#下田郷の旅
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は、「誓願寺本堂西のうら手南向、三側目中程」(滝沢馬琴)に葬られた。その墓は、誓願寺境内で3回[註]移設されている。その経緯および実行者を記すと
(1回目 1889年)幸田露伴 今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴。「井原西鶴を弔ふ文」『小文学 第1号』1889より。
*幸田露伴が処女作『露団々』で金港堂から得た原稿料は五十円(現在価値で約170万円)。その「資」で露伴は旅に出る。1888年大晦日から1889年1月31日まで丸ひと月(露伴来弔はこの折。移設費用は、その「資」で賄った)。「時に嚢中一銭も無くなりければ、自ら経済の妙を得たるに誇ること甚し」(『酔興記』)。
(2回目 1910年)木崎好尚 浮世の月二年見過ごして二百七十年の昔(略)印の墓はいつしか八丁目寺町誓願寺の無縁塔におし込められしを二十余年前幸田露伴君が旅の置みやげに現今の本堂東南手に再興されしも浮世草紙の紙よりも薄き人情今度の電路問題の墓地取払ひの憂い目見る墓のぬし誰も見返るものなく《略》二百十年忌の追善発起の手前それがし痩せ腕を揮うて施主と相成申さん四日の日曜の午後一時に形計の移転式を営んで下さいと口約して置いた《略》さて、今度の改葬場所は元の地点に近いと信ぜらるゝ本堂の西南手の樟の下陰と定めたれば鶴のなき声に尋ね寄らんとする文学上有縁の方々に此顛末を告参す(大阪にて好尚)。「東京朝日新聞 明治四十三年十二月五日」
(3回目 1933年)南木芳太郎 明治二十幾年の頃、幸田露伴氏によって無縁塔中より発見され、門内近き所に建てられてあったが、明治四十二年の冬、電車通路の爲寺域は狭められ墓地整理の止むなきに至ったのを木崎好尚氏によつて、本堂西南手の通路に面し移されたのである、その後星霜二十幾年、現在に至りては背後が隣地との境界線にあるため、いつしか建てられし古小屋の板塀は痛く損じ實に見苦しく且つ墓域もなく悄然として無縁塔に並んであるのは如何にも侘しく感じられるので、今回誓願寺住職を促し更に西北隅の好位置に再轉させ、墓域を画し松壽軒に因み大なる松樹を植え、塔上を被ふ事とした、ほんの心だけであるが、これで墓らしくなったと思つてゐる。「西鶴の墓」上方郷土研究会『郷土研究 上方 第三十ニ号』1933(=写真も)
[註]滝沢馬琴が報告した「誓願寺本堂西のうら手南向、三側目中程」を本来の位置(0)とすれば、西鶴の墓は正確にゆうと「4回」移動している。以下に。( )内実行者
0)本堂西の裏手、三側目中程(北条団水他1名) 1)無縁塔の内(誓願寺) 2)本堂東南隅(幸田露伴) 3)堂の西南手、樟の下(木崎好尚) 4)西北隅の一画(南木芳太郎)
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)2月5日(月曜日)
通巻第8118号
孫子を読まずして政治を語る勿れ。派閥解体、政治資金浄化????
吉田松陰の代表作は、じつは孫子の研究書(『孫子評註』)だった
*************************
自民党の派閥解消を聞いて、日本の政治家は政治の本質を理解していないことに唖然となった。派閥はまつりごとのダイナミズムを形成する。パワーの源泉である。それを自ら解体するのだから、政治は星雲状態となる。となると欣喜雀躍するのは中国である。国内政治にあっては、その「代理人」たちである。
孫子が言っているではないか。「謀を伐ち、交を伐つ」(=敵の戦略を見抜き、敵戦力を内訌させ、可能なら敵の一部を取り込め、それが戦争の上策である)。そうすれば、闘わずして勝てる、と。
高杉晋作も久坂玄瑞も、松下村塾で吉田松陰の孫子の講議を受けた。松陰亡き後の門下生だった乃木希典は、師の残した『孫子評註』の私家版を自費出版し、脚注もつけて明治天皇に内奏したほど、心酔していた。世にいう松陰の代表作はその辞世とともに有名な『講孟余話』と『留魂録』だが、現代人はすっぽりと『孫子評註』を忘れた。これは江戸時代の孫子研究の集大成である(『吉田松陰全集』第五巻に収録)。
松陰は山鹿素行を師と仰ぐ兵法家から出発している。毛利長州藩の軍事顧問だったのである。
もとより江戸の学問は官学が朱子学とは言え、新井白石も山鹿素行も荻生徂徠も山崎闇斎も、幕末の佐久間象山も西郷隆盛も孫子は読んだ。しかし江戸時代の二百数十年、太平の眠りにあったため、武士には、読んでもその合理的で非情な戦法に���染めなかった。
その謀(はかりごと)優先という戦闘方式は、日本人の美意識とあまりに乖離が大きく、多くの日本人は楠正成の忠誠、赤穂浪士らの忠義に感動しても、孫子を座右の書とはしなかった。
明治以後、西洋の学問として地政学が日本に這入り込み、クラウゼウィッツは森鴎外が翻訳した。戦後をふくめてマキャベリ、マハンが愛読され、しかし誤読された。吉田松陰の兵法書はいつしか古書店からも消えた。
しかし戦前の指導者にとっては必読文献だった。
吉田松陰が基本テキストとしたのは魏の曹操が編纂した『魏武註孫子』で、考証学の大家といわれた清の孫星衍編集の平津館叢書版を用いた。そのうえで兵学の師、山鹿素行の『孫子諺義』を参考にしている。
もともと孫子は木簡、竹簡に書かれて、原文は散逸し、多くの逸文があるが、魏の曹操がまとめたものが現代までテキストとなってきた。
▼孫子だって倫理を説いているのだが。。。
孫子はモラルを軽視、無視した謀略の指南書かと言えば、そうではない。『天』と『道』を説き、『地』『将』『法』を説く。
孫子には道徳倫理と権謀術策との絶妙な力学関係で成り立っているのである。
戦争にあたり天候、とくに陰陽、寒暖差、時期が重要とするのが『天』である。『地』は遠交近攻の基本、地形の剣呑、道は平坦か崖道か、広いか狭いかという地理的条件の考察である。戦場の選択、相手の軍事拠点の位置、その地勢的な特徴などである。
『将』はいうまでもなく将軍の器量、資質、素養、リーダーシップである。『法』とは軍の編成と将官の職能、そして管理、管轄、運営のノウハウである。『道』はモラル、倫理のことだが、孫子は具体的に「道」を論じなかった。
日本の兵学者は、この「道」に重点を置いた。このポイントが孫子と日本の兵学書との顕著な相違点である。
「兵は詭道なり」と孫子は書いた。
従来の通説は卑怯でも構わないから奇襲、欺し、脅し、攪乱、陽動作戦などで敵を欺き、欺して闘う(不正な)行為だと強調されてきた。ところが、江戸の知性と言われた荻生徂徠は「敵の理解を超える奇���さ、法則には則らない千変万化の戦い方だ」と解釈した。
吉田松陰は正しき道にこだわり、倫理を重んじたために最���的には武士として正しい遣り方をなすべきとしてはいるが、それでいて「敵に勝って強を増す」とうい孫子の遣り方を兵法の奥義と評価しているのである。
つまり「兵隊の食糧、敵の兵器を奪い、そのうえで敵戦力の兵士を用いれば敵の総合力を減殺させるばかりか、疲弊させ、味方は強さを増せる」。ゆえに最高の戦闘方法だとし、これなら持久戦にも耐えうる、とした。
江戸幕府を倒した戊辰戦争では、まさにそういう展開だった。
「孫子曰く。凡そ兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うすると上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ」
つまり謀を以て敵を破るのが上策、軍自作戦での価値は中策、直接の軍事戦闘は下策だと言っている。
▼台湾統一を上策、中策、下策のシミュレーションで考えてみる
孫子の末裔たちの国を支配する中国共産党の台湾統一戦略を、上策、中策、下策で推測してみよう。
上策とは武力行使をしないで、台湾を降伏させることであり、なにしろTSMCをそのまま飲みこむのだと豪語しているのだから、威圧、心理的圧力を用いる。
議会は親中派の国民党が多数派となって議長は統一論を説く韓国瑜となった。
宣伝と情報戦で、その手段がSNSに溢れるフェイク情報、また台湾のメディアを駆使した情報操作である。この作戦で台湾には中国共産党の代理人がごろごろ、中国の情報工作員が掃いて捨てるほどうようよしている。軍の中にも中国のスパイが這入り込んで機密を北京へ流している。
軍事占領されるくらいなら降伏しようという政治家はいないが、話し合いによる「平和統一」がよいとする意見が台湾の世論で目立つ。危険な兆候だろう。平和的統一の次に何が起きたか? 南モンゴル、ウイグル、チベットの悲劇をみよ。
中策は武力的威嚇から局地的な武力行使である。
台湾政治を揺さぶり、気がつけば統一派が多いという状態を固定化し、軍を進めても抵抗が少なく、意外と容易に台湾をのみ込める作戦で、その示威行動が台湾海峡への軍艦覇権や海上封鎖の演習、領空の偵察活動などで台湾人の心理を麻痺させること。また台湾産農作物を輸入禁止したりする経済戦争も手段として駆使している。すでに金門では廈門と橋をかけるプロジェクトが本格化して居る。
下策が実際の戦争であり、この場合、アメリカのハイテク武器供与が拡大するるだろうし、国際世論は中国批判。つまりロシアの孤立化のような状況となり、��た台湾軍は練度が高く、一方で人民解放軍は士気が低いから、中国は苦戦し、長期戦となる。
中国へのサプライチェーンは、台湾も同様だが、寸断され、また兵站が脆弱であり、じつは長期戦となると、中国軍に勝ち目はない。だからこそ習近平は強がりばかりを放言し、実際には何もしない。軍に進撃を命じたら、司令官が「クーデターのチャンス」とばかり牙をむくかも知れないという不安がある。
下策であること、多大な犠牲を懼れずに戦争に打って出ると孫子を学んだはずの指導者が決断するだろうか?
▼孫子がもっとも重要視したのはスパイの活用だった
『孫子』は以下に陣形、地勢、用兵、戦闘方法などをこまかく述べ、最終章が「用間(スパイ編)」である。敵を知らず己を知らざれば百戦すべて危うし」と孫子は言った。スパイには五種あるとして孫子は言う。
『故に間を用うるに五有り。因間有り。内間有り。反間有り。死間有り。生間有り。五間倶に起こりて、其の道を知ること莫し、是を神紀と謂う。人君の宝なり』
「因間」は敵の民間人を使う。「内間」は敵の官吏。「反間」は二重スパイ。「死間」は本物に見せかけた偽情報で敵を欺し、そのためには死をいとわない「生間」は敵地に潜伏し、その国民になりすまし「草」となって大事な情報をもたらす。
いまの日本の政財官界に中国のスパイがうようよ居る。直截に中国礼賛する手合いは減ったが、間接的に中国の利益に繋がる言動を展開する財界人、言論人、とくに大手メディアの『中国代理人』は逐一、名前をあげる必要もないだろう。
アメリカは孔子学院を閉鎖し『千人計画』に拘わってきたアメリカ人と中国の工作員を割り出した。さらに技術を盗む産業スパイの取り締まりを強化した。スパイ防止法がない「普通の国」でもない日本には何も為す術がない。
(十年前の拙著『悪の孫子学』<ビジネス社>です ↓)
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Persona 3 Club Book teacher's pages scan and transcription.
