#あゝひめゆりの塔
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Meiko Kaji (梶芽衣子) in Monument To The Girls’ Corps (あゝひめゆりの塔), 1968, directed by Toshio Masuda (舛田利雄).
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は、「誓願寺本堂西のうら手南向、三側目中程」(滝沢馬琴)に葬られた。その墓は、誓願寺境内で3回[註]移設されている。その経緯および実行者を記すと
(1回目 1889年)幸田露伴 今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向���、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあら��魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴。「井原西鶴を弔ふ文」『小文学 第1号』1889より。
*幸田露伴が処女作『露団々』で金港堂から得た原稿料は五十円(現在価値で約170万円)。その「資」で露伴は旅に出る。1888年大晦日から1889年1月31日まで丸ひと月(露伴来弔はこの折。移設費用は、その「資」で賄った)。「時に嚢中一銭も無くなりければ、自ら経済の妙を得たるに誇ること甚し」(『酔興記』)。
(2回目 1910年)木崎好尚 浮世の月二年見過ごして二百七十年の昔(略)印の墓はいつしか八丁目寺町誓願寺の無縁塔におし込められしを二十余年前幸田露伴君が旅の置みやげに現今の本堂東南手に再興されしも浮世草紙の紙よりも薄き人情今度の電路問題の墓地取払ひの憂い目見る墓のぬし誰も見返るものなく《略》二百十年忌の追善発起の手前それがし痩せ腕を揮うて施主と相成申さん四日の日曜の午後一時に形計の移転式を営んで下さいと口約して置いた《略》さて、今度の改葬場所は元の地点に近いと信ぜらるゝ本堂の西南手の樟の下陰と定めたれば鶴のなき声に尋ね寄らんとする文学上有縁の方々に此顛末を告参す(大阪にて好尚)。「東京朝日新聞 明治四十三年十二月五日」
(3回目 1933年)南木芳太郎 明治二十幾年の頃、幸田露伴氏によって無縁塔中より発見され、門内近き所に建てられてあったが、明治四十二年の冬、電車通路の爲寺域は狭められ墓地整理の止むなきに至ったのを木崎好尚氏によつて、本堂西南手の通路に面し移されたのである、その後星霜二十幾年、現在に至りては背後が隣地との境界線にあるため、いつしか建てられし古小屋の板塀は痛く損じ實に見苦しく且つ墓域もなく悄然として無縁塔に並んであるのは如何にも侘しく感じられるので、今回誓願寺住職を促し更に西北隅の��位置に再轉させ、墓域を画し松壽軒に因み大なる松樹を植え、塔上を被ふ事とした、ほんの心だけであるが、これで墓らしくなったと思つてゐる。「西鶴の墓」上方郷土研究会『郷土研究 上方 第三十ニ号』1933(=写真も)
[註]滝沢馬琴が報告した「誓願寺本堂西のうら手南向、三側目中程」を本来の位置(0)とすれば、西鶴の墓は正確にゆうと「4回」移動している。以下に。( )内実行者
0)本堂西の裏手、三側目中程(北条団水他1名) 1)無縁塔の内(誓願寺) 2)本堂東南隅(幸田露伴) 3)堂の西南手、樟の下(木崎好尚) 4)西北隅の一画(南木芳太郎)
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各地句会報
花鳥誌 令和6年5月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年2月1日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
立春を待たずに友は旅立ちし 喜代子 習はしの鰈供へる初天神 由季子 在さらば百寿の母と春を待つ 同 春遅々と言へども今日の日差しかな 都 橋桁に渦を巻きつつ雪解水 同 盆梅の一輪ごとにときめきぬ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月3日 零の会 坊城俊樹選 特選句
飴切りの音高らかに春を待つ 和子 風船消ゆ宝珠の上の青空へ 慶月 天を突く手が手が福豆を欲す 光子 葬頭河の婆万年を寒く座す 光子 飴切りのビートを刻み追儺の日 いづみ 虚無なるは節分の達磨の眼 緋路 老いてなほ鬼をやらふといふことを 千種 恵方向く沓の爪先光らせて 光子 とんがらし売る正面に福豆も 和子 錫杖をつき仏性は春を待つ 小鳥
岡田順子選 特選句
厄落し葬頭河婆をねんごろに はるか 柊挿す住吉屋にも勝手口 眞理子 豆を打つ墨染のぞく腕つぷし 千種 奪衣婆の春とて闇の中笑ふ 俊樹 亀鳴けば八角五重の塔軋む 俊樹 節分や赤い屋台に赤い香具師 緋路 錫の音待春の鼓膜にも 緋路 飴切りのトントコトンに地虫出づ 風頭
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月3日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
ものゝふの声は怒涛に実朝忌 かおり 実朝忌由比のとどろきのみ残る 睦子 久女忌の空は火色にゆふぐれて かおり やはらかな風をスケッチ春を待つ 成子 実朝の忌あり五山の揺るぎなし 美穂 歌詠みは嘘がお上手実朝忌 たかし 死せし魚白くかたどり寒月光 かおり 実朝忌早き目覚めの谷戸十戸 久美子 寒月や薄墨となるパールピアス かおり 寒月に壁の落書のそゝり立つ 同 ふはとキスこの梅が香をわたくしす 美穂 昃れば古色をつくす蓮の骨 睦子 寒禽の過り裸婦像歪みたる かおり 人呑みし海ごつごつと寒の雨 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月9日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
両の手をあふるるあくび山笑ふ 美智子 春浅し絵馬結ふ紐のからくれなゐ 都 鰐口に心願ありて涅槃西風 宇太郎 柊挿す一人暮しに負けまじと 悦子 寒晴や日頃の憂さをみな空へ 佐代子 師の苦言心にとめて初硯 すみ子 この町を砕かんばかり月冴ゆる 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月10日 枡形句会
春菊をどさつと鍋に入れ仕上ぐ 白陶 落ちる時知りたるやうに紅椿 三無 装ひは少し明るめ寒明ける 和代 一品は底の春菊夕餉とす 多美女 中子師の縁の作詞冬の能登 百合子
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令和5年2月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
料峭の石橋渡る音響く 三無 苔厚き老杉の根に残る雪 あき子 羽広げ鴨の背にぶく薄光り のりこ 春まだき耀へる日の風を連れ 三無 吟行や二月の空は青淡き 和魚 春めきて日向の土の柔らかく 三無 春の陽を川面に溜めてゆく流れ 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月12日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
古暦焚くパリの下町も焚く 昭子 豆撒や内なる鬼を宥めつつ みす枝 落日にして寒菊の色深し 世詩明 被災地の家もひれ伏し虎落笛 ただし 裸婦像の息づく如く雪の果 世詩明 雪吊の縄にも疲れ見えにけり 英美子 ありし日の娘を偲び雛飾る みす枝 それぞれの何か秘めたる卒業子 世詩明 今生の山河に満つる初明り 時江 九頭竜の河口に余寒残しをり 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
春立つや電車もステップ踏み走る 紀子 薄氷を横目に見つつ急く朝 裕子 ���店街バレンタインの日の匂ひ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 萩花鳥会
白梅と紅梅狭庭にうらうらと 祐子 熱燗で泣けたあの唄亜紀絶唱 健雄 如月の青空のこころ乗り移る 俊文 春の霜とぎ汁そつと庭に撒き ゆかり うすらひを踏むが如くの孫受験 恒雄 透きとほる窓辺の瓶や冬の朝 吉之 身に纏う衣減らざり春浅し 明子 躙り口扇子置く手に零れ梅 美恵子
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令和5年2月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
越前の雪の生みたる雪女 雪 又次の嚔こらへてをりし顔 同 一としきり一羽の鴉寒復習 同 横顔の考へてゐる寒鴉 同 老いて尚たぎる血のあり恵方道 真喜栄 節分会華を添へたる芸者衆 同 白山の空より寒の明け来たり かづを 紅梅や盗まれさうな嬰児抱く みす枝 老犬の鼾すこやか春を待つ 清女 佐保姫やまづ能登の地に舞ひ来たれ 嘉和 収骨の如月の手は震へつつ 玲子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月16日 さきたま花鳥句会
煮凝を箸で揺らしつ酒を酌��� 月惑 春一番ドミノ倒しの駐輪場 八草 雪残る路肩を選りて歩く子ら 裕章 春立つや蠢く気配絵馬の文字 紀花 朽木根に残してあがる春の雪 孝江 見舞ふ友見送る窓の老の春 ふゆ子 鼓一打合図に開始鬼やらひ ふじ穂 スクワット立春の影のびちぢみ 康子 匂ひ来し空に溶けたる梅真白 彩香 生みたてと書きて商ふ寒卵 みのり 寿司桶の箍光りたる弥生かな 良江 春泥や卒寿の叔母の赤き靴 珪子
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令和5年2月18日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
総門を白く散らして梅の寺 斉 俯ける金縷梅の香や山門に 芙佐子 恋の猫山内忍び振り返る 斉 日溜りに小さき影なし猫の恋 白陶 腰かけて白きオブジェの暖かし 久子 鳥もまた盛んなるかな猫の恋 白陶
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月21日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
撫で牛に梅の香纏ふ天満宮 笑子〃 白梅の五感震はす香の微か 千加江 真夜の雪寝る間の怖さ知るまいの 令子 銀色の光ほころび猫柳 啓子 復興や春一丁目一番地 数幸 紅梅の謂を僧の懇ろに 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
