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#フェミニストを許すな
momokyubus · 20 days
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信じられない形をした「八王子凹型のアパート」が実在するらしい...【都市伝説】
地図・空中写真閲覧サービスで確認したと2005年頃の同じ地点にまるで真ん中の無いような建物が有りました。
 動画の後半にある通り話を盛り凹型と心霊を組み合わせた可能性が有ります。 ただ、近年でも滝山病院での虐待の放置が取り上げられても改善する気も無いようなこの街には 多数の心霊話は有るし、今後も増えるばかりで、霊魂も報われることはないと思います。 土地の使われ方考え方も残酷処刑場跡地に結婚式場(すでに取り壊し済み) 近くの橋の焼夷弾跡のガラスブロックを橋の耐震強化時に無くす話もあった(猛反対が有り残った)
会議録で「滝山病院」、「発達障害」、「知的障害」、「精神障害」、「虐待」 、「戦争被害」 とよくあり気味のワード「女性」、「シルバー人材センター」、「スポーツ」で温度差を調べようそして怒りをぶつけよう。
八王子市議会市議会録
https://www.city.hachioji.tokyo.dbsr.jp/index.php/
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oy4z · 8 months
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俺だけ入れる隠しダンジョン:隠れざる地雷臭
2024年もはや2ヶ月経った中、このブログでは筆者が愛するオススメの作品の紹介をやってきた気がする
なんだけども今回の作品に限ってはオススメしません というか見ないで済むなら見ないことを推奨します よくあるエロ系ソシャゲの広告みたいになってしまったが、そのくらい地雷作品だったのでここで一つ共有しておこうかと
あらすじ
本筋の流れとしては、いわゆるなろう系のテンプレみたいなもので
RPG的な剣と魔法にて冒険者と呼ばれる役職が存在する世界観
主人公ノルがタイトル通り隠しダンジョンを見つけ、そこで出会った女神にもしもボックス的なチート能力を授かる
スキルの発動条件には性欲を満たす必要があるので、複数ヒロインとエロ展開に転がる
正直、本筋についてはこれ以上語ることも無く、ひたすらに俺TUEEEかつハーレム展開を見るといった感じ
リスクの一切ない展開
前提として、なんでいきなり都合よく隠しダンジョンがあるの?とかチート能力もらえるの?ヒロインが理由なく主人公に惚れるの?とかはなろう系なのでと飲み込んだのでそこは突っ込まないようにしておこうか...
ただ、設定上許せないポイントが、主人公がリスクを一切取らない点である
一例としては、 隠しダンジョンに潜ったところ次の分岐路に立つ主人公、それぞれの道には看板が
1人用: やや険しい危険の伴う洞窟
2人用: 1人用よりは安全
主人公「今は1人だしなあ、よし一度引き返してヒロインを呼んでこよう」
は?
フィクションのアニメ作品を見に来てるのであって、ゲーム実況見てるんじゃねえんだぞと思ってしまった...
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1人用の危険な道(らしい)、鉄骨渡りの500倍は優しいだろ
また、本作にはチートスキルの発動コストとしてLP(ライフポイント)の概念があり、自身の生命力(笑)が数値化される
この値が0になると死に至るという設定があるにも関わらず、死と隣合わせのLPがギリギリの戦い的なものは一切存在しない
仮にもバトル展開があるならハラハラさせる場面がほしいところだが本作にはそうした場面は取り揃えられていないらしい...ナニモク...?
不快になるモブ下げ
こうした作品ではメインキャラが優れていることを示す場面がたびたび存在する
(よくあるラブコメだとモブがやたらヒロインのことを褒めるガヤを入れるなど)
しかし、スマホ太郎といいなろう系にありがちな展開で、モブキャラを下げることで相対的にメインキャラを上に立たせるという(間違った)手法が存在する
当然この作品も例外ではなく、主人公のハーレムが優れていることをモブ下げにより示すという展開があった
それが第5話の「ハーレム自慢大会」 大量の観衆のもとハーレムを評価するという、何を食ってここから面白い展開が産めると考えたのか訳の分からない大会であ�� (この大会に参加する経緯も面白くないので割愛)
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モブのハーレム
主人公の前座として出てきたモブのハーレムに対して観衆が投げかけた言葉をセリフそのまま下に連ねていく
「おえっ、吐きそう」
「鼻っwそのブタっ鼻どうにかしてくださいよw」
「クソブス!異世界転生してやり直せば~?」
「きれいなのは髪だけ、ほかは全部汚くて笑った」
etc...
...スゴイな、このご時世に流したと思うとある種アッパレな気もする
ちなみにこの大会が展開上必要化と言われるとそうでもないのでばっさりカットしてもまあ問題ないと思う...なぜこれにGOサイン出したんだ...
当然この後出てくる主人公一行は観衆からベタ褒めされ、相対的にヒロインが可愛いことを示した、がここまでモブ下げが過ぎると悪印象ではあった
筆者は特別フェミニストでも何でもないが、これを見た際には流石に不快になった 制作側が意図していない胸糞展開は本当に悪だと思う...
じゃあお前なんでこの作品見たの?
はい、そうですそんな不快になるくらいならハナから見なければいいじゃないという話じゃん
でもこの作品を見ることによるメリットを筆者は確実に享受した
それは、この作品の次に見る作品がとてつもなく面白く感じるってこと
以前の記事にもB級アニメについて書いたが、それと見た理由は同じである
ただこの作品は、作品の質を知らないB級ではなく、パッと見ですでに(自分にとって)面白くないことが確定している、いわば地雷作品であり
通常のアニメ作品との質の差が一般的なB級とは比にならないので、見たあとに今まで見てきた作品に感謝できるようになる
おわり
なろう系がそもそも自分に合わないので、これを選択する前からこんな感想になることはわかってたよ...
サウナのあとに水風呂に入ると整うと言うだろう、 つまりはあれを求めたが、いかんせんサウナで火傷したといったところだ
ただ地雷を踏みに行くのは筆者のような呼吸をするように次の作品を求めるヲタクにとって、定期的に必要な儀式なんだよ...
皆々様はこんなdアニメストアゾンビにならないよう程々の距離感でね...
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kennak · 1 year
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現代のブラジャーの成り立ち  私たちが知っているブラジャーは、発明家と服飾改革者が胸の形を整えて支える新しい方法を提示したときに生まれた。ただし、現代のブラジャーを誰が発明したか、この点は意見が割れている。  コルセットを半分に切り、「スーティエン・ゴルジュ(喉サポート)」として販売した1880年代のフランスでランジェリーショップを創業したエルミニー・カドルか? それとも、1873年、コルセットの代用品として「フリント・ウエスト」の米国特許を取得した仕立物師のオリビア・フリントか? あるいは、1914年、透ける素材や背中を出したファッションに対応する「コルセレット」の特許を取得したキャレス・クロスビーだろうか?(クロスビーはこの特許を米ワーナー・ブラザーズ・コルセット社に売却、ブラジャーブランドは今も存在する)。(参考記事:「フォトギャラリー:時代を映す衣装19点」)  1930年代までに、ブラジャーはコルセットに取って代わり、不可欠な衣服になっていくなか、標準化されたカップサイズと調節可能なストラップが導入された。  1968年、米ニュージャージー州アトランティックシティで開催されたミス・アメリカ・コンテストにフェミニストたちが抗議する際に、その象徴としてごみ箱に捨てたほど、胸の形を整えるブラジャーは普及し、女性の性や美の基準と密接に結び付けられた(この出来事をきっかけに、「ブラジャーを燃やす人」は過激なフェミニストの代名詞になったが、抗議行動で実際にブラジャーが燃やされることはなかった。抗議活動の主催者であるキャロル・ハニッシュ氏は2008年、米公共ラジオ放送NPRのインタビューで、「[アトランティックシティの遊歩道でブラジャーが入ったごみ箱を]燃やすつもりでしたが、警察は……燃やすことを許しませんでした」と振り返っている)。(参考記事:「男性はビキニの女性を“対象”とみなす」)
あなたが思っているよりも実は長い、ブラジャーの歴史 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
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jinsei-pika-pika · 8 months
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「芸術新潮」2月号 特集「会田誠が考える新しい美術の教科書」
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現代美術家・会田誠。自身の作品《MONUMENT FOR NOTHING - にほんのまつり》(部分)の前で。 Courtesy of Mizuma Art Gallery
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――「芸術新潮」の編集部から、「新しい美術の教科書をつくりませんか?」というオファーを受けた時はどう思われましたか?
会田 おもしろい企画だと思いました。迷うことなく、「やります」と返事をしました。でも落ち着いて考えると、これはなかなか難しいお題だな、とも思いましたね。僕には息子がいて、最近の美術の教科書は実際に見ていたのですが、僕らの時代の教科書と比べると、ずっと良い方向へ進化していると思っていました。僕が何か提案しても、それはもう今の教科書に出ていますけど、ということになりそうで……。
――それで、どのように内容を構想していったのでしょうか?
