#吹き抜け間取り
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ラガーマンの性処刑
これをコーチにケツに仕込まれたままラグビーするところを想像してる。2対1の練習。グランドでラグビーボールを抱えディフェンス2人を交わして全速力で走り抜けようとする俺。しかし、2人に捕まり激しいタックルを受けて吹き飛ばされる。うおっ!グランドにたたきつけられる衝撃に腹圧が高まり、俺のケツの中でアナルボールがパンパンに張った前立腺をギュッ!と圧迫する。あぁっ!ダメだ!
白のラグビーソックスに黒のスパイクを履いた太い足をバタつかせてこらえようとする。つま先から冷たい快感が股間に向けて湧き上がる。あぁっ!手遅れだ!漏れる!!
キツいもっこりラグパンの前を両手で握りしめ、射精を止めようとするが無駄な抵抗だった。ドピュッ!ドピュッ!ドピュッ!ドピュッ!ドピュッ!ドピュッ!ドピュッ!ドピュッ!
俺は白ラグビーソックスを履いたままキツいピチピチラグパンの中にドロドロの熱い精液を射精してしまう。
グランドに倒れイク俺に近づくコーチ。ラグパンのケツのところからはみ出たアナルボールの輪の取っ手にコーチは手を伸ばす。
や、やめてください!それだけは!コーチは俺のそんな訴えを無視し、取っ手を���んで一気に引き抜く。ラグビーを冒涜した罰だ。グボグボグボグボ!!ラグパンから異様な物体が引き抜かれる。ヒィィィッ!!白目をむきケツの得体のしれない快感に泣き叫ぶ。ケツイキだ。キ、キモチイイ!!あぁっ!鍛えた太短い体をガクガク痙攣させケツがイッてしまう、脳みそもイッてしまう。
マン汁に塗れたアナルボールをコーチが蹴り飛ばし、ゴールポストのクロスバーを越えていくのが目に入る。チンコとケツとラグビー脳がイッてしまい、俺の意識は遠のいていった。生意気な態度をするからだ、合宿所に連れて行け、仕込んで廻すぞ。そんな声が聞こえた。後輩たちに抱え上げられる。や、やめてください…。俺の声は届かなかった。
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禁欲の後の一服はきくねぇー
乳首が良い感じ
だけど
21歳のちょいポッちゃり君
何気に乳首の舐め回し旨し!
固マラが俺のキツマンには丁度よく
短時間でポチャくん俺の中に種付けちゃった
すんげー出てるのがわかった
硬さが若いよね!!
1日3回は抜いてるらしいが
今日は時間の都合で1発だけ
添い寝してあげて帰っていきました
掲示板で乳首感じるから攻めて欲しいとのこと
あやしいとおもってアポ取ったら連絡きた!
顔からしてキ◯てるし
乳首がコリコリ
短時間だけども濃ゆいの発射して
その後チンコこねくり回して、潮吹きしてあげました
めちゃ痙攣して喜んでた(笑)
開けはなんか楽しかったなー。
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秋旅2024 - リゾートビューふるさと + 富山市内旅
秋は旅に限るよね、どこへ行こうか?そうだ富山いこう!
はじめに
どこかへ旅行したい気分、でもちゃんと考えて計画するのはめんどくさい気分。そういう時は一度行ったことのある場所の再訪が楽ちん。ということで今回は、2年ぶりに2回目の「リゾートビューふるさと」へ乗りに長野へ、そのまま終点の南小谷まで進んだ後、大糸線 糸魚川、えちごトキめき鉄道線・あいの風とやま鉄道線を乗り継ぎ富山まで行ってみました。いつも素敵なお写真が並ぶケイスケさんのブログでちょうど紹介されていた富山駅周辺にも惹かれたため。
リゾートビューふるさと 信越線・篠ノ井線・大糸線経由 長野→南小谷
リゾートビューふるさとの紹介は前回訪問時に記載しているので詳細は割愛。簡単にいうと土日を中心に運行されるリゾート快速で、長野から姨捨、松本、穂高を経て、緑(JR東日本)と青(JR西日本)の境界駅である南小谷に至るというもの。途中の姨捨と穂高では30分ほど停車し途中下車が楽しめるというもの。前回はまだ某疫病が終息しきっていないこともあり、神社参拝時の案内や車内での民謡演奏等、一部サービスは割愛されていましたが、今回はそれらも再開されていた点��大きな違いかな(あとは、指定券が300円くらい��上がりしたのと。。。)。あまり変わり映えしませんが、写真も何枚か。
1枚目、朝一は立ち蕎麦で朝ごはん。長野駅には立ち蕎麦屋が何軒かありますが、今回はそのうち改札外 東口の榑木川にて、山菜キノコ蕎麦をいただきました。ひんやりした朝に温かい蕎麦は染みる。
2枚目、穂高駅にリゾートビューふるさとに使用されるHB-E300のお顔。よい面構えですね。
3枚目、車窓から楽しめる仁科三湖。訪れた日はお天気が微妙で。。。アルプスの山々は全然見えませんでしたが、仁科三湖(青木湖・中綱湖・木崎湖)は綺麗にみえました、山々の紅葉と合わせて一枚(これが何湖だったかは覚えていません。。。)。
4枚目、終点 南小谷駅周辺にて乗り換え待ち30分で散策。事前情報として認識はしていましたが、川の様子を見に行く以外は特にすることがないですねぇ、天気が良ければ遠くの山々の景色も楽しめるのかもしれませんが、あいにくの曇り空。
大糸線 南小谷→糸魚川
大糸線はこの先 JR西日本管轄の非電化エリア。輸送密度も小さく1両のディーゼル列車とローカル線の香り。列車は姫川に沿って右へ左へゆらゆらと、眠たくなりますね。
1枚目、車窓から1枚。ガラスの反射と揺れに悩まされながらなんとか撮れたもの。ずっと川沿いを走るため大体景色はこんな感じ。
2枚目、終点 糸魚川にて1時間ほどの待ち時間。隣接するヒスイ王国館内のカフェでおやつタイム、わらび餅セット。上品なわらび餅とたっぷりの温かいお茶でほっと一息。ずっと座って列車にのっていただけでも疲れるものですね。
3枚目、4枚目、ここまで運んでくれた列車と駅舎からの夕焼け。近年開業した新幹線の駅舎って大体同じような構造(既存の地上駅の横に背の高い新幹線駅舎を作って橋上駅舎で無理やりつなぐ形)に見え、この光景もやや見慣れたものに。
えちごトキめき鉄道 日本海ひすいライン・あいの風とやま鉄道線 糸魚川→泊→富山
ここから日本海沿いを進み富山へ。えちごトキめき鉄道とあいの風とやま鉄道の境界 市振の2つ先 泊にてえちごトキめき鉄道の車両からあいの風とやま鉄道の車両へ乗り換え。同一ホーム上に縦列駐車する2つ列車間の乗り換えという面白い体験。よく考えるとここからがこの旅の在来線で初の電車でしたね(リゾートビューふるさとはハイブリット気動車、大糸線・日本海ひすいラインはどちらも気動車)。JR西日本の近郊形車両ベースの車両は内装や音含め、何だか東海道本線の米原から先、琵琶湖線を走っている気分。
日中であれば日本海の景色を楽しめるのかもしれませんが、時はすでに夜。真っ暗で何も見えませんでしたので、糸魚川駅での待ち時間に撮影したえちごトキめき鉄道の観光急行を。何やら撮り鉄っぽい方が何名かいらっしゃるなと思っていたら、こちらがお目当てのようでした。貴重な国鉄形の気動車は重厚感が違いますね。
富山城ライトアップ
富山駅には夜の到着。そのままホテルに直行したい気分でもあったのですが、富山城がライトアップしているとのことで重い腰をあげ。歩いても行ける距離ですが折角ならと市電に乗車。富山市内は市電が充実、かつ高頻度で運転されていて便利でした。富山駅の乗り場案内もわかりやすく好印象。
訪れたときは世界糖尿病デーということでブルーにライトアップされていました。明りにいざなわれ城内へ、ゲームだったらこの後 ボスが出現しそうですね。。。
富岩運河環水公園
2日目は運河沿いに設けられた富山市民の憩いの公園。紅葉はじめのシーズンということもあり、紅葉と青空、それらが水面に映り込む景色が素敵でした(この日は午後から雨予報でしたが朝はご覧の通りの快晴でした)。
ここには世界一美しいといわれている(?)スターバックスもあり、一応 こちらもからめて写真におさめてみました。アクセントにはちょうどよいかな、ちなみに朝から大混雑でした。
TOYAMAキラリ・富山市ガラス美術館
駅から市電で10分くらい、富山市ガラス美術館と図書館が入るTOYAMAキラリへ。隈研吾氏が設計した建物は、斜めに切り開かれた吹き抜け構造と、内装に木材がふんだんに使用された特徴的て面白い建物でした。広角で切り取るのが楽しすぎた。とはいえ幅広い年層の方がいらっしゃる公共施設ということで邪魔にならないように撮影はほどほどに、したつもり。
ガラス美術館は、エミール・ガレの展覧会が開催中。折角なのでガレの作品も鑑賞してきました(こちらの作品は写真撮影・SNS投稿OKのもの)。学がないので小難しいことはわかりませんが、シンプルに綺麗だなという感想と、目に見えないものを作るITエンジニアとしては、目に見えるもの・手にできるものは長い時を経てもこうやって残されていくということにちょっと羨ましさが覚えました(戯言)。
終わりに
ガラス美術館訪問後は軽くお昼を済ませた後、早々に新幹線にて帰京しました。お天気も崩れてきていたので。
よって、かなりコストパフォーマンスの良くない旅をしてしまった気がしますが、たまにはこういうのもよいよね。1ヶ月後くらいの朝、旅路をゆっくり振り返りながらこのエントリをまとめてみた。
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何年か前私はここでインスタントオナニーの話をした。名前の通り手っ取り早い自慰行為なんだけど、今はその逆でタイパより丁寧さに最近力を入れている。手っ取り早くしすぎたせいで、慣れもあったし、なんせ、行為自体早く終わらせなきゃ悪、みたいな思いが勝手に付いてきていた。セックスレスにも繋がるけど、慣れと手っ取り早さを行為に当て嵌めてはいけない。
最近読み始めた本がある。アンソロジー本で『私の身体を生きる』各著者の性や身体に関することがエッセイとして書かれている。私の知らない部分を見入っては圧巻というか関心というか。20代後半になって性に関することで悩んだり通院することになったり三大欲求であると共に切るに切り離せないものだと思っているので、これを機に振り返ってみようと思う。
