#自然派育児ママ
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議会は政府資金の2つの期限に急速に近づいており、部分閉鎖の可能性まで残り1週間を切っており、議員らは それを回避するための明確な計画もなく行き詰まりに陥っている。 文書を発表することを望んでいたため、政府機関閉鎖の可能性は日に日に高まっている 特に議員らは日曜日の夕方に超党派の支出合意 。 しかし、政策問題をめぐる意見の相違が続いたため、その公開は遅れた。 チャック・シューマー上院院内総務は日曜午後、「親愛なる同僚へ」の書簡で政府機関閉鎖の影響について警告した。 女性と子供への食糧支援、農家への重要な融資、退役軍人支援事務所と支援、連邦住宅ローン支援、航空管制官の雇用と訓練はすべて影響を受ける可能性があると同氏は述べた。 Ad Feedback 連邦政府は金曜日、潜在的な閉鎖に備えるプロセスを正式に開始し、3月1日の資金提供期限に先立って政府機関に閉鎖ガイダンスを発表するという必須ではあるが標準的なプロセスに参加した。 つまり、最初の期限の影響を受ける連邦省庁は閉鎖計画を更新し、見直す必要がある。 これに見覚えがあるとすれば、それは議員らが資金調達の期限に迫り、9月、11月、そして1月に政府の運営を維持するために再度法案を間一髪で可決したのは9月以来4回目だからだ。 1月、議員らは3月1日と3月8日に新たな期限を設定する2段階の短期資金調達延長案を可決した。広範な資金調達策や短期の応急処置について数日以内に合意が得られない場合は、 「継続決議」として知られるこの法案では、連邦政府の約20%を占める一部の省が金曜日の終わりには資金が不足することになる。 Ad Feedback 1月に可決された2段階の計画では、軍事建設、退役軍人省、農業、住宅・都市開発、運輸、エネルギーの各省を含む連邦政府の一部への資金提供が3月1日まで延長される。 政府の残りの部分(最初のステップでカバーされないもの)には、3 月 8 日まで資金が提供されます。 超党派の二院協議が続いている一方で、下院共和党は政府の開放を維持するための最良の道について依然として意見が分かれており、民主党が毒薬とみなした保守系政策の特約をめぐって収用者らが値切り交渉を行っており、これらすべてがマイク・ジョンソン下院議長 とその僅差の過半数にとって新たな複雑な試練を設定している。 それまでの間、部分的な閉鎖に向けた準備という舞台裏の作業がまだ行われなければなりません。 不要不急の政府機能を停止するための手順を定めた標準手順は、3月1日の期限に影響を受ける連邦政府省庁だけでなく、すべての連邦政府省庁を対象に今週後半に開始されると政府当局者がCNNに語った。 「歳出法案の期限切れの 1 週間前に、歳出法案の制定が差し迫っているように見えるかどうかに関係なく、OMB は政府機関の幹部と連絡を取り、秩序ある閉鎖計画を見直し、更新する責任を政府機関に思い出させ、コミュニケーションテンプレートの草案を共有する予定です。支出の状況を従業員に通知する」と ホワイトハウス管理予算局の文書には 記載されている。 この標準的なガイダンスは、部分的な閉鎖が発生する可能性がある7日前の金曜日に配布された。 どの部門や機関にも独自の 計画と手順が あります。 このガイダンスには、何人の従業員が一時帰休になるのか、どの従業員が不可欠で無給で働くのか、閉鎖前の数時間で業務を縮小するのにどれくらいの時間がかかるのか、どの活動が停止するのかなどの情報が含まれている。 これらの計画は、シャットダウンごとに異なる場合があります。 影響を受ける各部門の計画の最新版に詳しく記載されている、部分的シャットダウンの潜在的な影響の一部を以下に示します。これらは変更される可能性があります。 退役軍人問題 政府機関の方針によると、今週後半に政府機関が閉鎖されたとしても、退役軍人省は「退役軍人の医療には影響しない」と明言している 1月に更新された 。 「補償、年金、教育、住宅手当を含む」退役軍人手当も閉鎖中も継続される。 同省は、サービスを提供する人々への影響を最小限に抑えるよう努めてきたと述べ、退役軍人省職員の96%は「資金が全額支給されるか、閉鎖中は例外的な職務を遂行する必要がある」と推定している。 それでも、同部門の多くの機能が停止する可能性はある。 退役軍人省長官のデニス・マクドノー氏は月曜の記者会見で、「公的対応の地方事務所は閉鎖され、キャリアカウンセリング、移行支援、墓地の敷地管理などの通常業務の多くが利用できなくなる」と警告した。 退役軍人が教育や訓練に関する質問に対するサポートを求めることができるGI法案ホットラインは、閉鎖中は停止される。 また、軍人やその家族が軍人生活から民間生活へ移行するのを支援する移行支援プログラムも、政府機関閉鎖中は停止されることになる。 マクドノー氏はまた、兵役中に有毒な火傷にさらされた退役軍人への給付���を拡大する2022年可決法案であるPACT法に基づき、新たに退役軍人医療を受ける資格を得た退役軍人に行き渡ることについて懸念を表明した。 「私たちは彼らに連絡を取り、彼らが得たものを確実に活用できるようにしたいと考えています」とマクドノー氏は語った。 交通機関 運輸省とその関連機関の業務の多くは 閉鎖中も継続される 、航空管制、特定の安全検査、交通機関全体の事故調査など、 。 しかし、航空管制官は無給で働いているため、旅行に混乱が生じる可能性は依然としてある。 閉鎖はまた、まだ勤務資格を持っていない新しい航空管制官の訓練を遅らせ、航空や鉄道の規則制定を中止し、パイプライン・危険物安全局による危険物の特別調査も中止することになる。 住宅と都市開発 家賃や住宅ローンの支払いを住宅都市開発省に依存している米国人は、政府機関が閉鎖された場合に大きな影響を受ける可能性がある。 同省は、「HUDの公正な住宅活動のほぼすべてが失効中に中止されるだろう」と警告した。 同省のガイダンスによると、政府の資金不足により、公営住宅運営補助金、住宅選択バウチャー補助金、集合住宅補助契約などのプログラムが資金不足になるリスクが生じるという 9月に最後に更新された 。 同庁には9月時点で約8,600人の従業員がいたが、閉鎖になればそのほとんどが一時帰休となる。 ホームレス向けの緊急住宅を含む、HUD の年間助成プログラムの大部分など、助成金の拠出がすでに義務付けられている一部の活動は継続されます。 しかし、人員が限られているため、連邦住宅局が保証するローンの処理や完了が遅れる可能性があります。 HUDは緊急時対応計画の中で、閉鎖が長引けば長引くほど、その影響はより深刻になると指摘している。 農業 農務省の主要な栄養支援プログラムのうち2つは、農務省の資金が3月初旬に失効しても、当面は運営を継続すると農務省の広報担当者がCNNに語った。 補足栄養支援プログラム(SNAP)に登録している人は、 フードスタンプの給付金を受け取ることになる 例年通り3月に 。 また、妊婦、新米ママ、乳児、幼児は3月も引き続きWIC給付金を受け取ることになる。 (WIC は正式には、女性、幼児、および子供のための特別補足栄養プログラムとして知られています。) これは、10月に政府機関が閉鎖されていた場合に起こっていたこととは異なります。 USDAは当時、閉鎖から数日を超えて通常のWIC運営をサポートするのに十分な資金がないと述べたが、個々の州にはプログラムを継続するための追加資金があった可能性がある。 全体として、政府機関は2023年9月のガイダンスによると、閉鎖に伴い約9万7000人の職員の59%を一時帰休させると予想している。 食品安全・検査サービスの従業員のほぼ全員が仕事を続けるほか、動���物の健康検査サービスのスタッフの半数強も仕事を続けることになる。 しかし、緊急目的を除いて、裁量資金による新たな農村開発融資や補助金は行われない。 エネルギー エネルギー省は、潜在的な政府機関閉鎖中に何が継続し、何が停止するのかについて広範な定義を提供しています。 には、「生命や財産の保護に関係のない活動 指針 、大統領の憲法上の権限の行使に不必要な活動、年次支出以外の資金で資金提供されていない活動、または法律で明示的に許可されていない活動は停止される」と記載されている。 ガイダンスでは、5日以内の短期間の閉鎖のみであれば、エネルギー省の業務に「混乱は生じない」と予想されると述べている。
連邦政府、部分的閉鎖に向けた準備の正式プロセスを再び開始 | CNN 政治
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世界樹の迷宮の二次創作の設定集
設定ばっかりたまっていくけど、今日のうちに投げとくよ
・世界樹の迷宮とは?
2007年に第1作が発売された3DダンジョンRPGで、ダンジョン探索に全振りしたゲーム��よ
5人で1パーティとなるキャラクターを設定し、あとは5階ごとにフロアの装飾が変わる過酷な地下迷宮をひたすら探索するゲームで、町の人や先輩冒険者との会話以外特にストーリーもないゲームだからパーティー間の会話や関係性は妄想し放題だよ
今年6月にSwitchでリメイク版が出たから購入したけど、過酷すぎて全然進まないよ
特徴はマップを自分で描く作業があることなんだけど、Switch版だとオートマッピングができるので少しハードルが低いよ
でも扉とか階段とかは自分でアイコン置かなくちゃ記録できないよ
・キャラクターの設定って?
1個の職業ごとに5種類の立ち絵が用意されていて、立ち絵に職業制限はないから、名前と職業と立ち絵を決めればいいよ
・元ネタがわかりやすすぎる
それはごめんやで
そのものずばりの名前つけてた人フォロワーにいたから私もやってみようと思って
・本文
クソ長いので次のリンクの下から行ってね
役職:ソードマン(マンって言い方気に食わねえな、ソードマスターとか言えないのか?)
名前:メイユイ
別名:ハオラン(旧名)
年齢:18歳
GI:トランス女性
身長:170cm
体重:62kg
性格 非常に好奇心が強く突拍子もないことをしたり言ったりしがちだが、基本的には泰然自若としていて、パーティーのリーダーにふさわしい器をしている。わりと平気な顔をして死地に突っ込んでいくところがあるので、旧知の仲であるクリストフとアーリフの心労は絶えない。シエロから一方的に「主人」としてみなされており、ビャッコからも「将来が楽しみネ」と言われている
個性 ごくゆるいオムニロマンティック/オムニセクシャルで男性とみなした人に恋愛/性愛的な関心を抱くことが多かったが、勇敢だが落ち着いてさわやかな人物なので、男装時代は女性との交際経験が多く、男性とはまだ交際したことがない。
特技 パーティー一の怪力でクリストフをもしのぐ火力がある。
能力・スキル 得物は斧や剣を使うことが多く、斧による高火力の攻撃が決め手となることが多い
見た目 茶色いロングヘアを後ろで三つ編みにしていて、額をすっきりと出している。細身で筋肉質。この世界で言うアジア系のルックスをしている。
生い立ち 古い武家の次男の「ハオラン」として生まれたメイユイは、武芸の稽古こそ楽しんではいたが、自分が「男」であることには強い違和感���感じていた。幼い日のこと���「君が女子だからと言って僕が手加減したらそれこそ君に失礼だろう」と神学校の同級生のアーリフに勝負を挑まれた際に言われたこの言葉で、「彼女」は自分のアイデンティティがやっとわかった。それから「彼女」の本当の自分を手にするための冒険が始まる。
背景 兄より武芸に秀でていたので家督を継げないことを惜しまれてはいたが、性別違和を形にできた後は本人は兄には悪いが安堵を覚えている。見抜いたアーリフの次に相談したのは担任であったクリストフ。クリストフに相談しながら周囲や家族に性別違和を伝え、今回の旅立ちの許可に至った。
その他 「本当の自分を取り戻す秘術」は現実世界で言う性別適合手術を魔法でやるというもの。現実の手術と同様に負担が大きいのでやはり健康な人にしかできず、費用も高額である。保険がない世界なので。
役職:メディック
名前:アーリフ
年齢:18歳
GI:シス男性
身長:173cm
体重:65kg
性格 パーティーの中で一二を争う高い倫理観を持つストイックな人物で、困っている人を見ると放っておけない青年。それは彼が移民の女性カップルの養子であり、ゲイであることもだいぶ関係していると考えられる。けがや病気の治療にあたるメディックで腕を磨いている最中だが、治療の途中に「自分を大事にするように」と説教をしてしまいがち。
個性 自分の民族的ルーツはわからず、生まれたばかりで教会に預けられたところを移民の女性同士のカップルに育てられたシス男性のゲイで、ママたちからは無理しないでいいと言われていたが成長期の終わりとともにヴィーガンを始めた。
特技 特技は料理。ヴィーガンを達成するのに必須のスキル。得意料理はダー���(豆)カレー。ってか動物性食品のコクにかわってスパイスで味に変化をつけるので大体料理が香りが強く辛い。シエロが辛いのが苦手なので料理をあまり食べてくれないのが悩み。
能力・スキル けがや病気の治療が職業で、けがをしたときは彼に頼めば回復薬を使うより効率が良い。ただ命は大事に!と説教はされる。食材探しも兼ねているので、ダンジョン内の採集も得意。
見た目 イメージは南米ルーツの白人とアフリカ系黒人のミックス。肌は薄めの褐色で髪がカーリーヘアではない。これは立ち絵の都合。これまた立ち絵の都合で重装備になっているが、「回復役が倒れてはならない」という責任感で重装備をしていることにした。実際努力家でトレーニングもしていて力も結構強いほう。
生い立ち 所得に余裕はなかったが息子にちゃんとした教育を施してやりたいと思ったママたちは彼を比較的学費の安い神学校に入れる。幼い日に神学校に入ったばかりのころにメイユイ(その頃は「ハオラン」と名乗らされていたが)にライバル宣言をしたが、その流れで「彼女」が女性であると見抜く。以降二人は親友兼ライバルになり、メイユイの「本当の自分を取り戻す」旅にまで一緒に出ることになるわけだが。
背景 この世界は結婚にかんしてあまり手続きがちゃんとしていないので同性カップルが肩身の狭い思いをすることはないが、みんな平等に過酷な環境で生きているので、結婚のメリット自体が二人で所得を得られることと家事や育児を分担できること以外あんまりない
役職:パラディン
名前:クリストフ
別名:神父様
年齢:40歳
GI:シス男性
身長:190cm
体重:80kg
性格 やや潔癖なきらいのある高潔な人物。もともと神父をしていた関係で神学校の教師をしていたが、教会の教義にずっと疑問を持っていたのが耐えられなくな��、聖騎士の資格を取り教会をやめた。年下からモテがちで、若い女性から迫られたら非常に慎重に対応するが、男性および男性に見える者に迫られてしまうとガードが緩くなってしまう。
