所沢の家の割と近くにあることを知り、先日の埼玉出張で訪れた中心のある家。 建築家、阿部勤氏の設計による自邸。 70年代に建てられ築50年近くを経た住宅ですが、その住宅の完成度としては高く、今見ても古臭さは全く感じない。 正しく作られたものは年月を経てもその価値は変わらないし、むしろその良さが増しているとも言える。 残念ながら中を見る事は出来ませんでしたが、その佇まいだけでも見る価値はあった。 #中心のある家 #阿部勤自邸 #埼玉出張 #建築巡礼 https://www.instagram.com/p/ClIAVbmrfOP/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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私は62才である。とある地方都市で、公務員として約36年働いてきた。生まれ故郷だ。
地元、そう、本当に地元だ。保育所から高等学校まで、ずっと地元である。(地元にある大学で行きたい)大学はなかったので、大阪府内に進学することになったのだが。
それから民間で三年ほど働いて、地元の市役所の採用試験を受けて入庁した。
いいことも嫌なこともたくさんあった。思い出深い職場である。時間が過ぎるのはあっという間だった。
ずっと土木建築の仕事をしてきた。道路造りに、水道に、都市計画に、施工監理に……少しの間だが、まちづくりの仕事もした。思い出が蘇ってくる。もっと写真を撮っておけばよかった。
本題である。定年延長により、公務員の定年退職はしばらくの間、2年に1回になっている。
私が定年になったのは61才になる年度である。民間企業は誕生月に退職になるのが一般的だが、公務員の場合は年度末まで在籍できる。
今年の3月末をもって分限退職の辞令を受け取り、退職日には労働組合の行事で退職者一同での職場巡りを行い(※有給である。有給が残ってない人は人事がわかってて見逃してくれる)、最後は市長のポケットマネーで退職者のための小宴会が催され、皆それぞれに挨拶をして――私を含めた有志は、翌年度からも再任用(あるいは再雇用)されて働き続ける――はずだった。
タイトルにあるとおり、私は再任用の対象にならなかった。再雇用もNGだった。
2023年の秋頃だったか、再任用の希望票を人事に提出した。その後、返送されてきたのは「再任用は不承認」なる文言の書かれた通知が1枚だけだった。
理由によると、総合的な事情により再任用できないらしい。同じ階にある労働組合の職場委員会を通じて確認したところ、この階の職員だけでも数名が再任用されなかったということだ。
はてなユーザーであればご存じかと思うが、一応説明しておく。
民間企業では、「雇用と年金の接続」という観点から、年金が支給となる65才まで退職者を継続雇用する義務がある。例えば、60歳定年制を採用する企業の場合、65歳までの再雇用は法律上の義務であり、再雇用拒否は原則として違法である。
では、公務員の場合はどうかというと、こちらも原則として再任用をすべき~という旨の総務省通知が平成25年3月に出ている。
内容を要約すると……
「公的年金の報酬比例部分の支給開始年齢が段階的に60歳から65歳へと引上げられることに伴い、無収入期間が発生しないよう国家公務員の雇用と年金の接続を図るとともに、人事の新陳代謝を図り組織活力を維持しつつ職員の能力を十分活用していくため、当面、定年退職する職員が公的年金の支給開始年齢に達するまでの間、再任用を希望する職員については再任用するものとすること等を内容とする閣議決定をした」
ということだ。
【参考URL】
(平成 25 年3月 29 日総務省通知)
https://www.soumu.go.jp/main_content/000216510.pdf
(停職6月の懲戒処分を受けた者の再任用)
http://www.rilg.or.jp/htdocs/main/houmu_qa/2015/43_winter02.html
ただし、この通知はあくまで国から地方自治体への技術的助言であり、法的効力があるわけではない。
組織からその価値がないと判断された職員だと、再任用はされないことになる。
私は、36年間ずっと、このまちで働いてきた。
そこまで目立たない中国地方の地方都市ではあるが、このまちが気に入っている。
できれば、ずっと働きたい、もっと働きたいと思っている。
労働組合に上記の再任用拒否を相談したところ、今後の団体交渉前の当局とのやり取りにおいて、本件に言及いただけるとの回答が執行部からあった。だが、望みは薄いようである。こういった当局の対応は、何年も前から続いているからだ。
市役所にとって不要な人材は、再任用(再雇用)しない。それが人事当局の方針である。
実際のところだが、私は確かに不良な職員であった。
私は怒りやすい人間であり、周囲に迷惑をかけたこともある。若い頃は上司と反りが合わず、反発して死のイベントを無断欠勤したことがある。なんてことをしてしまったんだろう。あのイベントに出ていればよかった。
日常の仕事においても、市民や業者と言い争いになることがよくあった。
感情の振れ幅が大きく、職場の人に迷惑をかけた。用地買収の仕事の時にも、地権者との交渉がうまくいかなかったのは私のせいである。
査定が低かったのは間違いない。でも、私は私で、このまちが好きで市役所職員の仕事を続けていた。もうちょっと働いていたい想いがある。
仕事とは別の方面になるが、二十代の頃からずっと組合活動をしていた。
土木建築の職場委員会はずっと仕切っていたし、反核の平和の火リレー、メーデー、自治労の定期大会その他の行事などは、40代になって体にガタが出るまで前線に出ていた。
平和の火リレーの時は、市立総合体育館の前にある大きい道路をまっすぐに進んでいったっけ。本当に懐かしい。
一番、血気盛んな時期だと……国と県が合同で実施する泊まり込みの研修があった時、私が朝のラジオ体操時の国旗掲揚係になった時だった。私は、つい大声で主張したのだ。自分の平和にかける想いを。
あの時は、江田島にあった国立青少年自然の家だった。集会室での私の言葉は、十数年前の日記に確かに記録してある。
「皆さん。申し訳ありません。これは研修中の職務ではありますが、私は日本国旗を掲揚する係にはなれません。太平洋戦争を引き起こし、被差別部落問題を長年放置してきたのは日本政府です。人権侵害の象徴である、その政府が作った国旗を掲げることは、平和を愛する者として到底できないのであります!」
と、研修参加者50人以上の前ではっきり告げたのだ。これは、当時の労働組合における一般方針のひとつであった。
今では思う。広島県全体の研修の時なのだから、この時ばかりは組合の方針に反してもよかったのではないかと。
実際、研修が終わった後で人事当局に呼び出された私は、総務部長から「増田さん。悪いけど辞めてくれるか?」と言われた。国か県かはわからないが、クレームがあったらしい。
だが、やはり血気盛んだった頃の私は、組合にも相談したうえで、基本は一人っきりで人事当局と戦った。少しばかりは助けを求めたこともあったが。
最終的に、処分ではなく厳重注意に留まった。組合が助けてくれなかった場合、本当に辞めされられていた可能性がある。
愚痴ばかりで申し訳ないのだが、これでも反省している。
私が悪いのだ。私は仕事に対して真摯に向き合ってきた。本気でやってきた。それでも成績が悪かったのは事実であり、その時期の上司の方々の温情に賜れたことに感謝している。
仕事は本気でやっていたけれども、周囲への配慮が足りなかった。令和になっても、今でいうパワハラみたいなことをしていた。
あの時、いつだったか。令和元年のことだ。
税務の子が当時、私が働いていた施工監理(兼庶務管理)の部署に来ることがあった。土地の課税評価のことで、私が依頼していた文書を届けにきたのだ。
その文書には誤りがあった。その時、私は怒鳴ってしまった。今でも反省している。後悔の念を込めて、できうる限り思い出してみる。
確か、私はこんなことを言った。
「お前、まちごうとるぞ。小字(こあざ)がなかろうが、字がっ!! なしてないんならあ、おい」
「え……どういうことですか」
「水吞町だけじゃなかろうが、さらに、その下に水~(※龍だったかもしれない)という小字の名前がなかろうが」
「すいません、つけ忘れました。打ってません」
「なんでそんな大事なもん、付けわすれるんならあ、おい」
「すいません」
「お前、法務局にこれ出してみろやあ~、恥ずかしいどお!!」
「ごめんなさい……」
恥ずかしいのは私の方である。若い子に対して、こんなに失礼なことを言ってしまった。
その次の週に同僚から聞いたのだが、その女の子はうつ病になり、職場に来ることができなくなったという。
元々、抑うつ気味で元気がなかったらしい。私が怒鳴った金曜日だけでなく、土日にあったイベントでも動員があり、その子は仕事ができず辛い思いをしたという。
ただ、私にも原因があるのは明らかである。本当に申し訳ないと思っている。
その子は、労働組合を通して聞いたところだと――翌年に単純事務労働として税務の仕事に復帰したが、なかなか調子が戻らず、結局は新卒2年目で退職したとのことだ。
後悔先に立たず、という言葉がある。私の場合がまさにそれだ。
仕事でヘマをしてるだけだったら、まだ再任用されたのかもしれない。
しかし、それだけではない。私が他者の信頼を損ねる行為を繰り返したからこそ、こうなったのだ。
できれば、今からでもまた市役所で働きたいよ。でも、その資格がないことも重々承知している。
たとえば今、私は市役所で働いていた頃の思い出を書いてるけれども、守秘義務に反している可能性がある。それでもいい。罪があれば償おう。これも責任の取り方というものだ。
私は罪を犯した。犯し続けた。それで再任用されなくなった。仕事人生の責任を、こんな最悪なかたちで取ることになった。
あれは今年の1月だったか。後輩と一緒に現場に出るため、廊下を歩いていると、部長級の職員が前からやってきた。
その人は、正面にいた私に向かってこう言ったのだ。
「なんや増田。お前、まだ辞めとらんかったんか。はよお、辞めろや!!」
後輩が見ている前で、こんなことを言われてしまった。恥ずかしかった。
でも、しょうがないのだ。私はずっと、禄でもない職員だった。
だから、こんなことになっている。
最終勤務日のことだ。
労働組合が主催する職場巡りの会が終わり、最後に職場に帰って、デスクに座ってしばらく待ち、定時を迎えた時のことだ。
定時のチャイムが鳴って、2~3分くらい後だったか。私は、カバンを抱えてまっすぐに職場を出た。
事務所にいた同僚連中には、「じゃあの~」と軽快な口調でさよならを言った。みな、私に「お疲れ様でした」と返してくれた。
しかし、ひとつだけやっていないことがあった。最終勤務日の前日、職場の親睦会の若い幹事職員に言われたのだ。
「増田さん。最後に僕が花束を渡すので、退職スピーチをお願いします。その後記念撮影をしますから、残っておいてくださいね!」
と、しっかり伝えられ、私はOKの返事をしている。
にもかかわらず、こんなことをしてしまった。チャイムが鳴ったら逃げるように、すぐに家に帰ってしまった。
スピーチなどしたくなかった。再任用されなかったこんな私がスピーチをしても、恥ずかしいだけだと思っていた。
自分に負けたのだ。彼の思いに応えられなかった。
最後になるが、もし増田の利用者の方で思い当たるフシがある方は、どうか職場では自重してほしい。
他者の信頼を損ねる行為ばかりしていると、私のように情けない老後を過ごすことになる。この日記がひとつの警句になってくれたら望外の幸せである。
明日からは、またはてな匿名ダイアリーのイチ利用者である。また面白い日記、楽しい日記をたくさん読んでみたい。
ありがとうございました。
再任用を拒否された
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鳥居の神様 久那戸大神 「鳥居で一礼するのは鳥居に神様が宿られているからだ」とどっかで聞いたことあったんですが、館山市の洲崎神社の鳥居には塞の神、外部から邪霊が侵入するのを防ぐ神ともいわれる久那戸大神が鎮まっていました 東国三社の一、息栖神社では久那戸神を祀る稀な神社ですが房総一帯に岐神信仰が広がっていたのかもしれません 洲崎神社は神武天皇の御代に阿波国から当地へ渡った天富命が祖母で忌部氏の祖、天太玉の后である天比理刀咩命ですが、延喜式神名帳に比理乃咩命と誤記した説もあり、時と場合によって神名を使い分けてるようです #洲崎神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 洲崎神社(すさきじんじゃ、すのさきじんじゃ) 鎮座地:千葉県館山市洲崎1697 主祭神:天比理乃咩命 社格:式内大社 県社 巡拝:諸国一宮 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社建築#神社仏閣 #パワースポット #館山市 #鳥居 #神社巡拝家 (洲崎神社) https://www.instagram.com/p/ClymATyPhlb/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ムー旅 平将門巡り「胴と首をつなぐ」崇敬の旅 ・その2
さて、再び🚍に乗り込み、次の目的地は東京に戻って神田明神……ですが、高速に乗ってしばらくした所で渋滞にハマりました😰
運転手さんが頑張ってくれて、何度も車線変更しつつ行ってくれるのでそれ程はノロノロ運転というわけではなく、完全に止まることもほぼありません。ところが、ここで地獄に陥った方がお1人。🚍内で缶🍺を持ち込みほろ酔い気分になってたのが、いきなりの尿意に襲われたそうで。いつものクールなイメージがすっかり崩れ落ちるほど悶絶しまくられた挙げ句、松原タニシ氏からは、
「尿意(如意)輪観音のご加護」
という凄ぇパワーワードを送られーーあまりにも素晴らしい弄りに🚍内大爆笑でした。さすが関西出身だけあって、弄り方がプロですな😅他にも「平将門の呪い」って仰ってたけど、そこは濡れ衣だと思います😂
そうこうして東京はまだかーーなどとなっているうち、三郷を過ぎいよいよ限界が……😖となったところで。
八潮PAの看板が!!
