#コーヒーに砂糖十杯
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【小説】コーヒーとふたり (上)
休日に喫茶店へ��くことは、加治木零果にとって唯一、趣味と呼べる行動である。
喫茶店へ行き、コーヒーを飲む。時刻はだいたい午後二時から三時。誰かと連れ立って行くことはない。常にひとりだ。行き先も、決まった店という訳ではない。その時の気分、もしくはその日の予定によって変える。
頼むのは、コーヒーを一杯。豆の銘柄やどのブレンドにするかは店によってだが、基本的にブラック。砂糖もミルクも好まない。軽食やスイーツを注文するということも滅多にない。ただ一杯のコーヒーを飲む、それだけ。
彼女は喫茶店では本を読まないし、パソコンも開かない。スマートフォンにさえ触れないこともある。コーヒーを飲み終えたら、すぐに店を出て行く。たとえその一杯がどんなに美味でも、二杯目を頼むことはない。時間にすればほんの数十分間。一時間もいない。それでも彼女は休日になると、喫茶店へ行き、コーヒーを飲む。
零果がその店を訪れたのは二回目だった。最初に訪れたのは、かれこれ半年近く前のことだ。
たまたま通りかかった時にその店を見つけた。「こんなところに喫茶店があったのか」と思った。喫茶店があるのは二階で、一階は不動産屋。賃貸マンションの間取り図がびっしりと貼り付けられているガラス窓の隣に、申し訳なさ程度に喫茶店の看板が出ていた。
細く狭い階段を上った先にその店はあり、店内は狭いながらも落ち着きのある雰囲気だった。歴史のある店なのか、年老いたマスター同様に古びた趣があるのが気に入った。コーヒーも決して不味くはなかった。出されたカップもアンティーク調で素敵だと思った。
しかしその後、零果の喫茶店リストの中で、その店はなかなか選ばれなかった。その店の立地が、彼女のアパートの最寄り駅から微妙に離れた駅の近くだったからだ。「わざわざあの駅で降りるのはちょっとな……」と思っていた。けれど、最近同じ店に行ってばかりだ。今週末は、普段あまり行かない店に行こう。それでその日、その店を選んだ。
けれど、その選択は失敗だった。
「あれ? 加治木さん?」
そう声をかけられた時、零果は運ばれて来たばかりのコーヒーをひと口飲もうとしているところだった。カップの縁に唇を付けたまま、彼女はそちらへと目を向ける。
その人物はちょうど、この店に入って来たところだった。そして偶然にも、零果は店の入り口に最も近い席に案内されていた。入店して真っ先に目につく席に知人が座っているのだから、彼が声をかけてきたのは当然と言えば当然だった。しかし、零果は彼――営業部二課の戸瀬健吾に声をかけられたことが衝撃だった。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
戸瀬はいつもの人当たりの良い笑みを浮かべてそう言ったが、零果は反応できなかった。驚きのあまり、何も言葉が出て来ない。しかし彼女の無言に気を悪くした様子はなかった。
「俺はよくこの店にコーヒーを飲みに来るんだけど、加治木さんもよく来るの?」
笑顔で尋ねてくる戸瀬に、零果はカップを口元から離してソーサーの上へと戻しながら、「いえ、その……たまに……」と、かろうじて答える。この店に来たのは二度目だったが、そう答えるのはなんとなく抵抗があった。あまり自分のことを他人に明かしたくない、という彼女の無意識が、曖昧な表現を選んでいた。
「そうなんだ。ここのコーヒー、美味いよね。あ、じゃあ、また」
やっと店の奥から店員が現れ、戸瀬は空いている席へと案内されて行った。幸いなことに、彼の席は零果から離れているようだ。大きな古めかしい本棚の向こう側である。
戸瀬の姿が見えなくなってから、零果はほっと息をついた。休日に同僚と顔を合わせることになるとは、なんて不運なのだろう。その上、場所が喫茶店だというところがツイていない。
改めてコーヒーを口元へ運んだが、未だ動揺が収まらない。半年前に来店した時は悪くなかったはずのブルーマウンテンブレンドだが、戸瀬の顔を見た後の今となっては、味の良し悪しなどわからなかった。香りも風味も台無しだ。コーヒーカップのブルーストライプ柄でさえ、「さっき彼が似たような柄のシャツを着ていなかったか?」と思うと途端にダサく思えてくる。
それに加えて、戸瀬は先程、こう言った、「俺はよくこの店にコーヒーを飲みに来るんだけど、加治木さんもよく来るの?」。
その言葉で、彼女の喫茶店リストから、この店が二重線を引かれ消されていく。
同僚が常連客となっている喫茶店に足を運ぶなんて御免だ。二度目の来店でその事実を確認できたことは、不幸中の幸いだったと思うしかない。数回通い、この店で嗜むコーヒーの魅力に気付いてしまってからでは、店をリストから削除することが心苦しかったはずだ。ある意味、今日は幸運だった。この店は最初からハズレだったのだ。
零果は自分にそう言い聞かせながらコーヒーを飲む。味わうのではなく、ただ飲む。液体を口に含み、喉奥へと流す。せっかく、いい店を見つけたと思ったのに。うちの最寄りから、五駅離れているのに。飲み込んだ端から、落胆とも悔しさとも区別できない感情がふつふつと沸き上がってくる。その感情ごと、コーヒーを流し込む。
早くこの店を出よう。零果は、一刻も早くコーヒーを飲み干してこの店を出ること、そのことに意識���集中させていた。
コーヒーを残して店を出ればいいのだが、出されたコーヒーを残すという選択肢はなかった。彼女は今まで、たとえどんなに不味い店に当たってしまっても、必ずコーヒーを飲み干してきた。零果にとってそれはルールであり、そのルールを順守しようとするのが彼女の性格の表れだった。
先程入店したばかりの客が熱々のコーヒーを急いで飲み干してカウンターの前に現れても、店の主人は特に驚いた様子を見せなかった。慣れた手つきで零果にお釣りを渡す。
「ごちそうさまでした」
財布をショルダーバッグに仕舞いながら、零果は店を出て行く。「またのお越しを」という声を背中で受け止め、もう二度とこの店に足を運ぶことはないだろうな、と思い、そのことを残念に思った。深い溜め息をついて階段を降り、駅までの道を歩き出す。
店の雰囲気は悪くなかった。コーヒーだって悪くない。ただ、戸瀬の行きつけの店だった。
否、それは戸瀬個人に問題があるという意味ではない。彼の物腰柔らかで人当たりの良い態度や、その温厚な性格は職場内でも定評があるし、営業職としての優秀さについても、零果はよくわかっている。
そうではなく、零果はただ、同僚に会いたくないだけなのだ。休日に喫茶店でコーヒーを飲んでいる時だけは。唯一、彼女にとって趣味と呼べるであろう、その時間だけは。知り合いには誰とも会うことなく、ひとりでいたい。平日の書類とメールの山に抹殺されそうな多忙さを忘れ、心も身体も落ち着かせたい。そのためには極力、同僚の顔は見ないで過ごしたい。
駅に着くと、ちょうど零果のアパートの最寄り駅方面へ向かう電車が、ホームに入って来たところだった。このまま家に帰るだけというのも味気ない、と思いかけていた零果であったが、目の前に停車した電車を目にし、「これはもう、家に帰れということかもしれない」と思い直した。もうこの後は、家で大人しく過ごすとしよう。
そう思って、電車に乗り込む。車両の中にはすでに数人の乗客が座っており、発車までの数分を待っている様子であった。零果は空いていた座席に腰を降ろそうとし、そこで、自分の腰の辺りで振動を感じた。バッグに入れてあるスマートフォンだ、と気付いた。その一瞬、彼女はスマホを手に取ることを躊躇った。
バイブレーションの長さから、それがメールやアプリの通知ではなく着信を知らせるものだということはわかっていた。休日の零果に電話をかけてくる相手というのは限られている。候補になりそうな数人の顔を思い浮かべてみたが、誰からの着信であっても嬉しいニュースであるとは思えない。
座席に腰を降ろし、スマートフォンを取り出す。そこで、バイブレーションは止まった。零果が呼び出しに応じなかったので、相手が電話を切ったのだ。不在着信を示すアイコンをタップすると、発信者の名前が表示された。
有武朋洋という、その名前を見た途端、めまいを覚えた。ちょうど、午後四時になろうとしているところだった。判断に迷う時間帯ではあったが、この電話は恐らく、今夜食事に誘おうとしている内容ではないだろうと、零果は確信していた。
膝の上でショルダーバッグを抱き締めたまま、メッセージアプリを開き、有武に「すみません、今、電車なんです」とだけ入力して恐る恐る送信する。瞬時に、零果が見ている目の前で、画面に「既読」の文字が現れた。恐らくは今、彼もどこかでこのアプリを開いて同じ文面を見つめているに違いなかった。案の定、間髪入れずに返信が表示される。
「突然悪いんだけどさ、ちょっと会社来れる?」
零果が思った通りだった。有武の、「悪いんだけどさ」と言いながら、ちっとも悪びれている様子がない、いつものあの口調を思い出す。
「今からですか?」
今からなんだろうな、と思いながら、零果はそう返信する。
「そう、今から」
「今日って休日ですよね?」
休日でも構わず職場に来いってことなんだろうな、と思いながら、それでもそう返信をせずにはいられない。
「そう、休日」
何を当たり前のこと言ってんだよ、って顔してるんだろうな、有武さん。少しの間も空けることなく送られて来る返信を見ながら、零果は休日の人気がないオフィスでひとり舌打ちをしている彼の様子を思い浮かべる。
「それって、私が行かないと駄目ですか?」
駄目なんだろうな、と思いながらそう返信して、座席から立ち上がる。
駅のホームには発車のベルが鳴り響いている。零果が車両からホームに戻ったのは、ドアが閉まりますご注意下さい、というアナウンスが流れ始めた時だった。背後で車両のドアが閉まり、彼女を乗せなかった電車は走り出していく。
家に帰るつもりだったのにな。零果は諦めと絶望が入り混じった瞳でその電車を見送った。握ったままのスマートフォンの画面には、「加治木さんじゃなきゃ駄目だから言ってるんでしょーよ」という、有武からの返信が表示されている。
「…………ですよね」
思わずひとり言が漏れた。ホームの階段を上りながら、「今から向かいます」と入力し、文末にドクロマークの絵文字を付けて送信してみたものの、有武からは「了解」という簡素な返信が来ただけだ。あの男には絵文字に込められた零果の感情なんて届くはずもない。
再び溜め息を盛大についてから、重くなった足取りで反対側のホームに向かう。なんて言うか、今日は最大級にツイてない。休日に、一度ではなく二度までも、同僚と顔を合わせることになるとは。しかも突然の呼び出しの上、休日出勤。
ただひとりで、好きなコーヒーを飲んで時間を過ごしたいだけなのに。たったそれだけのことなのに。
心穏やかな休日には程遠い現状に、零果はただ、肩を落とした。
「加治木さん、お疲れ様」
そう声をかけられた時、思わず椅子から飛び上がりそうになった。咄嗟にデスクに置���てあるデジタル時計を見る。金曜日、午前十一時十五分。まだ約束した時間まで四十五分あるぞ、と思いながら零果は���分のデスクの横に立つ「彼」を見上げ、そこでようやく、声をかけてきたのが「彼」ではなく、営業部の戸瀬だったと気が付いた。
「あ……お疲れ様です」
作成中の資料のことで頭がいっぱいで、零果は戸瀬に穏やかな笑顔を見つめられても、上手い言葉が出て来ない。五四二六三、五万四千二百六十三、と、零果の頭の中は次に入力するはずだった数値がぐるぐると回転している。キーボードに置かれたままになっている右手の人差し指が、五のキーの辺りを右往左往する。
当然、戸瀬には彼女の脳内など見える訳もなく、いつもの優しげな口調で話しかけてきた。
「この間の土曜日は、びっくりしたね。まさかあんなところで加治木さんに会うなんて」
土曜日、と言われても、零果はなんのことか一瞬わからなかった。それから、「ああ、そう言えば、喫茶店で戸瀬さんに会ったんだった」と思い出す。
「でも、聞いたよ。あの後、有武さんに呼び出されて休日出勤になっちゃったんだって? 加治木さん、いつの間にかお店から消えてるから、おかしいなって思ってたんだけど、呼び出されて急いで出てったんでしょ?」
零果は思わず、返事に困った。急いで店を出たのは戸瀬に会って気まずかったからだが、まさか目の前にいる本人にそう伝える訳にもいかない。有武の呼び出しのせいにするというのも、なんだか違うような気もするが、しかし、戸瀬がそう思い込んでいるのだから、そういうことにしておいた方が得策かもしれない。
「えっと、まぁ、あの、そうですね」などと、よくわからない返事をしながら、零果の右手は五のキーをそっと押した。正直、今は戸瀬と会話している場合ではない。
「有武さんもひどいよね、休日に会社に呼び出すなんて。そもそも、加治木さんは有武さんのアシスタントじゃないんだから、仕事を手伝う必要なんてないんだよ?」
戸瀬の表情が珍しく曇った。いつも穏やかな彼の眉間に、小さく皺が寄っている。本気で心配している、というのが伝わる表情だった。けれど今の零果は、「はぁ、まぁ、そうですよね」と曖昧に頷くことしかできない。四のキーを指先で押しつつ、彼女の視線は戸瀬とパソコンの画面との間を行ったり来たりしている。休日出勤させられたことを心配してくれるのはありがたいが、正午までにこの資料を完成させなければいけない現状を憂いてほしい。零果にはもう猶予がない。
「なんかごめんね、加治木さん、忙しいタイミングだったみたいだね」
戸瀬は彼女の切羽詰まった様子に勘付いたようだ。
こつん、と小さな音を立てて、机に何かが置かれた。それはカフェラテの缶だった。見覚えのあるパッケージから、社内の自動販売機に並んでいる缶飲料だとわかる。零果が見やると、彼は同じカフェラテをもうひとつ、右手に握っていた。
「仕事がひと段落したら、それ飲んで休憩して。俺、このカフェラテが好きなんだ」
そう言って微笑む戸瀬の、口元から覗く歯の白さがまぶしい。「あ、あの、ありがとうございます」と零果は��ててお礼を言ったが、彼は「全然いいよー」とはにかむように左手を振って、「それじゃ、また」と離れて行った。
気を遣われてしまった。なんだか申し訳ない気持ちになる。恐らく戸瀬は、休日に呼び出され仕事に駆り出された零果のことを心から労わってくれているに違いなかった。そんな彼に対して、自身の態度は不適切ではなかったか。いくら切羽詰まっているとはいえ、もう少し仕事の手を止めて向き合うべきだったのではないか。
そこで零果は、周りの女子社員たちの妙に冷たい目線に気が付いた。「営業部の戸瀬さんが心配して話しかけてくれているのに、その態度はなんなのよ」という、彼女たちの心の声が聞こえてきそうなその目に、身がすくむような気持ちになる。
しょうがないではないか。自分は今、それどころではないのだから……。
パソコンに向き直る。目の前の画面の数字に意識を集中する。しかし、視界の隅に見える、カフェラテの缶。それがどこか、零果の心にちくちくと、後悔の棘を刺してくる。あとで、戸瀬にはお詫びをしよう。零果はカフェラテを見つめながら、心に黄色い付箋を貼り付ける。それにしても、カフェラテというのが、また……。
「資料できたー?」
唐突にそう声をかけられ、彼女は今度こそ椅子から飛び上がった。気付けば、側には「彼」が――日焼けした浅黒い肌。伸びすぎて後ろで結わえられている髪は艶もなくパサついていて、社内でも不評な無精髭は今日も整えられている様子がない。スーツを着用する営業職の中では珍しく、背広でもジャケットでもなく、作業服をワイシャツの上に羽織っているが、その上着がいつ見ても薄汚れているのがまた、彼が不潔だと言われる理由である。ただ、零果がいつも思うのは、彼は瞳が異様に澄んでいて、まるで少年のようであり、それでいて目線は鋭く、獲物を探す猛禽類のようでもある、ということだ――、有武朋洋が立っていて、零果の肩越しにパソコンのディスプレイを覗き込んでいた。
「あれ? 何、まだ出来てないの?」
咄嗟に時刻を確認する。戸瀬に声をかけられてから、もう十分近くも経過している。なんてことだ。しかし、約束の時間まではあと三十五分残されている。今の時点で資料が完成していないことを責められる理由はない。それでも零果が「すみません」と口にした途端、有武は「あー、いいよいいよ」と片手を横に振った。
「謝らなくていいよ。謝ったところで、仕事が早く進む訳じゃないから」
斬って捨てるような口調であったが、これが彼の平常だ。嫌味のように聞こえる言葉も、彼にとっては気遣って口にしたに過ぎない。
「時間には間に合いそう?」
「それは、必ず」
「そう、必ずね」
零果は画面に向き直り、資料作りを再開する。ふと、煙草の臭いがした。有武はヘビースモーカーだ。羽織っている作業着の胸ポケットには、必ず煙草とライターが入っている。煙草臭いのも、社内外問わず不評だ。しかし有武本人は、それを変える気はないようである。
「うん……大丈夫そうだ。本当に、正午までには出来上がりそうだね。さすがだなぁ、加治木さんは」
零果が返事もせずにキーボードを叩いていると、彼の右手が横からすっと伸びてきて、机の上のカフェラテの缶を取った。零果が「あ、それは……」と言った時、缶のプルタブが開けられた音が響く。
「これ、飲んでもいい?」
「…………はぁ」
どうして、缶を開けてから訊くのか。順序がおかしいとは思わないのだろうか。
「飲んでいいの?」
「……どうぞ」
「ありがと」
有武は遠慮する様子をまったく見せず、戸瀬が置いて行ったカフェラテをごくごくと飲んだ。本当に、喉がごくごくと鳴っていた。それから、「うわ、何これ、ゲロ甘い」と文句を言い、缶に記載されている原材料名をしげしげと眺めている。人がもらった飲み物を勝手に飲んで文句を言うな。零果はそう思いながらも、目の前の資料作成に集中しようとする。どうしてこんな人のために、せっせと資料を作らねばならないのだろうか。
「じゃ、加治木さん。それ出来たらメールで送って。よろしくね」
そう言い残し、カフェラテの缶を片手に有武は去って行く。鼻歌でも歌い出しそうなほど軽い彼の足取りに、思わず怒りが込み上げる。階段で足を踏み外してしまえばいい。呪詛の言葉を心の中で吐いておく。
有武がいなくなったのを見計らったように、後輩の岡本沙希が気まずそうに無言のまま、書類の束を抱えて近付いて来た。零果がチェックしなければならない書類だ。
「ごめんね、後でよく見るから、とりあえずそこに置いてもらえるかな」
後輩の顔を見上げ、微笑んでみたつもりではあったが、上手く笑顔が作れたかどうかは疑問だった。岡本は何か悪いことをした訳でもないだろうに、「すみません、すみません」と書類を置いて逃げるように立ち去る。そんなに怖い顔をしているのだろうか。零果は右のこめかみ辺りを親指で揉む。忙しくなると必ず痛み出すのだ。
時計を見つめる。約束の時間まで、あと三十分。どうやら、ここが今日の正念場のようだ。
「メールを送信しました」という表示が出た時、時計は確かに、午前十一時五十九分だった。受信する側は何時何分にメールが届いたことになるのだろう、という考えが一瞬過ぎったが、そんなことを考えてももう手遅れである。
なんとか終わった。間に合った。厳密には一分くらい超過していたかもしれないが、有武がそこまで時刻に厳密な人間ではないことも、この資料の完成が一分遅れたところで、今日の午後三時から始まる会議になんの影響もないこともわかっていた。
零果はパソコンの前、椅子に腰かけたまま、天を仰いでいた。彼女が所属する事務部は五階建ての社屋の二階にあるため、見上げたところで青空が見える訳はない。ただ天井を見上げる形になるだけだ。
正午を告げるチャイムが館内放送で流れていた。周りの女子社員たちがそれを合図にぞろぞろと席を立って行く。呆然と天井を見つめるだけの零果を、彼女たちが気に留める様子はない。それはある意味、日常茶飯事の、毎日のように見る光景だからである。魂が抜けたように動かないでいた零果であったが、パソコンからメールの着信を知らせる電子音が鳴り、目線を画面へと戻した。
メールの送信者は有武だった。本文には、零果の苦労を労う言葉も感謝の言葉もなく、ただ、「確認オッケー。午後二時半までに五十部印刷しておいて」とだけ書かれていた。やっぱりなぁ。そうくると思ったんだよなぁ。当たらないでほしい予想というのは、なぜかつくづく当たるものだ。嫌な予感だけは的中する。
十四時半までには、まだ時間がある。とりあえず今は、休憩に入ろう。
零果は立ち上がり、同じフロア内にある女子トイレへと向かった。四つ並んだうちの一番奥の個室に入る。用を足していると、扉が閉まっていたはずの手前の個室から人が出て行く気配がした。その後すぐ、水を流す音と、扉がもうひとつ開かれた音が続く。
「ねぇ、さっきのあれさぁ……」
「あー、さっきの、加治木さんでしょ?」
手洗い場の前から会話が聞こえてくる。
零果は思わず動きを止めた。声のする方へと目線を向ける。扉の向こうが透視できる訳ではないが、声から人物を特定することはできる。ふたりとも、同じフロアに席を置いている事務員だ。正直、零果と親しい間柄ではない。
「戸瀬さんがせっかく話しかけてくれてるのに、あの態度はないよね」
「そう、なんなの、あの態度。見てて腹立っちゃったよ」
蛇口が捻られ、手を洗う音。零果は音を立てずにじっとしていた。戸瀬ファンクラブ所属のふたりか。恐らく、ここに零果本人がいるということを、ふたりは知らないに違いない。
「戸瀬さんもさ、なんで加治木さんなんか気にかけるんだろうね?」
「仕事が大変そうな女子社員を放っておけないんじゃない? 戸瀬さんって、誰にでも優しいから」
「加治木さんが大変な目に遭ってるのは、有武のせいでしょ?」
きゅっ、と蛇口が閉められた音が、妙に大きく響いた。その時、零果は自分の胸元も締め付けられたような気がした。
「そうそう、有武が仕事を頼むから」
「加治木さんも断ればいいのにね。なんで受けちゃうんだろう。もう有武のアシスタントじゃないのにさ」
「さぁ……。営業アシスタントだった過去にプライドでもあるんじゃない?」
ふたりのうちのどちらかが、笑ったのが聞こえた。
「うつ病になってアシスタント辞めたくせに、事務員になってもプライド高いとか、ちょっとねぇ……。自分で仕事引き受けて、それで忙しくって大変なんですって顔で働かれてもさぁ……」
