#タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって!
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【茨城】笠間「栗のいえ」
【タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって!】三ツ星パティシエの絶品モンブラン『栗のいえ』2024/11/7放送 茨城県笠間市土師1285-25 #タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって #タクうま #山中柔太朗 #森日菜美 #岩城滉一 詳しく見る↓
【タクウマ】タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって! 岩間駅「栗のいえ」 食べログでcheck! 築130年の古民家をリノベーションした洋菓子店 パリのミシュラン三つ星レストランやマカオの高級ホテルで長年パティシエを務めたシェフが、故郷・笠間で作り出すスイーツは、まさに芸術品。 笠間栗をふんだんに使用したスイーツの数々が楽しめる。 特に名物の「こぼれモンブラン」は、栗の風味をぎゅっと閉じ込めたマロンペーストが、まるで滝のように流れ落ちる絶品。 栗本来の風味を損なわないよう、絞らずに盛り付けるスタイルは、シェフのこだわりが詰まっている。 住所 茨城県笠間市土師1285-25 TEL 0299-57-2728 行く前に!見どころ&口コミをチェック 栗のいえ(笠間/ケーキ屋) –…
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I show I caught on tv last time I was in japan was タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって also known as タクうまwhere a tv crew asks random taxi drivers all around Japan to take them to their favorite hidden eating spot. Once they get to the eatery they ask for permission to film on the spot and make a whole segment on the owners, what makes the location itself special, what the regulars love about the place, and the crown jewel is the most popular dish! I really liked seeing all the different eateries in prefectures I might never get to visit, and from a learning perspective I always like hearing how people describe what they like about something. At a quick glance I cant find any legit way to watch it online (there definitely is but VPNs might be needed) and I can only find 2 episodes on youtube rn but in one of them the audio and video goes completely out of sync midway 🥲 if you're in japan and can watch TV tokyo I really recommend it
youtube
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起きる機会を見失ったものたち
5年前ぐらいからTumblrの下書きを溜めるようになり、気づいたら下書きだけで200を超えそうになったので、今更出せない記事をごちゃまぜにしてみた。ある意味総集編。
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このあと何しようとなった時、美術館を提案してくれる人って素敵だなと思う。その時コンラッドにいたというのもあると思うけれど。あの辺りは美術館が多い。
傷ついているのはわたしで、痛いのはわたしだとずっと思ってきた。だけれど、あなたの反応を見てああわたしが傷つけたのだ、と思った。恐らくわたしが大切な人にされたら1番傷つくやり方でわたしは線を引いた。
この前名駅に行ったら袴姿の女の子達がたくさんいて、ああ卒業式の季節かと思った。金箔も水引も出てきた当時誰がやるんだこれと思ったけど、見慣れるとカワイイし尖っててクールでいい。私たちの卒業式の頃の流行りはドライで、ドライってやわ過ぎてぽろぽろしてフケみたいになるの、なんか嫌だったから。
卒業式、受付が始まった頃ヘアセットが崩れて、慌てて着付け会場だった近くのホテル電話して、小走りで駅を逆走していたら、丁度卒業式会場に向かうところだった友人にそっちじゃないよと手を取られたの、懐かしくて愛しい思い出だ。あとは宗教に洗脳された同じ学年の子が校長先生の話の後急に壇上に上がって話はじめたのが怖かったのが強烈に残っているぐらい。
全然食べたくないどん兵衛のニンニクバター味噌にお湯を入れる。全然食べたくない味がした。お湯を入れすぎたのか、若干味が薄い。最後スープを流したら容器の底から信じられないほどみじん切りにしたニンニクが現れてゾッとする。すぐさま水切りネットを変える。
段ボールを開けたらすべておなじにおいがした。洋服もスタンドライトも山吹色の土鍋も。私の部屋は、私はこんなにおいだったのだな、と思う。
お酒を飲んで、帰りたくなくて、近くの公園でアイス食べて花火してブランコを漕いですぐ気持ち悪くなって笑った。夏。ブランコを勢いよく漕いでヒールを飛ばして笑いながら拾ってくれるところまで含めて夏。ブランコ漕いだのなんて何年前だろう、と思いながら去年もそういえばブランコを漕いだ事を思い出した。夏だった。高台にある、動物のいる細長い公園。
深夜の公園は酔っ払った若者か、犬の散歩をしてる人か、ダンスをしてる人しかいない。気づいたら2時を過ぎていて、それぞれタクシーを呼んで帰る。今日もタクシーの運転手に近くてごめんなさいね、って言うんでしょと言われてよく分かってるなあと嬉しくなった。まだわたし達出会って1ヶ月ぐらいしか経ってないのにね。
やめられた先輩や上司達がずらりと並ぶ飲み会で、黙々と枝豆を食べなが周りのペースに合わせてビールを飲んでいたら、現先輩方から怪訝な顔をされた。やだしおらしいの変だよ、え?松田さんっていつも違うの?、全然違いますよーわたし達のこと先輩って絶対思っ��ないですもん、そうなんだ意外〜。ガヤガヤした店内に甲高い先輩の声が響く。まん丸にした目を向ける上司に言える言葉もなく、ただ苦笑いを返した。自分のつまらなさに苛立つ。
ちなみにいつものわたしと言うのは、先輩方にほぼタメ口で話し、名前にちゃん付けで呼び、飲み会では先輩に取り分けてもらい、みんなの制止を振り払って日本酒を煽るような女である。こんな後輩を可愛がってくださる先輩達の心の広さたるや。平伏してしまう。大好き。
もちろん先輩方にも最初からこんな態度を取っていたわけではない。2年目までわたしは趣味は裁縫とおかし作りで、ピンクのフリフリのワンピースを着て、淑や��でおとなしい子だと本気��信じられていた。そんな事は一言も言った事はないけれど。
わたしは所謂猫かぶりというやつだ。猫かぶりというか、初対面で慎重にいくタイプだと言って欲しい気もする。23年間生きてきて、わたしの性格というのが個性として簡単に受け入れてもらえないことを痛いほど学んできたから。わたしはどの学校でも1年生の10月ぐらいまではろくな思い出がない。どれだけ己を押し殺してひっそり生きているつもりでも、強烈すぎて受け入れられなかったと言われたりする。
わたしはWikipediaにつらつらと肩書きが沢山連なって結局何をやってる人なのかよく分からないって思われたいの、とあなたに言ったら君らしいねと穏やかに笑ってくれた。わたしらしいってなんなんだろう。
運命の恋なんて転がっていないし、運命の人なんて待っていたところで迎えにきてくれやしないのだ。
あなたが第2の故郷が軽井沢だというので、わたしの第2の故郷はどこにしようかなと言ったらお前は鎌倉やろ、と返してきた。よく覚えてますねと驚き半分であなたの顔を見たら、あたりまえやん何年の付き合いやと思っとるねんと得意げに言われたので、強めに叩いておいた。本当にそういうどうでもいいことばっかり覚えているのだ、この人は。たいせつなことは全部わすれてしまったくせに。
怖い夢か過去に大好きだった人と幸せになる夢ばかり見るから寝るのをやめた。頭が重たい。布団はちっともあったまらない。高速道路がすぐ近くにあるこの家は、深夜になるとよくトラックの走る音がする。朝5時をすぎるとスズメが鳴きだす。朝8時半になるとびっくりするような声をあげる子供達が外で遊ぶようになる。9時を過ぎると1時間おきにお寺の鐘が鳴る。この3週間で全部覚えた。
隔離されていた間に季節は確実に春に向かっていて、私はそれが悲しかった。片付けても片付けてもすぐ散らかる部屋の片隅に座り込んで春ってろくなことないから春なんだよなあと思う。ほんっとにろくなことない。部屋のファンを回す。すぐに夏が来るのだろう。きっと今年のゴールデンウィークは暑い。菜の花をダメにしてしまったのでひどいにおいがする。夏になるし気をつけなければ。
本当はもうあの時死んでしまいたかった、いや消えてしまいたかったよとあなたに言うと、そんなの俺が許さないと真っ直ぐ目を見て言ってくれた。ばかみたい。あなたはわたしが消えてしまっても別に何にも失わないのにね。わたしはあなたが死んでしまったら失うから死なないで欲しい。二度と会えなくなってしまっても、あなたがこの世界のどこかで息をしてると思えればわたしも生きていける。
新しい仕事何に���ようとDODAをスクロールしていた時、どうしようもなく泣けて泣けて仕方なかった去年の夏。15の時から夢見て20で叶えて、たったの4年で諦めなければいけなかった夢。音が鳴らない黒のぺたんこ靴。オレンジ色のスカーフ。資生堂のルージュルージュを引いて無理やり鏡の前で笑顔を作る瞬間。しょっちゅうボリュームを調整しなければいけないインカム。もう二度とあの仕事は出来ないような気がするし、あの仕事をしたいのかと言われると分からないけれど、懐かしくて思い出す度胸が締め付けられる。
精神が安定している時は自分の精神が弱っていることなんてひとつも思い出さないのに、まるでアドレナリンが切れたスポーツ選手よろしく一定期間精神が落ち着いたらきちんと一定期間精神をおかしくする。まあでもだいぶ冷静になってきたんじゃないだろうか。冷静なふりが出来るようになったの間違いかもしれない。
世界が混沌としている今、こんなことでだめになっている私は贅沢なんだろうか。先生に言われた通りとんぷくを飲んだせいで今日は1日だめにした。だからあの薬は嫌い。嫌い嫌い嫌い。薬なんて大嫌い。大嫌いなのに一向に私の飲む薬は減らない。やんわり拒絶されているような気持ちになってへこむ。
お金で買えない幸せがある、と言われる度鼻の奥がツンとなる。知ってるよ、それが欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、でも無理だったからお金で買える幸せを片っ端から手に入れていたのだ。
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Persona 3 Club Book Pawlonia Mall people pages scan and transcription.
