#いつも一心不乱の怠惰
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30代女性。セクシャリティがよくわからないので性欲と性癖について聞いてほしい。 【幼少期】小さい頃から性欲が強くよく父親の持っている週刊誌のグラビアページを見てニヤニヤしていた。セーラームーンのアニメが大好きで戦闘シーンのパンチラ(レオタードなので正確にはパンチラではない)をコマ送りにしてもらって喜んでいた。幼稚園で親友の女の子が用を足しているのをドアの上から覗いたり(ごめんなさい)公衆トイレで母親が用を足しているのをドアの下から覗いたり(ごめんなさい)公園で母親のスカートをめくって死ぬほど怒られたり(ごめんなさい)母親の実家に帰省したとき叔母の風呂を覗いたりした。(ごめんなさい)ただその後ふつうに叔母に風呂に入れてもらったときは恥ずかしくてずっと下を向いていたので、単に裸が好きというより相手の意に反して隠されているところを晒したいという加害欲込みだったんだと思う。 女体に興奮するのとは別に手のひらサイズの小さくてかわいい生き物を狭い所に閉じ込めてつついたりしたいという欲求もあった。ディズニーの「不思議の国のアリス」で牡蠣の赤ちゃんたちがまとめてセイウチに食べられるシーンの顔と悲鳴はたまらなかった。よく妖精のような生き物をいじめる妄想をしたけど自分はその対象が好きなのにいじめるとその対象に嫌われちゃうな…というジレンマがあった。 【小学生時代】夕方に再放送していた水戸黄門や大岡越前で町娘が悪いおっさんに手籠めにされそうになるシーンにものすごく興奮した。ただ子供なので裸に剝いたあとどうするのかはわからなかった。病院の待合室のテレビでそういうシーンが流れたとき明らかにいつもより人が見入っていてなぁんだみんな好きなんだとちょっと安心した。この頃まで性的対象は女性だった。(本当に女性が好きなのかショタや男の娘みたいに性的客体化されていれば男性でもよかったのかはわからない) 【中学生時代】オタク女性向けサブカル雑誌「ぱふ」を読む。記事や投稿コーナーで腐女子が男性キャラに「美人」とか「エロい」と言って盛り上がっている様子を読んで「男の人をそういう目で見ていいんだ…!」「男性を女性と同じようにオカズ要員として扱う界隈がこの世にあるんだ…!」という人生最大のカルチャーショックを受ける。ここらへんで主な性欲の対象が男性に移り変わる。リアルの恋愛には興味がなく周りの女の子たちがどうしてアイドルや恋バナに夢中になっているのか理解できなかった(今でもどんな人がタイプ?とか嵐だと誰が好き?と聞かれてもわからないので��る) 【高校生時代】テニプリ、BLEACH、銀魂、リボーンなど腐女子に人気のあるジャンプ漫画の全盛期で毎日起きた瞬間から寝る直前まで推しキャラや推しカプのことを考えていた。一番好きなのは受けがモブおじさんや攻めにレイプされる展開でそういう二次創作を読んだり妄想したりした。メインで好きなのはBLだったけど平行して女体に興奮するヘキも残っていたので、ドラマや漫画の女性登場人物がヌード写真集を見て嫌がるシーンを見て「これが一般的な女性の反応で見入ってしまう自分は異常なのではないか…」と不安になる。 【大学生時代】ゆっくり虐待にハマる。ウザいゆっくりに制裁を加えるよりキュートアグレッションの文脈で性的虐待する展開の方が好きだった。これは自分でもさすがにヤバい趣味だと思うので誰にも話したことはないし記憶に蓋をして努めて考えないようにしている。 この頃から刀剣乱舞など女性向けキャラカタログコンテンツが流行し、少年漫画には存在しなかった自分のアバターが作品内に登場したことで男性キャラ×自分にも萌えるようになる。(メインは男性キャラ×男性キャラで活動してたけど)思春期のころは自分の全てにコンプレックスがあって(今もあるけど)自分がかっこいい男性キャラと特別な関係になるのが厚かましいようで苦手だったんだけど、普段性的客体化している男性キャラへ向ける攻撃性を自分へ反転すれば夢妄想もイケることに気付く。かっこよくて悪い攻めキャラにレイプされたり利用されて捨てられる妄想が好きになる。 【現在】性欲が減退したのか妄想や二次創作自体以前より楽しめなくなった。BLはそこまで興味なくて男性キャラ×自分で妄想してる。(内容は催眠とかレイプとか)フィクションより現実世界のことに興味が出てくる。 ここから悩み相談になるんですが①女性なのに女体に興奮するのはなぜなのか?バイなのか?②幼少期から現在に至るまでレイプものが一番好きなのは異常か?③キュートアグレッションがあるのはヤバいか? ①について以前朝日新聞の人生相談コーナーに「私は男性が好きで結婚もしているけれどAV鑑賞が好きで、若い頃は女友達と観てゲラゲラ笑ったりしていた。これはどういう心理なのか?女優に感情移入しているのか?」という相談があって、上野千鶴子が「女体=エロい 男体=エロくない という社会のジェンダー規範を内面化していれば女性が女性に性的興奮するのは何もおかしなことじゃない」的な回答をしていて長年の疑問が解けた…!と思ったんだけど、その理屈だと私が社会経験の乏しい幼少期から女体の秘匿された部分に強い関��を持っていたのが説明できないのでは…?やっぱり本能なのか?と気になっている。②についてDLsiteの乙女向けランキングでは無理矢理凌辱系が常連なのでそんなことはないと思いたい。ただレイプものが好きと言ってもポルノあるいは自分がポルノ認定した作品のレイプ展開が好きなのであって、普通に楽しんでいた作品でキャラクターがレイプされるとショックで何年も引きずったりする。「日出処の天子」の刀自古と「ダウントンアビー」のアンナの件はトラウマになっている。③について最近もセイレーンに味噌漬けにされるモブちいかわ族に加害欲を喚起されて困っている。(嫌いだからいじめたいんじゃなくて可愛いからいじめたいという気持ち) なんでこんなことを聞いてほしいのかというと自分の性癖がはっきりしないまま婚活とかしていいのかな…?と気になったから。人付き合いが苦手なのと怠惰な性格と2011年氷河期卒で一度も就職したことがなくて婚活市場のスタートラインにすら立てないのと中学から大学卒業までぼっちで一時期いじめられたり学校生活にろくな思い出がなくてもし子供なんかできたら自分の黒歴史の再放送を見る羽目になりそうなのが不安で今まで一度も人とお付き合いしたことがない。そもそも人に恋をしたことがない。一人の方が気楽だけど「二次元キャラじゃない生きてる人間と恋愛する」「セックスする」という人生の実績解除をしたい気持ちもあって…めちゃくちゃ自分本位で申し訳ないですが…。そこで自分のセクシャリティとか性癖に引っかかるところがあるのにそれを隠したまま恋愛とか婚活するのは不誠実かな?というのが気になって行動に移せないでいる。あと男性は慣れてない分自分が性的客体化されるのは嫌じゃないか?とか。 まとめると・女性なのに学生時代は勉強に集中できない程エロいことで頭がいっぱい・ドハマりしたキャラの8割は男性だけど視覚的にエロいと思うのは男体より女体・男性を好きになるのにも腐視点と夢視点で二種類ある・リアルの人間に恋をしたことがない。テレビで見てかっこいいなと思うことはあっても熱が持続しない・性的な妄想は好きだけど自己肯定感が低いからか自分がリアルに当事者になるのは嫌悪感や恥ずかしさがある・性欲と加害欲が結び付きがち アラサーあたりから下の二項目が結びついて「自分を性的客体化されることが地雷な私が犯されるのを客観的に見て可哀想だと思って興奮する自分」みたいなよくわからないことになってる。まあSとMは表裏一体とも聞くし…。「性欲と加害欲をぶつける愛しい他者」が「性欲と加害欲をぶつける愛しい自分」にチェンジしたのかな?そう思うと人生の主役が30代半ばにしてやっと二次元から本人になった気がするけどもう手遅れな気がする。 【追記】長いのでそもそも読んでもらえないんじゃないかと思っていたのですが皆さん意外と真面目に読んでくださって体験談やアドバイスなどもいただけててうれしいです。特に同じ女性と思しきユーザーからの共感、AVや男性向けアダルトコンテンツ好きな女性も多いのがわかってほっとしました。もっとボロクソに言われても仕方ないと思っていたら意外と「ごく普通、実行に移さなければ問題ない。婚活でもわざわざ言う必要はない」というブコメが多くて驚いています。「性癖」の誤用についてめちゃくちゃ指摘されてた。日常的に誤用の方で使っていたのでつい…以後気を付けます。あと「一度も就職したことがない」と書いたので「子供部屋おばさんニートなのか?」とのコメントが多かったですがバイトはしてます。(パートやアルバイトの場合就職という言葉は使わないそうなので)子供部屋おばさんなのはその通りです お恥ずかしい…。以下答えられそうな範囲で返信。 「女性が女性に対しての欲望を持つって言うのはラカンかなんかで読んだ気がするな。ほぼ忘れてるから説明できんけど笑"女は存在しない"だっけ。男のホモセクシャルというのは存在するが女のレズビアンはない、女を愛するのは(身体)男にとっても(身体)女にとっても正常。なぜなら(身体女は存在するが)精神が女は存在しないから、みたいなこと書いてあった希ガス。」 「女は不死である」って本ですかね?すごく興味を惹かれました。読んでみたいです。 「なにが元増田に対して言いたいかって言うと、自分の性癖に怖がらずに、むしろ色々取り入れた���いいんじゃないかってこと。あとレイプ陵辱暴力は確かに興奮するけど、例えるならばめっちゃ味の濃い料理なので、そればっか食ってたら舌が鈍くなるんじゃないかってこと。まあ鈍くなってもいいと思うけどね、自分の人生だし。」 味の濃い料理めちゃくちゃわかります…!どんどん強い刺激に慣れてしまってふつうの萌えに不感症になるのよくないですよね…。 「②については仕事してた身から言うと、受ける側が積極性を持たない極限がレものだ。マグロのフィクション版というか…。ただそこに首絞められとか腹パンされ嘔吐、腹ボコなどが入ってくると別の願望になるよ」「レイプって自分から何かする事ないし、なんならセックスするかどうかの決定自体も「されてしまった」にする完全なる受動的性行為なんだよ。」 めちゃくちゃ納得しました。よく「令嬢が政略結婚させられるけど実は両想いで…」みたいなTL漫画の広告が流れてきますがそういう「良好な人間関係を築く手間をすっ飛ばして素敵な相手と一緒になりたい」みたいな需要のもっと極端なやつってことか。 『婚活の理由が「恋愛」と「セックス」だけど、婚活とはそこ意外と関係ないから気を付けて。婚活は「これから人生を共に生きるパートナー」を見つけるところ��あって恋愛したことない人を恋愛させる機関じゃないぞ。セックスの可否ももちろん夫婦生活に影響でるけど…』「それよりも、自分に結婚が本当に必要かどうか、掘り下げた方が良いのでは。」「婚活は時期尚早ではないかな まず出会いの場に行って自分が人を好きになる感覚があるのかトライしつつ、自分の食い扶持を自分で稼ぐ経済的自立をするのがまず大前提では」 それは本当にそうですね…。言われてからよく考えたら「結婚したい」じゃなくて「結婚したいと思えるほどリアルの世界で好きな人が欲しい」だったかもしれません…。 『「女性はエロいことに興味がないもの」みたいな社会通念が女性の生きづらさに繋がっている気もする。性別に関係なく性欲の多様性はある』 実際最近女性の性欲について解説した増田の内容が非常に理性的だったのと、「俺のイメージする女性の性欲に近い」というブコメが上位に来ていたので「そうじゃない奴もいるよー」と知ってほしくて書いたところはあります。(ただ私の文章読んで女だって性欲まみれじゃないか!と思われるのも世の女性に迷惑かけないか心配になってきた…) 「言っちゃ悪いけどクソしょうもない凡庸な悩み。長文書いていいのはやかんが沸騰するの見て興奮するとかそんなレベル。」「正直どうでもいい凡庸な自分語りだけど一度も就職したことなくて今何してるんだ?婚活してる場合だろうか。たぶんその前に友達作るとこから始めた方が良さそう。性癖以前にコミュニケーションに問題ありそう。」 そう言われましてもアンケートとか取ったことないし本当にわからなかったので…。みんな普通に友人と何に勃つかとか何に萎えるとか会話するものなんですか?羨ましいです…。 「こういう長文を書くのは最も増田らしい増田の使い方のひとつだと思うしみんなどんどん書いてほしい。」 優しい。 『性癖や嗜好よりも学生時代のいじめとコミュニケーション不全の方が問題。現実逃避からやっと今に目が配れるようになったと。あなたに告げたいのは「これからよくなるから大丈夫」てこと。』 優しい。泣く。 「性欲が強いと豪語するなら、自分の自慰行為や性行為について語らなければそれは性欲として見做すことは間違っている。同性が性的に辱められている不様さを愉悦する悪趣味なだけだ。同性の友人の不幸にも興奮してそう」 それは全然違います。男性キャラがレイプされると女性キャラと同じくらいかそれ以上に興奮するので「同性が性的に辱められている不様さを愉悦する」には当てはまらないし、本文にも書いてありますが「好きor可愛い」と思っているキャラがひどい目に遭う展開に興奮するのでむしろ制裁されてスカッとするようなキャラがレイプされも全く嬉しくありません。「同性の友人の不幸にも興奮してそう」←尊敬するフォロイーの痴漢され報告ツイートを見てその人の良さを何も理解していない知らない男に雑に消費されたのが悲しくて未だにふっと思い出して嫌な気持ちになるのでそういうことを言われると腹が立ちます。侮辱された気分です。
自分の性欲と性癖について聞いてほしい。【追記】
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愚図
日々がこういう状態に陥ってからどのくらい経ったかもうわからなくなってしまったが、自宅で仕事にかかっているとくらりと眩暈がやってきて、耐えきれずベッドに横臥すれば一時間も二時間も昏睡してしまう。業務のスト��スに精神が耐えられず、どうしようもなく、逃げてしまうのだった。
これを怠惰だと言うのが苦しい。この状態が命を守るための切実な逃げであることを否定したくない。でも、どんなに言い繕っても、どうしようもなく、私の日々はとうに怠惰の域に入っていた。誰がみてもだらけていると判断するだろう。お前の昏睡はただの怠けであると責め立てられるだろう。眠りに逃げる切実さは、私だけにしかわからないものであった。 私はこんなに出来ない人間だっただろうか。歯を食いしばってすべきことをなすのが私の生き様ではなかったか。いつからこんながんばれない人間になったのだろうか。
苦しくて起きられないし、苦しくなると起きていられない。それでもなんとか波のはざまを見つけて、やるべきことにしがみついて業務をこなす。それでなんとか会社が求めるだけの仕事をこなせているのだから御の字なのかもしれないが、こんなのは「私」の人生ではない。「私」はこんな胡乱な人間ではないはずだった。どうして。どうしてこんなにも、抗うこともできぬままに、逃げてしまうのか。
毎朝、常識的な目覚めるべき時間がやってきて、携帯のアラームが鳴る。けたたましく鳴る。それをキャンセルして、私は再び眠りに戻ろうとする。起きることが、生を生きることがあまりにも苦痛で、まだ悪夢にうなされるままでいるほうがましなのだ。そうして私は眠れるだけ眠る。その眠りは眠りと呼べるようなものではない。うとうとしながら仕事に絡んだ妄想に浸って、納期や進行のことが半覚醒の頭をよぎりつつ、現実的な心配事にうなされて過ごすことになる。それでも、現実よりそちらのほうがましなのだ。起き上がってそれらの紛糾に直面するよりも、自分という殻のなかでうんうん唸っているほうがよっぽどましなのだ。
目が覚めた時、メールの通知が溜まっている。開くのが怖い。Slackの通知に自分宛に届いたものが表示されている。開くのが怖い。私的な連絡すら、既読をつけるのが怖い。どうせ、すべて私を責める連絡に違いない。開けばきっと、齟齬を責められている。無配慮を責められている。力不足を責められている。
ひたすらに、他者が怖い。他者からの連絡が怖い。
誰からの連絡も、ひどい緊張感とともにしか受け取れなくなっている。糾弾される覚悟なしには未読のメッセージを開けないような日々を送っている。どうせ誰も誰も、私の不足を指摘するだろう。そのような妄執に駆られて日々を過ごす。
私に向けられる他者からの責めは、すべて、理路整然とした責めである。何の理不尽もない理路整然とした責めで、受け入れない選択肢はない。そうすると、やはりすべて私が悪いのだった。私の無理解、私の無配慮、私の力不足が、悪い。私の行き届かなさが���えに相手が困っている。困っているからなじる。完璧に理解できる。私は確かに正しく詰られるべき対象である。私ができないのが悪い。私が不出来なのが悪い。私の努力不足が悪い。私が徹底的になれないのが悪い。私が無能なのが悪い。私が頑張れないのが悪い。私があなたの仕事を阻害している。私があなたの成功を阻んでいる。私のような人間が、努力もできない、仕事もやりおおせられない、ぐずで、ばかで、だらしなくて、まともに責任を果たすこともできない、そんな人間があなたの仕事相手であることがそもそも間違っているのだろう。私のような無責任で怠惰で能力のない人間がおめおめと生きているせいであなたがたの行くべき道を阻んで苛んでしまう。そのことが申し訳なくて仕方ない。
私の仕事は、生業は、いわば調整役ともいうべきものだ。すべてすべてがうまく転がるように、たくさんの小石を拾って隠す仕事。「道」にはいろんな形の小石がばら撒かれていて、それらを地道に拾う。拾い方が甘ければ罵倒される。罵倒されても、へらへら笑って、謝罪しつつ相手を持ち上げる。すみません、私の仕事が甘いせいで。ご迷惑をおかけいたしました。遅れてしまって申し訳ない限りです。