月光館学園の先生
Teacher in Gekkoukan educational institution
高等部2年生の授業を受け持つ先生たちは、生徒のほとんどが勝手知ったる内部進学生だからか、かなり趣味に走った奔放な授業で有名。個性と独立心を獲得した、港区に誇れる立派な月高生の育成に勤しんでいる。
鳥海先生 Toriumi かに座/AB型 2-F担任、現代文担当、生徒会顧問
2年F組の担任で、現代文の担当。非常にさばけた性格で、真面目に話を聞かない生徒に謝罪を要求したり、サボりの生徒の席を勝手に再分配するなど、裏表のない性格そのままの授業をやっている。はっきりとした目鼻立ちと茶色がかった髪のため、実家のある島根ではお人形さんのようだと近所のオバちゃんたちに評判で、小中高の子供時代もそこそこモテ期をすごしていた。当時から文学少女だったために大学は国文科に進み、「日本文学に精通した可憐な新入生降臨!」くらいのウワサは辞さないとさえ期待していたが、いざ上京してみると、 自分の程度が世間でいかに平凡かに気付かされ、以降はこれといった華やかな出来事にめぐり合うことのないまま、29歳の現在に至る。
趣味で同人作家としての活動も行なっているが、これといった手応えはない。職場である月光館学園でも浮いた話に恵まれず、日本語の在りかたという点で話が合わないため、古文の江古田先生とは犬猿の仲だったり、倫理担当の叶先生からは女として負け犬確定の扱いを受けるなど、くさくさした日常を送っている。
心は可憐な
三十路前
「私が怒られるから静かにして」発言など、よくも悪くも生徒とのあ
知的な顔とやる気のない中身とに非常にギャップがある29歳独身。世間一般の女性の例にもれずケーキ好きで生徒に要求している。
「私が怒られるから静かにして」発言など、よくも悪くも生徒とのあいだに垣根を感じさせない。
鳥海先生のボヤキ
• じゃあ今日は明治の文学ね。教科書の12ページ。···あ、先生、この作家あんまり好きじゃないな。やめ ましょう。(4月21日・授業)
• イジメに関する小論を読んで、感想って��つね。こんなのサービス問題じやないの。なーんか書きゃ点あげたわよー。“この学校におけるイジメを告発” とかねー?···って、ウソよお。イジメ、無いわよねえ。無い無い。面倒。(5月25日・授業)
• アイギス・・・さん?珍しいお名前ね、生まれは外国なのかしら。他に特記事項は···ん?···人 型···戦術兵器?···なんかの間違いね、この書類。見たもの、聞いたもの全てが、正しいなんて思っちゃ駄目よね。 (9月2日・ホームルーム)
• 世の中は椅子取りゲームなの。みんなも気をつけてね。(11月9日・ホームルーム)
• みんなー、修学旅行はどうだった〜?先生、寺なんか興味ないから参ったわ。火曜からは体験学習ね。面倒な社会科見学だと思えばいいわよ。社会に出るって大変なの。これをキッカケに皆にも分かってもらえそうで嬉しいわー。その間、先生遊べるしね。(11月21日・授業)
確かに、この社会に希望なんて、そうそう転がってないよね。逆に、そこらに転がってるもんで満足すんな!甘えんじゃねーよ!···って、思ったワケよー。···先生、いま良いこと言ったから、期 末にこのまま出すよ?(1月 28日・授業)
江戸川先生 養護教諭 総合学習担当
見るからに健康、清潔とは縁のない養護教諭。カリキュラムが自由なのをいいことに、趣味に走った授業を行なっている。
怪奇!
保健室に巣食う悪魔
無精ひげとよれよれの白衣、脂に汚れた黒ブチ眼鏡、およそ健康的とは言い難い頬と土色をした顔色で、「優しい保健の先生」のイメージとは似ても似つかないうさんくさい風貌の保健室の主。月高赴任前のことを知る人間はおらず、名前すら本名ではないとさえ言われている。元気なときに訪れても追い返されるだけだが、体調が悪いときに保健室の戸を叩くと、先生自ら調合した極めて怪しいクスリを盛られる。運よく効けば具合がよくなることもあるが、当然トドメの一撃になることもなきにしもあらず。
養護教諭として生徒の手当てや保健業務を受け持つほか、「個々の知識を結び付け、総合的にはたらかせる」 総合学習の授業を受け持っている。しかしその実態は、「魔術を利用した人間心理治癒」と称し、前代未聞の魔術理論を紐解く、生粋のオカルトマニア。オタク特有の傾向である、自分の得意分野に関して話が長い特徴がある。夏休みの��習では、ここぞとばかりにさらにディープな講義を展開し、計5日間の日程のうち丸2日を魔術講義に付き合わされることになる。
体調の悪い生徒をじつに嬉しそうに迎える彼。保健室での行ないが本当に手当てなのかも怪しい。
江戸川先生のオカルト講座
• 保健室に何か用かね、ヒヒヒ。でも困るなぁ⋯これから秘密のサ⋯おっと。⋯講習会なんですよ。⋯なんだ、おまえ全くの健康体じゃん。私の目はごまかせませんでございますよ。サボリはお断り。ハイ、出て行った、出て行った。(保健室・体調普通以上)
• ···おやまぁ一、傷かウイルスか呪いか恋か。ずいぶんと調子悪そうですねえ。これは···出番ですね、イヒヒヒヒヒヒヒヒ。さて、取り出しましたるこの秘薬··· ニガヨモギにドクニンジン、ヒヨスにナツメにエトセトラ、エトセトラ··· オロしてコネてウサギの手。白山の杜氏もビックリの大吟醸。たちどころにアナ夕の病気を治してみせますよ。さあ、飲みなさい···飲むんだ!(保健室・体調疲労以下)
• まあ魔術と聞いて、何でもできるようになるイメージを持ってるヤツもいるでしょう。誰かにイタズラしてやろうとか、苦しめてやろうとか··· そんなロクでもないことを真っ先に思いつく人間に魔術の習得はできません。これは、洋の東西を問わずに共通することですね。邪な者は、無力であるか、途中で破滅するか。そのどちらかになるのです。(5月28日・授業)
江古田先生 2-E担任古文担当
今年50歳を迎えたの古文の先生で、風花の在籍する2年E組の担任。古きよき日本を愛する感覚は、現代の若年層とかけ離れているため、教師たちの間でも煙たがられている。「エアコンは体に毒」のスローガンの下、冷房や暖房をしょっちゅう止めてしまうので、「エコだ」と揶揄されている。面白いを「ホワイトテイル」、白ける話を「ホワイト キック」と一生懸命使っているが、90年代に若者文化として知識を仕入れてから時間が止まっているらしく、なんだか哀れ。
江古田先生のエコ文化論
• えー···明日からは修学旅行だなぁ。京都、我が心の故郷だ。他の先生はあろうことか海外を推すからなぁ···毎年反対するのが大変なんだぞ、んん?(11月16日・授業)
●当時の発音には “F” が入るんだぞ。“ひさかたの光のどけき春の日に” は··· “ふいさかたの、ふいかりのどけき···” う〜ん、美しいですねぇ··· (11月16日・授業)
小野先生 歷史担当
熱狂的な戦国マニアの先生であだ名は小野ムネ。政宗がらみにヤマをはればテストで高得点が狙えるが、受験を考えると参考書や塾に頼らざるを得ないため、3年生からは「歴史のハズレのほうの先生」と思われている。金色の細い三日月の前立てが印象的な愛用の兜は言うまでもなく政宗公の戦装束。オーダーして作らせた一品物で、新入生はその格好で行なわれる授業に驚愕するが、ひと月もすると立派になじんで気にも留めなくなり、そうなって初めて月高生としての肝が据わる。42歳。
僕は政宗公に会いに行く!
• えーと今日は貝塚の話か。うーん、貝塚なんて、ただの貝だよね。もういいかなこれは。先生、早く戦国とかに行きたいね。ワクワクしたいね。(4月30日・授業)
• じゃ、今日は政宗公だね!もう先生ワクワクして全然寝てないんだ!じゃ、政宗公の生い立ちから丁寧に紐解いていくからね!時は1567年、米沢城··· (10月1日・授業)
• うっ···ううっ···こうして、9月24日、西南戦争は幕を閉じたのであった··· まつ···ぐすっ まさ、まさに··· 武士の、武士の時代の終わりであったぁ···!!···ここから現代までは飛ばして、また戦国やろうね···ああ、政宗公··· (1月15日・授業)
宮原先生 数学担当
三角定規を片手に数字のかわいらしさを語る数学の先生。ふさふさアフロでおねえ言葉という風采は、変り種の多い月高高等部の教師たちの中でも異彩を放っている。数字や数式への思い入れはかなりのものだが、「解法」を愛するけれど「解答」には興味がないため、最後の繰り上がり計算をいつも忘れてしまうという、「使えない」 先生ナンバーワン。
数字LOVEの心
• ···で、ここが繰り上がるので···答えはX=1ですね。···え、違う?あ、ここが11だから··· すいませんね、X=2か。え、まだ違う??··各自、計算してくださいね。そういうわけで、すごいでしょ。数学って面白いよね。こんなに難しい問題も、解いてみるとX=1··· あれ、2だっけ?まあそんな感じで、簡単になっちゃうでしょ。ブラボーでしょ。(4月27日・授業)
この8、なんかすごく可愛いでしょ。9なんか尻尾がぷりぷりだし。マニアックだけど、2!!2もいいよね〜、ほんと、イイ!数字って可愛いよね。もうたまんない!(9月28日・授業)
竹ノ塚先生 物理担当
長身で渋めの男前、スーツは華美ではないが上質で、どことなくセンスを感じさせる45歳。見た目はいたってまともだが、せっかちで授業の進度が異常に早く、実���は結果のみの紹介、問題の解法を教えないままテストになだれ込むなどのせいで一部の生徒から不満が上がっている。板書の文字は��きく見やすいが汚く、折ったチョークの数は校内一。
かっこいい言葉集
• 言ってみれば、夏休みはもう··· 摩擦係数ゼロの坂道の上ってとこか。おっ、先生、今カッコよかったな。黒板に書こうか?(9月1日・授業)
• まずは基本中の基本、重力な。重くて大きなものが、小さいものを吸い寄せる。これが重力。女子高生に、中年男性が吸い寄せられる··· これも重力··· ···て、何を言わすんだ!(12月9日・授業)
叶先生 倫理担当
おもに3年生の倫理の授業を担当する先生。とくに男子生徒に人気が高く、「エミリ先生」と慕われている。授業熱心で進学指導に力を入れているのが評価されている一方で、若い男の子を手の平で転がして楽しむという、教師としてちょっと問題アリな性格。教師にしておくのは惜しい抜群のスタイルと評価が高いが、胸は詰め物とのウワサ。一部上場企業のサラリーマンと婚約中。
禁断の恋のゆくえ
自分にほれ込んでいる友近を、勉強を見るためと称して自宅に招いている叶先生。絶対に秘密のハズがどこからかバレて、九州の学校に転任することになって しまう。
大西先生 科学担当
細面ですらりとした、32歳の先生。婚約者と別れた過去があり、当分恋はいいと思ってるうちに、本格的にどうでもよくなり現在に至る。メガネを取ると美人なのだが、武器を隠し持っている感覚がいいという理由で、人前では外さないようにしているらしい。東洋医学批判者で、江戸川先生と新しい薬の開発を競っている最中。
やっぱり化学反応が好き
• 昨日ね、テレビ見てたらダイエット特集やってたんだ。“水を飲むほど痩せる!” とか言ってね··· んなワケないじゃない!浸透圧とかオール無視でしょ?なのに、だまされるのが多いんだから··· (5月6日・授業)
• 来週の火曜から試験かー。実験バリバリやりたいんだけどね。薬品を混ぜ合わせる瞬間って、最高に興奮するよね。(10月7日・授業)
寺内先生 英語担当
学生時代、留学先のインドで知り合ったイギリス人宣教師と、帰国後に感動的な再会を果たし、結婚に至る。そのシーンを「クリスマスの思い出」として毎年生徒に披露、英訳させる先生。会話中にかなりの頻度で英単語が混ざるが、本人曰く「関西なまり」みたいなもの。黄色いスーツにカチューシャという、どことなく海の向こうのセンスが香る28歳。
グレートイングリッシュスタディ
• はい、ここではAさんが死にそうなんですね。で、Bさんが言う “ステイ ウィズ ミー!” “しっかりして!” と叫ぶから、このあとAさんの魂が戻ってくるワケですね。これ、テストに出しますからね。面倒なんでこのまま出しますからね。と、もうすぐチャイムですね。それまで私のインド留学話でもしましょうか。(5月15日・授業)
今日はクリスマスの思い出をスピーチします。聞きながらイングリッシュに直してください。“もみの木の下で出会った私達は燃えるような恋に落ちたのです···” “イルミネーションはお互いの顔をビュー ティフルに照らし···” (12月24日・授業)
校長先生 校長
長年の政治的活動と少なくない資金とで、ついに私立高校の校長職を射止めた人。教師としての才覚には残念ながら恵まれているとは言い難く、部下である先生たちだけでなく、生徒からもデキない男と見抜かれている。美鶴の高校生離れした生徒会長就任演説に対抗意識を燃やし、つぎの週の集会でありがたいお言葉を用意するが、順平に同情される始末。
沽券に関わる大演説
えー、諸君らに今日は特別に、大切な話をしようと思います。あー、世間では、不可解な事件や、理不尽な事件が多いようですが··· うー、この学園の生徒である諸君らには、関係ないことだろうと思います。えー、しかし高校生という若い時期には、様々な悩みもあるでしょう··· まー、だからといって、あまり、思い悩むことはないのです。えー、“過ぎたるは及ばざるが如し” という言葉を、紹介します。あー、これの意味はといいますと··· (4月27日・朝礼)
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1013