私の初体験は知らない男だった。知らないというのは素性をそこまで知らずインターネットで知り合った男だった。私は16、向こうは32。家の縛りや慣習に辟易として早く捨ててしまいたいと思っていた。初めて行ったラブホテルは部屋になぜか自転車が置いてあったので今でも印象に残っている。わからないなりに咥えたり喘いでみたりしたけど挿入時は痛みがあった。出血はしなかったことに安心した。その後、大学進学のための上京で欲が爆発した。行為が好きだった、裏にはいつと贖罪があった。好きにさせてしまった、と思えば身体を差し出して許しを乞うてみたり、可哀想だから、と頭ひとつ出て相手を見下している部分もあった。そんな私を知った母親から「私は純潔で父に捧げた」と言われた時は取り戻せない後悔より、だから?と見下していた。
コロナ禍に学生に戻った時なんてTinder無双をした。チンソムなんてしょうもない事もしていた。
欲だから浮き沈みもあって、修論書いていた時は1年間性行為と無縁だった。っていいように書いてみたものの、無双の中で出会った男に無理矢理犯されて痛みと共に下物の色がおかしくなってその時初めて婦人科に行った。M字開脚に放心になりながらも、異形成と知りコルポスコピーも受けた。癌になるかならないかのグレーゾーン判定を受けた時は人生呆気ないかも、と思った。結局なんやかんやで生き延びているし、最近の定期検診も大丈夫だった���で適度に生き抜いていきたい。
再社会人になってからも少し遊んでいたが、ピルを飲み始めたら体調が悪くなった。常に気持ちが悪く、欲もどうでもよくなった。丁度その頃付き合い始めた恋人と燃えあがるような想いと行為だったのに、ピルと具合の悪さが続いて花火のように消化してしまった。ちょっとした興味本位もあったのに、なんだかなぁ。
夜になると欲を消化しないと眠れない日々が続いた。冒頭のようにしていたら、上手く達せられなくて、脚ピンの良くない体位でどうにか、を繰り返した。パブロフの犬。
夫婦間のレスの投稿をXかnoteかはてなで読んだ。行為が嬉しさだと気付いたような文を読んだ時は、幸せの先の嬉しさか、嬉しさゆえの幸せか鶏卵になった。
飲み会や日常で聞く下ネタに嫌悪を抱いている。どうでもええわ。が核心。勝手に私の知らないところで勝手にどうにかしてください。奥ゆかしさこそみたいなものもある気がする。(知らんがな)
29にして常日頃将来を見つめ直し思い悩んでいる。性もそう。このままじゃと思って伝えたけど、家族になり過ぎる前��妊娠出産を得ないと安寧に縋ってしまうかもしれないと自分自身で思う。この脅迫概念に近しいものは、時期やイベントが過ぎれば呆気なかったなと思うかもしれない。わからないが故に時間と共に杞憂して焦っている。女故の性に囚われてしまっている。
消費期限と揶揄されることがあり、焦るにせよみないにせよ人生80年、100年ある中でなんたる微々たるものよ。
私の性は自分のものでいたいけど、世間的にといい家族といいレールに敷かれる上でぞんざいに扱われている気がする。
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みずいろの雨 八神純子
作詞:三浦徳子 作曲:八神純子 編曲:大村雅朗
八神のシングルでは最大のヒット曲「みずいろの雨」。
シングルセールスは60万枚を記録。
抜群の歌唱力に、世界中のJ-popファンの誰もが悶絶。
(間違いない)
八神は原宿の歩道橋を歩いている時に、この楽曲の着想を得てメロディを先に書き上げ、数人の作詞家に作詞を依頼していましたが、最終的に新人作詞家・三浦徳子の詞が採用されました。
三浦は日本人の好きな色の上位が水色ということで、実際に曲を聴く前からタイトルは「みずいろの雨」と決めていたそうです。
歌詞中に出てくる「ああ くずれてしまえ」というフレーズは八神純子が気の強い女性だと知っていた三浦は、そのイメージから書いたという。
(気が強そうなのはなんとなくわかる)
編曲は、後に大ヒット曲を連発するアレンジャーになったばかりの大村雅朗が担当、三浦徳子と同じく本作が出世作となりました。
大村は、ネム音楽院に第1期生として入学し、卒業後はヤマハ音楽振興会に所属。
この曲はメロディや詞の良さも然ることながら、大編成向けに編曲されたような壮大なアレンジが素晴らしい。
ラテン調の16ビートのリズムに、ファンク風味なギターの精密なカッティング、控えめながら重厚なブラスサウンドに乗せて流れるストリングスの計算され尽くしたような美しいオブリガートは、さながら上質なサウンド・トラックのよう。
それもそのはず、大村はヤマハ音楽振興会時代、大学や高校のオーケストラや吹奏楽団の指導の中、「日本の音楽は遅れている」とよく言っていたようで、「グリーンカードを取得して映画音楽をやりたい」と数ヶ月間アメリカ・ロサンゼルスへ。
1978年に上京し、船山基紀などのヤマハ時代の先輩や友人に音楽関連の仕事を紹介してもらい本格的にプロの編曲家としての活動を開始し、すぐに八神純子「みずいろの雨」の編曲で一躍注目を浴び、その後も稀代のヒットメーカーとして活躍。
1983年、松田聖子「SWEET MEMORIES」(作曲・編曲)が日本レコード大賞で編曲賞を受賞。
(松田聖子めっちゃ嫌いなんですけど。笑)
知ってる(笑)。
曲に対する徹底した仕事ぶりから数多くのアーティストやスタジオミュージシャン、レコーディング・エンジニアから信頼を得ていた彼ですが、長年の夢であった映画音楽コンポージングの夢が叶わぬまま、46歳という若さでこの世を去りました。
この曲の元ネタはニール・セダカの「Hot & Sultry Nights」といわれていますが、最初のフレーズとピアノのバッキングが多少似ているだけで、コード進行もメロディーも全く別物で個人的には明らかに違うと感じています。
これがまずいというなら、現代のポップスはほとんどアウトでしょう。
(「パープル・タウン」は確かにアレだけど。笑)
しかし、この曲やっぱり編曲が素晴らしすぎる。
そして、イントロがNeil Richardsonの「Prestige Production」っぽい。
(どんだけ音楽マニアやねん、でも確かに!笑)
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冬の給湯器トラブルで多いのが、『凍結』。 お湯が出なくなるのはもちろん、給湯器本体が故障してしまう可能性もあります。特に凍結トラブルが発生しやすいのは、夜から朝にかけての時間帯です。 凍結させないためには、さまざまな工夫を取り入れるのがおすすめですよ。 今日からすぐに実践できる簡単凍結予防法を、給湯器メーカーの株式会社ノーリツ(以下、ノーリツ)のウェブサイトより紹介します。 お風呂のお湯は『残す』のがおすすめ ノーリツが冬の凍結予防対策としておすすめしているのは、��風呂から上がった後『浴槽の水を残しておく』方法です。 冬季、特に冷え込んだときに追いだき機能付の給湯機器の場合、 給湯機器本体と追いだき配管の凍結を予防するために、機器に内蔵している循環ポンプが作動します。 そのとき浴槽が空の場合に音が出る場合があります。 浴槽の循環アダプターから約5cm以上、水またはお湯を残しておくと作動音が小さくなります。 ノーリツ ーより引用 追いだき機能とは、お風呂のお湯を循環させて温めてくれるもの。その仕組みは、凍結予防にも役立てられています。 外気温が下がった時には、お湯を循環させるためのポンプが自動で運転します。 動いている水は静止状態よりも凍結しにくいため、追いだき配管内のトラブルを予防できますよ。 自動ポンプ運転をするのに、特別な設定は必要ありません。ただし残り湯が十分にないと作動しないので、冬場はあえて残しておくのがおすすめです。 特に寒い日はほかの対策方法も組み合わせて 給湯器が自動で凍結予防対策をしてくれるのは、非常に便利ですよね。 しかし、気象条件や給湯器の設置環境によっては、自動ポンプ運転だけで十分な対策ができない可能性もあります。 外気温が著しく低下する日や冷たい風が吹いている日は、以下の方法も組み合わせましょう。 ・給湯器リモコンの電源をオフにしたうえで、お湯用蛇口から少量の水を流し続ける。 ・水抜き作業を行う。 お湯用蛇口から水を流し続ける場合、自宅内のどこでもかまわないので、1か所選択してください。 浴槽に栓をして水をためておけば、入浴のタイミングでお湯張りに使用できるので、無駄になりません。 水抜き作業は、給湯器内の水を空っぽにするための作業です。どれだけ気温が下がっても、内部に水がなければ凍結しません。 水抜き作業に慣れていない場合は、給湯器の取扱説明書を確認し、正しい方法で実践してください。 水道管の凍結には注意していても、「給湯器は特に意識していなかった…」という人も多いのではないでしょうか。 いざという時のため、予防対策について知っておくと安心できるでしょう。
寒い時期は浴槽にお湯を残して! 理由に「驚き」「そんなメリットが…」 – grape [グレイプ]
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「あぁ…イク…イクイクイク……!」
種が潤滑剤になって、一段奥に入る。奥でヒクつくのがたまらなく感じる。擦りこむようにねじ込み、味わい尽くしてくださる。嬉しい。軽くキスをすると、ズロロっと引き抜く。ポッカリ開いたそこはまだ疼いている。
一戦が終わると静かになる。深夜何時頃だろう。時間を確認するために、ロッカールームへ行く。4時だ。さすがに皆寝ているか。一旦汗を流そうと、ロッカーからタオルを取り、シャワーを浴びにいく。もちろん種マンはそのままにしておく。
ロッカーに戻り、タオルをなおす。ふとスマホを見ると、メッセージの到着を示すランプが点滅している。
「今から行く。5時頃に着く。」
店に来る前に連絡を入れておいた雄から返信が来ていた。ヨシッ!なかなか予定が合わなかったが、やっと会える。かなり竿がデカいらしく、期待に胸が高鳴る。
とてつもなく長い時間が経った気がする。新しいお客さんが扉を開けた音だ。来た!その雄がロッカールームにやってくる。軽く会釈をすると、ロッカーに荷物を入れ、俺の目の前で、さっさと服を脱ぐ。デカい!太い!事前に聞いていたよりもスゲェ!思わず唾を飲み込む。
「やるか」
暗闇に移動してすぐに跪き、先端からゆっくり頬張る。唇をまとわりつかせ、舌を使い、首をゆっくり上下させる。半分も銜えることができないが、あまりの雄感に、唾が勝手に溢れ出してくる。
マジでうめぇ…
すると、その雄は頭を撫で、耳を刺激してきて、腰をゆっくり前後に動かし始める。あぁ…犯してくださっている…たまんねぇ…ねっとり味わいながらご奉仕を続ける。
「あぁ…たまんねぇ…」