会田 結果的には、ずばり言ってしまえば、「ドクメンタ」的現代美術の紹介が中心になりました。ドクメンタは、ドイツの田舎町カッセルで4~5年に一度開催されている芸術祭です。つまりは「社会派アート」というようなことになるわけですが、日本の一般社会から、あるいは美術の世界からも比較的無視されがちなジャンルかなと思って、そのあたりを多く紹介することになりました。とはいえ、僕個人が社会派アートが大好き!というわけではありません。ドクメンタには、2002年に1回行ったことがあるだけです。ナイジェリアのキュレーター、オクウィ・エンヴェゾーが欧州人以外で初めて芸術監督をつとめた時でしたが、すべての作品が社会正義を訴えるような、ドクメンタとしてもちょっと極端な回だったようです。「これが芸術? 社会科の発表会じゃないんだから」と、僕はその時は反発しました。しかし僕の作品も、もともとは絵画中心だったものがそうではない形式の作品も増えていって、この20年ほどで、ドクメンタ的な美術もやはりいいなと思うようになりました。第一印象で嫌いだった人がだんだん好きになっていくような感じでしょうか。美術の教科書であれば、まずは「形」と「色」、というのが当然のことだし、僕もそう思っているのですが、今回の教科書では、あえて「形」と「色」については何も語っていません。そして「絵画」と「彫刻」についても、それ自体をテーマとしてはほとんど扱わずに、ドクメンタ的な、社会に拡張してゆく美術を中心に紹介することになりました。
――教科書の「1時間目」のテーマは、「美術に政治を持ち込もう!」ですね。
会田 いちばん最初に出てくる図版が、酒井抱一の《四季花鳥図屏風》です。我ながら節操がなくて笑ってしまいますが、僕はまるで日本絵画大好き人間のような感じで、「死ぬまでにこの目で見たい日本の絵100」という「BRUTUS」の特集を監修していたりするのに、いきなり否定材料として抱一の絵を出しています。日本美術の特徴のひとつに「花鳥風月」があって、それにはいい面もありますが、裏返すと悪い点も抱えている。また、それに続いて、フランス革命と並走して近代芸術が生まれていった、という話になりますが、それも若い頃には、反発して、「オレたちは西洋と同じようにしなくていいんだぜ」と心の中で吠えるために調べていたことでした。立ち位置ひとつで全否定から全肯定に変わったり、出だしから、僕自身の矛盾した姿をそのままさらけ出すことになりました。
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――会田さんが教科書すべてを執筆するのではなく、ゲストの執筆者も何人か招いています。フェミニスト・アートについては岡田裕子さんが執筆したり、課外授業として、卯城竜太さん(Chim↑Pom from Smappa!group)と松田修さんの対談があったり、他の美術家の方々にも登場してもらっています。
会田 僕がすべて書くのでは読者もおもしろくないだろうし、僕が不得意なジャンルもありますから。ゲスト執筆者を招待したのはうまくいったと思います。
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――掲載作品は、どのように選んでいったのでしょうか?
会田 ほとんどは僕の頭の中から、つまり記憶にあるものから引っ張り出してきています。ただ、「美術から性のいろいろを学ぼう!」というパートでは、X(旧ツイッター)で呼びかけて教えてもらいました。性にはややこしい側面があって、男女が恋愛して結婚して子供を産む、というだけではない部分がある。それを考えるのに、最初に僕の頭に浮かんだのは男性作家の作品が多かったので、なるべく男女半々にしたいと思って、「現代美術で、女性アーティストで、みずからの性を題材にしている人は誰でしょうか」とXで質問を投げかけました。そこで教えてもらった名前を検索して、作品を見たりしましたね。ただ、この教科書全体で言うと、使いたかった図版で使えなかったものがいくつかあったのは残念でした。使用許諾や使用料の問題などで……。
――「3時間目」の「美術でバカ♡万歳!」というパートがとても楽しいです。
会田 乱暴なカテゴリーで、冗談で許していただけたら、というコーナーです(笑)。アブラモビッチみたいに命がけでバカをやっている人と、泉太郎さんや僕のような、ちょっとひねくれた白けた笑いのものを、「バカ♡」のひとことでまとめるのもひどいなと思いつつ(笑)。
――これについては、詳しくは誌面をご覧いただくことにしましょう。今回の教科書は、今私たちが生きている、この時代のアートとはどういうものなのか、それを知るための最高のガイドブックになったと思います。
会田 現代美術のとっつきにくい部分の入口づくりとしては、これ以上やさしくはならないだろう、というぐらい、やさしいものになったと思います。僕はそういう語りは割合得意なほうで、でも一方で、あまりオタク性がないというか、知識の奥の細道に分け入っていくような癖がないんですよね。作家ならではの偏ったこだわりさえも、あんまりないのかもしれない。
――会田さんの作品に通底しているのは、「アートとは何か?」という問いかけが常にあることだと思います。今回の「芸術新潮」の「新しい美術の教科書」特集も、「アートとは?」と考えていくための恰好のテキストになりました。美術部で今デッサンのトレーニングに励んでいるような生徒たちに、ぜひ読んでもらいたいです。
会田 そうなんですよね。仕方がないのかもしれないけれど、日本の美術大学へ入るための勉強は、やはり「実技」が中心です。日本の美大は、入ってからも、「作品をつくることが社会に対するアピールなんだ!」と熱く語って教える先生は少ないのではないかと思います。だから、そういう作家になる人は、海外留学を経験してから、というパターンが実際に多いです。深いところで言うと、そもそも日本語がそういうものに向いていない抒情的な言葉なのかもしれず、だから美大の教授が悪いのだとか、そんな単純な問題ではないのかもしれません。この教科書には、そういうものを補えるような読物になってくれたらいいな、という思いも込めています。
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lastscenecom · 9 months
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私の母が、父の会社のために、妊娠のために、父の海外赴任のために、何度も転職しキャリアを諦めたように、「結婚し、母になること」というのは、他人に人生の全てを振り回すことを許さなければいけないのだ。そう思っていたからこそ、ショートヘアの高校生の私はこう言い続けていたのだ。 「結婚なんて、死んでもするものか」
自由が好きなフェミニストが、結婚したくなった | elabo
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kijitora3 · 1 year
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フェミ界隈の汚さ、アタマの悪さ、マスゴミの悪辣さ、特に外国メディアの偏狭さとそれを裏打ちする差別感情を証明する格好の事例だ
あいつら、意図的に人を攻撃して自分たちの偏った考えを宣伝する それが明らかに虚偽だと証明されても決して認めず謝罪も賠償もしない
こういう連中を相手にする時には、相手の予想を超える強力な反撃を圧倒的質量で浴びせて圧倒して潰すこと 相手がこちらに加えている痛苦をむこうがそれ以上に被るという恐怖心を与えること
そうしない限り、向こうは反撃してこないと高をくくっていつまでも虚偽の攻撃を遊び半分で続けるのがフェミサヨク界隈だ
福島に対する風評加害行為を続けるサヨク政党や、男性そのものを攻撃対象とするフェミ界隈とか、自衛隊員の家族まで侮辱するサヨク政党とか、色々いるが、それ以上の攻撃が自分にも向けられ破滅させられると、加害者が恐怖するレベルを超えて反撃することが必要だ
サヨク界隈は嘘や捏造で社会を不安定化し、その不安定が政府の責任だと刷り込んで体制を転覆させようとするので、その行動は国民一般の生活の安心、安全を害する 沖縄でのサヨクの行動が地元沖縄県民の生活を破壊している現状から明らかだろう
そして知能の足りない芸人や現実感皆無の学者崩れがそれを無責任に煽る
日本国民の生活の安心と安全を守るためにはサヨク界隈の捏造に徹底的に反撃することだけが、肝心だ
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asianewspickup · 5 months
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ソウル市に女性限定19禁興行を禁止しろと苦情が殺到 -- 日本のAV女優を招いたイベント中止の恨み?
女性だけが観覧できる19禁公演を禁止しろという抗議性の苦情がソウル市に続いている。日本の成人映画(AV)俳優たちが出演するいわゆる「大人フェスティバル」(2024 KXF The Fashion)が女性団体や自治体などの反発の中、結局全面取り消されたことに伴う反発次元になる。
19日基準、ソウル市が運営する市民参加プラットフォーム「想像通りソウル」には女性専用19禁公演「ザ・マンアライブチョイス」を禁止してほしいという市民提案が多数上がっている。
 つい最近、韓国で日本のAV女優を招いたアダルトイベントの開催に市民団体やフェミニスト、自治体も反対を表明して当初の開催地から別の場所に移して開催を検討したものの、結局、中止に追い込まれたとのこと。
その反発なのか、ソウルで19禁(日本の18禁と同じ)女性限定のイベントも中止しろ!と抗議が相次いでいるのだという話。
どんなイベントなのかわからないのですが、記事の内容を見ると、女性向けのストリップショーみたいな感じのようですね。アメリカのドラマなどでたまに見ますが、ああいったノリのイベントなのだとしたら、成人男性向けのイベントよりよほど過激な感じ。ほら、日本のメン地下の特典会のほうが過激になるのと同じ。フェミニストや男女平等を訴える人たちって、男性が女性を性的な対象として見るのは嫌悪するけど、女性の性的欲求には非常に寛大な気がするのはなぜなんでしょう?よくわかりませんが。
先の成人男性向けイベントも自治体が電気供給を止めるとまで予告して民間の興行を妨害するほど強硬だったのに比べると甘い対応だと言われたら違うとは言いづらい。成人男性向けは風紀を乱すけど、成人女性向けは違うということ?
