#私は断然陸派
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♡ #もうひとつの推し活 この人はいつ会っても ホンマにカワイイ♡ どんな仕草をしても すべてがカワイイ♡ #これで御年94歳になられるとは #会えたことに感謝しかない ✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧ #久しぶりのインパ #私は断然陸派 #東京ディズニーランド #東京ディズニーリゾート #ミニーのスタイルスタジオ #秋仕様ミニー #ミニーマウス #ミニーちゃん #ミニー大好き #rokyodisneyland #Tokyodisneyreaort #minniemouse #lovecharacter (at ミニーのスタイルスタジオ) https://www.instagram.com/p/ClAw02jvWhg/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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何故、中共は「中国4000年の歴史」とか「中華民族」とか見えすいた嘘を吐くのか?侵略の準備なんだよ!
本当は夏朝、殷、隋、唐、金、遼、元、清など全て騎馬民族など異民族支配で元々の漢民族は殆ど後漢で滅んでる
その王朝でも支配してたのは北京周辺であり今のチベット、内モンゴル、ウイグルなどの地域も異民族に支配されており、北京周辺王朝は貢いでたり、王族などから女を贈って、勘弁して貰ってた
女を贈って置いて「あの地方王朝の王は俺たちの婿様だから、あそこも中華王朝の一部」とか無理な事を言ってる
しかし中共はその論理でチベットを盗り、内モンゴルを裏切り、東トルキスタン(ウイグル)を強奪して、中共から人を沢山送り現地人をレイプ強姦して妊娠させ混血児を増やし、現地人には強制堕胎、強制不妊手術を行い純粋な現地人人口を減らし、言葉を奪い、文化や宗教を禁止して文字通り民族浄化して、根絶やしにしようとしている
「元々は中華の一部」「太古より中華民族(なんだソレ?)が住んでた」と言い張り、侵略している
同じ論理をプーチンがウクライナに言って「元々はロシアの一部」「昔からウクライナにもロシア人が住んでた」と言い張り、ロシア系住民保護と主張して、ウクライナに侵攻した
おんなじパターン
中共は「尖閣は中共の土地」「沖縄は中国(どの支那だよ?)に朝貢してた中国の一部」と主張している
北海道には沢山、移民させてる
次はどうなるかって?
そりゃ中共による尖閣、沖縄、北海道の侵略が始まるんだよ!
だから「中国4000年の歴史」とか「ずっと中国はあった」とか「偉大な中華民族(何ソレ?)」という嘘に加担しては駄目だ!
それは彼らの宣伝
それは彼らのプロパガンダ
なんだよ?
欧米なんか知ってか知らずか
鵜呑みにしてる
日本国民は洗脳されて
鵜呑みにしてる
まずそこを否定して
防衛強化して
教育を強化して行こう!
【関連】
828 :本当にあった怖い名無し :sage :2010/09/27(月) 12:12:24 ID:fsTA3r1B0(4)
支那人にも孔子、老子、孟子を生んだ立派な文明があると誤解している日本人が多いのだと思います。
漢文を通じて中国人を理解することぐらい、絶望的な行為はありません。何故なら漢文はこの二千年間というもの中国語とは全く関係がない。日本人のほとんどは漢文を中国語の古語と思ってきたのです。
つまり日本人が尊敬し 知っている漢民族は紀元二世紀でこの地球上から姿を消し、中国住民はそっくり北方の騎馬民族の子孫に何回も何回も入れ替わってしまったのです。
そして秦や漢時代の中国人は,そのほとんどが大陸から居なくなったということです。
ところが日本は遣隋使や遣唐使たちの使節が派遣され膨大な漢籍を大陸から持ち帰り,それを今日まで途切れることなく勉強してきたのです。
つまり日本人は騎馬民族の子孫である中国でなく2000年以上前のいなく なった漢民族の文化を勉強してきたのです。
日���人なら誰でも知っている儒教の開祖である孔子は,紀元前6~5世紀 中国各地の有力諸侯が覇権を争っていた春秋時代のことです
830 :本当にあった怖い名無し :sage :2010/09/27(月) 12:13:38 ID:fsTA3r1B0(4)
使節団が中国から持ち帰った無数の漢籍を日本人は今日まで約1300年間も読み込んできたのです。
早い話が遣隋使や遣唐使が持ち帰った「論語」や「漢詩」などによって 皮肉なことに中国人でなく日本人の人格が磨かれてきたのです。
中国語と漢文は全く関係がない、つまり漢文の読めない中国人にとって孔子や孟子の教えなど身につくはずもありません。
いわゆるこの二千年間というもの,漢文は中国語とは全く関係がないと いうことを多くの日本人は知らなかったのです。
私はこれらのことを中国史研究の第一人者である岡田英弘先生から教えてもらいました。
私も20年前 漢文を通じて身につけた中国イメージのまま中国に進出してそのギャップの大きさに仰天した記憶があります。
中国進出する前は、信義に厚く,礼を尊ぶ文化人の国であると���じていました。しかし現実にいるのは,油断も隙もならない、詐欺師の野蛮人ばかりでした。
中国人に取って漢文とは外国語同然なのです.中国で話されている言葉とは全く無縁の言語体系なのです。
831 :本当にあった怖い名無し :sage :2010/09/27(月) 12:14:22 ID:fsTA3r1B0(4)
現在の中国人は,彼らが使っている中国語が,実は文体もボキャブラリーも日本語からの借用であるということを隠そうとしています.現代日本文の真似をして前置詞や助動詞を明確に記すことによって、やっと文章が書けるようになったのです。
日清戦争後,日本に大量の清国留学生がやってきて,日本語を学び中国語を誰でもが読める中国語の表記法を改良していったのです.その中にかの有名な魯迅もいたのです。
日本語をマスターした魯迅の頭の中は日本語の文章があり,それを漢字に置き換えて表現することによって原文一致体の「白話文」が生まれました。
そして試行錯誤の結果 現在における中国語は北京語を元にした「普通話」がやっと確立されたのです。
つねに色んな異民族に取って変わられた中国の歴史を眺めたとき,中国政府が宣伝している四千年の歴史は中国人の歴史ではなく中国大陸の歴史だということがわかります。
中国には単一民族としての中国人は一度も存在しなかった.中国語には
北京語,上海語,福建語などの言葉があることを知られていますが、実際はもっと言語は細分化されています。これらは単なる方言というのでなく,ほとんど共通点がありません。
そこで中国政府は各国が持っている「国民国家」というシステムを作るために国民を北京語に統一して教育してきたのです。それもまだ100年足らずのことです。
833 :本当にあった怖い名無し :sage :2010/09/27(月) 12:16:10 ID:fsTA3r1B0(4)
そして言語だけでなく異文化、異言語の人々の寄せ集め集団である中国を統一するために歴史も歪曲せざるをえなかった。
毛沢東は少数民族を含めて全ての中国人を漢族にしてしまうために少数民族の文化を奪い、抵抗するものは容赦なく抹殺してきたのです。
もし少数民族の自治や、言論の自由といったものを実現させれば、中国政府が意図する最強の「国民国家」システムの改造計画が頓挫してしまいます。
この中国共産党の意図が理解できたとき、日本人やアメリカ人が思っている「中国は資本主義開放経済への道を進めば自然に民主国家になっていく」という考えが いかに愚かな事であるかということがわかっていただけたとおもいます。
http://2nnlove.blog114.fc2.com/blog-entry-2836.html
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一��と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。��面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止���を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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2024.10.13
映画『HAPPYEND』を見る。父の時代の学生運動のような雰囲気と、街の風景のクールな切り取り、存在感があり重厚な音楽の使い方から愛しいものとしてのテクノの使い方まで大変気に入り、今度会う人に渡そうと映画のパンフレットを2冊買う。その人と行った歌舞伎町時代のLIQUIDROOM、どんどん登らされた階段。小中学生の時に自分がした差別、あの分かっていなさ、別れた友人、まだ近くにいる人たち。
2024.10.14
銀座エルメスで内藤礼『生まれておいで 生きておいで』、ガラスの建築に細いテグスや色のついた毛糸が映える。日が落ちて小さなビーズが空間に溶けていくような時間に見るのも素敵だと思う。檜の「座」で鏡の前にいる小さな人を眺める。「世界に秘密を送り返す」を見つけるのは楽しい。黒目と同じだけの鏡、私の秘密と世界の秘密。今年の展示は上野・銀座ともに少し賑やかな雰囲気、外にいる小さい人たちや色とりどりの光の色を網膜に写してきたような展示。でも相変わらず目が慣れるまで何も見えてこない。銀座にはBillie Eilishもあったので嬉しくなる。
GINZA SIXのヤノベケンジ・スペースキャットと、ポーラアネックスでマティスを見てから歩行者天国で夜になっていく空を眺めた。小さい頃は銀座の初売りに家族で来ていたので、郷愁がある。地元に帰るよりも少しあたたかい気持ち、昔の銀座は磯部焼きのお餅を売っていたりしました。東京の楽しいところ。
2024.10.18
荷造り、指のネイル塗り。足は昨日塗り済み。年始の青森旅行時、2泊3日の持ち物リストを作成し、機内持ち込み可サイズのキャリーに入れ参照可能にしたところ、旅行のめんどくさい気持ちが軽減された。コンタクトや基礎化粧品・メイク用品のリスト、常備薬、安心できる着替え��量。持ち物が少ない人間にはなれそうにない。日常から多い。部屋に「読んでいない本」が多いと落ち着くような人間は持ち物少ない人になれない。
2024.10.19
早起きして羽田空港。8:30くらいに着いたらまだ眺めのいいカフェが開いておらず、とりあえず飛行機が見える屋上に行く。このあと雨が降るはずの曇り空からいきなり太陽が照り出して暑くなり、自販機でマカダミアのセブンティーンアイスを買い、食べる。突然の早朝外アイス。飛行機が整列し、飛び立つところをぼんやりと眺める。飛行機は綺麗。昨夜寝る前にKindleで『マイ・シスター、シリアルキラー』を買って「空港ではミステリー小説だろう」と浮かれて眠ったのに、100分de名著のサルトルを読み進める。実存主義を何も分かっていないことをこっそりとカバーしたい。すみませんでした。
10:15飛行機離陸。サンドイッチをぱくぱく食べたあとKindleを手に持ったまま眠ってしまい、11:55宇部空港着。
宇部空港、国内線のロビーは小さく、友人にすぐ会う。トンネルを抜ける時、窓が曇り、薄緑色の空間に虹色の天井のライトと車のライトがたくさん向かって来て流れる。動画を撮影しながら「綺麗くない?」と言うと「綺麗だけど本当は危ない」と言われる。かけるべきワイパーをしないで待っていてくれたんだと思う。
友人のソウルフードであるうどんの「どんどん」で天ぷら肉うどん、わかめのおにぎりを食べる。うどんは柔らかく、つゆが甘い。ネギが盛り放題。東京でパッと食べるうどんははなまる系になるので四国的であり、うどんのコシにもつゆにも違いがある。美味しい。
私は山口市のYCAMのことしか調べずに行ったので連れて行ってもらう。三宅唱監督の『ワイルドツアー』で見た場所だ。『ワイルドツアー』のポスターで見た正面玄関を見に芝生を横切ったが、芝生は雨でぐずぐずだった。でも全部楽しい。
広くて静かで素敵な図書館があり、心の底から羨ましい。小さな映画館もあり、途中入場できるか聞いたおじいちゃんが、「途中からだからタダにならない?」と言っていたがタダにはなっていなかった。一応言ってみた感が可愛らしい範囲。
YCAM内にあるのかと思っていたら違う倉庫にスペースのあった大友良英さんらの「without records」を見に行く。レコードの外された古いポータブルレコードプレーヤーのスピーカーから何がしかのノイズ音が鳴る。可愛い音のもの、大きく響く音のもの。木製や黄ばんだプラスチックの、もう存在しない電機メーカーの、それぞれのプレーヤーの回転を眺めて耳を澄ませてしばらくいると、たくさんのプレーヤーが大きな音で共鳴を始める。ずっと大きい音だと聞いていられないけれど、じっと待ってから大きな音が始まると嬉しくなる。プログラムの偶然でも、「盛り上がりだ」と思う。
山口県の道路はとても綺麗で(政治力)、道路の横は森がずっと続く。もとは農地だっただろう場所にも緑がどんどん増えている。私が映画で見るロードムービーはアメリカのものが多く、あちらで人の手が入っていない土地は平らな荒野で、日本の(少なくとも山口県の)土は放っておくとすぐに「森」になるのだ、ということを初めて実感する。本当の森の中にひらけた視界は無く、車でどんどん行けるような場所には絶対にならない。私がよく散歩をする所ですら、有料のグラウンドやイベント用の芝生でない場所には細い道を覆い隠す雑草がモコモコと飛び出して道がなくなってゆく。そして唐突に刈られて草の匂いだけを残す。私が「刈られたな」と思っているところも、誰かが何らかのスケジュールで刈ってくれているのだ。
山口県の日本海側の街では中原昌也と金子みすゞがそこかしこにドンとある。
災害から直っていないために路線が短くなっているローカルの汽車(電車じゃない、電車じゃないのか!)に乗って夜ご飯へ。終電が18:04。霧雨、暴風。一瞬傘をさすも無意味。
焼き鳥に挟まっているネギはタマネギで、つきだしは「けんちょう」という煮物だった。美味しい。砂肝、普段全然好きじゃないのに美味しかった。少し街の端っこへ行くとたまに道に鹿がいるらしく、夜見ると突然道路に木が生えているのかと思ったら鹿の角、ということになり怖いらしい。『悪は存在しない』のことを思う。
2024.10.20
雨は止んでいてよかった。海と山。暴風。人が入れるように少しだけ整えられた森に入り、キノコを眺める。
元乃隅神社、123基の鳥居をくぐり階段を降りて海の近くへ。暴風でiPhoneを構えてもぶれて、波は岩場を越え海の水を浴びる。鳥居の上にある賽銭箱に小銭を投げたけれど届くわけもない。車に戻ると唇がしょっぱかった。
山と海を眺めてとても素敵なギャラリー&カフェに。古い建物の改装で残された立派な梁、屋根の上部から太陽光が取り込まれるようになっていて素晴らしい建築。葉っぱに乗せられたおにぎりと金木犀のゼリーを食べる。美味しい。
更に山と海を眺めて角島へ。長い長い橋を通って島。古い灯台、暴風の神社。曇天の荒れた海も美しいと思う、恐ろしい風や崖を体感としてしっかりと知らない。構えたカメラも風でぶれるし、油断すると足元もふらつく風、窓につく塩の結晶。
山と海を眺めて香月泰男美術館へ。友人が見て良い展示だったからもう一度来て見せてくれたのだ。
全然知らなかったけれど、本当に素晴らしい絵だった。油彩なのだけど、質感が岩絵具のようで、フレームの内側に茶色のあやふやな四角が残っているのがとても良い。
フレーミングする、バチッと切り取ってしまう乱暴さから離れて、両手の人差し指と親指で四角を作って取り出したようなまなざしになる。
山口県の日本海側の山と畑と空の景色、荒い波、夜の静けさや月と雲、霧の色を見てから美術館へ連れて来てもらえたから色と色の境目の奥行きを知る。柿はずっしりと重く、花は鮮やかだ。香月泰男やシベリア抑留から帰ってきた画家で、この前読んだ『夜と霧』の暗さと冷たさを思い返した。絵の具箱を枕にして日本へ帰る画家が抱えていた希望、そのあとの色彩。
夕飯は友人の知り合いのハンバーガー屋さんへ。衝撃のうまさ。高校生の時に初めて食べたバーガーキングの玉ねぎの旨さ以来の衝撃、20年ぶりだ。そんなことがあるのか。
2024.10.21
晴天。海は穏やかで、深い青、テート美術館展で見たあの大きな横長の絵みたい。初めて見た海の光。
海と山を眺めて秋吉台へ。洞窟は時間がかかるので丘を散策、最高。
風光明媚な場所にしっかりとした情熱が無かったけれど、「好きな場所だから」と連れていってもらえる美しい場所は、友人が何度も見るたびに「好きだなぁ」と思っただろう何かが分かり、それは私が毎日毎日夕陽を眺めて「まだ飽きない」と思っている気持ちととても近く、感激する。
今までの観光旅行で一番素敵だった。
道々で「このあと窓を見て」と教えてもらい、味わう。
ススキが風に揺れて、黄色い花がずっとある。山が光で色を変え、岩に質感がある。
山口市、常栄寺、坂本龍一さんのインスタレーション。お寺の庭園が見られる場所の天井にスピーカーが吊るされ、シンセサイザーの音を演奏しているのは色々な都市の木の生体信号だ。鳥の声や風の音と展示の音は区別されない。砂利を踏む音、遠くから聞こえる今日の予定。豊かなグラデーションの苔に赤い葉っぱが落ちる。
宇部空港はエヴァの激推しだった。庵野さん、私も劇場で見届けましたよ。
行きの飛行機は揺れたけれど、帰りは穏やか��到着、家までの交通路がギリギリだったため爆走、滑り込む。
東京の車の1時間と山口の1時間は違う。
何人かの山口出身の友人が通った空と道と海と山の色を知ることができてとても嬉しい。
「好きな場所」「好きな風景」ってどういうものなんだろう。
私が通う場所、好きな建築、好きな季節と夕陽。あの人が大切にしている場所に吹く風、日が落ちる時刻が少し違う、友人のいる場所。
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これは、フランスの雑誌マリアンヌに掲載された非常に珍しく興味深い記事で、マリアンヌはウクライナ情勢に関するフランス軍からの「いくつかの機密防衛報告書」を入手した。 https://marianne.net/monde/europe/guerre-en-ukraine-endurance-russe-echec-de-la-contre-offensive-ce-que-cache-le-virage-de-macron… ウクライナにとって状況は非常に暗いようであり、これがウクライナへの派兵に関するマクロンの最近の宣言を部分的に説明している可能性がある。記事の重要な部分を翻訳しました。 「ウクライナの軍事勝利はもはや不可能に見える」 マリアンヌが調べた報告書には、ウクライナの反撃は「徐々に泥と血で行き詰まり、いかなる戦略的利益ももたらさなかった」と書かれており、キエフと西側の参謀が考えたその計画は「悲惨な」結果となった、と書かれている。ひとたびロシアの最初の防衛線が突破されれば、戦線全体は崩壊すると考えていた[...] これらの基本的な準備段階は、防衛における敵の道徳的力、つまり、ロシア軍兵士が守り続け��うとする意志を考慮することなく���施された。地形」。 報告書はまた、「ウクライナの兵士と将校の訓練が不十分であること」も強調している。将校の不足とかなりの数の退役軍人のため、ウクライナからのこれら「2年目の兵士」は訓練期間が「3週間以下」であることが多い。難攻不落であることが判明したロシアの要塞線への攻撃が開始されました。 いかなる航空支援もなく、旧ソ連製のものよりも効率が劣る異種の西側装備(「時代遅れで保守が容易で、劣化モードでの使用が可能」と報告書は述べている)を使用していたウクライナ軍には突破の望みはなかった。 。これに加えて、「電子妨害の分野におけるロシアの超優位性が、ウクライナ側にドローンと指揮システムの使用を罰する」こともある。 「ロシア軍は今日、防御方式を考え実行するための『戦術的・技術的』参考となっている」と報告書は書いている。モスクワには防衛施設の建設を可能にする重土木設備があるだけでなく(「ウクライナ側にはこの資材がほぼ完全に欠如しており、西側諸国が迅速に供給することは不可能」)、ソウロコヴィネ線として知られる1,200キロメートルの前線もある。 (ロシアの将軍にちなんで)大規模に採掘されています。 報告書はまた、ウクライナとは対照的に、「ロシア軍は作戦の持久力を確保するために予備軍をうまく管理した」ことも強調している。この文書によると、モスクワは部隊が完全に疲弊する前に増援し、新兵と経験豊富な部隊を混合し、後方での定期的な休憩時間を確保し…そして「予期せぬ事態に対処するための一貫した予備部隊を常に備えていた」という。これは、ロシア軍が数えることなく軍隊を虐殺に送り込むという西側諸国で広く普及している考えとは程遠い。 この機密防衛報告書は、「現在までのところ、ウクライナ軍参謀本部は、ロシアの相手国に防衛線を突破するよう挑戦できる軍団レベルでの軍間機動が可能な陸上戦力を十分に保有していない」と結論づけている。 「分析と判断の最も重大な誤りは、敵対行為を止めるためにもっぱら軍事的解決策を模索し続けることだろう。」フランス将校は、「駐留兵力を考慮すると、ウクライナが軍事的にこの戦争に勝つことができないのは明らかだ」と要約した。 「紛争は12月に重大な段階に入った」 「ウクライナ兵士の戦闘力は深刻な影響を受けている」と、2024年に向けた前向きな報告書は言及している。「ゼレンスキー大統領は月に3万5000人の兵力を必要とするが、その半分も徴兵していないのに対し、プーチン大統領は月に3万人の志願兵の中から集めている。 」とキエフから帰国した軍人は語る���装備の面でも同様にバランスが崩れており、2023年の攻撃失敗によりキエフの12戦闘旅団の半数が「戦術的に破壊」された。 それ以来、西側援助がこれほど低額になったことはありません。したがって、今年はウクライナの攻撃が開始できないことは明らかである。 「西側諸国はドローンや徘徊兵器を製造するために3Dプリンターを供給できるが、人間を印刷することは決してできない」とこの報告書は指摘している。 「状況を考慮すると、ウクライナ軍を戦闘機ではなく後方支援部隊で強化し、ウクライナ兵士を前線に解放できるようにすることが決定されたのかもしれない」と上級将校は認め、「ランプ」を認めた。私服を着た西側軍人のアップ」。 「ニューヨーク・タイムズ紙がCIAキャンプを訪問することを許可したアメリカ人のほかに、かなりの数のイギリス人がいる」とある軍人は口を滑らせるが、彼はフランスの特殊部隊、特に訓練任務のための水泳選手の存在を否定していない... 「ロシアの躍進のリスクは現実的だ」 2月17日、キエフはそれまで要塞拠点であったドネツク北郊外のアヴディウカ市を放棄しなければならなかった。 「それはロシア語圏ドンバスにおけるウクライナ抵抗の中心であり象徴でもあった」と、「アヴディウカの戦い」に関する報告書は強調し、一連の忌まわしい教訓を引き出している。 「ロシア人は都市を区画化し、特に初めて大規模に滑空爆弾を使用することで手口を変えた」とこの文書は述べている。 155 mm 砲弾が 7 kg の爆薬を搭載している場合、滑空爆弾は 200 ~ 700 kg を投射するため、厚さ 2 m を超えるコンクリート構造物を貫通することができます。 1日あたり1,000人以上の兵力を失ったウクライナ防衛軍にとっては地獄だった。さらに、ロシア人は地上の音響探知システムを阻止するために軽歩兵兵器に消音装置を使用している。 この最後の報告書は、「ウクライナ軍による撤退の決定は驚きだった」と述べ、「突然のことと準備の欠如」を強調し、この選択が「ウクライナ軍の決定よりも耐え忍ばれた」のではないかと懸念しており、発症の可能性を示唆している。 「混乱」の。 「ウクライナ軍は、攻撃者の努力にさらされる前線の一部を維持するための人的・物的能力を持たないことを戦術的に示した」と文書は続けている。 「アヴディウカでのウクライナ軍の失敗は、『精鋭』旅団――第3アゾフ航空強襲旅団――を緊急配備したにもかかわらず、崩壊した戦線の一部を局地的に回復する能力がキエフには無いことを示している」とこの最後の報告書は警告している。 この戦術的成功をロシア人がどうするかはまだ分からない。前線全体を「かじってゆっくり揺さぶる」という現在のやり方を続けるのか、それとも「深層突破」を���指すのか。 「アヴディウカの背後の地形がそれを可能にしている」とこの最近の文書は示唆しており、西側筋はロシア人自身も「マスキロフカ」の練習に熟達しており、「強いのに弱いように見える」傾向があるとも警告している。この分析によれば、2年間の戦争を経て、ロシア軍は「ウクライナ軍の継続的な消耗に基づくゆっくりとした長期にわたる戦争」を遂行することを可能にする「作戦上の持久力を開発」する能力を示したという。
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我が国の未来を見通す(87)
『強靭な国家』を造る(24)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その14)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
今回は、これまであまり取り上げて来なかった話
題に触れてみましょう。最近、百田尚樹氏が「日本
保守党」を旗揚げし、フォロアー数がすでに自民党
を超えたことを自ら月刊誌に発信していました。
旗揚げに至った理由についても縷々述べておりまし
たが、前回紹介したような我が国の現状に対する
“いらだち”や自民党、特に保守系の政治家に対す
る期待感の喪失が百田氏を本気モードにさせたよう
です。彼らに対して「国民を裏切ってきた」の厳し
く批判しているところにその決意のほどが窺い知れ
ます。
個人的には百田氏の心境をよく理解できるつもりで
すが、私自身は、自衛官を退官した後も“気持ちの
上では”「生涯自衛官」を決意し、引き続き「政治
的活動には関与せず」と誓いを立てました。
退官後も、様々な(特に保守系の)団体からお誘い
もありましたが、“その色に染まる”メリットとデ
メリットを勘案し、あえて所属することを辞退し、
あくまで“肩書”なしの一個人の立場で、できる範
囲で活動することを心がけ、実践してきました。
メルマガ発信などもその一環として実行しています
が、私たちは、人を“肩書”で判断し、自分の考え
に近い組織に所属する人が書いたり話したりするこ