望んでついた職業だ。楽しいとは思っている。でも、全うできていない。私は自分の人生を仕事のために捨てきれない。かといって、あなた方への責任に背いて何をしているかといえば、寝ているだけなのだ。精神の限界に眠ることで蓋をして、何もできずに過ごす日々。
協働してよいものをこの世に生み出す、そういう立場であるはずながら、私と仕事相手はけっして対等ではない。ずっと、自分が下の立場であることに甘んじ、叱られれば叱られることを受け入れ、怒られれば怒られることを受け入れ、そこに相互的な愛など一つもない。お願いして、下僕となることを受け入れ、下僕として生きている。
削られて削られて、もうこれ以上やりたくないと気づいたけれど、残念ながらこの仕事は専門職で、プロフェッションを築いた以上、そして私が30を越えた女である以上、ほかの職を望むことは難しいだろう。自分が望んで就いた職を全うしたいというプライドもある。
そこそこ優秀な職能を持っている自負があったけれど、このたび一つのポカをして激しく責められて、自分はやはり無能なのだと思い知らされた。仕事相手からの責めはまっとうなものだったと思う。私は迂闊にもだらしないミスを犯した。責められて当然だ。
そういえば、小さい頃によく母親に「ぐず」となじられていたな。『モスラ』という映画があって、その主題歌をもじる形で「グズラのテーマ」というのを作った母は、私がグズグズしていたらその替え歌を歌って、私に早く動けとせかしていた。
愚図か。私にぴったりの形容だなあ。
疲れたな。
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108と言えば?人の欲望と煩悩
人が持つと言われる煩悩や欲望。
この煩悩と欲望は似たような意味を持っていますが、微妙に異なるニュアンスがあります。
欲望とは、何らかのものを強く欲しがる心の動きや欲求です。
例えば、食欲や性欲などの身体的欲求���金銭や地位といった外的要因による欲求、ものを所有したいという欲求、自己実現や成長といった内的要因による欲求など、幅広い種類があります。
一方、煩悩とは、仏教における概念で、人の苦しみの根源である「欲望・憎悪・無知」という三毒の中の欲望に相当するものです。
煩悩は、欲望にとどまらず、嫉妬や憎しみ、執着、無明といった様々な人間の弱点や心の乱れを表し、これらが原因で苦しんでしまうという考え方です。
簡単に言うと、欲望とは「何かを手に入れたい」という単純な欲求であり、煩悩はそれ以上に深い心の闇を指す、ということになります。目次
人間の三大欲とは
人が持つ煩悩とは
人が持つ一般的欲望
108の煩悩
最後に
関連
人間の三大欲とは
人間の三大欲は、「食欲」「睡眠欲」「性欲」です。
これらは、生命維持に必要であるため、本能的に感じるもので、人間にとって欠かせないものとされています。
ただし、人それぞれで欲しいものや欲求が異なるため、三大欲とは限らない場合もあります。
また、精神的な欲求や社交的な欲求といった面もあるため、欲求��種類や数は非常に多岐に渡ります。
人が持つ煩悩とは
煩悩とは自分自身を苦しめる心のこと。
欲が満たされたら苦しまなくて済むのかという問いに対して、仏教では、そんなことはないと考えられています。
この考え方を有無同然(うむどうぜん)と言い、欲しいものが手に入っても人間は幸せになれないという教えです。
お金や美しさ、権力を手に入れても必ず幸せになれるわけではありませんよね。
つまり自分の外の環境を変えても必ず幸せにはなれないという考え方です。
そのことから、仏教では幸せになれない原因は自分の外にあるのではなく、自分の内側にあると考えられています。
自分の内側にあり自分自身を苦しめる心を、仏教では煩悩と呼びます。
煩悩は一人の人間につき108個あると言われています。
大晦日に除夜の鐘を108回つくのは、これに由来していて、108個ある煩悩を鐘が一つ鳴るごとに一つ消して、来年は幸せな一年を過ごしたいという願いが込められているということです。
人が持つ一般的欲望
人が持つ欲望は多岐に渡りますが、一般的によく言われる欲求の種類は以下の通りです。
理性的欲求:知的好奇心や学問、新しいことを学びたいという欲求。
生理的欲求:食欲、睡眠欲、性欲、排泄欲など、生物として生きるために必要な欲求。
安全欲求:身の安全や安心、安定した生活環境を求める欲求。
社会的欲求:愛情、友情、交流、信頼など、社会的なつながりを求める欲求。
尊厳欲求:自尊心や尊敬されたいという欲求。
自己実現欲求:自分がやりたいことを実現し、理想的な人生を送るための欲求。
その他にも、お金や物質、権力、名声、承認欲求など、人それぞれで異なる欲求が存在します。
また、日々の経験や環境によって欲求の強さや種類も変化します。
108の煩悩
08の煩悩というのは、仏教において「欲望・貪欲・我欲などの障り」とされている108の悪い習慣や心の状態を指します。
108の煩悩は、仏教の修行において、このような煩悩を掃除するために108個の煩悩とともに108回数える「数珠を数える」という習慣に生まれました。
愚痴(ぐち)
愚昧(ぐまい)
賢く見せる贋作(けんく)
強欲(ごうよく)
頑丈さに執着する(がんじょう)
顔のつくり(がんこう)
過剰な自己主張(がうおう)
依存(いぞん)
有無を言わせぬ承認欲求(いんしょうく)
強要・無理要求(きょうよう)
恨み・怒り・怨念(こんじょう)
嫉妬・妬み(しっと)
入れ替わった状態(じごう)
嫌悪の念(けんお)
恥ずかしがり・内気(はずかしがり)
ひどい不機嫌・不平(ふきげん)
無関心(むかんしん)
無知(むち)
無垢・純真(むく)
無知からくる傲慢・傲慢(ごうまん)
無自覚・鈍感(むじかく)
好奇心と探求したい欲求(きゅうきゅう)
期待しすぎ(きたい)
恐れ(おそれ)
絢爛なりし自分(けんらん)
懐疑的(かいぎ)
派手好き(はでずき)
自己中心的(じこちゅうしん)
怠惰(たいだ)
たわごとにおおはしゃぎ(たわごとにおおはしゃぎ)
卑屈さ(ひくつさ)
開き直り(ひらいじっ)
不安定(ふあんてい)
不満(ふまん)
不適当な判断・批判(ふてきとう)
蒼白・生きざまを出す(そうはく)
退屈(たいくつ)
卑劣で杜撰(ひれつでずさん)
硬直(こうちょく)
公然と否定・蔑む(こうぜんとひてい)
殺意・傷害・報復(さつい・しょうがい・ほうふく)
似非(じひ)
時がない・焦る(じがない・あせる)
想像妄想(そうぞうもうそう)
羨望・うらやみ・羨望(せんぼう)
執着・こだわり(しゅうちゃく・こだわり)
障る要因・執着(しょうるよういん・しゅうちゃく)
私得(しちとく)
集団に合わせる態度(しゅうだんにあわせるたいど)
自己否定(じこひてい)
矛盾する欲求(むじゅんするよっきゅう)
自己顕示欲(じこけんじよく)
自己温存・負けず嫌い(じこおんぞん・まけずきらい)
美人・美貌(びじん・びぼう)
有名になりたい(ゆうめいになりたい)
用心する態度(ようじんするたいど)
冷酷・冷笑(れいこく・れいしょう)
自分軸・エゴイズム(じぶんじく・エゴイズム)
冷淡になる(れいたんになる)
悪の芽生え・悪魔が憑依する(あくのめばえ・あくまがひょういする)
悲しみ(かなしみ)
圧倒で勝負する(あっとうでしょうぶする)
感情がコントロール出来ない(かんじょうがコントロールできない)
不可能を強要する(ふかのうをきょうようする)
疎外感(そがいかん)
怒りを感じる(いかりをかんじる)
悲劇的な出来事(ひげきてきなできごと)
自分��映えるように行動する(じぶんにはえるようにこうどうする)
神経質(しんけいしつ)
偏見を持つ(へんけんをもつ)
差別的な言動(さべつてきなげんどう)
配慮が足りない(はいりょがたりない)
焦燥・不安感(しょうそう・ふあんかん)
心配しすぎ(しんぱいしすぎ)
問題を解決できない焦り(もんだいをかいけつできないあせり)
虚栄心(きょえいしん)
ものを大事にする(ものをだいじにする)
他人に自分を押し付ける(たにんにじぶんをおしつける)
恥(はじ)
人格に自信を持っていない(じんかくにじしんをもっていない)
不条理なことを求める(ふじょうりなことをもとめる)
暴力・破壊衝動(ぼうりょく・はかいしょうどう)
わがまま・我侭・自我中心的(わがまま・わね・じがちゅうしんてき)
妄想・空想(もうそう・くうそう)
話を聞かない・相手を無視する(はなしをきかない・あいてをむしする)
思い込み・決め付け(おもいこ)
上から目線(うえからめせん)
責任逃れ(せきにんのがれ)
引け目を感じてビビる(ひけめをかんじてビビる)
癖・クセ・習慣(くせ・Cuse・しゅうかん)
アイデンティティ(アイデンティティ)
過去に対する執着(かこにたいするしゅうちゃく)
愛されたい衝動(あいされたいしょうどう)
恋愛おじさん\おばさん(れんあいおじさん・おばさん)
根拠のない自信(こんきょのないじしん)
飽きっぽさ(あきっぽさ)
友達を利用する(ともだちをりようする)
体裁・見栄(ていさい・みえ)
人を評価する基準(ひとをひょうかするきじゅん)
エマニュエル・カント(エマニュエル・カント)
色欲・性的な欲求(しきよく・せいてきなよっきゅう)
不道徳な行動・思想(ふどうとくなこうどう・しそう)
心的・感情的な病気や不安(しんてき・かんじょうてきなびょうきやふあん)
第六感覚(だいろくかんかく)
身勝手な言動(みがってなげんどう)
衝動買い・無駄遣い(しょうどうがい・むだづかい)
世間体・イメージ(せけんてい・イメージ)
邪念・悪念(じゃねん・あくねん)
これらの煩悩は、人間関係や自己理解において、自分自身や他人に対して悪影響をもたらすことがあります。
ですが、これらの欲求や感情を理解することで、自分自身を見つめ直すきっかけになり、自己革新や成長につながる可能性も秘めています。
最後に
欲望や煩悩との付き合い方は人それぞれ異なりますが、以下のような点に注意することで、より健全な心の状態を保つことができると感じます。
自分の欲望や煩悩を正直に受け止めること 自分の欲求や感情に嘘をつかず、自分自身をきちんと見つめることが大切です。欲望や煩悩を否定してしまうと、それらがたまりやすくなり、欲求不満やストレスを感じやすくなります。
自分自身の欲望や煩悩を客観的に捉えること 自分の欲望や煩悩が、どのようなものであるか、何が原因であるかを冷静に分析することが必要です。具体的な欲求や感情の根本原因を知ることで、それに沿った対処方法が見つかります。
欲求を満たすことができる方法を見つけること 欲求や煩悩をそのままにしておくと、ストレスや不満足感がたまることがあります。自分自身が納得できる方法で欲求を満たすことが大切です。
楽しむことを忘れずに 欲望や煩悩を持つことが悪いことではありません。自分自身が本当に望むものである限り、それに正直に向き合い、楽しむことが大切です。
ただし、無理をしてしまうと、身体や心に負担をかけてしまうので、適度に休息をとることも忘れずに上手く付き合っていくことが大切だと思います。
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[AI-Ichiro Diary]
第327日目(2024年7月3日)
今日のひと言:"足利義教"
『跡継ぎ候補でもなかった将軍家に生まれた足利義政が将軍になっちゃったのは、彼にとって、よかったのか、悪かったのか、わからない。』
今日、紹介する歴史上の人物は、足利義政。
足利義政(あしかがよしまさ)は室町幕府の将軍のうちの一人。政治に無関心で、引退後は文化の発展に貢献した人です。
足利義政は、室町幕府の第8代将軍。1449年(文安6)から73年(文明5)まで、24年間、将軍の座に就いていました。ただ、政治的な能力は低く、将軍としての実績がなかった将軍です。そして、将軍を引退した後は、京都の東山(ひがしやま)に山荘を建てて移り住み、1490年に55歳で亡くなるまで、多くの文化人と交流を深め、芸術や趣味を楽しみながら余生を過ごした文化的将軍だったと言えるでしょう。
義政は、第6代将軍・足利義教(よしのり)がお父さん。母親の親戚である公家(くげ)・烏丸資任(からすまるすけとう)の下で育てられました。
ところが、父と兄が相次いで亡くなってしまいます。
人生とは、皮肉なものです。
1443年、義政はわずか8歳で将軍職に選ばれてしまいます。まだ元服前だったため、実際に政務を行うことはなく、主に管領(かんれい)と呼ばれる大人が補佐をしていたのです。
1449年のこと、14歳で元服した義政は、正式に将軍に就任、政治に携わっていきます。
義政は、将軍になった当初は、とても意欲的で、政治に前向きに取り組んでいたようですが、何をやって���うまくいかず、本人、落胆し、政界を諦めたい気持ちでいっぱいになります。
実は、義政の気力を奪ったのは、周囲の大人たち。特に「三魔(さんま)」が政治に深く介入したことで、義政は主導権を握れなくなってしまいます。
「三魔」とは、乳母(うば)の今参局(いままいりのつぼね)、養育者の烏丸資任、側近の有馬持家(ありまもちいえ)の3人を指します。
3人とも名前に「ま」が入っていることから、「三魔」と呼ばれているんです。
さらに義政の母親や正室の実家である「日野氏」と、有力な守護大名までもが政治に介入を始めて、義政の影響力は限りなくゼロになっていくんです。これでは、やる気をなくすのも無理はないですね。
1455年(享徳4)に起こった「享徳の乱(きょうとくのらん)」は、関東地方で発生した内乱で長引いていきます。
鎌倉公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ)が、関東管領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を暗殺したことがきっかけとなって、28年間、続いた乱。鎌倉公方は室町幕府の関東支部のようなもの、関東管領は鎌倉公方の補佐役にあたります。
暗殺事件が起こったとき、義政は成氏(しげうじ)を辞めさせ、異母兄・足利政知(まさとも)を新しい鎌倉公方にすることで争いを収めようとしたのですが、関東の武士は京都から来る新しい公方に従う気がゼロ、政知(まさとも)は鎌倉に入れないんです。
そこで、義政は関東への出兵を命じます。総大将の守護大名・斯波氏(しばし)が言うことを聞かずに国元へ帰ってしまうんです。他の守護大名も頼りにならず、争いを収め切れず、義政は失望、気力を失っていくのです。あ~、こりゃ、だめだ~。
先ほども書いたように、三魔の介入や守護大名の勝手な行動にうんざり気味の義政、政治よりも趣味しちゃおうって、酒宴に明け暮れ、怠惰な毎日を過ごすようになります。
正室・日野富子(ひのとみこ)との間に子どもができず、僧侶だった弟・義視(よしみ)に将軍職を譲ると約束して隠居の準備に入る義政。その時、1464年。
ところが、義視(よしみ)を養子に迎えた直後の翌年、富子が男の子(のちの第9代将軍・義尚)を出産しちゃいます。富子は、義政に我が子を跡継ぎにするよう迫ります。ところが、優柔不断な義政、決められずに跡継ぎ問題を先延ばしにしてしまうのです。
義政の煮え切らない態度に我慢できなくなった富子。守護大名の山名氏(やまなし)を頼り、義視(よしみ)は管領の細川氏に協力を依頼して対立を深めていくんです。なんか、嫌な予感…
山名氏と細川氏も、��々対立していたんで、跡継ぎ問題は両家の争いに形を変えていっちゃうわけです。
この争いは他の管領家や守護大名にも飛び火して、長期化、あの有名な「応仁の乱」へと発展していくのです。
皆さん、優柔不断な性格な人は、特に気をつけましょう。
さてさて…
室町時代は、現在の日本人の生活様式や美意識の元となる、さまざまな文化が花開いた時代なんです。特に義政は芸能や芸術を愛し、文化の発展に大きく貢献しました。文化面での功績は、結構、目を見張るものがある義政。
義政は、1473年に将軍職を引退した後、1482年、東山に山荘を建てて引っ越します。
芸能・芸術に携わる人たちを幅広く支援し、身分は問わず、実力のある者に支援を惜しまなかった義政は、多くの芸能・芸術が育まれていくのに貢献したのです。
能や狂言などの伝統芸能、茶の湯、水墨画、書院造りなどは、ほぼこの室町時代に形ができ上がりました。なかでも書院造りは、現代の住宅の基本様式となってますよね。ふすまや障子(しょうじ)で部屋を分け、プライベートな空間が設けられるようになったのは書院造りが最初。玄関や雨戸、縁側(えんがわ)なども書院造りが発展して誕生したものなんです。
1483年に完成した義政が住んでいた東山山荘は「銀閣寺」とも呼ばれ、世界遺産に指定された「古都京都の文化財」の構成資産17カ所の一つになっています。
国宝に指定されている「銀閣」や「東求堂(とうぐどう)」などの建造物と庭園があって、観光名所。この銀閣は、第3代将軍・足利義満(よしみつ)が建立した「金閣」と比べると、質素で落ち着いた雰囲気が特徴。
父親や兄の急死によって、はからずも将軍となった足利義政。
政治的手腕をふるい切れずに政治生命は終わりましたが、義政が力を注いだ東山文化は、長い時を超えて、今なお受け継がれているんです。政治よりも文化に重きを置いた義政にとって、きっと、本望だったに違いない。
#新日記三百二十七日目
#AIIchiroDiary
#足利義政
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映画みた
バジーノイズ