***
 と、まぁ、性差の問題だと捉えるとわかりづらい話ですが、実際には男女間の分断がかなり深刻な韓国の中で、敵と味方で叩きあうリンクになっただけなんでしょうけどね。敵は徹底的に叩き水の一滴も与えるべきではないし、味方にはそれは適応されないのが韓国の常識ですから。
まぁ、今回はそれに日本からAV女優を迎えるという反日的な側面からの攻撃に耐えられる盾がないってこともありますから仕方ない。 穿った見方をすれば、日本からの慰安婦に鼻の下を伸ばす韓国男子って図式は、慰安婦が神格化されてる韓国では受け入れがたいということでもあるだろうし、日本にデレデレするのは許しがたいという心情も加味された結果なのかもしれませんが。
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eternitycomenevermore · 5 months
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2024-04-17
■ひとりの弱者男性としてオタク趣味を楽しむ若者が憎い
大人がアニメを見たり漫画を読んだりするのは、かつて命がけの行為だった。
世間にオタク趣味がバレるということは社会的な死を意味していた。
これは誇張でもなんでもない。
俺のオタクの友人のひとりは、勤め先でオタク趣味であることがバラされて会社に居づらくなり転職を余儀なくされた。
当時は転職市場もそれほど育っておらず、待遇を下げに下げて何とか新たな勤務先に就職することができていた。
俺自身、オタク趣味を持つことで数多の苦しみを味わった。
「自分の好きな趣味を他人と分かち合う」なんてごく当然の喜びをほとんど一切経験できないまま孤独に過ごしてきた。
年に1度か2度あるかないかの、僅かなオタクの友人たちとの交流の時だけが自分の人生の喜びだった。
オタク趣味はひっそり隠れてやるべきことだった。
それが今ではどうだ?
新海誠の映画が100億以上も売れる。進撃の巨人なんてグロ漫画が国民的傑作ともてはやされる。
一体なんなんだこれは?
かつて俺達が隠れながらなんとかひっそり楽しんでいたサブカルチャーをいまの若者は当然のような顔をして楽しんでいる。
先日、職場に入ってきた新卒が自己紹介で「私は漫画やアニメが好きです」と言っていた。
課内の全員に向かってだ。
「流石に職場の自己紹介でそれを言うのはどうなんだ」と後で説教してやろうと思っていたら、別の新人も「私も実はオタクで漫画やアニメが好きです。もし好きな人いたら一緒に語りましょう」なんて言いやがった。
その新卒どもは昼休みに集まって飯を食いながら葬送のフリーレンやチェンソーマンの話をしてやがる。
許せない。許せない許せない許せない。
かつて世間のみんなは言ったじゃないか。いい歳してアニメを観たり漫画を読んだりするのは恥ずかしいことだと。
オタクは犯罪者予備軍だと。
日本はいつのまにか若者の大半が犯罪者予備軍になっちまった。
露骨なエロ描写やグロ描写のある漫画やアニメが日本文化の代表ヅラしてやがる。
オタク趣味は恥ずかしいことだともっと宣伝してやりたい。
何なら俺は最近のフェミニストにも賛成だ。
萌え絵のポスターは法律で禁止にしろ。
美少女フィギュアなんて公然と売るような代物じゃないだろ。
なぁ、日本はいつからこんな狂った国になったんだ?
アニメや漫画を楽しむ連中をもっともっと弾圧しろよ。
ひとりの狂った大人として最近の若者に敵意を抱いている。
オタク趣味は世間から爪弾きにされた俺達狂った人間だけのものだったはずだ。
Permalink | 記事への反応(3) | 14:59
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記事への反応 -
anond:20240417145927
まあ60点かな。
anond:20240417145927
電○のオッサンが時代遅れなこと言ってるな
anond:20240417150205
電○のオッサン 「ヴ ヴ ヴ ヴ ヴ ヴ ヴ ヴ ヴ 」
anond:20240417150340
ついに無機物に転生したのかな?
anond:20240417145927
少年誌の部数は年々減ってるから昔のほうが読者多かったんやで
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apoandbangpo · 1 year
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大英博物館が無断使用、翻訳者に支払い合意(CNN 翻訳)
CNN Jessie Yeung 2023年8月9日(水)午前3時7分掲載
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大英博物館に無断で作品を使用された翻訳者が今週、同館と和解を成立させ勝利を収めた。K-POP界のスーパースター、BTSのファンの後押しもあり、2カ月にわたる交渉とネット上でのキャンペーンが実った。
同博物館は6月「China's hidden century」展のために、フェミニストで革命家であった秋瑾の19世紀の詩を作家のワン・イーリン氏が翻訳したものを使用したと報道され、非難を浴びた。
同博物館は、バンクーバーを拠点に活動するワン氏に連絡を取っておらず、翻訳に対する報酬の支払いも申し出ていないうえ、展覧会に彼女の名前をクレジットしていなかった。
その後、「不注意で、これらの手順を省略してしまった」ことを認め、謝罪し、翻訳と原詩を展示から取り除いた。このような行為に多くの人々が憤慨し、博物館は来館者に詩を読めなくするのではなく、代わりに翻訳料を支払うよう申し出るべきだったと主張した。
先週金曜日にワン氏と博物館が交わした示談により、詩と翻訳が復活し、適切なクレジットと対価が支払われることになったとワン氏はCNNの電話インタビューで答えた。そして、これは翻訳者のしばしば目に見えない複雑な仕事を認識するための重要な一歩だと語った。
「疲れましたが、ほっとしています」と彼女は言った。「望んでいたことがすべて叶ったので、かなり満足していますが、これだけ時間がかかったことに不満もあります。対処してもらうために、ここまでする必要がなければよかったのですが」
6月にネット上で大炎上した後、ワン氏は博物館の対応に満足せず、弁護費用を捻出するためにオンライン募金を開始した。彼女が属するLGBTQコミュニティーから、学術団体、同業者である翻訳家や作家、さらにはARMY(Adorable Representative M.C. for Youth)として知られるBTSの熱狂的ファンまで、ネット上のさまざまなところから支援の声が殺到した。
BTSの公式本を共同翻訳したことからアントン・ハー、クレア・リチャーズ、チョン・スリンは、BTSコミュニティーでよく知られた存在になった。そのコミュニティーは、BTSに敬意を表して植樹したり「Black Lives Matter」のような運動に寄付したりと、団結して支援活動を行ってきた長い歴史がある。
3人は彼女が募金を募っていることを広めた。そして、ARMYもそれに応えた。ファンたちが「募金キャンペーンを展開し、ソーシャルメディア上で協力して盛り上げてくれました」とワン氏は語った。「本当に翻訳者のことを大切に思ってくれていて、とても感謝しています」
「コミュニティーが一体となって組織に責任を求めるという、集団の力を私に見せてくれました」と彼女は付け加えた。
この募金活動により、彼女は弁護士を雇うことができた。その後すぐに、大英博物館のハートウィグ・フィッシャー館長から連絡があったという。彼女は、フィッシャー館長からのメッセージは謝罪の意を表すものであったと説明し、最終的な示談に至るまで、さらに1ヶ月の交渉が続いたと言う。
CNNは一部が黒塗りにされた示談書のコピーを閲覧したが、それによると博物館は今週末までに、ワン氏の翻訳にクレジットをつけて展示に戻し、対価を支払うという。また、博物館のウェブサイトに秋瑾の詩を取り上げたページを設け、漢詩の翻訳者を支援するためにライセンス料と同額の追加寄付を行う。
そして、おそらく最も重要なことは、年内に翻訳の許可プロセスを設けることに同意したことだ。これまで同博物館にはなかったことだとワン氏は言う。
「これは、他の博物館や同様の施設にも明確なポリシーを設け、翻訳者に適切な報酬を支払い、クレジットするよう促すという点で前向きな一歩です」と彼女は語った。
今週初めのプレスリリースで、大英博物館は「見落とし」だったとしてワン氏に再度謝罪した。
「大英博物館には現在、翻訳の許可に関する特別なポリシーがありません。今後、見直しの一環として、翻訳の許可に関するポリシーを明確にし、翻訳者が適切にクレジットされるようにします」と、同博物館は述べている。
「大英博物館は著作権の許可を重要視しており、翻訳者の役割の重要性とその仕事の価値を認識しています。多くの場合、その仕事は博物館の研究を前進させ、展示を通じて一般へのアクセスを広げる助けになっています」と付け加えた。
ワン氏は、この勝利の意義の一つは、より多くの人々に秋瑾と彼女の詩について知ってもらうことだと話した。
「クィア・フェミニストの詩人である彼女の作品は、翻訳において見過ごされてきました」とワン氏は言う。「彼女の作品はとても時代に合っていると感じ、より多くの人に読んでもらいたいと思い、翻訳し始めました。そして、彼女の作品に値する敬意を持って扱われることを望んでいます」
ワン・イーリンさんのツイート コミュニティーが協力した結果、このような解決に至ったことを話す機会を与えてくれたCNNの@/jessieyeungに感謝します。@/AntonHur、@/clarehannahmary、Slin Jung、そしてARMYからもらった助けについて詳しく書いてくれて嬉しいです。
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アントン・ハーさんのツイート 翻訳者として、Yilinの仕事に対する正当な評価を求める戦いに協力してくれたすべての人に感謝します💜 このCNNの記事で大きく取り上げられている#BTSARMYも含めて!なんて素晴らしいファンダムなんだろう! アイデアを出し、企画してくれたkook00sanに心から感謝します💜
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000gwen · 1 year
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ヒラギノ游ゴさん関連
なぜか無性に腹が立ってしまったヒラギノ游ゴさんのツイートのスクショやブチ切れツイートがたまってきたのでまとめました。
ヒラギノ游ゴさん関連 - min.t (ミント) (togetter.com) のバックアップです。
ペニスを付けた“女性”とすら書けない知性
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「生理のある人」は本当に有用な言葉
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なんというか、「スリザリン的だ」
他称TERF批判の下手くそな例えにちょいちょいハリポタネタ挟んでくるのが腹立つ。
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「なんとなくの認識でフェミニズムをやっていると」「バトラーは避けて通れない存在の一人」
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ヒラギノ・マンスプレイニング・游ゴさんが時々繰り出すマンスプ仕草は「男の加害性から自分だけ降りたつもりになって女に説教する権利を得た」と思ってるからなのか… そう考えたら納得しました😌
特定のフェミニズム本に対して「著者のトランスフォビア言説を指摘されている」
ヒラギノ游ゴが『私は自分のパイを求めるだけであって人類を救いにきたわけじゃない』『存在しない女たち』『根のないフェミニズム』の著者を「トランスフォビア言説が指摘されている」と名指しして驚いている。 書評もするライターが読者から本を遠ざけることを言うの??
