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2025/03/30 全体主義の起源と人間の複数性
ハンナ・アーレントは1906年、ドイツのハノーバーでユダヤ系の中産階級の家庭に生まれた。マーブルク大学でマルティン・ハイデガー、ハイデルベルク大学でカール・ヤスパースに師事して哲学を学び、博士論文『アウグスティヌスにおける愛の観念』を執筆したのち、19世紀初頭のベルリンでロマン派の文人などを集めたサロンを主宰したユダヤ人女性ラーエル・ファルンハーゲンの評伝を書いている。
1933年に政権を掌握したナチスの迫害を怖れてアーレントは母親とともに出国し、プラハからジュネーブを経てパリへ逃亡する。パリでは中東パレスチナにユダヤ人の故国を建設しようとする「シオニズム」の運動に協力している。ユダヤ人としての自己の存在の意味について本格的に考え始めたのもこの頃からである。
第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍がパリに迫ってくる1940年5月、フランス政府は亡命したユダヤ人を敵国人として収容所に収容する。アーレントはピレネー山脈近くのギュルス収容所に移された。6月にフランスが降伏するとドイツ軍のパリ占領の混乱を機に収容所を脱出してスペイン国境を越えてアメリカ合衆国に渡航する。
1941年5月にニューヨークに着いてから1951年にアメリカ国籍を取得するまでの間、亡命ユダヤ人として執筆活動を始め、ユダヤ系の新聞『アウフバウ』や『パルチザン・レビュー』などの雑誌に投稿する一方で、バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビアなどの大学で教鞭を執っている。その一連の活動と思索の成果が1951年に公刊された『全体主義の起源』である。
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同書の第一部「反ユダヤ主義」では18世紀末から19世紀末にかけてのプロイセン、オーストリア、フランスのユダヤ人の動向とナチ・イデオロギーの根幹となった反ユダヤ主義に関連する歴史的事象との関わりが描かれる。宗教的なユダヤ人憎悪とは異なる反ユダヤ主義(反セム主義、アンティセミティズム)は社会や政治の同時代的な問題状況と並行して現れた。
ヨーロッパの君主国を財政的に支えていた御用銀行家としての宮廷ユダヤ人は社会的には隔絶して存在していたが「例外ユダヤ人」としての特権を享受し、国家と直接結びつく政治的機能を果たしていた。しかしブルジョワジーが台頭し、政治と連携する時期になるとユダヤ人の富の意味は急速に失われていった。そうした中で曖昧で余分な存在に対する憎悪の風潮が生まれ、他方で右派から左派までのさまざまな政党において���衆の支持を獲得するための道具として反ユダヤ主義が利用されていく。
政治的道具としての反ユダヤ主義の危険性はユダヤ人が抽象化され、ユダヤ人一般として見做されることにある。具体的にユダヤ人と接触したことのない群衆(モッブ)が個人的経験ぬきでイデオロギーとしての反ユダヤ主義に染まり、そこに人種主義的要素が加わり、抽象化された存在に対する無責任で過激な「イデオロギー的狂信」の土壌が出来上がる。
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第二部「帝国主義」では南アフリカで帝国主義政策を推進したイギリスの政治家シル・ローズの「できることなら私は星々を併合しようものを」という言葉に見られるような、ヨーロッパの富の無限の膨張のプロセスとその政治的意味が描き出される。
帝国主義は人種主義を政治的武器として、人類を支配人種と奴隷人種に分ける。アーレントによれば、余剰となった富とともに、失業してヨーロッパで余計な存在になった人間が植民地へと輸出され、彼らは自分たちを支配的白人種としてみなすという狂信に陥った。余計者として国外へと出た人間がそこで出会った人々をさらに余計者とみなすという構図が生じたのである。
また帝国主義時代の官僚制支配では政治や法律や公的決定による統治ではなく、植民地行政や次々と出される法令や役所の匿名による支配が圧倒的になっていった。アーレントは官僚制という「誰でもない者」による支配が個人の判断と責任に与えた影響を検証した。
アーレントは膨張のための膨張という思考様式の中で人種主義と官僚制が結びつくことの危険性を強調している。膨張が真理であるというそのプロセス崇拝と「誰でもない者」による支配においては、すべてが宿命的・必然的なものと見做されていく。ひとつひとつの行為や判断が無意味なものになるのである。さらに植民地における非人道的抑圧はブーメラン効果のように本国に翻り。合法的な支配をなし崩しに無限の暴力のための基盤を作っていく。
アーレントはこの部の最後で国民国家体制の崩壊の結果生まれた人権の喪失状態を分析している。第一次世界大戦後、国民国家や法的枠組みから排除される大量の難民と無国籍者が生まれた。共同体の政治的・法的枠組みから排除されている彼らは、すべての権利の前提である「権利をもつ権利」を奪われている。アーレントは政治的に属さないことによる無権利状態の危険性、意見や行為が意味をもつ前提としての人間世界における足場を失うことの深刻さ、無国籍の人間の抽象性が孕む危険性を指摘した。
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第三部「全体主義」では、歴史的に知られた独裁や専制とは異なる全体主義運動と全体的支配の��徴が描かれる。そして大衆運動から強制収容所とガス室という「人間の無用化」に至るまでの全体的支配のさまざまな要素が分析される。その際アーレントは強制収容所という極限状態における人間の経験と現代大衆社会での孤立した人間の関連性を指摘した。
全体的支配は人間の人格の徹底的破壊を実現する。自分が行ったことと自分の身に降りかかることとの間には何の関係がなく、すべての行為は無意味になる。強制収容所に送られた人間は家族・友人と引き離され、職業を奪われ、市民権を奪われ、自分が行ったことと身に起こることとの間には何の関連性もなく、発言する権利も行為の能力も奪われる。行為はいっさい無意味になる。アーレントはこうした事態を法的人格の抹殺と呼んだ。
法的人格が破壊された後には道徳的人格が虐殺されることになる。ガス室や粛清は忘却のシステムに組み込まれ、死や記憶が無名で無意味な者となる。また全体主義的犯罪による善悪の区別の崩壊は、犠牲者をも巻き込む体制であった。アーレントは自分の子供のうち誰が殺されるかを決めるように命じられた女性や収容所運営を委ねられた被収容者の例をあげている。
さらには肉体的かつ精神的な極限状況において、それぞれの人間の特異性が破壊され、人間は交換可能な塊となるとアーレントはいう。自発性は予測不可能な人間の能力として全体的支配の最大の障害となる。全てが可能であると自負する全体的支配とは人間そのものに対する全体的支配に他ならない。
政治は市民たちが法律に守られながら公の場で語り行為するということであり、人々が複数で共存することを意味している。こうしたことからアーレントは全体主義下で遂行された「人類に対する犯罪」を人間の複数性にたいする犯罪であると見なし、ナチズムやスターリニズムの終焉後も生き残りうる「全体主義的な解決法(複数性の抹消)」に対して警告を発するのである。
そして、その後もアーレントは複数としての人間のあり方に関わる政治はなぜこのような破局に至ったのか、大衆社会はなぜ人間の多様性を実現できなかったのか、人間の尊厳を保証するためにはどのような共生のかたちが模索されうるのかといった問いを持ち続けることになった。同時にそこには現代世界の状況と近代科学の発展の関係についての考察から、近代科学は人間の思考にどのような影響を及ぼし、それが世界の「砂漠化」とどのように関わっているのかという問いが加わった。こうした問題意識は1958年に公刊されたアーレントの代名詞ともいうべき著作『人間の条件』へと結実するのであった。
