#岩合さんごっこ
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汚辱の日々 さぶ
1.無残
日夕点呼を告げるラッパが、夜のしじまを破って営庭に鳴り響いた。
「点呼! 点呼! 点呼!」
週番下士官の張りのある声が静まりかえった廊下に流れると、各内務班から次々に点呼番号を称える力に満ちた男達の声が騒然と漠き起こった。
「敬礼ッ」
私の内務班にも週番士官が週番下士官を従えて廻って来て、いつもの点呼が型通りに無事に終った。辻村班長は、これも毎夜の通り
「点呼終り。古兵以上解散。初年兵はそのまま、班付上等兵の教育をうけよ。」
きまりきった台詞を、そそくさと言い棄てて、さっさと出ていってしまった。
班付上等兵の教育とは、言い換えれば「初年兵のビンタ教育」その日の初年兵の立居振舞いのすべてが先輩達によって棚卸しされ、採点・評価されて、その総決算がまとめて行われるのである。私的制裁をやると暴行罪が成立し、禁止はされていたものの、それはあくまで表面上でのこと、古兵達は全員残って、これから始まる凄惨で、滑稽で、見るも無残なショーの開幕を、今や遅しと待ち構えているのであった。
初年兵にとつては、一日のうちで最も嫌な時間がこれから始まる。昼間の訓練・演習の方が、まだしもつかの間の息抜きが出来た。
戦闘教練で散開し、隣の戦友ともかなりの距離をへだてて、叢に身を伏せた時、その草いきれは、かつて、学び舎の裏の林で、青春を謳歌して共に逍遙歌を歌い、或る時は「愛」について、或る時は「人生」について、共に語り共に論じあったあの��、この友の面影を一瞬想い出させたし、また、土の温もりは、これで母なる大地、戎衣を通じて肌身にほのぼのと人間的な情感をしみ渡らせるのであった。
だが、夜の初年兵教育の場合は、寸刻の息を抜く間も許されなかった。皓々(こうこう)とした電灯の下、前後左右、何かに飢えた野獣の狂気を想わせる古兵達の鋭い視線が十重二十重にはりめぐらされている。それだけでも、恐怖と緊張感に身も心も硬直し、小刻みにぶるぶる震えがくるのだったが、やがて、裂帛(れっぱく)の気合
怒声、罵声がいり乱れるうちに、初年兵達は立ち竦み、動転し、真ッ赤に逆上し、正常な神経が次第々に侵され擦り切れていった。
その過程を眺めている古兵達は誰しも、婆婆のどの映画館でも劇場でも観ることの出来ない、スリルとサスペンスに満ち溢れ、怪しい雰囲気につつまれた素晴しい幻想的なドラマでも見ているような錯覚に陥るのであった。幻想ではない。ここでは現実なのだ。現実に男達の熱気が火花となって飛び交い炸裂したのである。
なんともやりきれなかった。でも耐え難い恥辱と死につながるかもしれない肉体的苦痛を覚悟しない限り抜け出せないのである。ここを、この軍隊と云う名の檻を。それがあの頃の心身共に育った若者達に課せられた共通の宿命であった。
この日は軍人勅諭の奉唱から始まった。
「我ガ国ノ軍隊ハ代々天皇ノ統率シ賜ウトコロニゾアル……」
私は勅諭の奉唱を仏教の読経、丁度そんなものだと思っていた。精神が忘れ去られ、形骸だけが空しく機械的に称えられている。又虐げられた人々の怨念がこもった暗く重く澱んだ呻き、それが地鳴りのように聞こえてくるそんな風にも感じていた。
勅諭の奉唱が一区切りついたところで、一人の古兵が教育係の上等兵に何か耳うちした。頷いた上等兵は、
「岩崎、班長殿がお呼びだ。すぐ行けッ」
全員の目が私に集中している。少くとも私は痛い程そう感じた。身上調査のあったあの日以来、私は度々辻村机長から呼び出しをうけた。あいつ、どうなってんだろ。あいつ班長殿にうまく、ゴマすってるんじゃないか。あいつ、俺達のことを、あることないこと、班長殿の気に入るように密告してるんじゃないか。同年兵も古兵達も、皆がそんな風に思っているに違いない。私は���なにそう思い込んでいた。
つらかった。肩身が狭かった。
もともと私は、同年兵達とも古兵達とも、うまくいっていなかった。自分では余り意識しないのだが、私はいつも育ちや学歴を鼻にかけているように周囲から見られていたようである。運動神経が鈍く、腕力や持久力がからっきし駄目、することなすことがヘマばかり、ドジの連続の弱兵のくせに、その態度がデカく気障(きざ)っぽく嫌味で鼻持ちがならない。そう思われているようだった。
夏目漱石の「坊ちゃん」は親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしていたと云うが、私は生まれつき人みしりのする損なたちだった。何かの拍子にいったん好きになると、その人が善人であれ悪人であれ、とことん惚れ込んでしまうのに、イケ好かない奴と思うともう鼻も引つかけない。気軽に他人に話しかけることが出来ないし、話しかけられても、つい木で鼻をくくったような返事しかしない。こんなことではいけないと、いつも自分で自分を戒めているのだが、こうなってしまうのが常である。こんなことでは、同年兵にも古兵にも、白い眼で見られるのは至極当然内務班でも孤独の影がいつも私について廻っていた。
あいつ、これから始まる雨霰(あめあられ)のビンタを、うまく免れよって――同年兵達は羨望のまなざしを、あいつ、班長室から戻って来たら、ただではおかないぞ、あの高慢ちきで可愛いげのないツラが変形するまで、徹底的にぶちのめしてやるから――古兵達は憎々しげなまなざしを、私の背に向って浴せかけているような気がして、私は逃げるようにその場を去り辻村班長の個室に急いだ。
2.玩弄
部屋の前で私は軽くノックした。普通なら「岩崎二等兵、入りますッ」と怒鳴らねばならないところだが、この前、呼び出しをうけた時に、特にノックでいいと辻村班長から申し渡されていたのである。
「おう、入れ」
低いドスのきいた返事があった。
扉を閉めると私はいったん直立不動の姿勢をとり、脊筋をぴんとのばしたまま、上体を前に傾け、しゃちこばった敬礼をした。
辻村班長は寝台の上に、右手で頭を支えて寝そべりながら、じっと私を、上から下まで射すくめるように見据えていたが、立ち上がって、毛布の上に、どっかとあぐらをかき襦袢を脱ぎすてると、
「肩がこる、肩を揉め」
傲然と私に命じた。
私も寝台に上がり、班長の後に廻って慣れぬ手つきで揉み始めた。
程よく日焼けして艶やかで力が漲っている肩や腕の筋肉、それに黒々とした腋の下の毛のあたりから、男の匂いがむっと噴き出てくるようだ。同じ男でありながら、私の身体では、これ程官能的で強烈な匂いは生まれてこないだろう。私のは、まだまだ乳臭く、淡く、弱く、男の匂いと云うには程遠いものであろう。肩や腕を、ぎこちない手つきで揉みながら、私はふっと鼻を彼の短い頭髪やうなじや腋に近づけ、深々とこの男の乾いた体臭を吸い込むのだった。
「おい、もう大分、慣れて来たか、軍隊に」
「……」
「つらいか?」
「いエ……はァ」
「どっちだ、言ってみろ」
「……」
「つらいと言え、つらいと。はっきり、男らしく。」
「……」
「貴様みたいな、娑婆で、ぬくぬくと育った女のくさったようなやつ、俺は徹底的に鍛えてやるからな……何だ、その手つき……もっと、力を入れて……マジメにやれ、マジメに……」
辻村班長は、岩崎家のぼんぼんであり、最高学府を出た青白きインテリである私に、マッサージをやらせながら、ありったけの悪態雑言を浴びせることを心から楽しんでいる様子であった。
ごろりと横になり、私に軍袴を脱がさせ、今度は毛深い足や太股を揉みほぐし、足の裏を指圧するように命じた。
乱れた越中褌のはしから、密生した剛毛と徐々に充血し始めた雄々しい男の肉茎が覗き生臭い股間の匂いが、一段と激しく私の性感をゆさぶり高ぶらせるのであった。
コツコツ、扉を叩く音がした。
「おお、入れ」
私の時と同じように辻村班長は横柄に応えた。今時分、誰が。私は思わず揉む手を止めて、その方に目を向けた。
入って来たのは――上等兵に姿かたちは変ってはいるが――あっ、辰ちゃんではないか。まぎれもなく、それは一丁目の自転車屋の辰ちゃんなのだ。
私の家は榎町二丁目の豪邸。二丁目の南、一丁目の小さな水落自転車店、そこの息子の辰三は、私が小学校の頃、同じ学年、同じクラスだった。一丁目と二丁目の境、その四つ角に「つじむら」と云ううどん・そば・丼ぶり物の店があり、そこの息子が今の辻村班長なのである。
私は大学に進学した関係で、徴兵検査は卒業まで猶予されたのであるが、彼―― 水落辰三は法律通り満二十才で徴兵検査をうけ、その年か翌年に入隊したのだろう。既に襟章の星の数は私より多く、軍隊の垢も、すっかり身についてしまっている様子である。
辰ちゃんは幼い時から、私に言わせれば、のっぺりした顔だちで、私の好みではなかったが、人によっては或いは好男子と言う者もあるかもしれない。どちらかと言えば小柄で小太り、小学校の頃から既にませていて小賢しく、「小利口」と云う言葉が、そのままぴったりの感じであった。当時のガキ大将・辻村に巧みにとり��って、そのお気に入りとして幅をきかしていた。私が中学に入って、漢文で「巧言令色スクナシ仁」と云う言葉を教わった時に「最っ先に頭に想い浮かべたのはこの辰ちゃんのことだった。ずる賢い奴と云う辰ちゃんに対する最初の印象で、私は殆んどこの辰ちゃんと遊んだ記憶も、口をきいた記憶もなかったが、顔だけは、まだ頭の一隅に鮮明に残っていた。
辻村班長は私の方に向って、顎をしゃくり上げ、辰ちゃん、いや、水落上等兵に、「誰か分かるか。」
意味あり気に、にやっと笑いながら尋ねた
「うん」
水落上等兵は卑しい笑みを歪めた口もとに浮かべて頷いた。
「岩崎、裸になれ。裸になって、貴様のチンポ、水落に見てもらえ。」
頭に血が昇った。顔の赤らむのが自分でも分った。でも抵抗してみたところで、それが何になろう。それに恥ずかしさに対して私は入隊以来もうかなり不感症になっていた。部屋の片隅で、私は手早く身につけていた一切合切の衣類を脱いで、生まれたままの姿にかえった。
他人の眼の前に裸身を晒す、そう思うだけで、私の意志に反して、私の陰茎はもう「休メ」の姿勢から「気ヲ付ケ」の姿勢に変り始めていた。
今日は辻村班長の他に、もう一人水落上等兵が居る。最初から突っ張ったものを披露するのは、やはり如何にもきまりが悪かった。しかも水落上等兵は、私が小学校で級長をしていた時の同級生なのである。
私の心の中の切なる願いも空しく、私のその部分は既に独白の行動を開始していた。私はどうしても私の言うことを聞かないヤンチャ坊主にほとほと手を焼いた。
堅い木製の長椅子に、辻村班長は越中褌だけの姿で、水落上等兵は襦袢・軍袴の姿で、並んで腰をおろし、旨そうに煙草をくゆらしていた。班長の手招きで二人の前に行くまでは、私は両手で股間の突起を隠していたが、二人の真正面に立った時は、早速、隠し続ける訳にもいかず、両手を足の両側につけ、各個教練で教わった通りの直立不動の姿勢をとった。
「股を開け。両手を上げろ」
命ぜられるままに、無様な格好にならざるを得なかった。二人の視線を避けて、私は天井の一角を空ろに眺めていたが、私の胸の中はすっかり上気して、不安と、それとは全く正反対の甘い期待とで渦巻いていた。
二人は代る代る私の陰茎を手にとって、きつく握りしめたり、感じ易い部分を、ざらざらした掌で撫で廻したりしはじめた。
「痛ッ」
思わず腰を後にひくと、
「動くな、じっとしとれ」
低い威圧的な声が飛ぶ。私はその部分を前につき出し気味にして、二人の玩弄に任せると同時に、高まる快感に次第に酔いしれていった。
「廻れ右して、四つん這いになれ。ケツを高くするんだ���」
私の双丘は水落上等兵の手で押し拡げられた。二人のぎらぎらした眼が、あの谷間に注がれていることだろう。板張りの床についた私の両手両足は、時々けいれんをおこしたように、ぴくッぴくッと引き吊った。
「顔に似合わず、案外、毛深いなアこいつ」
水落上等兵の声だった。突然、睾丸と肛門の間や、肛門の周囲に鈍い熱気を感じた。と同時に、じりッじりッと毛が焼けて縮れるかすかな音が。そして毛の焦げる匂いが。二人は煙草の火で、私の菊花を覆っている黒い茂みを焼き払い出したに違いないのである。
「熱ッ!」
「動くな、動くとやけどするぞ」
辻村班長の威嚇するような声であった。ああ、目に見えないあのところ、今、どうなってるんだろう。どうなってしまうのだろう。冷汗が、脂汗が、いっぱいだらだら――私の神経はくたくたになってしまった。
3.烈情
「おい岩崎、今日はな、貴様にほんとの男ってものを見せてやっからな。よーく見とれ」
四つん這いから起きあがった私に、辻村班長は、ぶっきらぼうにそう言った。辻村班長が水落上等兵に目くばせすると、以心伝心、水落上等兵はさっさと着ているものを脱ぎ棄てた。裸で寝台の上に横になった水落上等兵は、恥ずかしげもなく足を上げてから、腹の上にあぐらを組むように折り曲げ、辻村班長のものを受入れ易い体位になって、じっと眼を閉じた。
彼白身のものは、指や口舌で何の刺戟も与えていないのに、既に驚くまでに凝固し若さと精力と漲る力をまぶしく輝かせていた。
「いくぞ」
今は褌もはずし、男一匹、裸一貫となった辻村班長は、猛りに猛り、水落上等兵を押し分けていった。
「ううッ」
顔をしかめ、引き吊らせて、水落上等兵は呻き、
「痛ッ……痛ッ……」と二言三言、小さな悲鳴をあげたが、大きく口をあけて息を吐き、全身の力を抜いた。彼の表情が平静になるのを待って、辻村班長はおもむろに動いた。大洋の巨大な波のうねりのように、大きく盛り上がっては沈み、沈んでは又大きく盛り上がる。永落上等兵の額には粒の汗が浮かんでいた。
凄まじい光景であった。凝視する私の視線を避けるように、流石の永落上等兵も眼を閉じて、烈しい苦痛と屈辱感から逃れようとしていた。
「岩崎、ここへ来て、ここをよーく見ろ」
言われるがままに、私はしゃがみこんで、局部に目を近づけた。
一心同体の男達がかもし出す熱気と、激しい息づかいの迫力に圧倒されて、私はただ茫然と、その場に崩れるようにすわりこんでしまった。
戦いは終った。戦いが烈しければ烈しい程それが終った後の空間と時間は、虚しく静かで空ろであった。
三人の肉体も心も燃え尽き、今は荒涼として、生臭い空気だけが、生きとし生ける男達の存在を証明していた。
男のいのちの噴火によ���恍惚感と、その陶酔から醒めると、私を除く二人は、急速にもとの辻村班長と水落上等兵に戻っていった。先程までのあの逞しい情欲と激動が、まるで嘘のようだった。汲(く)めども尽きぬ男のエネルギーの泉、そこでは早くも新しい精力が滾々(こんこん)と湧き出しているに達いなかった。
「見たか、岩崎。貴様も出来るように鍛えてやる。寝台に寝ろ。」
有無を言わせぬ強引さであった。
あの身上調査のあった日以来、私はちょくちょく、今夜のように、辻村班長の呼び出しをうけていたが、その度に、今日、彼が水落上等兵に対して行ったような交合を私に迫ったのである。しかし、これだけは、私は何としても耐えきれなかった。頭脳に響く激痛もさることながら、襲いくる排便感に我慢出来ず私は場所柄も、初年兵と云う階級上の立場も忘れて、暴れ、喚き、絶叫してしまうので、辻村班長は、ついぞ目的を遂げ得ないままであった。
その時のいまいましげな辻村班長の表情。何かのはずみでそれを想い出すと、それだけで、私は恐怖にわなないたのであるが、辻村班長は一向に諦めようとはせず、執念の劫火を燃やしては、その都度、無残な挫折を繰り返していたのである。