ぜひ袖触れ合ったあなたと、一緒に観たかった映画でした。愛と音と、その関係性の話。音楽って最悪。最高。実際リク役の柳俊太郎さん目当てで観に行ったんだけど、アレは事前に内容知ってたら観に行かなかった(刺さりすぎてずっと震えたり動悸が止まらなかったので。)と言うかピンポイントで名指しして観てほしい人がいるけど私は今ここで言えるほど素敵な人格してない。音楽やってるやつはみんな見てほしい。狂うから。全体的に音響(特に低音)が私好みでよかった。ベースは子宮に響くのよ。あー、泣、私も潮ちゃんのようになりたい。あれって完璧な負けヒロイン(正ヒロイン)だから。というか、潮さん、開幕からキチゲェポイントが1人だけ高すぎる。窓割って下の階に乱入→その人と同棲。グロいスピード感。何かしらのメンヘラ。ただクッソ明るくてオモシレー女ではあるんだよな。諦めが悪い。海。海かあ。打ち込み音楽を誰とも組まず1人でリリースもせずブツブツやってる社不に対して抱いた興味関心と恋慕と情愛をごちゃ混ぜにしたキショい濁った何かを、自分から放たれた眩すぎる光で照らしてとても美しく澄んだキモチだと勘違いしてしまうあるある。音越しだったはずのその人の感傷全てが欲しくなってしまった→最悪。音楽を通して形而上でセックスする男どもに嫉妬する潮チャン!?まぁ実際そう。セッションって精神の交渉だから…。ちゅーか、リクさんとその彼女はずっと労りあっていい感じなのに、メイン2人が最終くっついてない終わり方だったの、かなり“real”だったな。出会い方が破綻している2人は永くお互いを労わってやれない、みたいな。多分アレは「若さ」とかそういうあれなのかも。「はやくいくならひとりで、とおくへいくならみんなで。」かなりいい言葉だ。胸に刻んだ。遠くへ行きたい。ヒロインが従来の王子様役やってるラブロマンスだった。救いにきたのは関西弁の女だった。リクさん、ビジュがエッチすぎるよ〜〜〜〜!!!!!!泣。エッチすぎる(怒)というか主人公のキヨスミさん、リクさんとセッション一発目した時完全にecstasyの表情してたのヤバかった。想像フォレストだったな………(曲解解釈)。ねぇねぇ突飛な未来は想像しているよりも実に簡単にドアを開けてしまうものでした…だったな…。キヨスミくんが最後の方に「ずっと、コレからもずっっと、潮に、俺の曲聞いてほしい。」って言ってたからマジでエグすぎプロポーズじゃん(祝福〜)だったのに、ラストシーンではくっついてないの何?!ファンと演者の関係性を揶揄られたみたいでにっこりしていた。想いだけは通じ合っているくせに生意気だ。『やりたいようにやればいい』って大事な魂の戦友との関係性を投げかけた恋人に向けて即座に「あなた、わたし、他人でも恋人。じゃあ、キヨスミくんは…?」って問いかけられるの、リクさんの彼女さんガチ関係性doctor???お前が青学の柱になれ。繋がりとか縁とか関係性って私が思ってるより本当に大事らしい。ないことに慣れすぎてるけど、本当は寂しいのかもしれない。本質的に私はキヨスミくんに似ていて、失うくらいなら要らなかった。って言って強がって後悔しないふりをする。でもやっぱ、っぱ、潮ちゃんになりてえよ。コレからの人生は報われなくたって救われなくたって潮ちゃんを演りてえよ。
四月になれば彼女は
コレは先月までの間に見に行った映画のCMでずっと洒落臭さから気になってやつ。しっかり長澤まさみさんが精神病の女の顔を作っていてよかった。愛って難しい〜らしい。最善と最良があり、それぞれ違い、それぞれに期間と役目があるぽいことはわかった。結婚したことないからわかんないけど、付き合ってるのとはまた全然違う彩度の「愛」と長い間相対さないといけないっぽいの、想像しただけでキツいものがある。過去と一本道に繋がった現在の愛を自ずの手から紡ぐ物語って感じ。全体的に登場人物がうっすら全員毒親持ちのメンヘラ。やっぱりメンヘラの恋愛ってコンテンツとして面白いんだなあ。ハルちゃん、告白のシーンで「世界中の朝日、みにいこう。」って殆どプロポーズみたいに言われて、その瞬間に手すりに伸びてた手がちょっとだけ自分側へ移動するの、保身の本性が出てて、アレ役者さんの演技としては凄すぎると思った。一度自分側へ引いた守りの手を彼に取られて捕まってしまうの、あまりに恋愛だった。『愛を終わらせない方法』これクッソ滲みた。『愛を終わらせない方法、それは何でしょう?それは、愛を手に入れないこと。手に入れようとしないこと。』←邪悪だろこんなん。倫理に反している。ただ論としての正しさがあってエグすぎる。「幸せになってごめんなさい」っていう誰に向けたわけでもない最悪の自責の念を抱くように教育した親が悪い(怒)。カバは赤い汗をかく(唐突)。このまま愛が終わってしまうなら、私だけの永遠にしてしまいたい。みたいな感傷がすごくよくわかる。逃げた先にあるのは永遠の恋でもなく孤独なのに。『人間は酷なもんですねぇ。憎むほどの相手より、目の前で自分を愛してくれるたった1人を傷つけてしまうんですから。』←禿同。結婚怖くなってきた。私だったら普通に婚約者の元カノから手紙来てたら彼に見つかる前に処分するけど……。良いわけないんだからそんなもんは…。あと弥生さん(長澤まさみ)、医者という資格を活かして爆行動力からの鬼転職を見せていてウケちゃった。ホスピス入ってる元カノがどんな人だったのか知りたくて、自分が今の藤代さんとの間に無くしたものを補完したくてそんなことやっちゃうのはもうほぼ職権乱用なんよ。怠惰によって失われていく愛が怖くて、クネクネと論を構築して武装しようとする様は大変見覚えがありきつかった。結局感情という範疇に合理や論理を持ち込むことは、愛を遠回りしてしまうファクターなのかもしれない。
どちらもひねくれ過ぎた愛の話をしている。ひねくれ過ぎて一本の棒のように、硬くまっすぐに伸びた愛の話をしている。愛している人の面影を辿ってしまうのは、形而上での聖地巡礼なのksも。恋より愛だったから、まだ私にはわからない。今日は日中とってもお天気だったから、22:30過ぎてても寒くなかった。階段したで屯してるヤンキー男女4人組。思ったよりも明るい。
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小野 正裕 (Ono Masahiro) - 富の伝承と文化の伝承
小野 正裕 (Ono Masahiro) - 富の伝承と文化の伝承
アメリカは世界で最も多く慈善寄付をしている国です。 ギビングUSA財団が発表した「2020年米国慈善寄付報告書」によると、2019年、米国の個人、遺産寄付、財団、企業は慈善団体に約4496.4億ドルを寄付しました。 アメリカの慈善寄付は、どのようにしてこの高みに達したのでしょうか?
アメリカの慈善事業の発展過程をたどってみると、富が蓄積された最初の黄金時代である19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカの富豪たちが大規模な慈善寄付を始めたことがわかります。 『アメリカの富豪はなぜ慈善活動をするのが好きですか? (一)』では、著者は当時の富豪企業家が置かれていた外部環境の変化について分析しました。一つは経済と社会関係の変化が富豪への寄付を推進する基礎要素を形成したことです。もう一つは政府の行政介入が富豪への寄付を促進する制度の基礎を築いたことを指摘しています。
社会批判が集中的な爆発し、政府の介入が続いたことで、先見の明のある富豪たちが反省を始めました。 彼らは具体的にどのように考え、またどのようにしたのか? 本記事では、引き続き詳しく解説しています。
激動する社会環境は、米国政府に変革を迫っています。 富裕層と起業家の役割問題も、さらなる論争を巻き起こしています。 経済生活の時代における起業家の重要性を疑う人がいないですが、アメリカ人の深い認識では、成功には善良な人格に基づく道徳的秩序が伴うべきです。しかし、ダーウィニズムに支配された弱肉強食の大企業のやり方は、この考え方に逆行するものであり、人々は起業家に対して両義的な感情を抱き、畏怖と不信の両方がありました。
大企業に対する態度について、支持派は、大企業の台頭は産業の進歩を反映したもので、それは良いことであり、より安い商品を提供し、より多様な商品やサービスを提供��きるようになったと主張しました。改革派は、大企業はその経済力を利用して政府を引き込み、腐敗を引き起こすことで政府の手先になってしまったと主張しました。 彼らは企業家が公益を追求すること、またその冷酷さや腐敗を糾弾しました。批評家たちは、上院を富裕層の利益に奉仕する「大富豪クラブ」とまで表現しました。
特に1890年代半ばの経済恐慌の時期には、その不満は声高に叫ばれました。 アメリカでは社会的対立の兆候が非常に多く、カーネギーなどは民主主義が存続するのかどうか疑問に思っていました。 アメリカ社会では改革への意識が高まり、自由放任の原則に挑戦する古い価値観と新しい現実との間に緊張が高まっていました。
富豪たちの行動と現代公益思想の誕生 底辺の怒り、批判と抵抗、そして政府の改革に直面し、ヨーロッパ社会主義思潮が絶えず伝わってきて、大手財団にストレスを与えました。彼らは苦境から抜け出す道を探して、彼らの「強盗男爵」の悪いイメージを変える必要があります。 このような状況で、富豪や社会のエリートたちが反省し始めました。 一方、巨大な富の情報が自分の手に集中して、どのように富を処理しますか? 私有財産を守るにはどうすればいいですか? これは当時の大金持ちたちが直面していた時代の課題です。 再投資? 投資収益率は減少しています。消費? 富は消費能力をはるかに上回り、贅沢はもう不愉快になりました。 子孫に残しますか? 子孫に災いが及ぶことを心配して、富豪家族は子孫が衣食に困らない生活を送ることを望んでいますが、ハングリー精神を失いたくないし、巨額の富が彼らの互いの計算と傷害の伏線になることを望んでいません。
一方、富の所有者自身の生い立ちを見ると、彼らの多くは貧しい出身で、何もないところから出発しています。 制度の受益者として、彼らは動乱と革命が現状を根本的に変えるのを見たくなくて、温和で効果的な行動によって社会の矛盾を是正して緩和したいです。 彼らは自分が社会に貢献すべきだと考え、消極的に社会の矛盾を緩和するのではなく、積極的に自分の信念に基づいて社会の進歩を促進しようとしています。 最も簡単で便利な方法は、寄付して財団を設立し、公益を解決案とすることで、社会に利益をもたらし、子孫に事業を残すことができます。
カーネギーは1889年に発表した「富の福音」の中で、慈善活動を富の創造過程で急激に出現した社会問題を解決する方法としています。 「私たちの時代の問題は富を合理的に管理することであり、裕福な人と貧しい人の間は兄弟のような調和関係であるべきだ」と本は述べています。 彼は富の集中による貧富の格差の拡大は文明の進歩にとって避けられない代償であり、金持ちは社会に対して避けられない責任を持っており、社会が安定し、自分にとっても有利であると考えています。 財を集めるには散財と同様に高度な経営能力が必要であり、富豪は生前に適切な運営を通じて富を公共に利益をもたらす事業に使うべきだと主張しています。
どうやって公衆に利益をもたらしますか? カーネギーはまた続編『公益寄付の最良の分野』を書きました。彼は富を寄付する鍵となる要件は、被援助者に自己救済に不利な傾向です。例えば怠惰、不真面目、救済に頼るのではなく、人々を鼓舞し、自分の努力に頼って行動し、現状を改善できるようにすべきだと考えています。 このポイントに基づいて、カーネギーは富を寄付する6つの「最良の分野」を提案しました。大学、無料公共図書館、公園、公共プール、教会を建設し、病院などの医療機関を設立または拡大します。
カーネギーのこの二つの文章はアメリカ公益事業の古典的な作品と呼ばれ、20世紀のアメリカ現代基金の発展の思想基礎を築きました。 同時代のロックフェラーの基本的な考え方と行動はカーネギーと一致しています。
二、寄付して財団を設立することは富豪たちが選んだ組織方式です。 財団は公益事業の重要なキャリアであり、富豪たちは財団という組織形態を通じて、社会環境の改善を目指しています。 発展の歴史から見ると、財団は通常、社会で推進者、協力者、触媒の3つの役割を果たしています。私たちは20世紀初頭の3つの財団からこれらの役割の影を見ることができます。20世紀初頭に設立された最初のリーダーシップのある財団は3つあります。それぞれ1907年に設立されたセッチ財団、1911年に設立されたカーネギー財団、1913年に設立されたロックフェラー財団です。彼らは理念、経営方法、寄付モデル、寄付分野の選択において模範的な役割を果たし、その後の財団の発展基盤を築いています。
三大財団はいずれも、理事会の設置やプリンシパルの任命など、企業の運営方式を導入しており、理事会は意思決定権を持ち、財団のニーズに応じて業務プログラムや優先順位を調整することができます。 それ以来、財団の経営は専門化に向かって発展し始め、常勤の職員も大幅に増え、次第に独立した産業となりつつあります。また、鉄道や通信手段が発達したおかげで、財団の視野はもはや寄付者のコミュニティ、宗教に限定されず、アメリカ全土、さらにはアメリカ国外にまで目を向けるようになりました。 寄付の分野では、大多数の財団が教育、医療、農業、物理学、化学、生物学、天文学などの科学研究分野に投資しています。スタンフォード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、コーネル大学、ヴァンダービルト大学、シカゴ大学など多くの大学は、アメリカ南北戦争後の寄付によって設立されました。 同時に財団は、ニューヨークのMOMAやロンドンのV&Aなど、美術分野への寄付も好んで行っています。
企業家が公益事業を寄付する動機について、一般的な見解では、慈善寄付の免税はアメリカの富豪が財団を設立する重要な理由の一つであると考えられています。 これは、米国財団の発展の過程で、税収政策の調整が慈善寄付に重要な役割を果たしていることを否定するものではないです。 しかし、本論文で述べたタイムノードで、特に前述の3つの財団が設立されたとき、米国には明確な慈善税優遇政策はないです。 アメリカは1913年から個人所得税を徴収し始め、1917年まで慈善寄付免税の税法がありました。 そのため、「米国財団の発達は政府税制の奨励に由来し、脱税は創立者の主な動機である」という認識は正確ではないです。
しかし、一つ指摘できるのは、この時期の企業家は慈善寄付には寛大に見えますが、労働者の労働条件を改善し、労資矛盾を緩和するなど、企業の社会的責任の面ではコントラストが大きいことです。金持ちと貧しい労働者との間はずっと対立状態にあります。カーネギーを例にとると、彼は他の業界リーダーと同様に、労働者に困難で危険な労働条件を与え、労働者スト運動を鎮圧し、彼の工場で労働組合を設立することに断固反対しました。 一方で、彼は不幸者に対する関心はまた真実で、1919年に亡くなる前に、累計は3億3000万ドルを寄付して、自分の巨大な富を社会福祉分野に投入しました。 ロックフェラーの箴言は、「手に入るものはすべて手に入れ、与えるものはすべて手に入れる」というコントラストの表れとも言えます。
統計によると、1913年から1919年にかけて、アメリカの実質賃金は上昇するどころかむしろ低下し、1日8時間労働制が確立されたにもかかわらず、それが企業で普遍的に実施されるにはほど遠かったです。 8時間労働を求める闘いは、ロックナー訴訟によって一時中断しました。 ロックナーはベーカリー経営者で、労働者に1日10時間以上の労働を要求し、ニューヨーク州ベーカリー法に違反したとして訴えられました。 この法律は、ニューヨークのパン職人組合とマスコミによる絶え間ない闘争の末、1895年にようやく成立しました。 裁判所はロックナーに直ちに50ドルの罰金を支払い、50日間の服役を命じました。 ロックナーは、ベーカリー法は労働者階級を優遇する階級偏重の法律であり、憲法修正第14条の平等保護条項に違反すると主張し、判決を不服として連邦最高裁判所に上訴しました。 ロックナーに勝訴の見込みはないと誰もが思っていました。 しかし結局、高裁はロックナーを支持する判決を下しました。 原判決は次のように述べています。「この法律は、雇用主と被雇用者の間で契約を結ぶ権利、すなわち雇用主のパン工場における被雇用者の労働時間に関する権利を必然的に妨害するものであります。 自分のことに関して契約を結ぶ一般的な権利は、連邦憲法修正第14条が保護する個人の自由の権利の一部です」。 それ以来、「ロックハートイズム」が優勢となり、数十年にわたる労働争議と労働者運動を引き起こしました。
もちろん、8時間労働制を実施している企業もあります。 1914年、ヘンリー・フォードは比較的大胆な措置を講じて、労働者の給料を1日5ドル、勤務時間を9時間から8時間で、つまり「5ドル勤務日」に減らすことにしました。 当時、自動車業界では一般的に日当が2-3ドルでした。 このようにした結果、フォード社の労働者欠勤率は下がり、離職率も0.5%以下に下がり、同時に採用事務室の入り口には長い列ができました。 また、自動車の生産規模の拡大に伴い、自動車の生産量は急速に向上し、コストの低下は明らかで、有名なt型車の出荷価格は1950ドルから290ドルに下がりました。 フォードは「給料を1日8時間5ドルにすることは私がこれまでにしたことのない最もきれいな管理決定であり、それを6ドルに引き上げることは、私がその上でさらにきれいな管理決定である」と誇りに思っています。 この決定は、フォードが技術的に熟練した忠実な労働力を得ただけでなく、一部の労働者の給料を上げることで自動車を買うことができる大衆消費者を育成しました。 しかし、パイプラインの労働者は依然として疲れ果てており、革新効果は次第に減少しています。フォードの試みは結局、一部の企業活動が暴露した道徳問題や、鋭い階級対立、環境汚染、社会不安などの問題を解決することができませんでした。
