#しぶそば本店
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富山県に行ったら絶対に食べて欲しいラーメンまとめ 今回は富山の麺スタグラマーの福デタさんとのコラボ投稿! 福デタさんの富山県オススメラーメン屋さんを紹介してもらいましたのでまとめてみました✨ ぜひ旅行や出張などで行った時は行ってみてください😊保存しておくと後で見返す時に便利ですよ✨ 福デタ 富山 @fuku_detaaaaa 富山県内を中心にラーメン巡りをしているラーメニスト🍜 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー #豚道場ぶた壱 富山県富山市新庄町3丁目5-22 駐車場:15台 【営業時間 】 昼の部 11:00〜15:00 夜の部 18:00〜21:00 定休日:年中無休なし #貪瞋癡 富山県氷見市朝日本町1−1 駐車場:なし 【営業時間 】 11:30~14:00 定休日:月曜日 #中華そばつぼみ @tsubomi20180720 富山県富山市新庄北町18−24 駐車場:あり 【営業時間 】 昼の部 11:30~14:30 夜の部 18:00~21:00(金曜日のみ) 定休日:火曜日 (日曜祝日 不定休) #はじめ家 @hajimeya_official 富山県魚津市吉島67−1 駐車場:あり 【営業時間 】 11:00~22:00 定休日:月曜日 #麺屋豚道場 富山県富山市五福6区1922-5 駐車場:6台 【営業時間 】 昼の部 11:00〜14:00 夜の部 18:00〜22:00 定休日:祝日のみ #夢を語れ富山 @yumekata_toyama 富山県富山市南新町3−6 駐車場:あり 【営業時間 】 昼の部 11:00~14:00 夜の部 18:00~21:00 定休:日曜夜、月曜日 #麺屋つくし本店 @tsukushi_official 富山県富山市太郎丸本町3丁目10−1 第2 サクラギビル 駐車場:あり 【営業時間 】 昼の部 11:00〜14:45 夜の部 18:00~21:00 17:00~21:45分 土日祝 定休日:水曜日 金曜昼の部 #中華そば三丸三 @chuukasoba303 富山県射水市大門232 駐車場:店前にあり 【営業時間 】 昼の部 11:00~15:00 夜の部 17:30~21:00 定休日:水曜日 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー @k.ramen.csp Ramen⭐︎こばやし 東京のラーメン情報を毎日配信してます! ぜひフォローしてね! #福デタ #富山県ラーメン #富山ラーメン #富山グルメ #富山県グルメ #富山県ランチ #富山ランチ #富山ブラック #ご当地ラーメン #ご当地グルメ #ご当地 (麺屋豚道場 ぶた壱) https://www.instagram.com/p/Co19C1CSC5m/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#豚道場ぶた壱#貪瞋癡#中華そばつぼみ#はじめ家#麺屋豚道場#夢を語れ富山#麺屋つくし本店#中華そば三丸三#福デタ#富山県ラーメン#富山ラーメン#富山グルメ#富山県グルメ#富山県ランチ#富山ランチ#富山ブラック#ご当地ラーメン#ご当地グルメ#ご当地
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私は、高校を卒業してすぐに就職した。生まれ育った静岡県の山奥から、千葉県松戸市へ。 やたらと地方出身者ばかりを集める会社だった。会社名義でアパートを借りてくれ、家賃まで払ってくれる。なんていい会社に入れたのだろう、というのは若さゆえの勘違いだった。 とにかく休日というものがない。シフト上で「休日」とされている日にはタイムカードをうってはいけない。それだけのことだった。 そんな環境でも二年間勤めたのは、単に逃げられなかっただけだ。会社名義でアパートを借りているので、職を失うというのは住居を失うのと同義だった。 食事もろくに摂れなかったため、がりがりに痩せた。食事の時間があるならば、そのぶん寝る時間にあてたかった。となると歯など磨くはずもない。虫歯が痛み、前歯を一本失ったが、それすらどうでもよくなっていた。 関連会社の男性社員から「借金してでも逃げろ」とまで言われ、ようやく逃げたのが二十歳の頃。 振り返れば、その二年間に休日という休日はなく、七百連勤以上を続けていたのだ。 千葉県内に土地勘などなかった。あてもなく新京成線に乗り、新津田沼駅で降りた。新津田沼を目指したわけではない。単に人がたくさん降りたから、つられて降りた。それだけだった。 駅とイトーヨーカドーがくっついているのは驚きだった。そんな場所がこの世にあるとは知らなかった。 そのままイトーヨーカドーへ入った。エスカレーターで上の階へあがると、そこにはゲームセンターがあった。ゲームセンターといっても、小さな子どもをメインターゲットにしたもので、真ん中には大きなトランポリン��設置されていた。 ここで働きたい。そう思ったのは、子どもが好きだとかそんな���由ではなかった。暇そうだったからだ。もう一生懸命働きたくなどない。この二年間で、一生分働いた。そんな気分だった。 求人誌で見つけたのか、インターネットで見つけたのかはいまとなっては記憶が曖昧だが、そこのゲームセンターは求人広告を出していた。アルバイトで、週に三日程度から可。 とはいえ、住所不定の若造を雇ってくれるとも思えない。先に住居を探した。 幸いなことに、新しい住居はすぐに決まった。駅から遠い、築五十年超の木造アパート。壁を叩けばゴキブリが五、六匹出てくるような部屋だったが、ようやく自分の居場所を手に入れた気分だった。 その住所を履歴書に書き、就職の際に両親が買ってくれたスーツに身を包み、伸びたままだった髪は自分でカットした。がりがりの体と失った前歯はどうしようもなかった。 鏡を見て、「まあ、これは雇わないだろうな」と自分でも思うほどだったが、面接ではなんとなく好感触を得た気がした。 そして数日後、採用が決定したと連絡があった。なぜ採用されたのかは知らない。他に応募者がいなかったのかもしれない。 赤いポロシャツに、黒いズボン。センスがいいとは言いがたい制服だったが、不満はなかった。 とにかく来客数が少なく、やることと言えばクレーンゲームの景品の補充だとか、当時流行っていたムシキングとかおしゃれ魔女などのカード補充とか。 あとはトランポリンで遊びたい子が来たら対応をした。たしか五分で百円。十分だったかもしれない。詳細は覚えていないが、百円玉を握りしめた子どもが目をきらきらさせながら声をかけてきたのは覚えている。 一度の勤務が四時間程度。それを週に数日。時給はたしか八百円ほど。食っていけるはずもなかったが、しばらくはその生活を続けた。とてももう、まともに働く気力などなかった。 借金がある程度膨らんでから、ようやく他にも仕事を始めた。コンビニ、警備員、チラシの���スティング、宅配便の仕分けなど。非正規雇用ばかりを山ほど抱えて、なんとか借金は返した。 ゲームセンターでのアルバイトは続けるつもりだったが、近いうちに閉店すると耳にした。一時間あたりの売り上げが私の時給を下回っているような有様だったので、遅かれ早かれそうなるだろうとは思っていた。 閉店まで続けようかとも考えたが、そのときに面接を受けた倉庫作業の会社で正社員の誘いがあったので、そのまま辞めてしまった。辞めた後、しばらくは営業をしていたようだったが、たしか一年経たずに閉店してしまった。 私は就職し、転職し、結婚して離婚した。また就職して、転勤して、いまは東京の西のほうで暮らしている。 津田沼まで片道一時間強。あまり気軽には来れなくなってしまった。 あれから約二十年。私はすっかりおじさんになってしまったが、おじさんになれてよかった。いま振り返ると、あの頃の自分はいつ人生を終わりにしてもおかしくはなかった。 あそこで働いたのは一年だったか、二年だったか。もっと長かったかもしれないが、まったく思い出せない。 あのゲームセンターはたぶん、七階のマクドナルドの前にあったはずだが、いくら検索しても情報は出てこない。 まるで幻だったかのように、私自身にも曖昧な記憶しか残っていない。検索しても、トランポリンがあったのは屋上だという情報ばかり。屋上ではなかったのはたしかなのだが。 ともあれ、私がなんとか再起をはかれたのは、あそこで働いた期間があったからだ。変に忙しい職場に入っていたなら、きっと潰れてしまっていた。 