ポロニアンモールの人々
People of Pauloownian mogol
月光館学園に隣接する巨大ショッピングエリアのポロニアンモールは、買い物と娯楽の一大スポット。タルタロス探索の準備のためだけでなく東の間の息抜きにもふさわしい。
黒沢巡查 辰巳東交番
港区の辰巳東交番を守る地域課の巡査。かつては敏腕のエリート巡査として知られていたが、正義感のあまりに10年前の桐条研究所事故の真相に深入りし、出世の道を外れた。
だがそのときの捜査によって真相に警察機構の手に負えない、人外のモノの存在を感じ、以降は独断で関係者と接触し、事件解決のサポートを行なうようになる。
なお巌戸台地区に配属されたときの最初の担当案件は、真田兄妹の入寮していた孤児院火災事故の再捜査だった。結局この事故もとくに人為的な点は見当たらずに決着しているが、そのときに現在の真田との関 係がつくられた。
基本的に非番はなく、昼は交番での勤務と武器の横流し販売、夜は担当地区一帯のパトロールと、とにかく黙々と働く男。毎週月曜日にご機嫌で値引きしてくれるのは、勤務明けに彼女とのデートが待ってい るから······かもしれない。
話しかけるのを躊躇させる強面の巡査。見かけによらず港区の平和を心から願い、特別課外活動部員への武器提供を請け負っている。
寡黙な平和
の守り手
眞宵堂店主 眞宵堂
隠棲の美人
科学者
断���的ではあるが港区で起こる事件のカラクりを知る数少ない人物。黒沢巡査とは桐条がらみで知り合い、頻繁に情報交換をする仲。
趣味で集めた骨董品を売る、凄みのきいた笑みが魅力的な女性。
学生時代から考古学を専攻していたのが縁で、桐条鴻悦が存命のころ、非公式計画の中核であった「エルゴノミクス研究所」の研究所員として、岳羽詠一朗の下で研究の一端に関わっていた。おもな研究は、過去のシャドウ関連の記述や痕跡を考古学的見地から分析・解析するもの。中心研究から一歩引いたところにいたことが、早期に研究 の問題を知ることとなり、事故の起こる数年前には研究所を去っている。しかし研究の真相を知りながら、その事実から身を引いたことに呵責を感じていて、桐条の膝元の土地を去れずにいる。そんな自分の迷いを自嘲し、店の名前を「眞宵」堂と名づけた。
上司であり師弟関係にもあった詠一朗には、妻子ある相手と知りながら道ならぬ感情を抱いていた時期があり、彼がすべての罪を負わされる形で世間的な決着がついていることも、彼女の桐条への複雑な感情をを助長しているようだ。
青ひげ店主 青ひげ薬局
欧米型ドラッグストアがこの国に根を下ろして十数年、今やすっかり市民権を獲得した中、昔ながらの対面販売式「薬局」としてがんばる、青ひげ薬局の店主。洗練された雰囲気を全面に押し出す新興のショッピングエリア・ポロニアンモールの一等地にて、このスタイルを貫く心意気はさすが。顧客は若者はもちろん、仕事帰りのサラリーマンや、いろいろ不具合に悩むお年寄りまで、幅広い年代をカバーしている。
仕事柄幅広い医薬品を扱ってはいるが、なにを置いても養生がいちばんという、東洋医学に基づいた主張をもっている。その証拠に料理の相談を持ちかけると、医食同源の秘蔵のハブの干物を熱心に勧められたという、部員からの報告あり。
店主渾身の青汁スムージーは販売1年目には罰ゲームのネタにされるという不幸な歴史を持つが、本人はその味わいと健康的な価値とに自身を持っている様子。
家庭の医学の体現煮
立派なひげをたくわえた恰幅のいい店主。豪快な人柄と取扱商品の怪しさにただの薬屋ではない気配がただ���う。
ヤリ手の女性記者 ポロニアンモールほか
ペンを武器に三流ゴシップ誌で戦う女性記者。全国的に広がりつつある謎の社会現象の真相に、たったひとりで挑んでいる。その行動力と洞察力で、無気力症患者の発生のメカニズムにいち早く着目したほか、月の満ち欠けと無気力症患者の増減や、無気力症拡大と桐条グループ関係者たちの動向との関係をかぎつけるなど、本来桐条の関係者にしか知り得ない真相に徐々に迫りつつある。そのため上司や「さるところ」から圧力をかけられることも多数あり。それが彼女の自由報道への情熱に一層拍車をかけているようだ。年末に向かって無気力症が猛威を振るうようになっても、さらにそこに謎を解く鍵を見出す、恐るべきバイタリティの持ち主。
無気力症におちいったタクシー運転手の間近でも冷静に状況を分析。報道に携わる者の鑑。
記者eyes
事件の気配をいち早く見分ける千里眼!!
記者brain
巧妙に隠された真相を見抜く冴えた頭脳!!
記者heart
おばさんと呼ぶと無反応になる乙女心!!
記者suit
体を張った取材に耐える丈夫な素材!!
記者hand
記事を書きなぐる武器!ペンだこは勲章!!
記者pumps
走っても足を痛めない低めのヒール!!
●図解!デキる雑誌記者!!
●女性記者の真実への軌跡
老いてますます盛んな老人 噴水広場
日がな一日、噴水のそばに腰を下ろして遠くを見つめるお爺ちゃん。多少弱々しく見える現在からは想像もつかないが、若いころは結構な女泣かせだったらしく、会うたびに盛んに「若いころにはギャルと遊べ」と力説される。このところ、かつての友だちがひとり、 またひとりと冥土に旅立ち、寂しさを隠し切れない様子。ポロニアンモールを訪れて無事な姿を確認するたび、「元気でよかった」を胸をなで下ろさずにはいられない、噴水広場のシンボル的存在になっている。
影人間が増え出す時期以外は一年を通してこのベンチで過ぎ去った時間を思い返している。
聞かせて!おじいちゃんの武勇伝
ビー・ブルー・ヴィーの店員 ビー・ブルー・ヴィー
感度の高いアイテム��、月高生をはじめとした地域の女子高生に人気のアクセサリーショップの、カリスマ店員。彼女の提案する小物使いは、必ずといっていいほど10代女子のハートをがっちりつかむ。見た目の派手さに反して、気さくな人柄と丁寧な応対で、相手の目線で接客する態度が好感度高し。自然と恋愛相談を受けることも多くなり、客同士の人間関係や恋の成り行きにはちょっと詳しいようだ。信条は「おサイフに優しい値段でセレブ感のあるオシャレ」。
クレーンゲームの月高生 ゲームパニック前
齢17にして初めてクレーンゲームを知り、世間から10年以上遅れてやってきた、景品釣りのスリルと興奮に盛り上がり中の男子生徒。友だちの誘いもむげにして、熱心に攻略方法を研究しており、影人間が徘徊を始める時期以外は、青春の貴重な時間と多くない小遣いを、その娯楽に費やしてポロニアンモールで過ごしている。かつて一世を風靡したこのゲーム、最盛期には亀や伊勢海老まで景品になっていたのは本当の話。
買い物途中の主婦 噴水広場
夕方の買い物の途中で油を売っている主婦ふたり組。日々成長する子どものしつけと教育問題に頭を悩ませている。家事と買い物で疲れたと言ってはたびたびお茶に繰り出しているらしく、ポロニアンモールや巌戸台商店街の飲食店には、月高生以上に詳しい。
●髪を結った主婦
高校2年生の年頃の娘を抱える母親。勉強そっちのけでオシャレに凝り始めた娘にあきれ顔。
●髪の短い主婦
中学3年生の息子を持つ母親。月高を目指しているが不穏な事件続きで躊躇気味。
Syuhu's COMMU
高2の娘 ← シャガールばっかり行って!← 髪を結った主婦 買い物友だち
髪の短い主婦
ご近所さん? 購買のおばちゃん
→ 目指せ月高!→ 中3の息子
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るんぺんパリ 【RunPenParis】
【自己紹介 2024年8月3日追記 4335文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある お兄さんいるらしいがあった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉���食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 上野城のお堀の高さ日本2位? 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる
市部という地区だったと思う 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった 小学校までは上野市依那具にある 市営の城��丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから だからそういう人には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きなが��� パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかん��」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)3月15日(金曜日)弐
通巻第8176号
明日(3月16日)、北陸新幹線が金沢から敦賀へ延長
福井県は観光と経済活性化の期待に湧いている
*************************
北陸新幹線は日本海沿岸の糸魚川(新潟)から富山、金沢を通り、若狭と越前の境にある港町・敦賀まで延長される。『古志の国』の再現だ。
敦賀駅は新幹線駅で最高位の三階建て、駅前は商店街が整備され、あちこちに歴史的な遺物やら銅像、記念館がならんで観光客を待ち受けている。気比神宮から金ケ崎城跡は後醍醐天皇の御代の激戦地、信長潰走のおりは明智光秀が鉄砲隊を組織してみごと殿軍を務めた。
松原海岸から南へ歩くと、水戸藩の武田耕雲斎以下の天狗党を祀る松原神社、このあたりに渤海使をむかえた迎賓館があった。敦賀は観光資源に恵まれているのである。
筆者、古代史最大のミステリーのひとつである応神天皇、そして継体天皇の取材を数年つづけているため何回も訪れてはいるが、訪れるたびごとに新しい発見がある。
記紀では応神天皇が武内宿弥に連れられて禊ぎに気比神社へ赴き、地元の神と名前を取り替えた。なぜ?
