#マゾヒズム
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なぜ人はショクダイオオコンニャクの花のにおいに嗅ぎたいと思うのだろうか。反応はみな似たようなものだ。まずは期待に満ちた表情で近づき、ためらいがちにひと嗅ぎして、嫌な顔をする。にもかかわらず人々はその場にいられたことを幸せに思っているように見える。 このように不快な体験を求める性向には「良性のマゾヒズム」という名前がつけられている。 心理学者のポール・ロジン氏は、2013年に発表した論文「喜んで悲しむことと良性のマゾヒズムのその他の例」の中でこの効果について述べている。ロジン氏の研究チームは、どう考えても楽しくないはずなのに楽しまれている行動を29種類見つけた。ホラー映画を見る、トウガラシなど口の中が焼けつくような辛いものを食べる、激痛マッサージを受けるなどが一般的な行動だが、ニキビを潰す、人体標本を見るなど不快度が高い行動もある。 こうした体験で重要なのは、「安全な脅威」であることだ。 「一番いい例はジェットコースターでしょう」と、ロジン氏は言う。「あなたはジェットコースターが安全であることを理解しています。でも体は恐怖を感じる。そこに快感が生まれるのです」。ショクダイオオコンニャクのにおいを嗅ぐことでも同じようなスリルを味わえると氏は言う。
人はなぜクサいにおいを嗅ぎたがる? 「死体花」の開花が話題に | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
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170 :それでも動く名無し:2023/11/10(金) 07:20:53.66 ID:Ea1sA5Tg0.net 「子供を性的に消費したい」というロリコン的思想 「生意気な女に罵られたい」というマゾヒズム的思想 「そんな女を“こいつが生意気なんだから仕方ない”と正当化しながら懲罰したい」というサディズム的な思想 これら全て包括して4文字にまとめたのが「メスガキ」 これもうwikipediaやろ 10 :それでも動く名無し:2023/11/10(金) 03:42:26.66 ID:KsAnM9S90.net メスガキに対する造詣の深さがよく分かる文章や きっとごく一部のオタク界隈の住人なのだろう
【悲報】フェミ女さん、メスガキというワードにブチギレお気持ち表明wwwwww : もみあげチャ~シュ~
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定期的に長文を書きたいなと思っては、Noteやらなんやらを開くが、読み手の多い媒体に気が引けていつのまにか辞めてしまう。tumblrの規模感はちょうどいいので、名前もなにも変えて再開しようと思う。あまりにも文章を書くことから離れていたので、だいぶ読みづらいが、自分のためのものなのでよしとする。
自分には幼いときから躁鬱の傾向があって、今思えば国籍を持たない中卒の親がいたわけだから、むべもないことだった。最近は数字がよくわからなかったり、ADHD的な行動をとったりもしていて、やはり親の年齢と教育・生活水準は重要だったのだと感じている。
そんなわけだから、すこし気を抜けば簡単に希死念慮に打ち負けてしまい、なにもかも辞めてしまいたくなる。「なにもかも」というのは、仕事、生活、友人関係、恋人関係、といったもののことで、それらを「辞めてしま」うというのは、端的に死ぬということである。「死にたい」と言わないのは、恋人にそういう言葉を使うなと言われているからである。標準的な知能をもたない自分は、ルールや規範がないとなにをどうすればよいのかわからなくなるので、その正しさや妥当さを問わず、「こうしろ」「こうするな」と言われたことには従おうとしている。そうした自分の性質をマゾヒズムと理解して生きてこれたので、不自由はなかった。感謝だ。
なにがいやなのか、どうしたいのか、と聞かれることが苦手だ。ルールや規範に従わないとなにもできないから。なにかがいやなわけではな��、自分の知能の低さと躁鬱の性質がそうさせているだけだから。私が答えをもたないことにまた苛立たれて、悲しませてしまう。本当は(私の自我のようなものは)それを不快に思っていないはずなのだが、ちょっとした異性とのやりとりや言われた言葉が、なぜか悲劇的に感じられてしまう。もう終わりだと思う。この人はたくさんの他の選択肢をもっていて、私はそのうちの一人でしかないのだと感じる。なにを言われても、自分が愛されていることが理解できない。理屈で説明できるもの以外を信じられない。どんなに楽しい時間を過ごしても、死にたいという気持ちから離れることができない。
昔はたくさん文章を書いていたし、小説も短歌もつくっていたから、そこそこ言葉を使うことに自信があったのだが、あまりに長く離れていたから気持ちよく文章を書けない。何度も書いて、消して、下手だなと思って、もうどうすればいいかわからなくなって、今ここにこの言葉がある。
パニックや癇癪を起こした私に、恋人が「マッチポンプみたいだ」と言った。私もそう思う。ずっとそう思っていた。苦しかった。意味がないと思った。これを続けることで彼の人生がよくなると思えなかった、今も思っていない。改善や向上を目指そうという話なのだが、20を超えたあたりからやっと私は、一人でうまく静かに生きる方法を会得してきた。予定の入れ方、時間のつくり方、睡眠や食事、他人との距離感。一人暮らしをはじめてやっと、パニックにならない一人の生活を手に入れた。25(先日26になりましたが25とさせてください)になって、今から二人でうまく生きていけるように、また一から生活をつくってください、と言われても、なにもわからない。
これがただの恋人ならここまで悩まないのだが、半年後に結婚を控えているとなると話が変わってくる。今からたくさんの人に、やっぱり辞めますというわけにはいかない。たいていのことは自分一人が辞めたところで誰も困らないのだが、結婚となるとそうはいかない。その覚悟がなかったわけではないのだが、私の希死念慮が想像よりしつこかった。はやく死にたい、死んで彼の人生をより良くしたい。そう思ってとっさに、出せるだけの貯金を彼の口座に振り込んだ。本当に私は小さい人間だなと思った。
検索よけのためにアーティスト名を伏せるが、「ハルジオン」という曲を鬼リピしている。これはADHD特有の、同じものだけを繰り返したり好んだりする傾向の一つである。定期的にやってきては、何か一つを馬鹿のように繰り返してしまう(その結果適正体重から7kg太った)。さておきこの曲が今の私に刺さっている理由はきっと、彼に言われた「マッチポンプ」という言葉を引きずっているからだろうと思う。��にもないところに水をかけつづけてやがて芽が出ること、でもその行動の目的は芽を待つことではなくて虹を見ること、そういう苦しさに覚えがあった。いつも誰かに助けてほしいと思っている。でも助けてくれる人の好意を信じることはできない。一人で「虹をつくってる」私に、肥料や日当たりのよいところを与えてくれる人がいても、どうしたらいいのかわからない。助けてほしいのだが、虹をつくることのなにを助けてもらいたいのかわからない。すくなくとも、花の芽を見たいわけではない。その「マッチポンプ」のような徒労感から逃げたいと思っているのだが、人生をいまさら辞めることができないから、虹でもつくるしかない。そういう私が誰かに助けてもらうとか、誰かと人生をやるとか、はじめから間違っていたのかもしれない。