個性 博識かつ逞しい偉丈夫で凛々しく堂々とした人物。教会にはずっと隠していたが、バイセクシャル/バイロマンティックで、10代のころに男性の恋人がいた。しかし教会に入るために別れることを選んでしまい、それをずっと悔やんでいる。その後女性と結婚はしたが、その時の後悔が漏れ出てしまい、長期間の話し合いの末婚姻は解消した。子供はいないが子どもの未来を守りたい気持ちがあったので神学校の教師になった。が教義を教えるのが辛くなり、クィアの生徒たちも何かを感じ取ったのか自分を頼って相談してくれるようになり、やはり教会の教義に従うことはできないと思い、今度は聖騎士としてクィアの生徒たちと旅に出ることにした。
特技 アーリフほどは凝らないが料理ができる。シエロは好き嫌いが非常に多いが、クリストフの作った料理は食べられるものが比較的多い。料理を教えるのももともと教師だったのでうまい。しかしメイユイは素晴らしい生徒だったが料理だけは教えても全然うまくならない。クリストフによると、たぶん力の加減ができていないとのこと。ゆうてクリストフも自分一人分の飯を作るときはキャベツ引き裂いたり骨を素手で砕いたりはする。
能力・スキル パーティーメンバーをかばうのが本職。立派な体格であり鍛錬も欠かさないので力もかなり強い(クリストフよりメイユイが火力があるのは彼女がとんでもない怪力だから)。簡単な回復の術も使える。
見た目 多くの人がイメージがしやすい白人の偉丈夫。背が高くがっしりとしていて、着やせしているが特に上半身が立派。髪は色が薄めの栗毛で、鼻が大きい。それゆえシエロからは「あのツラとガタイだろ?神父様はきっとアソコも立派だぜ」とド失礼なことを言われている。
生い立ち 彼自身はごく普通の家庭の出身と思ってはいるが、彼の家より苦しい状況の人はかなりいるという感じ。教会の運営に入り、教会を訪れる人と教会で働く者たちの状況があまりにも違うことに気が付きまずそこから教会への違和感を感じた。実は少年のころ今と変わらない姿のビャッコと出会っていて、世話も多少焼かれているが、本人はうっすらとしか覚えていない。
背景 この世界の教会は現実のカトリック教会に近い教義であり、やはり同性愛や妊娠中絶には厳しい。現実のカトリック教会ほど力を持っていないが、葬儀などは行うし、現実社会で言う公的機関の機能の一部も担っていて、学校などを運営していたりする。もちろん他の経営母体の学校もある。
役職:ダークハンター
名前:シエロ
別名:自称「悪魔」
年齢:非公開
性別:人間の定義で言うとノンバイナリー(本人曰く、「悪魔が人間の性別に従うわけないだろ」)
身長:180cm
体重:65kg
性格 冒険者ギルドに来たメイユイ・アーリフ・クリストフにビャッコとともに声をかけてきた。彼女たちに声をかけ、旅の動機を聞くと、メイユイを「勇者サマ」と呼び、気に入ったから一方的についていくと宣言する。下品で乱暴で欲望に正直、人を小バカにした態度を取りがちで、この世界の常識と規範を常にバカにしくさっているが、常識を疑い規範に抗う人間への協力は惜しまないと公言している。クリストフのことをメイユイたちに倣い「神父サマ」と呼んでいて、よく「誘惑」している。
個性 「悪魔」を名乗っていて、常識や規範をかなり厳しく罵倒するが、それは人間が自分以外の生物を搾取するようなものに対してである。本当に悪魔かどうかはわからないが、人を誘惑して重要情報を聞いたり、差別的な輩をだましてひどい目に遭わせたりするのはよくやる。「悪魔が人間の性別に従うわけないだろ」とパンセクシュアル/パンロマンティックを公言していて、自分の性別もバイナリーな表現をされると激昂する。性的に奔放だが、「器がデカい奴としか本気で寝ない」「性別気にしない奴がみんな俺みたいにすぐ誘ってくる奴ばかりじゃないのは知ってるぜ」などと言っている。器がデカい人物に惹かれると公言する通り、大物になりそうなメイユイとすでに立派な人物のクリストフが大好きなことを隠さず、愛でたり誘惑したりしている。しかし、アーリフもちょっかいをかけられており、純朴な彼はいちいちこいつの挙動に悩まされている。
特技 戦闘上では搦手を得意としており、得物は鞭が基本、剣も使える。鞭により対象の動きを制限したり状態異常にしたりといった搦手でじわじわといたぶるのを好む。実は鞭の必殺技が設定上すべてのスキルの中で最も火力が高く、その名も「エクスタシー」。
能力・スキル 戦闘以外では情報集めが得意で、町で単独行動した後に情報を持ち帰ってくるが、どうやらワンナイトでの「遊び」も兼ねている様子。ただ、基本的にその時にターゲットにしているのは一流の冒険者や組織で権力がある者である。「器がデカい奴としか寝ない」と言っているが、大人に寛容な対応をしてもらうとそういう形で「お礼」をしてしまおうとしがちであり、過去の厳しい経験があるだろうと推測されている。
見た目 ボサボサの銀髪にアーリフよりだいぶ濃い褐色の肌で、瞳は黄色っぽい。悪魔の力を使うときに瞳孔が横になりヤギっぽい目になる。普段は男性表象寄りで素肌にファーのついた上着を着ているという暑いんだか寒いんだかわからない格好をしている。腹筋が割れているのは痩せ気味のせい。外見年齢は20代半ば。悪魔の力で少し見た目を変えることができるらしいが、「続きはベッドで教えてやるよ♡」とのこと。
生い立ち 「悪魔」を名乗るまでの経歴は秘匿されているが、最初は人間として生まれ、幼いころはかなり厳しい環境で育ったらしい。絶望に沈みすべてを呪っていたらある日「悪魔」が現れて契約をして力を手に入れたとのこと。「悪魔」としての考え方はそいつから学んだらしく、「悪魔ってのは人間の欲望を肯定することで生まれた存在だから、基本的には人間の味方なんだぜ、だから悪魔はルールを押し付けて罰したりしないだろ?だから俺も悪魔らしく『人間』の誇りを取り戻そうとしてる勇者サマについていくわけだ」と言っている。自身の性別に関しては悪魔と契約する前からもともと男女二極でとらえてほしくないと感じていた。
背景 舞台となるエトリアは小さい街で迷宮探索目的の冒険者でにぎわっていて今は景気がいいが、エトリア以外の集落は規模や治安も様々で、格差の状況も様々。シエロは大きい城塞都市の非常に治安の悪い地区の生まれで特に格差が目立つところの浮浪児だった。過去の王の失政により大量の失職者、家を失った者、親に捨てられた子供たちが生まれていて、シエロは親も知らずそこで育った。シエロがエトリアの話を聞いたのは、悪魔と契約した後に誘惑したエトリア帰りの冒険者の寝物語が初めてだった。エトリアの情報を集めていくうちに、シエロの中で「悪魔がこんなところでくすぶっていてはいけない」という思いが大きくなり、拠点をエトリアに移し、自分が従うにふさわしい人間を狙うことにしたのだった。
その他 パーティーで一番の小食なので、メイユイと外食(ってかデート)した際にお互いに大盛と小盛を頼んであとで交換しましょうかと言われたが、「いや、そのままで行こうぜ、人目なんか気にするのは俺達らしくないだろ」とそのままメイユイは大盛を頼み、シエロは小盛を頼ん��。
役職:アルケミスト
名前:ビャッコ
別名:彼女の出身国での表記は「白狐」
年齢:???
性別:シス女性(人間ではない)
身長:172cm
体重:非公開
性格 シエロとペアを組んでメイユイたちに声をかけてきたアルケミスト。メイユイのことを気に入り「勇者ちゃん」と呼び、シエロと同時に彼女たちについていくことを表明する。大柄な中年男性のクリストフのことをなぜか「クリスくん」と呼ぶ。シエロと結構長いこと組んでいて、頻回に寝てもいるが、全然特別な感情はなく、大体の人間を変なあだ名で呼ぶ彼女だがシエロのことは「シエロ君」と変なあだ名もつけずに呼ぶ。
個性 はるか昔に遠い島国から移り住んできた「妖(あやかし)」で、狐の姿を持っている。アロロマンティック/アロセクシュアルのレズビアンで、メイユイがこれから施術を受けようとしているトランス女性であることも理解したうえでメイユイのことを愛しているが、年の差がありすぎるので一歩引いている。先に書いたように人外となったシエロとは冒険上のバディ兼欲望をぶつけ合うパートナーだが、回復ができる仲間がおらず、痛みを伴う激しいプレイができずにいた。
特技 博覧強記であり、速読でありながら読んだ内容も人間とはかけ離れたレベルで記憶できる。クリストフも人間としてはインテリではあるがそれとはレベルが違う。また食べる量が自由にコントロールでき、食料に困ったときは食べなくても生きられる。しかし本当はたくさん食べ��のが好き。
能力・スキル この世界には錬金術があり、それを活用して属性攻撃を行うのがアルケミストであるが、妖術を得意としていたビャッコの能力が解析された結果もそれに等しいものである。特に火属性の妖術に長けている。
見た目 金色のストレートヘアと涼やかな一重の目元の妙齢の女性の姿をしている。とんでもない長い時間生きていて見た目が変わらないので住むところを転々としていたが、冒険者はその状況にあっていてやりやすいようだ。エトリアでよくみられるアルケミストの服装に合わせて、両手に仰々しい籠手を付けている。
生い立ち はるか昔から人の営みを見守ってきていて、実は世界樹の成立を知って興味を惹かれてエトリアの近辺に移り住み、世界樹についてずっと調査を続けている。世界樹が広がるときに多くの人間が犠牲になったのを悼み、その弔いのつもりで何回も世界樹の迷宮に挑んだが、そのたびに人間の仲間を失ってきた。やっと出会えた人間ではない仲間はずいぶん変な奴だが、そいつと今も一緒にいる理由は、そいつの信念に沿った人間こそがこの状況を打破してくれると信じられたから。
背景 ビャッコは途方もない長い時間世界樹の研究を続けているのだが、何せ彼女も社会的な状況もあって正体を明かすことができないので、せめて何世代も続けて書いてきたというていで世界樹の秘密を書物にしたいと考えている。実は幼いころのクリストフに勉学の楽しさを教えたのはビャッコ。姿を変えてないのがバレるとまずいのでクリストフの記憶をいじってその辺をあいまいにしている。
役職:レンジャー
名前:シータ
年齢:35歳
性別:シス女性
身長:158cm
体重:「なんで聞くのよ…」
性格 シータはエトリアから離れた川のそばの大きな国で夫とともに戦士として国に仕えていた。しかし、夫は獣討伐の任務の際に命を落としてしまう。夫に先立たれた際にその国の風習により夫を火葬する火の中に飛び込むことを強制されたが、幼い娘を連れて逃げてエトリアまでやってきた。普段は戦士としての冷徹さがありながらも男尊女卑が厳しい国で抑圧されてきたため遠慮がちであるが、いざとなったら上記のことをやり遂げるほどの胆力がある。
個性 夫のことは当時は好きなはずと思っていたが、国を出たことでその国に凝り固まった価値観を知り、それゆえに夫すらも視野が狭かったと思っている。実は誰にも言っていないが夫の前に交際していた男性が何人かいる。国の法律でばれたら拷問されるからずっと隠してはいたが。冒険者になったのは娘の養育費用のためで、自分が夫の後を追えば娘の生活を保障してやると国に言われてはいたが、自分に対してそのような扱いをする国のことが信用できなかった。娘には自分のように強制された職業ではなく好きなことをやらせてやりたいと思っている。
特技 非常に高い視力を持っている弓の名手。弓の名手であることが知られたがゆえに王宮に連れてこられ、そこで夫となる若い兵士と出会った。我慢強く育てられていて、食事にこだわりもないので長期間の野営もお手の物。こだわりがないゆえに別に料理上手というわけではないが、毎日毎日毎日毎日食事を作ることに苦痛を感じない。こだわりがなく自分と家族の生存に必要な作業としかとらえていないので。
能力・スキル 弓は命中率が相当高く、とどめの他足止めにも使える。また野営が得意なので迷宮内での素材集めも得意。
見た目 あまりカールしていない黒髪と褐色肌で割と肌が出た衣服をまとっている。エトリアではバード(吟遊詩人)のような衣服ととられやすい。肌が出た衣服は国の戦士だった頃から来ていた。任務に出ていない時は国でつけていた金属製の飾りをよく装着している。
生い立ち 河のそばの国の小さい村の出身で、その村出身の革命家となる父の指導で戦闘訓練が行われていた。その中で弓の才能が見いだされたのがシータである。父らの激しい戦いで祖国は植民地化を免れたが、父はその戦いで犠牲になってしまった。父が守ってくれた祖国に尽くすことこそが自分の生きる道と思ったが、子を迎え、夫の死後の自分や子供に対する国の扱いのひどさを知り、これからは自分と娘のために生きようと思った。それから彼女の人生が新たに始まったのだった。
背景 元ネタはRRRが入っていてそこは大丈夫なのか心配になる。
今いるキャラはこのくらいで、今のところシータさん以外で旅しています。シータさんは採集パにしたほうがいいかもしれませんが、彼女は戦士なので、戦いたいかもしれません。
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2024.4.22mon_tokyo
朝はいつも同じ。 自分の世話よりも先に、息子の世話から始まる1日。
もう少し寝ていたい、、と思いつつも「起きようよ!!」と起こされる。 起きてすぐに謎の”戦いごっこ”とやらに誘われる。 恐竜のフィギュアや、トミカなどの車のおもちゃたちを戦わせる遊びなのだそう。 「うわあ〜〜やられたああ〜〜」なんて言いながら、途中途中に「朝ごはんどうする?」の声かけは怠らない。
いつも決まって「ヨーグルトとピザトースト!」と言い出すもんだから フルーツをたっぷりのせたヨーグルトと、コーンとツナにチーズをたっぷりかけたピザトーストをせっせと素早く作って提供。
よーし、よく食べてるぞ。と思ったら「あとはママが食べていいよ」の一言。 ママはパンよりごはん派なのに、、、!! ヨーグルトより味噌汁派なのに。。。
オムツからパンツに履き替えさせ、お着替えもさせて、いざ保育園へ出発!と思ったら「まだ全然あそんでない!!!」と怒られる。 なぜ、私が怒られなければいけないのか。。
やっとの思いで靴下を履かせ、靴を履かせ、ヘルメットをかぶせてママチャリの後ろに息子を乗せるとようやく出発できる。 ぎりぎりの時間に登園はデフォルト。
なんとか送り終えたあ、、、さてカフェで珈琲でも飲んでから帰って仕事しよう。と思ったら、ママ友とバッタリ。 「ちょっとお茶しない?」となって2人で珈琲タイムが始まった。
いつも決まって子供の話。 なぜならば、3歳児という宇宙人の取り扱いに、どんなママも困っているから。笑
「うちはいつもこうなんだけど、他のお宅はどうなんだろう、、」と悩むママ友。 「や、本当にどこも一緒だと思うよ。」という一言をかけながら、自分自身に言い聞かせた。 それぞれ個性があるからみんなが全く一緒という意味ではなく、各々大変なことがあるよねという意味で。
本当に人間皆「生きてるだけでエラい!!」と思うのだ。 それにプラスして「我が子を死なせない」ってだけでまじで偉すぎる。 ウチら、えらいじゃん。よく頑張ってるじゃん。
たっぷり2時間話してから、ママ友と解散。 帰宅して、今日終わらせるべき仕事を全て終わらせるべく奮闘。
気づけばすぐお迎えの時間だ。
1日が過ぎるのなんてあっという間だし、寝る時までずっと子供と向き合うわけだけど、布団に入ってからいつも自分に「今日も頑張ってくれてありがとう。本当偉過ぎ!よく頑張ったねえ。本当に大好きだよ~~」と心の中で声かけをして眠る。自分で自分にエールを送って、明日も頑張れますように!
