#遠藤比鶴
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処刑の科学 バート・ロンメル、遠藤比鶴・訳 第三書館 装丁=荒木洋子
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今回の報告書で「消滅可能性自治体」とされた自治体は、以下の通り。 【北海道】 函館市、小樽市、釧路市、夕張市、岩見沢市、網走市、留萌市、稚内市、美唄市、芦別市、赤平市、紋別市、士別市、三笠市、根室市、砂川市、歌志内市、深川市、富良野市、登別市、伊達市、北斗市、当別町、新篠津村、松前町、福島町、知内町、木古内町、鹿部町、森町、八雲町、長万部町、江差町、上ノ国町、厚沢部町、乙部町、奥尻町、今金町、せたな町、島牧村、寿都町、黒松内町、京極町、共和町、岩内町、泊村、神恵内村、、積丹町、古平町、余市町、赤井川村、南幌町、奈井江町、上砂川町、由仁町、長沼町、栗山町、月形町、妹背牛町、雨竜町、北竜町、沼田町、当麻町、比布町、愛別町、上川町、上富良野町、和寒町、剣淵町、美深町、音威子府村、幌加内町、増毛町、小平町、苫前町、羽幌町、遠別町、浜頓別町、中頓別町、枝幸町、豊富町、利尻町、美幌町、津別町、清里町、小清水町、訓子府町、佐呂間町、遠軽町、湧別町、滝上町、西興部村、雄武町、大空町、豊浦町、白老町、洞爺湖町、むかわ町、日高町、平取町、浦河町、様似町、えりも町、新ひだか町、士幌町、広尾町、池田町、豊頃町、本別町、浦幌町、釧路町、厚岸町、浜中町、標茶町、弟子屈町、白糠町、羅臼町 【青森県】 青森市、弘前市、八戸市、黒石市、五所川原市、十和田市、むつ市、つがる市、平川市、平内町、今別町、蓬田村、外ヶ浜町、鰺ヶ沢町、深浦町、藤崎町、大鰐町、板柳町、鶴田町、中泊町、野辺地町、七戸町、横浜町、東北町、六ヶ所村、大間町、東通村、風間浦村、佐井村、三戸町、五戸町、田子町、南部町、階上町、新郷村 【岩手県】 宮古市、大船渡市、久慈市、遠野市、一関市、陸前高田市、釜石市、二戸市、八幡平市、奥州市、雫石町、葛巻町、岩手町、西和賀町、平泉町、住田町、大槌町、山田町、岩泉町、田野畑村、普代村、軽米町、野田村、九戸村、洋野町、一戸町 【宮城県】 石巻市、気仙沼市、白石市、角田市、登米市、栗原市、蔵王町、七ヶ宿町、村田町、川崎町、丸森町、松島町、七ヶ浜町、大郷町、色麻町、加美町、涌谷町、女川町、南三陸町 【秋田県】 能代市、横手市、大館市、男鹿市、湯沢市、鹿角市、由利本荘市、潟上市、大仙市、北秋田市、にかほ市、仙北市、小坂町、上小阿仁村、藤里町、三種町、八峰町、五城目町、八郎潟町、井川町、大潟村、美郷町、羽後町、東成瀬村 【山形県】 鶴岡市、酒田市、新庄市、上山市、村山市、長井市、尾花沢市、山辺町、中山町、河北町、西川町、朝日町、大江町、大石田町、金山町、最上町、舟形町、真室川町、大蔵村、鮭川村、戸沢村、高畠町、川西町、小国町、白鷹町、飯豊町、庄内町、遊佐町 【福島県】 会津若松市、白河市、喜多方市、二本松市、田村市、伊達市、桑折町、国見町、川俣町、天栄村、下郷町、檜枝岐村、只見町、南会津町、北塩原村、西会津町、猪苗代町、会津坂下町、三島町、金山町、会津美里町、泉崎村、棚倉町、矢祭町、塙町、鮫川村、石川町、玉川村、平田村、浅川町、古殿町、三春町、小野町 【茨城県】 日立市、常陸太田市、高萩市、北茨城市、潮来市、常陸大宮市、稲敷市、桜川市、行方市、鉾田市、城里町、大子町、美浦村、河内町、八千代町、五霞町、利根町 【栃木県】 日光市、矢板市、那須烏山市、益子町、茂木町、市貝町、塩谷町、那珂川町、 【群馬県】 桐生市、沼田市、渋川市、藤岡市、富岡市、安中市、上野村、神流町、下仁田町、南牧村、甘楽町、中之条町、長野原町、嬬恋村、草津町、東吾妻町、片品村、みなかみ町、玉村町、板倉町 【埼玉県】 行田市、秩父市、越生町、小川町、川島町、吉見町、鳩山町、ときがわ町、横瀬町、皆野町、長瀞町、小鹿野町、東秩父村、神川町、寄居町、松伏町 【千葉県】 銚子市、勝浦市、富津市、八街市、南房総市、匝瑳市、香取市、山武市、いすみ市、栄町、神崎町、多古町、東庄町、九十九里町、芝山町、横芝光町、白子町、長柄町、長南町、大多喜町、御宿町、鋸南町 【東京都】 檜原村、奥多摩町 【神奈川県】 三浦市、中井町、山北町、箱根町、真鶴町、湯河原町 【新潟県】 小千谷市、加茂市、十日町市、村上市、糸魚川市、妙高市、五泉市、阿賀野市、佐渡市、魚沼市、胎内市、田上町、阿賀町、出雲崎町、湯沢町、津南町、関川村、粟島浦村 【富山県】 氷見市、南砺市、上市町、入善町、朝日町 【石川県】 七尾市、輪島市、珠洲市、加賀市、羽咋市、志賀町、宝達志水町、穴水町、能登町、 【福井県】 大野市、勝山市、あわら市、池田町、南越前町、越前町、高浜町、若狭町 【山梨県】 都留市、大月市、韮崎市、上野原市、甲州市、早川町、身延町、南部町、富士川町、道志村、西桂町 【長野県】 大町市、飯山市、小海町、佐久穂町、立科町、長和町、阿南町、阿智村、平谷村、天龍村、上松町、南木曽町、王滝村、大桑村、木曽町、生坂村、筑北村、小谷村、坂城町、高山村、山ノ内町、木島平村、信濃町、小川村、飯綱町、栄村 【岐阜県】 美濃市、瑞浪市、恵那市、山県市、飛騨市、郡上市、下呂市、海津市、養老町、関ケ原町、揖斐川町、池田町、七宗町、八百津町、白川町、東白川村 【静岡県】 熱海市、下田市、伊豆市、御前崎市、牧之原市、東伊豆町、松崎町、西伊豆町、川根本町 【愛知県】 津島市、新城市、南知多町、美浜町、設楽町、東栄町、豊根村 【三重県】 尾鷲市、鳥羽市、熊野市、志摩市、木曽岬町、大台町、度会町、大紀町、南伊勢町、紀北町、御浜町、紀宝町 【滋賀県】 高島市、甲良町 【京都府】 宮津市、京丹後市、井手町、宇治田原町、笠置町、和束町、南山城村、京丹波町、与謝野町 【大阪府】 富田林市、河内長野市、柏原市、門真市、泉南市、阪南市、豊能町、能勢町、岬町、太子町、河南町、千早赤阪村 【兵庫県】 洲本市、西脇市、加西市、養父市、朝来市、宍粟市、多可町、市川町、神河町、上郡町、佐用町、香美町、新温泉町 【奈良県】 大和高田市、五條市、御所市、宇陀市、山添村、安堵町、三宅町、曽爾村、御杖村、高取町、上牧町、河合町、吉野町、大淀町、下市町、黒滝村、野迫川村、十津川村、下北山村、上北山村、川上村、東吉野村 【和歌山県】 海南市、橋本市、有田市、御坊市、田辺市、新宮市、紀の川市、紀美野町、かつらぎ町、九��山町、高野町、湯浅町、広川町、美浜町、由良町、みなべ町、日高川町、白浜町、すさみ町、那智勝浦町、太地町、古座川町、串本町 【鳥取県】 岩美町、若桜町、智頭町、八頭町、大山町、日南町、日野町、江府町 【島根県】 雲南市、奥出雲町、津和野町、隠岐の島町 【岡山県】 玉野市、笠岡市、井原市、高梁市、新見市、備前市、真庭市、美作市、久米南町、吉備中央町 【広島県】 竹原市、府中市、安芸高田市、江田島市、安芸太田町、神石高原町 【山口県】 萩市、長門市、美祢市、周防��島町、上関町、田布施町、平生町、阿武町 【徳島県】 鳴門市、小松島市、吉野川市、阿波市、美馬市、三好市、勝浦町、佐那河内村、神山町、那賀町、牟岐町、美波町、海陽町、上板町、つるぎ町、東みよし町 【香川県】 さぬき市、東かがわ市、土庄町、琴平町 【愛媛県】 宇和島市、八幡浜市、大洲市、四国中央市、西予市、上島町、久万高原町、内子町、伊方町、松野町、鬼北町、愛南町 【高知県】 室戸市、安芸市、須崎市、宿毛市、土佐清水市、四万十市、東洋町、奈半利町、田野町、安田町、北川村、本山町、大豊町、いの町、仁淀川町、中土佐町、佐川町、越知町、檮原町、日高村、津野町、四万十町、大月町、三原村、黒潮町 【福岡県】 嘉麻市、小竹町、鞍手町、東峰村、添田町、川崎町、みやこ町、築上町 【佐賀県】 多久市、玄海町、大町町、白石町、太良町 【長崎県】 平戸市、松浦市、対馬市、壱岐市、五島市、西海市、雲仙市、南島原市、東彼杵町、小値賀町、新上五島町 【熊本県】 水俣市、上天草市、天草市、美里町、和水町、小国町、産山村、高森町、山都町、氷川町、芦北町、津奈木町、多良木町、湯前町、相良村、山江村、球磨村、苓北町 【大分県】 佐伯市、臼杵市、津久見市、竹田市、杵築市、豊後大野市、国東市、姫島村、九重町、玖珠町 【宮崎県】 串間市、えびの市、高原町、国富町、諸塚村、椎葉村、美郷町、高千穂町、日之影町 【鹿児島県】 枕崎市、阿久根市、西之表市、垂水市、曽於市、南九州市、三島村、さつま町、湧水町、錦江町、南大隅町、肝付町、大和村、喜界町、天城町
【全744自治体リスト】「消滅可能性自治体」を一挙公開…北海道から鹿児島まで 出産年代の女性人口が半数以下に 日光市や草津町も |FNNプライムオンライン
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『「呪術」の呪縛』下巻の読書ノート
江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(下)リトン、2017年。
第一部 呪術概念の再検討
鶴岡賀雄「「呪術」の魅力:「永遠のオルタナティブ」の来歴と可能性についての試論」
「マギア」を人類学的・宗教学的分析概念としてではなく西欧精神史の構成要素として見て、古��ギリシアから、中世神学、ルネサンス、近世キリスト教、現代芸術に至るまで、マギアの位置づけを跡づける。 そこでは、マギアがつねに、公共宗教や哲学といった正統的な知や生き方に対して、劣位に置かれた人々による代替行為として位置づけられる。しかし、この民衆の低級知は正統知でないがゆえに、かえってそれを批判的に超える超高級知ともなりうるものであった。 近世神秘神学における神的/悪魔的/自然的という三分法が、人類学・宗教学における宗教/呪術/科学の三区分に改鋳されていったのではないか、という指摘はなるほどなあと感じ。また、世間的・民衆的な低級知たるマギアがつねに物を介するというのも、フェティッシュとの関係で興味深い。 「神秘主義」概念の検討については別稿に譲るとされているが、その「別稿」とはこれですね。→ 鶴岡賀雄「「神秘主義」概念の歴史と現状」『東京大学宗教学年報』vol. 34、東京大学文学部宗教学研究室、2017年、pp. 1–24。 https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/47687# なお、本論文の中で、サラマンカ大学の学士アマドール・デ・ベラスコが持っていたグリモワール(魔術の指南書)をめぐる事件の話が出てくるが、最近、魔術のことを考えすぎて、先日、江川さんから「grimoireとは魔術書のことなんですよ」と教えてもらう夢を見た。 山崎亮「社会学年報学派の呪術論素描」
ユベールとモースの「呪術論」は混乱に満ちた論文であり、その一因として呪術のアポリア(呪術は私的なものであるが、社会的な性格ももつ)が挙げられる。この混乱を理論的に整理したのがデュルケームの聖理論であるが、ユベールとモースは納得していなかった。 江川純一「「magia」とは何か:デ・マルティーノと、呪術の認識論」