気比神社は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀るが、猿田彦と竹内宿彌もちゃんと祀られている。敦賀の応神を祀る神社のほぼすべてで、武内宿彌を祀っている。その謎を解明するために現地の稗史を調べているのです。
継体天皇は三国に育ち、坂井市にある『天皇宮』に大和朝廷からの使者、大伴金村と物部荒鹿火を迎えた。その近くには執務した高向宮跡がある。また謡曲「花かたみ」の舞台と想定されるのが越前市の「花かたみ公園」と味真野神社。そこから奥へぐんと這入り込むと五星(ごおう)神社がある。応神から継体までの五代をまつる神社だ。このあたりが「文室」(ふむろ)とよばれるのは継体天皇の学問所があったとされるからだ。
脱線すると能の『花かたみ』は各地の能舞台で演じられるが、ことしは3月17日に長野で催される。残念ながら筆者、先約とかさなって鑑賞に行けない。越前郊外の味真野神社境内には、この能を再現する継体天皇と越前妻とが並ぶふたりの銅像が建立されており、王冠は金で輝いていた(それにしても駅から遠いです)。
脱線すると雇ったタクシーは日産EV。『タクシーの電気自動車は初めて』というと運転手は「寒いから暖房を入れると電池の消耗がものすごい」と愚痴をこぼした。
新幹線のはなしに戻すと福井駅前には「ふくみち」として商店街が整備され、武生駅は従来線駅よりかなり遠い田圃の真ん中に「越前たけふ」駅が新装されていた。
沿線にはカメラマンがズラーリ、最後の従来線の車両と新幹線の一番列車を撮影しようと全国から鉄道ファンがあつまって壮観だった。彼らには応神、継体天皇に興味はない。
さて糸魚川、富山(射水)、伏木、倶利伽羅峠、加賀の小松、そして坂井市の称念寺、敦賀気比神宮と、それぞれに芭蕉の句碑が建立されている。『奥のほそみち』は『古志のほそ道』であったというのが筆者の持論である。(拙著『葬られた古代王朝・高志国と継体天皇』、宝島社新書を参照。古志は��高志」、または「越」とも書きます)。
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((( 演目事典より )))
越前国味真野(現在の福井県越前市味真野町周辺)に、応神天皇の子孫である大迹部(おおあとべ)皇子(男大迹皇子、男大迹邉皇子とも表記)が住んでいました。皇子は武烈天皇より皇位を譲られ、継体天皇(450~531)となり都へ旅立ちました。帝は味真野にて寵愛していた照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ:花籠のこと)を届けます。出先で使者を迎えた照日の前は、天皇の即位を喜びながらも、突然の別れに、寂しく悲しい気持ちを抑えられず、手紙と花籠を抱いて、自分の里に帰りました。
大和国玉穂の都(現在の奈良県桜井市池之内周辺)に遷都した継体天皇は、ある秋の日、警護に当たる官人らを引き連れて、紅葉見物にお出かけになりました。そこに照日の前と花籠を持った侍女が現れます。彼女は天皇への恋情が募るあまり、狂女となって故郷を飛び出し、都を目指して旅をしてきたのでした。狂女・照日の前が、帝の行列の前の方に飛びだすと、官人が狂女を押し止め、侍女の持つ花籠をはたき落します。照日の前はこれをとがめ、帝の愛用された花籠を打ち落とす者こそ狂っていると言い、帝に逢えない我が身の辛さに泣き伏してしまいます。
官人は帝の命令を受けて、照日の前に対し、帝の行列の前で狂い舞うように促します。照日の前は喜びの舞を舞った後、漢の武帝と李夫人との悲しい恋の顛末を物語りつつ、それとなく我が身に引き寄せて、帝への恋心を訴えます。
帝は、照日の前から花籠を受け取ってご覧になり、確かに自分が愛用した品だと確認し、狂気を離れれば、再び以前のように一緒になろうと伝えます。照日の前は、帝の深い情愛に感激し、正気に戻ります。この花筐以降、「かたみ」という言葉は、愛しい人の愛用の品という意味を持つようになったと伝えられています。かくして二人は、玉穂の都へ一緒に帰っていくのでした。
(( 以上ご参考までに )))
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インボイス制度が10月からスタートしました。この制度について考えます。インボイスとは消費税の税額が記載されている領収書や請求書のこと。魚や肉といった食料品などに軽減税率が導入されて8%と10%の2つの税率が混在するようになり、消費税を明確にするため導入されました。 買う人にとっては分かりやすい。いや、いいことばかりではないんです。例えば、これまで5000円で購入した材料を使い、店で1万円��商品にして売った場合、私たち消費者は店に消費税1000円、店は卸売業者に500円の消費税を払ったことになります。 これまでの消費税の仕組みでは、店は業者に支払った500円を差し引いた500円だけを納税すればよく、これを「仕入税額控除」といいます。これが10月からは業者がインボイスを発行し国に納税した場合、同じ仕組みで店も「仕入税額控除」が受けられますが、業者がインボイスを発行できない場合、店は業者に消費税500円分を払った上に1000円を納税しないといけなくなるんです。 そうすると、この業者と取引したら経費が余分にかかると思って、取り引きを止める動きが出てくるかもしれません。 実は小規模な業者は消費税の納税が免除されます。免税されるのをやめてまでインボイスを発行すべきかどうか。小規模な事業者は今決断を迫られています。 松山市で個人タクシーを19年営む渡邊博之さんに影響を聞きました。 渡邊博之さん: 「タクシーが全国的にかなり減ってる側面もあって今、結構忙しいことが多い。ビジネスマンの方、私は主に(松山)空港で仕事してますけど、結構来られてる」 新型コロナが5類になり、ようやく観光やビジネスの利用客が戻ってきたと話す一方、悩みの種は10月から始まったインボイス制度と明かしています。 渡邊博之さん: 「運転手仲間の話によると、領収書を発行した時に『ああよかった、インボイス付いてる』って言うお客さんがおられた話も聞きますし、会社の経費で使われる方はインボイス発行事業者であるかどうかはかなり意識すると思う。もし免税事業者だったら、出張に来られたお客様とか敬遠される可能性も多いですし」 出張先などでタクシーに乗る際会社によっては、インボイスが発行できないタクシーの料金は交通費として精算できない可能性もあるため、乗ってくれない恐れがあるんです。頭を悩ませる問題はほかにも… 渡邊博之さん: 「課税事業者になったらなったで、税金をこれから払わないといけないですから」 インボイスを発行するには新たに登録が必要。登録すれば、これまで小規模な事業者として免除されていた消費税を納付しないといけなくなります。 渡邊博之さん: 「正直なところ免税事業者でそのままいきたいところ。やはりサラリーマンを相手にご乗車いただくことが多いので仕方ないかなと」 中予圏域の個人タクシーが加盟する組合も、組合員の苦しい胸のうちを明かします。 愛媛県個人タクシー連合会・高橋弘次会長: 「参加していないと乗っていただけなくなるのをやはりみんな心配してて、喜んで参加してる人は一人もいない。今200人弱の組合員がいますけど、こちらが参加してない屋上灯。(インボイス未対応は)約4割前後いる。(インボイス登録事業者は)6割。特に多いのが空港(待機の���クシー)。空港はやはりビジネスマン多いので、9割9分は参加している」 利用客が���目でわかるように、インボイスに対応する車はタクシーの屋上灯が黄色だったり黄色いステッカーが貼られていたりします。しかし未対応の車は白に色分けされています。 高橋弘次会長: 「僕が一番思うのは、個人事業主はすべて何%でもいいから(消費税を)払ってくださいとしてくれたら、僕たちはこんなことしなくて済むし、こういうものをつくらなくていいステッカーなんかを。ずるいですよね。どっちかにしてくれればやりやすいし、こんな問題も起こらないし」 国は今回、免税業者から新たにインボイスが発行できる課税業者になった事業者に対し、消費税の納税額を一定期間2割にするなど特例措置を講じています。今後もインボイスに対応しなくても事業を続けていけるのか、先行きは不透明です。
10月から開始 インボイス制度を考える 個人タクシーは「国はずるいですよ」【愛媛】(テレビ愛媛) - Yahoo!ニュース
