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令和6年度「平野郷 夏祭り」地車 九町合同曳行(2024年7月12日)
お早うございます♪(令和6年8月31日) 大阪府の今日の天気予報 ☔|☁ 最高予想気温 33℃(堺市 7時00分 25.8℃)
今日もマイペースで頑張りたいといます。 今日も宜しくお願いします。(^^)
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【平野郷】
環濠都市として栄え 融通念佛宗総本山大念佛寺がある平野郷。 ここは自転車が似合うなぁ♬ 実はこちらで御回在を待ってたのですが だ~れも来られませんでした😆 2024年5月29日
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#可愛いは正義#ダンス#生足#踊ってみた#セクシーダンス#短パン#宮脇咲良#沢口愛華#豊田ルナ#雪平莉左#西永彩奈#小坂菜緒#西野七瀬#生駒里奈#平手友梨奈#小池里奈#篠崎愛#くろがねさら#川道さら#本郷柚巴#伊織もえ#黒嵜菜々子#鈴原すず#志田音々#相楽伊織#天羽希純#天羽成美#冴木柚葉#佐野ひなこ#牧野真莉愛
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」 第四章「未成の第二極」1~3 細かいメモ
野口良平『幕末的思考』みすず書房 第2部「内戦」第4章「未成の第二極」1~3
きのう大まかに書いたことの、さらに書き留めておきたい細かいことどもをメモします。
【目次】
■中江兆民とルソー
■西郷に希望を託した若者たち
■会津藩士たち
■増田栄太郎と福沢諭吉
■中江兆民とルソー
中江兆民は、大久保に直談判して(司馬遼太郎『���ぶが如く』で、中江青年が大久保の馬車を追いかけて、乗せてもらいながら売り込みをするシーン、印象的ですね。なんか、長い小説の中に、二回くらい、この同じシーンが出てきたような)岩倉使節団に随行する留学生としてフランスに学ぶ。
ルソーの『社会契約論』に目を拓かれ、これを訳して日本に紹介するが……
まず、ルソーの思想とは。
ルソーの最初の著書『人間不平等起源論』では、「すべての人間が本来平等である」という。
我々をつないでいる身分制度の鎖を解き放て! と。
(高校生の時、これを聞いてときめいた。平等だったのか! しらんかった! 生まれつき高級な人と、わたしのようなどうしようもないのがいて、そういうことは運命的に決められているのだと思っていた! 民主主義の時代に生きてる私でさえそう思うのに、身分制度の時代に生まれてそんなことを考えたルソーって天才だ! と。うれしかった。平等なんだ!! わーいと思った)
だけど、どうだろう。��こまでも自由だとしたら、力が強かったり悪知恵が働いて良心のかけらもない人が、気の弱い人や体の弱い人を押しのけて、奴隷にしたり餌食にしたりするのも自由、ってことになる。そしたら弱い者には勝ち目のない地獄になる(今の日本のようですね)。
この状態を、ホッブスは「自然状態」といって指摘した。
『人間不平等起源論』の七年後、ルソーはこれに答えるべく?『社会契約論』を書く。
強くて悪い者が好き放題する自由は、やっぱ困る。
で、こうまとめたそうだ。p176
《人間は、ルール(鎖)なしには自分を自由にする力を持たない。ルールには、正当化しうるもの(鎖)と、そうでないものとがある。》
その正当化しうる鎖とは、力ではなく約束。(じーん)
《正当化しうるルールの源泉とは、各人が自己保存と自己への顧慮を手放すことなしに、すべての人と利益を共有しうる結社の創設への合意(convention)すなわち「社会契約」である。》
しかし、難問が!
「えー。おれ強くて頭いいいから、好き放題してても困らない。ルールなんか従いたくないんだけど。自由がいい」という横暴な人たち(往々にして世の中の主流になる)を、どうやって約束の席につかせうるか。
↓
ルソーは「立法者」というスーパーマンの存在を考え出して、この人になんとかさせようとしている。
↓
中江も自分で考えた。
やっぱり答えは出ないけど、
徳が高くて強い立法者と、その補佐役がいたらいい!
とこのとき考えたそうだ。
そして、この立法者が西郷さんで、補佐役がオレ!
でも、中江の「フランスすばらしい!」は、航海中のベトナムでかげる。人権に目覚めたはずのフランス人が、ベトナム人に酷いあしらいをしている!
