#加央土司
Explore tagged Tumblr posts
Text
资源合集
公开部分资源列表,方便大家查找,此列表每季度更新一次。
【日本】nikumikyo+きょう肉肉
【日本】あんにゅい豆腐
【中文-0~9】51酱
【中文-A】Akisoso秋楚楚+秋楚楚不秃头+秋楚楚提不起劲
【中文-A】Arty亚缇
【中文-A】AsamiSusu苏苏+RolaKiki
【中文-A】阿半今天很开心
【中文-A】阿包也是兔娘
【中文-A】阿拉希武器酱
【中文-A】阿权拯救世界
【中文-A】阿兔酱
【中文-A】阿薰Kaori
【中文-A】啊日日Ganlory
【中文-A】爱老师_PhD
【中文-A】安久奈白+Pr社
【中文-A】暗里着迷
【中文-A】嗷大喵
【中文-B】banbanko+半半子
【中文-B】Bowknot酱
【中文-B】白白MM
【中文-B】白虎福利姬
【中文-B】白虎萝莉沫+沫沫酱+沫直
【中文-B】白莉爱吃巧克力
【中文-B】白桃露露
【中文-B】白桃少女
【中文-B】白袜袜格罗丫
【中文-B】白烨
【中文-B】白易子教主
【中文-B】白银81
【中文-B】百合味七七酱
【中文-B】抱走莫子
【中文-B】爆机少女喵小吉
【中文-B】北京天使
【中文-B】北之北
【中文-B】贝儿酱Miki
【中文-B】不呆猫
【中文-B】不太皮+不许凶然然+少女和猫
【中文-B】布丁大法+我是一只啾+Pr社
【中文-C】Cazi姬纪
【中文-C】Clear_透明+Pr社
【中文-C】才不是虎牙酱
【中文-C】蔡小熊+七七小野樱
【中文-C】仓鼠姬
【中文-C】沧霁桔梗
【中文-C】草莓味的奈奈兔
【中文-C】草莓味的软糖呀
【中文-C】叉魅
【中文-C】叉子宝宝
【中文-C】茶杯恶犬
【中文-C】茶茶moon
【中文-C】茶狸子
【中文-C】超级索尼子
【中文-C】陈甜甜
【中文-C】晨晨宝贝
【中文-C】橙香静静+Pr社
【中文-C】橙子喵
【中文-C】吃货少女希希酱+吃货小绿m+NTR少女+Pr社
【中文-C】吃土的媛媛
【中文-C】吃一口兔子+Pr社
【中文-C】耻樱+小千代+话梅鹿鹿
【中文-C】赤酒央子
【中文-C】沖田凜花RinKa(台湾)
【中文-C】蠢沫沫
【中文-C】次屁啦
【中文-C】次元萝莉幼妹
【中文-C】刺青Poi
【中文-C】从从从从鸾
【中文-D】DADIBABAO的一只喔
【中文-D】dudu小忍+Pr社
【中文-D】大大的小林闲大王
【中文-D】大肉丸Amiee
【中文-D】呆萌橘子酱+Pr社
【中文-D】蛋壳姬
【中文-D】嶋葵
【中文-D】蝶祈
【中文-D】叮叮当
【中文-D】兜兜飞+Pr社
【中文-D】抖娘-利世
【中文-D】朵朵酱
【中文-E】eliza喵喵
【中文-E】eloise软软
【中文-E】ElyEE子+Elyeee
【中文-E】恩田直幸
【中文-E】二佐Nisa
【中文-F】Fushii_海堂
【中文-F】发条少女YoKi+Pr社
【中文-F】肥肥雅
【中文-F】粉色薯条
【中文-F】封疆疆v
【中文-F】疯猫ss
【中文-F】冯珊珊
【中文-F】腐团儿Ikaros
【中文-G】G44不会受伤+G44不会武功
【中文-G】嘎潼
【中文-G】高中一只颖
【中文-G】糕糕萝莉
【中文-G】隔壁小姐姐+Pr社
【中文-G】嗝崽
【中文-G】工口糯米姬+糯米姬ovo+潘达学妹
【中文-G】工口小妖精+Pr社
【中文-G】古川kagura
【中文-G】骨头佬 + 小宠现在是全民学姐 - 時崎狂三 旗袍
【中文-G】瓜希酱
【中文-G】怪蜀黍的乖萝莉+萝莉邻座怪阿松+松果醬心+Pr社
【中文-G】鬼畜瑶在不在w
【中文-G】锅锅酱
【中文-G】果咩酱w
【中文-G】过期米线线喵
【中文-H】HaneAme 雨波(台湾)
【中文-H】豪歌
【中文-H】好玩的江可爱+樱桃味的可爱m
【中文-H】赫连SAMA
【中文-H】黑川
【中文-H】黑川鹤子
【中文-H】黑猫猫OvO
【中文-H】黑米粥
【中文-H】狐狸小妖
【中文-H】胡桃猫
【中文-H】花兮_honoka
【中文-H】花音栗子+金鱼kingyo
【中文-H】黄金二逼王
【中文-H】凰儿
【中文-H】魂下糖君
【中文-H】活捉一只云儿吖
【中文-I】izumi泉桃子
【中文-J】Jesenim
【中文-J】JK铃木希子+工口小幼酱+幼宝小可爱i+幼酱M
【中文-J】JK邪魔暖暖+Pr社
【中文-J】激萌星儿+千叶双子
【中文-J】佳佳好难啊
【中文-J】佳奈(芝加哥打字机)
【中文-J】甲乙丙我姓丁
【中文-J】浆果儿
【中文-J】叫我脚丫子+Pr社
【中文-J】叫小黑
【中文-J】金克丝
【中文-J】尽职的媛媛
【中文-J】镜酱
【中文-J】镜颜欢+Pr社
【中文-J】九九八XY
【中文-J】九曲Jean
【中文-J】九尾狐狸m+可露露+萝莉悠悠酱+甜乙女+香草少女m+学妹超乖+咬一口小奈樱+Pr社
【中文-J】玖尾酱+岁酱
【中文-J】橘猫
【中文-J】菌烨tako
【中文-K】Kanami酱+Pr社
【中文-K】KaYa Huang
【中文-K】KaYa萱
【中文-K】Kettoe
【中文-K】Kitaro绮太郎
【中文-K】kittyxkum+绯红小猫
【中文-K】可爱loli蛋黄姬+Pr社
【中文-K】可爱的胖丁啊+可爱的小胖丁+胖丁不乖哟
【中文-K】可可老师
【中文-K】口水妹
【中文-K】快点亲亲我吖+魔法秋秋
【中文-L】Leah梓未
【中文-L】lovely呆玄
【中文-L】Luisa_零纱纱
【中文-L】Luv_小蜜桃
【中文-L】来自喵星的岁酱@cikey_c
【中文-L】蓝小沂KiKi
【中文-L】懒懒睡不醒
【中文-L】浪漫没有期限
【中文-L】老鼠窜过雨棚
【中文-L】里有
【中文-L】莉莉嗷
【中文-L】莉莉酱
【中文-L】铃铛
【中文-L】铃木美咲+Misaki Suzuki+软软趴在床单上+Pr社
【中文-L】六碗鱼子酱
【中文-L】六味帝皇酱
【中文-L】楼银Emilia
【中文-L】陆卿卿kyokyo
【中文-L】鹿野希
【中文-L】露西宝贝
【中文-L】萝莉的胖次
【中文-L】萝莉液液酱YeYe
【中文-L】洛璃LoLiSAMA
【中文-L】洛丽塔大哥
【中文-L】洛美
【中文-M】miaotutu+Pr社
【中文-M】Miao喵酱
【中文-M】Mika Ying 冉冉(香港)
【中文-M】Miko酱
【中文-M】Misa呆呆
【中文-M】MisswarmJ
【中文-M】Miyana咪呀
【中文-M】Momoko葵葵
【中文-M】Money冷冷
【中文-M】murmure酱+西瓜少女
【中文-M】麻花麻花酱w
【中文-M】麻酥酥+Pr社
【中文-M】马爷
【中文-M】麦兜小可爱
【中文-M】鳗鱼霏儿
【中文-M】芒果酱
【中文-M】猫九酱Sakura
【中文-M】猫君君_MaoJun
【中文-M】猫女王的日常+Pr社
【中文-M】猫田圣奈奈
【中文-M】猫夏小卡
【中文-M】猫型人偶
【中文-M】猫性大扎+Pr社
【中文-M】猫性少女+Pr社
【中文-M】霉可可
【中文-M】美羽miu
【中文-M】焖焖碳
【中文-M】萌白酱+甜味弥漫+Pr社
【中文-M】萌萌的奶卉&闺蜜+Pr社
【中文-M】萌柠少女
【中文-M】萌犬一只+Pr社
【中文-M】萌尾鹿
【中文-M】萌雪雪糕
【中文-M】萌芽儿o0
【中文-M】萌汁
【中文-M】弥美Mime
【中文-M】弥音音
【中文-M】迷失人形quq
【中文-M】迷之呆梨
【中文-M】蜜汁猫裘
【中文-M】蜜汁少女+榨精少女
【中文-M】面饼仙儿
【中文-M】喵喵er
【中文-M】喵鱻姬+Pr社
【中文-M】喵子Nyako
【中文-M】杪夏
【中文-M】名濑弥七
【中文-M】铭铭kizami
【中文-M】魔法少女小柠檬+Pr社
【中文-M】沫小舞
【中文-M】墨嵐
【中文-M】墨玉-M
【中文-M】木花琳琳是勇者+Pr社
【中文-M】木绵绵OwO
【中文-M】木之本果
【中文-M】沐沐是淑女呀+沐沐睡不着m+沐小沐睡不着+蜜桃沐沐
【中文-M】沐浴自然℃
【中文-M】穆零Mu0
【中文-N】Nagisa魔物喵
【中文-N】Naimi奶咪
【中文-N】neko酱
【中文-N】Neko-薇薇
【中文-N】NinJA阿寨寨
【中文-N】娜美妖姬+完具少女+Pr社
【中文-N】奶肌酱
【中文-N】奶酪陷阱
【中文-N】奶狮不咬人
【中文-N】奶糖少女白桃
【中文-N】奈奈肉
【中文-N】奈汐酱Nice
【中文-N】南鸽
【中文-N】南宫
【中文-N】南桃Momoko
【中文-N】尼是老虎
【中文-N】你的负卿
【中文-N】你家大可爱露露
【中文-N】你们的小秋秋+Pr社
【中文-N】你十七鸽
【中文-N】年年
【中文-N】念念_D
【中文-N】念雪
【中文-N】您的蛋蛋
【中文-N】柠檬喵酱
【中文-N】诺儿的小世界
【中文-N】糯米姬
【中文-N】糯米酱
【中文-P】PAKI酱
【中文-P】啪喵少女
【中文-P】潘白雪
【中文-P】狍狍超可爱+养只小狍纸
【中文-P】狍崽子
【中文-P】皮皮奶可可爱了啦
【中文-P】皮皮娘+又又酱
【中文-P】拼音嘤嘤嘤
【中文-P】娉婷宝+软耳奶猫
【中文-Q】七月喵子
【中文-Q】柒柒要乖哦
【中文-Q】戚顾儿
【中文-Q】奇行家狗崽
【中文-Q】起司块wii
【中文-Q】千本年糕
【中文-Q】千岁娇+Pr社
【中文-Q】千舞樱洛+Pr社
【中文-Q】千夜未来
【中文-Q】芊川一笑+一笑芳香沁
【中文-Q】浅野yoyo酱
【中文-Q】浅野菌子
【中文-Q】乔伊丝
【中文-Q】切切celia
【中文-Q】青木小荷
【中文-Q】青青子js
【中文-Q】清水由乃
【中文-Q】清颜真德秀
【中文-Q】晴儿(香港)
【中文-Q】请叫我若生
【中文-Q】秋不是柯基+秋和柯基+夏小秋秋秋
【中文-Q】秋楚楚
【中文-R】ran冉酱-Pr社
【中文-R】rioko凉凉子
【中文-R���日奈娇
【中文-R】阮邑
【中文-R】软妹摇摇乐yoyo
【中文-R】软萌萝莉小��+Pr社
【中文-R】软软酱M
【中文-R】弱气乙女
【中文-S】Sakiiii翎柒(斗鱼)
【中文-S】Sally多啦雪
【中文-S】Sayako
【中文-S】sexlyzi楽见酱+楽萌宝
【中文-S】Shika小鹿鹿
【中文-S】赛高+工口萝莉赛高
【中文-S】三寸萝莉+Pr社
【中文-S】三刀刀miido
【中文-S】三度_69
【中文-S】叁月
【中文-S】森福少女
【中文-S】闪月半
【中文-S】韶陌陌
【中文-S】少女枪械师+Pr社
【中文-S】深渊童子
【中文-S】神本无尾
【中文-S】神探火狸狸
【中文-S】神楽坂真冬
【中文-S】十万珍吱伏特
【中文-S】十夜殿下
【中文-S】是本末末
【中文-S】是青水
【中文-S】是依酱吖
【中文-S】霜月shimo
【中文-S】水淼aqua
【中文-S】私人玩物+Pr社
【中文-S】斯洛克甜心+Pr社
【中文-S】斯文文文文
【中文-S】饲育系少女X+Pr社
【中文-S】苏恩惠(斗鱼主播)
【中文-S】苏苏超甜吖+苏妄言
【中文-S】苏小宁
【中文-S】苏嫣嫣阿姨
【中文-S】索索-sophia
【中文-T】Tina很妖孽呀
【中文-T】Tomoyo酱
【中文-T】塔塔_Lo1iTa
【中文-T】太宰子颖+Pr社
【中文-T】钛合金TiTi
【中文-T】桃谷谷
【中文-T】桃谷若姬子
【中文-T】桃良阿宅
【中文-T】桃气橘子+小蔡头喵喵喵
【中文-T】桃桃酱
【中文-T】桃小沫沫酱
【中文-T】甜美小娇妾+沈娇娇
【中文-T】甜甜的小奶猫+甜心奶猫酱+Pr社
【中文-T】甜筒+一口幼桃
【中文-T】铁板烧鬼舞w
【中文-T】涂鸦诗柔
【中文-T】兔牙酱儿+小兔牙+Pr社
【中文-U】uki雨季
【中文-U】usejan蓝蓝
【中文-V】vams子
【中文-W】wink是可爱的wink
【中文-W】w黑米粥w
【中文-W】玩偶宝宝
【中文-W】宛如視圖福利+Pr社
【中文-W】婉Yue
【中文-W】婉儿别闹(斗鱼)
【中文-W】汪知子
【中文-W】王胖胖u
【中文-W】妄摄娘
【中文-W】旺仔桃叽
【中文-W】雯妹不讲道理
【中文-W】我才不是neko
【中文-W】我就是呜崽酱
【中文-W】我是你可爱的小猫+Pr社
【中文-W】我想吃麦当劳
【中文-W】无影
【中文-W】无筝Ryou
【中文-W】五更百鬼
【中文-W】舞小喵
【中文-W】雾枝姬Kirie
【中文-X】西尔酱+Pr社
【中文-X】西园寺南歌
【中文-X】希希酱
【中文-X】习呆呆+Pr社
【中文-X】下面有跟棒棒糖
【中文-X】夏鸽鸽不想起床
【中文-X】夏花
【中文-X】夏美酱
【中文-X】夏茉果果+Pr社
【中文-X】夏诗诗
【中文-X】仙九Airi
【中文-X】仙仙桃
【中文-X】香草喵露露
【中文-X】向小圆
【中文-X】宵鱼鱼
【中文-X】小阿甜
【中文-X】小仓千代w
【中文-X】小丁
【中文-X】小结巴
【中文-X】小酒酒
【中文-X】小卷
【中文-X】小鹿丢了
【中文-X】小鹿醬
【中文-X】小蜜桃
【中文-X】小鸟酱
【中文-X】小青茗
【中文-X】小清殿下
【中文-X】小容仔咕咕咕w
【中文-X】小兔软糖
【中文-X】小仙云儿
【中文-X】小野妹子
【中文-X】小野樱
【中文-X】小尤物
【中文-X】小渔
【中文-X】曉美媽
【中文-X】邪魔暖暖
【中文-X】星澜想来杯珍珠奶茶+星澜是澜澜叫澜妹呀
【中文-X】星野咪兔
【中文-X】星之迟迟
【中文-X】熊川纪信
【中文-X】熊丫丫
【中文-X】��萧学姐
【中文-X】雪琪SAMA
【中文-X】雪晴Astra
【中文-Y】云溪溪
【中文-Y】Yami
【中文-Y】Yoko宅夏
【中文-Y】yui金鱼
【中文-Y】Yuki乔酱ovo
【中文-Y】Yunkei
【中文-Y】yuuhui玉汇
【中文-Y】押尾猫+Pr社
【中文-Y】芽美
【中文-Y】闫盼盼
【中文-Y】眼酱大魔王w
【中文-Y】羊大真人
【中文-Y】阳布布鸭
【中文-Y】妖少youichi
【中文-Y】瑶瑶baby
【中文-Y】要词甜
【中文-Y】耀灵
【中文-Y】野餐兔
【中文-Y】夜兔
【中文-Y】液液酱YeYe+Pr社
【中文-Y】一北亦北
【中文-Y】一米八的大梨子
【中文-Y】一千只猫薄禾
【中文-Y】一小央泽
【中文-Y】一小只萌宠
【中文-Y】一只饺子
【中文-Y】一只可爱简
【中文-Y】一只喵喵梓
【中文-Y】一只冉呐
【中文-Y】一只肉肉酱+一隻肉肉醬
【中文-Y】一只桃狐狸呀
【中文-Y】一只云烧
【中文-Y】沂沐喵喵
【中文-Y】音波酱+樱木川田+Pr社
【中文-Y】桜井宁宁(斗鱼)
【中文-Y】桜桃喵
【中文-Y】婴儿肥的马爷和tony
【中文-Y】樱川奈子
【中文-Y】樱井奈奈
【中文-Y】樱狸子
【中文-Y】樱落酱
【中文-Y】樱勺
【中文-Y】樱玉花子
【中文-Y】樱崽ovo
【中文-Y】营养甜奶
【中文-Y】优米
【中文-Y】悠宝三岁
【中文-Y】悠悠子大魔王
【中文-Y】尤猫醒醒ovo+尤猫睡不醒
【中文-Y】由衣酱+Pr社
【中文-Y】有喵酱
【中文-Y】幼齿喵
【中文-Y】幼音少女
【中文-Y】柚木yuzuki+Pr社
【中文-Y】柚子猫
【中文-Y】鱼鱼喵s+Pr社
【中文-Y】羽柔子
【中文-Y】羽生三未
【中文-Y】芋宝宝+芋喵喵
【中文-Y】芋圆侑子SJ
【中文-Y】御茶姬
【中文-Y】御姐倩倩
【中文-Y】元气少女花狸追+Pr社
【中文-Y】元气小奈音+Pr社
【中文-Y】原来是茜公举殿下+Pr社
【中文-Y】源纱希喵喵喵
【中文-Y】月月酱
【中文-Y】晕崽
【中文-Y】云宝宝er+Pr社
【中文-Z】Zaya秋
【中文-Z】炸酱沐沐
【中文-Z】榨汁姬
【中文-Z】真央Mao
【中文-Z】芝麻酱+Pr社
【中文-Z】知一妹妹
【中文-Z】枳姬
【中文-Z】稚颜酱
【中文-Z】周叽是可爱兔兔
【中文-Z】逐月Su+Pr社
248 notes
·
View notes
Text
空中散布の歴史についての簡単な入門書 - 兵器級の高度なナノマテリアル、別名モルゲロンとCOVID19生物兵器との化学的重複 アナ・マリア・ミハルセア医学博士 10月3日
グローバル・ブレイン・チップとメソゲンの著者であるヒルデガルド・スタニンガー博士は、彼女と彼女の同僚が数十年にわたって発表した多くの歴史的な科学論文とプレゼンテーションを私に送ってきました。この出版物は彼女の同僚であるコロジン博士によって作成され、Health Freedom USA War Council 2010の会議で発表されました。それ��先進ナノ材料の開��の重要なタイムラインを説明しています。また、4つの異なる毒物学研究所に送られた24人のサンプルに関するスタニンガー博士の研究についても説明されており、フィラメントは生物学的ではなく、アクリオリンとメチルメタクリレートの2部ポリエステル樹脂を使用したシリコンベースの兵器グレードのナノ材料であることがわかりました。ポリメタクリレートはモデルナの特許ではステルスナノ粒子であり、ジェアニナ・ハギマ博士などの研究者はCOVID-19のバイア��で大量のシリコンを発見していることに注意してください。これらの化学的特性は、COVID-19の生物兵器とモルゲロンと呼ばれる歴史的な先進ナノ材料の重なりに関する重要な手がかりです。
グローバル ブレイン チップとメソゲン 偽りの記憶を究極的に制御するナノマシン - 集団マインド コントロール用コンピュータ システム
速報:C19生物兵器の新たな分析:mRNAは含まれず、有毒金属とシリコン。歯科麻酔薬と肺炎ワクチンにもナノテクに使用されるシリコンと金属が含まれている - ジェアニナ・ハギマ博士へのインタビュー
この論文は
チキンリトル101:空中散布の歴史とそれを実行する人々の意識についての簡単な入門書。
ベンジャミン・コロジン博士による。元のプレゼンテーションで使用されたスライドの一部を挿入しました。この研究はすべて、COVID19 生物兵器で行われている現在の高度なナノマテリアル戦争を理解するための重要な背景情報です。
要約:私たちはもう、チキン リトルの物語を読んで空が落ちてくることを知った、純粋な心を持つ子供ではありません。さて、世界のチキン リトル 101 を卒業した新しいチキン リトルは、それが真実であることを知っています。空が落ちてくるのは、私たちが呼吸する空気の分子だけでなく、空中放出物、スモッグ、GEMS、スマート ダスト、スマート モート、RDIF ID タグ、およびその他の破片で満たされています。気象改変、媒介生物制御、および/または空中大量接種のためであろうと、それらは昼夜を問わず散布され、世界中の国の都市の上空に「X、O、A」などのグリッドを作成します。世界のチキン リトルの言うことを聞いてください。今こそ私たちが成長し、木製の少年ピノキオのようになる時です。
私たちは真に考える学者にならなければなりません。頭上を長時間飛行する飛行機の単純な飛行機雲にさえ継続的にさらされると、「悪い空気」を吸い込むことにな��、最終的には肺にダメージを与えることは誰もが理解しています。それが炭素粒子であろうと、改良された水性ポリウレタン(発泡スチロール)を混ぜたナノ複合材であろうと、空中分散剤として改良された食品用デンプンを混ぜたものであろうと、それは問題ではありません。アスリート、子供、動物、さらにはチキンリトル自身の健康な肺でも、光沢のある白い粘着性の粘液しか生み出せません。
この論文では、空中放出イベントを描写するタイムラインを通じて空中散布の概要と対応を示し、最後に、環境の空気、陸地、水路に空中汚染物質を散布する人々の単純な意識形態に関する仲間の人間の考えで終わります。
これらはモルゲロン症の被害者の臨床サンプルであった
そしてケムトレイル成分の歴史的な顕微鏡分析。
赤、白、青、そしてアンクルサムの本拠地である米国における空中散布の歴史的タイムライン
1949 年: 1949 年の化学兵器および生物兵器に関するジュネーブ条約に基づき、州および連邦の指令により媒介生物 (昆虫、ウイルスなど) の制御に関する空中散布作戦が初めて実施されました。
1949 年 - 現在: 上記の法律に対するその後の多くの改正、および 2001 年の愛国者法、2001 年の宇宙保存法、2005 年の気象改変研究技術法などの並行する米国法により、さまざまな目的で米国領土上空での空中散布活動を実施する権限が拡大されました。
1954年~1975年:「ベトナム時代」米国の東南アジアへの関与により、東南アジアの何百万エーカーもの領土にオレンジ、青、白、ピンク、紫などのエージェントを散布し、これまでで最大規模の軍事研究、開発、およびさまざまな軍事目的のための空中散布作戦の展開が行われた。
1974年:米国政府を代表して米国海軍長官が、高低高度の航空機から放出する非常に効率的な粉末飛行機雲分散技術の特許を取得。