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2025/02/27 九鬼哲学における時間論
「いき」の哲学で知られる戦前日本の哲学者、九鬼周造は留学からの帰国の途につく1928年にパリ近郊のポンティニーにおいて「時間の観念と東洋における時間の反復」と題する講演を行なっている。九鬼はこの講演において近代的時間観念をより根本から相対化するものとして〈回帰的時間〉というものについて論じている。
まず九鬼はこの講演で最初に時間の本質とは人間の「意志」にあることを主張する。しかもその上で東洋的時間の特徴は「繰り返す時間」「周期的時間」としての〈回帰的時間〉にあるとする。彼はその典型的なものとしてある存在(例えば人間)が別の存在(例えば虫や獣)に生まれ変わる「輪廻」を持ち出している。そして九鬼は「輪廻」とはカルマを前提にしている以上、その本質は〈同一性〉にあるとする。そして輪廻の本質が〈同一性〉にあるのであればもっとも典型的な輪廻とはある人間が永久に繰り返して同一の人間になり続けることであると九鬼はいう。
さらに九鬼は「輪廻」の本質を徹底していくと個人だけでなく宇宙全体が〈同一性〉の状態において周期的に再生するという観念に到達するという。その代表的なものが古代インドに生まれギリシアに流れていった「大宇宙年」という時間論である。それは絶対的に同一的な「大宇宙年」というものが無限に繰り返されるという考え方である。こうした「大宇宙年」を九鬼はフッサールの「形相的単体性」という概念を使って説明している。即ちそれは〈絶対的同一性〉と〈量的多様性〉とが相矛盾せずに両立するものである。このように各「大宇宙年」は互いに全く同一でありながら数の上では多であることができるのである。
九鬼はこうした無限に繰り返す「大宇宙年」という考え方を受け入れる時、通常の「水平的」な時間の流れに対して「垂直的」な時間というものが成立するという。この点、ハイデガーは時間の構造を「脱我」という語で説明している。つまり時間とは未来・現在・過去という「脱我」の存在の三様態の総括的統���即ち「脱我的統一」であるというのである。九鬼によればこうした意味における「脱我」は「水平的」な「脱我」であるという。
これに対して「大宇宙年」の無限の繰り返しによる回帰的時間では「垂直的」な「脱我」というものが存在するという。各「大宇宙年」は全く同一なのであるから一つの「大宇宙年」の中にある瞬間と全く同一の瞬間が、どの「大宇宙年」の中にも存在する。つまり「各々の現在は同一の瞬間を、その一部を未来の中に、他の一部を過去の中に持っている」のである。それゆえに各瞬間は「無限に深い厚さをもった瞬間」としての「永遠の現在」なのである。このように未来の「大宇宙年」における今、現在の「大宇宙年」における今、過去の「大宇宙年」における今というものの統一を九鬼は「垂直的」な「脱我」と呼ぶのである。
九鬼によればこの二つの「脱我」の相違は2点あるという。第一は〈水平的脱我〉にあっては未来・現在・過去という構成要素が「連続性」の下にあるのに対して〈垂直的脱我〉では未来の「大宇宙年」における今、現在の「大宇宙年」における今、過去の「大宇宙年」における今という各要素は「非連続性」の下にあるという。第二に〈水平的脱我〉では未来・現在・過去の各要素は「純粋異質性」を表しており、従って時間は「不可逆的」であるが、それに対して〈垂直的脱我〉では時間の各要素、即ち各「大宇宙年」における同一の瞬間は「絶対的同質性」においてあり、したがって時間は「可逆的」である。
ハイデガーの説く〈水平的脱我〉とは我々が日常体験している時間を分析したものであるから「現象学的」な時間といえる。これに対して〈垂直的脱我〉とは一種の「形而上学的=神秘的」な時間である。つまり〈垂直的脱我〉にあっては我々は通常の時間を乗り越え、文字通りの「脱我(エクスタシス=エクスタシー)」を体験するというのである。
ところで九鬼は先述のように時間の本質は人間の意志にあるとしたが、こうした「大宇宙年」を生み出すのもまた人間の意志であると考えた。そして九鬼は「大宇宙年」を生み出すいわば宇宙的な規模の意志を持った者として「自ら時間を新しく創造する巧妙なる魔術師」というものを想定している。こうした「魔術師」の持っている意志のようなものはすべてが絶対的に更新される「大宇宙年」の中では確かに「現実的」には存在しない。しかしそれは「潜勢的」には存在しうるのだと九鬼はいう。
・以上のような「輪廻」「大宇宙年」に関する議論の後で九鬼はこうした〈回帰的時間〉からの「解脱」を問題にする。そして九鬼によればこの「解脱」には二つの方法があるという。一つは仏教にみられるものである。時間の本質が意志というものにある以上、その意志を知恵によって否定し「涅槃」を実現することによって時間を「解脱」することができるはずである。九鬼はこれを「主知主義的超越的解脱」と呼ぶ。もう一つは武士道に見られるものである。それは仏教の場合とは全く逆に、意志を否定せずに無限に繰り返す「輪廻」を引き受けようとするものである。それは時間の中に自ら進んで身を投じ、いかなる挫折や幻滅にもめげず、自己自身の完成を無限に追い求めていくというのである。九鬼はこれを「主意主義的内在的解脱」と呼ぶ。前者は「非時間的な「解放」」「永遠の休息」を目指すものであり、後者は「真と善と美との苦しき探求の無限の反復にあって時間を懼れないこと」を目指すものである。前者は「不幸を逃避しようとする快楽主義」であり、後者は「不撓不屈、以って不幸を幸福に転じ、永久に我々の裡なる神に従わんことを勇敢に決意した道徳的理想主義」である。
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この講演で九鬼がもっとも頻繁に使っている言葉は〈同一性〉というものである。それは宇宙の〈同一性〉であり、それに相即した〈自己〉の同一性である。この講演では〈自己〉というものがいかにして〈同一性〉を確保しうるかということが一貫して追求されている。そしてその結論として茎が持ち出したものが同一の生の無限の繰り返しとしての〈自己〉の永遠性であった。
いうまでもなく、ここで説かれている〈自己〉の永遠性とは水平的な時間軸に沿っての永遠性ではない。「輪廻」においても「大宇宙年」においても、各周期ごとに過去の〈自己〉は死滅し、全く新たな〈自己〉が誕生するのである。その意味で〈自己〉は絶対の断絶の下にある。従ってここでいう〈自己〉の永遠性とは〈垂直的脱我〉のところで説明したようないわば垂直的な時間軸に沿っての永遠性なのである。
〈回帰的時間〉の立場に立てば、現在の生すべての瞬間は全く同一の瞬間を過去と未来の無数の「大宇宙年」の中に持っていることになる。これら同一の瞬間は互いに絶対の断絶によって隔たりながら、しかも全く一体である。つまり水平的な時間軸に沿ってみたとき〈自己〉というものがいかに分裂し拡散したものであっても垂直的な時間軸においては、瞬間ごとに〈自己〉は同一性・永遠性を獲得することができるということである。
以上のように九鬼の場合〈自己〉の永遠性というものは各瞬間において感得されるべきであるとするならば〈自己〉の永遠性の追求ということは結局現在の〈自己〉の生の瞬間をいかに肯定し充実させていくかという問題に帰着することになる。
