Tumgik
#インテリア科出身
touch196 · 15 days
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「教科書にはのってない」
6年半続けた仕事を辞めることにした。
今は有休消化中。
なにぶん自分でも唐突だと思うけど、
心身ともに限界を感じて。
自分の職歴から考えたら、コロナにも負けずに、
過去最長期間、過去最高賃金(時給、勤続年数+物価上昇のためのベースアップ)で働かせてもらって。
せめて、もう少し計画的に(資格取得とか、次の仕事探してから)辞められたら、
ってのは理想の話で。。
なんとなく、自分としては予兆?
みたいのがあったけど、決断は早かったというか、急だった…。
職場の同僚にも、
「なんで?!」
て、引き留められたりしたけれど。
もうすぐ、40代を迎える時期で。
転職とか、新しいこと始めるなら、
1歳でも若い方がいいかなって。
本当に出来るかどうかは別として。
望み薄くても、
とりあえず、終わる(止める)ことがあれば。
始まることもあるだろうし。
今の部屋に引っ越して1年半も経つのに、
私生活の放置がヤバすぎて。。
まずは、次の準備や仕事探しの前に。
部屋の現状を打破せねばという急務があり。
最初は、仕事が変わるなら捨てられる物もあるし、
単純に断捨離をどんどん進めようって思ってたけど。
(5年程使ってたハンモックのスタンドを捨てて、頼んだベッドが数日後に届く。)
過去に私物も、実家の家族のアレコレも捨てるマシーンと化してた、
20代~30代前半の頃みたいな、
寝ずに片付けするようなパワーもなくて。
本やYouTubeなどに、
インテリア(自分の居場所作り)の知識や、部屋作りのための考え方を求めて、
寝る間も食べる間も、アニメ観る間も惜しんで、見漁ったり。
(YouTube on TV便利!)
ノートに新しいベッドを含めた、
居室のレイアウト改善案を描き出したり。
思い出したように筋トレへ行ったり。
まだ物はほとんど減ってないんだけど。
むしろ、いろいろそっちのけで更に家事放置が悪化したりしてるけど。。
なんかこう、
ずーっと、安定だとか、労働と納税の義務だとか、
「必要なことしか続かない」って、他を見ない言い訳をして。
ずっと、無視をしていた。
好きだとか興味があっても、受け取る側でしかないって。
もう、可能性がなんだとか、誘い文句にひっかかって、失敗して痛い目を見るのは、嫌だとか。
そんなトシじゃないとか。
お金や時間をドブに捨てるなんて、一人で生活支えなきゃいけないのに、
そんなこと考えられないとか。
ただのLINEでも「長文やめろ」とか言われる。
自分の心の中を、言葉にせずにはいられなくて発しても。
他人にとって都合の良い人でなければ、理解されない自分。
諦めて、フタをしていた。
よく言えば「感受性が強い」、
悪く言ったら「気にしすぎ」、
そんな自分を、コントロールするのが大人なのかもしれないけれど。
子供の時からどこか、
先生とか、家族とか、家庭環境とか、
親のやらせたかったこととか、自分のルーツとか、
なんか世間にほめられることが良いんだとか、
発信力の強い人とか、本とか、
セールスマンとか、
世間の見方とか……。。
振り回されるだけの人生を、
一人暮らししたら、抜け出せるかと思ってたけれど。
なんでもマルチタスク出来る人間じゃないから、
元々無理しながらやってたことは、手を抜くのが普通になり、
放置が日常になり。
じゃあ、管理する場所を狭くしようとしたけれど。
やっぱりなんか、モチベだとかなんだとか。
誰にも必要とされてないし、生きてる意味もないしとか、
責任転嫁して。
改善する努力も出来ないで、
余計なことを気にしてますます、
余裕なくなって。
朝は弱いまんまだったから、仕事も無理が来た。
“影で愚痴を言いながら従っているのは奴隷だ“
って、昔に本で読んだ気がするけど。
もやもやを吐き出しても。
筋トレでも発散出来ないくらいの、淀みがたまってた。
そんな、自分でも許容されるような、
ぬるま湯から出ないと、
今の自分と向き合わないと。
次の40年の自分の未来なんて、
描きようがないって。
なにか、まず発することで、
その先の自分や、その目に映る景色や、
出会う場所や人が、変わってくるかもしれない。
相変わらず、
何いってるかわかんない。
他人には意味不な長文だけど。
ゆるい決意表明なのか。
遺言になるのかわからんけど。
今のところを、記してみたよ。
*******
最近観た作品など:
音楽イベント
「AKB48グループ 歌唱力No.1 決定戦」(2024年7月23日/立川ステージガーデン)
有休とって、現地に行きたかった!
連ドラ
「持続可能な恋ですか? ~父と娘の結婚行進曲~」(2022年)
腰が細い! ヨガの本を買ってしまったよ(未読)。
ドキュメンタリー映画
『ようこそ映画音響の世界へ』(2019年)
スター・ウォーズは音響あっての大ヒットだったのね。。
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【撮影時期:2024年9月、使用機材:AQUOS sense5G SHG03】
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wish-less-gallery · 2 years
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1/26木、本日12-18時まで営業。ロブキドニーの個展開催中です。寒い冬を吹っ飛ばすホットでチャーミングなロブの原画作品をご堪能ください。 Rob Kidney's solo exhibition is now open. Enjoy Rob's heartwarming and charming original paintings that blow away the winter cold🌬️ Thursday 26th January open from 12-6pm today. JUST ONE MORE GLASS... mixed media on canvas W60 x H72.5 cm 2023 / signed —- Rob Kidney solo exhibition/ロブ・キドニー 個展 「FROZEN, CHILLED & DRY」 2023年1月21日(土)~2月5日(日) 営業時間:木曜~日曜 12:00~18:00 休廊:月曜~水曜 会場:WISH LESS gallery (東京都北区田端5-12-10) @rob_kidney @wish_less --- WISH LESS galleryでは、英国人アーティスト、ロブ・キドニーの個展「FROZEN, CHILLED & DRY」を開催いたします。 ロブキドニーが描く、異次元からやってきた大量のオリジナルキャラと自由奔放な色彩が織りなす鮮烈なコズミックワールドをお楽しみください。 --- 10代から絵を描き始めて以来、まともなスケッチブックを持ち歩いたことがありません。使うのはいつも紙ナプキン、ホテルのメモ用紙、スーパーのチラシ、100円ショップの安い紙など、思いついたときに手近にあるものばかりです。 こうしたドローイングの切れ端は、スタジオの片隅にあるボックスファイルへ一旦放置されます。 大量の素材が集められたフォルダは、「冷凍・冷蔵・乾燥」された原材料の保管場所となり、手を突っ込んで無作為に選んでは、新しいアイデアや創作のヒントを生み出すきっかけとなります。 手にした素材はリミックスされ、再加工され、再構築され、また時には、そっくりそのまま模写されることもあります。 本展は、過去に見落し放置されていたドローイングをもう一度見直す試みです。主にマーカーペンと12B鉛筆を用い、大胆でストレートなドローイング制作を称賛するインスタレーションも行います。さらに最新のペインティング作品も発表いたしますので、ぜひご期待ください。 --- ロブ・キドニー 英国出身のアーティスト/イラストレーター。ブライトン大学イラストレーション科卒業。現在は東京を拠点に活動。 鮮やかな色と力強い手描きのラインを駆使したユニークなキャラクターアートを得意とし、音楽、ファッション、インテリア雑貨など様々な分野にイラストを提供。 2012年より、東京・田端にあるギャラリーWISH LESSのオーナーとして、国内外の作家の展覧会キュレーションも行う。 —- #ロブキドニー #robkidney #FROZENCHILLEDDRY #teddybear #posca #poscapens #poscaart #watercolors #watercolor #wishlessgallery #artcollector #アートコレクター #wishless #tokyojapan #cute #kawaii #art #paintings #アート #ギャラリー #galleryintokyo #artcollector #テディベア #uk (WISH LESS) https://www.instagram.com/p/Cn3I1ylSroj/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tokyomariegold · 1 year
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2023/5/1〜
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5月1日 連休中の平日だけど思ったより出勤している人が多め。 5月らしいさわやかさに薄着で出たら身体を冷やしてしまったのか、2日ぶりのナイアシンに耐えられなかったのか、なんだか息苦しさと目のくらくらで絶不調。 昼休みにソフィカルの展示の作品リストと解説を図書館で借りる。 仕事が急に落ち着いてしまって、ぼーっと帰宅したら、なんと電車が運転見合わせ中とのこと! 他路線へ換えが効かない陸の孤島のため絶望中。 大人しく休んでおけばよかった!