イタリア宗教史学におけるマジーア概念を、特にエルネスト・デ・マルティーノの『呪術的世界』とその後の転回にしたがって明らかにする。宗教学において一般的に、「呪術」は「宗教」のネガとして語られがちだが、宗教史学はこの対比・対立を認めない。 デ・マルティーノは『呪術的世界』において、呪術的世界は「自分の魂の喪失の危機とそこからの解放」という実存のドラマによって根拠づけられるとして肯定的に評価したが、この世界を歴史的時代であるとしたがゆえに、進化主義的宗教論と見分けがつかなくなってしまった。 「呪術的心性と原始的心性を混同している」という師ペッタッツォーニらの批判を受け、デ・マルティーノは後年、「呪術的世界」という想定を取り下げ、神話ー儀礼の結合物としての「呪術ー宗教現象」を探究するようになる。 注にある、「今後、20世紀の宗教学思想を振り返るときには、ペッタッツォーニ、デ・マルティーノ、エリアーデのトライアングルによる、神話ー儀礼的技術としての「呪術ー宗教」の考察が軸となるであろう」という指摘が興味深い。
なお、A. C. ハッドンが報告したボルネオのトゥリク族の男の話(ある男は鉤形の石を頑なに手放そうとしなかった、その石は魂が自分の身体を去るのを引き留めているのだという)がラトゥールのファクティッシュのようで面白い。
第二部 事例研究:古代~中世
渡辺和子「メソポタミアにおける「祈祷呪術」と誓約:「宗教」と「呪術」と「法」」
なかなか論争的ですごい論文であった。一言ではまとめづらいが、アッシリアの『エサルハドン王位継承誓約文書』(ESOD)の構成や文法を分析することで、誓約と儀礼、「言うこと」と「すること」の宗教的な結びつきを考察する。 アッシリア学者の重鎮オッペンハイムは、西洋人として祈りと儀礼が結びつくことに耐えられず、「メソポタミア宗教」は書かれるべきではない、とまで言う。また、ESODの誓約と儀礼という形式こそが、契約(誓約)宗教としての一神教の成立と後のキリスト教の成立にも影響を与えたという。
高井啓介「その声はどこから来るのか:腹話術の魔術性についての考察」
叙述がトリッキーで面白い。腹話術が古代の神学者たちによって魔術として扱われ、近代に脱魔術化していった過程が示される。旧約聖書サムエル記上の「降霊術」がギリシア語に翻訳される際にἐγγαστρίμυθος(腹話術)と訳されたために腹話術の魔術化が始まった。 降霊術が腹話術と見なされることで、腹話術師は腹の中に悪霊をもつことになり、霊媒は魔女扱いされるようになる。しかし、腹話術の魔術性を否定し、単なるトリックだとしたのが、『百科全書』で数学に関する項目を多く書いているジャンバプティスト・ドゥ・ラ・シャペルの『腹話術』であった。
山本伸一「カバラーにおける神名の技法と魔術の境界」
ユダヤ教のカバラーにおいて、正当な呪術と禁じられた魔術の境界は不分明である。このことを15世紀のカバラー文学、ルネサンスの自然魔術の影響下のカバラー、18世紀のエムデン=アイベシュッツ論争という3つの事例に即して考える。 15世紀スペインのカバラー文学の共通点は、主人公であるカバリストが終末とメシア来臨を促すために悪魔を追放しようと立ち上がるも、悪魔に騙されて取り逃がしてしまい、逆に魔術に手を染めた悪人として非難される、という物語。中2っぽいというか、『進撃の巨人』(デビルマン)フォーマットだなと。 青木健「ゾロアスター教神官マゴスの呪術師イメージ:バビロニア文化の影響と呪術師イメージの由来」
マゴスには「呪術師」「神秘主義の達人」「放蕩」といったイメージが付与されるが、ゾロアスター教の神官の職能を検討してみると、実態は王朝に仕える官僚であり、吉凶暦や蛇占いといった副業の方がイメージの形成要因となったと考えられる。 青木健『古代オリエントの宗教』は、渡辺論文の注で、紀元前2世紀から13世紀までのオリエントの宗教史を扱うものなので、「書名と内容が一致していない」と批判されていた。 毛利晶「古代ローマにおける凱旋の儀式:トリウンプスに関する最近の研究動向を中心に」
ローマで戦争で勝利を収めた将軍が行う凱旋の儀式トリウンプス(triumphus)。そこでユピテルの扮装をする凱旋将軍の役割は神か王か。近年の論争を踏まえて、著者は元々ユピテルの儀式であったものが後に将軍自身を讃える儀式へと変化していったと推測する。 凱旋式挙行の���件が、①命令権(imperium)、②鳥占権(auspicium)、③軍隊指揮(ductus)、④幸運(felicitas)の4つだったというのが、統治(王)・呪術(宗教)・軍事の三権が一人に集中しているようで興味深い。 野口孝之「近代ドイツ・オカルティズムの「学問」における「魔術」」
19世紀後半から20世紀初頭に展開されたオカルティズムにおける「魔術」の位置づけを、キーゼヴェッター、エスターライヒ、シュティルナーという3人の思想を中心に検討する。 ドイツの代表的なスピリチュアリスト、カール・ドゥ・プレルの概念das transzendentale Subjektを「超越的主体」と訳しているけど、「超越論的主観」��は。このドゥ・プレルの理論を援用するキーゼヴェッターはオカルティズムをGeheimwissenschaftと呼び、先人としてスウェーデンボルグを挙げている。 ちなみに、スウェーデンボルクを批判したカントの『視霊者の夢』の第一部第二章のタイトルはgeheime Philosophie(オカルト哲学)である。
寺戸淳子「「呪術ではない」祭儀:「秘義」としての聖体拝領」
大変勉強になった。キリスト教の「聖体拝領(聖餐)」「実体変化」「神秘的肢体」といったややこしい話を基本的なところから丁寧に教えてくれるので、これらの神学的議論に関心がある人におすすめの入門的論文。 12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。 12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。 逆に、教会はCorpus mysticumと呼ばれるようになった。つまり、聖体と教会の呼び方が入れ替わったのである。この教会を指す「神秘的肢体」がやがて法人のような擬制的人格一般を指すようになっていった。カントーロヴィチぽいなと思ったら、カントーロヴィチが参照されていた。 佐藤清子「19世紀合衆国における回心と「呪術」:チャールズ・G・フィニーの新手法擁護論とその批判を中心として」
きわめて明晰な論文。19世紀アメリカの第二次大覚醒の時代を代表する牧師フィニーは「新手法」と呼ばれる礼拝方式を導入して革新をもたらしたが、それは回心を意図的・合理的に促す手法であり、限りなく呪術に接近していく。 フィニーはスコットランド啓蒙思想の影響の下、自然法則の学習・応用という方法論を採用し、自らの回心の方法を「科学」あるいは「哲学」であると称した。他方で、呪術・宗教・科学の三区分で知られるフレイザーもまた、同じくスコットランド啓蒙の思潮に影響を受けていることは興味深い。 フレイザーは呪術を稚拙な科学であるとしたが、もし仮に「回心」を心理学的な技術によって達成できるようになったとしたら、それは科学なのか呪術なのか。実は科学と呪術の区別は、その知識や技術の程度の差異によるのではないのではないか。 フィニーの「祈り」についての議論も面白い。回心は聖霊の働きによるが、人間は聖霊をコントロールできないがゆえに、回心も究極的には神に委ねられている。しかし、フィニーは回心と聖霊の間に「祈り」という人間の行為を介入させる。とはいえ、人間は祈りによって神を操作できるわけではない。 フィニーによれば、祈りはそもそも聖霊の働きによって可能になるのだから、祈ることができること自体がそれが叶えられる可能性があることの証拠となる、という。ここには、祈りのアポリア(祈りは効果があるならば、祈りにはならず、効果がないならば、祈る必要がない)を解く鍵があるように思われる。 久保田浩「近代ドイツにおける「奇術=魔術」:奇術とスピリチュアリズムの関係に見る〈秘められてあるもの〉の意味論」
19世紀ドイツで機械仕掛けの奇術を行う奇術師は、トリックを説明(klaeren)可能なものとしながら、それを驚嘆すべきものとして提示する者であり、スピリチュアリストの種明かし(erklaeren)をして詐欺を暴く啓蒙(Aufklaerung)の意義も担っていた。 奇術師がスピリチュアリストを科学的に暴いたり、宮廷からお墨付きを得た「宮廷奇術師」が登場したりと、『鋼の錬金術師』が好きな人にお薦めしたい論文。スピリチュアリストが、奇術師は本人も気づいていないけれど実は霊媒であり、本人が奇術だと思っているのも霊媒現象なのだと主張する話が面白い。
井上まどか「ロシアにおける呪術概念の検討」
前半が現代ロシアの事典や概説書における「呪術」概念の分析、後半が16世紀に編纂された『百章』における「呪術」の用法について。「準備的覚え書き以上のものではなく」という著者の言葉通りの文章であった。 『金枝篇』の著者名が「D. D. フレイザー」となっていて、目を疑った(ロシアだとJもGもDなんですか)。それ以外にも本書は誤植が非常に多い印象。上巻目次のタイトルからして既に間違っている。
西村明「呪術としてのキリスト教受容:ミクロネシア・ポンペイ島を中心に」
最終章でいよいよ真打ち「マナ」登場。ミクロネシアのポンペイ島における宣教でキーワードとなった「マナマン」から、マジックワードとしての「マナ」概念の歴史的形成の議論へ。 まず、宣教師は植民地主義的視点で現地の宗教的・呪術的実践を裁断するが、しかし、その視線は一方向的なものではなく、現地民もまた、自分たちの価値体系の中にキリスト教を位置づけて理解する。ポンペイ島で、二つの異なる価値体系を通訳した概念が「マナマン」であった、という話が面白い。 さらに後半、この「マナマン」(ミクロネシア)と同族語である「マナ」(メラネシア・ポリネシア)という概念が辿った数奇な運命が論じられるが、これも面白い。 「マナ」とはそもそも、コドリントンが『メラネシア人』(1891)において初めて学術的議論に導入した語で、その後、超自然的力を指す普遍的な概念として人類学・宗教学で多用されていった。しかし、コドリントンが現地調査したモタ島とバンクス諸島は、当���、ポリネシア人と宣教師の影響を受けていた。 メラネシアの「マナ」が形容詞や動詞としての含意があったのに、ポリネシアでは名詞として用いられた。メラネシアの宣教師たちは先にポリネシア語に通じていたために、「マナ」を名詞的に理解してしまった。こうして、コドリントンがやってきた頃には、既にバイアスのかった「マナ」となっていたのだ。 このように、「マナ」とは、ポリネシアとメラネシア、現地民と宣教師、そして世界各地の多様な宗教間といった、異質な価値体系を通訳=通約する概念として強力な力をもつようになっていったのである。異質な体系の間の界面に生じる通約的概念という意味では、「フェティッシュ」にも似ているように思う。
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2023.6.12 ~ 福津へ
蒸し暑くなりました。夏の空気です。海が恋しくなります。だからってわけではありませんが福津へ出発しました。
舞鶴公園・福岡城址のお堀 ~ 蓮の葉がびっしり。
天神北
福津市在自(あらじ)の金刀比羅神社から
北西方向
忍ケ丘・名呑池の近くから ~ 南方向
遠くに見えるのは福岡アイランドシティ(福岡市東区)の高層マンション?
