#マゾヒズム
Explore tagged Tumblr posts
Text
反対側
Opposite Side
(間違いなく福和のマゾヒズムが加わっている笑/Undoubtedly, Fukawa's masochism has been added to the mix lol)

2 notes
·
View notes
Quote
なぜ人はショクダイオオコンニャクの花のにおいに嗅ぎたいと思うのだろうか。反応はみな似たようなものだ。まずは期待に満ちた表情で近づき、ためらいがちにひと嗅ぎして、嫌な顔をする。にもかかわらず人々はその場にいられたことを幸せに思っているように見える。 このように不快な体験を求める性向には「良性のマゾヒズム」という名前がつけられている。 心理学者のポール・ロジン氏は、2013年に発表した論文「喜んで悲しむことと良性のマゾヒズムのその他の例」の中でこの効果について述べている。ロジン氏の研究チームは、どう考えても楽しくないはずなのに楽しまれている行動を29種類見つけた。ホラー映画を見る、トウガラシなど口の中が焼けつくような辛いものを食べる、激痛マッサージを受けるなどが一般的な行動だが、ニキビを潰す、人体標本を見るなど不快度が高い行動もある。 こうした体験で重要なのは、「安全な脅威」であることだ。 「一番いい例はジェットコースターでしょう」と、ロジン氏は言う。「あなたはジェットコースターが安全であることを理解しています。でも体は恐怖を感じる。そこに快感が生まれるのです」。ショクダイオオコンニャクのにおいを嗅ぐことでも同じようなスリルを味わえると氏は言う。
人はなぜクサいにおいを嗅ぎたがる? 「死体花」の開花が話題に | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
4 notes
·
View notes
Quote
170 :それでも動く名無し:2023/11/10(金) 07:20:53.66 ID:Ea1sA5Tg0.net 「子供を性的に消費したい」というロリコン的思想 「生意気な女に罵られたい」というマゾヒズム的思想 「そんな女を“こいつが生意気なんだから仕方ない”と正当化しながら懲罰したい」というサディズム的な思想 これら全て包括して4文字にまとめたのが「メスガキ」 これもうwikipediaやろ 10 :それでも動く名無し:2023/11/10(金) 03:42:26.66 ID:KsAnM9S90.net メスガキに対する造詣の深さがよく分かる文章や きっとごく一部のオタク界隈の住人なのだろう
【悲報】フェミ女さん、メスガキというワードにブチギレお気持ち表明wwwwww : もみあげチャ~シュ~
14 notes
·
View notes
Text
2 notes
·
View notes
Text
定期的に長文を書きたいなと思っては、Noteやらなんやらを開くが、読み手の多い媒体に気が引けていつのまにか辞めてしまう。tumblrの規模感はちょうどいいので、名前もなにも変えて再開しようと思う。あまりにも文章を書くことから離れていたので、だいぶ読みづらいが、自分のためのものなのでよしとする。
自分には幼いときから躁鬱の傾向があって、今思えば国籍を持たない中卒の親がいたわけだから、むべもないことだった。最近は数字がよくわからなかったり、ADHD的な行動をとったりもしていて、やはり親の年齢と教育・生活水準は重要だったのだと感じている。
そんなわけだから、すこし気を抜けば簡単に希死念慮に打ち負けてしま��、なにもかも辞めてしまいたくなる。「なにもかも」というのは、仕事、生活、友人関係、恋人関係、といったもののことで、それらを「辞めてしま」うというのは、端的に死ぬということである。「死にたい」と言わないのは、恋人にそういう言葉を使うなと言われているからである。標準的な知能をもたない自分は、ルールや規範がないとなにをどうすればよいのかわからなくなるので、その正しさや妥当さを問わず、「こうしろ」「こうするな」と言われたことには従おうとしている。そうした自分の性質をマゾヒズムと理解して生きてこれたので、不自由はなかった。感謝だ。
なにがいやなのか、どうしたいのか、と聞かれることが苦手だ。ルールや規範に従わないとなにもできないから。なにかがいやなわけではなく、自分の知能の低さと躁鬱の性質がそうさせているだけだから。私が答えをもたないことにまた苛立たれて、悲しませてしまう。本当は(私の自我のようなものは)それを不快に思っていないはずなのだが、ちょっとした異性とのやりとりや言われた言葉が、なぜか悲劇的に感じられてしまう。もう終わりだと思う。この人はたくさんの他の選択肢をもっていて、私はそのうちの一人でしかないのだと感じる。なにを言われても、自分が愛されていることが理解できない。理屈で説明できるもの以外を信じられない。どんなに楽しい時間を過ごしても、死にたいという気持ちから離れることができない。
昔はたくさん文章を書いていたし、小説も短歌もつくっていたから、そこそこ言葉を使うことに自信があったのだが、あまりに長く離れていたから気持ちよく文章を書けない。何度も書いて、消して、下手だなと思って、もうどうすればいいかわからなくなって、今ここにこの言葉がある。
