#札樽自動車道
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May 2024 Vacation in Hokkaido- 2 of 7
II. 景點
札幌是北海道第一大城,但是想以後很可能會再來,加上那一天太冷,我們沒有去太多地方。上午隨意逛逛市區就急著去吃午飯了。四、五月份到日本一定是賞櫻。依據北海道官網的預測,我們去的那段時間正好是吉野櫻盛開。但是在札幌的圓山公園 Maruyama 和神宮只看到十幾棵櫻花,雖然粉的美麗但不是很驚艷,猜大概尖峰時段已經過了。
早上四點鐘天就亮,加上我們生理時差還沒調整過來,不到五點就起床了。吃完早餐搭火車到小樽也才八點多鐘,這個城還沒醒呢!小樽百年以前是個很繁華的商港,離碼頭不遠有一條運河供穀麥和貨物運輸。河岸仍然留著一排一排磚砌的儲貨倉庫,除了一些空在那裡,大多數已改裝為商店。一早街上已經有不少的遊客沿著運河照像、買紀念品。沿運河走到底有一幢三層樓歷史建築,樓下像普通的紀念品商店,但樓上像一個博物館,收藏了很多機械音樂盒和模型建築。
沿途開車時常常遠望到許多民宅前院種的芝櫻。芝櫻 (學名 phlox subulata) 是蔓延在地面的五瓣櫻花,各種鮮豔的顏色非常醒目。網走 Abashiri 南方的東藻琴芝櫻公園 Higashimokoto Shibazakura Park 滿山遍野的盛開, 像替大地上舖了一層地毯。老婆想買些種子帶回去送兒子,想波士頓地區氣候與北海道差不多,應該能種活。公園前有商店賣苗, 卻沒有人賣種子。我的評分:5。
層雲峽 Sounkyo 在北海道中部的大雪山北邊。看字面原以為是一個峽谷, Google Map 帶我們到半山腰就宣稱已到達目的地了。繼續盤旋開了十分鐘的單線山路,竟然沒有一個可下來看風景的停車點。好不容易看到一處巴士侯車站,儘管插著不准泊車的標誌,看四處無人就借它一用。小溪沿著公路流過,還有一座發電站,但是橋上卻設鐵閘門,鎖上不准進入。照了幾張相繼續驅車前往黑岳 Mt. Kurodate。有䌫車上山,遠眺大雪山脈群峯仍積雪綿綿。在山上小徑殘雪中走著走著,兩人都感覺這地方像以前在美國去過的一座山頭,卻想不起來是何年何處。
下山後彎回39號公路繼續往東就是另一景點- 層雲峽雙瀑。有稱銀河和流星的雌雄雙瀑,如白絲緞帶似的由百米落差流下。停車場後方是到雙瀑台的山徑入口,牌子上標示只有2公里,卻爬得腿軟。我們第二次坐下休息後起身準備往回頭走,一位正下山的日本母親竟然要求她兒子回身來告訴我們只剩下十米就到山頂,勸我們堅持爬上去。果然轉過小樹叢就到頂端觀景台,由這𥚃遠望銀河流星在不動石的兩邊飛舞,水聲瀧瀧,更是精緻。特別錄製兩分鐘影片留念。我的評分:4。
在這次旅行之前我還沒見過紅狐狸,但經過南部鄉下小路會見到像狗似的動物在路旁。在北見因為下雨得找一個室內的地方去,查到附近有個日本唯一的紅狐收容所,名字卻叫 Fox Farm,可能也是個培育中心吧?園內中間草地上放養了差不多三、四十隻狐狸,幾乎都有淡褐色的毛,中型犬般的大小。一些懶在草地上晒太陽,也有的躲在地上設置的樹洞𥚃。園區設計是讓狐狸養在野外自然生態裡面,但園內只有幾顆樹,草地也是秃秃的。前面籠子裡另外養了幾隻長得不一様的動物,短耳朶比狐狸可愛,標示說是日本浣熊狗 Japanese Raccoon Dog,卻一點也不像美國的浣熊。狐狸有它在日本神化中的地位,也是很可愛的動物,也但是園區設施卻陳舊不堪,急需整修翻新。 我的評分:2。
北海道山多,湖也多。我們此行一共���了大約九個湖。
洞爺湖在札幌西邊大約一百公里,但是坐火車���繞著海岸線走。我們大清早就離開札幌的旅館, 卻到快要中午才到達湖畔。洞爺因為2008年 G8 在這𥚃舉辦高峰會而出名。湖四周環境很商業化,也整理的很好。岸邊設有公園步道,擺了很多現代雕塑藝術品,有很多温泉旅館和幾家小餐廳。我們吃了中飯之後搭一條裝飾得像歐洲城堡的遊覧船到湖中心的大島。𡷊蠻大的,看標示圖可以環島走一圈7.6公里。島上還有博物館,要收費就不進去了。在𡷊上閒逛坐下吃了橘子,停留半小時後搭下一班船回湖岸。我的評分: 2.
著名的知床五湖 Shiretoko Goko Lakes 在國立公園𥚃。我們離開芝櫻公園後,由斜里 Shari 沿鄂霍次克海岸 Okhotsk Sea 到知床。天氣好,海面平靜無浪,搖下車窗讓陽光晒進來,風暖洋洋的,這一路開得舒服。吃完中飯後先到國立公園自然中心。很漂亮的建築,有很多展示介紹知床斜里的自然生態,後面有一段步道引到一個山泉流入海灣的瀑布 Furepe Fall。走五分鐘就看到一大群鹿,安靜的散佈在林間吃草。鹿早已經習慣人類的入侵,見到人來只看看你,低頭走開或跳過木欄離開步道。
服務處告訴我們五湖因為可能有棕熊出末,除了一小段之外必須參加有執照的導遊團體才能進去。導遊藍小姐在電訊內再三警告:3小時路程沒有上廁所的機會。第二天早餐不敢喝咖啡了。
知床這一帶從前是林場,愛奴族人在這裡砍樹蓋房子。成立國家公園之後區內除了小徑之外,儘量不外力干涉,保持為自然森林。我們十幾個遊客一邊走一邊拍手嚇熊。走到第一湖,小小的,心想這湖跟咱家佛州後院的蓄水塘也差不多。還好二湖、三湖漂亮多了!三湖最大,最美。我們到的時間正好陽光讓遠處雪山倒影映在湖水中。三湖到四湖的距離比較遠,得過一個山坡,遠遠的看見一隻狐狸懶在樹林草叢中晒太陽。四湖也不錯。五湖有幾個人用橡皮艇撈湖內生長過盛的浮���。導遊也說不清為什麼這樣地方會產生生態不平衡。走了三個小時沒有遇到熊,回旅館的路上倒是看到一隻棕熊在車子前方不到三十公尺過馬路。動作很快,沒等我拿出手機照相就消失在路另一邊的林子裡了。我的評分:3+。
吃中飯時鄰桌是一家台灣來的遊客,我用南部台語結結巴巴的跟那位爸爸聊天。他們也是自駕,但是朝與我們相反的方向走。我提起明天的計劃是去阿寒湖,媽媽插嘴說值得彎到摩周湖去看看,但是最好能一早就到。
一早離開,設定摩周湖 Lake Mashu 為第一站。接近時眼角已經𣈴到邊上有湖水反光, Google Map 卻引導我一路上山。一直到達目的地的大停車場仍然看不見四周有湖的跡象。下車又遇到說中文的同胞,指點我往台階上去。半信半疑的爬上頂端才發現湖是在下面的群山之中。典型的火山湖,像奧瑞崗州的 Crater Lake。碧藍的湖水,半邊被稀疏的白雲掩蓋著。美則美矣,卻因尿急沒心情待久。我的評分:4, 但因無公共設施扣一點。
停了琉璜山 Mt. Io, 再往下開是屈斜路湖 Lake Kusshiro,網路上推薦的景點是所謂「砂湯」,形容在湖邊挖個坑就可以泡熱温泉。 真的有這種好地方?到達停車場竟然没有一個游客,湖邊只有一家小店,𥚃頭賣些木雕纪念品、冰琪琳。碼頭上散放了幾艘天鹅船,漆都斑斑駁駁的。我不死心,往上走到一個像露營區的地方,招牌寫著 Recamp, 我不懂這個字。亭子間𥦬戶都鎖上了,有一些劈好的木柴擺在地上賣,前頭擺了幾把大小鐵鏟出租。湖邊砂灘上的確有不少淺坑,但是沒水。這地方怎麼回事?離開臨上車前終於看到一輛遊覽車轉入停車場。我的評分:1。
阿寒湖是另一個火山湖,湖底生長綠球藻 Marino,被宣告為「國家特別自然紀念碑」。乘遊覧船可以到湖中小𡷊上的自然觀察展示中心看到球藻如何在湖底從漂流的絨毛藻,漸漸結合在一起為圓球狀,再經過幾十年長大像足球那麼大的綠色毛絨球。可惜中心只有繪圖解釋和在一個玻璃缸內裝幾個球藻供遊客觀賞。太可惜了,我倒��為這種特別的生態應該開發用玻璃底船或深入湖底隔著玻璃窗讓遊客近距離觀察。我的評分:4。
住在阿寒湖的隔天,原本計劃只過境釧路 Kushiro 吃過中飯就到帶廣 Obihiro 的。繞了許多鄉間小道,好不容易到了鶴居村卻沒有看到一隻丹頂鶴,只好繼續往下開,進入釧路濕原國家公園。
看到路邊有標示「溫根內訪客中心 Onnenai Visitor Center」,原來只想停下來休息一下再走,卻發現後方有整理的很漂亮的木步道,就留了下來。環繞沼澤區一圈需一個半小時,有非常開闊的原野,包括丹頂鶴在內的許多候鳥都會來這裡休憩過冬。
繼續南下幾公里順道探訪濕原展望台,在樓下吃了頓咖哩簡餐後再走小徑參觀北斗史跡展示館 Hokuto Historic Site Exhibition。北斗是繩紋時代 (BC 8000 - AD 800) 的遺跡,顯示此地在10000年前已經有人居住。但是現在展示區只有四、五幢籚草牆頂的仿造類帳蓬建築,𥚃面擺了些鑄鐵鍋示意而已。看板解釋北斗史跡發生在石器時代,百思不解。回家後看到資料提到日本的石器時代同時是中國的秦漢!我的評分:4。
因為在知床五湖沒能看到棕熊,我們到了十勝後又特地彎到北邊的棕熊保護區 Sahoro Resort Bear Mountain。經過多年的特區保護而北海道棕熊的數目卻愈來愈少,日本現在對熊的保護政策轉變到「共存」。2006年熊山成立為一個特定棕熊自然觀察園區。現在有1 1隻成年棕熊在15畝大的森林裡生活。我們先搭乘巴士,近距離觀看這500磅的龎然大獸。上車前還盤算著該坐那一邊才好看熊,但一看到有兩隻熊在水塘邊上,刷的一下,全車的小孩、大人通通都站起來湧到一邊的窗口了。三隻熊徜徉在樹林裡不慌不忙的邊嗅邊走,兩隻在水塘裡吃漂浮的果莓,蠻自在的。不像動物園關在鐵柵欄後的水泥房裡那般可憐。
車道之外有一段步道供遊客在5公尺高的圍籬後面看熊生活,進出都得經過兩道鋼欄柵門,這大概是最接近電影侏羅紀公園的地方了。我的評分:5。
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北海道立 三岸好太郎美術館 トゥインクル・コンサート フランス木管楽器の魅力
私が大好きな美術館。 ここに来ると良い波動の空気に包み込まれて自分を取り戻すことができるのです。 そんな中での演奏、お楽しみくださいね。 今回は、室内楽デュオ「ザ・Frenchプログラム」
**⁂*トゥインクル・コンサート 「���・Frenchプログラム」**⁂*
●日時:2014年3月15日(土)11:00a.m.~約40分
●会場:北海道立 三岸好太郎美術館 展示室内
●入場料:美術館観覧料でお聴きになれます
観覧料:一般500円 高大生250円 65歳以上、中学生以下は無料、 土曜日は高校生も無料
道立近代美術館これくしょん・ぎゃらりいとの共通観覧券 一般800円 高大生400円
●プログラム サン・サーンス:クラリネットとピアノのためのソナタ1、4楽章 ドビュッシー:プルミエラプソディー プーランク:フルートとピアノのためのソナタ ほか *都合により曲目などに変更が生じる場合があります。
●演奏 ピアノ:北山雅子 クラリネット:柴田久美子 フルー ト:按田佳央理
●アクセス 地下鉄/東西線「西18丁目駅」下車、4番出口より500m
バス/JRバス、中央バス(札幌←→小樽・手稲方面) 「道立近代美術館」停留所下車250m
タクシー/札幌駅から5~10分 「知事公館庭内の北側、北3条通り」 と ご指示ください。
交通のご案内・地図詳細はこちら
*駐車スペースが非常に限られております。 できる限り公共の交通機関利用のご協力をお願いいたします。
北海道立 三岸好太郎美術館 午前9:30~午後5:00(入場は4時30分まで) http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/mkb
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[香港旅遊優惠]2023北海道滑雪場推介|Kiroro滑雪場、星野度假村Tomamu滑雪場、Snow Cruise ONZE、札幌手稻滑雪場等|8大人氣滑雪場設施介紹+附最新門票及交通資訊!
