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2024/10/03 ケアの倫理と魔法少女まどか☆マギカ
「ケアの倫理 the cthics of care 」はアメリカの心理学者であるキャロル・ギリガンが1982年に公刊した『もうひとつの声』で提唱して以来、哲学、政治学、社会学といったさまざまな学問領域に影響を及ぼした考え方である。ギリガンは1960年代後半、道徳性発達理論の権威である心理学者ローレンス・コールバーグの助手としてハーバード大学において女性と道徳に関する調査研究を進めるなかで、当時の女性たちが社会が期待する女性像を内面化した結果、既存の心理学においてはその道徳能力が未発達であると判定されるディレンマに陥っていることに気づき、多くの女性にインタヴューを重ねるなかで、これまでコールバーグの発達理論をはじめとする既存の心理学が捉え損なっていた「声」を発見する。こうした「声」を彼女は『もうひとつの声』において「正義の倫理」ではなく「ケアの倫理」から再評価する。
ここでいう「正義の倫理」とは自由意志をもった自律的な主体を前提として、諸権利の競合から生じる道徳的問題を客観的で公正な原理に基づき形式的に優先順位をつけて解決しようとする思考様式である。これに対して「ケアの倫理」とは関係性の網の目のなかで個々人は決して完全に自律的ではなく常に相互依存の関係を結んでいることを前提に、個々人の責任の衝突から生じる道徳問題をその人その人が置かれた具体的・個別的な語りのなかに文脈づけることで解決しようとする思考様式である。
そのため「ケアの倫理」は近代社会で必ずしも自律的な主体ではないケアされるものと見做されてきた子ども、高齢者、障害者、病人などの存在や、彼らのケアを負担する存在のニーズにどう答えていくかといった「正義の理念」からは導かれない問いを積極的に引き受けることになった。換言すれば「ケアの倫理」とは互いにケアし合い依存し合う関係性を中心化することによって、いかなる者であろうとも取り残すことはない非抑圧的・非暴力的な平等社会を構想する思考であり、この理念のもとで個々人は「具体的他者のニーズへの応答」を引き受けることになる。かかる視座から同書は「正義の倫理」と「ケアの倫理」を対比的に考察し、これまで男性に比べて「劣っている」とされてきた女性たちが異なる発達の過程を経て成熟に至ることを論証する。
確かに「ケアの倫理」は「正義の倫理」のようにディレンマを一刀両断に解決できるような明瞭さはない。しかしそのディレンマが現れてくるその文脈においてあらゆる重要なことに目を凝らし、しっかりと対応するという道、決断というより熟考することにむしろギリガンは道徳的な価値を見出している。そして、ギリガンはこのような新たに獲得した視座から既存の視座を補い、拡張し融合することで人間の発達に対する理解に変化をもたらし、人間の生に対する見方をより実り豊かなものとなる将来��思い描けるようになると述べて同書を締め括るのであった。
そして思えばゼロ年代的な想像力の総決算とも評され、現代表象文化に多大なインパクトをもたらした『魔法少女まどか☆マギカ』という作品をこのような「正義の倫理」と「ケアの倫理」のせめぎ合いを鋭く描き出した作品でもあったといえる。同作が斬新だったのは、従来の魔法少女観を根本的に転倒させた点にあった。そこで描き出されるのは「夢や正義の象徴としての魔法少女」ではなく、いわば「システムとしての魔法少女」である。物語が進行するにつれて徐々に以下のような「魔法少女の真実」が明るみに出されていく。
地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆立するエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にあった。
そして、本作における「正義の倫理」と「ケアの倫理」の対立は第9話におけるまどかとキュゥべえの対話に象徴されている。ここでキュゥべえは上記のような「魔法少女の真実」を理路整然と説明した上で「長い目で見れば、これは君たちにとっても、得になる取引のはずだよ?」と述べる。そして、まどかの「バカ言わないで。そんなわけのわからない理由で、マミさんが死んで、さやかちゃんがあんな目に遭って。あんまりだよ…ひど過ぎるよ」という言葉に対して彼は「僕たちはあくまで君たちの合意を前提に契約しているんだよ?」「認識の相違から生じた判断ミスを後悔する時、何故か人間は、他者を憎悪するんだよね」と答え、さらに「今現在で69億人、しかも、4秒に10人づつ増え続けている君たちが、どうして単一個体の生き死ににそこまで大騒ぎするんだい?」と冷然と言い放つのである。
キュゥべえの論理は極めて明快である。彼の主張は徹頭徹尾「宇宙の寿命」と「少女の生命」という諸権利の競合から生じる問題を客観的で公正な原理に基づき形式的に優先順位をつけて解決する「正義の倫理」に依拠している。これに対して、まどかの語りは終始、歯切れが悪く、どこまでも感���的なようにも見える。けれども、それは裏返せば彼女がどこまでも「ケアの倫理」に誠実であろうとする態度からくる証左であるともいえるだろう。そして、このようなまどかの「ケアの倫理」は土壇場において、キュゥべえの「正義の倫理」を見事に出し抜くことに成功し、すべての魔法少女に向けたケアともいえるあの願いに至るのであった。