救いの神です。迷わず🚻休憩が入りました。戻られたあとは、再び「今度からオムツした方がいいんと違います?」と弄られておられましたけど😅
そのままスカイツリーを横目に、堀切~鐘ヶ淵~両国で高速を降りて、浅草橋からお茶の水へ。ここら辺になると、ほぼ庭ですね😊神田明神に到着した頃はとうに6時をまわってましたが、このようになお明るい。
⛩️の前で一礼して山門を潜ると、おお、さすが6月。夏越の祓の茅の輪がデデーンと目に飛び込んできましたo(^-^o)(o^-^)o
穢れを祓う為の人形(ひとがた)が貼り付けられています。取りあえずここで神職の方の説明(多分待ちかねておられたんじゃないかと💦💦)があるので、一旦茅の輪くぐりは脇に置いといて。
神田明神(神田神社)についての説明を受けました。何度かお詣りに来てるので概要は知ってましたけど、やはり奉職なさっておられる方からの説明はそれ以上に知識が深い。
前編では、延命院や國王神社には常駐の神主さんも住職さんも居られないと書きましたが、例祭の折は神田明神(正式名称は神田神社だけど、生まれも育ちも東京在住者にはこちらの方が馴染みが深いので、そのまま神田明神と呼ばせてもらいます)からも神職者が派遣されるそうです。なるほどー😲
そもそも、将門塚保存会から石碑を贈ったりするくらい、坂東市と東京の繋がりって深いんですよね。将門ネットワーク。
神田明神は関東大震災で本殿が焼失しており、現在のものは「二度と燃えるところを見たくない」という氏子さん達の意見を取り入れて、鉄筋コンクリート造りで再建したそうです。当然構造上は木造より強度が増しているので、柱はそれほど必要とはしていない。なのに本殿の支柱が多いのは、日本の神社建築に沿った建物にする為。確かにこの方が威容がありますもんね。
説明のあとは茅の輪を慌てて8の字にくぐり、ツアー参加の皆さんがずらっと並んでいるのを尻目に境内にある波除神社を参拝。ここだけは将門さんとは関係がありませんが、父方の祖父が戦前築地に勤めていた関係で(波除神社は築地からの分霊なんです)どうしても頭を下げておきたかったの!!
時間に余裕があったら他にも(神社裏の階段とかw)寄りたいところですが、それはまた個人で💪😁
ようやく待っている人が少なくなったところで、本殿に二礼二拍手一礼。本当は神拝詞も唱えたいところですが、あれをやると隣にいる人がぎょっとして、変な人認定される可能性があるのと、時間がないからカット💦💦
すぐに🚍に戻り、最後のそして最大の目的地である将門塚(首塚)へ。流石にここでは日没しており、
薄暗い逢魔が時の中での参拝になりました。
しかーし、
2020年からの改修工事により、以前あった筈の植え込みがほとんど失くなっちゃってる😳
もうね、まっ更な綺麗な塚以外は何んにもない空間なんですよ。
子供の頃とか、よく「首塚の写真を撮ろうとファインダーを覗くと生首が飛んでくる」という噂がまことしやかに囁かれて、都市伝説となっていましたが、そんなおどろおどろしさは全くなく。単なる史跡になっちゃってました。確かに参拝はしやすくなったろうけど、これはちょっとクリーンになり過ぎ💦💦
恐らく、パワースポットとしての役割はほとんど消えちゃったんじゃないでしょうか?お詣りする人の念が溜まっての意味もあるもんな、アレは😥
ちなみに将門塚の改修工事に伴い、将門塚と延命院とで互いの土を交換しているとのこと。
ともかく、私にとっては付近はさんざん歩くものの、生まれて初めての将門塚訪問。
い・ろ・は・すで簡単にお清めをして、手を合わせました🙏お賽銭入れにはやはり九曜紋。こちらの石碑が先程の神田山延命院と対をなすものか……どうぞ安らかに東京の街を護って下さいーーそう願って、ここを後にしました。
さて。時間は7時を過ぎ、トークショーとディナーを頂く為に浅草ビューホテルへ到着。こちらが最終地点となる為に、🚍とはお別れです。お疲れさまでした。そして、ツアー初めから色々とお世話になりました🙇♀️
運転手さんが親切に教えてくれたお陰で、座席難民にならずに済みましたもん💺
ホテルでのイベントはムー旅のみだったので、至る所で案内板が💦💦
そして通された宴会場広ーーーい!!
いちテーブル大体5名ほどで、まずは乾杯用のソフトドリンク(オレンジジュースとウーロン茶の2択)が配られました。
司会はムー編集部のM氏。三上編集長との阿吽の呼吸の掛け合いが楽しいです。ここでパワーポイントを使っての旅の振り返り。松原タニシ氏と同行されたカメラマンの方が撮影されてたのかな?
トークショーは撮影禁止でしたが、ディナーのフルコースのみ撮らせてもらいました。
凄い豪華だったんですよ。こんな本格的なご馳走にありつけると思ってなかった😍💕
蓴菜の餡といくらの乗った胡麻豆腐、お刺身はマリネされてサラダ仕立て、白身魚(スズキっぽかった)の香草焼き ラタトゥイユソース添え、ほたて入りのパエリア?(サフランライスかな?バターが効いててコクがあり、とても美味しかったです💕最初ちょい少なめについじゃったので、後から余っていたのをおかわりさせてもらいました💦)、コンソメスープ。デザートはいちごのムース フルーツ添え、コーヒーはデミタスカップでしたが、エスプレッソではなかったです。香りが良かった💕
ツアー参加者が食べている間もずっとトークショーは続き、ちょっと申し訳なく思ってしまいました💦💦
トークの内容は、事前に🚍の中で記入してホテル到着時に回収された、参加者からの将門さんに関する質問が中心……の筈だったのに、いつの間にか三上編集長個人への質問が😳
それアリなんですかーー🤣
Q:いつも黒い服を着ていらっしゃいますが、私服なのですか?
A:私服です。そろそろクリーニング代を計上しようかな(え!?)
Q:正月カレーは何日続きましたか?
A:100日続けました(元旦から🍛を食べ続けておられたそうで……それを知ってるムー民の方からの質問が濃いい😂)
Q:お化けを見る方法を教えて下さい
A:出るところに行けば見れます。
ここで、聞きたくなかった情報が……霊能者の方はほぼ体温が低いそうなんですね。私、平均体温が35.6℃なの😰更にコロナが5類になるまでは、外出先で体温測ると大概エラーマークが出ました。34.6℃とかが普通だったから💦💦
ほぼ零感だけど、たま~に怪音を聞いちゃった経験があるのに加えて視える人間が周りにごろごろいるの。てことは、今は視えてなくてもいつか条件が合致しちゃうと、視えちゃうようになる可能性もあるのかも😱
嫌だー、面倒臭いぃーー‼️
トークショーの締めくくりで、三上編集長が「無事か��る」の話をしておられました。これは、将門さんの首が晒されていた京都から戻ってきたことを表しているという説が主流ですが、更に蛙(かわず)⇒河衆⇒河童の意味もあるそうで。行きの🚍の中でたたらの話も出てたもんなー。ともかく、旅から無事に家に着きますように、と。
楽しいツアーでした。ムー的にも歴史的にも、多方面で濃いい話が満載でした。
余談ですが、家にある将門さん関連で読みたいなと思っていた何冊かの📚
もしかしたら、今なら簡単に見つけられるんじゃないかな🤔と考えて、探してみました。どこに置いたかすっかり忘れてて、見つかるまで何時間かかかっても仕方がないかな😥って思ってたんですが……何とわずか15分くらいで全部出てきちゃったんです😌
ご縁が出来るって、こういうことか!!
