#ポストモダン
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フィクションを楽しむことを「消費する」と表現するのがまず良くない。マクロ経済学で家計を算出するために便宜上使っていたものを、日本のポストモダン社会学者が自己言及の皮を被ったマウント気味の批評で悪用した文化が根付いてしまった。本当に良くない。
Xユーザーのアーノルドさん
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インターネット上で、フェミニストを標榜しながらトランスジェンダーを差別するような人々に対していつ頃から懸念を抱いていたか、振り返ったが、おそらく2011~2012年頃からだったと思う。AKB48『ヘビーローテーション』MVをめぐる喧々諤々とか倉田嘘『百合男子』ミームをめぐる喧々諤々とか見ていて
当時の「腐フェミ」(「腐女子」でフェミニストなひとの自称)のネット上での発言などから、これ現状の女性差別がひどすぎてアテンション集まってないが、いずれまずい事態になる予兆だ、と感じていた。もちろんフェミニスト標榜しかつオタクぎらいな人々の発言(たとえば会田誠批判のやりかたなど)で
不安を覚えたものも幾つかあった。「まなざし」「お気持ち」云々でポストモダン思想踏まえた第三波フェミニズムの知見を葬送する勢いが強まり、理論をフォローせず運動進める向きの力が増した。一面、それはグローバルなMeToo運動と呼応してもいた気がする。が、不安や懸念も、現実になってしまった。
江永泉(@nema_to_morph_a)さん / X
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2023年の年頭に宣言した通り、オーウェル『1984年』の全訳をあげました。 genpaku.org html版と、pdf版があるので、まあお好きに。当然、クリエイティブコモンズなので、自由にお使いください。個人的にはいま出版されているどの翻訳よりもいいとは思うが、それは趣味もあるでしょう。商業出版したいとかいうところはあるかなー。なければ自分で電子ブックでも作って売ろう。 追記:商業出版したいというところが出てきたので (まだ確定ではありません) 、いまのうちにダウンロードしたりあちこちにばらまいたりしておくといいと思うぞ。(11/28) ビッグ・ブラザーのポスターでもトップにかざろうかと思ったけれど、みんなおどろおどろしいものばかりで、小説の記述に即したニュートラルなものがあまりないので少しびっくり。 訳していて、いろいろ含蓄があっておもしろい。ゴールドスタイン『寡頭制集産主義の理論と実践』や、特にオブライエンの理論は、ほとんどポストモダン理論で、ポモがなぜ弾圧と��制にはしりたがるかがよくわかる。現実は存在しない、過去は人々の意識と記録の中にしかない! そして、多くの人はウィンストンとジュリアの悲恋に反応するけれど、ぼくはなんだか、お母さんとのかすかな思いでのほうに心が動いた。ウィンストンが最後に思い出すのもそれだし。そこらへんも含め、いろいろ読める。とはいえ、最後にウィンストンが捨て身の反逆を試みるときの核はジュリアへの想いなので、たぶんジュリア中心に見るのは決してまちがいではないのだろうけれど。 ちなみにぼくは、バージェス『1985年』のほうを先に読んだんだけれど、あまりおぼえていないというか、あからさますぎて鼻白んだ記憶がある。ただ彼が、ウィンストンは植物の名前とかをやたらに知っているが、すでに1980年代でも都会人はそんなもの何も知らないので違和感があると言っていて、時代の差やことばの現れ方に関する考察を展開していたのはおもしろかった。
オーウェル『1984年』全訳完成 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
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悲報】トリチウム生体濃縮説で著名な宮台真司先生、ついに「似非科学ヲタを煽り、時間をかけて処理したら、似非科学ヲタは宮台にほぼ絡まなくなった」と総括してしまう。トンデモ枠に転落して誰からも呆れられ相手にされなくなった自分を、ひたすらポジティブシンキング!
(1) Xユーザーの丹羽薫(ニワカちゃんの憂鬱)さん: 「【悲報】トリチウム生体濃縮説で著名な宮台真司先生、ついに「似非科学ヲタを煽り、時間をかけて処理したら、似非科学ヲタは宮台にほぼ絡まなくなった」と総括してしまう。トンデモ枠に転落して誰からも呆れられ相手にされなくなった自分を、ひたすらポジティブシンキング! https://t.co/RnIPOSg3Qz」 / X
90年代からもともとトンデモ枠でしょ、このブルセラおっさんは。
一部のインテリ層がやたら持ち上げてただけで、中身なんて何もないじゃんね。
ポストモダンって中身ただの赤ちゃんみたいなおっさんおばはんだらけじゃんか。
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『物語消費論改』大塚 英志 著 ( KADOKAWA )
チクチクする手触り。
「物語消費論」から「愚民社会論」へ
第1部 物語消費論・改(物語消費論とルーシー・モノストーン—いかにして物語を現実に越境させうるか;ポストモダンの時代に大きな物語はいかに延命したか—『スター・ウォーズ』化した中上健次をめぐって;脱政治化するサーガ—『宇宙戦艦ヤマト』と無国籍ナショナリズムの成立;寓話機能不全の時代とジブリ)
第2部 物語消費論・再(記号の陰の物語;物語消費論の基礎とその戦略;麻原彰晃はいかに歴史を語ったか—��土谷ノート」を読む���「ビックリマン」と天皇制;他者の幸福のための消費)