「人権を考え出したのはヨーロッパ人だが、実行するのはアジア人だ!」
しかしさあ、どうやって実現する? (むずい)
■西郷に希望を托した若者たち。
大久保たちの裏技を使ったやり方に敗れ、野に降った西郷。 (私としては、やめんでほしかった)
大久保たちのごり押し近代化(武士の禄を奪い、藩をなくし、誇りだった刀を強制的にやめさせ……)に異議申し立てせんという��士族たちが、方々で叛乱を起こす。
(江藤新平のことももう少し知りたいなあ)
西郷は、慕ってきた子分たちと共に鹿児島で私学校を開いていた。
西郷自身は、ことを起こすことに対して慎重だったようだけど、 結局、大軍を率いて、東京へ押しかけ政府のやり方をあらためさせようと「挙兵」。
鹿児島を出発。
でも熊本で負けてしまい……。 明治10年9月、よくドラマに出てくる最期をとげる。
この節で、私が胸を衝かれたのは、
中江兆民世代の、ほんとに有望な人(小倉処平、宮崎八郎)、 迷える青年(増田栄太郎)らの戦死だ。
小倉処平は、 日向飫肥藩の仲間たちをひきいて西郷軍に参じた人望ある人。 かつては藩主に留学制度を進言し、選抜した青年たちを率いて長崎に学ぶ。のちロンドンにも留学。《英国仕込みの自由主義者であり、中央政府による急進的な近代化とは異なる、もう一つの近代化の可能性を探っていた人物だった。》p183 (滂沱)
宮崎八郎は、熊本荒尾村の庄屋の次男(実質長男)。 《人民の擁護者を任じる家風の中で育てられた》p179 (中岡慎太郎みたいね)
八郎は、はじめは、列強の理不尽への怒りや、政府の強引さへの不満から、征韓論に熱中し、征台義勇軍を組織するなど、物騒な感じだったが、中江訳『社会契約論』に目を拓かれる。
それがどうして、西郷の武装蜂起に参加?
→「キミの考えは西郷とは違うじゃないか、どうして西郷軍へ?」と聞かれて、 「西郷を助けて政府を倒してから、西郷を倒すんじゃ」 (西郷軍に身を投じた若者には、こういう人が多かったようだ)
けれどもどちらもならぬまま、戦死。
その克明な日記は、預かった人が川の徒渉に失敗して永遠に喪失してしまったと。 ……このシーン、小説のよう。 川の畔に立ち尽くしたような気持ちに。
■会津藩士たち
また、西郷軍を熊本で果敢に防いだ政府軍には、多くの有能な旧会津藩士が加わっていたことも記される。
極寒不毛の斗南藩へ送られたのち、一族を率いて新政府の警視庁に出仕した、元会津藩家老の佐川官兵衛は、阿蘇山���で戦死。(呆然)
同じく元家老の山川浩は、西郷軍に囲まれた熊本城を後巻きして救出する。
いっぽうで、同じく会津藩士だった長岡久茂は、政府打倒を試みて、獄死していた。
両極に別れたように見える彼らの行動を 著者は、「同じ動機」によるものと記す。
《彼らが目指していたのは(略)──戊辰戦争が勝者のためだけに戦われたものではなかったことを自力で証明してみせることだった。》p179
■増田栄太郎と福沢諭吉
増田栄太郎は、福沢の又従兄弟にあたるという。
増田は遅れてきた攘夷青年。それだけに、「攘夷に落とし前をつけなくていいのか」という答えを求めていた。 殺してやろうと思っていた福沢から「敵である列強の良いところを学べ」といわれて、一時は慶応大学にはいるが、すぐに退学。郷里で結社を作ったり、新聞を発行したりする。 これらの手当たり次第のような闇雲なガッツは、《内心の葛藤の受け皿を手探りで構想する作業だった。》p186
(個人的には激しく共感;; むしろ出来ブツの小倉処平さんより。ああ、この人、もっと長く生きていればなあ、生き方は見つかったに違いないのに)
そんな「迷走」のさなか、増田栄太郎は、西郷軍が田原坂で敗退してから、わざわざ敗軍の鹿児島勢に加わる。
何を思って?