とには目を開き、耳を傾けますが、自分の考えと反
対側にいる人たちが書いたり話したりすることには
拒否しがちで、歩み寄ることも交わることがないの
が通例です。
つまり、保守系の人たちがいくら“いきり立って”
立派な主張を述べても、革新系の人たちには届かず、
理解もされず、“揚げ足”をとられるか、反論のた
めの理屈を並べ立てる材料にしかならないのです。
そして、その逆もまた“真”でしょう。
このように、戦後の出発点から70数年の間、政党
名などがひんぱんに変わることはあっても、たと��
ば、憲法とか国防などの根幹の部分はお互いにほと
んど歩み寄ることなく、(失礼ながら)不毛の議論
に時間を費やしてきました。このようなことが“我
が国をどれほど不幸にしているか”、政治家と言わ
ず、大多数の国民もそろそろ気がつかねばならない
時期に来ていると考えます。
私は、最近は特に、幅広いテーマについて様々な立
場から書かれたものを読む機会がたびたびあります。
現在も、「日本を守ってきたのは憲法9条と国民の
平和希求だ。戦争を放棄した国に戦争を仕掛けてく
る国はない」(原文のママ)と堂々と書いている大
学教授ら著名人が書いた書籍を読んでいます。
少し前に発刊された書籍ではあるのですが、当時の
国際情勢の分析の視点が私などとは180度も違う
ので、とてもおもしろいし、参考になります。この
ような人たちに、その後の国際情勢は自分たちの分
析どおりに展開したのか、もし違っていたのであれ
ばその原因はどこにあったのか、とか、「ウクライ
ナ戦争」や「中台問題」などをどのように分析して
いるか、などについて訊ねてみたい衝動にかられま
す。一方で、このような人たちは、永遠に“こちら
側”に来ることはないのだろうと思ってしまいます。
心配するのは、このような考えを持つ先生たちに教
えられた学生は“先生の考えに染まってしまう”、
つまり、“世代が変っても、考え方の対立構造が変
わることがないのではないか”ということです。現
在は情報が溢れています。若い世代の皆様には様々
な情報に接して、先生の考えの是非をみずから咀嚼
するなど、何としても“賢くなってほしい”と願わ
ずにはおれません。
今回はこのくらいにして、この続きは、のちに取り
上げる「国家意思」のところで触れましょう。
▼「国力」の「ハード・パワー」の総括
さて、だいぶ前に「『強靭な国家』造りは、『国力』
の増強に挑むことにある」と考えるに至り、私なり
に「国力」を新しく定義することから始まり、以来、
13回にわたり、「国力」を構成する「ハード・パ
ワー」のそれぞれの要素ごとにブレイクダウンして
分析してきました。
改めて、76話で取り上げた「国力」を定義する方
程式を再提示します。
国力=(人口+領土+経済力+軍事力+食料・天然
資源+政治力+科学技術+教育+文化)×(国家戦略
+国家意思)
です。人口や領土など、ある程度数値化してイメー
ジ・アップしやすい「ハード・パワー」を、(粗々
ではありますが)実際に個々にブレイクダウンして
分析した結果、なかには「政治力」とか「文化」な
ど国際比較が難しい要素もありましたが、「国力」
を構成する要素としてほぼ漏れがないものと自負し
ております。
そこで、「ソフト・パワー」としての「国家戦略」
や「国家意思」を考察する前に、「ハード・パワー」
を総括しておこうと思います。
まず、「ハード・パワー」の���頭に「人口」を掲げ
ました。「人口減」が即、「国力の低下」に直結す
るのはあらゆるデータから疑いようがありません。
その対策としてこれまでも何度も試みられ、現在も、
“異次元の対策”が現政権の看板政策として掲げら
れていますが、戦前のように、国家が半ば強制的に
「産めよ!増やせよ!」と号令をかけることができ
ない今、“どのようにすれば、適齢期の若者たちが
子供を産むのか”の本質的な議論が欠けているよう
な気がしてならないのです。
その答えの一つは、「将来の希望があるかどうか」
にあると考えます。言葉を代えれば、人口減を防止
して、再び人口増に転じる方策は、小手先の子供手
当などばかりではなく、「未来に希望が持てる国造
り」にかかっているのではないでしょうか。つまり、
「国力」を構成する他の要素と密接にかかわってい
るのです。
次に「領土」です。人類の歴史は、かつての植民地
主義のように、武力に“物を言わせて”一方的に
「領土」拡大を企図するか、はたまた、互いの「領
土」争奪を目的とする「戦争」の繰り返しだったこ
とはすでに述べました。そして、「外国資本による
土地の購入」防止を含めて、“寸土”といえども
「領土」を守り抜く強い意志が必要であることを強
調しました。
戦前の反動として戦後の日本人が失ったものの中で
最大のものは、「国家を誇りに思う心」とか「愛国
心」であり、さらには「国を守る」意識であろうと
思います。ウクライナ戦争のように、今なお「領土
争奪戦」が繰り広げられていることから、「領土」
を守るための最終手段として「軍事力(防衛力)」
が必要不可欠なことも自明であり、「防衛力」を保
有することに対する理解と支持を含めて、「領土」
も「国力」の他の要素と切り離して考えることは不
可能です。
次に「経済力」です。我が国は、依然、GDPは世
界第3位をキープしていますが、「経済力」を比較
するほとんどの指標が“右下がり”になっているこ
とはすでに紹介しました。中でも、「1人あたり名
目GDP」(USドル)は30位まで低下、「経済
成長率」も「失われた30年」と揶揄されるように
ほとんど停滞し、デジタル競争力などの「国際競争
力」も低下傾向にあります。
「財政」「通貨」などに加え、「科学技術」や「教
育」など、「経済力」を強くするために、“打たな
ければならない手”(打ち手)は多岐に及ぶでしょ
う。小手先の「物価」対策に奔走しているだけで不
十分��ことは明らかです。
次に、「軍事力(防衛力)」です。我が国が戦後、
「吉田ドクトリン」によって国家の安全保障の大部
分を日米安保条約に委ね、「軽武装重経済」の路線
を歩んできたことはすでに述べ、現下の厳しい情勢
の中で、その路線を保持し続けるだけで十分なのか、
についても問題提起しました。
昨年末、ようやく「安保3文書」も策定されました
が、依然、“かゆい所に手は届いていない”ことも
指摘しました。「防衛力」については、依然、国民
の中に各論があることから、この分野こそ、為政者
の断固たる決意と実行が求められています。某月刊
誌の見出しにあった“作文だけに終わらないよう”
祈るばかりです。
次に「食料・天然資源」です。これらの乏しい「自
給率」の“生”のデータをみると、食料やエネルギ
ーの将来にわたる安定確保こそ、我が国の最優先課
題と言えるでしょう。
我が国は、元来の「性善説」を保持し、かつ戦後長
い間のアメリカの“庇護”に慣れ過ぎたせいか、世
界の人口増や国際情勢の急変などに対する「危機意
識」を持つ“感性”を失ってしまいました。人口減
などに伴う「経済力」の低下も手伝って、食料やエ
ネルギーなどの安定確保のパワー自体が落ちること
も懸念されます。
農業など「一次産業」の保護政策についても、「聖
域なき構造改革」などと“戦略のかけらもない”よ
うなことを繰り返してきた結果、先進国の中でワー
ストだったことも判明しました。この分野も、(言
いにくいことではありますが)選挙対策最優先の政
治家や現場感覚が欠如している官僚に任せておいた
“ツケ”が溜まっているという事実を再認識しなけ
ればならないでしょう。
また、気候変動対策とエネルギー確保については、
雰囲気や情緒に流されず、科学的根拠に基づき、資
源小国の日本ができること、やらなければならない
ことを冷静に選別しつつ、我が国が“国家として生
き残るための優先順位”を間違わないことが肝要で
しょう。
次に「政治力(外交力)」です。すでに「政治家」
の「資質」について取り上げました。若干付け加え
ますと、我が国の国会議員710名の約27~28
%はいわゆる世襲議員で、自民党に至っては約4割
が世襲だそうです。G7を含む先進国の国会議員の
世襲の割合は1割以下なので、我が国の世襲議員の
割合は、先進国平均より異常に高くなっています。
世襲議員が悪いと言っているわけではありませんが、
「政治家」という仕事は、一般的な「親の家業を子
供が継ぐ」こととその本質が異なることは明らかで
す。いくら「地盤、看板、鞄」が十分でであっても、
当人に政治家としての「資質」があるかどうかが問
題なのです。
不幸なのは、これら「3バン」が盤石で“必勝間違
いない”候補者に対して、政治家としての「志」や
「資質」に勝る候補者が勝てないことです。有権者
たる国民にそれを見抜く力が要求されますが、実態
は“ほぼ見抜けない”か、“白けて”しまって“政
治離れ”になることが心配されます。現にそのよう
な現象が起きていることも紹介しました。
巷には、政治家がサラリーマン化し、「自分がやら
なければ、日本はダメになる─そんな熱い政治家は
いないのか」と“現状”を嘆く意見も散見されます
が、「国家観」をしっかり持って、背水の陣で国を
リードする「志」と「資質」を有する政治家(達)
の“一念発起”、省益を捨てそれを支える官僚、そ
れを支持し、エールを送って国民を感化善導する有
識者やマスコミが我が国の未来を左右することでし
ょう。
次に「科学技術」です。近代から現在に至る国際社
会で、世界の覇権国としてその地位を保持し続けて
いるアメリカをして、それを可能にさせている要因
の筆頭に「科学技術」に対する国家戦略が挙げられ、
その戦略の果敢な推進が他国の追随を許さなかった
のでした。
我が国あっては、「ものづくり技術」という伝統的
な能力を持ちながら、時代の変化を先取りするよう
な戦略を立てきれなかったところに今日の低迷があ
るのではないでしょうか。予想される様々な将来環
境の中で、人類が“より幸福に”“より豊かに”日
々の生活を営むために、期待されるイノベーション
は限りないことでしょう。それらのイノベーション
に対するリスクを国家が引き受ける覚悟と実行こそ
が、日本の未来はおろか、明日の人類を救うことで
しょう。
次に「教育」です。「国家100年の計」としての
「教育」についても紹介しましたが、「低学歴国」
と揶揄されるように、その現状は寂しいものがあり
ます。残念ながら、戦後の長い間、様々な原因が重
なって、国家として「教育」を怠ってきた“ツケ”
がこの分野も溜っているのです。この分野も専門集
団に任せないで、早急にメスを入れる必要があるで
しょう。
最後に「文化」です。歴史的にみれば、国際社会を
席捲した「西欧文明」に“棹を立てた”最初の国が
「日本文明」でした。現在も8文明の一つとしてか
ろうじて残っている「日本文明」ですが、文明間の
“調整役”として機能発揮する「力量」を保持して
いるのか、と自問自答すれば、寂しいものがあるこ
とも紹介しました。
「一国家一文明」として孤立しているがゆえのメリ
ットがあるとハンチントンは期待していますが、そ
のためにも国家としての「力量」をアップする前に
立ちはだかる、様々な“障壁”を乗り越える必要が
あるでしょう。逆に、“調整役”としての機能を発
揮することが国家の「力量」アップに繋がる道であ
るとも考えます。
▼「ハード・パワー」の総括からわかったこと
��て、これら「ハード・パワー」を総括してみて改
めて分かったことは次の2点です。第1点目は、繰
り返しますが、「我が国の『ハード・パワー』はほ
ぼ例外なく“下降期”に入っていること」です。ま
ずはこの“現実”を認識し、急ぎその原因を究明し
つつ、それぞれ必要な処置を講ずる必要があると考
えます。
第2点目として、これまで、それぞれの専門家(達)
がそれぞれの知見をもって現状改善や改革を試みた
ことは何度もありますが、ほとんどドラスチックな
改善には至らなかったという“事実”もまた再認識
する必要があるでしょう。
その理由も明白です。何度も繰り返したように、
「ハード・パワー」のそれぞれの要素は、相互に関
連し合っていることから、それぞれの専門家(達)
の“狭い了見”をもってしては抜本的な解決策を導
くまでには至らず、そればかりか、“ある分野の最
適解が他の分野に悪影響を及ぼしている”ような現
象もかなりあることを認識する必要があるのです。
なかには、憲法はじめとする法制度や戦後政策上の
制約、国会対策上立場が異なる政党への対策、省毎
の縦割り責任を有する官僚への説得限界や妥協、あ
るいは国民への説明責任のようなものから、改善あ
るいは改革計画を当初案から大幅に修正せざるを得
なかったという側面も影響していることでしょう。
その根本をたどっていくと、我が国の戦後の「統治
制度」の問題に行き着くのかも知れません。
一方、それぞれの要素を現状分析しているうちに、
“未来へのヒント”がたくさんあることも発見しま
した。“勇気をもって一歩踏み込めば、まだまだ打
開の道はある”としばしば感じたことも事実でした。
総じて言えば、「国力」増強の集大成として「強靭
な国家」を造り上げることは容易なことではありま
せんが、振り返れば、先人たちもその時代時代の
“課題”に果敢に立ち向かい、時に様々な失敗を繰
り返しながら困難を克服しつつ、現在に続く「資産」
を残されました。それらに乗っかるような形で、私
たち・戦後世代は、“割と贅沢な生活”を謳歌でき
ているのです。
これからしばらくは、私たち・戦後世代がもがき、
苦しみ、考え、実行し、我が国の「資産」を受け継
ぎ、後世のために残して行く、つまり、しっかりと
“歴史の縦の糸をつぐむ”ことが求められているの
ではないでしょうか。
次回以降、そのための「ソフト・パワー」について、
少し詳しく考えてみたいと思います。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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『日本人が知らない満洲国の真実』を読んで印象的だったところ。
歴史とは因果関係を明らかにすることです。
良い悪いや善悪の判断は、生身の人間がすることではなく、閻魔様の役割だとでも思ってください。
日本人は真面目すぎて、問題が発生した時に一所懸命に考えて、その都度、最前と思われる対処を行なったのがよくなかったのではないかと、私は思うのです。何千年も前から現地に横たわっていた問題など、放っておけばよかったのです。
日本人のすぐに白黒つけたがる性格がいけなかったのではないかと、最近では思っています。
台湾と朝鮮と満洲は日本史として考えるべき。
日本人は自分たちのしたことについて、まったく自覚がないところは悪い点です。
日本がパリ講和会議で出した人種差別撤廃条約にしても、あれがいかに欧米の人を困らせたか、日本人は全然理解していません。
アメリカがハワイを併合したときも、日本はかなり文句を言いました。アメリカはすごく腹を立てましたが、日本はそれについて無自覚で、その後、アメリカが日本に報復したくなるとは思いもよりませんでした。
日本人は何もしていないのに被害を受けたと思っています。しかし私はちょっと違うと思います。日本人は自分たちがいかに世界中に大きなインパクトを与えたか無自覚すぎます。
私から言わせれば『あなたたち、自分たちがいかに、世の中を変えたのか、もっと自覚なさい」というところです。
日本人にその自覚がないため、却って無責任に映るのです。日本人が無自覚に正当論を述べたり、本当のことを言ったりすることが、相手にとって痛手になればなるほど、相手はそれを根に持ちます。
今の中国人からすると、日本人が「日本は平和憲法を守って、何もしていません」と言っているのは、とても嘘臭く見えるようです。
優等生が「明日のテストの勉強、私、全然してないの。どうせ悪い点だわ」と言っているのと同じような感じです。それでいい点を取るのですから、嘘つきだと憎まれるのです。
中国人からすると、日本人は全員が嘘つきに見えるようです。
第一次世界大戦後、日本は世界の一員として相応しい態度と振る舞いをしようという意気に燃えていたのに、結局、ヨーロッパからは日本だけが悪者扱いをされてしまいました。
本当に今とそっくりだと思いませんか。
ヨーロッパ人は、そもそもアジア人を信用していないのです。ヨーロッパ人の人種差別は根が深いのです。日本人は名誉白人にはなっても、白人ではありません。
1919年というのは、たった一年ですが、世界史が動き出した一年と言えます。
この1919年の前か後かによって、因果関係がまったく変わってきます。
1919年、世界同時革命を目指すコミンテルンが誕生し、ウィルソン米大統領が民族自決を煽ったせいで、アジアでも激しい民族運動が勃発しました。朝鮮の三・一独立運動や中国の五・四運動です。
ハプスブルク帝国を八つ裂きにし、オスマン・トルコ帝国抹殺し、この両国から二十もの国が独立していきました。
現在ではこの両国の旧版図に五十もの国がひしめき合っています。
1919年、ソヴィエトはカラハン宣言を出し��、日露戦争後、満洲やモンゴルのを互いの勢力圏に分割した日露の秘密協定暴露し、日本とロシアの取り決めを無効としました。
日本を悪い国だと世界に示すのが目的でした。
中国が共産化して反日に変わった1919年から、満洲は中国であると言われるようになるのです。
ロシアがソ連軍になって過去の関係を全て無視したのと同じように、ソ連の後ろ盾を得た中国も、過去の人間関係や国際関係、条約を全部棄てました。
満洲における日本と中国の関係は1919年を境に完全に変わったのです。
日本とい���国家はイデオロギーではできていません。最初からみんなが仲良く暮らしていて、憲法などなくても平気なのです。私は憲法廃止論者です。憲法など無い方が、よほど縛りが無くていい国が作れると思っています。よそから来たイデオロギーは日本人には合わないと思います。
中国人と喧嘩をしろということではないのです。見方や感覚がまったく違うので、合わせようと思うことをやめればいい。
感情を抜きにして付き合う必要があることを、日本人は知らなければならないと思うのです。
国際連盟にとどまっていても、戦争に突入したということもあり得ます。
日本ではなくアメリカが戦争をしたがっていたので、いつかは戦争になっていたはずです。
本当は、アメリカがなぜそれほど日本を敵視して、戦争をしたがったのかこそ、問題にすべきでしょう。
日本人が強いのは軍事力だけで、満洲事変のときにも、ソ連もアメリカも日本軍が怖くてかかってこれなかったのです。それでも日本が最終的に負けたのは、本当にインテリジェンスが弱いとしか言いようがありません。
満洲にいた満洲人が最後に言ったのが、「日本も残念ですね。こんなに軍事力が強くて、こんなに立派だったのに」という言葉で、現地の方からもそう見えたのでした。
現在の中華人民共和国や北朝鮮と、当時の満洲や併合後の韓国と、どちらがまともな生活をしているか比べてみてください。
そうした観点から論じるべきなのに、日本人は、何事においても、ああすればよかった、こうすればよかったと反省し、失敗した理由を考えすぎます。
矛盾は矛盾のままで、特に問題にすることなく放っておくのです。解決など考えずに、そのままにしておこうというのが大陸的なのです。
戦後の日本の新しい発想というのは、大陸帰りの人からのものが多いです。
当時、右であれ左であれ社会主義の影響を受けなかった人はいません。社会主義を考えなければ世界史は理解できません。
関東軍もそうですが、軍人はほとんどが貧乏な家で育ちました。そのため、資本家がいなくて人間は平等であるという社会主義の国を目指したのです。
当時の満洲には、自分たちが南方の国民党や共産党と同じ中国人であるという意識はまだなく、のちに歴史を書き換えたのです。
江戸時代は指導者を育てる教育をしていたのが、明治になって官僚を育てる大学しかつくらず、政策を考える帝王教育、君主教育が日本にはなくなったから、立派な指導者が育っていないのです。
日本人は個々人がしっかりしても、全体としては方向性がないというのは本当に残念です。
ノモンハン事件後に関東軍司令官となった梅津美治郎は 、暴走する関東軍参謀らを��分し 、人事の立て直しをはかりました 。彼のもとで一九四一年に 、ソ連国境付近で関東軍特種演習 (関特演 )が行なわれました 。
梅津が支那駐屯軍司令官時代には 、宋哲元の部下が熱河省を侵犯したのに対して 、梅津 ・何応欽協定 (一九三五年 )を結んでいます 。
梅津は 、昭和のありとあらゆる重要事件に関わっていたと言ってもいいでしょう 。二 ・二六事件後に陸軍の粛軍人事を行ない 、一九四五年の降伏文書調印式にも嫌々ながら軍の代表として出席し 、ミズ ーリ号で降伏文書に署名しています 。そのときに息子に対して 、二 ・二六事件とノモンハン事件のことを指して 「今度もまた後始末だよ 」とぼやいたと言われています 。
明治以降の積み重ねが 、今の日本の土台になっているということを 、日本人はしっかりと認識すべきです 。それを理解した途端に 、日本人は元気になると思います 。日本の歴史の本当の姿がわかれば 、それだけで将来は開けると私は思うのです 。従って 、今 、日本のなかで自国民が誇りを持つことに対して滅茶苦茶に足を引っ張っている噓を 、取り払っていくだけで 、それ以上は何も言わなくても 、日本人は勢いよく前へと進めると思います 。
日本の六十歳を超えた世代がこのように全然あてにならないので 、三十代 、四十代が本気で頑張らないと 、日本は本当に駄目になると私は思っています 。
満洲国が存続していたら 、日本人も変わることができたのにと思うのです 。日本の中央官庁の職員になったら 、研修で否応なしに最初の三年位 、満洲に行かされます 。そうすれば 、世界のことがわかり視野が広がって 、いい訓練になったのになと思います。
日本では権威 (天皇 )と権力 (侍 ・将軍 )を分けていて 、満洲国でもそれに倣ったからです 。権威と権力の分離は日本の歴史の素晴らしいところで 、日本の歴史では 、天皇陛下がいたずらに権力を振るうということはそうそうなかったのです 。
支那事変と 、それに続く大東亜戦争さえなければ 、満洲国は今の南米の国などとは比べものにならないほど立派な国になっていたはずです 。もう少しで 、共産党の中国や 、北朝鮮のような国ではない立派な近代国家が 、アジア大陸に誕生していた可能性が高かったのです。
今の北朝鮮や中国に対して 、 「われわれは 、こんな国を作ろうとしたのではない 。もっと立派な国をつくろうとしたんだ 。国民に幸せに暮らしてほしいと願って投資したのに 、異民族支配は嫌いだと日本人を追い出しておいて 、同じ民族になら 、殺されても満足なのか 。その後 、なぜこんな状態になったのだ 」と 、日本人は抗議する権利があると思うのです 。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園���左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼��甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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--深海人形特別篇-- 拙作の秘話とか裏話とか 6
※…拙作に関する秘話と裏話故、【閲覧注意】です(※はっちゃけ過激発言とかネタバレとかで)。
※…では、どうぞ。(※本編はPixivに!)
…生きなければいけない、死んではならない、…と言うのは呪詛であり、呪い。
【泡沫夢幻漸・蜃影】
※漸はゼンと読みます。
風山漸 〈卦辞〉漸は女婦ぐに吉。貞に利ろし。風山漸の卦が出たなら、女が正しい道理に沿った上で結婚するの好ましいと言う事である。尚、その女が貞正であれば尚良しであろう。本卦は結婚の卦とも呼ばれる。
…。
成長した江美子ちゃんの性格は、Blade Strangers・ブレードストレンジャーズこと『剣騎列伝』を参考にして居る。…嗚呼、そうだよ。…此れ位しか、参考資料無ェし……(遠い目)。
…。
…『泡沫夢幻漸影〜』収録の、『The Best Fresh!』の展開が原作と大分違うのは端折りまくったからでもある(…後は、原作のストーリーがやけに冗長だからと言う理由も)。
…。
…もし、出来るなら、『漸影』と『蜃影』を読み比べて欲しい。…『漸影』ならではのストーリー、…そして、『蜃影』で、ロジャー、キリコ、コットン、シロッコ達の影響で、何処迄、話の展開とキングネスとミシュラーナの状況が変わったか如何かも見て欲しい。
…。
…作中でも言及しているが、『泡沫夢幻蜃影〜』でシロッコが来て居る服は、仄暗いエリアに廃車としてあった『地球連邦の戦車(61式戦車)』内で見つけて拾った物。…デザインからして、特注品の様だが……。…本当は、「…第M08小隊野戦服にすれば良かったかな……?」…って思ったけど、…ほら、性格的に合ないし……、…彼奴、陸戦した事無ェし……。
…。
…ロジャーの場合は、全部、自前。…普通に、高級仕様だから、キリコがギルガメス軍から貰った耐圧服程では無いけど、着心地と耐久性能は相当良い筈だと思う。
…。
…それと、今回、ロジャーは、ポマードで髪をセットして居ない。…彼にはポマードのブランドに拘りがある。…なので、「…私は、特定のポマードじゃないと嫌なんだ。…無いのか?…じゃぁ、髪型を固めない事にしよう。砂糖で固めるなんて原始的過ぎる。」…と言う成り行きがあったりした。
…。
…繋がる版表紙でロジャーが右手で持ってるハンバーガーには、トマトが入って居ない(…尚、Fresh!作中のハンバーガーには、ちゃんと、トマトが入って居る)。
…。
…ロジャーは、ルアーとラバーロープの扱いが、カワセに匹敵する程巧い。…次いでに書いて置くと、ロジャーには大食いと言う設定あるけど出せなかった。
…。
…(※本編・原作の時点でだが)服装と靴にまるで変化無く、散髪代ケチって髪伸びただけ(※キリコの場合)。
…。
…一年戦争とシロッコの関係性を描こうとして、…物の見事に、上手く行って無いのは申し訳無いです(マジで)。
…で、何時か、一年戦争とZガンダム&ZZガンダム新規キャラ勢(特にジェリド)の関係性を描きたい。…其れと同じ様に、エルガイム、レイズナー(※実は後者をやるのあんまりする気無い)とのクロスオーバーモノ(※機動戦士vs重戦機、機動戦士vsSPTと言う逆襲のギガンティス感覚で)、マウアー、シロッコ、ジェリド、ガルマ生存ifも描きたいな(※どうせ言うだけ)。
…ぼちぼち、スーサイド トライアッド以外のビッグオー小説も描きたいですね(※…ジャンルは、多分、ギャグ小説です)。…後、エルガイム、ボトムズ、ドラグナー、ダグラム単体の奴も良いでしょうか?