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2024/09/30 行動療法における先行事象
行動療法においては何を先行事象として取り上げるかの取捨選択が重要となる。この点、ある行動のきっかけの機能を帯びた刺激を弁別刺激といい「SD」と表記される。これに対して弁別刺激のない状態は「SΔ」と表記される。弁別刺激をもとに行動の生起頻度にメリハリがつくことを刺激性制御という。
また弁別刺激の機能はその物理的特徴が似た別の刺激にも広がっていく。これを刺激般化といい、こうした般化が起きるプロセスを般化学習という。逆に弁別刺激の範囲が狭まってくることを刺激弁別という。それゆえに行動療法においてはクライエントにとって最適の刺激性制御のために必要に応じて刺激般化を促したり、反対に刺激弁別を促していく。
動因操作(MO)とは弁別刺激とは異なる先行事象のことで行為の動機づけに影響を与える事象のことである。MOには強化子や弱化子の有効性を強めたり弱めたりする機能(価値変更効果)と強化子や弱化子に関連する行動を引き出したり抑制したりする機能(行動変更効果)がある。
人のこころの中の動機を直接変えることはできないが、MO(環境)ならば変えられる。環境次第で行動の動機づけは高められる場合もあれば低められる場合もある。動機づけを高めるMOを確率操作(EO)といい、低めるMOを無���操作(AO)という。
先行事象の中でも、その人の経験全般のことを学習の歴史という。学習の歴史とは、その生命が生まれてから現在までに経験したすべての学習のことである。行動療法においてはクライエントの学習の歴史に目を向けることで、その行動を予測して、適応的な方向へと行動が向き変わるよう、今このときの環境を工夫し続けていくことになるのである。
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2024/08/09 行為的直観と絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎の哲学は『善の研究』において提示された『純粋経験」から出発し、その後「純粋経験」の分化としての「自覚」と「純粋経験」の基盤となる「場所」を経て、その最底部にある「絶対無」へと到達した。そこから西田はさらに「絶対無」を破断的に内在させた「個物」の世界へと向かい、その「個物」における相互限定からなるポイエシス的作用を「行為的直観」として描き出していった。
このような「行為的直観」において「個物」は自己が何であるかを「個物」相互の関係によって決定し、そうしながら世界や他の「個物」そのものが何であるかを規定していくことになる。
こうした「個物」の範例といえる存在が「生命」である。すなわち、ある「個物=生命」とはその内的-外的な環境によって「作られるもの」でありながらも、同時にこの「個物=生命」はその内的-外的な環境をポイエシス的に「作るもの」でもあるというそれ自身まさに矛盾の同一を示す境界になっているということである。ここから「身体」「歴史」「種」といったこれまで西田にとって語られてこなかったテーマ群が「個物」にとっての具体的な「媒介者」として次々と現れてくることになる。
そして西田はこうした「個物」が「行為的直観」によって相互限定する世界全体を「絶対矛盾的自己同一」として捉えるのであった。この点、西田は「多の一」としての世界を「機械論的」と捉えている。それは相互限定無くして個別的に存在してしまう「個物的多」を想定して、そこから「一」の場面を構成していくものである。これとは逆に「一の多」としての世界を「目的論的」と捉えている。それは「全体的一」という場面を個物的な事象が存在する以前にどこかに想定し、そうした「一」へと向かう運動をこの世界の働きとして見出していくものである。
機械論的世界観は世界を「過去」から「未来」へと捉えていくことである。それは���る種の因果概念を想定して、世界を「過去」による結果として記述するのである。これに対して目的論的世界観は世界を「未来」から「過去」へと捉えていくことである。それは「未来」において実現が想定される目的をあらかじめ設定し、世界をそこに向かう働きとして記述するのである。
だが西田は「行為的直観」の場面である「個物」と「個物」との相互限定の世界をそうした「他の一(機械論的世界観)」としても「一の多(目的論的世界観)」としても設定しない。世界の底には「一(内包的な全体)」が存在するのでもない。また「他(外延的な個物)」が世界の全体と無関係に存在するのでもない。西田が考える世界とはあくまでも「現在」から「現在」へと展開される世界であり「一(内包)」と「多(外延)」とがそのままに結びついていく世界のことである。
このような「他」と「一」との「絶対矛盾的自己同一」としての世界は我々の前に「課題」として与えられていると西田はいう。そして、世界がこうした「課題」だとすれば、それは最終的な仕方で解かれるということはありえない。仮に何かひとつの「課題」を何らかの仕方で解いたとしても、その先にはさらに無数の「課題」が横たわっている。すなわち、人が「生きる」とは畢竟、こうした「世界=課題」を解き続け、その時その都度その場所における色とりどりの「解答」を示し続けていくということに他ならないということである。