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暢飲小樽啤酒『小樽倉庫No.1』
“他人の出来ぬ事を成就するのはそれ自身に於いて愉快である。” 「那些放棄自我而轉向神的人是神的奴隸。」—-夏目漱石 日期:2016年8月 12日(五) 天氣:晴氣溫:31 地點:日本北海道-小樽市。 這一天一早到了住宿飯店,也放好行李。此時此刻,因為氣候,讓我有些許不想動的感覺。但,為了旅途的經驗累積,我告訴我自己必須起身完成規劃行程,於是我便依照計畫行動,而今日的行程是到「小樽市」。 由於買北海道新幹線的Pass,只要搭乘JR所屬鐵道都可使用而不用額外付費,因此到小樽的車費也省了。對的,就是要善用��上的Pass。 從札幌到小樽也只要幾十分鐘的車程,轉眼間就來到了小樽市。由於對這裡十分的陌生,因此一切憑感覺走。也一如觀光客的行為,第一個要逛重點就是小樽運河了。 OTARU啤酒 正所謂眼見為憑,原來小樽運河是如此短,不過卻帶著很濃厚的復古意味。由於旅客也十分多,太陽也十分大,走…
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2023年7月 北海道旅行
2023年7月8日(土)~7月15日(土)の旅行のまとめ。
7/8~7/9 高速道路でひたすら新潟へGo。 新日本海フェリーのあざれあ号で小樽に行きます。 船の夕日が綺麗だった。 ※なお、車止めるときにトラブったらしいが、新日本海フェリーのアフターフォローが丁寧だったということはここに書きとどめておこう。
7/9 4:00前に起こされて4:30小樽到着からの、そのまま高速で札幌通過して大雪山旭岳へ。 旭岳ロープウェーで登って周辺トレッキング。 景色が最高でした。 夏に旭川方面へ行く予定のある人は絶対に行った方が良い最高スポットでした。
昼:旭岳ロープウェーのレストラン。 豚プレートみたいなやつだったけど、ピーマンの丸焼きがおいしかった。 宿:他に空いていなかったので、1泊25,000円以上のリゾートな感じのお部屋。広々し��いた。
7/10 美瑛 青い池 → 富良野のファーム富田 → 美瑛
青い池はとても良かった。 富良野はファーム富田で疲れて他を見る気力は死んだ。 外人が多いわ駐車が大変やら……。
昼:美瑛の四季彩の丘のレストラン。全く期待していなかったらそれなりに我が輩好みのメニューもあってびっくり。 宿:東川町のコンドミニアム。リビングでダラダラできたのはよかった。 夜:スーパーの寿司。特においしいと言うことはない。
7/11 予定より前倒しで色々回ったので、急遽、大雪山の層雲峡黒岳ロープウェーへ。
自分はずっと「たいせつざん」だと思ってたら旭岳側は「だいせつざん」って言ってて、自分が間違ってたのか!?と思ったら、こちらは「たいせつざん」って言ってて、結局どっちなんだ!?となった。
天気はイマイチ。リフトの足下にいろいろな花が咲いているのが見所か?
その後旭川へ移動。
昼:でんすけスイカの道の駅。やっぱり一切期待していなかったのに、地味においしかった。 宿:建物は古めだが、ちゃんと改装して小綺麗な普通のビジネスホテル。だけど、ニセコのヒルトン2泊とここ1泊の料金がほぼ同じな事には納得がいかない。 夜:旭川のイタリアン。
7/12 旭川→ニセコへ移動。やはり札幌は高速で通過。 余市までし��高速はないので、ここからは国道。 折角なので、道の駅スペースアップル余市へ。 アップルパイもぶどうジュースもおいしかった。
ホテルに行く前に、神仙沼を散策。
昼:ニセコの道の駅にいたはずだったのに…… うっ思い出させないでくれ……! 宿:ヒルトン。入り口が超豪華。朝食ヤベーっす。紅茶派の我が輩もニッコリどころか満面の笑み。 夜:倶知安の知人と寿司屋?へ。 越冬ジャガイモなるものを初めて知る。
7/13 ニセコトレッキング。 天気は微妙だったけど、とても良かった。
昼:鏡池でおにぎり。 宿:やっぱりヒルトン。まさかの朝食バイキングなのに、昨日と違うメニューが多い……!恐ろしい子っ! 夜:セイコーマートのホットシェフのおにぎりと、ホテル近くの高橋牧場のシュークリームと飲むヨーグルト。 地味に満足度が高い夕食。
7/14 ニセコ→小樽へ帰る前に、ちょっと京極の湧き水を見に行った。 道の駅あかいがわに寄るも何も買わずにスルー。
小樽で鰊御殿見た後回転寿司でランチ。
その後、1時間半自由行動で、ルタオのチョコレートドリンク飲んだり手宮線廃線跡見たり。 夜ご飯をフェリー乗り場の近くで買おうと思ったら、意外と時間がなかったことが判明して色々慌てたけど無事乗船。
7/15 新潟到着。 ピアBandaiとやらで色々買い込んで帰宅しましたとさ。
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無事帰宅してます。洗濯グランプリ開幕。(笑) 今回のJALの「どこかにマイル」は新千歳、香川、福岡、旭川の4つのどこかだったんだけど、仮に新千歳だったら札幌や小樽にもっと近かったんだけど、実は土曜日はJR千歳線が停電とかで100本運休の大混乱、札幌駅は人で溢れてる。で、僕も15:48札幌→小樽って指定席取ってたけど聞くと運休、ちょうど来た3時間遅れの動いてる最後のエアポート号になんとか飛び乗れた。自由席は超満員、僕は指定運賃払ってるから空いてる指定席に乗った(これはホームで近くにいた女性に何にもわかんないから、これ小樽行きます?って聞いて、指定席予約してたのに僕の列車は運休らしいです、と話すと、あの青いドアが指定席だから何しろ早く飛び乗って下さい!って言ってくれた。はい!だけでお礼も言えず)。 運河クルーズ予約してたから焦った。もしフライトが新千歳着だったら小樽どころか札幌にも辿り着かなかったかも。 あと帰りの今日、新千歳は強風で着陸できずに羽田に���き返す便があったり、出発便も羽田行きを含めて何便か欠航あったらしい。帰れなかったかもだな。 最初はどうせ北海道だったら新千歳がよかったなぁって思ってたけど、結果旭川で良かった。動物園行けたし(ペンギンのお散歩なんて時間確認してなかったけど、ふらっと着いたらやってたw)。雨予報の今日も空港まで降られず(これは動物園行きの満員のバスで小さいお子さん連れた外国人の女性に席を譲ったから神様が・・・w)。 もってるなぁ。(笑) (Kofu, Yamanashi) https://www.instagram.com/p/CpuyKNlJJhpn7-mWVs5wWlwlEEkuPSjywlzCrI0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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2022年振り返り
ご無沙汰しております。ZUMORICLUBです。
まえがき
今年 (特に後半) はあまり創作活動や作品発表ができませんでした。環境が大きく変わったわけではないのですが、本業も忙しくなったし、他のことにも色々手を出しすぎたと、いうのが原因でしょうか。 とはいえ、SNS上での交流は今後も増やしていきたいし、創作活動も水面化では進めております (後述)。今後ともよろしくお願いいたします!