感じてくださるのは、この上ない喜びだ。さっきより一際大きくなってくる。スゲェ…
「そろそろケツ貸せ」
言われるがまま、口を放し、仰向けに寝転がると、両足を持ち上げ、開ききったそこを見せつける。
それを見た雄は、亀頭で穴をマッサージしてくる。あぁ…ナマの感触がたまらねぇ…早く欲しくてヒクついてしまう。だが、なかなか挿れてくださらない。あぁ…気が狂いそうだ…
「欲しい…ッス」
その言葉を合図に、ゆっくり亀頭を嵌め始める。あぁ…段々と押し拡げられてゆく。どこまで拡げられるんや…デケェ…あぁ………………あっ!ツルんと亀頭が全部入り、マンコが亀頭の段差を…包み…こんだ…気持ちいい…
「こっからだぜ」
うぉぉ…太い竿が入って…く…る…あぁぁぁぁ…スゲェ…たまんねぇ…気持ち…いい…あぁ…奥に入ってくる…あぁ…デッケェ…
「まだ入りきってないぜ」
雄は少しずつ腰を動かし始める。前後にゆっくりと、そして段々速く、奥を拡げるように突いてくださる。ガツンガツンと突かれるたびに、ヌチャヌチャと種とローションの音が響き渡る。あぁ…やべぇ…気持ち良過ぎて涎が垂れてきた…たまんねぇ…………そう思って力が抜けた瞬間、生デカマラが一段奥に、ズボっと侵入してきた。
「あっ!気持ちいい……………!」
雄からその声が洩れて興奮が伝わってくる。さっきよりも腰振りがガツガツと激しくなってくる。あぁ…嬉しい…たまらなく幸せだ…そこが気持ちよくて仕方がない。
「あぁ…やべ…種マン気持ちいい…やべやべやべ…あぁ…イクイク…イクイクイクイクイク…………!」
ズドン、ズドン、と奥に打ち付けてくださる。ズルっと奥に突き刺さり、デカい亀頭の形が中でわかる。やべぇ…エロっ………
「どうしたんこれ…?」
雄に腹を触られて、そこが濡れていることに気付く。いつの間にか、俺の先からも、種だかなんだかわからない液体が吹き出していた。雄は、中でまだビクビクさせながら、覆い被さってくる。デカい竿で満たされ、雄と種の匂いに包まれながら、俺はまたイッたようだ…やべ…
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小休止7
少しづつの作業 クルマの仕事が落ち着いて、家での庭仕事や片付け、掃除などができるようになってきました😅 で、たまに別のとこで溶接が必要になるものが出ると自分の工場でやることもあります。これは地面に刺して使う灰皿ですが時間が経つと底が腐れて固定できなくなるので、大きめの平ワッシャーをくっつけて応急処置をしておきます。 半自動溶接機でいろいろ調整しながらやってますが、なかなかうまくいきません😫 ワイヤーを送るところを何度も調整してますが、出たり出なかったり💦 くっつける対象のもののアースもしっかり取ってるつもりなんですが… 水が抜けるように少し隙間を作っておいて、錆止めスプレーを吹いておきます。ここは底のほうなので必ずしも同色で仕上げる必要はありません😅 次は穴のあいてしまった芝刈り機のマフラーの補修です。ウチにはボンデ板とかはないので適当な厚みのものを探して貼り付けてます😅 どうにかやっ…
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26歳ニワトリを抱えて なにがだけど
先日わたしは26歳になった。去年は日付を跨ぐ頃にシャワーを浴び��入念に耳の後ろを泡立てていると25歳を迎えた記憶があるが、一年というのはなんと早いものだ。今年は前期授業の最終日で鮮やかに寝坊し、タクシー出勤をした(寝坊したわたくし 野良タクシー )。前期が終わるということで、次に行くのは9月。当分大学には出向かないということで、普段会わないひとたちにも挨拶をしようと各部署各学科を巡り、歩き挨拶してまわったがほとんど結局誰とも会えず。唯一ちゃんと会って話せたのは成澤さん、農園の管理人である。「ひさしぶりだね〜」 と成澤さん。最近の近況報告から生活のなかの自家発電の話になり、わたしはセルフカットと最近のセルフお洗濯の話をした。成澤さんは家の畑および田んぼと山羊&ニワトリと、大学の畑を整備するNOW ON 二毛作をしているのだが、その話を聞き、あとは最近始めたカヤックについて教えてもらった。十分な装備で行わないカヤックは"命懸けのレジャー"だと言うことで、(レジャーが命懸けなの良すぎるだろ)と思いながらお話しした。せっかく農園まで上がったので、誕生日にニワトリを抱えるのはオツかもしれん。と思い農園のニワトリ(家畜ゆえに名前がない)を抱きかかえ、成澤さんに写真をとっていただいた。この日はニワトリの機嫌が悪く抱えてもすぐに羽をばたつかせ降りてしまうので成澤さんに、おとなしくなってもらう方法がありますかと聴くと「それはね、ラグビーボールみたいにして脇に抱えてやったらいいよ〜」 と言いながら、ニワトリをトライするかの如く脇で挟み込み、加えて顔を掴み、「暗くしてやるとね〜、すぐ寝るんだよ〜」 といういつものクレイジーさを見せてくれた。「成澤さん、今寝かせてくれなくてもいいですよ。」というと、そう〜?といいながら降ろし、わたしも同じように抱え、ほんとにおとなしくなって笑った。成澤さんは写真を撮るときシャッターを切りながら(いいね〜)とおっしゃっていた。農園から降りるときに実のつきたてのししとうたくさんと、ニワトリが一日に一個しか産まない卵をもらった。うれしい。
お昼すぎまでだった授業はその後に卒制の相談を2件ほど受け16時前に。そこから成澤さんと話し込んだので帰宅したのは19時であったが、夜になるとゆかりさんから家に行っていいですかとのこと。誕生日だからかなケーキかもなと思い、「でもフォーク足りないかも!」と��話口にて伝えると、『桐島部活辞めるってよ』 の名シーン 「ごめんね、なにがだけど」 頭の中でがリフレインする。だれもケーキなんて言ってないのにフォークがないかもと言うわたし……、 「なにがだけど、ね笑」と補足した。
21時半頃にカイくんとゆかりさんがうちにくる。夜ごはんのおすそ分けに豚キムチまで持ってきてくれ("まで"ってなにがだけどね……) 「タイヘイはあっちで待っててと一旦部屋を出される。ふたりが何かを準備している間にスピーカーにつながっている自分のiPhoneでスティービーワンダーの『Happy Birthday』を流した(いえ、さっぱり、なにがなんだけどね)。しばらくすると部屋に呼び戻され、わたしは健気に"何か"を取り分けるであろうお皿を両手に持って部屋に戻ると、なんとそこには小さなとらやの包みに入ったプレゼントとミニケーキが3ピースあり、ケーキには炎色反応のギミックがすこし特別なロウソクが刺さっていた(ほんとにありがとう)。ケーキを前にして雑談をし、いい加減にして、ありがとう〜とロウソクを吹き消し。拍手してもらった。プレゼントは何かまったく検討がつかなかったのでクイズ形式に。箱の中身はなんだろな的な要領でここにあるのはなんだろう。目を瞑って開封を行ったが、まったく検討がつかず答えには到底辿り着けなかった。プレゼントはキャンプ用のガスコンロであった(最高すぎ)。とてもうれしい気持ちに包まれ誕生日プチパーティーまで開いてもらい。大満足であったが、最後にもう一歩誕生日の権限を振りかざし、3人で写真を撮ろうと提案した。試し撮りでふたりの写真を撮って画角を調整してから、セルフタイマーで10連写の設定で撮ると、1枚ごとのインターバルが半秒ほどあったおかけで、1枚しっかり決め込むよりもとても力の抜けたいい表情のわたしたちが撮れた。これがなによりの誕生日プレゼントだわね……。メッセージやSNSで祝ってくれた人たちもありがとう。26歳も鋭意……。
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Independently blue
感受性が豊かだとかいつも考えすぎだよの一言で自分のすべてを見透かしたかのようにわたしのことをとくべつ綺麗に表現してほしくなかった。というか、絶望や不安感や絶えない悲しみに美しさなんて微塵たりと存在しないと思っているのに、それを爽やかな笑顔を浮かべながら素敵だと言われてしまうと、わたしも捻くれた人間なのでより一層自分に対して惨めな想いばかりが募ってしまう。こんな調子だからいつになっても満たされないのだ。ずっと。自分で自分を縛り付けているような感覚に頭が痛くなる。何一つとして誇れるものを持ち合わせていないことに。家族や友人はたいせつだけれど彼らだってやっぱり一番大切なのは自分自身で、そういった意味では彼らもある種の寂しさを抱えているのかもしれないけど、それでも、と、ぐるぐる考えれば考えるほど自分だけが異様に変わっているように思えてきて耐えきれず泣いてしまう。
無題
世界はドラマによってうごかされていて、そのドラマによってわたしたちはうごかされている。と、高校演劇大会の審査員の演出家の方が言っていた。
ドラマの定義というのは最初に保たれていたバランスが何かをきっかけに崩壊して、そしてまたあたらしいバランスが構築される、というその繰り返しのことらしい。ここで大事なのはバランスが崩れたときに自分自身がいちばん衝撃を受けるであろう強くて鋭い一瞬のエネルギーの動きをしっかりと捉えて明確にするということ。そうすることではじめてハッ、となる瞬間がうまれる。ここでいうハッというのは新しい気付きのことで、これは今までは流れに流されていたものが急に堰き止めらたときに止むを得ず立ち止まり、改めて周りを観察し分析することで自分自身の置かれている立場を客観視できる、ということだと思う。バランスが崩れるということは何かが劇的に変わることを表していて、人間はそれに適応することに大体は切磋琢磨して多くの場合くるしくなったり悲しくなったりとネガティブな感情に追い込まれてしまうと思う。けれど演劇において、また人生においても同じことが言えるけれど、そこでは自らの感情に思うがまま身を委ねるのではなくてロジカルに思考をすることが大事になってくる。というのも、大きな衝動は複数の感情をより複雑に絡ませてしまい、そうするとまた今度はそれを解くことに必死になって小さなパニックが起きてしまうから。そうしてそのように自らを疲れさせないために情報量を極限まで少なくすると、はじめて人間はそこで現在進行形で起きている意外性というものに気がつく。そして大概この意外性、つまり思いがけない驚きや予想外の仕掛けというものは自分だけでなく他者にも影響を及ぼし、それがその審査員のいうハッ、という気付きに繋がるのかもしれない。