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2024/07/30 純粋経験について
西田幾多郎がその主著『善の研究』で考察した「純粋経験」とは主観としての「私」が成立する以前の直接的にわれわれが体験している根源的な経験をいう。同書によればこうした「純粋経験」はまず「感覚」や「知覚」によって捉えられ、このような「感覚」や「知覚」は「現在」に結びついている。つまり「純粋」であることとは「現在」であるということである。そしてこのような「現在」が拡張された「流れ」の運動として「純粋経験」は「知覚の連続」としての「体系」へと展開されるのである。
このように「現在」を「流れ」として捉える「純粋経験」の議論はアンリ・ベルクソンのいう「純粋持続」に近接する。ベルクソンのいう「純粋持続」とは量的な並置として記述されるような空間的な場面に還元して語られる客観的な時間の数え方(時計の時間)に対比させて、いわば質的な生きられた時間(体験の時間)をリアルな時間の経験として語るため導入するものである。ここでベルクソンは「純粋持続」という「現在」の「流れ」をメロディのように分割不可能で相互浸透的に結びついた「異質的な連続性」の「体系」として規定する。
こうした意味で西田の「純粋経験」も無差別的に融解した事態ではなく「異質的な連続性」という「差別相=差異」を備えた一連の運動をもった「体系」を備えている。そしてこのような「純粋経験」に内在��る「差別相」は「潜在的」と形��される。すなわち、ここで「純粋経験」とは差異を含みこむ潜在的な力の様態としての「内面的潜性力」として捉えられているのである。しかしその一方で「純粋経験」は分割不可能な「流れ」である限り原理的にその「範囲」は無限に広がっていく。そして『善の研究』において西田はこのような「現在」の単純な拡張である「無限」の「全体」を「一者」として名指すのである。
西田の「純粋経験」とは言うなれば「要素」に対して「関係性」を優位に置く有機体的生命論のバリエーションであるといえるが、その「関係性」としての「全体」をひとたび「一者」として実体化させるとそれはたちまち「全体=一者」が「個」を規定するホーリズムに陥ってしまう。そこで『善の研究』以降の西田哲学はこうした「全体=一者」というアポリアをいかに乗り越えるかという課題を中心に展開していくことになるのである。
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2024/06/29 分化強化とシェイピングに関するメモ
行動療法の基本的な進め方は面接を通してセラピストがクライエントの適応的行動を強化し、その範囲を生活のさまざまな局面において拡張していくことである。この時、行動を増加ないし減少させる刺激としての強化子や弱化子の出現が機能するのは基本的に行動が起こってから数秒から数十秒の間とされる。そのため行動療法の基本はトークン・エコノミーなどを用いた「即時強化(適応的行動が起こった瞬間に強化子を提示する)」である。ところが実際の社会生活上において人の行動は「遅延強化(適応的行動が起こってからしばらく後に強化子が提示される)」されるケースが多い。この点、依存症などを見れば明らかなように小さな即時強化と大きな遅延強化を比べれば人間は前者を選択する傾向にある。
まず行動療法における「分化強化」とはある行動を強化し、ある別の行動を強化しないようにする技法である。この点、分化強化には行動の生起頻度を増やすことに重点をおいた非両立行動分化強化(DRI)、代替行動分化強化(DRA)、そして行動の生起頻度を減らすことに重点をおいた低頻度行動分化強化(DRL)、他行動分化強化(DRO)がある。
また行動療法における「シェイビング」とはある未完成形な行動を完成形の行動へと強化しながら徐々に発達させていく技法である。分化強化では「どちらを強化してどちらを強化しないか」という強化子の提示に注目するが、シェイビングでは「どのレベルなら強化してどのレベルなら強化し��いか」という行動のレベルに注目し、このレベルをクライエントの行動の発達度に沿って徐々に上げていく。
そして行動分析学では1950年代から1960年代にかけて二者間の会話を条件付けによって捉えた「言語条件づけ」という手続きが研究されてきた。「言語条件づけ」とは話し手と聞き手がいた場合、話し手が自由に話しているとき、聞き手がある意図をもって相槌を打つことで話し手の発言の仕方や扱われる話題が分化強化されていくというものである。この時、話し手は多くの場合、自分の話し方や話題が聞き手の相槌によって分化強化されていることには気づかない。また実際の会話では相槌のほか聞き手側の「話し手からの質問に答える反応」や「話し手の話題に触れる反応」が話し手の行動にとって強化子となることも多い。
来談者中心療法で知られるカール・ロジャーズが行ったカウンセリングの録音テープを検証したところ、ロジャーズは分化強化的にもしくはシェイビング的にクライエントに反応していたことが明らかになっている。ロジャーズ自身はセラピストが技法を用いて意図的にクライエントに接することに異議を唱えていたが、彼のクライエントを尊重する態度は結果的にクライエントの適応的行動を引き出す自然な強化子を提示していたということである。