九鬼は「大宇宙年」の思想というものは死後の生を信じるということを前提にしたものではないという。通常、来世が存在するということは現世とは全く異なった別の生を受けるということを意味している。しかし「大宇宙年」という無限の回帰という考え方においては人間の生は一様にしかありえない。確かにそれは無限に繰り返されはするのだが、しかし全く同一の生が繰り返されるだけである。つまりそこでは現世の一度だけの生以外のあり方は存在しないのである。すなわち、九鬼によれば「大宇宙年」という考え方は人生を一度きりとする考え方を一層充実させ一度の人生の瞬間瞬間をかけがえのないものとして送らせるための思想だというのである。
このように考えると九鬼の説く〈回帰的時間〉というものは一種の〈運命〉というものを意味する時間であることがわかる。〈回帰的時間〉の立場に立てば現在の自己の生というものは過去の「大宇宙年」における自己の生の全くの繰り返しであり、その意味で現在の自己の生は無限の過去に定められた道筋を辿り直しているだけであるということになる。またこれからも人間は未来の「大宇宙年」において全く同一の生を無限回繰り返さなけれbならないのである。従って宇宙的な視点から見たとき、現在の自己の生は自己に与えられた絶対に変更のできない〈運命〉なのである。だとするならば現在の自己の生の瞬間を充実させるということは、それがいかなる生であれ、それを自己に与えられた〈運命〉として受容し、限りなく愛していくということであるはずである。
そのように考えるとこの講演で九鬼が説いていた二つの時間からの「解脱」ということの意味も理解できる。無限に回帰する時間を積極的に引き受けようとする「主意主義的内在的解脱」というものはただ時間の中に埋没していただけでは決して生まれないものであるはずであり、そこには時間から抜け出てそれを相対視し、宇宙的広がりの中で自己を捉えようとする「主知主義的超越的解脱」の契機が必要なはずである。そしてこの二つの「解脱」は一体となって〈運命愛〉といったものを構成しているのではななかろうか。
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2025/01/30 ベルクソン哲学における「自由」
「生の哲学」という新たな潮流を生み出したアンリ・ベルクソンの最初の著作『意識に直接与えられるものについての試論』はベルクソンの哲学における基本的な発想のほとんどが萌芽的な仕方で現れている。本書では「自由」の問題が論じられる。ここでベルクソンは「自由」について、誤った見方を排除して我々の存在そのものに立ち返るならば、我々は常に自由であると主張する。このような主張は一見、個人における「内面の自由」を述べたもののようにも読めるが、もちろんそうではない。ここでベルクソンが「自由」を論じるのはむしろ我々に直接的に与えられる「実在」が「自由」という言葉によって示される何かに近いからに他ならない。つまりベルクソンは「自由」を論じることで「実在」の本質を一つの側面において明らかにしようとするのである。
『試論』の議論は「意識に直接与えられるもの」として「外延的なもの」と「強度的なもの」という「二種類の量」の区別からはじめられる。ここでいう「外延的なもの」とは空間的な拡がりの中で定位され数値的な測定が可能な「量」のことである。しかし「強度的なもの」とはこうした意味での「量」ではない。ベルクソンは「強度的なもの」の例を「意識の諸状態、感覚、感情、情念、努力」と列挙しているが、これらは「外延的なもの」のように数値的な測定することは不可能である。なぜなら「強度的なもの」とは空間化が可能な「量」には還元できない固有の「質」を備えたものだからである。こうして当初「二種類の量」と考えられていた「外延的なもの」と「強度的なもの」の差異とは実は「量」と「質」との差異であることが明らかになるのである。
この点、ベルクソンは「外延的なもの(量)」も「強度的なもの(質)」も共に「多数的なもの」であるという。もっとも量的多数性が分割可能な単位から成り立つ「多数的なもの」であるのに対して、質的多数性は--例えば音楽におけるメロディのような--分割不可能な諸要素が一つの「流れ」としての連続性を形成していく「多数的なもの」であるという差異がある。さらにこのような「外延的なもの(量)」と「強度的なもの(質)」の区分は「空間」と「時間」という区分に重ね合わされていく。それはベルクソンにとってももっとも本質的な差異化の場面を成している。そしてこのような「時間」に結び付けられた「流れ」としての連続性をベルクソンは「持続」として規定するのである。
ここで現実化される「空間」とは潜在的なものである「時間(持続)」の瞬間的な断面のようなものとして位置付けられることになる。こうした意味で「意識に直接与えられるもの」においては「空間」よりも「時間(持続)」の方がより深く実在的なものであるといえる。そうであれば、このような「時間(持続)」を「空間」として表象することはベルクソンにとって--ゼノンのパラドックスの一つである「アキレスと亀」のように--転倒した操作に他ならない。
そしてベルクソンにとって「自由」の問題とはまさしくこうした「時間(持続)」の問題なのである。ベルクソンにおいて自由を確保するとは行為という場面で「時間(持続)」を「空間」の側から記述してしまう誤りを防ぐことを意味している。具体的な行為とはどのようなものであれ時間的に繰り広げられるものである。だからそれは持続的な流れとして記述されるべきであって、ベルクソンによればこうした持続の観点から考える限りで行為とは自由なものである。逆にそれを空間的な仕方で考えていくならばそこで自由は抹消されてしまうのである。
この点、行為を空間化する誤った視点の典型をベルクソンは差し当たり物理的決定論と心理的決定論を見出している。前者は近代自然科学の描く姿であり、後者はこうした近代自然科学を範とする近代的心理学が目指していく姿である。そしてこの両者は共に「現に進行しつつあるもの」を「既に進行してしまったもの」の方から再構成するという前提に基づいており、ここで「時間(持続)」の働きは抹消されることになるのである。
ベルクソンにとって「時間(持続)」における行為とは必然性や可能性に先立つような実在という姿において把握されなければならない。そしてこのような「時間(持続)」の相のもとで見出される行為が「自由」と呼ばれるものである。すなわち「時間(持続)」とは新たなものの不断の生成とみなされてこと必然性にも可能性にも解消されない独自な存立たりうるものである。そうであればここで見出される行為である「自由」とは何ものにも支えられない予見不可能な自己産出という異質性においてこそはっきりと意味付けられるものである。
つまり連続的で異質的であるという「時間(持続)」の本質とはその連続性においてはメロディーを範例とする分割不可能性として現れ、その異質性においては生成変化の予見不可能性として現れることになる。これらは矛盾なく「時間(持続)」の両面を構成する。そしてこうした予見不可能性から「時間(持続)」とは生成し続ける自己以外に何ら根拠を持ち得ないという決定的に自己根拠的な充溢として描かれることになり、これこそがベルクソンのいう「自由」である。すなわち真に「自由」な存在とは空間から解き放たれた時間、つまり不断の生成という持続のことに他ならないのである。
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2024/12/30 絶対矛盾的自己同一
「純粋経験」や「絶対無」で知られる西田幾多郎の哲学の枢要部には一貫して変化していないひとつの問われるべき問いがある。それは一言でいえば「真正の自己の探究」であった。本来の自己とはいったい何であるか、あるいは自己の根底や在り処とは何であるのか、そのような問いの解明が西田哲学の根本課題と��える。こうした意味で西田哲学とは「真正の自己」に目覚める「自覚」が深化していく過程として捉えることができる。
