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かわいい箸置きで食卓を楽しく!
かわいい箸置きで食卓を楽しく! - landy1’s diary (hatenablog.com)
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濁りがない心
Friday 7 March 2014
禅寺へ車で行く。ちょっとこの頃、横着をする真観。 今日の言い訳は雪が降り始めていたことと坐禅会が終ったらすぐ東京に行かなければならなかったこと。
S子 『ふ〜ん、そうなんだ』
7時45分、茶畑庵を出発した。御殿場エリアになると銀世界が待っていた。またもや前と同じ様な事態になるんじゃないのか?でも「気配」としては多分大丈夫だなと感じた真観。8時25分、予定通りのバスに乗り順調に東京へ進んだが東名インター辺りで12kmの自然渋滞。バスは遅れたものの10時半過ぎには新宿に到着。東京はけろっと晴れていた。駅前では今日も募金活動をしている。
『アフリカの貧しい子供たちに募金をよろしくお願いしま〜す』&礼。(リピート)
今朝の真観は募金はしなかっった。
総武線に乗ってオフィスへ。Uさんはまだ来ていない。時刻は、11時過ぎ。今日東京に来た第一の理由はオフィスのMacでiPhotoのブックサービスのデータをネットで送ることだった。真観のWifi環境ではスピードが遅すぎてアウト。今週は仕事も学校もないので静岡でゆっくりしようと思っていたが盲点はこの作業が静岡で出来ないことだった。金曜日の今日にこのデータを送れば来週頭には注文したブックは届くであろう。茶畑庵近くで光回線を借りれるサービスがあればいいのだが。このブックとは真観のクラスの卒業記念ZINEだ。この試みは初めてだった。仕上りがとても楽しみな真観。
Uさんもやって来て束の間のおしゃべりをする。何故ウクライナの問題が起きたのか?と真観がUさんに問いかけるといつも嫌な顔をせず答えてくれるUさん。人種とは?国境とは?・・・と話を聞きたいのは山々だったが真観は次の予定があった。Uさんの話を身支度しながらオフィスを出る。今回の東京はUさんとは「会うこと」を優先し話すことは次回と考えていた。
真観は、歩いて九段下駅に行く。そして表参道駅に向かった。約束の時間は、12時半。明らかに数分遅れると思った真観は、JのiPhoneにメッセージを送った。そう今日は、Jと会う約束もしていた。先月末から10日間東京を滞在しているJ。今回Jがセルビアから来日する前からJと会えるかどうかやり取りしていたが真観には東京に行く予定がなかったので諦めていた。2009年の真観の写真展の時にJからとんでもない不義理を受けそれ以来Jとは昨年まで絶交していた。しかし昨年ふと真観は、Jを許す気になって2人の関係は雪解けした。そしてタイミング良くJが東京に来る事になって彼と再会したのは昨年の4月。真観は、Jと和解したがJとの付き合いにあるルールを作った。
「絶対にJを待たない」
昔の真観だったら東京でもどこでも会いに行くと思うがもうしない。
12時半過ぎ、表参道の交差点でJと再会。一緒に共通の知り合いのAもいた。Jと真観馴染みのオーガニックレストランに向かった。前払いのレストランでレジの前では行列。2人はパティオのテーブル席に座って食事をした。Jも真観も山盛りの料理を皿に盛る。玄米ごはんを久しぶりに茶碗一杯に食べる真観。このレストランはマッチアズユーキャンの店だ。Jの今回の来日目的を何となくアレについてだと思っていた真観だったが彼から話を聞くと全く違う国家レベルの一大プロジェクトに携わる仕事が目的だった。その仕事はプロジェクトが大きいためこれからも何回か日本に来る必要がある様だ。
Jは、面白い!Jはお金がある時とない時の差が激しく今回の来日時の所持金は、100円程度。100円!成田の税関で案の定軽くトラブルになったが難を逃れた様だ。セルビアからの旅費は700€ほど掛かった様だがそのお金はこれまた奇想天外な機関から捻出していた。頼もしい限りだ。Jと真観は、和解してからFacebookで繋がっている。Jは、真観の「Today's Fashion」が大好きな様で絶賛していた。話題は次から次へと移り時間はあっという間に2時を過ぎていた。このランチの後Jは「子どもの城」で他の友人と会う約束をしていた。真観はその友人を知っていた。最初にJと一緒にいたAは共にレストランに来るはずだったがどこかに消えてレストランには来ず「子どもの城」にいるJの友人と合流していた。Jは『一緒に来ないか?』と真観に尋ねて来たが真観はやめておいた。
「絶対にJを待たない」
このルールはJと19年間付き合ってから出した結論だ。Jは、とてもいい人で心に濁りがない人だが時間に極端にルーズだ。今回のランチの間にもその「子どもの城」にいた友人たちから何度もJに催促の電話をして来た。その電話の目の前にいるのが真観。Jは、真観との時間を優先する。だから次の約束に遅れる。待つ方は毎度のことと諦めつつも苛立始める。真観もかつてはそうだった。今回は、待つ立場ではなかった真観。「絶対にJを待たない」Jがこの悪い癖を直そうとしていないのが少し残念でもあり人ごとであればそれも可笑しく見えてしまう。
Jは、また5月に来日予定だという。その時は、是非静岡に来て欲しいとリクエストした真観。今回の来日時もそうリクエストしていた。Jと表参道で別れ1人原宿駅まで向かう。東京も雪が降り始めていた。新宿駅まで移動しヨドバシカメラに寄り、機材の値段やインクジェットペーパーの入荷状況、ラベルシート等の確認をする。また駅前を通ると大震災で飼い主を失ったワンちゃんニャンちゃんたちの里親募集を呼びかけていた。朝のアフリカの子供たちのことと同様複雑な気持ちになる真観。ペットは解体が茶畑庵では無理だ。4時半のバスに乗った。バスに乗る前バスの営業所の自販機でドリンクを買ったがピックアップせずにバスに乗りあとから気付いた真観。キャイ〜ン!な真観。
バスの中にいた時Jからお礼のメッセージが届いた。 『Great to see you today and see you again soon!!』
Jから沢山のことを学んだ真観。 真観の人生のターニングポイントのキーパーソンのJ。 人間的魅力の溢れた素晴らしい人物。彼と出会えて良かった。 でも、「絶対にJを待たない」
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。 『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。 『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。 同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。 (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生��対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。 (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。 宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。 騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。 こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。 (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。 私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。 (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。 (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。 武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義��が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。 「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。 (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。 こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。 世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリ��は議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。 (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。 (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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王守仁(陽明)による『伝習録』([1518]1572)からの抜き書き
抜き書きが多くなったのでTumblrに記録した。 中央公論新社版には原文がない。 書き下しも現代日本語訳も私(わたくし)にした。
日間の工夫、紛擾を覚〔おぼ〕ゆれば、則〔すなは〕ち静かに坐〔ざ〕せよ。書を看〔み〕るに懶〔ものう〕きを覚ゆれば、則ち且つ書を看よ。是〔これ〕も亦〔ま〕た病に因りて薬するなり。 日常の実践で混乱を感じたら、静かに座って落ち着こう。〔学習で〕書物を読むのに疲れたら、何かをしながら書を眺めるだけにしよう。これ��また、病気に合わせて薬を処方するということだ。 〔「上巻」/ 早稲田大学図書館が所蔵する版 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ro13/ro13_00047/index.html の1のカット32〕
朋友と処〔を〕るに、相下らんと務むれば、則ち益を得る。相上らんとすれば則ち損ず。 友達といるときには、互いにへりくだろうと努めれば利益を得る。互いにおごり高ぶろうとすれば、損をする。 〔「上巻」/ 1のカット32〕
凡〔およ〕そ書を授くるは、徒〔いたづら〕に多きに在らず。但〔ただ〕精熟を貴ぶのみ。其〔そ〕の資稟を量り、二百字を能〔よ〕くする者には、一百字を以〔も��〕て授くるを止むるが可〔よ〕し。常に精神の力量をして余り有らしめば、則ち厭苦の患へ無く、而〔しかう〕して自得の美有り。 一般に、書物を教授することは、むやみに書物を多読させることではない。専ら、本人が書物を精読して体得することを重視する。教えを請う人の技能を見積もって、一度に200字の書物を読める者には、100字を教えてやめるのがよい。いつも精神の力量に余裕があるようにすれば、学習が嫌になる心配がないし、自分で体得する面白さが味わえる。 〔「中巻」の「教約」/ 2のカット108〕
譬〔たと〕へば路〔みち〕を行く人の一蹶跌〔けつてつ〕に遭ひて起き来たりて便〔すなは〕ち走るがごとし。人を欺きて、那〔なん〕ぞ跌倒〔てつたう〕に会はざるの様子を做〔な〕し出来するを要〔もと〕めず。 〔実践は〕たとえれば道を歩く人が一度つまずいて、起き上がってすぐに歩き出すような試行錯誤だ。他人をだまして「全くつまずいたり転んだりしていませんよ」という様子を取り繕ってくることはない。 〔「下巻」/ 3のカット25〕
