#話の特集 1979年2月号
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anamon-book · 2 years ago
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話の特集 1979年2月号 表紙=和田誠「具志堅用高」
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ari0921 · 3 years ago
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人ロケット技術者が米国亡命、ベール脱ぐ極超音速ミサイル
渡部 悦和
 英国のタブロイド紙デイリー・エクスプレス(Daily Express)は1月23日、情報筋の話として、中国人ロケット科学者が米国に亡命したために、中国当局に衝撃が走っていると報道した。
 この亡命者は大物の科学者で、映画「007」で有名な英国の秘密情報部(MI6)が亡命の手助けをしたと報道されている。
 周知のとおり、MI6は英国の対外諜報機関で、国外の政治・経済などの秘密情報の収集・情報工作を任務としている。
 亡命した中国人は、有名な国営企業である中国航空工業集団(AVIC)に所属し、中国が誇る極超音速滑空兵器(HGV)である「DF-ZF」(「東風ZF」、NATOコードネームでは「WU-14」と呼ばれている、図1の写真でDF-17と書かれた部分)の開発に重要な役割を果たした科学者だった。
 DF-ZFは、弾頭として中距離弾道ミサイル「DF-17」に搭載され、マッハ5以上の高速で飛翔し、射程約1000~1500マイル(1600~2400キロ)の目標を攻撃する極超音速兵器になる。
 以下、DF-ZFを搭載したDF-17をDF-17極超音速滑空ミサイルと呼ぶ。
 極超音速滑空ミサイルについては、米中露などの主要国の間で熾烈な開発競争が行われているが、特に中国のDF-17極超音速滑空ミサイルの実験は頻繁に行われ、部隊配備されているとも言われていて、米国の専門家の間でも評価が高い。
 その情報は、中国にとって極秘中の極秘であり、他国への流出などあってはならないことだ。
 さらに亡命した科学者は、DF-ZFのみならず人工衛星の軌道を利用して米国を攻撃する極超音速ミサイル運搬システム「部分軌道爆撃システム(FOBS:Fractional Orbital Bombardment System)」の開発にも関係したという。
 つまり、亡命者を確保した米国は、中国の極超音速滑空兵器のみならず、FOBSに関する中国の極秘情報も入手することになる。
 これは中国と技術覇権争いを展開する米国にとっての画期的成果になる可能性がある。
 今回の亡命事件は日本の安全保障にも影響を与えることなので、簡単にまとめてみた。
▪️亡命の経緯
 2021年9月末、亡命した30歳代の中国人科学者は香港の英国情報機関に初めて接触し、中国の極超音速滑空兵器に関する詳細な情報を持っていることを明らかにした。
 科学者は、亡命計画が発覚すれば中国に死刑を宣告されることを承知の上で、妻子とともに亡命することを希望したという。
 その連絡を受けたMI6のロンドン本部は、情報部員2人と技術部員1人の3人で、香港に向かったが、その際にCIAにも連絡した。
 このため、MI6チームには、CIAの2人も加わったという。
 MI6とCIAは当初、この科学者が北京の工作員であることを懸念していたという。
 しかし、科学者の人物や資格を確認する過程で、この科学者が中国の最新の極超音速兵器開発について、詳細な情報を有していることを確認した。
 科学者から提供された技術情報のほとんどは彼の頭の中に入っていたが、技術データを���かに持ち出すことも可能であったという。
 亡命希望者は家族とともに英国旧植民地に渡航し、その後ドイツの米軍基地へ、そして英国経由で米国へ飛ぶ脱出計画が実行に移された。
 この30代の科学者が西側に逃亡した理由は、イデオロギー的な理由ではなく、中国での極超音速滑空兵器の開発で重要な役割を果たしたにもかかわらず、昇進を拒否されたことへの憤りであった。
 自分の才能を認め、もっと高く評価されるべきだという確固たる信念からだった。
 共産党一党独裁体制でも人の心をコントロールすることはできなかったのだ。
DF-17極超音速滑空ミサイルについて
 亡命者が開発に携わったDF-17極超音速滑空ミサイルについて簡単に紹介する。
 DF-17は、中国が世界に誇る極超音速滑空兵器DF-ZFを搭載可能な中国の固体燃料式・道路移動型・中距離弾道ミサイルである。
 DF-17 は、DF-ZFの予測不可能な軌道により、敵の弾道弾迎撃ミサイル(ABM)による迎撃を難しくしている。
 DF-17はDF-ZFとともに、2019年10月1日の国慶節軍事パレードで正式に披露された中国初の極超音速滑空ミサイルであり、世界で初めて完全初期運用に入ることになった。
 DF-ZFの軌道は低高度に抑制されるため、敵のABMにとって、通常の再突入体よりもはるかに迎撃が難しく、複雑なものになる。
 また、滑空することでDF-ZFの機動性が高まり、射程距離が伸びるとともに、潜在的なABMの迎撃を避けるため、さらに複雑なものとなっている。
 加えて、DF-17はDF-ZFではなく通常の再突入体(核・非核の弾頭)を搭載することも可能である。
 DF-17のプロトタイプの実験は2014年1月から2017年11月までの間に少なくとも9回の試験飛行が行われ、成果を出している。
 米国は、極超音速ミサイルの開発に���いて、中国のDF-17に遅れていると認識していて、米国の極超音速ミサイルの開発を加速している。
 いずれにしろ、今回の中国科学者の亡命により米国に非常に貴重な情報がもたらされることになるだろう。
部分軌道爆撃システム(FOBS)について
 亡命者が関与したFOBSについても説明する。
 FOBSは、旧ソ連が1960年代に開発したが、1979年に調印された米ソ間の第2次戦略兵器制限交渉(SALT Ⅱ)で禁止されたものだ。
 図2を見てもらいたい。FOBSでは、発射したミサイルを一度、衛星軌道に乗せ、地球を一回りする前に飛翔体を降下させ目標に突入させるもので、衛星爆弾とも呼ばれる。
 FOBSは、米国の弾道ミサイル防衛の弱点を突くシステムであり、ICBMなどの弾道ミサイルよりも対処が難しいと考えられている。
 中国は2021年8月、FOBSらしき新型ミサイル実験を行った模様だ。
 2021年11月16日に公開された米テレビ局CBSによるインタビューで、ジョン・ハイテン米国統合参謀本部副議長は、「ミサイルは地球を一周し、そこから切り離された飛翔体は、中国国内の砂漠に設営された目標から40キロ離れた地点に着弾した」と話している。
 これは中国が2021年8月に実施した実験で、従来の弾道ミサイルに極超音速滑空兵器(HGV)を搭載するのではなく、衛星打ち上げロケット長征を使ってHGVを周回軌道に乗せて地球を一周し、HGVを切り離して目標を攻撃するものだ。
 つまり、新型ミサイルは、通常の弾道ミサイルとは違う軌道を採用した。
 中国から南に向けてミサイルを打ち上げ、大気圏から宇宙に入り、気象衛星と同じように、南極・北極を回る「極軌道」で地球を一周。再び中国上空に戻ると、そこからHGVを発射し、砂漠の目標近くに着弾させたという。
 これにより中国はロケット発射基地から地球全域に対し打撃する能力を持ち、打撃の前の警告時間も短くすることが可能になる。
 なお、FOBSは、北極回りの弾道ミサイルに備えた米国の弾道ミサイル防衛(BMD)の弱点である、南極周りの地球周回軌道を利用するケースが多い。
 さらに、中国のミサイルは単なるロシアのFOBSのコピーではなく、軌道上から地上へ向けて発射されたのは、最高速度がマッハ20にも及び不規則な軌道を描くHGVだったのだ。
▪️北朝鮮もFOBS技術保有の可能性
 FOBSについては、中国やロシアの専売特許ではなくて、北朝鮮もその技術を保有しているという情報がある。
 電磁パルス攻撃(EPM攻撃)の研究で有名な米国のピーター・プライ博士によると、北朝鮮はFOBSの実験を行い、その技術を持っている可能性があるという*1。
 北朝鮮は 2012年12月12日、衛星「光明星3号(KMS-3)」の発射と周回に成功した。
 そして、2016年2月7日には衛星「光明星4号(KMS-4)」の発射と周回に成功した。
 その衛星軌道は、ソ連が米国に対して高高度電磁パルス(HEMP:High-altitude EMP)攻撃を行うために開発した「部分軌道爆撃システム」の軌道と類似している。
 つまり、北朝鮮のロケットは、米国の方向(北方向)ではなく、南の方向に打ち上げられ、南極軌道上の衛星となりスーパーEMP弾を運んだ。
「スーパー EMP衛星」は、米国の対弾道ミサイル防衛体制の手薄な南方向から米国に接近し、全州をHEMP攻撃の影響圏に置く最適な高度を周回している。
 今や、北朝鮮は、スーパーEMP衛星で米国を含む地球上のすべての国を攻撃する能力を備えていることになる。
 以上のような分析は我々日本人には馴染みがないかもしれないが、注目すべき分析であることを強調しておく。
 そして、今回の中国人科学者の亡命事件は、北朝鮮のFOBSにまで焦点を当てる結果になった。
 北朝鮮は、FOBSのみならず、HGVに似たミサイルの発射実験を行っている。中国のみならず、北朝鮮の動向にも警戒が必要な理由がここにある。
*1=Peter Vincent Pry,“North Korea EMP Threat-North Korea’s Capabilities for EMP Attack |EMP Shield”
科学者亡命の影響
 科学者の亡命は、中国のみならず米国や日本にも大きな影響を与えるであろう。
 人民解放軍を研究してきた私にとって、今回の亡命事件で今まで分からなかったことが明らかになるだろうという期待感がある。亡命の影響を以下に列挙する。
①米中露を始めとして多くの国々が最先端兵器開発の焦点としている極超音速滑空兵器HGVについて、中国の技術レベルが明らかになるであろう。
 中国のHGVの技術が本当に米国の技術を超えたものなのか。HGVの命中精度はどの程度のものなのか。地上に存在する大きな固定目標に対してであれば命中するかもしれない。
 しかし、動いている艦艇(例えば米海軍の空母)が目標であるならば、本当に命中するのか。この点に関して私は懐疑的に見ている。
 たとえ停止中の艦艇が目標であったとしても、マッハ5以上の極超音速で不規則な飛行をしながら、目標に本当に命中するのか。中国の技術レベルを知る絶好のチャンスだ。
②米国や英国は、亡命科学者からもたらされた情報をもとに、HGVの開発を加速することができるかもしれない。
③FOBSやHGVは、中国やロシアのみならず北朝鮮も開発を行っており、その技術の一部を保有している可能性がある。
 日本の安全保障を考えた場合、中国、ロシア、北朝鮮の連携に対して、日米英の連携を深めるべきであろう。
④中国にとって科学者の亡命はショッキングな出来事である。
 流出するHGVなどの技術情報を無効にする措置を取るには最低2年はかかると言われている。この間に、日本もHGVの開発に目途をつけるべきであろう。
▪️おわりに
 今回の亡命事件は、米国にとっても日本にとっても良いチャンスである。
 特に日本は、このチャンスを最大限に利用して、人民解放軍をはじめとする中国情報の入手に努め、日本の防衛を強化するべきであろう
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moment-japan · 5 years ago
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京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園
NEWS WEEK
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。デヴィッド・ボウイは日本のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望したという>
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園は各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。
実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はインターネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。
京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊���した。
庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。
足利義満は金閣寺を、稲盛和夫は和輪庵を造った。スティーブ・ジョブズは西芳寺に、デヴィッド・ボウイは正伝寺に通った。ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する(今回は第2回)。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
◇ ◇ ◇
デヴィッド・ボウイ(1947年〜2016年)と正伝寺(しょうでんじ)(京都)
たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイが、その美しさに涙したという正伝寺の庭。白砂に七・五・三の刈り込み、遠方に望む比叡山の借景......。世界的なアーティストは何を感じとったのか。
親日家のデヴィッド・ボウイ
ボウイは、親日家で有名でした。また仏教や禅に造詣が深かったようです。BBCテレビ『デヴィッド・ボウイの日本流への熱情』によると、ボウイが20歳頃、舞踊家リンゼイ・ケンプ氏のもとで、ダンスとマイムを習いました。このケンプ氏が、伝統的な歌舞伎の様式に大きな影響を受けていたそうです。歌舞伎や能という伝統芸能が、ボウイが日本文化を知る入り口になりました。
また、チベット仏教の高僧はボウイと親交があり、彼が仏教の僧侶になるつもりだったと���言しています。もともと、仏教に深い関心があったようです。
アルバム『ジギー・スターダスト』全盛期の頃に、スタイリスト・高橋靖子、写真家・鋤田正義、ファッションデザイナー・山本寛斎などがボウイと親交があったそうです。
鋤田正義はボウイを京都で撮っていますが、ボウイの希望は京都の人々が日常の生活を送るような場所で、というものでした。
ボウイが梅田行きの阪急電車の前でさっそうと立っている姿は、ファンだけでなく京都に住んでいる人達をも魅了します。切符を買っていたり電話ボックスで受話器を持っていたりする写真などもあります。古川町商店街では、当時、創業70年のうなぎ店の名物八幡巻きを買っている姿もありました。
スターダムにのし上がった1970年代後半、プレッシャーなどからドラッグの誘惑に苛まれ、ベルリンに移り音楽活動をしていた時期がありました。名盤「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」のベルリン三部作を制作しました。この頃、ボウイはツアーの合間を縫うように京都を訪れていました。ボウイにとっては大きなターニングポイントで、自分自身をリセットするために京都に来ていたそうです。
大徳寺の僧侶は、ボウイと親交がありました。日本、そしてその精神の奥にある禅に、ボウイは向き合っていったのだそうです。WOWOWドキュメンタリー『デヴィッド・ボウイの愛した京都』で「禅の中では、自由を得るというのが究極にあり、特に死ぬことからの自由のことだと。変わるというのは自分が死ぬことで、ボウイは、自分が変わることから真の自由を求めていたのではないでしょうか。」と僧侶は話していました。
「新しい自分、本当の自分の姿を京都で見つけたのです。京都の時間の流れを、ボウイは大切にしていたようです。常に今が大事だということです。」と彼は続けます。
ボウイは芸術や文化、歴史を学ぶ才能に溢れていたと言います。美術品のコレクターではなく、その物の精神を自分のものにしていく才能があったそうです。「ヒーローズ」のB面に収録されたインストゥルメンタル曲「モス・ガーデン」では、美しい琴の音色が聞こえてきます。これはファンが、直接本人に手渡したおもちゃの琴の音色です。これを弾きこなして、自分の音楽表現をしている才能に凄さを感じます。
1990年代には、イマンと新婚旅行に京都に来ていますが、滞在したのは老舗旅館「俵屋」でした。また、江戸時代創業の蕎麦屋「晦庵(みそかあん)河道屋(かわみちや)」本店もお気に入りだったそうです。俵屋と河道屋は、スティーブ・ジョブズも好きでした。二人が遭遇した可能性は少ないと思いますが、好みが似ているのが不思議です。
正伝寺の歴史��その庭園
ボウイが愛した正伝寺は、どのようなお寺なのでしょう。正伝寺は、京都市北区西賀茂にあります。五山送り火で有名な船山の南側に位置しています。臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つお寺です。山号は吉祥山(きっしょうざん)。寺号は正伝護国禅寺で、本尊は釈迦如来です。
正伝寺は、1260年、宋より来朝した兀庵普寧(ごったんふねい)禅師の高弟が、京都一条今出川に創建しました。1265年に兀庵普寧禅師は宋に帰りますが、その後、東巌恵安(とうがんえあん)が跡を継ぎ、1282年にこの西賀茂の地に移りました。
応仁の乱で荒廃しましたが、徳川家康が再興します。本堂は、1653年に金地院の小方丈が移築されたものです。伏見桃山城の御成殿(おなりでん)の遺構を移したものとも言われています。方丈の広縁の天井には、伏見城落城時、徳川家臣・鳥居元忠と家臣らが割腹し果てた廊下の板を、供養のため天井に貼った「血天井」があります。
方丈の各室の襖絵は、1605年頃、徳川家康の命により狩野山楽が描いた中国・杭州西湖の風景です。山楽の残した貴重な作品です。
庭園は白砂とサツキ等の刈り込みが並ぶ枯山水です。方丈の東側に造られており、敷地は363平方メートルです。
方丈から見て白砂の奥に、右から、七つ、五つ、三つと、植栽の大刈り込みがあるだけです。これを七・五・三形式と言いますが、通常は石が七・五・三に置かれ、植栽で表されているのは正伝寺だけです。
植栽構成は、三つがサツキのみ。五つがサツキとサザンカ、七つがヒメクチナシ、アオキ、サザンカ、サツキ、ナンテン、ヤブコウジ、チャと組み合わされています。
この庭園は江戸初期に造られました。小方丈が金地院から移築されているので、小堀遠州作とも言われていますが、時期的に見て、別の作庭家との説もあります。
江戸初期には、滋賀県の大池寺庭園や奈良県大和郡山の慈光院庭園など大刈り込みの庭園が他にも存在しています。龍安寺の石組が「虎の子渡し」と言われるのに対し、正伝寺の七・五・三とする刈り込みは「獅子の児渡し」と言われています。ゴツゴツした石が虎で、ふわっとした植栽の刈り込みを獅子と見立てたのでしょうか。
明治維新以降、寺領・社殿の召し上げなど苦しい時代になります。正伝寺の明治期の写真が残っていますが、高木が増え、刈り込みも乱れた様子です。
戦前の1934年、重森三玲を中心とした京都林泉協会の会員有志が、後から加えられたであろう石を取り除くなど���れた状態を整えました。こうした努力により、かつての姿を取り戻した現在の庭園は、京都市の名勝に指定されています。
庭に敷き詰められた白川砂と緑の刈り込みの植栽、下界を遮断する漆喰塗りの塀の構成の向こうに、遠山として望めるのが比叡山です。遠くにポツンと比叡山だけを見渡せる巧みな借景の取り方が、正伝寺の庭をより特別な存在にしています。
正伝寺とデヴィッド・ボウイ
京都の北に位置する正伝寺は、最寄りのバス停から歩いて20分ほどかかりアクセスが良くありません。山門を抜けると登り坂の山道が続きます。本堂まではおよそ250メートル。静かな山道はやがて、下界と離れた特別な禅の庭へと誘ってくれます。
実はこの人里離れた禅寺の正伝寺の庭は、知る人ぞ知る名勝なのです。どうしてボウイがこの庭のことを知っていたのでしょうか。おそらく、彼の友人だった米国出身の東洋美術家・デヴィッド・キッドの存在が大きかったのだと思います。
デヴィッド・キッドは、九条山に邸宅を持っており、「桃源洞」と名付けていました。ボウイはここをよく訪れたそうです。ボウイは、桃源洞の居間にあった平安時代の地蔵菩薩を眺めて時を過ごしていたそうです。菩薩の控えめな様子から深い哀れみを感じていたのではないでしょうか。
1979年の年末、広告代理店が宝焼酎「純」のコマーシャルにボウイを起用する提案をしました。アーティストとして非常に高い純粋性を持った人として、彼以外にいないということでした。
ボウイはお気に入りの俵屋に泊まり、撮影は嵐山にある松尾大社近くの公園や正伝寺で行われました。正伝寺を希望したのは、ボウイ本人だったそうです。宝ホールディングスの元会長・細見吉郎は、学生時代からずっと京都に住んでいましたが、当時、この寺の存在を知らなかったそうです。整然とした枯山水庭園と比叡山の眺めに感動し、訪れる人も少なく、静寂に包まれていたので「ボウイさんが正伝寺を指定した理由が分かった」と語っています。
――「撮影中にボウイさんは庭園を見つめ、涙を浮かべていた」と細見さんは振り返る。「景観に感動したのか、何か悲しい思いをしたのかは聞けなかった。繊細で純粋な人だった」と記憶をたどる。――(日本経済新聞「D・ボウイが涙した静寂」/2016年2月19日)
宝焼酎「純」の販売数量は、1980年からの5年間で11倍に増えたそうです。
コマーシャルには、ボウイ自身が作った「クリスタル・ジャパン」という、雅楽を意識したインストゥルメンタルの曲が使われました。正伝寺の庭の白砂の上に、グラス片手に��っているシーンはとても印象的です。
私がこの庭を訪ねたのは、紅葉が始まる頃でした。デヴィッド・ボウイが愛した庭を鑑賞しようと、海外からの観光客の姿もありました。
刈り込みが美しい庭の方丈前には数人がいましたが、みな庭を観ており、沈黙だけが心地よい空間を作っていました。しばらく静観していると、心が洗われたような気持ちになりました。
ボウイもまた、心を清めるように真の美を前にしていたのかもしれません。庭には、自分をリセットするとともに、自由にしてくれる作用があるのかもしれません。
※第3回は5月23日に掲載予定です。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
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『一流と日本庭園』  生島あゆみ 著  CCCメディアハウス  
正伝寺  京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
http://shodenji-kyoto.jp/
正伝寺は、京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つ寺である。山号は吉祥山。寺号は詳しくは正伝護国禅寺という。本尊は釈迦如来。
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waclips · 6 years ago
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名前左側の数字が改名回数である。 1969年2月 立川談志に入門。前座名、1.立川ワシントン。談志に入門した理由として本人は、当時落語協会会長であった6代目三遊亭圓生が会員の落語家に対して「弟子取り禁止」を通達しており、その意に反して弟子を受け入れていたのが談志だけだったため、と語っている。 1972年 破門。桂三枝(現:6代桂文枝)門下に移籍、2.ジョニー三ノ介の名前で漫談家として活動。 数ヶ月で3.桂三ノ介と改名。 1977年 4.桂三Qと改名。 1979年 談志門下に戻る。 同年11月 5.立川談トンと改名。二ツ目昇進。 同年 6.立川カメレオンと改名。談志より「志ん生の改名記録(18回)を抜け!」という命令が下る。 1980年 7.立川レーガン(当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンに由来)と改名。 1981年4月 8.立川丹波守と改名。 1983年5月 9.英国屋志笑と改名。 1983年 談志一門が落語協会を脱会するが、協会のスパイとして残留を命じられ10.立川レフチェンコ(元KGBのスタニスラフ・レフチェンコに由来)と改名、その後小さんに除名され本人も脱会、英国屋志笑から立川レフチェンコに戻した後、1984年に11.立川世之介と改名。 12.立川フルハムロード(三浦和義の経営していた輸入雑貨店に由来)、一週間だけ立川世之介に戻り、1985年に13.立川小錦(当時話題を呼んだ大相撲力士小錦に由来)に改名。 1986年 14.快楽亭セックス及び15.立川マーガレット、これは「セックス」という高座名がNHKからクレームがついてNHKでのみ「立川マーガレット」を名乗っていたという逸話がある(浅草キッドの玉袋筋太郎と共にNHKでのみ強制的に改名されたケースとして有名)。 1989年 元号が昭和から平成になるに伴い16.立川平成と改名。なお、川嶋紀子婚約報道の渦中、���谷ジァン・ジァンなどアンダーグラウンドな場では「立川紀子」を名乗っていた。 1990年 国立演芸場若手花形演芸大賞で金賞 1991年 国立演芸場花形演芸大賞金賞銀賞の集いで年間特別賞を受賞。 1992年9月 17.2代目快楽亭ブラックを襲名し真打昇進。
快楽亭ブラック (2代目) - Wikipedia
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newsletterarchive · 6 years ago
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NEWSLETTER vol.46
ニューズレターの第46号をお届けします。
今回は2018年2月4日に Art Jewelry Forum に掲載された、キャロライン・ブロードヘッド氏へのインタビューをお届けします。
この記事でも紹介されている「ネックレス/ベール」はコンテンポラリージュエリーの数多くの��籍で紹介されているので、ご存じの方も多いかもしれません。
当初はジュエリーだけを制作していたという彼女がどういう経緯で作品に衣服やパフォーマンスを取り入れていったのか、その足跡をたどれます。
いつものことながら、メールへの埋め込みで画像が小さくなってしまっています。下の元の記事へのリンク先でより大きな画像をご覧いただけます。
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https://artjewelryforum.org/in-conversation-with-caroline-broadhead
インタビュー
2018年2月4日
キャロライン・ブロードヘッドに訊く
オリヴィア・シー
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キャロライン・ブロードヘッド、「タフティ・イヤリング」、1979年、撮影:キャロライン・ブロードヘッド
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​キャロライン・ブロードヘッド、「コットン・ブレスレット」、1977年、撮影:ピーター・マッカーティヒ
キャロライン・ブロードヘッド氏は数多の分野の壁を越えて活動する先見性あるアーティストだ。その活動領域はジュエリーやテキスタイル、家具、インスタレーションにとどまらず、ライブパフォーマーとのコラボレーションにも及ぶ。オランダ、アペルドールンのCODA美術館で2018年4月15日まで開催されている(訳注:元の記事は展覧会会期中に掲載された)彼女の回顧展は、40年間にわたる活動の集大成であり、身体そして個人とは何かを深く模索する姿勢を知ることができる。氏は、1997年にはジャーウッド応用芸術賞のテキスタイル部門で、2004年にはテキスタイルズ・インターナショナル・オープンで賞を受賞し、現在はセントラル・セント・マーチンズのジュエリーデザイン学士課程の学科長を務めている。
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キャロライン・ブロードヘッド、「ネックレスの落とし物1」、2015年、撮影:フィリップ・セイヤー
オリヴィア・シー: 70年代から80年代にかけて、あなたは革新的な作品群でコンテンポラリー・ジュエリーとその可能性に対する人々の考え方を一変させました。そもそもなぜジュエリーに興味を持たれたのでしょうか? また、あなたにとってジュエリーはどんなものですか?
