#文化のみち撞木館
Explore tagged Tumblr posts
Text
0 notes
Text
各地句会報
花鳥誌 令和5年4月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和5年1月4日 立待俳句会 坊城俊樹選 特選句
年賀状投函ポスト音を吐く 世詩明 大冬木小枝の先まで空を突く 同 猫寺の低き山門虎落笛 ただし 福の神扱ひされし嫁が君 同 石清水恙の胸を濡らしつつ 輝一 阿弥陀様お顔に笑みや秋思かな 同 去年今年有縁ばかりの世なりけり 洋子 潮騒の聞こゆる壺に水仙花 同 羽根をつく確かなる音耳に老ゆ 同 時々は絵も横文字も初日記 清女 初電話友の恙を知ることに 同 暁に湯気立ち上がる冬の海 誠 大寒のポインセチアに紅のあり 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月5日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
初暦いかなる日々が待ち受けん 喜代子 おさんどん合間に仰ぐ初御空 由季子 病院の灯消えぬや去年今年 同 雪掻に追はれつつ待つ帰り人 さとみ 海鳴りや岬の水仙なだれ咲く 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月7日 零の会 坊城俊樹選 特選句
あをき空うつし蓮の枯れつくす 和子 蓮枯れて底の地獄を明るめる 軽象 枯はちす揺り起こすなり鐘一打 三郎 破れ蓮の黄金の茎の高さかな 炳子 枯蓮の無言の群と相対し 秋尚 弁天の膝あたたかき初雀 慶月 面差しの傾城名残青木の実 順子 男坂淑気を少し漂はせ 三郎 恵方道四方より坂の集まり来 千種 葬儀屋の注連縄なんとなく細い いづみ いかやきのにほひに梅の固くあり 要 枯蓮のやり尽くしたる眠りかな 佑天
岡田順子選 特選句
枯はちす揺り起こすなり鐘一打 三郎 鷗来よ枯蓮の幾何模様へと 俊樹 そのあとは鳶が清めて松納 いづみ 毛帽子にまつ毛の影のよく動く 和子 北吹けりもう息をせぬ蓮たちへ 俊樹 蓮枯れて水面一切の蒼穹 和子 人日の上野で売られゆくピエロ 三郎 石段に散り敷く夜半の寒椿 悠紀子 恵方道四方より坂の集まり来 千種 よろづやに味噌づけ買うて寒に入る 眞理子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月7日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
双六やころころ変る恋心 朝子 下の子が泣いて双六終りけり 孝子 短日は数が減るかもニュートリノ 勝利 歌留多とり式部小町も宙に舞ひ 孝子 小春日や生ぬるき血の全身に 睦子 骨と皮だけの手で振る賭双六 愛 京の町足踏み続く絵双六 散太郎 粛々と巨人に挑む年始 美穂 来世から賽子を振る絵双六 愛
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月9日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
双六の終着駅や江戸上り 時江 たかいたかいせがまれて解く懐手 昭子 てのひらの白きムースの初鏡 三四郎 火消壺母のま白き割烹着 昭子 木の葉髪何を聴くにも左耳 世詩明 街筋の青きネオンや月冱てる 一枝 姿見に餅花入れて呉服店 昭子 はじき出す男の子女子のよろけ独楽 時江 一盞の屠蘇に機嫌の下戸男 みす枝 初詣寺も神社も磴ばかり 信子 御降や傘を傾げてご挨拶 みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月9日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
初明かり故山の闇を払ひゆく かづを 万蕾にある待春の息吹かな 々 小寒や薄く飛び出る鉋屑 泰俊 勝独楽になると信じて紐を巻く 々 仏の前燭火ゆらすは隙間風 匠 筆箱にニトロとんぷく老の春 清女 二千五百歩小さな散歩寒に入る 天空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
鋳鉄製スチームの音古館 宇太郎 始業の蒸気雪雲を押しあげて 美智子 溶けてなほ我にだけ見ゆる時雨虹 佐代子 失ふはその身ひとつや冬の蜂 都 寒灯下遺影に深く法華経 悦子 大木を伐られ梟去つたらし 史子 枯木立通り抜けたる昼の月 益恵
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月10日 萩花鳥会
人生の余白少なし冬の薔薇 祐子 裸木が絵になる空を展げゆく 健雄 山茶花や気は寒々と花紅く 俊文 守らねばならぬ家族や去年今年 ゆかり 一椀に一年の幸雑煮膳 陽子 故郷で一つ歳とる雑煮かな 恒雄 昼食後一枚脱いで四温かな 吉之 亡き人に届きし賀状壇供へ 明子 逆上がり笑顔満面四温晴 美惠子
………………………………………………………………
令和5年1月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
初生けを祝成人と命名す みえこ 薪焚の初風呂済ませ閉店す 令子 御降りに濡れても訪ひぬ夫の墓 同 初詣光現れて良き日かな あけみ 注連飾父の車の隅に揺れ 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月14日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
閼伽桶の家紋色濃し寒に入る 多美女 養生の大樹潤す寒の雨 百合子 勤行の稚の真似事初笑ひ 幸風 いつもならスルーすること初笑 秋尚 臘梅に鼻近づけてとしあつ師 三無 寒椿堂裏の闇明るうす 多美女 多摩堤地蔵三体春���ちぬ 教子 均しある土の膨らみ春隣 百合子 掃初の黒御影拭き年尾句碑 文英 悴んで顔を小さく洗ひけり 美枝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月15日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