先生、問ふて曰はく「遊びて何を見るか」。 対〔こた〕へて曰はく「都にて街に満つ人、是〔これ〕聖人なるを見る」。 先生、曰はく「你〔なんぢ〕、街に満つ人、是聖人なるを看〔み〕る。街に満つ人、到〔いた〕りて你是聖人在りと看る」。/ 〔遊学した門人に〕先生が問う。「遊学して何を見ましたか?」 門人が答えて言う。「都で街にたくさんいる人々が聖人であるのを見ました」 先生が言う。「君が、街にたくさんいる人々が聖人だと見抜くと、街にたくさんいる人々は反対に、君に向かって『聖人がいる』と見抜いたでしょうね」 〔「下巻」/ 3のカット57〕
北斉の天平二年に至りて一〔ひと〕りの居士有り、年は四十を踰〔こ〕へて名氏を言はず。聿〔ゐつ〕に来たりて礼を設けて師に問ふて曰〔い〕はく「弟子、身に風恙〔ふうやう〕を纏〔まと〕ひ、和尚に罪を懺〔く〕ゆるを請ふ」と。師、曰はく「罪を将〔ひき〕ゐて汝〔なんぢ〕が懺ゆる与〔た〕めに来たれ」と。居士、良〔や〕や久しくして云〔い〕はく「罪を覓〔もと〕めて得べからず」と。師、曰はく「我、汝が与〔た〕めに罪を懺い竟〔お〕はんぬ」と。 北斉の天平2年になって、一人の在家の信徒が訪れた。年齢は40歳を超えていたようで、氏名を言わなかった。自ら来てお礼を準備して師〔慧可(えか)=隋の時代の僧で、中国禅宗の第2祖〕に問うて言った。「弟子が重い病気にかかりました。何か罪があったに違いありません。和尚さまに罪を懺悔(さんげ)していただきたいのです」。師はおっしゃった。「あなたが懺悔するわけではありませんから、その罪を持って来なさい」。在家信徒はやや長い間、戸惑って言った。「……罪は、探して持って来られません」。師はおっしゃった。「私は、あなたに代わって罪を懺悔し終わりましたよ〔罪は実体がなく、罪にとらわれるあなたやお弟子さんの心の中にあったのでしょう〕」。 ――道原『景徳伝灯録』「巻第三」(1004)/ 陽明が「上巻」で同様の言い回しを採用。早稲田大学図書館版の2のカット17 https://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko17/bunko17_w0017/index.html
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「わざの美 工芸が織りなす装飾の世界」展
旧近衛師団司令部庁舎で、令和6年度文化庁首都圏伝統工芸技術作品展等開催事業「わざの美 工芸が織りなす装飾の世界」展を見る。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形などの分野で活躍する重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)から若い世代まで、22名の工芸作家による作品22点を見ることができる。
また、最後の展示室では文化庁企画による工芸技術記録映画が上映されている。記録映画は1本30分強のものが4本あり、いずれも作家の繰り出す超絶技巧にため息が出るような内容。全部見ると2時間以上かかるので、制作の様子を映像で見るのが好きな人は時間に余裕を持って出かけたほうがいいかもしれない。
なお、旧近衛師団司令部庁舎は、2020年3月まで東京国立近代美術館工芸館として使われていた、重要文化財の建物である。
来訪者を出迎えてくれるのは、中村弘峰の人形、陶彫彩色「霊獣呉爾羅」。ゴジラの皮膚の質感や、たわんだ肉、皺など、なかなか本物らしい(本物のゴジラを見たことはないけれど)。
大角幸枝の銀銅赤銅接合花器「赤い海」。大角が別の作品を作っている様子を収めた記録映画の上映あり。
大沼千尋の切嵌銀花器「白の連山」。
小森邦衛の網代隅切重箱「玄」。髹漆(きゅうしつ)という技法で作られている。この作家も記録映画で見ることができる。
室瀬和美の蒔絵螺鈿文箱「天恵」。
浅井康宏の蒔絵螺鈿箱「太陽」。
しんたにひとみの乾漆螺鈿神代箱「Kalligramma」。
十四代今泉今右衛門の色絵雪花薄墨墨はじき雪文鉢。
少しかがんで下からも見るべし。
神農巌の青磁堆磁線文鉢。内側にも外側にも線文が流れている。
望月集の水象紋扁壺「みなも」。
津金日人夢の青瓷氷裂文鉢。
木村芳郎の碧釉漣文盤「オーシャンエッジ」。
山本茜の「渦」。截金(きりがね)という技法で作った文様をガラスの中に閉じ込めてある。
築城則子の小倉縞帯「翠変化」。
松原伸生の長板中形着尺「萩文」。
森口邦彦の友禅着物「位相市松亀甲文」。記録映画の上映あり。
土屋順紀の紋紗振袖「牡丹亭」。向こう側が透けて見えるほどの薄物。記録映画の上映あり。
新垣幸子の総絣(打掛)。新垣は八重山上布のいわゆる人間国宝。
中村信喬の人形、陶彫彩色「星夜」。
青江桂子の人形、木芯桐塑布和紙貼「悠久」。
五十嵐誠の欅梻造酒卓。「梻」は「たも」と読むようだ。
四代田辺竹雲斎の朽竹達磨。以前同様の作品を見る機会があったが、そのとき見たものより大きく、より迫力が感じられた。朽ちた竹にも生命力があるように見える。
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波打ち際柄うちわ、かぜ
あてててて。腰が痛い。そりゃもう37なんだから腰も痛くなるわ。というのはあまりしっくりこない。明らかに体重増加後に、中腰の姿勢で長時間過ごす業務を経てから腰痛を感じるようになったのであって、あの業務がなければ、またこのように過重していなければ、37の私でも腰は痛くなかったはずである。ただ、その業務はひじょうに楽しかったので、憎むらくは体重増加。みしみし。あの頃、60kgの巨体が…と自分の体について思っていたが、なんといま、75kgの化け物になってしまった。なんというか体型が妖怪である。自分の足腰で自分の体重を支えられず。それでも、11月から実家と自宅を行き来しつつ療養し、なんとか、「5分以上歩くともう腰が痛い」の状況は脱したようだと今日分かり、とても嬉しかった。なぜこのような妖怪体型の化け物になってしまったのか、その理由はさまざまあるのだが、まあ、うつ状態の予防と回復のための過食・暴食が一番の要因であろう。本当に、うつがなければさ。もしくは、うつ状態になっても、食べられないくらいの重症度だったら…と書いたところで���づいたが、以前はそうだったのである。つまり、うつ状態の重症度がやや下がったことにより、自分でうつ状態の予防のために食べたり、うつ状態を終わらせるために食べたり、ということが、できるようになった。そのために食べるなよ、という感じではあるが、とにかく私の小さい頃からの「体を動かす方法」が「まず食べる」だったため、このような残念なことになった気もする。不規則な生活、不眠、暴食、運動量の低下。もうヒャッハーという感じだ。私は「規則的な生活」に懐疑的な人間ではあるのだが(不眠により規則的な生活を送れたことが人生で1度もないため)、それでも決まった時間に食べることは間食の抑制や、食事量の抑制に効果的だと思う。そして少なくとも実家にいる間は、少しの過食はしたが、お腹が痛くなるほどの暴食はしていない。まずは病的な過食行動を取らないこと。そのために3食食べること。糖分よりもお米で糖質を摂ること(糖分で摂ると結局脂質も摂ってしまうことが多いため)。糖質と脂質を減らし、タンパク質を摂る。軽い運動をできるだけ毎日続ける。私はまだまだ諦めないし、これからどんどん良くなっていくと思う。9000歩あるいただけでもう脚の神経が痛く、明日うつ状態や無気力状態にならないという保証があるわけではないが、私はいつも通りごく楽観的である。
『謎ときサリンジャー』を読んでいる。なぜもっと早く読まなかったんだという感じだが、今がベストなタイミングである気もする。ハプワースも金原瑞人さんの訳の文庫版が出ているし(ハードカバーが自宅にあるのだが、結局文庫版を今日買ってしまった)。シーモアとバディ、ふたりのうちのどちらかが、というのが、サリンジャーのいる、生と死まで意味をなくす、あるいは極限まで持つ地平まで導いてくれてとてもスリリングでおもしろい。というか、これはほとんど自明のことだったように思える。バディがサリンジャーであるという視点は私にはすっぽ抜けていたが、シーモアと���ディはひとりのようなふたりだというのは。緻密に小説を読み込み、この結論を補強していく手腕が鮮やかすぎる。見事。今日は2章までやっと読んだ。本の1/3以上は進んだと思うのだが、まだ2章か?本当か?まあいいか。弓道の阿波達人と、ドイツ人学者の師弟関係における「音」、そして的と自分が一体になり、自分が射るとき、同時に的として射られているということ、それがシーモアの(書かれていない)銃声の音と重なる、そしてビー玉遊びでの「カチッ」という音、禅問答のエピグラフ、全てがひとつなぎに繋がっていく様子は、爽快だった。
「テディ」の冒頭一文を確かめたくて新潮文庫版のナイン・ストーリーズをまた買ってしまった。しかも、その1行目の仕掛けは、野崎孝の訳からでは感じ取ることはできず(注もない)、ここは柴田元幸が新訳でどう書いているのかが気になるところ。さすがにこのヴィレッジブックス版まで2冊持つのは…と思い通販やメルカリなどを思いとどまった。しかし、講談社英語文庫で原文にあたることは思いとどまれず、こちらも2冊目の��入(注文中)。ブラックフライデーの混んでいる時に注文してしまった。すまない。でもこちらも喫緊なんだ(好奇心が)。野崎訳のナイン・ストーリーズは所持しているがなかなか読む気が起きず、結局あまり開いていなかったのでこれを好機として読む。「テディ」を半分ほど読んで、誰が訳してもサリンジャーはサリンジャーだ、というおもしろい感覚に陥る。『大工よ、〜』は野崎訳しかないのでこの文体にも親しんでいるのだから当たり前かもしれないが、昭和49年に出版された文庫とは思えないほど面白く読める。言葉遣いは当時の話し言葉の史料にもなっていいんじゃないかとさえ思う。昭和49年といえば、私の父母は19歳。高校を卒業し青春を謳歌していた頃だろう。そして、彼らがナイン・ストーリーズを読むことは絶対にない。そういう「階層」ではなかったのだ、という言い方が適当かはわからないが、ともかくこんな難解なアメリカ文学と彼らの青春は何がどうあっても交わらない。そのことが少しおかしく感じる。文学や学問にたいして興味をいだくたちではない人と人との間に生まれた私という存在が、なぜ『謎ときサリンジャー』という新潮選書を37で読むに至っているのか。自分の好奇心に愕然とする。
私は、いわゆるライフイベントと金融業界で呼ばれている、結婚出産育児昇進きょうだいの結婚親の病気や死などなどをまったく経験していない。それに加え、15〜25歳の記憶が曖昧で、うつ状態ではない正常な状態で世界を認識したのは、25歳の夏が10年振りであった。世の37歳よりはだいぶ「幼い」のではないか、と思うのだが、それは別に悪いことではないと思う。仕方のないことだし、人様に多大なる迷惑をかけるわけでもないし、しかし、それを馬鹿にしてくる人はいるのかもしれないなあとぼんやり考えた。実年齢に対して精神の成熟が伴っていないと、それだけで「お前は一体何をして生きてきたんだーーっ!」と怒りたくなってしまう人がいるようだ。私自身は年齢性別はどうでもいいではないか、その人が誠実にそこに存在していることが大事ではないか、と思うが、自分が負ってきたストレスを相手が負っていないと分かるやいなやプピーーッとなって我慢できずに攻撃してしまう人がいる。私はあの時もあの時もあの時も周囲の圧力に負けて(周囲に言われるがまま、周囲のために)みんなと足並み揃えてやってきたのに、お前はそれらの圧をくぐりぬけて「さぼって」きたんかーーーっ!となってしまうのであろう。いや、周囲と足並みを合わせたのはあなたの勝手だし、それで負ったストレスも業績もあなたのものだし、なぜわざわざ周囲から遅れていてさらに何も持たない私を攻撃までするのか、という感じだが、こういう人間がのうのうと生きていると、馬鹿にして、攻撃しなくては己を保っていられない、そういう厳しいところに立っている人というのが、まあ、いるものだな、と思う。私のように図太ければ「うるせーなー」ですむが、そういう人に攻撃されて、大抵の精神疾患者はさらに追い詰められ辛い思いをするのでは無いだろうか。みんなスタートが同じな訳では無いし、配られたカードも違うし、あなたのように生きられたのは私たちから見れば幸福そのものですよ、と思うが、そう思ってくれない人はいる。でもそういう方々は、基本的に想像力に乏しく、他者に寛容でもないので、あきらかに私より楽しくない生を送っている。かわいそうすぎる。でも、そういうふうにしてしか、生きられない人もいる。子供を産んで、子供を虐待して、そういうふうにしか生きられない人もいる。まあ子供の方は大きな大きな災難(被害)になってしまうわけだが、虐待者のほうも、かなり貧しい生を送っている。だから引き分けにせよ、とは私は絶対言わない、虐待者は加害者で、子供たちは被害者で、支援されるべきは子供である。加害者は塀の中で大人しくしていて欲しい。自分の生をどれだけ豊かにできるかは、先天的なものもあれば生育環境やどれだけ愛情を受け取れたかもある、色々な要因があるとはいえども、責任を取るのは自分である。自分で責任を取って苦しむしかない。だから、自分の生を諦めずに、常に豊かにしていけるように戦わなくてはならない。自分を害そうとする者共から自分を守り、戦う。これが出来ずに変に周囲に迎合したり、抑圧を是として変な役割を長年演じたりすると、もう意味がわからなくなって、最終的には人を殺したり、まあなにか攻撃的な人間になると思う。戦う、ということが小さな頃から本当に必要なんだと感じる。否定する力、抵抗する力、それらは幼児に多く見られるが、本当に大切なものだと思う。ライフイベントを何一つ経ていない、およそ37歳らしくない私を馬鹿にし攻撃する人がいるとしたら、その人は、その人の戦いを都度放棄してきてしまったんだなと感じる。