足音と共に、ふたりの会話も遠ざかっていく。どうやら、女子トイレから出て行ったようだ。
ふ��りの声が完全に聞こえなくなるのを待ってから、零果は大きく息を吐いた。「……有武さんのことだけは、呼び捨てなんだ」と、思わずひとり言が漏れた。そんなことはどうでもいい。どうでもいいけれど、言葉にできる感想はそれくらいしか思い付かなかった。
他の事務員から陰で言われているであろうことは、薄々わかってはいた。同じ内容を、言葉を選んで、もっともらしい言い方で、面と向かって言う上司もいる。同僚たちに特別好かれているとは思っていなかった。しかし、本人には届かないだろうと思って��せられる言葉というのは、こんなものなのか。
水を流し、個室から出た。鏡に映る自分の顔の疲弊具合に気分はますます陰鬱になる。腹の底まで冷え切っているように感じる。
同じ階にある休憩室へ向かおうと思っていたが、先程のふたりもそこにいるのだろうと思うと、足を向ける気にはならなかった。さっきの会話の続きを、今もしているかもしれない。
自分の席に戻って仕事を再開するというのも考えたが、こんな疲れた顔で休憩も取らず仕事をしているところを、誰かに見られるのも嫌だった。
結局、零果は四階に向かうことにした。階段で四階まで上ると、営業部が机を並べているフロアと、会議室が両側に並ぶ廊下を足早に通り過ぎる。外出していることが多い営業部だが、昼の休憩時間に突入しているこの時間は、いつにも増して人の姿がない。零果は何も躊躇することなく、通路の突き当り、外階段へと続く重い鉄の扉を開けた。
非常時の利用を目的に作られた外階段を、普段利用する社員はほぼいない。喫煙室以外の場所で煙草を吸おうとする不届き者ぐらいだ。外階段だけあって、雨風が吹き荒れ、もしくは日射しが照り付け、夏は暑く冬は寒いその場所に、わざわざ足を運ぶ理由。それは「彼」に会いたいからだ。
「おー、お疲れ」
鉄製の手すりにもたれるようにして、「彼」――有武朋洋がそこにいた。いつも通り、その右手には煙草がある。有武は、この外階段でよく煙草を吸っている。社内に喫煙室が設けられてはいるが、外がよほどの嵐でない限り、彼はここで煙草をふかしている。
「……お疲れ様です」
挨拶を返しながら、鉄の扉を閉め、有武の吐く煙を避けるため風上に移動する。向かい合うように立ちながらも、零果の目線は決して彼の顔を見ようとはしない。それもいつものことだ。有武も、そのこと自体を問うことはしない。ましてや、喫煙者でもない彼女が何をしにここまで来たのかなんて、尋ねたりもしない。
「何、どうしたの。元気ないじゃん。なんか嫌なことでもあった?」
口から大量の煙を吐きながら、有武はそう尋ねた。零果は「まぁ……」と言葉を濁しただけだったが、彼は妙に納得したような顔で頷く。
「まー、嫌なこともあるよな」
「……そうです、嫌なこともあります」
「だよな」
「せっかくの休日に呼び出されて仕事させられたり」
「…………」
「今日だって、あと二時間で会議の資料を作ってくれって言われたり」
「…………」
「その資料がやっとできたと思ったら、それを五十部印刷しろって言われたり」
「何、こないだの土曜日のこと、まだ怒ってんの?」
有武が小さく鼻で笑った。これは、この男の癖だ。この男は、上司でも取引先でも、誰の前でも平気で鼻で笑うのだ。
「土曜日は呼び出して悪かったって。でもあの時にテンプレート作って用意しておいたから、今日の資料作りがたった二時間でできたってことだろ?」
「……なんとかギリギリ、二時間でできたんです」
「でも、ちゃんと時間までに完成しただろ」
有武は、今度は鼻だけでなく、声に出して笑った。
「加治木さんはできるんだよ。俺は、できると思った���としか頼まない。で、本当にちゃんとできるんだ、俺が見込んだ通りに」
「…………」
零果は下を向いたままだ。そんな彼女を見つめる有武の瞳は、からかうように笑っている。
「別に気にすることないだろ。周りからなんて言われたのかは知らないが、加治木さんは他の人ではできないことを――」
「私はもう、あなたの営業アシスタントじゃありません」
遮るように言った彼女の言葉に、有武が吐く煙の流れも一度途切れた。
「もう、私に……」
仕事を頼まないでください。そう言えばいい。零果が苦労ばかりしているのは、この男の仕事を引き受けるからだ。それを断ってしまえばいい。幸いなことに今の彼女は、それを咎められることのない職に就いている。もうアシスタントではない。ただの事務員だ。同僚たちが言う通りだ。
わかっている。頭ではわかっているのに、零果はどうしても、その続きを口にすることができない。うつむいたまま、口をつぐむ。
ふたりの間には沈黙が流れる。有武は煙草を咥えたまま、零果が言葉を発するのを待っているようだった。しかし、いつまでも話そうとしない彼女を見かねてか、短くなった煙草を携帯灰皿へと捨ててから、一歩、歩み寄って来た。
「加治木さんは、俺のアシスタントだよ。今も昔も、ずっと」
彼の身体に染み付いた煙草の臭いが、零果の鼻にまで届く。もう何年になるのだろう、この臭いをずっと、側で嗅いできた。いくつもの案件を、汗だくになったり、走り回ったりしながらこなしてきた。無理難題ばかりに直面し、関係部署に頭を下げ、時には上司に激昂され、取引先に土下座までして、それでも零果は、この男と仕事をしてきた。いくつもの記憶が一瞬で脳裏によみがえる。
「仕事を頼まないでください」なんて、言えるはずがなかった。どうして彼が自分に仕事を依頼するのか、本当は誰よりもわかっていた。
大きく息を吐く。肩に入っていた力を抜いた。
「有武さん」
「何」
「……コーヒー、奢ってください」
「は?」
「それで許してあげます」
零果の言葉に、ぷっ、と彼は吹き出した。
「コーヒーでいいの? どうせなら、焼き肉とか寿司とか言いなって」
まぁ言われたところで奢らないけどね。そう言いながら、有武はげらげらと笑う。零果は下を向いたまま、むっとした顔をしていたが、内心、少しほっとしていた。零果が多少、感情的な言い方をしてもこの男は動じないのだ。
「あ、ちょっと待ってて」
有武は唐突にそう言うと、外階段から廊下へと繋がる扉を開け、四階のフロアへと戻って行った。ひとり残された零果が呆然としていると、有武はあっという間に戻って来た。
「ほい、これ」
差し出されたその手には、缶コーヒーが握られている。社内の自動販売機に並んでいるものだ。どうやら、有武はこれを買いに行っていたらしい。零果は受け取ってから、その黒一色のパッケージの缶が、好きな無糖のブラックコーヒーだと気が付いた。
「それはコーヒーを奢ったって訳じゃないよ。さっき、デスクにあったカフェオレもらったから、そのお礼ね」
「もらったって言うか、有武さんが勝手に飲んだんじゃないですか……。あと、カフェオレではなく、カフェラテです」
「オレでもラテでも、どっちでもいいよ。飲んでやったんだろー。加治木さんがコーヒーはブラックの無糖しか飲まないの、知ってるんだから」
その言葉に、ずっと下を向いたままだった零果が一瞬、顔を上げて有武を見た。戸瀬から缶飲料をもらった時、「よりにもよってカフェラテか……」と思ったことが、バレているのではないかとさえ思う。そのくらい、目が合った途端、得意げに笑う有武の顔。憎たらしいことこの上ない。零果はすぐに目を逸らした。
「……やっぱ、許さないかも」
「は?」
「なんでもないです」
有武は肩をすくめた。作業服の胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥えて火を点ける。吐き出された煙は吹く風に流され、あっと言う間に目では追えなくなった。
いただきます、と小さく声に出してから、零果は缶コーヒーのプルタブを開けた。冷たいコーヒーをひと口流し込んでから、喉が渇いていたことに気が付いた。
疲れたな。改めてそう思う。百円で買える缶コーヒーの味わいにさえ、癒されていくように感じる。
今日は良い天気だ。この外階段に吹く風も、日射しも心地良い。ここから見下ろせる、なんてことのない街並みも。この男との何気ない会話も。ここにあるものすべてが、冷え切っていた零果の心を解きほぐしていくような気がする。
「加治木さん、昼飯はもう食ったの?」
煙を吐きながら、有武がそう訊いた。
「いえ……」
「何、また食ってないの? ちゃんと食わないと、身体に良くないよ」
「……有武さんは?」
「俺は今日、三時から会議で、終わったらその後に会食だから。昼飯は食わなくてもいいかなーって」
「会食までに、お腹空いちゃうんじゃないですか?」
「何か軽くは食べるけどね。会議中に腹が鳴っても締まらないし。ただ、四十歳過ぎるとね、やっぱ食った分は太るんだわ」
そう言う有武は、今年で四十一歳のはずだが、まったく太っていない。零果は七年前から彼を知っているが、出会った頃から体型が変化したとは思えない。ただ、それは本人が体型を維持する努力をしているからだろう。
そして、そういう努力ができるのであれば、もう少しこまめに髪を切ったり髭を整えたりしてもいいのではないか、とも思う。特に最近の有武は、髪にも髭にも白髪が混じるようになった。もう少し身なりを整えれば、印象もまた変わると思うのだが。
「あ、そういえば、もらったアンパンがあるんだった。アンパン、半分食う?」
「いえ……あの、今本当に、食欲がなくて……」
零果はそう言いながら、無意識のうちにみぞおちの辺りをさすっていた。トイレで聞いてしまった、同僚たちの会話。無遠慮に吐き出された彼女たちの言葉、その声音の棘が、零果の胃の辺りに突き刺さっている。とてもじゃないが今は、何か固形物を口にしようという気にはならなかった。
「ふうん、あ、そう」
と、有武は煙草をふかしながら返事をした。零果の様子を特に気に留めている様子も、提案を断られて落ち込むような様子もない。そうやって、無関心を装う節がこの男にはある。
「じゃ、今度は喫茶店にでも行こうか」
有武が煙草を吸い終わった頃、零果も缶コーヒーを飲み終えたところだった。
「コーヒー奢るよ。どこか行きたい店ある? 俺の好きな店でもいい?」
「どこでもいいですよ」
「了解。また連絡するわ」
有武が外階段とフロアを繋ぐ、重たい扉を開ける。���けたまま待ってくれている彼に、小さく会釈をしながら零果が先に通る。触れそうなほどすぐ近くに寄ると、煙草の臭いをはっきりと感じる。今は吸った直後なので、臭いはなおさら強烈だ。
「くっさ……」
「あ?」
零果の口から思わず零れた言葉に、彼は即座に睨んでくる。
「すみません、つい、本音が……」
「悪かったな、煙草臭くて」
有武は舌打ちをしながら零果に続いてフロアへ戻り、外階段への扉を閉めた。
「有武さんは禁煙しようとは思わないですか?」
「思わないねー。だから俺が臭いのはこれからも我慢してねー」
「…………」
臭いと口走ってしまったことを根に持っているのか、有武は不機嫌そうな顔だ。
「あ、有武くん!」
並んで廊下を歩いていると、突然、背後から声をかけられた。振り向くと、通り過ぎた会議室から、ひとりの女性が廊下へ顔を覗かせている。
肩につかない長さで切り揃えられた黒髪。前髪がセンターで分けられているので、その丸さがはっきりとわかる額。染みも皺もない白い肌には弾力がある。彼女���今年で四十歳になるのだと聞いても、信じる人はまずいないだろう。零果より頭ひとつ分、小柄なことも相まって、彼女――桃山美澄は、二十代に間違えられることも少なくない。
実年齢よりも若く見られる桃山は、実際は経験豊富な中堅社員である。そして何より、ずば抜けて優秀な社員として、社内外で有名だ。営業アシスタントとして三人の営業マンの補佐についているが、「桃山本人が営業職になったら、売上額が過去最高になるのではないか」という憶測は、かれこれ十五年前から上層部で囁かれている、らしい。有武の営業アシスタントを務めているのも彼女である。零果は仕事を手伝わされているに過ぎず、本業は事務職であり、有武の本来のアシスタントは桃山なのだ。
桃山の顔を一目見るなり、有武は露骨に嫌そうな顔をした。しかし、それを気にする様子もなく、彼女は近付いて来る。
「有武くん、探したんだよ。午後の会議の資料の進捗はどう? 間に合いそう?」
「あー、それなら大丈夫。加治木さんに頼んでるから」
桃山は有武の隣に並ぶ零果を見やり、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんね加治木さん、また面倒な仕事、有武くんに頼まれちゃったね」
「いえ、あの、大丈夫です」
零果はいつも、桃山を前にすると困惑してしまう。謝る彼女に対して、なんて言葉を返せばいいのか、わからない。
「資料は? どのくらい出来てるの? 続きは私が代わろうか」
「あの、もう、完成はしていて、あとは印刷するだけなんですが……」
「本当に? もう出来てるの? すごいね加治木さん、やっぱり優秀だね」
「いえ、そんなことは……」
桃山はにこにこと、朗らかな笑顔だ。嫌味なところは感じさせない。実際、嫌味など微塵も込めていないということは、零果もわかっている。返す言葉に悩んでしまうのは、そうやって本心から褒めてくれる存���がそれだけ稀少だからだ。
「じゃあ、資料の印刷はこっちでやるよ。月末も近いし、加治木さん、自分の仕事も忙しいでしょう?」
「そんなことは……」
そんなことはありません、と言おうとして、後輩の女子社員から書類の束を受け取っていたことを思い出す。そうだ、あの書類をチェックしなくてはいけないのだ。思わず言葉に詰まってしまう。桃山はそれを見逃さなかった。
「うん、資料の印刷は私がするね。もう有武くんにメールで送ってくれてるんだよね? 有武くん、私のアドレスに転送してもらっていいかな?」
「はいはい、わかりましたよ」
有武は窓の外に目線を向けたまま、そう返事をした。彼のそんな態度にも、桃山は顔色ひとつ変えることはない。柔和な笑みのまま、零果に向き直った。
「加治木さん、忙しいのにいつもありがとうね。本当は私がやらなくちゃいけないことだから、こんな風に言うのはおかしいんだけど、有武くんは加治木さんと仕事をするのが本当に楽しいみたいで」
「い、いえ、あの……」
桃山は続けて言う。
「でも、加治木さんには事務職としての仕事もあるんだから、しんどかったり、難しかったりする時は、いつでも私に言ってね。有武くんだって、それで加治木さんのことを悪く思ったりはしないからね。私も、有武くんも、いつだって加治木さんの味方だから。無理はしないでね」
その言葉に、零果は頷くことしかできない。気を抜くと、泣いてしまうかもしれない、とさえ思った。桃山が自分の上司だったら良かったのに。零果は今の上司である、事務長の顔を思い出しながらそんなことを思う。桃山が上司だったら、毎日、もっと楽しく働けるかもしれないのに。
けれど、と思い直す。
桃山はかつて、零果の先輩だった。同じ営業アシスタントだった。三年前までそうだった。零果は彼女の下に就き、多くのことを学んだ。彼女の元から離れたのは、自分なのだ。そのことを、零果は今も悔やんでいる。
「それとね、」
桃山は一歩、零果に近付くと、声を潜めて言った。
「加治木さんが有武くんから直接仕事を任されていることは、事務長も、営業アシスタント長も、営業部長も合意している事柄だよ。それなのに、加治木さんのことを悪く言う人が事務員の中にいるみたいだね?」
脳裏を過ぎったのは、女子トイレで聞いた会話の内容だった。同僚の言葉が、耳元でよみがえる。
零果は思わず、桃山の顔を見た。先程まで朗らかに笑っていたはずの彼女は、もう笑ってはいない。口元は笑みを浮かべたままだったが、その瞳には鋭い光があった。それはぞっとするほど、冷たい目だった。
「うちの営業アシスタント長は、そっちの事務長と仲が良いからね。私が事務長に言っておいてあげようか? 『部下をよく指導しておいてもらえませんか』って。加治木さんは有武くんの仕事をサポートしてくれているのに、それを邪魔されたら困っちゃうんだよ」
桃山には、こういうところがある。普段は温厚なのに、時折、何かの弾みでとてつもなく冷酷な表情を見せる。
零果は慌てて、首を横に振った。
「そんな、大丈夫です」
「そうかな? 私はそうは思わないけどな。加治木さんのことを悪く言う社員が同じ事務の中にいるなんて、とてもじゃないけど――」
「桃山、もういいって」
ずっと上の空でいるように見えた有武が、突然、会話に割って入った。
「加治木さんが大丈夫って言ってるんだから、とりあえずは大丈夫なんだろ。もし何かあったら、桃山に相談するよ」
「…………」
桃山はしばらく無言で有武を見上げていたが、やがて再びにっこりと笑った。それから、零果へと向き直る。
「うん、加治木さん、何かあったら遠慮なく相談してね。いつでも聞くからね」
「いえ、あの、お気遣い、ありがとうございます」
何度も頭を下げる零果に、桃山はにこにこと微笑む。
「ううん。逆に、気を悪くしていたらごめんね」
「いいえ、気を悪くするなんて、そんな……」
「私はこれでも、営業アシスタントだから。有武くんが気持ち良く仕事をするために、私にできることは全部したいんだ」
そう、桃山の目的は、あくまでも「それ」だ。営業アシスタントとしての職務を全うしたいだけなのだ。零果のことを気遣っているかのように聞こえる言葉も、すべては有武の仕事を円滑に進ませるため。反対に、彼の仕事ぶりを邪魔するものを、すべて排除したいだけ。
有武から仕事を頼まれた零果がその意欲を削がれることがないように、彼女のことを悪く言う同僚を排除しようと考えているのだ。その点、桃山は零果のことを「有武の仕事にとって有益にはたらくもの」と認識しているようだ。そうでなければ、零果に仕事を依頼していることを許したりはしないだろう。
「何かあったら言ってね」と言い、「それじゃあ」と手を振って、桃山は営業部のフロアへと向かって行った。
桃山の姿が見えなくなると、その途端、有武は大きく息を吐く。
「はーあ、おっかない女……」
「桃山さんのことを、そんな風に言わなくても……」
普段は飄々としている有武も、桃山を前にするとどこか緊張しているように見えるから不思議だ。そう思いながら、零果は有武の顔を見上げ、
「あ……」
「あ?」
「いえ、なんでもありません……」
反射的に目を逸らした零果を、彼が気にする様子はなかった。ただ、「加治木さん、俺の正式な営業アシスタントに早く戻ってくれよ」と、どこか冗談めかした口調で言った。
その言葉に、零果は何も答えなかった。うつむいたままの彼女の左肩をぽんぽんと、軽く二回叩いて、「じゃ、また」と、有武も営業フロアへと消えて行った。
「…………無理ですよ」
有武の背中も見えなくなってから、ひとり残された零果はそうつぶやく。
事務部に異動して二年。今となっては、営業アシスタントとして働いていた過去が、すべて夢だったのではないかとすら思える。あの頃は、毎日必死だった。ただがむしゃらに仕事をこなしていた。どうしてあんなに夢中だったのだろう。零果はもう、当時の感情を思い出すことができない。 二階の事務部フロアに向かって歩き出す。所属も業務内容も変わったが、今も零果には戦場が与えられている。運動不足解消のためにエレベーターを使うのではなく階段を降りながら、頭の中では午後の仕事について、すでに思考が回り始めていた。今の自分には、やるべき業務がたくさんある。戦うべき雑務がある。そのことが、何よりも救いだった。
※『コーヒーとふたり』(下) (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/746474804830519296/)へと続く
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なんとなく、着の身着のままで外に出て薬局に行った。
薬局で僕が買った商品は一つしかなかった。レジ袋を省略するのは薬局でもそうで、その少ない商品を見て店員さんは袋の必要の有無を聞くことすらしなかった。マスクのたくさん入った少し大きめの箱だったにも関わらずだ。僕はその目立つ箱を手につかんだまま薬局を出て家路へと急いだ。
風が強かった、花粉が舞っていそうだ。
なんとなく目の前にヴェールがかかったようであり、春らしい眠さを感じているのだと思った。多分、春は花粉が多く飛んでおり、それによって横になることで鼻が詰まりやすく、日本人全体の睡眠の質が落ちる、それが春眠暁を覚えずの由来なのではないか、と、そんな空想をしながら、この眠気をどうにかしたいと思った。
そこにコーヒーのチェーン店があった。
コーヒーには御存知の通りカフェインが含まれており、若い頃にはその効果をあまり感じなかったが、最近その恩恵と害を強く感じるようになった。しかし今この瞬間のこの自分の体調には必要なのだと、そういう確信があった。それで、最小の一杯を飲むことにした。
レジの人はとても「にこやか」で、そのにこやかさをアイデンティティにしているようなそんな皺が目元に備わっており、僕はその人が若い頃に「あなたの笑顔はとても素敵ね」と言われているところを想像した。その人に一番小さく、そして大きさに伴った値段のコーヒーを頼むと、にこやかにお会計の手段を聞かれ、いつもの電子決済サービスを告げ、コーヒーを受け取って、砂糖を取り、植物性油脂のポーションを取り、そして席を探した。
レジから窓際へと店をぐるり、右から左へと見渡した。店は程よく混んでいたが、窓際の席がずらりとあいている。どこかの一団の客が陣取り、そして去っていったあとなのかなと思った。コロナよけのシールドとシールドの間にコーヒーを慎重に、マスクの箱を乱暴に置き席についてすぐに気づいた。その日当たりのとても良い席はただ単に暑かったのだ。上着を脱ぎたかったが・・・上着を脱ぐとその下に着ていた長袖のタートルネックのシャツはなんとなく肌着みたいに見えるような気がした。なぜか?少し僕には袖が短いからだ。着の身着のままで出てきたことを後悔したが、別に日陰の席に移ればそれで済むことだった。
そこでふと友達が「田舎ではスーツなんかだれも着ない」という話をしていたことを思い出し、田舎で暮らしてたらこんな事気にする人はいないんだろうな、となんとなく想像し、そして、いや、田舎は周りみんなが知り合いである可能性が高くてむしろそんな格好できないのかなとか、なんかややこしいことを考えた。田舎では多分、そのスーツ以外の服にも細かくチェックが入り・・・Tシャツだって肌着だ、長袖Tみたいなものでは?いや、これはババシャツならぬ、ジジシャツだ!
