#文化勲章おめでとうございます
Explore tagged Tumblr posts
Quote
「御即位式」 大正天皇の御即位式が行われたのは、青島陥落の翌年、大正四年十一月十日だった。御即位式のことを、一般に御大典といったが、明治天皇の御大葬が、日本が文明開化の代になってから初めての出来事であったと同じように、御即位式もここ数十年の間かつてなかったことではあるし、欧州戦線のあおりを受けて、丁度日本が好景気のさなかだったので、全国民挙げてお祝い申し上げたのであった。その時僕は、五年生になってゐた。 その日は、学校で祝賀式があって、新しい天皇陛下の御真影を拝み、「君が代」を斉唱し、教育勅語の拝読のあと、校長先生から色々のお話があって、天皇陛下万歳を三唱して、その日の授業はお休みになった。 明治天皇の御真影はどうなったか知らないが、新しい天皇陛下の御真影を頂く行事があったことを覚えている。尤も、それが何年の何月だったか忘れたが、御即位式よりも前だったことは確かである。 多分、神戸の県庁で、校長先生が頂いて帰られたのだらうと思う。何時何分に御真影が姫路駅にお着きになり、何時何分に学校にお着きになる、と時刻予定がきまって、全校生徒は、校門の前にズラっと両側に整列して、お迎えした。その時刻の少し前から、学校前の道路は一般の通行禁止になって、警官が警戒に立ってゐた。 待つほどに、京口橋の方から、人力車がボツボツ来るのが見えて、「気をつけ!!」の号令がかかった。見てゐると、警官が一人、車の前をテクテク歩いて、人力車の上には、校長先生が白手袋の両手で、大きな紫色の風呂敷包みを、おもそうに捧げて居られる。それがやっ��見えた頃に「最敬礼!!」の号令がかかった。しばらくすると、警官の足と、車夫の足と人力車の車輪、その後にもう一人の足が、目の前を通って行った。 その日しばらくしてから、講堂で、御真影奉戴式があった。明治天皇が崩御になってから、三大節にも、講堂の御真影の棚は開かなかったが、新しい天皇陛下の御真影を頂いてから、前通に、御真影奉拝の最敬礼が、よみがえったのであった。 御即位祝賀式のときには、校長先生から、御即位式について色々お話があった。万世一系の日本では、一日一刻も天皇陛下のない時があってはならぬので、明治天皇がなくなった時、すぐに、当時の皇太子殿下が三種の神器をお受けになって、天皇の位につかれた。それを践祚(せんそ)といったが、天皇陛下がその位におつきになったことを、天照大神その他の御先祖に報告されなければならぬし、国民一般に又外国にも、そのことをハッキリ知らせなければならないので、先帝陛下の喪が明けてから、その儀式を行われるのである。この御即位式は、大昔から続いてゐる儀式だから、昔からの仕来り通りに、元の皇居である京都御所の、紫宸殿という第一の御殿で、古式通り厳かに行われるのである、というようなお話であった。 御即位式の日取りがきまると、その儀式のことや日程が、次々に新聞で細かく解説予告されてゐたが、いよいよ式が始まると、天皇陛下が東京を出て、京都に向かわれる鹵簿((注)ろぼ=天子の行列のこと)や、関連の色々な写真が、その記事と共に、次々に掲載された。新聞もここ数年の間に非常に発達して、写真版などもきれいになってゐた。 又、前年の青島陥落のときと同じように、全市を挙げての祝賀行事が催され、我々小学生は、日の本の小旗をかざして、町々を旗行列をし、夜は夜で、色んな団体の提灯行列が、いくつもいくつも、「祝えや祝え!!」と歌いながら、又、それぞれで万歳万歳!!と、市内を行進して、大変な賑やかさだった。 御即位式のときに、国家社会に功労があって勲章を頂いてゐる人に、天皇陛下からごちそうを下される、ということがあった。特別立派な勲章を貰ってゐる人は、東京に召されるのだが、勲五等だった父には、神戸の県庁でごちそうを賜るというので、菊の御紋章のついた御召状が届けられた。 父は以前に、広島や大阪に勤めて、軍需品の納入その他のことで、功績があったのだそうで、勲大等の旭日勲章を頂いたが、僕がごく幼い頃、専売局に勤めてゐた時に、一段進んで、勲五等になり、瑞宝章を頂いてゐた。だから、今では民間の塩田業者であったが、御即位式の御馳走に召されたので、大変の喜び方で、あちらやこちらで、大自慢にしてゐたが、いよいよその日には、朝早くからフロックコートを着て、これが勲五等の瑞宝章だ、これが勲大等の旭日章である。旭日章は本当に手柄がなければ頂けないので、一段下ではあるがこの方が立派なのだ。これが日清戦争の従軍章、これは北清事変(明治三十三年)の従軍章、これが日露戦役の従軍章だと、一つ一つ、僕に説明しながら、それを胸にズラッと吊り並べて、シルクハットをかぶって、意気揚々と停車場に向かった。 その日、もう日が暮れてから、父は、胸いっぱいに勲章を飾ったまま、人力車から自分独りで降りるのが危ないほど酒に酔って、それでも白い風呂敷包みだけは、大切に持って、帰ってきた。その風呂敷包みには、その日の御馳走が入ってゐたのである。素木の足のないお膳と、素焼きのお皿や瓶子(へいし)のようなものと、銀色のボンボニールとかいうものを取り出して、これには何が入ってゐた、これに何がと、一つ一つ説明してくれたが、どれも空だったことを記憶してゐる。
大正天皇の即位式の日のことが、大伯父(祖母の兄)の遺した回顧録に記されてました。 従兄弟が見つけて、文字起こしまでしてくれた! けっこう貴重な資料だと思う。
13 notes
·
View notes
Text
読書感想文40
娼年/石田衣良
ネタバレを含みます
今月上旬に"(電池の都合で)極力スマホを使わないようにして長時間を過ごさなければならない"状況があったため文庫本を数冊調達しまして、今回感想文を投稿する『娼年』もその中の一冊だったりします。
いい意味で想像と真逆の爽やかな話でした。何というか、もっと「滾る肉棒を濡れそぼった裂け目に突き立て……」的な、淫欲!売春!疼く肉体!暴力!荒廃そして退廃!!みたいな内容かと思��ていたんですね。そしたら極めて健康的かつ明るい話で、ラストは胸がすく思いでした。タイトルで判断してはいけませんね(もしかして:にんじん)。
ものすご~くざっくり内容を記しますと、"世のなかすべてつまらない"と大学もろくに行かずバーテンダーのバイトに明け暮れるリョウこと森中領がとある女性との出会いをきっかけに体を売るようになり、女性に買われる体験を通じつまらないものと考えていた(特定の人物ではなく全体としての)「女性」と向き合い、新しい自分に成長していくストーリーです。主人公が春を鬻ぐ身である以上当然セックス描写は沢山盛り込まれているのですが、フランス書院的な生々しさはそんなにない……ように感じました。断じて読んでいて退屈とかリアリティがないとかそういう訳ではないのですが、恐らく石田衣良もこの部分はそこまで力を入れる部分ではないと判断したのではないでしょうか。
2018年には松坂桃李主演で映画化も果たしているのですが、松坂桃李はWiki曰く現在35歳だそうなので、上映当時は……え、29歳か30歳ってこと……???わ、若見えすぎて怖いです。
あとNETFLIXくん、何故リョウじゃなくてアズマ???
※視聴していない為あくまでこのキービジュアルを目にした個人的な感想になりますが、アズマのイメージが自分のものとかなり違っておりました。いや、あの、原作に"肩にかかる長髪が揺れると、さらさらと乾いた砂がこぼれる音がきこえそうだ"とか"家出中に保護された少年のようなポラロイドだった"とか、彼の口調であったりとか、こう、全体的に未成熟で幼い、華奢で中世的な美少年というイメージなんですが……アズマ役を演じた猪塚健太は1986年生まれだそうなので、正直もう10歳くらい若い俳優でもよかったんじゃないかな!?と思いました。映画化より前にされていた舞台化にて、やはり同様にアズマ役を演じていたため、そのまま引っ張ってきたんですかね。別に役者のアンチとかではなくちょっとビジュ等が私のアズマ像とかけ離れていたなぁ……というだけなんですけれども(個人的には清水尋也ぴったりすぎんじゃね!?と思ったのですが、彼は186cmもあるんですね……)。
閑話休題。冒頭にて極めて健康的かつ明るい話であると書いたのですが、正直タイトルからはそうは思えないことでしょう。
ここからはがっっっつりネタバレ(とツッコミ)ありで書いていきます!
リョウは10歳の時に当時37歳だった母を病で失い、大きな喪失感と絶望感を味わいます。そして、その影響か彼は年上の女性を好む傾向があり、交際や性行為に対しても何の抵抗もなく受け入れられる人間になっています(終盤で明かされるのですが、リョウが春を鬻いでいたのと同じく、リョウの母親もまた"そういうこと"をしており、彼女は売春をしにいった出先で亡くなっております)。リョウは"大学に行こうとすると足が動かなくなる"程度には学業にやる気がなく、"女なんてつまらない"と公言する程度には色恋沙汰にも興味がありません。"大学も友人も家��も、世のなかすべてつまらない"のです。若造がこんなこと抜かしてたら腹立つな……というのは置いといて、現状に倦んでいることが冒頭部分で嫌というほど伝わってきます。
なお、本作に於いて母親はキーパーソンとして扱われておりますが父親は全くストーリーに絡むことはなく、リョウの回想に出てくる(1Pにも満たない)程度です。まぁ家族つまらね~って言っちゃってますしね……不仲なんでしょうかね。中盤で"娼年"の収入を持て余している描写があるのですが、学費は誰が払っているのかが気になって仕方ありませんでした。国公立の大学に通っているのでしょうか。知らんけど
リョウが務めることとなる会員制ボーイズクラブ『Le Club Passion』のオーナー・御堂静香……彼女との出会いは、中学時代の同級生で現在はホストのシンヤがバーへ連れてきたことから始まります。静香は太客になる、と張り切るシンヤのイキりぶりがアイタタタ……となりました、えぇ。静香2回目の来店にて、リョウは彼女から「セックスを退屈なものだと言っていたリョウの、そのセックスを採点してやろうじゃねーの、あーん?(※意訳)」と言われ、その誘いに乗り、静香の娘にして聴覚障害者の咲良とセックス→咲良の力添えのもと静香のテストに受かりそして娼年へ……(はしょりすぎ)。
静香は初めてリョウと会った時に、アンニュイで達観したような、言い換えれば落ち着きのある振る舞いであったりセックスをつまらないと切り捨てる傲慢さであったり、通常の若者らしからぬ部分に興味を持ったのでしょう。そして挑発するようにセックスに誘いますが、いざ相手をするのは静香ではなく静香の娘・咲良で、何故かというとひとつは静香がHIV罹患者であり、もうひとつは咲良自身が静香の仕事を手伝いたいと考えているからです。静香は咲良の為に高度な医療を受けさせようとブルーオーシャンだった女性向け風俗店の経営を始めるのですが、咲良が義務教育を終える頃、咲良自身から商売の手伝いをしたいという申し出があり、買い出しであったり試験の際に肉体を提供したりしており、素性の分からぬ初対面のリョウにも体を許すのです。と言っても静香はクラブで働かせたいと判断した人間しか連れてこないでしょうから、ある程度は安全なのかな、と……いや安全か?
それ以降は実際に娼年として働くリョウの仕事ぶりや生活の変化などが描かれています。年の離れた女性相手でも決して嫌がったり怯んだりしないリョウは、次第に頭角を現します。たとえ一般的にはエグいとされるような性癖をぶつけられ、求められようとも……(ex.放尿、NTR)。娼年になる前はセックスはつまらないと言っていた彼ですが、安くないお金を支払い彼を買う「客」に対しては切り捨てず、寧ろ「客」だからかこそ欲求を満たせるよう彼なりにひとりひとりに向き合い真摯に対応していきます。とはいえ決して媚びることはなく、あくまでベースにあるのは「森中領」であり商売用の別の人格を作ったりはしていないので、そこが客達から好評のようで……まぁ確かにスレていたりこなれている、いかにもな人は好まれないでしょうしね……。おい聞いてるかシンヤ
"年の差はたぶん十五歳プラスマイナス2。子どものころから大人の女性が好きだったぼくには、障害にはならない数字だなぜ彼女たちは自分が年上であることを罪のように感じるのだろうか。そちらの方が長いあいだぼくの不思議だ。""普段は言葉もたりなく、面倒くさがりなくせに、そういうときには精一杯のサービスをするのが楽しくなるのだった。ものを手に入れるより女性を満たす手助けをする方が、ぼくにはずっとおもしろかった。どんなに高価なプライスタグがついていても、ブランド品など問題にならない。あれは結局、ほんとうは自分に価値がないのだと思っている人が欲しがる勲章だ。"
VIPクラスへ移ってからもリョウはバーでのバイトを辞めないのですが、それは自身の金銭感覚等を「普通」に留めておくためです。そのことを知ったアズマは「普通」の仕事をするリョウを見たいと言い出し、色々あってアズマによるオーラルセックスを体験します。性欲によるものではなく、アズマなりの感謝の意なのです。この後少しぎょっとする描写があるのですが、割愛します。気になった方は買ってくだしあ
そして幸せの終わりを予感させる出来事が起こります。バーにやってきたメグミとシンヤが、リョウの売春を非難し、止めさせようとしてきたのです。シンヤとメグミに面識のある描写がなかったので「え、知り合いだったっけ?」となったのですがその辺は置いといて、彼らはあくまで良かれと思って足を洗うよう促してくるんですよね……作中では余りにもいともたやすく行われているので忘れがちですが、我が国では売春防止法により売春は禁止されております!……今更ながら買売春禁止法にした方が良いのではないでしょうか。売るのは勿論良くないですが、誰も買わなければ売り手もいなくなるでしょうに。
メグミはリョウへの好意と、それを(一方的に)寄せていた相手が"汚い"人物だった事実への落胆で感情的にリョウの仕事を否定し続けます。その一方で、意外なことにシンヤがメグミとは異なる極めてまともな観点ー自分のような立場に身を堕とすな、昼の世界で真っ当に生きろーから彼を諭すのです。リョウからすれば、退屈な自分の人生にようやくやりがいという一滴の雫が降ってきたところに、それを理解しようともせずひたすら正論パンチを連打されたわけですから理解はすれど不快ですよね(二人の気持ちもわかるんですけどね)。
若い女性客からの依頼だと静香から告げられ訪れた先には、メグミがいました。彼女は、そんなにやりがいのある仕事なら自分の体で証明してみせるよう言うのです。あくまで「客」と「買い手」の関係性、公私混同せず続けてきた娼年の仕事ですが今回はわけが違います。
リョウはプロとして持ちうる技術を駆使し、マグミの(肉体)を満足させたのですが、彼には「このセックスがあくまで業務の一環であり他の客とも何度もこういうことをしてきたし今後もそうである」とわからせる必要があったのです。ですがやはりメグミは仕事を辞めさせようとするのです。いえ、寧ろ今後も売春を行っていくであろうリョウを案じより意志が強くなったのかもしれません。結局、『Le Club Passion』はメグミの通報により幕を下ろします。北風と太陽ではないのですが、メグミのやり方は結果的に正しくはあるのですがリョウに対しては悪手でしかないのが悲しいですね……というか余りにも表面的な部分しか見ることが出来ていなくて、リョウの内面をしっかり知ろうとすべきだったでしょうに、静香から引き離そうとするあまり、ね。
ラストが非常に健康的なんですが、バーにやってきたアズマと咲良の三人で『Le Club Passion』を再建しようと誓い皆で語り合う(※咲良は筆談で参加)場面で終わります。ここ、すごく爽やかな終わり方でびっくりしましたよ私は。セックスに耽り退廃的な生活に落ちていく青年の話かと思いきや、関わってきた多くの女性達のおかげで可能性に気付き人生が楽しくなってきた青年が未来へ歩き出す話だったわけですから。ダーティで精液と愛液の匂いが立ち込めるような内容だと勘違いしていたのでいい意味で裏切られました~!ラストは冗談抜きに3人組が「努力・友情・勝利」を見せつけてくるので、少年ジャンプ味すら感じさせるものがあります。
面白かったです!
