#寄席から始まる恋噺
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indigolikeawa · 4 months ago
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2024年7月22日月曜日
病院の待合室にて23
くちずさむ歌はなんだい?思い出すことはなんだい?(5)
 続いて、私がTくんのバンドを見に行ったら対バンで出ていたのを見て「これは人気出そう!」と思った三大バンド、という私がよくしてしまう話をした。その三大バンドとは吉祥寺シルバーエレファントで見たandymori、相対性理論、そして吉祥寺WARPで見たきのこ帝国である。andymoriはライブの一曲目がゆったりした三人のコーラスで始まる曲で、「今こんなことをするバンドがいるんだなぁ」と思っていたら、二曲目がめっちゃ速いパンキッシュな曲で、ギャップがあってかっこよかったのを覚えている。相対性理論はどえらいポップな曲に、かわいい小さな声のボーカルが乗っていて、「これは人気出るぞー!」とはしゃいだ。『シフォン主義』のCD‐Rを物販で売っていた気がするので、��LOVEずっきゅん』とかもうやっていたと思う。そしてきのこ帝国は、声よし演奏よし出音よしで、ギターの人の佇まいがキマっていてとてもかっこよかった。この時しか吉祥寺のWARPには行ったことがないのだけど、ドラムの音がものすごく良かった印象がある。この三大バンドはどのバンドも大人気になり、やがて解散したり活動休止したりバンドの形を大きく変えたりした。何もかもが12年以上前のことであるから無理もない。ちなみに個人的な好みで言ったらホライズン山下宅配便やうずらといったバンドの方がずっと好きだった。この二つのバンドも、もう活動していないと思う。続けるということは難しい。
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 もうすぐ空港に着くというところで、私の最近の生活や病気についての話をした。普段ここに書きつけているようなことについて。私が誰かに同じような話をされたら、良かれと思って変にアドバイスしてみたり、別の視点を提供しようとしたりしてしまいそうだが、Tくんはただ「そうなんだね」と相槌を打ちながら聞いていた。
 車が空港に着き、お土産��買ったりした後で、ハンバーガー屋さんぽいカフェがあったので、そこでお茶することにした。私はアイスコーヒーを、Tくんはビールとフィッシュカツ(たしか)を注文した。
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そこでは、私たちがバンドを組んでいた時にコピーしていたくらい好きだったバンド、Weezerについての話になった。
「仲見世のすみやの近くに、海賊盤屋さんあったじゃないですか?あそこで安倍くんが買った、すごい高くて画質の悪い非公式のウィーザーのライブビデオ何回も見ましたよね。あんなのよく買いましたよ。すごい時代」
「ああー、あのフェスみたいなやつでしょ?あれ格好よかったよね!YouTubeにあるんだよ。ちょっと待ってね…あった!これでしょう?」
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「いや、もっともっと画質が荒くて、カメラがめちゃくちゃ寄っていて、リヴァースの手元とかしか映ってなくて、”Getchoo”とか演っていて、20分くらいしかなくて…」
 そんな映像全く記憶にない。Weezerのライブビデオはフェスのやつしか持ってないと思っていた。従って「えっ嘘、そんなのあったっけ?」ということになり、私がYouTubeのWeezerのライブ映像をどんどん見せては、Tくんが「違う…違う…もっと円盤みたいに近くて…」という、重要参考人の取り調べのシークエンスみたいになってしまった。あと円盤というのは東京都は高円寺にかつてあったお店のことで、夜は決して広いとはいえない店内でライブをやっていることが多く、出演者と最前列のお客さんの距離がとても近かった。ここで言っているのはその感じのことだと思われるが、そのお店では店内ライブの撮影もしており、それはレジ横に置いてあるビデオカメラで撮影していて、客席の最後列よりも後ろからの俯瞰気味のショットになるので、その喩えは微妙にややこしい。探してくうちにYouTubeにアップされた1992年から2000年までのWeezerのライブのブートレグ・ビデオのプレイリストというとんでもないものを発見したりした(ちなみにWeezerのデビューは1994年。92年てあんた)。
 しかし、映像は見つからなかったので、「そんなのもあったかー、そうかそうか」ということに話は落ち着いた。そのうちに、「我々にとってのウィーザーは、やっぱりマット・シャープのことだよね」「だよねだよね」という話になったり、人気スケーターを撮影したスケートボードのビデオがストリートで取引されていたという良い話や、実はiPhoneは我々の会話を全て聞いていて…というお伽噺にもなったりしているうちに、出発の時間となってしまった。その時にもう一度Weezerの話に戻り、「私たちはウィーザーのグリーン・アルバムにがっかりしたじゃない?アメリカのリアル・エステイトっていうバンドも同じような経験をしたってインタビューで言ってたよ」と言って、彼らの代表曲��ひとつである”It’s Real”のビデオをYouTubeで再生したら、そこに「12年前」と出て、Tくんのバンドと同時期のバンドだったんかい!となった。そりゃ聞いてきたものも近いはずである。私は、Tくんのバンドに限らず、あの頃の東京にシーンのようなものがあったと仮定するなら、きっとUSインディーとの同時代性みたいなものもあったんだろう、でもそんなことはみんな忘れ去られてしまった気がする、と妙にしみじみしてしまった。あの頃のことで、私が見ることのできたものに関しては、私の中に残っているが、私が見ることができなかったものや、私の中に残っているものでさえ、私の外にそれを見つけることは、現在容易なことではないし、私の記憶だって、きっとどんどん薄れていってしまう。そのことが良いことなのか悪いことなのかは、正直私には分からない。
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 お別れの時間が来てしまった。保安検査場の前で私は「見えなくなるまで手を振ったりしてると、本当に寂しくなるから行くね。ごめんね。またね!」と言った。Tくんは笑いながら「あはは。わかったー。またね」と言った。お互いに軽く手を振って踵を返し、私は振り返らないように努め空港の出口へ向かいズンズン歩いて外に出て、そのまま車に乗って逃げるように家に帰った。
 4日後の23日の木曜日にTくんからショートメールが、何枚かの写真と共に送られてきた。写真はすべて私とTくんのツーショットだった。
「ありがとうございました!
田口さんの本が気になったので注文しました、またねー」
 そういえば、私たちは一軒目の居酒屋で、Tくんのバンドが撮った「マイリトルラバー」という映画の話をしたのだった。それは、先述の円盤というお店からT君のバンドに企画の誘いが来て、映画を撮ることになり、そのころ映画をそれなりに見ていた私は、彼らに吉祥寺のお好み焼き屋さんに呼び出され、どんな映画を撮ったらよいか、TくんとベースのHさんと企画会議を行うことになった。どういういきさつかは忘れたが、最終的には「南くんの恋人」みたいな映画を撮ろうということになり、TくんとHさんは「いやー決まって良かったー」とご満悦だったのだが、私は大丈夫かなぁ…と思っていた。そして後日仕上がった映画「マイリトルラバー」を見たら、まあまあ���南くんの恋人」でびっくりしたということがあったのだが、「その映画について、円盤の(店主であった)田口(史人)さんが『二〇一二』というご自身の著書の中で触れているよ」と酒席で伝えたのだった。そういえば、Tくんは最近読書をしていると言っていたので、ちょうど良かった。Tくんのバンドが唯一発表したフルアルバムのタイトルは『映画館』だった。どうして『映画館』というタイトルだったのだろう。まだTくんはその理由を覚えているだろうか。今度会ったら聞いてみようと思う。
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くちずさむ歌はなんだい?思い出すことはなんだい?
おわり
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leenaevilin · 5 years ago
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[Announcement] 朗読劇「寄席から始まる恋噺」(roudokugeki yose kara hajimaru koibanashi)
the show will be running from October 31st, 2019 to Movember 3rd, 2019 (Tokyo) @ 三越劇場 (Mitsukoshi Theater)
Cast:
October 31st, 2019 Suzuki Hiroki Kento Ozawa Yuuta Suzuki Yuuto
November 1st, 2019 Takasaki Shouta Kitamura Ryou Komatsu Junya Oosuka Jun
November 2nd, 2019 Washio Shuuto Uno Yuuya Hose Yuuichi Kamio Shinichiro
November 3rd, 2019 Mizoguchi Takuya Naya Takeru Igarashi Masashi Nagatsuka Takuma
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rinnechan · 5 years ago
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Translation of Zukkii's blog:
"Various recent things, news for next year
2019-11-06 17:24:10
It's November.
First of all, [I'll write about] 'Yose Kara Hajimaru Koibanashi' [that I took part in] some days ago.
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Reader's theatre x Rakugo.
It was a very precious opportunity to practice with Tatekawa Shirano-san.
It's different from a [standard] play, it became a big learning experience about techniques and how to engage [the audience].
Thanks everyone for visiting us!
And, continuing
'Tetsujin Ganriser NEO Saga'
that is currently being broadcast on TV Iwate
Yoroshiku onegai itashimasu.
The DVD of the play 'LOOSER' has also been released.
I haven't seen it yet...
But it's a very good work, so definitely [watch it]. 
And in January next year
I'll appear on the play 'Cliché'
And again, in April next year,
on Takufest Spring Comedy Festival 'Hotoke no Kao mo Warau made'!
http://takufes.jp/hotoke/
There are many things that make me think and challenge myself, I'm grateful ne.
I also want to enhance my private life.
Recently I've only been watching movies.
'Jinsei Switch' was interesting. 
Ah, I have to go bouldering [now]. 
Everyone, from now on, also, douzo yoroshiku."