なんとか運転を再開した車内で日記を書いたり、文字起こしをしたりした。 こないだ見た校正作家(?)のプロフェッショナルみたいに、自分で自分の文章を第三者目線で校正できるようになりたい(けど、tumblrに今日も誤字を見つけてしまった。)。
展示のこと、本当にできるかまだ分からなくて、意気込み過ぎたくなくて、でも頭の中でどんな展示にしようか、キャプションはどうしようか、考えてばかりいる。そしてこの展示が結構満足にうまくいったら(自己満)、もう本当に何もなくなるかもしれない。 一緒に展示をする予定の友人が言っていた「まあ失敗してもはじめてだし、とりあえず展示しましょう。」みたいな言葉を思い出している。
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5月2日 連休前日の出勤で心はお休みモード。 だったので赤いコートを着て三脚とカメラを持って出かけた。
家を出てすぐの道でよたよた歩いていたら、後ろからきた自転車に「真ん中(道路)歩いてんじゃねえよ」と言われてがっかりした気持ちになる。 わたしを置きたいところがどこにもない、新緑の美しい木々などを眺めて、緑が生えるわね、と写真を少し撮った。 職場は午前で帰る人が多くて、なんだかぬるっと休みに入ってしまい気持ちが不完全燃焼でそわそわしたので、帰宅して大げさに掃除をした。
そのそわそわの帰路では並行して明日のディナーのことを心配したり、もうとても行きたくない!!と体調不良でドタキャンをしたい気持ちにもなっていた。 多分疲れていてこういう日は何をしてもダメ。 たくさん値引きされた魚売り場で、たくさんあり過ぎて何も選べなくて途方に暮れた。
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ただ2つ。青柳さんの“そだつのをやめる”をまた読み進めて楽しかった。 大自然とは、山や川や木々の中や野生動物ばかりにふさわしい言葉ではなく、昔の同級生を見かける駅前や魚屋さんのヤクルトや教科書のページ数にもふさわしく、そうゆうものだって巡り巡って生長したりするよね、と思った。
もう1つは今日マチ子さんの座談会の抽選が当たった! ただ友人と遊ぶ予定と重なってしまい、スケジュール管理をちゃんとしないと……その友人に、なぜか写真展を計画していることを伝えられずにいて、相手からそれについてメッセージをもらったので、スケジュール再調整となぜか写真展のこと秘密っぽくしていてごめんなさい、と返信した。
明日は漂白してクリーニング出して、少し写真の編集をして、香水をみて、夜ご飯を食べに行く。 食べられなかったら眺めておく。
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5月3日 セセラバアドという分子ガストロノミーという料理のコースを食べに行った…! ちょっと、いろんな意味ですごい夜過ぎて、やっぱり人と楽しく食事をすることって大切なのかも、と思ったし、ちゃんと栄養取れている時は脳も回転するので会話がスムーズに進む気がした。 こんなことではなく、もっといろいろあったのですが、今日は一先ずおやすみなさいです。
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5月4日 昨日の分子料理が刺激的過ぎてチケット予約していたダムタイプの展示には行けなかった。 今日は何もなかった。
クリーニング屋さんは今日と明日がお休みだったので、ただ駅向こうと家を往復した。習い事の用事を入れて一駅電車に乗った。 その先のショッピングモールでなんとなく無印に行くと、すっかり夏仕様。 去年美味しかった冷やして食べるカレーが出ていたので買ってみる。桜のお菓子がまだ残っていた。でもよく考えるとまだ5日前は4月。
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ちょっとした家の周りも混んでいて、世の中に人ってこんなにいて元気。 その1日を過ごしながら、昨日友人と体験した分子ガストロノミーのコース料理のことと、その時間友人がいつも以上にいっそう可愛かったことを思い出していた。 どれくらいの格式の高さの食事なのか、と緊張して向かったけれど、小さなお店の暖かい外国の裕福な家庭みたいなインテリアの店内で、落ち着いた心地よい空間だった。スニーカーで行けば良かったな。 席についてからずっと何かが起こっていて、次々と運ばれてくる飲み物や料理をメニューで確かめたりペアリングを気にしたり、QRコードで和歌ペアリングをみたり、お互いの会話をしたり、食事の内容が味わっても味わっても「??!」とよくわからなくてコースの流れに乗り切れず大変だった。 とにかく忙しくずっと自分のテンションがおかしくなっている感じ。 食事をすることのストレスはありつつも、出てくる料理がエネルギー補給の食事とは次元が全く異なるものすぎて、食べることの罪悪感がわからなくなってほぼ完食していた。(料理は自然?生物?的な表現をしていたものがほとんどで、自然からとった生命を調理してまた自然へ戻しているような感じ。)
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苔玉のコロッケ、見た目が苔玉すぎて難しそうなのに食べると商店街って感じで面白かった。
でも料理長はじめ、スタッフの方々が特段食べるのが遅い私のペースを逐一確認しに来たり、飲み物を飲み干しきれずどんどん出てくるドリンク(抹茶のリンゴジュース割り、スパイスの効いたオレンジのお酢ドリンクなど、すごく美味しかった…)を少しの飲み残しも許さずに下げてもらえないのとか、しびれを切らした料理長から「コースなので!みなさん流れが決まっているので」と急かされたりして、食事をする環境としてはかなりつらさがあった。
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刺激的なもの過ぎて、わたしの日常がつまらなくて当たり前だと落ち着く。
1日ではまだ何も整理がつかず、とにかく大の苦手な食事にまつわる新体験をして、とても忙しかったです。 それもあってか、今日は心身ともに疲れてしまっている。また行きたいか、というと、そうゆうものでもない。でも体験できて良かった。
帰りに閉店間際のスーパーに寄ったら、最終値引きの食料たちが並んでいて、さっき見たものと同じような栄養素に分解してしまう私の身体が嫌だな、と思った。
なるべく高価なものを食べたい、とミックナッツでなく、ナッツで1番高価なマカダミアナッツだけの詰め合わせを買おう、とネットショッピングしながら眠った。
友人と食事をしながら、いとこの話などをした。 代々木上原の街の階段で「邦画みたいだね!」と写真を撮ったりして楽し買った。パンはパンだった。
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dakinyasworld · 6 months
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体の病気になってから、
以前からうっすらあった第六感がはっきりしちゃった💧
博物学の勉強してて、学者方面を目指してるから、事実確認できない事は苦手で、霊感って言い方にも慣れないから、うちでは第六感って書きます。
前からちゃんと心療内科の医者にも相談済みです(爆)。
因みに凄い人が居るそうです、私よりも凄い人が(爆)。
不眠症で長い付き合いの主治医なので、私にはいろいろオフレコしちゃう主治医💧
私「解離性障害じゃないんですか?」
主治医「…ちゃうねん…。居るねん、恐山のイタコさんみたいな人…。」
と、当時は、主治医が見た中では、「レベル5ぐらい」と言われたので(爆)
レベル1の人、怖い…💧
うわっ、レベル上がっちゃった。
でも、まあ、慣れるしかないかなと思っている。
因みにその主治医とは「五感の延長線上かもしれない」と言う解釈で行ってます。
私も今でも基本的にはそう思う。
脳のどこかまだ解明されてない部分の感覚とかね。
現代医学なんかまだ解明出来てないですよ、人体の全て、脳は特に。
クローン動物作れる時代なのにね、まあ、劣化するみたいだけど、クローン遺伝子は。
人間でやっても環境要因で人格は変わるわ、SF映画みたいに上手く行かんよ。
キューブリック原作の「A.I」はよく出来た話だったけどね。普通に面白い。
私は「攻殻機動隊」の素子みたいになりたいなー、SFなら。
いや、素子状態もめんどくさそうだわ、魂が消えずにずっと情報の中を彷徨ってるなんて。
お亡くなりになったら、普通に綺麗に消えたいわ。
押井守版が好きだから、押井守版の素子がかっこいいだけだわ(爆)。
球体関節人形好きだから「イノセンス」の方が好きだし。
ハダリのモデルが吉田良さんの人形で、キムのモデルが四谷シモンさんの人形。
「イノセンス展」行きました、あれ良かったー。
香川は割と近いから四谷シモン館(淡翁荘)、また行きたい!