飛石を跳ね蝋梅の香に酔うて 炳子 木道の先の四阿雪女郎 幸風 その奥に紅梅の蕊凜として ます江 黒き羽根なほ黒々と寒鴉 貴薫 不器用に解けてゆきぬ寒椿 千種 入れとこそ深き落葉へ開く鉄扉 同 谷あひに弥生の名残り水仙花 炳子 椿落つ樹下に余白のまだありて 三無 木道まで香り乱れて野水仙 芙佐子 寒禽の群を拒まぬ一樹かな 久子
栗林圭魚選 特選句
山間の埋れ火のごと福寿草 斉 空昏く寒林よぎる鳥の影 芙佐子 厚き雲突き上ぐ白き冬木の芽 秋尚 福寿草労り合ひて睦み合ひ 三無 そのかみの住居跡とや蝶凍つる 炳子 水仙の香を乱しつつ通り抜け 白陶 入れとこそ深き落葉へ開く鉄扉 千種 竹林の潤み初めたる小正月 要 椿落つ樹下に余白のまだありて 三無 せせらぎのどこか寂しげ寒の水 白陶
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
若きより板に付きたる懐手 雪 北窓を塞ぎさながら蟄居の間 同 昨夜の酔ひ少し残るや初鏡 かづを 九頭竜や寒晴の綺羅流しゆく 同 除夜の鐘八つ目を確と拝し撞く 玲子 初明り心の闇を照らされし 同 一点の客観写生冬の句座 さよ子 翳す手に歴史を語る古火鉢 同 笑つても泣いても卒寿初鏡 清女 餅花の一枝華やぐ奥座敷 千代子 年賀状手描の墨の匂ひたつ 真喜栄 若水を汲むほどに増す顔のしわ 同 裸木村は大きな家ばかり 世詩明 春炬燵むかし昔しの恋敵 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月18日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
水仙や悲恋の話知りしより 啓子 堂裏の菰に守られ寒牡丹 泰俊 餅花やなにやらうれしその揺れも 令子 左義長の遥けし炎眼裏に 淳子 寅さんを追つて蛾次郎逝きし冬 清女 飾り焚く顔てらてらの氏子衆 希子 御慶のぶ一人一人に畏みて 和子 眉を一寸引きたるのみの初鏡 雪 初髪をぶつきら棒に結ぶ女 同 束の間の雪夜の恋に雪女 同 マスクして睫毛に化粧する女 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月20日 さきたま花鳥句会
凍星や夜行列車の窓あかり 月惑 葉牡丹や鋳物の町の鉄の鉢 一馬 どら猫のメタボ笑ふか嫁が君 八草 小米雪運河の小船音もなく 裕章 ���木に力瘤あり春隣 紀花 竜神の供物三個の寒卵 ふゆ子 医学書で探す病名寒燈下 とし江 おごそかに雅楽流るる初詣 ふじ穂 人のなき峡の華やぐ柿すだれ 康子 小正月気の向くままの古本屋 恵美子 寒梅や万葉がなのやうに散り 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
福引の種考へてゐるところ 雪 枯れ行くは枯れ行く庭の景として 同 懐手して身も蓋も無き話 同 思ひ遣り言葉に出さぬ懐手 昭上嶋子 言ひかねてただ白息を吐くばかり 同 きさらぎや花屋はどこも濡れてをり 同 父の碑を七十余抱き山眠る 一涓 藪入りを明日に富山の薬売り 同 人日や名酒の瓶を詫びて捨つ 同 一陣の風に風花逃げ廻る 世詩明 安座して児の母となる毛糸編む 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月22日 月例会 坊城俊樹選 特選句
舞ひ上がる金子銀子や落葉掻 千種 春近し湯気立つやうな土竜塚 昌文 寒林や父子のだるまさんころんだ 慶月 紅梅のどこより早く憲兵碑 同 冬帝に囲まれてゐる小さき者 いづみ 出征を見送る母子像の冷え 昌文 青銅となりて偉人は寒天に 千種 火の雨を知る大寒の展示館 いづみ
岡田順子選 特選句
狛犬の阿形の息を白しとも 俊樹 勾玉のほどけ巴に冬の鯉 千種 ただ黒し桜ばかりの寒林は 同 ボサノバを流し半熟寒卵 慶月 石に苔泥に苔あり日脚伸ぶ 和子 息白く母子像見てひとりきり 俊樹 寒林の一木たるを旨とせり 晶文
栗林圭魚選 特選句
冬の雲弛びそめたり大鳥居 要 朽木より梅百蕾の薄明り 昌文 ボサノバを流し半熟寒卵 慶月 能舞台脇座に現るる三十三才 幸風 日向ぼこして魂は五間先 俊樹 霜柱崩れ鳥居の崩れざる 同 青銅となりて偉人は寒天に 千種
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
大枯野太古は大海だつたかも ひとみ 初景色常の神木よそよそし 美穂 椰子の実のほろほろ落ちて神の留守 孝子 緋あけ色の空へ音ひき初電車 美穂 嫁が君大黒様の手紙持ち ひとみ おんちよろちよろと声明や嫁が君 睦古賀子 歌留多取対戦するは恋敵 睦吉田子 水仙はシルクロードの香を含み ひとみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
0 notes
Text
テント泊装備で奥武蔵縦走
奥武蔵を縦走ついでに「歩荷練習も兼ねてしまえ!」と、元々は日帰り装備で歩く予定だったロングコースを大荷物で歩いて来ました。
武蔵横手駅からスタートし、愛宕山から北向地蔵、越上山、顔振峠、黒山三滝、関八州見晴台を経由して西吾野駅へ下りるという20キロ強の道のり。 今思えば、完全に無理のある(無謀な)計画でした…。 途中、辛過ぎて何度「エスケープ」の文字が頭を過ぎったことか。
写真は、最初に登る愛宕山。 武蔵横手の駅を出るなり進む方向を間違えて、この日最初のロスト。
住宅街を��け、水の綺麗な川を渡ります。
YAMAPの地図とGPSでは横断歩道を直進となっていたけれど、正面にはお寺。 進んで良いのか迷っていると可愛い丸太の人形が方向を教えてくれました。 そうだ、だれかの日記で見たことがある…名前は確か「あたごくん」!
お寺の境内を抜けて鐘撞き堂の前を通ると、 鐘付き中の住職さんから話し掛けられ、案の定荷物について聞かれました。 そりゃこんな所でテント泊装備を背負って歩いていたら気になりますよね…。
鐘撞き堂の脇の道を突き当たりまで直進すると、愛宕山への登山道の入口。 私は間違えて鐘撞き堂のすぐ後の池のところで右折して お墓の敷地に入ってしまい、本日2回目のロスト。
先ずは栗林の中を歩いて行きます。
鉄塔の脇を抜け、ここからが本当の登山道。 害獣除けの高圧電流を跨ぎます。 こんなに低いと動物も飛び越えられるのでは…?