同情の有無にかかわらず人間への関心を失ったら演劇など出来ない、と審査員の方々が話すのを聞きながら、人生と演劇って似ているなあと改めて思った。自然であることと自然でないことはまったくもって違うけれど、実は紙一重なのかもしれない。
辛いことはたしかに尽きないけれど、そこでその辛い気持ちから自己防衛をするために自分自身を正当化し誰かを傷つけることは全くもってちがうし、それでは自分のかなしみはより加速する一方で、一向に幸せにはなれない。自信を持つ方法だとか辛い気持ちから脱却する方法だとかそういうことをつらつらと語る動画をたくさん見たら、元気が出た。今までにないほど散々汚い言葉を投げかけられて、ついこの間までもう自分には幸せになる価値なんてないのかもしれないとマイナス思考だったけれど、そんなことはない。幸せになりたい、という思いだけで充分だと思う。どんな運命もそれをよいものにしようと欲するならば、よい運命となる。ただ誰かを傷つけることで自分を正当化する人や人の心に深い爪痕を残そうとする人、自分自身を責めてしまう人や優しさや愛を素直に受け止められずに疑ってしまう人、いろいろな人がいるけれど、その人たちを責めることもまた全くちがうことなのかもしれないと思った。わたしは今までは悪いことをした人は絶対的に悪い、と一方的に思っていたけれど、そのうしろにはその人にしか分からない苦しみ���あるのだろうし、それはその人自身によるものだけではなく環境によるものだという可能性だってある。冒頭で述べた、「バランスが崩れたときに自分自身がいちばん衝撃を受けるであろう強くて鋭い一瞬のうちのエネルギーの動き」というものを自分の根本にある愛やだれかから受け取る愛の不十分さゆえに消化できず、他のものでそれを補い上書きしつつ誤魔化すことで、彼らも彼らなりに自分と向き合うとしているのかもしれない。これはあくまで仮定だけれど、そう思うことでわたしも心が軽くなる。辛いとか、幸せとか、気にしなくなるほど愛に満ち足りた生活をしたい。ゆるしたい。自分が侵してしまった失敗や罪も、自分を傷つける人たちの言葉も、上手く物事をこなせない自分自身のことも、幸せでない過去のことも、ぜんぶゆるしてあげたい。号泣しながら鏡を見たら予想以上に顔がぐちゃぐちゃだったので綺麗だった、なんて微塵たりとも思わず、むしろそれを汚いと思ってしまったけれど、それをいつかあの頃の美しさに生かされていると言えるほどの愛を自分のために抱えて離したくない。
無題
丁寧に髪をとかすともう0時だった。ピピピというメロディとともにコンビニのドアは開かれて、わたしはそこで煙草を買おうかと思うけれどもやめる。憧れている女の子が新宿区の高校に通っていることを知って、落ち込んで舞い上がって、そうしてまた落ち込んだ。こんなにも近くで同じ景色を見ているのにわたしはどうしても彼女と同じ世界を生きることができない。等しい恐怖心ともどかしさを感じながら寂しさを分かち合いたかった。彼女がきれいだと思うものをわたしもきれいだと思いたいし、彼女が眠れない夜にはわたしも眠れずにいたい。となりで同じ蝉の鳴き声を聴いて、電車が過ぎ去ってゆくのをみて、風が、草はらを駆け抜けてゆくのをみた。けれどその一瞬のうちですら、たぶんわたしと彼女はきっとそれぞれ異なるひとのことを想って、それぞれ異なる色と匂いと温度と光をかんじている。わたしは彼女がかなしいと思うときにおなじようにかなしいと思えないのだ。それほどもどかしいことはないし、それほど愛おしいものもない。わたしの孤独はわたし一人だけで成立しているものではなくて、わたしの大切なひとたちがいてこそのものだと思うと、それだけで眠れなかった夜が嘘みたいに今度は眠りたくない夜になる。満たされていないからわたしは海をきれいだと思うのだろうし、なんの迷いも戸惑いもなく未来に眩さや希望やあたたかな愛を見出すことができるのだと思う。満足することを知らず、いつまでも世界のありとあらゆるところまでつねに感じていたい。うしなわれた光と温度と音が知らない地でまたあたらしくうまれるところを、ずっととおい国のちいさな街で暮らす少年の報われなかった恋を、インターネットの隅で未だに煌めきを失わず残ることばの数々を、千年前に生きていた十七歳の少女が今を生きるわたしのそれと同じ眼差しで、同じ場所で、同じ海を眺めている様子をみたかった。恐竜の鱗が光にてらされてかがやいているのもみたかった。この風は、まだ人間��人間じゃなかった頃に吹いていた風かもしれない。同級生のこととかたとえば自分の数年後のこととか明日の試験のこととか考えているうちに、きっとたぶんあっとういうまにわたしは歳を重ねて死んでしまうから。あなたも。死は永遠に続く停止ではなくて、またあたらしい有限への始まりにしか過ぎないのかもしれない。昔の文章、はずかしすぎてマトモに読めなかった。一年前のわたしだったら全部削除していたかもしれない。だいたい、あなたにはなれないと分かっていながらあなたになりたいなんて思ってしまったわたしがわるかった。わたしは全然自分が思っているより幸せだし、あなただってきっとあなたが思っているより幸せなのだと思う。それにそうだねと言えないのなら、わたしが幸せにしにいくから泣かないで。
Fresh Flesh
苛々してばかりいる。排気ガスを吸い込んだ朝の光。どこまでもぬるい夏の風。孤独を拒絶する友人。数値化された感性。立ち並ぶビル群。声のでかい女。ぜ〜んぶ、ほんとにぜんぶ、まるで雷光のようにわたしの心の奥の奥の奥のほうをカッと照らすので、まぶしくてひたすらに鬱陶しい。だけど舌打ちも暴力も歯軋りも性に合うはずがないので、ただ血液だけが巡るその速度を速め、ああ、もうさ、どうしてこんなに世界って鮮やかなわけ?って、思った、昼。あらゆる音がさっきまで飲んでいたシュワシュワサイダーの泡みたいに空気中を弾ける。ぽつ、ぽつ。びゅうびゅう。ざあざあ。びたびた。ぱらぱら。すぐそこで揺れている深緑(ふかみどり)が泣いているみたい。小鳥や野良猫は雨の日どこで雨宿りをしているんだろうか。ショッキングイエローも、スモーキーピンクも、オーシャンブルーも、わたしたちはすべて黒い色の文字で表現できてしまうのに、心がぎゅうってなるあの感覚って、どんな言葉を選んでもなにかが違う。途中でこうじゃないって投げ出してしまう。どれだけ小説のページを繰っても、黒、黒、黒、そうして少し、余白。けれどそこにはそこにしかない風があって、匂いがあって、音があって、熱があって。先生の合図とともに重たい教科書を開いて、ハイライターで色をつける。まだあと二十分もある、って思うとき途方も無い気持ちなる。(おねがいだから一人にしてほしい、)と、一人なのに、そう思う。これからどうすればいいんだろう。どうなるんだろう。何をすればいいんだろう。何を守るべきで、何を捨てるべきなのか、わかったら、なんの迷いもなしに会いたい人たちの元へと駆けて行けるのに、わたしがいなくても彼らの生活は成立してしまう。その事実が毎日のようにわたしの胸をきつく締め付けるので、勉強さえ手につかない。夏の夜の闇に、重ねに重ねた不安を押しつぶされそうになって、怖くなって、ママが深く眠っているのを確認したあと、あたかも人が眠っているかのように部屋の布団を整えて、玄関のドアをゆっくり、すごくゆっくり開けた。レッドのマットリップと、ドット柄の上下パジャマのズボンと、上はダボダボのブルーのパーカー。午前零時。自転車のギアをいちばん重いのにして、全速力でペダルを漕ぐ。まだたくさんいる人々の話し声や車のエンジン音が瞬く間に遠のいていく中、車輪の回転する音だけが一定の大きさで響きわたる。往復およそ三百円の通学路と、京浜東北線。光が差し込むと肌が透けてみえる白いブラウスと、微かに香る柔軟剤のにおい。テスト前、教科書がパンパンに入ったリュックサックの重さと、かかとの磨り減ったローファーの鈍い光沢。小さな教室と、先生のつまらない冗談。どっと響きわたる笑い声の中に掻き消された不安定な思考。すべて、いつか、終わってしまうことがちっともさみしくないと思ってしまった。ゆるしてほしい。だって、いつだって死ぬことは生きることの一部。怖いモノなど無いと信じたいでしょ。
無題
上野で車に轢かれた鳩の死骸をみた。車窓に映る風の如く過ぎ去ってゆく光景はあらゆるモノの死の産物なのだと、いつか君が話していたのを思い出した。それに感化され涙を目に浮かべるわたしもまた、いずれ消えてしまう。雲ひとつない晴れた日に駅の出口で名前も顔も知らない人を待ちながら、点滅する青信号に早まる人々の足取りを目で追う。断ち切れた水道管の真横でカラスがゴミを漁っていた。彼も彼女もこの街ですらいつか朽ちてゆくのに、世界はなぜこうも美しく出来すぎているのだろうかとよく考える。降ってくる雨粒の鋭さに刺され出血することもなければ、太陽の光によって皮膚が火傷することもない。風の強さで眼球が吹き飛ぶこともなければ、鳥の鳴き声で鼓膜が破れることもない。そのやさしさがたまに鬱陶しくて鬱陶しくて、真夜中に布団に包まってひっきりなしに泣く。ああ、やってらんないなあと思いながら、チョコレートパフェを注文する。向かい席に座った顔見知りになって間もない女性が煙草を嗜む、その姿に恋心にも似たときめきを覚えた。文豪たちが綴ったうつくしい言葉が無数に散らばる図書館で、わたしと彼女は自分たちで編み出したくだらない戯れ言に花まるをつけた。いつか、という言葉が好きだ。いつか大丈夫になる。いつか幸せになる。いつか報われる。いつかわたしにも大切な人が出来る。いつか大人になる。いつか死ぬ。その果てに見える景色があらゆるモノの死の産物だとしたら、わたしは毎日それらを瞼の裏に葬り、目を閉じて祈る。人生にリタイヤもバッドエンドもエンドロールもない。それよりも踊ってばかりの国のサイクリングロードを聴きながら、ドライブしよう?
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1号桟橋に進出
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
どうも、こんにちは。2月1日(土)は、茨木新池に行ってきました。週末の天気予報は降水確率高めなので茨木新池はお休みしようかと思っていましたが、平日に天気予報を毎日チェックしていたらなんとか保ちそうやし行ってみようかと。それなりに混んでるかと思いましたが、雨が降ると思った人が多かったのか、茨木新池は空いていました。1号桟橋も2号桟橋も無人…1号桟橋突端を確保。初めての1号桟橋…さてさてどうなるのでしょう?