てか、住める、あの美術館(爆)、洋館だし。
寝るとことお風呂あったら、お手洗いはあるし。
あそこから仕事行って帰宅したらシモンドール眺めながら、普通に生活出来ちゃうなー。
インテリアはモロに好みだし。
(他の人が来場出来んわ(爆)
展示スペースは開けとかんと、ミュージアムは💧
第六感は慣れるしかないですね💧
前はもっと分かる人に見て貰った方が良いかな?
とか、
修行とかした方が良いのかな?
とか思ったりもしたけど。
因みに基本的に、神様とか良え存在にしか繋がりません。
ラジオのチャンネルみたい。
その辺のコントロールは、ついてくれてる神様のお稲荷さん曰く、私は自然と出来てるらしいので、
強まっちゃったけど、余計な修行とかしなくて良くて後は慣れたら良いだけって💧
私もそれで占い師とかしたくはないから、自分が分かる分に慣れて普通に生活するので良いわ(爆)。
あんな商売絶対嫌やわ、もし自分に分からん事あっても分かってるフリしてる人居ると思うもん(爆)。
「それは私には分かりません」って正直に言っちゃったら、一応客商売やしお客さん来なくなるもん(仕事にした以上は仕事には貴賤なし)。
恐山のイタコさんとか、8割演技やろうなって子供の頃から思ってたし(爆)。
ケーブルテレビで見た韓国のムーダンって言う巫女さんは、トランス状態になって、やたらとお金請求する!(爆)
うーん、あれは殆どが普通にトランス状態なだけだわと思った、と言うかお金請求がマジで凄い(爆)。
後、今、生前に会って話した事がある方が、側にいらっしゃるー。
その方の訃報を知って、普通にご冥福を祈ってたんだけど、
生前から、やたらリアルなその方と会う夢見てて(ユング論の世界だなあ)。
んー、簡単に言うと天国みたいなところにはちゃんと行ったけど、そこで普通は消えるらしいのだけど、
その人は起きちゃって、誰にも会わないし何にも無いから、ちょっと念じれば、生きてる人の世界に行けて夢とかに出たりしちゃえるらしい。
もうそう言うところを管理してる神様とかもしょうがないと好きにさせてるらしい💧
悪い事は何もしないで、今は所謂守護霊さんみたいな感じで居てくれている。
もっと交流深かった人の所に行っても、見えないから夢に出るのが精一杯らしくて、…出まくってるらしい。
で、何となく覚えてたらしい私が、見えるので今のところ側に居てくれている。
ご本人も亡くなった自覚とかもあるから驚いてらっしゃる。
私についてくれているお稲荷さん曰く、
「この人魂が特殊。」
「神様みたいな存在になっちゃってる。」
「こうなったら神様になるしかないんじゃないの。なっちゃっても良えわ。」
などなど特殊事例らしい。
ご本人も驚いてらっしゃるけど、お互い慣れるしかないです。
まあ、楽しそうにしてくれているので良かった。
もっと交流深かった方々のところにも出て分かって貰えると良いですね。
「分霊?ってどうやるの?」
とかお稲荷さんに聞いてらっしゃるけど。
お稲荷さんもそれは感覚的なものだから修行してくださいと。
まあ、所謂「汎神論」を身に付ける事らしい。
「草を分けても私はそこに居る、石を退けても私はそこに居る。」
と言う「トマスの福音書」の感覚を身につけると、普通に分霊とか分御霊とかが出来る様になるらしい。
お稲荷さんが、
「よう知らんけど外国の神様はそれが下手じゃ!
あ、神様が下手なんやなくて信じとる人の組織が否定しとるんか。
頭硬い言うか勿体無いのう。
せっかく教会とかにも居る時あるのにな。
てか個人にちゃんと現れとるのにな。」
と言っている💧
はいー、私、いろいろあって棄教しましたが、以前まで未洗礼のクリスチャンで教会の御ミサや勉強会とか行ってました。
で、聖堂に居らっしゃる時と、居ない時と何となく分かりました💧
流石に御ミサの時は居らっしゃいます。
でもその後は聖堂開いてても居はる時と居らっしゃらない時と何となく。
まあ、聖堂は静かで美しいので、お祈り出来れば良いんです。
祈りはちゃんと届いてるので凄い。
キリスト教を信仰してたのも幼少期にヴィジョンを見ちゃって。
それ言うと関係者の方「呼ばれてる!」とびっくりしはるんやけど。
私、ちゃんと呼ばれたシスターに会った事あるので大丈夫ですよー。
本当に聖霊に���たされてる方はマジで居ます���、お祈りもちゃんと神様に通じてますー。
私が棄教したのは、
「原罪」って言う考え方が合わなくて、
ロザリオでお祈りの途中に余計な罪悪感とかがフラッシュバックしちゃって。
棄教する!って本気で決めたら、背中からガターン!と大きな十字架が外れた感覚があって。
うわー、未洗礼でも背負ってたのか…💧と、
…背中軽くなった(爆)。
でもまあ、良い経験したなあ。
芸大の美術学科卒で西洋美術専攻(銅版画ゼミだったからそっちに力入れて学んだ)だったから…
宗教画見るのしんどくなったのが嫌だけど(爆)。
好きな画家の絵が見れんわ!(爆)
山田五郎さんのYouTubeが見にくいわ!