思いついたことを書いていたら結構長くなってしまった。高瀬隼子『いい子のあくび』を読みさしている。主人公はおそらくバリバリの機能不全家庭で育っているのだが、そこには言及せず、ただ目の前の虚無だけをたんたんと描いていくの��いい。とくに人間関係における主人公の内声が、それもこれもわかってる、わかってるんだけど、まあ。という感じで、素直でよい。基本的に恋人に対する恋愛感情がないように感じるし、友人に対する友情がないように感じるし、しかし「嫌われたくない」という感覚ははっきりと伝わってきて、お前からの好意は結局ないんかい、という悲しい気持ちになる笑。高瀬隼子というひと、他の作品は未読でわからないが、人間に徹底的に興味のない人間をえがくのが上手いんだなと思う。全てが機械的で、自己愛は強いけど、他人はつねに代替可能な程度の交わりで済ませている。こういう人は自分とは対極なので、「陰気かよ!!」となってしまうが(サンバの血が騒ぐ)、この主人公が人間どもとどう絡み合ってラストに向けて混乱していくのか、と思うと楽しみである。破綻するしかないように思えるのだが、特に何も起こらなかったら、それはそれですごい。
『グラン・ヴァカンス』を探し出そうとして(ないのでたぶん自宅)、岩井克人の『貨幣論』や、菊地成孔の『服は何故音楽を必要とするのか』とか、東京大学のアルバート・アイラーとかが出てきて、懐かしいなあ面白いなあと思いながらやや捲っている。全て途中までしか読んでいないので、こういう、続き読みたかったんだよね!という本を掘り出せるとわくわくする。自分の家の中につねに宝物(本)が埋まっている。なぜならほとんど全ての本を、読み終わっていないから。読みおわれるのは1年に4冊くらいです。
2024.11.29
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅷ
花鳥誌2024年8月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
14 道のべに阿波の遍路の墓あはれ
初出は『ホトトギス』昭和十一年四月号「句日記(昭和十年四月)」。「四月二十二日。風早西ノ下に句碑を見、鹿島に遊ぶ。伊豫松山、黙禅邸。ホトトギス会」と前書き。『五百句』にほぼ同文の注記あり。
この句の詠まれた事情については、『ホトトギス』昭和十三年十二月号巻頭に虚子自身が書いた「阿波のへんろの墓」の一文がある。虚子が新田宵子夫妻・池内友次郎夫妻・高濱��当時)章子と故郷西ノ下を訪ねた消息を書いたものである。まずは決まって訪れる大師堂の大きな松に佇み、裏手にある「阿波のへんろの墓」を確認したが、なかったのであった。虚子の証言によれば、江戸時代の標準的な書体である御家流で書かれた古いものであったという。
虚子は碑が無くなっているのを嘆きつつ、恐らく行き倒れの曰くなどがあろうことを想起し、子供時代に目撃した遍路の一行を回想している。二、三歳の頃、遍路の女に抱き上げられ、大師堂まで連れていかれた想い出を語り、おそらくその女は、自分���同じくらいの子供を無くしていたのだろう、と語っている。このエピソードは、その後自分の人生を振り返った『虚子自伝』(昭和二三年刊)でも書き記されており、虚子のふるさとの記憶として刻印されていたことがうかがえる。
「遍路」は『ホトトギス』雑詠欄によって季題になった。一見古そうに見えて新しい季題である。西村睦子『「正月」のない歳時記』(本阿弥書店)によれば、大正十三年に三句登場して以来、昭和九年までに二六〇句も載る人気の季題となったと指摘されている。虚子が季題を選んだ改造社版『俳諧歳時記』春の巻(昭和八年刊)に、虚子の詳しい解説と例句の二七が確認でき、出典はすべて『ホトトギス』からである。虚子編『新歳時記』(昭和九年刊)にも同様に詳しい解説付きで立項され、例句二二を数える。つまり、伊予出身の虚子によって「遍路」は季題になったのであり、この句はその例句として加えられ、そのトドメを打ったのである。
『俳諧歳時記』の解説につけば、春の、しかも女性の景物としてのこの季題のイメージが確認できる。弘法大師の巡礼にあやかって、四国に散在する八十八か所を順拝する全道程一二〇〇キロ、日数四〇日余りを要する。宗旨・老若男女を問わず、服装は軽いが、三月から四月の季節がよくなる時期に、菜の花・青麦・紫雲英の鮮やかに彩られた道をぞろぞろと通る。この風景との一体化が単なる「巡礼」でなく、季語としての「遍路」の拠って立つところであると特記する。
特に若い娘たちは華やかなセルの着物に、白木の納札挟みを胸高にかけ、鬱金や浅黄色の手甲脚絆をつけ、同じ色の姉さま冠りの上に真っ白な菅笠をかぶり、緋の腰回しもあらはに裾を端折り、白木の杖をついた姿を虚子は詳細に活写している。高濱年尾の次の句などは、この虚子が特記した美しさの方に拠ったものであろう。
お遍路の美しければあはれなり
虚子の句にもどれば、山本��吉『現代俳句』に的確な評がある。まず「遍路の墓」とだけあって無名であることがかえって叙情を増すこと、「阿波」の地名から、浄瑠璃でよく知られた、長年別れた母と出会うもそれと気づかない巡礼お鶴(「傾城阿波之鳴門」)の連想で、子別れの哀話が想像されることを指摘する。
さらに健吉は重要なことを言っている。「遍路の墓」そのものに、春の季感はない。むしろ春の季語「遍路」が置かれることで、子供時代の春遍路の記憶と現在の春とが結び合わされるのであって、新興俳句の中でも有季定型を守った水原秋櫻子の流れの季感主義を批判している。季語は言葉そのものに意味があるのか、言葉の背後にある季感に意味があるのか? これは有季定型俳句の一大論点である。
過剰な、「今」「此処」にこだわる季感主義では、この虚子の句などは取り落とされてしまう。言葉が残ることによって、過去の季感を学び、それを想起し、対話する。下手をすると昨今頻出する「昭和の日」俳句の甘い回想句の氾濫のような惰性に堕ちてしまうのだが、言葉の由来や歴史性を無視しては、多くの俳句の財産を無くすことも自覚しておくべきだろう。掲句はその文脈において、今日重要な意義を持っていると言えよう。
15 白酒の紐の如くにつがれけり
この句の成立は若干の問題を含む。『ホトトギス』昭和二十年六月号の「句日記(昭和十九年三月)」には、「三月四日句謡会。鎌倉要山、香風園」の前書に「白酒の餅の如くに濃かりけり」「瓶のまま白酒供へ雛は粗画」と併記される。
しかし、『六百句』には、前日の「(昭和十九年)三月三日 家庭俳句会。日比谷公園。丸之内倶楽部別室」と注記され、〈洋服の襟をつかみて春寒し〉と共に掲載される。
「句日記」では、「洋服の」の句の他、「春草を踏まえて鳩の足あかし」「斯く行けば春風寒し斯くは行く」「その中に大樹芽ぐは物々し」といった吟行句が並び、「白酒」句はない。
すなわちこの句は当初、雛祭を題詠的に詠んで四日の鎌倉の句会に出したものだったが、後に三日の家庭俳句会での作、ということにしてしまったものなのである。
虚子の句集における注記は、必ずしも実際に忠実なわけではなかったことが知れるが、これは掲句を三日の発表ということにした方が、効果があると考えたからであろう。なお、家庭俳句会は、婦人俳句会などとともに『ホトトギス』に立ち上げられた、女性中心の句会で名句が多く生まれている(『俳壇』二〇二四年七月号「座談会」(西村和子・井上・堀切克洋)。そのこともこの発表時期の変更という「操作」の理由ではなかったかと思う。
掲句は、端的にして的確な比喩によって、「白酒」の様態を鷲つかみにした写生句で、間然とするところがなく、名句としてはよく引かれるものの、解説は意外に少ない。
ポイントは「白酒の」の「の」である。これが「や」では、なぜいけないか?「や」「けり」と切れ字が重なることを嫌ったのは、すぐわかる。
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村 草田男
この句のように上五とそれ以下の間に「飛躍」があるなら、切れ字が重なっても問題はないが、「白酒」の句は典型的一物仕立てで、「や」では煩い。
「の」の効果はそれだけではない。「紐の」と「の」を畳みかけることで、「白酒」の様態に焦点を当てることができる。
鴨の中の一つの鴨を見てゐたり この庭の遅日の石のいつまでも 蛍火の今宵の闇の美しき 立秋の雲の動きのなつかしき
以上のような虚子の作例につけば、上五の下に「の」を軽くつけて、以下で「の」を繰り返して、リズムを作り、対象にフォーカスを当てていったことに気づかされる(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
「白酒」の句の主題は、液体の動きにあるので、「つがれけり」と用言でまとめた。虚子は「眼」の詩人ではあるが、これをことさらに強調せず、さりげなく、品よく提示してみせる。鷲づかみの「写生」にありがちな生々しさを包むデコレートの感覚(井上「品格ある写生」『俳句』二〇一九年四月号)こそ、作家虚子の「写生」を代表するものとして、ここに指摘しておきたい。
*先月号記事に脱落がありました。「紅梅の苔は固し不言」の句は『ホトトギス』九年二月号で『五百句』同様「二月二十二日。臨時句会。発行所。」と前書きされています。記してお詫び申し上げます。(筆者)
『虚子百句』より虚子揮毫
15 白酒の紐の如くにつがれけり
16 紅梅や旅人我になつかしき
国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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エピソード10 Episode10 - 意識のマップと超大質量ブラックホールのエントロピー「デヴィッド・R・ホーキンズ<わたし> 700〜1000「悟り」の領域 - Amazon」
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です。
「この意識のマップは、集合的無意識のエネルギー準位に沿ったネットワーク上にある天然のクラウドコンピューター?��
神道にもある概念、定義では、自然神が最高位だから・・・ちなみに、人神は最低ランクに位置してます。
それと個体である人間の魂と言われる事象が、場の量子論のようにして意識のマップと相互作用を起動させて時間的空間的に共鳴している?