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2023年06月19日 器官なき身体、あなたがずっと私を忘れませんように
いよわの「地球の裏」を聴いている。「地球の裏 25グラムの嘘」から始まる、いつも自分がそうであるぐちゃぐちゃの脳みその中みたいなパートが好きで、自分のぐちゃぐちゃの脳みそと、聴いている脳みその(計算された、秩序化された)ぐちゃぐちゃさが同期するのが心地いい。
今日は初め、Nirvenaを聴いたりゆらゆら帝国���昆虫ロック」、青葉市子を聴いたりしていたものの、何を聴いても今の自分には合わない感じがしてしまっていて、結局、ずっといよわの曲を聴いていた。いよわの曲についてはちゃんと考えたいと思っていて、でも、ボカロ曲の解釈というのは何か、現実的な物語のようなものに還元されてしまいがちな気がしているので、そうではない形の解釈ができたらいいな、と思う。曲そのもの、音そのもの、言葉そのものから生まれてくるその世界そのものを見たい。
「地球の裏」で言うと、「それでもまだ死ねない 生命体ですにゃあ」のところの「にゃあ」があまりにも空虚で、その空っぽさに親近感を覚えてしまう。
***
丹生谷貴志『死者の挨拶で夜がはじまる』を読み始めた。ドゥルーズの「器官なき身体」の話や、「離人症の光学」と名付けられた文章だったりが載っている。
p16で、〈「器官なき身体(Corps-sans-organes)」がアニミズム的に了解されてしまっているところがあるけど、実際には器官なき身体はもっと徹底して唯物論的である〉、というような話がある。つまり、日本語で「器官なき身体」と言うとぐにゃぐにゃしていて有機的な身体を想像していしまう可能性があるけれど、そうではなくて、それは身体がある状態であるにもかかわらず、徹底して唯物論的で、極限まで受動的で(ときには苦痛にさえ近い)状態の身体。
ドゥルーズ/ガタリは『千のプラトー』で「きみ自身の器官なき身体を見つけたまえ」と書いているけれど、私たちの器官なき身体とはいったいどのようなものなのだろう。
たとえば、薬物中毒の身体、アルコール中毒の身体、マゾヒストの身体。つまり、それは脱自的な状態であり、主体としての「私」が揺らいでいる。そして、そうして主体が揺らいでいることにこそ意味がある。自と他の境界が揺らいでいること。
アルトーやーシュレーバー、分裂症(統合失調症)者にも特有の器官なき身体がある。器官なき身体は卵に似ていて、それ自体は受動性の極にありながらも、何かを生み出す実験の場となる。広く捉えるのなら、「全体によって統合されない部分の横断的結合」。
そういえば、少し前に話した人に「あなたの器官なき身体とはどのようなものですか?」と尋ねると、「球体関節人形」と答えていた。「君自身の器官なき身体」の一つに、球体関節人形がある。
それでは、私自身の器官なき身体とは何なのだろう。自分は一時間前に眠剤を飲んだので、世界はどんどん私という存在は曖昧になってきている。ただ、それ以前からして世界は離人的なのだけど、何にせよ、眠剤によって私は私という主体から遠ざかっていく。でも、それが器官なき身体であるわけではない。ドゥルーズは『千のプラトー』第6セリーで「器官なき身体に人は到達することはない、到達はもともと不可能であり、ただ、いつまでも接近し続けるだけ、それはひとつの極限なのだ」と語っていた。
思い返せば、幻覚剤が効いているときに、ゆらゆら動く世界の中で、頭の中にある真っ白な部屋に閉じ込められていたら仏様がやって来てあの世へと連れていかれて、「こんなにあっけなく人生って終わっちゃうんだ」と拍子抜けして、でもそこからすぐにこの世へと戻されて、またあの世へと連れていかれるということを繰り返していた時、あの幻覚と受苦の中で、少しは器官なき身体(CsO)に近づいていたのかもしれない。でも、別の仕方での器官なき身体はもちろんありうる。たとえば貨幣とは資本主義における器官なき身体であり、ある種の組織そのものが器官なき身体へと近づくということもありうる。
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今日、授業でラトゥールについ���の発表を聞いていた。面白かったのはサイエンスウォーズの話で、ソーカルが『知の欺瞞』でドゥルーズやデリダやラカン等の現代思想を科学的な観点から批判したことは有名だけど、今にして思えばソーカルは共産党員であるわけで、つまり単なる科学上の論争というよりも、その背景には大まかに共産党vs新左翼という構図を読み取ることができる。
共産党員である(つまり伝統的な左翼)であるソーカルは進歩主義的に科学の実在を信じざるをえないだろうし、それに対して(どちらかといえば新左翼の側にある)ポストモダン思想家たちは科学に対して、(ソーカルらのような立場に対して相対的には)構築主義的なアプローチを取ることになるのだから。
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大学では4人くらいで「少女革命ウテナ」の上映会に参加していた。25話から30話まで。いまはウテナが理事長に対する恋心みたいなものに目覚めかけているときで、ここには常に揺らぎがある。ウテナが欲望していたのは「王子様になること」であって、「王子様と結ばれること(つまりお姫様になること)」ではないはずだけど、そこに現実化した「王子様のような何か」を前にして、どうしても揺らいでしまうことになる。あとは、薫幹と薫梢の関係も好きで、幹が永遠にしたい「輝くもの」とは妹である梢との思い出だけど、それは姫宮アンシーの方へと投影されていて、常にすれちがい続けている兄妹。
上映会のあとには『冷たい熱帯魚』の話をした。冷たい熱帯魚、見たのはずいぶん昔だけど、今にして思えば、家父長制の究極系みたいな人間がいて、「弱い人間」である主人公が極限まで抑圧された結果、逆に主人公が家父長制の人間(強い人間)へと覚醒し、しかし最後に、娘によって反抗されるというところが大事なのかもしれない。