-プロフィール- 近藤めぐみ 34歳 東京在住 料理をする人 / めぐみのOYATSU @megumi_no_gohan @megumi_no_oyatsu https://megumi-no-oyatsu.stores.jp/
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2005年の実際の事件 丸子実業高校バレーボール部員自殺事件 高校生が自殺して、遺族の母親が部活でのいじめを訴えて毎日新聞がスクープに 母親と人権派弁護士が部員や学校関係者(校長は殺人罪)を提訴して、マスコミやワイドショーが大騒ぎ 学校や部活には嫌がらせの電話やFAXが届いて対応に追われたが、マスコミが報じなかったその後の経過は... 終章より "マスコミは、事件の第一報こそセンセーショナルに報じるが、よほどの大事件でもない限り、判決にはたいして紙面を割かない。原告側に立って一方的な報道を展開したマスコミは、なおさらである。 その結果、この丸子実業の事件は、第一報の通り、「いじめ自殺事件」として人々の記憶に漠然と刻まれたまま風化してしまったのだ。 " 以下、経過・感想含め長文 【胸糞が悪くなるから注意】 自殺した生徒は、虚言・暴言が多い事で地元でも有名な母親の元で虐待を受けて育つ 母親はしばしば包丁を振り回して、口癖は"死ね! ""死んでやる!""訴えるぞ! " 離婚歴は3度で、暴言などの証拠を残していた元夫から���訴されて慰謝料請求600万円(踏み倒し) 騒動が絶えず精神科措置入院も検討されていた 生徒は幼少期から周囲の親戚や大人たちからも心配され、お風呂や食事の世話も受ける 母親から離れる事を提案されるもの 「僕がいなくなったらママがかわいそう」と ある程度の年齢になると家事を担っていた 生徒は児童相談所の介入も受けており、母親を介さずに先生や友達と連絡を取りたいとの訴えも ↓ 高校へ入学してからは強豪バレー部で友人たちとも良好な関係だったが、母親から逃れるため家出 部活のメンバーや顧問らが捜索 母親が家出の責任を学校になすりつけた猛攻撃を開始 生徒がいじめを受けていると訴え、教育委員会や学校関係者や役所や市議会議員などに抗議の電話・FAXをしまくる 生徒は不登校になり、友人らがメールをしても不審な返信が来るようになる(母親が携帯を取り上げてなりすましていた可能性) 生徒の直筆だったり明らかに違う筆跡で、いじめの詳細ノートが作成される(母親が虚偽記載を行ったり強要した可能性) ↓ 学校関係者や友人は母親の異常性に気付いて生徒を救おうとしていたが、生徒が自宅で首吊り自殺 毎日新聞が"いじめ自殺"としてスクープ 人権派弁護士と母親が組んで学校と部活と保護者を提訴し、校長には殺人罪という異例の訴訟に 弁護士と母親がマスコミ各社に虚偽の情報提供をしまくる それをそのまま鵜呑みにしたマスコミ各社が強豪チームの凄惨ないじめと隠蔽体質の学校と人でなしの教師たちというステレオタイプの報道を繰り返す いじめ撲滅を謳う市民団体や議員からも、悲劇のヒロインとして祭り上げられる ただ、地元メディアは母親の異常性に早くから気付いており、大手メディアのような扇情的な報道はせず この母親との面識がある人間は口を揃えて、母親こそが真の加害者であると思ったと 裁判でも明らかになるが、別れた夫への発言 "私はいじめ自殺で息子を亡くした気の毒な社会的弱者。世間はみんな私の味方だ! 私には全国に弁護士を含めた支援者がいる! " ↓ マスコミ報道の影響で、部活は大会出場辞退に追い込まれたり部活のメンバーや学校へも嫌がらせが続く その間も顧問や生徒や保護者は出廷を続ける 校長も殺人罪は無実の罪だと主張 実際にはいじめの目撃者も事実もなく、母親の異常性を知っていた部活のメンバーや保護者らから、逆に母親を虚言などで3000万円の損害賠償訴訟開始 ↓ 裁判では母親の虚言・攻撃性が次々と暴かれ、真の加害者が学校や部活ではなく母親だと明らかになる バレー部も校長らも完全勝訴(母親は請求額踏み倒し) 次第にマスコミはこの事件を取り上げなくなるが、判決が出ても第一報のスクープを報じた毎日新聞や週刊誌は学校関係者を批判する記事を掲載 ↓ 母親に加担してマスコミに虚偽の情報を流しまくった人権派弁護士へ懲戒請求が成立、この弁護士の処分が確定(マスコミは報じず) 2005年のセンセーショナルなマスコミ報道から、最終的に決着が着いたのは2013年 学校関係者や巻き込まれた生徒・保護者は加害者ではなく被害者だった訳だが、マスコミによって奪われた彼らの貴重な時間や名誉は回復しない 筆者自身も書いているが、自浄作用もなくこういった報道姿勢を繰り返す日本のマスコミが"マスゴミ"と揶揄されるのは、やむを得ないだろうと 自分は医者だから、タミフル騒動やHPVワクチン騒動や大野病院事件や大淀病院事件や水口病院などなど、医療分野においては嫌というほど日本のマスコミのクソさを知っているが、多分ありとあらゆる分野でクソなんだろうな 知らんけど
Xユーザーのたぬきち
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. シドルペシャワル蜂蜜とオーガニックレモンでドレッシング🍋🍯 . . インスタライブでもご紹介したドレッシングの作り方🥗 . . ご要望を頂いたので、こちらでもご紹介します🍋 . . 用意する物 ①レモン2個(出来れば有機の物) ②シドルペシャワル蜂蜜250g ③塩胡椒 ④ブラックシードの種 . . ①のレモンを薄く切ります。1つは皮を剥いて1つは皮付きで! 蜂蜜500gが入るぐらいの大き���の瓶に薄切りにしたレモンと②の蜂蜜を交互に入れていく。 . . 蜂蜜がレモンに全体に浸かるように入ったらしっかり蓋をして、1日漬けておく。 . . レモン汁が出て蜂蜜としっかり混ざりあって液体状になったらレモンの蜂蜜漬けは出来上がり! これはシロップとしてジュースにもなります☝️ . . 炭酸水や水で割って自家製レモネード! お湯で割ればホットレモンにも☕︎ . . ☝️で出来たレモンの蜂蜜漬け大さじ2から3杯をボウルに入れて塩胡椒。 ブラックシードの種を粉末状でもそのままでも気分に合わせて好きなだけ入れて下さい🌿 . . 自家製ドレッシングの出来上がり! . . とっても美味しくて簡単なのでぜひ作ってみて下さい💛 . . シドルペシャワル蜂蜜もレモンも漬ける事でビタミンも一緒に摂れて一石二鳥👏 . . 皆さんも定番の自家製ソースやドレッシングはありますか? . . @hayanatural . . #自家製ドレッシング #オーガニック #自然派育児ママ #フランス子育て #手作りソース #ブラックシード #おうちじかん #キャンペーン実施中 #プレゼント企画 https://www.instagram.com/p/B_5KlBRqjSz/?igshid=1hdsame2rd1a7
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インスタ医療団のタグが付いている投稿を見ていましたら、とんでもない恐ろしい投稿がされているのを見つけました‼️ 「ワクチンは、救済制度があるから安心だ」というものです。 私はびっくりして、目玉が飛び出て、顎が外れてしまいました。 あがががが、、、、 確かに国の方で、ワクチンの救済制度が整備されています。 しかしそれは、金銭的な援助の話であって、 一度損なわれてしまった、健康が戻って���るわけではありません。 この投稿をしたインスタ医療団員は、あたかも「お金さえもらっていれば文句はないだろう?」 と言わんばかりの投稿です。 人命や人の健康をお金で埋め合わせることができると言いたいのでしょうか? ワクチンを打たなければ、健康な体は損なわれることはなかったのです。 お金で償えるものではありません。 お金がもらえるから安心だ、、、 などと、よく言えたものです。 真っ当な人間の心を持ち合わせているとは思えません。 東洋医学健康アドバイザー 松本康男 ワクチンと因果関係を証明するのは、個人です。 金銭にもらうにしても、 その証明をしなければ、お金をもらうこともできません。 がん治療の嘘をテレビで唱えた近藤誠さんのワクチン本です 。 https://facebook.com/yasuboy/photos/a.136378273679951/429812541003188/ 子宮頸がんワクチンは、明らかな国家犯罪。 https://www.facebook.com/boy.yasu/posts/2306836612727672 その他のワクチンも一切効果はない。 . . ★気をつけろ!ワクチンは、医療テロだ! https://facebook.com/yasuboy/photos/a.136378273679951/434523997198709/ 子宮頸がんワクチン副作用_拡散希望 https://www.facebook.com/boy.yasu/posts/2301758066568860 ワクチンの恐ろしさを知りましょう。 ワクチン副作用、63人提訴 子宮頸がん、15~22歳女性 https://www.facebook.com/boy.yasu/posts/2274582352619765 子宮頸がんワクチンのせいです。 子宮頸がんの発見数が増えたのなら・・・ https://www.facebook.com/boy.yasu/posts/2026406047437398 取り戻そう!少女たちの未来を! https://facebook.com/yasuboy/photos/a.136378273679951/403907766926999/ #感染症 #ワクチン #インスタ医療団 #ワクチン #ワクチン接種 #インスタ医療団_予防接種 #自然派ママ #自然派育児 #反ワクチン #ワクチン副反応 #ワクチン副作用 #インフルエンザ #インフルエンザワクチン #副反応 #副作用 #子宮頸がんワクチン #子宮頸がん #子宮頸がん検査 #ノーワクチン #船瀬俊介 #内海聡 #近藤誠 #真弓定夫 さん達の情報が正しい。真実であり、正論。 #風疹 #風疹ワクチン #自然派 #自然派育児 #混合接種 #混合ワクチン #インスタ医療団 #ワクチン #ワクチン副作用 #ワクチン副反応 #しゅんしゅんクリニックp https://www.instagram.com/p/CD1mW8gjftS/?utm_medium=tumblr
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氏家家の庭に大きな柚子の木。毎年沢山実ります。お客様へのお土産に🍃皆様に喜んで頂き良かったです♡ #柚子 #お土産 #お客様へ #栃木美容室 #美容室エスポワール #さくら市氏家 #さくら市 #さくら市美容室 #氏家理恵 #ちょうどいいさくら市 #季節物 #柚子の蜂蜜漬け #柚子の香り #柚子風呂 #柚子ジャム #柚子採り #傷まないカラー #パワースポット #自然派ママ #自然派育児 (美容室ESPOIR(エスポワール)) https://www.instagram.com/p/BqJ1we7AZHz/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1pxrklc718w1d
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泣いた、泣いた。久しぶりに泣いた。
久しぶりに思ったことを口にした。
昔から本音を言うときに涙が出ちゃうんだけど、最近よく見るHSPというのに当てはまってる。私の場合外交的なHSPなんで全然そんな風に思われてないけど、思われてない方が楽だし、思われてないけど繊細だよっていう自分も嫌いじゃない。
まあ所���夫婦喧嘩な訳だけど、ワーママを見下すような迷惑がるような旦那の愚痴に噛み付いてしまった。
以前も何度かそんな風なことを言ってたけどその時は聞こえてないふりをしていた。
けど、産休育休取って迷惑、定時で帰るなんてムカつく、こっちは夜中まで仕事してるのにあの人は有給フルに使ってる。
そんな物言いに流石に耐えられなくなった。
いや、わかるよ?皺寄せで自分が忙しくてしんどいのはわかるよ?けど、文句を言う相手は権利をちゃんと行使して仕事と育児両立させようとしてる人じゃなくて、仕事の采配が下手な上司と人手不足を招いてる人事でしょ?
