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ロイヤルナンハウス宮田店/長野県宮田村【ランチ】コスパ最高のインドネパール料理店
ロイヤルナンハウス宮田店とは ロイヤルナンハウス宮田店は、長野県上伊那郡宮田村(ながのけんかみいなぐんみやだむら)にあるインド、ネパール料理店だ。 単品メニューも豊富にご用意しておりますが、カレーはセットでご注文いただくとお得に♪豊富な種類のスパイスを使用して煮込んだインドカレーや色々な種類のナンが楽しめる多彩なセットをご用意しておりますのでシーンにあわせてご利用ください。 ロイヤルナンハウス 宮田店 – インド・ネパール料理 から引用 ロイヤルナンハウス宮田店 長野県上伊那郡宮田村103-7 050-5493-2814 (more…) “”
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1.電力 石川県で、約33,000戸の停電が発生。余震の影響により新たな停電箇所も発生。現在の停電は、送電線や変電所によるものはなく、配電設備の損傷によるもの。 北陸電力では、災害対策本部を設置し、3600人体制で、情報収集及び復旧に向けた作業を実施しており、特に、中能登町以北において、電源車11台(七尾市2台、輪島市1台、珠洲市1台、中能登町7台)が稼働に備えつつ、3日早朝より人員を約290人まで増員し巡視復旧作業に着手(停電が起きていない地域でも設備被害が生じており、公衆災害を防ぐための対応を管内各営業エリアで行っている状況)。なお、七尾市、輪島市、珠洲市の電源車は地震前から配置されていたもの。2日に集中して巡視を行った七尾市と志賀町は巡視が完了し、復旧作業に着手し停電解消が始まっているが、道路の損傷が激しく個々の作業に時間を要している。その後に発生した余震を踏まえた追加の巡視も実施。作業加速化のため、北陸電力からの応援要請に基づき、関西電力、中部電力から計115人電源車10台を派遣中。 北陸電力管内の七尾大田火力発電所(石炭、1号50万kW・2号70万kW)では、地震により稼働中であった1号・2号が停止。富山新港発電所(石炭、25万kW×2)の1号・2号の出力が50万kWから30万kWへ低下しているが、30万kWの運転を継続中。 新潟県内に立地する糸魚川発電所(石炭、14.9万kW)が、地震の影響で1月1日22:10に停止。 ○東北電力管内 停電解消済 ○北陸電力管内 石川県:約33,000戸(輪島市約9,400戸、珠洲市約8,000戸 、能登町約6,200戸、穴水町約5,400戸、七尾市約3,100戸 他) 2.ガス 都市ガスについては、INPEX直江津LNG基地において、安全確認作業のために送ガスを停止していたが、安全確認作業を完了し送ガスを再開済。また、日本海ガスにおいて、27件の供給支障が発生していたが、液状化影響による導管被害(25件)については、復旧完了。整圧器被害等による2件については、仮設配管設置等により、本日中の供給再開見込み。金沢エナジーにおいて、石川県金沢市内で、最大438戸の供給支障。本日、導管中の水抜き、復旧を行う予定。 ガス小売事業(簡易ガス)の被害状況は以下のとおり。 ・同県内の簡易ガス団地4か所において、供給停止中だが、立ち入り規制中のため、今後の復旧対応について確認中。 ・その他、金沢市1か所(42戸)、内灘町1か所(54戸)の供給支障あり。 ・石川県の津幡町の団地(245戸)については復旧、仮説供給により供給再開済み。 熱供給事業については、現時点で、供給支障はなく、被害情報もなし。 LPガスについて、福井県あわら市で、1か所埋設供給配管が損傷しガスが漏えいしたが、処置を行い漏えいは止まっている。 3.高圧ガス・火薬類 高圧法及び石災法に係る設備については以下のとおり。 ・1月1日(月曜日)、新潟県上越市内の事業所にて、火災が発生し速やかに鎮火済み。人的被害なし。 ・1月1日(月曜日)、富山県富山市内の事業所にて、アンモニアが漏洩し対処済み。人的被害、場外への影響なし。 ・1月2日(火曜日)、石川県七尾市内の事業所にて、プロパン、ブタンが漏洩し対処済み。人的被害、場外への影響なし。 ・1月1日(月曜日)、新潟県新潟市内の事業所にて、原油が漏洩。漏洩はすでに停止。人的被害、場外への影響なし。 ・1月1日(月曜日)、新潟県聖籠町内の事業所にて、原油が漏洩。漏洩はすでに停止。人的被害、場外への影響なし。 4.製油所・油槽所、SS 油槽所については陸上出荷を再開済み。出荷再開の目処が立っていない油槽所1カ所について、近隣油槽所からの応援配送を実施。 SSについて、現時点で確認されている情報は以下の通り。 (新潟県、富山県、石川県、福井県 ※震度5強以上の地域) ◆営業可能(給油・配送可能): 349件(うち石川県38件) ◆営業停止(給油・配送不可): 68件(うち石川県17件) ◆通常営業時間外のため状況確認中: 275件(うち石川県44件) ※営業停止には、定休日・避難指示によるものを含む。 5.物資 毛布等の物資供給について、関係事業者・業界団体との連絡体制を構築し、準備ができ次第、現地に向け順次輸送を開始しており、プッシュ型支援を実施中。 物資例:毛布、トイレットペーパー、携帯・簡易・仮設トイレ、消毒液、段ボールベッド、石油ストーブ、灯油 他 6.工業用水 確認中ながら、現時点で被害報告なし。 7.その他 経済産業省では、1月1日(月曜日)16:10に災害連絡室を設置。 1月1日(月曜日)23:22に経済産業省非常災害対策本部を設置。 1月2日(火曜日)9:58に第1回経済産業省非常災害対策本部会議を実施。 1月2日(火曜日)早朝より、中部近畿産業保安監督部北陸産業保安監督署の職員1名及び中部経済産業局電力・ガス事業北陸支局の職員1名を北陸電力対策本部に派遣済み。また、中部経済産業局電力・ガス事業北陸支局の職員2名を石川県庁へ派遣済み。 1月2日(火曜日)夕方に、経済産業省より職員3名を石川県庁へ派遣。さらに3日(水曜日)より12名を石川県庁及び県内被災自治体へ追加派遣。 担当 大臣官房広報室長 加賀 担当:栗原、山岡、小西、佐々木、隈江 電話:03-3501-1511(���線 2276) メール:bzl-kokunai-houdou★meti.go.jp ※[★]を[@]に置き換えてください。
令和6年能登半島地震に伴う被害について(1月3日(水曜日)15:00時点) (METI/経済産業省)
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2024/10/21 8:00:15現在のニュース