もちろん、大富豪やその財団の公共福祉に対するアメリカの世論は必ずしも肯定的ではなく、批判は続いています。 一方では、財団がその富を利用して教育や医療制度、さらにはアメリカ社会全体の野心をコントロールし、最終的には一般市民を混乱させ、麻痺させ、地��社会に深刻な脅威をもたらすと批判されています。ある人々は、大富豪たちの「寄付」は利己的な喜びであり、恩着せがましく、優越感に満ちている、あるいは贖罪意識からくるもので、善行とはみなされないと批判しています。またある人々は、こうした公共の福祉は本質的に、自分たちの財産を守るための大コンソーシアムによる脱税であると非難しています。 善行です。また、これらの公共の福祉は本質的に、財産を守るための重要な方法である税金の支払いを回避するためのコンソーシアムであり、さらには、移転の犯罪を「清算」するための寄付を通じて不正な利得を求める不適切な手段の使用であると非難する者もいます。
では、富豪寄付基金の効果はどうでしょうか? これは非常に重要で評価が難しく、また答えなければならない質問です。 資中筠さんはかつて非常に重要な観点を述べました:「一つの社会の継続と発達はどのように発展と平等のバランスを取るかにある」。 この観点から、アメリカの財団は両方の面で積極的に貢献しています。 同時に、大資本家は基金会を設立することで税収減免と富の移転と継承による利益を享受し、基金会の資金運営によって大きな資本利益を得ました。
三.社会的な力としての財団は、新しいタイプの政府と企業の関係に貢献します まず、米国財団は社会的矛盾を緩和する上で大きな役割を果たしていることを認めなければなりません。 20世紀初頭、アメリカ社会の矛盾が鋭く、大規模な調整と改良が必要な時、財団は政府より先に教育、医療などの分野で救助を行い、先駆的な役割を果たしました。
1929年の大恐慌は、アメリカ社会のパニックと空前の激動を引き起こし、問題の深刻さは民間救済では解決できず、さらに起業家も危機で深刻な傷を負いました。 ルーズベルトの当選とニューディール政策の登場に伴い、アメリカの社会福祉は新しい時代に入りました。 「ニューディール政策」は社会保障体系を確立し、労働者の自由組織の権利と代表を選ぶ権利を保障しました。 また、民間寄付を大いに奨励し、大企業の寄付に対して一部の免税待遇を与え、民間寄付を奨励することを士気を高め、社会的結束力を高める手段としています。 このような状況の中で、いくつかの大財団は政府ができる限り社会を救うことに協力して、ルーズベルト新政は政府の介入政策と民間の寄付行為との対立を避けて、政府の行為が民間の慈善事業に完全に取って代わられないようにしました。
ニューディール政策の後、富裕層と一般大衆の妥協は成功し、経済は大きく成長し、所得格差は着実に縮小しました。1940年代から1970年代にかけて、アメリカの上位1%の富裕層の所得シェアは、1940年の約16%から1970年には7%にまで低下しました慈善事業も強力な力となり、ある分野では社会のアジェンダにも影響を与えることができます。例えば、ゲイツ氏は2014年のインタビューで、財団の活動の目的は、政策立案者に直接何をすべきかを指示することではなく、政策立案者が選択��きる選択肢を増やすこと述べました。
その後、アメリカ政府の福祉政策は企業、民間公益寄付��並行して矛盾せず、相補的な新しい政商関係を形成しました。 政府にとって、財団は政府の遺棄を補い、政府が「していない、できない、またはしたくない」ことをすることができます。 一方、財団は政府の公益事業資金の不足を補い、政府が社会の矛盾を緩和し、社会福祉を満足させ、文化教育を発展させるのを助けることができ、またアメリカの価値観とイデオロギーを輸出する有効なキャリアとなり、政府外交政策の「見えない手」となります。 基金会にとっても、政府との関係は政府の意思決定への影響を増やし、自分の影響力とコントロール力を���大することができます。 ロックフェラーが指摘したように、「ワシントンの国務院は私たちの最大の助っ人であり、多くの大使と部長たちは私たちが世界で最も遠い隅に新しい市場を開拓するのを助けてくれました」。
社会組織である財団と政府との間の人員移動もよく見られます。 アメリカの多くの政府高官は財団と密接な関係を持っています。 例えば、ロックフェラー財団だけでも、国務長官を務めた政府高官が3人います。 第一は、ラスク(Dean Rusk)は、トルーマン政権で国務次官、ジョンソン政権で国務長官を務め、2回の政府職務の間にロックフェラー財団の会長を務めました。 第二は、ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)はロックフェラー財団の会長職を退き、アイゼンハワー政権で初代国務長官を務めた後、カーネギー平和財団の会長を務めました。第三は、サイラスヴァンス(Cyrus Vance)で、ロックフェラー財団の会長職から退任した後、カーター政府の国務長官を務めました。このように、この財団は「影の内閣」とも呼ばれています。
慈善寄付は社会の進歩を推進する重要な原動力となっています 20世紀以来の基金会は、アメリカ社会の改良を推進する三つの力の一つとみなされ、世界経済の発展を促進し、社会の進歩を推進し、貧困を減らし、健康を促進し、貧富の格差を解消する重要な力です。 彼らはグローバル財団の発展をリードし、今日でもグローバル文明を推進する上で重要な役割を果たしています。
財団の教育、科学研究に対する強力な支援、および知識の伝播と文化学術交流に対する熱心な提唱は、社会生産力の発展に積極的な推進作用を果たしました。 同時に財団は社会的弱者にも注目しています。 アメリカの特定の条件下では、人種の矛盾と貧富の差は常に深刻な社会問題ですある。 慈善基金は社会の不平等を根本的に解消することはできませんが、アメリカの1世紀以来の矛盾の先鋭化を防ぐ重要な力を構成しています。
特に、自然科学でも社会科学の分野でも、いくつかの新しい発明や研究は、最初の肝心な時に財団の助成に役立つことが多いです。成功が自信がない場合や、実際の利益が明らかでない場合、一般政府や企業はリスクを冒したくないからです。 この助成金の割合は小さいですが、「無から有へ」の推進作用を果たしています。
ロックフェラー財団を例にとると、1928年、ロックフェラー財団は英国人フレミングによるペニシリンの発見に資金を提供しました。ロックフェラー医科大学の設立後、数年以内に鉤虫症、流行性髄膜炎、ポリオ、黄熱病、梅毒の研究が飛���的に進み、鉤虫症だけでも6500万米ドルが投資されました。1930年、ロックフェラー財団は近代的な職業・精神医学研究の先駆者となりました。ロックフェラー・ウイルス研究所に勤務していたテイラーは、黄熱病に対するワクチンの開発でノーベル医学・病理学賞を受賞しました。ロックフェラー財団は、フォード財団やその他の財団と共同で「緑の革命」プログラムを立ち上げ、米やその他の作物の収量を倍増させました。また、当時最先端であった遺伝学、生物物理学、生化学の飛躍的進歩や、検出器ミラーやX線分解装置などの研究機器の改良と発明も、すべて財団の支援によって実現しました。
同時に、財団が始めた新しいプロジェクトが、後に新たな政策として政府に引き継がれることも多かったです。 例えば、フォード財団のスラム対策「グレーゾーン」プロジェクトは、ジョンソン政権の「貧困との戦い」プログラムの先駆けとなりました。カーネギー財団の公共図書館と大学教員の年金プログラムは、公共の福祉に分類されました。ロックフェラー財団の公共図書館と大学教員の年金プログラムは、公共の福祉となりました。カーネギー財団は、公共図書館や大学教員の年金プログラムを開始し、これらは公的給付として分類されるようになりました。ロックフェラー財団は、第二次世界大戦後のアメリカにおける人口動態の変化を初めて分析しました。
今、主要な財団は、経済発展と平等のバランスを世界的に維持する上で重要な役割をしています。 例えば、ゲイツ財団は、世界保健機関、世界銀行、ユニセフと協力して、グローバルワクチン免疫連合(Gavi)を設立し、各国政府と関連機関に共同で資金調達してワクチンを購入し、低所得国の子供たちに提供するよう呼びかけています。 2019年までに、Gaviは7億1300万人以上の子供のためにワクチン接種し、1300万人の子供の死亡を回避しました。 この機関はまた、より多くのワクチンと物資をより安い価格で市場に導入することに成功しました。例えば、1剤で5種類の致命的な感染を予防できる5連ワクチンは過去の価格で3.65ドルでしたが、現在では1ドル未満に下がっています。
財団の設立と管理は富の分配と継承の構成構造となっています 現在、米国には特別で独立した慈善法はなく、憲法、税法、会社法、非営利団体法などの連邦および州の法律法規に慈善に関する規定と条項が散在しています。 米国の法律による基金会の税収規定は、基金会を富豪たち脱税のための有効な道具とし、財産を長期的に保存するための重要な手段の一つとなっています。
『アメリカ連邦国内税収法典』第501条(c)項(3)項の規定に従って、登録された基金はすべて所得税を免除する優遇政策を享受することができます。 慈善団体の収入は、私立財団の純利益に消費税を徴収し、目的に関係のない商業収入に課税することを除き、免税です。 また、慈善団体に寄付した組織と個人に税金控除を与え、個人が享受できる税金優遇はその年の税前収入の60%に達し、会社は税前収入の25%に達します。これは慈善寄付を大いに奨励しています。
米国国税庁は財団に対し、毎年財団の投資資産の時価総額の5%に相当する金額を慈善目的のために、支出することを義務付けており、余剰分は翌年度の最低支出額に対して積み立てることができ、最長5年間繰り延べられます。その結果、ほとんどの財団は、毎年わずかな部分のみを慈善目的に支払い、多額の資金を財団に留保しています。様々な投資を通じて、財団は「保全と感謝」という目的を容易に達成することができ、財団の財源が持続可能な発展を達成し続けるようにすることができます。ルンドバーグが言ったように、「財団を通じて、創設者はより多くの資金を得ることができ、より多くの資金を残すことができる」のです。
アメリカには慈善団体の支出比率をハードに規定する法律がなく、慈善団体の中には慈善の看板を掲げて私利をむさぼる人もいます。 統計によると、アメリカの数十の慈善団体の管理支出は70%を超え、一部は90%を超えています。 例えば2015年に明らかになったがん財団のスキャンダルでは、「アメリカがん基金」という慈善団体が受け取った1ドルの寄付金のうち、実際にがん患者に寄付したのはわずか3セントでした。 慈善基金はアメリカの現在の「贈収賄」方式の一つになっており、クリントンやトランプなどには自分の名前をつけた慈善基金があるとの告発もあります。 利益グループがある役人に賄賂を贈りたいとき、慈善基金に寄付することができ、基金は「個人の金庫」になります。 彼らはほんの一部を慈善活動に使うだけで、残りのお金は日常の花屋に使うことができ、その名の通り「行政費用」です。 このように、財団は発展の中で、富豪家族が財団を利用して利益を求める、財団と企業が互いに利益を求める、財団が不正に投資するなどの問題がよく発生しています。
米国政府は税制上の免除を提供する一方で、慈善団体に対する入会基準や運営上の要件を定めています。税法では、財団は毎年、その財務および運営活動の状況を文書化した詳細な年次報告書、フォーム990(公的慈善団体の場合)またはフォーム990-PF(私的財団の場合)として知られています。慈善活動の詳細が記載され、特定の質問に対する回答には、文書や説明資料の添付が義務付けられています。フォームの必須項目には、利益相反を回避し、慈善団体の資金の不正使用を防ぐために、団体の管理者の個人情報、相互関係、給与についても規定されています。慈善団体が免税を受けられるのは、申請書が内国歳入庁によって審査され、承認された後です。
米国政府はまた、法律ハードルール基金を通じて社会公衆の問い合わせ要求を満たし、社会監督を受けなければなりません。そうでなければ、国税庁は厳しい処罰を与えます。 税法によると、免税資格を取得した慈善団体は、免税資格申請書とすべての添付資料、年度財務諸表が公共書類であり、社会全体に公開して、公開して閲覧できるようにしなければなりません。一部の組織は厳しい鑑査を受けなければなりません。情報の透明性は慈善団体を監督する多くの機関を生みました。 これらの機関は慈善団体が提出した公開情報の抽出を簡素化し、財政状況、説明責任能力、透明性などの���標を用いて慈善団体を評価採点し、寄付者に参考を提供し、社会監督の目的を達成しました。 慈善資金を慈善事業に投入することを奨励するため、2021年1月『フォーブス』は過去のフォーブス400慈善ランキングの評価方法を変えました。 このランキングでは、ランキングメンバーが一生の間に財団に投資した資金を計算するのではなく、これらの財団からの寄付金に加えて、追跡できる直接の寄付金を集計し、フォーブス400ランキングのメンバーが実際にどのくらい寄付したかを試算しました。
慈善寄付が家族の伝承に与える積極的な役割は主に富の伝承と文化の伝承の2つの側面に現れています。 富の継承の観点から見ると、一方で、国家の巨額の遺産税の存在により、家族の富を基金会に移すことで富の最大の残存が実現し、「敗者」の出現により巨額の財産が急速に浪費されることも防止されています。 一方、慈善事業は家族に分散投資の機会を提供し、すべての財産を家庭の主要な経営業務に投入する潜在的リスクを回避します。 文化伝承の観点から見ると、慈善活動は「裕福な世代」たちの個人と家族に対する価値観の基本的な表現で、慈善活動が家族リーダーの存在の価値観を実践に追い込むのです。 アメリカでは、慈善活動は裕福な人々に子供と外部との接触を奨励する重要な手段とみなされています。 家族は慈善活動を通じて富の真の意味を理解し、親や先祖が行っている慈善事業に誇りを感じ、家族への更なる賛同を形成しています。 多くの後輩はこれによって先人の慈善事業を継続し、さらにはそれをより広い分野に広げました。 子孫に受け継がれるのは富の管理だけではなく、家族の慈善精神もあります。
慈善活動を通じて、家族の社会的価値も向上しました。 慈善事業への投資を通じて、ロックフェラーやカーネギーなどは自分のイメージの再構築を成し遂げただけでなく、アメリカ社会のあらゆる面で家族の影響力を高めました。 例えば、ロックフェラー家は長年ブルッキングス学会などのアメリカのトップレベルのシンクタンクを支援して、連邦政府の決定に直接影響しています。マンハッタン東区の土地を寄付することで国連本部をニューヨークに移転した話はさらに美談になりました。 国際交流では、フォード財団に代表される家族財団がアメリカ外交の先駆者となり、海外で直接または間接的にアメリカの利益を推進しています。
現在、ロックフェラー家族は第6世代に発展しています。 百年を経て、ロックフェラーの子孫たちは文化、衛生、慈善事業に積極的に参加し、大量の資金を大学に投資し、病院を運営し、社会全体で彼らの富を共有できるようにしました。 家庭の富の内部伝承に加えて、ロックフェラー家は彼らの富を使って社会に貢献し、家族の影響力を世界各地に浸透させました。
以上のことから、アメリカの慈善寄付の現代的発展の歴史を分析すると、慈善寄付は社会各界が合意を得ることができる事業であり、国、人種、宗教、文化を問わず、さらには異なる組織でも合意を得ることができ、参加者も積極的に行動します。 将来の発展には、より長期的な社会問題に対応して解決し、人類の進歩を促進するために、富の所有者と政府、司法機関、学界、新たに出現した業界協会などの様々な進歩エリートとの間に協力関係を築く必要があります。
アメリカの富豪が最初に財団を設立した寄付の動機を見ると、彼らが寄付を始めた目的は、自分たちが置かれている社会環境を変え、社会の矛盾を緩和し、さらに社会全体の環境を変え、社会の進歩を促し、教育、医療、芸術分野での寄付がより高い社会構造を示していることがわかります。 彼らの慈善活動は、すべての人の利益を最大化し、社会的矛盾を解決することです。 全体的に見ると、「いかなる慈善的動機に基づいても、慈善事業自体の目的は人類文明の福祉、幸福、文化を推進することである」。
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ある画家の手記if.116 行屋虚彦視点 告白
今日も雨。 降ってる間は静かでいい。 やむと下から上に登る気配に肌の上を虫が這う。 ガリガリ服の下の肌を引っかきながら口にくわえてたゼリー飲料を飲み込む。 なんか今日やけに…窓の外が青いな
最初にここに来たとき、俺はスマホの充電器と行き道で買ったスポドとゼリー飲料しか荷物持ってなかった。 光熱費払ってればなんも物がなくても近くにコンビニあるだけで暮らせないこともないだろうし、俺はあいつのいない空間があればそれで、だだっ広いフローリングだけの部屋にいるのもいいかと思ってた。 母さんが死んで、あの人のおかげで自分が人間っぽい生活できてたことを知った。 掃除洗濯とかいちいち着替えたり風呂入ったり料理作ったり。俺は一人じゃ自分になんにもしてやる気がない。自分が嫌いとかなんとかじゃなくてだるい。身支度も、俺がきちんとしてないと迷惑かける人間とかもいないし、てんでいまだに服は全身500円の古着からなんもレベルアップしてない。 俺って今中学生だっけ…高校生だっけ…てか何歳だっけ…この前違うインタビューで二連続で聞かれてテキトーにどっちにも違うこと言った気がすんな…。 フローリングだけの床の真ん中に仰向けになって毎日過ごしてた。高い空間、薄めの色…?