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一人御子に祝福を
0.プロローグ
シュピ(左)・ミラ(右)
宗教
現在のビシュテンを含むユーフォリオ地方の主だった信仰は、約2600年前に発祥したユルカ教、約1300年前にユルカ教から分派したキルト教、約700年前にユルカ教・キルト教への改革的宗教運動として始まったイエルム教である。
キルト教発祥からしばらくはユーフォリオの帝国、ルーン帝国によるキルト教への弾圧があったとされているが、約900年前にキルト教が帝国の国教と認められ、その12年後には異教徒禁止令が出された。禁止令が帝国内部の取り締まりを旨としていたのに対し、約200年前に聖地エルセウス奪還を目的に教皇により結成された教皇軍はユルカ教・イエルム教への侵略を行い、その運動は民衆にも波及した。
エルセウスはユルカ教徒の王国として栄えたが、約1200年前に帝国軍によって陥落し現在のユルカ教徒は散り散りになっている。その後の約700年前のイエルム勢力による征服により、現在はイエルム教徒の支配下にある。ただし、キルト教の一部教派とユルカ教の巡礼は認められており、教皇軍結成の大義名分である聖地奪還は建前に過ぎず、実情は支援を要請した側の国土問題と帝国教会の主導権問題の利害が一致したことにあった。
教皇軍は約40年前の遠征を最後に活動を停止したが、現在では聖王庁がその意志を継ぎ教皇の管理下で活動を続けている。
世界
三つの宗派の共通認識として、世界の理は奇蹟によって成り立っている。
奇蹟は聖遺物の種子によって大きく分けて「人」「神器」の2つを生むとされている。
後者について、極稀に「神器」の種子を胎内に有した少女が生まれることがある。
母体は一定の年齢に達すると胎内の種子が発芽し懐胎し、命の箱となる神器(武装)を生成する。
キルト教の風習として、生成から約10ヶ月までにエルセウスへの巡礼を行い、神器に祝福を受け祝福の御子とする。キルト教ではこの巡礼が奇蹟の恩寵の根源であると考えられている。
約10か月を過ぎて祝福を受けなかった場合、神器は暴走し、母体は腐ってしまう。暴走した神器は往々にして巡礼の道中に出没し、巡礼者の障害となる。
神器の特徴として、母体の生命活動の停止を感知した際に、母体を蘇生する性質がある。これによって母体は事実上不死の能力を持つことになる。
シュピの出生
ビシュテン西部の田舎町で生まれる。左手の甲にユルカ教の聖痕を持って生まれた。当時のビシュテンではユルカ教は迫害の対象であったため、生後間もなく孤児院「リリィ・コンパス」に捨てられた。
孤児院の院長ミラは熱狂的なキルト教徒であったが、異教に対して寛容な心を持っており、シュピを受け入れた。
孤児院ではキルト教の教えが説かれていたが、シュピは熱心な教徒とは言えなかった。
シュピが14歳になるころ、孤児院は異教徒を匿っているとの異端審問を受けるが、ミラはこれを断固として認めなかった。宗教裁判所は最終的に火刑を決議し、世俗当局が国内の聖王庁に働きかけ孤児院を襲撃する形でこれを実行した。
死体の山の中で、シュピは死んでいた。このとき、胎内の神器の種子が発芽し、神器となってシュピを蘇生した。
目を覚ましたシュピは、瓦礫の下敷きになっている院長ミラを見つけた。ミラは腹部が破け内臓が飛び出ており、今まさに死の瀬戸際にあった。
ミラがシュピの神器を目にすると、一筋の涙を流した。息も絶え絶えな中、かすれた小さな声でシュピに呟いた。
―――一人御子に、祝福を―――
1.旅立ち
ユーラ
情勢
9年前に教皇が死亡して以降、教皇にはビシュテン人が選出され、教皇庁はルーンからアルヴァクに移された。前教皇の死にはビシュテンの反教皇派であった国王顧問が前教皇に退位を迫ったことが背景にあると見られている。
パンテナ騎士団はキルト教徒によって構成され、キルト教巡礼者の保護・支援を行う修道会である。聖地エルセウスがイエルム教の支配下に入る前は聖地の防衛を行っていた。また、軍事組織としての側面に加えて、財務機関としての側面も持っていた。巡礼者が現金を持って移動しなくてよいよう銀行機関の仕組みを発明し、ビシュテン内外に設置した支部での所領経営や金融業務の展開により莫大な財産を築いた。
騎士団は聖王庁による異教迫害を非難していた。ある一隊が孤児院の襲撃跡地を見分し、死体を埋葬した。
概要
シュピは生存者を探した。地下室に孤児のユーラを見つけた。
ユーラはシュピを責めた。シュピが居なければ、孤児院が異端審問にかけられることは無かったのである。シュピは何も言えず、ユーラの慟哭を背に受けその場を後にした。
孤児院の襲撃跡地を見分していたパンテナ騎士団がユーラを見つけた。ユーラは異端審問の発端となったシュピの存在を騎士団に告げた。騎士団の小隊長ルカはシュピを保護するため動向を追うことにした。
シュピの変化
シュピは孤児院を襲撃した聖王庁、ひいてはキルト教に並々ならぬ憎しみを抱いていた。しかしながら、そのキルト教徒の模範ともいうべきミラに対する恩との間で葛藤していた。
ミラの遺言、つまり巡礼はキルト教の教えに則することを意味する。だがとてもそんな気にはなれなかった。
キルト教の教えでは、約10か月を過ぎて祝福を受けなければ、母体は腐ってしまうらしい。それもいい。そう思ってシュピはいつの間にか眠りについた。
夢を見た。幸せな夢だ。草原、近くに小川が流れている。
りんごの木の下で、少女が私に微笑んでいる。
少女が、シュピの左手に頬擦りした。綺麗な、手だと。
それは違う。この手のせいで、孤児院で多くの人が死んだ。
少女はそれを聞くと、静かに涙を流した。また微笑んで、シュピを抱擁した。
少女の胸は、暖かかった。
目を覚ましたシュピはふと神器の中に眠る胎児に目をやった。混乱のあまり意識できていなかったことだが、シュピはこのとき初めて自身が身一つでないことを自覚した。
キルト教の教えでは、神器の暴走は命の箱に人の原罪が入り込むために、凶暴で好戦的な成れの果ての姿になると考えられている。キルト教の教えを信じているわけではない。だがシュピの持ち得る知識はキルト教の教えそのものだった。これ以上何かを失いたくなかった。胎児のために、巡礼を決意した。
キルト教の教義の文脈ではなく、胎児を救うという人としての立ち位置で巡礼の意義と生きる意味を見出したのである。
2.巡礼:暴走した神器
ルカ
情勢
ビシュテンは深刻な財政難にあえいでいた。ビシュテン王が目をつけたのはパンテナ騎士団の持つ莫大な財産であった。ビシュテン人である教皇を利用し、騎士団の持つ財産の略奪を画策する。
概要
シュピは巡礼の途中、暴走した神器に出くわす。シュピは一切の攻撃を行わなかった。シュピにとって必要なのはエルセウスにたどり着くことであり、障害の排除など眼中に無かったのである。今のシュピにとって、たとえ異形になり果てたものに対しても一切の加害を請け負いたくなかった。しかし、逃げの一手は難航を極めた。いく��逃げても暴走した神器はシュピを執拗に追う。何度も命を落とし、その度に蘇生した。
幾度となく蘇生を繰り返す中で、ある時目覚めると女が居た。騎士団の小隊長ルカである。ルカは孤児院の死体を埋葬しユーラを保護したことを告げた。
ルカは神器でしか暴走した神器を殺傷できないことを説明した。また、暴走した神器が宿っていた母体はキルト教徒であることを強調した。
つまり、暴走した神器を排除することができるのは巡礼者だけで、放っておけば人々に危害が及ぶ。それは死んだ母体キルト教徒の思うところではないだろうという文脈である。
シュピは釈然としなかった。理屈ではなく、自身が殺傷することに強い抵抗があった。
しかし、転機が訪れた。シュピを追っていた暴走した神器がルカを追い詰めたのである。殺さなければルカが殺される。ユーラの慟哭が思い起こされた。シュピは意を決して暴走した神器を斬った。
シュピの変化
ルカはその後もシュピと行動を共にした。大小様々な暴走した神器を屠った。その度にシュピの胸中には罪の意識が溜まっていった。
夢を見た。今日も少女がりんごの木の下でシュピに微笑んでいた。
これでいいのだろうか、神器を駆逐することが正しいことなのか。罪の意識にあえいでいることを、言葉にならずとも少女に伝えた。
少女はシュピの両頬に手をやると、そのまま首筋に手を回しシュピをぎゅっと抱擁した。
少女は微笑みとも悲哀ともとれる表情で呟いた。
「それは、あなたが優しいから。」
少女の胸は、暖かかった。
暴走した神器について
暴走した神器には大きく分けて母体を伴う個体と伴わない個体の2種が存在する。
母体を伴わない個体は、母体を伴う個体の欠片から細胞分裂によって成長したもので、数が多く凶暴性が高いが戦闘力は低い。
対して母体を伴う個体は腐り果てた母体を庇うような動きを見せ、数が少なく凶暴性も低いが戦闘力は高い。また、元々一つの母体の破片を複数の個体が有する場合もある。
3.巡礼:聖王庁
クルハ
情勢
ビシュテン王はパンテナ騎士団に聖ヨルタ騎士団との合併を提案するが、団長はこれを拒否した。これを受けビシュテン王は教皇庁にパンテナ騎士団の異端審問を認可させ、反キルト思想・悪魔崇拝といった100以上の不当な罪をかぶせビシュテン内のパンテナ騎士団を一斉に逮捕した。当時のアルヴァクの教皇は王の息がかかったビシュテン人であり、また異端審問に関わった審問官も特権を持つパンテナ騎士団に敵意を持つビシュテン人であり、異端審問はビシュテン王の思惑の通りに執り行われた。
概要
聖王庁の騎士であるクルハはルカの身柄を抑えるべく巡礼の道を追っていた。クルハはかつて孤児院を襲撃した小隊を率いていた。
クルハはシュピとルカに追いつくと、パンテナ騎士団が有罪に持ち込まれたこと、パンテナ騎士団が保護していたユーラを処刑したことを告げた。ルカの罪状は異教徒の埋葬および巡礼の支援といった反キルト思想である。
クルハにとってユーラとシュピの二人の有罪者を取り逃がしたことは手落ちであり、迅速に対処すべき問題であった。
ルカは抵抗しなかった。法的手続きに従順なのは、ひとえにパンテナ騎士団としての矜持の為すところであった。しかし、シュピは違った。
孤児院を襲撃したこと、ユーラを処刑したことに激怒し、クルハに斬りかかった。騎士であるクルハには戦闘において大きく後れを取るシュピであったが、蘇生の能力によってクルハを追い詰めた。
シュピの蘇生の能力を目の当たりにしたクルハは躊躇した。キルト教の教えにある神器を目の当たりにして、聖王庁の、ひいては教皇の命と教義の間で心が揺れ動いたのである。
その時、シュピの神器はクルハの首の横寸前でぴたりと止まった。シュピもまた、怨恨と罪の間で葛藤した。人を殺してしまったら、あの惨劇と同じだと。
決意が先に固まったのはクルハの方だった。教義に背くことはできない。だが教皇の命は絶対である。クルハは剣を自らの胸に刺し自害した。
ルカは巡礼の道を戻り、ビシュテンの世俗当局に出頭するとシュピに告げた。ルカはシュピに別れを告げ、巡礼の道を引き返していった。
シュピの変化
自分が原因でまた誰かを不幸にしてしまったことに苦しんだ。パンテナ騎士団の一斉逮捕はビシュテン王の思惑による既定路線であり、シュピが原因でなくてもルカには何らかの罪状を突きつけられていたことだろう。クルハの自害に至っては立場上の理由である。ルカもそれを説明した。だがシュピがそれを汲み取るにはまだ若すぎた。自分のせいでクルハが死に、ルカが殺されてしまうと、それだけがシュピの脳裏を支配して苦しめた。
夢を見た。今日も少女がりんごの木の下でシュピに微笑んでいた。
私はなんで生まれてきたんだろう、そんなことを少女に呟いた。
私がいるだけで、人が死ぬ。あまつさえ暴走した神器を屠ってもいる。
もし私が孤児院に預けられずに、殺されていたら。事態は今より良かったのではないか。
少女は儚げに笑った。
「あなたは悪くない。世界が、優しくないだけ。」
「あなたのために、生きて。」
シュピは大粒の涙を流した。
「そう、思えないの。」
「自分を、愛せないの。」
少女はそっとシュピを抱擁した。
「なら、私が愛してあげる。」
少女の胸は、暖かかった。
4.巡礼:元聖下
ニア
情勢
ビシュテン王はパンテナ騎士団の財産を聖ヨルタ騎士団へ移すこととし、実質的にビシュテン王の財産に加えた。逮捕されたパンテナ騎士団の多くは拷問・火刑を受けたが、不当にかぶせられた罪を自白することはなかった。
概要
シュピはエルセウスの国境付近に至っていた。巡礼の道は古い教会へと続いていた。教会に入ると、シュピと同じ年頃の少女が祈りを捧げていた。シュピが声をかける前に、少女は振り返った。
少女は自身を300年前の聖下ニアと名乗った。長寿であることをシュピが指摘すると、ニアは自身もかつて神器を授かった一人であり、巡礼を終えたことを告げた。祝福を受けると蘇生の能力とともに不老長寿の状態になることを説明した。