その夜、水落上等兵の肛門を責める様を私に見せたのは、所詮、責められる者の一つの手本を私に示す為であったかもしれない。
「ぐずぐずするな。早くしろ、早く」
ああ、今夜も。私は観念して寝台に上がり、あおむけに寝た。敷布や毛布には、先程のあの激突の余儘(よじん)が生温かく、水落上等兵の身体から滴り落ちた汗でじっとりと湿っていた。
私の腰の下に、枕が差し込まれ、両足を高々とあげさせられた。
「水落。こいつが暴れんように、しっかり押さえつけろ。」
合点と云わんばかりに、水落上等兵は私の顔の上に、肉づきのいい尻をおろし、足をV字形に私の胴体を挟むようにして伸ばした。股の割れ目は、まだ、水落上等兵の体内から分泌された粘液でぬめり、私の鼻の先や口許を、ねばつかせると同時に、異様に生臭い匂いが、強烈に私の嗅覚を刺戟した。
「むむッ」
息苦しさに顔をそむけようとしたが、水落上等兵の体重で思うにまかせない。彼は更に私の両足首を手荒く掴んで、私の奥まった洞窟がはっきり姿を見せるよう、折り曲げ、組み合わせ、私の臍の上で堅く握りしめた。
奥深く秘められている私の窪みが、突然、眩しい裸電球の下に露呈され、その差恥感と予期される虐待に対する恐怖感で、時々びくっびくっと、その部分だけが別の生き物であるかのように動いていた。
堅い棒状の異物が、その部分に近づいた。
思わず息をのんだ。
徐々に、深く、そして静かに、漠然とした不安を感じさせながら、それは潜行してくる。ああッ〃‥ああッ〃‥‥痛みはなかった。次第に力が加えられた。どうしよう……痛いような、それかと云って痛くも何ともないような、排泄を促しているような、そうでもないような、不思議な感覚が、そのあたりにいっぱい。それが、私の性感を妖しくぐすぐり、燃えたたせ、私を夢幻の境地にさそうのであった。
突然、激痛が火となって私の背筋を突っ走った。それは、ほんのちょっとした何かのはずみであった。
「ぎゃあッ!!」
断末魔の叫びにも似た悲鳴も、水落、上等兵の尻に押さえつけられた口からでは、単なる呻きとしか聞きとれなかったかもしれない。
心をとろけさせるような快感を与えていた、洞窟内の異物が、突如、憤怒の形相に変わり、強烈な排便感を伴って、私を苦しめ出したのである。
「お許し下さいッ――班長殿――お許しッ ――お許しッ――ハ、ハ、班長殿ッ」 言葉にはならなくても、私は喚き叫び続けた。必死に、満身の力を振り絞って。
「あッ、汚しますッ――止めて、止めて下さいッ――班長殿ッ――ああ――お願いッ――お許しッ――おおッ――おおッ―― 」
「何だ、これくらいで。それでも、貴様、男か。馬鹿野郎ッ」
「ああッ、……痛ッ……毛布……毛布……痛ッ――汚れ――汚れますッ――班長殿ッ」
毛布を両手でしっかりと握りしめ、焼け爛れるような痛さと、排便感の猛威と、半狂乱の状態で戦う私をしげしげと眺めて、流石の辻村班長も、呆れ果てで諦めたのか、
「よしッ……大人しくしろ。いいか、動くなッ」
「うおおおー!!!」
最後の一瞬が、とりわけ私の骨身に壊滅的な打撃を与えた。
「馬鹿野郎。ただで抜いてくれるなんて、甘い考えおこすな。糞ったれ」
毒づく辻村班長の声が、どこか遠くでしているようだった。
終った、と云う安堵感も手伝って、私は、へたへたとうつ伏せになり、股間の疼きの収まるのを待った。身体じゅうの関節はばらばら全身の力が抜けてしまったように、私はいつまでも、いつまでも、起き上がろうとはしなかった。
班長の最後の一撃で俺も漏らしてしまったのだ。腑抜けさながら。私はここまで堕ちに堕ちてしまったのである。 瞼から涙が溢れ、男のすえた体臭がこびりついた敷布を自分の汁と血で汚していた。
どれだけの時間が、そこで停止していたことか。
気怠(けだる)く重い身体を、もぞもぞ動かし始めた私。
「なんだ、良かったんじゃねぇか、手間取らせやがって」
おれの漏らした汁を舐めながら辻村班長が言った。
そして汚れたモノを口に突っ込んできた。
水落上等兵は、おいうちをかけるように、俺に覆い被さり、聞こえよがしに口ずさむのであった。
新兵サンハ可哀ソウダネ――マタ寝テカクノカヨ――
(了)
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小笠原陸兆・フィッシュパンの在庫が久しぶりにしっかりあるので、我が家での使いようと合わせてご紹介。
先日いただいた「嶽きみ」は、届いてすぐにフィッシュパンで二本並べて塩蒸しにしました。ころころっと焼いて、皮に少し焦げ目をつけてから、100ccほどの塩水(塩はほんの一つまみ)をじゃっと注いで蓋を載せ、蒸発すればできあがり。甘みが深くて香りが良く、そのまま食べる以外にも、ポタージュや天ぷらなどさまざまに楽しみました。岩木山の山麓・嶽高原で採れるとうもろこしとのことですが(唐黍の「きび」が「きみ」と転訛したとのこと)、つがる工芸店の會田さんが、青森は山も海もおいしいものばっかりだから、と常々仰ってらっしゃることが実感されます。
明日26日(月)、明後日27日(火)はお休みします。まだまだ暑い日が続きます。どうぞお気をつけて。
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(...)吉祥寺駅前での待ち合わせに伺うと、茨木さんが待っておられ、「お話があるので、お茶を飲みましょう」と仰る。恥ずかしいことに、私は現金の持ち合わせがあまりなかった。おたおたして謝ると、優しく「いいんですよ」と微笑まれた。
駅前の喫茶店に入ると、茨木さんが「申し訳ないけれども、私はあまりよい感想を書けなかった。それでもいいですか?」と仰るのである。私が何と答えたかは忘れてしまったが、コーヒーをご馳走になった礼を言い、原稿を押し頂いて帰ってきながら、何と率直な人だろうと驚いたものである。私は原稿を届けた後、すぐに書店に行き、茨木さんの詩集を買った。茨木さんのお仕事も知らずに、原稿を取りに行った自分が恥ずかしかったのだ。(...)
ある日、寺山修司さんが「下にいるけど、入れるか」と電話してきた。私は慌てて招待券を持ってビルの一階に下りた。すると、寺山さんは女性連れだった。「あっ、二枚だった」と息を飲むと、私を見た寺山さんが申し訳ないような表情をされた。その時のお顔が忘れられない。
また、『ねむの木の詩』という宮城まり子さんの「ねむの木学園」の記録映画を上映した際、過労のために入院していらした宮城さんのところに行ったこともある。宮城さんはベッドの上で、「わざわざありがとう」と優しくねぎらってくれた。髪は下ろしたままで、無化粧、少女のようだった。帰って先輩の編集担当の女性に報告すると、「宮城さんて、いい女でしょう」と羨ましそうに言ったのを思い出す。
どんな作家も有名人も、いい仕事をしている人は偉ぶらずに、原稿を取りに来る使いの女も馬鹿にしないのだ、という印象は強烈だった。
ー桐野夏生「岩波ホールで会った人々」(文春ムックCINEMA! 2022夏号 特集 さようなら、岩波ホール)
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I am a Japanese Jooster fan, and sorry if my translation is wrong.
In Japan, there are two types of translations for the works of Wodehouse. One is the translation by Tamaki Morimura, which is used for the manga version, and the other is by Masakatsu Iwanaga and Taiichi Koyama.
It seems Morimura's version gives weight to recreate the flavor and character images, while Iwanaga and Koyama forcus on replacing exactly what original text means with Japanese.
Now, regarding the part that all Jooster fans frame and display, "I'm fond of Mr. Wooster...," Iwanaga and Koyama's translation is, ”大好きなウースター様のことですから、お顔を見るとくじけそうな気持ちになりました.”
In this case, the term "大好き(Dai suki)" strongly express the sense of affection. In Japan, it's not common for someone of lower status to describe someone of higher status as "大好き," making it a frank and affectionate expression. It could be interpreted as Jeeves, being the older character, having a deep affection for the favorable young man, Bertie.
Of course, it's also possible to interpret it as "I love him," indicating a strong sense of love. In other words, Iwanaga and Koyama's translation conveys a meaning like, "I have a very good feeling (friendship, affection or love) about Mr. Wooster, so when I saw his despairing face, I almost faltered (in my determination to train him with severe methods)."
On the other hand, Morimura's translation is, "わたくしはウースター様が好きでございます。あの方のお顔を拝見して、わたくしはもう少しで心とろけるところであったと、認めるものでございます."
The phrase "好き(Suki)" is used in a wide range, from a confession of hidden love to a simple expression of goodwill. So, while it may sound slightly more serious than "大好き", the difference from Iwanaga and Koyama's translation is not significant.
The issue arises in the subsequent part. Morimura translates "I admit I came very near to melting," using the imagery of "melt" as "心とろける(kokoro torokeru)" ("my heart felt like it was about to melt").
The problem is that the Japanese phrase "心とろける(herart + melt)" does not necessarily imply a wavering of resolve or a softening of emotions; rather, it carries a strong image of entrancement or in ecstasy. In other words, while Iwanaga and Koyama's translation allows for the imagining of gentle Jeeves, Morimura's translation opens the door to envisioning sadistic Jeeves who is enraptured by Bertie's despairing face. I don't know what the word "melting" exactly means in English, but translation is indeed fascinating!
Note that both Jeeves will carry out the training as planned.
Japanese version of this blog :
日本におけるウッドハウス作品の翻訳には2種類あります。漫画版の元になった森村たまき訳と岩永正勝・小山太一訳です。
私は英語に詳しくないので間違っているかもしれませんが、森村訳が比較的雰囲気やキ���ラのイメージ重視なのに対し、岩永・小山訳は原文に書いてあることだけをシンプルに日本語に置き換えた感じです。
さて、全世界のJoosterファンが額縁に入れて飾っている"I'm fond of Mr.Wooster…"の部分ですが、岩永・小山訳は「大好きなウースター様のことですから、お顔を見るとくじけそうな気持になりました」です。この場合の「大好き」はかなり強い親愛の情を示す言葉です。日本では通常身分の低い者が身分の高い人を「大好き」と形容することはあまりないので、フランクかつ親しみのこもった言い方と言えます。年長者であるジーヴスが好ましい若者のバーティに強い親愛の情を持っている、という解釈なのかもしれません。もちろん、「愛している」という意味に解釈することも可能です。つまり、岩永・小山訳は「私はウースター様をとても好ましく思っているので、彼の絶望した顔を見て(彼をひどい目に合わせて調教しようという決意が)くじけそうになった」ぐらいの意味です。
一方、森村訳は「わたくしはウースター様が好きでございます。あの方のお顔を拝見して、わたくしはもう少しで心とろけるところであったと、認めるものでございます」です。「私は(人名)が好きです」は秘めたる愛の告白から単なる好意の表明まで幅広く使われますので、「大好きなウースター様」より若干真剣な告白に聞こえるものの、岩永・小山訳とそこまで違いはありません。問題はその後です。森村訳は"I admit I came very near to melting"のmeltのイメージをそのまま用いて「心がとろけそうだった」と訳しています。問題は日本語の「心とろける」に決意が鈍るとか感情が和らぐという意味があまりなく、うっとりする、恍惚とするようなイメージが強いことです。つまり、岩永・小山訳では善人(ぶっている)ジーヴスが想像できる一方、森村訳では大好きなウースター様の絶望した顔を見てうっとりするサディストのジーヴスが想像可能だということです。翻訳って面白いですね。
あなたはどちらの訳が好きですか?