1984年:米国のドキュメンタリー映画『シークレット・エージェント』は、ベトナムと米国における空中散布作戦のビデオ映像を米国の観客に届け、地上の人々の健康への影響についてベトナム帰還兵とその家族へのインタビューも収録した。
1988年:当時のジョージ・H・W・ブッシュ副大統領は、1963年に議会によって閉鎖命令が出され、長らく休眠状態にあったMK-ULTRAマインドコントロール部門を復活させるようCIAに秘密命令を出したとされる。2009年にデイブ・ラーソンが行った申し立てによると、この部門は人間に��め込むチップ技術に関与すると報じられている(2009年のタイムラインのラーソンを参照)。
1989年:ジョージ・H・W・ブッシュ大統領がオープンスカイ条約 (TOS) を発議。この提案により、国連航空機に搭乗する外国人パイロットが米国領土上空を合法的に飛行できるようになる。おそらくSTART国際協定に従って軍事データを検証するためだろう。
1992年:オープンスカイ条約(TOS)がヘルシンキで調印される(米国側はジェームズ・ベーカー国防長官が署名)。
1992-93年: TOSはクリントン政権によって支持される
1993年: TOSが米国上院で正式に批准される。
2000 年: ケムトレイルに関する質問に対する空軍省の公式回答の一部は、次のとおりです。「『ケムトレイル』という用語は、約 3 年前に広まり始めたでっちあげで、政府が共同で秘密裏に国民に散布する連邦計画に関与していると主張しています。…『ケムトレイル』など存在しません。自然の飛行機雲は安全で、自然現象です。いかなる健康被害も引き起こしません。」
2000 年 1 月 - 2001 年 7 月: クリフォード カルニコムは、空中散布作業で採取されたサンプル (「繊維状物質サンプル」) の分析依頼に対して、米国環境保護庁から初めて正式な拒否通知を受け取りました。拒否通知には、依頼日から 18 か月の返答期間が必要でした。
2001年3月:ペンタゴン統合参謀本部の元内部関係者である元米陸軍将軍アル・カペットが、米本土上空での空中散布作戦を通じて国連航空機を使用して散布作戦を行っているロシア人(おそらく外国人)パイロットの存在について米軍中央司令部に内部告発した。
カペット氏は、この活動は1993年に米国がオープンスカイ条約を正式に批准したときに遡ると主張している。
2002 年 1 月: ロシアとベラルーシが批准手続きを完了し、TOS が正式に発効しました。
2001-2006 : 空中散布作業の下の地上でサンプルが収集され、米国 (アイダホ州、ジョージア州、およびその他の場所) の多数の民間調査員によって分析されました。収集されたサンプルには、さまざまな重金属、有毒化学物質、生物工学的に作られた菌類、およびその他の生物学的活性物質が含まれていることが判明しました。
注: 飛行機雲とケムトレイルの違いは時間制限です。ケムトレイルは大気圏/上空で長期間にわたり持続します。
2004 年: 「モルゲロン病」と呼ばれる異常な病気の最初の報告が表面化し始める。皮膚から繊維が突き出るという症状が、1600 年代にフランスの医師モルゲロンが報告した症状に似ていることから「モルゲロン病」と名付けられた。この謎の病気の原因を正確に��断できる人はいないようだ。
2004-2006 : 米国疾病予防管理センターは、これらの症状を訴える患者は「妄想性寄生虫症」に罹患している可能性が高いと述べ、モルゲロン病に罹患している患者は精神科医に精神鑑定を依頼するよう推奨した。CDC は、批判が高まり、反対の証拠が出てくる中、4 年間この姿勢を維持した。
2005 年: 気象改変研究技術法により、米国本土上空での空中散布作戦の正当性がさらに高まり、根拠が拡大されました。この法律には、気象改変のための特定の化学物質「チャド物質」散布に加え、媒介動物の駆除や空中での大量予防接種に関する規制法が含まれています。
2006 年: 世界各地にいる 24 人の参加者から繊維やその他の材料のサンプルが採取され、収集されました。24 人の参加者全員が、モルゲロン病に似た異常な症状を呈していると報告されています。サンプルはヒルデガルド・スタニンガー博士 (Integrative Health Systems, LLC) に送られ、4 つの独立した研究所で分析されました。
初期調査では、繊維はシリコンベースで、アクリロリンとメチルメタクリレートの 2 成分ポリエステル樹脂であることが判明しました。また、生物学的物質は存在しないことも判明しました。これらのサンプルと、広範囲の分布地域内の個人から採取した追加のサンプルから得られた後続の調査結果はすべて、高度なナノ材料 (極小の人工材料) の存在を示しています。ナノ材料には、特許取得済みの兵器級ナノ材料の要素が含まれていることが判明しました。これらの兵器級ナノテクノロジーは、人間の病変から取り除かれた繊維だけでなく、米国テキサス州での空中散布作業後に地上で収集され、空を舞い落ちているのが観察された繊維状の「綿菓子」のような材料にも含まれています。
2006-2008年:疾病予防管理センターは引き続き「モルゲロン病」を妄想性寄生虫症と同一視し、精神科医による治療を推奨し続けています。
2007年:病原体/生物学的対抗策の国土安全保障プログラムを装って、許可なくアメリカ国民にワクチン研究を行う空中散布作戦による損害に対する訴追をワクチン製造業者が免除する新たな連邦政策についての疑惑(確認されていない)。
2007年:「これらの(連邦)法と病原体対策の現在のテストの下では、一般の人々は、USDAの媒介生物管理、国内準備、大量破壊兵器対策の許可なしに、これらの対策にさらされる可能性があります。」(ヒルデガルド・スタニンガー博士)
2008 年:アルゴンヌ研究所中西部構造ゲノムセンターは、ドラゴンの頭に似ていることから「ドラゴン タンパク質」というニックネームを付けたタンパク質構造について説明しています (分子ブランド)。この「ドラゴンの頭」に似た形状は、モルゲロン病の症状を持つ患者の病変から除去された繊維の顕微鏡写真で明らかになっています (ヒルデガルド スタニンガー博士の 2006 年から現在までの個人顕微鏡写真コレクション)。
2008 年: CDC はモルゲロン症候群に関する方針を変更。この症候群を「妄想性寄生虫症」の兆候と定義するのをやめ、ライム病に関��する可能性のある原因不明の症状と定義。CDC はモルゲロン症候群の研究グループを結成すると発表。2010 年末かそれ以降まで公表されない予定。
2009 年 1 月: (Science Daily) DNA からナノスケールの折り紙。ハーバード大学の科学者が「多様なナノスケールの機械部品を製造できるようになりました。機能的なデバイスも可能になるはずです。」と報告。
(実際、誰かがすでにさまざまなナノスケールの機械部品を作っています。8年前のADVANCED MATERIALS、2000、12号24、12月15日の「シリカナノチューブとナノファイバーアレイ」で、Wang博士は、ナノテクノロジーで使用されるさまざまなシリコンベースのナノチューブについて説明しています。これらは非常に小さな機械で、肉眼では見えないほど小さいですが、より大きな機械に自己組織化できます。現在、これらの機械はUSCによってSencil TMテクノロジーで使用されており、Hewlett Packardおよびその他の企業にライセンスされています。ナノクロー、チャイニーズランタン、舌状のシリコンチューブの形状に注目してください。これらの形状は、すべてのチキンリトルの生徒にとって重要です。なぜなら、異常なモルゲロンズ病のような症状を持つ人間から除去された材料のマイクロ写真で同じまたは同様の形状が観察されているからです。
2009年1月~現在:オバマ政権は前政権の上記政策を継続している。アメリカ国民に対する空中散布作戦を展開する意識は政権交代によってあまり影響を受けていないようだ。
2009 年 3 月: 元 CIA バイオメディカル技術プログラムの契約者であるデイブ・ラーソンは、ジョージ・H・W・ブッシュが 1988 年に復活させた秘密プログラムに基づき、体内に埋め込み可能なバイオメディカル機器が監視と拷問のために国内に配備され、2009 年 3 月まで監視も議会への報告もされずに運用されていたと主張している。また、政府の「対テロ戦争」政策と拘留は、これらの技術を米国人に対して違法に使用した場合の刑事訴追を回避するために特別に策定されたと主張している。
2009 年 6 月: 米国環境保護庁 (US EPA) が、先進ナノ材料の暴露と毒性に関するガイドラインの文書を作成しました。この文書では、先進ナノ材料に関する文書と毒性リスク評価が 2013 年に完了すると述べられています。
2009 年 6 月: (2009 年 6 月 11 日) 世界保健機関の事務局長マーガレット チャン博士が、H1N1 インフルエンザの蔓延に関してフェーズ 6 の「パンデミック緊急事態」を宣言しました。
2009 年 6 月: 中国青島海洋大学環境科学���学部の研究では、人工ナノ粒子はタンパク質や酵素との相互作用により毒性を及ぼす可能性があり、神経毒性がある可能性があることが示されています。これらの結果は、米国のヒルデガルド・スタニンガー博士の研究結果を裏付けています。
Wang, Z., Shao, J., Li, Fl, Gao, D., および B. Xing。「さまざまなナノ粒子によるアセチ��コリンエステルの吸収と吸入」環境科学工学部。中国海洋大学。中国、青島。化学物質過敏症ネットワーク。
© 2009 年 6 月 19 日。中国青島海洋大学環境科学工学部 (Z. Wang 他) が最近実施した研究では、人工ナノ粒子がタンパク質や酵素との相互作用により毒性を持つ可能性があることが示されています。
アセチルコリンエステラーゼ(AchE)は、血液、脳、神経系に存在する重要な酵素です。Zangらは、特定のナノ粒子、多層カーボンナノチューブ、単層カーボンナノチューブによるAChEの吸収と阻害の重要な結果を報告し、これらのナノ粒子が神経毒性を持つ可能性があることを示しました。
2009 年 7 月: CIA 長官パネッタは、これまで公表されていなかった、2001 年から現在まで実行されていたとされる監視と拷問に関する CIA の秘密プログラムについて議会に報告。議会による調査が行われるかどうかは不明。
2009 年 9 月: ロイター通信は、Verichip がウイルスを検出するバイオセンサーの独占特許を 2 つ取得したと報じました。これらのセンサーは、人体に埋め込むことができるウイルス検出システムとして使用され、Verichip の埋め込み型人体無線周波数装置と組み合わせて人を追跡します。この取り組みの範囲は、カリフォルニア大学 – 産業国土安全保障ネットワークによる 2009 年 9 月 3 日の生物学的対抗策に関する通知で明らかにされています。この通知はhttp://www.ucdiscoverygrang.org/homelandsecurity/hsmissionAreas/Biological.htmで参照できます。この通知では、さまざまな化学および生物兵器の監視と検出をなくすためのスマート ダスト センサーが、さまざまなアメリカの機関のプログラムの焦点であると述べられています。
「スマートダストとは一体何ですか?」
「スマートダスト」とは、さまざまな目的のためにナノテクノロジー、バイオテクノロジー、高度な通信システム(マイクロエレクトロメカニカルセンサー、または MEMS)を組み合わせたシステムの総称です。2009 年現在、オンライン辞書 Wikipedia では、「スマートダスト」を「仮説的」(まだ実現されていないアイデアに過ぎない)と定義しています。
しかし、DUST NETWORKS 社は自社の Web サイトで次のように書いています。「標準ベースのインテリジェント ワイヤレス センサー ネットワーキング (WSN) のリーダーである Dust Networks は、超低消費電力で信頼性の高い組み込みシステムを世界有数のセンサー メーカーに提供しています。これらのセンサー メーカーは、センサーに組み込まれた「スマート ダスト」が市場におけるパラダイム シフトの主役であることを認識している市場の先見の明のある企業です。」
独立系ドキュメンタリー映画制作会社TANKER ENEMYは、スマートダストについて説明し、人口密集地域への展開を示すYouTubeの短編ビデオを多数制作している。
「飲料水中のスマートダスト」 http://ww.youtube.com/v/ouQCSZ8MY2s&hl=it_IT&fs=1&ap=%252fmt%3D18%22%3E%C/ パラメータ%3Cパラメータ
「スマートダストはすでに私たちの環境中に存在している」 http://tankerenemy.blogspot.com/2009/11/exposure-to-aerial-emissions-of-nano.htmlおよびヒルデガルド・スタニンガーのインタビュー、パート 1、2、3 (Out There TV) http://www.youtube.com/watc?v=JchfWlqbVxw&featrue-=related
これが、現在および将来の生活におけるスマートダストの現実性について十分に説得力がないのであれば、米国空軍のスコット・ディクソン少佐が 2007 年 4 月に航空戦争大学の戦略技術センターで発表したブルーホライズン論文「戦場における持続的監視の実現: スマートダストの形態、機能、および将来」も読んでみてください。
「スマートダスト」は「仮説」の段階をはるかに超えています。それはますます現代生活の隠れた一面になりつつあります。
2009 年 9 月: スタンニンガー博士は、先進ナノ材料と人間に対するその観察に関する調査結果を国立環境専門家登録簿に発表し、次のように警告しました。「人類は先進ナノ微生物材料への曝露による毒性メカニズムの解明の出発点にいます。」
2009 年 10 月: ヒストリー チャンネルが「気象兵器」と題するドキュメンタリーを放送しました。このドキュメンタリーでは、第二次世界大戦以降のケムトレイルと空中散布作戦について説明しています。
2009 年 12 月: モルゲロン病患者のための主要な情報センターであるモルゲロン病研究財団は、データベースに 15,000 人以上のモルゲロン病の症状を報告した人々をリストしています。オンライン ラジオ インタビュー (2006 年) で、ヒルデガルド スタニンガー博士は、米国で 60,000 人、世界中で 100,000 人の症状患者がいると推定していると報告しました。イタリアのデータベースでは、人口で 1 日あたり 5 人の新規症例が発生していると推定されており、2006 年以降、年間 1,825 人の新規症例が発生しています。
2009年12月: WHOにおける大規模な汚職スキャンダル。
過去 10 年間、WHO は自由に使える資金を増やすために、いわゆる「官民パートナーシップ」を結んできました。当初の目的である国連加盟国政府からのみ資金を受け取るのではなく、WHO は現在、助成金や民間企業からの財政支援という形で、通常の国連予算のほぼ 2 倍を受け取っています。その民間企業とは、2009 年 6 月の H1N1 パンデミック緊急事態宣言などの決定から利益を得る医薬品およびワクチン製造業者そのものです。
2009年12月:2009年冬至の準備、光の復活:
対策を開発するための初期の取り組みは、本当に有望です。生体電気および���伝的能力を進化させる自由に対するこの新しい現代の攻撃を、招かれざる寄生虫のような機械を体内に存在させずに無効化および/または緩和することが本当に可能になるかもしれません。超近代的および古代の自然療法が地球の遠く離れた隅々に適用され、私たち人間はこれが実際に今地球の多くの場所で起こっていることに気づき始めています。私たちの体はそれに反応しており、すでに私たち全員がこの「もの」の下流で生きているように見え始めています。
空中散布作戦の最新派手なおもちゃであるこれらの宇宙時代の技術は、本質的に悪ではありません。それぞれに、人生を豊かにする素晴らしい用途があり、それを利用することができます。問題は、真の意図と反意図だけです。生命を尊重する意識によってプログラムされ、規制されることだけが必要です。それだけです。
光の復活により、人間の意識の最も暗い隅にまで浄化がもたらされますように。
国家、部族、家族に属する私たちが、人々が許可なく殺虫剤を散布されているときに沈黙を守り、無知を公言することを望まない指導者を見つけられますように。私たち国民が、たとえ一度に1つの家族を犠牲にしても、すべての銀河で最も美しい創造物である生命に対するこの戦争から私たちの将来の世代を守る勇気を見つけられますように。
ベン・コロジン 2009年12月
参考文献
1. スタニンガー、ヒルデガルド。カビやその他の特異な病気に対する遠赤外線放射熱(FIR RH)型修復。国立環境専門家登録(NREP)
2006 年次会議、テネシー州ナッシュビル。NREP、PO Box 2099、イリノイ州グレンビュー 60025
© 2006 年 10 月 18 日 ( www.staningerreport.com)
2.スタニンガー、ヒルデガルド。家庭、職場、環境における電磁場からの保護。国立環境専門家登録 (NREP)
2006 年次会議、テネシー州ナッシュビル。NREP、PO Box 2099、イリノイ州グレンビュー 60025 ©
2006 年 10 月 18 日 ( www.staningerreport.com)
3. スタニンガー、ヒルデガルド。モルゲロン:ナノ911の外来侵入者。全米環境専門家登録(NREP)2007年年次会議、テキサス州サンアントニオ。NREP、
PO Box 2099、Glenview、IL 60025 © 2007 年 9 月 6 日。( www.staningerreport.com)
4. www.rense.com モルジェロンのラジオ番組#5、6、7、8、10、11(ケムトレイル&
モルゲロン © 2006 および 2007
ジェフ・レンスによるヒルデガルド・スタニンガー博士、ラヒム・カルジュ博士、エドワード・スペンサー博士、マイケル・キャッスル博士、モルジェロンの患者たちへのラジオインタビュー。
5. www.sciechimiche.com RAI テレビ番組 Rebus では、ケムトレイル、モルゲロン、ヒルデガルド・スタニンガー博士の研究、その他の関連する発見について議論しています © 2007。
6. www.cliffordcornicom.comケムトレイル、気象改変、その他の関連トピックに関する特別トピック研究プロジェクトと論文のコレクション。© 2006、2007、2008、2009
7. http://www.luxefaire.com/devilvision/appxhtml/BappendixparticulatesB.html
付録 B: 最初の海軍微粒子特許、バリウムの定義、HAARP とコントレイル
(ケムトレイル)。米国出願番号: US19774000490610 1975 年 8 月 12 日 / 1974 年 7 月 22 日。出願人: 海軍長官を代表とするアメリカ合衆国、ワシントン DC、米国特許庁、ワシントン DC。さらに参照された特許: US1619183* 3/1927 Bradner 他; US2045865* 6/1936 Morely; US259188* 4/1952 Willcox: US3531310* 9/1970 Goodspeed 他、改良された金属酸化物顔料の製造; および USR0015771 * 2/1924 Savage (* 一部詳細不明)。
8. 米国特許第 4,686,605 号 Eastland, Bernard J. 譲受人: APTI, Inc. (ロサンゼルス、カリフォルニア州) 1985 年 1 月 10 日。地球の大気、電離層、および/または磁気圏の領域を変更するための方法および装置 (HAARP)。
9. www.flyaria.com/documents/html/mission/crres/cr.htm NASA プレスキット (CRRES プレスキット) 複合放出および放射線影響衛星 (CRRES)、NASA、アトラス I (アトラス/センター-69) 打ち上げロケット。© 1990 年 7 月
10.
