#��一無二の墨絵師
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✨現在ギャラリー結様は常設展示作品されているSHU墨絵作品を紹介✨ ( @gallery.yui.tochigi ) 個展『零之楼〜ゼロのやぐら〜』で大好評につき、少しでもSHU墨絵を身近に感じて頂きたい想いから、常設展示作品を増設しました✨ 【ページ1】 富嶽三十六景 現代墨絵版 【ページ2】 龍光 老舗人形店 人形のわたや×墨絵師荒川颼コラボ提灯 【ページ3】 A knight's tale 【ページ4】 来る4/28(金)国指定重要文化財 大阪市中央公会堂にて クラシック音楽×墨絵のコラボコンサート 『冥加』を開催‼️ 音楽・墨絵史上としても初 アートは一つに楽しんだっていい 見て、聞いて、感じる (*)席に限りがございますので、 お早めにご予約下さい🙇♂️ DMにてご予約受付致します✨ 最高の思い出をこのイベントにて❗️ ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 💫筆を使わない墨絵アーティスト💫 荒川颼 / SHU Arakawa 【颼墨絵作品 常設展示場所】 栃木県栃木市河合町4-16 tel: 050-5359-7563 Eat Me Sandwich 2F ギャラリー結 ✨✨✨✨✨✨✨✨ 筆を使わない墨絵アーティスト 荒川颼/SHU Arakawa www.shusumie.com Googleで『墨絵』または『ハンド墨絵』でトップ表示 #津波墨絵 #葛飾北斎 #富嶽三十六景 #大阪市中央公会堂 #音楽墨絵コラボライブ #筆を使わない墨絵師 #墨絵師 #墨絵 #sumie #ハンドドローイング #handdrawing #日本を代表する墨絵師 #墨絵アーティスト #書道好きな人と繋がりたい #画家さんと繋がりたい #飛墨 #hisumi #唯一無二の墨絵師 #唯一無二の墨絵アーティスト #しゅう墨絵 #shusumie #生きる墨絵 #UNESCO #世界遺産 #ライブパフォーマンス #墨ノ祭 #ギャラリー結 #栃木 #tochigi (大阪中央公会堂) https://www.instagram.com/p/CnSp3scygqw/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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各地句会報
花鳥誌 令和6年5月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年2月1日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
立春を待たずに友は旅立ちし 喜代子 習はしの鰈供へる初天神 由季子 在さらば百寿の母と春を待つ 同 春遅々と言へども今日の日差しかな 都 橋桁に渦を巻きつつ雪解水 同 盆梅の一輪ごとにときめきぬ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月3日 零の会 坊城俊樹選 特選句
飴切りの音高らかに春を待つ 和子 風船消ゆ宝珠の上の青空へ 慶月 天を突く手が手が福豆を欲す 光子 葬頭河の婆万年を寒く座す 光子 飴切りのビートを刻み追儺の日 いづみ 虚無なるは節分の達磨の眼 緋路 老いてなほ鬼をやらふといふことを 千種 恵方向く沓の爪先光らせて 光子 とんがらし売る正面に福豆も 和子 錫杖をつき仏性は春を待つ 小鳥
岡田順子選 特選句
厄落し葬頭河婆をねんごろに はるか 柊挿す住吉屋にも勝手口 眞理子 豆を打つ墨染のぞく腕つぷし 千種 奪衣婆の春とて闇の中笑ふ 俊樹 亀鳴けば八角五重の塔軋む 俊樹 節分や赤い屋台に赤い香具師 緋路 錫の音待春の鼓膜にも 緋路 飴切りのトントコトンに地虫出づ 風頭
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月3日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