窓から見える向かいの木がまだ裸で寒々しかった、あの木にはいずれ綺麗な花が咲く事を知っている。そして空は春の青さがあったし、日差しもその気配を十分感じた。
僕はジジシャツを隠すために日陰の席に移り、コーヒーを飲み始めた。薄いコーヒーだ、いや違う、いつも飲んでいるコーヒーが濃いのだ。もう本当に味覚がだめになってしまったのかな、いや亜鉛を摂れよ、などということを思いながらコーヒーを飲んだ。砂糖は一つ、ミルクは入れる。コーヒーに砂糖を入れずに人工甘味料を入れる人は、そのカロリーを知っているのかな、とか、ブラウンシュガーをありがたがって選ぶ人もいるけど、ブラウンシュガーって精製された純粋な糖に、サトウキビの茎、虫の死骸、ゴミ、そういうものでできたもので、確かにキビとかの風味が少しあるけど、コーヒーに入れてもわかるのかな・・・みたいな意地悪なことを思った。
それでふと左に見える鏡を見ると・・・ひどい格好だった。外に出ちゃいけない格好だなと思った。それは自分の存在を空気みたいに感じている証拠だ。髪型も少し変で・・・明後日もう少し短めにしてもらおう。誰も自分を見ていないだろう、そういう気持ちでないとできない格好だった。髭も剃ってない。しかし、右の方にある鏡を見たら少しまともだった。つまり、左側の髪型が・・・おかしいことは確かだった。だから右端の席に座っちゃだめなんだよ・・・左側は日ナタでジジシャツだけど。
こんな服装は本当に良くないと思った、上着を脱げないし。そういうことがあったその服は一式まるごと捨てたくなる。でもそれはやめろと自分に対して思った。そうして捨てられる服は確率的によく着ている服で便利な服であることが多いからだ。捨てるならあの青紫のキラキラした金属片の入ったふわふわのニットだろ?着たか?などと思った。
ま、バカバカしいな。この店内にいる誰かに気に入られたいか?この店内にいるどんな女性とでも結婚できるとして、外見的に誰としたい?あたりを見回す、誰も、全然だ。とここまで思って、バカじゃない?何様のつもりだよ!と自戒して、じゃぁ、やっぱり服を気にするべきなの?みたいなことを考えて、髪を少し手で触って整えたような気になって、バカバカしくてそれについて考えるのをやめることにした。
コーヒーを飲みながら「人はなぜ自殺するのか」の続きを読む。詩的な部分で・・・僕はなんとなくミッドサマーの最初の方で死ぬお姉さんのことを思い出した。この本の話はまた別の機会に。
コーヒーを飲み終わって外に出た。風はまだ冷たかった。コーヒーの効果を感じながら歩いた。
家に帰ってきて、外に出る用事も特になかったが服を着替え、鏡の前に立ち、メガネをクイッとして、それからその日の仕事をした。
僕は本当にややこしいことを毎秒置きに考えて生きているが、人間��んなもんだと思っている。
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スポーツを続ける為の飲料
飲み物は特に気を付けている。 ジュースや炭酸飲料は500mlペットボトル1本分ですら品によっては、ケーキ1ホール分ぐらいの砂糖が含まれている場合すら有る。
オレは飲料の主軸は水道水、そして日本茶。 甘い飲み物が欲しければヤクルト。 ご褒美として一日につきコーヒーをマグカップ1杯。 そしてトレーニングの時だけプロテイン。 すごく偶に甘酒だろうか。
これで十分だし飲みきれないぐらいだから、それ���差し置いてジュースや炭酸飲料が入ってくる余地は無い。あと、どれも自分で淹れるから安いし、健康にも良い影響の方が大きいと実感している。
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Meguro Church of the Nazarene ⛪️ The featured song has nothing to do with the movie. It’s just a play of the sound of music. I came across the church by chance and it reminded me the song called ‘Nazarene’. That's it. #nazarene #robertwelch #bobwelch #パリス #ナザレ人 #ナザリン #ナザレン #ナザレン教会 #church #archistagram #architecture #⛪️ #the1975 #1970s #コーヒーに砂糖十杯 #渋谷陽一 #何を言ってんのかわかりませんが #ええーーー #ライナーノ―ツ #megurochurch #日本ナザレン教団目黒キリスト教会 #青葉台4 #青葉台四丁目 (at 日本ナザレン教団 目黒教会 Meguro Church of the Nazarene) https://www.instagram.com/p/Btu_sVIBdsv/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=airzrgzqwzgz
#nazarene#robertwelch#bobwelch#パリス#ナザレ人#ナザリン#ナザレン#ナザレン教会#church#archistagram#architecture#⛪️#the1975#1970s#コーヒーに砂糖十杯#渋谷陽一#何を言ってんのかわかりませんが#ええーーー#ライナーノ#megurochurch#日本ナザレン教団目黒キリスト教会#青葉台4#青葉台四丁目
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地上の楽園
鼻先を、とても清潔な風が掠めた。
目を開けるよりも先に頭の中で簡単に想像できた。
開け放たれた窓、揺れる真っ白いカーテン。まだ強すぎはしない日差しが降り注ぎ、向こうには青い、海が見える。
山崎は一度、大きく息を吸った。肌に触れているのは軽い羽毛布団を包むさらりと心地の白いカバーだ。昨晩、シャワーを浴びて少し火照る素肌で寝そべった。熱をしっとりと吸っても軽やかな感触をしていて、随分上等なものだとわかった。
そっと瞼を上げると、これもまた白い天井が見えた。 今、何時だろうと考えるのすら無粋に思える。 でも、肌にあたる空気の感触でまだ昼には遠いだろうと思った。 彼は右手を自分の隣に伸ばす。 指先は何にも触れない。 昨晩は、眠る直前までそこに熱があった。 抱きしめれば、ほっと温かい。
初めてそうした時、その温度に眩暈がしそうだった。そんな感覚すっかり忘れていたのもあるが、その熱が思っていたよりもずっと高かったからだ。もう少し、ひやりと冷たいのかと思っていた。バカみたいな理由だが、自分より、幾重にも年が上だからだ。でもそんなのはつまらない思い込みだった。人は歳を経て落ち着き冷めていくばかりではない。そもそも、そんなことは最初から見ていたのに。大人らしく冷徹でパッケージした体に、過剰でそしてまったく上品でもない燃えたぎるものを抱えている人だ。
それは今も、変わらない。
隣に誰もいないのを確認した後、山崎は眠っていたベッドに半身を起こす。 無意識に、あくびが出る。 昨晩は何時に意識が落ちたのか覚えていない。はじめたのは早かったと思うけれど、終わるのが遅かった。 こういうのは体力の問題では無いともっともらしく言われた事もある。早くてダメな訳でも、長くてイイ訳でもない、人間ある程度になれば気付くべきだ、明確なゴールだけ目指すべきではない、と。 (ものは言いよう、だな) 随分と酔った夜に言われたこともある。
「犬とは違うように、やってみろ。お前は人間だろう?しかも、もう若くもない。賢い所を見せてみろ」
もともと、売り言葉に買い言葉。人を煽り、欲望に火をつけるのが抜群に上手い人間だ。変わったところもたくさんあるが、そういうところはまるで変わっていない。
視線を大きな窓に向ける。 そこはすでに半分開け放たれていた。その向こうには大きなバルコニーがある。白い丸テーブルに椅子が二脚、それに寝そべって昼寝が出来るデッキチェアまで。初日に、昼間からバルコニーで酒を飲んで昼寝をしたら気持ちが良いだろうと話したけれど、何だかんだ色々と出かけてしまい、まだ実現できていない。気合と根性と綿密な計画と強引さと運とタイミングで何とかもぎ取った休暇なのだから、いわゆる何もしない贅沢というのも一緒に体験したい。
ゆるい風が窓から部屋に入り込むと、白いカーテンが揺れる。 海のにおいはしない。 でも、目の前には邪魔するものが何ひとつない青い海が広がっている。
(あー、めっちゃ、ハワイ) (いるんだなぁ、オレ、先生と、) (地上の楽園、ワイハに)
最初、ハワイに行こうと言った時、利根川は露骨に嫌な顔をした。その理由は山崎もわかる。現役時代の利根川にとってハワイ=仕方なく行かねばならぬ場所だっただろうからだ。 しかし、今は違う。 山崎は利根川に過去の記憶よりを今の楽しさで塗り替えて欲しかった。エゴかもしれないが、時々、そんな思いつきで利根川を連れだすことがある。 実際、利根川はハワイを十分に楽しんでいるようで、昨日の夕方もピンク色が有名なホテルのバーで沈む夕陽を眺めながら、今日ばかりはウィスキーのロックではなく(もちろんそれも利根川にはお似合いだが)グラスに少し汗をかいたフローズンダイキリを飲み、満足そうに言っていた。 「ハワイがこんな楽しい場所だったとはな」と。
ホノルルでも超がつく有名な高級ホテルの一室には今、利根川の姿はない。 もしかしたら朝の散歩にでも行っているのかもしれない。 山崎は利根川が帰って来る前にせめてパンツ一枚くらいは穿こうとベッド脇の床に視線を落とす。酔っていたのもあり、正確にどこでパンツを脱いだのか覚えていない。いや、そもそも (シャワーを浴びた時に、脱いだからその後は、……) 無駄に広い部屋は好まないと利根川に言われたので、ワンルームの部屋を予約した。それでも十分に広い。部屋にはキングサイズのベッドと、ソファとローテーブル、それに(する訳ないが)ちょっと��た仕事も出来そうなデスク、
「うっ」
そのデスクの上にちょこんと載っているのは明らかに昨晩自分が穿いていたパンツだ。脱ぎ落としただけのつもりだったのに、ここに、畳んで置かれているということは。 (オレはっ…先生になんてことをさせてっ……!ばかっ!パンツくらい自分でしまえ!子供じゃないんだからッ!) 山崎は内心大げさに嘆いた後、パンツに手を伸ばし、掴んだ。 それとほぼ同時に部屋のドアが開く音がして利根川が姿を現した。 利根川はもうすでに、きちんとした格好に着替えていた。 涼しそうな麻の半袖シャツに清潔な長ズボン、足元はラフにサンダルだ。 「山崎、起きたのか」 「は、はい、今起きました。おはようございます」 「おはよう……どうした、そんなに下着を握りしめて」 「あっ、いえッ、…これはその、……はこうかと…丸出しなので」 山崎の言葉に利根川が笑う。 「確かにお前、ワシが朝起きた時全部丸出しで寝ておったな」
(丸出し……ッ!)
(つまり局部丸出し!!!!!先生に、オレの!!!!!!!!!あそこが丸見え!!!!!!…ッ!世界っまる見え!!!!!!!!!)
「そ、そうですか。それは失礼しました」 ざわつく心を押さえつけ山崎はハハと軽く笑いながらパンツを布団の中に突っ込むと出来るだけ平静を装って利根川に聞��た。 「先生は朝の散歩でしたか?」 「お前、そうやって人を年寄り扱い……」 「そんなつもりは」 「これを貰って来た」 目の前にプラスチックの蓋がはめられた紙コップが差し出される。 「コーヒーだ。そう言えば朝はレストランの前で無料で配っているのを思い出した。前に来た時はそんなものを飲む気分でも無かったがな。砂糖無し、ミルク有りでいいだろう?」 「あ、はい。ありがとうございます」 山崎は利根川から紙コップを受け取る。 すぐにじんわりと指の先が温かくなった。 「今日も良い天気だな」 そう言いながら利根川がベッドの端に腰掛ける。スプリングがほんの少し沈む。 「そうですね」 利根川がカップに口をつける。 きっと、砂糖無し、ミルク無しのブラックだ。 合わせるように山崎もひと口飲む。牛乳のまろやかさが口に広がって美味しい。 窓からまた風が入る。 利根川が眩しそうに、窓の外を見上げた。 「山崎、今日は何をしようか」 視線はこちらに向けられない。 その横顔は相変わらず精悍で、意思が強そうだ。 「先生は、何がしたいですか?」 「そうだな」 ぱっと、利根川がこちらを向いた。 その口元にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。 時々、こういう表情をする。 自分より、ずっと年上なのに、とても、かわいい。 「あちこち行ったし、今日はのんびりしたい気分だな。昼から、こう、部屋で酒を飲むとか」 「あー、いいですねぇ、ここはもう贅沢してルームサービスを頼むとか」 「一回はしてみたいと思っとったんだ。バルコニーに転がりながら、昼酒を啜る」 利根川が、くいっと、コーヒーの紙コップで酒を飲む仕草をする。 「しかも、こんないいホテルの最高なロケーションで、贅沢ですね」 「ああ、贅沢だな。こんなに時間があるなんて、本当��贅沢だ」 ふふと、笑う利根川の口元を見て、山崎はふと思った。 口には出さないけれど、 (真っ昼間から酒を飲んで、少し酔って、この部屋で、明るい海を見ながらするのも、きっと、贅沢だ)
牛乳のたっぷり入ったコーヒーが空腹の胃に落ち着きを与えてくれる。 これを飲んだらきちんとパンツを穿いて、服をちゃんと着て、この人の為にルームサービスを頼もう。そして、日差しの照りつけるバルコニーで乾杯をして、昼から泡の浮いたグラスに口をつける。
「ハワイって、まさに地上の楽園ですね」 山崎の言葉に利根川が窓の外を見ながら、言った。 「そうだな、お前が誘わなかったら、気付いてなかったな」
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小さな喫茶店
https://www.youtube.com/watch?v=8mOu9kAgf0I
https://www.youtube.com/watch?v=has1KjbVeU0 “喫茶店”、KISATEN 一辭大約在五十多年前出現在台灣,發源地的
日本早於明治末期, 到了1920年代更成了一時風尚。為什麼稱做
“喫茶店”?在日本的抹茶風習裡面,往往使用了一個中國趙州禪師語錄
中的 “喫茶去”字句以表風雅;猜想就這麼來的。
這另有一個名詞就是 “純喫茶”;這幾個字首先進入耳際,是來自正值
青春年華的表姊。日治時代 coffee shop 的流風遺韻,似乎已經日有
更新,也同時傳入了台灣。在日本早年,不提供酒類,而只有 咖啡、
茶,和一般飲料,雖然沒有酒類,卻有女侍作陪;這當然是搜尋
結果。大約就是等同台灣早年相當風行,燈光黑暗,剛進入伸手
不見五指,有女服務生坐枱的咖啡廳:南國佳麗、北國妖姬 -這是
門口的招牌。
據個人在慘綠少年時代的 經驗 ,第一次進入 “純喫茶” 記得是在
中正路,現在的忠孝西路,上到所在的二樓,只見昏暗的燈光中,
一座座擺在茶几後面的雙人沙發,躺滿了對對交纏的海獅。記得
當時年紀小 https://www.youtube.com/watch?v=KZsLLOUglTo ,
未經世事,不明就裡,所以趕緊小跑步跑路下樓。現在想起來,這些
雌雄海獅們也都已經 80好幾了。
在 “純喫茶”、Kisaten,年輕男女交往、生意人談生意、黑道喬事 . . .;
早年有名稱取自法國作曲家 拉威爾 的名曲 BOLERO ,大稻埕
的 “波麗露”。提供當時不多的 hi-end 音響,讓客人聆賞古典音樂。
不過在日本這類付有餐點供應的稱做 Cafe。這裡也是當年我輩家長
介紹子女相親的重要地點。幾年前去過一次 波麗露。後代前來自我
介紹;老實說,整個店已經走樣,女二代目的談吐很不怎麼樣,甚至
顯得粗俗。一眼看去的顧客,看不到青春也聽不到文雅,更談不上
古典。
從第一代老闆所做整體的呈現來看,受過日本教育,台灣老輩仕紳
世代的教養、儀態,早已隨著時代洪流,一去不返,相當失望。 相同的樣態也發生在台中的 太陽堂。上成功嶺時所見的 太陽堂,
曾經是如此和風高檔,甚久之後的幾年前,在網路所見的報導,
已經是相當破敗。這和生意之如何無關,而是由 “整理、整頓”
而來的美好、浪漫已經失去;文化思維已經不同。
當兵剛退伍,同學在南京東路一段頭開了一家 “金咖啡”。應該是
第一家咖啡廳擺上 Grand Piano,有鋼琴演奏,風行一時。不久,
在對面又開了一家 “金琴”,這次的噱頭更不得了,整部鋼琴鍍金。
同學以 Benz 為座駕,有司機案內,真是志得意滿,意氣風發;
年紀大約也就二十三四。這位老兄為人四海,他的家是當時當紅的
電視影星聚居處。時而去湊熱鬧,有次碰到剛出道不久的 余天;
全身有毛,既不會毛茸茸,多如黑熊,也不會毛髮稀疏如同紅
毛猩猩,實在很帥。有次躺在小房間雙層床的上面,下看林松義與
剛出道的余天坐在下面聊天。林松義向余天說,不用急著出國 . . . .。
林松義當然是前輩,只是余天很帥前途不可限量,我想此兄搞不清楚
狀況,有點好笑。還有一次去他的金咖啡蹭流行,神采飛揚的同學
說,來,給你介紹我的女朋友:「 北一女畢業的」。真是癩蝦蟆
吃到天鵝肉,令人五味雜陳。
https://www.facebook.com/watch/?v=114370417213271
之後台灣的咖啡廳更有了現場表演,成了所謂的 “西餐廳”。與日本
之後發展出爵士、古典音樂、體育、歌聲 . . . . ,等等配合形形色色
嗜好、興趣不同顧客群,風格各異的 “喫茶店”。充滿著主人家個人
堅持的風情與情調氣氛的 KISATEN 所在多有,由文化底蘊所發展
出來的呈現,日本與台灣各自的走向全然不同。
明治維新 “文明開化” 之後的日本,進入 “喫茶店” have a cup of
coffee,喝杯咖啡還是一種時尚。摩登的感覺,聽下面這一首,曲風
充滿了過著喝咖啡文明生活的昭和時代的興奮與快樂: 一杯 の コーヒー から
作詞 藤浦洸 作曲 服部良一 昭和十四年 https://www.youtube.com/watch?v=nz-UNcT-W7E
1. 一杯のコーヒーから 夢の花咲く こともある
街のテラスの 夕暮に
二人の胸の 灯火が チラリホラリと 点きました
• 就一杯咖啡 夢的花開了 黃昏街旁的雅座 俩人心中花開朵朵
2. 一杯のコーヒーから モカの姫君 ジャバ娘
唄は南の セレナーデ
貴方と二人 朗らかに 肩を並べて 唄いましょ
• 就一杯咖啡 摩卡公主 多話女郎
歌曲是南方小夜曲 與妳兩人並肩爽朗歌唱
3. 一杯のコーヒーから 夢は仄かに 薫ります
赤い模様の アラベスク
あそこの窓の カーテンが ゆらりゆらりと 揺れてます
• 就一杯咖啡 微微的夢香 那紅圖案裝飾的 窗簾輕輕搖動
4. 一杯のコーヒーから 小鳥囀ずる 春も来る
今宵二人の ほろ苦さ
角砂糖二つ 入れましょか 月の出ぬ間に 冷えぬ間に
• 就一杯咖啡 小鳥啾啾 春來到
今夜俩人的哀愁 放兩顆方糖吧 月出前 未冷間
“喫茶店” 其實也就是 Coffee Shop,有走法國風的就稱做 Café:
C'est Si Bon(It's so good) https://www.youtube.com/watch?v=7y9hIjH_7do
https://www.azlyrics.com/lyrics/deanmartin/cestsibon.html
在戰後的昭和時代,隨著經濟的成長,上 コーヒーショップ 成了
人們生活不可或缺的一環,同時也有了幾首以 “喫茶店” 為主題的歌曲
膾炙人口。這一首 “喫茶店の片隅で” 描寫了青年男女談戀愛的情狀。
曲調清純、端正如同論說文,比較像是文部省頒定曲。來自��詞的
回憶,表現出浪漫的氛圍,也透露著與情人分手後淡淡的���感,深為
人們喜歡,傳唱。 下面播出兩首以 “喫茶店” 為主題的歌曲,個人都非常喜歡: 喫茶店の片隅で https://www.youtube.com/watch?v=EUDNTd1wjRo&t=2s
作詞:矢野亮
作曲:中野忠晴
金合歡街樹的黃昏
喫茶店燈光昏暗
我倆經常相逢的日子
小小的紅色椅子兩張
摩卡香氣 漂溢
靜靜對坐的兩人
聆賞著蕭邦夜曲
流瀉的鋼琴音符
忽急忽徐
不知覺間 夢遠了
難忘昔日情誼
獨自來到 喫茶店
散落窗邊的 紅玫瑰
遙遠過去的懷念
心中深深感觸 呼喚今宵
“ 靜靜對坐”, 理論上氣氛營造的責任應該是在男生。無論是拙於
言辭,詞不達意,或者神遊十三天外,再怎麼說女生平時如何
聒噪,也有必需的淑靜要守,更何況如果是位初嘗年輕男女交往
滋味的黃花大閨女ㄦ,保持羞於啟齒,就是一種最佳的狀態與
表現。如果其實是老於江湖,往往就在這靜默的時分,端詳、
審視對坐這位稚嫩小男生,盤算著接下來要如何宰制、盤剝這頭
難以釋手的小羔羊。
依詞意來看,這位女生正典就是一朵閉月羞花,男生更是個蕭邦迷,
天生應是一對,可惜心中這一點無法言傳的甜蜜,就在一點絲微的
誤會,或者什麼陰錯陽差,終至分手收場。
すき 喜歡 https://iseilio-blog.tumblr.com/post/716133306776911872
有好事之旁觀者,默默好奇,守著觀察,期盼或許男方忽而出現,
演出一場心有靈犀的巧遇,終至喜劇收場。真要這麼說來,這首
論說文式的浪漫歌曲將大形失色。就讓劇情維持無頭無尾,在
主人公默默的心中訴說之間,主客共享這份幽微的情誼與遺憾。
日文歌詞練習:
アカシア並木 (なみき) の 黄昏(たそがれ)は
淡い灯 (ひ) がつく 喫茶店
いつも貴方(あなた)と 逢 (あ)った日の
小さな赤い 椅子(いす)二つ
モカの香 (かお)りが にじんでた
ふたりだまって 向き合って
聞いたショパンの ノクターン
洩(���)れるピアノの 音(ね)につれて
つんではくずし またつんだ
夢はいずこに 消えたやら
遠いあの日が 忘られず
ひとり来てみた 喫茶店
散った窓べの 紅(べに)バラが
はるかに過ぎた 想(おも)い出を
胸にしみじみ 呼ぶ今宵 (こよい)
這一首曲風輕快,可惜影片過於久遠,影像模糊,鑑賞功力全憑
個人才華。
https://www.youtube.com/watch?v=lhFfVuHkqx8 小さな喫茶店
拘謹有禮而古板的日本人,有其浪漫與夢幻的一面。 https://www.youtube.com/watch?v=fhY0-r_2yvQ 日本有 繩文人和 彌生人兩種,以個人看法, 彌生人 的 面孔比較肉餅。這位仁兄人稱: ハムバ-グ 、 漢堡。
拘謹有禮而古板的日本人,有其浪漫與夢幻的一面。 https://www.youtube.com/watch?v=voN9-0oeUho 神情與年齡雖然無法對焦,還是可愛,還是唱得不錯、拍拍手。 • 可愛い!お一人ですか?嗚呼 --
作詞:E.Neubach
訳詞:瀬沼喜久雄 作曲:F.Raymond 已經是去年
星光綺麗的夜晚
想起我倆散步的小徑
懷念
過去浮上了心頭
走著走著
不覺煩惱了起來
那是初春的事
進入喫茶店內的我倆
面前擺著茶與蛋糕
一言不語
旁邊收音機甜美的歌聲
輕柔的唱著
就只靜默的我倆
相對而坐嗎
進入喫茶店內的我倆
面前擺著茶與蛋糕
一言不語
旁邊收音機甜美的歌聲
輕柔的唱著
就只靜默的我倆
相對而坐嗎
日文歌詞練習:
それは去年のことだった
星の綺麗な宵だった
二人で歩いた思い出の小径だよ
なつかしい
あの過ぎた日の事が浮かぶよ
此の路を歩くとき
何かしら悩ましくなる
春さきの宵だったが
小さな喫茶店にはいった時も二人は
お茶とお菓子を前にして
ひと言もしゃべらぬ
そばでラジオがあまい歌を
やさしくうたってたが
二人はただだまって
むきあっていたっけね
小さな喫茶店にはいった時も二人は
お茶とお菓子を前にして
ひと言もしゃべらぬ
そばでラジオがあまい歌を
やさしく歌ってたが
二人はただだまって
むきあっていたっけね
台灣人固然騷包,對 “喝咖啡” 這類成了次文化的風尚,情趣其實
不多,個人則還是比較喜歡牢騷滿腹,罵人不帶髒字的政治論說,
卻是往往一知半解,過於充斥還是不好。這日發現弄些歌曲、歌詞,
好好說他一番倒是一個方向;且擱下筆,稍後再敘。
BONUS
二戰前世代的日本人其實比較嚮往浪漫的法國 https://www.youtube.com/watch?v=UR2Kj1omGAg
枯葉 岸洋子 https://www.youtube.com/watch?v=El6kzOS0TKg
すみれの花咲くころ https://www.youtube.com/watch?v=6VbSufpdUp8
專人桌烤"A5和牛八吃" & 鎮店30年"黃金羊肉爐" https://www.youtube.com/watch?v=w1S1llWbCgM
2018 舊文
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育児家庭で"朝練メイン"に変えて3ヶ月半、単独練習のみでハーフ1:09:15→1:07:45(※社会人ベスト相当)まで縮めた34歳の私の練習メニュー
基礎持久力を養成する基礎練習の積み重ねは、中長距離走における広範囲での競技力を向上させると私は考えている。そのための練習では、故障せずに継続させることが重要。1人でもできる強度に抑えるということは、そこに追い込む練習 / 努力感の高い練習を必須としない。
12月以前もロングランの練習に限ってはそのほとんどを朝食前に行っていた。起床後はコーヒーのみ飲んで、脂質酸化能力へのアプローチを。朝練では強度は上げすぎないように適度に。
朝練後には砂糖"小さじ3杯"(あえて大さじでなく)を入れた牛乳を250ml飲む。朝は色々バタバタしているので朝食は控えめにそこまで多く食べない。昼食でゆっくりと糖質を補給する。
牛乳は、どんなプロテインよりも安価で安定して供給されている。味も安定しており、重宝している。最近、練習後にはプロテインもアミノ酸も摂取していなくて牛乳しか飲んでいない。これで十分かな、と思っている。
朝練に移行して意識していたのはシンプルで、早く寝ること。それによって早く起きれるようになった。当たり前すぎることではあるが、夜にすることができなくなるというデメリットも当然ある。
また、冬の時期は朝が寒いので練習前に足先をお湯で30秒程度温めておくのと、股関節周りの動的ストレッチを30秒程度行っていた。
朝練への移行は、この数ヶ月で体重を2-3kg落とす、良い契機になったと感じる。たしかに、糖質が少ない状態で朝に継続して練習を行うと、その適応期間においては体が引き締まり体重が落ち、フィットネス(基礎体力)の向上を著しく感じた。朝に脂質優位の持久運動を行うと、日中も走っていなくとも日常生活において脂質利用の亢進が働くそうだ。
朝に走れば、冬なら綺麗な朝日が東の方向に見えるし、朝ラン後の水分補給は身体中に浸透する。それが気持ちよかったので、朝練はすっかり日課となってしまった。
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2018-19 AUTUMN & WINTER [月の住人]
-月の住人-
『天に届けと宙を舞うブーケ 君は調子に乗って思い切り後ろに放り投げたけれど その行方はもう誰にもわからない・・・・』
前にbarで見かけた詩を口遊みながら、 手のひらを望遠鏡代わりにして丸くなった月を眺めていた。
『月に行こうよ それは初めての二人旅 早くたどり着いてもなんだか味気ないので のんびり海を眺めながら行くことに決めた 僕は自分のリュックと君のキャリーケースを・・・・』
「もし僕が月で結婚しようって言ったら君はどうする?」 月の表面がブーケの花びらで覆い尽くされるのを想像しながら、 僕は彼女に尋ねた。
「あなたって本当に月から来たみたいね。」 彼女はそう言って、月明かりを遮るようにカーテンを閉めた。
やけに星が良く見える夜だった。 私は月がない夜空に対し少し寂しい気持ちになったけど、 手のひらを丸め望遠鏡代わりにして夜空を眺めた。
『オンボロと書いてアンティークと虚勢を張る小さな船室は どちらかが寝返りを左右にひとつずつ打てばそれで十分だった 羊みたいにふかふかしたブランケットに包まり あまりに部屋に馴染んだようにくつろいでいるから 「はじめからずっとここにいたみたいだね」と問いかけると 「はじめからずっとここにいましたよ」と笑う・・・・』
手のひらの望遠鏡で器用に星座を見つけながら、 彼女は思いつくまま詩を口遊み、それを手持ちの紙に書き写した。
家に帰ると彼が暖かいコーヒーを淹れてくれた。 私はそのコーヒーを受け取り少し口につけた後、彼に別れを告げた。
『鉛筆の味がするといい、消しゴムを擦り付けるように角砂糖を溶かしていた それから何度 ただいま と おかえり を繰り返しただろう いつのまにか僕と同じものを飲んでいる 今日はなんの話をしようか・・・・』
��君はもう月に帰りなさい。」
そう言い残して彼女は部屋から出て行った。
『膨らんでは欠けて 満ち足りて失って 君が姿を変えるたび 僕の五感の何かが動く 呆れるほど笑ったり 草臥れるまで泣いたり 飽きるほど喜んだり 疲れるまで怒ったり
笑顔の数だけ涙も流れて 喧嘩の数だけ仲直りもした このまま 君のためだけに生きてみたかった。』
彼女の口元みたいに薄い三日月を眺めながら、 覚えている詩の最後まで口遊さむと、 壊れたカセットテープのように巻き戻し、また最初から再生した。 そしていつものように、詩の書いてある紙切れが無数に貼ってある bar の扉に最後の詩が貼ってあることを想像した。
けれども僕は、どうしてもその扉のある bar に足を運ぶ気にはなれなかった。
『打ち上げられた海岸で拾ったグラス 空に掲げ 注いだ赤を揺らすと 君は少しだけ笑って見えた いつかのブーケを探しに行こう その行方はもう誰にもわからないけれど。』
書き終えると同時に bar へ走り、 書き入れたばかりの紙切れを扉に貼り付けた。 息をするのを忘れていたかのような扉は、最後の一編を手に入れ、 ようやく呼吸を始めたみたいに見えた。
「いつもあなたの詩を口遊さんでる人がいたよ。」 「いた?」 マスターの過去形が気になって、私はといただした。
「もう来なくなってだいぶ経つんだけど、あなたみたいに 月から来たとでも思うのかな?彼の周りの空気だけ少し濃度が薄いような、、、 説明しにくいけど、いつもそこに座ってあなたの詩を眺めていたわよ。」 マスターは私の前にグラスを置き、満月みたいな色をした白ワインを注いだ。
「ねぇ知ってる?月から来た人みたいって言われるのって、 案外傷付くんだからね。」 そう言って私はマスターの方にグラスを傾け、形ばかりの乾杯をした。
『天に届けと宙を舞うブーケ 君は調子に乗って思い切り後ろに放り投げたけれど その行方はもう誰にもわからない・・・・』
詩を読み始めた時、月の光とともに一人の男が詩の扉を開けた。
JUN OKAMOTO 2018-19 AUTUMN & WINTER COLLECTION [月の住人] STYLIST : YOPPY YOHEI YOSHIDA (JUICE) PHOTOGRAPHER : TERU (TRON) HAIR & MAKEUP : MAI OZAWA (MOD'S HAIR) MODEL : ALINA B. (WIZARD MODELS) MODEL : KIT (ACTIVA) ART DIRECTION : Officeroom STORY : JUN OKAMOTO
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◆通過済み、読了済、通過希望シナリオメモ
通過済
ガレット・デ・ロワ
コーヒーを一杯召し上がれ
いつかの私にさようなら
砂糖菓子七つ
王子は僕と世界を騙る
踊れ、ワルツ
ねじまき鳥クロニクル
Hand in Hand
初恋性ストックホルム症候群
拝啓、花棺の君へ
カラオケルーム
R.I.P.