一羽には一羽の矜持寒鴉 雪 憶却の先立つてゐるちやんちやんこ 同 煮凝りや良き酒飲めて子煩悩 同 来し方を語り語らず大冬木 同 此の人の思ひも寄りぬ大嚏 同 初春の遥か見据ゑ左内像 一涓 熱燗や聞きしに勝る泣き上戸 同 己がじし火と糧守りて雪に棲む 同 灯もせば懐古の御ん目古雛 同 もう少し聞きたいことも女正月 昭子 冬日向ふと一病を忘れけり 同 瀬の音にむつくりむくり蕗の薹 みす枝 夜中まで騒めき続く春一番 やすえ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
寒紅や良きも悪しきも父に似し 雪 退屈をひつかけてゐるちやんちやんこ 同 春立つや千手千眼観世音 同 路地路地に国府の名残り春の雪 同 節分会葵の御紋許されて 同 越前の夜こそ哀し雪女 同 瓔珞に鐘の一打にある余寒 清女 能登地震声を大にし鬼は外 数幸 春塵や古刹の裏の道具小屋 泰俊 蕗の薹顔出し山を動かしぬ 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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業の花びら ⅴ
異空間の範囲
賢治が幻想の「異空間」を十界と同一視したのは、どのような理由からだろうか。
十界とは、天台宗の教義における、6つの迷いの段階(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)と4つの悟りの境地(声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)を合わせた、10の世界のことである。十界は、賢治の暮らす人間界も含む。人間界は、家庭や職場など人々と共有している空間だが、自分の属していない別の世界である「異空間」は、幻想・幻覚として現れる。「修羅」である賢治が修羅界に属し、賢治の周りに住む人々が人間界に属していたとするならば、幻想の「異空間」は、修羅界や彼の憧れた天上界のことかもしれない。
本章では、第二集の心象スケッチの中から、「異空間」の幻想と思しきものをいくつかの種類にまとめ、どの世界に対応するか探っていく。
1 異空間の投影
「一九 晴天恣意 1924, 3, 25,」下書稿(二)第一手入形には、まさに「異の空間」ということばが出てくる。冬の空に積雲が浮かび、それを「異の空間」の「白く巨きな仏頂体」「高貴な塔」と表現している。
つめたくうららかな蒼穹のはて 五輪峠の上のあたりに 白く巨きな仏頂体が立ちますと 数字につかれたわたくしの眼は ひとたびそれを異の空間の 高貴な塔とも愕ろきますが 畢竟あれは水と空気の散乱系 冬には稀な高くまばゆい積雲です とは云へそれは再考すれば やはり同じい大塔婆 いたゞき八千尺にも充ちる 光厳浄の構成です
この「高貴な塔」とは、すなわち「塔婆」(仏舎利)だという。この幻想の「塔」は、十界の内どの世界に属するものなのだろうか。
なお、下書稿(二)第一手入形で「五輪峠」だった場所は、その一つ前のバージョン「一九 晴天恣意(水沢臨時緯度観測所にて)1924, 3, 25,」下書稿(一)最終手入形では「種山ケ原」となっていた。種山ケ原から五輪峠というロケーションの変更は、どのような意図で行われたのだろうか。
種山ケ原は、奥州市、気仙郡住田町、遠野市にまたがる標高600~870mの高原地帯で、藩政時代から馬の放牧地として利用されていた。別名「種山高原」とも呼ばれる。種山ケ原が舞台となった作品は多く、童話『風の又三郎』『種山ケ原』、戯曲『種山ケ原の夜』などがある。
五輪峠は、種山ケ原から北へ約8kmほどの位置にある。賢治は実際に、岩手軽便鉄道鱒沢駅から五輪峠を経て人首方面へ進み、水沢緯度観測所、現在の国立天文台水沢VLBI観測所に向かったという。その一連の過程が、第二集の「一六 五輪峠 1924, 3, 24,」「一七 丘陵地 1924, 3, 24,」「一八 人首町 1924, 3, 25,」「一九 晴天恣意(水沢臨時緯度観測所にて)1924, 3, 25,」に収められている。
「一九 晴天恣意」を読み進めると、幻想の仏舎利が立った空の下には、樹やイリスが生え、石塚のあることが示される。
あの天末の青らむま下 きらゝに氷と雪とを鎧ひ 樹や石塚の数をもち (略) 斯くてひとたびこの構成は 五輪の塔と称すべく 秘奥は更に二義あって いまもその名もはゞかるべき 高貴の塔でありますので もしも誰かゞその樹を伐り あるひは塚をはたけにひらき 乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと かういふ青く無風の日なか 見掛けはしづかに盛りあげられた あの玉髄の八雲のなかに 夢幻に人は連れ行かれ 見えない数個の手によって かゞやくそらにまっさかさまにつるされて 槍でづぶづぶ刺されたり 頭や胸を圧し潰されて 醒めてははげしい病気になると さうひとびとはいまも信じて恐れます
そこで樹を切ったり石塚を壊して畑を作ったり、イリスの花を摘んだりすると、祟られる、あるいは罰を受けてしまうようである。夢の中で、逆さまに吊るされて槍で刺されたり、頭や胸を押し潰されたりし、夢から醒めてみると、実際に病気になってしまうのである。
石塚には何が祀られていて、何に祟られてしまうのだろうか。現存する最初のバージョンである「一九 晴天恣意(水沢臨時緯度観測所にて)1924, 3, 25,」下書稿(一)最終手入形では、樹や石塚に「鬼神」が棲んでいる。棲んでいるという表現だが、「由緒ある」ことから、祀られていると考えても良いだろう。
古生山地の峯や尾根 盆地やすべての谷々には おのおのにみな由緒ある樹や石塚があり めいめい何か鬼神が棲むと伝へられ
「一〇六 石塚〔日はトパーズのかけらをそゞぎ〕1924, 5, 18,」下書稿(一)第一手入形でも、樹や石塚には「鬼神」が棲んでいる。
一本の緑天蚕絨の杉の古木が 南の風に奇矯な枝をそよがせてゐる その狂ほしい塊りや房の造形は 表面立地や樹の変質によるけれども またそこに棲む古い鬼神の気癖を稟けて 三つ並んだ樹陰の赤い石塚と共に いまわれわれの所感を外れた 古い宙宇の投影である (わたくしはなぜ立ってゐるか 立ってゐてはいけない 鏡の面にひとりの鬼神ものぞいてゐる 第一九頁) おほよそこのやうに巨大で黒緑な そんな樹神の集りを考へるなら わたくしは花巻一方里のあひだに その七箇所を数へ得る
このような樹や石塚と鬼神の組み合わせは、「五二〇 巨杉 1925, 4, 18,」でも繰り返される。賢治は、「古い鬼神の気癖を稟けて」すなわち、鬼神の性質を授かって不思議な姿になっている樹をみて、人々の「所感」の外にある「古い宙宇」が、樹や石塚に「投影」されていると感じている。人々の感覚の外にあるため、幻想の「異空間」が投影されていると考えられる。「古い」という形容詞からは、「異空間」は空間的にだけでなく、時間的にも過去に隔てられていることもわかる。①古い、②樹、③石塚、④イリス、のある場所に「異空間」を幻視しているようである。
段落が下げられ、丸括弧で括られた4行も重要である。「わたくし」は立っているために、水面に映る自分の姿を覗き込むことができるのだが、そこに映っていた「わたくし」の姿は「鬼神」であった。この主語が作者である賢治だとすると、「鬼神」とは「修羅」のことである。①〜④のキーワードと結びつく「異空間」は、修羅界なのだろうか。
賢治の「修羅」は杉などの樹木に喩えられてきた。「異空間」の性質を発現する「樹神」の集う場所が、花巻には7カ所もあるという。「樹神の集り」は、「一九 晴天恣意」で言われるように「由緒ある」「古生山地」にあり、具体的には「種山ケ原」「五輪峠」などの名前を挙げることができるのかもしれない。
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小旅俳句集
■2022年6月
百日紅蟻達急ぐ大通り
炭酸水急坂上る泡の粒
城跡に白き花の香にせあかしや
若葉風隣の町につながって
青芝の種よく食べる庭の鳩
絵葉書の潮騒低く鳴りにけり
長調に短調混じりて夏の雲
■ 2022年7月
鬼子母神抜けてさ迷う目白かな
宿題や父がすすめた山椒魚
建て替えの夏に佇む給水塔
ほうき草群れて転がる畑かな
夏鴨やあくびをひとつ雨野川
夏合羽俳句届ける赤バイク
暑すぎて蝉も戸惑う鳴き始め
■2022年8月
蜘蛛の糸心ごころにしがみつく
百日紅花が転がる風の道
草いきれ錆びた自転車眠りけり
白壁の色を重ねる蝉時雨
青桐の葉が風に揺れおやつどき
鉄道草袖振り合うや通う道
かなかなや鎮守の森に響く夕
■2022年9月
眠れぬ夜窓開けて聞く虫の声
秋思う空気のようなこのうつつ
残りの蚊大きなかゆみ残しけり
レモン買う遠くの町の今日の日に
稲妻のごときおいしさエクレアや
白粉花赤白黄色親しげに
行き先をバスに委ねる葉月かな
■2022年10月
九月尽名前を記すオムライス
秋風に選句投句の拍子あり
山粧う秘密知らないままにして
電池切れ昭和に戻る雨月かな
やや寒し削れた肌のいけず石
秋深し何をまつるかがらんどう
宵闇にくねる暗渠の帰り道
■2022年11月
こだまするあちらこちらの秋の暮
渡り鳥わかれて次はいつ出会う
ぼうとする芒の続く山々や
つつましく暮らす毎日色なき風
食べてみる意外と甘い青蜜柑
日を浴びて輝いている柿の色
落葉降る夜の校舎の曲がり角
■2023年1月
新年会カーテン巻いて待つこども
冬枯れの内に流れる命かな
長老木のまた一年を巻く姿
凧あげて空を眺めるふたりかな
歌がるたお手つきばかりのこどもたち
初夢や夢の中にて夢を見る
帰り道振り向く二匹狸かな
■2023年2月
しら梅や池の向こうの知らぬ街
春炬燵ふと思い出す前世の名
鳥曇なかなか消えぬすねの傷
春節や強き店員五目麺
東風吹くやオランウータン空歩く
春浅し髪にしみ入るお焼香
三人の日々に新たな春が来る
■2023年3月
沈丁花皆に香りを配りけり
春霞静かに響くジムノペディ
花粉症隣の部屋に気配あり
道しるべ倒れて春に迷いけり
ぶらんこやふわりと昔思い出す
頬杖や冷めた珈琲春を待つ
春愁い並ぶ列車の別れ行く
■2023年4月
風車肩こらぬ術知りにけり
春霞メガネのくもり拭きにけり
花の雨���喜んで蜜を吸う
見上げるとビニール傘に花ひとつ
春の夜や一駅歩く長い道
ひなげしやアタッシュケースのなくしもの
新緑や並木を静かに曲がるバス
■2023年5月
柔らかきシャツ選ぶ朝夏浅し
宵宮や二面踊りの音の響き
多摩川にアカシアの花さらさらと
青林檎いつも通りを渡りけり
部屋の角怖がっている素足かな
タラちゃんや年少さんの春の夢