パニックや癇癪を起こした私に、恋人が「マッチポンプみたいだ」と言った。私もそう思う。ずっとそう思っていた。苦しかった。意味がないと思った。これを続けることで彼の人生がよくなると思えなかった、今も思っていない。改善や向上を目指そうという話なのだが、20を超えたあたりからやっと私は、一人でうまく静かに生きる方法を会得してきた。予定の入れ方、時間のつくり方、睡眠や食事、他人との距離感。一人暮らしをはじめてやっと、パニックにならない一人の生活を手に入れた。25(先日26になりましたが25とさせてください)になって、今から二人でうまく生きていけるように、また一から生活をつくってください、と言われても、なにもわからない。
これがただの恋人ならここまで悩まないのだが、半年後に結婚を控えているとなると話が変わってくる。今からたくさんの人に、やっぱり辞めますというわけにはいかない。たいていのことは自分一人が辞めたと��ろで誰も困らないのだが、結婚となるとそうはいかない。その覚悟がなかったわけではないのだが、私の希死念慮が想像よりしつこかった。はやく死にたい、死んで彼の人生をより良くしたい。そう思ってとっさに、出せるだけの貯金を彼の口座に振り込んだ。本当に私は小さい人間だなと思った。
検索よけのためにアーティスト名を伏せるが、「ハルジオン」という曲を鬼リピしている。これはADHD特有の、同じものだけを繰り返したり好んだりする傾向の一つである。定期的にやってきては、何か一つを馬鹿のように繰り返してしまう(その結果適正体重から7kg太った)。さておきこの曲が今の私に刺さっている理由はきっと、彼に言われた「マッチポンプ」という言葉を引きずっているからだろうと思う。なにもないところに水をかけつづけてやがて芽が出ること、でもその行動の目的は芽を待つことではなくて虹を見ること、そういう苦しさに覚えがあった。いつも誰かに助けてほしいと思っている。でも助けてくれる人の好意を信じることはできない。一人で「虹をつくってる」私に、肥料や日当たりのよいところを与えてくれる人がいても、どうしたらいいのかわからない。助けてほしいのだが、虹をつくることのなにを助けてもらいたいのかわからない。すくなくとも、花の芽を見たいわけではない。その「マッチポンプ」のような徒労感から逃げたいと思っているのだが、人生をいまさら辞めることができないから、虹でもつくるしかない。そういう私が誰かに助けてもらうとか、誰かと人生をやるとか、はじめから間違っていたのかもしれない。
2 notes
·
View notes
Text
Ruoska MVと邦訳修正
youtube
Ruoskaのミュージックビデオが配信されています。
事前情報として、"鞭"というのがヘイトの比喩だということは理解していましたが… MV中には、実際にカーリヤとエリカに向けてネット上に書き込まれたヘイトコメントの字幕で画面が埋め尽くされるシーンがあり、なかなか胸にくるものがあります。 このMVの個人的解釈や感��、ヘイトについてはまた別途記事を書きたいと思いますが…悲壮さ、タフネス、そしてマゾヒズム(笑)…色々示唆に富んだ良いMVでした。
UMKでのパフォーマンスやMVを見てちょこちょこ修正した邦訳を下記に再度載せておきます。 誤訳などいろいろあると思うので、もしお気づきの方がいらしたら、どんどんコメントでご指摘ください! ---
Ruoska(鞭)
[エリカ] なんで私の人生を壊そうとするの? 私はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび その痛みが私を奮い立たせる (カーリヤ…)
[カーリヤ] ガソリンスタンドに座り込む俺は滅茶苦茶な気分 朝イチのコーヒーを飲む気にもなれず パンを食べる気にもなれない 俺たちは全力で駆け上がってきた なぁベイビー、準備はできてんだ、かかってこいよ 森の小道は岩だらけで自転車はボロボロ 痛む膝で俺は何キロも何キロもペダルを漕いだ 表に見えてる傷なんてこの夜を邪魔したりはしないさ 逆境っていうジャックナイフがとっくに俺のことを削ってんだからな (行くぜ、ヴィクマン)
[エリカ] なんで私の人生を壊そうとするの? 私はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび その痛みが私を奮い立たせる お情けで抱きしめられたって 生きてるって感じはしない 鞭打たれなきゃ 鞭打たれるたび 痛みが私を奮い立たせるの
[カーリヤ] 家の中はスキーが要るレベルの大雪 カリ・ペッカレベルの不安が積もる 住宅管理会社が湿度チェック中 階段が水浸しになったから 俺はアガり続けたい (アガっていきたいんだ) 俺はマゾで、俺の人生はスリルに満ちてる ジャスティン・ビーバーについてまわる"Baby"みたいに 挑戦は俺につきまとう でもビターなRiesenを味わっちまったら甘いKinderじゃ物足りないだろ? (前はそれ嫌いって言ってなかったっけ?)