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2024/05/31 葬送のフリーレン
ゼロ年代が「萌え要素」と呼ばれたキャラクター設定のデータベースが整備された時代であったとすれば、2010年代は「ナーロッパ」と呼ばれる世界観設定のデータベースが整備された時代であったといえる。そして、このような「ナーロッパ」というデータベースから出力されたシュミラークルの一大潮流が「異世界転生系(なろう系)」というジャンルであった。けれども、このような「異世界転生系(なろう系)」はその傍流に「異世界スローライフ系」と呼ぶべきジャンルを生成していった(もっとも多くの作品において両者は重なり合っている)。そして本作の幅広い受容はこのような「ナーロッパ」というデータベースを基盤とした「異世界スローライフ系」というジャンルがひとつの成熟期を迎えたことを意味している。また同時に「魔王」も「勇者」もこの世から居なくなった「後の」世界を舞台とする本作はヘーゲル的な意味での「歴史」が終焉した後のポストモダンとしての現代の比喩であるともいえる。その意味で何かの目的のために魔法を求めるのではなく魔法それ自体を愛好し、その探求のプロセス自体をも愉しむフリーレンは「いまここ」から「別のいまここ」へと超出していくポストモダンにおけるコンサマトリー的な生を理想化した存在であるといえる。
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2024/05/29 オッペンハイマー
「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマーの生涯を描く。映画はオッペンハイマーのスパイ疑惑をめぐる戦後に行われた秘密聴聞会とその事件の首謀者ルイス・ストローズの公聴会とオッペンハイマーの生涯が交差する形で進行する。ユダヤ人の出自を持つオッペンハイマーはナチス・ドイツの原爆開発に危機感を覚えてアメリカの原爆開発を推進するが、日本に原爆が投下された後の戦勝祝賀会のさなか、周囲の熱狂をよそに彼の中に罪悪感が芽生え始め、戦後は水爆開発反対運動を牽引する。人類史上初の核実験「トリニティ」は緊迫感あふれるシーンとなっている。そして、その後の実験成功を無邪気に喜ぶ関係者の姿が印象的だった。
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2024/05/24 行動分析学の基礎に関するメモ
行動分析学は人間の「行動」を「随伴性(行動により生じる環境の変化)」という観点から「先行事象(ある行動が起きる前の環境)」と「結果事象(ある行動が起きた結果として生じた環境)」からなる「三項随伴性」で捉えた上で、その「行動クラス(同じ機能を持った行動のまとまり)」に条件づけられた学習プロセスである「オペラント条件付け」に注目する。
そして行動における「随伴性」は結果事象として出現する刺激が「正(出現)」か「負(消滅)」かという点と行動が「強化(増大)」されるか「弱化(減少)」されるかという点で「正の強化(刺激の出現による行動の増加)」「負の強化(刺激の消滅により行動の増加)」「正の弱化(刺激の出現による行動の減少)」「負の弱化(刺激の消滅による行動の減少」という4つに分類される。
ここでは行動を増加させる刺激は「強化子」と呼ばれ、行動を減少させる刺激は「弱化子」と呼ばれる。もっとも何が行動の強化子や弱化子となるかはその時々の文脈に依存する。
大きく分類すると強化子は一次性の強化子と二次性の強化子に分けられる。一次性の強化子は生命が進化の過程で選びとった生存に不可欠な刺激であり、食べ物や水、安全な空間、適応的な環境などが挙げられる。二次性の強化子はレスポンデント条件付けや関係フレーム付けといった学習の結果、後天的に強化子の機能を持つようになった刺激であり、お金や承認などがこれに当たる。二次性の強化子の中でもその人の現在置かれた文脈に影響を比較的受けずに強化子としての力を一定に持ち続ける強化子を「般性強化子」という。
強化子は物質や環境のみならず活動自体が他の行動の強化子となることがある。この点、普段の活動において相対的に多く行われている活動が相対的に少なく行われている活動の強化子となる現象を「プレマックの原理」と呼ぶ。
行動の結果、強化子がどのれくらいの割合で随伴するかという規則性のことを「強化スケジュール」という。この点、毎回の行動に対して確実に強化しが随伴する状態を「連続強化」といい、その都度の行動に対して強化子が提示される場合とされない場合が混じっている状態を「間欠強化」という。
これに対して、行動の結果以前は出現していた強化子がある時から出現しなくなる状態のことを「オペラント消去」という。消去事態に伴い、行動の頻度は徐々に減少していくが、すぐに完全に消去されるわけではない。このように行動の生起頻度がなかなか低下しないことを「消去抵抗」という。この点、連続強化を受けていた場合、消去の状態になると行動は比較的速やかに消去されるが、間欠強化を受けていた場合、消去の状態になっても比較的消去抵抗が強いことが多い。ギャンブルが止めにくいのはそれが間欠強化スケジュールだからである。
また、消去されるプロセスにおいてある時期行動の生起頻度が異様な高まることがある。そのような反応を「消去バースト」という。また、ある行動が一旦は完全に消去されたとしてもあるとき再びその行動が繰り返されることがある。これを「自発的回復」という。