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TN:
"Jinsei Switch" is the movie "Wild Tales":
https://en.wikipedia.org/wiki/Wild_Tales_(film)
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misasmemorandum · 4 years ago
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『円朝の女』 松井今朝子
円朝と言う落語家を知らなかったし、なので話も聞いたことがないから読むのを躊躇っていて今となる。円朝は、仲蔵に関してググってみたらどんどん出て来てて、それで知ったってのが本当のところ。
円朝の人生いおいて大切な女性5人を、元弟子が語り聞かせると言う書き方。語り手は元噺家なだけあって軽妙な語り口調で、松井ならではの当時の寄席の状況や社会においての芸人についてなども勿論書かれている。5人の女性は、一人目は侍の息女。おそらく円朝の初恋なんだろう。二人目は吉原の花魁。三人目は息子の母親。裕福な家でわがままに育てられた女性で、身分違いのため円朝と結婚はしなかったが、時代が変わって家が没落した後、芸者となり最後には遊郭の女になってしまった。絵に描いたような転落物語。四人目は円朝のただ一人の妻。最後の五人目は円朝と妻が最初に養女に取った女の子。この子の父親は借金を残して死んだ、一世を風靡した芸人。建前は養女だが実情はお女中で、彼女と俥引きとの恋愛を通して、日清戦争や当時の朝鮮との関係などもサラリと書いてくれてる。楽しく読んだ。
楽しく読んだけど、ずっと松井今朝子の本を読み続けているし、私が読んだもののほとんどは大体同じくらいの時代のものだったり、登場人物の誰かと誰かに何らかの関連があったりして、その世界を楽しんではいたんだけど、ちょ��とだれて来てしまった。さっき調べたら、私が松井の本を最初に読み始めたのが9月頭。それからずーーーっと読んでるんだもん。飽きも来るよ。
松井の作品で読みたいものは後一冊。それでとりあえず一段落つけます。(で、積読してる自分の本もどんどん読んで行きたいね!!!😅😑)
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hummingintherain · 3 years ago
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鍵のかかった部屋
 瓦礫の重なる森のごく一端で、雪が降り始めていた。  褪せた緑の針葉樹の群衆が騒いでいるのを、私は耳で感じ取った。  亡き師匠から教わった魔法の決まりごとは一つ。相手を傷つけることを目的としない。  その規則に乗っ取って、師匠は私に魔術を教えた。則ち、万物に耳を傾けるということであった。無数の音と声を厳格に聞き分け、取捨し、ただひとつ語りかけるべきもののみに声をかけるように思考の欠片を渡す。魔力とも魂とも呼ばれるものを送り、対価として万物は動く。風は踊り、雲は太陽を遮り、水は川から引かれ、火は立ちのぼる。  雪を降らせているのは私ではない。  枯葉の敷かれたままになった地面がやがて雪道に変わる。感覚の変化を足裏に感じながら、森の奥に建てられた小屋に入る。中で、小猿が床に本を散らかして、そのうちの一冊のページに身を乗せてぶつぶつと何かを呟いているのがすぐに解った。 「雪を止めなさい。家が埋もれてしまうわ」  苦々しく咎めると小猿は振り返る。 「きれいな光景だぞ。あんたもきちんと視ればそんなことを言う気も起きなくなる」 「視なくても解る。寒いのは苦手なの」 「おれも苦手だ」  小猿はききっと笑い、窓にきょろりとした視線を遣ったのだろう。無音でちらつく雪の勢いがやんでいく。  私の瞳がその様子を掴んでいるわけではない。  森で打ち捨てられていた小猿に人の言葉を与えて以来、子が親の声を聞いて言語を憶えていくように、猿は魔法を見よう見まねで会得した。だが、耳を用いて語りかける私と、眼を用いて語りかける猿では魔法の��り方が異なる。猿まねというには独自的だ。視界による情報は耳の感度を下げるから、私はもう随分と昔から視界を布で遮っている。だから目前で本を捲る小猿の姿をそのまま視たことはない。空気の密度や声の質で猿の居場所も形も把握はしているが、色については及ばぬ領域だ。  部屋を暖める暖炉の前に置かれた椅子に腰掛け、紅茶の入ったカップを寄せる。細い銀があしらわれただけの無地の食器には、冷めた紅茶が淹れられている。炎にあてられた空気と茶に意識を寄せ、直後に湯気がふわりと昇る。 「疲れているな」小猿が本から離れ、煉瓦造りの暖炉に軽々と腰掛ける。「例の魔女狩りか?」 「ええ」  深く髪を隠した外套を捲る。銀の髪がさらりと垂れて肌に触れる。 「遠くで二人死んだと風の噂が聞こえたわ。一人は嘗ての同僚だった」 「お気の毒に」 「此の国はもう駄目ね。魔法は自然への問いかけだもの。魔法を狩るとは自然の淘汰だというのに、耳を貸そうともしない」 「あんたの魔法も人間には届かない。いっそこちらから殺してしまえばいいと何度も言っているじゃないか」  小猿は愉しげに足を揺らす。 「ルールなんて破るためにある。おれがそうだ。いっそおれが殺してやろうか」 「馬鹿なことを言わないで」即座に切り捨てる。「視覚による魔法はとりわけ危険なのだから、使い方を誤ってはならないの」  視覚は情報量が聴覚の比では無いが、五感のうち最もバイアスがかかりやすい。思い込みで物事を捉えやすいのだ。世界が狭く知識を持たぬ小猿は短絡的に考える傾向があり、ふとしたきっかけで暴発する可能性について私は随分前から危惧していた。  小猿は笑う。 「おれはあんたが殺されるくらいなら、国の人間が滅んだ方がずっといいと思うね」 「その忠誠心には感服するわ」 「忠誠じゃなく愛だ。何度も言ってるじゃないか」  小猿は大仰に両手を広げた。空気の流れや温度の動きが私に示してくれる。  愛なんてものを扱った本が果たしてこの家にあっただろうか。情愛だとか恋慕だとか、感覚を狂わせやすくするものは魔法を扱う上で邪魔だ。魔法の本質は万物のありのままの把握。それについても繰り返し説いているのだが、小猿曰く魔法とは愛であると。それが小猿の見出した本質らしい。思い込んだまま深掘りしないとは浅はかだ。聞く耳を持たないという意味では魔女を狩る町の人間と変わらない。 「あんたの喜ぶ顔を視てみたいと思ったら、いろいろとアイデアが浮かんでくる。片っ端から試したくなるのさ」 「純粋ね。哀れな程に」  溜息をつき紅茶を含む。小猿の直線的な情には慣れたものだが、時折間違ったものを拾ったのではないかと後悔に似た感情が胸を過る。だが、そのまじりけのなさ故に、彼はみずから魔法を習得している。私に褒められ、私が喜ぶことを求めて探求を続けているのだった。その純粋な向上心は特筆すべきだが、情熱は使いようだ。頭を悩ませながら、席を立つ。 「少し眠るわ。一人になりたいの」  カップを手元のテーブルに置く。 「……わかった」  小猿は物言いたげに口を開いたが、呑み込んだまま項垂れ、本のもとに戻っていった。  部屋を走る軽い音を聞き届けながら、私は本の散乱した居間を後にして奥の自室へと入る。本に埋もれた居間とは異なり、自室は机と椅子、それにベッドの他には何も置かれていない。  鍵をかける。同時に、完璧に魔法が編まれた部屋は音の一切を遮断する。  自然と耳に入ってくる音��ら解放されるための場所だった。つまりは一人になるための部屋である。  魔女狩りと呼ばれる恐ろしい迫害事件が各地で多発している。長引いた戦争の影響で民衆は疲弊しているのだ。明日の生活も危ういと嘆いた矛先を探す心理に無理も無いやもしれない。社会不安に煽られ、呪術や占術、悪魔といったことばやおこないが、世を攪乱し破壊しているのだと声高に叫ばれている。戦も、貧困も、天災も、魔女のせいなのではないか、と。それはあまりに極論だろうに、思い込みとは悍ましいものだ。極端に狭まった視界では見えるものしか信じなくなり、こころの貧しさは思考を制限する。実際に被害は広がっている。尋問を被った者の中には、本当のところの「魔女」や「魔法使い」でない人間も勿論含まれている。  森を歩き川のせせらぎに耳を傾けていたところ、遠くから同志の絶叫が聞こえてきた。  本当に鼓膜を揺らしているわけではないけれど、耳は感じ取った。掴んでからは早く、脳裏に燃えさかる炎や投擲される石や人々の怨念といった情景が照らされて、共鳴したこちらの全身が焼けてしまいそうだった。  聞こえなくなったはずの密室であるのに、鮮烈な亡霊の記憶はまるでその瞬間に再び立ったみたいだ。  頭を抱えながら、古いベッドに倒れ込む。  魔法使いは昔から粛々と生きている。自然の理解に傾倒するうち、魔法を知らぬ人間の生活から離れるようになった。ゆえに彼等は森の深くに住む。迫害を避けるためではない。世界の構造を解き明かし調和する、個々の研究者であり、はなから俗世に興味などない者が殆どだ。それが俗世から関与されようとしている。ころせ、ひとりのこらず、せかいをすくうため。彼等の思い描く正義のもと。  それに比べれば、小猿の言う愛とはなんと平和なことだろう。  あの愛が、ただしく平和で在り続ければ、きっと何も問題は無い。このまま小猿が魔法を極めようとすれば、存外、私たちに無い視点から魔法を扱い、過去にない発見をする可能性だってある。  しかしそれを期待するには世界が騒ぎすぎている。俗世から遠い森にいてもなお、自然の美しいしじまに呪われた雑音が入り込んでくる。それを完全に遮ることができないのだから、自分もまだまだ未熟だ。思い込みは小猿にばかり言えたものではない、不安というバイアスが聴覚を乱し、意識を不必要に広げて遠くへ向けて聞き耳を立てている。  うるさい。  もう何も聞きたくはない。  そうして、私は部屋に鍵をかける。  しかし、そうしてようやく音を忘れた頃に、微弱な歌が聞こえてくるのだった。  憶えてもいない記憶による錯覚なのか、魔法を擦り抜けてどこか���くか、あるいは遠くかからやってくる子守歌なのか。拙い子供のような声だけれど、どこか懸命で、優しく、純粋に透いた少年の声。誰かに向けて歌っている。ただ、その声を聴いていると、身体の奥底の、すっかり冷えていたとてもやわらかい部分があたたかく解されて、心に浮かぶ悲哀や恐怖が薄れていく、ひどく泣きたくなるような感覚に浸るのだった。  じっとその歌を聴いているうちに、穏やかな眠りにつく。  明日は己にふりかかるかもしれない恐怖を忘れて、本当の静寂へと誘われる。
 固く閉ざされた扉を背に、膝をかかえた少年は口を閉じる。  部屋の中は何も掴めない。自分は未熟で、魔女の気持ちを少しも分け与えてもらうことができない。けれど、魔女が喜んだり、笑ったり、哀しんだり、そういった感情の細かな機微は不思議と解るような気がするのだ。それは彼の魔法なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。これが魔法なのだとすれば、魔法は愛情に由来するという彼なりの結論はきっと間違ってはいないのだと、彼は思う。  森の奥に置き去りにしていった人間たちなど少年にとっては蛮人であり、まさしく猿なのだ。そんな奴等が魔女を殺そうとするのなら、どんなことをしてでも魔女を守ってみせる。でも、そんなこと、ずっと来なければいい。ずっと、魔女が傍にいてくれれば、それでいい。  少年は瞳を閉じて、魔女に一番近い場所で眠りにつく。  夢に思い描くは、あまりにかたくなな漆黒の布に隠されたあのひとの双眸。  銀色の美しい、人離れした髪の下に覗くであろう二つの瞳は、どんな形をしていて、どんな色をしているのか。その顔を、すべての表情を視てみたい。いつか視てみたい。そしてどうか視てほしい。耳が感じるものではなく、隠されたその眼で、五体のすべてで以て視てほしい。猿の子である自分の、ありのままの姿を。
 了
「鍵のかかった部屋」 三題噺お題:一人になりたい、子守歌、亡霊
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cinemastylenews · 7 years ago
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『泣き虫しょったんの奇跡』第二弾キャスト&特報解禁!