[エリカ] なんで私の人生を壊そうとするの? 私はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび その痛みが私を奮い立たせる お情けで抱きしめられたって 生きてるって感じはしない 鞭打たれなきゃ 鞭打たれるたび 痛みが私を奮い立たせるの
(カーリヤ…なんて悪い子なの、お仕置きしなきゃ)
[カーリヤ] なんで俺の人生を壊そうとするの? 俺はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび
[エリカ] その痛みが私を奮い立たせる
[エリカ・カーリヤ] なんで私の人生を壊そうとするの? 私はすべてを捧げてきたのに 鞭打たれ 鞭打たれるたび その痛みが私を奮い立たせる お情けで抱きしめられたって 生きてるって感じはしない 鞭打たれなきゃ 鞭打たれるたび 痛みが私を奮い立たせるの
2 notes
·
View notes
Text
2023年6月24日 アルミホイル、神さまは牢獄の中にいる
ネットカフェ、天井にはアルミホイルみたいな質感の何かで包まれた太いパイプが通っていて、すぐ近くに一本、人ひとりが入れそうなくらいに太いパイプがある。それら二本のパイプの後ろには細くて黒いコードが何十本も通っていて、それらが何を伝達していて、どこに繋がっているのかは分からない。もちろん、コードで伝えられているものは電気のはずで、でもその電気がどこからやってきてどこへ向かっているのかは分からない。
***
世界について知れば知るほどに世界に対して失望していくし、文学について知れば知るほどに文学に失望するし、物事はどれも知れば知るほどに何かが失われていく。そのとき失われているものといえばそれは幻想で、人は幻想によってのみ駆動されている。
とはいえ、「お前は世界について、文学について、何を知っているんだ」と問われたのなら、もちろん何も知らない。いや、ほんの少しだけ知っていて、それは1%にも満たないようなことだけど、ほんの少しだけ知ってしまうことでも失われていく。ほんとうは何も知りたくない��、知ることの何がいいのだろう、と問いかけてみる。分かったからといって何がよくなるわけでもない。知らないよりも知っている方がいい、というのは常識的だけど、そんなわけがなくて、私たちは何も知らない方がよいのに、知識という暴力性を求める。
だから、というわけではないけれど、全知全能の神になんてものになったら自分はきっと絶望して、発狂してしまう。だって、全知全能であるということは、何も知れないし何もできないということと完全に同じなのだから。
すべてを知っていてすべてのことができる、というのは、すべてが既知ですべてが完全に固定されている世界で生きるということで、そのときの絶望を考えるだけで身がすくんでしまう。そこでは何も新しいことは起きないし、すべてが可能であるということによって、すべてが不可能になる。不可能という空白地帯(外部)が存在することによって可能という領域が初めて現れるのだから、不可能の存在しない世界にはいかなる可能もなくて、のっぺりとした平らな世界だけが無限に続くことになる。
神さまは、そんな中でどうして絶望して発狂せずに絶えていられるのだろうけれど、むしろだからこそ、神さまは人間ではない存在でなけれならない。人間のような心や精神を持たない存在でなくてはいけない。
シオランは『生誕の厄災』の中で、「神こそはもっとも追いやられている存在であり、牢獄の中にいる」というようなことを書いていたはずだけど、どうしてもクレジットカードの分割払いの引き落としに耐えられないときに『生誕の厄災』を売ってしまったので、確認することができない。でも、そういう一文が確かにあったと思う。
そして、今はその意味が(自分なりにだけど)とてもよく分かる。全知全能である、ということはひとつの絶望であり、神は全知全能という逃れえない牢獄の中に閉じ込められている。
***
一昨日くらいにメンタルクリニックに行って、コンサータの処方のために、心電図検査と採血をした。あとは、流通管理システム患者登録の紙を渡された。採血のとき、思ったよりも時間が長いので、このまま看護師さんに殺されてしまうんじゃないかと思った。意識が少しふらふらした。近くにある別の診察室から、「私は錠剤をのみ込めないので、錠剤タイプの薬は絶対ムリです。それ以外にしてください」と語る患者の声が聞こえていた。支払いのとき、検査代も込みで6000円くらいしたし、それに加えて薬の値段も一か月分で2000円くらいはしたので、お金がないとメンタルクリニックには来れないな、と思った。生活がどん底で精神がどん底のときに、これだけのお金(テーマパークにだって行けてしまう)を払うのは簡単ではないはずだから。
久しぶりにアトモキセチンの80mgを飲んでいるけれど、対して効果は感じていなくて、それでいて口の中が常に乾くし、食欲がなくなっている。何かを食べるにしても、もやのかかったような食欲しかない。純粋な、食欲その���のは消滅して、ときおりぼんやりとした食欲が顔を覗くだけになる。元々の無気力さも相まって、決してお腹が減っていないわけではないけれど、食べることがあまりにも面倒くさくて、どうしようと思う。頭痛がないのは幸いだった。
自分はコンサータに対してある種の期待をしていて、それは何かしらの変化をもたらしてくれるかもしれない、という期待。思えば、幼少期の頃はそれと同じような期待を、お風呂場の中で、自分の思考をすべて読んでいる(かもしれない)曖昧な神さまに懸けていた。初めから神さまは大脳皮質の奥にしかいなかったのかな。