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こうやって女性が女性であるゆえに生じる不利益のことを忖度せずにズバズバ言及する本を暗に「読むな」といってるわけですよ しかも、よりによって「男性」が!😠
こういうツイートしてたヒラギノ游ゴが『ダヴィンチ』で連載してる書評が今回で任期満了なので確認してみたら、紹介してたのがアーメッド『フェミニスト・キルジョイ』と北村紗衣『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』だったから、党派性バリバリで何かむしろ分かりやすかったよね😅
今圧倒的に足りてないのは社会正義(social justice)だよ
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「トランスフォーブ」は「"自分が一番マイノリティでないと辻褄が合わない"世界観が自分の中でできあがって譲れない」
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フェミニズムについての記述の中からシス女性の自身にとって都合のいい記述だけを抜き取って摂取してきたがゆえに、"自分が一番マイノリティでないと辻褄が合わない"世界観が自分の中でできあがって譲れない
もはや女性に対する侮辱では?
ミサンドリー批判
ツイ消しされてしまったので、連スレarchiveのURLリンクから発言を全文そのまま引用する。
>それはフェミニズムじゃなく単なるミサンドリーでしょって状況に陥ること、自覚的でいるのがものすごく難しい部分だと思う 女性としてフェミニズムをやってる人は立場上客観視がオートで働くわけじゃないから行きすぎてしまったとき自分では気づきにくいし、
>強い言葉で男を叩けば叩くほど評価が上がるコミュニティがそこかしこにあるのはご存じのとおりで、そこに居ついている場合、環境がそれを推奨してるからますます顧みる機会から遠ざけられる
>反差別の枠で収まらない行きすぎたモードの表現を見聞きしたとき、「これどう���えよう」ってノンバイナリーや男性の仲間と目を合わせる時間がけっこうある
>「今ちょっと怖い方に行ってるよ」ってカジュアルに指摘しあえたら理想だけど、特に男性は立場上この手の指摘がNot All Men的なものだと看破されたらもう終わりというか この件単体の伝達の失敗にとどまらず、自分のスタンス全てが 偽物だとジャッジされるリスクを背負うことになる
>だから押し黙ることを選ぶパターンをより多く見てきたように思う 10年後30年後はこういう社会運動のコミュニケーション上のエネルギーのロスも解消されてるといいねって何度か話した
>主体が男性なら男性で、自己批判・自虐の成分が乗るからこそ他者から介入・制止しにくいし、その言動がコミュニティの多くを占める女性にとって“都合がいい”“痛快”な方向性でありうる 内側からのミサンドリーがどんどんエスカレートしやすい条件がこっちはこっちで整ってる
>フェミニズムをやっている男性にとって、女性からの認められ・許されが目的化してしまう時期・モードってものすごくでかい課題だと思っていて、その甘い沼みたいなものを抜けた先へいつかブラザー全員で行きたいけど、沼の中で男を叩く男は“歓迎される”から、ずっとそこにいる人もいる 悲しい
>どの立場にも共通して感じるのは、目指してるものが「システムの変革」か「目先の“スカッ”と」かでそもそものスタンスがまるで違うということ 後者は日々の抑圧の苦しみを緩和する鎮痛剤的な男叩きの痛快さに本懐があるけれど、前者からするとそれはその場しのぎで
>さっきの人なんか話が噛みあわなかったよね、っていう体験を積み重ねて、つまりこういうスタンスの違いによるものなんじゃないか、って一旦なってる
ヒラギノ游ゴの連スレ要約 「せっかくおれがフェミニズムやってやってるのに、目先の“スカッと”感のために反差別の枠で収まらない行きすぎたモードの強い表現()で痛快に男叩きするミサンドリストたちっておっかなくて、気持ちよく連帯できないんだよね〜〜〜(チラッチラッ)」 うるせぇ知るか
『私は男でフェミニストです』
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どんな立場で発言してんのか普通に謎過ぎる。 『私は男でフェミニストです』を読んで「うんうん、やっぱ俺って完璧なフェミニストだな☆」とでも思ってるんだろうか。
よくも
>フェミニズムについての記述の中からシス女性の自身にとって都合のいい記述だけを抜き取って摂取してきたがゆえに、"自分が一番マイノリティでないと辻褄が合わない"世界観が自分の中でできあがって譲れない
とかほざけるよな!!! (思い出し憤怒🌋) もう一回、隅から隅まで読んだ方がいいんじゃない?
シガーロス新譜ジャケとシネマンドレイク氏ブログ
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やたら鼻につくスクショ収集家として、シガーロスの新譜ジャケに文句言ってるスクショ即おさえにいったし、シネマンドレイク氏のブログRTしてて「小便器用のスペースを男性トイレだと誤認してしまっている」「性別の違いは“ちんちん”の有無」にアグリーだということが判明しました。
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シネマンドレイクさんのブログを読んだわたしの感想note
https://note.com/000gwen/n/n862a628cc98b
シネマンドレイクさんのブログを人様に紹介する前に自分でもちゃんと読みましたか?
>「小便器」用のスペースを「男性トイレ」だと誤認してしまっている >「小便器」用のスペースも含めて「オールジェンダートイレ」です。
=女性だって立ちションできる! とか、
>私たちはたいてい生まれたときに「性別(sex)」を割り当てられます。これは外性器で区分けされ、ぞんざいに言ってしまえば「“ちんちん”がついているか」で判断しているだけのものです。
=性別の違いはㄘんㄘんの有無だけ!! っていう主張ですよ? ほんとに批判する余地なくアグリーなんですか???
コミュニティにどれだけの災厄をもたらしたのか、今もって認識が十分とは思えない
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本人の周辺社会では単に"主婦"や"お母さん"や"おばさん"としてしか見られてない みたいなことが、もったいない
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cellophanemaryjane · 2 years
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ケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」-2
この本はあるタイプの人々を惹きつける一冊です。しかし訳者のあとがきに書かれているように、ちょっと一方的な物の見方・考え方があるのも事実です。
私も大きな括りでは自分はリベラルなフェミニストだと思っていますが、かといってザンブレノ本人にも他のタイプのフェミニストにも共感しきれない部分があります。私もザンブレノと同じようにファッションが好きですが、しかしファッションを追い続けるのが女性として正しく、戦うための武器になるとは思いません。女性だって簡素なスタイルをすることを選ぶのは何も間違ってない。問題はどんなスタイルであっても人に押し付けることであって、着飾るのが好きでも嫌いでも構わないはずだと私は思います。
例えば、私は常に自分がスーツケースひとつでホテルを転々とするような、いつも自分がよそ者で居続けられるような生活を夢想することがありますが、そのためには服や化粧品をたくさん持つことはできません。スーツケースを何十個も持って他人に運ばせて暮らすのは自由ではない。自由でいるためには、自分でコントロールできて責任を持てるものだけを持つのが本当だと考えているからです。それは「ティファニーで朝食を」のホリーの哲学でもあります。私はホリーが言う「ティファニーにいるような気分になれる場所が見つかったら、家具も買うし猫に名前をつける」というセリフがいつも心のどこかにあります。それから「なにひとつ自分の物ではないけど、やっぱりニューヨークが自分の物のような気がする」というセリフも。(私は特にこの2つの部分が大好きなのですが、古い翻訳は絶版になっており村上春樹の新しい翻訳ではそれが伝えきれない言葉になってしまってるので、これは大きな文化の損失だと思っています。)結局のところホリー・ゴライトリーや「誕生日の子どもたち」のミス・ボビットこそが私の理想の生き方なのであって、それはカポーティの書いたフィクションの中にのみ存在できるような気もしてくるのです。永遠に年を取らず、どこかへ消えてしまう存在でしか理想は実現できないのではないか。
そして私はゼルダ・フィッツジェラルド的な「かわいいおバカさん」スタイルが正しいとは思いません。私もハイブランドの物が欲しいと思わないわけではないしデパートに行くのも大好きですが、数があればいいわけではないし、とある大嫌いな人がハイブラ狂いといった風なのを見てなんか冷めてしまいました。
ザンブレノは自分がフェミニストとして、ファッションが好きであることを認めるのが難しかったということを書いています。私はこんなふうに考えたことなど一度もなかったので驚きでした。私はフェミニズムというものを学んだり本を読んだりしたことがなく、自分が大人になってみて個人主義者であることに気づきましたが、どうも大抵の人はそうじゃないらしい、ということにも気づいたのです。これは結局、フェミニスト達の間にも着飾る派と着飾らない派の断絶があるということです。そして日本の大抵の自称フェミニストは、着飾ることを捨てる潔さなんて持っていない。
「天才バカボン」にフェミニストのパロディで、化粧っ気がなくズボンを履き、バカボンパパの一言一言に「ナンセーンス!」と言い返す女性が出てきたことがありました。バカボンパパはナンセンス、に対抗して「オンセーンス!草津オンセーンス!」といいます。するとあまりのくだらなさに彼女は「ゲラゲラ 私はこのバカを評価する」と笑い、バカボンパパは「ひょうかひょうか(そうかそうかの洒落)」と返します。なんだかんだあって、女性はすっかり女の子らしくなりミニスカートを履いて恋人の帰りを待っているようなタイプに豹変するというオチだったと思います。この頃は単にフェミニズムとファッションというものが、「女の子だってジーンズ穿いてあぐらかいたっていいじゃん」という程度のものだったように思えます。最初はコルセットなんてやってらんねーとかズボン履きたいとか、そういうものだったはずです。