車いすごみ拾いで不便体感 豊島で「スポGOMI」30人参加 「バリアフリー学べた」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/21 7:59:12) 浪曲の魅力・心構え伝授 浅草の商店主らに 玉川奈々福さん(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/21 7:59:12) 都電荒川線50歳記念号をイベントで披露 きょうから運行(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/21 7:59:12) 川崎で19日から都市緑化フェア 3つのコア会場に独自色 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:54:06) 島巡り琵琶湖に歴史の息吹 奇景・国宝…船ツアー満席 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:54:06) 身元明かす「精子ドナー」始動 出自知る権利、民間先行 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:54:06) 「夫婦別姓、政府は不誠実」 国連審査で当事者団体訴え - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:54:06) 心ひかれる「おにぎり専門店」 若者や外国人客つかむ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:54:06) 令和なコトバ「もうええでしょう」 道理抑えて無理通す - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:54:06) 大阪名物「ギラギラのドン・キホーテ」や! 仕掛け人は異色支社長 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:54:06) 議論すべきは「同姓か別姓か」ではなく「強制か選択か」なのだ…同姓を強制することの理不尽さが真の問題:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/10/21 7:48:25) 緩和ケア医が甲状腺がんに 声なき患者のつらさに対応を コラム「向き合う」 永寿総合病院・緩和ケア医、広橋猛さん① - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 大塚さんのイラスト 文章が一変、生き生きと こころの健康学 認知行動療法研修開発センター 大野裕 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 「京都小説」新進作家が続々登場、進取の気性に富む ホビー人国記 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) スポーツ教室、競技一筋じゃない 子どもの身体能力磨く - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 今週のクロスワード 応仁の乱における西軍の将 NIKKEI The STYLE - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) オーバーツーリズムのいなし方 旅人としての品位とは NIKKEI The STYLE 「文化時評」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 居酒屋「博多灯」 穴子の炙り、歯応えと脂のうまみ楽しむ 九州味めぐり - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 大学入試、筆記試験にひそむ偏見 山口慎太郎氏 多様性 私の視点(東京大学教授) - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 筋ト��で仕事のパフォーマンス向上 睡眠の質も改善 (東京医科歯科大学臨床教授、医師 加藤浩晃さん) - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 外国人、消防団の新戦力 防災や避難所での通訳に期待 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 本や雑誌をすっきり整理 読書好きのための徹底収納術 生活上手 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 侍タイムスリッパー、単館→230館 監督語る快挙の裏側 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 甲府市など、日本百名山「金峰山」の御嶽古道を復活 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 長野県千曲市、リクルートと連携協定 企業の採用支援で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 長野県飯田市長選挙、佐藤健氏が再選 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:48:12) 「部屋の片付けに嫌気がさして」畳に火をつけ自宅と離れを全焼させたか、無職男を逮捕…山梨県警([B!]読売新聞, 2024/10/21 7:42:16) 長野市ハブにインバウンドの回遊目指す 信州大学など - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:42:12) 観光と住民摩擦レスに 鎌倉流シェアサイクルで過密解消 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:42:12) ロシア批判の中、30カ国以上が集結 プーチン氏が狙う新世界秩序(朝日新聞, 2024/10/21 7:38:53) 「黄金のインドネシア」へ経済成長 新大統領が演説、民主主義後退も(朝日新聞, 2024/10/21 7:38:53) 縄文時代の遺跡巡ろう 調布など5市でスタンプラリー 出土品展示の資料館も(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/21 7:36:43) 西武HD、さらば含み益経営 旧赤坂プリンスホテルから狙う高回転 鷲田智憲 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:36:38) 【新幹線 還暦の挑戦】JR東海、技術革新へ「上級」専門職 人事制度19年ぶり刷新 新幹線 還暦の挑戦 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:36:38) 外食22社、6~8月純利益20%増 値上げと効率化 奏功 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:30:44) あんパン、きっかけは酒饅頭 今はスポーツ選手の補食に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/21 7:30:44)