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
竿ケースから16尺を抜いて7尺を追加。長い竿で尺数変更する気はなかったので16尺を抜いたのと、お米ダービーが終わったので8尺縛りがなくなったので7尺を入れました。竹竿は今日の最長となる「魚光」の15尺です。長い竿を振るの久しぶり。最近12尺までしか振ってなかったから。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
浮子は「舟水」の「底・08ソリッド」の12番です。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
朝ごはんの用意もできましたw。
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では、スタート!
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
浮子は動くんだが、喰い魚信が出ない。カラツン地獄(汗)。9時を過ぎても1枚も釣れてなくて焦り出した頃、カモが餌を啄みにやってきてサワリがなくなったw。水深が1mもないんですわ。カワウも居たし。そら鳥の影を見たらヘラブナもビビるよなあ。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
もう10時を過ぎました。もうすぐお昼ごはんの時間やん…。まさかの午前中ボウズ?ストレス感じる〜。おっ、ヌルッと入る魚信で乗った!
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
口の辺りに掛かってたので当然にボウズ脱出と思ったが、手網を覗き込むとチラ見でアゴの辺りに鉤があったような…。魚が跳ねて次に見た時は鉤が外れていたのでよくわからない。寄せてくる時に口にかかってるように見えたけどなあ。1枚でええかなあ。いや、確認でけへんかったらスレやろう…。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
おいおい、11時になっちゃうよ。このままカフェにいったら午前中ボウズ(悲)。サワリも少なくなってきたけど、サワってるので期待を込めて見てたら「ツン」て。乗った!
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今度はちゃんと口にかかってました。
ボウズ脱出〜!
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
料理の写真を撮り忘れた!まあ、釣りには関係ないんですけど、これは日記なのでw。午後は反対を向きます。西向き。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
竹竿は「心道」の7尺。また竹竿を買ってしまったw。「心道」は2本目です。「ザ・心道」って感じの中硬式の竹竿。「心道」って硬いイメージ。この竿に入札したのは失敗で、画像をよく見たら「穂詰」(折損修復)してた。なので、大阪屋さんを通じて竹竿職人に穂先を再作成してもらった。ただでさえ入札で張り込んだのにさらに高くついてしまった…大事に使おう。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
浮子は「伊吹」の「うどん底釣りムク」の8号。茨木新池のブログを書いている人が、パイプトップからグラスムクに替えて釣った話をアップしてたので使ってみます。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
浮子がツツーッと走ったので「消し込み」かと思ったらアレでしたw。水藻フィッシングセンターで散々見た魚信。鉤はやっぱ呑まれていました。「心道」7尺のファーストフィッシュはアレですw。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
「パコッ」て感じの節魚信で午後の1枚目。これで両目が開きました。「心道」7尺の初ヘラ。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
「心道」でもう1枚釣ったけど魚信が遠くなったので9尺に変更。また竹竿を買いましたw。お前何本買うねんて…。オークションで安値で指値を入れてたら落ちてしまったw。高値更新されると思ってんけどなあ。「若駒」の脇銘「最上作」は3本目。紋竹の竹張り握りやからつい…w。「若駒」は8尺が中式なので、見てくれがそっくりなこの竿も中式かと思ったら元径太めでガッシリです。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
9尺の浮子はいつもの「伊吹」のウドン浮子。これやっぱいい浮子です。再販したら全サイズ行っちゃうかも。一本5500円するけどw。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
硬めの竿やけど意外と曲がってますね。この写真撮ってたら向かいの人にジロって見られたので恥ずかしかったですw。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
「若駒 最上作」9尺のファーストフィッシュです。ちゃんとヘラブナでしたね。「4枚の壁」にも到達!
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
そのあと2枚釣れて6枚まできました。「つ抜け」は無理かな?7枚にしたい。
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
ありゃりゃ?7枚目って思ったら口外スレやんけ…
(#゚Д゚)ゴルァ!!
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
僕は、魚信はちゃんと見てて喰い魚信を取りにいくようにしてるから、あからさまなスレは少ない方やと思うんやけど、これはあからさまですね…
(/-\*)ハジュカチ...
2025年2月 茨木新池(茨木市) iPhone11
結局7枚目は釣れず。土曜日は16時半までだが、今日のお客さんは16時から片付けだしたので、僕もソワソワして16時半を待たず終了としました。Yahoo!天気の雨雲レーダーで茨木新池は雨が降ってることになってたから、いつ雨が降り出すかと。車で茨木新池の駐車場を出たところでパラパラ降り出したから早めに終わったのは正解か?小雨というより霧雨やったけど。
ということで、2月1日はヘラブナ6枚、アレ1尾、スレ3枚でした。
では、また。
#snapshot#streetphotography#写真好きな人と繋がりたい#japan#osaka#大阪#ファインダー越しの私の世界#釣り#釣り好きな人と繋がりたい#ヘラブナ#へら釣り#ヘラ釣り
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(第一部)
衝動的に寂しくなって、夜道を誰かに声をかけられるまで、取り止めなくさまよい歩く習慣がついたのは二ヶ月前からで五回目だった。知らない街まで電車に乗って、治安の良くない場所を選んで歩く。命の危機に晒されて半死半生の目に合うこともあれば、何事もなく無事に帰って来ることもある。仕事に行き自宅に帰り、一人食事を取り寝るだけの繰り返し。誰かに求められることもなければ必要とされることもない。一度負った傷の瘡蓋を剥がす一時の甘い悦びに浸りたいだけの狂った夜間歩行。
現地でシェリー酒やブランデーの強いお酒を飲んで、ほろ酔いから次第に足取りが重くなってくるのに任せる。お酒の酔いの回りの早い私にとって、緊張する瞬間。身元のわかるものは一切持たず、頼るのは自分の意識次第だというのに、その意識すら混濁させながら、ふらふらする。街灯の点灯し始めるマジックアワーを闇に紛れながら、細い路地を歩く。袋小路になるところ、人一人しか通れないような家の���間を選んで歩く。日中は光の差し込むだろう通路は、ただただ魑魅魍魎の通る獣道のように、鬱蒼として気味悪くなる。
白地に黒い猫の柄の入ったロングの巻きスカートに、一点もののデザイナーズセレクトの白地に赤の刺繡の入ったカットソーを着て、シルクの下着を身につける。巻きスカートの黒い猫の目は金色に光り、夜目にも輝いて見える。巻きスカートは一点もので、かつて愛した人にプレゼントされたものだった。よくこのスカートを身につけて一緒に歩いた思い出のぎっしり詰まったものだった。私は他の男性とSNSを通じてやり取りしていた事を彼に誤解されて、約束していた結婚を取りやめにされた。別れ際、愛する人に清らかな人だと思っていたのに、不潔だとまで言われて、ショックを受けた。ただメッセージのやり取りをしていて、なんの疑われる行為もしてなかったのに。彼はその数ヶ月後にSNSで知り合った人と一緒になったと聴いて、ダブルでショックを受けた。私は清らかではなく不潔な人間だというレッテルを貼られたまま、蛇の生殺しのようになって、数ヶ月泣きはらした。
誰も通らぬような通路を、ドキドキとしながら通り抜ける。空を見上げると、三日月が空に架かり、流れる雲に隠れては見え、隠れては見えする。明るい星たちから輝きだしている。知らない場所の闇の中、月の方角と光だけが頼り。既に刺すような冷たい風が吹き抜け、ただでさえ心細い私を不安にさせる。
30分ばかり歩いたろうか。後方に、私の後をつけている人を確認して、速足で歩こうとする。うまく歩を進めることのできない速足で歩くと速足になり、ゆっくりと歩くとゆっくりと歩く。私は頭が真っ白になるのと同時に、なんの目的でついてきているのか、逃げ切ることができるのか、頭をめぐらす。地の利のない場所で、自分がどこに行きつくのかも分からない通路をやみくもに歩いている愚かな自分。
この先には何があるのか、道すらもないのではないかという不安と、後ろから追いつかれて、腕を掴まれて更に人気のない場所に連れ込まれる妄想と闘いながら、ふらふらと先に進んでいく。
ふと、後ろからの気配が消える。安堵したのも束の間、カラスが群れて、泣き叫んで暴れている袋小路にたどり着く。心臓がどくどくと聞こえるぐらいに膨大な血流を全身に送り、高鳴っている。私は行き場を失い、来た道を戻るしかない。カラスはこれから起こる何かを暗示しているかのように、獰猛に暴れている。
自分が今どこにいるのかもわからない場所で、闇から闇を通り抜ける。人の気配のない場所で、月明かりだけが頼り。来た道かどうかも分からぬ不安と闘いつつ、二股に分かれている地点にたどり着いた。
どちらに進もうか立ち止まったところで、後をつけてきたと思われる男が待ち構えていて、口をタオルで覆われて、固く捕らえられた。タオルは汗臭い匂いがした。男は地の利のある場所で、一番いい場所で私を待ち構えていたのだ。抵抗する時間も与えられぬまま、竹藪の中に引きずり込まれる。腐った水の匂い、成長した竹の青臭い匂いの中に入っていく。
ちくちくと背中に痛みを覚える場所に引き倒されて、体中を弄られる。お洒落な格好も台無しで、スカートもカットソーも引きはがされて、巻きスカートの黒い猫も無惨に引き裂かれて、脱がされた。白い素肌が闇に浮かぶ。痩せた脇腹の肋骨が上下するだけで呼吸すらままならない。男は貪りつくように覆いかぶさり、欲望の限りを尽くしていく。