…ロボットモノでは無いけど、コットンの話も、コットン単体で描きたいと思っております。アプリとタクートの事もあるし。…其処迄、…寿命と体力が追い付くか如何か、…さて、一体、如何なる事やら?
…、
…星の桃玉、HxH、格ゲージャンルから離れてしまい、大変申し訳無いです。
…。
…シロッコの靴は服と同じ様に拾った戦車兵の物で、ロジャーも其れと似た様な長靴(但しWW2米軍モチーフの物)を履いている。
…。
…シロッコの没服案に、呪術廻戦の伏黒甚爾に似た物があった。…没にした理由は、ガンダムらしく無いから(※…幾ら、シロッコらしくても……)。
…ガンダムらしさを追求するなら、…堂々と、『モビルスーツ(MS)』出せ!…って、話なんですけどね(※動かす自体が無理)。…其の点、『AT(アーマードトルーパー)』…って凄いよね、PRL液(と其れの代替品)があれば、何処でも動かせるのだから(※地味に恐ろしい)。
…。
…拙作と言うか本作のシロッコは、昔(本人的には若きの至りで)シャア・アズナブル(の専用乗機)とギレン・ザビに憧れてた。…だから、あの『名』演説をはっきりと覚えてたし、クワトロ・バジーナと言う人の前で、「…ニュータイプの成り損ないめが!」と莫迦にしたし、その(ジオン屋と言う)家号を盾にするハマーン様が嫌い。
…だけど、ザビ家で誰が一番推しですか?と訊くと、堂々と「ドズル」と答えます。其う言う人です。
…。
…『蜃影』は、シロッコの過去回想と一部後書きだけ読むのも、オススメ。…彼処等辺だけ何故か、無駄に凝ってる(自画自賛)なので(苦笑)。
…。
…戦闘のプロと聞いて、『剣鉄也』を思い出した者、(※素直に挙手)。
…。
…ロジャーとシロッコの身長は、両者共に180cmだが、横幅が違うので、並べてみると色々と面白いゾ(※体格も違うので益々)。
…。
…本当は、『蜃影』も、もっとRTAプレイ的に手短に終わらせる(長くて四万字)つもりでしたが、ロジャーとシロッコと言う名の味方が遅延行為しまくる鎖マン(屑)と言う身も蓋も無い状況になってしまったので、執筆終盤、登場人物変えしての再走を考えて居ましたが……(結局、しませんでした)。
…。
キリコ・キュービィ(20)※引率の先生に引率されるロジャー・スミス(25)とパプテマス・シロッコ(26)には我ながらだいそーげんww
…。
…ナタ・デ・コットンには、戦闘面だけでは無く、生活面でも、『シルク(達妖精族)』は必要だって『蜃影』執筆中に思い知った。
…。
機体性能の文章書いてて思ったんですけど、此のゲーム(海腹川背シリーズ全体)って体格良くて、体重重い方が、ゲームを進め易い、有利じゃありゃぁせんか?…と言う訳で、お前も筋肉ムキムキ体重だけデブゴリラになれ、矢張り、お前は筋肉ムキムキ体重だけデブゴリラになれ。海腹川背(猗窩座殿並)。
体格良くて、体重重い方が敵に吹っ飛ばされないし、ラバーロープの跳ね返りも振り子も作り易い。その代わりに、ロケット・ジャンプしても、あんまり加速を得られないと思うけど。まぁ、彼奴等なら、普通に川背以上に加速出来るよね。全部『根性』で。 ※根性で加速する男達の図(※そんな絵無いですし、描きません)。
…。
…終盤のあのシーンは、カワセをタンクデサントならぬアーマードトルーパー、ATデサントしてる。彼女、シロッコ機の上に乗せられてます。
…。
…『マホロア トワイライト二部作』と『スーサイド トライアッド本編』が、未だ、出来ないの本当に申し訳無いです。…日々に余裕が無い、体調が本当に悪くて、良い展開が思い浮かばなくて、中々描けていません。
…昔だったら、三週間も掛けずに全部完成、書き切れて居たと言うのに、未だ、情けなく、全然描けていない事を、如何か御許し許し下さい。
…『泡沫夢幻蜃影』にリソースを費やす位なら、マホロア トワイライトを完成させておくべきでした。
…因みに、『泡沫夢幻漸影』の方は実質執筆期間三日、『泡沫夢幻蜃影』は、丸々一ヶ月〜一ヶ月超掛かって居ます。
…。
…『泡沫夢幻蜃影〜』は『呪術廻戦』要素が強いが(此れを読むのは、中年層以降の方が多いだろうけど)、其れは、万が一このSSを読む事になった若い人にも分かり易くて良いだろう、…と筆者が判断した為。
…。
…あの四人(とカーリー出したらカーリー)居ると一気に、海腹川背じゃなくてメタルスラッグ3(至高の神ゲー)になる。鬼畜激烈難易度、特盛ボリューム、硬派世界観、初見殺し、訳分からん展開、多種多様要素過多、超級者向け、…正にメタルスラッグ3(※混乱)。…例え此れが洞窟物語でも、何れ必ずメタルスラッグ3になってる(※確信)。
…。
筆者が一番好きな設定(※閲覧注意)
獣人の間では余興として、人間(ヒト)を公衆の面前で裸に剥くと言う辱めもよくあった。…彼等曰く、「…『裸猿(はだかざる)』は裸が一番御似合い。」…だと言う。
……。
…まるでレイズナーのエイジみたいですねぇ!(何か違う)。
…。
没登場人物
本当に案だけ 適当
サンライズアニメ縛り枠
シャア・アズナブル(機動戦士ガンダム他)
ジェリド・メサ(機動戦士Zガンダム)
カミーユ・��ダン(機動戦士Zガンダム他)
クリン・カシム(太陽の牙ダグラム)
マイヨ・プラート(機甲戦記ドラグナー)。
…本編執筆後半〜末期の時に、本編自体が冗長に長く成り過ぎて、…いっその事、据え置き枠キリコとジェリドとクリン(かカミーユ)で描き直そうと思った位(※…此の面子なら、高確率で長引かない筈なので……)。
…本編が此処迄長くなった戦犯は、ロジャーとシロッコだってはっきり分かんだね(迫真)。
参戦=レギュレーション違反枠(理由付き)
五条悟(呪術廻戦)
理由:話にならない
夏油傑(同上)
理由:上に同じ
…男ばっかりで草(※…とは言え、当然の様にウェイン兄弟出されても読者全員困るのは知ってる笑)。…更に、機体(キャラ)増やせば増やす程R-TYPE FINALとR-TYPE FINAL-2染みて行くの大草原(※何れBazooka以降はそうなる運命・さだめの気もするがww)。
…。
『虚言の魔術師と幻影旅団シリーズ』
…拙作『異宇宙〜(Tbf.)』で、クロロ達が、露骨にイカタマを魔法が使う魔獣、只其れだけの動物として見下してるのは、今も未だ、自分達が凄まじく部外地域の住民から虐げられ、差別されて居る反動(…皮肉だよね)。
…。
※胸が悪くなるので注意
…後に、ローアとマホロアから『クロロ団長達はとある王族の宝を奪いに行った船ごと沈んで、死んだ』って聞いたら、ハルカンドルディ達とメタル ジェネラルは、旅団を仕留めた相手についての詳細が分かった時には、旅団を仕留めた彼等を『害虫の駆除者(Pest Controler)』として感謝したとか(何とか)。
そして、「…ザマァww!!!!!!盗賊風情が!!!!!!!ハルカンドラを荒らしたから其うなったんだ!!!!!!」と冷酷に吐き捨てたけど、其の態度に、マホロアとローアとランディアが憤慨したみたいな、更なる後日談ある。…胸の悪くなる話だが一応書いて置く。
…。
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今日の東京は、晴天。しばらくはずっといいお天気が続く予報です。降雪量の多い地域にお住まいの方は、十分に注意してクリスマスをお迎えください。
今週は6時間ワークショップが2回と、ドロップインナイトの開催がありました。ちょっとマニアックなテーマのワークショップではありましたが、シャーマニズムが決して非日常でない、身近な存在だということをご理解いただけたかと思います。ご参加いただいた方は皆、勉強熱心な方ばかりでした。実習中は嬉しい偶然の一致があったりと、私も楽しく有意義な時間を過ごすことができました。
また、木曜日には久しぶりにドロップイン・ナイトの開催がありました。20分ほど時間が過ぎてしまいましたが、なんとか7人の参加者の方々に過去生のポートレートとメッセージをお届けすることができました。このような機会を頂きまして、どうもありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ドロップイン・ナイトの様子をダイジェストでお伝えします。読みやすいように、後から編集を加えています。
森: 女性の過去生がいらっしゃるのが見えてきました。インド人のような感じで額にビンディーを付けていますね。まだお若く見えます。年代は18世紀とか19世紀初頭、イギリス領になったかならないかぐらいで、かなり裕福なお家にお生まれです。着ているものもきちんとしていて、ちょっと自己主張が強いハキハキしたお嬢さま、って感じですね。ちなみにご自身はインド、今世で気になったりとかご縁があるとか、あります?
男性:二十歳くらいの時、インドに一人旅したことがあります。
森:あ、そうなんですね、(過去生から旅に)誘われたんですね、きっと。じゃあ、綺麗なサリーとか見て、懐かしくなったりとか?(笑)
男性:あんまりなかったです。(笑)
森:(笑)あ、なるほどね。
男性:真夜中に、宿のオーナーに音楽会のようなところに連れて行かれて、神様に捧げるコンサートに行きました。
森:あ、楽しそうですね。
男性:途中でお腹が痛くなって…。(笑)
森:(笑)なんか、必ずそういう洗礼を受けるみたいですね。この方(過去生の女性)のお父さんが土地の有力者で、女性にもちゃんとした教育とか、そういう環境にあったんでしょう。女性らしい面もあって家族思いで、ボランティア精神がすごく強いです。困っている人、貧しい人のところに行って金銀財宝や食べ物などを与えていたりして、助けている姿を見せてくださっています。そして信仰心がとても強い方です。自分の身分の高さや恵まれた状況は、人に施しを与えるために神様が与えてくださったと理解している方です。で、人と同じことはあまり好きじゃない感じ。(笑)髪型とかもひと工夫されていますね。周りの人が真ん中分けの髪型だったら、横分けにするとか…個性を大事にする方なんですね。ご自身も変わり者って言われるのが気持ちいい、ってところ、ないですか。(笑)
男性:あまり群れるのが好きじゃないです。
森:「それが普通でしょ」って言われると、「普通って、何?」って反論したくなるみたいな。(笑)向上心や好奇心も強くて、イギリス領になるときに色々と生活の変化はあったんでしょうけれど、それを割と肯定的に受け取っています。この状況を最大限に活かしましょう、というお気持ちを持っていらっしゃっていて、英語も習ったりとか、新しい文化、流れに積極的に楽しんでいる感じがします。でもそういったことばかりではなくて、戦争とか自然災害なのか、病気なのか、一度にたくさんの人が亡くなったという経験をされているんですね。そういう、苦しみとか悲しみとか逆境とかを通して学んでいて、それを乗り越えなきゃいけないと感じていた。今世のご自身へのメッセージは、たくさん失敗してください、たくさん逆境を乗り越えてください、それを応援しています。「失敗してね、その中に一杯いい事があるのよ」っておっしゃっています。いかがですか?
男性:3月から新しいことを始めるので、それがなかなか難しくて…。(笑)
森:トライアンドエラーで、たくさん失敗してください(笑)と、この方が応援しています。(写真1枚目の絵を見せる)
男性:ありがとうございました。
森:次の方のところにも女性がいらっしゃっていますね。アメリカ大陸から光が来ています。20代くらいの、ネイティブアメリカンだと思います。髪型にすごく特徴がある感じの方、多分ホピ族だと思います。ちなみに、ご自身は今世でネイティブアメリカンとか、縁があったり興味があったり、何かあります?
女性:ないですね。ただ、友人がネイティブアメリカンに興味がある、という感じでしたけど、個人的には…。
森:お友達か…(笑)それもひとつの縁かもしれないですけどね。(笑)お家にサボテンとかもないですか?(笑)
女性:ないですね。ドリームキャッチャーは、ネイティブアメリカに関係ありますか?
森:そうですね。
女性:あ、ドリームキャッチャーは家にあります。
森:あ、よかった。(笑)ドリームキャッチャーはラコタ族かな?どうしてドリームキャッチャーを買ったんですか?
女性:悪夢を見ないらしいので、いいかなって。お守りとして。
森:この(絵の)方もそういう世界とそう遠くはないと思いますけどね。蝶々みたいな髪型をしています。この方は、かなり忍耐強い方ですよ。簡単に物が手に入ったりとか、簡単に自分の願いが叶ったりとかが難しい生活環境で、そういうものは全て神様が司っている事が分かっていて、太陽信仰みたいなところがあるんですけれど、神様がお姿を表してくださるまで忍耐強く祈っているお姿が伝わってきます。あと、手作業で色々作っているところを見せてくださっています。手工業みたいな感じ。アクセサリーを作ったりするのはお好きですか?
女性:ないです。
森:この方、シルバーアクセサリーみたいなものを作ってるんですよね。アクセサリーとかには、興味がないですか?
女性:あ、興味あります。
森:で、ゴールドジュエリーよりはシルバージュエリーの方が好き、とかあります?
女性:私の肌色にはゴールドが合うと思うんですけど…。あ、確か以前カナダに行った時に…今、思い出したんですけど、ネイティブアメリカンの施設に行った時に…空色の石ってありますよね?
森:ターコイズ?
女性:あ、それです。その何か、ターコイズが付いたイヤリングかブレスレットを買ったのを思い出しました。
森:それはシルバーですか?
女性:そうです。
森:大体ネイティブアメリカン・ジュエリーってシルバーですけどね。じゃあ、メッセージもらいますね。ご自身ってよくお祈りしたりします?
女性;あ、します。
森:それは(光の世界に)届いています。重要な判断をするときにもお祈りしています?
女性:どうだろう?(笑)
森:日常的なお祈りもいいんですけど、もし、ご自分の人生の中で重要な判断が必要なときにも祈ってくださいとおっしゃっています。��れは他の方にも言えるんですが、お祈りは必ず届いていることを(過去生が)伝えたいんだと思います。で、さっき忍耐って言いましたよね。お祈りするときには、忍耐強く待ってください。自分が欲しいメッセージがすぐには来ないかもしれない、(光の世界は)ある程度の我慢強さとか、忍耐強さを待っている、欲しがっている感じなんです。ですから、何度でも何度でも諦めずに祈ってください、願ってください、繋がるようにしてください、とおっしゃっています。そのことで少しずつ光の世界との結びつきが強くなります。その一定の時間がご自身を癒してくれるんですって。ある程度時間をかけて忍耐強くお祈りをすると集中しますよね、瞑想状態になります。その中で、指導霊もそうですけど、過去生からのメッセージもまた届きやすくなります。こんな感じの髪型のホピ族の女性からのメッセージでした。(写真4枚目の絵を見せる)
女性:はい、ありがとうございます。
森:次の方の過去生、今度は男性がいらっしゃっていますね。ちょっと年配、結構昔の方…中世まではいかないかな? 17世紀くらいのヨーロッパの方ですね。特徴的なのは、首の周りにレースの襟をつけているんですよ。頭には何も被っていないですね。オランダ人に見えます。ある程度身分の高い人だと思います。貴族なのか商人なのかちょっとわかりませんが…お金を持っていた方。商人みたいな感じ。悠々自適というよりも、自分で色々やってましたね。商才があって工夫を凝らして…この襟はエリマキトカゲみたいな感じ。(笑)ご自身は、ご商売をされたりとかはありませんか?
女性:ないです。
森:貿易とか、人との繋がり、物流、物販、物に関すること、実際に商品を扱っている方。他にもいろんな事をしていましたね、商人だけじゃなくって、貴族っぽくもあるし、聖職者っぽくもあるし、姿かたちをどんどん変えて見せてくださるんですよ。割と小さい村で、どこかから伝道のために派遣されてきた聖職者が「なんでも屋さん」で、神学校で教えることもしていたし、元々農民くらいしかいなかったところなので、ちょっとしたお店もやっていた感じです。商品は必要不可欠な物です。贅沢品とかじゃなくて、日用品。村の人がより豊かに生活ができるようなモノを、儲けに繋げたりせずに、必要に応じて分配していた。そういう「なんでも屋さん」をやっていた方です。そういうことを通して、色々な人と繋がっていた人。教会に集まってくる信者や神学校の生徒だけではなくて、あまり信仰心の厚くない人とも関わりがあり、幅広い見識があった。自分の宗教だけを守ろうとか、ついてくる人だけを救おう、ではなくて、持ちつ持たれつ、ということが分かっていた人です。世の中に必要でない人はいない、全員が役割を持って、その中で回っているんだと。だから宗教だけじゃダメ、というか…。(笑)当時保守的だった中、割と先端的な考え方を持った方です。朴訥で宗教心を持たない農民にも温かい目を向けていた人です。ご自身は今世で、比較的色々な人と出会ったりとか、関わってきたというご自覚はあります?
女性:特に、今そうですね。
森:色々な価値観を持つ人?
女性:そう、今まで育ってきた環境では関わらないだろうな、と思う人たちとここ数年関わっています。
森:ちょっとやりにくいですよね。(笑)
女性:そうですね、ですからアイイスで学ぶことで、随分バランスを取らせてもらえています。
森:ああ、そうなんですか、よかったです。この方もそういうご自身の経験を支えてくださっています。話はちょっと飛びますが、インドのカースト制度も批判はありますけど、お祭りの時、上層階級の人が下層階級の人が演じる奉納舞踏を見て、神が降りた踊り手の足に触れて信仰心を表すんです。時にはそうして、通常とは逆の立場になる。つまり誰の中にも神様がいて、いつ誰がその姿を見せるのかわからない、ということ。この過去生はオールマイティに活動していたので、そういうことを知っていたんです。ご自身は色々と頼まれたりとかします?