ものゝふの声は怒涛に実朝忌 かおり 実朝忌由比のとどろきのみ残る 睦子 久女忌の空は火色にゆふぐれて かおり やはらかな風をスケッチ春を待つ 成子 実朝の忌あり五山の揺るぎなし 美穂 歌詠みは嘘がお上手実朝忌 たかし 死せし魚白くかたどり寒月光 かおり 実朝忌早き目覚めの谷戸十戸 久美子 寒月や薄墨となるパールピアス かおり 寒月に壁の落書のそゝり立つ 同 ふはとキスこの梅が香をわたくしす 美穂 昃れば古色をつくす蓮の骨 睦子 寒禽の過り裸婦像歪みたる かおり 人呑みし海ごつごつと寒の雨 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月9日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
両の手をあふるるあくび山笑ふ 美智子 春浅し絵馬結ふ紐のからくれなゐ 都 鰐口に心願ありて涅槃西風 宇太郎 柊挿す一人暮しに負けまじと 悦子 寒晴や日頃の憂さをみな空へ 佐代子 師の苦言心にとめて初硯 すみ子 この町を砕かんばかり月冴ゆる 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月10日 枡形句会
春菊をどさつと鍋に入れ仕上ぐ 白陶 落ちる時知りたるやうに紅椿 三無 装ひは少し明るめ寒明ける 和代 一品は底の春菊夕餉とす 多美女 中子師の縁の作詞冬の能登 百合子
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令和5年2月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
料峭の石橋渡る音響く 三無 苔厚き老杉の根に残る雪 あき子 羽広げ鴨の背にぶく薄光り のりこ 春まだき耀へる日の風を連れ 三無 吟行や二月の空は青淡き 和魚 春めきて日向の土の柔らかく 三無 春の陽を川面に溜めてゆく流れ 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月12日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
古暦焚くパリの下町も焚く 昭子 豆撒や内なる鬼を宥めつつ みす枝 落日にして寒菊の色深し 世詩明 被災地の家もひれ伏し虎落笛 ただし 裸婦像の息づく如く雪の果 世詩明 雪吊の縄にも疲れ見えにけり 英美子 ありし日の娘を偲び雛飾る みす枝 それぞれの何か秘めたる卒業子 世詩明 今生の山河に満つる初明り 時江 九頭竜の河口に余寒残しをり 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
春立つや電車もステップ踏み走る 紀子 薄氷を横目に見つつ急く朝 裕子 商店街バレンタインの日の匂ひ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 萩花鳥会
白梅と紅梅狭庭にうらうらと 祐子 熱���で泣けたあの唄亜紀���唱 健雄 如月の青空のこころ乗り移る 俊文 春の霜とぎ汁そつと庭に撒き ゆかり うすらひを踏むが如くの孫受験 恒雄 透きとほる窓辺の瓶や冬の朝 吉之 身に纏う衣減らざり春浅し 明子 躙り口扇子置く手に零れ梅 美恵子
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令和5年2月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
越前の雪の生みたる雪女 雪 又次の嚔こらへてをりし顔 同 一としきり一羽の鴉寒復習 同 横顔の考へてゐる寒鴉 同 老いて尚たぎる血のあり恵方道 真喜栄 節分会華を添へたる芸者衆 同 白山の空より寒の明け来たり かづを 紅梅や盗まれさうな嬰児抱く みす枝 老犬の鼾すこやか春を待つ 清女 佐保姫やまづ能登の地に舞ひ来たれ 嘉和 収骨の如月の手は震へつつ 玲子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月16日 さきたま花鳥句会
煮凝を箸で揺らしつ酒を酌む 月惑 春一番ドミノ倒しの駐輪場 八草 雪残る路肩を選りて歩く子ら 裕章 春立つや蠢く気配絵馬の文字 紀花 朽木根に残してあがる春の雪 孝江 見舞ふ友見送る窓の老の春 ふゆ子 鼓一打合図に開始鬼やらひ ふじ穂 スクワット立春の影のびちぢみ 康子 匂ひ来し空に溶けたる梅真白 彩香 生みたてと書きて商ふ寒卵 みのり 寿司桶の箍光りたる弥生かな 良江 春泥や卒寿の叔母の赤き靴 珪子