私は頭上で竹の葉の間で見え隠れする三日月を涙を流しながら、男の律動に突き動かされている。三日月は冴え冴えと妖しく光り、儚げに歪んでいた。快楽はどこにもない。身体の中を硬くなった虫が激しくうねり、大切な何かを剥奪された痕が残っていくだけ。なぜ私はこんなことをくり返しているのだろう?なぜ?なぜ?と自分に問うてみても、答えは返ってこない。私は私を放棄することで、自分に仕返ししているような気持ちになった���
自分を大切にできずに、汚されていく自分を俯瞰して見つめている。男は二度三度、繰り返し中で果てると、その場に私を残して立ち去って行った。私はぴくりとも動けないまま、竹藪の中で白い肌を晒している。体の芯まで冷えて、このままここで死ぬのではないかと思った。誰かが私を見つけ出して、救ってほしかった。こんな愚かな私でも大切に想って、抱き上げて介抱して、温かなスープを飲ましてくれる存在が欲しかった。しかし、そんな温もりはこの世の中にはどこにもなかった。
私は散らばった衣服をかき集めて、下着を見つけることのできないまま、震える手で身につけた。寒さと怖さで、ガタガタと歯が鳴っていた。お洒落な衣服は、泥で汚れて、竹の落ち葉が張り付き、ところどころ破られていた。巻きスカートに張り付いた猫まで無惨に足元から引き裂かれていた。金色の目には泥がこびりつき、輝きを失っていた。
私はふらふらと立ち上がり、西に傾いて地平に消えて確認できなくなった三日月を見失って、酔いが醒めて素面になって、呆然と闇の中をさまよい帰った。私は正気ではない行為をしているにも関わらず、冷静だった。汚れるだけ汚れて安堵したかった。
自宅に帰った時には0時を過ぎていた。鏡には変わり果てた私が映っていた。私は三日月のように、これから満ちて丸くなっていくのだろうか?限りなく欠けていき、空で真っ二つにぽきりと折れてどこまでも地の果てへ落下していくだけの月になってしまいそうだった。
果たして私は清らかではないのだろうか?ますます遠く離れた不潔で淫らな人間に染まる事で、人間としてのバランスを保てる気がしていた。
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目次
子供たちが怖い、放置され無教育
日本人支援者の迷惑、教育が壊れる
教育で未来を変えようとするクルド人学生
日本人が外国人の犯罪・迷惑行為に声をあげる
子供たちが怖い、放置され無教育
【70代女性、川口市上青木在住、取材】
子供たちが怖いです。昼間からウロウロしています。私の知り合いの70代の男性が10歳前後の男の子がゴミを散らかしていたので注意をすると、ピーと指笛を吹かれて、すると男の子たちが集まってにらまれました。何も言えないでいると、唾を目の前で地面に吐かれて去っていったそうです。
近くのショッピングモールで、小さい5歳ぐらいと少し年下の男の子が、泥靴で走り回っていました。「静かにしなさい」というと、流暢な日本語で「僕たちはかわいそうなクルド人です。弟はまだ小さいので何もわからないから許してください」と言われ、じっと見つめられました。そうすると、何もこちらは言えなく���ってしまいました。
(私:同じような話がXで書いてありました。誰かが教えているのかもしれません。)
私はXをやっていませんが、誰かが日本人が黙るように教えているのかもしれませんね。「僕は弱者だ」なんて言われると、日本人は何も言えなくなってしまうのでしょう
この地域は、工場の労働者向けの安いアパートが並んでいました。1970年代に建てられたものです。工場が川口から減って人がいなくなって、そうした古いアパートに中国人、最近はクルド人が入っています。
中国人は日本語が話せるのですが、クルド人は日本語を話せないし、生活で態度が悪いので困っています。日本人は高齢者ばかりで、注意するのが怖いので黙って我慢をしています。
隣のアパートにクルド人が、数ヶ月で入れ替わり住んでいます。入れ替わる理由はよくわかりません。時々騒音が聞こえます。女の人は家にこもって、買い物の時しか出てきません。
あるとき若い20歳ぐらいの母親が、子供が病気になったのか救急車を呼んだようです。しかし住所不定で、そして日本語が全く話せないので、救急車は搬送できなかったのです。すると昼間、救急車の前に座って路上で、子供を抱えて大泣きしました。そんな行為より子供を助けるための行動をしなさいとハラハラしました。救急隊員も困りました。私が話を聞こうとしても、聞かずに泣き続けました。泣けば主張が通ると思っているのでしょうか。
すると工事の泥で汚れた作業服の姿のまま夫がトラックでやってきて、片言の日本語で説明し、病院に行ったようです。迷惑をかけた周囲の日本人に、その後、クルド人夫婦から説明もありませんでした。変わった人たちです。日本語を少しでも学び、最低限のルールを知らないと。
日本人支援者の迷惑、教育が壊れる
【40代女性、川口市在住】
娘が高校生です。クルド人の友達もいます。公立小学校、中学校にクルド人、中国人など外国人の子供がいるのですが、日本語の授業が成り立たなくなっています。私の見たかぎり、日本人の子供たちは差別をしていません。逆に外国人の子供に気を使っている話ばかり聞きます。
クルド人を巡っては困った話がありました。あるクルド人の子供(男か女か、小学校か中学校は、私の判断で明示しない。クルド人の児童の特定、学校の特定を避けるためだ)が、クラスで孤立しました。ものを壊してもそのままにする、当番をしないなどの問題行為をしたそうです。同じクラスにいたクルド人の子供も距離を置きました。
すると東京の活動家がそれを聞きつけて、いきなりネットメディアで「クルド人の子供がいじめられている」と報道しました。毎日新聞もいじめと断定して報じました。活動家は学校に怒鳴り込み、卒業式にまで乗り込んできて、カメラマンを連れてきて、パチパチ写真を撮ったのです。公開されないか、父兄も子供も、怖がりました。卒業式はクルド人1人のためのものでも、この人のものでもありません。この活動家は、他の何百人の子供達の卒業式を台無しにしました。
(私:その活動家、イスラム教徒のクルド人の子供たちをクリスマスパーティーに誘って、クルド人に笑われていたらしいです。クルド人のことを知りません。)
変な人なんですね。当事者の生徒の話も聞かず、川口の子供がいじめているという話を日本中に報道するのはおかしいです。日本人の子どもたちは、報道に傷つきました。
クルド人を支援する人は、今は川口市にはほとんどいなくなりました。これだけ迷惑行為をしているから離れて行きました。支援者は「変わった人」扱いです。ただし川口市民の方ではクルド人を差別したり、嫌がらせをする話はありません。逆に外国人に気を使っています。
日本人の子供が今、外国人によって、学校教育で、適切に教育を受けられない状況になっています。外国人が多いと、学校の学習進度がどうしても遅れてしまいます。私の子供は塾でほとんど勉強せざるを得ない状況でした。日本人への逆差別です。ですから、小学校、中学校で私立に行かせようとしている親が多いです。市役所も先生たちも、対応に疲弊しています。国はこうした外国人の教育の現実を知っているのでしょうか。
教育で未来を変えようとするクルド人学生
【70代男性、川口市】
以前は教師でした。定年後に、外国人に日本語を教える川口市の日本語教室の教師ををしています。
(川口市、蕨市ではボランティア、NPO、また私塾の形で日本語が教えられている。身元をぼかすため、詳細は記さない。)
他の外国人は積極的に日本語を学びにきます。クルド人は来る人が少ないです。クルド人は、ささいなこと、例えば授業の遅刻、また態度の改善を注意しただけで、すぐ怒り出します。根気もなく、すぐに教室に来なくなってしまいます。
他の国の人は合法な居住の人が多く、たいてい日本語がある程度話せます。クルド人は、難民と称して滞在しているので、言葉を学習せずに、日本にやってきます。他の民族の人は日本は好きですが、クルド人は大半が日本のことを知りません。加えて、クルド語もトルコ語も上手に読み書きできないようです。彼らは中学校を出ているかも怪しく、勉強の文化がないと、石井さんが記事に書いていました。納得できました。そのために、日本語も上手くなりません。
ただし、悪い人ばかりではありません。一生懸命学習するクルド人の中学生もいます。同胞や親が、「出稼ぎなのに難民と嘘をついて日本に来ている。それは良くない」と、状況を分かっていました。クルド人が同胞の経営者を儲けさせるために安く働かされたり、変な日本人活動家に利用されたり、弁護士や行政書士などにお金を吸い取られていることも、理解していました。石井さんの報道の通りですね。
この子は、そうした境遇を抜け出すため、また自立するために一生懸命勉強をしています。学校の成績も良いです。私は大学まで行って奨学金を取り、滞在の資格を、仮放免の立場から、留学ビザ、正規滞在に変更することを勧めています。その子も、その意欲があります。
石井さんの報道は正しいと思います。ですがクルド人に取材するほど、彼らに冷たく、厳しくなっていますね。脅迫されたためでしょうか。
(私:そうです。)
あなたの感情は理解できますが、真面目に、頑張る子供がいることは、ぜひ知ってほしいと思います。
日本人が外国人の犯罪・迷惑行為に声をあげる
ようやく川口では人々が「おかしい」と声をあげ、ほんの少しだが状況が変わりつつある。行政が動き、不法行為の摘発が少しだけ始まった。
外国人差別は許されない。合法的に、また日本人と協調して暮らそうとするクルド人、その他外国人とは共生しなければならない。しかし違法行為、違法滞在をする外国人には、法適用をし、速やかに帰国をさせなければならない。その方向に、微々たる動きだが変わりつつある。
暗い話ばかりがクルド人問題で聞こえるが、埼玉県民、川口市民が変化の希望を抱いていることも紹介して、この原稿を終えたい。私にいただいた評価も、少し恥ずかしいがそのまま残しておこう。
【川口市民、メール】
クルド人問題については「おかしい」ということに、私はためらいがありました。私の周囲の川口の住人にもあります。私たち日本人は、小さい頃から「外国人と仲良く」と刷り込まれますから。
そして国とメディアと学校が「ヘイトスピーチはダメだ」キャンペーンを続けていますよね。これはこのクルド人問題では悪い方向に働いて、日本人が物を言えない状況を生んでいるように思えます。
【埼玉県民、メール】
石井さん、身の危険を感じることと拝察します。くれぐれもお気をつけて取材を続けてください。あなたのような記者がいらっしゃることで、日本のジャーナリズムもまだ死んでないんだ、と思えました。あなたは正義感から川口市に突っ込んで「なんで自分がこんな目に」とぼやいていますし、気の毒と思いますが、そうした勇気が社会を変えます。
記者会見で権力者を怒鳴りつけたり、偉そうなことを言う記者はたくさんいますが、何の役にも立ちません。社会問題を調査し、客観的にそれを私たち国民に伝えることがメディアの役割と思います。しかし、誰も、クルド人問題でやりませんでした。大手の新聞社やテレビはいったい何をしているのでしょうか。
どうぞご自愛ください。川口市の奥富市議とか、心ある人と連携して頑張ってください。私たちの手で、川口、埼玉、日本を守りましょう!