その死には諸説あるが、曙新聞は「不敵な笑いを浮かべて処刑された」と報じた。 最期に披瀝したといわれる増田の言葉は、「西郷先生バンザーイ」というかんじのもの。 探していた思想はどこへ……。(余計に悲しい)
西郷の死と、救えなかった増田の刑死報道に衝撃を受けた福沢諭吉は、『丁丑公論』を窃かに書く。 西郷の敗北ののち、世論がいっきに「西郷=賊」視したことへの激しい疑問から。
福沢は言う。
政府が専横になることは仕方ないことだが、あまり野放しにするととんでもないことに。これを防ぐためにも抵抗は必要だ。と。
かつて『文明論之概略』で、“難題を抱えていながらそれで乱れない(戦争したりしない)のが文明というものだ”と喝破した福沢だが、この文明論は、何の役にも立たなかった。
西郷の死は、福沢の思想に���みを与えたと、著者は言う。
これまでの『学問のすすめ』『文明論之概略』では、 眠りから覚めている自分が、眠りこけているみんな(愚民)へ呼びかけていた。
『丁丑公論』では、 眠りから覚めるのが「速かった人」と「遅い人」の差があるだけだと、福沢は気付く。
このことに福沢は
《おそらくサイゴンの中江篤介よりも、城山の増田栄太郎よりも、遅れて気づいたのである。》p189
心がどよめいた。
どうしてだろう。
すっきりしたような、著者の福沢評にようやく合点がいった、ような。
いやちがう。 利口者の福沢の真摯な“愕然"が胸を打ってくる。
利口で視野が広いがために、低い苦しみの地平からものがみえなかった。 凡百の利口者なら死ぬまでそれに気づかないだろう。
だがやっぱり福沢は本物だったのだ。
私はまことに直感的に、福沢は信用できなかった。 なんだってこう上から目線なのか。何を持って自分は上から見てるつもりになっているのか。と。
でも、福沢も、その不思議な「特権階級」にあぐらをかくような人ではなかったのだ。
西郷の死と、フラフラしているかに見えた若い増田の問い掛けを、心と頭脳を駆動して受けとめたのだ。
そこを(これまで福沢をすごくひいき?にしてるように見えた)著者にとかれて、
こういう利口者が、真摯にがっくり「膝を折った」音に、心を叩かれたのかもしれない。
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今日は、『シン・仮面ライダー』を鑑賞🎞 さすが、庵野秀明さん。仮面ライダーの世界観を、上手く再構築されてた😊 #シン仮面ライダー #庵野秀明 #池松壮亮 #浜辺美波 #柄本佑 #塚本晋也 #松尾スズキ #手塚とおる #西野七瀬 #本郷奏多 #上杉柊平 #長澤まさみ #仲村トオル #安田顕 #市川実日子 #松坂桃李 #大森南朋 #竹野内豊 #斎藤工 #石ノ森章太郎 #東映 #毎日放送 #テレビ朝日 #カラー #イオンシネマ (イオンシネマ板橋) https://www.instagram.com/p/Cp7LPB6yixj/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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#野村周平#shuhei nomura#nomura shuhei#菅田将暉#竹内涼真#間宮祥太朗#志尊淳#千葉雄大#帝一の國#映画#movie#東郷菊馬#赤場帝一#大鷹弾#氷室ローランド#榊原光明#森園億人#beatbox#thejoshuaproject
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2日目は福岡。 博多に着いた後、友達と会食。 今回僕の博多行きに伴い、集まってくれました。3年振りの再会に話が弾み、本当に嬉しかったです。やっぱり時間が経っても気心知れてる友達はいい物です(▭-▭)✨ 博多を後にして、向かったのは那珂川。 まさかの新幹線移動。ここで友達と合流した後、向かったのは大野城のカフェ。 パフェがボリューミーかつ乗っている熊が可愛い"(∩>ω<∩)" 味もチョコレートと苺が合っていて美味しかったです。 博多駅に戻り、イルミネーション見物をした後、僕の当時の行きつけの店へ。 笑顔で迎えてくれて、色々な話もできて、本当に良かった😄 マスター、宿まで送って頂きありがとうございました!(´▽`) やっぱり北九州、福岡は僕にとって第2の故郷だなと実感しました。 また近いうちに帰りたい🚃次は余裕があれば長期滞在の上、ウィークリーマンションかな☺️ #鹿児島本線、#福岡、 #大野城、 #雑餉隈、 #井尻、 #笹原、 #西鉄天神大牟田線、 #博多、 #那珂川、 #博多南、 #博多南線、 #平和、 #平尾、 #行きつけの店、 #酒好きの人と繋がりたい 、 #思い出、 #故郷 (家族爛漫) https://www.instagram.com/p/CnMWElDSkmX/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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今回の報告書で「消滅可能性自治体」とされた自治体は、以下の通り。 