あと、映画「怪物」を見たいものの、映画のためにお金を払うと今���末のクレジットカードの支払いができないので、ずっと行くのを諦めている。文化になるためにはお金を用意しなくてはいけない
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千葉雅也の『エレクトリック』が面白いらしいので、新潮をどこかで見つけて読もうかな。『ハンチバック』は読んだので、芥川賞受賞作をすべて読んで、自分なりの予想とかをやってみたい。でも、そんなことをしている場合ではなくて、カフカを読んだ方がいいのかな。保坂和志がそう言っていたような気がするけれど、夢の中での幻覚かもしれない。
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青色のアトモキセチンカプセル(40mg)を飲むとき、近場に水がないのでとりあえずは前歯で挟んだ状態でそのままにして、水を飲むときに一緒に流し込む、という行動を取ることがあるのだけど、カプセルを歯で挟んでいるとき、いつも脳内で、シンジくんの乗ったエヴァが、アスカ(あるいはトウジ)が乗っているエントリープラグをかみ砕く瞬間のことを考えてしまう。
眠剤が効いた状態でずっといよわが流れていて身体が重く、すべてが、世界が曖昧になって来たので眠ります。明日、ちゃんと役所に行って必要な書類をもらえますように。おやすみプンプンで田中愛子が書いた短冊「あなたがずっと私を忘れませんように」の願いが叶いますように(この文章をを書いたとき、あの短冊の記憶を思い出したことで、田中愛子が抱いていたであろう救いのない感情がなだれ込んできてしまって、どうしよう、と思う、いよわの「地球の裏」を聞きながら、また眠剤を飲んで眠るしかない)。
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管啓次郎の朗読会『本とともに生きたいとのぞむ人たちへ』
比較文学研究者で詩人、エッセイストの管啓次郎さんの新刊『本と貝殻』『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社)の刊行を記念して、黄昏時のtwililightの屋上で朗読会を開催します。
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日時:6月24日(土) 開場:18:45 開演:19:15 終演:20:15 料金:1,700円 定員:12名さま 場所:twililight 屋上 (世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分) *雨天の場合は店内で開催します。
本という〈物〉の不思議。 それは、この世のあらゆるものとつながっていること。 ヒトが集合的に経験したすべての記憶・知識・情動が流れこむ一冊一冊の本は、タイムマシン、そして意識の乗り物。 いまこそ本を大切にしよう。 私たちのもとにやって来て、そして去っていった無数の本たちに、心からの「ありがとう」を。
件名を「本とともに生きたいとのぞむ人たちへ」として、お名前(ふりがな)・ご予約人数・当日のご連絡先を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
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プロフィール:
管啓次郎(すが・けいじろう)
1958年生まれ。詩人、比較文学研究者。明治大学理工学部教授(批評理論)。同大学院理工学研究科〈総合芸術系〉教授。1980年代にリオタール『こどもたちに語るポストモダン』、マトゥラーナとバレーラ『知恵の樹』の翻訳を発表(いずれものちに、ちくま学芸文庫)。以後、フランス語・スペイン語・英語からの翻訳者として活動すると同時に『コロンブスの犬』『狼が連れだって走る月』(いずれも河出文庫)などにまとめられる批評的紀行文・エッセーを執筆する。2011年、『斜線の旅』にて読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞。2010年の第一詩集『Agend'Ars』(インスクリプト)以後、8冊の日本語詩集と一冊の英語詩集を刊行。20カ国以上の詩祭や大学で招待朗読をおこなってきた。2021年、多和田葉子ら14名による管啓次郎論を集めた論集『Wild Lines and Poetic Travels』(Lexington Books)が出版された。東日本大震災以後、小説家の古川日出男らと朗読劇『銀河鉄道の夜』を制作し、現在も活動をつづけている。
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9月27日
『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』再読。 マクルーハンの「地球村」の概念において電子メディアは、一方では世界の均質化・集中化を加速させる鉄道や飛行機のような道具として理解され、他方でメディアそのものが場となりそこに地球村��現出するという空間的な隠喩を与えられている。 東は遠隔性を除去する道具としての理解を「速度=距離的」なメディア理解、情報の発信者と受信者のあいだの情報経路に「空間性」を見出す理解を「空間的」なメディア理解と名付けて整理する。 速度=距離的なメディア理解はマクルーハン以前からみられ、ハイデガーはラジオを例に挙げて「あらゆる種類の速度の高騰は遠隔性の克服を目指す」と言っている。 テ��メディアはその語源から遠隔性の除去を含意し、それは鉄道や航空機が実現したことをより高速で実現する。 