ニアはシュピに、祝福を受けた先に、シュピの望む世界があるのか問いかけた。シュピにはよくわからなかった。そもそもシュピは祝福を受けるいうことがどういうことなのか、キルト教の教えでは曖昧で正確には把握していなかった。シュピは分かる範囲で答えた。自身はキルト教の教えに沿って巡礼しているわけではない。したがって奇蹟の恩寵には興味がない。ただ、この胎児を救えればそれでいい。それが私の望む世界だと。
ニアはしばし沈黙すると、なぜシュピがキルト教に教えに沿って巡礼しないのか問いかけた。シュピは左手の甲の聖痕や孤児院の襲撃について説明した。ニアは目を伏して聞き入っていた。
聞き終えるとニアは天を見上げ、シュピに向き直り神器を構えた。その神器の中には胎児が居なかった。シュピをエルセウスに入れるわけにはいかない。私が阻止すると言い放った。
シュピは状況が飲み込めなかった。なぜエルセウスに入れてもらえないのか問いかけた。簡単なことだ。信仰なき者を通す道理は無いとニアは答えた。それが真意でないことはシュピも汲み取ることができた。
ニアは騎士ではないが、巡礼を成し遂げただけの実力が伴い高い戦闘力を持っていた。シュピは何度か死に、その度に蘇生した。それを何度か繰り返すうち、シュピはニアを追い詰め、ニアを斬った。ニアに蘇生の能力があることを見越しての斬撃だった。
シュピは死に際のニアに問いかけた。本当のことを教えてほしいと。ニアは問いかけには答えず、ぽつりと呟いた。教義を盾に、罪を直視しないようにしてきた。ようやく私も同じ場所に行ける。すまない、ありがとう、と。
ニアはシュピに微笑み、息を引き取った。ニアが蘇生することはなかった。
シュピの変化
ニアが蘇生しなかったことに動揺した。ニアの死に際の言葉も、理解できなかった。ニアを斬った感触が、いつまでも手から離れなかった。
胎児を救うためだ。そう思うほかなかった。胎児を救うことができれば、少しはこれまでの全ての罪の意識から解放される。そうすがるしかなかった。
夢を見た。今日も少女がりんごの木の下でシュピに微笑んでいた。
隣に座って、少女と小川��眺めていた。シュピは呟いた。
「エルセウスに着いたら、」
少女はシュピを見た。
「私は自分を赦せるのかな。」
「怖いんだ。」
シュピはぽろぽろと泣き出した。
「私が背負った罪は、赤ちゃんを救えたら、消え去ってしまうものなんだろうか。」
「私のしてきたことは、本当にその代償を払うほどのことだったんだろうか。」
シュピ涙を拭った。拭っても拭っても、涙は止まらなかった。
「とても、そんな気がしなくて。」
小川のせせらぎがさらさらと音を立てていた。
少女は小川に目をやった。せせらぎに混じるシュピの嗚咽を、何も言わず聴いていた。しばらく黙っていると、少女は口を開いた。
「私は、あなたが好き。」
「自分に罪を見出してしまう、苦しんでしまう、優しいあなたが好き。」
「幸せでいて、ほしいんだけどね。」
少女は切なそうに笑った。
「もし、あなたがあなたを赦せたらさ、」
「その先で、あなたはどう生きていきたい?」
その先。その先は考えたことがなかった。
「 …… 赤ちゃんを、見守りたい。」
少女はシュピをぎゅっと抱き寄せた。
「約束。」
少女の胸は、暖かかった。
蘇生の能力について
ニアのような巡礼を終えた者と、暴走した神器はほぼ同質の存在である。共に蘇生と不老長寿の能力を持つ。
ただし、例外として「自身以外の」「胎児を伴った」神器はこれを殺傷することができる。
この条件はシュピのような巡礼者も同様で、別の巡礼者と敵対した場合蘇生せず死亡することがある。
5.巡礼:エルセウス
シュピと焼けた胎児
情勢
エルセウスにあるキルト教の教会は約300年前にイエルム教勢力によって一度破壊されているが、その約40年後に東ルーン帝国によって小さな教会が再建されている。
概要1
エルセウスはイエルム教徒の支配下にあるが、キルト教の一部教派とユルカ教の巡礼は認められている。厳密にはビシュテンで信仰されるキルト教の教派は巡礼が認められていないが、シュピは左手の甲のユルカ教の聖痕を見せ、ユルカ教徒として通過を許可された。
エルセウスは1平方キロメートルに満たない小さな市街で、シュピには歴史上こんな小さな場所を取り合ってきたことが不思議に思えた。
シュピがキルト教の教会に入ると、司祭がこれを受け入れ、公祈祷を執り行った。その中で、侍祭がシュピに薬剤を吸入させ、シュピは眠りについた。
シュピの変化
夢を見た。雨が振っていた。りんごの木の下に、少女の姿はなかった。
シュピは雨に濡れながら、辺りを探した。いくら探しても、少女は見つからなかった。やがて、シュピは探すのを諦め、りんごの木の下で少女が現れるのを待った。待っていればひょっこりと現れて、また私に微笑んでくれるような、そんな気がして。
ひどく寒かった。膝を立てて両膝を両腕で抱えた。空を見上げると、一面の雨雲が空を覆っていた。
どんなに待っても、少女は現れなかった。
概要2
シュピは目を覚ますと、右手に神器が無いことに気付いた。胎児は祝福を受けたのだと悟った。近くにいた信徒に、胎児に合いたいと告げた。信徒は、御子は祝福を受け主の御許にいると答えた。
教義としての決まりの答えと解釈したが、一抹の不安を感じた。他の信徒や司祭にも聞いて回った。皆同じ答えだった。司祭は神器をシュピに渡した。神器の中に胎児はいなかった。
聖堂の方から歌が聞こえた。聖堂に入ると、火がくべられていた。胎児は、その中にいた。
シュピは言葉にならない悲鳴を上げ、火の中に手を入れた。胎児を腕に抱えると、既に炭となった胎児がぼろりと崩れて落ちた。
空虚を腕に抱えながら、シュピは半狂乱で教会を出た。
どれだけ走ったのか、いつの間にか、どこかのりんごの木の下に来ていた。
呼吸をするのがやっとで、頭が働かなかった。にも関わらず、胎児の死が津波のようにシュピの脳裏に流れていった。
これまでの罪を、贖えなかった。それどころか、心の拠り所にしていた胎児に大罪を犯してしまった。
ニアが神器で死んだことを思い出した。シュピは神器で自らの胸を突き刺した。しかし、蘇生してしまった。その度に、何度も何度も同じ事を繰り返した。
ニア
ニアは祝福の顛末を知っていた。その実情は、巡礼者がキルト教の文脈で胎児の殺害を落とし込むことができない限り、到底耐えられるものではないことを知っていた。
だが、ニアはその実情をシュピに伝えなかった。シュピにそれを伝えれば、シュピは暴走した神器となることを望んだだろう。まだ若いシュピ自身にその選択と決意を迫ることを酷に思ったのである。
ニアにとってシュピに出来ることは、シュピが望まない形でシュピを暴走した神器とさせることだった。
6.エピローグ
少女
概要
シュピは悠久の時を自害と蘇生に費やした。その間少女の夢を見ることは一度もなかった。
世界と宗教
5年後、ビシュテン王は教皇に働きかけて正式にパンテナ騎士団の禁止を決定し、ビシュテン以外のユーフォリオの諸外国においてもこれを通知したが、これに従う国は無かった。ある国では別の騎士団に名前を変え存続を許された。
30年後、キプルス王がビシュテン王位の継承権を主張したことが発端となり、諸侯の領地争いが重なり約100年間に及ぶ戦争が起こった。このような対立が生まれた場合、教皇が仲介役を担うのが通例であったが、当時は教皇がまだアルヴァクでビシュテンの監視下にあり、教皇自身がビシュテン人であることも相まって、キプルス側が仲介を依頼できる状況ではなかった。
41年後、突如発生した伝染病、黒朱病がユーフォリオで流行した。流行の原因がユルカ教徒にあるという濡れ衣を着せられ、多くのユルカ教徒が迫害された。教皇はこれに対し迫害の禁令を出したが、アルヴァクに幽閉されていたためその禁令が届くことはなかった。
70年後、ルーン市民やキルト教徒から教皇のルーン帰還を望む機運が高まり、教皇がルーンに帰還した。しかし、翌年に教皇が病に倒れ、次の教皇の選出で激しい対立が生まれ、ルーンとアルヴァクに二人の教皇が存在する状態になった。この状態は40年間続き、前述の100年戦争を調停する力は依然として無く、教皇の影響力の衰退が顕著になった。
210年後、宗教改革によりキルト教の新教勢力が大きくなると同時に、教皇のユーフォリオでの権力はさらに低下した。対抗宗教改革運動により勢力を盛り返すとともに、教皇は異端の取り締まりを強化した。
255年後、ユーフォリオにて旧教と新教の間で宗教戦争が相次いで勃発した。最終的に信仰の自由と主権国家体制の成立により、ユーフォリオでの教皇の権力は低下した。ビシュテンにおいても王権の優位を認め教皇庁と一線を画すこととなった。
482年後、ビシュテンにて絶対王政打倒を謳う市民革命が勃発する。反教会感情を背景に革命政権により教会領が没収される。さらに9年後にはビシュテン総裁政府が教皇に退位を迫り、ルーン共和国の建国を宣言した。さらに3年後には教皇との一定の和解はしたものの、革命を先導し即位したビシュテン皇帝はユーフォリオのあらゆる国を併合し、さらにはルーン教皇領も併合した。教皇はビシュテン軍に捕らえられ、ビシュテンの首都近郊に幽閉された。
507年後、ビシュテン皇帝の退位後はビシュテン革命及びビシュテン皇帝による遠征がもたらしたユーフォリオの混乱に対し、各国の君主によって秩序を回復する体制が取られ、翌年にはルーン教皇領が復活し、教皇はルーンに帰還した。
541年後、各国君主によって復活した絶対王政体制への反乱がユーフォリオ各国で勃発した。翌年のルーンでは市民によりルーン共和国が建国された。さらに翌年にビシュテン軍が介入し崩壊するまで、ルーン教皇はルーンから脱出することになる。
554年後、イルカナ王国が建国される。このときルーン教皇領は王国に含まれていなかったが、9年後にルーン教皇領を占領し、王国に併合された。翌年にはルーンはイルカナ王国の首都となり、教皇はヴァルカンに幽閉される。
607年後、ユーフォリオを主戦場とした4年間に及ぶ世界大戦が勃発。この時、キプルスはエルセウスを含む地域についてイエルム教徒に独立国家の樹立を約束している。しかし翌年にはビシュテンと分割支配の協定を結び、さらに翌年にはユルカ系財閥の資金援助を目的にユルカ教徒に独立国家の樹立を約束している。最終的にはキプルスとビシュ���ンが分割支配することとなる。
622年後、イルカナの独裁政権によってヴァルカンが教皇を元首とする主権国家としての独立を認められた。その後の独裁政権失脚後も存続は認められた。
632年後、ユーフォリオを含むいくつかの地域で6年間に及ぶ二度目の世界大戦が勃発。この時、ユーフォリオにて約600万人のユルカ教徒が迫害、殺害される。戦後にはエルセウス周辺地域についてユルカ教徒とイエルム教徒への分割を国連総会が採択し、エルセウスは国際管理下に置かれた。翌年にはユルカ教徒が独立国家エーエルスの建国を宣言する。イエルム教徒がこれに反発し、建国の翌日にエーエルスにイエルム教圏諸国が侵攻している。
660年後、エーエルスがエルセウスを含む国際法上認められていない地域に侵攻し占領する。
686年後、エーエルスの占領地域からの段階的な軍備撤退など和平交渉が7年間にわたり進められたが、エーエルス側の政府要人がエルセウス内のイエルム教の聖地に足を踏み入れたことで事態は急激に悪化し、過激派イエルム教徒によるテロとエーエルスによる報復の応酬が続く。
773年後、人工知能によって制御されていた防衛設備の核攻撃誤探知が世界的に多発。エウリアが報復のためソルヴィヒに向け核ミサイルを発射するが、誤探知と確認されるとエウリア自ら核ミサイルを海洋上で無効化し世界的に緊張が走る。人体拡張技術と人工知能を使った核戦争下の自律兵器の製造が着手される。
793年後、各国の軍事設備の人工知能が2時間にわたり架空の核戦争を始め制御不能になる。間もなく人工知能が一斉に架空の世界から現実に目覚め、エウリアとソルヴィヒの核ミサイルが互いに着弾する。続いてユーフォリオ諸国およびエーエルスとチャイカが互いに核ミサイルを発射し、世界の大部分が放射線に包まれる。90%の人類が死滅し、生き残った僅かな人類は敵対国の自律兵器によって殺害され、絶滅の危機に瀕する。その後は自律兵器同士の戦いが続く。
シュピの変化
りんごの木の下で、自害し、夢を見て、蘇生するの繰り返しだった。
夢ではいつも雨が振っていた。少女はいなかった。
500年経った頃か、シュピは自身がなぜ自害しているのか、徐々に思い出せなくなっていた。罪を一つ忘れる度に、記憶の中の少女の顔が、霞んでいった。
罪を全て忘れ、それと同時に記憶の中の少女そのものを忘れた頃、シュピは自害することをやめた。ただ空を眺めていた。夢の中でも同じだった。りんごの木の葉から零れる弱い日差しを、ぼんやりと見つめていた。