【北海道】 函館市、小樽市、釧路市、夕張市、岩見沢市、網走市、留萌市、稚内市、美唄市、芦別市、赤平市、紋別市、士別市、三笠市、根室市、砂川市、歌志内市、深川市、富良野市、登別市、伊達市、北斗市、当別町、新篠津村、松前町、福島町、知内町、木古内町、鹿部町、森町、八雲町、長万部町、江差町、上ノ国町、厚沢部町、乙部町、奥尻町、今金町、せたな町、島牧村、寿都町、黒松内町、京極町、共和町、岩内町、泊村、神恵内村、、積丹町、古平町、余市町、赤井川村、南幌町、奈井江町、上砂川町、由仁町、長沼町、栗山町、月形町、妹背牛町、雨竜町、北竜町、沼田町、当麻町、比布町、愛別町、上川町、上富良野町、和寒町、剣淵町、美深町、音威子府村、幌加内町、増毛町、小平町、苫前町、羽幌町、遠別町、浜頓別町、中頓別町、枝幸町、豊富町、利尻町、美幌町、津別町、清里町、小清水町、訓子府町、佐呂間町、遠軽町、湧別町、滝上町、西興部村、雄武町、大空町、豊浦町、白老町、洞爺湖町、むかわ町、日高町、平取町、浦河町、様似町、え��も町、新ひだか町、���幌町、広尾町、池田町、豊頃町、本別町、浦幌町、釧路町、厚岸町、浜中町、標茶町、弟子屈町、白糠町、羅臼町 【青森県】 青森市、弘前市、八戸市、黒石市、五所川原市、十和田市、むつ市、つがる市、平川市、平内町、今別町、蓬田村、外ヶ浜町、鰺ヶ沢町、深浦町、藤崎町、大鰐町、板柳町、鶴田町、中泊町、野辺地町、七戸町、横浜町、東北町、六ヶ所村、大間町、東通村、風間浦村、佐井村、三戸町、五戸町、田子町、南部町、階上町、新郷村 【岩手県】 宮古市、大船渡市、久慈市、遠野市、一関市、陸前高田市、釜石市、二戸市、八幡平市、奥州市、雫石町、葛巻町、岩手町、西和賀町、平泉町、住田町、大槌町、山田町、岩泉町、田野畑村、普代村、軽米町、野田村、九戸村、洋野町、一戸町 【宮城県】 石巻市、気仙沼市、白石市、角田市、登米市、栗原市、蔵王町、七ヶ宿町、村田町、川崎町、丸森町、松島町、七ヶ浜町、大郷町、色麻町、加美町、涌谷町、女川町、南三陸町 【秋田県】 能代市、横手市、大館市、男鹿市、湯沢市、鹿角市、由利本荘市、潟上市、大仙市、北秋田市、にかほ市、仙北市、小坂町、上小阿仁村、藤里町、三種町、八峰町、五城目町、八郎潟町、井川町、大潟村、美郷町、羽後町、東成瀬村 【山形県】 鶴岡市、酒田市、新庄市、上山市、村山市、長井市、尾花沢市、山辺町、中山町、河北町、西川町、朝日町、大江町、大石田町、金山町、最上町、舟形町、真室川町、大蔵村、鮭川村、戸沢村、高畠町、川西町、小国町、白鷹町、飯豊町、庄内町、遊佐町 【福島県】 会津若松市、白河市、喜多方市、二本松市、田村市、伊達市、桑折町、国見町、川俣町、天栄村、下郷町、檜枝岐村、只見町、南会津町、北塩原村、西会津町、猪苗代町、会津坂下町、三島町、金山町、会津美里町、泉崎村、棚倉町、矢祭町、塙町、鮫川村、石川町、玉川村、平田村、浅川町、古殿町、三春町、小野町 【茨城県】 日立市、常陸太田市、高萩市、北茨城市、潮来市、常陸大宮市、稲敷市、桜川市、行方市、鉾田市、城里町、大子町、美浦村、河内町、八千代町、五霞町、利根町 【栃木県】 日光市、矢板市、那須烏山市、益子町、茂木町、市貝町、塩谷町、那珂川町、 【群馬県】 桐生市、沼田市、渋川市、藤岡市、富岡市、安中市、上野村、神流町、下仁田町、南牧村、甘楽町、中之条町、長野原町、嬬恋村、草津町、東吾妻町、片品村、みなかみ町、玉村町、板倉町 【埼玉県】 行田市、秩父市、越生町、小川町、川島町、吉見町、鳩山町、ときがわ町、横瀬町、皆野町、長瀞町、小鹿野町、東秩父村、神川町、寄居町、松伏町 【���葉県】 銚子市、勝浦市、富津市、八街市、南房総市、匝瑳市、香取市、山武市、いすみ市、栄町、神崎町、多古町、東庄町、九十九里町、芝山町、横芝光町、白子町、長柄町、長南町、大多喜町、御宿町、鋸南町 【東京都】 檜原村、奥多摩町 【神奈川県】 三浦市、中井町、山北町、箱根町、真鶴町、湯河原町 【新潟県】 小千谷市、加茂市、十日町市、村上市、糸魚川市、妙高市、五泉市、阿賀野市、佐渡市、魚沼市、胎内市、田上町、阿賀町、出雲崎町、湯沢町、津南町、関川村、粟島浦村 【富山県】 氷見市、南砺市、上市町、入善町、朝日町 【石川県】 七尾市、輪島市、珠洲市、加賀市、羽咋市、志賀町、宝達志水町、穴水町、能登町、 【福井県】 大野市、勝山市、あわら市、池田町、南越前町、越前町、高浜町、若狭町 【山梨県】 都留市、大月市、韮崎市、上野原市、甲州市、早川町、身延町、南部町、富士川町、道志村、西桂町 【長野県】 大町市、飯山市、小海町、佐久穂町、立科町、長和町、阿南町、阿智村、平谷村、天龍村、上松町、南木曽町、王滝村、大桑村、木曽町、生坂村、筑北村、小谷村、坂城町、高山村、山ノ内町、木島平村、信濃町、小川村、飯綱町、栄村 【岐阜県】 美濃市、瑞浪市、恵那市、山県市、飛騨市、郡上市、下呂市、海津市、養老町、関ケ原町、揖斐川町、池田町、七宗町、八百津町、白川町、東白川村 【静岡県】 熱海市、下田市、伊豆市、御前崎市、牧之原市、東伊豆町、松崎町、西伊豆町、川根本町 【愛知県】 津島市、新城市、南知多町、美浜町、設楽町、東栄町、豊根村 【三重県】 尾鷲市、鳥羽市、熊野市、志摩市、木曽岬町、大台町、度会町、大紀町、南伊勢町、紀北町、御浜町、紀宝町 【滋賀県】 高島市、甲良町 【京都府】 宮津市、京丹後市、井手町、宇治田原町、笠置町、和束町、南山城村、京丹波町、与謝野町 【大阪府】 富田林市、河内長野市、柏原市、門真市、泉南市、阪南市、豊能町、能勢町、岬町、太子町、河南町、千早赤阪村 【兵庫県】 洲本市、西脇市、加西市、養父市、朝来市、宍粟市、多可町、市川町、神河町、上郡町、佐用町、香美町、新温泉町 【奈良県】 大和高田市、五條市、御所市、宇陀市、山添村、安堵町、三宅町、曽爾村、御杖村、高取町、上牧町、河合町、吉野町、大淀町、下市町、黒滝村、野迫川村、十津川村、下北山村、上北山村、川上村、東吉野村 【和歌山県】 海南市、橋本市、有田市、御坊市、田辺市、新宮市、紀の川市、紀美野町、かつらぎ町、九度山町、高野町、湯浅町、広川町、美浜町、由良町、みなべ町、日高川町、白浜町、すさみ町、那智勝浦町、太地町、古座川町、��本町 【鳥取県】 岩美町、若桜町、智頭町、八頭町、大山町、日南町、日野町、江府町 【島根県】 雲南市、奥出雲町、津和野町、隠岐の島町 【岡山県】 玉野市、笠岡市、井原市、高梁市、新見市、備前市、真庭市、美作市、久米南町、吉備中央町 【広島県】 竹原市、府中市、安芸高田市、江田島市、安芸太田町、神石高原町 【山口県】 萩市、長門市、美祢市、周防大島町、上関町、田布施町、平生町、阿武町 【徳島県】 鳴門市、小松島市、吉野川市、阿波市、美馬市、三好市、勝浦町、佐那河内村、神山町、那賀町、牟岐町、美波町、海陽町、上板町、つるぎ町、東みよし町 