この論考では”空間的なメディア理解がうむメディア空間(あるいはサイバースペース)なるものはいかなる性質をもつ「空間」なのだろうか”という問い自体を成立させる隠喩のほうをこそ考察する。 なぜ人々が情報流通の総体を「空間」として想像してしまうのか、メディアに「空間」を見出すことで人々はなにを行っているのか。 この問いに対してウィリアム・ギブスンやフィリップ・K・ディックらのSF小説の構造からアプローチしたり、フロイトやラカンの精神分析を援用して展開したりしていて、それ自体はかなり面白く読めるのだが、この論考が書かれた90年代後半から10年以上あとにインターネットやゲームに触れて育った身としては、少なくとも90年代後半と同じようなパースペクティブをもって読むのが難しい。 このことは濱野智史が「解説」で書いているように、2000年代以降に登場した様々なインターネットサービス群は「速度=距離的」なメディア理解で捉えたほうがその本質を理解しやすいものになっている。 濱野が「速度=距離的」な特徴をもったサービスとして挙げている「Twitter」や「ニコニコ動画」はあたかも「同期的」な(リアルタイム性が強い)コミュニケーションをしているような錯覚をもたらすために人々のあいだの「距離」やコミュニケーションの「速度」を高速化し疑似的な「いま、ここ」へと接近させるアーキテクチャであり、2023年のいまそのような「速度=距離的」なサービスは圧倒的覇権を握っている。 一方で、濱野はまさに「空間」の比喩に基づくものであった「セカンドライフ」の失敗を挙げて、90年代後半から2000年代にかけて情報メディアを「空間」として捉える想像力が失効していったと述べている。 情報メディアに対する空間的想像力の失効は、そもそもメディアの可能性の中心は近代的な「空間/主体化」のメカニズムに寄与することではなく、ポストモダン的な「ネットワーク/動物化」のメカニズムにこそ宿っているためだ。それは2023年の風景からも納得できる。 しかし同時に2023年の風景からは「速度=距離的」サービスの限界も見受けられる気がする。 それは隠喩の転換(「速度=距離的」から「空間的」への転回、あるいは回帰)を要請しているではなく、本質的に「速度=距離的」なメディアの可能性は人々のコミュニケーションということとは別の可能性をもっていることが明らかになったのではないかという意味での限界だ。 すごくざっくりと言ってしまえば、コミュニケーションということにはやはり「空間」が必要なんだろうと思っているのだ。
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2023年4月7日
【新入荷・新本】
『ex-dreams もうひとつのミッドセンチュリーアーキテクチャ』(ガデン出版、2023年)
編集・企画:福島加津也、冨永祥子、佐脇礼二郎 寄稿・インタビュー:権藤智之、ロイド・カーン、 ビクター・ニューラブ、セン・クアン、塚本由晴 デザイン:米山菜津子 印刷・製本:ライブアートブックス
A4判変形 300×216mm|272頁|日英併記|コデックス装
価格:5,280円(税込)
*郵便局のレターパックプラス(520円)で全国配送可能です。
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『Holz Bau』から3年。ガデン出版の第2弾は、最も新しい建築素材であるアルミニウムに着目してアメリカ建築をリサーチした。アルミニウムを活用した住宅や高層ビルから徐々にアルミニウムの未来的イメージが独り歩きして、やがてグーギー建築と呼ばれるロードサイドのダイナーへ、さらにはポストモダン建築へと発展していく。モダンからポストモダンへの転換期にあたる19のアメリカ建築と4つの日本の事例を、写真と図面、イラスト、漫画によって紹介する。
こうした多様な建築の理解を深めるため、論考やインタビューも含まれている。建築生産、建築構��が専門の東京大学の権藤智之による論考。『シェルター』の著者であり『ホール・アース・カタログ』の編集者でもあったロイド・カーンへのインタビュー。グーギー建築を代表する建築家アーメー ・デイビズの現在のパートナーであるビクター・ニューラブへのインタビュー。建築史が専門の東京大学、ハーバード大学のセン・クアンとの座談。建築家の塚本由晴との座談。さまざまな人との対話を通して、この捉えづらい建築に迫ろうとしている。
《本書で取り上げる主な建築家とその作品》
◆ゴードン・バンシャフト(アメリカ/1909-1990) マニュファクチャーズ・トラスト・ビル ◆ラファエル・ソリアーノ(アメリカ/1904-1988) グロスマン邸、シュールマン邸 ◆ルイ・アーメー、エルドン・デイビス(アメリカ/1914-1981、1917-2011) ノームズ・ラ・シエネガ店、パンズ・コーヒーショップ ◆ジョン・ロートナー(アメリカ/1911-1994) ガルシア邸、フィッシャー邸 ◆ルイス・カーン(アメリカ/1901-1974) エシェリック邸 ◆ロバート・ヴェンチューリ(アメリカ/1925-2018) 母の家
《目次》
002 はじめに
アルミニウム 016 書籍「アルミニウム・イン・モダン・ アーキテクチャー」再録
企業の夢 034 フェアフィールド・ゴールデン・ドーム 040 カワニール社工場事務棟 044 アルコア・ケアフリー・ホーム 052 レイノルズ・メタル社デトロイト支社 060 アルコア本社ビル 064 マニュファクチャーズ・トラスト・ビル
個人の夢 074 グロスマン邸 082 シュールマン邸 090 ダイマキシオン・ハウス 094 大智寺本堂 098 ソリッドとサーフェス 権藤智之
プラスチック 112 レイナー・バンハムの愛したオルトモダン 冨永祥子 120 フトゥロ 124 セキスイハウスA型 128 ロイド・カーンとex-dreamsの時代 ロイド・カーン × 福島加津也、冨永祥子、佐脇礼二郎