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Ruoska MVと邦訳修正
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Ruoskaのミュージックビデオが配信されています。
事前情報として、"鞭"というのがヘイトの比喩だということは理解していましたが… MV中には、実際にカーリヤとエリカに向けてネット上に書き込まれたヘイトコメントの字幕で画面が埋め尽くされるシーンがあり、なかなか胸にくるものがあります。 このMVの個人的解釈や感想、ヘイトについてはまた別途記事を書きたいと思いますが…悲壮さ、タフネス、そしてマゾヒズム(笑)…色々示唆に富んだ良いMVでした。
UMKでのパフォーマンスやMVを見てちょこちょこ修正した邦訳を下記に再度載せておきます。 誤訳などいろいろあると思うので、もしお気づきの方がいらしたら、どんどんコメントでご指摘ください! ---
Ruoska(鞭)
[エリカ] なんで私の人生を壊そうとするの? 私はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび その痛みが私を奮い立たせる (カーリヤ…)
[カーリヤ] ガソリンスタンドに座り込む俺は滅茶苦茶な気分 朝イチのコーヒーを飲む気にもなれず パンを食べる気にもなれない 俺たちは全力で駆け上がってきた なぁベイビー、準備はできてんだ、かかってこいよ 森の小道は岩だらけで自転車はボロボロ 痛む膝で俺は何キロも何キロもペダルを漕いだ 表に見えてる傷なんてこの夜を邪魔したりはしないさ 逆境っていうジャックナイフがとっくに俺のことを削ってんだからな (行くぜ、ヴィクマン)
[エリカ] なんで私の人生を壊そうとするの? 私はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび その痛みが私を奮い立たせる お情けで抱きしめられたって 生きてるって感じはしない 鞭打たれなきゃ 鞭打たれるたび 痛みが私を奮い立たせるの
[カーリヤ] 家の中はスキーが要るレベルの大雪 カリ・ペッカレベルの不安が積もる 住宅管理会社が湿度チェック中 階段が水浸しになったから 俺はアガり続けたい (アガっていきたいんだ) 俺はマゾで、俺の人生はスリルに満ちてる ジャスティン・ビーバーについてまわる"Baby"みたいに 挑戦は俺につきまとう でもビターなRiesenを味わっちまったら甘いKinderじゃ物足りないだろ? (前はそれ嫌いって言ってなかったっけ?)
[エリカ] なんで私の人生を壊そうとするの? 私はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび その痛みが私を奮い立たせる お情けで抱きしめられたって 生きてるって感じはしない 鞭打たれなきゃ 鞭打たれるたび 痛みが私を奮い立たせるの
(カーリヤ…なんて悪い子なの、お仕置きしなきゃ)
[カーリヤ] なんで俺の人生を壊そうとするの? 俺はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび
[エリカ] その痛みが私を奮い立たせる
[エリカ・カーリヤ] なんで私の人生を壊そうとするの? 私はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび その痛みが私を奮い立たせる お情けで抱きしめられたって 生きてるって感じはしない 鞭打たれなきゃ 鞭打たれるたび 痛みが私を奮い立たせるの
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2023年6月24日 アルミホイル、神さまは牢獄の中にいる
ネットカフェ、天井にはアルミホイルみたいな質感の何かで包まれた太いパイプが通っていて、すぐ近くに一本、人ひとりが入れそうなくらいに太いパイプがある。それら二本のパイプの後ろには細くて黒いコードが何十本も通っていて、それらが何を伝達していて、どこに繋がっているのかは分からない。もちろん、コードで伝えられているものは電気のはずで、でもその電気がどこからやってきてどこへ向かっているのかは分からない。
***
世界について知れば知るほどに世界に対して失望していくし、文学について知れば知るほどに文学に失望するし、物事はどれも知れば知るほどに何かが失われていく。そのとき失われているものといえばそれは幻想で、人は幻想によってのみ駆動されている。
とはいえ、「お前は世界について、文学について、何を知っているんだ」と問われたのなら、もちろん何も知らない。いや、ほんの少しだけ知っていて、それは1%にも満たないようなことだけど、ほんの少しだけ知ってしまうことでも失われていく。ほんとうは何も知りたくないし、知ることの何がいいのだろう、と問いかけてみる。分かったからといって何がよくなるわけでもない。知らないよりも知っている方がいい、というのは常識的だけど、そんなわけがなくて、私たちは何も知らない方がよいのに、知識という暴力性を求める。
だから、というわけではないけれど、全知全能の神になんてものになったら自分はきっと絶望して、発狂してしまう。だって、全知全能であるということは、何も知れないし何もできないということと完全に同じなのだから。
すべてを知っていてすべてのことができる、というのは、すべてが既知ですべてが完全に固定されている世界で生きるということで、そのときの絶望を考えるだけで身がすくんでしまう。そこでは何も新しいことは起きないし、すべてが可能であるということによって、すべてが不可能になる。不可能という空白地帯(外部)が存在することによって可能という領域が初めて現れるのだから、不可能の存在しない世界に��いかなる可能もなくて、のっぺりとした平らな世界だけが無限に続くことになる。
神さまは、そんな中でどうして絶望して発狂せずに絶えていられるのだろうけれど、むしろだからこそ、神さまは人間ではない存在でなけれならない。人間のような心や精神を持たない存在でなくてはいけない。
シオランは『生誕の厄災』の中で、「神こそはもっとも追いやられている存在であり、牢獄の中にいる」というようなことを書いていたはずだけど、どうしてもクレジットカードの分割払いの引き落としに耐えられないときに『生誕の厄災』を売ってしまったので、確認することができない。でも、そういう一文が確かにあったと思う。
そして、今はその意味が(自分なりにだけど)とてもよく分かる。全知全能である、ということはひとつの絶望であり、神は全知全能という逃れえない牢獄の中に閉じ込められている。
***
一昨日くらいにメンタルクリニックに行って、コンサータの処方のために、心電図検査と採血をした。あとは、流通管理システム患者登録の紙を渡された。採血のとき、思ったよりも時間が長いので、このまま看護師さんに殺されてしまうんじゃないかと思った。意識が少しふらふらした。近くにある別の診察室から、「私は錠剤をのみ込めないので、錠剤タイプの薬は絶対ムリです。それ以外にしてください」と語る患者の声が聞こえていた。支払いのとき、検査代も込みで6000円くらいしたし、それに加えて薬の値段も一か月分で2000円くらいはしたので、お金がないとメンタルクリニックには来れないな、と思った。生活がどん底で精神がどん底のときに、これだけのお金(テーマパークにだって行けてしまう)を払うのは簡単ではないはずだから。