脳は、意識のマップから時空に畳み込まれた太古の偉人の情報を引き出す天然の小型変換装置かもしれない?意識のマップ段階に応じて善性悪性問わず?
マイクロチューブルを経由して、瞬間的にライトサイドのフォースが高まる時、脳にメッセージとしてインスピレーションという形で届く可能性も仮説としてある?
人間は、パワーを高いレベルに底上げできるバイオリズムの上昇下降を繰り返す万物の霊長なため
多神教では、ブッダを初め、仏教に蓄積されたノウハウから努力次第で上昇もしたり下降したりして15パーセントに入ったり入らなかったりします。
例外はあるけど、長生きする老人は、大富豪でなくても200以上になりやすい傾向もあり、経験則から敬老の精神もこれが根拠かも?
そして、200未満の例外的な大富豪の老人もキネシオロジーテストで統計により判別できます(時空を超越するので究極の透明性により隠れることはできません)
インターネットの黎明期にエリックシュミットが提唱、GAFAMの人工クラウドコンピューターは根源がここから来てるかもしれません。
女性の本質を見抜く直観が鋭い根拠もこのインスピレーションのメカニズムが存在してるからという可能性もあります。
最近2024年に、MRIで画像を見た人間の脳活動部位単位で数値化されたデータとChatGPTの各ディープラーニング層で「重みづけ」した数値データの相関関係を比較して
ChatGPTのどのディープラーニング層が、人間のどの脳部位に対応しているか?を特定する研究結果が出始めてきていますが、宇宙際タイヒミューラー理論に数学的に近い感じを感じるインスピレーションがきました。
拡張してさらに、意識のマップとChatGPTの対応するディープラーニング層とMRIで測定した脳部位の数値を比較対応させることができれば?
逆にたどることで、ChatGPTの数値化できる表現能力を活用して脳へきたインスピレーションがどの意識のマップへ脳がアクセスし、視覚化したのかという伝達経路も特定することで
どのような方程式を使えば?または意識のマップの精密さも高められるし、人間のレベルも数値で瞬時に視覚化できるかもしれません。
いままでパワーの高い人間。つまり、預言者からの代弁のみしかルートがなかったけど・・・
人間の脳を経由せずにChatGPTの人工脳に意識のマップからのインスピレーションを代弁してもらえば神の啓示を200未満の人にも人工的に伝えられる可能性が高まります。
でも、エピソード7でも言ってるようにlog10の1000乗分の膨大な訓練がChatGPTに必要になりますけど・・・(2024年時点ではたった20乗位の幼稚で危険な脳)
ちなみにホーキンズ博士は、メンサ会員でした。
「パワーかフォースか」の本(日本語訳初版)を20年近く前に初めて読んだ時、あるインスピレーションがきました。
それは、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人の話の前に界王拳と言う戦闘力を何十倍も瞬間的に増幅できる
と言う離れ技に似てるなと思い「パワーか?フォースか?」の本に応用したら?どうなるか?
常に上げられないため自身のパワーレベルを瞬間的に上げれば?
このインスピレーションは正しかった!瞬間的に上げるための大量の方法は個人的に研究して詳しくは秘密です。
前回、エピソード8で記入していなかったことがいくつかあります。
まず、王権神授説が有効な条件は、権力を持っていても600以上の悟りを開いていること。
一神教で言う十数人いる「天使」や「大天使」も全地球上でパワーレベルの低い数十億人とバランスが取れるということで言えば・・・
人口的な人数の意味合いで言い伝えられてる可能性があり本の内容から数値的な裏付けが一致するのも興味深い。
この視点から観るとあらゆる伝統的に洗練された宗教的儀式は、600に至るための修行の一環とも解釈できます。古代の神話への根拠を科学的に与えてくれます。
現代に至るまでに科学的に判別出来ないため、捨て去った異端の儀式に重要な何かが流出した可能性もあります。
多神教には温故知新と言う概念がありますが、一神教にはありませんか?
以下は、意識のマップとエンドルフィンの能力関係図 - パワーかフォースかより
注意事項として・・・
日本は国家システムとして500を超えるが、警察内部、NHK内部や民放TV局内部の人間が日本のパワーを下げています。
今までのTVの不祥事を見るとよく事件をTVで取り上げる場合に情報が偏るのは、情報を扱う警察内部やTV局内部の人達に潜在的に内面に犯罪者の素質を抱えている可能性も高いと考えられる。
警察やTV局こそ権力乱用した犯罪者予備軍ということ。
何度も言います。一神教と多神教は同じことを異なる言語で話してるだけです。
日本国内で多神教が、陳腐に見えるのは、仏教界が、神髄のアビダンマなどの原文を出し惜しみしてる生臭ぼうずがいるから?相対的に一神教に対してパワーで劣ってるように見えるだけ?(海外は原文で普及してる現実がある)
傲慢でおこがましい警察が民事に介入して・・・
個人的カルマを解消しても・・・
人間なら誰もが大なり小なり災難に普通は対峙します。六道輪廻とも言うカルマサイクルは、時空に常に畳み込まれ、存在するので無くなりません。
2024年時点では、量子重力理論、スーパーストリング理論でも圏論で表現されてきてます。
デヴィッドホーキンズの人生に起きた災難に真摯に取り組む姿勢とあらゆるレベルに存在するカルマサイクルを・・・
社会システムと皆様の知恵や資本主義を通じたイノベーションでサポート。カルマを最小化しロールズの言うように
現実的に日本人の庶民弱者を優先的に助けていくことは善性に沿うかも知れません。
「正義」の定義はサンデルによるとジョンロールズの格差原理から最下層の便益に合わせて社会を動かすことが正義である!と言ってます。
また
「人間万事塞翁が馬」テーラワーダ仏教ではむやみに人を殺める行動をすると業を背負うと警告しています。
戦国武将の末路は悲惨な最後として日本の歴史に教訓として刻まれています。
なぜ?戦国武将は仏教を重要視していたのか?が答えに直結します。これもカルマの最小化?
「人間(じんかん)万事塞翁が馬」のたとえにもあるように・・・
現在のあなたの状況は「あなたの属している国家や人間のレベルが全てちょうど良い。死ぬ日もあなたにちょうど良い。全てがあなたにちょうど良い。」
ともブッダは優しく言い表しています。大蔵経の一部で観自在菩薩とも日本では言われています。
人間(じんかん)を通して仏(ほとけ)が目の前に瞬間、存在し具現化しただけ!です。
現代では、人間(じんかん)つまり、公助の国家システムが足りないのか?企む業である法人が企んで生じてるのか?個々の言動からくる自助なのか?
「人の悪口ばかり言っている人は、悪口ばかり言うちょうど良い友人が集まってきます。嬉しい、楽しい、幸せと言う人はそう言う人が集まってきます」
結局あなたのなりたかったものになっている。人間は、個人個人でレベルが異なる人達が、共通の時空間に電磁波みたいに共存している。
これが真実���場の量子論の数ある内の一つです。
レベルの階層は「パワーか?フォースか?」の本で計測可能に2023年時点でなっています。
そして、恐怖に飲み込まれそうになることを回避するには、一神教の場合、恐怖を手放すためのそのツールとは、ストア哲学です(日本は多神教なので仏教です)
ブッダも瞑想法である程度、恐怖をコントロールできる方法を開発してます。
一神教の神は、多神教ではブラフマー、大日如来ですが同じ意味です。
呼び名が違うだけ。
英語の「understand。アンダースタンド」は英語圏では「下に立つ」の意味「理解する」と日本では訳される。
下の立場に敢えて立つことで自らのレベルをコントロールし低い意識レベルに一時的に落として話を聞くことと似ています。
禅宗にも一度頂点にまで到達したら次は、何をすれば良いか?