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令和5年2月18日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
総門を白く散らして梅の寺 斉 俯ける金縷梅の香や山門に 芙佐子 恋の猫山内忍び振り返る 斉 日溜りに小さき影なし猫の恋 白陶 腰かけて白きオブジェの暖かし 久子 鳥もまた盛んなるかな猫の恋 白陶
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月21日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
撫で牛に梅の香纏ふ天満宮 笑子〃 白梅の五感震はす香の微か 千加江 真夜の雪寝る間の怖さ知るまいの 令子 銀色の光ほころび猫柳 啓子 復興や春一丁目一番地 数幸 紅梅の謂を僧の懇ろに 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
一羽には一羽の矜持寒鴉 雪 憶却の先立つてゐるちやんちやんこ 同 煮凝りや良き酒飲めて子煩悩 同 来し方を語り語らず大冬木 同 此の人の思ひも寄りぬ大嚏 同 初春の遥か見据ゑ左内像 一涓 熱燗や聞きしに勝る泣き上戸 同 己がじし火と糧守りて雪に棲む 同 灯もせば懐古の御ん目古雛 同 もう少し聞きたいことも女正月 昭子 冬日向ふと一病を忘れけり 同 瀬の音にむつくりむくり蕗の薹 みす枝 夜中まで騒めき続く春一番 やすえ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
寒紅や良きも悪しきも父に似し 雪 退屈をひつかけてゐるちやんちやんこ 同 春立つや千手千眼観世音 同 路地路地に国府の名残り春の雪 同 節分会葵の御紋許されて 同 越前の夜こそ哀し雪女 同 瓔珞に鐘の一打にある余寒 清女 能登地震声を大にし鬼は外 数幸 春塵や古刹の裏の道具小屋 泰俊 蕗の薹顔出し山を動かしぬ 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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10月Live Schedule
成田千絵HP
鏡の郷
2023年10月28日(土)
渡会光晴(ピアノ)
成田千絵(チェロ・歌)
梅田有希(舞)
渡会美枝子(奄美のシマ唄・語り)
水鏡
鏡師 石谷ヒロム
一部 開場13時 開演13時半 終演15時
二部 開場17時 開演17時半 終演19時
各回 チャージ 3,500円
[お問い合わせ ご予約]
飛鳥ピアノサロン TEL0090-9812-3248 [email protected]
または[email protected](成田)
bwebwenato
〒639-0276 奈良県葛城市當麻181
0745 60 6761
ご予約の際に一部か二部の明記と
お名前、人数をお知らせ願います。
Sòl Wineさんによる、Bonjourワインと無添加のシャルキュトリ(ハム、ベーコン、ソーセージ)とお菓子の出店をぜひお楽しみ下さい。
ワインは開演前にご注文頂けます。
フードの提供は一部終演後の15時以降となります。
二部にお越しの方でご希望の方は、15時以降〜17時まで食と空間をお楽しみ下さい。
コンサート中のワイン、フードのご提供はありません事をご了承下さい。
ソフトドリンクのご用意もございます。
白明の刻
2023年10月29日(日)
成田千絵(チェロ・歌)
Steve Eto (打楽器)
桃蹊(墨)
17:30開場18:00開演
4000円(全席自由)
ギャラリーアズas art _scene
〒630-8374 奈良県奈良市今御門5
ご予約
旅館松前 0742-22-3686
または
[email protected] (成田)
白き静寂に
浮かび上がるのは
微かな想い
生命の脈動
チェロ・パーカッション・墨による
新たな物語
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武井武雄 刊本作品リスト
※参照: Results – Advanced Search Objects – Museum of Fine Arts, Boston | Artist/Maker: Takei Takeo | DATE OLDER FIRST