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2023年2月3日(金) 出張旅行記その90 【1月19日】 ついにハノイ行きのバスチケットを手に入れた店主。後はホテルで荷物をまとめ,バス停に戻ってくるだけです。 ホテルは今夜の分も取っているので,宿泊費は払います。店主の都合でキャンセルするわけですから,部屋を用意してくれたホテルには何の落ち度もありません。しかも,14時チェックインとして,すでに4時間は部屋を利用したことになります。 少し勿体無い気もしますが,ここでバスに乗って��かないと,いつハノイに行けるか先が全く読めません。 ホテルへ帰る途中,まだ心配事がありました。 果たして��バスの出発時刻までにバス停に戻って来れるのか。 ここからホテルまでは30分ちょいです。ホテルに着くのが18:30として,そこから荷物をまとめ,シャワーを浴びたら19時過ぎです。ホテルからタクシーに乗れば,余裕を持ってバス停に着くことでしょう。 しかし,しかしです。町中でタクシーをほとんど見ていないんです。 全くないわけではないでしょうから,ホテルにお願いすれば,配車してもらえるとは思います。 それでも,最悪の事態は考えておくべきです。 最悪の事態とは,ホテルでもタクシーを配車できない場合です。テト(ベトナム正月)を軽くみてはいけません。日本の常識では考えられないことが起きる,それが東南アジアです。もちろん,それはここに限ったことではありません。ルアンナムターでは,ホテルで頼んだトゥクが来なかったのですからね。 日本の常識は世界の常識ではありませんし,世界の常識も日本の常識ではないのです。 タクシーがなければ,どうするのか。 歩くしかありません。 あの重い荷物を持って30分の道のりを歩くとなると,倍,いえ,3倍の時間がかかると思っていいでしょう。となると,19時前にはホテルを出るべきです。それで,ギリギリ間に合うかというくらい。 一刻も無駄にできません。 無駄にできないと思いつつ,帰り道でも写真を撮る店主。ここで撮っておかなければ,二度と撮影することは叶わないでしょう。 だいたい読み通りの時間にホテルに戻った店主。3人のスタッフのおっちゃんたちが食事をしています。早速その一人に掛け合い,すぐにチェックアウトし,19時過ぎにタクシーを呼んでほしいと頼みます。バスのチケットも見せ,時間を確認しておきました。分かったと,頼もしいおっちゃん。お願いしますよ。 19時過ぎにフロントに降りてみると,おっちゃんは一人に減っていました。 タクシーは...来ていません! おっちゃんは携帯電話を取り出し,話し始めました。まさか,今から呼ぶ...とか?いや,それはないでしょう。あってはならない。 大丈夫だ,安心しろ,と目力強くアピールするおっちゃん。 すぐにやってきたのは,ピックアップトラック。タクシーではありません。 どうやら,スタッフの車のようです。おっちゃんにお礼を言って,別れます。Chúc mừng năm mới(よいお年を) 車だと5分で着いてしまうバスターミナル。基本まっすぐの道ですし,あっという間です。道沿いでいいよと言ったのに,おじさん,駐車場の中へ入ってくれます。中へ入り,中へ中へ。なんと,バスの後ろにつけます。 チケットを見せろというので渡すと,番号を確認し,このバスだ,と言って,荷物を運ぶのを手伝ってくれた上に,バスの運転手にハノイまでこの男が行くから,���の2つの荷物を頼む,と手配までしてくれました。 送ってもらえただけでも嬉しいのに,乗り込むバスの間近で降ろしてもらえると,大荷物の店主としてはこれほど助かることはありません。ここでも,日本ではあり得ない常識が起きました。 おじさんに厚くお礼を伝え,別れます。次ディエンビエンフーに来た時も,必ず利用しますからね。また会いましょう。Hẹn gặp lại 【お知らせ】 海外出張から帰ってきちゃいました。現在、通常営業しています。 ご来店、心よりお待ちしております。 【身体のセルフケア】 2023年2月4日(土),3月11日(土)の開催を予定しております。 16:30~18:30 上福島コミュニティーセンターにて 詳細、お申込みはメッセージにてご連絡ください。 2月4日(土)の営業は,19:00〜23:00となります。何卒ご了承ください。 #カフェ #バー #東南アジア料理 Cafe & Bar ສະບາຍດີ(#サバイディー ) 大阪府大阪市福島区鷺洲2-10-26 📞06-6136-7474 #osaka #fukushimaku #cafe #bar #福島区グルメ #福島区ランチ #福島区バー #ラオス #ベトナム #チキンライス #ベトナムの旅 #ディエンビエンフー #変わろう日本 https://www.instagram.com/p/CoMVS_2SNhE/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#カフェ#バー#東南アジア料理#サバイディー#osaka#fukushimaku#cafe#bar#福島区グルメ#福島区ランチ#福島区バー#ラオス#ベトナム#チキンライス#ベトナムの旅#ディエンビエンフー#変わろう日本
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2023年タイの旅(前編)
コロナ後初の海外旅行に私が選んだのはタイ。
クリスマスイブの早朝にスワンナプーム到着。空港地下のエアポートリンク駅脇のSmileって店で日本から予約しといたWi-Fiを受け取り、両替済ませ、エアポートリンクとMRTを乗り継ぎアソークのホテルへ直行。
なお、このWi-Fiは滞在中全く問題なく使え、料金は日本の半額以下。両替したのは5万円分のみ。7日間滞在するのに足りるのか?結果は後ほど。
ホテルは頼んでたアーリーチェックインは出来なかったけど、屋上の広いプールエリアを自由に使わせてもらい、着替えたり荷物整理したり、スマホ充電も出来助かった。(タイに早朝着くと、プールエリアを自由に使わせてくれるこのパターン多い。シャワーも出来る。)ロビーに降りたら、朝ごはん食べていいよと。飛行機で食べたけど美味しそうだったからサラダとかいただくことに。とにかくロビーも朝食スペースもオシャレでサイトで見たまんまのセンスのよさ。
実は今回の旅はBright & Winのクリスマスコンサートに合わせて来た。そのチケットを用意してくれたタイの友達(もちHOTTEST)とランチに落ち合う。ジュンケがニックンに差し入れしたピザ屋の元祖店がたまたまホテルの近く。ホテルのトゥクトゥクでソイ(路地)を大通りまで送ってもらう。早めに着いたので友達が来るまでピザ屋近くを散歩。タイのソイ散策は楽しい。
ピザ屋には開店とほぼ同時に入り、ハネムーンカップルタイ再訪のYouTubeのスクショ見せ、これと同じピザをと注文🍕2人でサラダをつつきながら、久々の再会に話が尽きない。いきなりお土産もたくさんいただく。おまけにいきなりご馳走になる🙏
ピザ屋からタクシーでインパクトアリーナへ直行。45分ほど乗ってたのにタクシー代はたったの220バーツ。
会場若い子でごった返してる。2014年のGo Crazyを懐かしく思い出す。
帰りはまた別のタイの友達になんとか連れて帰ってもらう。帰りのミニバスにかなり並んだけど、想定内。
翌日はクリスマス。
まずは朝イチで旧デュシタニホテル近くで開催されてたテギョン誕生日カフェへ。開店から次々とタイHOTTESTが訪れてた。私が持参したGIVEAWAYも置かせてもらい、夕方までには無事全てなくなったと。よかったよかった。
この店の前でタイの友達2人と落ち合い、この後一日中付き合ってもらう。まずはナショナルスタジアム駅からすぐのショッピングセンターへ。そこで今渡タイ初のタイ料理をいただく。本場はやっぱり違う!これこれ、私が食べたかったのは!って料理が次々とテーブルに並ぶ。タイのこのお皿も大好き。
食後はショッピングモールをウロウロした後、腹ごなしにサイアムまでスカイウォークを歩くことに。サイアムまでは一駅だけど、スカイウォークを歩けるのは初めて知った。
クリスマスだからあちこちでアーティスト呼んでのイベントがあったようで、イベントエリアでは開始時間のずっと前から、たくさんの人が座って待ってた。そんなのが無料で見れるのがタイのいいところ。一つはニックンがメンターしたBrothers Thailandのグループのもあったみたい。ドラマに採用された曲?が流行ったらしい。
夜ご飯は私がリクエストして、Tay & Newのグルメ番組で紹介されたベジタリアンの店に連れてってもらう。ってこの番組3年前ですけどね(笑)バンコクにはこんなオシャレなお店があちこちにある。ここもまだ健在でよかった〜ご馳走になっちゃいました。
サイアムでお土産探しに手伝ってもらったりして、夜までずっとお付き合いいただき、ターミナル21でさよならした。せっかくの日曜のクリスマスを一日中お付き合いいただきありがとう。タイではクリスマスはそれほど重要じゃないから大丈夫よ、と言われましたが、会話は日本語で楽だし、つもる話が楽しかった〜
友達オススメのコロナ検査キットも大量買い!↓↓
26日月曜日は毎度毎度お世話になりっぱなしのタイの一家のママと娘さんと朝から夕方まで過ごす。ホテルまで車で迎えに来てくれた。知り合った時は高校生だったのに、いつの間にかマイカーを運転するようになったとは。
まずはBuddy Boysが撮影で行ったWat Saketへ。たまたまママの弟さんがこのお寺で出家したという偶然に驚く。本当に日本人の私だけ拝観料50バーツ取られた(笑)344段の階段はスタスタ登れた。さすが健脚な私。って実は段差が低い階段でした😂頂上までの途中にあるBuddy Boysが皆んなでついたドラはもちろんつく。
番号を振って出すおみくじももちろんやりました。出たのは28番。最後の番号でした。
この後は同じくBuddy Boysが食べたタイの宮廷料理レストランへ車で移動してランチ。邸宅レストランで落ち着いた内装。撮影したのはこの場所だ!撮影時はテーブルは丸テーブルに変えたのね。ここでのランチもご馳走になってしまう。エビ(日本のお土産)でタイを釣る事に🙏