グーギー 144 雑誌記事「グーギーアーキテクチャ」 再録 150 ノームズ・ラ・シエネガ店 154 パンズ・コーヒーショップ 160 ユニオン76 ガソリンスタンド 164 ダウニーのマクドナルド 170 ハングリータイガー保土ヶ谷店 174 近代の理想を実現すること ビクター・ニューラブ × 福島加津也、冨永祥子、佐脇礼二郎
オルトモダン 184 ガルシア邸 196 フィッシャー邸 200 アイクラー・ホーム 208 エシェリック邸 218 母の家
リフレクション 234 近代の理想の実現 セン・クアン × 福島加津也、冨永祥子、佐脇礼二郎 246 あり得たかもしれない建築について 塚本由晴 × 福島加津也、冨永祥子、佐脇礼二郎 260 夢のシルエット 福島加津也
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「本当に頭のいい人は難しいことも簡単に説明できる」って主張、今から20年くらい前のインターネットで人気だったけど、最近では否定されるようになった。 じゃあ、なぜ当時の主張が人気だったかというと、(たぶん)簡単なことでも難解に論じるポストモダンが90年代までは大流行していたからで…
XユーザーのRootport🔥さん: 「「本当に頭のいい人は難しいことも簡単に説明できる」って主張、今から20年くらい前のインターネットで人気だったけど、最近では否定されるようになった。 じゃあ、なぜ当時の主張が人気だったかというと、(たぶん)簡単なことでも難解に論じるポストモダンが90年代までは大流行していたからで…」 / Twitter
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9/22、23
タピオカからのエットレ・ソットサス、ポストモダンのライト、六角クロメートの話など🧋
スピーカーにスーパーマンのお面つけてトムサックス思い出す。シアタールームでMADMAX。
次の日亀戸のカマル2号でカレー食べて代々木八幡。2つ店みる。マチアプ用に写真撮る
現実に戻る火曜
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Cloud Computings
ZとK、デザインについて
黒沢清監督「Cloud クラウド」をみての印象は菅田将暉氏の鼻が予想以上に高く、造形も良かったコトだ。菅田氏の人気ぶりというのはこの鼻をマストにした船なのだろう。そんな重大事に終始気づかされる。黒沢清作品は映画好きのニンゲン嫌い、しかしニンゲン(スタッフ、キャスト、予算)いないと映画もない、だからアクションシーンで呆気なく退場させるしかない、という判りやすすぎるぐらいの図式だ。それに俳優陣が追従するという画だが、前作の「蛇の道」はそれを女性(柴咲コウさん)に担わせたコトで「ポストモダン黒沢清」になっていたように思う。今作は古川琴音さんの退場シーンで菅田氏が流す涙がたまらなく意味不明で、「アカルイミライ」で藤竜也氏に「私はきみたちを許す!」と言わせた支離滅裂さに匹敵するように感じた。あとは断片的だが、岡山天音君は黒沢組の綱引きで、一つじぶんに引き寄せた創作的演技をしていて、本当にキャラクター造形に手を抜かないヒトだなあと感心した。奥平大兼君は何かのメッセージもなくそこに佇む泰然自若さがすでに堂に入っていて、二人とも名は体を表す逸材だと感じた(奥平君は鼻の高さが菅田氏に匹敵していた)。
余談。黒沢監督は大島渚賞の選考委員として沢山のインディーズ作品に触れ、また学生の指導にもあたられているようなので、こういう極端な作品しか思い付かなくなっている可能性もある。世界的にZ世代と呼ばれる若い人びとにはアイデアもビジョンも生まれにくい環境である。それは結論的には、1984年にApple社からMacをリリースし、いかなる辺境にも行き渡ったかにみえるiPhoneを開発したSteve Jobsがそれを世界平和のために有効活用するいかなるアイデアもビジョンも示さずこの世を去ったコトと無関係とはいえまい(周知のとおりiPhoneによってZ世代のメンタルヘルスは甚大な被害を被った)。かれの「黒」のタートルは三宅一生がデザインしたモノであり、禅に傾倒していたコトはよく知られている。日本人の無自覚によってかれが天命のようにデザインした世界そのものにZ世代がコミットする道は閉ざされているかにみえる。しかし、黒沢清氏が世界的に期待を集める理由はそこにのみ存在する。それが「Cloud」という映画のインパクトである。
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良いエッセイであり、より大きなアイデアに関連するもので、次のように要約できると思います。近代 (またはポストモダン?) の主要な特徴は、過去に起こったことを特定し、ラベルを付けることで、その出来事が起こらなくなるという主張です。今日。 これが宗教的信念、政治、生物学などに影響を及ぼしていることがわかります。 私たちはセイラム魔女裁判について読み、過去の愚かで理不尽な人々を笑います...そして、私たち自身も非常に似たような行動をとります。 これに対する解決策が何かはわかりませんが、(ニーチェやフーコーが行った方法で)現代の一般的なアイデアの起源を研究することは良いスタートだと思います[1]。 1. https://en.wikipedia.org/wiki/Genealogy_(philosophy)
正統派特権(2020) | ハッカーニュース
