#とある男の人生は、後悔だらけであった。
Explore tagged Tumblr posts
Text
「無用」
あと十年とか、あの時とか、ほんと、何もしてないなぁと感心していた。どんなに念入りに下調べしても、おろそかにした調査が失敗につながる。
34 notes
·
View notes
Text
実験するみたいに目をぎゅうと細めてコンタクトの洗浄液をケースに流し込む。とびきり良い映画を観たあとは、なんかこう、ぜんぶ立体に聴こえて、ぜんぶ鮮明にみえる。あまりに見えすぎている、という感じ。
思い立って新宿から日比谷までレイトショーを観に1時間半かけて歩く。気まぐれに入った喫茶店があまりにタバコ臭かった。「あのヘッドフォンの人かっこいいね」と言う友達に、「そう?カッコつけすぎじゃない?」と答える。そこからずっと歩いて、赤信号で立ち止まって、たまに思い切り走って笑ったりした。夜に蝶々ってそういえば見たことがないなとか思いながら、脳みそのずっと奥のほうではあなたのことばかり考えていた。疲れてしまった。自分を良いように魅せるとか、価値があるように振る舞うとか。己が太陽のようにまっさらで溌剌としているように感じられる日もあれば、ただただ静かに降り注ぐ小雨に涙が出るほど心の糸が張り詰めている日もあるし、ほんとうに疲れた。もう多分彼からの連絡は来ないけど、別にそれでいい。「何も無い花こそ本当、花だけ本当」「嘘じゃないから」という歌詞について考える。生きているだけで汚れるというのは本当かもしれない。ぜんぶ疲れたから草むらに裸で寝転んで、湿気った土に頬をぴたりとくっつけたい。パスタを素手で不細工に食べたいし、名前も知らない誰かとキスをして、産まれたての赤ん坊のように泣き出したい。もう誰もわたしの何も知らなくて良いとさえ思う。わたしは家族と友達がだいすきで、雨上がりの匂いや木の葉の揺れに感動できる感性を大切にしていて、この世界をとびきり愛している(そして世界もまた愛を返してくれる)そこらへんのただの女の子だということ。(22歳はもう女の子じゃないかもしれないけれど“おんなのこ”という響きがすき)どんなに急いでいてもコンビニのレジではバーコード面を表にして商品を差し出すし、エレベーターではみんなが降りるまで開閉ボタンを押す。荷物を抱えながら階段を登る人に手伝いましょうかと声をかけようか悩んで、通り過ぎて、でもまた戻って頑張って声をかける。一度も会ったことがない人でもそれが大切な人の友人で病に伏しているのだとしたら一番美しい花を買って見舞いにいく。自分の内側にいる幼くてあどけない、やさしいわたしがいつだってその手を握り返してくれる。100年後には何もかも閉じてしまう物語だから、せめて今だけはわがままでいたい。でも傲慢なのはいやだ。全部欲しい。一つ残らず見たい。叶うなら恐竜がどんな姿見で空を飛ぶのかみたかった。光を反射する鱗肌と、重たいその足音が大地に響き渡るのを聞きたかった。お母さんがまだわたしと同い年だった頃、彼女と会って話をしてみたかった。100の異なる人生を同時進行で生きてみたい。豪雨の中でワルツを踊りたい。自分の子どもを産みたい。ずっと一緒にいたいと思えるような人と出逢いたいし、ほんとはその運命を最後まで守り切れるほど成熟した女性でありたかった。
0時を少し過ぎて映画が終わると、終電が近いのか、エンドロールを見届けないまま人がぞろぞろ帰っていった。スクリーンライトに照らされて、綿毛みたいに細い埃が頭上で舞っているのを目で追う。降り注ぐ奇跡と、約束された明日。また「花だけ本当」という歌詞について考える。わたしも花の香りの名前を名付けてもらったのに、「本当」を生きてはゆけない哀しさ。(わたし、ほんとうはこ��な性格じゃないのにな)と思う行動ばかりとってしまって、いつも後悔している気がする。でももういい、全部。どうでもいい。人がいなくなって不気味な白さを放つ駅で、なぜか笑みが、走り出した足が止まらなかった。「それ、罪滅ぼし?」 「お前みたいなやつの書いた作品が世に出回るなんて害でしかないから」 映画の台詞がしゃぼん玉みたいに脳裏を過っては消える。月9のドラマの主題歌を聴く。これはだれの人生?大好きな音楽を聴くと、いろいろな景色を想像する。割れるガラス、草原、海、笑い声、蝶々、風、カーテン、白、眩しい光、流れ星、男の子、裸足。やっぱり幸せかも、と思った。はやく戦争が終わりますように。もっと書きたいけどここまで。明日は図書館へ行こう。
21 notes
·
View notes
Quote
その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶ��で、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは��力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることが��きない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
22 notes
·
View notes
Quote
クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説: まずは約5分に渡るクロエのオープニング・ステートメントから: = = = = = = = = = = 私の名前はクロエ・コール。デトランジショナー*です。別の言い方をするなら、私は自分が間違った体に生まれたと信じていて、そして、私が信頼していた大人たちは私のそんな考えを肯定し、生涯癒えることのない傷を私に残しました。 (*=ホルモン療法や身体整形などの医療行為により性別を変え(トランスし)た後、元の性別に戻ることをデトランスdetrans、その個人をデトランジショナーdetransitionerという) 私は今日、アメリカ史上最大の医療スキャンダルの犠牲者として、皆さんの前でお話しします。皆さんにこの狂乱を終わらせる勇気を持っていただき、私が経験したような苦しみを、脆く危うい状況にあるティーンエイジャーや子どもたち、そして若い大人たちが味わうことのないようにしていただきたいと願っています。 - 12歳の時、私は後に医療チームが性別違和と診断するような経験をし始めました。私は幼くしてやってきた思春期の真っ只中で、自分の身体に起きている変化をとても不快に感じていました。男性から注目されることに怯えていました。今になって思えば、両親に「自分は男の子のような気がする」と言ったのも、思春期が嫌で、この未知の性的な緊張が無くなってほしいという意味だったでしょう。私は姉たちよりも兄たちの方を少し慕っていましたし。 私はダイニングテーブルの上に置手紙をして、自分はトランスジェンダーだと告白しました。両親はすぐに心配し、医療の専門家の助けを借りる必要があると感じたようでした。しかし、それは間違いだったのです。家族全員が即座に、イデオロギーに突き動かされた欺瞞と強要の道を歩むことになりました。 私が受診した一般的な専門家は、両親に「すぐに思春期抑制剤(ブロッカー)を飲ませる必要があります」と言いました。 彼らは両親に簡単な質問をしました:「 死んだ娘さんと生きているトランスジェンダーの息子さん、どちらを選びますか?*」と。 (*=トランス医療における常套句で、子供の主張するジェンダーを肯定しなければその子は自殺してしまうだろう、ならば性別を移行させてやる方が本人のメンタルヘルスも回復し希死念慮もなくなる、という意味) その選択は両親の警戒を解くのに十分でしたし、今考えても両親を責めることはできません。私たち全員が、いわゆるジェンダー肯定治療(ジェンダー・アファーミング・ケア)*の犠牲になった瞬間でした。 (*=欧米で広く支持されてきた療法で、患者の経験や感覚を尊重し本人の主張するジェンダーに寄り添った医療やサポートを行う) - 思春期ブロッカー、そしてテストステロンへと急ピッチで進められ、その結果、更年期障害のようなほてりで学業に集中できなくなりました。今でも関節痛や背中の変な痛みがあります。ブロッカーを使っていたときのほうがずっとひどかったですが。 その1ヵ月後、13歳のときに初めてテストステロン注射を打ちました。不可逆的な身体の変化が引き起こされ、私の声は永遠に深く、顎のラインは鋭く、鼻は長く、骨格は永久に男性のそれになり、喉仏はより目立つようになり、生殖能力は不明となりました。 時々鏡を見ると、まるで自分が怪物のように思えます。 私が二重乳房切除術を受けたのは15歳の時です。医師は切断した乳房にガンがないか検査していましたが、もちろんガンなどなく、私は完全に健康でした。まだ発育途中だった私の体や乳房は、不安な10代の少女として気まずい思いをしたこと以外、何の問題にもさられていませんでした。 私の両胸は摘出され、その組織は焼却されました。合法的に車を運転できる歳ですらなかった。しかし将来の女性としての大きな部分が奪われたのです。