バカボンのエピソードはとりあえず置いておきます。しかし昔から、過激なフェミニストは揶揄されがちだった。過激でない場合はエレガントな姿勢と完璧なファッションを求められがちだった。というイメージがあります。
お正月にEテレでフェミニズム特集みたいなのをやっていましたが、そこに登場した人たちは沖縄の方以外みんな、まぁ高そうな服とアクセサリーをつけヘアメイクもビシッとされていました。お正月の番組だからドレスアップしてるにしても、みんなお金持ちなのね〜そしてゴージャスな物が好きなのね〜、とそっちの方が気になった。ゴージャスなものが好きというのはなによりも、良くも悪くも女そのものです。なんかドレスアップは女の戦闘服なのよ!みたいなノリのオタク女性まだいるけどほんともういいよ。
フェミニストに限らず過剰なドレスアップというのは、好奇の目で見られるようでいてわかりやすい賞賛の対象でもあります。よく年老いた人がど派手な格好をしている写真集などがありますが、毎日きちんと着飾り新しいブランドとヴィンテージを組み合わせて自らを作品のように仕上げる女性に、この手の人は簡単に「ああいう年の取り方をしたい」などと口にします。身なりを整え新しい服に袖を通すのは、確かに楽しいことです。楽しいし、「この服を着ていれば自分はどこへだって臆せず行ける」という自信は生き方そのものにも繋がります。だけど、ほとんどの人間というものは装飾が施されていなければファッションではないと思っている。逆に言えば、じっくり見てみるとバランスがおかしくクオリティの低いものであっても、装飾的であれば印象で素晴らしいと思う。そういう態度はありきたりで退屈だと思います。
数年前、個人的にファッションについてとても印象に残ったことがありました。大晦日に紅白歌合戦に出演した菅田将暉と、その後ナインティナインの番組に出演した田中圭が同じマルタン・マルジェラの丈の長いセーターを着ていたのです。田中圭の方はバラエティ番組だったのであまり取り沙汰されなかったのですが(かわいいセーターだな、と思っていたら岡村が「長ない?!」とツッコミを入れていましたが)、菅田将暉の方は紅白歌合戦といういわば晴れ舞台ともいえる場所にシンプルなセーターで出たというので、ツイッターでちょっとだけ話題になったのです。でも若い女性はそのセーターの良さをわかっており、あのファッションを取り入れたいけどマルジェラの数十万のセーターは買えないからプチプラで似たのを探すとか、素敵な男性のセーター姿は良いとか、そんな感じでした。一方おそらくオタク系の男性は、あんな普通のセーターが数十万するのかとか、イケメンはGUやユニクロみたいな服で紅白に出ても許されていーなーとか、そんな意見が見られたのです。(私がなんでその時ツイッターを見たかというと、まさしく田中圭のセーターが素敵だったので話題になってるのではないかと思ったからです。紅白は見てなかったので菅田将暉の姿はあとで見たのですが)
このように、一見シンプルな服というのは価値が分かりづらい。マルジェラだからというのではなく、テレビに映ることに耐えうるシンプルなセーターなどというのは、実物はもっとすごいものであることが多いのです。だけどほとんどの人はシンプルなセーターよりもたとえプラスチックでもビーズがびっしりついたドレスの方が着飾ることについては上だと思っている。それはファッションというものに対して一元的であまりに退屈だと私は思うのです。
かといってもちろん、一部のフェミニストのように着飾らないを通り越して不潔さを感じさせる、反抗期の中学生男子のような態度だって良くないと思いますし、かわいいものに惹かれる女の子を頭ごなしに否定するのは良くない。いちいち着飾ることやスカートやピンクが嫌だと思うならそれらはおのれで身につけなければよろしい。
反抗と怠惰はちがうのです。おしゃれが大好きでも自分を大事にしない人はいるし、服を着ることが楽しくないと思う人もいます。ファッションを楽しむということと、スタイルを持つということは別であって、なんだかんだ言って清潔が一番大事だから何にも考えたくなければ清潔というスタイルを選べばいいんだよ。ヒロインズの話がどっかいっちゃった。
(つづく)
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kennak · 2 years
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弁護士 吉峯耕平さんはTwitterを使っています: 「月刊正論に黒岩草津町長の論稿が掲載されている。 本件は右翼左翼関係のない事件なので、何も「正論」じゃなくてもなぁ……、という気はするのだけど。それこそAERAあたりが載せるべきだが、やらないんだよね。 「フェミニストらの横暴を許すな」黒岩信忠・群馬県草津町長 https://t.co/pTDNjfc3Ca https://t.co/uHHW9jg1qT」 / Twitter
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lastscenecom · 9 months
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ジェンダー平等論者は、性差を生物学的に根拠づけることは、それを是認する理由を与えることになるとして徹底して否定する。 このような立場に対して、ホーフェンは生物学的に性差は厳然とあると言い、男性は女性より攻撃的であるし、だからこそ命をかけて人命救助などを行う割合が高いことを認める。 と同時に、「自然であることは善であることを意味しない」と断言する。 言い換えるならば、自然に備わっているということは、それを全面的に受け入れなければならないことを意味しない。 例えばチンパンジーの雄も信じがたい暴力を振るうというエビデンスがある。 この事実があることは、私たち人間が男性によるドメスティック・バイオレンスを許容すべきだということを意味しない。 だが同時に、そのような傾向を実際男性が進化の過程で持っていることを知ることは、こうした傾向を増大させないために大事だというのがホーフェンの主張である。
ビリー・アイリッシュ『Happier than Ever』──フェミニストだってバカな恋愛をする | elabo
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justdrinkwine17 · 2 years
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【人生最高のパートナーに出会う】
私はシス男性との交際を重ねてきたシスヘテロ女性だ。
まだ不確かですが、自身のセクシャリティはデミセクシャルに近いと思っている。
今までの交際の共通点をひとつ挙げるとするなら、「女性としての自分が搾取・消費されている」ような感覚を常に感じていたことだった。優しい人や、人として尊敬できる人もいたが、彼らは常に私のありのままを好いてくれるというよりは、「女性にはこうあってほしい」「女性とは、男とはこういうものだ」というステレオタイプの型にはめたがるような人が多かった気がする。
フェミニズムに出会う前は、自分の事を本当に大切にしてくれなくても「女としての価値」を見出してくれるような人との交際で自尊心を満たそうとしていた。そして、フェミニズムに出会ってからは、心の底から男性を尊敬したりすることもなくなり、実生活での男性との出会いに希望を抱かなくなっていた。傷つくくらいなら、最初から相手を馬鹿にして良い所取りの恋愛をした方が断然楽だと思っていた。
『モキシー』(マジで最高の映画だからみんな観て)のセスのようなパートナーを探すのが温泉を掘り当てるより難しいこの日本に住んでいれば、誰もがそう思うのではないだろうか。でも、それは少しミサンドリーにも近い感覚だったと思う。
もしかしたら、私がもっと相手を知ろう、信頼しようと努力していればより良い関係になっていたのかもしれない。過去の自分の恋愛を振り返る度に、自分自身を傷つけたこと、相手に失礼な態度を繰り返していたことを今でも反省している。
ここ数年は、「結婚なんてせずに自分の趣味や仕事に熱中し、将来は大好きな友人とマンションを買って保護犬と暮らす」ことを夢見てきた。大好きなアイドルのヲタクをやりつつ、タイプの子とアプリで出会って軽く遊んで生きていくくらいがちょうどいいと思っていた。
ある日、私は何気なくTinderというマッチングアプリを入れる。その時も、本気でパートナーを探そうなんて微塵も思っていなかった。ミソジニー臭が強い人や、レイシストとは死んでも��いたくなかったので、会話の中にさりげなく『セックスエデュケーション』の話題をねじ込んでみたり、BGMを「Boss Bitch」にしてみたり、プロフィールに「アライ」の項目を追加したりして様子を見ていた。大体4~5人位とアポを取り、この中からしばらく遊べる人が見つかればいいかな?と思っていた矢先、ある人からライクが来た。普通に顔が可愛かったので(本当にルッキズムで申し訳ない)マッチさせると、こんなメッセージが来た。
「自分もドジャ好きです!」「お姉さんストレートアライなんですか?」
「絶対こっち側の人間じゃん。」
私はすぐに確信した。この人は何か違うぞ、と。
彼がシス男性であり、パンセクシャルだということ(書くことについて許可は貰っている)を確認した上で話を進めていくと、洋画や古着が好きという話、彼自身もパンセクシャルなので『Call me by your name』を観て感情移入してしまったという話、Awichが好きという話、ゾンビ映画が好きという話、お互いの家が歩いて10分圏内という話、色々と共通点があり、その日のうちにあっという間に仲良くなった。
そしてそんな彼とマッチした次の日、事件は起きる。
HIPHOPやラップが好きだという彼に、私が「カッコよくて強いお姉さん大好き」と伝えると、
「もしかしてひなさんってフェミニストですか?」と聞かれたのだ。