石井孝明 経済記者 with ENERGY運営 ツイッター:@ishiitakaaki メール:[email protected]
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Käärijäで振り返る2024年【9月~12月】
こちらの続きです
【9月】
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5か国33公演を完走したサマーツアーは、9/7スペイン・フエンヒロラのライブで幕を閉じました✨ 昨年の過労死まっしぐら鬼スケジュール(笑)から今年は少しゆとりのあるスケジュールに改善され、ツアー終了後カーリヤはキプロスのリゾートへ短いバカンスへ🌴🌞一応案件だったようですが、大親友のJoker Out のボーカル・ボーヤンと一緒にお休みを満喫したようです👀
【10月】
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バカンスで英気を養ったKäärijä、10月は怒涛のヨーロッパツアーへ出航!12月に追加されたポーランド公演も含めると7か国19公演!さすがに去年のように全公演即完とはいきませんでしたが(なにせ興行主の都合で1つの国で5公演とかやるから…笑)、完売や会場のアップグレードも多数。ヨーロッパ中で変わらぬ人気を見せつけました。
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またツアー中には、2024年3曲目となる新曲「SEX=MONEY」を10/11にリリース🥕 細々続けているオンリーファンズをネタにしたちょっとアダルト(言うてそうでもないけど…笑)な一曲です。
※歌詞和訳はこちら
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さらに同日には、KäärijäのドッペルゲンガーキャラとしてもはやおなじみとなったHäärijäがなんとデビュー曲(!)「BAILA」をリリース😂 普段しゃべらないキャラなので、ずっとバイラ!って言って笛吹いてる歌ですが、ライブでKäärijäが喉を休める間の場繋ぎという重要な役割を担う曲です。笑
また今回のヨーロッパツアーでは、初の試みとして、家にいながら欧州ツアーの雰囲気を楽しめる有料サービス「EURO PASS」を提供。チャットでの交流や限定画像、限定Vlogの配信を行い、現地に行った人も行けなかった人も盛り上がれる場を創り出しました💚
【11月】
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11月1日、ファン待望のニューアルバム「People's Champion」がついにリリースされました! Cha Cha Chaと、それ以降リリースしたシングル曲5曲、新曲6曲の全12曲で構成されたアルバムは、曲順に聴くと、ユーロビジョンでの爆発的ヒットからの想像もしていなかった忙���い日々、それによって心がすり減り空っぽになったこと、それを乗り越えありのままの自分をさらけ出し、今は支えてくれる人たちへの感謝と彼らに誇れる「みんなのチャンピオン」でいたいという想いを胸にステージに立っていること。カーリヤ=イェレ・ポウホネンという一人の青年が駆け抜けた激動の1年半、その中で感じた想いを率直につづった1枚となっています。
※私なりの解説(解釈)はこちら
アルバムの中でも新たなヒット曲となったのが「Autiomaa」。
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夢見ていたアーティストとしての成功を掴み、経済的にも楽になり、幸せの絶頂にいるはずなのに、忙しさや度重なる誹謗中傷、プライベートを失ったことなどで疲れ果て、心の中が空っぽになってしまったことを率直に歌った歌は、MVも含め、これまで応援してきたファンの心にもぐっとくる曲となりました。
※歌詞和訳はこちら
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そしてこのニューアルバムをひっさげ、国内秋冬ツアーもスタートしました。
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さらに11月には、新たなチャレンジとして、芸能人がダンスを披露してそれを審査する番組に、審査員として参加。独特な切り口で点数をつけ、会場の雰囲気をほっこりさせていました😊
【12月】
12月12日、オランダで毎年開催される、歴代ユーロビジョン出場者オールスター歌合戦に参加したKäärijä。2023年の出場者だけでなく、2024年の出場者たちとも再会し、楽しそうな動画をたくさんアップしてくれました😊
また12月には、プーーランド(ポーランドのことを彼はいつもプーランドと言う…笑)国民のアツい要望にお応えしてポーランド公演3公演が実現!Käärijäを待ちわびたアツいプーランド民に迎えられ、熱狂のうちに公演が終演しました💚
ーーー
…そんなこんなで、2024年も23年に負けず劣らず激動&鬼忙しい日々を過ごしたKäärijä。 でも今年はクリスマス~年末は家族や大切な人と過ごす時間があるようなのでよかったです。 心身を休め、また2025年、新たな、でも変わらず太陽のようなKäärijäの姿を見せてほしい! すでにスウェーデンのアーティストHoojaとのコラボ新曲がチラ出しされていたり、2025年のギグ情報が出ていたりするので、追ってそちらもまとめたいと思います!
そして2025年は、さらなる日本国内でのKäärijäファンを増やすべく、私もこのブログの更新の頻度を上げたりなど、さらなる布教に取り組んでまいります! このブログやX,インスタなどで情報を追ってくださるすべてのジャパニースKäärijäファミリーの皆様、そしてジャパニーズじゃないけど自動翻訳などを(たぶん)使ってこの記事を読んでくれている方々。いつも本当にありがとうございます。 どうか皆さま、よいお年をお迎えください!!
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私の手元に、古ぼけた書類の束がある。手製の表紙をめくると目に入ってくるのは軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に関する詳細な計画、命令書である。なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身とは――。 「進藤三郎」という男 昭和15年9月13日、圧倒的勝利に終わった零戦のデビュー戦を指揮し、漢口基地に帰還した進藤三郎大尉 平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88年の生涯を終えた。その人の名は進藤三郎。太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう戦闘機乗りである。 進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。その後、激戦地ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。 戦後はトラック運転手や福島県の沼沢鉱山長などの職を転々としたのち、生家のある広島に戻って東洋工業株式会社に入社、出向した山口マツダで常務取締役まで務めた。 戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを好まなかった。 進藤が保管していた書類に入る前に、進藤自身の「真珠湾攻撃」について、1996年から99年にかけての私のインタビューをもとに再現しよう。 突然の転勤命令 昭和16年4月、新編された当時の赤城戦闘機隊搭乗員たち。中列中央・飛行隊長板谷茂少佐、その右・分隊長進藤三郎大尉。このメンバーのうち数人は、のちに第五航空戦隊に異動した 昭和14(1939)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことに端を発する欧州での大戦は、日本がドイツと軍事同盟を結んだことで、もはや対岸の火事とは言えなくなっていた。日米関係は悪化の一途をたどり、昭和16年7月28日、日本軍の南部仏印進駐を機に、アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止、イギリス、オランダもこれに同調する。世にいう「ABCD包囲網」である。 この制裁措置は、石油その他の工業物資の多くをアメ��カからの輸入��依存してきた日本にとって、まさに死命を制するものだったった。米英蘭との戦争は、もはや不可避と考えられた。海軍も、極秘裏に開戦準備に入る。 航空母艦赤城、加賀の第一航空戦隊、蒼龍、飛龍の第二航空戦隊を主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに編成されたのは、昭和16(1941)年4月のことである。一航艦は、空母と少数の駆逐艦だけで編成されたが、実戦に際しては、臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを合わせ、これが世界初の試みとなる「機動部隊」として作戦に従事することになっていた。 進藤は、機動部隊の編成にともなう人事異動で、南雲中将の座乗する旗艦赤城の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。進藤の直接の上官、赤城戦闘機隊の飛行隊長は板谷茂少佐である。 「支那事変での長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切っていました。できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないかと思っていた矢先の転勤命令。空母乗組は“搭乗員の華”、誰もが羨む配置なんですが、正直なところ、はじめはうんざりしましたね」 と、進藤は振り返る。 猛訓練で体が悲鳴を上げていた 機動部隊の旗艦・空母赤城。巡洋戦艦を建造中に空母に改装。当時世界最大級の航空母艦だった 空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外は、陸上基地で訓練を行うのを常としていた。搭乗員が揃うと、赤城戦闘機隊は、鹿児島・鴨池基地を拠点に、飛行訓練を開始した。 まずは、搭乗員全員の零戦での慣熟飛行から始まり、着艦訓練の前段階として、母艦の飛行甲板を想定した、飛行場の限られた範囲に飛行機をピタリと着陸させる定着訓練が行われる。5月になると空戦、無線電話、着艦訓練と、訓練もより実戦的になり、空戦訓練は、1機対1機の単機空戦よりもチームワークを重視する編隊空戦に重点が置かれ、2機対3機、3機対6機の編隊同士の空戦訓練が、実戦さながらに行なわれた。吹流しを標的とする射撃訓練も、さかんに行われた。 9月に入ると空母翔鶴、瑞鶴からなる第五航空戦隊が新たに機動部隊に加わり、赤城の搭乗員の一部は五航戦に転勤する。進藤の回想。 「猛訓練が進むにつれ、疲労がどうしようもないほど蓄積してきました。体がだるく、食欲もない。8月には黄疸の症状も出始め、周囲から『君の目は黄色いじゃないか』と言われるほどでした。これはもう、海軍をクビになっても仕方がない、休暇療養を願い出ようと決心したんですが……」 ところが、そう決心した矢先の、進藤の記憶によれば10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの幹部が、志布志湾に停泊中の赤城の参謀長室に集められ、ここで南雲中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられた。航空参謀・源田実中佐からは、この作戦に対応するための訓練を急ピッチで進める旨の指示もあった。 少佐の本音 揚子江上空を飛ぶ零戦一一型。進藤大尉が撮影した 「しまった。これを聞いたからには、休ませてくれとは言えないな」 と、進藤は観念したと言う。傍らにいた板谷少佐が、やや興奮の面持ちで、 「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」 と、声をかけてきた。だが、解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときに、 「俺たちはただ命令通りに死力を尽くして戦うだけだが、その後始末はどうやってつけるつもりなのかな」 と、誰にともなくつぶやいた板谷少佐の言葉がいつまでも心に残った。こちらのほうが本音なんだろうな、と進藤は思った。 昭和16年10月には、戦闘機隊の訓練は仕上げの段階に入りつつあった。訓練項目に航法通信訓練が加えられ、コンパスと、波頭を目視して判断する風向、風力を頼りに長距離を飛ぶ三角航法、無線でモールス信号を受信する訓練などが行なわれた。高高度飛行の訓練も実施され、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃による、高度8000メートルでの射撃訓練も行われた。一航戦では、18機対18機の大規模な空戦訓練も実施された。二航戦は9機対9機、五航戦は3機対3機までしかできなかったという。 11月に入ると、志布志湾に機動部隊の6隻の空母と飛行機が集められ、11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達された。その日の夜半、「特別集合訓練」が発動され、翌4日から3日間にわたって、全機全力をもって、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれた。 〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前7時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日〇五〇〇ヨリ訓練開始〉 と、進藤はメモに書き残している。11月6日には、戦闘機隊が半数ずつ、攻撃隊と邀撃(ようげき)隊の二手にわかれ、攻撃隊はいかに敵戦闘機の邀撃を排除して攻撃を成功させるか、邀撃隊はいかに攻撃隊を撃退するか、という訓練も行なわれた。激しい訓練で、攻撃隊の九九式艦上爆撃機のなかには不時着する機も出た。 