※参照: 出品目録:所蔵作品展 「武井武雄 刊本作品の世界」(2021年6月22日-9月12日)PDF
※上記PDF目録を元にMFAの該当ページをリンク
※「技法・素材」の()は「原書に記載が無い」意味で記入
※「001 十二支絵本 1935 (一色凸版)」のみMFAには無い
※参照: Takeo Takei#Books_of_various_materials_(Kanpon) - Wikipedia
※参照: TAKEI Takeo : Kampon - Boston Book Company (web archive)
※可憐判No.を追記(一部自己解釈) 20220209
※「Keep reading」以下 139 lines
刊本No. タイトル 刊出年 技法・素材
001 十二支絵本 1935 (一色凸版)
002 雛祭絵本 1936 (凸版筆彩)
003 諸国絵馬集 1937 (二色凸版)
004 善悪読本 1938 (二色凸版)
005 童語帳 1939 (自刻木版可憐判1? )
006 畑の豆本 1940 (スクラッチ版)
007 本朝昔噺 1941 (合羽版)
008 十二時之書 1942 (石版)
009 伊曽保の絵本 1943 (アップリケ原色版)
010 風村三代記 1944 (伝承木版)
011 燈 1945 自刻木版
012 KOKESHI 1946 伝承木版
013 僕の哥留多 1946 自刻木版
014 お猫様 1947 (自刻木版 活版)
015 牡丹妖記 1948 木刻拓本摺
016 のえる之書 1949 自版糊染本
017 乞食の本 1950 自刻木版
018 聖AGNES之書 1951 木口木版
019 もりどんの話 1951 自刻木版(可憐判2)
020 あいそぽす・ふあぶら 1952 VARI-TYPE・木版
021 菊妖記 1953 レリーフ 拓本
022 秒間の符 1953 CHORD PRINT 條版
023 天竺の花 1953 陶版
024 ARIA 1954 層版・紙拓
025 折鶴物語 1955 瓦版
026 胡蝶散策 1955 三色凸版 胡蝶型
027 姫の尺牘 1955 友禅
028 霊長異聞 1956 WOVEN LABEL
029 第五の世界 1956 HELIOGRAVURE
030 誕生譜 1957 eau-forte
031 木魂の伝記 1957 寄せ木
032 極秘亭探訪 1958 cello-slide
033 六之助行状 1958 鑢孔版
034 雪の讃頌 1958 TANDEM PRINT
035 近くの世界 1958 原色版
036 太陽と孔雀 1959 蝕彩金工
037 えでんの異変 1959 Collotype
038 Sphère 1959 写真による詩集
039 かなりやABC 1959 グランド孔版
040 お化け退場 1959 Colour gravure
041 ストロ王 1960 STRAW MOSAIC
042 Q子の奇跡 1960 ドライポイント電鋳
043 七重と八重 1960 彫紙 漆摺
044 四十四番館 絵入物語 1960 (木版)
045 林檎と人間 1961 石膏版
046 神々の旗 1961 アルミ詩書
047 運のわるい男 1961 木刻乾拓摺
048 宇宙裁縫師 1961 伝承西洋木版
049 HAREM 1961 Applique
050 独楽が来た 1962 日本伝承木版
051 天国と地獄 1963 自刻木版(可憐判3)
052 卵から卵 1963 木綿型染
053 鬼の郷衛門 1963 Wonder view
054 紫の眼鏡 1963 自刻木版(可憐判4)
055 ラムラム王 童話 1964
056 真珠の池 1964 polystyrene paper edition
057 河童河太郎 1964 自刻木版(可憐判5)
058 新しい地球 1965 TOP-STEREO
059 人魚と嫦娥 1966 高岡螺鈿
060 Leoの魔法 1965 relief print
061 造物主失踪 1965 自刻木版
062 侏儒の饗宴 1966 ろうらっくす詩書
063 祈祷の書 1966 Sベランの本
064 二十世紀の虎 1966 自刻木版可憐判(6)
065 人生切手 1966 彫刻凹版
066 さもいや伝 1966 印伝
067 風・水・火・星 1966 Technamation
068 逆立勘九郎 1967 自刻木版可憐判 (7)