女性:基本的に「なんでも屋さん」です。(笑)
森:そうなんですね。(笑)
女性:雑用とか。
森:信頼関係がなければ頼まれませんし、お役目だと思ってください。それができるのは自分自身に対する自尊心があるから、お役目を果たさなきゃいけないな、という神様からの呼びかけがわかる、その呼びかけを受容できる。その部分は、この過去生からのものです。(写真7枚目の絵を見せる)
女性:はい、ありがとうございました。
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2023年1月開講のクラスへのお申込受付を開始しました。お申し込みはこちらからどうぞ。
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1987年5月3日午後8時15分ごろ、朝日新聞阪神支局に、全身黒ずくめの男が散弾銃を構えて押し入った。 男は小尻知博記者(享年29)と犬飼兵衛(ひょうえ)記者(当時42)に対し、散弾銃を発射。小尻記者が殺害され、犬飼記者は重傷を負った。 ここから露見した一連の事件は、犯行声明に「赤報隊一同」と記されていたことから「赤報隊事件」と呼ばれ、世間を震撼させた。しかも、事件は未解決のまま、2002年に時効を迎えている。 「赤報隊事件には、統一教会の関連団体『国際勝共連合(以下、勝共連合)』を含め、信者が関係している可能性があると思っています。末端の信者の暴発がなかった、とは言い切れません」 そう証言するのは、大江益夫氏だ。現在75歳の大江氏は、1992年に統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の広報担当になり、翌年から1999年までの7年間、広報部長の要職を務めてきた人物だ。 その間に、桜田淳子氏の合同結婚式参加などがあり、大江氏は教団の “激動期” を目撃してきた。60年近く旧統一教会員として過ごし、教団の深部を知り尽くしている。 そんな大江氏を朝日新聞元記者で「襲撃事件取材班キャップ」だったジャーナリス��の樋田毅氏は熱心に取材してきた。そこで、旧統一教会による事件への関与の可能性をめぐるさまざまな情報を得たという。2018年に『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)も出版している樋田氏が、こう話す。 「事件前に、勝共連合の名前で『アカサタンを殺すことだけが生きがい』と書かれた脅迫状が、朝日新聞社に届いていました。信者たちにとって、“サタン” は排除すべき存在。 “サタン” が文鮮明教祖(当時)の身に危害を加えるかもしれないと考えれば、朝日は抹殺すべき存在になっていたかもしれません」 2023年2月の衆議院予算委員会で、日本共産党の宮本岳志議員も「朝日ジャーナル」編集長だった筑紫哲也氏のコラムを引用する形で、この脅迫状の存在を取り上げ、当時の谷公一国家公安委員長に対して、赤報隊事件の再捜査を求めていた。事件後も兵庫県警が統一教会、勝共連合を捜査していた。 そして、大江氏もこう話す。 「統一教会には、かつてのオウム真理教のような敵対者を『ポア(殺害)する』という発想はありません。しかし、共産勢力と戦う勝共連合の “武闘派” となると、話は別です。侵略者に対しては武器を持って戦うという軍人精神的な発想があったと思います」 樋田氏はこれらの取材をまとめ、『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』(光文社新書)を8月20日に上梓する。 そこであらためて、本誌は大江氏を取材した――。 事件当時、すでに教団の幹部として、日韓トンネルの建設を推進する関連団体「国際ハイウェイ建設事業団(当時)」の事務局長だった大江氏は、「赤報隊事件」の犯人像について、こう話す。 「単独犯ではなく、グループだったと思います。ヒットマン以外に逃走を助ける人物、声明文を書く人物、依頼者などがいたはず。犯行を指揮した人物は、教団関係者だった可能性が高いかもしれません。 いずれにしても、犯行に関わった人物は、全員が共同正犯。罪はみな同じだと私は思っています」(以下、断わりのない発言は大江氏のもの) 朝日新聞阪神支局に押し入ったのは、全身黒ずくめのヒットマン1人だった。大江氏は “実行犯” についてふたつの可能性を感じているという。 「赤報隊事件は用意周到に準備され、犯人が見せた腰だめの撃ち方、銃身を短く切った散弾銃の使用など、プロの犯行とみられていました。 ひとつは “ヤクザ組織” が絡んでいる可能性です。当時の教団側の関係者に “闇社会” との関わりがまったくなかったとは言い切れません。また、あの残虐な事件は、そういった人間でないとできないと、思うところもあるからです。 しかし、勝共連合のなかにも “武闘派” は存在していました。これが、もうひとつの可能性です。もともとは、旧ソ連が日本に攻めてきた場合、先頭に立つのは自衛隊ですが、その後方支援という位置づけで生まれました。勝共連合が民間防衛を担うという発想でした。 この組織に属する信者たちは、実際に軍事訓練をおこなっていたのです。私自身も、何度も陸上自衛隊に体験入隊しました。ふだんから、山中で散弾銃の訓練もやっていました。こうした信者が400人ほどおり、元自衛官や元警察官もいたのです。そうした “武闘派” の信者が実行犯だったのではないかという推測も可能だと思います」 じつは今回、大江氏が『懺悔録』を世に出すという情報が、旧統一教会内に事前に広がった。教団は出版を踏みとどまらせようと、大江氏に対して執拗に圧力をかけてきた。 「京都の山里にある私の自宅に、教団の人間が突然来るのです。これまでに十数人来ました。彼らが何を危惧しているのかといえば、やはり『赤報隊』に関する記述でした。 安倍(晋三)元首相の銃撃事件があり、2023年には宗教法人法に基づき、政府が教団に対する解散命令を裁判所に請求する事態になっています。ここにきて『赤報隊事件と統一教会が関係がある』と言われたら、教団は潰れてしまうということでしょう。 でも、私は『断定的な言い方はしていない』と言って追い返しました。自宅に押しかけてきたなかには、かつての私の部下たちもいました」 そんななか、なぜ大江氏はあえて赤報隊について語る決意をしたのか。『懺悔録』でも記したように、こういう思いがあるという。 「信者の可能性がある犯人がこの世、あるいはあの世で、のうのうと生きていることが許せないのです。犯人が口をつぐんでいるのであれば、私が犯人の代わりに、小尻さんとご遺族に謝罪しなければならない。そう考えたのです。絶対に謝罪が必要です。そうでなければ、私はあの世で亡くなった小尻さんの霊と会うことができない」 だが、大江氏は赤報隊事件について語るためだけに、樋田氏の取材に応じたわけではなかった。長年、旧統一教会内部で抱いていた教団運営への違和感があったのだ。 そして、それをすべて樋田氏に打ち明けようと思ったきっかけがある。 「樋田さんと “川口君” の五十回忌の法要でばったり会ったんです。そこで、私は『これは腹を割って話さないといけないな』と思いました」 大江氏が口にする “川口君” とは、1972年、革マル派のリンチを受けて殺害された早稲田大学生・川口大三郎さん(享年20)だ。当時、早大で旧統一教会系の学生団体「原理研究会」に所属していた大江氏は、革マル派と対峙していた。 そのため、大江氏は川口さんの死を悼み、2021年秋におこなわれた五十回忌まで供養を続けてきた。 そして、五十回忌法要には、川口さんの事件に関するノンフィクション『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)を出版した樋田氏も出席していた。 その後の交流を通じて、「最後の懺悔」を受け止めてくれるのは樋田氏しかいないと思うようになったという。 大江氏は「かつての統一教会は、こんな教団ではありませんでした。私たちは、なぜ韓国の教団本部に巨額の送金をするようになり、霊感商法といわれるような悪質な行為をおこなうようになったのか」と、次のように話す。 「私は1966年、17歳のときに統一教会に入信しました。教団には『開拓伝道』という布教活動があります。学生時代には、自分で廃品回収をしてお金を作り、屋根裏部屋のような部屋を借りる。そこを足場にし、廃品回収をしながら伝道活動をおこないました。非常に清貧な暮らしでした。自分が行く教会の教会長さんを中心にして、統一教会は家庭的な教団でした」 その教団の性質が大きく変わったのは、今から49年前の1975年のことだったという。 「それまでは伝道活動が中心でしたが、1975年から経済活動が始まります。統一教会は韓国でできた教団です。伊藤博文が初代韓国統監に就任した1905年から、日本による韓国の植民地支配が始まったと統一教会はとらえています。 それが終わる1945年までの40年間について “贖罪” しなければならない。統一教会には『40年の蕩減(とうげん)復帰』という���えがあります。なので、日本の信者は韓国の本部に40年にわたって送金を続けるとして、経済活動に励むことになった。そのスタートが、1975年だったんです。 そうすると、経済活動が強化される��かで、霊感商法が始まりました。『先祖の霊や祟りを取り除くには、霊力のある高額な壺などが必要だ』という考え方は、キリスト教にはありません。『先祖の怨(おん)を解くための献金』についても同様です。しかも、韓国への送金は40年間を過ぎた現在も続いていて、日本の信者を苦しめています。 これは『40年の蕩減復帰』の教えから外れていて、約束違反ではないか。やりすぎなんですよ。全財産を捧げるような献金をさせてはいけません。教団も受け取るべきじゃないんです」 韓国の教団本部への高額の送金が、日本の教団の性格を歪め、さまざまな問題を引き起こしてきた。 「今、教団には解散命令が出されようとしています。それを回避するには過去に遡って、高額献金を反省し、被害者に補償する必要があります。自分の家族が路頭に迷うような献金を求めるのは、公序良俗に反しています。日本の教団は、多額の送金を求め続けてきた韓国の本部から独立する必要があります。それが、解散命令を免れる唯一の道です。 なぜ、こんな単純なことがわからないのでしょうか。私は、これまでもこうした問題提起を教団内でしてきましたが、“危険分子” とみなされ、意見は通らなかった。でも、教団は間違っていたのだから、反省しなければいけないのです。力不足かもしれませんが、私自身も霊感商法を後押しする側にいた問題を含めて、懺悔したいと思います」 現在、旧統一教会への解散命令請求が東京地裁で審理されているが、大江氏は末端の “純粋な信者” たちに向けて、こう提言する。 「統一教会は全国に300の教会があります。しかし、解散命令が実施されると教会施設のほとんどはなくなり、礼拝をする場所がなくなる。これは信者にとっては大変なことです。私は、家庭が教会になればいいと思っているのです。 建物がなくても、毎日礼拝する場を家庭に作ろうということです。このままだと、絶望する信者が増えていくだけです。私は、2024年6月で教団を退会しました。それでも、家に礼拝の場があります。私は退会後も、礼拝を欠かしていません」 本誌に対する大江氏の告白は2時間に及んだ。彼が長く過ごしてきた教団が、この言葉を聞いて、悔い改めることはあるのか。
「赤報隊事件」旧統一教会・元広報部長が明かす “散弾銃訓練”と “武闘派”…教団からは「懺悔本」出版への圧力も(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
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山
山という字は、岩木山から教わった。鋭角に空を貫く三つの峰。その頂点から引き下ろされる線は、天地を分ける稜線。これを底力で受け止める横一文字は、津軽平野の大地である。
何をやっても中途半端な私が、唯一続けることができたのが書。それだって、自ら進んで始めたわけではなかった。学校から帰ると鞄を放り投げ、夕方まで鉄砲玉。毎日泥んこに塗れ、得体の知れない生き物を持ち帰ったりしていたのは、近所が男の子たちばかりということだけではなかったと思う。女の子に生まれながらにして、この体たらく。母は、嘆かわしいと思ったのだろうか。いつものように鞄を放った手に別の鞄を持たされ、連れていかれた先が書道塾なのであった。
別に書家を志したのではなかった。 書きもの好きが高じて、それがそのまま職業になった。 頼まれたら断らない。なんでも率先して書かせてもらった。書くと御礼を頂いた。報酬は、ときにはビールや焼き鳥に化けたりもした。書き文字が形を変えて返ってくる不思議。等価交換なのか。こんな字でも必要とされるということは、まことに有難いことである。けれども、なかなかこれを生業として自覚できない、したくない。この自意識の低さは、私の不徳の致すところ。この期に及んで、他力に本願な上に自信と覚悟が不足している。
その昔、岩木山には子供を食うのが大変好きな鬼が一匹棲んでいたそうな。これを嘆かれた観世音菩薩さまは、鬼と約束をする。明日の日の出前までに、世にも稀な立派な秀峰をこしらえたら願い事を叶えよう。さもなくは、二度と人間の子を食ってはならない。そんなことなどわけがない。神通力を駆使してせっせと山をこしらえる鬼。右の肩からはじめ、あとひと担ぎで完成というとき、朝日が昇ってしまう。鬼は角を抜かれ、天国へ連れ戻され、山には平和が訪れた。岩木山の左肩が少し低いのは、鬼が積み忘れた岩の名残なのだという。斎藤正 編集 続津軽のむがしこ集より。「お岩木山と鬼」は好きな話のひとつである。
文字は、擬態しながら野山に潜んでいる。自然に存在するものが、線になって文字になる。わたしたちは、蜘蛛の巣のように張り巡らされた線のただなかにいる。書という視座から見る景色は神羅万象。ここにいながら、どこへでも行ける。自分を買い被った代償は大きい。菩薩さまは鬼の心を見透かしていた。角を抜かれた鬼は、改心できただろうか。津軽の風に心をさらし岩木山を仰ぎ見るとき、ふと、積み損なった岩と鬼のことを想う。
※ 2015.10 陸奥新報「望遠郷」に掲載
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我が国の未来を見通す(89)
『強靭な国家』を造る(26)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その16)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
今般、ハマスのイスラエル攻撃を発端に発生した一
連の争いのニュースを知って、改めて、宗教、人種・
民族の違い、さらには歴史的権利などが絡む対立
の“根の深さ”に思いが至ります。
私自身は、現役時代に「イラク復興作戦」の計画・
実行に関わり、イラクのサマーワ、シリアのダマス
カスやゴラン高原を訪問した経験もあって、あの地
域の風土や対立の歴史などについて関心を持ち始め
てから長い年月が流れました。
今回、ハマスのイスラエル攻撃が発生した後、偶然
にもイスラエルとアラブに関係者がいる複数の日本
人と、別々にではありますが、会ったり、メールで
やり取りして意見交換する機会がありました。
当然ながら、イスラエルに関係者がいる知人は、イ
スラエル側に立った見方をしますし、アラブに関係
者がいる知人はハマス側に立った見方をします。人
道的な視点では共有できても、どちら側が(より)
悪いか、あるいはどちら側が譲歩すべきか、という
観点に立つと、考え方は全く正反対になります。
国内では、いつものように、“にわか評論家”がマ
スコミに露出して(日本の悪い癖ですね)、自分流
の勝手な見方で得意げに解説していますが、おそら
く、本事案の“真相”とはかなりかけ離れているの
だろうと思います。言葉を代えれば、自ら「フェイ
クニュース」を流しているようなものであることを、
なぜマスコミ側も気がつかないのでしょうか。
私はこれまでの経験から、イスラエルとアラブの対
立の背景や“何が起きているのか”などについて、
私たち日本人のような門外漢が見極めることは困難
と思ってきましたが、今回もそのように考えるのが
適切と思っています。
例えば、「ハマスの攻撃をイスラエル諜報機関のモ
サドが知っていたか」とか、「ハマスに武器を供与
したのはだれか」とか、「ハマスがこのタイミング
でなぜあのような暴挙に出たか」などは当然ながら、
見方が分かれます。
特に、ハマスにはウクライナにNATO諸国が提供
した武器が流れているとの情報がある一方で、ロシ
アのワグネルと繋がっているとの情報もあります。
当然、イランをはじめ、他のイスラム過激派などと
も繋がっているのでしょう。
また、500人以上の犠牲者が出ているガザ地区の
病院の爆破については、イスラエルかハマスか互い
の犯行の“非難合戦”をしていますが、その真相は
不明です。
爆発の映像をみる限りにおいては、ロケット弾が命
中して爆破したのではなく、地上に仕掛けた爆弾が
破裂したように見えることに加え、一般的な見方を
すれば(専門用語では「戦術的妥当性」と呼称しま
す)、バイデン大統領が訪問するこのタイミングで、
このような大事件を起こすことは、ハマス側に“
利”はあっても、イスラエル側に“利”はないとみ
るのが妥当でしょう。ただ、よほどのことがない限
り真相が明らかになることはないでしょう。
イスラエルのガザ地区への地上攻撃があるかないか、
あるとすればいつかが、現時点(10月20日現在)
の焦点であり、本メルマガが発刊される頃には、イ
スラエルが地上攻撃を敢行しているかも知れません
が、その行為がイスラエル自らの立場のみならず、
中東地域への拡大、あるいは国際社会全般にいかな
る影響を及ぼすかなどまで現時点では詳細、かつ正
確に見積もることは難しいでしょう。
バイデン大統領がイスラエルと連帯を強調しながら
も「怒りにのみこまれるな」と自制を促したのは、
その影響の大きさを懸念したからでしょうが、イス
ラエルからすれば、国際社会からの非難などよりも、
国家とユダヤ民族の生き残りをかけた戦いを最優先
することがまさに「国家戦略」なのであろうと思い
ます。
一方、ハマス側がイスラエルのこのような戦略を逆
に利用し、イスラエルの地上攻撃を誘発することに
よって、ヒズボラやイランなどアラブの諸力をもっ
てイスラエル包囲網を形成することまで視野に入れ
ていたとすれば、地上攻撃の結果は、報復戦以外の
違った意味をもたらす可能性があるでしょう。
国際社会は、バイデン大統領の訪問が(どちら側が
犯人であっても)500人以上の犠牲者を出す病院
爆破に繋がった、と判断して“最悪のタイミングだ
った”との見方が多かったですが、本事件によって、
人道的視点がより強調され、イスラエルが攻撃を停
止あるいは延期、もしくは限定的な攻撃に留めると
いう結果になれば、訪問の成果だったとものもとら
えることができるでしょう。いずれにしても、近い
将来、明らかになることと考えます(20日時点は
不明です)。
私たち日本人は、戦後の「平和ボケ」のせいか、人
類の歴史は、その善悪は別にしても、自らの「正義」
の追及や「国益」獲得を最優先して、そのために国
民の生命や財産を犠牲するような行為の繰り返しで
あったことに考えが及ばないのでしょう。それは今
も繰り返されているし、将来も絶えることはないと
覚悟しておく必要があるのです。
確かに、人類は長い歴史の中で、後々振り返れば
“数々の過ち”を繰り返してきました。しかし、そ
の時点に戻って当時の状況(事情)を考えると、
“他の選択肢などなかった”と考えざるを得ないこ
ともたくさんあります。
私たちは、人類が繰り返してきた様々な争いの原因
について、一方を善で片方を悪と単純に決めつける
のは、“稚拙以外のなにものでもない”ことに気づ
く必要があります。それが人類なのであり、その本
質は、今も、そして将来もそう簡単に変わることは
ないのです。
いずれにしても、早期解決を願わずにはおれません
が、翻って、「そのために、我が国は何ができるか」
と問えば、前回紹介しました湾岸戦争時同様、依然
として「何もしない、何もできない日本」を寂しく
思うばかりです。
岸田首相が周辺のアラブ諸国の首脳に電話している
ようですが、それがどのような効果があるのか、こ
の争いの早期終焉に結びつくのかについては不明と
言わざるを得ないでしょう。このような時こそ、ユ
ダヤ側にもアラブ側に立たない“孤立国・日本”の
「出番」なのかも知れないのですが・・・。
一方、同じような日程で、「一帯一路」会議を利用
して、プーチン大統領が中国を訪問、習近平主席と
会談して「反米路線で一致した」との報道がありま
した。テレビで見る限りで印象に残ったのは、習主
席がプーチン大統領はじめ、他国首相などだれと会
っても一度も笑顔を見せず、“心ここにあらず”な
のか、終始深刻な顔をしていたことでした。これが
何を意味するのか、早晩、その意味が分かるのかも
知れませんが、習主席自身あるいは中国国内で私た
ちの予想を超えるような“何か”がすでに起きてい
るのかも知れないと考えると不気味な気がします。
▼現時点の「国家戦略」の位置づけ
さて、『日本の大戦略』を参考しつつ、「国家戦略」
の策定手法について筆を進めることにしましょう。
まず、「国家のライフサイクル」と「国家戦略」に
ついて触れておきます。本書によれば、「国家戦略」
は、国家の4サイクル、「黎明期(誕生期)」「上
昇期」「定常期」「下降期」によってそれぞれに対
応した戦略があるとしています。国家の最重要な目
的が「安全と富」であることは大きく変わらないと
しても、国家が4サイクルの中で置かれている位置
や当時の国際システムなどによって、めざす目的の
優先順位とか、その獲得の仕方などが変ってくるの
は当然です。
振り返れば、明治維新の「富国強兵」「殖産興業」
は「黎明期の戦略」であったととらえることができ、
その後の「帝国国防方針」のようなものは「上昇期」
の戦略だったと言えるでしょう。本書では、戦後の
「吉田ドクトリン」も「上昇期」の戦略だったとら
えています。敗戦の結果、国土は疲弊していました
が、明治初期に比べれば、国家の人的・物的基盤の
ようなものは健在していたと考えた結果なのでしょ
う。
「定常期」の戦略の例としては、我が国には当ては
まる戦略がなかったこともあって、本書では、アメ
リカの第2次世界大戦後の戦略を例示しています。
同様に、「下降期」の戦略とついても、1980年
代の“アメリカ衰退論”からレーガノミクスのよう
な「回復戦略」を例示しています。
今、我が国に求められるのは、「富」の観点に立て
ば、まさにレーガノミクスのように、我が国の「ハ
ード・パワー」の「下降期」の「国家戦略」であり、
「これ以上の『国力』の低下を防止し、あわよくば
上昇に転ずる」ことを主目的とした「回復戦略」を
創り上げることだろうと思います。
つまり、我が国が人口減、特に生産年齢人口の減少
に伴い労働力や税収減、一方で高齢化社会の到来に
伴う社会保障給付費の増額などに対する中長期的な
対策、そして食料やエネルギーの自給率低下に伴う
安定確保政策などについて、それらをすべて網羅し、
総合的に向かうべき方向を明確にすることを“柱の
1つにする”「国家戦略」が必要なのです。
レーガン大統領時代のアメリカは、「安全」の分野
では、元々相対的に優位だった軍事力にプラスして、
「スターウオーズ計画」といわれたSDI戦略を計
画・実行することによって、ついに第2次世界大戦
以降長かった「冷戦」を結着させることができまし
た。
それに対して、現在の我が国の「安全」の分野では、
現下の情勢からますます厳しさが増大すると予想し
なければならない国際情勢、なかでも、先行きの不
透明感が著しい周辺情勢に対して、いかにして盤石
な未然防止と有効な対処態勢を整備するかが問われ
ているのでしょう。さらには、南海トラフなどの天
変地異に対する有効な備えなどまで含むとすると、
これまでの“常識”の範囲をはるかに超える短期お
よび中長期目標を設定することを余儀なくされるで
しょう。
このように考えれば、現下の我が国の「国家戦略」
は、レーガン時代のアメリカよりはるかに難しいこ
とも理解できると思います。
さらに欲を出せば、冒頭のように、国際社会を巻き
込むような文明の衝突などに対する「調整役」とし
ての我が国の責任(あるいは使命)から、“いかな
る役割を演ずるべきか”についても、“脳裏”から
消し去ることはできないわけですから、まさに現在、
我が国は“人前未踏”の「国家戦略」を打ち立てる
ことが求められているのです。
▼「我が国を取り巻く環境の変化」をどのように描
くか
その策定自体がとても悩ましいことはこの上ないで
すが、次のステップとして、「国家戦略」を創り上
げる際に、「我が国を取り巻く環境の変化」を“ど
のように描くか”は避けて通れないことでしょう。
『日本の大戦略』においては、第2章から第7章ま
での約250ページ、つまり書籍の約6割を、「我
が国を取り巻く環境の変化」の分析に充当していま
す。
興味ある読者にはぜひ一度目を通していただきたい
と思いますが、項目だけ紹介しますと、まず前半で
は、「国際社会の『大変動』と21世紀型主権国家
システム」とのタイトルを掲げ、「グローバル化の
加速と変調」「国際社会の拡大と国際安全保障」
「超長期の力の移行」「先進国/新興国複合体の生
成」などを詳しく分析しています。
それに続き、後半は「アジア太平洋─日本をめぐる
地域」に焦点をあて、「アジア太平洋における経済
秩序」「アジア太平洋における安全保障秩序」まで
考察の範囲を広げ、様々な角度から緻密に分析して
います。
本書の発刊以来10年以上の歳月が流れ、「我が国
を取り巻く環境の変化」はかなり“様変わりしまし
た”が、「国際社会の『大変動』」とのタイトルか
らしても、本書の行間から“今日のような事態を予
想していた”とも取れますし、現在は、当時の“想
定外のこと”が発生しているとも取れるでしょう。
いずれにしても、我が国にとっての現時点から近未
来の「国際社会の変化の焦点」は、(1)「ウクラ
イナ戦争、さらにはこの度のパレスチナ紛争などの
影響を受けつつ、パワーシフトの最中にある国際安
全保障体制や主権国家システムは今後、どうなるだ
ろうか」、(2)「米国の将来の国力の動向と国際
社会に対する影響力をどのように分析するか」、
(3)「習近平率いる中国の動向は将来どうなるだ
ろうか」、(4)「インドをはじめ、グローバルサ
ウスなどの新興国は将来の国際社会においてどのよ
うな役割を果そうとするだろうか」などであろうと
考えます。
このような網をかぶせた中で、中台問題なども論ず
るべきと考えますが、これらについての分析の結論
が少し違うだけで、「国家戦略」の書きっぷりが大
きく違ってくることは間違いなく、詳しく分析する
必要があることは言うまでもありません。
さらに言えば、 これら「我が国を取り巻く環境の変
化」は、我が国の「安全」に対する直接・間接の影
響に留まらず、「国力」の「ハード・パワー」その
ものに直接、重大な影響を及ぼすことは必定でしょ
う。
つまり、「緊迫を増す世界情勢や世界の人口増が食
料獲得に及ぼす影響」「気候変動とその対策がエネ
ルギー需給に及ぼす影響」「人類を救う科学技術の
動向」など、我が国は、「国力」の相当の部分で国
際社会に依存している“現実”を知る必要があり、
各界の叡智を集めての詳細に分析することも避けて
通れないことでしょう。
特に、分析結果を公開するかどうかは別にしても、
我が国の「安全」や「富」を確保する上で“極めて
重大な影響を及ぼす”「アメリカと中国」両国の将
来をいかに見積もるかによって我が国の「国家戦略」
の基本方向が大きく左右されることは衆目の一致す
る所でしょう。
なかでも焦点は中国でしょう。冷戦が終焉して旧ソ
連が崩壊した時、西側社会、特に我が国は旧ソ連と
経済的結びつきがあまりなく、大きな影響を受けま
せんでしたが、中国とは違います。
すでに触れましたように、2020年時点で、日本
は、中国・アメリカ・ドイツに続く世界第4位の貿
易大国を誇っていますが、最大の貿易相手国は中国
となっています。中国から見ても、日本は輸出相手
国で3位、輸入相手国で2位となっています。
世間には、「中国はやがてアメリカを抜き、世界N
O1の大国になる」との見方がある一方で、最近の
厳しい中国経済の動向などから、中国の将来につい
ての悲観的な分析も後を絶たず、極端な結論として
「今から2年以内に中国は崩壊する」との見方まで
大きく揺れています。
このようななか、『2035年の中国』(元駐中国
大使・宮本雄二著)のように、長年の中国ウオッチ
ャーの立場から、極めて現実的・冷静に見極めてい
る書籍もあります。
本書は、中国の将来については、「中国共産党の真
の挑戦は国内から来る」として、“若い世代が納得
する中国社会をつくり出せるか否か”にかかってい
ることを強調します。つまり、共産党一党独裁の中