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2024/04/26 デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション(前章)
ラカン的な想像界と現実界の直結構造というセカイ系のよく知られた定義からすれば、本作は想像界の部分をゼロ年代中盤以降に前景化した日常系の物語に置き換えると同時に現実界の部分を2010年代以降のインフォデミック状況を織り込んだ情報環境論に置き換えることでセカイ系の今日的なアップデートを図っているところに秀逸さを感じた。前章の構成は序破急といったところか。セカイと日常の並走が歪な形であれ維持されていた前半の構図が折り返し点で大きく亀裂が入り、ここから物語は不穏な様相を見せ始め、急展開を迎えたところで前章は幕を閉じる。日常系を経由したセカイ系の可能性を感じる映画であった。
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2024/04/24 メモ--行動療法の歴史
我々は主体的に行動しているつもりでも実際のところ、その「行動」は自身が置かれた「環境」に規定されている。ここでいう「環境」とは身体や住居といった物理的環境のみならず、人間関係や時代背景といった社会的環境、認知や思考といった心理的環境をも含む。こうした意味での「環境」に介入することで「行動」の変容を目指す心理療法が「行動療法」である。現代心理療法において主流を占める「行動療法」の歴史は大まかに次のような3つの世代に分けられる。
1950年代、南アフリカで戦争神経症の治療を行っていたジョゼフ・ウォルピが「系統的脱感作」を開発して以降、行動療法は科学的な心理療法として注目を集めた。この時期の行動療法で重視されたのは「パブロフの犬」や「アルバート坊や」といった実験で知られる「レスポンデント条件付け」と呼ばれる学習原理である。この「レスポンデント条件付け」を神経症治療に応用したものが「系統的脱感作」であり、これは後には「エクスポージャー」という技法へと発展していった。これが第1世代の行動療法である。
その後、行動療法はアルバート・エリスの「論理情動療法」やアーロン・ベックの「認知療法」と合流して「認知���動療法」と呼ばれるようになる。認知行動療法では「うつ」や「不安」といった症状毎の介入パッケージが開発され、これらは多くのセラピストが実践可能となるようマニュアル化された。こうして1970年代に認知行動療法は心理療法の代名詞となる。これが第2世代の行動療法である。
もっとも認知行動療法は様々な理論の寄り合い所帯として発展していった為、症例毎の介入パッケージはそれぞれ微妙に違った理論に基づいていたりする。そこで複数の診断カテゴリーに当てはまるようなクライエントや、例えば「引きこもり」といった非定型的な悩みを持つクライエントにどう対応するのかという問題が残る。こうした中で「臨床行動分析」と呼ばれる新世代の心理療法が出現した。これが第3世代の行動療法である。
こうした3世代にわたる変遷を経た現在では、行動療法には英国系の「要素的実在主義」と米国系の「機能的文脈主義」という世界観の異なる二つの系譜があることが整理されてきた。先に述べた第1世代と第2世代の行動療法は「要素的実在主義」の系譜に属する。これに対して第3世代の行動療法である「臨床行動分析」は「機能的文脈主義」という異なった系譜に属している。
この「機能的文脈主義」の起源はバラス・スキナーが立ち上げた行動分析学にある。行動分析学の対象となる「行動」は大きく分けて二つある。「レスポンデント行動」と「オペラント行動」である。レスポンデント行動とは「環境」に対する条件反射的な「行動」をいう。これに対してオペラント行動とは「環境」の変化を期待する自発的な「行動」をいう。伝統的な行動療法ではレスポンデント行動の消去が重視されてきたが、行動分析学ではオペラント行動の制御を重視する。
そして、このような行動分析学に基づく臨床実践として知られているものに応用行動分析(ABA)がある。ABAは重度の知的障害や発達障害を抱える子どもたちを対象として、周囲の人や物といった「環境」を適切なかたちで調整することで適応的行動の獲得や問題行動の解決を図る療育実践であり、現在では児童発達支援の分野において広く普及している。
さらに今世紀に入ると行動分析学では「関係フレーム理論」という人間の思考や言語の核となる原理を扱うようになる。こうして行動分析学は「臨床行動分析」として心理療法の分野にも進出を果たす。この点、第1世代、第2世代において専ら主眼に置かれたのは「症状の治癒」であったが、第3世代において目指されるのは「人生の質」それ自体の向上にあるということである。
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2024/03/31 52ヘルツのクジラたち
誰にも届かない歌を歌う世界でただ一頭の52ヘルツのクジラ。すなわち、それは我々が生きるこの社会における様々なマイノリティが発する「声なき声」のメタファーともなる。このような「52ヘルツの声」に真摯に耳を傾けていくとはどういうことか。本作ではこうした社会的テーマを真正面から問われる。