瀧の線トコひんまげテ落ちにけり
■2023年6月
レシートや財布の中の走��灯
紫陽花や土の様子を見て咲けり
イヤフォンのコードをほどき風薫る
どこまでも続く街灯半夏生
束の間の静かな森や箒草
白靴や日々に追われて思い出す
頼もしき青面金剛南風来たる
■2023年7月
砂浜に落としたままのサングラス
神鳴りやいつもの行い試される
あざやかなおしろい花の流れかな
紅はちす子等の幸せ願いけり
白はちす蕾のままのあなたかな
百日紅季節の風が広がりぬ
見上げれば白さるすべり空にあり
■2023年9月
水澄めり寝転んでいる朝のソファ
水澄めり去り行く人のうた残る
葉月なる白き公団影送る
新しく古き光や今日の月
枕もと本重なりて獺祭忌
秋風鈴何を残すか思案橋
秋雨や優しい顔の石仏(いしぼとけ)
■2023年10月
薄暗きカーテンの色秋の暮れ
天高し鳥たちのごと子供たち
爽やかに朽ちる看板コカコーラ
閼伽堂(あかどう)の光る水面や蕎麦の花
軒先でわいわい騒ぐ瓢(ふくべ)かな
山門にランドセルの子等秋麗
木犀の二度咲きのごと今日の日は
■2023年11月
鳳仙花羽ばたく方に咲きにけり
歌うたび消え行く言葉色なき風
秋の夜の続く街灯長い道
知り合いのいない校庭秋の暮
薮枯らし満員電車に隙間なし
花野風空に舞たる繰り返し
秋色の列車佇む停車駅
■2024年1月
いてふ舞ふ裏の稲荷の明るさよ
閉店の本屋に迷ふ冬の虫
数へ日の冷えた帰りのアスファルト
冬枯れに聞こえたやうな五時の鐘
黄昏るゝ冬木の影や文机
脈を打つ時計の針や年の暮れ
地下鉄の水の流れや春隣
■2024年2月
梅の香や初めて出会った朝の夢
春光や瞼の奥に広がりぬ
空(くう)の字や駐輪場の春の宵
あざやかや寺の垣根の落椿
春告鳥また同じもの買いにけり
春一番居なくなりけりいけず石
行き先を間違え戻り春浅し
■2024年3月
レコードの傷なぞる音春浅し
春愁や猫の暮らしも甘くない
沈丁花行き交ふ年を眺めけり
地下鉄の階段長し春の風
春の雪空き家の上にも積もりけり
深川の蛙は今日も鳴きにけり
鳥帰る忘れた物を思ひ出し
■2024年4月
菜の花や木々の向かうにある故郷
ひらひらと川面で落ち合ふ桜かな
朧なる頬撫でる風過ぎて行く
春雨や割れた茶碗に土匂ふ
ビルの間の小さき蕎麦屋春霞
行く春に「無」の点ひとつ消えにけり
春の闇足下の邪鬼耐へにけり
■2024年5月
淋しさに口笛を吹く桜桃忌
ひなげしやいつかの日々に迷ひこむ
あかしやの白き雨降る地蔵堂
滝風に打ち明け話消えにけり
夏立つや昔の歌を思ひ出す
風青し電信柱に昔の名
夏豆や小さき約束沢山あり
■2024年6月
初夏や地を確かむるスニーカー
琵琶の音の心ふるはす夏の夕
やはらかき紫陽花の上夢を見る
雨止みて鳴きそむる鳩夏の午後
一日を静かに終ふる露台かな
街の灯やにじみて消ゆる夏の夜
梅雨深し駅の緑の伝言板
■2024年7月
擦れ違ふ団地のおはぐろとんぼかな
水無月や知らぬ駅にておりにけり
背の汗や列車待つ朝長き時間
夕顔や町の何処かのピアノの音
夕凪や孤独と共に歩きけり
近道はあっといふ間に草いきれ
この宿はいつかの住処紙の虫
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🎼 01204 「ふるさと」。
いつかどこかのダンスホールでヤングな若者がゴーゴーダンスを踊り楽しんでいる中で、特別出演の 煙草を燻らせる渡哲也さん似の若者に沖縄の将来を尋ねたところから始まり、何の映画を観ているのか分からなくなったところ、ギュンと 突然に 沖縄の映像が浮かび上がってきます、太平洋戦争のさなか、必死にいきる沖縄の若い学生さんらの日々を描いた 日活戦争映画 「あゝひめゆりの塔」 を観ています。舛田利雄監督作品。昭和十八年秋、沖縄縣女子師範學校の校庭で秋季合同運動会が催されています。和泉雅子さん似の女学生や ニタニ似の先生らしき男性らが徒競走やらダンスやらを楽しんでいたのも束の間、戦局は悪化の一途を辿り、昭和十九年夏、学生さんらは お国のために働かされたり、竹やりで米兵を突き刺す為の訓練を受けたりしています。学童疎開 (内地疎開) に向かったこどもたちとのお見送りも (当局の指示により) 学校の校庭までとされ、さびしくつらい別れとなるのですけれど、こどもたちが乗った対馬丸に "何か" があって、本当に さびしくつらい別れが訪れます。昭和十九年十月、米軍の空襲に遭い、家々は焼かれ (校舎も焼かれ)、昭和二十年三月、上陸を開始した米軍の攻撃により、女学生らは 臨時の看護婦として働くことと相成るのですけれど、校長先生が訪れて 卒業式を開いて下さり、心の卒業証書を授与され涙します。昭和二十年四月一日、大雨の中、怪我人で溢れ返った野戦病院で 皆が皆、気が狂うか狂わないかの瀬戸際の中でいのちを深く削っているのですけれど、和泉雅子さん似の女学生らは 物を運んでいる最中、戦闘機に撃ち抜かれてしまいます。歩けない者らは置いて置かれ、降り頻る雨と泥濘の中を女学生らは歩き始めるのですけれど、和泉雅子さん似の女学生は (足を負傷) 体を横たえながら 青酸カリ入りの牛乳を自ら願い出て口に含みます。愚かな大人の誤った判断で 若きいのちを散らす女学生らの姿は、現在進めて勧められております 国の政策とあまり変わりがなく、後に歴史が物語るのかもしれませんけれど、同じ過ちを何度繰り返せばいいのでせうかと (世の中がどう思っていやうと) わたしは心からさう思います。
つづいて
1954年4月(昭和29年)、愛媛県松山市 (道後温泉) を修学旅行で訪れた小学生らが映るところから始まり���す、とある小学生の短すぎるジンセーの日々を描いた 共同映画 「千羽づる」 を観ています。神山征二郎監督作品。廣島市立幟町小學校に通う、佐々木理容院の娘サダコさん (6年竹組) は、鯉幟運動会を終え、通信簿を受け取り、夏休みを通り過ぎたあたりから急に体の調子がわるくなります。医師の勧めで "原爆傷害調査委員会 (Atomic Bomb Casuality Commission)" で検査を受けるのですけれど、1945年8月6日 (昭和20年)、自宅で家族と朝ごはんを食べていたところに原子爆弾が落ちて来たことと 黒い雨を浴びたことが原因な病を抱えていることが分かります。"廣島赤十字病院 (Hiroshima Red Cross Hospital)" に入院することとなったサダコさんは ふとしたことがきっかけで せっせと千羽鶴を折り始めるのですけれど、病魔は サダコさんの身体を恐るべき早さで蝕んでいきます。最初に���ダコさんを診た眼鏡男子な医者を わたしのすきな 田村高廣さんが演じていますこの映画、サダコさんの両親を どこかの松竹映画の "さくらと博" が演じていて好いです。
つづけて
"冬の味覚 鍋物十五種の作り方" という新聞の切り抜きを貼っつけたノートを眺めながら編み物をする妻に 「晩のおかずは何だい?」 って夫の問いに 「晩は未定です」 って答えを返す、そんな夫婦のたのしい会話でいっぱいな日々を描いた 東宝夫婦映画 「驟雨」 を観ています。成瀬巳喜男監督作品。脚本を わたしのラブリー 水木洋子さんが手がけました。小言をぶつぶつと言い合う、仲が良いんだか悪いんだかって感じの とある夫婦は たまの日曜日でも ぶつぶつと言い合っています。そんな晴れた日にヤングなおとなりさんが越して来たり、新婚になりたての姪が 新婚旅行中に ふらっと遊びに来たり、野良犬のノラちゃんが遊びに来たりして とても賑やかです。そんな賑やかさを上回るくらいに賑やかなのが 劇中に登場します、夫婦の最寄り駅 (梅ヶ丘駅) に広がる大きな商店街です。お店が ひしめき合う中に 映画館 (世田谷文化劇場) もあったりするこの商店街が実在したものなのかどうかは分かりませんけれど、わたしがこどものころに通った商店街よりもダイナミックで 羨ましさを感じました。あ。それと、原節子さんの旦那さん役の佐野周二さんが満員電車に揺られながら通っていた会社は "ミミ化粧品本舗 (Mimy Beauty Laboratory) 株式会社" でした。住所は 東京都中央区宝町3の15でした。そんな佐野周二さんの勤め先で 同僚役として わたしのラブリー 加東大介さんが出演されていました。
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を���業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から���員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙���られていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
���さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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宇宙交信局、応答セヨ
[ツー…ガジン。]
僕等はクレーターの上歩き
学校へ行く
光の黒板、蟲の文字
交差する声、声、声…
(ねえねえ。)
(あの子が死んだって知っているかい?)
ペットのヤミヤミ連れて
花を摘んで宇宙遊泳
[ガウガウ!]
炭素になった花びら宙を舞いーーー。
ラヂオは放映する
君のこゝろの中迄も
マザーは総て知っていて
僕は空気の吸い方を知らない
(永遠の窒息。)
塔へ征くんだ!
破壊する
僕らの使命
[ガウガウ!]
ヤミヤミが僕の脛を噛む
水素��流れ出す
スケーターは土星を巡りめぐるーーー。
消えた時間
消えた空間
(僕等は存在しない。)
冷たい屍体
ゆらゆら頭上で揺蕩う
[本日の葬式は三十四件デアリマス]
僕は君で
君は永遠で
永遠はまっくら闇
エレベータは宇宙を往復し続ける
僕等は第三次戦争を起こそうとしている
(レーザービームで死んでみたいな。)
僕の言葉繋がって
渡す道
彗星爆発
[シューーー…]
君を構成する染色体
ひとつ抜いて僕の脳に刺す
僕は君を未だ知らない
(僕等知らないことばかりさ。)
ヤミヤミ寝かせて
ベッドに入る
[スリープ波作動完了]
枕元に死んだ花ひとつ
眠りは今あらゆる色を持ってーーー。
大丈夫
宇宙の端に小さな僕
謳う
(君に花あげる。)
[レッドライト点滅、警報発令]
[ジー…]
[3,2,1ーーー0。]
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Photo
Tetsuya Watari (渡哲也), Meiko Kaji (梶芽衣子) and Sayuri Yoshinaga (吉永 小百合) in Monument To The Girls’ Corps (あゝひめゆりの塔), 1968, directed by Toshio Masuda (舛田利雄).