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2024年9月21日
スポーツカー「RX―7」と四半世紀 79歳女性が免許返納を決意 愛車は意外な「第二の人生」へ 長崎(長崎新聞)2024年9月21日
身長148センチの小柄な女性が運転席から降りてくると驚きの視線が集まるという。長崎市の主婦、西本尚子さん(79)が四半世紀乗り続ける愛車はマツダのスポーツカー「RX-7」(セブン)。マニュアル車を難なく操る西本さんは、12月に迎える80歳の誕生日を機に免許を返納する予定だ。残り3カ月。“友だち”と過ごす最後の時をかみしめ、きょうもハンドルを握る。
米映画「ワイルドスピード」に登場する���ど世界的に知られ、数あるスポーツカーの中でも人気の高いセブン。マツダによると、2002年に製造を終えており、「今は手に入れることが難しい車。しかも、女性オーナーは全国的にも珍しい」と希少性を認める。
「頭文字(イニシャル)D」がきっかけ
車を好きになったきっかけは「思い出せない」が、好きな理由は「スピード感」だと即答。歴代の愛車との思い出を振り返る西本さんの言葉は躍った。
初めて車を買ったのは21歳の時。ボーナス一括払いで、トヨタの「パブリカ」を手に入れた。当時はまだ女性ドライバーが少なかったといい、「車ですれ違うと、通行人が振り返って見ていた。『女が運転してる』って驚いている顔をバックミラーで見るのが楽しみで」。23歳で結婚。子どもが生まれ、しばらくはトヨタのファミリーカー「コロナ」「コロナクーペ」を乗り継いだ。
24年前、自宅で次男とテレビを見ていた時、カーレースをテーマにしたアニメ「頭文字(イニシャル)D」が流れ、そこにセブンが登場。「(直感で)これだ、と」。次男にマツダの車だと教えてもらい、そのまま店へ向かい、銀色に輝く1台を迷わず選んだ。
若者が「いいね」
高速道路でスピードを出すと「道路と車と自分の体が一体化するような感じ」。それがたまらなく気持ちいいと魅力を語る。ただ、5匹のネコの世話や庭いじり、コーラスや朗読の教室にも通い、スマホでの脳トレも日課。毎日忙しく、愛車で走り回る時間はない、と笑う。普段の目的地は、近所のスーパーやドラッグストアがもっぱらだ。
街中を珍しい車が走れば、車好きがほっとくわけもない。愛車をほめられることが何よりうれしく、セブンを通じた日々の出会いに楽しみを感じている。最近、自宅近くの道路で信号待ちをしていると、隣車線に2台の大型バイクが並んだ。若い2人は車体をじっくりと眺め、運転席に向かって親指を立て「いいね」のポーズ。「私もつられて、つい親指立てちゃって」
「路線バスに乗ったことがなくて」
セブンと最後の思い出をつくるため、この春、次男と一緒に県内の桜の名所を巡った。夏には入道雲を目指し、海へ、山へ。「私が好きなのは後ろ姿。羽根(リアウイング)下の丸みが何とも言えないでしょ」。スマホのカメラで愛車のかっこいい姿を撮影。たくさんの写真を見返し、生活を支えてくれた愛車に感謝しつつ、「やり残したことはない」と穏やかに言った。
運転操作への不安はないが「(事故など)何もないうちに」と80歳での免許返納を決断した。この先に待つ新たな日常。「実は路線バスに乗ったことがなくて」と明かし、頭の中では「車のない生活」のシミュレーションも始めた。「駐車場がなくて諦めていた店も結構あって。そんな場所に行くのが楽しみ。友だちと一緒に行こうって、もう約束してるんですよ」
愛車を受け継ぐ人募ると…「最高の結末」
西本さんが大切にしてきた愛車は、製造元のマツダに受け継がれ、「広報車」として“第二の人生”を歩んでいくことになりそうだ。専門メカニックがメンテナンスを担い、「この先もずっと元気に走り続ける」(同社)。西本さんは「これからもたくさんの人に見てもらえる。最高の結末」と喜んだ。現在、買い取りに向け、協議が進んでいる。
���日、地元テレビのニュース番組で西本さんの愛車が特集され、車を受け継いでくれる人を募集したところ、メールが殺到。約400通の中の一通がマツダから届いた「思い」だった。「(もし譲ってもらえれば)『クルマの持つ力でいつまでも元気にいきいきと生きる』という物語で、多くの方々に元気を与えられると思っています」
同社国内商品マーケティング部商品広報チームシニアエキスパートの田中秀昭さんによると、広報車は撮影用にマスコミに貸し出したり、イベントの際に走らせたりする。5年前に当時90歳の女性オーナーから譲り受けたスポーツカー「初代ロードスター」も広報車として活躍しているという。田中さんは「それぞれの車の歴史も紹介しながら車の楽しさを伝えていきたい」と西本さんの思いも大切に受け止めている。
J1にみるお金と順位 2023年王者の神戸は人件費2位(日本経済新聞 9月22日 編集委員 田中克二 スポーツよもやま話)2024年9月21日に追記
お金をかけないと勝てないけれど、お金をつぎこんでも勝てるとは限らないのがスポーツの難しさであり、面白さだ。経営情報を公開しているJリーグのデータはその現実を教えてくれる。7月末に出そろった2023年度の数字をもとにお金の話で昨季のJ1を振り返った。
チームの強化費に直結するのはトップチームの人件費だ。23年度、この額は浦和が38億6000万円で最多だった。浦和は23年春にあったアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)決勝に勝ち、アジア制覇という偉業を遂げた一方、昨季のJ1は4位だった。
この人件費、浦和が最多になったのは16年以来、7年ぶりのことだった。17年から22年まで6年連続で人件費トップだったのは神戸だ。その6シーズン、リーグ制覇は遠かった神戸なのに、トップチーム人件費が2番手に後退した昨季、初めてJ1王者に輝いた。