久しぶりにアトモキセチンの80mgを飲んでいるけれど、対して効果は感じていなくて、それでいて口の中が常に乾くし、食欲がなくなっている。何かを食べるにしても、もやのかかったような食欲しかない。純粋な、食欲そのものは消滅して、ときおりぼんやりとした食欲が顔を覗くだけになる。元々の無気力さも相まって、決してお腹が減っていないわけではないけれど、食べることがあまりにも面倒くさくて、どうしようと思う。頭痛がないのは幸いだった。
自分はコンサータに対してある種の期待をしていて、それは何かしらの変化をもたらしてくれるかもしれない、という期待。思えば、幼少期の頃はそれと同じような期待を、お風呂場の中で、自分の思考をすべて読んでいる(かもしれない)曖昧な神さまに懸けていた。初めから神さまは大脳皮質の奥にしかいなかったのかな。
***
知る、ということに関連する話として、古今東西の文学を読み続け、それこそ文学賞の審査をするようになったような人たちは、文学に対して退屈しないのかな、と思うことがある。つまり、彼ら彼女らはもう文学というものの���ターンを大方把握していて、だからこそ応募された作品を評価できる。それぞれのタイプの作品のパターンをすべて知っているから、「この作品はこのパターンに乗った上で、この辺りの展開や要素を変えているんだね」と判断できる。でも、全体像とすべてのパターンを把握してしまえたとき、自分はそこに幻想を持てるのだろうか。何かを期待して、何かを待ち望めるのかな。
もちろん、パターンを把握した上でも、常に差異はあるし、新しいパターンの出現だってありうる、のだけど、やっぱりその状態で楽しんで作品を読める自信がない。この意味で、これはさっきの神と全知全能の話と近づくところがある。人間は(幸運にも?)全知全能にはなれないとはいえ、物事を俯瞰して見られるようになってしまった時点で終わってしまう何かがある。メタとベタの切り替えのためのスイッチが壊れてしまったのなら、すべてはのっぺりとした平らな世界になってしまう。あるいは、前回か前々回の日記の内容とも繫げるのなら、それは離人症の問題とも隣接する。
この世界が原子配列のパターンにすぎなくても、それでも世界が無限に多様であるように、作品が要素の集合にすぎなくても、それでも作品は無限に多様でありうるのだけど、どこかで自分はそれを信じ切れていない。
***
二階堂奥歯の『八本脚の蝶』を読み返していた。読み返すのは何度目かで、今回思ったのは、二階堂奥歯にはある種の絶対的な孤独(孤独、という言葉はたぶん正しくないのだけど)があって、しかし同時に、それは二階堂奥歯の周りに人がいないということではなく、むしろ彼女の周りには、それなりに彼女のことを思っているであろう人間がいる。でも、どうにもならないのだ。当たり前のこととして。
あとは、引用の多さ。その引用は根本的に「根拠を欠いた(=無根拠な)」世界にあって、それでも自分という存在を世界につなぎとめるための楔のようにも見える。
二階堂奥歯が引用しているものの中では、『聖マルガリタ・マリア自叙伝』を読みたくなる。「私は、苦しみなしでは一瞬も生きることができませんでした。私が苦しめば苦しむほど、私は、もっとこの愛の聖性に満足しました」(『八本脚の蝶』からの孫引きでp262)。
奥歯はこの引用箇所こそが自分にとってのマゾヒズムだと記していて、このとき面白いのは、当然だけど聖マルガリタ・マリアが生まれたのは1647年であり、マゾッホが生まれた1836年よりも200年近く早い。だから当然「マゾヒズム」なんていう概念も存在しない時代のことで、しかしそこには間違いなく、ある種のマゾヒズムがある。
ただし、彼女たちは「性的興奮」を得ているわけではないだろうし、言葉遊びになってしまうけれど、それは「聖的」なものでしかありえない。でも、鞭で打たれる人間が快楽を感じたとして、それが「性的」なものであるか「聖的」なものであるかを区別することなんてできないわけで、社会の編成の問題になる。
あと、直感としては、絶対者(神)の失墜とサディズム/マゾヒズムの概念の誕生は関係していると思う(だってそれらは絶対者のパロディだから)けれど、そもそも、クラフト=エビング(1840-1902)がサドおよびマゾッホという二人の作家から「サディズム」と「マゾヒズム」という症候を分離した背景には精神医学の台頭もあるわけだから、そこでは複雑な線が絡み合っている。
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恐山、Youtubeの番組で「アイドルに必要なことは?」と聞かれて、「短所を伸ばすこと」と答えていて、あまりにも的確だと思った。最も短い文字数で最も本質的なことを言っているし、正当な形で本質の槍が振るわれている。
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スマートフォンのGoogle choromeのタブの数がもう表示されないくらいに増えていて、おそらく1000個以上はある。そして、それは自分の脳も同じで、1000個くらいのタブがつねに開かれたままになっているから、物事を一つも進めることができない。本来の自分は常に過眠ぎみで、それは明かな実行機能の悪さとも関連している。
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メルヴィルの『バートルビー(Bartleby)』を読んだ。ウォール街の中心で、代書人として雇われたバートルビーは、真面目に仕事をこなす一方で、「そうしない方が好ましいのですが」(I would prefer not to)と言って機械的にすべての頼みを拒み続ける。思ったのは「I would prefer not to」の訳が訳者によってそれぞれ違うということで、杉浦銀策の訳だと「その気になれないのですが」だった。
この短編におけるバートルビーは解けない問いのような存在で、語り手は理由も語らず、不条理にすべてを拒むバートルビーを様々に理解しようとするものの、バートルビーはどのような理解もすり抜けていってしまう。
そういえば、『批評と臨床』でドゥルーズはバートルビーは〈意思がまったくなく、虚無を求める意志というよりも、意思の虚無なのである(憂鬱症的「否定主義」。彼らは、石と化し、意思を否定し、……〉と書いていた。バートルビーは意思がない人間なのではなくて、むしろ意思を否定する意思。
〈緊張症と食欲不振症の徴候を示してはいても、バートルビーは病人ではなく、病めるアメリカの医者、呪医であり、新たなるキリスト、あるいはわれわれすべてにとっての兄弟なのである〉(G・ドゥルーズ『批評と臨床』、p186)
***
これで最後。市川 沙央『ハンチバック』のラスト、身体障害者の女性が不幸な風俗嬢としての生を仮構して語ることと、不幸な風俗嬢が身体障害者の女性の生を仮構して語ることが、裏返しうる形で提示されることについて。村田紗���香以外の選考委員は否定的だった記憶があるけれど、むしろあのラストは重要だったのではないかと思う(でも、どうして?)
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「SMプレイ」に関するワクワク性格診断と深層心理の秘密!楽しさと面白さが詰まった診断結果とは?