【香川県】 さぬき市、東かがわ市、土庄町、琴平町 【愛媛県】 宇和島市、八幡浜市、大洲市、四国中央市、西予市、上島町、久万高原町、内子町、伊方町、松野町、鬼北町、愛南町 【高知県】 室戸市、安芸市、須崎市、宿毛市、土佐清水市、四万十市、東洋町、奈半利町、田野町、安田町、北川村、本山町、大豊町、いの町、仁淀川町、中土佐町、佐川町、越知町、檮原町、日高村、津野町、四万十町、大月町、三原村、黒潮町 【福岡県】 嘉麻市、小竹町、鞍手町、東峰村、添田町、川崎町、みやこ町、築上町 【佐賀県】 多久市、玄海町、大町町、白石町、太良町 【長崎県】 平戸市、松浦市、対馬市、壱岐市、五島市、西海市、雲仙市、南島原市、東彼杵町、小値賀町、新上五島町 【熊本県】 水俣市、上天草市、天草市、美里町、和水町、小国町、産山村、高森町、山都町、氷川町、芦北町、津奈木町、多良木町、湯前町、相良村、山江村、球磨村、苓北町 【大分県】 佐伯市、臼杵市、津久見市、竹田市、杵築市、豊後大野市、国東市、姫島村、九重町、玖珠町 【宮崎県】 串間市、えびの市、高原町、国富町、諸塚村、椎葉村、美郷町、高千穂町、日之影町 【鹿児島県】 枕崎市、阿久根市、西之表市、垂水市、曽於市、南九州市、三島村、さつま町、湧水町、錦江町、南大隅町、肝付町、大和村、喜界町、天城町
【全744自治体リスト】「消滅可能性自治体」を一挙公開…北海道から鹿児島まで 出産年代の女性人口が半数以下に 日光市や草津町も |FNNプライムオンライン
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令和6年度「平野郷 夏祭り」地車 九町合同曳行(2024年7月12日) https://youtu.be/BId5Kbdm9kU?list=PL5_p1JmhJjC7THxm7ivxkGOsmj6gYWxfi
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Sean bienvenidos japonsistasarqueológicos, a una nueva publicación en esta ocasión nos trasladamos a prefectura de Akita una vez más para hablar de la tumba de Ono no Komachi una vez dicho esto comenzamos. - Fue famosa como poeta, si no también tenía una belleza incomparable: ¡Fui a cubrir la tumba de Ono no Komachi en la ciudad de Osaki! ! La ciudad de Osaki, fue donde se refugió tras, ser expulsada del mismo, tuvo que regresar a Akita su ciudad natal. Después de eso, realizó una visita de 100 días para orar por la recuperación de su enfermedad, pero falleció el día en que se cumplió su deseo. Se dice que cuando los aldeanos la vieron, se apiadaron de ella y erigieron una lápida por su triste muerte. - ¿Quién fue Ono no Komachi? Fue una poetisa del periodo Heian, se desconocen cuando nació y murió, pero se la conoce como "Rokukasen", se baraja la posibilidad de que viviera en Kioto, además de la prefectura de Akita, como la prefectura de Kioto y la prefectura de Kumamoto, sobre dónde se dice que nació. - Espero que os haya gustado y nos vemos en próximas publicaciones, ¿Conocían esta historia y a la poetisa?. 今回も秋田県に場所を移し、小野小町の墓についてお話しします。 - 歌人として有名な小野小町だが、その美しさは比類ない。大崎市にある小野小町の墓を取材した!!大崎市から追放された彼女が避難した大崎市は、故郷の秋田に帰ることになった。その後、病気の回復を祈願して百日詣りをしたが、その願いが叶った日に亡くなった。その姿を見た村人たちが憐れみ、悲しい死を悼んで墓石を建てたという。 - 小野小町とは?平安時代の歌人で、いつ生まれ、いつ亡くなったかは不明だが、「六歌仙」の名で知られ、京都のほか、秋田県、京都府、熊本県などに住んでいたと考えられている。 - この物語と歌人をご存知でしたか? Welcome to a new publication, this time we move to Akita prefecture once again to talk about the tomb of Ono no Komachi, so let's begin. - She was famous as a poet, but she also had an incomparable beauty: I went to cover the tomb of Ono no Komachi in the city of Osaki! ! Osaki City, where she took refuge after being expelled from Osaki, had to return to Akita, her hometown. After that, she made a 100-day visit to pray for recovery from her illness, but died on the day her wish came true. It is said that when the villagers saw her, they took pity on her and erected a tombstone for her sad death. - Who was Ono no Komachi? She was a poetess of the Heian period, it is unknown when she was born and when she died, but she is known as "Rokukasen", and it is thought that she lived in Kyoto, as well as Akita Prefecture, Kyoto Prefecture and Kumamoto Prefecture, where she is said to have been born. - I hope you liked it and see you in future posts. Did you know this story and the poetess?
#歴史#日本#平安時代#ユネスコ#詩#俳句#地理#文学#大崎市#小野小町古墳#小野小町#秋田県#京都府#熊本県#大平山#History#Japan#Heian Period#UNESCO#Poetry#Haiku#Geography#Literature#Osaki City#Onokomachi Tumulus#Onokomachi#Akita Prefecture#Kyoto Prefecture#Kumamoto Prefecture#Ohirayama
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1978年 赤穂城断絶
監督:深作欣二
撮影:東映(東映太秦映画村)
出演:萬屋錦之介、千葉真一、松方秀樹、若林豪、三田佳子、岡田茉莉子、西郷輝彦、渡瀬恒彦、芦田伸介、藤岡琢也、金子信夫、近藤正臣、原田美枝子、森田健作、田村亮、峰岸徹、夏樹陽子、寺田農、宮内洋、藤巻潤、福本清三、島英津夫、佐藤佑介、中村光輝、和崎俊哉、島田歌穂、橘真紀、江波杏子、三船敏郎、丹波哲郎 ほか
今日は赤穂事件のあった日なので、昨日BSで放送していた赤穂城断絶を本日鑑賞。
今年は物凄い数の忠臣蔵の映画をBSでやっているので非常に嬉しい。
製作費がいくらかかったか心配になるほど出演者が凄すぎる東映のオールスターキャストによる作品で、昭和53年度文化庁芸術祭参加作品。
浅野内匠頭役の西郷輝彦が以外にも良く似合っている。
吉良上野介役の金子信夫の独特な嫌味感も最高。
不破数右衛門役の千葉真一が面白い演出で彼の演技部分を見るだけでも価値がある。
堀部安兵衛役の峰岸徹がかっこよすぎる。
吉良の家臣・小林平八郎役の渡瀬恒彦と千葉真一との殺陣シーンが、今まで見た忠臣蔵映画の中でも尋常じゃない激しさ。
小林(渡瀬恒彦)を倒した後の不破(千葉真一)の激しい息遣いは間違いなく本物。
(本当に凄いぞ、見ていて呼吸困難になりそうだった)
「目指すは吉良上野介一人。白髪首ただひとつ」
大石内蔵助役の萬屋錦之介の淡々とした演技が、現代のリーダー像にも通じる信頼感万全な風格に満ち��いる。
そして、この映画のロケ地は以外にも兵庫ではなく、ほぼ滋賀と京都。
二条城北大手門、二の丸御殿、本丸西虎口、彦根城、相国寺、大覚寺、金戒光明寺、永観堂、南禅寺僧堂坂、知恩院・・。
キャストだけではなく、京都のお寺もオールスター出演でした。
(京都好きの人は間違いなくニンマリ)
アスペクト比が2.35:1シネマスコープで撮影されているので、江戸城での刃傷シーンや討ち入りのシーンでは非常に迫力があります。
本作で渡瀬恒彦がキネマ旬報賞助演男優賞と第21回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。
エキストラの数、セットや衣装の出来が今まで見た忠臣蔵の中でも最高レベル。
赤穂城断絶は忠臣蔵映画の中でも間違いなく最高傑作の1本です。
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」第4章「未成の第二極」 1~3
野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」 第4章「未成の第二極」1~3
欧米列強に倣って近代化を進める大久保たち新政府スタッフと、 急激な変化で「取り残される人々を出してはいけない」とする西郷。
政府を離れた西郷は、新政府のやり方に不満、疑問をもつ者たちの旗印となり、武装蜂起へ。そして鎮圧されてしまう。 世に言う「西南の役」だ。
この本のこの章を読んで、「西南の役」観ががらっと変わった。
西南の役のことは、“武力をふるうしか方法を知らない、時代遅れの人たちの自殺行為"のように語られることがある。 私も「まーそうなんじゃないのかな、いかんよな軍隊とかサムライは」と思っていたのだ。
読み込んだあまたの史料を並べることで歴��を物語る著者が、珍しく、時代への思いを記した2行にでくわす。
《専制への抵抗を西郷が武力で行ったことには賛成できないが、西郷が「国民抵抗の精神」を発揮してその気脈を保たせようとしたことのなかには、今の世の中に失われつつある大事な契機が宿っている。》p188
西郷はいろんな可能性を秘めていた存在だったのだ。
