#崇礼門
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ダニ・ロドリックによる十戒 経済学者向けの十戒 経済学はモデルの集合体である。その多様性を大切にすべし。 モデルは一つのモデルであって唯一のモデルではない。 特定の要因とそれがどのように作用するかを取り出せるほどモデルを簡単化すべし。しかし、要因間の重要な相互作用を落としてしまうほど簡単化してはならない。 仮定が非現実的であることは問題ない。決定的に重要な仮定が非現実的であることは問題。 世界は(ほぼ)常に次善の状態である。 モデルを現実世界に投影する際は明示的に実証的な検証をする必要があるが、そうした作業は科学というよりも技である。 経済学者間の意見の一致を、世の中の動きの確度と混同してはならない。 経済や政策について訊かれて「知らない」と言うことは問題ない。 効率性がすべてではない。 自分の価値観で一般の価値観を置き換えてしまうことは専門家の職権乱用である。 非経済学者向けの十戒 経済学は、予め決まった結論の無いモデルの集合体である。そうでない議論は棄却すべし。 仮定がおかしいという理由で経済学者のモデルを批判してはならない。ある問題含みの仮定をより現実的なものにした場合に結果がどう変わるかを問うべし。 分析は簡明性を必要とする。複雑性の振りをした非一貫性に注意すべし。 数学に怯んではならない。経済学者が数学を使うのは彼らが賢いためではなく、十分に賢くないためである。 経済学者がある提案を行った時には、その提案の背後のモデルがなぜ現下の問題に適用できると確信したのかを問うべし。 経済学者が「経済的厚生」という言葉を使った場合は、それで何を意味しているかを問うべし。 経済学者が公けの場と教室で話が違うことがあるのに注意すべし。 経済学者は(皆)市場を崇めているわけではないが、市場の働きについてはあなたより良く知っている。 経済学者の考えは皆似たようなものだと思うなら、彼らのセミナーの一つに出���すべし。 経済学者は非経済学者に対して特に失礼だと思うなら、彼らのセミナーの一つに出席すべし。
世界最高峰の経済学教室 - akon2.00βのよっぱらいの戯言
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ベニテスを理解したくて調べた、現代メキシコ編
この投稿は、2025年4月20日にTwitterで話したスペースの原稿です。元のスペースは下記にリンクを貼っておきます。