「あなたの深層心理を探る旅にようこそ!今日はちょっと刺激的なテーマでお届けします。SMプレイについて知識を深めながら、自分の性格を見つめ直す時間を楽しみましょう!だって、心の底に隠れている真実を知ることで、日常生活がもっとカラフルに、もっと楽しくなるかもしれませんよ。さあ、ワクワクする気持ちを胸に、ちょっとお茶でも飲みながらリラックスしてお読みください!」 まず、SMプレイにまつわる雑学をひとつ。日本で「SM」という言葉が広まったのは、実は1970年代のこと。もともとは「サディズム」と「マゾヒズム」の頭文字を取ったもので、意外にも文学や心理学の用語に由来しています。古代ローマの時代には、ペナルティとしての鞭打ちが行われていたこともあり、歴史的には「痛みを伴う喜び」として受け入れられてきたんです。現代においては、合意が大事な要素で、お互いの信頼関係があってこそ成り立つ遊び。だからこそ、SM…
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西成彦 Nishi Masahiko 著作の一部を紹介
【1】西成彦 『外地巡礼――「越境的」日本語文学論』 みすず書房 2018、第70回読売文学賞〈随筆・紀行賞〉受賞
「旧植民地・占領地のみならず、北海道・沖縄から、南北アメリカの移住地まで―― 〈日本語使用者が非日本語との不断の接触・隣接関係を生きるなかから成立した文学〉…を、過去に封じこめることなく、今日的な問題としてあらためて引き受けること」
【2】西成彦 『ターミナルライフ――終末期の風景』、作品社 2011
「〈害虫〉として家族に疎んじられながら死に行くグレーゴル、 死刑囚として無為の時間のなかをまどろむムルソー、 生きた竹馬に乗りながら老人の生に思いを馳せるマルセル……。 20世紀文学の描く、老いと死を読み解く、文学エッセイ!」
【3】西成彦 『声の文学――出来事から人間の言葉へ』 新曜社 2021 「ヒミツはいつ、誰の前で言葉にされるのか? 水俣病、戦時性暴力、レイシズム、ジェノサイド――理不尽な暴力にさらされた非主流者/周縁的な存在たちひとりひとりからこぼれ出る抵抗の声は、いかにして社会へと開かれ、それを聴き取る者、それもまたひとりひとりであるわれわれ���「社会的な力」へと変容させる「文学」たり得るのか。」
【4】西成彦 『多言語的なアメリカ――移動文学論3』 作品社 2024
「英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、パトワ、イディッシュ、パピアメント、日本語…… さまざまな言語が鳴り響く、新たなる「アメリカ大陸文学史」の試み。移動文学論の第三弾!」
【5】西成彦 『カフカ、なまもの』 松籟社 2024
「世界にはびこる、目を背けたくなる現実の数々をそれでも直視するために、カフカをどう読んでいくか。著者が折々に書きついできたカフカ論集成。」
そして――
『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち――声のざわめき』 西成彦、洛北出版、近刊(2024年9月末刊行)
* * *
著書(単著)として――
『マゾヒズムと警察』(筑摩書房、1988)
『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波書店、1993 /岩波同時代ライブラリー、1998 /熊日文学賞)
『イディッシュ 移動文学論 I』(作品社、1995)
『森のゲリラ 宮沢賢治』(岩波書店、1997 /平凡社ライブラリー、2004 /日本比較文学会賞)
『クレオール事始』(紀伊國屋書店、1999)
『耳の悦楽――ラフカディオ・ハーンと女たち』(紀伊國屋書店、2004 /芸術選奨文部科学大臣新人賞)
『エクストラテリトリアル 移動文学論 II』(作品社、2008)
『世界文学のなかの『舞姫』』(みすず書房、2009)
『ターミナルライフ 終末期の風景』(作品社、2011)
『胸さわぎの鴎外』(人文書院、2013)
『バイリンガルな夢と憂鬱』(人文書院、2014)
『外地巡礼――「越境的」日本語文学論』(みすず書房、2018 /読売文学賞)
『声の文学 出来事から人間の言葉へ』(新曜社、2021)
『死者は生者のなかに――ホロコーストの考古学』(みすず書房、2022)
『多言語的なアメリカ 移動文学論 III』(作品社、2024)
『カフカ、なまもの』(松籟社、2024)
ほか 訳書として――
ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』(国書刊行会、2004)
コシンスキ『ペインティッド・バード』(松籟社、2011)
ショレム・アレイヘム『牛乳屋テヴィエ』(岩波文庫、2012)
シンガー『不浄の血』(共訳、河出書房新社、2013)
『世界イディッシュ短篇選』(編訳、岩波文庫、2018)
『ザッハー=マゾッホ集成Ⅰ』(共編訳、人文書院、2024)
ほか
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昔に比べて希死念慮は薄くなったし、昔から強い希死念慮があってもリストカットとか外傷に現れないなと当時は思ってた。とはいえピアスを衝動的に開けたり、一応入れた時は意味を持っていて(アホなので忘れた)ファッションの一部でポジティブなベクトルだと思っていたタトゥーとかも、今思うと自傷行為以外の何者でもなかったことに気づき戦慄する。高い場所から地上を見つめるときに体が動きそうになったり、ベランダでぼーっとしてる私を見て不安そうに声をかける親とか、なんか普通に迷惑ばっかかけてるなと思った。タトゥーを入れたことに後悔はないけど、タトゥーを見て「おしゃれだね」と褒めてもらうと物凄く複雑な気持ちになるな〜など日常で思うモヤモヤとは違うモキモキというか、自分の世界を大事にすることはこんなにも得意なのに、他者の境界線の誤認による嫌悪感とか、他者との関わり合いにおける自己主張の必要性に対する不信感とか、毎日毎日の生活が特筆することがなくとも無意識的にストレスになっていて、そのストレスが誰のせいでもないこともわかってる故に苦しい。と長々と書いてはいるが、自我を持ち始めた小学生の頃からずっとこの思想で生き続けているから死ぬまでこうなんだろうな、という絶望も何度も何度も味わうと慢性的になってきて、今や20年近く続いているストレスだから今更どうすればいいのかも分からない、とも思うし、こうやって色々溜まった時に抽象的な言葉を並び立てることしかできなくて無力感に襲われる。心底暗いんだけど、これによって別に病んでいたり堕ちていたりする訳では全然なくて、これがシンプルに日常の一部なので本当にどうすればいいか分からないし、この思想を捨ててゼロになった自分にはなりたくない意固地な意思みたいのも正直ある。結局深掘りせず適当に結論付けてしまうとただの慢性鬱病なんだけど、それによって人を傷つけているわけでも他者の領域を侵しているわけでもなく、心底根暗なだけなのに、暗いことや鬱に対する認識が寛容ではないことに対しては憤りは少しある。自分からすると辛いからこそ明るく激しく暴れる、安直な激情によって豊穣な精神は生まれることはないと思うし、生来のマゾヒズムとエピキュリアンでないだけに、己の快楽のみを求めて他人を傷つけることは許されないと思っているし、自分を傷つけることがやめられない
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「虚無への供物」中井英夫 1122
第一章
12十字架と毬
さて、 紅司の変死があった風呂場の様子の続きからです。
そこに、新たな発見があります。 爺やの側に小さな紅いゴム毬(まり)が転がっていたのです。 亜利夫の記憶では、そんな物はありませんでした。
当然、そんなものがあったとも書かれていません。
しかも、亜利夫はそのゴム毬をしまい込みます。 あとで藤木田にも見せたがどこからそんなものがでてきたのかさっぱり見当がつかなったのです。
どう考えるべきでしょう。 さすがに、ゴム毬では凶器にはならないかもしれませんが、 機械的に密室にする道具の一つなのかもしれません。 まあ、いずれわかるでしょう。
ここまで聞いていた久生は、これは立派な殺人だといいます。 立派かどうかわかりませんが、 そうでないと話が進みませんね。
その後、九段から駆けつけた蒼司と八田皓吉。 それから嶺田医師がやってきて、 急に白けた平凡な病死に変わってしまったというのです。
・水道は先に留められていた。 ・蛍光燈の点滅はただ古くなっための偶然の事故だった ・急に不通となった電話もよくある電話用ローゼットの接触不良だった。 ・紅司の死は、嶺田医師の診断では心臓麻痺か何かだということだった。 ・死亡時刻は、正確なことはいえないが十時半ごろ。
ただ、嶺田博士の一番の不満は、なぜ医者でもある橙二郎が応急措置をとらなかったかという点です。 たしかに変ですね。
で、橙二郎の狼狽ぶりが常軌を逸しているのです。 ・皆に呼び立てられえるまで顔を見せない。 ・二階の部屋で福寿草を煎じていたとか。 ・肝心の紅司の死体には近づこうともしない。 ・産院へ電話をかけて緑司の安否を確かめるなど。
橙二郎が怪しいということを表しているみたいですが、 こういうのに限って犯人じゃないんですよね。 その裏でもかかれるのでしょうか?