といっても神戸のトップチーム人件費は38億円。浦和との差は6000万円だけ、ほぼ同額だ。浦和は23年秋からのACL1次リーグに向けて、より選手層を厚くする必要があった。そこを加味すると23年も事実上、神戸がJ1で勝つために最も強化費を投じたとの見方もできる。これまでの努力がようやく実った末の初戴冠と表現できそうだ。
お金の面でJ1をリードする両クラブの22年からの変化は対照的だ。22年度のトップチーム人件費は神戸の48億3900万円に対し、浦和は28億5300万円。23年、浦和は10億円増やしてACL王者になった一方、神戸は10億円減らしてJ1を制した。神戸は18年から在籍したスペインの名手、イニエスタが23年夏に退団したことも関係したとみられる。
23年のデータをもとに、縦軸に順位(1位が一番上)、横軸にトップチーム人件費の順位(最多チームが一番右)をとってグラフをつくった。
23年、確かな成果を上げたのは2位横浜Mと3位広島だ。横浜Mのトップチーム人件費は4番手の30億4200万円ながら、23年秋開幕のACLでは1次リーグを突破、24年春の決勝まで進んだ。広島の人件費は10番手の24億3500万円なのに、昨季のJ1では3位だ。
福岡と新潟の健闘も目を引く。トップチーム人件費の順位から実際��順位を引いた値を比べてみると、7位福岡(トップチーム人件費15位)、10位新潟(トップチーム人件費18位)の2チームが最大の「8」だった。
福岡のトップチーム人件費は16億1100万円だ。J1平均の23億4700万円を大きく下回りながら、昨季はルヴァンカップを制覇、クラブ初のタイトルも手にした。
新潟のトップチーム人件費はJ1勢で唯一10億円を下回る8億8900万円。J2平均の8億600万円に近い数字だ。J2でも10億円を超えたクラブが5つあった中、この資金力で存在感のある戦いをしたことに驚かされる。パスをしっかりつなぐ個性的なスタイルを確立している新潟だからこそ、できたことなのだろう。
「(トップチーム人件費の順位)-(実際の順位)」の値は広島、福岡、新潟の3チーム以外の15チームは「4」以下におさまった。Jリーグは海外のリーグに比べて、上位と下位の力量差が小さいと指摘される。それでも人件費で後れをとったクラブが優勝争いに加わることは容易でない、という現実は数字が物語っている。
投入した資金が順位につながらなかったチームはどこか。23年度、苦戦が目立ったのは16位G大阪(トップチーム人件費6位)と17位柏(トップチーム人件費7位)だ。両チームともJ2降格枠が1つ(18位横浜FC)だったことに救われた形となった。
収入面を見てみよう。23年度の売上高が50億円以上あったのはJ2の清水を含めて9クラブで、浦和がクラブ史上初めて100億円の大台に乗せた。J1の優勝は1度だけながら(ACLは優勝3度)、他クラブにない確かなものを築き、J1随一のビッグクラブへの道を歩んでいるといえそうだ。
今季のJ1は22日に第31節を終え、残り7節となる(未消化試合のあるチームは残り8〜9試合)。売上高50億円以上のクラブの中から優勝チームが出るのが順当なはずだし、16年以降は表にあるクラブのどこかがJ1を制してきたが、今年はそうでもなさそうな様相だ。
現時点で神戸、鹿島、G大阪以外の50億円超クラブは首位から遠い。J1初参戦の町田(J2にいた23年度は売上高34億900万円)や、23年度売上高41億9800万円の広島が今季の優勝争いの主役を演じてきた。
町田は23年、トップチーム人件費18億600万円でJ2を制した。果敢に補強を進めるクラブの24年の人件費は「23年の2倍には届かない見通し」(原靖フットボールダイレクター)という。開幕前に掲げた「5位以内」という目標に見合う資金を投じたら期待以上の成果が出ている、というのが現状のようだ。
9月に出版された町田の黒田剛監督の著書「勝つ、ではなく、負けない。」には、クラブの社長であり、親会社のサイバーエージェント社長でもある藤田晋氏と黒田監督の対談も掲載されている。そこで藤田氏はグローバリゼーションの必要性を強調し、以下のように述べている。
「この選手がJリーグにいるから見たいと思われる外国人選手を多く連れてきて活躍させないと世界に売れないです」「世界中から見られるリーグにしていかないといけない」
Jリーグは成長戦略の一環として世界に通じるクラブを生むことを目標に掲げている。そんな心意気を持つクラブの台頭がJ1に良き競争をもたらすことを期待したい。
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大国正博 奈良県議会議員🦌(奈良市・山辺郡選挙区) @ookunimasahiro 2024/07/04(木) 16:25:38 一般国道169号 奈良県下北山村上池原の崩土災害について、別線トンネルルートによる早期復旧完了の要望書を斉藤鉄夫国土交通大臣に提出致しました。参加者は、上北山村山室村長 、川上村長栗山村長、下北山村南村長と浮島ともこ衆議院議員、鰐淵洋子衆議院議員、自民党田野瀬大道衆議院議員。
https://x.com/ookunimasahiro/status/1808764086194483407
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〜 旅人の記録 〜
能登半島地震から約半年。
石川県輪島市大沢町
「県道38号線〜間垣の里」
令和6年能登半島地震から約半年。
未だ避難生活を送っておられる方々へ、ご自愛頂きますようお見舞い申し上げます。
どうか、頑張りすぎて疲れませんように。
つい先日(6/3)も石川県地方で震度5強の地震がありました。
どうか能登地方に、優しい季節が訪れますように。
能登半島の美しいビジョン。
断崖を走る輪島市の県道38号線。
断崖だからこその絶景のルート。
能登の里山里海独特の文化、間垣の集落へ。
古から受け継がれてきた美しい風土。
この素晴らしい景色がまた戻りますように。
そして、ずっと残っていて欲しいと願います。
〜 旅人の記録 〜
#令和6年能登半島地震から半年 #お見舞い申し上げます #能登地方に優しい季節が訪れますように #石川県 #輪島市 #大沢町 #石川県道38号線 #美しい道 #美しい集落 #想い出の地 #絶景の里山 #爽やかなルート #またこの美しい景色が戻りますように #心に残る良い旅を #旅人の記録
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2023.12.4mon_kanagawa