追記
「これ性別が逆だったらどんな話だったんだろう」と妄想したのですが、男に興味のない女子大生が斡旋所ありのパパ活をし、客の為に頑張ろうとする気持ちにより空っぽだった自身が満たされていく……といった、ご都合主義モリモリのキモい話になってしまい……。
本作は設定勝ちというか、現状女性向け風俗が少なく、壮年の女性が財力を駆使し若い男の子を買うことが非現実的だからこそ成り立った内容だったんだなと感じました。極端な話、おじさんに変われる女の子が主人公だったら普遍的すぎてエンタメ性に欠けるかもしれませんもんね(※買売春は勿論違法ですが、SNS等で当たり前のように情報が行き来してしまっているため……)。 今後女性用風俗が男性用風俗レベルに「当たり前」となったら、改めて読み返してみたいですね……。
0 notes
Photo
. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 2月11日(土) #先負(庚子) #建国記念の日 旧暦 1/21 月齢 20.3 年始から42日目にあたり、年末まであと323日(閏年では324日)ある。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . ☞「ほらいわんこっちゃない!」💢 大した雪じゃなく、ほんの一瞬w なのに早々と東京では大雪注意報 なんて発令して、態々スマホにまで 送りつけて来やんの🤣😆🤣笑わ せるんじゃないよ💢阿保!⤵️⤵️⤵️ おかげで、帰りは道空いててチャーッ と帰って来れて大助かりです✋ . って事で今日は素晴らしい晴れ間 に白富士と朝月が拝めました🗻 もっと早くに観に行けば朝月が濃 く見えたんでしょうね💦時刻が ゆっくりでしたから空の青さに 負けて薄っすらとしてrました。 さて、そんな今日は祝日でして 「建国期のンの日」なんですね✋ . 土曜日に祝日って思うんだけど 損した気分になりませんか😅💦 何だか勿体ない気がしてなりま せんが、いっその事、振替休日 ってのにしたらどうでしょう💡 でっ振り替えた翌日は日曜です ので、更に振り替えて月曜日が 休日になって三連休って寸法✋ . 今日一日どなた様も💁お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #出雲そばの日(イズモソバノヒ). 島根県出雲市に事務局を置く、出雲市の出雲そば商組合と松江市の松江そば組合が 共同で結成した「出雲そばの日記念日登録実行委員会」が制定。 日本三大そばのひとつとも言われる出雲そばの歴史、食べ方、美味しさを 全国にPRして、出雲そばの振興を図るとともに、出雲地方への交流人口の増加と 各店舗へのさらなる集客が目的。 日付は信濃国松本藩の城��だった松平直政公が出雲国松江藩への国替えを3代将軍 の徳川家光公から命じられた1638年(寛永15年)2月11日にちなんで。 この国替えのときに松平直政公が松本からそば職人をともなって来たことから 出雲松江地方にそばが伝わったとされ、今の出雲そばにつながっている。 . . #先負(センマケ=又は、センプ・センブ・サキマケ、とも言う). 陰陽(おんよう)道で、急用や公事(クジ)に悪いとされる日。 「先ずれば即ち負ける」の意味で、「何事も先に急いではいけない」とされる日です。 午前中はとくに悪く、午後はしだいによくなるという俗信がある。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #母倉日(ボソウニチ). 暦で、母が子を育てるように、天が人間をいつくしむという日。 . #天火日(テンカニチ). 天に火気が激しい日で、棟上げや屋根ふきなどを行えば、火災に遭うとされています。 かまど造り・種まきなどを忌む。 . #復日(フクニチ) この日に凶事を行なうと禍が重なり、吉事に用いると福が重なると云う。 ただし、結婚は忌むとする。 . . #建国記念の日(#神武天皇即位紀元). 紀元前660年(神武天皇即位紀元元年1月1日) - 初代天皇・神武天皇が即位による。 (『日本書紀』による。2月11日はグレゴリオ暦での日付)。 日付は1873年に制定。 1967年(昭和42年)から実施されている国民の祝日。 . #ホテル大東館火災(ホテルダイトウカンカサイ). 1986(昭和61)年2月11日(火)先負、未明に起きた火災。 . #わんこそば記念日. #オリンピック冬季大会で日本人女子初の金メダル. #仁丹の日. #初午いなりの日. #万歳三唱の日. #文化勲章制定記念日. #干支供養の日. #鬼祭(愛知県豊橋市). . . #VSOP運動の日(毎月第二土曜日). #ダブルソフトでワンダブル月間(#ダブルソフトの日)(毎月11日). #おかあちゃん同盟の日(毎月11日). #めんの日(毎月11日).#ロールちゃんの日(毎月11日). . . ●イスラム革命記念日(イラン).●青年の日(カメルーン). ●世界病者の日(カトリック).●聖母の祝日(カトリック). . . ■本日の成句■. #千里の行も一歩より起こる(センリノギョウモイッポヨリオコル). 【解説】 千里の遠い所へ行くにも足元の第一歩から始まるの意味から 大事を為すのにも小事を積み重ねることによって至るという教え。 . . 1949(昭和24)年2月11日(金)友引. #剛たつひと (#ごうたつひと) 【俳優、レポーター】 〔山梨県甲府市〕. . . (東大泉) https://www.instagram.com/p/CogF47ryw9derVQG3uVYwbpMswOzrSybt2ofQQ0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#先負#建国記念の日#出雲そばの日#神吉日#母倉日#天火日#復日#神武天皇即位紀元#ホテル大東館火災#わんこそば記念日#オリンピック冬季大会で日本人女子初の金メダル#仁丹の日#初午いなりの日#万歳三唱の日#文化勲章制定記念日#干支供養の日#鬼祭#vsop運動の日#ダブルソフトでワンダブル月間#ダブルソフトの日#おかあちゃん同盟の日#めんの日#ロールちゃんの日#千里の行も一歩より起こる#剛たつひと#ごうたつひと
1 note
·
View note
Photo
昨日、大韓民国大衆文化芸術賞の表彰においてコ・ドゥシムさんが文化勲章を受賞されました! おめでたい! 私の第二の故郷、済州島出身の大ベテラン女優! 次に主演される映画は済州島の海女を演じています #大韓民国大衆文化芸術賞 #コ・ドゥシム #文化勲章おめでとうございます #済州島 #済州島出身 https://www.instagram.com/p/CG7DNv8g1IP/?igshid=glgz3z4p90z7
0 notes
Quote
「次室士官心得」 (練習艦隊作成、昭和14年5月) 第1 艦内生活一般心得 1、次室士官は、一艦の軍規・風紀の根源たることを自覚し、青年の特徴元気と熱、純 真さを忘れずに大いにやれ。 2、士官としての品位を常に保ち、高潔なる自己の修養はもちろん、厳正なる態度・動 作に心掛け、功利打算を脱却して清廉潔白なる気品を養うことは、武人のもっとも 大切なる修業なり。 3 宏量大度、精神爽快なるべし。狭量は軍隊の一致を破り、陰欝は士気を沮喪せし む。忙しい艦務の中に伸び伸びした気分を忘れるな。細心なるはもちろん必要なる も、「コセコセ」することは禁物なり。 4 礼儀正しく、敬礼は厳格にせよ。次室士官は「自分は海軍士官の最下位で、何に も知らぬのである」と心得、譲る心がけが必要だ。親しき仲にも礼儀を守り、上の 人の顔を立てよ。よからあしかれ、とにかく「ケプガン(次室士官室の長)を立てよ。 5 旺盛なる責任観念の中に常に生きよ。���れは士官としての最大要素の一つだ。命令を下し、もしくはこれを伝達す る場合はは、必ずその遂行を見届け、ここに初めてその責任を果したるものと心得べし。 5 犠牲的精神を発揮せよ、大いに縁の下の力持ちとなれ。 6 次室士官時代はこれからが本当の勉強時代、一人前になり、わがことなれりと思うは大の間違いなり。 7、次室士官時代はこれからが本当の勉強時代、一人前にをり、わがことなれりと思うは大の間違いなり。公私を誤 りたるくそ勉強は、われらの欲せざるところなれども、学術方面に技術方面に、修練しなければならぬところ多し。 いそがしく艦務に追われてこれをないがしろにするときは、悔いを釆すときあり。忙しいあいだにこそ、緊張裡に修 業はできるものなり。寸暇の利用につとむべし。 つねに研究問題を持て。平素において、つねに一個の研究問題を自分にて定め、これにたいし成果の捕捉につと め、一纏めとなりたるところにてこれを記しおき、ひとつひとつ種々の問題にたいしてかくのごとくしおき、後となり てふたたびこれにつきて研究し、気づきたることを追加訂正し、保存しおく習慣をつくれば、物事にたいする思考力 の養成となるのみならず、思わざる参考資料をつくり得るものなり。 8、少し艦務に習熟し、己が力量に自信を持つころとなると、先輩の思慮円熟をるが、かえって愚と見ゆるとき来るこ とあるべし、これすなわち、慢心の危機にのぞみたるなり。この慢心を断絶せず、増長に任じ人を侮り、自ら軽ん ずるときは、技術・学芸ともに退歩し、ついには陋劣の小人たるに終わるべし。 9、おずおずしていては、何もできない。図々しいのも不可なるも、さりとて、おずおずするのはなお見苦しい。信ずる ところをはきはき行なって行くのは、われわれにとり、もっとも必要である。 10、何事にも骨惜L誤をしてはならない。乗艦当時はさほどでもないが、少し馴れて来ると、とかく骨惜しみをするよう になる。当直にも、分隊事務にも、骨惜しみをしてはならない。いかなるときでも、進んでやる心がけか必要だ。身 体を汚すのを忌避するようでは、もうおしまいである。 11、青年士官は、バネ仕掛けのように、働かなくてはならない。上官に呼ばれたときには、すぐ駆け足で近づき、敬 礼、命を受け終わらば一礼し、ただちにその実行に着手するごとくあるべし。 12、上官の命は、気持よく笑顔をもって受け、即刻実行せよ。いかなる困難があろうと、せっかくの上陸ができなか ろうと、命を果たし、「や、御苦労」と言われたときの愉快きはなんと言え���。 13、不関旗(���船と行動をともにせず、または、行動をともにできないことを意味する信号旗。転じてそっぽを向くこと をいう)を揚げるな。一生懸命にやったことについて、きびしく叱られたり、平常からわだかまりがあったりして、不 関旗を揚げるというようなことが間々ありがちだが、これれは慎むべきことだ。自惚があまり強過ぎるからである。 不平を言う前に已れをかえりみよ。わが慢心増長の鼻を挫け、叱られるうちが花だ。叱って下さる人もなくなった ら、もう見放されたのだ。叱られたなら、無条件に有難いと思って間違いはない。どうでも良いと思うなら、だれが 余計な憎まれ口を叩かんやである。意見があったら、陰で「ぷつぷつ」いわずに、順序をへて意見具申をなせ。こ れが用いらるるといなとは別問題。用いられなくとも、不平をいわず、命令には絶対服従すべきことはいうまでもな し。 14、昼間は諸作業の監督巡視、事務は夜間に行なうくらいにすべし。事務のいそがしいときでも、午前午後かならず 1回は、受け特ちの部を巡視すべし。 15、「事件即決」の「モツトー」をもって、物事の処理に心がくべし。「明日やろう」と思うていると、結局、何もやらずに 沢山の仕事を残し、仕事に追われるようになる。要するに、仕事を「リード」せよ。 16、なすべき仕事をたくさん背負いながら、いそがしい、いそがしいといわず片づければ、案外、容易にできるもので ある。 17、物事は入念にやれ。委任されたる仕事を「ラフ」(ぞんぎい〕にやるのは、その人を侮辱するものである。ついに は信用を失い、人が仕事をまかせぬようになる。また、青年士官の仕事は、むずかしくて出来ないというようなも のはない。努力してやれば、たいていのことはできる。 18、「シーマンライク」(船乗りらしい)の修養を必要とす。動作は「スマート」なれ。1分1秒の差が、結果に大影響を あたえること多し。 19、海軍は、頭の鋭敏な人を要するとともに、忠実にして努力精励の人を望む。一般海軍常識に通ずることが肝要、 かかることは一朝一夕にはできぬ。常々から心がけおけ。 20 要領がよいという言葉もよく聞くが、あまりよい言葉ではない。人前で働き、陰でずべる類いの人に対する尊称 である。吾人はまして裏表があってはならぬ。つねに正々堂々とやらねばならぬ。 21、毎日各室に回覧する書類(板挟み)は、かならず目を通し捺印せよ。行動作業や当直や人事に関するもので、 直接必要なる事項が沢山ある。必要なことは手帖に抜き書きしておけ。これをよく見ておらぬために、���直勤務 を間違っていたり、大切な書類の提出期目を誤ったりすることがある。 22、手帖、「パイプ」は、つねに持っておれ。これを自分にもっとも便利よきごとく工夫するとよい。 23、上官に提出する書類は、かならず自分で直接差し出すようにせよ。上官の机の上に放置し、はなはだしいのは 従兵をして持参させるような不心得のものが間々ある。これは上官に対し失礼であるばかりでなく、場合により ては質問されるかも知れず、訂正きれるかも知れぬ。この点、疎にしてはならない。 24、提出書類は早目に完成して提出せよ。提出期口ぎりぎり一ぱい、あるいは催促さるごときは恥であり、また間違 いを生ずるもとである。艦長・副長・分隊長らの捺印を乞うとき、無断で捺印してはいけない。また、捺印を乞う 事項について質問されても、まごつかぬよう準備調査して行くことが必要。捺印を乞うべき場所を開いておくか、 または紙を挾むかして分かりやすく準備し、「艦長、何に御印をいただきます」と申し出て、もし艦長から、「捺して 行け」と言われたときは、自分で捺して、「御印をいただきました」ととどけて引き下がる。印箱の蓋を開け放しに して出ることのないように、小さいことだが注意しなければならぬ。 25、軍艦旗の揚げ降ろしには、かならず上甲板に出て拝せよ。 26、何につけても、分相応ということを忘れるな。次室士官は次室士官として、候補生は候補生として。少尉、中尉、 各分あり。 27、煙草盆の折り椅子には腰をおろすな。次室士官は腰かけである。 28、煙草盆のところで腰かけているとき、上官が来られたならば立って敬礼せよ。 29、機動艇はもちろん、汽車、電車の中、講話場において、上級者が来られたならば、ただちに立って席を譲れ。知 らぬ顔しているのはもっとも不可。 30、出入港の際は、かならず受け持ちの場所におるようにせよ。出港用意の号音に驚いて飛び出すようでは心がけ が悪い。 31、諸整列があらかじめ分かっているとき、次室士官は、下士官兵より先にその場所にあるごとくせ。 32、何か変わったことが起こったとき、あるいは何となく変わったことが起こったらしいと思われるときは、昼夜を問わ ず第1番に飛び出してみよ。 33、艦内で種々の競技が行なわれたり、または演芸会など催される際、士官はなるべく出て見ること。下士官兵が 一生懸命にやっているときに、士官は勝手に遊んでおるというようなことでは面白くない。 34、短艇に乗るときは、上の人より遅れぬように、早くから乗っておること。もし遅れて乗るような場合には、「失礼い たしました」と上の人に断わらねばならぬ。自分の用意が遅れて定期(軍艦と陸上の間を往復し、定時にそれら を発着する汽艇のこと)を待たすごときは、もってのほである。かかるときは断然やめて次ぎを待つべし。 短艇より上��る場合には、上長を先にするこというまでもなし。同じ次室士官内でも、先任者を先にせよ。 35、舷門は一艦の玄開口なり。その出入りに際しては、服装をととのえ、番兵の職権を尊重せよ。雨天でないとき、 雨衣や引回しを着たまま出入りしたり、答礼を欠くもの往々あり、注意せよ。 第2 次室の生活について 1、我をはるな。自分の主張が間遠っていると気づけば、片意地をはらす、あっさりとあらためよ。 我をはる人が1人でもおると、次室の空気は破壊される。 2、朝起きたならば、ただちに挨拶せよ。これが室内に明るき空気を漂わす第一誘因だ。3、次室 にはそれぞれ特有の気風かある。よきも悪きもある。悪い点のみ見て、憤慨してのみいては ならない。神様の集まりではないから、悪い点もあるであろう。かかるときは、確固たる信念と決心をもって自己を修め、自然に同僚を善化せよ。 4、上下の区別を、はっきりとせよ、親しき仲にも礼儀をまもれ。自分のことばかり考え、他人のことをかえりみないよ うな精神は、団体生活には禁物。自分の仕事をよくやると同時に、他人の仕事にも理解を持ち便宜をあたえよ。 5、同じ「クラス」のものが、3人も4人も同じ艦に乗り組んだならば、その中の先任者を立てよ。「クラス」のものが、次 室内で党をつくるのはよろしくない。全員の和衷協力はもっとも肝要なり。利己主義は唾棄すべし。 6、健康にはとくに留意し、若気にまかせての不摂生は禁物。健全なる身体なくては、充分をる御奉公で出来ず。忠 孝の道にそむく。 7、当直割りのことで文句をいうな。定められた通り、どしどしやれ。病気等で困っている人のためには、進んで当直を 代わってやるぺきだ。 8、食事に関して、人に不愉快な感じを抱かしむるごとき言語を慎め。たとえば、人が黙って食事をしておるとき、調理 がまずいといって割烹を呼びつけ、責めるがごときは遠慮せよ。また、会話などには、精練きれた話題を選べ。 9、次室内に、1人しかめ面をして、ふてくされているものがあると、次室全体に暗い影ができる。1人愉快で朗らかな 人がいると、次室内が明るくなる。 10、病気に羅ったときは、すぐ先任者に知らせておけ。休業になったら(病気という程度ではないが(身体の具合い が悪いので、その作業を休むこと)先任者にとどけるとともに、分隊長にとどけ、副長にお願いして、職務に関する ことは、他の次室士官に頼んでおけ。 11、次室内のごとく多数の人がいるところでは、どうしても乱雑になりがちである。重要な書類が見えなくなったとか 帽子がないとかいってわめきたてることのないように、つねに心がけなければならぬ。自分がやり放しにして、従 兵を怒鳴ったり、他人に不愉快の思いをきせることは慎むべきである。 12、暑いとき、公室内で仕事をするのに、上衣をとるくらいは差し支えないが、シャツまで脱いで裸になるごときは、 はをはだしき不作法である。 13、食事のときは、かならず軍装を着すべし。事業服のまま食卓についてはならぬ。いそがしいときには、上衣だけ でも軍装に着換えて食卓につくことになっている。 14、次室士官はいそがしいので一律にはいかないが、原則としては、一同が食卓について次室長(ケプガソ)がはじ めて箸をとるべきものである。食卓について、従兵が自分のところへ先に給仕しても、先任の人から給仕せしむる ごとく命すべきだ。古参の人が待っているのに、自分からはじめるのは礼儀でない。 15、入浴も先任順をまもること。水泳とか武技など行をったときは別だが、その他の場合は遠慮すべきものだ。 16 古参の人が、「ソファー」に寝転んでいるのを見て、それを真似してはいけない。休むときても、腰をかけたまま、 居眠りをするぐらいの程度にするがよい。 17、次室内における言語においても気品を失うな。他の人に不快な念を生ぜしむべき行為、風態をなさず、また下士 官兵考課表等に関することを軽々しく口にするな。ふしだらなことも、人秘に関することも、従兵を介して兵員室に 伝わりがちのものである。士官の威信もなにも、あったものでない。 18、趣味として碁や将棋は悪くないが、これに熱中すると、とかく、尻が重くなりやすい。趣味と公務は、はっきり区別 をつけて、けっして公務を疎にするようなことがあってはならぬ。 19、お互いに、他の立場を考えてやれ。自分のいそがしい最中に、仕事のない人が寝ているのを見ると、非難した いような感情が起こるものだが、度量を宏く持って、それぞれの人の立場に理解と同情を持つことが肝要。 20、従兵は従僕にあらず。当直、その他の教練作業にも出て、士官の食事の給仕や、身辺の世話までするのであ るからということを、よく承知しておらねばならぬ。あまり無理な用事は、言いつけないようにせよ。自分の身辺の ことは、なるべく自分で処理せよ、従兵が手助けしてくれたら、その分だけ公務に精励すべきである。釣床を釣っ てくれ、食事の給仕をしてくれるのを有難いと思うのは束の間、生徒・候補生時代のことを忘れてしまって、傲然と 従兵を呼んで、ちょっと新聞をとるにも、自分のものを探すにもこれを使うごときは、わがみずからの品位を下げゆ く所以である。また、従兵を「ボーイ」と呼ぶな。21、夜遅くまで、酒を飲んで騒いだり、大声で従兵を怒鳴ったりす ることは慎め。 21、課業時のほかに、かならず出て行くべきものに、銃器手入れ、武器手入れに、受け持ち短艇の揚げ卸しがある 第3 転勤より着任まで 1、転勤命令に接したならば、なるべく早く赴任せよ。1日も早く新勤務につくことが肝 要。退艦したならば、ただちに最短距離をもって赴任せよ��道草を食うな。 2、「立つ鳥は後を濁さず」仕事は全部片づけておき、申し継ぎは万遺漏なくやれ。申し 継ぐべき後任者の来ないときは、明細に中し継ぎを記註しおき、これを確実に託し おけ。 3、退艦の際は、適宜のとき、司令官に伺候し、艦長・副長以下各室をまわり挨拶せよ4、新たに着任すべき艦の役務、所在、主要職員の名は、前もって心得おけ。 5、退艦・着任は、普通の場合、通常礼装なり。 6、荷物は早目に発送し、着任してもなお荷物が到着せぬ、というようなことのないようにせよ。手荷物として送れば、早目に着く。 7、着任せば、ただちに荷物の整理をなせ。 8、着任すべき艦の名を記入したる名刺を、あらかじめ数枚用意しおき、着任予定日時を艦長に打電しおくがよい。 9、着任すべき艦の所在に赴任したるとき、その艦がおらぬとき、たとえば急に出動した後に赴任したようなと時は、 所在鎮守府、要港部等に出頭して、その指示を受けよ。さらにまた、その地より他に旅行するを要するときは、証 明書をもらって行け。 10、着任したならば、当直将校に名刺を差し出し、「ただいま着任いたしました」ととどけること。当(副)将校は副長に 副長は艦長のところに案内して下さるのが普通である。副長から艦長のところへつれて行かれ、それから次室 長が案内して各室に挨拶に行く。艦の都合のよいとき、乗員一同に対して、副長から紹介される。艦内配置は、 副長、あるいは艦長から申し渡される。 11、各室を一巡したならば、着物を着換えて、ひとわたり艦内を巡って艦内の大体を大体を見よ。 12、配置の申し継ぎは、実地にあたって、納得の行くごとく確実綿密に行なえ。いったん、引き継いだ以上、全責任 は自己に移るのだ。とくに人事の取り扱いは、引き継いだ当時が一番危険、ひと通り当たってみることが肝要だ。 なかんずく叙勲の計算は、なるべく早くやっておけ。 13、着任した日はもちろんのこと、1週間は、毎夜巡検に随行するごとく心得よ。乗艦早々から、「上陸をお願い致し ます」などは、もってのほかである。 14、転勤せば、なるべく早く、前艦の艦長、副長、機関長、分隊長およびそれぞれ各室に、乗艦中の御厚意を謝す る礼状を出すことを忘れてはならぬ。 第4 乗艦後ただちになすべき事項 1、ただちに部署・内規を借り受け、熟読して速やかに艦内一般に通暁せよ。 2、総員起床前より上甲板に出で、他の副直将校の艦務遂行ぶりを見学せよ。2、3日、当直ぶりを注意して見てお れば、その艦の当直勤務の大要は分かる。しかして、練習艦隊にて修得せるところを基礎とし、その艦にもっとも 適合せる当直をなすことができる。 3、艦内旅行は、なるぺく速やかに、寸暇を利用して乗艦後すぐになせ。 4、乗艦して1ヵ月が経過したならば、隅々まで知悉し、分離員はもちろん、他分隊といえども、主たる下士官の氏名 は、承知するごとく心がけよ。 第5上陸について 1、上陸は控え目にせよ。吾人が艦内にあるということが、職責を尽くすということの大部である。職務を捨ておいて 上陸することは、もってのほかである。状況により、一律にはいえぬが、分隊長がおられぬときは、分隊士が残る ようにせよ。 