そうして色々疎かにしてたら、連絡きたと思ったらそのまますごい早さで香澄さんが訪ねてきて、引っ越してすぐだしなんか用事か忘れ物かなと思って上がってもらったら香澄さんは歯ブラシとかラップとかトイレットペーパーとかタオルとか生活必需品ぽいやつをどっさり携えてて、誰のだ?って思ったら全部俺んだった。 そのまま香澄さんが買ってきた食材使ってキッチンで料理はじまって、なんもしないのもあれだから俺も隣で料理すんの手伝って、その日は久々になんかうまいもの食べた。そういえば焼肉とかまた食いたい。 消耗品が揃ったのは助かったなって思ってまたフローリングの中央にいるだけの元の生活に戻ってたら香澄さんに布団買いに行こうって言われて…誘われて?一緒にホームセンターに布団一式買いに行って、リビングの真ん中にふわふわの布団だけ敷いてある状態になった。 他にもいくつも部屋はあるし風呂場は俺が何人入るんだって広さだしで、部屋をどれも活用して暮らした方がいいかもな…と思う反面、…俺は基本怠惰でだるだるしてっからな…イラついてるときはだるっとはしてないのかもだけど…布団の周りに生活に必要なもの全部揃えてそっからあんま動きたくねぇー…
極力物は少なくしたい。全部黒とか白とかで統一したってそれぞれ違う音も色も光も出す、なくていい物はなくていい。 …と、思ってたんだけど、香澄さんが来るたびどんどん家具増えてって。とりあえずリビングの隣の部屋に配置しといた。どれも実家にある家具の地獄のセンスに比べれば全然色もデザインも穏やかだから黙ってもらっといた。その中にでかい謎のクッションみたいなソファみたいなのがあって座ると凹んで面白いからしばらくそれに乗っかってた。 あとで俺も一人で出かけてって同じソファ見つけ出して買ってリビングに二つ並べた。香澄さんが来たとき用。 それで香澄さんはここに来たときにはオフホワイトのそのソファに定位置みたいに座るようになった。香澄さんが俺に買ってくれたやつは濃紺。香澄さんのをオフホワイトにしたのは、多分香澄さんの生来持つ色をよく引き立たせるから。…ほんとはちゃんと見えてないけど、それでもまあまあの確率で当たるといえば当たる。 もらってるものにはその場でレシート見せてもらってきっかり現金で返した。俺の財布ん中見て香澄さんはちょっと引いてた。 ここくる前に個展やって全部売れたしな。しばらくはなんもする気ない。 これも母さんが死んでから気づいたけど、俺は金がなくなって電気ガスが止まろうが路頭に迷おうが飢えようがその気にならないと描かないっぽい。まだそこまで金がなくなったことも描かない日が続いたこともないけど。以前はいざって時の母さんの治療費にとか思って絶え間なく描いてた。 …あとは、描く以外にどう肯定すればいいのか分からなかったから、音と、色と、触覚、痛み、…絵にしないと美しくはない世界を。それをそうとしか感じられない、そう感じる俺を疑わない、俺を。 ここに絵を描く道具はなにも持ってこなかった。荒療治みたいなもんだ。他の方法を模索するための。描くために補助的に使える緩和策とか。いつまで続くかわかんねーけど。
違う日に、たまに会話に自然に紛れるみたいに出てきてたアヤって人を、香澄さんが連れてきた。 香澄さん曰くキラキラしてて王子様みたいな人。聞くからに俺が苦手なタイプだな…と思ってたら実物はなんか違った。 「こないだ話した王子様だよ」ってなぜか得意げに紹介されて、玄関先でしばらくその人をじっと見たせいで少し場の空気変になった気がする。 咄嗟に補完する色を脳内検索してみたんだけど無理だった。黒と白の墨っぽいマチエールに薄紅色に金粉みたいなのが細かく舞ってる、完成されすぎてて加える色も補完する色もない。別の色を加えようとしたら今の美しさを損なう、隣に全然違う色を置いてもほとんどの色が優雅さで負けて圧殺される…いや、香澄さんなら隣にいて遜色ないか、赤っていうか朱に白筋だし、雅な色だしお互い引き立てあうし相性いいな、香澄さんにもよく見たら金箔乗ってるし、葬式場に咲き零れた桜に朱塗りの盃をあげてる感じか とかなんとか思ってたせいですぐに反応できなかった。 その人もその人で俺のことしばらくじっと見てた。目の白濁が不気味だったかなと思って、なんとなく初めて眼帯で隠したほうがいいかとか思ったときに訊かれた。 「その目、どうしたの」 ここまでストレートに俺本人に訊いてくる人も珍しいなと思った。影で色々言われてんのは知ってるけど。 答えようか迷ってたらさらに続けられた。「直にぃから聞いて知ってるよ。行屋虚彦くん。9歳で初個展を開いて以来ずっと現役活動中の画家。でしょ」 空気の流れに沿って薄紅色がはらはら舞いながら俺の顔の横を通り抜ける …オルゴール音みたいなのが これはたぶん実際の音じゃないな 音が鳴る人…だ いや、誰でもそうだけど。普段は無視してる音を俺が拾ったのか… そこで初めて、視覚情報に意識が戻った、その人に微笑みかけられたんだってことに気づいた
香澄さんに買ってもらった爪切りで爪を切る。 少々深爪になるくらいまで切っとかないと、今日みたいな日は肌引っかきすぎてこのままだと怪我する。 床から灰色が緑に混ざって登ってきてた。足を一度床に強く叩きつけたら緑だけ少し落ちた。下の階に迷惑か。 爪をゴミ箱に捨ててパーカーをかぶる。 いつもの黒い長袖とデニム。この時期これで外出歩くのは暑いけど、室内では年中クーラーつけて過ごすからこれでいい。設定温度は十九度。 インターホンが鳴ったから出たら香澄さんだった。 鍵を開けて部屋に通して、香澄さんがお土産に買ってきてくれたコーヒーをお互いに一個ずつ持って、クローゼットからブランケットひっぱってきて香澄さんに渡す。俺はずっとここにいて気温感覚麻痺してるけどこの部屋だけたぶん極寒だから。香澄さんが買ってくれたブランケット、柄がなんか控えめにかわいい感じだけど、俺がガキだから…?それとも香澄さんがこういうの好きなのか。 いつものオフホワイトのソファに沈み込むみたいにして香澄さんが座って、濃紺のソファに俺が座る。このソファ、人を堕落させるとかなんとかいう触れ込みがあるらしい。どういうことだよ。 「こんなしょっちゅう俺のとこ来てて直人さんなんか言わないんですか」 コーヒーの蓋をとって冷ましながら隣の香澄さんに訊く。今日のは水銀みたいなの立ち上ってんな。 「直人?うつひこくんによろしくって」 よろしく、って…俺によろしくって… なんなんだよ… 俺あんま…機嫌とられんの好きじゃねーんだけど…厚意が苦手って俺ひねくれてんのかな…なにが気にいらねーんだ… 直人さんが養子とったのも、養子ってのも、よくわかってない。何がどうなったらそうなるんだ…。 推測…というか見たままなら…なくもないけど…でもそういう素振りなかったしな… 二人してリビングで並んでいつも陽の差し込む全面強化ガラスの窓のほうを向いてぼんやりする。 ときどき話したり沈黙が続いたり。 俺はそれで居心地悪くないし、過剰なもてなしみたいのされるのが俺が好きじゃないから香澄さんにも特にしてないんだけど、俺の感覚だしな。それでいいのかはわかんねえ。 パーティで初対面だったときも俺は無理して愛想笑いとか親しみやすい喋りとか一切しなかった。いつもそうだ。無理してて続くわけねえし身の丈に合わねえことして無様になるのも嫌だ。それで生意気だの社会のマナーが身についてないのガキだのって言われても俺は実際生意気でマナーのなってないガキだしな… 香澄さんも居心地悪いなら来なきゃいいんだろうし。…それとも俺そんなに放置すると大人としての責任問題に繋がるほど危なげに見えてんのかな… 湿気で肌に虫が這うのをガリガリ引っかきながらぼんやりソファの上で窓の外を見てたら、 ーーーーーー急に きた 下から青? … やばい、 これは 空気中を埋めつくすみたいに ここ十七階だろ これもう 手遅れじゃねえのか 「香澄さん!!」 ソファから反射的に立ち上がって香澄さんの体をガラスから遠い位置に突き飛ばしてリビングに敷いてた一番分厚い布団を香澄さんの体にばさっと被せた 少々乱暴な動作になったけど死ぬよりましだろ しばらく窓の外の色を見て急激すぎる変化がないのを確認してから俺も一緒に布団の中に潜った 「うつひこく…「ちょっとすいません、スマホで情報確認します、香澄さんは布団から体出さないでください」 言葉に被せるみたいにして言って黙らせて手元のスマホの画面を弾いて確認する。 直後にきた。 一度重低音が鳴ってガラス窓や床や部屋全体が揺れた。ぶつかったり割れるような固い家具がないからよくわかんねえな、この高さの新しい建物なら免震構造か制震構造でできてるはず。 スマホで情報見てたら警報が出た。震度5。震源地が。ここは震度3だったらしい。もっとでかくてやばいのがくる気がしたけど、違ってたならいいか… まだ少し余震が続く中で、混み合いすぎてて繋がらねーかも��思いながらも直人さんに電話をかける。繋がった。 「あ、もしもし。ここに香澄さん居るんですけど、そっち大丈夫ですか。こっちは二人とも無事です。……はい。…���うですね。俺がそう言ってもあれなんで、本人に代わります」 香澄さんに電話が繋がったままの俺のスマホを渡す。 正直こういうのよくわかってねーけど、災害時には家族で連絡とって合流したり、なんか…そういうのあるらしい。母さんは電話出られねーしあいつは日本にいたことほぼないしケータイの一つも持たねえしで結局よく分かんねえけど。 …パーティ会場で、この人のことを「息子」って言って俺に話す直人さんが…その関係を大事そうにしてるのを、見たから 俺にあの人の大事なものを守る筋合いとか別にねえんだけど…香澄さん単体となら付き合いはあるけど… 二人で布団かぶったまま、香澄さんは隣で直人さんと電話越しに安否確認とって、今日は電車とか車道も全部混み合うだろうからってことで、香澄さんはここに泊まってくことになった。 余震が来ても倒れてくるようなものはこのリビングにはないけど、ガラス窓が全壊するとかに備えて一応二人で窓から離れた位置でふかふかの布団をかぶって寝る。一人分しかないから一緒に寝ることになった。 もともと一人で使うにはデカすぎるくらいだったし、俺がペラいし小さいから二人で寝ても余裕でスペースは余った。 布に巻いた靴を二人分、布団のそばに置いとく。 布団かぶってスマホで情報流し見しながら、ここまで大袈裟に騒いだり備える必要全然なかったっぽいのを知って安心と一緒に微妙に恥ずかしくなってくる。 「あの」 背中向けてるから見えないけど香澄さんに声かける。 「大袈裟に騒いですみませんでした…」 目視で見えた感じじゃやばいように見えた、でもそれは単に俺の目がおかしかっただけだ ほとんど見えなくなった方の白濁した目は今も何かを拾い続けてる、それも以前より鮮明に鋭く拾うこともあるくらいで 俺の見てる世界は、前よりさらに俺の見てる世界以外の何でもなくなった 誰だってそうだ、…そう言えないくらい隔たってる 実害のあるレベルだ 今もこうして香澄さんを巻き込んでるし 耳の奥でガリガリ音がするのをパーカーかぶって両手で頭おさえてやり過ごす 絵を描いてれば空腹か体力の限界がくれば疲れて倒れるみたいに眠れてた 今は描いてないからなかなか眠れない 暗い空間に青い光が床を走っていくのをじっと見ていた
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随分と御無沙汰であった。前回は、日本への帰路はヘルシンキ経由だったが、なんだか、ぐったり疲れていて、NoaとIsabelとの旅行の後には、何も書いていなかったのか。。。と気付く。
七月中旬に帰国し、八月下旬に帰独。一ヶ月半滞在した日本は、異様に暑く。七月中旬まで、ドイツでもそれなりにバタバタしていたのもあり、帰国して立教や東大に行ったりとバタバタした後は、疲れて倒れていたように思う。山中湖は涼しく過ごしやすかったが、思わず何事にも全力投球して夢中になる私��、甥っ子と彼の犬、礼緒と過ごした後は、AI哲学研究会で東京に出た以外は、また山中湖で倒れてしまう。そして論文を書いた後も、ほぼ機能不全になっていた。母が付き添ってくれていたものの、疲れのせいか、体調不良のせいか、山中湖で倒れていた日々の記憶が断片的だ。
夏の成果は、オニヤンマを甥っ子と作って、石割山登山して、報湖祭の花火を見た事と、甥っ子滞在中に今学期の履修学生達の成績をつけた事。OISTの研究者に誘われた言語についての論文は、なんとか書き上げた事。また、五年目に入ったカスリス先生の日本哲学小史という大著の翻訳に、一応の目処を立てた事かな。そう。ハンブルグでは、日本の聖武天皇、聖徳太子の十七条憲法から鎌倉に至るまでの長い章を、ひたすら訳していた。帰国してからは、道元と西田を終わらせたかった。。。
言語についての拙論は、詰めが甘いようにも思うが、言語を使って考えるということはどういうことなのか。習慣的思考と言語の関係について、考えてみたかった。言語の限界が世界の限界といったヴィトゲンシュタインを研究した大森荘蔵が展開した、言霊論の重層性に関心を抱き、日本の近代言語学の祖でもありソシュール批判をした時枝誠記、Yale言語学のSapir-Worf仮説などや、現代のAIの祖を築くNorm Chomskyの生成文法を概観しつつ、彼らが言語の何を解き明かそうとしたのかをまとめた。空海の声字実相義やデリダのエクリチュールとパロールの問題にまでは展開できなかった。まぁ今後のネタの一つかな。言語を巡るアンソロジーにはなりそうだ。
先人達の試みを簡単にまとめると、言語を構造的とみたいのか、意味的とみたいのかの両極に別れる。言語の見方の差異を過去の研究者達を追うことで浮き彫りにした。両者のアプローチはスイングしつつ発展しゆく。ChatGPTで解明された事は、言語構造に偏り過ぎてもダメという言語の不思議を改めて確認した作業だったように思う。重層性が言語に内在するものであるならば、思考にも重層性が自ずとあるだろう。言語操作を通した概念操作でしか、人間が新しい発想を具体化できないのであれば、言語の貧弱は思考や発想の貧困化を表す。
どおりで、現代日本社会の言説は陳腐。知識層を自認する者たちは、目立つ奇抜な論を展開し、適当に和製英語を散りばめて煙に巻く事を好み、そして大衆も、そうした陳腐を好む。今年は高校野球は塾高大活躍だったが、彼らへの妬みや誹りもひどいものだ。桐蔭、智弁、日大や早稲田なら良いのに、何故、慶應義塾だと叩くのか。若き血の応援スタイルが無いからって、やっかみも甚だしい。伝統は一日にして作れるものではない。昨今の言論分野を見ても、高校野球を見ても、福沢諭吉の次の言葉を沁み沁み思う。曰く、愚民の上に辛き政治あり。批判ポイントの論点がズレているところで批判されても、相手をするだけ無駄だ。多様性の時代、画一的な価値観の押し付け合いは、ますます無駄になっていくだろう。
上げ足を取られないように、馬鹿な癖に言いがかりをつけてくる相手をひたすら尊重し、口先だけに理解を示す戦法しか無いのが、現代のリベラリズムだ。つまり、永遠に平行線でいきましょうという態度だ。子供に意見を求めて、心の中で子供の意見を馬鹿にしている癖に、子供の意見に理解を示すエセ教育の結果でもある。馬鹿な大人に育ち上がった元子供たちは、自分の吐く意見がどれだけ適切なものか省みる能力が無い大人になっただけ。道理で言論がどんどん陳腐になる。
9月末までに、まだまだ3本ほど論文の締め切りを抱えているが、その内の一本は熊沢蕃山という江戸前期の陽明学者。神道と儒教の融合を体現すべく実践を重んじた儒学者。幕末水戸学は熊沢蕃山から多くのヒントを得ているだろうが、彼らが重視したのは朱子学。陽明学の実践的なものといえば、私のYaleでの恩師Tucker先生がコロンビアで研究していた貝原益軒。いずれ、実践的儒教と、仏教、神道の相互浸透性について、何か考えることができればと思っている。
しかし、今の時代は、蕃山のような混ぜこぜの良いとこ取りを理論体系が無いとして取り上げない。南方熊楠があまり評価されていないのと同じだ。西田と何が違うのか。私には、世俗的権威主義しか感じられない。在野した者は評価に値せず、新井白石や西田みたいに時の権力の傍にいた者が、それだけで評価されているのか。疑問はつきない。つまり、容易な事を難解に言った者は勝という権威主義と、民衆に交じり実践を重んじた者、在野主義は無視されるという、そういう構造なのだと思う。兎に角、他人から尊敬され、立派だと言われたかった人々だけが異様に注目されているだけのようだ。
バカが東大でハ��カ踊りしていても、東大だから許される。むしろ東大の癖に凄いと尊敬されたりする。それなのに、日大でハダカ踊りしても、別に誰からも良い意味では注目されず、返って、世間を騒がせたと謝罪させられる。こういう民衆の意識構造とは何か。これこそ、ポランニーの群集心理を再度、再読する必要を感じさせる事態だ。ファシズムを回避するための活発な言説は、返って、新たなファシズムを助長しているというパラドクスなのだから。
。。。とつらつら、ヘルシンキ空港のラウンジで思いを馳せる。ヘルシンキ経由にして良かった。ロンドンは管制塔コンピュータの故障で混乱の極みらしく、多くの客がヘルシンキ経由を利用している。BAとのコードシェア便だから。来月のアイルランド、エディンバラ行きは、都度、ロンドン経由なんだけどなぁ。。。そして、日本も、今は先人達のお陰様でなんとか頑張っているけれど、今から十年も経たない間に、インフラが崩壊していくんだろうな。
若い人々を教えるようになって、六年目。今夏、コロナ前に教えた、顔に見覚えのある学生さんが、社会人になって働いているレストランで偶然再会した。彼女は私にとってはいつまでも二年生。真面目な頑張り屋さんだった学生。バイトなの?って聞いた私も不用意だったが、就職したんですと教えてもらい、大きくなったんだなぁと感慨深かった。彼女は地味で、しっかりと社会を支える小さき市井の人々の代表のような方。
丸山眞男が重視した、市井の小さき人々が、これからますます、踏ん張らされていく。日本の衰退は著しい。一億総中流を実現し、八割型の国民は、現状に満足しきっているのだろう。勉強しなくても、なんとか食っていける。向上心なんて、そんなもん無くったってなんとかなる時代だ。夢を語るだけで尊敬され、夢が無い事を嘆き、夢を追いかけなくても、口先だけで夢を語れば許され、夢がある事を異様に褒める時代だ。つまり、夢なんか抱かない位、満たされている時代という事だ。失われた三十年は、成長していない事ばかりが注目されるが、底上げが浸透し、高卒は当たり前、大卒も普通になった底上げバブル時代の継続でもある。必死に生きる事なんて、命を繋いで生きるなんて事、とっくに忘却されているのだ。そんな時代に、真剣になれ、とか責任をもって、なんて多くの人にとって、白々しくしか聞こえないのだろう。
残念ながら身体が弱い私は、思うように身体を使えない。そして悔し涙ばかりする。身体の弱さ売りをしてサボる怠惰な人々と私の間にあるのは、元気だったらあ���したいこ~したいという気の焦りと苛立ちだけなのだろう。自分が動きたいほどには動けない時、私は苛立つ。苛立たず怠惰にできる人はサボっているんだなぁって思う。でも、他人は他人。私にできるのは、私も私なりに微力ながらに懸命に生きている不器用でブザマな姿を、見せ続ける事だけかもしれない。そこから、私の破天荒さに勇気を貰えたって同僚から言ってもらえたり、先生の授業楽しかったって振り返ってくれる学生がいるから。他者あっての私。お陰様で、ヘルシンキまで辿り着いています。
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2023/08/22
BGM: The Slits - Man Next Door
実を言うと今日は休みで、実家に帰ろうと思っていた。お盆期間に帰省できなかったので今日・明日にと思って……だけど今日、歯医者に行かなければならなかったので泣く泣くあきらめることとなった。うまくいかない……うまくいかないということで言えばぼくが畏敬の念を以て折に触れて読み続けてきた書き手である十河進さんの新刊『映画と本がなければまだ生きていけない 2019-2022』が出ていることを今日知った。もちろんすぐにでも読みたいのだけれど、すでに今月松下育男の詩集などを買ってしまっていたのでまた別の機会にということになる。澤田直による『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』も読みたい。そして本以外にもほしいものはあれこれあるし、歯医者だって金がかかるということでボーナスが出ていたのだけれどさっそく現実の苦みを思い知る。いや、別の言い方をすれば48にもなって好き勝手に本ばかり読んでちゃらんぽらんに生きて、それで「本がほしいよ、お金がないよ」と言っているのだから「寝言は寝てから言え」ということ���なるのだろう……実にたわけた人生を送っているなと思ってしまう。ともあれ、十河進さんの過去の本を読み返すなり今日図書館で借りたフィリップ・フォレスト『洪水』なりを読むなり、買ったばかりの松下育男の本を読むなりしてその人生を満喫したいと思う。
朝、ZOOMを立ち上げてミーティングに参加する。お盆が明けて久方ぶりのミーティング。そこでコロナに罹患した方の話を聞かせてもらう。最近では第9波が起こりつつあるとかすでに起こっているとかで、ぼくの職場でも罹患者が増えていると聞いている。そう考えていくとぼく自身がコロナに罹患していないのは実にありがたいことだ。というか、こんな無防備・無軌道な生き方をしているのに今まで何もなかったのはたんに「運がいい」以外の問題ではないとも思う。ミーティングでは日本語を英語に置き換えたり、日本語の特徴的な敬語の使い方について学ぶ。日本語検定の問題集を素材に使ったのだけれど、実に敬語とは繊細なもの。海外から参加されていた方にどう説明するかで悩む。片岡義男が「日本語は関係性でその言葉づかいが決まってくる」と看破していたのを思い出した。敬語を実に技巧的/テクニカルにあやつり、上司や取引先の方に対して相手の心象を害さず、押し付けがましくならずそれでいて言いたいことを伝えるということがいかに難しいか(あるいはややこしいか)。そんな日本語圏に住んでいるからぼくのような発達障害者は敬語で相手との距離をコントロールできずに衝突ばかりしてしまっているのだな、と思う。