アジェンダ
今年聴いた音楽
アルバム5選
シングル5選
今年作った音楽
その他
SAVE THIS UTILITY 1stアルバムサブスク配信中
Spotifyのお気に入りリスト
限界旅行アカウント
1. 今年聴いた音楽
今年の音楽に限定していません。また、サブスクも積極的に使うようになって、曲単位でビビっときたものも多くなってきたので、アルバムx5 + 曲x5 (順不同) という枠組みにしてみました。Spotifyのリンクを貼っています。
1.1. アルバム5選
● Pasajero Luminoso - El corazón de las ballenas (2017)
アルゼンチンのピアノ・カルテット。落ち着きつつ美しいメロディ���良い。特にオススメ: #2
● 曇ヶ原 - 曇ヶ原 (2021)
ライブがあれば物販で買おうと思っていた。春に来阪ライブがあったので赴き、ついに入手。フォーク成分がすごく良いし、激しいパートも圧巻だった。今年後半に出たシングルも良かった。
● The Bad Plus Joshua Redman - The Bad Plus Joshua Redman (2015)
うおおJazzの21世紀や!!!特にオススメ: #6
● MIRINN - polaris (2022)
ポップロック意外と好きなんです。展開の凝り方が気持ち良くてとても楽しい。
● Pollaid - lead me, drive me (2022)
鼻につくところが全然ない爽やかさ。高頻度でドライブのとき聴いていました。
1.2. シングル5選
● Zopp - You (2022)
2022年にもなってこんな音が!?(サイコー) と��ったけどプロデューサー陣を見て納得。カンタベリーは不滅
● RYUTist - うらぎりもの (2022)
全体的にとても良い曲なんだけど、変拍子に揺らぎ (*1) まで入れてくるので痺れた。 (*1) 分子を±1したりすることを勝手にそう呼んでいます
● 佐井好子 - 胎児の夢 (1977)
あまりにも狂気的なアウトロでノックアウトされた。大野雄二さんプロデュースということですがピアノを弾いているのもそうなんだろうか...
● 結束バンド - なにが悪い (2022)
メロディがほぼ満点レベルで綺麗。00年代を思い出す
● Parry Music Library - I'm Yours Tonight (年代不明)
幼少期にウォォカッケェとなったCMの曲なんだけど、サブスクにあったのにびっくりした。良いディスコミュージックだった。
1.3. おまけ
以前から引き続きなので上には挙げていませんが、UNICORNとPUFFYとB’zはよく聴いていました。PUFFYのベストをドライブで聴くととても楽しくなるのでオススメです。
2. 今年作った音楽
昨年末に掲げた目標が下記でした。
①3曲以上作る ②Mystic Maryの新曲を出す
残念ながらこれらは達成できず、今のところ今年は1曲も公開できていません... (*2) 水面化では色々進めていたのですが、怠惰になってしまっていました。以下進捗を報告します。来年は頑張るぞ!
SAVE THIS UTILITY の曲を1曲作曲しました。思ったより難航したけどかなり良い曲になったんじゃないかと思います。現在、ボーカル録音まで終わってMIX作業中。来年公開予定!
Mystic Mary、歌ものポップスを各1曲、制作中です。展開がしっくりこなかったり歌詞が作れなかったりで停滞中。来年にはなにかしら着地させたいですね。
(*2) 曲ではないけどこういう即興演奏はしました。
3. その他
3.1. SAVE THIS UTILITY 1stアルバムサブスク配信中
キーボード等で参加しているアヴァンギャルドメタルバンド、SAVE THIS UTILITYの1stフルアルバム「回顧する∞」が、今年1月から各種サブスクで配信されています!
詳しくはこちらをチェック!たくさんの方に聴いていただき感謝です。 Bandcampでのフィジカル(CD) の販売も行っているので、そちらもよろしくです。
3.2. Spotifyのお気に入りリスト
Spotifyに登録して暫く経って、せっかくならプレイリスト機能を使ってみようということで、ここ10年ほどでよく聴いたアーティスト/お気に入りの曲で100曲のプレイリストを作ってみました。
こちら!
単に思いついたまま並べるのでも面白くないなと思い、下記のルールを設けています。
1アーティスト1曲
バンド/ソロは別カウント
似たようなジャンルは連続させない
唐突な流れにならないように
結果、Meshuggah→上原ひろみ、渡辺麻里奈→Porcupine Treeのような一見謎な繋ぎもあり、なかなか節操がないですが、なんとか完成しました。 また100曲しかないのに11時間超と、そこそこ長めのリストになっています (10分超の曲が24曲ある)
興味ある方は覗いていただけると幸いです。
3.3. 限界旅行アカウント
旅行の様子を実況 (*3) するTwitterアカウントを作りました。 昨年までは公式アカウントの方でやっていましたが、TL占有率が高くなってしまうので分離した形です。旅行すると大体限界旅行になるので、限界旅行アカウントと勝手に呼んでいます。
(*3) 時差投稿機能を利用して、数日後の同時刻に投稿されるようにしています。厳密には実況ではないかも。
今年の頭に折り畳み自転車 (DAHON K3, 写真) を買ったこともあり、自転車でのぶらり旅を主に行ってきましたが、自動車での旅行もこれまで通り続けています。
今年行った主な行程は下記のような感じです。もしご興味あれば見ていただけると幸いです。
自転車旅
嵐山(京都)〜奈良〜吉野〜和歌山 (1泊2日)
日吉(京都)〜周山〜花背〜鞍馬 (日帰り)
桜井(奈良)〜榛原〜曽爾〜伊勢奥津〜松阪(三重) (日帰り)
自動車旅
京都〜彦根〜敦賀〜小浜〜舞鶴〜京都 (日帰り)
舞鶴(京都)〜小樽(北海道)〜札幌〜稚内〜斜里〜根室〜釧路〜えりも〜苫小牧〜敦賀(福井) (4泊7日)
ではでは、来年もよろしくお願いします!
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2022-12-31-SeaAir【雑記】
妻実家の浜松からこんばんは。年の瀬の恒例として勝手にやっております一年の振り返りをしようと思います。振り返るとTumblrでやってたりTwitterでやってたりしますが今年はTumblrというかSeaAirでの投稿数を増やそう!という思いがあるのでこちらで。
■仕事
AR担当からSX担当になりました。それに伴い例のパワハラ気質上司のレポートラインも外れ、ついでにいうとその上司はアメリカに数年出ていくことになりました。2021年12月時点ではそういう話は出ていなかったと思しき動きを察知していたため、私と後輩を準パワハラで追い詰めたことが影響しているのだと個人的には考えています。
まあそういうわけで苦手な上司が去って、新たな上司が割り当たったわけですが、「こいつ扱いを間違えるとコンプラに垂れ込むやつ」と知れていることもあってか穏当な仕事生活に。分野が全然技術っぽくない分野であり、今後の先行きが見通せないことこの上ないですが、まぁいままでも見通せたことなかったしな、と開き直りつつ会社��役に立つ人材ではあるのである、ということを会社に評価してもらえるように立ち回ろうと思うのでした。
嫌だけど英語プレゼントかやったのはそのためですね。あれは頑張った。
■子育て
息子がついに小学生に。それなりにトラブルなく順調という認識ですが、「創立記念日なので平日だけど休みです」とか「参観日や面談が平日昼間にあります」みたいなことがあったりして共��き設計とは相性が悪いことこの上ないですが、一方で在宅勤務とはだいぶ相性がよく、ちょっと仕事を抜けたりして対応できるので大変助かりますね。SX担当になって業務の裁量がだいぶ増えて、気軽に抜けたり休んだりしやすくなったのも良い傾向でした。
一方で、息子が「参観日のあとにお母さんとそのまま帰ってるおうちがある」ということについに感づいてしまい、保育園時代にはなかった「専業主婦家庭がある」との気づきと邂逅を果たすのでした。でもまぁ前述のとおりSX担当になって以下略なので、上司に家庭の事情と伝えて午後半休とかにすることが増えて私のQoLも上がりましたね。
娘はよりいっそうお調子者/かまってちゃん/おしゃべり/いたずらっ子に拍車がかかり、家庭ではスパムみたいな扱いを受けたりしていますがムードメーカーとして笑顔いっぱいで立ち回っています。そのままのあなたでいられる限りはそのままのあなたでいたらいいんじゃないでしょうか、というスタンスで過ごしています。
■旅行
漫画ゴールデンカムイの影響で北海道行きまくってますね。2021年秋にも行ったのに2022年1月に函館に行ったし2022年8月にも夕張→小樽→札幌→富良野→旭川→網走→釧路という一日平均数百キロ移動するゴールデンカムイゆかりの地を巡ったりしました。函館旅行中には本誌で函館駅の話題が出るなどして行ってよかったね~と思ってます。ゴールデンカムイはもう終わったけど今年ももっかいくらい行こうかなと夫婦で話しています。
そのほか、大阪でUSJ、京都で鉄道博物館に行ったり、千葉の最東端銚子に行ったりしましたね。特に後者は私と子供の三人旅だったのでたくさん歩いたり低予算宿だったりで面白かったですね。
しかしまぁ息子が小学生に上がってしまったので、旅行のために学校を休むのはちょっと。。。ということもあり夏休みとか冬休みとかGWに合わせた繁忙期に旅行ということになったので頻度自体は減りましたね。