2、上陸するのがあたかも権利であるかのように、「副長、上陸します」というべきでない。「副長、上陸をお願いしま す」といえ。 3、若いときには、上陸するよりも艦内の方が面白い、というようにならなけれぱならない。また、上陸するときは、自 分の仕事を終わって、さっぱりした気分で、のびのびと大いに浩然の気を養え。 4、上陸は、別科後よりお願いし、最終定期にて帰艦するようにせよ。出港前夜は、かならず艦内にて寝るようにせよ。上陸する場合には、副長と己れの従属する士官の許可をえ、同室者に願い、当直将校にお願いして行くのが慣例 である。この場合、「上陸をお願い致します」というのが普通、同僚に対しては単に、「願います」という。この「願い ます」という言葉は、簡にして意味深長、なかなか重宝なものである。すなわち、この場合には、上陸を願うのと、 上陸後の留守中のことをよろしく頼む、という両様の意味をふくんでいる。用意のよい人は、さらに関係ある准士 官、あるいは分隊先任下士官に知らせて出て行く。帰艦したならば、出る時と同様にとどければよい。たたし、夜 遅く帰艦して、上官の寝てしまった後は、この限りでない。士宮室にある札を裏返すようになっている艦では、か ならず自分でこれを返すことを忘れぬごとく注意せよ。 6、病気等で休んでいたとき、癒ったからとてすぐ上陸するごときは、分別がたらぬ。休んだ後なら、仕事もたまってお ろう、遠慮ということが大切だ。 7、休暇から帰ったとき、帰艦の旨をとどけたら、第1に留守中の自分の仕事および艦内の状況にひと通り目を通せ。 着物を着換え、受け持ちの場所を回って見て、不左中の書類をひと通り目を通す心がけが必要である。 ��、休暇をいただくとき、その前後に日曜、または公暇日をつけて、規定時日以上に休暇するというがごときは、もっと も青年士官らしくない。 9、職務の前には、上陸も休暇もない、というのが士官たる態度である。転勤した場合、前所轄から休暇の移牒があ ることがあるけれども、新所轄の職務の関係ではいただけないことが多い。副長から、移牒休暇で帰れといわる れば、いただいてもよいけれども、自分から申し出るごときことは、けっしてあってはならぬ。 第6部下指導について 1、つねに至誠を基礎とし、熱と意気をもって国家保護の大任を担当する干城の築造者たることを心がけよ。「功は部下に譲り、部下の過ちは 自から負うは、西郷南洲翁が教えしところなり。「先憂後楽」とは味わうべき言であって、部下統御の機微なる心理も、かかるところにある統御者たるわれわれ士官は、つねにこの心がけが必要である。石炭 積みなど苦しい作業のときには、士官は最後に帰��ようつとめ、寒い ときに海水を浴びながら作業したる者には、���呂や衛生酒を世話してやれ。部下につとめて接近して下情に通せよ。しかし、部下を狎れしむるは、もっとも不可、注意すべきである。 2、何事も「ショート・サーキット」(短絡という英語から転じて、経由すべきところを省略して、命令を下し、または報告する海軍用語)を慎め。い ちじは便利の上うたが、非常なる悪結果を齋らす。たとえば、分隊士を抜きにして分隊長が、直接先任下士官に命じたとしたら、分隊士たる者いかなる感を生ずるか。これは一例だか、かならず順序をへて命 を受け、または下すということが必要なり。 3、「率先躬行」部下を率い、次室士官は部下の模範たることが必要だ。物事をなすにもつねに衆に先じ、難事と見ば、 真っ先にこれに当たり、けっして人後におくれざる覚悟あるべし。また、自分ができないからといって、部下に強制 しないのはよくない。部下の機嫌をとるがごときは絶対禁物である。 4、兵員の悪きところあらば、その場で遠慮なく叱咤せよ。温情主義は絶対禁物。しかし、叱責するときは、場所と相 手とを見でなせ。正直小心の若い兵員を厳酷な言葉で叱りつけるとか、また、下士官を兵員の前で叱責するなど は、百害あって一利なしと知れ。 5、世の中は、なんでも「ワソグランス」(一目見)で評価してはならぬ。だれにも長所あり、短所あり。長所さえ見てい れば、どんな人でも悪く見えない。また、これだけの雅量が必要である。 6、部下を持っても、そうである。まずその箆所を探すに先だち、長所を見出すにつとめることが肝要。賞を先にし罰を 後にするは、古来の名訓なり。分隊事務は、部下統御の根底である。叙勲、善行章(海軍の兵籍に人ってから3 年間、品行方正・勤務精励な兵にたいし善行章一線があたえられ、その後、3年ごとに同様一線あてをくわえる。 勇敢な行為などがあった場合、特別善行章が付与される)等はとくに慎重にやれ。また、一身上のことまで、立ち 入って面倒を見てやるように心がけよ。分隊員の入院患者は、ときどき見舞ってやるという親切が必要だ。 第7 その他一般 1、服装は端正なれ。汚れ作業を行なう場合のほかは、とくに清潔端正なるものを用いよ。帽子がまがっていたり、「 カラー」が不揃いのまま飛び出していたり、靴下がだらりと下がっていたり、いちじるしく雛の寄った服を着けている と、いかにもだらしなく見える。その人の人格を疑いたくなる。 2、靴下をつけずに靴を穿いたり、「ズボン」の後の「ビジヨウ」がつけてなかったり、あるいはだらりとしていたり、下着 をつけず素肌に夏服・事業服をつけたりするな。 3 平服をつくるもの一概に非難すべきではいが、必要なる制服が充分���整っておらぬのに平服などつくるのは本末 顛倒である。制服その他、御奉公に必要をる服装属具等なにひとつ欠くるところなく揃えてなお余裕あらば、平服 をつくるという程度にせよ。平服をつくるならば、落ちついて上品な上等のものを選べ。無闇に派手な、流行の尖 端でもいきそうな服を着ている青年士官を見ると、歯の浮くような気がする。「ネクタイ」や帽子、靴、「ワイシャツ」 「カラー」「カフス」の釦まで、各人の好みによることではあろうが、まず上品で調和を得るをもって第1とすべきであ る。 4、靴下もあまりケパケパしいのは下品である。服と靴とに調和する色合いのものを用いよ。縞の靴下等は、なるべく はかぬこと、事業服に縞の靴下等はもってのほかだ。 5、いちばん目立って見えるのは、「カラー」と「カフス」の汚れである、注意せよ。また、「カフス」の下から、シャツの 出ているのもおかしいものである。 6、羅針艦橋の右舷階梯は、副長以上の使用さるべきものなり。艦橋に上がったら、敬礼を忘れるな。 7 陸上において飲食するときは、かならず一流のところに入れ。どこの軍港においても、士官の出入りするところと、 下士官兵の出入りするところは確然たる区別がある。もし、2流以下のところに出入りして飲食、または酒の上で 上官たるの態度を失し、体面を汚すようなことがあったら、一般士官の体面に関する重大をることだ。 8、クラスのためには、全力を尽くし一致団結せよ。 9、汽車は2等(戦前には1、2、3等の区分があった)に乗れ。金銭に対しては恬淡なれ。節約はもちろんだが、吝薔 に陥らぬよう注意肝心。 10、常に慎独を「モットー」として、進みたきものである。是非弁別の判断に迷い、自分を忘却せるかのごとき振舞い は、吾人の組せざるところである。
hiramayoihi.com/Yh_ronbun_dainiji_seinenshikankyouikugen.htm
20 notes
·
View notes
Photo
緊急投稿 <Synth Review: Forgotten Saga of KORG 800DV>
●メーカー名 KORG
●機種名 800DV
1974年発売、当時の定価 24万円 鍵盤数は、Fスケール 44 鍵で、ミニコルグより半オクターヴほど拡張されている。
アナログシンセ黎明期の機種であり、コルグ初の量産型シンセ mini KORG シリーズを元に開発された機種でもある。すなわち 800DV は、コルグ歴代の量産型シンセとしては事実上2番目となる、きわめて初期の機種であった。
あたらしい音が出る電子楽器を生み出そうという試みは、なにも海外の moog、Buchla などが初めてではない。'60年代から、すでに国産メーカーは、いろいろ試行錯誤を重ねていた。
'63 年には KORG、当時の京王技研株式会社は同社初の商品「ドンカマチック」を発表。これはアナログ電子音源によるプリセット式リズムボックスで、なぜか小さな鍵盤が1オクターヴ弱ほど装備されており、それでマニュアル演奏もできた点では、すでにドラムマップで演奏できたと言える。
翌 '64 年には、Roland の前身でもある Ace Electronics すなわちエース電子工業株式会社が、海外の Clavioline を元に「Canary(キャナリー)」という電子楽器を発表しており、これは3オクターヴ鍵盤のモノフォニック・キーボードで、鍵盤下にならんだタブレットスイッチ群による音色切替や音域切替、ヴィブラートの on/off 機能、音量の抑揚レバーがついた、言わばシンセ的なキーボード、シンセの一歩手前とも言うべき機種であった。キャナリーとは英語でカナリア鳥のこと。かわいいシンセリードっぽい音がしたのかなぁ、と想像するばかり。
当時エース電子工業は「Ace Tone(エーストーン)」ブランドでいくつかの電子オルガンを開発製造しており、キャナリーは、おそらくアクセントとして使うソロ鍵盤楽器として創造されたものと思われる。キャナリーもエーストーン・ブランドで発売されていたようで、さらに Canary S-2 と Canary S-3 の2機種がある。鍵盤の左横にマニュアルで叩く2個のアナログ電子パーカッション・ボタンを追加した機種が S-3 らしい。 トリヴィアなことを紹介すると、このキャナリーの音量抑揚レバーには操作性の向上のため先っぽに1円玉くらいの直径の黒い丸い玉がついており、この玉は家具メーカーから仕入れた、つまり家具の部品を流用したものとのこと。電子楽器あけぼのの時代には、こうした混沌とした珍エピソードがごろごろころがっているものらしい。
そして '70 年ちょうどになると、ついに国産初のシンセサイザーの試作機が、コルグこと京王技研によって実験的に製作される。
コルグの創設者、加藤孟(かとう・つとむ)氏の話では、開発当初コルグは、シンセというものがどういうものか知らず、したがってシンセを開発しているという意識も無く、ただ単に差別化のため個性的なオルガンをつくるつもりで開発していた。すでに海外では moog や ARP がシンセを生産していたが、そんなとんがった最先端情報は、日本になかなか入ってこない。とりあえずコルグがつくりあげた「個性的なオルガン」なるもののプロトタイプは、2段鍵盤こそあるものの、母音が鳴るという機能までついている不思議なしろもの。で、つくった後になってから、海外通の日本人ミュージシャン佐藤允彦氏の指摘で、実はこれがシンセだと判明。つまりコルグは、偶然にもシンセを開発していたのだ、そうとは知らずに。
このプロトタイプは商品化されること無く、この後に開発された「デカコルグ」が発売された。デカコルグという名前は通称で、正式な商品名は「KORGUE(コルグ)」といい、その特徴から「デカオルガン」と呼ばれることもあったらしい。デカコルグは1段鍵盤しかなく、とにかくオルガンに VCF などをつけた風変わりな機種。コルグはこれを発売した。勇気と言うか蛮勇と言うべきか、よくもまぁそんな機種を世に出したものである。 シンセとも知らずにシンセのプロトタイプを開発し、その次にデカコルグという変態オルガンを発売したコルグ。そこからコルグは、シンセ開発へ本格的に乗り出してゆく。
その量産型シンセ初号機が '73 年に発表された「mini KORG-700」で、1VCO のモノシンセであった。このミニコルグという名称は、先行していたデカコルグに対するものかもしれない。37 鍵しかない小さなおもちゃみたいな外観だったが、音は非常に個性的かつ音楽的で良い。これは偶然にもローランドの量産型シンセ初号機「SH-1000」と同年に発表され、ともに国産初の量産型シンセとなった。いずれもオルガンの上に載せてソロ楽器として使うことが前提にされているため、鍵盤下の本体前面に操作パネルを設けているところが、まだシンセが世間的に認知されていなかった黎明期であることを感じさせる。ちなみに現行の KORG ロゴは、このミニコルグ 700 のリアパネルにて初めて搭載されたものを、ほんのわずかに変更したもの。
ミニコルグ 700 は、翌 '74 年サブオシレーターとノイズジェネレーター、そしてリングモジュレーターを追加したマイナーチェンジ版「mini KORG-700S」というモノシンセに置き換わる。
↑ 高校時代の元カノからタダでもろて、阪急電車をむき身で持ち帰ったやつ
そしてこの 700Sをさらに改良したシンセを2台分搭載したのが、本機「800DV」。
たった2音ポリと思う無かれ。800DV の DV とは、おそらく Double Voice(今で言う Dual Voice)の略で、モノシンセが主流だった当時、ARP Odyssey に続く2ボイスという仕様をアピールするためのものと思われる。 ところで 800DV は、海外では MAXI KORG(マキシコルグ)という機種名で販売された。これは mini KORG(ミニコルグ)と対をなすためであろう。米国では Univox 社が代理店をつとめ、700 を K-1、700Sを K-2、800DV を K-3 として販売してもいた。
なお同 '74年、ヤマハが同社初のシンセ「SY-1」を発表したことで、国産シンセメーカー御三家がそろうことになる。SY-1 は小さなモノシンセだったが、その前年に発売されていた巨大エレクトーン・シンセ GX-1 から、1音分の回路のみを独立させて小型キーボードにまとめた機種。
800DV が発表された '74 年には、冨田勲氏が moog IIIp による傑作アルバム「月の光」を発表している。翌 '75年にはヴァンゲリスがアルバム「天国と地獄」を、そしてさらに翌 '76年にはヴァンゲリスが「反射率 0.39」を、ジャン=ミシェル・ジャールが出世作「Oxygene(邦題:幻想惑星)」を発表している事からも、いかにこの 800DV がシンセあけぼのの時代に生まれたかが、うかがえよう。
●音源方式
2系統のフルアナログ減算方式:各系統の構成は、
1基の VCO 1基の VCF 1基の VCA 1基の ホワイトノイズジェネレーター 1基の ピンクノイズジェネレーター 1基の サブオシレーター 1意の リングモジュレーター 1基の EG 1基の LFO???
非常に初期のアナログシンセだが、すでに当時から Hz/V 仕様でピッチは安定。ただし CV/Gate 端子が無いので、分解でもしない限り検証しようがない。 Hz/V 方式は、ヴィンテ時代のコルグとヤマハが採用し、ピッチが安定している利点があった。これに対し Oct/V 方式は、ピッチが不安定になりがちなものの、先行していた海外メーカーのシンセと互換するという利点があり、ローランドが採用していた。ただし同社の準プリセットタイプのシンセ SH-2000 だけは、安定性重視の Hz/V の VCO だったらしい。コルグも確か MP-4 "MONO/POLY" だけは、互換性重視の Oct/V 仕様だったはず。
なお、コルグが Hz/V を採用したのは、実は Oct/V にあるアンチログ回路を省くことでコストダウンできるためであり、安定性はあとからついてきただけと元技術者が証言。
●同時発音数
2音。 モノシンセを2系統搭載し、2音ポリとした機種。 2音をレイヤーさせることで、分厚い音のするモノシンセとしても使える。
800DV は2音ポリであると同時に、完全独立2系統のシンセでもあった点が、Odyssey よりも進んでいる。Odyssey は、2音ポリというより、2音パラフォニックであった。 800DV ではフロントパネル上に2系統のシンセが上下に並び、それぞれ UPPER と LOWER という名前がついていた。アッパーとロワーを同じ音色になるよう設定すれば、通常の2音ポリシンセとして使えたし、それをレイヤーすれば厚い音のするモノシンセとして動作した。アッパーとロワーをおのおの違う音色になるよう設定にすれば、2音色別々に鳴らしたり一種のキースプリットまがいの奏法をしたり、レイヤーすることで部分音合成できるモノシンセとして動作した。
●内蔵エフェクトの性能と傾向
んなもん、あるわけがない。 ただ2音ポリのアナログなので、微妙なナチュラル・コーラスは常にかかる。あと、後述するが、アッパーとロワーの音を個別に出力できるので、左右のスピーカーから微妙に違う音を出すことで、空間合成のコーラス効果も得られる。 なお、音源波形の中に CHORUS と銘打たれたものがあり、これでよく「コーラス内蔵」と勘違いされるが、じつはこれは PWM 波形である。
●内蔵波形、プリセットの傾向
音源波形には、三角波、矩形波、パルス波、鋸歯状波、前述の CHORUS と名づけられた PWM 波、そしてノイズが2種類あった。
CHORUS 波については、先行機種ミニコルグシリーズでは周期固定で、周期のゆっくりした CHORUS I と周期の速い CHORUS II と2種類搭載��れていたが、800DV では1種類にまとめられ、実は後述するビブラートスライダーで周期が可変できるのが便利だが、分か��にくい。ビブラートデプスをゼロにすれば PWM のみかかる。
ノイズは、アッパーにピンクノイズが、ロワーにホワイトノイズが割りあてられていたので、両者をレイヤーして鳴らすことも出来た。なお、アッパーにあるピンクノイズだが、のちの MS-20 のような「ゴー」という雷のような音ではなく、もっと高周波も含まれたもので、おそらくはピンクノイズが何たるかを良く分かっていないまま開発し搭載してしまったと思われ、実際のピンクノイズとは違う音がする。 なお、ミニコルグ 700Sでは、NOISE 1 というものが何やら笛っぽい音階ノイズ、NOISE 2 というものがホワイトノイズになっている。さらにのちの MS-20 では、ホワイトノイズとピンクノイズとを混ぜて、LPF、HPF に通し、カットオフを2つ同時に動かすことで、冨田勲の「ソラリスの海」のような潮騒の轟音が再現できた。
800DV の音はシンセ黎明期ならではの、さすがに他のアナログシンセとは一線を画す、やわらかで暖かみのあるもの。のちの MS-10 や MS-20 などとも違う。ただし「太い」というより「あたたかい」「枯れた」という感じ。別に細い音ではないのだが、太さで言うなら minimoog や prophet-5 のユニゾンモード、あるいは Pro-One のほうが、はるかに太くてゴージャスな音がする。800DV やミニコルグは、それらバタくさい洋物や舶来品とは違い、東洋の哀愁のような、やわらかくも枯れた、あたたかみを感じさせる音。この音には、他のどのアナログシンセとも違う、独特の個性がある。龍安寺の石庭のごとく、枯れた和のこころすら感じさせる、わびさびな音。 なお、ミニコルグでサイン波と書かれている音は、じつは三角波である。800DV では、正直に三角波と書かれている。 個体差なのか私の 700Sと 800DV とを同じ設定にしても、違う音になる。キャラの違いなので、どちらも良い音。そして両機種ともに、テクノよりプログレ向き。
��色メモリーが無いので、無論プリセット音色も無い。
●エディットの自由度と可能性
これが今となっては、かなり謎解きな感がある。フルアナログだからすべて本体上のノブやスライダーで操作するようになっているのは良いが、なんせシンセ黎明期の産物ゆえ、独自の用語だらけ、しかも今のシンセには無い変態機能まであり、何が何を意味するのか分からないことおびただしい。
先述のとおり、完全2系統のシンセなので、フロントパネル上も上下2つに双子シンセがならび、それぞれ UPPER と LOWER という名前がつき、両者を同じ設定にすれば2音ポリシンセになる仕掛け。ここまでは分かりやすい。 だが、ふつうならフロントパネル上を左から右へ、信号の流れとともに VCO → VCF → VCA とボブ・モーグ先生から教わったように配置するであろうところを、なぜか 800DV では UPPER/LOWER ともに左から VCF、VCA、VCO と並んでいる。なんでか、わからん。 あと、垂直に配置されているスライダーは、すべて下へ行くほど値が大きくなる! この常識に反した設計はミニコルグでも見られるもので、ボリューム・スライダーでも、下へおろすほど音が大きくなる。これはハモンドオルガンのドローバーと同じ感覚で操作する事を考慮したものと憶測され、目盛りも0~8とドローバーに準じている。
ただ、考えられているなと思わせるのは、ミニコルグと同様 ・青色:音程に関係する操作子 ・赤色:音色に関係する操作子 ・橙色:音量に関係する操作子 ・黄色:特殊効果系の操作子 と配色されていることで、このカラー・コーディングがシンセの理解を助けてくれる。たとえば VCO の中でもオクターヴ切替ノブは青く、音源波形の切替ノブは VCF 系の操作子と同じオレンジに配色されているところは、本質をついていて鋭い。
まずフロントパネル上の一番左にある VCF セクションには: ・「TRAVELER(トラベラー)」スライダー ・「BRIGHT(ブライト)」スイッチ という、さっそく謎の操作子を装備。
目をひくのが「TRAVELER」と名づけられた、2本で1組の水平スライダーで、カットオフ・フリケンシーをつかさどる。2本で1組となっているのは LPF と HPF の組合せになっているからで、両者のカットオフが互いに相手を通過して音が消えてしまうことがないよう、2つのスライダーのツマミには、物理的に干渉する突起がついている。このため、Q幅が可変する BPF として動作する。LPF スライダーと HPF スライダーとを同じ位置にして、一緒に動かすと気持ちいいスイープ感が得られる。
なお、Traveler というつづりは米語であって、イギリス英語だと Traveller なのでご注意。私もなんかみょーな感覚で最初書いたので、混乱させてごめんなさい。
その右横にある「BRIGHT」スイッチ、これがレゾナンスの off/弱/強 スイッチ。なんだスイッチかと思うことなかれ、意外にもレゾナンスの効き具合は気持ち良く、これとトラベラーだけでも、驚くほどいろんな音がつくれる。先行機種ミニコルグでは on/off しかなく、また 800DV ともども自己発振しない仕様だったが、このときからすでに聴感上、効き心地よく設定されていた。ヴァンゲリスの「天国と地獄 パート1 第三楽章」では、終わりのほうで低いシンセ音がレゾナンス効かせ、ゆっくりカットオフをスィープさせながら聴こえてくるが、あれは恐らくミニコルグによるレゾナンス音と思われ、なかなか聴き心地が良い音である。
よってここ VCF セクションには: ・カットオフをつかさどるスライダー ・レゾナンスをつかさどるスイッチ があるということになる。
VCF の右隣にある VCA セクションには: ・「ATTACK/SLOW」スライダー ・「PERCUSSION/SINGING」スライダー ・「HOLD/SUSTAIN」スイッチ ・「SHORT/LONG」スイッチ を装備。
最初のスライダーは、アタックタイム可変スライダー。
2番目のスライダーには名前がついておらず、上端が「PERCUSSION」、下端が「SINGING」と書かれており、つまり上端では短いパーカッシヴな減衰音に、下へおろすほどディケイタイムが長くなると同時に途中からサステインレベルが上昇してきて、最後に下端ではディケイなしの持続音になる。確かに持続音なら歌うよう聴こえるわけで、SINGING という名も理解できる。
その次のスイッチがまた無名のくせもので、実態はリリー���の on/off スイッチなのだが3段階あり、上端が「HOLD」と書かれており文字通り音が鳴りっぱなしになり、真ん中にリリース無しのポジションがあって、下端は「SUSTAIN」などとまぎらわしく書かれているがこれはサステインレベルではなく、ここでリリースが on になるが、ついでにサスティンレベルがゼロになり、事実上スタッカート専用音色になる!