母乳で我が子を育てることはもう決してできない。鏡の中の自分を見るのもつらい時があります。今でも性機能障害と闘っています。胸には大きな傷跡があり、より男性的な位置にくるようにと乳首を切除した皮膚移植のため、今日もそこから体液が垂れています。 手術後、学校の成績は落ちるところまで落ちました。 私が経験したこれら全ては、抱えていた根本的な精神衛生上の問題を解決するものではありませんでした。そして、ジェンダーについて理論を持つ医師たちは、私が手術によって漠然と男の子に似たものに変化すれば、私の悩みはすっかり無くなるだろうと考えたのです。 彼らの理論は間違っていました。薬と手術は私の身体を変えましたが、私が女性でありこれからもずっと女性である、という基本的な現実は変わらなかったし、変えることもできなかった。専門医が私の両親に、「死んだ娘か生きているトランスジェンダーの息子を持つことになる」と当初告げたとき、私には自殺願望などありませんでした。私は幸せな子供で、人と違うことで悩んでいただけです。 しかし手術後、16歳の時、私は自殺したいと思うようになりました。今は良くなっていますが、両親はもう少しで、医師から約束された死んだ娘を手に入れるところでした。私の主治医は、彼らが避けたいと言っていた悪夢そのものを作り出すところだったのです。 - 私はアメリカのティーンエイジャーとその家族にどんなメッセージを伝えたいのでしょうか? 私に必要だったのは嘘をつかれることではありませんでした。共感して欲しかった。愛されていると感じることが必要でした。男の子に変身すればすべての問題が解決するという妄想を肯定するのではなく、私の悩みに取り組むセラピーを受ける必要があったんです。 私たちは12歳の子供たちに、「間違った身体に生まれてきた、自分の肉体を拒絶していい、自分の肌に違和感を覚えるのも正当だ」、などと言うのをやめねばなりません。 「どんな服を着るかとか、どんな音楽を聴くかなどを選べるように、思春期だってチョイスであり、どのような思春期を過ごすかは自分で選べるのだ」、なんて子供たちに言うのはやめなければいけないんです。 思春期は大人になるための通過儀礼であり、緩和されるべき病ではありません。 - 今日、私は自宅で家族と19歳の誕生日を祝うはずでした。しかしその代わり、私は選挙で選ばれたあなた方に必死の訴えをしています。 オピオイド危機のような他の医療スキャンダルから教訓を学んでください。医者も人間であり、時には間違っていることもあるのだと認識してください。 私の子供時代は、私たちのネットワークを通じて知り合った何千人ものデトランジショナーたちと同様に台無しにされました。 どうか止めてください。あなただけが止められるんです。この野蛮なエセ医学によって、すでに多くの子供たちが犠牲になっています。どうかこの私の警告が最後のものとなるようにしてください。 ご静聴ありがとうございました。 = = = = = = = = = = - 公聴会でのクロエの証言はどれもショッキングであると同時に、彼女の堂々たる勇姿が人々の胸を打った。中でも子供のトランス治療に賛同した両親の存在についてクロエが声を詰まらせながら語ると、彼女の思慮深さに感動し涙する大人たちであふれた。 13歳から17歳の間に思春期抑制剤、異性間ホルモン剤、二重乳房切除術を受けたとして、カイザー財団病院とパーマネンテ・メディカル・グ��ープを訴えているクロエは、公聴会の中で民主党側が招いた証言者のレイノルズ博士に話しかけた。 トランスジェンダーを自認する子供の母親であり、プロのカウンセラーでもあるミリアム・レイノルズ博士は、委員会の公聴会で「未成年者の性転換治療は必要であり、命を救う」と明言し、彼女の子供も現在ホルモン補充療法を受けているとしている人物である。 以下はクロエからレイノルズ博士への発言: = = = = = = = = = = レイノルズ夫人が我が子のために不安なのは理解しました。これは言っておきたいのですが、私は彼女を憎んでいません。ここにいる誰も彼女を嫌悪したりはしていないと思います。実際、私は彼女の中に自分の母親と父親を見ています。そして、明らかに彼女は子供を心から愛している。それに、彼女はできる限りでベストを尽くしている。ただじゅうぶんな術はなくて…気の毒だと思います。 子供を救いたいと願うすべての親には、最大限の援助とガイダンスがあって然るべきです。 しかしながら、私は、彼女の子供が私と同じ結果になることを望みません。誰であっても性別移行やデトランスを後悔してほしくない。なぜって、それは信じられないほど困難で、他にはない苦痛が伴い、容易なことではないからです。 彼女のお子さんが幸せで満ち足りた青年時代を過ごせるようにと願います。それがたとえどんな形であろうとも。 = = = = = = = = = = - ある日突然、幼い我が子が性別違和を訴え、多くの親たちは狼狽する。メディアや学校や小児科医やママ友まで「トランスキッズは増えているが、それは彼らが自然にカムアウトできる時代になったから。子供たちの真のジェンダーを肯定してあげなければ、彼らは間違った身体に入れられた心の苦痛に耐えきれず、自死を選ぶだろう」と言っているのだから。 日本では欧米で起きている子供たちに蔓延する熱病のようなトランス・ブ��ム、LGBTQイデオロギーに侵食された科学分野や医療業界、金儲けのために健康な子供たちを切り刻む医師、司法・行政・教育機関が一丸となって親から子供を引き離している実態などがまるで知られていない(にわかには信じ難い話で、まあ無理もないけれど)。 だから、クロエ・コールや他の何千という未成年のデトランジショナーがトランス治療に加担した病院や医療従事者を訴えている、と聞くと、「金目当てだろう、医者のせいにすんな」とか、「厨二病に罹ってバカを言った子供の責任だし、親もどうかしてる」とか、セカンドレイプにも似た被害者への罵詈雑言が飛び交う。 しかしそんな無知で傲慢な彼らのどれほどが、クロエや彼女の家族と同じ状況に立たされた時に後悔のない選択をできるだろう。医者や専門家という職業を信頼していれば尚のことである。 まるで他人事の彼らは、日本でも子供たちへのトランスジェンダリズム啓蒙、保護者からの引き離し(親に内緒で未成年児童をLGBTQユース団体に参加させるなど)、そして思春期抑制剤の推進なども起きていると知っているのだろうか。 画像 - トランスジェンダリズムに基づくトランス医療はエセ医学であり、欧米で今、デトランスした子供や若者たちが訴訟を始めているように、大きな巻き返しが起こって医療スキャンダルとして扱われる日が来る。 そう願って日々発信しています。 (終わり) さらに表示
Xユーザーの🇺🇸 🇯🇵Blahさん: 「クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説:… https://t.co/DRd2Vlbwfc」 / X
48 notes
·
View notes
Text
Mouthwashing 「ある医務室の記録」
アーニャに関するごく短い掌編
<出航1週間前>
「1年ってだいぶ長いじゃない。よく受ける気になったわね。」
「かなり迷ったんですけど、終わったらいい額の臨時ボーナスが出るって。それなら奨学金の返済が楽になるし、今後のことを考えたらいいのかなって。」
「そうなの。まあ、部門縮小の噂もあるし、もらえるうちにもらっとかないとかあ。長期航海は小規模チームでも短期とはまたべつの大変さがあるから、いろいろ気をつけてね。」
「はい、メンバーはベテランぞろいらしいんですけど。自分は長期ははじめてなので、船医としてやっていけるかちょっと不安で。」
「あんまり根詰めないほうがいいのよ。そうだ、帰ってきたらお祝いに、このまえ本社のそばにできた、話題のちょっといいパフェごちそうするね!」
「気が早いんじゃないですか?でも……ありがとうございます、楽しみです。帰って来た時も、まだお店あるといいな。」
「確かにねえ。」
<発見3日後>
「そこ、3号、鼻から血を流してるほうの奴な、バイタル記録みたら二人分らしいぞ。」
「そっすか。」
お得意さんからまわってきた孫請け仕事の事故処理現場は、思ったよりきれいで助かった。ロケットの損傷は軽微、現場の保存状況は良好、内乱で死んだらしい死傷者たちの外傷・腐敗は最小限で済んでいる。空気が漏れた宇宙船の破裂した人体ほど悲惨なものはないから、だいぶ運がよかったものだ。その分、苦悶の表情がよく見える。
けれど、その表情の先を読み取ることはしない。仕事を続けるためには必要なことだ。それが自分の仕事。それで金を受け取っている。3号の顔は物言わず虚ろなまま自分を見つめ返す。この船はもうすぐ爆破処理される。船は会社が抱き込んだ査定員のもとで保険金へと変わり、その金は会社と遺族へ引き渡されるだろう。仕事は終わり、金だけが巡っていく。
あなたは必要なものを受け取った?