嶺田医師は祖父の光太郎時代からの主治医で、すぐにすべてを察し、 今後のことを蒼司と二人だけ死体の傍らに残って相談を始めます。
その後、十二時を過ぎたころ、 皆は、紅司が横たえられている座敷に呼ばれます。 嶺田医師が、乱暴にまくりあげた腕には、おびただしい注射の針痕や小さな絆創膏がみえ、 精神状態が安定していなかったことが伝えられます。 しかも、薬の大量摂取で、心筋梗塞ぐらいは起こしかねない状態だっとも。 ところで、服用していた薬として「ジギタミン」や「アンナカ」が挙げられています。
アンナカは、眠気をとったり、頭痛をやわらげるお薬です。 ジギタミンは、強心薬として出てきました。これが、どういう効果があるのでしょうか? その当時は、頭痛薬として有効だったのでしょうか?
それよりも、 嶺田医師が心配していたのは、 紅司の背中のミミズ腫れ、鞭の痕のように見えるものでした。 二、三日経っているから、直接の死因には関係ないが、 小さい頃からのマゾヒズムの傾向が今も続いていたことを、 蒼司に確認して、その善後策を検討することになります。
まあ、世間体を考えると仕方ないのかもしれませんが、 やはり、 一般の家とは違うんですね。
そのことは、伏せるとしても、 嶺田医師は、殺人を疑っているみたいです。
蒼司が、紅司の性癖に気が付いていたし、 時々知らない人から電話がかかって出かけることもあったといいますね。 第三者がいることになりそうです。
蒼司は、 異様な雰囲気ではあったというけれど、まず心臓麻痺だと思いっていいといいますね。 状況から言ってもそうですもんね。
と、藤木田が引っ掻き回します。 こいう人だったと思いませんでした。
風呂場が密室状態で外傷も毒物の痕跡もない。 だから他殺ではないということ���ろう。 しかし、密室状態の風呂場に出入りする方法さえ見つけたら、 これは殺人事件となるのでは? なんか無茶苦茶な感じもしますがね
案の定、嶺田医師にたしなめられます。 そんなことよりも 嶺田医師は、紅司の背中の秘密のほうが気になっています。
で、 最後には蒼司が皆の考えをまとめた形で、 嶺田医師をさとして、警察を呼ばないことに決めてしまいます。
ここまで聞いていた久生は、 氷沼家の名誉を守るために“病死”ということにしたのかと一応納得したみたいですが、 鞭痕の秘密を表ざたにさせないために風呂場を利用するなんて、 そこに犯人がつけ込んだのだと感心しますね。
ところで、秘密を曝(あば)いてという表現がされてました。 本来、この曝という字の意味には、覆ったり隠したりせずに誰もが見られる状態にすることなどあり、 ルビは当て字ですね。
その当時は、そういう使い方もしていたのかもしれませんが、本来なら暴くっですね。
しかも、 久生は犯人が判ってる? と言いながら、持ったいぶって名前を言いません。 藤木田も犯人や密室の��リックまで判っているみたいです。
完全に読者は置いてけぼりですね。
と、話が変な方向に向かいます。 推理の腕比べ?
明日の夕方、 亜利夫、久生、藍ちゃん、それに藤木田も逢うみたいです。
逢うのは目白の“ロバータ”っていう喫茶店です。 実際にあったとしても、 現在は流石にないでしょう。
もし、 架空の店だとすると、 店名に意味があるのでしょうか?
さまか伏線でしょうか?