#Meiko Kaji#梶芽衣子#Tetsuya Watari#Toshio Masuda#Sayuri Yoshinaga#Monument To The Girls' Corps#あゝひめゆりの塔#舛田利雄#渡哲也#吉永 小百合#himeyuri girls
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行ったライブ/イベント
【会場ライブ/イベント】 -2019年- 12/29 AZKi 12/18 AliA 12/14 まりなす(仮) 12/14 風宮まつり 11/27 ナナヲアカリ 11/20 ニガミ17才 11/19 四月一日さん家の 11/14 ヒトリエ 11/05 天神子兎音 11/04 パスピエ/ネクライトーキー 10/31 ヒトリエ 10/06 バックドロップシンデレラ 10/05 YuNi 9/27 ヒメヒナ 8/1 花譜 不可解 LV
7/20 風宮まつり 風宮まつり 1周年飲みにけ〜しょん <ほろ酔いの昼> @池袋HUMAXシネマズ(東京 池袋) w/ 朝ノ瑠璃 / アキ・ローゼンタール
7/13 Reol Reol Secret Live 2019 文明ココロミー -東の塔- @東京・渋谷ストリームホール(東京 渋谷)
7/7 ナナヲアカリ ナナヲアカリ Presents ライブ&パーティー 第七話 ―770の日― @神田明神ホール(東京 神田/秋葉原/御茶ノ水)
7/5 四月一日さん家の 『四月一日さん家の』最終回スペシャルイベント @なだれ坂TRYWAVE(東京 六本木一丁目) w/物述有栖/夏色まつり
7/5 嘘とカメレオン 嘘とカメレオン 初の全国ワンマンツアー「はじめてのおつかいツアー ~ひとりでできるもん!~」@東京 LIQUIDROOM(東京 恵比寿)
6/7 ナナヲアカリ ナナヲアカリ Presents ライブ&パーティー 第六話 ―異世界戦線!?― @SHIBUYA WWW X(東京 渋谷)
6/1 ヒトリエ ヒトリエ TOUR 2019 "Coyote Howling"(→『wowaka追悼 於 新木場STUDIO COAST』) @新木場STUDIO COAST(東京 新木場)
5/24 ナナヲアカリ 「ススメ!!しあわせ症候軍ツアー」 @東京キネマ倶楽部(東京 鶯谷)
4/29 美波 「カワキヲアメク」ONEMAN TOUR 追加公演 @恵比寿リキッドルーム(東京 恵比寿)
4/27 天神子兎音 #神降臨 〜ポンコツ神様が1周年イベントを始めてしまったようです〜 @池袋HUMAXシネマズ(東京 池袋) w/いるはーと / ときのそら / 響木アオ
4/26 ナナヲアカリ 「ススメ!!しあわせ症候軍ツアー」 @HEAVEN'S ROCK さいたま新都心(埼玉 さいたま新都心/北与野)
2/3 バックドロップシンデレラ 「本気だしてウンザウンザを踊るツアーファイナル」@Zepp Tokyo(東京 台場)
1/25 ヒトリエ アコリエ 『HITORI-ESCAPE 2019ー超非日常下北沢七日間篇ー』@下北沢ERA(東京 下北沢)
-2018年- 12/22 Split end 果たし状 vol.2 vs 東京@新宿SAMURAI(東京 新宿)
11/30 Reol Reol Japan Tour 2018 MADE IN FACTION @Zepp Tokyo(東京 台場)
11/13 美波 美波 2daysワンマンライブ 「アメヲマツ、」@渋谷WWW(東京 渋谷)
11/8 ナナヲアカリ ナナヲアカリフライングワンマンツアー 〜こんにちは!巷で噂のダメ天使〜 @渋谷WWW(東京 渋谷)
10/27 嘘とカメレオン 嘘とカメレオン pre.「ここHOLEヲトシアナTOUR」@渋谷 CLUB QUATTRO(東京 渋谷)
10/19 さユり さユり ワンマンツアー2018 「レイメイのすゝめ」@Zepp Tokyo(東京 台場)
9/25 梨帆 MEETS pre. 【宛ら、竈を照らす火種のように】 w/藤田悠也/番匠谷紗衣/パーマ大佐/藤森愛@大塚MEETS(東京 大塚)
8/26 ミオヤマザキ×さユり ミオフェス番外編〜酸欠ト貧血〜 @マイナビBlitz赤坂(東京 赤坂)
8/24 ナナヲアカリ アフターVIPパーティー @下北沢BASEMENT BAR(東京 下北沢)
8/23 ナナヲアカリ ナナヲアカリ メジャー1stワンマンライブ「ワンルームシュガーパーティー~愛の歌なんて歌わなくたってなんとかなるくない?~」@TSUTAYA O-WEST(東京 渋谷)
6/17 さユり×ヒトリエ さユり ツーマンツアー 「月と越境」 @金沢EIGHT HALL(石川 金沢)
6/1 Reol 「刮目相待 -六の宴-」 @EX THEATER ROPPONGI(東京 六本木)
5/30 さユり(FC) ぱラれルらぼ 夜更けの研究室 vol.1 〜梅雨入り編〜 @Mt.RAINIER HALL SHIBUYA PLEASURE PLEASURE(東京 渋谷)
3/20 Denial of Formula IGNITION AGENT vol.1 @SHIBUYA CYCLONE(東京 渋谷)
3/5 ナナヲアカリ ナナヲアカリはじめてのとうめいはん 「♡」収穫ツアー @渋谷 WWW(東京 渋谷)
-2017年- 12/27 ナナヲアカリ×嘘とカメレオン ナナヲアカリ presents ライブ&パーティー 第五話 「年末フェスがなんぼのもんじゃい!」@新宿MARZ(東京 新宿)
12/20 Denial of Formula IGNITION AGENT vol.0 @SHIBUYA cyclone(東京 渋谷)
11/24 さユり 夜明けのパラレル実験室2017 ~それぞれの空白編『 』~ @東京ドームシティホール(東京 水道橋)
10/22 REOL 終楽章 東京公演 @豊洲PIT(東京 豊洲)
9/23 午前四時、朝焼けにツキ THE LAST TOUR ゴゼオワ=GOZEYO no OWARI= w/ホロ/マチカドラマ @渋谷TSUTAYA O-Crest(東京 渋谷)
9/22 さユり ミカヅキの航海2017 〜夜明けの全国ツアー編〜追加公演 @赤坂BLITZ(東京 赤坂)
9/11 ヒトリエ×パスピエ ヒトリエ主催ツーマン公演 『nexUs』vol.3 キュレーター:ゆーまお @恵比寿LIQUIDROOM(東京 恵比寿)
8/26 さユり デビュー2周年記念フリーライブ @VenusFort特設イベントスペース(東京 青海/お台場)
8/21 オーイシマサヨシ 仮歌ワンマンツアー 追加公演 @渋谷 CLUB QUATTORO(東京 渋谷)
5/19 さユり (ミカヅキの航海発売)弾き語り路上ライブ @JR新宿駅前 Suicaのペンギン広場(東京 新宿)
5/15 コレサワ×わたしのねがいごと。 440 15th Anniversary 2man LIVE @下北沢440(東京 下北沢)
5/7 ヒトリエ 全国ワンマンツアー2017"IKI" @新木場STUDIO COAST(東京 新木場)
3/31 SiM THE BEAUTiFUL PEOPLE TOUR -season II- "ONEMAN SHOWS 2017" @Zepp Tokyo(東京 青海/お台場)
3/20 パスピエ TOUR 2017 "DANDANANDDNA" @柏PALOOZA(千葉 柏)
2/15 a crowd of rebellion Xanthium tour 2017〜オナモミワンマン塾〜「スペシャル冬期講習」@恵比寿LIQUIDROOM(東京 恵比寿)
-2016年- 11/7 ヒトリエ HITORI-[E]SCAPE 2016 tour "5" @渋谷 CLUB QUATTORO(東京 渋谷)
11/4 a crowd of rebellion Xanthium tour 〜オナモミ ワンマン塾〜「初段」@千葉LOOK(千葉 千葉)
10/16 SiM THE BEAUTiFUL PEOPLE TOUR 2016 GRAND FiNAL "DEAD MAN WALKING" @横浜アリーナ(神奈川 横浜)
9/22 PENGUIN RESEARCH Penguin Go a Road 〜東奔西走腹滑り〜 @吉祥寺 club SEATA(東京 吉祥寺)
6/18 Perfume Perfume 6th Tour 2016 "COSMIC EXPLORER" @幕張メッセ 国際展示場(千葉 幕張)
-2015年- 6/17 [Alexandros] free live Back in Yoyogi Park! @代々木公園野外ステージ(東京 代々木)
-2013年- 9/29 MY FIRST STORY The Ending of the Beginning Tour @恵比寿LIQUIDROOM(東京 恵比寿)
【インストアイベント】 -2019年- 11/03 さユり
6/9 嘘とカメレオン 嘘とカメレオン“当て振りインストアライブツアー2019” @タワーレコード渋谷 5F(東京 渋谷)
4/10 ナナヲアカリ Major 1st E.P「しあわせシンドローム」リリース記念イベント@タワーレコード渋谷 8F spacehachikai(東京 渋谷) w/えんじぇるズ(タイヘイ(Dr)、かのーつよし(Ba)、カトリーヌ(Gt))
3/21 Reol 文明EP インストアライブ@タワーレコード渋谷 5F(東京 渋谷)
-2018年- 12/5 さユり レイメイリリースイベント ミニライブ&サイン会@タワーレコード新宿(東京 新宿)
11/23 さユり レイメイリリース記念予約会ミニライブ&サイン会 タワレコ渋谷第2部 @タワーレコード渋谷 屋上SKY GARDEN(東京 渋谷)
10/20 Reol 事実上リリース記念インストアアコースティックライブ@タワーレコード渋谷 B1F "CUT UP STUDIO"(東京 渋谷)
9/16 嘘とカメレオン 嘘とカメレオン pre. 「当て振りインストアライブツアー2018」@タワーレコード新宿(東京 新宿)
8/25 ナナヲアカリ Major 1st singleリリース記念イベント @タワーレコード新宿(東京 新宿)
3/18 Reol 「虚構集」発売記念アコースティックインストアライブ @タワーレコード新宿(東京 新宿)
3/10 大石昌良 パラレルワールド リリース記念ミニライブ&サイン会 @タワーレコード新宿(東京 新宿)
3/3 さユり 月と花束 リリース記念ミニライブ&サイン会@タワーレコード新宿(東京 新宿)
2/11 「近日公開第二章」追加リリース記念 アコースティックミニライブ @タワーレコード新宿(東京 新宿)
2/14 ナナヲアカリ いろいろいうけど♡がほしい リリース記念ミニライブ&トークショー&サイン会@タワーレコード渋谷(東京 渋谷)
-2017年- 12/09 ヒトリエ ai/SOlate リリース記念 アコースティックライブ&サイン会 @タワーレコード新宿(東京 新宿)
8/16 a crowd of rebellion "Gingerol"リリース記念 ガラガラ抽選会(サイン会or記念撮影) @タワーレコード新宿(東京 新宿)
7/25 オーイシマサヨシ "仮歌"リリース記念インストアライブ @タワーレコード新宿(東京 新宿)
3/5 さユり "平行線"リリース記念インストアライブ&サイン会 @タワーレコード新宿(東京 新宿)
-2016年- 12/7 ヒトリエ "IKI"リリース記念トークライブ&サイン会 @HMV TOKYO(東京 渋谷)
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各地句会報