しかしまさか、イトーヨーカドー津田沼店自体がなくなってしまうとは。 なんとなく、イトーヨーカドー自体はずっとそこにあってくれるような気がしていたので、いつでも行けると思い込んでいた。 二十代前半の、あの時期の私の中心にはイトーヨーカドー津田沼店があった。書店にもよく寄ったし、四本の親知らずのうち三本はヨーカドー内の歯科で抜いてもらった。 あと、誰も気にしていないようなことだけれど、トイレの洗面台の脇に置かれた小さな花瓶に花が生けてあったのが好きだった。造花かもしれない。ただ、誰かの気遣いがそこにあった。トイレ自体古かったが、きちんと清掃しているのはよくわかった。私とは違い、仕事熱心な人が清掃を担当していたのだろう。もう何年も訪れていないので、最近はどうだったのかは知らない。 テナントが徐々に撤退していったのは伝え聞いていだが、それがなんだか思い出の場所が徐々に衰弱していくようで受け入れられなかった。 さて。ここまで長々と書いてきてどう締めればいいのかわからない。結局、歳ばかり重ねて、あの頃からまったく成長などしていない。 「さようなら、いままでありがとう」 でいいのだろうか。 あと、「寂しい」と「もう大丈夫」を付け加えて文を締めたいと思う。 小山征二郎さんが、イトーヨーカドー津田沼店閉館に寄せたエッセイ
時給800円のゲーセンに救われた… 閉館の商業施設に寄せた思い出
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ドラゴン→デストラ その1
ドラゴンがまだ全盛期だった頃の過去話。いつも週末になると夜8時位に行ってヤリまくってた。
そこはシャワーとトイレがユニットバスになってるので、個室に入り鍵を閉める。そして鍵を閉めたらポーチから、あらかじめ用意していた詰10の中に水を入れて溶かす。その間シャワーを浴びてケツを洗う。入念にケツを洗った後、最後のすすぎのお湯をケツに入れた状態で、横にある様式便所に腰掛ける。そして腕にタオルを固く結び、一発でプスっと探り当てる。そのまま引くと筒の中が赤くなり、器用にタオルを外してズズズっと押し込んでいく。箇所を抑えたまま腕を上げ、深呼吸をするとスーっと頭ん中が冷たくなっていく。きたーーーー!って思うと同時にケツからお湯をブシューっと漏らす。一時期これにはまっていた。
これは昔、TELセク系の掲示板で知り合った人に聞いた体験。なんでもその人が相手の子に量を教えずに詰15渡したら、入れてパッキーーーンってなったと同時にションベンと糞を同時に漏らしたんだって。オレはスカトロも好きだからやれるときはやるが、さすがにハッテン場だと迷惑かかるからお湯で疑似体験。
準備もできたので腕を抑えながら外に出て通路をうろうろ。こわばった顔に息が上がってると、それだけでわかるやつにはわかる。175cmくらいの筋肉質なやつにケツを触られ、手を引かれて個室にいく。鍵をガチャと閉めたらオレの両乳首をつまんでコリコリさせながらベロチューしてきた。オレは自分のヘニャチンと相手のギンギンの勃起チンポをいじっていると耳元で「キメてるだろ?」と低音でボソっとささやかれた。それで膝がガクガクしてしまい、ゆっくり座った。「あー、これガン堀りコースだな~」とか、「最初から飛ばされるとケツきついんだよな~」とか思っていたら、彼はローションを出して丁寧にケツをほぐしてくれた。いや、ほぐすというよりは指で犯されている感じだな。慣れた手で指を2本、3本と少しずつ増やされてRを吸い、乳首を軽くかまれるとケツがドンドン緩んでいく。それを見越して、生チンを入れて来た。14~5cmくらいで一人目だとちょうどいいサイズで、オレの呼吸に合わせてゆっくりズブズブっと生チンが入ってくる。途中で騎乗位に体位を変えて、オレのペースに合わせてくれた。根元まで全部入ったのを確認すると、ローションを足しながら徐々に動き始めた。こんな丁寧にやってくれるなんておそらくリバだろう、受けの状態がよく分かっている、本当に見事な流れだったんでうっかり惚れそうになる。騎乗位、正常位、最後は松葉崩しで奥の奥にくっせぇザーメンを種付けしてもらった。
彼は「ありがと」と言うと扉をあけてシャワーに行った。オレは鍵をわざと閉めずにケツマンに指を入れて、ザーメンを自分の腸壁にこすりつけるようにまんずりしてた。すぐにガッチビ体型の40歳くらいのやつが入って来て、オレの種マンに指を入れて確認。
「種マンなら大丈夫よな。」と言うと生チンをケツに突っ込み、勢いよくケツを掘り出した。さっきの彼がいなかったらヤバかったかもしれないくらい、激しくパンパン打ち付けて来た。きっと受け��経験のバリタチだな。Rを出し「ほら嗅げよ」と言われると、ケツに生チン入ったまま、鼻に小瓶当てて来た。
オレは片鼻を指で押さえ「すーーーーーーーーーーっ」と勢いよく吸い込んだ。そして反対の鼻には自分のRをポーチから出して、2種類の違う色のRを「すーーーーーーーーーーっ」と吸い、5秒くらい息を止める。はい、変態マンコの出来上がり。そのまま獣のように声出しながら汗だくになって交尾した。
「おらおらおら、種上がってきたぜぇ」と言うとケツを掘る速度が上がってきた。
「ほら、種付けるぞほらほらほら!」と言うと一瞬動きが止まり、ケツの奥にドピュドピュと種が打ち付けられるのがわかる。すげー勢いで結構な量がケツの中に出されているんだろう。
汗もかいたのでシャワーを浴びに部屋を出た。ケツの中の種はもったいないからそのまま残し、軽くシャワーで汗だけを流してから中央のブランコ部屋に行った。ブランコに乗ってるバリ受けが何人ものやつに掘られていた。ガンギマリになってる彼はアヘアヘ言いながらよだれを垂らしてる。そんなのを見ると、こっちもあがる。オレもその中に混ざり、チンポしゃぶったり、生チンケツに突っ込まれて掘られたりした。何人かのタチがオレやブランコくんに種付けすると、なんとなく人が散っていった。その後オレはブランコくんの駆け寄った。そのままケツマンに顔をうずめ、穴からジュルジュルっと種付けされたザーメンを吸い取ると、生臭くてツンとした味が口の中に広がりった。そのまま受けの顔をじっと見ると、ブランコくんもわかったのかヘロ顔しながら口を開けた。ダラーっと口の中に垂らし、そのままザーキス。口の中であっち行ったりこっち行ったりさせながら、最後は半分こしてごっくんって一緒に飲み込んだ。
時間は1時を回ったところ。ここの店は営業時間がオールじゃないので、次の店に移る準備をした。
つづく
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開店直���。店に入ると、靴を脱ぎ、靴ロッカーに入れる。入場料を支払い、タオルとロッカー鍵を受け取って、ガラガラと中に入る。ウケを表す白バンドを掴むと、階段を上がる。
荷物を入れる。服を脱いでいると、背中に視線を感じる。振り向くと、その雄は、俺の肩越しにロッカーの方を見ている。ここのロッカーを使いたいのか?そこが膨らんでいる様子に思わず唾を飲む。相手にしてもらえるやろか?
タオルだけになった俺は、ロッカーに鍵を掛け、一階のシャワールームへ。準備してきたとはいえ、念の為、もう一度洗う。よし、準備万端だ。サウナ室の熱気の助けも借り、体の水分を丁寧に拭き取る。
ロッカーに戻ると、さっきの雄の姿はない。帰ったのかな?ちょっとがっかりしながら、タオルをなおす。水分を少し補給して、いざ。
階段を上がると、奥に進む。その部屋に入ると、見つけた!さっきの雄だ!おもむろに近付くと、そこに手を延ばす。デカい!と思った瞬間、乳首をつままれる。OKの合図だ!
そのまま、檻のようになったその場所へ連れて行かれる。お互い、腰に巻いていたタオルを剥ぎ取ると、俺は膝まづく。目の前にそそり勃つ立派な形状。舌先で転がすように先端をねぶる。少しずつ先へ進み、えらまでを銜え込む。そのまま喉奥へ導き、舌も使いながら竿本体を包み込む。あぁ、うめえ。恍惚としてしまう。
その時、頭の上に手が置かれ、やわらかいがしっかりとした力で押さえ付けられる。すると腰を振り始め、犯されてゆく。それに合わせて、下腹部に力を入れ、喉を拡げてさらにまとわりつかせる。たっぷりと味わい、気持ちよくなっていただきたい。ツンとした雄の匂いに、益々、よだれが垂れてしまう。
このまましゃぶり続けたいという思いを知らずか、一旦引き抜くと、俺の両足の間に入り、股を開かせるように覆い被さってくださる。必要な部分に、素早くローションを塗り付けると、あてがい、大きい先端をズブリと挿す。あ…………………っ!や…べ………拡げられる……あぁ………でけ…………うお、おおお、おおおおお
……………!