リリースの長さは、もうひとつの無名3段階スイッチで「SHORT」と中間値そして「LONG」とを切り替えれる。「LONG」にすると、やたらリリースタイムが長くて、ほとんど使いものにならないのが、ご愛嬌。
よってここには、音量 EG の: ・アタックタイムをつかさどるスライダー ・ディケイタイムとサステインレベルを同時につかさどるスライダー ・リリースの on/off 兼ホールドスイッチ ・リリースタイムを3段階で変えるスイッチ を装備、ということになる。
なお、VCF と VCA との間に「EXPAND(エクスパンド)」と書かれたスイッチがあるが、これを on にすると、VCA EG が、そのまま VCF EG を兼ねる。やはり3段階スイッチで off/EG デプス弱/EG デプス強となっているが、聴感上なかなか気持ちよく設定されている。ブラスやシンベとかいい感じ。これもミニコルグでは on/off の2段階しかなかったが、それでも気持ちよいポイントに設定されているのは流石。
とまぁ、とかくイレギュラーな EG セクションだが、慣れると手早く音が創れるので ADSR より使いやすいこともある。
そしてなぜかその右にある VCO セクションだが: ・オクターヴ切替ノブ ・音源波形を切り替えるノブ ・「MIXER」レベル・ノブ ・「MIXER」のオクターヴ切替と、リング変調 on/off 兼用ノブ となっている。
各 VCO のオクターヴ切替だが、高音は2フィートからあるのは普通として、低音はなんと 64 フィートという超低音まであるのが驚き。ただし、64フィートまで下げて低い鍵盤を弾くと、もはやただの断続的なパルスしか得られず音にならない。64フィートで実用的な音を得るためには、鍵盤の中高域を弾くことになる。これがふつうのシンセにない低音で、おもしろい。 音源波形ノブでは、前述のとおり、UPPER シンセにはピンクノイズが、LOWER シンセにはホワイトノイズが装備されているのが特徴。
「MIXER」というのは、サブオシレーターをミックスするためのオシレーター・ミキサーのこと。 まずミキサーレベル・ノブで、サブオシの音量が決まる。ゼロにするとサブオシの音が出ないはずなのだが、私のは壊れてて、ちょっとだけ漏れて聴こえるので、その時はメイン VCO と同じピッチになるようにしてごまかしている! それはまだしも、このレベルノブをフルテンにするとサブオシのみの音になるのが、また大胆! 中央値にすると、メイン VCO とサブオシが半々に混ざった音になる。
しかもこのサブオシ、めずらしく鋸歯状波オシレーターで、世間に良くある矩形波オシレーターではない。ミニコルグ 700Sでは、サブオシのピッチを専用スライダーで連続可変できたが、残念ながら 800DV ではその機能は省かれ、サブオシ独自のオクターヴ切替ノブに発展的解消(?)された。その範囲は 32フィートから2フィートまでと可変幅が大きい。このためメイン VCO とはオクターヴ・ユニゾンにするか、同じピッチにするかしかできず、適当な音程差を持つインターバルをとることはできない。そのかわりと言っては何だが、メイン VCO 2つと、おのおのにサブオシが1個ずつ計2つ、これを全部レイヤーで鳴らすと4アナログオシレーター同時駆動できるので、かなり分厚い音になる。
サブオシのオクターヴ切替ノブは、リングモジュレーターの on/off スイッチも兼ねていて、32フィートよりさらに左に、つまりを最も左へ回しきると、リング変調が on になる。それよりも右へ回すとサブオシのオクターヴ切替になる。 リング変調は UPPER と LOWER とを乗算させているらしく、よく言われたがホワイトノイズとピンクノイズとを乗算すると雷の音ができる。リング変調機は1台につき1基しかついていないらしく、それを UPPER/LOWER の2つの出力から取り出せるようになっているらしいのだが、なぜか UPPER と LOWER とで違う音が出るのは、 UPPER/LOWER とで、キャリア/モジュレーターとをひっくり返した音が出ているのか? なお、フロントパネル左端の果てに、UPPER/LOWER それぞれのピッチ粗調整ノブ(今で言うコース・チューン:coarse tune)と微調整ノブ(今で言うファイン・チューン:fine tune)があるので、これを手動で回せば、リングモジュレーター特有の、倍音が出たり引っ込んだりするスイープ音もつくれる。
ところで、このピッチ粗調整ノブだが、なんとセンタークリックがついており、アナログシンセの分際でピッチの安定性には自信があったことを、うかがわせる。しかも黎明期のシンセなのに!
また、800DV のリング変調は、その後のシンセにあるものと似たものだが、ミニコルグ 700Sでは3つのリング変調モードがあり、「MODULATOR 1」と「MODULATOR 2」では倍音の出方が違うので、たぶんにモジュレーター側のオシレーターとなっていると思われるサブオシのピッチを変えていると想像される。そして「MODULATOR 3」は、なんと音階にならず、その代わりに鍵盤ごとに違う倍音が出るようになる。ということは、この「MODULATOR 3」モードでは、キャリア側のオシレーターのみピッチがキーフォローせず一定の値で固定になるのだろうか? いずれにせよ、これも黎明期ならではの実験的産物であり、800DV 以降では、より実践的にリファインしたものと思われる。やっぱリング変調は、楽しい。
なお、ミニコルグ 700Sには「EFFECT」というスイッチがあり、これは内蔵エフェクトを指すのではなく、そもそも 700Sにエフェクターは内蔵されておらず、これは 700 から 700Sになるとき追加された部分、すなわちサブオシ/リング変調/ノイズジェネレーターを一括して on/off するスイッチである。おおざっぱに言えば、これを発展させたのが 800DV のミキサー・セクション/リング変調/ノイズ・ジェネレーターとも言えよう。 いずれも、あいかわらず今となってはまぎらわしい名前なので注意。
VCO のさらに右には: ・ビブラート関連スイッチ ・「BENDER(ベンダー)」関連スイッチ ・ポルタメント FIXED/off/VARIABLE スイッチ ・ビブラート・デプスのスライダー ・ビブラート・スピードのスライダー ・「BENDER デプス」のスライダー ・「BENDER スピード」のスライダー ・ポルタメント・スピードのスライダー と、いわゆるモジュレーション系が並ぶ。
ビブラートは、on/off のほかに、ディレイ・ビブラートも選べるのが気が利いている。
次にある「BENDER」とは、いわゆるピッチベンダーとは関係なく、オートベンド、すなわちアタックだけのピッチ EG。そもそも 800DV には、ミニコルグ同様、ピッチベンダーもモジュレーションホイールも、後世コルグ独自のコントローラとなるジョイスティックもついていない! 800DV のオートベンドは、ベンド・アップとベンド・ダウンとが選択でき、ベンドする時間もスライダーで調節できる。ミニコルグではベンドアップのみで、ベンド時間も固定だった。音源波形を三角波にしてベンドアップさせると、喜多郎が好んだ口笛みたいなシンセリードになる。
ポルタメントは普通のアナログシンセのポルタメントなのだが、3段スイッチにてかかり具合が選択可能。VARIABLE にすると、ポルタメントスピードを可変できるスライダーが生きる。FIXED にすると速度固定でポルタメントするが、なぜか私の個体では非常に遅くて使いものにならない。喜多郎の「シルクロード」にて、要所要所で効果的に使われていたのが、懐かしい。
ここまでの各セクションは、UPPER と LOWER 個別に存在し、そのため 800DV は、上記の操作子をすべて2つずつ持ち、この翌年に出た Oberheim Two Voice と同じく完全2系統のシンセとなっている。VCF と VCA まで2基ずつあるのがポイントで、のちの MP-4 "MONO/POLY" や POLY-800 のように オシレーターだけ複数あるというパラフォニックではなく、ほんとうに2音ポリシンセとして動作するので弾きやすい。 フロントパネル上にならんだ、上下2つのシンセ操作子群は、なかなか壮観ですらある。
さて、ここからは1台につき1系統しか存在しない謎のセクションたち。UPPER/LOWER 各シンセ独立ボリューム・スライダーは見ただけで意味が分かるが、さらにその次にあるのが、謎のセクション「REPEAT(リピート)」。 そこにあるのは: ・REPEAT スピードのスライダー ・REPEAT 形状のスライダー ・REPEAT モードのノブ:値が off のほかに A、B、C、D、E とある
このリピートを動作させるとトレモロ効果が得られるので、ついつい VCA LFO かと思ってしまうのだが、よっくよく挙動を調べてみると、じつは EG とベンダー(前述のオートベンド)を周期的にトリガーしているため各ゲート信号を周期的に開閉する、という変態機能らしい。黎明期の混沌である。 このためか効果は、VCA LFO 波形にたとえて言えばパルス幅が可変できるパルス波 LFO のみで、これは恐らくパルス波 LFO ではなく、ゲートの開閉であると思われる。なお、このゲートは、UPPER/LOWER 個別に独立して存在するらしいが、考えてみればモノシンセ2台分なんも考えずに搭載しているから当然か。
リピート・スピードのスライダーでは、トレモロの速さを決定できる。かなり高速にできるので、AM 変調の一歩手前くらいのことができる。 リピート形状のスライダーというのは、パルス幅すなわちゲート・タイムを変えるスライダーで、上端ではパルス波状、中央値で矩形波状になり、下端では上端とは逆相のパルス波状になる。
そして謎のリピート・モードのノブ、これが2系統のシンセシスとからんで複雑なことになっている。各モードの解説をすると: ・A:UPPER のみトレモロがかかる ・B:LOWER のみトレモロがかかる ・C:UPPER/LOWER 同期し、同時に、同じ位相でトレモロがかかる ・D:UPPER/LOWER 同期し、逆相でトレモロがかかるので、両者の音が交互に鳴る ・E:UPPER が一度鳴ってからあとは LOWER がずーっと鳴る、らしいのだが、私のは壊れているのか、UPPER/LOWER 同時に鳴ってから、UPPER のエンベロープがトランケートされて LOWER のみの音になる。
というわけで、たとえば UPPER でベードラの音を、LOWER でハットの音をつくって、モードDにすると「ドンチードンチー」と、ハウスなリズムボックスみたいなリズムが刻める。つまり、ちょいとしたシーケンサーまがいなことも可能。このままベードラの代わりにシンベを UPPER で創ると、なんとなくルート弾きっぽくなって調が連想されるから面白い。 UPPER/LOWER ともに同じシンセ音にすると、2音���ルペジエイターになる。UPPER/LOWER とで異なるシンセ音にすると、アナログなウェーヴシーケンスっぽくもでき、周期を遅くすれば、アナログのベクターシンセシスふうにも、聴こえなくもない。
これに先述のリピート形状のスライダーをからめると、スライダー上端では UPPER の音は全部鳴るが、LOWER の音はごく短い間しかゲートが開かないのでエンベロープが終わる前にトランケートされて途切れる。中央値では、UPPER/LOWER 均等に交互に鳴る。下端では LOWER の音が全部鳴るが、UPPER の音がトランケートされて鳴る。ということは、モードDにおいてはゲート開閉が UPPER/LOWER で反転しているのであろう。
また、UPPER/LOWER で持続音をつくってレイヤーし、モードAないしBにすると、片方はずーっと鳴っているのにもう片方だけトレモロがかかるという、風変わりなリード音ができる。
出力端子が、UPPER/LOWER 個別にあるので、外部ミキサーのパンで左右に振り、リピート機能を使うと、左右で音が交互に出たり、超高速で左右でパンするような空間演出もできる。
ちなみに、このリピートという機能はミニコルグにもあったが、 ミニコルグはモノシンセなので、ここまで複雑ではなかった。だからますますただの VCA LFO くらいにしか思えなかった。だがこれは、ミニコルグと 800DV ならではの、変態機能。 ミニコルグで、このリピート機能とベンダー機能とを効果的に使った例として、ヴァンゲリス「天国と地獄 パート2」の最初のほうに出てくるコウモリの鳴き声をイメージした効果音がある。この効果音は、しばらく不気味にひっぱったあとリピートとベンダーとを解除され持続音となり、そのまんまながらに一転して哀愁をおびたメロディラインを少しだけ奏でる。効果音から楽音へのメタモルフォーゼ。ここにシンセならではの、音色変化のおもしろさ、リアルタイムにモーフィングする楽しさが垣間見える。
そして 800DV 最後が究極に謎のセクション、その名も「TRANSPOSE(トランスポーズ)」。もちろんこれも、キー・トランスポーズとは何の関係も無い。これはいわば、キー・アサインの方式を変えているようなセクションで、あるのはただ二つのスイッチ: ・左スイッチ:値はAとBのみ ・右スイッチ:値はCとDのみ だけ。 してその動作は: ・スイッチ群を AD という組合せにすると、まず最初の打鍵で UPPER のみが鳴り、それをホールドしたままさらに別の鍵盤を打鍵すれば LOWER が鳴る。 ・スイッチ群を BC という組合せにすると、まず最初の打鍵で LOWER のみが鳴り、それをホールドしたままさらに別の鍵盤を打鍵すれば UPPER が鳴る。 ・スイッチ群を AC という組合せにすると、UPPER と LOWER がレイヤーされて同時に鳴るモノシンセとなる。ただし、それをホールドしたままさらに別の鍵盤を打鍵すれば、UPPER と LOWER が分離してばらばらに鳴る。UPPER が高い音、LOWER が低い音の鍵盤で鳴る。 ・スイッチ群を BD という組合せにすると、最初の打鍵では音が出ず、次の打鍵で2鍵同時に鳴る。これも UPPER が高い音、LOWER が低い音の鍵盤で鳴る。
つまり: AD ないし BC にて、UPPER/LOWER を同じ音色に設定すると、2音ポリシンセとして動作する。モノシンセとして単音弾きすると、AD で UPPER が鳴り、BC で LOWER が鳴るので、UPPER/LOWER とで違う音色にすれば、AD と BC とを音色メモリーがわりに利用でき、瞬時に音色切替ができる。じつは単に UPPER と LOWER とを切り替えているだけだが。 さらに最後の BD モードにて、UPPER/LOWER を同じ音色に設定すると、高速のコード・カッティングができて便利。違う音色にしても面白い。 というわけで、���ンプルかつ難解ながらに、いろいろ使いみちがあるセクションである。
なお、どのモードでも、2つ鍵盤を押したとき、かならず UPPER は高音に、LOWER は低音にアサイン��れる。どうやら UPPER は高音優先のモノシンセ、LOWER は低音優先のモノシンセらしい。 両者を違う音色に設定すると、レガート奏法することでキースプリット効果が、それもフローティング・スプリットポイントみたいな演出ができる。当時、これを利用し、LOWER でシンベを、UPPER でリード音を創り、左手でシンベを弾きつつ右手でリードとを弾くことで、アクアタルカスを再現していたデモンストレーターがいたとか。 この状態でさらに LOWER のみにリピートをかけてこの奏法すると、シーケンスベースとシンセリードによる合奏ができる。 逆に UPPER のみに高速でリピートをかけると、シンベとトレモロリードによる合奏ができる。UPPER/LOWER 両方にリピートをかけても、いろいろ実験できてたのしい。
よぉこんな機能や名称の数々、考えついたな。
なお、KORG 700 系はもっと変態で、もはや VCO/VCF/VCA という区別も無く、あらゆるパラメーターがごちゃまぜになって配置されている。なので、パネルの回路と、中の音源回路とが、無関係に配置され接続されていると思われる。
どんなパネル配置かというと、鍵盤下、左から右へと: ・ボリューム・スライダー(VCA) ・トラベラー(VCF) ・原始的な音量 EG 関連(例のアタックとかシンギングとか言うやつ:VCA) ・オシレーター���フィート切替ノブ(ピッチ切替ですな:VCO) ・音源波形の切替ノブ(VCO) ・Expand という、EG を VCF にあてはめるスイッチ(VCF) ・Bright という、レゾナンスをつかさどるスイッチ(VCF) ・EG リリース・スイッチ(VCA) ・オートベンド・スイッチ(VCO) ・リピート機能スイッチ(ゲートと各種トリガー?) ・ヴィブラート・スイッチ(VCO) ・ディレイヴィブラート・スイッチ(VCO) ・ポルタメント・スイッチ(VCO) ・リピート速度スライダー(ゲートと各種トリガー?) ・ヴィブラート速度スライダー(VCO) ・ヴィブラート深度スライダー(VCO) ・ポルタメント時間スライダー(VCO) ・電源スイッチ ・チューニング・スライダー(VCO) とまぁ、むちゃくちゃでっしゃろ。さらに七百式改では鍵盤左横にサブオシ関連、リングモジュレーター関連、ノイズジェネレーター関連の操作子が、これまた、むとんちゃくに配置。えらい混沌。 まぁ鍵盤下に並んだパラメーターは、おおざっぱに言えば基本的な設定を左半分で行い、それに対し効果を右半分で加える、という思想で配置されているようにも思える。
●拡張性
皆無、と言いたいが:
・背面に「ATTACHMENT FROM」という端子と「ATTACHMENT TO」という端子:これは、UPPER/LOWER 個別に外部エフェクターをカマせる、つまりエフェクト・センド/リターン端子 ・UPPER/LOWER 独立にトラベラーのカットオフを開閉できるフットペダルを接続できる端子 がある。
前者を活用すれば、UPPER/LOWER で異なるエフェクト処理ができる。外部アウトボードギアを「アタッチメント」と呼んでいるあたり、時代である。 後者の��子は、当時のコルグ独自の形状になっていて、通常のフォーンジャックなどではない複雑な複数ピン仕様のものである。CV を可変できるような独自のフットペダルがあったに違いないが、見たことが無い。
そして最後に音を出す出力端子は、前述の通り UPPER 用の出力端子と LOWER 用の出力端子とが個別に用意されており、リピート機能などを使った曲芸的な空間演出ができるほか、ふつうに両方で同じ音にして別々のスピーカーから鳴らすと、微妙な音程・音色の違いから空間合成式のステレオ・コーラス効果が生まれる。あるいはここでも UPPER/LOWER で、別々のエフェクトをカマすこともできて便利。
●あなたにとっての長所
いやー、こんだけ音も仕様も個性的なシンセはなかなか無いでしょう。ええ音しまっせー。テープエコーをカマすと、ますます飛べます。しかも少ないパラメーターで、これほど豊かで多彩な音を実現しているところは、ミニコルグと 800DV とに共通する長所。
たった2音とはいえ、和音で弾けるのは大きな長所。モノシンセを弾いてから 800DV を弾くと、ポリフォニックならではの自由度の高さが、じつにありがたい。UPPER/LOWER を違う音にするのも、創意工夫が試されておもしろい。 キータッチもミニコルグより良い、というかミニコルグのがおもちゃっぽすぎる。
●あなたにとっての短所
意外にでかい。ほんで、ごっつ重い! なんでピッチベンダーが無い? 重たさでは、なんでも 16.5kg あるとかで、こりゃたいがいの 61鍵シンセより重たい。 あと、用語や変態機能が独特すぎて、しばらく使わないとすぐ意味や動作を忘れてしまう! そして CV/Gate 入出力端子が無いので、外部からシーケンス駆動できない、手弾きのみのシンセ。
●その他特記事���
忘れ去られた、変り種。
800DV 弾いててなにがすごいって、他には代えがたい音の良さと個性もさることながら、ただ単純に2音ポリのシンセつくりゃーいいとせず、やたらと難解な機能を付加し、2音仕様ならではの、とはいえ思いもよらぬ効果が出るように工夫してあるところ。唯一無比の音にこの変態ぶりの組合せは、先人たちの偉業である。
ここからは純粋に憶測にすぎないのだが、800DV は、のちのポリシンセで使われたデジタルスキャニング・キーボードを採用していない。単に高音優先のモノシンセと低音優先のモノシンセを合体させただけなのだろうが、その結果、変態リピートや意味不明トランスポーズなど、かえってさまざまな演奏というか奏法が可能になっているのではないだろうか。今は滅び去った変態機能の数々は、それら黎明期の、まだ発想が自由だった時代ならではの産物ではなかろうか。
そのせいか、海外では、これを史上初のデュアルティンバーシンセ、つまりパート数が2というマルチティンバーシンセの先駆者として評価する向きもある。しかもいちいち MIDI チャンネルを合わせたり複雑なルーティングを組まなくても、スイッチやスライダーの一発でできるあたり、800DV の操作性はじつは非常に感覚的。 また完全2系統のシンセシスでレイヤーもできたことから、部分音合成が可能なため、ローランド D-50 にあった「パーシャル」という音色単位を早々と実現していた先駆者とみなす向きも、海外にはある。
さらに、独特の用語たち。 たとえば長い音の旅路をわたる旅人になぞらえたという「トラベラー」。これら独自の名称は、800DV だけでなく mini KORG やデカコルグ、770、900SP、M-500SP Micro Preset といった、当時のコルグ機種に共通して使われていた。シンセ黎明期の混沌ぶりをあらわしているこれらコルグ独自のパラメーター名は、なんとかして新しい音創りの世界を、世にひろめようとした努力と工夫であろうか? つまり「かっとおふ・ふりーくえんしぃ」などという技術用語やテクニカルタームをユーザーに押しつけるのではなく、分かりやすく一般的な言葉で、あるいはバーのマスターであった創業者・加藤孟さんならではの粋な言葉で、さまざまな新機能を紹介しようとしたのだろうか? あるいは、はたまた、たんに外国産のシンセを知らなかったために、独自の自社技術でもってシンセの試作機まででっちあげてしまったその歴史から、独自の用語を用いるようになったのか?