雨上がりで滑りやすい急坂を登り切れば、最初のピーク、愛宕山。 標高250m。山頂には神社の祠と鳥居があります。
ここにも丸太の可愛い人形。馬、笑��てる〜。
ベンチには小さなテーブルも付いています。
ここからは細かいアップダウンの繰り返し。 途中、子どもの背丈ほどもある大きなウラジロシダ(裏白羊歯)が。
2座目、水晶山。え、まだ標高266m。結構アップダウンあったよ???
3座目、深沢山。標高350m。ジリジリと上がっていきますね。
十字路に再びの「あたごくん」。
沢山峠の十字路を通過して…
4座目、西大峰。標高391m。あんまり上がってない…。
またまた「あたごくん」登場。ここの子は名札付けてます。 で、あたごくんの指さす方へ行くと戻ってしまうので、私は北向地蔵へ。
途中、斜面一面がウラジロシダに覆われたゾーンがありました。
お久し振りの北向地蔵。今日の安全を祈願しました。
ここのベンチで5分ほど荷下ろし休憩。 休んでいると、目の前の山道へ入っていくトレランの方がいたので 私もつられてその道へ入ってしまったのですが…
あれ?また愛宕山? そう、ここは通る予定じゃ無かったピーク。一応5座目。標高不明。 予定していた林道と並行に道が続いていて、元に戻れたから良かったものの、 これも一種のロストと言うことで、本日3回目。
6座目、スカリ山。435m。ここで先にいたトレランの男性と暫しお喋り。 この後、新宿で「トップガン・マーヴェリック」を観るのだそうで。 凄い…私は山の後で映画館に行く元気は無いな〜。
スカリ山からは武甲山の横顔も見えました。
スカリ山からは急な岩場を下って行き、7座目の茶嶽山。標高450m。 ちなみにYAMAPでは茶ノ岳山と書かれています。
この後、いったん林道に出て舗装道路を歩くのですが、 登山道への入口を見落としてズンズン進んでしまい引き返しました。 これで本日4回目のロス。 今日は荷物の重さに気を取られて分岐の確認をし忘れてばかり…。
気を取り直して8座目の蟹穴山。標高460m。
ユルユルの道を進むと、突然開けた場所に出ました。
眺望はなかなか良いけど、日焼けしそう…。
その先には、コアジサイ(小紫陽花)ロードが待っていました♬
その先の岩場を登って行くと、9座目の越上山(おがみやま)。標高566m。
実はここ、2014年に初めてのボッチ登山で訪れた記念すべき山でして。 その時は顔振峠からユガテへ抜けるショートコースでしたが、 初のソロ山行で当時の私にはドキドキの大冒険だったのを覚えています。 特にその時は山頂に誰も居なくて(ソロの男性が一人来たけど)、 眺望も無くて寂しいお山…という印象でした。
でも今日は山頂手前の危険な岩場を越える前から賑やかな声が…。 シニア5人組の皆さんがランチ中で、またもや荷物について突っ込まれ。 私も荷物を下ろし、立ったままランチを頬張りつつ皆さんと暫しお喋り。 この夏行く予定のアルプスや八ヶ岳について色々と教えていただきました。
別れしな「頑張ってるご褒美」とバウムクーヘンまで頂いて…。 「何だか新1年生のランドセルみたいだな!」というお声も 背��でしっかり聞いておりましたよ〜(笑 そんなにヨタヨタしてたかしら…?
越上山からの下りが結構急で、顔振峠に着く頃には足の裏がジンジン痛く…。 8年前に来た時は時間が早くて誰も居なかった峠、今日は賑わっていました。 そうか、もう昼過ぎだもんね…。もうここでやめて帰っても良いけど…。
とりあえず、黒山三滝へ向かう道へと入り、展望台方面を振り返ります。 止めるなら今だけど…。でもでも、行っちゃえ!
顔振峠からは砂利道を沢沿いに下り、川にぶつかると舗装道路に合流。 左手にズンズン下って行くと、渋沢栄一の従弟(かつ見立て養子)、 渋沢平九郎自決の地がありました。 「青天を衝け」の悲しいシーンを思い出し、思わず手を合わせて参りました。
更に下ると、漸く黒山三滝の入口に到着! 日本観光百選なのか…埼玉に居ながら、その存在は去年知りましたよ私。
滝へ向かう道沿いに咲いていたユキノシタ(雪の下)。 有り難いことに、この道沿いにはトイレも自販機もありました。
迎えの滝。暑い日だからか、駐車場は観光客の車でいっぱいでした。
小天狗滝(こてんぐだき)。 奥まで何段か続いているようでしたが、乳幼児連れのファミリーが何組かいて、テント装備ではすれ違えそうにないので諦めることに。
三滝全てを廻っていると時間的に厳しそうだったので、この小天狗滝の少し先の分岐から関八州見晴台方面への山道に入り、沢沿いの木陰で10分ほど休憩しました。
長いロードを歩きを挟み、沢沿いの道を歩いていると目の前を茶色い物体が! 大きな雌鹿が登山道を横切り、対岸からこちらを伺っていました。 カモシカには何度か遭遇したけれど、奥武蔵の山に鹿がいるとは…。 動揺してカメラの向きとピントが合ってませんが、何とか写ってますね。
見つめられて、小さく手を振ってみたら「キョーーーーーン!(文字化するのが難しい音)」と2回ほど大きく嘶いて、元来た斜面へと戻って行きました。
ハァ〜、ビックリした! けど、何だか元気をもらえたのか、そこからはハイスピードでガツガツ歩くことがで来ました。ありがとう、鹿!!!
花立松ノ峠を越え、またロード歩きを挟んで再び登山道へ。 この尾根を歩いている時は吹く風が冷たくて風邪を引くかと思いました。
そして緩い道に出たと思ったら…あの明るさは、山頂ですかね?