7時15分、起床。そこまで寒くはなかったけど、ほんの少し、本当にほんの少しだけ風邪っぽい気がしたので、ヒートテック的なタイツとインナーシャツを着て、上着も自分が持っているもので一番防寒性の高いジャケットを選んだ。 オムレツとトーストを食べて、お昼ご飯用のお弁当を作って、自転車で職場へ向かった。 江ノ電腰越駅前を抜けて、小動(こゆるぎ)の信号を左折して134号線に合流するときにいつも思うのが、「やっぱこの辺はいいところだな」と「俺はいつまでここにいるのだろう」の二つ。波があるのか、海はサーファーが多めだった。
8時��、職場に到着。朝起きた時のほんの少しだけの風邪っぽさが気になったので、コンビニに行っておまじない程度にキレートレモンを買って飲んだ。お店に戻り、10時ごろまでラジオを流しながら片付けをしたり、材料の注文をしたりした。
一昨日は下北沢ボーナストラックのイベント出店、昨日は東京に住む友人たちが来店したりと、普段よりも忙しく楽しい週末だった。それと同時に(これは「陰キャある��る」だと思うのだが)、人と多く会って普段より会話をした次の日とかに「何か失礼はなかったかな」とか「あの一言はいらなかったな」とかの1人反省会が頭の中でずっと繰り広げられていた。 その流れで、先日あったある出来事をふと思い出した。
ある人との会話の中で、その人が「東京の人って打算的じゃん」と言ったのだが、俺はそれを聞いて自分でも少し驚くくらい腹が立った。その場では「まぁそうですね」だとか言って流したのだが、もうこの人と関わるのはなるべく避けようと思ったくらいだ。なぜ自分はそんなに腹が立ったのか、それについてパソコンで材料を注文しながら考えていた。
今年はもしかしたら人生至上最高に多くの人と出会った年かもしれない。HQへの来客も多かったし、イベント出店や展示も多く行った。その影響からか、自分の中の偏見とか思い込みとかについて何度も考えさせられる瞬間があった。 例えば何かを製作する際に、意識していないようでもなぜか同じ色を選んだり、または特定の色や形を避けたりしていたりする。「黒はシュッとしてる」とか「ピンクだとちょっとあれじゃね?」とか「女性には大きすぎる」といった些細なことまで、今までは普通に思っていたことに違和感を覚えるようになってきたのだ。
今年出会った人の多くは東京在住、つまり「東京の人」だったが、当たり前だけどそれぞれ異なる個性を持っていて、異なる仕事をしていて、だけど共感できる価値観を持っていて、会う人会う人みんな誠実でいい人だった。もちろん、ほとんどの人が友だちの知り合いとか、一定の繋がりの中での話なので、前提条件を共有できているという土台があったとは思うが、それでも「みんなちがってみんないい」だった。
多分、少し前だったら「東京の人って打算的じゃん」と言われてもそこまで腹は立たなかったかもしれない。 東京、ひいては特定の何かに対する嫉妬や偏見は間違いなく俺の中に今でもあると思うし、神奈川県民としてなんとなくそう言いたくなる気持ちもわかる。だが、東京在住の友だちが増えた今、もう「東京の人って〇〇じゃん」系の発言がスルーできなくなったのだと思う。
わかるよ、東京行きたいよね。��っこいいお店も美術館もなんでもあるし、イベントや展示も毎日やってる。みんな涼しい顔してるように見える、わかるわかる、だけどみんな普通に頑張ってるんだよ。キレイなところしか見えてないよ。大きな主語で物事を語るのはやめよう、目の前の個人を見よう…、そんなことを考えていた矢先の「東京の人って~」発言だったので、俺は腹が立ってしまったのだと思う。友だちを悪く言われているようで、腹が立たない方がおかしいでしょう。
自分ごとにならないと正面から向き合えないし、人やモノをフラットに見ることもできない、そんな器の小さい俺でも己の偏見や決めつけと戦う覚悟ならできる。そう思わせてくれた身の回りの人たち(「打算的じゃん」発言をした彼を含め)みんなに感謝したい。
「サボらずちゃんと頑張ろう…解像度アゲていこう…マジ感謝…」などとつぶやきながら昼頃にパソコン作業を終えた。前日とは打って変わって来客の気配もない静かな月曜日だ。 先週の間にオーダー系の仕事は全て終わらせていて、特に急ぎの仕事はなかったので、昼過ぎから夕方までは今週末のライブの物販用のグッズを作ったり、今月誕生日の友人のプレゼントを用意したり、ほとんど仕事らしいことはせずに過ごした。 明日の朝に鎌倉駅近くで用事ができたので、今日は職場に泊まることにした。
21時、朝にキレートレモンを買ったコンビニで夕飯を買い、ついでに少し散歩をした。 冬の夜の段葛(だんかずら)は人も少なく、歩いていて気持ちがいい。「新そば」の看板を掲げているお店があったり、そこら中で道路工事をしていたりと、師走感が少しづつ町を覆い始めている。イヤホンで有富さんの新曲「ロンリーソング」を聴きながら八幡宮まで行き、Uターンして小町通りに戻った。
22時、職場に戻り、夕飯を食べ、友人の誕生日プレゼントのバッグの製作を続けた。 自転車のサドル部分に取り付けるバッグで、以前玉田さんの自転車旅のために作った際に残していた設計メモを見ながら作ったのだが、自分のメモの意味がいまいち理解できず、思ったよりも時間がかかってしまった。
25時、キャンプ用のグラウンドマットを床に敷いて、寝袋に潜り込んだ。朝の風邪っぽさは無くなっていた。
-プロフィール- 阿部隆太 38 神奈川 Kteam / HEADQUARTERS @kteam_ksge https://hqkamakura.com https://koshigoeschool.com/
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08/10/2019 - #2
日暮れまでに次の目的地に行かなければ。Grand Teton国立公演まで、US-191をひたすら南下する。長くはあるものの爽やかな山と草原、湖畔のドライブ。テキサスの西側なんかとはだいぶ趣が異なる。
ここでは小さなコテージに一泊して、余裕があれば付近を見て回るぐらいの計画。
キャンプサイトでチェックインしたあとに、レストランエリアでピザを調達して夕食とすることにした。同じくキャンプに来ている数組が並んでいる。夏休みの学生たちがバイトに入っていると思われるが、ちょっと暇そうに客対応したり、本格的な店ふうにピザ生地をほうり投げて円状にひろげたりしている。
さっそく持ち帰って食べながら子供を寝せる作業。こんなアメリカの山奥のログハウスで寝かせられる4ヶ月児。大冒険だ。
ピザが意外にも非常においしい。生地はアメリカっぽい厚めでチーズが淡白な感じで…いままで食べたピザのなかでもかなり上位に来る。
翌朝暗いうちに車で外を回ってみる。パーク情報によるとムースや鹿などの野生動物が出るところがあるって話で。真っ暗な中を進む。川沿いに何頭も鹿がいたのを見れただけにとどまる。
陽も登ってからパーク駐車場でレンジャーが催事の用意をしていたので話す。鳥が逃げずに付近におり、頭にとまってきた!