事実、同時代のローランド SH-1000 は、すでにモーグ社とコンタクトしていたことがあった経験もあってか、ローランド独自開発であるにもかかわらず、搭載されているパラメーター名は、ほぼ現代のシンセと変わらない。
それでいてなおかつ独自開発だったせいか、ミニコルグの好敵手 SH-1000 は、国産初のシンセであるにもかかわらず、すでにプリセット音色を装備し、しかも複数の音源波形を同時発生でき、おまけにフィート合成までできたという、これまた今のシンセには見られない、独特の個性的な仕様となっている。
800DV に見られるスライダーの多用も、のちのコルグでは長らく見られない。 VCF に至っては、トランジスター���並べるのではなく、ダイオードをならべた変な設計なのだという。 これら原始の混沌からすれば、その次の世代たるコルグ MS-10、MS-20、MS-50、PS-3100、PS-3200、PS-3300 などですら、用語も音色も、それまでのコルグあけぼのの時代とは違う、なんだかずいぶん整然と整理され進化した近代的な機種に思えてくる。それこそ丸ノブの多用から「Cutoff Frequency」という名称の採用にいたるまで、である。
シンセがまだ海外で産声を上げたばかりのころ、それこそアーティストの間ですらまだ知られていなかった時代、メーカーはなんとかしてこの新しい楽器をひろめようと、さまざまに工夫を凝らした。中には今では絶えてしまった機能もあるが、その工夫を凝らした意気込みが、このただの2音ポリシンセにとどまらなかった 800DV には詰まっているといえよう。
そしてミニコルグと違い、操作子を鍵盤の下に置かず、ミニモーグ同様に鍵盤の後ろに傾斜したフロントパネルを設け、そこに操作子を集中させているあたり、単にオルガンに従属した周辺機器にとどまらない、シンセという独自のアイデンティティーを持ったあたらしい楽器が生まれたことを主張しようとしたのではないか。ミニコルグのように王者オルガンに隷属しない、新種の楽器、あたらしい楽器、その誕生ではなかったか。それこそが 800DV の、真の姿ではなかったか。
なによりも、他のどのシンセにもない独特な音。ミニコルグともども枯山水を思わせる、枯れた、だがゆたかで有機的な響きの音。おなじコルグでも、次の世代になる MS-10 や MS-20、PS シリーズとも違う、さらに後の機種とはまったく違う、世界中のどのシンセとも違う独特の個性。これがコルグ・シンセの産声なのか。黎明期ならではの、味のある音である。
忘れ去られた変り種。
喜多郎は、NHK 特集「シルクロード」の中で、ミニコルグ 700Sのサイン波(実は三角波)を、その幻想的な笛のような唯一無比のサウンドから木管調のリードに使い、800DV の鋸歯状波をまろやかなブラスっぽいソロに使っていたという。 難波弘之は、最初に手に入れたシンセがミニコルグ 700Sというところから思い入れがあるのか、800DV とともによく使っている。しかも未だに 700Sを、ライヴで使ったりしている。難波氏は、700Sにある CHORUS I という名の、ゆっくりした PWM がかかる音源波形を使ったと思われる、のびやかなリード音がお好みのようで、レトロフューチャーなリード音が聴ける。 ヴァンゲリスは、前述の通り初期の名作「天国と地獄」「Ignacio」「反射率 0.39」などで、ミニコルグや 800DV などを駆使していたらしく、それらしい音が随所に聴ける。
彼が自身のトレードマークともなったヤマハ CS-80 を多用するようになるのは、'77 年のアルバム「螺旋」から。そのさらに翌年 '78 年には、クラフトワークがアルバム「人間解体」を発表。そのころには、すでに各社からさまざまなアナログシンセが出現し、それらを駆使したプログレやクロスオーヴァーから広まっており、高機能化・低価格化が進んでテクノブームを起爆させ、ついには伝説の名機の数々として語り継がれることになる。
だが、800DV は、まだそのさらに前の時代、シンセあけぼのの時代の、突出した、それでいてほとんど忘れ去られた先駆者だった。
この混沌とした、だがそれがゆえに今では見られない底抜けに自由かつ奔放な設計思想でつくられたシンセたち。
それらのうち、特に miniKORG 700S は、だがコルグの創業者、加藤孟(かとう・つとむ)氏をして、永遠の理想の名機と思わせたらしい。 その発売から三十年くらいたったころ、彼は TRITON 以来のワークステーション全盛期に、一度これを復刻しようと試作させている。できたものの 15 万円くらいになるというので、量産は見送られが、逆に機能縮小することで安くすればいいんじゃないかという話になった。そこで、とことん仕様を削りまくり倒し、最小限のスペックで誕生したのが、スマホサイズのアナログモノシンセ monotron。
時に 2010 年の春。
ひょうたんから駒、ここからコルグは直球でアナログシンセ復興をかかげ、その盟主となって数々の名機復刻や、新時代のアナログシンセをたくさんつくり、不安定でじゃじゃうまなアナログ回路の設計と量産に関するノウハウを積み、ついにアナログシンセ・リバイバルから 10 年、コルグ最初のシンセ試作から 50 年ちょっとたった 2021 年1月 18 日、miniKORG 700FS として、700S に音色メモリーやアフタータッチ、ピッチベンダー、スプリング・リバーブ、USB、MIDI などなど追加したうえで復刻させた。すでに加藤氏は逝去されたあとであったが、当時のエンジニアだった三枝文夫監査役が復刻に関わったという、原点回帰。
原点にして異形なのか。そもそも異形とはなにか?
これを異形のシンセと見ても不思議ではない。 しかし、シンセとはもともとは自由な存在ではなかったか。既存の楽器からの自由解放。しがらみからの逃走と既存文脈への闘争。なんでもかんでもかっとおふふりぃけんしぃなのは、シンセにあるまじき様式美ではないのか?
というわけで、ここまで過去を総括した上で、なおかつ、今までの歴史も文脈も、この総括も全く関係ない若い世代が、あたらしい世代が、彼らなりの文脈とセンスとで、あたらしく使ってくれることを、期待する。老害は黙ってなさい、自由に育成できる土壌づくりに専念してね。
せやかてシンセは、あらゆる既存からの自由なんやさかい。
Copyright (C) 2009-2020 Nemo-Kuramaguchi All Rights Reserved.
Revision Log; Jan 18, 2021 - First Edition posted
29 notes
·
View notes
Text
連帯する、ということについて。
昨年来、応援してきているChoose Life Project。キャッチコピーは「自由で公正な社会のために」。オンラインでお話する知人たちに共有したり、クラウドファンドに参加したり。時代が変わっていく境目に、市民が公正でdemocraticなメディアを維持することはとても大切なことだと思っていて、これまでで一番しっくりくるもの、と感じて、可能な限り特集番組的なものは逃さず見ている。
そのCLPで、森さんのsexism remarkをうけて、「Don’t Be Silent #わきまえない女 たち」という緊急企画がありました。2月6日。
これまでも、福島みずほさんのフェミテレビなんかを見る中で、女性が女性たちのつながりによって作られる安全な器の中でことばを交わしていくことのlivelyな感じがいいなぁ(わたしも元気がでるなぁ)と思っていたので、そう言うものに触れられるのかな、というようなことを期待しつつ、パートナーと一緒に視聴。実際見始めると、やはりどうしても、自分のこれまでの体験から自分のからだの中に残っている感覚や感情のようなものが「あ、わたしも!わたしも!言いたいことあるよ!」とやってきて、それらと一緒に小さなiPhoneの画面を見続けることになる。でもだからこそなのかなと思うけれども「視聴する」という行為だけで、あっと言う間に画面の中の人たちと連帯してしまうかんじがある。
対話を支える仕事をしてきて、この、同じことばを話すことの発見を通じて瞬時に連帯する感じ、というのは、それがオンラインであれ、オフラインであれ、人々がその共有する課題や問題に各々主体的に関わっていくために大事な入り口の感覚だと思う。それは、自分の身体や体験からしか生まれてこないことばで、誰かに否定されたり、頼んでいないのにケアの対象になったりするようなことばではなく、言ってみると、その人自身のサバイバルの歴史の証人のようなもの。あるいは、未来をこんな風に展望するんだ、ということを語るための、靴のようなものだと思う。この靴を履いて生きてきて、この靴を履いて生きて行くんだって、自分で認識している自分の靴。不意打ちでつけられた汚れも納得いかないまま生じたすり��りもあるけど、わたしの歴史。(ただし、勲章、のイメージではない。もう二度と見たくない傷、不可抗力によるダメージもあるもの)
その例えをもう少し引き続けば、連帯の感じ、というのは、あ、同じ靴履いてる!って分かった瞬間に、相手が具体的にどんな体験をしてきたのか全く分からなくても、生じる感じ、だと思う。だから、「みんな似たような体験をして生きてきたと思うんです」っていう、ファシリテーションの基本で言えばNGな乱暴なカテゴライズがOKになる。ここでわたしたちがしたいのは、その靴を履いたままで「せーの」で同じ方向へ一歩踏み出すことで、靴の傷や汚れひとつひとつを解説したりすることじゃないから。
ただ一方で、まっさらな靴のままでここまでやってくることが出来なかった、悲しみとかしんどさとか、未消化感とか後悔とか怒りとか、そういうものから生まれることばたち、というものもあって、それは、同じ靴を履いている!と分かった人たちの間でだけお互いに耳を傾けあえるものだ、と言うことも思う。ばーかばーか、とか、ゆるさん!とか、むかつく、とか。分かる分かる、だよね、という合いの手が来ると知っているから始めて出せることば。一生誰にも言う予定もなく自分の中にあることば。それらは、本当に実際に自分から出ていくことがなかったとしても、連帯を感じる相手が何かを語るだけで、ぷくぷくと沸いてくる感情の源泉のようなものとしてあって、「ああ、分かるその怒り」とか「そう言ってくれてとてもすかっとするー」といった心の中のつぶやきをうむ。他者を通じて自分を感じる、と言えばよいのかな。
2月6日の「Don’t be silent #わきまえない女たち」の総勢24名の女性が出てくるという番組が為したこと、って、わたしは、社会問題を可視化する、というようなそんな上品なものではなくて、もっともっとプリミティブで、同じ靴を履く視聴者が「ああ、ひとりではないんだなぁ」って、自分が誰とも交換することのできない自分の靴を履いていることを感じることを通じて(密やかに、時には隣に座っている人にも内緒で)連帯していく、その力を生み出したことにあるんだと思う。インターネットの力だし、もはや伝統芸となっている放置remarksのpileが崩壊寸前のところまで来たから、だとも言える。それらがありつつも、わたしには今回の企画が、力を持っていた、ということが何よりも「わぁすごい企画だなぁ」という感想につながっている。情報のショーケースじゃなくて。気持ちや感情が動いたひとりひとりが「あれ?わたしって、大きな社会問題を共有する集団のメンバーだったのかー」と自認するためのメディア(媒介)として働いた、ってことを、今回は一番大事なことだった、と言いたい。それは、出演者たちの間にも起きていたし、見ているわたしの側にも起きた。(とわたしは感じた)
なので、その後に予定されていた企画「Don’t Be Silent #変わる男たち」はちょっと期待しちゃっていて、中止と知って素直に「えーんざんねん」って思ったのだけれども、CLPのnoteを読んで、ああ、それなら中止になって良かった、って思ってしまった。仕切り直しでもなくていいんじゃないかなってすら思っている。
今回の企画のきっかけになる出来事を、わたしたち(女性たち)はまず、女性蔑視の発言と見なすところから始めているから。
もし、「わきまえない女たち」ではなく、例えば「わきまえることを迫る社会を生き抜くわたしたち」とか「もうわきまえるのはやだ!Noを言うわたしたち」とか、森さんの発言とそれを容認する風土について耐えられない思いをしている人々が口々に語るという切り出し方をしていたなら、そこには性別は持ち込まれることがなく、もしかしたら続編もつくれたかも。
でも、それでは連帯を生む強い力学は作動しないだろうな、と思う。なぜなら、今の日本は、差別のカテゴライズのはしごを上げて行くには、まだまだ準備が足りてなくて、一番上位の「あらゆる差別と戦う」ための連帯を生むほどまでには、ことばたちが育っていないから。
わたしは自分のパートナーが、パラリンピックに参加できる資格が十分あるにもかかわらず、障害を負いたてほやほやの現役アスリートであったがために「障害者初心者だからだめ(障害を克服して努力してやってきた先輩障害者を差し置いて実力発揮などけしからん、というようなことだと思われる)」という謎の理由で排除された経験があるのを知っているので、正直今回の森さんの発言は、日本のオリ・パラ運営界隈が内包している排除の理論が発動した一角にすぎないのだろうなと思って聞いたところもあった。過去にその時の実力よりも国民的な人気が優先された例なんかも思い出す。障害者差別、派閥差別(えこひいき?)、性差別、階級差別(人々を無報酬で労働させようとするなんていうのもそのひとつだと思う)などなど、そういったこと全部をまるっとひとつの問題として見なして解決を目指すというのは、民主主義が導き出すダイナミクスのひとつ、なわけだけれども、わたしたちの国・日本は現状として共有する社会問題に取り組めるであろう人々が繋がることを阻む仕組みづくりに成功しているし、市民の側のそれに向き合うための体力も技量も他に割かないと生きていけないところまで持ってこられている。そんななかでも、まっすぐに戦える個人は、使いたくない感情も使いながらがんばって進むことになるし、そうでない個人はわきまえるか何かして、同調するか面従腹背するか方向性は別としてサバイバルするしかない。結果、いつもみんな、自分の場所で自分のしかたで、ばらばらなまま。
連帯って、仲良しクラブではないわけだから、連帯する人々が24/7でニコニコし合っている必要はない。イヤなヤツがいてもいいし、意見も統一される必要はない。ただし、これがわたしたちの前にそびえ立っている限りは、公正で公平な社会が望めないって言える共通のものが見えている必要がある。どうやっていくかは、いろんな方法があっていい。ただ、同じ障壁を見ている人たちが他にどこにいるか、お互いに知り合っておくことはとても大切で、そうじゃないと、社会が変わる、ということには辿り着かない。障壁は、なぜだか個々人の前に個別に立ちはだかっているように見えるけれども、実のところ巨大なひとつの壁。だから、同じものを認識している、ということを共有しないといけない。
「あらゆる差別と戦うわたしたち」という集団が、連帯の連帯の連帯の・・・と連帯の連鎖によって生まれる最終最大サイズになるのだと思うけれども、今は、自分がど��連帯に繋がるものなのかも分からない・知らされていない人々もたくさんいて、その入り口にも立ってない状態のまま、日々もにゃもにゃしているから、遠い道のり。まずは、目の前の壁が自分にだけ見えているわけではない、というところから始めないといけない。でも分断されているわたしたち。
そんなわけで、わたしは、男女もまた連帯していくことができるのだー!というところにまで、まだ辿り着いていない、と思っている。ここまで分断されてしまったわたしたちの「今」はまだ、女性たちの連帯のサイズが大きくなっていくためにあるのではないかな。
他の国を見てきてしまったりすると、こういう契機は、世界に今すぐ追いつくために逃せない、って思ってしまうかもしれない。国の外からの呼び声も感じる。でも、「今の日本」にそれは難しい。じっくりじっくり時間をかけて、分断を進められ、間に障壁すら置かれてしまって(誰がそれをしたの?というような議論はここではしないけど)、代替的な安心安全で口をふさがれて。全てのピースが揃っているのに、全部違う場所に押し込まれて、一見完成しているように見えるジグゾーパズルのようです。
だから、まずは、ピースをひとつずつはずして、
無理矢理押し込まれたことでダメージを受けた縁をケアして、
もう一度ひとつひとつ適切なところに配置していく、
そんな仕事の時期なんだなと思う。
人間関係トレーニングだと、日本でのトレーニングはひとりひとりの中の「みんないっしょ」の思う込みを解体するところから始めなければならない特長がある、というのと同じだなーと思う。みんな一緒だと思っているところから離れて、自分の足で立つ感覚を得て、同じ靴を履いている人たちと集まって、せーので同じ方向に一歩足を出す。
「わきまえない女たち」の緊急企画に集まった女性たちは、個々の歴史の上に立って、連帯するための準備が既に出来ていて、あるいは既に連帯の体験を持っていて、だから同じことばを話していることをお互いに判別できて、そのことばによって立ち現れる価値を見せることができた。
そうやって進んで行く先に、個人の尊厳を奪い、自由を抑制してくるものと戦う力と技能、というものが個人的にも集団的にも身につくのだろうと思う。
パンプスを履かない自由について述べる力、をわたしたちは得た。 自分の身体を他者にコントロールされたくない!と述べることも始めている。 生まれ持った名前をずっと使いたい!ということはわがままじゃないってことももう知っている。
まだまだやることはあるのだけれども、それらの流れは、
女性だからパンプスを履きたくないっていう話をしているのではないの、身につけたくないものは身につけない権利というものがあるの、だからあなたもイヤだったら外してもいいと思うよ、そのネクタイ。わたしは絶対に「ノーネクタイなど非常識!」なんて文句は言わないから。
・・・っていう会話を、必要と感じたらいつでもできるようになるための準備なのかもしれない、とも思う。
男女、で分断されているわたしたちは、分断された結果、決して共有できないものを抱えてそれぞれに歴史を作ってきている。それぞれに、疎外され、奪われることも体験してきている。明け渡せと迫ってくる大きなものたちにNOを言い、それらが育つ土壌を耕さず、自らの歴史を綴る主体(学習権宣言を読んでね!)として進んで行く、と表現すると同じことになるけれども、実際にその道がどんな道なのか、は男女で違っちゃうのは当然のことなんだと思う。その道でどうstruggleするか、はそれぞれのものだから、応援はできても口は出せない。そして、逆もまた然り。
だから、今回女性たちが怒っている、ということに、どう反応するのかというのは、男性ひとりひとりのもので、ごめんその反応はなし、とか、そう受け取る人がいると助かるな、とか、女性は女性でフィードバックしていけばいい。そして、その都度、繋がれる人とは繋がっていけばいい。
ここまで社会が壊れてきているのを感じながら、焦らずゆっくり、というのはなかなか難しいなと思うけれども、でも、大きな力で長らく安定してきた分断を乗り越えていく時、まずできるのは、ようやく繋ぐことの出来た手は離さないことなんだと思う。そして、現実に隣にいる人と手をつなげるような現状ではない分、今回のCLPのような企画というのは、メディアだからできることをやったのだなぁ。
マスメディア、って何だろうと考える体験なんてこれまでしたことがなかったけれども、マス、だって、その中身はひとりひとりの人間で、その間がどんな風に繋がっていくのか、ということがどんな世論を作っていくのか、ということなのだろうな、って思うと、場づくりと同じことがいろいろありそうだな、と思った。即時的で有益な情報によってだけ人々が連結されカテゴライズされていく時代はもう終わっている今、どう生きるのかを問い問われるところで生きようとする個人の連帯の場、というイメージが沸く。
もう長らくテレビなるものから遠ざかっていて、マスコミなるものには何の期待もしない時期が続いていたわたしとしては、積極的に視聴するメディアを持つってこういうかんじなのかーとふむふむ思っているところだったりする。
4 notes
·
View notes
Link
習近平主席の外交ブレーンに狂い
中国の外交総括役の楊潔篪国務委員(外交担当=共産党外事工作委員会主任)は8月7日に発表した文書でこう言い切った。
「米国の一部反中勢力が米中関係を不可逆的に破壊するため、米中の交流を阻み、米国民を誤った方向に導いている」
習近平国家主席の外交ブレーン、楊氏が米国内に燃え上がる反中気運を本心からそう思っていたとしたら、完全な間違いだ。
確かに当初は人権問題には史上最も疎いドナルド・トランプ大統領にとっては、中国攻撃は再選狙いの一環でしかなかった。
ところが「香港国家安全維持法」制定を契機に、人権問題には敏感な米議会では、反中スタンスに火がついてしまった。
以前から米議会には超党派で反中マグマはあった。
米中貿易摩擦、中国の米知的財産盗取、スパイ活動、南シナ海・東シナ海での準軍事威嚇活動、ウイグル族抑圧――。
その反中マグマに火をつけたのが「香港国家安全維持法」制定だった。
米議会は反中で一致、媚中派ゼロ
米議会はトランプ大統領よりも先へ先へと動いた。
中国が「香港国家安全維持法」制定の動きを察知するや、パット・トゥーミ―上院議員(共和、ペンシルベニア州州選出)が5月21日、「香港自治法案」(Hong Kong Automy Act)を上程。米上院は6月25日、同法案を可決、成立させた。
米下院は、中国共産党全代人常務委員会が6月30日、「香港国家安全維持法」を制定した直後、「香港セーフハーバー法案」(Hong Kong Safe Harbor Act)*1を可決成立。
上院でも、マルコ・ルビオ(共和、フロリダ州選出)、ボブ・メネンデス(民主、ニュージャージー州選出)が同日、同法案を上程、直ちに可決、成立させた。
*1=同法案は、民主化運動などで当局から逮捕される恐れのある香港市民を米国が特別難民として受け入れることを明記している。
「香港国家安全維持法」制定、つまり「一国二制度」の事実上の終焉とみた米議会は、「次は中台統一」と見た。
上院では、ジョシュ・ハウレイ議員(共和、ミズーリ州選出)が6月29日、「台湾防衛法案」(Taiwan Defense Act)を提出した。
下院ではマイク・ガラファー議員(共和、ウィスコンシン州選出)が同趣旨の法案を提出した。
この法案は、米政府が1979年に制定した「台湾関係法」に明記された中国からの軍事的脅威に直面する台湾に対する米国の軍事的責務を再確認するよう求めたものだった。
これまでにも米議会が出してた法案だ。いわば議員たちの抗議表明であり、中国も批判するがある程度黙認してきた法案だ。
下院外交委員会の重鎮ヨホ議員
ところが、反中法案ラッシュが続く中で7月29日、これまで中国の対香港政策を厳しく批判してきたテッド・ヨホ下院議員(共和、フロリダ州選出)が従来の枠から外れた超強硬法案を下院に提出した。
「中国の台湾侵攻に対抗して米国は軍隊を出動させる権限を大統領に付与すべきだ」とする法案を出したのだ。
その名称は「台湾侵略未然防止法案」(Taiwan Invasion Prevention Act)。
ヨホ議員は下院外交委員会東アジア太平洋小委員会の委員長格。
これまでにも香港における中国政府の民主化運動抑圧を激しく批判してきたが、反共保守強硬派ではない。獣医出身の当選4期のベテラン議員だ。
同法案は次のような点を盛り込んでいる。
一、米大統領が台湾を軍事攻撃から守ることを保障するために米軍隊を出動できる権限を与える。
一、中国が台湾に軍事力を行使、澎湖諸島、金門島、連江を含む台湾領土に侵攻、台湾軍兵士はじめ台湾人に軍事的脅迫をした場合には、米大統領に軍事力を行使する権限を与える。
一、中国に対し、台湾に軍事力を行使しないことを要求する。
一、米国、台湾、そして(中国に対して)意見を共有している安全保障上のパートナーとの安保対話および軍事合同演習のメカニズムを構築する。
一、台湾に対し、(中国との)不釣り合いな武器弾薬の拡充、予備役改革、米国とのサイバー防衛協力強化などに国力をさらにつぎ込むよう助言する。
一、米通商代表部は台湾との二国間貿易協定交渉を開始させる。
一、米大統領、あるいは国務長官は訪台、首脳会談あるいは外相会談を行う。
一、台湾総統が訪米し、米議会で演説ことを歓迎する。