キャロライン・ブロードヘッド:ジュエリーは、学生時代に陶芸の工房にいたときに作るようになりましたが、変わっていて、しかも身��着けられるものをつくれるところが気に入りました。スケールの小ささや、七宝やロウ付けで金属の表情が変わるのも魔法みたいでおもしろかったです。アートの基礎課程在籍中にジュエリーを学べると知り、その道に進みましたが、いざやりはじめてみると、思っていたほど金属に興味を持てませんでした。そこで、プラスチックや木材など金属以外の素材について考えたり、いじったりしてジュエリー科での時間をつぶしました。自宅ではテキスタイルの作品も作りましたよ。自分が楽しいと思えてわくわくできるような作品をつくるようになれたのは卒業後のことです。ジュエリーは全文化圏に共通して存在するもの。つまり、とても根源的なものです。ジュエリーは、人ではないのに、人に近い存在である点がとてもおもしろいと思います。
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キャロライン・ブロードヘッド、「ネックレス/ベール」、1982年、撮影:デイビッド・ワード
あなたの代表作のひとつである「ネックレス/ベール」(1982)はナイロンを織って作られており、ネックレスとしても装着でき、上に引き伸ばせば優美なベールにもなるという意外性を空間的に表現した作品ですが、どのようなインスピレーションからこの作品が生まれたのでしょうか?
キャロライン・ブロードヘッド:この作品は、ロンドンから車でケニヤに移動して現地に数か月滞在してからつくったものです。工房を立ち上げて数年がたち、今後の方向性について悩んでいた時期でした。現地で見たマサイ族やトゥルカナ族が着けているジュエリーは圧巻で、役割がまるで違うジュエリーに出会えたのも新鮮でしたし、アイデアが広がりました。彼らは大きなジュエリーを当前のように身に着け、しかもその1つひとつに意味がありました。どのジュエリーも刺激的でした。
帰国後、自分は収入源として制作するよりも、自由にアイデアを追求したいのだということと気づきました。非常勤の教職につけたことで、より自信をもって思い切った作品をつくれるようになりました。身体の周囲の空間を動きのある要素として扱うのがおもしろかったです。この織の構造(後から「スプラング」という名前だと知りました)もアフリカ旅行の収穫です。マーケットにいた女性たちが器用な手つきであっという間にカゴを編み上げるのを見て、自分もやってみたいと思うようになりました。ナイロンで試したらいまひとつでしたが、縦軸を外すと形をコントロールして変えられることに気づきました。「ネックレス/ベール」は、何度もねじっていくと自然と硬くなり透明度が増します。構造の特質を生かすことで生まれた実験的な作品です。
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キャロライン・ブロードヘッド、上:「ラップアラウンド」、下:「7人分の襟ぐりのあるシャツ」、1983年、撮影:デイビッド・ワード
あなたのキャリアはジュエリーに始まり、そこからテキスタイルによるより大きな作品も手がけるようになりました。「ラップアラウンド」(1983)は鑑賞者に動きや反復を感じさせ、着用者が袖口に何度も腕を通しながらこの服を着る姿を想像させます。この作品についてお話をお聞かせいただけますか?
キャロライン・ブロードヘッド:ジュエリーから服への移行は、強く意識してそうしたわけではないにせよ、とても理にかなったものでした。「ネックレス/ベール」「プロペラ」「袖口」などの織って作った作品はジュエリーよりも身体の周囲で占める空間が大きく、どの作品も衣服の意味合いを強く含んでいます。私はこれらの作品による相互作用や、作品の扱い方や動きに興味がありました。「袖長のシャツ」と「ラップアラウンド」は、袖をたくし上げて腕を通すという、衣服を着る行為から連想される反復運動を物質的に表現したものです。一見すると身につけられなそうなジュエリーや衣服が、実は着用できるということを、イメージやパフォーマンス、イマジネーションを通じて見せるという考えに興味があったのです。2つ以上の特性を持つものや特定の動きや相互作用を誘発するものにも関心がありました。
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キャロライン・ブロードヘッド、「スティル・ライト」、1999年、撮影:ゲイリー・カーカム
テキスタイルの作品はインスタレーションへと発展し、さらにライブパフォーマーとのコラボレーションも行われましたね。動かない物体から空間や動きを取り入れた表現への移行は大変でしたか? それとも直観的なものでしたか?
キャロライン・ブロードヘッド:表現方法の変化はごく自然な流れで発展していきました。私は自分の作品に相互作用の効果を求めていたのですが、それが何につながっていくのかまではうまく想像できませんでした。そこで、ローズマリー・リーとクレア・ラス、アンジェラ・ウッドハウスらの振付師と組むようになったのですが、この体験によって、空間や特定の場所の活用方法という点で数多くの可能性が開けました。また、パフォーマンスは、上演が終わればそれで終わりという一回性や時間感もおもしろいと思いました。
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キャロライン・ブロードヘッド、「サイテッド」(アンジェラ・ウッドハウスとのコラボレーション)、2009年、撮影:ヒューゴ・グレンディニング
振付師とのコラボレーションはどのようにしてはじまったのでしょうか?
キャロライン・ブロードヘッド:ロンドンのサウス・バンク・センターの企画で、振付師やデザイナー、アーティスト、ダンサーが一堂に集まって互いを知り合い、1日話し合ってその成果を探るというセッションが数回行われたことがありました。日程表はなく、4~5人ずつのグ��ープに分かれて、各グループがそれぞれのやり方で進めていくというものでした。私はアンジェラと同じグループではありませんでしたが、これを機に互いの仕事を知りました。1991年にはローズマリーからサウス・バンクのボールルーム・ブリッツでコラボレーションをしないかと誘いを受け、パフォーマンスを行いました。ローズマリーと私は面識がありませんでしたが、主催者が私たち2人の考えには相通じるものがあると考えたようです。
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キャロライン・ブロードヘッド、「ビトウィーン」(アンジェラ・ウッドハウスとのコラボレーション)、2010年、撮影:ヒューゴ・グレンディニング
アンジェラ・ウッドハウスをはじめとする複数のダンサーとのコラボレーションである「ビトウィーン」(2011)では、ひとりの女性が、首にかけた真珠のネックレスを引きちぎる場面がありますね。このプロジェクトではどんなテーマを表現したかったのですか?
キャロライン・ブロードヘッド:アンジェラと私がこのダンスパフォーマンスを行ったのは、ダンサーと観客、衣服と皮膚との関係を探るためでした。見せ場となる瞬間と、距離の近さや接触がもたらす親密な瞬間とを結びつけたいと思いました。そのような瞬間のひとつは、金箔を腕に貼りつけたダンサーが、もうひとりのダンサーにその腕を押し付けた後に、空中に金箔がたなびくさまが見え、さらに相手の腕に金箔が残ったときです。私たちは、沈黙の中でパフォーマンスを進めながら、統一と崩壊の概念を軽やかに表現しました。真珠のネックレスが壊れた瞬間、特に真珠が床に散らばったときに立てた音が緊張感を生み出していました。
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​キャロライン・ブロードヘッド、「縫い目」、1990年、撮影:CODA美術館
あなたの40年間のキャリアにおいては一貫して、作品と身体との関係性に注目されていますが、身体のどんな点が魅力なのでしょうか。
キャロライン・ブロードヘッド:私がほとんどの作品で重視しているのは、身体、もっと正確に言えば人間です。人であることは万人にとって共通の体験であり最大の謎でもあります。自己の概念、つまりひとりの人間の境界にはとても興味深いものがあります。私はジュエリーや衣服、影、反射などを用いてきましたが、そのすべてが存在感を持ち、身体の大きさに沿ったものです。そして、人と人との関係も、自己を発見する手段として用いてきました。
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キャロライン・ブロードヘッド、孤児のためのブランケット、2014年、撮影:ジャック・コール
「孤児のためのブランケット」(2014)は喪失を表現した、心が揺さぶられるポートレートです。このブランケットは、孤児院に子どもを引き渡すさいに、親が子どもと一緒に孤児院に預ける布に���いて言及しています。このブランケットを制作する��あたり、ガラスのビーズと模造パールを使おうと考えた経緯を教えてください。
キャロライン・ブロードヘッド:その昔、母親は、孤児院に子どもを引き渡すさいに、子どもといっしょに忘れ形見になるものを孤児院に預けました。これはのちに家計が上向いて子どもを引き取りにくるときに身元証明として使うものです(そのような申し立てのあった子どもはごくわずかでしたが)。これらの忘れ形見は、木の実にはじまり、硬貨(彫りやマークが入れられたものもありました)、ジュエリーなどさまざまですが、そのほとんどは素材的価値のないものです。模造パールには本物になろうとする「意志」が込められています。このネックレスは、悲しみや見捨てられた気持ち、価値の低さを感じさせながらも、感傷を誘う意味を持ちうるものにすることが重要でした。ビーズを2列にしたのは、開いたときの開口部が大きくなるようにするためです。
ビーズに惹かれるようになったのは、メキシコに行ってからです。ガラスビーズは、種類が豊富で、さまざまな色のビーズを大量に仕入れることができるところが気に入っています。1つひとつは小さくても個々が各自の役目をはたして全体に貢献します。ビーズの仕事は反復作業で時間がかかりますが、そこが気に入っています(ただし、この作品については優秀なインターンに手伝ってもらいました)。ダイヤのパターンは私が幼いころに使っていた刺しゅう入りのベッド掛けを模したもので、あたたかで快適なブランケットと、ガラスという冷たく壊れやすい素材でできた、見た目はきれいだとしてもあたたかさとも快適さとも無縁なブランケットとの対比に興味がありました。
コンテンポラリー・ジュエリー界のどんな動向がおもしろいと思われますか? またその理由を教えてください。
キャロライン・ブロードヘッド:いまは、スタイルやテーマ、ジュエリーの見せ方が多様化していてとても健全だと思います。私が特に影響を受けるのは、目的意識の強さや明確な方法によるアイデアの伝達、そして独自の方法による素材の扱いです。ユーモアやウィットの感覚もおもしろいですね。
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キャロライン・ブロードヘッド、「修理後のスツール」、2015年、撮影:CODA美術館
今後積極的に活動したいと考えている駆け出しのジュエリーアーティストに助言をするとしたらどんな言葉をかけますか?
キャロライン・ブロードヘッド:楽しいと思えることをやり続けること。本能や心躍るアイデアに従って、いろんな可能性を柔軟に受け入れること。そして、すぐに結果が出なくてもあきらめないこと。
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キャロライン・ブロードヘッド、「スキン&ブラッド」、1981年、撮影:デイビッド・ワード
最近見たり読んだりしたもの��なかでおもしろかったものはありますか? 読者にあなたの発見を共有していただけますか?
キャロライン・ブロードヘッド:つい今週末「リズム&リアクション:英国のジャズエイジ」という展覧会を見てきたところです。ロンドンにある、建築が見事なトゥー・テンプル・プレイスで行われたのですが、この会場のことはこれまで知りませんでした。展覧会には大叔父が「ザ・ブレイクダウン」と題した絵を出品していました。この絵は1926年にロイヤル・アカデミーで行われた夏期の展示のさい、苦情が寄せられて撤去されたのです。その後、大叔父はその絵をつぶしてしまったのですが、何年もしてから描き直しました。この作品を見れて、たいへん誇りに思います。
いま読んでいるのはユヴァル・ノア・ハラリによる「ホモ・デウス:明日の世界の歴史」(訳注:翻訳時(2018年5月)は邦訳版未発表のためタイトルは仮訳)です。現代の人間が、かつては神の御業と考えられていた物事の支配をどのように行っているか、そしてその行く末に何がもたらされるのかを解説した本です。
素敵なお話をありがとうございました!