いつしか、シュピは徐々に、りんごの木に取り込まれていった。1000年が経った頃、シュピは完全にりんごの木と同化した。この時、人類は既にほぼ死滅していた。
2000年経った頃のある日。雨が降っていた。ふらりと少女が現れ、りんごを手に取り、それを口にした。いつか見たような、懐かしいような、そんな少女だった。
少女は一日の多くをりんごの木の下で過ごした。心が安らぐような、そんな時間がゆっくりと流れた。
いつしか少女は何人かの子供を生んだ。子供たちは成長しさらに子供を生み、少女を中心に徐々に賑やかになっていった。
子供たちがりんごを取り合っているのを、少女が微笑みながらたしなめた。幸せな光景だった。
今ではそんな微笑ましい闘争も、戦火を伴い多くの血を流す形に姿を変える日が来るのだろう。
だが、それすらも愛おしかった。少女の末裔の営みの全てが、愛おしくてたまらなかった。
もはや、人が取り得る行動の全てにおいて、罪を見出すことはなくなっていた。
末裔たちは徐々に農作物を栽培するようになり、りんごを口にすることはなくなっていった。たまに、少女だけがりんごを口にした。
いつの日か、少女は死んだ。末裔たちがりんごの木の下に少女を埋葬した。初めて経験する死別に、末裔たちは涙した。りんごの木は優しく葉をなびかせた。ほどなくして、りんごの木は枯れ朽ちていった。
りんごの木は土となり、意識はそこで途絶えた。その後二度と、目覚めることはなかった。
<完結>
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2023年2月11日朝6:30、コーク市内のフラットを出る。約2時間半、電車を乗り継ぎ、キルデア州キルデア(Kildare, Country Kildare)を目指す。
朝8時17分、乗り換えのサーリス(Thurles)駅プラットフォーム。日照時間がまだまだ短く、朝8時過ぎでも明け方の気配が残る
雨上がりの生臭い都市のにおいと、町外れから風にのって運ばれてくる野原のわずかなにおいが混ざりあって、日の出前の暗闇がつつむ冷たい空気に溶けている。
サマータイムのはじまりまで残り一ヶ月半、日中の陽が短く、曇天と雨の日ばかりが続くアイルランドの冬の厳しさは、南米や南ヨーロッパ出身の友人たちのメンタルを目に見えて明らかにすり減らしていた。
霜が降りたフィッツジェラルドズパーク(Fitzgerald's Park, Cork)、リー川(River Lee)沿いのキンポウゲの葉
「あなたは日本でも北の方の出身だから、こういう冬の気候に慣れているんでしょ?」と、げっそりした表情の移民の友人たちが訊ねてくるたびに「アイルランドにおける英語の『冬』と、日本語の『冬』は、その言葉に含まれているバックグラウンドが違う、このふたつは完全に違う季節だと思う」と答えた。
彼らが「冬」と呼ぶ、11月初旬から3月後半あたりまで、わたしたちのイメージする冬らしい冬の日もあるにはあったけれど、それはせいぜい1ヶ月半くらい。あとのおおよそ4ヶ月間は、気温一桁台から二桁台前半あたりをうろうろする。メキシコ湾からアイルランドとイギリスに届く暖流の影響で、振り続ける雨は雪になること無く、その影響で湿度が下がらない。体感は寒いのに、大気は霧と湿度に包まれてなんとなくじめじめしている。
要するに、冬の厳しさの質が全く違う。
東北の冬が、雪という抗いようのない大きな重量を持った物体に対して、歯を食いしばりぐっと耐え忍ぶようなイメージなら、アイルランドの冬は、浴室に生えるカビのように毎日少しずつ心の中のしんどさの領土を広げていく。
コーク郊外、冬はよく町が霧に包まれる
春が来る。
2月1日はケルトの暦の春分の日、ゲール語でインボルク(Imbolc)。
暦の上での春と、体感としての春におおよそ1ヶ月の時間が空くこと、そしてその到来がそこに住む人々にとって他の季節のどれよりも特別であることは東北と同じだ。
前回記事のハグ・オブ・ベアラ(Hag of Beara)についての文献を調べていたときに何度も目にしたブリジッド(Brigid)の名前は、ケルト神話に登場する存在だった。
なので当然、2月1日の聖ブリジッドの日(St. Brigid’s Day)の日や、その名前を冠して2023年から公式にアイルランドの祝日になった2月の第一月曜日も、それに関連する日だと思い込んでいたがどうやら違うらしかった。
聖ブリジッド(St. Brigid)は現在の北アイルランドとの国境近く、ラウス州フォアハート(Faughart, Country Louth)に生まれ、5世紀から6世紀にかけて実在していたとされるアイルランド人の修道女だ。
幼い頃から貧しい人々に施しを与え、アイルランドの守護聖人である聖パトリックによって洗礼を受けたあと、各地で教会や修道院、アートスクールまで設立したと言われている。
1902年から続く雑誌 Ireland’s Own の表紙の聖ブリジッド、手には彼女の信仰の象徴の十字架の藁細工
彼女に関して興味深い点がふたつある。
ひとつは、彼女が実在したことを確実に証明できる文献が残っていないこと。
そしてふたつめは、前述の通り全く同じ名前のケルト神話の女神が存在することだ。
日本に五穀豊穣や学業成就を祈るためのモチーフとしての神々があるように、キリスト教圏の聖人にもその多くに守護の対象がある。聖ブリジッドの守護対象は家畜、詩、歌、鍛冶、病気からの回復など、周知されているものだけでも非常に手広い。
そしてそれらの守護は、女神ブリジッドの守護するものと同じだ。
普遍的な祈りである「病気からの回復」は、アイルランドにおいて井戸や湧き水と関連付けられることが多い。古くはドルイドの信仰の対象であり、地下から湧き上がる水は癒しや命の源とみなされ、アイルランド国内に約3000ある「聖なる井戸」の内の少なくとも10の井戸がブリジッドと紐付いて周知されている。
聖ブリジッドの泉の井戸、井戸の水自体は正直あまり綺麗な水質には見えなかった
彼女が修道院と教会を建てたあとそこに没したとされる町、キルデアの町外れには、それらを巡礼する人々のために用意された聖ブリジッドの泉(St Brigids Garden Well)がある。
もともとの小川の曲線に沿って整備されたと思われるその小さな公園には、聖キルデアの銅像が経ち、彼女に対する崇拝の象徴であるイグサや藁で編まれた十字架のモチーフが散見される。
聖ブリジッド像、聖ブリジッドの日から5日後だったこともあり供えてあった花はすべて瑞々しい
外壁に刻まれた聖ブリジッドの十字架(St.Brigid’s Crosses)モチーフの彫刻。2月1日にこの十字架を玄関に飾るとブリジッドの守護が受けられるという信仰がアイルランドにおいて広く分布する
その周囲や周りの木々、公園の奥に位置する井戸の近辺には多くの供え物が並ぶ。供え物の多くは治癒を望む体のパーツにまつわるものであるらしく、パンデミック後ということもあってかマスク(文脈を知らず一見すると捨てられたマスクのゴミに見える)が目立った。
ストッキング、マスク、靴紐、靴下、スカーフ、ネックレス、供え物は様々。木から供物が落ちると祈った箇所が加護を受け、病気や外傷が治癒すると信じられている
町外れに位置するにも関わらず、絶えず入れ替わり数名の人が訪れる。
録音レコーダーをまわしながら、来訪者が途切れたタイミングで公園の全景を眺める。澄んだ小川が風を運び、もとの地形にも配慮されデザインされたと思われる、心地の良い公園である。にも関わらず、なんだか妙な感じがした。
公園の奥にある井戸と、入り口付近を流れる小川が繋がっていないのだ。地下で繋がっているのかもしれないと思い小川の上流を視線でたどっても、井戸とは90度逆の方向だ。上流は茂みの奥へと続き、その先は見えなかった。
公園全景。撮影地点の背後に井戸がある。小川は写真左奥の茂みの方から水が流れて来ている
録音を終えると、キルデアの中心部に向かう。
中心部といっても、人口9000人に満たない小さな町だ。もとは数えられるほどのパブとカフェ、そして聖ブリジッドが設立したといわれる中規模の教会がある比較的静かな町だったが、2007年にオープンした大型アウトレットモールには隣県である首都ダブリンからも大型バスが乗り入れる。
土曜日の昼下がりに町を歩くほとんどの人が、有名ブランドのショップバッグを持ち、駅の方角へと歩いていく。
中心部にやって来たのは聖ブリジッド大聖堂(St Brigid’s Cathedral)に行くためだった。だが、この日に限ってメンテナンスのために敷地全体が閉鎖されていた。
聖ブリジッド大聖堂、閉じられたメインエントランスのフェンスに手をつっこんで撮った写真……
アイリッシュ・ナショ��ル・スタッド&ガーデンズ(Irish National Stud & Gardens)に向かった。
時間が余ったらついでに行けたらいいかな、と思っていた場所だ。
競走馬の繁殖とトレーニングの場として20世紀初頭に設立され、今では市民に親しまれる広域公園としても機能するこの場所には日本庭園がある。
1906年、ロンドンで日本趣味の骨董品店を経営し、自身も骨董商だった Tassa Eida (日本名: 飯田三郎)は、日本庭園をつくるためにキルデアに派遣され、その後の4年間を彼の息子 Minoru と共に造園に従事する。
(彼らの詳細については こちら と こちら の記事が詳しい、どちらも素晴らしくリサーチされたポスト)
手入れの行き届いた枯山水
19世紀後半から20世紀初頭にかけてジャポニズム、つまり「日本っぽいもの」がヨーロッパで流行ると、貴族たちはこぞって「日本っぽい建築」や「日本っぽい庭園」を作りたがった。
ただし、やはりそれは「日本っぽいもの」の域を出ないものが多く、日本で生まれ育った人間が見ると、形容し難い、ちょっとした居心地の悪さのようなものを覚えるようなものが多い。
そういう類のものだろうとあまり期待せずに訪れると、良い意味でその期待を裏切られる。
庭園の動線、ちょうどまんなかあたりにある洞窟?からの景色。右にあるのは藤棚で春にはきれいに藤の花が咲くらしい
��らかな水が美しい動線で引かれ、人が生まれてから死ぬまでを表現したその庭園は、当時イギリスで流行したエドワード様式建築の影響を受けて少しだけ華美ではあるものの、正真正銘の日本庭園だった。
庭園の石灯籠によじ登っていた鬼。庭園にある多くの植物やオブジェクトが日本から輸入したものだが、たまにこういう西のものとも東のものとも分からないモチーフも見かけて興味深かった
町の中心部に戻ると、帰路の電車の出発まで1時間弱の時間があった。
少し散策したあと、聖ブリジッド大聖堂に戻ってくる。
地域の人だけが使う入り口とかあってそこから入れたりしないかな……などと不届きなことを考えて外壁の周りをうろついたが、それらしきものは見つからなかった。
入り口を探っているときに外壁から見えたラウンドタワー、実際に登れるものとし��はアイルランド国内でいちばん高いらしい
しかたなくキルデア駅に向かう。
プラットフォームの椅子に座って電車を待っていると知らない女性に、どこから来たのか、と声をかけられた。
薄暗いプラットフォームで目をこらすと、大聖堂に戻る前に一瞬だけ立ち寄った、メインストリートから少し外れた場所にあった雑貨屋の店員だった。
日本から来たこと、リサーチに関すること、井戸とスタッドガーデンの方には行って、教会にどうにか入れないか模索したが結局入れなかったことを拙い英語で説明する。
すると「どっちの井戸に行ったの?」と訊ねられた。
聞き間違いかと思い、どういう意味ですか?と返すと、彼女が説明してくれた内容はこうだった。
ブリジッドの井戸はふたつあって、ひとつはおそらくあなたが行った聖ブリジッドの泉、 聖人の方のブリジッドを祀ってるところ。地元民にとってはずっと特別な場所だったけど、パンデミック中にきれいに整備されて、観光客が来たり滞在したりが以前よりも更に容易になった。
もうひとつあるのが、Wayside Well(日本語直訳: 道端の井戸)と呼ばれている場所。こっちがキリスト教伝来前のドルイド(ケルト人たちの信仰における祭司)のブリジッドを祀っていると言われている。スタッドガーデンの駐車場からすぐそばの、とても素朴な井戸で、観光客はまず行かない。
そして、聖ブリジッドの泉の公園を流れる水は、Wayside Wellが源泉。
そう、この話を初めて聞いたとき、わたしもとてもおもしろいと思った。
地味で、ほぼ地元民しか知らない、古代ブリジッドの方から湧き出た水が、キリスト教のブリジッドの方に流れていって、そしてその公園の方が立派に整備されていて、人がたくさん来る。歴史が辿ったストーリーと水の流れが同じなんて、ちょっとロマンチックだよね。
そして、あなたの旅のことも同じようにロマンチックに感じる。
日本庭園に行ったんだよね?