ここで私は、「ああ、もう彼ともここで終わりなのか」と絶望した。フェミニストだと伝えたらどうせヤバい奴だと思われる、嫌われる、と思いこんでいたからだ。せっかく仲良くなれたのに残念だな~と思いながら返事を送ると、さらにびっくりするような返事が返って来た。
「自分もフェミニストです。」
口から心臓が飛び出るかと思った。こんなに話が面白くて自身の特権を自覚しているシス男性のフェミニストがなぜTinderにいるのか?と。彼がなぜフェミニストになったのか、普段フェミニストとしてどんな思いで生きているのか、ゆっくり話を聞いていくうちに、私は彼のことを人としてどんどん好きになっていった。
(今思えば、本当に私は世の中の男性を舐めているし、Tinderというアプリの事も舐めていた。しかし、そのような出来事はなかなか起きないのが現実。Tinderにだってフェミニストくらいいるだろ、と思えるような社会になって欲しい。)
その日の夜に初めて電話をし、次の日も12時間というアホみたいな長電話をし、どんどん仲を深め、マッチしてから1週間後に彼の家に行くことになった。
実際に彼と会うまでに、「遊びではなく、もしもちゃんと付き合うのなら真剣にお付き合いがしたい」「一人の時間がとても大切」「ずっと人といると疲れてしまう」「現時点では結婚もしたくないし、子供も欲しくない」「無駄な駆け引きや恋愛ごっこに興味がない」「あくまでもお互いは他人」「自分の考えをまとめるのに時間がかかる時があるからしばらく放って置いて欲しい」といったような、自分自身が生きていく上で何を大切にして生きて来たか、相手にどうして欲しいか、人生とは、生きるとは、死ぬとは何なのか、そういった話を濃密に重ねた。まだ一度も会ったことがないのに、この人とならこの先不安なく様々なことを乗り越えていけそうだな、そう強く思えたのだ。
そして初めて会って彼の家でデートをした時に、私の両手を握り真っ直ぐと私に向き合いながら「お付き合いしてください」と伝えてくれた彼と、その日チームになった。
私も彼も自己分析が好きで、誰かに傷つけられ、誰かを傷つけ生きてきたことに対して、全力でぶつかって来た。だからこそ、お互い衝突もなく、毎日笑い合いながら過ごせているのだと思う。共存していく上で、「他人を傷つけない」「自分のことを大切にする」これらを私たちのモットーにしている。例え喧嘩や言い合いになったとしても、「この人はちゃんと話し合える相手だ」という安心があるのは、とても大きな事だと改めて思った。
また、これは完全に相性もあると思うが、私も彼も得意分野が全く異なっていて、そこが面白い上に生活しやすかったのだ。私は些細な掃除や整理整頓、水場の掃除やちょっとしたお料理が得意。彼は大きな模様替えやメイン料理、何かをデータにまとめたりお金の計算をするのが得意。私は毎日家事ができるが、彼は苦手。でも、1頼んだら100で返してくれる。
お互い、誰かと同棲なんて絶対に無理!と思っていたのに、付き合い始めて1ヶ月も経たないうちに自然と同棲がスタートした。いちいち荷物を持って家を行き来するよりも、一緒に住んだ方が楽だったのだ。
ベッドで永遠にフェミニズムや政治問題について語り合う日もあれば、深夜にパンケーキを作って食べる日もある。
同時に同じ言葉を言ったり、同じ歌を歌ったりしてクスッとなる日もある。
情緒不安定な日には、適度な距離を取りつつ、話を聞いてくれたり、ハグをしてくれて笑わせてくれる。
私よりも私のことを上手く分析してくれて、丁寧に前置きをした上で、私と一緒に思考の整理をしてくれる。
どんな時でも、いつも全力で真摯に向き合ってくれる。
ぷにぷにのお腹を可愛いと言ってくれて、メイクを落とした私の小さい目を笑いながら可愛いと言ってくれて、毛があっても無くてもひなさんは美しい、と言ってくれる彼が大好きだ。
社会に押し付けられた男性らしさと向き合い、闘いながら、自分の「かわいい」を追求していく彼が大好きだ。
気づいたら狭い家のどこかに隠れていたり、すぐにオリジナルソングを作って披露してくれる彼と暮らしていて、このクソみたいな国に縛り付けられていた自分の人生が少しマシになったように感じる。そしてこれは私のエゴだが、彼も同じことを思っていてくれたら嬉しい。
戦友であり、友人であり、家族であり、仲間でもある、誰よりもかっこいい私のパートナー。
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nyantria · 2 years
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やっぱ(フェミって)
ロクでもねぇな♡
と思いますけどもね?
論点5・女性差別とフェミニズム
これは避けて通れない論点なので俺としてはもうあっさり映画秘宝は女嫌いの雑誌ですとどうせ廃刊も願ってるし言ってしまいたいところではあるが、女嫌いカルチャーは女嫌い大国にして女性の社会進出極貧途上国の日本ではどこにでもあるので、秘宝がここまで燃えたことはやはりそれだけではない推進力が働いたのではないかと思う。
具体的には米国リベラリズムであり、韓国フェミニズムであり、これらはいずれも思想というよりはアクティヴィズムだが、リベラル派は(右派も交えて)米国リベラリズムを体現する町山をいつもハラスメントを批判してるくせに身内のハラスメントは許すんか的な理屈で批判するし、韓国フェミニズムと親和性の高い韓国ファンはモノが韓国というのもあって秘宝の男性中心主義をその流儀に従って批判しないわけにはいかない。町山なんかマチズモの権化みたいな人なので余計にそうである。
アクティヴィズムは留保なしを貫かなければならない。それは自分の意見を堅守して何はともあれ行動せよという点でもそうだし、また何かあればすぐに応答責任が生じると考える点でもそうである。とくに韓国フェミニズム(と一概に語ることもできないだろうからそのへんは専門家の解説を読もう)はその点で徹底したものがあり、そのエッセンスは「絶対に譲るな」とか「絶対に我慢するな」とかそういうことになる…と門外漢の俺がざっくりイメージで書けば韓国フェミニストに親近感を抱く人はみんながブチ切れると思うが、まぁ別に悪い意味で言ってないから…それが炎上の拡大に寄与したところはあるよなっていうメカニズムの分析をしたいだけで…。
こうした強靱なフェミニズムは思弁的フェミニズムが絶対に超えられないパワーと伝播力を持っている。俺は女の人ではないので残念ながらわからないけれども、我慢しなくていいとか、譲らなくていいとか、そ��いう風に世界との接し方を変えて救われる女の人はやっぱ多いんじゃないかと思う。とすればこれは自己啓発に近いものなのかもしれない。自己啓発の源流を辿ればアメリカのキリスト教異端ニューソートに行き着くが、ニューソートは一言で言うならば人間の罪を強調するキリスト教主流派に対して人間に罪など一切ないと宣言し、人間のポテンシャルを信仰する自己全肯定の思想である。その最大宗派クリスチャン・サイエンスの創設者はエディー夫人という女性であった。
だいぶ話が脱線したが、行動を是とする強靱なフェミニズムはそれが組織化されていなかったり明確な規範意識を共有していない時にはSNS上の烏合の衆ともなりかねないわけで、それがアイデンティティ・ポリティクスとして正当化されるともうどこにも妥協点が見出せなくなってしまう。リアルでのアイデンティティ・ポリティクスは具体的な要求と具体的な行動と具体的な成果がセットで可視化されるが、インターネットではそうも行かず、結果的にただ行動と要求だけが答えのないまま火を蒔きながら宙を漂うことになるのである。
取り上げる角度はともかくとして秘宝はヒロイン・アクションをよく特集にしていたし、邦画のいわゆる「埋もれた女優」に光を当て続けてきたし、『ブレードランナー』についてのショーン・ヤングのインタビュー記事ではレイチェルとデッカードの暴力的なラブシーンはデッカードのレイプというショーン・ヤングの指摘する至極真っ当だが多くの人は『ブレラン』の名誉を汚したくないから知らん顔をする不都合な真実をちゃんとこんな風に太字にして掲載したもので、実績の面では必ずしも女性差別的であるとは言えない(明確にそう言える部分もある)のだが、炎上状況ではそうしたことを叩きに周る側が冷静に判断する余裕もない。秘宝炎上ではこうしたことが起こったのではないか、と俺としては思うのである。
映画(秘宝炎上)の見方がわかるブログ | 映画にわか
※ 赤字、引用者
追記、
こと西側においてはあらゆる悪魔的思想がキリスト教の「異端」を源流としている。それらは本来の教義に逆らうものです。
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dreamingtime96 · 3 years
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馬鹿げてる。
何でなったこともない、男性の体で生きたことがない経験したことがないのに自分は男だと確信をもってそう思えるのかわからない。
ジェンダーアイデンティティなんていうのは心理的な枠組みであって、心の中のものだ。それを身体という自分自身を形作る表面に放出したところで性別は変わらない。あなたの臓器や骨格や体内の水分量や臓器の脂肪分なども含めた性差は変わらない。性別は心で感じているものが全てで体を蔑ろにしたセルフIDの考え方が浸透しきっているから性別を変えられる、異性になって生きていくことはできると思い込んでしまう。そんなの間違いだ。心は体じゃない。今の社会は境界のないイメージの世界だとわたしは思う。何でもかんでも共感し合い、感受性も何もかも同じチャンネルを共有しているように思い込む。イメージの中で私たちは他者と共存していると思い込み、イメージの中の他者に怒り悲しみ絆を感じている。そのことを無視している。自分の境界も希薄であり、窮屈である。自分の感じているものの違和感や苦しみの正体を知ろうとせず、それを全て心の中に感じているぼんやりした何かやあるいは不安や疎外感から、原因を直接性別のせいだと思い込もうとする。それを形成する性役割やその生きづらさや生きにくさが
実体としての臓器や遺伝子を含めた身体があるのに、男性的女性的といった社会から要求される性役割やそれに応じた女性像男性像に従うことが苦痛である場合、逆の性別になれば解決できるだとか自分は望まない体で生まれてきてしまった異性なのだと感じ取り、そうして異性として扱われたり自認を尊重されることでその人がようやく安心感をえたり救われるという社会ってどうなのだろう?