夜はまた別のタイペンチングと落ち合って、ワットアルンが見えるレストランでディナー。前もこの辺りのレストランで食べた事ありますが���の時はまだワットアルンがお色直し中だった。こんな綺麗にライトアップされたワットアルンを見れて幸せ。彼女がテーブルを予約してくれたんだけど、あいにくジュンケとニックンの席は先約ありだった。が、「空いたら移動したい」とこれまた彼女が頼んでくれてたため、最終的にはそのテーブルに移動。Yes, we are HOTTEST ❤️💚 次回はチャオプラヤー川の遊覧船に乗ろうと約束🤞
これがそのテーブルからのワットアルン
↓↓
彼女との待ち合わせ前には1人で近くの花市場をウロウロ。市場があると入らないではいられない性分。
さあ、翌27日はHOTTEST2人とカンチャナブリに1泊旅行だ!続きは後編へ
(続きをまだ書くのか?😂)
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15. MAY. 2024 彼と会ってすぐに、互いを抱きしめた。
俺はいつもの笑顔だったけど、胸はいっぱいだった。
東京に着いた今日、大手町で待ち合わせをしていた。飛行機に乗って、沖縄から東京に到着して、ブランクーシの展示を観た後に、大手町のeast exitで待ち合わせも、eastを西口だと間違えて待っていると、彼から電話が来た。
「eastは”東”でしょう。本当に日本人ですか?」
5年ぶりに聞いた声は、昔より自信を持って優しくセクシーだった。久しぶりに会った彼は、目を見て晴れやかに、穏やかに笑うようになっていた。
彼と初めて出会ったのは、狂乱がピークを迎えていた2018のハロウィーンだった。身動きとれないほどの人混みの中で、俺たちは互いのジャケットの裾を掴んでいた。人はたくさんいたけど、彼だけが確かだった。僕たちはず���と笑顔だった。
6年前、彼はまだ20代前半、日本に働きにきたばかりだった。母国で専門学校を出て、お金がないと大学は諦めて、たまたま人材をハントに来ていた日本人に連れられて日本で就職した。毎月実家に7万円仕送りをして家族を支えていた。彼の国の価値観ではお金を稼いで、結婚して家族を作って過ごすのが幸せとされていて、そうするつもりだと話していた。お金がなくても家族は一緒が一番だと、彼の家族写真を見せてくれた。
最後に彼と会ったのは、2019の新年に行った台湾旅行だった。東京に暮らしていた彼と桃園空港で待ち合わせをしたけど、俺は沖縄からの飛行機に乗り遅れてしまった。俺たちの関係はすでにちぎれかけていた。飛行機を逃してしまったときに、これは、この旅行に行くべきではないというサインなんじゃないかと感じた。それでも運命に逆らうために、チケットを取り直した。5時間遅れて桃園空港に到着すると、彼は眠そうにベンチで待っていてくれた。彼は髪を刈り上げていた。短くなった髪に触れると、思春期の子供のように頭を背けた。俺たちは台湾旅行で、目を合わせたり、手を繋いだり、抱きしめたり、上手くできなかった。宗教のことや家族のこと、社会のことやプライドなんかを気にして、上手くコミュニケーションが取れなかった。
俺にはいつも、彼の本当に考えていることが見えなかった。俺も自分が本当に考えていることに自信が持てなかった。台湾の最後の夜に、俺は少し投げやりになって、
「俺はいつも君に色んなことを伝えたいと思っている。君もそうだということが分かる。けど俺たちは色んなことばかり気にして、なにもできない。」
と話した。
「全部わかってるよ」
と彼は言った。ブラインドから差し込むネオンの明かりに照らされる友人の顔は笑顔だった。お互いのことが分かっていても、分かち合えるのは胸の痛みだけだった。
そのあとは、一年に一回くらい突然LINEが届くことがあった���だいたいは
「How are you doing?」
だった。返信しても、元気にしててよかった、みたいな返事が来るだけだった。たまに沖縄にいるというLINEが来ることもあったけど、「会おうよ」と送っても彼が沖縄にいる間に返事はなくて、しばらくして「東京に帰ってきたよ。」という報告が来るだけだで、なんだよ、といつも思っていた。俺も彼も別の日常があって、お互い関係のない生活を過ごしていた。
あるときiphoneを新調して、appleアカウントにログインすると、Icloudから自動で写真フォルダがバックアップされた。その最後の写真は、突然の嵐の中バスに乗り込む途中で振り返る彼の写真だった。沖縄と東京に帰る飛行機に乗るため、違うバスに乗り込む彼を撮った写真だった。それはちょうどぷつりと途切れた記憶の断面で、生々しい傷跡のようだった。フラッシュに照らされて赤く目が光る彼はやっぱり笑顔だった。
「久しぶりに顔を見て話したいな」
東京に出発する2日前に突然のLINEが来た。そこにどんな心変わりがあったのかわからなかったけど、俺も会いたかったので嬉しかった。
今回の東京旅行も、俺はまた飛行機に乗り遅れそうになっていた。十分に時間をとって家を出たけど、想定外の渋滞に捕まり、間に合わないかもしれないと思った。だけど同じことは繰り返したくなかった。渋滞に捕まったバスを降りて、道路に出て手を大きく上げてタクシーを捕まえた。
「俺、今急いでいるんです。」
そう話すと、何かを察してくれた初老の運転手さんが、ハリウッド映画の如く急いでくれて、奇跡的に飛行機に搭乗することができた。
そのとき止まっていた時計の針が動く音を聴くような気がした。彼は急ぎすぎてメーターを回し忘れていたので、タクシー代を多めに支払った。
今日彼はこの後、知人に譲り受けたチケットのライブにお台場まで行くらしい。ライブと俺に会うために会社を早退したらしい。それまで一緒にご飯を食べようと、小さな中華料理店に入った。頼みすぎたご飯を肴に、ここ5年間について話をした。
彼はこの5年間で、奨学金を取って大学院を出てMBAを取得したこと、アメリカに数ヶ月留学をしたこと、会社を変えたこと、そして長く付き合っている恋人がいることを教えてくれた。
彼はこの5年間、大学で色んな国から来た人と仲良くなって、アメリカでの生活もあって価値観が広がったようだった。多分恋人との関係の中でも成長したんだと思う。祖国にあった家族は色々あって解散して、みんな違う国に引っ越し、帰る場所も無くなってしまったとのことだった。これからMBAを活かせる会社に転職をしようか考えているらしい。今付き合っている恋人とは、夏から一緒に住むらしい。おそらく、そう心が決まったタイミングで俺に会ってくれたんだと思った。
「もうあんまり周りを気にするより、自分のしたいようにした方がいいかなぁって。」
彼がそう話す声はとても穏やかで、だけど揺るぎなかった。僕の胸は静かに震えた。誰にもわからないだろうと思う。俺たちがどれだけ悔しかったり、悲しかったり、胸が痛い思いをしてきたか。負けを認めて、諦めて、なかったことにしたこと。世の中は不公平だと思っていた。でもそんなことはどうでもなかった。そんなことは大したことではないと、彼は教えてくれた。
小さな中華料理屋で2人で祝杯をあげた。これが何についての祝杯かなんて、誰も知らなくていい。彼が俺のことをなかったことにしてくれたって、きっとなにも思わなかったけれど、彼は勝ち取ったことを僕に分かち合わせてくれたんだと思う。結局、俺たちから誰もなにも奪えなかった。俺はすごく嬉しかったし誇らしかった。彼は色んなところが歳をとって老けたと言っていたけれど、そんなことはどうでもなかった。前より美しくなっていた。美しいものは目には見えない。そして誰にも奪えない。
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真観の東京物語
Wednesday 8 October 2014
真観は、東京に行った。後期最初の授業だった。2人、欠席した。 その内の1人は、夏休みの課題が未提出だったが連絡はない。真観は、後期ボランティア面談をスタートさせる。今期の新しいアイディアであり挑戦でもあった。
授業が終り、職員室に行きタイムカードを押して帰ろうとした時1年生の女生徒が声を掛けて来た。 有志でZINEを制作しているという。廊下で立ち話をした。その女生徒はZINEを持っていて1冊、600円だという。真観は、迷わず買わせてもらった。真観は急いでいたので簡単にアドバイスをした。そのアドバイスの1つとして『1人で作った方がいいよ』と助言した。女生徒は『すでにそれを感じている』と言った。
真観は、急いで市ヶ谷駅まで行った。総武線は上下共人身事故で止まっていた。こんな時真観は不平を言わず祈る様にしている。誰かが死んだ。もしくは事故に遭った。仕方なく直ぐさま、真観は駅前でタクシーを拾った。タクシーの運転手に『1時47分までに東京駅に着きたい』と伝えた。幸い道は空いていた。
真観は、目標の時間少し前に東京駅に着いた。急いで新幹線のホームに向かった。新幹線は定刻通りに来て止まった。ホームで母を探した。母を見つけるまで数分掛かった。母は、少し不安げな顔をしていた。真観は、上京した母に会った。母は、7年振りの上京だった。前回は、真観の茶畑庵と写真展来訪だった。あれからもう7年の月日が過ぎたのだ。