(https://yoho.house.gov/media-center/press-releases/yoho-introduces-taiwan-invasion-prevention-act)
法案提出に先立ち、ヨホ議員は、6月29日、フォックス・ビジネスとのインタビューでこう述べている。
「米国はこれまで台湾に対して十分な支援をしてこなかった。その理由は、米国の対中、対台湾政策に存在する戦略的な両義性、あいまいさのためだった」
「習近平国家主席は、万難を排して台湾を中国に組み入れると公言している。中国は台湾人がどう考えているかすら聞こうとしない」
(https://www.newsbreak.com/news/1602543348282/gop-rep-yoho-im-introducing-legislation-to-authorize-force-if-china-invades-taiwan)
数年前ならこうした台湾防衛のための米軍出動論は、「ミミズのたわごと」ぐらいにしか受け止められていた。
同法案は、下院外交、軍事、歳入各委員会に送られており、どの委員会が審議するかは、下院議長の判断で決められる。
可決・成立は別として、「台湾有事」に米軍が出動するか否かが本格的に論じられるのは初めてだ。
米軍が台湾有事で出動することになれば、まず在沖縄米海兵隊が投入される可能性大だ。「台湾有事」に日本がいやおうなしに巻き込まれることになる。
いずれにせよ、「ヨホ法案」は、米議会が香港情勢をいかに真剣に受け止められているかを示す動きだ。
アザー厚生長官訪台の意味するもの
米議会の動きに触発されたか(?)トランプ政権も台湾に急接近し出した。
アレックス・アザー厚生長官が急遽、台湾を訪問し、蔡英文総統と会談した。
同長官はジョージ・W・ブッシュ第43代大統領(子)の下で厚生行政に携わって以降、公衆衛生一筋のエキスパートだが、大統領継承順位でも第11位の重要閣僚の一人だ。
同長官は米台国交断交以降、米政府が派遣した最高位の現職政府高官。大統領継承順位11位だ。
今回の訪台はただ単に新型コロナウイルス対策で台湾当局と意見交換するだけが目的ではない。
青天白日満地紅旗を前に行われた蔡総統との会談の模様はテレビで全世界に流れた。
トランプ大統領が重きを置く「絵になる外交」を地でいったことは言うまでもない。
だが、今のような状況が続けば、その延長線上にヨホ議員が提起している大統領や国務長官の訪台の可能性すら見え隠れし始めた。
制裁は対象議員たちにとって「勲章」
楊国務委員の認識不足は、冒頭で触れた発言だけではない。
同氏がおそらく習近平主席に助言した8月10日の対米制裁措置に盛り込まれた対象者たちの選出についても言える。
ルビオ上院議員ら上下両議員6人とNGO団体の理事長5人の計11人。
制裁の具体的な内容は明らかになっていないが、おそらくこれらの人物や団体がこれまで中国に対しての発言や活動が極めて反中国的だという理由からだろう。
米国人の香港問題に対する動向に詳しい米主要シンクタンクの研究員B氏は筆者にこう語る。
「推察するに、これの人物が反中国の法案や決議案を出したり、香港問題で中国を激しく非難している『反中強硬派』だというのが制裁の理由だろう」
「だが、これは天に唾するだけで、習近平主席を取り巻く外交専門家たちの国際情勢掌握のお粗末さを露呈するようなものだ」
「ルビオ氏とテッド・クルーズ上院議員(共和、テキサス州選出)は2016年の大統領予備選に立候補し、今や押しも押されもせぬ上院でも有力議員。2024年には大統領選に再出馬する可能性も出ている」
「また制裁対象になっているトム・コットン(共和党、アーカンソー州選出)、トゥ―ミー両議員はともにハーバード大卒の議会知性派。感情的な反中議員ではない」
「特にコットン議員はアフガニスタン、イラク戦争に参戦した退役陸軍大佐。地元では絶大な人気を誇っている」
「ハウレイ議員はスタンフォード卒、イエール法科大学院で法務博士号を取得した州司法長官だ」
「2019年10月には香港を視察、『香港は今や警察国家だ』と言い切っている」
「さらにこれらの上下両院議員たちは中国国内には没収されるような財産など全くない」
「この制裁措置は、米国が8月7日に香港の自治を侵害したとして制裁に指定した林鄭月娥・香港行政長官ら11人を香港の自治を侵害したとの理由で制裁を科した報復措置だというが、米側には実害はない」
「中国側の制裁対象者たちは、多かれ少なかれ、子弟を米国留学させたり、米国内に財産を所有しているはず。実害は甚大だろう」
「北京勤務の長かった元米外交官の一人はさらにこう述べている。『クルーズ議員らにとっては、中国からの制裁措置は“勲章”(Badge of Pride)のようなもの』」
「『再選を前にした議員は、選挙民に歓迎されることは間違いなし。もっともどの議員も選挙は強いし、関係ないかもしれないが・・・』。中国は人選をまちがいたのではないのか」
ノーベル平和賞受賞団体を制裁対象に
それだけではない。
中国が制裁を科したNGO5団体の中には共和党系の反中強硬派組織もある。
だが、その中にはノーベル平和賞を受賞したことのある国際機関、「ヒューマン・ライト・ウォッチ」(Humaqn Right Watch=HRW)・ルーズベルト大統領の夫人のエレノア・ルーズベルト氏が創設した「フリーダム・ハウス」(Freedom House)ような権威のある人権擁護団体も含まれている。
その他、ロナルド・レーガン政権時代に創設された「全米民主主義基金」(National Endoment for Democracy=NDI)や有力現職議員、議員経験者が評議員になっている「共和党国際研究所」(International Republican Institute=IRI)の理事長や会長が制裁対象になっている。
裏を返せば、こうした自由と民主主義を推進してきた国際的な人権擁護団体が、習近平主席が強引に推し進める「香港の完全中国化」に反対していることを天下に曝しているわけだ。
香港・台湾・尖閣が同時多発的「最前線」に
中国新疆ウイグル自治区での人権侵害、香港の自治侵害に抗議する米国の官民挙げての抗議は半端ではない。
当初は選挙戦略の一環で始めたトランプ大統領の反中スタンスは、こうした米国内の反中気運に煽られて、強化せざるを得なくなっている。
ポンペオ国務長官は、8月10日、香港での民主派取締り強化についてこう言わざるを得なくなっている。
「中国共産党が香港を党支配下の都市として扱う限り、米国も香港を同様に扱う。中国当局がこうした行為を改めるとは楽観視してはいない」
トランプ政権が先に廃止を発表している香港に対する経済面などの優遇措置は当面復活させないことを再確認したことを意味している。
ジョー・バイデン民主党大統領候補が副大統領候補に指名したカマラ・ハリス上院議員(カリフォルニア州選出)は、公民権、人権擁護をライフワークにしてきた。
それだけに、これから3か月間繰り広げられるバーチャル・キャンペーンでは中国の香港政策を取り上げる構えのは���至と見られている。
トランプ陣営、バイデン陣営はどちらがどれだけ反中スタンスを示せるかを争うことになりそうだ。
米主要メディアのベテラン記者C氏はそれをこう表現している。
「ご両人にマイク・ペンス副大統領とハリス上院議員も加わり、どちらがどれだけ中国を批判できるか、反中スタンスを取れるか、競うことになる」
「まさに寓話に出てくる、どちらの腹が大きいかを競うカエルの話に似てきた」
「もっとも寓話では最後には腹が破裂してしまうが、米大統領選ではどちらも破裂はしないだろうが・・・」
著書『中国返還後の香港――「小さな冷戦」と一国二制度の展開』でサントリー学芸賞を受賞した倉田徹・立教大学教授は「国家安全維持法」めぐる「米中新冷戦」についてこう論じている。
「(香港の「国家安全維持法」をめぐって)米中対立が地政学の色彩を帯びてくると、日本にとっても完全に他人事ではなくなる」
「香港・台湾の次は言うまでもなく、尖閣諸島や(東シナ海という)海洋が新たな前線となるからである」
(https://janet.jiji.com/apps/contents/searchstory/20200624/620)
米主要シンクタンクからは「中国の尖閣諸島での動きに日米統合機動展開部隊を新設すべきだ」と主張する報告書も出ている。
(参照:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61561)
尖閣諸島は今や香港・台湾の次ではなくなりつつある。「香港・台湾・尖閣」は同時多発的に米中対決の「最前線」になりつつある。
11月3日には大統領選と同時に上下両院選挙が行われる。現職議員も再選するには反中の旗を降ろすわけにはいかない。
米議会の動きは要注意だ。
3 notes
·
View notes
Text
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁǂǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷✸✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤➥➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらり���れろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエオカガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテ��トドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多太体台地池知茶昼長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消商章勝乗植申身神真深進世整昔全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福物平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干巻看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂潮賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅彙違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎掛括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟惨傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓請醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆袋逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把���婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号// ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝〞〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψωϊϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤลฦวศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
#FAQ#ifontmaker2#Symbols#Dingbat#Cyrillic#Greek#Coptic#thai#character set#character sets#list#language
6 notes
·
View notes
Photo
📸坂口記念館 / Sakaguchi Memorial Hall Garden, Joetsu, Niigata 新潟県上越市の『坂口記念館』の庭園が素敵…! 上越市の名家/豪農屋敷の特別公開イベント『上越名家一斉公開』を訪れる際はこの庭園も併せてチェック! 発酵/醸造など“応用微生物学”の世界的権威の農学博士 #坂口謹一郎 が過ごした屋敷“楽縫庵”と博士の愛した“雪椿園”と枯山水庭園。地酒の試飲も🍶 . 新潟・坂口記念館の紹介は☟ https://oniwa.garden/sakaguchi-kinenkan-joetsu-niigata/ ...... “応用微生物学”の世界的権威だった農学博士・坂口謹一郎の業績を顕彰/紹介すると共に、新潟県上越市の酒造り🍶や地酒の紹介する文化施設「坂口記念館」。 古民家風の“酒杜り館”、坂口博士の旧別邸“楽縫庵”の周辺に枯山水庭園や“雪椿園”があります。 . 新潟県上越市に残る豪農屋敷による『上越名家ネットワーク』には含まれませんが、古民家と庭園が楽しめる��がこちら。先に紹介した上越名家の『瀧本邸』と『白田邸』の間にあります。 . 発酵・醸造に関する研究で世界的権威の一人と言われた坂口謹一郎。人呼んで“酒博士”🍶👨⚕️ 少年期を上越・高田で過ごした後に病気のため東京へと転入。その後は東京大学(東京帝国大学)へ入学し、“応用微生物学”で世界的な研究者へと登り詰めました。 . 坂口博士自身は高田の城下町エリア生まれですが、坂口家は元は旧・頸城村の庄屋(大肝煎)をつとめた豪農でした(しかし高田に引っ越す際に他人の手に)。 . 現在見られる主屋“楽縫庵”“留春亭”は豪農・坂口家のお屋敷ではないものの、坂口博士が戦時中に疎開してきた際に住んでいたお屋敷。 …という認識で合ってるのかな…?紹介文章によっては「当時のお屋敷を再現したもの」み���いなことも書いてあるんだけど、“書斎などの内装を坂口博士が住んでた頃の状態に再現”したってことかな。 . 1967年には文化勲章を受章。なお日本より先にフランス🇫🇷で勲章三等章(コマンドール勲章)も受章。 お酒に関するさまざまな書籍を残し、1994年に97歳で亡くなられた坂口博士。 . この記念館は坂口家から屋敷(楽縫庵)と資料等を譲り受けた上で、1999年に開館。順路冒頭の“酒杜り館”で坂口博士に関する展示や酒造り道具の展示を見ることができます。 . 庭園は大きく分けて2つに分かれます。より“日本庭園らしさ”があるのは『楽縫庵』の北向きの庭園。 . 訪れた日が35度近い真夏の快晴の日🌞だったので伝わりづらいかもなんだけど、苔が広がるお庭の中に庭石が配され、杉の木の向こうには遠く山の借景⛰ものぞめる枯山水庭園。 横に長いお屋敷の真ん中に飛び石があるという変わった構成。 続く。 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 【存続のためのお願い】 庭園情報メディア「おにわさん」存続のため、新オーナー(組織)を募集しています。 詳しくは「おにわさん」で検索し、ウェブサイトよりご覧ください。 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #landscapedesign #japanmuseum #枯山水 #枯山水庭園 #karesansui #建築デザイン #ランドスケープ #庭園 #日本庭園 #庭院 #庭园 #新潟庭園 #上越市 #日本建築 #おにわさん (坂口記念館) https://www.instagram.com/p/CjK_AGCLoTA/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#坂口謹一郎#japanesegarden#japanesegardens#kyotogarden#zengarden#beautifuljapan#japanesearchitecture#japanarchitecture#japanarchitect#japandesign#japanart#jardinjaponais#jardinjapones#japanischergarten#jardimjapones#landscapedesign#japanmuseum#枯山水#枯山水庭園#karesansui#建築デザイン#ランドスケープ#庭園#日本庭園#庭院#庭园#新潟庭園#上越市#日本建築#おにわさん
1 note
·
View note
Photo
おはようございます 9月19日(月、祝) #西多賀眼科医院 日曜日と祝日は休診となります #苗字 の日 1870年のこの日、戸籍整理のため、太政官布告により平民も苗字を名乗ることが許された。 しかし、なかなか苗字を名乗ろうとしなかったため、1875年2月13日に、全ての国民が姓を名乗ることが義務づけられた。 1926年 #小柴昌俊 の誕生日 (天体物理学者,「カミオカンデ」で超新星からのニュートリノを検出) 2002年ノーベル物理学賞,1997年文化勲章 [2020年11月12日歿] 【おすすめ仙台グルメ】 国分町のビルの一画にあります串揚げ屋さんです。 勝手に出てくるコースでオーダーストップ制です。 何度か行っていますが全てのメニューを食べきるのはできません。 その前にお腹がいっぱいになってしまいます。 締めのバナナ揚げはチョコレートをかけて食べます😊 串かつ 家族亭 022-267-3261 宮城県仙台市青葉区国分町2-8-2 https://tabelog.com/miyagi/A0401/A040101/4003183/ ホームページもどうぞよろしくお願いいたします↓ https://nishitaga-ganka-clinic.com/ #眼科 #仙台 #宮城 #白内障 #結膜炎 #緑内障 #ドライアイ #眼鏡 #メガネ #コンタクトレンズ #眼瞼下垂 #太白区 #鈎取 #西多賀 #長町 #八木山 #富沢 #名取 #秋保 #秋保温泉 #日帰り手術 #白内障手術 #仙台グルメ #長町モール #誕生日 #今日は何の日 #仙台居酒屋 (串かつ家族亭) https://www.instagram.com/p/CiqhN5BPuRq/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#西多賀眼科医院#苗字#小柴昌俊#眼科#仙台#宮城#白内障#結膜炎#緑内障#ドライアイ#眼鏡#メガネ#コンタクトレンズ#眼瞼下垂#太白区#鈎取#西多賀#長町#八木山#富沢#名取#秋保#秋保温泉#日帰り手術#白内障手術#仙台グルメ#長町モール#誕生日#今日は何の日#仙台居酒屋
1 note
·
View note
Photo
. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 11月3日(木) #先勝(庚申) #文化の日 旧暦 10/10 月齢 8.7 年始から307日目(閏年では308日目)にあたり、年末まであと58日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 「神も仏もない」「血も涙もない」 「夢も希望もない」正にそんな成句。 昨日の朝の時点では、ってか一昨日 の夜迄はってのが正確でしょう😅💦 「捨てる神あれば、拾う神あり」で 胸を撫でおろす気になってましたが 酷い嘘になってました。。。_| ̄|○ . 結局、送られて来た地は一昨日と同 じで事務所から徒歩48分離れた所で (o゚д゚)マジスカ?\(__ )マジデスw😅💦 ただ、時間がゆっくりなだけで送迎 バスもなくなってる時間帯と云うホンマ 舐めて居やがる!W(=0=)W ガオォー!! 激オコ💢プンプン💢丸と化シチャイマシタ🤣😆🤣 でっ帰りも当然の如く付合い残業💢 家に到着したのは零時寸前になり 就寝は午前二時過ぎで定刻に目は 開いたが無理⤵️⤵️⤵️二度寝ぶっこき💤 なので今朝はスローペースです✋祝日🎌 「休みに決まってるじゃないですか」 「出勤してくれない🙏」ザッケンナー💢 . 今日一日どなた様も💁♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋♂ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #ゴジラの日(水爆大怪獣ゴジラ上映). 日本映画の金字塔「#ゴジラ」を製作する東宝株式会社が制定。 世界的な怪獣映画として知られる「#ゴジラ」の魅力をさらに多くの人に知ってもらうのが目的。 この日はファンの間でもゴジラの誕生日とされている。 1954(昭和29)年11月3日(水)大安,の文化の日に、東宝株式会社が見本映画初の特撮怪獣映画「#ゴジラ」を公開した。 当時のキャッチコピーが「水爆大怪獣映画」。 「ゴジラか科学兵器か驚異と戦慄の一大攻防戦!」。 「放射能を吐く大怪獣の暴威は日本全土を恐怖のドン底に叩き込んだ!」。 戦時中にアメリカ軍によって原爆を落とされ放射能の怖さを知った日本人は大怪獣ゴジラに恐れおののいたのでしょう。 しかし、シリーズ展開していく中、人類の味方になり悪者怪獣を退治するという「水戸黄門」や「遠山の金さん」に 学び日本人の好みに変えられていったのではないでしょうか?好きですからね日本人は退治物がねぇ~😅💦 . #文化の日. 1946(昭和21)年、平和と文化を重視した日本国憲法が公布されたことを記念して、1948(昭和23)年公布・制定の祝日法で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日に定められました。 戦前は、明治天皇の誕生日であることから、「明治節」という祝日でした。 科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者に皇居宮殿松の間で授与式が行われ、天皇から直接、文化勲章が授与(親授)される。 初代の授与者は、中村吉右衛門(1951年(昭和26年)受章)。 . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). . #大明日(ダイミョウニチ). . #神吉日(カミヨシニチ). . . #ほるもんの日.#高野豆腐の日.#難聴ケアの日. . #クラシックカーの日. #文化放送の日.(11月3日、4日) . #みかんの日.#サンドウィッチの日. . . ●文具の日.●まんがの日.●レコードの日.●ハンカチーフの日. ●いいお産の日.●バケットリストの日.●ビデオの日.●合板の日. ●世界コスプレの日.●調味料の日.●いいレザーの日.●アロマの日. ●うるしの日.●明治神宮祭.●オゾンの日.●話せるほけんの日. . . #ダブルソフトでワンダブル月間. パン、和洋菓子などさまざまな食品を製造販売する山崎製パン株式会社が制定。 . . ●みたらしだんごの日(毎月3,4,5日). ●くるみパンの日(毎月3日). ●ビースリーの日(毎月3日). ●生命保険見直し月間(1日から30日). ●低GI週間(11月1日から11月7日まで). . . ●晴れの特異日.●ミクロネシア連邦独立記念日. ●ドミニカ国独立記念日.●コロンビアからの独立の日(パナマ). ●クエンカ独立記念日(エクアドル). . . ■本日の語句■. #芸は身を助ける(ゲイハミヲタスケル). 【解説】 身に付けた技芸があれば、いざというときに生計の支えになって助かる。 趣味などで習得した芸が、暮らしに困った時には生活を支える一助となる。 「芸は身を助く(ゲイハミヲタスク)」 . . 1943(昭和18)年11月3日(水)先負. #河原崎建三 (#かわらさきけんぞう) 【俳優】 〔東京都武蔵野市〕. . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/CkesskUpxs1g9r-X64HatdM8W5SLEc6gg6e3bo0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#先勝#文化の日#ゴジラの日#ゴジラ#大明日#神吉日#ほるもんの日#高野豆腐の日#難聴ケアの日#クラシックカーの日#文化放送の日#みかんの日#サンドウィッチの日#ダブルソフトでワンダブル月間#芸は身を助ける#河原崎建三#かわらさきけんぞう
0 notes
Text
しろがねをたなごころに polka dots and moonbeams.