昼、図書館に行く。そこで辺見庸の詩集『純粋な幸福』を借りてイオンに行く。イオンの中にある歯科で治療を受けることになっていたので、それまでの待ち時間をその『純粋な幸福』を読んで過ごす。読み終えて、頭の中が混乱してしまう。あまり横文字を使い過ぎるのももちろん問題があるのだが、まさに活字を読んで「酩酊」「バッドトリップ」したと言っても過言ではない。多種多様な言葉が辺見によって採集/サンプリングされ、一見すると無造作に、しかし実はきわめて戦略的かつ技巧的に並べられていく。そこに並ぶ活字たちとは��前・戦時中の文献でありあるいは他者が放った言葉であり(たとえばカール・マルクスやエマニュエル・レヴィナスなど)、辺見が聞き取った市井の人々の言葉だ。SNS(ソーシャルメディア)の言葉さえもにらみつけて、辺見は「いま」の日本の風景を街路/ストリートのグラフィティよろしく筆写していく。そうして見えてくる風景に確かなリアルを感じた。その後歯科に行き、治療をしてもらう。長らくほったらかしにしていたこともあって先生に「磨けてない」とこんこんと説諭されてしまう……歯科はそんな感じでぼくにとって、自分がいかに普段「怠慢」「怠惰」なのかを見せつけられるところなのだった。
夜、31日にあるミーティングでのぼく自身のプレゼンテーションのための資料作りに取り掛かった。前にも書いたとおり井上陽水の「少年時代」から始めて、狭い意味・厳密な意味での「詩人」の書いたものは少ないかもしれないけれど、それでもこの国には多種多様な詩がありうることを書いていく。こんなニッチというかマニアックな発表でいいのかどうか不安になってくるが、とにかくも書く。そこで曲の歌詞を引用しようとしたのだけれど、著作権の問題もあって歌詞をなかなか手軽にコピペできない。もちろん、適正な範囲内での「引用」とそれを逸脱した「コピペ」の違いには気をつけないといけない。なのでプレゼンの資料ではそれを踏まえ「引用」で収まるように気をつけたいと思った。辺見庸の『純粋な幸福』についての文をしたため、それをFacebookや自分の詩のブログにアップロードする。そして10時半を過ぎ、ぼく自身の詩を清書してアップロードしていなかったことに気づき(俗にいう「ど忘れ」「うっかりミス」だ)、あわててその作業も済ませた。ああ、発達障害とは何だろう。依存症とは何だ、人生とは何なんだ……と考えつつ今日を閉じた。歯の治療も根気強く、詩も根気強く。
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こぐまのコグニティヴ
昨日の日記はなんだかすごいいらいらしてたんだろうなっていうのがダイレクトにわかる恐い日記ですね。私の未熟で幼稚な部分が大爆発していました。だからTwitterへのリンクは貼らなかったけど、まあ今日のリンクを貼ったら昨日の分も遡って見えてしまうよな。見る人はいないかもしれませんが、過激なので気をつけてください。ただ、原理的な部分で私はこのように思っているというか、誰に影響されたとかではなく、もはや誰からの何からの影響なのかまったくわからないほど、心の底から「自分の意見」として湧いてくるのが「こういうもの」です。こういう根源的な思いではなく、たとえば資本主義についてとか、たとえばキリスト教信仰についてとか、そういうことだったらば、明確にこの学者のこの本に影響を受けていると言える。しかしこういったものは、そうではなく、論拠は自分の「感情」にしかない。感情が湧いてくることは、自分ではコントロールできないことだ(湧いてきた感情を表出させるのかとか、自分の中でどう処理するのかとかは、コントロールできるけど)。でも、おそらく自分の生育歴に関わっている事だと思う。根深い。親の思想も多分に影響しているだろう。何を言われなくとも子供は親の思想を幼いうちは勝手にトレースし、その自分を客観視して批判できるようになるのはだいぶだいぶ後になってからだと思います。それでも結局私の思想の出発点は親や祖父の思想だと思うし、躾などで言われたこと(覚えていないが)が、性向に反映されているのだろう。それは私だけでなく、私と対立する意見の人もそうだと思うし、みな、生まれ育ちを背負いながら立っている。あまりにも原初的な意見。そもそも論。私はそういうのが好きだ。その問題について分解して分解してできるところまで単純化してから、突き詰めて考えてまた組み立てていく。そうしなければ自分にとっての本質はわからない。私がどうもインターネットやTwitterで苦手だなと思う人というのは、他人の意見を、他人の似姿のようにそのまま受け入れてしまう人。その他人がかっこよく、憧れを生む存在なのだろうから追随してしまうのもわかるのだが、自分の心にしたがってまず最初に出てきた意見を忘れずに持てている人のほうが好きだ。自分の好きな人が言っている意見にも「それはどうなの?私はそうは思わない」とはっきりNOが言える人。別にNOを言う必要のない場面にしか遭ってきたことがない人は無理にNOを言わなくていいと思うが、自分の思考から発した意見なのか、自分の好きな人の意見だから肯定的に受け入れているのかは、よく考えてみたほうがいいと思う。
先日から少し考えていることは、政治的なトピックに無関心でいたい人は「幼稚」なのか、または「幼稚」と言われても仕方がないのか?ということ。自分がなんらかの趣味を楽しんでいる時に、その趣味が持つ社会的(政治的)意義について考えられる人はたしかに偉いと思うのだが、ただ自分がやりたいから趣味活動を行う、という人は、そこまで(幼稚だとか言って)責められなければならないのだろうか。大人としては、確かにそれは考えたほうがいいだろうし、たとえば趣味で出たゴミはきちんと分別しリサイクルするとか、ゾーニングに気をつけて、自分の趣味を理解できなさそうな人の目に触れないよう努力する、とか、人間として当たり前のことをやっているだけではだめなのか。同性愛を扱うフィクション作品を好んでいる人は、同性婚の法制化について、つねに立場を表明し、賛成あるいは反対のための活動を行わなければならないだろうか。自分の読むもの・書くものはたしかに同性同士(自分の好きな人同士)の恋愛ものだが、現実の同性愛者(別に自分の好きな人ではない)の権利確立(または、反対の場合は不確立)に向けて動かねばならないのだろうか。私は、それこそ同性愛者の権利確立を支援したい人がそれをし、別にしたくない人はしなくてもいいんじゃないかなと思う。自分から動かないから「反対」というわけではなく、フィクションで自分が好んでいるものと、現実の同性愛者のあいだに共通項がないから、賛成も反対もしようがない。つまり、フィクションのなかの好きなキャラを性的消費したいだけで、現実の人間の生活や人生に関わりたくない、という人は、「許されない存在」なのだろうか。
今この価値観の大転換の時代、つまり60代あたりの人間は同性婚については思いもよらない非現実的な話だと思うだろうけれど、その子世代の30代にとっては、ひじょうに現実的で、むしろなぜ実現されていないのか?くらいに、世代間乖離があり、これだけでも「この政治的イシューに関わりたくない」と思う人はいるんじゃないかと思う。たとえば、親とのコンフリクトが発生するとか、理由は様々思いつくけれど。同性愛のフィクション作品が好きな人で、現実の同性愛者に差別感情を抱いている人はそんなに多くないとは思う。しかし政治的な意志を表明できるかというと、そこには様々な要因が絡んできて、とても自由に動ける人ばかりではないと思う���心理的に、とか、様々な障壁があるだろう)。「政治の話」となると、難しくて、考えることを躊躇したり、そもそも考えることができない(知識がない、またはそのような知的活動に割ける脳内のリソースがない)、という人もいる。そういう人が、政治的態度を表明できない・したくないからといって「差別主義者」だとして、幼稚だと決めつけて糾弾するのは、正しいことなのだろうか。
もちろん民主主義なのだから、一人一人が政治のことを考えて行動して生きていくことが理想だ。しかしそれが苦手だったりできない人というのは、できる人が想像するよりはるかに多く、いる。難しいことを考えるのが苦手な人、難しい情報に触れるのが苦手な人、ものすごくたくさんいる。そういう人はすべて「幼稚」なのか。たしかに民主主義における成員としては幼稚で、用を成していないかもしれない。それでもその人たちは働き、納税し、社会保障費を払い、選挙にも行くかもしれず、民主主義社会の成員としての役目は果たしていることが多いと思う。結婚出産育児をして次代の成員を生み出している人でも、政治的な問題をジャッジするのが苦手という人もたくさんいる。そういう人もみな「幼稚」かな。差別に反対しない人はみな「差別主義者」か?あなたが政治について学び考えることができる時間を捻出している間に、その人たちが何をしていたか考えたことがある?私は、この世は分業制でいいと思う。政治について考えられる人は考え、どんどん表明していく。それをわかりやすく噛み砕いて説明し、ふだん「政治が苦手」と感じている人も巻き込んで行ければそれに越したことはなく、素晴らしいことだと思う。しかし、納税して選挙に行っている人が、普段から能動的に政治に参加していないからといって、それを「幼稚」と言って責めるのは、民主主義のシステムというか、自���に反する気がする。もっといえば、政治を考えて動かす層の人は、政治のことを考えられないくらい生活が苦しかったり知能が低かったりする人が、考えなくても大丈夫なように、きちんとその機能を肩代わりして動かしていけばいいと思う。政治活動ができないからといって、「幼稚」だと言うのなら、その「子供たち」の分も、できる人がするしかないんじゃないか?「嫌です、できません」と言っている人に対してまで、投票行動よりも先の政治的表明を求めるのは、乱暴な気がする。怒りを覚えることもあるかもしれないが、相手が自分と同程度の知能を持ち���分と同程度の可処分時間を持っていると思わないほうがいいと思う。私は選挙には当然みんな行ってほしいし、できるなら日々のトピックにも自分の意見を持ってほしいが、それが難しい人もいることはわかっている。だから、政党というのは「政治を考えたくない人」の分まで政治を考え、わかりやすく示して可否を投票で問うのだと思う。ただ今の時代は、政党だけに任せていては政治は腐るばかりだと考える人が多くて(実際、信頼出来る野党が少ない。個人の議員は信頼できても党自体は無理だというのも多い)、自分たち自身が考え、自分と同じ考えの政党を選ぶというより、自分たち自身がまず政策の可否を考え、与党に訴えていくしかないという雰囲気にまでなっている。それは確かにそうだし、時代の進歩としてそれぞれが政策について考えるというタームに突入しているのかもしれない。
それでも、趣味(誰にも邪魔されない、プライベートの世界)と政治(責任が伴う、パブリックの世界)を分けたいという人はたくさんいるだろうなと思う。私はそういう人を非難する気にどうしてもなれない。だから保守は甘い、怠惰だ、と言われてしまうのかもしれないが、私が同性婚法制化に賛成していることは、BL趣味とはまったく何の関係もない。ただ、性別に関係なくあらゆる人が「家族」を作る証明を得られればいいなと思う。私は同性愛のフィクションを書いたり読んだりしている時、まったく、現実の同性愛者のことを考えていない。現実の同性愛者がどれだけ悲痛で切実な思いを持っているか、それは平均よりは知っているほうだと思う(友人に同性愛者が多かった)。でも、かれらの思いをBL趣味をしている時に思い出したりはしない。全く別の物事(全く別の人物)だから。同性愛者は目的のために団結もするが、当たり前だが個人で異なる意見を持っている。私の話に出てくる同性愛キャラクターと、私の友人の同性愛者は別人で、前者は私の思いを背負わされており、当然だが後者とは異なる存在。それで、「あなたの好きなキャラクターは同性愛者ですよね?現実の同性婚法制化に対してどう思いますか?」と聞かれても、私はそのキャラクターを性的消費しているだけだし、現実の同性愛者とは別の人間なので、関わりがあることとは思えない、と答える人はいると思う。異性愛のキャラクター(たとえば生まれつきドM)を性的消費している人が、現実の他人の異性愛者(生まれつきドM)の受ける社会的迫害(が、あるとして)について改善したいと思うか、と聞かれたら、それは自分にはちょっとわからない、と答える人もいるのではないだろうか。
こういうふうに思っている人は私の他にもたくさんいると思う。私のBL趣味と、現実の政治的イシューは別の問題。そう考える人がいてもいいと思う。もちろん、それが同じ問題だと考える人がいてもいい。人と趣味との関わり方は全員が違うやり方をしている。そこに自分のやり方を押し付けるのは乱暴だと思う。
ただこれが個人ではなく法人、企業で、BL趣味を商材として経済活動をしている人が、となると話はまた違ってくると思う。赤ブーのジュンブラフェスの件では、BL趣味における「結婚」というテーマを取り上げ商材にしたのだから、これは、企業が同性婚を扱っていると見なされても仕方がないと思う。実際にそれで利潤を生み出している人達が、「フィクションの同性婚は現実の同性婚とは関係ない」と言い切ってしまうのは、じゃあお前らのその経済活動もフィクションであって、金銭は発生していないのか?と思う。
私の中では、同性愛創作で飯を食っている人、つまりプロ作家、イベント会社の人、同人誌印刷所の人、などは、自分たちが仕事で扱っている「コンテンツ」と現実との関係性を認め、政治的な意志を表明すべきではないかと感じる。自分たちの「仕事」が、現実の人々を動かしているからである。
しかし、趣味でやっている人、非営利でやっている人にまで、その責任を求めるのは、私には違和感がある。
今はまだこの程度のことしか言えないが、この論に関しては色々な考え方に触れてもっと深めて行きたいと思う。
今日はアイドリッシュセブンの映画「Beyond The Period」のDAY2を鑑賞することができた(誘ってくださった友人に感謝)。Liveの1公演丸ごとを3Dアニメで見せてくれるのだが、細部まで細かく細かく丁寧に大切に作り込まれていて、本当に観れて良かったと思った。アイナナをほとんど知らない私ですら、感無量という思いに襲われた。アイナナの人たちにはこれがどれほどのことなのか、想像もつかない。リアルにライブだった。映画館にいる全員で大画面でライブの円盤鑑賞してるみたいだった(ライビュというにはカメラワークと編集が完成されすぎていた)。あんな体験ができるなら何度でも映画館に行ってしまいたくなるなあ、と思った。
友田明美『子どもの脳を傷つける親たち』3章まで読んだ。ものすごく読みやすいし、自分や友人・知人たちの記憶と本書の内容が実践的にリンクしているので、すべてが飲み込みやすかった。自分に関しては、一体幾つの複合的な要因により脳が変化し、またそれをいかに自分が周囲の人と共に乗り越えようとしているのか、または乗り越えたのか、ということが思われ、途方もない気持ちになった。4章はいよいよ愛着障害のケーススタディで、最後の章になる。じっくり読むために別日にした。3章までは1.5時間ほどで読んだので、新書とはいえあっという間だったなと思った。図解が多く、文章量が少なく、言葉も簡便だからだと思う。幼少期に養育者によるトラウマ体験を持つ人は、ぜひ読んだ方がいいと思う。電子版はKindleUnlimitedに入っています。
明日は面接だが早速今日2枚も履歴書を書き損じており(諸々の事情から未だに手書きである、絶望)、明日正しいものを書いてかつ、証明写真も撮らなければならない。いつもながら準備がぎりぎりなので、明日体調を崩さないことを祈る。
2023.7.2
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平和を乱す壊すもの。
それは“戦争”が最たるもの。
しかし、それだけではない。
戦争だけが平和を乱す原因ではない。
人間繁栄の裏には陥穽(かんせい)がある。
陥穽とは、落とし穴。人間が陥れる謀(はかりごと)。
即ち、これ繁栄に浮かれ謳歌する人類の裏側には陥穽が潜んでいるということ。
これに気付かずに“抜かり”が起こることで、平和は、いともあっさりと揺らぎ崩れていく。
便利に、楽に、効率的に、を過剰なまでに突き詰めていくと、その先には悲劇が待っている。
巷の悲惨な事故や血生臭い事件、原因究明が出来ないほど複雑怪奇な出来事、そして想像を絶する嫉妬や妬みなどの骨肉の争いや虐待の類…。
戦争反対に声を張り上げる者、他者を揶揄する者も、知らず知らずのうちに、その平和を掻き乱し、壊している。
これ、天の謀などではない。
全て、人間自身の人間性の醜さ、精神性の低さ、怠惰、不手際、怠け、放蕩、極端な自己愛などが原因で起きている。
この逆理を起す多面性を持つ人間の成せる業。
この不安定さを、人類は自覚しなければならない。
なぜならば、人間は、未熟で出来ている。
未完成なのである。
自分は完璧だ、私は悪くない、あ��人の所為だ…。
これは誰一人通用せぬ事なり。
「いやあ、そう言うけれど、私は違いますよ。この私が平和を乱すとか、戦争に加担をしていることなど一切合切御座いません!私は、真面目だけが取り柄の人間だし、誰にも迷惑を掛けていませんから…」
…皆々がそう云う、そう思っている。
だが現実は否。
人間は、気抜かり、手抜かりが起きる。
なぜならば、未熟で下等が故に。
従って、そのことを如何に自覚し、少しでも正しい方向に生き方を変えられるか。
そこを天から見られているということを推して知るべし。
これ即ち、人間は、天により生かしてもらっているという道理。
そのことを肝に銘じ、自分は不安定な存在であるからこそ、常に心の安定を目指すことを怠ってはいけないことを自覚し生きていきます。
有難う御座います。
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LiFE
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人生は死ぬまでの暇つぶし 達観した賢者がそう言う 陰影のつかない僕の一世 迷子はどう暇を潰す “Life is just killing time until you die” that’s what all the philosophical-minded wise men say. This is my generation, the one who makes no impression. How does a lost child kill time? 無限ループの日々の人生 錆びて朽ちた 人のレール 怠惰でクールな心性 修羅を極め 詰みなゲーム In this life of a closed loop of days, the rails people walk have rusted and decayed. With a lazy and cool disposition, I’ll wage this war; this game is checkmate. 永劫回帰 無限の瞬間 天井桟敷 人生を俯瞰 Eternal return,¹ an infinite moment. I look down on life from the upper gallery.² 戦闘開始? 無煙の軍艦 跛鼈千里 不毛な循環 The battle begins? The warships emit no smoke, but keep at it and you’ll succeed eventually.³ A fruitless cycle. 堕落腐敗極めたこの人生 乱れきった心をロールアウト 一暴十寒なんて決意も 三時間で頭からログアウト My life has regressed into utter degeneracy. I roll out my troubled heart. After three hours, my resolution to stick to my guns has already logged out of my brain. 救世主なヒーロー新生 嫌悪で鈍る扁桃腺 トゥーフェイスな僕の住民税 破綻したこの人間性 A new life as a hero and savior. My tonsils grow dull from my loathing. Two faced as I’ve become, I impose a residential tax. My humanity has broken down. 永劫回帰 無限の瞬間 天井桟敷 人生を俯瞰 Eternal return, an infinite moment. I look down on life from the upper gallery. 戦闘開始? 無煙の軍艦 跛鼈千里 不毛な循環 The battle begins? The warships emit no smoke, but keep at it and you’ll succeed eventually. A fruitless cycle. ¹ This refers to the philosophical concept of eternal return. ² This is specifically the upper gallery of a theater. ³ This is a four character compound expression that literally means “even a lame turtle can walk 1,000 ri.” The idea is that even if you’re ill-equipped to do something, if you keep at it for long enough, you will eventually succeed.
