#鎖タトゥー
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シンリックはセクシーイケメンすぎてギルドのほぼ全員から惚れられた事がある色男
ニルインは金持ちのサイコパス
今まで金に物を言わせた恋愛しかしてこなかったニルインがシンリックに一目惚れしてパスみを発揮した結果、俺のためにそこまでするやつはいなかった…♡と天然思考でニルインを受け入れてしまったシンリック。純愛物語して
ニルインは好きになった相手には鎖をかける気持ちでアクセサリー類を贈って欲しいし、相手にバレないようにニルインにしか見れない場所に自分の名前をタトゥーして欲しい。歪んだ執着心をもつキャラは最高!
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【翻訳】This is Peter Hewitt!
今回はThrasher2024年4月号に掲載された「This is Peter Hewitt!」の翻訳です。この記事はいわゆるQ&A形式のインタビューではなく、テキストだけ読むとPeter Hewittの独白のようになっています。翻訳だけを載せても何について話しているのか分かりづらいのでは?という理由から各節に番号・タイトルをつけてあります。画像は内容に関連する��のを選んだつもりです。楽しんでいただければ幸いです。 ―TQ
1. My First Board
初めてのスケートボードをゲットしたのは6歳ぐらいの時で2年ぐらいは膝を使って乗ってた。いつも顎にかさぶたをつくってたから、母さんが「なんでいつも顎にかさぶたがあるの?乗り方、間違ってるよ」ってデッキを持って道路をカービングしたんだ。「うわあ!ああやって乗るものだったんだ」って思った。少しずつ立って乗ることも覚えていったけど、膝を使って乗る方が全然うまく滑れた。歩道に乗り上げたりできたしね。最初のうちはほとんど移動手段として使ってたよ。バックパックにGIジョー人形をいっぱいに詰めて町の反対側に住む友達に会いに行ってたんだ。
オレらは峡谷で戦争ごっこしたり、木材を工事現場から盗んでた。その木材を引きずれるところまで引きずっていって、「もうここでいいだろ。もう無理だよ」って場所にランプを建てた。ドライブウェイに兄弟で作ったランプがあったんだけど、そこがランプなんかを持ってる人たちに出会う場所になった。オレは他の子たちよりちょっとイカれてたんじゃないかな、喜んで痛い目をみようとするみたいなところがあったね。
母さんはオレたちを週末にDel Mar(Del Mar Skate Ranch ※カルフォルニア州デルマーにあったスケートパーク)に連れてってくれた。はじめて胸を打って息ができなくなったのは、60~90㎝ぐらいのマジで狭いプラットフォームに立ってた時。Neil Blenderがいろんなインバートをやってて彼は口笛を吹いてたんだ―インバートでストールするたびに曲でも吹くみたいに。たぶん彼の足が当たったんだと思うんだけど、バランス失っちゃって後ろ向きに倒れこんで背中で着地して息ができなくなった。なにが起こったのか分からなかったよ、今までそんな目にあったことなかったからね!それから這い出していってわけのわからない状況のなかで呼吸を整えなきゃならなかった。Del Marの一番のショーはKeyhole Poolだったんだけど、オレらみたいなキッズはそこでセッションするなんてできなかったから他のセクションで滑ってた。Chris Millerが現れてパーク全体を滑ってたのを覚えてる。これこそ見たいものだった。この人たちは後ろにあるボウルをどうやって滑るんだろう?オレらがいつも滑ってるボウルは?ってね。あれはクールな見ものだったな。
2. Z to Team Hosoi
始めて袋叩きにあったのはFred Olande(※元Z Products・New Deal Skateboardsのライダー)が持ってたランプでのこと―目の周りにアザをつけて帰ったよ。そこはJay AdamsとGeorge Wilsonに出会った場所でもあるんだけど、オレたちはそれがJay Adamsだって分からなかったから「ジッパーヘッド」って呼んでた。理由は彼の頭にはジッパーのタトゥーがあったから。彼らは一度もパッドをつけなかったし、Jayはいつもかわいいコを連れてた。そんな流れでZ Products―オレの最初のスポンサーがついたんだ。特に問題なくZ-Roller(※ハンガー部分が回転する仕様のトラック)でも滑ってたよ、見た目も好きだったし、ロゴも好きだった。ライダーにはButch Sterbinsがいたな。タフなファッキン・チームだったよ。Hosoi(Skateboards)がスポンサーになりたての頃、Fredに言われたことを覚えてる。「ただZを抜けるってわけにはいかないぜ、注目されないとダメだぞ!」ってね。
Linda Vista Boys Club(※サンディエゴにあったスケートパーク)から本当にいろんなことが繋がっていったんだ。近所の住人はラフだった。有料のパークで、ほとんどのローカル・キッズたちはそれが支払えないって環境だから緊張があった。オレたちは彼らのテリトリーにいるわけだから。スケートしてるとキッズたちが駐車場で車に侵入してるのが目に入るんだ。あそこは無法地帯だったね。オレたちは好き放題やってたよ。幸いなことに、ルールを教えてくれる年上の大人が何人かいたんだ。「同じ場所から2回ドロップインするな」みたいなこと言ってくれるGraham Stanners(※初期Foundationのライダー?)がオレたちの中で一番のインフルエンサーだったな。彼はどうやってそのランプをカービングするかとかを教えてくれたんだ。16歳の時、あの場所でHosoiのハンマーヘッドに乗ってマックツイストを覚えた。習得には一ヶ月かかったよ。そこでは別のルールもあって、「同じトリックを繰り返してセッションを妨害してはならない。自分のランの最後にトライするか、セッションの最後ですること」。それが決まりだった。同じトリックを何度も何度も続けてセッションを台無しにしたくないよね。その後すぐローカル・キッズがあるランプを全焼させて、そこは閉鎖になっちゃたんだ。
Grahamは、オレたちをはじめての冒険に連れて行ってくれた。オレ、Matt MoffettとSteve Bailyを連れて、(オレたちにとって)はじめてのヨーロッパをスコットランド人たちと一緒に回ったんだ。はじめてMarseilles(※マルセイユ。フランスの港町)をスケートしたんだ-当時はグラフィティなんて全然なくて真新しかったよ。Grand-Bornad(ル・グラン=ボルナン。フランス東部)では、はじめてのプロ・コンテストに出場したし、大勢の酔っぱらった小さなキッズが町のあちこちで暴動を起こしてるのも見た。あれはヤバかった。
3. Back to San Diego
ヨーロッパから戻って「よし、オレはプロ・コンテストに出てたんだからプロになったんだぞ」みたいな感じでいた。Santa Cruzからデッキももらってた。同時に両方の膝の手術も受けなくちゃいけなかった。オレの膝はその頃すでに壊れてたんだよ。両ひざを一緒にやっちゃってて、Santa Cruzからは、なんていうか「お別れのギフト」みたいにファミコンが送られてきたんだ。後から思えば「お別れのギフト」だったんだよ。「ほら、これがお前のファミコンな」って感じで送ってきた。彼らがオレを追い出すことはなかったよ―必然的に俺から電話しなくなっただけ。医者は半月板を縫合したんだけど、治療が終わったらまたすぐにスケートして、また両方ダメにしちまった。一年以上もスケートから離れることになったんだ。
もっと上手くなろうって決意してて、それがオレを前に進ませていたんだと思う。よく怪我してたけど、いつもすぐに「まあ、そういうもんだ」みたいに考えてた。でもそれから「治療モード」に頭を切り替えて、単純に完治させるぞって決意したんだ。そのほとんどは「信じる」ってことだと思う―自分が「治るんだ」って信じることが一番大きい意味を持つんだ。「もう、おしまいかな」って感じた時もあったけど、「じゃあ、違うこと��るか」って気持ちになったことないな。一度も���ケートをやめたいって思ったことはないんだ。
何年か山で仕事をして、San Diegoに戻った。オレたちには暮らしていけるだけのかなり多くのルームメイトがいたんだ。オレにとっての「大学時代」。Eddy Alioto、Sam Hitz、Darren Nvarrette、Al Partanen、それにオレらの友だちSlayarで一軒家を持ってたからね。3年間そこに住んで20人ぐらいのファッキン・ルームメイトと暮らした。そこではクレージーなパーティーをしてたよ―単純に野蛮な破壊行為。25歳の誕生日にNihilist(デスメタルバンド)が祝ってくれたけど、その頃の彼らはコナン・ザ・バーバリアン(映画)みたいな髪型をしたSlayerを演奏するまだ小さなキッズだった。あれはすごかったな。
4. The First Backyard Pool/Antihero/Red
最初に行ったバックヤード・プールの一つがNude Bowl。オレらが小さかった頃にオレ、Matt、Baileyでそこに連れて行ってもらって夜通しスケートしたんだ。のちにPrestonやRhinoそして彼らの仲間のプール・スケーターたちと出会うことになった。それまでそんな全く別のシーンがあるなんて考えもしなかった。彼らは物凄くたくさんのSan Diegoにあるプールを知ってたよ!衛星電話みたいのができる以前から路地裏を回ってプールを探してたんだ。オレらの可能性をかなり広げてくれるできごとだったよ。