海も枯れるまで
楽しい〇〇
嫉妬とキセキの結婚式
ヒガンのきみへ
俺、なんかヤっちゃいました!?
少女庭園
密室のパスト
ラズベリージャム
ソープスクール
沼男は誰だ?
庭師は何を口遊む
片恋性リマ症候群
芙蓉の怪
うるわしきノルニル
藍と唄
花とひきがね
デウス・エクス・マキナは死んだ
脱獄は乙女の嗜み
メアリー・スーの眠れない夜
神成りの牢
問、死の定義を教えてください
火点し頃の蜘蛛踊り
心臓がちょっと早く動くだけ
口渇ルルパ
■KPレス通過済
キキツヅニナク
まんだらかばら
マントラサンガ
ヒルコ
星を喰む
ジャルダン・マルスより、
ここにりんごが0個あります
読了済
だから、嫌いなあんたでいてくれよ
知を孕む母よ
偏愛腐乱シークエル
リトルバードの埋葬
祀家
ペパーミントとマドレーヌ
『ママ』
夜抜き様
52光年先のあなたへ
ぼくときみのアガルタより
帰り花
恋の呪文は✡ポルカ・ラ・ベッタ
カルぺ・ディエムの頽廃
花葬列車
ロッカー
さよならだけが人生か?
はらからきょうきょう
アルジャーノンの伝言
八月の硝子の森
永遠は君が殺した
同居人がウニになった。
僅差並行のヴェルダンディ
刹夏
ヤドリギあやかし探偵社
たたら
夜半の口寄せ
化け猫騒動絡繰り屋敷
通過予定
來々世世に銀の針(9/24〜)
マフィア珍道中(10/11〜)
Xからの告白(1章:11/7,13,14,21)
金曜日の天使(11月)
腕すらなくとも(11月)
21'sGun(10月か11月)
蹂躙するは我が手にて/HO2(1/8)
愛飢ゑヲワル(1月)
Dear my Son(1月以降)
怪獣倶楽部/HO3(12月以降)
あトの祀リ/HO3(2022年)
人魚飼育係(2022年)
十二星座館殺人事件/HO牡羊座(2022年)
ムーンエラーアウトサイダー(2022年)
雨夜のおしゃべり
平行線のアポフィライト
Piano's Jack
ぎこちない同居
狂魘惨毒ストレイド
君におはようと言えたら
肉にスパイス、バスタブに人魚
花冷えに亡く季節
「 」なんてね
エンジェル・デビル・インプロパー
ハイフェッツをなぞる病
PYX
ファタールモルガナ
あおい蛹の身を踏んで
ようこそ!迷々市役所都市伝説課へ!
通過希望
ジャンヌの猟犬 (HO処刑人希望)
かいぶつたちとマホラカルト
紡命論とシンギュラリティ
家の中を歩いてみよう
蛾と踊る
旅館の捕食者
先生
Aconite
ネームレス・カルト
カノヨ街
月夜に蠢くルーガルー
カタシロ
壊胎
花は落、標に烏。
ステガノグラフィ
NOBODY*2
月面世界
あの人の噂も四十九日〆(まで)。
虜
悪魔の唇
サイレン清掃会社
渡る世間は殺人鬼ばかり
自殺病棟(KPレス)
天使は真綿で出来ている(KPレス)
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寒かったのと、ちゃんとした美味しい珈琲豆が無かったので、 安い珈琲とラム酒で コーヒー・グロッグ(って言うらしい?) を作った。 バターと砂糖の代わりに蜂蜜を入れた。 何かサトウキビ系の砂糖は虫歯になり易いけど、 蜂蜜はならない?かなり難いらしいので。 もう、この歳になると歯が弱くて (まぁ二十代で貧しい乞食生活して栄養失調を二年続けた後遺症もあるかもだけど?) 砂糖とか、赤ワインとか、 速攻で歯に影響が出る 一番強烈なのは酸っぱいアミノ・パウダーのグミ!! 好きだけど、瞬殺で歯茎がやられて、 3、4日間くらい歯磨き中にキンキン沁みて泣く事になる。 胃腸の消化も悪くすぐにお腹もクダすから 食べる物には物凄く神経を使ってしまう。 と、言いたいところだけど、 貧乏人がそんなこだわった食事など出来ぬ。 よって、 一週間に1、2回はお腹を壊してる。 食べ物が速攻で気持ちや脳に悪影響を及ぼすので 結構、深刻な悩みかも知れない。 食べる食事でその後の事へ向けるすべての気持ちが台無しになる。 趣味とか 楽しい気分じゃないと意味ないからねぇ... だから、基本的に珈琲を飲む事だけで終わる。 とは云え、 珈琲も胃腸への刺激が強いから 毎日、楽しめるわけではない。 冬場は 一日中、白湯を飲んでる事も多い(笑 好きな物を好きなように摂取出来ない体も辛いもんがあるよね。 まぁ仕方ないけど。 しかし、 コーヒー・グロッグ、 こんな量は要らなかったな。 「量」って大事だよね。 「適量」「適摂取量」 もし、自分がこの先の未来で珈琲屋をした時、 一杯、何mlの珈琲を出すべきか? で、悩んだりもしてる。 多分、カップとマグカップの2パターンで出すかもだけど。 お店で飲んだ時、120mlだと自分的にはちょっと少ない気がするんだよね。 後、もうちょっと欲しい気がする。 例えばお店の人と会話してて、 何かもうちょっと残ってて欲しいって事がよくあるんだよね。 でも、二杯目はちょっと違う気がするし。 そんなお店に 長居してもねぇ 呑み屋じゃ無いんだから。 まぁ珈琲の店のスタイルにもよるけれどね。 読書とかして長居しても大丈夫な、 周りやお客さんの回転率とかお店の事情とかを気にしなくて良いようなお店なら2、3杯でも良いと思うけれどもね。 まぁ会話でもお店の人との関係の深さもあるけれど。 まぁ飲んでも二杯くらいかな? 大体、読書とかゆっくりお店に居座りたい時は お店の人と関わらないような広い感じのお店を選ぶし。 やっぱね、 お店の人と知り合うと気を使うんだよね。 この10年間、呑み歩いて思った。 お店に気を使うと、 矛盾してるけど、注文すら躊躇うんだよね。 忙しそうだと注文するタイミングで悩むし、 まぁその辺が、呑みに行っても肴無しでひたすら呑み続けてる自分が出来たんだけどね。 お店の人は売り上げの為に注文してもらった方がいいと思うんだけど、 た、頼めねぇ... あっ、た、タイミングが.... で、 こんがらがって、 お店を出るみたいな?(笑 かつては 一晩5、6軒はハシゴしてたなぁ... 酔うと知ってる人に会いたくなるんでしょうね。 まぁお店の人が面倒臭い僕に来て欲しいか?は別として(笑 https://www.instagram.com/p/CGzTpvGJbJg/?igshid=c069vszz756
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“二十歳(はたち)の誕生日にウィスキーを飲んだとして、それを美味いと感じることはないだろう。 法律上は大人でも、ウィスキーの飲み手としては、まだ大人とはいえない。 なぜウィスキーは最初から、うまい!と思えないのか? 言い換えれば、最初の内、ウィスキーがはまずいと感じられるのはなぜか? ある時点まで「まずかった」ウィスキーが、ある時点から「うまく」感じるようになる。その時点はいつくるのか? 私の場合は、ウィスキーなんて最初の50杯ぐらいは美味いと感じなかった。なんとなく、憧れで飲んでいた酒だ。ジャーキーをつまみながら、ジャックダニエルをロックで、そう言うとカッコよい。木のカウンターの焼肉屋さんで、そうですね、白州をロックで、そういうとなんだか大人な感じがした。けれども味はわからなかった。強めのチビチビやる酒だ、ぐらいに思っていた。 ある時点で「あれ、これって美味いかも」と思い始めて今に到る。今にして思えば、どのように味わえばよいか、ウィスキーってそもそもどんな酒か、そんな情報がもっとあれば50杯も飲まずに済んだのではと思うので、そんな人のために、このブログを始めたわけだ。 さて、誰にでも私が経験した最初の50杯のように、「経験値を重ねウィスキーを好きになる臨界点」がある。その臨��点より前までは美味いと感じないのだ。 これを、 アクワイアード・テイスト Acquired Taste = 後天的な味覚 と呼ぶ。 ネット上の多くの記事では、ここまでの説明で終わっているだろう。でも、ここからがポイントだ。 割と一般的な「アクワイアード・テイスト」には、何があるだろう? わさび サザエのにがいところ コーヒー ビール シガー 納豆 チーズ 坦々麺 本格カレー キムチ さば寿司 燻製全般 ドリアン こう並べると「あ~なるほどぉ」な感覚があるのではないだろうか。 味覚で説明すると、「酸味」「辛み」「苦味」「煙たさ」が代表的なアクワイアード・テイストだ。 もちろんあなたにも経験があるだろう。 では、人はどのようにしてこのアクワイアード・テイストを獲得するのだろうか? そこにウィスキーを好きになるメカニズムのヒントがあるのではないだろうか? いかにアクワイアード・テイスト(=後天的な味覚)は育つのか。 まだ味覚が育っていない子供の頃を考えてみるとわかりやすい。 実は人間には先天的な味覚も存在する。子供の頃、文句なしに「うまい!」と感じるのは、「甘み」と「塩み」だ。「甘み」は「エネルギー源」を意味している。糖のエネルギーがなければ人間は生きていけない。また、「塩み」も同様に生命維持に不可欠だ。 子供の味覚にとって「苦味」が意味しているのは「毒」だ。判断力のないうちは苦味は拒否することが生きるために必要なことだ。また、「酸味」が意味しているのは「腐敗」で、これも拒否したほうが得策なのだ。 だからお父さんのビールを一口飲まされた子供は「大人はなぜこの茶色い液体を嬉しがるのか分からない」と心の底から思う。だってそれは子供の味覚にとっての「毒」だから。 甘いものだけでは栄養が偏る。子供の成長とは、甘み以外の経験を重ねることだ。 そして下記の3つの要素で「アクワイアード・テイスト」は育つ。 頻度 幅 関連情報の豊富さ これはまさにウィスキーを旨いと思うようになるプロセスと同じなので、ひとつずつ解説していこう。 経験の頻度を増す その味を経験する頻度が高ければ高いほど、つまり回数も多ければ多いほど、その味に対する感受性が深くなる。これは私がウィスキーを最初50杯飲むまでは美味いと感じず、その後に「美味いかも!」と感じ始めたことと同じだ。コーヒーに砂糖やミルクを入れないと美味いと感じなかったのに、いつしか砂糖の量が減り、ミルクなしになり、ブラックでも美味いと感じるようになるのは、コーヒーの経験頻度が多くなり、その味の繊細さが知覚出来るようになったからだ。 経験の幅が拡がる ある種の味の経験の幅が大きければ大きいほど、アクワイアード・テイストは開発されていく。ビールの飲み始めに、アサヒもキリンもサッポロもサントリーもないが、同じビールの中で幅をもって経験していくと、これらの違いに気がつけるようになる。最初は普通のビールと黒ビールの違いに気がつくようになる。その後に、ホップを利かせたビールと、ドライなビールの違いに気がつくようになるだろう。むろん、A~Bまでの狭い経験よりも、より幅広くA~Zまで経験したほうが、深く味わいを獲得できる。 関連情報の豊富さ 実はここが最大のミソで、「関連情報」により味覚は変化する。 中の液体の色が分からないようにした黒いグラスで、味を確かめることを「ブラインド・テイスティング」と言うが、これでは本当の「味」は分からない。色も味に影響するからだ。(※ブラインド・テイスティングは特殊な遊び、またはブランド名に左右されない特殊な審査に使用する) 嗅覚と味覚以外は、味に関係ないのでは?と思うだろう。実際には、視覚情報も味に関係する。青く着色した肉は、不味く感じてしまう。実際にレモン果汁はほとんど入っていないのに、黄色く着色された液体は、その味わいに「レモン感」が増されて感じられる。 また、視覚だけでなく、口にするウィスキーの味や香りについての情報も味わいに影響する。ウィスキーに薬の味がすることや、フルーツの香り、蜂蜜の香り、バターの香りなどがする、という情報があれば、味の感じ方が違ってくる。 味わいと記憶 ところで、なぜ関連情報でウィスキーの味わいが違うか? それは、味わいとは、味に関する記憶だからだ。それこそが「アクワイアード・テイスト」の正体だ。 例えば、子供の頃分からなかった「酸味」がうまく感じられるのは、腐敗ではなく、「醗酵」という自然作用の恩恵を知り、記憶するからだ。「この酸っぱさは、よい酸っぱさだ!」と。「煙たさ」がうまく感じられるのは、火を使い肉や野菜が美味くなることを知るから。バーベキューの美味さは、あの煙たさと共に記憶されている。だから、ウィスキーの煙たさに出会ったとき、その記憶を引っ張り出して「美味さ」として知覚できるようになる。「ムムッ、この煙たさはおいしさの証だ!私にはこの経験があるゾ!」と。 ウィスキーの“香り探し” 数百種の香りの複合体であるウィスキーは、まさにアクワイアード・テイストのかたまりだ。 しかし、はじめてウィスキーに出会ったとき、その香りがあまりに多すぎて、面食らってしまう。ひとつずつの味わいの記憶をうまく引っ張ってこれない。「そんなにいっぺんに言われてもよく分からないよ」状態になる。だから最初、ウィスキーは美味いと思えない。香りの情報量が多すぎるのだ。 では、どうすればよりウィスキーの美味さに気づけるか? それには、「ウィスキーの香り探し」をしてほしい。ウィスキーはただ漫然と飲むのではなく、その香りの要素をさがしながら飲むことが重要だ。そのための補助として、ウィスキーのテイスティング・コメントがある。このテイスティング・コメントを参考にしながら「ウィスキーの香り探し」をする。 「バナナの香りか・・・うん、確かにそんな香りがするな。。潮の香りもするのか?どれどれ。ほー、そういわれりゃそうだ」などと、ひとつずつ香りを探して、確かめてほしい。 そうするとあなたの脳が「おや、確かにこの香りは前にも味わったことがあるぞ。これはいいという記憶があるゾ。とすると、このウィスキーは、いいものがたくさん詰まった液体だ!」と認識できるようになる。果ては「この香りのハーモニーは、アートだ!」とすら感じるようになる。 これがウィスキーというアクワイアード・テイストの獲得の仕方の最大のコツだ。 (このようにウィスキーとは、あなたの経験を映し出す酒だ。) 最後のまとめ Q. なぜウィスキーは最初から美味いと思えないのか? A. 後天的に獲得される「大人の味」(アクワイアード・テイスト)だから。 Q. どうしたらウィスキーが美味いと思えるようになるか? A. ひとことで言えば「経験値を上げる」こと。 次の3ステップを踏むと良い。 STEP1. ちょくちょく飲んでみる(量ではない、頻度だ) STEP2. 多くの種類を試してみる(タイプの違うウィスキーを) STEP3. テイスティング・コメントを参考に「香りさがし」をする(これが最大のコツ) この記事をきっかけに多くの人がウィスキーを愉しむことを願っています。 今宵も、良いウィスキー・ライフを。”
— そのウィスキーをもう一杯: なぜウィスキーは最初から美味いと思えないか? 前編 (via petapeta)
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【キャプトニ】フィランソロピスト
ピクシブに投稿済みのキャプトニ小説です。
MCU設定に夢と希望と自設定を上書きした慈善家トニー。WS前だけどキャップがタワーに住んでます。付き合ってます。
ピクシブからのコピペなので誤字脱字ご容赦ください。気づいたら直します。
誤字脱字の指摘・コメントは大歓迎です。( Ask me anything!からどうぞ)
チャリティーパーティーから帰ってきたトニーの機嫌は悪かった。スティーブは彼のために、知っている中で最も高価なスコッチウイスキーを、以前彼に見せられたyou tubeの動画通りのやり方で水割りにして手渡してやったが、受け取ってすぐに上品にあおられたグラスは大理石のバーカウンターに叩きつけられ、目玉の飛び出るくらい高価な琥珀色のアルコール飲料は、グラスの中で波打って無残にこぼれた。 「あのちんけな自称軍事評論家め!」 スティーブは、トニーが何に対して怒っているのか見極めるまで口を出さないでおこうと決めた。彼が摩天楼を見下ろす窓ガラスの前でイライラと足を踏み鳴らすのを、その後ろから黙って見つめる。 トニーは一通り怪し気なコラムニストの素性に文句を言い立て、同時に手元の情報端末で何かをハッキングしているようだった。「ほーらやっぱり。ベトナム従軍経験があるなんて嘘っぱちじゃないか。傭兵だと? 笑わせてくれる。それで僕の地雷除去システムを批判するなんて――」 左手で強化ガラスにホログラムのような画面を出現させ、右手ではものすごい勢いで親指をタップさせながら、おそらく人ひとりの人生を破滅させようとしているわりには楽しそうな笑みを浮かべてトニーは言った。「これで全世界に捏造コラムニストの正体が明かされたぞ! まあ、誰かがこいつに興味があったらニュースになるだろう」 「穏やかじゃないチャリティーだったようだな」 少しトニーの気が晴れたのを見計らって、スティーブはようやく彼の肩に触れた。 「キャプテン、穏やかなチャリティパーティーなんてないんだ。カメラの回ってないところじゃ慈善家たちは仮面を被ろうともしない。同類ばかりだからね」 トニーは振り返ってスティーブの頬にキスをすると、つくづくそういった人種と関わるのが嫌になったとため息をついた。「何が嫌だって、自分もそういう一人だと実感することがさ」 「それは違うだろう」 「そうか?」 トニーはスティーブの青い目を見上げてにやりと笑った。「僕が人格者として有名じゃないってことは君もご指摘のとおりだろ?」 「第一印象が最悪だったのは、僕のせいかい」 これくらいの当てこすりにはだいぶ慣れてきたので、スティーブは涼しい顔で返した。恋人がもっと悪びれると思っていたのか、トニーはつまらなそうに口をとがらせる。「そりゃそうさ。君が悪い。君は僕に興味なさそうだったし、趣味も好きな食べ物も年齢も聞かなかったじゃないか。友人の息子に会ったらまずは”いくつになった?”と聞くのがお決まりだろ。なのに君ときたらジェットに乗るなりむっつり黙り込んで」 「ごめん」 トニーの長ったらしい皮肉を止めるには、素直に謝るか、少々強引にキスしてしまうか、の二通りくらいしか選択肢がなかった。キスは時に仲直り以上の素晴らしい効果を与えてくれるが、誤魔化されたとトニーが怒る可能性もあったので、ここは素直に謝っておくことにした。 それに、”それは違う”と言ったのは本心だ。「君は自分が慈善家だと、まるで偽善者のようにいうけれど、僕はそうは思わない――君が人を助けたいと思うのは、君が優しいからだ」 「僕が優しい?」 「そうだ」 「うーん」 トニーは自分でもうまく表情を見つけられないようだった。スティーブにはそれが照れているのだとわかった。よく回る口で自分自身の美徳すら煙に巻いてしまう前に、今度こそスティーブは彼の唇をふさいでしまうことにした。
◇