■ボードゲーム
オフラインでもひっさしぶりに開催したり、月1でオンラインボードゲームできてるのは非常に良いですね。PlayingCards.ioというサイトで、ボードゲームをオンライン上に再��したりしているのもなかなか良いと思います。どこでもパーティーゲームというアプリも最近使い始めたけどなかなか良いよ。Unityで自分で開発するのは下火になったのはよくなかったですね。できればクリエイティブな方向にもっと動ければよいと思うんですがコンシューマー側として過ごした一年でしたね。
■ゲーム
引き続き今年もいっぱいゲームしたなぁと思います。なんといってもNoita。Noitaめっちゃよかったからみんなやるといいと思いますがすごく人を選ぶとも思います。あと時間泥棒ですべてのリソースを持っていかれるので封印しました。
そしてDokiDokiLiteratureClub!これも全人類やってほしいけどNoita以上に人を選ぶとも思います。そんなゲームばっかりやってんな。Hadesも面白いのでぜひ以下略。VampireSurevirorとかふしぎの城のヘレン+だとかAstlibra、Peglin、Dorfromantikなんかを遊んでいますが全然みんなわからないだろうなと思いますね。
というマイナーゲームばかりを遊ぶことが多いですが、今年はあれですね、会社の先輩とか息子とかが「ぜひ買って!」というので買ってプレイしてみたスプラトゥーン3はなかなかによかったですね。Nintendoのビッグタイトルがどう面白いのか、プレイヤーの成長曲線に合わせた導入になっているのだなとか、バンカラマッチはかくも厳しく、サーモンランの厳しいバイトを野良の方と協力してクリアするのはかくも嬉しいものであるのだな、とFPS(TPS)の面白さが分かったように思いました。が、やはりゲームに費やせる時間やもともとの素養を考えると、スプラトゥーンガチ勢になるのは私には向いてないなーと思いましたのでS帯にもでんせつ帯にも一応登れたのであとはカジュアルにエンジョイ勢として楽しもうと思うのでした。
■総括
あとは無難に料理を中心に家事をこなし、肝臓を中心に健康面に配慮しつつ、細く長く英語のお勉強を継続しております。妻が転職したり、件のメンタル休職した後輩が結局と微妙に変化はありますが、仕事が無難に進めば2023年も無難な年になるのではないかなと思います。
ということで、2022年もお世話になりました。2023年もよろしくお願いいたします。
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作為風景的城市(松田政男)
(1970)
真是奇妙的祭典。說是祭典,當然有神輿也有山車,因而醞釀出了其特別的華麗氣氛。由神主帶領的祭禮一行,接連引來了周邊的孩子們,向著這個地方城市狹小的中心部略高處被祭祀的神明的神社邁步前進。注意到某個極小事實的瞬間,���攝這次祭典的我們無法抑制地捧腹大笑起來。雖然沒有地方城市的這種祭典所應該特有的遊客的身影,但是,這個小小的祭典的隊列,卻在我們失禮的哄笑之外,作為一年一度的盛夏的儀式靜靜地前進著。
我們哄笑的原因,是因為祭典的隊列是模仿諸侯出行的陣仗(大名行列)而形成的。典型的那種由毛槍朝天高舉,腳步一致,喊著「向前、向前(下ニィ、下ニィ)」的人打頭陣,搬文箱、長持的人隨後,著裃服騎馬的武士威嚴地緊跟著,簡單來說,我們聽到「大名行列」這個詞時所喚起的意象,完整地,完全像畫出來一般展現出來。不對,定睛一看,還有一群穿著只能認為是公卿裝束的男人。像前述所說,有在每個路口立定、進行除災儀式的神主,有神輿和山車,有笛子和大鼓,什麼都有。有的是我們從小在現實生活中或者畫像和影像中慢慢熟悉起來的,「祭典」的全部的類型。然後,沒有的是「祭典」所一定會伴有的「狂熱」。
那是北海道的北邊,面對鄂霍次克海的網走市。為何網走神社的祭典中會有大名行列呢?這個單純明快的疑問,與其說是我們哄笑的原因,不如說是我們怎麼也沒法不去注意的地方。不用參考網走市役所發行的《網走小史》,我們也知道這裡有原住民鄂霍次克式陶器人的遺跡與遺物,四百年以前起是江戶時代的阿依努期,是阿依努人居住之地。不用說,在松前藩的經濟支配,幕末由於軍事需要而來的幕府的政治管理的過程中,也有與日本人的來往。但是,日本人大量渡來還是在一八八〇(明治十三)年網走村設置郡役所之後的事情。因為四年後開設了小學與寺院,土地神(鎮守)的神社的創立,也自然應該是那之後的事情。
具體的歷史上從未存在過大名行列的北方城市的祭典裡,突然出現了魔幻的大名行列這件事情,對我們來說,是應該在最初的殖民者的記憶中作為遺制殘存下來的強烈的共同性中尋找嗎?我在這裡,比方說,應該也可以像《網走小史》一樣,用下面的方式,引用阿依努人���住民樸素的祭典原型,將本土的民俗與殖民者的民俗的競逐過程作為考察對象��
「為此處報春的最初的訪問者,是乘著流水而來的海豹。在冰川間的縫隙中進行的獵海豹,足夠滿足了自然的孩子的冒險的心。部落的人們,每到此時期就會乘舟靠近帽子岩,在島上設立祭壇,以幣束裝飾。一族之長對著海的方向祈禱漁業豐盛。⋯⋯帽子岩是將阿依努族的生活與神連結在一起的聖地,因此人們都將這座島稱為『充血(チバシリ)』。」
但是,我們至少在這裡,與這個名為網走的地方小城市的祭典儀式活動毫無關係,只能確定這不過是在各種意義上對中央大城市殘留的傳統祭典的最壞意義上的模仿,並將其傳達出來而已。今天,聖地「充血」不過是一塊僅僅保留了網走名字來源的記憶的奇形怪狀的石頭。而且,正如我之前所述的,網走神社祭並沒有遊客的身影的事實所示,對於這種將邊境的遺制破壞地體無完膚的直接從中央輸入的祭典方式,關心的人寥寥無幾。夏天來到網走的年輕遊客反而都在參觀離網走神社最遠之地的網走刑務所。今天,網走的聖地連名字都變成了網走番外地,其所祭拜的神,也變成了電影演員一般的存在的同時,從空洞的大名行列中讀出了強烈的諷刺的,難道真的只有我嗎?
話說回來,說到敘述的順序,這裡應該簡單提及一下我們在這裡偶然遇見網走模仿的祭典活動的攝影旅行的目的。一九六九年從夏至冬,我與很少的幾個朋友一起,追隨一名少年的足跡做了一部紀錄片。六九年末勉強工作告一段落的這部電影,以「去年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件今年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片頭字幕,「一九六八年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件,一九六九年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片尾字幕,包含了一小時二十六分的結構。如其所示,是關於「連續射殺魔」永山則夫的電影。網走是永山則夫出生、度過了幼年的地方。
這篇文章並非是要直接介紹我們的電影,但是作為完全追踪了永山則夫廣泛的足跡的結果,經過了北海道、東北、關東、東海、近畿等各大城市,根據我自己四個月的體驗,我不能不談對於出生於網走市郊呼人番外地、長於網走市內的永山則夫五歲時全家搬至的青森縣北津輕郡板柳町的印象。而且不得不說,我在這個地方小鎮感受到的是和網走完全相同的印象。我們當時看到的是明顯磨滅了地方的獨特性,只能稱作是中央的複製的同質化的風景。殖民城市網走,本土城鎮板柳,再誇張一些說,中央都市東京,在我們的眼中都以毫無差別的相同的面貌出現。
然後,不知怎的,好像不止我們,還有別人也有同樣的經驗,在北國陰暗的風土中尋找永山則夫犯罪的原因,卻被大大地欺騙了。說起來,某位電視人曾這樣記述這個兩萬三千人的小鎮:
「永山則夫一被逮捕,報紙和電視就迅速動員學者、作家、評論家們創造他的形象。……這些知識分子中最有說服力的,是同樣出身青森、有同樣遭遇的詩人、地下劇團主宰者T氏的發言。他將永山則夫形容成在東京沙漠徬徨的都會吉普賽人,令其抱有噩夢般的殺意的,據說是養育了他的『北國的荒涼的天空』。……但是,離上野十三個小時的板柳的天空卻明亮得令人訝異。沒有霧霾的明亮的藍天下,岩木山閃耀著銀白色。……」(《紀錄片青春》自由國民社刊行)
這位紀錄片作者,在直率地敘述了「荒涼的北國」的形象的破壞後,舉出了城市的豐饒的各種數據。比他晚三個月,已經過了春天而在夏天拜訪這座城市的我們,已經如前述有著和他相同的見聞。青森出身的詩人「T氏」(即寺山修司)大概可以斥責我們,認為這些感想乃作為一群不負責任的遊客的,即時且隨便的感想。的確,並未體驗到寒冬的津輕的我們,並沒有「荒涼的北國」的意象。但是可以說,我們的遊客之眼,與只能看到「中央=豐饒」、「地方=荒涼」之刻板印象的地方出身的半調子知識分子的眼,恰好形成了對照的兩極。無論是中央還是地方,都市還是邊境,「東京」還是「故鄉」,現在都只有等質化的風景。我們即使是看到了津輕平原的廣漠上連綿的蘋果園,也絕不會想到綠色的森林,而只能看到令我們聯想到我們灰色首都所散佈的污染的農業。不用說,「荒涼的天空」也是稱呼我們霧霾漂浮宙天的名字。
因此,我們在鄂霍次克沿岸的東北的平原,也沒能發現或許孕育了永山則夫的「故鄉」。不如說我們看見的不過是縮小版的「東京」。永山則夫小學時代居住的板柳町一角稱作入福住宅的小型貧民窟,大概也可以指定為東京的任何一處。谷川雁說「不要去東京,創造故鄉吧」之時,那種作為前提的「東京」對立於「故鄉」的圖式,在六十年代的死胡同中,終於不再是有效的事實,我們必須去確認。我們壟斷的高度成長,難道不是表現出日本列島作為一個巨大的都市,每天都在往一個同質化的方向發展嗎?