あぁ、この人は私が近い将来ワーママになりたくて、けど家事や育児もきちんとやりたくて、家族にも職場にも迷惑をかけない働き方を模索して自分の力量不足に悩んでる私の気持ちなんて1ミリも理解できないんだなって悲しくなった。
私はあなたのそう言う愚痴を聞く度に自分もこんな風にいつか言われるのかなって悲しくなるんだよ。
現状への不満とただの憂さ晴らしの悪口の区別くらいつけて。
泣きながらこんな風に言いたいこと全部言った。スッキリしたけど向こうはちょっと納得いってないみたいだった。
知らんけど。
働くママと働きたいママ、もっとみんな当たり前に両立の手助けができる世界になってほしい。
話しはズレるけど、子育て=ブランクって考え方もどうにかなってほしい。会社組織での仕事はしてないし勉強とかもできてないけど、立派に社会人としての経験だと思うんですけど。まるっきりのブランクじゃないよね、マルチタスクも視野の広さも子育てした人は多分その辺のサラリーマン以上だと思うよ。(これは言い過ぎかも)
とりあえず久しぶりに、と言うかほとんど初めて夫婦喧嘩してちょっと笑ってる。
明日起きたら目腫れてるかなぁ。児童館行こうと思ってたけど恥ずかしいな。
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私の家族の奴隷 My Family’s Slave/Alex Tizon
遺灰は、トースターくらいの大きさの箱に収まった。プラスチック製の黒い箱で、重さは1kg半。それをトートバッグに入れてスーツケースにしまい、マニラ行きの飛行機に乗って太平洋を横断したのは2016年7月のことだ。
マニラに降り立つと、車で田舎の村へと向かう。到着したら、私の家で奴隷として56年間を過ごした女性の遺灰を受け渡すことになっている。
彼女の名前は、エウドシア・トマス・プリド。私たちは、彼女を「ロラ」と呼んでいた。背は150cmで、肌はチョコレート色だった。アーモンドの形をしたロラの目が、私の目をのぞきこんでいるのが人生最初の記憶だ。
祖父が私の母にロラを“贈り物”として与えたとき、ロラは18歳だった。そして、家族が米国に移住したとき、彼女も一緒に連れていった。
ロラが送った人生を言い表すのに、「奴隷」という言葉以外には見つからない。彼女の1日は、ほかのみんなが起きる前に始まり、誰もが寝���まったあとに終わった。1日3食を用意し、家を掃除し、私の両親に仕え、私を含め5人の兄妹の世話をした。
両親が彼女に給料を与えることは1度もなく、常に叱りつけていた。鉄の鎖につながれていたわけではないけれど、そうされていたのも同然だった。夜中、トイレに行きたくなって目が覚めて、彼女が家の片隅で眠り込んでいるのを見つけたのは1度や2度の話ではない。洗濯物の山にもたれかかり、畳んでいる途中の服をしっかり握りながら──。
米国では、私たちは模範的な移民家族だった。みんなにそう言われた。父は法律の学位を持っていたし、母は医者になろうとしていた。それに私たち兄妹は成績が良く、礼儀正しい子供たちだった。
だが、家の外でロラの話をすることはなかった。それは、私たちが「どういう存在であるか」という根幹の部分に関わる秘密だったからだ。さらに、少なくとも子供たちにとっては、「どういう存在になりたいか」という問題に深く関係していた。
娘に「奴隷」をプレゼント
マニラに到着して預けた荷物を引き取ると、スーツケースを開き、ちゃんとロラの遺灰があることを確認した。外へ出ると、懐かしい匂いがした。排気ガスやゴミ、海や甘い果物、そして人間の汗が入り混じった濃い匂いだ。
翌朝早く、私は愛想の良い中年の運転手を見つけて出発した。「ドゥーズ」というニックネームだった。彼のトラックは、車のあいだをすいすいと通り抜けていく。
何度見ても衝撃を受ける光景が広がっていた。おびただしい数の車やバイク、そして乗り合いタクシー。まるで雄大な茶色い川のように、そのあいだをすり抜け、歩道を進む人々。車の横を小走りする裸足の物売りたちが、タバコや咳止めドロップの袋を売り歩く。物乞いの子供たちが、窓に顔を押しつける。
ドゥーズと私が向かっていたのは、ロラの物語が始まったタルラック州だ。また、そこは私の祖父トマス・アスンシオンという陸軍中尉の故郷でもある。家族によれば、土地をたくさん所有していたのにお金はなく、所有地の別々の家に愛人たちをそれぞれ住まわせていた。妻は、初めてのお産で命を落とした。そのときに生まれたのが私の母だ。母は「ウトゥサン」たちに育てられた。要するに、「命令される人々」だ。
フィリピン諸島における奴隷の歴史は長い。スペインに征服される前、島民たちはほかの島から連れてきた人々を奴隷にした。主に戦争の捕虜や犯罪人、債務者などだ。奴隷にはさまざまな形態があった。手柄を挙げれば自由を勝ち取ることができる戦士もいれば、財産として売り買いされたり交換��れたりする召使いもいたという。
地位の高い奴隷は地位の低い奴隷を所有することができたし、地位の低い奴隷は最底辺の奴隷を所有することができた。生き延びるために自ら奴隷となる人もいた。労働の対価に食料や寝床が与えられるし、保護してもらえるからだ。
16世紀にスペイン人が到来すると、彼らは島民を奴隷にし、のちにアフリカやインドの奴隷を連れてきた。その後、スペイン王室は自国や植民地で奴隷を段階的に廃止していったが、フィリピンはあまりに遠く離れていたので、監視の目が行き届かなかったという。
1898年に米国がフィリピンを獲得してからも、隠れた形で伝統は残った。現在でも、貧困層でさえ「ウトゥサン」や「カトゥロング(ヘルパー)」、「カサンバハイ(メイド)」を持つことができる。自分より貧しい人がいる限りはそれが可能であり、下には下がいるものなのだ。
祖父は、多いときで3家族のウトゥサンを自分の土地に住まわせていた。フィリピンが日本の占領下にあった1943年春、彼は近くの村に住む少女を連れて帰ってきた。
彼のいとこで、米農家の娘だった。祖父は狡猾だった。この少女は一文無しで、教育を受けていなかったし、従順に見えた。さらに彼女の両親は、2倍も年の離れた養豚家と結婚させようとしていた。彼女はどうしようもなく不幸だったが、ほかに行くあてがなかった。そこで、祖父は彼女にある提案をした。 12歳になったばかりの娘の世話をしてくれるなら、食料と住まいを与えよう──。
彼女、つまりロラは承諾した。ただ、死ぬまでずっとだとは思っていなかった。
「彼女はおまえへのプレゼントだ」と、祖父は私の母に告げた。
「いらない」と母は答えた。だが、受け入れるしかないのはわかっていた。やがて陸軍中尉だった祖父は日本との戦いへ赴き、田舎の老朽化した家で、母はロラと2人きりになった。ロラは母に食べさせ、身づくろいをしてやった。市場へ出かけるときは、傘をさして母を太陽から守った。犬にエサをやり、床掃除をして、川で手洗いした洗濯物を畳んだ。そして、夜になると母のベッドの端に座り、眠りにつくまでうちわで扇いだ。
戦争中のある日、帰宅した祖父が、母のついた嘘を問い詰めた。絶対に言葉を交わしてはいけない男の子について、何らかの嘘をついたらしい。激高した祖父は、「テーブルのところに立て」と母に命じた。
母はロラと一緒に、部屋の隅で縮こまった。そして震える声で、「ロラが代わりに罰を受ける」と父に告げたのだ。ロラはすがるような目で母を見ると、何も言わずにダイニングテーブルへ向かい、その端を握った。祖父はベルトを振り上げ、12発ロラを打った。打ち下ろすたびに、「俺に」「決して」「嘘を」「つくな」「俺に」「決して」「嘘を」「つくな」と吠えた。ロラはひとことも発さなかった。
のちに母がこの話をしたとき、あまりの理不尽さを面���がっているようだった。「ねえ、私がそんなことしたなんて信じられる?」とでも言っているようだった。これについてロラに訊くと、彼女は母がどのように語ったのか知りたがった。彼女は目を伏せながらじっと聞き入り、話が終わると悲しそうに私を見てこう言った。
「はい。そういうこともありました」
彼女が「奴隷」だと気づいた日
ロラと出会ってから7年後の1950年、母は父と結婚し、マニラへ引っ越した。その際、ロラも連れていった。祖父は長年のあいだ「悪魔に取り憑かれて」いて、1951年、それを黙らせるために自分のこめかみへ弾丸を打ち込んだ。母がその話をすることはほとんどなかった。
彼女は父親と同じく気分屋で、尊大で、内側には弱さを抱えていた。父の教えはどれも肝に銘じていて、その1つが、田舎の女主人にふさわしい振る舞い方だった。つまり、自分より地位の低い者に対しては、常に上に立つ者として行動する、ということだ。
それは、彼ら自身のためでもあり、家庭のためでもある。彼らは泣いて文句を言うかもしれないが、心の底では感謝しているはずだ。神の御心のままに生きられるよう助けてくれた、と。
1951年に、私の兄アーサーが生まれた。その次が私で、さらに3人が立て続けに生まれた。ロラは、両親に尽くしてきたのと同じように、私たち兄妹にも尽くすことを求められた。ロラが私たちの世話をしているあいだ、両親は学校に通い、「立派な学位はあるけれど仕事がない大勢の人々」の仲間入りをした。
だが、そこへ大きなチャンスが訪れた。父が、外務省でアナリストとして雇ってもらえることになったのだ。給料はわずかだったが、職場は米国だった。米国は、両親が子供の頃から憧れていた国だ。彼らにとって、願っていたことすべてが叶うかもしれない、夢の場所だった。
父は、家族とメイドを1人連れていくことを許された。おそらく共働きになると考えていたので、子供の世話や家事をしてくれるロラが必要だった。母がロラにそのことを告げると、母にとって腹立たしいことに、ロラはすぐには承諾しなかった。
それから何年も経ったあとにロラが当時のことを話してくれたのだが、実は恐ろしかったのだという。
「あまりに遠くて。あなたのお母さんとお父さんが私を帰らせてくれないんじゃないかと思ったんです」
結局、ロラが納得したのは、米国に行けばいろんなことが変わると、父が約束したからだった。米国でやっていけるようになったら、「おこづかい」をやると父は言った。そうすれば、ロラは両親や村に住む親戚に仕送りができる。
彼女の両親は、地面がむき出しの掘っ立て小屋に暮らしていた。ロラは彼らのためにコンクリートの家を建ててやれるし、そうすれば人生が変わる。ほら、考えてもごらんよ。
1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った。ロラが母のところへ来てからすでに21年が経っていた。いろいろな意味で、自分にとっては父や母よりも、ロラのほうが親という感じがしていた。毎朝最初に見る��は彼女の顔だったし、寝る前に最後に見るのも彼女だった。
赤ちゃんの頃、「ママ」や「パパ」と言えるようになるよりずっと前に、ロラの名前を呼んでいた。幼児の頃は、ロラに抱っこしてもらうか、少なくともロラが近くにいないと絶対に眠れなかった。
家族が渡米したとき、私は4歳だった。まだ幼かったので、ロラが我が家でどういう立場なのかを問うことはできなかった。だが、太平洋のこちら側で育った兄妹や私は、世界を違った目で見るようになっていた。海を越えたことで、意識が変わったのだ。一方で、母と父は意識を変えることができなかった。いや、変えることを拒んでいた。
結局、ロラがおこづかいをもらうことはなかった。米国へ来て数年が経った頃、それとなく両親に訊いてみたことがあるという。当時、ロラの母親は病気で、必要な薬を買うお金がなかった。
「可能でしょうか?」
母はため息をついた。「よくそんなことを言えたもんだ」と父はタガログ語で答えた。
「カネに困っているのはわかってるだろ。恥ずかしいと思わないのか」
両親は、米国へ移住するために借金をしていて、米国に残るためにさらに借金していた。父は、ロサンゼルスの総領事館からシアトルのフィリピン領事館に異動した。年収5600ドルの仕事だった。収入を補うためにトレーラーの清掃の仕事を始め、それに加えて、借金の取り立てを請け負うようになった。
母は、いくつかの医療研究所で助手の仕事を見つけた。私たちが両親に会えることはほとんどなく、会えたとしても彼らはたいてい疲れ切っていて不機嫌だった。
母は帰宅すると、家がきちんと掃除されていないとか、郵便受けを確認していないなどと言っては、ロラを叱責した。「帰るまでに、ここに郵便を置いておけって言ったでしょ?」と、敵意をむき出しにタガログ語で母は言う。
「難しいことじゃないし、バカでも覚えられるでしょ」
そして父が帰宅すると、今度は彼の番だった。父が声を荒らげると、家中の誰もが縮こまった。ときには、ロラが泣き出すまで2人がかりで怒鳴りつけた。まるで、ロラを泣かせることが目的だったかのように。
私にはよくわからなかった。両親は子供たちによくしてくれたし、私たちは両親が大好きだった。だが、子供たちに優しくしていたかと思うと、次の瞬間にはロラに悪態をつくのだ。
ようやくロラの立場をはっきりと理解するようになったのは、11歳か12歳の頃だった。8歳年上の兄アーサーは、ロラの扱いに怒りを覚えるようになってから何年も経っていた。ロラの存在を理解するために「奴隷」という言葉を教えてくれたのはアーサーだった。その言葉を知る前は、ただ不運な家庭の一員だとしか思っていなかった。
両親が彼女を怒鳴りつけるのは嫌だったが、それがモラルに反することであり、彼女の立場そのものがモラルに反することだとは考えてみたこともなかった。
「彼女みたいに扱われてる人を、1人でも知ってるか?」とアーサーは私に聞いた。そして、ロラの境遇を次のようにまとめた。
無給。毎日働きっぱなし。長く座ったままだったり早く就寝したりすると、こっぴどく叱られる。口答えをすると殴られる。着ているのはおさがりばかり。キッチンで残り物を独りで食べる。ほ���んど外出しない。家族のほかに友人はいないし、趣味もない。自分の部屋もない(彼女はどこか空いた場所に寝るのが普通だった。ソファかクローゼットか、妹たちの寝室の片隅か。よく洗濯物に囲まれて寝ていた)。
ロラと似たような立場の人を探しても、見つかるとしたらテレビや映画に出てくる奴隷だった。
奴隷の存在を隠し続けるしかなかった
ある晩、当時9歳だった妹のリングが夕食をとっていないと知った父が、ロラの怠慢を叱った。父は、ロラを見下ろしてにらみつけた。「食べさせようとしたんです」とロラは訴えた。だが彼女の返答は説得力がなく、さらに父をいら立たせるだけだった。そして、彼はロラの腕を殴った。ロラは部屋を飛び出した。動物のように泣き叫ぶ彼女の声が聞こえてきた。
「リングはお腹がすいてないって言ったんだ」と私は言った。
両親が振り返って私を見た。驚いた様子だった。いつも涙がこぼれる前にそうなるように、自分の顔がピクピクしているのを感じた。でも、絶対に泣くまいと思った。母の目には、これまで見たことのないものが浮かんでいた。もしかして、妬みだろうか?