自分の感じるジェンダーやジェンダー表現が噛み合わない、ジェンダー表現を受け入れない社会に苦悩することもあるだろうが、そもそも
しかし、そうした適合することに拒否感を覚えたり自身のジェンダー表現を受け入れようとしない社会をひもとくとそこにはミソジニーと女性差別、ホモソーシャリティの問題が基盤に存在する。男性主観で男性の感じ方のみが正しい社会の中で、女性がそうした差別の実態や構造にアクセスすることは難しい。
また、感じ方だけが全てであり、それを直接今感じている原因であるかのように
そもそもまず異性のジェンダー表現は身体性別に等しいものと見なすことは全くの間違いだ。
本当の性別人々が生きにくい枠組みがすでにこの社会に存在していて、その人たちが旧的な枠組みから外れた新しいトランス ジェンダーという枠組みを用意することも正しいと思えない。
なぜならばトランスジェンダーの人々は結局異性のジェンダー規範を再生産しているだけでジェンダー規範を強化しているからだ。
性役割をただ異性のものに交換しているだけ。その性役割というのは搾取や支配を正当化する構造であり、性役割そのものがそうした支配と隷属の関係と、それらの歴史を見えなくする蓋のようなものである。それらが差別であると認識されず、差別を受けている女性という当事者が軽んじられ、差別を受けていることや男たちは間違っていると告発するだけで「それはあなたの思い込みだ」「そんな言い方はないんじゃないか」「男性への差別だ」と言われる。トランス差別だ!を唱える人たちもこれと全く同じだ。
性の多様性だとかいっているけれど全く多様ではない。
異性の性役割やジェンダーに適合したいのに社会が云々、孤独だ孤立しているトランス差別だ云々と唱えている人たちをみていると、本当に無神経でさすが男だと言いたくなる。あの人たちはなぜセクシーな女性的な振る舞いがしたいのだろう。それが差別的な記号であると知らないからだ。そのような記号を踏襲した女性ヒロインやそれが好きな物なら尊重してあげようよと言っているのも男だ。それは女からしたら差別なのだ。それを求められ、そのような記号的な存在とみなされ、男にとって快い範囲内の振る舞いやあからさまな蔑視や使い捨ての性対象として私たち女は男に用いられてきたからだ。いまだに女性は金にがめつい、イケメンには股を開く、性犯罪加害者でもイケメンなら無罪だというような蔑視は至るところで見受けられる。女性差別を主張する女性は醜い年増で若い女に嫉妬している。男側に視野を広げて男性も辛いですよね、という配慮や優しさが無いと賢い女ではない。至るところで私たち女性は無知だという設定で上から目線の説教を食らわされたり事あるごとにマンスプレイニングを食らう。鬱病で苦しい時病院に行った時ほとんど話も聞かず、怪しい治療のセールスをされたり「その程度のことで苦しいのか」という対応をされる。女性の性犯罪被害の話や性的対象とみなされる苦痛を訴えても、怒りを直接語ると感情的だと嘲笑される。女性の痛みに対して医療は鈍感であり、医療の性差が考慮され研究されるようになったの。男が女性に対して接する時の親切の中にも、見下しや蔑視感情がある。自分の気持ちを満たしたいための感情の吐口である場合や、ただ女と話したい、気分良くなりたいという感情があることもしばしばだ。それは女性にしかわからない感覚だが、それは思い込みだ、繊細すぎる、病院に行ったほうがいいなどと言われる。常に女性の感受性はずれがあるものという前提があり、気に食わないものをただ非難したいだけだとか、イケメンなら許すんだろうなどという偏見を飛ばされる。女性はしたたかで計算高く、高飛車で、あるいは男をたぶらかし、コケティッシュな振る舞いで翻弄するファムファタール的な記号は都合よく従ってくれる、暴力によって屈服させられることが可能な男からしたら、許容する範囲でワガママに振るまう可愛い女(でも自分がいなければ生きられない弱い存在)は素晴らしい存在なのである。長くファッションではそのような被虐的な立場であることを喜ぶように見せる観念が女性ジェンダー服に染み込んでいる。それは男ウケのいい服装として堂々としている。胸元だけ穴が空いていたりオフショルダーだったり、肩だけ透けていたり、ホットパンツだったり。コルセット風ワンピースやボディハーネスだったりの類もそうだ。そうした適度に『扇情的』な要素を含んだ服が女性を縛り付ける価値観であることをかわいさで覆い隠している。女性は展示品である。自分の個性を表明するために、わざわざそのような隷属的な価値観の服装を可愛いもので個性的で自分らしく生きることを肯定してくれるものと思わされている。逆に自分の個性や癒しや自己表現が自身の才能や能力やバックボーンなどに由来するものではなく、ファッションやメイクなどの装飾でしか自信を得られない。それは全て女性が装飾、それも男目線で構築された女性を支配するための記号で作られた価値に沿っていなくては人間以下であると社会的に定められていることと同義である。私たちは差別のプールに浸かりながら、自らその水を自分たちで再生産するよう、プールから出られないように仕向けられている。
しかし、私の見たところトランスパーソンの自認女性はそうした扇情的な(男から見て)服装やロングヘアだったりといいったホットな女性像をまといたがる。そうした扇情的な服などを女性のみがきることを許された服だという思い込みがあるのか?そうした性的な意味も含めて男から見た男の価値観に沿った魅力に満ちた女性こそが本当の女性であるという発想があるからなのではないだろうか。つまり、かれらもまた同じように女性を固定化された家父長制に都合のいい支配の記号だけを抽出した存在として、表面だけを女性とみなしているのである。また��トランスパーソンの自認女性は完全な女性だと支持している人々にとっても女性とは着飾る生き物であり、性的魅力に溢れた姿が正しい女性の姿で、女性というのはファッションやロングヘアであるとみなしているからだ。そのような女性像はメディアや創作、映画にも氾濫している。しかしそうした表現こそが女性差別で女性憎悪だと公然と言われることがない。ドラマでは高飛車でヒステリックな金持ちの女性は面白おかしく描かれ、舌足らずで幼稚でワガママな女性が男性を振り回す。いつも考えが足りなくて幼く、考えが足りずに失敗を繰り返す。それすらも可愛さの中に収納される。ハニートラップをしかける女性や財産目当てで玉の輿を狙うしたたかな女性キャラクターや、マウントを取ることを生きがいにしている女性や、素顔を隠して女性は足りない方がいいという発想がある。逆に馬鹿な方がいい、男の前で馬鹿を演じている女性はしたたかで賢いという想像を生身の女性たちが演じている。そうしたあざとい女性を同性がいやがったり、逆にあざとさをうまく演出する女性を同性が素晴らしいと支持することもある。世の中は腐っている。それはアニメの中でも同じだ。女子学生の制服の胸や股間の線が生地から浮き上がった絵が普通に存在し、それらが表現の自由というマジックワードによって擁護される。そうした絵がどれほど女性の尊厳を害するものであるかそうした表現が表現として成立していることは正しいのか?女性が怒りを語るとそのような絵を描いている人たちの仕事をフェミニストは軽視しているだ、絵に込められた思いを馬鹿にしているだ、いやなら見るな、絵に人権はないことを理解していないだと男たちは反発する。そしてお決まりのお気持ちだお気持ちだの連呼である。女性が差別を発信するだけで嫌がらせの対象となる。個人情報をばら撒かれる。執拗に自分の納得できるデータを出せと要求され、粘着される。馬鹿フェミだキチフェミとよばれ、精神病院に行けと言われる。性犯罪と結びつけるな、被害者を自分の主張のために利用するなんておぞましい。やっぱりおんなの敵は女だと性犯罪被害に遭わない立場からものをいう。アニメの中では女性たちが胸の大きさを比べて嫉妬し合う様子が当たり前にベタなネタとして描かれる。お互いの体型で嫉妬し合い、体重で一喜一憂し、潰そうとしていて、承認欲求の塊で、知性がない存在のように描かれる。痴漢被害を告発した女性や夫のDVで苦しんでいたり、妻が家事全てをやるべきという価値観から夫の世話や片付けをしないことや全ての尻拭いを無償でさせられている妻がSNSで怒りを投稿すれば女性器呼ばわりされて『マンカスゴキブリ』『専業主婦は寄生虫』『養ってもらっている分際で文句を言うな』というコメントが相次ぐ。挙句発言者の女性アカウントの顔や他の日常の投稿なども掲示板で晒されて品評される。アイドルをプロデュースするゲームには女子小学生や中学生のアイドルまでいる。女性差別的な価値観は当たり前に蔓延し現実の女性もアニメキャラクターのように属性化された存在として分類されている。自分の「需要」を理解してあざとく振る舞う女性は喜ばれる。男性の立場になって発言する弁えられるエマワトソンのようなフェミニストが真のフェミニストとして讃えられ、そしてそれ以外の男に奪われた権利を取り戻そうとする女性は女性の敵で足りない存在で、恋人も結婚もできない負け組で嫉妬している哀れな存在だと笑っている。けれど、そうした表明をしないだけで男は皆そのような幻想の中の女の姿やステレオタイプで女は足りない存在なのだというふうにこの社会が決めた通りに女を人間以下の存在と見做しているし、自分が単に不快になった時に突然黙ってみたり突然不快な態度をとって女性に機嫌を取らせようとしたり、女性が差別を語るとその発想や発言は間違いだと自動的に決めつけて笑ったり、女性が間違っているという前提で呆れた態度を発露する。