Antiheroで滑る発端ができたのは99年で、最初に開かれたMarseille(※マルセイユ・フランス)でのコンテストだったと思う。John(ジョン・カーディエル)と Julien(ジュリアン・ストレンジャー)と一緒に滞在してて「お前をチームに加えたいけど、それには少し時間が必要なんだ」って言われたから「わかった」って返事したんだ。それからただ待ってたよ。最初に(商品が入った)ボックスが届いたのは2001年、Rabbi、Shaggyと一緒にSeattle(シアトル・アメリカ)に住んでいた時。それまでスケートボード会社にスポンサーされたのは、なんていうか短期間だった。その時は、まさか終の棲家になるとは思わなかったよ。20数年経った今でもまだ一緒に続けてるんだ。なかなかスゴいよね。
長い間、コンクリートのスポットって聞いたことはあるけど実際にはもう滑れるものじゃなかったんだ。クラストがいる場所もあったからね。Jakeはどこへ行けば見つけられるか知っていた。彼はオレたちのツアー・ガイドだったね。その後MonkとRedがそれぞれGrindline、Dreamlandでコンクリート・パークを建設していって、オレたちのロードに出る言い訳のほとんどはRedが建設中のパークを見に行くことだった。何年か、いやもっと多くの年月だな、そんなことを続けていたんだ。Redと彼の仲間たちの背中を追いかけてね。Redの作ったパークに到着する、そこを滑る、それから彼の仕事が終わるのを待つ。そうすれば彼の動きが見れるからね。それ皆で「おお、この場所はあんな風に滑ればいいんだ」ってなるんだ。
5. The Loop
あのループはTony Hawkが闘牛場に建てたランプで経験済みだった��ど、Tampa(※スケートパーク)のイベントではギャラが支払われることになってたんだ。「マジか。どう滑ればいいか知ってるぞ」って思った。前夜にオールナイトでファッキンJake Brownとパーティーしてたんだ。オレは2回ぐらいでやめたけどJakeはまだ滑り続けてた。オレが見た時はまだパーティー・モードで攻め続けてたよ。たしか3回目のトライの後、「よし、じゃあスウィッチでトライしてみてもいいかもな」ってなった。で、あの古典的なパンプをしちまった―それは一番やっちゃダメなやつなんだけど。パンプして頂点で撃ち落とされて頭のどこかを打ち付けたんだと思う。担架の上で目が覚めて救急車に詰め込まれた。救急車で出発を待ってたら、「待て!もう一人いるぞ!」ってなったんだ。で、運ばれてきたのはBrian Schaeferだった。彼は「ヘイ、頭のストラップを緩めてくれないか?」って繰り返し尋ねてたよ。オレは「ヘイ、Brian。リラックスしなよ」って感じだった。それからオレたちは病院に担ぎ込まれたんだ。
6. Jake and P-Stone
一日を始めるにはJakeとP-Stoneは最高の人たちだよ。二人とも、自分たちがどこにいるかの知識を持っていたんだ。どこに行ってもその地域の豆知識と実際の状況を知ってた。オレたちがイタリアのコンテストに顔を出した時なんだけど、P-Stoneは到着するなりたくさんのビールを砂の中に埋めさせたんだ。「オレらは一体なにやってんだ?」って思った。それから一日が終わって、楽しかったし、あれやこれやしてたらビールが切れちゃった。砂にビールを埋めまくったことなんて皆忘れてたよ―P-Stone以外はね。彼はそれを掘り出しに行って、持ち帰ったビールはキンキンに冷えてた。砂って天然アイスボックスみたいなもんなんだ。準備、P-Stoneは常に準備を怠らなかったね。
Baileyが日本行きのミッションをまとめたんだ。あいつは北海道の「温度計(※温度計のような形状をしたセクション)」についての情報を持ってた。そこに行って「温度計」をスケートする、それがオレたちのメインの目的。その他すべては特典だった。Jakeはこの旅行にものすごく興奮してたね。この旅行はBailey、Luke、Diego、それにオレとJakeっていう構成で、この後たしか取り上げられたんだけどThrasher名義のクレジットカードを持ってた。かなり贅沢に過ごしてたよ。すごく良いホテルに泊まってた。ペントハウスのバーに行って飲んだりしたけど、Jakeは「なあ、あそこにサングラスしてるやつらがいるだろ?あれヤクザだぜ」なんて感じだったよ。
7. Washington Street
オレはWashington Street(※DIYスケートパーク)が、あの場所にどうして存在できてるのかさえ理解できてないよ。どうしてオレたちのプライベート・パークになったのかも分かってないし、保険についても完全に謎だし、どうやって未だに成り立ってるのか分かってないんだ。Chris Copeがあのパークで一番ヤバいスケーターなのは間違いない。あそこで滑ってる奴らの中じゃ、オレのリストではトップにいる。彼は隅々まであのパークを知り抜いてるんだ。さらに情熱を持って愛していて―オレは全部変えてしまいたいあのパークの何ひとつ変えたくないんだ。それも彼を大好きな理由だね。だけど、DIYスケートパークが年月を経たら変化が必要だし、進化していかなきゃいけないし、そうなるんだ。物事は変わっていくし、ただそれには時間がかかるんだ。
8. The Balance
オレがNikeから追い出されたのは家のローンの書類にサインした直後。ヘコんだよ、短い間だけどね。なぜって、「バランス」が機能したんだって知ってたからね。そこにはなにかバランスを保つ必要があったってこと。ギブ・アンド・テイクっていう均衡がとれた状態に戻っていくんだ。「うまくいかなかった。てことは、ある程度バランスを取らなきゃいけなかったんだな」ってオレは考える。物事はそういう見方をするべきだと思うな。オレはそういう風にしか見れないし、それ以外は単純にエネルギーの浪費だね。
9. Bucky's Bowl
Bucky(バッキ―・ラセック)のボウルがあった頃、滑りたいと思うのはあの場所だけだったよ。Buckyのボウル最高、以上。あそこはマジでお気に入りの場所だった。最高の2つの世界があった―「でかいトランジションと、どでかいボウル」というね。Darren(ダレン・ナヴァレッテ)とオレはすぐに、毎回あの場所を掃いておく必要があるって気づいた。目では見えないものがボウルの底に落ちてるんだ。あらゆる動物やらモノを引っ張り上げたよ。オレたちの間では「鷹が獲物の息の根を止めるために一度落下させて、それから急降下してそれを持ち去ってる」って説が有力だった。いつもその上空で鷹たちが急降下を繰り返していたからね。
10. Another Bridge
亡くなった友達の全員、それぞれの形でオレに影響を与えてるよ。たとえば、Grosso(ジェフ・グロッソ)は、あるエリアの人たちとオレを繋げる橋になってた。彼がいなければ、もうその橋はない。でも時が経っていくと、他の人たちとの橋や道、違うコネクションを見つけていくもんなんだ。それと同時に、JakeとP-Stoneがいないスケート・トリップは全然違うものになったね。けど、なんて言えばいいのかな、彼らと何年も―25年以上の楽しい時間を過ごしてきたんだ!それってかなりファッキン長い年数だけど、さらに追加することもできたんだ。だから考えちゃうよね。でもまあ、不思議なことだけど、ある人たちが去って行っても―他の人たちがその代わりになるわけじゃない―たぶん、その人たちはできた溝みたいなもの埋めていくんだね。たとえばJeff(ジェフ・グロッソ)が生きてた頃、Mike Lohrman(初期Black Labelのライダー)はスケートしてなかった、だけど今オレは彼と一緒に滑ってる。それってかなりクールだよね。違う橋とまた繋がったってことだから。
11. Skating with Neil
Neil(ニール・ブレンダー)とのスケートは、朝起きて一日を始めるのにナイスなやり方。なんでかっていうと、オレはいろいろやりたいけど良い感じのペースでやりたい。それと、Neilは朝方スケートする。だいたい9時から11時ぐらいの間、一緒に滑ってるよ。ほとんどの場合、まあ楽しもうって感じでね。カップのふたを見つけたらフリスビーみたいに投げて遊んでるみたいな、わかる?よく落ちてるものを見つけるんだ。(訳注:サン��ディエゴにある)OB(スケート・)パークは世界で最も衝突事故の起こるスケートパーク。ちなみに毎年3、4回は衝突事故が起こるね。計算してみてよ―あのパークは20年以上あるんだ。相当の数、自動車事故が起こってるってことになるよね。だから、あそこにはいつもなにか拾って投げたり遊んだりするものが転がってるんだ。
12. Frank Gerwer
Frank(Antiheroのライダー、フランク・ガーワー)とオレは間違いなく20年以上ツアー・バンの後部座席に一緒に座ってるよ。ともかくオレたちはお互いを楽しませる必要がある。ナンセンスなくだらないことばかり言ってるね。ナンセンスであればあるほど、面白い会話になるんだ。二人でちょっとした企画をやってて、さっと描いた絵から台詞を思いつくんだ。ある時は数日間、そのキャラクターになりきってるし、それが次のトリップまで続くこともある。時にはそのキャラクターが変形していくこともある。時々、運転手の顔を見上げてるFrankの気を紛らわす必要がある。彼の目に恐怖が宿ってるのを見ることがあるからね。Cardiel(ジョン・カーディエル)が運転してる時―彼は素晴らしいドライバーだけど、たまに後ろから見てるとさ…気を紛らわしてやる必要があるんだよね。
13. My Wife
歳は50で既婚者、家を持ってて二人にはナイスな住宅ローンがある。オレの奥さんはヨガ・インストラクターで、そのおかげで週に1回はヨガをやってる。今のところ週1ヨガ野郎だね。だけど楽しんでるよ。健康にものすごく役立ってる、うん。オレは単純にハッピーでいたいし、いまだに楽しめることを探してる。ただ楽しみを追求する、それがオレがやろうとしてきたことだよ。人生はあっという間に過ぎていくもの、だからあんまりシリアスになり過ぎない方がいいと思うよ♠
♠記事と関連した動画もお見逃しなく!