オリヴィア・シー:カリフォルニア州オークランドを拠点に活動するコンテンポラリー・ジュエリー作家、アーティスト、ライター。米国生まれ台湾育ち。身に着ける彫刻による文化的なニュアンスの表現に関心を持つ。コロンビア大学にて、クリエイティブ・ライティングの学士号を、カリフォルニア・カレッジ・オブ・アーツにジュエリーと金工の美術学士号を取得。
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本ニューズレターの本文・画像のすべてまたは一部を無断で転載することはかたくお断りいたします。今回の記事は、スーザン・カミンス氏(Art Jewelry Forum)の寛大なる許可をいただいて翻訳しています。配信の停止をご希望の方は、このメールに返信する形でお知らせください。また個人名の表記につきましては一般的な発音を参考にカタカナ表記をしておりますが、もし本来のお名前と異なる表記にお気づきの場合は、お手数ですがお知らせください。
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hirropted · 5 years ago
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Mellon Collie And The Infinite Sadness/The Smashing pumpkins
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 スマパンことSmashing pumpkinsの3rd「Mellon Collie And The Infinite Sadness」、邦題は「メロンコリー そして終りのない悲しみ」。
 disc1・2はそれぞれ「Dawn To Dusk」・「Twilight To Starlight」と題されている。いわゆる「光と影!」、「静と動!」的な割と分かりやすい――ともすればありきたりな印象を与えるコンセプトだと思う。
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 しかしこのアルバムがそういった軽薄な評価とは縁遠い所にあることは、今さら僕が言うまでもないけれど、この作品の魅力の一つに、その曲の良さもさることながら、中世絵画 meets 童話的世界観を混ぜこぜにしたアートワークがあることは言っておきたい。
 まずジャケットの変遷をたどる。1st「Gish」のジャケは、魚眼レンズ(?)で映したメンバー写真。正直かなりイモい。ビリーもロン毛で違和感ある。
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 2nd「Siamese dream」では、微笑ましい二人の少女のアップが用いられた。インナーにはメンバーの幼少期の写真がコラージュ的に配置され、おそらくビリーコーガン直筆の殴り書きの歌詞が乱雑に並んでいる。
 伝わりにくいニュアンスになるが、「Gish」も「Siames dream」もグランジの終焉~オルタナの夜明け感ほとばしるデザイン。<粗削りな1st⇒リードシングルを含む完成度急上昇2nd>という流れもお手本のような成長ぶり。からの3rdで突然の絵画ジャケ。
 宇宙空間に漂うヒトデ型の金の星(UFO?)から���まるで植物が生えるように上半身を起こした美女(女神?)が憂い顔で天空を見つめている。ヴィクトリア調っていうんですか、こういうタッチ。とにかくこの壮麗なジャケットに心惹かれてこのアルバムを手にした者も少なくないのではないだろうか。 
 僕は兄が買ってきたクロスビートの「ロック名盤100選」的な特集記事で初めてこのバンドとアルバムの存在を知った。当時、すでにバンドは解散していたし、僕は洋楽入門者にありがちなジャンルの偏食からクラシックロック至上主義に陥っていた。70sブリティッシュハードとプログレ街道を突き進まんとしていた僕が、ページの片隅(決して大きなスペースを割かれてはいなかった)に載っていたこの作品に、なぜ目にとめたのか。今となっては分からない。単純に写真よりもイラスト・絵画的なジャケットが好きなだけっだったのかもしれない。スキンヘッド・アジア系・女性・普通のおっさん…奇怪なメンバー写真と並んで印刷されていた「ヒトデ星の女神」に、ロジャーディーンにおける紺碧な幻風景や、ジェネシスの寓話性に通ずるものを見ていたのだろう、多分。
 クロスビートを読んだ数日後、塾へ行く途中にCDショップへ寄って買った。生まれて初めて買った2枚組の量感に、死ぬほどウハウハしたのを覚えている。「そして終りのない悲しみ」という副題も思春期の少年には効果テキメンだった。「メランコリー」でなく、あえて「メロンコリー」としているのも捻くれていて良い。 
 封を切ってみると、ジャケットの世界観は歌詞のフォントやページ番号のデザイン、インナーに映るメンバーの衣装に至るまで徹底されており、明確なコンセプトをもって作りこまれているのが分かる。例えるなら子どもの頃に読んだ海外の絵本の中のよう。小人が靴を作ってます的な。白黒映画「月世界旅行」の月面の顔や、「不思議の国のアリス」におけるウサギの案内人。そんなファンシーな世界。それは同時に「この世」と断絶された場所でもある。迷い子は決して口には出さないが、もう元の世界に戻ることはできないことを薄っすら悟る、ソフトな恐怖。中世の絵画の怖さってそんな一面があるように思う。写実的であればあるほどリアルから遠のく感じ。人物画の表情にしても「あ、この人とは意思疎通できないな(笑)」みたいな諦めに近い感覚。でも絶望とかではない。どこか楽しんじゃっているところがある。
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  曲との関係についていえば、他の作品よりピアノやストリングスが多めなことぐらいで、歌詞も含め、この世界観が積極的に投影されているようには感じない。「From Dawn to Dusk」/「Twiilight to Starlight」と銘打ってあるものの、一聴して分かるような楽曲の住み分けもない。言われてみればDisc2がミドル~スローな曲多め?ぐらいで、基本的には2枚とも一貫してスマパン節。
 スマパンの特徴として、ギターとドラム轟音ゴリゴリなヘヴィロックチューンと、頽廃的美メロ曲の両立が挙げられるけれど、どちらかといえば後者の方がバンドの大きな魅力といえるんじゃないだろうか。ビリーのヘリウムボイスも相性抜群だ。この落差をもって両方とも楽しめるリスナーもいれば、「メロウな曲はいいけど、ラウドな曲はいまいちのれない…」みたいな人も一定数いると思う(僕もはじめはそうだった)。この二極化は、初期2枚にこそ顕著で、「メロンコリー」はその曲数の多さをもってして、ヘヴィなスマパンとメロウなスマパンの境界を曖昧にしていった最初の作品だとよべる。(それが1曲1曲の単位で現れ、昇華させたものが「Machina」というのが個人的見解。最高傑作は間違いなく「Machina」!そして「MachinaⅡ」!)
 かつてないセールスをあげた代償に、バンドは一時ジミーを失い、難産の果てに「Adore」をリリース。ジミー復帰後「Machina」を発表するも、ダーシーの脱退~解散という過程の中で、アルバムコンセプトはゴシックな要素を色濃くしていく。
 「Adore」なんかはジャケがアレだし、ドラムマシンを用いたモノトーンな曲調も相まって割と分かりやすいゴス化なわけだけど、「Machina」のアートワーク��当時のアー写なんか見てるとこれはこれで結構キテる(画像参照)。
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そういう意味で、「メロンコリー」はセールス的な成功も含め、バンドの最盛期を象徴するアルバムだ。他の作品にはない、「その時だけしか見ることを許されない世界」を漂っている。安っぽいかもしれないが、青春時代のきらめきと似ている。怖いものなど何もない絶頂の一歩先は、すでに転落が影を落としている。失敗や裏切りも知ったかぶりで語れてしまう無謀さ。そんな危うさがティーンエイジを眩しく引き立てる(大人はそれを知っている)ように、「メロンコリー」もまた、その後の暗転を知っている側から見れば、刹那的なきらめきを、おとぎの国の舞台のあちこちに散りばめている。
 「1979」を聴くと、きらめきは過去の遺産だってことがまざまざと見せつけられるみたいで、投げやりな気持ちになる。PVも最悪だ。
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 初めてスマパンを聴いたときよりは、「終りのない悲しみ」について分かるようになった気がする。復活してからのスマパンは、はっきりいってこの時期の足元の爪のカスぐらい。新譜のアナウンスを見るたび暗い気持ちになる。それでも我慢できなくなって聴いてしまうのは、どうしてだろう。
 おとぎの国に迷ったまま出てこれないでいるのは、ビリーじゃなくて僕の方かもしれない。
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herbiemikeadamski · 5 years ago
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(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 2月17日(月) #赤口(庚寅) 旧暦 1/24 月齢 23.2 年始から48日目にあたり、年末まであと317日(閏年では318日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に行き💪夜を感謝に眠ろう😪💤 睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 昨日、家族にコロナウィルスの事に付いて話す時に アポロウィルスとずっと云ってた様で話の終わりに 「それ!ちがうからコロナウィルスでしょ」って↴ . 云われてしまいました(^^;)(;'∀');アセアセ. あれ~そんな語句ってなかったかな?って ググッてみた↺そしたら、出て来ました✋ . 正確には「アポロ病」っと云い。 エンテロウィルス なるウィルスに感染する急性出血性結膜炎の俗称。 「アポロ11病」とも云う1969年から70年頃に . 流行ったそうです✋1969年の夏、アポロ11号が 月面着陸したころ、西アフリカのガーナで流行し始め 急速に世界各国へ広がった伝染病らしいです。 . 日本では1970年(昭和45)��後、集団発生した。 と記録がありますが、東京では無かったのか? 聞いた事ありませんでした😅💦 . にしてもコロナウィルスがどうなっていくのか本当に 心配ですよね。。。_| ̄|○...東京オリンピックが 大丈夫なのかですねぇ~✋ . 今日も気温が上がり季節外れの温かさとか🌸 8週目月曜日スタートですが私にはラストスパート金曜日 ぽい感じです😅💦ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! . 今日一日どなた様も💁‍♂お体ご自愛なさって❤️ お過ごし下さいませ🙋‍♂ ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #天使のささやきの日.  北海道幌加内町の「天使の囁きを聴く会」が1994(平成6)年に制定。天使の囁きとは、空気中の水蒸気が凍ってできるダイヤモンドダストのことです。  1978(昭和53)年、幌加内町母子里の北大演習林で氷点下41.2℃という最低気温が記録されました。  しかし、気象庁の公式記録の対象から外れていたため、1902(明治35)年1月25日に旭川市で記録された氷点下41.0℃が公式の日本最低気温となっています。  これをプラスイメージに変えようと、町内の若者グループが中心となり、この日ダイヤモンドダストの観察等厳冬の一夜を体験する「天使の囁きを聴く集い」を1987(昭和62)年から開催しています。 . #ツタンカーメン王墓発掘の日.  1925(大正14)年、ハワード・カーターが、エジプトの王家の谷でツタンカーメン王のミイラを発見しました。  純金製の棺桶とマスクなど3000点以上の品々が埋葬されていましたが、この発掘後、スポンサーをはじめ多数の関係者が次々に謎の死を遂げています。 . #ノアの洪水の日.  旧約聖書で「ノアの洪水」が起きたのがノアが600歳の時の第2の月の17日となっています。  40日間雨が降り続いてすべてが水没し、1年後の第2の月27日に地が乾きました。 . #千切り大根の日(#切り干し大根の日).  広島県福山市に総本部を置き、2011年に創立40周年を迎える乾燥野菜食品メーカーの「こだま食品株式会社」が制定。 . #雪の特異日.  東京で雪の降る確率が高い日。  1981~87年の7年間で70%の確率で雪が降っています。 . #電子書籍の日.  国内最大級の電子書籍蔵書数を誇り、さまざまな電子書籍事業を手掛けるトッパングループの株式会社BookLiveが制定。 . #中部国際空港開港記念日.  2005(平成17)年のこの日、愛知県常滑市��に中部国際空港(愛称 セントレア)が開港。 . #ガチャの日.  日本で初めてカプセル玩具の「#ガチャ」を導入した株式会社#ペニイが制定。 . #国産なす消費拡大の日(毎月17日).  冬春なす主産県協議会が制定。 . #いなりの日(毎月17日) .  長野県長野市に本社を置く株式会社みすずコーポレーションが制定。 . #減塩の日(毎月17日).  特定非営利活動法人 日本高血圧学会が制定。 . #えんぶり(青森県八戸市) - 2月20日  万年豊作を祈願する祭り。1979年に重要無形文化財の指定を受けた。  https://hachinohe-kanko.com/ . #コンボ独立記念日. 2008年のこの日、コソボがセルビアからの独立を一方的に宣言した。 . . ■今日のつぶやき■. #隣の花は赤い(#トナリノハナハアカイ) 【解説】 隣の家に咲いている花は、自分の家に咲いている花よりも赤く美しく見えることから。 他人のものは何でもよく見えて、うらやましく思うことのたとえ。 また、他人の持つ珍しいものをすぐに欲しがることのたとえ。 . . #1993年2月17日 #平埜生成 (#ひらのきなり) 【#東京都】 〔#俳優〕 . . (Nerima, Tokyo) https://www.instagram.com/p/B8pNxqcH2fEPV80WiS-TzmIpBDQjUyu5Wimkpg0/?igshid=1o20w44nnxqcu
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honyade · 5 years ago
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小松理虔トークライブ 「復興の今」 地に生きる、地を生かす月刊誌『地域人』(大正大学出版会)
【ジュンク堂 池袋本店】 東日本大震災から9年。 福島から発信をつづける小松理虔さんが「復興の今」を語ります。 小松さんは初の単著『新復興論』(ゲンロン叢書)で第18回大佛次郎論壇賞を受賞した気鋭のライターで、被災地福島で実践をつづける地域活動家です。 大正大学地域構想研究所編集「地域人」には53号「特集 地域と人を記録する」の巻頭インタビュー、54号の「特集 地域とエネルギー」と連続して登場していただきました。 小松さんとともに、「復興」にとって大切なことは何か?を考えてみませんか。
【講師紹介】 小松理虔(こまつ りけん) 1979年、福島県いわき市小名浜生まれ。 法政大学文学部卒業後、福島テレビ入社。 2007年、中国・上海で日本語教師を務めたのち、日本人向け情報誌を編集。 2009年帰郷。地元でサラリーマンをしながら地域活動を始める。 2015年以降フリーランスに。 2019年、『新復興論』で第18回大佛次郎論壇賞受賞。
★入場料はドリンク付きで1000円です。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いくださいませ。 ※事前のご予約が必要です。1階サービスコーナーもしくはお電話にてご予約承ります。 ※トークは特には整理券、ご予約のお控え等をお渡ししておりません。 ※ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願い致します。(電話:03-5956-6111)
■イベントに関するお問い合わせ、ご予約は下記へお願いいたします。 ジュンク堂書店池袋本店 TEL 03-5956-6111 東京都豊島区南池袋2-15-5
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thetaizuru · 5 years ago
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1969年10月5日 テレビアニメ『サザエさん』放送開始。
(1969年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4)
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 1969年7月20日、アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たした。  8月15日-17日、 米ニューヨーク州サリバン郡ベセルでウッドストックフェスティバルが開かれた。1960年代アメリカのカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。
 SF作品などを通して夢見ていたことが実現し、若者たちが共有した理想を高らかに歌い上げていた一方、8月9日、米ロサンゼルスで、狂信的カルト指導者チャールズ マンソンの信奉者3人組によって、女優シャロン テートが殺害された。
 第二次大戦終戦後、‘科学と民主主義’に夢と希望、理想を抱き、信じ、それは民主国家に限らず世界共通のはずだとも信じて、SFなどの作品や文化を通して楽しんでいた社会は、アポロ月面着陸とウッドストックのあった1969年に一つの到達点に至る。  しかし、ベトナム戦争は止められず、カルトは暴走、麻薬は蔓延。政治的敗北に打ち拉がれる。  何か大きな勘違いをしてたんじゃないかと困惑してたところに、「チャールズ・マンソンがビートルズのファンだった」という話と、その歪んだ愛が凶行にまで至ったということが追い打ちをかける。
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「ちょっとした愉快な解釈の違いは以前からあったけど、どれも無害で、くすっと笑えるものだった……でも、そういうささいな解釈のあと、とうとう最高に恐ろしい解釈が現れた。あの時点から全ておかしくなった。でも僕らのせいじゃない。僕らに何ができるって言うんだい?」
(殺人鬼チャールズ・マンソンの歪んだビートルズ愛「この音楽は無秩序な力を引き起こす」 ローリングストーン 2019/08/10 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31701/1/1/1)
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 日本では学生運動/大学紛争、新左翼運動が全国に波及、社会問題に発展していた。 1969年1月18日-19日 東大安田講堂攻防戦 10月21日 国際反戦デー闘争 11月16日-17日 佐藤首相訪米阻止闘争 11月17日 佐藤栄作首相訪米、11月21日 3年後の沖縄返還合意を取り付ける。
 1967年から続いた学生運動、新左翼運動の高揚に一つの終止符が打たれた。
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1970年3月31日 よど号ハイジャック事件
 犯人グループは出発時に「われわれは明日、羽田を発たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである」(原文そのまま) という声明文を残している。
(よど号ハイジャック事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%88%E3%81%A9%E5%8F%B7%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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1972年2月19日-28日 あさま山荘事件
 2月21日19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。 「私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 」
(あさま山荘事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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2つのニクソン・ショック: 1971年7月15日 第1次ニクソン・ショック; ニクソン訪中宣言、翌1972年2月 北京訪問 1971年8月15日 第2次ニクソン・ショック; ドル・ショック、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言、ブレトン・ウッズ体制の終結。
 1972年2月21日のニクソン大統領の中国訪問は、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換、冷���時代の転機となった。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。また、「ニクソンが中国に行く」という政治用語���生まれた。
(ニクソン・ショック https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF ニクソン大統領の中国訪問 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F)
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 当時を知る人たちからは怒られっかもな勝手な解釈で言うと、カウンターカルチャー/ヒッピーカルチャーはビートルズの活動にレペゼンされていて、ビートルズ活動停止-解散のあたりでほとんど終焉。
 1970年 ビートルズ解散 (1971年3月12日ビートルズの解散が法的に決定された)。 (ビートルズの解散問題 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%95%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C)
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 何か大きな勘違いをしてるんじゃないかと省みることも困難になっていた。  「総括」という言葉はこの時、怖いものになっていた。
 総括とは、本来は全体を取り纏める事であり、1960年〜1970年代の左翼政治運動家の間では、活動を振り返ることで反省・改善策を見出す思考法として好んで用いられていたものである。工業界でいうところのPDCAサイクルの「C (チェック、点検・評価)」に相当する。  日本の新左翼党派である連合赤軍において、「真に総括させるために殴る」ようになりエスカレート、29名のメンバー中12名のメンバーを死に至らしめる要因となった。(山岳ベース事件: 1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件)
(総括 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%8B%AC_(%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D) 山岳ベース事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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 PDCAサイクルとよく比較されるフレームワークにOODAループ(「観察 Observe」「仮説構築 Orient」「意思決定 Decide」「実行 Act」) がある。  PDCAサイクルは明確な工程がある場合の業務改善に最適なフレームワークであるのに対し、OODAループは意思決定をするためのフレームワークであり、不明確で常に変化していく状況の中で、現状にあるものから最善の判断を下し、即座に行動を起こすことを目的としている。
 OODAループを発明したジョン ボイド(アメリカ合衆国の戦闘機操縦士、航空戦術家、軍事著作家)は、朝鮮戦争終戦後、アメリカ空軍戦闘機兵器学校においてF-100の教官を務めた。学生機との模擬空戦において、「不利な位置から開始して、40秒以内に位置を逆転させる(後方の攻撃位置を占位する)」との賭けをたびたび行ない、6年間/3000時間におよぶ戦闘訓練で無敗を誇った。このことから、戦闘機教官としてのボイドには、「40秒ボイド」という渾名が進呈された。
(OODAループとは?PDCAサイクルとの違いと��体例 https://achievement-hrs.co.jp/ritori/?p=2213 ジョン・ボイド https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%89_(%E8%BB%8D%E4%BA%BA))
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 「解釈で言うと~」みたいな言葉は、事実誤認が見つかった時や、状況が変わったときの修正/変更が可能/必要なポイントに印をつけとくためだったはずが、自分の解釈/思想/気持ちが優先されることで、修正不可能になり暴走、思考サイクル/ループは崩壊する。
 1970年代、過激な政治志向が消えた後の「シラケ」の時代になる。  表現においては、敗北後のPTSD(シェル ショック)の心理療法としての「プライマルスクリーム」と「無知のヴェール」に覆われた状態(ジョン ロールズ『正義論』1971年刊)の時代、バカを装って叫ぶ「パンク」の時代へと移行する。
(『正義論』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E8%AB%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA))
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戦闘ストレス反応( combat stress reaction, CSR)とは一般に戦闘によってもたらされる心理的な反応をいう。戦争後遺症とも称される。
軍事心理学や軍事医学の研究では戦闘ストレス反応は戦闘を経験した兵士が陥るさまざまな反応を含む幅広い心理的障害(心身症)として定義されており、例えば研究者のノイは戦闘において兵士が被る非物質的な損害であると定義している。
第一次世界大戦において兵士の戦闘ストレス反応を研究した軍医は爆音を伴う塹壕に対する砲撃によってこのような障害が生じると考え、このような症状をシェル・ショック (shell shock)(日本語で砲弾ショック、戦場ショックとも) と呼んだ。しかし後に砲撃に関わらず長期間に渡る戦闘によっても反応が見られることから戦争神経症 (war neurosis) へと呼称は変化する。この兵士達の観察を基にして、ジークムント・フロイトは反復強迫的な外傷性悪夢について研究した。
第二次世界大戦にかけて呼称はさらに戦闘疲労 (combat fatigue) とも呼ばれ、戦闘の期間があまりに長期間にわたると���格や能力に関わらず全ての兵士がこのような反応を示すことが明らかにされた。
朝鮮戦争では従来のような戦闘ストレス反応による損耗は減少し、精神病的損害 (psychiatric casualities) という名称で戦闘ストレス反応に関連する症状を示す兵士が評価されるのが通例となった。しかし研究の焦点は戦闘行動によって示す古典的な戦闘ストレス反応から新しく後遺症に移ることになる。
1980年代にかけてベトナム戦争からのベトナム帰還兵が、社会復帰後に深刻な心理的障害を示すことがアメリカ精神医学会で研究されるようになり、これは心的外傷後ストレス障害 (post traumatic stress disorder, PTSD) と命名された。