大好きなウースター様への調教を躊躇する優しいジーヴス
ウースター様が好きなので絶望顔をうっとり眺めるジーヴス
なお、どちらも調教は予定通り行います
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「書いたらその社は終わり」-民主党・松本龍元復興相の政権圧力と関連報道まとめ
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ホントの「言論弾圧」とは 松本龍復興担当大臣(部落解放同盟元副委員長)がマスコミを恫喝した 「書いたらその社は終りだからな!」みたいな発言ですよ。
実際、あの時、大手マスコミはビビって報道しなかった。 東北放送が報道してから各社が追随した。 (https://twitter.com/tolucky7797/status/614798302219911168)
松本龍と言えば部落解放同盟だけど、 長きに渡り、日本のマスメディアの報道に対して 圧力をかけ続けて来たのが、部落解放同盟と朝鮮総連。 (https://twitter.com/WBJPPP/status/584963137918468096)
*
◇『書いたらその社は終わり』発言までの経緯
松本復興相、岩手・宮城両知事にきわどい発言連発
松本龍復興担当相は3日、東日本大震災の被災地である岩手・宮城両県を訪ね、両県知事と会談した。前日の福島県に続く就任後初めての被災地訪問だが、被災者の感情を逆なでしかねない発言を連発した。週明けの国会で野党が追及する可能性もある。
朝日新聞 2011年7月3日 (http://www.asahi.com/special/10005/TKY201107030246.html)
~~~
※「圧力」発言問題をいち早く報じた「宮城TBC東北放送」報道を参考に
▽動画
松本復興相「書いたらその社は終わりだから」 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm14920422) ※冒頭の動画はこれを切り取ったものです。
▽書き起こし+α
『松本龍復興相が(宮城県)知事を叱責』(TBC東北放送)
──松本龍復興担当大臣が就任後初めて、今日、宮城県庁を訪れましたが、村井知事が出迎えなかったことに腹を立て、知事を叱責しました。
──宮城県庁を訪れた松本龍復興担当大臣。村井知事が出迎えなかったことで顔色が変わります。
松本龍「(村井知事が)先にいるのが筋だよな」(※隣の関係者に)
──数分後、笑顔であらわれた村井知事が握手を求めようとしますが、これを拒否。応���室に緊張が走ります。
──そして、要望書を受け取ると、松本大臣が語気を強めて自らの考えを伝えます。
松本龍 「(水産特区は)県でコンセンサスを得ろよ そうしないと我々何もしないぞ。ちゃんとや���」
「今、(知事を指さしながら)あとから自分、入ってきたけど、 お客さんが入って来るときは 自分が入ってきてからお客さんを呼べ、いいか?」
「長幼の序がわかっている自衛隊ならやるぞ」 ※村井義弘知事は元自衛官。
「わかった?」(身を乗り出し同意を強要)
「しっかりやれよ」
「今のはオフレコです。書いたらその社は終わりだから」
「(※マスコミ含め一同、愛想笑い)」
――松本大臣のこの言動は波紋を呼びそうです。
◇各紙報道
7:名無しさん@涙目です。(関西地方):2011/07/04(月) 01:27:51.73 ID:gH09vvx90 松本発言の各社関連記事一覧 新聞社ごとのスタンスを確認してみましょう。
読売新聞 復興相「知恵出さない奴は助けない…つもりで」 (http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110703-OYT1T00630.htm)
朝日新聞 松本復興相、岩手・宮城両知事にきわどい発言連発 (http://www.asahi.com/politics/update/0703/TKY201107030246.html)
毎日新聞 松本復興担当相:岩手、宮城知事と会談「復興は知恵合戦」 (http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110704k0000m040101000c.html)
日経新聞 松本復興相「突き放すことも」 被災地知事に相次ぎ注文 (http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819481E2E1E2E0EA8DE2E1E2E5E0E2E3E38297EAE2E2E2) (http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS03028_T00C11A7PE8000/)
産経新聞 「突き放す時は突き放す」 復興相が被災地知事に注文 (http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110704/plc11070400030000-n1.htm)
共同通信 知恵出さなければ助けない 復興相、被災地に厳しい注文 (http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011070301000727.html)
~~~
※日経以外の記事は公式配信サイトから削除されており、各紙の論調を比較することはできませんが、タイトルを見るに、『共同通信』配信の引用或いは焼き直し程度の内容だったと思われます。
以前、政府が提言・検討を重ねている「放送アーカイブ構想」に対し、主に毎日新聞から『公権力によるメディア監視。事後検閲、報道圧力につながる』といったトチ狂った批判がなされ話題になっていましたが、ネット配信記事のアーカイブも考えて欲しいところです。
▽関連
旧英字版「waiwai」コラムでおなじみの 毎日新聞社「放送アーカイブ構想は報道圧力になりかねません」 Togetterまとめ 2015年7月6日 (https://togetter.com/li/843672)
国立国会図書館が“テレビ・ラジオ番組を全て録画・録音・保存”『放送アーカイブ』構想 ⇒ 毎日新聞取締役「報道の自由を脅かす、報道圧力になりかねない」 正義の見方 2015年7月7日 (http://www.honmotakeshi.com/archives/45459834.html)
▽参考(国境なき記者団「報道の自由度ランキング」)
#松本龍#民主党政権#言論弾圧#政治圧力#部落解放同盟#解同#活動家#マスコミ#メディア#偏向報道#印象操作#菅直人政権#東日本大震災#宮城県知事#毎日新聞#小川一#書いたらその社は終わりだから#放送アーカイブ
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TEDにて
マチウ・リカール:幸せの習慣
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
幸せとは、何で、どうやったら幸せになれるのでしょうか?
生化学者から仏門を選んだマチウリカールは、我々の心を鍛えて満ち足りた状態を習慣にすることによって、心の奥底からの静かな充足を生み出すことができると言います。
これもグローバリゼーションのおかげなのでしょうね。
エベレストの山頂にコカコーラの缶、モントレーに僧侶(私はちょうど、2日前。皆さんのお招きに上がりヒマラヤ山脈から来ました。ですから、皆さんをしばらくの間。ヒマラヤ山脈に招待したいと思います)
そし���、私のような修行僧がいる場所にご案内しましょう。
私はパスツール研究所の分子生物学者でしたが、山に入る道を選びました。さてと、幸福について語りましょう。私は、フランス人ですが、フランスには幸福に全く興味のない知識人が多いです。
では、幸福または満たされた状態について話しましょう。
まず、最初にフランスの知識人がなんと言おうと朝から「今日も一日苦しむだろうか」と考えながら起きる人は誰もいません!つまり、意識しようがしまいが、直接であれ間接であれ、すぐのことでも将来のことでも我々がすること。
望むこと。夢見ること。そういったこと全てが心の奥底で幸せを求めることにつながっているのです。
東洋や西洋の書物を調べれば、幸せの定義は驚くほど多彩でしょう。こう言う人がいます。「過去の記憶を信じて、将来を想像し、現在は念頭にない」こう言う人もいます。「幸せとは、今という瞬間。今という瞬間の新鮮さの度合いである」
そして、これは、フランスの哲学者アンリベルクソンにこう言わせました「すべての偉大な人文科学の思想家は、幸せを曖昧なまま残した彼らが自分達の言葉で幸せを定義できるように」
人生において幸せにそれほど関心がないならかまわないでしょう。しかし、幸せが人生のあらゆる瞬間の質を定めるものだとしたら?私たちは、それが何であるかを知り、はっきりした考えを持った方が良いでしょう。
そして、おそらく私たちが幸せについてよく知らないことが理由となって、しばしば、幸せを求めながらそれに背を向けてしまうのでしょう。
苦しみから逃れたいのに苦しみに向って走っているかのようです。それはある種の勘違いが原因かもしれません!
喜びを、幸せと思い込む事は、よくあります。
この2つの特徴をよく見てみると喜びは、時間、目的、場所に左右されます。その本質は相対的に変わりうるものです。チョコレートケーキの最初の一切れはおいしいです。二切れ目はそれほどでもなく、三切れ目には嫌気がさします。
それが人間の欲望の本質です。
飽きが来ます。私は、昔、バッハが大好きでギターで弾いたりしました。5回聴いても飽きません。もし、24時間休みなしで聴くことになれば飽きるかもしれません。寒いとき、火のそばに近づくのは気持ちがいいです。
そして、しばらくすると少し後ろに下がります。それからすごく熱く感じます。
喜びは経験とともに消費されるかのようです。
そして、それは、あなたから発せられるものではありません。あなたが強い喜びを感じることでまわりの人が大いに苦しむこともありえます。ゲーム理論のゼロサムゲームのこと
では、幸福とはいったいなんでしょう?
幸福というとあまりにも漠然とした言葉なので満ち足りた状態と定義しましょう。
仏教徒の見解から、最もふさわしい定義は、満ち足りた状態とは、ただ楽しいという感覚ではないということです。
それは心の奥底を静かに満たすものです。
人生におけるあらゆる心の働きや喜びや悲しみにも、しみ渡ってその根底に横たわっています。皆さんは驚くかもしれません。悲しみのさなかでも満ち足りていることは、ある意味可能です。なぜなら、私たちは別のレベルの話をしているからです。
岸辺に寄せる波をごらんなさい。波の谷間にいれば、海底に当たります。
堅い岩にあたります。波の上にのっているときは意気揚揚としています。海面は上へ下へと揺れ動きます。外洋をごらんなさい。そこには鏡のように美しく穏やかな海があるかもしれません。嵐の海かもしれません。
しかし、海の深さはそこにあり変わらないのです。どういうことでしょう?それは、つかの間の感情や感覚でなく、そのものの状態です。喜びもまた幸福の源となりえますが、誰かの苦しみを喜ぶというような邪悪な喜びもあります。
ではどのように幸せを探しましょうか?
たいていは外界から探し出そうとします。「幸せ」になるためにすべての状況。すべての条件を満たせば幸せになれると考えます。すべてを得ることで幸せになる!
こんな考え方の幸福には、崩壊が待ち構えています!!すべてを持つこと。何かが欠ければそれは崩れます。
何かがうまく行かないといつも外界を修正しようとします。しかし、私たちが外に及ぼす力は限られたもの。一時のもの。錯覚かもしれません。では、内部の状況を見てください。それらはより強くありませんか?
外界から幸福や苦しみを捉えるのは心ではないですか?心の影響が強くないですか?小さなパラダイスのようなところに住んでいてもまったく不幸せなこともあるのをご存知でしょう。
ダライラマがポルトガルに行ったとき、そこでは、至る所で建設工事が行われていました。ある晩、彼は言いました「立派な建物を建てるよりも、心の中に何か築き上げるのが良い��ではありませんか?」
そして、こう言いました「もし、あなたが素晴らしくモダンで居心地の良いハイテクのマンションの100階に住んでいても内面でひどく不幸だったら飛び降りるための窓を探してしまうでしょう」
では、反対に非常に厳しい状況下でも落ち着き、芯の強さ、自由、信頼を失わない人が沢山います。では、内面の条件が強ければどうか?もちろん、外部状況は影響するでしょう。
そして、健康に長生きすることや情報が得られ。教育が受けられ、旅行が出来。自由でいられることは素晴らしいことです。大変望ましいことです。
しかし、これだけでは十分ではありません。補助的な条件に過ぎないのです。
すべてに解釈を与えるのは、心の中に存在する経験です。内面の幸せの条件をどうはぐくむかと自問していくと幸せを妨げるものが自らの内面に見出されたりもします。これを解るにはいくらかの経験が必要です。
ある種の心の状態があることに気付かなければなりません!
それは、この幸せ、この満ち足りた状態につながる心の状態でギリシア人がユーダイモニアと呼んだものです。
こんな満ち足りた状態の妨げとなるものもあります。自らの経験の中から探しても怒りや憎悪、嫉妬、ごう慢、しつこいほどの欲望、執着。そんな感情にとらわれた後はあまりよい状態とはいえません。
そのうえ、それらは他人の幸せにも有害です。これらのものが心に侵入すればするほど、連鎖反応のようにますます惨めになり苦悩を感じます。憎しみの連鎖とも呼ばれてます。
逆に、誰もが知っていることですが、献身的で、寛大な行為の奥底では、遠くからであっても、他の誰に知られることがなくても、子どもの生命を救い。誰かを、幸せにすることができます。
我々は、認識されることも、感謝されることも必要としません。ただ、そうする事が、心の深みにおいて、満ち足りたものを与えます。それは、常にそうありたいと思う「姿」です。
では、生き方を変えて心の在りようを変容させることが可能でしょうか?
生まれつき心が持っていた否定的な気持ちや破壊的な感情を?我々のムードや特徴。そして、感情を変化させることは可能でしょうか?そのためにはこう尋ねなければなりません。
心の性質とは何でしょう?
経験的な観点から見れば、意識の主な性質というものは、単に事実を認識し、気付くことなのです。
意識は、すべてのイメージを映し出す鏡のようです。
醜い顔も美しい顔も鏡は気にしません。鏡は汚されず、イメージによって変質する事もありません。同様にすべての思考の背後には、ありのままの意識。純粋な認識があります。
そういう性質なのです。意識は、憎悪や嫉妬によって損なわれるようなことはありません。全体が、染料で染められても、布は布であるように、常に、意識は、そこにあります。
我々は、いつも怒っていたり、嫉妬深かったり、気前がよかったりするわけではありません。意識という布地は、純粋に認識をするというその性質において、石とは違っていて、��から、変化の可能性があります。
すべての感情は過ぎ去っていくからです。それが、心の訓練の基盤です。
心の訓練は、2つの対立する精神要因が、同時に起こり得ないという考えに基づきます。愛から憎しみへ行くことはできます。でも、同じ時間に同じもの。同じ人に対し、害悪を願いながら、善を願うことはできません。あなたは、握手しながら殴ることはできません。
我々の内面が、満ち足りようとするのを妨げる感情に対して、自然の特効薬がある!!ということです。
そこに進むべき道があります。
嫉妬に対しては、喜び。貧欲な執着に対しては、内心の自由。憎悪に対しては、慈愛あふれる親切。もちろん、それぞれの感情ごとに、特定の解毒剤が必要です。
これは、仏教の最古の経典とされる南伝パーリ語のスッタニパータにもある「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」の克服方法です!!
もう一つの方法は、全ての感情の特質を分析することで、対抗手段を見出そうとするものです。
通常、我々が、誰かに対し、不快や憎しみ。動揺を感じたり、何かに執着すると我々の心は、その対象のことを繰り返し考えます。その対象に思いを寄せるたびに、執着心や不快感が増します。
その過程は、際限なく膨らみ、繰り返されていきます。今、我々が見るべきなのは、外を見る代わりに、内観するということです。
「怒り」そのものを「ああっ自分は怒ってるな〜」と注視してください。それは、非常に恐ろしげに沸き立つモンスーンか雷雲のように見えます。その雲に座ることすらできそうに見えますが、近づけばただの霧にすぎません。
同様に、あなたが怒りという感情を直視すると、それは、朝日のあたった霜のように消えます!!これもブッタのプラスサムの智恵です。
何度も繰り返して、怒りの感情を直視して、解消しているうちに、怒りの繰り返しは、解消するたびに、だんだん小さくなります。そして、ついには、たとえ怒りが生じても心をかすめるのみで、空を渡る鳥のように痕跡も残さなくなります。
これが心の訓練の基本であるウィパッサナー瞑想法です!!
時間はかかります!心の欠点や性癖を積み重ねるのに、時間がかかったように、それらを解きほぐすのにも時間がかかります。
しかし、それしか方法はありません!!
心の変容こそが、瞑想の意味することろです。新しい在り方やものの受け止め方を習熟することです。そのほうがより現実であり、相互に支えあい。流れのように連続的な変化であるもの。
それが、我々の存在であり意識であるのです。それでは、認知科学との接点について、この話をする必要があります。短い限られた時間で話さなければなりません。
脳の可塑性に関して、以前は、脳の機能は不変のものと思われていました。20年ほど前までは、すべての神経の接続の総数は、成人した後には、ほとんど変化しなくなるものと考えられていました。最近では、それは大きく変化しうることが解かっています。
10,000時間。バイオリンの特訓をしたバイオリン奏者の話を聞きましたが、指の動きを制御する脳の部分は大いに変化して、シナプス接続が強化されます。人間の品位において、愛あふれる慈悲や忍耐強さ。開かれた心によっても同じことができるでしょうか?
これは、それらの偉大な瞑想家が行っていることです。ウィスコンシンのマディソン。
または、バークレーの研究室に来た達人の中には、2万から4万時間も瞑想をした人がいます。彼らは、3年間ほどの隠遁生活を送り、その間、毎日12時間、その後も毎日3-4時間瞑想します。彼らは、心の訓練の真のオリンピック勝者です。
何が明らかになったでしょうか?