十字架モチーフのゴルチエのアクセサリーはゴルチエ好きだから開き直った(爆)。
と。
みうらじゅんさんゲスト回とか、今まで知らなかった日本画家とかの回なら見れるかな。
と言うか宗教画系の西洋美術は卒業後もやり過ぎて普通に見飽きてるのあるから良いや。
でもパリはまた行きたいなー、一人で行くの治安悪くて怖いけど💧
以前は中世フランス史の学者の叔母と行ったし、叔母もまだ行ける年齢だったので。
パリ、マジで危ないですよ。
兄がロマ(ジプシー)の人達にスマホ盗られました。
裏にギャングついてます。
ヴィクトル・ユゴー「ノートルダムドパリ」の移民の方々の裏社会はまだ続いてます。
ディズニー版のクロパン好きだけど。
ちゃんと中東系で、SISTEM OF A DOWNのギタリストのダロン・マラキアンに似てるわ(爆)。
クロパンかっこいいわ。
アンソニー・クインの映画のクロパンもかっこいいわ。
あれ澁澤龍彦さんが絶賛してたけど、私も好きだなぁ、ああ言う「キレキャラ」。
と、夜遅くなってしまった点滴が終わった。
日記機能が使いにくくなったので、一区切り。
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俺、今日、初出勤した、作業所、の、一回目の、体験のとき、この道、まーっすぐ、帰ったんよ。そしたら、左手側に、博多の、BOOKOFFに、出たんよ。だから、2回目の体験のとき、博多の、BOOKOFFの、前の歩道を、まーっすぐ、歩いて、今日、初出勤した、作業所に、向かったんよ。そしたら、作業所近くの、すき家が、左手側に出て来て、反対側歩道に、交差点、渡れは、もう、すぐ手前が、作業所の、はずなんよ。そしたらさ、2回目の、体験のとき、歩けと、歩けど、すき家、出てこんのよ。不思議なことに。で、時間、間に合わんし、道、分からんから、タクシー、ひろって、作業所の、住所、伝えたんよ。そしたら、作業所、俺が、すき家目指して、歩いた、真逆に、作業所あるって、運転手、言うのよ。で、結局、2回目の、作業所体験の時間、ピッタリに、作業所着いて、結論、間に合ったんやけど、どう、考えても、一回目の、作業所体験の、帰り道で、左手側に、博多の、BOOKOFF、出てきたこと、おかしいのよ。そう、実は、霊界の再臨のときに、これと、同じ現象、次郎丸の、近所でも、起きたんよ。俺、とにかく、去年の夏、霊界の、再臨の、真っ只中のときに、七隈線、次郎丸駅に、向かって、歩いたんよ。そしたら、出てきた、風景、俺の、アパート裏の、歯科台前の歩道の、あじさい、咲いてる川に、出てきたんよ。あと、七隈線、加茂駅、下車して、次郎丸、自宅に、歩いて、帰ったら、出てきた、風景、野芥の、カッパ寿司の、隣の、BOOKOFFに、出てきたんよ。で、仕方ないから、ブックオフ入って、二階の古着コーナーで、見つけた、ベンデイビスの、ベージュの、半袖Tシャツ、買ったんよ。で、また、歩いて、次郎丸の自宅に、帰ったんよ。で、もう一つ、言うなら、去年の夏、未来の亡霊林檎と、博多駅なかの、新幹線乗り場で、待ち合わせして、結局、色々合って、生きてる、林檎とは、会えなかったんやけど、終電のがして、博多から、天神向かって歩いたんよ。そしたら、ふと気づいたら、博多から、天神駅、通り越して、六本松の、大きな、神社と、七隈線、六本松駅の、科学博物館あるところの、ちょうど、中間地点に、ワープしてたんよ。つまり、博多から、天神通り越して、六本木駅、付近、歩いてたのよ。気づいたら。そのとき、アカシジア、末期で、タクシー、一回、拾ったんやけど、足のムズムズ酷くて、一分も、経たんうち、タクシーおろしてもろて、こりゃ、歩いたが、まだマシやわって、そのとき、交信してた、爺ちゃん【仏様🦠】と、キヨコ👾と、色々、話しながら、帰ったんよ。で、その時、キヨコ👾グレてて、あんま、良い宇宙人では、なかったんよ。で、林檎と、会ったら、プレゼント🎁に、ポテトの、インテリア用品買って上げてたんやけど、りんごに、買ったあと、キヨコ👾も、同じのが、欲しいと、言い出したから、その、ポテト🍟の、インテリア用品買った、店に、戻って、キヨコ👾の分として、もう一つ買って、リュックサックに、入れたんよ。つまり、計、2つの、ポテト🍟の、インテリア用品、リュックサックに、入ったまま、自宅まで、徒歩で、その日、帰ったんよ。もう、かなり、自力の、限界超えてたんやけどな、その日は。なんせ、俺が、ようやく、卵から、殻を、破って、産まれた日なんやから。で、家帰って、布団に、横になってたら、いつの間にか、寝てて、起きて、リュックサックの、ポテト🍟の、インテリア、取り出そうとしたら、一個しか、ポテト🍟の、インテリア、入ってなかったんよ。勿論、今も、見つかってないのよ。もう、一個、買った、キヨコ👾の、分の、ポテト🍟だけ。
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で、林檎と、博多の新幹線乗り場で、待ち合わせたのは、改札前の、写真なんやけど、この👆☝️デカく、投稿された、博多駅を、出て、すぐの、広場で、タバコ吸うてたんよ。てか、ここの、広場と、新幹線乗り場、改札前を、林檎、待ってる間、何時間も、行ったり来たりを、繰り返してたんよ。タバコ吸うために、ここの、広場出ては、吸い終わったら、また、新幹線乗り場、改札前に、戻っての繰り返し、つまり、往復して、時間、過ごしてたんよ。で、ここの、広場に、一匹の、美しい、黒猫、座ってたんよ。で、俺と、交信して、話したんよ。その時、黒猫は、前も、伝えたけど、俺に、バカだニャンを、連呼してたんよ。つまり、前も、言ったけど、俺が、交信してるのは、未来の、林檎の、亡霊であって、生きてる林檎では、ないから、勿論、生きてる林檎には、新幹線乗り場、で、この日、待ち合わせてることさえ、伝わってるはずはなく、いくら、俺が、ここで、林檎、待っても、来やせんよ、と、猫は、考えてたんよ。でも、俺は、その時、俺が、交信してる、林檎が、未来の亡霊、林檎なんかとは、知らないから、テレパシーで、林檎と俺、伝わってると、勘違いしてたんよ。爺ちゃん 【 仏様🦠】は、そのこと、勿論、知ってるけど、一緒になって、もう少し、待ってみよう、もう少し、待ってみようと、言うてたんよ。そのときは。つまり、俺が、交信してるのは、生きてる林檎ではなくて、未来の亡霊、林檎であって、テレパシーと、俺が、勝手に、勘違いしてるだけってことに、自分で、気づくのを、爺ちゃん【 仏様🦠】 は、待ってたんよ。で、最期、終電のがして、博多駅も、閉める準備、始まったから、結局、場所変えて、待つねって、林檎に伝えて、今度は、博多駅、反対側、交番近くの、木の前で、待ち合わせの、約束を、あらたに、したんよ。でも、勿論、林檎は、現れず、俺も、その日、ずっとキレてたんやけど、あるとき、林檎から、こう、言われたんよ。私は、ずっと、あなたの、近くに、いたのよ。つまり、今も、ここにいるのよって、交信してる林檎が、言うてきたんよ。で、俺は、目を凝らして、林檎の声のするほうを、凝視してたら、ほんとに、一瞬だけ、ショートカット、黒髪の、林檎が、立ってるのが、見えたんよ。ただ、上半身というか、ポートレイト画像で、一瞬、浮かび上がって、消えたんよ。そう、例えるなら、文庫本の、小説家が、1番最初の、ページ右側の、文庫本カバーに、顔から、肩までの、写真、載せてるやん、ちょうど、あんな感じで、林檎が、すっと、7メートルから、10メートル前に、浮かび上がって消えたんよ。で、俺が、タバコ吸ってた、博多駅広場とは、真逆の、広場、つまり、交番あるほうの、広場なんやけど、さっき、博多駅、反対側の広場で、話してた、黒猫が、俺と、一緒に、ついてきてたのか、までは、知らんけど、とにかく、場所移動して、また、俺の、近くに、座ってたんよ。つまり、この、黒猫も、俺が、気になって、しょうがないんだよ😂で、結局、爺ちゃん=仏様🦠と、もう、帰ろうかって、話して、キヨコ👾と、三人で、話しながら帰ったんよ。
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hayano-lolitart · 2 years
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京都芸術大学 [旧 : 京都造形芸術大学] 2022年度 卒業展 大学院修了展 レポート32 (さいご) 会期 2023/02/04 (土)~ 2023/02/12 (日) 10:00~17:00 ※入場 ~16:30 会場 京都芸術大学 京都・瓜生山キャンパス 〒606-8271 京都府 京都市左京区 北白川瓜生山2-116 Google Map - Plus Code 2QPV+R5 入場料 無料 京都芸術大学 [旧 : 京都造形芸術大学] ホームページ [🔒️常時SSL対応] https://www.kyoto-art.ac.jp/ チェックイン 2023/02/04(土) ① 大学の概要 芸術学部 美術工芸学科 基礎美術コース 日本画コース 油画コース 写真・映像コース 染織テキスタイルコース 総合造形コース マンガ学科 ストーリーマンガコース キャラクターデザイン学科 キャラクターデザインコース 情報デザイン学科 ビジュアルコミュニケーションデザインコース イラストレーションコース クロステックコース プロダクトデザイン学科 プロダクトデザインコース 空間演出デザイン学科 空間デザインコース ファッションデザインコース 環境デザイン学科 建築・インテリア・環境デザインコース 映画学科 映画製作コース 俳優コース 舞台芸術学科 演技・演出コース 舞台デザインコース 文芸表現学科 クリエイティブ・ライティングコース アートプロデュース学科 アートプロデュースコース こども芸術学科 こども芸術コース 歴史芸術学科 文化財保存修復・歴史文化コース 大学院 芸術研究科 芸術専攻 (修士課程) 美術工芸領域 デザイン領域 建築デザイン領域 芸術文化領域 歴史遺産研究領域 文化創生領域 グローバル・ゼミ ② キャンパスの概要 [NA] 人間館A棟 [NB] 人間館B棟 [NC] 人間館C棟 [B] 望天(ぼうてん)館 [F] 未来館 [J] 直心(じきしん)館 [K] 興心(こうしん)館 [S] 至誠(しせい)館 [SE] 千秋堂 [SO] 創々(そうそう)館 [BR] 智勇(ちゆう)館 [T] 高原校舎 ③ レポート [NA] 人間館A棟 4階 芸術学部 歴史遺産学科 文化財保存修復・歴史文化コース No.05 福川照真さん "令和2年7月豪雨における球磨川流域の文化財の被害と復旧活動から見た今後の対策への提案" SDGsの達成、およびその先の未来に関わっている大きな課題であり、未来のために極めて重要なことを記されており、良かったです。 