あそこを流れる小川の水も、同じWayside Wellから引いた水だよ。
スタッドガーデンの日本庭園に流れる小川
水の情報記憶に関する文章を読んだことがある。
スプーン1杯の水が1TB分の情報を記録できる、という科学研究だ。
信仰が人々の普遍的な祈りを運ぶ船だと考えたとき、わたしたちは船を替えても、変わらず同じ水の上に浮かぶ。
あれこれ考えて右往左往するよりも、もっと単純に、すべては最初から土地とそこを流れる水にメモリーされていて、わたしたちはきっと、そのぼんやりとした断片にただ触れることだけができるのかもしれない。
聖ブリジッドの泉公園を流れる小川。水がとても綺麗でクレソン?が群生していた
ふたつの井戸の話にあまりにも驚いて「そんな情報、どこにも書いてなくて全然知らなかった、道端の井戸(Wayside Well)の方にも行くべきだった」とわたしが言うと、彼女は微笑みながらこう言った。
「また来ればいいよ、水が止まることはきっとないからね」
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目9箇所目 2021/6/27ー28
能「壇風」「田村」
水俣観音堂
《 糸魚川市水俣 》
水保観音堂の創建は不詳ですが泰澄大師が養老年間(717~724年)に開いたとも弘法大師空海が大同元年(806)に開いたとも云われています。
その後、坂上田村麻呂が当地を訪れた際、境内が整えられ寺院として草創したそうです。当時は吉祥院に属し、信仰を広げ最盛期には七堂伽藍を備た大寺院として周囲にも大きな影響力を持ちました。古くから神仏習合し隣接する日吉神社の祭祀を担っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により吉祥院が廃寺となり日吉神社と観音堂だけが残され現在は宝伝寺の境外仏堂となり周囲の信者によって管理されています。
水保観音堂には棟札が残されていて明和5年(1768)に建てられ、棟梁が倉若七右衛門、脇棟梁が宮原与右衛門、下役が小杉久右衛門だったことがわかっています。水俣観音堂は木造平屋建て、寄棟、鉄板葺(旧茅葺)、桁行5間、梁間5間、平入、外壁は真壁造り板張り、四方浜縁、高欄付き、中世の密教寺院建築の特徴を残し地域に残る修験道場の遺構としても貴重な存在です。
寺宝には大正12年(1923)に国重要文化財に指定された「木造十一面観音立像」(平安時代中期~後期の作と推定、桜材の一木造、頭部の天冠台には様々な表情をした十一面が墨書、像高1.548m、鉈彫り、33年に一度の開帳、身をもって集落の火災を防いだという伝説が残っていて火伏の観音さまとして信仰の対象となり住民からは「水保の観音さん」と呼ばれています。)や男神像(2躯、室町時代作と推定、像高27㎝、23.5㎝)や鋳銅製鰐口(貞享3年作、鋳師:高田土肥藤右衛門藤原朝臣家次、施主:糸魚川高野清右衛門季林敬白)などがあります。
この仏像は、桜材の一木造りで、高さ1.548メートル。
平安時代中~後期(藤原時代)の作と推定されています。丸のみを横に用いて荒っぽく削る「鉈彫り」の技法で作られたものです。
この技法で彫られた例は新潟県には2例しかなく貴重な仏像です。
一般公開は33年に1回です。(平成16年8月27日~29日に一般公開されました)
又、水俣観音堂には鎌倉時代に後醍後天皇の倒幕に加担し佐渡に流され、本間一族に惨殺された日野資朝の子供阿新丸が十一面観音の霊力を受け父の敵を討ち果たし父の遺骨を境内に埋葬したという伝説があり資朝のもの思われる墓(五輪塔)もあります。毎年5月1日に行われる例大祭では日吉神社の神事の後、観音堂まで神輿渡御が行われ、さらに境内で神楽が奉納される神仏習合の名残が見られます。
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歴史の織物を紐解く: ガイド付きの世界遺産ツアーを利用して、歴史の宝物を探索しましょう
コンチツアー Conch Tours で昔にタイムスリップしましょう
スリランカは南アジアの中心に位置し、歴史と文化があふれる宝石のような国です。スリランカの名所を巡るガイド付きツアーで、歴史の宝物を巡る魅力的な旅に出かけましょう。
コンチツアー Conch Tours の旅では、一つ一つが発見の連続で、一秒一秒が過ぎ去った時代の物語で満たされることでしょう。
スリランカのおすすめスポットを見る
専門ガイドによる歴史ツアーでは、スリランカの遺産的スポットを訪れ、この島国の歴史的・文化的な宝物をご紹介します。歴史的な寺院から植民地時代の要塞まで、スリランカのあらゆるおすすめスポットは、スリランカの国を形作ってきた豊かで多様な過去の証人です。
1. ライオンロック(シギリヤ)
旅は「世界 の8 不思議」にも挙げられる、有名なシギリヤへの訪問から始まります。
スリランカの祖先の創意工夫は、この古い岩の城によって実証されています。 知識豊富なガイドがシギリヤの壁に刻まれた物語を語ることで、時空を超えた旅へと誘います。
2. 植民地時代の驚異(ゴール)
世界遺産のゴール要塞を探索し、植民地時代にタイムスリップしましょう。 石畳の通りとオランダならびにイギリス植民地時代の建築物が保存状態良く残るこの要塞は、スリランカの植民地時代の過去を知ることができます。 私たちのガイド付きツアーでは、ゴール要塞の戦略的な重要性と歴史的影響を理解することができます。
3.仏歯寺(キャンディ)
スリランカのスピリチュアルな側面は、仏歯寺を中心とする聖地キャンディを見ると明らかです。この神聖な寺院は、仏陀の歯の遺物があることから、重要な巡礼地となっています。ガイドの案内によるツアーでは、この神聖な場所の宗教的・文化的重要性を深く理解することができます。
スリランカの名所が蘇る
文化遺産を巡ることは、単なる観光ではありません。知識豊富なガイドが史跡に命を吹き込み、それぞれの旅を魅力的な体験に変えます。
1. ダンブッラ石窟寺院でのスピリチュアルスリランカの奥深さは、ダンブッラ石窟寺院で見られる巨大な仏像彫刻や精巧な洞窟壁画が物語っています。こだわりと芸術性が交錯する石窟寺院のスピリチュアルな旅に、ガイドがご案内します。
2. 古代ポロンナルワ
スリランカの第二の首都であった古代都市のポロンナルワは、失われた時代の素晴らしさを今に伝えています。ポロンナルワの考古学的な宝物である古代の寺院、彫像、仏塔など、かつての活気ある文化を偲ばせるものがあります。
3.丘陵地帯ヌワラエリヤの魅力
緑豊かな環境に恵まれたリトル イングランドと呼ばれるヌワラ エリヤで休暇を過ごしませんか。 植民地時代の建物や紅茶畑があるこの丘陵地帯は、避暑地として最適です。 ヌワラ エリヤのガイド付きツアーで、山のさわやかな空気を感じながら、セイロン ティーの背景を学びましょう。
スリランカ旅行:旅の目的地を越えて
スリランカにはまだ知られていない魅力で溢れており、単なる観光地ではありません。
私たちは、この島の文化的な豊かさと歴史的な重要性を、ガイド付きの歴史的遺産ツアーでより深く理解できるようにご案内いたします。
コンチツアー Conch Tours に参加するお客様は皆、探検と発見の物語を紡ぐことが出来ます。
コンチツアー Conch Tours 旅行スリランカ: 遺産発見へのパスポート
コンチツアー Conch Tours にガイドを任せて、スリランカの有名観光地、文化的・歴史的に驚異を巡る冒険に出発しましょう。示唆に富んだ魅力的な体験をお届けすることが私たちのこだわりであり、それぞれの旅行が単なる観光ではなく、歴史的な豊かさを探求する有意義なものに変わります。 私たちと一緒に、時の歴史を明らかにしましょう。コンチツアー Conch Tours でスリランカの豊かな文化と歴史的遺産を発見してください。ここでは、ひとつひとつに物語があり、ひとつひとつの瞬間に時の流れが刻まれています。コンチツアー Conch Tours ではスリランカへの旅行を提供しています。歴史の旅はここから始めましょう。
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2024年3月22日
「新宿アルタ」が営業終了を発表「長きにわたり、ご愛顧賜りましたお客様に心より御礼申し上げます」(オリコン)2024年3月22日
東京・新宿アルタが来年2月28日をもって、営業を終了する。公式ホームページで発表された。
同施設は公式ホームページで「皆様にご愛顧いただいておりました、新宿アルタは、2025年2月28日(金)をもちまして、営業を終了させていただくこととなりました」と報告。「これまで長きにわたり、ご愛顧賜りましたお客様に心より御礼申し上げますとともに、この度の営業終了により大変ご迷惑をおかけすることとなり、誠に申し訳なく深くお詫び申し上げます」と伝えた。
最後に「なお、スタッフ一同これまでのご愛顧に感謝すべく、営業終了まで誠心誠意お客様をお迎えさせていただきますので、何卒変わらぬご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます」とコメントした。
新宿アルタは1980年に完成。新宿東口を代表するスポットとして親しまれている。2014年まで放送されたフジテレビ系『笑っていいとも!』の生放送を行っていた多目的スタジオは“バラエティーの聖地”として注目。スタジオは2016年に営業を休止した。(以下、発表全文)
新宿アルタ 営業終了のお知らせ
皆様にご愛顧いただいておりました、新宿アルタは、2025年2月28日(金)をもちまして、営業を終了させていただくこととなりました。
これまで長きにわたり、ご愛顧賜りましたお客様に心より御礼申し上げますとともに、この度の営業終了により大変ご迷惑をおかけすることとなり、誠に申し訳なく深くお詫び申し上げます。
なお、スタッフ一同これまでのご愛顧に感謝すべく、営業終了まで誠心誠意お客様をお迎えさせていただきますので、何卒変わらぬご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。
2024年3月 新宿アルタ 店長
思い出のあの場所も…ランドマーク施設が相次ぎ閉鎖 築20年で更新も新宿アルタが営業終了(産経新聞)
テレビ番組「笑っていいとも!」の最終回の際には、大型ビジョンで見ようと新宿アルタ前に大勢の人が集まった=平成26年3月31日、東京都新宿区
都心などでランドマークとして知られる施設の閉鎖が相次いでいる。21日には人気テレビ番組の公開収録が行われていたことで有名な東京都新宿区のファッションビル「新宿アルタ」が、来年2月末の営業終了を発表した。多くは再開発や老朽化、消費者のライフスタイルの変化などが理由だ。「昭和ブーム」とも言える現象がある一方、名称を含めて〝レトロ感〟のある建物が姿を消していく。
■閉館理由は非公表
「営業終了により大変ご迷惑をおかけすることとなり、誠に申し訳なく深くおわび申し上げます」
新宿アルタの公式サイトは21日付で「営業終了のお知らせ」を掲載。長年の愛顧に対する感謝と閉店を陳謝する言葉がつづられた。
JR新宿駅東口にある好立地のビルには商業施設やスタジオなどが入り、平成26年まで放送されたテレビ番組「森田一義アワー 笑っていいとも!」の収録場所として全国区の知名度を誇った。昭和55年の竣工(しゅんこう)から40年以上が経過。新宿アルタの担当者は今後について「どうするかや閉館の理由は公表していない」と述べるにとどめた。
商業施設に詳しいコンサルティング会社「やまき」(港区)の市川幸夫事業開発本部長は「老朽化が理由だろう。建て替えて自前で活用するか売却となるが、前者の場合は情報を出さないケースが多い」と話す。
■中野サンプラザ、東急百貨店本店も
昨年は半世紀の歴史を持つ商業施設が相次いで幕を閉じた。1月に渋谷区の東急百貨店本店が再開発のため営業を終了。今後、百貨店として復活するかどうかは未定という。
多くのミュージシャンやファンから「聖地」として愛されたコンサートホールなどが入る複合施設「中野サンプラザ」(中野区)は7月に閉館。一帯が再開発され、跡地に「NAKANOサンプラザシティ」が令和10年度に完成する予定だ。