さきほどの話と同じです。研究に関しては、まだお話できないのですが、この研究では、無条件の慈悲について調べました。何年も何年もかけて、心の中に慈しみをあふれるさせることができるようになった瞑想家に実験をMRIにて手伝ってもらいました。
そこに至る訓練の途上では対象として、苦しんでいる人々のこと。愛する人々のことを考えますが、やがて、慈しみがあふれて、全てを覆い尽くす���とができるのです。科学的な結果の全てを述べる時間はありません。またの機会があることを期待しましょう。
肝心なことは、この実験は、サーカスのように特別なことができる人を見せようというものではなく、精神鍛錬は、重要だと言いたいのです。これは、ただの贅沢ではなく、精神のビタミン栄養剤でもありません。
これは、我々の人生のすべての瞬間の品質を決定するものです!!
皆さん。教育には、すすんで15年を費やし、ジョギングやフィットネスなど、表面上の美貌を維持するためにあらゆる事を行います。しかし、心の動かし方、心の美貌などという最も重要なことには、驚くほど無関心で訓練に時間をかけません。
それは、我々の経験の質を決定する根本的なことなのです!!
または・・・
皆さんにも、「イラっ」とした感覚が生じる瞬間があるはずです。これは、「憎しみ」と誤解して、表現する書物がたくさんある。
しかし、誤りです。ブッタによると、「憎くて憎くて、あんたが憎い!だから、私の最大の敵なんだ〜」として、「イラっという感覚」と「目の前の敵」をリンクさせたがる。
これも、誤りです。ブッタは「私は、おまえの敵ではない!おまえの敵は自分自身なのだ!」と言います。自分自身ほど手強いライバルはいないとも言います。つまり、人間の特質がそうさせる自我がライバルです!
アインシュタインの相対性理論によるとある時点で光が、トポロジー的に反転して、今、自分の見ている対象が、自分自身の姿として写って脳内が認識してしまう!という現象も計算で判明しており、鏡のようになってしまうこともあり得ます。
「イラっという感覚」と「他者を敵という概念」は、リンクせず、関連もない!ただ単に、自分自身の勘違いと言うこと。これが理解できれば、憎しみの連鎖は断ち切れます。他人に教えても減らないプラスサムのブッタの知恵です。
また、ネイティブアメリカンでも、「イラっ」とする感情は、慈愛、慈しみと言うらしいです。
そして、親、兄弟姉妹は、ウザいという感情表現は、最高の慈愛、慈しみを感じてるから!らしいです。最悪、感情を自分自身で消化できないなら、物理的な距離感を大事にすればいい。ということになります。
これと似た現象に、政府の陰謀?影の政府?誰かの陰謀と具体的でない言葉で発言して自分以外の責任になすりつける人物や団体には、盲点があります。
つまり、邪悪な影の政府は具体的に発信している本人自身ということ。
なぜ?言葉の定義もなく指摘も抽象的ならその人や団体自体が最も具体的だから!
自分自身が、真の影の政府になるというパラドックス
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(てんじく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
宗教の創始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化されます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです。
そして
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教って、すべて一神教。数学の群論、トポロジーの圏論で多神教の仏教の視点で俯瞰すると、ある意味、多神教の一形態とも言えるんだよな。
インドでも似たようなのあるからね。ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神など。
なお、日本では、あまり知られていないヴィシュヌ神は、日々、時空を超越して、同時に姿を変えて人々を救っていたという場の量子論的な特徴があります。
その時のそれぞれの姿は化身を意味する「アヴァターラ」と定義されており、オンラインゲームなどで呼ばれる自分の分身となるキャラクター「アバター」の由来ともされています。
日本では、観自在菩薩に似ていますが、シヴァ神よりも強くて最強。宇宙を維持する役割もあるので、最新物理学では、イメージ的に不確定性原理に近く、スーパーストリング理論や陰陽五行理論も含まれています。
日本人は皆、神社にいくでしょ!
あれ神道で神社庁も公的にありますよ。
お寺にいくでしょ!あれ仏教ですよ。
お盆やお祭りや年中行事に参加するでしょ!あれ仏教ですよ。
これらに関わらない人も・・・
数%の大企業を中心にしたマスメディアやテレビなどもナショナリズムと言うカルトの定義になるんだけどね。
カルトの定義「中立的なバランスの欠けた極端な思想を対象にする少人数の狂信的な崇拝を持つ教団」に当てはまる?
カルトを論じる前にカルトの定義をしないと風評被害になります!
ご注意下さい。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
テーラワーダ仏教では「色」も定義されていて、「色」とは「五蘊(ごうん)」の一部であり「存在する物や事を視覚で認識」すること。
「色即是空」の「色」です。
「五蘊(ごうん)」は「五根(ごこん)」という身体の感覚器官から執着が生じていると論じています。
偶然の一致か否か?不思議なことに・・・
「量子力学」という分野を開拓し、発展させた三人の物理学者「ニールス・ボーア」「ヴェルナー・ハイゼンベルグ」「エルヴィン・シュレーディンガー」たちは
とても奇妙なことに気がつきました。
素粒子の物理学を究極まで追求していくと、驚いたことに、はるか昔の��洋の賢者たちが説いた哲学に
どんどん接近してしまうのです。
これは何を意味するのでしょうか?
次に
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に交流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたいな道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、道徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
現在のEUは、NATOがウクライナ侵攻でクローズアップされたこと。さらに、13の暦がひと回りして2000年前位の状況も含めて考えると
トルコまで領土にしたローマ帝国の民主主義版をフランス、ドイツは構築しようとしてる?
イギリスがブレグジット(Brexit)で離脱したのは、かつてのローマ帝国の過ちを回避した可能性も?
もし、以前、機運が高まった時にロシアがEUに加盟していれば、古代ローマ帝国2.0(民主主義版)が建国していたかもしれない。
大西洋を超えてアメリカ大陸からロシアを含めて、北半球に巨大なモンゴル帝国を超えた人類史上最大の領域が誕生するので・・・
今からでもロシアは遅くないので加盟したほうがいいような気がします。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦です。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで���正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、これを大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺のお坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自��的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達して���と子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴があります。
「預流道心」に到達すると「第一禅定(ぜんじょう)」状態に自動的になります。
一神教では「天国」に相当することですが、テーラワーダ仏教には、この先がありますが、ここまでにします。
厳密には違うけど、わかりやすく言うと精神領域がスーパーサイヤ人に到達するようなイメージ。しかし、すぐ心の状態は普通になります。
漫画のイメージのように身体は強くなりません。
言葉の定義として「禅(Zen)」は、ブッダが伝授された「第一禅定(ぜんじょう)」が起源。
言葉の定義として、ここでの「定」は、サマーディとも「梵天」の「梵」とも呼ばれます。
日本語ではわかりずらいけどサンスクリット語などにすると全て関連してることがわかります。
サマーディ瞑想とも深く関連していて、瞑想しすぎると「あの世」の人になってしまうので、ほどほどの八正道で「この世」の状態を維持しないと危険です。
戻ってこれなくなります。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
歴史に耐え抜いた哲学の基盤がない権力者が最も危険な存在です。
(個人的なアイデア)
2019年に日本では、元号も「令和」に変わっていくため、ここで記しておくことは、今後の人類の発展に貢献できるかもしれないためでもあります。
マインドフルネスという瞑想法が流行していますが、個人的には危険性が高いと思っています。まだ科学的とはいえ「魔境」の克服が解明されていません。
仏教は、長い年月で練られた瞑想法が確立されているので、克服法も適切な指導者にて行わないと日常生活に支障が生じる恐れがあります。
瞑想法は気軽にするものではなく、自己責任でどうぞ。警告として、記入しておきます。
続いて
2020年後半くらいから様々な占いで出てきてた時代の変わり目。それが、西洋占星術で具体的に「風」の時代という形で出てきました。
私が、感じとってたインスピレーションは、たぶんこれかな?
兆しは、世界的な金融ビックバンの1970年代、IT革命のミレニアムの前から出ていたけど。
これは、これまでの約200年間。物質やリアリティの影響力優位「土」の属性の時代から、量子コンピューター、ビットやインターネットなどといった物質ではないものに影響力が増していく「風」の属性の時代に。
そして、本格的に軌道にのっていく属性は、今後200年程続くことになるのです(2020年12月22日から、2100年当たりをピークに少しずつ衰退していく2220年まで)
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1987年5月3日午後8時15分ごろ、朝日新聞阪神支局に、全身黒ずくめの男が散弾銃を構えて押し入った。 男は小尻知博記者(享年29)と犬飼兵衛(ひょうえ)記者(当時42)に対し、散弾銃を発射。小尻記者が殺害され、犬飼記者は重傷を負った。 ここから露見した一連の事件は、犯行声明に「赤報隊一同」と記されていたことから「赤報隊事件」と呼ばれ、世間を震撼させた。しかも、事件は未解決のまま、2002年に時効を迎えている。 「赤報隊事件には、統一教会の関連団体『国際勝共連合(以下、勝共連合)』を含め、信者が関係している可能性があると思っています。末端の信者の暴発がなかった、���は言い切れません」 そう証言するのは、大江益夫氏だ。現在75歳の大江氏は、1992年に統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の広報担当になり、翌年から1999年までの7年間、広報部長の要職を務めてきた人物だ。 その間に、桜田淳子氏の合同結婚式参加などがあり、大江氏は教団の “激動期” を目撃してきた。60年近く旧統一教会員として過ごし、教団の深部を知り尽くしている。 そんな大江氏を朝日新聞元記者で「襲撃事件取材班キャップ」だったジャーナリストの樋田毅氏は熱心に取材してきた。そこで、旧統一教会による事件への関与の可能性をめぐるさまざまな情報を得たという。2018年に『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)も出版している樋田氏が、こう話す。 「事件前に、勝共連合の名前で『アカサタンを殺すことだけが生きがい』と書かれた脅迫状が、朝日新聞社に届いていました。信者たちにとって、“サタン” は排除すべき存在。 “サタン” が文鮮明教祖(当時)の身に危害を加えるかもしれないと考えれば、朝日は抹殺すべき存在になっていたかもしれません」 2023年2月の衆議院予算委員会で、日本共産党の宮本岳志議員も「朝日ジャーナル」編集長だった筑紫哲也氏のコラムを引用する形で、この脅迫状の存在を取り上げ、当時の谷公一国家公安委員長に対して、赤報隊事件の再捜査を求めていた。事件後も兵庫県警が統一教会、勝共連合を捜査していた。 そして、大江氏もこう話す。 「統一教会には、かつてのオウム真理教のような敵対者を『ポア(殺害)する』という発想はありません。しかし、共産勢力と戦う勝共連合の “武闘派” となると、話は別です。侵略者に対しては武器を持って戦うという軍人精神的な発想があったと思います」 樋田氏はこれらの取材をまとめ、『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』(光文社新書)を8月20日に上梓する。 そこであらためて、本誌は大江氏を取材した――。 事件当時、すでに教団の幹部として、日韓トンネルの建設を推進する関連団体「国際ハイウェイ建設事業団(当時)」の事務局長だった大江氏は、「赤報隊事件」の犯人像について、こう話す。 「単独犯ではなく、グループだったと思います。ヒットマン以外に逃走を助ける人物、声明文を書く人物、依頼者などがいたはず。犯行を指揮した人物は、教団関係者だった可能性が高いかもしれません。 いずれにしても、犯行に関わった人物は、全員が共同正犯。罪はみな同じだと私は思っています」(以下、断わりのない発言は大江氏のもの) 朝日新聞阪神支局に押し入ったのは、全身黒ずくめのヒットマン1人だった。大江氏は “実行犯” についてふたつの可能性を感じているという。 「赤報隊事件は用意周到に準備され、犯人が見せた腰だめの撃ち方、銃身を短く切った散弾銃の使用など、プロの犯行とみられていました。 ひとつは “ヤクザ組織” が絡んでいる可能性です。当時の教団側の関係者に “闇社会” との関わりがまったくなかったとは言い切れません。また、あの残虐な事件は、そういった人間でないとできないと、思うところもあるからです。 しかし、勝共連合のなかにも “武闘派” は存在していました。これが、もうひとつの可能性です。もともとは、旧ソ連が日本に攻めてきた場合、先頭に立つのは自衛隊ですが、その後方支援という位置づけで生まれました。勝共連合が民間防衛を担うという発想でした。 この組織に属する信者たちは、実際に軍事訓練をおこなっていたのです。私自身も、何度も陸上自衛隊に体験入隊しました。ふだんから、山中で散弾銃の訓練もやっていました。こうした信者が400人ほどおり、元自衛官や元警察官もいたのです。そうした “武闘派” の信者が実行犯だったのではないかという推測も可能だと思います」 じつは今回、大江氏が『懺悔録』を世に出すという情報が、旧統一教会内に事前に広がった。教団は出版を踏みとどまらせようと、大江氏に対して執拗に圧力をかけてきた。 「京都の山里にある私の自宅に、教団の人間が突然来るのです。これまでに十数人来ました。彼らが何を危惧しているのかといえば、やはり『赤報隊』に関する記述でした。 安倍(晋三)元首相の銃撃事件があり、2023年には宗教法人法に基づき、政府が教団に対する解散命令を裁判所に請求する事態になっています。ここにきて『赤報隊事件と統一教会が関係がある』と言われたら、教団は潰れてしまうということでしょう。 でも、私は『断定的な言い方はしていない』と言って追い返しました。自宅に押しかけてきたなかには、かつての私の部下たちもいました」 そんななか、なぜ大江氏はあえて赤報隊について語る決意をしたのか。『懺悔録』でも記したように、こういう思いがあるという。 「信者の可能性がある犯人がこの世、あるいはあの世で、のうのうと生きていることが許せないのです。犯人が口をつぐんでいるのであれば、私が犯人の代わりに、小尻さんとご遺族に謝罪しなければならない。そう考えたのです。絶対に謝罪が必要です。そうでなければ、私はあの世で亡くなった小尻さんの霊と会うことができない」 だが、大江氏は赤報隊事件について語るためだけに、樋田氏の取材に応じたわけではなかった。長年、旧統一教会内部で抱いていた教団運営への違和感があったのだ。 そして、それをすべて樋田氏に打ち明けようと思ったきっかけがある。 「樋田さんと “川口君” の五十回忌の法要でばったり会ったんです。そこで、私は『これは腹を割って話さないといけないな』と思いました」 大江氏が口にする “川口君” とは、1972年、革マル派のリンチを受けて殺害された早稲田大学生・川口大三郎さん(享年20)だ。当時、早大で旧統一教会系の学生団体「原理研究会」に所属していた大江氏は、革マル派と対峙していた。 そのため、大江氏は川口さんの死を悼み、2021年秋におこなわれた五十回忌まで供養を続けてきた。 そして、五十回忌法要には、川口さんの事件に関するノンフィクション『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)を出版した樋田氏も出席していた。 その後の交流を通じて、「最後の懺悔」を受け止めてくれるのは樋田氏しかいないと思うようになったという。 大江氏は「かつての統一教会は、こんな教団ではありませんでした。私たちは、なぜ韓国の教団本部に巨額の送金をするようになり、霊感商法といわれるような悪質な行為をおこなうようになったのか」と、次のように話す。 「私は1966年、17歳のときに統一教会に入信しました。教団には『開拓伝道』という布教活動があります。学生時代には、自分で廃品回収をしてお金を作り、屋根裏部屋のような部屋を借りる。そこを足場にし、廃品回収をしながら伝道活動をおこないました。非常に清貧な暮らしでした。自分が行く教会の教会長さんを中心にして、統一教会は家庭的な教団でした」 その教団の性質が大きく変わったのは、今から49年前の1975年のことだったという。 