結局、昨夜トニーが何に怒っていたのか、聞かずじまいだった。トニーには――彼の感情の表現には独特の癖があって、態度で示していることと、内心で葛藤していることがかけ離れていることさえある。彼が怒っているように見えても、その実、怒りの対象とは全く別の事がらについて心配していたり、計算高く謀略を巡らせていたりするのだ。 彼が何かを計画しているのなら、それを理解するのは自分には不可能だ。スティーブはとっくに、トニーが天才であって、自分はそうではないことを認めていた。もちろん軍事的なこと――宇宙からの敵に対する防備であるとか、敵地に奇襲するさいの作戦、武器や兵の配置、それらは自分の専門であるからトニーを相手に遅れをとることはない。それに、一夜にして熱核反応物理学者にはなれないだろうが、本腰を入れて学べばどんな分野だって”それなりに”モノにすることは出来る。超人血清によって強化されたのは肉体だけではない。しかし、そういうことがあってもなお、トニーの考えることは次元が違っていて、スティーブは早々に理解を諦めてしまうのだ。 べつにネガティブなことではないと思う。トニーが何をしようとも、結果は共に受け入れる。その覚悟があるだけだ。 とはいえ、昨夜のようにわざとらしく怒るトニーは珍しい。八つ当たりのように”自称軍事評論家”とやらの評判をめちゃめちゃにしたようだが、パーティーでちょっと嫌味を言われただけであそこまでの報復はしないだろう(断言はできないが)。彼への反感を隠れ蓑に複雑な計算式を脳内で展開していたのかもしれないし、酔っていたようだから、本当にただの”大げさな怒り”だったのかもしれない――スティーブは気になったが、翌日になってまで追及しようとは思わなかった。特に、隣にトニーが寝ていて、ジャービスによって完璧に計算された角度で開かれたブラインドカーテンから、清々しい秋の陽光が差し込み、その日差しがトニーの丸みを帯びた肩と長い睫毛の先を撫でるように照らしているのを何の遠慮も邪魔もなく見つめていられる、今日みたいな朝は。 こんな朝は、キスから始まるべきだ。甘ったるく、無駄に時間を消費する、意味だとか難しい理由なんかこれっぽっちもないただのキス。 果たしてスティーブの唇がやわらかな口ひげに触れたとき、トニーのはしばみ色の瞳が開かれた。 ……ああ、美しいな。 キスをしたとき���はもうトニーの目は閉じられていたが、スティーブはもっとその瞳を見ていたかった。 トニー・スタークの瞳はブラウンだということになっている。強い日差しがあるとき、ごく近くにいるとわかる、彼の瞳はブラウンに緑かかった、透明水彩で描かれたグラスのように澄んだはしばみ色に見える。 彼のこの瞳を見たことのある人間は、スティーブ一人というわけではないだろう――ペッパー・ポッツ、有名無名のモデルや俳優たち、美貌の記者に才気ある同業者――きっと彼の過去に通り過ぎていった何人もの男女が見てきたことだろう。マリブにあった彼の自宅の寝室は、それはそれは大きな窓があり、気持ちの良い朝日が差し込んだときく。 けれど彼らのうち誰も、自分ほどこの瞳に魅入られ、囚われて、溺れた者はいないだろう。でなければどうして彼らは、今、トニーの側にいないのだ? どうして彼から離れて生きていられるのだ。 「……おはよう、キャップ」 「おはようトニー」 最後に鼻の先に口付けてからおたがいにぎこちない挨拶をする。この瞬間、トニーが少し緊張するように感じられるのは、スティーブの勘違いではないと思うのだが、その理由も未だ聞けずにいる。 スティーブは、こと仕事となれば作戦や戦略のささいな矛盾や装備の不備に気がつくし、気がついたものには偏執的なほど徹底して改善を要求するのだが、なぜか私生活ではそんな気になれないのだった。目の前に愛しい恋人がいる。ただそれだけで、心の空腹が満たされ、他はすべて有象無象に感じられる。”恋に浮わついた”典型的な症状といえるが、自覚していて治す気もない。むしろ、欠けていた部分が充実し、より完全な状態になったような気さえする。ならば他に何を案じることがある? 快楽主義者のようでいてじつは悲観的なほどリアリストであるトニーとは真逆の性質といえた。 トニーが先にシャワーを浴びているあいだ、スティーブはキッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。スティーブと付き合うようになってから、いくつかのトニーの不摂生については改善されたが、起床後にコーヒーをまるで燃料のようにがぶ飲みする癖は変わらなかった。彼の天災のような頭脳には必要不可欠のものと思って今では諦めている。甘党のくせに砂糖もミルクも入れないのが、好みなのか、ただものぐさなだけかもスティーブは知らない。いつからかスティーブがティースプーンに一杯ハチミツを垂らすようになっても、彼は何も言わずにそれを飲んでいるので、実はカフェインが入っていれば味はどうでもいいのかもしれない。 シャワーから上がってきたトニーがちゃんと服を着ているのを確認して(彼はたまにごく自然に裸でキッチンやタワーの共有スペースにご登場することがある、たいていは無人か、スティーブやバナーなど親しい同性の人間しか居ないときに限ってだが)、スティーブもバスルームに向かった。着替えを済ませてキッチンに戻ると、トニーは何杯目かわからないブラック・コーヒーを飲んでいたが、スティーブが用意したバナナマフィンにも手をつけた形跡があったのでほっとする。ほうっておくとまともな固形食をとらない癖もなかなか直らない。スティーブはエプロンをつけてカウンターの中に入り、改めて朝食の用意を始める。十二インチのフライパンに卵を六つ割り入れてふたをし、買い置きのバゲットとクロワッサンを電子オーブンに適当に放り込んでセットする。卵をひっくり返すのは危険だということを第二次世界大戦前から知っていたので、片面焼きのまま一枚はトニーの皿に、残りは自分の皿に乗せる。半分に割ったりんご(もちろんナイフを使う。手で割ってみせたときのトニーの表情が微妙だったため)を添えてトニーの前に差し出すと、彼は背筋を伸ばして素直にそれを食べ始めた。バゲットはただ皿に置いただけでは食べないので手渡してやる。朝食時のふるまいについては今までに散々口論してきたからか、諦めの境地に達したらしいトニーはもはや無抵抗だ。 特に料理が好きだとか得意だとかいうわけでもないのだが、スティーブはこの時間を愛していた。トニーが健康的な朝の生活を実行していると目の前で確認することが出来るし、おとなしく従順なトニーというのはこの時間にしかお目にかかれない(夜だって、彼はとても”従順”とはいえない)。秘匿情報ファイルであろうとマグカップだろうと他人からの手渡しを嫌う彼が、自分の手から受け取ったクロワッサンを黙って食べる姿は、人になつかない猫を慣れさせたような甘美な達成感をスティーブに与えた。 「今日の予定は?」 スティーブが自分の分の皿を持ってカウンターの内側に座る。斜め向かいのトニーは電脳執事に問い合わせることなく、カウンターに置いたスマートフォンを自分で操作してスケジュールを確認した。口にものが入っているから音声操作をしないようだった。ときどき妙にマナーに正しいから面食らうことがある。朝の短時間できれいに整えられたトニーの髭が、彼が咀嚼するたびにくにくに動くのを見て、スティーブは唐突にたまらない気分になった。 「僕は――S.H.I.E.L.D.の午前会議に呼ばれてるんだ。食べ終わったら出発するよ。それから午後は空いてるけど、君がもし良かったら……」 トニーの口が開くのを待つあいだ、彼の口元を凝視していては”健全な朝の活動”に支障を来しそうだったので、スティーブは自分の予定を先に話し始めた。「……良かったら、美術館にでも行かないか。グッケンハイムで面白そうな写真展がやってるんだ。東アジアの市場のストリートチルドレンたちを主題にした企画で――」 トニーはスマートフォンの上に出現した青白いホログラムから、ちらっとスティーブに視線を寄越して”呆れた”顔をした。よっぽど硬いバゲットだったのか、ようやく口の中のものを飲み込んだ彼は、今度は行儀悪く手に持ったフォークをスティーブに向けて揺らしながら言った。「デートはいいが、そんな辛気臭い企画展なんかごめんだ」 「辛気臭いって、君、いつだったか、そういう子供たちの救済のためのチャリティーを主催したこともあったろ」 「ああ、僕は慈善家だからね。現地視察にも行ったし、NPOのボランティアどもとお茶もしたし、写真展だって行ったことがある、カメラが回ってるところでな」 フォークをくるりと回してバナナマフィンの残りに刺す。「何が悲しくて恋人と路上生活者の写真を見に行かなくちゃならない? ”世界の今”を考えるのか? わざわざ自分の無力さを痛感しに行くなんていやだね。君と腕を組んでスロープをぶらぶら下るのは、まあそそられるけど」 「まったく、君ってやつは……」 スティーブは苦笑いするしかなかった。「じゃあ、ただスロープをぶらぶら下るだけでいいよ。ピカソが入れ替えられたみたいだ。デ・キリコのコレクションも増えたっていうし、展示されてるなら見てみたい。噂じゃどこかの富豪が画家の恋人のために、イタリアのコレクターから買い付けて美術館に寄付したって」 「きみもすっかり情報機関の人間だな」 「まあね。絵が好きな富豪は君以外にもいるんだなって思った」 「君は間違ってる。僕は”超・大”富豪だし、べつに絵は好きで集めてるんじゃない。税金対策だよ。あと、火事になったとき、三億ドルを抱えるより、丸めた布を持って逃げるほうが効率いいだろ?」 「呆れた」 「絵なんて紙幣の代わりさ。高値がつくのは悪い連中が多い証拠だな」 ところで、とトニーはスマートフォンを操作し、ホログラムを解除した。「せっかくのお誘いはありがたいが、残念ながら僕は今日忙しいんだ。社の開発部のやつらが放り投げた……洋上風力発電の……あれやこれやを解析しなきゃならないんでね。美術館デートはまた今度にしてくれ。その辛気臭い企画展が終わった頃に」 「そうか、残念だよ」 もちろんスティーブは落胆なんてしなかった。トニーが忙しいのは分かっているし、それはスティーブが口を出せる範囲の事ではない。ふたりのスケジュールが完全に一致するのは、地球の危機が訪れた時くらいだ。それでもこうして一緒の屋根の下で暮らしているのだから、たかが一緒に美術館に行けないくらいで残念がったりはしない。ごくふつうの恋人たちのように、夕暮れのマンハッタンを、流行りのコーヒーショップのタンブラーを片手に、隣り合って歩けないからといって、大企業のオーナーにしてヒーローであ��恋人を前に落胆した顔を見せるなんてことはしない。 「スティーブ、すねるなよ」 しかしこの(肉体的年齢では)年上の恋人は、敏い上にデリカシーがない。多忙な恋人の負担になるまいと奮闘するスティーブの内心などお見通しとばかりに、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてからかうのだ。「君だってこの前、僕の誘いを断ったろ? しかも他の男と会うとかで」 「あれはフューリーに呼び出されて……」 「ニック・フューリーは男だ! S.H.I.E.L.D.の戦術訓練なんて急に予定に入るか? あいつは僕が気に入らないんだ、君に悪影響を与えるとかで」 「君に良い影響を与えてるとは思えないのかな」 スティーブはマフィンに刺さったフォークでそれを一口大に切り分け、トニーの口元に運んでやった。呆気にとられたような顔をするトニーに、首をかし��てにっこりと微笑む。 トニーはしてやられたとばかりに、さっと頬を赤くした。 「この、自信家め」 「黙って全部食べるんだ、元プレイボーイ」 朝のこの時間、トニーはとても従順な恋人だ。
◇
トニーに借りたヘリでS.H.I.E.L.D.本部に到着すると(それはもはやキャプテン・アメリカ仕様にトニーによってカスタムされ、「なんなら塗装し直そうか? アイアンパトリオットとお揃いの柄に?」と提言されたが、スティーブは操縦システム以外の改装を丁重に断った)、屋内に入るやいなや盛大な警戒音がスティーブを迎えた。技術スタッフとおぼしき制服を来た人間が、地下に向かって駆けていく。どうやら物理的な攻撃を受けているわけではなさそうだったので、スティーブは足を速めながらも冷静に長官室へと向かった。 長官室の続きのモニタールームにフューリーはいた。スティーブには携帯電話よりもよほど”まとも”な通信機器に思える、設置型の受話器を耳に当て、モニター越しに会話をしている。というか、怒鳴っている。 「いつからS.H.I.E.L.D.のネットワークは穴の開いた網になったんだ? 通販サイトのほうがまだ上手にセキュリティ対策してるぞ!! あ!? 言い訳は聞きたくない、すべてのネットワーク機器をシャットダウンしろ、お前らの出身大学がどこだろうと関係ない。頼むから仕事をしてくれ、おい、聞いてるか? ああ、ん? 知るか、そんなの。あと二時間以内に復旧しなけりゃ、今後は機密情報はamazonのクラウドに保存するからな!!」 「ハッキングされたのか?」 長官の後ろに影のように控えていたナターシャ・ロマノフにスティーブは尋ねた。 「そのようね。今のところ、情報の漏洩はないみたいだけど、レベル6相当の機密ファイルに不正アクセスされたのは確定みたい」 「よくあるのか?」 「こんなことがよくあっては困るんだ」 受話器を置いたフューリーが言った。「午前会議は延期だ、午後になるか、夕方になるか、夜中になるかわからん」 「現在進行中の任務に影響は?」 「独立したオペシステムがあるから取りあえずは問題ない。だがもしかしたら君にも出動してもらうかもしれない。待機していてくれるか」 スティーブは頷いた。そのまま復旧までモニタリングするというフューリーを置いて、ナターシャと長官室を出る。 「S.H.I.E.L.D.のセキュリティはどうなってる? 僕は専門外だが、情報の漏洩は致命的だ。兵士の命に関わる」 「我々は諜報員よ、基本的には。だから情報の扱いは慎重だわ」 吹き抜けのロビーに出て、慌しく行きかう職員の様子を見下ろす。「でもクラッキングされるのは日常茶飯事なのよ、こういう機関である故にね。ペンタゴンなんてS.H.I.E.L.D.以上に世界中のクラッカーたちのパーティ会場化されてるわ。それでも機密は守ってる。長官があの調子なのはいつものことでしょ」 「じゃあ心配ない?」 「さあね。本当に緊急なら情報工学の専門家を呼ぶんじゃない。あなたのとこの」 すべてお見通しとばかりに鮮やかに微笑まれ、スティーブは口ごもった。 トニーとの関係は隠しているわけではないが、会う人間全てに言って回っているわけでもない。アベンジャーズのメンバーにも特に知らせているわけではなかった(知らせるって、一体どういえばいいっていうんだ? ”やあ、ナターシャ。僕とトニーは恋人になったんだ。よろしく”とでも? 高校生じゃあるまいし)。だからこの美しい女スパイは彼らの関係を自力で読み解いたのだ。そんなに難しいことではなかっただろうとは、スティーブ自身も認めるところだ。 ナターシャは自分がトニーを倦厭していた頃を知っている。そんな相手に今は夢中になっていることを知られるのは居た堪れなかった。断じてトニーとの関係を恥じているわけではないのだが……ナターシャは批判したりしないし、クリントのように差別すれすれの表現でからかったりもしない。ひょっとすると、彼女は自分たちを祝福しているのではないかとさえ思う時がある。だからこそ、こそばゆいのかもしれなかった。 「ところで……戦闘スタイルだな。出動予定があったのか」 身体にぴったりとフィットした黒い戦闘スーツを身にまとったナターシャは肩をすくめて否定した。「私も会議に呼ばれて来たの。武装は解除してる」 スティーブが見たところ、銃こそ携帯していないが、S.H.I.E.L.D.の技術が結集したリストバンドとベルトをしっかりと装着していて、四肢が健康なブラック・ウィドウは未武装といえない。だかこのスタイル以外の彼女を見ることが稀なので、そうかと聞き流した。 「僕は復旧の邪魔にならないようにトレーニングルームにいるよ。稽古に付き合ってくれる奇特な職員がいるかもしれない」 「私は長官の伝令だからこの辺にいるわ。復旧したらインカムで知らせるから、とりあえず長官室に来て」 踵を返して、歩きながらナターシャは振り向きざまに言った。「残念だけど電話は使えないわよ。ダーリンに”今夜は遅くなる”って伝えるのは、もうちょっと後にして」 「勘弁してくれ、ナターシャ」 聞いたこともない可愛らしい笑い声を響かせて、スーパースパイはぎょっとする職員たちに見向きもせず、長官室に戻っていった。
◇
トニーの様子がおかしいのは今更だが、ここのところちょっと度が過ぎていた。ラボに篭りきりなのも、食事を取らなかったり、眠らなかったり、シャワーを浴びなかったりして不摂生なのも、いつものことといえばいつものことで、それが同時に起こって、しかも自分を避けている様子がなければスティーブも一週間くらいは目をつぶっただろう。
S.H.I.E.L.D.がハッキングされた件は、その日のうちに収拾がついた。犯人は捕まえられなかったが、システムの脆弱性が露見したので今後それを強化していくという。 スティーブがタワーに帰宅したのは深夜になろうかという頃だったが、トニーはラボにいて出てこなかった。これは珍しいことだが、研究に没頭した日には無いこともない。彼の研究が伊達ではないことはもうスティーブも知っているから、著しく不健康な状態でなければ邪魔はしない。結局、その日は別々に就寝についた。と、スティーブは思っていた。 次の日の朝、隣にトニーはいなかった。きっと自分の寝室で寝ているのだと思い、先に身支度と朝食の用意を済ませてから彼の居室を訪れると、空の部屋にジャービスの声が降ってきた。 『トニー様は外出されました。ロジャース様がお尋ねになれば、おおよその帰宅時間をお伝えするようにとのことですが』 「どこへ行ったんだ? 急な仕事が入ったのか?」 『訪問先は聞いておりません』 そんなわけがあるか、とスティーブは思ったが、ジャービスを相手に否定したり説得したりしても無駄なことだった。乱れのないベッドシーツを横目で見下ろす。「彼は寝なかったんだ。車なら君がアシストできるだろうけど、もし飛行機を使ったなら操縦が心配だ」 『私は飛行機の操縦も可能です』 「そうか、飛行機で出かけたんだな。なら市外に行ったのか」 電脳執事が沈黙する。スティーブの一勝。ため息をついて寝室を出た。 ジャービスはいい奴だが(このような表現が適切かどうか、スティーブには確信が持てないでいる)、たまにスティーブを試すようなことをする。今朝だって、”彼”はキッチンで二人分の食事を支度するスティーブを見ていたわけだから、その時にトニーが外出していることを教えてくれてよかったはずだ。トニーの作った人工知能が壊れているわけがないから、これは”彼”の、主人の恋人に対する”いじわる”なのだとスティーブは解釈している。トニーはよくジャービスを「僕の息子」と表現するが――さしずめ、父親の恋人に嫉妬する子供といったところか。そう思うと、自分に決して忠実でないこの電脳執事に強く出られないでいる。 「それで……彼は何時ごろに帰るって?」 『早くても明朝になるとのことです』 「えっ……本当に、どこに行ったんだ」 『通信は可能ですが、お繋ぎしますか』 「ああ、いや、自分の電話でかけるよ。ありがとう。彼のほうは、僕の予定は知ってるかな」 『はい』 「そう……」 スティーブはそれきり黙って、二人分の食事をさっさと片付けてしまうと、朝のランニングに出掛けた。 エレベータの中で電話をかけたが、トニーは出なかった。
それが四日前のことだ。予告した日の真夜中に帰ってきたトニーは、パーティ帰りのような着崩したタキシードでなく、紺色にストライプの入ったしゃれたビジネススーツをかっちりと着込んでふらりとキッチンに現れた。スティーブの強化された嗅覚が確かなら、少なくとも前八時間のあいだ、一滴も酒を飲んでいないのは明らかだった。――これは大変珍しいことだ。今までにないことだと言ってもいい。 彼は相変わらず饒舌で、出来の悪い社員のぐちや、言い訳ばかりの役員とお小言口調の政府高官への皮肉たっぷりの批判を、舞台でスピーチするみたいに大仰にスティーブに話して聞かせ、その間にも何かとボディタッチをしてきた。どれもいつものトニー、平常運転だ。しかしスティーブは、そんな彼の様子に違和感を覚えた。 彼が饒舌なのはよくあるが、生産性のないぐちを延々と口上するときはたいてい酔っている。しらふでここまで滔々としゃべり続けることはないと、スティーブには思われた。べたべたと身体に触ってくるのに、後から思えば意図されていたと思わずにはいられないくらい、不自然に目を合わせなかった。スティーブが秘密工作員と関係のない職種についていたとしても、自分の恋人が何かを隠していると気付いただろう。 極め付けはこれだ。スティーブはトニーの話を遮って、「君の風力発電は順調?」とたずねた。記憶が確かなら、この二日間、彼が忙しかったのはそのためであるはずだ。 「石器時代のテクノロジーがどうしたって?」 スティーブはぐっと拳を握りたいのを我慢して続けた。「だって、君――その話をしてただろ?」 「ああ……」 トニーは一瞬だけ、せわしなく何くれと動かしていた手足を止めた。「おもい出した。言ったっけ? ロングアイランド沖に発電所を建設するんだ。もう何年も構想してるんだけど、思ったよりうちの営業は優秀で――何しろほら、うちにはもっと”すごいやつ”があるんだし――そう簡単に量産は出来ないけど――それで僕は気が進まないんだが、州知事がGOサインを出してしまってね、ところが開発の連中が怖気づいてしまったんだ、というか、一人失踪してしまって……すぐに見つけ出して再洗脳完了したけど――冗談だよ、キャップ――でも無理はない事だとも思うんだ、だって考えてみろ……今時、いつなんどき宇宙から未知の敵対エネルギーが降ってくるかもしれないのに、無防備に海の上に風車なんて建ててる場合か? 奴らも責任あるエンジニアとして、ブレードの強度を高めようと努力してくれてるんだが、エイリアンの武器にどうやったら対抗出来るってんだ? 塩害や紫外線から守って次元じゃないんだろ? いっそバリアでも張るか? いっそそのほうが……うーん、バリアか。バリアってのはなかなか面白そうなアイデアだ、しかしそうすると僕は……いやコストがかかりすぎると、今度は失踪者じゃすまなくなるかも……」 スティーブは確信した。 トニーは自分に何か隠している。忙しいとウソまでついて。しかもそれは――彼がしらふでこんなに饒舌になるくらい、”後ろめたい”ことだ。
翌朝から今度はラボに閉じこもったトニーは、通信にも顔を出さなかった。忙しいといってキッチンにもリビングにも降りてこないので、サンドイッチやら果物をラボに届けてやると、その時に限ってトニーは別の階に移動していたり、”瞑想のために羊水カプセルに入った”とジャービスに知らされたり(冗談だろうが、指摘してもさらなる馬鹿らしい言い訳で煙に巻かれるので否定しない。羊水カプセル? 冗談だよな?)して本人に会えない。つまりトニーはジャービスにタワー内のカメラを監視させて、スティーブがラボに近付くと逃げているのだ。 恋人に避けられる理由がわからない。しかし嫌な予感だけはじゅうぶんにする。トニーが子供っぽい行動に走るときは、後ろめたいことがあるとき――つまり、”彼自身��”問題があると自覚しているときだ。 トニーの抱える問題? トニー・スターク、世紀の天才。現代のダ・ヴィンチと称された機械工学の神。アフガニスタンの洞窟に幽閉されてもなお、がらくたからアーク・リアクターを作り上げた優れた発明家にしてアイアンマン――億万長者という言葉では言い表せないほどの富と権力を持ち、さらには眉目秀麗で頭脳明晰、世間は彼には何の悩みも問題もないと思いがちだが――そのじつ、いや、彼のことを三日もよく見ていればわかることだ。彼は問題ばかりだ。問題の塊だといってもいい。 一番の問題は、彼が自分自身の問題を自覚していて、直そうとするどことか、わざとそれを誇張しているということだ。スティーブにはそれが歪んだ自傷行為にしか見えない。酒に強いわけでもないのに人前で浴びるように飲んでみたり、愛してもいない人間と婚約寸前までいったり(ポッツ嬢のことではない)、パーソナルスペースが広いわりに見知らぬファンの肩を親し気に抱いてみたり、それに――平和を求めているのに、兵器の開発をしたり――していたのは、すべて彼の”弱さ”であるはずだが、トニーはもうずいぶんと長いあいだ、世間に向けてそれが”強さ”だと信じさせてきた。大酒のみのパーティクラッシャー、破天荒なプレイボーイ、気取らないスーパーヒーロー、そして真の愛国者。アルコール依存症、堕落したセックスマニア、八方美人のヒーロー、死の商人というよりもよっぽど印象がいい。メディアを使った印象操作は彼の得意分野だ。トニーは自分がどう見られているか、常に把握している。 そういう男だから、性格の矯正はきかないし、付き合うのには苦労する。だからといって離れられるわけがないのだから、これはもう生まれ持ってのトラブル・メーカーだと割り切るしかない。 考えるべきことはひとつ。彼の抱える問題のうち、今回はどれが表面化したのか?