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タトゥーアーティストたちが、ソーシャルメディアを通じて世界に向けて気軽に作品を公開できるようになった。その結果、最新のタトゥーデザインのほぼすべては、いまやInstagramにあると言われている。スタイル・技術・性差など、多くの面で閉鎖的で秘密主義なタトゥー業界は、いまやInstagramを通じて自由化され、大きく開かれつつある
Instagramが開放した、タトゥーアーティストたちの「超秘密世界」 | WIRED.jp
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桜林美佐の「美佐日記」(234)
他人事ではないパレスチナの戦火
桜林美佐(防衛問題研究家)
───────────────────────
おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、234回目となりま
す。
ハマスによるイスラエルに対する奇襲攻撃で現時
点でも激しい戦闘が続いています。日本の地上波ニ
ュースではイスラエルとパレスチナの関係という文
脈での解説が多いですが、その問題と今回のテロは
果たして同じ次元で語ってよいのかという気がして
なりません。
当時開催されていた音楽フェス、これは平和を願
う集会だったのだそうですが、その会場も襲撃され、
周辺では少なくとも260人の遺体が見つかったと
いいます。
SNSなどでは偽情報が多くなっていますので事実関
係は慎重に掌握していく必要がありますが、様々な
報道によれば、会場に空襲サイレンが鳴り、人々が
混乱する中、電気が遮断され、そこにハマスの車両
が現れ、武装したテロリスト100人余りが逃げよ
うとしていた参加者に向け銃を乱射したというので
す。
ハマスの車両で道が塞がれ、また音楽祭の場所も
遮蔽物のない砂漠地帯だったため、隠れる所がなか
ったといいます。
裸同然でトラックの荷台に載せられ拉致されたド
イツ人女性は暴行され手足を折られたとみられます。
SNS上では、武装勢力が彼女の頭に唾を吐きかけて
「神は偉大なり」と叫んでいる映像がアップされ、
女性の母親がこの画像を見て、タトゥーや髪型から
娘であることを確認したそうです。
他にも高齢者や子どもが連れ去られたり、子ども
まで無差別に殺害、家に侵入して庭にいた犬まで射
殺するなどの蛮行があったとされています。
イスラエルも同じようなことをしていたとか、パ
レスチナの人々を追いやっていることはいけないと
か、色々な解説が報じられています���、いかなる理
由でもこのような犯罪が許されるものではありませ
ん。
音楽フェス会場から拉致され安否が分からない女
性がドイツ人であることは偶然なのだとは思います
が、イスラエルとパレスチナそしてドイツという関
連からは、かつてのミュンヘンオリンピック事件を
連想させられます。
これは「黒い9月」(ブラック・セプテンバー)
というパレスチナの過激派組織が1972年のミュ
ンヘン五輪で選手村に侵入しイスラエルの選手ら11
人を人質に取り、イスラエルの刑務所に収容されて
いるパレスチナ人などの解放を要求したものです。
「黒い9月」はその場で2人を射殺し、他の9人を国外
へ連れ出すため空港に向かうも、ドイツ警察による
作戦の失敗で残りのイスラエル人全員とドイツの警
官1人が死亡するという最悪の結果となったのです。
この時の銃撃戦で「黒い9月」のメンバー5人も死亡
しましたが、首謀者はその後イスラエルの「モサド」
が殺害したとされます。スピルバーグ監督の『ミュ
ンヘン』がこの事件を題材にしていますのでご存じ
の方も多いかと思います。
実は、2年前の東京オリンピックも、この事件とは無
縁ではありませんでした。2021年の東京オリン
ピック開会式では五輪史上初めて開会式においてこ
の事件の犠牲者への黙祷が行なわれていたのです。
これは、長年、開会式での黙祷を訴えて来た事件の
遺族の悲願だったといいます。49年間、オリンピ
ック開会式での犠牲者の追悼を求めてきましたが
「開会式にふさわしくない」と拒否され、事件から
50周年を前にようやく実現したものでした。
IOCのバッハ会長がドイツ人で「ホロコーストの加害
国」であったことからも、ユダヤ人が戦後のしかも
ドイツで行われた「平和の祭典」での虐殺行為に対
し相応の対応をするという責任を果たしたかったの
ではないかといった見方もあります。
いずれにしても、日本で開催されたオリンピックに
このような画期的な側面もあったことに驚かされま
す。
そしてさらに驚いたのは、昨年の9月にドイツ政
府と被害者遺族との間での補償がようやく合意した
ということです。
選手の親族たちは長年にわたり、ドイツの警備と警
察による救出の失敗を非難していました。そもそも
武装組織を選手村に侵入させてしまい、イスラエル
軍による支援は拒否、挙句に、ドイツ軍も出動しな
い、マスコミの報道で空港を取り囲んだ警察の存在
を察知したテロリストたちは後ろ手に縛られた人質
を射殺したのです���ら言い訳のしようがないでしょ
う。
しかし、日本としてもわが事と捉えてみると、もし、
同じような事件が起こったらどうしたのだろうかと
考えさせられます。
もちろん事件を起こさないことがまず大切ですが、
もし万が一起きてしまったら、当然、イスラエル軍
が日本に入って掃討作戦をする? そんなことは受
け入れられないでしょうし、自衛隊が出ていく?
これも当時のドイツ同様、法的な根拠が難しいでし
ょう。メディアの統制もとてもできそうにありませ
ん。
このように考えると、実際には日本も今回のハマス
によるテロに端を発するイスラエルとパレスチナの
戦火は決して他人事ではなく、国立競技場で起きて
いてもおかしくないものだったかもしれませんし、
もし起きたら、日本もドイツと同じような対応にな
りはしなかったか? そんなことを考えさせられる
のです。
昔の日本なら、外国人が歩いていたら目立っていま
したが、今はどうですか。今日も東京は外国人で溢
れています。
とにかく日本のニュースでは「憎悪の連鎖」に対す
る嘆きや、武力の応酬に対する批判ばかりですが、
これは残虐なテロであるという認識が必要だと思い
ますし、自国の危機管理体制についても考えを深め
てもいいのではないかと思います。
少なくともジャニーズ事務所問題をいつまでもトッ
プニュースにしている場合ではないはずです。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
皆様にとって良い1週間でありますように。困難の中
にいる全ての人のために祈りあらゆる紛争の犠牲者
を悼みながら。
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2024.11.5 tue.