「それまでは伝道活動が中心でしたが、1975年から経済活動が始まります。統一教会は韓国でできた教団です。伊藤博文が初代韓国統監に就任した1905年から、日本による韓国の植民地支配が始まったと統一教会はとらえています。 それが終わる1945年までの40年間について “贖罪” しなければならない。統一教会には『40年の蕩減(とうげん)復帰』という教えがあります。なので、日本の信者は韓国の本部に40年にわたって送金を続けるとして、経済活動��励むことになった。そのスタートが、1975年だったんです。 そうすると、経済活動が強化されるなかで、霊感商法が始まりました。『先祖の霊や祟りを取り除くには、霊力のある高額な壺などが必要だ』という考え方は、キリスト教にはありません。『先祖の怨(おん)を解くための献金』についても同様です。しかも、韓国への送金は40年間を過ぎた現在も続いていて、日本の信者を苦しめています。 これは『40年の蕩減復帰』の教えから外れていて、約束違反ではないか。やりすぎなんですよ。全財産を捧げるような献金をさせてはいけません。教団も受け取るべきじゃないんです」 韓国の教団本部への高額の送金が、日本の教団の性格を歪め、さまざまな問題を引き起こしてきた。 「今、教団には解散命令が出されようとしています。それを回避するには過去に遡って、高額献金を反省し、被害者に補償する必要があります。自分の家族が路頭に迷うような献金を求めるのは、公序良俗に反しています。日本の教団は、多額の送金を求め続けてきた韓国の本部から独立する必要があります。それが、解散命令を免れる唯一の道です。 なぜ、こんな単純なことがわからないのでしょうか。私は、これまでもこうした問題提起を教団内でしてきましたが、“危険分子” とみなされ、意見は通らなかった。でも、教団は間違っていたのだから、反省しなければいけないのです。力不足かもしれませんが、私自身も霊感商法を後押しする側にいた問題を含めて、懺悔したいと思います」 現在、旧統一教会への解散命令請求が東京地裁で審理されているが、大江氏は末端の “純粋な信者” たちに向けて、こう提言する。 「統一教会は全国に300の教会があります。しかし、解散命令が実施されると教会施設のほとんどはなくなり、礼拝をする場所がなくなる。これは信者にとっては大変なことです。私は、家庭が教会になればいいと思っているのです。 建物がなくても、毎日礼拝する場を家庭に作ろうということです。このままだと、絶望する信者が増えていくだけです。私は、2024年6月で教団を退会しました。それでも、家に礼拝の場があります。私は退会後も、礼拝を欠かしていません」 本誌に対する大江氏の告白は2時間に及んだ。彼が長く過ごしてきた教団が、この言葉を聞いて、悔い改めることはあるのか。
「赤報隊事件」旧統一教会・元広報部長が明かす “散弾銃訓練”と “武闘派”…教団からは「懺悔本」出版への圧力も(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
通巻第8221号
後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
*************************
皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐとした。
「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
(2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
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(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。
古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
(『月刊日本』から再録です)
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木田金次郎 - Wikipedia
木田 金次郎(きだ きんじろう、1893年7月16日 - 1962年12月15日)は、北海道岩内町出身の画家。 有島武郎の小説「生れ出づる悩み」のモデルとなった画家で[1]、自由奔放な作風によって同町の自然を数多く描いた。
生れ出づる悩み - Wikipedia
『生れ出づる悩み』(うまれいづるなやみ)は、有島武郎による小説。 1918年(大正7年)3月16日から4月30日まで『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』にそれぞれ三十二回にわたって掲載
自分の仕事を神聖なものにしようともがいていた「私」は、さびしさのあまり「君」のことを思う。かつて絵を持ち込んで妙に力強い印象を私に残し姿を消してしまった「君」であったが、十年の後手紙と���ケッチ帳を送ってくる。 見事に成長した「君」は「私」との再会の一晩に姿を消してからの生活と芸術の悩みを語る。翌朝すぐ帰っていく「君」を見送ると、「君」の話した内容を元に「私」は同感の力をもって「君」の生活と苦悩を書き出して行く。 画家であり有島と深い交流のあった木田金次郎がモデルとなっている。 木田と有島の交流の概要は木田金次郎美術館解説等で見られる他、木田自身の自伝や有島全集の解説などで確認出来る。
青空文庫雨:有島武郎 生まれいずる悩み
「吹雪ふぶいてひどかったろう」
「なんの。……温ぬくくって温くって汗がはあえらく出ました。けんど道がわかんねえで困ってると、しあわせよく水車番に会ったからすぐ知れました。あれは親身な人だっけ」
包みの油紙は雨水と泥どろとでひどくよごれていて、差出人の名前がようやくの事で読めるくらいだったが、そこにしるされた姓名を私はだれともはっきり思い出すことができなかった。ともかくもと思って私はナイフでがんじょうな渋びきの麻糸を切りほごしにかかった。油紙を一皮めくるとその中にまた麻糸で堅く結わえた油紙の包みがあった。それをほごすとまた油紙で包んであった。ちょっと腹の立つほど念の入った包み方で、百合ゆりの根をはがすように一枚一枚むいて行くと、ようやく幾枚もの新聞紙の中から、手あかでよごれ切った手製のスケッチ帳が三冊、きりきりと棒のように巻き上げられたのが出て来た。私は小気味悪い魚のにおいを始終気にしながらその手帳を広げて見た。 それはどれも鉛筆で描かれたスケッチ帳だった。そしてどれにも山と樹木ばかりが描かれてあった。私は一目見ると、それが明らかに北海道の風景である事を知った。のみならず、それは明らかにほんとうの芸術家のみが見うる、そして描きうる深刻な自然の肖像画だった。
生れ出づる悩み 教科書 - 検索 / X
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#スプラフェス #お腹いっぱい食べるなら?
1日目: 俺が仕事だったからめめが「岩本くん帰ってくるまでやらずに待ってる」って言ってくれて、色々終わらせた後集合して一緒に始めました。途中で舘さんが混ざったり、ラウが混ざったり。今日はお淑やかにやるんだ!って、むかつくって言わない!なんて言ったのに全然無理でした。後半集中力切れて、負けてばっかりだったような気もする。集中しない方が勝てたりして、とか言ってたけど、効果あった...?ホラガイ争奪戦も勝てたし、10倍マッチも勝てたし、何も来ないと思ってたから嬉しかったなあ。
2日目:前回のフェスの時は半日寝て終わっちゃってたんだけど、今回は一緒に早起きして午前中から挑んだ。途中から舘さんと翔太も混ざって。ゆり組で金銀使ってたの、なんかエモい。全然来ないし半分以上諦めてた100倍マッチにも4人で��っかり勝てて嬉しかった!これ逃したらもう二度とこないから!って言いながら気合いで勝ちました。皆素晴らしい。翔太は今回も電話にも参加してくれてありがとう。途中抜け殻みたいになってた俺とめめがいたかもしれないけど、許して。長々と遊んでくれて嬉しかったです。ごはんチームなのに俺も翔太も昼飯パスタ食べてて笑った。どっちの味にしようって迷って、めめがたらこ!って言うからたらこパスタ食べた俺でした。俺もめめも体調いまいちで夜はゲーム控えめにしてそそくさとお布団に入りました。俺たち偉い。次のグランドフェスはもっとやってやります。
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2024.10.13
映画『HAPPYEND』を見る。父の時代の学生運動のような雰囲気と、街の風景のクールな切り取り、存在感があり重厚な音楽の使い方から愛しいものとしてのテクノの使い方まで大変気に入り、今度会う人に渡そうと映画のパンフレットを2冊買う。その人と行った歌舞伎町時代のLIQUIDROOM、どんどん登らされた階段。小中学生の時に自分がした差別、あの分かっていなさ、別れた友人、まだ近くにいる人たち。
2024.10.14
銀座エルメスで内藤礼『生まれておいで 生きておいで』、ガラスの建築に細いテグスや色のついた毛糸が映える。日が落ちて小さなビーズが空間に溶けていくような時間に見るのも素敵だと思う。檜の「座」で鏡の前にいる小さな人を眺める。「世界に秘密を送り返す」を見つけるのは楽しい。黒目と同じだけの鏡、私の秘密と世界の秘密。今年の展示は上野・銀座ともに少し賑やかな雰囲気、外にいる小さい人たちや色とりどりの光の色を網膜に写してきたような展示。でも相変わらず目が慣れるまで何も見えてこない。銀座にはBillie Eilishもあったので嬉しくなる。
GINZA SIXのヤノベケンジ・スペースキャットと、ポーラアネックスでマティスを見てから歩行者天国で夜になっていく空を眺めた。小さい頃は銀座の初売りに家族で来ていたので、郷愁がある。地元に帰るよりも少しあたたかい気持ち、昔の銀座は磯部焼きのお餅を売っていたりしました。東京の楽しいところ。
2024.10.18
荷造り、指のネイル塗り。足は昨日塗り済み。年始の青森旅行時、2泊3日の持ち物リストを作成し、機内持ち込み可サイズのキャリーに入れ参照可能にしたところ、旅行のめんどくさい気持ちが軽減された。コンタクトや基礎化粧品・メイク用品のリスト、常備薬、安心できる着替えの量。持ち物が少ない人間にはなれそうにない。日常から多い。部屋に「読んでいない本」が多いと落ち着くような人間は持ち物少ない人になれない。
2024.10.19
早起きして羽田空港。8:30くらいに着いたらまだ眺めのいいカフェが開いておらず、とりあえず飛行機が見える屋上に行く。このあと雨が降るはずの曇り空からいきなり太陽が照り出して暑くなり、自販機でマカダミアのセブンティーンアイスを買い、食べる。突然の早朝外アイス。飛行機が整列し、飛び立つところをぼんやりと眺める。飛行機は綺麗。昨夜寝る前にKindleで『マイ・シスター、シリアルキラー』を買って「空港ではミステリー小説だろう」と浮かれて眠ったのに、100分de名著のサルトルを読み進める。実存主義を何も分かっていないことをこっそりとカバーしたい。すみませんでした。
10:15飛行機離陸。サンドイッチをぱくぱく食べたあとKindleを手に持ったまま眠ってしまい、11:55宇部空港着。
宇部空港、国内線のロビーは小さく、友人にすぐ会う。トンネルを抜ける時、窓が曇り、薄緑色の空間に虹色の天井のライトと車のライトがたくさん向かって来て流れる。動画を撮影しながら「綺麗くない?」と言うと「綺麗だけど本当は危ない」と言われる。かけるべきワイパーをしないで待っていてくれたんだと思う。
友人のソウルフードであるうどんの「どんどん」で天ぷら肉うどん、わかめのおにぎりを食べる。うどんは柔らかく、つゆが甘い。ネギが盛り放題。東京でパッと食べるうどんははなまる系になるので四国的であり、うどんのコシにもつゆにも違いがある。美味しい。
私は山口市のYCAMのことしか調べずに行ったので連れて行ってもらう。三宅唱監督の『ワイルドツアー』で見た場所だ。『ワイルドツアー』のポスターで見た正面玄関を見に���生を横切ったが、芝生は雨でぐずぐずだった。でも全部楽しい。
広くて静かで素敵な図書館があり、心の底から羨ましい。小さな映画館もあり、途中入場できるか聞いたおじいちゃんが、「途中からだからタダにならない?」と言っていたがタダにはなっていなかった。一応言ってみた感が可愛らしい範囲。
YCAM内にあるのかと思っていたら違う倉庫にスペースのあった大友良英さんらの「without records」を見に行く。レコードの外された古いポータブルレコードプレーヤーのスピーカーから何がしかのノイズ音が鳴る。可愛い音のもの、大きく響く音のもの。木製や黄ばんだプラスチックの、もう存在しない電機メーカーの、それぞれのプレーヤーの回転を眺めて耳を澄ませてしばらくいると、たくさんのプレーヤーが大きな音で共鳴を始める。ずっと大きい音だと聞いていられないけれど、じっと待ってから大きな音が始まると嬉しくなる。プログラムの偶然でも、「盛り上がりだ」と思う。
山口県の道路はとても綺麗で(政治力)、道路の横は森がずっと続く。もとは農地だっただろう場所にも緑がどんどん増えている。私が映画で見るロードムービーはアメリカのものが多く、あちらで人の手が入っていない土地は平らな荒野で、日本の(少なくとも山口県の)土は放っておくとすぐに「森」になるのだ、ということを初めて実感する。本当の森の中にひらけた視界は無く、車でどんどん行けるような場所には絶対にならない。私がよく散歩をする所ですら、有料のグラウンドやイベント用の芝生でない場所には細い道を覆い隠す雑草がモコモコと飛び出して道がなくなってゆく。そして唐突に刈られて草の匂いだけを残す。私が「刈られたな」と思っているところも、誰かが何らかのスケジュールで刈ってくれているのだ。
山口県の日本海側の街では中原昌也と金子みすゞがそこかしこにドンとある。
災害から���っていないために路線が短くなっているローカルの汽車(電車じゃない、電車じゃないのか!)に乗って夜ご飯へ。終電が18:04。霧雨、暴風。一瞬傘をさすも無意味。
焼き鳥に挟まっているネギはタマネギで、つきだしは「けんちょう」という煮物だった。美味しい。砂肝、普段全然好きじゃないのに美味しかった。少し街の端っこへ行くとたまに道に鹿がいるらしく、夜見ると突然道路に木が生えているのかと思ったら鹿の角、ということになり怖いらしい。『悪は存在しない』のことを思う。
2024.10.20
雨は止んでいてよかった。海と山。暴風。人が入れるように少しだけ整えられた森に入り、キノコを眺める。
元乃隅神社、123基の鳥居をくぐり階段を降りて海の近くへ。暴風でiPhoneを構えてもぶれて、波は岩場を越え海の水を浴びる。鳥居の上にある賽銭箱に小銭を投げたけれど届くわけもない。車に戻ると唇がしょっぱかった。
山と海を眺めてとても素敵なギャラリー&カフェに。古い建物の改装で残された立派な梁、屋根の上部から太陽光が取り込まれるようになっていて素晴らしい建築。葉っぱに乗せられたおにぎりと金木犀のゼリーを食べる。美味しい。
更に山と海を眺めて角島へ。長い長い橋を通って島。古い灯台、暴風の神社。曇天の荒れた海も美しいと思う、恐ろしい風や崖を体感としてしっかりと知らない。構えたカメラも風でぶれるし、油断すると足元もふらつく風、窓につく塩の結晶。
山と海を眺めて香月泰男美術館へ。友人が見て良い展示だったからもう一度来て見せてくれたのだ。
全然知らなかったけれど、本当に素晴らしい絵だった。油彩なのだけど、質感が岩絵具のようで、フレームの内側に茶色のあやふやな四角が残っているのがとても良い。
フレーミングする、バチッと切り取ってしまう乱暴さから離れて、両手の人差し指と親指で四角を作って取り出したようなまなざしになる。
山口県の日本海側の山と畑と空の景色、荒い波、夜の静けさや月と雲、霧の色を見てから美術館へ連れて来てもらえたから色と色の境目の奥行きを知る。柿はずっしりと重く、花は鮮やかだ。香月泰男やシベリア抑留から帰ってきた画家で、この前読んだ『夜と霧』の暗さと冷たさを思い返した。絵の具箱を枕にして日本へ帰る画家が抱えていた希望、そのあとの色彩。
夕飯は友人の知り合いのハンバーガー屋さんへ。衝撃のうまさ。高校生の時に初めて食べたバーガーキングの玉ねぎの旨さ以来の衝撃、20年ぶりだ。そんなことがあるのか。
2024.10.21
晴天。海は穏やかで、深い青、テート美術館展で見たあの大きな横長の絵みたい。初めて見た海の光。
海と山を眺めて秋吉台へ。洞窟は時間がかかるので丘を散策、最高。
風光明媚な場所にしっかりとした情熱が無かったけれど、「好きな場所だから」と連れていってもらえる美しい場所は、友人が何度も見るたびに「好きだなぁ」と思っただろう何かが分かり、それは私が毎日毎日夕陽を眺めて「まだ飽きない」と思っている気持ちととても近く、感激する。
今までの観光旅行で一番素敵だった。
道々で「このあと窓を見て」と教えてもらい、味わう。
ススキが風に揺れて、黄色い花がずっとある。山が光で色を変え、岩に質感がある。
山口市、常栄寺、坂本龍一さんのインスタレーション。お寺の庭園が見られる場所の天井にスピーカーが吊るされ、シンセサイザーの音を演奏しているのは色々な都市の木の生体信号だ。鳥の声や風の音と展示の音は区別されない。砂利を踏む音、遠くから聞こえる今日の予定。豊かなグラデーションの苔に赤い葉っぱが落ちる。
宇部空港はエヴァの激推しだった。庵野さん、私も劇場で見届けましたよ。
行きの飛行機は揺れたけれど、帰りは穏やかに到着、家までの交通路がギリギリだったため爆走、滑り込む。
東京の車の1時間と山口の1時間は違う。
何人かの山口出身の友人が通った空と道と海と山の色を知ることができてとても嬉しい。
「好きな場所」「好きな風景」ってどういうものなんだろう。
私が通う場所、好きな建築、好きな季節と夕陽。あの人が大切にしている場所に吹く風、日が落ちる時刻が少し違う、友人のいる場所。
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それでは10日間のデートの記録を書いていこうと思います。きっととんでもなく長くなるし、内容も内容なんで、見るのは自己責任でお願いします。長すぎて引かないように!