「幕末の志士」になり遅れた、新世代(1850年前後生まれ)の若者たちは、西郷に時代の難題をとく鍵を見いだし、駆け寄った。
その代表として、兆民中江篤介の思想の足跡と、 彼が倣おうとしたルソーの「社会契約論」の希望と限界を、 著者の筆は克明に追う。
そして、中江訳のルソーに感化された同世代の若者たちが、西郷軍に義勇兵として加わった、その思いをたどっている。
小倉処平、宮崎八郎など、何とも惜しい人物の横死に絶句してしまう。 また、時代の迷いを我が身で背負って迷走したかのような増田栄太郎の短い人生。 新聞で報道されたその最後の有様は(本当かどうかは不明だが)やりきれない。長く生きたらどんな答えを見つけたろう。
さらに、この増田栄太郎のずっと年上の又従兄弟、あの、何もかもわかったような顔をしてる(というのは私の感想)上から目線の福沢諭吉が、西郷の死と、増田の問いかけ、そして世論が一いっせいに西郷を賊呼ばわりしたことをうけて、変わったこと。
ここの箇所にはすごく打たれた。どうしてどんなふうに打たれたのか、説明がちょっと入り組んでしまいそうだ。
細かい備忘録はまた明日…… (やっぱり書き留めておきたくて長くなってしまうなあ)
以下、
■中江兆民とルソー ■西郷に希望を託した若者たち ■会津藩士たち ■増田栄太郎と福沢諭吉
という感じでメモしてゆきます。
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The Conquest of Iga, as recorded in Seishū Gunki
同年の冬、伊賀住人福地某が信長の味方になり伊賀追討の兵を要請した。故に信長は信雄に伊賀を与え、各家臣に諸方から攻め込ませた。伊勢、名張口は北畠中将信雄である。同じく馬野口は滝川左近将監一益である。長野口は長野上野介信包である。鹿伏兎口は神戸三七信孝である。甲賀山の口は多羅尾久右衛門尉が先陣を受けた。下口は蒲生忠三郎氏郷である。大和笠置口は筒井順慶である。 伊賀の侍は防ぐ場所を失い其々城にこもった。信雄は丸山城を落とした。一益は富益城を落とし、富益氏は討ち死にして滅亡した。また、具野尾城は落ちず、信孝は柘植城を攻め落とした。氏郷は土山城を攻め数刻鉄砲合戦があった。伊賀は大軍を受けてかなわず有るものは討たれ、あるものは降伏しみな信雄の��配下に入った。故に信雄は丸山城を瀧川三郎兵衛尉に与え、柘植城を池尻平左衛門尉に与えた。また、仁木友梅(前守護・義視)を取り立て平楽寺城に入れた。
In the winter of the same year (1581), a certain Iga resident called Fukuchi became Nobunaga's ally, and requested for an army to launch a punitive expedition against Iga. Nobunaga granted Iga to Nobukatsu, and sent vassals to invade from all directions. From Ise, Nabari entrance, was the troops led by Lieutenant General Kitabatake Nobukatsu. At the same time, from Umano entrance, was the troops under Takigawa Sakon no Shōgen Kazumasu. From Nagano entrance, came Nagano Kōzuke no Suke Nobukane (Oda Nobukane). From the Kabuto entrance, Kanbe Sanshichi Nobutaka. The army coming from the entrance of Kōkayama was led by Lieutenant Tarao Kyūemon, while from the exit came Gamō Chūzaburō Ujisato. From the Yamato Kasagi entrance came the troops under Tsutsui Junkei. The samurai of Iga lost their defences, and holed themselves in their respective castles. Nobukatsu felled Maruyama Castle. Kazumasu felled Tomimasu Castle, and the entire Tomimasu clan were destroyed and killed. Gunō Castle did not fall, but Nobutaka attacked and conquered Tsuge Castle. Ujisato attaked Tsuchiyama Castle, and a gunfight lasted for a few hours there. Iga was no match for such a massive force, and some were defeated, while others surrendered themselves under Nobukatsu. After which, Nobukatsu granted Maruyama Castle to Lieutenant Takigawa Saburōbē and Tsuge Castle to Lieutenant Ikejiri Heizaemon. Also, he brought back Nikki Yūbai (the former shugo Nikki Yoshimi) and installed him in Heirakuji Castle.