このように西田哲学を「真正の自己」を探求する「自覚の哲学」としてみるとき、その出発点としての「純粋経験」は自覚以前の直観的な意識現象であり、そこに反省の契機が加わり「自己が自己を見る」という「自覚」が成立して、それが自覚の自覚、あるいは自覚の極限としての「絶対的自由意志」の立場へと進展した。それはいわば「意識的自覚」という性格の強いものであったが、さらにプラトンの「コーラ」の概念に触発される形で、それまでの「意識的自覚」は「自己が自己において自己を見る」という「場所的自覚」に転回し、その究極ともいえる「絶対無の自覚」へと到達した。ここでいう「絶対無の自覚」は、我々の自己の方から言えば、自己の根底が「絶対無」であるということの自覚であるとともに「絶対無の場所」の方から言えば場所自身の自覚であるといえる。
ここまでの西田哲学(前期)の展開は仏教でいえば往相あるいは向上の過程といえる。これに対して、ここからの西田哲学(後期)はわれわれの棲まうこの世界、西田のいうところの「歴史的現実界」を「絶対無の場所」の自覚的限定として記述しようとするものであり、還相あるいは向下の過程といえる。そしてこのような転回を「自覚の哲学」としてみるとき、いわば「自己の自覚」から「世界の自覚」への転回としてみることができるのである。
このように西田のいう「歴史的現実界」は「内即外・外即内」「一即他・多即一」という弁証法的論理構造を持っていますが、その特徴はヘーゲル哲学における弁証法がいうような内なる矛盾とその止揚によって発展していくのではなく、矛盾は矛盾のままに自己同一を保持している点にある。換言すれば、世界における歴史的進行の過程が弁証法的であるというよりも、世界の内部構造そのものが弁証法的である。この点、西田はヘーゲルの弁証法を「過程的弁証法」と呼び、自身の弁証法を「場所的弁証法」と呼んでいる。
西田からすれば止揚され統一されるような矛盾など矛盾でもなんでもなく、矛盾とは止揚され統一されたりしないからこそ矛盾であり、そもそも矛盾が止揚され統一されるという考えそれ自体が矛盾にほかならない。したがって現実の矛盾は次の段階で止揚ないし統一されて弁証法的に発展していくのではなく、矛盾は矛盾のままで同時に自己同一を保持していると考えなければなりません。これが西田のいう「絶対矛盾的自己同一」である。
そしてそこにはわれわれの、すなわち行為的自己の側の自覚がなければならない。絶対矛盾的であるものが同時に自己同一していると自覚するのは他ならぬわれわれ自身である。この意味で西田における��場所的弁証法」とは「自覚の弁証法」でもあるといえる。
そして、こうしたヘーゲルと西田の弁証法観の相違は歴史観の相違としても表れている。ヘーゲルの過程的弁証法において歴史は絶えず進歩し、発展しています。ある時代の矛盾は次の時代において止揚され、より高い段階へと進歩していく。また次の時代に矛盾は、さらにつづく時代において止揚され綜合されることになる。こうして歴史は不断に発展していくことになる。こうしたいわゆる進歩史観は近代の西洋思想に共通した特徴であった。それはダーウィンの進化論にも、またマルクス主義の史的唯物論にもニーチェの超人思想にも見られるものである。
これに対して西田の歴史観は厳密な意味では進歩の観念はない。西田のいう歴史的現実界は「永遠の今」の自己限定の世界である。それは行為的自己としての我々が絶対現在が一瞬一瞬に自己自身を限定する世界である。��たがってその一瞬一瞬が絶対的であり、完全無比であり自己完結的なのである。つまり、各々の時代がそれぞれの世界の新しい形を創造しており、その一瞬一瞬に永遠性が宿っているのである。
すなわち、ここでいう行為的自己は絶対無の自覚的限定としての自己をいう。そこでは自己は世界であり、世界は自己であり、歴史が作られるということは、世界が世界自身を作るということであり、同時に自己が自己自身を作るということである。ありはまたそれは世界が自己を作るということであり、自己が世界を作るということでもある。
そして、このような「絶対矛盾的自己同一」としての世界は我々の前に「課題」として与えられていると西田はいう。すなわち「生きる」とは畢竟、こうした「世界=課題」を解き続け、その時その場所その都度における色とりどりの「解答」を示し続けていくということに他ならないのである。
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2024/11/23 純粋経験と自覚
西田幾多郎の哲学とは真正の自己の探求であると同時に根源的実在の形而上学的な探求でもあった。この点、西田は『善の研究』において一切のものを「純粋経験」という観念で説明しようとした。同書で西田は感覚や知覚といった直接的経験だけでなく、意味や判断といった反省的思惟もまた純粋経験であるといっている。けれども論理的に考えればやはり反省的思惟は明らかに主客の分離を前提としており、厳密な意味での純粋経験とはいえず、反省的思惟は純粋経験にとっては外なる契機である。それゆえ純粋経験と反省的思惟を結合する更なる原理が求められることになる。そしてそうした原理は経験(直観)と思惟(反省)を自己のうちに含んだものであり、それらを自発的な自己の発展の二つの契機とするようなものでなければならない。こうしたことから西田は『自覚に於ける直観と反省』において「自覚」という観念を提示した。この「自覚」においては反省が直観を生み直観が新たな反省を生み自己は無限に発展していくものとして捉えられている。
西田はこのような「自覚」の観念を形成する際、ジョサイア・ロイスの「自己表現的体系」の思想からヒントを得ている。ロイスのいう「自己表現的体系」とは一切の自己の思惟を完全に自己自身の思惟として意識している「完結した自己」のことである。そしてそうした自己の事例として彼は英国にいて英国の地図を描く場合をあげている。けれどもロイスのいう自己表現的体系と西田の考える自覚的体系との間には顕著な違いがある。ロイスの自己表現的体系というのはただ全体と部分が一対一の静的な対応関係にあるというものであるが、西田の自覚的体系は全体が部分に分化・発展していく動的過程であると考えられている。このように自覚的体系を不断の動的な過程と考えている点で、むしろ西田の自覚の概念はヨハン・ゴットリープ・フィヒテのいう「事行」���観念に近い。この時期の西田は西洋の流行思想であった新カント学派の論理主義とアンリ・ベルクソンの生の哲学を総合統一することが現今の哲学的課題であると考え、その結合をフィヒテのいう「事行」の観念に求めていた。
一般にフィヒテの哲学は自我哲学と呼ばれている。それは自我を究極の原理と考え、その働きによっていっさいのものを説明しようとする立場である。この点で、フィヒテの哲学はデカルトの哲学に似ている。もっともデカルトが自我を実体と考えたのに対してフィヒテは自我とは純粋な活動であると考えた。まず自我があって活動があるのではなく、自我の活動があってその活動が自我の存在を定立するのであり、フィヒテはそれを「事行」と呼んだ。こうしたフィヒテの考えを受けて西田は「自我は自我である」という同一判断につき「自我は」という第一の自己と「自我である」という第二の自己は「思惟される自己」が直ちに「思惟する自己」であると解釈する。換言すれば「自我は自我である」という命題は二つの意識の根底にある統一的意識の表現であり、内面的当為の表現である。そして、この具体的全体を西田は「自覚」と呼び、それを「自己が自己を見る」とか「自己が自己を写す」という定式で表現した。このような自覚においては自己が自己を写すということが同時に自己が発展していくことである。こうした自己写像的発展という「自覚」の概念によって西田はいっさいの学問体系を基礎づけようとした。
このように西田は『自覚に於ける直観と反省』において「自己が自己を見る」という自覚の形式によっていっさいのものを説明しようとした。そして、このような自覚体系の根底にあると想定される「自覚の自覚」を西田は「絶対的自由意志」と呼び、前者を後者の展開ないし顕現の諸段階として位置づけようとした。ここでいう「絶対的自由意志」とはあらゆる思惟の極限であり、あらゆる意識を超越した「意識する意識」である。このような「絶対的自由意志」は反省的思惟を超越するとともに反省的思惟を成立させる根拠であって、ア・プリオリのア・プリオリである。そして世界はこのような「絶対的自由意志」の自覚的体系として位置付けられることになるのであった。