<衝突30分前>
銃だけは、ぜったいにあの男に渡してはいけない。
緊急避妊薬の使用期限は過ぎてしまった。どうしてバイタルチェックを見逃してしまったのだろう。ピルは飲んでいたはずなのに。でももう泣き言は通らない。結果だけがすべてだ。妊娠したことを告げたとたん、あの男はふらふらとなにも言わずに立ち去った。
ふしぎと驚きはなかった。期待していたわけじゃない。予想しなかったわけじゃない。けれど、強い失望だけがそこにあった。
不安とさみしさとプレッシャーの中で、あの男と関係を持ってしまったことをどれだけ悔いただろう。こちらを馬鹿にしたような素振りも、身勝手な欲望もイヤで仕方なかったけれど、決して私のことを見ることのない昏い瞳が見つめる先にいるときが、この逃げ場のない宇宙船の中での逃げ場所だった。
でもいまは、それ以上に嫌な予感がする。去る時に見た焦点の合わなかった目は、もうなにをしでかすかわからない気がした。
自分はあの男のメンタル不全の兆候を見逃したのではないか?同じく失調気味で、あの男のことに関してはまったく頼りにならない船長に、彼のメンタルチェックを任せたのは適切な判断だったか?船長の「異常なし」の所見を、本当に信じてよかったのか?精神を崩した患者に、過剰なショックを与えたとしたら……
ドンっ、と強い衝撃が襲う。バランスを崩した身体が床に叩きつけられた。
<過剰投与3日前>
『船医であるあなたが、船員のこころと体を守るの。完璧はむりだけど、せめて船を動かし続けられるように。だから、絶対に医務室では主導権を渡してはだめ。医務室の主はあなた。どんなベテランだろう���船長だろうと、みんな等しくあなたの患者なの。患者の健康管理があなたの責任。わすれないでね。』
先輩の言葉が今さらよみがえる。ここは、医務室は、もう私の場所じゃない。部屋の中央で船長だった肉塊が苦しみの声を上げ続ける。それを聞くことがつらくて、あの男に鎮痛剤の投与を任せたら、ずっとこの部屋に入り浸りはじめた。私のことも、お腹の子のことも、一度も口にせずに、船長の包帯を巻きなおし、薬を飲ませ、甲斐甲斐しく世話を焼き続ける。本当は、あの男を追い出して、私がしなければならないことだとわかっている。船長には船長として、船医には船医としての役割と責任がある。でもその苦しみを引き受ける気には、どうしてもなれない。
船医なのに、自分自身も、船長も、あの男も、この子のことも、だれの健康も守れなかった。
今となっては、この船全体が病んでしまった。船内はどこに行ってもアルコール臭いマウスウォッシュの臭いが漂い、きもちわるくて吐きそうだ。もうずっと、だれにも言えないけれど、気分がわるくてきもちわるい。媚びを売るようにして手に入れた鎮痛剤は、私ではなく船長のためのもの。食事管理もバイタル管理もなくなって、もうこの船に健康なんてどこにもない。
医務室の椅子に座って、うめき声とあの男がなにかぶつぶつ言う独り言を聞きながら、ただ失敗した、責任を果たせなかったという考えだけが頭に浮かび続ける。
<過剰投与3分後>
くるしいくるしいくるしい。
だけど最高に気分がいい!!
ロックのかかった医務室の中、なすすべなく横たわる船長と自分だけがここにいる。
今、ようやく、この部屋の主は私だ。だから私が患者の、自分の生死を決める。
あの男が逃げ出した責任、私の果たせなかった責任、すべてが身を苛んであまりにも苦しい。この身体もお腹にいる子も生きたいと叫び続けているのに、私はもうこの苦しみに耐えられない。
鎮痛剤を船長に分け与えれば、この意味のない苦しみを終わらせられるだろう。けれど私はただ、私に終わらない苦しみを与えたあの男と船長が、より長く苦しむことだけを願っている。希望のないこの場所で、生き続け、苦しみ続けることを!!
……私はどうして、医療の道へ進もうと思ったのだろう。
もう悲しくはないのに涙があふれる。口の中を埋めつくす味のしない薬を噛み砕きながら、食べに行くことのなかった生クリームと果物たっぷりのパフェのことを思い浮かべた。
あとがき
誰にもかえりみられることもなく失われたものと彼女の責任について。
労働SFが好きなので、被害者としてだけでなく労働者としてのアーニャ見たかったなあと思ったので書きました。満足。
被害者としてのアーニャについてはこちらの考察を参考にさせていただきました。深く感謝。
【Mouthwashing】感想+考察|鹿
なお、後半アーニャが自分のことをひどく責める描写になってますが、男女比率の偏った孤立しがちでプライバシーも確保できないろくでもない労働環境(会社がわるい!)と不測の事態のなかで、非熟練者なのに頑張ったと思ってます。
いつかおいしいパフェを食べてほしい。
(おまけ)
ジミーとカーリーに関する所見+Mouthwashing感想
6 notes
·
View notes
Text
あとにも先にもこんなに口説かれることはないんだろうな、という男の子の日記を読んだ。いつからかストーリーには足跡がつかなくなったし、悔しいから私も非表示にしているけど、定期的にアカウントを見にいく。
ちゃんと恋人がいるようでちょっと安心して、なんだかひりついた。
2023年の振り返りに、一緒に歌舞伎を見た日のこと、一緒に野球観戦に行った日のことが数行ぽっち綴られていて、あの日をすこしでも懐かしんでくれたんだろうか、とセンチメンタルになる。
ずっと前に高橋にこの日記がばれたとき、バンドマンに曲を書かれるってこんな感覚なのかも、と言われた。そのときはふうん、としか思わなかったけど、なんとなく、理解できる気がした。
野球観戦の日、私は扁桃炎で最悪な具合だったから仕事を休んで、抗生物質で無理くり37度まで下げた怠い身体を引きずりながら神宮球場に向かって、柄にもなくレモネードを啜っていたんだった。蒸し暑かった。あんなデカい球場を使っているわりに人が動めいてるのなんてごくわずかで、野球って意味わかんないな、と思った。ぜんぜん興味なかったでしょ、と後日言われて、あの日はマジで体調が死んでたことを伝えると、3回目のデートだったもんね、と返された。3回目のデートだったし、保留にされたままドタキャンなんて、私だったら気が狂うから。
彼とは何度目かのセックスありきのデートを下北沢でしたきり連絡がない。「そんなつもりはなかった」けど、間男にしてるのを察されたんだろう。また「普通に」飲みたいな、とか思うけど、振った側の「友達でいたい」なんて傲慢だよなあ。あ〜やんなっちゃうね。
24 notes
·
View notes
Text
#日常 #玄関の花
とうとう私もコロナ患者です。
今まで一度もかかったことがなかったので、よしこれで人類最後の一人まで生き残るぞ!などと息巻いていたところにコレです。悔しい!悔しい!
自分の不注意だったらまだ諦めもつくのですが、コロナ陽性でゲホゲホ咳しつつもノーマスクで現れた同僚を車に乗せることになって���の感染。その時点では陽性とは分かっていなかったものの、熱と咳!あるなら!休め!!!!!と怒り心頭なのでした。
私の周りでは男の人に多いんですが、熱が出ると俄然張り切り出して、俺が休んだら仕事回らなくなるからな!とゼーハーして出社してくる人……いますよね…いますよね……。まあ、そうすることで何を周りに訴えたいのかはすぐ読み取れるので温い目で何も言いませんがね……そしてそのバイオテロからウイルスは拡がるのでした。✕✕✕✕!!!!(罵詈雑言)
結構仕事忙しい時にぶち当たってしまったので、皆さんごめんね……でも私はバイオテロにならないように休むよ……。
あまりマイナスの感情のことは書かないようにしているのですが(後から読み返すと自分が惨めになる質だから)、一応おでかけ記録とたまーに日記も兼ねているので、記録として書いておきます。私が人類最後の感染者になれなかった記録。くやしい。
どうしようもないので積読を消化し始めたところです。旅の本が多いので、気持ちだけ世界に羽ばたいてます。
8 notes
·
View notes
Text
米社会の病い、性別違和に苦しむ少女達
櫻井よしこ
日本ルネッサンス 第1094回
今日、4月9日の産経新聞に『トランスジェンダーになりたい少女たち』の広告が掲載されていた。米国人ジャーナリスト、アビゲイル・シュライアー氏の『IRREVERSIBLE DAMAGE』の邦訳で、出版元は産経新聞出版だ。
広告には「あの“焚書”ついに発刊」の字が躍る。「皆様の激励に御礼申し上げます」「Amazon総合1位」の文字が誇らしくも嬉しくも輝く。それはそうだろう。本書の出版に際して産経新聞出版も同書を扱うと推測される大手書店も、放火予告というとんでもない脅迫を受けていたのだから。
同書は当初、大手のKADOKAWAが出版する予定だった。しかしわが国の一部左翼勢力が「トランスジェンダーに対する差別を助長する」として抗議し、KADOKAWA本社前で集会を開くなどと警告した。国際社会に名を馳せる大手出版社でありながら、KADOKAWAはジェンダー思想に染まった左翼勢力の恐喝に屈した。斯(か)くしてその時点で、言論の自由も出版の自由も踏みにじられた。出版界の名門がそんなことを許したのは痛恨の極みだ。
本書の内容は後述するが、ジェンダー思想に染まっている人やWokeの人々にとっては、確かに気に入らないだろう。かと言って、それを出版禁止にせよというのは無茶にも程がある。そんな圧力に屈すれば自由と民主主義を基盤とするわが国の社会の根底が揺さぶられる。出版社の存在意義も吹き飛ぶ。KADOKAWAの情けない姿勢を見て、弱小の産経新聞出版、瀬尾友���氏が名乗り出た。するとそこに先述した放火の脅迫が降り���かったのだ。それでも産経新聞出版は遂に刊行に漕ぎつけた。しかもAmazon総合1位、だ。