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この国は近代化に失敗した近代はまだ訪れていないとかいやいやこの国は前近代だからいいんだ義理と人情があるとかみなさん近代近代近代ってうるさいけれど、そもそも近代って何、何を根拠に近代っていうの、何が近代で何が前近代なの、それはどうわかるの、その証拠はなんなの、わからない、何もわからない、テクノロジーが発達していたら近代なの、じゃこの世界で最も近代的なのは原爆なの原発なの、それとも君主政ではなく民主政が行われていたら近代なの、��もそもそも民主政って何、その定義はあるの、多数決なら民主政なの、三権分立なら、議院内閣制なら、大統領制なら、いかにその国が腐敗し切っていても民主政なの、それとも宗教を捨てて世俗化していたら近代なの、でも教会と国家って何が違うの聖典と法典って何が違うの、完全に世俗的な葬式や結婚式って存在するの、っていうかお辞儀や正座や敬語って何の根拠があるの、ああいうのも全部宗教じゃないの、それともこの世界から普遍化不可能な差別がなくなったら近代なの、人種差別も性差別も障害者差別も門地差別も国籍差別もない世界、それはたしかにいい世界だよね、だけどその果てに最も純粋な差別が残るとしたら、醜く、愚かで、卑しく、傲慢で、脂ぎって、軽薄で、嫉妬深く、自己中心的で、虚栄心が強く、金に目がなく、名声に固執し、好色で、ときに加虐趣味的でときに被虐趣味的な、つまりは「人間性」それ自体への差別が残るとしたら、その差別は本当になくすことができるの、それは可能なの、わからない、何もわからない、でもさだったらそもそも最初から近代なんて存在しなかったんじゃないの、近代か前近代かっていう議論それ自体が誤りだったんじゃないの、近代っていう概念を使わなければいいだけなんじゃないの、今も昔もずーっと中世で、これからも永遠に中世が続いていくっていう、それだけのことなんじゃないの、今が、今だけが近代で、今まではずっと中世だったのだ、時代は変わったのだもはや全く新しい時代が訪れたのだ、近代だいやポストモダンだ現代美術だっていう思考そのものが典型的に「人間的」なものでしかなかったんじゃないの、永遠の中世で何か問題があるの、これまでも人は続けてきたしこれからも人は続けていく、単にそれだけのことなんじゃないの、立ち歩き座り寝て、踊り歌い演じ奏で話し語り唱え書き、描き彫り編み縫い建て炒め焼き煮て炊く、そうして喜び苦しみ笑い泣き怒る、そうし続ける、本当にそれだけのことなんじゃないのそうじゃないの、「おしゃべりたちのおしゃべりを、始まりと終わりについてのおしゃべりを、ぼくは聞いた/だがぼくは始まりと終わりのことなどに言葉は使わぬ/かつて始まりがあったのなら今だってある/かつて老いや若さがあったのなら今だってある/いつか完成があるのなら今だってある/いつか天国や地獄があるのなら今だってある」(ホイットマン)。
続けよう。
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2023.03.19 岡崎京子の退屈と、空虚で透明な穴
昨日は、川で弾き語りをしていたら、やってきた警察官に立ち退かされて名前や電話番号等を控えられた後、家に帰って眠ると、フライされたコオロギを食べて「意外と美味しいよ」と誰かに言う夢を見た。最近、人と話していて、「あなたはもっと自分が、どのようなときにどのような感情を抱いているかについて自覚的になった方がいい」ということを言われたので、半分カウンセリングを受けているような気分でとても楽しく、そして絶望的に会話をしていた。自分にとって一番楽しいことは、楽しくそして絶望的であること、絶望的でありそして楽しいこと。イヤホンからは大森靖子が「アンダーグラウンドから君の指まで 遠くはないのさ iphoneのあかりをのこして」と歌う声��聞こえていて、いまもそれを本気で信じている。アンダーグラウンドという最果てと、今ここにある指先が���びつけられる。
RADWIMPISの「五月の蠅」を聴いたら、中学一年生の頃の夏のことを思い出した。大して興味もない部活の練習中に、練習をサボって校舎の裏みたいなところで誰かに「五月の蠅」を教えられて、それを聴いていた。「五月の蠅」を聴くと、あのギターのリフを聴くと、中学生の頃の炎天下のグラウンドが思い浮かぶ。数日前、京都市役所前ではデモが行われていた。村上龍の小説の中で猫が喋り始めた。映画、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と『RRR』と、『REVOLUTION+1』を見たいな、給料日まで所持金はゼロだけど。マクドナルドではカップルが向かい合って座っている。大森靖子が「料理長の音楽は豚肉の焼ける音だった」で、「君の好きなことが君にしかできないことだよ」と歌うのをもう、1000回くらいは聴いている。
***
〈見るための眼、呼吸するための肺、飲みこむための口、話すための舌、考えるための脳、肛門、喉頭、頭、足を、もはや耐えがたいものと感ずることは、なぜそんなに悲惨で危険なことなのか。なぜ、さか立ちで歩き、骨のくぼみで歌い、皮膚で見、腹で呼吸しないのか〉(ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー 上』、p310)
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人と話していて、急に現実感がなくなってしまうことがある。会話している自分と会話している相手を外側から眺めていて、その場面が切りとられているような感覚。そうなっても、もちろん自分は会話を続けている。これは現実なのか、現実じゃないのか、と考えながら会話を続けている、自分をずっとどこかから眺めている。こういうとき、急に「すみません、現実感がなくなってきました」。と言っていいのかな。でも、そういう内的な感覚って話し言葉にしてもどうしようもないような、そんな気がする。そんな気がする。自分の感情、自分の思っていることはやっぱりそれほど明確ではない。目の前に「綾鷹」のペットボトルがある、ということよりも、遥かに曖昧なものでしかない。「楽しい」と言葉にしてみれば少しそんな気もするし、「悲しい」と言葉にしてみればそんな気もする。