「52ヘルツの声」を聴くということ。それはすなわち「無意識の声」を聴くことであるともいえる。この点、ユングはしばしば心理療法の場面において、治療者と患者の間で「傷ついた癒し手」という元型が活性化すると考えた。それは患者が語る「心の傷」が治療者の「心の傷」と相通じる時、治療者と患者の間に無意識的な融合関係が生じ、治療者は患者の前に偉大な「傷ついた癒し手」として立ち現れるということである。確かに貴瑚はこのような「傷ついた癒し手」として52に接しているといえる。あるいはもしかして、アンさんも「傷ついた癒し手」だったのかもしれない。
けれどもその一方で「傷ついた癒し手」とは「メサイア・コンプレックス」と紙一重でもある。メサイア・コンプレックスにおいては誰かを「救いたい」という善意の裏側に、その誰かを救う事により自身が「救われたい」という欲望が隠されている。そして、このような無自覚的な欲望に突き動かされた「救済」はしばし独善的な結果を招いてしまう。
この日常のどこかで時として「52ヘルツの声」を聴き取るとき、もしかして自身の発する「52ヘルツの声」をあたかも他者の発する「52ヘルツの声」であるかのように聴いてしまうこともあるかもしれない。本作はこのような「52ヘルツの声」の安易な混同に警鐘を鳴らす物語でもある。
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2024/03/25 機動戦士Zガンダム
『宇宙戦艦ヤマト』のヒットを契機として1970年代後半以降のアニメは従来の子供番組としての立ち位置を脱して当時のユースカルチャーの一つに成長しつつあった。そしてこの流れを決定的にした作品が富野由悠季氏が手掛けた『機動戦士ガンダム』であった。同作の革新性は第一に「宇宙世紀」という架空年代記の導入にあり、第二に「モビルスーツ」というロボットの再定義にあり、第三に「ニュータイプ」という成熟観の提示にある。 同作の主人公アムロ・レイは「宇宙世紀」という仮想現実の中で「モビルスーツ」という工業製品によって身体を拡張し、少年から大人へと「成長」するのではなく少年のままで「ニュータイプ」という超越的な存在に「覚醒」する。ここでいう「ニュータイプ」とは空間を超越し、非言語的なコミュニケーションによって他者の存在を、それを無意識のレベルまで正確に認識できる能力である。これは同作において宇宙環境に人類が適応し始めた時に進化論的に発生する人類の「認識力の拡大」と定義された。 もともと「ニュータイプ」はただの少年兵であるはずのアムロが短期間でエースパイロットに急成長する展開に説得力を与えるための設定に過ぎなかったが、やがて本作が社会現象と化していく中で当時の新しい情報環境の台頭と消費社会の進行に適応した新しい感性を持つ新人類世代の比喩として理解されるようになった。こうしたことから同作は従来の「鉄人28号」や「マジンガーZ」などに代表されるロボットアニメで反復されてきた主人公の少年が機械仕掛けの身体を操り仮初めの社会的自己実現を成し遂げるという戦後日本的なアイロニズムに規定された成熟観をラディカルに更新した作品であったといえる。 ところが同作から7年後の世界を舞台とする本作『機動戦士Zガンダム』においては「ニュータイプ」がもたらす病理と絶望が描き出されることになった。本作の主人公カミーユ・ビダンは物語の当初からニュータイプの素養を見せる一方で精神的に不安定な少年として描かれる。カミーユは思春期の不安定さから衝動的に反政府運動に加わるが、戦争の中でその精神を摩耗させてい��、最終回ではついに発狂してしまう。 本作の根底には人間は他者と媒介なく直接的につながりすぎると負の連鎖しか生まないという認識があり、本作の後半においては「ニュータイプ」の能力は念動力や降霊術に近いオカルト的なものとして描かれることになった。すなわち「認識力の拡大」による意識同士の時空間を超越した接続がもたらす帰結を『ガンダム』が他者同士の相互理解と調和として肯定的に描き出したとすれば『Zガンダム』は他者同士の相互不信と衝突として否定的に描���出したといえる。こうした意味で本作はまさに現代における情報環境の肥大化による「つながり過剰」の病理を先見的に描き出した作品であったように思える。
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2024/02/28 幸腹グラフィティ
「日常系」というジャンルは一方でデータベースから出力されたシュミラークルに没入する「動物の時代(東浩紀)」の申し子であり、他方で虚構を経由することで現実を多重化する「拡張現実の時代(宇野常寛)」の申し子であるとひとまずはいえる。この点「ポスト美少女ゲーム」の圏域から出発したゼロ年代の日常系においてはどちらかといえば前者の要素が重視されていたが、一つの自律的なジャンルとして確立された2010年代の日常系においてはどちらかといえば後者の要素が前面に打ち出されるようになったようにも見受けられる。そして2015年にアニメ化された本作も後者の系譜に属する作品である。人の基本的な営みである「食べる」という日常=現実を多重化し、豊かなものとして拡張していく本作は口唇欲動の満足=享楽としての「食べる」を徹底的に映像化/言語化していく作品であったといえる。
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2024/02/22 アラビアのロレンス