国にあっても、国民主権の我が国などと同様、世代
交代に伴う価値観の変化に合わせて「社会そのもの
を変える」以外に“生き残るすべ”がないというの
です。
もう少し付け加えておきましょう。中国は、204
9年に中華人民共和国誕生から「建国100年」を
迎えますが、その国家目標として、習主席が「総合
国力と国際的な影響力において世界の先頭に立つ社
会主義現実化強国を作り上げること」と自ら発信し
ています。
当然とはいえ、中国のような国にあっても、総合的
な「国力」の増強とその上に立った「国際社会にお
ける影響力」を最優先の国家目標に掲げているので
す。これは我が国の「国家戦略」を描く際にも大い
に参考になると考えます。
本書はまた、中国でさえも「日米はじめ、国際社会
と連携なしに国家目標は達成できない」として、そ
のためにも「日米は、中国外交の路線修正を促す外
交を強化すべき」と強く提言しています。この点も
興味深い所です。
なお、アメリカの将来については、これまで幾度か
触れてきましたので細部は省略します。現時点にお
いて、様々な問題を抱えるアメリカではありますが、
私自身は、「国民一人一人が自由意志をもってその
総和として国家を運営する民主主義国家に勝る国家
運営体制は存在しない」というチャーチルの名言の
主旨にあるような、かつ、そのことを歴史が証明し
ているような“普遍の原理”は将来も変わらないだ
ろうと考えています(よって、あまり心配していま
せん)。
しかし、その成否を握っているのは、強いリーダー
に率いられた主権者たる国民の意志であり、その総
和としての「国家意思」であろうと思いますが、そ
れについては後述することにしましょう。
▼「国家戦略」策定へのアプローチ
このように「国家戦略」は、各界・各機能の総力を
集めてあらゆる知恵を絞り、その上で、大所高所か
ら、バランスを取りつつ、漏れなく、しかも“した
たかな”検討を積み重ねる必要があると考えます。
その中で、『日本の大戦略』は、我が国に必要な
「3つのアプローチ」を提唱しています。大変興味
深いアプローチなので簡単に紹介しておきましょう。
まず第1は、「『自律』を基本におくべきこと」で
す。つまり、“一国平和主義”のような「自立」で
はなく、これまで述べた「我が国を取り巻く環境の
変化」を至当に分析した結果として、“自ら原則を
立て、それに基づいて行動し、他国や他のアクター
とも協力していくという「自律」の重要性を説いて
います。全く同感です。
第2は、「他国から見て『頼りがいのある日本』を
めざすものでなければならない」としていることで
す。つまり、日本と協力すれば良い結果が出せる、
という意味での「連携力」を強調しています。「調
整役」の役割についてすでに触れましたが、この
「連携力」についても異論がないことでしょう。
第3は、「未来起点でのアプローチを探る必要があ
る」としていることです。つまり、現世代の繁栄と
平和を追求するだけでなく、将来世代の繁栄と平和
を求めていくということです。「将来世代を起点に
考えることによって、硬直化した政策体系を見直し、
政策の幅や柔軟性を回復することが可能になる」と
しています。
私は、私たち・戦後世代の責任として、この「未来
起点」のアプローチで「資産」を残す必要性を繰り
返し提唱してきましたが、まさに「的を射た視点」
との感を強くします。
『日本の大戦略』は、このような手順を経て最後に、
「『先進的安定化勢力・日本』のグランド・ストラ
テジー」(平成23年6月9日発表)を提言してい
ます。「国力」の中に占める「ソフト・パワー」と
しての「国家戦略」とそのアプローチは少し違いま
すが、よく分析・整理され、戦略として必要な要素
をほぼ網羅していると考えます。
いよいよ“外堀”が埋まってきました。次回、これ
らを参考にしつつ、私が考える「国家戦略」指針な
どについて紹介しましょう。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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私の家族の奴隷 My Family’s Slave/Alex Tizon
遺灰は、トースターくらいの大きさの箱に収まった。プラスチック製の黒い箱で、重さは1kg半。それをトートバッグに入れてスーツケースにしまい、マニラ行きの飛行機に乗って太平洋を横断したのは2016年7月のことだ。
マニラに降り立つと、車で田舎の村へと向かう。到着したら、私の家で奴隷として56年間を過ごした女性の遺灰を受け渡すことになっている。
彼女の名前は、エウドシア・トマス・プリド。私たちは、彼女を「ロラ」と呼んでいた。背は150cmで、肌はチョコレート色だった。アーモンドの形をしたロラの目が、私の目をのぞきこんでいるのが人生最初の記憶だ。
祖父が私の母にロラを“贈り物”として与えたとき、ロラは18歳だった。そして、家族が米国に移住したとき、彼女も一緒に連れていった。
ロラが送った人生を言い表すのに、「奴隷」という言葉以外には見つからない。彼女の1日は、ほかのみんなが起きる前に始まり、誰もが寝静まったあとに終わった。1日3食を用意し、家を掃除し、私の両親に仕え、私を含め5人の兄妹の世話をした。
両親が彼女に給料を与えることは1度もなく、常に叱りつけていた。鉄の鎖につながれていたわけではないけれど、そうされていたのも同然だった。夜中、トイレに行きたくなって目が覚めて、彼女が家の片隅で眠り込んでいるのを見つけたのは1度や2度の話ではない。洗濯物の山にもたれかかり、畳んでいる途中の服をしっかり握りながら──。
米国では、私たちは模範的な移民家族だった。みんなにそう言われた。父は法律の学位を持っていたし、母は医者になろうとしていた。それに私たち兄妹は成績が良く、礼儀正しい子供たちだった。
だが、家の外でロラの話をすることはなかった。それは、私たちが「どういう存在であるか」という根幹の部分に関わる秘密だったからだ。さらに、少なくとも子供たちにとっては、「どういう存在になりたいか」という問題に深く関係していた。
娘に「奴隷」をプレゼント
マニラに到着して預けた荷物を引き取ると、スーツケースを開き、ちゃんとロラの遺灰があることを確認した。外へ出ると、懐かしい匂いがした。排気ガスやゴミ、海や甘い果物、そして人間の汗が入り混じった濃い匂いだ。
翌朝早く、私は愛想の良い中年の運転手を見つけて出発した。「ドゥーズ」というニックネームだった。彼のトラックは、車のあいだをすいすいと通り抜けていく。
何度見ても衝撃を受ける光景が広がっていた。おびただしい数の車やバイク、そして乗り合いタクシー。まるで雄大な茶色い川のように、そのあいだをすり抜け、歩道を進む人々。車の横を小走りする裸足の物売りたちが、タバコや咳止めドロップの袋を売り歩く。物乞いの子供たちが、窓に顔を押しつける。
ドゥーズと私が向かっていたのは、ロラの物語が始まったタルラック州だ。また、そこは私の祖父トマス・アスンシオンという陸軍中尉の故郷でもある。家族によれば、土地をたくさん所有していたのにお金はなく、所有地の別々の家に愛人たちをそれぞれ住まわせていた。妻は、初めてのお産で命を落とした。そのときに生まれたのが私の母だ。母は「ウトゥサン」たちに育てられた。要するに、「命令される人々」だ。
フィリピン諸島における奴隷の歴史は長い。スペインに征服される前、島民たちはほかの島から連れてきた人々を奴隷にした。主に戦争の捕虜や犯罪人、債務者などだ。奴隷にはさまざまな形態があった。手柄を挙げれば自由を勝ち取ることができる戦士もいれば、財産として売り買いされたり交換されたりする召使いもいたという。
地位の高い奴隷は地位の低い奴隷を所有することができたし、地位の低い奴隷は最底辺の奴隷を所有することができた。生き延びるために自ら奴隷となる人もいた。労働の対価に食料や寝床が与えられるし、保護してもらえるからだ。
16世紀にスペイン人が到来すると、彼らは島民を奴隷にし、のちにアフリカやインドの奴隷を連れてきた。その後、スペイン王室は自国や植民地で奴隷を段階的に廃止していったが、フィリピンはあまりに遠く離れていたので、監視の目が行き届かなかったという。
1898年に米国がフィリピンを獲得してからも、隠れた形で伝統は残った。現在でも、貧困層でさえ「ウトゥサン」や「カトゥロング(ヘルパー)」、「カサンバハイ(メイド)」を持つことができる。自分より貧しい人がいる限りはそれが可能であり、下には下がいるものなのだ。
祖父は、多いときで3家族のウトゥサンを自分の土地に住まわせていた。フィリピンが日本の占領下にあった1943年春、彼は近くの村に住む少女を連れて帰ってきた。
彼のいとこで、米農家の娘だった。祖父は狡猾だった。この少女は一文無しで、教育を受けていなかったし、従順に見えた。さらに彼女の両親は、2倍も年の離れた養豚家と結婚させようとしていた。彼女はどうしようもなく不幸だったが、ほかに行くあてがなかった。そこで、祖父は彼女にある提案をした。 12歳になったばかりの娘の世話をしてくれるなら、食料と住まいを与えよう──。
彼女、つまりロラは承諾した。ただ、死ぬまでずっとだとは思っていなかった。
「彼女はおまえへのプレゼントだ」と、祖父は私の母に告げた。
「いらない」と母は答えた。だが、受け入れるしかないのはわかっていた。やがて陸軍中尉だった祖父は日本との戦いへ赴き、田舎の老朽化した家で、母はロラと2人きりになった。ロラは母に食べさせ、身づくろいをしてやった。市場へ出かけるときは、傘をさして母を太陽から守った。犬にエサをやり、床掃除をして、川で手洗いした洗濯物を畳んだ。そして、夜になると母のベッドの端に座り、眠りにつくまでうちわで扇いだ。
戦争中のある日、帰宅した祖父が、母のついた嘘を問い詰めた。絶対に言葉を交わしてはいけない男の子について、何らかの嘘をついたらしい。激高した祖父は、「テーブルのところに立て」と母に命じた。
母はロラと一緒に、部屋の隅で縮こまった。そして震える声で、「ロラが代わりに罰を受ける」と父に告げたのだ。ロラはすがるような目で母を見ると、何も言わずにダイニングテーブルへ向かい、その端を握った。祖父はベルトを振り上げ、12発ロラを打った。打ち下ろすたびに、「俺に」「決して」「嘘を」「つくな」「俺に」「決して」「嘘を」「つくな」と吠えた。ロラはひとことも発さなかった。
のちに母がこの話をしたとき、あまりの理不尽さを面白がっているようだった。「ねえ、私がそんなことしたなんて信じられる?」とでも言っているようだった。これについてロラに訊くと、彼女は母がどのように語ったのか知りたがった。彼女は目を伏せながらじっと聞き入り、話が終わると悲しそうに私を見てこう言った。
「はい。そういうこともありました」
彼女が「奴隷」だと気づいた日
ロラと出会ってから7年後の1950年、母は父と結婚し、マニラへ引っ越した。その際、ロラも連れていった。祖父は長年のあいだ「悪魔に取り憑かれて」いて、1951年、それを黙らせるために自分のこめかみへ弾丸を打ち込んだ。母がその話をすることはほとんどなかった。
彼女は父親と同じく気分屋で、尊大で、内側には弱さを抱えていた。父の教えはどれも肝に銘じていて、その1つが、田舎の女主人にふさわしい振る舞い方だった。つまり、自分より地位の低い者に対しては、常に上に立つ者として行動する、ということだ。
それは、彼ら自身のためでもあり、家庭のためでもある。彼らは泣いて文句を言うかもしれないが、心の底では感謝しているはずだ。神の御心のままに生きられるよう助けてくれた、と。
1951年に、私の兄アーサーが生まれた。その次が私で、さらに3人が立て続けに生まれた。ロラは、両親に尽くしてきたのと同じように、私たち兄妹にも尽くすことを求められた。ロラが私たちの世話をしているあいだ、両親は学校に通い、「立派な学位はあるけれど仕事がない大勢の人々」の仲間入りをした。
だが、そこへ大きなチャンスが訪れた。父が、外務省でアナリストとして雇ってもらえることになったのだ。給料はわずかだったが、職場は米国だった。米国は、両親が子供の頃から憧れていた国だ。彼らにとって、願っていたことすべてが叶うかもしれない、夢の場所だった。
父は、家族とメイドを1人連れていくことを許された。おそらく共働きになると考えていたので、子供の世話や家事をしてくれるロラが必要だった。母がロラにそのことを告げると、母にとって腹立たしいことに、ロラはすぐには承諾しなかった。
それから何年も経ったあとにロラが当時のことを話してくれたのだが、実は恐ろしかったのだという。
「あまりに遠くて。あなたのお母さんとお父さんが私を帰らせてくれないんじゃないかと思ったんです」
結局、ロラが納得したのは、米国に行けばいろんなことが変わると、父が約束したからだった。米国でやっていけるようになったら、「おこづかい」をやると父は言った。そうすれば、ロラは両親や村に住む親戚に仕送りができる。
彼女の両親は、地面がむき出しの掘っ立て小屋に暮らしていた。ロラは彼らのためにコンクリートの家を建ててやれるし、そうすれば人生が変わる。ほら、考えてもごらんよ。
1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った。ロラが母のところへ来てからすでに21年が経っていた。いろいろな意味で、自分にとっては父や母よりも、ロラのほうが親という感じがしていた。毎朝最初に見るのは彼女の顔だったし、寝る前に最後に見るのも彼女だった。
赤ちゃんの頃、「ママ」や「パパ」と言えるようになるよりずっと前に、ロラの名前を呼んでいた。幼児の頃は、ロラに抱っこしてもらうか、少なくともロラが近くにいないと絶対に眠れなかった。
家族が渡米したとき、私は4歳だった。まだ幼かったので、ロラが我が家でどういう立場なのかを問うことはできなかった。だが、太平洋のこちら側で育った兄妹や私は、世界を違った目で見るようになっていた。海を越えたことで、意識が変わったのだ。一方で、母と父は意識を変えることができなかった。いや、変えることを拒んでいた。
結局、ロラがおこづかいをもらうことはなかった。米国へ来て数年が経った頃、それとなく両親に訊いてみたことがあるという。当時、ロラの母親は病気で、必要な薬を買うお金がなかった。
「可能でしょうか?」
母はため息をついた。「よくそんなことを言えたもんだ」と父はタガログ語で答えた。
「カネに困っているのはわかってるだろ。恥ずかしいと思わないのか」
両親は、米国へ移住するために借金をしていて、米国に残るためにさらに借金していた。父は、ロサンゼルスの総領事館からシアトルのフィリピン領事館に異動した。年収5600ドルの仕事だった。収入を補うためにトレーラーの清掃の仕事を始め、それに加えて、借金の取り立てを請け負うようになった。
母は、いくつかの医療研究所で助手の仕事を見つけた。私たちが両親に会えることはほとんどなく、会えたとしても彼らはたいてい疲れ切っていて不機嫌だった。
母は帰宅すると、家がきちんと掃除されていないとか、郵便受けを確認していないなどと言っては、ロラを叱責した。「帰るまでに、ここに郵便を置いておけって言ったでしょ?」と、敵意をむき出しにタガログ語で母は言う。
「難しいことじゃないし、バカでも覚えられるでしょ」
そして父が帰宅すると、今度は彼の番だった。父が声を荒らげると、家中の誰もが縮こまった。ときには、ロラが泣き出すまで2人がかりで怒鳴りつけた。まるで、ロラを泣かせることが目的だったかのように。
私にはよくわからなかった。両親は子供たちによくしてくれたし、私たちは両親が大好きだった。だが、子供たちに優しくしていたかと思うと、次の瞬間にはロラに悪態をつくのだ。
ようやくロラの立場をはっきりと理解するようになったのは、11歳か12歳の頃だった。8歳年上の兄アーサーは、ロラの扱いに怒りを覚えるようになってから何年も経っていた。ロラの存在を理解するために「奴隷」という言葉を教えてくれたのはアーサーだった。その言葉を知る前は、ただ不運な家庭の一員だとしか思っていなかった。
両親が彼女を怒鳴りつけるのは嫌だったが、それがモラルに反することであり、彼女の立場そのものがモラルに反することだとは考えてみたこともなかった。
「彼女みたいに扱われてる人を、1人でも知ってるか?」とアーサーは私に聞いた。そして、ロラの境遇を次のようにまとめた。
無給。毎日働きっぱなし。長く座ったままだったり早く就寝したりすると、こっぴどく叱られる。口答えをすると殴られる。着ているのはおさがりばかり。キッチンで残り物を独りで食べる。ほとんど外出しない。家族のほかに友人はいないし、趣味もない。自分の部屋もない(彼女はどこか空いた場所に寝るのが普通だった。ソファかクローゼットか、妹たちの寝室の片隅か。よく洗濯物に囲まれて寝ていた)。
ロラと似たような立場の人を探しても、見つかるとしたらテレビや映画に出てくる奴隷だった。
奴隷の存在を隠し続けるしかなかった
ある晩、当時9歳だった妹のリングが夕食をとっていないと知った父が、ロラの怠慢を叱った。父は、ロラを見下ろしてにらみつけた。「食べさせようとしたんです」とロラは訴えた。だが彼女の返答は説得力がなく、さらに父をいら立たせるだけだった。そして、彼はロラの腕を殴った。ロラは部屋を飛び出した。動物のように泣き叫ぶ彼女の声が聞こえてきた。
「リングはお腹がすいてないって言ったんだ」と私は言った。
両親が振り返って私を見た。驚いた様子だった。いつも涙がこぼれる前にそうなるように、自分の顔がピクピクしているのを感じた。でも、絶対に泣くまいと思った。母の目には、これまで見たことのないものが浮かんでいた。もしかして、妬みだろうか?
「ロラを守ろうとしているのか」と父は訊いた。「そうなのか?」
「リングはお腹がすいてないって言ったんだ」
私はすすり泣くように、そう繰り返した。
私は13歳だった。私の世話に日々を費やしていたロラを弁護しようとしたのは、初めてのことだった。いつもタガログ語の子守唄を歌ってくれたし、私が学校に行くようになると、朝には服を着せて朝食を食べさせ、送り迎えをしてくれた。あるときは、長いあいだ病気で弱りきって何も���を通らなかった私のために食べ物を噛み砕き、小さなかけらにして食べさせてくれたこともあった。
私が両脚にギプスをしていたときは、彼女は手ぬぐいで体を洗ってくれたし、夜中に薬を持ってきてくれたりして、数ヵ月におよぶリハビリを支えてくれた。そのあいだずっと私は不機嫌だった。それでもロラが文句を言ったり、怒ったりすることは1度たりともなかった。
そんな彼女が泣き叫ぶ声を聞いて、頭がおかしくなりそうだったのだ。
祖国フィリピンでは、両親はロラの扱いを隠す必要性を感じなかった。米国では、さらにひどい扱い方をしたが、それを隠すために苦心した。家に客が来れば、彼女を無視するか、何か訊かれたら嘘をついてすぐに話題を変えた。
シアトル北部で暮らしていた5年間、私たちはミスラー家の向かいに住んでいた。ミスラー家は賑やかな8人家族で、サケ釣りやアメリカン・フットボールのテレビ観戦の楽しみを教えてくれた。
テレビ中継を観て応援する私たちのところへ、ロラが食べ物や飲み物を持ってくる。すると両親はほほ笑んで「ありがとう」と言い、ロラはすぐに姿を消す。あるとき、ミスラー家の父が、「キッチンにいるあの小柄な女性は誰?」と尋ねた。「フィリピンの親戚だよ」と父は答えた。「とてもシャイでね」と。
@@@@@
だが、私の親友だったビリー・ミスラーは、そんな話を信じなかった。よくうちに遊びに来ていたし、週末に泊まることもあったので、我が家の秘密を垣間見ていた。
彼は一度、私の母親がキッチンで叫んでいるのを聞き、何事かとその場を覗き、顔を真っ赤にした私の母とキッチンの隅で震えていたローラを見た。私はその数秒後にその場を目撃した。ビリーはきまり悪さと混乱が混ざったような表情をしていた。"あれはなんだ?" 私はそれを無視して忘れるように彼に言った。
ビリーはおそらくローラをかわいそうだと思ったことだろう。彼はローラの料理を誉め、彼女をよく笑わせた、私が見たことがないような笑顔をローラは見せていた。お泊り会の時にはローラはビリーの好きなフィリピン料理、白米の上に牛肉のタパを乗せた料理を作った。(beef tapa:薄切りの牛肉を魚醤・ニンニク・砂糖・塩・コショウなどで炒めたフィリピンの家庭料理)
料理はローラ唯一の自己主張の方法であり、それは雄弁だった。少なくとも私たちは彼女の作る料理に愛情というものがこもっていたことをはっきりと認識していた。
そしてある日、私がローラを遠い親戚だと言及したとき、ビリーは私と最初に会った時に私が彼女を祖母だと言っていたことを思い出した。
「なんていうかまあ、彼女はそのどちらでもあるというか...」と私は言葉を濁した。
「なぜ彼女はいつも働いているのんだ?」
「彼女は仕事が好きなんだよ」私は答えた。
「君のお父さんとお母さん、彼らはなぜ彼女を怒鳴りつけるんだ?」
「彼女は耳があまり良くないんだ...」
真実を認めてしまうことは、私たち家族の秘密を暴露することを意味していた。 アメリカに来て最初の10年、私たちはこの新しい土地になじむ努力をした。だが奴隷を持つという事実だけはこの国ではなじみようがなかった。奴隷を持つことは、私たち家族に対する、私たちのこれまですべてに対する強い疑問を私にもたらした。
私たちはこの国に受け入れられるに足るべき存在なのか?
私はそれらをすべて恥じていた、私自身もまた共犯者であることを含めて。彼女が調理した料理を食べ、彼女が洗濯しアイロンをかけクローゼットに掛けた服を着たのは誰だ? しかしそれでも、仮に彼女を失うことになっていたとしたらそれは耐えがたいことだっただろう。
そして奴隷を持つということ以外にもう一つ、私たち家族には秘密があった。私たちが米国に到着してから5年後、ローラの滞在許可は1969年に失効していたのだ。彼女は私の父の仕事に関連付けられた特殊なパスポートで渡米した。
父は上司との度重なる仲たがいの後に勤めていた領事館を辞め、その後も米国に滞在するため家族の永住権を手配したが、ローラにはその資格がなかった。父はローラを国に返すべきだったのにそうしなかった。
51歳当時のローラ。彼女の母親はこの写真が撮影される数年前に亡くなった。彼女の父親はその数年後に亡くなった。いずれの時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた。
All photos courtesy of Alex Tizon and his family ローラの母、フェルミナは1973年に亡くなった。彼女の父、ヒラリオは1979年に亡くなった。いずれの時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた。 そのいずれの時も、私の両親は "すまない" "金銭的な余裕がないんだ" "時間を作れない" "子供たちは君を必要としている" と答えた。
私の両親は後に私に告白したが、そこには彼女を返すことのできない別な理由もあったという。当局がローラの存在を知れば、そして彼女が望む通りアメリカを離れようとすれば当然知られることになる、そんな事態になれば私の両親は大きな問題を抱えることになり、国外追放される可能性も十分にあったのだ。
彼らはそのような危険を犯すことはできなかった。ローラの法的地位は「逃亡者」となっていた。彼女はほぼ20年間 "逃亡者" としてこの国に滞在したのだ。
彼女の両親がそれぞれ亡くなった後、ローラは何ヶ月も陰鬱に、寡黙になった。私の両親がしつこく言っても彼女はほとんど答えなかった。だがしつこく言うことが終わるわけでもなく、ローラは顔を下げたまま仕事をした。
そして父が仕事を辞めたことで私たち家族にとって波乱となる時期が始まった。金銭的に苦しくなり、両親は次第に仲たがいするようになった。シアトルからホノルルへ、そしてまたシアトルへと戻り今度はブロンクスへ、転々と住む場所を変え、最終的にはオレゴン州の人口750人の小さな町、ウマティラに移った。
その間、母は医療インターンとして、その後に研修医として24時間シフトで働き、父は何日も姿を消すようになっていた。父はよくわからない仕事をしており、それとは別に私たちは後に浮気やらなにやらしていたことを知った。突然家に帰り、ブラックジャックで新しく買ったステーションワゴンを失ったと言い出したこともあった。
家では、ローラが唯一の大人になる日が何日も続くようになった。彼女は家族の中で最も私たち子供の生活を知る人となっていた、私の両親にはそのような精神的な余裕がなかったがゆえに。
私たち兄弟はよく友人を家に連れてきた。彼女は私たちが学校の事や女の子の事、男の子の事、私たちが話す様々な事を聞いていた。彼女は私たちの会話をただ立ち聞きしていただけで、私が6年生から高校までフラれたすべての女の子の名前を挙げることができたのにはまいった。
そして私が15歳の時、父は家族から去っていった。私は当時それを信じたくなかったが、父が私たち子供を捨てて、25年の結婚生活の後に母を捨てたという事実だけがそこにあった。
母はその時点で正式な医師になるまであと1年を要しており、また彼女の専門分野である内科医は特に儲かる仕事ではなく、さらに父は養育費を払わなかったので、お金のやりくりはいつも大変だった。
母は仕事に行ける程度には気持ちをしっかり保っていたが、夜は自己憐憫と絶望で崩壊した。この時期の母の慰めとなったのはローラだった。
母が小さなことで彼女にきつく言う度に、ローラはより かいがいしく母の世話をした。母の好きな料理を作り、母のベッドルームをより丁寧に掃除した。夜遅くにキッチンカウンターで母がローラに愚痴をこぼしたり、父のことについて話したり、時には意地悪く笑ったり、父の非道にを怒ったりしていたのを何度も目撃した。
ある夜、母は泣きながらローラを探しリビングルームに駆け入り、彼女の腕の中で崩れ落ちた。ローラは、私たちが子供の頃にそうしてくれたように母に穏やかに話しかけていた。私はそんな彼女に畏敬の念を抱いた。
"母と私は一晩中言い争った。お互い泣きじゃくっていたが、私たちはそれぞれ全く違った理由で泣いた。"
私の両親が離婚してから数年後、私の母親は友人を通して知り会ったクロアチアの移民イワンという男性と再婚し母はローラに対し新しい夫にも忠誠を誓うことを要求した。イワンは高校を中退し過去4回結婚しているような男で、私の母の金を使いギャンブルに興じる常習的なギャンブラーだった。
だがそんなイワンは、私が見たことのないローラの一面を引き出した。 彼との結婚生活は当初から不安定であり、特に彼が母の稼いだお金を使い込むことが問題となっていた。
ある日、言い争いの末に母が泣きイワンが怒鳴り散らしていると、ローラは歩いて両者の間に立ちふさがった。彼は250ポンド(約113kg)の大柄な男でその怒鳴り声は家の壁を揺らすような大きさだった。だがローラはそんなイワンの正面を向き、毅然とした態度で彼の名前を呼んだ。彼は面食らったような顔でローラの顔を見た後、何か言いたそうにしながらも側の椅子に座った。
そんな光景を何度も目撃したが、ローラはそんほとんどにおいて母が望んだとおりイワンに粛々と仕えていた。私は彼女のそのような様を、特にイワンのような男に隷属する様を見るのがとても辛かった。だが��れ以上に私の感情を高ぶらせ、最終的に母と間で大喧嘩に発展させたのはもっと"日常的"なことだった。
母はローラが病気になるといつも怒っていた。ローラが動けないことで生じる混乱とその治療にかかる費用に対処することを望んでいなかった母は、ローラに対し嘘を言っているのだろうと、自分自身のケアを怠った結果だと非難した。
そして1970年代後半にローラの歯が病気によって抜け落ちた時も母は適切な対処を拒んだ。ローラは何ヶ月も前から歯が痛いと言っていた。
「きちんと歯を磨かないからそうなるんでしょ」母は彼女にそう言った。私は彼女を歯医者に連れていかなければならないと何度も言った。もう50代になる彼女はこれまで一度として歯医者に行ったことがなかった。当時私は1時���ほど離れた大学に通っており家に帰るたびにそのことを母に言った。
ローラは毎日痛み止めのためのアスピリンを服用し、彼女の歯はまるで崩れかけたストーンヘンジのようになっていた。そしてある晩、ローラがかろうじてまともな状態で残っていた奥歯でパンを必死に噛んでいる様を見て、私は怒りのあまり我を失った。
@@@@
母と私は、夜通し口げんかした。2人とも泣きじゃくった。
母は、みんなを支えるために身を粉にして働くのに疲れ切っているし、いつも子供たちがロラに味方するのにうんざりしているし、ロラなんてどこかへやってしまえばいいじゃないか、そもそも欲しくなんかなかったし、私のような傲慢で聖人ぶった偽善者なんか産まなければよかった──とまくし立てた。
彼女の言葉を反芻して、私は反撃に出た。
偽善者ならそっちだ。ずっと見せかけの人生を生きているじゃないか。自己憐憫に浸ってばかりだから、ロラの歯が腐ってほとんど食べられないことに気づかないんだろ。1度でいいから、自分に仕えるために生きている奴隷ではなく、1人の人間として見てあげたらどうなんだ?