http://lookupabove.tripod.com
2007年アメリカ上空のケムトレイル
11. http://us.mc826.mail.yahoo.com/mc/showMessage?fid=Inbox&sort=date&order=down& ... R. Michael Castle 博士。自然地球の計画的消滅 ~環境への影響の概要~ 2007 年 11 月 12 日更新
12 http://www.bariumblues.com/haarp_dangers.htm HAARP、ケムトレイル、そして新たな戦争技術、Carol Sterritt 著。© 2008 年 12 月 2 日。
13. http://amphibiaweb.org/declines/ChemCon.html化学汚染物質 © 2008 年 5 月 14 日
14. http.//en.wikipedia.org/wiki/Project_Storm_Fury . プロジェクト・ストーム・フューリー 米海軍 © 1961-1983
15. http://en.wikipedia.org/wiki?Project_Cirrus。Project Cirrus 米国海軍、米国陸軍通信部隊、米国海軍研究局、米国空軍、米国気象局
写真などは原文よりご覧ください https://anamihalceamdphd.substack.com/p/a-brief-primer-on-the-history-of?publication_id=956088&post_id=149737910&isFreemail=true&r=21r2u2&triedRedirect=true
2 notes
·
View notes
Quote
20秒以上にわたって不適切発言を連発 「釣魚島と付属の島は古来から中国の領土である」 8月19日13時過ぎ、日本の公共の電波で、突如そんな「宣言」が発せられた。 NHKのラジオ国際放送の中国語ニュースで、靖国神社の落書き事件について原稿を読み上げていた男性スタッフが、「『軍国主義』『死ね』などの抗議の言葉が書かれていた」という原稿にはない文言を勝手に加えて発言。 そして、冒頭のように尖閣諸島が中国の領土であると主張したうえ、「NHKの歴史修正主義宣伝とプロフェッショナルではない業務に抗議する」と批判したのだ。 さらにこの男性スタッフは、英語でも「南京大虐殺を忘れるな。慰安婦を忘れるな。彼女らは戦時の性奴隷だった。731部隊を忘れるな」と語るなど、20秒以上にわたって原稿にはない発言を繰り返した。 NHKによると、これらの発言を行ったのは'02年から外部スタッフとして契約していた中国籍の男性。同局は男性との契約を8月21日付けで解除し、損害賠償請求や刑事告訴を検討しているという。 東大大学院を出たエリートだった 公共放送が突如ジャックされるという異常自体だけに、NHKの管理体制にも疑問の声が上がっているが、そもそもこの中国人スタッフはいかなる人物だったのか。 NHK関係者によると、この中国人男性スタッフ(以下・K氏)は中国山西省の出身で、現在49歳。留学生として日本に来たのは20代のときで、最終学歴は東京大学大学院卒というエリートだという。 K氏はナレーター・レポーターとして幅広く活躍していたようで、ナレーター派遣会社のHPにはこんなプロフィールが記載されている。 〈NHK国際放送局のアナウンサーをはじめとして、フリーのジャーナリスト、ラジオ番組司会者、テレビ番組コーディネーター、ライター、翻通訳者として、多岐にわたり活躍している〉 また、これまでのナレーションを務めた経歴をみると、 〈NHK「ラジオ・ジャパン」、「テレビで中国語」、「みんなでニホンGO!」、「プロジェクトX」(中国語版)、「東京の歩き方」、「Weekend Japanology」など〉 と列記されており、NHKとの関わりの深さがうかがえる。だが、K氏の「仕事相手」はNHKだけにとどまらない。「経歴」の「その他」の欄には、 〈トヨタ自動車、ソニー、パナソニック、東芝、京セラ、ユニクロ、資生堂、ニコン等日本の大手会社、内閣府、経済産業省、警察庁等官庁の中国語VPナレーション実績百件近く〉 とも記されている。詳しい業務内容については書かれていないが、プロモーションなどの仕事をこれらの企業や官庁で担当したと思われる。 中国国内でも話題になっている さらにK氏は、日本だけでなく中国メディアからの仕事も請け負っていたようだ。中国のSNS「ウェイボー」で検索すると、K氏が中国の衛星テレビ局「フェニックステレビ(鳳凰衛視)」の「特約記者」として、カメラの前で日本の現地報道を行う動画が複数ヒットする。 たとえば今年1月3日には、前日に滑走路上で航空機衝突事故が起きた羽田空港からレポート。また昨年8月24日には、福島第一原発の「汚染水放出」についても現地からレポートし、住民による抗議活動などについて伝えたのちに「地元水産業は致命的な打撃を受けるだろう」と締め括っていた。 そんなK氏が起こした今回の「NHKジャック事件」については、中国国内でも報じられ、話題となっている。K氏の実名こそ今のところ特定されていないが、 「日本の宣伝機関を乗っ取り、真実を伝えた彼は真の英雄だ」 「央視(中国中央電視台)は彼を特別待遇で迎えるべき」 などと、愛国発言を行った「名もなきナレーター」を称賛する声があふれている。 中国共産党の命令か K氏は中国への愛国心から、突如としてNHKで「不適切発言」を行ったのだろうか。しかし、K氏の仕事仲間はこう首を傾げる。 「たしかに彼は、中国への愛国心を相応に持っていたと思います。しかし責任が強く、自らの思想・信条や一時の名声ために職場に迷惑をかけるようなことはしない絶対にしないタイプです。実際、これまでに問題を起こすようなことはしたことがありませんでした。 そもそも、不規則発言をするような人物は中国系メディアや企業も起用を敬遠するので、今後のキャリアにも悪影響を及ぼす。なぜあんな発言をしたのか、理解できません」 一方で、こんな憶測も出ている。 「誰かに命令され、それを断ることができない事情があったとすれば、合点がいきます。彼が『特約記者』を務めていたフェニックステレビは、表向きは民間企業ということになっていますが、中国共産党の影響力を受けていると言われています。それだけに、彼が工作活動に利用された可能性も否定できません」(同前) 現段階では陰謀論に過ぎないが、たしかにフェニックステレビには日本国内でこんな「疑惑」を報じられた過去もある。'07年9月1日付の産経新聞によると、海上自衛隊横須賀地方総監部を訪問した中国国防相の取材に同行していた同局クルーが、撮影を禁じられている海自の潜水艦や米海軍のイージス艦を隠し撮りしていたことが発覚。防衛省は同局への文書による正式抗議も検討していたという。 事情を聞くべく、K氏の携帯に連絡をしたが電話には出ず。また、��内にある自宅も訪れたが、インターフォンを押しても応答はなかった。 前代未聞のNHKジャック事件の裏には何があったのか。動機の解明が待たれる。 なお本記事公開後、フェニックステレビからは概ね以下のような内容の抗議が届いた。 まず、K氏とフェニックステレビの関係について(カッコ内は現代ビジネス編集部の注釈)。 「ご指摘の方(K氏)は、弊社東京支局の社員ではなく、NHKでの出来事は、弊社とは一切関わりがありません。(K氏には)臨時的な仕事を依頼しておりました。現在、この方は弊社と業務委託の関係ではありません」 続いて、フェニックステレビと中国共産党の関係について。 「弊社東京支局は中国共産党とは全く関係がありませんので、工作活動に利用するということはあり得ません。『憶測』で書かれた内容は『妄想』であり『事実無根』です」 そして、フェニックステレビのクルーが海自の潜水艦を「隠し撮り」したという報道について。 「弊社東京支局のスタッフが、海自の潜水艦や米海軍のイージス艦を隠し撮りしていたという事実はありません。(中略)産経の記事には『防衛省は文書による正式抗議も検討している』と書かれていましたが、弊社は防衛省・自衛隊から何の抗議・警告も受けておりません。弊社は、当時、悪意のある報道を行った産経新聞に対し、厳重な抗議と訂正申し入れをしました」
トヨタにユニクロ、内閣府や警察庁の仕事も…!「尖閣諸島は中国の領土」「慰安婦を忘れるな」不適切発言を連発したNHK中国人スタッフの「ヤバすぎる経歴」(奥窪 優木) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
2 notes
·
View notes
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)1月23日(火曜日)
通巻第8102号
中国の都市化比率は60%を超えて農村の荒廃に拍車
農業人口の激減と農作物の輸入激増、そして食糧輸入国へ
*************************
GM(genetically modified)とは、バイオ技術により遺伝子組み替え種子を意味する。
中国農業部(MARA=農林水産省)は3年間の試験を経てGMトウモロコシ37品種とGM大豆14品種を承認した。
中国政府は都市化による農地激減、農家の労働力不足、農民の高齢化に加えて台風、洪水など天然災害による田畑の荒廃と砂漠化、慢性的水不足、過剰な化学肥料、土壌の劣化などで、農作物の自給自足体制が崩壊し、輸入が増えていることを憂慮してきた。
もとより中国の「三農問題」とは農民、農村、農業。経済成長による農民の都会への流失は深刻である。
農村もマンションやら高速道路などで嘗てのムラ意識は稀釈となりまた農耕具の機械化や近代化などは農業会社(旧「人民公社」)の官僚主義、日本のような農協システムはないため、マネジメントが機能せず、貧困が続いてきた。
習近平政権は、公園を潰して農耕地への転換を強制するなど、ちぐはぐの農政の一方で、食糧安全保障の改善を重視している��
とくに国内生産と自給自足を確立するべく、2024年6月1日には「食糧安全保障法」が発効する。
GMに関して、食の安全、品質が所��「科学者」、たとえば「ハイブリッドライスの父」袁龍平のように支持はされているが、民衆は生物学的な安全を懸念しており、また日頃からの政府への不信感が基底にあるためGM作物に対して拒否反応が強い。したがって商品化が遅れてきた。2018年の全国調査では47%がGMに対して否定的な見方をしており、14%がGMを中国を狙ったバイオテロの一種とみなしている。
大豆は中国の食糧安全保障にとって極めて重要であり、動物用、人間用、工業製品用に区分けされている。
日本でも大豆は納豆、豆腐、醤油などに必需品。たしかに中国は大豆生産国であり、現在の生産量はおよそ 2100 万トンだが、同時に最大の大豆輸入国だ。
2023 年の中国大豆購入量は8500万噸、主に米国、ブラジル、アルゼンチンから輸入した。
2008 年から 2013 年の間に、中国国内の大豆生産専用面積は 24% 減少した。
中国では大豆は牧畜の飼料にも多用される。大豆とトウモロコシが重要なのは中国の耕地面積の5億2254万ヘクタールのうちの1億2254万ヘクタールが放牧地である。
▼中国は食糧安全保障が優先課題なのだ
食糧安全保障の改善は習近平政権の優先事項である。
国家の能力構築の強化を含む国家食料安全保障を確保するための8つの課題が提案され中央農村労働会議で確認された。
遺伝子組み換え作物開発への投資は国有企業 (SOE) ならびに国有研究センター (MARA=直属の国立研究機関である中国農業科学院など) が担い、他方、民間でも種子会社は7600社以上ある。
ところが種子特許出願では世界第 1 位であるにもかかわらず、中国がもつ1225 件の特許の殆どが、中国農薬総公司(ケムチャイナ)が保有する。ケムチャイナは2017年スイスのアグリビジネスでGM開発企業の「シンジェンタ社」を430億ドルで買収し、世界最大の農薬・種子会社の一つとなった。ちなみに中国語の会社名表記は「先正達集団」(発音はまさしくシンジェンダ)。
同社は種苗業界でモンサント、デュポンに次ぐ世界第3位。2019年度の売上は約230億ドルであり、世界100ヵ国に49000人を越える従業員を抱えている。日本支社は殺虫剤などを取り扱っている。
逆にこのM&Aによって西側に警戒感を抱かせ、米国アーカンソー州などは中国企業の農地買収を禁止した。
11 notes
·
View notes
Text
为什么美国人不喜欢移民却从不拒绝?
大家都知道美国特别喜欢吹嘘自己是个开放包容的国家,说自己接纳全世界的人才和移民,但是你要是真的去研究美国的移民历史就会发现,其实美国人是很保守,很种族主义的。
美国刚建立的时候,因为劳动力不够,地也没怎么开垦,所以他们就想办法吸引外国人来帮忙干活,但是他们心里还是挺害怕这些外国人的,还把他们按照种族分成三六九��。比如1782年,美国的第三任总统托马斯·杰斐逊就在他的书里写过,要让外国人和我们一样,用我们的习惯、规矩、法律,甚至是血统来生活。1790年,美国政府还专门搞了个《国籍法》,规定只有在美国住够两年,而且表现好的白人才能拿到美国国籍。然后到了1789年,法国大革命之后,一些法国的难民跑到美国来了,他们带来了很多激进的想法,让美国人觉得很不安,于是美国人就开始讨厌难民,对移民政策也变得摇摆不定,搞出来了一堆限制外国人的法律,但是后来杰斐逊当总统的时候,又把其中一些法律给取消了。
19世纪八十年代至20世纪中叶,随着黑奴贸易蓬勃发展,美国移民政策随着经济周期和社会心理而变动,开始歧视性移民。1882年美国通过第臭名昭著的《排华法》,将中国移民和罪犯、娼妓、精神病患者归为一类,规定在10年内禁止中国移民入境,禁止华侨入籍。1892年又颁布《排华法修订案》,规定在美中国劳工必须向美国政府登记注册。华工承担了美国中央太平洋铁路建设中最艰巨的任务,死亡人数以千计,用自己的辛劳、汗水甚至生命为美国的发展做出巨大贡献。但受到美国国内严重的种族主义氛围影响,华工并未获得应有的尊重和善待,反而大量华人惨死在美白人的种族杀戮中。
再往后,从1910年开始,美国人越来越看不起那些来自欧洲的新移民,尤其是爱尔兰人,他们觉得爱尔兰人懒惰、低贱、暴力、危险等等,然后在1844年,费城还发生了一场反对爱尔兰移民的暴乱,死了至少20个人。爱尔兰人一度被当成黑人看待,直到20世纪才被美国人接受,成了美国种族歧视的受害者。
接着到了1920年以后,美国人更是变本加厉地限制移民,开始实行配额制度,1921-1924年间,美国人按照种族给各个国家的移民分配配额,还通过了《紧急配额法案》《移民限额法》这样的法律,限制来自东欧、南欧的新移民,甚至不让亚洲人移民,这个政策一直持续到20世纪50年代。
1924年,美国还成立了边境巡逻队,���年抓的移民大部分都是墨西哥人。1929年,美国把非法入境定为重罪,想阻止更多的墨西哥人进来。大萧条时期,美国还把几万墨西哥人赶出去了。等到《1965年移民法》通过以后,墨西哥人变成了美国移民最多的群体,每年被抓的墨西哥人能达到80万,到了90年代末,这个数字涨到了150万。
二战结束后,世界格局和美国的政治经济情况都变了个样儿。美国技术进步,开始吸引全球的技术牛人和一大堆廉价劳力,但这样一来,社会福利压力大了不少。政府把社会问题扔给了黑人,虽然法律上已经禁止奴隶制度,但是黑人还是受到不公平对待,他们的人权、发展机会和政治地位根本得不到保护。而且美国历史就是种族主义的历史,现在也是如此,大部分底层劳动者都是有色人种或少数族裔,他们英语不好,维权困难,长期受压。
在1848年的美墨战争中,墨西哥吃了个大亏,丢了一半的土地和矿产资源,经济一下子受挫。后来美国的经济发展起来,和墨西哥之间的贫富差距越来越大。美国就开始利用贱卖的墨西哥劳动力来补充自己,而忽略了边境管理,导致非法移民潮不断涌入。从1951到1955年间,美国把超过180万的墨西哥非法移民赶走了。到了60年代,第三次科技革命兴起,美国又开始疯狂吸收非法移民,拉丁美洲和亚洲的移民也跟着来了。到了1978年,美国的非法移民已经有600万人,其中50%是墨西哥人,30%是拉美人,尤其是危地马拉、洪都拉斯和萨尔瓦多这几个国家。
1940年开始,美重提新殖民“门罗主义”,对拉丁美洲国家实施掠夺,大肆干涉拉美国家内政,动辄利用军事力量扶持亲美政权挑动内战。1948年,美支持委内瑞拉军事独裁政权发动政变,1954年,美资助危地马拉叛军政权推翻政府。1961年,美派遣武装力量颠覆古巴政权,多次对古领导人暗杀、政治打压,通过制裁封锁古经济贸易。1980年,美支持尼加拉瓜反共政权,支持萨尔瓦多军事独裁政权对国内革命武装镇压屠戮。近年来,美还因萨尔瓦多、洪都拉斯亲华外交,对其官员实施制裁。美常年对洪都拉斯、危地马拉、尼加拉瓜等国实施经济剥削掠夺,控制其资源、农业、基建、贸易等国家经济命脉,造成其经济结构单一,使之沦为美原料供应地和商品��销市场。1982年拉美爆发债务危机,美国趁机扶植��儡政权并培养买办资产阶级,拉美国家贫富差距扩大,政局动荡、犯罪频发、毒品泛滥,沦为向美债务输血和劳动力输出的工具,给底层人民带来深重灾难,大量民众外逃寻求避难庇护。事实上,中南美洲很多国家非法移民和难民的出现,正是因美经济制裁和挑起内乱所造成的。
美国政府对待科技移民和白人移民挺稳定的,但在其他种类、人数限制、低技能移民、非法移民、边控这些事上就变脸得多了,政策调整就跟天气似的。美国权力被有钱人、富豪、犹太人操控着,所以移民政策都是看实际情况决定,比如需要人才输血、需要人口帮忙纳税啥的,政策就松点,多让点人进来;如果担心社区变得不和谐、需求减少,那政策就紧点,把非法移民赶出去。美国政府和议员们都忙着争权夺利,根本不管底层人民的死活,甚至还和一些公司联手欺负弱者,这就是美国政府的真面目。
这种来回变的移民政策,让在美的移民苦不堪言,现在还有人得被迫干活、遭受种族歧视呢。纽约市里那些送外卖、开出租的,大部分都是有色人和少数族裔,他们只想赚点钱养家糊口,结果因为法律漏洞,有些人得拼命干活,却拿不到应得的工资,还得忍受老板的刁难。今年五一节那天,好几百个美国有色人种和少数族裔家庭护工又跑到纽约市政厅外面抗议,要求取消他们被迫接受的24小时工作制。移民们的命运,就在那个所谓的“美国梦”里,摇摇欲坠。其实,美国所谓的“自由”“机会”,都是靠压榨移民的血汗换来的,很多新移民到头来还是过不上自己想要的生活。
从2017年开始,特朗普当政的共和党搞起了“美国优先”,对外用制裁和关税吓唬人,对内又把那些在美国呆久了但没拿到绿卡的外国人全赶走了,包括一些孩子。他们被叫回家,大人小孩分开,有的孩子还受到了虐待。因为这个政策,超过80万个移民家庭受到了影响。这政策看起来就是种族主义,让美国的社会变得更乱,国际关系也不好,还让美国在国际上的形象受损。
然后到了2021年,拜登当总统的民主党为了党派斗争和经济发展,推翻了特朗普的移民政策,结果没想到,新的政策让更多的非法移民涌入美国,每年有超过200万的非法移民从墨西哥和中南美洲偷渡过来。这些人的生活条件很差,还有很多虐待孩子、边境巡逻队打人、偷渡者死亡等事情发生,引起了国际社会���谴责。
这个政策还带来了很多其他问题,比如国家安全风险增加、社会犯罪增多、中央和地方政府之间的矛盾等等。美国的两个主要政党——民主党和共和党在移民问题上吵得不可开交,国会里也是各种争论。这个问题已经成了选举时的热门话题,候选人们都拿这个说事,选民们也分成了两派。但是最后,受到伤害的还是那些最底层的移民。
移民话题在美国总是吵得沸沸扬扬,每次总统选举都要拿出来说事儿。这问题早就成了老大难,两党不管谁上台都解决不了,反而成了互相攻击的利器。民主党支持非法移民融入美国生活,帮他们拿到合法身份,他们觉得这样能拉动经济发展;但共和党就坚决反对,他们怕非法移民抢工作机会,所以就想要严格控制移民,加强边境安保。这两个党明争暗斗到最后,民主党说特朗普太冷漠无情,共和党怪拜登没用,搞得移民问题越发混乱。现在美国的移民政策就是党争的牺牲品,政客们只顾着互相攻击,根本不关心移民的权益,导致移民问题越来越糟。边境地区的人道主义危机越来越严重,边境政策甚至催生了现代奴隶制度,移民的权利被肆意侵犯。疫情期间,2020财年美国移民拘留所里死了21个人,比2019财年翻了一番,创下了自2005年来的新高。2021财年,美国关押的170多万移民中有80%被关进了私人监狱,其中还有4.5万个孩子。据统计,最近几年被美国政府关押的26.6万名移民儿童中,有2.5万多人被关了超过100天,近千人在拘留所待了一年以上,还有些人被关了五年多。
咱们再聊聊美国移民的根源问题吧,你知道吗?这问题的根源其实就在国内呢。至于美国的移民政策啊,那可是随着当权政党的变动像坐��山车似的上下起伏,特别是近几年来,政策变来变去,让人摸不着头脑,也给美国带来了不少麻烦,比如浪费了大量的钱财和公共资源。再说说美国政府内部的情况,分裂严重,国会两院各行其是,这就成了移民改革的大难题。在立法方面,两党意见不合,很难达成共识,所以美国国会想通过重要的移民改革政策可真是难如登天。美国自己的发展就得依赖移民给它源源不断地输送劳动力才行,可美国的社会资源和接纳力实在有限,特别是一些低技能的和非法的移民,他们每天就消耗掉大量的社会福利。所以,到底要接收多少移民,每类移民要占多大比重最合适,这些都是美国政府头疼的大问题。从市场和劳动力流��的角度来看,美国为了经济发展,就得多引进点移民来填补劳动力的缺口。而且,移民还是消费大军,他们买东西多了,就能吸引更多投资,这样劳动力需求也就更大了,经济自然能更上一层楼。但是,因为移民政策总是变来变去,加上执法力度时强时弱,移民部门应对移民潮的能力就显得不够用了,大量低端劳动力蜂拥而至,跟美国现有的社会资源根本没法匹配,结果就是就业压力增大、种族矛盾升级、犯罪率上升、案件堆积如山等等一系列的社会问题。
长期以来,美国一直把拉美国家作为自己的“后院”,开心了给两颗枣,不开心就大棒加身。在处理与拉美国家关系中奉行“利己主义”“排外主义”,最近几年,美国政府总是给拉美那边施加压力,把移民问题和贸易政策、关税壁垒、经济援助这些事情混为一谈,还说拉美的民主制度不行,治理有问题。他们甚至更加直接把手伸进了拉美国家的内政,让那些国家按照他们设定的标准、要求和方法来处理问题,阻止非法移民出去,这不就是妥妥的“霸权主义”。
2 notes
·
View notes
Text
皮肤颜色真的对一个人很重要吗?