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監督・豊田利晃(『青い春』『クローズEXPLODE』)×主演・松田龍平、16年振りの本格再タッグ! 35歳のサラリーマンが、将棋界の歴史を変えた、感動の実話―― 妻夫木聡×松たか子×永山絢斗×染谷将太×國村隼 他 超弩級!主役級豪華キャスト 夢の���演!夢に破れた一人の男の情熱が、奇跡を起こす― +…+…+…+…+…+…+…+ この度、将棋界に奇跡をもたらした異色の棋士・瀬川晶司五段の自伝的小説「泣き虫しょったんの奇跡」(講談社文庫刊)が、豊田利晃監督により映画化。松田龍平が『青い春』以来16年ぶりに豊田作品で単独主演を務める本作は、2018年秋より全国ロードショーいたします。 幼い頃から将棋一筋で生きてきた“しょったん”こと瀬川晶司は、「26歳の誕生日を迎えるまでに四段昇格できないものは退会」という新進棋士奨励会の規定により、26歳にして人生の目標を失い社会の荒波に放り出されてしまう。一度は夢破れた“しょったん”が、周囲に支えられながら再び夢を実現させるためにひたむきに挑戦していく、感動の実話が待望の映画化! 晶司と共に四段昇格を目指し苦楽を共にする仲間の一人・新藤和正役には、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞後、『アンフェア the end』(15)、『真田十勇士』(16)、『海辺の生と死』(17)、『エルネスト』(17)など様々な話題作に出演し、来年放送予定の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』への出演も決定している実力派俳優・永山絢斗。 若さゆえにやんちゃで生意気な態度を取り、新藤らとぶつかることもある奨励会員・村田康平役には、『ヒミズ』(12)で第68回ヴェネツィア国際映画祭 マルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞し、その後も『永遠の0』(13)、『寄生獣』2部作(14、15)、主演を務めた『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』(18)など、世界にも活躍の場を広げる染谷将太。 畑中良一役には、『愛の渦』(14)、『ヒメアノ~ル』(16)、『ナラタージュ』(17)など映画作品だけには留まらず、舞台でも活躍を見せる個性派俳優・駒木根隆介。 山川孝役を演じるのは、『お盆の弟』(15)では第37回ヨコハマ映画祭主演男優賞し、近年は『下衆の愛』(17)での“ゲスすぎる”主人公役で大いに話題を集め、『追憶』(17)など数々の作品への出演を重ねる、豊田作品の常連としてもおなじみ、渋川清彦。 清又役には、多数の映画・ドラマ作品で名脇役として活躍を見せ、第39回日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞した『百円の恋』を始め、その後も話題作への出演���絶えない新井浩文。 加東大介役には、大衆演劇「劇団 朱雀」二代目として全国の舞台を踏む一方で、『座頭市』(03)への出演で注目を集め、劇団解散後には、劇団☆新感線の舞台、テレビ、映画への出演など目覚ましい活躍を続ける早乙女太一。 冬野渡役には、孤独な殺人犯を演じた『悪人』(10)で、第34回日本アカデミー賞をはじめ、数々の映画賞で主演男優賞を受賞し、その後も『怒り』(16)、『愚行録』(17)などに出演し、今や日本の映画界に欠かせない俳優となった、妻夫木聡。 +…+…+…+…+…+…+…+ 晶司の小学生時代に多大な影響を与えた担任教師・鹿島澤佳子役には、『告白』(10)、『夢売るふたり』(12)で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞し、社会現象にもなった大ヒット作『アナと雪の女王』(14)で主人公エルサの声と主題歌「レット・イット・ゴー~ありのままで~」を務め、映画やドラマ、歌手や声優などマルチに活躍を続ける松たか子。 中学生時代の晶司に将棋の道を教える将棋クラブの席主・工藤一男役には、日本における一人芝居の第一人者であり、『沈黙-サイレンス-』(16)ではLA映画批評家協会賞 助演男優賞の次点入賞を果たすなど、世界的評価を集めるイッセー尾形。 原作者で主人公のモデルである瀬川晶司本人は、本作のキャスティングについて「大好きな人ばかり出てくる作品」と大絶賛。魅力溢れる個性豊かなキャラクターたちは、晶司の将棋人生にどのような影響をもたらしていくのか―?“主役級”の超豪華キャストたちの熱演に、ご期待ください! さらに、特報映像が公開となりました! ====================== 『泣き虫しょったんの奇跡』特報編はこちらから。 https://www.youtube.com/embed/4k8PRmD7-lM ※YouTubeへ遷移します。 ※ガラケーでは視聴できません。 ====================== 本作の続報に、ご期待下さい。 +…+…+…+…+…+…+…+ 【作品情報】 『泣き虫しょったんの奇跡』 ■監督:豊田利晃(『青い春』『クローズEXPLODE』) ■脚本:瀬川晶司「泣き虫しょったんの奇跡」(講談社文庫刊) ■音楽:照井利幸 ■出演:松田龍平、野田洋次郎、永山絢斗、染谷将太、渋川清彦、駒木根隆介、新井浩文、早乙女太一、妻夫木聡、松たか子、美保純、イッセー尾形、小林薫、國村隼 ■製作幹事:WOWOW/VAP ■制作:ホリプロ/エフ・プロジェクト 2018年秋、全国ロードショー! 情報提供:フラッグ (C)2018『泣き虫しょったんの奇跡』製作委員会 (C)瀬川晶司/講談社
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theatrum-wl · 7 years ago
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【劇評】Theatre Company Shelf のポストドラマ演劇『アラビアの夜』
山下 純照
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〔記録映像:TANJC〕
2017年6月初めに東京都内の中層ホテルの8階にあるス��ースで、このローラント・シンメルプフェニヒ作品の上演を見た。物語の問題場面が高層マンションの8階という設定である上に、話の引き金となるのが水まわりのトラブルだ。だから筆者が観劇当夜、実際に激しい豪雨に見舞われ、ずぶ濡れ状態で客席にたどり着いたとき、芝居の世界と現実が重なり合い、たちの悪い魔法にでもかけられた気分だった。というのも題名が示唆するように、中世ペルシャの有名なお伽噺が作品の下敷きになっているからだ。
高層マンションでは、水道管のトラブルなのか、9階以上に水が来なくなっている。そしてざわめく水音が壁の奥から聞こえてくる(なんとなくボートー・シュトラウスの『時間と部屋』を思わせる趣向)。管理人のローマイアー(沖渡崇史)は、点検のため訪れた8階32号室で、ちょうど帰宅したアラブ系の女性ファティマ(井上貴子)を助け、なかなか開かないドアをあけてやったところ、中から迎えに出たこの部屋の借り主、美しいフランツィスカ(川渕優子)を見てしまう。その後ローマイアーはビルの階段を下りながら水音のチェックをするが、やはり832室にもどって水道管を調べさせて欲しいと言うべきか迷う……。
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〔記録映像:TANJC〕
フランツィスカは、異世界の別の女から呪いをかけられて自己を忘却しているらしい。夜ごとに不思議なほど深い眠りに沈んでいく。その彼女に、何人かの男たちが魅入られてしまう。向いの建物からのぞき見した男カルパチ(森祐介)、ファティマの恋人で、毎晩バイクでやってくるカリル(横田雄平)、そして結局戻ってきて部屋に入るローマイアーである。彼らが呪いの標的となり、カルパチは小さなコニャック瓶に閉じ込められ、ローマイアーは妄想なのか、砂漠の世界に迷い込むはめになり、またカリルはファティマによってフランツィスカとの関係を誤解され刺し殺される。
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〔記録映像:TANJC〕
魔法の由来である異世界は、イスタンブール、バザール、シャイフ、砂漠といった言葉で示唆されるが、それがつまるところ何なのかは、謎にとどまる。ただ、ローマイアーだけが他の男たちとは異なる役���を与えられているのは明らかだ。砂漠に迷い込んだ彼の前に、顔に傷のある、前妻を思わせる女が出てくる。彼女に促されて見ると、砂漠の真ん中に噴水が吹き上げている。気がつくと現実に戻っており、マンションでは水流が直っている。異世界でのエピソードから察するに、すべての根源には恋の戦いに敗れ、自分の男に消されてしまったある女の恨みがあるようだが、ローマイアーの前妻との関係ははっきりしない。いずれにせよそれは時空を越えて、男たちに祟る。ローマイアーだけは妻の記憶を取り戻し、フランツィスカと新たな関係に入っていくのかもしれないし(それならハッピーエンドだが)、彼にもやはり破滅が待っているのかもしれない。
シンメルプフェニヒはいかにもロマネスクなこんな話を、ほとんど漫画チックで、いわば映画仕立ての芝居へと仕上げた。最後の場面ではコニャック瓶が、男を閉じ込めたままバルコニーから落下する。地面に激突するまでの各階の様子が、男の口からスローモーションで「実況中継」される。そ��中にはカリルが、ファティマに刺殺される瞬間、そのことが理解できず叫んでいる一コマも収められている。そしてコニャック瓶の男は自分について言う。「死んだ」。運命を脇から眺めるこの「語り」の方法は、観客の笑いを誘うだろう(実際誘っていた)。
一方、冒頭から全体を通じて採用されている、複数の場面―ある場所での行動や出来事をさしあたり場面と言おう―の同時進行という構成法が映画的だ。場面どうしは互いに干渉しないまま進行し、それらの間を絶えず切り替えながら話題は進む。つまり空間が絶えず切り替わる。多くの映画では、こうした並行モンタージュの各場面は少なくとも数分間は続くのではないか。多分、ほとんど一行半句の後には場面が切り替えるというスタイルを始めたのはジャン=リュック・ゴダールだろう。演劇では、マイケル・フレインの『コペンハーゲン』がこれに類似の手法だったが、ただそこでは複数の語り手の、複数の視点が交代するだけで、空間が絶えず切り替わるわけではなかった。よって『アラビアの夜』のほうがいっそう映画的な印象を与える。この作品はある意味、本物の映画でやってしまえば難解なものではなく、幻想的でシュールな要素はあっても抽象的にはならないだろう。その代わり、独特の面白さが失せてしまうのではないか。というのは、台本を見ると、別々の空間で発せられるセリフが隣り合って連なっており、その様子は、別の空間に属するはずの人物たちが、あたかも身体を寄せ合って発話している矛盾した光景を想像させるからだ。これは演劇でこそ実現できる。
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〔記録映像:TANJC〕
こうしたものが、従来の劇(ドラマ)とははっきり別物であることは明らかだろう。台本にセリフが並んでいても、ほとんどの部分それは対話でもなければ会話でもなく、多様な「語り」の連続になっている。つまりは「語り」の演劇だ(これについては刊行されている邦訳につけられた訳者大塚直氏の解説が詳しい)。ただ、この「語り」の演劇は、あくまでも劇(ドラマ)の概念をベースとしている。語り手がみな登場人物自身で、「語り」を通じてかれらの行動が描写されてもいるからである。その点で義太夫などの語りとはまったく違う。義太夫は劇中で行動しない。それに対して、『アラビアの夜』の登場人物たちは、劇中で行動しつつ、自分たち自身の「義太夫」となって、常時それについて「語り」続ける(常時というところがポイントである)。自らの行動について「語る」演劇。この形式を位置づけるには、劇(ドラマ)を含みつつ、それに対して距離をとるもの、という意味でのポストドラマ演劇がふさわしい(最近は日本の演劇でもこの方法を取り入れたものを時々見かける)。つまりシンメルプフェニヒの原作はポストドラマ演劇の台本として書かれている。では、上演はそれに対してどう立ち向かったのだろうか。
上演空間の問題がすべてと言ってよい。セリフによってそのつど意味される空間の切り替えをどうするか、という課題があるわけだ。これに対して、例えば空間を物理的に部分に分割し、照明でそれらの瞬時の切り替えをしてみせるといったやり方もある。しかしそれよりも、今回shelfが採用したように、すべての演者の身体を常時可視化して、「語り」それじたいの力で観客の想像力を喚起する、というやり方のほうが適切に思える。演者たちの身体が存在するところにそれぞれの空間が設定される。話の進行の中でそれらは隣接し、重なり合いもする。
床には大きな長方形の枠線が引かれ、観客席はそれを取り囲むように配置されている。長方形の内部も分割線が引かれて、物語に対応するいくつかの区画が示され、それぞれの場所を名指す英単語が白いチョークで書かれている。 物語の中では、人物たちの誰かが常に、階段を上昇、あるいは下降している。8階から地階へ、地階から8階へ。指揮者がタクトを振るように、階段(およびカリルだけが、しばらく閉じこめられるエレベーター)での昇降運動が物語のリズムを決定している。明らかに演出家にとっての難題だろう。shelfの演出家、矢野靖人は、これを水平な床面での周回運動で表現した。自室のソファーからほぼ動くことのないフランツィスカを例外として、登場人物はみな、あの長方形の枠線上で、階段を踏みしめるように歩く。フィジカルシアターの訓練で鍛えられ��のだろう演者たちの歩行には、気迫がある。
筆者は、観劇しながら次第に解釈にふけっていった。階段の上下運動と言い、ローマイアーが半地下室まで下降したとき突然湧き起こる前妻の記憶といい、砂漠の噴水と言い、フロイトの『夢解釈』の読者としては、どうしても深層心理の象徴として読み取ってしまうのだ。すべては抑圧された衝動の現れなのではないか。フロイトによれば、夢の中での上昇・下降は性的な表徴なのである。
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〔記録映像:TANJC〕
shelfの上演には明示的にエロチックな表現は皆無である。冒頭で、ローマイアーが見初めるフランツィスカは「ほとんど裸」という設定なのだが、それさえ控えめだった。しかし演者たちの張りのある声がそれぞれの身体の周囲に空間を設定し、それらがせめぎ合う中で、次第に空間どうしの関係性そのものがエロス的に見えてきた。演出がそれを狙っていたかどうかは別として、空間の「接触」から生じるエロスが、原作の昇降運動のそれに取って代わっていたように思えた。
水平なのが普通の演技空間でこの作品をやれば、今回のShelfのようになるのが自然なのではないか。それは、今回の上演が原作から何らかの距離を取ろうとはしていないということでもあろう。その意味では、台本自体がポストドラマ演劇として書かれているとき、演出がさらに異化をほどこすことなく、原作自体に仕込まれている劇(ドラマ)と演劇の距離をうまく具体化すれば、ポストドラマ演劇の上演は成功する、という例を見たように思う。