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Twitterという場にせよ日記という場にせよ、それを誰かに伝えたい、公開したい、という欲求が薄れている。というか、正確には、SNS的な、リアルタイムで何かを伝える行為への欲求が薄れているのだと思う。長いスパンで何かを伝えたい、という気持ちはずっとある。SNSでも日記でもなく、小説を書くべきなのかもしれな��。何日か前に、ひとつ小説が書けたので、そうやって続けていきたい。しばらくは水の中に潜っていたい。そこには熱帯魚が三匹泳いでいる。
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今日はバイトの休憩中に、ずっと「吉本隆明の183講演」のテキスト版を読んでいた。インターネットで吉本隆明の講演が183本聴けるし、読めるというのはほんとうにありがたくて、いま自分にとっては一番価値のあるサイトかもしれない(サイトそのものは「ほぼ日刊イトイ新聞」)。
「文学の戦後と現在 ――三島由紀夫から村上春樹、村上龍まで」で、吉本隆明は、村上春樹に対して、「対象の選択力が非常に強い」という表現をする。例に挙げているのは『風の歌を聴け』の、「ひと夏中かけて、ぼくとねずみが、まるで何かにとりつかれたように、25mプール一杯分ばかりのビールを飲み干し、ジェイズ・バーの床いっぱい5センチの厚さに、ピーナッツの殻をまき散らした。」という文章で、このとき、大雑把に、そして強く対象が選択されている。
村上春樹以前の世代であれば(たとえば大江健三郎)、もっと緻密に描くはずのものを、村上春樹は大雑把に、しかし強い対象の選択力で描く。そして、この対象選択の強力さが、文学として、重たい出来事を「軽く」している。大江健三郎までの文学は明らかに「重い」のに対して、村上春樹は明らかに書かれ方が「軽い」。そして、対象の選択が強力であるということは、ある意味飛躍があるということで、その飛躍は、しかしある種のリズムによって繋がれていく。リアリズムからも、緻密な描写、からも遠い方法。
ここでふと、この「対象の選択力」の強力さ、そして書かれ方の「軽さ」というのはブコウスキーの『パルプ』を読んだ時にも感じたな、と思った。ブコウスキーも、現実を現実のまま写しとるというよりかは、明らかに大雑把に対象を選択して、ある種のリズムの中でそれを繋いでいた。もちろん、ブコウスキーに限らずポストモダンの小説にはそのような潮流があるのだろうけれど、ブコウスキーが自分にとってはなじみ深いから。
たとえば、プルーストの『失われた未来を求めて』を読めば分かることとして、そこでは内面の持続というか、心の中で感じたことすべてが緻密に描かれている。すべて、というのは誇張ではなくて、たぶん、内面のすべてを、見たものすべてを描写しようとしている。それがある種の「重さ」だとすれば、ポストモダン文学には、対象選択の強力さと「軽さ」がある。
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「カール, カッセゴール. 退屈さとの闘争、衝撃へのノスタルジー : W. ベンヤミンと村上龍をめぐって. 京都社会学年報 : KJS 2001」も読んでいた。「退屈」をキーワードとして、ベンヤミンと村上龍、岡崎京子が引用されている。うる星やつら、終わらない日常、核戦争、オウム。限りなく透明に近いブルー、衝撃を人工的に生産すること。退屈さとの戦いの退屈さ。世界の破滅、という反復不可能なイメージでさえ、それが反復されれば退屈になる。 思えば、岡崎京子の漫画にはどれも愛おしいほどの退屈な空気感みたいなものがあって、村上龍『限りなく透明に近いブルー』には、暴力と性が加速し続けた結果としての、過剰な刺激ゆえのどうしようもない慢性的な退屈がある。 岡崎京子の描くあの日常(あるいは非日常)の、性や死を描くときの、その楽観的と言ってもいいくらいのグルーヴ感の中に、ぽっかりとあいた穴のような空虚さを見てしまう。自分の中では『pink』と『チワワちゃん』。というか、岡崎京子がそれを書くときの視線は、透明なもの、その生活に空いた空虚な穴を見ている。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』もそうで、村上龍の視線は、過剰に飽和した性と暴力という非日常(が日常化したもの)の反復の、その後ろ側にある空虚な穴を見ている。
村上龍について言うと(自分の読んだ中だと)、『希望の国のエクソダス』『愛と幻想のファシズム』『半島を出よ』『五分後の世界』『ヒュウガ・ウイルス 五分後の世界Ⅱ』は外へ外へと向かっていって、乾いた現実をただ描写している印象だけど、『限りなく透明に近いブルー』『共生虫』『MISSING 失われたもの』にはそうではない側面を感じる。ただ、『愛と幻想のファシズム』辺りの作品を読んでいたのは中学生の頃だから、記憶が曖昧で、『愛と幻想のファシズム』を借りた地元の図書館の静かな空気ばかりを思い出してしまう。そこにいたのはたいてい、小さな子供か、老人かのどちらかだった。
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最近、「意識レベルが低い状態」が幸せだと感じることが多い。睡眠薬で意識レベルが下げられている曖昧な状態が、一番幸せに近い。意識、が鋭敏な状態である限り幸福にはなれないな、と思う。意識レベルの低い曖昧な状態がずっと続いていて欲しい。だから、高校生の頃に読んだ『harmony/』で御冷ミァハが言っていたことの意味、そして意識が存在しない世界のその幸福さがとてもよく分かる。もちろん、そこに人間性は存在しないわけだけれど、人間性なんてはやく手放してしまえばいいのに、とほんとうに思う。でも、それに対して「人間性も必要かもしれない」と思う自分が存在してしまうから、そのコンフリクトと葛藤の中に意識が生じてしまうわけで、意識から逃れることができず、また、曖昧な状態を望むことしかできなくなる。