根元まで嵌め込んだかと思うと、ゆっくりギリギリまで引き抜き、またジワジワと奥の奥へ、また引き抜き、奥へ、引き抜き、奥へ。ゆっくりだから、中を合わせやすい。嵌め込む時は、奥で亀頭を掴むように、引き抜かれる時は、穴全体をまとわりつかせるように。
「たまんねぇ穴だなぁ笑」
気の所為か、既にお互いの体から汗と精子の入り混じった匂いがする。生デカマラと生ケツマンコがお互いを貪るように抜き差しし合っている。や…べ…たまん…ね…俺も勃起してきた。
中を擦られるたび、腹の奥から熱いものがこみ上げてくる。
「あちぃマンコやなぁ…気持ちいい…このままぶっ放したくなる」
願ってもない!あぁ、もっと気持ちよくなっていただきたい、という気持ちで、一際、擦れるように、じんわり中をまとわりつかせる。
「お…やべ、このマンコ…やっべやっべ………おぉぉぉぉ…イクぞ…イクイクイクイク…………っ」
あぁ、俺も上がってきた、あ、ヌルっと奥に、うわ、やべ、イクイク、イクイクイク………………
ドロドロっと、俺の先から、とめどなく精子が漏れてくる。勿体ない。漏れたそれを、指で掬って、生デカマラと生マンコの間に突っ込む。もっと滑りがよくなるように。ってか、精子の匂いにくらくらする。あ…また一段奥が気持ちいい…やべ…また…イ…………ク
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キングダムハーツの一作目は私自身が深く関わった作品です。「ディズニーにとっても画期的かつ実験的プロジェクトだとおもいます。大げさかもしれませんが、ディズニー史に残るプロジェクトになるんじゃないかな」というこインタビューのコメントが、第一作目が発売される時にファミ通のインタビューに掲載されています。 当時、私はディズニーに在籍しており、日本を含むアジアのゲーム部門を見ていましたが、このプロジェクトが一番記憶に残りかつ成功したプロジェクトとなりました。ディズニーサイドのプロデューサーを務めたわけですが、この作品、幾つもの奇跡が重なり大ヒットに繋がり、ファミ通に引用されたコメントがあながち外れていなかった事になりました。今だから言える、キングダムハーツ一作目の舞台裏を、ディズニーの中での様子や、ビジネス面にスポットを当てながら今から振り返って見たいと思います 私がディズニーに入った時、米国のメンバーから実験的なプロジェクトが動いているという事は聞いていました。ただ、全くディズニー社内でオーソライズはされておらず、実験をしているという名目でした。ところが、私がディズニーにはいってしばらくたっても、契約は存在せずに、実験のはずが現場ではどんどん開発を始めていきます。スクエアエニックス(以降スクエニ)では開発ディレクターの野村哲也氏の想いがあり、非常に前のめりに開発を続けたいという意志が固く、一方で、ディズニーはイエスともノーとも言わないで、頑張りましょうという曖昧な返事を繰り返していました。先ずは、何とかプロジェクトをオフィシャルにしなくてはいけません。 そもそも、『キングダムハーツProject』は、承認を得るには大きな問題がたくさん含まれていました。それは内容に関するクリエイティブのチャレンジが原因となっています。普通のライセンス契約は、すでにあるイメージを利用して商品を作るもの、ゲームのライセンスもすでにある映画やキャラクターの世界観を使ったゲーム制作がそのベースとなっていました。ところが、キングダムハーツは例外事項のオンパレードでした。 ・米国の外で、少なくとも日本では、全く新たな世界観を持ったディズニーのライセンスが認められた事はなかった。 ・当時、まだ3D のミッキーのモデルが公に存在していなかった。 ・ディズニーの違った世界観、例えばターザンとピノキオとミッキーを一つの作品の中に入れる事ができるのはディズニーランドだけであった。 皆さんも想像できると思うのですが、ディズニーという会社は非常にアメリカ的な会社です。アメリカ、ハリウッドが中心で、ここで作られたクリエイティブを日本を含めた世界に流すのがビジネスモデルです。ある意味、ハリウッドのクリエイティブを頂点にライセンスのビジネスモデルが完成されているのです。ディズニーの財産は、ディズニーの世界観である事が徹底されていて、ディズニーの世界観を守るため、とても細かいライセンスのガイドラインが設けられ、世界にその指示が渡っていました。ブランドを守るグループの力は強く、社内での隠���でPolice(警察)と呼ぶ人もいました。
日本においてのライセンスグループは、ミッキーの新しいイラスト一枚を米国に認めてもらうために四苦八苦するのが実情でした。その様な状況で、上の様な問題?を持ったゲームが認められるはずがないというのが社内の空気だったのです。
皆さん、ご存知ですか?ミッキーの耳はいつでも正面を向いている事を。2Dイラストのミッキーはたとえ横を向いている時でも、その耳はまん丸で正面を向いているのです。それが3Dになったらどうするんだ、そもそも3Dのミッキーなんて米国が認めないし、他の膨大なキャラクターの3Dデータ、個々のアニメーションデータをどう承認してもらうのだというのです。
日本のディズニーでは、日本初のジャパンクリエイティブ作品を是非押して行こうと言う掛け声はあったものの、ディズニーの日本のベテラン社員の方が、「事が大きくならないうちにダメならダメと言ってあげるのがクライアントに対する本当のサービスだよ」という忠告をしてくれました。
当時のディズニーゲーム部門のプレジデントはディズニーストアの店員からのし上がって行った女性でした。とてもガッツがあり、野心があり社内政治的にも一目置かれており、彼女もこのプロジェクトにかけていました。ディズニーでは、業績だけでなく、新たなプロパティ、クリエイティブを生み出せるという事が、高い評価となるからです。プロジェクトは挑戦的でクリエイティブだし、部門トップもやりたいと言う事で、そういう意味では、ゲーム部門には米国も含めて何とかこのプロジェクトを通したいと気持ちが行き渡っていました。
日本のディズニーブランドグループのアドバイスは当然NGです。ただ、あまりに彼等の評価基準からは、かけ外れすぎているので、あえて判断出来ないと言うのが、彼らの立場でした。米国では常にブランドとゲーム部門の交渉が行われていましたが、私も良く呼び出されました。ついていた事に、タイミングは悪くありませんでした。
当時のディズニーのブランド部門のトップの悩みは、ディズニーのキャラクターが女性にしか受けず、対象年齢も下がりすぎており、何か新しい動きが欲しいと思っていたのです。話してみると、ブランドのトップの人はディズニーの世界観のエッジがなくなって行くのを危惧していたのです。当時の私は、前職がセガの(コンスーマー)開発のトップでしたので、クリエイティブの匂いを感じてくれたのでしょう、非常に長い時間ディズニーのブランド論やキャラクターの見せ方について語り合いました。如何にビデオゲームという舞台が、当時のディズニーにかけているお客さんに上手くアピールしうるメディアであるかといった話もしました。
先方は、ミッキ���が最初に出て来た時には少しやんちゃな部分があったのに、今はお利口さんすぎてエッジがなくなっていると言う事も正直に話してくれるのです。ある意味、それにどう答えるのかもテストであったと思うのですが、ディズニーのブランドをどうしたらあげていけるのかというアイデアや考え方も私なりの意見を述べました。セガの時代に、ソニックの再生プロジェクトに関わってい��のも役立ちました。また、ブランドトップの彼には、時々途中経過を流したり、事前にちょっとした事を相談する様にしました。いわゆる、根回しをして信頼を得る作戦を取ったのです(これが出来たのは、当然、絶対的に当時のスクエアの制作能力が高かった事が挙げられます。最初に彼らの作ったいくつかのキャラクターの3Dデータ、アニメーションの審査の時に、ディズニーのスタジオの人たちがその品質に驚いた程でした)。
ディズニーにとって、当時ゲーム部門は主流の部門ではありませんでした。あくまで、映画、テレビ、パークがメディアの中心で、ゲームはライセンス部門の一部でした。(因みに今では、ゲームとインターネット部門が一つになり、ディズニーの独立部署かつ戦略部署と位置づけされています。) ディズニーがあまり強くない領域であまり強くないターゲット層に向けて、他人のお金で(スクエア)実験的な施策を打つのは会社に取っても悪くないと言う空気になっていきました。しかも品質は高く、ゲームで定評のあるパートナーなのです。ただ、それでもブランドグループもなかなかオフィシャルにGOを出しません。 我々にとってもう一つの追い風は、当時他国が落ち込んでいる中、日本のディズニーが全体で絶好調だった事です。東京ディズニーランドに加えディズニーシーがまさにオープン準備中でしたし、i-modeへの対応でモバイル部門も立ち上がっていました。ライセンス部門も他国が落ち込んでいる中好調を維持し、ジブリ作品のビデオ流通も当たっていました。
そこで、長年ディズニーでCEO(当時)として君臨をしていたアイズナー氏が、久しぶりに日本を訪問する事になったのです。この時の彼への権力の集中は凄まじく、彼の日本出張時に、何や感やで米国から100人以上の人が同時に日本にやって来ました。この様な中、日本での活動報告をアイズナー氏にする事になり、私もプレゼンをする事になったのです。
我々ゲーム部門の目的は、何とか此処で『キングダムハーツ』をオフィシャルにすることでした。数日かけて、ゲーム部門社長やディズニージャパン社長とプレゼン内容を相談し、当日に挑みました。アイズナー氏は流石にちょっと尊大とも言えるくらい威厳があり、カジュアルなセッティングにもかかわらず、場には緊張感が走ります。ストレートで厳しい質問もどんどん投げかけます。
私の順番になり、ゲーム業界の様子やいくつかのプロジェクトを説明したあと、『キングダムハーツ』の説明をはじめます。このプロジェクトが如何にクオリティが高くディズニーにメリットがあるか自分が説明するのを、横からゲーム部門社長が援護説明を入れます。とても助かったのは、アイズナー氏の内容に関する質問に対し、ブランドのトップが如何にディズニーのブランドにとってメリットがあるか援護射撃をしてくれたことです。
アイズナー氏は気軽に、「おー、そうか。頑張ってくれ」と励ましの言葉をくれましたが、この時が本当に『キングダムハーツ』がオフィシャルにディズニー内でGOになった瞬間でした。プレゼンが終わった後には、皆が祝福の握手に来てくれて、ブランドトップは祝福のハグまでしてくれました。この時まで、中立だった人たちがサポートに回ったのです。
何で、こんなに大袈裟なのかと思うのですが、ディズニーのクリエイティブに対する想いと、当時の組織の膠着が重なり合ったことが背景となっているのでしょう。あの時、アイズナー氏がちょっとでもネガティブな事を言っていたら、あのプロジェクトは飛んでいたかもしれません。