連日せわしかったので臨時休とした。明日も出勤だし。母とやり取りして近所のビュッフェへ。三宮にあるお店を近所だという感覚。小学生のころによく行っていた、梅田のゼックスウェストの系列店が出来たらしい。懐かしくもなかなかおいしく満足。ピザだけで1枚分ほど食べた。
botaへ予約の手袋をもらいに行ったつもりが、気づけばお茶までもらっていた。たまちゃんの誕生日祝いに、hinokiの靴下、FRAMAのハンドクリーム、カナさんの無花果の葉のお茶を買う。おいしくて自分の分も買った。渡し袋が黒に変わっていてうれしい。
ゆっくりしすぎて大阪での買い物はおろか、予定にすら間に合わない時間になる。乗る予定の電車は目の前で行きすぎて一本乗り遅れ、弁天町ではなぜか降りられない、寺内くんの歌が頭のなかで流れだす、あれってこういう歌だったのか、飛び乗った電車でこれは弁天町に行きますかと聞いたら首を振られ、急いで降りて駅員さんにどの電車が弁天町に着くのだと聞いたらさっきの電車だった。結局30分遅れた。平謝りのつもりだったが、さばくさんはのんびりと全然いいですよお、ゆっくりできてよかったです、と言ってくれた。ありがたい。鎖骨に四角と点のタトゥーを入れてもらった。当初入れる予定だった場所とはぜんぜんちがうが、とてもしっくりきている。ハンドポークは痛くなくて気持ちいいな。微睡みながら生活や仕事の話などした。
おもったよりもはやく済んだので化粧品などみたがとくになにも買わず。帰路。ぼーっとしていたら寝る時間だった。明日は翔さんが帰ってくる。今回の出張一人暮らしはあっという間だった。
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【TESオンライン】PvPイベント「ホワイトストレークの騒乱」(2024年2月版)がスタート
毎年多くの人が楽しみにしているPvPイベント「ホワイトストレークの騒乱」が今日からスタートします。他のイベントとは違い年に2度開催される事が特徴的ですが、AP2倍とテルバーストン2倍は本当に嬉しい筈で(ゴールドとは違う大きな財源)、毎年説明しているので今年は簡単な説明にさせて貰います。 2024年2月版「ホワイトストレークの騒乱」について 既に公式からも記事が来ているので、それも是非読んでみて下さい。 今年から「ペリナルの勇猛の巻物」が必要なくなる[/highlight](巻物をまだ持っている場合は何も効果なし) 新アイテムのコスチュームが帝都でなく「ペリナルの恩恵箱」から出る 支配人のアイテム ペット「モラグ・バルの幻のインプ」の欠片 アンカーの鎖の欠片 ダークアンカーの風切り羽根 支配者の像 タトゥー「次元融合のマスター」の欠片 火葬の灰 燃え盛る硫黄 ドヴァーのデュ…
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テリトリアル
「君だから話すんだよ、こんな事」
そう笑う先輩は、紫煙を吐く。少し上を向いたから首元から鎖骨に掛けてが見えた。そこには傷痕みたいに薔薇のタトゥーが入っていた。
「一本吸う?」
そう言って先輩はセブンスターを一本僕に差し出してくれた。お言葉に甘えて、その一本を咥えて、火をつける。
さっきまで僕が吸っていたピースのガラはクシャッと潰して、ポケットに突っ込んでいた。
紫煙をゆっくり喫みこみ、吐き出す。
「セッタもたまには良いでしょ?」
「そうっすね」
僕はそう返して、またゆっくりと煙を吐く。そして、さっき先輩が言った言葉を反芻していた。
『バカみたいだよね。でも、あの人の事が好きなんだ』
僕には先輩が大変な恋愛をしているようにしか見えなかった。
先輩が好きな人は結局のところ何が本業なのかよく分からない会社の社長で、いつもクラブのVIPルームに入り浸っているような、その人が主催する六本木の店を貸し切った飲み会に行くとただただ虚しい思いをするだけのような、そんな人だった。
でも、先輩はその人の事が好きだった。
先輩の口から出てくるその人とのエピソードは到底楽しいとは思えないモノばかりだ。先輩はそれを淡々と話し、僕が聞く。
先輩は上を向いて、紫煙をゆっくり吐く。肩口まである髪がさらりと揺れて、首筋にある赫い痕が目に入る。僕はその度に嫉妬で狂いそうな気分になった。
吸���口近くまで燃えた煙草の火種を、灰皿で押し消した瞬間、先輩の目から一粒、涙が溢れた。
「あー、煙が目に」
嘘だ。でも、嘘じゃないのかも。
僕は咄嗟に、煙草を持ってない左手で涙を拭った。
すると先輩も僕の頬に手を当てた。
「君は、私と似すぎているね」
先輩の指は、少しだけ濡れていた。
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Jungkook Dazed インタビュー 翻訳
自らの道を走り始めたジョングク
この夏、ノートパソコンの前で眠ってしまったジョングクを600万人のファンが見守った。ポップ界における東アジアのアーティストの扉を吹き飛ばした彼は今、私たちを「驚くべき」ソロ新時代へと誘う。
世界で最も人気のあるK-POPアイドルの一人であり、世界で最も人気のあるポップ・スターの一人であるジョングクが、彼の直感がいったいどのようなものなのかを説明しようとしている。唇の右側にある二重になったピアスをいじりながら「なんというか...」と言葉を詰まらせる。真っ白なTシャツが、右腕に刻まれたタトゥーをより際立たせている。「言葉で表せないような感じです」 と言って笑いながら、軽く額に手を当てる。「鳥肌が立つとかじゃなくて、ただ『これはいけるぞ、これだ』って感じがするだけです」
アメリカ人ラッパー、LattoをフィーチャーしたUKガラージテイストのソロ・デビューシングル『Seven』を初めて聴いたのは、彼の記憶によれば3月のことだった。そして、即座にこの曲の虜になった。「すぐにロサンゼルスでのレコーディングのスケジュールを組み、ビデオ・コンセプトの打ち合わせをしました。すべてがとても順調に進みました」と振り返る。
7月にリリースされたこの曲は、イギリスとアメリカのシングルチャートで数週間にわたってチャートインし(アメリカでは1位を獲得)Spotifyでは、わずか6日間で1億回再生を達成した史上最速の曲という栄冠に輝いた。韓国の女優ハン・ソヒが出演したミュージックビデオは、YouTubeで1日に3,900万回もの視聴回数を記録した。彼が今までに楽曲に対して揺るぎない直感を感じたのは『I Need U』(2015年)だけだという。この曲は、高い評価を得たBTSの3rd EP『花様年華 pt.1』からのファースト・シングルで、彼らをスーパースターダムに押し上げる重要な足がかりとなった作品だと広く認識されている。
ジョングクは直感的なものと無形のものを重要視してい���。前者は彼の現在を導くものである。一方、彼の未来は後者によって揺り動かされている。少なくとも、彼自身がアーティストとしての自分をどう見ているかという点においては。だが、この話は後にする。というのも、最近26歳になり、この10年間を超有名人として生きてきたジョングクは、今この瞬間、自分が何者であるかについて考えているからだ。「僕は自分の感情に正直なタイプだと思います」と彼は言う。「僕はすぐに変わります。今やりたいことをやらなきゃいけないんです」
HYBEのソウル本社である巨大なビルの中の何の変哲もない一室にいるジョングクとZoomを通して話している。HYBEは、2005年にBig Hit Entertainmentとしてスタートしたマルチレーベル企業で、BTS以前にはK-POPアイドルグループを育成したこともデビューさせたこともなかった。1週間前はロンドン に、その前はニューヨークに滞在していた彼は、重い風邪と闘っていたのだが、テレビの生放送では完璧なパフォーマンスを披露し、どうにかそれを隠していた。
今回の撮影が行われたロンドン北部のスタジオでは、ジョングクは辛抱強く、協力的でありながらも非常に静かで、周囲の慌しい動きに視線を注いでいた。もともと内向的な性格の彼だが、撮影現場には、ざっと数えただけでも少なくとも40人がいる。スーツ姿のボディーガード2人を含め、その半分は彼自身の関係者だ。全員の視線が常に彼に注がれ、彼の一挙手一投足、髪型や服装、表情のわずかな変化まで注視されている。何とも疲れそうだ。彼のスタッフの1人は微笑みながら「彼は慣れていますよ」と肩をすくめた。
撮影の合間に、ジョングクが挨拶に来た。私たちは以前にも会ったことがある。2018年、BTSが成層圏に突入し、アリーナで公演していたのがスタジアムを完売させるまでになった頃だ。そのときも彼は静かだったが、精神的にも肉体的にもそわそわした不安げな雰囲気を漂わせていた。依然として彼の内面には掻ききれないような痒みがあるが、以前には欠けていた、と彼自信が感じている大胆さと自信によって、それが和らいでいる。それらは、長い間ステージで体現してきた彼の持ち味でありながら、日常生活にはついてこなかった特徴だ。「ステージに立つと、さまよっていた考えや感情が静まります」と彼は言う。いつも舞台に立っていた彼にとって、その2つの世界にそれほど大きな隔たりはなかったようだ。
パンデミックによってBTSの2020年『Map of the Soul Tour』が中止に追い込まれるまで、ジョングクは2014年以来、毎年グループとともにツアーを回っていた。2021年と2022年には、ソウル、ロサンゼルス、ラスベガスで1週間にわたるレジデンシー公演を行った。その後、2022年10月に、メンバー7人のソロ活動と韓国人男性全員に義務付けられている18カ月間の兵役服務のために、一時的な活動休止を発表した。この休止期間は彼に、自身の一部を解きほぐす機会を与え、ジョングクは内面にある軋轢を解消し始めた。そのひとつが、彼自身が自称するところの「怠け者」 であり、それが野心と競争心を抑えていたという。「以前は自分のそういうところが嫌いでした。そのせいで自尊心が欠けていたんだと思います」 とジョングクは言う。答えは、そんな自分を消し去ろうとするのではなく、違う角度から自分を見ることだった。「見方を変えて以来、自分の中のもっと良い特徴を見つけられるようになりました。逃したチャンスに、くよくよしたり、怠けている自分を責めたりして『なんで、あの時できたのに、できなかったんだろう』と考えるよりも本当の自分を受け入れ、できることに集中するようになりました。自分のペースで物事を進めることで、より多くのことを得られます。一日中ベッドに横になったり、テレビを見たりしたかったら、そんな一日を過ごすのもいいんじゃないかって」