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美しさとはすべて機能美である
私は人工物的な美しさが好きだ
ただ、人工物的な美しさと言っても、それは無機���であるとかインダストリアルであるとかに留まらず、うまく設計されたコードや、論文などで展開される調和の取れた理論など、言い換えれば機能美に近い
北広島のエスコンフィールドはモダニズム建築の最たる例の一つだと思う。「形態は機能に従う」(ルイス・サリヴァン)という考え方を徹底している
一方で、ポストモダン的(雑にいわゆる芸術的な感じ)な建築は、ユニークで面白いと思う一方、つまらなくて却って普遍的という印象を受ける
なぜなら、スケーラビリティや工業的価値と調和が取れていないからだ
世の中にありふれているものと同じで退屈だ
「美しさ」と「機能」の関係
美しさと機能の関係について考えていた
美の概念は個人的で主観的なものである一方、歴史的には普遍的な美の基準が存在してきた
例えば、黄金比は古代から現代にかけて美しいとされる形状やデザインに広く使われてきた。これは、美が自然界や数学的な規則に基づいているからかもしれない
機能美は、デザインや形状がその機能と結びついている場合に美しいとされる考え方
芸術においても、作品の技術的な完成度や機能的な要素が美しさに寄与する場合が多い
建築やデザインでは、機能性が美しさと直結することがよくある
更に一般化してみよう
個人的で主観的な美の概念さえも、実は広義の機能美なのではないか?
美しさや感じ方をスーリオ美学でいうフォルムにまで還元しても、実は広義の機能美なのではないか?
心理学的な観点からも、美の感覚が普遍的な原則やパターンに基づいているという見方がある
たとえば、対称性や均衡が美しさを感じさせることが多いという研究結果もある
視覚的な快適さや認知的な容易さが美しさと関連していることを示唆する観察は数多く報告されている
文化的な背景や社会的な文脈も美しさの概念に影響を与える
特定の文化や時代では、特定のデザインや形状が美しいとされることがよくある
美しさが身近な・社会的に機能的な要素や普遍的な規則に基づいているからかもしれない
機能美にはレイヤーがある
対象となったものの機能に対して美しいと感じること
それに対し美しさを見出した感性そのもの
それを表現する技法としての機能美
形状・フォルムとしての機能美
どの視点を切り出しても機能美に集約される
文化や時代により見出される美しさは異なる
これはあんまきさんが関係あるかもと貼ってくれたフランソワ・ポンポンの特別展
写実的な動物彫刻が主流の当時発表された作品「カイエンヌの雌鶏」は、斬新であった滑らかな輪郭の美しさに対し、毛や羽根がない鳥として皮肉を持って迎えられた。 https://www.artagenda.jp/feature/news/20220524
文化や時代により見出される美しさは異なる
実はこれまであったすべての芸術理論、例えば写実主義・感覚主義なども、それぞれ写実的であることによる機能、感覚から得られる機能を切り出してフォーカスしたものなのかもしれない
それぞれに対し、上で書いた「対象となったものの機能に対して美しいと感じること」「それに対し美しさを見出した感性そのもの」「それを表現する技法としての機能美」に還元できるのかもしれない
実は、人類史上感じられてきた「美しさ」というものの正体が、広義の機能美であるかもしれない
なぜ機能美以外の何かではなく機能美なのか
美しさが文化や時代により異なる、相対的なもののため
フランソワ・ポンポンの描く哺乳類でさえ、写実が至上とされた時代においては美しさを認めない人も多かった
なぜなら、各レイヤーにおいて機能という観点で価値を見出しておらず、なんとなく絶対的なものと位置づけていたからだ
さらに、現代では哺乳類に機能美を見出す人は多いが、それと比べれば節足動物に美しさを見出す人は少ないし、深海魚に美しさを見出す人は少ない
なぜなら、我々哺乳類にとって機能すると考えられるものが、節足動物や深海魚で機能するものとは離れているからだ
なので、美しさは相対的で、その相対性は見出される機能が基準になると考えた
あらゆるものを美しさや感じ方として評価するときに、以上のように必ず見ている主体(自身)に対しての関係を見出しながら見てるのもあるよね
「機能美」という言葉で表現する必要はあるか
人類史上見出されてきた「美しさ」を分析する上でこの上ないツールになる
本の歴史でいうと索引ぐらい無機質で有用
上で書いたように、写実主義を「写実であることの機能」や「写実に描画する技法としての機能」と解釈することで、他の芸術理論と全く矛盾なく同居させることができる
エロを機能美として他の美しさと同居させることが可能
美しさを言語化するフレームワークとして機能する
現代では機能美の認知度が高いのでわかりやすく使いやすい
いやむしろ、「美しさ」なんてものの方が実は必須ではなかった言葉で、その実態は「機能的に感じる」とか「面白い」なのかもしれないよ?
結論
美しさはすべて機能美に還元されるのではないかと考えた
たとえフォルムにまで分解したとしても、そこには見ている主体(自身)との関係を元に見ており、機能を見出している。私が主張したいのは主観や純粋な美術的価値の否定ではなく、そもそも純粋な美術的価値の本質が機能性と分離できないものだということ
機能美に還元して美しさを観察することで、より多くの発見があるかも
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