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2024/10/03 ケアの倫理と魔法少女まどか☆マギカ
「ケアの倫理 the cthics of care 」はアメリカの心理学者であるキャロル・ギリガンが1982年に公刊した『もうひとつの声』で提唱して以来、哲学、政治学、社会学といったさまざまな学問領域に影響を及ぼした考え方である。ギリガンは1960年代後半、道徳性発達理論の権威である心理学者ローレンス・コールバーグの助手としてハーバード大学において女性と道徳に関する調査研究を進めるなかで、当時の女性たちが社会が期待する女性像を内面化した結果、既存の心理学においてはその道徳能力が未発達であると判定されるディレンマに陥っている���とに気づき、多くの女性にインタヴューを重ねるなかで、これまでコールバーグの発達理論をはじめとする既存の心理学が捉え損なっていた「声」を発見する。こうした「声」を彼女は『もうひとつの声』において「正義の倫理」ではなく「ケアの倫理」から再評価する。
ここでいう「正義の倫理」とは自由意志をもった自律的な主体を前提として、諸権利の競合から生じる道徳的問題を客観的で公正な原理に基づき形式的に優先順位をつけて解決しようとする思考様式である。これに対して「ケアの倫理」とは関係性の網の目のなかで個々人は決して完全に自律的ではなく常に相互依存の関係を結んでいることを前提に、個々人の責任の衝突から生じる道徳問題をその人その人が置かれた具体的・個別的な語りのなかに文脈づけることで解決しようとする思考様式である。
そのため「ケアの倫理」は近代社会で必ずしも自律的な主体ではないケアされるものと見做されてきた子ども、高齢者、障害者、病人などの存在や、彼らのケアを負担する存在のニーズにどう答えていくかといった「正義の理念」からは導かれない問いを積極的に引き受けることになった。換言すれば「ケアの倫理」とは互いにケアし合い依存し合う関係性を中心化することによって、いかなる者であろうとも取り残すことはない非抑圧的・非暴力的な平等社会を構想する思考であり、この理念のもとで個々人は「具体的他者のニーズへの応答」を引き受けることになる。かかる視座から同書は「正義の倫理」と「ケアの倫理」を対比的に考察し、これまで男性に比べて「劣っている」とされてきた女性たちが異なる発達の過程を経て成熟に至ることを論証する。
確かに「ケアの倫理」は「正義の倫理」のようにディレンマを一刀両断に解決できるような明瞭さはない。しかしそのディレンマが現れてくるその文脈においてあらゆる重要なことに目を凝らし、しっかりと対応するという道、決断というより熟考することにむしろギリガンは道徳的な価値を見出している。そして、ギリガンはこのような新たに獲得した視座から既存の視座を補い、拡張し融合することで人間の発達に対する理解に変化をもたらし、人間の生に対する見方をより実り豊かなものとなる将来を思い描けるようになると述べて同書を締め括るのであった。
そして思えばゼロ年代的な想像力の総決算とも評され、現代表象文化に多大なインパクトをもたらした『魔法少女まどか☆マギカ』という作品をこのような「正義の倫理」と「ケアの倫理」のせめぎ合いを鋭く描き出した作品でもあったといえる。同作が斬新だったのは、従来の魔法少女観を根本的に転倒させた点にあった。そこで描き出されるのは「夢や正義の象徴としての魔法少女」ではなく、いわば「システムとしての魔法少女」である。物語が進行するにつれて徐々に以下のような「魔法少女の真実」が明るみに出されていく。
地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆立するエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にあった。
そして、本作における「正義の倫理」と「ケアの倫理」の対立は第9話におけるまどかとキュゥべえの対話に象徴されている。ここでキュゥべえは上記のような「魔法少女の真実」を理路整然と説明した上で「長い目で見れば、これは君たちにとっても、得になる取引のはずだよ?」と述べる。そして、まどかの「バカ言わないで。そんなわけのわからない理由で、マミさんが死んで、さやかちゃんがあんな目に遭って。あんまりだよ…ひど過ぎるよ」という言葉に対して彼は「僕たちはあくまで君たちの合意を前提に契約しているんだよ?」「認識の相違から生じた判断ミスを後悔する時、何故か人間は、他者を憎悪するんだよね」と答え、さらに「今現在で69億人、しかも、4秒に10人づつ増え続けている君たちが、どうして単一個体の生き死ににそこまで大騒ぎするんだい?」と冷然と言い放つのである。
キュゥべえの論理は極めて明快である。彼の主張は徹頭徹尾「宇宙の寿命」と「少女の生命」という諸権利の競合から生じる問題を客観的で公正な原理に基づき形式的に優先順位をつけて解決する「正義の倫理」に依拠している。これに対して、まどかの語りは終始、歯切れが悪く、どこまでも感傷的なようにも見える。けれども、それは裏返せば彼女がどこまでも「ケアの倫理」に誠実であろうとする態度からくる証左であるともいえるだろう。そして、このようなまどかの「ケアの倫理」は土壇場において、キュゥべえの「正義の倫理」を見事に出し抜くことに成功し、すべての魔法少女に向けたケアともいえるあの願いに至るのであった。
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2024/09/30 行動療法における先行事象
行動療法においては何を先行事象として取り上げるかの取捨選択が重要となる。この点、ある行動のきっかけの機能を帯びた刺激を弁別刺激といい「SD」と表記される。これに対して弁別刺激のない状態は「SΔ」と表記される。弁別刺激をもとに行動の生起頻度に���リハリがつくことを刺激性制御という。
また弁別刺激の機能はその物理的特徴が似た別の刺激にも広がっていく。これを刺激般化といい、こうした般化が起きるプロセスを般化学習という。逆に弁別刺激の範囲が狭まってくることを刺激弁別という。それゆえに行動療法においてはクライエントにとって最適の刺激性制御のために必要に応じて刺激般化を促したり、反対に刺激弁別を促していく。
動因操作(MO)とは弁別刺激とは異なる先行事象のことで行為の動機づけに影響を与える事象のことである。MOには強化子や弱化子の有効性を強めたり弱めたりする機能(価値変更効果)と強化子や弱化子に関連する行動を引き出したり抑制したりする機能(行動変更効果)がある。
人のこころの中の動機を直接変えることはできないが、MO(環境)ならば変えられる。環境次第で行動の動機づけは高められる場合もあれば低められる場合もある。動機づけを高めるMOを確率操作(EO)といい、低めるMOを無効操作(AO)という。
先行事象の中でも、その人の経験全般のことを学習の歴史という。学習の歴史とは、その生命が生まれてから現在までに経験したすべての学習のことである。行動療法においてはクライエントの学習の歴史に目を向けることで、その行動を予測して、適応的な方向へと行動が向き変わるよう、今このときの環境を工夫し続けていくことになるのである。