特別集合訓練が終了すると、赤城、蒼龍は横須賀、加賀、飛龍は佐世保、翔鶴、瑞鶴は呉と、それぞれの母港に入って準備を行い、飛行機隊はふたたび、陸上基地に戻って訓練を続けた。このとき、戦闘機が洋上で単機になってしまった場合に備えて、無線帰投方位測定機(クルシー)を使っての帰投訓練が熊本放送局の電波を利用して実施されている。 覚悟を決めた日 第二次発進部隊制空隊(零戦)指揮官・進藤三郎大尉の命令書(軍機) 11月中旬には、各母艦は飛行機隊を収容し、可燃物、私物の陸揚げや兵器弾薬、食糧の最後の積み込みを終え、佐伯湾に集結した。 赤城が佐伯湾を出たのは、11月18日のことである。行動を隠匿するため、出航と同時に、各艦は厳重な無線封鎖を実施した。 空母6隻を主力とする機動部隊は北へ向かい、千島列島の択捉島(えとろふとう)単冠湾(ひとかっぷわん)に集結した。湾の西に見える単冠山は、すでに裾まで雪に覆われていた。11月24日、6隻の空母の全搭乗員が赤城に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と作戦の打ち合わせが行われた。機動部隊の行動についてはもちろん、攻撃隊の編成や各隊ごとの無線周波数など、詳細な作戦計画が、すでにでき上がっていた。進藤が保管していた機密書類はこの日の日付から始まっている。 11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨、各艦、単冠山に向かって副砲、高角砲の試射を行った。凍てつく空気に、砲声が轟いた。艦隊はそのまま針路を東にとった。 「自信を持って戦いに臨める。しかし、今度こそは生きて帰れないだろうな」 と、進藤は、遠ざかってゆく雪の単冠山を見ながら、しばし物思いにふけった。 時化模様の航海が続いた。護衛の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給船、潜水艦など、総勢31隻もの艦隊を、隠密裏にハワイ北方までたどり着かせなければならない赤城艦上の機動部隊司令部は緊張の連続だった。 12月1日、機動部隊は日付変更線を越えた。機動部隊は日本時間で行動するので、時差で時間感覚がずれてくる。この日の御前会議で、日本は英米との開戦を決定する。 12月2日、「新高山ノボレ 一二〇八」 という暗号電報が、聯合艦隊司令部より届いた。これは、「X日(開戦日)を12月8日とす」という意味である。開戦は、12月8日午前零時と決まった。ただし、日米の外交交渉次第では、まだ作戦が中止になることもあり得る。しかし反転命令は出ず、矢はついに弦を放れた。 12月8日午前1時半(日本時間)。第一次発進部隊が次々と6隻の空母を発艦した。 第一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(うち雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)、計183機で、総指揮官は淵田美津雄中佐である。第一次攻撃では、雷撃隊が二列に並んで停泊している米戦艦の外側の艦を攻撃、水平爆撃隊が上空より内側の艦を爆撃する。さらに艦爆隊は飛行場施設を爆撃することになっていた。 そこらじゅうで火柱が 九九式艦上爆撃機。急降下爆撃を行う 機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。 第二次は零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻(水平爆撃のみ)54機、計168機が発艦し、うち零戦1機と艦爆2機が故障で引き返している。こんどは、艦爆が第一次で撃ちもら��た敵艦と飛行場を狙い、艦攻が敵飛行場を水平爆撃することになっていた。 赤城から発艦するのは、零戦9機と九九艦爆18機。2時13分、進藤の搭乗する零戦、A1(本来はローマ数字だが、機種依存文字のためアラビア数字で表記)‐102号機は、その先頭を切って発艦した。第二次発進部隊の総指揮官は瑞鶴艦攻隊の嶋崎重和少佐、進藤は、制空隊(零戦隊)全体の指揮官を務める。 「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると平常心に戻りました。真珠湾に向け進撃中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきた。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、これは第一次の連中やってるな、と奇襲成功を確信しました」 第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われ、ものすごい火柱が上がっていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ地上銃撃が零戦隊の主任務になる。進藤はバンクを振って(機体を左右に傾ける合図で)各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。 「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は赤城の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。しかし、敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を二撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」 頭によぎった最悪のシナリオ 開戦を告げる昭和16年12月9日の新聞紙面 銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤は、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。 「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。胸がすくような喜びがふつふつと湧いてくる。 しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。私は昭和8年、少尉候補生のときの遠洋航海でアメリカに行き、そのケタ違いの国力と豊かさをまのあたりにしていますから、タダで済むはずがないことは容易に想像できる。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は…………負けることになるかもしれないと、このときふと考えました」 空襲を終えた攻撃隊、制空隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。進藤は、赤城の艦爆隊と合流して帰還した。南雲中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤の手を握った。 ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。大戦果の報に、艦内は沸き立った。しかし日本側にとって残念なことに、いるはずの敵空母は真珠湾に在泊していなかった。 艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。蒼龍の二航戦司令官・山口多聞少将からは、蒼龍、飛龍の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。 激しい戦闘の代償 日本機の空襲を受けるハワイ・真珠湾の米艦隊 「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直ホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが…………」 体調不良を押してここまできたが、ようやく任務が果たせた。緊張の糸が切れた進藤は、そのまま士官室の祝宴にも出ず、私室で寝込んでしまった。 真珠湾攻撃で日本側は、米戦艦4隻と標的艦1隻を撃沈したのをはじめ、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜、あるいは撃破するなどの戦果を挙げた。資料によって異なるが、米側の死者・行方不明者は2402名、負傷者1382名を数えた。いっぽう、日本側の損失は、飛行機29機(第一次9機、第二次20機。うち零戦9機、九九艦爆15機、九七艦攻5機)と特殊潜航艇5隻で、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名。別に、12月9日、上空哨戒の零戦1機が着艦に失敗、搭乗員1名死亡)。米軍の激しい対空砲火を浴びて、要修理の飛行機は100機あまりにのぼった。 ――ちなみに、真珠湾攻撃当時、連合艦隊司令長官・山本五十六大将57歳、機動部隊指揮官・南雲忠一中将54歳、航空参謀・源田実中佐37歳、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐39歳、第二次発進部隊指揮官・島崎重和少佐33歳、雷撃隊指揮官・村���重治少佐32歳、第一次制空隊指揮官・板谷茂少佐32歳、第二次制空隊指揮官・進藤三郎大尉30歳、加賀戦闘機分隊長・志賀淑雄大尉27歳、そして昭和天皇40歳だった。 真珠湾攻撃の帰途、二航戦の蒼龍、飛龍は、ウェーク島攻略作戦に参加するため、本隊を離れた。残る赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴は、12月23日から24日にかけ瀬戸内海・柱島の泊地に投錨する。各艦の飛行機隊は、零戦隊は佐伯基地経由で岩国基地へ、艦爆、艦攻は鹿屋基地経由で宇佐基地へと向かい、ここでしばしの休養が与えられた。 進藤は、12月25日、岩国基地から呉海軍病院に直行し、軍医の診察を受けた。診断の結果は、「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要とのことで、そのまま入院することになった。十二月三十日付で赤城分隊長の職を解かれ、さしあたって任務のない「呉鎮守府附」の辞令が出る。この日から広島の生家での転地療養が認められ、進藤は、ひさびさに正月を両親と迎えることができた。 再び始まる苦しい戦い 昭和17年11月、進藤大尉がラバウルに向け出発直前、東京駅にて 「海鷲・進藤大尉」の帰郷は誰からともなく近所に伝わり、毎日のように真珠湾の話をねだりに客がやってくる。子供たちは、道で進藤の姿を認めると、憧憬のまなざしで、直立不動になって挙手の敬礼をした。 真珠湾攻撃から帰った進藤は、療養生活を送ること2ヵ月半、ようやく黄疸の症状もおさまり、昭和17(1942)年2月12日、〈大分海軍航空隊司令ノ命ヲ受ケ服務スベシ〉の辞令を受けて大分空に着任。四月一日、戦闘機搭乗員の訓練部隊として徳島海軍航空隊が新たに創設されると、その飛行隊長兼教官に補せられた。 最前線・ニューブリテン島ラバウルで作戦中の第五八二海軍航空隊飛行隊長兼分隊長への転勤辞令が出たのは、昭和17年11月8日のことである。処分しそびれていた真珠湾攻撃の軍機書類の保管を元海軍機関大佐の父に託してラバウルに向かう。五八二空に着任したとき、進藤は新たに部下となる隊員たちに、 「海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして一人の手柄を立てようなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」 と訓示をした。そして、進藤の長く苦しい戦いがここから始まる。
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率いて参加した当事者の「貴重な証言」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)1月21日(日曜日)
通巻第8099号
湾岸諸国が中国人民元と通貨スワップを締結
カタールはすでにガスの人民元取引を始めている
*************************
数年前だった。ドバイに宿泊した折、空港から近いインターナショナルシティの一角に中国人街「ドラゴンモール」があると言うのでタクシーで見学に行った。
中国企業が胴元で、邦貨換算270億円を投じたショッピングモール(唐人街)である。
吹き抜けのロビィ、入口に中国銀行支店。ラーメン、餃子のレストランに混じってタピオカも。商店街は中国産の雑貨が山積み、おもに観光客相手の安物ばかりだった。ランタンの飾り付け、最近、行った人の話ではカラオケも開店しているとか。
ドバイは中東の金融センターである。
世界一の高層ビルが聳え、そのなかに水族館があり、紀伊國屋書店もある。住民の九割は外国人で、カネが有り余っているのでバス停まで冷房付き。警察官はひまだから赤信号で渡った歩行者にまで罰金を取っている。
ドバイ、カタール、UAE諸国の地域的覇者はサウジアラビアである。石油とガスの取引は米ドルで行われている。というより「いた」と過去形に変わりつつある。
人民元が、1974年以後「ペトロダラー」として、ドルの金兌換離脱以後も世界の通貨覇権を握るアメリカを脅かし始めた。拙著でも推論したが、中東の金融事情の変化に対して、トランプ「次期大統領」は、新札「トランプダラー」の発行を計画しているかも知れない。
さて現実の問題。ドバイは上海株式市場と連携し、デジタル人民元での売り買いを開始した。中国が現在「通貨スワップ」を締結した国々は29ヶ国だが、ドバイは中国の銀行に正式の銀行免許を交付した。中国農業銀行もドバイで業務を本格化した。カタールも中国とははやくに通貨スワップを結んでいる。
人民元は2016年にIMFのSDR通貨として認められ、シェアは日本円と並ぶほどに世界で認知されている。
促進の刺激剤となってきたのが一帯一路プロジェクトだった。
2012年にUAEと中国は通貨スワップを結んでいたが、2023年からガスの決済を人民元でも認めた。UAEは23年11月28日に48億9000万ドルで五年間の通貨スワップとした。
サウジアラビアは23年11月20日、中国と69億8000万ドル、三年契約の通貨スワップを認めた上、ドル決済だった石油取引の一部を人民元とする政策変更に前向きと言われる。
サウジの変心、米国にとって神経質にならざるを得ない。
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