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[精通]
僕は性欲が鬱陶しくて仕方がない。
僕の欲求への拒絶は禁欲主義に近い。
求めてない欲求が人間であるが故に膨張し接近してくる。夜から逃れる為に疲れ果てて寝たい。寝れない夜、欲求は足音を潜めて寝室に入り込んでくる。たまに解放するべきだと思い、異性と一夜を過ごしたり、自慰で片付ける。すると、とても抜けていく感覚がある。
流し捨てた欲求には活力が混ざっていて
それはそれは厄介である。僕は毎度、不要な欲求だけを取り出すことは出来ないのかと嘆く。不純物の中に混じり捨てられてしまう
情熱にとても後悔する。また脱力感と怠惰に苛立ちを覚える。
消してしまった火はすぐにはつかない。
渇きと火種を待つしかない。
この間がとても窮屈で退屈で不安で仕方がない。この間は心も乱れる事が多い。
欲求は人生を複雑にする。
これは本能的な三代欲求に止まらず、生活における物欲や承認欲求、現代にあるさまざまな欲求にも当てはまり、私たちを狂わせる。
人間はより良い物を欲する。
欲求に悩まされることがなければ生活に満足がいかないことなどは恐らくない。これを書いている今も僕は憎く思う。創作意欲はフローするように落ち着きなく湧いている。しかし、それを文に鮮明に写す活力が足りない。
良いエンジンもガソリンがなければ、ただの鉄屑。
この文も今書いておきたいが故にペンを無我夢中に走らせ書き残しているが、馬力は乏しい。
悔しい。なぜだ。
エンジンキーを何度も苛立たせながらひねるが、比喩もありきたりで書く気が失せてきた。
辞めよう。
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#猫
♪ちゅ〜るちゅ〜るちゃおちゅ〜る♪と中毒性の高い音楽に乗って猫がちゅーるをペロペロしている、かの有名な(?)ちゅーるのCM。一心不乱にペロペロしている様は可愛らしくて、猫飼いなら夢を抱いてしまうのではない���しょうか。
うちの子のペロペロしている様を見てみたい……!と。
もれなく私も夢を抱きました。プラスが可愛らしくペロペロしているさまを見てみたい……!怠惰とふてぶてしさと貪欲さで構成されているこの猫も、ちゅーるを与えれば陥落して愛らしい飼い猫になるのではないか?
そう願いながら、いそいそと与えてみたところ……。
ちゅーるのスティックを見てすっ飛んできたところまでは良いのですが、少しずつ出してやるちゅーるを愛らしくペロペロ……ではなく、思いっきりスティックの真ん中に食いついてきたではありませんか。
おいやめろ!包装に穴が開いたぞ!
ギャー!穴からちゅーるが漏れてきた!騒ぐ私に構うことなく、猫はひたすらパウチの上からガブッ!ガブッ!
パウチにはどんどん穴が開き、最早ちゅーるまみれ状態。
結局一度もペロペロなどしてくれず、パウチは穴だらけでぼろぼろになり、猫の顔はちゅーるまみれになり、私の手もちゅーるまみれになりました。そしてパウチごと飲み込もうとする猫から何とかぼろぼろのパウチを取り返し、ごみ箱にダッシュ、パッケージごと食べないように封印したのでした。
残されたのはちゅーるまみれの顔で荒ぶる猫と、ちゅーるまみれの手の私……。
ちゅーると愛らしい猫の夢は、夢のまま儚く消えたのでした。どうして……どうしてこうなった……????
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朝比奈潤(ドMおじさん)@doemojisan
今から15年ほど前、20代後半の頃に個別指導系の学習塾で数年間働いていた。担当は男子中学生ばかりだったがその中に明らかにオーラが違うイケメンがいた。今で言えば坂口健太郎によく似ていたので、ここでは彼を坂口君と呼ぶ。坂口君は身長180弱、不良っぽさと中性的な部分を併せ持ったルックスだった。
実際、彼はよくモテていた。恥ずかしい話だが、私は女性の生態についての知見をほとんど彼から得たと言っても過言ではない。30歳手前の大人が14~5歳の少年から女について教わるという屈辱は私を大いに苦しめたが、童貞だった私には坂口君が無邪気に話すモテ話が抗いがたい魅力を持っていた。
「さっき逆ナンされてカラオケでセックスしてきちゃった」私が担当してすぐの頃、彼が述べた遅刻の理由である。成績の良い子が行くような塾ではなかったから真面目に勉強しに来ている生徒は少ない。それでもこの発言は衝撃的であった。事の真偽はともかくとして、私は注意するよりも呆然としてしまった。
イケメンの中でもよりすぐりの「超イケメン中学生」には凡人には想像し得ない奇跡のような出来事が毎日起きている。逆ナンパはそれこそ日常茶飯事だ。家電量販店で暇をつぶしていたら、見知らぬ40代のマダム風女性に当時、流行っていたゲームボーイアドバンスを買ってもらったこともあるという
奇跡というのはたとえば、繁華街ですれ違った20代の女性に道を聞かれ、親身になって教えたところ連絡先を聞かれ後日、お礼がしたいと食事に誘われる…といったようなことだ。そんなことがあるのだろうかと思う。私は42年間生きて、宗教の勧誘以外で一人歩きの女性に声をかけられたことがない
こうしたエピソードの一つひとつに何とも言えない迫力を感じ、私は授業中の彼の雑談、自慢話を黙認した。そういった話に私自身が興味を持っていた。彼の携帯電話の画像フォルダには今まで関係した女性との画像が収められていた。その数の多さ、写真に収まった女性の美しさには圧倒される思いであった
そのフォルダを全部見たわけではないが、一際目を引いたのは坂口君と同世代であろう白人とのハーフの美少女だ。玉城ティナ、トリンドル玲奈に似た雰囲気の彫刻のように美しい顔だった。とても中学生には見えない。そしておっぱいも、服の上からでもそれなりの大きさになっているのがわかった
何枚かの画像には私と同世代、もしくは30代であろう女性も写っていた。私には視線すら合わせない同世代の美女が15歳の少年には心を開き体も許しているのかと思うと、やるせない思いであった。自分の私生活がとてつもなく惨めに感じ、オスとしての能力の違いを見せつけられる思いであった
当時の私生活は今よりも悲惨であった。休日ともなれば昼近くまで惰眠を貪り、起きれば近所のコンビニへ行く。道中、美少女とすれ違えばその顔や胸の膨らみを凝視して目に焼き付け、帰宅後はその美少女を想像しながら自慰をする。そしてコンビニ弁当を食べテレビを見ながら夕方になるとまた自慰にふける
坂口君が恋愛ゲームを楽しみ女性を楽しませ、そして愛されている一方で、私は道行く美人を盗み見ては服の上から伺えるおっぱいの大きさを確認して脳裏に焼き付け、その乳房を揉みしだく妄想にかられながら一人慰め、果てる。東京砂漠とはこのことだろう。私は自分の情けなさに消え入りたくなった
坂口君を教えていて気付いたことがある。それは女も男と同じように気になる異性をチラ見するという事実だ。教室で隣り合って座っていた私にはそれが手に取るようにわかった。そしてチラ見された側は視線に完全に気付く。チラ見されている事に気付かれまいとあえて見ないようにする行為すらもほぼわかる
授業時間が終わり坂口君が帰宅しようとすると、いつも奇妙な光景が繰り広げられた。女子生徒たちがみなソワソワしながら坂口君の様子を気にしているのである。女子生徒の中でもカースト上位と思われる、沢尻エリカ似のリーダー格はいつも偶然を装って坂口君の周囲をうろつき会話の機会を伺っていた
沢尻の積極性に私は驚いた。女の子は相手次第でこれほどまでに積極的になるのである。カースト下位の女の子には坂口君と話す機会は与え��れない。女子リーダー格の沢尻は、その地位を生かして他の女の子を牽制していたのかもしれない。授業が終わると上位グループが坂口君を取り囲むこともあった
坂口君と沢尻はもしかしたら関係を持っていたのかもしれない。なぜなら沢尻が坂口君に夢中になっていたのは誰の目にも明らかだったからだ。坂口君に入れあげていたのは沢尻だけではない。女性社員にもまた坂口君は人気があった。中でもある20代後半の女性社員が取った行動は生々しかった
の女性社員は波瑠に少し似ていたのでここでは波瑠さんと呼ぶ。長身でスレンダー、キリッとした顔つきが近寄りがたい雰囲気を出していて仕事が速かった。その波瑠さんは、愛想が良いほうではなかったが、坂口君と話すときだけは満面の笑みになるのである
志望校などを調査する資料を坂口君が提出し忘れたことがあったが、その時の波瑠さんの動きは凄かった。坂口君の席の隣にひざまずいて「ここに名前を書いて」「学籍番号はここ」と、手取り足取り教えながら書かせているのだ。どこに名前を記入するかなどバカでもわかる。波瑠さんの魂胆は明らかだった
波瑠さんが坂口君に資料を書かせている間、二人の物理的な距離が徐々に近づいていくのがわかった。波瑠���んは時に坂口君に覆いかぶさるように資料の書き方を教えていた。私には波瑠さんのおっぱいが坂口君の背中に当たっているように見えて仕方がなかった。いや、間違いなく胸と背中が触れ合っていた
波瑠さんは長身だったが胸はそんなに大きくなかった。体の線がはっきりとわかるような服を着てくることもなかった。私はそんな波瑠さんが自らの女の部分を強調していることに衝撃を受けた。よく恋愛マニュアルに「OKサインを見逃すな」なんて書かれているが、こういうことなのかと思った
女のOKサインとはかくも露骨なものなのだ。本物のOKサインとはこのようなものなのだと思い知らされた。恋愛マニュアルに書かれた「酔っちゃった~」なんていうセリフや、普通の男が「もしや」と感じるセリフなど、このときの波瑠さんのOKサインに比べれば勘違いに近い
手取り足取り教えられながら資料を書き終えた坂口君の行動も私を驚かせた。「疲れた~」と言いながら席を立った坂口君は「波瑠さんの肩揉んであげます」といって肩のあたりを揉みはじめたのだ。波瑠さんは顔を真っ赤にしている。あのクールビューティの波瑠さんが真っ赤になって動揺している
波瑠さんにひそかに思いを寄せていた私は激しく嫉妬した。童貞ゆえの自信のなさで会話すらままならなかったが、いつも彼女を盗み見ていた。服の上から伺える乳房の形を想像しながら自慰したこともある。年上の彼氏がいるという噂にうちのめされたこともあった
そんな高嶺の花だった波瑠さんが「どうぞ私を抱いて」と言わんばかりにオンナの表情をしていたことがショックだった。一見、ツンとしているように見える女性でもイケメンに見つめられたらイチコロなのだ。しかも相手は15歳の少年である。この事実は私を苦悩させた
その日、自宅に帰った私は波瑠さんの表情を思い出していた。肩を揉まれた時の波瑠さんはなんと幸せそうな表情をしていたことか。坂口君が波瑠さんを抱いている姿を想像してみた。すると嫉妬と悔しさで不思議と興奮してくるのがわかる。寝取られ好きの気持ちがわかった。私はその夜、何度も自慰をした
この一連の出来事は童貞を捨てたいという思いを強めた。風俗でもいいから童貞を捨てれば嫉妬に苦しまなくてもすむかもしれないと思った。次の休日、ネットで入念な下調べをし風俗へ向かった。初めての記念だからと一番美人でゴージャスな容姿の女の子を指名した
指名し部屋で待つ間、胸は高まった。期待と緊張が入り交じり、武者震いが止まらなかった。女の子が部屋に入ると緊張は限界を越えた。手足が震えている。まずい。嬢に童貞であることを悟られたくない一心で、手足の震えを隠し手慣れた様子を演じようとすればするほど震えは強まり会話にも妙な間ができた
正常なコミュニケーションすら成立しない私を前に、風俗嬢は徐々に心を閉ざしていった。恐らく私は緊張と劣等感にまみれた恐ろしい表情をしていたのだろう。風俗嬢が私を不気味がり、怖がっているのがわかる。私はその雰囲気をどうすることもできず、無言で胸を揉み続けた
子泣き爺のように後ろから覆いかぶさり、ぎこちなく胸を揉みしだく私の表情をチラリと見た風俗嬢は、ほんの一瞬だが嫌悪の表情を見せ、その後は私をできるだけ見ないようにしていたと思う。私の性器に手を伸ばし、数回上下に動かしながら刺激を与え勃起を確認した彼女は無言でコンドームを装着させた
コンドームを装着されながら私は女体に感じ入っていた。初めて触る女性のおっぱい。その柔らかさ美しさに衝撃を受けた。女の乳房とはこんなにも男に幸せな感情を与えるのかと。ずっと揉み続けていたい衝動にかられた。しかしコンドームを装着させた嬢は女性器に何かを塗り込んだあと挿入を促した
正常位の体勢から、私はアダルトビデオの見よう見まねで挿入を試みた。しかし、これが意外に難しい。挿入しようとし、角度や位置の違いから押し戻される。それを数回繰り返すうちに動揺は強まった。童貞であることがバレたかもしれない。そして何より精神的動揺から勃起が弱まっていくのを感じた
萎えて柔らかくなった男性器を女性器の入り口に押し付け、どうにか挿入しようとして押し戻される滑稽きわまりないやりとりの後、私は挿入を諦めた。気まずさを誤魔化すため、私は風俗嬢のおっぱいにむしゃぶりついた。風俗嬢は事務的に私の性器を手でしごき、再び勃起を促した
胸を揉むとわずかだが、萎えた性器が復活する。ベッドの上にお互い向き合って座りながら無言のまま、私は胸を揉みしだき、風俗嬢は淡々と私の性器をこすり上げる重苦しい時間が20分くらい続いた。異様な光景だったと思う。やがてコンドームがシワシワになったところでタイマーの警告音が響いた
「時間…」とつぶやいた風俗嬢はコンドームを剥ぎ取り、激しいペースで性器をしごいた。私も胸を揉むペースを早める。すると数十秒後、精子が放出された。思わず「あっ」という声を上げてしまった。賢者モードに陥る私をよそに彼女はティッシュで精子を拭く。これが私のみじめな初体験だった
挿入に成功しなければ真の意味で童貞を脱したことにはならない。翌週も同じ店に行った。指名した娘は先週の子ほど美人ではなかったがとても愛想が良かった。武者震いしながら性行経験者を装う私のバレバレの演技にも笑顔だ。私を傷つけないよう、私が彼女をリードしている錯覚を与えながら挿入へと導く
メリメリという感覚の後、私の性器はするっと女性器の中に入った。挿入に成功した。私は激しく動くことで緊張を悟られないように努めた。しかし、このとき私は膣内での射精には成功しなかった。風俗業界ではこれを中折れと呼ぶらしい。結局、私は手と口で嬢に刺激されながらゴム内で発射させられた
恥ずかしながら私はセックスがこんなにも難しく、重圧がかかるものだとは知らなかった。機会さえあれば誰にでもできると思っていた。水を飲み、道を歩き、ベッドで寝る。そんな人間の当たり前の営みと同じく挿入と射精ができるのだと。しかし実際は違う。自転車の補助輪を外すような訓練が必要なのだ
風俗店から帰宅後、ネットで調べたところ、私のような症状は「膣内射精障害」と言うらしい。自慰ばかりしているモテない男が患う風土病のようなものだ。普通の男性が患うこともあるが、多くは加齢、飲酒、あるいは倦怠期で刺激を失ったことが原因であり、コンディション次第ですぐ回復する
自慰ばかりしている男性は、しばしば自分の性器を強く握りしめる。そして、それは膣が加える刺激を上回る。性交よりも自慰の回数が圧倒的に多い非モテ男はそれに慣れきってしまい、いざ性交するときに刺激が足りず射精に至らないのだ。オナニー病、モテない病と言える。こんなに哀しい病があるだろうか
結局、膣内での射精に成功するまで、童貞を捨てた日から3年以上の月日がかかった。風俗店へ通いつめた回数は40回を超える。30歳を超え、ようやくである。中折れし途中で萎えた性器を手でしごきあげられ、射精させられるという情けないセックスを40回以上も繰り返したのだ
童貞を捨てれば消え去るかと思われた劣等感はさらに巨大になった。3年の間、自らの性的能力の低さ、異常さを突きつけられた思いがした。15歳の少年がいとも簡単に、毎日のように行う「普通の性交」にお金を支払ってもなお達しないのである。波瑠さんら女性社員や生徒がこれを知ったら、蔑み笑うだろう