◇
トニーに避けられて四日目の朝、スティーブは再びD.C.のS.H.I.E.L.D.本部に出発しようとしていた。先日詰められなかった会議の再開と、クラッキング事件の詳細報告を受けるためだ。ジャービスによるとトニーはスティーブの予定を知っているようだが、ヘリの準備を終えても彼がラボ(あるいは羊水カプセルか、タワー内のいずれかの場所)から出てくることはなかった。見送りなんて大げさなことを期待しているわけではないが、今までは顔くらい見せていたはずだ。 (これじゃ、避けられてるどころか、無視されているみたいだ) そう思った瞬間、スティーブの中でトニーの抱える問題の一つに焦点が合った。
◇
ナターシャはいつもの戦闘用スーツに、儀礼的な黒いジャケットを着てS.H.I.E.L.D.の小さな応接室のひとつにいた。彼女が忙しい諜報活動の他に、S.H.I.E.L.D.本部で何の役についているのか、スティーブは知らされていなかった――だから彼女が応接室のチェストを執拗に漁っているのが何のためなのかわからなかったし、聞くこともしなかった。ナターシャも特に自分の任務に対して説明したりしない。スティーブはチェストの一番下の引き出しから順々に中を改めていくナターシャの後ろで、戦中のトロフィーなどを飾った保管棚のガラス戸に背をもたれ、組んだ腕を入れ替えたりした。 非常に言いにくいし、情けない質問だし、聞かされた彼女が良い気分になるはずがない。だがスティーブには相談できる相手が彼女しかいなかった。 「ナターシャ、その――邪魔してすまない」 「あら構わないのよ、キャップ。そこで私のお尻を見ていたいのなら、好きなだけどうぞ」 からかわれているとわかっていても赤面してしまうのは、スティーブの純潔さを表すチャームポイントだ、と、彼の恋人などはそう言うのだが――いい年をした男がみっともないと彼自身は思っていた。貧しい家庭で育ち、戦争を経験して、むしろ現代の一般人よりそういった表現には慣れているのに――おそらくこれが同年代の男からのからかいなら、いくら性的なニュアンスが含まれていようが、スティーブは眉ひとつ動かさないに違いない。ナターシャのそれはまるで姉が弟に仕掛けるいたずらのように温かみがあり、スティーブを無力な少年のような気持ちにさせた。 「違う、君は……今、任務中か? 僕がここにいても大丈夫?」 「構わないって言ったでしょ。用があるなら言って」 確かにナターシャの尻は魅力的だが、トニーの尻ほどではない――と自分の考えに、スティーブは目を閉じて首を振った。「聞きたいことがあるんだけど」 スティーブは出来るだけ、何でもないふうに装った。「僕はその、少し前からスタークのタワーに住んでいて――……」 「付き合ってるんでしょ。なあに、トニーに浮気でもされたの?」 スティーブはガラス戸から背中を離して、がくんと顎を落とした。「オー・マイ……ナット、なんでわかったんだ」 「それは、こっちの……台詞だけど」 いささか呆気にとられた表情をして、ナターシャは目的のものを見つけたのか、手のひらに収まるくらいの何かをジャケットの内ポケットに入れると、優雅に背筋を伸ばした。「トニーが浮気? ほんとに?」 「ああ、いや……多分そうなんじゃないかと……」 「この前会ったときは、あなたにでろでろのどろどろに惚れてるようにしか見えなかったけど、ああいう男は体の浮気は浮気だと思ってない節があるから、あとはキャップ、あなたの度量しだいね」 数日分の悩みを一刀両断されてしまい、スティーブは一瞬、自分の耳を疑った。音もなくソファセットの前を通り過ぎ、部屋を出て行こうとしたナターシャを慌てて呼び止める。「そ、そうじゃないんだ。浮気したと決まったわけじゃない。ただトニーの様子がこのところおかしいから、もしかしたらと思って――それで君に相談ができればと……僕はそういうのに疎いから」 「おかしいって? トニー・スタークが?」 まるでスティーブが、空を飛んでいる鳥を見て”飛べるなんておかしい”と言ったかのように、ナターシャは彼の正気を疑うような目をした。「そうだよな」 スティーブは認めた。「トニーはいつもおかしいよ。おかしいのが彼だ。何でも好きなものを食べられるのに、有機豆腐ミートなんて代物しか食べなかったり――それでいて狂ったようにチーズバーガーしか食べなかったり――それでも、何か変なんだ。僕を避けてるんだよ。通信でも顔を見せない。まる一日、どこかに行ったきりだと思ったら、今度はラボにずっとこもってる。ジャービスに彼の様子を聞こうにも、彼はトニー以外のいうことなんてきかないし、もうお手上げだ」 ナターシャはすがめたまぶたの間からスティーブを見上げると、一人掛けのソファに座った。スティーブも正面のソファに座る。彼女が長い足を組んで顎に手を当て考え込むのを、占い師の診断を仰ぐ信者のように待つ。 「ふーん……それって、いつから?」 「六日前だ。ハッキング事件の当日はまだ普通��ったけど、その翌日はやたらと饒舌で……きみも付き合いが長いから、トニーが隠し事をしているときにしゃべりまくる癖、知ってるだろ」 「それを聞いたら、キャプテン、私には別の仮説が立てられるわ」 「え?」 「来て。会議の前に長官に報告しなきゃ」 ナターシャの後を追いながら、スティーブは彼女が何を考えているか、じわじわと確信した。「君はもしかして、S.H.I.E.L.D.をハッキングしたのが彼だと――」 「最初から疑ってたのよ。S.H.I.E.L.D.のネットワークに侵入できるハッカーはそう多くない。世界でも数千人ってとこ。しかもトニーには前歴がある。でもだからこそ、長官も私も今回は彼じゃないと思ってた」 「どういうことだ」 「ハッカーにはそれぞれの癖みたいなのがあるのよ。自己顕示欲の強いやつは特に。登頂成功のしるしに旗を立てるみたいに、コードにサインを入れるやつもいる。トニーのは最高に派手なサインが入ってた。今回のはまるで足跡がないの。S.H.I.E.L.D.のセキュリティでも追いきれなかった」 「トニーじゃないってことだろう?」 「前回、彼は自分でハッキングしたわけじゃなかった。あの何か、変な小さい装置を使って人工知能にやらせてたんでしょ。今回は自分でやったとしたら? 彼がMIT在学中に正体不明のハッカーがありとあらゆる国の情報機関をハッキングした事件があった。今も誰がやったかわかってないけど――」 そこまで言われてしまえば、スティーブもむやみに否定することはできなかった。 「……ハッキングされたのは一瞬なんだろう。トニーがやったのなら、どうしてずっとラボにこもってる」 「データを盗めたとしても暗号化されてるからすぐに読めるわけじゃない。じつのところ、まだ攻撃され続けてる。これはレベル5以上の職員にしか知らされていないことだけど、現在進行形でサイバー攻撃されてるわ。たぶん、復号キーを解析されてるんだと思う。非常に高度なことよ、通信に多少のラグがあるだけで、他のシステムには全く影響していない。悪意あるクラッカーやサイバーテロ集団がS.H.I.E.L.D.の運営に配慮しながらサイバー攻撃するなんて、考えられなかったけど――もしやってるのがアイアンマンなら、うなずける。理由は全く分からないけど」 ナターシャはすでに確信しているようだった。長官室の扉を叩く前に、スティーブを振り返り、にやりと笑った。 「ねえ、よかったじゃない――浮気じゃなさそう」 「それより悪いかもしれない」 スティーブはほっとしたのとうんざりしたのと、どっちの気持ちを面に出したらいいか迷いながら返した。恋人が浮気したなら、まあ結局は許すか許さないかの話で、なんやかんやでスティーブは許してしまったことだろう(ああ、簡単じゃないか、本当に)。しかし、恋人が内緒で国際平和維持組織をハッキングしていたのなら、まるで話の規模が変わってくる。 ああ、トニー、君はいったい、何をやってるんだ。 説明されても理解できないかもしれないが、僕から隠そうとするのはなぜだなんだ。 「失礼します、長官。報告しておきたいことが――」 四回目のノックと同時に扉を開け、ナターシャは緊急時にそうするように話しながら室内に入った。「現行のサイバー攻撃についてですが、スタークが関わっている可能性が――」 「報告が遅いぞ」 むっつりと不機嫌なニック・フューリーの声が響く。部屋には二人の人物が居た――長官室の物々しいデスクに座るフューリーと、その向かいに立つトニー・スタークが。 「ところで、コーヒーはまだかな?」 チャコールグレイの三つ揃えのスーツを着たトニーは、居ずまいを正すように乱れてもいないタイに触れながら言った。ちらりと一瞬だけスティーブに目をくれ、あとはわざとらしく自分の手元を注視する。「囚人にはコーヒーも出ないのか? おい、まさか、ロキにも出してやらなかった?」 「トニー、君……」 スティーブが一歩踏み出すと、ナターシャが腕を伸ばして止めた。険の強い声音でフューリーを問いただす。「どういうことです? 我々はサイバーセキュリティの訓練を受けさせられていたとでも?」 「いや、彼は今朝、自首しにきたんだ、愚かにも、自分がハッキング犯だと。目的は果たしたから理由を説明するとふざけたことを言っている。ここで君たちが来るまで拘束していた」 ナターシャの冷たい視線を、トニーは肩をすくめて受け流した。 「本当か? トニー、どうしてそんなことをしたんだ」 「ここだけの話にしてくれ」 トニーはスティーブというより、フューリーに向かって言った。「僕がこれから言うことはここにいる人間だけの耳に留めてくれ」 全く頷かない長官に向かって、トニーはため息をついて両手を落とした。「あとは、そうだな。当然、僕は無罪放免だ。だってそうだろ? わざわざバグを指摘してやったんだ。表彰されてもいいくらいだろう! タダでやってやったんだぞ!」 「タダかどうかは、私が決める」 地を這うように低い声でフューリーは言った。「放免してやるかどうかも、その話とやらを聞いてから決める。さっさと犯罪行為の理由を釈明しないなら、この場で”本当”に拘束するぞ。ウィドウ、手錠は持ってるか」 「電撃つきのやつを」 「ああ、わかった、わかった。電撃はいやだ。ナターシャ、それをしまえ。話すとも、もちろん。そのためにD.C.まで来たんだ。座っていい?」 誰も頷かなかったので、トニーは再びため息をついて、革張りのソファの背を両手でつかんだ。 「それで、ええと――僕が慈善家だってことは、皆さんご承知のことだとは思うんだが――」 「トニー」 自分でもぎょっとするくらい冷たい声で名前を呼んで、スティーブは即座に後悔したが――この場に至っても自分を無視しようとするトニーに、怒りが抑えられなかった。 トニーは大きな目を見開いて、やっとまともにスティーブを視界に入れた。こんな距離で会うのも数日ぶりだ。スティーブは早く彼の背中に両手を回したくて仕方なかったが、その後に一本背負いしない自信がなかったので、ナターシャよりも一歩後ろの位置を保った。 「……べつに話を誤魔化そうってわけじゃない。僕が慈善家だってことは、この一連の僕の”活動”に関係の��ることなんだ。というより、それが理由だ」 ゆらゆら揺れるブラウンの瞳をスティーブからそらせて、トニーは話し始めた。
七日前にもトニーはS.H.I.E.L.D.に滞在していた。フューリーに頼まれていた技術提供の現状視察のためもあったが、出席予定のチャリティー・オークションのパーティがD.C.で行われるため、長官には言わないが、時間調整のために本部内をぶらぶらしていたのだ。たまに声をかけてくる職員たちに愛想よく返事をしてやったりしながら、迎えの車が来るのを待っていた。 予定が狂ったのは、たまたま見学に入ったモニタールームEに鳴り響いた警報のせいだった――アムステルダムで任務中の諜報員からのSOSだったのだが、担当の職員が遅いランチ休憩に出ていて(まったくたるんでいる!)オペレーション席に座っていたのはアカデミーを卒業したばかりの新人だった。ヘルプの職員まで警報を聞いたのは訓練以外で初めてという状態だったので、トニーは仕方なく、本当に仕方なく、子ウサギみたいに震える新人職員からヘッドマイクを譲り受け(もぎ取ったわけじゃないぞ! 絶対!)、モニターを見ながらエージェントの逃走経路を指示するという、”ジャービスごっこ”を――訂正――”人命と世界平和に関する極めて責任重大な任務”を成り代わって行ったのだ。もちろんそれは成功し、潜入先で正体がばれたまぬけなエージェントたちは無事にセーフハウスにたどり着き、新人職員たちと、ランチから戻って状況の飲み込めないまぬけな椅子の男に対し、長官への口止めをするのにも成功した。ちょっとしたシステムの変更(ほら、僕がモニターの前に座って契約外の仕事をしているところが監視カメラに映っていたら、S.H.I.E.L.D.は僕に時間給を払わなくちゃいけなくなるだろ? その手間を省いてやるために、録画映像をいじったんだ――もしかしたら。怖い顔するな。そんなような気がしてたんだ、今まで)もスムーズに成立した。問題は、そのすべてが完了するのに長編映画一本分の時間がかかったということだ。トニーの忠実な運転手は居眠りもしないで待っていたが、チャリティーに到着したのは予定時刻から一時間以上は経ったころだった。パーティが始まってからだと二時間は経過していた。それ自体は大して珍しいことではない。トニーはとにかく、パーティには遅れて到着するタイプだった(だって早く着くほうが失礼だろ?)。 しかし、その日に限って問題が発生する。セキュリティ上の都合とやらで(最近はこんなのばっかりだな)、予定開始時刻よりも大幅にチャリティー・オークションが早まったのだ。トニーが到着したのは、もうあらかたの出品が終わったあとだった。 トニーにはオークションに参加したい理由があった。今回のオークションに限ったことではない。トニーの能力のもと把握することが出来る、すべてのオークションについて、彼は常に目を光らせていた。もちろん優秀な人工知能の手も借りてだが――つまり、この世のすべてのオークションというオークションについて、トニーはある理由から気にかけていた。好事家たちの間でだけもてはやされる、貴重な珍品を集めるためではない――彼が、略奪された美術品を持ち主に返還するためのグループ、「エルピス」を支援しているからだ。 第二次世界大戦前や戦中、ヨーロッパでは多くの美術品がナチスによって略奪され、焼失を逃れたものも、いまだ多くは、ナチスと親交のあった収集家や子孫、その由来を知らないコレクターのもとで所有されている。トニーが二十代の頃に美術商から買い付けた一枚の絵画が、とあるユダヤ人女性からナチ党員が二束三文で買い取った物だと「エルピス」から連絡があったのが、彼らを支援するきっかけとなった。それ以来、トニーが独自に編み上げた捜索ネットワークを使っ��、「エルピス」は美術品を正当な持ち主に戻すための活動を続けている(文化財の保護は強者の義務だろ。知らなかった? いや、驚かないよ)。数年前にドイツの古アパートから千点を超す美術品が発見されたのも、「エルピス」が地元警察と協力して捜査を続けていた”おかげ”だ。時間も、根気もいる事業だが、順調だった。そして最近、「エルピス」が特に網を張っている絵画があった。東欧にナチスの古い基地が発見され、そこには宝物庫があったというのだ――トニーが調べた記録によれば、基地が建設されたと思わしき時期、運び込まれた数百点の美術品は、戦後も運び出された形跡がなかった――つまり宝物庫が無事なら、そこにあった美術品も無事だったということだ。 数百点の美術品のうち、持ち主が明確な絵画が一点あった。ユダヤ人投資家の男で、彼の祖父が所有していたが、略奪の目にあい彼自身は収容所で殺された。トニーは彼と個人的な親交もあり、特に気にかけていた。 その投資家の男がD.C.の会場にも来ていて、遅れてやってきたトニーに青い顔で詰め寄った。「”あれ”が出品されたんだ――」 興奮しすぎて呼吸困難になり、トニー美しいベルベッドのショール・カラーを掴む手にも、ろくな力が入っていなかった。「スターク、”あれ”だ――本当だ。祖父の絵画だ。ナチの秘宝だと紹介されていた。匿名の人物が競り落とした――あっという間だった――頼む、あれを取り戻してくれ――」 (なんて間の悪いことだ!) 正直なところ、トニーは今回のオークションにそれほど期待していたわけではなかった。長年隠されていた品物が出品されるとなれば、出品リストが極秘であろうと噂になる。会場に来てみてサプライズがあることなど滅多にない。それがまさかの大当たりだったとは! こんなことなら、時間つぶしにS.H.I.E.L.D.なんかを使うんじゃなかった。トニーは投資家に「落札者を探し出し、説得する」と約束し、その後の立食パーティで無礼なコラムニストを相手にさんざん子供っぽい言い合いをして、帰宅の途についた――そして、ジャービスに操縦を任せた自家用機の中で、匿名の落札者について調べたが、思うように捗らなかった。もちろん、トニーが本気になればすぐにわかることだ――しかし、ちょっとばかり酔っていたし、別に調べることもあった。そちらのほうは、タイプミスをしてジャービスに嫌味を言われるまでもなく、調べがついた。 網を張っていた絵画と同じ基地にあった美術品のうち、数点がすでに別の地域のオークションや美術商のもとに売り出されていた。
「これがどういうことか、わかるだろう」 トニーは許可をとることをやめて、二人掛けのソファの真ん中にどさりと腰かけた。デスクに両肘をついて、組んだ手の中からトニーを見下ろすS.H.I.E.L.D.の長官に、皮肉っぽく言い立てる。「公表していないが、ナチスの基地を発見、発掘したのはS.H.I.E.L.D.だろ。ナチスというより、ヒドラの元基地だったらしいな。そこにあった美術品が横流しされてるんだ。すぐに足がつくような有名なものは避けて、小品ばかり全国にばらけて売っている。素人のやり方じゃないし、僕はこれと似たようなことをやる人種を知っている。スパイだよ。スパイが物を隠すときにやる方法だ」 「自分が何を言ってるかわかってるのか」 いよいよ地獄の底から悪魔が這い出てきそうな不機嫌さで、フューリーの声はしゃがれていた。「S.H.I.E.L.D.の職員が汚職に手を染めていると、S.H.I.E.L.D.の長官に告発しているんだぞ」 「それどころの話じゃない」 トニーは鋭く言い放った。「頂いたデータを復号して、全職員の来歴を洗い直した。非常に臭い。ものすごい臭いがするぞ、ニック。二度洗いして天日干しにしても取れない臭いだ――」 懐から取り出したスマートフォンを操作する。「今、横流しに直接関わった職員の名簿をあんたのサーバーに送った。安心しろ、暗号化してある。解読はできるだろ?」 それからゆっくり立ち上がって、デスクの正面に立ち、微動だにしないフューリーを見下ろす。「……あんた自身でもう一度確認したほうがいい。今送った連中だけの話じゃないぞ。……S.H.I.E.L.D.は多くの命を救う。僕ほど有能じゃなくても、ないよりあったほうが地球にとっては良い」 「言われるまでもない」 「そうか」 勢いよく両手を合わせて乾いた音を響かせると、トニーは振り返ってスティーブを見つめた。ぐっと顎に力の入ったスティーブに、詫びるようにわずかに微笑んで、歩きながらまたフューリーを見る。「で、僕は無罪放免かな? それとも感謝状くれる?」 「帰っていいぞ。スターク。ひとりでな」 「そりゃ、寂しいね。キャプテンを借りるよ、長官。五分くらいいいだろう」 言うやいなや、トニーはナターシャの前を素通りすると、スティーブの二の腕を掴んで部屋を出ようとした。 「おい――トニー――……」 「キャップ」 ナターシャに視線で促され、スティーブはトニーの動きに逆らうのをやめた。うろんな顔つきで二人を見ているフューリーに目礼して、スティーブは長官室を後にした。