正解!3年振りの関八州見晴台です。標高771.1m。 10座目にして、本日の最高峰!低い!
ここに登るといつも山頂がガスっていて全然見晴台って感じじゃ無かったけど、今日は都心部など遠くまでよく見渡せました。
そして山頂の手前はカルミア(アメリカシャクナゲ)ロード。
もう14:30だけど、ここで残りのランチを平らげました。 今日は疲れすぎていて、あんまり食べてなかったな〜。
さぁ、後は駅に向かって下るだけ。 先ずは丸山(展望台がある県民の森のとは別物です)のピークを越えて…
高山不動まで下ったら…
パノラマコースを下って、この看板の右下の道へヘアピンカーブで下るのですが、私は間違えて道なりに進んでしまいました(しかも右下に道があるのに気付いていたのに、今来た道の迂回路だと思い込んで…)。
名もなきピークを3つも越えてから「待てよ?ここまで下って来たのに今さらこんなにピークを越えるのおかしくないか?」と気付いてGPSを確認。 ヘロヘロになりながら、このムーミンの標識まで引き返したのでした。 これが本日5回目、最後のロスト。大荷物なのに、ロスト多すぎ!
パノラマコースっていう割には眺望良くないな〜と思っていたら、 急に視界が開けました。ARによればアレが川苔山だというんですが、怪しい。
何とかパノラマコースの入口まで辿り着きました。 ここは観光案内所、兼、お休み処だそうですが、どうやら無人のようでした。
沢に沿ってひたすら歩き、最後に急坂を登れば西吾野駅にとうちゃこ〜! トータル21.4キロ。5回ロストした分だけで、優に1キロ越え。 いや〜、今日は本当に無駄に歩いた。腰骨にはザックの痕がクッキリでした。 良い子のみんなは、絶対に真似しないでね〜!
0 notes
Photo
📸旧武藤山治邸 [ 兵庫県神戸市 ] Former Muto-Sanji House, Kobe, Hyogo の写真・記事を更新しました。 ーー歌川広重にも描かれた舞子海岸に現在建つ2つの国の文化財の #近代建築 。カネボウゆかりの洋館と、あわせて国��定重要文化財“移情閣”も。 ...... 昨日紹介した『旧木下家住宅』には2つの近代建築との共通入館券があります。同じく、明治時代に開園した兵庫県立公園 #舞子公園 の施設として現在は公開中なのであわせて紹介。 . ■旧武藤山治邸(旧武藤家別邸洋館) 鐘紡(後の #カネボウ )の社長や衆議院議員を務めた実業家 #武藤山治 の別邸として1907年(明治40年)に舞子海岸に建てられたコロニアル様式の #洋館 。設計は神戸・北野の『異人館』も手掛けている #大熊喜邦 。 . 武藤山治逝去後は「鐘紡舞子倶楽部」としてカネボウの迎賓施設/福利厚生施設として用いられていましたが、明石海峡大橋🌉に接続する国道2号の拡張工事に伴い洋館のみ神戸市内の別の場所(垂水区狩口台)に移築。 なおそれまでは和館と撞球室もあり、ということはおそらく庭園もあったんだろうな……(現在も芝庭にちょっとした石組が残されています)。2007年(平成19年)に神戸市に寄贈され、現在地に再移築されました。 . 大震災の被害を(移築前の解体中に発生したことで)幸運にも逃れた明治時代のステンドグラス🖼や調度品が残り、現在は���フェの運営や不定期で音楽のコンサートが行われるなど精力的に文化財の活用がされています☕️ 庭園こそ前述の通り目立つものではないけど、目の前の明石海峡の風景が美しい。 . ■移情閣(孫文記念館) 旧武藤山治邸からすぐ。水色の八角堂がシンボルの「移情閣」は1915年(大正4年)に神戸の華僑/貿易商・呉錦堂が建てた別荘の一部。設計は #横山栄吉 。 2000年に現在地に移築され、現在はかつてこの地を訪れた中華民国の政治家/革命家 #孫文 の資料を展示する「孫文記念館」(孫中山記念館)として運営されています。 . 「孫文がここに住んでた」かと思わせるほど孫文一色の記念館。孫文は首相もつとめた犬養毅や尾崎行雄、実業家では現・川崎重工で初代社長をつとめた松方幸次郎や『八芳園』の創始者・久原房之助などと交友がありました。なんか、そういう時代があったんだなーと思わせられる。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/former-muto-sanji-house/ ーーーーーーーー #japanarchitecture #japanesearchitecture #kanebo #庭園 #邸園 #神戸 #舞子 #kobe #maiko #阪神間モダニズム #国登文 #神戸カフェ #おにわさん #oniwasan (登録有形文化財 旧武藤山治邸) https://www.instagram.com/p/CIpxQeIAA_-/?igshid=lftetkkvwpm9
#近代建築#舞子公園#カネボウ#武藤山治#洋館#大熊喜邦#横山栄吉#孫文#japanarchitecture#japanesearchitecture#kanebo#庭園#邸園#神戸#舞子#kobe#maiko#阪神間モダニズム#国登文#神戸カフェ#おにわさん#oniwasan
0 notes
Quote
生涯[編集] 家系[編集] 父方の先祖のほとんどは職人であった。故郷は現在のドイツのザクセン州にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという[2]。苗字のTolkienは、ドイツ語のTollkiehn(注:tollkühnは「無鉄砲」の意)を英語化したものである。強いて語源に沿って英訳するならば、dull-keen(注: 日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法(oxymoron、こちらは古代ギリシア語由来で「鋭い・鈍い」の意味)の言葉である[* 3]。 母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持ち、1812年以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曾祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から服地と靴下を商っていた[3]。 子供時代[編集] オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ロウエル・トールキン(1857-1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド) (1870-1904) の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる[4]。 アフリカに住んでいたとき、庭でタランチュラに噛み付��れた[5]。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった[6]。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホール(英語版)に移った。ここは当時ウースターシャーの村で、現在はバーミンガムの一部である[7]。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる[8]。 母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた[9]。植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語の基本を教えた[10]。