花鳥誌 令和6年1月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和5年10月2日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
日本海見ゆる風車や小鳥来る 泰俊 駅近の闇市跡に後の月 同 山門を標とするや小鳥来る 同 師の墓の燭新涼のほむらかな 匠 渡り鳥バス停一人椅子一つ 啓子 紫に沈む山河を鳥渡る 希 ひらひらと行方知らずや秋の蝶 笑 なりはひの大方終了九月尽 数幸
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月4日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
朱の色に蝋涙たれし日蓮忌 ただし コスモスのたなびく道を稚児の列 洋子 抱かれて稚児は仏よ日蓮忌 同 めらめらと朱蝋のうねり日蓮忌 同 ピストルの音轟ける運動会 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月5日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
友の墓秋空の下悠然と 喜代子 棟上げの終はりし実家や竹の春 由季子 菊人形幼き記憶そのまゝに さとみ 長き夜や楽し思ひ出たぐり寄せ 都 強持てに進められたる温め酒 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月6日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
蜜と恋どちらも欲しく秋の蝶 都 八幡の荘園かけて飛ぶばつた 美智子 彼岸花軍馬の像を昂らせ 都 露の手に一度限りの炙り文 宇太郎 杖の歩や振返るたび秋暮るる 悦子 露けしや既視感覚の病棟に 宇太郎 コスモスの乱れ見てゐて老いにけり 悦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月7日 零の会 坊城俊樹選 特選句
天高く誇り高きは講談社 きみよ 華やかに滅びゆく香や秋の薔薇 和子 秋冷を暗くともして華燭の火 千種 白帝は白い梟従へて きみよ 薔薇は秋その夜会より咲き続け 順子 肘掛に秋思の腕を置いたまま 光子 爽やかや罅ひとつなきデスマスク 緋路 一族の椅子の手擦れや秋の声 昌文 邸宅の秋に遺りし旅鞄 いづみ 洋館に和簞笥置いて秋灯 荘吉
岡田順子選 特選句
栗の毬むけば貧しき実の二つ 瑠璃 流星を見ること永きデスマスク いづみ 正五位のまあるき墓を赤蜻蛉 小鳥 秋天の青は濃度を増すばかり 緋路 月光の鏡の中で逢ふ二人 きみよ 聖堂は銀に吹かるる鬼芒 いづみ 実石榴をロイヤルホストで渡されて 小鳥 石榴熟る女人の拳より重く 光子 秋の灯を落して永久のシャンデリア 俊樹 毬栗を踏み宰相の家を辞す 緋路
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月9日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
コスモスの島にひとつの小学校 修二 檸檬の香そは忘れざる恋なりき 美穂 嫁がせる朝檸檬をしぼりきる 朝子 母乳垂る月の雫のさながらに 睦子 タンゴ果て女は月へ反りかへる 同 護送車の窓には見えぬ草の花 成子 やはらかく眉をうごかし秋日傘 かおり 天と地を一瞬つなぐ桐一葉 朝子 ���れ星太郎の家を通り過ぎ 修二 正面に馬の顔ある吾亦紅 朝子 傘たゝみ入る雨月のレイトショー かおり 幾千の白馬かけぬく芒原 成子 古備前に束ねてさびし白桔梗 睦子 糸芒戻れぬ日々を追ふやうに 愛 黒葡萄いつもの場所の占ひ師 修二
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月9日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
新生姜甘酢に浸り透き通り のりこ 風を掃き風に戻されむら芒 秋尚 足音にはたと止まりし虫の声 怜 朝露に草ひやひやと眩しかり 三無 出来たての色の重たき今日の月 秋尚 徒競走つい大声で叫びたり ことこ 秋落暉炎のごときビルの窓 あき子 秋祭り見知らぬ顔の担ぎ手に エイ子 秋霜や広がる花を沈ませて のりこ 面取ればあどけなき子や新松子 あき子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月9日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
万葉の歌碑一面に曼珠沙華 信子 金木犀優しき人の香りかな みす枝 昇る陽も沈む陽も秋深めゆく 三四郎 廃線の跡をうづめて草紅葉 信子 駅に待つ猫と帰りぬ夜寒かな 昭子 天の川下界に恋も諍ひも 同 ひらひらとバイクで走る盆の僧 同 蟋蟀の鳴く古里や母と歩す 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月10日 萩花鳥会
夜鴨なく門川暗くひろごれり 祐子 サムライ衆ナントで決戦秋の陣 健雄 これ新酒五臓六腑のうめき声 俊文 露の身や感謝の祈り十字切る ゆかり 虫食ひのあとも絵になる柿落葉 恒雄 すり傷も勲章かけつこ天高し 美惠子
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令和5年10月14日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
魁の櫨紅葉の朱句碑の径 三無 花よりも人恋しくて秋の蝶 幸子 咲き初めし萩の風呼ぶ年尾句碑 秋尚 女人寺ひそと式部の実を寄せて 幸子 豊年の恵みを先づは仏壇へ 和代 篁を透かし二三個烏瓜 三無 日の色の波にうねりて豊の秋 秋尚 曼珠沙華に導かれゆく道狭し 白陶 二人居の暮しに適ふ豊の秋 亜栄子 林檎好き父と齧つたあの日から 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
ガシャガシャと胡桃を洗ふ音なりし 紀子 秋日和小児科跡は交番に 光子 歩かねば年寄鵙に叱咤される 令子 稲の秋チンチン電車の風抜けて 実加 不作年新米届き合掌す みえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月15日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
街騒も葉擦れも消して秋の雨 三無 大寺の風を擽る榠櫨の実 幸風 尾を引きて鵯のひと声雨の句碑 秋尚 水煙に紅葉かつ散る結跏趺坐 幸風 菩提樹を雨の宿りの秋の蝶 千種
栗林圭魚選 特選句
観音の小さき御足やそぞろ寒 三無 絵手紙の文字の窮屈葉鶏頭 要 駐在も綱引き離島の運動会 経彦 小鳥飛び雨止みさうにやみさうに 千種 秋霖や庫裏よりもるる刀自の声 眞理子 句碑の辺に秋のささやき交はす声 白陶 秋黴雨だあれもゐない母の塔 亜栄子 梵鐘の撞木の先や秋湿り 眞理子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
考へる事に始まる端居かな 雪 おは黒を拝み蜻蛉と僧の云ふ 同 道草の一人は淋しゑのこ草 同 朝霧の緞帳上がる音も無く みす枝 秋灯火優しき母の形見分け 同 役目終へ畦に横たふ案山子かな 英美子 孫悟空のつてゐるやも秋の雲 清女 穴感ひ浮世うらうら楽しくて やす香 栗食めば妹のこと母のこと 同 天高し飛行機雲の先は西 嘉和 屋根人を照らし名月たる威厳 和子 秋深し生命線の嘘まこと 清女 蜩に傾きゆける落暉かな かづを
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月18日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
枯れて行く匂ひの中の秋ざくら 世詩明 一声は雲の中より渡り鳥 同 見えしもの見えて来しもの渡り鳥 同 菊まとひ紫式部像凜と 清女 越の空ゆつくり渡れ渡り鳥 和子 秋扇に残る暑さをもて余す 雪 山川に秋立つ声を聞かんとす 同 鳥渡る古墳の主は謎のまま 同 鳥渡る古墳は謎を秘めしまま 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月20日 さきたま花鳥句会
SLの汽笛を乗せて刈田風 月惑 寝ころびて稜線を追ふ草紅葉 八草 残る海猫立待岬の岩となる 裕章 大夕焼分け行く飛機の雲一本 紀花 曼珠沙華二体同座の石仏 孝江 白萩の花一色を散り重ね ふゆ子 秋の野や課外授業の声高に ふじ穂 秋寒し俄か仕立てのカーペット 恵美子 秋空や山肌動く雲の影 彩香 爽籟や赤子よく寝る昼下り 良江
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令和5年10月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
生身魂梃子でも動かざる構へ 雪 古団扇此処に置かねばならぬ訳 同 飾られて菊人形の顔となる 同 亭主運なき一枚の秋簾 一涓 菊の香に埋り眠る子守唄 同 叱りてもすり寄る猫や賢治の忌 同 友の家訪へば更地やそぞろ寒 みす枝 叱られて一人で帰るゑのこ草 同 朝霧が山から里に降りて来し やすえ 隣家より爺の一喝大くさめ 洋子 菊師にも判官贔屓あるらしき 昭子 人の秋煙となりて灰となる 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月27日 月例会 坊城俊樹選 特選句
靖国の秋蝶は黄を失ひて 愛 柿に黄をあづけ夕日の沈み行く 緋路 神池の何処かとぼけた鯉小春 雅春 細りゆく軍犬像や暮の秋 愛 うらがへり敗荷の海のなほ明し 千種 英霊の空はまだ薄紅葉かな 愛
岡田順子選 特選句
秋蝶に呼ばれ慰霊の泉かな 愛 鉢物はしづかに萎れ秋の路地 俊樹 年尾忌も近し小樽の坂の上 佑天 道幅は両手くらゐの秋の路地 俊樹 秋天へ引つ張られたる背骨かな 緋路 老幹の凸凹としてそぞろ寒 政江 板羽目の松鎮まれる秋の宮 軽象 御神樹の一枝揺らさず鳥渡る かおり
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第1章「まことの道」と天の幻想 第3節 異空間の様相 1 天上界
『インドラの網』において、主人公が「天の空間」を訪れた時間帯は夜から明け方である。辺りにマルメロの香りが漂い、夜空にはめ込まれた宝石と溶けた黄金の眩い朝日が世界を照らす。「天の空間」の移りゆく空や光の筆致は、探検家スヴェン・ヘディンの『ト��ンス・ヒマラヤ』(1909)に類似している(金子, 1988, p176)。
夜が明けると空には「インドラ の網」がかかり、そのさらに上空で「風の天鼓」と「蒼い孔雀」が鳴っている。しかし賢治はこう語る。
誰も敲かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。(略)その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。
このことから天鼓も孔雀も幻想であり、「天の空間」そのものが幻覚であると意識していることは明らかである。けれども幻想だから、五感で感じられないからといって、実在しないとは賢治は考えていなかった。
2 死後の世界
『ひかりの素足』は、吹雪に遭難し死にかけた兄弟が、死後の世界にて〈素足の生物〉の特徴を持つ人に救済される物語である。使用されている原稿用紙は三種類あり、二回の差し替えが行われていることがわかっている。まず 1922 年前半に第1次稿が書かれ、1923 年以降、幾枚かの原稿用紙が差し替えられているが、〈素足の生物〉の登場場面は 1922 年当初のままとされている(千葉, 2012, pp82-83)。これは妹トシが亡くなる前の賢治の死生観が描かれていることを示すだろう。