母は、小さなハンドバッグ1つ提げていた。服装は薄着でもなく厚着でもなく。過ごしやすい秋で良かった。東京駅をの改札を出てランチを食べる事にした。八重洲南口地下街に移動した。何を食べるか迷った。最初お寿司を食べようと寿司屋を見つけたが立ち食い寿司屋だったのでお寿司は諦めた。ラーメン屋に入った。母は、店のメニューの写真を見てこれがいいと定番の醤油ラーメンを注文し、真観も同じものにしたが煮卵を加えた。母は、全部食べ切れなかった。母は、『少しあんた食べて』と自分の麺を真観の丼に入れた。真観は、自分のラーメンに入っていた煮卵を半分割って母と分けた。
食後、山手線に乗り渋谷駅へ移動。幸い座る事が出来た。渋谷駅に降りて1度外に出た。新玉川線に乗り換える為の地下に続く階段を見て母は見覚えがあると言った。渋谷駅は人、人、人でいっぱいだった。そして2人は駒沢大学駅まで移動した。何故か新玉川線は突風が吹く。渋谷駅でも駒沢大学駅でも。母は、不思議がった。女性たちはスカートを気にして押さえていた。
母は、母の9つ上の姉を訪ねに来た。もう10年以上会っていない。時折電話では話していた。その母の姉、真観の叔母は、自宅からほど近い病院に最近入院した。叔母は一人暮らしだった。次男坊が叔母の面倒を看ていると聞いていた。88歳になる叔母は老衰が理由で入院と叔母の次男坊、真観の従兄弟が教えてくれた。母が最近、叔母に電話していたが繋がらずやっとその次男坊がその一人暮らししていた叔母の家にたまたま居合わせた事で叔母の入院を知った。母は、叔母を心配し、上京する決心をしたのだ。
叔母の病室は、3階だった。叔母の病室はすぐ見つかったが叔母はいなかった。看護師に尋ねるとお手洗いだと言った。少し待った。
まもなく母は、叔母と再会した。叔母は最初誰だか分からない様だった。『顔が変わったかん?』と言った。そして叔母にとって予期せぬ突然の母の訪問を理解した。
真観は、母と叔母を2人きりにする為1度病院を出て近くの郵便局に向かった。英国のPに手紙を送る為だった。Pは、真観を彼が11月に主催するパーティーに誘っていたが真観は英国には行けない。理由は様々だった。だから御断りの手紙と写真を添えて送ったのだ。写真は、Pが5月に来日した時のもの。
郵便局は程よい距離にあった。行って帰って30分あまり。母は、お見舞いを長居をする気はない。真観は、郵便局から病院に戻り叔母の病室に向かった。病室は、4人部屋で全て老人だった。
真観が戻って来た時の母と叔母は打ち解けていた。母は、『叔母は涙を流した』と小声で言った。母は、来て良かったと実感していただろう。上京する前に母は、妹、真観のもう1人の叔母に意外な事を言われていた。『迷惑かも知れないよ』母は、『そんな事は絶対ない』と反論した。『姉妹で迷惑なんてあり得ない』と。叔母の心情は分からないが迷惑しているという雰囲気はそこにはなかった。真観の役目は上京した母のエスコートだけではなくオプションがあった。記念撮影だ。母もそれを願った。真観は、母に寝ている叔母の近くに顔を寄せる様に伝えた。撮影の為に寝ている叔母を煩わしたくなかった。
30分ほどで真観と母は、病院を後にした。そして真観は、病院の目の前にあるセブンイレブンに『用がある』と母に言い、一緒に入った。『今撮った写真をプリントして叔母さんに渡そう。今はこういう事が出来るんだ』と店内のマルチコピー機を使ってL版のプリントをした。1枚30円。真観は、5枚の写真をプリントした。母、叔母、もう1人の叔母、母の在所、在所近くに住む叔母に。真観は、ポストカードサイズを望んでいたがLサイズしかプリントは出来なかった。
プリントが終わると店を出て病院に戻りやれやれとベッドに寝ている叔母に写真を渡した。叔母にはこのスピードは理解出来ただろうか?一抹の不安はあるが叔母のベッドのサイドテーブルにその写真を置いて来た。
真観と母は、そのままとんぼ帰りする様にまた駒沢大学駅から渋谷駅に移動した。渋谷駅を出て真観は、『母にハチ公を観に行こう!』と母を誘った。当然だがハチ公は、目と鼻の先にある。真観たちがハチ公に行くとアジア系外国人がハチ公と記念撮影をしていた。ハチ公は、常に人気者だ。真観は、順番を待ち、母をハチ公の側に寄せた。真観はまた1枚だけ写真を撮った。母が真観のカメラに立つ時は必ず母はかしこまる。キリッした表情にキリッとした姿勢になる。
その���、山手線に乗って東京駅まで。途中2人が乗っていた山手線の車両の乗客が減ったので真観は、母との2ショットを撮る事を思いついた。いつものカメラ+卓上三脚を座っている反対側の座席に設置し素早くセルフタイマーで撮影した。真観はその写真を「Today's Fashion」に使おうと思った。東京駅に着くとタイミング良くすぐに出発する新幹線が待っていたが母は、『お土産を買いたい』と1本遅らせた。母は、お寺のYさんと兄カップルにお土産を買った。真観は母の買い物に付き合った。そして真観と母は、新幹線ホームに行った。新幹線ホームで出発を待機している新幹線の扉が開くまでは立ち話。真観は、兄に母の到着時間を携帯電話で知らせた。兄からはすぐに返信が来た。こういう時の家族の連携はとてもスムースだ。母は、新幹線に乗った。握手をして別れる真観。真観は、窓越しで母の写真を撮る。その姿は、愛らしかった。
母を見送った後、真観は、オフィスに向かった。UさんとCさんがいた。真観は、今日の出来事を2人に話すとCさんが『東京物語ですね』と言った。そうだな、確かに「(映画)東京物語」だ。『「真観の東京物語」と今日の日記のタイトルにしよう』真観は思った。Cさんは先にオフィスを出て、その後、Uさんと食事をしてから静岡に帰った。出来れば母に静岡にも寄って貰いたかったが母は日帰りを選んだ。8時過ぎ、母は、無事三河安城駅に到着し兄カップルと合流して『夕食を一緒に食べた』と電話があった。その電話があったのは真観がまだバスの中にいた時の事だった。
何ごとも一期一会。 母と叔母の対面も次回あるかないか。 母の上京も次回あるかないか。 そのモーメントを真観は、写真に収めた。 写真で出来る事、それが重要だ。 叔母の体調が回復します様に。
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【茨城】笠間「うなぎ 量深」
【タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって!】160年受け継ぐ秘伝のタレで作る伝説うな重『うなぎ 量深』2024/11/7放送 茨城県笠間市笠間1253-3 #タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって #タクうま #山中柔太朗 #森日菜美 #岩城滉一 詳しく見る↓
【タクウマ】タクシー運転手さん一番うまい店に連れてって! 笠間駅「うなぎ…
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8/29 その2
すっかり書き終えた気でいたけど、8月のことを思い返してみる。
まず、じいじが亡くなったこと。
9日、ママがわざわざ遠いところ来てくれた。最近じいじの調子が急降下したって聞いてたから心配してた。8月この日しかママと私の休みが合わないしってことで来てくれた。会った時にも詳しく調子を教えてくれて、車も前の日に買ったらしく(送迎の車が欲しいってなって即購入したらしい。すごい。)これから忙しくなるね、ママも無理しないでね。って話してた。私はママと少しでも長くいたいから引き止めちゃって、16時30分くらいに解散した。
その日の夜、神奈川の松田のほうで大きい地震があって(しかもこっちは全然揺れなかったし、テレビもつけてなかったからアーティストがインスタのストーリーで投稿してるのを見て知った)大丈夫かな。って心配だった。世間がお盆休みに入る金曜日の夜に小田急全線止まっちゃって気の毒だね...。とか話してた。
ママに送ったラインに全然既読が付かなくて、心配になって電話した。私が、地震大丈夫だった?って聞いたのかな「じいじね、亡くなっちゃったんだ。」ママからそう言われて心の準備のできていなさと、混乱と、罪悪感が一気に駆け巡って、私は泣いてた。
ママは帰り、早速渋滞に巻き込まれていたらしい。
ママの妹が元々今日の夜来てくれる予定だったらしく、妹が家に着いたらピーピーって何かが鳴ってたらしい。何だろうと思って音のほうに行ったら、じいじが台所で倒れていたらしい。ブザーの正体は冷蔵庫で床にビールが転がっていたらしい。とにかく110番して心臓マッサージをしてたら少し息があったらしい。(110番も119番も押したから家の前いっぱい来てプチ渋滞になってたらしい。)
どうやら息がなかったら警察の霊安室に運ばれるらしいんだけど、病院に搬送されることになって、ママはその連絡を聞いてそのまま病院で妹と合流したらしい。今思うと、少し息があったのはママの到着を待つためだったのかもね。って言われてる。じいじも誰にも見られずひとりで逝きたかったから、ママを私のところに行かせたんだよ、その日の朝にママの手作り料理も食べたし、前日かその前の日には直々にありがとうって伝えてくれたらしいし、介護施設にはいきたくなかったらしいし、タイミングだったんだよって。
私たちは10.11で仕事して11の夜から相手の実家の大阪に帰省する予定だった。けど忌引の意味も知らなかったけど、とにかくママのそばに行かなきゃいけないって思って、店長に連絡して二日間ともお休みにして翌日、神奈川に帰った。(その日の夜すぐ帰りたかったけど、大阪分含めた荷物の準備をまだ何もしていなかったのと、涙が止まらなくて心も疲れてしまったのと、オリンピックのブレイキンに見入ってしまって気づいたら深夜になってしまっていたから、早朝に出ようと決定した。)