このスペースはベニテスのことを理解してえと思ったオタクが調べたことを発表するだけの場です。私は専門家ではないので、調べが足りていない部分、勘違いや元資料の誤り、情報が古い、などで間違っている部分もおそらくあります。なので、訂正コメントいただけたら助かります。 まず、前提として、今回はメキシコとコンゴについて、一時間ほど話します。性暴力に関する内容が含まれるため、お気をつけください。また、非キリスト教徒で、カトリック知識に詳しくない人間が話しています。人物名は敬称略で呼びます。人物や地名の発音をうまくで��ないことがあります、ごめんなさい。
さて、まずは前提としてベニテスが何歳で何年生まれなのか。ベニテスを演じたカルロス・ディエスは50代ですが、原作では67歳。自分の中だけの設定として、映画本編を2023年だと仮定し、1960年代前半から半ば生まれの60代前半とします。ご了承お願い致します。 そして、ベニテスが生まれたと仮定する1960年代のメキシコはどんな状況だったのでしょうか。当時のメキシコは制度的革命党の支配体制がしかれていました。こちらの政党の名前が長いPRIと呼ばれ、1927年から2000年まで71年もの間、与党に君臨し、その期間をPRI体制と呼びます。現在もこの政党はメキシコにあります。 当時は各州の知事や政府の人間の多くがPRIの党員で、報道機関も政府の統制下にあり、圧倒的にPRI優位な状況でした。もちろん、国民の間では不満がありました。汚職などが蔓延り、ベニテスが子ども時代を過ごしたであろう1968年は、「1968年騒乱」と呼ばれる年でした。 こう呼ばれる所以は「トラテロルコの虐殺」など様々な事件があったからです。この年にメキシコオリンピックが開催されるのですが、オリンピックへの開催反対運動や反政府デモが各地で発生していました。特に首都メキシコシティでの学生主体のデモが活発でした。学生がキャンパスを占領して抗議活動を行い、政府はそれを軍や警察を動かし厳しく弾圧していました。そんな折、10月の2日、キャンパスを追い出された学生たちがメキシコシティのトラテロルコの三文化広場に集まって抗議活動をしていました。 広場にはおよそ1万人の学生が集まり抗議活動を行っていると、軍が包囲し銃撃を開始します。犠牲者の数は公式発表では30人未満でしたが、実数は推測するしかなく300人から400人とも言われています。この虐殺事件はメキシコオリンピックが開催される10日前の出来事でした。 人々が民主化を求めた激動の時代にベニテスは子ども時代を過ごしていました。 そして10代の後半、1982年にメキシコでは金融危機が起こり、物価の値段が4倍になるなど、苦しい時期でした。公開されている教皇選挙のスクリプトには貧しい両親のもとに生まれと書いてあったので、様々な苦労があったのかもしれません。しかも、1985年にはメキシコ地震が起こります。この地震のマグニチュードは8、死者は約1万人でした。メキシコ沖の震源地からは300km以上離れていましたが、メキシコシティでの被害が大きく、もしベニテスがメキシコシティの出身であれば、家族や住んでいた建物が被害に遭ったかもしれません。 ベニテスが何歳で神学校に入学したのかわかりませんが、おそらく一部は参考にされているフランシスコ教皇が20で神学校に入学したので、私はそれくらいの年齢、1980年半ばまでには入学したと考えています。 この時期のカトリック教会は苦境に立たされていました。 カトリック教会とメキシコについては時代を大航海時代まで遡って説明します。1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到着し、スペインはアメリカ大陸を侵略し始めます。スペイン征服後、先住民へのキリスト教布教のためスペイン国王の命でまずフランシスコ会、ドミニコ会、アグスティン会が1520年代頃から派遣されました。 ここで少し余談ですが、メキシコ先住民のことを何と呼ぶか意見が分かれています。ある研究者は「インディオ」という名称を使っており、インドとアメリカ大陸間違えたゆえの言葉ですが、先住民の権利運動で当事者たちがこの語を使っていたため「インディオ」と記す人もいます。ただ、近年は地元民を意味する「ナティーボ」や「オリヒナリオ」など先住民が自分たちのことを指す言葉が変化してきています。ただ、このスペースでは先住民と称させていただきます。 征服戦争、旧大陸からもたらされた天然痘や麻疹により先住民の人口は激減します。推定であり正確な人口はわかりませんが、征服前にはメソアメリカに600から700万人はいたとされています。それが1550年にはわずか300万人になりました。 このような過酷な状況で先住民に選択肢はなく、キリスト教へ改宗していきます。宣教師たちも、先住民の信仰や文化を許容できる範囲でキリスト教と融合させました。かつて祀っていた神と似たキリスト教の聖人や聖母を祀ったり、多神教になじみのある聖人崇拝を推奨するなど、妥協しつつ布教をしました。こうして現在でもメキシコでは人口の8割から9割がカトリック教徒です。 植民地時代はその土地の住人はすべて王の臣民であり、土地を含めカ���リック教会の管理下にありました。教会は宣教活動だけでなく、農業経営や高利貸しも行っており、大きな資金を有していました。 しかし、メキシコが19世紀前半に独立を果たすと、国家はカトリック教会が所有している広大な土地を欲しがります。 1857年の改革憲法で教会特権を廃止し、住民はカトリック教会からメキシコ国家の管理下に置かれていきます。そして1859年には教会財産没収法が制定され、宗教行為に必要な最低限の物以外の教会財産はすべて国家のものになりました。 カトリック教会も黙って受け入れていたわけではなく、ミサなどの宗教行為のストライキを起こしたり、信徒が武装蜂起して「クリステーロの乱」と呼ばれる戦いなどをおこしました。 しかし、この厳しい制限はベニテスが神学校で学んでいたであろう1980年代も続いていました。教会財産の没収以外にも、聖職者への公民権の制限があり、選挙権のはく奪、僧衣をまとったまま外出してはならないなど様々な弾圧がありました。 そういった制限が解消されたのが1992年の憲法改正です。この改正により教会は財産取得と所有が認められました。聖職者の公民権も一部認められ、投票権が回復し僧衣を着たままの外出ができるようになります。ただし、被選挙権は与えられていませんでした。 そして神学校を卒業したベニテスはまずメキシコのベラクルースから活動を始めます。ベラクルース州はメキシコ湾に面した場所にあり、メキシコ征服の拠点となった湾岸都市です。かつては先住民の人口が激減したため、アフリカ大陸などから運んできた奴隷集積所や市場もありました。 ベラクルースで具体的にベニテスがどんな活動をしていたのかわかりませんが、あくまで想像の範囲で推測します。あくまで想像です。メキシコの基本的な町の作りは、広場があり90度の角度で市政庁と教会があります。教会のほとんどはは西向きに正面玄関が設置され、東側に祭壇が置いています。朝日がさし込むと聖像は後光に包まれ、夕日は入り口から聖像を照らします。そうした効果を計算し、カトリック教会は原則として西側に正面玄関を設置しています。 「レジデンシア」と呼ばれる教会には司祭が常駐し、「ビシータス」と呼ばれる村などの教会には司祭が住んでいません。神父は村人たちの要請でこのビシータスへ赴き、ミサや洗礼を行います。なので、ベニテスもベラクルースの村々を巡っていた可能性があります。 とりあえずこれでメキシコの話は終わります。 参考にしたのは明石書店の『メキシコを知るための60章』清水透 著『ラテンアメリカ500年 歴史のトルソー』国本伊代 著『メキシコの歴史』などです。
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神道と仏教の交流は、日本における神仏習合(しんぶつしゅうごう)という形で、奈良時代(8世紀)から明治時代(19世紀後半)の神仏分離令まで約1200年にわたり続きました。この間、神道は仏教から多くの要素を取り入れ、建築、儀礼、思想、美術など多岐にわたる影響を受けました。以下に、神社の構造(特に鳥居)やその他の神道の要素において、仏教から取り入れたものや受けた影響をできるだけ詳細に整理して説明します。
1. 鳥居と仏教の影響
鳥居は神道の象徴的な構造物ですが、仏教の影響を受けた可能性が指摘されています。
トーラナとの関連:
インドの仏教寺院やストゥーパに見られる「トーラナ」(塔門)は、聖なる空間と俗なる空間を分ける門であり、日本の鳥居の起源の一つとする学説があります。トーラナは装飾的で彫刻が施されているのに対し、鳥居は簡素な構造ですが、聖域への入り口としての役割は共通しています。
特に、四天王寺(日本仏法最初の官寺)のように、仏教寺院に鳥居が設置された例から、トーラナの概念が神道の鳥居に影響を与えた可能性があります。
鳥居の「門」としての機能は、仏教の聖俗の境界を示す思想(例:寺院の三門や仁王門)とも関連し、仏教伝来とともに日本に持ち込まれたと考えられます。
鳥居の形式:
仏教寺院の門に見られる柱と横木の構造(例:山門)が、鳥居の簡素なデザインに影響を与えた可能性があります。特に、仏教の影響を受けた神社の鳥居には、装飾的な要素(例:春日大社の赤い鳥居)が加わることがあり、仏教美術の華やかさが反映されたとされます。
2. 神社の建築と仏教の影響
神社の建築様式や配置は、仏教寺院の影響を強く受けています。以下に具体例を挙げます。
本殿と仏堂の類似性:
神社の本殿は、神を祀る中心的な建物ですが、仏教寺院の金堂や本堂(仏像を安置する場所)から影響を受けたと考えられます。特に、奈良時代以降の神仏習合の進展に伴い、神社の本殿が仏堂のような建築様式(例:屋根の形状や柱の配置)を取り入れる例が見られます。
例:春日大社や宇佐神宮の本殿は、仏教建築の影響を受けた装飾や構造が見られ、仏教の堂宇建築の技術が取り入れられています。
回廊と仏教の伽藍配置:
神社に回廊(例:春日大社の回廊)が設けられる例は、仏教寺院の伽藍配置(金堂や塔を囲む回廊)から影響を受けています。回廊は、聖域を区切り、参拝者が巡礼する空間を形成する点で、仏教の巡礼儀礼(右繞)と共通します。
例:石清水八幡宮の回廊は、仏教寺院の回廊に似た構造を持ち、神仏習合の影響が顕著です。
多重塔や楼門:
一部の神社に見られる楼門(二階建ての門)や塔は、仏教寺院の三門や多宝塔の影響を受けています。たとえば、厳島神社の大鳥居とともに見られる楼門は、仏教寺院の門の形式を取り入れたものと考えられます。
色彩と装飾:
神社の赤や黒の色彩、装飾的な彫刻(例:春日大社の朱塗りの柱や彫刻)は、仏教寺院の極彩色や彫刻技術の影響を受けています。仏教美術の華やかさが、神社の簡素なデザインに取り入れられた結果です。
3. 儀礼と仏教の影響
神道の儀礼や祭祀にも、仏教の影響が色濃く反映されています。
神仏習合思想:
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ):神道の神々を仏や菩薩の化身(本地)とみなす思想は、仏教の教義を基盤として発展しました。例として、八幡神(応神天皇)が大日如来の垂迹とされたり、伊勢神宮の天照大神が大日如来と結びつけられたりしました。
この思想により、神社の祭祀に仏教の読経や供養の要素が取り入れられ、神仏合同の儀礼が行われました。
仏教的儀礼の導入:
神社の祭りに仏教の法会(ほうえ)や供養の要素が組み込まれた例が多くあります。たとえば、祇園祭(八坂神社)は、仏教の疫病退散の祈祷(祇園信仰)に由来し、仏教の影響を強く受けています。
神仏習合の時代には、神社の祭祀に僧侶が参加し、仏教の経典(例:般若心経)を唱えることも一般的でした。
護摩や火祭り:
密教の護摩(火を焚いて祈祷する儀式)は、神道の火祭りや清めの儀式に影響を与えました。例として、修験道(仏教と神道の融合)の影響を受けた山岳信仰の神社(例:熊野三山)では、護摩焚きが行われることがあります。
4. 神像や美術と仏教の影響
神道は本来、偶像崇拝を避ける傾向がありましたが、仏教の影響で神像や美術が取り入れられました。
神像の導入:
神道では神を自然や抽象的な存在として祀るのが伝統でしたが、仏教の仏像彫刻の影響を受け、一部の神社で神像が作られるようになりました。例:春日大社の神像や、八幡神を表す僧形八幡神像(仏教の僧形像に似た形式)。
これらの神像は、仏教の仏像彫刻技術や様式(例:木彫や彩色)を基に制作されました。
絵画や彫刻:
神社の装飾や絵馬、曼荼羅には、仏教美術の影響が見られます。例として、熊野速玉大社の「那智の滝曼荼羅」は、仏教の曼荼羅形式を取り入れ、神道の聖地(那智の滝)を描いています。
仏教の絵画(例:仏伝図)に倣い、神社の神々の物語を視覚化した「本地仏画」や「神仏習合図」も制作されました。
狛犬と仏教の守護像:
神社の参道に置かれる狛犬は、仏教寺院の仁王像や獅子像(例:東大寺の金剛力士像)から影響を受けたと考えられます。狛犬は、神社を邪悪な力から守る守護獣として、仏教の守護像の役割を引き継ぎました。
特に、獅子(仏教では法を守る象徴)と狛犬のデザインは、仏教美術の影響を強く反映しています。
5. 神仏習合の思想と神社の運営
神仏習合は、神社の運営や組織にも影響を与えました。
僧侶による神社の管理:
神仏習合の時代、多くの神社は仏教寺院と一体化し、僧侶(別当僧や社僧)が神社の祭祀を管理しました。例:熊野三山は修験道の僧侶が運営し、仏教の儀礼を神社に導入。
例として、伊勢神宮の外宮に隣接する月夜見宮は、仏教寺院の影響を受け、僧侶が関与した時期がありました。
神宮寺の設置:
神社の境内や近隣に「神宮寺」と呼ばれる仏教寺院が建てられ、神道と仏教の融合が進みました。例:春日大社に隣接する興福寺、厳島神社に隣接する大聖院。
神宮寺では、仏教の法会や供養が行われ、神社の神々を仏教の枠組みで祀る儀礼が確立されました。
仏教的名称の導入:
神社の名称や神の呼称に、仏教的な要素が取り入れられました。例:八幡神を「八幡大菩薩」と呼ぶ習慣は、仏教の菩薩信仰の影響です。
6. その他の仏教の影響
暦と祭事:
仏教の暦(例:涅槃会や盂蘭盆会)に合わせて、神社の祭事が行われる例が増えました。例:お盆の時期に祖霊を祀る神道の祭りは、仏教の盂蘭盆の影響を受けています。
修験道と山岳信仰:
修験道は仏教(特に密教)と神道の融合から生まれ、山岳を神聖視する神道の信仰に仏教の修行や儀礼が取り入れられました。例:熊野三山や出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、修験道の中心地として神仏習合の影響が顕著です。
神社の名称:
一部の神社は、仏教的な名称や思想を反映した名前を採用しました。例:「大日霊貴尊(だいにちれいきそん)」のように、仏教の大日如来と結びつけた神の呼称が見られます。
仏教経典の使用:
神社の祈祷や祭祀で、仏教の経典(例:般若心経や法華経)が読まれることがありました。これは、神仏習合の儀礼の一環として、神々の加護を仏教の方法で祈願するものでした。
7. 具体的な神社の例と仏教の影響
以下に、仏教の影響が顕著な神社の例を挙げます。
春日大社:
隣接する興福寺との関係が深く、神仏習合の中心地。春日大社の神は、仏教の菩薩とみなされ、仏教的な儀礼が行われた。朱塗りの建築や回廊は、仏教寺院の影響。
春日大社の神像(仏教の仏像彫刻の影響)や絵馬に仏教美術が見られる。
八坂神社:
祇園信仰(牛頭天王=薬師如来の垂迹)に由来し、仏教の疫病退散の思想が取り入れられた。祇園祭は、仏教の法会と神道の祭祀が融合した例。
熊野三山:
修験道の聖地として、仏教の密教や浄土教の影響を受け、曼荼羅や護摩の儀式が行われた。本地垂迹説に基づき、熊野の神々は阿弥陀如来や観音菩薩と結びつけられた。
厳島神社:
仏教の大聖院と結びつき、仏教の儀礼や建築様式(楼門や多宝塔)が取り入れられた。厳島の神は弁財天(仏教の女神)と習合。
伊勢神宮:
伊勢神宮は神道の中心ですが、仏教の影響を受け、僧侶が参拝し、仏教的な祈祷が行われた時期がある。外宮の月夜見尊は、仏教の月光菩薩と関連づけられた。
8. 明治の神仏分離とその影響
明治時代(1868年)に発令された神仏分離令により、神道と仏教の融合は公式に禁止され、多くの神社から仏教的要素が排除されました。例:
神宮寺の廃止や仏像の撤去。
仏教的な神の呼称(例:八幡大菩薩)の廃止。
僧侶による神社の管理の終了。
しかし、神仏習合の影響は現代の神道にも残っており、たとえば狛犬や鳥居の構造、祭りの形式などに仏教の名残が見られます。
9. 結論
神道は仏教から多大な影響を受け、特に神仏習合の時代に鳥居、建築、儀礼、美術、思想の各分野で仏教的要素を取り入れました。鳥居はトーラナの影響を受け、聖俗の境界を示す構造として発展。神社の本殿や回廊は仏教寺院の建築様式を反映し、儀礼には仏教の法会や経典が組み込まれました。神像や狛犬、絵画などの美術も仏教の技術や思想の影響を受け、修験道や本地垂迹説を通じて神道と仏教が融合しました。これらの影響は、明治の神仏分離後も一部が残り、現代の神道の姿にも影響を与えています。
もし特定の神社や要素(例:春日大社の建築、祇園祭の詳細)についてさらに深掘りしたい場合、ぜひお知らせください!
神道が仏教に吸収されず、独自の宗教として存続した理由は、歴史的・文化的・社会的な要因が複雑に絡み合った結果です。以下に、神道が消滅せずに存続した主要な理由をできるだけ詳細に整理して説明します。
1. 神道の土着性と日本文化との深い結びつき
神道は日本固有の信仰体系であり、自然崇拝や祖霊崇拝を基盤とする土着の宗教です。この特性が、仏教の吸収を防ぐ要因となりました。
自然と地域社会との結びつき:
神道は、山、川、木などの自然物を神(八百万の神)として崇拝し、地域ごとの氏神信仰として根付いていました。この地域密着型の信仰は、仏教のような普遍的な教義よりも、生活や風土に深く根ざしており、仏教に完全に置き換えられることが難しかった。
例:伊勢神宮(天照大神)や出雲大社(大国主神)は、日本の神話や地域のアイデンティティと強く結びつき、仏教の影響を超越する存在感を持っていました。
祖霊崇拝と家族制度:
神道は祖霊を祀る信仰を持ち、家族や氏族の絆を強化する役割を果たしました。これは仏教の祖霊供養(例:お盆)と部分的に重なりつつも、神道独自の家や氏族中心の祭祀(例:氏神祭)が根強く残り、仏教に吸収されにくい基盤を提供しました。
神話と国家の物語:
『古事記』や『日本書紀』��記された日本神話は、天皇を中心とする国家の起源や正統性を裏付けるものでした。神道は天皇を「現人神(あらひとがみ)」として位置づけ、仏教にはない国家や民族のアイデンティティを支える役割を果たしました。このため、仏教がどれだけ普及しても、神道の神話的枠組みは維持されました。
2. 神仏習合による共存と適応
神道が仏教に吸収されなかった大きな理由の一つは、神仏習合という形で両者が共存したことです。神道は仏教を排斥するのではなく、融合させることで独自性を保ちました。
本地垂迹説の役割:
仏教の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により、神道の神々は仏や菩薩の化身(垂迹)として位置づけられ、仏教と神道が相互補完的に結びつきました。例:八幡神が大日如来の垂迹とされたり、熊野の神々が観音菩薩と結びつけられたりしました。
この思想により、神道は仏教の枠組みに取り込まれる形でありながら、独自の神々や祭祀を保持。仏教寺院(神宮寺)や僧侶が神社の管理に関与しても、神道の神々や儀礼は独立した存在として維持されました。
神社の物理的・文化的独立性:
多くの神社が仏教寺院と隣接しながらも、独立した聖域(例:春日大社と興福寺、厳島神社と大聖院)として存続。神社の祭祀や参拝は、仏教の儀礼とは異なる形式(例:神職による祝詞や神楽)で行われ、独自性が保たれました。
柔軟な適応力:
神道は教義や経典が固定化されておらず、仏教の教義や儀礼を柔軟に取り入れることができました。例:仏教の護摩や曼荼羅が神社の祭りに取り入れられたが、神道の核心(自然崇拝や神々の多様性)は変わらず、吸収されるリスクを軽減。
3. 天皇制との結びつき
神道は天皇制と密接に結びついており、これが仏教による完全な吸収を防ぐ決定的な要因でした。
天皇の神聖性:
神道では天皇を天照大神の子孫として「現人神」とみなす思想があり、仏教にはない国家の象徴としての役割を持っていました。仏教は天皇を保護者(護法者)として尊重しましたが、天皇の神聖性を神道の枠組みで説明する伝統が維持されました。
例:伊勢神宮は天皇の祖神(天照大神)を祀る中心的な神社であり、仏教の影響を受けつつも、神道の独自性を保持する場として機能。
国家儀式と神道:
即位の礼や大嘗祭など、天皇を中心とする国家儀式は神道の形式で行われ、仏教では代替できない役割を果たしました。これにより、神道は国家の宗教的基盤としての地位を維持し、仏教に吸収されることを防ぎました。
4. 仏教の限界と神道の補完性
仏教は高度な教義や哲学、死後の救済を重視する宗教ですが、日常的な生活や地域の祭祀には限界がありました。神道はこれを補完する役割を果たし、吸収を回避しました。
生活密着型の信仰:
神道は、農耕や漁業、子孫繁栄、厄除けなど、日常の生活に根ざした祈祷や祭りを提供しました。仏教は死後の供養や涅槃を重視する一方で、こうした現世利益の信仰は神道が担うことが多く、両者は役割を分担。
例:安寿台や子作安寿などの現世利益は、神社の参拝やお守りに強く結びつき、仏教寺院では代替しにくい。
地域の多様性:
神道は地域ごとの氏神や風土に応じた信仰を持ち、仏教のような統一的な���義や組織化が難しい側面がありました。この多様性が、神道の吸収を防ぐ分散型の強さを与えました。
5. 政治的・社会的な要因
政治や社会の構造も、神道の存続を支えました。
仏教の政治的影響力の限界:
仏教は奈良時代(例:聖武天皇の仏教重視)や平安時代に国家の宗教として隆盛しましたが、貴族や武士の間では神道の氏神信仰や天皇への忠誠が根強く、仏教が全てを支配することはできませんでした。