そこから右に伸びるのが志賀島(しかのしま)
この後、大石岡ノ谷古墳群の探索へ。~ 椎ケ元観音(しいがもとかんのん)の裏山
藤棚にはソラマメみたいな藤の実がなってました。
古墳は前方後円墳が2基、わかりやすかったです。
博多港国際ターミナル付近
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人數與能力的矛盾
我們來做個試算。假設我們有一個聯盟,裡面有二十五隊,每支球隊有二十名球員,總共五百人。接下來,假設有一個小鎮,裡頭有一千位運動員讓我們抽選。這些運動員的個人能力分配,如圖表4-7 所示。分數越高,代表個人能力越強。
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為了滿足聯盟所需,我們就從這個分配圖的右方開始,找出五百位最有能力的球員。我們選走能力值為6 的二十位球員、能力值為5 的一百四十位球員,以及能力值為4 的三百四十位球員。我們可以算出,這些球員的平均能力值為4.36,標準差為0.6。在這個聯盟裡,能力值為6 的人表現自然優於其他球員。
現在,假設我們的聯盟開放給另一個小鎮加入,這個小鎮也有一千個運動員,而也能力分配狀況也一模一樣。如今我們有兩千位球員可選,圖表4-8 就是新的能力分配狀況。
為了打造最好的聯盟,我們會選走能力值為6 的四十位球員、能力值為5 的兩百八十位球員,以及能力值為4 的一百八十位球員。如此一來,我們的平均能力值為4.72,比之前進步了8.3%。
最後,我們再增加一個小鎮,裡面有一千位球員、分配狀況也一樣。我們的球員來源,就如圖表4-9 所示。聯盟裡,會有六十位能力值為6 的球員、四百二十位能力值為5 的人,剩下二十人能力值為4。聯盟的平均能力值再次上升,這是增加7.6%,來到5.08。能力值的標準差下降到0.4。能力值為6 的人依然表現的不錯,但整體競爭性卻大幅往上提升了。這些球員也不像之前那麼的鶴立雞群。
我們可以一直增加小鎮的數量、增加同樣的球員與分配狀況,然後聯盟裡能力值為6 的球員會一直增加;一直增加到二十五個小鎮後,此時聯盟的平均能力值為6.0,標準差變成0。在這些菁英球員中,運氣決定了表現的變異性,導致所有球隊都變得一樣強。
棒球比賽過去就曾出現過這樣的過程。一個世紀以前,職棒選手全都是白人,而且主要來自美國東北方的州。現在棒球選手來自各個不同族群,而且球員來自世界各地。當今有將近三成的大聯盟���員是生於美國以外,遠高於1960 年代的一成。足球與冰上曲棍球也有類似的發展。我們在上一章討論了個人能力的矛盾。現在我們可以清楚知道背後的運作機制:如果選手的來源擴大,而且聯盟的大小不變,那麼球員的平均能力將會提升。
我們回過頭來看籃球。籃球是全世界第二熱門的運動,僅次於足球。你可能會認為,籃球也有類似的趨勢。NBA 成立於1946 年,當時所有球員與教練都是白人。如今,將近八成球員是黑人,而且大約兩成的球員來自海外。也就是說,就像其他運動項目一樣,當今籃球比賽的人才庫也比過去變大了。乍看之下,NBA 看起來顯得有些異常。
但事實上,「能力」之所以在NBA 有非常強、且非常穩定的影響力,其實有一個很單純的原因:球員身高。在大多數的運動賽事中,不管球員是高是矮,只要有能力,都有機會變成頂尖球員。但是,全世界只有少數人的身高可以讓他們進軍NBA,而且聯盟的平均身高還一直在提高。在所有男性人口中,大約只有2%的身高達到六尺四;但在NBA 裡頭,有八成球員的身高在六尺四以上。NBA的平均身高為六尺七,另外有27%的球員身高超過六尺十;這已經距離平均身高達四個標準差。超過四個標準差的意思是:在一億人口中,只有三千兩百位男性符合此標準。
這次的試算顯示,在一小群長人中,能力的變異性會比一大群矮個子球員更大。大衛•拜里(David Berri)和史黛西•布魯克(Stacey Brook)等經濟學家試著驗證這個預測。他們比較了兩群球員,一群是低於六尺四的球員、另一群則高於六尺十;接著比較這兩群球員的得分數與每分鐘產出,並計算其變異性。兩群球員的人數相近。他們發現,矮的球員的變異性比高個子小;也就是說,他們的得分能力與產出之範圍,會比高個子球員來的窄。
高個子球員的標準差比較大,正好可以解釋:為什麼NBA 球隊的輸贏往往是由個人能力所決定。儘管NBA 越來越國際化,但個人能力水準依然有很高的變異性,也就是拜里等研究人員所說的「長人供應不足」。回到剛剛我們的試想。NBA 亟需高個子球員,這表示NBA 能選擇的人才池非常有限,所以這就像只能從一個小鎮去選球員、沒有太多可選。只有一個城鎮時,大家的能力會有很大的變異;當城鎮數量變多時,大家的能力差距才會變小。
本文選自 八旗文化《長勝:靠運氣贏來的,憑實力也不會輸回去,常春藤名校「模型思維」課程指定必讀》一書 ◎ 書籍資訊:長勝:靠運氣贏來的,憑實力也不會輸回去,常春藤名校「模型思維」課程指定必讀
◎ 延伸閱讀:推理與溝通—試著不以「結果導向」判斷決策的好壞
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藥物學專著之《本草綱目》
的編寫所參考書籍甚多。 據有人統計他所引據的典籍758種,精讀的「子史經傳聲韻農圃,醫卜星相,樂府諸家」近800多種,時珍先後讀過《素問》、《靈樞》、《難經》、《甲乙經》、《東垣試效方》等古代醫書277家; 本草學名著84家,引據《說文解字》(許慎),《字說》(王安石),《名苑》(司馬光)等古今經史440家; 轉引《易經注疏》等共151家。 正如《本草綱目》自序中所載:「漁獵群書,搜羅百氏」。。
為明確藥物產地、形態等,他不畏艱苦親自到各地採訪,搜集各種物標本。 從西元1552年開始編寫,時年35歲,並動員全家人,包括四個兒子,四個孫子,以及他的學生弟子,都參與編寫與校訂。 經過27年的努力,於1578年完成這一部190多萬字的巨著初稿,后又經過十年做了三次修改和重編,前後總計40多年,
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於西元1596年(明萬曆二十四年)時珍過世后三年出版。
《本草綱目》是以唐慎微的《證類本草》為藍本,並吸收了《神農本草經》、《名醫別錄》、《唐本草》等有關著作的成就,結合自己的經驗進行加工、整理而成的一部巨著。 書中對每種藥物的產地、性味、形態、採集方法、炮製過程、藥理研究、方劑配合都詳加敘述。 特別是在藥物分類方面,採用析族、區類、振綱、分目的方法,從無機到有機,從低等到高等,順序是:水、火、土、金石、草、穀、菜、果、木、服器、蟲、鱗、介、禽、獸、人部等16部,每部又分若干類,共62類。 這種以綱摯目,綱舉目張的分類方法,在當時世界上是進步的。 書中的植物分類法,對植物學的研究工作有很大貢獻,比西方植物分類學創造人瑞典的博物學家林奈的《自然系統》(1735)提出的植物分類法早157年。
《本草綱目》書中已有進化論思想,它關於動物的分類,是按照由低級到高級的進化順序排列的。 李時珍已認識到生物對環境的適應性,提出某些動物“毛協四時,色合五方”。 同時,已知利用生物適應環境的特性,進行人工飼養和改良品種。 李時珍又觀察到動物的相關變異和突然變異現象,如烏骨雞的骨、舌皆黑,飼養金魚的顏色可以突然變化等。 達爾文在其著作中曾引用《本草綱目》的資料。
《本草綱目》共52卷,載藥1892種,其中374種為新增藥物,有植物1094種,動物性藥物443種,礦物性藥物355種。 附
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方11096首,插圖1160幅。 書中還十分重視藥理的研究。 對一些藥物的確實療效重新作出結論,如指出土茯芩治梅毒,延胡索可止痛,常山有截瘧作用,使君子,鶴虱,雷丸有殺蟲作用等。 同時書中還批判了一些不合理的傳說,如以往記載服食水銀、雄黃可以成仙,服食“金丹”可以長生不老,李氏不僅從理論上加以否定,而且指出服食的危害性。 又如對「草子變魚」,「馬精入地變為鎖陽」等說法,經過實際觀察,都加以改正,指出魚是魚子所化,鎖陽是一種植物。
李時珍在書中糾正了前人本草書中的某些錯誤。 如把一藥誤認二物的南星,虎掌作了更正; 把誤為蘭草的,正為蘭花; 把誤為百合的正為卷丹; 天花粉、括萎本是一種植物的塊根和果實,過去卻繪成兩種不同的植物,對此進行了糾正; 把誤列為草類的生薑、薯蓣,重新分入菜類。 《本草綱目》還對無機藥物的化學性質以及蒸餾、升發、沉澱、燒灼等技術作了闡述。
《本草綱目》書成后不久,於1590年由金陵胡承龍刻印,由王世貞作序,在1596年正式出版而刊行。 這是本書的早刻本。 現在上海圖書館藏有此書,其後此書屢行再版。 如西元1603年《本草綱目》又在江西由夏良心、張鼎思重刻。 1655年(清順治十二年)錢塘的吳毓昌重新複印。 《本草綱目》至今在國內有30多種刻本。
《本草綱目》不僅在國內有深遠的影響,而且在國際上也有較大的影響。 西元1606年時,《
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本草綱目》即由日本學者林道春首先傳入日本,1637年日本的翻印本出版。 1783年又有由日本小野蘭山譯為《本草綱目譯說》附註解的日譯本出版。 1929年日本人白井光太朗按照金陵版,翻譯為《國譯本草綱目》十五冊。 本書的問世引起了日本醫藥界的震動,對於日本植物學和藥物學的研究,產生了巨大的影響。 在日本有關研究『本草綱目』的書就有九種之多,並且編寫了許多配圖本和袖珍本。 一直到今天在日本對於《本草綱目》仍視為珍寶。 1647年波蘭人卜彌格將《本草綱目》譯為《中國植物志》於1657年以拉丁文出版。 1735年在法國巴黎出版的《中國史地年事政治紀錄》中有法文的《本草綱目》數卷,在英國也有兩種《本草綱目》英語全譯本流行。 據不完全統計,《本草綱目》在世界上有拉丁文、法文、德文、英文、日文、俄文、西班牙文、朝鮮文等八種文字的譯本流傳。 被譽之為『東方醫學巨典』。 英國生物學家、進化論的創始人達爾文在《人類的由來》一書中,還徑直把它稱為“中國古代的百科全書”。
《本草綱目》是一部劃時代的科學巨著,是我國十六世紀以前本草學的全面總結,它集中反映了我國醫藥學家和勞動人民的卓越智慧,是我國科技史上極其輝煌的碩果,是醫學寶庫中一份極其珍貴的遺產。
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星辰選集
花鳥誌 令和3年10月号
令和3年7月号の掲載句より再選
坊城俊樹選
この星辰選集は、私が各月の掲載句の中で、雑詠選・撰集選・さいかち集の成績などに関係なく、改めて俳句としての価値が優れていると判断したものを再度選句したものです。 言わば、その号における珠玉の俳句ということになります。
駄菓子屋や故郷の夏の出入り口 粟倉 健二 陽炎の伊良湖に在す幾みたま 馬場 省吾 曳く網の形に光るや蛍烏賊 岩原 磁利 卒業しどこのものでもない私 村山 弥生 湖の黄砂に籠むる島一つ 高木 朱星 同胞の眠るわだつみ鰆東風 鈴木 経彦 ひたすらに鶴は鶴とし凍つるのみ 村上 雪 踏切に佳人佇む虚子忌かな 佐藤 ゆう子 水盤に千古湛へて青楓 緒方 愛 壁に馴染みし蒼き絵の春埃 渡辺 彰子
万愚節月の後ろに月の影 田丸 千種 古き良きジャケットに花びらつけて 栗原 和子 人柱伝説の城花万朶 牧野 絹子 小面の朱唇開きし朧かな 比嘉 幸子 椿落つその紅色に倦みたれば 増田 さなえ 白き指触れれば老いてゆく桜 岡田 順子 菊御紋光り濡れゆく花の雨 田辺 て津子 鞦韆に二人腰掛け黙の刻 中山 昭子 しばらくはシテの桜でありにけり 古賀 睦子 遠洋の無線切れ切れ沖霞む 池松 伸子
春灯絹の端切れの捨てきれず 大村 八重子 春惜しむやうに各駅停車かな 斉藤 いづみ 迷ひこむ少年老いし冬木立 永野 佐和 金泥の胸の大きな寝釈迦かな 四本木 ただし 椿寿忌の眼鏡しつかりと磨く 河野 公世 花の下少女のやうに髪を梳き 松井 秋尚 杖の音を行人坂の朧にて 渡辺 光子 手をのばす夢のいくつや飛花落花 葛生 みもざ 天空の道化とされて揚雲雀 松雪 耿子 いつの間に少女は乙女初蝶来 後藤田 晶子
山笑ふ両腕のばし人里に 早川 笑子 春泥にとらはれてゐる思ひあり 久保 光子 さくらさくら朽ちゆく門の語るもの 樋口 千代 春闌けて日毎に変はる人との間 伊藤 ひとみ 手の平にかくも重たき落椿 野田 勝利 立子忌や玉藻俳話を書棚から 渡部 一�� 坂の上の桜その上白き雲 津野 おさむ 街朧百鬼夜行の人の群れ 横田 美佐子 仏壇の中照らしをり春障子 久米 令子 這へば立て立てば歩めと春が呼ぶ 神谷 幸子
地に還るまで風船の旅続く 小川 笙力 男らは石談議して花人に 須川 久 教科書に墨塗りの文字春埃 髙橋 晁史 風光る父のミットへひたすらに 近藤 欣子 鯥五郎を見て集合に遅れし子 剣持 せつ子 耕人に従く日輪の傾きぬ 吉田 美智子 訳知りの真砂女の恋や紫木蓮 草刈 幸風 残りしか残されゐしか帰る鳥 永井 清晴 地吹雪が隠せし津軽十三湊 赤川 誓城 公園の演説途切れ春の雷 小林 含香
慰めを背中に聞きつ石鹸玉 藤野 和魚 蒲公英やローマの下にローマあり 有馬 幸月 荷風忌や口の閉まらぬ古鞄 加納 佑天 バレンタインチョコに始まる腐れ縁 稲垣 祐司 山笑ふ牛舎とび出す牛の声 山口 三四郎 うららかやオカピくるりと舌を見せ 飯嶋 山紫 花の頃どですかでんと都電行く 藤森 荘吉 花は葉に一山の木となり紛れ 岡本 希代子
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金壎我『在日朝鮮人女性文学論』作品社からメモ
編集工房けいこう舎マガジン(note)で、文藝評論家の林浩治さんにお頼みしてはじまった「在日朝鮮人文学者列伝」。 https://note.com/torabuta/n/n40f4533bec2b?magazine_key=med1124e7f5a4
はじめに林さんに、とりあげるべき在日作家を9人(+番外編2 )あげていただいた。 9人目の李良枝以外、みんな男性。 (柳美里さんは番外編に入っています!)