ママの好きなフランセのレモンケーキを買って帰った。
ママもママの妹もいて、二人とも疲れた顔してた。
ママの妹が帰ってから(いつも静かだったけど)静かな家で夜を過ごした。今日は特段静かだった。
涙が出そうになったけど、一番つらいのは子供たちであるこの人達だなって思って我慢した。けど涙は隙間から出てきた。
大阪にも行った。実家に帰ってきた日の夜に大阪へ出発する予定で、ママが心配だったけどお兄ちゃんが泊りに来てくれた。(11の夜)
因みに弟は14の夜泊りに来てくれるらしい。こどもたちもママのことを支えたくて必死。来てって言ってないのに来てくれるのラブだね。
大阪は無事朝4時くらいに着いてそのまま寝て、7時くらいに甥っ子に起こされて大阪1日目が始まった。
大阪散歩、楽しかった。プールはしんどかったけど、まあ楽しかった。(水着持ってくればよかった)
甥っ子と少し話せるようになって嬉しい。かわいい。今後の成長が楽しみ。2日目は朝から淡路島へ行ってみた。兵庫県の高速ずっと混んでて嫌だったけど、淡路島の国立公園はとても整備されていて、広くて楽しかった。暑すぎた。もっと冬に行きたいなって思った。蝉が怖くて悲鳴を上げながら木の下を駆けた。
ロイホの店員さんの動きの無駄のなさと、ホスピタリティの高さとカレーのおいしさに感動しまくり。
3日目は、ささっとお土産買って14時くらいに大阪出たのかな。
22時くらいに家着いた。長旅!!!でも運転楽しいね。
お葬式終わって疲れ果ててハングリータイガーいったけど疲れすぎて、ハングリーすぎて、料理でてくるの遅すぎて、みんな最終的に無言だった。従妹がギャルになってた。
帰ってひと眠りして、相手を拾って弟送って帰った。
ここから、夏休み第二章が始まる。
翌日、出勤したけど節々が痛くて立ってるのも辛くなってしまって、早退した。しかもタクシーで勝どきに向かって昨日送り届けた弟の家で休ませてもらうことになった。1時間くらい寝てたらママが来てくれて家まで送ってくれることになった。みんな、昨日ぶりって感じ。
コロナだった。初!高熱出たし、のどは痛いし、味わからなくなっちゃうし、しんどいねえ。一応5日休んだけど、まだふらつくからもう一日休みたいって思って「明日出勤します。」ってラインを一回消して(未読だった。)「明日もお休みいただきたいです。」と送信しなおしたらチクリと言われた。もう本当にうまくやれないなあ。
そんなこんなで今。今日はライブだ!!!!
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俺、今日、初出勤した、作業所、の、一回目の、体験のとき、この道、まーっすぐ、帰ったんよ。そしたら、左手側に、博多の、BOOKOFFに、出たんよ。だから、2回目の体験のとき、博多の、BOOKOFFの、前の歩道を、まーっすぐ、歩いて、今日、初出勤した、作業所に、向かったんよ。そしたら、作業所近くの、すき家が、左手側に出て来て、反対側歩道に、交差点、渡れは、もう、すぐ手前が、作業所の、はずなんよ。そしたらさ、2回目の、体験のとき、歩けと、歩けど、すき家、出てこんのよ。不思議なことに。で、時間、間に合わんし、道、分か���んから、タクシー、ひろって、作業所の、住所、伝えたんよ。そしたら、作業所、俺が、すき家目指して、歩いた、真逆に、作業所あるって、運転手、言うのよ。で、結局、2回目の、作業所体験の時間、ピッタリに、作業所着いて、結論、間に合ったんやけど、どう、考えても、一回目の、作業所体験の、帰り道で、左手側に、博多の、BOOKOFF、出てきたこと、おかしいのよ。そう、実は、霊界の再臨のときに、これと、同じ現象、次郎丸の、近所でも、起きたんよ。俺、とにかく、去年の夏、霊界の、再臨の、真っ只中のときに、七隈線、次郎丸駅に、向かって、歩いたんよ。そしたら、出てきた、風景、俺の、アパート裏の、歯科台前の歩道の、あじさい、咲いてる川に、出てきたんよ。あと、七隈線、加茂駅、下車して、次郎丸、自宅に、歩いて、帰ったら、出てきた、風景、野芥の、カッパ寿司の、隣の、BOOKOFFに、出てきたんよ。で、仕方ないから、ブックオフ入って、二階の古着コーナーで、見つけた、ベンデイビスの、ベージュの、半袖Tシャツ、買ったんよ。で、また、歩いて、次郎丸の自宅に、帰ったんよ。で、もう一つ、言うなら、去年の夏、未来の亡霊林檎と、博多駅なかの、新幹線乗り場で、待ち合わせして、結局、色々合って、生きてる、林檎とは、会えなかったんやけど、終電のがして、博多から、天神向かって歩いたんよ。そしたら、ふと気づいたら、博多から、天神駅、通り越して、六本松の、大きな、神社と、七隈線、六本松駅の、科学博物館あるところの、ちょうど、中間地点に、ワープしてたんよ。つまり、博多から、天神通り越して、六本木駅、付近、歩いてたのよ。気づいたら。そのとき、アカシジア、末期で、タクシー、一回、拾ったんやけど、足のムズムズ酷くて、一分も、経たんうち、タクシーおろしてもろて、こりゃ、歩いたが、まだマシやわって、そのとき、交信してた、爺ちゃん【仏様🦠】と、キヨコ👾と、色々、話しながら、帰ったんよ。で、その時、キヨコ👾グレてて、あんま、良い宇宙人では、なかったんよ。で、林檎と、会ったら、プレゼント���に、ポテトの、インテリア用品買って上げてたんやけど、りんごに、買ったあと、キヨコ👾も、同じのが、欲しいと、言い出したから、その、ポテト🍟の、インテリア用品買った、店に、戻って、キヨコ👾の分として、もう一つ買って、リュックサックに、入れたんよ。つまり、計、2つの、ポテト🍟の、インテリア用品、リュックサックに、入ったまま、自宅まで、徒歩で、その日、帰ったんよ。もう、かなり、自力の、限界超えてたんやけどな、その日は。なんせ、俺が、ようやく、卵から、殻を、破って、産まれた日なんやから。で、家帰って、布団に、横になってたら、いつの間にか、寝てて、起きて、リュックサックの、ポテト🍟の、インテリア、取り出そうとしたら、一個しか、ポテト🍟の、インテリア、入ってなかったんよ。勿論、今も、見つかってないのよ。もう、一個、買った、キヨコ👾の、分の、ポテト🍟だけ。
で、林檎と、博多の新幹線乗り場で、待ち合わせたのは、改札前の、写真なんやけど、この👆☝️デカく、投稿された、博多駅を、出て、すぐの、広場で、タバコ吸うてたんよ。てか、ここの、広場と、新幹線乗り場、改札前を、林檎、待ってる間、何時間も、行ったり来たりを、繰り返してたんよ。タバコ吸うために、ここの、広場出ては、吸い終わったら、また、新幹線乗り場、改札前に、戻っての繰り返し、つまり、往復して、時間、過ごしてたんよ。で、ここの、広場に、一匹の、美しい、黒猫、座ってたんよ。で、俺と、交信して、話したんよ。その時、黒猫は、前も、伝えたけど、俺に、バカだニャンを、連呼してたんよ。つまり、前も、言ったけど、俺が、交信してるのは、未来の、林檎の、亡霊であって、生きてる林檎では、ないから、勿論、生きてる林檎には、新幹線乗り場、で、この日、待ち合わせてることさえ、伝わってるはずはなく、いくら、俺が、ここで、林檎、待っても、来やせんよ、と、猫は、考えてたんよ。でも、俺は、その時、俺が、交信してる、林檎が、未来の亡霊、林檎なんかとは、知らないから、テレパシーで、林檎と俺、伝わってると、勘違いしてたんよ。爺ちゃん 【 仏様🦠】は、そのこと、勿論、知ってるけど、一緒になって、もう少し、待ってみよう、もう少し、待ってみようと、言うてたんよ。そのときは。つまり、俺が、交信してるのは、生きてる林檎ではなくて、未来の亡霊、林檎であって、テレパシーと、俺が、勝手に、勘違いしてるだけってことに、自分で、気づくのを、爺ちゃん【 仏様🦠】 は、待ってたんよ。で、最期、終電のがして、博多駅も、閉める準備、始まったから、結局、場所変えて、待つねって、林檎に伝えて、今度は、博多駅、反対側、交番近くの、木の前で、待ち合わせの、約束を、あらたに、したんよ。でも、勿論、林檎は、現れず、俺も、その日、ずっとキレてたんやけど、あるとき、林檎から、こう、言われたんよ。私は、ずっと、あなたの、近くに、いたのよ。つまり、今も、ここにいるのよって、交信してる林檎が、言うてきたんよ。で、俺は、目を凝らして、林檎の声のするほうを、凝視してたら、ほんとに、一瞬だけ、ショートカット、黒髪の、林檎が、立ってるのが、見えたんよ。ただ、上半身というか、ポートレイト画像で、一瞬、浮かび上がって、消えたんよ。そう、例えるなら、文庫本の、小説家が、1番最初の、ページ右側の、文庫本カバーに、顔から、肩までの、写真、載せてるやん、ちょうど、あんな感じで、林檎が、すっと、7メートルから、10メートル前に、浮かび上がって消えたんよ。で、俺が、タバコ吸ってた、博多駅広場とは、真逆の、広場、つまり、交番あるほうの、広場なんやけど、さっき、博多駅、反対側の広場で、話してた、黒猫が、俺と、一緒に、ついてきてたのか、までは、知らんけど、とにかく、場所移動して、また、俺の、近くに、座ってたんよ。つまり、この、黒猫も、俺が、気になって、しょうがないんだよ😂で、結局、爺ちゃん=仏様🦠と、もう、帰ろうかって、話して、キヨコ👾と、三人で、話しながら帰ったんよ。