「ロラを守ろうとしているのか」と父は訊いた。「そうなのか?」
「リングはお腹がすいてないって言ったんだ」
私はすすり泣くように、そう繰り返した。
私は13歳だった。私の世話に日々を費やしていたロラを弁護しようとしたのは、初めてのことだった。いつもタガログ語の子守唄を歌ってくれたし、私が学校に行くようになると、朝には服を着せて朝食を食べさせ、送り迎えをしてくれた。あるときは、長いあいだ病気で弱りきって何も喉を通らなかった私のために食べ物を噛み砕き、小さなかけらにして食べさせてくれたこともあった。
私が両脚にギプスをしていたときは、彼女は手ぬぐいで体を洗ってくれたし、夜中に薬を持ってきてくれたりして、数ヵ月におよぶリハビリを支えてくれた。そのあいだずっと私は不機嫌だった。それでもロラが文句を言ったり、怒ったりすることは1度たりともなかった。
そんな彼女が泣き叫ぶ声を聞いて、頭がおかしくなりそうだったのだ。
祖国フィリピンでは、両親はロラの扱いを隠す必要性を感じなかった。米国では、さらにひどい扱い方をしたが、それを隠すために苦心した。家に客が来れば、彼女を無視するか、何か訊かれたら嘘をついてすぐに話題を変えた。
シアトル北部で暮らしていた5年間、私たちはミスラー家の向かいに住んでいた。ミスラー家は賑やかな8人家族で、サケ釣りやアメリカン・フットボールのテレビ観戦の楽しみを教えてくれた。
テレビ中継を観て応援する私たちのところへ、ロラが食べ物や飲み物を持ってくる。すると両親はほほ笑んで「ありがとう」と言い、ロラはすぐに姿を消す。あるとき、ミスラー家の父が、「キッチンにいるあの小柄な女性は誰?」と尋ねた。「フィリピンの親戚だよ」と父は答えた。「とてもシャイでね」と。
@@@@@
だが、私の親友だったビリー・ミスラーは、そんな話を信じなかった。よくうちに遊びに来ていたし、週末に��まることもあったので、我が家の秘密を垣間見ていた。
彼は一度、私の母親がキッチンで叫んでいるのを聞き、何事かとその場を覗き、顔を真っ赤にした私の母とキッチンの隅で震えていたローラを見た。私はその数秒後にその場を目撃した。ビリーはきまり悪さと混乱が混ざったような表情をしていた。"あれはなんだ?" 私はそれを無視して忘れるように彼に言った。
ビリーはおそらくローラをかわいそうだと思ったことだろう。彼はローラの料理を誉め、彼女をよく笑わせた、私が見たことがないような笑顔をローラは見せていた。お泊り会の時にはローラはビリーの好きなフィリピン料理、白米の上に牛肉のタパを乗せた料理を作った。(beef tapa:薄切りの牛肉を魚醤・ニンニク・砂糖・塩・コショウなどで炒めたフィリピンの家庭料理)
料理はローラ唯一の自己主張の方法であり、それは雄弁だった。少なくとも私たちは彼女の作る料理に愛情というものがこもっていたことをはっきりと認識していた。
そしてある日、私がローラを遠い親戚だと言及したとき、ビリーは私と最初に会った時に私が彼女を祖母だと言っていたことを思い出した。
「なんていうかまあ、彼女はそのどちらでもあるというか...」と私は言葉を濁した。
「なぜ彼女はいつも働いているのんだ?」
「彼女は仕事が好きなんだよ」私は答えた。
「君のお父さんとお母さん、彼らはなぜ彼女を怒鳴りつけるんだ?」
「彼女は耳があまり良くないんだ...」
真実を認めてしまうことは、私たち家族の秘密を暴露することを意味していた。 アメリカに来て最初の10年、私たちはこの新しい土地になじむ努力をした。だが奴隷を持つという事実だけはこの国ではなじみようがなかった。奴隷を持つことは、私たち家族に対する、私たちのこれまですべてに対する強い疑問を私にもたらした。
私たちはこの国に受け入れられるに足るべき存在なのか?
私はそれらをすべて恥じていた、私自身もまた共犯者であることを含めて。彼女が調理した料理を食べ、彼女が洗濯しアイロンをかけクローゼットに掛けた服を着たのは誰だ? しかしそれでも、仮に彼女を失うことになっていたとしたらそれは耐えがたいことだっただろう。
そして奴隷を持つということ以外にもう一つ、私たち家族には秘密があった。私たちが米国に到着してから5年後、ローラの滞在許可は1969年に失効していたのだ。彼女は私の父の仕事に関連付けられた特殊なパスポートで渡米した。
父は上司との度重なる仲たがいの後に勤めていた領事館を辞め、その後も米国に滞在するため家族の永住権を手配したが、ローラにはその資格がなかった。父はローラを国に返すべきだったのにそうしなかった。
51歳当時のローラ。彼女の母親はこの写真が撮影される数年前に亡くなった。彼女の父親はその数年後に亡くなった。いずれの時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた。
All photos courtesy of Alex Tizon and his family ローラの母、フェルミナは1973年に亡くなった。彼女の父、ヒラ���オは1979年に亡くなった。いずれの時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた。 そのいずれの時も、私の両親は "すまない" "金銭的な余裕がないんだ" "時間を作れない" "子供たちは君を必要としている" と答えた。
私の両親は後に私に告白したが、そこには彼女を返すことのできない別な理由もあったという。当局がローラの存在を知れば、そして彼女が望む通りアメリカを離れようとすれば当然知られることになる、そんな事態になれば私の両親は大きな問題を抱えることになり、国外追放される可能性も十分にあったのだ。
彼らはそのような危険を犯すことはできなかった。ローラの法的地位は「逃亡者」となっていた。彼女はほぼ20年間 "逃亡者" としてこの国に滞在したのだ。
彼女の両親がそれぞれ亡くなった後、ローラは何ヶ月も陰鬱に、寡黙になった。私の両親がしつこく言っても彼女はほとんど答えなかった。だがしつこく言うことが終わるわけでもなく、ローラは顔を下げたまま仕事をした。
そして父が仕事を辞めたことで私たち家族にとって波乱となる時期が始まった。金銭的に苦しくなり、両親は次第に仲たがいするようになった。シアトルからホノルルへ、そしてまたシアトルへと戻り今度はブロンクスへ、転々と住む場所を変え、最終的にはオレゴン州の人口750人の小さな町、ウマティラに移った。
その間、母は医療インターンとして、その後に研修医として24時間シフトで働き、父は何日も姿を消すようになっていた。父はよくわからない仕事をしており、それとは別に私たちは後に浮気やらなにやらしていたことを知った。突然家に帰り、ブラックジャックで新しく買ったステーションワゴンを失ったと言い出したこともあった。
家では、ローラが唯一の大人になる日が何日も続くようになった。彼女は家族の中で最も私たち子供の生活を知る人となっていた、私の両親にはそのような精神的な余裕がなかったがゆえに。
私たち兄弟はよく友人を家に連れてきた。彼女は私たちが学校の事や女の子の事、男の子の事、私たちが話す様々な事を聞いていた。彼女は私たちの会話をただ立ち聞きしていただけで、私が6年生から高校までフラれたすべての女の子の名前を挙げることができたのにはまいった。
そして私が15歳の時、父は家族から去っていった。私は当時それを信じたくなかったが、父が私たち子供を捨てて、25年の結婚生活の後に母を捨てたという事実だけがそこにあった。
母はその時点で正式な医師になるまであと1年を要しており、また彼女の専門分野である内科医は特に儲かる仕事ではなく、さらに父は養育費を払わなかったので、お金のやりくりはいつも大変だった。
母は仕事に行ける程度には気持ちをしっかり保っていたが、夜は自己憐憫と絶望で崩壊した。この時期の母の慰めとなったのはローラだった。
母が小さなことで彼女にきつく言う度に、ローラはより かいがいしく母の世話をした。母の好きな料理を作り、母のベッドルームをより丁寧に���除した。夜遅くにキッチンカウンターで母がローラに愚痴をこぼしたり、父のことについて話したり、時には意地悪く笑ったり、父の非道にを怒ったりしていたのを���度も目撃した。
ある夜、母は泣きながらローラを探しリビングルームに駆け入り、彼女の腕の中で崩れ落ちた。ローラは、私たちが子供の頃にそうしてくれたように母に穏やかに話しかけていた。私はそんな彼女に畏敬の念を抱いた。
"母と私は一晩中言い争った。お互い泣きじゃくっていたが、私たちはそれぞれ全く違った理由��泣いた。"
私の両親が離婚してから数年後、私の母親は友人を通して知り会ったクロアチアの移民イワンという男性と再婚し母はローラに対し新しい夫にも忠誠を誓うことを要求した。イワンは高校を中退し過去4回結婚しているような男で、私の母の金を使いギャンブルに興じる常習的なギャンブラーだった。
だがそんなイワンは、私が見たことのないローラの一面を引き出した。 彼との結婚生活は当初から不安定であり、特に彼が母の稼いだお金を使い込むことが問題となっていた。
ある日、言い争いの末に母が泣きイワンが怒鳴り散らしていると、ローラは歩いて両者の間に立ちふさがった。彼は250ポンド(約113kg)の大柄な男でその怒鳴り声は家の壁を揺らすような大きさだった。だがローラはそんなイワンの正面を向き、毅然とした態度で彼の名前を呼んだ。彼は面食らったような顔でローラの顔を見た後、何か言いたそうにしながらも側の椅子に座った。
そんな光景を何度も目撃したが、ローラはそんほとんどにおいて母が望んだとおりイワンに粛々と仕えていた。私は彼女のそのような様を、特にイワンのような男に隷属する様を見るのがとても辛かった。だがそれ以上に私の感情を高ぶらせ、最終的に母と間で大喧嘩に発展させたのはもっと"日常的"なことだった。
母はローラが病気になるといつも怒っていた。ローラが動けないことで生じる混乱とその治療にかかる費用に対処することを望んでいなかった母は、ローラに対し嘘を言っているのだろうと、自分自身のケアを怠った結果だと非難した。
そして1970年代後半にローラの歯が病気によって抜け落ちた時も母は適切な対処を拒んだ。ローラは何ヶ月も前から歯が痛いと言っていた。
「きちんと歯を磨かないからそうなるんでしょ」母は彼女にそう言った。私は彼女を歯医者に連れていかなければならないと何度も言った。もう50代になる彼女はこれまで一度として歯医者に行ったことがなかった。当時私は1時間ほど離れた大学に通っており家に帰るたびにそのことを母に言った。
ローラは毎日痛み止めのためのアスピリンを服用し、彼女の歯はまるで崩れかけたストーンヘンジのようになっていた。そしてある晩、ローラがかろうじてまともな状態で残っていた奥歯でパンを必死に噛んでいる様を見て、私は怒りのあまり我を失った。
@@@@
母と私は、夜通し口げんかした。2人とも泣きじゃくった。
母は、みんなを支えるために身を粉にして働くのに疲れ切っているし、いつも子供たちがロラに味方するのにうんざりしているし、ロラなんてどこかへやってしまえばいいじゃないか、そもそも欲しくなんかなかったし、私のような傲慢で聖人ぶった偽善者なんか産まなければよかった──とまくし立てた。
彼女の言葉を反芻して、私は反撃に出た。
偽善者ならそっちだ。ずっと見せかけの人生を生きているじゃないか。自己憐憫に浸ってばかりだから、ロラの歯が腐ってほとんど食べられないことに気づかないんだろ。1度でいいから、自分に仕えるために生きている奴隷ではなく、1人の人間として見てあげたらどうなんだ?
「奴隷って言ったわね」
母はその言葉をかみしめた。
「奴隷ですって?」
母は、ロラとの関係は私には絶対に理解できないと言い放ち、その晩はそれで終わった。
何年も経ったいまでも、痛みをこらえるような、あのうめき声を思い返すだけで腹を殴られたような気分になる。自分の母親を憎むのは最悪だが、その晩は母を憎んだ。彼女の目を見る限り、母も私を憎んでいるのは明らかだった。
けんかの結果、ロラが自分から子供たちを奪ったという母の恐怖は強まり、ロラ本人にそのつけが回った。母はよりいっそうつらく当たった。
「私があなたの子供たちに嫌われてさぞかしうれしいでしょうね」などと言って苦しめた。私たちがロラの家事を手伝うと、母は憤った。「ロラ、もう寝たほうがいいんじゃないの」と皮肉たっぷりに言うのだ。
「働きすぎよ。あなたの子供たちが心配してるわよ」
そのあとで、寝室へロラを呼び出し、ロラは目をパンパンに腫らせて戻ってくるのだった。
ついにロラは、自分を助けようとするのはやめてくれと訴えた。
「なぜ逃げないの?」と私たちは訊いた。
「誰が料理をするんですか?」と彼女は答えた。誰が仕事を全部やるのか、と言いたかったのだろう。誰が子供たちの世話をするのか? 誰が母の世話をするのか?
別のときには、「逃げるところなんてどこにあるんですか?」と言った。この返事のほうが真実味があった。米国へ来るときは大慌てだったし、息をつく間もなく10年が経った。振り返ると、さらに10年が経とうとしていた。ロラは白髪が増えていた。
噂によれば、故郷の親戚たちは、約束された仕送りが届かないので、何が起きたのかといぶかしんでいたという。彼女はもはや恥ずかしくて帰れなかったのだ。
ロラには米国に知り合いもいなかったし、移動手段もなかった。電話に戸惑ったし、ATMやインターホン、自動販売機、キーボードのついているもの全般など、機械を見るとパニックに陥った。早口な人の前では言葉を失い、逆に彼女のたどたどしい英語を聞くと相手が言葉を失った。予約をしたり、旅行を企画したり、用紙に記入したり、自分で食事を注文したりすることができなかった。
あるとき、私の銀行口座からお金を下ろせるキャッシュカードをロラに与え、使い方を教えてやったことがある。1度は成功したが、2度目は動揺してしまい、それっきり試そうともしなかった。でも、私からの贈り物だと思ってカードは大切にしてくれていた。
また、車の運転を教えようとしたこともある。彼女は手を振って拒否したが、私はロラを抱き上げて車のところへ連れていき、運転席に座らせた。お互い笑い転げていた。
20分かけて、ギアやメー��ーなどをひと通り説明してあげた。初めは楽しそうにしていた彼女の目が、恐怖におびえはじめた。エンジンをかけてダッシュボードが点灯すると、あっという間に彼女は車を飛び出して家のなかへ駆け込んでしまった。あと数回やってみたが、結果は同じだった。
私は、運転ができるようになれば、彼女の人生が変わると思ったのだ。自分でいろんなところへ行ける。母との生活が耐えられなくなったら、どこかへ逃げて、2度と戻らなければいい。
高まる緊張
4車線が2車線になり、舗装道路が砂利道になった。竹を大量に載せた水牛や車が行き交うなか、三輪車が通り抜ける。ときおり私たちのトラックの前を犬やヤギが走り抜け、バンパーをかすめそうになる。でもマニラで雇った中年の運転手、ドゥーズはスピードを落とさない。
私は地図を取り出し、目的地のマヤントクという村までの道のりをたどった。窓の外には、遠くのほうで大量の折れた釘のように腰を曲げている人々がかすかに見えた。数千年前からずっと変わらないやり方で、米を収穫しているのだ。到着まであと少しだ。
自分の膝の上に置いた安っぽいプラスチックの箱をトントンと叩き、磁器や紫檀で作られた本物の骨壷を買わなかったことを後悔した。ロラの親族はどう思うだろう?