この童話において死後の世界は「うすあかりの国」と呼ばれ、次のように描写される。
地面はまっ赤でした。(略)まったく野原のその辺は小さな瑪瑙のかけらのやうなものでできてゐて行くものの足を切るのでした。
実は「小岩井農場」の定稿では、賢治が童子たちに向けて
あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも その貝殻のやうに白くひかり 底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
という言葉をかける。『ひかりの素足』と「小岩井農場」の瑪瑙の野原は同一のものであり、したがって〈素足〉の救済者と幻想の童子も重なる。
『ひかりの素足』では、主人公の兄弟が瑪瑙の野原を泣きながら歩く。すると突然、「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」という言葉が「風のやうに又匂のやうに」「感じ」られ、「まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあし」の人が歩いてくる。
先行研究では、「うすあかりの国」を地獄界、飢餓界、中有などであると捉え(工藤, 1995)、〈素足の生物〉の特徴を持つ〈素足〉の人を、地蔵菩薩(千葉, 2012, p84)、如来(杉浦, 1988, p93)、釈尊(松岡, 2015, p70)などの絶対者的存在であると解釈してきた。
〈素足〉の人は、「その柔らかなすあしは鋭い鋭い瑪瑙のかけらをふみ燃えあがる赤い火をふんで少しも傷つかず又灼けませんでした。地面の棘さへ又折れませんでした。」といわれるように、世界と物理的に干渉しあわない。ここには、賢治の唯心論の考え方が反映されているかもしれない。さらに〈素足〉の人は、「こゝは地面が剣でできてゐる。お前たちはそれで足やからだをやぶる。さうお前たちは思ってゐる、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ。さあご覧。」という台詞とともに、瑪瑙の野原を「湖水」のように見え、硬く、冷たく、滑らかな「青い宝石の板」の地面に変貌させる。辺りには立派な建物や橋廊、塔、宝石細工の木が並び、楽音が空から聞こえ、光に満ち、「夏の明け方のやうないゝ匂で一杯」になる。
分銅惇作(1984, p78)は『法華経』「寿量品自我偈」や『日蓮上人御遺文集』に依って、悟りを得た仏・菩薩の住む浄土を描いたと述べている。ただ〈素足の生物〉が天の童子の場合もあることから、「青い宝石の板」の地面の世界が天上界である可能性も残しておきたい。
詩章「無声慟哭」における「風林」(1923.6.3)には、以下のような一節がある。
とし子とし子野原へ来れば また風の中に立てば きつとおまへをおもひだす おまへはその巨きな木星のうへに居るのか 鋼青壮麗のそらのむかう(ああけれどもそのどこかも知れない空間で 光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか (略) ただひときれのおまへからの通信が いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ) とし子 わたくしは高く呼んでみようか
賢治は、死んだトシの向かった「どこかも知れない空間」に「光の紐やオーケストラ」があるかどうか問うている。〈素足の生物〉に導かれる浄土・天上界であるかどうかを気にしているのである。そして賢治の問いかけに答えてくれるトシからの「通信」を信じ、待っている。
1923 年8月、ついに賢治は「通信」を巡って樺太を旅行する。その旅行中の心象の記録が亡妹トシに捧げる挽歌群となり、第一集の詩章「オホーツク挽歌」を構成する。
序論で述べたように秋枝美保は、賢治は樺太旅行を機に「自らの信仰のあり方」を「修羅」として自覚し、否定したと考察する。これが「小岩井農場」における幻想の価値の反転をもたらした、賢治の信仰を大きく変える出来事であると考えられられている。
本研究は「修羅」の自覚という点を参考にしながらも、否定した「自らの信仰のあり方」とは〈素足の生物〉に支えられた「まことの道」であると考えてみたい。そして第2章では、樺太旅行で賢治に「修羅」が根づいていった過程を分析する。
参考文献 金子民雄『宮沢賢治と西域幻想』(白水社、1988年)。 千葉一幹「「ひかりの素足」から「青森挽歌」へ:信仰の危機としてのトシの死」『人文・自然・人間科学研究』第27巻(2012年3月)。 工藤哲夫「中有と追善:宮澤賢治「ひかりの素足」論」『研究紀要』第8巻(1995年3月)、1-8頁。 杉浦静「『雁の童子』序説:天人・壁画の中の子供らの系譜」『国文学 解釈と鑑賞』第53巻 2号(1988年2月)、92-97頁。 松岡幹夫『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会、2015年)。 分銅惇作「「ひかりの素足」:浄土のイメージについて」『国文学 解釈と鑑賞』第49巻第13号(1984年11月)。
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お地蔵様
里帰りした男の話。
これは実に二十年ぶりに里帰りした時の話である。思ひ立つたのは週末の金曜日、決行したのは明くる日の土曜日であつたが、何も突然と云ふことではなく、もう何年も昔から、今は無き実家の跡地を訪れなければならないと、漠然と思つてゐ、きつかけさへあればすぐに飛び立てるやう、心の準備だけはしておいてゐたのである。で、その肝心のきつかけが何なのかと云へば、私が小学生の時分によく帰り道を共にした女の子が手招きをするだけといふ、たわいもない夢だ��たのだが、私にとつてはそれだけで十分であつた。一泊二日を目安に着替へを用意し、妻へは今日こそ地元の地を踏んでくると、子供へはいゝ子にしてゐるんだよと云ひ残し、一人新幹線に乗り込んだ私は、きつかけとなつた夢を思ひ出しながら、生まれ育つた故郷へ真直ぐ下つて行つた。
実のことを云ふと、この時にはすでに旅の目的は変はつてゐたやうに思へる。私の故郷といふのは、周りを見渡せば山と川と田んぼしかないやうな田舎で、目を閉じてゆつたりと昔を懐かしんでゐると、トラクターに乗つてゆつくりとあぜ道を走るお爺さんだつたり、麦わら帽子を目深に被つてのんびり畑を耕すお婆さんだつたりと、そんなのどかな光景が頭に描かれるのであるが、新幹線のアナウンスを聞きながら何にも増してはつきりと思ひ出されたのは、一尊のお地蔵様であつた。大きさはおよそ二尺程度、もはや道とは呼べない山道の辻にぽつんと立つその地蔵様には、出会つた時から見守つていただいてきたので、私たちにとつてはもはや守り神と云へやう。私たちはお互ひ回り道になると云ふのに、道端で出会ふと毎日のやうにそのお地蔵様を目指し、ひとしきり遊んだ後、手を合はせてから袂を分かつてゐた。さう云へば最後に彼女の姿を見たのもそのお地蔵様の前であつたし、夢の中でも彼女はそのお地蔵様の傍にちよこんと座つて、リンと云ふ澄んだ鈴の音を鳴らしながら、昔と同じ人懐つこさうな目をこちらに向けてゐた。ちなみにこゝで一つお伝へしておくと、彼女の夢を見た日、それは私が故郷を離れ、大阪の街へと引つ越した日と同じなのである。そしてその時に、私は何か大切なものをそこへ埋めたやうな気がするのである。――と、こゝまで考へれば運命的な何かを感じずには居られまいか。彼女が今何処で何をしてゐるのかは分からない。が、夢を通じて何かを訴へかけてきてゐるやうな気がしてならないのである。私の旅の目的は、今は無き実家を訪れるといふのではなく、彼女との思ひ出が詰まつたその地蔵を訪れること、いや、正確には、小学校からの帰り道をもう一度この足で歩くことにあつた。
とは云つても、地元へは大阪からだと片道三四時間はかゝるので、昼過ぎに自宅を出発した私が久しぶりに地に足をつけた時にはすつかり辺りは暗くなりつゝあつた。故郷を離れた二十年のうちに帰らなかつたことはないけれど、地方都市とは云つても数年と見ないあひだに地味に発展してゐたらしく、駅周辺はこれまで見なかつた建物やオブジェがいくつか立ち並んでゐて、心なしか昔よりも賑やかな雰囲気がする。駅構内もいくつか変はつてゐるやうであつたが、いまいち昔にどんな姿をしてゐたのか記憶がはつきりしないため、案内に従つてゐたらいつの間にか外へ出てしまつてゐた程度の印象しか残つてゐない。私は泊めてくれると云ふ従妹の歓迎を受けながら車に乗り込んで、この日はその家族と賑やかな夜を飲み明かして床についた。
明くる日、従妹の家族と共に朝食をしたゝめた私は、また機会があればぜひいらつしやい、まだ歓迎したり無いから今度は家族で来て頂戴、今度もまたけんちやんを用意して待つてゐるからと、惜しまれながら昨晩の駅で一家と別れ、いよ〳〵ふるさとへ向かふ電車へと乗つた。天気予報の通りこの日は晴れ間が続くらしく、快晴とはいかないまでも空には透き通るやうに薄い雲がいくつか浮いてゐるだけである。こんな穏やかな日曜日にわざ〳〵出かける者は居ないと見えて、二両しかない電車の中は数へられるくらゐしか乗客はをらず、思ひ〳〵の席に座ることが出来、快適と云へば快適で、私は座席の端つこに陣取つて向かひ側の窓に映る景色をぼんやりと眺めてゐたのであるが、電車が進むに連れてやはり地方の寂しさと云ふものを感じずにはゐられなかつた。実は昨晩、駅に降り立つた私が思つたのは、地方もなか〳〵やるぢやないかと云ふことであつたのだが、都会から離れゝば離れるほど、指数関数的に活気と云ふものが減衰して行くのである。たつた一駅か二駅で、寂れた町並みが現れ始め、道からは人が居なくなり、駅もどん〳〵みすぼらしくなつて行く。普段大阪で生活をしてゐる私には、電車に乗つてゐるとそのことが気になつて仕方がなかつた。さうかと云つて、今更故郷に戻る気もないところに、私は私の浅ましさを痛感せざるを得なかつたのであるが、かつての最寄り駅が近づくに従つて、かう云ふ衰退して行く街の光景も悪くは無いやうに感じられた。それは一つにはnostalgia な気持ちに駆られたのであらう、しかしそれよりも、変はり映えしないどころか何もなかつた時代に戻りつゝある街に、一種の美しさを感じたのだらうと思ふ。何にせよ電車から降り立つた時、私は懐かしさから胸いつぱいにふるさとの空気を吸つた。大きいビルも家も周りにはなく、辺り一面に田んぼの広がるこの辺の空気は、たゞ呼吸するだけでも大変に清々しい。私はバス停までのほんの少しのあひだ、久しく感じられなかつたふるさとの空気に舌鼓を打ち続けた。
バス停、……と云つてもバスらしいバスは来ないのであるが、兎に角私はバスに乗つて、ちやつとした商店に囲まれた故郷の町役場まで行くことにした。実のこと、さつきまで故郷だとかふるさとだとか云つてゐたものゝ、まだ町(ちやう)すらも違つてをり、私のほんたうの故郷へは駅からさらに十分ほどバスに揺られ無ければ辿り着けず、実家へはその町役場から歩いて二十分ほどかゝるのであるが、残念なことにそのあひだには公共交通機関の類は一切無い。しかしかう云ふ交通の便の悪さは、田舎には普通なことであらう。何をするにしても車が必須で、自転車で移動をしやうものなら急な坂道を駆け上らねばならず、歩かうものならそれ相応の覚悟が要る。私は自他ともに認める怠け者なので、タクシーを拾はうかと一瞬間悩んだけれども、結局町役場から先は歩くことした。母校の小学校までは途中まで県道となつてをり、道は広く平坦であるから、多少距離があつても、元気があるうちはそんなに苦にならないであらう、それに何にも増して道のすぐ傍を流れる川が美しいのである。歩いてゐるうちにそれは美化された思ひ出であることに気がついたけれども、周りにはほんたうに田んぼしか無く、ガードレールから下をぐつと覗き込むと、まだゴツゴツとした岩に水のぶつかつてゐるのが見え、顔を上げてずつと遠くを見渡すと、ぽつぽつと並ぶ家々の向かうに輪郭のぼやけた山々の連なる様が見え、私はついうつかり感嘆の声を漏らしてしまつた。ほんたうにのどかなものである。かうしてみると、時とは人間が勝手に意識をしてゐるだけの概念なやうにも思へる。実際、相対性理論では時間も空間的な長さもローレンツ変換によつて同列に扱はれると云ふ。汗を拭いながら足取りを進めてゐると、その昔、学校帰りに小遣ひを持ち寄り、しば〳〵友達と訪れた駄菓子屋が目に入つて来た。私が少年時代の頃にはすでに、店主は歩くのもまゝならないお婆さんであつたせいか、ガラス張りの引き戸から微かに見える店内は嫌にガランとしてゐる。昔はこゝでよく風船ガムであつたり、ドーナツであつたり、はたまた文房具を買つたりしたものであつたが、もう営んではゐないのであらう。その駄菓子屋の辺りがちやうど田んぼと人の住処の境で、県道から外れた一車線の道先に、床屋や電気屋と云つた商店や、古びたしまうたやが立ち並んでゐるのが見えるのだが、どうもゝうあまり人は居ないらしく、その多くはピシャリと門を締め切つてゐる。中には荒れ屋敷化してしまつた家もあつた。