日本社会も捨てたものではない。
奇妙なのはいつも言論、表現、思想・信条の自由などを金科玉条の如くに持ち上げる朝日などのリベラルメディアが同件にきわめてよそよそしいことだ。報道もしない。安倍晋三総理に対して行った「報道しない自由」をここでも発揮しているのだ。
ナブラチロワの抗議
シュライアー氏の著書は実に読みごたえがある。取材対象の当事者は200人、50家族に上る。意見を聞いた専門家の数、調べた専門書の幅広さにも感心する。彼女は驚いた。思春期に突然「性同一性障害」を発症し、「生物学的には女だけれど実は男だ」と主張する少女たちが急増していることに。2016年から17年にかけて米国では、女性に生まれついた人で性別適合手術を受けた人の数が4倍に増えた。英国ではジェンダー医療を望む10代の少女の数が過去10年で4400%増えた。
シュライアー氏は以下のように分析している。ここ10年でトランスジェンダーが目立つようになり、対照的に女性と少女が目立たなくなった。アメリカ全土の高校で最高水準にある女子選手たちは、女性を自認する生物学上は男子の選手に圧倒されている。その多くは男子チームでは月並みの選手だったのに、である。
文化面でも少女たちは支持を失った。女性専用だった場所は男女共用になり、スポーツの記録は先述のように不公平となり、抗議をすれば偏見だとどなられる。レズビアンを公表しているテニス選手のマルチナ・ナブラチロワは「トランスジェンダーの選手に女子スポーツで競技させるのは生物学上の女子に不公平だ」とサンデー・タイムズ紙に書いた。するとトランス嫌悪(フォビア)だとレッテルを貼られ、スポンサーから放りだされた。
世界でもっとも有名な同性愛者の女子アスリートであるナブラチロワが少女たちのために立ちあがったことで反トランスジェンダーの偏狭な人物だというレッテルを貼られたのなら、無名の女子選手たちが反対することはなおさら不可能だ。
そしてトランスジェンダー活動家は女性の生物学的な独自性を完全に否定しようとする。たとえば妊婦(プレグナント・ウィメン)は次第に“#妊娠中の人(プレグナント・ピープル)”と表現され、“膣(ちつ)”は“#前方の穴(フロント・ホール)”という忌まわしい言葉で表わされてしまう。トランスジェンダーを包括する語彙では、生物学的な女性は“養育者”あるいは“出血がある人”などと表現される。トランスジェンダー活動家はこのほうが繊細な言葉であり、より正確に表現することができると主張するのだという。しかし、とシュライアー氏は問うている。
「ほんとうの少女はどう感じるだろうか」と。
少女たちは女性であることに意味を見出し得なくなり、或いは居心地が悪くなり、自分はトランスジェンダーだと思い始める。そのような傾向をスンナリ受け入れて助長するのが昨今の大学だとして、幾つもの事例が記されている。
「抑うつ、自傷、薬物依存」
たとえばカリフォルニア大学ロサンゼルス校などである。そこでは、両親にはぜったいに知らせずに、キャンパス内だけ、あるいは法律上も名前を変更できるように簡単な説明と申込用紙を提供しているという。アイビーリーグをふくむ百を超える大学でトランスジェンダーのためのホルモン剤に健康保険が適用されているともいう。
こうして少女たちは男性になっていくが、その世界のことを21歳のヘレナ(米シンシナティのポーランド移民の娘)はこう語っている。
「トランスジェンダーのコミュニティにはあまりにも多くの抑うつ、自傷、薬物依存が存在しています」
ネットでトランスジェンダー・アイデンティティについて知った思春期まで性別違和を抱いたことはなかったヘレナは、途中で何とか引き返した。引き返した人をディトランジショナーと言うが、そのほとんどの人々が後悔に苦しんでいると、シュライアー氏は次のように指摘する。
テストステロンは数カ月摂取しただけでも、男性のように驚くほど声が低くなり、それは摂取をやめても元に戻らない。もっと長く摂取した場合は、通常とは異なる秘部を“肥大して小さなペニスに見えるクリトリスを”恥ずかしく思うだろう。夕方になると目立つひげや体毛もいやかもしれない。手術まで行ってしまった場合は胸に走る傷跡と一生つき合わなければならない。
シュライアー氏は、自分が語り合った全員が、自分の人生に関わった大人、とりわけ医療専門家が性別移行を促して助長したことを非難したとも書いている。
多くの少女たちがSNSでトランスジェンダーを知る。暴力的なポルノを見て正常なセックスもできなくなる。新しい傾向をもてはやすメディア、大学医療関係者がトランスジェンダー化への動きを無責任に後押しする。
トランスジェンダー問題はこうした思いやりに欠けた世界で運動家らによって尚も推進される。少女たちは回復不可能な傷を負い、少なからぬ家族が崩壊しているのがシュライアー氏の伝える現実である。この本は多くの貴重な教訓を与えてくれる。是非、わが国の政治家全員、最高裁裁判官たちにも読んでほしいものだ。
14 notes
·
View notes
Text
身の程知らず
朝の5時にベッドに横になり、8時にアラームをセットする。目は爛々と冴えていて、喉の奥が白ワインの重みで痺れていた。
風花さんと仕事終わりにお酒を飲んだあと、彼と合流しても良いかと聞かれた。風花さんの彼、田中さんとは面識があって、何度か一緒にお酒を飲んだこともあるし、なんとなくこうなることを予想してたので曖昧に頷く。彼と電話をする風花さんの声がはちみつのように甘くて、好きな男と電話する女の声は誰しも甘いのだなと思った。鉄の女と怖がられる彼女であっても。
田中さんが今どこで飲んでいるのか聞いて後悔した。一見様お断りのワインバーということだった。ああ、一体いくらするのだろう。ATMで残高に怯えながら何枚かお札を引き出す。ビル風がより一層冷たく感じた。田中さんの事はまったく嫌いではないけれど、風花さんに彼と合流しても良いかと聞かれるといつも身構えてしまうのはこれがあるからだ。田中さんは経営者で食通なので、私の収入では縁のないようなお店で飲んでおり気後れしてしまう。合流した先のお店の人達と田中さんはもちろん風花さんも仲良しで、知らない話で盛り上がっている時は居心地が悪く適当に笑って誤魔化している。
2人の時間をお邪魔したら悪いからと、風花さんから件の提案をされる度何度か断ったこともあるけれど、風花さんは純粋に彼氏と私を会わせることが好きらしく、ならばといつものこのこついていってしまう自分をほんとに殴ってやりたい。
メニューもなく、恐々とお酒や食事をすすめられるまま口にしていたらすっかり終電のない時間になっていた。田中さんにお会計をまたしていただいたのが申し訳なくて、無理やり1000円札を押し付けタクシーに乗り込む。値段が分からないお店で田中さんに奢っていただいのは3回目だ。どっと疲れが出た。高い食事を人に奢ってもらうということに慣れてなさすぎるし、やはり私は奢られるより奢るほうがずっと気が楽だなと思った。タダで高級店へ連れて行ってもらうより、自分で高級店へ行けるようになりたい。あがり続けるタクシーのメーターにハラハラしながら、明日からどうやって生きよう、となる。
私はワイ��で一番酔うはずなのに、10杯近く飲んでも全くふらついたり眠くなったりしなかった。何がそうさせていたのか、ぜんぶがそうさせたのか分からない。分からないけれど次は田中さんの行きつけのお店へついて行くのはやめようと思ったし、取り急ぎ奢っていただいたお返しを何か探そうとGoogleを開いたらぱたぱたと涙が溢れた。これは一体、何の涙なのだろうか。
高級店でのびのびとお酒を飲む同僚の風花さんの横で、縮こまるしかない自分に対してとか、風花さんに礼さんは可哀想なんだよと田中さんに紹介された事とか、彼氏と次いつ会えるのか見当もつかない自分に対して同棲している2人が同じ家に帰る事が羨ましいとか、いろんな感情がマーブル模様になって落ち込む。
こんな日に彼氏を抱きしめられたらどれほど。でも彼氏に全部どうにかしてもらおうというのも違う。違うけれど今は何も考えずただ甘えたい。
23 notes
·
View notes
Text
2024/10/03 ケアの倫理と魔法少女まどか☆マギカ
「ケアの倫理 the cthics of care 」はアメリカの心理学者であるキャロル・ギリガンが1982年に公刊した『もうひとつの声』で提唱して以来、哲学、政治学、社会学といったさまざまな学問領域に影響を及ぼした考え方である。ギリガンは1960年代後半、道徳性発達理論の権威である心理学者ローレンス・コールバーグの助手としてハーバード大学において女性と道徳に関する調査研究を進めるなかで、当時の女性たちが社会が期待する女性像を内面化した結果、既存の心理学においてはその道徳能力が未発達であると判定されるディレンマに陥っていることに気づき、多くの女性にインタヴューを重ねるなかで、これまでコールバーグの発達理論をはじめとする既存の心理学が捉え損なっていた「声」を発見する。こうした「声」を彼女は『もうひとつの声』において「正義の倫理」ではなく「ケアの倫理」から再評価する。