***
知る、ということに関連する話として、古今東西の文学を読み続け、それこそ文学賞の審査をするようになったような人たちは、文学に対して退屈しないのかな、と思うことがある。つまり、彼ら彼女らはもう文学というもののパターンを大方把握していて、だからこそ応募された作品を評価できる。それぞれのタイプの作品のパターンをすべて知っているから、「この作品はこのパターンに乗った上で、この辺りの展開や要素を変えているんだね」と判断できる。でも、全体像とすべてのパターンを把握してしまえたとき、自分はそこに幻想を持てるのだろうか。何かを期待して、何かを待ち望めるのかな。
もちろん、パターンを把握した上でも、常に差異はあるし、新しいパターンの出現だってありうる、のだけど、やっぱりその状態で楽しんで作品を読める自信がない。この意味で、これはさっきの神と全知全能の話と近づくところがある。人間は(幸運にも?)全知全能にはなれないとはいえ、物事を俯瞰して見られるようになってしまった時点で終わってしまう何かがある。メタとベタの切り替えのためのスイッチが壊れてしまったのなら、すべてはのっぺりとした平らな世界になってしまう。あるいは、前回か前々回の日記の内容とも繫げるのなら、それは離人症の問題とも隣接する。
この世界が原子配列のパターンにすぎなくても、それでも世界が無限に多様であるように、作品が要素の集合にすぎなくても、それでも作品は無限に多様でありうるのだけど、どこかで自分はそれを信じ切れていない。
***
二階堂奥歯の『八本脚の蝶』を読み返していた。読み返すのは何度目かで、今回思ったのは、二階堂奥歯にはある種の絶対的な孤独(孤独、という言葉はたぶん正しくないのだけど)があって、しかし同時に、それは二階堂奥歯の周りに人がいないということではなく、むしろ彼女の周りには、それなりに彼女のことを思っているであろう人間がいる。でも、どうにもならないのだ。当たり前のこととして。
あとは、引用の多さ。その引用は根本的に「根拠を欠いた(=無根拠な)」世界にあって、それでも自分という存在を世界につなぎとめるための楔のようにも見える。
二階堂奥歯が引用しているものの中では、『聖マルガリタ・マリア自叙伝』を読みたくなる。「私は、苦し��なしでは一瞬も生きることができませんでした。私が苦しめば苦しむほど、私は、もっとこの愛の聖性に満足しました」(『八本脚の蝶』からの孫引きでp262)。
奥歯はこの引用箇所こそが自分にとってのマゾヒズムだと記していて、このとき面白いのは、当然だけど聖マルガリタ・マリアが生まれたのは1647年であり、マゾッホが生まれた1836年よりも200年近く早い。だから当然「マゾヒズム」なんていう概念も存在しない時代のことで、しかしそこには間違いなく、ある種のマゾヒズムがある。
ただし、彼女たちは「性的興奮」を得ているわけではないだろうし、言葉遊びになってしまうけれど、それは「聖的」なものでしかありえない。でも、鞭で打たれる人間が快楽を感じたとして、それが「性的」なものであるか「聖的」なものであるかを区別することなんてできないわけで、社会の編成の問題になる。
あと、直感としては、絶対者(神)の失墜とサディズム/マゾヒズムの概念の誕生は関係していると思う(だってそれらは絶対者のパロディだから)けれど、そもそも、クラフト=エビング(1840-1902)がサドおよびマゾッホという二人の作家から「サディズム」と「マゾヒズム」という症候を分離した背景には精神医学の台頭もあるわけだから、そこでは複雑な線が絡み合っている。
***
恐山、Youtubeの番組で「アイドルに必要なことは?」と聞かれて、「短所を伸ばすこと」と答えていて、あまりにも的確だと思った。最も短い文字数で最も本質的なことを言っているし、正当な形で本質の槍が振るわれている。
***
スマートフォンのGoogle choromeのタブの数がもう表示されないくらいに増えていて、おそらく1000個以上はある。そして、それは自分の脳も同じで、1000個くらいのタブがつねに開かれたままになっているから、物事を一つも進めることができない。本来の自分は常に過眠ぎみで、それは明かな実行機能の悪さとも関連している。
***
メルヴィルの『バートルビー(Bartleby)』を読んだ。ウォール街の中心で、代書人として雇われたバートルビーは、真面目に仕事をこなす一方で、「そうしない方が好ましいのですが」(I would prefer not to)と言って機械的にすべての頼みを拒み続ける。思ったのは「I would prefer not to」の訳が訳者によってそれぞれ違うということで、杉浦銀策の訳だと「その気になれないのですが」だった。
この短編におけるバートルビーは解けない問いのような存在で、語り手は理由も語らず、不条理にすべてを拒むバートルビーを様々に理解しようとするものの、バートルビーはどのような理解もすり抜けていってしまう。
そういえば、『批評と臨床』でドゥルーズはバートルビーは〈意思��まったくなく、虚無を求める意志というよりも、意思の虚無なのである(憂鬱症的「否定主義」。彼らは、石と化し、意思を否定し、……〉と書いていた。バートルビーは意思がない人間なのではなくて、むしろ意思を否定する意思。
〈緊張症と食欲不振症の徴候を示してはいても、バートルビーは病人ではなく、病めるアメリカの医者、呪医であり、新たなるキリスト、あるいはわれわれすべてにとっての兄弟なのである〉(G・ドゥルーズ『批評と臨床』、p186)
***
これで最後。市川 沙央『ハンチバック』のラスト、身体障害者の女性が不幸な風俗嬢としての生を仮構して語ることと、不幸な風俗嬢が身体障害者の女性の生を仮構して語ることが、裏返しうる形で提示されることについて。村田紗耶香以外の選考委員は否定的だった記憶があるけれど、むしろあのラストは重要だったのではないかと思う(でも、どうして?)