もちろん、そんなに大勢いるわけではなかった。唯一残った兄妹が妹のグレゴリアで、年齢は98歳を数え、物忘れが激しくなっているとのことだった。親戚によると、ロラの名前を聞くとわっと泣き出し、次の瞬間にはなぜ泣いているのかわからなくなるという。
私は、ロラの姪と連絡をとっていた。彼女は次のように1日を計画していた。私が到着したら、ささやかな追悼式をおこない、祈りを捧げ、マヤントクの共同墓地の一画に遺灰を埋葬する──。
ロラが亡くなってから5年が経っていたが、まだ最後のさようならを言っていなかった。間もなくそのときが訪れようとしていた。
朝からずっと、激しい悲しみを抑え込もうと必死だった。ドゥーズの前で泣いたりしたくなかった。自分の家族のロラに対する扱いを恥じるよりも、マヤントクの親族が私にどんな態度をとるだろうかという不安よりも、彼女を失ったことの重さのほうが強かった。まるで前の日に亡くなったばかりのようだった。
ドゥーズは、ロムロ・ハイウェイを北西へと進み、カミリングで急カーブを左に曲がった。母と祖父の出身地だ。2車線が1車線になり、砂利道が泥道になった。道は、カミリング川沿いを走っていた。竹でできた家々が並び、前方には緑の丘が見えた。いよいよ大詰めだ。
物語の脇役であり続けたロラ
母の葬儀で述べた私の弔辞は、すべて本当のことだった。母は、勇敢で、活発だったこと、貧乏くじを引くこともあったけれど、彼女にできる限りのことをしたこと。幸せなときはキラキラしていたし、子供たちを溺愛していて、オレゴン州セイラムに正真正銘の「我が家」を作ってくれたこと。
1980年代と90年代を通して、その家は私たちがそれまで持ち得なかった「定住地」となった。もう1度ありがとうと言えたらいいのに。
私たちみんなが母を愛していた。
だが、ロラの話はしなかった。母が晩年になると、私は彼女といるときにはロラのことを考えないようにしていた。自分の脳にそういう細工をしないと、母を愛することができなかった。それが、親子関係を続ける唯一の方法だったのだ。
とくに、90年代半ばから母が病気がちになってからは、良い関係を保ちたかった。糖尿病、乳がん、そして、血液と骨髄の癌である急性骨髄性白血病。まるで1晩のうちに健常から虚弱へと転落したようだった。
あの大げんかのあと、私は家を避けるようになり、23歳でシアトルに移り住んだ。ただ、実家を訪れると、変化が見られるようになった。母はいつもの母だったが、前のように容赦ない人間ではなかった。
ロラに立派な入れ歯と寝室を与えた。ロナルド・レーガンによる画期的な1986年の移民法で、何百万人という不法移民に合法的な滞在が認められたとき、ロラのTNT(フィリピン人が言う「タゴ・ナング・タゴ」の略。「逃亡中という意味)としての立場を変えようと尽力した兄妹と私に母も協力した。
手続きは長引いたが、1998年10月にロラは米国籍を取得した。母が白血病と診断されてから4ヵ月後のことであり、母はそれから1年間しか生きられなかった。
そのあいだ、母と後夫のアイヴァンはよくオレゴン州の海岸にあるリンカーンシティへ出かけた。ロラを連れていくこともあった。ロラは海が大好きだった。海の向こう側には、いつの日か戻れることを夢見る島々があった。
それに、母がくつろいでいるとロラは幸せだった。海辺で過ごす午後や、田舎で暮らした日々の思い出話をするキッチンでの15分間だけで、ロラは長年の苦悩を忘れてしまうようだった。
だが、私はそんな簡単に忘れることはできなかった。でも、母の違う面が見えるようにもなってきた。亡くなる前に、母はトランク2つにぎっしり詰められた日記を見せてくれた。彼女が寝ているすぐそばで日記に目を通していると、長年私が目を向けようともしなかった母の人生が垣間見えた。
彼女は、女性が医者になることが珍しかった時代に医学部へ通った。米国へ来て、女性として、また移民の医者として、尊敬を勝ち取るために闘った。セイラムにある「フェアビュー・トレーニングセンター」で20年働いた。そこは、発達障害者のための公共機関だった。
皮肉なことに、母はキャリアを通じて弱者を助け続けていたのだ。彼らは母を崇拝した。女性の同僚たちと仲良くなり、一緒にたわいのない女子っぽいことをして遊んだ。靴を買いに行ったり、お互いの家でおめかしパーティーをしたり、冗談で男性器の形をした石けんや半裸の男性たちのカレンダーを贈り合ったりした。そのあいだずっと、彼女たちは笑い転げていた。
当時のパーティーの写真を見ていると、母は家族とロラに見せるのとは別の自分を持っていたことがわか���た。それは当然のことだろう。
母は子供たち一人ひとりについて詳しく書いていた。誇りに思ったり、愛しく感じたり、憤慨したり、その日に感じたことを綴っていた。さらに、夫たちについての記述は膨大な量におよんだ。彼らは、母の物語に登場する複雑な性格の人物として描かれていた。
ただし、私たちはみんな重要な登場人物だったのに、ロラは付随的な存在だった。登場するとすれば、別の誰かの物語における端役としてだった。
「最愛のアレックスをロラが新しい学校へ連れていった。新しい友だちが早くできるといいな。引っ越ししたことの寂しさがまぎれるように……」
それから私について2ページ書かれ、ロラはもう登場しない。そんな調子だった。
母が亡くなる前日、カトリックの神父が臨終の秘跡をおこなうために訪れた。ロラはベッドの脇に座り、ストローを差したカップをいつでも母の口元へ持っていけるように備えていた。これまで以上に母を気づかい、これまで以上に優しくしていた。弱りきった母につけ込むこともできたし、復讐をすることもできたのに、ロラの態度は真逆だった。
神父は母に、赦したいこと、または赦しを請いたいことはないかと尋ねた。
彼女はまぶたが半ば閉じたまま部屋を見回したが、何も言わなかった。そして、ロラを直接見ることなく、伸ばした手を彼女の頭に乗せた。一言も発さずに。
「奴隷」から抜けきれない日々
ロラを私のところへ呼び寄せたのは、彼女が75歳のときだった。私はすでに結婚して2人の娘がいて、周りに木が生い茂る居心地の良い家に住んでいた。2階からはピュージェット湾を見渡せた。
ロラには寝室を与え、何をしてもいいよと伝えた。朝寝するなり、テレビドラマを観るなり、1日中ゆっくりするなりすればいい。人生で初めて、思いっきりリラックスして、自由になればいい、と。でも、そう簡単にはいかないと覚悟しておくべきだった。
私は、ロラの厄介なところをすっかり忘れてしまっていた。風邪をひくからセーターを着ろとしつこいこと(すでに私は40歳を超えているというのに)。常に父とアイヴァンの不平を言うこと(父は「怠け者」で、アイヴァンは「ヒル」だった)。
私は次第に彼女を無視する方法を身につけた。でも、異常なまでの倹約ぶりは無視しにくかった。ロラは何も捨てたがらなかったのだ。しかも、私たちがまだ使えるものを捨てていないか、ゴミを漁って確認していた頃もあった。紙タオルがもったいないと、何度も洗って使い回し、しまいには手のひらでボロボロになるほどだった(誰もそれを触ろうとしなかった)。
キッチンはレジ袋やヨーグルト容器、空の瓶でいっぱいになり、家の一部はゴミ置き場になった。そう、ゴミだ。それ以外に言いようがない。
朝はみんな時間がなくて、バナナかグラノーラ・バーをかじりながら家を飛び出すというのに、ロラは朝食を作った。ベッドメイクをして、洗濯物をした。家の掃除をした。最初は辛抱強く、私はこう言い続けた。
「ロラ、そんなことはしなくていいんだよ」「ロラ、自分たちでやるからね」「ロラ、それは娘たちの仕事だよ」
だが、「オーケー」と彼女は言ってそのまま続けるのだった。
ロラがキッチンで立ったまま食事をとっていたり、私が部屋に入ってくると体をこわばらせて掃除を始めたりするのを目にすると、イライラさせられた。数ヵ月経ったある日、話がある、と彼女を呼んだ。
「私は父じゃない。あなたは奴隷じゃないんだ」
そう言って、ロラの奴隷のような行動を一つひとつ挙げていった。彼女が驚いた様子なのに気づいたので、ゆっくり深呼吸してロラの顔を手のひらで包んだ。エルフのような顔のロラが、探るような目で私を見つめ返す。私はその額にキスをした。
「ここはあなたの家だ。私たちに仕えるために来たわけじゃない。リラックスしていいんだ。オーケー?」
「オーケー」と彼女は言った。そして、掃除に戻った。
彼女は、それ以外どうしていいかがわからなかったのだ。次第に、リラックスするべきなのは自分だ、と気づいた。夕食を作りたがるなら、やらせてあげよう。ありがとうと言って、自分たちは皿洗いをすればいい。何度も自分に言い聞かせなければならなかった。やりたいようにやらせてあげろ、と。
ある晩、帰宅するとロラがソファでパズルをしているところを見つけた。脚を伸ばして、テレビをつけ、隣にはお茶を用意して。彼女は私をチラッと見て、きまり悪そうに真っ白な入れ歯を見せて笑い、パズルを続けた。良い調子だ、と私は思った。
さらに彼女は、裏庭でガーデニングを始めた。バラやチューリップや、あらゆる種類の蘭を植えて、それにかかりっきりになる日もあった。また、近所を散歩するようにもなった。
80歳くらいになると関節炎がひどくなり、杖をつくようになった。キッチンでは、かつては下働きの料理人のようだったのが、その気になったときだけ創作する職人肌のシェフのようになった。ときに豪華な食事を作っては、ガツガツ食べる私たちを見てにっこり笑うのだった。
ロラの寝室の前を通ると、よくフィリピンのフォークソングのカセットが聞こえてきた。彼女は同じテープを何度も繰り返し聴いていた。私と妻は週に200ドルを彼女に渡していたが、ほぼ全額を故郷の親戚に送金していることを知っていた。そしてある日、裏のベランダに座り込んだ彼女が、誰かから送られてきた村の写真をじっと眺めているのを発見した。
「ロラ、帰りたいの?」
彼女は写真を裏返しにして、そこに書かれた文字を指でなぞった。それから再び表に返し、1点を食い入るように見つめた。
「はい」と彼女は答えた。
83歳の誕生日のすぐあとに、彼女が帰国するための飛行機代を出してあげた。1ヵ月後に私もそこへ行き、米国に戻る意志があるなら連れて帰ることになっていた。はっきり口にしていたわけではないが、旅の目的は、長年のあいだ戻りたいと切望していた場所が、今なお故郷のように感じられるかどうかを見極めることだった。
彼女は答えを見つけた。
「何もかも違っていた」と、故郷のマヤントクを私と散歩しながら彼女は言った。昔の畑はなくなっていた。家もなかった。両親も、兄妹のほとんども亡くなっていた。まだ生きていた子供時代の友人は、他人のようだった。再会できてうれしかったけれど、昔と同じではなかった。ここで死にたいけれど、まだその心構えができていない。
「じゃあ庭の世話に戻る?」と私は訊いた。すると、ロラはこう答えた。
「はい。帰りましょう」
奴隷としての一生
ロラは、幼い頃の私や兄妹たちと同じように、私の娘たちの世話をしてくれた。学校が終わると、話を聞いてあげて、おやつを与えた。妻や私と違って(主に私だが)、学校の行事や発表会を最初から最後まで楽しんだ。もっと見たくて仕方がないようだった。いつも前のほうに座り、プログラムは記念にとっておいた。
ロラを喜ばせるのは簡単だった。家族旅行にはいつも連れていったが、家から丘を降りたところのファーマーズ・マーケットに行くだけで興奮した。遠足に来た子供のように目を丸くして、「見て、あのズッキーニ!」と言うのだ。
毎朝、起きると必ずやることと言えば、家中のブラインドを開けることだった。そして、どの窓でも一瞬立ち止まって外の景色を眺めるのだ。
さらに、自力で字を読めるようになった。驚くべき進歩だった。長年かけて、彼女は文字をどう発音するかを解明したようだった。たくさん並べられた文字のなかから、単語を見つけてマルで囲むパズルをよくやっていた。
部屋にはワードパズルの冊子が積み上げられていて、鉛筆で何千という単語がマルで囲まれていた。毎日ニュースを見て、聞き覚えのある単語を拾った。それから、新聞で同じ単語を見つけ、意味を推測した。そのうち、新聞を最初から最後まで毎日読むようになった。
父は、彼女のことを「無知だ」と言っていた。でも、8歳から田んぼで働くのではなく、読み書きを学習していたら、どんな人になっていただろうかと考えずにいられなかった。
一緒に暮らしていた12年のあいだずっと、私は彼女の人生についていろいろ質問をした。私が彼女の身の上話の全容を明らかにしようとするのを、彼女は不思議がった。私が質問すると、たいていまずは「なぜ?」と返すのだった。
なぜ彼女の幼少期のことを知りたがるのか? どうやってあなたの祖父と出会ったのかなんて、なぜ知りたがるのか?