ここでいう「正義の倫理」とは自由意志をもった自律的な主体を前提として、諸権利の競合から生じる道徳的問題を客観的で公正な原理に基づき形式的に優先順位をつけて解決しようとする思考様式である。これに対して「ケアの倫理」とは関係性の網の目のなかで個々人は決して完全に自律的ではなく常に相互依存の関係を結んでいることを前提に���個々人の責任の衝突から生じる道徳問題をその人その人が置かれた具体的・個別的な語りのなかに文脈づけることで解決しようとする思考様式である。
そのため「ケアの倫理」は近代社会で必ずしも自律的な主体ではないケアされるものと見做されてきた子ども、高齢者、障害者、病人などの存在や、彼らのケアを負担する存在のニーズにどう答えていくかといった「正義の理念」からは導かれない問いを積極的に引き受けることになった。換言すれば「ケアの倫理」とは互いにケアし合い依存し合う関係性を中心化することによって、いかなる者であろうとも取り残すことはない非抑圧的・非暴力的な平等社会を構想する思考であり、この理念のもとで個々人は「具体的他者のニーズへの応答」を引き受けることになる。かかる視座から同書は「正義の倫理」と「ケアの倫理」を対比的に考察し、これまで男性に比べて「劣っている」とされてきた女性たちが異なる発達の過程を経て成熟に至ることを論証する。
確かに「ケアの倫理」は「正義の倫理」のようにディレンマを一刀両断に解決できるような明瞭さはない。しかしそのディレンマが現れてくるその文脈においてあらゆる重要なことに目を凝らし、しっかりと対応するという道、決断というより熟考することにむしろギリガンは道徳的な価値を見出している。そして、ギリガンはこのような新たに獲得した視座から既存の視座を補い、拡張し融合することで人間の発達に対する理解に変化をもたらし、人間の生に対する見方をより実り豊かなものとなる将来を思い描けるようになると述べて同書を締め括るのであった。
そして思えばゼロ年代的な想像力の総決算とも評され、現代表象文化に多大なインパクトをもたらした『魔法少女まどか☆マギカ』という作品をこのような「正義の倫理」と「ケアの倫理」のせめぎ合いを鋭く描き出した作品でもあったといえる。同作が斬新だったのは、従来の魔法少女観を根本的に転倒させた点にあった。そこで描き出されるのは「夢や正義の象徴としての魔法少女」ではなく、いわば「システムとしての魔法少女」である。物語が進行するにつれて徐々に以下のような「魔法少女の真実」が明るみに出されていく。
地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆立するエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にあった。
そして、本作における「正義の倫理」と「ケアの倫理」の対立は第9話におけるまどかとキュゥべえの対話に象徴されている。ここでキュゥべえは上記のような「魔法少女の真実」を理路整然と説明した上で「長い目で見れば、これは君たちにとっても、得になる取引のはずだよ?」と述べる。そして、まどかの「バカ言わないで。そんなわけのわからない理由で、マミさんが死んで、さやかちゃんがあんな目に遭って。あんまりだよ…ひど過ぎるよ」という言葉に対して彼は「僕たちはあくまで君たちの合意を前提に契約しているんだよ?」「認識の相違から生じた判断ミスを後悔する時、何故か人間は、他者を憎悪するんだよね」と答え、さらに「今現在で69億人、しかも、4秒に10人づつ増え続けている君たちが、どうして単一個体の生き死ににそこまで大騒ぎするんだい?」と冷然と言い放つのである。
キュゥべえの論理は極めて明快である。彼の主張は徹頭徹尾「宇宙の寿命」と「少女の生命」という諸権利の競合から生じる問題を客観的で公正な原理に基づき形式的に優先順位をつけて解決する「正義の倫理」に依拠している。これに対して、まどかの語りは終始、歯切れが悪く、どこまでも感傷的なようにも見える。けれども、それは裏返せば彼女がどこまでも「ケアの倫理」に誠実であろうとする態度からくる証左であるともいえるだろう。そして、このようなまどかの「ケアの倫理」は土壇場において、キュゥべえの「正義の倫理」を見事に出し抜くことに成功し、すべての魔法少女に向けたケアともいえるあの願いに至るのであった。
4 notes
·
View notes
Text
たどり着かなかったおおくの未来たちへ
文フリ東京だった。 土曜日開催のイベントってなんだかんだ言いながらはじめてのような気がする……労働が土日祝休めなかったころはなんでイベントは平日にやらないんだろうと思っていたし、土日が休みだったころはイベントは土曜日にしてほしいと思っていたが、日月休みになると、イベントは日曜日がいいなと思ってしまう。日月は宿泊料金がやすい。
そんな自分本位な「この日がいいな」をわたしはいくつも持っている。
文フリ東京は、土曜日の朝に出発した。車内販売がなくなってしまって、でもまあ新幹線のホームとか購買にシンカンセンスゴイカタイアイス(シンカンセンモウカタクナイアイスだという噂だが)が売っているらしいから、それを食べようと思っていたが、朝、名古屋駅で見つけることはできなかった。 しょんぼりしながら新幹線に乗る。新幹線の中ではほとんど寝ていた。
東京駅・浜松町・流通センター。いつもの乗り換えで会場に向かう。来年の12月の文フリはビッグサイトでやるらしいから、この行程で向かうのはあと一回。
会場前に八束さんのスペースで不穏なフライヤーをもらう予定だったのでもらいに行ったら、八束さんがさいたま文学館で開催中の『澁澤龍彦の文���世界』のフライヤーも一緒にくれた。 ので、スペースが出入り口の真ん前だったこともあって、これはたくさんのひとに見てもらえるんじゃないか…!ということで、出口に向けて配置した。完璧である。
そんな素敵な設営をして、開場。
遠方からきてくれたフォロワーさんに展示のフライヤーを見せ澁澤龍彦の話をし、「若い頃にわたしも全集読みました!」と言ってもらうなどしたり、痛覚の麻子さんにはえんえんと「この写真見てくださいやばくないですか?羽田に楯の会の制服を着て見送りに着た三島の帽子をかぶっておどけているときの写真でこれが二人が実際にあった最後になるんですよ……」と一生終わらないんじゃない勝手くらいの話をしつづけてしまったり、このフライヤーに気づいてくれた通行人のひと(「澁澤龍彦だ…!」という声が聞こえた)に「裏面も見てください!そしてよろしくお願いします!」とさっと差し出したり……。こんなに充実した文学フリマ東京は、2014年から参加していて初めてじゃないかと言うくらい充実していた。
惜しむらくは、澁澤龍彦のフライヤーと一緒に不穏なフライヤーを挟んでいたにもかかわらず、だれも「澁澤龍彦と棄てに行ける家父長制があるんですか?」と聞いてくれなかったこと…。澁澤龍彦と棄てに行ける家父長制は果たして存在するのか……?
とまあ、こんな感じなのだが、そろそろ皆さんも不穏なフライヤーとは?と思っているところだろうと思うので、ご紹介致しますとこういうやつです。
「父親の死体を棄てに行く」アンソロジー。家父長制を棄てに行きたい方はどうぞ2024年5月の文学フリマ東京をお待ちください。
イベントが終わってからは、八束さんとヒマラヤ鍋を食べに行った。 お店の予約時間まで過ごしていたドトールで渋沢栄一の話になり、「ああ、向こうは傍家で、本家はうちなので」と話したら「いまうちって言いました?」と聞き返される。うちです。 ヒマラヤ鍋屋さんはめちゃくちゃすてきな楽隊(?)のお誕生日パレードがあったり、びっくりするような美味しい鍋を食べられたりと大満足だった。
打ち上げを終えて、翌日のさいたま文学館に備えて埼玉に宿を取っていたので、移動をはじめたら電車がいきなり止まった! 電車の沿線で人身事故があったとのことで、近くのハブ駅みたいなところで電車を降ろされてしまう。こんなこと担ったのは初めてなのでびっくりしていると、とりあえず一時間くらいしたら電車は動くからね~とアナウンスが入り、事なきを得る。
都会ならではの体験だな…と思いながら、ホテルにたどり着いて泥のように寝た。
そしてさいたま文学館へ。
張り切って出てきたら開館まえについてしまった…。図録を買って、老人クラブの展示があったので見せてもらったりして(ヤツガシラの俳句があってとてもよかった)、10時になる。
貸し切り状態……。
展示は、埼玉と澁澤の関係から始まっていて、浦和高校時代の写真(浦和高校同窓会が出しているものだった)があるのがとてもよかった。 限定本も展示がたくさんあり、原稿も、文学館が所蔵しているものが4、5点。 サド裁判のときに澁澤が三島に書き送った手紙に、争点が「わいせつか芸術かを超え、表現の自由/検閲への抵抗である」ことが書かれていることを指摘していたり、『高丘親王航海記』の原稿用紙、最初は「了」と書いてあったのを、推敲の段階で文字を自ら消したことを指摘していたり、「澁澤龍彦」という人物を表現との向き合いかたから見せているのが良いと思った。 面白かったのは三島の写真の使い方���、「血と薔薇」の「男の死」の三島の写真、あと、メインビジュアルが羽田に見送りにきた三島の帽子をかぶっておどける澁澤の写真だったからか、「楯の会の制服を着た三島由紀夫」の写真が展示してあったりした。