●山下 純照(やました・よしてる) 1959年生まれ、神奈川県横須賀市出身、東京都世田谷区住まい。ドイツ演劇、演劇理論が専門。成城大学文芸学部教員。日本演劇学会・西洋比較演劇研究会会員。
shelf volume 24 「 Die arabische Nacht|アラビアの夜」 2017年6月2日(金)~5日(月)@The 8th Gallery(CLASKA, 学芸大学)
作 / ローラント・シンメルプフェニヒ(Roland Schimmelpfennig) 翻訳 / 大塚直 演出 / 矢野 靖人 stage performing rights: S. Fischer Verlag Frankfurt/Main
[キャスト] 川渕優子 森祐介 沖渡崇史 横田雄平 井上貴子
[スタッフ]  照明デザイン協力 / 則武鶴代 衣装デザイン / 竹内陽子 宣伝美術 / オクマ タ��ツ 記録映像撮影・編集 / TANJC 写真撮影 / ���田真理 制作助手(インターン)/ 神川美優  制作協力 / 庭山 由佳
主催・企画制作 / 一般社団法人shelf
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orewatabest · 8 years ago
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khaki(カーキ)(2016)
https://twitter.com/khaki_p    
■2016年にリリースされた音楽で、良かったアルバムベスト10
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2016年発売の10枚   01:BiSH / KiLLER BiSH  メジャー第2弾アルバム  名曲「オーケストラ」を始め楽曲とメンバーのたたずまいが  ここに来てしっくりシンクロしてきた感じ。  物語が始まっています。  https://youtu.be/_RRbVhobb9o  https://youtu.be/i90zUjc_J30   02:ふくろうず / だって、あたしたちエバーグリーン  しっとりしたいいアルバム。聴いてると心が落ち着きます。  https://youtu.be/RURsc8J5LyA   03:ザ・なつやすみバンド / PHANTASIA  思ってた以上に楽しいアルバムが出来上がってました。  最上級の心地よさ。  https://youtu.be/DajY5y_IMOM   04:Lady Flash / 恋するビルマーレイ  ウキウキする楽曲が勢ぞろい。  フレッシュさを感じさせるサウンドです。  若いなー。  https://youtu.be/sJMpg_CcE9I  https://youtu.be/uqVL7BEeCbU
  05:吉澤嘉代子 / 東京絶景  バラエティーに富む楽曲が軽やかに響いて、もう本当に才能豊か。  https://youtu.be/cs4_HWVdV8o  https://youtu.be/mQvYLT2odZA
  06:ラブリーサマーちゃん / LSC  次どんな手を出すかいつも想像を超えてくるメジャー1弾にして  ベスト的なアルバム。とっちらかし加減もひっくるめて。笑  https://youtu.be/nBMNvG8gOpE  https://youtu.be/sS99NE4tmPQ   07:くつした / きのうみたゆめ
 シンプルでダイナミックな楽曲に独特な詞の世界観がいい感じにマッチしてます。  https://youtu.be/p_I5LME8dCU  https://youtu.be/ye3bLDZA0Ak   08:SATORI / よろこびのおんがく  ファンキーでグルービーでめちゃ楽しいアルバム  まさによろこびのおんがく  https://youtu.be/g1jMX3r_ZHI  https://youtu.be/KtrSsH_--2g   09:KETTLES  / AQUATIC!  うまくいかないぼやき的な詞だらけだけど、それでもやるだけさ!  的なメッセージが伝わるアルバム。絵に描いたような不器用さ。  https://youtu.be/parkkoBScAM   10:大森靖子 / TOKYO BLACK HOLE  グサグサっと切り込んでいってる楽曲ばかりだけど  表題曲が痺れるぐらいかっこいい。  https://youtu.be/lXIOIUGmh7I  https://youtu.be/Dk-mVzTXWPE     次点 Czecho No Republic / DREAMS きのこ帝国 / 愛のゆくえ Shiggy Jr. / ALL ABOUT POP Homecomings / SALE OF BROKEN DREAMS Magic, Drums & Love / Love De Lux     2016年この10曲! 01:BiSH / オーケストラ  https://youtu.be/_RRbVhobb9o   02:吉澤嘉代子 / ひゅー   03:ふくろうず / うららのLa  https://youtu.be/RURsc8J5LyA   04:大森靖子 / TOKYO BLACK HOLE  https://youtu.be/lXIOIUGmh7I   05:Czecho No Republic / Electric Girl  https://youtu.be/4PY2mjD40A0   06:南波志帆 / プールサイド   07:きのこ帝国 / 愛のゆくえ  https://youtu.be/DskrX3suqb0   08:ラブリーサマーちゃん / 青い瞬きの途中で  https://youtu.be/nBMNvG8gOpE   09:Shiggy Jr. / ホットチリソース   10:アイドルネッサンス / 君の知らない物語  https://youtu.be/iD0Iw2WdejQ   Homecomings / ALPHABET FLOATING IN THE BED SpecialThanks / DOUNARUNO!? https://youtu.be/BKSMc5OTGSM くつした / きのうみたゆめ https://youtu.be/p_I5LME8dCU 藤岡みなみ & ザ・モローンズ / 脱水少女 https://youtu.be/_82ZVGew DTAKETTLES / ティーンエイジフィーバー SHISHAMO / 中庭の少女たち https://youtu.be/CvY8Qj9dgW8 amiinA / Atlas https://youtu.be/guCKvlunB-Q Saku / ミントフレーバーBELLRING 少女ハート / asthma ザ・なつやすみバンド / ファンタジア SHE IS SUMMER / 君のせい ぽわん / ハッピーミラクルラブソング Lady Flash / とらばーゆ Often Mofun / 午前0時はため息ばかり ラブリーサマーちゃん / PART-TIME ROBOT きのこ帝国 / クライベイビー 大森靖子 / 非国民的ヒーロー 脇田もなり / あのね、、、 DIALUCK / あの街まで Czecho No Republic / Forever Dreaming ぽわん / モテたぃ。 ふくろうず / 夏のまぼろし bomi / A_B SATORI / ときめき地蔵盆 yEAN / この指とまれ Saku / ハローハロー 藤岡みなみ & ザ・モローンズ / 休前日 is the best 大森靖子 / 劇的JOY! ビフォーアフター BABYMETAL / シンコペーション Perfume / FLASH Saku / 同じ空 三戸なつめ / I'll do my best カネコアヤノ / さよーならあなた For Tracy Hyde / Another Sunny Daze 吉澤嘉代子 Feat. サンボマスター / ものがたりは今日はじまるの BiSH / 本当本気 Saku / 君色ラブソング ザ・なつやすみバンド / lapis lazuli amiina / Canvas Special Favorite Music / Magic Hour ライブを観る機会が減ってしまい 今年はライブハウスに4回、フェス1回(2DAYS)、野音1回 インストア14回。 BiSH / 日比谷野外音楽堂10/8が 特別にめちゃ良かった!泣いた!   +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++  
2016年 観た映画ベスト10 今年は劇場で92本(年末に+3本予定)観ました。 2016年映画ベスト[邦画]   01:ハッピーアワー  317分もある大長編。長い映画は観てるとグルグルしてきて妙に心地よくなるので好き。  身につまされるような内容にやられたり。  https://youtu.be/XsiDTMGBrAE   02:モヒカン故郷に帰る  沖田監督のリズムというかテンポというかついつい乗せられて  広島ネタにもやられたり笑  https://youtu.be/rfXVTc41zxY   03:ふきげんな過去  少し不思議で独特な世界観にもっていかれて。  何も起こってないようでいろいろ変なことが起こってるし。  キャスティングも絶妙。  https://youtu.be/OGIW6H1StTA   04:リップヴァンウィンクルの花嫁  黒木華さん演じる主人公が翻弄されすぎてそれがまず可愛らしくて  からの急展開からのラストまで心地よさが残りました。  https://youtu.be/uhF5bqHTkA4   05: 友だちのパパが好き  身につまされるような映画でした。  男が全部悪い男が全部悪い!ごめんなさい!って  反省モードになる映画結構好きです。  https://youtu.be/KzNbXg77GFQ   06:アズミハルコは行方不明  カメラワーク良さと時系列をシャフルさせることで  ぎゅっと集中してテーマに向かってどんどん繋がっていく心地よさが  良かった。未来を希望を感じさせるラストの画も。  https://youtu.be/8YRZccPU-PY   07:ディストラクション・ベイビーズ  かなり痺れました。ヒリヒリ。   圧倒的な存在感の柳楽くんの状況に引きずられて  菅田くんと小松さんの暴かれる顔が気持ち悪くていい。  https://youtu.be/T7GzXtxH9Sc   08: SHARING   いつまでたっても悪夢が冷めない目覚めの悪さが   延々とラストまで続いてやられました。   https://youtu.be/0G8LTxVRVqc   09:過激派オペラ  これはエロいというよりも  愛憎渦巻くキュンキュンの青春映画として感じれたのがとても良かった。  https://youtu.be/5qutOwBezlM   10:ちはやふる 上の句  ラストまで息つく暇もないキラキラした瞬間がちりばめられて  満足な映画でした。下の句も連続して観れれば下の句の評価が違った気がします。  https://youtu.be/ZjNlJLjDzjk     次点 君の名は。 湯を沸かすほどの熱い愛 溺れるナイフ お父さんと伊藤さん 聲の形 オーバーフェンス セトウツミ ぼくのおじさん 永い言い訳 裏切りの街オオカミ少女と黒王子 下衆の愛 日本で一番悪い奴ら SCOOP 俳優 亀岡拓次     2016年映画ベスト[洋画] 01:すれ違いのダイアリーズ  置かれた立場からくる共感から始まる会ったこともないひとへの恋  ってほんとにキュンキュンしました。  日記を通じて考え方がシンクロしていってるのも素晴らしい。  https://youtu.be/RCm9xByErZ8   02:若葉のころ  少女期の母と、現代の娘を演じている主演の子が本当に魅力的で  過去と現代をのシーンを行ったり来たりしてみせるのが良かった!  https://youtu.be/DSNABNR7hSE   03:グッバイ・サマー  いじめられっ子と変わり者二人の男の子が手作りの車で旅に出るっていうのが  冒険欲がワクワクしてすばらしい。  絵が上手いっていう主人公も共感してしまう。  https://youtu.be/LatpW_8Pe6E   04:シング・ストリート  あのころの80年代の音楽がほんとに気持ち良くて、楽しく観れました。  MV込みの音楽という時代ならではのラブストーリー。  https://youtu.be/v0sSmZWgKBU   05:リザとキツネと恋する死者たち  デンマークが舞台。ヒロインに関わったひとがどんどん死んでいくという  それがコミカルで面白くてさらに  つきまとう幽霊が日本人歌謡曲歌手というへんてこりんな映画でした。 https://youtu.be/-bXnFjbPRvI   06:The Kids  大阪アジアン映画祭で観ました。  ふたりの夢に共感してキラキラした恋愛だったところに  妊娠してこどもが出来てから高校はやめ働き出して  だけどやっぱり二人とも自身がまだまだ子供でうまくいかなくて。  守りたいけど守れない、頼りにしたいけど頼れない。辛い。  ほんとうにせつない。  https://youtu.be/nFuvjmjVzyg   07:マジカル・ガール  誕生日プレゼントに娘が好きな魔法少女のコスチュームを  買うためにしたことがどんどんめぐりめぐって  取り返しのつかないラストが  びっくり悲しい。  https://youtu.be/owmCUm4lNFU   08:pk  ミラクルなラブストーリーでラストが気持ち良かった。 https://youtu.be/7DZXjt1nK58   09:私の少女時代  全編楽しかったけど、少女時代と大人の同一人物感がちょっと足りないような笑  https://youtu.be/9F2Z-4WG3-k   10:COMET コメット  時系列というかパラレルワールドというか  いろんなシーンがザクザク繋がってて  不思議な感じも結構心地よく、画作りが綺麗だったのが良かった。  https://youtu.be/BoGosMjVXD4   2016で劇場観賞が増えたせいなのか 家でゆっくりDVDが観れないようになりました。 借りたDVD26本のなかで ああ、劇場で観ればよかった! と思った映画 「グッド・ストライプス」 「エイプリルフールズ」 「流れ星が消えないうちに」 「岸辺の旅」 「ぼくたちは上手にゆっくりできない。」 でした   +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   2016年新しく出会ったマンガおすすめ10冊。 続刊含め81冊買ってますねえ、、、、、、。買いすぎかなあ、、、、。   トーキョーエイリアンブラザーズ / 真造 圭伍 ローカルワンダーランド / 福島聡 うちのクラスの女子がヤバい / 衿沢世衣子 あげくの果てのカノン / 米代恭 盆の国 / スケラッコ 銃座のウルナ / 伊図 透 リクエストをよろしく / 河内遙 ねむりめ姫 / 宇仁田ゆみ 13月のゆうれい / 高野 雀 恋のツキ / 新田章  