これは、彼が自分の行動やその背後にある理由を理解する上で、連鎖的な影響を与えた。「僕は有名で人気のある歌手になりたかったし、そのためにはファンとアーティストの間に相互作用が必要だと思いました。愛を贈り、愛を受け取らなければなりません。でも、僕はARMY(BTSのファンコミュニティ)に『どうして、こんなにたくさんの愛を贈ってくれるんですか?どうして僕を愛してくれるんですか?』と尋ねていました。僕は愛を受け取るために一生懸命努力したつもりですし、その愛を当然だとも思っていません」とジョングクは言う。「とてもとても感謝しています。でも今は、謙虚に受け入れるべきだと思います。時間が経ったからかもしれませんが、今は逆になったんです。ファンのみなさんから、たくさんの愛と応援をもらっているので、その人たちに僕の存在によってもっと自信を持ってほしいし、もっと自己肯定感を持ってほしいと思っています。それが、僕がベストを尽くそうとする理由なんです」
ARMYの間で長年使われているフレーズがある。「BTS paved the way( BTSが道を切り開いた)」という言葉だ。特にアメリカでは、それまで東アジアのアーティストにとって、ほんのわずかな隙間しかなかった扉を彼らが蹴破ったのだ。あまりに強烈で、急速で、予想外だった彼らの躍進に不意打ちを食らったアメリカのエンターテインメント業界は、ビートルマニアの記憶をたぐり寄せ「BTSマニア」と呼ぶしかなかった。BTSは次から次へと記録を塗り替え、グラミー賞に5度ノミネートされるほどの有名アーティストとなった。アルバムセールスは全世界で1億500万枚を超えると推定されている。
ジョングクは、長年���わたって多くのARMYと会話してきた経験から、なぜBTSが言語、年齢、性別、人種に関係なく人々の共感を呼ぶのか、その理由を正確に理解している。「僕たちの歌やパフォーマンスに込められたメッセージが(人々を)慰めたんです」と彼は言う。「僕たちは、人々が聴く音楽の範囲を多様化することに貢献してきたと思いますし、文化的な観点からも多様性は重要です」 しかし彼は、BTSが壁を打ち破れた理由は、彼らの音楽を広めようとするファン自身の努力でもあるとする。さらに、こう話す「映画、テレビ、ファッション界や世界的なステージで活躍する多くの韓国人アーティストの方々。僕たちだけの力じゃないです」。
カルバン・クラインなどの巨大ブランドの広告塔、柔軟剤からコンブチャまで、彼が使用するものは何でも売り切れる。『Euphoria』などの彼のBTSソロ曲にインスパイアされたタトゥーを誇らしげに入れるファン。こうしたジョングクのスーパースター・アーティストとしての影響力に反して、彼は素朴で謙虚だ。一般的に、大衆文化は幼いスターにとって非情なものだが、15歳でデビューしたジョングクは、然るべき時に彼の襟を正してくれるバンドメンバーたちの注意深い眼差しの下で育った。彼は気配りができ、どこまでも礼儀正しく、好奇心旺盛で、茶目っ気のあるユーモアの持ち主だ。ライター/プロデューサーのAndrew WattとCirkutと共に『Seven』をレコーディングした際、彼はこれまで挑戦したことのないジャンルでうまくやろうと意欲満々で、マイクの前に立つと目に見えて緊張した面持ちだったが、2人から称賛の言葉を浴びせられると、明らかに嬉しそうな表情を見せていた。
「自分の声でどんな音楽ができるか試すために、できるだけ多くのジャンルをやってみたいです」と彼は言う。また、ソロ・デビューシングルの成功が、これからリリースする曲のサウンドに影響を及ぼすことはないと付け加えた。「音楽を聴いて、それが良かったらジャンルに関係なく、そのまま進んでいくだけです。『おお、この人はどんなジャンルでもこなせるんだな』って言われるのは本当に気分がいいので、みんなを驚かせられたら、すごく楽しいと思います」
数年前、彼は自分が書いたものをほぼすべて削除していた。当時を思い出し、笑みを浮かべる彼のピアスに光が反射する。「実は、音楽を作っては捨ててしまう癖を直そうとしているんです。でも、過去に自分が作業した曲を聴くと、今の自分はあまり満足できないんです。完璧だと思えなければ、どんな音楽も発表したくなかったですし、そう思える雰囲気もなかったんです。だから全部削除しました」
BTSが活動を再開する日が来るまで、ジョングクは自分自身の境界線を壊したいと考えている。昨年9月、彼はBTSの『Proof』(Collector's Edition) に収められた手紙にこう書いている「『僕の人生の主人公は僕以外の誰でもない』という気持ちで生きています。どんな環境に置かれても、誰が周りにいても、流されることなく自分を守り、自分をコントロールできるというマインドを持つこと。それを忘れないように生きています」。(余談:ジョングクがDAZEDの表紙撮影でシャツを着用しないという明確な取り決めはなく、どの衣装も事前に計画されたものではなかった。だが、楽屋から出てきた彼は、黒いレザージャケットの下に何も身につけていなかった。これが彼が望んで決めた服装だったのだ。黙ってヴィンテージのメルセデス・ベンツの運転席に乗り込んだ彼の腹筋は、くっきりと割れていた。そして、彼はカメラレンズをじっと見つめた)
BTSの最年少メンバーであるジョングクは、ウサギのようなグループの末っ子という本来のイメージが依然、優勢であることを知っている。「そういうところをすごく好いてくれてる」と彼はロンドンに滞在中、最近頻繁に行っているライブ配信の中でファンに言った。「みんなが、そういうところが好きだとする。それで僕はそれだけについて行く。それじゃあ、僕が変えられるものは何なんだよ?自ら、僕の人生なのに。僕が変えなきゃいけないじゃん?僕のことを愛してくれる人たちに『僕はこうです』って話して、それを強��するわけじゃないけど。僕はいつも新しいものを探して、その次に新しいものを面白く作りたいし、それでもってまたARMYたちに認められたいし」 また、『Seven』のExplicitバージョンの必要性を感じた理由を問う声にも答えた。このバージョンでは「And that's why night after night, I'll be lovin' you right」という歌詞が「And that's why night after night, I'll be fuckin' you right」になる。彼はこう言った「そう感じられたのなら、もう、どうしようもないけど。僕ももう何歳だよ〜(笑)」 (※Weverse Liveでのジョングクの発言部分は@may66669様の翻訳を許可を得たうえで使用させていただきました。引用元:リンク)
ここ数年の彼はボクシングを始め、眉と唇にピアスを開け、耳のピアスも増やした。髪を伸ばし、たくさんのタトゥーも入れた。「極端なことが好きなんです」と彼は笑いながら言う。「いつも人から、丸くて柔らかそうに見えるって言われるんです。僕は鋭くて力強いイメージが欲しいんです」 デビューシングルについてジョングクは、「自分のイメージから脱却しようとしたわけではありません」と語る。彼から見れば、すでに進化は起きており『Seven』は現在の彼��そのまま反映しているのだ。だからこそ、あの核心を突くライブ配信で、彼は毅然とした態度で率直に語ったのだ。「新しい挑戦を通して、ソロ・アーティストとしてどれだけ成長したかを見せることが重要でした」と説明する。「居心地のいい場所に留まったり、慣れ親しんだものに甘んじたりするのではなく。それをファンのみなさんに十分に説明したかったんです」
彼がこうした透明性と誠実さを求めるのは、ARMYとの深い心の絆があるからだ。ジョングクはARMYのことを話すとき目を輝かせる。「ARMYのことを思い出したり、会いたくなったりしたときは、ライブをつけて一緒に遊びます」と彼は言う。彼はHYBEのプラットフォーム、Weverseを通じて、今年だけで20回以上ライブ配信を行なっている。そのほとんどは寝室やリビングルームからで、しかも真夜中であることが多い。真面目なものから笑えるものまで、さまざまなコメントに何時間にもわたって答えている。カラオケをしたり、料理をしたり、お酒を飲んだり、洗濯物だって畳む。6月には、ジョングクが配信中に寝てしまい、それに気づいたスタッフが配信を止めるまでの45分間、600万人がその様子を見守った。
ARMYに「もう寝て」とか「飲み過ぎないで」と言われると、彼はやんわりと拒否するが、「ARMYは僕に関心があって、僕のことを好きだからそう言うんです。だから全然気にしません」と彼は話す。ファンがジムに現れたり、食べ物を家に送ってきたりしたときは、しっかりと、しかし丁重にやめるように言う。「複雑な関係ではありません。僕はARMYに自由に話すし、ARMYも僕に自由に話せます。相手が不適切なことを言ったとしても、それを受け入れるか、無視するかは僕の判断であり、僕の自由です」
2021年の『Vogue Korea』とのインタビューで、ジョングクは自分自身のことを完璧でありたいひび割れた灰色(「まだ何にもなっていない色」)の六角形であり「もっと上にあがりたい」人間だと表現した。だが、彼はそれを淡々と、いくぶん希望的にさえ言った。なぜなら、それが彼の原動力になっているからだ。昔も今も、ジョングクの中で「もっと」とは「もっと優れた、もっとかっこいい歌手になること」なのだと彼は熱く語る。「僕の中では、僕は自分が思い描いていたような歌手じゃない。僕が抱いていた歌手像とは違うんです。だから、もっと上を目指すんです」