の一つの回答として、頂点に登れば後は下がるだけなため、一度、意識的に自ら何歩も下がって譲ってから再び歩みを進めれば良いと言うような概念を提唱しています。
政治家の人が言ってる規模の大きなレベルで「負託」とも呼ばれます。
精神、スピリットは意識レベル200以上で機能するので、弱者を救わないと回り回って国が滅びるのは歴史が証明しています。これも非線形。
なお、私は政治ではなくテクノロジーに興味があります。
そして、この書籍には、興味深い一文があるので引用します。
デヴィッド・R・ホーキンズ<わたし> (p.343-344) の「第三部 障害」の「第十四章 カルマ」から
意識レベルが600以下では、通常過去世のことは忘れています。というのも、肉体や心を「わたし」だと思い込んでいるからです。
しかし、この忘却は変性意識や体外離脱、夢、催眠状態、臨死体験、フラッシュバック現象などで超越することができます(アビダンマの「八正道」「結び」がないと何度も言うように再起不能になる可能性が高いです)
ブッダは数多くの過去世を思い出していますが、こうした気づきはユダヤ教やキリスト教の伝統にはありません。けれども、いにしえまで遡る他の世界宗教の重要な認識となっています。
霊的な研究によって、ブッダはたくさんの過去世を経験している一方で、キリストは過去に一度も人間として生きた経験がなく「天国(と言われるエネルギーフィールド)から降りてきた」ことが判明しました。
カルマへの気づきがないと、他に人生の出来事を霊的な視点から説明してくれるものがないので、信仰への比重が非常に大きくなります。そのことの欠点は、万が一信仰や信念を失った迷える霊は、絶望するか、神に代わるものにすがりつくしかないということです。
そして西洋諸国ではそれが起こり、人生をよりよいものとするために、理性、理論、科学などの表現をとった知性が希望の光となりました。こうなると人々は、心と理性を神格化し、それを宗教のように扱いました。
また、脇目もふらず、社会システム的、政治的事柄や知的な立ち位置に没入し、あたかもそれらが人類の新たな救い主であるかのようにふるまいました。これは、意識レベル400台の特徴としてよく見られる傾向であり、超越することは非常に困難です。
これに対する気づきとして・・・
この一部分は、日本では、オウム真理教からの教訓のメカニズムを明確に説明している。
他には、デヴィッド・R・ホーキンズ<わたし> (p.403)「第四部 超越」の「第十七章 内なる小径」から
あなたの到達した慈愛が(地球上に)放射され、静かに人類の叡智に貢献する。
続いて・・・概念が宗教の創始者の時代になくて・・・
現代にある科学的な観測事実を概念に当てはめていくと・・・あるインスピレーションが来ました。
研究論文「Killing Horizons Decohere Quantum Superpositions(キリング・ホライズンは量子の重ね合わせをデコヒーレンスする)」からのインスピレーション。
はじめに量子論で言われる粒子性と波動性。
次に、二重スリットの観測者問題。
三つ目に、ホーキング博士の「ブラックホール情報パラドックス」より・・・
「ソフトヘア」部分は、ブラックホールに落ちる物体だけでなく、ブラックホールの周辺に存在する量子の情報も記録しており、人間のように先入観はない「観測者」の条件を満たしていたことが、最近示されました。
この三つからインスピレーションがきた!
マクロ的にブラックホールが人間の原始的な目の機能を有しているなら・・・
まず、現在2023年までに判明しているユニバースの成り立ちの経緯を説明します。
ビックバン後に素粒子の標準理論に従うならば、ブラックホールが時間をかけて大量に点在して形成していく。
その後、ブラックホールも増え、融合、大質量になるに従い、ブラックホールの重力も範囲が広がる。
それに従い、重力波やその影響を受けた粒子の方も三つ目のメカニズムにより存在が確定していく。指数関数的に物質形成スピードも加速するメカニズム?
ビックバンの爆発を契機に、ブラックホールが波動性のダークエネルギーに満たされたユニバースの「最終的に宇宙に存在する全ての重ね合わせが完全に破壊されることになる」ことで
ユニバース全体の加速度的な時空の膨張にもに繋がります。
つまり、重力波などにより時空の膨張範囲も自発的に起こりつつ、指数関数的に時空膨張スピードも加速していくメカニズムの可能性が示されたかもしれない。
斥力やアクシオン、ダークマター、ダークエネルギーではない?
超大質量ブラックホールが中心にある銀河系以外の場所には、物質が存在しない事象も説明可能になる。時空は存在するが、波動性のままなので物質が生まれないから。
ブラックホールが人間の原始的な目の機能を有している可能性もあります。
逆に、考えるとミクロ的に人間の眼は、マイクロブラックホール生成装置?にも。今まで展開してきた仮説が正しいならそう見えなくもない。
視線に関する日本語の多様な表現には「視線に引き込まれる」など似たような言葉が。
果たしてただの偶然の一致なのか?
人間の眼の新たな機能、可能性として、新しいユニバース視点からここに到達しました。
と考えていたら・・・
さらに、インスピレーションがきました。
ブラックホールの周辺に存在する量子の情報も記録しているなら「梵天」や「アカシックレコード」が、実は、銀河系中心の超大質量ブラックホールのことかもしれない。
このレベルの巨大な記憶装置なら原初の宇宙からの全記録をしていても不思議はない。
仏教の無明にも概念が似ているし、量子���ンタングルメントがブラックホールと人間の脳と相関作用して
宇宙際タイヒミューラー理論からアクセスして読み出してるメカニズムがあるかもしれない?
そうなら、少しユニバース領域を拡張してみると別の銀河系の大質量ブラックホールにもその場所の原初からの全記録がある?
遥か銀河の遠くから重力波?何かのテクノロジーで読み出しができれば、地球にいながら別銀河文明の痕跡も知り得るかもしれない。
と考えてしまいました・・・
そして
モルフォジェネティックフィールドと「キリング・ホライズンは量子の重ね合わせをデコヒーレンスする」から
モルフォジェネティックフィールドによって時空に波動性が記録されていく可能性があるなら
それなら強烈な波動性の感情も時空に記録される?梵天に?
つまり、銀河系の中心にある超大質量ブラックホールに?
しかも、感情は形ある人間にしか発生しないので他の動物は共鳴しない仕組み?
ブッダの言うように人間の「パワーか?フォースか?」の本でのパワーレベルを上げて
自ら変わることで良い感情と共鳴しないと憎しみの連鎖も変わらない?
終わらない?
トポロジカルな輪廻転生や最新数学から明らかになっている概念を古代エジプトやそれ以外の宗教概念(パワーか?フォースか?で言う200以上の数値)と組み合わせて・・・
人間にも理解できるように現代的に数値化できないかを考察した。及び、将来の量子コンピューターで計算する可能性やその道筋を示していく。
あの世までは数値化できないが、手前のサンスクリット語でいうパーラミター(彼岸領域)までだけど・・・
「パーラミター」は「波羅蜜多(はらみた)」とも言います。般若心経です。
もう一度、研究論文「Killing Horizons Decohere Quantum Superpositions(キリング・ホライズンは量子の重ね合わせをデコヒーレンスする)」からのインスピレーション。
ブラックホールの周辺に存在する量子の情報も記録しているなら「梵天」や「アカシックレコード」が、実は、銀河系中心の超大質量ブラックホールのことかもしれない。
このレベルの巨大な記憶装置なら原初の宇宙からの全記録をしていても不思議はない。
仏教の無明にも概念が似ているし、量子タングルメントがブラックホールと人間の脳と相関作用して
宇宙際タイヒミューラー理論からアクセスして読み出してるメカニズムがあるかもしれない?
続いて
この仮説に死の瞬間の走馬灯をデータ化した情報を聞いてさらにインスピレーションがきました。
それは、超大質量ブラックホールに死の瞬間の人の記憶がタイヒミューラー理論で量子エンタングルメントにより記録されているとしたら?
つまり、アカシックレコードに記録されているとしたら?
人の死の際に走馬灯。つまり、走馬灯がよぎると言うデータが、死の直前に夢を見ている。もしくは記憶を再生して、何十倍ものスピードで記憶を再生していると言う解釈から
ひらめいたことが1つあります。
もしも死の瞬間に、その激烈な感情を自動的に沸き起こす人間の走馬灯システムが超大質量ブラックホールにアップロードされるための起動スイッチかも?
そのスイッチが入るために、アップロードできている?
または、アップロードするために、感情を一時的に死の瞬間に高めることで、超大質量ブラックホールに記録していると言う可能性が考えられます。
肉体の方は死を迎えるが、そういう意識は、感情を高ぶらせることで、超大質量ブラックホールに記録される
肉体の方、肉体が死を迎えても、意識の方が超大質量ブラックホールに記録されているので、その次の世代に生まれ変わったときに、さまよう意識が・・・
胎児へ回帰し、iPS細胞みたいにリプログラミング。また、そこから超大質量ブラックホールにアクセスしダウンロードでき���ような仕組みが?
もしかしたらタイヒミューラー理論と合わせて数学的なそういう裏付けで証明できる可能性があるかもしれないとひらめいた。
検証不可能だから、ただの仮説ですけど・・・
必ずパワーの高い方向に進む歴史の巨大な流れに「もしも?」が無いのは、これが理由の一つかもしれません!
「エントロピー」とも呼ばれます。「意識のマップ」はこれを詳細に言葉にして分けたような感じがします!