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2024/08/09 行為的直観と絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎の哲学は『善の研究』において提示された『純粋経験」から出発し、その後「純粋経験」の分化としての「自覚」と「純粋経験」の基盤となる「場所」を経て、その最底部にある「絶対無」へと到達した。そこから西田はさらに「絶対無」を破断的に内在させた「個物」の世界へと向かい、その「個物」における相互限定からなるポイエシス的作用を「行為的直観」として描き出していった。
このような「行為的直観」において「個物」は自己が何であるかを「個物」相互の関係によって決定し、そうしながら世界や他の「個物」そのものが何であるかを規定していくことになる。
こうした「個物」の範例といえる存在が「生命」である。すなわち、ある「個物=生命」とはその内的-外的な環境によって「作られるもの」でありながらも、同時にこの「個物��生命」はその内的-外的な環境をポイエシス的に「作るもの」でもあるというそれ自身まさに矛盾の同一を示す境界になっているということである。ここから「身体」「歴史」「種」といったこれまで西田にとって語られてこなかったテーマ群が「個物」にとっての具体的な「媒介者」として次々と現れてくることになる。
そして西田はこうした「個物」が「行為的直観」によって相互限定する世界全体を「絶対矛盾的自己同一」として捉えるのであった。この点、西田は���多の一」としての世界を「機械論的」と捉えている。それは相互限定無くして個別的に存在してしまう「個物的多」を想定して、そこから「一」の場面を構成していくものである。これとは逆に「一の多」としての世界を「目的論的」と捉えている。それは「全体的一」という場面を個物的な事象が存在する以前にどこかに想定し、そうした「一」へと向かう運動をこの世界の働きとして見出していくものである。
機械論的世界観は世界を「過去」から「未来」へと捉えていくことである。それはある種の因果概念を想定して、世界を「過去」による結果として記述するのである。これに対して目的論的世界観は世界を「未来」から「過去」へと捉えていくことである。それは「未来」において実現が想定される目的をあらかじめ設定し、世界をそこに向かう働きとして記述するのである。
だが西田は「行為的直観」の場面である「個物」と「個物」との相互限定の世界をそうした「他の一(機械論的世界観)」としても「一の多(目的論的世界観)」としても設定しない。世界の底には「一(内包的な全体)」が存在するのでもない。また「他(外延的な個物)」が世界の全体と無関係に存在するのでもない。西田が考える世界とはあくまでも「現在」から「現在」へと展開される世界であり「一(内包)」と「多(外延)」とがそのままに結びついていく世界のことである。
このような「他」と「一」との「絶対矛盾的自己同一」としての世界は我々の前に「課題」として与えられていると西田はいう。そして、世界がこうした「課題」だとすれば、それは最終的な仕方で解かれるということはありえない。仮に何かひとつの「課題」を何らかの仕方で解いたとしても、その先にはさらに無数の「課題」が横たわっている。すなわち、人が「生きる」とは畢竟、こうした「世界=課題」を解き続け、その時その都度その場所における色とりどりの「解答」を示し続けていくということに他ならないということである。
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2024/07/30 純粋経験について
西田幾多郎がその主著『善の研究』で考察した「純粋経験」とは主観としての「私」が成立する以前の直接的にわれわれが体験している根源的な経験をいう。同書によればこうした「純粋経験」はまず「感覚」や「知覚」によって捉えられ、このような「感覚」や「知覚」は「現在」に結びついている。つまり「純粋」であることとは「現在」であるということである。そしてこのような「現在」が拡張された「流れ」の運動として「純粋経験」は「知覚の連続」としての「体系」へと展開されるのである。
このように「現在」を「流れ」として捉える「純粋経験」の議論はアンリ・ベルクソンのいう「純粋持続」に近接する。ベルクソンのいう「純粋持続」とは量的な並置として記述されるような空間的な場面に還元して語られる客観的な時間の数え方(時計の時間)に対比させて、いわば質的な生きられた時間(体験の時間)をリアルな時間の経験として語るため導入するものである。ここでベルクソンは「純粋持続」という「現在」の「流れ」をメロディのように分割不可能で相互浸透的に結びついた「異質的な連続性」の「体系」として規定する。
こうした意味で西田の「純粋経験」も無差別的に融解した事態ではなく「異質的な連続性」という「差別相=差異」を備えた一連の運動をもった「体系」を備えている。そしてこのような「純粋経験」に内在する「差別相」は「潜在的」と形容される。すなわち、ここで「純粋経験」とは差異を��みこむ潜在的な力の様態としての「内面的潜性力」として捉えられているのである。しかしその一方で「純粋経験」は分割不可能な「流れ」である限り原理的にその「範囲」は無限に広がっていく。そして『善の研究』において西田はこのような「現在」の単純な拡張である「無限」の「全体」を「一者」として名指すのである。
西田の「純粋経験」とは言うなれば「要素」に対して「関係性」を優位に置く有機体的生命論のバリエーションであるといえるが、その「関係性」としての「全体」をひとたび「一者」として実体化させるとそれはたちまち「全体=一者」が「個」を規定するホーリズムに陥ってしまう。そこで『善の研究』以降の西田哲学はこうした「全体=一者」というアポリアをいかに乗り越えるかという課題を中心に展開していくことになるのである。
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2024/06/29 分化強化とシェイピングに関するメモ
行動療法の基本的な進め方は面接を通してセラピストがクライエントの適応的行動を強化し、その範囲を生活のさまざまな局面において拡張していくことである。この時、行動を増加ないし減少させる刺激としての強化子や弱化子の出現が機能するのは基本的に行動が起こってから数秒から数十秒の間とされる。そのため行動療法の基本はトークン・エコノミーなどを用いた「即時強化(適応的行動が起こった瞬間に強化子を提示する)」である。ところが実際の社会生活上において人の行動は「遅延強化(適応的行動が起こってからしばらく後に強化子が提示される)」されるケースが多い。この点、依存症などを見れば明らかなように小さな即時強化と大きな遅延強化を比べれば人間は前者を選択する傾向にある。
まず行動療法における「分化強化」とはある行動を強化し、ある別の行動を強化しないようにする技法である。この点、分化強化には行動の生起頻度を増やすことに重点をおいた非両立行動分化強化(DRI)、代替行動分化強化(DRA)、そして行動の生起頻度を減らすことに重点をおいた低頻度行動分化強化(DRL)、他行動分化強化(DRO)がある。
また行動療法における「シェイビング」とはある未完成形な行動を完成形の行動へと強化しながら徐々に発達させていく技法である。分化強化では「どちらを強化してどちらを強化しないか」という強化子の提示に注目するが、シェイビングでは「どのレベルなら強化してどのレベルなら強化しないか」という行動のレベルに注目し、このレベルをクライエントの行動の発達度に沿って徐々に上げていく。
そして行動分析学では1950年代から1960年代にかけて二者間の会話を条件付けによって捉え���「言語条件づけ」という手続きが研究されてきた。「言語条件づけ」とは話し手と聞き手がいた場合、話し手が自由に話しているとき、聞き手がある意図をもって相槌を打つことで話し手の発言の仕方や扱われる話題が分化強化されていくというものである。この時、話し手は多くの場合、自分の話し方や話題が聞き手の相槌によって分化強化されていることには気づかない。また実際の会話では相槌のほか聞き手側の「話し手からの質問に答える反応」や「話し手の話題に触れる反応」が話し手の行動にとって強化子となることも多い。
