年5月にACミラン株の48%売却で合意した。
Mr.Beeは、タイの「康蒂集団」と『星暹日報』の両社を傘下に置くサダウット・テチャブーン氏の長男である。
サダウット・テチャブーンは華人2代目で、華字名は鄭芷蓀。父親の鄭継烈が起こした建設業を引き継ぎ、1990年代初頭から積極経営に転じ、タイ国内のみならず中国やオーストラリアでの不動産開発やホテル経営にも乗り出した。
その後、タイの老舗華字紙『星暹日報』を買収し、2013年11月には広東省政府系の「南方報業伝媒集団」からの資本参加を得て、紙面も一新。それまでの繁体字からタイの華字紙としては初の簡体字横組みとし、電子版の配信、中国版Twitter「微博」の活用なども始めた。
当然のように論調にも南方報業伝媒集団の強い影響が感じられる。『星暹日報』は、タイにおける中国メディアの“別動隊”とでも言えそうだ。
さて、アブダビの資産管理会社「ADS Securities」と中国政府幹部が資金源と伝えられていたMr.Beeだが、ACミラン買収資金に苦慮していた。そこで彼が資金援助を申し入れた相手が、「阿巴里里集団」を率いる馬雲(ジャック・マー)であった。
2016年8月、ACミランは中国企業のコンソーシアム(共同事業体)に約832億円(株式の99.93%)で売却され、2017年4月にベルルスコーニ元首相はACミラン経営から撤退した。その後、2017-18年シーズン途中で中国系オーナーの債務不履行が原因で、最終的にはアメリカのヘッジ・ファンドが新オーナーに就任した。
華僑・華人の本質は移動 こう見てくると、「アンナと呼ばれる20歳の美しい中国娘」から現在の中国を代表する企業家・資産家の馬雲まで、じつに多くの中国人がイタリアと関わりを持っていることが分かるだろう。
同時に対外開放以後に顕著になった中国人の「移動」という現象が、合法・非合法に限らず世界各地の社会に様々な影響を与えていることも確かだ。武漢から感染が始まった新型コロナウイルスもまた、その一環と考えるべきではないか。
華僑・華人研究の第一人者である陳碧笙は、中国が開放政策に踏み切った直後に『世界華僑華人簡史』(厦門大学出版社 1991年)を出版しているが、同書で彼は、帝国主義勢力が植民地開発のために奴隷以下の条件で中国人労働者を連れ出した、つまり華僑・華人は帝国主義の犠牲者だという従来からの見解を否定した。
そして、華僑・華人の本質は、
「歴史的にも現状からみても、中華民族の海外への大移動にある。北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低いところから高いところへと、南宋から現代まで移動が停止することはなかった。時代を重ねるごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」
との考えを提示した。
この主張をイタリアのみならず今や危険水域に達しつつあるヨーロッパ、アメリカ、日本、韓国、東南アジア、さらには感染報告が比較的少ないアフリカ、南米、そしてウズベキスタン、タジクスタン、キルギスタンなど中央アジアの国々にまで重ねてみるなら、新型コロナウイルスはもちろんのこと、中国発の“未知の危機”を今後も想定する必要があるだろう。
極めて逆説的な表現ながら、いまこそ国境を閉じて富強を目指した毛沢東の“叡智”を見返す必要を痛感する。新型コロナウイルスを「毛沢東の怨念」と見做すのは、筆者の偏見だろうか。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)5月19日(火曜日)弐
通巻第6505号
株式市場が落ち着きを取り戻しつつある。となると、
次に起こるのは通貨市場。歴史が繰り返した「通貨崩落」に備える
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通貨の崩壊は歴史的に繰り返されてきた。
戦後、日本でも「猛烈インフレ予防」を名目に、突然「新円切り替え」があった。従来の預金が紙くずとなって、国民は絶望の淵に立たされた。旧円なら10万円で一軒家が買えた時代から、十倍になった。
具体的には昭和21年2月16日、金融緊急措置例が発令され、すべての預金が封鎖された。世帯主は500円まで個人は100円まで預金から引き出しが出来たが、のこりをゼロとしたのだ。
筆者の生まれる前のことなので実体験はないけれども、子供の頃、親から耳にたこができるほど聞かされたことだった。
歴史的にみても「通貨暴落」によるハイパーインフレは世界中で繰り返された。近年の典型はロシア、ジンバブエ、そしてベネズエラで現在進行中である。
ソ連崩壊の前後、筆者は毎年二回ほど、モスクワへ通っていた。『ソ連の没落』などの拙作の取材である。ソ連崩壊前、外国人旅行者には強制両替があって、1ルーブルが240円という、人工的に高い為替レートが設定されていた。町へでると闇ドルが主流だった。闇両替屋が町の辻辻に立っていた。チェチェン人やアゼルバイジャン人が多かった。