柳美里さん、李良枝さんが出るまで、在日朝鮮人の女性作家はいなかったのかしら???
と、とっても大事なことにふと気づき、図書館のリストをあさって、こんな本を手にしました。
金壎我(キム・フナ)『在日朝鮮人女性文学論』 作品社、2004年。
この本で紹介されていた女性文学者たちを ざっとメモしておきます。
《 》は引用
●在日朝鮮人女性は、まず、二世の息子たちから、ひたすら「耐える」「支える」母親の姿として、小説に描かれた。 (一世作家は、家族、個人、女性たちに眼を向けることが、あまりなかった)
だが彼女たちは、「主人公」ではなくて、主人公である青年たちの苦難(外で差別を受けて、怒りを家族に向ける横暴な父親��の葛藤)の背景として描かれる。
二世作家、金鶴永・李恢成の作中の母親の姿から見ても、彼女たちが自らの苦しみの人生を「書く」機会には遠かったことが予想される。
●在日朝鮮人女性の作品でいちばん早いのは、 安本末子『にあんちゃん』。映画化もされ長い人気を保っている。 しかし、小学生の日記なので、女性作家の作品と分類するのは無理がある。
●在日の女性作家が注目を浴びるようになったのは、1982年に『ナビ・タリョン』を発表した李良枝から。
●《現在確認できる初期の女性作家の作品としては》p17
・朴寿南(パク・スナム) 『罪と死と愛と──獄窓に真実の瞳をみつめて』 三一書房、1963年 (小松川高校女子生徒殺害事件の犯人として処刑された李珍宇(イ・チヌ)との往復書簡)
・宗秋月(チョン・チュウォル) 『宗秋月詩集』 編集工房ノア、1971年
・成律子(ソン・ユルジャ) 『異国の青春』 蟠竜社、1976年 『異国への旅』 創樹社、1979年 『朝鮮史の女たち』 筑摩書房、1986年 『オモニの海峡』 彩流社、1992年 その後は、 政治性の高い 『白いあんずの花のように』(金日成の生母、金貞淑の伝記)彩流社などをてがける。 《在日朝鮮人文学が圧倒的に「男性社会」であった時代に数えるほどの女性作家の一人であった。》p254
・李明淑(イ・ミョンスク) 詩集『オモニ』 銀河書房、1979年
→だいたい1970年代。「在日朝鮮人文学」が、日本の文壇の中でひとつのジャンルとして語られるようになった時期。
● 1970年代、高度成長とウーマンリブを背景に、 《自分の苦悩を文章で表現しようとする意志を持ち、またそれを可能にする教育を受けた在日二世の��性たちの出現》p29
《民族的なアイデンティティーを獲得するための苦悩や、在日として、また女性としての生き方の模索とその過程の苦しみ、もしくは苦難を抱えながらも「在日を生き」ようとする意思を綴ったエッセーの類いがほとんどであった。》p30
●宗秋月 『宗秋月詩集』編集工房ノア 『猪飼野・女・愛・うた』ブレーンセンター、1984年 (『宗秋月詩集』の収録詩は、すべて『猪飼野・女・愛・うた』に入っている) →エッセイ+短篇小説 『猪飼野タリョン』 思想の科学社、1986年 『サランヘ・愛しています』 影書房、1987年 →短篇小説 「猪飼野のんき眼鏡」(『民濤』影書房、1987年11月) 「華火」(『民濤』影書房、1990年3月)
●李正子(イ・チョンジャ)歌人(短歌で朝鮮人であることを歌う) 『鳳仙花のうた』 雁書館、1984年 『ナグネタリョン──永遠の旅人』 河出書房新社、1991年 『葉桜』 河出書房新社、1997年
●(参考)猪飼野の成立・発展史 ・金賛汀『異邦人は君が代丸に乗って──朝鮮人街猪飼野の形成史』 岩波新書、1985年 ・杉原達『越境の民──近代大阪の朝鮮人史研究』新幹社、1998年
●在日文学第三世代のはじまり ・李良枝(イ・ヤンジ)1955年生まれ。 1982年、デビュー作『ナビ・タリョン』で芥川賞受賞 韓国に渡り、日本と祖国を描く
・深沢夏衣(ふかざわ・かい)1943年生まれ。 同人誌で小説を書き続ける。 1992年、「夜の子供」で新日本文学賞受賞。 在日朝鮮人の帰化問題をテーマにしている。 「在日の問題を越え、人間普遍の問題を描き出した」と評価される。
●李良枝の文学 《これまでの在日作家の作品では、「《かくあろう》とする自分の願望」、つまり祖国朝鮮を選び取ることを目指したり、その過程の苦しみが描かれた。彼らが描いた「ぶれ」は、大体が帰着点に届くまでの通過儀礼であり、李良枝のような「ぶれ」そのものの中に生きる姿を書くことはなかったのである。》 《この危うさこそが、新しい在日文学の幅と深さを広げる可能性だったのである。》 p135
●「第三世代」登場以降の女性作家 ・金真須美 1961年生まれ 1995年、「贋ダイヤを弔う」で大阪女性文芸賞受賞 同年、 「メソッド」で文藝新人賞受賞
・柳美里 1968年生まれ 「東京キッドブラザーズ」を経て、19歳で劇団「青春五月党」を結成 1993年「魚の祭」で岸田国士戯曲賞受賞、以後、小説へ
●女性文学の新しさ
・《彼女たちが自己の在日性を個別的かつ私的な場の中で見据えたこと》 p241 ・《彼女たちが男性作家に比べ、イデオロギー的な民族性や政治性から離れた場所に立っていたこと》 《これは彼女たち自身の選択というより、家父長的な在日社会の保守性が、女性を排除したことよるものであろう。》 この排除が、《観念的な思想に囚われ、身動きの取りにくい男性に比べ、女性により自由かつ融通の利く思考の可能性を与え》た。 p242 ・在日としていかに日本で生きるか、ということについて、意識の多様化がみられる(世代的���もの?)
●成美子(ソン・ミジャ)……《在日朝鮮人文学者の唯一の女性評論家》p244(2004年当時) 『同胞(ドンホ)たちの風景』亜紀書房、1986年
●金蓮花(きんれんか) コバルトノベル大賞でデビュー 朝鮮を題材にした「銀葉亭」シリーズ
【巻末「在日女性文学者紹介」より】
●香山末子(1922年、韓国生まれ) 22歳の時、ハンセン病のため、二児と別れ、草津粟生楽泉園に入所。肢体障害、失明ののち、49歳で日本語詩を書き始める。 『草津アリラン』梨花書房、1983年
『鶯の啼く地獄谷』皓星社、1991年
『青いめがね』皓星社、1995年 『エプロンのうた』皓星社、2002年 《大岡信は 「異国語(日本語)で口述する彼女の詩が、どれほど豊かな情感に支えられているか、読者は驚きをもって確かめうるだろう」と評した。》 p254
うーん。また読みたい作家が沢山できてしまった。
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「消滅可能性」744自治体 人口戦略会議 239自治体が脱却 / 日本農業新聞
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付記「日本悪趣味文化の歴史的変遷」
虫塚虫蔵&宇川直宏&竹熊健太郎EDIT*21
【前史】
(明治)野村文夫「團團珍聞」→宮武外骨「滑稽新聞」
【第一次:エログロナンセンス期】
(大正)宮武外骨「変態知識」→上森健一郎「変態資料」→(昭和)江戸川乱歩→夢野久作→梅原北明「グロテスク」→阿部定事件<終焉>
【第二次:カストリブーム期以降】
(昭和)「りべらる」→「猟奇」→「奇譚クラブ」/「家畜人ヤプー」(康芳夫)→「裏窓」→「風俗奇譚」→澁澤龍彥「血と薔薇」→大澤正道「黒の手帖」
【第三次:悪趣味/鬼畜ブーム期】
吉行淳之介/野坂昭如/井上ひさし/遠藤周作/筒井康隆他「面白半分」→今野裕一「夜想」→高杉弾/山崎春美/近藤十四郎/隅田川乱一他「X-magazine / Jam」「HEAVEN」→蛭子能収「地獄に堕ちた教師ども」「私はバカになりたい」→青山正明「突然変異」「Hey!Buddy」「Billy」「サバト」→データハウス「悪の手引書」「悪のマニュアル」→根本敬「花ひらく家族天国」「生きるー村田藤吉寡黙日記」→丸尾末広「少女椿」→山野一「夢の島で逢いましょう」「四丁目の夕日」「貧困魔境伝ヒヤパカ」→秋田昌美「倒錯のアナグラム」→(平成)→バクシーシ山下「女犯」→ねこぢる「ねこぢるうどん」→根本敬「怪人無礼講ララバイ」「亀ノ頭スープ」「豚小屋発犬小屋行き」→青山正明「危ない薬」→バクシーシ山下「ボディコン労働者階級」→根本敬「因果鉄道の旅」→鶴見済「完全自殺マニュアル」→氏賀Y太「毒どく」→山野一「混沌大陸パンゲア」「どぶさらい劇場」→小林小太郎編「TOO NEGATIVE」→井口昇/卯月妙子「ウンゲロミミズ エログロドキュメント」→秋田昌美「スカムカルチャー」→田野辺尚人他「悪趣味洋画劇場」→宝島社「別冊宝島」「宝島30」→根本敬「人生解毒波止場」→赤田祐一編「Quick Japan」→ユリイカ「悪趣味大全」→映画秘宝編集部「悪趣味邦画劇場」→青山正明/吉永嘉明/村崎百郎他/東京公司編「危ない1号」「鬼畜ナイト」→木村重樹/椹木野衣編「ジ・オウムーサブカルチャーとオウム真理教」→コアマガジン「BURST」(のち「BURST HIGH」「TATTOO BURST」「DVD BURST」に派生)→別冊宝島編集部「トンデモ悪趣味の本」→世紀末倶楽部編集部「世紀末倶楽部」→山田花子「自殺直前日記」→村崎百郎「鬼畜のススメ」→村崎百郎×根本敬「電波系」→「マンガ地獄変」→根本敬「さむくないかい」→「GON!」「BUBKA」以下便乗系→酒鬼薔薇事件<終焉>(この年「ガロ」休刊)
【鬼畜ブーム以降】
根本敬「神様の愛い奴」→ドクタークラレ編「危ない28号」「コンピュータ悪のマニュアル」→「青山正明全仕事」→「データハウス1号」→「いやらしい2号」→光彩書房編『激しくて変』→早見純『ラブレターフロム彼方』→村田らむ「こじき大百科」「ホームレス大図鑑」→比嘉健二編「実話GON!ナックルズ」→唐沢俊一×村崎百郎「社会派くんがゆく!」→薬理凶室「図解アリエナイ理科ノ教室」→吉永嘉明「自殺されちゃった僕」→アスペクト編「村崎百郎の本」
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かさねぎリストバンド「絶滅種の側から」
エレキピアノ、鍵盤ハーモニカの演奏で参加。 収録日:2019年8月29日 収録場所:新潟県新発田市 内の倉ダム 第4-5ホロー 企画: 田中 克 増田 義基 演奏者: 石原 朋香 (Voice / Handbell) 遠藤 純一郎 (Djembe / Handbell) 尾花 佑季 (E.Piano / Harmonica / Handbell) 桒原 幹治 (Snare drum / Handbell) 田上 碧 (Voice / Handbell) 根本 駿介 (E.Guitar / Handbell) 宮坂 遼太郎 (Percussion / Handbell) 日比野 桃子 (Other / Handbell) 増田 義基 (Synthesizer / Compose / Handbell) 言葉: 片岡 真優 録音・音響:田中 克 井関 幸平 伊藤 明日奈 張 涛 鶴岡 紗衣 長谷川 綺 森永 実季 森元 一貴 魯 璇 感謝:若月 学 新潟県新発田地域振興局地域整備部 ダム管理課 亀川 徹 (敬称略) 映像撮影:小林 舞衣、郷田 いろは、野口 羊(屋上) 映像編集: 野口 羊(屋上)
映像 https://youtu.be/TZgXxVz5jCI