「トニー……おい、トニー!」 トニーの指紋認証で開くサーバールームがS.H.I.E.L.D.にあったとは驚きだった。もしかしたらこれも”システム変更”された一つかもしれない――トニーは内部からタッチパネルでキーを操作して、ガラス壁を不透明化させた。そのまま壁に背をもたれると、上を向いてふーっと長い息を吐く。 スティーブは壁と同様にスモークされた扉に肩で寄りかかり、無言でトニーを見つめた。 「……えっと、怒ってるよな?」 スティーブが答えないでいると、手のひらを上げたり下ろしたりしながらトニーはその場をぐるぐると歩き出した。 「きっと君は怒ってると思ってた。暗号の解析なんか一日もかからないと思ってたんだが、絵画の落札者探しも難航して――まあ見つかるのはすぐに見つかったんだが、西ヨーロッパの貴族で、これがまた、筋金入りの”スターク嫌い”でね、文字通り門前払いをくらった。最初からエルピスの奴らに接触してもらえばもうちょっと話はスムーズについたな。それでも最終的には僕の説得に応じて、返還してくれることになった――焼きたてのパンもごちそうになったしね。タワーに帰るころには解析も済んでるはずだったのに、それから数日も時間がかかって――」 「何に時間がかかっていようが、僕にはどうだっていい」 狭い池で周遊する魚のように落ち着きのない彼の肩を掴んで止める。身長差のぶんだけ見上げる瞳の大きさが恋しかった。「僕が怒ってるのは、君が何をしていたかとは関係ない。それを僕に隠していたからだ。どうして、僕に何も言わない。S.H.I.E.L.D.に関わりのあることなのに――」 「だからだよ! スティーブ……君には言えなかった。確証を掴むまで、何も」 「何をそんなに……」 「わからないのか? フューリーも気付いたかどうか」 不透明化された壁をにらみ、トニーはスティーブの太い首筋をぐっと引き寄せて顔を近づけた。「わからないのか――ヒドラの元基地から押収した品が、S.H.I.E.L.D.職員によって不正に取引された――一人の犯行じゃない。よく計画されている。それに、関わった職員の口座を調べたが、どの口座にも大金が入金された痕跡がない。……クイズ、美術品の売り上げは、誰がどこに流してるんでしょう」 「……組織としての口座があるはずだ」 「そうだ。じゃあもう一つ、クイズだ。その組織の正体は? キャップ……腐臭がしないか」 「……ヒドラがよみがえったと言いたいのか」 「いいや、そのセリフを言いたいと思ったことは、一度もない」 トニーは疲れたように額を落とし、スティーブの肩にもたれかかった。「だから黙ってたんだ」 やわらかなトニーの髪と、力なくすがってくる彼の手の感触が、スティーブの怒りといら立ちを急速に沈めていった。つまるところ、トニーはここ数日間、極めて難しい任務に単独で挑んでいた状況で――しかもそれは、本来ならばS.H.I.E.L.D.の自浄作用でもって対処しなければならない事案だった。 体調も万全とはいえないトニーが、自分を追い込んでいたのは、彼の博愛主義的な義務感と、優しさゆえだった――その事実はスティーブを切なくさせた。そしてそれを自分に隠していたのは、彼の数多く抱える問題のひとつ、彼が”リアリスト”であるせいだった。彼は常に最悪を考えてしまう。優れた頭脳が、悲観的な未来から目を逸らさせてくれないのだ。 「もしヒドラがまだこの世界に息づいているとしても」 トニーの髪に手を差し入れると、そのなめらかな冷たさに心が満たされていく。「何度でも戦って倒す。僕はただ、それだけだ」 「頼もしいな、キャプテン。前回戦ったとき、どうなったか忘れた?」 「忘れるものか。そのおかげで、今こうして、君と”こうなってる”んだ」 彼が悲観的なリアリストなら、自分は常に楽観的なリアリストでいよう。共に現実を生きればいい。たとえ一緒の未来を見ることは出来なくとも、平和を目指す心は同じなのだから。 「はは……」 かすれた吐息が頬をかすめる。これ以上のタイミングはなかった。スティーブはトニーの腰を抱き寄せてキスをした。トニーはとっくに目を閉じていた。スティーブは長い睫毛が震えているのを肌で感じながら、トニーを抱きつぶさないように自分が壁に背をつけて力を抑えた――抱き上げると怒られるので���トニーは自分の足が宙をかく感覚が好きじゃないようだ、アーマーを未装着のときは)、感情の高ぶりを表せるのは唇と、あまり器用とはいい難い舌しかなかった。 幸いにして、彼の恋人の舌は非常に器用だった。スティーブはやわらかく、温かで、自分を歓迎してくれる舌に夢中になり、恋人が夢中になると、トニーはその状態にうっとりする。うっとりして力の抜けたトニーが腕の中にいると、スティーブはまるで自分が、世界を包めるくらいに大きく、完全��存在になったように感じる。なんという幸福。なんという奇跡。 「きみが他に――見つけたのかと思った」 「何を?」 上気した頬と涙できらめく瞳がスティーブをとらえる。 「新しい恋人。それで、僕を避けているのかと……」 トニーはぴったりと抱き着いていた上体をはがして、まじまじとスティーブを見つめた。 「ファーック!? それ本気か? 僕が何だって? 新しい……」 「恋人だ。僕が間違ってた。でも口が悪いぞ、トニー」 「君が変なこと言うから――それに、それも僕の愛嬌だ」 「君の……そういうところが、心配で、憎らしくて、とても好きだ」 もう一度キスをしながら、トニーの上着を脱がそうとしているうちに、扉の外からナターシャの声が聞こえた。 「あのね、お二人さん。いくら不透明化してるからって、そんな壁にべったりくっついてちゃ、丸見えよ」 スティーブの首に腕を回し、ますます体を密着させて、トニーは言った。「キャプテン・アメリカをあと五分借りるのに、いくらかかる?」 唐突にガラスが透明になり、帯電させたリストバンドを胸の前にかかげたナターシャが、扉の前に立っているのが見えた。 「あなた、最低よ、スターク」 「なんで? 五分じゃ短すぎたか? 心配しなくても最後までしないよ、キスと軽いペッティングだけだ、五分しかもたないなんてキャップを侮辱したわけじゃな……」 「あなた、最低よ、スターク!」 「キーをショートさせるな! 僕にそれを向けるな! 頼む!」 スティーブはトニーを自分の後ろに逃がしてやって、ナターシャの白い頬にキスをした。「なんだか、いろいろとすまない。ナターシャ……」 「いいわ、彼には後で何か役に立ってもらう」 トニーがぶつぶつと文句をつぶやきながらサーバーの間を歩き、上着のシワを伸ばすさまを横目で見て、ナターシャに視線を戻すと、彼女もまた同じ視線の動きをしていたことがわかった。 「……トニーを巻き込みたくない。元気にみえるけど、リアクターの除去手術がすんだばかりで――」 「わかってるわ。S.H.I.E.L.D.の問題は、S.H.I.E.L.D.の人間が片をつける」 ナターシャの静かな湖面のような緑の目を見て、自分も同じくらい冷静に見えたらいいと思った。トニーにもナターシャにも見えないところで、握った拳の爪が掌に食い込む。怖いのは、戦いではなく、それによって失われるかもしれない現在のすべてだ。 「……もし、ヒドラが壊滅せずにいたとしたら――」 「何度だって戦って、倒せばいい」 くっと片方の唇を上げた笑い方をして、ナターシャはマニッシュに肩をすくめた。「そうなんでしょ」 「まったく、君……敵わないな。いつから聞いてたんだ」 「私は凄腕のスパイよ。重要なことは聞き逃さない」 「いちゃつくのは終わったか?」 二人のあいだにトニーが割り入った。「よし。ではこれで失礼する。不本意なタイミングではあるが――ところでナターシャ、クリントはどこにいるんだ?」 「全職員の動向をさらったばかりでしょ?」 「クリントの情報だけは奇妙に少なかったのが、不思議に思ってね。まあいい。休暇中は地球を離れて、アスガルドに招待でもされてるんだろう。キャップ……無理はするなよ。家で待ってる」 「トニー、君も」 スティーブが肩に触れると、トニーは目を細めて自分の手を重ねた。 「僕はいつでも大丈夫だ。アイアンマンだからな」 ウインクをして手を振りながら去っていくトニーに、ナターシャがうんざりした表情を向けた。「ねえ、もしかしてこの先ずっと、目の前で惚気を聞かされなきゃいけないの?」 そう言って、今度はスティーブをにらみつける。「次の恋愛相談はクリントに頼んでよ!」
◇終◇
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レビュー
コーヒーが、冷めない。まあたった十分前に買ったマグカップに入ったホットコーヒーなので当たり前ではあるのだが、コーヒーが、冷めない。暑さが目に染みる。暑さが目に染みて視界が滲む。ちなみに視界が滲んでいるのはコーヒーのせいではなく、処理しきれない出来事のせいである。目の前に座る男のせいである。「ごめん、ちょっと遅れる」とのメッセージが送られてきたのは今からちょうど一時間前、私用の二杯目ブラックと自分用に砂糖を一本入れたそれを持って現れたのがちょうど十分前、「大事な話がある」と言い残してお手洗いに立ったのは五分前で「別れよう」と切り出されたのが三分前。軽快な音楽とともに始まるかの有名なクッキング番組だったらもう、テーブルの上に綺麗に盛り付けられて胸を張った料理が置かれているころだろう。私は二分半で食べたいけどカップラーメンは食べどきだし三分っていえばこの間、ウルトラマンの大喜利みたな、とか。三分から連想できることが陳腐。落ち着くために思考を巡らせていたら彼の言っていることをほぼすべて聞き逃していた。なんか「思っていたのと違った」「一緒にいたいと思えなくなった」「このまま君といても幸せになれない気がする」というようなことをつらつらと並べていらっしゃってああ、そうか、きっと君は新しく美しくかわいい愛想のある女の子をみつけたんだろうな、と勝手に留飲を下げた。でも、息は詰まった。
「ごめんね」
「え?」
「俺勝手で」
「うん」
「……」
「これどういう話だっけ?」
「え「いや、どういう話だっけていうより、私は別れようって言葉に返事をしなきゃいけないんだよねいや、分かってはいるけどさ」
「いや」
「いくらここで私が嫌だ、別れたくない、もうちょっと一緒にいようよ嫌だったところは直すからって言っても意味ないよね」
「…」
「なに?」
「うん」
「…」
「ごめん」
「ううん」
「でももう一緒にいても楽しくないし、というか彼女としての好きって感情じゃなかった気がする」
「…はあ」
「うん」
「うん、別れよう、って言うしかないよね私」「わかった」
「ありがとう」
「…」
「ごめん」
「いいえ」
「君は悪くないんだよ、全部俺のせい」
「みんなそれ言うけどさ、それ自分の罪の意識を軽くするためにしか機能しないって知っておいたほうがいいよ、今後のためにも」
「言うねえ」
「え」
「そういうところが好きだと思ってたんだけどなあ」
「抉ってくるじゃん」
「あ」
「いいけど」
「いやでもさ、これからもいい友達には戻れると思うよ。たまには飲みに行こうよ。メッセージもするし電話もしようよ」
「やだね」
「え?」
「話すことないじゃん」
「いや、でも、友達「友達に戻るってのは、なかなか難しいことなのですよ」
「…そう、かあ」
「じゃあ付き合わなきゃよかったね、そうすればきっと今もこれからもいい友達でいられたよ」
「ごめん」
「いや、謝ることではないけどさ」
「うん」
「でもムカつく」
「うん」
「この間もさ、あれなんだったの?」
「え?」
「君とはずっと続く気がしてる」
「ずっと続く気がしてた、でも考えたら分からなくなった」
「はあ」
「いや……うん、ごめん」
「虚しくなるから謝らないで」
「……………ごめん、帰るね」
「え?ああ、うん」
「じゃあ、ありがとう」
っていいながらさっと立ち上がり颯��と帰っていきました。コートも着ずに鞄抱えて。あれ、そういう勢いで帰っていくのね、へえ、って少しだけ力を込めてテーブルの脚を蹴ってみた。ちょっと前からそんな予兆はあったし私も愛してるけど人として好きじゃないなあと思ってたはずなのに頭は空っぽでマグカップをリズムよく叩く数本の指、という身体機能しか作動しなくなっている、おかしいな、どうしような、コーヒーは冷めないし。いつの間にか頬を伝い服に落ちたほの甘い涙。怒っているときは塩辛い涙なんですってこれ、この間知ったんです。頭の中は真っ白なんですけど私の悪い癖は常に働くもので、周りから時たま注がれる伺うようなその視線、これ映画じゃんって、客観視。愛のあるセックス、酒と煙草を教えられた挙句カフェで振られて置いて行かれるってもう、なんてチープな映画なんだよと言うしかないな。未来がないことも向こうのセリフで将来を示唆されても冷めてしまうなんてイベントも乗り越えた先の「別れよう」は分かってても時期尚早だし、私はきっと今日散々泣いて泣いて流しきるので堕ちることもなくエンディングまで最悪なトラジティ…………コーヒーをぶっかける思い切りの良ささえ持たない主人公、どう考えてもお勧めできないこの結末、評価は残念ですが星二です。もう帰ろ。
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9 Days in Aceh (10)
7月16日土曜日、アチェ2日目
こどもの頃、「ドラえもん」を読んでいるとのび太がよく散歩をするシーンが出て来て不思議に思ったのを覚えている。あれは一体、何をしているのだろう、と。目的もなく何かをすることが理解できなかったのだ。それはこどものころだけでなく、大人になって相当たってからも同様だった。 「コミュニティアート」と呼ばれる今のような活動をするようになって、私はよく散歩をするようになった。それはその地域のことを調べるという目的をもった散歩なので、のび太の散歩とは結局のところ根本的に違ったものなのだが、それでも誰とどこでどんなタイミングで出会うかわからずに行うまち歩きは、私には十分過ぎるほどにそれまでの自分を解放する行為に思えた。 一番最初に行ったまち歩きは2005年の暮れに、宮城県北部の温泉地・東鳴子温泉で行ったものだ。私はどこへ行くともなくその温泉街という響きとは全くかけ離れた通りを歩き、たまたま出くわしたおじさんに自分のとっておきの宝物みたいなものを見せてもらい、何かとても満足したのを覚えている。それ以来、私はいろいろなまちで、そこで出くわす人に話を聞いたり、いろいろなものを見せてもらうまち歩きを繰り返してきた。本当に感動的な出会いや深い話に出くわす一方、おかしな感じになったり、時にはどやされることもあったり、この10年で私は普通の人がおそらくは人生の最初の方で経験しておくべきことをまとめてやったような気がする。それほどに私のそれ以前の人生は、貧しく、単純なものだった。
アチェで最初の朝、目覚めると私はさっそくまち歩きをしてみることにした。渡辺さんから朝食はホテルが用意していると聞いてはいたものの、どこかで食べてみようとカメラを肩からさげて「グリーンパラダイスリゾート」を後にした。実はそのホテルに届いているアチェ・スタイルの朝食はとても美味しいもので、その翌日から私はそれを心待ちにするようになるのだが。 まだ新しい朝の光の中で見るアチェの家々は本当に美しかった。門や扉の洗練されたデザインや色合い、効果的な色の使い方など、目を見張るほどで、私は前日からつづいていた疑問——外国の風景を見慣れていないからこんなにも素晴らしいと思ってしまうのか、それともアチェという地域がデザイン性に優れた地域なのか——に判別がつかないまま、気に入った建物の写真を撮り続けた。
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しばらく歩くと大通りにたどり着いた。魚屋野菜などを売る店が何軒か並んでいる中に、麺を出す店があった。日本的な感覚からすると、店頭のガラス張りの屋台に投げやりな感じに麺が積み上げているのは「準備中」な感じに見えたが、中をのぞくと開放的な店内では男たちがコーヒーを飲みながらテレビを見上げ、しっかり営業���のようだった。 コーヒーを入れて���たおばさんが奥からやって来て何やら話しかけてきたが、全くわからない。わからな過ぎてお互い大笑いした。それから居合わせたおじさんたちも手伝ってくれて、身振り手振りで店先の屋台の上の焼きそばとコーヒーを注文し、大きなソファーに腰掛けてせんべいのようなものが乗った焼きそばを食べながらコーヒーを待った。出勤途中の女性が立ち寄ると、おばさんはコーヒーをビニール袋に入れてくるくると回してその口を閉じていた。 前日、ハナフィさんに連れられて入ったワルン・コピーで飲んだコーヒーは、ハナサカ(砂糖抜き)を注文したので、運ばれてきたコーヒーはいわばアチェで最初に飲んだアチェらしい甘いコーヒーだった。 私は飲み物は苦いものが好きだ。甘いものは好きだが、甘い飲み物はほとんど飲まない。しかしその甘いコーヒーは、何かとてもこの土地に似つかわしいように思えた。おそらく日本に戻れば私は甘い飲み物など飲まないだろう。しかしここでは甘い飲み物を普通に美味しいと思える自分を当然のことと感じた。そもそも食というのは、その土地と一体となったものだ。そこから切り離されたものを口にすることを常態としている私に対して、ずっとその甘いコーヒーは説得力や必然性を持っているように感じられたのだ。 そしてそのワルン・コピーの隣に並ぶ店先の野菜や魚のなんと見事で美しいこと。私は宿へと戻る道をたどりながら、街道沿いの開き始めた雑貨屋でちょっとしたものを買ってみたり、少し大きなワルン・コピーを見つけ、もう一杯コーヒーを飲んでみたりした。何かそこにはとてつもなく豊かな時間が流れていて、私はそれをどう表現したものかと途方に暮れはじめていた。
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偽善者の涙[九]
[九]
「ふん、ふん、……それでな、沙霧をな、あー、……たぶん一時か二時頃、……ふん、行くで。……ふん、佳奈枝も来るで。でも、たぶん俺らすぐ帰ると思ふから、……あ、さうなん? ぢやあ、沙霧に、一時半ぴつたりに下の和室の方に来といて、て伝へて欲しいんやけど、……ふん、ありがたう。お土産的なものはテーブルの上に置いとくから、……あ、さう〳〵、ちやんと佳奈枝も来るつて、あいつに伝へといてな。……ふん、一時半で。ぢや、――」
「お母様は何と?」
「いや、いつもと変はり無い。今回は云ふだけだから、ちやんとしてくれると思ふ」
「なら良かつた。はい、いつものヨーグルト」
「ありがたう、いたゞきます」
夫婦が決起した翌週の火曜日、――ちやうどゴールデンウィークに入つたばかりの四月三十日、元号が平成から変はる前に家庭内のごた〳〵を片付けたかつた里也は少々無理して暇を取り、沙霧と佳奈枝のあひだにある不和を解消すべく、実家を訪れようとしてゐたのであるが、電話口で母親に頼み事をしたのは、妻から強く、もう夫婦ごつごはするな、そも〳〵もう沙霧ちやんの部屋には入るなと、云はれてゐたからであつた。食後のヨーグルトをスプーン一杯口に入れては思案し、口に入れてはぼんやりと空を見つめる今日の彼は、妙に臆病になつてゐるのか昨晩寝る前から無口である。いつもはお喋りな母親の世間話に付き合はされて、電話であらうとも二三十分は話すと云ふのに、さつきは要件だけを伝へてさつさと切つてしまつた。かう云ふ臆病な性格が、結局のところ沙霧を不幸にするのだとは理解してゐるけれども、やはり土壇場に来ると身の縮む思ひがする。里也は先週、妻の涙に誘はれて沙霧を見放すことを選んでしまつたのだが、出来ることならばやりたくはなく、もし話がこじれるやうなら、沙霧に寝返らうとも考へてゐた。だがそんな胸くその悪いことなぞ彼には出来るはずもなく、もう後は楽観的な未来を頭に描きながら、二人の女の成り行きに身を任せるしかなかつた。
「ごちそうさま(ごちさうさま、ではない)」
朝食を終へた後、里也は佳奈枝と一緒に休日の日課となつてゐる軽い体操をして、部屋の掃除をして、妻の入れてくれたコーヒーを飲みつゝ、ソファに座つてのんびりとアウトヾア系の雑誌を読んでゐた。音楽から徐々に熱が無くなるにつれて、急に他の趣味が気になりだしたので、こゝ一年間で色々と手をつけてゐたのであるが、一番興味をそゝられたのはこの、普段の出不精な自分からは想像も出来ないアウトヾア関係の趣味であつた。キャンプはもとより、自分の手で火を拵えてダッチオーブンで料理を作つたり、ナイフで木を削つてその場で遊び道具を作つたり、特にチタンで出来たマグを片手に燃え盛る炎を眺めるのなぞは最高の体験であらう。さう云へば山の中にある佳奈枝の祖父の家にお邪魔をする時、妙に心が躍るのはこのせいであつたか。近い将来出来るであらう子供が大きくなつた暁には必ずや、道具やら何やらを車に積み込んで、佳奈枝にやれ〳〵とため息をつかれながら遊び尽くしたい。もうその頃には沙霧の一件も落ち着いて、彼女も新たな人生を歩み始めてゐるだらうから、何も心配はない、一途な愛を我が妻と我が子に向けて、幸せな家庭を築いていかう。里也はさう思ひながら、楽しげな表情をした父子が丸太を前に立つてゐるペーヂを眺めてゐたのであるが、急に奇妙な感覚に囚はれてしまひ、勢ひよく本を閉じてしまつた。それは例の恨めしい感覚であつたけれども、今感じたのはまた別種の、もうどうしやうもないほどに強い感情であつた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない。……」
里也はそれから、気持ちを紛らはせるために佳奈枝と二言三言喋つて、話題が尽きるとまた静かに雑誌を開いた。
自宅となつてゐるマンションを発つたのは午前十一時を過ぎた頃であつたのだが、さすがにゴールデンウィーク中日とあつて十三の駅は人でごつた返してゐるやうであつた。里也らはそれを横目で見つゝ、阪急の神戸線へ乗り換へて、彼の実家の最寄り駅へ降り立ち、軽い昼食をしたゝめてから、やることもなくぶら〳〵と周辺をそゞろ歩きして時間を潰し、やうやく沙霧の待つ家へと向かつた。もう気温じたいは夏とそれほど変はり無いと思つてゐるのか、時々見かける外国人はもう半袖姿で、大きなリュックサックを背負いながら歩いてゐる。以前見かけた桜の木はすつかり花を散らせて、今度は色も感触も���らかい実に綺麗な緑色の葉を伸ばしつゝある。さう云へば今年はたうとうこの木の花を見ずに終はつてしまつた。結局京都へは嫌々ながら二日もかけて、東の平安神宮、西の嵐山、と云つた風に訪れ、どん〳〵歩いて行く佳奈枝を時おり見失ひながらカメラを片手に練り歩いたのであるが、行けばやつぱり気分はすこぶる高まつてしまふもので、それなりに楽しんだものであつた。沙霧はその時の写真を見てくれたゞらうか。来年は一緒に来てくれるだらうか。いつか遠い昔のやうに、二人で手を繋いで家族の誰かに、――今なら佳奈枝にカメラマンとなつてもらひ、ちら〳〵と降る桜の花びらの中、微笑ましい表情で一緒に写真に写つてくれるだらうか。もう今年は時期を逃してしまつた。寒い地域ならば咲いてゐる可能性もなくはないが、そこまで遠くへは出かけたくないだらうから、また一年と云ふ長い期間を待たなくてはならない。今年は特に長くなるかもしれないと思ふと、一転して里也は自然に憂鬱な気分になつたが、出来るだけ彼女にも楽観的な気持ちを抱かせるためにも平常心で、実家の玄関に手をかけた。
話によると、今日は両親は二人共どこかへ遊びに行つてしまつたらしく、家の中は耳鳴りがするほどしいん(点々)としてゐたのであるが、さう云へば沙霧はちやんと伝言を受け取つたのであらうか。母親に電話をしたのは午前中であつたから、伝へられた時にはまだ寝てゐたかもしれず、もしかすると自分たちが来ると云ふことすら知らないかもしれない。そんな心配事をしつゝ、里也は一階にある和室の引き戸に手をかけた。そつと引いて中に入ると、彼女はだゝつ広い机の前できちんと正座をしてぼうつと俯いてゐた。そして、開口一番に、
「ごめんなさい!」
と土下座をしながら謝つてくる。