069 六つの窓 1967 Qper本
070 悪魔の旗 1967 EMBOSSOGRAPH MOSAIC
071 湖のひと 1967 Miracle tower
072 KAGEYA 1967 木口木版
073 鳩と奇術師 1967 静電印刷
074 笛を吹く城 1968 Sベランによるゴブラン織
075 けちな神様 1968 自刻木版可憐判 (8)
076 あるくJACK 1968 現代ガラス絵
077 眼球異聞 1969 RAINBOW PRINT
078 モスクワの月夜 1969 自刻木版可憐判 (9)
079 Л子の船出 1969 TRANCEART
080 迅四郎の窓 1969 APR・STAINED GLASS
081 世界は渦巻 1969 (凸版)
082 花園の気流 1970 植毛印刷
083 世界革命 1970 自刻木版可憐判 (10)
084 平和白書 1970 THERMOPRINTEX
085 女人禁制 1971 自刻木版可憐判11
086 天とは何か 1971 凸版可憐判 (12)
087 呂宋お菊 1972 拓摺
088 瓢箪作家 1972 COUPAGE
089 面倒無用党 1972 RELIEF
090 現代の神々 1972 伝承木版可憐判 (13)
091 虹を作る男 1972 自刻木版可憐判14
092 小萩抄 1973 折本上下二冊(凸版)
093 おかしな象の話 1973 (凸版)
094 高杉晋作 1973 (多色オフセット)
095 造物主御帰還 1973 自刻木版可憐判15
096 双青の夢 1974 自刻木版可憐判16
097 RomとRam 1974 皮革印刷
098 金色の森 1974 miniature d’or (金線印刷)
099 どん・きほうて 1974 coupage
100 雄鶏ルコック 1975 エンボス
101 小さな雪女 1975 賦形 SNOW VIEW
102 狗猴考 1975 自刻木版可憐判17
103 洗脳奉行 1975 四色凸版
104 天狗天八郎 1975 孔版
105 珍和名抄 1975 自刻木版可憐判18
106 半介の神様 1976 凸版
107 アイウエ王物語 1976 (オフセット 凸版)
108 ナイルの葦 1980 パピルス造本
109 王様の馬車と乞食の馬車 1976 自刻木版可憐判19
110 京之介と千草 EXLIBRIS 1977 (木版 凸版)
111 提灯の詩 1977 ヴィベール造本
112 鼡小僧下呂吉 1977 (凸版 孔版)
113 雷おさん 1977 自刻木版可憐判20
114 紺次とお丹 1977 SEALING PRINT
115 人生の門 1978 (凸版)
116 靉蘭の鯉 1978 剪紙 倪瑞良 (金箔)
117 ルイとカンナ 1978 puf-bord版
118 袖の下 1979 自刻木版可憐判21
119 エリアナ姫と蝶 1979 アルミナ磁器
120 花竜と狸 1979 (三色凸版)
121 車夫萬五郎 1979 (二色凸版)
122 珍竹林之命 1979 (二色凸版)
123 番傘奇譚 1979 Puf-bord版
124 可平と猫 1979 (二色凸版)
125 シンの魔法 1979 自刻木版可憐判22
126 べら棒物語 1980 賦形熱版
127 加藤清正 1980 (三色凸版)
128 百済の仙人 1981 (一色凸版)
129 裸女ネサイ 1980 自刻木版可憐判24
130 月から来た子 1981 凹式金線版
131 千手観音 1981 笹画仙(墨絵オフセット)
132 陶工栗衛門の妻 1981 自刻木版可憐判
133 風神と雷神 1982 蒲葉抄紙 (凸版)
134 赫夜姫後日譚 1982 (三色凸版)
135 釣鐘異聞 1982 彩雲紙 (凸版)
136 いそなげき 1982 STAMPING
137 ABC夜話 1982 可憐判 (自刻木版と凸版併用)
138 鳥遣いの乙女 1983 LASER光線CUT
139 天竺の鳥 1983 印���更紗 印度手漉紙 (二色凸版)
以上