食料やキャンプ道具が売っている売店で記念にグッズ購入。レジのアジア人女子2名が日本語を話していた。これも大学生が夏休みにバイトで入ってるんだろうなと想像する。
そこから爽やかな草原って感じの道をひたすら南下していく。ローカルの人が建てた教会に立ち寄る。素朴なログハウスに丸いステンドグラス。
夏なのに雪を被った山が正面に見える連続カーブのを走り続ける。サイクリングの男性を追い越す。ツールドフランスの山岳ステージかのような壮大な風景。 絶景ポイントで家族写真。
グランドティートン国立公園公園エリアの南端にあるChapel of Transfigurationという教会を訪ねる。1925年にこの辺りで暮らしていた人たちが建てた教会だ。中に入ると正面に小さめの窓が空いていて、十字架の後ろに壮大な山が借景みたいになるよう作られている。
質素なログハウスと十字架そして窓から見える山がすごく研ぎ澄まされた神聖な雰囲気を出している。
説明を読むに、要するに山を御神体的に考える思想が当時この地域にあったことがうかがえる。キリスト教的には異端でしか無い。しかしその気持ちは十分に分かる気がした。
灼熱のなかをLava Hotspringsラヴァホットスプリングスという街まで南下してきた。ソルトレイクシティまでもう少し。今日はこの街のモーテルで一泊する。
名前のとおり温泉がある街で、その昔からネイティブアメリカン、初期の移民により活用されていたらしい。
渓流やちょっとした滝を浮き輪に乗せてくだらせてくれるウォータースライダー屋や、プールみたいに水着を着て入る屋外温泉施設が街の売りだが、それ以外��何にもないと言っていいド田舎のさびれた街だ。
モーテルに入るまえに、街で唯一のアジア料理屋 Riverwalk Thai Foodでパッタイなどをオーダーしておく。確か肉とミントの辛いサラダ(Nam Tok)も頼んだけどあんまり美味しくなかったような。しかしこんなアイダホ州のド田舎の白人しかいない地域でいったんアジア料理食べれるだけでありがたい。タイ人の人頑張ってるなあ。
街のメイン通りをほっつき歩く。さびれた街の商店街って感じですぐ終わってしまう距離感が日本の田舎に近い。何かむかし夏に行った群馬県の伊香保を思い出す。
もう乳児を寝せる時間となる。あたりが暗くなった後にもう一回外に出てみる。通りにあるバーがドアを開けっぱなしにしていて、旅行客なのかおばさんグループが楽しく飲んでいる姿が目に入る。通りに誰もいない。でも1人で歩いていて全然大丈夫な雰囲気。グロッサリーストアまで行きビールを買って、モーテルの外のベンチで飲みながら陽が落ちるのを見た。
翌朝はモーテルの横にある温泉に行ってみた。要するに温泉プールだ。数組が先に入っているお客さんがいた。こんな異国の地で温泉気分。
出発の準備のためほどほどにして戻る。モーテルの駐車場に、昨日の夜となりの部屋にチェックインしていた家族連れのダディがずぶ濡れの海パン姿で立っていた。見ると体じゅうをひどく擦りむいてかなり血も出ている。
どうやら渓流ウォータースライダーで盛り上がりすぎて落車、岩でガリガリに削られたようだ。ダディやっちまったな。
自分がいるこのアイダホ州は、飛行機に乗った時たまに見えるセンターピボット灌漑施設が大量にある地域ということを思い出してGoogleマップを開く。こんなとんでもない地の果てまで来てしまった。アメリカを旅してるといつもそんな感覚になる。
この街を出てソルトレイクシティまでの間にあるSpiral Jettyスパイラルジェッティに行く。Robert Smithonロバートスミッソンという人が作ったランドアートだ。I-15や下道の38号線をひたすら南下。
Golden Spike National Historical Parkという何にもない荒野に入っていく。この先にあるSpiral Jetty Roadと名付けられた荒れた道をさらに突き当たりまで進んでいくと、作品が見わたせて実際に塩湖におりて鑑賞できる場所に辿り着く。
ゴールデンスパイク国立史跡には蒸気機関車がポツンと置いてあるだけで、時間もないので横目に見るだけだが自分にとってはかなり興味をそそられるものだ。
というのも、ゴールドラッシュの夢が去った西部アメリカと東部アメリカを鉄道で連結してもう一度盛り上げるという次の夢のプロジェクトの完成地がこのユタ州なのだ。
大陸間横断鉄道が完成したのは1869年。南北戦争が1861, 奴隷制の完全廃止が1865。戦争中で人材確保できないので、大量の中国人移民が投入された。カリフォルニア州とネバダ州をまたがるシエラネバダ山脈を貫くトンネルの切削というとんでもないプロジェクトもやり切る。
1869といえば、日本はサムライが明治維新やっている頃。だからと言ってどうって話でもないけど、そういう歴史があったんだと思い巡らせるのは楽しい。
その後1900ぐ年ぐらいにかけて日本からの初期の移民もこの国にやってくる。
西のセントラルパシフィック社、東のユニオンパシフィック社の名を拝したディーゼル機関車は今でも各所で見かける。セントラルパシフィック社の創業者はスタンフォードという人で、後にCA州オークランドにあのスタンフォード大学を設立する。
スパイラルジェッティに着く。遮るものが何もなくて眩しい。炎天下だけど乾燥してるので大丈夫。植生が高地であることを示す。
塩湖が乾いていて作品がしっかり見える。水没してる時もあるらしい。子どもは外に出しておけない感じなので、記念写真をとる以外は車内で待機。妻と交代で下におりて作品の石にそってグルグルと歩いてみる。
ひと通り見たらもう帰らないと行けない。
市内へと車を走らせる。空港に行く前にPublik Coffee Roastersというコーヒー屋に寄る。ラスベガスもそうだったが毎回旅先で良いコーヒー屋を見つける能力が妻にあるようだ。アメリカの他の良いコーヒー屋と同じくダウンタウンからちょっと外れた、昔は倉庫街だったような場所にあった。広い空間で効きまくった空調がとても良い。厚切りトーストにピーナッツバター、その上に輪切りのバナナが乗りまくったものを注文した。
車を返す前にガソリンスタンドに寄る。モルモン教会の本拠地の教会Salt Lake Templeの近くだったが時間もないので訪問せず。
空港に着いて車をかえして、飛行機に乗り込む。夜にかけての便だったが子どもがけっこう泣いた。まあ、しょうがない。近くにいたアフリカ系のおじさんが耳に空気を吹��入れると落ち着くとか、後ろにいたアジア系のおばさんが子ども何歳なの、飛行機乗ってすごいわ的な事を言ってくれた。ヒューストンにつき なんとか旅を終えれた