外で誰かが歌っている。若い男の人の声で、何人か集まっている。酔っ払っているのかもしれない。こんなに早い時間から?とは思うけどそういうこともあるだろうとも思う。スケボーのごおーっという音も聞こえる。うちのマンションの前は川で、ジョギングしたり犬の散歩をしたりする人たちをよく見かける。夜のジョギングのおじさんたちはヘッドライトや腕のライトをつけてトットットットッと走っていく。川沿いのまっすぐな道で、もう少し下ると広い公園があり、そこには芝生の広場やスケートパークもある。川の向こうも同じようなマンションが並んでいるのでちょっと谷っぽい。誰も騒がなければ夜はとても静かで、対岸で誰かがくしゃみするとうわんうわんと響く。 子どものころ住んでいたマンションでも酔っ払いの声を聞くことがし��しばあって、あれは二階の部屋だったからもっとうるさかった。家のすぐ前が駐車場で、マンションの駐車場ではなく月極の駐車場でどこどこ不動産とか看板が立っていて、そこに酔っ払いたちはいた。 辺りは駐車場が多く、子どもの目から見れば砂利敷きの空き地だった。駅ができたばかりで田んぼや畑だったところが急に住宅地になり、マンションやアパートが少しずつ作られてはいたが、追いつかず、とりあえず駐車場にして放っておかれていた感じ。何もないのに用途は決まっていて立ち入ると叱られる空っぽの地べたで、ドラえもんの空き地とはちがう。あれは本当にはないものなのだとうすうす知りつつあった。 酔っ払いの人びとはわたしの入れないところへどんどん入っていき、歌って踊って騒いでいた。暗いからあまりよく見えなかったけれど、いつも彼らは輪になっていて、輪は小さいときもあれば大きいときもあった。近くに大学があるからそこの学生たちだろうと母が言った。たまに父が「うるせえぞ!」と怒鳴った。ベランダから大きな声で怒鳴るので、石でも投げられるんじゃないかと思ったが、そういうことはなかった。 父と母の仲人さんがよみうりランドの近くに住んでいて、正月休みには挨拶に行った。ごちそうを振る舞われ、お年玉をもらう。仲人さんの家には大学生の息子が二人いて、ちょっと遊んでくれる。彼らはおせちはあまり食べなくて夜にカレーを食べた。じゃがいもがごろっと大きい、黄色っぽい辛いカレーで、祖父の食べるカレーやドライブインのカレーもこうだった。他人の家のカレー。 当時のわたしの中で大学生というとあの二人だったので、真っ暗な駐車場で輪になって騒ぐ人びとの顔は彼らの顔になった。背の高いおとなしい兄弟で散歩に連れて行ってくれた。彼らが酔っ払う姿を見たことはなかったが、暗闇を見ようとすると知っている顔がはめこまれた。正月の兄弟は二人とも黒い長いコートを着ていて、ぜんぜんちがうデザインだったとは思うが子どもの目から見れば黒い長いコート。わたしには二人の区別がついていなかった。 兄弟とベルディ川崎の練習場を見に行き、冬枯れの芝生は風が強くてとても広かった。母が「ラモスいるかな?」と言ったが、フェンスの向こうのサッカー選手たちはとても遠く、小さくて、わたしには誰が誰だかわからなかったし、サッカーをやっているのかどうかもよくわからなかった。サッカー自体に興味も薄かった。兄弟はフェンスに寄りかかったりちょっとだけよじのぼったりし、シュートの真似っぽいこともしていたが、彼らもべつに熱心なサッカーファンではなかったと思う。遊んではくれるけどわたしと妹にはあまり話しかけなくて、いつも二人で何ごとかひそひそしゃべって笑っていた。 その後仲人さん夫妻は亡くなり、しばらく父は兄弟たちと連絡をとっていたようだったが、彼ら二人とも統一教会に入信してしまったそうで、縁を切ったと言っていた。「あれはもう駄目」といつか父は吐き捨てるように言った。
youtube
夜、疲れているんだけどなんか眠れないときこれを見ていて、きのうはこれを流しっぱにしながら小説を書いていた。これというか、こういう動画、こういう動画で一番気に入っているのがこれ。韓国のだから知っている景色ではぜんぜんないんだけど、いつかの子どものころの風景と重なる。あるいは以前旅行したどこか? こういうので羽田空港から湾岸線を走るやつとかもあって、それも好きなんだけど、よく行く道は「知ってる道」なので郷愁とか記憶とはちょっとちがう。今日もたぶんこういうのを見ながら小説を書くつもり。
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INTERVIEW: アルバート・ハモンドJrが語る人生の転機、ザ・ストロークスとフジロックの記憶 (Rolling Stone Japan)
Hiroko Shintani |2023/07/05 18:10
This interview is solely in Japanese. For an English-translated version of the website: click here Please note, the translation may not be not entirely accurate.
For archival purposes, full text is stored below.
ザ・ストロークス(The Strokes)のフジロック出演を前に、メンバーの中でもひと際ソロ活動に情熱を傾けてきたアルバート・ハモンドJr(Albert Hammond Jr.)が、5枚目のアルバム『Melodies On Hiatus』を送り出す。計19曲に及ぶダブル・アルバムにして、ラッパーのゴールドリンクを始めとする多数のゲストの参加など新しい試みを積み重ねた本作を、「自分の人生そのもの」と位置付ける彼。輝かしいメロディが生きた時間の重みを颯爽と運ぶ、そんな会心作のメイキングを辿りつつ、ザ・ストロークスのレガシーについてもフランクに語ってくれた。
溢れるメロディ、新たな試み
―前作『Francis Trouble』を2018年に発表してからの5年間に、世界はパンデミックに見舞われる一方、あなた自身にも色んなことが起きました。父親になり、そして生まれ故郷のLAに戻ったんですよね。
アルバート:そうなんだよ。ただ『Melodies On Hiatus』には引っ越す前に着手していて、『Francis Trouble』とザ・ストロークスの『The New Abnormal』(2020年)を完成させると、すぐに新たな曲作りを始めた。そのセッションのためにニューヨークとLAの間を行ったり来たりした挙句に、2019年8月に正式に引っ越したんだ。それまで21年間ニューヨークで過ごしたわけだけど、思えば本当に忙しくて旅ばかりしていたんだよね。で、長いツアーを終えて都会の真ん中に帰ってきてもちっとも休養できないから、一時はニューヨーク州の北部の田舎に移り住んだ。実際、自然豊かな素晴らしい場所で、今もあの生活は懐かしいよ。ただ、空港から遠かったりしていいことばかりじゃないし、かといってマンハッタンに戻る気はさらさらなかった。マンハッタンで充分な広さの家を借りれるほどの金持ちじゃないから(笑)。で、ソロ活動に関してはマネージャーもバンドもみんなLA在住で、妻の友達も大勢いるし、こっちで過ごす時間がどんどん長くなって、生まれ故郷だからこそ今まで抵抗を感じていたのに、ここにきてエキサイティングに思えるようになったんだよ。大いに活力を与えてくれる場所だし、ライフスタイルもしっくりくる。俺は体を動かしたりするのが大好きだから、そういう意味でもLAが合っているんだろうね。
―2019年に着手したとしたら、本作は完成まで随分時間がかかりましたが、当初からダブル・アルバムを��定していたんですか?
アルバート:いや、そういうわけじゃなくて、とにかく次から次へと曲が出来て、20曲のデモが手元に揃った時点でようやくストップした。まだインストの状態だったから、20曲分の歌詞をこれから書かなきゃいけないってことにふと気付いたんだ、「まずいぞ」ってね(笑)。ただ今回はデモのヴァイブがすごく良くて、「デモのままにするっていうのはどうかな」と思い付いた。デモを元にバンドとレコーディングし直すのではなく、逆にバンドを解体すると言うか。ドラムマシーンを使って、主にコリン・キラレア(前作にも参加したマルチ・インストゥルメンタリスト、今回もギターやベースを担当)とふたりでプレイした原型の状態に留めておいて。
―そうだったんですね。興味深いのは『Melodies On Hiatus』(メロディは休止中)というタイトルです。今まで以上に素晴らしいメロディに溢れたアルバムだけに、全くもって矛盾していますよ。
アルバート:うん、その通りだ(笑)。
―なんでまたこんなタイトルに?
アルバート:曲が全部完成する前に、かなり早い段階でタイトルを決めてしまったんだよ。良くも悪くも俺は直感で決断を下すタイプの人間で、「これはいいな」と感じたら即決する。あれこれ調べたり、考え込んだりするのは好きじゃない。で、ある日“melodies of hiatus”という言葉がふと頭に思い浮かんで、“カッコいいタイトルじゃん”って思った。誰かがしばらく姿を消していた、というようなイメージに惹かれたんだよ。それにさっきも言ったように、今回はアルバム制作のプロセスそのものを再考して、バンドの解体に取り組んでいたから、「従来の音楽作りの方法に別れを告げるにはピッタリかもしれない」と思った。
でも、うん、今となってはバカげたタイトルだと自分でもわかってる(笑)。だって、メロディこそは俺がハマっているドラッグであり、メロディとリズムとハーモニーをどうバランス良く絡み合わせるかっていうことを追求し続けているわけだからね。例えば、ジャムでカッコいい音を鳴らすバンドを観ているのは楽しいんだけど、これでもか!ってテンション満々に圧しまくるのなら、どこかでそのテンションを緩めて解放してくれないと、聞き続けるのが辛くなる。俺の場合、テンションとリリースの反復を追い求めているところがあるんだ。だからこそメロディを諦めちゃったかのような印象を与えるタイトルにするなんて、笑える話だよね。俺の魂が休暇を取ってどこかに行ってしまったみたいな(笑)。
コラボレーションの収穫
―他方で、もうひとつぜひ伺いたかったのが、共作者のシンガーソングライター、サイモン・ウィルコックスのことです。全面的に共作者を迎えるのは初めてですが、今までの歌詞の出来に不満があったんで��か?
アルバート:そんなことはないよ。共作は過去にもやっているし、今回はやっぱり曲数が多過ぎて、歌詞を書く段になって途方に暮れていた。そもそも俺にとって歌詞の優先順序は低くて、音と言葉が合致するのが理想ではあるけど、音こそ自分に響く部分なんだよ。若い頃からそうだった。音楽を聴いていて、そのミュージシャンが何を歌っているのかってことにはあまり興味を抱かなかった。というか、完全に音と言葉が合致している時は、ある意味で言葉を意識しない。音に溶け込んで流れていて、それって素晴らしいと思う。そしてじっくりと耳を傾けてみると、「へえ、面白いことを歌っているな」と驚かされたりするんだよ。だから歌詞は重要だし、軽んじているわけじゃない。俺���強みは別のところにあるというだけ。タイトルとか、決め手になる1行を思い付いたりすることは自然にこなせる。例えば「Old Man」を書いた時は、最初にボイスメモでメロディを録音した時に、ふと“My old man”という言葉が口をついて出た。そういうのは得意なんだ。
ただ、20曲分の歌詞を書くとなると話は別で、当初は5〜6人の友人に声をかけて手分けして共作しようと企んだものの、うまく行かなかった。その後サイモンと出会って、自分はまさしくこういう人を求めていたんだと確信したよ。昔から共作された音楽を聴くのが好きで、クリエイティブなことは何でもコラボレーションによって成立すると考えていたしね。サイモンみたいに、俺が言いたいことを深いレベルで理解して、自分とは対照的な立場からバランスをとってくれる人と巡り合えて、本当にうれしかった。
―具体的にはどんな風に作業を進めたんですか?
アルバート:さっき「Old Man」を例に説明したように、俺はデモを作る時に、必ず適当な言葉を口ずさんでいるんだよ。その状態でサイモンに聞いてもらった。だから言うなれば、自分自身を非常に粗削りな形で彼女に提示したわけだ。そしてふたりで長い時間をかけてじっくり話して、サイモンはその会話を踏まえて、デモに載っている言葉の周囲に独自の世界を構築してくれた。これらの曲を聴いていると、彼女が僕に向かって語り掛けているかのような気分になる。すごく興味深いよ。
―そして、作詞の作業を他人に委ねたにもかかわらず、結果的には「自分の人生そのもの」と評するくらいにパーソナルなアルバムになったわけですね。
アルバート:うん。このアルバムって、子どもの時にキンクスのベスト盤を聴いていた感覚に重なるんだ。60年代後半から70年代を経て80年代にかけてのバンドの歩みを辿っていて、その間に起きる変化がすごく好きなんだよね。それとどこか近いものがあるように感じる。自分が今までに聴いてきた様々な音楽を網羅しているというか。じゃあ果たしてそれを意図していたのかと問われれば、俺にはわからない。
何かをクリエイトしている時、楽器をプレイして曲を形作っていく時には、色んな段階を踏むよね。例えば���とつの小さなアイデアを直感を頼りに膨らませていく最初の段階では、とにかくこう、砂場に飛び込むようにして遊びまくるのが得策なんだ。バカげたことを試したら、たまたまクールなものが生まれて、それがさらにシリアスなものへ進化するかもしれない。あれこれ手を尽くして、自分をビックリさせるようなことをやろうとするものだし、そこに計画性はない。俺はいつも曲を書いてボイスメモに録り貯めていて、中にはいい出来の曲も、まあまあの出来の曲もある。そして数カ月経った頃にまとめて聴き直して、「これは可能性がありそうだ」と感じる曲を絞り込んで、手を加えるんだよ。結局いじり過ぎてフランケンシュタインみたいな代物になることもあるけど、とにかくマッド・サイエンティスト的に、自分が何をやっているのかわからないまま精一杯取り組むしかないし、最終的にどこに辿り着くのかわからないんだよ。
―じゃあ、ふたりで書いた歌詞の中で、一番心に刺さったものを選んでもらうというのは難し過ぎるでしょうか?