「奴隷って言ったわね」
母はその言葉をかみしめた。
「奴隷ですって?」
母は、ロラとの関係は私には絶対に理解できないと言い放ち、その晩はそれで終わった。
何年も経ったいまでも、痛みをこらえるような、あのうめき声を思い返すだけで腹を殴られたような気分になる。自分の母親を憎むのは最悪だが、その晩は母を憎んだ。彼女の目を見る限り、母も私を憎んでいるのは明らかだった。
けんかの結果、ロラが自分から子供たちを奪ったという母の恐怖は強まり、ロラ本人にそのつけが回った。母はよりいっそうつらく当たった。
「私があなたの子供たちに嫌われてさぞかしうれしいでしょうね」などと言って苦しめた。私たちがロラの家事を手伝うと、母は憤った。「ロラ、もう寝たほうがいいんじゃないの」と皮肉たっぷりに言うのだ。
「働きすぎよ。あなたの子供たちが心配してるわよ」
そのあとで、寝室へロラを呼び出し、ロラは目をパンパンに腫らせて戻ってくるのだった。
ついにロラは、自分を助けようとするのはやめてくれと訴えた。
「なぜ逃げないの?」と私たちは訊いた。
「誰が料理をするんですか?」と彼女は答えた。誰が仕事を全部やるのか、と言いたかったのだろう。誰が子供たちの世話をするのか? 誰が母の世話をするのか?
別のときには、「逃げるところなんてどこにあるんですか?」と言った。この返事のほうが真実味があった。米国へ来るときは大慌てだったし、息をつく間もなく10年が経った。振り返ると、さらに10年が経とうとしていた。ロラは白髪が増えていた。
噂によれば、故郷の親戚たちは、約束された仕送りが届かないので、何が起きたのかといぶかしんでいたという。彼女はもはや恥ずかしくて帰れなかったのだ。
ロラには米国に知り合いもいなかったし、移動手段もなかった。電話に戸惑ったし、ATMやインターホン、自動販売機、キーボードのついているもの全般など、機械を見るとパニックに陥った。早口な人の前では言葉を失い、逆に彼女のたどたどしい英語を聞くと相手が言葉を失った。予約をしたり、旅行を企画したり、用紙に記入したり、自分で食事を注文したりすることができなかった。
あるとき、私の銀行口座からお金を下ろせるキャッシュカードをロラに与え、使い方を教えてやったことがある。1度は成功したが、2度目は動揺してしまい、それっきり試そうともしなかった。でも、私からの贈り物だと思ってカードは大切にしてくれていた。
また、車の運転を教えようとしたこともある。彼女は手を振って拒否したが、私はロラを抱き上げて車のところへ連れていき、運転席に座らせた。お互い笑い転げていた。
20分かけて、ギアやメーターなどをひと通り説明してあげた。初めは楽しそうにしていた彼女の目が、恐怖におびえはじめた。エンジンをかけてダッシュボードが点灯すると、あっという間に彼女は車を飛び出して家のなかへ駆け込んでしまった。あと数回やってみたが、結果は同じだった。
私は、運転ができるようになれば、彼女の人生が変わると思ったのだ。自分でいろんなところへ行ける。母との生活が耐えられなくなったら、どこかへ逃げて、2度と戻らなければいい。
高まる緊張
4車線が2車線になり、舗装道路が砂利道になった。竹を大量に載せた水牛や車が行き交うなか、三輪車が通り抜ける。ときおり私たちのトラックの前を犬やヤギが走り抜け、バンパーをかすめそうになる。でもマニラで雇った中年の運転手、ドゥーズはスピードを落とさない。
私は地図を取り出し、目的地のマヤントクという村までの道のりをたどった。窓の外には、遠くのほうで大量の折れた釘のように腰を曲げている人々がかすかに見えた。数千年前からずっと変わらないやり方で、米を収穫しているのだ。到着まであと少しだ。
自分の膝の上に置いた安っぽいプラスチックの箱をトントンと叩き、磁器や紫檀で作られた本物の骨壷を買わなかったことを後悔した。ロラの親族はどう思うだろう?
もちろん、そんなに大勢いるわけではなかった。唯一残った兄妹が妹のグレゴリアで、年齢は98歳を数え、物忘れが激しくなっているとのことだった。親戚によると、ロラの名前を聞くとわっと泣き出し、次の瞬間にはなぜ泣いているのかわからなくなるという。
私は、ロラの姪と連絡をとっていた。彼女は次のように1日を計画していた。私が到着したら、ささやかな追悼式をおこない、祈りを捧げ、マヤントクの共同墓地の一画に遺灰を埋葬する──。
ロラが亡くなってから5年が経っていたが、まだ最後のさようならを言っていなかった。間もなくそのときが訪れようとしていた。
朝からずっと、激しい悲しみを抑え込もうと必死だった。ドゥーズの前で泣いたりしたくなかった。自分の家族のロラに対する扱いを恥じるよりも、マヤントクの親族が私にどんな態度をとるだろうかという不安よりも、彼女を失ったことの重さのほうが強かった。まるで前の日に亡くなったばかりのようだった。
ドゥーズは、ロムロ・ハイウェイを北西へと進み、カミリングで急カーブを左に曲がった。母と祖父の出身地だ。2車線が1車線になり、砂利道が泥道になった。道は、カミリング川沿いを走っていた。竹でできた家々が並び、前方には緑の丘が見えた。いよいよ大詰めだ。
物語の脇役であり続けたロラ
母の葬儀で述べた私の弔辞は、すべて本当のことだった。母は、勇敢で、活発だったこと、貧乏くじを引くこともあったけれど、彼女にできる限りのことをしたこと。幸せなときはキラキラしていたし、子供たちを溺愛していて、オレゴン州セイラムに正真正銘の「我が家」を作ってくれたこと。
1980年代と90年代を通して、その家は私たちがそれまで持ち得なかった「定住地」となった。もう1度ありがとうと言えたらいいのに。
私たちみんなが母を愛していた。
だが、ロラの話はしなかった。母が晩年になると、私は彼女といるときにはロラのことを考えないようにしていた。自分の脳にそういう細工をしないと、母を愛することができなかった。それが、親子関係を続ける唯一の方法だったのだ。
とくに、90年代半ばから母が病気がちになってからは、良い関係を保ちたかった。糖尿病、乳がん、そして、血液と骨髄の癌である急性骨髄性白血病。まるで1晩のうちに健常から虚弱へと転落したようだった。
あの大げんかのあと、私は家を避けるようになり、23歳でシアトルに移り住んだ。ただ、実家を訪れると、変化が見られるようになった。母はいつもの母だったが、前のように容赦ない人間ではなかった。
ロラに立派な入れ歯と寝室を与えた。ロナルド・レーガンによる画期的な1986年の移民法で、何百万人という不法移民に合法的な滞在が認められたとき、ロラのTNT(フィリピン人が言う「タゴ・ナング・タゴ」の略。「逃亡中という意味)としての立場を変えようと尽力した兄妹と私に母も協力した。
手続きは長引いたが、1998年10月にロラは米国籍を取得した。母が白血病と診断されてから4ヵ月後のことであり、母はそれから1年間しか生きられなかった。
そのあいだ、母と後夫のアイヴァンはよくオレゴン州の海岸にあるリンカーンシティへ出かけた。ロラを連れていくこともあった。ロラは海が大好きだった。海の向こう側には、いつの日か戻れることを夢見る島々があった。
それに、母がくつろいでいるとロラは幸せだった。海辺で過ごす午後や、田舎で暮らした日々の思い出話をするキッチンでの15分間だけで、ロラは長年の苦悩を忘れてしまうようだった。
��が、私はそんな簡単に忘れることはできなかった。でも、母の違う面が見えるようにもなってきた。亡くなる前に、母はトランク2つにぎっしり詰められた日記を見せてくれた。彼女が寝ているすぐそばで日記に目を通していると、長年私が目を向けようともしなかった母の人生が垣間見えた。
彼女は、女性が医者になることが珍しかった時代に医学部へ通った。米国へ来て、女性として、また移民の医者として、尊敬を勝ち取るために闘った。セイラムにある「フェアビュー・トレーニングセンター」で20年働いた。そこは、発達障害者のための公共機関だった。
皮肉なことに、母はキャリアを通じて弱者を助け続けていたのだ。彼らは母を崇拝した。女性の同僚たちと仲良くなり、一緒にたわいのない女子っぽいことをして遊んだ。靴を買いに行ったり、お互いの家でおめかしパーティーをしたり、冗談で男性器の形をした石けんや半裸の男性たちのカレンダーを贈り合ったりした。そのあいだずっと、彼女たちは笑い転げていた。
当時のパーティーの写真を見ていると、母は家族とロラに見せるのとは別の自分を持っていたことがわかった。それは当然のことだろう。
母は子供たち一人ひとりについて詳しく書いていた。誇りに思ったり、愛しく感じたり、憤慨したり、その日に感じたことを綴っていた。さらに、夫たちについての記述は膨大な量におよんだ。彼らは、母の物語に登場する複雑な性格の人物として描かれていた。
ただし、私たちはみんな重要な登場人物だったのに、ロラは付随的な存在だった。登場するとすれば、別の誰かの物語における端役としてだった。
「最愛のアレックスをロラが新しい学校へ連れていった。新しい友だちが早くできるといいな。引っ越ししたことの寂しさがまぎれるように……」
それから私について2ページ書かれ、ロラはもう登場しない。そんな調子だった。
母が亡くなる前日、カトリックの神父が臨終の秘跡をおこなうために訪れた。ロラはベッドの脇に座り、ストローを差したカップをいつでも母の口元へ持っていけるように備えていた。これまで以上に母を気づかい、これまで以上に優しくしていた。弱りきった母につけ込むこともできたし、復讐をすることもできたのに、ロラの態度は真逆だった。
神父は母に、赦したいこと、または赦しを請いたいことはないかと尋ねた。
彼女はまぶたが半ば閉じたまま部屋を見回したが、何も言わなかった。そして、ロラを直接見ることなく、伸ばした手を彼女の頭に乗せた。一言も発さずに。
「奴隷」から抜けきれない日々
ロラを私のところへ呼び寄せたのは、彼女が75歳のときだった。私はすでに結婚して2人の娘がいて、周りに木が生い茂る居心地の良い家に住んでいた。2階からはピュージェット湾を見渡せた。
ロラには寝室を与え、何をしてもいいよと伝えた。朝寝するなり、テレビドラマを観るなり、1日中ゆっくりするなりすればいい。人生で初めて、思いっきりリラックスして、自由になればいい、と。でも、そう簡単にはいかないと覚悟しておくべきだった。
私は、ロラの厄介なところをすっかり忘れてしまっていた。風邪をひくからセーターを着ろとしつこいこと(すでに私は40歳を超えているというのに)。常に父とアイヴァンの不平を言うこと(父は「怠け者」で、アイヴァンは「ヒル」だった���。
私は次第に彼女を無視する方法を身につけた。でも、異常なまでの倹約ぶりは無視しにくかった。ロラは何も捨てたがらなかったのだ。しかも、私たちがまだ使えるものを捨てていないか、ゴミを漁って確認していた頃もあった。紙タオルがもったいないと、何度も洗って使い回し、しまいには手のひらでボロボロになるほどだった(誰もそれを触ろうとしなかった)。
キッチンはレジ袋やヨーグルト容器、空の瓶でいっぱいになり、家の一部はゴミ置き場になった。そう、ゴミだ。それ以外に言いようがない。
朝はみんな時間がなくて、バナナかグラノーラ・バーをかじりながら家を飛び出すというのに、ロラは朝食を作った。ベッドメイクをして、洗濯物をした。家の掃除をした。最初は辛抱強く、私はこう言い続けた。
「ロラ、そんなことはしなくていいんだよ」「ロラ、自分たちでやるからね」「ロラ、それは娘たちの仕事だよ」
だが、「オーケー」と彼女は言ってそのまま続けるのだった。
ロラがキッチンで立ったまま食事をとっていたり、私が部屋に入ってくると体をこわばらせて掃除を始めたりするのを目にすると、イライラさせられた。数ヵ月経ったある日、話がある、と彼女を呼んだ。
「私は父じゃない。あなたは奴隷じゃないんだ」
そう言って、ロラの奴隷のような行動を一つひとつ挙げていった。彼女が驚いた様子なのに気づいたので、ゆっくり深呼吸してロラの顔を手のひらで包んだ。エルフのような顔のロラが、探るような目で私を見つめ返す。私はその額にキスをした。
「ここはあなたの家だ。私たちに仕えるために来たわけじゃない。リラックスしていいんだ。オーケー?」
「オーケー」と彼女は言った。そして、掃除に戻った。
彼女は、それ以外どうしていいかがわからなかったのだ。次第に、リラックスするべきなのは自分だ、と気づいた。夕食を作りたがるなら、やらせてあげよう。ありがとうと言って、自分たちは皿洗いをすればいい。何度も自分に言い聞かせなければならなかった。やりたいようにやらせてあげろ、と。
ある晩、帰宅するとロラがソファでパズルをしているところを見つけた。脚を伸ばして、テレビをつけ、隣にはお茶を用意して。彼女は私をチラッと見て、きまり悪そうに真っ白な入れ歯を見せて笑い、パズルを続けた。良い調子だ、と私は思った。
さらに彼女は、裏庭でガーデニングを始めた。バラやチューリップや、あらゆる種類の蘭を植えて、それにかかりっきりになる日もあった。また、近所を散歩するようにもなった。
80歳くらいになると関節炎がひどくなり、杖をつくようになった。キッチンでは、かつては下働きの料理人のようだったのが、その気になったときだけ創作する職人肌のシェフのようになった。ときに豪華な食事を作っては、ガツガツ食べる私たちを見てにっこり笑うのだった。
ロラの寝室の前を通ると、よくフィリピンのフォークソングのカセットが聞こえてきた。彼女は同じテープを何度も繰り返し聴いていた。私と妻は週に200ドルを彼女に渡していたが、ほぼ全額を故郷の親戚に送金していることを知っていた。そしてある日、裏のベランダに座り込んだ彼女が、誰かから送られてきた村の写真をじっと眺めているのを発見した。
「ロラ、帰りたいの?」
彼女は写真を裏返しにして、そこに書かれた文字を指でなぞった。それから再び表に返し、1点を食い入るように見つめた。
「はい」と彼女は答えた。
83歳の誕生日のすぐあとに、彼女が帰国するための飛行機代を出してあげた。1ヵ月後に私もそこへ行き、米国に戻る意志があるなら連れて帰ることになっていた。はっきり口にしていたわけではないが、旅の目的は、長年のあいだ戻りたいと切望していた場所が、今なお故郷のように感じられるかどうかを見極めることだった。
彼女は答えを見つけた。
「何もかも違っていた」と、故郷のマヤントクを私と散歩しながら彼女は言った。昔の畑はなくなっていた。家もなかった。両親も、兄妹のほとんども亡くなっていた。まだ生きていた子供時代の友人は、他人のようだった。再会できてうれしかったけれど、昔と同じではなかった。ここで死にたいけれど、まだその心構えができていない。
「じゃあ庭の世話に戻る?」と私は訊いた。すると、ロラはこう答えた。
「はい。帰りましょう」
奴隷としての一生
ロラは、幼い頃の私や兄妹たちと同じように、私の娘たちの世話をしてくれた。学校が終わると、話を聞いてあげて、おやつを与えた。妻や私と違って(主に私だが)、学校の行事や発表会を最初から最後まで楽しんだ。もっと見たくて仕方がないようだった。いつも前のほうに座り、プログラムは記念にとっておいた。
ロラを喜ばせるのは簡単だった。家族旅行にはいつも連れていったが、家から丘を降りたところのファーマーズ・マーケットに行くだけで興奮した。遠足に来た子供のように目を丸くして、「見て、あのズッキーニ!」と言うのだ。
毎朝、起きると必ずやることと言えば、家中のブラインドを開けることだった。そして、どの窓でも一瞬立ち止まって外の景色を眺めるのだ。
さらに、自力で字を読めるようになった。驚くべき進歩だった。長年かけて、彼女は文字をどう発音するかを解明したようだった。たくさん並べられた文字のなかから、単語を見つけてマルで囲むパズルをよくやっていた。
部屋にはワードパズルの冊子が積み上げられていて、鉛筆で何千という単語がマルで囲まれていた。毎日ニュースを見て、聞き覚えのある単語を拾った。それから、新聞で同じ単語を見つけ、意味を推測した。そのうち、新聞を最初から最後まで毎日読むようになった。
父は、彼女のことを「無知だ」と言っていた。でも、8歳から田んぼで働くのではなく、読み書きを学習していたら、どんな人になっていただろうかと考えずにいられなかった。
一緒に暮らしていた12年のあいだずっと、私は彼女の人生についていろいろ質問をした。私が彼女の身の上話の全容を明らかにしようとするのを、彼女は不思議がった。私が質問すると、たいていまずは「なぜ?」と返すのだった。
なぜ彼女の幼少期のことを知りたがるのか? どうやってあなたの祖父と出会ったのかなんて、なぜ知りたがるのか?
妹のリングに、ロラの過去の恋愛について訊いてもらおうとしたことがある。妹のほうが話しやすいと思ったからだ。リングにそう頼むと、彼女はケラケラ笑った。その笑い方は、要するに協力する気がないということだ。
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ある日ローラと私がスーパーで買った食料品をしまっている時に、私はついこんな質問をしてしまった。
「ローラ、君は誰かとロマンチックな経験をしたことはあるかい?」
彼女は微笑んで、彼女が唯一持つ異性との話を私に語った。
彼女が15歳くらいの頃、近くの農場にペドロというハンサムな男の子がおり数ヶ月間彼らは一緒に米を収穫したという。そして一度、彼女はその作業に使っていたボロという農具を手から落としてしまったことがあり、彼はすぐにそれを拾い上げ手渡してくれた。
「私は彼が好きでした。」ローラはそう言った。
しばらく、お互い黙ったままで
「それから?」
「彼はその後すぐに立ち去ってしまいました。」
「それから?」
「それだけです。」
「ローラ、君はセックスをしたことがある?」私は、まるで誰か他人が言ったのを聞いたように、そう質問する自分の声を聞いた。
「いいえ。」彼女はそう答えた。
彼女は個人的な質問に慣れていなかった。彼女は私の質問に1つまたは2つの単語で答えることが多く、単純な物語でさえも引き出すには何十もの質問が必要だった。私はそれらの質問を通してそれまで知り得なかった彼女の一面を知った。
ローラは母の残酷な仕打ちにはらわたが煮えたぎる思いをしたが、それにもかかわらず母が亡くなったことを悲しく思っていたことを知った。彼女がまだ若かった頃、時々どうしようもなく寂しさを感じ泣くことしかできなかった日が何度もあったことを知った。
何年も異性と付き合うことを夢見ていたことを知った、私は彼女が夜に大きな枕で抱かれるように包まれた状態で寝ている光景を目撃したことがある。だが老後の今、私に語ってくれた話によると、母の夫たちと一緒に暮らすうちに独り身でいることはそれほど悪くないと思ったという。彼女はその二人、父とイワンについては全く懐旧の情に駆られないそうだ。
もしかしたら、彼女が私の家族に迎えられることなく故郷マヤントクで暮らしていたら、結婚し、彼女の兄妹のように家族を持っていたら、彼女の人生はより良いものになっていたかもしれない。だがもしかしたら、それはもっと悪いものになっていたかもしれない。ローラの2人の妹、フランシスカとゼプリャナは病気で亡くなり、兄弟であるクラウディオは殺されたと後に聞かされた。
そんな話をしているとローラは、今そんな "もし" の話をして何になるのかと言った。"Bahala na" が彼女の基本理念だった。
bahalaの本来の意味は「責任」。フィリピン人の性格を表現する時によく使われる「Bahala na(バハーラ ナ)」:何とかなるさは、「Bahala na ang Diyos(バハーラ ナ アン(グ) ジョス)」:神の責任である→神の思し召しのままに→運を天にまかせよう、というところから来ている。「Bahala」自体はそんないい加減な意味の表現ではないので注意が必要。 フィリピン語(タガログ語) Lesson 1より http://www.admars.co.jp/tgs/lesson01.htm
ローラは彼女が送ってきた人生は、家族の別の形のようなものだったと語った。その家族には8人の子供がいた、私の母と、私とその4人の兄弟、そして今共に過ごす2人の私の娘だ。その8人の子供たちが、自分の人生に生きた価値を作ってくれたと、彼女はそう言った。
私たちの誰もが彼女の突然の死に準備ができていなかった。
"彼女は当時字を読めなかったが、とにかくそれを取っておこうとしたのだ。"
ローラは夕食を作っている最中に台所で心臓発作を起こし、その時私は頼まれた使いに出ていた。家に戻り倒れている彼女を見つけた私はすぐさま病院に運んだ。数時間後の午後10時56分、病院で、何が起きているのか把握する前に彼女は去ってしまった。すぐに全ての子供たちと孫たちがその知らせを受け取ったが、どう受け止めていいかわからない様子だった。ローラは11月7日、12年前に母が亡くなった日と同じ日に永眠した。86歳だった。
私は今でも車輪付き担架で運ばれる彼女の姿を、その光景を鮮明に思い出せる。ローラの横に立った医師は この褐色の子供くらいの身長の女性がどんな人生を歩んできたか想像もつかないだろうと思ったのを覚えている。
彼女は私たち誰もが持つ利己的な野心を持たず、持てなかった。彼女の周りの人々のためにすべてをあきらめる様は、私たちに彼女に対する愛と絆と尊敬をもたらした。彼女は私の大家族の中で崇敬すべき神聖な人となっていた。
屋根裏部屋にしまわれた彼女の荷物を解く作業には数ヶ月かかった。そこで私は、彼女がいつか字を読むことができるようになった時のために保管しておいた1970年代の雑誌のレシピの切り抜きを見つけた。私の母の写真が詰まったアルバムを見つけた。 私の兄弟姉妹が小学校以降獲得した賞の記念品も見つけた、そのほとんどは私たち自身が捨たもので彼女はそれらを "救いあげて" くれていた。
そしてある日、そこに黄色く変色した新聞の切り抜きが、私がジャーナリストとして書いた記事が大切に保管されているのを見つけ、泣き崩れそうになった。彼女は当時字を読めなかったが、とにかくそれを取っておこうとしたのだ。
竹と板でできた家々が並ぶ村の中央にある小さなコンクリートの家に私を乗せたトラックが止まる。村の周囲には田んぼと緑が無限に広がっているようだった。 私がトラックから出る前に人々が家の外に出てきた。運転手は座席をリクライニングにして昼寝を取りはじめた。私はトートバッグを肩に掛け、息を呑み、ドアを開けた。
「こち���です」
柔らかい声で、私はそのコンクリート製の家へ続く短い道に案内された。私の後を20人ほどの人が続く。若者もいたがその多くが老人だった。
家に入ると、私以外の人たちは壁に沿って並べられた椅子とベンチに座った。部屋の中央には何もなく私だけが立っていた。私はそのまま立ちながら私のホストを待った。それは小さな部屋で暗かった。人々は待ち望んだ様子で私を見ていた。
「ローラはどこですか?」
隣の部屋から声が聞こえ、次の瞬間には中年の女性が笑顔を浮かべこちらに向かってきた。ローラの姪、エビアだった。ここは彼女の家だった。彼女は私を抱きしめて、「ローラはどこですか?」と言った。
私はトートバッグを肩から降ろし彼女に渡した。彼女は笑顔を浮かべたままそのバッグを丁寧に受け取り、木製のベンチに向かって歩みそこに座った。彼女はバッグから箱を取り出しじっくりと眺めた。
「ローラはどこですか?」
と彼女は柔らかく言った。この地域の人々は愛する人を火葬する習慣がなかった。彼女は、ローラがそのような形で帰ってくることを予想していなかった。
彼女は膝の上に箱を置き、その額を箱の上に置くように折れ曲がった。彼女はローラの帰還を喜ぶのではなく、泣き始めた。
彼女の肩が震え始め、泣き叫び始める。それは私がかつて聴いたローラの嘆き悲しむ声と同様の悲痛な叫び声だった。
私はローラの遺灰をすぐに彼女の故郷に返さなかった、これほど彼女を気にしていた人がいたことを、このような悲しみの嵐が待ち受けていることを想像していなかったのだ。私がエビアを慰めようとする前に、台所から女性が歩み寄り彼女を抱きしめ共に泣き始めた。
そして部屋が嘆き声の轟音で包まれた。目の見えなくなった人、歯が抜け落ちた人、皆がその感情をむき出しにすることをはばからず泣いた。それは約10分続いた。気づけば私も涙を流していた。むせび泣く声が止み始め、再び静寂が部屋を包んだ。
エビアは鼻をすすりながら、食事の時間だと言った。誰もが列を成してキッチンに入る。誰もが目を腫らしていた。そして急に顔を明るくして、故人について語り合い、故人を偲ぶ準備を始めた。
私はベンチの上に置かれた空のトートバッグをチラリと見て、ローラが生まれた場所に彼女を戻すことが正しいことだったと実感した。
原典
『My Family’s Slave』By Alex Tizon(The Atlantic)
She lived with us for 56 years. She raised me and my siblings without pay. I was 11, a typical American kid, before I realized who she was.