無需說,從資本主義經濟法則的側面,將永山則夫作為地方年輕人口向城市集中的典型事例說明,也不過是將其拉入客觀主義的大網。如此,他是在響應寺山修司「離家出走的建議」,捨棄了「故鄉」而到了「東京」來嗎?恐怕要揚棄谷川雁與寺山修司兩方的高談闊論,才有真正的答案。即,無數的永山則夫,無疑是想要前往「東京」,創造自己的「故鄉」的。正是在「東京」,才有他們所尋找的原初的東西。要說為什麼,對於他們來說的「故鄉」,不過是「東京」的模擬而已。他們對於「東京」所注入的狂熱的凝視,只能說是在不可見的領域中雕刻他們的真正的「故鄉」了。去往「東京」之旅,即是去往他們的原初世界的旅行。他們一刻不停地在進行著,與在偏僻地方和離島中找出現在的我們的過去的祖型的民俗學者方向完全相反(vector)的旅行。
從這件事來說,「離家出走的建議」的提倡者寺山修司,對於永山則夫的流浪,初看上去似乎以同情者的身份浮現,但當他結論出「人被歷史拋棄時,就會援用地理」這一巧妙的宣言時,就不自覺陷入了寺山自己排斥的「歷史性的思考」了。寺山修司著作中對於永山則夫的結論,不過是道學家式地指責其缺乏「思想的力量」、「想像力」,以及「戲劇性的想像力」而已。寺山修司從未將自己的想像靠近這一現實,即永山則夫(們)其實正是僅通過「地理」上的流浪,這群下層社會的無名大眾才能創造出他(們)「歷史」上的定在。雖然寺山說「為了判別一個行為是英雄性還是犯罪行為,過多的『狀況論』將我們緊緊束縛」,但在與「狀況論」甚至「情況論」無關之處,即便是針對將「行動的力量」而非「思想的力量」作為動力而生存的人們,以提昇道德的口吻高談「想像力的復權」,恐怕也不會有任何成果。
「歷史」還是「地理」的二選一思考方式,正是深深刻在提出者內部的歷史性思考方式,這種思考方式的所有者將其直接轉移至地理上的思考。即,在他的腦中,以他的「想像力」放上一張日本列島的空白地圖,在上面填上永山則夫流浪的足跡,最後所得到的也就是這麼多。此一永山則夫之旅,只要在某種「原初世界之旅」的前提上,便設想能透過連接他曾經過的外部世界的地點,便會浮現出其內部世界的地圖,並設想大概��出現奇形怪狀的景象吧。 在這裡,還是先交代永山則夫流浪的記錄和分期。這也同時是我們的旅程——
網走市郊外—網走市內—板柳—(離家出走)弘前—青森—函館—板柳—(離家出走)山形—福島—板柳—(為了集團應聘上京)
東京·澀谷—(辭職、秘密出航)橫濱—名古屋—香港—橫濱—小山—(就業)宇都宮—(以下各地流轉)大阪—守口—東京·羽田—川崎—橫須賀—川崎—東京·淀橋及東中野—池袋—巢鴨—小田原—熱海—名古屋—大阪—神戶—(秘密航行)橫濱—東京·練馬—西荻窪及東中野—板柳—東京—長野
橫須賀—東京·池袋—(以下各地流轉)芝—京都—橫濱—東京·池袋—函館—小樽—札幌—函館—名古屋—橫濱—東京·新宿及中野—橫濱—東京·原宿
第一次流浪的分期十五年,第二次的分期三年半,第三次的分期為半年,有各自的長度。可以視作成長、生活、犯罪三個不同的階段,各自的分期在空間擴大的同時,表現出時間上的反比關係,應該是很容易注意到的。日本列島對於永山則夫,不正是作為某種非歐幾里得空間(non-Euclidean space),奇怪地歪曲、溶解、流動嗎?然後,即使這樣還,或者說正因如此才,應該點出的是沿著永山則夫的軌跡而再現了四個月間橫貫列島之旅的我們的眼睛,看見的是已經敘述過的,所有的地方或邊境的街道上映出的,作為同質化了的風景出現的景象。
追尋已經失去的原初的「故鄉」之旅,常常以無論去何處發現的都是相似的風景而告終。種村季弘在最近的文章中,以模仿本雅明的口吻敘述了「將陌生的城市認作出生的城市,將出生的城市認作陌生的城市的反向透視法(逆遠近法)」(《都市》創刊號),而我們的日本列島所有的,恐怕無疑是「陌生的城市」與「出生的城市」之間生長出的,無可救藥的時間和空間的扭曲所呈現在眼前的風景的同質化而已。這種風景如今無法代換成自然、風土之類的詞語,因為這種風景,是天然與人工突兀地對撞、裁剪下的產物。就如同以前在《薔薇與無名者》(芳賀書店刊行)中斷言的那樣,永山則夫沒有終點的「原初之旅」,必然是「為了將風景割裂而射發了子彈」。
我們在永山則夫的紀錄片的攝影過程裡,首要任務是反覆深化我們的視角,藉此嘗試捕捉作為風景的日本列島,除此之外一無所知。即使是同樣的旅程路線,我們所經歷的時間與空間仍不同於與永山則夫的軌跡。如果在兩者的時空中提煉出某種��素,那就真的變成風景了,就像繪畫一樣的,澡堂中的巨大筆劃一樣的,毫無掩飾欺騙(何のケレン味もない)的風景本身了。我們似乎在摸索與本雅明評價二十世紀初無名攝影家阿傑(Atget)所致力捕捉的「捕捉巴黎無人的街道的風景」,與下面的格言所述恰相反的循環:
「都說他以拍攝犯罪現場的方式拍攝風景,也的確如此。犯罪現場並沒有人通過。攝影是為了創造間接證據。照片經由阿傑,開始變成了歷史過程的證物。」(《複製技術時代的藝術》紀伊國屋書店刊)
我們與阿傑相反,是以拍攝風景的方式拍攝犯罪現場。雖然本雅明認為「對於群眾,城市有時是風景,有時是房間」,我們的攝影機之眼所看到的,只有「作為風景的城市」,而從未能到達「作為房間的城市」。這恐怕處於一種我們被周圍敵對的狀態,但與喜歡言必稱「狀況」或「情況」的知識分子的語彙不同,這說不定是可以從外側的物質性去感受到,一個除了風景以外、本身一無所有的下層大眾的唯一方法。無需贅言。只需強調我們所嘗試的,是透過風景去直接面對他的,或我們自己的,那個「不可見的故鄉」。
因此,我們在旅程的終點,在永山則夫數次返回的「東京」——可以視為來自邊境、不斷流浪的下層大眾之「故鄉」原型的這個混亂的巨大都市中摸索。然而,在我們的首都,是否曾經有過從那個地方城市的「祭典」所缺失的原初的狂熱呢?無需說,是不可能的。十月末秋季的某一天,通過新宿街頭的那次稱作「新宿祭」的空蕩蕩的遊行,我們恐怕永遠也無法忘記吧。在那幾天前,由某個宗教團體的鼓號隊帶領通過的祭典隊列,竟然成為了某種電視綜藝節目的絲毫不差的仿寫物。竟然將自己生出的媒體的「影子」模仿了個徹底,這個悲慘的本體!與此對應地,這裡化作了一個人影也沒有,只有機動隊的制服與自警團的私服非常顯眼的,彷彿戒嚴令下的死亡的街道。或許,那甚至不是風景,而是風景的葬送。「噓,安靜點!葬禮的隊列要從你身邊過去了。將你的雙膝跪地拜倒吧,唱起送葬的歌謠吧!」(Lautréamont)
然而,追尋更加原初的東西而帶著初生的能量加速度,嘗試在「東京」中實現「故鄉」的下層大眾,大概並不知道該去向何處吧。厭倦了模仿的祭典,慢慢看清了「東京」的背叛,他們像列斐伏爾評價巴黎公社那般,在「『祭典/節慶』之風格即公社的風格」之意義上,為了追尋一種真正祭典的狂熱,於焉開啟了沒有終點的「旅程」。這次,為了寫這篇稿子,讀了一些城市規劃與建築專家的都市論,其中唯一不停激發我思考的,是水木薰針對羽仁五郎的激進批判,說起來,水木薰是如此評價這種「旅程」的原初型態的:
「……他們輕易地擺脫了來自家庭與地方的權力束縛,獲得自由。然而,這種自由卻是透明危殆、難以依賴的。他們在巨型都市(megalopolis)中開始了浮游的生活,那甚至能不能稱之為生活呢?與這樣的社會底部的流動相比,希臘有拱廊(agora)的城市,而文藝復興時有據說是基於市民之自由與平等建造的的城邦國家,與此相比,他們有多麼不加思索或無能為力,只要考慮其流亡之劇的各種苦痛就十分清楚了。日大鬥爭,在某種意義上來說,可以視作是捨棄了故鄉的貧窮的年輕人,對大都市東京的反抗吧。失去了目的地的地方中小城市的中小工商業者的孩子們,如果不是不停地叛亂,甚至無法生存下去。」(《革命與烏托邦》芳賀書店刊行)
「捨棄了故鄉的貧窮的年輕人」,是在「對大都市東京的反抗」中,實現他們真正的故鄉的。水木薰的都市論的優越之處在於,不在歷史或當代的標準上為城市定位,而是從生成、爛熟、死滅的具體的運動過程中找到其位置。這是比吉本隆明提出的暗示性問題「城市何以為城市」更進一步,是「城市何以不再是城市」的一種反問。啊,城市的死滅!拒絕無名大眾所不停上演的「流亡之劇」在地方和中央、農村和城市、邊境和首都等等近似的兩分法中彷彿達成了的虛假的上升的錯覺,反而能夠直視,追溯人群的「原初」旅程,其實僅是意味著從下層到下層,從底部到底部,從貧民窟到貧民窟的移動,這不正是唯有能夠提出此種論斷,看清這一事實的透徹視點之人,才首先能從口中吐出的詞語嗎?
那時,他就不再會將城市視作風景,而是將激進地貫徹城市作為房間的屬性了。
我在這裡突然想起了雷吉斯·德布雷(Régis Debray)將城市稱作「可居煉獄」的苦澀發言。不用說,德布雷是在將討論範疇小心謹慎的限定在「與苦惱於人口集中的亞洲歐洲大城市相比的⋯⋯加勒比海諸城市」,即使知道這一點,不妨讓我們再仔細看看吧。
「住在城市裡的人們,即便是同志,與游擊戰士比較起來也在不知不覺中慢慢變成了市民階級。他們對於自己的行為,即餐飲、睡眠、移動等生存所要求的物質的艱苦為何物,已經不能理解了。游擊戰士是靠自己,用自己的手,自然地製造物質的,而他們已經不具備維持生命的手段了。城市人僅僅作為一名消費者存在。……對於每個人來說,人生都是不平等的,被給予的事物。人生作為完成的商品,在商店裡排成一排……雖然常說,我們泡在社會生活的浴缸裡,但是泡太久澡對於身體也是不好的。要理解這個不溫不火的孵化器,在多大程度上令人類發育不全,令人市民階級化,僅有一種方法,那就是跳出這個孵化器。」(《革命中的革命》晶文社刊行)
雷吉斯·德布雷在這個意義上,將「城市」作為對立面,將游擊戰士的真正的故鄉認定為「山地」。能嘲笑這種關於第三世界的斷言肯定命題式都市論的教條性和形而上性,是一件幸運的事情。我們生活在高度壟斷集中的核心,身處於日本列島整體化作一個巨大城市的變化轉型期裡。毋寧說,對我們而言,可以回歸的「山地」是不存在的。但是,我們在將城市佔領、解體,作為我們共同空間的革命長期戰爭中,如欲作為一名游擊戰士而生活下去,則必須在這個「可居煉獄」的正中間,立起我們所認定的「山地」。身在日本這個懷有對第三世界掠奪與殺戮原罪的、反革命的「祖國」,我們別無他法,只能竭力將此一煉獄實現為靈魂的淨化場。
正如各種「未來」學者與其亞流所奉上的漫不經心讚辭那般,據說我們正在進入的本世紀最後二十年,可預測的長期投資額累積達到五百兆元。在考慮戰後二十年國民生產總值上升至世界第三位的日本資本主義,在這個列島上投下的資本總額已經不能以三十兆而是以五十兆元來計算的事情時,接下來二十年的十倍投資,將無疑進一步促進日本列島巨大的城市化。然而我們不能將這份壟斷的奢昂攻勢視為日本帝國主義起飛的暗號,而要將其當作耳邊的喪鐘來聽。我們已經跟上了在風景的同質化中,從一個城市流浪到另一個城市的無名大眾的足跡。他們決沒有「主張真理是屬於自己的。他們從未『說出』自己代表了真理。因為他們『就是』真理本身。」(弗朗茲·法農)我們恐怕初次見證了我們下層無產者形成階級的轉型期。他們以流浪的存在形態佔領都市,作為資本主義的掘墓人,開始慢慢浮出���面。