レミー・プグーナの日常は単調だ。そうでなくとも繰り返される日々の中で人間は慣れ、飽き、倦んでゆくきらいのある生き物ではあるが、それにしたって、日々とはこれほどまでに単調なものであったのかとさえ思える。もっとも、単調であるからといって、けして平穏であるとは言い難いのが悩ましいところで、ある、彼はこのプロメポリスという都市に点在しているバーニングレスキューの部隊の一員であり、都市と、社会の構造からいえば一公務員であるといえる。30年! たったの30年だ。レミーが未だに胎児ですらなかったころ、世界はその姿を1日にして塗りかえた。自由自在に身体から焔を取り出しては形さえも与えて支配するバーニッシュたちの出現である。彼らは一見してまるきり我々と同じ姿をしている。詳しくは知らないが、おそらく、彼らと、レミーとのあいだに、遺伝子的、身体的、感情的に、大きな違いなどないだろう。知らなければレミーは彼ら(彼は異性愛者であるので、彼女らと称するのが相応しいと思われるが)と愛し合えさえするだろう。愛の証明のすべてが、キスや抱き合うことにあるとは、錯覚にもかんがえたことがないが。
バーニッシュたちのなかにも力の有意差があって、つよい焔、よわい焔の違いはあるらしいが、それがその人間の人格あるいは体格等に左右されるのでないらしいことは確かめられている。レミーが痩せ型で、同僚のバリスがよく馬鹿力と揶揄される筋肉質の大男だからといって、彼らがもしもバーニッシュたりえたとき、バリスのほうがつよい焔を宿すとは限らない。研究はさかんに続けられているときくが、おおくの物事は極秘事項であり、末端の市民にすぎないレミーの耳に入る情報などたかがしれていた。情報は高度に、精密に、そして意図的に操作されている。大衆の知り得ることなど上澄みにすぎず、そしてレミーはそのほか大勢の、特権階級でない大衆の一人であり、巧妙に目隠しされていることに気付きながら生活をしている。
ひとつ。バーニッシュは突然変異である。それは人間の誕生時に定められるものではなく、成長してからバーニッシュとしての変異を顕すものもあるときく。望むと望まざるとにかかわらず、家族や、恋人や、同僚のだれかがバーニッシュであることを隠しているかもしれないし、ある日とつぜんに、焔が宿るかも分からない。
ひとつ。彼らのあいだにもあやつれる焔の大きさ、つよさの差異がある。多くの場合、とくに、30年まえはじめてバーニッシュがあらわれたとき、焔は情緒的な変化、とくに怒りや恐怖といった負の感情に付随して顕現したときくが、かならずしもそれだけがトリガーたりえるのではない。
ひとつ。バーニッシュたちの操る、まるで意思あるとしか思えない、質量と自在の挙動をもつ焔に対して、通常の火災消火装備や設備は無力である。ほぼ唯一の対抗手段である瞬間凍結弾や、装甲などは特許、そして特権としてフォーサイト財団と彼のプロメポリスにみとめられゆるされている。レミーもその恩恵を受ける末端である。
ひとつ。バーニッシュは遺伝しない。しかし、バーニッシュであるとみとめられたものは性質と力のつよさ、また老若男女の問わずに危険因子としてみとめられ、フリーズ・フォースなるプロメポリスの重装備機動部隊によって拘束されるので、バーニッシュ同士の婚姻はおろか、混血児すら生まれえない、ということになっている。拘束された人々がどこに連れていかれるのか、うっすらと知識はあるが確信はなかった。フリーズ・フォースも表向きは都市に所属する特殊部隊ではあるものの、対バーニッシュ研究の第一人者であり、フリーズ・フォースのみならずレミ��たちバーニング・レスキューに支給されている対バーニッシュ装備のほぼすべての発明と特許を取得しているフォーサイト財団の代表にしてこの都市の司政官であるクレイ・フォーサイトの私兵的な側面をかなり強くもっていることは誰の目にもあきらかであるし、フリーズ・フォースの部隊長であるヴァルカン大佐と、バーニング・レスキューの上司でもあるイグニスとのあいだの、並々ならぬ因縁めいたやりとりを、レミーは何度も見てきた。彼らは軍隊であり、我々はあくまでも一公務員である。レミーにも好奇心はある。彼なりの正義感もあれば、恐怖もあり、倫理観もある。いつ起こるともしれない災害が、何食わぬ顔をしてとなりに座っているとすれば、たしかに脅威である。況んや戦争さえ勃発しかねない時代を、社会はまだ超えたばかりであるし、とくにつよい焔をあやつりテロル行為を繰り返しているマッドバーニッシュのリーダーを筆頭とした残党は未だどこかに潜んでいるそうだ。もっとも、警戒すべきなのは、力をむやみに振り翳す者たちであって、それそのものに悪はない。ただ、体質としてのバーニッシュを嫌悪する感情まではなかった。
バーニング・レスキューは公務員だが、安定した職業かといえば答えはノーだろう。支給される耐火装備は旧式であり、殉死率も高く、レミーもずいぶん古株になった。彼よりあとに配属され、彼よりさきに去った者もある。もし少しでも一般の職業との違いがあるとすれば、それはフルネームで名乗る癖がつきがちなことだった。通信機器ごしの会話は、カメラが実装されているから表情を確認することも可能だが、点呼にこたえる際に名乗ることがあるからだ。なんとなく、としか言いようのない癖ではある。非番はあるが、かといって完全に自由気ままな時間というわけにゆかないし、職場の同僚たちと顔をつき合わせてほんのささやかな焼きたてピザを楽しむ時間ですらも憩いになるくらいだ。レミーにとっては後輩にあたり、同僚内での評価は満場一致の『馬鹿』であるガロ・ティモスにもイグニスが口を酸っぱくして教え諭したものだが、チームワークと機動性が重要視される彼らの消防活動において、同僚との関係が良好であることは僥倖である。文字通り背中と命を預けるにあたって、ガロの『馬鹿』加減ははじめこそ懸案事項ではあったものの、無茶はしても無理はせず、ときおりみせる機転と発想には少なからずハッとさせられる部分もある。ただあまりにも『馬鹿』の割合が大きすぎるので、もっぱら仲間内での彼の評価が向上していくことがないのは、不遇といえばいいのか、不憫といえばいいのか分かりかねた。ガロ自身はあまり気にした風ではないのが面白いといえば面白い。彼は長いこと『馬鹿』をやってきたのだろう。けして道化としてではなく、彼なりの生き方のひとつとして。それを不器用だと嘲笑することはできかね、また、愚かだと断定できるほど、彼を知らなかった。
休みらしい休みはない。家族よりも同僚とともに過ごす時間のほうが長いし、家に帰ることすら稀だ。友人がないとは言わないが彼らとの関係は必然的に稀薄になる。仕事は当然ながら危険を伴うし、災害現場へ飛び込んでいくバーニング・レスキューの装備は旧式だと揶揄したのはヴァルカン大佐だ。耐火装甲として作られてはいるものの、たしかに、肌をあらわにしている部分もあるし、砲台にも似た装置で、燃え盛る建物の中へ撃ち込まれるさまは、いっそ大砲に弾丸として詰め込まれるのと大差がない。バーニッシュたちへ向けられる蔑視を何度も目の当たりにし、実際に相対した彼らとの違和感を感じることもあるが、それでも仕事に不満はなかった。火事は火事だ、とは自称『火消し馬鹿』ガロ・ティモスの言である。彼がどうやら傾倒しているらしい極東の島国にはかつて、火事と喧嘩は江戸の華、という慣用句まであったときくから、人間にとって、本来、焔とはそれほど忌避すべきものではなかったはずだ。命を奪うのはなにも焔だけではなく、バーニッシュだけでも、ない、ひとを死に至らしむるものは! レミーはある意味で妥協し、ある意味で諦観していたともいえよう。焼きたてのピザの香味をたのしみ、同僚と和気藹々と過ごしもすれば、けして美味とは言えないインスタント・コーヒーを飲むこともある。すべてがすべて最良のもの、最善のものだけで、日常を形作ることは、おそらく誰にとっても難しいだろう。地位のあるもの、金のあるものにとってだって、むしろ、そのゆえに失われる自由もたくさんあることだろう。小市民であるレミーには想像もつかないことではあるが、街中のいたるところに張り巡らせられたフォーサイト財団の広告や、スクリーンに映るクレイ・フォーサイト司政官の、慈善や、弁論、先日のガロへの勲章授与の式典のようすなどの目まぐるしいほどに移り変わる姿は、彼の分刻み、いっそ秒刻みのスケジューリングさえも予測され、不自由極まりないことだろう。だれしもに捕らわれた檻がある。大小や、危機の違いはもちろんのこと、本人の意思を汲まない束縛も、もちろんある。クレイ・フォーサイトを、ガロ・ティモスを、英雄と呼ぶ人がいるように、もしかしたら名前までもは知らずともバーニング・レスキューを英雄と信じる人もあるかもわからない。レミー自身はクレイのこともガロのことも崇拝したりはしないが、正義や、信念や、欲求はどこにでもあり、どこにもない。30年前の大災害を超えてなおも人類の営みは続いている、ただ、それだけが、こたえだ。今日もレミー・プグーナはトリガーを握り、バーニッシュのそれには及ばないかも分からないが、ダイヤモンド・ダストのさまでうつくしく砕け散る白銀を撃ち出しつづける。
*****
0 notes
Text
天安門30年を前に勃発した労働争議が意味するもの 福島 香織
5月から深圳で続いていた深圳佳士科技公司(JASIC)の労働争議で、8月24日に支援者の学生ら50人が一斉に身柄拘束された。中国の工場において労働争議自体は珍しくないが、この労働争議の目的が賃上げや待遇改善にとどまらず、共産党に支配されない労働者による自主的労働組合を設立するという政治的要求が中心になっていること、大学生、大卒生らや共産党左派の知識層が運動の推進力となっていることなどから、国際社会も注目していた。だが8月に入り、労働争議の支援者リーダーであった活動家の沈夢雨が当局に連れ去られたことをきっかけに、運動が完全に弾圧されかけている。
大学の有志や香港の人権組織、党の左派人士らが中心になって沈夢雨の釈放を求め、香港では労働組合の設立を求めるデモなどを行っているほか、日本を含めた海外メディアも取材に動いているが、当局側は、この労働争議を「外国の非政府組織による煽動」と決めつけ、徹底弾圧する方針のようだ。日本では“深圳スゴイ”の見出しでAIやIT企業の現場としての活気あふれる様子で取り上げられることの多い深圳。なぜ、この地で突如、労働者の政治的要求運動が広がっているのか、それがどこに行きつくのかを考えてみたい。
現場となったJASICは2005年に設立した溶接機の開発・製造企業。深圳、重慶、成都などに工場を持ち、深圳工場の労働者は約1000人。賃金未払いや厳しい罰金制度、保険や住宅基金の削減、トイレにまで監視カメラをつけるプライバシー侵害といった奴隷のような劣悪な雇用条件であるという。2015年以降、この状況はますます悪化していく。一つは、同年ごろから本格化した習近平政権の労働者権利運動を含む「維権」(権利維持運動)の抑え込み政策だ。この年の7月に起きた大量の弁護士・人権活動家拘束はそうした習近平政権の弾圧政策の一つといえる。広東省で育っていた労働者の権利運動NPOのリーダーたちもこの年、冤罪容疑で次々と拘束されていた。
もう一つは、「新常態」宣言という建前で認められた経済停滞だ。AIやIT分野で活気あふれる深圳の姿ばかりがクローズアップされるが、深圳だけでなく多くのほとんどの工場の利益は激減し、そのしわ寄せは労働者にきている。香港の労働者権利擁護NGO・中国労工通訊によれば2017年8月から2018年8月の一年の間に1860回のストライキおよび労働者デモが発生。2015年から2017年の二年間の統計では、6694回の労働者集団抗議活動が発生している。そうした労働者抗議運動の8割は未払い賃金の支払いや賃金アップといった賃金に関する要求であった。
労働組合設立を要求
だが、JASICで起きた労働争議はこれまでの8割の労働争議とは大きく違った。JASIC労働者の要求は自主的な労働組合(工会)の設立だったのだ。きっかけはJASIC深圳工場のごく普通の労働者・余浚聡が4月、SNS微信の工場グループチャットで「徒歩」をさせられたと、愚痴ったこと。「徒歩」というのは労働者に休み時間を利用して(健康管理などのため)に歩かせることだが、労働者にとってこれは貴重な休息時間を不当に奪われることだ。彼は強制徒歩を5日間で8時間もやらされた。一種の嫌がらせであろう。グループチャットで愚痴ったことがばれ、彼は班長に殴られた上、5月10日に解雇された。余浚聡はこのことに不服で、労働者権利運動を始めることになった。
一方JASICの労働環境の劣悪��については、他の労働者も耐えきれないものがあった。余に同情したこうした労働者の有志たちは、余浚聡事件後、強制徒歩や���烈な罰金制度など工場の違法について深圳市坪山区の総工会に訴���出たところ、区の総工会は、工場内に労働者による自主的労働組合を設立して問題を解決してはどうかと提案した。だが、工場内で自主的労働者組合を設立する段になって、工場側は自分たちの息のかかった労働者を代表に送り込み圧力をかけたので、労働者たちが自主的に選んだ代表は選出されなかった。工場側がつくった“なんちゃって自主労働組合”には、設立後89人の労働者が加入したが、実は消防訓練参加用紙だといって騙してサインさせたのだった。
一方、労働者たちが自分たちで選んだ代表・劉鵬華は7月になって工場内で何者かに殴られて救急車に外に運ばれた後、警察に尋問を受けるという仕打ちをうけた。この脅しはむしろ、労働者たちの結束を固め、工場に対する抵抗運動は広がる結果になった。その後も、労働者有志が暴行を受けたり、不当に解雇される事態が相次いだ。
ついに7月20日、工場に突如警察や保安部が押し入り、工場側に抵抗する労働者たちを拘束。これに怒りの声と労働者有志たちへの声援を送った一般労働者あわせて20人が地元警察に連行された。彼らは翌日釈放されたが、労働者たちはその翌日、地元派出所の前にいき、「自主的労働組合を認めろ」「暴力警察に懲罰を!」といったスローガンを叫び、「団結こそパワー」という解放軍歌を合唱した。
この派出所前で抗議活動をした約30人の労働者は27日に再び拘束され、うち6人に対しては挑発罪容疑で刑事拘留された。このことを聞き知った中国各地の学生や人権活動家が29日、派出所前に応援に駆け付けた。この中に、広州の著名労働者権利運動活動家の沈夢雨の姿があった。
沈夢雨は中山大学を卒業し、数学・コンピュータ専攻で同大学院まで言ったエリートだが、在学中に労働者の権利関連法を独学し、その境遇を理解したいという動機から2015年から日系自動車部品工場(広州日弘)に労働者として就職、今年4月、工場の賃上げ運動のリーダーを務めたために解雇されたのちは、その経験を生かして労働者権利擁護活動家になっていた。
学生、労働者ら15人を率いて沈夢雨は30日、地元坪山区の書記に公開信書を渡し、拘束されている労働者の釈放を要求。烏有之郷や毛沢東旗幟ネットといった左派サイトの代表者ら共産党員を含めて1100人がこの労働争議に労働者の立場から声援を送り、運動はいつしか「労働者階級の正義の闘争」という形で国内インターネット上に広がった。
これに連動する形で北京大学や清華大学の有志たちによる声援文が次々とネット上で発表された。当局により数時間後には削除されたが、それでも閲覧数は万単位にのぼった。7月29日の段階で中国の重点大学を含む十以上の大学の有志による声援文章が発表されては削除された。さらに香港大学や香港中文大学の著名教授ら100名以上が逮捕された労働者の釈放要求書に署名し、8月1日にはアムネスティ・インターナショナルも「労働者の組織結社の自由の権利を尊重せよ」との声明を発表。香港では中聯弁(在香港の中国共産党本部)前で抗議デモが展開された。
だが8月11日に、沈夢雨は当局から圧力を受けた叔父夫婦に呼び出される形で、連行された。22日の本人による声明では、深圳のとある別荘で公安の監視下で軟禁状態にあるという。その後、彼女の消息は不明。また、運動にかかわった労働者らは30平方メートルほどの収監室に押し込められて、食事をするときも、訊問を受けるときもひざまずいた格好で、人としての尊厳を守られていない、とラジオ・フリーアジアが関係者の話として報じた。運動の核となる沈夢雨の姿が消えたことで、労働者側の勢いは弱まり、8月24日には防暴警察隊が労働者や支援者の拠点となっていた民家に押し入り、その場にいた50人を連行した。
♯MeToo運動の学生有志も連行
その中には北京大学外語学院卒業生の岳昕や中国人民大学、北京外語大学、湖南大学の学生が含まれていたという。
岳昕は今年春♯MeToo運動の流れに乗って、22年前に北京大学で起きた教授の女子学生に対するセクハラ事件(女子学生は自殺)の真相について情報公開を要請した学生有志の一人で、この情報公開請求によって大学側から圧力を受けるも、人民日報や中国青年報が岳昕側を応援する論評を発表(すぐに削除)するなど、党内部の議論も呼んだ岳昕事件の中心人物でも知られる。この24日の支援学生ら一斉拘束と同時に、新華社は外国NGOの煽動によるもので、運動の中心人物であった余浚聡や劉鵬華らが所属していた労働者センターは、「某国の資金」や「指導」を受けていたと主張。翌日には環球時報が「中国は絶対に西側の方式をあがめるやり方では、問題解決できない」と訴え、今回の労働争議が、西側勢力による中国社会秩序のリズムを動揺させる画策であったという陰謀説をほのめかせた。
ところで、興味深いのは、この労働争議は事実上、共産党の支配する労働組合に抵抗した労働者の自主的労働組合設立という、共産党体制の根本を揺るがす政治的要求を掲げているにもかかわらず、「労働者階級の正義の闘争」という社会主義革命的、毛沢東的スローガンを掲げ、党内左派人士の支持を得ているという点だ。
一方、習近平政権は、労働者権利擁護運動を外国組織の陰謀と批判し、中国的秩序をひっくり返す動き、つまり民主化要求運動の萌芽として警戒を強め、こうした運動のリーダーをつぶしにかかっている。となると、習近平の目指す方向性は本当に社会主義強国なのか。資本家への富の偏りを是正し、労働者や農民、庶民に希望をもたらす(という建前の)共産党の正統性を受け継ぐ政権と言えるのかどうか。労働者権利擁護の運動を、治安維持の暴力で抑え込むやり方は共産党の正統性を自ら否定することになるのではないか。
習近平政権と労働者、どちらが社会主義の“正義”を体現しているかと言えば、間違いなく労働者側だ。こうした労働者勢力を自分の支持層に取り込めない習近平は、毛沢東のような存在感を目指しているのかもしれないが、けっして毛沢東にはなれないということでもある。毛沢東にあれほどの暴君ぶりが可能であったのは、中国の農民・労働者の圧倒的支持があったからである。そういう意味では習近平は知識層も資本家も、そして労働者ら低層社会の人々も、右派も左派も敵に回している。今の中国の在り方、政権の目指す方向は、右から見ても左からみてもおかしいのだ。