1日目!初めて会ったのがもう半年も前のことで、それを最後にずっと会えてなかったから、待ち合わせ場所に着くなり緊張と会える嬉しさが入り混じって俺は深呼吸しまくってました。会う前にそれぞれの友達と遊んでから夕方くらいに合流したんやけど、同じ場所まで向かう道中、俺は友達に「ほんまにもうすぐ会えるやんな?ヤバイヤバイ!」ってずっとあわあわしてました。俺だけかと思ったらまるちゃんもお友達と一緒に発狂してくれていたみたいです、嬉し。俺がまるちゃんを見つけて声かけたかったから、気付かれんようにマスクして(今思ったけどマスクしてる方が目立つな…?)まるちゃんの待ってるとこまで会いに行きました。これは初めて言うんやけど、まるちゃんの友達とまるちゃんがバイバイするところを思いっきりフライングお見かけしてしまって、もうその瞬間息を飲んで慌てて隠れました。ほんまは会う前にちゃんと鏡見て髪型とか整えて会いに行きたかったけど、もうそこに居るやん!ってひとりで慌てふためきながら柱のパネルの反射を利用してがんばって整えておりました。そしてド緊張の中、まるちゃんに近づいていって、目が合うなり、ふたりともニッコニコになって即ぎゅーしました。緊張のあまりここだけ少々記憶が飛んでおります。でも体感1分くらいはずっと抱きしめてた気がします。今までずっと会えなくて我慢してたから、俺の腕のなかにまるちゃんが居るのが嬉しすぎてそう簡単に離せなかったです。そこからホテルに移動するまで手を繋いだり腕を組んだりしてずっとひっついておりました。まるちゃんの方が俺よりちょっとだけ早起きで電車に揺られてコクコクし始めてたから、ここ乗っけていいよって肩を貸しておねんねをさせました。もう肩貸せただけでも嬉しくて、にやけないようにずっと歯を食いしばって、もうそのままの体勢で軽く10時間くらい居れるくらいに幸せすぎました。美味しそうなシュークリームと晩ごはんを買ってホテルに到着したんやけど、まっっったく緊張がなくならなくてなぜかふたりでしばらくカーペットに座り込んでおりました。マスクを取ったら緊張で目を合わせられなくなったみたいで、しばらく背を向けられてたけど、その間もぴとってくっついてて、俺に会えて嬉しそうにずっとご機嫌でかわいかったです。プレゼント交換もしたんやけど、これからの季節寒くなるからマフラーと手袋をくれて、まるちゃんのってわかるようなブレスレットまでくれて、嬉しすぎるしセンス良すぎるしでブレスレットはこの日から今もずっと付けてます。まって、1日目だけで長くなりすぎてる。
2日目!前々から、会ったら一緒にこれ食べたい!ここ食べに行きたい!ってふたりで決めてたものの中にマックの月見バーガーがあって、でも会うのが10月の半ばやったからもう月見のシーズンは終わってるかもなあって言ってたけど、なんとかバーガーは3つとも残ってくれてて、俺らの大好きな三角チョコパイもちょうど売り始めた時期やったからそれも合わせてウーバーイーツしたりました。バーガーは全部分けっこして食べて、食べさせあって、美味しそうに目をきらっきらさせながら食べててめちゃくちゃかわいかったです。あまりの美味しさにるんるんされてました。途中で俺に電話が掛かってきたからかなり一人ぼっちにさせてしまったんやけど、戻ってきたらすやすや眠ってたから俺もくっついて添い寝しました。もうこの日は一日どこにも行かずに一緒にゆっくり過ごしたかったから、そのあともネトフリで泣ける映画を見たり、キャスしたりしながら過ごしてましたな。心の綺麗なまるちゃんは、「余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話」という、いかにも泣くだろ!な恋愛映画に案の定大号泣していて、俺がティッシュでまるちゃんの涙を拭っても拭ってもどんどん溢れてくるからちょっとふたりで笑ってしまったけど、俺も最後の方で感極まって涙が一筋だけ流れました。お互いの友達を呼び合って2時間くらいキャスをして、後半、めちゃくちゃ俺が酒を飲んでしまって酔っ払いすぎてました。ははは。
3日目!この日は念願の夢の国に行ってきました!ランドもシーも両方とも行こうと決めてて、まず最初はランドへ。秋なのに最高気温が30度もあった日で、ふたりで何回も暑い暑い言いまくってましたな…だけどもしっかり手は繋ぎっぱなし!お互いに似合うカチューシャを選びあったんやけど、ほんまにまるちゃんはどれつけても似合うしかわいいからかなり熟考して選び抜きました。ディズニーで乗りたいものはもちろん、食べたいものも前々からふたりで何回もサイト開いてはチェックしてたから、もう迷うことなくこれ食べよう!ができてておもろかったです。できるだけ色んなもの食べたかったからほぼ全部1個だけ買って分けっこしあって食べました。絶叫系が大の苦手なまるちゃんなんやけど、ちょっとくらいならいけるやろうと思って、カリブ乗ろう!全然怖ないよ!って連れ込んでみたら、最初のあのちょっと落ちるところがもうだめやったみたいで、乗り終わるまで終始不安気な顔で大音量に警戒してて今にも泣き出しそうな顔をしてました。俺が誘っちゃったもんやから、ずっと頭よしよししながらまるちゃんの耳を塞いで、終わるまでひたすら謝り倒してました。申し訳ない。もう乗らんとこうな!そのあとは前からある方のピーターパンと、ふたりとも大好きなプーさんに乗ったり、途中で抽選で当たったショーも見挟んで、今期間限定でナイトメアとコラボしてるホーンテッドマンションに乗って(二人座席やったからここぞとばかりにいちゃこらしました)、ベイマックスで暴れてからの夜のジャングルクルーズに行って夢の国1日目は堪能し尽くして締めくくりました。カリブ以外はずっと楽しそうに笑ってたから隣でかわいいなぁって思いながらにやにやしてました。ずっと俺が欲しかったお揃いのかわいいキーホルダーも無事買えたし満足!帰り道の電車は一緒にドア付近に立ってたんやけど、何回も俺にしか見えんようにちゅーの顔されて、でも公共の場やから耐えまくってる俺を見てまるちゃんは終始楽しんでました。お部屋についてから1時間だけまたキャスしたんだけど、みんなに茶化されながらのキャスはなんとも幸せでありました。そのあとゴロゴロしてたらあっという間に2時くらいになってて大慌てで眠りにつきましたとさ。
4日目!お次はシー!新エリアにはどうしても行きたかったから寝不足ながらもめちゃくちゃ頑張って5時半に起きました。まるちゃんはもう歩きながら意識飛びそうになってたから開園まで俺の肩で寝かせてたんやけど、それでも限界そうやったからシーに入ってすぐのとこにあるパン屋さんでちょっと寝かせてました。隣で、俺の片腕を両手でぎゅっと握りしめながら眠ってたのがもう途轍もなくかわいくて思わず写真に収めちゃいました。無事に眠気から解放されたまるちゃんを連れて、いっちばん最初に向かったのが新エリア!ラプンツェルとピーターパンに乗りました!まだ乗ってない人もおるやろうからネタバレは防ぎますがめっちゃくちゃ綺麗で感動したし、3Dの作り込みがすんごすぎました。新エリア自体ぐるっと一周まわったんやけど、岩にいろんなキャラクターが掘ってあって、すげーーー!とか、金かかってんなー!とかひたすらずっと言ってました。そのあとは念願のギョウザドッグを買いに行ったんやけどその時に飲み物として買ったお酒が寝不足の俺らを1時間くらい苦しめてきましたね。ふたりでベンチに腰掛けてひたすら項垂れてたけど、そんな時間も最高に楽しくて幸せやった。体調絶不調のなか、俺の愛しのユカタン(ホットドッグ)を求め歩き、ふたりとも美味しさ��あまり正気を取り戻してインディジョーンズに乗りましたね。ちょっとスリルのあるやつやったから怖がるかなと思ってたけどめちゃくちゃ楽しそうにしてて、その流れでアリエルのとこにあるフランダーのコースターも乗りに行きました。これは子ども向けのジェットコースターやったけど、余裕やった!って乗れたの嬉しそうにしててこれまたかわいかったです。そのあとはアリエルのただ上下するだけのクラゲに乗って、トイストーリーマニアで得点競い合って、まるちゃん待望の初ソアリンに乗りました。めっちゃ綺麗!って感動してて、これいちばんすき!って満面の笑みで俺に言ってくれて、そんな特別な初めてを俺と一緒に乗ってくれたのが最高にうれしかった。最後にアクアトピアだけショーをチラ見しながら乗りに行って、夜の景色を楽しみながらあまりの急移動にウー!とかアー!とか言って、最後の最後まで楽しめました!ほんまはこの日、雨模様やったんやけど俺らの愛のパワーで雨一粒降らさんかったな!さすが!二日間でいっぱい乗れて、いっぱい美味しいもん食べれて幸せすぎたね。今回乗れんかったのも行けんかったところもまた次ぜったい一緒に行こうな!
5日目!この日はお昼に横浜の第二の我が家(ホテル)まで移動しました!チェックインしたら横浜のビールを2本貰えて(苦すぎてふたりとも眉間にシワ寄せて飲みました)、パン屋さん付きのとこやったから美味しいパンも買えたし、部屋はガラス張りになっててそこから見下ろす眺めが絶景でしたな。部屋番号が1126で、��るちゃんのお誕生日の数字やったからびっくりしたな!運命���じました!ひと息ついたらすぐ中華街まで行って、焼き小籠包やらフカヒレスープやら満腹になるまでいろいろ食べ歩きして、近くにゲーセンがあったから半年ぶりに一緒にプリクラを撮りました!相変わらず俺はプリクラという機械に疎すぎて難しすぎてかなり格闘してました。お絵描きはこれからも眺める専にしときます。。。お部屋に戻ったら今度は夜ご飯をもとめて、セブンやらすき家やら買い占めに行きました。夜のお散歩が楽しかったし、すき家でずっと食べたかったチー牛セットを勇気振り絞って頼んでみたらなぜか温玉が温野菜に変えられてて、俺はもう一生チー牛セットに辿り着けない気がしてます。チー牛、強し。でもふたりでめちゃくちゃ笑ったからこれもいい思い出やな!そのあとは一緒にあつもり開いて、ふたりで同時にリセットボタン押して、また最初からやりなおすことを決意しました(このくだり3度目)。あつもりが想像以上にほっこりやったから途中一瞬、俺が眠気にやられてしまったけど、すぐ目覚めていちゃいちゃしました。もう外でも中でも隙を見つけたらすぐいちゃこらしてて、こんなバカップルなん俺らくらいやろな。ずっと続けていきましょう!