社会的にも優位な立場であることは知覚している。アニメの中にはなんでも男の主人公に頼って甘える幼馴染がいて、すぐキレるのに短絡的な発想で失敗ばかりを繰り返し、生意気な態度をとっても結局は愛情の裏返しなだけで、突飛で無理くりな理由をつけて幼稚な発想で女性キャラクターたちは男性主人公が自分に好意を持つように迫る。女性たちに生理はなく、妊娠や流産や死産や中絶、同性愛者や性犯罪被害者は存在しない。また、そのような露骨な差別に満ちたキャラクターやなんでもいうことを聞いてくれる服従が約束された二次元の女性たちはその設定だけでも差別の結晶である。また、そのようなコンテンツは女性憎悪を招く。アニメやドラマや映画のように女性とは未熟で感情をコントロールできず、男に守ってもらわなくては生きていけない寄生虫で感情的な生き物だというふうに学ぶのだ。反発しても結局主人公を愛し主人公のことを必要とする女性キャラクターの存在は男がいなければ自力では生きていけないのだ。けれど、男にとってみればそうした女性は当然のようにコントロール可能な対象である。女性の隷属や無条件的な男に対する同意や賞賛や感謝を前提とし、そうした精神的ケアも含めた男にとって都合のいい存在であるとみなした関係性の構築をより強化する。社会的に蔓延している女性をコントロール可能な対象とする価値観がまた濃縮されるのだ。ストーカーが絶えないのも好意があるのにわざと反発して主人公を女性が創作物に多く、女性がコントロール可能な存在として描かれ女性をコントロール可能な対象として物扱いする社会だからこそ憎悪犯罪が絶えないのだ。アニメやドラマ、その制作者たちも当然女性を商品として扱っている。演じる女性の尊厳ではなく、キャラクターのことも女性を生きている人間としてみなさなち。実体のある尊厳のある人間ではなく、胸や尻や脚や扇情的なキャラクターと言ったようにバラバラの属性として分断し切断している。妊孕性でさえ性的なパーツである。実際アダルト業界では膣内射精やいやがる実の娘や生意気な上司を無理やり強姦して膣内に射精したり監禁して輪姦すると言った内容のビデオがシリーズ化され、レイプや盗撮や女子高校生がジャンルとして存在されている。酔わせてレイプしたり、女性に写真をばら撒くと脅すリベンジポルノが題材になることも知っている。トランスパーソンの自認女性は性犯罪被害の危険があるから身体女性と共闘できるはずで分かち合うことができるというのは大嘘だ。実際女性は身体が女性であるから差別をされ妊孕性でさえ性欲や征服欲を満たす存在として性的な利用価値を見出され、女性の恐怖心や絶望に陥れる様を見て楽しむ映像が出回っていて、盗撮映像がインターネット上で売り買いされ、身体が女性であるがために感情ケアを当然のように男たちは自分の周囲の女性に無言で求めてくる。性犯罪被害者の人権は皆無だ。電車には乗ることができない。酒を呑んで酔って自分を誤魔化して乗り切っても駅構内でぶつかられるし街中で空いた道を歩いていても後ろから突き飛ばされたりすれ違い様にジロジロと体型や顔を見られる。その苦痛やそれらが全て差別から派生した女性憎悪が引き金になっていることなどを告発しても思い込みだ自意識過剰だお気持ちだと言われる。女性が結婚するとキャリアが絶たれることや不利な状況に追いやられることが覆い隠され、家事などを無賃でこなすことをもとめられ、体調不良だろうとなんでも家事を妻任せだ。会社の上司や友人にはしないのに、妻の話を遮ったり妻がつわりで寝込んでいても平気で食事を作るよう要求して起こしたり名もなき家事を全て妻にやらせるのだ。そうした夫の無関心には女性差別が根底に存在する。私の父が家族共用パソコンでそうした履歴やビデオを保存し、家族写真のフォルダの中にさえ女性を強姦しているビデオの画像を保存していたように、言わないだけで多くの父親が女性の家族を疎ましい存在として邪険に扱いながらも精神的なケアを求めている。妻の都合や感情に対する配慮どころかそれすらも夫の視界にはない。それ以下の存在で、都合のいい時にプレゼントをわたしたり愛を伝えたりすればいいと思っているか、勝手に些細なことで怒っているんだと自分を哀れんでいたりするのだ。妻は同意なく自分の好きなタイミングで体に触れてもいい存在で、同意を得る必要さえないと思っている。選択の権利も余地も最初からない。私が同級生から性的な加害を受けた数日後も父は女子高生逆ナンパというタイトルの動画を見ていた。
トランスパーソンの自認女性と身体女性は全く違うどころか、女性であると認識し、女性になろうとして行っているメイクや服装、女性的と社会でみとめられた振る舞いをすること自体が女性への差別なのである。また、身体男性であることで意見や主張を間違っているものと咎められたり懲罰されてきたことから意見を話すことを恐れずにすんできた。直接的な感情の発露を認められてきた。また、身体男性として生きた経験は女性差別の蓄積でもある。もし単に性別違和があるならそれは脳の病気だ。しかし、性別は変えられる(実際は臓器に性差があるからそんなことは絶対に不可能だが)という幻想は徹底的に粉砕するべきだ。性別役割が徹底した社会の中にいきぐるしさがある人が自身をトランスジェンダーだと思うのならそれはこの社会が間違っているだけ、ともいえない。それは家父長制の影響とその本流から細分化した支流を含めた差別の複雑さや複合的な差別を無視したことになる。トランスパーソンの身体男たちは男だと。家父長制の中で優遇されてきたのだから、女性をコントロール可能な対象とみなす文化も当然疑問なく受け入れることができ、現在だって感情的な女性としての規範的な金型に沿わない女性を懲罰し、暴力で支配することや暴力をちらつかせることがどれだけ女性に『効き目』があるかも彼らは理解している。女性差別に染まっていない人間はいない。男は誰でも女性差別に対して無関心でいることや無関心でも生きていける立場を守られている。ケア要員として努めることを要求している時点でトランスジェンダーの人々は被差別対象ではない。好きな格好をしているだけで偏見の目で見られるなんて言う甘っちょろい苦痛なんかではない。それを人によって感じ方が違うから苦痛に客観的な視点や重さはない、どの人も守られるべきだと言う主張で、差別のもたらす弊害や女性の死を曖昧にするな。誤魔化そうとするな。お前らの感情なんかで私たちは消されてしまう存在ではない。共生という耳障りのいい言葉を使って侵襲しようとするな。お前たちにとって心地よい共生の中に私のような性犯罪被害者など存ないのだろう。反吐が出る、何が共闘だ。感じ方なんていう個人によって尺度の違うものなんかで、実在している差別の重みは消えない。お前らの感受性や視野にもその基礎や道徳観の根にあるものは家父長制を培養した憎悪が刻まれている。男としてどれほど優遇されているか?それなのに自分は弱者だと思い込むのは傲慢だ。そして優位性に基づいた感覚で女を裁量するな。女を名乗るな、女を奪うな。彼らの枠組みを保護することは自分を女性と認めない女性を懲罰的に見つめる視点や暴力性を沸騰させるだけだ。そうして守ろうとして配慮して譲ってやればやるほどヒロイズムに浸ってシス女性には私たちの苦しみなんてわからないだなんだと悲劇ぶるだけだ。女性憎悪に満ちた社会に対抗するために女性はどれほど傷ついても戦うことを強いられる。その中で死を選ばず生きることがどれほど過酷か。女性憎悪は解決されたものであるとみなし、露骨な差別以外は全てを除外し、女性の性犯罪被害そのものを例外視し、コントロール可能な対象とみなされ発言も全てを男より劣った亜流の存在とみなされ、花柄やハートや心配りや親切といった女性ならではの発想や特性をことあるごとに求められ制限されてきた私たち女性を別席に置いてきた男たちから、全てを奪い返さなくてはいけない。家父長制のその首を切り落として、私たちが生きる権利を取り戻しにいかないといけない。時計の針を逆回しにすることはいつでもできる。男たちこそ変われ!と言って何もしないでいるくせに男が少し平等だなんだとポーズをとっただけで理解してくださってありがとうございますと尻尾を振って理解してくれる男性を立派だと神聖視して救世主のように扱って応援するのはやめるべきだ。男の言葉を持ち上げるのも男こそ正統であるという思い込みによるものだ。その価値観こそ家父長制が作り出した女を支配下に置くことを許してきた足枷である。足枷をありがたがるのをやめよう。男が変わっているならとっくにこの世は変わっている。それでもこの世は変わっていなかった。そいつらは性風俗店で女を買い、スマホで女を虐待するビデオを見ることもできれば妻を無賃で搾取していながらそれを当たり前と思っている男たちだ。彼らは性風俗で溢れかえる繁華街や日々女性が殺されるニュースを見ても物騒な世の中になったとしか思わないし、それを見てもなんとも思わず素通りすることができる。そして電車の中では大股を開いて座り、大学進学は優遇され、高く設定された合格点に届かず志望校に行けなかった優秀な女性よりも劣った成績で進学��、妊孕性がないために就職や昇進も過大評価されている。男は無条件的にできて当たり前で成果を出せばそれは傘増しされる。女性の人権を奪ってあぐらをかいている男を見ながら男の認証や同意を求めようとするな。家父長制を処刑台に送り込まなければ私たちは殺され続けることを忘れてはいけない。差別を長らえさせることとは、私たちの今ある現実を無視することだ。
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