例:平安時代の藤原氏は春日大社を氏神として重視し、仏教寺院(興福寺)と並行して神道の祭祀を保護。
神職の独立性:
神社の神職(例:神主や禰宜)は、仏教の僧侶とは異なる役割を持ち、地域社会で独自の地位を確立。神仏習合の時代でも、神職は神道の儀礼を主導し、仏教への完全な従属を避けました。
6. 明治の神仏分離と神道の再生
明治時代(1868年)の神仏分離令は、神道を仏教から切り離し、国家神道として再編する転換点となりました。この時期に神道が消滅を免れた理由は以下の通りです。
国家神道の確立:
明治政府は神道を国家の公式な宗教として位置づけ、天皇を中心とする国家体制を強化。これにより、神道は仏教から独立し、むしろ仏教の影響を排除する方向に進んだ。
例:神仏分離令により、神宮寺が廃止され、神社から仏教的要素(仏像や経典)が排除され、神道の独自性が強調された。
国民のアイデンティティ:
明治時代に西洋の近代化に対抗するため、日本固有の文化や宗教として神道が再評価された。神道は「日本の精神」として国民のアイデンティティを支え、仏教に吸収されるリスクを完全に排除。
7. 神道の柔軟性と変容力
神道の教義や組織が固定化されていなかったことは、仏教との競合や吸収を回避する要因となりました。
教義の不在:
神道には仏教のような明確な経典や教義がなく、特定の教説に縛られずに地域や時代に応じて変化できた。この柔軟性が、仏教の体系的な教義に飲み込まれるのを防いだ。
例:神道は仏教の曼荼羅や護摩を取り入れつつ、独自の祝詞や神楽を保持。
儀礼の独自性:
神道の儀礼(例:祓い、祝詞、神楽)は、仏教の読経や法会とは異なる形式を持ち、仏教に置き換えられにくい独自の文化的価値を維持。
8. 結論
神道が仏教に吸収されず存続した理由は、以下の要因によるものです:
土着性:自然崇拝や祖霊信仰、地域の氏神信仰が日本人の生活や文化に深く根ざし、仏教では代替できない役割を果たした。
神仏習合:本地垂迹説や神宮寺を通じて仏教と共存し、独自性を保持。
天皇制:天皇を神聖視する神道の思想は、国家の基盤として仏教に吸収されなかった。
生活密着性:現世利益や地域の祭祀を担う神道は、仏教の死後救済と役割を分担。
政治的要因:神職の独立性や明治の国家神道の確立が神道を保護。
柔軟性:教義や組織の流動性が、仏教の体系に飲み込まれるのを防いだ。
これらの要因が相互に作用し、神道は仏教の影響を受けつつも独自の宗教として存続しました。明治の神仏分離により、仏教的要素が排除された後も、神道は日本の文化的・精神的基盤として現代まで続いています。
もし特定の側面(例:特定の神社の事例や神仏習合の詳細)についてさらに深掘りしたい場合、ぜひお知らせください!
神道と真言密教の関係は、日本における神仏習合(しんぶつしゅうごう)の歴史の中で特に密接で、相互に深い影響を与えながら発展してきました。真言密教(東密)は、空海(弘法大師)によって9世紀初頭に日本に伝えられ、その宇宙論、儀礼、美術、修行法などが神道に大きな影響を及ぼしました。一方、神道の土着的な信仰や神々の概念も、真言密教に独自の形で取り込まれました。以下に、神道と真言密教の関係がどのように推移してきたかを、歴史的経緯と具体的な影響を中心に詳しく説明します。
1. 初期の接触と神仏習合の形成(9世紀~10世紀)
真言密教が日本に導入された奈良時代末期から平安時代初期にかけて、神道と仏教の融合が始まりました。真言密教は特に神道との親和性が高く、以下のような形で関係が築かれました。
空海と神道:
空海は真言密教を日本に広める際、神道の神々を仏教の枠組みに取り込むことで、仏教の受容を促進しました。真言密教の宇宙論(曼荼羅や大日如来の思想)は、神道の八百万の神や自然崇拝と調和しやすく、神々が仏や菩薩の化身とみなされる「本地垂迹説」の基盤を形成しました。
例:空海は伊勢神宮の天照大神を大日如来と結びつけ、神道の最高神を真言密教の中心的な仏と習合させる理論を展開。これにより、伊勢神宮の参拝や神道の祭祀に仏教的要素が導入された。
神宮寺の設置:
真言密教の寺院が神社の近くに建てられ、「神宮寺」として神道と仏教の融合が進んだ。例:熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)には、真言宗の僧侶が管理する神宮寺が設けられ、真言密教の儀礼(護摩や曼荼羅供養)が神社の祭祀に取り入れられた。
真言密教の儀礼の導入:
真言密教の護摩(火を使った祈祷)や加持祈祷は、神道の祓いや祈祷と結びつき、神社の祭祀に取り入れられた。特に、密教の呪術的な要素は、神道の現世利益(厄除けや病気平癒)の信仰と相性が良く、広く普及した。
2. 神仏習合の深化(11世紀~14世紀)
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、神仏習合がさらに進展し、真言密教は神道の思想や実践に大きな影響を与えました。この時期、神道と真言密教の関係は以下のように推移しました。
本地垂迹説の体系化:
真言密教の曼荼羅思想に基づき、神道の神々が仏教の仏や菩薩と体系的に対応づけられた。例:
天照大神 → 大日如来
八幡神 → 阿弥陀如来または薬師如来
熊野の神々 → 観音菩薩や薬師如来
この対応により、神社の参拝や祭祀が仏教の儀礼と一体化し、真言宗の僧侶が神社の祭祀を主導する例が増えた。
修験道の興隆:
真言密教は修験道(山岳信仰と仏教の融合)に大きな影響を与え、神道の山岳信仰と結びついた。例:熊野三山は修験道の聖地となり、真言宗の僧侶が山岳修行を行い、神道の神々と密教の仏を一体として祀った。
熊野の曼荼羅(例:那智の滝曼荼羅)は、真言密教の曼荼羅美術と神道の聖地崇拝が融合した例であり、両者の密接な関係を示す。
神社の建築と美術への影響:
真言密教の曼荼羅や仏像彫刻の技術は、神社の建築や美術に影響を与えた。例:
神社の本殿や回廊に、仏教寺院の装飾的な要素(極彩色や彫刻)が取り入れられた。
春日大社の神像や絵馬は、真言密教の仏像や仏画の様式を反映。
真言密教の象徴的なモチーフ(例:蓮華や金剛杵)が、神社の装飾や祭具に取り入れられる例も見られた。
密教的儀礼の普及:
真言密教の護摩や密教経典(例:金剛頂経)の読誦が、神社の祈祷や厄除けに導入された。例:石清水八幡宮では、真言宗の僧侶が護摩焚きを行い、八幡神の加護を祈願。
真言密教の「即身成仏」の思想は、神道の神々の神聖性を高める理論的支えとなり、神々が仏教の悟りの象徴として再解釈された。
3. 室町時代から戦国時代(15世紀~16世紀)
この時期、神道と真言密教の関係はさらに深化し、地域の神社や修験道を通じて多様な形で展開しました。
地域の神仏習合:
地方の神社でも、真言密教の影響が顕著に現れた。例:出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、真言密教と修験道の影響を受け、山岳信仰の中心地として神仏習合の聖地となった。
真言宗の僧侶が地方の神社の管理に関与し、仏教的儀礼を地域の祭りに導入。例:護摩焚きや密教の咒(じゅ)が、神社の祓いや祈祷に取り入れられた。
両部神道の萌芽:
真言密教の両部曼荼羅(胎蔵界と金剛界)の思想が神道に取り入れられ、「両部神道」という形で体系化され始めた。これは特に室町時代に顕著で、伊勢神宮や熊野三山で真言密教の影響を受けた神道理論が発展。
例:両部神道では、天照大神が胎蔵界の大日如来、豊受大神が金剛界の大日如来と対応づけられ、神道の神々が密教の宇宙論に組み込まれた。
4. 江戸時代の展開(17世紀~19世紀)
江戸時代には、神仏習合が制度化され、真言密教と神道の関係は安定した形で続きました。ただし、純粋な神道の復興を求める動きも現れ、後の神仏分離に繋がる兆しが見られました。
真言宗の神道への影響の継続:
真言宗の寺院は、神社の管理や祭祀に引き続き関与。例:高野山(真言宗の本山)は、神道の神々(例:丹生都比売神)を祀る高野明神社を擁し、神仏習合の中心地として機能。
真言密教の儀礼(護摩や加持祈祷)は、神社の祭りや国家の安泰を祈る儀式に組み込まれた。
両部神道の発展:
両部神道は、江戸時代にさらに理論化され、真言密教の思想が神道の教義形成に影響を与えた。例:伊勢神宮の神職が真言密教の影響を受け、密教的な解釈で神道の儀礼を体系化。
真言密教の「即身成仏」の思想は、神道の神々の神聖性を高め、参拝者に現世での悟りや加護を約束する形で取り入れられた。
国学と神道の復興:
江戸時代後半、国学(本居宣長や平田篤胤ら)の台頭により、仏教の影響を排除し、純粋な神道を復興する動きが現れた。真言密教の影響を受けた両部神道は批判の対象となり、神道の独自性を強調する動きが強まった。これは後の神仏分離の伏線となる。
5. 明治の神仏分離とその影響(19世紀後半)
明治維新(1868年)以降の神仏分離令は、神道と真言密教の関係に大きな変化をもたらしました。
神仏分離の影響:
明治政府は神道を国家の宗教(国家神道)として位置づけ、仏教的要素を神社から排除。真言宗の神宮寺は廃止され、僧侶による神社の管理が終了。例:熊野三山の神宮寺や高野山の仏教的要素が排除された。
真言密教の儀礼(護摩や曼荼羅供養)は神社の祭祀から排除され、神道は祝詞や祓いを中心とする純粋な形式に戻された。
真言密教の影響の名残:
神仏分離後も、真言密教の影響は神道の儀礼や美術に部分的に残った。例:
狛犬や神社の装飾には、密教の守護像や曼荼羅の影響が残る。
修験道の伝統は、現代の山岳信仰(例:出羽三山や熊野参詣)に受け継がれ、真言密教の要素が間接的に存続。
高野山や比叡山(天台宗と密接な関係)では、神道と仏教の交流が非公式に続き、真言密教の影響が地域の信仰に残った。
6. 現代における神道と真言密教の関係
現代では、神仏分離により神道と真言密教の公式な関係は薄れたものの、歴史的・文化的な影響は以下のように続いています。
修験道と地域信仰:
修験道は真言密教と神道の融合の名残として、現代でも山岳信仰の形で存続。例:熊野三山や出羽三山では、真言密教の護摩や修行が神道の聖地と結びついて行われる。
美術と文化:
真言密教の曼荼羅や仏像彫刻の影響は、神社の装飾や神像に間接的に残る。例:春日大社の神像や熊野の曼荼羅は、密教美術の影響を現代に伝える。
民間信仰:
民間信仰では、真言密教の呪術的要素(例:加持祈祷や護符)が、神社の祈祷やお守りに影響を与え続けている。例:病気平癒や厄除けの祈祷は、密教の伝統と神道の祓いが融合した形で行われることがある。
7. 結論
神道と真言密教の関係は、以下のように推移してきました:
平安時代:空海による真言密教の導入と本地垂迹説により、神道の神々が仏教の仏と結びつき、神仏習合の基盤が形成。神宮寺や護摩が神社の祭祀に導入。
鎌倉~室町時代:修験道や両部神道を通じて、真言密教の曼荼羅や儀礼が神道に深く浸透。熊野三山や石清水八幡宮がその中心。
江戸時代:両部神道が体系化される一方、国学の台頭で仏教の影響を排除する動きが現れる。
明治時代:神仏分離により真言密教の影響が公式に排除されるが、修験道や美術に名残が残る。
現代:修験道や民間信仰を通じて、真言密教の間接的な影響が継続。
真言密教の宇宙論、儀礼、美術は、神道の思想や実践を豊かにし、神仏習合を通じて共存しました。神仏分離後も、その影響は修験道や地域信仰、美術に残り、現代の神道に間接的に息づいています。
もし特定の時期や事例(例:熊野三山の修験道や両部神道の詳細)についてさらに深掘りしたい場合、ぜひお知らせください!
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英雄 Герой
英雄は成りたくて成る物では無い。民衆に認められて、初めて成れる物。 己の信じる正義を貫き通し、驕らず。他人の為、善意に務める。 眩ゆいばかりのその麗しき勇姿。人々の目に強く焼き付き、いつしか英雄と呼ばれる様に成る。 こうして英雄伝説は始まる。
汝、強さを示せ。茨の道へ続く門は目の前。 汝、妾の前で力を示せ!
どんなに苦しい時も、どんなに困難な時でも、挫けず、前を向き続ける精神力。 どんな相手にも礼儀を欠かさず、謙虚に振る舞う忍耐。 強敵を打ち破る強さ。真の英雄の有るべき姿。 勇者やら英雄と自ら名乗る者、それは紛い物に過ぎん! 驕り、他人を見下し、踏み躙る不届者。いわゆる悪党証票が実態。 正義を成し、理不尽と戦い、流されず、驕らず、自ら茨へ突き進む。 民衆に尊敬され、英雄と崇められる。それこそう真の英雄の勇姿で有る。
汝、妾の問いに答えよう。英雄とは何だ? <>
Не можна стати героєм лише тому, що ти цього хочеш. Ним можна стати лише тоді, коли тебе впізнають люди. Дотримуйтесь справедливості, у яку вірите, і не будьте зарозумілими. Прагніть до добра інших. Твоя сліпуча, прекрасна, відважна постать буде палати в очах людей, і не встигнеш помітити, як тебе назвуть героєм. Так починається легенда про героя.
Покажіть свою силу. Ворота на тернистий шлях прямо перед вами. Покажіть свою силу переді мною!
Душевна сила не здаватися і продовжувати дивитися вперед, незважаючи на те, наскільки важкі чи важкі часи. Терпіння бути ввічливим до всіх супротивників і поводитися смиренно. Сила перемогти сильного ворога. Таким має бути справжній герой. Ті, хто називають себе сміливими чи героїчними, не що інше, як підробки! Зарозумілий, дивиться на інших зверхньо і топче їх. Це те, що відомо як сертифікат лиходія. Досягайте справедливості, боріться з несправедливістю, не піддавайтеся, не будьте зарозумілими і продирайтеся через терни. Вас будуть поважати люди і поклонятися як герою. Це хоробрість справжнього героя.
Ви відповісте на моє запитання. Що таке герой? <>
You can't become a hero just because you want to. You can only become one when the people recognize you. Stick to the justice you believe in and don't become arrogant. Strive for the good of others. Your dazzling, beautiful, brave figure will burn into people's eyes and before you know it, you will be called a hero. And thus begins the legend of a hero.
Show your strength. The gate to the thorny path is right in front of you. Show your strength before me!
The mental strength to not give up and keep looking forward, no matter how hard or difficult the times. The patience to be polite to all opponents and behave humbly. The strength to defeat a strong enemy. This is what a true hero should be like. Those who call themselves brave or heroic are nothing but fakes! Arrogant, look down on others, and trample on them. This is what is known as a villain certificate. Achieve justice, fight against injustice, do not be swayed, do not be arrogant, and push yourself through the thorns. You will be respected by the people and worshiped as a hero. That is the bravery of a true hero.
You will answer my question. What is a hero?
<>
#hero#only#people#recognize#justice#believe#arrogant#brave#figure#eyes#legend#strength#gate#thorny#front#mental#give#matter#difficult#patience#polite#enemy#fake#villain
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写真家のレクイエム、木村恵一さんを追加致しました🙏
【引用元】
皆様方、如何お過ごしでしょうか?
私は、暫く写真アルバムを整理しておりました。
全くもって嬉しい限り、大感激です。
日々、更新して参りますので、ご一読くださいませ。
そう、木村恵一さんの有りネガ🎞️を思い出しました。
渡辺義雄、吉川富三両先生もご一緒させて頂きました。
本当に大感謝、厚く御礼申し上げます。
日を改めてお披露目致しますので、何卒宜しくお願い致します。
木村恵一さんのご冥福を、この場をお借りして、慎んでお祈り致します🙇🏻
それでは、また🙏
西暦 <故人一覧>
2025年
写真家 木村恵一
2025年3月4日 89歳
2024年
写真家 篠山紀信
2024年1月4日 83歳
写真家 細江敏広
2024年9月16日 91歳
2023年
写真家 エリオット・アーウィット
1928年7月26日〜2023年11月29日 95歳
写真家 池田大作
2023年11月15日 95歳
2022年
風景写真家 竹内敏信 2月27日(日) 78歳
報道写真家 三留理男 3月22日(火) 83歳
山岳写真家 白川義員 4月5日(火) 87歳
報道写真家 田沼武能 6月1日(水) 93歳
女性報道写真家 笹本恒子 8月15日(月) 107歳
モード写真家 ウィリアム・クライン 9月10日(土) 96歳
民俗写真家 芳賀日出男 11月12日(土) 101歳
山岳写真家 岩橋崇至 11月28日(月) 78歳
2019年
小沢 健志
1925年1月9日〜2019年7月4日
白簱 史朗
1933年2月23日〜2019年11月30日
2018年
デビッド・ダグラス・ダンカン
1916年1月23日〜2018年6月7日
2010年
藤井 秀樹
1934年8月28日〜2010年5月3日
2009年
アーヴィング・ペン
1917年6月16日〜2009年10月7日
2008年
コーネル・キャパ
1918年4月14日〜2008年5月23日
2005年
吉岡 専造
1916年12月15日〜2005年5月2日
2004年
ヘルムート・ニュートン
1920年10月31日〜2004年1月23日
アンリ・カルティエ=ブレッソン
1908年8月22日〜2004年8月3日
リチャード・アヴェドン
1923年5月15日〜2004年10月1日
2003年
秋山 庄太郎
1920年6月8日〜2003年1月16日
レニー・リーフェンシュタール
1902年8月22日〜2003年9月8日
2000年
渡辺 義雄
1907年4月21日〜2000年7月21日
1994年
ロベール・ドアノー
1912年4月14日〜1994年4月1日
1992年
三木 淳
1919年9月14日〜1992年2月22日
1990年
土門 拳
1909年10月25日〜1990年9月15日
1984年
アンセル・アダムス Ansel Easton Adams II
1902年2月20日 - 1984年4月22日 アメリカの写真家 享年83歳
1978年
ユージン・スミス
1918年12月30日〜1978年10月15日
1976年
マン・レイ(Man Ray)
1890年8月27日〜1976年11月18日
1974年
木村 伊兵衛
1901年12月12日〜1974年5月31日
1962年
名取 洋之助
1910年9月3日〜1962年11月23日
1954年
ロバート・キャパ
1913年10月22日 - 1954年5月25日
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2024年度 学内演奏会 − 作曲
【日時】2024年11月15日(金)・19日(火) 各日14:00開演(13:30開場)
【会場】東京藝術大学奏楽堂 入場無料
【プログラム】