普通に考えれば、英語圏の女性名ですね。 ロバートの女性形に当たる。他言語(イタリア語など)では同じ綴りでロベルタと読まれる。
有名な歌手や映画もありますが考え過ぎでしょうね。
つづく。
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「ドМがアイデンティティ」キャラクター登場作品特集
痛い事は気持ち良い事? 「でもただのMじゃねえぞ。何度でも心の強さで立ち上がり、前に進む。ド級のM。ドMだ!」 「ド」。 漢字で書けば「弩」と、ドレッドノート戦艦級が転じて「すごい」と言う意味で使われるヤツ。 すごいマゾ気質である事が、キャラクターのアイデンティティとなっているパターン。 ちょっとMっ気があるでなく、「痛みが足りない! もっとだ!」と言うスタンス。 この記事では、そんな密かに人気な「ドМがアイデンティティ」なキャラクターが活躍する作品を紹介していく。 マゾヒズム・被虐性欲に支配された怪物を楽しもう。 Continue reading 「ドМがアイデンティティ」キャラクター登場作品特集
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■導入
・首からフェザータッチ
・バックハグ
・脚を伸ばしてる方がリラックスできる
・切り替える
■キス
・手が重要(手に目線を落として手と肩、首、両頬、耳、腰、顎)
■胸
・二の腕から
・無闇に触らない。吸わない。大切に扱う。
■クリトリス
・粘膜である。裏筋がある。
・円を描くように
・力を入れない(硬くしない)
・ほんの少しだけ吸う
・皮をあげて、上半分を左右に
・相手がイキそうな時にスピードをあげない。
■膣(クンニ)
・座らせる、騎乗位は相手の顔が見えるため恥ずかしいがMなら。ただしリラックスはしていない。
・入口は舌で、小さい円
・外側は舌全体で
■膣(指)
・Gスポットは3-5cm
・指入れは15分以降
・中は指を曲げずに、「腕」を動かす
・圧をかけるだけ
・動かすにしても短い距離(小刻み)で、こする
・小陰唇を内側に閉じて舌で押し込む
・2本入れる場合は交互にタッピング説
■挿入
・7秒待つ。
・覆いかぶさる形は気持ち良いのはこちら側だけ。
・上向きに当たるように、こちらの上体を反らせる。
・バックの時は逆に、上から下。相手の上半身を落とす。
両手を引っ張ることは「身体の固定」によるマゾヒズムの充足。
・(首は鎖骨上の2点のみ)
・足を抱え込ませたら、下から上に、を意識。
・常に「少しずつ」を意識。
・松葉くずし→女性のみ側位→通常の側位。
・入口、中、奥の三段階がある=ゆっくり。
・一番奥から更に押し込むように圧をかける。
・騎乗位の時は太もも支えちょっと浮かせる or こちらの腰を少し浮かせる。
・シュートピストン(打ち抜く)ではなくスクラッチピストン(細かい動き)。
・顔を見る。女性側の「どこ見たらいいの」=別の事を考えてしまう、を満たす。
■声掛け
・相手が感じていることに対して、可愛いよ、キレイだよ。
・興奮してきた。
・気持ちよくなっていいよ。
■反応
ドーパミン←精神的充足、月経後排卵日前後に行うことで、反復性。
熱くなる。汗ばむ。呼吸。思わず身体が動くか。
腹筋の動きの有無。骨盤の動きで必要性を確認する。
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「暖房、暑いんだけど、切っていい?」と少年はぶっきらぼうに言った。
「ああ、いいよ」と答えて、健人はリモコンの〈停止〉スイッチを押した。『人の家に上がった身でこの物言いは、さては売り専かなにかだろうか』と健人は思った。それは実体のない偏見だった。
アプリで引っ掛けたこの少年はプロフィール欄に「大学生 M 顔は出せません」と書いていた。普段相手の顔を見ずには会わないことにしている健人だったが、今日は疲れていて誰でもよい気分だったので、自宅から距離の近いこの少年を選択した。健人がこの少年を選んだのにはいくつか理由がある。距離、十八という年齢、大学生、マゾヒスト。つまり、健人は記号を買ったのだった。イメージではなく、記号を買ったのだった。
健人はおもむろに��ボンをパンツごとずり下ろし、ベッドに腰掛けた少年の眼前でモノを顕にした。���年はレジで客をさばくようにそれを見た。健人は少年の顔がまとっている東南アジア的な雰囲気を確かめた。肌は浅黒く、頬上に点在する赤ニキビは、その色のせいか目立たない。目の彫りは深く、その凹凸が作る陰影は迂遠な媚態をたたえている。健人は少年の髪、根元が黒くなった金色の毛髪を軽く鷲掴み、勃然としたモノを少年の口元に誘導した。
少年は前後に運動を始めた。しばらくして少年は「蒸れてますね」と言った。その目は一瞬間、喜びの色を示した。健人はそれを見落とさない。健人は『この少年はセックス以外にゴタゴタした話をしたくないのだ、マゾヒズムに徹するためには事前事後の蛇足的な会話をできる限り省略する必要があるのだ、言葉は受動性を毀損するのだ……』と思った。少年は単純な汚辱を求めている。だが、健人のそれを咥える少年の浅黒い顔は、やはりどこまでも機械的であった。健人は自分の「サディスト」としての所在のなさにいたたまれなくなり、八つ当たり的に少年の喉を突いた。少年の深い目から、もっぱら生理的な涙がつたった。
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2023/10/17
BGM: Brian Eno - First Light
今日は早番だった。いつもなら昼に英語でメモを書くところなのだけれど、何も書けなかった。どうしてかはわからない……しょうがないので「まあ、そういう日もあるな」と思ってあきらめてぶらぶらする。ふと、昨日この日記で書いたアイデアのことを考える。自分自身の失敗、ひいては人生そのものを記していくこと……そこから「自伝を書いてみる」というアイデアはどうかとも思い始めたのだった。いや、何も成し遂げたわけでもない人間の「自伝」「半生記」だからニーズなんてないと思うのだけれど、それでもこれが発達障害者の悲しき性というやつで1度アイデアに火がつくと思いだけが先走り焦り始めてしまう。これまで闇雲に読んできた「自伝」や「自伝的な小説」たちのことを考える。太宰治『人間失格』や三島由紀夫『仮面の告白』、坂本龍一『音楽は自由にする』やゼーバルト『アウステルリッツ』(こちらは「小説」つまり「虚構」なのだけれど)。そういった本たちのことを考えて、でも自分が書くとしたらどうしたらいいのか考えあぐねて、それで昼休みは終わってしまった。そこでふと、同じ坂本龍一が後藤繁雄と一緒に記した『skmt 坂本龍一とは誰か』のことを思い出し、「キーワードから書ける自伝」についても思い至ったのだった。さっそく実行に移すことにした。
グループホームに帰り、『skmt 坂本龍一とは誰か』を読み返す。いま生きているぼく自身のことを考える。当たり前のことを言うと、ぼくという人間はこれからどのようにも変わりうる。ぼくはこの日記を読み返すこともないし読書メーターなどのレビュー/感想を読み返すこともめったにないのだけれど、それでもふと読み返すと「えーっ!? こんなこと書いてたのかい!?」と(『サザエさん』のマスオさんの声で)ショックを受けてしまうことがある。ぼくはほんとうにコロコロ考えが変わってしまう人間なので、『skmt』でサカモト教授が語っているように昨日のぼくと今日のぼく、明日のぼくを貫く一貫した発言・人格を約束できない。むしろぼくは悪ノリしてしまって「昨日までの自分自身にサヨナラだ」「いまを生きる。それがすべてだ。明日のことも明日考えよう」と思って生きるだろう(という「いまの観測」だって、明日どうなっているかまったくわからない……というのは極論・暴論ではあるにせよ)。そんなことを考え、むしろそんな「多面体」「矛盾」を備えた「カオス」としての自分自身をそのまま提示するのが面白いのではないかとも思い始めた。いや、そんなことをすると「わかりにくい」「なんだコイツ」なコンテンツができるのだろうとは思うのだけれど、でも面白いと言えば面白いような気がするのだった。