(戦闘ストレス反応 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%97%98%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E5%8F%8D%E5%BF%9C)
ベトナム戦争: 1973年1月27日 パリ和平協定調印 1974年8月9日 ニクソン米大統領辞任 1975年4月30日 サイゴン陥落
(ベトナム戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89)
 ベトナム戦争の終戦を、1969年に一つの到達点に至り崩壊を始めたカウンターカルチャーの「終わり」と見立て(1979年の映画『地獄の黙示録』で流れるドアーズの「ジ・エンド」)、そこから明るい文化がはじまる(『スター・ウォーズ』(新たなる希望)1977年公開)。  一方で、それまでのSFの流れや、暗い1970年代のイメージを汲んで、‘終末後の世界’を描いたものが「サイバーパンク」になっていく。「ロボット/レプリカント(模造品、量産品)の異常変異と反抗」や、「対立する価値観の間での葛藤」または「心理サイクル崩壊後の暴走」などがサイバーパンク作品のモチーフやテーマとして使われていく。
 1985年 プラザ合意。日本はバブル景気へ。1980年代は結構明るい時代。
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ざっくり言うと: 1960年代; ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (素敵) 1970年代; ニクソンが中国に行く (ショック) 1980年代; 星の王子ニューヨークへ行く (超おもしろい)
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 「サイバーパンク」のビジュアルイメージを強烈に打ち出した『ブレードランナー』(リドリー スコット監督、1982年)と『AKIRA』(大友克洋監督、1988年)という二作品が描いた‘2019年’の50年前である1969年に、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。
 SF作品ではテーマの一つとして「社会(都市)の変化により人の心はどう変わるか」という都市論的考察も多く描かれた。
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 1964年10月10日から10月24日までの15日間、日本の東京で開かれたオリンピック競技大会(第18回オリンピック競技大会、1964東京五輪)は、開催期間には、10月14日のソ連のフルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(東京五輪には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。  東海道新幹線(開会式9日前の10月1日に開業)や首都高速道路などのインフラや、国立競技場、日本武道館などの競技施設が整備され建設需要が高まった。またオリンピックを��るためにテレビを買ったりと、日本の都市と生活の一つの転換点でもあった。
 1964東京五輪開催が決まった1959年(5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された)、その年度の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」というフレーズに、感覚が伴い始めたのが1964年の東京五輪が過ぎた後だった。  1959年度白書の言葉は「もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」という事実認識だった。
「1964年以降の高度成長期後半は(1973年のオイルショックまで成長は続いた)、お父さんはバーやキャバレーやダンスホールで騒がず、ケーキとプレゼントを買って、郊外の家に帰っていった。 高度成長期は、暴力的だった祭りが、すこし人がましくなっていく時代だった。元気ではあるが、少しは文化的に暮らそう、と考える余裕が出てきたのだ。戦後の混乱期は、ようやっと1964年を境にきれいにおさまっていったのだろう。」 (2017.11.16 1964・東京オリンピックは「���会の熱気」を持ち去った…!? https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53500?page=3)
(1964年東京オリンピック https://ja.wikipedia.org/wiki/1964%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF#%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E9%96%8B%E5%82%AC%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF オリンピック景気 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E6%99%AF%E6%B0%97 2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた日本経済の課題 https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2015/05/201502-03_69.pdf)
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 戦後が終わり、東京五輪が終わり、‘戦争を知らない子供たち’が若者になり(『戦争を知らない子供たち』作詞: 北山修、作曲: 杉田二郎。1970年発表)、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。1969年は、時代の転換点の一つだった。
 その1969年のさらに50年前、ヴェルサイユ条約が締結された1919年、なんかやばいことめっちゃ起きてた。
(cf. 1919年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1919%E5%B9%B4)
 「ファシズム」と「共産主義」、「革命」と「戦争」、「20世紀の様相をかたちづくってきたもの」、「科学」と「民主主義」。  それぞれの時代や場所、その時の感情や取り巻く環境、そして言語によって、それらの言葉は何を連想させ、何を変え、何に変えられてきたのだろう。
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 新しい知識体系を学ぶということは、「隠されたもの」を語源とする「オカルト(秘学、神秘、超自然的なもの)」に近い側面がある。
 英語の「アルジェブラ(代数学)」の語源となる著書や、名前が「アルゴリズム」の語源となったことで知られる、9世紀前半のイスラム科学の学者、天文学者、数学者であるアル=フワーリズミーは占星術師でもあった。  天文学と占星術が分離されるのは17世紀科学革命後であり、分離後も占星術は現代に至るまで引き継がれ、1960年代のカウンターカルチャーにも影響を与え、現在もサブカルチャーのひとつとして残っている。
 科学と、疑似科学あるいはカーゴカルトのようなものを峻別するには困難がつきまとい、たとえ疑似科学、オカルト的言説であっても社会的な需要に応えることで残り続ける。  形だけを真似ただけの、正直さに欠ける行為が、本質からの逸脱を招く。
 逸脱を招かないため、逸脱してしまった時に戻るため、困難に打ち勝つため、正直さを失わないために重要な心の領域を分析する心理学的手法も、占星術は導入している。  さまざまな手法の上に独自の解釈を組み込みドグマ化していくというのは、疑似科学やオカルト的言説に限らず、絶対的指導者不在の自ら進んで設立または参加した集団でも、どんなところでも起こりうる。  かつての自分自身の考えと、今また考える自由に、引き裂かれもする。
(フワーリズミー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%BC 西洋占星術 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93 カーゴ・カルト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88)
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 ユング心理学で「布置」と訳されるコンステレーションという言葉がある。(constellation「星座」の意。 そこから転じて“点と線で連なっているもの”を表す語としても用いられることがある。)
 個人の精神が困難な状態に直面したり、発達の過程において重要な局面に出逢ったとき、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくることを、布置(コンステラツィオーン、独語:Konstellation)という。
(分析心理学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)
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 一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、それらが一つのまとまりとして、全体としての意味を持ったものに見えてくることがある。あるいは、新しい言葉を手に入れたり、新しい体験をしたことで、認知のパターンが変わり、今までも見ていたはずなのに認識できていなかったものが見えてくることがある。  一方で、混沌を秩序づけ世界を理解可能なものにしたいという感情が、ランダムな物事の中に何らかのパターンを認識させてしまう。データの違いを無視して類似性を強調することにより、誤った結論を推測するという誤謬に陥る危うさがつきまとう。
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 振り返ると、転換点ばかり。
 僕たちは回転している。
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2019年12月 プレリュード
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kkv-main · 5 years ago
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MAGAZINE - 2019.10.30
それぞれの全感覚祭 Photo by Katsuhide Morimoto
今年の全感覚祭は様々なドラマを作ったと思います、そこで以下のライターのみなさまに協力いただいきそれぞれの全感覚祭を綴っていただきました。
ご協力いただいたのは以下の方々です、ありがとうございました。
石井恵梨子さん、大石始さん、渡辺裕也さん、田中亮太さん、金子厚武さん
まずはマヒトゥー・ザ・ピーポーのこの文章を読んでみてください。 http://s-scrap.com/3425
 前日はひたすら台風の動きを見守っていた。国民の代表者は顔を出すことも何かを語りかけることもなく、ただ「命を守る行動を」とNHKアナの連呼だけが続いた夜。なんとなく共同体に守られている、いざとなったら国が守ってくれる、そんな幻を信じられた時代はとうに消滅していることを思い知る。濁流が溢れ出す光景。無力すぎて泣きたくなる。誰もがこうやって見捨てられ、自己責任のシュプレヒコールの中、無力に死ぬだけなんだろうか。  
 理想よりも人命を優先して中止になった全感覚祭19 TOKYO。代わりに急遽決まった13日夜の渋谷サーキット「Human Rebellion」は、大袈裟ではなく、最後の希望のように感じられた。ボンヤリした何かに守られるんじゃない。自分から守りにいかなきゃいけない。本当に自由な音楽の鳴る場所を。  
 渋谷Duoに着いたのは10:30。まだ客足も少なくIDチェックもスムーズに終了。先にやっていたライヴが撤収したばかりで、まだ何も始まっていない時間帯だ。ぼんやりしていたら目の前に一台のバンが到着し、運転席からはノーベンバーズのマネージャーが。あれ石井さん何やってんの。いや暇だから搬入手伝いますよ。かくして即席スタッフとなる私。エントランスフリーの投げ銭制とは、こんなにも気持ちの滞りをなくすものなのか。演者/スタッフ/ゲスト/一般客という線引きがないから、本当に自分が大事にしたいもの、今やるべきことがスッと見えてくる。普段ライターとしてパスを受け取っている立場に、なぜか少しの羞恥を覚えた。そんなものじゃない、私が欲しいのは音楽だったと改めて気づかされる。そうなれば迷わず財布を開く。いや、先に開いているのは心なんだろう。全感か君もそれなりにかわいく見えてきた。  
 11時、クアトロ周辺はすでに長蛇の列だ。さながら渋谷に突然現れた巨大ヘビのように、それは秒単位で尻尾を伸ばし続けていた。ラグビー観戦後の酔っぱらいが次々と声をかけてくる。「これ、なんの列?」「今から何があるんですか?」。そんなに知られてないし言ってもわかんない、たぶんあなたたちは全然興味ない世界。だけどDIYで急遽行われることになった奇跡みたいなサーキットだよ。勢い込んでぶちまけたい気持ちをぐっと押さえ、一言「音楽イベントです」と答えておく。そうそうGEZANってバンドの、みたいな補足の声は上がらない。みんな素知らぬ顔のままだ。内緒にしときましょう、という暗号のようでもある。だってこれは彼らの声明をキャッチした人たちだけの祭でしょう? くつくつ笑い出したくなるような黙秘の快感を、渋谷の繁華街の真ん中で、私たちは確かに共有していたと思う。  
 11:25にクアトロ内へ。大量の客が相変わらず無言のまま5階フロアに吸い込まれていく。そして、突然に開花するみんなの笑顔。フロアでそれぞれがビールを飲み、知り合いを見つけてはしゃぎ、ゆらゆらと身体を揺らしている。なんだよ、みんな騒ぎたくて仕方なかったのか。ずっと我慢して黙秘を続けてたのか。台風直撃のニュースを知ってからほぼ一週間。ようやく全感覚祭が始まる。長かった。いよいよだ。無言のテレパシーみたいに飛び交う気持ちが膨らんでパンパンになった瞬間、爆音のSEとともにメンバーが登場した。そのときの歓声の凄まじさ、神懸ったような爆発力を、私は一生忘れないと思う。 
  「俺はメディアとかメジャーって枠に期待してないし、それよりは個人の力のほうを信じてる」。  
 かつてマヒトが語ってくれた言葉だ。狭いオルタナの世界で大きなうねりは生まれにくい。DIYはいいけれど、広めるという点ではどうなのか。そんな問いに対する彼の見解だった。正直、普段関わっている商業誌/音楽メディアを全否定された気分だったけれど、じゃあ自分はGEZANと別の世界で生きていくのかと自問するきっかけにもなった。答えはNOだ。属性は何でもよくて、私は今日、ただの個人としてここに来た(この文章を書くことも当初はまったく予定��なかった)。みんなそうだろう。自分の意思で渋谷に集まり、それぞれの判断でカネを払い、それぞれのハコに散らばっている。問われているのは「どこに属すか」ではなく、「その選択をした自分を誇れるかどうか」だ。チケット代という設定すら取り払うことで見えてくるもの。選択することで顕になってくる己の輪郭や思想。湧き上がってくるエネルギーの清々しさに自分でも驚く。やっとわかった。これが彼の信じてきたものだったのか。  
 ライブの詳細やMC内容を逐一書くつもりはない。ただ、GEZAN一発目の始まりが「DNA」だったことは、この全感覚祭「Human Rebellion」の空気を完璧なまでに象徴していた。そのことだけを記しておこう。クソな真実をかき消すファズの眩しさ。マヒトは人差し指で遠くを指すような仕草を何度も繰り返してみせる。もっと遠くへ、誰より高く、イメージひとつで飛んでいこうと誘うように。それは理想論者の夢ではない、リアルな実感を伴う光景だった。どん詰まりの資本主義の裏側、機能不全な民主主義の果て、革命ごっこも終わったロックシーンの極北で、もう、新しい価値観は動き出している。 石井恵梨子
 渋谷の路上に群衆が溢れかえる光景を見て、僕は日本各地で目の当たりにしてきた祭りのそれを連想した。祭りとは五穀豊穣の祈願などさまざまな目的を持つが、担い手の魂を活性化し、生命力をチャージするためのものという一面も持つ。その意味では、全感覚祭とは祭りそのものでもあった。入場料は投げ銭、しかもフリーフード。音楽イヴェントとしては前代未聞だろうが、祭りや神事と考えれば決して珍しいことではない。投げ銭とは祭りにおける花代であって、投げ銭ボックスにガンガン札を入れていた彼や彼女は、イヴェントの観覧者という立場を超えて祭りの担い手だったともいえる。
 僕が運良く観ることができたのは、切腹ピストルズ、Tohji、KID FRESINO、BLACKSMOKERS、やっほー、折坂悠太、そしてGEZANの2ステージ(林以樂はタッチの差で見逃した)。ただし、どのステージで何を観たかということは大きな問題ではないだろう。あの夜の渋谷にいたこと、あるいはGEZANとその仲間たちが発信し続けたメッセージを受信したこと。それこそが重要だったはずだ。会場に入ることができなかった方々も、全感覚祭という極めて特殊な「祭り」を体験した当事者である。
  ひとつのコミュニティーやネットワークが何かに飲み込まれることなく、独立してそこに存在し、なおかつその存在を主張すること――それは社会に対する異議申し立てにもなりうる。そのことをいささか混乱したかたちで証明したのがこの日の全感覚祭だったはずだ。あの夜を体験してしまったからには、もはや傍観者ではいられない。この時代を生き抜くため、僕らは何をしていけばいいのだろう?  大石始
 下水から追われたネズミがセンター街を元気に駆け回っている様子をツイッターで確認し、戦々恐々としながら夜の渋谷に着くと、そこに溢れかえっていたのは、とにかく人、人、人。台風の襲来によって室内待機や避難を余儀なくされ、誰もが不安に苛まれた1日を経て、人々はその鬱憤を晴らすように外へ飛び出してきた。そんないつも以上に騒がしい渋谷で、全感覚祭は開催された。   開催中止から、まさかの緊急開催へ。キッズの落胆は一気に歓喜へと変わり、その興奮は渋谷全感覚祭というイベントに、尋常ではない熱気とカオスを生み出していく。そしてこの状況に触発されたのが、他ならぬ演者たちだった。もしかすると、出演した全バンド/アーティストが過去最高のライヴをこの1日で更新してしまったんじゃないか。それくらいにどの演者も凄まじかった。いま自分はとんでもない瞬間に立ち会っているーーそう思えるようなライヴしかなかった。大げさに聞こえるかもしれないが、本当にそうだったのだ。イベントに対するオーディエンスの期待値の高さと、そこから放たれる熱気によって、アーティストのパフォーマンスはこんなにも変わるのだ。  フード・フリーの会場には行けなかったものの、ラママでカレーをいただくことができたのだが、あれもまた貴重な体験だった。店員さんはこちらにカレーを差し出してくるだけで、投げ銭すら求めてこないのだが、こうした催しで食事をタダで提供されたときの背徳感は想像以上に大きかった(ので支払った)。それにしても、カレー、めちゃくちゃ美味かったです。
 最後は絶対に3度目のGEZANで締め括りたかったが、WWW Xはすでに入場規制。あえなくここで俺の全感覚祭は終了…かと思いきや、おなじく入場しそびれた友人数名とたまたま遭遇。まだ遊び足らないよねってことで、そのままコンビニ前で酒盛りがスタート。「今日のミツメ、ちょっと凄くなかった?! XTCみたいだったよね!」「入場規制で結局GEZANいっかいも観れなかったわ…」「あいつ、渋谷に来たけど入れなかったらしいよ。まだそのへんで飲んでるって」「てか、台風ハンパなかったよね」「このまま『ジョーカー』観に行こうかな~」。そんな感じで宴は朝までグダグダとつづき、いよいよ雨が降り出したところでお開き。間違いなく、全感覚祭は渋谷の街すべてを飲み込んでいた。
渡辺裕也
 2019年の〈全感覚祭・東京編〉で、僕がもっとも観なければいけないと思っていたのは、THE GUAYSだった。はじめに言っておくと、僕は彼らと特に親しいわけではない(キャプテン以外からは認知もされていないはずだ)。ライヴを観た回数も片手で数えられるくらいだし、バンドについてはファンとさえ言えない程度の知識しか持っていない。
 そんな僕が、なぜ今回THE GUAYSだけは観ておくべきだと考えたかというと、どのバンドよりも彼らこそがこの〈全感覚祭〉という大きな渦の中心で、その混沌としたエネルギーと対峙している存在だと���ったからだ。もちろん、看板を掲げているのはマヒトやGEZANだろう。だが、十三月のSNSに投稿された準備風景や、THE GUAYS自身の動きを目にするかぎり、彼らがこの祭りにおいて、紛れもなく中枢でもあり、最大の貢献者であることもひとつ事実なのだと思えた。
  にも関わらず、メンバーのヒロシの健康上の理由により、大阪開催の〈全感覚祭〉でTHE GUAYSが出演できなかったことはショックだった。いるべきときにいるべき人がいない。そうした役回りをこのバンドが背負うことに、ヒロイズムを投影することは許されなかった。
  頑なに悲劇の主人公たることを拒絶する態度は、〈全感覚祭〉も同様だった。台風による中止の決定からありえないスピードでの、渋谷での深夜開催。大阪での出演キャンセルを経て、ようやく復活をはたす今回のTHE GUAYSもまた、十三月チームの〈決して倒されない〉という姿勢の、小さな象徴でもあるように思えた。
  THE GUAYS前に出演していたのはLEARNERS。予想通りLa.mamaのキャパでは収まりきらず、会場には入場制限がかかっていた。入場待ちに並ぶと、入り口を挟んだ向かい側には、マークシティのあたりまで、参加受付(=IDチェック)を待つ長い列ができている。24時半頃だっただろうか、新規の受付が終了したことがアナウンスされた。〈え〜!〉と悲鳴があがるなか、パラパラと人が散っていく。そのなかに近付いてくる人がいると思ったら、ライターの金子厚武だった。彼は残念そうな顔をして渋谷の街に消えていった。
  さて、LEARNERSが終わると、ぞろぞろと人が退場し、無事にLa.mamaに入ることができた。他会場ではすでになくなっていた、赤色の〈全感覚祭〉ソックスの在庫があったので嬉しい。家族からゲットしてこいと頼まれていたのだった。
  小さなライヴハウスのなかには、ほかの小さなライヴハウスでよく見かける顔がやけに多い。〈全感覚祭〉という常軌を逸したとさえ言えそうなハレの場で、わざわざいつもと同じよう場所で、いつもの面々で、いつも観ているバンドを観なくても……とも思ったが、自分と同様に、みんなも、の日のTHE GUAYSを目撃しておきかったのだろう。
  そうした、いわばホーム的な空間で、THE GUAYSはほぼ定刻通りに演奏をスタートした。そのライヴは……思っていたよりも普通だった。だけど、それがとても良かった。4人のパンクスがステージに立ち、懸命に楽器を鳴らし、歌を叫ぶ。そして、オーディエンスは手を振り上げたり、笑ったりする。いつものライヴハウスの風景だ。もちろんヒロシやキャプテンのMCは感動的だったが、なんのへんてつもないTHE GUAYSのライヴだったことが、なにより素晴らしかった。カリスマでもない天才でもない僕たちと、いつもの場所。エクストリームさが取り沙汰されることの多い〈全感覚祭〉において、その中心にTHE GUAYSがいることは、すごく重要なことなのかもしれない。そこは、帰れる場所でもあり、何かをはじめる場所でもあるのだ。
田中亮太
 〈RAWLIFE〉にしろ〈東京BOREDOM〉にしろ、〈未整理なオルタナティヴが一番面白い〉と思う自分にとって、今年の〈全感覚祭〉は非常に魅力的なラインナップでした。会場と日時が急きょ変更となり、OKAMOTO’SやPeople In The Boxをはじめとした一部のアーティストが出演できなくなったことは残念でしたが、それでも千葉会場の中止決定から迅速にこの日の開催に向けて動いたアーティスト、ライブハウス、スタッフへのリスペクトもあって、〈見たい〉というより〈体感したい〉という想いは余計強まっていました。
 ただ一つ問題があって、僕はこの日自分のバンドのライブがあり、IDチェック・入場受付がスタートする22:00はもちろん、トップバッターを飾る23:30のGEZANにも間に合わないであろうことが確実だったのです。ただ、GEZANはこの日複数回出演するから、どれかを見れればよいかと思い、まずは自分も〈全感覚祭〉の出演者の一人であるかのような気分でライブをし、軽く打ち上げをして、一旦家に帰って楽器を置き、〈0:00からのカネコアヤノには間に合うかも?〉くらいの感じで、まずはメイン会場のO-EAST/DUOへと向かったのでした。  渋谷に到着し、そこで待っていた現実はみなさんご存知の通り、O-EAST/DUOの周りをグルッと取り巻く長蛇の列。渋谷に向かう電車の中で、〈ノベンバと原田郁子さん、折坂くんと踊ってばかりの国のどっち見るかで悩む〉なんて呑気をツイートをしてたのですが、他の人のツイートはあんまり見てなかったので、状況が全然把握できてなかったのです。それもあって、この時点ではまだ〈マズイ!〉とも思わずに、むしろ〈すごいことになってる!興奮してきたな〉というサンドウィッチマンのような気持ちになり、〈みんな音楽好きじゃーん!〉という嬉しい気持ちの方が勝っていました。
 で、今にして思えば、ここでもうちょっと焦って、〈受付会場の中で一番規模の小さいラママなら、スムーズに受付できるかも〉と機転が利けばよかったのですが、自分のライブの打ち上げですでに軽く酔っ払い、浮かれていた自分がそんな判断をできるわけもなく、なんとなく〈とりあえずクアトロ行ってみるか〉と思うも、やっぱり待っていたのは長蛇の列。〈WWWX行ってみるか〉と思うも、もちろん長蛇の列。ここで初めて〈あ、これやばいんじゃね?〉と思い、やっと〈ラママが一番列短いんじゃね?〉と気づいたのですが、それでもまだまだ鈍感力を発揮し、〈これもう2:20からのDischarming Manが見れればそれでいい!〉とか思いながらラママに向かった自分は幸せなやつでした。
 案の定、ラママも受付待ちの人が並んでいましたが、他の3会場に比べれば中蛇の列くらいで、〈よし、ここに並べばとりあえず受付はできそう〉と思ったものの、少し並んでいると周りから、〈他の会場は受付自体終了したっぽい〉との声が。ようやく事の重大さに気づき、〈えー!〉と思ったのですが、冷静に考えれば、キャパが無限なわけあるまいし、受付の時点で入場規制がかかっちゃうことも十分あり得たわけで。〈ガーン〉と思いながらも、ラママの受付枠が残っていることに一縷の望みを託し、さらに待つこと5~10分……結局願いは叶うことなく、〈受付終了です〉との声が聞こえ、ここで僕の〈全感覚祭〉は事実上の終了となりました。
  印象的だったのは、〈何だよそれ!もっと早く言えよ!〉みたいなブーイングがほぼなくて、〈だよねー〉みたいな感じだったり、〈もう終電ないからオール確定じゃん!〉と笑いながら話しているような人が多かったこと。もちろん、中にはライブが見れなくてめちゃくちゃ悔しかった人もいたと思うけど、みんな〈全感覚祭〉の心意気に共鳴して、ライブハウスに入り切れないくらい多くの人が集まったことに、むしろパワーをもらってるように感じられたし、もともとそういうパワーを持ってる人たちが引き寄せ合って、この場に集まったってことかもなと思ったりもしました。というわけで、ライブはひとつも見れなかったけど、〈見たい〉というより〈体感したい〉という当初の目標はバッチリ果たしたので、ラーメンを全感覚で味わって帰宅。次はちゃんとライブ見たいけど! 金子厚武
 数年に一度、音楽シーンがあるひとつのイベントをきっかけに大きく動くことがある。シーンが動くというよりも新しい流れが認識されるといった方がいいだろうか。その日をきっかけにあるサウンドやシーンが閾値とでもいうべきものを超え、そのジャンルやシーンが広く知られる分岐点、その日を境に一気に広がり始め明確にシーンが浸透していくようなイベントである。1979年の新宿ロフトの東京ロッカーズ、1996年のRAIBOW 2000、1998年のAIR JAM、2004年もしくは2005年のRAWLIFEなどなど、ある程度の年齢の音楽ファンであれば心当たりがあるのではないだろうか?