「不可見的故鄉」在對真實的祭典的不斷試錯中將徐徐浮現。「必要的是在暗中突然出現的偶然的縫隙。只要有『縫隙』,人類就可以開始一些行動。人類是在自己的慾望相互碰撞、混沌的雜亂(chaos)裡生存著。」水木薰此處道破的條件,不可避免地將要到來。
必要的不是對下層大眾進行什麼「戲劇性想像力的復權」的說教。我們自身必須開始,邁向一趟為實現我們自身真理而戰鬥的,超越風景的旅程。
松田政男,風景としての都市
『風景の死滅』1972年1月20日
參考翻譯:1、2
#松田政男#masao matsuda#landscape theory#風景論#fukeiron#足立正生#masao adachi#aka serial killer#a.k.a. serial killer#略称・連続射殺魔#谷川雁#寺山修司#shuji terayama#gan tanigawa
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May 2024 Vacation in Hokkaido- 1 of 7
I. 北海道自由行 2024
自從前年由歐洲旅行回來之後就𣎴想再跟一大群人出遠門玩了。每天緊張的趕車趕船,到了景點又到處擠滿了人潮,停十幾分鐘打卡再趕下一站,這種玩法已經不適合我們這個年齡層的人了。老婆去年看到 YouTube 影片講日本北海道,就想去看看。提了幾次,見我沒動靜,又拿當地產的毛螃蟹影片誘惑我,我只好找資料,準備兩個人自己去玩。
因為是第一次去北海道,我行前參考了許多前人的旅行經驗。台灣有一位日本旅遊達人叫林氏璧,經營網站多年之後連台大醫生的職業都不願意幹了。他分享了很多親身體驗的城鎮和景點。加上許多 YouTuber 旅行記錄、旅行社的行程、各地區旅遊協會網頁,都是很好的參考。我須做決定的是要怎麼個走法。想玩很多地方,但是不要太怱忙,而且儘可能避免跟觀光旅行團的人擠。
我排了15天的行程:五月六日出發,二十一日返回。先到札幌 Sapporo,在車站附近訂了三天旅館,以它當據點坐火車到小樽 Otoru, 和洞爺湖 Lake Toya。第四天回新千歲機場租車,到滝川 Takikawa、美瑛 Biei、層雲峽 Sounkyo、網走 Abashiri、知床 Shiretoko、釧路 Kushiro、帶廣Obihiro、十勝Tokachi。回程先到機場還租車後住千歲 Chitose 一晚,隔天搭火車到機場返美。行程中只預訂了幾個大景點的旅館,前後都留有一天空檔,保持行程彈性,看情形再決定住那裡。
我們運氣不錯,全程只碰到兩天下雨。而且除了到札幌的第一天風大,氣溫只有攝氏六度,其他都是二十幾度的舒服温度。
第五天氣象預報後兩天會下雨,原來計劃隔天去大雪山的南邊看熊的,只好更改行程先去北見 Kitami。下午從層雲峽下山的路上果然開始飄雨。下雨天就只能找下雨天的活動。到狐狸牧場 Fox Farm 看完紅狐狸後找到一家溫泉泡湯去。自由行就是有這樣的好處。
我們旅行喜歡走山路和吃美食。北海道這兩樣都不缺。五月第二個星期,剛過「黃金週」,遊客不多,但也不冷清。粉紅色的櫻花也還開在樹上。楓樹、樺樹的葉��嫩綠,透過陽光,散發出淡淡的山林氣息。各地的海產都新鮮。沿海的魚、甜蝦、干貝、海螺、海胆更是又美味又便宜。南部是農業區,公路兩邊都是麥田和數不清的牛、豬大牧場。有名的十勝牛奶,鮮酪,冰淇淋,和甜點(六花亭總部就在十勝)。帶廣十勝地區的豬肉丼也是一絕。吃過之後回美國不要碰豬肉了!驚奇的是附近的國家公園。有大草原、沼澤,都整理的很好。下回有機會再來可以多待個三四天。
到北海道一定得提當地的溫泉。我從前出差到日本, 每次來去忽忙,除了開會討論就是吃飯。每次總是跟當地同事說等計劃結束,大家一起去泡溫泉喝清酒慶功,但是這夢想卻未能兌現。這次旅行總算泡夠了温泉。
沿途到處遇到台灣去的觀光客。有跟團坐遊覧車的,有夫婦帶小孩像我們一樣租車旅行的,也有好些單身背包客。大多數是日本旅遊的常客。我們在車站或在餐館有不懂的就問他們。每一個都好能幹,很願意幫我們,有鄉親真好。
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古典落語「開帳の雪隠」
むかし、開帳が流行したことがございます。 その時分の三開帳というのが、京都の嵯峨《さが》のお釈迦《しやか》さま、下総《しもうさ》の不動さま、身延《みのぶ》のお祖師《そし》さまという、お釈迦さまが両国の回向院《えこういん》、不動さまが深川の出張所、お祖師さまが浄心寺《じようしんじ》という、これが、そのころ名代《なだい》の三開帳、かならずあたってはずれがないと申しました。 ある年のことで、お釈迦さまが、両国の回向院で、六十日間のお開帳をしたことがありましたが、そのときは、めずらしくも六十日間、雨がふり通したとかいいます。それがために、お開帳はめちゃめちゃになりました。そのときの落首《らくしゆ》に、 褌《ふんどし》を忘れてきたか釈尊《しやくそん》は 六十日間ふりで開帳 などとのこっております。 開帳については、おかしいはなしがいくらもございます。 「吉つぁん、聞いたかい?」 「なにを?」 「こんど貧乏神が開帳するてえんだ」 「ふざけちゃあいけねえ。世のなかも変りゃあ変るもんだな。貧乏神なんぞが開帳をしたって、おまいりにいく者もありゃあしめえ」 「それが、どうしても、おまいりにいかなきゃあならねえことになっているんだ」 「どうして?」 「はり札《ふだ》がしてあるぜ。もしご参詣これなきときは、こちらよりおむかいにあがるてえんだ」 「そいつあおどろいたね。貧乏神なんぞにむかいにこられちゃあたまらねえ。むこうからこねえうちに、こっちから押しだすほうがよかろう」 というので、ぞろぞろというご参詣。貧乏神でこそあれ、とにかく神という一字がつくのだから、手をあわせて拝みます。お札がでる。お守りがでるという。あるひとが、貧乏神のお札なんぞなんになるもんじゃあないというので、はなをかんだり、土足《どそく》にかけたりしてすててしまいました。すると、そのひとの商売が、とんとんびょうしにうまくあたって、しまいには、たいそうな金持ちになりました。だんだん聞いてみたら、貧乏神の罰があたったんだそうで……なるほど貧乏神の罰があたれば金持ちになるかも知れません。
「どうだい、熊公、金もうけがあるんだが、半口《はんくち》乗るかい?」 「乗せてもらいてえね。なにをするんだい?」 「こういうわけだ。このあいだ、八丁堀までいった帰りよ。古道具屋の前に立つと、ふしぎなものがあったんだ。鎧《よろい》を着た軍人《いくさにん》が、馬の上へ乗ってるんだ。なんだかわからねえが、気のせいでみりゃあ、八幡さまにみえるんだ。ところで、どうでえ? ひさしく開帳がねえから、鎌倉の八幡さまの開帳という触《ふ》れこみで、銭もうけをしようてんだ」 「なるほどね、開帳をするにゃあ、宝物《ほうもつ》がなくっちゃあいけねえが……」 「それも、いろいろと宝物をあつめたなかに、骸骨《がいこつ》がひとつあるんだがの、それをもったいらしく、桐《きり》の箱にでもいれてよ、頼朝《よりとも》公の骸骨《しやれこうべ》とやっちゃあどうだろうとおもうんだ。どうでえ、いまごろ、八幡さまの開帳に、頼朝公の骸骨があるなんざあ、気がきいてるじゃあねえか」 「なるほど、こいつあうめえや。やってみよう」 わるいやつが相談をして、山師《やまし》の開帳ということになりました。ただいまならば、新聞で知れわたりますが、そのころのことでございますから、ほうぼうへビラをはります。 鎌倉の八幡さまのお開帳というので、ぞろぞろというご参詣でございます。 正面が、鎌倉の八幡さまのお開帳、霊宝物は、左へ左へというので、きてみますと、口上をいう男が、高慢《こうまん》な顔をして、 「そもそもこれに安置したてまつるは、右大将頼朝公の骸骨《しやれこうべ》、近う寄って御拝《ぎよはい》あそばされましょう」 「おう、金ちゃん、みたかい?」 「なにを?」 「頼朝公の骸骨をよ」 「みたよ。どうもおどろいたね。頼朝公てえひとは豪勢《ごうせい》だ。骸骨になっても目が光るな」 「うそをつけ。骸骨の目が光るかい」 「そもそもこれに安置したてまつるは、右大将頼朝公の骸骨《しやれこうべ》、近う寄って御拝あそばされましょう」 「ああ、もしもし、ちょいとおたずね申しますがね」 「はいはい……そもそもこれに安置したてまつるは……」 「いや、そんなに大きな声をださなくってもいいんだ。わたしはなんにもよく知らねえ男ですけどね、頼朝というかたは、おつむりが大きいかただと聞いてますが、その骸骨は、だいぶちいせえようですね」 「もっとも、これは、ご幼少の折りの骸骨」 てんで、ずいぶんひとを食ったやつがあったもんで……なんぼ頼朝公だって、いくつも骸骨があるもんじゃあありません。
「おう竹さん、こんどひさしぶりで、回向院の開帳があるんだ。それについて、ひとつ銭もうけをしようとおもうんだが、片腕貸さねえか?」 「どういうことをしようてんだ?」 「どうだい? 雪隠をこしらえて、四文ずつとって貸そうてんだ」 「なるほど、こいつはおもいつきだ。やってみよう」 これから、本堂へかけあってみましたが、ゆるしてくれません。しかたがないから、番人にいくらかにぎらして、本堂からすこしはなれたところへこしらえました。こしらえたといっても、穴を掘って、四斗樽を埋めて、板を二枚わたして、しゃがめば用の足せるように、四方へ青竹を立てて、それへこもをつるして、なかがみえないようにしてあるだけのもので、それで、四文ずつとって貸そうというんですが、江戸時代には、共同便所などというものができておりませんから、これで結構役に立ったわけのもんで……それに、電車や自動車というものがございませんから、山の手辺から本所の回向院までご参詣となると、半日ぐらいはかかります。ことによれば、一日のひまをつぶさなければなりません。はばかりへいきたくなると、むかしのことですから、男ならば、川ばたとか、または、ひとのいない新道などで用が足せますが、ご婦人がたは、それができないために、食べたくもないそば屋へはいるとか、汁粉《しるこ》屋などへおはいりになって、はばかりを借ります。それをみこんでやったのが、この開帳の雪隠というやつで…… 「さあさあ、雪隠《ちようずば》を貸しますよ」 「あのう、少々うかがいますが……」 「はいはい」 「はばかりを拝借しとうございます」 「よろしゅうございます。