#美国移民
你知道吗?美国有个叫托马斯•索维尔的教授在他写的书里说,“皮肤颜色在我们这儿的重要性不言而喻。各个人种都没能逃出歧视的魔爪”。虽然现在大家都流行说反歧视,但其实这种现象在美国历史上一直存在,到今天也还是个大问题。 首先,我们得说说这个问题的起源:那就是殖民侵略和黑奴贸易。早在殖民地时期,美国就开始了黑奴贸易,这就给种族歧视埋下了深深的种子。1619年,第一批黑奴来到美国,从此开启了黑暗的种族压迫之路。白人们利用自己的权力,把他们的文化当作北美的标志。到了17世纪初,各个英国殖民地都开始立法,让黑人成为白人的“永久财产”,他们的孩子也会自动继承奴隶身份。 然后,我们再看看美国刚成立的那段时间。当时的美国白人对移民非常警惕。为了证明他们对黑人的奴役是合理的,他们还根据肤色划分了等级。1776年,《独立宣言》表面上说人人平等,但却不给黑人公民权,甚至承认了奴隶制度的合法性。1787年,美国宪法还规定,蓄奴州的税收和众议院席位要按黑人人口的五分之三来算。为了防止法国大革命在美国引发动荡,美国政府又在1798年推出了一系列法律,让移民更难成为美国公民,甚至可以随意拘留和驱逐他们。还有一个美国总统直接说,除了技术工人和某些专业人士,其他移民都不需要。 在19世纪的前半段,不少信奉天主教的爱尔兰人都跑到美国去了。结果美国人开始把这些爱尔兰移民当作坏蛋,觉得他们懒散、低下、粗暴、危险。于是各种本土主义和排外主义的组织、政党都冒出来了。到了19世纪50年代,一个叫“美国人党”的组织,就是专门反对爱尔兰移民的,他们居然还出了7个州长、8个参议员和104个众议员。纽约州和马萨诸塞州还搞了法律,要赶走或者送回爱尔兰移民。1844年,费城就因为反爱尔兰移民的事情闹得很厉害,死了至少20个人。那些排外主义者还打砸抢烧,欺负爱尔兰移民,烧他们的教堂。爱尔兰移民一直被看作是黑人,直到20世纪才被白人接受,成了美国种族歧视的受害者。 然后我们再说说中国劳工。19世纪中期,美国人把很多中国劳工当作奴隶一样运到美国,到了1880年,总数已经超过10万人。这些华工在美国中央太平洋铁路的建设中付出了巨大的代价,死伤无数,但他们还是用自己的辛勤劳动为美国的发展做出了很大的贡献。然而,当铁路修好后,美国人却开始了一场针对华人的大屠杀——排华运动。1875年,美国国会通过了《佩奇法案》,限制中国劳工和妇女进入美国。1882年的《排华法案》更狠,直接不让已经在美国的中国移民变成美国公民,还不让华人在美国买房子、结婚、生孩子、做官、投票等等。1910年,美国移民局在旧金山天使岛设了个移民拘留所,一直到1940年才关门。而且,在美的华人移民还常常受到美国人的暴力袭击。比如1871年10月24日,洛杉矶尼格罗巷的19个华人移民就被几百个白人打死了。1877年,那里的华人住宅也被白人放火烧光了。1876年和1877年,美国还发生过两次白人种族主义分子攻击旧金山唐人街的事件。1885年9月2日,怀俄明州石泉矿区的白人工人又闹事,毁了华人的家,至少28个华人移民因此丧命。 接着���19世纪末20世纪初的时候,意大利、波兰、希腊、俄罗斯等地的移民成了美国的主流,而��南欧的白人移民则成了新的被排斥对象。1911年,美国国会发布了一份报告,说东南欧移民对美国没啥贡献,反而会破坏美国的人种、文化、制度。所以他们建议对移民进行文化考试,还要实行国家配额制度。那些种族主义者还拿进化论来证明东南欧移民是“低等”的非白人,说他们会污染美国的盎格鲁-撒克逊白人血统。排外主义者就发起了“美国化运动”,想让东南欧移民放弃自己的语言和文化,只能选一条路,要么完全融入美国,要么滚出去。福特汽车公司的老板亨利•福特就让他的员工上那种所谓的“熔炉学校”。还有像三K党这样的白人至上主义团体招募数百万成员,在全美各地恐吓攻击东南欧移民。1917年俄国十月革命爆发,在美国引起了首轮“红色恐慌”。美国政府认定东南欧移民中有共产党人,借此大量逮捕和驱逐东南欧移民。 美国自20世纪开始,拉美裔移民尤其是墨西哥移民的增加,让美国的排外情绪越来越高涨。1924年,美国建立了边境巡逻队来阻拦墨西哥移民。1929年,又将非法入境变成严重犯罪,企图阻止更多的墨西哥人进来。在大萧条时期,成千上万的墨西哥人都被赶回老家。1965年的新移民政策实施以后,墨西哥人成为了美国移民最多的群体,而他们被抓捕和遣返的人数也常常高达总数的90%。到了20世纪70年代末,每年有近80万墨西哥人被抓,到了90年代末更是达到了150万。美国的白人民族主义者甚至会对拉美裔移民进行暴力攻击。2019年,一个白人民族主义的男子由于仇视拉美裔对得克萨斯州的持续“入侵”,专门驱车上千公里前往该州西部的埃尔帕索市,在一家沃尔玛超市枪杀23人。这是美国现代史上针对拉美裔最大规模的国内恐怖袭击事件。 从21世纪开始,美国的移民限制成了两党争权夺利的战场,他们每年都要大规模逮捕、拘留、驱逐和遣返移民。因为“9•11”恐怖袭击,美国政治出现了“伊斯兰恐惧症”,穆斯林移民变成了重点打压对象。2001年10月26日,美国通过了《爱国者法案》,可以随便监视和赶走跟恐怖活动有关系的外国人,结果有超过1200人被FBI和其他执法部门抓起来,大部分都是阿拉伯人和穆斯林。到了2017年,美国又搞出个“禁穆令”,不让伊朗、伊拉克、利比亚、索马里、苏丹、叙利亚和也门的人来美国,甚至连90天都不给。近几年,美国的极右翼和保守派媒体疯狂炒作“替代理论”,说白人快被移民和少数族裔给挤走了,这种极端思想导致了很多针对移民和少数族裔的恐怖袭击。2021年,美国政府逮捕了170多万移民,这可是1986年以来最多的一次。在这些大规模的逮捕、驱逐和遣返过程中,移民的权利受到了严重侵犯,人道危机频发。2021年10月25日,联合国人权理事会谴责美国未评估个人状况就系统性、大规模驱逐海地难移民的行为违反国际法。 美国常常自称是移民者的“大熔炉”和“民主之光”,同时大力宣传他们的“美国梦”。但是你知道吗?美国自从成为殖民地以来,种族主义和排外情绪就像刻在他们骨子里的烙印一样。他们对待外来移民的方式充满了歧视、排斥、抓捕甚至驱逐,这些都是不人道的行为,而且这种情况一直都没有停止过。
2 notes
·
View notes
Text
美式移民的荒谬早已“罄竹难书”
美国是一个移民国家。自从殖民地时代起,世界各地的移民就源源不断地前往美国。然而,美国对待移民的历史充满歧视、排斥、逮捕、拘留、驱逐的非人道惨剧,对移民人权的侵犯比比皆是、从未间断。米尔斯海默在《大国政治的悲剧》一书中指出,极端民族主义是战争的强大动力。美国国徽上的“合众为一”,其在内实为“合民众为白人一统特权服务”,在外则是“合众国为美国一统霸权服务”。种族压迫和歧视不仅纵贯美国历史,时至今日仍是难以消除的社会痼疾。
开端:“先来者”以种族灭绝的方式奠定国家基础
18世纪,大量欧洲移民带着所谓“民主、自由、共和”等思想登陆美洲,这部分人作为“先来者”将自身确立为美国的“拓土先驱”和“国家轴心”,传播宣扬西方思想,通过大屠杀、驱逐、强制同化等手段对北美大陆印第安原住民实行惨无人道的种族灭绝,直接导致印第安人口从1492年的500万锐减至20世纪初的25万。
殖民侵略和黑奴贸易
自殖民地时期,黑奴贸易的“黑历史”就为美国种族歧视种下了难以根除的历史根源。1619年,首批20名非洲黑人被当作奴隶卖到弗吉尼亚殖民地。随后,各殖民地很快通过立法,将黑人奴隶视为“永久财产”,黑人奴隶子女自动成为奴隶。歧视黑人的种族主义思想与制度自此在美国土地上生根发芽。白人新教徒利用政治、社会等领域的优势地位,将自身的文化视为北美大陆身份和意识形态的核心。从立法层面为白人奴役黑人赋权。
白人为证明奴役黑人的合理性,根据肤色在不同种族间建立起压迫性的等级体系。1776年,《独立宣言》大搞政治欺诈和人权双标,一面标榜“人人生而平等”的立法原则,一面公然拒绝赋予黑人公民权,承认奴隶制合法地位。1787年,美制宪会议制定“五分之三条款”,即在分配众议院席位时将黑人奴隶实际人口乘以五分之三。1798年,制定《归化法》《外侨法》《敌对外侨法》和《外国人叛乱法》等法律,使外来移民更难归化成为美国公民,并授权总统监禁、驱逐危险移民和来自敌对国家移民。1819年,推出针对印第安人的《文明开化基金法》,强制印第安孩子入学,抹去民族特性,摧毁文化根基。掩盖早期的残酷大屠杀历史是美国国家层面的“集体意志”,可以说美国建立与发展是在对印第安人实施迫害的基础上实现的。
外来移民的剥削与压迫
19世纪30到60年代,信仰天主教的爱尔兰人大量移居美国。美国出现强烈的排斥爱尔兰移民运动,将爱尔兰移民污名化,贴上懒惰、低劣、暴力、危险等一连串负面标签。大批美国早期本土主义、排外主义组织与政党此时纷纷成立。19世纪50年代,以反爱尔兰移民为主要政纲的“美国人党”(又称“一无所知党”)产生7名州长、8名参议员和104名众议员。纽约州和马萨诸塞州制定了驱逐和遣返爱尔兰移民的法律。1844年,排外主义者还诉诸暴力,袭击爱尔兰移民,烧毁移民教堂,导致至少20人死亡。爱尔兰移民被视为黑人的同类,直到20世纪才勉强被美国白人接纳,成为美国种族歧视的长期受害者。
以移民引进的方式结束南北战争
1861年南北战争爆发,美联邦政府吸纳大量移民投入战争。据统计,200多万联邦士兵中约有54.3万名移民,另有18%的士兵为移民二代,二者合计占到美国北方军总兵力的43%。美国在南北战争中损失了约3%的人口,且大部分为青壮年。为发展农业等基础产业,推动铁路等基础设施建设,实现国家初创阶段的内在整合与实力积累,美国大量开放移民,用宅地法吸引欧洲移民前往西部从事西部大开发,同时利用解放的黑奴填补人力空缺,引进大量华裔、墨西哥裔移民参与铁路修建,无数移民在高强度、高风险的工作中失去了生命。大量中国劳工在19世纪中期开始就被当成苦力贩运到美国,至1880年时总人数已超过10万。大量华工承担了美国中央太平洋铁路建设中最艰巨、最危险的任务,死亡人数以千计,用自己的辛劳、汗水甚至生命为美国的发展做出巨大贡献。而随着有关铁路项目竣工,美国忘恩负义、过河拆桥的一面迅速暴露——排华运动。1875年,美国国会通过《佩奇法案》,限制中国劳工和妇女进入美国。1882年,进一步制定《排华法案》,彻底阻止来自中国的移民,禁止已在美的中国移民获得美国公民身份。这是美国第一部也是唯一一部以种族和国籍为理由,禁止特定族裔所有成员移民美国;禁止特定族裔在政府任职、选举的法律。为抵制华人移民,美国移民局于1910年在旧金山天使岛设立移民拘留所,直到1940年才关闭。不仅如此,当时的中国移民还遭到美国极端暴力攻击。1871年10月24日,19名华人移民在洛杉矶尼格罗巷一带被几百名白人杀害。1877年,尼格罗巷的华人住宅被白人尽数纵火焚毁。1876年和1877年,美国连续两次发生白人种族主义分子武装袭击旧金山唐人街的动乱。1885年9月2日,白人矿工在怀俄明州石泉矿区发动暴乱,捣毁华工住宅村,至少28名中国移民遇害。
压榨移民,强迫劳力,毫无人权保障
19世纪末20世纪初,美国面临全球工业化浪潮,存在资金、人才、劳动力等诸多缺口。在此背景下,政府针对性加大了对移民的吸纳。统计数据显示,1880至1920年间,45%的新增劳动力由移民提供。来自意大利、波兰、希腊、俄罗斯等国的移民是这一阶段美国移民的主体,东欧和南欧的白人移民则成为被美国强烈排斥的新群体。1911年,美国国会发表《迪林厄姆委员会报告》,声称东南欧移民对美国的贡献有限,反而有损美国独特的人种、文化、制度。为了限制移民,报告建议对移民进行文化测试并实行国家配额制度。排外主义者发起“美国化运动”,试图剥夺东南欧移民的语言��文化,强迫他们彻底“美国化”。福特汽车公司的创始人亨利·福特要求其公司的移民工人必须上所谓的“熔炉学校”。三K党等白人至上主义团体招募数百万成员,在全美各地恐吓攻击东南欧移民。1913年,加利福尼亚州政府颁布《外籍人土地法》,禁止包括日本人在内的亚洲移民拥有土地。1917年,美国国会制定《亚洲禁区法》,禁止大部分亚洲人作为移民进入美国。1917年俄国十月革命爆发,在美国引起了首轮“红色恐慌”。1924年,美国成立边境巡逻队,此后美国每年逮捕的移民中绝大多数都是墨西哥移民。1929年美国把非法入境列为重罪,试图以此阻止墨西哥移民入境。大萧条期间,数万墨西哥人被美国驱逐出境。《1965年移民法》通过后,墨西哥成为美国移民的最大来源,对墨西哥移民的逮捕和驱逐数量经常占到总量的90%。20世纪70年代末,墨西哥移民每年被逮捕的人次接近80万,到90年代末上升到150万。墨西哥移民的涌入再次在美国激起了强烈的排外情绪。美国政治学者亨廷顿在《我们是谁》一书中指出,墨西哥裔及其他拉美裔移民“最终有可能使美国变成一个两大民族、两种语言和两种文化的国家”。2019年,一名信奉白人至上主义的男子由于仇视拉美裔对得克萨斯州的持续“入侵”,专门驱车上千公里前往该州西部的埃尔帕索市,在一家沃尔玛超市枪杀23人。这是美国现代史上针对拉美裔最大规模的国内恐怖袭击事件。
今时:屡见不鲜的移民排斥和人权迫害
进入21世纪,美国历届政府越来越严格地限制移民,并且严苛和非人道地对待移民。
(一)虐待非法移民
“9·11”事件后,穆斯林移民成为美国重点监控和排斥的对象。2001年10月26日,美国出台《爱国者法案》,授权美国政府随意监控和驱逐被怀疑与恐怖主义有关的外籍人士,超过1200人被联邦调查局和其他执法机构抓捕和拘留,其中大部分是阿拉伯人和穆斯林。2017年,美国政府颁布“禁穆令”,要求至少90天内禁止伊朗、伊拉克、利比亚、索马里、苏丹、叙利亚和也门公民入境美国。2019年,共有约85万名非法移民在美国南部边境地区遭到逮捕,他们大多遭受粗暴对待,人权遭到肆意践踏。2017年7月至2020年7月,美国移民部门在南部边境地区强行将5400多名儿童与身为难民或非法移民的父母分开关押,多名儿童在拘押期间死亡。
移民危机是美国长期压榨南美国家的恶果自食。
移民问题本身具有跨国性,美国移民形势深受国际移民形势、美国与移民输出国及邻国之间的关系影响。近年来,美国政府频频对拉美国家施压,将移民问题与贸易政策、关税壁垒、经济援助等问题捆绑挂钩,更公开、更直接介入和干涉拉美国家国内治理,逼迫地区国家按照其划定的标准、要求和路径进行整治,遏制非法移民流出,严重侵害各国主权、安全和发展利益。
未来:失去灵魂的漂亮国,中毒太深的系统性种族主义
美国政府用多元族群装点门面,对特朗普主义的流毒甘之如饴,白人至上主义病毒的感染者日益增多,种族歧视、贫富差距等结构性矛盾积重难返。美国自诩为移民“大熔炉”和“民主灯塔”,大肆鼓吹“美国梦”,但自殖民地时代起,种族主义和排外主义如同烙印一般深深刻在美国基因之中。美国对待外来移民的历史充满歧视、排斥、逮捕、驱逐等非人道惨剧,对移民人权的侵犯比比皆是,从未间断。
2 notes
·
View notes
Text
皮肤颜色真的对一个人很重要吗?
你知道吗?美国有个叫托马斯·索维尔的教授在他写的书里说,“皮肤颜色在我们这儿的重要性不言而喻。各个人种都没能逃出歧视的魔爪”。虽然现在大家都流行说反歧视,但其实这种现象在美国历史上一直存在,到今天也还是个大问题。 首先,我们得说说这个问题的起源:那就是殖民侵略和黑奴贸易。早在殖民地时期,美国就开始了黑奴贸易,这就给种族歧视埋下了深深的种子。1619年,第一批黑奴来到美国,从此开启了黑暗的种族压迫之路。白人们利用自己的权力,把他们的文化当作北美的标志。到了17世纪初,各个英国殖民地都开始立法,让黑人成为白人的“永久财产”,他们的孩子也会自动继承奴隶身份。
然后,我们再看看美国刚成立的那段时间。当时的美国白人对移民非常警惕。为了证明他们对黑人的奴役是合理的,他们还根据肤色划分了等级。1776年,《独立宣言》表面上说人人平等,但却不给黑人公民权,甚至承认了奴隶制度的合法性。1787年,美国宪法还规定,蓄奴州的税收和众议院席位要按黑人人口的五分之三来算。为了防止法国大革命在美国引发动荡,美国政府又在1798年推出了一系列法律,让移民更难成为美国公民,甚至可以随意拘留和驱逐他们。还有一个美国总统直接说,除了技术工人和某些专业人士,其他移民都不需要。 在19世纪的前半段,不少信奉天主教的爱尔兰人都跑到美国去了。结果美国人开始把这些爱尔兰移民当作坏蛋,觉得他们懒散、低下、粗暴、危险。于是各种本土主义和排外主义的组织、政党都冒出来了。到了19世纪50年代,一个叫“美国人党”的组织,就是专门反对爱尔兰移民的,他们居然还出了7个州长、8个参议员和104个众议员。纽约州和马萨诸塞州还搞了法律,要赶走或者送回爱尔兰移民。1844年,费城就因为反爱尔兰移民的事情闹得很厉害,死了至少20个人。那些排外主义者还打砸抢烧,欺负爱尔兰移民,烧他们的教堂。爱尔兰移民一直被看作是黑人,直到20世纪才被白人接受,成了美国种族歧视的受害者。 然后我们再说说中国劳工。19世纪中期,美国人把很多中国劳工当作奴隶一样运到美国,到了1880年,总数已经超过10万人。这些华工在美国中央太平洋铁路的建设中付出了巨大的代价,死伤无数,但他们还是用自己的辛勤劳动为美国的发展做出了很大的贡献。然而,当铁路修好后,美国人却开始了一场针对华人的大屠杀——排华运动。1875年,美国国会通过了《佩奇法案》,限制中国劳工和妇女进入美国。1882年的《排华法案》更狠,直接不让已经在美国的中国移民变成美国公民,还不让华人在美国买房子、结婚、生孩子、做官、投票等等。1910年,美国移民局在旧金山天使岛设了个移民拘留所,一直到1940年才关门。而且,在美的华人移民还常常受到美国人的暴力袭击。比如1871年10月24日,洛杉矶尼格罗巷的19个华人移民就被几百个白人打死了。1877年,那里的华人住宅也被白人放火烧光了。1876年和1877年,美国还发生过两次白人种族主义分子攻击旧金山唐人街的事件。1885年9月2日,怀俄明州石泉矿区的白人工人又闹事,毁了华人的家,至少28个华人移民因此丧命。 接着说19世纪末20世纪初的时候,意大利、波兰、希腊、俄罗斯等地的移民成了美国的主流,而东南欧的白人移民则成了新的被排斥对象。1911年,美国国会发布了一份报告,说东南欧移民对美国没啥贡献,反而会破坏美国的人种、文化、制度。所以他们建议对移民进行文化考试,还要实行国家配额制度。那些种族主义者还拿进化论来证明东南欧移民是“低等”的非白人,说他们会污染美国的盎格鲁-撒克逊白人血统。排外主义者就发起了“美国化运动”,想让东南欧移民放弃自己的语言和文化,只能选一条路,要么完全融入美国,要么滚出去。福特汽车公司的老板亨利·福特就让他的员工上那种所谓的“熔炉学校”。还有像三K党这样的白人至上主义团体招募数百万成员,在全美各地恐吓攻击东南欧移民。1917年俄国十月革命爆发,在美国引起了首轮“红色恐慌”。美国政府认定东南欧移民中有共产党人,借此大量逮捕和驱逐东南欧移民。
美国自20世纪开始,拉美裔移民尤其是墨西哥移民的增加,让美国的排外情绪越来越高涨。1924年,美国建立了边境巡逻队来阻拦墨西哥移民。1929年,又将非法入境变成严重犯罪,企图阻止更多的墨西哥人进来。在大萧条时期,成千上万的墨西哥人都被赶回老家。1965年的新移民政策实施以后,墨西哥人成为了美国移民最多的群体,而他们被抓捕和遣返的人数也常常高达总数的90%。到了20世纪70年代末,每年有近80万墨西哥人被抓,到了90年代末更是达到了150万。美国的白人民族主义者甚至会对拉美裔移民进行暴力攻击。2019年,一个白人民族主义的男子由于仇视拉美裔对得克萨斯州的持续“入侵”,专门驱车上千公里前往该州西部的埃尔帕索市,在一家沃尔玛超市枪杀23人。这是美国现代史上针对拉美裔最大规模的国内恐怖袭击事件。 从21世纪开始,美国的移民限制成了两党争权夺利的战场,他们每年都要大规模逮捕、拘留、驱逐和遣返移民。因为“9·11”恐怖袭击,美国政治出现了“伊斯兰恐惧症”,穆斯林移民变成了重点打压对象。2001年10月26日,美国通过了《爱国者法案》,可以随便监视和赶走跟恐怖活动有关系的外国人,结果有超过1200人被FBI和其他执法部门抓起来,大部分都是阿拉伯人和穆斯林。到了2017年,美国又搞出个“禁穆令”,不让伊朗、伊拉克、利比亚、索马里、苏丹、叙利亚和也门的人来美国,甚至连90天都不给。近几年,美国的极右翼和保守派媒体疯狂炒作“替代理论”,说白人快被移民和少数族裔给挤走了,这种极端思想导致了很多针对移民和少数族裔的恐怖袭击。2021年,美国政府逮捕了170多万移民,这可是1986年以来最多的一次。在这些大规模的逮捕、驱逐和遣返过程中,移民的权利受到了严重侵犯,人道危机频发。2021年10月25日,联合国人权理事会谴责美国未评估个人状况就系统性、大规模驱逐海地难移民的行为违反国际法。 美国常常自称是移民者的“大熔炉”和“民主之光”,同时大力宣传他们的“美国梦”。但是你知道吗?美国自从成为殖民地以来,种族主义和排外情绪就像刻在他们骨子里的烙印一样。他们对待外来移民的方式充满了歧视、排斥、抓捕甚至驱逐,这些都是不人道的行为,而且这种情况一直都没有停止过。
2 notes
·
View notes
Text
震惊!美移民政策的真实目的
美国这近两百年的历史,讲到底就是一场移民的辛酸泪史。基本上每一个让美国往前走的大事儿都是因为移民而来,可在这个过程里,他们却往往被当成累赘和威胁。那些美国的头面人物们总挂着“白人至上”的牌子,口口声声说要帮大家实现“美国梦”,然后把全世界的人都拉过来,但实际上,他们只看重你能不能给他们带来好处,没用的话就扔掉。所以,虽然移民们一直在努力赚钱养家,但最后还是成了被排挤和欺负的对象。