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   2016観た舞台 今年は10公演!去年の倍行きました! 来年はもっと行きたい。   劇団鹿殺し「キルミーアゲイン」 羊とドラコ「紡ぎ屋カラムと紅い糸 」 かのうとおっさん「ものわかりのいい病院」 片岡自動車工業「ゼクシーナンシーモーニングララバイ」 悪い芝居「メロメロたち」 劇団鹿殺し「名なしの侍」 悪い芝居リインカーネーション「春よ行くな、」 劇団競泳水着「Nice to meet you, My old friend」 仏団観音びらき「蓮池温泉 極楽ランド」 劇団鹿殺し「image ―KILL THE KING」   +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   2016観た寄席 落語もほぼ倍増! 乙夜寄席が夜遅めで行きやすかった!   チョコっとLOVE寄席 笑福亭松枝 桂あさ吉 露の団姫 桂ぽんぽ娘 露の瑞   第2回 みずほのホッ。~露の瑞 勉強会~ 桂弥っこ、露の瑞、桂福丸 文太・噺の世界in高津の富亭~これが噂の・・・花の香りに包まれて 露の瑞、桂鞠輔、露の眞、月亭天使、桂文太 第3回 みずほのホッ。~露の瑞 勉強会~ 露の新幸 、露の瑞 、笑福亭由瓶 乙夜寄席10/25 露の瑞、桂三四郎、桂吉の丞 乙夜寄席11/8 桂二葉、桂三語、笑福亭喬介 乙夜寄席11/22 林家染八、露の雅、桂ちょうば 乙夜寄席12/13 桂小梅、桂咲之輔、笑福亭べ瓶 来年はもっと行きたい   +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   2016観た作品展 To-y「LIVE」展 ますださえこ×瑞樹みづきコラボ展『やわらかいゆめとあくび』 浮世絵「春画展」 田中一光「ポスター展」 森村泰昌展 辻恵子貼り絵切り絵展覧会「貼リ切ル」 明和電機「ナンセンスマシーン展」 小鳥遊しほ「#これから展」 『イラストレーター 安西水丸 展』 ますださえこ個展「PPMM」 スケラッコ原画展「盆の国」 親バカ子バカ展 MilK JAPON PHOTO EXHIBITION チョーヒカルの個展『SUPER FLASH GIRLS』 六甲ミーツ・アート 芸術散歩2016 ルーヴル美術館特別展「LOUVRE No.9~漫画、9番目の芸術~」   +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   大阪単身赴任8年経ちました。 ライブの本数が本当に減りました。 最近インストアライブもちょっと気が乗らない感がでてきて。 あれかな、ホールライブなら大丈夫なのかな笑着席エンタテインメントは 映画の本数は増え92本、演劇舞台10回、落語8回いきました。 確実に増えてる笑 CAKE VIKING TOURSというDJイベントを時々やっています。 今年はできませんでした、、、うん。 http://www.lastfm.jp/user/khaki777  
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sasakiatsushi · 8 years ago
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慟哭と吃驚ー小島信夫と小沼丹ー
 「第三の新人」と呼ばれた作家たちの中で、小島信夫と小沼丹は、理由は異なるが、どこか収まりの悪い存在に思える。  小島信夫については言うまでもなく、彼が一九一五年生まれと「第三の新人」では���年長であり、それどころか「第二次戦後派」とされる三島由紀夫(一九���五年生まれ)や安部公房(一九二四年生まれ)、井上光晴(一九二六年生まれ)や堀田善衛(一九一八年生まれ)よりも年上、「第一次戦後派」の野間宏や梅崎春生とおない年であるという事実に依っている。これは一九一七年生まれの島尾敏雄が「第三の新人」と「戦後派」のどちらにも入れられていることがあるのに似ているが、小島にかんしては「戦後派」とされているのは読んだことがない。  「第三の新人」という呼称は、山本健吉が「文學界」の一九五三年一月号に発表した同名の論文が初出とされるが、そこで山本が取り上げている作家は「第三の新人」とはあまり重なっておらず、実際にはその後、山本を含む文芸評論家やマスコミが、この時期に文壇に登場もしくは頭角を現してきた一群の小説家たちを、この便利なフレーズの下にカテゴライズしていったということだったのだと思われる。小島は五二年に「燕京大学部隊」と「小銃」(初の芥川賞候補)を、五三年に「吃音学院」を、五四年に「星」「殉教」「微笑」「馬」「アメリカンスクール」といった力作を矢継ぎ早に発表し、五五年に「アメリカンスクール」で芥川賞を受賞する。この経歴からすれば、彼は如何にも「第三の新人」と呼ばれるに相応しい存在だった。  しかし最初期の作品集『公園/卒業式』(冬樹社/講談社文芸文庫)を繙いてみればわかるように、小島は戦前から小説を書いていたし、その中には「死ぬということは偉大なことなので」(一九三九年)のような重要な作品もある。でもまあ「小島信夫=第三の新人」という等号は、文学史的にはごく常識に属すると言っていいだろう。単に他の面子よりも年を取っていたというだけである。  これに対して小沼丹の場合は、もう少し微妙な浮き方をしている。彼も一九一八年生まれと「第三の新人」では年長組だが、そういうことよりもむしろ、存在感というかアティチュードというか、その小説家としての佇まいが、他の「第三の新人」たちとは、かなり異なった風情を持っていると思えるのである。小沼は井伏鱒二の弟子だったわけだが、彼が井伏から受け取った或る種の態度と、それは関係があるのかもしれない。比較的横の繋がりの強い印象がある「第三の新人」の中にあって、小沼は他の作家たちと親しく交流することもあまりなかった(庄野潤三とは付き合いがあったが)。年譜を見ても井伏鱒二と旅ばかりしている。しばしば言われることだが、小沼にとっては、あくまでも早稲田大学の英文学の教授が本職であって、作家活動は趣味というか余技というべきものだった、というのも、あながち間違った見方ではないだろう。もっともそれを言うなら小島信夫も英文学の明治大学教授だったのだが。  小島と同様に「第三の新人」ムーヴメントの頃の小沼の筆歴を記せば、一九五四年上半期に「村のエトランジェ」、下半期に「白孔雀のゐるホテル」、五五年上半期に「黄ばんだ風景」「ねんぶつ異聞」で、計三度、芥川賞候補に挙げられたが、受賞はしていない。ちなみにそれぞれの回の受賞者は順番に、吉行淳之介、小島信夫/庄野潤三(二名受賞)、遠藤周作と、見事に「第三の新人」で占められている。これ以後、小沼が芥川賞候補になることはなかった。ちなみに五五年下半期には石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞し、もはや「第三の新人」が新しかった時代は過ぎ去ってしまう。とはいえ翌五六年には「第三」の近藤啓太郎が「海人舟」で受賞するのだが。  小沼の第一作品集『村のエトランジェ』(みすず書房/講談社文芸文庫)は五四年刊だが、そこには収められている小説には、四〇年代後半には原型が書かれていたものもある。同時期に彼はスティーヴンスンの翻訳や『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』の子ども向け翻案などを手掛けており、大昔の異国を舞台とする「バルセロナの書盗」や「ニコデモ」(ともに四九年)や「登仙譚」(五二年)には、そういった仕事からの影響を窺うことが出来る。  先にも述べたように、小沼丹が「白孔雀のゐるホテル」で候補になり落選した一九五四年下半期の芥川賞は、小島信夫の「アメリカン・スクール」(と庄野潤三「プールサイド小景」)だった。両作の冒頭を引用してみよう。
 大学生になったばかりの頃、僕はひと夏、宿屋の管理人を勤めたことがある。宿屋の経営者のコンさんは、その宿屋で一儲けして、何れは湖畔に真白なホテルを経営する心算でいた。何故そんな心算になったのか、僕にはよく判らない。  ……湖畔に緑を背負って立つ白いホテルは清潔で閑雅で、人はひととき現実を忘れることが出来る筈であった。そこでは時計は用いられず、オルゴオルの奏でる十二の曲を聴いて時を知るようになっている。そしてホテルのロビイで休息する客は、気が向けばロビイから直ぐ白いヨットとかボオトに乗込める。夜、湖に出てホテルを振返ると、さながらお伽噺の城を見るような錯覚に陥るかもしれなかった。  コンさんは、ホテルに就いて断片的な構想を僕に話して呉れてから云った。 ーーどうです、いいでしょう? ひとつ、一緒に考えて下さい。 (「白孔雀のゐるホテル」)
 集合時間の八時半がすぎたのに、係りの役人は出てこなかった。アメリカン・スクール見学団の一行はもう二、三十分も前からほぼ集合を��了していた。三十人ばかりの者が、通勤者にまじってこの県庁にたどりつき、いつのまにか彼らだけここに取り残されたように、バラバラになって石の階段の上だとか、砂利の上だとかに、腰をおろしていた。その中には女教員の姿も一つまじって見えた。盛装のつもりで、ハイ・ヒールをはき仕立てたばかりの格子縞のスーツを着こみ帽子をつけているのが、かえって卑しいあわれなかんじをあたえた。  三十人ばかりの教員たちは、一度は皆、三階にある学務部までのぼり、この広場に追いもどされた。広場に集まれとの指示は、一週間前に行われた打ち合わせ会の時にはなかったのだ。その打ち合わせ会では、アメリカン・スクール見学の引率者である指導課の役人が、出席をとったあと注意を何ヵ条か述べた。そのうちの第一ヵ条が、集合時間の厳守であった。第二ヵ条が服装の清潔であった。がこの達しが終った瞬間に、ざわめきが起った。第三ヵ条が静粛を守ることだという達しが聞えるとようやくそのざわめきはとまった。第四ヵ条が弁当持参、往復十二粁の徒歩行軍に堪えられるように十分の腹拵えをしておくようにというのだった。終戦後三年、教員の腹は、日本人の誰にもおとらずへっていた。 (「アメリカン・スクール」)
 小島信夫は五四年だけで実に十編もの短編小説を発表しているのだが、個人的には「アメリカン・スクール」よりも「星」や[殉教」、そして「馬」の方がすぐれていると思う。単行本『アメリカン・スクール』の「あとがき」で、小島は実際に自分がアメリカン・スクールに見学に行った経験が出発点になってはいるものの、それはごく最近の出来事(「先年」とある)であり、しかも「事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった」と述べてから、こう書いている。「僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。そのために象徴的に、六粁の舗装道路を田舎の県庁とアメリカン・スクールの間に設定してみた。それから今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」。  その結果としての、主題的な、話法的な、一種の紛れもないわかりやすさが、芥川賞の勝因だったと言ったら怒られるかもしれないが、「終戦後二年間ぐらいの所」というのだから、一九四七年頃の物語を一九五四年に(五三年の体験をもとに)執筆したこと、それから「六粁」すなわち「往復十二粁」という「行軍」の設定、そして「僕」から「群像の中の一人物」への変換(右引用の少し先で、この小説の主人公というか狂言回し的な人物は「伊佐」という男だとわかる)という三種類の「距離」の導入が、その「わかりやすさ」に寄与していることは間違いない。もちろん小説とはこういうことをするものであるわけだが、「現実」を巧妙にずらすことによって却って「現実味」を増すという操作が、ここでは見事に上手くいっている。と言いつつ、であるがゆえに、わたし的には今ひとつ物足りない気もするのだが。兎角上手くいき過ぎているものはどうもつまらない。だがそれはとりあえず置く。  これに対して小沼丹の「白孔雀のゐるホテル」の場合は、ここで夢見られているホテルの「お伽噺」めいたイメージとは裏腹に、現実の宿屋は二軒長屋を若干改造しただけの古臭くて襤褸い代物で不便この上なく、何故だか自信満々の「コンさん」に驚き呆れた「僕」は、ひと夏の間に六人以上の泊まり客が来るかどうかの賭けをすることになるのだが、その賭けの顛末が綴られてゆく物語は、この時期の小沼小説の一大テーマというべき男女の色恋がメインに据えられてはいるものの、どこか牧歌的であり、こう言ってよければ妙に非現実的な「お伽噺」ぽさの内に全編が展開されるのである。つまりこの小説には「アメリカン・スクール」にあったようなリアリティへの配慮と戦略が著しく欠けている、というかそれはほとんど顧みられていないようにさえ見える。