余談となりますが、当時一応、ブランドのトップは創始者ディズニーの甥 Roy Disney だったのですが、彼は保守的な立場の人でしたが、アイズナー氏との折り合いは悪く、彼は会議には出ていませんでした。彼がいたらここも一悶着あったかもしれません。
これは、言ってしまえば社内ポリティクスの苦労話です。そこには、普遍的な事もあるし、ある意味ディズニーという特殊な問題もあるでしょう。普遍的なことを言えば、どんな会社も形は違えどもなんらかの根回し、プロトコルがあるのだということです。よく、アメリカの会社には根回しがないという言葉を聞きますが、少なくともディズニーには全くその言葉は当てはまりません。ただ、日本の根回しとは少し違った感じはします。有力者にとにかく頭を下げてお願いするというよりは、一応こういう正義と言うか正しい気持ちとそこに伴うコミットメントが込められているかという説得はついていました。まあ、サプライズをビジネスマンは好まないという意味では同じなのかもしれません。また、どんな企業もトップが傲慢になりすぎると、決めるプロセスで苦労するというのも普遍的かもしれません。
ディズニーの特殊な面で言うと、クリエイティブに対する考え方、決め方、こだわりもこの件を通じてよく理解出来ました。あるところではビジネスを追求しているのですが、クリエイティブに対して尊敬しなければいけないとする問題意識は共有されています。ライセンスのガイドラインの作り方、ビジネスの作り方も見事なものです。コンテンツやIPをビジネスにする仕組みを積み上げているのです。
現在、日本ではサンリオが非常に上手いグローバルライセンス展開をしていますが、一方で集英社プロパティを中心に勿体無いコンテンツが沢山あります。世間で、ジャパンクールとはいうものの、その広がりを見せている様には思いませんが、コンテンツやライセンスのプロデュース、事業化能力をあげることも、コンテンツ、IPビジネスにおいてクリエイティブにも劣ることなく必要なことであるということはディズニーから学べるところです。
では、このライセンス商品を、ディズニーとしてどうプロデュースし盛り上げたかという施策を紹介します。ひとつが音楽に関する取引と、もう一つがプロモーション施策です。音楽に関して言うと、スクエアのクリエイターでディレクターを務めた野村哲也さんは、出来れば当時人気絶頂であった宇多田ヒカルさんを起用したいと言って来ました。ディズニーのゲームライセンスの契約で(とんでもない)社内ルールは、基本ディズニー作品に使われた曲はディズニーのものになるというものでした。
凄いアーティストと組んでゲームを作るという発想が、もともとなかったのです。ディズニーのリーガルと宇多田ヒカルさんの事務所、レコード会社と交渉しますが、此処でディズニーマジックが起こります。宇多田ヒカルさんがディズニーの大ファンで世界的に曲が広まるのであればと嬉しいと、日本語と英語版の楽曲提供を基本合意してくれたのです。然も、ディズニーの条件である、音楽のパブリッシング窓口がディズニーとなる事も納得してくれたのです。
キングダムハーツの主題歌「光」は、テクニカルには、宇多田ヒカルさん初の海外版になっているのです。ちょっと、蛇足ですが、この「光」という素晴らしい曲ですが、出来上がるのに時間がかかりました。丁度、彼女の病気と結婚の時期とかぶってしまったのです。この曲が素晴らしいものであったにもかかわらず、プロモーションビデオがとても地味な(失礼)出来になっているのは、病気が大きく影響していた様です。この曲は発売以来3週連続のオリコン1位を獲得します。人気絶頂だった宇多田ヒカルさんの曲とゲームのプロモーションを上手くリンクさせる下地が出来上がっ��のです。
私は、『キングダムハーツ』の問題として(今でこそとても当たり前に自然に見えているかもしれませんが)、スクエニのキャラクターとディズニーのキャラクターが並んだ時の違和感を感じていました。これを払拭するには、その世界観をあまり見せないか(ミステリーにして口コミに頼る)か、目一杯メディア露出をするかだとおもいました。前者は何もしないに等しいことなので、せっかくディズニーも絡んだ大型作品なのでどう露出するか考えました。スクエニに広告費露出を頼もうにも、先方は開発費が予算を大幅に越えており、その枠にも限界があることはわかっていました。
ディズニーには、新しい映画を世間に出すときに、他の企業と組んでプロモーションをするというco-promotion という仕組みが出来上がっていました。例えば、トイストーリーの映画封切に合わせて、マクドナルドがハッピーセットを出してその告知をメディア広告(主にテレビ)するという類のものです。ゲームではこのモデルを使ったことがないけれど、何とか出来ないものかということで、幾つも営業に回りました。その甲斐あって三井ホーム社、日清社そしてアサヒ飲料社とco-promotion 契約を結べました。
特に、アサヒ飲料社とはゲーム業界史上最大規模となるco-promotionが成立します。内容は、バイヤリスオレンジと三ツ矢サイダーを対象に、キングダムハーツのボトルキャップとデザイン缶キャンペーンを実行し、さらに大々的にキングダムハーツのイメージと宇多田ヒカルさんの「光」を使い、バイヤリスオレンジと三ツ矢サイダーをテレビ広告を中心としたメディア広告を展開するというものです。ブランドを二つに分けたのには実は裏の事情があります。ディズニーはグローバルにコカコーラ社とキャラクターライセンス契約をしていました。そのため、炭酸飲料についてはミッキーとその仲間たち、ディズニーでいうところのスタンダードキャラクターに関しては使えませんでした。そこで、どうしてもスタンダードキャラクターも使いたいアサヒ飲料社の要望に答えるべく、バイヤリスオレンジにスタンダードキャラクターをあてがい、本当に推したい三ツ矢サイダーにはその他のキャラクターをあてがうことにしたのです(ちなみにすべて『キングダムハーツ』に出ているキャラクターでないといけない)。
結果デザイン缶は10パターン作ることになります。こちらにとって結果的によかったのは、アサヒ飲料社が2つのメインブランドを推すキャンペーンになったためプロモーション規模が結果的に大きくなるおまけもついて来たのです。ここであえて追加すると、日本の他のディズニー部隊の協力は素晴らしいものでした。当然、コカコーラ社を担当している部門や当時のディズニージャパンの星野社長(現在ジブリ社長)の協力が無ければ到底出来ない内容でした。
このキャンペーン規模、テレビ広告の規模全国2500GRP以上という凄まじいものでした。どれくらいすごいかと言うと、ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時。以下SCE)とスクエニがキングダムハーツにかけた広告を足したものの倍近くあったのです。また、ボトルキャップとデザイン缶を併せた『キングダムハーツ』仕様のドリンクは3000万缶近く作られ、コンビニでも『キングダムハーツ』のイメージが一気にばらまかれました。
キャンペーンタイミングも奇跡的にピッタリ合わせることが出来、今から考えても信じられないくらい上手く連動が出来たと想います。ゲームとの相性バッチリのアサヒ飲料のテレビ広告(YouTubeで捜しましたが見つかりませんでした。残念)は、ゲームの発売1週間前から集中投下され、この広告が始まるや、コンビニでのゲーム予約が8倍に跳ねました。ゲームも初回発注から、週末を待たず追加発注がなされ、何と1週目にスーパーロボット大戦の発売があったにもかかわらず、1位を獲得、大ヒットダイトルヘと成長をして行きます。海外では、『キングダムハーツ』はファイナルファンタジーを凌ぐビジネスとなっています。 当然、この『キングダムハーツ』に関しては、ゲームの力やクリエイターの執念、またパブリッシャーの努力が第一義的に成功の要因です。彼等の更なる努力により、キングダムハーツが10周年を迎え、さらに大きなIPに育っていることを本当に嬉しく思います。おめでとうございます。
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I was talking to a friend, a new life for Montague.
翻訳めんどくさいから日本語で書いちゃうわね。
ロレンゾとフレンチの店やろうぜモンタ。お高いのじゃなくて気軽なやつ。
実際ロレンゾは神接客でバリバリ客呼ぶと思うんだけど、ミスばっかりしてるのも可愛いな…などと思った。それはそれで客が来る。可愛いから。
モンタは料理にメチャクチャこだわりそうだからちょっと採算やばそう。
ソサエティはなくなっても(本当になくなるのか知らんが)モンタのこと愛してるよ。
私と友人は彼らのその後の生活のことばかり妄想しては泣く。あまりにも平和すぎて。いろんなパターンでいくらでも妄想できるから困る。
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岩崎書店だからできたことです。つぶれてしまった会社もありました。理解してくれる編集者がいなくなったり、経営が変わって冷たい扱いを受けたこともあります。読者が買いたいといっても増刷してくれないこともしばしば。 ロングセラーといっても会社がなくなったら一巻の終わりです。だから、岩崎書店90周年は、とてもありがたいことなのです。めでたしめでたし。 子供を未完成の劣ったものと見ていたら童話は書けません。日本では昔から「七歳までは神の子」とか「子宝」とかいわれてきました。西洋の子供観とは違います。画家であれば、子供の描く絵の素晴らしさがわからない人はいない。詩人であれば、子供の発する言葉に感動しない人はいない。 大人になるということが、いいことばかりではないので、「せめて子供の時は誰もが幸せに過ごしてほしい」と願うものです。そんな子供たちに、大人のくせにどんな本を書いてやれるのかと考えると、読んで楽しい本がいいのだが、実際にやろうとすると極めて困難な仕事です。
ベストセラー『はれときどきぶた』ができるまで - 矢玉四郎さんインタビュー【前編】|私のこの一冊 岩崎書店の90年を彩った作家・画家インタビュー|岩崎書店 創立90周年記念『HI・RO・BA』 |岩崎書店
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江戸時代以来の大富豪・三井家は、呉服店から身を起こして両替商(金融業)にも手を伸ばしていたが、明治維新後、本業ともいうべき呉服店の業績が振るわず、銀行業への本格進出を渇望した。これに対し、明治政府の財政を握っていた井上馨かおるは「祖業たる呉服店を切り離したら、銀行設立してもイイよ」と無理難題をふっかけた。これであきらめるだろうとタカをくくっていたのだが、そこは商売人の三井家。形式上、呉服店を三井家の財産から切り離して、銀行設立を成就した。三井銀行、現在の三井住友銀行である。