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覆される常識、日本美術の「独自性」は縮小していた 「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史の研究が進むにつれて、日本美術に関するさまざまな常識が塗り替えられつつある。西洋や中国に目を向けて日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。(全2回・前編/JBpress) (※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。 ■ 多くの美術品が現存する幸運な国、日本 日本は各時代にすばらしい美術作品を生み出し、今でもそれらは世界じゅうの人々に親しまれている。しかも、それらの多くが遺(のこ)っている幸運な国である。 隣国の中国や朝鮮半島、あるいはベトナムの場合、相次ぐ戦乱や侵略のため、古い時代のものは遺っていないことが多く��時代によってはきわめて大きな欠落がある。そうした時代の美術は、文献資料やのちの模本から想像するしかない。これに対し外国の侵略をほとんど受けたことのないわが国は、戦災や天災で多少のものが失われたとはいえ、縄文時代以降、各時代の重要な作品のほとんどは現存しており、きちんと美術の流れをたどることができる。世界を見渡すと、そのような幸運な国のほうがめずらしいのである。 明治期に近代国家が成立すると、国家の伝統や歴史を見直す作業の一環として日本美術史というものが構想され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に際して日本最初の美術史と目される『稿本日本帝国美術略史』が編集された。以後、日本美術史は何度も書き換えられつつ徐々に精度を増し、部分的に更新され修正されることはあっても、そのストーリーの大枠はおおむね定着しているようにみえる。 ■ 「日本美術の特質」への問いかけ このような日本美術史を通覧し、現存する作品群を見ると、中国や西洋などさまざまな外来の美術に影響され、目まぐるしく変化してきたことがわかるが、同時にその底に流れる一貫した日本美術の特質というものが浮かび上がってくる。 たとえば和と漢、あるいは雅と俗という二面性が併存したかのよう見えるが、両者は複雑に融合していた。そして、中国や西洋の美術という外来文化の影響やそれに対する古来の様式という二項対立だけでは説明できない日本美術の独自性があると思われるのだ。 1925年、大著『サンドロ・ボッティチェルリ』をロンドンで出版して評価され、東西の美術について高い見識をもっていた美術史家の矢代幸雄(やしろ・ゆきお)氏は、著���『日本美術の特質』(1943年)において、日本美術の特質は、「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」の4つにあるとした。また、日本美術史の碩学、源豊宗(みなもと・とよむね)氏は、『日本美術の流れ』(1976年)で、西洋美術、中国美術、日本美術を象徴するモティーフをそれぞれ「ヴィーナス」「龍」「秋草」であるとした。日本美術を貫くのは、繊細な秋草の美学だというのである。 日本における中国美術の影響について先駆的な研究を遺した戸田禎佑(とだ・ていすけ)氏は、『日本美術の見方 中国美術との比戦による』(1997年)において、日本美術のもっとも重要な特質は「平面性」にあるとしている。 近年、『日本美術の歴史』(2005年)を書き下ろした辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、日本美術の特質を、「かざり」「遊び」「アニミズム」という3つのキーワードで説明しようとした。日本美術にはつねに装飾性が見られ、遊戯性があり、自然崇拝の系譜があるというのである。また、東京大学で辻惟雄氏の後任であり、旺盛な活動を続けている美術史家、河野元昭(こうの・もとあき)氏は論文「日本美術の素性」(2010年)でこうした先学の見解を検証しつつ、日本美術の最大の特質は「シンプリシティー」にあると論じている。いずれの見解も傾聴に値するものであり、的を射ているように思われる。 ■ 縮小する「日本美術の独自性」 18世紀末から20世紀初頭にかけて流行したジャポニスムは、浮世絵を中心とした日本美術の絵画や工芸がフランスなど欧米の美術に作用し、日本美術が欧米の先進的な美術に影響を与えた稀有な現象であった。浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性は、西洋で伝統美術の様式を打破して新たな造形を生み出そうとしていた芸術家にとってタイムリーであったため、大きな刺激を与えることになった。しかし、皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を継承することはほとんどなかったのである。 また、これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら影響を与えたことはまったくなかった。 12世紀初めの『宣和画譜(せんながふ)』に、徽宗(きそう)皇帝(在位1100~25年)の所蔵する日本の屏風3点について、「金碧(きんぺき)を多用」しているが、「真」に欠けると批判されている。中国や朝鮮の人々にとって、日本美術は中央様式の地方化したものとしか映らなかったのである。 明治以前の日本で、海外で活躍した美術家は知られておらず、中国・元で客死した禅僧画家黙庵(もくあん)やマカオに追放されたキリシタン画家ヤコブ丹羽(にわ)の活動がわずかに推測されるくらいである。 さらに、日本美術の独自性というのは、たまたま日本には中国や朝鮮半島よりも多くの美術作品が遺っているために、そう思われてしまう場合も多いのである。 たとえば、平安時代のやまと絵は、かつては遣唐使廃止による国風文化の産物だとされてきたが、中国美術史の研究が進んだ現在では、やまと絵とされるものの大半は失われた唐宋美術を反映したものであって、その特徴のほとんどは和様化とはいえないということが明らかになっている。截金(きりかね)を多用した繊細で工芸的な平安時代後期の美麗な仏画も、かつては日本化の極みだとされて賞賛されてきたが、じつは、ほとんどが失われた宋代の仏画の技法を模したものであるということもわかってきた。 近年ブームとなった若冲(じゃくちゅう)や蕭白(しょうはく)ら江戸中期の奇想派については、京都の成熟した町衆文化が生み出したものであっても、明(みん)代の奇想派や長崎の来舶清人(らいはくしんじん)の影響によるものも大きいということが指摘されている。 つまり、日本美術の独自性と呼べる要素は、美術史研究の進展とともにどんどん縮小していっているのである。日本美術を正しくとらえようとすれば、その独自性や美質などにこだわらず、東アジア文化圏を中心とする世界の中で位置づけて眺める必要があろう。 宮下 規久朗 JBPRESS 7/8(月) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=2 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=3 >「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、 日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。 笑www この文章読んでいて、宮下 規久朗とかいう美術史の大センセーの、 自虐的なシナ事大主義的な独自性のないアホぶりがわかった。 この程度で大学教授なら、私にでもできそうな簡単なお仕事だなw この時代になっても相も変わらず、日本文化はシナ朝鮮より劣る的な、 或いは独創性はない的な、みたいなシナチョンスタンスの屁理屈を 大学のエラいセンセーがまことしやかに語っているのに笑った。 そもそも、世界のどの時代のどの文化においても、 完全無欠の民族の文化的オリジナルなどというものはない。 シナ文明も大陸の雑多な民族の文化的要素の集合体ではないか。 それを総称してシナ文明だの、エジプト文明だのと称しているだけである。 そしてその文化もまた他の様々な文化的要素と融合して発展し、 同時にまた、他の民族や地域の文化にも影響を与えるのである。 いわば文化文明は相互に影響しあって発展するものである。 それにこの宮下 規久朗とかいう神戸大学のセンセーって、 美術史が専門だそうだが、シナチョンに何か思い入れがあるのか? ちなみにこの宮下 規久朗センセーのツイッターはこんなの・・・ https://twitter.com/kikuroma 現在の大学にはこの手の人士が多いみたいですな・・・ この論評の■ 「日本美術の特質」への問いかけまでは、 いろいろな学者の日本美術の特質の紹介で、それぞれの説にも整合性があり、 またこれらの説のすべてがまた日本美術の特色ともいえるだろう。 問題はその次である・・・ ■ 縮小する「日本美術の独自性」って何なんだ? 宮下センセーの論文に通底しているのは・・・ 日本美術など所詮シナの物真似、 日本美術のオリジナリティなんて、 元々からないも同然なのだから、 特筆評価などする価値すらない、 ・・・ということらしい。
果たしてそうだろうか? >皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を 継承することはほとんどなかったのである。 そうだろうか? 私は浮世絵に代表される日本美術はその後の日本人も立派に受け継ぎ、 欧米の美術界に対しても少なからぬ重要な影響を与えつつ、 その後の日本美術にもまた、それを逆輸入してきた経緯があると思う。 「浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性」は現代日本画の世界においても、 日本のサブカルチュアを代表する漫画やアニメーションの表現においても、 グラフィックデザインの表現にも立派に受け継がれているではないか。 一応宮下センセーは明治以降の日本美術がジャポニズムと呼ばれ、 西欧の美術工芸界に大きな影響を与えた事は認めていらっしゃるが、 このことだけでも美術史における日本美術の価値は特筆に値する。 浮世絵に代表される日本美術がフランス・パリ万博からジャポニズムとして 全欧州に発信され、印象派(新印象派、後期印象派)やアールヌーヴォーが生まれ、 それがさらに発展してアメリカ現代美術に発展した経緯が美術史の流れである。 ジャポニズムがイズム=主義として表されている思想は無視できない。 それはシノワズリーという東洋趣味の流行とは大きく一線が引かれるべき、 いわば西欧美術思潮の一つのコンセプトでもあったからだ。
セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」 様々な角度から描いたヴィクトワール山の連作は、 北斎の富岳三十六景からインスパイアされたらしい。
ゴーギャン「マハナ・ノ・アトゥア」 この平面的な色面構成的な表現は浮世絵からの影響だ。
クリムト「接吻」
金箔を多用した大きな空間をとり単純化されたフォルム、 これも明らかに障壁画などの影響がうかがえる作品だ。
中でも西欧美術に影響を与えたのは江戸の町人文化だろう。 しかし宮下センセーはこれとてもシナ文化の影響にあるというが、 一部にそれらしきものがあっても、それがすべてではないと思う。 仮にシナの影響があったからといって、それが何だというのだ? シナの各王朝文化だって周辺の民族の様々な影響があったのだ。 先に述べたように、元来何の影響もなく発展した文化文明など皆無である。 北斎、広重、歌麿などの浮世絵師はもちろんのこと、尾形光琳の琳派系絵師、 伊藤若冲や丸山応挙などは現代美術を先取りしたコンセプトが確立していた。 立体造形でいえば安土桃山時代の織部好み陶器などはまさに現代美術だ。 以下に掲載した当時の巨匠たちの作品には、 現代美術の概念を先取りしたような先進性を感じるが、 宮下センセーのいうようなシナの影響下にあったがゆえに、 日本美術の独自性は縮小(ない)しているのだろうか?