11月15日(金) − 第1日 −
1. 島田大敬:《Flutter Echo II》
Cond.:佐久山修太 Fl.:井上詩歩 Fl.:西谷あゆみ Cl.:栗山かなえ Cl.:寺崎杏花 Tp.:伊賀公亮 Tp.:須永仁季太 Perc.:但馬馨 Perc.:齋藤龍 Hrp.:小門萌美 Vn.:長谷川もも Vn.:大久保薫子 Vla.:浅野珠貴 Vla.:帆足なずな Vc.:矢野耕我 Vc.:梶原拓真 Cb.:沼田歩未那 Cb.:丸地郁海
2. 後藤花乃子:《Meow-awoo for string quartet》
Vn1.:中川紗優梨 Vn2.:石塚万菜 Vla.:山口絵眞 Vc.:宮澤結生
3. 井上矢眞人:《Humpback Whale》
Cl.:石田理雄 Bsn.:山縣由布夏 Perc.:但馬馨 Vn.:中川紗優梨 Vc.:谷川萌音
4. 大悟法はな香:《日比谷-「彼」と5人の奏者のための-》
Ten.:菅沢雄星 Fl.:古川真朱 Tp.:伊賀公亮 Perc.:村田倫樹 Pf.:橋本朗花 Cb.:スコット・ルーカス
5. 福本行太:《とけあうように》
ond.:岡崎広樹 Vc.:谷川萌音 龍笛:南菜央美 龍笛:後藤宣裕 龍笛:熊井戸啓貴 笙:青木総喜 笙:川上彩子 笙:福本行太 篳篥:阿部三世子
11月19日(火) − 第2日 −
1. 中村陽太:《Entropy imitation / Yakiniku pool》
Performer(fem.):北見エリナ Performer(mal.):藤田魁人 Perc.:松下真奈 Pf.天野由唯 Vn.:佐藤文香 Vla.:山本義継 Vc.:谷川萌音 Cb.:桑原孝太郎
2. 小松里菜:《Not one person, not everyone》
Cond.:伊東新之助 B.Cl.:石田理雄 Perc.:村瀬芽生 Hp.:三河茉莉絵 Vc.:谷川萌音
3. 小沼竜之:《Nemo for contrabass flute, harpsichord, and six players (the group of bass instruments, piano and harp)》
Cond.:西村広幸 Cb.Fl.:大島快晴 Cb.Cl.:内山ちまり Bsn(C.Bsn.):加地佑唯 Trb.:古市礼音 Pf.:佐伯日菜子 Hrp.:仲田萌 Cemb.:ウィットマー・カリッサ Cb.:桑原孝太郎
4. 島村崇弘:《印刷機へのオマージュ Hommage à l'imprimerie》
Vn.:清水伶香 Cl.:石田理雄 Pf.:島村崇弘
5. 橋本朗花:《蝶》
Cond.:伊東新之助 Counter Ten.:長谷川大翔 Mezzo Sop.:下田一葉 Cl.(B. Cl.):石田理雄 Perc.:村田倫樹
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--深海人形-- 渡る格ゲー解説は専門用語ばかり
※暴れ、固め、崩し、択、削りダメージ、当身技、キャンセル、避け攻撃、上半身無敵、ずらし入力、ディレイ入力、起き攻め、小足、中足、めくり、投げ抜け、中段、確反、下段
※閲覧&キャラ崩壊注意
※雑多にネタをぶち込み
※後半クロスオーバー注意
…セクシーコマンドー vs. キャプテンコマンドー……、滅茶苦茶見たい……頼みましたよーー!!!ふえ科!!!!(※拙者達に丸投げすんなYO⭐︎ ※ジャンカプ妄想)。
…。
世界を変えた日本の発明品:対戦格闘ゲームと言うゲームジャンル(※大真面目)。
…。
…コ〜ディ〜〜……早く実装して……しなくても良いよ?(※冷たい掌返し)。…寧ろ、コーディーより京サマ実装してクレメンス(※ネオジオ勢による熱い裏切り)。
…。
ずっと前から、レトロ格ゲーでキャッキャしてたけど、最新格ゲーに全然ついて行けない事が悲し過ぎる。感情と心が終わった。其れでも、今の格ゲー界隈はマジで再興期。…喜びが過ぎて体に悪い位に。だけど、何で新しいコンテンツとか気風についていけないだけで、此んなに、悲しくなるんだろうね。…と言うか、今の、最新の格ゲーが最高と言うか再興期過ぎるのが原因(※今迄が暗黒停滞期過ぎただけかもしれないが)。
…。
ゼーガペインは某誰かに凍結させられたアカウントのフォロワーが大好きで、其の方が何度も何度も見てると言って居たアニメなんですが、ワイも陽昇アニメで一番好きかもしれん。確かに、あんなに素晴らしいアニメ、最早、ラブラとかあいかつとかガソダムなんて目じゃ無い(※ほぼ言い過ぎ)。
…。
ゼーガペイン、陽昇史上最高峰のアニメでは?(※惚れ過ぎ)。
…。
クロスアンジュが製作会社の本心から作りたかったアニメなら、ゼーガペインは製作会社の良心と道徳心が形になったアニメ。正直、前者の方が面白いし、売れるし、オタクからも歓迎される。でもワイは後者の方がずっと良いです。あんなにも、難解で、世界自体が何してるか分からんアニメは、大衆ウケしないとか、海外で売れないとか其んな事如何でも良い。この世とこの世で過ごす人生が嫌いな人間に好かれれば良い。そう言うアニメ。
…。
ゼーガペインでモスピーダとラーゼフォンのヘミソフィアを思い出すワイ(※少数派)。
…。
※以下、FEXL辛口批評注意
スト6、有料DLCとは言え、テリー本体だけでも十二分の品質(クォリティー)なのに、其のテリーについて来るおまけと言ったら至極失礼な位の追加要素が豪華過ぎるモンな、ハワード(※…だから、何方のハワード?)も居るし、何なら、あのハリケーンアッパーのパンツ(尻)迄居るしな、恐ろしい充実振りよな、ガソダムで言ったら、天パ本人のおまけとして、WB本体とおっちゃん達付きでWB隊丸々NPC実装される様なモンじゃないかな、贅沢過ぎるよな?…此れ(※其の点FEXLは…… ※目を逸らす)。
FEXLのテリーが、キャラ性能と原作再現度が高くなる様に丁寧に作られて調整されて居ようが、結局、何故、FEXL界隈外から、ぶっちゃけ如何でも良い、つまらない判定受けてるかと言うと、テリーの魅力は、彼を取り巻く人間関係とテリーが本来持つ出生と過去の暗さ、復讐劇にあるのに、其れ等の要素がFEXLから、完全排除、ガン無視されて居るからですよね?(※…折角のタイアップなんだから、義弟か其の彼女か養子の名前位はチラ見せしようや……?)。
だから(※FEXL自体の不人気振りもあって)、すぐに、飽きるプレイヤーが続出したのだと思う(※然も、肝心のゲームは、酷く中身薄いし……)。
そして、FEXLなんてのが、スト6の、其の『伝説の狼(元復讐鬼)』が元来持って居る魅力的なキャラ背景と非常に豊かな人間関係をフル再現&フル活用して作り上げられた高品質極まりないテリー(本体)と素敵な追加要素達に、太刀打ち出来る訳が無い(※現実を見て、どうぞ ※迫真)。
又、ガソダムに例えると、天パとか言う奴は、如何足掻いても、赤いあれ、WB隊の人(※特に、天パを何度も殴った人)達、おっちゃん、御ニュー、胚乳、せーらさん、ベルチありきの存在な訳です。
…其う言うのが全然無い天パって、最早、本人の本人たる設定ガン積み&人間関係フル実装バーボンさん未満の存在では無いでしょうか?(※…其れと、彼方も彼方で人間関係と個性ガン積みだよね)。
もっと分かり易く書くと、「…『天パと其の愛機達』だけを実装されたらつまんねぇよ!一から考え直してくれ!!(※赤いあれとかも出せ!)」…って事です(※矢張り、少しだけでも出すと違う、エンディングにチラッと出す程度でも、パンチラ並に効果ある)。
…最後に、スト6でテリー・ボガードと言うキャラの美味しい所、肝心な所を実に豪快に丸ごと具現化して作って実装して下さった方々には、只管、感謝感謝只管感謝超感謝で、頭が上がりません。
真逆、愉快な背景とサウスタウンの餓狼達込みで来るとは思っても居ませんでした。
本当に御疲れ様です。
…。
…意外に思われるかもしれないけど、テリーの趣味はビデオゲームです(※初期からずっと其う)。
…。
ワイは、瞬獄殺の事を神聖な奥義(技)だと思って居る節があるので、妄りに出したく無いです(※ダークネスイリュージョンは違う)。
…。
崇秀「帝王拳は全ての格闘技の源流。貴方達の格闘技は、ただの赤子同然ですよ(※餓狼龍虎基礎設定)��」
風雲拳「じゃぁ、俺達の風雲拳も帝王拳が元祖って訳だな!(※…うぉおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!)。」
崇秀「は、はぁ……(※頭抱える)。」
…。
シロカスが作った格ゲーを作った時にありがちな事
ほぼサイバーボッツ(※確定事項)。
デバッグしてくれる友達が居ない(※深刻な問題)
…。
呪術廻戦完結おめでとうございます
今迄の過酷な連載、大変御疲れ様でした。今後の展開にも期待して居ります(※アニメとかゲームとかスピンオフとかコラボとか)。
…。
※クロスオーバー?注意
こf98(UM)援護攻撃ネタ
援護する
MSオタの浦木君→ガトカス 助けに来る確率100%
シロカス、野獣大尉→ガトカス 50%
バーニィ→ガトカス 50%
バーニィ→シロカス、野獣大尉 50%
スイカバー→野獣大尉、サラ 100%
サラ、野獣大尉→シロカス 100%
サラ→野獣大尉 100%
野獣大尉→サラ 100%
35歳おばさん中佐→バーニィ 100%
バーニィ→35歳おばさん中佐 100%
助ける理由一覧
浦木君からガトカス
「彼奴は、本当は、良い奴だから(※…詳しくは、本編参照)。」
バーニィからガトカス
上官的存在だから、一応(※其うは言うが、根っからの善人なので大抵の味方なら援護する)。
シロカスと野獣大尉からガトカス
何だか面白い奴だから(※互いの所属は気にしない)。
シロカスと野獣大尉から浦木君
頼りない後輩(?)を放って置けないから(※出来るなら舎弟にしたい)。
中佐からバーニィ
放って置けないから(※ある種の母性)。
援護しない
ガトカス→シロカス
ガトカス→野獣大尉
ガトカス→バーニィ
ガトカス→35歳おばさん中佐
35歳おばさん中佐→ガトカス
ガトカス→MSオタの浦木君
※結論:ガトカス=人の屑(※確信)。
別枠 ヌーベルジオンチーム(※何時の間にかこf本戦出場)。
ハミャミャーン様→シロカス 助けない
赤いあれ→シロカス 助けない
ハミャミャーン様→赤いあれ 100% 助ける
赤いあれ→ハミャミャーン様 50%
シロカス→ハミャミャーン様 100% 助ける
シロカス→赤いあれ 50%
…。
※クロスオーバー注意
※ヌーベルジオンチームこf本戦出場
※もうヌーベルジオンは、いっその事、こfに出ちまえば良い(?)と言う事で描いたネタ(※ラスボスが大概チート性能か上位存在のあれ)。
本戦開会式
※チームのリーダーが各々のチーム名が書かれたプラカードを持ちながら各チームが入場
※…因みに、ヌーベルジオンチームでプラカード持ってるチームリーダーは、元ノースリーブグラサンだった赤いあれ
新気鋭チームを見た常連出場者達が、早速、彼等を見て話をはじめた。
「あのチームが、新しく予選を勝ち抜いた新気鋭の格闘家か…。早く戦ってみたいぜ。」
(…私達の本職は、格闘家では無いのだが……)
(私を含めて、政治家と俗物しかいないぞ此のチーム……)
(早く帰って遊びに行きたい……)
…相変わらず、某木星帰りは空気が読めて居ない。
更に、未だ未だ、会場各地にて新参達の話題が盛んに話される。続く。よくもまぁ飽きもせず。皆興味振々に。
「アハハハハ♪あの人達、随分スキモノだね♪」
「良いメンツ。戦い甲斐がありそうね。」
「凄い奴等だ。本戦出場とは。まぁ、優勝は無理だな。途中で心も折れるだろうよ。」
「良いね!新参チーム!虐め甲斐があるよ!」
「完全な新参なんて珍しいね。でも、流石に優勝は出来ないか……。可哀想。」
「ふん。又、新手の奴等が湧いて来たか!精々生半可な新参らしく惨めに傷め付けられて頑張るが良い。」
「あの新気鋭チームの二人、明らかに悪人ですね!我が誇り高き正義センサーが其う反応していますから!」
「あのチームが、今大会初出場の新参さん達なんか?……何かワイらと根本から毛色違う気がするで。」
「其うだな。ロバート。見た感じ、何かの一族とか格闘家とか軍人とかでは無さそうだ。本当に俺たちと系統が違う気がするぞ。」
「チョット!チョット!そんなの関係無いッチ!対戦相手が何処の異世界から来ようと、ユリちゃんには関係無いッチ!道場とお兄ちゃん、お父さんの為にも、只勝つのみッチよ!」
「…………。」
「良いか。…なぁ、どうか、ロバートの為にも戦ってやってくれ。」
…、
其んな感じで、新参チームに対する感想は、観客達他を含めて、開会式全体で絶えない。
そして、(…然し、まぁ……)…と、本戦出場者&観客達他の気持ちを、大雑把にながら、大体読み取った其の後、普段は仲がマジで悪い筈の三人は、----如何言う風の吹き回しなのだろうか?----一緒に顔を突き合わせて頷く。
「此んな鬼畜難易度のマンネリ地獄みたいな大会の本戦に出場するなんてあのチーム凄い!!!!!…でも、どうせ彼奴等は優勝出来ないだろ、みたいな顔を次々されても……。」
「如何やら、観客達を含めて、私達は余り出場を歓迎されて無いらしい。」
「其れ程に新参が珍しいか。何処迄も能天気な連中だ。」
…、
他方、ヌーベルジオンチームの割りかし遠くの所で此の様な会話があった。
「なぁ、京……、…彼奴等……何かのロボットアニメに居なかったか?」
其う、とある、常連所か出場皆勤賞の美形が、日輪が背中にド派手にプリントされた黒いジャケットを着た美青年に言う。
そして、其の聞かれた青年は此う答える。
「俺に訊くなよ、知らねぇよ。ロボットアニメになんて興味無ぇよ。」
「…はぁ……、御前に訊くの間違いだったわ。」
「其りゃ間違いだよ。俺はお前みたいなオタクじゃねぇんだから。俺の所為じゃねぇよ。全部テメェの所為だぜ。紅丸。」
「でさ、なぁ、京。俺の嫌いなものは何か覚えてるか?」
「俺の様なポエマー?」
さて果て、此うして、毎度御馴染みの格闘大会は、ぐだぐだと開幕して行くのであった。
〜fin.
…。
※毛走がこfを嫌いな理由:「常連チームのメンバー同士で馴れ合っている様子が気に入らない」
※開会式前
「ヌーベルジオンチーム?今回が初出場みたいね。」
「久々に新参か?珍しいな。」
「普通に嬉しいね。戦う相手が何時もの常連ばっかりで、ウンザリしていた所だよ。早く御手並拝見したいな。」
毛走「嫌な奴等だ……。此れだから、俺は、此の大会が本当に嫌いなんだよ。」
※分かる(※迫真)。
…。
※チームエディットシステム未実装の場合
プレイヤー「大門いらねぇ……。」
プレイヤー「シロカスいらねぇ……。」
…尚、4on4対戦がデフォルトの音巣対編基準だと、ガトカスが駆り出される模様(※…尚チームの名前を変えて、暇を持て余している ※大抵持て余して無い 他の奴がチームメンバーとして参戦して来る事もある模様)。
※没? ※誰もUniverse世紀ダム知らない場合
其の時、とある、日輪が背中にド派手にプリントされた黒いジャケットを着た美青年が其う言う。「…彼奴等、美男美女の集まりなチームだから、面食いと美少女好きには、もう一定数の支持を得ては居るな。其れが無くても、下手したら強力な対戦相手になるかもしれねぇぞ。」
…其処で、常連所か出場皆勤賞の美形が此う返す。「いいや、それは無いね。俺が一番人気者として強いし。…其れに、まぁ、あの男二人よりずっと俺は美形(ハンサム)だし、あのピンク髪の御嬢ちゃんのハートは俺の物だしな!」
「勝手にしてろ。」
…。
ヌーベルジオンチームのホームステージでは、敵対勢力同士が、普通に共存してる(※こfシリーズお馴染み背景キャラ、エンディング登場限定キャラとして)
…そして、ハミャミャーン様試合中の時にだけ、熱心にサイリウム振ってる奴居たら其奴がマシュマー(※其れ以外の時は、何時もの薔薇を持ってすまし顔で観戦してる)。
…。
ヌーベルジオンチームは、何れだけ、ニュータイプ力(ぢから)駆使しまくろうが、如何足掻いても、投げキャラ(※某怒の少佐、シェル美さん、デーモン五郎辺りに)に、三タテされるのがオチだと思う(※優勝は不可能)。もし、ラスボス倒してチームエンディングがあったら、某空手道場経営一家の副業と其の一家の暴走、奔放振りに振り回される、大変気の毒な門下生の上澄みたいな感じのガトカスか、野獣大尉か、マシュマーが見れる(※…んじゃないですかね? 適当)。
…。
※本戦出場ネタ無し
シロカスは、京サマとルガを同族嫌悪の対象として居る感じ(※後者二人も一握りの天才ですから)。
…。
カプエスシリーズ風掛け合い
京サマ「本当の天才ってのは、努力しなくても天才なんだぜ。」
シロカス「裏で鍛錬づくめの人間が天才を名乗るとはな。つくづく御苦労様な事だ。」
京サマ「他人の心を読みやがって……テメェ、妖怪サトリか何かか?。」
…。
餓狼「今度対戦しようぜ!Kizuna Encounter(風雲スーパータッグバトル)でな!」
シロカス「OKだよ。君とゲームが出来て光栄だ。」
…。
麻宮さん「同じ超能力者として、その力、正義の為に使いましょうよ!」
シロカス「レディ アテナ。残念ながら、此れは超能力では無いのです。」
…。
ルーク「アンタFPSやTPSもやるんだな!今度対戦してくれよ!」
シロカス「そうだな。良いだろう。」
…。
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埼玉県佛教会 加須支部 鎌倉研修@大本山建長寺
爽やかな陽気と相成り、あじさいの花咲く観光の方も沢山にぎわう時期となりました。
このたび、宗派を越えたお付き合いで加須支部長 浄土宗聖徳寺和尚様はじめ、真言宗和尚様方と鎌倉研修に行って参りました。
現在の建長寺の山門(三門)は、1775年(安永4年)、開山の蘭渓道隆禅師の五百年忌に当たり、第201世 万拙碩誼(ばんせつせきぎ)禅師によって再建されたものです。
建長寺大工の河内長兵衛が棟梁を務め、「建長興国禅寺」の大扁額をかけるため、上層に軒唐破風が設けられました。
三間二重門としては東日本最大の規模を誇ります。
楼上には、釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢が安置されています。