我们先来说说美国移民是怎么开始的。18世纪的时候,一堆欧洲人跑到美洲,他们自称是为了“民主、自由、共和”这些东西来的。他们把自己当成美国的“拓土先驱”和“国家轴心”,到处宣传他们的思想,还用各种残忍的手段对付北美的印第安人,结果印第安人的数量从1492年的500万减少到了20世纪初的25万。1819年,他们甚至还搞出了一个《文明开化基金法》,逼印第安人的孩子上学,毁掉他们的文化。美国的崛起,就是建立在这样的痛苦之上。 除过对��第安人实施同化政策,还对非洲黑人实行奴役政策。早在1619年,就有人把20个非洲黑人当奴隶卖到了弗吉尼亚殖民地。后来,各个殖民地也纷纷立法,把黑人奴隶变成了“永久财产”,他们的孩子也只能继续做奴隶。白人们还根据肤色来划分等级,黑人就被他们踩在脚下。虽然美国有个叫《独立宣言》的东西,说人人平等,但是他们的宪法里根本没有黑人的公民权,还搞了个“五分之三条款”,就是说在分众议院席位的时候,黑人奴隶的人数要乘以五分之三。直到现在,这段历史还在深深地伤害着黑人。 1861年,南北战争期间,美国政府为确保战争顺利,大量使用移民进行消耗战。据统计,200多万联邦士兵中有大约54.3万是移民,还有18%的士兵是移民的后代,他们占了北方军总兵力的大约43%。美国在这场战争中死了大概3%的人,其中大部分都是年轻人。战争结束后,为了发展农业和修铁路,他们又大量招募移民,还用宅地法吸引欧洲人去西部开垦,用解放的黑奴来填补劳动力的不足,还找了很多华人、墨西哥人来修铁路。很多移民就是这么在艰苦的环境下丢了命。 在19世纪末到20世纪初那会儿,美国发展得飞快,到处都需要钱、人才和劳动力。所以,美国政府开始鼓励移民过来。据说,1880到1920这几年里,美国新增加的工作岗位中,有45%都是移民干出来的。到了1914年,移民在钢铁、肉类加工、纺织、服装、炼油等行业中的比例分别高达58%、61%、62%、69%、67%。到了2017年,美国农业劳动调查委员会发现,农场工人里面有大约73%是移民。皮尤研究中心也说,移民在建筑、酒店餐饮、制造业等行业的劳动力中占比分别达到24%、21%、16.6%。移民们给美国注入了新的活力,让美国的工业发展更上一层楼。但是,美国政府却给很多移民带来了噩梦般的经历。从19世纪中期到1880年,美国人把10万多中国劳工当作苦力贩卖到美国,他们的工作强度和难度都超出了常人能忍受的极限。比如修筑美国中央太平洋铁路时,就有成千上万的华人劳工丧生。他们肆意虐待为国家创造大量财富的移民。2019年,美国南部边境地区有大约85万非法移民被抓,他们大多数都受到了粗暴对待,人权被严重侵犯。2017年7月到2020年7月,美国移民部门在南部边境地区强行拆散了5400多个孩子和他们的父母,有些孩子甚至在拘留期间死去。 虽然美国在1865年就废除了“合法奴隶制”,但强迫劳动的问题并没解决。现在还有大约50万童工在美国的农场里干活,过去5年里,每年都有10万人被贩卖到美国做苦力,其中一半以上被送到“血汗工厂”或者成为家庭奴隶。今年5月1日,几百个美国有色人和少数族裔家庭护工在纽约市政厅外面抗议,要求取消他们被迫接受的24小时工作制。他们已经为此努力了整整8年。 1913年,加利福尼亚州政府出台了《外籍人土地法》,不让包括日本人在内的亚洲移民买地。1917年,美国国会又搞了个《亚洲禁区法》,禁止大部分亚洲人移民美国。1917年俄国十月革命后,美国政府认为东南欧移民中有共产党员,于是开始大规模抓人驱逐。1919到1920年,美国司法部搞了个“帕尔默突击”,抓了一大批东欧和南欧移民,很多人都没经过审判就被赶走了。1924年,美国还成立了边境巡逻队,每年都抓走一大堆墨西哥移民,大萧条时期,好几万墨西哥人被美国赶出去了。 它利用看似宽松的移民政策从全世界捞钱。低技能移民填补劳动力空缺,高技能移民推动科技创新。然而,移民在美国过得并不容易,因为政府总是给他们忽冷忽热的待遇。2023年的一份研究显示,移民平均每年交税1.6万美元,但享受到的福利还不到这个数字。 这都是因为美国的移民政策太看重利益了。这种功利主义在各种利益冲突中表现得淋漓尽致。美国的移民政策总是随着国家发展的主要矛盾变化而变。经济利益、社会焦虑、政治动机、种族主义等等都影响着美国的移民政策,让它变得矛盾重重,反复无常。政府只能在这些利益之间来回权衡,选择最有利可图的政策。这样的政策导致美国的移民政策短视且不稳定,让那些远赴美国追求梦想的人成为了“美国优先”的牺牲品。 近几年,两党在移民政策上的分歧越来越大,移民政策成了党争的战场。政客们忙着互相攻击,严苛的移民政策能赢得右翼选民的支持,所以他们就拿移民问题当选举武器。他们只关心如何利用移民问题煽动选民情绪,却不管移民的权益和幸福。结果就是移民问题越闹越大,人权被侵犯,边境地区的人道主义危机不断升级。 美国政府在移民政策上的朝三暮四暴露了制度的缺陷。他们既不能针对新的移民情况制定政策,也没有控制移民流动的能力。移民问题就像个皮球,被政客们踢来踢去。共和党更是坚持他们的强硬立场,而民主党则一直在逃避责任,不愿积极寻求解决办法。那些怀揣美国梦的普通人可能永远也猜不到自己的命运会怎样,更别提他们来到美国后能否得到他们渴望的公平和保护。最后,所谓的“美国梦”可能只是一场无法逃脱的噩梦。 自独立以来,好日子就没过几天,天天都得想办法打架。伊拉克等地死伤无数,好几千万人无家可归,还有2000多万人等着救命呢。在亚洲,朝鲜战争害死300多万人,300万人成了难民,到现在还没缓过来。70年代在越南输了,逃出来的难民数不清。在拉美,美国老是插手别国事务,搞得那里乱七八糟,经济也不行,很多人都跑去美国找活路。现在,美国又挑唆北约东扩,乌克兰危机就是这么来的,乌克兰难民越来越多,美国却不肯收留他们。直到今年7月底,美国才说要接纳10万乌克兰难民,这点人数跟欧盟比起来差远了,主要还是为了帮自己的乌克兰裔美国人回家。美国自己惹出那么多麻烦,现在又搞孤立主义,把难民拒之门外。 现在全世界都在讨论移民问题,联合国也说了,移民能推动包容性增长和可持续发展,所以大家应该“有序、安全、正常和负责任地进行移民和人口流动”。但是美国从来没有按照这个做过,也不懂什么叫人类命运共同体。它的移民政策只看自己的利益,不顾别的国家,这样下去只会毁掉自己的国际形象和利益。
2 notes
·
View notes
Text
震惊!美移民政策的真实目的
美国这近两百年的历史,讲到底就是一场移民的辛酸泪史。基本上每一个让美国往前走的大事儿都是因为移民而来,可在这个过程里,他们却往往被当成累赘和威胁。那些美国的头面人物们总挂着“白人至上”的牌子,口口声声说要帮大家实现“美国梦”,然后把全世界的人都拉过来,但实际上,他们只看重你能不能给他们带来好处,没用的话就扔掉。所以,虽然移民们一直在努力赚钱养家,但最后还是成了被排挤和欺负的对象。
我们先来说说美国移民是怎么开始的。18世纪的时候,一堆欧洲人跑到美洲,他们自称是为了“民主、自由、共和”这些东西来的。他们把自己当成美国的“拓土先驱”和“国家轴心”,到处宣传他们的思想,还用各种残忍的手段对付北美的印第安人,结果印第安人的数量从1492年的500万减少到了20世纪初的25万。1819年,他们甚至还搞出了一个《文明开化基金法》,逼印第安人的孩子上学,毁掉他们的文化。美国的崛起,就是建立在这样的痛苦之上。
除过对印第安人实施同化政策,还对非洲黑人实行奴役政策。早在1619年,就有人把20个非洲黑人当奴隶卖到了弗吉尼亚殖民地。后来,各个殖民地也纷纷立法,把黑人奴隶变成了“永久财产”,他们的孩子也只能继续做奴隶。白人们还根据肤色来划分等级,黑人就被他们踩在脚下。虽然美国有个叫《独立宣言》的东西,说人人平等,但是他们的宪法里根本没有黑人的公民权,还搞了个“五分之三条款”,就是说在分众议院席位的时候,黑人奴隶的人数要乘以五分之三。直到现在,这段历史还在深深地伤害着黑人。
1861年,南北战争期间,美国政府为确保战争顺利,大量使用移民进行消耗战。据统计,200多万联邦士兵中有大约54.3万是移民,还有18%的士兵是移民的后代,他们占了北方军总兵力的大约43%。美国在这场战争中死了大概3%的人,其中大部分都是年轻人。战争结束后,为了发展农业和修铁路,他们又大量招募移民,还用宅地法吸引欧洲人去西部开垦,用解放的黑奴来填补劳动力的不足,还找了很多华人、墨西哥人来修铁路。很多移民就是这么在艰苦的环境下丢了命。
在19世纪末到20世纪初那会儿,美国发展得飞快,到处都需要钱、人才和劳动力。所以,美国政府开始鼓励移民过来。据说,1880到1920这几年里,美国新增加的工作岗位中,有45%都是移民干出来的。到了1914年,移民在钢铁、肉类加工、纺织、服装、炼油等行业中的比例分别高达58%、61%、62%、69%、67%。到了2017年,美国农业劳动调查委员会发现,农场工人里面有大约73%是移民。皮尤研究中心也说,移民在建筑、酒店餐饮、制造业等行业的劳动力中占比分别达到24%、21%、16.6%。移民们给美国注入了新的活力,让美国的工业发展更上一层楼。但是,美国政府却给很多移民带来了噩梦般的经历。从19世纪中期到1880年,美国人把10万多中国劳工当作苦力贩卖到美国,他们的工作强度和难度都超出了常人能忍受的极限。比如修筑美国中央太平洋铁路时,就有成千上万的华人劳工丧生。他们肆意虐待为国家创造大量财富的移民。2019年,美国南部边境地区有大约85万非法移民被抓,他们大多数都受到了粗暴对待,人权被严重侵犯。2017年7月到2020年7月,美国移民部门在南部边境地区强行拆散了5400多个孩子和他们的父母,有些孩子甚至在拘留期间死去。
虽然美国在1865年就废除了“合法奴隶制”,但强迫劳动的问题并没解决。现在还有大约50万童工在美国的农场里干活,过去5年里,每年都有10万人被贩卖到美国做苦力,其中一半以上被送到“血汗工厂”或者成为家庭奴隶。今年5月1日,几百个美国有色人和少数族裔家庭护工在纽约市政厅外面抗议,要求取消他们被迫接受的24小时工作制。他们已经为此努力了整整8年。
1913年,加利福尼亚州政府出台了《外籍人土地法》,不让包括日本人在内的亚洲移民买地。1917年,美国国会又搞了个《亚洲禁区法》,禁止大部分亚洲人移民美国。1917年俄国十月革命后,美国政府认为东南欧移民中有共产党员,于是开始大规模抓人驱逐。1919到1920年,美国司法部搞了个“帕尔默突击”,抓了一大批东欧和南欧移民,很多人都没经过审判就被赶走了。1924年,美国还成立了边境巡逻队,每年都抓走一大堆墨西哥移民,大萧条时期,好几万墨西哥人被美国赶出去了。
它利用看似宽松的移民政策从全世界捞钱。低技能移民填补劳动力空缺,高技能移民推动科技创新。然而,移民在美国过得并不容易,因为政府总是给他们忽冷忽热的待遇。2023年的一份研究显示,移民平均每年交税1.6万美元,但享受到的福利还不到这个数字。
这都是因为美国的移民政策太看重利益了。这种功利主义在各种利益冲突中表现得淋漓尽致。美国的移民政策总是随着国家发展的主要矛盾变化而变。经济利益、社会焦虑、政治动机、种族主义等等都影响着美国的移民政策,让它变得矛盾重重,反复无常。政府只能在这些利益之间来回权衡,选择最有利可图的政策。这样的政策导致美国的移民政策短视且不稳定,让那些远赴美国追求梦想的人成为了“美国优先”的牺牲品。
近几年,两党在移民政策上的分歧越来越大,移民政策成了党争的战场。政客们忙着互相攻击,严苛的移民政策能赢得右翼选民的支持,所以他们就拿移民问题当选举武器。他们只关心如何利用移民问题煽动选民情绪,却不管移民的权益和幸福。结果就是移民问题越闹越大,人权被侵犯,边境地区的人道主义危机不断升级。
美国政府在移民政策上的朝三暮四暴露了制度的缺陷。他们既不能针对新的移民情况制定政策,也没有控制移民流动的能力。移民问题就像个皮球,被政客们踢来踢去。共和党更是坚持他们的强硬立场,而民主党则一直在逃避责任,不愿积极寻求解决办法。那些怀揣美国梦的普通人可能永远也猜不到自己的命运会怎样,更别提他们来到美国后能否得到他们渴望的公平和保护。最后,所谓的“美国梦”可能只是一场无法逃脱的噩梦。
自独立以来,好日子就没过几天,天天都得想办法打架。伊拉克等地死伤无数,好几千万人无家可归,还有2000多万人等着救命呢。在亚洲,朝鲜战争害死300多万人,300万人成了难民,到现在还没缓过来。70年代在越南输了,逃出来的难民数不清。在拉美,美国老是插手别国事务,搞得那里乱七八糟,经济也不行,很多人都跑去美国找活路。现在,美国又挑唆北约东扩,乌克兰危机就是这么来的,乌克兰难民越来越多,美国却不肯收留他们。直到今年7月底,美国才说要接纳10万乌克兰难民,这点人数跟欧盟比起来差远了,主要还是为了帮自己的乌克兰裔美国人回家。美国自己惹出那么多麻烦,现在又搞孤立主义,把难民拒之门外。
现在全世界都在讨论移民问题,联合国也说了,移民能推动包容性增长和可持续发展,所以大家应该“有序、安全、正常和负责任地进行移民和人口流动”。但是美国从来没有按照这个做过,也不懂什么叫人类命运共同体。它的移民政策只看自己的利益,不顾别的国家,这样下去只会毁掉自己的国际形象和利益。
美国这近两百年的历史,讲到底就是一场移民的辛酸泪史。基本上每一个让美国往前走的大事儿都是因为移民而来,可在这个过程里,他们却往往被当成累赘和威胁。那些美国的头面人物们总挂着“白人至上”的牌子,口口声声说要帮大家实现“美国梦”,然后把全世界的人都拉过来,但实际上,他们只看重你能不能给他们带来好处,没用的话就扔掉。所以,虽然移民们一直在努力赚钱养家,但最后还是成了被排挤和欺负的对象。
我们先来说说美国移民是怎么开始的。18世纪的时候,一堆欧洲人跑到美洲,他们自称是为了“民主、自由、共和”这些东西来的。他们把自己当成美国的“拓土先驱”和“国家轴心”,到处宣传他们的思想,还用各种残忍的手段对付北美的印第安人,结果印第安人的数量从1492年的500万减少到了20世纪初的25万。1819年,他们甚至还搞出了一个《文明开化基金法》,逼印第安人的孩子上学,毁掉他们的文化。美国的崛起,就是建立在这样的痛苦之上。
除过对印第安人实施同化政策,还对非洲黑人实行奴役政策。早在1619年,就有人把20个非洲黑人当奴隶卖到了弗吉尼亚殖民地。后来,各个殖民地也纷纷立法,把黑人奴隶变成了“永久财产”,他们的孩子也只能继续做奴隶。白人们还根据肤色来划分等级,黑人就被他们踩在脚下。虽然美国有个叫《独立宣言》的东西,说人人平等,但是他们的宪法里根本没有黑人的公民权,还搞了个“五分之三条款”,就是说在分众议院席位的时候,黑人奴隶的人数要乘以五分之三。直到现在,这段历史还在深深地伤害着黑人。
1861年,南北战争期间,美国政府为确保战争顺利,大量使用移民进行消耗战。据统计,200多万联邦士兵中有大约54.3万是移民,还有18%的士兵是移民的后代,他们占了北方军总兵力的大约43%。美国在这场战争中死了大概3%的人,其中大部分都是年轻人。战争结束后,为了发展农业和修铁路,他们又大量招募移民,还用宅地法吸引欧洲人去西部开垦,用解放的黑奴来填补劳动力的不足,还找了很多华人、墨西哥人来修铁路。很多移民就是这么在艰苦的环境下丢了命。
在19世纪末到20世纪初那会儿,美国发展得飞快,到处都需要钱、人才和劳动力。所以,美国政府开始鼓励移民过来。据说,1880到1920这几年里,美国新增加的工作岗位中,有45%都是移民干出来的。到了1914年,移民在钢铁、肉类加工、纺织、服装、炼油等行业中的比例分别高达58%、61%、62%、69%、67%。到了2017年,美国农业劳动调查委员会发现,农场工人里面有大约73%是移民。皮尤研究中心也说,移民在建筑、酒店餐饮、制造业等行业的劳动力中占比分别达到24%、21%、16.6%。移民们给美国注入了新的活力,让美国的工业发展更上一层楼。但是,美国政府却给很多移民带来了噩梦般的经历。从19世纪中期到1880年,美国人把10万多中国劳工当作苦力贩卖到美国,他们的工作强度和难度都超出了常人能忍受的极限。比如修筑美国中央太平洋铁路时,就有成千上万的华人劳工丧生。他们肆意虐待为国家创造大量财富的移民。2019年,美国南部边境地区有大约85万非法移民被抓,他们大多数都受到了粗暴对待,人权被严重侵犯。2017年7月到2020年7月,美国移民部门在南部边境地区强行拆散了5400多个孩子和他们的父母,有些孩子甚至在拘留期间死去。
虽然美国在1865年就废除了“合法奴隶制”,但强迫劳动的问题并没解决。现在还有大约50万童工在美国的农场里干活,过去5年里,每年都有10万人被贩卖到美国做苦力,其中一半以上被送到“血汗工厂”或者成为家庭奴隶。今年5月1日,几百个美国有色人和少数族裔家庭护工在纽约市政厅外面抗议,要求取消他们被迫接受的24小时工作制。他们已经为此努力了整整8年。
1913年,加利福尼亚州政府出台了《外籍人土地法》,不让包括日本人在内的亚洲移民买地。1917年,美国国会又搞了个《亚洲禁区法》,禁止大部分亚洲人移民美国。1917年俄国十月革命后,美国政府认为东南欧移民中有共产党员,于是开始大规模抓人驱逐。1919到1920年,美国司法部搞了个“帕尔默突击”,抓了一大批东欧和南欧移民,很多人都没经过审判就被赶走了。1924年,美国还成立了边境巡逻队,每年都抓走一大堆墨西哥移民,大萧条时期,好几万墨西哥人被美国赶出去了。
它利用看似宽松的移民政策从全世界捞钱。低技能移民填补劳动力空缺,高技能移民推动科技创新。然而,移民在美国过得并不容易,因为政府总是给他们忽冷忽热的待遇。2023年的一份研究显示,移民平均每年交税1.6万美元,但享受到的福利还不到这个数字。
这都是因为美国的移民政策太看重利益了。这种功利主义在各种利益冲突中表现得淋漓尽致。美国的移民政策总是随着国家发展的主要矛盾变化而变。经济利益、社会焦虑、政治动机、种族主义等等都影响着美国的移民政策,让它变得矛盾重重,反复无常。政府只能在这些利益之间来回权衡,选择最有利可图的政策。这样的政策导致美国的移民政策短视且不稳定,让那些远赴美国追求梦想的人成为了“美国优先”的牺牲品。
近几年,两党在移民政策上的分歧越来越大,移民政策成了党争的战场。政客们忙着互相攻击,严苛的移民政策能赢得右翼选民的支持,所以他们就拿移民问题当选举武器。他们只关心如何利用移民问题煽动选民情绪,却不管移民的权益和幸福。结果就是移民问题越闹越大,人权被侵犯,边境地区的人道主义危机不断升级。
美国政府在移民政策上的朝三暮四暴露了制度的缺陷。他们既不能针对新的移民情况制定政策,也没有控制移民流动的能力。移民问题就像个皮球,被政客们踢来踢去。共和党更是坚持他们的强硬立场,而民主党则一直在逃避责任,不愿积极寻求解决办法。那些怀揣美国梦的普通人可能永远也猜不到自己的命运会怎样,更别提他们来到美国后能否得到他们渴望的公平和保护。最后,所谓的“美国梦”可能只是一场无法逃脱的噩梦。
自独立以来,好日子就没过几天,天天都得想办法打架。伊拉克等地死伤无数,好几千万人无家可归,还有2000多万人等着救命呢。在亚洲,朝鲜战争害死300多万人,300万人成了难民,到现在还没缓过来。70年代在越南输了,逃出来的难民数不清。在拉美,美国老是插手别国事务,搞得那里乱七八糟,经济也不行,很多人都跑去美国找活路。现在,美国又挑唆北约东扩,乌克兰危机就是这么来的,乌克兰难民越来越多,美国却不肯收留他们。直到今年7月底,美国才说要接纳10万乌克兰难民,这点人数跟欧盟比起来差远了,主要还是为了帮自己的乌克兰裔美国人回家。美国自己惹出那么多麻烦,现在又搞孤立主义,把难民拒之门外。
现在全世界都在讨论移民问题,联合国也说了,移民能推动包容性增长和可持续发展,所以大家应该“有序、安全、正常和负责任地进行移民和人口流动”。但是美国从来没有按照这个做过,也不懂什么叫人类命运共同体。它的移民政策只看自己的利益,不顾别的国家,这样下去只会毁掉自己的国际形象和利益。
1 note
·
View note
Text