実在した英国の情報将校、トーマス・エドワード・ロレンスを中心として第一次大戦下におけるアラブ独立闘争を壮大なスケールで描き出し今日における「アラビアのロレンス」のイメージを決定づけた超大作。本作はロレンスを一貫してアラブ独立闘争のために身を賭した人物として描く一方で、ロレンスが「何を成し得たか」ではなく、むしろ「何を成し得なかったか」に焦点を当てている。本作は劇中前半でロレンスに「Nothing is written(運命はない)」という台詞を言わせているが、やがてその信念は劇中後半においてロレンス自身から湧き上がる倒錯的な欲望によって自壊していくことになる。
「Nothing is written」。そう信じるために人は時に「外部」を必要とする。そしてロレンスはアラブの灼熱の砂漠の中に「外部」を求めた。しかしながらロレンスにとって砂漠とは「Nothing is written」という幻想を生む舞台にすぎず、結局のところ彼は砂漠の現実に触れることはできなかった。この点、本作で砂漠の現実を体現する存在が後にロレンスの盟友となるハリト族の首長アリである。当初、アリは他所者であるロレンスに懐疑的であったが、やがて「Nothing is written」というロレンスの行動力と人間性に惚れ込み、アカバ攻略からダマスカス制圧に至るまで終始彼を支えるパートナーとなる。けれどもロレンスはアリが体現する砂漠の現実から芽吹き始めた肯定的な可能性から目を逸らし続けていた。果たしてダマスカス制圧後、アラブ統一国家を目指し「ここに残って政治の勉強をする」というアリに対してロレンスは「政治などきたない」と返すのであった。
砂漠の現実を生きるアリにとって砂漠とはいつか豊かな水と緑を回復すべき「内部」であった。しかし砂漠に幻想を求めたロレンスにとって砂漠とは徹頭徹尾「Nothing is written」という信念を実践するための「外部」でしかなかった。それゆえに彼の中で「Nothing is written」という信念が挫折した時、その幻想としての「外部」もまた、失墜することになるのであった。
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2024/01/31 映画大好きポンポさん
映画評論家の蓮實重彦氏は近著『見るレッスン』において今、日本にはプロデューサーが本当にいるのかどうかという大きな問題があると述べている。そこで氏は現在主流の製作委員会方式の下では1人のプロデューサーが「こうだ」と決断することができず、変わったもの新しいものがなかなか生まれないといい、誰が本当のプロデューサーか分からない製作委員会方式というものは便利だけれども非常に問題があり、今の映画界で一番足りないのはプロデューサーだと思うと主張している。こうした意味で、もしかして本作はポンポさんというキャラクターを通じて現在の邦画日本界に必要な理想的なプロデューサー像を提示しようとした映画であったのかもしれない。また、蓮實氏は映画の本質として「驚き」と「安心」を挙げている。すなわち、人は映画を観て何より驚きたい欲望を持っているけれども、同時に映画を観て安心したいという欲望を持っているわけであるが、蓮實氏は「驚き」とは「安心」であり「安心」とは「驚き」であるような不思議な世界が映画の表象性を支えていると述べている。そうであれば、ここで氏のいう「驚き」と「安心」のバランスがちょうど取れる上映時間があるいは「90分」なのかもしれない。
この点、本作はシナリオで���安心」を与え、映像で「驚き」を与える作品であり、オブジェクトレベルの「安心」とメタレベルの「安心」を縫合することで「驚き」を創りだした作品といえる。果たして本作のラストで本作の劇中劇の一番良かったシーンを聞かれたジーンは「90分であること」と答える。そして本作もまた「90分の映画」である。こうしたことから本作は映画は90分で何を語り得るかを追求して実験的な映画論映画だったといえる。
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2024/01/29 16bitセンセーションANOTHER LAYER
1980年代に登場したアダルトゲームは当初、ゲームの進行と共にエロティックな画像が表示されるといった性的快楽の描写に重きが置かれていた。ところが1990年代に入るとこうした傾向に変化が生じてくる。ゲームブランドエルフから発売された『同級生』(1992)辺りから、性的快楽の描写よりも恋愛関係の描写が重視される傾向が生じ、ゲームブランドLeafより発売された『雫』(1996)以降は、シナリオとキャラクターデザインが重視される傾向が生じたと言われる。こうしてアダルトゲームは次第に美少女ゲームと呼ばれるようになっていく。こうした傾向変化の中で、プレイヤーを泣かせるような感動的なシナリオを特徴とする「泣きゲー」というジャンルが確立されていく。その起源とされているのが、ゲームブランドTacticsから発売された『ONE〜輝く季節へ〜』(1998)である。そして同作の主要スタッフによって新たに立ち上げられたゲームブランドKeyより発売された『Kanon』(1999)は「泣きゲーの金字塔」と呼ばれ、美少女ゲームの枠を超えて幅広い層の支持を獲得した。 そして2023年。本作が描き出すのはそんな美少女ゲーム黎明期である。本作原作は1990年代から美少女ゲームに関わってきたクリエイターが原案を務め当時の制作現場や業界の様子などが描かれている。そしてアニメ版では新キャラクターの秋里コノハが主人公として設定され、現代から当時にタイムトラベルするというストーリーに変更された。このストーリー自体が極めて美少女ゲーム的な展開である。つまり本作は美少女ゲームを題材とした美少女ゲーム的な物語という二重構造を持っている。そういう意味で後半の超展開もまた美少女ゲーム的な作品であったといえる。