  2019年の全感覚祭は4月の開催決定の報とともに、フードフリーのステイトメントがでた瞬間から特別なものになる予感が漂っていた。去年大阪堺にて2日間開催された全感覚祭2018の異様な熱気や、この企画の中心にいるGEZANのアルバムのリリースからドキュメンタリー映画の公開、Fuji Rock 2019のホワイト・ステージのライブの流れはすべて全感覚祭に向けて進んでいるように思えていたからだ。9月に堺で開催された全感覚祭は本当にいい雰囲気だった。このイベントはもちろん音楽が中心にあるのだけど、今年のフードフリーの効果は絶大だったと思う。ラインナップを見てもらえばわかると思うが、かなりエッジのたったアクトが一日中演奏している。去年もこのイベント独特のラインナップで時折フロアのテンションが上がり、全体にちょっとした緊張感が広がる瞬間があった。しかし今年はあちこちで振舞われる食べ物の掛け声が転換中に響き、みんなが食べ物を手にとって食べ始めると不思議に和んだ空気が流れていて、これまでに感じたことのないやわらかな雰囲気だった。
 今年の全感覚祭はひとつの分岐点だったと思う。しかしそれは冒頭に挙げたような音楽的な新しさを打ち出すという意味ではなく、今の時代に対して力強くプロテストの声をあげるのとも違い、自分たちのアイデアに素直に従った結果だったと思う。いまの政治に対して意見を言うことではなく、見に来てくれた人たちに食事を振る舞うことが、なによりも参加した人たちに現実を考えさせたのではないだろうか。フードフリーに協力してくれる生産者や調理してくれる人たちとのやりとりを細かくSNSにアップすることで、これまでアクセスすることのなかった音楽と農業がリアルに近づいて、それぞれの存在をお互いが知ってゆく。その流れを見て、現場で食事をした音楽ファンはどんなアジテーションよりも何かを考えはじめたと思う。
  そしていよいよ東京!と、僕らキリキリヴィラ・チームも芋煮のための準備をしていたところ、10月12日の東京は台風の直撃で中止となってしまった。それでもただでは転ばないのが十三月のチーム。13日の深夜、渋谷のライブ会場を複数押さえオールナイトで全感覚祭『Human Rebelion』としての開催となった。どの会場も入場規制ということもあり僕自身も4つのライブしか見れず多くは語れないのだが、これまで一緒に全感覚祭を支えてきたHave a Nice Day!や踊ってばかりの国の出演は全感覚祭のストーリーとして最高だった。なによりも、この夜の渋谷が十三月の夏の風物詩『セミファイナル・ジャンキー』の拡大版だったのはさすがと言うほかない。
与田太郎
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[ exhibition ] 9月6日(金)〜9月7日(土)の2日間、(PLACE) by method にて、第6回を迎える「スイスカルチャートーク VOL.6」及び、ポップアップ写真展を開催いたします。
ECALの略称で知られるスイスのローザンヌ美術大学(University of Art and Design Lausanne)は、研究・創造の優れたプラットフォームとして、世界で大きな注目を集める美術大学の一つです。その学部と修士課程からなる写真学科は、デジタルやウェブ、ネットワークの操作、書籍の新たな形態、多種多様なメディアでのイメージ作りなど、インタラクティブな展示デザインから動画まで、現代写真の応用研究の境界を継続的に押し広げています。 この夏、ECAL写真学科修士課程の13名の学生が、約10日間の東京での滞在期間中にそれぞれのテーマ(プライバシー、食べ物、ロボット、建築、孤独、オタク文化、東京2020など)のもと、リサーチ・制作を行ったプロジェクト「ECAL × Tokyo Photographic Research」。 本プロジェクトは、写真家 小山泰介と、キュレーター 山峰潤也を発起人として、アーティスト、キュレーター、デザイナー、研究者らの水平的かつ有機的な協働によって企画・運営・実行されるプロジェクト「TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH」との協働により実現されます。 今回のポップアップ写真展は、「ECAL × Tokyo Photographic Research」の成果及び、TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCHを紹介する内容となっております。 また、9月6日(金)19:00より、「スイスカルチャートーク VOL.6」では、ECALの写真学科を率いるミロ・ケレールと、TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH代表・写真家の小山泰介を登壇者に招き、本プロジェクトの概要や彼らの活動、さらに視覚と美術そして都市との入り組んだ関係性を探ります。 また、スイスカルチャートーク終了後には、レセプションパーティーを行います。ぜひ、ご参加下さい。 皆さまのお越しをお待ちしております。 ECAL × Tokyo Photographic Research ポップアップ写真展 会期:2019年9月6日(金)〜9月7日(土) 時間:9月6日(金)16:00〜21:00    9月7日(土)10:00〜17:00 会場:(PLACE) by method 住所:150-0011 東京都渋谷区東1-3-1 カミニート#14 地図:http://goo.gl/maps/nzyvr 電話番号:03-6427-9296 スイスカルチャートーク VOL.6 日程:2019年9月6日(金) 時間:18:30開場、19:00スタート(21:00終了) ※トーク終了後、レセプションパーティーが開催されます。 参加費:無料  申し込み:お名前・電話番号を明記の上、スイス大使館 文化・広報部へメールにてご連絡下さい。 メールアドレス:[email protected]  登壇者: ミロ・ケレール(Milo Keller)/ 写真家・ECAL 写真学科長。 1979年生まれのスイスの写真家。建築とデザイン分野の作品で特に知られる。2007年よりECALで教鞭を取り、2012年にはその写真学科長(学士過程)に就任、さらに2016年には写真学科修士課程をECALに設立。Wallpaperや ヴォーグ パリ、イヴ・サンローラン、ヴィトラなどの企業・雑誌の仕事では、アート・ディレクターのJulien Gallico と多くタッグを組む。これまでに彼の写真作品は、ローザンヌのエリゼ写真美術館やニューヨークのアパチュア・ギ ャラリー、そしてチューリヒのデザイン美術館などで展示されている。 小山泰介 / 写真家 1978年生まれ。東京在住。文化庁新進芸術家海外研修制度によって2014年から2年間ロンドンで活動し、その後アムステルダムを経て、2017年末に帰国。生物学や自然環境について学んだ経験を背景に、実験的なアプローチによって現代の写真表現を探究している。主な個展に『WAVES AND PARTICLES』(Metronom / モデナ 2019)、『 SENSOR_CODE』(Seen Fifteen / ロンドン 2018)、『PHASE TRANS』(G/P gallery / 東京 2018)、主なグループ展に、『ソウル・フォト・フェスティバル〈BRAVE NEW WORLD〉』(ソウル市立北ソウル美術館 / ソウル 2018)、『AIMIA | AGO PHOTOGRAPHY PRIZE 2017』(オンタリオ美術館 / トロント 2017)、『あいちトリエンナーレ 2016 トランスディメンション − イメージの未来形』(岡崎シビコ / 岡崎 2016)ほか多数。 www.tiskkym.com/
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corner1-22 · 3 years ago
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_ ⁡ 『小さな音楽会』はいよいよ来週です。 ⁡ お席のご用意はまだございます。 何も通さないそのままの音色を、ぜひ。 ⁡ ⁡ ⁡ ・29日(金) 10時 ~ 1名様       13時 ~ 3名様 ⁡ ・30日(土) 10時 ~ 満席       13時 ~ 3名様 ⁡ となっております。 ⁡ ⁡ ⁡ ▪️小さな音楽会 vol.3 ▪️   『 Air 』  10.29 fri - 10.30 sat ⁡ ⁡ 1人の演奏家と4人のお客さま。 目の前で奏でられるバロックヴァイオリンのガット弦の響き。 ごく少人数のための、贅沢な空間。 2日間、2部制。 ⁡ 好評だった小さな音楽会。 3回目となる今回、バロックヴァイオリン奏者の大内山薫 @ikaoruka さんが CORNERのためにプログラムしてくれたのは. ‘ Air ’。 ⁡ ⁡ 1670年代にナポリからイギリスに渡り活躍した作曲家・ヴァイオリニスト、マッティス。 マッティスの『ヴァイオリンのためのエア集』より 不思議な魅力、自由な旋律の曲をCORNERでの演奏のために選んでくれました。 ⁡ ⁡ 日々の暮らしの合間���、 しばしの非日常の楽しみを。 ほっと一息、テイクアウト形式で エスキーナさん @esquinaojisan の 珈琲と小さな焼き菓子をご用意して お待ちしています。 ⁡ ・ ⁡ ●午前の部 : 10:00 〜 ⁡ ●午後の部 : 13:00 〜 ⁡ ●大内山薫による、バロックヴァイオリンの演奏 ⁡ N.マッティス(1650?-1713?) ・壊れたパッサッジョを ・幻想曲 ⁡ G.P.テレマン(1681-1767) ・ファンタジア 10番 ⁡ 武満徹(1930-1996) ・めぐり逢い ⁡ ⁡ ●料金 : ¥2,000 (珈琲と小さな焼き菓子付) ⁡ ⁡ ・ ⁡ バロックヴァイオリン... その名の通り、バロック時代に生まれた ヴァイオリンで現代のヴァイオリンと 少し様子が違うのです。 また、ヴァイオリンの弓の形状や 羊の腸からできた「ガット弦」から うまれる音色は柔らかく、豊かな音が 特徴的なのだそう。 ⁡ ・ ⁡ [ profile ] ⁡ 大内山 薫 1979年西宮市生まれ。 自身のために制作されたバロックヴァイオリンと バロック弓と共に時空を越えた演奏を行う。 京都市立芸術大学及び大学院を首席修了後、古楽の研鑽を深めるために渡欧。 オランダ、デン・ハーグ王立音楽院古楽科卒業。 帰国後は地元西宮を拠点に、全国各地にて演奏活動をつづける。 ⁡ ⁡ ・ ⁡ お申込みはメッセージまたはメールよりお伺い致します。 (問い合わせ欄よりお願い致します。) ⁡ ・お名前 ・お電話番号 ・お申込み人数 ・ご希望日時 ⁡ をお知らせ下さい。 返信を持って受付完了と致します。 ⁡ ・ ⁡ ○マスク着用にご協力ください。 ⁡ ○座席の距離を取り、ドアや窓を少し開けて換気よく行います。 ⁡ ・ ⁡ ▶︎10/29(金)-30(土) 小さな音楽会 ⁡ ▶︎10月のお休み 日曜日と25(月) ⁡ ・ ⁡ #バロックヴァイオリン #小さな音楽会 #大内山薫 #古楽 #earlymusic #バロック音楽 #corner122 #CORNER #苦楽園 #西宮 (Corner) https://www.instagram.com/p/CVRx5Rcl-u6/?utm_medium=tumblr
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s-shenzhen · 8 years ago
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2017年4月 ニコ技深圳観察会
深圳は、香港の隣に位置する中国南方の熱くて面白い都市だ。チームラボの@tks(高須 正和)さんが、ボランティアでこの街を紹介するツアーをご企画下さっていて、今回は4月4日から6日までの3日間の日程だった。 前半2日間は、組込エンジニアの@sunasajiも参加して、深圳の熱さを見ることができた。そこで印象に残ったポイントを、5個のキーワードでまとめてみる。華強北電気街、モバイルペイメント、シェアリングサービス、深圳速度、エコシステム、だ。ちなみに今回の他の参加者のブログは、こちらからリンクが張られる予定となっている。→第7回ニコ技深圳観察会(2017年04月) 感想まとめ:tks(高須 正和)のブロマガ - ブロマガ
■1. 華強北電気街が熱い
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深圳の華強北には、秋葉原の20倍とも30倍とも言われる広大な電気街が広がっている。秋葉原のラジオセンターのような小規模店舗が、1フロアに200店舗といった単位でつまっており、1つのビルに複数のフロアがある。こういったビルが、街の中に10棟以上あると言えば規模感が想像できるだろうか。ビルごとに商品の傾向も違い、タブレットばかり売っているビルや、スマホケースなどのオプションパーツを大量に売っているビルや、バッテリや���晶や基板等のパーツばかり売っているビルもある。 日本の量販店と違うのは、同業の店舗が同じ場所に集積していることで、たとえばLEDフロアには似たようなLEDを扱う夥しい数の店舗が軒を連ねている。何かを買おうとすると何個欲しいか聞かれ、多数注文すれば安くなる。小売店というより、卸売市場のイメージが近いかもしれない。また、バラ詰めされたパーツを店頭でパッケージングしていたり、スマートフォンを分解したり部品を磨いたりしている店舗もある。異なる企業の、箱詰め工程や、営業所や、修理センターや、ショーウィンドーが、同じフロアに詰まっているカオスな街が、華強北なのだ。フロアに並ぶ小さな店舗は、深圳地域に広がる幾多の工場と繋がっている。 また、街の移り変わりの速さも、華強北の面白い所だ。半年前に見た店舗が別の店になっていたり、ヘルスケアやスマート家電のエリアが拡大していたり、教育用ロボットの展示品が増えていたりする。新しいものの発見や流行の観測には向いた街だと思う。 ただし、ここで売られているものの品質は、ピンキリらしい。中国では不良品を後から返品しようとしても渋られる。このため現地の友人は、電気製品を買う前に通電してみたり、キーボードを買う前に全部のキーの動作確認をしたりしていた。ここで確実な買い物をしたければ、買い方や信頼できる店を知っている人と行くのが良いと思う。
■2. モバイルペイメントの普及が熱い 深圳では、QRコードベースのモバイルペイメントが普及している。チャットアプリ「微信」で使える「微信支付(WeChat Payment)」と、専用アプリの「支付宝(Alipay)」だ。街中の至る所に、これらで使えるQRコードがあふれており、スマホケースの購入から大衆食堂の支払いまで、スマートフォンだけで済ませることができる。日本ではSuica等のICカードベースの電子決済が普及しているけれど、お金の受け取りには専用の読み取り機が必要だ。QRコードなら、お店もコードを紙に印刷して張り出すだけで済むし、支払いも受け取りもスマートフォンで完結する。レジの代わりに、二次元コードと電卓がカウンターの主役だ。
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個人間送金も、連絡先交換のノリでその場で画面にQRコードを見せれば、好きな金額をスマートフォンからスマートフォンに送ることができる。さらにアプリのアカウントは銀行口座の残高と結びつけることができ、面倒なチャージの心配も無い。決済の詳細な履歴はアプリ内で確認できて便利である。深圳では、最先端のフィンテックが日常となり、現金が過去の遺物になろうとしている。
■3. シェアリングサービスが熱い 深圳の街中では、長い距離を歩く必要がない。乗り捨て自由の安価なレンタル自転車が至るところに転がっているからだ。車体にはQRコードか車体番号が書かれたナンバープレートが付いており、スマートフォンを使って鍵を開錠すればいつでも借りられる。返す時も鍵を掛けてアプリで返却ボタンを押すだけ。中には壊れた車体や個人が勝手に鍵を掛けている車体もあるが、使える自転車も多数置かれているので全体としては問題にならない。人の多さや渋滞といった中国の社会課題が、ハードウェアと、使いやすいアプリと、まとまった資本投入で実験的に解決されている様子を、目の当たりにできる。
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また、ここでは携帯の電池切れが死活問題になるので、モバイルバッテリーをレンタルする自販機が設置されている。1時間は無料で、その後はレンタル代が掛かる仕組みになっている。自分で充電しなくても使いたいときに充電済のパックを借りられる、便利な仕組みである。
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■4. 深圳速度が熱い 1979年に時の指導者の鄧小平により経済特区に指定されて以来、成長の一途を辿る深圳は、深圳速度といわれる猛烈な発展スピードで知られる。毎年のように路線が増える地下鉄の路線図や、40年で林立した高層ビルの群れを見るとその規模がわかる。深圳の街を見下ろす蓮花山公園からは、整然と並ぶビルを観ることができ、国策と資本投下を得た計画都市の成長に思いを馳せることができる。
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深圳の市民中心駅近くの深圳博物館では、市の歴史を振り返る資料が多く展示されている。その中に、1979年から右肩上がりに伸び続ける一人あたりGDPと可処分所得のグラフがある。共産圏にありながら、経済発展を牽引し豊かになり続けている驚異の地なのである。
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深圳速度の秘密の一端は、都市としては長い歴史を持たないが故の、柔軟性の高さにあると思う。深圳には中国各地から若者が集まっており、平均年齢は約30歳だという。当然誰でもスマートフォンを持っているし、ITや新技術への適応力も高い。ある見学先では、ご講演下さった方と名刺交換しようとしたところ、「名刺とかメールは時代遅れだよね、今時はチャットで会話すれば話は済むから」と言われ、実際にチャットのやりとりがその場で始まって、速度の意味を思い知ることになった。 深圳では、Tencent や Huawei や ZTE 等のIT系の巨大企業も育っており、世界の工場から、ITの先進都市へと発展を遂げている。Tencentに至ってはこの春に株式時価総額世界ランキング10位にランクインし、アプリ売上では世界一になっている。なお今回の観察会では、3日目に Tencent も訪問しているけれど、私は残念ながら参加しなかったので、その様子については他の参加者のブログを参照されたい。
■5. ハードウェアを生み出すエコシステムが熱い
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観察会では、ハードウェアベンチャーへの投資企業であるHAXや、深圳のメイカースペースの先駆けの柴火創客空間や、グローバルなメイカーたちが集まる華強北国際創客中心や、現地で主に日本向けの電子生産を担うジェネシス社等、たいへん刺激的な現場をいくつも見せて貰うことができた。見てきた熱量を全て伝えるには私の筆力が足りないけれど、特に印象に残ったエコシステムの話を列挙しておく。これらに関心があれば、観察会主催者の@tks(高須 正和) さんや寄稿者の皆さんが書かれた、「メイカーズのエコシステム」という本が参考になる。深圳に関心を持った人は、ぜひ手に取ってみてほしい。→書籍:メイカーズのエコシステム ~新しいモノづくりがとまらない~(ニコ技深圳観察会):tks(高須 正和)のブロマガ - ブロマガ
・深圳には、メイカーが集まる場所と、機材と、人脈と、工場と、投資家が集まっている。それらが車で例えば1時間でアクセスできる圏内にあって、相互に素早く助け合える仕組みが出来上がっており、ハードウェアのシリコンバレーとなっている。ただしソフト技術には未熟な面もある。 ・海賊版の携帯(山塞、シャンザイ)のゲリラ的な製造で培われた生産技術が、近年の先進的なハードウェアスタートアップが生まれる土壌となった。 ・共通化された電子製品の基板(公板、ゴンバン)とプラスチック成形用の金型(公模、ゴンモ)が流通しており、共通部分がモジュール化されている。これらを活用することにより、短期間に完成品を開発できるシステムができている。 ・Arduino、Seeedといったオープンハードウェアのプラットフォームが成功しており、少量生産でも市場に出すことが可能になっている。一方で、社内だけで何年も掛けて開発する日本の大企業的な手法は時代遅れとなっている。多数の人が全員同意して進める仕組みからはイノベーションは生まれない。 ・深圳には朝から晩まで行動できるパワフルな人が多い。 ・深圳の有力IT企業は政府にも政策提案をして実行している。 ・機材はどのメイカースペースも大差はない。違うのは、経験とエコシステムである。 ・ジェネシス社がメイカーから依頼を受ける場合、外装の3Dモデルデータと、プリント基板の回路図(ガーバー)と、PCBAの部品リスト(BOM)の3点セットが欲しい。また最終的に目指す売上数や価格といった予算感も重要。最後に、世の中に無い良いアイデアを持っているか、まじめか、依頼者の「人」をとにかく見る。 ・上流で設計されたものが売れるものではなくなってきている。ソフトに関連するものや、若い人が作りたいものが要る。ただのモノではなく、サービスに近いものが必要。
以上、1週間ほどで見た深圳の印象を書いたけれど、きっと深圳だけの話ではない部分も含むと思うし、中国のわずかの部分に触れただけだと思う。それでも模造品の製造工場ばかりの未開国という印象は吹き飛んだし、深圳の持つ熱気やハードの強さは感じられた。日本より数歩先を行く分野もあり、イノベーションやデザインの探求やメイカーとしての目線など、共感できる面も多いことも実感できた。よくわからないまま見下したり恐れたりしている場合ではなく、隣国の地の利や共通の文化を生かして知り合って、強みと弱みを補完し合う関係ができれば、面白い未来が作れるように思う。