No.34 瀬戸口澪さん "京都といけず石 ~分類・分析から見えてくるもの~" 何気なく日常に含まれているお土地柄。 それを目につけているところが良かったです。 No.42 水野七海さん "セロハンテープの劣化メカニズムと除去方法の検討" 身近なものであって、よく用いられるが故に、すごく参考になるというところと、実験精神が良かったです。 2階 キャラクターデザイン学科 キャラクターイラストコース 田中美玲さん "ハッピーハッピートラベル" 可愛い世界観が、私の好みな雰囲気で、気に入りました。 [NC] 人間館C棟 美術工芸学科 日本画コース 小林楓花さん "イーハトープ" 自然の描写が、少しダークな雰囲気でありつつ、そして色合いが美しく、良かったです。 酒井結莉香さん "移ろいゆく" 残響のような、かすれのような、抜けるような感じの風合いが良かったです。 橋本妃織(きらり)さん "うもれる" この作品のテーマとされている"不安"と、 タイトルの"うもれる"を踏まえた上で、 そのニュアンスの視覚的表現が良かったです。 そして、可愛い画の雰囲気が私の好みでした。 吹ノ戸梨花さん "あるがまま" 画のぼかし加減、藤の描写が綺麗で、良かったです。 森明美さん "Effect of Make Up" ファッションの要素が含まれた作風が、強烈かつ美しさを感じられて、良かったです。 内藤美羽さん "うるわし心地" テーマとされている"ものの装飾"の、うつわや食べ物の細かい描写、全体的な美しさがあり、素敵で良かったです。 (京都芸術大学(Kyoto University of the Arts)) https://www.instagram.com/p/CouhE4OyzMz/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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naillabojp · 7 years
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Repost from @lovepuff53 @TopRankRepost #TopRankRepost - 本日は、いつもお世話になっている原宿のネイルラボさんへ行ってきました😃✨ 9日〜12日までSALE期間です✨ - #Gellyfit を使用した画像のアートチップ4種類が、ネイルラボ店舗に展示されると思いますので、ご参考までにどうぞ😊✨ - #フェアリーストーン の売り場にも怖〜い猫ちゃんのPOPがあるので、猫爪ネイルのご参考にしてください😸💅✨ - #吉祥寺ネイルサロンcreampuff #ボヘミアンネイル #ストーンマーブル #雪の結晶 #フラットニット #ニットネイル #ふわふわ #ざっくり #チェックネイル #アートサンプル #サンプルチップ #展示アート #猫爪ネイル #ネイルラボ原宿 #Naillabo #模様替え #壁紙 #壁紙貼り #壁塗り職人 #床張り職人 #インテリア科出身 #DIYなら任せろ
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hatanowataru · 3 years
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婦人画報web版で展覧会の紹介をしていただいています。 https://www.fujingaho.jp/culture/gallery/a37653721/kurotaniwashisakka-hatanowataru-2021exhibition/ 手漉き和紙で表現する闇の黒と白。京都・黒谷和紙作家 ハタノワタル個展「とまる」 東京・代官山ヒルサイドテラスgallery ON THE HILLにて、2021 年10 月8 日から17 日まで開催。 京都・黒谷和紙作家 ハタノワタル 個展「とまる」 自然とつながった暮らしから生まれる「積み重なったもの」の美 京都府北部、綾部市にある黒谷の山里で、平家の時代から800年以上受け継がれてきた「黒谷和紙」。東京の美大で絵画を学んだハタノワタルさんは、卒業間近にこの和紙と出合い、山深いこの地に移住して「日本一強い和紙」を漉き続けて20年余という和紙作家です。自ら漉いた和紙で作品を作り始めたのは、約10年ほど前。手掛けた小箱や文具は静かなヒット商品となり、現在は、平面作品の制作から空間のデザイン施工をも行う気鋭の作家として、新たな和紙の可能性を追求しています。 代表作である「積み重なったもの」シリーズは、和紙、土、顔料などが幾層にも重ねられ、長い年月をかけて積み重なってきたものの美しさを表現しています。また、数多く手がける無彩色な作品についてハタノさんはこう語ります。 「黒は無意識や想像力を導くような、とても深い色です。闇を見たら怖いと感じるし、そのような恐怖から出てくる創造性があると思います。妖怪を想像したりアイデアが浮かんだり、夜になれば見えてくるもの。そのようなものを黒で表現しています。白は窓の外を見るような、開放していける色。白骨化していく、古びていく、白茶ける、といった風合いを意味した白だと思っています。黒も白も想像のきっかけになれるものを作っていきたいです」 本展覧会のテーマは『とまる 』 。自分の時間を一度止めて、立ち止まって考えてみようという作家の想いが込められています。黒い空間の闇を演出した会場を訪れれば、慌ただしい日常の時間から自分と向き合える場に導かれ、自分自身の無意識や想像力に出合える。そんな展覧会になることを目指しています。 ■「とまる」黒谷和紙作家 ハタノワタル展 会期:2021 年10月8日(金)~10月17日(日)11時~19時(最終日は17時まで) 作家在廊日:10月8日(金)、9日(土) 会場:gallery ON THE HILL(代官山ヒルサイドテラス内) 代官山ヒルサイドテラス・ヒルサイドフォーラム 東京都渋谷区猿楽町18-8 ヒルサイドテラスF 棟1F 会期中無休・入場無料 主催:一般社団法人オンザヒル 協力:ヒルサイドテラス 照明:ニューライトポタリー 写真:岡野圭 展示販売作品:平面作品、家具、小箱、和紙 ※ 新型コロナウイルス感染症の影響により、予定が変更になる可能性がございます。最新情報はgallery ON THE HILLでご確認ください。 ■オンライントークイベント「とまる―立ち止まって考える」 黒谷和紙作家のハタノワタルさんと、ゲストにデザイナーの皆川明さんをお迎えし、テーマ「とまるー立ち止まって考える」について語ります。モデレーターを建築家の榊田倫之さんが務めます。 日時:2021 年10月9日(土)16時 ~ 17時半 参加費:無料 出演:ハタノワタル(黒谷和紙作家)、皆川明(デザイナー) モデレーター:榊田倫之(建築家) オンライン配信についてはギャラリーのウェブサイトをご確認ください。 ※YouTube チャンネルから配信予定 ※ 予約なしでどなたでもご覧いただけます 和紙作家ハタノワタル 〇プロフィール 1971年淡路島生まれ。多摩美術大学絵画科にて油画を専攻したのち、和紙と運命的に出合い、京都北部の地場産業、黒谷和紙の研修生となる。00年に黒谷和紙漉き師として独立、紙漉きという工芸のフィールドを中心に活動する傍ら、和紙を使った空間をデザイン、施工も多数手掛ける。展覧会は国内外で多数開催され、和紙の魅力を伝える一方、アート活動も並行して行う。現在、大阪南船場にてハタノのアートに特化したhatanowataru gallery を準備中。 hatanowataru公式サイト hatanowataru instagram ■オンライントークイベント登壇者 みながわあきら〇プ��フィール minä perhonen(ミナペルホネン)デザイナー。1995 年にブランドを設立、オリジナルテキスタイルによるファッション、インテリアの製作を手掛けている。産地との協業、共存を土台としたものづくりはサステナブルの観点から語られることも多い。 さかきだともゆき〇プロフィール 株式会社 新素材研究所所長、美術家・杉本博司のパートナーアーキテクト。京都芸術大学非常勤講師。仕事に、小田原文化財団江之浦測候所(2017)、清春芸術村ゲストハウス和心(2019)等。 #galleryonthehill #ヒルサイドテラス #ハタノワタル https://www.instagram.com/p/CUWUPwBF3Ro/?utm_medium=tumblr
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raison-du-etre · 3 years
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※noteに投稿したやつです
ここではっきり言ってしまうと、わたしは人間が嫌いだ。
とにかく心が開けない。空気感で本音か嘘か感じ取ってしまう。それは間違いかもしれない。でも相手の嘘を感じ取った瞬間にその人との未来は偽物になる。
街を歩いていても視線がこわい。すれ違う人全員に見られている気がする。派手な見た目をしているからかもしれない。でも、わたしにとって派手な見た目をすることは一種の攻撃に値する。毒ガエルや毒キノコと一緒だ。派手な見た目なだけで人は話しかけづらくなる。近寄りがたくなる。都会で身につけた術のひとつである。
【人にみせるわたし】
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小さい頃から妖怪が好きだった。初めてDSを買ってもらった時もみんなが人気のカセットで遊ぶなか、わたしは馴染めず、ゲゲゲの鬼太郎のカセットで遊んでいた。もしかすると人間嫌いが当時からあらわれていたのかもしれない。
人に合わせることが多い人生を送ってきた。嘘が嫌いと言ったけれど、今までのわたしは嘘ばかりついていた。人に合わせるための嘘。「それ知ってる!」「たしかにそうだよね〜」なんて言葉は気付いたら口からこぼれていた。
おとなになって(まだ学生だが)、人と合わせる必要がないことを知った。おそらく初対面で会った人たちはみんなわたしのことを怖がるだろう。そのくらいには愛想笑いのない、嘘の共感をしない人間になった。
嘘をつかないことはとても楽だ。ひとつ嘘をつくと、どんどん嘘を重ねなければいけない。かなり頭を使うし、嘘をつくにつれて罪悪感も増える。
【鬱(うつ)】
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何回も精神科に行こうと思った。死にたくて仕方ない時は今まで数えきれないほどある。落ち込んでいる時は家から出られない。食欲もないので家から出る必要がない。お酒だけ飲んで、タバコを吸ってただ寝るだけだ。