24年ぶりに商社トップに返り咲いた三井物産…100年以上前から"センスある社員"を抜擢してきた社風の強み 「人の三井」「組織の三菱」と言われる理由 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
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夏旅2024 新潟散策 - 旧小澤家住宅
新潟市内散策、目を付けたのは北前船の時代からの商家 旧小澤家住宅。
旧小澤家住宅
歴史ある建物はめぐることは欠かせない。ということで新潟市内散策の最初は、北前船でにぎわった新潟の地で、江戸時代後期から続く商家 小澤家の店舗兼住宅。
内部は懐かしい感じのする日本家屋。こういう建物は廊下撮影が楽しいよね、ということでシャッターを重ねる(廊下をテーマにした写真コレクションがだいぶ貯まってきましたね)。盛夏のこの時期は、畳に敷かれた御座に腰を下ろし、簾越しに通り抜ける風に涼を感じるのも一興。
地元の祖父祖母の家で過ごしたお盆の日々を思い出す、数年前まで元気に暮らしてい���ものの今は…。
Lunch Snap
この日のお昼は新潟駅で歴史ある駅そば やなぎ庵さんにて。冷たい栃尾の油揚げそばをいただく。分厚い油揚げの食感・うまみと一緒に楽しめる冷たいお蕎麦が暑い時期には最高でした。
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【1話】 はじめて大麻を吸ったときのレポ 【さいばーひっぴーができるまで】
―――小学校からの幼馴染である“しのはる a.k.a. BUDDHA ON SHROOM”(以下“しのはる”)が、当時留学していたカリフォルニアから日本にいる僕に電話をかけてきては、大麻の使用の煽り・唆しをしてきていた。
彼の話を聞いているうちに、僕は大麻を吸ってみたくて仕方がなくなっていたので、大麻の使用を目的として、しのはるが住んでいるカリフォルニアの家に居候しに行くことにした。
そうして日本を離れ、しのはるの家に到着するなり、しのはるは「初めての人は吸い方が悪いのか、効いてるかわからないって人が多いから、肺に死ぬほど煙を溜め込むイメージで吸って、少し息を止めてから吐くといいよ」などと僕に忠告をすると、「景気づけにいっちゃってください」とか言いながら、早速ジョイントを渡してきた。
僕は少し不安を抱えながらも、不慣れな手つきでジョイントの先に火をつけ、忠告通りに大量の煙を肺に溜め込んでみたのだが、急に肺に苦しさを覚えたために、息を止める間もなく強烈に咳き込んでしまった。
咳き込みすぎてもはや吐きそうになりながら過呼吸的な浅い呼吸を繰り返している僕を見ながら、しのはるはニヤニヤと可笑しそうに「うわー吸ったねーこれ絶対ハイになるやつじゃん」などと言いながら、残りのジョイントをゆっくりと吸っていた。
5分ほど経ってようやく肺が楽になってきた頃、僕は座禅を組みながら、大麻の効果が効いてくるのを神妙に待っていたのだが、さらに15分ほど経過してもとくに変化がなかったので、「全然効いてる感じしないなー」などと言って残念がっていた。
しかし、気づくとなぜか上半身が右に傾いていたのだ。僕は上半身が倒れそうになったところでハッとして姿勢を直したのが、それでもまた徐々に上半身が右に傾いてしまっていた。僕のその様子を見ていたしのはるは、「時計の秒針みたい」などと何の気なく僕を茶化してきていたのだが、僕はその言葉を受けると、まるで暗示にかかってしまったように、1秒ごとに1秒分の角度で小刻みに上半身が右に傾いていってしまった。
僕は秒針になるのをやめるために立ち上がってみたのだが、今度は沼地に立っているかのように足がカーペットに沈んでいく感じがしてきた。その感覚はとても愉快で、僕は幼児のようにはしゃぎながら左右交互に足踏みをしていたのだが、次第に足踏みをするのを止められなくなってしまい、しかもその途中で、“ただのカーペットの上で成人男性が足踏みをしてはしゃいでいる”という状況の可笑しさに気づいてしまったので、止められない足踏みをしながら腹を抱えて笑っていた。
すると、壊れたおもちゃのようになってしまった僕を見ていたしのはるも、まるで伝染したかのように笑い転げ出したので、それにつられて僕もさらに笑いが止まらなくなった。何が面白くて笑っているのか、もはや途中で忘れてしまっていたのだが、なにが面白くて笑っているのか分からないのに笑っていることがもはや可笑しくて、ヒステリックに笑い狂っていた。
そうして大麻のハイの愉快さを知ると、僕は毎日のように大麻を喫煙したくなり、2週間ほど滞在していたカリフォルニアでは、��ぼ毎日大麻を喫煙する生活を送っていた。
―――しかし帰国してから2年間ほどは、大麻とは無縁の生活を送っていた。旅行に行った時などには大麻を吸いたくなることもあったが、わざわざ日本でリスクを犯してまで吸おうとは思わなかったし、当時は周囲の交友関係の中に大麻を嗜む人がいなかったのもあって、大麻のない生活に特に支障を感じていなかった。
そんな中、しのはるが日本に帰ってきた。しのはるは、「間違えてポッケにTHCグミを入れたまま飛行機に乗ってたみたいで、図らずも密輸入しちゃった」などというメッセージと共に、トリッピーなデザインをしているグミの写真を送ってきて、その数時間後には、「もう食べちゃったんだけど、日本でハイになるの��んな意味でおもしろいわ」などと羨ましくなることを言ってきた。
しのはるのせいで大麻を吸いたくてうずうずしていると、数日後にしのはるから電話がかかってきて、「あのグミはもう食べちゃったんだけど、weed調達できたから、今日一緒に吸わない?」などと誘ってくれたのだが、僕はそのありがたさはさておいて、ツテがなくても日本で大麻を入手できることと、彼がひとりでに行動に移していたことに仰天した。
当時はまだ珍しかったのだが、Twitterで「都内 大麻 手押し」などと検索をして出てきたプッシャーとDMでコンタクトを取って、新宿駅の構内で落ち合って引いてきたらしい。
僕は意図的に法の外に出る経験は実質初めてだったので、少し不安に思ってもいたのだが、再び大麻の感覚を味わえることを想うと、多少のリスクを冒してでも大麻を吸いたいと思ったし、日本で吸ったらどういう感覚や気持ちになるか興味があったので、ありがたくいただくことにした。
そうして、僕は少し緊張しながらも集合先の公園で待っていると、しのはるはニヤついた顔でやってきて、早速ポケットからパケに入った大麻を取り出しては、「こちらが乾燥大麻らしき植物片です」などと言いながら、なんの悪びれもなく大麻を僕に見せつけてきた。
日本で大麻を見ること自体もそうだが、しのはるが違法行為で��る“大麻所持”をしていることの非日常性というか異常性が可笑しくて、僕はなんだか精神が昂った。
それから早速、その大麻で作ったジョイントを一緒にまわしたのだが、2年ぶりということもあってか、「本当にこれは大麻なのか?」と勘繰るほどにサイケデリックなトビ方をした。
あとでその時の僕の様子をしのはるに聞いたら、ついに頭がバグってしまったんじゃないかと不安になったくらいには、様子がおかしかったらしい。
実際、せっかくだから日本ならではの食事をしようということでくら寿司に行ったのだが、なぜか店内でインド風のBGMが流れていて、僕はその要因だけでインドのくら寿司にいると思っていたし、普段は割と苦手なとろサーモンを口に入れたら、脳細胞の多くが死滅したのではないかと思うほどに、2分くらい「美味い」ということしか考えられなくなっていて、店を後にする頃には、美味すぎたことによって心身ともに疲弊しきっていた。
アメリカでハイになるのとはちがって、馴染みのある環境でハイになると、“シラフのときとハイのときとでは感覚や情報の捉え方が違う”ということがよりハッキリと分かったし、法律で禁止されている日本でハイになるというのは、背徳感がスパイスされた解放感があった。
それから、僕は大学を卒業して東映株式会社に入社し、寮生活の元に社会人として初めての労働を行っていた。ただ、ゆっくりと大麻を嗜む生活とは無縁だったために、(寮でこっそり吸っていたこともあったけど)苦しくなってしまい、あっさりと会社を辞めて、もう少しゆるい会社に転職した。
時間に余裕を持てるようになると、僕としのはるは頻繁に大麻を吸って遊ぶようになり、僕は一人でも大麻を引きに行くようになった。そうして、しのはるとプッシャーの情報を共有し合ったり、一緒に引きに行ったりする中で、僕らにはお気に入りのプッシャー��できた。
そのプッシャーはLSDなるものも持っていて、LSDのことを「大麻の8倍くらい凄いヤツ」とかいうテキトーな説明をしていたのだが、僕らはそれを聞いて、俄然やってみたくなっていた。
・
つづく(この物語は雑誌「さいばーひっぴー」の「さいばーひっぴーができるまで」に載っている内容とほぼ同じものです)
・
この物語はフィクションです。また、あらゆる薬物犯罪の防止・軽減を目的としています( ΦωΦ )
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拡張 その1
フィストができる骨格、できない骨格。というのを昔聞いたことがある。まぁ、できる人にとっては「日頃の訓練」、できない人は「才能(骨格)の問題」と、それぞれの言い分があると思う。
まぁ、それを踏まえた上での過去話
上野の24でやった時のこと。土曜の夜に入店しすぐにケツを洗い、トイレの個室でツメ10。浴衣の紐(この当時はまだ紐でした)で腕を縛り、血管めがけてプスッ。グイっと筒を引くと赤いキノコ雲。それを確認すると押し込んだ。
オレはキターーーーー!って感覚を味わいたいから押し込んでる最中はいつも息を止める。押し込んで紐を外し水を吸ってキャップを閉めて置き、腕を抑えて一気に息を吸い込む。すると体の中を勢いよくあれが流れて目がチカチカする。すーーーーーーっと頭が冷えてくのを感じてると同時に、自分のチンポコがすーーーーーーっと縮こまっていくのもわかる。あ、これすげーいいネタだ。ラッキーと思い道具をロッカーにしまい、大部屋へ。
大部屋に行く通路でマッチョな親父にケツ触られて、ビクっとなる。そのままドリチンも触られるとにや~っとエロい表情でオレをベッドの部屋に誘導する。ベッドでベロチューをすると「おぅ、変態な味がするなぁ」と言われ、ローションでケツをほぐされる。オレは親父のチンポが舐めたくて舐めたくて、ケツをほぐされながらかがんでチンポを口に入れた。太さ、長さもでかすぎず、最初の相手にはちょうどいいサイズ(15~16cmくらい??)