尾形光琳「紅白梅図屏風」 川や梅の木を特徴を残して単純化させる意匠概念は、 のちに日本のデザインにも多大な影響を与えている。
伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」 この絵は升目描きという、升目ごとに色をいれてモザイク画のように表現した。 現代風にいえばドット画像みたいなもので、このような手法は同時代にはない。 あえていえば新印象派のスーラの点描が近いが、概念が全く違う。
伊藤若冲「鶴図屏風」
墨をつかった白線描の作品。鶴の様々な姿態が単純化されたフォルムと
勢いある線の筆勢がいかされた、ある意味現代の漫画にも通じる作風だ。
丸山応挙「大瀑布図」 この絵は円満院というお寺の住職に贈られたものだが、この寺の庭に滝がなかったので、応挙はこの絵を庭木の枝に掛けて垂らし、下三分の一は地面に寝か��て滝つぼを表した。このような平面絵画を立体的に鑑賞するインスタレーション的手法はこの時代になかった。
丸山応挙「氷図」 湖面に張った氷のヒビを線一本のみで見事にあらわした傑作である。 無駄な要素を一切排除した究極の単純化で凍てつく寒さを表現している。
織部好み茶器 武将古田織部のプロデュースとでもいう「織部好み」の陶器は、「へうげもの」と称され、わざと歪めたフォルムや幾何学模様をあしらった伝統や形式にとらわれない実に現代的な表現だ。 ↑ これら一連の様式もすべて、 シナの模倣だというのか!? 以下はほとんど日本美術を腐すだけの屁理屈。 >これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら 影響を与えたことはまったくなかった。 当たり前じゃないか(笑) そもそも・・・ 日本は江戸時代に265年も鎖国をしていた国なのだから、 明治以前に日本の文物そのものが諸外国に輸出されることもないし、 あってもごくわずか、だから影響も与えるものではなかった。 こんな事日本の歴史をみれば高校生でもわかる話だ。 しかしだからそれ何だというのだ? いったい宮下センセーは何が言いたいのだ? この人は文化は影響を与えれば、 「エライ」と思っているようである。 だから明治以前の日本美術はシナ朝鮮に影響を与えていないから、 シナ美術の物真似レベルの評価に値しないものといいたいのだ。 宮下センセーの「影響を与える、与えない」にこだわる意図は何なんだ? じゃあ、明治以降の日本美術は先進国の西欧に大いに影響を与えたから、 すご~く特筆大書すべき価値があって、西欧より優れているということか? そうではあるまい。上述したように「文化は相互の影響で発展するものだ。 どちらの文化は優秀とか劣っているという問題ではないのだ。 宮下センセーの御説はまるで朝鮮人が 「これはウリジナルニダ~♪」というのを思い出す。 ルネサンス期の西洋美術も西域のイスラム教文化や遠くは、 インドやシナの様式にも影響を受けてきたことは近年の研究、 特に田中英道東北大学名誉教授の研究で明らかになっている。 しかしルネサンス絵画がその後のシナ絵画に影響を与えなかった事は、 西欧絵画が明朝や清朝の絵画より劣っているという事なのだろうか? 宮下流のコンセプトで見れば、こういう事ではないのか? さらに首をかしげたくなるのはシナと朝鮮を同列に置いて語っている事だ。 朝鮮など千年以上も歴代シナ帝国の属国属領に過ぎなかった植民地だ。 こんな国にオリジナルがあろうはずがなく、自ら小中華と誇った事大主義国だ。 なぜ宮下センセーはシナと朝鮮を同等に置きたがるのだろうか? 所詮は事大主義のシナの劣化コピー版が朝鮮に過ぎないのである。 まさか小中華思想が日本より優れている?というのではあるまいな?
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刀遊記—侍展
距離上次看刀已經是將近一年前的京刀展的事了,本人就像是太久沒嘗到血液的吸血鬼一樣枯竭,這次的侍展又有難得的大典太上陣,說什麼都要衝一下。
福岡市博物館,入口氣派到一度以為找錯地方。來的路上只是陰��,走到門口時雨突然下大了,感謝雨等我們走到入口。
走進會場,合作畫像就在正面迎接審神者的到來。雖然有收到9/28日開始也會放上剛實裝的桑名江的立牌,可惜來得早了一點,時間上對不上。 是說為了來侍展,我也快打不完秘寶之里了啊!!!
看了幾次刀展,這次侍展的打光真的是最厲害(對觀展者而言)的一次!幾乎不用刻意踮腳或蹲下就可以清楚看見刃文,也不會過亮或過暗導致看不清楚,看得出主辦真的非常用心在打光之上。 再加上一些重點展品旁邊會放一些導讀,語氣輕鬆,很像嬸嬸們在說自己的推有多棒XD 整體來說是對初心者很友善的展覽。 不過會場內禁止攝影,很可惜地,以下還是只能用文字敘述。
*寫心得的本人是用迷妹眼光看刀的外行人,純屬個人觀感,請別過度較真。
▲大典太
光世在銘的唯一作品。大概是受名稱和遊戲內人設的影響覺得他應該很大把,但實際看起來覺得比想像中短,感覺很方正,給人一種平行四邊形的印象,但其實反り的曲度很大,粗獷的風格讓人覺得找三輪士郎作畫真的很符合形象。w 看完大典太本來要前進到下一格,剛好展間工作人員跟參觀的大家說展示箱的側面改成透明的,提醒大家可以到側面看,於是趕快退了兩步回去看側面。和正面的粗獷感相較之下,側面看起來刀身其實很薄呢。
▲博多藤四郎
由日本文化廳出資買下的刀,名符其實的政府刀XD 博多藤四郎感覺是刀身很窄的一把,整體細細長長的。地肌有明顯的一兩圈紋路,導讀說令人想到海面。吉光短刀我依然不太會認,但因為導讀的那句話,也許以後我看到那幾圈紋路的時候也會認得出這就是博多吧。
▲五虎退
不是第一次見面的五虎退,跟放在隔壁箱的博多藤四郎比較之下,尺寸感差不多,也是比較細長的型。不知是燒入方式還是研磨方式的差異,刃文看起來很明顯,又是吉光拿手的筆直的直刃,意外給人一種剛強的印象。
▲物吉貞宗
在德美見過面。雖然分類是脇差,但大小和隔壁的寺澤貞宗(短刀)差不多,至今我還是不太知道這兩者在尺寸上的明確區分,或說是脇差實在是太隨性了⋯⋯? 刃文較不清楚,沒有明顯的刃取り是德美刀的共同特徵,尺寸不大,但刃文意外地自由。
▲桑名江
京刀展的時候也見過面,是京博刀,可惜實裝的時候卻不是在老家展XD 整體有種厚重感,地鐵和沸有正宗刀的感覺,刃文的沸很明顯,又是直刃調,刃到刃文的距離與刃文到鎬的距離把刀身幾乎平分成三等份。
▲骨喰藤四郎
大概也見過三次了,雕刻很美,整體的平衡感很好,真的很難想像是由薙刀改造過來(刀背有削減,而且還經過再刃)而不是從一開始就打造成現在的模樣。
▲江雪左文字
刃文像是清晨薄霧籠罩的群山,刃文的白和地肌的黑對比鮮明,有深沉穩重的感覺,刀身寬闊,反り強,豪壯但又溫和。一眼就覺得跟遊戲的人設是同一個性格的刀。
▲義元左文字
借展德美的時候見過面。應該是因為現在的姿態是磨上後的關係,雖然是打刀的長度,但刀身寬度依然和江雪左文字差不多寬,很有力。 再刃後的刃文偏直刃,但據說《光徳刀絵図 埋忠寿斎本》有記載原本的刃文,看過江雪左文字之後也很好奇義元左文字原本的刃文。
▲圧切長谷部
在京刀展看到的時候是後期,那時是把表裏對調來展示,所以在長谷部的老家福博看到的時候特別有「啊,這就是我在照片上認識的長谷部啊!」的感覺(? 雖然看照片的次數也多到差不多能把他的長相(刃取り)記起來了,但壓切長谷部的皆燒刃真的很特別,從每個角度看都不相同。飛燒像是飛散的火星,有時候看起來甚至像有兩層,被譽為皆燒的最高傑作,是一把一定要現場鑑賞的刀。 不過刃文豐富的部分和空白的部分相差比較大,我個人有點抓不太到整體感,相信磨上前的壓切長谷部一定更美。
金霰鮫青漆打刀拵
較早存在的是安宅切(16世紀)的那副,且安宅切正是因為這副拵而被指定為重要文化財,而壓切長谷部的是19世紀時仿安宅切那副做出來的。這不知道能不能算是拵界的本科與写し呢? 雖然看上去幾乎沒有不同,但刀鞘上金色顆粒的排列方式上,個人比較喜歡安宅切那副的韻律感。
其他未實裝刀劍部分簡單講:
▲日光一文字
美。刃文感覺是互の目和些許丁子,整體像雲霧一樣,館內的4K影像看起來超棒刀亂快實裝。
▲姬鶴一文字
雖說是丁子刃但上下幾乎都呈銳角,跟我所認知的丁子很不一樣。一樣快實裝。
▲大太刀 備州長船倫光
159.7cm的原實戰刀,刀身寬刃文也多變而美,又是我最愛的大切先,非常符合個人喜好,一眼看到就覺得驚艷。看著他也可以想像一下大磨上前的南北朝(大)太刀們的樣子,例如壓切長谷部、大俱利伽羅廣光、本作長義等等的昔日身影吧。
▲大太刀 瀨昇太刀
在日光二荒山神社的禰禰切丸的同事,彌生祭的儀式裡一同被獻給山神的就是禰禰切丸、柏太刀和瀨昇太刀。刃文較有朦朧美,雕刻的俱利伽羅劍上塗的朱漆非常醒目。
▲太閤左文字
雖然是小把的短刀,但刃文的存在感很強,看起來比實際的尺寸來得大。
▲一國長吉
槍身整體上了朱漆,非常醒目,也凸顯槍身三鈷柄劍的雕刻。「八幡大菩薩」刻字處的地肌顏色特別不一樣,不知是否有研磨上的差異。 大家可以去搜尋一下他的照片,一定會對他印象深刻的。
▲劍 銘 奉納不動尊 信濃守藤原國広
堀川國廣去世前一年的作品,刃文為亂刃,地肌很細緻,金屬顆粒的結晶很閃亮。
▲刀 銘 九州肥後同田貫上野介
是正國作,一直不知道該不該把他算在實裝刀。跟隔壁的國廣一比較之下就能感受到地肌的粗獷,確實是質實剛健。
另外在常設展區(需另外購票)可以看到日本號,純文字太久了先上圖:
想想這是我跟日本號的合照呢但這不重要。 遠看實在無法展現他的尊爵不凡,再上圖:
看看那俱利伽羅龍,看看槍柄和鞘的螺鈿,
與其說是武器,不如說是珠寶吧⋯⋯!
這次語音導覽是由日本號聲優的津田健次郎來擔任解說,有幾段是用日本號的角色來發言,有幾段關於人與刀之類的聽得當下覺得說得很好,但展覽資訊量太大聽完就忘了。(喂 但更大的不妙之處在於⋯⋯觀展途中只要按下語音解說,就只會有「OH~美聲~」這種低層次的感想,完全無法集中在津田桑說的內容之上啊⋯⋯真是太糟糕了。
這次展覽因為該看的想看的都看得一清二楚,對於吸刀鬼來說真的是不可多得的饗宴。展期還有一半,強烈推薦有時間的審神者們去看一回,絕對不虛此行!