アルバート:そりゃ大変だ。今歌詞を手元に用意するよ……えっと、まず「100‐99」の“I’m not safe/ I’ve made mistakes I would again/ In spite of what it cost me(俺は安泰じゃない/過ちを繰り返してきたし今後も繰り返すだろう/多くを犠牲にしたというのに)”はまさに、俺の人生の物語そのものだ。だから聴くたびに突き刺さるものがある。それに、ごくシンプルな1行がぐっとくるんだよね。例えば「Libertude」の“I’ve been alone for such a long time(長いあいだ俺は独りぼっちだった)”だったりね。言葉だけを切り取るとどうってことないかもしれないけど、メロディを伴った時にどんな印象を与えるか、曲のどのタイミングにその言葉が配置されているか、その言葉が何を解き放つのか、そういった条件によって意味合いが変わって、すごくパワフルになる。あと、「False Alarm」の“We’ve both been shadows down the well(ふたりは井戸の奥底にある影だった)”も好きだし、「Never Stop」でサイモンが作り上げた物語も最高だよ。当初そのアイデアを聞かされて「なんだそりゃ」って思ったけど、好きに書いてもらった歌詞を読んだら、予想していたものと全く違って「最高じゃん!」と思った。
それから、レインズフォードことレイニー・クオリーがボーカルを担当した「Alright Tomorrow」は、声域が足りないから絶対に自分では歌えないとわかっていながら書いた曲でね。だからこそ、ララバイみたいな内容の歌詞を彼女が歌ってくれるのを聴いていて、すごく心に沁みた。“明日になればなんとかなる”と、まるで俺に言い聞かせているみたいで。以前から、“何があろうと構わない、明日になればなんとかなる”と言ってみたかったけど、自分ではなかなか書けなかったんだよ。ほかにもあちこちに、話しかけられているかのように感じる言葉があって、サイモンがそう意図したのかどうか分からないけど、「Darlin’」の““I needed you to be the edge I hold onto/ Cause its far to fall, when I been feeling small(お前には俺が掴まれる崖っぷちになってほしかった/自信を失っている時は深い場所まで落ちてしまうから)”もそうだね。歌詞を書き終えるまで実際に会うこともしなかったし、初めてコラボしたというのに、不思議な話だよ。クリエイティブな意味で、お互いを必要としていた時期に知り合う機会に恵まれたんだろうな。次は、ふたりでほかのアーティストに曲を提供しようっていう話もあるし、ここにきてまたひとつ、素晴らしい人間関係が俺の人生に加わったよ。
ザ・ストロークスのレガシーへの想い
―ゲストについても気になる名前が並んでいますが、特に豪華なのが「Thoughtful Distress」であなたが集めた、世代をクロスオーバーするスーパーグループです。80年代に数々の名曲にフィーチャーされた名ギタリストのスティーヴ・スティーヴンス、アークティック・モンキーズのマット・ヘルダーズ、最近はパニック!アット・ザ・ディスコやインキュバスでプレイしている辣腕ベーシストのニコール・ロウが参加していますね。
アルバート:本当にクールなメンツだよね。こういったことは得てして、オーガニックに実現するんだ。そもそも「Thoughtful Distress」は前作のために作った曲のひとつで、なんで復活させようと思ったのか自分でもよくわからない(笑)。ただすごく気に入っている箇所があったから、逆に気に入らない箇所をカットしてみたら、残った芯の部分は捨てたもんじゃなかった。それでタイラー・パークフォード(ミニ・マンションズのキーボード奏者兼シンガー)と一緒に改めて肉付けしたんだ。で、どういうわけか、この曲はデモっぽくするんじゃなくてバンド形態でレコーディングしようと決めて、仲がいいマットに声をかけて、すでにほかの曲に参加してもらってウマが合ったニコールにも参加してもらった。スティーヴがギターを弾いてくれた経緯の記憶は定かじゃないけど、Instagramでフォローし合っていて知り合った気がする。連絡してみたらぜひやりたいって言ってくれたよ。さすがに畏れ多い人だから、まずはニコールとマットを交えて方向性を固めてから、スタジオに来てもらったけど(笑)。
―アークティック・モンキーズは言うまでもなく、ザ・ストロークスにインスパイアされて結成された数多くのバンドの一組です。昨年発表の最新作『The Car』での「Star Treatment」でアレックス・ターナーは“I just wanted to be one of The Strokes”と歌ったりもしていますが、例えばラジオを聴いていて、「俺らに影響されたのかな?」と感じることは結構あるんじゃないですか?
アルバート:もちろんあるよ。「この曲聴いてみなよ、すごくザ・ストロークスっぽいから」って友達がよく教えてくれるし、それは最近始まったことじゃない。メンバーが集まる時にも、雑談をしていて「〇〇のあの曲聴いた?」って話になることが多いんだ。例えば去年はハリー・スタイルズの「As It Was」が話題に上って、「ドラムビートが『Hard To Explain』にそっくりだよね」ってみんなで話していたっけ。「ザ・ストロークスの曲をポップ化したみたいな感じじゃない?」と。とはいえ俺は、マジになって自分たちがやってきたことを振り返って感慨に浸るようなタイプの人間じゃないし、そういう曲を聴くとただ笑えるっていうか。それにアークティック・モンキーズに関しては単純に素晴らしいバンドだし、彼らが音楽をやりたいと思ったきっかけに、何らかの形で俺らが寄与したのであれば本当にうれしい。「あー。ちょっと待った、俺たちを引き合いに出すなよー」って言いたくなるバンドじゃなくて、アークティック・モンキーズで良かったよ(笑)。
―そして7月にはフジロックのヘッドライナーとして、ザ・ストロークスで日本に戻ってきてくれますね。ソロとしても2018年に出演していますが、過去のフジ体験を振り返って、何か印象に残っていることはありますか?
アルバート:ソロで行った時のほうが思い出が鮮明だと言ったら誤解を招くかもしれないけど、やっぱりザ・ストロークスは前回の2006年もヘッドライナーだったから、大勢で移動して、直前に会場に入って、プレイして、終わったらすぐ帰るという感じで、フェスそのものをあまり楽しめなかったんだ。唯一覚えているのは、ザ・ラカンターズが同じ日に出演して、ジャック・ホワイトとバッタリ会ったことかな。あれは楽しかったね。
その点、ソロの時はもっと余裕があって、苗場で一泊したんだよ。前日に行ってホテルに泊まって、翌朝から会場を歩き回って楽しんで、自分のライブをやって、ポスト・マローンと知り合って、ザ・ストロークスの大ファンだと聞かされたよ(笑)。だからと言って、ソロで行くほうがいいというわけじゃないんだ。バンドでも等しくエキサイティングだし、そもそも日本に行くこと、日本でプレイすることは大好きだから、毎回うれしくてたまらない。今回も俺は早めに行って、2〜3日ゆっくり日本で過ごすつもりだから、すごく楽しみにしているよ。
―ザ・ストロークスの新作についても伺っておきたいんですが、リック・ルービンが、昨年コスタリカでセッションを行なったことを明かしました。その後進捗はありましたか?
アルバート:えっと、その件については、何か隠してると思われかねないけど、現時点ではリックの発言にプラスできることは無いかな。
―わかりました。ちなみにザ・ストロークスのデビュー作『Is This It』のリリース20周年にあたる2021年頃から、盛んにあの時代を回顧する論評なんかが見られましたよね。ギターロックの最後の黄金時代と見做す人も多いようですが、当事者のあなたから見て理想化され過ぎていると感じますか?
アルバート:うーん、そもそも人間って、過去に起きたことは全て理想化しちゃうものだよね。過去はすなわち自分の青春時代であって、人々が言ってることが「理想化」に該当するの��、実際に素晴らしい時代だったのか、俺には何とも言えないな。みんなそれぞれ��う体験をしているから。それに人間は誰しも、20歳の自分に戻りたいと思うものだろ?「こんなことをやったな」「あんなこともやったな」と懐かしむのは無理もないことだし。
そして俺自身、もちろん時代の真っ只中にいた記憶はある。でも、バンド活動をするなら今のほうが遥かに状況はいいと思うよ。俺らが活動を始めた頃のシーンは最悪だったからね。ゴミ溜めみたいな海を泳いで、そこら中に浮いてるクソをかき分けながら必死になって水面に浮かび上がったんだ(笑)。全然楽しいとかクールとかっていうものじゃなかったし、今のほうがずっとカッコいいロックバンドが多い。そして聴き手も、アーティストたちとすごく緊密なコネクションを確立できているよね。それって昔はなかったことだし、今と違うからこそ昔を懐かしむのかもしれない。20年後にはきっと、今の時代を理想化しているんだろうね(笑)。
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ムー旅 平将門巡り「胴と首をつなぐ」崇敬の旅 ・その2
さて、再び🚍に乗り込み、次の目的地は東京に戻って神田明神……ですが、高速に乗ってしばらくした所で渋滞にハマりました😰
運転手さんが頑張ってくれて、何度も車線変更しつつ行ってくれるのでそれ程はノロノロ運転というわけではなく、完全に止まることもほぼありません。ところが、ここで地獄に陥った方がお1人。🚍内で缶🍺を持ち込みほろ酔い気分になってたのが、いきなりの尿意に襲われたそうで。いつものクールなイメージがすっかり崩れ落ちるほど悶絶しまくられた挙げ句、松原タニシ氏からは、
「尿意(如意)輪観音のご加護」
という凄ぇパワーワードを送られーーあまりにも素晴らしい弄りに🚍内大爆笑でした。さすが関西出身だけあって、弄り方がプロですな😅他にも「平将門の呪い」って仰ってたけど、そこは濡れ衣だと思います😂
そうこうして東京はまだかーーなどとなっているうち、三郷を過ぎいよいよ限界が……😖となったところで。
八潮PAの看板が!!
救いの神です。迷わず🚻休憩が入りました。戻られたあとは、再び「今度からオムツした方がいいんと違います?」と弄られておられましたけど😅
そのままスカイツリーを横目に、堀切~鐘ヶ淵~両国で高速を降りて、浅草橋からお茶の水へ。ここら辺になると、ほぼ庭ですね😊神田明神に到着した頃はとうに6時をまわってましたが、このようになお明るい。
⛩️の前で一礼して山門を潜ると、おお、さすが6月。夏越の祓の茅の輪がデデーンと目に飛び込んできましたo(^-^o)(o^-^)o
穢れを祓う為の人形(ひとがた)が貼り付けられています。取りあえずここで神職の方の説明(多分待ちかねておられたんじゃないかと💦💦)があるので、一旦茅の輪くぐりは脇に置いといて。
神田明神(神田神社)についての説明を受けました。何度かお詣りに来てるので概要は知ってましたけど、やはり奉職なさっておられる方からの説明はそれ以上に知識が深い。
前編では、延命院や國王神社には常駐の神主さんも住職さんも居られないと書きましたが、例祭の折は神田明神(正式名称は神田神社だけど、生まれも育ちも東京在住者にはこちらの方が馴染みが深いので、そのまま神田明神と呼ばせてもらいます)からも神職者が派遣されるそうです。なるほどー😲
そもそも、将門塚保存会から石碑を贈ったりするくらい、坂東市と東京の繋がりって深いんですよね。将門ネットワーク。
神田明神は関東大震災で本殿が焼失しており、現在のものは「二度と燃えるところを見たくない」という氏子さん達の意見を取り入れて、鉄筋コンクリート造りで再建したそうです。当然構造上は木造より強度が増しているので、柱はそれほど必要とはしていない。なのに本殿の支柱が多いのは、日本の神社建築に沿った建物にする為。確かにこの方が威容がありますもんね。
説明のあとは茅の輪を慌てて8の字にくぐり、ツアー参加の皆さんがずらっと並んでいるのを尻目に境内にある波除神社を参拝。ここだけは将門さんとは関係がありませんが、父方の祖父が戦前築地に勤めていた関係で(波除神社は築地からの分霊なんです)どうしても頭を下げておきたかったの!!