小沼丹がやろうとしているのは、もっとあからさまに「物語」らしい小説であり、その意味では「文学」らしからぬ小説なのである。そのせいで芥川賞を得られなかったのかどうかはよくわからないが、この作風は「第三の新人」においてはやはり異色である。  それは「村のエトランジェ」や、二編と同年発表の「紅い花」など、この頃に書かれた多くの作品にも言える。「エトランジェ」は衝撃的な殺人の目撃シーンから始まるが、現在の感覚からするとまだほとんど子供と言っていい「中学一年坊主」の「僕」の視点から、戦時中に田舎に疎開してきた美人姉妹と若い詩人とのロマンス、そのドラマチック過ぎる結末が、しかしやはりどこか牧歌的な雰囲気の中で物語られる。「紅い花」の舞台は「戦争の始る三年ほど前」だが、「大学予科生」の「僕」によって、郊外の山小屋を借りて独り暮らしを始めた「オスカア・ワイルドのように真紅のダリアを一輪飾った女」の波乱に富んだ恋愛模様が、おそるべきショッキングなラストに向かって物語られてゆく。いずれも極めて人工的なお話になっており、特に「紅い花」には一種の心理サスペンス風ミステリの趣がある。そして実際、この数年後の五七年から五八年にかけて、小沼丹は雑誌「新婦人」に「ニシ・アズマ女史」を探偵役とするユーモラスな短編を連作し、その後も何作かミステリ小説を発表している(「ニシ・アズマもの」は『黒いハンカチ』として一冊に纏められている。ミステリ作家としての小沼の側面にかんしては同書創元推理文庫版の新保博久氏の解説に詳しい)。ミステリに留まらず、五〇年代末から六〇年代頭の小沼はいわゆるジャンル小説にかなり接近しており、当時隆盛を迎えていた「��石」「オール読物」「小説中央公論」などの中間小説誌にも作品を書いている他、六一〜六二年には新聞小説としてユーモア長編『風光る丘』を連載している。ジャンル的な方向性や出来映えの違いはあるが、デビュー以来、この頃までの小沼の小説は���おしなべて物語的、お話的なものであり、言い替えればそれは、どこか浮き世離れした雰囲気を持っていた。ところが、よく知られているように、この作風は、その後、大きく変化を見せることになる。  一九六三年の四月に小沼丹の妻・和子が急逝する。彼は娘二人と現世に残された。翌六四年には母親も亡くしている。そして同年五月に、のちに「大寺さんもの」と総称されることになる連作の第一作「黒と白の猫」が発表される。  この小説は、次のように始まる。
 妙な猫がいて、無断で大寺さんの家に上がりこむようになった。ある日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐っているのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届な無断侵入を試みた猫は何匹かいたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると素早く逃亡した。それが当然のことである、と大寺さんは思っていた。ところが、その猫は逃出さなかった。涼しい顔をして化粧なんかしているから、大寺さんは面白くない。  ーーこら。  と怒鳴って猫を追つ払うことにした。  大寺さんは再び吃驚した。と云うより些か面喰つた。猫は退散する替りに、大寺さんの顔を見て甘つたれた声で、ミヤウ、と鳴いたのである。猫としては挨拶の心算だったのかもしれぬが、大寺さんは心外であった。 (「黒と白の猫」)
 以前から身辺雑記的なエッセイは発表していたが、この作品によって小沼丹はいわば「私小説的転回」を果たしたとされることが多い。淡々とした、飄々とした筆致から「大寺さん」の、とりたてて劇的な所のない平凡な日常が浮かび上がり、いつの間にか自宅に上がり込むようになった猫の話が綴られてゆくのだが、小説の後半で「大寺さん」は妻を突然に亡くす。しかしそのことを伝える筆致もまた、どこか淡々と、飄々としている。事情を知る読者は、おそらく作家自身に現実に起こったのも、こんな感じであったのかもしれないと思う。そしてこの作品以後、かつてのような人工性の高い「お話」は、ほとんど書かれなくなってゆく。これが多分に意識的な「転回」であったのだということは、次の文章でもわかる。
 小説は昔から書いているが、昔は面白い話を作ることに興味があった。それがどう云うものか話を作ることに興味を失って、変な云い方だが、作らないことに興味を持つようになった。自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向けるようになった。この辺の所は自分でもよく判らないが、この短編集に収録してある「黒と白の猫」という作品辺りから変わったのではないかと思う。 (「『懐中時計』のこと)
 作品集『懐中時計』は一九六九年刊。右は九一年に講談社文芸文庫に収められた際に附された「著者��ら読者へ」より抜いた。この先で「黒と白の猫」についてあらためて触れられているのだが、それは(明記されていないが)一九七五年発表の「十年前」というエッセイの使い回しとなっている。なので以下は同エッセイ(『小さな手袋』所収)から引用する。「十年前」とは勿論「黒と白の猫」が書かれた時のことである。
 日記には「黒と白の猫」を書き終わって、一向に感心せず、と書いているが、これはそのときの正直な気持ちだろう。尤も書き終って、良く出来たと思ったことは一度も無いが、この作品の場合は自分でもよく判らなかったような気がする。よく判らなかったのは、主人公に初めて「大寺さん」を用いたからである。  突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない。「彼」でも不可ない。しっくりしないと云うよりは、鳥黐のようにあちこちべたべたくっつく所があって気に入らなかった。此方の気持の上では、いろんな感情が底に沈殿した上澄みのような所が書きたい。或は、肉の失せた白骨の上を乾いた風邪が吹過ぎるようなものを書きたい。そう思っているが、乾いた冷い風の替りに湿った生温い風が吹いて来る。こんな筈ではないと思って、一向に書けなかった。  それが書けたのは、大寺さん、を見附けたからである。一体どこで大寺さんを見附けたのか、どこから大寺さんが出て来たのか、いまではさっぱり判らない。 (「十年前))
 「兎も角「僕」の荷物を「大寺さん」に肩代りさせたら、大寺さんはのこのこ歩き出したから吻とした。しかし、出来上がってみると、最初念頭にあった、上澄みとか、白骨の上を吹く乾いた風の感じが出たとは思われない。それで一向に感心せずとなったのだろう」と小沼は続けている。ここでわたしたちは、小島信夫が「アメリカン・スクール」について「今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」と語っていたことを思い出す。つまり小島も小沼も、一人称を架空の固有名詞に変換することによって、或る転回を成し得ている。興味深いことに、「私」で/と書くのを止めることが、むしろ「私/小説」を誕生、もしくは完成させているのである。  「アメリカン・スクール」前後の小島信夫の小説で、一人称の「僕」もしくは「私」で書かれていないのは、他には「声」(一九五五年)など数える程しかない。一九五五年には初の長編小説『島』の連載が「群像」で開始されるが、これも人称は「私」である。そして長編小説にかんしてみると、続く『裁判』(一九五六年)、『夜と昼の鎖』(一九五九年)、『墓碑銘』(一九六〇年)、『女流』(一九六一年)は全て一人称で書かれている。そして小島が初めて三人称で書いた長編小説が、他でもない『抱擁家族』(一九六五年)なのである。その書き出しは、次のようなものである。
 三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れはじめた、と。そして最近とくに汚れている、と。  家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のまま��。清潔好きの妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。  自分の家がこんなふうであってはならない。…… (『抱擁家族』)
 この「三輪俊介」は『抱擁家族』から三十二年後の一九九七年に刊行された長編『うるわしき日々』に(それだけの年を取って)再登場する。当然のことながら、一人称で書かれているからといって作者本人とイコールでないのと同じく、三人称で書かれているからといって作者とまったく無関係とは限らない。小島の他の長編小説、たとえば大作『別れる理由』(一九六八〜八一年まで連載)の「前田永造」であるとか『美濃』(一九八一年)の「古田信次」であるとかも、基本的には「小島信夫」の別名であると言ってしまって構わない。これはあらためてじっくりと論じてみたいと思っていることだが、日本文学、少なくとも或る時期以降の「日本」の「文学」は、煎じ詰めればその大半が広義の「私小説」である。それは人称の別にかかわらず、そうなのだ。その中にあって小島信夫は、かなり特異な存在だと言える。何故ならば小島は、自身の人生に材を取って膨大と言っていい小説を書いたのみならず、それらの小説群によって自らの人生自体をも刻々と小説化=虚構化していったからである。だが本稿ではこの点にはこれ以上は踏み込まず、小沼丹との比較対照に戻ることにする。それというのも、言うまでもないが『抱擁家族』でも「三輪俊介」の妻が亡くなるからである。  『抱擁家族』は、前半では「三輪俊介」の妻である「時子」と、三輪家に出入りしていたアメリカ兵ジョージとの姦通(次いで三輪家の二番目の家政婦である「正子」と息子の「良一」も関係を持つ)によって生じた「家/族」の危機が、後半では「時子」が癌に罹り月日を経て死に至るまでと、それ以後が描かれる。現実の小島信夫の最初の妻・キヨは、一九六三年十一月に数年の闘病生活の末に亡くなっている。これは小沼丹の妻の死の半年後のことである。小島信夫の代表作、おそらく最も有名な作品であろう『抱擁家族』は発表以来、さまざまに読まれてきた。言わずもがなではあるが、よく知られた論としては、実質的に「第三の新人」論と呼んでいい江藤淳『成熟と喪失』(一九六七年)が挙げられるだろうが、今から見れば些か過剰に社会反映論的とも思えるそこでの江藤の立論は、たとえ当たっていたとしてもわたしにはあまり面白くはない。今のわたしに面白いのは、たとえば小島の最初の評論集である『小島信夫文学論集』(一九六六年)収録の「『抱擁家族』ノート」における、次のような記述である。
 時子の死ぬところがうまく行かない。つまらない。自然の要素が強すぎる。  しかし、ここをとるわけには行かない。一応こういう自然の時間を追うスタイルの小説だからである。
 小説の推移、一つ一つの会話がそのまま混沌としていて、しかも人生そのものというようにすべきである。そのくらい複雑でなければ、こういう問題を書く意味がない。 (「『抱擁家族』ノート」)
 二つの断片を引いた。この「ノート」は、小島が実際に『抱擁家族』執筆に当たって作成した創作メモがもとになっているそうだが、���後の一文に「俊介は狂っている」とあり、思わず戦慄させられる。周知にように、小島信夫は小説と同じくらい、ことによるとそれ以上の労力を傾注して多数の小説論を書いた作家だが、自作にかかわる論においては常に、右の引用に示された紛れも無いパラドックスをめぐる葛藤が旋回している。すなわち「小説」と「自然の時間=人生そのもの」との、ややこしくもあり単純でもある関係性が孕むパラドックスである。それは小沼丹が「突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない」と悩んだあげくに、ふと「大寺さん」を発見したのと同じことである。  それならつまり、小島信夫も小沼丹も、自らの実人生に起きた、たとえば「妻の死」という決定的な出来事、悲劇と呼んで何ら差し支えあるまい出来事を、如何にして「小説」という虚構に落とし込むかという試行に呻吟した結果、それぞれにとっての小説家としてのブレイクスルーを成す『抱擁家族』と「黒と白の猫」という「三人称の私小説(的なるもの)」が産み落とされたのだ、と考えればいいのだろうか。それはまあそうなのだが、しかし両者の対処の仕方は、一見すると対照的である。『抱擁家族』では、夫である「三輪俊介」が、妻である「時子」の死に対して激しく動揺し、狼狽し、慟哭するさまが執拗に描かれている。その様子は勿論シリアスなものではあるが、しかし同時に奇妙な諧謔味を湛えてもおり、そしてその諧謔がぐるりと廻って哀しみを倍加する、というようなものになっている。それは名高い「私の妻は病気です。とても危いのです。その夫が私です」という台詞に象徴されているが、そこに作家自身の生の感情が吐露されていると考えてはならない。「アメリカン・スクール」で施されていたのと同様の戦略と計算が、ここにはより大胆かつ精妙に働いている。  たとえば次の場面には、小島の独特さが現れている。
 病院での通夜までの間に一時間あった。その間、彼は病院の玄関に立っていた。涙がこみあげてきて、泣いているとうしろで廊下をするような足音がした。ふりかえるとカトリックの尼が、トイレから出てきたところで、トイレのドアがまだ動いているところであった。  二人の尼は俊介のところへおびえるようにして近よってきた。 「お亡くなりになったそうで」  眼から涙がこぼれおちてくる、と俊介は思った。 「先日はどうも」  と彼は口の中でいった。 「祈ってあげて下さい」  と若い女の方がいった。 「それは僕も祈りつづけてきたのですが、祈る相手がないのですよ。だからただ祈り、堪え、これからのことを考えるだけです」 「あなたは、今、神に近いところにおいでになりますよ」 「なぜですか」  俊介は尼について歩きはじめた。 「家内に死なれたからですか。これは一つの事業ですよ。その事業をぶざまになしとげただけのことですよ」  俊介の涙はとまった。 「ただ僕は子供がふびんで……これからどうして暮して行ったらいいのだろう。ずっと前から予想していたが、やっぱり思いがけないことが起きたのです」 (『抱擁家族』)