正常位でオレのケツに生でゆっくりと挿入。ローションでグチュグチュいいながらケツの中で生チンが動く。あっ・・・あっ・・、やべぇ、今日のネタあ・・うぁ・え・・・・。と多分白目剥きながらそんなことを頭の中で考えながらケツの中のチンポを感じていた。
暗闇で良かった。たぶんアヘ顔でやべぇ顔しながら掘られていたと思う。本能的に気持ちいいところに手がいく。右手はドリチン、左は乳首。ローションも塗ってないのにチンポがヌルヌルしているから、先走りがダラダラ���漏れ出てるのだろう。そのままバックの体制になり、ケツの奥のもう一つの穴に親父の生チンが入り込みしばらく掘られていると「あ、イク・・・イクぞ、イクイクイクイクぅ!」一瞬動きが止まったかと思うと、ドびゅーーぅ・・・、ドクン、ドクドクン・・・とケツの中に生種をつけられるのが分かる。このドクンドクンとザーメンが放出されると同じリズムでいきり立った生チンもビクンビクンいうからたまらねぇ。
「ありがとな。」と言うとそのまま去っていった。種まみれのチンポしゃぶりたかったけど、まぁしゃーない。と思っていたらそのままバックですぐに違うチンポがケツの中に入ってきた。「え!?」と思ったが気持ちがいいので相手が誰かはどうでもよくて、ケツの中に入ってきたチンポを感じてた。さっきの生チンよりも太く、ケツがムリムリムリムリっと強制的に広げられ、ぐいぐいっとねじ込むようにケツの中に入ってきた。いい感じになってるのと、さっきのザーメンのおかげでケツは痛くない。耳元で「ほらほら生だぜ生生生生」と低���でボソボソ連呼される。このオラオラ感、隠語連呼系はおそらくこいつも↑ている。声の感じから若い、背中に密着される肉質からスリム系。「あぁ、たまんねぇこの種まみれの生ケツ。さっきのやつの雄臭ぇ生種をオレの生チンでケツのヒダに塗りこんでやるよオラぁ。」たまんねぇ、こういうオラオラ系の言葉責めとかゾクゾクする。バックから体を半ひねりさせて松葉崩し、ケツの中に生チン突っ込まれたままさらに体をひねって正常位。暗闇での視界も慣れてきていたので相手の顔をみると顔がちょっとコケた感じのジャンキーっぽい。ヘラヘラニヤつきながらオレのケツを掘り続ける。汗かきながら掘られていると、「種が上がってきたぞホラホラホラぁ・・・ウッ!」と言い、動きはそのままパンパンとケツのヒダに打ち付けながら生種をケツの中にぶちまけられた。そのままオレに覆いかぶさり耳元で「ちょっと場所移動すっから来いよ」と言われた。
ついて行くと、突き当りにあるシャワー付きの個室トイレ。そこでジャンキー君がシャワーを出そうとしたので、「ちょっと待って、そのチンポしゃぶらして」と言いかがみ、種まみれの生チンをしゃぶった。ネトネトに絡みついてるザーメンを舌で舐めとり、味わいながらごくんと飲んだ。「うめぇな。ションベン出る?出るなら口ん中に出してほしい」すると、ジャンキー君は躊躇なくションベンを出してくれた。苦味の強いションベンで、キメションとすぐに分かった。飲める分は飲み、飲み切れない部分は体にぶちまけてもらった。オレが「何メモ?」と聞くと「12のあとの10の8で勃起薬」と教えてくれた。シャワーを一緒に浴びながらクセェ汗を流し、「お互い気をつけような」と言い別れた。
時間を見ると3時間くらい経っていた。
一度ポーチを取りに行き、追加をして第2回戦(3回戦?)に挑む。
その2に続く。
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ゴッホ展を観に、友だちと東所沢まで行ったけどチケットが売り切れだった。仕方ないね、といって、でもせっかくきたんだし、と思って、コンビニに寄って買ったパピコを片手に緑の中をすこし歩く。今年の夏、はじめて蝉をみた。繊細な模様の羽根がか細く音を立ててはためいている。「ほぼ水になったアイスがいちばんおいしくね?」 そういう、ぼそっとつぶやいた何気ない言葉は静かにがらんどうの青空の中に溶けていき(あるいは沈んでいき)、わたしたちの夏の匂いの一部となっていく。この広い空に眼があったなら、風にくちびるがあったならどれほどうつくしいのだろうかをずっと考えていた。全ての境界線が暑さでじわじわ入り交じりゆくのを肌で感じながら、たとえばアマゾンの熱帯雨林に想いを馳せること、深海魚の生態について検索すること、もう2度と逢えない人に逢いたいと願ってしまうこと。前に好きだった人に「どうしようもできないものがすき」という言葉で夏が好きなことを伝えたら、「死も?」と返答された。なんでよ、なんで死はいつもそんなに���くて辛くて悲しくて暴力的で痛くてさみしいんだろう?どうして。わたしはそんなふうに感じる機会が少なかったから、どんな返事をしたらいいのかわからなくて困ってしまった。だって死に近いものこそ、本当はなによりもうつくしいのかもしれないと思うから。蝉と、太陽。海、燃え盛る炎と、富士山。死者の言葉や羨望、未練、その姿かたちは今この瞬間にも車窓から見える光景の隅々にまで溶け込んでいて、わたしたちは明日もまたアスファルト下に沈む沢山の人間の流した血と涙の上を歩いていく。草花の幹に、雨の雫の一滴に、海水の塩になって、失われた生命はその記憶を繋いでいく。そんなことをぐるぐる何度も考えては、ほんとうにこれでいいのか、これが正しいのか、わたしはまた自らの想像力の足りなさでだれか傷つけていないだろうか?と言葉を反芻していた。大学の講義のフィードバックで「だれのことも傷つけずに生きていくことができない世界なら生きていきたくない」という学生のコメントが紹介された。そのときに先生(その人は先生と呼ばれるのを嫌う人だったけれど)が「怒りの気持ちは大切にするべきもの/忘れずに守っていくもの」と言っていた。あなたがそう感じてしまうのはあなた自身の問題ではなく、そう思わせてしまう社会の問題であり、その社会に対する怒りとあなたは向き合わなくてはいけない。そんなようなことを言っていた気がする。親愛なるわたしへ。怒りに含まれる矛盾や素直な疑問は必ず次のより良い環境の土俵になるし、そうして得られた安らぎはだれかの優しくありたいと思う理由としてきっと光っていくから大丈夫。友達と東所沢から今度は渋谷まで移動して、おいしいサンドウィッチを食べた。ドンキホーテでピアッサーを買って、店頭に並ぶサンプル品のアイライナーで耳たぶに印をつける。不安な気持ちよりも、ピアスホールっていう一生残るかもしれないものを親友がわたしに頼んでくれたという事実を愛おしく思う気持ちの方がつよかった。渋谷の騒音の中、針が耳たぶを貫通する音はほんとうに小さかった。わたしの呼吸音はすごく小さかった。わたしたちの微かなときめきすら、その瞬間に街のどこかで繰り広げられているであろう壮絶なドラマと比べれば小さいのだろうなと思った。でも、それでよかった。それがよかった。「ピアス開けたら人生って変わるらしい」と、友達が耳を冷やしながら呟く。わたしは3月にピアスを開けたけど、そこからの人生すごく色鮮やかだったなーと思う。新しく出逢ったひとがたくさんいる。つらいこともあったし、人のことを信じたくないと思うことも多かった。でもわたしは多分どんなことがあろうと人との関係を疑いからはじめない。人のこと信じないことを選択するくらいなら信じて裏切られたほうが美しく傷つけるし、好きな人に期待しないでいるよりも期待してしまう自分の幼さや素直さをいとおしく思えるほうが伸び伸びとやさしい。一昨日、Twitterに写真を撮らせてほしいとのDMをいただいた。レンタカーで三浦までいって、ほとんどはじめてわたしは人が誰もいなくなった海に入った。その日は全てが青くて、露わにした太腿にはオレンジの花の花粉の色が染み付いた。下着にレースのワンピースだけ羽織って、押し寄せてくる波に体重を預ける。髪が濡れて、額に張り付く。海ってこんなに塩っぱいんだ、こんなに力強くて、こわいんだ、たのしい、なんてことを感じながらカメラのレンズをみつめる。まるでその先に昔の自分がいるような気がして、涙がでてしまいそうだった。「知らなかったこと」が一瞬のうちに「知っていること」になっていくこと、その瞬間の微かな光の揺らめきと運命の歯車の軋む音が、夏の全てに意味を与えていく。もっと傷つきたい。駆け出していきたい。わたしも大人になったら、その人が私にしてくれたように、自分よりも幼いエネルギーの塊みたいないのちに素敵な景色を見せてあげたい。そう思える旅路だった。眩しくて鋭く発光する若さをぎゅっと抱きしめる。あなたの瞳をみつめながら、その眼差しに自分の人生の影を溢したこと。そこで交差した運命のような幻のような愛でもない何かについて考える。傷ついた分、その傷口に咲いた花の香りの美しさで感性の彩りが増すように、わたしは言葉を諦めたくない。ねえ、私に逢いたい?未来のわたしは過去のわたしを慈しめているかしら。わたしはずっと昇って登っていく、丘の上で逢いたい。