到着茶礼にて少々休憩です。


建長寺総長様よりご挨拶とお話を賜ります。
また、教学部長様より建長寺の歴史や文化を学びます。


方丈にて座禅も体験し心静かに呼吸に集中して参ります。

唐門は、徳川家の菩提寺増上寺の崇源院御霊屋(おたまや)の中門だったもので、1647年(正保4年)に仏殿や西来庵中門とともに建長寺へ移築されました。
2011年(平成23年)に保存修理が完了し、全面に飾金具が付けられていた華美な姿が復元されています。








鎌倉にある建長寺を開山された大覚禅師が好んだ言葉
「福山は揮(すべ)て松関を掩(と)じず
無限の清風来たりて未だ已(や)まず」
一切の制「限」を「無」くし
ただ「清」らかな「風」のみを感じれば心は開放される
修行者にも一般の人にも 老若男女 あらゆる人に対して
福山はいつでも門戸を開いている
という意味です。
来るものは拒まず 去るものは追わず
たとえ「自分には合わない」と去る者がいても引き留めることはしません。
私たちの周りにも この「無限の清風」が吹いています。
それは偶然の出会いや出来事となって現れます。
でも 心の窓を閉じると入って来ません。
大切なご縁も気づかずに通り過ぎてしまいます。
幸せは開かれた心にのみ舞い降ります。
今の世の中
メール SNS 携帯電話 コンピューター ヘッドフォンなど
心は常に何かに集中しています。
時には必要かもしれませんが
「集中」が「囚われ」や「依存」に陥りやすくなります。
閉ざされた心に無限の清風は入れません。
現代では意識して依存から離れ
囚われた心を解き放つ時間が必要です。
自分の心を開放し 多くを受け止められる人になりたい
心の窓を開いて「無限の清風」を感じてみては如何でしょうか。
※『建長寺HP文章参照』
特別ご朱印金印授与おすすめです!
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2019/03/07🇰🇷. . . . 😜機内映画ラインナップ。 大韓航空なので日本語字幕はなし、 選択肢は日本語吹き替えかそのまま。 グリーンブックも見る予定だったから 喜んだけど断念。 .. .. . . #韓国 #korea #travel #明洞 #韓国旅行 #東大門 #seoul #instatravel #韓国🇰🇷 #ソウル #旅 #旅行 #韓国女子旅 #旅の思い出 #母娘旅 #motheranddaughter #seoul #韓国旅行 #南大門市場 #崇礼門 #ミセモンジ #大韓航空 #travel #海外旅行 #大気汚染 #南大門 #모녀여행 #한국여행 #일본에서한국으로 #kal https://www.instagram.com/p/BwPfIplgu5qwfINHWaRyf3_Gh0RvG7ZbKbmFFI0/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=15f5ztx7nd3qi
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織田邦男先生の論稿です
現代が見習うべき大正人の精神 麗澤大学特別教授元空将・織田邦男
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、ドラマのような優勝劇に日本国中が沸いた。顔に日の丸を描く人、球場内外で日の丸が振られ、国と選手と国民が一体化したような光景に、思い出したことがある。
国家と個人が一体となり
102歳で天寿を全うした父が90歳の時である。筆者に「もうそろそろ、ええじゃろう」と語り出し「実は、わしは戦艦大和を造ってたんじゃ」と。どうやら父は広島の呉工廠(こうしょう)で戦艦大和の建造に携わっていたらしい。「大和については、家族にも一切話してはならぬと命ぜられていたんじゃよ」と述べ、最後に「わしももう長くないからな」と終わった。大変驚いた。国家(海軍)の命令を、帝国海軍が消滅した戦後60年間も律義に守る。しかも戦後生まれの筆者に対して箝口(かんこう)令を守り通すとは。
父が亡くなる2年前、同じ大正生まれの小野田寛郎氏が亡くなっている。小野田氏は旧陸軍の軍人で、情報将校としてフィリピンのルバング島に赴任した。師団長の横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」と訓示を受けたという。戦後も29年間、孤立無援でゲリラ戦を戦った。
手に入れたラジオで戦争が終結したことは気づいていたらしい。冒険家の鈴木紀夫氏によって発見され、帰還を促された。だが任務解除命令がない以上、任務は放棄できない。結局、元上官である谷口義美氏(元陸軍少佐)による任務解除命令を受けて帰国した。
両者に共通しているのは、国家と個人が一体となった「大正人」ということだ。父は大正3年生まれ、小野田氏は大正11年生まれである。先の大戦では大正人の7人に1人が戦没している。戦後復興の原動力も大正人が主力だった。
父には9歳年下の弟がいた。海軍パイロットとして昭和18年、太平洋のギルバート諸島上空で散華した。父は弟を思い、靖国神社にしばしば参拝した。最後の参拝は90代後半だったと思う。杖(つえ)を突きながら気丈に昇殿参拝を果たした。その時、父はポツリと呟(つぶや)いた。「何で靖国参拝に反対するんじゃろうのお」。現役時代、ある懇親会で小野田氏と同席させていただいたことがあるが、その時、小野田氏から同じ言葉を聞いたのを思い出した。
国家意識溶解の懸念
大正人にとって国家と個人は一体で、国家に尽くすことは、自分に尽くすことである。国家に命を捧(ささ)げた場合、国は永遠に死後の面倒をみる。なのになんだと、憤懣(ふんまん)やるかたない思いが感じ取れた。
国に殉じた先人に対し、国民が尊崇と感謝の念を表すのは世界の常識である。米国ではアーリントン国立墓地に、韓国では国立顕忠院に、フランスでは凱旋(がいせん)門の無名戦士の墓に国家のリーダーは参拝する。外国の要人来訪時も、必ず参拝する。これが国際共通の儀礼である。岸田文雄首相は1月の訪米の際、アーリントン墓地に参拝した。だが岸田首相は就任後、靖国神社には参拝したことがない。
いかなる事情があるにせよ、一国のリーダーが自国の為に命を捧げた先人に追悼の誠を捧げないのは異常である。異常を異常と感じなくなる時、国家と個人の一体感は失われ、国家意識は溶解していく。国家は国民一人一人の「義務と責任」から成り立っている。国家意識が希薄化すれば当然「犠牲」「勇気」「名誉」という普遍的価値は喪失し、我欲は限りなく肥大化する。国家あっての人権、人道、社会福祉であり、祖国あっての個人であるという当たり前のことが理解できなくなる。
公に尽くす生き様を忘れず
令和5年度予算が成立したが、国会での議論は見る影もなかった。昨年12月、安全保障関連3文書と共に、防衛費のGDP比2%、反撃能力の保有が閣議決定された。この時、「満足な議論もせず、民主主義の破壊だ」と野党は批判した。だが国会では十分な時間がありながら、「満足な議論」もせず、表層的で枝葉末節な質疑に終始した。参院ではウクライナ戦争や台湾有事もそっちのけで、行政文書をめぐっての「コップの嵐」に終始する体たらくである。
これを見る時、選良たちも国家意識が溶解し、安全保障や天下国家を「議論しない」のではなく、もはや「議論できなくなった」のではと思ってしまう。2021年の国際世論調査では「国のために戦うか」に対し、「はい」と答えた日本人は13・2%で最下位だった。この現実と通底するように思えてならない。
国家という「人」はどこにもいない。国家とは同胞、友人、知人、そして自分自身のことである。自分自身が国家そのものだという事実に戦後日本社会は目を伏せてきた。その結果「国家」の希薄化は深刻なまでに進んでいるようだ。
WBCで日の丸が乱舞する光景と国会の惨状が同じ日本だとはどうも思えない。数年もすれば大正人はいなくなる。国家と自分自身を同一視し、我欲を捨て、公に尽くす大正人の生き様を今こそ見直すことが求められているのではないか。(おりた くにお)
#産経新聞 #正論
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ムー旅 平将門巡り「胴と首をつなぐ」崇敬の旅 ・その2
さて、再び🚍に乗り込み、次の目的地は東京に戻って神田明神……ですが、高速に乗ってしばらくした所で渋滞にハマりました😰
運転手さんが頑張ってくれて、何度も車線変更しつつ行ってくれるのでそれ程はノロノロ運転というわけではなく、完全に止まることもほぼありません。ところが、ここで地獄に陥った方がお1人。🚍内で缶🍺を持ち込みほろ酔い気分になってたのが、いきなりの尿意に襲われたそうで。いつものクールなイメージがすっかり崩れ落ちるほど悶絶しまくられた挙げ句、松原タニシ氏からは、
「尿意(如意)輪観音のご加護」
という凄ぇパワーワードを送られーーあまりにも素晴らしい弄りに🚍内大爆笑でした。さすが関西出身だけあって、弄り方がプロですな😅他にも「平将門の呪い」って仰ってたけど、そこは濡れ衣だと思います😂
そうこうして東京はまだかーーなどとなっているうち、三郷を過ぎいよいよ限界が……😖となったところで。
八潮PAの看板が!!
救いの神です。迷わず🚻休憩が入りました。戻られたあとは、再び「今度からオムツした方がいいんと違います?」と弄られておられましたけど😅
そのままスカイツリーを横目に、堀切~鐘ヶ淵~両国で高速を降りて、浅草橋からお茶の水へ。ここら辺になると、ほぼ庭ですね😊神田明神に到着した頃はとうに6時をまわってましたが、このようになお明るい。



⛩️の前で一礼して山門を潜ると、おお、さすが6月。夏越の祓の茅の輪がデデーンと目に飛び込んできましたo(^-^o)(o^-^)o


穢れを祓う為の人形(ひとがた)が貼り付けられています。取りあえずここで神職の方の説明(多分待ちかねておられたんじゃないかと💦💦)があるので、一旦茅の輪くぐりは脇に置いといて。

神田明神(神田神社)についての説明を受けました。何度かお詣りに来てるので概要は知ってましたけど、やはり奉職なさっておられる方からの説明はそれ以上に知識が深い。
前編では、延命院や國王神社には常駐の神主さんも住職さんも居られないと書きましたが、例祭の折は神田明神(正式名称は神田神社だけど、生まれも育ちも東京在住者にはこちらの方が馴染みが深いので、そのまま神田明神と呼ばせてもらいます)からも神職者が派遣されるそうです。なるほどー😲
そもそも、将門塚保存会から石碑を贈ったりするくらい、坂東市と東京の繋がりって深いんですよね。将門ネットワーク。
神田明神は関東大震災で本殿が焼失しており、現在のものは「二度と燃えるところを見たくない」という氏子さん達の意見を取り入れて、鉄筋コンクリート造りで再建したそうです。当然構造上は木造より強度が増しているので、柱はそれほど必要とはしていない。なのに本殿の支柱が多いのは、日本の神社建築に沿った建物にする為。確かにこの方が威容がありますもんね。
説明のあとは茅の輪を慌てて8の字にくぐり、ツアー参加の皆さんがずらっと並んでいるのを尻目に境内にある波除神社を参拝。ここだけは将門さんとは関係がありませんが、父方の祖父が戦前築地に勤めていた関係で(波除神社は築地からの分霊なんです)どうしても頭を下げておきたか���たの!!


時間に余裕があったら他にも(神社裏の階段とかw)寄りたいところですが、それはまた個人で💪😁
ようやく待っている人が少なくなったところで、本殿に二礼二拍手一礼。本当は神拝詞も唱えたいところですが、あれをやると隣にいる人がぎょっとして、変な人認定される可能性があるのと、時間がないからカット💦💦
すぐに🚍に戻り、最後のそして最大の目的地である将門塚(首塚)へ。流石にここでは日没しており、
薄暗い逢魔が時の中での参拝になりました。
しかーし、
2020年からの改修工事により、以前あった筈の植え込みがほとんど失くなっちゃってる😳
もうね、まっ更な綺麗な塚以外は何んにもない空間なんですよ。



子供の頃とか、よく「首塚の写真を撮ろうとファインダーを覗くと生首が飛んでくる」という噂がまことしやかに囁かれて、都市伝説となっていましたが、そんなおどろおどろしさは全くなく。単なる史跡になっちゃってました。確かに参拝はしやすくなったろうけど、これはちょっとクリーンになり過ぎ💦💦
恐らく、パワースポットとしての役割はほとんど消えちゃったんじゃないでしょうか?お詣りする人の念が溜まっての意味もあるもんな、アレは😥
ちなみに将門塚の改修工事に伴い、将門塚と延命院とで互いの土を交換しているとのこと。
ともかく、私にとっては付近はさんざん歩くものの、生まれて初めての将門塚訪問。

い・ろ・は・すで簡単にお清めをして、手を合わせました🙏お賽銭入れにはやはり九曜紋。こちらの石碑が先程の神田山延命院と対をなすものか……どうぞ安らかに東京の街を護って下さいーーそう願って、ここを後にしました。
さて。時間は7時を過ぎ、トークショーとディナーを頂く為に浅草ビューホテルへ到着。こちらが最終地点となる為に、🚍とはお別れです。お疲れさまでした。そして、ツアー初めから色々とお世話になりました🙇♀️
運転手さんが親切に教えてくれたお陰で、座席難民にならずに済みましたもん💺



ホテルでのイベントはムー旅のみだったので、至る所で案内板が💦💦
そして通された宴会場広ーーーい!!
いちテーブル大体5名ほどで、まずは乾杯用のソフトドリンク(オレンジジュースとウーロン茶の2択)が配られました。


司会はムー編集部のM氏。三上編集長との阿吽の呼吸の掛け合いが楽しいです。ここでパワーポイントを使っての旅の振り返り。松原タニシ氏と同行されたカメラマンの方が撮影されてたのかな?
トークショーは撮影禁止でしたが、ディナーのフルコースのみ撮らせてもらいました。
凄い豪華だったんですよ。こんな本格的なご馳走にありつけると思ってなかった😍💕