3 notes
·
View notes
Text
Essay18
少しずつ大切な人たちが自分から離れていく感覚がある。
最初に大切にしていた元彼に裏切られた。離れられたというより私が突き放した。ショックで混同した。会いたくないし顔も見たくないのに頭から全然離れてはくれない。楽しかった思い出や会話を思い出しては頭を悩ませる。あの時こうしていれば、という後悔ではない。私の人生は私の人生だから、相手にばかり合わせていれば精神は摩耗する。「カナからの無償の愛に対して、関係性が希薄になっていくことに、罪悪感を感じなくなっていった」 浮気関係が始まり、罪悪感も回数を重ねると薄れていき、目前の快楽に身を乗じる。私が裏切られたという感覚を抱いたのは、私に対して好意が向かなくなったことではない。何度も言うが、関係性を同時並行にし、自分に対して、誠実に謝罪なくとも別れを告げることをしなかったことに対して怒りを感じている。「ここまで仕事が辛いと女に逃げたくなる気持ちもわかる」と浮気に気づいていなかった時の自分に対して言われた。浮気を正当化することがよくわからなかった。人を傷つけることに対して無感動で、自分が傷ついたことがないから、そんなことを言えるんだと思った。楽観的である彼がいつも頼もしかったけど、真実に対して不誠実なことだけは許せなかった。
囚人服が可愛いとひっきりなしに言っていて、1度も首肯されたことがなかった。可愛くないのかな、と思っていたら元彼が囚人服は俺が気になっているものだと言ってくれた。その時価値観が合っているな、と思っていた。価値観が合っていなかったというより、人生観が合っていなかった。傷に向き合い続けるマゾヒズムな自分と、楽観的に楽しく行きたい彼、それがわからなかった自分への苛立ち。優しさを、愛を、丁寧に注いでいたつもりだった。その優しさや愛でさえ、エゴだったのかもしれない。人に優しくありたいという自分のエゴだったのかもしれない。そう思うといてもたってもいられず、今までの自分の行いや他人に対するリアクションがますますわからなくなった。
旧知の友人との少しの亀裂。自分も変わっているし、相手も変わっている。自分が変わっていないところもあれば、相手も変わっていないことはある。考えようとすればするほど涙が出るばかりで、何もわからなかった。変わることも変わらないことも何も悪くない。時間の経過とともに、大なり小なり人は変わったり成長する。そう思うと、自分が何をしてきたのか、成長できているのか、はたまた成長を拒絶しているのかわからなかった。全てがサイケデリックに自分の中へ入り込み、もう何も見えなかった。記憶が朦朧とした。目の前が���んだ。原因不明の涙が一筋こぼれ落ちた。涙を流しているのに、無感覚だった。燃え上がるような激情も、湧き上がる怒りもそこには含まれてなかった。ひっきりなしに、心臓だけは絶えず鈍く傷んでいた。
0 notes
Text
「SMプレイ」の知られざる一面を徹底解説!