6日目!こちらも行こうって前々から約束してた、あの有名なプラネタリウムとアンパンマンミュージアムに行きました。プラネタリウムは、カップルシートみたいなとこで寝そべりながら見たんやけど、あの席、みんな、オススメです。クッションの肌触りが気持ち良すぎるし、ずっとくっつきながら見れるし、ハーブソルト味のポップコーンが美味すぎるしで、全部最高でした!お次はその足でアンパンマンミュージアムに向かって、ジャムおじさんの作るパンをもとめに行きました。でも昼過ぎに行ったもんやから続々とパンが売り切れになってくタイミングで、お目当てのものがだんだんと無くなっていくから、それにつれてどんどん悲しげな表情になっていくまるちゃんをひたすら慰めておりました。フードコートでパンを食べながら、お互いのこれからの話ができて、まるちゃんを更に深くまで知れた気がしてとてもよき時間でした。帰り際、アンパンマンミュージアムで流れてたサンサン体操をまるちゃんが口ずさんでたんやけど、俺はその歌を聞くのが初めてでかわいい曲やったから、まるちゃんに教えてもらいながらずっとふたりで口ずさみながら帰りました。俺が変な風に歌うと、ちがう!って本気指導してくるからそれもかわいくて面白かった。もうこの歌はバイバイする日まで俺の脳内に永遠と流れててもうずーっと口ずさんでました。サンサン!ホテルに着いてから、新しいマリパを買ってふたりで遊んでたんやけど、まるちゃん意外とつよくてびっくり。まるちゃんは堂々の1位で、俺はCPUに挟まれての3位という結果でした。惨敗。リベンジ求む!夜は近くにあったスシローに行って、注文してからトイレに行ったまるちゃんを待ってたら、もうテーブルになにも置けんくなるくらいのお寿司が埋め尽くされて、帰ってきたまるちゃんに爆笑されました。お寿司ひっさしぶりやったから大興奮でたらふくになるまで食べてしまいました!食べ終わったらすぐまるちゃんの隣に座ろうとひっつきに行ってしまうほどの愛。
7日目!俺らの愛の印という名のペアリングを作りに鎌倉まで行きました!もうこの日が来るまで、果たして俺たちは上手く作ることができるのかふたりしてビビり散らかしてましたが、お店の人がめちゃくちゃ丁寧に教えてくれて、上手くいかんかったとこは綺麗に直してくれて、不安なくふたりで楽しんで作れたと思います。ほんまはお互いの作ろうなって言ってたけど、失敗するのが怖くてちゃっかり自分らの作ってたな。2個目作りに行く時はお互いの作ってみような!裏面も表面も、同じ模様と記念日の日づけを入れられて、特別でずっとかけがえのないものが作れたし、これあるから今すこし離れてても寂しい気持ちがちょっとマシな気がしてます。作り終えて持って帰る時に、まるちゃんの指にはめてあげたんやけど、わぁ!って嬉しそうな顔しててかわいかった!どこまでもバカップルすぎてほんまにごめんなさい。もうひと惚気すると、お店出てすぐお互いの左手薬指にはめなおしてふたりでにっやにやしておりました。鎌倉でも駅前に小町通りっていう食べ歩きできるところがあって、炙りみたらし団子とか紫芋アイスとかうんますぎたね。俺はここの食べ歩きで食べたものが一番ほっぺたおっこちた気がしてます。まるちゃんはなにが一番やった???帰りに、大聖が俺らに半年記念としてプレゼントしてくれたスタバ券を2人で使わせてもらいました!大聖は俺らに直筆メッセージくれたりお土産くれたり、ほんまに何から何までありがとう。俺は良い友達を持ちました。せっかくやからスタバはいつもまるちゃんが飲んでる2つのカスタムを教えてもらって、その1つを俺が読み上げながら頼みました!どっちもめちゃくちゃ美味くて、まるちゃんの好きな味を知ることができてめちゃくちゃ嬉しかったです。いったんホテル戻ってゆっくりして夜が更けた頃に俺のルーツである(やかましい)鳥貴族さんに行かせてもらいました。居酒屋感覚で飲もうとしたまるちゃんに対して、俺は自分の胃のキャパを忘れて頼みまくり、お腹いっぱいすぎて天を見上げてました。
8日目!この日は最後の目的地、箱根まで電車に揺られながら移動しました!お昼を電車のなかで軽く食べようとコンビニで買ってたんやけど隣にワッフル屋さんがあってまるちゃんの目が三秒に一回そっち向いてたから、ふたつだけ買ってこか!って言ったら途端に笑顔になっててかわいかった!会うまでずっと食べるもん制限したり我慢してくれてたからなんでも美味しく見えてるのがほんまにかわいかったです。あれもこれもって目移りするもんやから、はいこっち行くよーーーって無理やり視線遮って手を引くんがちょっと心苦しかった。まあ、乗り換えのときにミスドもあったから期間限定のやつと俺らが好きなもんもちゃっかり買ってたけどね。そして無事に箱根に到着!買ったもん一緒にうまいうまいって食べたり、ゲームしたり、いちゃいちゃしたりしてたらあっという間に夜なってたな。夜ご飯は、ホテルで予約してたビュッフェを食べに行って、ここもまた美味いもんだらけやったな!俺が取ってきたやつとまるちゃんが取ってきたのを見比べたら、まるちゃんの選んでくるもんがおこちゃますぎてかわいかった!デザートもしっかり食べて、もうふたりとも吐きそうで気持ち悪くなりながらがんばってお部屋まで戻りました。こんなん動けん!ってなってるのも束の間でふたりきりなれたのが嬉しくてまーたいちゃいちゃしてました。次の日が俺らの7回目の記念日やったからお風呂をはよ済ませて、いつもみたいに0時に投稿できるようにお互いtumblrに文字を綴って(携帯持ってない方の手はちゃんと繋ぎながら)、初めて記念日を同じ空間で迎えることができました。俺らの特別な日に一緒に居れて幸せ絶頂でしたね。それでですよ!まるちゃんが7ヶ月記念日のプレゼントとして俺の好きなところ100個書いてくれたんを渡してくれて、めっちゃくちゃほんまに嬉しかった!にっやにやでその場で全部読まさせていただきました。最後の最後まで、このページ余ってるな!って文字びっしり書いててくれて愛を感じました。嬉しすぎて愛おしすぎて、涙を流しそうになってしまいました(バイバイした後にもっかい読んでひっそり泣いてしもうたけど)。
9日目!7ヶ月記念日!もう毎日遅寝早起きばーっかさせて、移動とかで疲労困憊にさせてしまってたから、いよいよまるちゃんは眠気に勝てなくなってしまってお昼過ぎまですやすやされてました。そろそろ起こそうと思って何回も起こしてみてもなかなか目が開かんからちょっと��け意地悪してもうたけどもね、はい。せっかくふたりで箱根に来たから、あの有名な黒たまごを食べにいきたくて大涌谷まで行ってきました。ロープウェイからの眺めも良くて、谷底から湯気がめちゃくちゃ出ててすごかったんやけど、硫黄の匂いがとんでもなかったな…あたりまえやけど…。臭いし寒いしで、まるちゃんは「くさむい」って言葉を生み出してふたりでけらけら笑ってました。黒たまごは匂いと裏腹にめちゃくちゃ美味かったです、たしかに長生きできる味してましたね。帰り道に記念日やから一緒にケーキ買いに行って、チョコレートケーキの上にいちごが乗っかってるかわいいのを買いました。プレートに7ヶ月記念日って書いてもらおうと思ったけど、いざ頼むときに恥ずかしなってしまって頼み損ねたから、つぎこそは!ホールケーキ買って乗せてもらおう。セブンで夜ご飯買って、帰り道は15分くらいふたりで歩いて帰ったんやけどあまりの暗さにまるちゃんが怯えててかわいかったです。サンサン体操で気紛らわそうと思って歌ってたら狙い通りちゃんと笑顔になっててそれもかわいかった!ふたりで過ごす最後の夜やったから、さみしくてどうにかなってしまいそうやなって思ってたけど恋愛リアリティ番組をみてたらツッコミどころ満載で気を紛らすことができましたね。
10日目!いよいよ最終日(泣)。いつも朝起きる時は俺が先に起きてまるちゃんの寝顔を見てよしよししてから起こしてたんやけど、この日はなぜか俺も全く起きられんくて(アラーム何回も脳死で止めてはいたけど)チェックアウト1時間前にまるちゃんが奇跡的に起きてくれて、俺のことも起こしてくれて、やっと起きれました。もう帰る準備もせずに前日寝てしまったもんやからふたりとも大慌て。いつも出発するまで少なくとも1時間半はかかるところを、これまた奇跡的に1時間以内で無事チェックアウトできました。拍手。あまりにも慌てすぎてふたりきりで最後に居られるところってのを忘れてしまって、まるちゃんが、エレベーターのところでちゅ!って言ってくれてやっと気づけました。教え方もかわいい。バイバイして向かう先が反対方向やったから、そこまでふたりで行って、まだ時間があったからカラオケに入りました。まだふたりきりで居れるところありましたね。俺の好きな歌を生で歌ってくれて、俺がじっとまるちゃんの顔を見つめながら聞いてたら大照れしててかわいかった。最後にぎゅーーー!ってしよって言って、力いっぱい抱きしめて、バイバイする時間が迫ってたけどギリギリまで離れんとひっついててくれました。途中で飲み屋のキャッチに何回も捕まりそうになって、声かけられる度に、もう離れてしまうんやから邪魔せんといて!ってまるちゃんがちょっと怒ってたのもかわいかったです。あ、ちゃんとその人には聞こえんように言ってましたよ。たぶん。ギリギリ。そんなこんなで、ついにお別れの時間が来てしまい、俺の顔見てだんだんうるうるな目になってきちゃうまるちゃんに、また会えるから大丈夫!って涙引っ込めさせてバイバイしました。
はい、もうめっっっちゃくちゃ長なってもたけど、この通り一日一日ほんまに幸せで溢れ返っておりました。どの日を思い出しても愛おしいし恋しい。記憶だけやなくて、まるちゃんが俺にくれたものもお揃いで買ったものも、形に残る宝物が前よりたくさん増えて、いまは見えるところに大事に閉まってあるけど、何回も開けて取り出してはひとりでにやけてます。ただ、ものすごく幸せやった分、会いたい気持ちも触れたい気持ちも前より倍増してて、まるちゃんも言ってくれてたように日常生活が全部億劫になってしまってるね。まだまるちゃんが居った感覚が鮮明に残ってるから今は尚更なんや���う。でもまた会えるし、今後もずっと一生まるちゃんと一緒に居りたいし、いっぱい笑顔にさせたいから、もうしばらくだけ離れて、いずれ同じ時を生きれるように、それを目標にがんばろうな。この10日間、まるちゃんと過ごせてほんまに幸せやった。たくさんの時間を俺に割いてくれてありがとう。前よりも好きが増し増し増しになってもたから、この責任は一生まるちゃんがとってな!頼みましたよ!
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どこかにビューーン! at 盛岡・花巻
岩手旅2日目は、盛岡駅周辺散策から宮沢賢治のイーハトーブの世界へ。
2日目はこの旅のメインともいえる宮沢賢治ゆかりのイーハトーブの世界を訪れます。とはいえ最寄りとなる釜石線 新花巻駅までの列車の本数はそれほど多くはないことから、午前中にできた時間を利用し、盛岡駅周辺を散策。昨年 夏の東北旅の最後に盛岡城址周辺は訪問済みのため、その先 岩手銀行赤レンガ館や茣蓙九等、歴史的建造物が集まるエリアでスナップ撮影を楽しむ。盛岡駅へ戻る道中、北上川にかかる開運橋から岩手山の雄姿を拝む。前回も同じところを通ったはずなのですが、こんなに綺麗な景色が楽しめるとは知りませんでした。天気の悪い夏の空 and 数時間前 豪雨に打たれ心身ともに疲れきっていたという悪条件が重なっていたから気づけなかったのかな、今回は好天・空気の澄んだ冬空・元気いっぱいの朝という好条件が整っていました。
カフェでコーヒー片手の小休止したのち、一路イーハトーブへの最寄り 釜石線 新花巻駅へ。
駅からのどかな通りを歩くこと15分弱。宮沢賢治の世界が広がる一帯に到着。 まずは宮沢賢治記念館へ、立ちはだかる367段の木の階段を、気合を入れて登ります。階段を登り切った胡四王山の中腹からは、新花巻駅駅周辺、長閑なイーハトーブの光景が楽しめます。
猫の事務所の審査を通過し、宮沢賢治記念館内部へ。宮沢賢治ゆかりの品や関係資料をみながら、作品の逸話を知ることができました。個人的には賢治が過ごした現実世界と、そこから生まれた「銀河鉄道の夜」の世界の対比が興味深かったです。
注文の多そうなレストラン 兼 お土産屋さんである「山猫軒」にて、記念用に何点か宮沢賢治グッズを購入した後、続いて宮沢賢治童話村へ。
メインとなる「賢治の学校」では、「ファンタジックホール」、「宇宙」、「天空」、「大地」、「水」の5つのゾーンをめぐり、独特の世界観が堪能。なんとも不思議な気分に浸りながらの体験でした。
イーハトーブの世界感を満喫し、気分一新・リフレッシュ完了。再び新花巻駅まで戻り、花巻経由で最終経由地 北上へ、そこから東北新幹線にておうちに帰ります。 最後の残念ポイントは。。。新幹線の中でお弁当でも食べようと思っていたのですが、18時台の北上駅の売店(NewDays)、お弁当はおろかおにぎりすら売り切れですっからかんでした。。。規模感や利用状況を考えればある程度予想できていたことなので、甘かったな。かろうじて1つ残っていたサンドイッチとおつまみ適当 + 缶チューハイだけ調達し、帰路につく。
今回、利用した「どこかにビューーン!」。こんな機会でもないとあまり訪れないスポットに足を運ぶきっかけというコンセプトがとてもよかったと思います。申し込み後、行き先が決定するまでのワクワク感、行き先決定後に行きと帰りの新幹線が決まっているという制約条件の中、どうやってその土地を満喫できるようプランをたてるか考えること含め、楽しい日々でした。また、低予算で行けるこの旅を一種のロケハンと考え、別のシーズンに再度 訪れてみようかな、と思えるきっかけ作りにもなるかと。
現時点のJREポイントの残数から、もう1回 どこかにビューーン することが可能な状態。また気が向いたときに第2回ビューーン旅を実施しようと思います。
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カテゴリー4に行ってきました。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
どうも、こんにちは。10月13日(日)は、howellsさんと西池に行ってきました。西池は、一昨年の冬、ボウズを連発したことがあって、僕の中ではカテゴリー4(悲観)にカテゴライズされているのですが、時期的にまあ釣れるやろうと。500円割引券になってる暑中見舞いの葉書の有効期限が10月末までやし、晴れるとまだ暑いので西池の屋内釣り場が涼しくていいんじゃないかと思ったので、先週末howellsさんと連絡を取った時に「西池に行きません?」とお誘いした次第です。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
howellsさんは、前日の寺口釣池で午前中だけで20枚釣り、午後は暑くてたまらんのとエサのうどんを今日のために残しておくために13時半で早上がりしたのですが、それでも合計28枚釣ったのだとか。
♪⌒ヽ(*゜O゜)ノ スゴイッ!!!