妹のリングに、ロラの過去の恋愛について訊いてもらおうとしたことがある。妹のほうが話しやすいと思ったからだ。リングにそう頼むと、彼女はケラケラ笑った。その笑い方は、要するに協力する気がないということだ。
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ある日ローラと私がスーパーで買った食料品をしまっている時に、私はついこんな質問をしてしまった。
「ローラ、君は誰かとロマンチックな経験をしたことはあるかい?」
彼女は微笑んで、彼女が唯一持つ異性との話を私に語った。
彼女が15歳くらいの頃、近くの農場にペドロというハンサムな男の子がおり数ヶ月間彼らは一緒に米を収穫したという。そして一度、彼女はその作業に使っていたボロという農具を手から落としてしまったことがあり、彼はすぐにそれを拾い上げ手渡してくれた。
「私は彼が好きでした。」ローラはそう言った。
しばらく、お互い黙ったままで
「それから?」
「彼はその後すぐに立ち去ってしまいました。」
「それから?」
「それだけです。」
「ローラ、君はセックスをしたことがある?」私は、まるで誰か他人が言ったのを聞いたように、そう質問する自分の声を聞いた。
「いいえ。」彼女はそう答えた。
彼女は個人的な質問に慣れていなかった。彼女は私の質問に1つまたは2つの単語で答えることが多く、単純な物語でさえも引き出すには何十もの質問が必要だった。私はそれらの質問を通してそれまで知り得なかった彼女の一面を知った。
ローラは母の残酷な仕打ちにはらわたが煮えたぎる思いをしたが、それにもかかわらず母が亡くなったことを悲しく思っていたことを知った。彼女がまだ若かった頃、時々どうしようもなく寂しさを感じ泣くことしかできなかった日が何度もあったことを知った。
何年も異性と付き合うことを夢見ていたことを知った、私は彼女が夜に大きな枕で抱かれるように包まれた状態で寝ている光景を目撃したことがある。だが老後の今、私に語ってくれた話によると、母の夫たちと一緒に暮らすうちに独り身でいることはそれほど悪くないと思ったという。彼女はその二人、父とイワンについては全く懐旧の情に駆られないそうだ。
もしかしたら、彼女が私の家族に迎えられることなく故郷マヤントクで暮らしていたら、結婚し、彼女の兄妹のように家族を持っていたら、彼女の人生はより良いものになっていたかもしれない。だがもしかしたら、それはもっと悪いものになっていたかもしれない。ローラの2人の妹、フランシスカとゼプリャナは病気で亡くなり、兄弟であるクラウディオは殺されたと後に聞かされた。
そんな話をしているとローラは、今そんな "もし" の話をして何になるのかと言った。"Bahala na" が彼女の基本理念だった。
bahalaの本来の意味は「責任」。フィリピン人の性格を表現する時によく使われる「Bahala na(バハーラ ナ)」:何とかなるさは、「Bahala na ang Diyos(バハーラ ナ アン(グ) ジョス)」:神の責任である→神の思し召しのままに→運を天にまかせよう、というところから来ている。「Bahala」自体はそんないい加減な意味の表現ではないので注意が必要。 フィリピン語(タガログ語) Lesson 1より http://www.admars.co.jp/tgs/lesson01.htm
ローラは彼女が送ってきた人生は、家族の別の形のようなものだったと語った。その家族には8人の子供がいた、私の母と、私とその4人の兄弟、そして今共に過ごす2人の私の娘だ。その8人の子供たちが、自分の人生に生きた価値を作ってくれたと、彼女はそう言った。
私たちの誰もが彼女の突然の死に準備ができていなかった。
"彼女は当時字を読めなかったが、とにかくそれを取っておこうとしたのだ。"
ローラは夕食を作っている最中に台所で心臓発作を起こし、その時私は頼まれた使いに出ていた。家に戻り倒れている彼女を見つけた私はすぐさま病院に運んだ。数時間後の午後10時56分、病院で、何が起きているのか把握する前に彼女は去ってしまった。すぐに全ての子供たちと孫たちがその知らせを��け取ったが、どう受け止めていいかわからない様子だった。ローラは11月7日、12年前に母が亡くなった日と同じ日に永眠した。86歳だった。
私は今でも車輪付き担架で運ばれる彼女の姿を、その光景を鮮明に思い出せる。ローラの横に立った医師は この褐色の子供くらいの身長の女性がどんな人生を歩んできたか想像もつかないだろうと思ったのを覚えている。
彼女は私たち誰もが持つ利己的な野心を持たず、持てなかった。彼女の周りの人々のためにすべてをあきらめる様は、私たちに彼女に対する愛と絆と尊敬をもたらした。彼女は私の大家族の中で崇敬すべき神聖な人となっていた。
屋根裏部屋にしまわれた彼女の荷物を解く作業には数ヶ月かかった。そこで私は、彼女がいつか字を読むことができるようになった時のために保管しておいた1970年代の雑誌のレシピの切り抜きを見つけた。私の母の写真が詰まったアルバムを見つけた。 私の兄弟姉妹が小学校以降獲得した賞の記念品も見つけた、そのほとんどは私たち自身が捨たもので彼女はそれらを "救いあげて" くれていた。
そしてある日、そこに黄色く変色した新聞の切り抜きが、私がジャーナリストとして書いた記事が大切に保管されているのを見つけ、泣き崩れそうになった。彼女は当時字を読めなかったが、とにかくそれを取っておこうとしたのだ。
竹と板でできた家々が並ぶ村の中央にある小さなコンクリートの家に私を乗せたトラックが止まる。村の周囲には田んぼと緑が無限に広がっているようだった。 私がトラックから出る前に人々が家の外に出てきた。運転手は座席をリクライニングにして昼寝を取りはじめた。私はトートバッグを肩に掛け、息を呑み、ドアを開けた。
「こちらです」
柔らかい声で、私はそのコンクリート製の家へ続く短い道に案内された。私の後を20人ほどの人が続く。若者もいたがその多くが老人だった。
家に入ると、私以外の人たちは壁に沿って並べられた椅子とベンチに座った。部屋の中央には何もなく私だけが立っていた。私はそのまま立ちながら私のホストを待った。それは小さな部屋で暗かった。人々は待ち望んだ様子で私を見ていた。
「ローラはどこですか?」
隣の部屋から声が聞こえ、次の瞬間には中年の女性が笑顔を浮かべこちらに向かってきた。ローラの姪、エビアだった。ここは彼女の家だった。彼女は私を抱きしめて、「ローラはどこですか?」と言った。
私はトートバッグを肩から降ろし彼女に渡した。彼女は笑顔を浮かべたままそのバッグを丁寧に受け取り、木製のベンチに向かって歩みそこに座った。彼女はバッグから箱を取り出しじっくりと眺めた。
「ローラはどこですか?」
と彼女は柔らかく言った。この地域の人々は愛する人を火葬する習慣がなかった。彼女は、ローラがそのような形で帰ってくることを予想していなかった。
彼女は膝の上に箱を置き、その額を箱の上に置くように折れ曲がった。彼女はローラの帰還を喜ぶのではなく、泣き始めた。
彼女の肩が震え始め、泣き叫び始める。それは私がかつて聴いたローラの嘆き悲しむ声と同様の悲痛な叫び声だった。
私はローラの遺灰をすぐに彼女の故郷に返さなかった、これほど彼女を気にしていた人がいたことを、このような悲しみの嵐が待ち受けていることを想像していなかったのだ。私がエビアを慰めようとする前に、台所から女性が歩み寄り彼女を抱きしめ共に泣き始めた。
そして部屋が嘆き声の轟音で包まれた。目の見えなくなった人、歯が抜け落ちた人、皆がその感情をむき出しにすることをはばからず泣いた。それは約10分続いた。気づけば私も涙を流していた。むせび泣く声が止み始め、再び静寂が部屋を包んだ。
エビアは鼻をすすりながら、食事の時間だと言った。誰もが列を成してキッチンに入る。誰もが目を腫らしていた。そして急に顔を明るくして、故人について語り合い、故人を偲ぶ準備を始めた。
私はベンチの上に置かれた空のトートバッグをチラリと見て、ローラが生まれた場所に彼女を戻すことが正しいことだったと実感した。
原典
『My Family’s Slave』By Alex Tizon(The Atlantic)
She lived with us for 56 years. She raised me and my siblings without pay. I was 11, a typical American kid, before I realized who she was.
翻訳
https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2017/06/lolas-story/524490/
https://kaikore.blogspot.com/2018/01/lolas-story.html
https://courrier.jp/news/archives/89516/?utm_source=article_link&utm_medium=longread-lower-button&utm_campaign=articleid_89495
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発酵菓子便でいただいた売り上げ金で、クレイの勉強をさせてもらいました。 東京までは通えないので、無理きいてもらって、娘のお昼寝中にオンライン受講。 モロッコの大衆浴場で使ってたガスールや、娘のおむつかぶれや汗疹に使ってるクレイの効果に驚いて、ちゃんと学びたくなって。 娘につかうものも、抱っこする私の肌につかうのもできるだけ自然なものを使いたい。 何より負担がないので、使ってて心地よい◎ 娘も効果を実感してるのか、お風呂あがりにかゆいところを指差して「ポンポンして」(クレイはたいて)と言ってきます。 アーユルヴェーダやクレイって最近の流行りのように聞こえてしまうけど、太古の昔から使われてきた人間の知恵。 早速夏で皮脂分泌の乱れた肌にクレイとよもぎオイルでパック☺︎ ファンデーションやチーク、歯磨きペーストや化粧水、塗り薬代わりのジェルに入浴剤、パック。 クレイで作れるものはたくさん! ワークショップを開催したり、クレイを知ってもらうきっかけづくりができたらなと思ってます。 ご興味ある方は気軽に声かけてくださいね( ˆ ˆ ) #wstandard #ダブルスタンダード #インダストリアルインテリア #tinytwig #発酵菓子便 #酵母菓子 #クレイ #クレイケアリスト #クレイファンデーション #クレイコスメ #クレイパック #自然派ママ #自然派育児 #ナチュラルコスメ #自然療法 https://www.instagram.com/p/B0-2Wzilh2q/?igshid=ip6iobb1ueaz
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Time to open up a new chapter in life
It is time to start something new and trust of the magic of beigginings :)
突然ながら、只今
まさかの妊娠36週目でもうすぐ臨月にはいります。
もともと、私はそこまで子供好きではないし、
(どちらかというと苦手。近くに子供いたら席変えるタイプ。)
自由に好きなことして仕事も楽しんで
誰に文句いわれることもなく自由に
行きたいとこいって、
自分で稼いだお金使って、
行きたい国に思い立ったらすぐに飛んで行けて、
夏のバカンスはミラノからオープンカーぶっ飛ばしてモナコで余暇を楽しみ、
その後、南仏でセーリング。
夏と冬のセール時期はミラノかパリに飛んで買い物三昧。
香港集合日帰りで現地で本場の飲茶たべまくったり。
シンガポールのマリーナベイで船貸し切りでクリスタル開けまくって飲んで騒いで海に飛び込んでのクルージング等々・・・・・
完全に地から浮いているベリーエキサイティングな甘い生活を何年もしまくっていたもんだから、
これを全部諦めてまで親になる?家庭に入る? なんてありえないわ。って本気で思ってた。
自分のなかで暗黙の損得戡定。(その点で、潔い山口百恵さんを私は崇拝する。)
さすがに、年もとるしこんな人生パーティーな生活が続くとは思わなかったけど。
基本なにかに縛られるのが苦手な性格だし、安定より変化を好む、ひとりでいる事自体全然苦痛でもなんでもなかったから、
一日も早く若いうちに生んだほうが、とかおせっかいをいう人々を本気でウザって思ってた。(今もそう思う。人には早かれ遅かれその人なりのタイミングがある。し、心底シングルライフを楽しんでいて、子供ほしくない人だっている。余計な口出しはするな、と。)
まわりの友人はママになってる子は多かったけど、ほんと羨ましいってのはなくって、逆にその選択をできたのが偉いなってしみじみおもっていたし、彼女たちのインスタに上げる、手作り弁当とか、運動会とか、見るたびに恐れ多く、絶対ムリだわって逆に母親になることの恐怖感のほうが強かったから余計に自ら遠ざかってた。
BUT そんな私でも イギリスにひっこしてきて、考え方が変わっててきたからびっくりよ。絶対このひとのDNA(ストリ���ト・スマートさと知性と誰からも好かれる性格←自分にないものw)を受け継ぎたいと思わせてくれる人がいたってのもかなり大きいけど、(この人が好きだっていうのも勿論前提だけど、第一に、もっと深い遺伝子レベルで考えてしまうのは、実は自分の子を産むという女性性的な潜在意識が自分の中で相当強いんだろうなと思う。)
イギリスは多民族 多文化社会で、ハイド・パークなんかにいくと よくいろんな人種のママたちをみかけるんだけど、
彼女たちを見てママのイメージがかなり変わった。
例えば、フランス人ママのエマニュエルは、
待ち合わせ場所に今でもおしゃれなカフェを指定するし
両手に大量の荷物をかかえてあらわれたり、
ほぼ子連れであらわれたりしない。(全然OKなんだけどね)
子供がいても泣いてもすぐに構わない。
すぐにかまってたら、自分の意思がそだたなくなるから多少ほっとく
って軽くいってのける。
LVの使い込んだネヴァーフルを肩からさげ
ラフな白シャツとジーンズにヒール。
子供?あ、そういえばいたわね。みたいな。空気感w
話す内容も、子供の弁当がどうこうではなく、
最近お気に入りの香水だったり、みた映画のはなしだったり。
こういうのありなら私でもできるかも。と思った。
なんだろ、日本にいると親になったら、
髪を短く整え 親らしい(ってなんだ)服装をして 正しい母親像、
*なんか日本の妊婦雑誌とか体のラインでない長方形の箱みたいな服着てるよね。不思議。
ってどこかみっともなくて、芋っぽいイメージっていう認識。
があるし(もちろんみんながそうではないけど、そういうふうに軌道修正させられざるえない無言の同調的圧力はあるよね。母親だろ!みたいな。)
産むことであきらめなければいけない
ことばかりが目についてしまう。
でも、ここでは、1歳児のママでも���学院で自分の夢を目指してがんばっていたり、
勿論、子供のためにできる限りのことはするけど
女としての自分の人生を子供のために
諦めたり犠牲にしたりはしない。
幸運なことにパートナーも
子供にすべてを合わせるんじゃなく自分たちに極力合わせてもらう
子育て派。仕事でパリに昔すんでたからか
そのへんの思考回路は
かなり大人中心で助かる。
誰かにそうしろといわれたわけではないけど
日本人的な価値観がやっぱりどこかにあるから
どこかでそうしなきゃいけないっていう概念が
自分の中で振り払われた時
あ、今産むのもありかもって心から思えた。
自分がハッピーってのが前提の子育ても
全然普通にあるじゃんってここにいたら普通に思える。
飛行機の安全ビデオにもあるけど
酸素マスクがおりてきたら、まずはすぐに自分につけて
相手にもつける。
自分が相手を助けられる精神、身体状態じゃなきゃ
となりの人も助けられないし、下手したら共倒れだもんね。
出産もそう、こちらは、自宅、水中、無痛なんでも自由で
お腹を痛めて産んでこそ母親になる
みたいな無言の圧力もない。
自己中に聞こえるかもしれないけど、
子供はいずれ親元から旅立っていくものだし
自分の人生は一度きりで自分のもの。
きっと子育てには正解も不正解もない、
完全に個人の自由。
どういう概念をもって生み育てていくのかは
千差万別でどんな方法であっても尊重されるべきだと思う。
勿論私の周りには100%自分の世界が子供を中心に
回っているひともたくさんいる。
それはそれで私には到底想像もつかないことだから
心底尊敬するし、ほんとに子育てに向いてるんだろうな
ってそれはそれで素晴らしいと思う。
(正直、絶対向き、不向きあると思う)
私は最初から、そうはなれないであろう
と諦めから入ってるし、そういう性格でもないとわかってる。
今も妊婦てより
試験とか修士論文に没頭しがち。
やらなければてかやらないとやられる的なw
切羽詰まった感満載。
ただ、日本にもどこかに
いるであろう私みたいな価値観の人間にとっては、
ママであることのイメージが
もう少しフレキシブルにシンプルに捉えられれば
きっと日本の少子化も少しは改善されるのではないかと
思う今日この頃。
まー生んでみなければわからない未知の世界だけど
もうここまできたら
じたばたせずに
気楽に構えて飛び込むしかないな。
ってことであと数週間の妊婦ライフエンジョイするぞー!