### SMプレイに関する楽しい雑学とトリビア SMプレイ、つまりサディズムとマゾヒズムのプレイは、実は多くの歴史や文化的背景を持ったとても興味深いテーマです。ここでは、SMプレイに関するいくつかの面白いトリビアをご紹介します。 1. **歴史的背景**: SMプレイの起源は古代から存在しており、古代ローマやギリシャの文献にもその痕跡が見られます。例えば、古代ローマでは、剣闘士が観客の前で様々な形の肉体的苦痛を体験することが娯楽とされていました。 2. **心理的要素**: SMプレイには心理的な側面が大きく関わっています。多くの人々が、支配と服従のダイナミクスを通じて、日常生活では感じられないような高揚感を体験します。このような体験は、信頼関係を深めることにもつながります。 3. **現代のトレンド**:…
0 notes
Text
西成彦 Nishi Masahiko 著作の一部を紹介

【1】西成彦 『外地巡礼――「越境的」日本語文学論』 みすず書房 2018、第70回読売文学賞〈随筆・紀行賞〉受賞
「旧植民地・占領地のみならず、北海道・沖縄から、南北アメリカの移住地まで―― 〈日本語使用者が非日本語との不断の接触・隣接関係を生きるなかから成立した文学〉…を、過去に封じこめることなく、今日的な問題としてあらためて引き受けること」

【2】西成彦 『ターミナルライフ――終末期の風景』、作品社 2011
「〈害虫〉として家族に疎んじられながら死に行くグレーゴル、 死刑囚として無為の時間のなかをまどろむムルソー、 生きた竹馬に乗りながら老人の生に思いを馳せるマルセル……。 20世紀文学の描く、老いと死を読み解く、文学エッセイ!」

【3】西成彦 『声の文学――出来事から人間の言葉へ』 新曜社 2021 「ヒミツはいつ、誰の前で言葉にされるのか? 水俣病、戦時性暴力、レイシズム、ジェノサイド――理不尽な暴力にさらされた非主流者/周縁的な存在たちひとりひとりからこぼれ出る抵抗の声は、いかにして社会へと開かれ、それを聴き取る者、それもまたひとりひとりであるわれわれを「社会的な力」へと変容させる「文学」たり得るのか。」

【4】西成彦 『多言語的なアメリカ――移動文学論3』 作品社 2024
「英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、パトワ、イディッシュ、パピアメント、日本語…… さまざまな言語が鳴り響く、新たなる「アメリカ大陸文学史」の試み。移動文学論の第三弾!」

【5】西成彦 『カフカ、なまもの』 松籟社 2024
「世界にはびこる、目を背けたくなる現実の数々をそれでも直視するために、カフカをどう読んでいくか。著者が折々に書きついできたカフカ論集成。」
そして――


『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち――声のざわめき』 西成彦、洛北出版、近刊(2024年9月末刊行)
* * *
著書(単著)として――
『マゾヒズムと警察』(筑摩書房、1988)
『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波書店、1993 /岩波同時代ライブラリー、1998 /熊日文学賞)
『イディッシュ 移動文学論 I』(作品社、1995)
『森のゲリラ 宮沢賢治』(岩波書店、1997 /平凡社ライブラリー、2004 /日本比較文学会賞)
『クレオール事始』(紀伊國屋書店、1999)
『耳の悦楽――ラフカディオ・ハーンと女たち』(紀伊國屋書店、2004 /芸術選奨文部科学大臣新人賞)
『エクストラテリトリアル 移動文学論 II』(作品社、2008)
『世界文学のなかの『舞姫』』(みすず書房、2009)
『ターミナルライフ 終末期の風景』(作品社、2011)
『胸さわぎの鴎外』(人文書院、2013)
『バイリンガルな夢と憂鬱』(人文書院、2014)
『外地巡礼――「越境的」日本語文学論』(みすず書房、2018 /読売文学賞)
『声の文学 出来事から人間の言葉へ』(新曜社、2021)
『死者は生者のなかに――ホロコーストの考古学』(みすず書房、2022)
『多言語的なアメリカ 移動文学論 III』(作品社、2024)
『カフカ、なまもの』(松籟社、2024)
ほか 訳書として――
ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』(国書刊行会、2004)
コシンスキ『ペインティッド・バード』(松籟社、2011)
ショレム・アレイヘム『牛乳屋テヴィエ』(岩波文庫、2012)
シンガー『不浄の血』(共訳、河出書房新社、2013)
『世界イディッシュ短篇選』(編訳、岩波文庫、2018)
『ザッハー=マゾッホ集成Ⅰ』(共編訳、人文書院、2024)
ほか
0 notes
Text
「虚無への供物」中井英夫 1122
第一章
12十字架と毬
さて、 紅司の変死があった風呂場の様子の続きからです。
そこに、新たな発見があります。 爺やの側に小さな紅いゴム毬(まり)が転がっていたのです。 亜利夫の記憶では、そんな物はありませんでした。
当然、そんなものがあったとも書かれていません。
しかも、亜利夫はそのゴム毬をしまい込みます。 あとで藤木田にも見せたがどこからそんなものがでてきたのかさっぱり見当がつかなったのです。
どう考えるべきでしょう。 さすがに、ゴム毬では凶器にはならないかもしれませんが、 機械的に密室にする道具���一つなのかもしれません。 まあ、いずれわかるでしょう。
ここまで聞いていた久生は、これは立派な殺人だといいます。 立派かどうかわかりませんが、 そうでないと話が進みませんね。
その後、九段から駆けつけた蒼司と八田皓吉。 それから嶺田医師がやってきて、 急に白けた平凡な病死に変わってしまったというのです。
・水��は先に留められていた。 ・蛍光燈の点滅はただ古くなっための偶然の事故だった ・急に不通となった電話もよくある電話用ローゼットの接触不良だった。 ・紅司の死は、嶺田医師の診断では心臓麻痺か何かだということだった。 ・死亡時刻は、正確なことはいえないが十時半ごろ。
ただ、嶺田博士の一番の不満は、なぜ医者でもある橙二郎が応急措置をとらなかったかという点です。 たしかに変ですね。
で、橙二郎の狼狽ぶりが常軌を逸しているのです。 ・皆に呼び立てられえるまで顔を見せない。 ・二階の部屋で福寿草を煎じていたとか。 ・肝心の紅司の死体には近づこうともしない。 ・産院へ電話をかけて緑司の安否を確かめるなど。
橙二郎が怪しいということを表しているみたいですが、 こういうのに限って犯人じゃないんですよね。 その裏でもかかれるのでしょうか?