蓴菜の餡といくらの乗った胡麻豆腐、お刺身はマリネされてサラダ仕立て、白身魚(スズキっぽかった)の香草焼き ラタトゥイユソース添え、ほたて入りのパエリア?(サフランライスかな?バターが効いててコクがあり、とても美味しかったです💕最初ちょい少なめについじゃったので、後から余っていたのをおかわりさせてもらいました💦)、コンソメスープ。デザートはいちごのムース フルーツ添え、コーヒーはデミタスカップでしたが、エスプレッソではなかったです。香りが良かった💕
ツアー参加者が食べている間もずっとトークショーは続き、ちょっと申し訳なく思ってしまいました💦💦
トークの内容は、事前に🚍の中で記入してホテル到着時に回収された、参加者からの将門さんに関する質問が中心……の筈だったのに、いつの間にか三上編集長個人への質問が😳
それアリなんですかーー🤣
Q:いつも黒い服を着ていらっしゃいますが、私服なのですか?
A:私服です。そろそろクリーニング代を計上しようかな(え!?)
Q:正月カレーは何日続きましたか?
A:100日続けました(元旦から🍛を食べ続けておられたそうで……それを知ってるムー民の方からの質問が濃いい😂)
Q:お化けを見る方法を教えて下さい
A:出るところに行けば見れます。
ここで、聞きたくなかった情報が……霊能者の方はほぼ体温が低いそうなんですね。私、平均体温が35.6℃なの😰更にコロナが5類になるまでは、外出先で体温測ると大概エラーマークが出ました。34.6℃とかが普通だったから💦💦
ほぼ零感だけど、たま~に怪音を聞いちゃった経験があるのに加えて視える人間が周りにごろごろいるの。てことは、今は視えてなくてもいつか条件が合致しちゃうと、視えちゃうようになる可能性もあるのかも😱
嫌だー、面倒臭いぃーー‼️
トークショーの締めくくりで、三上編集長が「無事かえる」の話をしておられました。これは、将門さんの首が晒されていた京都から戻ってきたことを表しているという説が主流ですが、更に蛙(かわず)⇒河衆⇒河童の意味もあるそうで。行きの🚍の中でたたらの話も出てたもんなー。ともかく、旅から無事に家に着きますように、と。
楽しいツアーでした。ムー的にも歴史的にも、多方面で濃いい話が満載でした。
余談ですが、家にある将門さん関連で読みたいなと思っていた何冊かの📚
もしかしたら、今なら簡単に見つけられるんじゃないかな🤔と考えて、探してみました。どこに置いたかすっかり忘れてて、見つかるまで何時間かかかっても仕方がないかな😥って思ってたんですが……何とわずか15分くらいで全部出てきちゃったんです😌
ご縁が出来るって、こういうことか!!
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デスメタルのリフを遅くして、ハードコアパンクの形式にザクザクと刻みを入れてみる(ビートダウン)。またはツービートや横山やすし・西川きよしの漫才のテンポを遅くし、ザクザクと分節した時間を引き延ばしてみる(ダウンタウン)。みたいな書き方をしてみるのはどうか。またはベルンハルトのようにダラダラと思考を冗長に垂れ流すのはどうか。That’s life.
『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットが面白い。タイトルからして一見ヤクザ映画だと思うかもしれないが、いや、ヤクザ映画なのだが、これはジャンルとしてはヤクザVシネである。ヤクザVシネを見たことが無いという方は一度動画配信サブスクに入ってワンシーンでもヤクザVシネを見て欲しい。いや、見なくてもいい。見たところで思う何かは人生にとって重要なものとなるにはあまりにも時間が短すぎる。私たちは呆然とする時間などない日常で、剰余価値生産のほんの僅かな間隙を縫って作った政治活動の時間までコンテンツ消費に使わなければいけない。どうせ死ぬのだからと、右翼の街宣車をハイジャックしストサベのHardcore Prideを轟音で鳴らしながら財務省に投石、火炎瓶、そのまま突っ込み身体に巻いていたダイナマイトで爆死する心積もりならば、こんな駄文を読んでいる暇などない。早く行け。俺はやることが他にあるからそれをやってから行く。と、ある友人にメールを打ってからというもの、以下のようなメールが絶えない。急なDM失礼します。ママ活をしたい女性からの問い合わせが多く男性が足りておりません。綺麗な女性が沢山いますので是非この機会に参加してください。ご質問等ある方もLINEを追加してご連絡ください。募集中のママさんを公開していますのでよかったら見てください。今日から募集の方も何名かいらっしゃいます。ご連絡お待ちしております。 ヤクザVシネの見つけ方として、まず動画サブスクの検索バーに「小沢仁志」、「中野英雄」、「清水健太郎」、Fuck「中条きよし」、「白竜」などと打ってクリックすると、怖い顔のジャケがずらっと並ぶと思う。その中でタイトルがどうも「臭う」ものを選んで再生ボタンを押してみよう。またはレビューの星の数が3ないし2以下のものを選ぶとより高い確率でヤクザVシネに辿り着けるはずだ。まずは3分見てみる。すると自分の映画鑑賞史の中で培った映画的感覚が妙な違和感を示すはずだ。何かがおかしい…。アナーキーな整音、虚無な照明、身体性がハイのカメラ、アウトオブコントロールな役者、RAWハードコア解像度、shit美術などなど、カチッと何かにハマってない、どこか外れた感じがあるだろう。非芸術的な粗雑さと細部の欠陥、冗語気味な展開、これがVシネの持つ特有のコンテクストである。俺はこれを多大な賞賛を含んだ意味で「映画の外道」と呼んでいる。その中でもヤクザVシネは「映画の外道」の看板ジャンルである。他にエロVシネや金融系、麻雀系、ヤンキー系、パロディ系のVシネなど色々ある。Vシネとは何なのか?ネットにこう書いてあった。
《Vはvideo(ビデオ)の頭文字》東映が平成元年(1989)に発売を開始したオリジナルビデオ映画。 映画館公開のためではなく、最初からビデオとして発売したり、レンタル店に配給したりするために作った映画作品。 商標名。
1989というとベルリンの壁崩壊、昭和天皇崩御、ジョージ・H・W・ブッシュが大統領就任、天安門事件、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!が放送開始など日本然り世界的にも歴史の転換期となった出来事が起こった年だ。そんな激動の裏っ側でレンタルビデオショップに卸されるためだけに作られたビデオテープの映画作品がVシネというわけだ。今はデジタル化に伴いソフトはDVDとなり、主な販売先は多分ネット配信サービス会社だろう。
『極道たちの野望』は2016年に作られた正統なヤクザVシネだ。竹内力主演で、1997年に竹内力が設立したRIKIプロジェクトが製作、販売?はオールイン エンタテインメントを引き継いだライツキューブである。内容はヤクザ社会の勢力争いと内部抗争がセットになったものと、跡目レース、ヤクネタ、御法度の凌ぎ(シャブ)話がプラスされたものだ。これはヤクザVシネで形式化された話の型の一つだろう。これ系のヤクザVシネはごまんと作られたはずだ。ヤクザVシネにはこうした話の型があるので、その微妙な切り口の差異を「撮影」で見て楽しむ、というのは私の鑑賞方法だが、ヤクザVシネ好きは結構そういう人が多いんじゃないか?例えばハードコア(パンク)も大体の形式があり、その範囲内で微妙な違い、またはパターンや要素の組み合わせを楽しむ音楽ジャンルなので、似ている面がある。ただ、ハードコアは特にメタルと融合することで水平的に発展していった歴史があり、いくつもの派生ジャンルが生まれている。逆に初期のUKハードコアの形式(D-beat)の攻撃性やスピード感はスラッシュメタルに影響を与えている。のちにクロスオーバースラッシュというスラッシュメタルとハードコアが融合したジャンルが生まれるが、パンクとメタルが融合してハードコアに派生ジャンルが生まれまくったその原点は初期のUKハードコアの形式=D-beatおよびDischargeにあると言えるんじゃないか。ヤクザVシネはどうだろう。見ている本数はそこそこあるが、というか沢山見る必要性も感じていない、時代的に時間が有限すぎてとても見尽くせない、けれども、水平的にあらゆるジャンルが派生していった、ということは聞いたことがないし、自分が見ている限り何を見ても全て大体同じではないか?と感じる。先に書いた型を発展をさせずにずっと守り続けているのが、ヤクザVシネということだろう。
撮影技術の極端な洗練されてなさがヤクザ映画のアンダーグラウンド、「映画の外道」の真髄であると言ったら怒られそうだが、洗練されてなさ、愚鈍、crass的な要因は低予算=時間をかけられないという背景にもあるだろう。そのためまだ予算がある程度潤沢だったであろう90~00年代より、(ピンク映画監督の江尻大 a.k.a EJD曰く) 2010年以降予算が付かなくなってからがVシネ業界を非技術によるAnything goesが席捲し、ファン側からするとより益体の無いマニアックな見方ができるようになったという点で「映画の外道」の全盛期と言っていい。以前であれば非技術によるAnything goesのようなものを「映画の(素材の)拡張」と書いていたが、自分の作品でもよく使っていた言葉だが、どこかグローバリズム臭がするんですよね、ローカルを守り楽しむ方法を考えたいと、マニアしかわからなくていいじゃないすか?というかグローバルに誰でもわかることなんかやってねーよってことで使用禁止にしてます。 一方でVシネは無名な俳優が沢山出ていることから雇用を生み出す役目も果たしているように見える。というか、製作側からするとエンターテインメントとしての需要もあるだろうが、雇用を創出することが本来の目的なのではないだろうか。昔からヤクザVシネくらいでしか見ない俳優が沢山いる。しかもあらゆるヤクザVシネが大体同じメンツ、しかもギラついた男のような人間しか出ていないので、非常にホモソーシャルなコミュニティの中で経済が回っているようである。その人たちを食わすためにヤクザVシネが未だ滅びずに存続しているのではないか。また、そのために型を守り続けている、ということではないか。型が発展しサブジャンルが生まれると必要な人材も変わってくるし、元のジャンル自体の資本が分散してしまい、自ずと分配も減る(んじゃないのか?)。ただでさえ日本の映画界はーまあ知らんけどー資金集めに苦労しているのだから。ハードコアのライブに行くとNYHCやビートダウン、パワーバイオレンス、メタルコアなどのモッシュ主体のジャンルや激情系には若い人がチラホラいるが、クラスト、ノイズコア、グラインドにはジジイババアしかいない。というのと同じことで、派生ジャンルが発展すると古いジャンルは淘汰される。この変化や発展を食い止めるための型の保守なんじゃないすか?もしや。大ヒット作『日本統一』シリーズはそんな連綿と続く「終わりなき古き良き労働」の一端から商業的に確変をものにした作品だろう。
先日ヤクザ映画のオーバーグラウンド『新・仁義なき戦い』(2000年)を見返したが、岸部一徳、豊川悦司、松重豊と等価に映る大地義行はやはり凄味がずば抜けている。俳優としてのではなく、魔のような地の凄味だ。大地義行のあのやさぐれた狂犬が魔物に取り憑かれたような威圧感は同じくヤクザ映画のオーバーグラウンド『新・仁義の墓場』(2002年)で菅田俊に詰め寄る時のジャケットのボタンを外すシーンがクローズアップされたカットに集約されていると思っている。なぜあのカットを撮ったのか?多分撮影を指示したのは監督の三池崇史だろう。だがどうでもいい。あのシーンの現場にいる誰もが大地義行のボタンを外す仕草に震えたはずだ。大地義行は京都の自宅にいた内縁の妻を放火で殺した罪により無期懲役になり、今刑務所にいる。罪状が真実であれば鬼畜の所業だ。EJD a.k.a 江尻大から大地義行が嫁を殺して逮捕された!と知らされたのはもう20年前のことだ。現在は無実を訴え再審請求を目指しているようだ。2000年前後、あらゆるヤクザ映画のバイプレーヤーとして活躍していた大地義行が今も娑婆にいられたなら(少しでも尋常さがあったならいられたはずだ)、当時同じく名舎弟役として売れまくっていた山口祥行と「映画の外道」を盛り立てていたに違いない。しかし、今の日本社会または映画界に大地義行のような無頼の塊のようなはぐれものが生きられる場所はどこにもないだろう。この世で生きていくためには地獄へ足を踏み入れるしか術がない人間がいる。リベラルが望む「平等」はこの世に生まれ持った魔物が存在する限り叶うことはないだろう。
なげーから続きは次回。
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トーラナ(梵: Toraṇa)の宗教的意味について、仏教およびヒンドゥー教の文脈を中心に詳しく説明します。
1. トーラナの基本概念と宗教的意義
トーラナは、サンスクリット語で「門」や「塔門」を意味し、インドの仏教やヒンドゥー教の宗教施設、特にストゥーパ(仏塔)や寺院の入り口に設けられる装飾的な門です。この門は、単なる建築要素を超え、深い象徴的・宗教的意味を持っています。以下にその主要な意味を整理します。
(1) 聖と俗の境界
トーラナは、聖なる空間(寺院やストゥーパ)と世俗的な外部の世界を分ける象徴的な境界として機能します。門をくぐる行為は、日常的な世界から神聖な領域への移行を意味し、参拝者に精神的な準備を促します。この境界性は、仏教やヒンドゥー教における「浄化」や「悟りへの旅」の象徴とも関連します。
(2) 宇宙的秩序の表現
トーラナの構造や装飾には、しばしば宇宙論的な要素が反映されています。たとえば、門の上部に描かれるアーチや装飾は、天界や宇宙の調和を象徴し、仏教の法(ダルマ)やヒンドゥー教の宇宙秩序(リタ)を視覚的に表現します。特に仏教では、ストゥーパ自体が宇宙の構造(曼荼羅)を表すため、トーラナはその入り口として宇宙の中心へ導く役割を果たします。
(3) 仏教の教義の具現化
トーラナには、仏伝図(釈迦の生涯を描写した図)や本生図(釈迦の前世の物語)が彫刻されることが多く、これらは仏教の教義を視覚的に伝える役割を担います。たとえば、サーンチーの大ストゥーパのトーラナには、釈迦の誕生、悟り、初転法輪、涅槃などの場面が詳細に刻まれ、参拝者に仏の教えを直感的に理解させます。これにより、トーラナは単なる装飾ではなく、仏教の物語や倫理を広める教育的な装置としての機能も果たします。
(4) 吉祥と保護の象徴
トーラナには、獅子、象、ガルーダ(神聖な鳥)、ヤクシャ(自然の精霊)などのモチーフが彫刻されることが多く、これらは吉祥や守護の象徴とされています。これらの動物や神聖な存在は、寺院やストゥーパを邪悪な力から守り、参拝者に福をもたらすと信じられています。また、トーラナ自体が「勝利の門」や「繁栄の門」として、宗教的な成就や悟りへの道を象徴する場合もあります。
2. 仏教におけるトーラナの具体例と意義
(1) サーンチーのトーラナ
サーンチーの大ストゥーパ(紀元前2世紀末~前1世紀頃、マウリヤ朝およびシュンガ朝期)は、トーラナの代表例です。このトーラナは四方に設置されており、それぞれに仏教の物語やシンボルが彫刻されています。以下のような特徴があります:
彫刻の内容:釈迦の生涯やジャータカ(本生譚)が描かれ、仏教の教えを視覚化。
象徴的モチーフ:獅子(力と王権)、象(智慧と安定)、菩提樹(悟り)、法輪(仏教の教義)などが頻繁に登場。
宗教的役割:参拝者が門をくぐることで、ストゥーパの中心にある聖なる遺物(仏舎利)とのつながりを意識し、悟りへの道を象徴的に歩む。
サーンチーのトーラナは、仏教がインドで隆盛を極めた時期の信仰の深さを示し、仏教美術の傑作として世界遺産にも登録されています。
(2) トーラナとストゥーパの関係
ストゥーパは、仏の遺骨や聖遺物を安置する仏教の象徴的建造物であり、トーラナはその四方に設置されることで、ストゥーパの聖性をさらに強調します。四つの門は、東西南北を表し、仏教の普遍性(すべての方向に広がる教え)を象徴します。また、参拝者が時計回りにストゥーパを巡る「右繞(うに��う)」の儀礼において、トーラナは巡礼の開始点や通過点として重要な役割を果たします。
3. ヒンドゥー教におけるトーラナ
ヒンドゥー教の寺院でもトーラナは見られ、仏教と同様に聖なる空間への入り口として機能します。ヒンドゥー教のトーラナは、ヴィシュヌやシヴァなどの神々の物語や、ガネーシャ、ラクシュミーなどの吉祥神のモチーフで装飾されることが多いです。これらの彫刻は、神々の加護や繁栄を象徴し、参拝者に精神的な高揚感を与えます。
ヒンドゥー教では、トーラナは寺院のゴープラム(塔門)とも関連し、南インドのドラヴィダ様式の寺院で特に顕著です。ゴープラムは巨大で複雑な彫刻が施され、トーラナの役割を拡大したものと考えられます。
4. トーラナと日本の鳥居の関係
質問文で触れられているように、トーラナが日本に伝来し、鳥居の起源に関連するという学説があります。この点について、宗教的意味の観点から考察します。
(1) 鳥居との類似性
日本の神道における鳥居は、神社や神聖な場所の入り口に設置され、聖と俗の境界を示します。この点で、トーラナと共通の役割を持ちます。特に、四天王寺のような仏教寺院に鳥居が設置されていた例から、仏教とともにトーラナの概念が日本に伝わり、神道の鳥居に影響を与えた可能性が考えられます。
(2) 仏教と神道の融合
日本では、仏教と神道が融合する過程(神仏習合)で、トーラナの宗教的意味が鳥居に取り込まれた可能性があります。たとえば、鳥居の簡素な構造は、トーラナの装飾性を簡略化したものとも解釈でき、聖なる空間への入り口としての役割は共通しています。また、狛犬や獅子像がトーラナや鳥居の周辺に配置される点も、守護や吉祥のモチーフとしての共通性を示唆します。
(3) 学説の限界
ただし、鳥居の起源については、トーラナ以外にも中国の牌楼や朝鮮の紅箭門など、さまざまな影響が指摘されており、トーラナ単独の影響を確定するのは難しいです。また、鳥居の宗教的意味は神道の独自の信仰(自然崇拝や神々の鎮座)に強く根ざしており、トーラナの仏教的意味とは異なる側面もあります。
5. トーラナの宗教的意味の現代的意義
現代では、トーラナはインドの仏教やヒンドゥー教の遺跡(例:サーンチー、アジャンター、エローラなど)で主に見られ、宗教的・文化的な遺産として保護されています。その宗教的意味は、以下の点で現代にも影響を与えています:
巡礼と精神性:トーラナをくぐる行為は、現代の仏教徒やヒンドゥー教徒にとっても、精神的な旅の始まりを象徴します。
芸術と文化:トーラナの彫刻は、仏教やヒンドゥー教の物語を後世に伝え、宗教美術の重要な要素として研究されています。
異文化交流:トーラナが東アジアの建築(例:日本の鳥居や中国の牌楼)に影響を与えた可能性は、仏教のグローバルな広がりを示す証拠として、現代の宗教学や文化研究で注目されています。