最後に、30人も参加するツアーで各所とご調整して下さって熱い解説をして下さった@tks(高須 正和)さんと、一緒にご参加下さった参加者の皆さんに感謝します。中国深圳に詳しかったり、報道や研究に関わっていたり、VRやアートや電子工作やアプリ開発やMake活動で活躍されている人も多く、参加者の方からも大いに刺激をうけて大変楽しい数日でした。参加者が面白いのもニコ技深圳観察会の魅力だと思っています。今後もどこかで繋がる気がしています、その時に面白い物を出せるメイカーでいたいと思います。
■おまけ 深圳旅行記 (更新したら追記します) 2016年10月 ・深圳探訪まとめ  Maker Faireと華強北に行った時のまとめ記事 。
2017年4月 ・羽田から関空経由で香港へ  羽田国内線に前泊して、hkexpressで香港へ。途中、大阪で燃料補給。 ・香港空港で焼鵝脾飯  空港で美味しい焼鵝脾飯を頂く。 ・香港に入国し深水埗電気街へ行く  香港の電気街、深水埗に行く。 ・深水埗電気街  深水埗の市街とSIM屋台。 ・深水埗の街並み  深水埗の街並みとローストグース。 ・名創優品  日本の某店に似てるチェーン。 ・中国聯通香港のプリペイドSIMに実名登録する(現地)  現地で実名登録。今はオンラインでも登録可能。 ・女人街と先達廣場  衣料品の屋台街と香港スマホビル。 ・北京銀翹(風邪薬)  喉や熱に効く漢方。帰国後リュックの奥底で発掘された。 ・大家楽の鶏肉カレー  チェーン店だけど、美味しかった。 ・旺角電脳中心  香港のPCショップビル。 ・香港旺角から深圳華強北に移動  中国と香港の国境を越えるのはちょっと楽しい。 ・深圳華強北の夜  深圳到着日の夜景にわくわくする。 ・華強北のMotel268(莫泰268)に泊まる  1泊224元のお得なホテル。賽格ビルの向かい。 ・貸し自転車で深圳を駆ける  到着日に深夜テンションで自転車徘徊する。
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shibaracu · 5 years ago
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◆「日本病」を考える  英国病の後を追っている
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◆「日本病」を考える http://www.st.rim.or.jp/~success/nihonbyou_ye.html -現代日本人のネガティブな感情-    1 日本病の心的傾向 日本病の特徴は以下のような点であろう。  第一に、日本病の感染者は、自分が日本病の病に罹っていても、  容易にそれと気づかないという傾向が強いこと。  (感染意識の欠如)  第二に、日本病の感染者は、全てにおいて受動的な心的傾向を伴うこと。  (積極的行動の欠如)  第三に、日本病の感染者は、極端に自分が突出を恐れ、  出る杭は打たれるという教訓を心に刻んでいること。  (顕著な中産階級意識)  第四に、日本病感染者は、封建時代の権化とも言うべき、  徳川家康の信奉者が多いこと。  (見ざる・言わざる・聞かざるの思想)  第五に、日本病感染者は、恥という日本文化の根底にある心的傾向を  務めて無視するか、完全に忘れ去っていること。  (恥の文化の喪失)  第六に、日本病感染者は、政治とは世襲的な労働であり、選挙において、  自分が誰に投票しようと無意味であると諦念の気持を持っていること。  (政治的諦念)  第七に、日本病感染者は、依然としてアジア��国に対する優越意識を持ちながら、  アメリカを始めとする欧米先進国に対しては、卑屈な劣等意識を  引きずっていること。  (プチ?脱亜入欧意識)  第八に、日本病感染者は、日本の欠点ばかりを探して、  長所を見ようとしないネガティブな心的傾向を強く持つこと。  (ネガティブな傾向)  第九に、日本病感染者は、自分がリスクを負って先頭に立つことを  極力避ける傾向があること。  (冒険精神の欠如)  第十に、日本病感染者は、目の前で犯罪が起こっても、それがテレビの中か、  テレビゲームの中で起こっていると考えてしまう傾向があること。  (テレビ中毒症)  第十一に、日本病感染者は、他人事(ひとごと)意識が強く、たとえ  親子友人間にあっても、すべてにおいて他人のことで関与を避ける傾向がある。  (他人事意識)  第十二に、日本病感染者は、物事の本質をブランド化する傾向が強く、  かつブランドを神の如く神格化する傾向と、それに時として過剰依存する傾向がある。  (ブランドへの過剰依存意識) 以上の特徴から、日本病を、一般的にこのように定義することが出来るのではないだろうか。日本病症候群は、日本人の2000年前後の心の傾向であり、それは国家としての日本が、バブル経済の後処理に結果として失敗したために、経済の低迷が十年にも及び、その不安と自信喪失から来る否定的な心的傾向である。しかもそれは極端な「他人事意識」を伴った鬱病的な傾向である。   ◆【日本病脱却マニュアル】日本病を克服しなければ、新たな時代に生き残れない?! http://blog.hikaruland.co.jp/2017/12/post-1754/ 2017/12/02 日本病は、特別な病ではない。誰でもなり得る病。 このタイトルをお聞きになって、読者の皆様はどのような印象を持たれましたでしょうか?「そんなことない、日本は海外からも優れていると賞賛を受けている」或いは、「ああ、やっぱり。自分も最近の日本はおかしいと思っていたんだ」という印象、大抵はこの二手に分かれるのではないかとお察しします。   ◆フジマキ「英国病から日本病に、危機感乏しい日本人」 (1/2) 〈週刊朝日#藤巻健史 https://dot.asahi.com/wa/2017100500015.html?page=1    経済総合 https://dot.asahi.com/wa/2017100500015.html?page=2 2017/10/07 伝説のディーラー”と呼ばれた藤巻健史氏は、海外から「日本病」と批判される日本経済の状況について、危機感を持つべきだと指摘する。* * * 私が英国に赴任した1982年、経済が低迷して「英国病病」真っ盛りだった。英国とアルゼンチンが争ったフォークランド紛争の勃発直後。「アルゼンチンに爆撃されたら、地下鉄に逃げ込めよ」と脅しのような励ましを受けながら赴任したことを覚えている。   それが私の分析で、改善しないと日本の未来はない。日本国内では、「資本主義は終わった」などという主張をよく聞くが、そうではない。「日本は社会主義だった」から、ダメになったのだ。資本主義を積極的にとり入れた中国はこの30年間で、名目GDPを75倍にもしている。   ◆コラム:自覚症状なき経済衰退の兆し、「日本病」の実態 - ロイター https://jp.reuters.com/article/column-tamaki-idJPKBN1Y90ME 2019/12/04   3 分で読む [東京 5日 ロイター] - 直近で公表された日本の経済データは、弱い数値が目立つ。詳細にみると、経済のエンジンが不調となり、循環的に回復しないリスクが高まっていることがわかる。しかし株式市場はそれに目を向けることなく、年末高値を追っている。衰退リスクに自覚症状のない今の現象を「日本病」と呼びたい。この病気は予想外に進行している。   ◆日本病(読み)ニホンビョウ デジタル大辞泉の解説 1990年代初頭のバブル経済崩壊後、長期にわたって経済が低迷し、景気回復や財政再建に向けた効果的な政策を打ち出すこともできない日本の状況を揶揄(やゆ)する言葉。   ◆「日本病」に気付き始めた日本人それが復活の始まりを告げる | 莫 邦富:作家・ジャーナリスト https://diamond.jp/articles/-/34195 2013/04/04 かつて日本を訪れた中国人は、日本の発展に驚嘆した。だが、その後、日本は同じ場所にとどまり停滞を続ける。その原因でもある「責任逃れ」現象を批判する日本人も現れた。それは日本復活の始まりとなるだろう。   ◆「首都機能移転を日本病克服のきっかけに」 - 国会等の移転 ... https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec42.html 「日本病」蔓延の危機 日本の現状は、70年代後半から80年代初めにかけての、アメリカ病、イギリス病、ヨーロッパにはヨーロピアンペシミズムが蔓延した時期に近い状況です。経済の活力が非常に衰えてしまって、例えばIMD(International Institute for Management Development)のインターナショナル・コンペティティブネスの評価だと、日本は93年まではトップでしたが、今は26番目に下がっています。また産業の空洞化といったことも起こっているわけで、そういう点では経済全体の活力が落ちていると思います。   ◆日本病の治し方(ビデオニュース・ドットコム) - BLOGOS(ブロゴス) https://blogos.com/article/50990/ 2012/11/25  少し前の話になるが、イギリスの高級誌『エコノミスト』(2008年2月21日号)が「JAPAIN」と題する巻頭特集を組んだことがあった。Japan(日本)とpain(苦痛)を掛け合わせた言葉だったが、それ以来「英国病」ならぬ「日本病」の存在は世界にも広く知れ渡ることとなった。  外国メディアの指摘を待つまでもなく、日本は先進国でも最も早く少子高齢化に直面した。その中で、経済は20年あまり停滞を続けたまま構造改革は進まず、社会も格差や高い自殺率などに喘ぎながら、政治は相も変わらぬ内向きな足の引っ張り合いを続けて無策ぶりを露呈している。結果的に、社会の隅々にまでさまざまな問題が波及し、人心の荒廃も進んでいるように見える。   ◆英国病 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/英国病 英国病(えいこくびょう)またはイギリス病 国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生、およびその他の経済・社会的な問題を発生させた現象である。   ◆イギリスは如何に「英国病」を克服したか? - Market Hack http://markethack.net/archives/51941457.html 2014/10/19 僕が大学を出て社会人になった頃(1982年)、よくマスコミで言われたのは「イギリスみたいになったら、おしまいだ」ということでした。 その頃の英国は、慢性的な経済の停滞に加えて、労働者が怠け者で、ちっとも働かないという評判でした。 そのような状況を、世界は「英国病」と呼び、せせら笑ったのです。 特に1978年から1979年にかけての冬は「Winter of Discontent」と呼ばれる、げんなりするような冬で、頻発するストライキで暖房の石炭にすら不自由する状況でした。罷業はゴミの回収にも及び、ロンドンの町のいたるところでゴミ袋がうず高く積み上がりました。   ◆コラム:「失われた20年」の次は「英国病」か=河野龍太郎氏 - ロイター https://jp.reuters.com/article/l3n0jv0kf-forexforum-ryutarokono-idJPTYE9BF05Q20131216 2013/12/16 公的債務の圧縮方法は理論上、増税や歳出削減による財政調整、中央銀行が財政赤字を穴埋めするマネタイゼーションによるインフレ醸成(金融抑圧)の二つしかない。 中央銀行ファイナンスによる追加財政を続ければ、日本経済はいずれ完全雇用に達し、デフレ脱却の道筋が見えてくる。しかし、インフレ予想の醸成に成功すると、長期金利が大幅に上昇、財政危機のリスクが高まるため、政府・日銀にとって長期金利の安定が至上命題となる。長期金利を低位に維持するため、インフレ率の上昇にもかかわらず、ゼロ金利政策や長期国債の大量購入を継続せざるを得ない。つまり、日本経済は金融抑圧の道をたどる。 問題は、金融抑圧の下で、モデレートなインフレを維持できるかということである。 今回は、金融抑圧の採用によって実際に高インフレに陥った戦後の英国の事例を分析する。戦後の英国はなぜ高率のインフレとなったのか。結論から先に言うと、金融抑圧が採用された結果、公的債務残高の対国内総生産(GDP)比の圧縮に成功した一方、拡張的な財政政策が続けられたことに加え、非効率な歳出構造や肥大化した政府部門(国有企業)が温存されたためである。   ◆日本病脱却マニュアル / 坂の上 零【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784864715713 内容説明 世界経済��今、破滅的混乱に向かっている。日本病のままでは、次の時代から淘汰されてしまう。最終関門は、あなたの不安の原因を探り、自分自身の弱さ、恐怖と向き合い、恐怖を克服するワーク!日本病を脱却し、本来の輝く自分自身へと生まれ変わるワーク!そして、自由自在の自分自身に至るワーク!日本病を脱却して、本来の凛々しい自分自身となり、これから来る困難な激動期をサバイバルしよう! 目次 第1部 日本病を誘発したこの社会の現状を知る―日本だけじゃない!日本病は世界的現象!(この4つの質問にお答えください;11の日本病の定義を述べます ほか) 第2部 日本病から脱却するためにすべきこと―日本病のままでは、あなたは時代から淘汰される(日本病とは何か?定義;典型的な日本病の症状 ほか) 第3部 日本病脱却への道筋―世界と人間、国家を滅ぼす日本病と世界を救う方法(では、どうすればいいのか?(答)エンジェルバンク構想! エンジェルバンク構想その1 インドと日本を基軸としたアジア経済共栄圏の創出 ほか) 坂の上零式 日本病克服 ワークシート(自分の価値の再発見(言語化する) 自分の日本病 タイプ別 重症度 ほか) 著者等紹介 坂の上零[サカノウエレイ] エンジェルバンク社長、発明家、作家、ジャズピアニスト&ボーカル。1972年1月25日生(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) ※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。   ◆政財界に蔓延する重篤な「日本病」。今後、この病の克服なくして中国・台湾からの「逆流」は止められない  近藤 大介  『週刊現代』特別編集委員 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/33424  先週は、日本中が丹羽大使の「旗問題」に激震したが、日中関係では他にも大変重要なことが起こった。シャープと鴻海の攻防だ。  経営危機に瀕したシャープの主力工場である堺工場に、8月30日、「救世主」こと台湾企業・鴻海の郭台銘会長が視察に現れ、これに日台のメディアが殺到した。結局、郭会長は詰めかけたマスコミを煙に巻くように消え、同日夕刻には、プライベート・ジェットに乗って台湾へ帰ってしまった。  私がこの問題をことさら注視しているのは、今後の東アジアの「逆流」が本格化する大きな一里塚になるだろうからだ。「逆流」というのは、中華系企業による日本企業の買収の流れのことだ。脅すわけではないが、あなたが勤めている会社が、5年後、10年後に中華系企業に買収されていない保証など、どこにもないのである。シャープにしても、わずか5年前までは、年間3兆円もの売上高を誇る超超優良企業だったのだから。   ◆「日本病」は世界に伝染するか?BBC | 金沢京子のブログです https://ameblo.jp/minakatario/entry-12280256963.html 2019/08/01 「日本病」は世界に伝染するのだろうか 2016年5月30日 BBC http://www.bbc.com/zhongwen/trad/fooc/2016/05/160530_fooc_world_turning_jp?ocid=socialflow_twitter もし先進国が将来、日本と同じく低経済成長。いや、ゼロ成長に直面した場合、政治的には経済マインドの拡大を求めるより、むしろ国民の生活水準向上に、より多くの注意を払うべきだろう。先週、G7の首脳らは日本の伊勢湾でサミットを開き、世界経済を安定させるための方法を話し合った。 最も関心を持って話し合われたのは、先進国が実際に経済低成長期に直面しているのか否か、将来ゼロ成長は避けられないのか、ということだった。このような状況を、我々は「日本病」と呼んでいる。日本では経済の低成長、デフレの悪循環が20年以上も続いているからだ。 日本政府はこの悪状況から脱却すべく、ありとあらゆる手段を試した。マイナス金利、構造改革、財政刺激策などである。しかし、今の所、どれも目に見える経済効果を現していない。
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tak4hir0 · 5 years ago
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XR 2019.08.18 SUN 18:30VRのアヴァターは、ここまで「本物そっくり」に進化した:フェイスブックが開発する“未来の技術”の最前線 目の前に現れたVRのアヴァターは、現実にいる人間と表情も仕草も完璧にシンクロするクローンのようにリアルな“人間”そのものだった──。VRの新たな次元を切り拓く可能性のある技術の開発が、いまフェイスブックのラボで進められている。人間をスキャンしてつくられる高精度なアヴァターは、いかに生成されるのか。いったいどんな技術が使われているのか。開発現場で目撃したのは、これまでに体験したこともないような「未来」の片鱗だった。 TEXT BY PETER RUBIN TRANSLATION BY YASUKO BURGESS/GALILEO WIRED(US) ピッツバーグにあるフェイスブック・リアリティ・ラボ(FRL)。リサーチ・アシスタントのオータム・トリンブルが、「コーデック・アヴァター」を生成するマシン「Mugsy」の内部に座っている。PHOTOGRAPH BY LAVENDER LEIGH 「ドアのところに大きくて醜いやつがいるの」と、その若い女性が目を輝かせながら独白する。 「彼はこう言ったのよ。『自分���何さまだと思ってるんだ、レナ・ホーン?』ってね。だから人違いだって言い返して、でもミス・ホーンのことなら自分の姉妹のようによく知っているのよ、と答えたの」──。 これはウォルトン・ジョーンズの音楽劇『The 1940’s Radio Hour』の短い独演パートの出だしである。この音楽劇は1979年にブロードウェイで上演された。 独り語りを続ける彼女は、どう見ても自分が何をしているのかを理解しているようだった。せりふで言及したドアマンの口調が変わっていった様子を語りながら、さらに彼女の笑顔は増していく。 まるでジョークを話しているように的確な言葉を選び、抑揚をつけて話す口元には笑みが浮かんでいた。暗い背景もあいまって、まるで79年に上演された音楽劇が、ブラックボックス(黒い壁に囲まれた劇場)で再演されているような錯覚に陥る。 ただし、ひとつだけ“問題”があった。彼女には首から下がないのだ。 従来型アヴァターの制約ここでヤーセル・シェイフが手を伸ばすと、動画は停止した。映っていた女性は、驚くほど実物そっくりの仮想現実(VR)のアヴァターだったのだ。そして彼女のパフォーマンスは、事前に収集されたデータをもとに生成されたものだったのである。 フェイスブック・リアリティ・ラボ(FRL)のピッツバーグ拠点を率いるシェイフは、さらに驚くような動画を用意していた。 その動画には先ほどの女性が、もうひとりの男性とともにVRヘッドセットをつけて登場する。ヘッドセットをつけたふたりの右側には、それぞれのアヴァターが表示されていて、本物と寸分たがわずシンクロしながら動いている。2人が交わしている会話は面白みのないものだった(ホットヨガの話をしている)。しかし、この動画が見せているのは、これまでになかったような「未来」の片鱗でもあった。 本物の人間に見えるかもしれないが、これは生成されたコーデック・アヴァターだ。VIDEO BY FACEBOOK 人々はもう何年も前からVRの世界において、コンピューターが生成したアヴァターを介してコミュニケーションをとってきた。VRのヘッドセットとハンドコントローラーは人の動きに追随するので、頭や手の動きがVRでの会話においても再現される。だからこそ、無意識のクセや仕草がリアルな印象を生むのだ。ヴァーチャルなやりとりは自然になってきたとはいえ、技術的な制約ゆえ見た目のシンプルさはどうしても否めない。 「Rec Room」や「AltspaceVR」といったソーシャルVRアプリでは、人間はキャラクターなどに抽象化されてしまうので、その表情が本当の顔の動きを表現してくれることは(仮にあったとしても)ほとんどない。フェイスブックのVRアプリ「Facebook Spaces」も、ユーザーが投稿した写真をもとに実物とかなり似たアニメのアヴァターを生成できるものの、特定の表情を示すにはコントローラーのボタンやスティックを使わなければならない。 「High Fidelity」など、より高度な技術が必要なプラットフォームでは、自分自身をスキャンした3Dモデルをインポートできる。とはいえ、自分自身であると感じられるレヴェルのアヴァターの生成には、ほど遠い。 社会的な表現を機械学習で訓練だからこそ「未来」を確かめるために、はるばるピッツバーグにあるFRLの施設までやって来たのだ。この場所には関係者以外、ほとんど足を踏み入れたことがない。 そしてシェイフのチームは、これまでずっと取り組んできた成果をついに披露しようとしている。いまは最初に借りた場所からカーネギーメロン大学に近い広い場所に移転しているが、1〜2年以内に規模をさらに拡大する予定という。 フェイスブックのシステムは、機械学習を使って人間の社会的な表現方法や表情などのデータを収集し、学習する。こうして人の表現を忠実にVRで再現したアヴァターを、FRLは「コーデック・アヴァター」と呼んでいる。 