鬱が消え始めると急に創作意欲が増す。ぬいぐるみ、絵、インテリア。いろんなものを自分の色にしたくなる。そうして絵を描いて針を刺して、カラッと元の自分に戻る。急にお金がなくなる。欲しいものを買って、食費も増える。
そのようなサイクルを幾度となく繰り返してきた。そろそろ病院に…と思う。そんな時にまた嘘を感じ取った。また、病院へ行けなくなる。
【Eye】
〜数々のネガティヴを吸収したEyeは人を嘲笑う。憎しみ、嫉妬、それらを見て瞬きする。幸せをみて涙を��す。〜
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嘘を感じ取るにつれて人を信用できなくなる。そうやって2年。わたしが信用できるのは家族だけになった。この夏、将来地元に戻ることを決意した。それは大学を卒業してからかもしれないし、もっとその先かもしれない。
ただただ、この都会では生きていけないことを理解した。人が多い街はそれだけ嘘が多い。大抵の友達はインスタとかファッションとか、人に見られることを気にして生きている。個性を出したいのかもしれないけれど人の目を気にしている時点でそれは個性ではない。ただただ"見られ方"を気にする一般の人間だ。
【有象無象】
〜見た目だけを気にして中身のないものたち。彼らは気づかぬまま、お互いを傷つけあう。〜
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ここで村上春樹の話をしよう。
わたしは村上春樹作品がかなり好きだ。読み始めるとその世界に陶酔して現実に目を向けられない。月やホテルを見れば彼の作品を思い出してしまう。村上春樹の登場人物はどれも人間離れしている。話す内容も理解できない。しかし、彼らには嘘がない。わたしは彼の描く登場人物すべてを信用できる。
こうして気づけば村上春樹作品しか読まない人間になっていた。これからわたしは信用できる人間に会うことができるのだろうか。将来子どもを産むかもしれない。自分の子どもは信用できるのだろうか。夫は?その母は?そのような考えが頭から離れない。ビールとウイスキーを飲んで頭がくらくらしてきた。わたしのはじめての投稿はここまでにしようと思う。最後に今のわたしを描いた。次書くときにはカラッと心が晴れた自分であることを願う。
【都会がいやになった人】
〜人が多い分、妬みも多い。人が多い分、苦手な人も多い。ここは心の狭い人がたくさんいる。ここに住めば心が狭くなる。生まれの地へ戻りたくなる。〜
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masahirominami · 3 years
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卒業制作2020 西出佳加
擬態することで空間に溶け込む掃除用品
あるデータによると、掃除用品を身近に複数置いておくことが綺麗を保つ上で重要であるそうです。かといって、掃除用品がたくさん置かれた空間は決して整った風景ではありません。
ここでは、観葉植物、ワインボトル、本に擬態した形態を開発することでインテリアに違和感なく溶け込む掃除用品をデザインしました。
観葉植物は使う際に柄を伸ばし、葉っぱを瞬間で収納したり、先端も植木鉢に収納時に畳めるように機構的な工夫がいくつも検討されスタディーを繰り返しました。
本学科は、いわゆる本流のプロダクトデザインを志向する学生が少ないので私は今回、3Dを駆使して指導するのが新鮮でした。これは造形的にシンプルに見えますが、使い勝手を追求するために細部のデザインまでこだわっています。個人的には今まであまりこういう事がなかったなと新鮮に思い、プロダクトデザイン面白いと改めて思いました。
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wish-less-gallery · 2 years
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[LAST DAY] 2/5日、本日18時まで営業。ロブキドニーの個展最終日です。 ピュアで溌剌としたキャラクター達は、見る人を幸せの地に誘います。春の陽気を思わせる温もりたっぷりのハッピーアートをお楽しみください。 Pure and resilient characters invite the viewer to a land of happiness. Enjoy the warmth of happy art, reminiscent of spring sunshine. LAST DAY of Rob kidney's solo exhibition today. Open until 6PM. --- Rob Kidney solo exhibition/ロブ・キドニー 個展 「FROZEN, CHILLED & DRY」 2023年1月21日(土)~2月5日(日) 営業時間:木曜~日曜 12:00~18:00 休廊:月曜~水曜 会場:WISH LESS gallery (東京都北区田端5-12-10) @rob_kidney @wish_less --- WISH LESS galleryでは、英国人アーティスト、ロブ・キドニーの個展「FROZEN, CHILLED & DRY」を開催いたします。 ロブキドニーが描く、異次元からやってきた大量のオリジナルキャラと自由奔放な色彩が織りなす鮮烈なコズミックワールドをお楽しみください。 --- 10代から絵を描き始めて以来、まともなスケッチブックを持ち歩いたことがありません。使うのはいつも紙ナプキン、ホテルのメモ用紙、スーパーのチラシ、100円ショップの安い紙など、思いついたときに手近にあるものばかりです。 こうしたドローイングの切れ端は、スタジオの片隅にあるボックスファイルへ一旦放置されます。 大量の素材が集められたフォルダは、「冷凍・冷蔵・乾燥」された原材料の保管場所となり、手を突っ込んで無作為に選んでは、新しいアイデアや創作のヒントを生み出すきっかけとなります。 手にした素材はリミックスされ、再加工され、再構築され、また時には、そっくりそのまま模写されることもあります。 本展は、過去に見落し放置されていたドローイングをもう一度見直す試みです。主にマーカーペンと12B鉛筆を用い、大胆でストレートなドローイング制作を称賛するインスタレーションも行います。さらに最新のペインティング作品も発表いたしますので、ぜひご期待ください。 --- ロブ・キドニー 英国出身のアーティスト/イラストレーター。ブライトン大学イラストレーション科卒業。現在は東京を拠点に活動。 鮮やかな色と力強い手描きのラインを駆使したユニークなキャラクターアートを得意とし、音楽、ファッション、インテリア雑貨など様々な分野にイラストを提供。 2012年より、東京・田端にあるギャラリーWISH LESSのオーナーとして、国内外の作家の展覧会キュレーションも行う。 —- #ロブキドニー #robkidney #painting #art #artist #artwork #drawing #flower #paint #illustration #contemporaryart #wishless #wishlessgallery #instaart #acrylicpainting #watercolor #artgallery #love #paintings #fineart #painter #modernart #artcollecter #sketchbook #艺术家 #现代艺术 #アートコレクター #アート #コンテンポラリーアート (WISH LESS) https://www.instagram.com/p/CoQ-uxVSOsj/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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01123899 · 4 years
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No.01
全てが夢ならいいのにと思う時がある。俺が今まで生きてきたという確証はどんな科学でも立証できないらしい。例えば今この瞬間俺は31歳の日本人で仕事は俳優、佐藤家の長男で妹がいる。という設定でここに作られたと言われたとしてもそれに反論することはできないらしい。そう思うと今まで生きてきたという感覚は俺の縋っている過去の思い出に過ぎないのかもしれない。ならあの辛かった思い出も全て幻覚、幻聴といったものにカテゴライズされる幻に過ぎないのだろうか。1秒前の自分がいた確証などどこにもない。現代社会の科学の技術ではタイムマシーンを作ることは可能であるらしい。時間の歪みによって人体に問題が生じることは別として、過去に戻ることは可能だが、未来に行くことはできないらしい。漫画の話のようだ。確かに過去が自らの選択の繰り返しによって決定づけられた紛れもない自身の記憶だとするならば、未来はそれに相反する存在と言っていいだろう。未だ自身が選択したことのない時間が流れるのであるから、まだその時間を体験、認めたわけではない。難しい話をしているようで、そこらへんに転がっているような夢物語を自分が発見したかのようにひけらかしているだけだ。過去というものに対して確証が持てない今となっては全て夢だと意味付けてしまいたい。辛い悲しいことも喜び嬉しいことも全て夢だったのだと。自分が踊らされて感じた感情は全て夢なのだから気に病むこともない。例えばお腹が痛くてトイレにこもっていた時間も、信じていた人に裏切られた時間も、大学に入学した瞬間も、晴れて初めての彼女ができた時間も全てが夢だったのだ。そこで起こりうる感情全てが夢の中の話であり、俺自身が全く関与しないレベルでの話であると俺がここで定義づけても世界的科学者でさえ反論することはできない。そう考えると、少し頭が良くなった気がする。気が大きくなったのだろうか。いや、逆に小さくなったのかもしれない。日本という島国で小さく暮らす俺にとっては小さな悩み事でさえ蟻から見た象のように大きい。地球は丸いという当たり前の定義さえわからないように、相手の感情がわからなくなる時もある。言語がわかるのは人間だけだとされている。全ての動物は音の音程で判断するものである。そちらの方がよほど頭がいいとは思う。人間のみが言語を使えるのになぜ俺は使うことを時々拒んでしまうのか。