P.S 寫太長了,番外篇留待下回再續。
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土呂久鉱害事件に関する覚書
(2002年1月22日成稿)
土呂久鉱害事件に関する覚書
宮崎県高千穂町の土呂久鉱山における亜砒酸製造に伴う慢性砒素中毒症は、大正期から戦後に至る長期にわたって継続した鉱害であったにもかかわらず、被害地域が僻遠の山村であったため長らくその存在が知られず、鉱山の閉山から10年近くたってから地元の教師の告発によって実態が初めて認知された特異な公害である。慢性砒素中毒症が4大公害病に続く指定公害病でありながら、現在あまり顧みられることが少ないことも考慮し、本稿では土呂久鉱害の経過を追うことで、近代日本社会の「闇」の一端に切り込みたい。
(1)土呂久鉱山の成立(1920-1933) 宮崎県岩戸村(現・高千穂町)の土呂久鉱山は、貞享年間(1684-1687)に銀山として���タートしたものの、近代に入ってからは事実上休山状態であった。しかし、1920年、当時佐伯近郊の木浦鉱山で亜砒酸製造を行っていた鉱山師の宮城正一が土呂久鉱山から亜砒鉄鉱を採掘し、土呂久で亜砒酸の精錬を開始したことで一変した。日本の亜砒酸生産は第1次世界大戦期にドイツに代わる形で急成長し、主にアメリカに輸出されて綿花栽培の害虫駆除剤の原料などに使われていた。ところで、宮城が港町で交通の利便な佐伯から山間の土呂久へ移ったのには理由があった。地方紙『佐伯新聞』1917年4月29日付に次のような記事がある。
「懸案となり居りし当町字灘鳥越にある亜砒酸製造所の煙毒問題は今回所主宮城正一が農民に対して損害賠償をなし且つ製造所を移転する事となり、兎も角も一段落を告げるに至った」
宮城は煙害により地元住民から補償と立ち退きを要求されていたのである。つまり宮城は佐伯を追われ、亜砒酸製造が甚大な鉱害をもたらすことを知りながら土呂久へ移転したのであった。
亜砒酸は昇華点の193℃を境にして固体から気体へ、気体から固体へ変化する。この性質を利用し、亜砒鉄鋼を焙焼して砒素分を亜砒酸ガスとして流出させ、ガスを昇華点以下の空間に導き固体に戻して亜砒酸の結晶を採取する。当時、亜砒酸生産量全国一の足尾銅山では、銅の精錬の際に煙に含まれる亜砒酸をコットレル集塵器で回収する方法が採られていたが、土呂久にはそのような設備はなく、煙突に藁の覆いを被せるだけで、砒素を空気中に撒き散らし放題であった。そのため早くも1923年には亜砒酸による農業被害が地元で問題にあった。5月に行われた土呂久の部落自治組織「和合会」総会は鉱山側に「完全ナル設備ヲナシ事業ヲナサレン事」を要求することを決した。これに対し、宮城に代わって経営者となっていた川田平三郎は、1ヵ月50円の「交付金」を和合会に支払うことに応じたが、その見返りとして鉱山へ操業に必要な材料を提供することを求めた。鉱山側は要求を逆手にとったのである。
その後鉱害は甚だしくなり、特に牛馬の奇病が相次いだ。1925年、和合会は岩戸村長の甲斐徳次郎に対策を要求し、甲斐は西臼杵郡畜産組合の獣医である池田実と鈴木日恵に奇病で死んだ牛の解剖と鉱害の調査を依頼した。4月7日、鈴木は警察官立ち会いのもと解剖を行い、「連続セル有害物ノ中毒ニアラサルヤノ疑ヲ深カラシムルモノナリ」との所見を示した。甲斐はこの牛の内臓を宮崎県警察部衛生課に持参し、鑑定を依頼したが、県側は解剖後に内蔵へ亜砒酸が混入した可能性を理由に鉱害を否定し、現地調査を行ったものの調査結果を隠蔽した。一方、池田は「岩戸村土呂久放牧場及土呂久亜砒酸鉱山ヲ見テ」と題する報告をまとめた。池田報告は当時の土呂久の実状を生々しく伝えている。
「二、三十年モ経過シタ植林ノ杉ガ萎縮シテ成長ガ止リ、或ハ枯死シテ赤葉味又竹林ハ殆ンド枯死シ」 「妙齢ノ婦女ノ声ハ塩枯声デ顔色如何ニモ蒼白デアル、久敷出稼デ居ル人ノ顔面ハ恰モ天刑病患者ノ様ニ浮腫」 「山川ノ水ハ清ク澄ミ渡ッテ居ルガ、川中ノ石ハ赤色ニ汚レテ、三年前迄居タ魚類ハ今ハ一尾モ見ヘヌ」 「今ハ椎茸ノ発生デ忙シカラネバナラヌノニ、何ノ果報カ、此地ノ重要物産デアル椎茸ノ原木ヲミレバ、椎茸一ツ見ヘヌ。土呂久名物ノ蜂蜜モ、今ハ穴巣ヲ止ムルノミ」 「小鳥類ガ畑ノ中ニ死ンデ落チテ居ル事ハ年中ノ事で、何時デモ死ンダ小鳥ヲ畑ノ中ヨリ拾ッテ見セル事ガ出来ル」
この池田報告は1972年に高千穂町史編纂室で発見されるまで封殺された。
鉱害が拡大・悪化するに従い、農業では生計を立てられなくなった人々は鉱山で働くようになった。しかし、亜砒酸による健康被害は鉱山労働者に最も顕著であり、皮膚の亜砒負け、色素沈着、黒皮症、角膜炎、結膜炎、喘息、気管支炎、肝硬変などの症状に見舞われた。健康悪化に耐えられずに鉱山を辞め帰農する人も少なくなかったが、農業被害は増大するばかりで生活できず、結局収入を得るために再び鉱山に戻らざるをえなかった。あるいは椎茸の生えなくなった木を木材として鉱山に売却したり、完全に農業ができなくなった土地を鉱山に売却するという例もあった。鉱害はむしろ鉱山の事業を拡大する動因になったのである。
また被害と加害の重層性も深刻であった。鉱山の地主であった佐藤喜右衛門は鉱山から地代を得るのみならず、自ら採掘を請け負い、地元住民を労働者として勧誘し、鉱害に苦しむ農民からは加害者として忌避された。しかし、一方で彼は鉱山のすぐ近くに住んでいたために砒素中毒症に罹り、1930年から32年の2年間に彼の一家7人のうち自身を含む5人が病死した。部落で鉱山から収益を受ける者が増えるに従い、鉱害反対の足並みは崩れていった。
(2)土呂久鉱山の展開と終焉(1933-1962) 大戦景気によって始動した亜砒酸製造は、戦後不況によって急速に不振になった。1926年にはアメリカの綿花不況のあおりで生産量が激減し、土呂久鉱山も生産中止・事業縮小に追い込まれた。一方、1930年代になると、航空機の材料の国産化をねらう中島飛行機が錫を求めて土呂久に目をつけた。1931年、中島門吉(中島知久平の弟)が一部の鉱業権を獲得し、33年には中島商事鉱山部が土呂久鉱山のすべての経営権を取得した(後に岩戸鉱山株式会社設立)。
中島は当初亜砒酸よりも錫を重視し、1936年に錫精錬の反射炉を建設したが、この反射炉は錫から分離された砒素分が煙とともに空気中に飛散するという杜撰な代物であった。翌年、和合会は反射炉の煙害防止を鉱山側に要求し、その結果遊煙タンクが作られたが、煙害対策とは名ばかりで、実際はこれを利用して亜砒酸の採取が行われたため、鉱害はむしろ悪化した。また、経営者が変わったことにより1923年の交付金契約は無効となり、中島が和合会に亜砒酸1箱精製につき12銭の補償金を支払う新契約が結ばれたが、旧契約に比べて被害者が受け取���金額は事実上半減し、しかも補償金の分配を巡り和合会内部で対立が発生した。さらに1937年の岩戸村会議員選挙で、中島側は鉱山の会計係長を出馬させ、鉱山労働者を買収した結果、中島系候補が当選し、和合会系の現職は落選した。明治以来、土呂久出身者が議席を失ったのは初めてであった。鉱山は地方自治をも破壊したのである。
中島傘下となって土呂久鉱山は拡大し、最盛期には約400人の労働者が働いた。特に1930年代末頃から亜砒酸は毒ガスの原料として需要が急増した。「黄二号」ことルイサイト、「赤一号」ことジフェニール・シアン・アルシンが亜砒酸を元に作られ中国戦線に送られた。深まる亜砒酸鉱害に対し、ついに1941年和合会は鉱山との契約破棄を決定した。福岡鉱山監督局は和合会に説明を求め、代表6名が福岡へ行き亜砒酸製造の中止を申請したが、監督局の担当者は「非常時には、部落のひとつやふたつつぶれても鉱山が残ればよい」と言い放ったという。結局1941年11月選鉱場の火災により土呂久鉱山は休山し、所有権も中島から国策会社へ移行した。
土呂久鉱山は戦後1948年、銅や鉛などの採掘を再開した。再び鉱業権を獲得した中島鉱山(旧岩戸鉱山)は亜砒酸製造の再開を計画した。和合会は再開反対を決議したが、宮崎県と岩戸村の斡旋により、1954年、鉱山から和合会への協力金支払を条件に改良焙焼炉建設に同意した。土呂久婦人会は岩戸村に抗議したが、村長伊木竹喜は「鉱山のおかげで、岩戸村には鉱産税がはいりよる」と取り合わなかったという。
鉱山がその後、1958年7月の坑内出水事故により一時休山を余儀なくされ、翌年には住友金属鉱山が中島を事実上買収したが、往時の活性を取り戻すことができず、1962年経営不振により閉山した。その間も鉱害は続き、1959年には和合会が高千穂町(岩戸村吸収)に亜砒酸製造施設の廃止を陳情した。しかし、ついに閉山まで鉱害はやむことがなかった。
(3)土呂久鉱害の告発(1970- ) 1970年、宮崎県高城町の四家鉱山で集中豪雨により鉱滓堆積場のダムが決壊し、砒素を含む鉱毒が河川へ流出するという事故が起き、宮崎県は急遽県内の休廃止鉱山の調査を行った。調査の結果、土呂久川から飲料水基準の2倍の砒素が検出された。同年12月、土呂久在住の佐藤鶴江は、岐阜のカドミウム汚染の報道を聞いて不安を抱き、宮崎地方法務局高千穂支局の人権相談に鉱毒被害を訴えた。支局は土呂久鉱山跡を調査し、彼女に鉱毒被害の事実申立書を発行したが、法務局は専門医による因果関係の証明がないことを理由に申立書を留置した。またしても行政によって鉱害は隠蔽されたのである。
一方、高千穂町立岩戸小学校教諭の斎藤正健は、妻が土呂久出身であったことから鉱害の事実を知り、同僚とともに土呂久全世帯を対象に鉱害調査を行った。斎藤らの調査は1971年11月、宮崎県教職員組合の教研集会で報告され、新聞報道により全国的に注目された。斎藤報告は、①1913-1971年に死亡した92名の平均寿命は39歳である、②土呂久全住民の34%が呼吸器をはじめ疾患に罹っている、③土呂久の児童の体位は劣っている上に眼病が目立つ、④スギの年輪は鉱山創業期に生長が阻害されている、という驚くべき内容であった。大正期以来の鉱害がこの時はじめて公表されたのである。
土呂久住民に不安が高まる中、宮崎県は県医師会に委託して住民の一斉健康診断を実施したが、慢性砒素中毒症に認定されたのは7名だけで、県の土呂久地区社会医学的専門委員会も健康被害と亜砒酸製造との関係性を「現在の知見では十分に説明ができない」と肯定しなかった。宮崎県知事黒木博は住友金属鉱山と認定患者に補償斡旋を提案し、1972年12月、両者間に補償協定が結ばれたが、住友の法的責任には一切触れず、補償金額は平均240万円にとどまり、しかも将来の請求権放棄を定めていた。県側は患者との交渉を外部との接触を絶った密室で行い、十分な説明をしないまま患者に調印を強要した。その後、黒木は新たな認定患者に対しても同じ内容の補償斡旋を5次にわたって続けた。しかも県は斡旋受諾者に対して公害健康被害補償法による給付を含む公的給付を中止するという「いやがらせ」まで行った。知事斡旋は補償額を抑制し、被害者の口を封じることがねらいであった。