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校(英語版)に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力した[11]り、学資不足のためセント・フィリップス校(英語版)に一時籍を移したりもした。 1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗した[12]ため、全ての財政援助は中断された。その母は1904年に糖尿病で亡くなり、トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった[13]。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイスをキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった[14]。 孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区(en)にある、バーミンガムオラトリオ会(en)のフランシス・シャヴィエル・モーガン(スペイン語版)司祭であった���トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設(英語版)のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズとラファエル前派のロマン主義の絵画だった。バーミンガム美術館には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。 青年時代[編集] 16歳のときに3歳年上のエディス・メアリ・ブラットと出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った[15]。 1911年にバーミンガムのキング・エドワード校(英語版)に在学中、3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、半ば公然の「秘密結社」である「T.C.B.S.」を結成した。これは、学校の近くのバロウズの店や学校図書館で不法にお茶を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である[16]。学校を去った後もメンバーは連絡を保ち続け、1914年12月にロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになる。 1911年夏、友人たちとスイスに遊びに行ったが、1968年の手紙[17]にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人がインターラーケンからラウターブルンネンまでを縦走し、ミュレンの先の氷堆石まで野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)霧ふり山脈を越えるビルボの旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、ユングフラウとシルバーホルン(英語版)(「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等はクライネ・シャイデックを越えグリンデルワルトへ向かい、グレッセ・シャイデック(英語版)を過ぎてマイリンゲン(英語版)に、さらにグリムゼル峠を越え、アッパーヴァレーを通りブリーク、そして、アレッチ氷河とツェルマットに着いた。 21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には「自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した」とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ[18]。1913年1月にバーミンガムで婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した[19]、1916年3月22日にイングランドのウォリックで結婚した[20]。 1915年に優秀な成績で英語の学位を取り(エクセター学寮(英語版)で学んでいた)オックスフォード大学を卒業した後に、第一次世界大戦にイギリス陸軍に入隊し、少尉としてランカシャー・フュージリアーズの第11大隊に所属した[21]。部隊は1916年にフランスに転戦し、トールキンもソンムの戦いのあいだ、同年10月27日に塹壕熱を患うまで通信士���を務め、11月8日にイギリスへと帰国した[22]。多くの親友同然だった人々も含めて、自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。スタッフォードシャー、グレート・ヘイウッドで療養していた間に、「ゴンドリンの没落」に始まる、後に『失われた物語の書』と呼ばれる作品群についての着想が芽生え始めたとされる。1917年から1918年にかけて病気が再発したが、各地の基地での本国任務が行なえるほど回復し、やがて中尉に昇進した。 ある日キングストン・アポン・ハルに配属されたとき、夫婦でルースの近くの森に出掛け、そして、エディスは彼のためにヘムロックの花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」[* 4]。この出来事から、トールキンはベレンとルーシエンの出会いの話の着想を得、彼がしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ[23]。 キャリア[編集] 第一次大戦後、退役してからの最初の仕事は、オックスフォード英語辞典の編纂作業であった。トールキンはWで始まるゲルマン系の単語の語誌や語源をおもに担当した[24]。1920年、リーズ大学で英語学の講師の地位を得、1924年に教授となったが、1925年秋から、ペンブローク学寮(英語版)に籍を置くローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授(英語版)として、オックスフォードに戻った[25]。 ペンブロークにいる間に『ホビットの冒険』と『指輪物語』の『旅の仲間』と『二つの塔』を書く。また1928年、モーティマー・ウィーラー(英語版)がグロスターシャー、Lydney Parkのアスクレペイオン(古代ローマの診療所)の発掘を行うのを助けた[26]。学術刊行物の中では特に1936年に講演され、翌年に出版された“Beowulf: the Monsters and the Critics”は『ベーオウルフ』研究において、また広く古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた[27]。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの『ベーオウルフ』に関する論文は「『ベーオウルフ』批評の大きな転機として広く認識された」と述べ、純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。[28]。