展示をひとしきり見た後は、図書室に今回の展示の関連本がまとめてあるとのことだったのでそれを身に。「作家のおやつ」「作家の食卓」といった本の紹介や、山﨑ナオコーラが文豪の墓参りにいく本に澁澤の項目があった。山﨑ナオコーラの澁澤へのまなざしにはわたしにもおぼえがある。よい本だった。そしてその本で、先月わたしが緑色のインコに夢中になっていた霊園に中島敦の墓があることを知った。敦、ごめんな……墓のことなんて全然知らなかったから、緑色のインコのことしか考えてなくて……。
その後は文学館併設の「けやきカフェ」で澁澤龍彦コラボメニューをたべる。黒糖と胡桃のパンケーキ。澁澤が好きだった胡桃や黒糖のお菓子をイメージしてつくられていて、とてもよかった。 思い出したのは、今よりもっと貧乏だったころ、いろんなところでやっている澁澤の展示に行けなくて悔しい思いをしたことだった。いまこうしてたどり着くことができるようになったことを、なんだかとても、自分が、自分をなんとかしているように思えた。
パンケーキを食べ終えてから、「武蔵野うどん」に挑戦することにした。「伊勢うどんとは対極にあるうどんだ」という事前情報しかなかった。 桶川駅ちかくのお店はかなり人気店のようでたくさん人が並んでいて、お店に入れたのは並び始めてから一時間後くらいだった。 つけ麺(うどんのことをつけ麺というのか?)システムで、つけ汁とうどんは別々の皿に載っている。なるほどこういうやつなのか、となにも考えずにがっと箸でつかんで汁につけてすすりはじめたはいいが、うどん、めちゃくちゃかたいんですけど?!噛みちぎれない…やばい、全部すすって口の中に入れるしかない……と思ったが、これがまたすさまじく長くて……永遠にうどんがおわらない……。 こんなに硬くて長いうどんはじめてなんですけど?!おれたちは箸で持ち上げ���だけでへたしたらブツッといく伊勢うどんの民なんだということを再確認し、「これは風邪を引いたときに食べるうどんではなく、体力が有り余っているときに食べるうどんだな」と確信しました。きっと武蔵野のひとたちは、風邪をひいたときにはおかゆを食べるに違いない。(伊勢志摩の人間は風邪をひいたら伊勢うどんを食べます)
二口目からは一本ずつ食べることで武蔵野うどんのおいしさを堪能し、また是非食べたい、顎の力を試したい、と思った。
武蔵野うどんを噛み砕くのに体力のほとんどを持って行かれて、疲れ果てたので、そのまま帰宅することに。 購買にシンカンセンスゴイカタイアイスを見つけたので購入し、席に着くと、隣のひともおなじシンカンセンスゴイカタイアイスを持っていた。しかもおなじチョコレート味。
べつに示し合わせてはいないがふたり一緒に食べることになってしまい、こんなに好きなひとがいるのに、もうシンカンセンスゴイカタイアイスは車内販売されないんだな……と悲しくなる。 そして、乗車15分まえに買ったし、シンカンセンモウカタクナイアイスだった。
アイスを食べ終えてからは、記憶がない。気づいたら名古屋だった。
名古屋駅で、近鉄のホームに来たら、電車を待つ人は無秩序にホームにたたずんでいて、車両のドアとか何も気にしていなかったし、電車が着いても「先に並んでいたひと」という概念がないので、運良くドアの近くにいたひとから電車に乗りこんだ。東京とかから帰る途中、この近鉄のホームの無秩序さを目の当たりにすると、まだ名古屋から三重まで帰らないと行けないのに、「帰ってきたなあ」と思うのだった。
名古屋駅から��寄り駅までも、寝ていたのでほとんど記憶がない。
帰宅したら、夕食は焼きそばだった。焼きそばの麺は、どれだけ頬張っても簡単に噛みちぎれた。武蔵野うどんは硬かった。
20 notes
·
View notes
Quote
高知市で今年7月、小4男児が水泳の授業中に亡くなった。小学校のプールが設備故障し、近くの中学校で授業を行っていた。8月24日に開かれた事故検証委員会では、当日のプールは男児の身長よりも水深が深く、事故以前にも死亡男児を含め3人の児童が溺れかけていたことが明らかになった。関係者が「何度も立ち止まる機会があった」と悔やむ今回の事故。なぜ防げなかったのか。 ■足のつかないプール 事故は7月5日に起きた。市教委によると、当時のプールの水深は114~132・5センチ。亡くなった男児の身長は113・8センチで、一番浅いところでも足がつかない状態だった。水中で足がつかないというのは、大人でも恐怖を覚える環境だ。 市教委は専門家らによる検証委員会を設置、8月24日に初会合が開かれた。会合は冒頭以外は非公開で進められたが、そこで示された事故の経緯や当日の状況などをまとめた資料からは、情報共有の不備と現場の危機意識の欠如が浮かびあがる。 資料などによると、6月上旬に被害男児の通っていた長浜小のプール濾過(ろか)ポンプの故障が発覚。修理に時間を要するとして、1~3年は近隣の別の小学校、4~6年は事故現場となった南海中で授業を行うことを長浜小の校長が提案した。 校長らが南海中のプールを現地調査したところ、満水時には最大水深140センチになるが、6月5日の計測では深いところで120センチ程度と長浜小と同じだった。 市教委は「水深が長浜小と変わらない」との報告を受け、安全性が確保できるとして南海中のプール使用を決定。長浜小は保護者に対し、連絡文書で「南海中のプールは、水深1・2~1・4メートルですが、水を浅く張っているため長浜小のプールの深さ(1・0メートル~1・2メートル)とあまり変わりありません。尚、細心の注意を払い水泳指導を行います」と通知した。 南海中のプールを使った初めての授業は6月11日に行われた。校長はプールの水位が10センチ程度上がっていることを確認。同21日も満水になっていたが、教員らは「苦手な子は浅いところにいること」などと注意喚起し、授業を強行した。 この日、今年度初めての水泳授業を受けた被害男児は、最も浅い場所で浮きの練習をしていたが、水面が頭の上だったため教員1人が「半分付きっきりで対応した」という。また、バタ足練習では被害男児を含め3人が教員に救い上げられる場面があり、校長に「溺れかけた児童がいる」と報告したという。 ■空白の10分 そして事故が起きた7月5日を迎える。授業は2、3時間目に行われ4年児童36人が参加した。教員2人が指導にあたり、教頭1人がプールサイドで監視していた。 授業は午前10時10分から体操、シャワーと進む。教頭によると、被害男児は水慣れの前に「怖い」と言っていたという。授業が進み、泳ぎの得意なグループと苦手なグループに分かれたのは午前10時42分ごろ。教員1人がプールサイドを歩いている被害男児を目撃している。 そして、午前10時52~54分ごろ、児童の「先生」と呼ぶ声を聞いた教員2人がプールサイドに引き上げられた男児を確認したが、すでに意識不明だった。 教員がプールサイドで確認してから約10分の間に溺れたとみられる。 ■「水位変化、考え及ばず」 水位変化などを受け、授業中止を判断できなかったのか。検証委員会のあと、取材に応じた松下整教育長には報道陣から質問が相次いだ。 松下教育長は、中学校での授業実施については「長浜小と水位が同じということで安全と判断した」と説明。授業実施の段階で水位が高くなったことについては「調査後に水を足していて、それ自体は水質管理上適切だったが、その後水位が変化することに考えが及ばなかった」と釈明した。 「いずれにせよ立ち止まる機会は何度もあった」と後悔をにじませた松下教育長。検証委は年度内を目標に報告書を取りまとめる予定だ。 検証委の委員長を務める中内功弁護士は「原因と再発防止策を検討するためにも、事故が発生した経緯をしっかり解明することが重要だ」と話していた。 ■「危機意識が不十分」 安全教育学が専門の桐蔭横浜大スポーツ教育学科の井口成明教授に聞いた。 プールの水深に明確な基準はないが、全く泳げない児童なら身長の半分ぐらいが適切で、足がつかない状態はありえない。本来なら泳力別にグループを分け、底に踏み台を沈めたり腕浮輪を使うなどの対策が必要だった。監視の目も不十分で、児童が恐怖を覚える環境で授業を進めたのは危機意識が不十分と言わざるを得ない。 水泳教育は水の危険から身を守るすべを身に付ける学習で、児童を危険にさらすのは本末転倒だ。学校現場は、水泳授業の基本的な安全対策の在り方をしっかりと研修し実践する必要がある。 ���前川康二)
「怖い」中学プールで小4男児死亡、事故前にも3人溺れかけ それでも強行された水泳授業 (産経新聞) - Yahoo!ニュース
10 notes
·
View notes
Text
653:↓名無し:24/09/15(日) 12:53:38 ID:YE.jx.L1 自分の神経がわからん話で完全な自分語りなので苦手な人は読まないようにお願いします。 長文すみません。
小学4年生まで恐ろしく人の心を考えられない子供だった。 遊具5つ程度の小さな公園でいつも遊んでいたんだけどそこに校区外から 知らない女の子が犬を連れて遊びにきた。 シェルティ?という犬かな。当時は見たことのないおしゃれな感じの可愛い犬だったから 触らせて欲しくてその子にまとわりついた。 「触らせてあーげない」と言われてもいいじゃんちょっとくらいと絡んでいたら 女の子がうっかりリードを離してしまい懐っこい犬は道路の反対側の男の子に走って行った。 慌てて女の子が犬の名前を叫んで呼び戻したら賢い犬ですぐ反応して帰ってこようとした。 それが逆にダメで、犬は車にはねられた。 ギャイン!と鳴いたきり横たわって動かない犬を女の子が座り込んで抱えて大泣きしてたのを覚えてる。 当時携帯がなくて誰かの家の電話で親に連絡がいって迎えにきた車で女の子は去って行った。 2時間後くらいに女の子が犬を連れずに戻ってきて私はしつこく女の子に犬がどうなったのか聞いた。 悪意は全くなかったけど思い出してもしつこいくらい聞いた。 女の子は俯いて黙ってたけどたまりかねたように「死んだよ!!!!」と絶叫して走り去って行った。 私は叫ばれたのに驚きつつ(なーんだ、犬死んじゃったのか)と犬がどうなったのか聞けて満足して帰った。