嶺田医師は祖父の光太郎時代からの主治医で、すぐにすべてを察し、 今後のことを蒼司と二人だけ死体の傍らに残って相談を始めます。
その後、十二時を過ぎたころ、 皆は、紅司が横たえられている座敷に呼ばれます。 嶺田医師が、乱暴にまくりあげた腕には、おびただしい注射の針痕や小さな絆創膏がみえ、 精神状態が安定していなかったことが伝えられます。 しかも、薬の大量摂取で、心筋梗塞ぐらいは起こしかねない状態だっとも。 ところで、服用していた薬として「ジギタミン」や「アンナカ」が挙げられています。
アンナカは、眠気をとったり、頭痛をやわらげるお薬です。 ジギタミンは、強心薬として出てきました。これが、どういう効果があるのでしょうか? その当時は、頭痛薬として有効だったのでしょうか?
それよりも、 嶺田医師が心配していたのは、 紅司の背中のミミズ腫れ、鞭の痕のように見えるものでした。 二、三日経っているから、直接の死因には関係ないが、 小さい頃からのマゾヒズムの傾向が今も続いていたことを、 蒼司に確認して、その善後策を検討することになります。
まあ、世間��を考えると仕方ないのかもしれませんが、 やはり、 一般の家とは違うんですね。
そのことは、伏せるとしても、 嶺田医師は、殺人を疑っているみたいです。
蒼司が、紅司の性癖に気が付いていたし、 時々知らない人から電話がかかって出かけることもあったといいますね。 第三者がいることになりそうです。
蒼司は、 異様な雰囲気ではあったというけれど、まず心臓麻痺だと思いっていいといいますね。 状況から言ってもそうですもんね。
と、藤木田が引っ掻き回します。 こいう人だったと思いませんでした。
風呂場が密室状態で外傷も毒物の痕跡もない。 だから他殺ではないということだろう。 しかし、密室状態の風呂場に出入りする方法さえ見つけたら、 これは殺人事件となるのでは? なんか無茶苦茶な感じもしますがね
案の定、嶺田医師にたしなめられます。 そんなことよりも 嶺田医師は、紅司の背中の秘密のほうが気になっています。
で、 最後には蒼司が皆の考えをまとめた形で、 嶺田医師をさとして、警察を呼ばないことに決めてしまいます。
ここまで聞いていた久生は、 氷沼家の名誉を守るために“病死”ということにしたのかと一応納得したみたいですが、 鞭痕の秘密を表ざたにさせないために風呂場を利用するなんて、 そこに犯人がつけ込んだのだと感心しますね。
ところで、秘密を曝(あば)いてという表現がされてました。 本来、この曝という字の意味には、覆ったり隠したりせずに誰もが見られる状態にすることなどあり、 ルビは当て字ですね。
その当時は、そういう使い方もしていたのかもしれませんが、本来なら暴くっですね。
しかも、 久生は犯人が判ってる? と言いながら、持ったいぶって名前を言いません。 藤木田も犯人や密室のトリックまで判っているみたいです。
完全に読者は置いてけぼりですね。
と、話が変な方向に向かいます。 推理の腕比べ?
明日の夕方、 亜利夫、久生、藍ちゃん、それに藤木田も逢うみたいです。
逢うのは目白の“ロバータ”っていう喫茶店です。 実際にあったとしても、 現在は流石にないでしょう。
もし、 架空の店だとすると、 店名に意味があるのでしょうか?
さまか伏線でしょうか?