しかし、この「もっと」という言葉は、会話において難問を投げかける。なぜなら、それは未来の一部であり、その未来は彼にとって明確な目標よりも、より雰囲気を重視する無形の領域だからだ。だからジョングクは、その想像上のイメージが何なのかを語ることができない。「まだ、はっきりとはわからないけど、何かあるような感じがするんです」 彼は人差し指を空中に突き立てて、上を指さす。「すぐそこにあるんです。ただ、まだ辿り着いていないだけなんです」
2023年のジョングクは、その「まだわからない」状態をよしとしている。彼は今を生き、物事をシンプルに考えることを心がけている。たとえそれが「言うは易く行うは難し」であったとしても。「まったく考えないでいるのは不可能です」と言って彼はため息をつく。「考え事をすると、その考えが延々と続いて、どんどん深みにはまっていくことがあるじゃないですか。それがポジティブな結論につながることもあると思いますが、僕の場合はネガティブな結論につながることもありました。でも、今は自分にある程度、自信が持てるようになったので、余計な考えを排除できるようになってきました」 頭を落ち着かせる術を学ぶ中で、彼は「まだ起こっていないことを心配したり、『自分の期待に応えられなかったらどうしよう』と考えたりすることが少なくなった」という。
しかし、ソロ・デビューアルバムを視野に入れ、さらなる音楽制作に取り組んでいるジョングクは、振り返ってみれば自分がどれほど成長したかを知っている。「(デビューシングルでは)自分の直感を信じて『観客に届くかな、たくさんの人に届けられるかな』と考えていたんです。それが、ある意味、証明できました」 そして、あの曖昧なグレーの六角形ではなく「白になりたいです。どんな色にでも好きなように染められるので」と顔いっぱいに、可能な限りの大きな笑みを浮かべながらジョングクは言った。
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其の十七彫目
「彫り師の給与体系と運営手法」
さて今回は少し踏み込んだ内容ですので、多少ぼかしながら話していきたいと思います。
多分みなさんは彫り師の給与体系などは興味はありながらも聞きたくても聞けない禁断��エリアのような気がいたします。
閉鎖的な業界でありますが、SNS等が発達してタトゥー業界の情報は多少はみなさんにも入ってくる時代にはなっているとは思いますが誰もほぼ本音は言っておりませんね〜。
昨今これだけ増えているタトゥースタジオなのでその辺の事情を話すのもそろそろアリだと思います。
もちろんいつもながら自分の独断と偏見の内容なのでご了承くださいませ〜。
さてさて、スタイルで言えば完全な個人経営のスタジオ体系、、、、
オーナーがおりながらもスタジオ内の一角で一定額を支払い間借りするスタジオ体系、、、、、、
オーナーがおり彫り師さんを雇うスタジオ体系、、、、、、、、
ざっくり言えばこんな感じでしょうか、、、、
またオーナーが彫り師でない場合もあります。
もちろん見習い彫り師さんは上記の項目には当てはまっていないという前提でお話しいたします。
個人経営のスタジオは単純に月商から家賃、電気代、消耗品などなどの固定費を引いた額が月収になります。
スタジオを間借りするスタイルでは一概には言えませんが、間借り代と電気代等を少し負担するなどなどが挙げられます。
そして多数の彫り師さんがおられる激戦区スタジオはまた特殊で経営戦略が上手いです。
HP制作にも多額の費用を投入しており宣伝手法にも抜かりがないイメージですね。
人口密集地の激戦区ではそれだけタトゥー需要がありますので、供給量[彫り師]をどれだけ増やすか?が課題であり=優れた彫り師の確保が重要になってきます。
スタジオ側はタトゥーテクニックのノウハウを教えてお客さんを安定してまわす代わりにロイヤリティを得ます。
これはどの業界でも同じ事ですね。
「テクニックを教えてもらってお店のお客さんも囲ってすぐ独立します」では筋が通らないのでよく揉めたりするのはどの業界などもあるあるネタではございます、、、、、、
オーナー彫り師さんはタトゥースキル、テクニックも素晴らしい方々が多いです。
激戦区での彫り師兼オーナーとは芸能人や有名人などを顧客に持ち、メディア媒体などにも顔を売りインフルエンサーのような方々に宣伝を手伝ってもらいます。
さすれば必然的にお客さんも多くやってきますが、身体は一つ、、、、、、、
施術出来る仕事の時間は限られ、収入は一定レベル以上は必ず上がらない法則が生まれます。
その辺を理解しているからこそ多数の彫り師さんを雇うスタイルで回転率を上げ利益を上げる手法が出来上がります。
こういう流れを作れば、オーナー自身が矢面にそれほど立たずに経営が成り立ちます。
もちろんオーナーさんはタトゥーテクニックは上手い方が殆どですが、あえて顧客を多く取らず予約を取りづらい状況にして自身のブランド価値を高める、さすればそのスタジオのスタッフ達に仕事が多くまわる、、、こんな感じですかね〜。
これは最近よくある手法で、ある程度の歳を重ねたベテラン彫り師さんにはあまり理解し難い戦略方法なので、ワタクシ自身は否定は致しませんが、、、、、時代の流れなんでなんともね〜、、、、
上記のスタジオオーナーさん達は大体30代〜40代前半の方が多いイメージですかね〜、、、、
事実こういった手法はお金にはなります。
在籍彫り師さんは、そのスタジオの看板名でお客さんをまわして頂いている場合が多いです。
なのでその分のロイヤリティを支払う義務が生じます。
これはオーナーとの関係性にもよるので、これまた一概には言えませんが「約3割から約5割以上」を支払う仕組みになっていると思われます。
在籍している彫り師さんでも有名な方々もいらっしゃるので例外もあり、スタジオによってはインセンティブ「成果報酬」などがある場合もあります。
ロイヤリティは高いがグローブやインクカップなどの使い捨て消耗品等はすべてスタジオ側に用意してもらえる場合もあれば、ロイヤリティは低いが使い捨て消耗品等はすべて自分持ちというケースもあり、どちらがいいと一概に言えません。
宣伝や固定費、トラブルなどはスタジオ側に任せればいいので楽ではあります。
しかし独立を考えた時、ただ彫ってばかりいたではお客さんはあまり付きません、、、
個人のスタジオはそこにコミュニケーション能力がより必要になり、お客さんに贔屓にして頂ける人格も必要になります。
様々な理不尽なトラブルに己で対処してきたかが人間的に成長させるものと考えます。
そういった方々は職業関係なく内から不思議な魅力を感じます。
そうしてお客さんがたくさん来て頂けるようになると考えますね〜。
次回其の十八彫目は「過去と現在の客層の違い」でございます〜。
DMS TATTOO
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ロワー・イーストサイドの民俗史家
この40年間、この界隈の最も粘り強いアーティスト兼アクティビストだったクレイトン・パターソンのこと
ーーミス・ローゼン、2023.7.8
アーティストであり民間歴史家のクレイトン・パターソンは同じロワー・イーストサイドの店構えに40年間住んでいる。道に面した大きな窓のすぐ内側にある古い布張りの椅子に座って、視線を集めているから、すぐわかる。トレードマークの銀色の髭が胸まで流れ、微笑むスカルがついたオリジナルのクレイトン・キャップをかぶっている。74歳のパターソンは、あまりに長いあいだロワー・イーストサイドでこの場所を題材にしたアートをつくってきたので、ここの歴史と自分の人生とが切っても切れない状態になっている。10年ほど前、彼はこの界隈を出て行きそうになった。ジェントリフィケーションの進行の速さ、行きつけの場所の閉鎖、親しい友人の死などに嫌気が刺したのだ。タイムズ紙は彼が去ることを「マンハッタン最後のボヘミアン」が退場すると記し、一時代の終わりだと告げた。しかし結局パターソンはそこにとどまった。
写真キャプション: ・クレイトン・パターソン。2023年7月6日、自宅にて。 ・ニューヨーク市警が武装した警官を乗せた車両を「ブレット・スペース」(ロワー・イーストサイドのアーティストコレクティブ兼ギャラリー)の前に止めたことに抗議して作られた段ボールの戦車 ・意識がない様子の人をチェックする警官 ・放置されていることに抗議して放火された公衆トイレ ・伝説のミュージッククラブ、CBGB
カナダのアルバータ出身のパターソンは、最近私に自分の出自を「労働者階級の悪い方の端っこ」だ説明した。15歳で家を出ると、その後15年をさまざまな美術学校の学生や教師として過ごした。1979年にパートナーであるアーティストのエルサ・レンサアと共にロワー・イーストサイドに来ると、地主が手を回した放火、政府による差し押さえ、そして10年間にわたって「見て見ぬふり」をされてきたことによって、この移民たちの小さな居住区は廃墟と化した建物と捨てられた注射針が散見される場所になっていた。しかし、ニューヨーカーはなにもない場所を放ってはおかない。この界隈の安い不動産を目指して、すぐに不法占拠者やアーティストや社会ののけ者たちが群がってきた。パターソンはレンサアに贈られたペンタックス125SLRを持って道を歩き始めた。そしてセックスワーカーや詩人、学校に通う子供たちやパンクスなど、ロワー・イーストサイドを自分たちの街と呼ぶ人々の写真を撮り始めた。カメラは街の扉を開く鍵となり、そうでなければ行かなかっただろうところにパターソンを導いた。ピラミッドクラブのドラアグクイーンやハードコアのショー、ストリートの過激な抗議行動、CBGBやブレット・スペースなどのローカルなランドマークやアートイベント。その中には自分の指を切り落としたパフォーマンスアーティスト、ロジャー・カウフマンのイベントもあった。パターソンの写真は、コミュニティの赤裸々なタイムカプセルとなった。彼のロワー・イーストサイドでの生活を記録した「Captured(��った!)」と題された2008年のドキュメンタリーで、パターソンは「ストリートを眺めているのは、水族館にいるのと似ている。通りを見ていればこういう活動がいつだって見えるんだ」と語っている。