時間に余裕があったら他にも(神社裏の階段とかw)寄りたいところですが、それはまた個人で💪😁
ようやく待っている人が少なくなったところで、本殿に二礼二拍手一礼。本当は神拝詞も唱えたいところですが、あれをやると隣にいる人がぎょっとして、変な人認定される可能性があるのと、時間がないからカット💦💦
すぐに🚍に戻り、最後のそして最大の目的地である将門塚(首塚)へ。流石にここでは日没しており、
薄暗い逢魔が時の中での参拝になりました。
しかーし、
2020年からの改修工事により、以前あった筈の植え込みがほとんど失くなっちゃってる😳
もうね、まっ更な綺麗な塚以外は何んにもない空間なんですよ。
子供の頃とか、よく「首塚の写真を撮ろうとファインダーを覗くと生首が飛んでくる」という噂がまことしやかに囁かれて、都市伝説となっていましたが、そんなおどろおどろしさは全くなく。単なる史跡になっちゃってました。確かに参拝はしやすくなったろうけど、これはちょっとクリーンになり過ぎ💦💦
恐らく、パワースポットとしての役割は��とんど消えちゃったんじゃないでしょうか?お詣りする人の念が溜まっての意味もあるもんな、アレは😥
ちなみに将門塚の改修工事に伴い、将門塚と延命院とで互いの土を交換しているとのこと。
ともかく、私にとっては付近はさんざん歩くものの、生まれて初めての将門塚訪問。
い・ろ・は・すで簡単にお清めをして、手を合わせました🙏お賽銭入れにはやはり九曜紋。こちらの石碑が先程の神田山延命院と対をなすものか……どうぞ安らかに東京の街を護って下さいーーそう願って、ここを後にしました。
さて。時間は7時を過ぎ、トークショーとディナーを頂く為に浅草ビューホテルへ到着。こちらが最終地点となる為に、🚍とはお別れです。お疲れさまでした。そして、ツアー初めから色々とお世話になりました🙇♀️
運転手さんが親切に教えてくれたお陰で、座席難民にならずに済みましたもん💺
ホテルでのイベントはムー旅のみだったので、至る所で案内板が💦💦
そして通された宴会場広ーーーい!!
いちテーブル大体5名ほどで、まずは乾杯用のソフトドリンク(オレンジジュースとウーロン茶の2択)が配られました。
司会はムー編集部のM氏。三上編集長との阿吽の呼吸の掛け合いが楽しいです。ここでパワーポイントを使っての旅の振り返り。松原タニシ氏と同行されたカメラマンの方が撮影されてたのかな?
トークショーは撮影禁止でしたが、ディナーのフルコースのみ撮らせてもらいました。
凄い豪華だったんですよ。こんな本格的なご馳走にありつけると思ってなかった😍💕
蓴菜の餡といくらの乗った胡麻豆腐、お刺身はマリネされてサラダ仕立て、白身魚(スズキっぽかった)の香草焼き ラタトゥイユソース添え、ほたて入りのパエリア?(サフランライスかな?バターが効いててコクがあり、とても美味しかったです💕最初ちょい少なめについじゃったので、後から余っていたのをおかわりさせてもらいました💦)、コンソメスープ。デザートはいちごのムース フルーツ添え、コーヒーはデミタスカップでしたが、エスプレッソではなかったです。香りが良かった💕
ツアー参加者が食べている間もずっとトークショーは続き、ちょっと申し訳なく思ってしまいました💦💦
トークの内容は、事前に🚍の中で記入してホテル到着時に回収された、参加者からの将門さんに関する質問が中心……の筈だったのに、いつの間にか三上編集長個人への質問が😳
それアリなんですかーー🤣
Q:いつも黒い服を着ていらっしゃいますが、私服なのですか?
A:私服です。そろそろクリーニング代を計上しようかな(え!?)
Q:正月カレーは何日続きましたか?
A:100日続けました(元旦から🍛を食べ続けておられたそうで……それを知ってるムー民の方からの質問が濃いい😂)
Q:お化けを見る方法を教えて下さい
A:出るところに行け���見れます。
ここで、聞きたくなかった情報が……霊能者の方はほぼ体温が低いそうなんですね。私、平均体温が35.6℃なの😰更にコロナが5類になるまでは、外出先で体温測ると大概エラーマークが出ました。34.6℃とかが普通だったから💦💦
ほぼ零感だけど、たま~に怪音を聞いちゃった経験があるのに加えて視える人間が周りにごろごろいるの。てことは、今は視えてなくてもいつか条件が合致しちゃうと、視えちゃうようになる可能性もあるのかも😱
嫌だー、面倒臭いぃーー‼️
トークショーの締めくくりで、三上編集長が「無事かえる」の話をしておられました。これは、将門さんの首が晒されていた京都から戻ってきたことを表しているという説が主流ですが、更に蛙(かわず)⇒河衆⇒河童の意味もあるそうで。行きの🚍の中でたたらの話も出てたもんなー。ともかく、旅から無事に家に着きますように、と。
楽しいツアーでした。ムー的にも歴史的にも、多方面で濃いい話が満載でした。
余談ですが、家にある将門さん関連で読みたいなと思っていた何冊かの📚
もしかしたら、今なら簡単に見つけられるんじゃないかな🤔と考えて、探してみました。どこに置いたかすっかり忘れてて、見つかるまで何時間かかかっても仕方がないかな😥って思ってたんですが……何とわずか15分くらいで全部出てきちゃったんです😌
ご縁が出来るって、こういうことか!!
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商���義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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ヘロQ『悪魔の手毬唄』
(いまさら・半年も前の)ヘロQの『悪魔の手毬唄』について書いていますが、もしあなたがヘロQの今回の公演を楽しみにしているところなら読まないほうがいいです。これは前回の公演にいまさらつっこむ書き散らしです。ふせったーに投げるつもりで書きはじめたんですが思ったよりブログ向きになってきたのでこっちに置きます。それから、まだ『悪魔の手毬唄』を観ていない、DVDを楽しみにしている、とかならやっぱり読まないほうがいいです。ねたばれ全開です。うっかり読むとテンション落ちますよ!!
なんでこんなタイミングで書いてるかというと、『悪魔の手毬唄』を一緒に見た知人たちと会う機会があり、感想話で盛り上がったからです。「盆のつかいかたが下手すぎたな~!」と。とはいえ「下手すぎたな~」にも明るいやつと恨みに満ちたやつがあり、今回は前者です。その証拠に、次のヘロQの本公演も予定が合ったら一緒に行こうという話になっています(そういえば私は最近「まあそのときまだおきあゆさんにはまってるかわかんないけど」と言わなくなりましたね。諦めがついたのか??)。
この知人たちというのは私よりずっとお芝居を観る人たちで、いろいろ観るからこそヘロQも付き合ってくれたという経緯もあります。観たのが初日、そうあの悪夢のごとく開演が遅れた日。ちなみにわれわれにとって妥当なラインは「一時間遅れででも開演できないことがわかった時点で公演中止」でしたが…。それでも、一時間半近く遅れて開演&終電近くの終演になっても「むしろおいしい」と言ってくれる人たち。そういう人たちから見たら、あの盆のつかいかたは下手だったし、でもおもろい下手さだった。
盆そのもののつかいかたの前に、舞台デザイン全体の問題もある。ちょうど最近読んだ舞台デザインの本に、ネガティブ・スペースにも注意しろという話が書いてありました。舞台にものが置かれて、それがビジュアル・イ��ージを作る。ものを直線的に置くこともランダムに置くこともできるし、真ん中に置くことも後ろにだけ置くこともできる。高くまで置くことも、低くしか措かないこともできる。そして、それぞれがそれぞれの印象を作る。このとき大事なのは、ものが置かれないスペースも意識すること。舞台は空間ですからね。実際的な話ではネガティブ・スペースは俳優がそこを動く・使うスペースだし、ビジュアル・イメージ的な話でもネガティブ・スペースもまたデザインの一部なわけです。
で、『悪魔の手毬唄』のデザイン。盆を導入しつつ、舞台のまんなかに大きい構造物を置くのはいいんですよ。でもヘロQは、いつもの舞台デザインもひきずりながらそれをした。そして、ここが致命的なわけですが、うしろに何も置かなかった。そうすると観客から見ると、上手と下手には、二階まである、そびえたつ壁のようなセットがあり、その奥にでかめの構造物があり、そのうしろには何もない。手前だけあれこれ盛っていて、後ろはすかすか。ちぐはぐです。
いつものヘロQの基本的な舞台デザインは、上手と下手に装置、中央手前は比較的開けてあって、奥にも装置。上手~中央~下手とあるものがラインを作って、つながっている。だから、客席側からくる観客の視線は、舞台の奥まで抜けてしまわずに、ものが作るラインの前のいる俳優にフォーカスする。でももっと別のビジュアルの舞台もありますよね。たとえばほぼ裸舞台で、舞台奥もそのままホリゾントが見えていて、かつ舞台の中央にちょっと何かが置いてあるところを想像してみてください。今度は観客の視線は、舞台の中央のものや、そのまわりに立つ俳優にフォーカスすることになる。
でも『悪魔の手毬唄』はちがった。うしろに暗幕、他にものは置かず、いさぎよく中央の構造物にフォーカスするというのでも、いつもどおり上手から下手まで埋めるのでもない。上手・下手のセットと、中央の構造物のあいだに隙間があって、観客の視線がうしろに抜けて、暗幕にすいこまれてしまう。俳優のエネルギーも、壁を背にした俳優から発せられて観客に向かっていくのでも、なにもない舞台で自身に観客のエネルギーを引き寄せていくのでもなく、こう…うまくいっていない。
たぶん、客席でも舞台正面の席から見ていたらそこまで違和感がない。でも端のほうの席だと、視線がななめに抜けていくので、うしろの暗幕の雑さ、スカスカ感がより見えてしまう。それから、舞台装置の一階部分でお芝居をしているときはそこまで違和感がないけど、二階部分でお芝居をしていると、後ろのスカスカさ(暗幕)がより見える。上手・下手から中央側にスクリーンを出して、上手から下手につながる線をよりしっかり作ったときや、プロジェクション(確か雨とか火とか)を使ってあいまの空間をバーチャルに埋めたときも、違和感が弱まる。だから、ぜんぜんだめというほどじゃないけど、よくもなかった。文字通りに隙が多かった。名作駄作を問わず、予算もコンセプトもいろんなお芝居を、いろんな劇場のいろんな席で見るという経験をあんまりしてなさそう、というデザイン。
そのうえで私たちが盛り上がったのは、盆のつかいかたが下手だったね~!ということでした。だって、せっかくの盆なんでしょ?クラファンまでして。「見よ!これがクラファンの盆だ!どりゃ!」みたいなつかいかたしてくれると思うじゃないですか…。
しかし『悪魔の手毬唄』の盆はちがった。あれじゃあ、ただの便利な廻る床じゃないですか!!!盆をなんだと思ってるんだ!!!もっとドヤらんか!!!(突然の立海真田)
盆という装置には、盆という装置にしかできない魅せかたがある。たとえば、タメやプロセス。まわせばいいってもんじゃない、効果が大事なんです。宝塚歌劇だって歌舞伎だって、盆をまわすからには盆をまわすに足る見せるべきものがあり、魅せかただってある。なのに『悪魔の手毬唄』の盆ときたら、小手先でまわして、目先の場面転換に便利に使ってただけじゃないですか。し、しんでる…!