しかしまた、いわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研��への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で『ベーオウルフ』を「『ベーオウルフ』は私の最も評価する源泉の一つである」と高く評価した[29]。 実際に『指輪物語』には、『ベーオウルフ』からの多くの影響が見出される[30]。これを書いた頃は、『ベーオウルフ』の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが、研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を『ベーオウルフ』の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した(逆に、Finnesburgの戦いの挿話および古英詩断片のように、『ベーオウルフ』やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた)[31]。1940年代前半には、トールキンは『ベーオウルフ』の原型となった民話の試作『セリーチ・スペル』を執筆していたようである[32]。 1945年にはオックスフォードのマートン学寮(英語版)に籍を置くマートン記念英語英文学教授(英語版)となり、1959年に引退するまでその職位にいた。1948年に『指輪物語』を完成、最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代にはストーク=オン=トレントにある息子のジョン・フランシスの家で、学寮の長い休日の多くを過ごした。イギリスの田園をむしばむと考えた、工業化の副作用を激しく嫌悪していたのである。成人後の人生の大部分のあいだ、自動車を忌み嫌い、自転車に乗るのを好んだ[33]。この態度は『指輪物語』における、ホビット庄の無理矢理な工業化など、作品のいくつかの部分からも見て取ることができる。 妻エディスとの間には4人の子供を儲けた。神父になったジョン・フランシス・ロウエル(1917年11月16日-2003年1月22日)、教師になったマイケル・ヒラリー・ロウエル(1920年10月-1984年)、父の後を継いだクリストファ・ジョン・ロウエル(1924年11月21日)、そして長女のプリシラ・アン・ロウエル(1929年)である。 W・H・オーデンは『指輪物語』に熱狂し手紙を書いたことをきっかけに、しばしば文通する長年の友人となった。オーデンは、出版当初から作品を称賛した評論家の中で最も高名なひとりだった。トールキンは1971年の手紙で、 「近年私は非常に深くオーデンに世話になっている。彼が私を支持してくれて、私の作品に関心を持ってくれるので、非常に元気づけられた。一般にはそういう批評��なかった最初の頃に、彼は非常に良い批評や手紙を送ってくれた。実際、彼はそれの為にあざけられた」 と書いた[34]。 引退と晩年 オクスフォードのWolvercote墓地には夫妻の墓があり、中つ国の最も有名な恋物語の一つから、「ベレン」そして「ルーシエン」の名が刻まれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/J・R・R・トールキン
0 notes
Text
『鐘ヶ岬』デザインについて
10/27(土)三越劇場にて開催される日本舞踊の公演「昂扇会」内の竹村みか出演演目「鐘ヶ岬」チラシデザインを行いました。それぞれウェブ用チラシと、竹村氏による「鐘ヶ岬」解説文掲載のパンフレットです。以下、試みた点と経緯です。
今回、ヴィジュアル面では旧式な「日本舞踊の公演チラシ」イメージからはみ出しつつ、さりとてポップ化させすぎまいというバランスを試しながら、「鐘ヶ岬」の女が抱く情念のアイコンとして、舞う桜の花びらのイメージを重ねつつ、水玉模様の意匠をあしらいました。単純な連想ではありますが草間彌生の作品モチーフが念頭にあります。 フォーマットでは、竹村さんが集客のためのチラシではなく、周囲の方にお配りする、演目をより味わうためのガイドとなるものをお求めだったので、携帯性も加味して巻々四つ折のパンフ形式に落とし込みました。A4サイズのチラシなら、大抵の方はバッグにしまうときなどに折ってしまいますから、ならば最初から折り畳まれたものはどうか、という発想です。中面では、テキストを折目で分割し、テキストで解釈された作品構成を模することにしています。
また、竹村さんのご理解により、テキストにも我々のディレクションが入っており、通り一遍の請負仕事ではない、タゴマル企画らしいことができたと考えています。制作期間は約一ヶ月半。デザイナーとディレクターの二名体制でした。学ぶことが多く、楽しい楽しいと言いつつ夜半まで作業しておりました。 せっかくですので『鐘ヶ岬』解説テキストを以下に転載します。ご一読ください。
《鐘ヶ岬 かねがみさき》
〜恋い慕う男(僧)につれなくされ、女��妄執から身を蛇に変えて、川を渡り男を追いかけます。男は道成寺の鐘に逃げ込みますが、ついに蛇は鐘にからみつき男もろとも焼き殺してしまいます。 〜 紀州・道成寺(どうじょうじ)にまつわるこの伝説は、よほど人々の想像をかき立てるとみえて、能の大曲「道成寺」をはじめ、さまざまな舞台作品がここから生み出されています。 歌舞伎では「京鹿子娘道成寺」が有名ですが、その舞踊部分が地唄に残ったと伝えられるのが「鐘ヶ岬」です。 抑えた表現でありながらも、劇場映えのするドラマチックな振付で、15〜20分ほどの作品です。 【 みどころ 】 「鐘ヶ岬」の舞踊は、物語をそのまま舞うわけではなく、鐘への恨みや蛇への化身を随所に表しつつ、能や歌舞伎で登場する白拍子(遊女)や桜のモチーフも織り込まれています。 前段は、とくに能の「道成寺」を思わせます。歌詞には能の「三井寺」の謡が用いられ(「初夜の鐘を撞くときは〜」)、宵から明け方まで時を刻む鐘の音とともに、すべてはうつろいゆく諸行無常感を色濃くします。 中段(「いわず語らずわが心〜」)は、僧に懸想する女の姿を描きます。だいぶ思い込みが強く、妄想めいていると同時に、「前結び帯」や(花魁道中で使われる)「差掛け傘」といった遊女のモチーフが出てまいります。 後段は、「吉原」「島原」など有名な廓めぐり。吉原の遊女が客をつねったり、煙管(キセル)を吸ったり。よく唄に耳を傾けていただくと、(遊女が床に入る)「伏し身」と掛けて京都・伏見の「墨染」、おなじく京都の「撞木町」など、実在した遊郭が次々に登場します。撞木(しゅもく)は鐘を撞く棒ですから、鐘との因縁を思わせつつ、女はやがて花びらをあつめて鞠遊びに興じますが・・・
そもそもなぜ外部デザイン仕事を、というと、実にシンプルでして、公演チラシのデザイナー募集ツイートをたまたま見かけ、そのままお声がけして、我々の『あるばとろす』のデザインをお見せし、スケジュールなどを確認のうえ、問題ないということで、パッと決まった次第。日本舞踊、いわゆる”古典”の公演案内を、我々が手がけるならどうなるだろう?という好奇心に動かされ、結局はイベントと同様"面白��うだからやった"の一言につきます。同時に、竹村さんの条件設定(お金のことや求めているもの)が明瞭だったことが大きくありました。 加えて、こちらの様々な提案を快く受け入れてくださり、そのうえでこちらもギリギリまで新しいアイディアを試すことができた過程もあります。今回もたいへん幸運な巡り合わせでした。 一体何の団体なのか、余計に分からなくなりそうな仕事の仕方ですが、我々が面白そうと思ったことを、できそうなタイミングでまとまりなく試していきますので、これからもお付き合いくださいませ!