来談者中心療法で知られるカール・ロジャーズが行ったカウンセリングの録音テープを検証したところ、ロジャーズは分化強化的にもしくはシェイビング的にクライエントに反応していたことが明らかになっている。ロジャーズ自身はセラピストが技法を用いて意図的にクライエントに接することに異議を唱えていたが、彼のクライエントを尊重する態度は結果的にクライエントの適応的行動を引き出す自然な強化子を提示していたということである。
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2024/05/31 葬送のフリーレン
ゼロ年代が「萌え要素」と呼ばれたキャラクター設定のデータベースが整備された時代であったとすれば、2010年代は「ナーロッパ」と呼ばれる世界観設定のデータベースが整備された時代であったといえる。そして、このような「ナーロッパ」というデータベースから出力されたシュミラークルの一大潮流が「異世界転生系(なろう系)」というジャンルであった。けれども、このような「異世界転生系(なろう系)」はその傍流に「異世界スローライフ系」と呼ぶべきジャンルを生成していった(もっとも多くの作品において両者は重なり合っている)。そして本作の幅広い受容はこのような「ナーロッパ」というデータベースを基盤とした「異世界スローライフ系」というジャンルがひとつの成熟期を迎えたことを意味している。また同時に「魔王」も「勇者」もこの世から居なくなった「後の」世界を舞台とする本作はヘーゲル的な意味での「歴史」が終焉した後のポストモダンとしての現代の比喩であるともいえる。その意味で何かの目的のために魔法を求めるのではなく魔法それ自体を愛好し、その探求のプロセス自体をも愉しむフリーレンは「いまここ」から「別のいまここ」へと超出していくポストモダンにおけるコンサマトリー的な生を理想化した存在であるといえる。
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2024/05/29 オッペンハイマー
「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマーの生涯を描く。映画はオッペンハイマーのスパイ疑惑をめぐる戦後に行われた秘密聴聞会とその事件の首謀者ルイス・ストローズの公聴会とオッペンハイマーの生涯が交差する形で進行する。ユダヤ人の出自を持つオッペンハイマーはナチス・ドイツの原爆開発に危機感を覚えてアメリカの原爆開発を推進するが、日本に原爆が投下された後の戦勝祝賀会のさなか、周囲の熱狂をよそに彼の中に罪悪感が芽生え始め、戦後は水爆開発反対運動を牽引する。人類史上初の核実験「トリニティ」は緊迫感あふれるシーンとなっている。そして、その後の実験成功を無邪気に喜ぶ関係者の姿が印象的だった。
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2024/05/24 行動分析学の基礎に関するメモ
行動分析学は人間の「行動」を「随伴性(行動により生じる環境の変化)」という観点から「先行事象(ある行動が起きる前の環境)」と「結果事象(ある行動が起きた結果として生じた環境)」からなる「三項随伴性」で捉えた上で、その「行動クラス(同じ機能を持った行動のまとまり)」に条件づけられた学習プロセスである「オペラント条件付け」に注目する。
そして行動における「随伴性」は結果事象として出現する刺激が「正(出現)」か「負(消滅)」かという点と行動が「強化(増大)」されるか「弱化(減少)」されるかという点で「正の強化(刺激の出現による行動の増加)」「負の強化(刺激の消滅により行動の増加)」「正の弱化(刺激の出現による行動の減少)」「負の弱化(刺激の消滅による行動の減少」という4つに分類される。
ここでは行動を増加させる刺激は「強化子」と呼ばれ、行動を減少させる刺激は「弱化子」と呼ばれる。もっとも何が行動の強化子や弱化子となるかはその時々の文脈に依存する。
大きく分類すると強化子は一次性の強化子と二次性の強化子に分けられる。一次性の強化子は生命が進化の過程で選びとった生存に不可欠な刺激であり、食べ物や水、安全な空間、適応的な環境などが挙げられる。二次性の強化子はレスポンデント条件付けや関係フレーム付けといった学習の結果、後天的に強化子の機能を持つようになった刺激であり、お金や承認などがこれに当たる。二次性の強化子の中でもその人の現在置かれた文脈に影響を比較的受けずに強化子としての力を一定に持ち続ける強化子を「般性強化子」という。
強化子は物質や環境のみならず活動自体が他の行動の強化子となることがある。この点、普段の活動において相対的に多く行われている活動が相対的に少なく行われている活動の強化子となる現象を「プレマックの原理」と呼ぶ。
行動の結果、強化子がどのれくらいの割合で随伴するかという規則性のことを「強化スケジュール」という。この点、毎回の行動に対して確実に強化しが随伴する状態を「連続強化」といい、その都度の行動に対して強化子が提示される場合とされない場合が混じっている状態を「間欠強化」という。
これに対して、行動の結果以前は出現していた強化子がある���から出現しなくなる状態のことを「オペラント消去」という。消去事態に伴い、行動の頻度は徐々に減少していくが、すぐに完全に消去されるわけではない。このように行動の生起頻度がなかなか低下しないことを「消去抵抗」という。この点、連続強化を受けていた場合、消去の状態になると行動は比較的速やかに消去されるが、間欠強化を受けていた場合、消去の状態になっても比較的消去抵抗が強いことが多い。ギャンブルが止めにくいのはそれが間欠強化スケジュールだからである。
また、消去されるプロセスにおいてある時期行動の生起頻度が異様な高まることがある。そのような反応を「消去バースト」という。また、ある行動が一旦は完全に消去されたとしてもあるとき再びその行動が���り返されることがある。これを「自発的回復」という。
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2024/04/26 デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション(前章)
ラカン的な想像界と現実界の直結構造というセカイ系のよく知られた定義からすれば、本作は想像界の部分をゼロ年代中盤以降に前景化した日常系の物語に置き換えると同時に現実界の部分を2010年代以降のインフォデミック状況を織り込んだ情報環境論に置き換えることでセカイ系の今日的なアップデートを図っているところに秀逸さを感じた。前章の構成は序破急といったところか。セカイと日常の並走が歪な形であれ維持されていた前半の構図が折り返し点で大きく亀裂が入り、ここから物語は不穏な様相を見せ始め、急展開を迎えたところで前章は幕を閉じる。日常系を経由したセカイ系の可能性を感じる映画であった。
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2024/04/24 メモ--行動療法の歴史
我々は主体的に行動しているつもりでも実際のところ、その「行動」は自身が置かれた「環境」に規定されている。ここでいう「環境」とは身体や住居といった物理的環境のみならず、人間関係や時代背景といった社会的環境、認知や思考といった心理的環境をも含む。こ��した意味での「環境」に介入することで「行動」の変容を目指す心理療法が「行動療法」である。現代心理療法において主流を占める「行動療法」の歴史は大まかに次のような3つの世代に分けられる。