これはまだ実用段階には遠い技術で、仮にFacebookで何らかのかたちで採用されたとしても、早くて数年後だろう。とはいえ、コーデック・アヴァターの話題を口にできるぐらいにまで、FRLのチームの準備は整ってきたようだ。 本物の人間(左側)と、生成されたコーデック・アヴァター(右側)の比較。VIDEO BY FACEBOOK 「完成すればかなり注目されることになるでしょうね」と語るシェイフの顔からは、笑みがこぼれている。��れだけ完成させられる自信がある証拠なのだろう。「早く公表したいですし、これについて話したいと思っています」 人類学者のエドワード・サピアは、1927年に発表した論文『The Unconscious Patterning of Behavior in Society(社会における無意識の行動様式)』で、次のように指摘している。 人間はジェスチャーに対して、「どこにも書かれておらず誰にも知られていないが、すべての人が理解している複雑で不思議な作法に従って」反応を示す──。それから92年が経ったいま、その複雑な作法を再現することが、シェイフの全うすべき使命になった。 見た目に加えて声も動きもそっくりシェイフはフェイスブックに入社する前には、カーネギーメロン大学の教授としてコンピューターヴィジョンと社会的認知の共通点について研究していた。そんな彼のもとに、オキュラスの主任研究者であるマイケル・アブラッシュから連絡が入ったのは15年のことだった。拡張現実(AR)とVRの今後の展望について話し合いたいと言われたシェイフは、ためらうことなく自身のヴィジョンを明かした。 「VRによって確実にもたらされる未来では──」。シェイフは、常に手にしている大きなコーヒーカップを両手で包み込むように持って、こう話し始めた。 「あなたが飛行機でわざわざここまで来て、わたしに直接会う必要はなくなります。ヘッドセットを装着するだけで、まさにいま交わしているような会話ができるようになるのです。そのときはアニメふうのあなたでも、怪物のような顔をしたわたしでもありません。アヴァターは見た目だけでなく、動きも声もその人そのものになるのです」 この研究所が設立されたときの文書のなかでシェイフは、脳が仮想的な環境やそこでのやりとりに対して本物であるかのような感覚を抱く現象に触れ、この施設を「social presence laboratory」と表現していた。そして、まるで写真のようにリアルなアヴァターを7~8人のチームで5年以内に完成させられる可能性がある、とも記していた。 こうした使命に変わりはないが、歩みの途中で展望に変化を伴うのは必然ともいえる。もともと「オキュラス・リサーチ」と呼ばれていた研究所は、18年からは「フェイスブック・リアリティ・ラボ(FRL)」に改名したのだ。 自分のアヴァターを愛せるかコーデック・アヴァターの根底にある理論は単純である。シェイフによると、ふたつの要素から成り立っているという。ひとつは「ego test」で、もうひとつは「mom test」である。つまり、人は自らのアヴァターを愛せるか、そして自分の大切な人も同じようにそのアヴァターを愛せるか──を試すというものだ。 しかし、アヴァターを使えるようにするための「作業」は、はるかに複雑だ。実際に2通りのキャプチャー処理を体験してみて、このことに気づいた。 ひとつ目の処理は「Mugsy(マグシー)」と呼ばれるドーム型の空間で行われた。内部の壁と天井にはキヤノンの市販レンズ132個とライト350個が散りばめられており、そのすべてが中央にある一脚の椅子の方向を向いている。そこに座っていると、パパラッチたちに見つめられた黒い穴の中にいるような気持ちになる。 「もともとは『Mugshooter(マグシューター)』という野暮な名前をつけたのですが」と、シェイフは語る。いくつか前のヴァージョンのときの話だった。「冷たい印象を与え、親しみに欠ける名前だと気づいたのです」 Mugsyはそれからカメラの数が増え、性能も着実に向上した。間に合わせでこしらえられた初期のヴァージョンは、当然ながら時代遅れになっていった。なにしろ最初は被写体の顔を適切な位置に保つため、ひもにつないだピンポン球を使っていたのだ。 システムの最新版で生成されたアヴァター。VIDEO BY FACEBOOK 被写体となる人はMugsy内の椅子に1時間ほど座って大げさな表情をしてみたり、声に出して文章を読んだりする。何をするかは、ウェブカメラを通じて別室にいる人物が指示を出す。「歯を食いしばって」「力を抜いて」「歯を全部見せて」「またリラックスして」「顔にくしゃっとしわを寄せて」「はい、力を抜いて」──といった具合だ。 「頬を吸い寄せて、魚みたいな顔をして」と、テクニカルプログラムマネージャーのダニエル・ベルコはわたしに指示した。いったいどんなふうに見られているのか、恥ずかしさに屈しそうになりながらもそれに従う。すると「頬を膨らませて」と、ようやく次の指示が出た。 服の動きまで学習近代の監視システムを形容する「パノプティコン」といった言葉が頭に浮かんだなら、それは正しい。ただし、その言葉はふたつ目のキャプチャー装置に贈ったほうがいいだろう。もっと大きなドーム型の装置で、その名も「Sociopticon(ソシオプティコン)」と、ラボでは呼ばれている。 ちなみにシェイフはカーネギーメロン大学時代に、Sociopticonの前身に当たる「Panoptic Studio」というロボットのコミュニケーション能力を向上させるシステムを完成させている。 関連記事:ロボットの“訓練”に使う「秘密の地下ドーム」に潜入:カーネギーメロン大学で開発 Sociopticonは、マイクロソフトにある���タジオ「Mixed Reality Capture Studio」と、かなり似ている。だが、カメラの数はSociopticonのほうが多く(Sociopticonは180個、Mixed Reality Capture Studioは106個)、解像度も高い(2.5K4Kと2K2K)。さらにフレームレートも大きく、サンプリング周波数はSociopticonが90Hzであるのに対してMixed Reality Capture Studioは30Hzか60Hzだ。 Mugsyが顔の動きを集中的に読みとる一方で、Sociopticonはコーデック・アヴァターの生成システムが人間の体と着ている服の動きを学習できるようにする。そこで、Sociopticonに入っているあいだは顔の表情をつくるというよりも、いわば「手抜きの柔軟体操」のような動きに徹することになった。手足を振ったりジャンプしたりしていたほか、ウェブカメラを通じてベルコとジェスチャーゲームまで楽しんだ。 つまり、できるだけ多くの情報を取り込むということなのだ。なにしろMugsyとSociopticonは、毎秒180ギガバイトものデータを収集する。こうしてニューラルネットワークは、あらゆる角度からの表情や動きを、音や筋肉の歪みなどに関連づけることを学んでいく。 取り込む情報が多ければ多いほど、「深層外見モデル(deep appearance model)」は強化され、訓練されていく。こうした情報をコード化して、別のところにいる人のヘッドセット内でアヴァターとして“再生”できるようになるのだ。 インターネットが登場してまもないころに動画の圧縮で苦労していた人なら誰もがわかるように、コーデック・アヴァターの「コーデック(codec)」という言葉は、データの変換と復号を意味する「コーダー(corder)/デコーダー(decoder)」に由来している。生データをそのまま利用するのではなく、リサーチサイエンティストのジェイソン・サラギによると、データは“解釈”される必要がある。 やはり「不気味の谷」に落ちるのか一般のユーザーがアヴァターを利用するとしても、MugsyやSociopticonといった巨大な機器を自宅のリヴィングルームに設置することはない。使うのはVRとARに対応したヘッドセット、例えばヘッドマウントディスプレイのようなものになるだろう。 そこでFRLの研究者たちは、ヘッドマウントディスプレイのように頭に装着するキャプチャーシステムを開発した。「Argent」と呼ばれているこのシステムには、赤外線LEDとカメラが搭載されていて、それらが顔のさまざまな部位を捉えている。カメラによって集められたデータをソフトウェアが再構築して、ユーザーの画像を生成する仕組みだ。 シェイフ率いるチームが近い将来の目標としているのは、スキャンする範囲を顔回りだけでなく全身へと広げていくことだ。そのためにソフトウェアは、サラギが言うところの「よそ者っぽい」感じ、つまりアヴァターを人間らしくない奇妙な相手だと感じる問題を解決しなければならない。 例えば周囲が暗ければ、この状況をシステムは考慮する必要がある。もしあなたが腕を背中のほうに回したら、VRのなかにいる友人があなたの背後に回り込んだときに手の動きを見られるように、システムは手の状態まで把握できていなければならない。 また、アヴァターの動作ができるだけ滑らかになるように、あなたの次の動きを予測できるようになっておく必要もあるだろう。いずれも不確定要素や制約を取り除き、あなた自身を生き生きとそっくりそのままアヴァターとして表現できるようにすることが狙いだ。 VIDEO BY FACEBOOK 人間の動きをリアルに描くのは難しい。それは紛れもない事実だ。超大ヒット作のヴィデオゲームでさえ、髪の毛や目、口の中などの再現に苦労している。一歩間違えれば「不気味の谷」へとまっしぐらに突き進み、転落してしまうだろう。人間に極めて近いのに「なにか違う」ものを目にすると、人は本能的に不快感を覚えるものだ。 「あり得ない」と感じさせるレヴェルわたし自身をキャプチャーする作業を終え、シェイフや研究者のスティーヴ・ロンバルディとライヴチャットをするためにヘッドセットを装着した。仮想環境における「現実」が、不気味の谷という同じ罠にはまることは避けられないだろう──。このときまでそう考えていた。 ところが、実際にはそうではなかった。シェイフのアヴァターは確かに本物の彼とは違って、あごひげもなければ賢そうな丸メガネもかけていない。こうしたものまで正確に取り込むのは彼いわく難しいということで、“素”の状態でキャプチャーしたからだ。 こうした違いこそあれ、そのアヴァターはシェイフそのものだった。「近寄ってひげの剃り跡をよく見てください」と言われたとき、あまりにそっくりだったので彼のパーソナルスペースを侵害してしまうのではないかと思ったほどだ。 ロンバルディのアヴァターも、まさに彼自身だった。チャットのあとで“本物”の彼が部屋に入ってきたとき、初対面だったにもかかわらず知り合いのように思えた。 完成したアヴァターは、決して完璧ではない。実際に人間が興奮しながら話しているときのアヴァターの口の動きは、声のトーンから想像されるものとはズレていた。髪の毛は1本1本まで見えたが、その回りにはうっすらともやがかかって見えたし、舌もちょっとぼやけていた。けれども全体的に見れば圧巻の出来栄えであり、「こんなことあり得ない」と感じさせるレヴェルだった。 VRの世界が感じさせる不安こうした体験は素晴らしいものだった。そして同時に、不安を抱かせるものでもあった。コーデック・アヴァターはまだリサーチプロジェクトの段階だが、わたしたちはいま不安定な時代を生きている。 実際には存在しない顔を生成してしまう力をもつ人工知能(AI)や、動画の顔を別人のものとすり変えたディープフェイク、データのプライヴァシー問題、そしてフェイクニュースを使った政治キャンペーンや人を不快にさせるオンラインの言動──。いずれも、まさに現実に存在するインターネットの世界で実際に起きている問題である。 関連記事:インターネットの世界で、いま起きている問題VRやARの世界は、人がコミュニケーションをとり合う主要なプラットフォームになりつつある。ソーシャルメディア企業はこうしたプラットフォームに対する資金の提供者であると同時に、一連の問題の発生源でもあるのだ。そして、問題はよりいっそう差し迫ったものになりつつある。 オンライン上でのハラスメントをひどいと感じているだろうか? そこにリアルなアヴァターを使った表現方法やパーソナルスペースの問題がVRによって加われば、こうした状況はより深刻化しないだろうか? これから何が起きるのか、まだほとんど見えていないのだ。 こうした懸念にシェイフは理解を示している。「相手を信頼する感情は、この技術が成功するうえでもユーザーを守るうえでも欠かせません。例えば、電話で母親の声を聞けば、彼女が話している内容とあなたが聞いている内容が同じであることに何の疑いももちませんよね。こうした信頼を、この技術においても最初のうちから築き上げ、守っていかなければならないのです」 VRの新たな次元へ開発中の頭に装着するキャプチャーシステムに搭載されたセンサーは、その人が本人なのかを証明するうえで重要な役割を担う、とシェイフは言う。眼や声だけでなく、身振りやクセなども生体認証用のデータになるからだ(そう言われれば確かにひとつの不安は軽減されるが、また別の不安が高まる)。 データプライヴァシーとVRを巡る議論はこの数年でかなり活発化しているが、こうした画期的な技術は火に油を注ぐ存在になるかもしれない。VRはこの10年で大きな進化を遂げたが、コーデック・アヴァターのような技術の登場は、VRにおける体験がまったく新たな次元に移行することを意味する。FRLでこの技術を見守り続けてきた研究者たちは、それを理解している。 VRの開発者会議「Oculus Connect」では、オキュラスの主任研究者であるアブラッシュが毎年登壇して、同社の研究所における研究とイノヴェイションの進行状況について講演するのが恒例になっている。歳月を重ねるにつれ、VRの画期的な進歩において彼が強気な姿勢を見せる部分と慎重な姿勢を見せる部分も定着してきたところだ。 関連記事:VRでも、人と人との「つながり」がすべてになる──フェイスブック化するOculusが目指す世界 しかし、これまで慎重さを貫いてきたある点について、18年10月に開かれた会合では強気な発言に転じた。「いか���も本物のような人間のアヴァターを4年以内に開発できると断言することはできません」と、アブラッシュは語った。「しかし、それが『無理』であるとも、もう思わないのです」 アブラッシュのこうした宣言をどう思ったか、シェイフに尋ねてみた。彼はコーヒーをすすりながら笑顔で答えた。「彼の言う通りですよ」 INFORMATION インターネットがあらゆる情報をデジタル化し、SNSが人々のつながりをデジタル化してきた。来る第三のプラットフォームは、物理的世界すべてをデジタル化する「ミラーワールド」になる──。VRからAR、AI、コンピューティング、ロボティクスから自動運転まで包含する新たな世界のすべてが、いまここに。雑誌『WIRED』日本版VOL.33の特集「MIRROR WORLD」に連動したウェブ特集を、随時更新中! 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shiro-absence · 6 years ago
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著作[編集] 最初の文学的野心は詩人になることだったが、若い頃の第一の創作欲は架空言語の創造だった。それらは後でクウェンヤとシンダール語に発展するエルフ語の初期の形態を含んでいた。 言語がそれを話す民族を指し示し、民族が言語の様式と視点を反映する物語を明らかにすると信じて、(この名前が紛らわしいと考えるようになったのでいくらか後悔することになるが)後にエルフと呼ぶようになった伝説の妖精についての神話と物語を書き始めた(英語で書いたが、かれの創造した言語の多くの名前や用語を含んでいた)。 第一次世界大戦の間、療養中に書きはじめた『失われた物語の書』にはベレンとルーシエンの恋物語が含まれ、これらは後に長い物語詩The Lays of Beleriandとしてまとめられ、自身が完成できなかった『シルマリルの物語』にも発展して含まれることになる。トールキンが繰り返し構想を変えていったことについては、死後に刊行された『中つ国の歴史』に収められた数々の原稿に示されている。 トールキンの作品はいくつかのヨーロッパの神話伝承から多くの影響を受けている。『ベーオウルフ』に代表されるアングロサクソンの古伝承、『エッダ』、『ヴォルスンガ・サガ』をはじめとする北ゲルマン人の神話体系(北欧神話)、アイルランドやウェールズなどのケルトの神話やフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』などである。 このまじめな大人向けの作品に加えて、トールキンは自分の子供たちを喜ばせるために話を作ることを楽しみにしていた。毎年毎年、「サンタクロースからのクリスマスレター」をしたため、一続きのお話を添えた。これらの小話はのちに一冊の本にまとめられ、『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』として出版された。 だがトールキンは、自分の空想物語が一般に受け入れられるとは夢想だにしなかった。かつての教え子だった編集者のとりなしで1937年に『ホビットの冒険(The Hobbit)』と題された本を出版すると、子供向けを意図したにもかかわらず大人にも読まれ、アレン・アンド・アンウィン社が続編の執筆を要請するほどの人気を呼んだ。これがトールキンを刺激することになり、1954年から1955年にかけて、最も有名な作品となる叙事詩的小説『指輪物語(The Lord of The Rings)』が上梓された。『指輪物語』はしばしば「三部作」と表現されるが、本来は一編の物語である。現在、三部作として扱われることがあるのは、最初の出版時に編集上の都合で分冊されたのが定着したからである。このサガを書き上げるまでにほぼ10年かかったが、その間インクリングズの仲間たち、中でも『ナルニア国ものがたり』の作者で親友のC・S・ルイスは絶えず支援を続けた。『ホビットの冒険』も『指輪物語』も、『シルマリルの物語』の神話に続く物語であり、トールキンがはっきり述べていたように、ずっと後の物語である(どちらも、現在からは遥か昔のこととして書かれている)。 1960年代、『指輪物語』はアメリカの多くの学生たちの間で好評を博し、ちょっとした社会現象となった。現在でも世界中で高い人気を保っている『指輪物語』は、売上の点からも読者の評価という点からも、20世紀における最も人気の高い小説の一つとなった。英国のBBCとWaterstone's bookstore chainが行った読者の世論調査で『指輪物語』は20世紀の最も偉大な本と認められた。amazon.comの1999年の顧客の投票では、『指輪物語』は千年紀で最も偉大な本となった。2002年には、BBCの行った「最も偉大な英国人」の投票で92位に、2004年に南アフリカで行われた投票では「最も偉大な南アフリカ人」の35位になった。英国人および南アフリカ人のトップ100の両方に現われるのはトールキンだけである。その人気は英語圏だけにとどまらず、2004年には100万人を超えるドイツの人々が、『指輪物語(ドイツ題:Der Herr Der Ringe)』が広範囲の文学のうち最も好きな作品として投票した。 トールキンは当初、『指輪物語』を『ホビットの冒険』のような児童書にしようと考えていたが、書き進めるにつれ次第に難解で重々しい物語となっていった。『ホビットの冒険』と直に繋がる物語であるにもかかわらず、より充分に成熟した読者を対象とするようになり、また後に『シルマリルの物語』やその他の死後出版された書籍に見られるような膨大な中つ国の歴史を構築し、それを背景にして書き上げた。この手法と出来上がった作品群の緻密で壮大な世界観は、『指輪物語』の成功に続いて出来上がったファンタジー文学というジャンルに多大な影響を残した。 文献学のエキスパートであり、研究した言語や神話学は彼の創作にはっきりと影響を残している。『ホビットの冒険』のドワーフの名前は『エッダ』の『巫女の予言』から取られた。また例えば「龍の蓄えからカップを盗む泥棒」などという一節は『ベーオウルフ』から取られている。トールキンはベーオウルフについての認められた権威で、詩についていくつかの重要な作品を出版した。かつては出版されなかったトールキンの『ベーオウルフ』の翻訳は、Michael Droutが編集した。 中つ国の歴史は死の直前まで書き続けている。息子のクリストファは、ファンタジー作家ガイ・ゲイブリエル・ケイの助力を得て、素材の幾つかを一冊の本にまとめ、1977年に『シルマリルの物語(The Silmarillion)』として出版した。クリストファはその後も中つ国創造の背景資料の刊行を意欲的に続けた(ただしその多くは未邦訳)。『The History of Middle-earth』シリーズや『終わらざりし物語』のような死後に発表された作品には、トールキンが数十年もの間、神話を考察し続け、絶えず書き直し、再編集し、そうして物語を拡張し続けていた結果、未完成だったり、放棄されたり、どちらかを選ばなければならない内容や、明らかに矛盾する内容の草稿が含まれている。『シルマリルの物語』だけは『指輪物語』との一貫性を維持するべく、クリストファは編集にかなりの労力を費やした。しかしクリストファ自身も『シルマリルの物語』には多くの矛盾が残っていると認めている。1951年の第二版で一つの章が抜本的に改訂された『ホビットの冒険』でさえ、『指輪物語』と完全に辻褄があっているわけではない。 アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキーにあるマーケット大学の図書館は、トールキンの手書き原稿や覚書き、及び手紙の多くを保存している。また、オックスフォードのボドリアン図書館には、『シルマリルの物語』関係の書類と学術的な資料などが残されている。その他、『指輪物語』と『ホビットの冒険』の手書き原稿および校正刷り、『農夫ジャイルズの冒険』といった多くの「マイナーな」作品の手書き原稿、ファンの作った編集作品といったものまでが、貴重な資料として巷に出回っている。 言語[編集] 「アルダの言語」を参照 文献学、言語に関する研究は特に熱心に取り組んだ学問であり、それが高じて約15の人工言語を発明するにいたった。