どうでもよくなってしまうのだろうか。どうでもいいことに時間をかけているのだろうか。今の俺のこの時間を大切に、そして楽しく過ごすためには一体何が最適なのだろうか。わからないモヤっとした白い時間の中で俺は何色の絵の具をぶちまけるのだろうか。はたまたぶちまける絵の具も道具さえも持ち合わせていないのだろうか。誰かに話しかけることさえ億劫で自分のことだけを考えている時間が好きだけど、その時間さえも大切な人のためだったり、誰かに喜んで欲しくて、驚いて欲しくて、そこに見合う人間になりたくて努力することに使っている俺は誰かに認めてもらえるのであろうか。こんなことばかり考えて他に何も手につかないのが現状である。誰かに必要とされたいという下心とも取れるこの感情は31年間生きてきて、一回も捨て去ることはできなかった。これが人間らしさというものだろうか。面倒臭い感情だ。なんでこうも俺は面倒臭いのか。だから夢の中でだけ生きていたいんだ。過去見た映画では夢の中で生きている主人公が悪と戦っていた。俺は夢の中でも平和に生きていたい。田舎は苦手だからせめて電気の通る虫の少ないところに住みたい。仕事に支障のないところがいい。インテリアはグレーと白で統一したいし、間接照明もつけたい。観葉植物も置いておきたいけど、虫が出るだろうか。冷蔵庫には野菜と飲み物と少しの鶏肉があればいいし、白米じゃなく玄米がいい。俺の求める平和はとっても贅沢でとっても無意味なのかもしれない。だから俺は夢の中だけで生きていきたいのにいろんなことを考えて、馬鹿らしい。俺らしさってなんだろう。よくわからないまま今日も1日が終わるのだろうか。全ての殻が剥かれる前に今ここで。
「もう嘘つかないで、前みたいに戻られると困るから。」
「ならそのドア閉めて。」
同時に俺は何を閉めた?
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tomtanka · 4 years
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と三人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語る者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
  僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できるだろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣いているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声によって、かわいそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉であることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「ためいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力を発揮して、「生」を結びつけたり見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態」。法の制約から解放された権力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する眼は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉は語義矛盾のような言��を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
 短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。  私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。  短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。  マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしまった。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理は、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆笑してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない⤴︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
 「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、飛行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよらぬ出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期からの経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程に、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の両義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では〈明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代以前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは和文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
 文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。  文法的に見ると、ト書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。  すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。  逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文の中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験できる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝突の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸すること。「ふくらはぎ」にまったく似たところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうような、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の単位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精神には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であっても存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後」に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」から遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在が、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早く死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれない。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から「まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの真新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいたことを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮議せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出は『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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hayano-lolitart · 2 years