すぐに1ルーブルが60円に下落し、ボリショイ・サーカスはこの頃、入場料が1ルーブルだった。間をおかずに1円となって、たとえばクレムリン博物館など公けの売店へ行くと、このレードだから、おどろくほど外国人からみれば物価は安かった。民間の商店では闇レート換算だった。
新生ロシアに生まれ変わると、1ルーブルは12銭のドン底を記録した。240分の1に減価して、新ルーブル札といれ替わった。その新ルーブルも、1ルーブル=60円でスタートし、現在(2020年5月18日)は1円45銭である。
▲ロシア、ジンバブエで起きた通貨崩落、いまはベネズエラで
ベネズエラは原油価格の崩落が引き金となって通貨価値が崩壊した。
カラカスのスーパーでは医薬品も、トイレットペーパーも棚になく、ラム酒の値段が月給の五倍とか、国民はもはや生活は成り立たないと、コロンビアか、ブラジルへ逃げた。ベネズエラの経済難民、じつに450万人。それでもマドゥロ大統領は権力の座に居座り、中国は素晴らしい、中国が必ず助けてくれると、放言し続けている。
ジンバブエでは2008年8月から、翌年1月にかけて、500ドル札(8月)が、20000ドル札(9月)、50000ドル札(10月)、1,000,000ドル札(11月)、ついで面倒とばかり、100億ドル札(12月)、そして2009年1月に100兆ドル札となった。万が、百万から億、そして兆と、毎月単位が切り替わったのである。
そしてジンバブエ・ドルは自国通貨の発行をやめ、米ドル、ユーロにくわえて中国人民元が法定通貨となった。
インフレ率は月間2600%、年率で2億3100万%と、史上空前の記録を作り上げた。朝、50万ジンバブエ・ドルで買えた石鹸が、夕方には100万ドルになっているという話ではない。店に入ったときと、その店を出るときの値段が倍になっていた例もあった。
ワイマール共和国下のドイツ。リヤカーに札束を積んで買い物に行ってもコッペパンひとつしか買えなかった。いま、同じ光景はラオスで見られる。なにしろ100米ドルに相当するラオス通貨は段ボール箱一杯分くらいになるのだ。商店主がいかなる対策を取っているか。売り上げをすぐさま「金ショップ」に運び込み、金製品に交換して、毎日、毎日、ラオス通貨の崩落と戦っているのである。
アルゼンチンが年率3000%だった頃に、知り合ったアルゼンチン人に「どうやって生活しているのか」と聞くと、「なにね、すぐにドルに替えておくから大丈夫さ」と答えたものだった。
自国通貨が崩壊してゆく悲劇。ハイパーインフレを伴う特徴があり、だから��国人が何をしているか、これまでにも何をしてきたかを検証すれば良いのである。
1990年代は、外国人とみると「カンピー、カンピー」と叫んで近付いてきた。カンピーとはタバコのピースの函ではなく、港幣(香港ドルのこと)だった。スナックへいって現金で支払うと言うと、「できれば日本円かドルで」と言われた。
昨今の中国で、とくに中産階級はどのような行動を取っているか。第一にドルに買える。第二に金に換える。第三にローレックスを買う。第四、ビットコイン。これまでの不動産投資に手を出さなくなったのは不動産暴落がせまったことを肌で感じているからだろう。
権力貴族は、第一に外国に隠し口座。第二に外国に不動産購入。第三にキャッシュで貯めるのは米ドル、もしくはユーロ、日本通は日本円。そして香港ドル、シンガポールドルに加えて、おどろくべし台湾ドルでも保有している。
何かが起こる。不吉な予兆がある。だから中国人は言うこととは裏腹に行動に出るのである。
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To Hong Kong Museum of History next to Hong Kong Science Museum. Although you can enter for free, It’s a highly satisfactory museum. 香港科学館の隣にある香港歴史博物館へ。入場料無料で中に入る事ができる施設ですが、展示されている内容は充実していて満足度が高い博物館。 #hongkong #hongkongtrip #photo #hongkongphotography #trip #hk #hongkongmuseumofhistory #香港 #香港旅行 #香港歴史博物館 #写真 #旅 #旅行 #博物館 #歴史 #歴史博物館 (Hong Kong Museum of History) https://www.instagram.com/p/BraV-OoAPqn/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=18cfqwy9cg15n
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