同時に、高等教育化が進み、労働者と知識層の境があやふやになってきた現在の中国では、単純に知識階級や資本階級と労働階級の対立をあおるというやり方で社会不満のガス抜きができなくなっている。だとすると、たとえ階級闘争のスローガンで始まった戦いも、やがては民主化運動につながっていくのではないか、という予感がして仕方がない。だからこそ、香港の知識人たちが肩入れするのではないだろうか。社会主義的なスローガンで運動を推進しようとしている人たちも、本音ではこれが民主化につながることを期待しているような気もする。
深圳で労働者運動が起きた意味
こういう労働者運動が、中国のハイテク化企業が集中し、不動産バブルが膨らみ続け、証券市場もある資本主義の香りが濃厚で、かつ香港という自由と民主と自治の価値観が強く浸透している街に隣接する深圳で起きたことに、やはり私は時代的意味を見出さずにはおれない。
ふと思い出すのは、数年前に、「蟻族」(都市の高学歴低層労働者)の研究で知られる中国人学者・廉思と懇談したおりに交わした会話だ。私は「中国の体制や社会が劇的に変わるとしたら、共産党内で指導者たちによって変革がもたらされるのか、社会の低層からの運動や欲求が社会を変えていくのか、どちらの可能性が高いと思うか?」と質問した。このときは習近平政権の性格について国際社会も意見が分かれており、習仲勲という開明派政治家の息子である習近平はひょっとすると、ゴルバチョフや蒋経国のような体制変化をもたらす新しい指導者になるのではないか、という期待を言う人も多かったのだ。
だが彼は、間髪入れずに「社会の低層の権利要求運動に本当の突破力がある。党のトップから変革をもたらすことは難しい」と答えた。そうした低層の権利要求運動には、蟻族に代表されるような高学歴でありながら低層労働者側に立つ若者の力が鍵となっていくと予言していた。一応体制内学者である彼は「まあ、今すぐというわけではない。10年後かそれより先か」と慌てて付け加えていたが、10年を待たずして、こういう動きが今起きているのだから、この予言は当たっているといえる。
8月24日の学生たちの一斉拘束で、この労働争議は完全に抑え込まれるかもしれない。だが、労働者の権利要求の高まりは、習近平路線が今の国家権威主義経済路線をとり、米中の貿易戦争が悪化し、中国経済に急ブレーキがかかるなか、深刻化こそすれ解決はしない。第二、第三の政治的要求を伴った労働争議や権利要求運動が各地��起き、おそらくはどこかの時点で政権の治安維持能力を超える、労働者と知識階級、党内人士そして国際社会が連動する形の大型の運動に発展していくのではないだろうか。それが5年後かもしれないし、もっと早いかも、あるいは遅いかもしれないのだが、来年が1989年の民主化運動とその弾圧事件であった天安門事件より30年目だということを思うと、いろいろと考えさせられる。
6 notes
·
View notes
Link
最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A���戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさない���ですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何��もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
10 notes
·
View notes
Text
禅 - ZEN 愛と力
一粒の砂に世界を見、
一輪の野の花に天を見る。
汝の掌に無限を捉え、
一時の中に永遠を見よ。
(ブレイク)
泉のささやきにより、
いと小さい枝の葉ずれの音により、
日の神が眠りにつく時
開いた葉を閉じる雛菊により、
蔭なす木により、灌木により、
彼女はわたしに伝えることができる。
自然の一切の美が、
誰かほかの、もっと賢い人に伝え得るよりもっと多くのことを。(ウィザー)
数多くのキリスト教会、仏教寺院、ユダヤ教会堂、回教寺院、それに実質的、精神的な教育機関にもかかわらず、われわれの多くは、無知で、愚かで、全く自我中心的にすぎるということである。これが、時に、悟れる者を失望落胆させる。あまたの仏像、聖像に、われわれはその跡を見出すことができる。
シンシナティの Van Meter Ames 博士は言う、
「まったくの貧困と絶望的事態においては、無感覚が一番よいのかもしれない。だが、それがおよそ人間の生活が到り得る最大のものだと思うのは、悲しい迷いである。」
博士はまったく正しい。人間が人間であるかぎり、かれはその周囲に起きるさまざまな出来事に、無感覚でいることはできない。人口の密集した都会の真中で原子爆弾が炸裂したのちの、あらゆる人間の苦痛、苦悶、悲惨を目にする時、かれの神経は千々に引き裂かれる。
そしてもっともいけないことは、人はこれらの苦の前にまったく無力だということである。人が持ち得る唯一の救いは、もしそれがかなうことならば、無感覚の福音であろう。何と非人間的なことではないか。われわれの団体活動はすべて、個人の考えや行為の集積であると自分は考えたいのだが、以上の事柄は、みな絶望的にわれわれ個人の制御を越えるものである。このことを思う時、自分は神に次のような独り言をいわせた聖書の著者に、深く共鳴せずにはいられない。
「エホバ、人の地に大なると、其心の思念の都て図維る所の恒に唯だ悪きのみなるを見たまへり。是に於て、エホバ、知の上に人を造りしことを悔いて、心に憂へたまり。エホバ言たまひけるは、我が創造りし人を我が地の面より拭去ん。人より獣、昆虫、天空の鳥にいたるまでほろぼさん。
其は我れ之を造りしことを悔ればなり。」(「創世記」第六章五-七節)
神は今、地上から人を拭い去る大事業に専心従事しているのであろうか。まさにそのようである。それならば、人間は人間であるかぎり、この事態に対処する態度を持たねばならぬ。
『愛と力』
いまだかつて、人類の歴史において、現代の世界におけるほど精神の指導者ならびに精神的価値の高揚が差し迫って必要だったことはない。前世紀から今世紀にかけて、われわれは人類の福祉の増進のために幾多の輝かしい成果をおさめてきた。しかし、おかしなことに、われわれは、人類の福祉が主として精神上の智恵と訓練によるものであることを忘れていたようである。今日、世界が憎しみと暴力、恐怖と不実の腐敗した空気に満たされているのは、ひとえに、われわれがこのことを充分に認識しなかったことによる。実際、われわれは、個人としてのみでなく、国際的にもまた民族的にも、おたがいの破滅のためにいよいよ力をつくそうとしているかのごとくである。
今日、われわれの考え得る、そして、その実現をねがうさまざまの精神的価値のうち、何よりも切望せられるものは “愛” である。
生命を創造するのは愛である。愛なくしては、生命はおのれを保持することができない。今日の、憎悪と恐怖の、汚れた、息のつまるような雰囲気は、慈しみと四海同胞の精神の欠如によってもたらされたものと、自分は確信する。
この息苦しさは、人間社会というものが複雑遠大この上ない相互依存の網の目である、という事実の無自覚から起きていることは、言をまたない。
個人主義の道徳の教えは、さまざまの意義ある成果を生んで、まことに結構である。しかし、個人は他の人々から孤立し、その属している集団──それは生物的な集団、政治的な集団、宇宙論的な集団など、さまざまあろうが──から切り離される時、もはや存在しないということを忘れてはならない。数学的にいうならば、一という数は、無限に存する他の数と関係しないかぎり、一ではない、それ自身ではあり得ない。一つの数それ自体の存在などということは考えられない。これを道徳的もしくは精神的にいえば、それぞれの個人の存在は、その事実を意識すると否とにかかわらず、無限にひろがり一切を包む愛の関係網に、何らかのおかげをこうむっているということである。そしてその愛の関係網は、われわれのみならず、存在するものすべてを漏らさず摂取する。実にこの世は一大家族にして、われわれひとりひとりがそのメンバーなのである。
人間の思想の造型に、地理がどれほど関係あるものか、自分にはわからない。だが、事実、七世紀の頃、“華厳哲学” として知られる一つの思想体系が開花したのは、極東の地においてであった。華厳(けごん)は、たがいに融通し、たがいに滲透し、たがいに関連し、たがいにさまたぐることなしという考え方に基づく。
この一切の相依相関を説く哲学が正しく理解される時に、“愛” が目覚める。なぜならば、愛とは他を認めることであり、生活のあらゆる面において他に思いを致すことだからである。「すべての人に為(せ)られんと思うことは、人にもまたそのごとくせよ。」これが愛の要旨であり、これは相依相関の認識からおのずと生まれてくることである。
たがいに関係をもち、たがいに思いやるという考え方は、力の観念を排除する。力とは、内的関係の体制の中に外から持ち込まれるものだからである。力の行使はつねに、専断、独裁、疎外に向かう。
近頃、われわれが憂慮するのはほかでもない、力の本性を見抜けないで、したがって、それを全体の利益のために用いることのできぬや̀か̀ら̀が、力の概念を不当に買いかぶって主張することである。
愛とは、われわれに外から与えられる命令ではない。外からの命令には、力の意味がふくまれている。行きすぎた個人主義は、力の思いを育てはぐくむ温床である。なぜならば、それは自己中心的なものであって、ひとたび外にむかって動き出し、他人を支配しようとしはじめると、はなはだ尊大に、またしばしば、はげしい手段をもって自己を主張する。
それに反して、愛は、相依相関の心から生まれ、自我中心、自己強調とはほど遠い。力が、表面は強く、抵抗しがたく見えながら、実はみずからを枯渇させるものであるのに反し、愛は自己否定を通して、つねに創造的である。愛は、外部の全能なるものを待たずして、みずから働く。愛は生命、生命は愛である。
生命は、かぎりなく錯綜した相依相関の網であるから、愛の支えなくしては生命たり得ない。愛は、生命に形を与えようとして、さまざまのす̀が̀た̀に自己を実現する。形は必然的に個別的である。そして分別する知性は、とかく形を究極の実体とみなしがちである。力の概念はここから生まれる。知性が発達し、その独自の道を進んで、人間活動の実利的分野でおのれがおさめた成功に夢中になってくると、力が暴れ狂い、周囲を破壊しまわる。
愛は肯定である。創造的肯定である。愛はけっして破壊と絶滅には赴かない。なぜならば、それは力とは異なって、一切を抱擁し、一切を許すからである。愛はその対象の中に入り、それと一つになる。しかるに、力は、その特質として二元的、差別的であるから、自己に相対するものをことごとく粉砕し、しからずんば、征服して奴隷的従属物と化さねばやまぬ。
力は、科学ならびにそれに属するすべてのものを利用する。科学は、分析的であるにとどまり、無限に多様な差別相とその量的測定の学たることを越えないかぎり、とうてい創造的ではあり得ない。科学において創造的なものは、その探究の精神であるが、それは愛によって鼓舞されるものであって、力によってではない。力と科学の間に何らかの協力が行なわれる時には、その結果は、いつでも、さまざまの災害と破壊の手段を考え出すことになる。
愛と創造力とは一つの実体の両面のすがたであるが、創造力はしばしば愛から切り離される。この不幸な分離が行なわれる時、創���力は力と結びつくことになる。力は実は、愛や創造力よりも下位のものである。力が創造力をわがものとする時、それはあらゆる禍いをひきおこす危険きわまりない要因となる。
前述のように、力の観念は、実在の二元的解釈から必然的に生まれる。二元論が、その背後に統合する原理のあることを認めようとしない時、その生来の破壊的傾向は、奔放に、ほしいままに露呈される。
この力の誇示のもっとも顕著な一例が、西欧の人々の自然に対する態度にみられる。かれらは自然を征̀服̀す̀る̀といって、けっして自然を友̀と̀す̀る̀とはいわない。かれらは高い山に登っては、山を征服したと公言する。天のかたに向かってある種の発射物を打ち上げることに成功すると、今度は空を征服したと主張する。なぜかれらは、いまやわれわれは自然とよりいっそう親しくなった、とは言わないのか。不幸なことに、敵対観念が世界のすみずみにまで滲透して、人々は「支配」、「征服」、「管制」等々を口にする。
力の観念は、人格とか、相互依存とか、感謝とか、その他さまざまの相互関係の心を斥ける。われわれは、科学の進歩、たえず改善される技術、ならびに工業化一般によっていかなる恩恵を引き出そうとも、みながひとしくその恩恵にあずかることは許されない。なぜならば、力は、われわれ人類同胞の間にひとしく恩恵を分配しないで、それを独占しがちだからである。
力はつねに尊大で、独断的で、排他的である。それに反して、愛はおのれを低うし、一切を包括する。力は破壊を意味し、自己破壊をさえあえてする。愛の創造性とはまったく反対である。愛は死に、そしてふたたび生きる。しかるに力は殺し、そして殺される。
力とは人を物に変えるち̀か̀ら̀である、と定義したのは、シモーヌ・ウェイルだったと思う。自分は、愛とは物を人に変えるち̀か̀ら̀である、と定義したい。かくして、愛は力と根本的に対立するもののようにもみえる。愛と力はたがいに排除し合い、したがって、力のあるところには愛の影さえささず、また愛のあるところには力はまったく立ち入る余地もないと考えられる。
これは、ある程度までは正しい。だが真実には、愛は力に対立するものではない。愛は力よりも高い世界に属し、愛に対立すると思い込んでいるのは、力の方だけである。まことに、愛は一切をつつみか、一切を許す。それは一切を和らげ、かぎりなく創造して尽きるところを知らぬ。力はつねに二元的である。したがって固定的で、自我を主張し、破壊におもむき、すべてを滅却する。そしてもはや征服すべきものがなくなると、おのれに鉾先を向け、おのれを滅ぼすに到る。力とはこのような性質上のものであるが、これは、今日われわれの目撃するところではないか。それは国際問題において殊に顕著である。
愛は盲目というが、盲目なのは愛ではなくて、力である。けだし、力は、おのれの存在が何か他のものに依ることをまったく見落としている。それは、自己とはくらぶべくもない大いなる何ものかにおのれを結びつけることによって、はじめてそれ自身であり得ることを認めようとしない。この事実を知らぬままに、力は自滅の淵に一直線に飛び込んでゆく。力が悟りを体験するには、まず、その眼を覆うと̀ば̀り̀を取り除かなければならない。この体験なくしては、力の近視眼的ま̀な̀こ̀には、真のす̀が̀た̀は一切うつらない。
ま̀な̀こ̀があ̀る̀が̀ま̀ま̀の実在、すなわち実相を見得ない時、恐怖と疑念の雲が、見るものすべてを覆う。実在の真相を見ることあたわずして、ま̀な̀こ̀はみずからをあざむく。相対するものをことごとく疑いはじめ、破壊しようとほっする。こうしてたがいに疑ってとどまるところを知らず、こうなっては、いかに説明しようとも、対立緊張を和らげることはできない。双方がありとあらゆる詭弁、奸策を弄する。これが国際政治では、外交という名の下に行なわれる。だが、相互の信頼と、愛と、和解の精神の存せぬかぎり、いかなる外交も、みずからのか̀ら̀く̀り̀によって創り出した緊張状態を緩和することはできないであろう。
力に酔った人々は、力が人を盲目にし、しだいにせばまる視界に人を閉じ込めるものだということに気づかない。こうして力は知性と結びつき、あらゆる方法でそれを利用する。だが、愛は力を超越する。なぜならば、愛は実在の核心に滲透し、知性の有限性をはるかに越えて、無限そのものであるからである。愛なくしては、人は、無限にひろがる関係の網、すなわち実在を見ることはできない。あるいは、これを逆に言えば、実在の無限の網��くしては、真に愛を体験することはできない。
愛は信頼する。つねに肯定し、一切を抱擁する。愛は生命である。ゆえに創造する。その触れるところ、ことごとく生命を与えられ、新たな成長へと向かう。あなたが動物を愛すれば、それはしだいに賢くなる。あなたが植物を愛すれば、あなたはその欲するところを見抜くことができる。愛はけっして盲目ではない。それは無限の光の泉である。
ま̀な̀こ̀盲(めしい)、みずからを限定するがゆえに、力は実在をその真相において見ることができない。したがって、その見るところのものは虚妄である。力それ自体もまた虚妄である。そこで、これに触れるものも、またすべて虚妄性と化する。力は虚妄の世界にのみ栄え、かくて、偽善と虚偽の象徴となる。
終りにあたり、くりかえして言う。実在するものすべての相依相関の真理に目覚め、たがいに協力する時、はじめてわれわれは栄えるのだという事実を、まず自覚しようではないか。そして、力と征服の考えに死して、一切を抱擁し、一切を許す愛の永遠の創造によみがえろうではないか。愛は、実在をあ̀る̀が̀ま̀ま̀に̀正しく見ることから流れ出る。そこで、われわれに次のことを教えてくれるのも、また愛である。すなわち、われわれ──個別的に言えばわれわれのひとりひとり、集合的に言えばわれわれのすべて──は、善にあれ悪にあれ、この人間社会に行なわれることの一切に責任がある。だから、われわれは、人類の福祉と智慧の全体的発展を妨げるような条件を、ことごとく改善もしくは除去するように努めなければならないのである。
『愛と力』鈴木大拙(1958年にブラッセル万国博覧会で読まれたメッセージ)邦訳 工藤澄子1965年2月25日(筑摩書房刊)『禅』(筑摩文庫1987年9月29日発行)より。
鈴木大拙(すずきだいせつ)
1870年(明治3年)、金沢市に生まれる。国際的に著名な仏教哲学者。本名は貞太郎。1891年(明治24年)、東京に遊学。東京大学選科に学びつつ、鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演の下で参禅。1897年(明治30年)、一元論的実証主義者P.ケーラスをシカゴにたずね、11年間とどまる。1909年(明治42年)帰国、禅を広く海外に紹介し、大乗仏教の国際性を宣布した。1949年(昭和24年)、文化勲章受賞。1966年(昭和41年)死去。主著『楞伽経研究』『日本的霊性』『禅と日本文化』ほか。
1 note
·
View note