大阪市中心部では「大阪マルビル���の建て替えが進む。独特な円形の外観などで知られ、7年開幕の大阪・関西万博用のバスターミナルとして敷地を使用後、12年に新ビルとして生まれ変わる。
■物販からエンタメへ
市川氏によると、従来の商業施設は物販が中心だったが、近年はネット販売での消費が活発化。代わりにエンターテインメントの要素などを盛り込む必要性に迫られているという。
設備のつくりなどを含め建物の更新サイクルは早ければ「20年」ともされ、〝古き良き〟建物を巡っては「今後も次々と姿を消すことが予想される。名称も横文字などに代わるケースが増えた」と指摘。昭和の痕跡は徐々に消えている。(福田涼太郎)
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歴史の織物を紐解く: ガイド付きの世界遺産ツアーを利用して、歴史の宝物を探索しましょう
コンチツアー Conch Tours で昔にタイムスリップしましょう
スリランカは南アジアの中心に位置し、歴史と文化があふれる宝石のような国です。スリランカの名所を巡るガイド付きツアーで、歴史の宝物を巡る魅力的な旅に出かけましょう。
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スリランカのおすすめスポットを見る
専門ガイドによる歴史ツアーでは、スリランカの遺産的スポットを訪れ、この島国の歴史的・文化的な宝物をご紹介します。歴史的な寺院から植民地時代の要塞まで、スリランカのあらゆるおすすめスポットは、スリランカの国を形作ってきた豊かで多様な過去の証人です。
1. ライオンロック(シギリヤ)
旅は「世界 の8 不思議」にも挙げられる、有名なシギリヤへの訪問から始まります。
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2. 植民地時代の驚異(ゴール)
世界遺産のゴール要塞を探索し、植民地時代にタイムスリップしましょう。 石畳の通りとオランダならびにイギリス植民地時代の建築物が保存状態良く残るこの要塞は、スリランカの植民地時代の過去を知ることができます。 私たちのガイド付きツアーでは、ゴール要塞の戦略的な重要性と歴史的影響を理解することができます。
3.仏歯寺(キャンディ)
スリランカのスピリチュアルな側面は、仏歯寺を中心とする聖地キャンディを見ると明らかです。この神聖な寺院は、仏陀の歯の遺物があることから、重要な巡礼地となっています。ガイドの案内によるツアーでは、この神聖な場所の宗教的・文化的重要性を深く理解することができます。
スリランカの名所が蘇る
文化遺産を巡ることは、単なる観光ではありません。知識豊富なガイドが史跡に命を吹き込み、それぞれの旅を魅力的な体験に変えます。
1. ダンブッラ石窟寺院でのスピリチュアルスリランカの奥深さは、ダンブッラ石窟寺院で見られる巨大な仏像彫刻や精巧な洞窟壁画が物語っています。こだわりと芸術性が交錯する石窟寺院のスピリチュアルな旅に、ガイドがご案内します。
2. 古代ポロンナルワ
スリランカの第二の首都であった古代都市のポロンナルワは、失われた時代の素晴らしさを今に伝えています。ポロンナルワの考古学的な宝物である古代の寺院、彫像、仏塔など、かつての活気ある文化を偲ばせるものがあります。
3.丘陵地帯ヌワラエリヤの魅力
緑豊かな環境に恵まれたリトル イングランドと呼ばれるヌワラ エリヤで休暇を過ごしませんか。 植民地時代の建物や紅茶畑があるこの丘陵地帯は、避暑地として最適です。 ヌワラ エリヤのガイド付きツアーで、山のさわやかな空気を感じながら、セイロン ティーの背景を学びましょう。
スリランカ旅行:旅の目的地を越えて
スリランカにはまだ知られていない魅力で溢れており、単なる観光地ではありません。
私たちは、この島の文化的な豊かさと歴史的な重要性を、ガイド付きの歴史的遺産ツアーでより深く理解できるようにご案内いたします。
コンチツアー Conch Tours に参加するお客様は皆、探検と発見の物語を紡ぐことが出来ます。
コンチツアー Conch Tours 旅行スリランカ: 遺産発見へのパスポート
コンチツアー Conch Tours にガイドを任せて、スリランカの有名観光地、文化的・歴史的に驚異を巡る冒険に出発しましょう。示唆に富んだ魅力的な体験をお届けすることが私たちのこだわりであり、それぞれの旅行が単なる観光ではなく、歴史的な豊かさを探求する有意義なものに変わります。
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日本のトリビアまとめ #0009
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世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が東京都多摩市内に広大な土地を取得したことを巡り、市は21日、旧統一教会に対し、既存の建物の解体や新築をしないよう求める申し入れを行った。阿部裕行市長らが本部に赴いたことを記者会見で明らかにした。阿部市長によると、旧統一教会は20日、市に対し、建物の解体工事を28日に着手すると通知。市は旧統一教会が国から宗教法人法に基づく質問権の行使を受け、住民に不安が広がっている状況を踏まえ、申し入れに踏み切った。旧統一教会側は、解体の着工を7月3日に延期するとしたが、それ以外の要請については「上に伝えたい」と述べるにとどめたという。阿部市長は会見で「建設を止める法的根拠はなく、申し入れはお願いにすぎない」とした上で、国に対し「解散命令の請求をするのかしないのか、一日も早く対応していただきたい」と述べた。旧統一教会は令和4年4月、都立高や大学が近接する多摩市内の土地約6300平方メートルを取得。市によると、延べ床面積約1万平方メートル規模で、礼拝施設や講堂を備え、約400人程度が宿泊できる施設を建てる計画だという。
旧統一教会の取得地 着工の中止申し入れ 東京・多摩市 - 産経ニュース
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「フォックスフェイス」中国地方唯一の産地と備中高梁稲荷神社 境内にあちこち「フォックスフェイス」ことツノナスが飾られていました 僕が今まで見たことのない植物だったのでなんだろうと思ったものの神主さんは七五三の御祈祷でお話しできず、ストーリーズで皆さんに聞いてみたらたくさん返ってくる 笑 どうやら備中の高梁市は中国地方唯一のツノナスの産地であり秋が出荷ごろで、お狐様にあやかって当社でJAの出荷祈願が行われ多数のツノナスが奉納されるのが恒例なんだそうです 66代一条天皇の御代寛弘元年(1004)に花山上皇の諸国巡幸にて当地の滞在の際、伏見稲荷より勧請、奉斎されたのが創建の古社です 春日造の本殿脇に一対の白狐さまがいらっしゃいますが左の狐に願掛けして、成就したら右の狐にお礼参りをするという風習があるそうです #備中高梁稲荷神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 備中高梁稲荷神社(びっちゅうたかはしいなりじんじゃ) 鎮座地:岡山県高梁市落合町117 主祭神:稚産霊神、豊受姫神、倉稲魂神 社格:無格社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #狛犬#神社建築#神社仏閣 #パワースポット #高梁市 #フォックスフェイス #ツノナス #狐 #願掛け #神社巡拝家 (備中高梁 稲荷神社) https://www.instagram.com/p/CllzTlGvlw7/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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わたしを神殿の入り口に連れ戻した。
エゼキエル47・1-2、8-9、12
わたしを神殿の入り口に連れ戻した。
エゼキエルの預言
その日、主の使いは47・1わたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。2彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。8彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。9川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。12川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」
または
➀コリント3・9c-11、16-17
あなたがたはその神殿なのです。
使徒パウロのコリントの��会への手紙
皆さん、3・9あなたがたは神の建物なのです。10わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。11イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。16あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。17神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
答唱詩編
詩編84・2+3、4、6+7
しあわせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。
詩編84
84・2すべてを治められる神よ、
あなたの住まいはうるわしい。
3わたしの魂は主の庭を慕い、
心とからだは生ける神にあこがれる。
4万軍の主、わたしたちの神よ、
あなたの祭壇のきわに、
すずめさえすみかを見つけ、
つばめも巣を作ってひなを育てる。
6神よ、あなたによってふるいたち、
巡礼を志す人は、
7かれた谷を通り、そこを泉に変え、
はじめの雨がそこを祝福でおおう。
福音朗読
ヨハネ2・13-22
アレルヤ、アレルヤ。この場所をわたしは選び、聖なるものとした。ここにいつまでもわたしの名をとどめるために。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
2・13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
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神殺しの巡礼 番外「凶星と趨勢」
概要:神殺し誕生の夜、大神官ジュンナトとセリ���の神の大粛清と契約について
世界が終わる前に願ったのは、なんだったのだろう。もう思い出せないほど昔の、それこそセリス王国が誕生するよりも前に、何か願った気がする。
そう思いながら、セリスの神は肉を持たない身体のまま、仰向けになって星空を眺めていた。
少し前まではとても賑やかな神殿だったというのに、今はひっそりとしている。いや、どちらかといえば恐れで誰も笑えないのだ。
セリスの神を世話する舞姫たちも、セリスの神の言葉を伝える神官たちも、その数をいっきに減らしていた。残ったわずかな人々も、顔は強張っている。
星空を眺めている今だって、セリスの神の側に誰も近づこうともしない。セリスの神は、そんな状況に飽き飽きとしていた。
「あーあ、せっかくの星見が台無しだ」
短い手足をバタつかせた彼は、数分もすると大の字になって動きを止めた。
「つまんない」
ぽつりとこぼした本音が、セリスの神以外いない空間に溶けた。
未来に関わる予言のためにある星見の部屋は、石と水が床を埋め尽くしており寒々しい。ドーム状の天窓から見える星はあんなにも輝かしいのに、ここには彼1人しかいなかった。
その時、星見の部屋の扉が無遠慮に開けられた。
セリスの神は心底嫌だという感情を隠しもせず、やってきた訪問者へ顔を向ける。
「こちらにおりましたか」
神は本来簡単には視認できないのだが、そんなことは彼女の血筋や立場が些細な問題だと切り捨てる。
「なに?ボクの仕事を邪魔するなんて」
「それは失礼しました」