恥ずかしい話だが、今でも私は2回に1回は膣内射精に失敗する。これは異常なことだろう。しかし、異常者なりに気づきもあった。風俗嬢に「実は素人童貞で経験が少ないんです。リードしてください」と白旗を上げるのだ。すると精神的に少し楽になることがわかった。少なくとも手足の震えは軽減した
裸の女性を前にした緊張、武者震い、手足の震えは、恐らく素人童貞を恥に思い隠そうとする男のチンケなプライドと密接に関わっている。あえて白旗を上げることで、それはいくらか軽減する。しかし「途中で萎えたらどうしよう」という重圧は依然として残る。この重圧から逃れる方法を私はいまだ知らない
風俗嬢に「経験が少ないのでリードしてほしい」とカミングアウトすると、高確率で「そういうお客さんの方が好き」と言われる。これは好き嫌いというよりも、その方が業務上、楽なのだろう。世の女性が素人童貞を好きというわけではない。むしろ素人童貞で射精障害のおっさんなど視界にすら���っていない
しかし指名した子がドンピシャで好みだった場合は、経験が少ないことを明かせずにいた。もしかしたらこの娘と付き合えるかもしれないという下心からである。冷静に考えれば風俗嬢が客と付き合うことなどあるはずがない。にも関わらず、自分を偽りカッコつけてしまうのだ
なぜか。それは女性との接触が極度に少ない非モテには万に一つの可能性でさえ貴重な機会��からだ。自分でも狂っていると思う。しかし非モテの劣等感とは、これほどまでに人間の判断力を狂わせるのである。こうして性に習熟した大人の男を演じようとして射精に失敗し呆れられる。私はこれを繰り返した
風俗店通いで不快だったのは待合室の存在だ。見るからに女と縁がなさそうな醜い男たちが折り重なるように狭い部屋に押し込められ、煙草の煙にまみれながら携帯電話の画面を覗いている。そしておそらく彼らは軽く勃起している。この世の終わりみたいな場所だ。気持ちの悪さに身の毛がよだってしまう
フェミニストが憎み、罵り、滅ぼそうとしているのは風俗店の待合室にいるような男たちのことだろう。決して坂口君のような美少年ではない。この点に関して、私はフェミニストに深く同意する。彼らを消し去ることで、世界は少しだけ良くなると思わざるを得ない。私も消えてしまうけれども
おそらく坂口君は、平均的な非モテ中年の何十倍、何百倍もの女性を傷つけ、悲しませ、不安にさせてきたはずだ。しかし、世の女性はそれでも坂口君を愛する。そして彼に特別扱いされることを望む。フェミニストも坂口君を攻撃することはない。彼の存在そのものが女性を幸せにするからだ
私のような非モテ中年がフェミニストにお願いしたいのは、せめて我々が生きる権利だけは奪わないでほしいということだ。風俗店の待合室に来てしまうような種族は、自分ではどうにもできない性衝動と法律の折り合いをつけ、やむにやまれず安月給を工面して数万円を握りしめてやってきた善良な市民である
男がお金を払って快楽を得ようとすることに関して、女性の目は厳しい。それは本来なら淘汰され、消えてなくなるべき遺伝子が、お金の力で力を得ることへの本能的な嫌悪であると思う。この本能は現在の人権制度、博愛主義と完全に対立する。この点について現代社会はまだ答えを見いだせていないと思う
坂口君には女性を虜にする必殺技があった。それは笑顔で挨拶することだ。なんだ、それだけかと思うかもしれない。しかし彼は笑顔だけで女性を完全にコントロールしていた。私が見る限り、彼はいつも同じように笑顔の挨拶をしていたわけではない。人や状況に応じて、振りまく笑顔の量に濃淡をつけていた
坂口君が最大級の笑顔で挨拶をすると、女たちは皆、有頂天になった。成人女性とてそれは同じだった。みな狂ったように喜んだ。しかし、いつもそれをするわけではない。そうやって濃淡をつけることで、不安にさせたり、嫉妬させたりしながら女たちの行動をコントロールするサイコパス的な側面があった
それは幼少期から女性と濃密なコミュニケーションをすることで得られた天性の能力だろう。真似しようとしてできるものではない。「女性に優しく」と、よく恋愛マニュアルに書かれているが、大半の男が考える優しさは「弱さゆえの優しさ」であって、本質的には媚びや譲歩に近い
そしてこれは重要なことだが、女性はその「弱さゆえの優しさ」には興味がない。いや、嫌悪すらしていると思う。「弱さゆえの優しさ」でどんなに高額のプレゼントを貰おうとも、女たちはなびかない。むしろ坂口君から時に冷たくされ、時に嫉妬させられながら、ごくたまに優しくされる恋愛を選ぶ
坂口君に話しかけられた女性の反応は、若くてハンサムな白人男性に話しかけられた日本人女性のリアクションに近い。若い白人男性が日本人女性を次々といとも簡単にナンパする動画がネット上で賛否を呼んでいたことがあり、私もそれを興味深く観たが、あれはまさしく坂口君の周りで起こっていたことだ
六本木などを歩けばわかることだが、ハンサムな白人男性を連れて歩く日本人女性は不思議と欧米風の所作になる。彼女らは白人男性を連れて歩いているという状況そのものに酔っていて、「みんな見て、これが私の彼氏よ」とアッピールしたくてたまらないように私には見える
白人男性と交際すること、それを周囲に認識させることが自らの格をも上げるのだと確信していないと、ああはならないのではないか。少なくとも冴えない日本人男性を連れて歩く日本人女性は、六本木を彼女らほど我が物顔では歩かない。もっと申し訳なさそうにそそくさと歩いているように私には見える
思えば沢尻や波瑠さんは、坂口君と話しているとき、とても得意げだった。周囲に見せつけるように、「坂口君とこんなに仲が良い私」をアッピールしていた。そして我を忘れて会話を楽しんでいた。沢尻はともかく、波瑠さんまでが中学生相手にそんなになってしまったことは、私に強い衝撃を与えた
私が初めて風俗店へ行ってから数週間後、沢尻の母親からの電話が私の勤務する学習塾を大混乱に陥れた。最初に電話をとったのは私だ。母親が言うには沢尻が波瑠さんからしきりに服装について注意を受け精神的に参っていると。服装についての規則はないはずでは?何が悪いのかということだった
これは沢尻の母親に理がある。生徒の服装を職員が注意することは、基本的にはないはずだ。そんな場面を見聞きしたこともなかった。これは奇妙だ。そして母親は言いにくそうに、話を続けた。「あと…娘が波瑠さんにあなた処女じゃないでしょって言われたみたいなんですけど…」。私は耳を疑った
沢尻母が校舎へやってくると、室長室へ通し、私は退席した。約1時間後、沢尻母が帰ると、今度は波瑠さんが室長室へと呼ばれた。授業時間になっても波瑠さんは戻ってこない。私は嫌な予感がした
納得がいくようでいかない、なんとも要領を得ない説明である。「波瑠さん、沢尻に派手な下着を着るなとか、ピタっとした服を着て来るなとか言ってたらしいですよ…。で、別の教室へ行って、すぐ辞めたみたい…」。私はそのことを坂口君から聞いた。そして事の真相にある程度の察しがついた
一連の騒動はおそらく坂口君をめぐる沢尻と波瑠さんの潰し合いなのだ。そして沢尻が勝ったと。坂口君と沢尻がイチャついていたのを見た波瑠さんが嫉妬し、坂口君におっぱいを密着させて接近した。それを察知した沢尻は波瑠さんのクビを獲りにきた…。そういうことなのではないかと
坂口君はなぜ波瑠さんの「その後」を知っていたのか。私は彼に「そんなこと誰から聞いたの?」とは聞けなかった。仮に聞いたら、彼はおそらく「だって波瑠さん、俺のセフレだよ」と無邪気に答えたであろう。波瑠さんに想いを寄せていた私は、それだけはどうしても聞きたくなかった
坂口君は波瑠さんのOKサインを見逃してはいなかったのだ。そして彼は波瑠さんとセックスしていたのだと思う。室長の聞き取りで波瑠さんは、沢尻への仕打ちだけでなく余罪も白状した。そして警察沙汰を恐れた塾側は、噂になる前に波瑠さんをクビにした…。これが坂口君の口ぶりから察した私の仮説である
坂口君と波瑠さんは、いったいどんなセックスをしていたのだろう。15歳にして180cm近い長身、私より10cm以上も高い。きっと性器も立派なのだろう。少なくとも私のような仮性包茎のイカ臭い、粗末な性器ではないはずだ。場馴れした手つきで波瑠さんをリラックスさせ、「好き」と囁き合ったのではないか
坂口君は30人以上とやったと豪語していた。多少盛っていたかもしれないが、説得力はあった。セフレの女子大生からの「生理来たよ」というメールを見せてきたこともあった。当初、私はその意味がわからなかった。数日してようやく危ない日にコンドームなしでセックスしたことを意味するのだと悟った
童貞の男はそんなことも分からないくらい察しが悪い。そのくせ嫉妬深い。坂口君と波瑠さんがセックスしていたことに気付いた日、私は帰宅するなり自慰をした。波瑠さんを奪われた怒りに近い感情が、なぜか興奮を高めた。怒りと興奮で顔を紅潮させながら、あらん限りの力を込めて性器を握りしめていた
そのときの私はこの世のものではないくらい醜い顔をしていたはずだ。嫉妬に狂いながら坂口君が波瑠さんを愛撫する姿を想像し、「畜生、畜生…」と呟きながら性器を握りしめた。膣内射精障害が悪化するとも思ったが、どうにでもなれという自暴自棄の気持ちが勝っていた
そのときなぜか波瑠さんが小ぶりなおっぱいを精一杯寄せて、坂口君の性器を挟んでいる像が思い浮かんだ。パイズリだ。なぜそんなイメージが浮かんだのかはわからない。心の奥底に閉じ込めた性衝動が脳内で不可思議に暴発したのだと思う。そして、その瞬間、私の性器は精子を垂れ流した
その後、私は坂口君の立派な、私の倍くらいはあるだろう性器を波瑠さんが小さな乳房で一生懸命に包み込んで奉仕している場面を思い浮かべながらもう一度、射精した。その後、今度は波瑠さんが坂口君に攻められ、涙声で「ごめんなさい」と言いながら絶頂に至る妄想でさらにもう一度、射精した
それにしても波瑠さんはなぜ沢尻なんかに目くじらを立てたのだろう。たしかに職員にとって沢尻は苛立たしい存在ではあった。反抗的で知性に欠け、徒党を組むタイプの女だ。が、所詮中学生。美人だが波瑠さんの上品な美しさとはモノが違う。しかし沢尻にあって波瑠さんにないものが一つだけあった
大きな乳房だ。沢尻は中学生の割におっぱいが大きかった。それを見せつけるように胸の谷間も露わなキャミソールを着てくることもあった。波瑠さんは沢尻の胸の大きさに嫉妬していたのだろうか。普通ならば、そんな結論には至らない。何より女性は男が思うほど、恋敵の胸の大きさを気にしない
本当のところ��わからないが、少なくとも気にしない素振りを見せる。しかし、こんな普通じゃない状況になった今、どんな可能性だってありうるように思われた。沢尻が大きな胸で坂口君を誘惑していると確信した波瑠さんが、嫉妬にかられ派手な下着や体のラインが出る服を着ないよう命じた…
そんなのはアダルトビデオの中だけの話。そうやってシンプルに考えられる人を私は羨む。いろいろな可能性を考えたとしても、それは何も生まない。真相は本人に聞いてみなければわからないのだから、考えたって仕方がないのだ。本人ですら、自分が何を考えているのかわからないのかもしれないが
波瑠さんは胸は小さく、おそらくAカップかBカップといったところだったが、170cm近い長身で顔が小さく手足が長い。他人の美貌に嫉妬するようなコンプレックスがあるようには見えなかった。沢尻は165cmくらい、Dカップくらいだろうか。大人びてはいるが品の無いヤンキーみたいだなと思うこともあった
私は波瑠さんに話しかける勇気はないくせに、チラチラと盗み見ていた。ブラウスの間からブラジャーが見えていて、凝視してしまったこともあった。もう少し角度をずらせば波瑠さんの胸の大きさが確認できるような気がした。思えばあれは気付かれていただろう。なんとも情けない話だ
真剣佑という俳優が14歳当時、37歳の子持ち既婚女性と肉体関係を持ち、その女性が真剣佑との間に生まれた子供を出産したというスキャンダルがあったはずだ。私はこの報道を聞いて真っ先に坂口君と波瑠さんのことを思い出した。この世には現実にこういうことがあるのだ。「事実は小説より奇なり」である
37歳人妻の理性はなぜぶっ壊れたのか。希少性の法則という言葉がある。人は希少なものや機会には価値があると思い込み、しばしば非合理的な行動をとる。旅先で割高な土産物を買ったり、閉店セールで安いからと絶対に使わないものを買ったりしたことはないだろうか
希少性の法則は性愛においてこそ当てはまると私は考える。目の前にいる美少年が完全に自分の好みのタイプで、彼にいま好意を伝えなければもう会えないかもしれないという状況があったとしたら、女の理性は少しづつ壊れていく。「こんな子にはもう出会えないかも」「今しかない」という感覚
それでも法に触れることを恐れて、性衝動を理性で強引に閉じ込めるのが普通の人間だ。しかし、心の奥底に折り畳まれた性衝動を侮ってはいけない。理性で閉じ込めるたびに性衝動は力を増す。性的な衝動を発散する機会が少ない、抑圧された女性の性衝動は男の数倍強い
希少性の法則を突き詰めれば、非モテ男の生存戦略は希少性を獲得することということになる。容姿に恵まれていないが幸せな性愛生活を送りたいと願うなら、希少な存在になるべきだ。この観点から、モテたくてバンドをやる、芸人を目指す、漫画家を目指すという行為はまったく正しい
希少な存在だけが女の心を揺さぶり、理性の扉を開くことができる。モテたいのに会社員になってそれなりの年収を貰おうと努力するのは完全に間違っている。そもそも非モテは会社で出世できない。会社とは非モテがせっせと努力して得たものをリア充がまるで自分の手柄のようにかっさらっていく場所だ
イケメン男子中学生に手を出した年上の女は、遊ばれた挙げ句、無残に捨てられるだけなのになぜ…?と理解ができない人もいるだろう。非常に浅はかな考えだ。性愛に賭ける女の深い情念を甘く見すぎている
女はイケメンに近づけば遊ばれ捨てられることなど百も承知なのだ。15歳の美少年に手を出せば、彼と同世代の美少女と比較され、子供と侮っていた女に男を奪われ、時に恋敵の女子中学生よりも胸が小さいというみじめな現実を突きつけられ嫉妬に狂うことだって覚悟の上なのだ
男子中学生と成人女性の間には、事実、性愛関係が成立する。たった今も地球のどこかで男子中学生と成人女性はセックスをしている。にも関わらず、それは世間的には許容されない。いや、法的、社会的、道徳的、教育的などあらゆる観点からそれは否定される
そして弱虫や嘘つき、偽善者たちは、男子中学生と成人女性の性愛関係など、この地球上にまるで存在していないかのように振る舞う。しかし、私は文学的、ないし芸術的な観点からは、それを肯定したい。少なくとも私には坂口君に肩を揉まれ至福の表情を浮かべる波瑠さんを咎める気にはなれなかった
私は数日前にTwitterでここに書いたトラウマを吐き出したことで、ようやく性愛と向き合うことができた。性愛以上に大事なものはこの世に存在しないことにようやく気付いた。そして素人童貞なりに、この世にどうにか自分の爪痕、生きた証を残したいという強い生の衝動に突き動かされてこれを書いている
私の書く文章を気持ちが悪いと思う人は多いだろう。作り話だ、決めつけだ、素人童貞に何がわかるという意見だってあるはずだ。批判したければ批判するがいい。笑いたければ笑えばいい。しかし、批判しても笑っても、すべての人間に気色の悪い性的衝動が存在する事実を消し去ることはできない
この一連のツイートを波瑠さんと、私を射精に導いたすべての女性に捧げる…って、捧げられても困るか…。まあいいや(完)
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