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富士山と夕日の絶景を楽しむアジアンカフェ「Ninai」を、湘南を代表する国道 134 号線沿いのオーシャンビュースポット稲村ヶ崎温泉内レストランフロア(鎌倉市稲村ケ崎)にオープン
東京都内を中心に居酒屋、焼肉、カジュアルイタリアン、和食業態を38店舗展開する、株式会社アイティープラス(本社:東京都国分寺 代表取締役 井上武夫)は、『Ninai 』を、2022年12月14日(木)稲村ヶ崎温泉内レストランフロアにオープンいたします。 稲村ケ崎公園目の前、湘南を代表する国道 134 号線沿いのオーシャンビュースポットに新たにアジアンカフェ『Ninai』をオープンいたします。雄大な湘南の海を感じながらのお食事という「非日常」をテーマに、リゾート感溢れるアジアン料理を提供します。 地産食材のアジアンフードのオーシャンフロントカフェ 現地有名店での修行経験のあるシェフが手 掛ける各国アジアン料理は、地元神奈川県 産の食材をふんだんに使用。「湘南しらす」や「やまゆりポーク」など地産の食材や、鎌倉の有名パン屋「モン・…
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通勤途中にある案山子さん。 稲刈りも終盤にさしかかってそろそろお別れです。 https://www.instagram.com/p/BY9nNl8AC8q/ 車を停めてちょろっと撮ろうとしたら、農家の方が「今日で全部稲刈ってしまうけぇ田んぼの中に入ってしっかり撮りんさい!」って言うてくれました。(笑) また来年会おうね♪ #案山子 #世界一の幸せ者 #ricohcx5 #安佐南区 #稲刈り #秋の風景 #県道38号線沿
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2024/10/8 13:00:06現在のニュース
尖閣諸島周辺に中国船2隻 65日連続([B!]産経新聞, 2024/10/8 12:57:38) 日本郵便、下請け物流3000社を一元管理 赤字脱却へ合理化 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/8 12:51:45) メキシコで市長が就任6日後に殺害 頭部切断、麻薬組織犯行か 外務省の渡航中止勧告地域([B!]産経新聞, 2024/10/8 12:51:43) 福井県、12〜14日に路線バス無料 ICカード利用で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/8 12:45:36) 立憲、衆院選ポスター発表 野田代表、拳振り上げ「政権交代」訴え(毎日新聞, 2024/10/8 12:36:55) 池田家の洋館、大正ロマンカフェに 国の名勝、新たな利用方法模索(毎日新聞, 2024/10/8 12:36:55) れいわ新選組、衆院選に17人擁立 立憲・野田氏、枝野氏らに対抗馬(毎日新聞, 2024/10/8 12:36:55) トランプ氏「聖地」帰還に支持者興奮 選挙最終盤に銃撃現場で集会 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/10/8 12:36:43) 地元産アワビやマツタケ存分に 車窓の供に「豪華弁当」堪能 三陸鉄道、開業40周年記念運行 /岩手 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/10/8 12:36:43) 県議会でトイレ論争 「洋式化を」「古い」与野党への県の答えは(朝日新聞, 2024/10/8 12:34:25) 人生100年時代は来ない? 米研究、寿命延長は鈍化 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/8 12:33:34) いすみ鉄道再開 「今月末目標に」 脱線・代替バスも /千葉 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/10/8 12:30:51) リニアの行方:想定外対応に質問続々 流域首長らと意見交換 有識者会議 /静岡 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/10/8 12:30:51) 博多駅土産第1号 ハの字眉に下がり目の銘菓、二○加煎餅 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/10/8 12:30:51)
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県道38号線 Prefectural road 38
山梨県甲州市 Koshu-shi, Yamanashi, Japan
2008/04
❤️Stay Healthy❤️
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えびすい・Webのマーケ、制作、集客、ライティング、デザイン(ポップ、チラシ、ポスター)をする人。 @ebyan2013 2024/04/11(木) 20:38:58 これ、谷を埋める土の寮と運びこむ手段で計算したら、そうなるって、以前に維新の県議が言ってた説をまんま言ってますね。
そのための京奈和道ほか、道の整備も予定してたし、JR線で貨物列車運行も検討してたのに。
その場で質問できない記者のレベルの低さも問題。 Quote 花一号@ミグランスbot @Lotus_Flowers02 · 2024/04/11(木) 19:39:14 90年? 山下まことは 県の資料を見てないのか?
#作ろう紀伊半島の防災拠点 #作ろう大規模広域防災拠点 #メガソーラー建設反対
https://pref.nara.jp/secure/250542/daikibo-plan.pdf
https://twitter.com/ebyan2013/status/1778387260217631098
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令和の初日も平成筑豊鉄道に (4/4)
I got on the train ‘ Heisei Chikuho tetsudo ‘ on the first day of Reiwa.