それで、『skmt』を読み終えて……今年は教授が亡くなった年だったな、とあらためて思い至る。彼の思想信条や作り出す音楽をすべて愛好してきたわけではない。YMOはリアルタイムで通ったわけではないし(もちろんYMOは坂本龍一だけのトリオではなかったことも踏まえる必要がある)、その後の映画音楽やソロやあるいはアルヴァ・ノト/カールステン・ニコライ、フェネス、中谷美紀などとのコラボについても決して丹念にフォローできてきたわけでもない。彼の発言もすべてを支持するわけではない。だけど、彼がまさにワールドワイドに八面六臂の活躍を示した姿を見てぼく自身も励まされたり癒やされたり、自分自身が生きる上でいろいろなことを考えさせられたり刺激を受けたりしたことも確かなのだった。『skmt』の中で教授は9.11同時多発テロやイラク戦争に対して果敢に・アクチュアルに発言や行動を試み、そして音楽制作を熱心にねばり強く続けている。それは意地悪い冷笑的な捉え方をすれば「軽薄」「浮ついた」ところがあるとも取れなくもない。だが、なら「浮ついていて何が悪い」とも言えるのではないか。そんな教授が見せる「そそっかしさ」をぼくはそれこそ「全肯定」「全支持」したいとあらためて思った。
さて、どんなキーワードから自分自身を掘り下げていけばいいのだろう。「М(マゾヒズム)」や「autism(自閉症/発達障害)」、「1990s(90年代)」やあるいはそれこそここまで書いてきたような「Ryuichi Sakamoto(坂本龍一)」など……英語と日本語の二ヶ国語/バイリンガルで書き記したいのでどういう構成にしたらいいかについても思い至る。考えあぐねていて時間が過ぎ、そして今日が終わってしまった。書けるなら「polyglot(多言語使用者)」についても書きたいし、日々の思いを断片的に書き留めるのもいいのかもしれないとも思う。いや、まだ形にもなっていないアイデアなので「飽きたので止めます。ごめん!」となる可能性も大いにある。だから「ひまつぶし・道楽として」楽しむというゆとりを持たせるのがいいのではないかと思った。それでタイトルをどうしようか考えていて、たまたまその教授の曲「undercooled」のカッコよさにしびれていたところだったので便乗・流用してタイトルをつけてしまった。どうなるかはわからないけれど、末永く根気強く「アセラズクサラズアキラメズ」な気持ちを保ち続けたいと思っている。何かぼくに語ってほしいテーマやキーワードはありますか?
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2023年6月13日 村田沙耶香、概念からこぼれ落ち続ける生について
起立性低血圧が関係しているのか分からないけれど朝起きてから、日が沈んで18時頃になるまでの間、ずっとぼうっとしていて頭が回らず、気力も出ないので、実質的には一日が18時以降の時間しか存在していないような心地になる。どうしても、起きてから8時間くらいは経たないと本調子が出ない。
***
小説の話。村田紗耶香の「地球星人」を読み終わった。 村田紗耶香は以前から『コンビニ人間』『消滅世界』『しろいろの街の、その骨の体温の』など色々読んでいたのだけど、『地球星人』を読みながら、自分にとって村田紗耶香という作家は思っていたよりも重要かもしれない、と気が付く。
村田紗耶香には読んでいて波長が合うというか、自分の感性に直に刺さるような部分が確かにあって、それが何なのかを言語化するとすれば、人間を脱すること、脱-人間化へと向かっていくというその方向性だと思う。
たとえば、『コンビニ人間』において主人公はタイトル通りの「コンビニ人間」になるわけだけど、それは従来の人間でもなく、男でもなく、女でもなく、「コンビニ人間」という新たな種類の人間。そして、常識的に考えればそれは資本主義と消費社会によって生み出された哀れな存在にも見えるものの、村田紗耶香はむしろ「コンビニ人間」という新たな人間の誕生を徹底して肯定的に描いて祝福しているように見える、その両義性。
もう少し「コンビニ人間」について書くと、「コンビニ人間」は消費社会におけるコンビニというシステムに過剰に適応することによって逆に、社会を攪乱するような不条理な存在になっている点や、結婚という制度を読み替えてひそかにやり過ごしながら反抗するような態度に、ドゥルーズの言うマゾヒズム的な戦略を感じることがある。
「地球星人」には「メッセージを送る相手の絵文字や文体を真似する」というくだりがあるし、「コンビニ人間」でも「他の店員の言葉遣いを真似る」という場面があったと思うのだけど、そこにはASD(自閉症スペクトラム)的なコードへの適応の運動と、しかしそこから逸脱していくような側面があって、既存の法に対してうわべだけは忠実に従おうとしながらも攪乱していく動きが村田紗耶香らしさだと思う。あと、いまASDという単語を出したものの、だからと言ってこれが「ASDの主人公の物語です」と言い切ってしまうことにも抵抗があって、「コンビニ人間」は文字通り、「コンビニ人間」という新しい特異的な人間を描いた小説に他ならない。
「地球星人」においては、主人公は生殖および恋愛という規範を持った地球星人(人間を作る「工場」)に対して徹底的に抗い、そのような自分たち(夫や由宇を含めて)をポハピピンポボピア星人と称する。しかも、幼い頃の主人公は「変身」のためのステッキを持った魔法少女でもある。 そんな中で主人公は性行為も恋愛感情もない相手と合意の元で結婚をすることによって、家族や友人からの圧力をやりすごす。この、「性愛も恋愛感情もない、契約としての結婚や同棲」というのは『コンビニ人間』にもあったはずで、好きな関係性だと感じる。
あと、村田紗耶香を読んでいると、彼女がどこまで「本気」なのかな、ということも考える。 たとえば『消滅世界』で描かれる世界がディストピア的だと言われることはわりと多かった印象があるのだけど、主人公はその世界をむしろユートピアとして見ていたはずで、そのとき、村田紗耶香が「ディストピア小説」としてあれを書いているのか、もしくはもっと純粋に「ユートピア」として書いているのかというのはどちらとも取ることができる。 ああいう世界をディストピアとして風刺的に書く、というスタンスはありうるけど、村田紗耶香はそうではなくて、もっと透明な意識で書いているような気がする。肯定か否定かというより、ある前提において世界を考えた時にこうなる、というのをただただ純粋に書いていく。
***
文學界5月号の『ハンチバック』、読み終えているけれど、まだ消化しきれていないので、もう一度読めたら読みたい。 ***
今日、これから自分が書こうかな、と思う小説の候補ができた。 最近、自分は小説には向いていないのかもしれないと思うことも多いけれど、今はとにかく賞に出すことを目標として書こうとは思う。2024年3月31日締め切りの「文藝賞」が本命だけど、2023年10月15日締め切りの「群像新人文学賞」および2023年9月30日締め切りの「文學界新人賞」も可能性としてはある。