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京都芸術大学 [旧 : 京都造形芸術大学] 2022年度 卒業展 大学院修了展 レポート31 会期 2023/02/04 (土)~ 2023/02/12 (日) 10:00~17:00 ※入場 ~16:30 会場 京都芸術大学 京都・瓜生山キャンパス 〒606-8271 京都府 京都市左京区 北白川瓜生山2-116 Google Map - Plus Code 2QPV+R5 入場料 無料 京都芸術大学 [旧 : 京都造形芸術大学] ホームページ [🔒️常時SSL対応] https://www.kyoto-art.ac.jp/ チェックイン 2023/02/04(土) ① 大学の概要 芸術学部 美術工芸学科 基礎美術コース 日本画コース 油画コース 写真・映像コース 染織テキスタイルコース 総合造形コース マンガ学科 ストーリーマンガコース キャラクターデザイン学科 キャラクターデザインコース 情報デザイン学科 ビジュアルコミュニケーションデザインコース イラストレーションコース クロステックコース プロダクトデザイン学科 プロダクトデザインコース 空間演出デザイン学科 空間デザインコース ファッションデザインコース 環境デザイン学科 建築・インテリア・環境デザインコース 映画学科 映画製作コース 俳優コース 舞台芸術学科 演技・演出コース 舞台デザインコース 文芸表現学科 クリエイティブ・ライティングコース アートプロデュース学科 アートプロデュースコース こども芸術学科 こども芸術コース 歴史芸術学科 文化財保存修復・歴史文化コース 大学院 芸術研究科 芸術専攻 (修士課程) 美術工芸領域 デザイン領域 建築デザイン領域 芸術文化領域 歴史遺産研究領域 文化創生領域 グローバル・ゼミ ② キャンパスの概要 [NA] 人間館A棟 [NB] 人間館B棟 [NC] 人間館C棟 [B] 望天(ぼうてん)館 [F] 未来館 [J] 直心(じきしん)館 [K] 興心(こうしん)館 [S] 至誠(しせい)館 [SE] 千秋堂 [SO] 創々(そうそう)館 [BR] 智勇(ちゆう)館 [T] 高原校舎 ③ レポート [NA] 人間館A棟 4階 芸術学部 歴史遺産学科 文化財保存修復・歴史文化コース No.05 福川照真さん "令和2年7月豪雨における球磨川流域の文化財の被害と復旧活動から見た今後の対策への提案" SDGsの達成、およびその先の未来に関わっている大きな課題であり、未来のために極めて重要なことを記されており、良かったです。 No.34 瀬戸口澪さん "京都といけず石 ~分類・分析から見えてくるもの~" 何気なく日常に含まれているお土地柄。 それを目につけているところが良かったです。 No.42 水野七海さん "セロハンテープの劣化メカニズムと除去方法の検討" 身近なものであって、よく用いられるが故に、すごく参考になるというところと、実験精神が良かったです。 2階 キャラクターデザイン学科 キャラクターイラストコース 田中美玲さん "ハッピーハッピートラベル" 可愛い世界観が、私の好みな雰囲気で、気に入りました。 [NC] 人間館C棟 美術工芸学科 日本画コース 小林楓花さん "イーハトープ" 自然の描写が、少しダークな雰囲気でありつつ、そして色合いが美しく、良かったです。 酒井結莉香さん "移ろいゆく" 残響のような、かすれのような、抜けるような感じの風合いが良かったです。 橋本妃織(きらり)さん "うもれる" この作品のテーマとされている"不安"と、 タイトルの"うもれる"を踏まえた上で、 そのニュアンスの視覚的表現が良かったです。 そして、可愛い画の雰囲気が私の好みでした。 吹ノ戸梨花さん "あるがまま" 画のぼかし加減、藤の描写が綺麗で、良かったです。 森明美さん "Effect of Make Up" ファッションの要素が含まれた作風が、強烈かつ美しさを感じられて、良かったです。 内藤美羽さん "うるわし心地" テーマとされている"ものの装飾"の、うつわや食べ物の細かい描写、全体的な美しさがあり、素敵で良かったです。 (京都芸術大学(Kyoto University of the Arts)) https://www.instagram.com/p/Coug2fkSpzz/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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sawa-nakanishi · 3 years
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■開催予告
【 PEEK INTO THE ATELIER PROJECT 】
Vol.1 中西紗和 - TERRARIUM -
会期:2022.4.4.Mon - 4.28.Thu
会場:クリアトーレウィズプラス広島
〒730-0016
広島県広島市中区幟町13-11 明治安田生命広島幟町ビル1F
広島電鉄 胡町より徒歩1分
Artist:中西紗和 | Sawa Nakanishi
【略歴】
1985年 東京都出身
2011年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻修了
2014年 東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程彫刻研究領域修了
現在 広島市在住
この度、クリアトーレウィズプラス広島にて PEEK INTO THE ATELIER PROJECTVol.1 中西紗和-テラリウム- を開催します。
アーティストのアトリエをこっそり「PEEK=覗く」ような ワクワクをみつけるプロジェクト。
プロジェクトの第一弾に彫刻家の中西紗和さんをお招きしクリアトーレの空間をアトリエに!
期間中は展覧会やワークショップ、公開制作がおこなわれます。
日常にあふれるものをモチーフにした彫刻作品や
茂みに潜む不思議な生き物たちをぜひ見つけにきてください。
■EXHIBITION 
クリアトーレのインテリアや
植物に紛れこんだ作品たち。
空間を巡りながら
みつけてみてください。
■WORKSHOP 
会期中、アーティストが講師として
いかの骨を使用した
鋳造ワークショップを開催します。
詳細はWebサイトやSNSをチェック!
■OPEN ATELIER
クリアトーレの小部屋をアトリエに!
普段は見られないアーティストの
制作風景がみられるかもしれません。
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hatanowataru · 5 years
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アングローバル・LIBRARYのタブロイド紙のための取材を受けました。 https://www.the-lib.jp/tabloid04.html 今回、アートワークの取材で、制作におけるコンセプト等々も掲載していただき、和紙職人の以前から続けている流れもご紹介していただいています。 このタブロイド紙は店頭で配布されています。下の方にイベント情報も載せているので、是非行ってみてください。 以下本文です Q800年もの長い歴史を持つ「黒谷和紙」。平面作品、空間構成、プロダクトなど、和紙が持つ可能性の広げるハタノさん。美大では油絵を専攻されていたそうですが、和紙に移行したきっかけは何でしょうか? Aもともとパネルに和紙を張って油絵を描いていました。その時期に出会ったのが黒谷和紙です。素朴でありながら、モノとしての強さに惹かれましたね。美大卒業後、黒谷和紙の産地である京都・綾部と北海道の二拠点生活を始め、綾部で和紙作り、北海道では農業に従事し、結果的に和紙に専念することになりました。当時は、誰もが都会に出て行く時代。しかしながら、学生時代に趣味であった山登りやツーリングを通じて、連綿と続く村や集落の持続可能な暮らしに興味が湧き、その土地に継承されている伝統的な仕事に魅力を感じたことがきっかけです。 Q独特の風合いがある平面作品は、どのように作られているのでしょうか? また、表現を通じて、追求していることは何でしょうか? A紙や土、顔料を幾層にも重ねて質感を作ります。さまざまなものが堆積して混ざり合いながら生まれてくるものが至極シンプルである。しかも、そこには深みある。そういった作品創りを目指しています。いわば、森の葉っぱが紅葉となり、落ち葉となり、土に還って行く自然の摂理のようなものを絵画として表現していきたい、それが作品の根幹にありますね。自然界の原理を取り込んでいるので、見る時間、光の当たり方によってずいぶんと違う印象を与えます。 Qハタノさんの作品を拝見していると、作品個体がメッセージを発信しているのではなく、空気感や佇まいが表現そのものになっていると感じます。 A昔の絵師さながら、「ここに襖があるから山水画や動物を描こう」といった具合に、空間ありきで考えているところがあります。空間としてのアート作品といいましょうか。絵画として作品を置いた時に、どんな空気を生み出すのかを大切にすると同時に、そこに住む人の暮らし、そして作品との関係性を意識しています。コンセプト主体である現代アートではなく、暮らしに寄り添ったインテリアとしての絵画に面白みを感じますね。目指すものは、非日常の演出ではなく、日常にある風景です。 Q内装や空間設計に和紙を用いた空間づくりもされていますね。和紙を用いることで、どのような空間を目指していますか? A和紙は、色味や張り方によって、空間の雰囲気を自在に変化させられる万能な素材です。和紙をそのままを用いると、繊維の間に光を含むので柔らかい印象となり、表面をコーティングすると光を反射するのでシャープな印象を与えます。気になる部分を覆って、空間の印象を変えられることも紙の強みですね。私がしていることは、障子や襖の張り替えといった昔の人が自分たちで日常的に行っていたことと何ら変わりません。ですから、昔のように一般の人がもっと和紙と親しめる施工かつ、その空間を使う人が自身の手で修繕できるようなベースを提供する。プロが施工してビシッと決まるような空間ではなくて、みなさんの手が介在することで完成するような空間を作りたいと思っています。 Q次の目標を教えてください。 A暮らしのなかに、「仕事」と「家族」のほかに、「地域活動」がキーワードとしてあります。私を含めて、これからずっとその場所に暮らしていく人たちとの関わり合いは無視できないなという。現在は、地場産業の復活を目指し、和紙の素材である楮を地元で育てていく活動を徐々に広げているところです。昨年は借りていた黒谷和紙の工房を離れ、自宅に紙漉き工房を構えました。次の世代になにが残せるだろうかと考えた結果です。自分の子どもがいつ継いでくれても良い環境ができたことは、大きなモチベーションに繋がっています。この先にある将来を期待して頑張れるのですから。 ハタノワタル Wataru Hatano 京もの認定工芸師。多摩美術大学絵画科油画専攻卒。2000年、黒谷紙漉き師として独立。伝統ある和紙の里で紙を漉き、その黒谷和紙の可能性を広げる活動を行う。個展や内装施工、プロダクト販売を通じて、黒谷和紙の魅力を世界に発信している。 イベントのお知らせ ハタノワタルさんの染紙で作られた茶箱や道具箱などを販売致します。 ※表参道店、京都店のみ、和紙作品の展示販売も致します。 会期:8月30日(金)- 9月8日(日)表参道店、自由ヶ丘店、天神店 9月14日(土)- 9月23日(月・祝)京都店、神戸店 #アングローバル #library #abstract #abstractart #abstractpainting #絵画 #抽象画 #表現 #drawing #minimal #minimalart #art #artist #ハタノワタル https://www.instagram.com/p/B2V1W4hF1VE/?igshid=836ihza3dch7
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