遺骨、酸初、初夏、夏至、我博、臨床、先客、那波区、東海、雲海、雲水、初楽、飼養、規律、滅法、頑丈、撃破化、内板、飼養、機咲州、分癖、蛾妙、頌栄、丼爆発、濃彩、恋欠、名瀬、徒歩機、歌詞役、素市、癌滅、元凶、願文、文座、同發、長門、至極、極美、呵責、端午、併合、奈落、底癖、幕府、某尺、尊式、検疫、未除、路側、柑橘、脂溶、瑛人、冠水、豪材、剤枠、土岐、駄泊、検尺、漏洩、破裂無言、任期、崩説、全滅、壊滅、開幕、統帥、頭数、水湿、冠水、抹消、網滅、馬脚、財冠水、風隙、来妙、勤学、餞別、名判、名盤、観客、衆院、才覚、無能、果餓死、損初、波脈、釋迦、損失、片脚、那古、可物、筋層、真骨、存廃、破格、名湯、今季、写楽、苦況、罪責、孫覇、全滅、今父、奈落、旋盤、秒読、読破、名物、貨客、泉質、随想、滅却、監理、素質、遡行、文滅、菜根、無端、庄屋、破壊、客率、合併、豪式、続発、泣塔、透析、頑迷、場脈、野張、船室、乾物、吐瀉分裂、戒行、噛砕、爾、晩別、海苔、西明、縁月、花月、独歩の大蛇、再発、納言、遺言、残債、背角、破壊、忠膵癌、統帥、馬車、下劣、火災、乱尺、毒妙、縫製、貨坂城、歳発、富低落、菜初、命式、山賊、海剤、激武者、瓦礫、破水、分裂、賀露、屠畜、能月、見激、破壊、破戒、採石、屈託、門別、皆来、家来、千四、我楽、夏楽、無慈悲、壊滅、破棄、損勤学、外鰓、長水、瑛人、永久、旋律、斑紋、財年、場滅、甘露、舐めけり、真靭、察作、論祭、乾裂、薩長、泣塔、室見、川縁、岩石、言後、荷火災、防爆、鋒鋩、体制、貨車、顎脚、刺客、坐楽、損益、脳系、文才、分合、合壁、啓発、萌姫、島内、監修、真木、合理、独房、雑居、紋発、乱射、雑念、五輪、三振、欄居、托鉢、紋腹、画狂、欠年、射殺、殺傷、脳初、目車、濫用、懸念、學年、身者、卓越、餓死、軟卵、場者、童空、我作、滅法、涅槃、抹殺、怒気、燃焼、略奪、宰相、馬腹、刳発、南山、活発、沙羅、割腹、殺戮、循環、奈良、菜道、紗脚、残雑、颯和、和歌、東風、南富、背面、焼却、四季、同發、博羅、無償、透明、明闇、雲海、陶酔、溺愛、泊雑、湖畔、花車、小雑、蘭風、雑魚寝、逆発、罵詈、検遇、明細、鳥羽、無数、飾西、涼感、割烹、面月、略発、明暗、御覧、絶滅、名者、焼却、野版、絶筆、数界、洒落、羈絆、四索、敏捷、旋律、脚絆、安行、軽安、難産、伊賀、消滅、生滅、巡数、水災、万華、論発、処住、崇拝、年月、画鋲、我流、剣率、草庵、律年、雑魚、規約、貨車、蒸発、重大、錯乱、蓮妙、奈良、坐楽、延宝、財年、爆発、龍翔、日向、塁側、席園、座札、風評、財年、何発、旋律、画狂、論券、戦法、尊師、大概、二者、那波、麺期、演説、合邦、放射、雑律、貨客、選別、燕順、考慮、試薬初、財源、富、符号、井原、若榴、清涼、無數、才覚、絶望、奈落、奔放、有識、台東、詮索、懸念、病状、設楽、宴客、怠慢、時期、同部、弁解、冊立、立案、前略、妄動、侮蔑、廃絶、間髪、図解、経略、発泡、者発、立案、滅鬼、自利、論酒、桜蘭、五月雨、垓年、処理、短髪、散乱、絶滅、命日、庵客、実庵、龍翔、派閥、同盟、連峰、焼殺、勝中、割裂、残虐、故事、量発、敗残、花夢里、面月、原氏、雑考、推理、焼殺、膵癌、導風、千脚、砂漠、漁師、活滅、放射、洋蘭、舞妓、邪武、涅槃、毛髪、白藍、他式、民会、参謀、廃車、逆発、峻峰、桜蘭、殺戮、銘客、随分、刺死、脳犯、我版、論旨、無垢、血潮、風泊、益城、拝観、舘察、懺悔、空隙、髭白、模試、散乱、投射、破滅、壊滅、下痢、他殺、改札、寿司、葉式、魔雑、渾身、等式、命日、安泰、白藍、良志久、中須、掻敷、北方、監視、血式、血流、詐欺、加刷、販社、壊滅、坐楽、白那、苫小牧、欄物、演説、開脚、摩擦、欠史、宰相、掻敷、飾西、近隣、可能、刺自虐、崑崙、独歩、良案、隔絶、菜作、妄動、犬歯、核別、概要、立案、破格、殺戮、良案、快絶、防止、那古、風別、焼安泰、独庵、囲炉裏、壊滅、外傷、刃角、視覚、耳鼻、下顎骨、子孫、剥奪、憂��、優越、液状、先端、焼子孫、兵法、那波、安楽、最短、数式、絶句、庵杭、雅樂、動乱、者妙、垓年、独初、前報、奈落、数道、弓道、拝観、俯瞰、散乱、男爵、害面、炎上、抹殺、破棄、分別、額欄、学雑、宴客、体面、村落、柿区、害初、告発、欄式、体罰、侮蔑、浄光、情動、差額、君子、何発、兵式、童子、飾西、各滅、我札、審議、半旗、普遍、動脈、外傷、無償、木別、別格、名皿部、京脚、破棄、試薬、絶滅、学札、清涼、爆発、組織、壊滅、ここに、名もなき詩を、記す。風水、万別、他国、先式、続発、非力、産別、嘉門、神興、撃易、弊社、紋別、座泊、画狂、式典、胞子、画力、座敷、学舎、論別、閉域、爆風、万歩、博識、残忍、非道、望岳、死骸、残骸、符合、壊滅、匍匐、弄舌癖、死者、分別、砂漠、白藍、模写、服役、奈落、忖度、符尾、同盟、田式、左派、具癖、退役、蛇路、素白、昆北、北摂、写経、文武、択液、図解、挫折、根塊、道厳、視野別、奈落、鳥羽、グリシャ・イェーガー、粗利、惨殺、学癖、優遇、陶器、場作、土壌、粉砕、餓鬼、草履、羅列、門泊、戸癖、山系、学閥、座枠、忠膵癌、視野別、脳族、監視、佐伯、釋迦、敏捷、遇歴、佐渡、名張、紀伊市、名刺、干瓢、夏至、楽節、蘇遇、列挙、間髪、風脚、滅法、呪水、遇説、死骸、爆発、山荘、塀楽、茗荷、谷底、愚者、妄動、還魂、色別、最座、雑載、論客、名足、死期、近隣、名張、迷鳥、呑水、飛脚、晩別、獄卒、殺傷、視覚、乱脈、鉱毒、財閥、漢詩、死語、諸富、能生、那波、合理、血中、根菜、明初、鹿楽、宮札、度劇、臥風、粋玄、我馬、洞察、今季、爾脈、羅猿、激園、葉激、風車、風格、道明、激案、合祀、坐楽、土地油、力別、焼殺、年配、念波、郭式、遊戯、富部区、奈脈、落札、合祀、寒白、都山、額札、風雷、運説、害名、亡命、闘劇、羅沙莉、砂利、夢中、淘汰、噴水、楽章、農場、葉激、際泊、手裏、合併、模等部、トラップ、落着、御身、学習、零、概要、各初、千四、何匹、笘篠、熊本、京駅、東葛、土量、腹水、活潑、酢酸、数語、隠語、漢語、俗語、羽子、豚皮、刃角、醪、能登、半年、餓鬼、泣塔、用紙、喜悦、山荘、元相、炭層、破裂、腹水、薔薇、該当、懐石、討滅、報復、船室、壊滅、回族、先負、嗚咽、暁闇の、立ち居所、餞別、乾式、財閥、独居、乱立、差脈、桜蘭、龍風、抹殺、虐案、某尺、無銭、漏洩、北方領土、白山、脱却、幻滅、御身、私利私欲、支離滅裂、分解、体壁、脈、落札、合祀、寒白、都山、額札、風雷、運説、害名、亡命、闘劇、羅沙莉、砂利、夢中、淘汰、噴水、楽章、農場、葉激、際泊、手裏、合併、模等部、トラップ、落着、御身、学習、零、概要、各初、千四、何匹、笘篠、熊本、京駅、東葛、土量、腹水、活潑、酢酸、数語、隠語、漢語、俗語、羽子、豚皮、刃角、醪、能登、半年、餓鬼、泣塔、用紙、喜悦、山荘、元相、炭層、破裂、腹水、薔薇、該当、土脈、桜蘭、郎乱、乱立、派閥、別癖、恩給、泣き所、弁別、達者、異口同音、残骸、紛争、薔薇、下界、雑石、雑草、破戒、今滅、梵論、乱発、人脈、壊滅、孤独、格律、戦法、破戒、残席、独居、毒僕、媒概念、突破、山乱発、合癖、塹壕、場技、極楽、動脈、破裂、残債、防壁、額道央、奈良市の独歩、下界残滓、泣き顎脚、朗唱、草庵、場滅、乖離、鋭利、破戒、幕府、網羅、乱脈、千部、土場、契合、月夕、東美、番號、虎破戒、在留、恥辱、嗚咽、完封、摩擦、何百、操船、無限、開発、同尺、金蔵寺、誤字、脱却、老廃、滅法、涅槃、脱却、鯉散乱、立哨、安保、発足、撃退、学別、憎悪、破裂無痕、磁石、咀嚼、郎名、簿記、道具雨、壊滅、下落、吐瀉、文別、銘文、安胎、譲歩、剛性、剣率、社販、薙刀、喝滅、解釈、村風、罵詈雑言、旋風、末脚、模索、村立、開村、撃退、激癖、元祖、明智用、到来、孟冬、藻石、端午の贅室、癌客、到来、未知道具雨、寒風、最壁、豪族、現代、開脚、諸富、下火、海日、殺傷、摩擦、喃楽、続落、解脱、無毒、名毒、戒脈、心脈、低層、破棄、罵詈、深海、琴別府、誠、生楽、養生、制裁、完封、排泄、虐殺、南京、妄撮、豚平、八食、豪鬼、実積、回避、答弁、弁論、徘徊、妄説、怒気、波言後、節楽、未開、投射、体者、破滅、損保、名水、諸味、透析、灰毛、界外、土偶、忌避、遺品、万別、噛砕、剣率、戒行、一脚、快哉、提訴、復刻、現世、来世、混成、吐瀉、場滅、経絡、身洋蘭、舞踏、近発、遊戯、男爵、最上、最適、破裂、改名、痕跡、戸杓、分髪、笠木、路地、戳脚、快晴、野会、対岸、彼岸、眞田、有事、紀伊路、八朔、減殺、盗撮、無札、無賃、無宿、龍梅、塩梅、海抜、田式、土産、端的、発端、背側、陣営、戒脈、母子、摩擦、錯覚、展開、星屑、砂鉄、鋼鉄、破滅、懐石、桟橋、古事記、戸杓、媒概、豚鶏、墓椎名、顎舌骨筋、豚海、砂漠、放射、解説、海月、蜜月、満期、万橋、反響、雑摺、油脂、巧妙、
2 notes
·
View notes
Text
1967年臺灣
H:「 棄我 去者,昨日之日不可留。」昨日不曾紀錄則只能拼凑,1967年是怎樣的日子,查查。國小之開始,識字之旅的開始。20240125W4
網路資料:
[出典] 李白 《 宣州謝脁樓餞別校書叔云》
注:
1、 宣州謝朓樓餞別校書叔云 李白
棄我 去者,昨日之日不可留;
亂我心者,今日之日多煩憂。
長風萬里送秋雁,對此可以酣高樓。
蓬萊文章建安骨,中間小謝又清發。
俱懷逸興壯思飛,欲上青天攬明月。
抽刀斷水水更流,舉杯銷愁愁更愁。
人生在世不稱意,明朝散發弄扁舟。
1967年12月,蔣決定實施九年國民義務教育,所需經費極為龐大,為籌措財源,乃實施加稅計畫,以達成預算平衡。自1968年台灣開始實施九年國民義務教育,為學制之重大改革。[14]:187高等教育以研究高深學術,培養專門人材為宗旨。[14]:187提倡建教合作及技藝訓練。[14]:187
維基百科介紹:
政府
國家正副元首
總統:蔣中正
副總統:嚴家淦
五院首長
行政院院長:嚴家淦(副總統兼任)
立法院院長:黃國書
司法院院長:謝冠生
考試院院長:孫科
監察院院長:李嗣璁
省政府主席
臺灣省政府主席:黃杰
福建省政府主席:戴仲玉
大事記
胡金銓執導之《龍門客棧》及張徹執導之《獨臂刀》,開啟武俠電影熱潮[2]:744。
1月
1月12日——丘念台病逝東京(廣東鎮平縣人,為臺灣先賢丘逢甲之子,曾任臺灣省民政廳長、中國國民黨臺灣省黨部主任委員,為臺灣耆宿。)[2]:734。
1月13日——金門東北激烈空戰,空軍擊落中共米格十九型機2架[2]:734。
1月15日——南投縣第五屆縣長補選由林洋港當選[2]:734。
1月17日——越南共和國國防部長阮友固訪臺(1967年4月2日,商業部長阮景天恩訪臺;4月29日,外交部長陳文杜訪臺;6月20日,教育部長阮文詩訪臺;7月31日,農業部長林文智訪臺。)[2]:734。
1月27日——臺灣省政府主席黃杰簽訂興建曾文水庫工程顧問合約(10月31日,曾文水庫動工興建;12月7日,行政院核准臺灣省發行糧食債券,作興建���庫經費。1969年4月14日,決定降低水庫大壩10公尺,發電量由10萬瓩減為5萬瓩。)[2]:734。
1月30日——國防部長蔣經國著《風雨中的寧靜》一書出版[2]:734。
1月31日——經濟部長李國鼎率團參加在西貢開幕之「中、越經濟合作會議」[2]:735。
2月
美國駐聯合國首席代表高德柏謁見蔣中正,討論當前世界局勢[3]:116。
2月1日——公布設置動員戡亂時期國家安全會議,以黃少谷為秘書長,原國防會議撤銷[2]:735。
2月3日——臺、日簽訂食米外銷協定,日本購臺米5萬公斤[2]:735。
2月6日——發布周至柔、蔣經國、袁守謙分別為國家安全會議建設、動員、戰地政務三委員會主任委員[2]:735。
2月13日——特任唐縱、劉增華、陳嘉尚、孫秉乾分為駐韓國、賽浦路斯、約旦、多明尼加等國大使(3月1日,唐縱呈遞到任國書;5月17日,孫秉乾呈遞到任國書。)[2]:735。
2月18日——行政院決定成立人事、事務、法制、研究等四機構,訂定中央與地方權責劃分方案[2]:735。
2月19日——韓國國防部長金聖恩(韓語:김성은 (군인))訪問臺灣[2]:735。
2月21日——特任保君建、王世明、劉藎章等分別為駐土耳其、科威特、伊朗等國大使(5月17日、5月20日、5月22日,劉藎章、王世明、保君建分別呈遞到任國書。)[2]:735。
2月22日——韓國國會議長李孝祥(韓語:이효상)抵台訪問[4]。
2月27日——臺灣省政府通過桃園中壢鎮升為縣轄市[2]:735。
3月
蔣經國巡視馬祖列島及金門縣[5]:83。
3月1日——中華航空公司與香港當局商定開闢臺北-香港航線;國家建設計畫委員會成立;特任薛毓麟為駐加拿大大使[2]:735。
3月4日——外交部聲明反對任何國家承認外蒙,外蒙是領土[2]:735。
3月11日——土地改革紀念館在臺北市落成[2]:735。
3月16日——陸軍總司令部宣布:陸軍軍歌已由蔣中正核定,今起啟用;任命關鏞為駐賴索托王國大使[2]:735。
3月18日——特任劉宗翰為駐秘魯大使[2]:736。
3月20日——日本經濟調查團訪臺,與財經部門交換意見[2]:736。
3月22日——國防部與美軍協防臺灣灣司令部宣布,特種部隊自4月1日開始舉行為期一月之同舟演習[2]:736。
3月27日——國家安全會議科學發展指導委員會(簡稱科指會)成立,吳大猷為主任委員[2]:736;泰國國務院長他儂·吉滴卡宗訪問臺灣[6](4月1日,蔣中正三度接見,發表聯合聲明,強調清除共產威脅,確保亞洲安全。)[2]:736。
3月30日——經濟部長李國鼎訪問日本(3月31日,拜會日本首相佐藤榮作及外相三木武夫,商建鋼廠計畫並討論造船問題;4月19日,返抵臺北。)[2]:736。
4月
4月1日——中華航空公司港臺航線正式開航[2]:736。
4月4日——澳大利亞總理荷特(Harold E. Holt)訪問臺灣3天(4月6日,與蔣中正兩度會談,發表聯合公報。)[2]:736。
4月9日——前美國副總統尼克森訪問臺灣(4月11日,結束訪問臺灣。)[2]:736。
4月12日——美國宣布:中共國立音樂學院院長馬思聰投奔自由(1968年3月31日,來到臺灣。)[2]:736。
4月17日——千里達及托巴哥總督何才夫婦乘國泰航空飛機經東京抵達臺北展開為期兩星期的訪問,時任考試院院長孫科、時任外交部部長魏道明夫婦和時任僑務委員會委員長高信等人皆在機場歡迎[7];訪臺期間,何才夫婦除了勘查了臺灣中、南部各處的經濟、軍事和教育等設施以外,並特地於4月20日前往參觀國立故宮博物院,隨後與時任副總統嚴家淦夫婦、前行政院院長何應欽一級上將夫婦、魏道明夫婦、時任司法行政部(今法務部)部長鄭彥棻夫婦、時任中國國民黨中央委員會秘書長張寶樹夫婦和時任外交部次長楊西崑夫婦及夏功權夫婦等人共同在圓山大飯店慶祝何才的62歲壽辰[7][8]。何才夫婦臨走時,魏道明、何應欽、時任僑務委員會副委員長何宜武和時任外交部次長桂宗堯等人皆前往機場送行[8]。
4月21日——漁業考察團訪問菲律賓,為中、 菲漁業合作奠定基礎[2]:737。
5月
5月1日——經濟部核准設立「中、日合資」臺灣畜產公司[2]:737。
5月4日——美國國務卿魯斯克及助理國務卿彭岱在美國眾議院作證,盛讚臺灣經濟繁榮與農技援外成就[2]:737。
5月6日——副總統兼行政院長嚴家淦啟程經日本赴美訪問21天(5月7日,與日本首相佐藤榮作就中國大陸動亂及越南問題會談;5月9日,與美國總統詹森兩度會談;5月11日,發表聯合聲明,同意互相諮商應付中國大陸情勢發展;5月26日,返回臺灣。)[2]:737。隨行人員包括:經濟部部長李國鼎、外交部政務次長沈錡暨夫人、行���院國際經濟合作發展委員會祕書長陶聲洋等。並前往阿靈頓國家公墓獻花致意、謁甘迺迪之墓。之後亦參訪派屈克空軍基地、甘迺迪太空中心、紐約聯合國大廈等地。訪問期間爭取到美援停止之後,各項經濟合作計畫,使美方同意加強科技交流,在駐華大使館中,設立科技參事,中華民國政府則在行政院之下,成立國家科學委員會,以促進產業升級[9][10]。
5月11日——行政院通過臺北市自7月1日改制為院轄市,並將景美、木柵、內湖、南港、士林、北投6鄉鎮併入[2]:737。
5月20日——中國農民銀行在臺灣復業[2]:737。
5月23日——美國助理國務卿斯柯(Joseph J. Sisco)訪問臺灣3天[2]:738。
5月29日——反共救國軍部隊登陸山東支援敵後游擊作戰,與解放軍發生戰鬥[2]:738。
6月
蔣經國再度巡視馬祖列島及金門縣[5]:83。
6月2日——美國驅逐艦「金伯利號」正式移交臺灣海軍[2]:738。
6月7日——「中、日貿易經濟會議」在臺北揭幕,商討農產品進出口及機械人纖維原料價格,並研討保護工業所有權問題(6月14日,閉幕。1968年7月23日,第二屆會議在東京揭幕。);臺灣與聯合國共同合作發展食品加工計畫實施方案簽字生效[2]:738。
6月11日——臺灣省政府發布「優待僑商來臺投資辦法」[2]:738。
6月14日——蔣中正主持首次國家安全會議,指示建設要有遠大目標和計畫,須以具現代知識科學人才為基礎;美國將新型U-17A輕航空飛機一批移交陸軍使用[2]:738。
6月16日——經濟部長李國鼎代表與聯合簽訂「社區發展公共衛生設施改善計畫」[2]:738。
6月19日——臺灣經濟發展會議在臺北揭幕,為臺灣經濟發展提出建言[2]:738。
6月20日——戚烈拉(Richard G. Ciccolella)任美軍援華顧問團團長[2]:738。
6月28日——蔣中正調動高級軍事首長:黎玉璽、高魁元分任參軍長與參謀總長,陳大慶、賴名湯、劉廣凱、劉玉章分任陸軍、空軍、聯勤、警備總司令[2]:739。
6月29日——協助港澳僑胞到臺灣投資聯絡小組成立,並制定實施「港澳僑胞來臺投資事項」,僑商到臺灣投資達到高峰(9月13日,政府組成協助港澳僑胞回國投資工作小組。)[2]:739。
6月30日——嚴家淦祝賀韓國大統領朴正熙就職,呈遞國書(7月2日,與美國副總統韓福瑞、日本首相佐藤榮作、韓國總統朴正熙等領袖在漢城舉行非正式高峰會議,談論中共核爆、越戰及經濟合作等問題;7月3日,返國。)[2]:739。
7月
7月1日——臺北市改制為院轄市,市長高玉樹、議長張祥傳同時就職;省立臺灣師範大學改制為國立臺灣師範大學;停刊19年之《東方雜誌》復刊;三軍總醫院在臺北成立;吳修齊、高清愿合組統一企業[2]:739。
7月4日——外交部長魏道明抵達曼谷出席亞太理事會第二屆部長級會議;美國海軍軍令部長穆勒(Thomas H. Moorer)訪問臺灣3天[2]:739。
7月5日——臺灣省政府通令各縣市應即恢復設置國語推行委員會[2]:739。
7月7日——教育部長閻振興表示,明年秋天延長國民義務教育至9年(8月3日,行政院通過「九年國教實施綱要」。)[2]:739。
7月8日——體育界耆宿江良規(1914-1967)病逝(浙江奉化人,為馳譽國際之體育家,著有《體育學原理》等書。)[2]:739。
7月9日——外交部次長楊西崑第19次訪問非洲[2]:739。
7月17日——邱約翰(John L. Chew)接任美軍協防臺灣司令[2]:740。
7月22日——臺灣拆解廢船工業超過日本,躍居世界第一[2]:740。
7月24日——樞機主教田耕莘(1890-1967)病逝(山東陽谷人,曾任輔仁大學復校後第一任董事長,為遠東區第一位樞機主教。);美國運通銀行臺北分行開業[2]:740。
7月28日——中華文化復興運動推行委員會成立,蔣中正擔任會長(11月2日,委員會擬定「中華文化復興運動推行計畫」;11月3日,臺灣省政府訂定「推行中華文化復興運動實施要點」;3月29日,《中華文化復興月刊》創刊。)[2]:740。8月,聘孫科、王雲五、陳立夫為文化復興委員會副會長[3]:116。
8月
8月4日——任命丁懋時、沈祖潯、李興南與黃正分別為駐剛果、盧安達、尼日及加彭等國大使[2]:740。
8月6日——副總統嚴家淦向梁實秋致賀其翻譯《莎士比亞戲劇全集》功成[2]:740。
8月7日——行政院發布「國家科學委員會組織規程」,由吳大猷任主任委員(8月14日,由長科會改組之國家科學委員會成立;10月13日,改組完成,設自然及數學、人文及社會、生物及醫農、工程及應用、科學及教育等五委員會。)[2]:740。
8月12日——蔣中正主持國家安全會議,通過由總統依照臨時條款,以命令規定延長九年國民教育年限(8月26日,行政院頒令自1968年起實施九年國教;12月3日,國際經濟合作發展委員會撥款新臺幣7億餘元,補臺灣省及臺北市推展九年國教;12月13日,行政院決定中美基金撥6億8千餘萬元,作為建國中教室之用。1968年1月2日,由中央指撥公地建校;1月4日,成立延長國民教育工作小組;1月9日,決定統一編印國中教科書;1月26日,78所國中破土興建。);監察院投票同意15位大法官,張金蘭成為第一位女性大法官[2]:740-741。
8月15日——總統府資政孔祥熙病逝紐約(山西太谷人,曾任行政院長、財政部長,長期主持國民政府之財政。)[2]:741。蔣中正馳電弔唁,並手撰「孔庸之先生事略」[3]:116。
8月29日——教育部在美國教育文化事業顧問委員會主任委員郭秉文逝世(江蘇青浦人,曾任東南大學校長、財政部次長兼中英貿易協會主任等職,為中國現代高等教育事業之先驅。)[2]:741。
9月
世盟第一屆會議在台北舉行,共有64個國家與地區、以及12個國際反共組織參加,谷正綱當選第一屆理事會主席。大會通過了世界反共宣言與世界反共聯盟共同綱領[11][12][13]。
9月7日——日本內閣總理大臣佐藤榮作訪臺(9月8日,兩度與蔣中正會談;9月9日,發表聯合公報,強調加強團結,實現亞太區域和平與繁榮。)[2]:741。佐藤榮作兩度晉見蔣商討臺日共同問題,並就當時世局及中國大陸中共情勢交換意見[3]:116-117。
9月12日——蔣接見日本記者發表談話,指出中共內部必陷長期混亂,盼日本人尊重東方傳統,不使共產主義有滲透之機會,唯有臺日加強合作,始能達到此一目的[3]:117。
9月16日——人事行政局成立(7月27日,蔣中正明令設置;8月4日,任命王正誼出任人事行政局長。)[2]:741。
9月17日——美國總統科學顧問賀尼克(Donald F. Hornic)率專家到臺灣,協助臺灣發展科學(9月23日,離臺,建議增加科技經費及培植人才;11月16日,訪臺後建議政府應以土地改革精神,全力加速科學與技術發展。)[2]:741。
9月19日——駐越大使館遭越共爆炸,房屋三分之一被毀(9月26日,暴徒供稱係越共主謀,企圖殺害大使胡璉。)[2]:741。上午10時30分,有兩匪徒混入大使館,將爆炸物安放於胡璉二樓辦公室下面引爆,一時轟然巨響,大使館樓板全部震塌[14]:250。大使館建築物一樓全毀,大使胡璉倖免於難[15]。
9月25日——世界反共聯盟第一屆大會在臺北舉行,67國及13個國際反共組織代表與會(9月29日,通過「世盟共同綱領」與「世盟宣言」後閉幕。)[2]:742。
9月28日——史學家錢穆夫婦自香港飛到臺北定居[2]:742。