写真キャプション: ストリートの撮影に出かけようとしている、パターソンのパートナーであり、クリエーティブ・コラボレーターのエルサ・レンサア
1983年にパターソンとレンサアはエセックス通り161番地を購入した。以前は仕立て屋が入っていた2階建ての建物だ。それから、生活費を稼ぐために「クレイトン・キャップ」を製作した。それは1986年にリリースされた、おそらく初のデザイナー・ベースボールキャップだった。その界隈から急速に消滅しつつあった衣料品産業から救い出して再利用した機械を使って、レンサアが刺繍のパターンをつくった。これがアーティストや著名人の間で大ヒットし、ジム・ダイン、デイヴィッド・ホックニー、ミック・ジャガー、マット・ディロンなどが顧客になった。その同じ年に、パターソンとレンサアは自分たちの店先をギャラリーに改装し、そこでジェネシス・P・オリッジ、テイラー・ミード、クエンティン・クリスプ、ダッシュ・スノーなど、地元の才能の展覧会を開いた。パターソンはギャラリー正面の窓を「ホール・オブ・フェーム(殿堂)」に変え、自らのポートレート写真シリーズ「ウォール・オブ・フェーム」を週替わりで展示した。被写体はほとんどが近所の住民で、グラフィティで埋め尽くされたギャラリーの壁の前でポーズをとっている。
写真キャプション: ・少年と彼のペット ・ポーズをとる若い女性 ・歩道に立つ若者 ・アーティストのブッチ・モリス
エセックス通りはパターソンにとって、80年代の高騰するアート市場への足がかりとなった。しかし彼はその状況にしらけていた。「金を儲けて、オデオンに行ったり、ミスター・チャオで食事したり。ブルペンでいちばん強い牛になるという競争ばかりだった」。その代わりに彼がやったのは、界隈でいちばんしつこいアクティビストとしてのキャリアを築くことだった。レンサアといっしょにつくったクレイトン・キャップを売った資金で「クレイトン・アーカイブ」を設立。ビデオ、アート作品、本、新聞の切り抜き、そしてロワー・イーストサイドからのさまざまな収集物。中には空のヘロインの袋もあった。ストリート写真は何千枚にもなった。「俺は他に誰も写真を持っていない人間の写真を持ってる。火事にあったり、家を失ったり、ホームレスになってすべてを失ったりしてるやつらだ」。パターソンの友人、グライフォン・ルーは、2021年にダウンタウンの書店兼アートスペース「プリンテッド・マター」でパターソンの写真展のキュレーションをした。写真のアーカイブを調べていくのは「段ボールの箱の内側から穴を開けているような、亡霊のポケットの中を探っているような感じだった」と言う。「雪崩てくる魂をどうやって整理しろってい���んだ」。
写真キャプション: ・90年代、9thストリートとアベニューDでの火災の後で ・抗議行動のサイン「ジェントリフィケーションは階級戦争だ。反撃しろ」「金持ちを追い出せ」 ・ホームレスの住宅支援デモに参加するデイヴィッド・(レッド)・ロドリゲス ・抗議団体ARTIST(Artist’s Response To Illegal State Tactics、不法な行政指針に対するアーティストの抵抗)を創設したロバート・レデルマン、1993年
パターソンは長い年月をかけて「ニューヨーク・タトゥー・ソサエティ」を組織してきた。この団体はアンダーグラウンドのアート表現がニューヨーク全体で禁止になったことを覆し、ロワー・イーストサイドを記録した数えきれないほどの本や選集を出版し、毎年実験的なアーティストやアクティビストの仕事を讃えるニューヨーク・アッカー・アワードを創設した。しかしパターソンが果たした最も重要な役割は「市民ジャーナリスト」としてのものだろう。1988年、パターソンがピラミッド・クラブでのパフォーマンスをビデオで録画していたときに、数ブロック先でトムプキンズ・スクエア・パークの暴動が勃発した。警察が公園から人を排除して封鎖しようとした後のことだった。パターソンは現場に駆けつけ、状況を録画し始めた。レンサアはテープを公園からこっそり持ち出して守る手助けをした。その映像はニューヨーク市警が抗議行動を抑圧した残忍な手法を捉えており、ニュースで放送された。ニューヨークの地方検事はパターソンを召喚して映像の提出を求めたが、パターソンは拒否し(その結果、法廷侮辱罪で収監された)、交渉の結果、映像への著作権を手にした。「人は俺のことを反社会的で反政府的なトラブルメーカーで、アナーキストだと思っているが、それはちがう。俺はアーティストなんだ。
写真キャプション: ・80年代後半の裁判所入口 ・ジェントリフィケーションへの抗議活動で投石によって割れたガラスに映ったパターソンの自画像
パターソンの映像と写真の作品はニューヨークやその他の場所で何百回も展示されてきた。その幾つかは、現在、市のフォトヴィル・フェスティバルの一部として野外に設置されている。しかしパターソンは自分を写真家と定義づけることを拒否する。カメラは彼の何十年にもわたる保存プロジェクトの一つのツールに過ぎないからだ。「俺のアートは一つひとつの作品じゃない。それはもっと大きなビジョンであり、生存、存在、そしてクリエイティブであり続けるということなんだ」。
写真キャプション: ・90年代初頭、ふざけてパターソンを撮影する警官。後ろに見えるのはテレビシリーズ “The Church of Shooting Yourself” のリック・リトル(彼が扮するパラノイアのフェイク・ジャーナリストがイーストビレッジの出来事を自撮りする番組)
ニューヨーカーに掲載。2023.7.8
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レタリングと太陽と月。 お胸のカーブで歪んで撮れたという事を先程気付きました! 顔がちゃいちーなのでまつ毛とかもうね… 最近ミニマムワーク多いな!笑。 みんな! でかいのだと助かるぜ!!笑。 ちょっと安くするから!!笑。 さっ!!これね鎖骨下というかもはや胸上。 やっぱやり辛ぇわ…笑。 が!!無になるを習得したのでもう大丈夫そう♪ 分厚いニトリルグローブのおかげー! モノタロウさんサンクスー! さてゆっくりするつもりが結局下絵に追われておるし、問い合わせ多いしいつも通りや…笑。 まあ頑張りますとも♪ Mちゃんお疲れ様でしたm(__)m大量の差し入れもいつもありがとうございます😭♪次回があるのか無いのか楽しみにしとりまっせ♪ #tattoo#tattoos#drawing#skech#illustration#Nocturneink#刺青#タトゥー#お絵描き#procreate#japan#広島#広島タトゥー#hiroshima#art#ink#tatooidea#letteringtattoo #sun#moon#レタリングタトゥー#太陽#太陽タトゥー#月#月タトゥー#タトゥー女子#誰かの目に止まりますように (Naka-ku, Hiroshima) https://www.instagram.com/p/CQS_iAqhiv2/?utm_medium=tumblr
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プロメア観てきた!!!!さすがトリガー!我らのトリガー!! ゲーラくん鎖骨にタトゥーあるのシコシコのシコです
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やさしさのかたまり
ジョングクくんが好きだ、とてつもなく。
まあるい後頭部、痛みを知らなそうなサラサラの髪、くりくりの目、うさぎみたいな可愛い鼻、頬の傷痕、うるうるの唇、その下にあるホクロ、綺麗な鎖骨、淡い桃色の肘、程よい腹筋、、、何から何まで好きだ、これらのことは後付けの理由にしかすぎなくて、どこが好き、?って問われたとき
ぜんぶがすき、なんて少し野暮ったいから、それのための術。本当は ただ好き それだけ。
努力を怠らないところ、いつも全力を尽くすところ、ご飯を美味しそうに食べるところ、お兄さんたちに愛されているところ、、自分のことでは泣かないのに、お兄さんたちや、アミのために泣くところ、、
自分がどんなに痛くても苦しくても、泣いたりはしないと彼は言う。たしかにかかとが切れたとき、彼は泣いたり、根をあげたりしてなかった。絶対、痛かっただろうに。むしろ、満足のいくステージができないことに落ち込んでいた。自分のこと少しは心配してよ、って思った。ジョングクくんが泣かなかったからわたしも泣かなかったよ、顔は引きつってただろうけど。
でもそのあとステージで、泣いてたね、アミに対して。踊りたかったんだろうな、アミの前で。彼の涙は後悔だと思う。
純粋に、後悔。だからあんなに綺麗なのかな、
2019年、彼にとっては少し、辛い年だっただろうか。
真実なんて誰も分からないだろうに、たくさんの言葉を浴びせられた。辞めたいとも考えたのだろうか。言葉は刃になる。そんな、鋭利なものをたくさん、、泣いたのかな、後悔した?でもね、後悔なんかしなくていいんだよ、ジョングクくんは何も間違ったことはしてないよ。タトゥー入れたっていいんだよ、ピアス増やしてもいいし、髪、伸ばしてもいいんだよ、やっちゃダメなんて誰が決めたの、?神様??違うよね、自由にできるんじゃないの、だってわたしたちができるんだから、彼にできないわけないじゃない。同じ人間でしょう、?違うの?