――呆気に取られてしまつた。それは佳奈枝も同じなやうで、口をぱく〳〵と開けながら目を見開いてゐる。こちらからはまだ何も云つてゐない。たゞ和室の中へ入つたゞけである。里也には今の沙霧が自分の妹のやうには見えなかつた。小さな背中を丸め、長い髪の毛を彼方此方(あちらこちら)に散らばらせ、病的に白い肌を季節外れでボロボロの衣装で隠す、――それはまるでやせ細つた乞食のやうで、見てゐて居た堪れなかつた。
「さつちやん!(点々) ど、どうしちやつたの?」
と最初に駆け寄つたのは佳奈枝であつた。
「佳奈枝お姉さん、すみません、すみません、……」
「あゝ、ほら、顔上げて、……もう、せつかく綺麗な顔なのに、そんなにして、……ほら、さつちやん、笑顔、笑顔」
「すみません、ごめ、ごめんなさい、……」
里也は先程から佳奈枝が沙霧の事をさつちやん(点々)と呼ぶことに得体の知れない気色悪さを感じながら、黙つて二人の様子を見守つてゐたのであるが、いつたいどうしてしまつたと云ふのだ。今妻の胸に抱かれてゐる沙霧の顔には涙こそ無いものゝ、もう何日も寝てない日々が続いた時のやうにひどい隈が出来てゐるではないか。いつもはどんなに見窄らしく見えてゐても、可愛い〳〵と云ふ里也であつたが、そんな彼でもさすがに今の彼女には不気味なものを感じずにはゐられなかつた。
「沙霧、……」
「里也さん、里也さん、コヽアとか蜂蜜の入つたホットミルクとか、さう云ふ優しい飲み物を作つて来てくださる? ちやつとこれはあかんわ」
「分かつた。すぐ持つてくるから、――」
それから里也は、冬のあひだに使ひ切れなかつたのであらう粉を牛乳に溶き、火にかけて一杯のコヽアを作ると、すぐに沙霧のもとへと持つて行つた。かなり急いだつもりであつたが、再び和室の中に入ると、沙霧は佳奈枝のなすがまゝ背中をぽん〳〵と叩かれてゐた。
「ほら沙霧、久しぶりのお兄ちやんのコヽアだぞ。砂糖が足りなかつたら云つてくれ」
と、努めて朗らかに云つた。
「兄さん、……すみません、すみません、……」
「まあ、なんだ、取り敢へずそれを飲んでくれ」
しばらく沙霧はコヽアの入つたマグカップを見つめたまゝであつたが、佳奈枝が両親にもと作つてきたクッキーを渡して、ついでに俺も食べたいと云つた里也がポリポリと音を立て始めると、ゆつくりではあるが飲んでいつた。
それにしても久しぶりの取り乱しやうである。彼は一旦は動揺したものゝ、実のところこれまでにも何回かあり、最も記憶に古いもので、両親にいぢめのことを隠すように頼まれた時であつたゞらうか、沙霧が落ち着いてくるにつれてむしろ懐かしさがこみ上げて来たのであるが、恐らく自分以外にかう云つた姿を見せるのは初めてゞあらう。彼女の隣には佳奈枝がをり、もう絶対に手を離さないだらうと思つて少し遠くに座つた彼は、二人に座布団を渡しつゝ、彼女が変はらうとしてゐるのは確かなのだと思つた。沙霧はもはや自分の姿を見られることすら恥ずかしいと感じてをり、況してやこんな取り乱した場面を里也以外に見られるなど、自分を殺してゞもその屈辱から逃れたいと思つてゐるに違ひなく、それをこれまでもこれからも付き合つて行くことになる佳奈枝に見せると云ふことは、相当の覚悟があると云ふことである。その覚悟が何かと云へば、やはり前に歩みたいと云ふこと以外何があらう。里也はまさか突然見せつけられるとは思つてゐなかつたけれども、何にも増して自分の考への至らなさに深く恥じ入ると共に、彼女がそこまでの覚悟を見せてくれたことに、悲しくも嬉しくも感じるのであつた。
たゞ、なぜこんなことになつたのかは、彼にも分からなかつた。彼女の目に濃く刻まれた隈はまさか自分から塗つてゐる訳ではないだらう。色白な肌をしてゐるものだから隈が出来たらすぐ分かるのであるが、今までそんな目の黒ずみなんて憶えてゐる限りでは一度も出来たことは無く、あのコンサートの時以来、彼女が如何に自分を責めに責めゐたのか、なんとなくではあるが分かつてしまふ。さつと見たところ、腕に新たな傷は出来てゐないやうなので、悪く捉へるのも程々にして良い方向に捉へてみると、どういふ形であれ、一度素の自分を曝け出しておくことで、話が円滑に進むかもしれない。かう云ふ時は兎に角本人の思ひを聞かなくてはならないと知つてゐる里也は、まず優しく声をかけた。これまでなら二人きりでなければ話し初めなかつたけれども、彼女の決意がほんたうならば、自分よりもむしろ佳奈枝に聞いて欲しいはず。さう思つて、佳奈枝に目配りをして事前の打ち合はせ通り妻の方から話を促した。
「ごめんね、さつちやん。もうぼんやりとしか憶えてゐないけれども、確かに私の記憶の中にはさつちやんを見放した光景があるわ。ごめんなさい」
と佳奈枝は未だに手をつないだまゝ、素直に頭を下げた。
「いえ、いえ、お姉さんが謝ることは無いんです。全部〳〵、私の勘違ひだつたんです。お姉さんは悪くないんです。頭を、……頭を上げて、私を叱つてください。……」
と、沙霧は沙霧で佳奈枝よりも深く頭を下げる。
「そんな、勘違ひだなんて、……」
「いえ、勘違ひなんです。兄さんに云つたことは私の記憶違ひで、お姉さんは何にも悪くないんです。……えと、悪くなかつたんです。一度盗まれた教科書を探しに行つた時に、あんなに丁寧に応対してくださつた方はお姉さんたゞ一人で、……あゝ、とにかく途方も無く失礼なことをしでかしてしまひました。ごめんなさい!」
とまた土下座のやうな格好になつたので、佳奈枝はその顔を上げさせて、
「いゝえ、私の記憶違ひでも、あなたの記憶違ひでも、私はさつちやんがいぢめられてゐるのに、見て見ぬふりしてしまつたわ。それだけは確実だから、謝らせてちやうだい。ごめんなさい」
と深々と頭を下げた。傍から見てゐると、互ひに向き合ひながらどちらが頭をより深く下げられるか競ひあつてゐるやうに見えて、ひどく滑稽に思へてしまふのだが、里也はなぜかその様子に心を打たれてゐた。そして知らず識らず涙を流してゐたらしく、
「どうして里也さんが泣いてるのよ」
と、そんな彼を見つけた佳奈枝が云つた。さう云ふ彼女もまた、目を赤くして今にも泣きさうになつてゐる。
「さうですよ、兄さん。どうして兄さんが泣いてゐるんですか」
さう云つた沙霧は、涙こそ流してゐないものゝ、軽口を叩く程度には笑顔が戻りつゝあつた。その笑顔を見て、佳奈枝もまた、ふゝ、……と笑つた。そしてもう一度、ごめんなさいと謝ると、沙霧もまた、ごめんなさいと云ひ、つひには再び謝罪合戦が始まつてしまつた。
さうやつて互ひ謝り続けた二人はその後、専ら里也を弄るといふ共通の目的の元、家に来たときとは打つて変はつて朗らかな声で話をしてゐた。基本的に里也は聞くのみで、見る限りでは音楽の話題で無かつたせいか、沙霧は相変はらずかなり言葉に詰まつてゐたけれども、少なくとも彼には、沙霧の見えない壁が、完全にとは云へないけれども薄くなつたやうに思へる。そも〳〵昔は佳奈枝と話すとなると急に黙りこくつてしまひ、言葉も発せないやうであつたから、話せるやうになつたゞけでも充分な進歩と云へやう。たゞ、話せば話すだけ疲れてしまふ性質だけはどうしやうもないはずであるから、二三十分が経過しやうとした頃合ひに、一度席を立つて沙霧の使つたマグカップを片付けて、佳奈枝を促した。
「ほんなら沙霧、……あれ、いつだつたか」
と、三人とも玄関口に立つて、里也が云つた。
「十二日よ。ゴールデンウィークが明けた次の週の日曜日」
「さう〳〵、十二日。……の、何時頃?」
「たぶん十時頃」
「らしい。そのくらゐに佳奈枝が迎へに来るから、そのつもりで。大丈夫、心配しなくても、これを機会にいくつか文句を云つてみるといゝ。あと佳奈枝〝お姉さん〟と云ふのもやめてみるといゝ。それとロシア音楽についても語つてみるといゝ。嫌かもしれんけど、沙霧はそのまゝが一番可愛くて魅力的なんやから、さう身構へずに自然にな。ま、今日はゆつくりと寝てくれ」
「うわ、私の見てる前で口説かないでくださる? 嫉妬しちやうから」
「くつ〳〵〳〵、悔しかつたら沙霧くらゐ可愛くなることだな。――ま、さう云ふ訳でぢやあな、沙霧。また会はう」
「バイ〳〵、さつちやん。また明々後日に会ひませう」
と、二人は沙霧に別れを告げて玄関をくゞつた。
一人戸口に立たされた沙霧は、少しのあひだぼうつとしてゐたのであるが、ハツとなつて動き出すと、開け放されたまゝになつてゐた和室の引き戸を締めて、自室に向かはうと階段を登つて行つた。一段〳〵踏みしめる毎に鳴るトントン、……と云ふ音は、今も昔も変はらず軽やかである。階段を登り終へるとすぐ左手にかつて兄が使つてゐた自室があるのであるが、こちらはもはや昔の面影など残つてをらず、今ではすつかり物置と化してしまつてゐる。沙霧はふとその扉の前に佇んだ。昔、――もう十年以上も昔、何気なしにかうやつて兄の部屋の前で佇んでゐたら、美しくも物悲しいヴァイオリンの音色と、力強くも虚しいトランペットの音が代はる〴〵聞こえて来て、以来、深夜の両親が寝静まつた頃合ひを見計らつて、その漏れ聞こえてくる音楽に耳を澄ましたものであつた。彼の曲の聞き方と云へば、同じフレーズを繰り返し〳〵飽きるまで聞いて、飽きたか満足したかするとやうやく先へ進み、再びたつた五秒にも満たないフレーズを繰り返し〳〵聞く。そんなものだから曲名こそ分からないものゝ、体が勝手にその一フレーズを憶えてしまつた。
「ふゝ、……」
沙霧は何だか可笑しくなつてきて、昔と同じく笑みを溢してゐた。が、昔と違つて、今は自分の声以外、しいん(点々)と物音一つすら聞こえない。唯一変はらないのは、廊下の行き止まりにある窓から差し込む光で、キラキラと照らされた埃たちであるのだが、いつたいそれに何の意味があるのか。
沙霧はギユウつと手首を握りしめると、やう〳〵自室へと入つて行つた。外からはまだ何か楽しげなことを話してゐるらしく、ほんたうの夫婦の声が、時おり笑ひ声を交へながら聞こえてくる。期待をしてゐなかつたと云へば嘘になるが、やつぱり悔しかつた。彼女は今日は絶対に涙を流さない決意を密かにしてゐたのであるが、外から漏れ聞こえて来る声を聞くうちに、たうとう堪えきれなくなつて、膝を付き、手をつき、自分でも笑つてしまふほど惨めな格好で泣いてゐた。少しでも上を向かうと、顔を上げたけれども、今に限つて愛する兄と最後に二人で撮つた写真が目についてしまつた。真暗な部屋の中を一度たりとも輝かずに落ちた雫は、音も立てずに闇に飲み込まれ、誰にもその存在を悟られることのないまゝ消えて行つた。
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【エリスリトール 副作用なしの自然甘味料で3年分の砂糖42kgをゼロに!】 - B4C : https://b4c.jp/erythritol 2018 9.4 by B4C
ぼくはおさけをのみません。居酒屋はにがてです。みんなでワイワイ食べる飯はおいしくない。一人で好物をもくもくとしずかに食べるのがさいこうです。
くしくもぼくの周りは大酒飲みばかりです。そして、酒癖が最悪です。しらふで彼らにつきあうのは苦行です。
で、そんな酒席嫌いさんの日頃の飲み物は非常に限られます。コーヒー、紅茶、緑茶、ウーロン茶、牛乳です。運動のときにはスポーツドリンク、たまに100%の果物ジュースを飲みます。
アルコールを飲めますし、そこまで酔いつぶれませんが、単純に味にまんぞくできません。ビールはにがい、焼酎はくさい、カクテルはあまい、日本酒はからい、ワインはしぶい。おいしくない!
うらはらにお茶、コーヒーにはこだわります。ノットインスタント派です。お湯を沸かして、豆か葉から煎れます。
真夏に時期にもホットドリンクか冷ましドリンクを飲みます。家用には缶、ぺットボトルをめったに買いません。
{{ 画像 1 : コーヒー豆の焙煎の段階 }}
■《コーヒー、紅茶の砂糖消費量が一年で14kg!》
ぼくは基本的に甘党です。ブラックコーヒーやノンシュガーのストレートティーはお口に合いません。カフェオレとミルクティーが大好物です。だいたいこれらを日に五杯ほど飲みます。
バイクパッキングのキャンプの朝には野点のカフェオレかミルクティーが風物詩です。けっこうなお点前です。牛乳を真夏の野外に一晩放置するはちとアレですが、ははは。
{{ 画像 2 : キャンプで飲む朝カフェオレはやや薄味 }}
じゃあ、砂糖は日に小さじ10杯にもなります。上白糖の小さじ一杯が��3g、グラニュー糖が4gです。で、ぼくはグラニュー派です。上白糖はべちゃつく。
てことは、一日の砂糖摂取量は4×10=40gです。コーヒーと紅茶だけで。砂糖のカロリーは3.9kcal/1gです。脂肪の半分です。
このカフェイン系嗜好ドリンクの習慣は毎日です。普段からコーヒー、紅茶を欠かしません。断豆、断茶はありえない。
茶葉を切らせば、 {{ 神戸までわざわざ買いに行きます : https://b4c.jp/koube-cycling }} 、例のごとくチャリで。お気に入りの店は『MUSICA』て日本の紅茶店の草分け的な店です。
{{ 画像 3 : パンと紅茶 }}
で、毎日のように紅茶やコーヒーをがぶがぶ飲む=砂糖をがぶがぶ摂るです。一か月で40×30=1200g、1年で1200×12=14400g! 計算がおそろしくなってきました。
これは身体にめっきりよろしくありません。砂糖の取りすぎは肥満、胃潰瘍、虫歯のもとです。近年の健康トレンドに砂糖依存症てワードがありますし。
一時、不摂生と運動不足でえらく太って、そこからすこし気合を入れて、食事制限とかジョギングとかサイクリングをして、まあまあベスト体重に近づけました。
その一環で脱砂糖にチャレンジして、お菓子類を止めて、ドリンクシュガーをさえ禁じ手にしました。でも、すぐに断念しました。やっぱし、多少の甘みはコーヒー、紅茶に必要です。
■《砂糖じゃない健康甘味料を試す》
そこで砂糖以外の健康甘味料に目を向けます。最初のぶつは定番のラカントSです。
{{ ラカントS 顆粒 800g : https://www.amazon.co.jp/dp/B001GZCZOM/ }}
CMでおなじみですし、大型のスーパーの店頭にあります。ぼくはアマゾンで小さめのパッケを買いまして、日頃のドリンクにさらさら投入しました。
顆粒の質感はグラニュー風です。上白糖みたいなしとしとねとねとじゃありません。さらさら系です。こぼれ分がべたつかないのは嬉しい誤算です。
◆《エリスリトールに出会う》
ラカントSの使い勝手や味に不満はありません。ネックは価格です。割高だ。1kgが2500円です。ふつうの砂糖の二十倍です。ランディングコストがかさみます。
で、割安のマイナーな人工甘味料を物色します。調査対象はamazonです。スーパーや薬局の店頭には有名メーカーのブランド甘味料しかありません。で、通販より安くない。アウチ!
結果、高評価のこれが目に留まります、エリスリトール。
{{ 画像 4 : 人口甘味料エリスリトールフランス産 }}
名前のようにソルビトールやキシリトールなどのトール甘味族の一派です。アルファベットのつづりは”erythritol”です。別名エリトリトール。ごろはよくない。ここではエリスリトールで統一します。
お値段はおおよそ900円/1kgです。ラカントSの半額以下だ。じみにお料理の味付けにけちらずにすみます。
そして、ラカントSの原料の片割れがこのエリスリトールです。ラカントのエリスリトールはトウモロコシ由来のものですね。
◆《意外と身近な糖アルコール》
このエリスリトールの正体は糖アルコールの一種です。で、この糖アルコールの材料はポピュラーなぶとう糖です。これが発酵して、糖アルコールになります。
糖アルコールは自然界にはメロン、ナシ、ブドウ、スイカのなかに存在します。そして、発酵食品のほのかな甘みもこれです。
つまり、味噌の甘み、日本酒の甘み、醤油の甘み、チーズの甘みの一端もエリスリトールです。てことは、意外と日本の食文化に近しい甘味です。
すなわち、エリスリトールは人工甘味料ではありません。自然甘味料です。横文字の魔力が罪です。和風に『糖酒精』てすれば、あさはかな誤解を防げましょうか? ははは。
◆《吸収されるが代謝されない》
食品業界では昔からカロリーオフ甘味料として扱われます。そんなエリスリトールのカロリーの目安はゼロ・・・でなく、2.4kcal/1gです。砂糖の60%です。
「あれ、ゼロカロリーじゃない?」
ゼロじゃありません。熱量自体はあります。そして、胃腸から体内に吸収されます。しかし、それが体内でエネルギー変換されずにまんまの形でおしっこから排出されます。
つまり、吸収はされますが、代謝はされません。体内に蓄積されませんし、エネルギーになりません。で、実質ゼロカロリーの糖です。
◆《歯垢を分解する》
トール系甘味料の大御所はキシリトールです。「砂糖のように甘いのに虫歯を予防する」てアンビバレンツなフレーズで一躍健康食品のトップスターに躍り出ました。
で、このキシリトールも糖アルコールの一種です。材料はキシロースです。こっちはぶとう糖ほどにポピュラーじゃありません。自然界では白樺の木の中に多く存在します。
虫歯は口の中の虫歯菌の活動で引き起こされます。で、菌も生物、生き物です。エネルギーなし、腹ペコハンガーノックでは活動できません。好物は砂糖=ショ糖です。菌は糖を食らって、酸を吐きます。
ところが、この虫歯菌はショ糖のように甘い糖アルコールをエネルギーにできません。人間と同様にこれを代謝できない。活動が弱まって、虫歯が予防されます。
エリスリトールも糖アルコールの一種です。舌はこれを甘く感じ、胃腸はこれを吸収しますが、人体はこれを代謝できません。
虫歯菌も同様です。これを食らって、酸を出せません。逆に活動が弱まって、結合力が下がり、歯垢が分解されます。
また、キシリトールやエリスリトールは血糖値をあげません。糖尿病の人がふつうに飲み食いできます。いいことずくめです。
この特性から歯磨き後の夜中コーヒーの甘み付けに最強です。深夜パソコン作業にエリスリトール紅茶とコーヒーはもう不可欠です。ステインの着色は解決しませんけど。
日々のダイエット効果はびびたるものでしょう。が、1か月1200g、1年14kgの砂糖のカロリーと虫歯の原因がまるまるなくなります。そして、エリスリすき焼きがじつにまいうーです、ははは。
一時の思い付きでこのなぞの甘味料に飛びつきましたが、もう3年ほど継続してつかいつづけます。紅茶とコーヒーが完全に習慣化しますから。きっちり一か月1kgのペースでなくなります。
個人的には虫歯予防の効果が大です。ガムが苦手でして。
◆《カラメル化しない》
砂糖とエリスリトールのおもしろい比較があります。フライパンで熱してみましょう。右のエリスリトールはじきに溶け始めます。そののちに砂糖がじわじわ溶け始めます。
{{ 画像 5 : 左・砂糖 右・エリスリトール }}
あと、エリスリトールは水に溶けると、周囲の熱を奪います。で、単体の顆粒を舐めると、あきらかな冷やっこさを感じられます。疑似ミントみたい。ゆえに冷菓や氷菓との相性がばっちしです。
エリスリトール自体には特別なフレーバーはありませんが、この清涼感が一種のミントぽさを醸し出し、疑似的な風味みたいなものが口の中に広がります。
そんな豆知識のあいだに砂糖がこげはじめて、こうばしい匂いを出します。カラメル化、キャラメリゼです。プリンには欠かせない。
{{ 画像 6 : 砂糖カラメル化する }}
一方のエリスリトールは透明のままです。液体に粘度が出ません。しゃぱしゃぱです。キャラメルみたいな匂いもしません。
{{ 画像 7 : エリスリトール透明のまま }}
ここから放置して冷まします。
{{ 画像 8 : 左・冷えたカラメル 右・冷えたエリスリトール }}
溶けてキャラメル化した砂糖はアメ状になります。一方のエリスリトールは再結晶化して、白くにごります。べたべたしません。
かんたんにフライパンからぺこっと外れました。
{{ 画像 9 : エリスリトール }}
特性が塩みたいです。でも、味は砂糖だ。ふしぎな食材です。このためにエリスリトールでは飴玉や綿菓子を作れません。ゼラチンか何かで粘度を出さないと。
逆に少々の加熱で焦げませんから、すき焼きや生姜焼きの味付けに使えます。多分、味の染み込みも早いです。じつに優秀な甘味料ですね。
とにかくエリスリトールにはカロリー抑制、糖分コントロール、虫歯予防には絶対の効果があります。理想的な健康食品です。
・・・とゆうより、改めて見返すとふつうの砂糖が非健康的すぎる! 『毒のカタマリ』てゆわれる理由もあながち大げさではありませんね。
■《取りすぎは下痢のもと》
顆粒や甘味料の取りすぎは下痢のもとです。しかし、これはアレルギーや病気ではありません。腸内の正常な機能のたまものです。
大量の甘味料が腸内に入ると、腸液の濃度が一時的にあがります。腸壁はこれを薄めるためにスプリンクラーみたいに大量の水分を噴出します。結果、おなかがゆるくなって、下痢ぴーが起こります。
もっとも、エリスリトールの下剤作用は甘味料や調味料の中ではマイルドです。大半が体内に吸収されますから。
ラカントSでは何回か駆け込みトイレをやらかしました。羅漢果のエキスは漢方薬並みに強力です。逆に適度な摂取は便秘の解消になります。
ぼくは朝の紅茶二杯に4さじのエリスリトールで快便を高確率で再現できます。
■《42kgの砂糖がゼロに!》
ぼくのエリスリトールの用途はコーヒー、紅茶の砂糖の代用です。これは突発的なダイエットや痩身の糖質制限より効果的です。
コーヒー、紅茶は日課です。絶対にやめられない。じゃあ、一か月、一年の砂糖の量は大きく変動しません。以前にはこれが月1.2kg、年14kgです。こわ!
で、ぼくはエリスリトールをも��3年ほど続けますから、都合42kgくらいの砂糖をとらずに済みました。健康の積み立てのようなものです。
節約のコツは単発の浪費を減らすことでなく、長期の定期的な維持費を減らすことです。日課のドリンクの砂糖はちりも積もれば式に刻一刻とふくらみます。早く切り替えれば、それだけ砂糖を減らせます。
コーヒー、紅茶大好きの人はこの機に一考しません?
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