9月30日——經濟部長李國鼎與世界糧食組織簽訂「臺灣東部農地開發計畫」實施方案[2]:742。
10月
10月5日——中華航空公司增闢至新加坡、曼谷、馬尼拉及漢城4條國際航線[2]:742。
10月6日——行政院副院長黃少谷代表蔣中正赴加拿大訪問(10月9日,與加國總理皮爾遜(Lester Bowles Pearson)會商兩國加強合作問題;10月17日,返回臺灣。)[2]:742。
10月13日——臺灣與美國簽訂紡織品兩項新協定[2]:742。
10月20日——「中、日貿易協進會」第一次會議在東京舉行(1969年11月17日,舉行第三次會議,臺方代表促成日方採有效措施,縮小貿易差距。)[2]:742。
10月21日——日本外相三木武夫表示對臺政策保持「吉田書簡」精神[2]:742。
10月30日——慶賀越南共和國阮文紹就職,參謀總長高魁元率特使團呈遞國書[2]:743。
11月
11月2日——美援贈臺灣海軍之驅逐艦安陽號抵達臺灣[2]:743。
11月12日——中國國民黨第九屆五中全會揭幕(11月23日,閉幕,選出嚴家淦等19位中央委員。)[2]:743。
11月19日——反共游擊隊突擊廣東惠陽縣平潭機埸,毀中共米格十九型機八架[2]:743。
11月23日——蔣經國再度連任中央常務委員會委員[16]:521。
11月27日——國防部長蔣經國訪問日本(12月2日,返回臺灣。)[2]:743。日本天皇裕仁接見蔣經國時表示永不忘懷蔣中正寬大德意;日本國民1萬5千餘名在東京舉行感謝蔣大會[3]:117。
11月28日——聯合國大會表決「中國代表權問題」,以58對45票,17票棄權,擊退共黨及不結盟國家欲使中共進入聯合國之企圖[2]:743。
11月29日——蔣中正發布行政院長局部改組:俞國華任財政部長,查良鑑任司法行政部長,孫運璿任交通部長,蔣彥士為行政院秘書長;考試院副院長程天放逝世(江西新建人,曾任安徽省教育廳長、浙江大學校長、駐德國大使;政府遷臺後,先後任教部長、考試院副院長等職。)[2]:743-744。
7月30日——行政院通過「中、美資源交換計畫」[2]:744。
12月
12月5日——副總統兼行政院長嚴家淦指示各機關,提高改進行政效率,推行分層負責制度,政府並頒實施準則[2]:744。
12月8日——前日本首相岸信介訪問臺灣;陸軍總司令陳大慶代表政府接受美國贈送之最新型戰車一批[2]:744。岸信介率團謁見蔣中正[3]:118。
12月12日——「中、美農產品協定」在臺北簽字,美國繼續提供臺灣農產品兩年3,750萬美元,半數為協助友好國家之用[2]:744。
12月13日——歷史學家湯恩比訪問臺灣[2]:744。
12月16日——臺、日簽訂5項貸款協定,計979萬1,000美元,購置設備��於建設[2]:744。
12月22日——駐賴比瑞亞大使楊繼曾代表與賴國簽訂「中、賴農技合作新協定」[2]:744。張群任慶賀賴比瑞亞總統、副總統就職典禮特使,順道訪問象牙海岸,歸途訪問美國[17]。
出生
參見: 1967年出生
1月8日——
陳明真,女歌手。
劉醇逸:政治人物,是移居美國的台灣人。
1月10日——林靖傑:導演。
1月13日——徐薇,英文補教名師。
1月15日——羅明才:政治人物,是羅福助之子。
1月17日——玉尚:演員,是呂盈瑩前夫。
1月21日——安幼琪:新聞主播、主持人。
1月22日——蔡淑惠:政治人物。
1月25日——吳蒙恩:導演。
1月30日——黃榮山:力學家。
1月31日——王祖賢,演員、歌手。
2月1日——
賴有賢,漫畫家。作品有《真命天子》、《小和尚》。
秦偉:主持人、通告藝人。
2月2日——
劉櫂豪,法官、政治人物。現任立法委員。
林有志:政治人物,曾任花蓮��市民代表、花蓮縣議員、行政院客家委員會諮詢委員。
2月5日——
拾方方:登山家,是首位在聖母峰遇難的台灣人。
簡余晏:政治人物。
2月6日——陳孫華:造型設計師。
2月8日——
牛爾:化妝師。
張正憲:棒球捕手,現被終身禁賽。
2月11日——陳政賢:棒球選手。
2月16日——顧玉玲:作家、社會運動人士。
2月22日——溫士凱:作家、講師、廣播主持人。
3月1日——蕭淑麗:政治人物。
3月2日——詹雅雯,知名臺語歌手。
3月3日——沈慧虹:政治人物、鐵道站務員,曾任奮起湖車站站長、新竹市交通處處長、新竹市副市長。
3月7日——歐崇敬:教授。
3月11日——
方季惟:歌手、演員。
郭國文:政治人物。
侯駿逸:角力運動員。
3月12日——尹乃菁:主持人。
3月21日——車宜靜:文化工作者,現任世界至孝親篤舜裔總會秘書長。
3月26日——張信哲,歌手。
4月2日——宋明宗:政治人物。
4月11日——王自強:演員。
4月15日——陳宗彥:政治人物,曾任行政院發言人、內政部政務次長、中央流行疫情指揮中心副指揮官。
4月21日——
蔡秋鳳:歌手。
劉志昇:棒球領隊。
4月24日——賴義鍠:政治人物。
4月26日——九孔,本名呂孔維,藝人、諧星。
4月28日——
包小松:歌手、主持人、音樂製作人,是張雅婷之夫、包小柏之兄。
包小柏:歌手、演員、主持人、音樂製作人,是包小松之弟。
4月29日——平凡:漫畫家。
4月30日——
張宇,男歌手。
田麗:演員、主持人、果農。
5月13日——徐超斌:醫師。
5月16日——楊朝偉:政治人物。
5月18日——李慶鋒:政治人物。
5月19日——趙詠華:歌手。
5月25日——
辜仲立,企業家,出身鹿港辜家。辜濂松三子。其兄辜仲諒、辜仲瑩。
吳鈞堯:作家。
5月28日——康康,本名康晉榮。綜藝節目主持人和歌手。
5月30日——丁國琳,女演員。
6月6日——
林美秀:演員、主持人。
楊靚姝:編劇。
6月7日——謝榮雅:工業設計師。
6月13日——陳文治:政治人物,曾任新北市議會副議長。
6月19日——陳震:歌手。
6月21日——馬維欣:演員、主持人、通告藝人,是馮光榮前妻。
6月24日——劉志宏:音樂製作人。
6月30日——王中平:歌手、演員,是余皓然之夫。
7月1日——
簡郁珊:音樂家。
單承矩:演員、導演、編劇、製作人。
7月3日——游梓翔:教授。
7月6日——
鄭文燦,政治人物。曾參與野百合學運,2014年當選桃園市長。
萬芳:歌手、演員、廣播主持人。
高景炎:籃球運動員。
7月18日——林錦昌,小說家、政治人物。曾任台北市政府新聞處處長。
7月19日——
李興文,男演員。曾參與電影《報告班長》、電視劇《流氓教授》、《意難忘》演出。
周可平:圍棋棋士。
7月21日——黃奕睿:會計師。
7月23日——楊潔玫:演員。
7月24日——宋少卿:相聲、演員、主持人。
7月31日——蔡海如:藝術策展人。
8月1日——
陳建年:歌手、警務人員,曾任蘭嶼分駐所副所長。
曾貴章:棒球選手,現被終身禁賽。
8月2日——王光熙:棒球選手,是王光輝之弟,現被終身禁賽。
8月5日——顧婕:演員。
8月10日——曲全立:導演。
8月11日——鄒兆龍:演員,是翁慧德之夫,曾在好萊塢參與電影《駭客任務》第二、三集演出。
8月12日——
黃俊傑,棒球選手,曾經效力於中華職棒時報鷹隊。
傅家森:消防員。
8月14日——曾淑勤,女歌手。
8月17日——
王耿豪:演員。
孟廣美:演員、主持人、模特兒,是台灣首位登上好萊塢的女藝人,現移居北京。
8月19日——胡一虎:新聞主播,原是華視主播,後轉赴香港鳳凰衛視。
8月23日——陳耀川:音樂製作人。
8月26日——蘇昭旭:鐵道研究家。
8月29日——邵昕:演員。
9月4日——四方:演員。
9月7日——吳小莉:新聞主播,原在華視擔任主播,1993年後轉赴香港鳳凰衛視。
9月8日——張萬康:小說家。
9月16日——
趙豐邦,花式撞球運動選手,有「冷臉殺手」之稱。
屈中恆:演員、主持人、配音員。
9月17日——楊秀玉:政治人物,現任基隆市議會副議長。
9月18日——
徐輔軍:導演,以2004年電影《夢遊夏威夷》獲得杜維爾影展最佳影片獎。
陳明義:政治人物,是陳世軒之父。
9月19日——
許淑蘋:演員,是張傑勛之妻。
盧秀芳:新聞主播,是盧秀燕之妹。
9月22日——張傑勛:演員,是許淑蘋之夫。
9月26日——林玉珍:新聞主播。
9月28日——朱國珍:作家、主持人、新聞主播。
10月1日——簡文彬:指揮家。
10月6日——汪用和:新聞主播,是周守訓之妻。
10月7日——林俊泓:導演。
10月8日——吳建樟:翻譯家。
10月11日——劉小芸:配音員。
10月12日——黃忠義,棒球選手。
10月16日——韓羅賢:音樂製作人、經紀人。
10月17日——
林小樓:演員。
黃國華:小說家。
10月19日——賴芳玉:律師。
10月22日——徐佳青:政治人物。
10月24日——劉增鍇:相聲。
10月25日——姚可傑:歌手,是東方快車主唱。
10月29日——徐承義:演員、企業家,是瓦城泰統集團創辦人。
10月31日——
黃柏霖,政治人物。現任高雄市議員,叔叔黃啟川曾任議長。
何淑峯:政治人物。
劉海若:新聞主播,原是TVBS晚間主播,2000年後轉赴香港鳳凰衛視。
11月1日——
洪敬堯:歌手,是洪一峰之子、洪榮宏之弟。
汪平雲:律師、政治人物,曾任蒙藏委員會委員。
11月4日——柯淑勤,女演員。代表作《孽子》。
11月6日——
宋達民:歌手、演員、牧師,是宋逸民之弟。
宋逸民:歌手、演員、牧師,是宋達民之兄。
11月7日——焦恩俊,藝人演員。
11月9日——江國賓,男演員。代表作《台灣霹靂火》、《台灣龍捲風》、《金色摩天輪》,早年以飾演反派角色較具代表性。
11月10日——沈懷一:歌手、社會運動人士。
11月17日——王美雪:演員。
11月18日——劉亮佐,藝人,曾主持三立電視台節目『在台灣的故事』。
11月19日——
侯志堅:鍵盤手、音樂製作人,是東方快車成員之一。
游素蘭:小說家、漫畫家,是喬英之姊。
桑茂森:籃球教練。
11月20日——周奕成:政治運動人士,曾任中華民國總統府諮議、行政院政務顧問。
11月21日——陳思安:歌手。
11月25日——謝采妘:歌手,現移居馬來西亞。
11月27日——陳湘琪:演員、教授,現任教於國立臺北藝術大學電影創作、劇場設計二系。
12月14日——卓天麟:棒球選手。
12月15日——陳進益:配音員。
12月16日——周玲妏:政治人物,曾任高雄市政府觀光局局長。
12月17日——王文華:作家。
12月20日——
陳文山:演員。
蕭雅全:導演。
12月21日——李哲華:幕僚,曾任台北市民政局機要秘書、葉金川副秘書長辦公室主任、林益世立委辦公室主任。
12月23日——陳淑芬:漫畫家。
12月24日——沈玉琳,藝人、電視節目製作人及主持人。
逝世
1月12日——丘念台,政治人物,丘逢甲之子。(1894年出生)。
3月11日——楊仲鯨,政治人物,首屆民選花蓮縣長。(1898年出生)。
3月27日——吳新榮,醫師、作家及政治人物(1907年出生)。
吳燕生 詩人 °吳鸞旂孫女、吳子瑜女兒°大正三年出生於北平,得年 62歲°
參考來源
2 notes
·
View notes
Text
映画『生きる』
U-Nextで黒澤明監督、志村喬主演の映画『生きる』(1952)を見ました。
その昔、母から話を聞いた映画です。母は本が好きな人でしたが、映画も好きだったのかな。おそらく母が話してくれた映画はこれだけだったと思います。
母曰くーーぼんやりと暮らしていた市役所勤務の男が胃癌で余命いくばくもないと宣告される。男は死ぬ前に何かを成し遂げようと、子どもたちのために公園を作ることにする。公園が完成して男は死んでいく。男が公園のブランコに乗って「いのち短し恋せよ乙女」と歌うシーンは名シーンだ。
まさにそれがこの映画の中核ですが、実際に見てみると当然ながらそれだけではなく、いろいろなものが付け加えられています。
主人公の渡邉(志村喬)が胃癌で余命いくばくもないというのはその通りなのですが、実際に医者にそう言われるわけではありません。病院の待合室で見知らぬ患者と雑談をして「胃癌というのは恐ろしいものです。医者は軽い胃潰瘍だと言い、特に消化の悪いものでなければ好きなものを食べていいと言うのですが、あっという間に悪化して死んでしまう」と聞いた渡邉は、医者にその通りのことを言われてショックを受けます。
直後のシーンで医者同士が「あの人はいつまでもちますかね」ーー「半年くらいかな」と言っているので間違いはないのでしょうが、時代を考えれば本人に宣告しないのは当然としても、家族にも教えないものなんでしょうか。本人も家族も知らず、医者だけが知っているというのは、今の感覚からするとちょっと変な感じがしました。
渡邉は早くに妻を亡くし、一人で息子を育てました。息子は社会人になり結婚して、渡邉と一緒に暮らしています。
渡邉は市役所の市民課の課長です。ある地区に住む女性たち(その中には若き日の菅井きんもいます。こんなに可愛かったんだ、菅井きん)が空き地の水たまりをなんとかしてくれと陳情に来ていますが、市民課から公園課へ、公園課から土木課へたらい回しにされるだけで、一向に埒があきません。
渡邉も若い頃は仕事に熱意を持っていたようで、仕事場の机の引き出しには市役所の運営の改革に関する私案の書類が入っています。若い頃に渡部が書いたのでしょうが、結局提出しないままになってしまったということですね。必死に書いたはずの書類の最初のページを破ってペン先の掃除に使うシーンは、渡邉の現在と過去を一瞬で対比するいいシーンだと思いました。
癌で余命いくばくもないと知った渡邉は市役所を欠勤し、銀行から5万円おろして飲みに行きます。当時の5万円って今のいくらに当たるんですかね。100万くらい? まさか500万ということはないでしょうが、かなりの金額です。
でも、遊び慣れていない渡邉は何をすればいいかわかりません。彼は飲み屋で知り合った小説家(演じるは伊藤雄之助。痩せて精悍な感じで、まさに無頼派の小説家という感じです)に余命いくばくもないことを話し、パチンコやキャバレーに連れて行ってもらいます(この時代のパチンコって立ったままやるんですね。知りませんでした)。
キャバレーでピアニストに「リクエストはありませんか」と言われた渡邉は『ゴンドラの唄』をリクエストし、ピアノに合わせて歌います。
あ、ここでまず歌うんだ。
このシーンは凄みがあります。志村喬はうつむき加減で虚空の一点を見つめながら、口をほとんど動かさず、調子はずれに歌います(音をはずすというよりリズムをはずし、ピアノの伴奏と合わない歌い方です)。
彼の横に座っていたホステスは怖くなってどこかへ行ってしまいますが、むべなるかなーーそれほど鬼気迫る感じです。
いいなあこのシーン。当然ラストで志村喬はもう一度『ゴンドラの唄』を歌うのですが、私はこっちのシーンの方が好きです。
一晩中遊び歩いた渡邉は翌朝、自宅に帰る途中、市役所の部下の女性・小田切と偶然で会います。小田切は市役所の仕事は退屈だから転職する、ついては辞表にハンコが欲しいと言います。小田切の靴下が破れているのに気づいた渡邉は洋品店でストッキングを買って彼女にプレゼントします。
小田切は「これ欲しかっただけど高くて」、「もしこれを買ったら、1ヶ月間お弁当のおかずはメザシになってしまいます」と言って喜びます(彼女は二間のアパートに3家族で住んでいるとも言っていました。まだ日本全体が貧しかったということでしょうか)。
渡邉は小田切と一緒に遊園地やスケート場や映画館に行きます。息子や息子の妻は年甲斐もなく若い愛人を作ったのではないかと疑います。
渡邉は息子に病気のことを打ち明けようとします。しかし、息子は愛人ができたという話だと思っているので話が噛み合わず、渡邉は打ち明けるのをやめます。
一方、小田切は最初こそ渡邉と一緒に出かけるのを喜んでいましたが、だんだん不自然なものを感じて、もう出かけたくないと言います。渡邉は最後に一度だけと言って、小田切を喫茶店に連れて行きます。
渡邉は余命いくばくもないことを小田切に打ち明け、「私はミイラのように生きてきた」、「君はどうしてそんなに生き生きしていられるんだ」と尋ねます。小田切は「さあ」と言った後、バッグからウサギのおもちゃを取り出し(彼女は市役所を辞めておもちゃ工場で働いているのです)、「これを作ってるからかしら。どこかの赤ちゃんがこのおもちゃで遊んでいると思うと嬉しくなるの」と言い、「課長も何か作ったらどうですか」と言います。
でも渡邉は何を作ればいいかわかりません。小田切も「あの役所じゃ無理ですよね」と言います。しかし、渡邉は何か閃いたように喫茶店を出て行きます。
その喫茶店は2階建てで中央に階段があり、渡邉と小田切は2階にいます。階段を挟んだ向こう側では、大勢の若者たちが仲間の誕生日を祝っています。
渡邉が階段を駆け降りるとき、ちょうど誕生日を祝ってもらっている女性が現れたのでしょう、若者たちは一斉に「ハピーバースデイ」を歌います。
次のシーンで渡邉は役所の部下たちに市民からの要望に応えて、空き地を整地し公園を作ると言うのですが、そのシーンでも「ハピーバースデイ」が流れます。
それまでミイラのように生きていた、本当の意味で生きているとは言えなかった渡部が、この瞬間生き始めるということを示す演出ですが、うーん、どうなんでしょうね、これ。わかりやすいだけに少しあざとさを感じてしまいました。
そこから時間が飛び、渡邉の葬儀の夜になります。これはちょっと驚きました。渡邉の死から遡る形で渡邉のしたことを描くわけですか。なるほど……これは予想していませんでしたが、なかなかいいですね。
同僚や上司が渡邉の自宅に集まっているところへ、新聞記者たちがやってきます。空き地に公園を作ったのは渡邉なのに、それを自分の手柄にした助役にインタビューしたいとのことですが、そんなことで葬儀の場にまで来るものですかね。
助役(演じるは中村伸郎)は「記者たちは役所の仕組みを知らないから困る。公園を作ったのは渡邉君ではない。渡邉君一人の力では何もできない」と言い、土木課長や公園課長も「取りまとめたのは助役ですから」とお追従を言います。
そこへ陳情に来た女たちが焼香にやって来ます。彼女たちは泣きながら焼香をしますが、何も言いません。この「何も言わない」ところがいいですね。下手に何か言うと艶消しです。
女たちが出ていくと、助役たちは居心地が悪くなったのか早々に立ち去ります。残った市民課の職員たち(藤原釜足がいて千秋実がいて左卜全がいます。いつものメンバーですね)は最初「あの公園ができたのは課長一人の力ではない」と助役たちと同じことを言いますが、若い課員が「いや、あれは渡邉課長の力だと思います」と言うのをきっかけに、渡邉が公園設置のために何をしたか、それぞれが思い出話をすることになり、最終的には「課長は立派だった」、「俺たちも課長のように頑張るぞ」と言います。
そこへ巡査が現れ、焼香します。巡査は前夜遅く、渡邉が一人で公園のブランコに乗り「ゴンドラの唄」を歌っていたと言い、あの時きちんと保護していれば亡くなることもなかったと悔やみます。
そこでフラッシュバックーーブランコに乗った志村喬が「ゴンドラの唄」を歌うシーンが流れるのですが、私は知っていたからかもしれませんが、このシーンよりキャバレーで「ゴンドラの唄」を歌うシーンの方が凄みを感じました。
翌日の市役所ーー職員たちは前夜「課長のように頑張るぞ」と言っていましたが、何も変わりません。以前と同じように陳情に来た住民をたらい回しにしています。
葬儀の場で渡邉を擁護した若い職員が、渡邉の作った公園へ行き、子どもたちが遊んでいる姿を見ているところで「終」とでます。
確かにいい映画です。批判はしたくないしできません。
黒澤が渡邉という人間の生と死を描くとともに役所の縄張り主義、硬直したシステムを批判しようとしたのはよくわかります。
でも、個人的にはそういう風刺はどうでもいい、渡邉だけにスポットを当てて欲しかったという気がします。
志村喬はもちろん名演です。猫背でオドオドして、病気が進むにつれてだんだん掠れ声になっていくところなぞ誰も真似できないと思いますし、『七人の侍』のリーダーと同じ役者がやっているとはとても思えません。
でもなあ……いつも濡れた目をしている(これももちろん役者としての技術ですが)のを見ていると「病気の犬」か何かに見えてしまうというのもまた事実です。
息子もかわいそうだよなあ。物語の流れとして息子夫婦には打ち明けない/打ち明けられないというのはわかるのですが、自分が息子なら「親父、どうして言ってくれなかったんだ!」と言いたくなります。
息子は知る由もありませんが、渡邉は初対面の小説家や職場の部下にすぎない小田切に癌のことを打ち明けています。他人には打ち明けられるのに息子には打ち明けられない……世の中にはそういうこともあるとは思いますが、息子としてはたまらないだろうと同情してしまいました。
『生きる』はミュージカル化(!?)されているそうです(渡邉役は市村正親と鹿賀丈史のWキャスト)し、最近イギリスでリメイクもされているそうですが、もしあの話を現代に置き換えるとどうなるんでしょう。
ちょっと見るのが怖い気がします。
追記: 志村喬は1905年生まれ。ということはこの映画のときには47歳。 え? 47歳? とてもそうは見��ません。 もっとも当時の定年は55歳ですから、渡邉はまだ50代前半ということになります。 今とは年齢の感覚が全く違うということでしょうか(『サザエさん』の波平だって50代前半、うっかりすると40代なわけですし)。
4 notes
·
View notes
Quote