固定概念を勝手に押し付けてはいけないと思う。人間は自由であってほしい、そういう世界になってほしい。そして、彼に刃を向けた人をわたしは一生許さない。好きじゃなくなったのなら、そのまま静かに去ればいい。何を騒ぎ立てる必要があるの?よからぬものまで作って、そんなに昔の方がよかった?それを言って何になる?それで彼が前の姿に戻ったら嬉しいの?なにか複雑じゃない?自分の思い通りになればしあわせなの?そんなちっぽけなしあわせ、わたしはいらない。彼は着せ替え人形じゃない。嫌いなのにまだなにか言うってことは、どこかで好きの気持ちが残ってるんじゃないの?好きなのに、傷つけるの?わたしにはよく分からない。好きな人、傷つけて、たのしい?一生分かり合えないね。
「 舞台からファンを眺める時、どんなことを考えている? 」
『 ここが、ぼくの世界。多くの愛と応援を送ってくれるアミ達でいっぱいの会場は、ほんとうに最高。 』
大好きだった人に傷つけられたにも関わらず、彼はわたしたちのために涙を流す。やさしいね、優しすぎちゃうから、すぐ壊れちゃいそう、脆くて、儚い。LYS Tearのメイキングフィルムでホプさんが、ジョングクは触れたら、消えそうです。って言ってた。ほんとに消えちゃいそう。いやだ、消えないで。
아무행알
아미는 무슨 일이 있어도 행복해야 돼 알겠지?
アミは何があってもしあわせでなくちゃダメだよ?わかった?
わたしはあなたが生きていればしあわせだよ?ずっとアイドルでいてほしい、やめないで、なんて願った時もあったけど、今もう、生きていたらしあわせだよ。世界の隅っこでもいい、目立たなくてもいいから、生きていて。しなないで、もし、なんてことがあったらいやだけど、もし、、いなくなってしまったら、そしたらわたしもすぐそっちへ向かうから。ひとりにはしないから。わたしもひとりにしないで、
今日のジョングクくんは何を思ってるんだろう、アミがいなくて寂しい、?早く会えるといいね、わたしも早く会いたいから頑張って生きるよ、そのくりくりの目に早く紫色の輝く宇宙、映してね。
なにも特別な日ではないけど、いや、ないからこそ、ただ好きだって書こうと思ったけど、結局リアコの大暴走になってしまった。つらい。ああ、今日も好きだよジョングクくん。
ほんとは彼がアイドルになった日に、書こうと思ってたんだけど、どうしても簡単には書けなくて、こんなに日が空いてしまったよ。あの日、あのとき、あの場所、アイドルという職業を選んでくれてありがとう。そして今でも続けてくれてありがとう。いいことばかりじゃないけれど、わたしはずっとあなたのしあわせを願うから。これからも一緒に花道を歩いて行こう。最期まで。
우리 정국이 앞으로 울지 말고 행복해야 돼 알았지 ?
もう1人の愛する人も、儚くて消えちゃいそうだな。
3月13日、もうすぐ、sweet night
彼は眠れるようになったのかな、そうだといいな、祈ったとおりわたしの神様が少しでも手助けしてたらいいな、今日はなにしてるかな、元気で過ごしてるかな、ヨンタンには会った?Weverseの返信たくさんしてたね、ほんとに心があったかいね、暖炉みたい。てひょんくんのあまい夜はどんなかな、楽しみだな、わたしは今日も眠れないから、薬と一緒に深い眠りにつくよ。てひょんくんがしあわせで蜂蜜のようなあまい夢を見られますように。sweet dream :)
おやすみなさい。いい夢みてね、あいしてるよ、
200311 3:17 @love07maze
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カレンさんのために見つけてきたタトゥー♡♡ チョーカーを着けるのが基本なので鎖骨周辺にタトゥーがない。 両腕・みぞおち・脇腹から太ももにかけてタトゥーがある。 できれば手の甲にも…と思ってたら このタトゥーは全部の条件を満たしてくれた~感動…! 童顔丸顔に似合う髪型も見つかってうれしい~♪ しかし…いつの間にかカレンさんのエクボがなくなっててびっくりw いつとれたんww
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なぜ実家をでたんだっけ?
最初にいきなりだが、あきる野市はとてもいい街だ。空気が軽く、人が少なく、自然が多く、人も暖かい。
久しぶりに実家に帰ってきた安堵感がすごく、最近は都市部での暮らしが少し窮屈に思えていたから、ふと、自分が実家を出た理由が分からなくなって、バイトが一回終わったら1,2週間帰ってこようかなと思ったほどだった。
あっちでの生活の話や、最近のあきる野の話、時間の流れが遅く、とても心地よかった。
帰ってきたときは長袖だった。祖父母もいるこの家で、増えたタトゥーを隠すために。低血圧で老々介護中の祖父母は優しさは十分すぎるぐらいだが、私との距離感は一向に縮まらない。
手首や鎖骨のタトゥーは知っているけど、それは認めてもらったり、価値観が変わったのではなく、もう消せないから、というだけ。
ただでさえ弱っている身体に衝撃を与えないように、長袖で帰ってくるよう言われた。まぁ、その点については変にリベラルぶってもしょうがないし、ここまで生きてきて一度も変わんなかった価値観が一晩で変わるわけがなかったので、従った。
最初はそう思っていたのだけれど。だんだん自分がなぜこの家を出たくなったのか、あのときの感覚がじわじわと戻ってきた。
2階にいるときは半袖でも申し分ないのだが、下に降りるときは常に長袖。お風呂は1階だからシャワーを浴びるにしろ、長袖。
専門をやめたことを言っていないから
「今は夏休みなのか?」
「うん」
心配させないための嘘なんて言えば聞こえだけはいいが、ただしょうもない嘘をついているだけだ。今思えば祖父母との関係性はずっとこうで、親にはいろいろ正直に伝えて、怒られたりとかしているけど、心配させないためにもうまく嘘をついてちょうだい、なんて言われたこと、たくさんある。
私は私のタトゥーが好きだし、自分の生活や価値観も誰に恥じるものでもないし、他のひとにもそうであってほしいと思う。
自分を偽ってまで体裁を整えて、自分の本当の気持ちに蓋をして、どんどん内側にとじこもって。そうだ。私は自分を大事にできないこの家が嫌いだから、絶対に家を出てやると毎晩泣いていたんだ。
そう気づいたときに、今の生活もさして自分は変わったつもりになっているだけで、変わっていなかったんだ、とひどく落ち込んだ。
いまだにどの関係性の人にも、自分が本当に言いたいことはまともに言えた試しがない。そうやって毎度自分の殻にとじこもってしまうのは本当に悪い癖だと思いつつ、最近は努力して何度か言えるようになった。
トラウマというと大げさだけど、その自分で自分のふがいなさに悔しくなってた時の感覚がよみがえって、胃にあるものがのどにこみあげてきて、少し吐いた。
それぐらい私にとってこの感覚は最悪以外の何物でもなかった。まだ実家を出ていなかったとき、姉が帰ってきて祖父母とよく話していた。姉が好きだし、姉がしっかり就職して働いて自立していることを誇りに思っている。祖父母と仕事の話をしながらよくやっているね~と褒められて、ちゃんと会話してて。その姿を見てた時に、数年後、こうやってちゃんと話すことができるのか不安に感じていた。
実際今回帰ってきてちゃんとした話はまともにできなかった。それは自分が今まで本当のことを言わなかった責任でもあるけど、今まで家の人に本音を話して、まともに取り合ってくれたことは1度もなくて、人柄も生活もとても尊敬できるし、今でも好きな家族だけど、自分が一番大事にしてきた価値観をバカにされたこと、何度もある。
そういう記憶がよみがえって、1人が好きな理由を思い出したり、実家を出たくてたまらなかったあの時の悔しい気持ちが蘇って、また涙を流してしまった。
文句を言わないんじゃない、言えないし、いったところで聞いてもらえたことが一度もないから、私にとって本音を話すことはトラウマ的行為以外の何物でもない。
今でもすこし勇気を出して話してみようとした瞬間にさえぎられたり、反論されるとあの時のいやな気持がフラッシュバックして、そんな見え透いたような引きこもりにはならないけれども、ふさぎ込んでしまうのは確かだ。
いつまでこんなみじめな気持になることを許し続けなければいけないんだろう。やっぱり実家を出てよかった。そして実家を出た後にわかったことは、私は家族がいやだったのではなく、この町の、人との境界線が弾けない、自他の境界線があいまいに埋没していて、慣習や伝統にとらわれた、社会的集団としてはただのカルトでしかない、この狭くて綺麗な町が大嫌いだったことを思い出したのだ。
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