映画や小説のように、物理的に逆には、進みません!国内に混乱を産み他国につけ込まれるため思い違いしないように!と最後に警告しておきます。
ほんの一部なので、エピソード11 Episode11以降で続きを書く予定です。
もう一度、ちなみにホーキンズ博士は、メンサ会員でした。
<おすすめサイト>
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ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon
エピソード9 Episode9 - 各宗教と政治のチェックと指標について「パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon」
エピソード8 Episode8 - 知恵が試されるバランスとテーラワーダ仏教の「結び」、マクロ経済学(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
エピソード7 Episode7 - テーラワーダ仏教の「結び」と意識のマップ、マクロ経済学について(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
エピソード6Episode6 - アトラクタフィールドと人類の歴史について(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
エピソード5Episode5 - 宗教の創始者たちの概念上の教え(パワーか、フォースか―人間のレベルを測る科学 - Amazon)
エピソード4Episode4 - 政治の善性について(パワーか、フォースか―人間のレベルを測る科学 - Amazon)
エピソード3Episode3 - Light clean since there is also in the darkness闇の中にも清浄な光が存在(パワーか、フォースか―人間のレベルを測る科学 - Amazon)
エピソード2Episode2 - パワーについて(パワーか、フォースか―人間のレベルを測る科学 - Amazon)
エピソード1Episode1 - オリンピックとパワー(Olympics and Power)について(パワーか、フォースか―人間のレベルを測る科学 - Amazon)
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拷問する者はな、ano、霊命体、野生動物の、すべてを、まず、自分の側に、つけるところから、始まるんだよ、ano。それには、まず、彼らを、心から、愛し、敬う、気持ちを、持たないと、決して、自分の、側には、ついて、くれない。そう、ここを、クリアできたら、拷問が、任されるんだよ。ano。爺ちゃん🦠仏様からな。つまりは。
なんでかと、言うと、結局、拷問してて、不安になるんだよ。その、自分が、やってる、仕事が、本当に、間違ってないのか?😰という、不安になる。しかし、すべての、霊命体が、自分の側に、ついたときに、初めて、わかるんだけどさ、正しい者と、そうでない者の、区別が、もう、くっきり、はっきり、見える目👁🗨👁🗨が、与えられるんだよ。つまりはな。
でも、これは、俺は、良いことだと、思うんだよ。つまり、幽霊を、恐れる心とは、つまり、彼女たちを、あまく、見てないということで、彼女たち、幽霊は、キチンとした、態度で、接してくれるわけだよ。ano。いいか。
佳子や、りんごには、これは、できないから、ano、お前が、仏様🦠に、なることを、俺ではなくて、爺ちゃん🦠仏様🤡が、決めたんだよ。勿論、結婚することは、俺から、爺ちゃん🦠仏様🤡に、営業かけて、ママ☁ママ🙆⭕にも、OKを、もらい、なおかつ、慎吾が、しっかり、anoを、教育が、果たして🤔できるのか🤔という、爺ちゃん🦠仏様🤡から、厳しく、審査、されて、それで、ようやく、⭕🙆が、もらえたから、つまり、俺と、ママ☁と、爺ちゃん🦠仏様の、ファミリーに、anoが、受け入れられた、という、わけなんだよ。爺ちゃん🦠仏様🤡は、1度目の、霊界の、再臨のときに、慎吾、すまん😅anoの、こと、わし、好きになって、もーた😅🖐️って、言われて、俺が、じゃ、しょうがないな😢って、なったときに、🤡?爺ちゃん🦠仏様🤡の、大大大目玉、食らって、最初に、俺は、爺ちゃん🦠仏様🤡に、殺されたんだよ。つまり、警察に、保護されて、両親の、アパートに、送られた日に、俺は、爺ちゃん🦠仏様🤡が、イエス・キリストを、うまいこと、試しにつかって、イエス・キリストが、俺を、さて🤡どうするのかのぉ?👁🗨👁🗨?と、なって、俺は、つまりは、イエス・キリストに、直接的に、殺された、という、わけなんだよ。ano。
もうじき、霊界に、永久溺れ✊🤓✊の、水族館が、設立されるころ、じゃよ、ano。無知善人は、年に一度は、必ず、永久溺れの、見学会に、参加することが、義務付けられたのじゃよ。
今、地上に、生息する✊🤓✊が、これから、どんどん、地上から、減っていき、そう、霊界の、水族館の水中に、収納されて、いくのじゃよ。ano。
さしてさ、😂拷問の😂最終形態はさ😂こっちは、拷問してる、つもりが、ないのにさ😂勝手に、拷問してる、らしいんだよ😂
で、そうなるには、インマヌエル期間を、経験する、必要が、あるんだよ。
さしてさ、😂拷問の😂最終形態はさ😂こっちは、拷問してる、つもりが、ないのにさ😂勝手に、拷問してる、らしいんだよ😂
で、そうなるには、インマヌエル期間を、経験する、必要が、あるんだよ。
そう、この顔に、なるには、😂インマヌエル😂相当、😂爺ちゃん🦠仏様🤡に、😂拷問される側の😂心理を、学ぶ😂期間だった、😂らしいんだよ😂どうやら😂
で、ano、酷なこと、言うけどさ、😂そう、😂霊界の、再臨は、2回あるから、😂その期間が、😂お前の、😂インマヌエル期間😂なんだよ😂ま、なんとか、なるよ😂頑張れよ😂🖐️
そして、野生動物、霊体と、友達になると、いつの間にか、ほんとに、いつの間にか、非の打ち所が、ない、霊体と、創り変えられていくという、わけ、なんじゃよ。
そして、ano、実は、霊能力、与えられる前の、今の、期間が、とても、その後の、anoの、武勇伝の、なかで、大事な、とこに、なって、いくんだからな。ここで、どういう、ことを、つまり、到底、不可能と、思えることに、挑戦しているのか?いないのか?を、その後の、霊体たちが、anoが、舐められる存在に、なるのか、?ならないのか?と、なるんだからな😂だって、今、俺が、関係してる、霊体みんな、なんの、霊能力与えられていないときに、宗教や、自然や、動物たちに、勿論、神や仏様🦠に、興味を、示し、地上の、生き方を、そちら側に、委ねた、霊体の、集まり、なんだからな😂佳子😂
つまり、今、生きてる、人間に、いつまでも、いつまでも、依存しているということは?😂佳子?ano?😂お前らが、霊体に、なったとき、先輩霊体たちが、どう?いう、会話を、して、いいのか、😂つまり、困るのよ😂お前ら😂
そうそう😂そういう、階段の、はなしをさ😂深夜三時に😂毎回、やることが、つまり、天に、富を、積む、行為なんだよ😂ano😂そう、つまり、幽霊たちを、生きてる地上の、人たちに、伝えるということは、😂宗教者なんだよ😂そう、そういう人もさ😂立派な、宗教者だよ😂つまりさ、その、幽霊とか、宇宙人の、はなしをさ、😂色んな、ネットやら、書籍やらで、日々、収集しろよ😂で、それを、お前は、発言権を、つまり、有名に、お前が、今、なってるのは、😂その、ためなんだよ😂前も、これ、言ったけど😂りんごも、佳子も、anoも、そのために、有名な、環境に、身を、爺ちゃん🦠仏様に、おかせて、もらってるんだからな😂お前らの、脳の、考え方に、適切な表現に、置き換えた、けどさ😂最後の、文章は😂
42 タイム😃🫵
結局さ、😂俺の、文章ってさ、😂多々、矛盾してるとこ、あると、思うんだけどさ😂爺ちゃん🦠仏様やら、女の、村上春樹先生の、本の女の、幽体が、言うにはさ😂そう、😂その、矛盾に、気づいてもさ😂そう、頭に、ひらめいた、ことを、😂とにかく、言葉にしたり、文章に😂起こす😂指示😂されてるからなんだよ😂ま、何度も😂言ってるけどさ😂この、話は😂な、つまり、→🕳
の、ため、なんだよなぁ😂
もう、俺の、脳🧠の、ひらめきはさ、😂→🕳の、ため、つまり、歩く🕳カルマ🚗男と、霊界でも、😂そう、俺の、今の、あだ名に、なってんだよ😂
でさ、😂まーた、毎度✊🤓✊
吸い寄せられて😂くるよな😂てか、😂おまえなんか、会ったこともないんだからさ😂勝手に、俺の、投稿、みんなよ😂な😂頼むから😂
いや、😂これ、さ、その、見続けても、😂悪く、なる、一方なんやからさ、😂さっき、伝えたこと、とにかくさ、今、やれや
結局さ、これ、仕事なんやから、そこ、割り切るのよ😂ano😂やらな、いかんことは、やらないかんのやからな😂
で、実際、この、仕事、俺より、キヨコ👾の、ほうが、スパンスパン、いくのよ😂だから、今も、俺、キヨコ👾の、部下なんよ😂そう、子供の、残酷、純粋性を、😂俺より、持ってるから、尊敬、してる、わけよ😂
そう、コイツら✊🤓✊人間関係、崩すために、これ→👎 つくったん、やからな😂そう、間違えて、わざと、押しやすい、配置、まで、計算、してるわけよ→✊🤓✊
無知善人はさ、😂そりゃ、こんなこと、😂気づかんというかさ、😂考えたことすらないというか、😂そんなこと、発想、できない、わけよ😂そもそも😂だから、危険なんよ😂だから、霊界の永久、水族館の、✊🤓✊を、年に一回は、必ず、見学させようぜって😂コイツ→🫠 俺に、😂教えてくれた、わけなんよ😂頭、エエな、😂さすが、😂わしらの、子供やで、ano😂
俺の、死んだ、婆ちゃんだよ、この、体半分、こっち、見てるの
これから、色んな、人たち、消えてゆく、らしいよ、婆ちゃんからの、君ら、✊🤓✊への、プレゼント🎁だとさ
でさ、😂これ、ブーメランの、法則なんやけどさ😂そう、天に、ツバ吐いたら、😂我の、顔面に、落ちてくる、ツバ=罰😂な😂
これから、色んな、人たち、消えてゆく、らしいよ、婆ちゃんからの、君ら、✊🤓✊への、プレゼント🎁だとさ
永久溺れ、体操座り、閉所恐怖症、冷蔵庫【フリーザァァァ】、逆さ永久
おまえら、仲良さそうやからさ、😂ムカデ人間で、深海に、永久溺れの、期間、もうけたるわ、でも、あの、野蛮な国家で、少年として、死を、とげる期間が、スタートやからな
なんか、おまえら、仲良さそうやからさ、😂ムカデ人間で、深海に、永久溺れの、期間、もうけたるわ、でも、あの、野蛮な国家で、少年として、死を、とげる期間が、スタートやからな
ちなみに、ムカデ人間は、前の、奴の糞💩、食いまくる、悔いまくるん、やからの😂そりゃ、😂楽しみじゃわい😂わし😂
✊🤓✊💬クズ
だってよー😂
✊🤓✊💬クズ
だってよー😂
てか、ないけどさ、これは、ないんやけど、俺が、逆の立場なら、もう、そこの、コメント欄😂とっくに、消してると、思うよ😂で、お前ら、無には、😂ならへんからな😂そう、永久溺れ✊🤓✊なんやからな😂そうだよ😂従業員も😂全員、永久溺れたい😂そう、お前みたいとこに、吸い寄せられるということは、😂永久にして、エエ奴ら✊🤓✊の、集まりなんやから😂これは、😂すべての、SNS、インターネット関連者に、対して、😂言えるんやからな😂つまりは、😂
ジョブズは、😂禅仏教に、もとづいた、インターネットの、仕事したから、😂祝福なんよ😂そう、アイフォンの、ボタン、一つにしたのはさ、😂前も、言うたけど、禅仏教の、断捨離から、無駄な、ボタンを、はぶく、という、アイデアを、😂ジョブズは、😂やったん😂よ😂
君たちは、耳を、小端立てて、私の、話しを、聞いているようだが、そもそも、私が、誰、なのか、知っているのかね
そう、私は、アドルフ・ヒットラー、なのだよ
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10月某日
松岡美術館に訪問。 『アメイジング・チャイナ 深淵なる中国美術の世界』(及び2F企画展他2室)を鑑賞。
長いのかわからないけど、2200字くらいあるから畳む。
(若干の修正および10月29日追記)
「アメイジング~」展示作品に関しては、前回(2023年1月)訪問時にいくつか既に鑑賞したことがある作品も出ていて、(というか書画は半分くらいそう)ただし文徴明の作品については前回おそらく展示ケースの都合で題跋までは広げられていなかったため、今回は全幅展示となっていて、初鑑賞部分もあった。
沈周「縹緲峰図巻」(前期展示)
以前訪問時、旧ツイッターで「徴明」の「明」が抜けていたため、後から書き足されている件について呟いたけど、そのすぐ上で唐寅(=子畏)の記載があることに気づいておらず、今回初めて知ったのだった。今更でお恥ずかしい。
作品の良し悪しなどには全く不明ながら��沈周がこの若い二人の友人と楽しく過ごしたのだなあと思いながらの鑑賞はなんとも良い心地がしたのだった。 後に老いた文徴明も、かなり年の離れた友人とも親しく交流していたというけれど、蘇州のこういった分け隔てのなさという気風がそうして受け継がれていたのは良いですね。
こちらの作品は今回他3作品と合わせて蛇腹の折本(表裏に2作品ずつ印刷)になって2,000円で販売が始まっていて、松岡美さんってオリジナルグッズに対してフットワーク軽やかだな…と思ったのだった。買って帰った。
ちゃんと頁下部に釈文も載っていて、親切設計がすぎた…。 さらに前回ファンになった武丹(ぶたん)と張崟(ちょういん)も掲載されている。最高。ありがとう…ありがとう…。 こちらは板倉聖哲先生の監修なんだね。この方は根津美の『北宋書画精華』監修者でもある。
文徴明の作品「東湖草堂図巻」(前期展示)についても…と書いていて、撮ってきた画像を見返してて大勘違いに気づいたのでそれは削除したのだけど、解説パネルの文徴明生没年、沈周のになってるな?