1950年代、南アフリカで戦争神経症の治療を行っていたジョゼフ・ウォルピが「系統的脱感作」を開発して以降、行動療法は科学的な心理療法として注目を集めた。この時期の行動療法で重視されたのは「パブロフの犬」や「アルバート坊や」といった実験で知られる「レスポンデント条件付け」と呼ばれる学習原理である。この「レスポンデント条件付け」を神経症治療に応用したものが「系統的脱感作」であり、これは後には「エクスポージャー」という技法へと発展していった。これが第1世代の行動療法である。
その後、行動療法はアルバート・エリスの「論理情動療法」やアーロン・ベックの「認知療法」と合流して「認知行動療法」と呼ばれるようになる。認知行動療法では「うつ」や「不安」といった症状毎の介入パッケージが開発され、これらは多くのセラピストが実践可能となるようマニュアル化された。こうして1970年代に認知行動療法は心理療法の代名詞となる。これが第2世代の行動療法である。
もっとも認知行動療法は様々な理論の寄り合い所帯として発展していった為、症例毎の介入パッケージはそれぞれ微妙に違った理論に基づいていたりする。そこで複数の診断カテゴリーに当てはまるようなクライエントや、例えば「引きこもり」といった非定型的な悩みを持つクライエントにどう対応するのかという問題が残る。こうした中で「臨床行動分析」と呼ばれる新世代の心理療法が出現した。これが第3世代の行動療法である。
こうした3世代にわたる変遷を経た現在では、行動療法には英国系の「要素的実在主義」と米国系の「機能的文脈主義」という世界観の異なる二つの系譜があることが整理されてきた。先に述べた第1世代と第2世代の行動療法は「要素的実在主義」の系譜に属する。これに対して第3世代の行動療法である「臨床行動分析」は「機能的文脈主義」という異なった系譜に属している。
この「機能的文脈主義」の起源はバラス・スキナーが立ち上げた行動分析学にある。行動分析学の対象となる「行動」は大きく分けて二つある。「レスポンデント行動」と「オペラント行動」である。レスポンデント行動とは「環境」に対する条件反射的な「行動」をいう。これに対してオペラント行動とは「環境」の変化を期待する自発的な「行動」をいう。伝統的な行動療法ではレスポンデント行動の消去が重視されてきたが、行動分析学ではオペラント行動の制御を重視する。
そして、このような行動分析学に基づく臨床実践として知られているものに応用行動分析(ABA)がある。ABAは重度の知的障害や発達障害を抱える子どもたちを対象として、周囲の人や物といった「環境」を適切なかたちで調整することで適応的行動の獲得や問題行動の解決を図る療育実践であり、現在では児童発達支援の分野において広く普及している。
さらに今世紀に入ると行動分析学では「関係フレーム理論」という人間の思考や言語の核となる原理を扱うようになる。こうして行動分析学は「臨床行動分析」として心理療法の分野にも進出を果たす。この点、第1世代、第2世代において専ら主眼に置かれたのは「症状の治癒」であったが、第3世代において目指されるのは「人生の質」それ自体の向上にあるということである。
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2024/03/31 52ヘルツのクジラたち
誰にも届かない歌を歌う世界でただ一頭の52ヘルツのクジラ。すなわち、それは我々が生きるこの社会における様々なマイノリティが発する「声なき声」のメタファーともなる。このような「52ヘルツの声」に真摯に耳を傾けていくとはどういうことか。本作ではこうした社会的テーマを真正面から問われる。
「52ヘルツの声」を聴くということ。それはすなわち「無意識の声」を聴くことであるともいえる。この点、ユングはしばしば心理療法の場面において、治療者と患者の間で「傷ついた癒し手」という元型が活性化すると考えた。それは患者が語る「心の傷」が治療者の「心の傷」と相通じる時、治療者と患者の間に無意識的な融合関係が生じ、治療者は患者の前に偉大な「傷ついた癒し手」として立ち現れるということである。確かに貴瑚はこのような「傷ついた癒し手」として52に接しているといえる。あるいはもしかして、アンさんも「傷ついた癒し手」だったのかもしれない。
けれどもその一方で「傷ついた癒し手」とは「メサイア・コンプレックス」と紙一重でもある。メサイア・コンプレックスにおいては誰かを「救いたい」という善意の裏側に、その誰かを救う事により自身が「救われたい」という欲望が隠されている。そして、このような無自覚的な欲望に突き動かされた「救済」はしばし独善的な結果を招いてしまう。
この日常のどこかで時として「52ヘルツの声」を聴き取るとき、もしかして自身の発する「52ヘルツの声」をあたかも他者の発する「52ヘルツの声」であるかのように聴いてしまうこともあるかもしれない。本作はこのような「52ヘルツの声」の安易な混同に警鐘を鳴らす物語でもある。
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2024/03/25 機動戦士Zガンダム
『宇宙戦艦ヤマト』のヒットを契機として1970年代後半以降のアニメは従来の子供番組としての立ち位置を脱して当時のユースカルチャーの一つに成長しつつあった。そしてこの流れを決定的にした作品が富野由悠季氏が手掛けた『機動戦士ガンダム』であった。同作の革新性は第一に「宇宙世紀」という架空年代記の導入にあり、第二に「モビルスーツ」というロボットの再定義にあり、第三に「ニュータイプ」という成熟観の提示にある。 同作の主人公アムロ・レイは「宇宙世紀」という仮想現実の中で「モビルスーツ」という工業製品によって身体を拡張し、少年から大人へと「成長」するのではなく少年のままで「ニュータイプ」という超越的な存在に「覚醒」する。ここでいう「ニュータイプ」とは空間を超越し、非言語的なコミュニケーションによって他者の存在を、それを無意識のレベルまで正確に認識できる能力である。これは同作において宇宙環境に人類が適応し始めた時に進化論的に発生する人類の「認識力の拡大」と定義された。 もともと「ニュータイプ」はただの少年兵であるはずのアムロが短期間でエースパイロットに急成長する展開に説得力を与えるための設定に過ぎなかったが、やがて本作が社会現象と化していく中で当時の新しい情報環境の台頭と消費社会の進行に適応した新しい感性を持つ新人類世代の比喩として理解されるようになった。こうしたことから同作は従来の「鉄人28号」や「マジンガーZ」などに代表されるロボットアニメで反復されてきた主人公の少年が機械仕掛けの身体を操り仮初めの社会的自己実現を成し遂げるという戦後日本的なアイロニズムに規定された成熟観をラディカルに更新した作品であったといえる。 ところが同作から7年後の世界を舞台とする本作『機動戦士Zガンダム』においては「ニュータイプ」がもたらす病理と絶望が描き出されることになった。本作の主人公カミーユ・ビダンは物語の当初からニュータイプの素養を見せる一方で精神的に不安定な少年として描かれる。カミーユは思春期の不安定さから衝動的に反政府運動に加わるが、戦争の中でその精神を摩耗させていき、最終回ではついに発狂してしまう。 本作の根底には人間は他者と媒介なく直接的につながりすぎると負の連鎖しか生まないという認識があり、本作の後半においては「ニュータイプ」の能力は念動力や降霊術に近いオカルト的なものとして描かれることになった。すなわち「認識力の拡大」による意識同士の時空間を超越した接続がもたらす帰結を『ガンダム』が他者同士の相互理解と調和として肯定的に描き出したとすれば『Zガンダム』は他者同士の相互不信と衝突として否定的に描き出したといえる。こうした意味で本作はまさに現代における情報環境の肥大化による「つながり過剰」の病理を先見的に描き出した作品であったように思える。
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