翻訳
https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2017/06/lolas-story/524490/
https://kaikore.blogspot.com/2018/01/lolas-story.html
https://courrier.jp/news/archives/89516/?utm_source=article_link&utm_medium=longread-lower-button&utm_campaign=articleid_89495
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ジョルジョ・アガンベンに何が起こったのか?
2020年2月、ある大きな影響力を持つ哲学者が、COVIDのロックダウンはナチスドイツによく似ていると判断していた。それ以来、アカデミズムの内外に猛威を振るっている。
By Adam Kotsko
2022年2月20日
この問題の発端は、意外と多いが、あるブログの記事によるものだった。ジョルジョ・アガンベンはイタリアの哲学界の巨人であり、この分野のジョナサン・フランゼンのような存在であり、好き嫌いにかかわらず、高貴でありながら特異な人物であるため、反応しなければならないと思われている。そのアガンベンには以前からブログで時事問題や雑感を短い文章で発信していた。あるときはグレタ・トゥーンベリについてコメントし、またあるときは社会の衰退について詩的な瞑想を書いている。しかし、2020年2月、コロナウイルスの蔓延を食い止めるための緊急対策に関する議論に初めて介入するまでは、ほとんど注目されることはなかった。
「疫病の発明」と題されたこの投稿は、ウイルスに対する反応を「熱狂的、不合理、まったく根拠がない」と呼ぶことから始まり、それだけにとどまらなかった。この煽動的な主張は、基本的に国家当局がCOVID-19の脅威について意図的に国民を欺いていると非難するもので、アガンベンは、他の多くの人々と同様に、インフルエンザと同じように危険ではないと断じたのである。「まるで、テロが例外的措置の原因として尽きたので、伝染病の発明が、あらゆる制限を越えて規模を拡大するための理想的な口実を提供したかのようである」と英訳される。つまり、権力者は自分たちの崩壊しつつある正当性を補強し、新しい社会統制の形を試そうとしたのだ、と彼は主張している。この権力の掌握よりも、さらに不穏なのは、抵抗がほとんどないことだという。この後、イタリアの反応について、「イタリア人は、通常の生活条件、社会的関係、仕事、さらには友情、愛情、宗教的・政治的信念など、ほとんどすべてを病気の危険にさらす傾向があることは明らかだ」と主張した。別の投稿では、「特定できないリスクのためだけに」生活のあらゆる側面に大規模な崩壊を受け入れようとする人々の姿勢を批判し、この言葉をマントラのように繰り返している。
この論文はセンセーションを巻き起こした。ブログへの投稿、インタビュー、イタリア上院での演説が相次いだ。月日が流れ、パンデミックがますます深刻化する中でも、アガンベンはパンデミック緊急対策への批判を繰り返し行った。最終的に2021年春、彼はいくつかの放言をまとめて短編集を出版し、永久に祀り上げることにした。
これは、一部の孤立した強迫観念者の仕業ではない。アガンベンは、その幅の広さと博識さによって、過去20年以上にわたって人文科学と理論的情報に基づく社会科学の中の基本的にすべての分野で大きな影響を及ぼしてきた巨大な知的人物である。アガンベンは法学博士であるが、そのキャリアの初期には、主に哲学と文学の分野でその名を知られた。ロンドン大学の権威あるウォーバーグ研究所でのフェローシップ、そしてさらに重要なことは、ヨーロッパ大陸で最も影響力のある20世紀の哲学者であるマルティン・ハイデガーの独占セミナーに参加したことが、その一因であったことである。この数十年間、アガンベンの著作は人文科学や社会科学のさまざまな分野で必読書となってきたが、彼が真の学問的有名人になったのは、90年代後半に政治に取り組み始めてからである。Google Scholarでは、彼の最も有名な著作である『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』(1998)が、複数の分野の一流の学者からの関与を含め、約24,000件引用されていることを示している。ほとんどの学者は、100件程度の引用しかされないし、ましてや複数の分野のトップクラスの学者のページを飾ることはできない。
そして今、このように大きな影響を与えた同じ考え方が、陰謀論を推し進め、反ワクシング派の迫害を批判するために利用されているのだ。プラトンやアリストテレスの微妙なニュアンスをギリシャ語の原文で伝えることで知られる著者が、右翼の変人のように聞こえるようになり、実際の右翼の変人がニューヨークタイムズ紙で彼の著作を賞賛し、自国の超極右政治家が彼の知的権威を持ち出して彼らの主張を行い、反ワクシング派のネットユーザーが彼をイタリアの大統領にしようとするミームを作ったほどである。
人文科学分野の教授として、尊敬する先輩のキャリアがそのような方向に向かうのを見るのは心配なことだ。しかし、私個人の利害はもっと大きい。私はアガンベンの研究者であり、翻訳者であり、アガンベンは私の研究に深い影響を与えた。私たちは個人的に親しいわけではないが、連絡を取り合っている。彼がCOVID懐疑論に転向したことを初めて知ったのは、彼のブログ記事の翻訳を依頼されたときだった。私は、彼の主張のベスト版を紹介しつつ、彼に自分の立場を考え直してもらおうと思い、承諾した(結局、失敗したが)。結局、私はこの恥ずべき事態に自分を巻き込んだことを後悔し、彼の偏執的なパンデミックに関する文章が、彼の他の作品に疑問を投げかけているのではないかと考えるようになった。そのような考えに陥れば陥るほど、私の見通しはますます暗くなった。
コロナウイルス規制に関するアガンベンの新しい議論は、彼を最も有名にした本に明確に根拠をおいている。アガンベンは『ホモ・サケル』の中で、西洋社会における政治権力は、ある人々を法の保護範囲に入れ、他の人々を排除するという決定に基づいており、彼らの人間的特権を剥奪し、彼が "裸の生命 "と指定する状態にまで彼らを落とし込むと論じているのだ。これは、彼が考えるような、インサイダーとアウトサイダーという単純な区分けではない。この図式では、剥き出しの生命に還元された人々は、社会から追放されるのではなく、法の形式的保護から排除されながらも、社会秩序の基礎となる人間以下の階級として、社会に含まれることになる。
アガンベンは、剥き出しの生命を生み出す主な例として、ユダヤ人やその他の犠牲者から市民権を剥奪し、強制収容所の無限の暴力にさらすナチスの「ショア」を挙げている。市民権の喪失というある意味で社会から排除されたこれらの集団は、別の意味でナチスの主要な焦点となり、社会全体が最終的解決策を遂行するために組織されたのである。
アガンベンは、ナチス・ドイツが例外的な逸脱であるどころか、現代政治のパラダイムであったと考えている。我々の法的機関の「正常」な運用は、常に、突然、何の前触れもなく、新たな強制収容所に変貌する脅威を伴っている。この爆発的な主張に対する彼の議論の一部は、ナチスの下で起こったすべてのことは、不穏なことに、ある意味では完全に合法的であったということである。ナチスはヒトラーの非常事態宣言によって自分たちの行動を正当化し、市民権や通常の法的手続きを停止させることができた。
2005年に出版されたアガンベンの著作『例外状態』(タイトルはドイツ語の「緊急事態」をより直訳したもの)では、西欧の主要国はすべて、通常の憲法上の手続きによる統治をますます放棄し、経済不況など一見ありふれた問題への対応でさえ、緊急権に頼るようになったと論じている。アガンベンの崇拝者であるヴァルター・ベンヤミン(ドイツのユダヤ系知識人で��ヒトラーの台頭を目撃し、強制収容所送りを免れるために自殺した)の言葉を借りれば、「例外状態が標準となった」のである。
米国で出版された当時は、ブッシュ政権の対テロ戦争の最暗黒時代であり、『例外状態』の��断は大げさではなく、予言的であるように思われた。アガンベンが本文中で何度も指摘しているように、ジョージ・W・ブッシュは、愛国者法のような法律と、大統領職の本質的な権限に関する主張の両方に根拠を持つ、拡張的な緊急権力を本当に主張していたのである。そして、その権力を使って、まったく新しい種類の人間、いわゆる敵性戦闘員を生み出した。敵性戦闘員は、投獄され、拷問され、司法の監視をほとんど受けないままドローンによって処刑された。場合によっては、米国市民さえも行政官の独断で暗殺された。『ホモ・サケル』が出版された90年代には、欧米列強が強制収容所を生み出すように仕組まれているというアガンベンの主張は、極端か不条理として退けられたかもしれない。しかし、アブグレイブとグアンタナモ湾を前にして、それは驚くほど説得力のあるものになった。
主権的な緊急権と使い捨ての「剥き出しの生」の生産との関係についてのこの議論は、アガンベンを国際的な学術的名声へと一挙に押し上げた。彼は、対テロ戦争についての学術的分析において、避けられない参照点となった。とりわけ、ジュディス・バトラーの著書『生のあやうさ』において、この考えを、刑務所、国境、難民キャンプといった国家暴力の他の現場にも適用している。彼の論文を批判する者でさえ、その前提の多くを受け入れていることが多い。黒人研究者のアレクサンダー・ウェヘリエは、2014年に『Habeas Viscus』で、アガンベンの焦点はあまりにもヨーロッパ中心的であり、実際には強制収容所よりも奴隷農園の方が適切なパラダイムだと主張したが、彼は超暴力による非人間化が西洋の権力構造の基礎になっているという考えには疑問を持っていない。
今、この権威ある著作は、アガンベン自身の手によって、歪んだ新しい形をとっている。この2年間、アンチヴァクサーやアンチロックダウンの抗議者たちは、自分たちの状況を20世紀半ばのヨーロッパのユダヤ人の状況と比較することによって、ホロコーストの記憶を繰り返し悪用してきた。アガンベンのパンデミックに関する最近の著作は、この議論の最も深く明瞭で学術的に進んだバージョンであり、その影響力はアガンベンの仲間たちを不穏な空気に包んでいる。
アガンベンの学術的なファンは、彼のパンデミックに関する著作を、彼を有名にした仕事から切り離したいと思っているかもしれない。しかし、アガンベン自身が、現在の状況を、彼のテーゼの根本的な確認と見なしていることは、今や明らかである。以前の国家が特定の集団を対象としていたのに対し、パンデミック対策は全人口を対象とし、(監禁のピーク時には)政治的、経済的、宗教的、さらには自分の死体を埋める権利など、あらゆる権利を奪うことで人々を「裸の生命」にまで落とし、その名の通り、生物学的生存権を奪うと彼は論じている。そして、アガンベンの視点から見て、さらに悪いのは、誰もがそれに従うことに熱心で、医療化された独裁に服従し、SS司令官アドルフ・アイヒマンのように、それに協力することが自分の道徳的義務だとさえ主張しているように見えることである。
アガンベンが、パンデミックへの協力者をアイヒマンになぞらえたエッセイの翻訳を私に依頼したとき、私は彼に、この扇情的な比較を英訳から除外するように説得した(原文のイタリア語はそのまま残っているが)。ナチスとの比較の修辞的な過剰さはさておき、私は、彼が過去20年間、西洋政治についての分析を深め、複雑にしてきたのに、パンデミック批判が『ホモ・サケル』からの彼の洞察をいかに鈍らせているかに心を痛めていたのである。
この時期の作品(その多くは私がスタンフォード大学出版局とシーガルブックスで翻訳したもの)は、インパクトは弱かったものの、私の目には、より繊細で興味深いものに映った。『ホモ・サケル』が最も極端な状況にのみ焦点を当てているのに対し、『王国と栄光』や『オプス・デイ』のような本は、経済に参加する我々の日常的な活動が、破壊的な西洋の権力構造をいかに支えているかに焦点を当てている。当初、私は彼の新しい著作の中にそのニュアンスを見出そうとした。私は、アガンベンに電子メールを送り、例えば、彼のパンデミックに関する著作に資本主義の分析が欠けている理由を尋ねた。しかし、私が翻訳を依頼された次のエッセイでは、経済学について論じていた。ただ、資本主義でさえ、今や医学という「宗教」に完全に服従してしまったと主張していた。その時点で、私は彼の考えを変えようとするのを止め、彼も私にエッセイの翻訳を依頼するのを止めたた。(この記事のために、私はアガンベンにコメントを求めた。当初、彼は私に話すと言ったが、結局、彼は返事をしなくなった)。
アガンベンの最新の著作について、私の学究的な同僚たちに尋ねるために手紙を書いたところ、政治家や公衆衛生当局の動機を信頼することを誰も彼に期待すべきではなかった、という点で全員が一致した。ウィーン大学の研究者カルロ・サルザーニは、イタリア語で初めてアガンベンの研究を発表し(そして私が彼の作品に関する複数の著者によるエッセイ集を組織するのを手伝ってくれた)、アガンベンは常に「政府や権力者が人々の生活に対する支配力を強めるために危機を武器化する方法」に関心を持っていると私に言った。しかし彼は、アガンベンがその「道徳的な怒り」によって「彼の政治哲学的分析を十字軍に変えてしまった」ことを嘆いている。哲学者のパンデミックに関する著作は、アガンベンの以前の仕事から自然に生まれたものなのか、と問われたサルザーニは、「おそらく、彼がパンデミックを見る方法は、彼の以前の分析の自然な帰結であるが、私は彼がそこから脱出できない(そしてしたくない)硬直した限定的パターンにはまったと考えている」と答えている。シカゴ大学の教授で、文芸批評や政治理論の複数の著作でアガンベンの概念を繰り返し引用してきたエリック・サントナーも、この知的柔軟性の欠如に対して同様の嘆きを呈している。「アガンベンのパンデミックに関する発言は、彼自身の仕事を一種のイデオロギーに変えてしまうものであり、彼を批評家たちのあまりにも容易な標的にしてしまうものだと私は考えています。何よりも、このことが私を悲しませるのです」と述べている。
私にとって最も不可解だったのは、生命を絶滅させることを目的としたナチス政権と、生命を救うことを目的としたパンデミック対策の明らかな違いを、アガンベンが見抜けなかったことである。しかし、公衆衛生政策の政治性は長い間危ういものであり、この専門職の実績を心から称賛することは難しい、と同僚の何人かは指摘している。アガンベンの政治学に関する本の共著者であるペンシルベニア州立大学のクレア・コールブルック教授は、アガンベンの科学と医学に対する懐疑論が、アメリカでは自動的に右翼的な立場と一致してしまうことを残念に思っているそうだ。「政府が追求することにした特定の科学の形態を疑うことは可能なはずだ」と彼女は私に語り、「特にアガンベンが指摘しているように医療制度の維持が疎かにされた場合」だと言いました。エモリー大学の大学院生で、アガンベンと黒人研究の議論を結びつけているアンドリュー・カプランも、アガンベンの過激な問いかけを評価しており、「あらゆる介入や規制に対する保守・リバタリアンの抗議が公論を独占し」、「この非常事態が見過ごされていることの意味を、他の誰もが問題提起しにくくしている」と言っています。
アガンベンの医学的権威に対する懐疑は、彼の思想の連続性の主要なポイントである。パンデミックに対する彼の姿勢に困惑し、『ホモ・サケル』を読み返したとき、『例外状態』を支配する政治的な例とは異なり、「剥き出しの生」の生成に関する彼の例のほとんどが、医学的なものであることに気づいたのである。強制収容所の犠牲者と並んで、アガンベンは、医学的実験の対象となる囚人や、無期限の生命維持装置につながれている脳死状態の患者の姿を登場させる。明らかに彼は、医学と国家権力との間のいかなる同盟にも、長い間深く懐疑的であった。「アガンベンにとって、健康が公衆衛生になった時点で、"我々は例外状態が標準��なったという罠に、どこからどう見ても引っかかっているのだ "と、サントナーは言っているようである。
公衆衛生当局に対するアガンベンの不信感は、パンデミックの深刻さについての公式説明を否定することにつながり、間違いなく偽情報を広めることになったのだ。前述のように、イタリアがCOVID感染の劇的な第一波に苦しんでいたときに書かれた、パンデミックに関する彼の最初のエッセイで、アガンベンは、新型コロナウイルスは本質的に通常のインフルエンザと変わらないと主張した。同月、ルモンド紙のインタビュアーからこの点を追及されたとき、彼はこう答えた。「私は流行病について科学者間の議論に加わるつもりはない。私の関心は、そこから生じる極めて深刻な倫理的、政治的帰結にあるのです」。それでも彼は、パンデミックの深刻さが誇張されているという考えに何度も立ち返り、2020年4月には、「流行に関するデータは一般的な方法で、科学性の基準もなく提供されている」と主張した。その後、2021年7月には、集団予防接種がレミングのように我々を大量絶滅に導くのではないかと声を大にして疑問を呈し、結局、ガンや他の病気を引き起こす可能性があると根拠のない主張をしている。
ここには明らかに健全な懐疑心以上のものが働いている。アガンベンは、医学界の権威を全く信用していないようだ。フランスの哲学者ジャン・リュック・ナンシーは、2020年2月、友人であるアガンベンの初期��パンデミックに関する著作への回答で、驚くべき事実を明らかにした。「ほぼ30年前、医師は私に心臓移植が必要だと判断した。ジョルジョは、医者たちの言うことを聞かないようにと私に忠告した数少ない一人だった。もし彼の助言に従っていたら、おそらく私はすぐに死んでいただろう」。
アガンベンがこのような悲惨な助言をするということは、人間的に見ればきっと驚くべきことなのだろう。しかし、彼の長年の読者にとっては、彼が具体的な助言をすることは、ほとんど衝撃的である。彼の作品は歴史的に批評が長く、政治的な処方箋は短い。アガンベンは、何をなすべきかについての立場を表明するときはいつでも、意図的に不明確にすることで有名である。『ホモ・サケル』や『例外状態』の読者は、緊急事態権限の乱用に対する解決策は「正常な」政治構造に戻ることだと考えているだろうが、これらの本でアガンベンは、その「正常な」構造は常にアウシュビッツに不可避的につながると論じているのである。彼はかつて、より根本的な解決策が必要だと書いた。法と権力の構造全体を解体することだ。その可能性は、具体的で実行可能な計画ではなく、文学や神学のイメージを使って喚起するのが普通だ。
しかし、サルザーニが私に指摘したように、今やアガンベンは、「緊急措置は、『ブルジョワ民主主義』を破壊し、個人の自由を縮小するための一種の意図的・計画的な計画として」抵抗するよう呼びかけているのである。2021年10月のイタリア上院での演説で、アガンベンは、立法府が行政の行動にゴム印を押すような存在に成り下がっていると訴えた。このような適切な立法手続きへの懸念は、控えめに言っても、法律や言語、そして自分自身の身体との関係を根本的に見直すよう繰り返し呼びかけてきた著者からは予想外のことである。今でこそ上院が行政に対して自己主張することを求めているが、『例外状態』では、「子供が使われなくなった物を使って遊ぶように、人類が法を使って遊ぶのは、それを正規の用途に戻すためではなく、永久に法から解放するためだ」という未来を予想し、法の破壊的構造に対して対応すべきことを示唆していたのが印象的であった。このような遊び心に満ちた法の新しい使い方が実際にどのようなものになるかは不明だが、それこそが彼の主張の一部である。私たちは文化の権力構造によって深く形成されているので、急進的な代替案は曖昧で逆説的に聞こえるに違いないが、もし脱出したいのであれば、努力しなければならない。対照的に、彼のパンデミックに関する著作では、アガンベンは出口を見つけることをあきらめているかのようである。
アガンベンの知的生活のこの章を考えてみると、彼の恥ずかしいパンデミックの叫びの中に真実があるとすれば、それは私たちが彼から聞く必要のなかったもの、そして間違いなく彼の考察が取った形でもな���ったもの、つまり、人生には単なる生存以上のものがある、ということだとわかった。この洞察は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが『あいまいさの倫理学』の中で述べている、「家も職業も過去の人生も捨てなければならないと嘆く若い病人に、誰かが『治しなさい』と言った。あとはどうでもいい』。でも、何も重要なことがないのなら、治ることに何の意味があるのでしょう」と彼女は答えた。
問題は、アガンベンが、私たちにとって最も重要なものは何かという問いに対する集合的な答えを打ち立てるための哲学的な道具を提供していないことだ。アガンベンは、特異な反マルクス主義のアナーキストではあるが、常に左翼の人間であった。しかし、彼のパンデミックの著作における右翼との明らかな重なりは、決して偶然ではない。国家によるいかなる行動も、国家医療当局によるものも含めて、常に本質的に抑圧的であるとすれば、私たちは自らの個性に立ち戻るしかない。それはまさに、右翼が既存の権力構造に挑戦する努力を事前に断ち切るために何十年も使ってきたリバータリアン的立場である。
アガンベンの場合、国家権力に対する過度の不信が、パンデミックに対する個人主義的アプローチが、パンデミックを悪化させながら企業権力を強化したことに目をつぶってしまっているのだ。いわゆる必須労働者は、他の多くの人々とともに、国家の直接的な介入によってではなく、彼らを自由にすると主張する政策によって、使い捨ての剥き出しの生に還元されたのである。アガンベンのパンデミックに関する著作から得られるかもしれない孤立した洞察が何であれ、西洋の権力構造が我々の自由そのものを犠牲にしていることに気づかない政治思想家は、大きな、実際にはほとんどすべてのことを見逃している。しかし、ここでも、アガンベンが自身の洞察に応えていないことを論証することができる。自由が罠になりうるという考え方は、私自身の仕事の中心的な考え方の一つだ。皮肉にも、この考え方は、アガンベンの『ホモ・サケル』以降の著作を批判的に読むことによって、その大部分が導き出されたものなのだ。
アガンベンはこの記事のために私と話すことを拒否したが、私たちは時折電子メールを交換し続けている。この数ヶ月、彼のブログに新しい記事はなく、パンデミックに関連する最近の記事は、イタリア上院と学生グループへの招待講演の記録である。最近、ヨーロッパの多くの国が、オミクロンの急増を抑制するための新たな規制をめぐって抗議行動に沸いているときでさえ、アガンベンは静かだった。おそらく、ついに、彼は、悲惨であまりにも深刻なパンデミックへの介入を脇に置き、彼が何度も何度もわれわれに伝えてきた、われわれの唯一の希望である子供のような想像力に再びつながりつつあるのだろう。この2年間が彼の遺産を、そして彼の人生を変えた作品をどう捻じ曲げるのか、その疑問は尽きない。
出典:Giorgio Agamben’s COVID denial: What happened to the world-famous philosopher?