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2024/01/06 父性隠喩についての覚書
構造主義の代表的論客としても知られるフランスの精神分析家ジャック・ラカンはセミネール3『精神病』(1955〜1956)において精神分析の始祖ジークムント・フロイトが描き出したエディプス・コンプレックスという神話を〈父の名〉というひとつのシニフィアンの導入として捉え、この〈父の名〉のシニフィアンが欠損していることが精神病の構造的条件であると考えた。そして以後数年間にわたりラカンはエディプス・コンプレックスそれ自体の構造論的な再解釈に取り組むことになった。
まずセミネール4『対象関係』(1956〜1957)においてラカンはエディプス・コンプレックスを「フリュストラシオン(象徴的母を動作主としる現実的対象の想像的損失)」「剥奪(想像的父を動作主とする象徴的対象の現実的穴)」「去勢(現実的父を動作主とする想像的対象の象徴的負債)」という「対象欠如の三形態」として捉え直し、対象(の欠如)をめぐって人間のセクシュアリティがどのように規範化(=正常化)されるかを明らかにした。またセミネール5『無意識の形成物』(1957〜1958)においてラカンはエディプス・コンプレックスにおける象徴的父、すなわち〈父の名〉への同一化の過程を「エディプス三つの時」として捉え直し、母の現前不在という気まぐれな法が、いかにして父の法によって統御されるようになるのかを明らかにした。
そして、このような「セクシュアリティの規範化」と「象徴界の統御」というエディプス・コンプレックスが持つ二つの機能をラカンは「父性隠喩」と呼ばれる一つの論理に圧縮する。そのアルゴリズムは以下のようなものである。
まず原初的な母子関係においては「母の現前と不在」という気まぐれなリズムが繰り返されることによって「+」と「−」が連続する象徴的なセリーが形成される(fort-da)。これが前駆的な象徴機能(原-象徴界)であり、ラカンはこれを「母の欲望」と呼んでいる。そこで子どもはラカンのいう「母の欲望(原-象徴界)」というシニフィアンに対応するシニフィエを問うことになる(DM/x)。そして〈父の名〉、すなわち象徴的父が「母の欲望」を統御することで象徴界はひとつの体系として安定化することになる(NP/DM)。
すなわち、ここでは〈父の名〉が「母の欲望」を置き換える「隠喩」として介入している。この点、ラカンにとって隠喩は換喩と対を成す概念である。そして隠喩と換喩の違いは新しい意味作用を生み出すかどうかという点にある。そして父性隠喩においては母の欲望が〈父の名〉のシニフィアンによって置き換えられた結果、象徴界が統御されると同時にその全体に隠喩によって生成されるファリックな意味作用が波及するようになる。換言すれば父性隠喩の導入により、象徴界に属するあらゆるシニフィアンの意味が究極的にはすべてがファルスへ還元されることになる(A/ファルス)。
このように〈父の名〉は象徴界の秩序を安定させるシニフィアン��あるとすれば、ファルスは象徴界におけるすべてのシニフィアンがファリックな意味作用を持つことを保証するシニフィアンである。これがラカンが1956年から1958年にかけて行ったエディプス・コンプレックスの構造論化の到達点である。
このようにエディプス・コンプレックスは〈父の名〉の導入による父性隠喩によって完成し、神経症構造はこの父性隠喩によって規定され、逆に精神病構造は〈父の名〉が排除され父性隠喩が失敗していることによって規定される。こうした観点から古典的な精神病に見られる独特の病理は次のように理解されることになる。
まず精神病においては〈父の名〉が排除された結果⑴シニフィアンがバラバラに解体され、ひとつきりのシニフィアンが主体を襲う言語性幻覚ないし精神自動症が生じ⑵母の現前不在とちょうど同じように妄想的大他者(症例シュレーバーにおける無秩序な神)が現前不在を気まぐれに繰り返すようになる。また精神病においては父性隠喩が失敗した結果⑴隠喩的な意味を持つ症状を作ることができず⑵ファルスを軸とするセクシュアリティの規範化がなされなかった代償(症例シュレーバーにおける女性化現象)が生じることになるのである。
このように50年代のラカンは精神病の側からエディプス・コンプレックスというフロイトの神話を構造として読み直し、ひらたくいえばひとつの定型発達(=象徴界への参入)のモデルを提示したといえる。もっとも、ここから60年代のラカンはこのようなモデルに収まらない揺らぎ(=現実界の侵入)を捉える方向に向かうことになった。そして70年代のラカンはモデルとその揺らぎという二項対立そのものを脱構築してしまうのであった。
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