と、そこでやうやく母校の校庭が見えて来た。町役場からゆつくり歩いて二十五分と云つたところであらうか、時刻を確認してみるとちやうど午前十一時である。徐々に気温が上がつて来てゐたので、熱中症を心配した私は、適当な自販機を見つけるとそこで水を一本買つた。小学校では何やら催し物が開催されてゐるらしく、駐車場には何台もの車が停まつてをり、拡声器を通した賑やかな声が金網越しにぼや〳〵と聞こえてきたのであるが、何をやつてゐるのかまでは確認はしてゐない。おそらく子供会のイベントでもやつてゐたのであらう。さう云へば私も昔、めんだうくさい行事に参加させられた憶えがある。この学校は作りとしてはかなり平凡であるのだが、さすがに田舎の学校ともあつて緑が豊富であり、裏には先程沿ひながら歩いて来た川が通つてゐる。久しぶりにその川にまで下つてみると、記憶とは違つてカラリと乾いた岩がゴロゴロと転がつてをり、梅雨時のじめ〳〵とする季節でも涼を取るには適してゐるやうに感じられた。一体、こゝは���風がやつて来ると自動的に被害を受ける地域で、毎年子どもたちが夏休みに入る頃には茶色く濁つた濁流が溢れるのであるが、今年はまだ台風が来てをらず、降水量も少なかつたこともあつて、さら〳〵と小川のやうな水の流れが出来てゐる。昔、一度だけ訪れたことのあるこの川の源流部でも、このやうな流れが出来てゐたやうな憶えがある。が、源流のやうに水が綺麗かと問はれゝば、決して肯定は出来ない。手で掬つてみると、太陽の光でキラキラと輝いて一瞬綺麗に見えるけれども、じつと眺めてゐると苔のやうな藻がちらほら浮いてゐるのが分かり、鼻にまで漂つて来る匂ひもなんだか生臭い。それにしても、この手の中で漂つてゐる藻を藻と呼んでいゝのかどうかは、昔から疑問である。苔のやうな、とは形容したけれども、その色は生気を感じられない黒みがかつた赤色で、実はかう云ふ細長い虫が私の手の上で蠢いてゐて、今も皮膚を食ひ破つて体の中に入らうとしてゐるのだ、と、云はれても何ら不思議ではない。さう考へると、岩に引つ付いてうよ〳〵と尻尾を漂はせてゐる様子には怖気が走る。兎に角、話が逸れてしまつたが、小学生の時分に中に入つて遊んだこの川はそんなに綺麗では無いのである。むしろ、影になつてゐるところに蜘蛛の巣がたくさん巣食つてゐたり、どす黒く腐つた木が倒れてゐたりして、汚いのである。
再び母校へと登つて、先程通つて来た道に戻り、私は歩みを進め初めた。学校から出るとすぐに曲がり角があつて、そこを曲がると、右手には小高い山、左手にはやはり先程の川があり、その川の向こう側に延々と田んぼの並んでゐるのが見える。この辺りの光景は今も昔も変はらないやうである。道の先に見える小さな小屋だつたり、ガードレールだつたり、頼りない街灯も変はつてをらず、辛うじて残つた当時の記憶と綺麗に合致してゐる。私は変はらない光景に胸を打たせつゝ、右手にある山の影の下を歩いていつた。そして、いよ〳〵突如として現れた橋の前に辿り着くや、ふと歩みを止めた。彼女と学校帰りに会ふのはいつもこゝであつた。彼女は毎回リンリンと軽快な鈴の音を辺りに響かせながら、どこからともなく現れる。それは橋の向かふ側からゆつくりと歩いて来たこともあれば、横からすり寄つて来たこともあつたし、いきなり背後を取られたこともあつた。私はゆつくりと目を閉じて、ゆつたりと深呼吸をして、そつと耳を澄ませた。――木々のざわめきの中にかすかな鈴の音が、確かに聞こえたやうな気がした。が、目を開けてみても彼女はどこにも居ない。今もどこかから出てきてくれることを期待した訳ではないが、やはり一人ぽつんと立つてゐるのは寂しく感じられる。
橋の方へ体を向けると、ちやうど真ん中あたりから強い日差しが照りつけてをり、反射した光が目に入つて大変にまばゆいので、私はもう少し影の下で居たかつたのであるが、彼女がいつも自分を待たずに先々行つてしまふことを思ひ出すと、早く歩き始めなければ置いていかれてしまふやうな気がして歩き始めた。橋を渡り終へてすぐに目に飛び込んで来たのは、川沿ひにある大きなガレージであつた。時代に取り残されたそれは、今も昔も所々に廃材が積み上げられてゐ、風が吹けば倒れてしまいさうなシャッターの中から、車だつたり、トラックの荷台だつたりがはみ出してゐるのであるが、機材や道具などが放りつぱなしになつてゐることから、未だに営んではゐるらしい。何をしてゐるのかはよく知らない。が、聞くところによると、こゝは昔からトラックなどの修理を行つてゐるところださうで、なるほど確かにたまに危なつかしくトラックが通つて行つてゐたのはそのためであつたか。しかし、今見ると、とてもではないが生計が成り立つてゐるやうには思へず、侘しさだけが私の胸に吹き込んで来た。二十年前にはまだ塗料の輝きが到るところに見えるほど真新しかつた建物は、今では積み上げられたガラクタに埋もれたやうに古く、痛み、壁なぞは爪で引つ掻いたやうな傷跡がいくつも付けられてゐる。ガレージの奥にある小屋のやうな家で家族が暮らしてゐるやうであるのだが、その家もゝはや立つてゐるのが限界なやうである。さて、私がそんなボロボロのガレージの前で感傷に浸つてゐたのは他でもなく、彼女がこゝで遊ぶのが好きだつたからである。する〳〵と積まれたガラクタの上を登り、危ないよと云ふこちらの声を無視して、ひよい〳〵とあつちこつちに突き出た角材に乗り移つて行き、最後には体を蜘蛛の巣だらけにして降りてくる。体を払つてやらうと駆け寄つても、高貴な彼女はいつもさつと逃げてしまふので、仕方なしにそのへんに生えてゐる狗尾草(エノコログサ)を手にして待つてゐると、今度はそれで遊べと云はんばかりに近寄つて来ておねだりをする。その時の、手にグイグイグイグイ鼻を押し付けてくる仕草が殊に可愛いのであるが、だいたいすぐに飽きてしまつて、気がついた時には喉をゴロゴロと云はしながら体を擦り寄せて来る。これは愛情表現と云ふよりは、早く歩けと云ふ彼女なりの命令で、無視をしてゐるとこちらの膝に乗つてふてくされてしまふので、帰りが遅くならないようにするためには渋々立ち上がらなければならない。
さう云へばその時に何かを食べてゐたやうな気がするがと思ひ、私は彼女との思ひ出を振り返りつゝ辺りを見渡してゐた。するとガレージの横に鬱蒼と生い茂る草木の中に、柿の木と桃の木の生えてゐるのが見つかつた。だが、ほんたうに一歩も入りたくないほどに、大葉子やら犬麦やら髢草が生えてをり、当時の私が桃やら柿やらを毟り取つて食べてゐたのかは分からない。しかしさらに見渡しても、辺りは田んぼだらけで実のなる木は無いことから、もしかしたら先程の橋を渡る前に取つて来て、彼女の相手をしてゐるあひだに食べてゐたのかもしれない。先程道を歩いてゐる時にいくつかすもゝの木を見かけたから恐らくそれであらう。なるほど、すもゝと云ふ名前にはかなり聞き覚えがあるし、それになんだか懐かしい響きもする。それにしてもよく考へれば、そのあたりに生えてゐる木の実なぞ、いつどこでナメクジやら毛虫やらが通つてゐるのか分からないし、中に虫が巣食つてゐたのかもしれないのに、当時の私はよく洗いもせず口にしてゐたものである。今思ふとものすごく怖いことをしてゐたやうに感じられる。何にせよ、彼女はいつももぐ〳〵と口を動かす私を不思議さうに見てきては、差し出された木の実を匂ふだけして興味のなさゝうな顔をしてゐた。なんや食べんのか、お前いつたい、いつも何食べよんな。と、問うても我関せずと云ふ風に眼の前で伸びをするのみで、彼女は彼女でしたゝかに生きてゐるやうであつた。
気がつけば私は座り込んでゐた。眼の前では彼女が昔と同じやうに、なんちやら云ふ花の前に行つては気持ちよさゝうに匂いを嗅いで、恍惚とした表情を浮かべてゐる様子が繰り広げられてゐた。少しすると彼女の幻想は私の傍に寄つて来て、早く行きませう、けふはもう飽きてきちやいました、と云ふ。そして、リンと鈴の音を立たせながらさつと身を翻して、私の後ろ側に消えて行く。全く、相変はらず人を全く待たない子である。いや〳〵、それよりも彼女の亡霊を見るなんて、私は相当暑さにやられてゐるやうであつた。すつかりぬるくなつた水を口に含むと、再び立ち上がつて、田植えが行われたばかりの田んぼを眺めながら、彼女を追ひかけ初めた。
ところで、もうすでに読者は、延々と続く田んぼの風景に飽きてきた頃合ひであらうかと思ふ。が、そのくらゐしか私のふるさとには無いのである。私ですらこの時、懐かしみよりも飽き〳〵としてきた感情しか沸かなかつたので、もう今後田んぼが出てきたとしても記さないと約束しよう。だが歩いてゐると、いくつか昔とは違つてゐることに気がついたので、それは今こゝで記しておくことにする。まず、田んぼのあぜ道と云ふものがアスファルトで鋪装されてゐた。それも最近鋪装されたばかりであるらしく、未だにぬら〳〵と黒く輝いてをり、全くもつて傍に生えてゐる草花の色と不釣合ひであつた。かう云ふのはもはや都会人である私の嘆きでしか無いが、こんな不自然な黒さの無い時代を知つてゐるだけに残念である。二つ目は、新たに発見した田舎の美しさである。これはガレージの道のりからしばらくして空を仰いだ時に気がついたのだが、まあ、順を追つて説明していかう。断末魔のやうなツクツクホーシの鳴き声を聞くために足を止めた私は、ぼんやりと眼の前にある虎杖(いたどり)を眺めてゐた。ゆつくりと目を動かすと、崖のような勾配の向こう側に田んぼがだん〳〵になっているのが見える。決して棚田と云へるほど段と段が詰まつてゐる訳ではないが、その棚田のやうな田んぼのさらに向かふ側に、楠やら竹やら何やらが青々と茂つてゐるのが見え、そして、もう少し見渡してみると空の上に送電鉄塔がそびえているのが見えた。この鉄塔が殊に美しかつたのである。濃い緑色をした木に支へられて、淡い色の空をキャンバスに、しつかりとした質感を持つて描かれるそれは、赤と白のしま〳〵模様をしてをり、おそらく私は周りの自然とのコントラストに惹かれたのだらうと思ふ。この旅で最も美しかつたものは何ですかと聞かれたならば、空にそびえ、山と山を繋ぐ鉄塔ですと答へやう、それほどまでに私はたゞの鉄塔に感銘を受けてしまひ、また来ることがあるならば、ぜひ一枚の作品として写真を撮りたいと思ふのであつた。