(注意: つらい内容が含まれます) ヨギタ・リマエ、BBCニュース 丘の上、木々の合間に、ミャンマー軍キャンプの廃墟がある。眼下に、特徴的なハートの形で地元で有名な、絵のように美しい湖が見える。足元には、地雷の薬筒や使用済みの弾丸が散乱している。兵舎があった場所では、散らばるトタン屋根の隙間から、黄色い花をつけた野草が顔を出している。キャンプの一角には、急いで掘られた塹壕(ざんごう)がある。 赤、白、青の横じまの中央にサイチョウという鳥が描かれた旗が、曇り空の下で風になびいている。ミャンマーの西部チン州で同国の軍事政権と戦う、民族武装組織「チン民族軍(CNA)」の旗だ。 CNAは7カ月前、地元の武装住民グループとともに、インドとの国境貿易の町リクホーダルにあるこのキャンプと、チン州の他の地域からミャンマー軍を追い出した。チン州の武装勢力は、2021年のクーデターでミャンマーのぜい弱な民主主義を粉砕した軍事独裁政権と戦ってきた。その彼らにとって、前例のない成果だった。 国軍がこの地域で支配権を失ったのは初めてだ。BBCは今回、同国西部で反政権勢力の躍進を目にするという、めったにない機会を得た。 リクホーダルでの勝利は、決して簡単ではなかった。武装勢力は1年以上にわたり、何度も攻勢をかけた。一部の家族は、耐え難い犠牲を払った。 画像説明,武装抵抗運動に加わったラルヌンプイさん ラルヌンプイさんはダンスが大好きな17歳だった。彼女のソーシャルメディアのアカウントは、人気映像のダンスをまねる彼女の動画でいっぱいだった。 「彼女はいつも自信たっぷりに踊っていた。でも、着飾ることには興味がなかった。兵士に憧れ、国のために命を捧げた兵士についての歌を一日中聴いていた。勇敢で強く、怖いもの知らずだった」。ラルヌンプイさんの母ラルサントルアンギさんは、そう話す。 クーデターが起こると、ラルヌンプイさんは両親を説得し、家族が暮らすハイムアル村で武装住民運動に加わった。その理由を、学校で手書きした英作文の中で、次のように説明していた。 「ミャンマーはいま、壊れている。(中略)ビルマ兵は私にとって敵だ。情けがないからだ。(中略)私の将来は国民防衛隊にあって、私はそれが好きだ」 2022年8月、彼女の村の武装住民らは他のグループとともに、リクホーダルの軍キャンプに攻撃を仕掛けた。 「私たちは13日間連続で、相手側にドローン(無人機)の雨を降らせた。爆弾のほとんどは私が作った。私が部隊で一番の溶接工だったので」と、ラルヌンプイさんの父ラルジディンガさんは言う。彼はクーデター前はトラック運転手だったが、ハイムアルで何人かと国民防衛隊を組織するようになった。 この時の攻撃では、軍キャンプを奪うことはできなかった。双方に犠牲者が出た。 ミャンマーの地図 2022年8月14日、ミャンマー軍は報復攻撃としてハイムアル村を急襲した。住民の話では、民家十数軒に火が放たれた。私たち取材班は、そのような家屋の残骸をたくさん目にした。ミャンマー軍は、北部と西部で抵抗勢力を抑え込むため、何万軒もの民家を焼き払ったと非難されている。 この報復攻撃で、17人が軍に人質に取られた。ラルヌンプイさんと、弟のラルルアトマウィアさん(15)も含まれていた。その後、この2人を除いて全員が解放された。2人の父親に軍が仕返しをしたのだと、家族は考えている。 2日後、ハイムアルの外れにある森の浅い墓の中に2人の遺体があるのを、村人たちが発見した。 どちらも残忍な拷問を受け、銃床で殴り殺されていた。ラルヌンプイさんはレイプされていた。弟の胸、腕、性器には熱湯によるやけどの跡があった。BBCは、遺体の詳細な写真と検死報告書を確認している。 BBCはこの件でミャンマー軍に質問を送っているが、まだ回答はない。 ラルヌンプイさんの弟ラルルアトマウィアさんはまだ15歳だった 「子どもたちに何が起こったのか、考える勇気がない」。父ラルジディンガさんはしばらく黙った後、言葉を探すように言った。「子どもたちは殉死者だ。私よりずっと立派だった」。 少しの間を置いて、彼は続けた。子どもたちのことを愛情をこめて語る、誇らしい父親の姿だった。「息子は私より5センチ背が高くなっていた。話し好きで、家の手伝いを何でもいやがらずにやった」、「2人は切っても切れない仲だった。人が集まっているところに娘が行けば、みんな楽しく笑顔になった」。 母ラルサントルアンギさんは、涙を拭いながら末娘のハダシちゃん(4)を抱きしめ、こう話した。 「夫には、子どもたちの死で落ち込まないように言っている。これは私たちだけの問題ではない。将来の世代も自由は必要だ。何の権利もなく、軍の言いなりになるような、そんな状態で暮らすのは正しくない。命をかける価値がある戦いだ。私は自分の子どもたちを誇りに思っている」 私たちはミャンマー滞在中、戦闘服に身を包んだ人たちに会った。半自動小銃などの銃器を携えている人もいた。ただ、職業軍人ではない。野蛮な紛争に直面し、見事なまでに意を決している農民、学生、一般住民たちだ。 国民防衛隊のヴァラ司令官は、ハイムアルの眼下に広がる緑豊かな谷を指さしながら、ミャンマー軍はこの全域から撤退し、最も近い基地でも直線距離で50キロ以上離れていると笑顔で説明した。現地の墓地では、ピンクと白の造花で覆われた新しい墓へと私たちを案内した。 「軍事政権と戦って死んだ人たちのものだ」と、ヴァラ司令官は義理のきょうだいの墓のそばに倒れている花束を戻しながら言った。私たちは、ラルヌンプイさんとラルルアトマウィアさんの墓も見つけた。 私たちが会った住民らのほとんどは、ハイムアルの南にあるチン民族軍のヴィクトリア基地で訓練を受けていた。私たちは、緑深い森と山間部を通る、曲がりくねったでこぼこ道を進み、同基地を訪ねた。 そこでは、制服を着た何百人もの若者が新兵となって、広々とした平原を行進していた。 行進が終わると若者たちは、「私たちの祖国、愛する土地、私たちは血と命をかけてそれを守る」と歌う。 そして、武器の訓練へと続く。銃声が響く。 全員18歳以上だと説明されたが、もっと若く見える人も多い。2011年のミャンマーの民政移管で、大勢が自由を味わった。それだけに、もはや軍事政権は受け入れられないと考える10代の若者たちが、それぞれの夢を捨てて、抵抗運動に加わったのだ。 サン・ダール・リンさん(19)は教師を目指していた。 「クーデター後の最初の1年は、それほど悪くなかった。けれども、やがて軍が私たちの村を砲撃し始めた。私たちの家は壊されて、村に入って来た兵士は家を燃やし、人や動物まで殺した。私たちはジャングルに逃げた。かなりの人数がいたので、ジャングルがそのまま村になった」 「おじは無残に射殺された。私は軍が大嫌い。自分の国と国民を守るため、CNAに加わった」 私たちは行く先々で、ミャンマーの若者たちが革命の波に巻き込まれているのを目にした。 ビルマ国家のために働いていた何千人もの人たちもまた、支持する対象を変えた。 ヴァンラルペクタラさん(22)はかつて警官だった。 母親のモリー・キアンさんは、息子が警察で訓練を受けていたころの古い写真を3枚差し出すと、「彼はそこそこの月給をもらっていた。私たちは幸せで満足していた。そうしたらクーデターで政府が倒され、彼は抵抗運動に参加することを決めた」と説明した。 モリーさん自身は青春時代を軍事政権下で過ごした。「当時は楽しい日なんて1日もなかった。軍がとても怖かった。だから私は息子の決断を支持した」。 息子ヴァンラルペクタラさんは2022年3月に抵抗運動に参加。その6日後に殺害された。 モリーさんは胸と首を指さしながら、「息子はこことここを刺された」と言った。「残忍に襲われた。片足は切り落とされていた」。さらに話を続けようとしたが泣き崩れた。「この話をするのはつらい」。 ヴァンラルペクタラさんが死んだ時、彼の妻は妊娠していた。もうすぐ1歳半になる男の子は現在、遠く離れた難民キャンプで暮らしている。 軍が村から追い出されたときの気持ちを尋ねると、モリーさんは拳を突き上げた。「とてもうれしい。でも完全な勝利が見たい」。 彼女の次男も国民防衛隊の一員となっている。 国軍に比べれば弱い複数の反政権勢力が、この紛争の流れを変え、はるかに強力で装備の整ったミャンマー軍を守勢に立たせた。それができたのは、一般国民の幅広い支持があるからだ。 「最初は軍が勝っているように見えた。しかし、戦争であれ政治であれ、国民の支持がなければ誰も勝てない。軍は武器では優位かもしれないが、民衆を味方につけられていない」。チン州の反政権グループが設立した並行政権の「首相」に指名されている政治家、パ・サンさんはこう話す。彼はアウンサンスーチーさんが率いる国民民主連盟(NLD)のメンバーでもある。 並行政権は、チン州全域の80%近くを掌握していると主張する。しかしミャンマー軍は、州都を含め戦略的に重要な町のほとんどを今も支配している。 それでも、反政権勢力には勢いがある。今週初めにはトンザンという町を奪った。 チン民族軍のフテト・ニー広報官画像提供,AAKRITI THAPAR/BBC 画像説明,チン民族軍のフテト・ニー広報官 「ここは私たちの土地だ。ビルマ軍の土地ではない。私たちは勝利を収めつつある。この土地の隅々までよく知っているからだ」。チン民族軍のフテト・ニー広報官はそう言う。 民族軍側が戦果を挙げている理由は、ほかにもある。国内各地の反政権勢力が協調し、軍が力の入れどころを選ばなくてはならない状況を作っているのだ。チン民族軍によると、自分たちはカチン独立軍やカレン民族解放軍、カレンニー軍と協力関係にあるという。 反政権勢力が直面する最大の課題は、グループ同士の内紛だ。チン州だけでも数多くの派閥が活動しており、その多くは従来から敵対している。 前出の政治家パ・サンさんは、結束を維持するのは可能だと主張。クーデター後に軍によって投獄されたアウンサンスーチーさんが率いる、選挙で選ばれた文民政府を代表する国民統一政府(NUG)の下で活動することに向けて、将来的な計画があると話す。 「私たちは鋭意、法律と憲法を作成している。NUGの一員として、チン州から大臣2人と副大臣1人を出す予定だ。ミャンマー軍が敗北を認めるときに向けて、あらゆる準備をしている」 私たちが会った人たちには、明らかな共通点があった。自分たちは勝てると、全員信じているのだ。 「もう、それほど長くはかからない」とパ・サンさんは言う。「こういう予測をするのは良くないが、私たちがあと2〜3年以上戦うような、そんなことにはならない。そう信じている」。 (追加取材:アアクリティ・サパル、サンジェイ・ガングリー) (英語記事 The devastating cost of fighting Myanmar's military dictatorship)
【ルポ】 ミャンマー軍事独裁政権と戦う人たち その途方もない犠牲 - BBCニュース
3 notes
·
View notes
Text
レポート 親子で参加!農業体験ミステリーバスツアー
夏休み企画の「農業体験ミステリーバスツアー」があり、8月6日(日)に息子と参加しました。
到着まで目的地は秘密。「農業」といっても、米も野菜も畜産もありますから、どこに向かうのかドキドキ。
結果から申し上げると、今回は、オーガニックの卵を生産する養鶏所と、最先端の植物工場、を見学したあと、農産物加工品のお買い物を楽しんで、最後に地元食材をたっぷり使ったスペシャルランチを食べました。詳細は下記からどうぞ!
一ヵ所目「ファーム アグリコラ」
ファーム アグリコラは、札幌の隣町「当別町」にある養鶏所です。代表の水野さんが、アグリコラの特徴や、大切にしていることを話してくださいました。
アグリコラのこだわり01「飼料も国産オーガニック」
日本の飼料はほとんどが輸入。輸入飼料の大豆やトウモロコシは一般的に、遺伝子組み換えが使われています。アグリコラの特徴は、輸入飼料ではなく、国産飼料を使っていること。近隣の有機栽培をしている生産者と連携しているそうです。
また、人間と同じくニワトリも、腸内環境を良くすることが重要だそうで、サツマイモを発酵させた餌も食べさせています。
見た目ウケのために黄身の色を濃くしないので、飼料に着色料を混ぜたりもしていません。
水野さんのこだわり02「平飼い、放牧」
アグリコラでは、人も家畜も心身ともに健康であることを大切にしています。そのため、平飼い&放牧スタイルをとっているそうですが、おかげで鳥インフルなどかかることもなく健康なんだそうです。
キッズの質問「平飼いと放牧って何が違うの?」
「鶏舎の中で放し飼いの状態で飼育するのが平飼いで、屋外でニワトリたちが外で自由に走り回れる状態の飼育が放牧です。」と水野さん。
一般的な養鶏の「ゲージ式」は、一羽あたりiPad一台分程度の広さのゲージの中で過ごし、鶏舎には窓がないそうです。
アグリコラのニワトリは、土を掘ってみたり、草をついばんだりする姿がほほえましく、みんな元気いっぱい。ずっと見ていられるくらいかわいかったです。
水野さんが大切にしていること03「農福連携」
「アグリコラは、障害のある方が活躍できる農福連携の取り組みを行っています。」と水野さん。
就労継続支援A型事業所、つまり障害のある方も「仕事として」農業に従事できるということです。
「持続可能な農業」は、言葉にすると短いですが、ここに至るまでの相当なご苦労があったはず。人とニワトリの健康、食べ物としての品質、環境、きれいごとではなく全部大切にしながら、商売としても成立させていく。本当にすごいなぁと思いました。
キッズからの質問タイム
Q. ニワトリは一日に卵を何個生むの?
水野さん「1日一個生めばいい感じです。ニワトリは25時間ごとに一個生みます。なので、毎日ちょっとずつ生む時間が少しずつずれて、午後3時くらいになったらその日は生むのをお休みします。なので、10日間で8~9個生みます。」
Q. このニワトリの卵からはヒヨコは生まれるの?
水野さん「ここにはメスのニワトリしかいません。メスのニワトリだけで卵を生むのだけど、人間と同じく、赤ちゃんが生まれるためにはオスのニワトリの精子が必要です(受精)。この卵は受精していないため、卵は孵らないのです。」
Q. ニワトリは何年くらい生きているの?
水野さん「ニワトリにも寿命があります。ただ、人間のおばあちゃんが赤ちゃんを生まないように、ニワトリも齢をとると卵を生めない身体になるの。私たちはニワトリからもらった卵を売ってお金にしています。ニワトリから卵がもらえなくなってしまうと、お金にすることもできません。なので、ニワトリには申し訳ないけれど、役目を終えてお肉になるということをしています。ちょっと悲しいけれどね。」
二カ所目 現代式トマト栽培!?「Jファーム」の植物工場
夏は野菜がたくさん収穫できる季節ですが、北海道の冬は雪が積もります。当たり前ですが、冬は野菜の露地栽培ができません。一年中安定して栽培するために、巨大なハウスの中でトマトを栽培するJファームの「植物工場」を見せていただきました。場所は、札幌市東区。
苗の見た目にビックリ!
中に入ってまず驚いたのが、ミニトマトの苗の背の高さ!全長はなんと7メートルくらいあり、長~いトマトの苗を天井から紐を使って吊るるように支えて、光の当たりやすい高さに調整しています。家庭菜園だと、1.7メートルくらいの苗を支柱で支えているので、その違いに驚きました。そして7メートルもあるのに、茎の太さは親指程度しかなく、思ったよりも太くないことに驚きました。
トマトの生育環境に合わせて徹底管理
ハウスの中に入ると、モワッとした熱気が立ち込めるのかと思いきや、意外と過ごしやすい温度帯。この日がたまたま涼しい日だったというのもありますが、トマトが生育しやすい環境に温度管理は徹底しているのだとか。「水は肥料分を溶かしたものをチューブを使って与えています。時間帯や量を管理し、あえて根元が乾く時間帯を設けています」と工場長。
トマトの原産はアンデス山脈の乾いた高山地帯ですから、「暑すぎない」「乾いている」という環境をハウス内で作り出しているということですね。
収穫量は一日4トン!
今回見学させてもらった品種は、「ダルダリー」というオランダ産のミニトマト。苗が長持ちするため、長期間の収穫にむいている品種ということで、今年から取り扱いを始めたそうです。
収穫量は現在、多い日で一日4トン程度。さらに最終目標は、その3倍以上の収穫量を設定しているそうです。
キッズの質問「もっといっぱい収穫するには、栄養���量を増やせばいいの?」
工場長「重量を上げるには、栄養も関係するけれど、二酸化炭素の量も大切です。光合成に必要なのは二酸化炭素。だから天井の窓を開けてハウスの中に外気を取り入れる調整が欠かせないのです。窓はコンピューターで自動制御しています」
ちなみに、工場というイメージから収穫作業は機械なのかと思いきや、昇降機にのって人が手摘みしているそうです!
車内では「野菜○×クイズ大会」
移動車の中では、○×クイズ大会。大人でも迷うくらいの絶妙な問題で、大盛り上がり。
司会の“みっちゃん”がさらに盛りあげてくれて、目的地まであっという間に到着する楽しい時間を過ごしました。
思春期に突入した息子。周りよりも少しお兄さんだったため、最初は遠慮がちでしたが…しっかり楽しんでいるし(笑)
お待ちかねのランチタイム!
「サッポロさとらんど」に戻り、調理室でランチタイムの準備開始!部屋に入るとスパイスの匂いが…お、お腹が空いちゃったよ~!
サラダ作りプチ講座
子どもたちは、各家庭分のサラダづくりにチャレンジ!レタス類もフリルやベビーリーフなど何種類かあって、少しずつ形が違うだけで、玉レタス一種類だけで作る時と比べて見栄えが良くなることもわかりました。そして、野菜ソムリエプロの大澄さんが、サラダを美味しく作るコツを教えてくれました。
美味しくなるポイント01「レタスのちぎりかた」
大澄さん「コツは、横にちぎるのではなくて、葉の繊維にそって縦にちぎると美味しくなります」。「ちょっとしたこと」なんだけど、試してみると本当に歯ざわりが違ってくるから、不思議!
美味しくなるポイント02「ドレッシングの和え方」
ドレッシング…上からかけていませんか?「レストランではドレッシングは上からかけていないけれど、美味しいですよね?」と大澄さん。たしかに、ドレッシングが一ヵ所だけ集中してかかっているとしょっぱいですが、全体に均一に味がついている方が美味しいです。(なので、この見出しも「和える」という表現にしました)
均一に味を付けるコツは、ビニール袋に野菜とドレッシングをスプーン二杯入れて……フリフリ~!このやり方ならば、子どもでも楽しくお手伝いできそう!
そして、まんべんなくドレッシングが行き渡ることで、ドレッシングの油分が野菜をよりツヤツヤに魅せてくれます。
完成した、スペシャルランチはこちら!
食材は、ほぼ北海道産です!
手前のミニトマトは、先ほど見学した「Jファーム」のトマト。 ピカピカで宝石みたいです!
プレートの中央にあるカボチャは、札幌市手稲山口の特産「大浜みやこかぼちゃ」、そして今が旬のトウモロコシ。
写真奥のカレーは、トマトと牛肉の夏カレー。牛肉は道内産で「キタウシリ」というホルスタイン種の肥育牛がたっぷり入っています。
そして、アグリコラの卵も「玉子サラダ」になっていました。 見てください、このクリーム色の黄身を! ”見た目ウケのために飼料に着色料を混ぜたりしない“とは言ってましたが、着色しないと黄身がこんなに色が薄いことを知りませんでした。
そして、黄身の色が薄くても、味はしっかり。それでいて全く臭みを感じない、澄んだ味でした。
まとめ
近郊農場をめぐり、生産者さんの話を聞いて、最後は採れたて野菜や地元の食材たっぷりのランチで締める!農場見学もランチも大満足!頭も心もお腹も満たされる一日でした。
主催 農業魅力再発信プロジェクト推進協議会 運営・企画 HERB & COOKING KINA
2 notes
·
View notes
Photo
明日の搬入、うまくいくのか少し心配ではありますが、楽しみたいと思います。今週末、金・土・日です!
20のアーティストが客室を1部屋ずつ担当します。私は3日間、客室1208にいます。2階ロビーでは、ライブパフォーマンスもあるようですよ。お待ちしています。
【20rooms×20artists】1203 小西純二1204 伊賀信1205 民野宏之1206 山田恭代美1207 小林龍一1208 川村さとみ1209 KEI. UG1210 由地まさる1211 麻生クミ1212 高坂孝明 objects0111303 rhythm1304 高橋弘子1305 佐藤史也1306 斉藤麻理1307 さとう綾子1308 工藤里紗1309 花瑠伽1310 光島直見1311 結城幸司1312 AkiYo
【plus art Live】 18日(金)14時~14時30分加賀城匡貴(パフォーマンス)19日(土)14時~14時30分田仲ハル(舞踏) 20日(日)14時~14時30分ヌルマユ(ライブ)
「plus art ... fes. 2022」11/18(金)~20(日) 11:00~19:00(最終入場18:30)入場無料 2階受付へお越しください
クロスホテル札幌 札幌市中央区北2条西2丁目23
2 notes
·
View notes