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・イノベーター(2.5%): イノベーターは、新しいものを積極的に「とにかくまず試したい」という強い欲求を持つ人々だ。この層の人々はリスクを厭わず、新しい技術や商品に対して早くから関心を示す。また、商品が市場に出た直後に真っ先に手を出す人々でもあり、この顧客層からのフィードバックは商品やサービスをよりよい形にブラッシュアップし、次の市場を拡大するための重要な情報源となる。 ・アーリーアダプター(13.5%): アーリーアダプターは、新しいものを吟味し、前向きに購入を検討する人々だ。この層はイノベーターほど冒険心が強いわけではないが、新しい技術やトレンドに対して敏感であり、自分自身の評価に基づいて購入を決定する。 ・アーリーマジョリティ(34%): アーリーマジョリティは、自分自身で判断するよりも、「流行っている」または「他の人が使っている」ものを重視して購入する層だ。この層は一般的にはやや購買行動に慎重で、商品がある程度��人気や信頼を得た後に購入を決断する。 この層の人々は、例えば利用者から多くの高い評価がレビューにつかないと新しい商品を買わなかったり、人気の最新テック商品はセールのときだけ購入したりという行動をとる傾向にある。 ・レイトマジョリティ(34%): レイトマジョリティは基本的に購入には消極的で、周囲のほとんどの人が使い始めて初めて、ようやく使用を検討する顧客層だ。この層の人々はリスクを避け、安全性や確実性を重視する。例えば、現金での支払いにこだわってカードやQR決済を避けたり、オンラインでは買い物をせず店頭でのみ買い物をしたりという慎重な行動をとる。 ・ラガード(16%): ラガードは、どんなリスクも負いたくないと考えるような、最も保守的な層だ。この層の人々は新しい技術や商品に対して非常に慎重であり、それが大多数に普及し当たり前の伝統となって初めて購入を考え始め、腰を上げる。
なぜ「全ての人を対象にした商品」は売れないのか?イノベーター理論で学ぶターゲット戦略 デザイン会社 ビートラックス: ブログ
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(単独ポストでも投稿しておきます)
僕は経営についてどこかで学んだわけではなく、自分の信条や価値観をベースに会社運営や組織運営をしてきました。
例えば、僕は社員のことを家族同然に思ったり、辞められるととても悲しくなったり、社員同士の仲間意識をとても大切にしたり、ホワイトカラーとかブルーカラーとかっていうレッテルをすごく忌み嫌ったり、
とにかく、せっかく同じ屋根の下に集まったメンバーだし、働く時間は人生の3分の1とかなんだから、お互いの人生が少しでも有意義になるように、好きなことをなるべく楽しくやって、その結果として人や社会の役に立てればいいよね、って考え方でやってきました。ぶっちゃけ、利益より、人としてチームとして大事なものあるよね、って思いで。
ボーナスはみんなで勝ち取ったご褒美なんだからみんなで公平に山分け全員同額とか。社員の歓送迎会では��度も涙し合ったり。社内イベントとか社員旅行とかにめちゃくちゃパワーを注ぎ込んだり。社内恋愛も結婚も大歓迎だったり。正直、キャンプとか文化祭みたいなノリでやってました。
なので、弱肉強食的な、個人能力主義的な、勝ち組負け組的な、利益至上主義的なものとはあえて距離を置くような経営をしていました。
元ポストでは、下町ロケットやスクールウォーズを引き合いに出しましたが、僕が好きなのはどちらかというと、日本的で昭和的で家族的でウェットな感じの経営スタイルでした。
そして、今振り返ると、ZOZOの成功の源はひょっとしたらそれだったんじゃないかなと。
ZOZOに出店いただいたブランドさんからよく言われていたのが、
・すごくみんな楽しそうに働いてる
・愛社精神強いのが伝わる
・洋服好きなのも伝わる
・なんかやってくれそうな集団
・他のECサイトとはまるで違う
・利益より服を愛してそう
・ロックでパンクな会社
みたいに評価されていて、それらが多くのブランドさんに出店いただく理由にもなってました。
そして、ZOZOで服を買ってくれるお客様にも、きっとそういう社風とか雰囲気は伝わっていたんじゃないかなと思います。
うまくいった理由の全てがこの昭和的経営スタイルにあったと言うつもりはないですし、それを示すデータや証拠がある訳でもないのですが、一つ確かなのは、この会社がゼロから1兆円企業になったということです。
もしかするとですよ。もしかすると日本人ってこの日本的で昭和的なスタイルの方が好きなのかもしれないし、合ってるのかもしれないなーと。そっちのがみんな頑張っちゃうし、結果生産性も上がっちゃうのかもしれないなーと。
昨今は、日本の労働生産性を向上させるために、旧来の昭和スタイルから脱却し、欧米企業のやり方を真似しましょう、みたいな気運を感じますが、もちろん欧米企業の事例を研究すること自体は良いことだと思いますが、それを取り入れるかどうか(解雇規制の緩和なんかは今まさに総裁選のホットトピックですね)については、やはりそれが日本人に馴染む馴染まない、合う合わないもあると思うので、データだけ見て判断するのではなく、日本人の気質や可能性や国民性に今一度向き合い、働く人一人ひとりの幸せについて、経営者も国もフラットな姿勢で再考すべきタイミングなんじゃないかと切に思います。
長文失礼いたしました。
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マスコミ「テレビや新聞はSNSと違ってきちんと裏取りし、正確な情報を発信しています」 共同通信「ネットでは日夜フェイクニュースが飛び交っています。だからこそ共同はファクトにこだわり抜きます」 私「どこがだよ!? とくに共同通信、お前はダメだ。見出し詐欺に悪質印象操作だけでは飽き足らず、ついに捏造記事で国際問題を引き起こすとは」 <共同通信の見出し詐欺、悪質印象操作、誤報一覧> ・生稲晃子氏の靖国参拝は誤り。外交問題に発展し政府激怒。 ・「辺野古移設抗議の女性ら2人ひかれ1人死亡」 ⇒活動家のせいで何の罪もない警備員の方が命を落とされたことが一切伝わらない。正しくは「活動家の飛び出し制止した警備員ひかれ死亡」と書くべき。 ・「核のボタン携行し被爆地に!」 ⇒アメリカ大統領が携行するのは当然。 ・「批判や疑問の声が上がりそうだ」 ⇒「批判や疑問の声を上げろ」という犬笛を吹くな。 ・「うまずして何が女性か」 ⇒「女性のパワーで知事を誕生させよう」との主旨の発言で、現場では拍手が沸き起こったのに、発言をわざわざ切り取り、ご丁寧にも立憲議員に��不適切発言だ!」とのコメントを取りに行ってから、当初はあえて「産まず」との漢字表記で、女性の出産を連想させる(その後「うまず」にサイレント修正)という悪意100%の記事。 ・「ワクチン接種ミス1800件超」 ⇒絶対数を出してあたかも多くのミスが発生したように見せているが、実際は接種回数1億6374万回に対して1805件のミスなので、割合としては「0.001%」。 ・「海水から1リットルあたり13ベクレルのトリチウム検出」 ⇒世界保健機関(WHO)の飲料水基準は「1リットルあたり1万ベクレル」なので、今回の処理水から検出されたトリチウムは基準値の「0.13%」。本来の見出しは「原発からの放出処理水、基準値を大きく下回る」と書くべき。 ・「Fukushima water」 ⇒福島第一原発の処理水を何度も「Fukushima water」と英訳する風評加害者ぶり。 ・「市民団体が」 ⇒左翼活動家団体を「市民団体」呼ばわりするな。 ・「それは一般に失敗と言いまーす」 ⇒フェイルセーフ発動によるH3ロケット打ち上げ中止をかたくなに「失敗」と決めつけたがる共同通信記者。クソ。 食中毒を発生させた飲食店が営業停止処分を食らうように、誤報をタレ流す報道機関にはせめて業務停止処分くらい下してほしい。
Xユーザーの新田 龍さん
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uihy
自室の記録
5年前からルームシェアをしているSと一緒に引越しをしてから、3年が経った。寝室をSが、リビングを私が自室としている。私の部屋の正面には大きな窓があり、左右にもそれぞれ小窓がある。
小窓1
装身具類の置き場所。ピアスを置いている鳥のレモン絞り器は、Fさんから貰ったもの。Fさんはよく動物のものをくれる。犬の形をした栓抜きや、野営をするくまの置物も彼からのプレゼントだった。
カートリッジインクの空き容器には、ヘアピンやネックレスを入れている。私の父は吸引式の万年筆を好んでいて、父から贈られたペンもインク瓶とセットのものが多かった。実家を出て外にいる時間が増えてからは、インクを切らすことが怖く、自然と替えのインクを持ち運べるカートリッジ式の万年筆を使うようになった。それからしばらく経ち、1年前にプログラマを辞めたことを手紙で報告すると、その数日後に「励まし」とボールペンが送られてきた。以降ずっとそのペンを使っているから、手持ちの万年筆はどれもインクを抜いてある。
よく付けるピアスは窓の縁に置いていて、どこかの喫茶店で使われていたらしい伝票入れには、硝子のオーナメントやトライアングルのビーターを差している。
Hのくれたトライアングル本体は、腕時計とブレスレットを失くさないための場所として機能している。良くない使い方だと罪悪感を覚えてはクロスで磨いている。
小窓2
『陶の家』を見かけたらひとつ買うというのを続けていて、現時点で3軒が建っている。少しずつ街になっていく。家の奥には、ミナペルホネンの好きなQさんにプレゼントしたものと色違いのタイルを置いている。
小窓3
すぐぼろぼろにしてしまう指先のケア用品を置いている。H先輩に貰ったネイルオイルの磨硝子が好きだった。Fさんが動物をくれるように、この人は硝子をよくプレゼントしてくれる。硝子のオーナメントも、ステンドグラスのくまもH先輩から貰っている。
窓を開閉するハンドル(オペレーターハンドルというらしい)に紐をかけて、ケーブルや電源類をまとめている。先日Eから貰った白いカールコードのシールドもここに下げている。黒い服ばかり着ているのに、Eには乳白色のイメージがある。“誤って人間として産まれてしまった天使”だと感じさせる人と知り合うことが何度かあり、Eもその中のひとりだった。
向かって左には仕事用のシャツ、右には外套を何着か掛けている。秋冬用の服ばかりある。