『鐘ヶ岬』 (上方舞竹村流「昂扇会」内)
10/27(土)13:00 三越劇場 ※日本橋三越本店本館6F
出演:竹村みか 料金:5000円 予約:竹村みか (Twitter:@mikatze78) HP:http://bit.ly/2O6OpAZ
☆来場者には『鐘ヶ岬』解説パンフレット配布
1 note
·
View note
Text
名古屋市撞木館にて講演会を行いました
名古屋市にある文化のみち橦木館で、12/3(日)栗本設計所の栗本真壱さんを司会に nanometer architecture のお二人と 1-1 Architects 神谷が講演とトークを行いました。
今回の展示は、「 Glaze = 釉薬 」とタイトルにもあるので、これまでの自身を形成してきた釉薬についてお話させていただきました。
nanometer architecture のお二人の活動のお話がおもしろく、自分たちの活動を振り返るとともに、刺激を頂きました。
貴重な機会を頂き、本当にありがとうございました。
展示自体は、以下の日程で 12/17(日)まで続きますので、この機会に是非ご高覧下さい。
以下、詳細です。
———————————————————————
「GLAZE FOR THE ARCHITECTS 〜これからの建築家と展望〜」
・会期
2017年12月1日(金)〜17日(日)
入場無料(要入館料200円)
・会場
文化のみち橦木館
晴れた午前中は、写真のように光が乱反射し、室内を満たす光景が現れます。
お庭の風景とともにお楽しみください。
神谷
1-1 Architects
0 notes
Text
洋館の窓から中庭が見晴らせる感じ🏵️
洋館は赤絨毯とフローリングで、和室は畳や縁側廊下から日本庭園や茶室を眺めれる☂️
1 note
·
View note
Text
#文化のみち二葉館#名古屋市東区#名古屋市東区撞木町#旧川上貞奴邸#川上貞奴#SadaYacco#日本の女優#日本の女優第1号#女優#ステンドグラス#邸宅#和洋折衷建築#christmas tree#二葉御殿#大正ロマン#電力王#福沢桃介
0 notes
Text
文化のみちエリア、時間的に撞木館と二葉館しか時間がなかったけど、二葉館に駐車して🅿️
駐車場代は30分以降から300円で、二葉館に駐車させてもらってそのまま歩いて撞木館まで5分くらい
撞木館と二葉館それぞれ200円なので2名分で400円なんだけど、共通観覧券という大人320円券と、駐車券まで発行してもらって、全部で9??円くらいで1000円未満で済みました😆
二葉館の方が親切だったので、次回は着物で来てみようと思います👘
youtube
ここから落語が生まれたんだろか?
youtube
貞奴と音二郎は婚姻関係解消してないまま、音二郎没後に貞奴は、福沢諭吉娘婿と一緒に暮らしてるんだよ不思議な関係よね🤭
youtube
youtube
0 notes
Text
各地句会報
花鳥誌 令和3年8月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
……………………………………………………………… 令和3年5月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
海までの二キロを歩く五月かな 小鳥 母の日やわたしのなれなかつたわたし 公世 絶海へ日覆のなき舟を出す 光子 海を見て海を触れずに行く春を いづみ 南風のつまづきやすき摩天楼 悠紀子 徒労でしたあれは蜃楼でした 光子 白南風やアンチテーゼの一行詩 同 棒となり水著の母の佇める 順子 絢爛に罠を編みあげ蜘蛛をらず 同 さまよへるオランダ人と夏至白夜 公世 海の向かうこんなに遠き五月かな 美紀 昭和の日池袋演芸場休む 公世 まどろみのたつぷりとして藤の昼 美紀 知盛の飛び込みし海大南風 佑天 糸遊を置き去りにして小海線 要 凱風といふ柔らかな南風 佑天 夏蝶の急に曲がりて倉庫街 小鳥
岡田順子選 特選句
絶海へ日覆のなき舟を出す 光子 海を見て海を触れずに行く春を いづみ 持ち上げて放つ扉や夏の海 和子 山藤の貴きをさげて村の口 慶月 葉桜の蔭の娘は誰とゐる 三郎 大百科ありし空間昭和の日 眞理子 胎内の記憶は春の波の音 きみよ 真つ白に夜を濁して南風の吹く いづみ 海亀消えし夜は上弦の海原 瑠璃 惑星に南風吹かば月に海 いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月6日 うづら三日の月 坊城俊樹選 特選句
友訪へば無人の駅に遠蛙 由季子 田植ゑすみ腰掛語る畦の端 さとみ 朴の花一風ごとに散華せる 都 雲水の衿足青し寺薄暑 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月6日 花鳥さヾれ会 坊城俊樹選 特選句
花月夜名残の花の散ることも 雪 此の路地も海へ出る路地春日傘 同 後手を組みて即ち春惜しむ 同 卯波寄す礁に白き飛沫立て かづを 風棲める東尋坊に卯波打つ 同 楊貴妃かクレオパトラか牡丹散る 清女 山車見上げほろ酔ふ爺の茶碗酒 千代子 夏のれんかけて母者の独り言 雪子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月8日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
若葉風ポプラは広き空を持ち 寛子 街抜けてただただ碧き初夏の海 のりこ 烏賊の墨手に受け流す釣師かな 岬月 一夜干す烏賊に対馬の海明かり 同 郷愁や草笛濡れて届かざる 同 大漁や城の桜に迎へらる 雅春
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
金盞花こんなに咲かせ晴女 一枝 人のなき遮断機炎天下に下りる 世詩明 新茶古茶口述筆記してゐたり 同 琵琶湖辺の古き灯台亀鳴けり 三四郎 内緒事しまひきれずにソーダ水 上嶋昭子 鐘を撞く牡丹かすかに揺れにけり 中山昭子 妖精の生まれさうな緋の牡丹 信子 葉桜になりて堤防静かなり 錦子 何時も何時も待つばかりでは春日傘 上嶋昭子 更衣羽化して少女立つてをり 同 時止まる一部屋のあり竹の秋 同 囀や椨の大樹に祠あり 中山昭子 カーネーション捧げる母は車椅子 すみ枝 噴水にまつさらな朝来てをりぬ 上嶋昭子 田植機の揺らぎて入る重さかな みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月10日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
こんなにも美しき花とは姫女苑 和魚 切り口の虹色滲む初鰹 美貴 品書きの達筆跳ねる初鰹 同 夏場所も横綱不在なる軽さ 秋尚 海の色残して光る初鰹 同 逆上がりあともう少し姫女菀 美貴 江戸つ子の思ひは知らず初鰹 和魚 土匂ふ雨の急坂姫女菀 美貴
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月11日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