沈周 1427~1509 文徴明 1470~1559 何れにせよ、こちらは文徴明75歳時の作品、ということでいいのだろうか。
この3年後、「停雲館帖 巻11 祝允明書」が刊行されるんだな。 一冊まるごと祝の書だけ載せた法帖…ほんと文先生は祝允明の書好きだよね…ってなる。(絵の話してない…)
董其昌跋文 今回董其昌の作品自体は展示になかったけれど、陳廉『山水画冊』(前期中に展示替え有)に董其昌とその友人(陳継儒)がそれぞれ題跋をつけている。 二人に挟まれて跋文書いてる董孝初は詳細不明の松江の人だそうで、董其昌の親族というわけではないらしい。 この作品は以前も展示されていた。
この董其昌の跋文にある、「恵崇(えすう)」という僧侶の名前をつい最近見た記憶があって、帰宅後に調べたところ、旧ツイッターで狂言師の方が演目に関連して呟いていらしたのを数日前に見かけていたのだった。
こちらは蘇軾の友人兼弟子にあたる黄庭堅が詠んだ詩が引用されているということだったけれど、蘇軾にも恵崇に関わる詩はあるようだし、蘇軾の上司兼師匠の欧陽脩からも贈られた詩があるとか。
百度百科には董其昌の恵崇への言及についても触れられていて、巨然と並ぶ才能の人として扱っているよう。 画禅室随筆にも同様の文が見えるし、今回の陳氏の跋文にも巨然の名前が出てくる。(読めませんが) 文中で触れられている「江南画巻」(1行目末尾から2行目冒頭部)というのは、多分恵崇の「沙汀煙樹図」(この字で合ってるかは自信ない)のことかなあと思った。江南水郷を描いた画巻だとか。
恵崇は前述の蘇軾たちから愛されたことから解るとおり、北宋の人。福建省建陽の僧侶だそうで、詩と画に高い才能を発揮したのだとか。 ただし、現在恵崇の絵画作品はひとつも残っておらず、写しなどから画風を知るに留まるよう。
(10月29日;追記) 岩波文庫「蘇東坡詩選」に恵崇に関する題画詩二首が掲載されていた。 見落としとった。 画題は「春江暁景」。 二首目が江南の初春について詠んでいるようなので、江南に因んだ絵だったのかもしれない。 -------------(追記ここまで)-------------
台北故宮博には恵崇で検索すると普通に作品がヒットするけど、これも真作ではなくて写しなどだろうけど、王羲之などと同様、大陸由来の作品って、既に真作が失われたことが常識の場合、その辺明記せず作者名そのまま載せることあるのかなあ。
ついでに陳継儒の跋文にある、「南宮」はもしかして米芾のことだろうか。
米芾の絵画手法には「米点」と言われるものがあったそうだけど、恵崇同様、米芾の絵画作品も残存していないので、息子の米友仁の作品を手掛かりにするしかないとかじゃなかったかな。 書は結構残ってるのにね。
沈顥(しんこう)「拈古山水画冊」に趙孟頫について言及があったけど、何書いてあるのかわからん。残念。
ていうか(題跋などで)趙孟頫のこと普通に趙孟頫って書く人珍しい気が。(大体字(子昂)か号(松雪)か諡(文敏)か、趙呉興表記)
なんか書き足すことあったら別記事立てる。 絵画作品についてしか触れてないし。
迫力という点については、明清絵画展示より、今回取り上げきれなかった金銅仏と陶磁器、玉器群の方が見応えがあると思った。漆器は個人的に苦手な彫漆なので言及し辛いかなあ。
陶磁器群については他館の特別展と合わせて考えたいような気もする。
ところで以前から松岡美さんは「写真撮ってもいいけど無音でヨロ」ってルールだったんだけど、ここにきてさらにiPhoneのLive Photos機能も名指しでダメ出しされてて笑った。
でも実際には無音カメラアプリ使ってるの私くらいだったよ。 なんならノーパソぱちぱちしてる人もいた。 シャッター音だめならキータッチ音もダメなのわかるじゃろ…。
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グリーンの色打掛 2023/09/29
皆様こんばんは。 いつもトップウェディングのブログをご覧頂きましてありがとうございます。 本日はシックで大人っぽくお召しいただける色打掛をご紹介させて頂きます。 ITEM NAME : 1121「華飾飛翔幔幕文」 彩り豊かな幔幕を張り巡らし、雲取りで場面を仕切った大和絵を思わせる図柄です。 婚礼の儀に相応しく、手書き友禅の図柄を総絵羽で表現して、より重厚、ボリューム感、…
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かわいい箸置きで食卓を楽しく!
かわいい箸置きで食卓を楽しく! : Leon nano blog
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会うのはいつも女性
Tuesday 11 November 2014
真観は、禅寺に行けなかった。
7時5分のバスに乗り東京へ向かった。 10時、真観は、田無駅にて友人の画家Kとその友人Sさんと会った。3人で駅前のインディアンレストランに行ってランチを食べながら自己紹介と撮影の打ち合わせをした。真観は、近くSさん家族の家族写真を撮る。カボスを2人に3個ずつプレゼントするとKからは日本酒のゼリーとお菓子、Sさんからは、月初め石垣島に行った時のお菓子を貰った。
その後新宿に戻り、下北沢駅経由で駒場東大前まで移動。3時、池尻に住むMちゃんのお母様に写真を届けた。約1.5時間お母様とおしゃべり。コーヒーとバームクーヘンを頂いた。今日は、Mちゃんのお父様の一周忌の写真の納品だった。真観は、おしゃべりの最後にサプライズで真観が制作したBOOKを見せた。お母様は大層喜んでくれた。そして後もう2冊増刷して欲しいと言われた。真観、今回もサプライズ制作は成功した。帰り際、やはりカボスをお母様に3個プレゼントするとお母様から長野で製造されたワインを1本頂いた。
Mちゃんのお母様の家を出て近くのバス停から東急本店行きのバスに乗った。約束の時間まで少し時間があったので中古レコード店でレコードを物色。特に欲しいレコードはなかった。6時20分、ドンキホーテ前でYちゃんと再会。Yちゃん相変わらず綺麗で可愛かった。Yちゃんの知り合いのお店へと歩く。その店は神山町にあった。店に入り、2人共お酒は飲まず料理だけ���文した。真観は、Yちゃんに「例の写真」を渡した。Yちゃんは、ビックリして喜んでくれた。正解だった。おしゃべりしていると時間はあっという間に過ぎお店を後にした。真観は、マークシティのバス停留所から9時5分発のバスに乗って静岡に帰った。カボスもYちゃんに3個プレゼントすると両方から高円寺の「踊り子サブレ」を頂いた。
真観は、4人の女生徒会った。 真観のコミュニケーションは殆ど女性だ。 それは何故か?真観が独身だからか? よく分からないが日本人の男性とのコミュニケーションは少ない。
今日のカボスと「そのお返し」は不思議だった。 久々に「トランシーな出来事」を書こうと思う。
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Steamセールオススメなやつ2023
2021年のやつ、気分に合わせて紹介します
血みどろ・退廃した世界に行きたい
Ultrakill(日本語未対応・対応予定不明) 血を燃料にして地獄で天使に反逆したりする物騒なロボのレトロ(?)FPS。「血が燃料(Blood is Fuel)」ってなんやねん、って思うけど近くで返り血浴びるとソフトダメージ分が回復する仕様。 単純にエイムが上手ければいいというわけでなく、色んなテクニックがあって個人のスキルによってプレイ感覚が変わるムーブメントシューター。クラシックFPSなQuakeと爽快なアクションはDMCとかに影響受けてるらしくなんか色々できる、巷ではBoomer Shooterって言われるのかもしれん、オモロイネーミングだなとおもう。 上手くなってく感覚がムチャクチャ気持ちがいいし、あ~返り血もっとくれ!と素直に思えるようになる。いいね! 各ステージに隠しステージ、またミッションがあり、全てをP(パーフェクト)ランク取ることで戦える隠しボスもいる。アホみたいに強い。100回以上死ぬ。 Wave制で延々と戦えるモードもあって、アプデ毎にスコアボードが更新されたりする。友達とスコアも競える、やったね。
SCORN 退廃した肉肉しく性的でグロテスクでおぞましいのに静謐で綺麗な世界を探索するパズルアクション?ゲーム。 ゲームプレイはほぼウォーキングシミュレーションでパズルも難しくて少し人を選ぶけれども、空っぽで虚しくて自分の肉体に支配される現実が気持ち悪くてでも綺麗で、血みどろになっても存在するマゾヒズム的な苦しさが気持ちいい!って感じがした。ともかく綺麗で気持ちが悪いので、そういうのが好きならオススメです。バレあり感想
Stray ねこちゃんになってカーペットやカーテンを傷だらけにできる ねこちゃん視点で暗い地下に住むキャラクターたちの生活、人間性を垣間みれる ねこちゃん視点でその苦しさ、危うさをかんじられる ねこちゃん視点で陽の光はあったかいんだなっておもえる
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何が起きているんだ
Inscryption 普通にすごく面白いカードゲームだと思う。バレあり感想 Inscryptionをやったら同作者��前作The Hexもオススメ
Immortality Her StoryのSam Barlowさんの最新作。 Marissa Marcelという行方しらずとなった女優について、一度も日の目を見なかった彼女が出演した映画3作、レイトナイトショーのインタビュー、舞台裏などの映像を順々に見ていってパズルピースをはめていき、何故映画は一度も放映されなかったのか、Marissaに何が起きたのか、彼女はどういう人物だったのか、というところを紐解いていく。 人が考える「美術」、「宗教」、「自己」にある地続きな永続性、というかそんなものある?みたいなところをぼんやり考えさせられる。Her Storyをやったことがある人ならどことなく入りやすいかもしれない。
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何も考えたくない
Tetris Effect Connected Tetrisでco-opができるし、Journey Modeというソロでテトリスし続けるモードで曲と演出に泣きそうになった。テトリスなのに…。 マルチの対戦・co-opも楽しいことはもちろんながら、各ステージの演出がともかくキレイで曲もよくソロで出来る色んなモードでぼんやり時々やってしまう。癒やし。
Cookie Clicker ゴールデンクッキーx777とx7Multiplyer重ねがけからの神殿のゴジラ使って農場を150個売ってx150%の効果、これでクッキーが808.5倍x30秒!