四文いただきます」 「……そのかたのおあとで、わたしにどうぞ……」 「へえ、どうぞ……こちらへお代《だい》をいただきます」 「雪隠をお貸しなすって……」 「はい、よろしゅうございます」 「はばかりをどうぞ……」 「へいへい」 「子どもをひとりつれておりますが……」 「お子ども衆は、半分でよろしゅうございますよ」 「雪隠を貸してください」 「へいへい、ええ、ご順になすってください……お早くおねがいいたします。お腹《なか》のくだってるかたなんぞは、あとまわしにしてください」 わいわいと借り手がやってまいります。夕方になりますと、 「どうだい、たいそう銭があつまったな。八貫(八千文)二百とあがった」 「ありがてえな。おつなもうけだぜ。なにしろ資本《もとで》がかからねえんだからな。このぶんでいくと、一身上《ひとしんしよう》できるぜ」 毎日毎日、莫大《ばくだい》なもうけがございます。すると、ある日のこと、 「どうしたんだい? きょうは、ちっとも雪隠《ちようずば》を借りにこねえな。これだけひとがでているのに、おかしいじゃあねえか」 「してみると、糞《ふん》づまりばかりでてきたかな?」 「まさかそうでもあるめえが……ちょいと、ようすをみてこよう」 ひとりが、ぶらりとでてみますと、お客���こないのも道理で、十五、六間手前へ、こんどは、本式の雪隠ができました。 屋根が杉皮で葺《ふ》いてあって、四方は、青竹で四つ目垣、なかへはいってみると、きれいに掃除がゆきとどいていて、線香立てのなかへ、お線香が、二、三本立っていて、臭気どめになっております。きれいな手洗い鉢へ水がなみなみと張ってあって、あたらしい手ぬぐいがぶらさがっている。それでもやはり四文でございます。 「おっ、兄弟、だめだよ」 「なにが?」 「油断大敵《ゆだんたいてき》だ。このさきへすばらしい雪隠ができた」 「ふーん」 「それで、やっぱり四文で貸してやがるんだ。おなじ四文なら、おれでもむこうの雪隠へはいるね。もう、とても銭もうけはできないよ」 「おやおや、おどろいたな。たまにおつなもうけがあるとおもやあ、どうもうまくいかねえもんだ……ちょいと、いってくるよ」 ひとりが、おもてへでてまいりました。
「少々うかがいますが……」 「なんです?」 「雪隠を貸していただきたいんで……」 「へい、よろしゅうございます。四文いただきますよ。ごゆっくりなさい。きょうあたりは、なかで、昼寝でもなすってもよろしゅうございますから……」 「ええ、雪隠をお貸しなすってください」 「へいへい、つぎのかたがみえましたから、ただいまのかたは、お早くねがいますよ」 「はばかりを拝借したいんで……」 「へいへい、どうぞ……」 「雪隠をお貸しなすって……」 「おあとは、わたしに……わたしは、子どもをひとりつれておりますが……」 「そのつぎは、わたしにどうぞはばかりを……」 「へいへい、ご順にねがいますよ。そう押しちゃあいけませんよ。あぶのうござんすから……なるべくお早くなすってくださいよ。ええ、ご順に、ご順に……」 わいわいとお客がまいります。夕方になると、相手の男が、ぼんやりと帰ってきました。 「おい、どうしたい? じょうだんじゃあねえやな。おめえ、どこへあそびにいってるんだよ? いそがしくて、いそがしくて、おらあ、てんてこ舞いをしたぜ。銭だって、おれひとりだから、どのくらいとりそこなったか知れねえやな」 「おれがでていったら、客がうんときたろう?」 「きたから、ひとりじゃあ弱ったんじゃあねえか」 「うん、お客のくるわけがあるんだよ」 「どうして?」 「おらあ、四文払ってな、いままで、むこうの雪隠へへえったきりだった」
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積丹 -Shakotan-
写真は積丹半島を車で走りつつ、ちょっと止まって写真を撮ったものの中から。 3枚目はウチの先祖代々の墓。笑 4枚目なんて何を写しているか分からないが、ちょこんと屋根が見えるのが、父が昔暮らした家である。良い言い方をすると別荘。笑
私自身は札幌生まれ札幌育ち(大学時代は函館)なのだけど、父親が積丹出身だ。 積丹と一口に言っても、美国から神威岬まで、積丹半島の上半分が町の区域になるので結構広い。面積で言えば人口が60倍近い小樽市と同程度である。 その中で父が住んでいたのは積丹半島の先っちょ、西河と呼ばれる地域で、家の目の前は国道229号を挟んですぐ海である。 父は積丹で小学生の途中までを過ごしたらしい。その後、親(私から見ると祖父)の事業の関係で札幌に越してきている。
で、父の昔話というと積丹の話になるのだが、それが結構面白いので私が小さいころに聞いたことでも覚えていることが多い。曰く、
・(私の名字は佐藤だが)佐藤家は昔ニシン漁の網元だった。 ・家紋は丸に橘、屋号はカネシメ。 ・今、ウチの土地の前を国道229号が走っているが、昔はこの国道の位置に番屋があった。 ・お上が国道を作るという言うので立ち退いて、離れにしていた別宅に移り住んだ。 →これが今ほぼ廃墟になっている4枚目の写真の家である。春先に除草剤を撒いておかないと、夏には雑草がご覧の通り生い茂って玄関まで辿り着けない。笑 ・西河の一帯はウチの土地だった。ばあさん(私の曾祖母)が、地元発展のために土地を分けてくれてやった。 ・おかげで日司(近隣の中心地)の運上屋はウチのばあさんに頭が上がらなかった。ちなみに西河の西側に来岸という地域があって、ここに今「運上屋旅館」があるが、ここは元々は日司の運上屋の出張所だった。 →土地云々のことはほんとの話かどうかまったく不明だが、確かに4枚目写真の家の壁には町長やら偉そうな人からの感謝状が額に入れられてびっしり飾られていた。確か私の曽祖父宛ての名前だったが、曽祖父は入婿だったので実質的な権威者は曾祖母だった。昭和初期としては珍しいかもしれない。ちなみに曾祖母は明治36年の生まれで、長生きしたので一時期私が小さい頃、自宅で預かっていたことがある。女傑と言ってもよい気の強い性格で私の母は世話するにも難儀していた。笑 ・函館戦争で逃げてきたお侍(兵隊か?)を匿ってやったことがあり、そのお礼で備前長船をもらった。 ・その刀は太平洋戦争中、軍に接収された(というよりばあさんが自分から差し出した)ので今はない。 →これもほんとか不明。本物の備前長船であれば相当な業物だが、そこまで良い刀がそのへんに転がっているとは思えないので、普通の軍刀だったのではないか。 ・向かいの浜に木彫りの仏像が流れてきたことがあり、しばらく家の仏壇に置いて拝んでいたが、あるとき檀家になっている寺の坊さんが来たとき、その仏像を見て大層ありがたいものだと言うので、寺に寄進した。美国の本行寺という寺だが、今もどこかに残っているはず。 →昔は、海とか川に流れてきたとか、田んぼで掘り出したとか、偶然見つけた仏像などをありがたがる風潮があった。そういえば寺にも相当寄付していたようで、礼板に曽祖父の名前があったと記憶している。寺とは昔からの付き合いで、しかも田舎は檀家の力が強いので、今でも佐藤家の親戚筋で葬式があると、父の兄(私の伯父)が「いついつどこで通夜やるから戒名考えて位牌用意して持って来い」という感じで 勝手に坊さんのスケジュールを抑えてしまう。私自身は寺とは無縁だが、こういうときは便利だと思った。
などなど、父に話を聞けばまだ出てくる。
こういった話を聞いていると、「そもそもウチの先祖はいつから北海道にいるのか?何しに来たのか?」と疑問が浮かんでくる。
こういうとき、名字がヒントになるのだが、佐藤という名前は日本でもっとも勢力のある名字で一般的すぎるため、名前を元にルーツを探ることに意味がない。笑 ということでとりあえず、何年か前に戸籍(除籍)謄本を遡れるだけ遡って取得したことがある。 結果的に高祖父の父(ひいひいひいじいさん)は「彦市」という名前だったことまでは分かり、且つ彦市の妻は「カネ」という名で、青森県北津軽郡脇元村の山田長兵衛の長女として天保三年(1832年)に生まれていたことも分かったが、彦市自身の出身地や生年までは不明だった。高祖父(ひいひいじいさん、彦市-カネの長男)は「巳之」という名で、安政四年(1857年)の生まれだった。このころから(もしくは明治に入ってから?)積丹に居たということは言えそうだ。
巳之は明治24年に松前出身の「オミ」という名の女性を妻に迎えている。が、よくわからないのは、巳之はオミと結婚する前の明治21年に「市三郎」という名の長男を儲けているのである。戸籍を見ても市三郎の母の名前が空白になっており、誰が母親なのか不明なのだ(私生児だったのか?)。実際、市三郎は長男ながら分家扱いになっており、西河の東にある「泊」という地域に居を構えた。市三郎はその後七男二女を儲けている。この七人もいた男子はほとんど太平洋戦争で若いうちに亡くなったが、二女のうち姉のほうが数年前まで存命しており、私の父はその人のことを「泊のかあさん」と呼んで毎年一度は顔を出していた。 これには若干複雑な理由がある。先の巳之とオミの間には嫡出児として男子が二人いたが、これはいずれも早世してしまい、他に「ミ子」と「ミキ」という名の女子が二人いた。私の曾祖母は「ミキ」である。「ミ子」がどうなったのか、謄本には記載がないのでわからないのだが、ミキが跡取りになっているため、ミ子は貰われていったのだと思われる。 ミキは女ながら跡取りを担うため、婿養子をもらった。ところがミキには子供が出来なかった。そこで分家となっていた市三郎の二女のうち妹のほうを養子に迎えた。これが私の祖母になる。つまり私の父にとってみれば、市三郎の二女の妹のほうが本当の意味で「かあさん(お袋って呼んでた)」、姉のほうは母親の姉なので住んでいる場所の名から「泊のかあさん」という呼び方になったようだ。
長々と家系の説明をしてしまったが、要するに戸籍を遡っても私の先祖が積丹に来る前のルーツは分からなかったということである。
それでも戸籍謄本とそこから起こした家系図を眺めているとなんとなく推測できることはある。 彦市の妻、カネは青森県北津軽郡脇元村出身だと述べた。市三郎の妻も青森北津軽郡脇元村出身、ミキが婿養子に迎えた私の曽祖父も青森北津軽郡内潟村の成田家から来ている。脇元村も内潟村も今はもう消滅してしまったが、ここまで青森県北津軽郡のつながりがあるということは、元はこのあたりから北海道に渡ってきているのではないか、と推測できる。