1973年、環境庁は慢性砒素中毒症を第4の公害病に指定したが、認定要件を皮膚障害に限定し、内臓疾患を認めなかったため、多くの被害者が認定されなかった。一方でこの頃から県外の医師による自主検診が相次いだ。同年2月には名古屋大学医学部講師大橋邦和が、74年には太田武夫ら岡山大学医学部衛生学教室が、75年5月には熊本大学体質医学研究所の堀田宣之が住民への自主検診を行った。堀田は10月にも同僚の原田正純らとともに1週間にわたる大規模な自主検診を行った。これらの検診結果は環境庁の認定要件とは裏腹に、砒素中毒による障害が皮膚に限らず、呼吸器や循環器などの内臓にまで広がっていることを示していた。
1975年12月、5人の患者と1遺族が住友金属に損害賠償を求め宮崎地裁延岡支部に提訴した(第1次訴訟)。続く76年11月には第2次、77年12月には第3次、78年3月には第4次の訴訟が起こった。土呂久訴訟最大の問題は、1次的に賠償責任を有する鉱山師も中島鉱山もすでに存在せず、被告の住友が正式に鉱業権を得たのが閉山後の1967年で、住友自体は亜砒酸製造を行っていないことにあった。住友側は全面的に争い、訴訟は長期化し、高齢の原告が相次いで死亡していった。1984年3月に下された第1次訴訟の1審判決は「土呂久地区という山間の狭隘な一地域社会が、そのただ中ともいえる場所での本件鉱山操業により、大気、水、土壌のすべてにわたって砒素汚染され、本件被害者らはその中で居住、生活することにより、長期間にわたって四六時中間断なく、且つ経気道、経口、経皮、複合的に砒素曝露を受けたもので」あると土呂久鉱害を正確に認め、鉱業不実施を以って鉱業権者の賠償責任は免責されず、鉱業法115条の時効規定も適用されないことを理由に住友へ損害賠償を命じる画期的な内容であった。
しかし、この1審判決をピークに土呂久鉱害は急速に風化していった。既に1980年頃には被害者の支援組織「土呂久・松尾等鉱害の被害者を守る会」が財政難による活動停滞に陥っていた。また、支援運動の中心であった総評系労組が「反公害」から「反原発」へシフトしつつあり土呂久鉱害への関心は相対的に低下した。1979年、補償斡旋を続けた黒木が受託収賄容疑で逮捕され知事を辞職し、翌年、後継知事松形祐尭は公害認定を巡る行政不服審査で県が敗訴したのを機に被害者へ公式に謝罪したが、依然として知事斡旋受諾者への公健法給付を認めなかった。一方、訴訟は住友の控訴により続き、1988年の控訴審判決は住友の賠償責任を認めたものの、補償額から公健法給付を差し引くよう命じる後退したものだった。住友はさらに上告したため、原告弁護団はついに水面下の和解交渉を行った。原告の高齢化と最高裁の状況を踏まえた苦渋の判断であった。1990年10月最高裁で原告と被告の一括和解が成立したが、住友の法的責任には触れず、賠償義務を否定し、公健法給付とは別に「見舞金」総額4億6475万円(1審判決の仮執行金と同額)を支払うという内容だった。1審判決も控訴審判決も被告の法的責任を認定したにもかかわらず、原告は訴訟の長期化に耐えることができずに訴訟自体には敗北したといえよう。
(4)総括 土呂久鉱山は、日本経済の工業化が急速に進展した第1次世界大戦期に始まり、戦間期の停滞を挟んで、15年戦争期には新興財閥の手で重化学工業の一端を担わされ、そして高度経済成長の開始により終焉した。その歴史は終始日本資本主義の発展過程に強く制約されたと言えよう。故に土呂久鉱害事件は局地的な鉱害ではあるものの、鉱山の杜撰な鉱害対策、鉱山への抵抗と依存の間で揺れる地域社会、一貫して公害の存在を隠蔽し民衆の声を潰した行政、公害反対運動の党派的分裂等々、近代日本の鉱害の一般的特筆を余すところなく有している。そしてついに根本的解決には至らず、現在も土呂久の自然が回復していないことは、鉱害が過去の問題ではなく、依然として現在的問題であることを示していよう。
《引用・参照文献》 斎藤正健「土呂久公害の告発とその後」Ⅰ-Ⅲ 『歴史地理教育』211、212、214号 1973年 川原一之『口伝 亜砒焼き谷』岩波書店 1980年 川原一之「土呂久鉱毒史」『田中正造と足尾鉱毒事件研究』5号 1982年 土呂久を記録する会編『記録・土呂久』本多企画 1993年
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王獻之的創草
黃簡講書法
07-52 複習思考:
先寫索靖和智永的「委」字,然後寫王獻之的,說說你對創草的看法。
什麼是創草
張懷瓘《書議》:
「子敬才髙識遠,行草之外,更開一門。夫行書,非草非真,離方遁圓,在乎季孟之間。兼真者,謂之真行;帶草者,謂之行草。子敬之法,非草非行,流便於草,開張於行,草又處其中間。無藉因循,寧拘制則;挺然秀出,務於簡易;情馳神縱,超逸優游;臨事制宜,從意適便。有若風行雨散,潤色開花,筆法體勢之中,最為風流者也。」
唐·竇臮《述書賦》:
「幼子子敬, 創草破正。......態遺妍而多狀, 勢由己而靡罄。」
簡單說,在從隸書、章草逐漸發展為成熟的真行草書的時代,另有一種稱作「藁書」的書體,從這兒又被王獻之變法為竇臮《述書賦》所謂「創草」。
藁書:又有行、又有草。
創草:又非行、又非草。
子敬的魅力
王獻之的理念,我猜是在草法完全成熟並嚴謹的時代基礎上,追求回溯民間初創藁草「無體之書」的自由。這裡「自由」是關鍵,他不要被文字與草法限制。其實這也極吻合魏晉反禮教,任自然的思潮後期。即便如此,他還是嫻熟運用王羲之體系的筆法、筆勢,在這方面並沒有拋棄精髓。不過在裹束上放飛自我,鬆散不羈,這樣的作品也的確符合富貴公子的任性風流形象。從這個角度說,他的書法是成功的。不然也不會引起後代無數人的崇拜和追隨。
要小心的是,我們需要仔細分辨自己崇拜子敬作品的哪方面,應該學的是哪些方面。
子敬的魅力在於他「情馳神縱,超逸優游」,我們羨慕他的風流,「無藉因循,寧拘制則」,這是因為我們都要承受社會規則的壓力,但誰又敢學他造訪顧宅(《世說新語·簡傲》)的舉動。我們也可以崇拜並羨慕竹林七賢,卻不能學他們入山林酗酒、裸體、打鐵吧?即便學了,我可以保證沒有人會讚賞你。他們的自由永遠屬於他們,每個人只能自己另尋途徑。
什麼是道德逆反
從金觀濤教授對中國思想史的一些研究中得知,魏晉的反禮教其實是對儒學的道德價值逆反。(他從書法以外的思想史入手,得出對書法藝術起源極其精確的論述。)老子說的「有無相生,難易相成」已經證明任何「逆反」都暗示包含了兩方面的主體,缺一不可。「反禮教」並非支持道德敗壞,這些反對當時宇宙論儒學的人,恐怕才是��正維護孔孟的人。如乾嘉學派批判禮教害人,而通過考證經典試圖回歸本真,並非推翻經學,反而是推進。道理很簡單,「在以道德為終極關懷的文化中」,當道德敗壞到極點時,想要推翻現有價值,回到最初聖人制定天下大道的狀態。
就連孔子自己,也有違背禮儀的時候。《論語·先進》中孔子哭顏淵,「非夫人之為慟而誰為?」注曰「慟,哀過也。」這是一個值得讓人破壞禮儀的人,這樣的情感誰聽了不心碎?如果原本就沒有禮儀,一個平時就胡亂大哭的人,這時又有誰能知道他是否真的心碎?
所以,反禮教與胡作非為並非等同。書法與經學有相似之處,都是中華文化的主幹。學問都是做在前人的肩膀上的,因此我們也必須嚴謹審查資料,反覆拷問自己的觀點,為了以後能夠成為後人站立的肩膀。書法也是如此,每一個文字都有自己的源流,在這個基礎上做藝術發揮,才是最精妙的樂趣所在。
王羲之創造的遊戲規則
書法與經學都是多維度的接龍遊戲,獨創一格並非不可以,但這是基於主幹規則慎密,結構堅挺。正如不遵守草法的小王,之所以還能被讀懂,是因為依賴於大部分人還懂得草法,識得文字。他設定的遊戲規則是基於大部分人都不參與,自己才能特立獨行。而王羲之創造的遊戲規則,是可以流傳千古,孳乳而寖多,任何人都能夠參與的。許多人似乎不知道,顏真卿獨創顏體就是用王羲之的遊戲規則表達自我個性最成功的案例之一。而小王的規則,也就是無規則,如果每個人都遵守的話,那也沒有人知道其他人在寫些什麼。繼續發展下去,連文字都不用寫,隨便畫些圓圈游絲也就得了,像抽象畫一樣。(現在已經走到這一步了,我很好奇這一派的下一步會去哪)那豈不是返祖現象,回到渾沌狀態了。
王羲之創造的規則,也是他之所以為書聖的原因,每個人可以此表達自己。用他的規則,每個人修練出的作品都等於一個人格。作品的優劣等於人格的優劣。人類至今還沒有出現完全一模一樣的,因此只要基因還沒有單一化,書法就仍然會發展,也不用擔心被ai替代。
終於入正題
來看看這幾個草書「委」字。上「禾」下「女」。
禾字的取勢常有兩種基本變化:一如智永、索靖,先寫中間撇豎,用鈎裹勢或袞筆勢;再寫橫撇捺,用又字形交爭勢或兩橫奮筆勢。一如行書蘭亭序中,撇橫作奮筆勢,或瞑人勢;然後���撇捺,顧盼勢,或是先兩橫一豎奮筆勢,然後一折豎筆勢,下面的三筆還是用先中間後兩邊的方法處理。
而王獻之的禾字看似取了一個舞鶴勢,先兩橫,然後以左中右的順序處理餘下筆畫。
雖然書法是運用筆勢,但筆勢來自於文字,仍然被文字限制。如果考察足夠多的書法家筆勢用法,就會發現並非完全自由運用。比如「木」字的群鵲勢一定是橫豎撇捺、或豎橫撇捺。如果用了群鵲化勢,橫撇豎捺,那是「不」字。再比如「糸」旁,從甲骨文開始,束絲的下面看起來有三根線頭,也許是三股繩搓絲線留下的末端。直到真書行書中,下面有時用顧盼勢,更常見用左中右的三點,但從來沒見有人用馬樁勢(左右中)的,因為如果用馬樁則多半是「巾」。雖然小篆的「糸」下引長筆畫,看起來有點像「巾」,但其他同時的手寫體都沒有跟從,還是保持文字初創的本意。
這就是書法感人的細微之處,即使經歷戰亂、正字、焚書、抄家,我們仍然與古人聯著一條血脈,這些不言而喻的地方,也正是書法的魅力所在。如果不小心在糸字用了馬樁,你的知音恐怕會望你一眼。
書法的藝術語言
可不要以為只要照著一定的筆順寫得不難看就是書法了。書法這門藝術語言表達的方面可多了。三級23課講心法,提到通過書法作品可以看出一個人的「品味,心情,性格,教育程度,甚至年齡、健康等等」。其實還能看出作者愛臨哪些帖、筆法的精熟程度、對筆勢的理解、對書法理論的理解、對文字是否有研究、平時是否讀帖、讀帖深入到什麼程度之類;從而還能知道這個人在書法上花了多少時間,下了多少功夫,學習態度如何;甚至處事態度,是否謹慎、是否性急、是否博學、是否精深;是對普世認知妥協,還是堅持自己的理念,接受的信息是否經過自己的思考等。還可以把時間加入考量,這個人平時是否有勤修練,是否有改變、進步、改過、吸納新知識等。
你願意放棄這麼多表達自我的機會,而只在所謂「字型好看」上下功夫嗎?
突破了「好不好看」,書法的欣賞才剛剛拉開帷幕。
何況字型好不好看,其實是空間概念的審美,除了多讀好帖以外,我更喜歡通過書法以外的方法,看雲、看山、看石頭來訓練感受力。這個下次再來贅述。
趙孟堅《論書法》說「今人但見爛然如藤纏者,為草書之妙, 要之晉人之妙不在此,法度端嚴中,蕭散為勝耳。」
總而言之,如樂器音準才能奏出最美妙的音樂一樣,在法度之上生出變化,是人類發明的一種極聰明有效的表達方式。千萬不要輕易丟棄了。
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