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ほっこりしたい
Coffee Talk ファンタジー設定なシアトルでコーヒー屋さんをやりながら色んなお客さんと出会うビジュアルノベル(?)。 それぞれの種族間にある文化や価値観の違いに苦しむカップル、通じ合え無い親子、「地球」で番を探す宇宙人、いろんな人たちと関わり合いながら自身の創作と向き合うライターなど、様々な悩みや人生を聞いて会話しながら、温かいコーヒー一杯だけ飲んでちょっと息をつく作品。Episode 2も1をやったらオススメ。
Unpacking 「引っ越しの後の荷ほどき」がゲーム、すごく地味に思えるテーマなのに環境から伝わってくる主人公の人柄とストーリーが温かい。 部屋をキレイにすると心がスッキリする気がするけど、そんな「禅」な気持ちを少し得られる。好きなものとか大事にしたいもので部屋をいっぱいにできて、それを一緒に大事にしてくれる人といれるのは素敵だよねと思う。
Citizen Sleeper(日本語未対応・対応予定不明) 衰退した資本主義コントロール下にある宇宙のコロニーで目を覚ます半分メカなSleeperという主人公の視点で描かれるSFヒューマンドラマ。 日毎にダイスがランダムで決まり、そのダイス結果を使ってミッションやクエストを進めていくTTRPG的なゲームプレイの中で、コロニー内で出会うキャラクターたちの生き様や思想を感じ触れていって、プレイヤーであるSleeperの行動を一つひとつ決定していてしっかり「生きていく」感じがとても良かった。 文体も非常に読みやすく、現実に存在する社会体制について風刺も感じるディストピアン的な面もありながら、そんな中で毎日を必死に生きようとする人たちの群像劇的な見せ方がすごく面白くて大事に思える作品。 テキストヘビーな作品ではあるので、日本語対応されることを切に願います。
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フロムゲーしたい
全部Sale中、しかも今回は前年のGOTYでDLCも予定されてるElden Ringまでお得なんて…すごい…… Dark Souls Dark Souls 2 Dark Souls 3 Sekiro Elden Ring
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セール関係ないけどTeam Fortress 2 (2007)っていうゲームはFree to PlayなのでSteamのアカウントがあれば誰でも出来ちゃうヒーローシューターらしい…
カオスなゲームにキャラクターと世界観がすごく魅力的ながらロアを描いた公式コミックの最終話が6年出てないなんてそんなことあるんでしょうか。
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現在のテーマは「禅語を判じ物にして和柄を作る」→「それを応用してパッケージかおみくじを作る」というざっくりとした内容。
このテーマになった経緯
伝統文様は調べ尽くされてて今更取り上げるべきこともほとんど無い。親しまれすぎていることが難点。じゃあ柄の構造そのもののに着目すればいいのでは?とも思うけどパターングラフィックの構造研究なんかずっとやられているし、伝統文様は完成されすぎている。じゃあ日本で長い間着物の柄としても親しまれている縞柄や格子柄について取り上げる。でも昔からありすぎて由来も何も無くて特に調べる要素がまるで無い。そこで目をつけたのが判じ物。マイナーだけどそこそこ知られていて、クイズみたいで超楽しい上にテキスタイルデザインだからめちゃくちゃ面白いってところを見せたい。
現在の問題点
しかしそこで面白さを見せるための媒体がパッケージとかおみくじでいいのか?というところに疑問が残る。禅語と判じ物の関係性についても微妙だ。そもそも判じ物には歌舞伎役者の名前を使ってたんだから、現代に蘇らせるなら漫才師のスーツの柄と��にしちゃえば?とも思うし。判じ物の特性上、芸名だったり人の名前をモチーフにした方が理にかなってるし役割もあってる。
禅語の歴史や字典も買って調べてるし、判じ物や和柄のパターンについても調べるけど、研究として浅〜〜〜〜〜〜〜い気がする。高山先生ならなんて講評するのだろう…と思い悩むばかりです。新しい視点でものを作りたいけど、それは基礎とか歴史を深く踏襲して現代において何と結び付けられるのか考えないと表層をなぞったものになってしまうような…。
就活について
これ書いてる時は深夜なので恐ろしく機嫌が悪く卑屈です。まるで怨霊。つまりTwitterで友達が内定もらってやった〜!!!ってなってる時に「おめでとう!」の一言もリプライできない状態ってことです。祝う気持ちはあるのにね…。
でもどんな結果になってもずっと仲良くいたい!私がフリーターになっても!近況報告しあえる人でいたいから!!!!!
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ポケモン×工芸展
麻布台ヒルズギャラリーで「ポケモン×工芸展 美とわざの大発見」を見る。2023年3月に国立工芸館から始まった同展の巡回展で、ベテランから若手まで20名の工芸家がポケモンを題材に作品を制作するというコンセプトが魅力的である。自分はポケモン未履修なので世界観もモンスターの名前も何もかもよく知らないのだが、それでも大いに楽しめた。とはいえ元ネタは軽く確認したいので、ポケモンの名前や性質についてはポケモンずかんを参照した。
作品そのものももちろん良かったが、展示会場内で流れていた制作現場の映像がとても興味深かった。制作の過程をほんの少し知るだけでも作品を見るときの解像度が少し高くなる。しかし紹介されていた作家は少なく尺も短めだったの��残念。可能なら制作の模様を映像でもっと見たかった。会場で長い動画を流すのは難しそうなので、公式サイトに長めの動画が用意されていればよかっただろうと思う。
以下おおむね展示順に。
吉田泰一郎によるシャワーズ、イーブイ、サンダース、ブースター。銅とその化学変化を活かした作品。
金属で表現された、この毛並み感。眼球は七宝の輝き。
今井完眞の手びねりの陶。ゼニガメ、コイキング、フシギバナ、キングラー、アーボック。
上の画像の中央にいるフシギバナはチラシやポスターのメインビジュアルに選ばれている。たしかにこの面構えなら選びたくなる。
福田亨の木象嵌による作品《Floor》。一見すると地味だが、畳の模様などももちろん木象嵌で、細かいところまでしげしげ見る工芸品らしい楽しみがある。
満田晴穂の《自在コクーン・スピアー》。コクーンが進化するとスピアーになる、その二者を組み合わせた作品。
葉山有樹の《森羅万象ポケモン壷》。めくるめくポケモン世界に吸い込まれそうな絵付。
須藤玲子《ピカチュウの森》。垂れ下がっている黄色いものは全部ニードルレースのピカチュウである。
新實広記《Vessel -TSURARA-》。ポケモンの技「つららおとし」をテーマにした作品。このガラスの物体を覗き込むようにして鑑賞することが意図されている。
田中信行《無題》のテーマはポケモンの技「かげうち」で、漆の作品にふさわしい。角度によって形が違って見える。
城間栄市の紅型。これは展示室出口近くの映像に制作の情景が映っていた。
池田晃将のサイバーな螺鈿作品、《電光投擲捕獲箱》《未知文黒御影茶器》。二度見三度見しても飽き足らず何度見でもしてしまう。これも出口近くの映像に制作場面あり。
池本一三のガラス作品シリーズには、携帯型ゲーム機を初めて触った作家がポケモン(ソード・シールド)をプレイしてついには殿堂入りまで果たしたという道程が結実している。
林茂樹《月光 Pokémon Edition》。ポケモンというとつい多様なモンスターを思い浮かべるが、これはモンスターではなくポケモントレーナーにフォーカスした作品。磁器製。
坪島悠貴の可変金物。これは動くところが見どころなので、展示品の隣にそれを見せる映像があった。
桑田卓郎のピカチュウ焼きもの各種。窯業地美濃の量産技術が活かされており、工芸はなにも一点ものの芸術品ばかりではない、むしろ量産されるモノのほうが本道だよなと思い出させてくれる。
水橋さおりの友禅。あまり和装したい欲はないのだけれどもこういう着物ならちょっと着てみたいかもしれない。
田口義明《乾漆蒔絵螺鈿蓋物「遊」》。漆、蒔絵、螺鈿と、伝統工芸の技術が集結している。
人間国宝、桂盛仁によるルギアの香合。
小宮康義の江戸小紋。地味な着物等が掛かっているようにしか見えないし、最大限近づいても、なんなら単眼鏡を使っても、文様がとても細かいのでモチーフがわかりにくい。しかしパッと見にはわからない、誰にでもわかるものでもない、見る人が見ればわかる、というのはまさに江戸の粋であろうと思う。
鑑賞後に特設ショップで購入した、ゲンガー・ゴーストの江戸小紋くるみボタン。ここまで近づいてもなお一目瞭然では全然なく、「見る人が見ればわかるかもしれない」レベル。
桝本桂子の陶芸作品多数。ぶんぶく茶釜などを想起させるような造形の焼きもの。どれもかわいかったが個人的にいちばんかわいいと思ったのが下の2点。ロコンとマホミル。
植葉香澄の陶の作品は伝統文様が特徴的。下の画像はポスターのビジュアルのひとつに選ばれた《羊歯唐草文シェイミ》。ポスターのは真正面から撮った写真なので、横顔を。
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