今回のヘロQって盆がまわるらしいよ~どんなだろ~という期待があったとしたら、『悪魔の手毬唄』の盆のつかいかたは華麗な肩透かしだった。別にいいけどがっかり。そしてせっかく盆をつかってるのにあんながっかりなつかいかただなんて、おもろすぎる。いくらなんでも最後にはドヤってくれるだろうと思って見てたのに、最後までその瞬間はきませんでしたからね…かみあわなさがもはやおもろい…。
でも、別に盆をつかうからって必ずドヤらなきゃいけないわけじゃない。もっと別のつかいかたもある。見栄え重視ではなく、よりドラマとしての意味をもたせるという方向性です。最近だと『ライカムで待っとく』という作品が装置をまわしてたんですが、これはアメリカと日本の植民地として抑圧されてきた沖縄の歴史、そこで翻弄されざるをえ��い人々を描く作品で、人々を翻弄する時間と権力を描くために装置をまわしています。劇としての意義。これも盆に可能な効果です。
そしてヘロQはこっちの方向でも盆を使えていなかった。それどころじゃない、おもいっきりはずしていたと思うんです。
まず『悪魔の手毬唄』という作品について確認します。『悪魔の手毬唄』では、モビリティが重要になっている。ここでいうモビリティとは、移動可能性です。ある土地から別の土地へ移動する可能性、ある社会階層から別の社会階層へ移動する可能性、ある時代から新しい時代へ移動する可能性。そもそも、『悪魔の手毬唄』の舞台となる村の名前の由来、劇の序盤で語られる話が、「鬼の首が飛んできてここに落ちた」ですからね。そこからもう移動可能性の話です。しかも、鬼の首は飛んだだけでなく、落ちている。移動可能性と、その喪失が、作品の軸にある。
『悪魔の手毬唄』でのモビリティとその喪失は、犯人であるリカに重くのしかかっています。そしてそれが、彼女を犯行に導いてもいる。語られるところでは、リカは結婚前は女義太夫としていた。記憶が確かなら(半年前の記憶ですが…)旅回りをしていたとも言っていたような?そもそも仕事があるという時点で、結婚して家に入る女性とは違うモビリティを彼女がもっていた。楽な仕事だって言ってるんじゃないですよ。仕事がある、自分が稼いだお金を持てる、さまざまな土地を巡り、業界や観客のさまざまな人と出会える、つまり女義太夫という職にあることが彼女に付与するモビリティがあったってことです。
しかし、リカのモビリティはうしなわれていく。契機のひとつは時代の変化です。義太夫は邦楽の範疇ですが、日本の娯楽は西洋音楽を取り入れていくことになる。リカの女義太夫は、時代遅れな娯楽になっていく。ある時代から、次の新しい時代へ、ある娯楽から、次の新しい娯楽へ、そのモビリティをリカは持っていなかった。もうひとつの契機は結婚です。リカは源治郎と結婚し、出産し、夫の故郷である鬼首村に移り住む。別の専業主婦になるわけではなく、夫の実家の家業を手伝っていたはずですが、でも女義太夫のときの、自立し、モビリティをそなえた暮らしとはぜんぜん違います。家に入り、村にはりつけられてしまっている。
そんなリカは、夫婦でお金をためて、満州に渡ることを願っている。もちろん満州は日本が作った植民地なので、手放しに肯定できるものでもありませんが、リカにとっては真の願いです。満州にわたり、そこで現在の田舎暮らしとは大違いの経済な成功をおさめる。住む場所、暮らしとお金のモビリティの獲得を夢見ている。このモビリティ獲得の夢は、現在のリカのモビリティのなさと表裏一体です。
なんだかんだあって(雑)リカは夫の実家の家業だった温泉宿の女主人になる。ではリカはそれによりモビリティを獲得したか?どうもそうではない。別に自分が選んだわけでもない、一段下に見られる業種で働いているし、放庵には秘密を握られておどされているし、子供だって育てている。しかも一人は障害のある子供です。人付き合いがたいへん~みたいなことを言う台詞もある。なにしろ夫の故郷ですからね。昔馴染みの知り合いもいなければ、夫もいない、夫の両親ももういない。あの時代に、あの村で、そんな状態でやっていくのは大変です。
リカはあの村を出て行くことができない。あの人生そのものから出て行くことができない。かつて女義太夫として働いていたときにはもっていたはずの、そして夫と暮らしていたときには夢見ていたモビリティをまったく喪失し、村にからめとられている。
自身の人生におけるモビリティの欠如や獲得について、もっとアグレッシブに対処しようとするのがリカの夫の源治郎です。そもそも源治郎は、村で育っているときから自身のモビリティの欠如を意識してきた。鬼首村には仁礼家と由良家という明らかな名家がある。いっぽうで、源治郎の家業の温泉宿の亀の湯は、村の社会階層では下に置かれている。そしてこの古い村では、その社会階層を移動する術は基本的にはない。源治郎は社会階層のモビリティをもっていない。
でも源治郎は、土地を移動するモビリティはもっていた。なので源治郎はそのモビリティを発揮して村を出て、活弁士として成功します。しかしそれも長くは続かない。トーキー映画の登場で、活弁士という職そのものが時代遅れになる。リカと同じです。古い娯楽から新しい娯楽へと移るためのモビリティを、源治郎ももっていなかった。
次に源治郎が発揮するのは、別人としてふるまうという、アイデンティティのモビリティです。源治郎はこのモビリティを利用して、さらに別のモビリティも獲得しようとする。ひとつは自分の村の社会階層でのモビリティ。源治郎という人間であればずっと下層に置かれるところ、恩田という新しい人間であれば、名家とも他の村人とも対等に取り引きできる。ここで源治郎=恩田は社会階層を移動している。モビリティの発揮と利用です。もうひとつは時代と職業のモビリティ。活弁士という古い仕事の次に恩田が選んだのは、モール作りだった。横文字の商品!これは新しい文化です。源治郎という人間であればうまくいかないだろう新しい商売も、恩田という新しい人間であればうまくいく(少なくとも最初は)。アイデンティティのモビリティを利用することで、職業のモビリティを実現しようとしている。
でも源治郎は、サバイブしていくために自身のモビリティを活用していくだけではない。復讐もする。源治郎は、自身を低い社会階層に留めてきた村を憎んでいる。だから、自身の対極である名家の女性2人に手を出す。もう1人にも手を出していますが…。仁礼家と由良家という名家の娘が自分の子供を産むなら、村の社会階層は攪乱される。これが源治郎の復讐です。これも源治郎が恩田として振る舞うからこそ可能になった復讐なので、源治郎はかつての自身のモビリティの欠如の復讐を、新たに獲得したモビリティを利用して実現しようとしていますね。
そんな源治郎も、満州行きという夢は抱いている。自身の出自に刻まれたモビリティの欠如を一発逆転できるのは、やっぱり満州で成功することなのかもしれません。「こんな村、出て行ってやる!」の究極系ですね。
さて、そのようにモビリティをもたないリカ、モビリティをめぐってこじらせた源治郎とまったく異なるのが別所家です。春江は、リカがもたないモビリティをもっている。村での立場が悪くなったときに、村を出ていける。リカと源治郎にとってはたどりつかない夢に終わった満州にたどりついている。そのあとは東京で暮らしている。鬼首村の「世間」は鬼首村の外にも広がっていて、隣の村の人も村の事情をけっこう知っているし、なんなら近くの都会・神戸にも村の事情ネットワークは広がっている。ほんとうに村を出る、村に事情が伝わってしまう村の事情ネットワークの圏外に出たければ、おそらく満州や東京まで行く必要がある。春江の夫は音楽業界、それもリカがやっていた邦楽ではなく西洋音楽の影響を受けた音楽です。娘のゆかりは、その流行りの音楽でスターになっている。別所家は、リカ(と源治郎)の持っていない成功をもっている。それを可能にしたのはモビリティです。場所を移動できる、経済的に成功できる、新しい時代の娯楽を取り入れていける、そういうモビリティ。
リカと別所家のモビリティ格差を如実に示しているのが、乗り物です。別所家は鬼首村に、自家用車でやってくる。今回の公演では車の装置も出てくる。なくてもぜんぜんいいはずの車がわざわざ出てくるのは、ヘロQにお金がある、じゃなく、別所家のありようを体現しているからです。別所家の当時としてのとんでもない成功(社会階層のモビリティ)の象徴、新しい時代(時代のモビリティ)の象徴でもありますが、決められたレールの上を移動するのでもなく、決められた時間に移動するのでもなく、自分たちの好きなときに、好きなところに行ける、その自由と可能性の象徴としての自家用車(移動のモビリティ)。
対してリカに与えられているのは自転車です。そういえば、おりんという女性の来訪を信じさせるために峠に行ったとき、リカは徒歩だったんでしょうか?徒歩に比べれた自転車はマシに思えますが、リカとともに登場する自転車はそもそもリカのものではないし、壊れているし、壊れているのを直してくれた磯川には思いを寄せられている。でも磯川の思いを受け入れたってリカのモビリティが増えるわけではない。源治郎のときとは違うかたちで、また田舎にからめとられるだけです。別所家の自家用車が、別所家のモビリティの豊かさや多さを示しているのに対して、リカの自転車はリカのモビリティの少なさを示している。
思えば、問題の手毬唄にも、モビリティが関連している。あれは、女性が有力者の男性にもとに嫁いだものの実家に戻されたという話のバリエーションです。時代を考慮して、歌詞で描かれる女性たちに、婚姻と離縁についての発言権はあったか?ないですよね。あの手毬唄に出てくる女性たちには、自分の人生���動かしていけるモビリティはない。鬼首村はそういう村。リカがからめとられた村は。
こうやって見ていくと、リカがゆかり殺害を完遂しようとするのは、金田一の台詞で推測として述べられていたような、リカからゆかり、つまり芸事で成功しなかった人間から芸事で成功した人間への嫉妬というだけでなく、それを含めたモビリティ格差という側面が大きいようにも思います。
だからこそ、最後、リカは底なし沼にはまって死んでいく。たとえば声を失うみたいな、芸事にかかわる嫉妬によって悪をおこなった人間が、その罰として芸事が不可能になるという終わりではない。リカは村にからめとられ、底なし沼にはまって文字通り動けなくなり、モビリティ=移動可能性を完全に喪失して死ぬ。鬼の首が飛んできて、そしてモビリティをうしなって鬼首村に落ちたように、リカも鬼首村にやってきて、モビリティをうしなって底なし沼にはまって死ぬんです。
というわけで、『悪魔の手毬唄』では、モビリティ=移動可能性が大事だということがわかります。本題に戻って、そうした話で盆を使うということは、舞台に別の位相で「動く」という要素を持ち込むということです。別にモビリティとかぜんぜん関係ない話で盆をまわすのとはちがうんです。話において「移動すること」がこれだけ大事なら、舞台のうえでものを「動かすこと」にもそれ相応の意味が必要になる。はず。なのに『悪魔の手毬唄』ではぜんぜん活用されていなかった。い、意味がしんでる…!