普通に考えれば、英語圏の女性名ですね。 ロバートの女性形に当たる。他言語(イタリア語など)では同じ綴りでロベルタと読まれる。
有名な歌手や映画もありますが考え過ぎでしょうね。
つづく。
0 notes
Text
「ドМがアイデンティティ」キャラクター登場作品特集
痛い事は気持ち良い事? 「でもただのMじゃねえぞ。何度でも心の強さで立ち上がり、前に進む。ド級のM。ドMだ!」 「ド」。 漢字で書けば「弩」と、ドレッドノート戦艦級が転じて「すごい」と言う意味で使われるヤツ。 すごいマゾ気質である事が、キャラクターのアイデンティティとなっているパターン。 ちょっとMっ気があるでなく、「痛みが足りない! もっとだ!」と言うスタンス。 この記事では、そんな密かに人気な「ドМがアイデンティティ」なキャラクターが活躍する作品を紹介していく。 マゾヒズム・被虐性欲に支配された怪物を楽しもう。 Continue reading 「ドМがアイデンティティ」キャラクター登場作品特集

View On WordPress
0 notes
Text
■導入
・首からフェザータッチ
・バックハグ
・脚を伸ばしてる方がリラックスできる
・切り替える
■キス
・手が重要(手に目線を落として手と肩、首、両頬、耳、腰、顎)
■胸
・二の腕から
・無闇に触らない。吸わない。大切に扱う。
■クリトリス
・粘膜である。裏筋がある。
・円を描くように
・力を入れない(硬くしない)
・ほんの少しだけ吸う
・皮をあげて、上半分を左右に
・相手がイキそうな時にスピードをあげない。
■膣(クンニ)
・座らせる、騎乗位は相手の顔が見えるため恥ずかしいがMなら。ただしリラックスはしていない。
・入口は舌で、小さい円
・外側は舌全体で
■膣(指)
・Gスポットは3-5cm
・指入れは15分以降
・中は指を曲げずに、「腕」を動かす
・圧をかけるだけ
・動かすにしても短い距離(小刻み)で、こする
・小陰唇を内側に閉じて舌で押し込む
・2本入れる場合は交互にタッピング説
■挿入
・7秒待つ。
・覆いかぶさる形は気持ち良いのはこちら側だけ。
・上向きに当たるように、こちらの上体を反らせる。
・バックの時は逆に、上から下。相手の上半身を落とす。
両手を引っ張ることは「身体の固定」によるマゾヒズムの充足。
・(首は鎖骨上の2点のみ)
・足を抱え込ませたら、下から上に、を意識。
・常に「少しずつ」を意識。
・松葉くずし→女性のみ側位→通常の側位。
・入口、中、奥の三段階がある=ゆっくり。
・一番奥から更に押し込むように圧をかける。
・騎乗位の時は太もも支えちょっと浮かせる or こちらの腰を少し浮かせる。
・シュートピストン(打ち抜く)ではなくスクラッチピストン(細かい動き)。
・顔を見る。女性側の「どこ見たらいいの」=別の事を考えてしまう、を満たす。
■声掛け
・相手が感じていることに対して、可愛いよ、キレイだよ。
・興奮してきた。
・気持ちよくなっていいよ。
■反応
ドーパミン←精神的充足、月経後排卵日前後に行うことで、反復性。
熱くなる。汗ばむ。呼���。思わず身体が動くか。
腹筋の動きの有無。骨盤の動きで必要性を確認する。
0 notes
Text
この人のこの手の記事は杜撰なのね、列挙と対比による��ナロジーで結局理論がない。複数の機序を記述しそこから同一性を見出しまとめられないと煽りだね
0 notes
Text
「暖房、暑いんだけど、切っていい?」と少年はぶっきらぼうに言った。
「ああ、いいよ」と答えて、健人はリモコンの〈停止〉スイッチを押した。『人の家に上がった身でこの物言いは、さては売り専かなにかだろうか』と健人は思った。それは実体のない偏見だった。
アプリで引っ掛けたこの少年はプロ��ィール欄に「大学生 M 顔は出せません」と書いていた。普段相手の顔を見ずには会わないことにしている健人だったが、今日は疲れていて誰でもよい気分だったので、自宅から距離の近いこの少年を選択した。健人がこの少年を選んだのにはいくつか理由がある。距離、十八という年齢、大学生、マゾヒスト。つまり、健人は記号を買ったのだった。イメージではなく、記号を買ったのだった。
健人はおもむろにズボンをパンツごとずり下ろし、ベッドに腰掛けた少年の眼前でモノを顕にした。少年はレジで客をさばくようにそれを見た。健人は少年の顔がまとっている東南アジア的な雰囲気を確かめた。肌は浅黒く、頬上に点在する赤ニキビは、その色のせいか目立たない。目の彫りは深く、その凹凸が作る陰影は迂遠な媚態をたたえている。健人は少年の髪、根元が黒くなった金色の毛髪を軽く鷲掴み、勃然としたモノを少年の口元に誘導した。
少年は前後に運動を始めた。しばらくして少年は「蒸れてますね」と言った。その目は一瞬間、喜びの色を示した。健人はそれを見落とさない。健人は『この少年はセックス以外にゴタゴタした話をしたくないのだ、マゾヒズムに徹するためには事前事後の蛇足的な会話をできる限り省略する必要があるのだ、言葉は受動性を毀損するのだ……』と思った。少年は単純な汚辱を求めている。だが、健人のそれを咥える少年の浅黒い顔は、やはりどこまでも機械的であった。健人は自分の「サディスト」としての所在のなさにいたたまれなくなり、八つ当たり的に少年の喉を突いた。少年の深い目から、もっぱら生理的な涙がつたった。
1 note
·
View note