6. 結論
トーラナは、仏教およびヒンドゥー教において、聖と俗の境界、宇宙的秩序、教義の視覚化、吉祥と保護の象徴として深い宗教的意味を持つ建築要素です。特に仏教では、サーンチーのようなストゥーパのトーラナが、仏の生涯や教義を伝え、参拝者に悟りへの道を示します。ヒンドゥー教では、神々の物語や加護を表現し、寺院の聖性を高めます。日本における鳥居との関連は、仏教伝来とともにトーラナの概念が変形した可能性を示唆しますが、独自の神道文化との融合も考慮する必要があります。トーラナの宗教的意味は、現代においても巡礼や文化遺産として生き続け、宗教と芸術の交差点として重要な役割を果たしています。
もし特定の側面(例:サーンチーの彫刻の詳細や鳥居との比較)についてさらに深掘りしたい場合には、お知らせください!
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戦闘中にイギリス軍将兵422名の命を救った日本帝国海軍中佐 いまも英米で称賛 https://www.zakzak.co.jp/soc/amp/180813/soc1808130007-a.html 提供:NEWSポストセブン 2018.8.13 カミカゼでもバンザイ突撃でもない、旧敵が真に畏敬し、戦後も尊崇の眼差しを送るのは、自艦乗員よりも多くの敵兵を救助する、前代未聞の英断を下した帝国海軍の武士道だった。作家、ジャーナリストの惠隆之介氏が、いまなお英米で讃えられる工藤俊作海軍中佐の「武士道」についてお届けする。 * * * 平成20年(2008年)12月7日、元英国海軍大尉で戦後外交官として活躍したサムエル・フォール卿(当時89歳)は埼玉県川口市、薬林寺境内にある工藤俊作海軍中佐の墓前に車椅子で参拝し、66年9か月ぶりに積年の再会を果たした。卿は大戦中、自分や戦友の命を救ってくれた工藤中佐にお礼を述べたく、戦後、その消息を探し続けて来たが、関係者の支援の結果、ようやく墓所を探しあてたのである。 卿はこの直後、記者会見で、工藤中佐指揮する駆逐艦「雷(いかづち)」に救助され厚遇された思い出を、「豪華客船でクルージングしているようであった」と語った。 フォール卿は心臓病を患っており、来日は心身ともに限界に近かった。これを実現させたのは、何としても存命中に墓参したいという本人の強い意志と、ご家族の支援があったからである。付き添いの娘婿ハリス氏は「我々家族は、工藤中佐が示した武士道を何度も聞かされ、それが家族の文化(Family Culture)を形成している」とさえ語った。 なおこの時は英国海軍を代表して同駐日海軍武官チェルトン大佐が参列、また護衛艦「いかづち」(4代目)艦長以下乗員多数が参列した。まさに敗戦で生じた歴史の断層が修復される瞬間であった。 ◆「総員敵溺者救助用意」 第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において日本海軍艦隊と英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。当初、「友軍が間もなく救助に来る」と互いに励ましあっていたがその希望も絶たれていた。 彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染され一時目が見えなくなった。加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。 翌2日午前10時頃、日本海軍駆逐艦「雷」は単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。工藤艦長は見張りの報告、「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、独断で、「一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。 一方、フォール卿は、当時を回想して「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したという。ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ救助艇が降ろされた。そして乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているかと思い、何度も自分の手をつねった」という。 「雷」はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助した。120名しか乗務していない駆逐艦が敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。 工藤艦長は兵に命じ、敵将兵一人一人を両側から支え、服を脱がし、真水で身体を洗浄させた。フォール卿の回想では、「帝国海軍水兵たちは嫌がるそぶりを全く見せずむしろ暖かくケアしてくれた」という。その後、英国海軍将兵に被服や食料が提供され、士官には腰掛も用意された。しばらく休憩した後、艦長は英国海軍士官全員に対し前甲板に集合を命じた。 士官全員が恐る恐る整列を終えると、艦橋から降りて来た工藤艦長は彼らに端正な敬礼をした後、英語で次のスピーチを始めたのだ。「貴官達は勇敢に戦われた。本日は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と。さらに士官室の使用を許可したのである。 一行は翌3日午前6時30分、オランダ病院船「オプテンノート」に移乗した。その際舷門で直立して見送る工藤艦長にフォール卿は挙手の敬礼を行い、工藤は答礼しながら温かな視線を送ったと言う。 ◆天皇訪英反対論を黙らせた 平成10年(1998年)4月29日、フォール卿は本件を「英タイムズ紙」に投稿し、「友軍以上の丁重な処遇を受けた」と強調した。 英国には戦後、日本軍の捕虜になった英軍将兵たちが「虐待された」と喧伝し、我が国に賠償を求める動きがあった。またこの年の5月には今上天皇皇后両陛下が訪英される予定であった。そこで元捕虜たちは訪英に反対していたのだ。天皇の謝罪を求める投稿文もフォール卿の投稿文と同時に掲載された。 ところがフォール卿の投稿文によって、これらは悉(ことごと)く生彩を欠いたのである。 一方、工藤艦長の英断は戦後米海軍をも驚嘆させている。米海軍は昭和62年(1987年)、機関誌「プロシーディングス」新年号にフォール卿が「武士道(Chivalry)」と題して工藤艦長を讃えた投稿文を7ページにわたって特集したのである。同誌は世界海軍軍人が購読しており国際的な影響力は大きい。 これから4か月後、東芝機械ココム違反事件が発覚し、我が国は国際社会で孤立した。これは対共産圏輸出統制委員会(ココム)が輸出禁止にしていたスクリュー製造用精密機械を、東芝の子会社がソ連へ不正輸出し、ソ連原子力潜水艦の海中における静粛性を飛躍的に向上させた事件である。このような情勢下で米国の対日貿易赤字は拡大しており、米国民は『安保ただ乗り』と批判し全米で日本製品不買運動が起きていた。 このとき日本海軍と交戦した米海軍の提督たちが帝国海軍の後継である海上自衛隊を称賛し、「同盟軍中、最も高いポテンシャルをもつ組織である」(アーレイ・バーク大将)とまで強調したのである。米国内の対日バッシングはこの結果沈静化した。工藤艦長らの遺産が寄与したものと思われる。 ●めぐみ��りゅうのすけ/1954年生まれ。1978年、防衛大学校管理学専攻コース卒業。1979年、海上自衛隊幹部候補生学校卒、世界一周遠洋航海を経て艦隊勤務。1982年退官。金融機関勤務などを経て、ジャーナリズム活動を開始。『海の武士道 DVD BOOK』(育鵬社)、『敵兵を救助せよ!』(草思社文庫)など著書多数。 ※SAPIO2018年7・8月号 https://www.zakzak.co.jp/soc/amp/180813/soc1808130007-a.html
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「100年企業研究から見えてきた、コロナ禍だからこそ変えなければならないこと、変えてはいけないこと」第9回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:小山貴子氏〔2022年5月13日(金)20時~〕
「100年企業研究から見えてきた、コロナ禍だからこそ変えなければならないこと、変えてはいけないこと」第9回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:小山貴子氏〔2022年5月13日(金)20時~〕 チケット https://scic20220513.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/1127510407828016 ■日時:2022年5月13日(金)20時~22時(オンライン開催のみ) ■第9回講師:小山貴子氏 「100年企業研究から見えてきた、コロナ禍だからこそ変えなければならないこと、変えてはいけないこと」 ■講師プロフィール: 株式会社フォーアンド 代表取締役 大分県佐伯市出身。1992年、リクルート入社。12年間、HR事業部門に所属。新人時代は創刊直後の求人誌「ガテン」の営業マン。2012年、社会保険労務士事務所設立。現在は人事コンサル会社の代表取締役、東証上場企業2社(創業15年と122年)の非常勤役員、日本テレワーク協会の客員研究員、東京都創業ステーションの人事相談員等の業務にも携わる。「100年企業研究会」にて全国の社労士と共に、3世代承継~900年続く旅館までの経営・人事労務を研究中。趣味:書道、華道、読書、建築探訪等。 ■講演概要: コロナ前からの働き方改革の推進。コンプライアンスも叫ばれるようになり、部下への接し方に困っている経営や管理職。この状況を個人的にも「母性優先の優しい(だけの)経営になっているのではないか?」と懸念しています。母性だけで育った子供の将来を想像すると…答えが見えてくるような。コロナ禍でクローズアップされたテレワーク、複業…永遠に続きそうな人手不足。社会の変化を反映して働き方も大きく変わりました。経営も人事も変わる必要性が声高に叫ばれていますが、ベンチャー企業と共に長く続く企業を見てきたからこそ最近感じる、「本当に強い組織とは?」「今、変えてはいけない経営、人事とは?」もお伝えします。 ■Zoomオンライン:URLは、Peatix経由によるチケット購入者に自動送信されます ■タイムスケジュール:基調講演(約90分 Q&A含)後に、講師を囲み、対話を行います。 ■オープン・ダイアログ参加対象: ・SCIC正会員 ・SCBC修了生&SCBC受講生 ※SCIC未会員 ・一般参加(社会人) ※SCIC非会員 ・特別ご優待枠 ・学生(中学~大学院生) ■参加料: 一般参加者(社会人)※SCIC非会員\5,000 SCBC修了生&受講生 ※SCIC非会員\3,000 SCIC正会員 無料 特別ご優待枠 \3,000 学生(中学~大学院生)\1,000 ■SCICとは: SCIC(Shock Coherent Innovation Club)は、ショック・コヒーレント基礎講座(SCBC)修了生をベースとした会員制クラブです(ご入会頂くためには、SCBCを受講し修了証明が必要となります)。 https://peatix.com/event/2271227/view ●目的:SCBC修了生同士の交流と創発の加速。私たち自身が動き、世界に奇跡を起こす ●概要: ①月例会の開催 ②会員同士のコラボ醸成 ③SCC訪問視察ツアーの企画 ④会員の生業のサポート ⑤その他創発事 ※いずれも参加できる時に参加 ⑥基礎講座の復習フォロー(基礎講座への復習参加は原則全回無料)↓ https://scbc04re1.peatix.com/view ●SCICに関する問合せ: [email protected] -------------------------------- ■『Shock Coherent(ショック・コヒーレント)』とは: この世の森羅万象は、常に変化するものであり、一瞬たりとも同じ状態を保つことができずいつかは消えていくもの、即ち「諸行無常」であり、「エントロピー増大の法則」(無秩序・乱雑さの度合い)に則り“流れ”が存在しています。私たちは今、破壊的な人間活動(意図せぬものも含めた)によって、このエントロピーを加速度的に増大させており、地球環境の悪化から社会や企業活動のみならず日常の営みが非持続可能な状態にあります。しかし、東日本大震災やコロナパンデミックによる未曾有の危機により、大変革の兆しが生まれたものの、その火種は既に消えかかってしまっています。一体どうしてなのでしょうか。 それは、真の「目的」を見失っているからに他なりません。「目的」とは「パーパス」。即ち、「存在意義」と私たちは呼んでいます。この「パーパス」こそが、変革への道標なのです。『ショック・コヒーレント基礎講座』では、感性を刺激する独自のアプローチフレームを活用し、固定観念の融解を起こし、事例や課題からアイデアを得、受講者やファシリテイタとの多くの対話や繋がりから閃きをもらい、自身でも予期せぬ“創発”を起こしていきます。そしてあなたは、この“創発”の中に、真の「パーパス」を見つけることになるでしょう。 この変革プログラムは、基本概念の修得、組織や個人が意識の変革に結び付けることを目的として、カングロ株式会社によってオリジナルに開発されました。私たちは、一日も早く、皆さんに、このプログラムをお届け出来ることを心待ちにしております。有難う御座います。 (プログラム開発者:藤井啓人) ■ショック・コヒーレント基礎講座 第5期生絶賛募集中! 第5期『ショック・コヒーレント基礎講座』新たな価値観や生き方を再創造するワークショップ型プログラム 2022年6月7日~10月11日(各回20~22時) チケット https://scbc5.peatix.com/view 問合せ https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSc8eJ6AM9PrTi2kB8RJA5ypAK9ZeMxCiUPubMPyazGHp2WZhg/viewform ■第1~4期「ショック・コヒーレント基礎講座」全アーカイブ・オンデマンド映像集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/shockcoherent ----------------- ★特別提供映像: 【ダイジェスト版動画⑧】人事制度のミライを探求する~ノーレイティングを超え給与を自己申告する人事制度への挑戦/第8回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:福留幸輔氏(2022年4月15日) https://youtu.be/XEm-OdMYwMY 【ダイジェスト版動画⑦】「パーパスと共に生きる時代/パーパスとはいったい何なのか?宇宙の営みから壮大なタペストリーを読み解く」第7回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:森夕花氏(2022年3月11日) https://youtu.be/vNaK4qH94fA 【ダイジェスト版動画⑥】「部署なし管理無し評価無し、VUCA時代に挑む選択できる組織作りへの挑戦」第6回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/金光広樹氏(2022年2月18日) https://youtu.be/33DyPirlM7c 【ダイジェスト版動画⑤】「新規事業における企業の在り方」第5回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/長島壮洋氏(2022年1月13日) https://youtu.be/eM3sRZDo0Ng 【ダイジェスト版動画④】「ティール組織の作り方“レシピ”」第4回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/嶋田崇孝氏(2021年12月10日) https://youtu.be/JDp0srEGxGE 【ダイジェスト版動画③】「こころの病との上手な付き合い方~仕組みがわかれば予防ができる」第3回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/中田健士氏(2021年11月5日) https://youtu.be/_OW88883t7o 【ダイジェスト版動画②】「混ざると、新しい事業価値が生まれる。」第2回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/星野良太氏(2021年10月8日) https://youtu.be/fZJWaFmhAD4 【ダイジェスト版動画①】「大企業病への挑戦~認知科学の理論と実践」第1回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/内藤礼志氏(2021年9月3日) https://youtu.be/aV8ux6Ha-9M ■「Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ」アーカイブ・全オンデマンド映像集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/scic ■主催:カングロ株式会社 https://www.kanglo.co.jp
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大戦がもたらしたもの 「大戦が 齎 ( もたら ) したもの」と題する講演を聞きに行った。 講演内容の要旨は、次のとおり。 1939年9月に始まったドイツとポーランドの戦争は、近隣諸国を巻き込んで規模を拡大していった。 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告する一方、ソ連軍は、火事場泥棒的に、東からポーランドに攻め込んだ。 翌年、ソ連は、フィンランドを攻撃して領土の一部を奪うとともに、バルト三国を併合した。 ドイツは、デンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを制圧した。ドイツは、イギリスを牽制するためイタリアと、ソ連を牽制するため日本と軍事同盟を結んだ。近衛内閣は、軍事同盟に応じ、且つ、翌年、日ソ中立条約を結んで南部仏印に軍を進めたが、これらはスターリン戦略[砕氷船テーゼ]に沿うものだった。