たとえば、リカや源治郎が求めたモビリティが直線の移動可能性(ある土地からある土地へ、ある娯楽から次の新しい娯楽へ)や垂直の移動可能性(社会階層の下から上へ)であったときに、盆の動きは回転ですよね。それを使って、リカや源治郎のどこにも行けない感やあがこうともとらわれた感を出すことも、あるいは可能だったのかもしれません。
などを思うと、ヘロQは演技の巧拙や脚本の出来・不出来とは別に、演劇が下手だな~と思ったりもします。
でもヘロQはそこがおもしろい劇団でもあるんですよね…。だってふつうなら、盆をつかえる劇団・公演なら、盆をつかいこなせるだけの経験をつんだ人たちがやるじゃないですか…もちろん演劇の人たちが…。ヘロQはそのへんをお金でショートカットしている。だからこのちぐはぐな舞台装置、肩透かしで、意味だってすっかすかな盆まわしをしてしまう。このギャップもヘロQのおもしろさのひとつ。だと思います。「こ、このひとたち、やってる…!」って。
確か『マジンガーZ』のときも、大がかりなモノはあるがそれはそれとして見せかたがいまいちだなと思った記憶があるんですよね。あとちょっとの段取りのちがいでドヤっ!て見せられるのに、せっかくこんなに大きなモノを作ったのに、って。まあ今回はもっとコンセプチュアルなところからこけてますが…。モノがあることが優先されて、見せかたや、劇としての意味は置き去りにされる。それってちょっと特撮の感性っぽいのかな?と思います。より正確には特撮のおもちゃ。特撮のおもちゃで、何かが光ること、カチャッと動くこと、それらに意味はないじゃないですか。だってもうおもちゃなんだし。劇の美術みたいに作品や文脈とのかかわりのなかで意味が読み込まれ/求められるわけじゃない。光ることがかっこいい、動くことがかっこいい、そこにそれがあることがうれしい。それを自分の手でできることがうれしい、自分のものであることがうれしい。もしかしたらヘロQの感性ってそういうところにもあるのかも。
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アッサラーム智子経歴等 2024年11月更新
・画家、イラストレーター(美術団体「三彩会」所属)
・作業療法士(医学国家資格)
・「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」会員
********************
画歴、経歴
・1975年生まれ 横須賀出身 現在日野市
・神奈川県立産業技術短期大学校産業デザイン科
・デザイン事務所にてイラストレーターDTP等の仕事をしながらセツモードセミナーに通う。
衣笠洋画研究所(田所一紘先生や三井正登先生)にて学ぶ。
出産の為途中で断念したがMJイラストレーションズ(峯岸達)にも一時期通う
・アジア中心に10ヵ国程3度遊学(インドの聖者に会う、難民キャンプ、スラム街も世界遺産と共に体験)
・母子訓練制度を使い芸術療法実践の為3年間のリハビリ専門学校に入学。医療国家資格「作業療法士」免許取得。整形外科、精神科閉鎖病棟等で勤務実施
旅人の他、日野市郷土資料館市民団体「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」会員活動
密教系巫女、遺跡発掘(縄文土器)、歌舞伎町ゴールデン街 等の仕事イベント等も経験
2児の母シングルマザー。ステップファミリー経験。弁護士まで発展するイジメ。不登校。入院。色々ありながらも好奇心とアンテナと周りに恵まれ子育てもあと少しゆるく浮上しています。
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近年制作テーマ
親子子供母親の困難不寛容な社会、それらをユーモア、好奇心、ここでは無い何処かショートトリップな旅、前世、ファンタジーに変えて付き合って共に生き続ける力。マイペンライ。
見えないもの不思議な事や音楽と歴史研究。
智子という名前をつけてくれた祖父「智」への好奇心。横須賀海軍で長門等に乗っていた祖父の思い。祖父はヒットラーユーゲントも見たという。peace。横須賀で続くもの日本で続くもの。
時間旅行
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近年の活動
⚫️2021年
現代童画展初出品入選
⚫️2023年
・国際野外アートフェスティバル「トロールの森」佐藤ひろみとPINMY倶楽部参加
・第39回新構造神奈川展 クサカベ賞受賞
・ 新構造展本展(新国立美術館)にて会友推薦受賞
・ PEACECARD原画展(青山MAYA2)
・マジカルシンフォニー(銀座STAGE-one)
⚫️2024年
・バイダム湯島にて個展「time-travel タイムトラベル」
・美の祭典東京展(東京都立美術館)イラスト部門初出品
・ PEACECARD原画展(青山MAYA2)
・日野市立病院展示(ヒールアート事業) 後援:日野市
・「オカルトカレー会」ワークショップイベント開催 ニコニコ生放送にて公開
⚫️近年は毎年
・うちわ展(銀座奥野ビル、川崎ART SPACE SOW)
・三彩会展(横須賀市文化会館)
等年に数回グループ展に参加
*******************************
仕事
音楽、旅、医学のコラボレーションを得意としている。
・ 「CG ARTS GALLERY」に10P掲載出版(京都書院)
・萬有製薬株式会社ロゴマークコンペ一席採用(画家田所先生と共作)
・ Sau' Beach「Saturday's Sunbeam 」アルバムイラスト
* Sau' Beach(現在アートパフォーマンス集団「禁断の多数決」)
・CAPTAIN HAUS RECORDINGSに関わる。kuh [KY!] release tourにて
青山 月見ル君想フ でライブペインティング要員として出演。
・福祉医療系(イラストを使った議事録)グラフィックレコーディング
・中華街コンブチャ専門店「Flora Crown」の壁画を担当
・音楽アート集団「禁断の多数決 - Long Distance Love feat.エビータ、akorine」サブスクリプションジャケット 等
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
通巻第8070号
AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
*************************
わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠も��歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースである。
生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
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零の会
2023年8月3日
於:東上野区民館
坊城俊樹選 岡田順子選
坊城俊樹出句
坊城俊樹出句
アロハシャツだらけのアロハシャツ問屋 香水の香をアメ横に見失ふ 銅像の西郷どんも浴衣着て 乳母車素肌で押して母若し 群集の白を纏へる暑さかな 羅を纏ふ上野の男ぶり マネキンに恋の予感のビキニ着せ 羅とすれ違ふ時麝香の香 スカジャンが食ふアメ横の氷菓子 日焼跡とは眼裏の中にあり
坊城俊樹選 特選句
坊城俊樹選特選句
青い嘘と黄色い嘘とソーダ水 和子 仏具屋は北向日盛を知らず 季凛 アメ横てふアジア横丁灼ける路地 風頭 西郷どんの足の太さや雲の峰 六甲 唖蟬のすがるかに寄る仏壇屋 毬子 冷し珈琲魔女めく指で渡されて 小鳥 寺町に銭湯を待つあつぱつぱ はるか 昭和より黴はぐくめる喫茶店 光子
坊城俊樹選▲問題句
店員はアヴァンギャルドや夏灯 季凛 右みんみん左つくつく法師かな 荘吉
坊城俊樹選並選句
帝を背負ひて登る上野山 風頭 炎帝や狛犬すつくと仁王立ち 慶月 百日紅また百日紅寺の町 小鳥 蟬時雨抜ければ時の動き出す 和子 シャッターも地球も錆びてゆく晩夏 美紀 吉原のはづれ廃寺のほたる草 順子 打水に誘はれそろり伊豆栄へ 三郎 終戦日近づいてくる上野かな 光子 稲荷町ビル間に炎帝の足跡 小鳥 寺通り男もすなる黒日傘 順子 片蔭の乏しき街をさまよへり 佑天 人生を語る顔してアイス食ふ 和子 万緑に抗ひてゆく上野山 風頭 狛犬も炎暑阿吽と耐へてをる 美紀 アメ横や溽暑の匂ひ漲りて 風頭 日盛や適時打に沸く子規球場 六甲 蟬の穴あまた仏を囲むなり 光子 鐘の音の遠くに聞こゆ夏の寄席 佑天 炎帝が乾きたるくちびる舐むる 和子 蟬しぐれ靴音だけを許しをり 和子 涼風や首美しき狐たち きみよ 炎帝は叫び過ぐなり救急車 光子 北斎の墓に出逢ひし町炎暑 六甲 蟬しぐれ突然胸のラジオ鳴る 順子
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岡田順子出句
岡田順子出句
落し文拾はねばまた韻を巻く 蟬しぐれ突然胸のラジオ鳴る 喪の果てゝ下谷の湯屋へ黒日傘 仏具売る遥けきものに漆掻 吉原のはづれ廃寺のほたる草 寺通り男もすなる黒日傘 掛香の残り香ひとすぢの風に 八月の空や接吻しあふ雲 走馬灯遠き遊女の指触れて 初代山生亭祀るてふ蟬しぐれ
岡田順子選 特選句
岡田順子選特選句
仏具屋は北向日盛を知らず 季凛 スカジャンが食ふアメ横の氷菓子 俊樹 片陰の禿びて上野の仏具店 光子 掛香の名残りの車両上野へと 昌文 日盛や適時打に沸く子規球場 六甲 蟬しぐれ靴音だけを許しをり 和子 改札口帰省子らしき待ち合はせ 六甲
岡田順子選▲問題句
マネキンに恋の予感のビキニ着せ 俊樹
岡田順子選並選句
短夜や家出少女の赤き髪 光子 蟬時雨抜ければ時の動き出す 和子 寄席発祥の社へ男の日傘 毬子 蟬の穴杜に奈落のあるやなし はるか 佛具屋の玻璃戸に浄ら百日白 昌文 露草の何も混らぬあをを知る 久 アロハシャツだらけのアロハシャツ問屋 俊樹 寄席興りし町の軒先風知草 昌文 人とゐてひとりにつのる蟬時雨 美紀 油照画狂人の墓この辺り 荘吉 五雲堂に盆の香灰求めけり 毬子 蓮原に据ゑて一宇の弁天堂 千種 苺飴目を奪はれし買はされし 軽象 唖蟬のすがるかに寄る仏壇屋 毬子 風鈴の一斉に揺れ散る色ぞ 久 息をするやうに嘘つき夾竹桃 和子 甚平のソファを深く純喫茶 はるか 咲き満ちて道真直ぐなり百日紅 佑天 人旅に死すとや躯蟬も亦 軽象 仏壇の扉は盆風に開かれて 季凛 蟬の穴あまた仏を囲むなり 光子 幡なびく蓮の風を三昧に 千種 炎帝が乾きたるくちびる舐むる 和子 仏具屋の涼しき美しき女将かな 慶月 香水の違ふ左右の御徒町 三郎 昭和より黴はぐくめる喫茶店 光子 教会に八月の声八月の空 和子 巻き蓮葉ほどけてあらむ恋の文 きみよ 稲荷町西日避けたる仏壇屋 荘吉 トーストの鋭角夏の午後に潰れ 季凛 青い嘘と黄色い嘘とソーダ水 和子 古硝子歪めし冬の空はあを 久
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【鳥取】湯梨浜町「出雲山展望台」
【東野・岡村の旅猿】絶景展望台『出雲山展望台』#メッセンジャー黒田 鳥取の魅力探し旅 2024/10/30放送 〒689-0707 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内 #旅猿 #岡村隆史 #東野幸治 詳しく見る↓
出雲山展望台 雄大な自然と神話の世界が融合した、訪れる人を魅了するスポット。 標高はそれほど高くありませんが、東郷湖や大山、日本海を一望できる絶景を堪能できる。 特に春の、展望台の真ん中に夕日が沈む光景は、息をのむ美しさ。 また、展望台周辺には、出雲の大国主命の娘である下照姫命が故郷を偲び、この高台に歩みを進めては遠く出雲を望まれたという伝説が残っている。 住所 〒689-0707 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内 行く前に!見どころ&口コミをチェック 【出雲山展望台】アクセス・営業時間・料金情報 – じゃらんnet 出雲山展望台の観光情報 出雲山展望台周辺情報も充実しています。鳥取の観光情報ならじゃらんnet その昔、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の娘である下照姫命(したてるひめのみこと)は、出雲から船でこの地にお着きになり、倭文(しとり)神社… 行く前にcheck!
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Trip to Korea, September 2024 - Day 2: DMZ tour: Imjingak and Dorasan
I don't tend to do much touristy stuff (usually, my theme of the trip is to enjoy beer and food in the city), but this time, since it was my first time in Korea with a friend, I decided to take a DMZ tour.
あんまり観光っぽいことをしない性分(だいたいは街中でグルメとビールが旅のテーマ)なのですが、今回は初韓国の友人と一緒ということもあり、せっかくだから参加してみようかなと、DMZツアーを申し込み。
DMZとは DeMilitarized Zone(非武装地帯)の略。韓国の場合は、北緯38度線をベースに引かれた国境の南北2km以内のエリアを指し、その間は武器の持ち込みと民間人の立ち入りを禁止している「軍の管理エリア」のことです。
私が申し込んだのは、klookアプリの「DMZツアー」。団体の日本語ツアーで、早めの時間帯(朝8:00集合)のもの。¥5,598/1名。
🚃7:00 ホテルを出て、江南駅からぐるっと地下鉄で弘大入口駅へ。乗り換えがないから便利っちゃ便利。
(なお、ツアー予約サイトには「ホテルまでお迎え」と書いてあったけど、前日の集合メールには「弘大入口駅8:00集合」になっていて、「あれ?ホテルに迎えに来てくれるんじゃなかったの?」と思ったのですが、実際は結構な団体ツアーだったので、言ったところで無理だったろうなあ。)
🚌8:00 弘大入口駅で集合し、大型バスに乗車。
今回は日本語のツアーを予約したので、だいたい15名程度の他のお客さんと一緒にツアーを回ることに。週末はもっと予約が多いらしく、立ち入り人数制限のあるDMZエリアには、朝一のツアーでもかなり時間がかかることもあるそうです。
🚌9:00 バスに揺られて約1時間(結構寝た)、最初の目的地に到着。
◼️臨津閣平和公園
ちょっと大きめなパーキングエリアみたいな感じ。観光バスが10台以上止まってました。
(めちゃくちゃ天気が良くてよかった!)