654:↓名無し:24/09/15(日) 12:54:06 ID:YE.jx.L1 続きです。 上記の出来事を、4年生の終わりに担任の先生に放課後呼び出され同クラスの女子たちに 取り囲まれ口々に○○さんのこういうところが嫌いです、ああいうことをされて嫌いだと思いました。 と糾弾会が開かれた時にバーッと思い出した。 アニメとかである新しい能力を手に入れた時に閃光弾みたいなのが脳内で弾けるようなイメージ。 糾弾してる側の女の子たちがみんな泣いてるのを見ながら 犬を亡くした女の子の俯いた顔、苦しそうに歪んだ顔、絶叫、すぐに犬の状態を言わなかったこと そうかあの子は死なせてしまった責任を感じてたんだ、犬を連れてこなければと思ってたんだ 悲しかったんだ辛かったんだ苦しかったんだ、どうなったかなんて軽く聞いちゃいけなかったと初めて理解した。 人生で誰かが何を思うかなんてそんなこと考えたことがなかったから衝撃だった。 恥や恐怖や後悔というような概念をその時にはじめて得たと思う。 涙を流して「ごめんね」と言った。クラスの女の子たちは驚いた顔でこっちをみてた。 泣いたのもごめんねと言ったのも多分入学して初めてだった。 それから自分でいうのもあれだけど人が変わったように静かになり誰かの意見を尊重できるようにもなり 5年生になると段々許してくれる友達が増えて6年生になるといじめは完全になくなった。 全く気づかなかったけど、いじめられてたらしい。 それを先生が咎めてアイツ���悪いのにと女の子たちの不満が爆発し、話し合うためのあの放課後だったらしい。 中学生からはおとなしくて聞き上手で優しいよねと言われるまでになった。
655:↓名無し:24/09/15(日) 12:54:22 ID:YE.jx.L1 最後です。 この出来事以来、中・高・就職時、協調性はあるが消極的で自主性が なくリーダーシップが見られないという評価を受ける人生になって少し苦しんだりもした。 A,恥も知らず他人に神経がわからんと言われ嫌われながら、それに気づきもしないで 自分の思うまま好き勝手に生きて傷つくこともなく自分だけハッピーな人生。 B,周囲と問題なく溶け込んでいるがリアルでは自分を出せない、 曝け出すのが怖いと感じているけど嫌われてはないから平穏な人生。 私の人生の場合この2択の可能性があってBの道に進んだのだけど、Aだった場合 今どうなってたんだろうと考えることがある。 連投・長文本当に申し訳ない。 あの時の自分の有り様に気付いた時の衝撃は今も胸にある。
3 notes
·
View notes
Text
雀始巣
春の足音がする。聴覚だけじゃなくて触覚も視覚も春が目覚めていると気づく。来月から3年目になる。後輩がまた同じ部署に入ってくるらしい。男女1人ずつ。周りの同期も同じようで悔いなく本社に行けるね、と話す。従兄もようやく社会人になって、2つ下の従弟が先輩という院生ならではの上下が生まれる。3月に入って3人の学部学科も違う大学の後輩に会社説明会兼面接やESの説明をした。筍みたいに年数だけ重ねてグングンと竹になる気分だけど、私は変わらず毎日学びを続けている。連続学習14週とログが残っているので続けたいという意欲がある。編み物も1ヶ月経とうとしていて、電車での移動中編みながら耳では学びを得て、なんだか一石二鳥、三鳥な気分でいる。ポーチを沢山作成した後帽子作りを齷齪している。不正利用されたクレカの再発行は1ヶ月かかるらしい。周りは不憫だったと言うけどお金取られてなくてよくない?なポジティブな私がいる。どういうところで寛大になってるんだか。婦人科で定期検診で診てもらっている子宮は少し悪化したらしい。せっかく半年毎に定期検診がなったのに3ヶ月に逆戻り。ただ、異動前に診てもらえると思えば。異動になったら紹介状ではないけど手順を教えてもらわなくちゃ。皮膚科もそう。次の異動地では歯医者にもしっかり通いたい。先日ホワイトデーにばぶから花束をもらった。丁度欲しいなと願っていた時期だったのでとても嬉しかった。目標の一つである毎月何かしらの本を読むでは今月は加藤千恵著の本を読んだ。相変わらず私みたいな人が存在している。私みたいなというより本のような人になっていることがなんか不思議。初めて加藤千恵の本を手に取ったのは14歳だった。14年後の私がそうなるとは1ミリも思ってなかった。明日は休みにした。映画なりゲームなり進めて有意義にすごしたい。
私はばぶからちゅんちゅんと呼ばれている。
10 notes
·
View notes
Text
たまごやき
大好きなあなたのことを考えながら、卵焼きを焼いている。
そんな詩めいた言葉を口に含みながら、よく溶いた卵をフライパンへ注いだら、弱火に熱した鉄のうえで薄い黄色がふくふく泡立った。洋食屋のシェフだった祖父直伝の卵焼きのレシピの内容は、たまごと醤油と砂糖、あと塩だけ。あせったらすぐ焦げてしまうので、深呼吸���ながら巻いてゆく。出来上がった卵焼きの完成度で自分の気分が分かるのはまた別の話。
そうやって、わたしは今、もうこの世にいない大好きなあなたのことを考えながら、卵焼きを焼いている。
だって、卵焼きを焼くと、あなたの耳のうしろへ鼻を寄せたときと同じ匂いがするから。
あなたはわたしのお誕生日の次の日におうちへ来てくれた。茶色くて、骨が太くて、レッドアンドホワイト、オス、と札がついていた。お店で抱っこしたときはあんなに大人しかったのに、うちにくると暴れん坊になった。ラッキーって名前をつけようとしたら、父親が「こいつはそんな感じじゃない」と言って、すぐに〈チャチャ〉という名前になった。本当に声が大きかったよね。すっごいうるさかったよ。横に住んでるビーグルの男の子と、窓越しによく会話してたよね。散歩がすっごく好きだったよね。行けない日は網戸越しに外を見てたよね。バイクもトラックも本気で追いかけたよね。獣医さんの処方した薬は嫌いだったよね。そうそう、話は戻るけど、あなたをお会計(ペットショップ)してるとき、この子は心臓が弱いから生きられても12年ですって言われたんだよ。わたしは10歳だったから、説明を受ける両親の後ろで指を折って22歳まで数えてみたな。実感湧かなかったな。小さくてかわいいリボンを首につけて、ケーキを持ち帰るときとそっくりの段ボールに入って、空気穴から鼻を出してるあなたを見ながら、約12年のカウントダウンが始まりました。懐かしいね。
大好きだよって何度抱きしめただろうね。
私が悲しかった夜。外の空気を吸いたくて、でも門限が厳しかったからひとりでは出られなくて、「散歩連れて行ってくる」って口実で抱っこしたら、眠そうだったのに一緒に歩いてくれたよね。絶対前を歩いてくれたよね。でもそれはただ、自動販売機のひかりに吸い寄せられていたからだって知ってるよ。歩くたびに背中の毛が羽根みたいにふわふわゆれて、あれ、今思えば癖っ毛だったのかな。いろんなところでいたずらしてたし、オムライスのたまごをつまみ食いしたこともあったよね。勝手にテーブルに登ってティッシュを散らかしてたよね。私がリコーダーの練習をしてたら、エーデルワイスに合わせて遠吠えし出したのにはびっくりしたな。あれ今ネットに流せば話題になるんじゃないかな。いろんな携帯を経由してるからもう画質がびがびだけどね。
梨が好きだったよね。おじいちゃんの焼いたパンが好きだったよね。大きい毛布が好きだったよね。こたつも好きだったよね。ひとりっ子でわがまま放題だったあなたに、弟ができたのはその頃でしたね。黒いチワワのちくわ。妹命名です。手の先だけが茶色くて、ちくわをはめているみたいだったかららしいよ。最初は喧嘩してたけど、ちくわがあまりにもどこ吹く風だから、あなたは早々に諦めていましたね。いいコンビだったよ。お留守番も悲しくなくなったよね。いきなり部屋の電気をつけたら、ふたりでまぶし、って顔してたよね。血は繋がってないのに面白いくらい似てたよ。そしてそのまた次の年、コーギーのまめが来て。まめとは……相性あまり良くなかったよね。おんなじ毛の色してるくせにね。たまに、未知の生命体と交信するみたいに見つめ合ってたね。かわいかったよ。なんだかんだ一緒に寝たりしてたよね。リビングに毛玉がみっつ落ちてる光景、好きだったな。
あだ名たぶん10個くらいあるよ。思い出せないけど。チャチャはチャっくんになって、テレビでもののけ姫が流れた次の日、ヤックルにちなんで、チャックルになったよね。どうせなんて呼んでも振り向くんでしょあなたはね。
変なところ鋭かったよね。動物的勘っていうやつなのかな。
家出しようとしたら、静かに目で行くなって言ってくれたよね。
部活の大会で負けて、頭に顔を押しつけて泣いて、あたまびっしょびしょにしちゃってごめんね。
受験勉強で夜更かししてじゅうぶんに寝かせてあげられなくてごめんね。
うるさいって言ってごめんね。でもそれはほんとにうるさかったからこれでおあいこです。
私が大学生になって、あなたの心臓がいよいよ悪くなって。大好きなおじいちゃんの食パンに包まれた薬を飲んでたよね。たまにぺって吐き出して怒られてたよね。たまに発作を起こしてたよね。つらかったよね。何もできなくてごめんね。