平成最後の4月30日に引き続き、令和の初日(2019年5月1日)も平成筑豊鉄道に乗ってきました。その時の様子です。
平成と令和の2日にわたって平筑に乗車しました。これから博多に戻りますが、どのルートで帰るか思案の結果、懲りずに回り道をして帰ることにしました。
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> JR 直方~新飯塚~後藤寺~西小倉~博多(45分11秒)
福北ゆたか線:直方→新飯塚(出発から3分ほどの様子) 後藤寺線:新飯塚→田川後藤寺(車窓からの様子)3分10秒~ 日田彦山線:田川後藤寺→西小倉(車窓からの様子)15分45秒~ 日豊本線に合流:35分10秒~ 鹿児島本線:折尾(特急入線)42分40秒→博多駅(到着前の車窓から夜景)
> 西鉄バスの車窓から見た令和初日の夜(1分38秒)
下:列車交換
船尾駅 ~ かつては石灰石の輸送で私有貨車や機関車が活躍してました。2軸ボギーのタンク車が停まっていたのが印象に残っている駅です。
再び田川後藤寺駅に降り立ちました。
マクセル号が停車中でした。
平筑に乗ってきたときの様子と、車両が違っているだけです。
乗ってきた後藤寺線の列車が新飯塚に戻っていきました。
日田彦山線に乗り換えです。
かつては貨物ホームがありました。夕方に貨物の入れ替えを見るのが日課でした。9600型蒸気機関車が貨車を突放して入れ替えていきます。
出発
JR田川伊田駅の手前、日田彦山線からも三井田川鉱業所伊田竪坑の櫓と二本煙突が見えます。
列車は小倉へ向けて北上していきます。
下:香春岳ではありませんが同じように削られてます。
城野駅 ~ 列車は日豊本線に入りました。
西小倉で鹿児島本線の下りに乗り換えます。
乗ってきた列車を撮影している間にも暗くなっていきました。
普通電車で折尾まで行って、特急に乗り換えて帰りました。
乗車券は博多駅で往復を買ってます。なので有効期間は2日間で、往復の料金が印字されてます。
特急券はホームに設置された券売機で購入です。
博多駅に着きました。
夕食はどおした?1年近くたって、記憶がありません。
博多駅からはバスに乗って帰りました。令和の始まりの日の福岡市内の夜です。天神辺りは人出でにぎわってました。
1年前もこいのぼりが飾ってました。
桜はすっかり葉桜に。
昨年のゴールデンウィークはJRの列車に乗って過ごしましたが、今年はひきこもるしかないでしょう。(新型コロナウイルスの感染拡大により、2020年4月7日午後7時に首相が記者会見し「緊急事態宣言」を発表。対象地域は、東京、埼玉、千葉、神奈川、大阪、兵庫、そして県知事の要請で福岡県も。8日午前0時から発効。外出の自粛を強く要請される。しかし、~否、もう考えない。)
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛���、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と���べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代���養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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長野市「やばね食堂」昭和の食堂 場所 長野県長野市安茂里小市2丁目17-38 電話 0262-27-5365 駐車場 あり 令和の御代となった。 元号不要論などいまだに喧しい限りだ。たしかに、西暦だけで進めてくれた方がどれほど具合がよいかと思うのだが、これも日本文化のひとつ。今さらやめられないし、仕方のない事であろう。それに建築屋である以上、行政とは切っても切れない関係にある。手続きその他は元号を使わざるを得ない。ということで"令和"とは本気でおつきあいしなければならぬ。ようやく"平成"に慣れたのに。普通に"令和"が使えるようになるまで、また30年かかり��うだ。 それにしても、昭和-平成-令和とみっつの元号を経験する事となった。平成生まれの女の子から 「ずいぶん古いんですね」 と言われてしまったが、考えてみればわれわれだって、明治-大正-昭和を生き抜いてきたときけば、歴史的人物に感じるのだからおあいこだ。 いつの時代も、何かしらの問題を抱えているものだから満足できるときなどないのだから、"あのときはよかった"というのは単に個々人のノスタルジーでしかない。とはいえ昭和、とくにバブル期の前くらいまでは現代よりもはるかに大らかな時代であった。今とは比較にならないほど差別や不公平はあった筈だが、もっと寛容さがあったような気がする。 悪い大人もいたし、いじめもあったが、大人と子どもが正しい関係にあった。小学校の入学式で校長先生が「自分の身は自分で守ろう」などという講話をすることはなかったし、少なくともコンプライアンスなんていう、嫌なものもなかった。すべてがよかったとは言わないが現代よりはよい時代だったと思う。 「やばね食堂」 国道19壕線を松本方面へ向かい、安茂里駅、小市の交差点を越えて少し行ったところにこちらはある。南側斜面の山裾に建っているので、絶対に眺望がよいだろう。そして、その古びたフォルム。モノクロ撮影したら間違いなく昭和30年代前半としか見えない外観が気になっていたのだが、なかなかタイミングが合わずようやくまかり越す事となった。店内は古くはあるが清潔感たっぷり、何より南への眺望が素晴らしい。壁面に掲示されている黄色の短冊メニューがまた昭和っぽい。 「カツカレー」800円 じつは前夜と当日の朝はカレーであったのだが、隣席のおじさんが食べていたこちらの魅力にこうし切れず、つい注文してしまう。まぁカレーは大好きなので文句はないのだが。たっぷりご飯にまずはカレー、その上にカツが載るという理想的なフォルム。揚げ物はカリカリが好きなのだ。ルーからは固形の具材は確認できないが、大量の玉ねぎとにんじんが入っているであろうと推察できる。何がよいといって、スパイシーいやはっきりと辛口であること。現代風な甘口ではなく、ジャワカレー辛口レベルなのがよい。ここはひとつ、昭和風にソースをじゃぶじゃぶかけて食べてみよう。 昔がよかった。 といいたい訳ではない。総合的に言えば現代の方が遥かによいだろう。しかし、その分なくなってしまったもの、自分自身忘れ果ててしまった大事なものもあるような気がしてならない。 #長野 #長野市ランチ #カツ #とんかつ #カツカレー #カレー #curry #カレーライス #ライス #ご飯 #ご飯好きな人と繋がりたい #rice #明治 #大正 #昭和 #平成 #令和 #インスタグルメアワード2019 #食堂 #定食屋 #定食 #洋食屋 #洋食 #グルメな人と繋がりたい #グルメ好きな人と繋がりたい #食べるの好きな人と繋がりたい #飯テロ #飯テログラム #좋아요_한국 #좋아요_일본 http://araralunch.work (やばね食堂) https://www.instagram.com/p/B37uuntAfAY/?igshid=1tyh8v122d0o3
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