歴史的な側面で考察すると、松前藩は北海道では米を取れないことから、家臣に知行地を与えることができず、代わりに北海道で採れる貴重な海産物などの交易権を知行として与えた。が、武士に商いは向かず、そのうち商人に実際の交易を丸投げするようになった。こうして「場所請負制」という制度が出来るのだが、これについての詳しいことは省く。 場所請負人が活動する拠点を運上屋と呼んだ。運上屋は道内各地に80数箇所あり、このうち一つが今の積丹町日司にあったということだ。 また、明治に入る直前まで、松前藩は「神威岬は女人禁制」とし、和人が神威岬以北に居住することを禁止していた(松前藩が独占していた道内の商流を守るため、と言われている)。そのため、積丹まで漁に来る和人は、松前や津軽からの出稼ぎが多かったらしい。 私の先祖もこういった出稼ぎ人の一人だったと考えると、津軽とのつながりも自然と頷ける。 1855年に蝦夷地の大部分が幕府直轄になり、松前藩による様々な制約が解かれると、積丹に居住する和人も増えた。 私の先祖が本当に先に述べたような大層なことをやっていたのなら、積丹町史に名前でも載っていないかと調べたが、まったく痕跡は無かった。笑 とはいえ、積丹町のメインの地域は美国である。西河なんぞ田舎の田舎で、そもそも大した情報はなかったのだけど。
由緒のある家ではないので、調べても行き詰まってしまうのは仕方ないか。
#積丹#Hokkaido#Japan#Nippon#Leica#SONY#a7iii#Street Photography#original photographers#photographers on tumblr#Black and White#monochrome#alley#abandoned
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【中日鈴響】 2022.05.12 台中霧峰台灣現代音樂鈴博物館,日本北海道小樽音樂盒堂…
台中霧峰台灣現代音樂鈴博物館是2019年才蓋好開放的,
我在 google 地圖上看到的台灣現代音樂鈴博物館,
先上網看看博物館的FB~
台灣唯一一家製作音樂鈴機芯的觀光工廠,
歡迎您進入音樂鈴的奇幻世界。
溫馨5月~母親節快樂
台灣現代音樂鈴博物館~正常營運哦
歡迎大家來走走
一同防疫 ,與您共同努力
聖誕鈴聲響叮噹
不用到日本小樽音樂盒博物館,就能挑選自己喜歡的音樂DIY成音樂盒帶回家,
還有免費草坪溜滑梯、彈跳床,銅板價格就能搭蒸汽小火車~
台灣現代音樂鈴博物館
全台唯一音樂鈴博物館 在台灣42年的故事
協櫻精密工業
地址 : 台中市霧峰區豐正路405號
5/8 母親節正常營運,我搭計程車前往參觀。
廠區鄉間小路,大門圍牆是鋼琴黑白鍵圖樣,
右邊是博物館,中間是工廠,左邊是音樂盒展售中心。
廣場蒸氣小火車
休閒遊樂設施
免費草坪溜滑梯
博物館
門票有2種
350元含手作音樂鈴一份
200元只參觀 無手作音樂鈴 我今天選這個
2種票價都有導覽 約40分鐘
博物館館內展廳
奧菲斯影音劇場
展示的大型音樂鈴是樺木,日本製的,價值200萬元以上~
隨著唱盤的轉動,音樂盒發出悅耳的聲音,相當好聽。
說明 :
機芯
音樂鈴各部品示意圖 18音標準型
音樂盒種類 :
鍍金迷你仿古音樂盒
日本會津漆器珠寶箱音樂盒
鋼琴系列音樂盒
木製各式音樂盒
搖頭布偶音樂盒
蛋雕精品音樂盒
很特別的蛋雕精品,有鴕鳥蛋、鴨蛋、鵝蛋,
全蛋或是蛋殼剖半組合成的蛋殼音樂鈴喔~
玻璃製品音樂盒
陶瓷各式音樂盒
裱紙產品音樂盒
音樂盒展售中心
賣東西的館,這裡是免費的,可以參觀。
台灣現代音樂鈴博物館製造的機芯有提供給日本北海道
小樽音樂盒堂使用喔!
上網查一下小樽音樂盒堂資料
LIVE JAPAN日期 2020-08-27
小樽音樂盒堂全攻略:本館、2號館古董博物館、手工製作遊工房
小樽音樂盒堂 主館 照片來源 LIVE JAPAN
小樽音樂盒堂是日本最大規模的音樂盒專賣店,
本館就有約3,400種、25,000個以上的音樂盒商品,
建物1989年登錄為小樽市指定歷史建築物,
正面入口前蒸氣鐘高達5.5公尺、寬1公尺、重達1.5噸,
是世界最大的蒸氣鐘,也是世界第一座蒸氣鐘。
大廳堂賣場,有玻璃、木頭、陶瓷、旋轉木馬、布偶的音樂盒。
玻璃天使的音樂盒照片來源 LIVE JAPAN
小樽音樂盒堂本館2樓 照片來源 LIVE JAPAN
在3樓的「Easy Order專區」可以選擇曲子、音樂盒搭配組合喔!
小樽音樂盒堂「2號館古董博物館」 照片來源 LIVE JAPAN
從本館到2號館只需步行1分鐘的距離,這裡有約830種、8,000個以上的商品。
在本館附近的「手工製作工房 遊工房」可以製作的音樂盒。
交通方式
從札幌搭乘JR函館本線往小樽方線的列車,於南小樽車站下車,
步行7分鐘即可到達小樽音樂盒堂。 開車時從札幌使用國道5號或札樽自動車道(收費)前往
小樽音樂盒堂。
���中霧峰台灣現代音樂鈴博物館和日本北海道小樽音樂盒堂 ,
館藏品的陳列,見證著音樂鈴產業的歷史,讚喔!
作者 : 藝術���坊
拍攝器材 : iPhone 8 & iPad
Email : [email protected]
居住地:台中市南區
參考資料 :
Google
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‘18 チャリツーリング【四日目:09/05 ⑦臨時列車倶知安行】
新潟市東区寺山でバー【eN de baR】を営むマスターが
札幌へのお墓参りをメインの目的とした自転車ツーリング
をしたときの記録です。
長万部方面倶知安行きの臨時列車を待っている間、小樽市街を散策していると細い路地で雰囲気良さそうなバーを発見。タンカレー2杯飲んでのんびりしているとあっという間に臨時列車発車の時間で、臨時列車を 一本逃す。居心地の良いバーだったのでやむを得ず。また小樽に来た時にゆっくり訪れたいです。
二本目の倶知安行きの臨時列車は、酒飲みに出ず待機して乗り込み、倶知安駅へ移動。
倶知安駅に到着するとすでに21:00過ぎで、小雨が降っている状態。倶知安町は何度か訪れたことがあり、駅から1kmくらい先の旭ヶ丘公園内にキャンプ場があることが分かっていたのでそちらへ移動。
倶知安でも派手に台風21号が吹き荒れたようで、旭ヶ丘公園は看板や木が折れたり倒れたりしてる状態。キャンプ場へ向かう道も電線が道路に垂れ下がっているらしく通行止め。仕方なく公園内で木とかが倒れてこなさそうな場所をじっくり選んで、芝生の片隅にテントを張って宿泊。
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【事故】札樽自動車道 新川インター入口で横転事故 渋滞「軽自動車がひっくり返っている」現地の画像まとめ
6月23日、札樽自動車道 新川インター入口で横転事故が発生し、渋滞している模様です。現地の画像やツイートをまとめています。 Source: まとめダネ
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北海道の旅
2017年の夏休みの旅行先を検討し、北海道へ行くことにしました。秋の9 月頭の朝に成田空港から飛行機で2時間かからずに新千歳空港に着きま した。長い飛行便ではありませんのであまり疲れませんでした。
飛行機を降りた途端にまだ9月だというのに意外と寒いと感じました。 軽い荷物しかもっていなかったので早速空港を出て、空港バスに乗りま した。
今回は一人旅なので、民泊を体験したくて、予約しておきまし た。当日、大家さんに用事があって家にいなかったので、事前にメッセ ージで案内してくれました。案内を受けたのですが移動中心配で 迷っ たらどうしようかと思いました。おかげさまで、無事に大家さんのお住 まいを見つけて、家に到着しました。
大家さんはとても綺麗な部屋を準備したり、交通とレストランの案内書 を置いたりしてくれました。荷物を片付けた後、すぐに出かけて札幌市 に向かいました。バスに乗ってそれから地下鉄に乗り換えトータル50 分ぐらいかかって札幌駅に着けます。今回の旅で都市への移動時間は唯 一のデメリットだと思いますが、余裕がありましたので問題ありません でした。
札幌に着いて時計台、テレビ塔、大通公園を見に行きました。札幌は大 きい都市なのでここの生活は東京に近くて気になることがなかなか見 つかりませんでした。電車とバスの時間を把握していませんから夜ご飯 を食べて早めに部屋に戻りました。1日目終了です。
2日目、札幌駅から9時20分発のバスツアーを予約しておきましたから午 前8時に家を出て札幌に向かいました。今日の目的地は 旭川市にある旭 山動物園です。高速バスで2時間ぐらいかかって旭山動物園に着きまし た。そこで3時間自由観光になりました。以前名古屋にある動物園へ行 ったことがあって、旭山動物園より規模が大きくて、動物の種類が豊富 だと思いました。なので個人的に自分にとってはこの動物園は特にイメ ージが残りませんでした。
札幌に戻って札幌ビールファクトリーを見に行ってそれから部屋へ帰 りました。
3日目もバスツアーに乗って、このツアーは順々に富良野プリンスホテ ル、ファーム富田、四季彩の丘、美瑛パッチワークの路、ケンとメリー の木、セブンスターの木に行きました。北海道の自然がすごく素晴らし かったです。
4日目は事前にバスツアーを予約していたのですが、先日のツアーで1 日に約250キロ移動してちょっと疲れたので、大家さんの意見を参考に してツアーをキャンセルして、代わりに電車で小樽に向かうことにしま した。
札幌駅から電車で30分ぐらいかかって南小樽駅に着きました。ここから 小樽運河に向いて歩きました。写真を見た時に綺麗で複雑な運河システ ムだと思ったんですが、実際は短い運河でちょっとがっかりしました。 運河に沿って散歩して、ランチを食べて、それから小樽駅へ向いて札幌 に戻りました。
午後に有名なイチョウ並木を見たかったので北海道大学へ行きました。 北海道大学はすごく大きくて、自分の大学はかなり広いと思ってるんで すがここは何倍も広いです。長い間迷って最後にイチョウ並木の場所が 見つかりました。当時紅葉がまだ出てこないが紅葉の素晴らしさを想像 できました。
5日目の朝に荷物を片付けて、大家さんに挨拶しました。それから空港 に向かって東京に戻って休暇を終了しました。
北海道の気候は厳しいと聞きましたが、自然の景色が素敵です。 おそらく成長する環境が辛ければ辛いほど活気や景色などがもっと素 晴らしくなるのかなと考えています。機会があれば、この土地に戻りた くて四季を体験したいと思います。
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