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娘の運動会には毎年必ず参加する。今年は運動会のプログラムに強制参加の保護者競技があった。私が娘の帽子をもらって入場門の列に並ぶと、周りは誰かの父親ばっかりだった。応援席では誰かの母親が頑張れって応援してて、児童席では私の娘が真顔でこっちを見ていた。私は元々運動は得意では無いので、保護者競技は余裕で最下位だった。うちに夫はいない、2021年に他界している。保護者競技が終わったあと、退場列の中で、他所の家庭の声援を聞きながら、ふと、ここに夫がいれば良かったのに、と思ってしまった。「いれば良かったのに」が脳内で勝手に「(生きて)いれば良かったのに」に高速変換される。そして「もういない」と続く文章を自覚した瞬間に、突然いろんな言い訳と後悔と思い出がどばどば溢れてきて涙が止まらなくなった。肩凝りがやばいって笑う夫に湿布を貼ったこと、なんてマヌケなんだろう。コロナ禍なんて気にせず病院に連れて行けばよかったのに、せめて私がもう少し早く仕事から帰ってい���ば良かったのに。救急車の赤いライトが眩しかったこととか、病院のよくわからない部屋の前で立ち尽くしたこととか、喪服代わりの黒いワンピースを着た2歳の娘とか、お寺の手配とか、元義両親との今後の会話とか夫と過ごしたなんでも無い日のこととか、一瞬で色々なことがフラッシュバックした。四十九日の時に元義両親から「あなたは強いね」と言われた。ずっと取り乱さず、落ち着いていたね、えらかったね、と。元義母が泣きながら「あなたみたいに強くなりたい」と私に言った。私はずっと呆然としていた。私が落ち着いているように見えたのは、彼が死んだ実感がずっと無かったからだ。ずっと他人事のようで、現実から目を背けて、淡々とふわふわとしていた。でも何故か体重は12kgほど落ちていて、実の両親は私を見て何故か泣いていた。そして約3年後の今、娘の運動会で保護者競技後に、私は何故か死ぬほど取り乱している。夫のことは、もうどうにもならないとわかっているはずなのに、涙が止まらず、目の奥で水風船が爆発したみたいだと思った。たぶん私は自分の地雷を自分で踏んでしまった。それも娘の保育園の保護者競技の退場列の中で。よその家庭と自分の家庭を無意識のうちに比べ、夫がいない実感に自爆した。運動会の帰り道、首から金メダルを下げた娘に、「○○ちゃん、はしるのにがてなんだね」と言われて、ごめん、と謝った。べつにいいけど、と娘が返す。娘は、夫が死んでからしばらくして何故かママと呼んでくれなくなった。私をママと呼ぶ人は少数派だからか、私の実両親や実姉のように、私を「○○ちゃん」とあだ名で呼ぶようになった。あだ名で呼ばれる度に、この子にかけた心労とこれからを考えると地味に辛くなる。娘はもう父親を覚えていない。元義両親との会話を思い出す。元義両親とはまだ仲が良くて、「20代で、まだ若いんだから、」と再婚を勧められる。元義両親はずっと優しい。本当に私の人生を思ってくれていて、早く再婚した方が良いと言う。けれど、もうその話をしないで欲しいと断っている。死んだ人の代わりを探すなんて、宝物の無い宝探しみたいだと思う。こんな発想しかで��ないから、このままでいるべきだとも思う。運動会の写真データを保育園から買った。保護者競技の写真、走ってる時の私の顔が必死過ぎて、本当に不細工だった。展示するのをやめてくれと思った。買った写真を見ながら娘が「⚪︎⚪︎ちゃんがうんどうかいにきてくれてうれしかったんだー」と言う、言ってくれる。それが、本当に自分勝手な自惚れだけど、救われる。私も嬉しかった。
娘の保育園の運動会に参加したことについて
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. 【オッパパママイル スタッフ紹介】 . 昨日のMTGにとよぽんが参加してくれ、オパイルスタッフになってくれました🙌⤴ . ここで4人となったスタッフを紹介します🍒 . 🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄 . 🌼名前:さーやん ■2児ママ:2014.5女児、2017.6男児のママ ■仕事:セラピスト・ダンスインストラクター・現在フットケア勉強中!! ■好きなこと:人と話すことが好き、身体の仕組みや働きを学ぶことが好き、アロマ、coffee、beer、chocolate、そして大泉洋!が好き〜 ■目玉焼きには🍳?→ソース派👍 . 🌼名前:ゆかりん ■2児ママ:2014.6双子女児、2018.7出産予定のママ ■仕事:産後ドゥーラ ■好きなこと:食育、自然食、自然育児、アロマ、手作り、和太鼓などなど,家族のニコニコと健康を家庭で守るためのことなどを学ぶことが好き ■目玉焼きには🍳?→ケチャップ派👍 . 🌼名前:みうらん ■1児ママ:2017.07男児のママ ■仕事:ウェディングプランナー ■好きなこと:イベント企画(小さいことから大きいことまで)、旅行(47都道府県制覇済み🙆)、音楽フェス(邦楽ロック)、ディズニー(海外パーク制覇目指し中)などなど、関わる人が笑顔になれることが好きです☺️ ■目玉焼きには🍳?→醤油派👍 . 🌼名前:とよぽん ■1児ママ:2017.7男児のママ ■仕事:看護師(現在休職中で食育、食生活アドバイザー勉強中) ■好きなこと:食べること全般!特にパン屋巡りとか好き、時間があれば料理するのがストレス解消法、ヨガ、健康オタク、チョコレート、コーヒー ■目玉焼きには🍳?→塩胡椒派👍 . 🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄🍄 . こんな4名で楽しいことを考えています🎵よろしくおねがいしまーす😉 . 私たちの活動にスタッフとして参加したいなー、またはスタッフのサポーターとして参加してみたいなーなど、興味のある方がいらっしゃったらお気軽にお声掛けくださいね✨ . 2018.04.13 ゆかりん . #オパイル #オッパパママイル #追浜#横須賀 #子育て #つながり #子育てを楽しみたい #頼れる場所#自分を好きになる #地域活性 #起業ママ#スタッフ紹介 https://www.instagram.com/p/Bhf9HoogOcd/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=lzlazi6zirf5
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改めまして マリアちゃん、断乳しました‼︎ ▼以下長文▼ 断乳前は1日に何回もぱい求め吸い付き 寝かしつけもぱいONLY 夜中何回も起きてはぱい探して吸い付き 添い乳で寝ながら数時間チュパチュパ その体勢も結構ツラく朝起きて すでにHP消耗しまくりだった私 片頭痛がひどくて薬が飲めないのも辛く、、 しかしそれでも断乳するのはかなり悩みましたー これからマリたんもうぱい吸わないんだ って思うと本っ当にさみしい! マリたんは月齢が低い頃はむしろ哺乳瓶派で。 うまく吸えず、哺乳瓶の方が吸うの楽だから ぱい拒否ってたときもあって。 完ミにしようかと何回も考えたけど それでも母乳はいっぱい出てくるから諦めず 母乳外来行きながらなんとかして飲ませてました😅 手のかからない良い子ちゃんなマリアですが その時は子育てで1番メンタルやられてた時期かも笑 そんなマリたんもある日突然ぱい拒否がなくなり 終いには哺乳瓶を拒否し出し おぱい大好きベビーになりましたがー🤣 でも 上手に吸えて飲めるようになった時とか 徐々に哺乳瓶を拒否して完母になった時とか 泣いててもおっぱい吸って安心して泣き止んだ時とか 色々思い出したら涙ポロリ🥲 ぱい求めるマリたん 必死に吸い付くマリたん ぱい欲しくて泣くマリたん めーーーちゃ可愛いのよー ちなみに断乳初日は なんでおぱいくれないのーって感じで この世の終わりってくらいギャン泣き 私「ごめんねーもうおぱいないんだよー」って 一緒に泣きながらひたすらなだめ頑張りました マリたんはおぱいのこと「まんま」って言うんだけど 服めくりながら「まんまーーー」って泣いてて 可愛いし可哀想やしあげたいけどあげたら色々パァだし 何回も心折れかけた💔 そして3日目まではぱいを欲しがってグズってたけど だんだん求めなくなり、 夜中は2〜3回だっこーって起きて 座って抱っこしてあげたら即寝してくれて 寝かしつけも私の抱っこじゃないとギャン泣きだったのがルイスでもすぐ寝てくれるようになり 背中スイッチもなくなって ベッドに置いても機嫌良く寝てくれ 寝付きが良くなったので少しラクになりましたー ただしばらくは日中不機嫌なことが多くなって お出掛けした時、外食先などなかなか大変だったけど💦 そして途中、乳が岩のようにガチガチ🪨 痛すぎてなんもできひんから母乳外来へ。 ぱいも徐々に痛くなくなり今はもうふにゃふにゃです笑 断乳して3週間ですが、 まだ夜中泣いて起きます🥲泣 断乳したら楽になるかと思ったのに 夜泣きがひどいときもあって 正直断乳前より大変なこともあります🥲 ぱいがなくなって不安なのかなって 悪いことしたなって自分を責めることもあります🥲 未だに断乳して良かったんかな?と思うけど 早寝早起きの生活リズムが整い、 たまにだけど起きてもトントンで 寝てくれるようになり、 たまにだけど起きても1人でゴロゴロして 寝てくれるようになり、 (授乳してたら有り得ないことでした) 明らかにごはん食べる量が増え、 授乳の体力消耗もなくなって、、 まっ良かったよね😂! とにかく マリアたんーよく頑張ったー💓 長文断乳記録失礼しましたー アドバイスくれた先輩ママさん達 ありがとうございました🙇🏻♀️🙏🏻 めちゃくちゃ参考になりました‼︎ #sBébéx #1歳2ヶ月 #断乳レポ #1歳 #ベビスタグラム #クォーターベビー #ハーフベビー #女の子ベビー #育児アカウント #親バカ部 #子育て #新米ママ #赤ちゃん #令和ベビー #ベビーグラム #ママグラム #ベビーインスタ #赤ちゃんモデル部 #女の子ママ #赤ちゃんのいる生活 #ベビフル #8月生まれベビー #帝王切開ベビー #ハーフ赤ちゃん #髪フサフサベビー #赤ちゃんピアス (Tokyo 東京, Japan) https://www.instagram.com/p/CjhRL9Rra7T/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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製造元が責任取れないようなものを 国が国民に試しては駄目! 国民がモルモットに! 東洋医学健康アドバイザー 松本康男 がん治療の嘘をテレビで唱えた近藤誠さんのワクチン本です 。 https://facebook.com/yasuboy/photos/a.136378273679951/429812541003188/ 子宮頸がんワクチンは、明らかな国家犯罪。 https://www.facebook.com/boy.yasu/posts/2306836612727672 その他のワクチンも一切効果はない。 . . ★気をつけろ!ワクチンは、医療テロだ! https://facebook.com/yasuboy/photos/a.136378273679951/434523997198709/ 子宮頸がんワクチン副作用_拡散希望 https://www.facebook.com/boy.yasu/posts/2301758066568860 ワクチンの恐ろしさを知りましょう。 ワクチン副作用、63人提訴 子宮頸がん、15~22歳女性 https://www.facebook.com/boy.yasu/posts/2274582352619765 子宮頸がんワクチンのせいです。 子宮頸がんの発見数が増えたのなら・・・ https://www.facebook.com/boy.yasu/posts/2026406047437398 取り戻そう!少女たちの未来を! https://facebook.com/yasuboy/photos/a.136378273679951/403907766926999/ #感染症 #ワクチン #インスタ医療団 #ワクチン反対 #ワクチン接種 #インスタ医療団_予防接種 #自然派ママ #自然派育児 #反ワクチン #ワクチン副反応 #ワクチン副作用 #インフルエンザ #インフルエンザワクチン #副反応 #副作用 #子宮頸がんワクチン #子宮頸がん #子宮頸がん検査 #ノーワクチン #船瀬俊介 #内海聡 #近藤誠 #真弓定夫 さん達の情報が正しい。真実であり、正論。 #風疹 #風疹ワクチン #自然派 #自然派育児 #混合接種 #混合ワクチン #インスタ医療団 #ワクチン #ワクチン副作用 #ワクチン副反応 #しゅんしゅんクリニックp https://www.instagram.com/p/CEJdy78DYaW/?utm_medium=tumblr
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