机
ここに越すことが決まってから最初に選んだ家具。プログラマになったばかりの頃、メモリの重要さを机の広さに喩えて教えられた。それで机は広いほど良いものだと認識したのか、気付けば横幅のある机ばかり探していた。天板の色を緑に決めて、部屋の軸に据えた。
職場で割ってしまったマグカップに無線イヤホンや保湿クリームを入れている。シャツを濡らしたまま破片を持つ私を見て、笑ってくれる会社の人たち。これ以上は無いとよく思う。
ヘアクリップ入れにしている、ままごと用のような小さな花瓶も気に入っている。渋谷の蚤の市で友人へのプレゼントを選んでから、度々その人の店でものを買うようになった。銀色のトレイやハート型の赤い缶もその人から買った。
銀色の電源タップは前の部屋から持ってきたもの。あらゆる電子機器の電力をここから供給している。
ギターをくれた友人たちが別の年の誕生日に合同出資してくれたオーディオインターフェースがモニターの下にある。未だに1-2と3-4の入力を同時にする方法が分からず、2つずつ付け替えながら使っている。これを貰ってからAudacityで曲を作り始めて、今もそのやり方をしている。会社の先輩には「システムを0と1だけで作ろうとしているみたいなものだよ」と言われたけれど、その頓馬さを含めて自分に馴染むので、Audacityをずっと使っている。キーボードがちょうど上に乗る。
モニターの横にはmicroKORGを置いている。普段は誕生日に贈り物をしないと取り決めているSだけれど、数年前に何かで手を貸した際「この恩は倍にして返します」と言い、その年の誕生日にmicroKORGをプレゼントしてくれた。このシンセサイザが部屋に来てから、自分の生活が向かうことのできる方角が増えたように感じている。大切な楽器。
microKORGには、新しい部屋で出した『野良の花壇』のマグネットを付けている。本来は冷蔵庫のために作られたマグネットだけれど、皆とスタジオにいる時にあって欲しく、ここに付けている。プリクラで来られなかった友達の似顔絵を描くような感覚。私の黒い冷蔵庫には、ピーター・ドイグの青鬼の絵と油絵の花のマグネットだけがある。
机の下に、PC・トランクケース・スーツケースを置いている。PCはSのお下がりで、MacBookしか使ったことのなかった当時の私は、こんなに大きな箱がPCだなんて、と思っていた。PCの上に付けたアンテナは狐の顔のような形をしている。
トランクケースは大学2年のころ大枚をはたいて手に入れたもの。どこか遠出をする時はこれに荷物を詰めている。畳み終えた洗濯物をSの部屋へ運ぶ時のかごや、ギターを弾く時の足置きとしても使用。頑丈さに安心する。
スーツケースはついこの間、京都に長く滞在するために買った。銀色の次に、灰がかった青が好きだと思う。
ギター・くま・本棚
ギターは高校時代の友人たちが誕生日にくれたもの。19歳になったばかりの頃、当時の交際相手と出掛けた帰り、気が付いたら楽器屋にいた。ギターを2本持ったその人に「どっちがいい」と訊かれ、指差した方を買ってくれた。私にギターを与え、弾き方を教えてくれたことにずっと感謝している。その人と別れてしばらく経ち、誕生祝いに何が欲しいかを訊かれ、ギターを頼んだのだった。友人たちは「あえて白にしてみた」と笑っていた。今思えば、このギターを貰ってから白を自分のものにすることへの抵抗が弱くなった。ギターの届いた日、触っているのが楽しくて大学を休んだのを覚えている。
YAMAHAのアンプは義兄が使っているのを見て購入した。私が真似をしていると知って嬉しそうだった、と姉から教えてもらった。
左端のくまは、元は白だったのだけれど、深い青のシーツで眠るのに付き合わせたせいで黝くなってしまった。Kの小説に「ヤニや涎で汚れてしまったのかしら」と書かれてからは、布で包んでいる。いつかぬいぐるみ病院に連れて行きたい。隣は一度も会ったことのない人が贈ってくれた黒いくまと、高校時代の交際相手が留学先のお土産として連れてきてくれた焦げ茶のくま。誰かとビデオ通話をする時にはよくパペットのくまに代理出席してもらっている。右は、地元や旅先の雑貨屋で見つけて連れてきてしまった(“しまった”という意識がずっとある)小麦と白のくま。グレーのワゴンに小さなギャッペを敷いて、くまたちの場所としている。
低い本棚の上
蓋のない宝箱。小物たちというより、質量のある記憶群という方が実感に近い。
西荻窪にあった喫茶店の閉業を知って沈んでいると、H先輩が「お店で使っていた品物を販売しているみたいです」と教えてくれた。黒い花瓶のあるおかげで、ずっとその店を忘れずにいられる。今はEのくれた竹とんぼや、Aさんのくれた花を入れている。ポストカードをしまっておける箱のついた額縁には、Aの写真を入れている。過去、「__の写真を写真展に出してもいいですか?」と、もう搬入の終わった状態で確認の連絡が来たことがあった。Aがごく稀に見せる、こういった強引さが大好きだった。展示を了承する代わりに譲ってもらったその時の写真たちは、勾配天井の部屋に暮らしていた時に飾っていた。上京してから借りたどの部屋にもAの写真を飾っている。そのほか、江の島で拾った石や、Tさんがライブ終わりに嵌めてくれた指環、Uさんと行った犬吠埼のイルカの置物、書ききれないほどの誰かと紐付いた宝物がある。
声の依頼を受けた際、お礼にといただいた絵。額装までしてくれていた。元々この人の絵が好きだったので大喜びした。一度この絵を裏返さなければいけない時期があったので、また飾ることができて嬉しかった。
高い本棚の上
小さなギターは、Kさんと一緒にRさんの部屋でパーティをした日、中古のおもちゃ屋で買ったもの。Rさんの部屋に戻った後もご機嫌に鳴らしていて、そのあと火事が起きた。カセットコンロの火がテーブルクロスに引火して、火が早送りのように広がっていくのを見た。三人で死ぬ映像がちらついた、次の瞬間には火が消えていて、振り向くと花瓶を持って息を切らしたRさんが立っていた。チューリップを活けていた水での消火。このおもちゃが生き延びた証明になっている。このあいだのアルバムに入れたフィールドレコーディング曲にはその日の日付が付けられていて、火のはじける音やこのおもちゃギターの音が入っていた。volca keysは初めて触ったシンセサイザ。自分ひとりである程度のことができるようになりたくて、リズムマシンとマルチエフェクターを買った。
銀色のバットはひとつ前に住んでいた部屋の近くにあった台所道具の店で買ったもので、前日と翌日のあいだの時間に携帯品を置いておく場所として使っている。
Artekのスツール60を、椅子やベッドサイドテーブルとして使っている。パーティめいたことをする時には、3脚くっつけて大きなテーブルとして使う。雑貨屋でまとめて購入したので、その日で店のポイントカードが1枚分溜まった。そのカードをイッタラのキャンドルホルダーと交換してもらった。
銀色のトレイは、先述の蚤の市で知った店で買ったもの。部屋のポケットとして使っている。
“拯”の字は、精神がどうしようもなく落ちていた今年の始めに、Uさんが「書初めをしよう」と言って筆を持たせてくれたもの。翌月にまた京都を訪れた際に、国際会館のカフェスペースで焼き上がったものを渡してくれた。頭でばかり考えてはすぐに身体と疎通できなくなる私に、四肢のあることを思い出させてくれる友人。
本の上には気休めの紙魚対策として除湿剤と防虫剤を置いている。
小窓4
Fさんからの犬の栓抜きと、Hに貰ったコンクリートの置物、H先輩が分けてくれた犬の箸置き。母の好きなミニチュアを贈る際、色違いのチューリップを自分にもひとつ購入して、端に置いている。自分のために生きた花を買えない反動か、花のモチーフのものを見かけると嬉しくてつい手が伸びる。
キッチン
私の洗面台を兼ねている。私もSも、料理と呼べるような自炊は殆どしないので、調味料や調理器具が少なく、キッチンの収納部にはそれぞれの私物が仕舞われている。
Mさんが引越し祝いに買ってくれたカセットコンロ。パンを焼く時やカフェオレを淹れる時に使う。組み立てる際の動作がロボットアニメのワンシーンを思い出させるので、人前で使う時には「変身!」と言うようにしている。
隣の空き瓶は元々ジンの入っていたもので、誰かに花をいただいた時には一旦ここに活けている。
��の部屋に越した時にIがプレゼントしてくれたローズマリーの石鹸の匂いが好きで、貰った分を使い切ってからも自分で買い直している。歯磨き粉はGUM以外だと落ち着かないので旅行先にも持っていく。歯ブラシはKENTのもので、最初に使ったあとの歯の滑らかさに感動して、誰かに共感してほしいあまりSに押し売りをした。それからSも同じものを使っているので、それぞれのストックも合わせると10本近くこの歯ブラシがある。右端はリングホルダー。左手の薬指に環を嵌めるようになってから、指環が好きになった。今は5本の指環を付けている。
食器棚
H先輩のくれたくまを吊るしている。緑の石鹸はMさんのスペイン土産。ここに写っている鉄鍋も鉄フライパンも、写っていない3本の包丁も2枚のお盆も貰いもの。
ソファ
机の天板に合わせて布を選んだ、三人掛けのソファ。毎日ここで眠っている。Sの部屋にある質の良いベッドよりも、薄いマットレスを敷いたソファの方がよく眠れる。枕に近い小窓のハンドルにエジソンランプを括りつけて、普段はその光で睡眠薬が効くまでを過ごしている。
部屋のすぐ向かいには線路があり、3面の窓から電車の通る音や光が流れる。最終電車の後は、スケートボードの走る音や、酔った誰かの歌が聞こえる。この部屋で生活をしている。
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