ところで読者はその鉄塔の下がどのやうになつてゐるのかご存知であらうか。私は彼女と一緒に足元まで行つた事がある。行き方としてはまず田舎の道を歩くこと、山の中へ通ずる道なき小さな道を見つけること、そして藪だらけのその道に実際に飛び込んでみることである。もしかすると誰かのお墓に辿り着くかも知れないが、見上げて鉄塔がそびえてゐるならば、五分〳〵の割合でその足元まで行きつけるであらう。お地蔵様へ向かふために山道(やまみち)に入つた私は、その小さな道のある辻に来た時、つい鉄塔の方へ足を向けさうになつた。が、もうお昼時であるせいかグングン気温が上がり始め、路端(みちばた)の草いきれが目に見えるやうになつてゐたので、鉄塔の下で足を休めるのは次の機会にと思ひ、山道を登り始めた。別に恐ろしいと云ふほどではないけれども、車の音がずつと遠くに聞こえるせいか現世から隔離されたやうで、足取りはもうずいぶん歩いて来たにも関はらずかなり軽快である。私は今頃妻が子供と何をしてゐるのかぼんやりと想像しつゝ、蔓のやうな植物が、にゆる〳〵と茎を伸ばしてゐる柔らかい落ち葉の上を、一歩〳〵よく踏みしめて行つた。日曜の夕食時、もしかするとそれよりも遅くなるかもしれないが早めに帰ると云ふ約束の元、送り出してくれた妻は、今日はあなたが行きたがつてた王子動物園に行つてくるからいゝもん、と仰つていらつしやつたから、思ふに今頃は、子供を引き連れて遊びに行つてゐるのであらう。それも惜しいが、ペットたちとのんびりと過ごせなかつたのはもつと惜しい。特に、未だに懐いてくれない猫と共に週末を過ごせなかつたのは、もうかれこれ何年ぶりかしらん? あの猫を飼ひ始めてからだから、恐らく六年ぶりであらう。それにしてもどうして猫だけは私を好いてくれないのだらうか、家で飼つてゐる猫たちは、もう何年も同じ時を過ごしてゐるのに、私をひと目見るや尻尾を何倍にも膨らませて威嚇をしてくる。そんなに私が怖いのか。――などと黙々と考へてゐたのであるが、隧道のやうな木の生い茂りが開けた頃合ひであつたか、急に辺りが暗くなつて来たので空を仰いで見ると、雨の気配のする黒い雲が太陽を覆ひ隠してゐた。私は出掛けに妻に、どうせあなたのことだから雨が降ると思ふ、これを持つていけと折り畳み傘を一つ手渡されてゐたものゝ、これまで快晴だつたからやーいと思つてゐたのであるが、次第に埃つぽい匂いが立ち込めて来たので急いで傘を取り出して、じつと雨の降るのを待つた。――さう云へば、昔も雨が振りさうになつた時には彼女も傘に入れて、かうしてじつと佇んでゐたな。たゞ、そのまゝじつとしてゐてはくれず、雨に濡れると云ふのに、彼女はリンリンと軽やかな鈴の音を云はせながら傘の外に飛び出してしまふ。そして早く行かうと云はんばかりに、山道の少し上の方からこちらを見下ろして来くる。――懐かしい。今でもこの赤茶けた落ち葉と木の根の上に、彼女の通る時に出来る、狼煙のやうな白い軌跡が浮かび上がつてくるやうである。と、また昔を懐かしんでゐると、先程の陰りはお天道様のはつたりであつたらしく、木の葉の隙間から再び太陽が顔を覗かせるやうになつてゐた。私は傘を仕舞ひ込むと、再び山道を練り歩いて行つた。
だが、雨が降らなかつたゞけで、それからの道のりにはかなり恐ろしいものがあつた。陽が辺りに照つてゐるとは云へ、風が出てきて木の影がゆら〳〵とゆらめいてゐたり、ふつと後ろでざあつと音がしたかと思ひきや、落ち葉が何枚も〳〵巻き上げられてゐたり、時おり太陽が雲に隠れた時なぞは、あまりの心細さに引き返さうかとも思つた。そも〳〵藪がひどくて木の棒で掻き分けなければまともに進めやしない。やい〳〵と云ひながら山道をさらに進んで行くと、沼のやうにどんよりと暗い池が道の側にあるのだが、物音一つ、さゞなみ一つ立てずに、山の陰に佇んでゐるものだから、見てゐないうちに手が生えて来さうで、とてもではないが目を離せなかつた。そんな中で希望に持つてゐたのは、別の山道を登つても来ることの出来るとある一軒家だつたのだが、訪れてみると嫌にひつそりとしてゐる。おや、こゝはどこそこの誰かの父親か親戚かゞ住んでいたはずだがと思ひつゝ窓を覗いても誰もをらぬ。誰もをらぬし、ガランとした室内には酷く傷んだ畳や障子、それに砕けた天井が埃と共にバラバラと降り積もつてゐる。家具も何もなく、コンロの上にぽつんと放置されたヤカンだけが、寂しくこの家の行末を見守つてゐる。――もうとつくの昔にこの家は家主を失つて、自然に還らうとしてゐるのか。私は急に物悲しくなつてきて手の甲で目元を拭ふと、蓋の閉じられた井戸には近づかずにその家を後にした。行けば必ずジュースをご馳走してくれる気のいゝお爺さんであつた。
私の憶えでは、この家を通り過ぎるとすぐに目的のお地蔵様へと辿り着けたやうな気がするのであるが、道はどん〳〵険しくなつて行くし、全く記憶にない鉄製の階段を下らなければいけないし、どうやらまだ藪と戦はねばならないやうであつた。もうかうなつてくると、何か妖怪的なものにお地蔵様に行くのを拒まれてゐるやうな気さへした。だが、引き返す気は無かつた。記憶はほとんど残らなかったけれども、体は道順を憶えてゐるのか、足が勝手に動いてしまふ。恐怖はもはや旅の友である。先の一軒家を超えてからと云ふもの、その恐怖は猟奇性を増しつゝあり、路端(みちばた)にはモグラの死骸やネズミの死骸が、何者かに噛み殺されたのかひどい状態となつて散乱してゐたのであるが、私の歩みを止められるほど怖くは無かつた。途中、蛇の死体にも出くわしたけれども、どれも色鮮やかなアオダイショウであつたから、全く怖くは無い。そんなものよりよつぽど怖かつたのは虫の死骸である。私の行く手には所々水たまりが出来てゐたのであるが、その中ではおびただしいほどのカブトムシやカマキリが、蠢いているかのやうに浮いてゐて、ひやあ! と絶叫しながら飛び上がつてしまつた。別にカブトムシの死骸くらゐ、夜に電気をつけてゐると勝手に飛んでくるやうな地域で幼少期を過ごしたから、たいしたことではない。問題は数である。茶色に濁つた地面に、ぼつ〳〵と無数の穴が開いて、そこから黒い小さな虫が目のない顔を覗かせてゐるやうな感じがして、背中がゾク〳〵と殺気立つて仕方がなかつた。かういふ折には、ぼた〳〵と雨のやうに蛭が落ちてくるのが御約束であるのに、まつたく気持ち悪いものを見せてくるものである。
と、怒つたやうに足を進めてゐると、いつしか私は恐怖を乗り越えてゐたらしく、勇ましい足取りで山道を進んでゐた。するとゞうであらう、心なしか道も歩きやすくなり、轍が見え始め、藪もほとんど邪魔にならない程度しか前には無い。モグラの死骸もネズミの死骸も蛇の死骸も、蓮の花のやうな虫の死骸も、気がつけば道からは消えてゐた。そして一軒家を後にしてから実に二十分後、最後の藪を掻き分けると、そこには確かに記憶の通りのお地蔵様が、手をお合はせになつて私をお待ちしていらつしやつた。私は地蔵様の前まで来ると、まずは跪いてこゝまで無事に辿り着けたことに、感謝の念を唱へた。そして次々と思ひだされる彼女の姿に涙をひとしきり流し、お地蔵様にお断りを申し上げてから、その足元の土を手で掘つて行つた。冒頭で述べた、かの地蔵の傍に埋めたなにか大切な物とはこのことである。二十年のうちに土がすつかり積み重なつてしまつてゐたらしく、手で掘るのは大変だつたし、蚯蚓やら蟻やらよく分からない幼虫やらが出てきてゾツとしたけれども、しばらくするとペットボトルの蓋が見えてきた。半分ほど姿を見せたところで、渾身の力を込めて引き抜き、私は中にあつた〝それ〟を震へる手で握りこんでから、今度は傍にあつた漬物石のやうな大きな石の前に跪いた。手を合はせるときに鳴つた、リン、……と云ふ可愛らしい鈴の音は、蝉の鳴き声の中に溶け込みながら山の中へ響いて行き、恰も木霊となつて、再び私の手の中へ戻つてくるのであつた。
帰りの道のりは行きのそれとは違つて、かなり楽であつた。恐らく道を間違へてゐたのであらうと思ふ。何せ、先程見たばかりの死骸も無ければ、足をガクガクさせながら下つた階段も無かつたし、何と云つても二三分としないうちに例の一軒家へとたどり着いたのである。私は空腹から元の道へは戻らずに一軒家の近くにある道を下つて県道へ出、一瞬間今はなき実家の跡地を眺めてから帰路についた。いやはや、なんとも不思議な体験であつた、よく考へれば蝮に噛まれてもおかしくないのによく生きて帰れたものだ、とホツとすると同時に、なんとなく肩が軽くなつたやうな心地がした。――あゝ、お前でも放つたらかしにされるのは嫌なんだな。――と、私はもう一度顔が見たいからと云つて、わざ〳〵迎へをよこしてくれることになつた従妹を小学校で待ちながら、そんなことを思つた。
結局あのペットボトルは再びお地蔵様の足元に埋めた。中に入つてゐたものは私のものではなく、彼女のものであるから、あそこに埋めておくのが一番であらう。元はと云へば、私のなけなしの小遣ひで買つたものであるから、持つて帰つても良かつた気がしないでもないが、まあ、別に心残りはない。
さて、ふるさとに帰るとやはり思ふものがありすぎて、予定してゐたよりも大変長くなってしまつたけれども、これで終はりである。ちなみに、こゝにひつそりと記した里帰りの話は、今の今まで誰一人として信じてくれてはゐないので、もし��なたか一人でも興味を引き立てられた者がいらつしやれば本望である。
(をはり)
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群青同人作品
『群青』2017年6月号
高幡不動は山あぢさゐのなか、或る人から『群青』を横流ししてもらった。もしかしたら『群青』は偶数月刊なのかもしれない。
遠足の列葬列を断ち切りぬ 櫂未知子
餃子にも翼のありて卒業期 佐藤郁良
蒲田が発祥らしいが浜松餃子も羽つき。飛び立ちそうな餃子とともに卒業生たちも旅立つ。部活の先輩を送る会なのかも。〈羽根付きの餃子を添へて魂送/佐山哲郎〉
ヤッホーのホーがどこかへ風光る 日下部太亮
父の息足して仕上げの紙風船 熊谷真帆
トンネルの多き半島梅匂ふ 栗山麻衣
もみくたの半券出でて汐干狩 小橋すみ
栓抜けば水は渦巻く修司の忌 小林鮎美
ジャム一瓶ほどの同棲サイネリア 島季子
紙風船髭に触れつゝ膨らます 小鳥遊栄樹
髭と髪のこすれる音が聴こえる。かすれる音は紙風船特有のもので、髭が触れて息を入れられるとともに紙風船特有の音も強調される。
遅日なる花見小路の烏かな 武山平
謀略の片棒かつぐチューリップ 仲寒蟬
コンパスの利かぬ海域海市立つ 仲寒蟬
ぶらんこや空に消し跡あるごとき 永山智郎
新緑や塔は夜空のために立ち 永山智郎
枝のすぐそばの空より散る桜 抜井諒一
うぐひすを聞き鶯になりにけり 野木まりお
寝転びて骨のたしかさ春の雷 浜﨑結花
肺に管とほる蛙の目借時 浜﨑結花
春の夜の麹室より私語 柊ひろこ
私語(ささめごと)。
いつか不可視の桜木町に鳴る車輪 福田若之
「いつか」は未来のようで過去の話、旧横浜停車所は桜木町駅にあった。不可視にして不可逆の賑わい。
ファスナーのやうな電車や春の宵 福花
そういえば東京世田谷線はファスナーみたい、YKK。幼少期はファスナーを鉄道の玩具に見立てて遊べる。
蝌蚪育つ関東ローム層の涯 寳子山京子
長靴に体温の水春暮るる 幌谷魔王
鞦韆を置き去りにして煙草買ふ 幌谷魔王
春休み寝癖そのまま髪型に 三村凌霄
毎朝の私の言い訳ではないか。でもこの言い訳には学年が一つ上がり後輩のできる変化の春休み感はある。
ゆきやなぎ乗り捨てられて雨の汽車 宮﨑梨々香
電球を取り換へてより復活祭 矢野美羽
みづうみをこはさぬやうに卒業歌 山田風太
抑制のきいた歌声。湖ではなく仮名に開いたのは、純朴さの具象としてのみづうみだから。
のどけしや名字のやうな駅に人 山本卓登
春の夜のバスはこまめに人こぼす リド未来
灯台のための小島や百千鳥 青木ともじ
夜桜のぬかるみ河馬の口に似て 青本瑞季
やはらかく肺を使ひてしやぼん玉 茜崎楓歌
右手から蝶のはなしにすりかはる 安里琉太
ゆつくりとただの小川へもどる春 浅沼璞
真夜中のカルキの匂ひ朧月 泉山友郁
津田沼はざらざら冬の笛が鳴る 大塚凱
「胡桃の戦意のために」という小説の抜粋を句に仕立てたということだろう。数字は頁数を示すのか?
廃業の人形店や桃の花 川島拓
桃の節句を思わせる。雛人形の鮮やかさ。廃業店舗俳句には〈廃業の不動産屋に燕の子/鯨〉も。
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「あゝひめゆりの塔」(1968年、日活)
監督:舛田利雄。出演:吉永小百合、浜田光夫、和泉雅子、太田雅子
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