 「『抱擁家族』ノート」には、こうある。「カトリックの尼を出す。時子は求めているらしい���に、追払う。こういう錯覚、洞察力のなさが俊介にはある。神の問題は、この程度にしかあらわれない。そういうこと、そのことを書く」。これはつまり、敢て、故意にそうしている、ということである。小島は、あくまでも意識的なのである。小島は「演劇」にも関心の深かった作家だが、ある意味で「三輪俊介」は、演劇的に慟哭してみせているのだ。  小島信夫は徹底して方法的な作家であり、彼の方法意識は『抱擁家族』でひとつの極点に達し、それから数十年をかけて、ゆ��くりと小島信夫という人間そのものと渾然一体化してゆくことになるだろう。従って、それはやがて「方法」とは呼べなくなる。だが、ともかくも言えることは、『抱擁家族』という小説が、たとえ表面的/最終的にはそう見えなかったとしても、実際には精巧に造り込まれた作品なのだということである。以前の作品と較べて、明らかにスカスカを装った文体や、一読するだけではどうしてそこに置かれているのかよくわからない挿話、あまり意味のなさそうな主人公の述懐さえ、周到な準備と度重なる改稿によって編み出されたものなのである。  小沼丹の「大寺さんもの」は、「黒と白の猫」に始まり、計十二編が書かれた。最後の「ゴムの木」の発表は一九八一年なので、実に十七年にわたって書き継がれたことになる。いずれも、ほぼ作家と等身大とおぼしき「大寺さん」の日々が綴られている。そこでは確かに、お話を「作らないこと」が慎ましくも決然と実践されているようであり、また「自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向け」られていると読める。この意味で、小沼の姿勢は小島信夫とは些か異なっているかに思える。  だが、ほんとうにそうなのだろうか。「黒と白の猫」の、今度は末尾近くを読んでみよう。
 大寺さんは吃驚した。  例の猫が飼主の家の戸口に、澄して坐っているのを発見したからである。大寺さんは二人の娘に注意した。娘達も驚いたらしい。  ーーあら、厭だ。あの猫生きてたのね。  ーーほんと、図々しいわね。  この際、図々しい、は穏当を欠くと大寺さんは思った。しかし、多少それに似た感想を覚えないでもなかった。大寺さんもその猫は死んだとばかり思っていたから、そいつが昔通り澄しているのを見ては呆れぬ訳には行かなかった。 (「黒と白の猫」)
 この短編を、そして続く「大寺さんもの」を読んでゆく誰もが気付くこと、それは「大寺さん」が、やたらと「吃驚」ばかりしていることである。もちろん小沼丹の小説には、その最初期から「吃驚」の一語が幾度となく書き付けられてはいた。たとえば「村のエトランジェ」の冒頭も「河の土堤に上って、僕等は吃驚した」である。『黒いハンカチ』の「ニシ・アズマ」も、一編に一回は「吃驚」している。だが、それでも「大寺さんもの」における「吃驚」の頻出ぶりは、殆ど異様にさえ映る。なにしろ「大寺さん」は、悉く大したことには思えない、さして驚くには当たらない小さな出来事にばかり「吃驚」しているのだ。そして/しかし、にもかかわらず「大寺さん」は、真に不意打ちの、俄には信じ難い、受け入れ難い出来事に対しては、むしろ淡々としている。その最たるものが、身近な者たちの「死」に向き合う態度である。「黒と白の猫」には「細君が死んだと判ったとき、大寺さんは茫然とした。何故そんなことになったのか、さっぱり判らなかった」とある。彼は「茫然���としはするが、そのあとはせいぜい「しんみり」するくらいで、取り乱すことも、泣くこともない。「茫然」は、あっさりと恬然に、超然に席を譲るかにさえ思える。演劇的なまでにエモーショナルな『抱擁家族』の「三和俊介」とは、まったくもって対照的なのである。つまり「大寺さん」の「吃驚」は、実際の出来事の強度とは殆ど反比例しているのだ。  「大寺さんもの」第三作の「タロオ」(一九六六年)は、タロオという飼犬のエピソードで、最後にタロオは知人のAの所に貰われてゆく。
 大寺さんがタロオを見たのは、それが最后である。タロオはその后十年以上生きていて死んだ。死ぬ前の頃は、歯も悉皆抜けて、耳も遠くなって、大分耄碌していたらしい。老衰で死んだのである。  その話を大寺さんはAから聞いた。  ーータロオが死んだとき、とAは云った。お知らせしようかなんて、うちで話していたんです。そしたら、奥さんがお亡くなりになったと云うんで、吃驚しちゃいまして……  ーーうん。  大寺さんの細君はその二ヶ月ばかり前に突然死んだのである。 (「タロオ」)
 ここには「吃驚」の一語があるが、それは「大寺さん」のものではない。この短編で妻の死が持ち出されるのはこのときが最初で、そしてこれだけである。あと数行で、この小説は終わる。「……タロオをルック・サックに入れて持って来て呉れたTも、五、六年前に死んだっけ、と思った。そして、みんなみんないなくなった、と云う昔読んだ詩の一行を想い出したりした」。この幕切れは寂寞としてはいるが、哀しみと言うにはやはり妙に飄然としている。  「大寺さんもの」を通して、小沼丹は繰り返し繰り返し、幾つもの「死」を話題にする。それは疑いもなく作家自身が「身近な何でもない生活」の中で現実に出逢った「死」がもとになっている。要するに「大寺さんもの」とは、死をめぐる連作なのだと言ってもいいくらいに、そこでは死者たちの思い出が語られている。しかし、にもかかわらず、小沼の筆致はその点にかんしては、いや、とりわけそれに限って、只管に抑えられており、そしてその代わりに、彼の言う「何でもない生活」の周囲に、夥しい数の「吃驚」が配されているかのようなのだ。  だとしたら、これは、これもまた、一種の「お話」と言ってしまっていいのではあるまいか。小沼丹は「黒と白の猫」で変わったわけではなかった。彼の創意と技術は、むしろ以前よりも研ぎ澄まされていったのだ。小島信夫とは別の「方法」によって、だが底の底では極めてよく似た動機に突き動かされて、小沼は「大寺さん」というキャラクターを造り上げていったのではなかったか。その「動機」とは、受け入れ難いのに受け入れなくてはならない出来事を受け入れざるを得なかった、この自分を虚構化=小説化する、ということだった。  「大寺さんもの」の最終篇「ゴムの木」の終わりを引用して、本稿を閉じることにしたい。「黒と白の猫」が「黒と白の猫」のお話だったように、「タロオ」が「タロオ」のお話だったように、これは「ゴムの木」のお話である。
 いつだったか、大寺さんの娘の秋子が、ちっぽけな男の子を連れて大寺さんの家に遊びに来たとき、何かの弾みで想い出したのだろう、  ーーウエンズさんに頂いたゴムの木、どうしたかしら? まだ、あります?   と訊いた。  ーーあれだ。  と大寺さんが教えてやると、  ーーまあ、驚いた。あんなに大きくなったの……。  と眼を丸くした。大寺さんも何となくゴムの木を見ていたら、青い葉の傍に恨めしそうな眼があったから吃驚した。 (「ゴムの木」)
 最後の「吃驚」に、わたしは思わず吃驚した。この「眼」はいったい何なのか、まったく説明はない。まるで「村のエトランジェ」の頃に戻ったかのようではないか。しかしこれ以降、小沼丹の小説は、ますますエッセイと見分けがつかなくなってゆく。彼は一九九六年、七七歳で没した。「ゴムの木」が書かれたのと同じ一九八一年、小島信夫は大作『別れる理由』の連載を終え、『女流』の続編である『菅野満子の手紙』の連載を始め、『美濃』を刊行した。小島は二〇〇六年、最後の長編『残光』を発表し、それから間もなく亡くなった。九一歳だった。
(初出:三田文学)
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rakugoinfo · 5 years ago
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落語パート設けた朗読劇「寄席から始まる恋噺」16人が日替わり出演
#落語 #立川志らべ [yahoo.co.jp]脚本を上條大輔、演出を大森博、落語監修を立川志ら乃が担当する本作には、総勢16人の俳優・声優が日替わりで出演。10月31日公演には鈴木裕樹、健人、小澤雄太、鈴木裕斗、11月1日公演には高崎翔太、北村諒、小松準弥、大須賀純、2日公演には鷲尾修斗 ...
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otajo · 5 years ago
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北村諒・溝口琢矢ら俳優陣と神尾晋一郎・永塚拓馬ら声優陣16人共演の落語朗読劇「寄席から始まる 恋噺」10月31日より上演決定
http://dlvr.it/RFvTxp
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isya00k · 7 years ago
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涼風に鳴る幽かの怪―弐
 客間に誂えられた豪華な椅子は西洋の物なのだろうか。畳みの敷かれた六畳間の隣には本で見た事があるような『書斎』が広がっている。西洋机に、ふかふかとした布地を尻の位置へと宛がった椅子は何とも座り心地が良さそうだ。  招き入れられて、ふかふかとした長椅子へと腰掛けて待てと命じられたたまは首を捻る。西洋箪笥に手を駆けて、ティーカップへと静岡県産の日本茶を注いだ正治は我が物顔で椅子にふかぶかと腰掛け、たまへと一つ差し出して居る。 「あ、ど、どうも……」  着席したままで大げさに首を擡げたたまはその姿勢の侭、硬直する。正治は部屋の主へと声を掛ける素振りも見せない。ましてや、勝手に棚をあさり、高価な陶器で茶を入れてよこしたではないか。 (えええ……? 八月朔日さんってここのお抱えの方ではないのかしら……? てっきり軍人さんだもの――お抱えの用心棒かと思ったのだけれど、え、まさか、も、もしかして、彼が成金の息子さんだったりして、そうしたら私ったら、とんでもない無礼を働いたかもしれないわ!)  机の上の白磁を眺めながら袴を強く握りしめたたまに正治は頬を掻く。彼女の動きは『挙動不審』のぴったりと当てはまる行為そのものだ。うろうろと蠢く視線は西洋造りの屋敷をしっかりと捉え――不安に潤み始めている。 「八月朔日……さま」 「くく……っ」  涙が睫毛に引っ掛かってしまった、と。震えるたまがゆっくりと顔を上げる。誰も存在しなかった筈の書斎から幼い笑い声が聞こえたからだ。 「は」と小さく漏らしたたまに居てもたっても居られなかったのだろうか。椅子の背凭れ越しに吹きだす音とばんばんと椅子を蹴る音がする。 「狐塚」 「だ、だって……オレの事すっかり忘れて、恐縮しちゃっててさぁ……ふっ、ふふ――面白いなあ」  やれやれと肩を竦めた正治に「御無礼を」と慌てて立ち上がったたまが書斎机に向き直り頭を下げる。慌てた雰囲気に更に笑みを零したのか声の主は大きな椅子をぐるりと回転させて、「面白い!」と両の手を叩いて見せた。  西洋品の椅子は回るのかとたまが驚きに顔を上げる刹那、息を飲んだのは何も『見慣れぬ西洋品ばかりの空間』だからではない――椅子に腰かけていた少年は宵の月を思わせる鮮やかな髪をしていたからだ。 「西洋人……?」 「とんでもない。お嬢さん、『僕』は生まれも育ちも日本だよ」 「え?」  西洋人と恋に落ちた場合は血を分かつことがあると聞いた事がある――そういう『日系の方なのかしらん』とたまが小さく瞬けば、少年は可笑しそうにからからと笑って「珍しいかい」と丸い瞳を細めて見せた。  愛嬌のある顔立ちに緩く結んだ尻尾の様な髪が彼の華やかさを更に強めているのだろう。細められた眸もまた、鮮やかな月色だ。まるで、文学の中で語られる異国人の風貌にたまは頬を思わず赤らめた。 「――惚れない方がいいよ?」  冗句めかして、口元を緩める少年にたまの頬は更に赤らんでゆく。まるで薬缶のようだと頬を抑え俯いたたまの様子を見かねてか「狐塚」と叱咤の声が一つとんだ。 「なんだい? レディと遊ぶのだって嗜みの一つだと思うなぁ。ああ、それか――やきもち?」  なんてことを言う子供なのだろうか。  そう感じるのと同時に、正治ではなく彼がこの屋敷の主であり、たまの探し求めていた『道楽探偵』なのだと直感した。 「初めまして、たまちゃんだったかな? 『僕』は狐塚 緋桐。緋桐と呼んでくれると嬉しいな。  あんまり狐塚と呼ばれるのは――そうだな、好まなくて」  冗句めかして告げる少年に「え」とたまは小さく零す。あれほど親し気に呼び合っていたというのに、思えば正治は彼の事を「狐塚」と名字で呼び続けている。 「――……」  あまり仲が良くないのか。いや、それは屋敷での過ごし方ひとつで否定できる。高価な呈茶セットを我が物顔で使用しているのだ。しかも、無言で茶まで淹れている。  それならば、思い当たったのは緋桐が女性には浅薄であるという事柄だけだ。上流階級では妾の一人や二人存在するという。そんな両親を見て育ったのだとすれば、愛らしい少年のうちから女性に対して『妙に甘えた』なのは十分に理解できた。 「たまちゃん」  からからと笑い始める緋桐にはたまの考えることなどお見通しなのだろう。徐々に笑いは深まっていき――腹を抱えて嗤い始めた。  ――何も言っていないのに。  少女の胸中に浮かんだのはそれだけだった。見透かしたような態度も中々に癇に障るがそれ以上に、こうも笑われるとそれ程面白いことがあったのかと疑いたくもなる。何かおかしな仕草でもやっただろうか。  少し拗ねた雰囲気のたまは踵で毛足の長い絨毯をてしりと蹴ってティーカップへと視線を落とした。 「狐塚」と対照的に落ち着いていた正治が語調を強める。 「あまりからかってやるな。だから狐と言われるのだ」 「失礼だなあ。オレは狐はキツネでももっと崇高なお狐様だよ」  それは、彼が嘘吐きだとでもいうのだろうか。  化かされた気分になりながらたまは「狐みたいだわ」とぼやいた。金の髪に宝石の如き瞳色――それは寓話の中の狐を思わせた。