1941年6月、独ソ激突が始まった。 半年後、日本は、アジア植民地解放戦争を開始し、フランス領インドシナ、イギリス領ビルマ、オランダ領インドネシア、アメリカ領フィリピンを占領した。 それに触発された植民地独立宣言の動きは次の通り。

1942年2月、中国共産党の中央党学校開校式で、毛沢東が、学風(学習態度)・党風(党活動)・文風(文書類の表現)の三風を整頓し、党内の主観主義・セクト主義・空言主義を克服すべき旨、述べた。三風整頓運動が起こり、毛沢東 側近の張宗可(康生)は、関係者を拷問して自白を得たうえで、政敵を、スパイ,裏切り者,内通者等に仕立て上げた。拷問は本人だけでなく親族や縁戚にまで及び、拷問に耐えられず、身に覚えのない罪を自白する者も多かった。ソ連人脈の王明,博古,張聞天,王嘉翔,楊尚昆,陳昌浩,杜作祥,沈澤民,張秦秋,王宝礼,王盛荣,王運城,朱自舜,李元杰,汪盛荻,北海道特甫,殷剣,元嘉永,徐義新らは、失脚した。権威主義と官僚主義を率直に批判した王実味は、逮捕され処刑された。 1942年6月頃から、[砕氷船テーゼ]の予言通り、経済力と科学技術力を誇るアメリカを擁する連合国側が優勢に転じた。 1943年5月、ドイツと戦う連合国側に与する必要から、ソ連はコミンテルンを解散した。 1945年3月、日本軍がフランス軍を降してベトナムを独立させた。 1945年5月、イタリアが降伏し、ドイツも降伏した。8月には日本が降伏し、五千万(ソ連2060万,ドイツ950万,日本646万,ポーランド560万,中国318万,アメリカ113万,イギリス98万,フランス75万)人以上の犠牲者を出した第二次世界大戦は終了した。 しかし、「尊皇討奸」の志を受け継ぎ、資本家階級を倒して国家社会主義を目指す陸軍将校らは、敗戦受容れの詔を録音したレコード盤を血眼になって探し求めた。

彼らの狙いは、ソ連軍に依る日本民族解放を待つための時間稼ぎだった。 近衛文麿人脈が占める政権中枢から「ソ連仲介和平」という口実で情報を得ていたソ連軍は、日本降伏に先立って、軍を極東に集結させていた。 アメリカ軍に依る原爆投下を機に日本への攻撃を始めたソ連軍は、武器を持たない無抵抗の日本人を殺しながら、瞬く間に樺太や千島列島を占領した。

占守島 ( しゅむしゅとう ) で樋口中将が抗戦を命じなければ、北海道はソ連軍に 蹂躙 ( じゅうりん ) されていたのだ。

ソ連軍は、朝鮮半島も占領したが、アメリカ軍が上陸してくると、米ソ協定に従い38度線以北に退いた。 ソ連軍は、東ヨーロッパの占領地域でも、社会主義人民共和国政権樹立に力を注ぐようになった。 日本の敗戦でベトナムにはフランスの植民地支配者が戻ってきていたが、1945年9月に革命が起こり、ホー・チ・ミンがベトナム社会主義共和国の建国を宣言した。しかし、フランスは、それを認めなかった。 1945年10月、国際連合(本部:ニューヨーク)が発足した。 イギリスでは、大戦終了直前の選挙で勝った労働党政権が、「ゆりかごから墓場まで」の福祉充実策を実施し、銀行,石炭,通信,航空,電気,鉄道,ガス,鉄鋼などの重要産業を国有化していった。そのため、産業は競争力を失い、[イギリス病]とよばれるほど国力は衰退した。復活には、1980年代のサッチャー登場まで待たなければならなかった。

朝鮮半島では、信託統治(国際連合の信託を受けた国による統治)が検討されたが、まとまらず、アメリカとソ連による分割占領が行われた。 1945年10月10日、中華民国と中国共産党との間で、「内戦を避け、独立・自由・富強の新中国を建設」するための協議が行われたが、双方の思惑は、相手を潰す準備を整えるための時間稼ぎだった。 1946年6月、イタリアでは王制が廃止されて共和政となった。翌年2月にパリ講和条約を結んだイタリアは、エチオピア・アルバニア・リビア・ソマリランドなど総ての海外植民地を失った。 1946年6月、ベトナム南部で、フランス領コーチシナ共和国臨時政府の樹立が宣言された。 1946年7月、中華民国と中国共産党との間で、全面的な内戦が始まった。当初はアメリカの支援を受けた国民党軍が優勢なように見えたが、次第に、ソ連に降伏した関東軍の装備等( 就中 ( なかんずく ) 精鋭将兵の軍事指導)を利用できる中国共産党に形勢が傾いていった。 1946年12月、ベトナム軍とフランス軍の戦争が始まった。フランス軍が優勢だったが、ベトナム社会主義共和国軍はゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。 1947年2月、建国を悲願とするユダヤ人とアラブ人の紛争が絶えなかったパレスチナを持て余したイギリスは、委任統治を放棄し、国連にゲタを預けた。11月、国連総会は、パレスチナの土地の6割弱をユダヤ国家に、4割強をアラブ国家に分割する案を、可決した。倍以上の人口を抱え、殆どの土地を所有するアラブ人側に過酷すぎる不自然な決定は、アメリカ大統領トルーマンのゴリ押しによるものと言われている。

そこから、中東戦争が始まり、長く続くこととなった。 朝鮮半島では、統一政府樹立のための総選挙がソ連の反対で実施できなかったので、1948年5月にアメリカの占領下にある南部だけで総選挙が行われ、李承晩が大統領に当選した。8月15日、大韓民国第一共和国の樹立が宣言され、アメリカ軍政が廃止された。 1948年9月9日、朝鮮半島北部を実効支配する勢力(満州派、甲山派、南労党派、中国共産党、延安派、ソ連派など)が、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言した。 1949年1月、中共軍が国民党軍を敗退させて、北京に入城した。10月1日、毛沢東が北京市で中華人民共和国の建国を宣言した。10月25日、中共軍八個連隊は、対岸の 厦門 ( アモイ ) からの砲兵隊の援護を受け、200隻のジャンクで三方向から包囲するようにして金門島に迫った。これに対する国民党軍(三個師団と保衛一個連隊)は、旧日本陸軍中将 根本博氏の指揮を受け、一発も反撃せず、中共軍を上陸させて島内に誘い込んだ。日没後、国民党軍は、ジャンクに火を放って上陸軍への補給と退路を断ち、総反撃に出た。中共軍は、混乱し、包囲網の開いた一方向に雪崩を打つように殺到して海岸に向かったが、追いかける国民党軍と島陰で待機していた海軍の挟み撃ちに合って壊滅した。以後、中共軍は、対岸から砲撃するだけで、金門島に上陸しようとしなくなった。

1949年4月、北米と西欧の30箇国は、軍事同盟NATOを結んで共産圏の脅威に備えた。 1949年6月、ベトナム王国ができ、ベトナム帝国皇帝だったバオ・ダイが国王になった。 1949年12月、南京から逃れ出た蒋介石らは、台湾島の台北に中華民国政府を移転させた。 1950年1月、イギリス労働党政権が、中華人民共和国を承認した。 1950年2月、フランス、アメリカ、イギリスがベトナム王国を承認した。 1950年5月、韓国の総選挙で、李承晩政権に対する不信任の結果が示された。2年後任期満了時の再選を危ぶんだ李承晩は、人気挽回策として、対日戦意を煽り「対馬侵攻」を名目に精鋭軍を南下させ釜山に集結させた。手薄となった首都ソウルは、「国土完整」を唱える朝鮮民主主義人民共和国軍にとって、格好の餌食に見えた。 1950年6月25日早朝、北朝鮮軍による総攻撃が、青天の霹靂の如く、何の前触れも無く始まった。防衛ラインは次々と突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。韓国政府は非常閣僚会議で、ソウルを捨てて南にある水原への遷都を決め、李承晩は更に南の大田に逃れた。ラジオは「国連軍が助けてくれるから安心しろ」と大統領の肉声を放送し続け、新聞は事実と異なる韓国軍の反攻を伝えていた。大統領が逃げ、国民を欺き続ける中で、北朝鮮の南進を少しでも遅らせる為、韓国軍はソウルを東西に流れる漢江の人道橋を、多数の避難民もろとも、爆破した。後に、橋爆破の現場責任者だったチェ・チャンシク大佐が責任を問われて処刑され、真相は闇に葬られた。 米軍機動部隊が大田に到着し防衛線を築いたが、北朝鮮軍は韓国軍を攻め、それを崩壊させて横にいる米軍を包囲した。韓国軍は大量の米軍装備を放棄して逃げ、それを北朝鮮軍が使い、米軍の装備で米軍兵が殺害される状況になった。 しかし、李承晩は、韓国軍が前線に立つことを主張し続け、状況は改善されなかった。 その結果、米軍主体の国連軍は敗北を重ね、8月末には、北朝鮮軍が釜山まで60キロメートル余の昌寧郡に迫った。 9月2日、マッカーサー元帥が国連安全保障理事会に「国連軍の活動に関する第3次報告書」を提出し、国連軍増強の必要を強調した。また「北朝鮮軍がカムフラージュの為に民家や民間輸送機関を利用しており、軍事目標を識別することは著しく困難である」旨説明し、民間人・施設に対する攻撃の正当性を説明した。民家人を装い、或は、民間人に紛れ込んで、民間人が攻撃しているように見せかけるのは、共産主義者の常套手段。民間人の犠牲を材料とするプロパンガは、彼らの強力な武器となる。9月15日、国連軍は、仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪回した。

しかし、李承晩の主張に基づき韓国軍を前線に立たせた結果、米軍の装備で米軍兵が殺害される状況が再現され、翌年1月、中共軍にソウルを占領されてしまった。 その後、戦況は、一進一退を繰り返したが、国連は休戦への道筋を作り、両軍の捕虜送還協定が締結された。 6月18日、李承晩は、国連決議を無視し、アメリカに何の予告も無く、抑留中の朝鮮人民軍捕虜二万五千人を北へ送還せずに韓国内で釈放させ、国際世論の非難を浴びた。この釈放は、不法に抑留した日本人の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者と��て日本の刑務所で収監されている韓国人受刑者に対する放免・日本永住許可付与を要求した手口に相通ずる処がある。 1951年9月、サンフランシスコで吉田茂首相が講和条約に調印し、日本は主権を回復した。朝鮮・台湾・南樺太・千島は放棄し、沖縄と小笠原諸島はがアメリカの占領下に置かれることとなった。調印したのは48カ国だった。同日、日米安全保障条約が結ばれ、アメリカ反共陣営に日本が組み込まれた。 1952年1月、韓国は、 所謂 ( いわゆる ) 李承晩ラインを一方的に設定した。 1953年3月、ソ連の最高指導者スターリンが病死した。 1953年7月、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が、軍事境界38度線を挟む休戦に同意した。軍事委員会委員長に就任した金日成は、朴憲永、金枓奉、崔昌益、許貞淑、金昌満、武亭、朴一禹、朴孝三、方虎山、尹公欽、徐輝、李相朝、金雄、鄭律成、金元鳳、許哥誼、朴昌玉、金烈、朴義琓、総政治局長、崔遠、金七星ら他派の政敵を次々に追い落とし粛正して、権力を強化しいった。 1953年12月、韓国は、日本海で漁船数百隻を拿捕し、乗組員数千人を抑留した。

そして、抑留者の返還と引き換えに 日本の刑務所 で常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として 収監 されている韓国人 受刑者 の 釈放 を要求した。日本政府 はこれを飲み、在日韓国人犯罪者472人を放免し、日本での永住許可を与えた。 1954年2月、 嘗 ( かつ ) て中国西北部の陝西省で毛沢東らを迎え入れた高崗が「東北部を独立王国にしようとした」という濡れ衣を着せられて失脚し、半年後に毒殺された。 1954年、ベトナム国王バオ・ダイは、首相にゴ・ジン・ジェムを任命した。翌年、ゴ・ジン・ジェムが国民投票を実施し、ベトナムは共和国になった。ゴ・ジン・ジェムは大統領に就任し、アメリカの軍事援助を取り付けた。バオ・ダイはフランスに亡命した。 1955年、ソ連と東欧諸国は、NATOに対抗するため、軍事同盟WPOを結んだ。 1956年、ソ連での個人崇拝批判の影響受けて、北朝鮮でも金日成批判の動きが出てきたが、金日成は、甲山派と組んで政敵を除名し逮捕した。 1956年5月、毛沢東は、最高国務会議で「百花斉放 百家争鳴」を提唱し共産党への批判を歓迎した。翌年2月の最高国務会議でも中国共産党に対する批判を呼びかけるとともに、翌月6日から1週間かけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、共産党の中国支配に異を唱えたり毛沢東の指導力を批判する者も出てきた。5月、毛沢東は、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うよう命じたが、「右派らは有頂天になっている。まだ釣り上げてはならない」と述べた。6月、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東が執筆した社説を掲載した。10日後、人民日報は、毛沢東が 嘗 ( かつ ) て「百花斉放 百家争鳴」を呼びかけた演説内容を掲載したが、演説したという内容は、批判を制約するものだった。党を思い切って批判した知識人たちは社会主義政権破壊を画策した[右派]というレッテルを貼られ、知識人の粛清運動(反右派闘争)が始まった。以後、中国共産党批判は二度と行われなかった。
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