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2024.2.29thu_tokyo
2/29 うるう年 展示前の1日は大体深夜から
来週から台湾でのイベントに参加してその次の週は毎年になっている京都での展示だ ちょっと詰め込んだなと思うけどたまにはしゃかりきしてみよう と詰め込んだ でもちょっと今焦っている やばい
私は絵を描くときに捗るのはどうしても深夜で夫も街も寝静まった深夜が自分にとってのゴールデンタイム 急にやる気がでる このやる気を日中に出すことはできないのかと何度か試したが どうしても無理そうなのでもうやめることにしたのだ
朝は夫のお弁当とご飯 最低限の家事だけをして 犬の散歩 その他は途方も無いあても無いことをぼんやり考えたり お弁当の残りの昼飯 厳密にいうと昨日の夕食の残りを食べ コーヒーを飲んだり そのうち眠くなって あぁ今日 日記があるから活動するぞと意気込んでたが あたたかい生き物を抱っこしてると 同じように眠ってしまった またやってしまった。。
あまりにも何もない1日を過ごしているので コロナの時に台湾に行って自粛した経験を少し
台湾での初めての個展の時 世界中がコロナになった とても楽しみにしていたから悔しす��て 何とかして行けないかな と調べてみたら 展覧会はビザがあればいけるかもとのことで 台北駐日経済文化代表処に連絡することにしてみた
毎日電話をかけ続けるが 何日も繋がらない状況 もう諦めようとした時に何とか繋がる 口頭でのみで必要書類をダダっと伝えられ 約束の時間が決まる ここで何かひとつでも不備があるとビザは降りない なんと恐ろしいシステム 本当にひやひやした この時ほどせわしく動いた自分はその後みていない
無事ビザは下りたが飛行機はJALしか運行しておらず さらに台湾は規制が厳しかったため乗っている人は本当にわずか ベテランぽいキャビンアテンダントさんが どの席も自由に使ってくださいねー!とテンション高く言うので 乗っていた人はみんな一人一列を使ってほぼ寝転んだ状態で台湾へ 特殊な時間にみんなハイなテンションだった
●本当にガラガラ
公共機関は使えないので 体中を消毒され高級な専用タクシーに乗り 台中へ ギャラリーの宿に着きそこから二週間の隔離 空港でSIMを買ったので教えてもらったウーバーとギャラリーのスタッフからの差し入れと カセットコンロで時々自炊しながら生活 手洗いのバスタオルの洗濯が一番大変だった 脱水と言う苦行
●台湾の自粛中に配布されたもの
しっかり電話番号にGPSを紐付けされていたので絶対に出ることはできない�� 楽しみが めし になっていたのでウーバーで台湾ご飯を食べまくり(とても太った) 展示準備をしながら 毎日ひたすらいろんなことを考えた 世界に自分しかいないような感覚だった 孤独だけどとても自由でもあった あれ楽しい?
●台湾のウーバーは個人店のものも沢山あるので本当に楽しい あとバイクだから温かいのがいい
起きては熱を測り警察の方にライン(時々寝坊して怒られる日本人) 展示の準備 ウーバー youtube ラジオ 家族や友達と電話 また物思いにふける その繰り返し
隔離期間中ちょうど誕生日も迎えたので ギャラリースタッフがエレベーターを駆使し 無人でスタバのケーキを届けてくれた スタバのケーキうまっ と初めて食べるスタバのケーキに感動したことを覚えている
隔離期間を終え外に出ると 見えるもの全てがキラキラして見えた 一人が平気な自分だけど二週間外に出れないのはさすがに限界が来ていた
搬入された作品をみて ギャラリーの一心くん葉ちゃんに心からありがとうと言う言葉が出た なぜか涙が出た 自由って素晴らしいのな 深夜で店はやってなくファミマでビールを買いにいく(台湾のファミマは全家・チュェンジャーっていいます) もう何やっても楽しかった ウーバーも差し入れもありがたかったけど 自分で選ぶ、買いにいく。出かけるって楽しい
この時折角だからと三ヶ月台湾にいたのだが 外国人もほとんどいなくって珍しいから色々な人に話しかけられたり誘ってもらったり そのおかげでとてもとても濃厚な時間を過ごした
友達もできて実家の旧正月のバーベキューに参加し泊まったりと 台湾にいると日本にいるより随分積極的な自分にいつも驚く
台湾はいつのまにか自分にとっては第三の故郷になった もう台湾に行くと ただいまーという気持ちになる
その後何度も台湾に行ったけど コロナの時の経験はやっぱり一番印象に残っている
普通の会社員だった自分が なぜか今絵を描いて 台湾に行ったり 他府県に行ったり まだそのことが今もとても不思議で楽しい 最初どうだったけな 不思議に思いながら マイペースに活動を続けている 東京に住んでいることもまだ不思議な気持ちまだ抜けないけど
それにしても最近の私は本当こもりすぎてるな 活動的にならねばとこの時を思い出しながら 呪いの人形みたいなってきた髪の毛も切りに行かないと
うん、もうちょっと外に出ようと思います。春だなぁ
-プロフィール- yuktamura 東京 イラストレーター https://www.instagram.com/yuktamura/
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るんぺんパリ 【RunPenParis】
【自己紹介 2024年7月14日追記 3538文字】
三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明
伊賀市で有名なのが 伊賀流忍者 伊賀牛 松尾芭蕉 俳句 上野城 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ
最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる
市部という地区だったと思う 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった
小学校までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ
小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森
中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての���折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ その時が一番楽しかった。
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 スレスレ生活
1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい
2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める
るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた
1973年8月1日生まれ(もうすぐ51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画
松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた
二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で
令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開
SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める
2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい
◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」
【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」
【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」
【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」
【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」
◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」
【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」
【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」
【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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