中でも二つのエルフ語、すなわち「クウェンヤ」と「シンダール語」は特に有名である。彼はこれらの言語が誕生した背景として、中つ国の詳細な宇宙論や歴史を創り上げた。 トールキンは専門であるアングロ・サクソン語(古英語)や古ノルド語に加えて、他のインド・ヨーロッパ語族の諸言語(フランス語、スペイン語、イタリア語などのロマンス諸語とラテン語、ドイツ語やオランダ語などのゲルマン諸語とその古語(古サクソン語など)、ゲール語やウェールズ語といったケルト諸語、バルト諸語やスラヴ諸語など)、さらにはウラル語族のフィンランド語など、非常に多くのヨーロッパの言語に様々な水準で通じていた。彼は個人的な手紙の中で、特にフィンランド語が彼の耳に心地よく響き、これがクウェンヤの着想を与えたと書いている。 彼は作品以上に、言語の面で以後のファンタジー文学に広く永続的な影響を及��している。特に"dwarf"(ドワーフ)の複数形を"dwarfs"ではなく"dwarves"としたり、"Elf"(エルフ)の形容詞形を"elfish"ではなく"elvish"と表記する慣例は彼によって生まれた。 派生作品[編集] 1951年のミルトン・ウォルドマンへの手紙(Letters #131)の中でトールキンは「多少なりとも繋がっている伝説」を創造した意図に関して次のように書いた。 「循環は威厳のある全体に繋がりながら、絵画および音楽およびドラマという手段で他の人たちの心や手が参加する範囲を残すべきである」 多くの芸術家がトールキンの作品に触発された。トールキンが個人的に知っていたのは、ポーリン・ベインズ(トールキンの好きな『トム・ボンバディルの冒険』と『農夫ジャイルズの冒険』のイラストレーター)と、ドナルド・スワン(『道は続くよどこまでも』に曲を付けた)だった。1970年代初期、デンマークのマルグレーテ2世は『指輪物語』のイラストを描いた。作品を贈られたトールキンは、女王のイラストと彼自身の絵の様式との類似点に驚いたという。 しかし、生前に行われた著作に基づいた別の分野の作品をほとんど評価せず、時にはこっぴどくこきおろした。 1946年の手紙(Letters #107)では、ドイツ版『ホビットの冒険』のためのホルス・エンゲルスによるイラストの提案に対して、あまりにもディズニー的であると拒否した。 「たれた鼻のビルボ、わたしの意図したオーディンのような放浪者でなく下品な道化になってしまったガンダルフ」 また、アメリカのファンダムの出現にも懐疑的で、1954年にアメリカ版の『指輪物語』のブックカバーの提案に次のように回答している(Letters #144)。 「『宣伝文』の案を送ってくれてありがとう。アメリカ人は概して批判または修正に全く従順ではない。しかし彼らはたいして努力していないので、私が改善するためにかなり努力をせざるを得ないと感じる」 そして1958年、Morton Grady Zimmermanが提案した映画化構想に対し、いらいらした様子でこう書いている(Letters #207)。 「著者の焦燥(しばしば憤慨していること)を理解するのに充分想像力を働かせるようお願いしたい。彼は自分の作品が一般に不注意に、場合によっては無謀に扱われ、どこを探しても敬意の払われている印がないのに気付いている」 この手紙には脚本の場面ごとの批判などがとうとうと続く(「またしても、けたたましい音や、ほとんど無意味な切りあいの場面である」)。しかし、トールキンは映画化という考えについて全く反対していた訳ではない。1968年、彼は『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化、上演権および商品権をユナイテッド・アーティスツに売った。その際製作への影響を懸念して、将来にわたりディズニーが関与することを一切禁止した(Letters #13, 1937年)。 「アメリカ人が心地よく見るために可能な限り(中略)、(わたしがその作品について心からの嫌悪している)ディズニー・スタジオ自身のものか、それに影響を受けたもの全てを拒否することを(中略)忠告しておいたほうがいいだろう」 ジョン・ブアマンが70年代に実写による映画化を計画したものの、結局ユナイテッド・アーティスツは1976年に製作の権利をソウル・ゼインツの会社の傘下にあったトールキン・エンタープライズ(英語版)に売却。ユナイテッド・アーティスツが配給にまわって最初に実現した映画化は『指輪物語』のアニメーション作品だった。ラルフ・バクシ監督によるロトスコーピング手法で製作され、1978年に公開された。 その後『指輪物語』の配給権はミラマックス社を経てニューラインシネマ社に移り、2001年から2003年にかけてピーター・ジャクソンの監督によってロード・オブ・ザ・リング三部作として初めて実写映画化された。 書誌[編集] 創作[編集] 1936年 Songs for the Philologists, E.V. Gordon他と共著 1937年 『ホビットの冒険』The Hobbit or There and Back again 1945年 『ニグルの木の葉』Leaf by Niggle(Dublin Review誌に掲載) 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』 評論社 2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1945年 『領主と奥方の物語』The Lay of Aotrou and Itroun, Welsh Review誌に掲載 辺見葉子訳、「ユリイカ」1992年7月号所収、青土社 1949年 『農夫ジャイルズの冒険』Farmer Giles of Ham 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1953年 『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』The Homecoming of Beorhtnoth, Beorhthelm's Son 論考 Ofermodとともに出版された 『指輪物語』The Lord of the Rings 1954年 第一部『旅の仲間』The Fellowship of the Ring 1954年 第二部『二つの塔』The Two Towers 1955年 第三部『王の帰還』The Return of the King 1962年 『トム・ボンバディルの冒険』The Adventure of Tom Bombadil 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1964年 『木と葉』Tree and Leaf 『妖精物語について』On Fairy Stories 『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 2003年 ISBN 4-566-02111-4 所収 『妖精物語の国へ』 杉山洋子訳 ちくま文庫 2003年 ISBN 4-480-03830-2 所収 『ニグルの木の葉』 1966年 The Tolkien Reader(『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』、『妖精物語について』、『木と葉』、『農夫ジャイルズの冒険』、『トム・ボンバディルの冒険』を収録) 1966年 Tolkien on Tolkien (自伝的) 1967年 『星をのんだかじや』Smith of Wootton Major 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』 評論社 2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1967年 『道は続くよどこまでも』The Road Goes Ever On, ドナルド・スワンと共著 学術的な著作[編集] 1922年 A Middle English Vocabulary 1924年 Sir Gawain and the Green Knight E. V. Gordonと共著、『ガウェイン卿と緑の騎士』の中英語から現代英語への翻訳 『サー・ガウェインと緑の騎士: トールキンのアーサー王物語』山本史郎訳 原書房 2003年 ISBN 4-562-03605-2 1925年 Some Contributions to Middle-English Lexicography 1925年 The Devil's Coach Horses 1929年 Ancrene Wisse and Hali Meiohad 1932年 The Name 'Nodens' (Report on the Excavation of the Prehistoric, Roman, and Post-Roman Site in Lydney Park, Gloucestershire所収) 1932年/1935年 Sigelwara Land parts I and II 1934年 The Reeve's Tale (ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の批評にHengwrt manuscriptを導入して、方言のユーモアを再発見した) 1937年 Beowulf: The Monster and the Critics 1944年 Sir Orfeo 1947年 『妖精物語について』On Fairy Stories(Essays Presented to Charles Williamsに掲載) 1953年 Ofermod, The Homecoming of Beorhtnoth, Beorhthelm's Sonとともに出版。 1962年 Ancrene Wisse: the Ancrene Riwleの英語テキスト。 1963年 English and Welsh 1966年 『エルサレム聖書』Jerusalem Bible (翻訳と索引を担当) 没後に出版された作品[編集] 1974年 『ビルボの別れの歌』Bilbo’s Last Song 『ビルボの別れの歌』脇明子訳 ポーリン・ベインズ絵 岩波書店 1991年 ISBN 4-00-110613-2 1975年 Guide to the Names in The Lord of the Rings (編集版) - Jared Lobdell編 A Tolkien Compass 1st edition 所収。トールキンが書いた『指輪物語』の翻訳指示。 1975年 Pearl (poem) と Sir Orfeoの翻訳 1976年 『サンタ・クロースからの手紙』The Father Christmas Letters 『サンタ・クロースからの手紙』 ベイリー・トールキン編 瀬田貞二訳、トールキン絵 評論社 1976年 ISBN 4-566-00228-4 1977年『シルマリルの物語』The Silmarillion 1979年 Pictures by J. R. R. Tolkien 1980年『終わらざりし物語』Unfinished Tales 1980年 Poems and Stories (『トム・ボンバディルの冒険』、『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』、『妖精物語について』、『ニグルの木の葉』、『農夫ジャイルズの冒険』、『星をのんだかじや』をまとめたもの) 1981年 The Letters of J. R. R. Tolkien Selected and edited by Humphrey Carpenter with assistance of Christopher Tolkien 1981年 The Old English Exodus Text 1982年 Finn and Hengest: The Fragment and the Episode 1982年 『ブリスさん』Mr. Bliss 『ブリスさん』田中明子訳、トールキン絵 評論社 1993年 ISBN 4-566-01321-9 1983年 The Monster and the Critics and Other Essays (論考集) 1988年 『樹と葉』Tree and Leaf 『妖精物語について』On Fairy Stories 『ニグルの木の葉』Leaf by Niggle 『神話の創造』Mythopoeia 上記すべて『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 2003年 ISBN 4-566-02111-4 所収 1983年–2002年The History of Middle-earth(英語版) シリーズ I. 1983年 The Book of Lost Tales 1 II. 1984年 The Book of Lost Tales 2 III. 1985年 The Lays of Beleriand IV. 1986年 The Shaping of Middle-earth V. 1987年 The Lost Road and Other Writings VI. 1988年 The Return of the Shadow (『指輪物語の歴史』The History of The Lord of the Rings v.1) VII. 1989年 The Treason of Isengard (The History of The Lord of the Rings v.2) VIII. 1990年 The War of the Ring (The History of The Lord of the Rings v.3) IX. 1992年 Sauron Defeated (The History of The Lord of the Rings v.4) X. 1993年 Morgoth's Ring (The Later Silmarillion v.1) XI. 1994年 The War of the Jewels (The Later Silmarillion v.2) XII. 1996年 The Peoples of Middle-earth 2002年 The History of Middle-earth Index 1994年 Poems from 'The Lord of the Rings' 『「中つ国」のうた』 瀬田貞二・田中明子訳 アラン・リー挿画 評論社 2004年 ISBN 4-566-02381-8 1995年 J. R. R. Tolkien: Artist and Illustrator (a compilation of Tolkien's art) 1995年 Poems from 'The Hobbit' 1997年 Tales from the Perilous Realm 「農夫ジャイルズの冒険」Farmer Giles of Ham 「トム・ボンバディルの冒険」The Adventure of Tom Bombadil 「ニグルの木の葉」Leaf by Niggle 「星をのんだかじや」Smith of Wootton Major 上記すべて、『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 1995年 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』Letters from Father Christmas 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』 瀬田貞二・田中明子訳、トールキン絵 1995年 評論社 ISBN 4-566-00458-9 1998年 『仔犬のローヴァーの冒険』Roverandom 『仔犬のローヴァーの冒険』 クリスティーナ・スカル、ウェイン・G・ハモンド編 山本史郎訳、トールキン絵 原書房 1999年 ISBN 4-562-03205-7 2002年 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』Beowulf and the Critics(Medieval and Renaissance Texts and Studies, Volume 248) Michael D.C. Drout 編 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』 クリストファー・トールキン編、岡本千晶訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05387-9 2005年 Guide to the Names in The Lord of the Rings (完全版) - Wayne Hammond and Christina Scull 編 The Lord of the Rings: A Reader's Companion所収。トールキンが書いた『指輪物語』の翻訳指示。 2007年 The Children of Húrin 2007年 The History of The Hobbit 2009年 The Legend of Sigurd and Gudrún 『トールキンのシグルズとグズルーンの伝説 注釈版』 クリストファー・トールキン編、小林朋則訳 原書房 2018年 ISBN 4-562-05588-X 2013年 The Fall of Arthur 2015年 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』The Story of Kullervo 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』 ヴァーリン・フリーガー編、塩崎麻彩子訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05388-7 2017年 Beren and Lúthien 入手可能な日本語訳[編集] 『ホビットの冒険』瀬田貞二訳 岩波書店、1965年 『ホビット ゆきてかえりし物語』山本史郎訳、原書房 1997年。ダグラス・A・アンダーソン注 『ホビット ゆきてかえりし物語 注釈版』原書房(単行判)、文庫判(上下)、各2012年。新版 『指輪物語』瀬田貞二・田中明子訳 評論社、新版1992年 『サンタ・クロースからの手紙』 ベイリー・トールキン編 瀬田貞二訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1976年 ISBN 4-566-00228-4 『シルマリルの物語』田中明子訳 評論社、新版2003年 ISBN 4-566-02377-X 『終わらざりし物語』クリストファ・トールキン編 山下なるや訳 河出書房新社(上・下) 2003年 ISBN 4-309-20396-5 ISBN 4-309-20397-3 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』 評論社 2002年 ISBN 4-566-02110-6 「農夫ジャイルズの冒険」吉田新一訳 ポーリン・ダイアナ・ベインズ挿絵 「星をのんだかじや」猪熊葉子訳 ポーリン・ダイアナ・ベインズ挿絵 「ニグルの木の葉」猪熊葉子訳 「トム・ボンバディルの冒険」早乙女忠訳 ポーリン・ダイアナ・ベインズ挿絵 『農夫ジャイルズの冒険』吉田新一訳 ポーリン・ベインズ画 評論社 てのり文庫 1991年 ISBN 4-566-02273-0 『星をのんだかじや』猪熊葉子訳 ポーリン・ベインズ画 評論社 てのり文庫 1991年 ISBN 4-566-02270-6 『ビルボの別れの歌』脇明子訳 ポーリン・ベインズ絵 岩波書店 1991年 ISBN 4-00-110613-2 『ブリスさん』田中明子訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1993年 ISBN 4-566-01321-9 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』 瀬田貞二・田中明子訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1995年 ISBN 4-566-00458-9 『仔犬のローヴァーの冒険』 クリスティーナ・スカル、ウェイン・G・ハモンド編 山本史郎訳 J・R・R・トールキン絵 原書房 1999年 ISBN 4-562-03205-7 『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 新版2003年 ISBN 4-566-02111-4 「妖精物語とは何か」 「ニグルの木の葉」 「神話の創造」 『妖精物語の国へ』 杉山洋子訳 ちくま文庫 2003年 ISBN 4-480-03830-2 「妖精物語について」 「神話を創る」 「ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還」 『ファーザー・クリスマス―サンタ・クロースからの手紙』ベイリー・トールキン編 瀬田貞二・田中明子訳 評論社 2006年 ISBN 4-566-02383-4 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』 ヴァーリン・フリーガー編、塩崎麻彩子訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05388-7 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』 クリストファー・トールキン編、岡本千晶訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05387-9
https://ja.wikipedia.org/wiki/J・R・R・トールキン
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