(Seishū Gunki vol. 8)
In light of the recently released Assassin's Creed trailer, this really needed to be said:
Nobunaga does not invade Iga because he hated "ninjas"/shinobi. Nobunaga never participated in the Iga invasion and never directly led it.
Both are erroneous narratives that are constantly propagated both by Japanese and non-Japanese media, and this is just frustrating at this point. Some newer takes tried to "clean it up" by saying that Nobunaga invaded Iga as part of his nationwide conquest. That's a somewhat less wrong take on it, but if you put Nobunaga in direct command of the army, then it's still incorrect.
Both times the Oda forces attacked Iga, it was under the command of Nobunaga's son, Nobukatsu. After this final conquest, where Iga was thoroughly defeated in 1581, Nobunaga only came later to inspect the region. Everything had already been cleaned up, and the Shinchōkōki even recorded that there were lavish accommodations prepared for Nobunaga to stay in for the occasion.
Now going back to the narrative.
Seishū Gunki is somewhat less reliable than Shinchōkōki in various areas, but it's still a valuable material regardless. The are differences between this account and Shinchōkōki, though. For example, here Nobutaka was also listed as a participant. In the Shinchōkōki, Nobutaka was not listed as an officer that took part in the charge.
Another difference is that while Shinchōkōki corroborated Fukuchi surrendering himself to Nobunaga, it also mentioned that he was actually from Tsuge. Meaning that there was no need to attack and conquer Tsuge. Shinchōkōki also said that one of the Oda vassals went to Tsuge to protect it, and his name was listed as "Fuwa". In the above gunki narrative, this was the castle/region that Nobutaka attacked. It's likely that this part is in error in the gunki, and Nobutaka was not actually present here.
That aside, there has been various theories about why Nobukatsu attacked Iga, and there's an odd story of an Iga resident(s) who requested that the Oda invade his own homeland that was not explained in prior articles that I've seen. This request from the Iga folk themselves was what encouraged Nobunaga to grant permission for an official invasion of Iga, something that highly disapproved of 2 years prior.
This full text in the gunki provides an insight for the possible reason: It's possibly to restore the rightful shugo of Iga to power.
In the last part of the above text, a man named "Nikki Yoshimi" was referenced. The Nikki family was originally the official shugo (governors) of Iga. In a previous chapter of the gunki, it was mentioned that at some point they lost power, and the so-called council leadership of Iga became established.
If you've read the various floating narratives about how Iga is an "independent" society that is free from samurai rulership, this is how that supposedly came to be. The Nikki family were still there. They just got overrun by the people. If the above text is to be believed, the people who rebelled weren't peasants either. They were still considered of "samurai" class (they even own castles), just that they're perhaps of lower status (some texts would call them jizamurai).
If this narrative is actually accurate, then perhaps the men who came to the Oda for help were associates of the Nikki family. What they wanted was perhaps to the get rid of the "insurgents" who had rebelled and snatched power from the "rightful rulers".
So much for the mysticism of the secret "ninja" village and all, huh? It's just more of the typical power struggle between clans that are constantly happening in this time.
Incidentally, this situation is not entirely unique to Iga. A similar situation had occurred in Kaga almost a century prior, where the Ikkō from the Honganji affiliated temples there overthrew the shugo and ruled the land for a very very long time. Like in Iga, the shugo family were actually still there. They just effectively no longer had any power. The Ikkō rule remained until the Oda forces came and got rid of them as well.
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