夜寝る前に、こっそりあなたの頭に鼻を寄せて、おやすみ、大好きだよ、って言うようになったのはその頃です。そして、卵焼きの匂いがすると知ったのもそれがきっかけです。ごめんね。でもね、朝起きて、あなたが死んでいたら後悔すると思って。自分勝手でごめんね。嫌だったよね。いや生きてるわ、って思ってたよねきっと。でもさ、そんなことでわたしのこと嫌いになったりしないよね。警戒心の強いあなたがわたしのお腹でぐーすか寝るくらいだもん。家族だもんね。
わたしがあなたを最後に見たのは、冷蔵庫の前に伏せをしている姿でした。いつも通りでした。この夜が山場だって両親から言われて、覚悟はしてたの。でもどこかで、大丈夫だろうって思ってたのも本当だよ。だってあなた信じられないくらい骨が太いんだもん。叩いたら太鼓みたいな音するんだもん。チワワのくせに8kgもあったんだもん。あっ、体重測るのはわたしの役目だったよね。わたしがあなたを抱いて体重計に乗って、表示された数字から48を引いたら、あなたの命の重さが分かりました。……そんな重くなかったって? ちゃんと重かったよ。そしてね、すっごいあったかかったよ。
朝。ベッドで寝ていたら、父親が入ってきて。目が覚めたのが先か、父が口を開いたのが先か覚えていないけど、そこで全部を悟りました。父親がわたしに声をかけるときは、決まって大事な話があるときだから。
チャっくんが死んだわ。
一言一句たがわず覚えています。
ベッドから出て、階段を降りて、リビングの柵を跨いで。この柵はね、あなたが脱走するから苦肉の策で設置したやつね。それを跨いで。
頭の横に母、足元に父、おなかのよこに妹。そして心臓の前にわたし。ちくわとまめはどこにいたかな。ごめん二人とも、その瞬間だけは見えてなかったかも。許してね。
死んでたね。
涙が出なくて。だって悲しくなくて。強がりとか薄情じゃなくて、分かってたから。半分だけあなたが死ぬって分かってたから。そっか、死んじゃったかって、あなたの目の前にいるくせにそんなことを思ったわたしのこと怒ってる? ……怒ってなさそうだね。この世の終わりのように泣く母に相槌を打って。初めて見る父親の泣き顔にびっくりして。妹は泣いてなかったったかな。
あまりにも悲しくなくて、普通にお化粧をして、遊ぶ約束をしていた友だちとそのまま遊びに行って、パスタを割り勘して、電車に乗って帰って、恋人に迎えにきてもらって。こうやって文字にしてみたらすごく最低なやつだね。実際そうだよ。母親は不満そうでした。その反応が普通だよ。
だって、悲しくなかったの。当たり前だったから。あなたが生きていようが死んでいようが、わたしがあなたを好きなことに変わりはないし、今まで生きてきた時間は消えないし、思い出もなくならないから。そしてね、あなたが死んでからいまこの瞬間まで、あなたが死んだことを悲しんで涙を流したことはありません。懐かしくて泣いたことはあるけどね。
それは、あなたがぜんぶを連れ去ってしまったからです。
ビルでも建てられそうな隆々とした骨の中で、弱かった心臓を守っていたあなたは、いつだって気丈で跳ねっ返りが強くて。わたしが煌々と電気をつけて勉強するから寝不足だっただろうに、ごはんももりもり食べて。発作のときもどこか豪快で、心配になるような弱りかたはしなくて。ああ思い出した、肉球を怪我してるのに海に入って、血が出てるのに何にも言わなかったよね。気づかなくてごめんね。染みたよね。そんなふうにあなたはずっとまっすぐで。散歩のときはリードを���っ張って。あげく、もうすぐ死にます、なんて診断されて帰ってきて。
好きだったよ。
大好きだったよ。
いや、大好きだよ、今も。
火葬場に行くあなたを、最後にちくわと触りました。まめは連れて行かないでって吠えていました。うまくできた話だよね。泣かせるね。
遺骨になったあなたは、わたしが部活のカメラで撮ったぶさいくな写真を遺影に採用されて、いつもお仏壇はものでいっぱいです。最初はみんなさめざめとお菓子を備えてたけど、今では半分投げやりです。チャっくんにあげとくか〜って軽い感じです。
たまに夢で会いますね。
最初は良かったんだけど、いつしか、夢の中でさえ、なんであなたが生きてるんだろうって思うようになりました。たぶん、わたしにとって、あなたがこの世にいないことが普通になったから。
わたしは、あなたがいないことを悲観的に捉えたことはありません。会いたいなとは思うけど、悲しんで泣いたりはしません。たぶん、これからも。
一月生まれなのに桜が似合うあなたに。
みんなに撫でられすぎてあたまだけ癖っ毛が落ち着いていたあなたに。
悪知恵ばっかり働くあなたに。
ちょっとしゃくれてるあなたに。
しっぽが長いあなたに。
お風呂が大好きなあなたに。
10歳で亡くなったあなたに。
わたしの誕生日プレゼントとしておうちに来てくれたあなたと、その運命に。
耳の後ろが卵焼きなあなたに。
会いたいなと思いながら、さっき、卵焼きをお弁当に入れました。
気が向いたら会いに来てね。今日でもいいよ���そろそろのぼせそうだからお風呂あがるね。明日もお仕事だから早く寝るね。
おやすみ、大好きだよ!
……あれ、なんか伏線回収みたいになった? 職業病かな。うふふ。そうだといいな。
でも本当におやすみ。大好きだよ。
5 notes
·
View notes
Text
先ず初めに
自己紹介
最後に
「先ず初めに」
ようこそ!
ブログ名の由来は…アニメ「おにいさまへ…」のサンジュスト様こと朝霞れいの台詞からの引用です。
"私の可愛いお人形"
というニュアンスで使われています。
ブログを始めようと思ったきっかけは友人からの薦めでした。
推しアラン・ドロン様に対する愛を外に出していこうと思います。
「自己紹介」
私はミドサーの女性です。
音楽を聴いている時間は至福の時。
それくらい好きなのです。
1日数時間は聴かないと身が持たないです。
そんな訳で、好きなジャンルはAOR、jazz、80's、イージーリスニング、ニューエイジ、オールディーズ、メタルロック、ソフトロック、R&B、昭和アイドル(歌謡)、POPs、唱歌、クリスマスソング、バラード曲など…。
よく聴くアーティストはマライア・キャリー、バリー・マニロウ、マイケル・ブーブレ、エヴァネッセンス、Gary Stadler、アンドレ・ギャニオン、IL DIVO、セリーヌ・ディオン、ジャネット・ジャクソン、ケニー・G、米津玄師、YOASOBI、河村隆一、T-BOLAN、岩崎宏美、美空ひばり、TOTO、403、リチャード・マークス、ニーノ・ロータ、エンニオ・モリコーネ、羽田健太郎、久石譲、milet、スティーリー・ダン、B’z、氷室京介、GLAY、Gackt、TM Revolution、TM NETWORK、小田和正、The Police、STING、The Beatles、Paul McCartneyなど挙げればキリがないです。
個人的名盤はマライア・キャリーの「Music Box」、「Mariah Carey」、ジャネット・ジャクソンの「Janet」、スティーリー・ダンの「Gaucho」、ドナルド・フェイゲンの「Nightfly」、Kelly Clarksonの「Thankful」、ノラ・ジョーンズの「Come Away With Me」、The Policeの「Synchronicity」、The Beatlesの「Let It Be」です。
映画はクラシック映画に中高生時代ハマっていて見ていました。
好きな作品は別添画像参照下さい。
好きな俳優さん、女優さんはアラン・ドロン、ティム・ロス、レイ・ミランド、ジョニー・デップなど…クリストファー・ウォーケン、マイケル・ダグラス、ヴィゴ・モーテンセンも好きかもしれないですが見た本数は少ないです。
ケイト・ウィンスレット、オードリー・ヘップバーン、クリスティーナ・リッチ、見たいと思っているのはシャロン・ストーン、ウィノナ・ライダー、エマ・ワトソンの作品。
アニメは、出崎統と杉野昭夫がタッグを組んだ作品が特に好きです。
「おにいさまへ…」や「ベルサイユのばら」、「ブラック・ジャックOVA」、「白鯨伝説」など…。
「雪の女王」はまだ途中までしか見れておらず、好きな作品に入れることが出来ないのが悔いです。
それ以外には安彦良和さん原作、監督のアニメやジブリ作品も好きですね。
その他で特に好き!と言えるアニメは「七つの海のティコ」と「遠い海から来たCoo」になります。
ゲームは、ここ数年はアズールレーンとアークナイツに凝っています。
昔は、ゲームボーイでポケモンをしていました。
Switchも持っていてたまに着せ替えゲームをプレイしています。
ネプテューヌシリーズは買って積んであるのでいつか絶対プレイしたいです!
まあ、趣味はこんな感じです。
お洒落も好きなんですがそこまで共有したい欲求は湧かないのでこの投稿では省いておきます。
ペットも飼っていますよ、わんちゃんとねこちゃん1匹ずつです。
とても可愛らしい子達です。
あ、余談ですが高橋英樹さんと関俊彦さんが大好きです。
イラストや絵画、天体や動物の写真を見るのも好きです。
アラン・ドロンが一番ですが(画像右側の男性)…。
「最後に」
ここまで読んで頂いてありがとうございます!
箇条書きのように書き並べましたが、次回の投稿からは変わりますよ?
下に一番好きな曲を載せておきますね。
これから「ma cheri la poupee」を宜しくお願い致します。
それでは、また。
3 notes
·
View notes