イムジン河のほとりにあるこの公園は、DMZの手前で民間人が行ける最終エリア。ここから先は有刺鉄線の貼られたDMZになります。 ここでDMZへの立ち入りの申請を行います。
申請まで時間があるということで、ちょっとだけ自由時間。屋上の展望エリアへ。
目の前の田んぼの手前に引かれている有刺鉄線の境界。もともと、イムジン河周辺は農業が盛んで、特に有数の米の産地らしく、DMZになってからさらに人や車の立ち入り少なくなったせいか、水が綺麗で美味しいお米が取れるそうです。
DMZ内に行ける「平和ゴンドラ」の出発地点もここに。(いいお値段するので乗りませんでしたが)
▲有刺鉄線の向こう側で、草刈りをしている兵役の方。そういう仕事もあるのね、そりゃそうか。
立ち入り申請が完了し、指定の時間までは臨津閣平和ヌリ公園内をいろいろ説明をいただくことに。
まずは2000年1月に建てられた「平和の鐘」。兵器を溶かして作った鐘で、お正月と、あとはここを起点にしている「平和マラソン」のスタートの際に鐘が鳴らされるとのこと。
そして「望拝壇」。
故郷を思って祈る方達のために作られた祭壇のようなもの。韓国と北朝鮮の分断となった朝鮮戦争の勃発は1950年で、その時に故郷を離れた方々ももうお年を召しているので、ここに祈りに来る人もだいぶ少なくなったとのこと。
「自由の橋」。
そして「京義線の線路」と「破壊された蒸気機関車」。
▲日本統治(併合)時代に建設された鉄道路線。枕木とかはそのままらしい。
▲ソウル(旧名で「京城」)から新義州(北朝鮮)をつなぐ路線だった「京義線」。分断されてからは「ソウル〜都羅山駅(しかし、実質電車で行けるのは2駅手前の文山駅までみたい)」のみが韓国側に。 一時、北朝鮮側に作った「開城工業団地」までも開通していたようなのですが、関係悪化によりそれも終了。今は線路があるのみ。
▲何も走らない、有刺鉄線の向こう側の線路。
かつて、軍事物資を乗せて走っていた蒸気機関車。
北側に使われてしまうくらいなら破壊してしまおうということで、都羅山駅を超えた先の長湍駅あたり(今のDMZの中にあった駅。現在は廃駅になっている)あたりで無数の銃弾を受けて停止・放置されていたもの。
おびたたしい銃撃痕の数。
ずっと放置されていたけど、なんとか回収して綺麗にして、今はこの臨津閣に保管・展示されているそう。
▼実は日本のメーカー(川崎重工)製で、車体に「三菱」、車輪に「住友」の刻印もされています。
たくさんの人が見学に来ていました。
私自身は「朝鮮戦争」は歴史の教科書の中のことなのですが、1900年代は近現代なんだよね。そしてその分断がいまも続いている、のは、なんとも難しい問題だなと思いました。
他にも「平和を願うリボン」や、「2体の少女像」も。少女の像は、南北統一ができたら、1体は北側に渡そうということで2体ここにあるそうです。この少女像、日本と韓国の関係が悪くなると出てくるというもの。ちょっと複雑ですね。
キャンプサイトや遊園地があり、「臨津閣観光地」と表現されていることもあり、できるだけ多くの人がくる場所にしたい、ということでした。生生しい歴史遺物と、目の前のまだ戦争状態という現実で、なんだか複雑な気持ちになるエリアでした。
AM10:30 再びバスに乗って、いよいよDMZに入ります。
検問を通ってDMZ内へ。(検問では、乗車している全員のパスポートと顔のチェックがあるよ)
▲1998年に現代グループの会長の私財投資によって作られた「統一大橋」。会長は北側の出身だそう。 会長は南側に来る時に、家族が売った牛1頭のお金を盗んだことがあるらしく、この橋の開通時には逆に500頭の牛を連れて渡ってきたという逸話。
🚌10:40 DMZに入って、まず最初の目的地へ。
◾️都羅展望台
ここから国境や板門店、ひいては北朝鮮側を見ることができます。(このあたりの旅程は、軍側から「先に〇〇に行ってください」というような指示があるらしい。管理人数の調整してるのかな)
駐車場になっていたのは「旧展望台」の前のエリア。
▲老朽化につき、新しく展望台が作られたよう。こっちは2018年10月で終了。
駐車エリアから新展望台まではちょっとした坂道。「この坂では写真撮影はしないでくださいね」という指示あり。(それでも撮ってる海外観光客いたけど...)
▲展望台入口側からの韓国側(坡州市 ぱじゅし)の風景。
▲ちょっと右側にあるのは倉庫地区。もともと、開城工業地帯で生産されたものを保管しておく物流倉庫だったそう。今は全部空っぽ。
半年くらい前から北朝鮮側が汚物を風船にくくりつけて投げてくる「汚物爆弾」のせいもあり、屋上の展望台は封鎖中。(ていうか、このエリア全体がマジでめちゃくちゃ畜産臭くて、この匂いが汚物爆丸なのか...!?!?という懸念すらあった。違ったけど。)
なので、建物横のフェンスからと、建物内の展望エリアからのみ見ることができました。撮影は概ねOKになっています。
▲こちらが新展望台。
見える...あれが北朝鮮か...
草も木も空も、反対側と何も変わらない。でも向こうは違う国で、さらに誰も行けない閉鎖された国。なんだか現実味がないようで、でもこれが現実。
北朝鮮の旗が立っているエリア、時間によっては田畑で作業をしている人も見えるらしい。そりゃそうか、人が住んでいる”国”だもんね。でも、韓国から見えるエリアは結構ハリボテで、大きな建物は立っているけど、実は全然人が住んでいないらしい。
展望台の中にあったエリアのジオラマ。本当に国境近く、まさにDMZにいます。
何も変わらない青空。
北朝鮮に向かって立っているスピーカーからは、K-POPが流れている。こういう地道な活動が、向こうに住んでいる若者に刺さるら、とのこと。でも、それで北朝鮮から出て行きたくなった人がいたとしてても、難しいのが現実なのよね。
展望台の入り口にいた猫。君はどこから来たのかな。猫には国境は関係ないのかもしれない。
🚌11:45 再びバスに乗って、次は第3トンネルへ。
(写真が多くて上限に来てしまったので、ここからは次の投稿へ)
【2024年9月 ソウルの旅】 ・Day 1 └ サムボプデチゲ └ 60年伝統新村黄牛ホルモンカンナム駅直営店 └ アートモンスターカンナム店 ・Day 2 └ DMZツアー └ 臨津閣平和ヌリ公園・都羅展望台 👈THIS └ 第3トンネル・統一村 └ Seoul Gypsy └ プチョンユッケ ・Day 3 └ 神仙ソルロンタン └ Seoul Brewery └ タルメクスーパー └ Chillhops Itaewon Project └ トヤジンガ └ Craftbros Taproom └ オダリチプカンジャンケジャン
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【 終了しました 】 PARK GALLERY PRESENTS 『海と山と』 2024.08. 14 WED - 08.25 SUN
★ 東京・末広町の PARK GALLERY では、2024年8月14日(水)より「海」と「山」をテーマにしたエキシビジョン『海と山』展を開催します。 都会で暮らしながらも、私たちはいつでも、海や山の豊かな恵みの恩恵を受け、時に原風景としての「海」や「山」の景色を追い求めています。 それは例えば故郷だったり、いつか誰かと旅した場所だったり、思い入れや抱えている物語はそれぞれです。 都会の、厳しい夏の暑さを忘れさせるような、そんな魅力のある作家陣が集いました。ぜひ涼を求めて、お越しください。 《 ARTIST 》 ・大石さちよ ・Okamoto Sumire ・オモダカマユコ ・加藤優里 ・木下ようすけ ・瀨頭陽 ・髙田和寛 ・三三あさ子 ・YOKO OGATA ・wako ・渡邉ありさ ・ワタミユ
《 GOODS ARTIST 》
・青山功 ・Chiaki Suzuki —– PARK GALLERY presents 『海と山と』展 2024年8月14日(水)〜 8月25日(日) 場所:PARK GALLERY(東京・末広町 / 湯島) 東京都千代田区外神田3-5-20
営業時間 13:00-20:00(水〜土) 12:00-19:00(日) 入場無料 | 月火定休
最寄駅:東京メトロ 銀座線・末広町駅(徒歩約5分)千代田線・湯島駅(徒歩約7分) JR 秋葉原駅 / 電気街口(徒歩約10分) JR 御茶ノ水駅 / 聖橋口(徒歩約12分)
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#木下ようすけ#三三あさ子#渡邉ありさ#ワタミユ#パークギャラリー#park gallery#exhibition#news#parkgallery#art#illustrator#加藤優里#大石さちよ#瀨頭陽
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安藤忠雄の旅
生の空間の迫力に、建築の持つ力をまざまざと知らされた。
旅の目的のひとつは、日本の近代建築をけん引していた丹下健三の作品を見ることだったが、その感動は期待以上だった。
一方、各地に点在する伝統建築、とりわけ白川郷、飛騨高山といった土着の民家の空間にも心ひかれた。
特に、月明かりの下、民家の闇に吸い込まれるように、そそり立つ大黒柱には、現代の建築では味わえない感動を覚えた。
人々の生活が空間に結実し、それが自然と一体となってつくりだす風景。
本当に美しかった。
日本の原風景ともいえる、このような集落の風景は、やがて失われてしまう。
そう感じた通り、50年近く経た今、工業製品を多用し、表面的にはよごれにくい現代建築が、田園風景にまで侵食している。
自ら体験し、学び、そして、得た感動は、本や伝聞では決して伝わらない。
私は、旅の経験から多くを学んだ。
とにかく自分なりの見方をよく考え、追求し続けた。
建築物の表層を、ただ見るのではなく、つくり手の人間性や、その人生、建築がつくられた時代にも思いをはせながら、ひたすら歩いて建築を見る。
そして思考をめぐらす。
その経験が貴重な財産となる。
(http://loopdesign.web.fc2.com/062n-ando1.html)
by Tadao Ando
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4 9 詩集 返答詩集 日記詩集 おまけトーク(人生に働く力仮説)
youtube
9
鼓動を繰り返すだけで 失われていく時をすくい取るかのように 生と死の鬩ぎ合いにたゆたう海のように 彼は生きた
出会いを無くさないように 胸に抱いた想いを守るために
この世界に ただ残すために
彼は祈りながら 汗を滴らせ 血を吐きながらも 手を動かし続けた
命を燃やすように 今しか見えない暗闇の中で 灯火を松明として 歩み続け
彼が「凛」と題した作品は 紛れもない彼女の後ろ姿だった
「春夏秋冬」
ⅰ
桜の花びらが野山に添える 空に奔る青と白 大地を彩る緑と赤
赤みは人肌のような 散りゆく様は故に儚い
ⅱ
花は赤く舞い踊り 黄色に揺れ囁き 金色に光を散りばめ歌い 緑に溶けるほどの青さで泳ぐ 月と語らうように白銀に輝き
絨毯のように憩いの空気を広げ 足を止めた場所が休息の地
畦道沿いの子どもが籠と網を持って 自然の豊かな生命に触れ 果てしない世界を駆ける
旅は長い だから急ぐことはないと語りかける
時は緩やかに 果てしなく巡り 時がくれば息吹となって移ろいゆく
ⅲ
春に目覚め 夏に踊り そして秋に実る 時は緩やかだが決して待つことはない
春に青く染め上げた棚田が 夏に緑が萌ゆる稲穂が 秋に黄金に輝き時を告げる たゆまぬ歩みが実を結んだ命の営み
訪れる時のために 歩みとは続いていくもの
命とはそういうもの 運命とはそういうもの
ⅳ
白銀の世界は全てを飲み込み静寂を奏でる 山の戴く白い冠が地上に舞い降りたかのよう 実を結んだ息吹は眠りの時を迎える 目覚め 踊り 謳歌した命もまた 眠りの時へと誘われる
生きるには剥き出しの自然は厳しすぎる
野は深く 原は広く 白の世界は 深夜のように果てしない 取り残された旅の地もまた眠り続けている
人の存在のない場所で 取り残された無人の駅 線路はどこまでも続く
過去へと想い馳せる 思えば遠くまで来たものだ
故郷はもう手を伸ばしても届かないほど彼方に 決して忘れることがないように 近くに佇んでいる
「そして訪れる春」
空に一筋の風紋 水に一輪の水紋 水田に一枚の花片が落ちた
一際強い風が吹く 稲穂が一斉に揺れ 水面に小波が揺れ 花片は高く舞い上がり 空へと消える
雲へと吸い込まれ 広がる大地は整然と佇み 幾何学的な美しさで人の営みの足跡を現している
規則正しく整えられ 並び 果てしなく続く 灰色の直線と緑の縞模様
花片を見下ろすのは氷を抱く山 抱き護るかのように 野山に囲まれる街
合間を川が奔る 錦雲の影すら水面に触れられそうな 白いほどの青さで
緑を湛え 風は安らかに 川は清らかに
旅の果てに立ちはだかるような山は 月のように白く 空のように青く 瑠璃の宝石を秘めたかのように美しく 人智を超え 恐ろしいほどに 荘厳に聳える
「とあるお店にて」
ⅳ・願いが生まれ出た彼方に
今まで歩み 出会ってきた 煌めきと痛み 涙と希望 夢と現実の壁
この世界に生きることを通して この社会に生きることを通して 命との触れ合いを通して 働くことを通して 抱えた願いを 抱く夢を 誰かの心に灯すことはできるかもしれない
人は自分を認めて欲しいと思う 自分の想いが届いて欲しいと願わずにはいられない
願いが生まれ出た彼方に 人が人として 自分らしく生きようとする全ての営みが交差する時 声を聴いている人がいるのだろう
確かに届いたと信じられる出会いがあるはず 垣間見える人の輝き 情熱 温もり 生きる姿勢に触れて
何かに心満たされる瞬間に支えられ 人は生かされている
広漠の世界で果てしない孤独が触れあう瞬間に 大切にしたいものが重なる場所で
出会うべくして出会う必然 生きていることを感じ取る瞬間 生きていくことを信じられる奇跡
「闇の中でも星の光で花は咲く」
手を伸ばすほどに 希望や光や夢みたいな煌めきが遠ざかって闇に消えていく
どこまでも孤独の世界が広がって 深淵の闇を生きている
想いを放たなければ苦しくて仕方がない 言葉にならない想いを叫ぶように 空へ
海の中を藻掻くように光へと手を伸ばす 生きる���びを光のように希求して
届かなくても 叶わなくても 生きるために
届かなくても 触れられなくても 願い続けている
希望という名の光 失ってしまえば永遠に消えてしまう絶望と隣り合わせの断崖
決して枯らしてはいけない花は 心に根を下ろして血を吸い続けて美しく咲く
灯台の光を辿って闇の荒波を超えていくように 吹雪吹きつける山で彼方の星を見つめて歩むように
歩き続けなければ辿り着けない 生きていける場所を探している
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