厨には筍茹でる鍋滾り あけみ 白靴や盲の人の朗らかに 登美子 朝の声風を動かし燕飛ぶ 光子 赤色のつつじばかりが植ゑられて 紀子 花の塵籠めてお濠を染め上げる 同 はつなつや浜大根と海風と みえこ ぢいちやんの筍の山地図に無く 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月11日 萩花句会
山法師思ひ出重ねし旅カバン 祐子 初鰹薬味談議で盃重ね 美恵子 時の花ドラマで咲かせ橋田散る 健雄 柏餅ほどの重さの命かな 吉之 読み物の上で遊ぶや柿若葉 陽子 思ひ出の夏のゲレンデひとり佇つ ゆかり コロナ禍も堂々帰省夏燕 明子 初鰹土佐の女将と差しで飲む 克弘
………………………………………………………………
令和3年5月12日 立待花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
生ビール奢りし男前に酔ふ 世詩明 母の日や般若の面の美術館 ただし 里山の夏軍馬の碑偉人の碑 清女 玄関の梁に田舟や夏来る 誠 みどり児の五指のきらめき若楓 秋子 縦の物横にして生き菜種梅雨 同 それぞれの香りほのかに芽吹きけり 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月14日 芦原花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
翻る開店の旗若葉風 よみ子 夏落葉目鼻薄れし道祖神 同 ひとしきり騒ぐ鴉や梅雨兆す 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月14日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
更衣マリア地蔵の赤子とて 都 斎場の窓に縋りて夏の蝶 悦子 母の日の鏡台在りし四畳半 宇太郎 疫病を恐れ家居の草を引く 和子 海芋剪り白の陰影活けにけり 史子 灯籠にクルスの黙示卯浪立つ 都 湯屋跡の煙突射止め夏の月 悦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
遠蛙孫より長き便りかな かづを 鯉幟胴復さけて裏返り ただし B 面ももうあと少し白牡丹 すみ枝 若楓暗き狭庭を明るうす 芙美子 新緑に吐く息までもみどりめく 輝子 素十句集読み耽りたる大朝寝 清女 此の花も散る為咲きし白牡丹 富子 香水を匂はす女名告待つ 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月16日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
風に消えまた風と来て句碑の蝶 三無 紫陽花や観音の指濡れたまひ 佑天 薔薇園へフランス人形抱き来り 千種 出会ひたる薔薇の門より伊予ことば 幸子 蛇出でて狭庭の遠くなりにけり 芙佐子 朴の花一つ一つに仏乗せ 三無 園薄暑裸婦像バラをにぎりしめ 千種
栗林圭魚選 特選句
鳴り終る校舎のチャイム桐の花 ゆう子 開け放つ蕎麦屋の廊下若楓 久子 うたてしき日々は語らず二重虹 炳子 からたちの花の香仄か朝月夜 同 天道虫指で弾きて翔たせけり 同 鯉幟当主の腕に横たはる 久子 吊橋も木霊もゆらし若葉風 眞理子 城址へと玉巻く葛を払ひつつ 炳子 朴の花一つ一つに仏乗せ 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月19日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
落城の今に残せし杜若 世詩明 大空やひふみよ数ふ鯉幟 千加江 薔薇の散り橋田壽賀子も散りゆきぬ 令子 いたづらに爪染めてみる日焼けの子 清女 手拭の喧嘩結びや夏祭 泰俊 寺遅日今に黒髪物語 雪 蝶飛べる影を見てゐて蝶を見ず 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月21日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
春愁や今となりてはどちらでも 雪 話すまで聞かずと決めて花菜漬 上嶋昭子 古浴衣ぺたんと座る板だたみ 同 サンドレス一つ大きなサイズ買ふ 同 電灯の笠に守宮や駅舎旧る 同 父祖百年棚田はいまも田植衆 一涓 更衣夫の祈りは深かりし 洋子 代田掻く高き鉄塔揺れてをり みす枝 鐘を撞く薫風に乗り山里へ 中山昭子 朱の傘に雨を弾きて牡丹寺 同 新緑に翅休ませて去りにけり 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
道草や指より発ちぬ天道虫 孝子 飛魚の跳んで深海波立たす 喜和 飛魚の鳥でありたるころの夢 桂 天牛のぎいと写楽の寄り目かな 伸子 蛇苺裏切り者の匂ひせり 美穂 鯨尺は母の物指し鳥曇り 喜和 指きりの遠き記憶や陽炎に 光子 新樹照る重たきほどの葉をつけて 睦子 いまだなほ指先にある春愁ひ 光子 玄海を航くや飛魚従へり 佐和 昔日を蜘蛛の網より覗きみて かおり また二つ別れを惜しむ柿の花 さえこ いちにちの過ぎるはやさに夕焼けて 佐和 飛魚の先へ先へと壱岐航路 光子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
枡形句会 栗林圭魚選 特選句
大寺の甍煌めく朴の花 文英 源流の山葵の花を少し噛み 美枝子 緑濃き葉に包まれて売らる蕗 三無 夏めくや街路樹高く風渡り 秋尚 蕗浸し仄と香のある夜の厨 百合子 閼伽桶に若葉明かりの水満たす 三無 磨かれし匙触るる音夏めきぬ ゆう子 花蜜柑島に嫁ぎて二児の母 美枝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
0 notes
Text
名古屋市 文化のみち橦木館
先日、お声をかけていただき、名古屋市にある文化のみち橦木館(しゅもくかん)の打ち合わせに行ってきました。
なんと、12月に若手建築家2組でこちらで展示を行わせていただきます!
偶然ですが、もともと仲の良い若手建築家の方と共演することができるので、今から楽しみです。
撞木館自体が、貴重な近代建築でレトロなステンドグラスのある洋館や縁側の回る和室など見所が満載です。 (カフェもあるので、街歩きの休憩にも最高です)
建具もそれぞれ味のあるもので、ここでどんな展示を行うことができるのか、現地調査しながら 思考がぐるぐるまわりとても刺激的でした。
この地域には、他にも文化のみち 二葉館もあったりと近代建築の残る素敵な街並みです。
展示期間中は、講演などのイベントも行う予定ですので、是非街歩きのつでにでもお越しください!
またこちらで告知させていただきます。
来月も小学校と大学での講演会に呼んでいただいておりますが、建築家がもっと一般の方の 身近な存在になればと常々考えておりますので、是非お気軽にお声をお掛けください!
神谷
1-1 Architects
0 notes