悪い冗談でも笑って受け流せる関係性なのだろうか、それにしても正治の言葉は厳しい色を感じさせる。仲が悪いというわけではないのだろうが、良い訳でもないのかとたまは二人の関係性が理解できないと困ったよう首を傾げた。 「レディがお困りだよ」  椅子に深く腰掛け足をぶらりとさせた緋桐が正治に視線を向け冗談のように「どうにかしなよ」とけしかけている。 「……」 「冷たいなあ……。それで、たまちゃん。『僕』に何の御用かな? 幽霊でも出た?」  ――無視されている。  しかも、こちらの目的を『理解して』会話に織り交ぜてきた。 「え、なんで分かるんですか? まさか、聞いてた?」  扉は確かに閉まっていたのにと呟くたまに緋桐は曖昧に濁して笑い「話してたじゃないか」と付け加えた。  聞いていたのならば話は早い。眉間にし皺寄せあからさまな程に嫌悪感を示した正治とは対照的に瞳を煌めかせたたまは緋桐が『道楽で幽霊退治』をしてくれるのではと期待に胸躍らせる。費用の事は脳内から抜け落ちて、幽霊退治と言う面白おかしい事件への参入を進める様に「じゃあ」と唇を歓喜に震わせる。 「本当に祓っちゃてもいいのかな?」  子供の様な無垢な表情で緋桐は首を傾ぐ。  目を丸くしたのはたまも正治も同じことだった。 「狐塚、こいつは『幽霊退治』を依頼しに、」 「正治は黙って。オレはね、たまちゃんと話してるんだよ?  君はまじめだからオレの言うことが理解できないのかもしれないけれどさ――こういう時、オレは冗談なんか言わないじゃないか」  饒舌に正治を説き伏せる緋桐は、先ほどまでの甘えたの子供のような表情から一転し、苛立ちを見せる。鮮やかな金の色は細められ正治を捉えている。 「それで、たまちゃん? 『本当に祓っていいの』? だって、その幽霊ってさ――いやぁ、これは、まあ、いいかな。からかってるわけじゃあないよ。正治がどう言おうともね。オレはオレの考えで動くから」  意味ありげに呟く彼は「それで幽霊ってモノを君たちは信じているかい?」と頬杖をついたままに投げかけた。 「わ、私は信じて――」 「俺は信じていない」  身を乗り出したたまの隣でため息交じりに言った正治は詰まらないと小さく息を吐く。その対照的な反応に、緋桐は愉快だとくすくすと笑い整ったかんばせを『いじわる』に歪めた。 「正治、オレの存在も否定するみたいだね? 有名な怪談噺や河童などの妖怪の類でもいい。あるいは中国に存在する麒麟や神の類だってかまわない。目に見えないものを信仰することと、目に見えない存在を認識することに全く違いはないよ」  机の上でゆらりと揺れたティーカップの中身。その鮮やかな琥珀の色は甘ったるい香りを放っている。  せっかくの紅茶が覚めてしまったことにも構わずに、楽し気に目を細める緋桐は顔を背け、会話を拒絶するように背を向けた正治を眺めている。 「あの、緋桐さん」  その空気は重苦しい。僅かに声を震わせ、首を傾いだたまは緋桐と正治の間に割って入る様に立ち、椅子に深く腰掛けた少年の顔をまじまじと眺める。 「『オレの存在』って……?」  その言葉はまるで――まるで、自分が妖怪や幽霊の類だというようではないか。 「目敏い女の子は嫌いじゃないよ」 「じゃあ、やっぱり、緋桐さんはよ、妖怪? 河童?」  話の中に出てきたのは河童だけだった。  何処か意味ありげに深い笑みを湛えていた緋桐の肘がずるりとひじ掛けから落ちる。眉間に皺寄せた正治の表情は拍子抜けしたように緩み、深いため息に似た何物かを吐き出した。 「莫迦か」  え、と瞬くたまの声と同時に、椅子から滑り落ちる様に膝から崩れ落ち、クッションに頬を預けたまま愉快愉快と転げ笑う緋桐がばしばしと床を蹴る。  子供の様な仕草と大笑いに圧倒されながらもたまは訳が分からないと困った様に眉根を寄せた。 「え、え?」 「た、たまちゃんさァ、『僕の名前』を呼んでみて?」 「え、と、狐塚 緋桐さん?」  いまだに笑いを含めた緋桐の表情が僅かに緩む。彼の瞳から零れた金の光は笑顔の反動で滲んだ涙で輝いて見える。  名前を呼べと強請られた理由も分からぬままに彼の瞳をきれいだと見つめたたまを現実に引き戻したのは、この中で最も落ち着いてた正治の声だった。 「狐塚、お前は見知らぬ女に素性を言うのか」  責め立てるような声に、時勢はこうも落ち着いて安寧なる平和が横たわっているというのに、どうして怯えるのかとたまはを丸くする。やはり三十も近い青年将校が言う言葉なのだから、西洋人形のように整った外見の緋桐の素性は世間に知らしめてはならないことなのだろう。 「狐塚さん、大人の言うことは聞いた方がいいですよ」 「お、大人……?」 「そうです! 15も過ぎぬ小娘の私や狐塚さんじゃ世界の危険や子供を狙った悪党の話なんて御伽噺みたいなものですもん!」  ね、と念を押す様に緋桐へと告げるたまに彼の表情はみるみるうちに赤らみ――またも、笑みが弾けた。  次はクッションすらもばしばしと殴りつける時間だった。ひい、ひい、と声を漏らし、過呼吸を起こしたかのように大袈裟な息を続ける緋桐はたまの疑問や声も聞こえてはいない。 「わ、私、何かおかしなことを……?」  正治さん、と呼ぶ相手も落胆したように肩を落としている。何かまずいことを言ったのかと慌てたたまは二人の間で視線をうろつかせた。 「い、いやぁ……正治……お、お前、よ、よかったなぁ……」  ばしばしと机を叩く緋桐。何が一体こんなにも面白いのか。愉快愉快と笑い転げる少年の笑いのツボが可笑しいのか、それとも自分が奇天烈な事を言っているのかたまには皆目見当もつかないが――正治の落胆ぶりからみるに後者であるようにしか思えない。 「すまないが、驚かないで聞いてくれるか」 「え、ええ……」 「俺は23歳だ」  彼の表情を盗み見る様に視線をあちらこちらに揺れ動かして。こんなに真面目そうな青年が嘘を吐く訳ない、と頭の中では独白が続いている。笑い過ぎの呼吸困難でもはや動くこともできなくなった緋桐を見る位に、事実であることは確かなようで……。 「え?」 「そりゃあ、驚くでしょ。ひひっ……くっ……」  転げ回って腹痛を堪え切れないと言わんばかりの緋桐。  申し訳ないという様に頭を垂れた正治も報われない。寧ろ、年齢を大幅に間違えたたま自身も居心地の悪さに襲われる。 「……すまない、昔からこの様な出で立ちなんだ」 「いえ、いいのよ、いいのだけど……」  ――ああ、こんな空気になるなら彼に余計なことを言わなければ良かった。  たまは、出��ったばかりの道楽探偵に忠告を行ったことをこれ程までに悔いたことはない。  適当に、曖昧に、『学生時代のように』笑顔で凪いでいればそれでよかった筈なのに。 「たまちゃん、ごめんね。面白くって……」  くい、と袖を引く緋桐は帰らないでねと念押すようにこちらに近寄り見上げてくる。幼い子供のような顔立ちに、金の瞳がちらりと鮮やかで。思わず息を飲んだたまは曖昧に笑って彼へと大丈夫だと告げた。 「ついでだが、狐塚は―――」 「僕は、たまちゃんと同い年のかわいい男の子だからぁ」  甘えた様に言う彼に、苛立ちを抑えきれないと正治が立ち上がる。傍らに据え置いた日本刀を握りしめる彼を諫め乍らたまはちらりと『同い年であるはずの少年』を見つめた。 「しょうがないなあ。知りたがりさん」  改めて椅子へと座りなおした緋桐はやけに大人びた顔をしてたまと正治を見つめる。 「僕は今年で28になったよ」  よろしくね、と首を傾げ、持ち前の愛らしさを前面に出す笑顔。息を飲み、正治の腕を幾度も叩きながら彼と緋桐を見つめるたまは絶叫しかかった言葉を飲み込んで、「え」だとか「う」だとかを幾度も繰り返す事となった。 「んふふ」  詐欺師がいるとしたらきっと彼のような存在だ。  最近は巷でも詐欺や窃盗が横柄しているという。取り締まる軍警も西洋街ではあまり役に立っていない――と言う話も耳にする。こうして道楽で探偵をしているという彼は有能な詐欺師なのでは……?  脳裏に浮かんだ『ありえない』物語を組み立てるたまの表情に緋桐はくすくすと楽しげに笑った。 「まあ、実年齢がバレた以上、僕とか言ってる場合じゃないよね。  改めてオレは狐塚 緋桐。たまちゃんはキツネに化かされたって気分だよね? ま、それも正解っちゃ正解だから……可愛い男の子じゃなくてごめんね?」  僕と言う口調に、子供のように袖を引く仕草。そのすべてを計算ずくでやっていたというのだから有能な詐欺師だ。 まさしく『狐に化かされた』という言葉が似合う。  冗談は休み休みに、とぼやくたまに緋桐は「冗談じゃないさ」と正治を振り仰いだ。 「狐塚は今は嘘をついていないな」 「ええ……?」  狐に化かされたことが――正解? 「オレは普通の人間じゃあない。  妖狐のクオーター。妖怪の血も随分と薄れてはいるんだけどね、髪と瞳……それから外見にだって現れているだろ?」  どうだい、と微笑む彼は西洋の人形の様で。  ここまで美しい金はそうそうお目にはかかれないと彼は言った。鮮やかな金、お月様の様な色――それに魅せられるようにたまはじつと見返した。 「きれいだけれど」  奇天烈愉快な道楽探偵。一寸した設定を隠し味にした方が世界は楽しいとでも言うように、彼はころころと笑う。 「信じられないなら、一緒に過ごして信用してよ。  君がオレ達に持ってきた『依頼』だって、他の人間に言ったところで意味がない――それ所か、君はオレ達以外に依頼をすることが出来ない筈なんだ」 「それは、どういう……?」  饒舌に依頼をすることを進める緋桐にたまは首を傾ぐ。彼の言葉は余りに突拍子もなくて、あまりに理解不能で、あまりにも――納得してしまったからだ。 「試してみるかい?」  どうせ、だれにも相手にされない気がしてならない。  けれど、試してればいいと言われるような気がして、たまはゆっくりと緋桐の屋敷を後にした。  帝都の街は、様々な要素が混在している。西洋の雰囲気を多分に含んでいるのは、時代柄と言う事もあるのだろうが、たまは余り慣れないと背を伸ばす。  元から、女学校と家を往復するだけだった学生生活だ。こうして、街中を行くのはどうにも生きた心地がしない。 (……依頼をすれば、いいのよね?)  西洋街の中には紳士淑女が歩き回っている。先程の緋桐��洋装であったように、周囲にいるのは皆、西洋の衣服を身に纏った西洋人ばかりだ。和装でこうして歩き回るには余りに不似合な気がして、頬に朱が登る。 (あの言葉に乗らなければよかったわ……)  ブーツが石畳に音たてる。舞い上がる砂埃を払いながら進めば、緋桐の邸宅よりもよっぽど『探偵』らしい事務所看板を発見した。ノックを何度か、ゆっくりと繰り返してたまは小さく息を吐く。 「あの、すみません」  ゆっくりと扉を開くのを待てば、紳士然とした男は周囲を見回してから首を傾いだ。 「あれ? 今、確かにノックが……」  男性の視界に自分が入らないわけではない、なのに見えていないかのように彼は振る舞っていた。 「……え?」  たまが「あの」と小さく声を発するのも待たずに扉はぱたりと閉められる。これが相手にされないという事か――所詮は西洋街に住まう事も出来ない庶民だと言われた気がしてたまは唇をきゅ、と噛みしめた。 「ひどい話だよね、全く」 「……緋桐さん?」  どうして、と呟けば背後に立っていた緋桐は丸い金の瞳を細める。三日月が、その中で揺れている。 「『相手にされなかった』でしょ」  ゆっくりと、狐は嗤う。  まるで、見えていないかのような――そんな。  手招かれ、ようやく陽が沈み始め街灯の明かりが足元を照らし始めた事に気づいた。 「オレはそれなりに高いよ。でも、君がオレ達と一緒にこの事件を解決するというならタダにしてあげてもいい」  差し伸ばされた掌の白さに目が眩む。  関わらない方がいいと正治が言っていた――きっと、化かされているんだわ、私。  そう思えどゆっくりと彼へと近づく自分にたまは気付いた。かつ、と小石を蹴り飛ばせど現実世界である証左を得られるだけで。どうしてか、自分を認識してくれるのは彼だけのように思えてしまった。 「でも、緋桐さんは祈祷師でも陰陽師でもないでしょう?  ……わたしのことをだましているわけでは、」 「そんなことはないよ。元気で明るくて、だれ���りも一生懸命な『たまちゃん』」  柔らかに微笑んだ彼の指先は夏の終わりだというのに、冷たかった。
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noraspaceforlife-blog · 7 years ago
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美案寄席 @森本能舞台 柳家三三師匠『嶋鵆沖白浪』 さて、第2回目。 前回始まった、わけあり美男美女恋物語は進展せず、代わりに登場人物が増えた。15歳の巾着切りと生ぐさ坊主が、なんやかやの後に三宅島に島流し。さぁ、お次はどうなる〜🤤 今さらだけど、こんな続きものの公演みたことなかったな。 #柳家三三 #落語 #人情噺 #美案寄席 #森本能舞台 #嶋鵆沖白浪 #えびフライ #たこやき #あまおう #千鳥 #青海波
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rakugoinfo · 5 years ago
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落語パート設けた朗読劇「寄席から始まる恋噺」16人が日替わり出演
#落語 #立川志らべ [yahoo.co.jp]脚本を��條大輔、演出を大森博、落語監修を立川志ら乃が担当する本作には、総勢16人の俳優・声優が日替わりで出演。10月31日公演には鈴木裕樹、健人、小澤雄太、鈴木裕斗、11月1日公演には高崎翔太、北村諒、小松準弥、大須賀純、2日公演には鷲尾修斗 ...
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rakugoinfo · 5 years ago
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rakugoinfo · 5 years ago
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