正直に言って、ここ最近は「小説」として書くべきことがあるのか分からなかった。小説として書くということは、単なるエッセイでも論説文でも日記でも表現できないものを書くということで、それは虚構の世界という枠を用意することによって可能になる何か。
内容としては以前から「書いてもいいかな」とぼんやり考えていたことだけど、今日になって、それを他ならない「小説」として書かないといけないことに気が付いた、天啓のように。自分の中には何もないと思っていても、必ず何かはあって、でもそれは「社会的に書いてはいけないこと」であるがために抑圧されていたり、単純に、「こんなことを書いても文学にはならない」と思ってしまうようなことが多いけれど、文学は「社会的に書いてはいけない」ような間違ったことをこそ書かなければならないし、「こんなことを書いても文学にはならない」ようなものも、その切り出し方によって文学になりうる。
***
文学の特異性、その価値みたいについて、ある種のラベリングという観点から考える。たとえば、現代において問題になる(なりうる)ようなラベリングはいくらでも挙げることができる。「女性」「男性」「同性愛者」「障害者」「黒人」「弱者男性」「トランスジェンダー」「鬱病」「発達障害」「ロリコン(ペドフィリア)」「無性愛者」「レズビアン」「ゲイ」「ASP」「マゾヒスト」「サディスト」「犯罪者」「処女」「売春婦(娼婦)」「夫」「妻」「子ども」「フリーター」「反出生主義者」「アダルトチルドレン」「吃音者」「精神病者」……(etc)
でもここで、こうしてラベリングされた概念というのは概念でしかなくて、抽象された、単なる一般的な、そして空虚な概念にすぎない。「女性」と言われるときそれは一般的な「女性」を示してしまうわけだけど、言うまでもなく、実際にはこの世界に数限りない無数の女性が存在していて無限に差異のある、そして深さをもった固有の、特異的な生がある。逆に、特異的な生しか存在しない。
「精神病者」でも「犯罪者」でもでも何でもよいのだけど、そこには本来特異的な、生きられる生としての内面性、ひとつの世界、深さのようなもの(そのように行動すること必然性、内的な世界の法則のような)があって、しかし概念は外的な、一般的な形でしかそれを語ることができない。あるカテゴリーに属する人間の生きられた生そのもののようなものを捨象することでしか、それについて語ることができない(Twitterを上記のような���ベリングについて議論が行われている風景を見ていると、どうしてもそのことを考えてしまうし、不毛な気持ちになる)。
そのとき、文学というのはそのような人々の生きられる生そのものを内側から、その複雑性をできる限り捨象することなく、ひとつの世界として提示する方法であり(人生を追体験する)、それは単なる外的な語り(哲学にせよエッセイにせよ)では不可能なことだと思う。
私たちが普段使う言葉、概念、ラベリングは決して現実を正確に写しとることなんてできなくて、常にそのラベリング(およびそれによってイメージされるもの)からこぼれ落ち続ける側面がある。あるいは、そのラベリングから超え出る側面。 平均的な「人間」が存在しない(統計学的に平均を取ることはできるだろうけれど、すべての人間はその統計学的な平均から必ず逸脱する)ように、ラベリングされた者はそのすべてが必ず、そのラベリングから逸脱する。
書きながら考えているのでまとまりがないかもしれないけど、結局のところ、哲学にせよ心理学にせよ社会学にせよ、この現実そのものの、人間の生そのものの複雑さを捉えることが決してできなくて、(もちろん文学にだってそれはできないのだけど)、生そのものの複雑さ、生の特異性に最も近い位置にあるのが文学だと思っている、信じている(たとえば映画だってこの意味での「文学」でありうるものの、それを語るのが「言葉」である、という点には重要な何かがあると思う)。 ***
ドゥルーズの『批評と臨床』(Gilles DELEUZE "CRITIQUE ET CLINIQUE")を読んでいる。出版されたのは1993年なのでほんとうにかなり晩年だけれど、実際のところ、いつくらいに書かれた文章なのだろう(論集としては、未発表のものと再録のものの両方がある)。 第1章「文学と生」の17ページまでを読んでいて気になった箇所は二か所あって、一つ目は「非差異化のゾーン」という言葉遣い、そして二つ目は[健康」という言葉の特殊な使われ方について。 〈生成変化とは、ある形態(同一化、模倣、ミメーシス)に到達することではない。そうではなく、それは、人がもはや一人の女、一匹の動物、あるいは一つの分子とみずからを区別し得なくなるような近接のゾーン、識別不能性あるいは非差異化のゾーンを見出すことなのだ〉(p13)
ドゥルーズが言うには、まず書くことは生成変化であり、そして生成変化は、「非差異化」のゾーンを見出すことでもある。ドゥルーズといえば「差異」の哲学だけど、生成変化はむしろ「非差異化」のゾーンにあって、そこでは特異性と非差異化が並立しているはずだけど、それはどういう状態なのだろう。
二つ目は、ドゥルーズが「健康」という言葉に込めている特殊な意味について。
〈文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。それはなにも、作家が必ず大いなる健康の持ち主であるということではない(ここには先の運動競技におけるのと同じ両義性があるだろう)。そうではなく、作家はある抗し難い小さな健康を享受している。その小さな健康とは、彼にとってあまりに大きくあまりに強烈な息苦しい事物から彼が見て聴き取ったことに由来しており、その移行こそが彼を疲弊し切らせているのだが、しかしながら、太った支配的健康なら��可能にしてしまうようなさまざまな生成変化を彼に与えてくれてもいるのである〉(p17)
作家が享受している「小さな健康」と「太った支配的健康」というのは対比されていて、一般的には前者(小さな健康)とはむしろ病の状態であり、後者(太った支配的健康)は、一般的に「健康」であるとされているもの。
もっと言えば、「小さな健康」を享受するのはマイナー文学のことで、問題なのは「病」として見なされうるようなマイナー文学がどのような意味で「健康」であるのかということ。 「エクリチュールに仮託された生 : ドゥルーズ『批評と臨床』における方法と動因」 「芸術における真理とは何か : ドゥルーズの fêlure とハイデガーの Riß」
「健康としての狂気とは何か : ドゥルーズ『批評と臨床』試論」
*** 「世界仰天ニュース」で富士銀行行員顧客殺人事件が特集されていた。何となく、他人事に思えないように感じる。ブラックコーヒーを流し込む。朝ご飯をろくに食べずにストラテラを飲むと気持ち悪い。夢の中で人を殺して、そのあとじわじわと警察に追い詰められていくときのあの緊張感。
最近、小説を読んでいて面白くないときに、自分の頭の中で神経伝達物質(セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン……)がうまく分泌されていないから面白くないのか、それともその小説自体が根本的に面白くないのかの区別がつかなくなってきている。 ***
今日聴いた音楽。空廻「黒眼青影」、未来電波基地「立体駐車場」、TOOBOE「錠剤」、ビリー・アイリッシュ「all the good girls go to the hell」、ザ・スミス「Bigmouth Strikes Again」、ハチ「パンダヒーロー」
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