なので2日連チャンで早起きはしんどいので「遅れてくるわ」と前振りがあったのですが、そこは僕なのでw「今から出ます」とメールしたら「もう松原(市)です」「(釣席は)16番と17番にいます」とメールが入り先着されたのでした。
いつもながら、小物が重役出勤でサーセン(汗)
さて、今日の朝ごはんはセブンイレブンの「バタークロワッサンスティック」です。ついでに、今日の竹竿は、初夏にMy New Gearしてコシガ池で筆おろし…じゃなくて入魂した「朴石」の11尺です。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
浮子は、最初はクルージャンにしようかと思ったんですが、水がアオコで汚れているので、クルージャンより安い「佳翔」の1号にしました。パイプトップ。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
釣りの準備も釣るのも早いhowellsさんがまだ釣れてないし、僕には早々にサワリがあったので、「先に釣りますよ〜」と煽ってたらhowellsさんが2連発。こっちはサワるだけで全然釣れんくて、やっと「チク」って魚信を取れたらアッパーでした。いい魚信やったけどな〜。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
サデンスキー鉗子…って医療ドラマの見過ぎですね(汗)
鉤外しはこんなん使ってます。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
7時過ぎに到着して、準備が遅いのでたっぷり1時間かけて8時過ぎから釣り始めて約2時間ボウズ。まずいやんけ。まさかボウズって…。朝方は屋内釣り場はひんやりしてて寒いぐらいなので、「屋外釣り場どうです?」って相談してたら話がまとまって屋外釣り場に移動。田圃側の特等席(ヘチ)の28番が空いていたので座らせていただきました。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
全然釣れへんわ。竿11尺、両ウドン床釣り、鉤4号、段差6cm、タナはトントン〜2節ずらし。特に異常な釣り方はしてないと思うけど、なんで釣れへんの?
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
午前中ボウズ…(ノωヾ*)ウゥ…
今日の昼ごはんはお勧めセット。いつもながら美味しゅうございました。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
短竿(8尺)に替えて浮子を目の前に置いて釣ろうかと思ったが、食堂で他の釣人の会話に聞き耳を立ててたら「長い方が良い。13尺から15尺」とか言うし、howellsさんも15尺に替えてすぐ釣ってたんで、僕も15尺にしました。My New Gearした「寿るすみ 静水調 銘木握り」です。筆おろし…じゃなくて入魂できるかな?
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
浮子は舟水の「オールマイティーかや」の13番です。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
はあ〜、また徳を積んでしまうとこやった(´▽`) ホッ
出家せずに俗世で生きていきますわw
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
10月の中旬というのに暑い。しんどくなって、howellsさんと屋内釣り場に戻る相談がまとまって最後の1投でまた来た!
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
両目が開きました。ε- ( ̄、 ̄A) フゥー
マブナですけどw。西池は、最近はヘラブナが多かったのに今日はマブナばかり。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
屋内釣り場に戻ります〜。西池の屋内釣り場は雨風が凌げるので天気が悪い日は満席が多いけど、今日は晴天で釣席には余裕がありました。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
とにかくもうちょっと釣りたい。「師光」の8.2尺(実寸7.8尺)に尺数変更。この竿は水藻FCでセット釣りしてたら、桟橋下に潜ろうとしたヘラブナにへし折られて穂持ちが折損したんだが、直して使ってるので愛着も一入。寺口釣池とか中セ池とか竿規定が8尺以上なので実寸が足りなくて使わないが、西池ではよく使ってます。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
浮子はこれ。「彩羽」やったかな。岩田池用に買った浮子。岩田池は、管理人が常駐してないので、料金の支払いがめんどくさかったり、食用うどん専用池(Gうどん、わらびうどん、タピオカうどん禁止)になったらしいので足が遠のいたが。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
全然釣れへんわ。怪しい魚信を取ったら掛かったので「もうけ?」と思ったが口の外やんけ。スレやスレ。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
いつものコーヒータイムになりましたが、まだ2枚しか釣れてないよ(悲)
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
やっと喰い魚信キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
まだ3枚です…。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
西池で今年「つ抜け」した時は9尺を使ってたような気がするし、色々な竹竿を使いたいので9尺の「若駒 最上作」に尺数変更。この竿は握りの意匠が気に入って「柴舟」さんの通販で新品を買おうかと思い悩んだことがあるのですが、ヤフオクで中古品を安く買えてしまった。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
なんと、1投目でエサを切ろうとしたら掛かってたw。居食いですか?嬉しくないね。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
ところで、今日って水温は何℃か見にいったら21℃でした。いい感じやと思うけどなあ。
2024年10月 西池(堺市) iPhone11
浮子は派手に動くが糸スレばかりで釣れる気がせーへん。糸スレって魚が底に入ってないってことですよね?とはいえ、howellsさんは軽く「つ抜け」で、常連さんたちも次々と釣果を検寸に持ち込んでるんですが。エサがうどんって言ったところで、howellsさんも両ウドン床釣りやしなあ。何がアカンのかさっぱりわからん。
ということで、15時半でおしまいにしたので今日は4枚だけでした。スレ2枚。
howellsさんも含めて皆さん撤収が早く、片付け終わって周りを見回したら屋内で残ってるのは僕だけでしたw。
では、また。
#streetphotography#snapshot#写真好きな人と繋がりたい#japan#osaka#大阪#ファインダー越しの私の世界#釣り好きな人と繋がりたい#fishing#ヘラブナ#へら釣り
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なんだか詰めに詰め込んで充実した週末だった。まず、朝10時の回で役所広司主演の“パーフェクト デイ”を見に行った。劇的なことは何も起こらない日常を描いた映画で、劇的なことは何も起こらないけれど、日常の些細な煌めきを見つけるのが上手くなりそうな映画だった。通りすがりに愛でている観葉植物の葉にちょこんと触れるようななんてことのないシーンで数回泣いた。職場と自宅との往復だと変わり映えのない毎日に思える。でも実は、小さな変化や美しさに溢れている。本当に心が美しくある人は、愛情ある日常のなかに美しさや楽しさと言った煌めきを見出す。そんな映画だった。この感覚をこの映画を大切にしていこうと思った。静かな映画だったから、キャラメルポップコーンは口の中で溶かしながら食べた。
良い映画を観て、ほくほくした気持ちのまま新居の内見へ。内見と言えど、すでに入居を決めて審査完了ひている賃貸だ。21日に引っ越す。周りが戸建てばかりで、遠くにある藻岩山まで突き抜けて見えるのを今日知った。日当たりが良い。ガス台や冷蔵庫スペースや窓枠を採寸し終わって、今度はそのまま札幌駅へ向かう。夜の用事まで時間があるからと来たけれど、節分だから恵方巻きを食べたくなってしまう。デパ地下でひとつ買って家で食べる。方角を調べなかった。きっとわたしの行く方角はいつも幸運があるから大丈夫。
夜になって、友達と合流して恋人のライブに行く。家では陽気な恋人が、クールで笑った。音楽のセンスや知識はないわたしだけれども、楽しそうにみんなでジャズをしているのを観ていると、こちらも身体を横に揺らしてしまう。恋人がソロを吹いて、ぺこりと小さく一礼。座ろうとしたところで、ビックバンドのリーダーが煽って、即興でもうワンパート吹いていた。こんな一面もあるけど、普段から決してひけらかしたりしないことに感心する。その後に、ソロリストとして名前を呼ばれてもぺこぺことお辞儀するだけで、にこりともしない。翌日、「本当に楽しかった」って話すから、面白い人だなと思う。ジャズは演者同士が目配せや楽器で会話して、音楽となっていくから面白い。
ライブが終わって、恋人にひと声かけて会場を出る。「15分後にふたり座れますか?」と、ある酒場に電話をかける。すすきので1番好きな酒場。年明けてから行くのは初めてだった。いつからか顔見知りになった店主に「あけましておめでとうございます」と言って、ビールと日本酒を飲む。1杯目のビールが9.5%あったことを思い出したり忘れたりするくらい酔った。隣の席に座っていた30代のお姉様方とお話し、徳利の日本酒を勝手にお酌し、しばしガールズトークを楽しむ。「結婚しても子供が産まれても旦那に家のこと任せて飲みに出れるのいいな〜」と結婚の条件をまたひとつ上書きする。終電で帰宅。1時になっても彼氏が帰ってこないから、先に寝ることにした。
もぞもぞと彼氏がベッドに入ってくる。ライブどうだった?とか来てくれてありがとう、とかの前の第一声が、ここには書けないような中学生みたいな下ネタで、半分夢の中のまま笑った。なんじ?と聞くと「よじ」と言っていてアホだなーと言いながらまた眠りに落ちた。
次の日は、朝から不動産で新居の契約締結。昼前に料理が得意な男友達が家に来てポークステーキをさささっと作ってくれた。「日曜のお昼だからさ」と言ったそれは彩り鮮やかなブランチで、昨日ライブだった彼氏がジャズを流していたから、なんとも優雅な昼下がりとなってしまった。
その後は、演劇を観に行く。演劇は初めてだった。映画とは違って、自分の好きなところに目をやって楽しめるから、観客は神様視点だなと思った。毎年同じ夏の月末に、同じホテルに泊まる男女の話。毎年、それぞれの家庭や仕事、生活の近況を語り合ったり、イチャイチャしたり、本音でぶつかって喧嘩したり、胸の内の秘密を吐露して泣いてしまったりする25年間を5年おきにシーンカットした演劇。題名が「same time,next year」という。生身の人間が目の前で芝居するパワーや没入感、距離感が映画とは段違いに違う。感情移入してしまって数回泣いた。面白かったからまた行くと思う。札幌で触れる新たなカルチャーの予感。
地下鉄で恋人と感想を言い合いながら、帰宅。うどんを食べて、サウナへ。最近、彼氏の真似をしてサウナにハマっている。汗をびっしりかいて、-2℃の外気浴をする。不思議と寒くない。ひと足先に休憩所で待っていた恋人とオロナミンCとフルーツ牛乳で乾杯して、ほかほかした気持ちで家に帰る。
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は元禄6年(1693)に亡くなったが、その墓は長い間不明であった。明治20年を前後するころ誓願寺境内で発見され再興されたという。発見者についてはいくつか説があり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいう。
(1693年)下山鶴平・北條団水、西鶴の墓を建立 墓石は位牌型の砂岩製のもので、「仙皓西鶴 元禄六癸酉年 八月十日 下山鶴平 北條団水 建」と刻まれている。この墓碑を建立した下山鶴平については、西鶴の版元ではないかといわれている。北條団水は京都生まれの文人で、橘堂、滑稽堂と号した。西鶴を慕って来阪し、西鶴の死後7年の間、鑓屋町の庵を守ったことで知られている(大阪市指定文化財)。
(1801年)太田南畝(蜀山人)、書肆山口屋の案内で西鶴の墓に参る 寺町をすぎ 誓願寺に入る、甃庵中井先生の墓あり《略》 此寺に西鶴か墓ありと書肆山口屋かいへるによりて墓はらふ下部にとふに志らず、つらつら墟墓の間を見るに一ツの石あり、仙皓西鶴とゑれり。右のかたに元禄六癸酉年八月十日としるし左の方に下山鶴平北条団水建と有り。也有翁の鶉衣にも、作文に名を得し難波の西鶴は、五十二にして世を去給ひ「秋風を見過ごしにけり末二年」といふ句を残せりとかけり。げに八月に終りぬるには折からの句成へし(太田南畝)。『葦の若葉』四月廿一日条より。句読点後付け。ママ。
(1802年)滝沢馬琴、太田南畝に紹介された田宮盧橘の案内で西鶴の墓に参る 西鶴が墓は、大坂八町目寺町誓願寺本堂西のうら手南向にあり。〈三側目中程〉七月晦日蘆橘と同道にて古墓をたづぬ。はからず西鶴が墓に謁す。寺僧もこれをしらざりし様子なり。花筒に花あり。寺の男に何ものが手向たると問ふに、無縁の墓へは寺より折/\花をたつるといふ。
棹石高サ二尺余ヨコ一尺 台石高七八寸 大字 総高サ二尺八九寸
元禄六 癸酉年八月十日 仙皓西鶴 右ノワキ 下山鶴平 北条団水 建
團水は西鶴が信友なり。西鶴没して後、團水京より來り、七年その舊廬を守れり。そのこと西鶴名殘の友といふ草紙の序に見へたり。追考 難波鶴に云。西鶴は井原氏、庵は鑓屋町にあり(滝沢馬琴)。『羇旅漫録』より。句読点後付け。(写真参照)
(1889年1月)幸田露伴、誓願寺無縁墓にある西鶴の墓を探し当て、卒塔婆を立てる 露伴は住職に供物を出して、 お墓をちゃんとしてほしいと言い、香を焚き、水を手向け、卒塔婆を立てて去るわけです。それが、明治22(1889)年の1月のこと。その卒塔婆には、「元禄の奇才子を弔ふて 九天の霞を洩れてつるの聲」と書いた(肥田晧三)。「上町台地から本をめぐる時空の旅へ」『上町台��フォーラムvol.9』2018より。
(1889年8月)尾崎紅葉、西鶴の墓を訪れ、卒塔婆を残す 紅葉も、同じ明治22年の8月に西鶴の墓を訪れ、「為松寿軒井原西鶴先生追善」と書いた卒塔婆を残した(肥田晧三)。
それではなぜ、この二人は西鶴を知ることになったのか。露伴は帝国図書館、今の国会図書館にあった西鶴の本を随分と勉強したんです。また当時、東京に淡島寒月という人がいましたが、彼は時代に先駆けて西鶴を評価し、自身でも作品を手元に持っておりました。その寒月と仲が良かったのが露伴で、彼の西鶴作品を借りて徹底して読んだわけです。紅葉も、露伴に遅れてですが、やはり淡島寒月から西鶴の作品を教えられたんです(肥田晧三)。
(1889年11月)木﨑好尚、読売新聞に「西鶴の墓」を寄稿 大阪朝日新聞の青年記者だった木﨑好尚は、後に頼山陽や田能村竹田の研究で知られるようになる人です。この人が、明治 22 年にやはり誓願寺に行くわけです。すると新しい卒塔婆が二つ西鶴の墓に立てかけてある。一つは幸田露伴、一つは尾崎紅葉。それで、大阪の青年がびっくりするんです。東京の輝かしい新進の作家二人がここに来ている!大阪の自分たちはちっともお参りせんのに、あの二人が西鶴の墓にお参りしていると。そして 明治22年11月に、東京の読売新聞に「西鶴の墓」という題で書く んです(肥田晧三)。ママ。木崎が朝日新聞に入社したのは明治26年(1893)。
(1889年11月)幸田露伴、「井原西鶴を弔ふ文」を雑誌『小文学』に発表 露伴もまた、「井原西鶴を弔ふ文」という題で、明治22年11月に雑誌『小文学』に発表します。「今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、 翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴」(肥田晧三)。
(1890年5月)尾崎紅葉、「元禄狂」を「国民新聞」に寄稿 西鶴に心酔しているということを書き、その中で、「明治二十二年八月、大阪八丁目寺町誓願寺に、 西鶴翁の墓に詣でゝ」と記し、「ででむしの石に縋りて涙かな」という句も詠んだ(肥田晧三)。
木﨑好尚を除き、全員、江戸っ子です。
(写真)「仙皓西鶴」『壬戌羇旅漫録 2巻 [3]』1802-1812(東京大学学術資産等アーカイブズポータル)より。 注記:写本 注記:目首の書名: 著作堂羇旅漫録 注記:題簽の書名: 羇旅漫録 注記:本文末に「享和二壬戌年八月廾四日筆同十一月朔日挍合畢 曲亭瀧澤觧戯記」とあり 注記:[跋]末に「享和二壬戌年冬十一月二日 著作堂馬琴再識」, 「壬申春日 曲亭主人書」とあり
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