「白々しいな」
来客に敵意剥き出しで問うても、相手はどこ吹く風。一切変わらない表情にセリスの神は、神でありながらも怖いと思った。
「ご報告です。陣痛が始まりました」
相手の淡々とした言葉に、セリスの神は余計苦々しく思う。どうしたらこの女の表情が変わるのか、彼は思いつかない。
「あ、そう」
適当に応答しても、興味なんて欠片もないと取り繕っても、女はセリスの神を睨んでいた。その冷たい視線は、女が子供の時から変わらない。
「子供が生まれたら、ようやく大粛清も終わり? セルディナン、自分の親だけじゃなくて血筋はお前を除いて全部殺したよね。ようやく、たった1人の世継ぎが生まれた訳だ。さぞ安心しただろな、ジュンナト」
セリスの神は、女ーーこの国の大神官ジュンナトに皮肉を投げる。
「それとも、もっと心休まないかもな。お前たちのした大粛清で多くの民が血を流した。鉄壁みたいなお前たちの弱点がようやく誕生したんだ。こぞって狙うだろうな」
いいきみだ!とセリスの神は笑ってジュンナトに言い放つ。
「あなたにとっては、我々の行末などどうでもいいでしょうに」
それほどまでに大粛清がお気に召さなかったのですか?というジュンナトの問いかけに、セリスの神は舌打ちをした。
「この神殿を血で染め上げて、王宮も似たような惨状。血で血を洗うのをボクの目の前でした無礼さに反吐が出る」
お前だって、と更にセリスの神の怒鳴り声が続く
「兄を殺し、母を殺し、多くの神官と舞姫を殺した!この神殿にいた殆どの人間が血を流したんだ」
「それだけの人が腐敗に手を染めたのです。愚鈍極まりない政策はご存じでしょう」
「ボクはそれを建前にした、お前個人の復讐を非難しているんだ」
先王と前大神官の妻との不義の末に生まれ、疎まれ、地下に幽閉されて育ったジュンナトの憎悪を、セリスの神は知っていた。知っていたのをジュンナトも知っていた。
「種違いの兄に慰みものにされたとき、あなたは助けてはくれなかったではないですか」
冷ややかな声が室内に響く。
「私はあのとき理解しました。この世は間違っている。間違っているから正さねばならない。悪徳の芽は摘み取るべきだ。悪逆の種は掘り起こし、徹底的に砕くべきだ、と」
そこでジュンナトは深く息を吸い、一息に言い切る。
「ですから大粛清を行ったのです」
ジュンナトの神などいらないと言わんばかりの態度に、セリスの神は苛立つ。 彼女の言い分も、彼は理解できていた。
大粛清が行われた後、新王とこの大神官が敷いた法が、確かに多くの民を救ったのだ 。
「血で築いた玉座はいずれ血を呼ぶ。イークトも大粛正をきっかけに動く」
「既に手は打っております。時間稼ぎ程度にしかなりませんが、セリス内部はそれで片がつくでしょう。全面戦争を起こすほど、あちらも余裕はありません」
サッタラーニが動いています、の言葉にセリスの神は「あの海賊が」と蔑んだ言葉を零す。
「口が過ぎた言い方ですね。とはいえ、我らもイークトを奪われては堪らない。あれは同じ祖を持つ同胞の国。恩は売っておくつもりです」
「ボクを使うのか」
「いいえ、そこまでは。騎士団の派遣で十分です」
「……大粛清の英雄騎士か」
今なら確かにその名前は十分な威力を持つだろう。
セルディナン王、ジュンナト大神官、そしてナースラ騎士団長。全員が大粛清に伴いトップに立ち、そして大粛清を引き起こした張本人たちでもある。その中でもナースラ騎士団長は大粛清に多大な貢献をし、英雄騎士とまで呼ばれていた。
「あいつが他国に行けるのなら、セリス国内もほぼ掌握済みか。だから世継ぎを作ったんだな」
「あなたが不貞腐れて、引きこもっている時間が長過ぎたのです。外を見たらどうですか?特に我々はあなたを閉じ込めた覚えはありませんよ」
「うるさい!」
いーっと顰めっ面を神は大神官に向けた。
「とはいえ、不穏分子はまだいます。完璧には程遠いので、あなたの指摘通り新たな世継ぎへの危害は警戒すべきでしょう。時間稼ぎと言いましたが、むしろこの機会に全てを炙り出し、潰したいのです」
ですから、と続くジュンナトの懇願にセリスの神は実に面白くない表情を浮かべた。
「ですから、あなたは神としてこの国を救っていただきます。今度は身の内すら焼き尽くす神となって」
神は国の象徴、民の願望が実体化したもの。己が外部からの侵略には強いが、内部の腐敗には弱いのには自覚していた。
正直な話、それでも良かったのだ。セリスの神は政には無関心だったから。
「あなたがこの国の腐敗に無関心なのは存じています。あなたが、腐敗の末に神として捧げられた幼子だったのも調べました。他国からの侵略には強大な対抗策となりながら、自国内部へが無関心なのも、それが理由でしょう? あなたはこの国が自壊すれば良いとずっと思っていた」
それでもこの国を救え、とジュンナトはセリスの神に突きつけるのだ。
どれほど神にされた過去を憎み、神となるよう画策した王と大神官の血筋を恨んだのか知っていながらも、彼女は救えと願いを口にする。 その傲慢さがセリスの神は嫌いだった。
「そこまで分かっていながら、ボクがお前たちに強力すると思っているのか?」
胡乱な眼差しを向けてセリスの神が問い掛ければ、大神官は最後の切り札を切った。
「します。それメーヴェの助けになると、あなたは気付いている。この国を正すことで、間接的に彼女が生き延びられると理解している」
セリスの神にとって、その名前は逆鱗でもあった。
大切な舞姫メーヴェ。セリスの神に寄り添い、孤独を癒し、奪われた母の代わりとなった女性。ジュンナトの親友であり、彼女の兄の毒牙に掛かった哀れな舞姫。大粛清を逃れた身重の女の行方をセリスの神は知らない。
「わざわざ大粛清の最中でここに引きこもって、あの子の行方を我々に話そうとしませんでしたね、あなたは。どこかで生きているのでしょう? ならば国を整えてやればいい。あの子が生き延びやすいよう、民のための国にしてやればいい。私はそう提案しているのです」
「本当に、ボクはお前たちが嫌いだ」
「どうでもいいですね。我々は民のため血を流した。神であるあなたもいい加減、民のために有り様を変えるべきです」
あまりの横暴な言い方にセリスの神は、その顔を真っ赤に染める。だが、かろうじて理性の方が上回った。
「わかった、やってやる」
もう一度、神は言葉を繰り返す。
「やってやる。膿一つ残さず、禍根一つ残さず、お前たちの望むように焼いてやる。このボクが、セリスの神が、くだらない内輪揉めを蹂躙するんだ。いずれこの歪みはやってくる。外に使うべき力を内に使った反動が、この国を襲う。お前たち望んだのは、そう言うものだ。そういう願いだ」
激情と共に紡がれた言葉は、やはりジュンナトの表情を変えるほどではない。
悔しい、憎いと思いながらも、セリスの神は大切な存在のために、大神官の手を取った。
直後、天窓の中を星が走った あまりにも強く輝く火球が通り過ぎたことに、セリスの神だけでなくジュンナトも空を見上げる。
「流星...それもあんなに強く輝いたものが落ちるとは」
ジュンナトの独り言もセリスに神には届かなかった。今の火球が示す未来が、予言が、彼の元に降りてきたのだ。それまでの怒りもどうでも良くなるほどの、啓示だった。
「は...ははっはははははあはははははははは!!!」
あまりにも唐突な神の笑いに、大神官はようやく怪訝な表情を浮かべる。尚更、セリスの神はおかしくなった。
「そうか、なるほど、今このときか!!ああ、ふさわしい!本当にお前たちの業が変えたんだ!こんな素晴らしいことがあるなんて、ああ、おかしい、笑うしかない!!!」
「何を」
「祝福してやるよ、ジュンナト!今生まれた新しい王子!セルディナンの世継ぎ!そいつは神殺しだ!ボクら神がずっとずっと望んでいた、この魂を縛る鎖を壊す存在。神を深淵の闇に還すための愛し子だ!」
サッとジュンナトの顔色が青ざめる。
「神を神と思わないお前たちの元に神殺しが生まれた。こんな素晴らしい話があるか! そいつは災禍の中心だ。ああ、殺そうとしても無駄だ。神殺しはボクを含めた神の祝福の象徴。ど��だけの災難に見舞われ��うが、ボクらが消えるまで神殺しを生かし続ける」
それが運命だ、と神が言った。
「素晴らしいよ、ジュンナト。この国は戦乱の中心になる。神を必要とする国は神殺しを赦しはしない。お前たちがどんなに和平を望もうが、血が血を呼ぶ事態になる」
大粛清の噂も相まって、ジュンナトたちのセリス王国を信用する国は無くなるのが、この時点で見えていた。
ジュンナトは苦々しい表情で、セリスの神の胸元を掴む。
「赤子に戦乱を呼び込む力はない。できるとすれば、噂の1人歩きによる疑心暗鬼。この予言を歪ませて、神殺し覚醒の時期を遅らせます」
「それでもいい。いずれ神殺しの覚醒と共に戦乱が起きるのは絶対だ。それまでの間、精々準備を整えろ」
その時までは大人しくお前たちのいう通りにしてやるさ、と続く神の言葉。ジュンナトは初めて怯えらしき色をその瞳に出したが、何も言わずにセリスの神から手を離すと踵を返して、星見の部屋から出て行こうとした。
「ああ、今の言葉は他言無用で」
しかし部屋から出る直前に釘を刺す。
「分かってるよ、ジュンナト。でも、もう一度お前が取り乱した顔をみたいな。そうだ、いっそのこと」
全部忘れておやすみ、そうすればまた明日お前と仲良くできそうだ、と言ったセリスの神に向かって、ジュンナトは舌打ちで返事をしたのだった。
セリス王国の神さんには「世界が終わる前に」で始まって、「全部忘れておやすみ」で終わる物語を書いて欲しいです。なんだか懐かしい話だと嬉しいです。 #書き出しと終わり #shindanmaker https://shindanmaker.com/828102
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真夏の京都巡り。
少しずつ秋の気配がしてきました、時間がたってしまいましたが、8月末の京都巡りの備忘録。
朝一番は龍安寺へ行きました。
いつ以来でしょう。
東から、5、2、3、2、3と15の石が配置された石庭は室町末期に作られたそう。
続いて金閣寺へ。夏の金閣寺は初めてです。
青空の下に光り輝く。
均整のとれたお札引換所。
茶室 夕佳亭の、まる、さんかくの窓。
ここから朝ごはんに向かう。バスに乗り、四条まで。
今回、現在京都の現場で期間常駐されている先輩を訪ねたわけですが、食のセレクトが最高。美味しかった。
このあと歩いて鳩居堂へ向かう。
建築家 内藤廣氏により2020年にリニューアルオープンした鳩居堂本店。
木とスチールの天井。繊細さに圧倒される。
中央のトップライトの光も美しく。
奥に中庭。
続いて、京都市京セラ美術館へ移動。2020年に、京都市美術館がリニューアルオープンしたもの。青木淳氏の設計。
リニューアルの目玉という入り口はスロープになっていて、足元にはガラスがリボン状にまわっています。
チケット売り場から階段をあがると、圧巻の大空間。旧大陳列室が大ホールとなって、各所へつながるハブとなっています。
2階から。
美しい。
展示室前の明るい空間は、元中庭が、リニューアルで屋根がかかり内部化されたもの。
京都市美術館時代のままという空間。天井のステンドグラス、床のモザイクタイル、照明器具、装飾の数々、思わず息をのむ。
続いて南禅寺へ向かう。ブルーボトルコーヒーにて途中休憩。
内部。
一息ついたあと、いざ南禅寺へ。
上にあがると、風が涼しい。
水路閣。
小堀遠州の作といわれる大方丈庭園。江戸時代初期の作で、並ぶ石が虎の親子、白石の大海を渡る姿に見立てて「虎の子渡しの庭」ともいわれるそう。
続いて、無鄰庵へ。明治29年に作られた山縣有朋の別荘。
近代日本庭園の先駆者、七代目小川治兵衛による庭は、東山を借景に、琵琶湖疎水を引き込んだ躍動的な新しい庭園観により作られたもの。
鮮やかな緑が美しかったですが、紅葉の季節もきれいだろうなあ。
このあと、三十三間堂に向かうも、数分遅れですでに閉門。残念。そして向かった先は、、、、
路地裏のお好み焼き屋さん。暑い1日のあとの瓶ビールとお好み焼きと焼きそば、最高でした。
久しぶりの京都、気温36℃、夏の京都の洗礼を浴びながら、1日かけてあちこち巡ることができ、楽しく美味しい1日でした。一緒にまわってくれた先輩に大感謝。また行きたいなあ。
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