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「次室士官心得」 (練習艦隊作成、昭和14年5月) 第1 艦内生活一般心得 1、次室士官は、一艦の軍規・風紀の根源たることを自覚し、青年の特徴元気と熱、純 真さを忘れずに大いにやれ。 2、士官としての品位を常に保ち、高潔なる自己の修養はもちろん、厳正なる態度・動 作に心掛け、功利打算を脱却して清廉潔白なる気品を養うことは、武人のもっとも 大切なる修業なり。 3 宏量大度、精神爽快なるべし。狭量は軍隊の一致を破り、陰欝は士気を沮喪せし む。忙しい艦務の中に伸び伸びした気分を忘れるな。細心なるはもちろん必要なる も、「コセコセ」することは禁物なり。 4 礼儀正しく、敬礼は厳格にせよ。次室士官は「自分は海軍士官の最下位で、何に も知らぬのである」と心得、譲る心がけが必要だ。親しき仲にも礼儀を守り、上の 人の顔を立てよ。よからあしかれ、とにかく「ケプガン(次室士官室の長)を立てよ。 5 旺盛なる責任観念の中に常に生きよ。これは士官としての最大要素の一つだ。命令を下し、もしくはこれを伝達す る場合はは、必ずその遂行を見届け、ここに初めてその責任を果したるものと心得べし。 5 犠牲的精神を発揮せよ、大いに縁の下の力持ちとなれ。 6 次室士官時代はこれからが本当の勉強時代、一人前になり、わがことなれりと思うは大の間違いなり。 7、次室士官時代はこれからが本当の勉強時代、一人前にをり、わがことなれりと思うは大の間違いなり。公私を誤 りたるくそ勉強は、われらの欲せざるところなれども、学術方面に技術方面に、修練しなければならぬところ多し。 いそがしく艦務に追われてこれをないがしろにするときは、悔いを釆すときあり。忙しいあいだにこそ、緊張裡に修 業はできるものなり。寸暇の利用につとむべし。 つねに研究問題を持て。平素において、つねに一個の研究問題を自分にて定め、これにたいし成果の捕捉につと め、一纏めとなりたるところにてこれを記しおき、ひとつひとつ種々の問題にたいしてかくのごとくしおき、後となり てふたたびこれにつきて研究し、気づきたることを追加訂正し、保存しおく習慣をつくれば、物事にたいする思考力 の養成となるのみならず、思わざる参考資料をつくり得るものなり。 8、少し艦務に習熟し、己が力量に自信を持つころとなると、先輩の思慮円熟をるが、かえって愚と見ゆるとき来るこ とあるべし、これすなわち、慢心の危機にのぞみたるなり。この慢心を断絶せず、増長に任じ人を侮り、自ら軽ん ずるときは、技術・学芸ともに退歩し、ついには陋劣の小人たるに終わるべし。 9、おずおずしていては、何もできない。図々しいのも不可なるも、さりとて、おずおずするのはなお見苦しい。信ずる ところをはきはき行なって行くのは、われわれにとり、もっとも必要である。 10、何事にも骨惜L誤をしてはならない。乗艦当時はさほどでもないが、少し馴れて来ると、とかく骨惜しみをするよう になる。当直にも、分隊事務にも、骨惜しみをしてはならない。いかなるときでも、進んでやる心がけか必要だ。身 体を汚すのを忌避するようでは、もうおしまいである。 11、青年士官は、バネ仕掛けのように、働かなくてはならない。上官に呼ばれたときには、すぐ駆け足で近づき、敬 礼、命を受け終わらば一礼し、ただちにその実行に着手するごとくあるべし。 12、上官の命は、気持よく笑顔をもって受け、即刻実行せよ。いかなる困難があろうと、せっかくの上陸ができなか ろうと、命を果たし、「や、御苦労」と言われたときの愉快きはなんと言えぬ。 13、不関旗(他船と行動をともにせず、または、行動をともにできないことを意味する信号旗。転じてそっぽを向くこと をいう)を揚げるな。一生懸命にやったことについて、きびしく叱られたり、平常からわだかまりがあったりして、不 関旗を揚げるというようなことが間々ありがちだが、これれは慎むべきことだ。自惚があまり強過ぎるからである。 不平を言う前に已れをかえりみよ。わが慢心増長の鼻を挫け、叱られるうちが花だ。叱って下さる人もなくなった ら、もう見放されたのだ。叱られたなら、無条件に有難いと思って間違いはない。どうでも良いと思うなら、だれが 余計な憎まれ口を叩かんやである。意見があったら、陰で「ぷつぷつ」いわずに、順序をへて意見具申をなせ。こ れが用いらるるといなとは別問題。用いられなくとも、不平をいわず、命令には絶対服従すべきことはいうまでもな し。 14、昼間は諸作業の監督巡視、事務は夜間に行なうくらいにすべし。事務のいそがしいときでも、午前午後かならず 1回は、受け特ちの部を巡視すべし。 15、「事件即決」の「モツトー」をもって、物事の処理に心がくべし。「明日やろう」と思うていると、結局、何もやらずに 沢山の仕事を残し、仕事に追われるようになる。要するに、仕事を「リード」せよ。 16、なすべき仕事をたくさん背負いながら、いそがしい、いそがしいといわず片づければ、案外、容易にできるもので ある。 17、物事は入念にやれ。委任されたる仕事を「ラフ」(ぞんぎい〕にやるのは、その人を侮辱するものである。ついに は信用を失い、人が仕事をまかせぬようになる。また、青年士官の仕事は、むずかしくて出来ないというようなも のはない。努力してやれば、たいていのことはできる。 18、「シーマンライク」(船乗りらしい)の修養を必要とす。動作は「スマート」なれ。1分1秒の差が、結果に大影響を あたえること多し。 19、海軍は、頭の鋭敏な人を要するとともに、忠実にして努力精励の人を望む。一般海軍常識に通ずることが肝要、 かかることは一朝一夕にはできぬ。常々から心がけおけ。 20 要領がよいという言葉もよく聞くが、あまりよい言葉ではない。人前で働き、陰でずべる類いの人に対する尊称 である。吾人はまして裏表があってはならぬ。つねに正々堂々とやらねばならぬ。 21、毎日各室に回覧する書類(板挟み)は、かならず目を通し捺印せよ。行動作業や当直や人事に関するもので、 直接必要なる事項が沢山ある。必要なことは手帖に抜き書きしておけ。これをよく見ておらぬために、当直勤務 を間違っていたり、大切な書類の提出期目を誤ったりすることがある。 22、手帖、「パイプ」は、つねに持っておれ。これを自分にもっとも便利よきごとく工夫するとよい。 23、上官に提出する書類は、かならず自分で直接差し出すようにせよ。上官の机の上に放置し、はなはだしいのは 従兵をして持参させるような不心得のものが間々ある。これは上官に対し失礼であるばかりでなく、場合により ては質問されるかも知れず、訂正きれるかも知れぬ。この点、疎にしてはならない。 24、提出書類は早目に完成して提出せよ。提出期口ぎりぎり一ぱい、あるいは催促さるごときは恥であり、また間違 いを生ずるもとである。艦長・副長・分隊長らの捺印を乞うとき、無断で捺印してはいけない。また、捺印を乞う 事項について質問されても、まごつかぬよう準備調査して行くことが必要。捺印を乞うべき場所を開いておくか、 または紙を挾むかして分かりやすく準備し、「艦長、何に御印をいただきます」と申し出て、もし艦長から、「捺して 行け」と言われたときは、自分で捺して、「御印をいただきました」ととどけて引き下がる。印箱の蓋を開け放しに して出ることのないように、小さいことだが注意しなければならぬ。 25、軍艦旗の揚げ降ろしには、かならず上甲板に出て拝せよ。 26、何につけても、分相応ということを忘れるな。次室士官は次室士官として、候補生は候補生として。少尉、中尉、 各分あり。 27、煙草盆の折り椅子には腰をおろすな。次室士官は腰かけである。 28、煙草盆のところで腰かけているとき、上官が来られたならば立って敬礼せよ。 29、機動艇はもちろん、汽車、電車の中、講話場において、上級者が来られたならば、ただちに立って席を譲れ。知 らぬ顔しているのはもっとも不可。 30、出入港の際は、かならず受け持ちの場所におるようにせよ。出港用意の号音に驚いて飛び出すようでは心がけ が悪い。 31、諸整列があらかじめ分かっているとき、次室士官は、下士官兵より先にその場所にあるごとくせ。 32、何か変わったことが起こったとき、あるいは何となく変わったことが起こったらしいと思われるときは、昼夜を問わ ず第1番に飛び出してみよ。 33、艦内で種々の競技が行なわれたり、または演芸会など催される際、士官はなるべく出て見ること。下士官兵が 一生懸命にやっているときに、士官は勝手に遊んでおるというようなことでは面白くない。 34、短艇に乗るときは、上の人より遅れぬように、早くから乗っておること。もし遅れて乗るような場合には、「失礼い たしました」と上の人に断わらねばならぬ。自分の用意が遅れて定期(軍艦と陸上の間を往復し、定時にそれら を発着する汽艇のこと)を待たすごときは、もってのほである。かかるときは断然やめて次ぎを待つべし。 短艇より上がる場合には、上長を先にするこというまでもなし。同じ次室士官内でも、先任者を先にせよ。 35、舷門は一艦の玄開口なり。その出入りに際しては、服装をととのえ、番兵の職権を尊重せよ。雨天でないとき、 雨衣や引回しを着たまま出入りしたり、答礼を欠くもの往々あり、注意せよ。 第2 次室の生活について 1、我をはるな。自分の主張が間遠っていると気づけば、片意地をはらす、あっさりとあらためよ。 我をはる人が1人でもおると、次室の空気は破壊される。 2、朝起きたならば、ただちに挨拶せよ。これが室内に明るき空気を漂わす第一誘因だ。3、次室 にはそれぞれ特有の気風かある。よきも悪きもある。悪い点のみ見て、憤慨してのみいては ならない。神様の集まりではないから、悪い点もあるであろう。かかるときは、確固たる信念と決心をもって自己を修め、自然に同僚を善化せよ。 4、上下の区別を、はっきりとせよ、親しき仲にも礼儀をまもれ。自分のことばかり考え、他人のことをかえりみないよ うな精神は、団体生活には禁物。自分の仕事をよくやると同時に、他人の仕事にも理解を持ち便宜をあたえよ。 5、同じ「クラス」のものが、3人も4人も同じ艦に乗り組んだならば、その中の先任者を立てよ。「クラス」のものが、次 室内で党をつくるのはよろしくない。全員の和衷協力はもっとも肝要なり。利己主義は唾棄すべし。 6、健康にはとくに留意し、若気にまかせての不摂生は禁物。健全なる身体なくては、充分をる御奉公で出来ず。忠 孝の道にそむく。 7、当直割りのことで文句をいうな。定められた通り、どしどしやれ。病気等で困っている人のためには、進んで当直を 代わってやるぺきだ。 8、食事に関して、人に不愉快な感じを抱かしむるごとき言語を慎め。たとえば、人が黙って食事をしておるとき、調理 がまずいといって割烹を呼びつけ、責めるがごときは遠慮せよ。また、会話などには、精練きれた話題を選べ。 9、次室内に、1人しかめ面をして、ふてくされているものがあると、次室全体に暗い影ができる。1人愉快で朗らかな 人がいると、次室内が明るくなる。 10、病気に羅ったときは、すぐ先任者に知らせておけ。休業になったら(病気という程度ではないが(身体の具合い が悪いので、その作業を休むこと)先任者にとどけるとともに、分隊長にとどけ、副長にお願いして、職務に関する ことは、他の次室士官に頼んでおけ。 11、次室内のごとく多数の人がいるところでは、どうしても乱雑になりがちである。重要な書類が見えなくなったとか 帽子がないとかいってわめきたてることのないように、つねに心がけなければならぬ。自分がやり放しにして、従 兵を怒鳴ったり、他人に不愉快の思いをきせることは慎むべきである。 12、暑いとき、公室内で仕事をするのに、上衣をとるくらいは差し支えないが、シャツまで脱いで裸になるごときは、 はをはだしき不作法である。 13、食事のときは、かならず軍装を着すべし。事業服のまま食卓についてはならぬ。いそがしいときには、上衣だけ でも軍装に着換えて食卓につくことになっている。 14、次室士官はいそがしいので一律にはいかないが、原則としては、一同が食卓について次室長(ケプガソ)がはじ めて箸をとるべきものである。食卓について、従兵が自分のところへ先に給仕しても、先任の人から給仕せしむる ごとく命すべきだ。古参の人が待っているのに、自分からはじめるのは礼儀でない。 15、入浴も先任順をまもること。水泳とか武技など行をったときは別だが、その他の場合は遠慮すべきものだ。 16 古参の人が、「ソファー」に寝転んでいるのを見て、それを真似してはいけない。休むときても、腰をかけたまま、 居眠りをするぐらいの程度にするがよい。 17、次室内における言語においても気品を失うな。他の人に不快な念を生ぜしむべき行為、風態をなさず、また下士 官兵考課表等に関することを軽々しく口にするな。ふしだらなことも、人秘に関することも、従兵を介して兵員室に 伝わりがちのものである。士官の威信もなにも、あったものでない。 18、趣味として碁や将棋は悪くないが、これに熱中すると、とかく、尻が重くなりやすい。趣味と公務は、はっきり区別 をつけて、けっして公務を疎にするようなことがあってはならぬ。 19、お互いに、他の立場を考えてやれ。自分のいそがしい最中に、仕事のない人が寝ているのを見ると、非難した いような感情が起こるものだが、度量を宏く持って、それぞれの人の立場に理解と同情を持つことが肝要。 20、従兵は従僕にあらず。当直、その他の教練作業にも出て、士官の食事の給仕や、身辺の世話までするのであ るからということを、よく承知しておらねばならぬ。あまり無理な用事は、言いつけないようにせよ。自分の身辺の ことは、なるべく自分で処理せよ、従兵が手助けしてくれたら、その分だけ公務に精励すべきである。釣床を釣っ てくれ、食事の給仕をしてくれるのを有難いと思うのは束の間、生徒・候補生時代のことを忘れてしまって、傲然と 従兵を呼んで、ちょっと新聞をとるにも、自分のものを探すにもこれを使うごときは、わがみずからの品位を下げゆ く所以である。また、従兵を「ボーイ」と呼ぶな。21、夜遅くまで、酒を飲んで騒いだり、大声で従兵を怒鳴ったりす ることは慎め。 21、課業時のほかに、かならず出て行くべきものに、銃器手入れ、武器手入れに、受け持ち短艇の揚げ卸しがある 第3 転勤より着任まで 1、転勤命令に接したならば、なるべく早く赴任せよ。1日も早く新勤務につくことが肝 要。退艦したならば、ただちに最短距離をもって赴任せよ、道草を食うな。 2、「立つ鳥は後を濁さず」仕事は全部片づけておき、申し継ぎは万遺漏なくやれ。申し 継ぐべき後任者の来ないときは、明細に中し継ぎを記註しおき、これを確実に託し おけ。 3、退艦の際は、適宜のとき、司令官に伺候し、艦長・副長以下各室をまわり挨拶せよ4、新たに着任すべき艦の役務、所在、主要職員の名は、前もって心得おけ。 5、退艦・着任は、普通の場合、通常礼装なり。 6、荷物は早目に発送し、着任してもなお荷物が到着せぬ、というようなことのないようにせよ。手荷物として送れば、早目に着く。 7、着任せば、ただちに荷物の整理をなせ。 8、着任すべき艦の名を記入したる名刺を、あらかじめ数枚用意しおき、着任予定日時を艦長に打電しおくがよい。 9、着任すべき艦の所在に赴任したるとき、その艦がおらぬとき、たとえば急に出動した後に赴任したようなと時は、 所在鎮守府、要港部等に出頭して、その指示を受けよ。さらにまた、その地より他に旅行するを要するときは、証 明書をもらって行け。 10、着任したならば、当直将校に名刺を差し出し、「ただいま着任いたしました」ととどけること。当(副)将校は副長に 副長は艦長のところに案内して下さるのが普通である。副長から艦長のところへつれて行かれ、それから次室 長が案内して各室に挨拶に行く。艦の都合のよいとき、乗員一同に対して、副長から紹介される。艦内配置は、 副長、あるいは艦長から申し渡される。 11、各室を一巡したならば、着物を着換えて、ひとわたり艦内を巡って艦内の大体を大体を見よ。 12、配置の申し継ぎは、実地にあたって、納得の行くごとく確実綿密に行なえ。いったん、引き継いだ以上、全責任 は自己に移るのだ。とくに人事の取り扱いは、引き継いだ当時が一番危険、ひと通り当たってみることが肝要だ。 なかんずく叙勲の計算は、なるべく早くやっておけ。 13、着任した日はもちろんのこと、1週間は、毎夜巡検に随行するごとく心得よ。乗艦早々から、「上陸をお願い致し ます」などは、もってのほかである。 14、転勤せば、なるべく早く、前艦の艦長、副長、機関長、分隊長およびそれぞれ各室に、乗艦中の御厚意を謝す る礼状を出すことを忘れてはならぬ。 第4 乗艦後ただちになすべき事項 1、ただちに部署・内規を借り受け、熟読して速やかに艦内一般に通暁せよ。 2、総員起床前より上甲板に出で、他の副直将校の艦務遂行ぶりを見学せよ。2、3日、当直ぶりを注意して見てお れば、その艦の当直勤務の大要は分かる。しかして、練習艦隊にて修得せるところを基礎とし、その艦にもっとも 適合せる当直をなすことができる。 3、艦内旅行は、なるぺく速やかに、寸暇を利用して乗艦後すぐになせ。 4、乗艦して1ヵ月が経過したならば、隅々まで知悉し、分離員はもちろん、他分隊といえども、主たる下士官の氏名 は、承知するごとく心がけよ。 第5上陸について 1、上陸は控え目にせよ。吾人が艦内にあるということが、職責を尽くすということの大部である。職務を捨ておいて 上陸することは、もってのほかである。状況により、一律にはいえぬが、分隊長がおられぬときは、分隊士が残る ようにせよ。 2、上陸するのがあたかも権利であるかのように、「副長、上陸します」というべきでない。「副長、上陸をお願いしま す」といえ。 3、若いときには、上陸するよりも艦内の方が面白い、というようにならなけれぱならない。また、上陸するときは、自 分の仕事を終わって、さっぱりした気分で、のびのびと大いに浩然の気を養え。 4、上陸は、別科後よりお願いし、最終定期にて帰艦するようにせよ。出港前夜は、かならず艦内にて寝るようにせよ。上陸する場合には、副長と己れの従属する士官の許可をえ、同室者に願い、当直将校にお願いして行くのが慣例 である。この場合、「上陸をお願い致します」というのが普通、同僚に対しては単に、「願います」という。この「願い ます」という言葉は、簡にして意味深長、なかなか重宝なものである。すなわち、この場合には、上陸を願うのと、 上陸後の留守中のことをよろしく頼む、という両様の意味をふくんでいる。用意のよい人は、さらに関係ある准士 ��官、あるいは分隊先任下士官に知らせて出て行く。帰艦したならば、出る時と同様にとどければよい。たたし、夜 遅く帰艦して、上官の寝てしまった後は、この限りでない。士宮室にある札を裏返すようになっている艦では、か ならず自分でこれを返すことを忘れぬごとく注意せよ。 6、病気等で休んでいたとき、癒ったからとてすぐ上陸するごときは、分別がたらぬ。休んだ後なら、仕事もたまってお ろう、遠慮ということが大切だ。 7、休暇から帰ったとき、帰艦の旨をとどけたら、第1に留守中の自分の仕事および艦内の状況にひと通り目を通せ。 着物を着換え、受け持ちの場所を回って見て、不左中の書類をひと通り目を通す心がけが必要である。 8、休暇をいただくとき、その前後に日曜、または公暇日をつけて、規定時日以上に休暇するというがごときは、もっと も青年士官らしくない。 9、職務の前には、上陸も休暇もない、というのが士官たる態度である。転勤した場合、前所轄から休暇の移牒があ ることがあるけれども、新所轄の職務の関係ではいただけないことが多い。副長から、移牒休暇で帰れといわる れば、いただいてもよいけれども、自分から申し出るごときことは、けっしてあってはならぬ。 第6部下指導について 1、つねに至誠を基礎とし、熱と意気をもって国家保護の大任を担当する干城の築造者たることを心がけよ。「功は部下に譲り、部下の過ちは 自から負うは、西郷南洲翁が教えしところなり。「先憂後楽」とは味わうべき言であって、部下統御の機微なる心理も、かかるところにある統御者たるわれわれ士官は、つねにこの心がけが必要である。石炭 積みなど苦しい作業のときには、士官は最後に帰るようつとめ、寒い ときに海水を浴びながら作業したる者には、風呂や衛生酒を世話してやれ。部下につとめて接近して下情に通せよ。しかし、部下を狎れしむるは、もっとも不可、注意すべきである。 2、何事も「ショート・サーキット」(短絡という英語から転じて、経由すべきところを省略して、命令を下し、または報告する海軍用語)を慎め。い ちじは便利の上うたが、非常なる悪結果を齋らす。たとえば、分隊士を抜きにして分隊長が、直接先任下士官に命じたとしたら、分隊士たる者いかなる感を生ずるか。これは一例だか、かならず順序をへて命 を受け、または下すということが必要なり。 3、「率先躬行」部下を率い、次室士官は部下の模範たることが必要だ。物事をなすにもつねに衆に先じ、難事と見ば、 真っ先にこれに当たり、けっして人後におくれざる覚悟あるべし。また、自分ができないからといって、部下に強制 しないのはよくない。部下の機嫌をとるがごときは絶対禁物である。 4、兵員の悪きところあらば、その場で遠慮なく叱咤せよ。温情主義は絶対禁物。しかし、叱責するときは、場所と相 手とを見でなせ。正直小心の若い兵員を厳酷な言葉で叱りつけるとか、また、下士官を兵員の前で叱責するなど は、百害あって一利なしと知れ。 5、世の中は、なんでも「ワソグランス」(一目見)で評価してはならぬ。だれにも長所あり、短所あり。長所さえ見てい れば、どんな人でも悪く見えない。また、これだけの雅量が必要である。 6、部下を持っても、そうである。まずその箆所を探すに先だち、長所を見出すにつとめることが肝要。賞を先にし罰を 後にするは、古来の名訓なり。分隊事務は、部下統御の根底である。叙勲、善行章(海軍の兵籍に人ってから3 年間、品行方正・勤務精励な兵にたいし善行章一線があたえられ、その後、3年ごとに同様一線あてをくわえる。 勇敢な行為などがあった場合、特別善行章が付与される)等はとくに慎重にやれ。また、一身上のことまで、立ち 入って面倒を見てやるように心がけよ。分隊員の入院患者は、ときどき見舞ってやるという親切が必要だ。 第7 その他一般 1、服装は端正なれ。汚れ作業を行なう場合のほかは、とくに清潔端正なるものを用いよ。帽子がまがっていたり、「 カラー」が不揃いのまま飛び出していたり、靴下がだらりと下がっていたり、いちじるしく雛の寄った服を着けている と、いかにもだらしなく見える。その人の人格を疑いたくなる。 2、靴下をつけずに靴を穿いたり、「ズボン」の後の「ビジヨウ」がつけてなかったり、あるいはだらりとしていたり、下着 をつけず素肌に夏服・事業服をつけたりするな。 3 平服をつくるもの一概に非難すべきではいが、必要なる制服が充分に整っておらぬのに平服などつくるのは本末 顛倒である。制服その他、御奉公に必要をる服装属具等なにひとつ欠くるところなく揃えてなお余裕あらば、平服 をつくるという程度にせよ。平服をつくるならば、落ちついて上品な上等のものを選べ。無闇に派手な、流行の尖 端でもいきそうな服を着ている青年士官を見ると、歯の浮くような気がする。「ネクタイ」や帽子、靴、「ワイシャツ」 「カラー」「カフス」の釦まで、各人の好みによることではあろうが、まず上品で調和を得るをもって第1とすべきであ る。 4、靴下もあまりケパケパしいのは下品である。服と靴とに調和する色合いのものを用いよ。縞の靴下等は、なるべく はかぬこと、事業服に縞の靴下等はもってのほかだ。 5、いちばん目立って見えるのは、「カラー」と「カフス」の汚れである、注意せよ。また、「カフス」の下から、シャツの 出ているのもおかしいものである。 6、羅針艦橋の右舷階梯は、副長以上の使用さるべきものなり。艦橋に上がったら、敬礼を忘れるな。 7 陸上において飲食するときは、かならず一流のところに入れ。どこの軍港においても、士官の出入りするところと、 下士官兵の出入りするところは確然たる区別がある。もし、2流以下のところに出入りして飲食、または酒の上で 上官たるの態度を失し、体面を汚すようなことがあったら、一般士官の体面に関する重大をることだ。 8、クラスのためには、全力を尽くし一致団結せよ。 9、汽車は2等(戦前には1、2、3等の区分があった)に乗れ。金銭に対しては恬淡なれ。節約はもちろんだが、吝薔 に陥らぬよう注意肝心。 10、常に慎独を「モットー」として、進みたきものである。是非弁別の判断に迷い、自分を忘却せるかのごとき振舞い は、吾人の組せざるところである。
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