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覆される常識、日本美術の「独自性」は縮小していた 「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史の研究が進むにつれて、日本美術に関するさまざまな常識が塗り替えられつつある。西洋や中国に目を向けて日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。(全2回・前編/JBpress) (※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。 ■ 多くの美術品が現存する幸運な国、日本 日本は各時代にすばらしい美術作品を生み出し、今でもそれらは世界じゅうの人々に親しまれている。しかも、それらの多くが遺(のこ)っている幸運な国である。 隣国の中国や朝鮮半島、あるいはベトナムの場合、相次ぐ戦乱や侵略のため、古い時代のものは遺っていないことが多く、時代によってはきわめて大きな欠落がある。そうした時代の美術は、文献資料やのちの模本から想像するしかない。これに対し外国の侵略をほとんど受けたことのないわが国は、戦災や天災で多少のものが失われたとはいえ、縄文時代以降、各時代の重要な作品のほとんどは現存しており、きちんと美術の流れをたどることができる。世界を見渡すと、そのような幸運な国のほうがめずらしいのである。 明治期に近代国家が成立すると、国家の伝統や歴史を見直す作業の一環として日本美術史というものが構想され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に際して日本最初の美術史と目される『稿本日本帝国美術略史』が編集された。以後、日本美術史は何度も書き換えられつつ徐々に精度を増し、部分的に更新され修正されることはあっても、そのストーリーの大枠はおおむね定着しているようにみえる。 ■ 「日本美術の特質」への問いかけ このような日本美術史を通覧し、現存する作品群を見ると、中国や西洋などさまざまな外来の美術に影響され、目まぐるしく変化してきたことがわかるが、同時にその底に流れる一貫した日本美術の特質というものが浮かび上がってくる。 たとえば和と漢、あるいは雅と俗という二面性が併存したかのよう見えるが、両者は複雑に融合していた。そして、中国や西洋の美術という外来文化の影響やそれに対する古来の様式という二項対立だけでは説明できない日本美術の独自性があると思われるのだ。 1925年、大著『サンドロ・ボッティチェルリ』をロンドンで出版して評価され、東西の美術について高い見識をもっていた美術史家の矢代幸雄(やしろ・ゆきお)氏は、著書『日本美術の特質』(1943年)において、日本美術の特質は、「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」の4つにあるとした。また、日本美術史の碩学、源豊宗(みなもと・とよむね)氏は、『日本美術の流れ』(1976年)で、西洋美術、中国美術、日本美術を象徴するモティーフをそれぞれ「ヴィーナス」「龍」「秋草」であるとした。日本美術を貫くのは、繊細な秋草の美学だというのである。 日本における中国美術の影響について先駆的な研究を遺した戸田禎佑(とだ・ていすけ)氏は、『日本美術の見方 中国美術との比戦による』(1997年)において、日本美術のもっとも重要な特質は「平面性」にあるとしている。 近年、『日本美術の歴史』(2005年)を書き下ろした辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、日本美術の特質を、「かざり」「遊び」「アニミズム」という3つのキーワードで説明しようとした。日本美術にはつねに装飾性が見られ、遊戯性があり、自然崇拝の系譜があるというのである。また、東京大学で辻惟雄氏の後任であり、旺盛な活動を続けている美術史家、河野元昭(こうの・もとあき)氏は論文「日本美術の素性」(2010年)でこうした先学の見解を検証しつつ、日本美術の最大の特質は「シンプリシティー」にあると論じている。いずれの見解も傾聴に値するものであり、的を射ているように思われる。 ■ 縮小する「日本美術の独自性」 18世紀末から20世紀初頭にかけて流行したジャポニスムは、浮世絵を中心とした日本美術の絵画や工芸がフランスなど欧米の美術に作用し、日本美術が欧米の先進的な美術に影響を与えた稀有な現象であった。浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性は、西洋で伝統美術の様式を打破して新たな造形を生み出そうとしていた芸術家にとってタイムリーであったため、大きな刺激を与えることになった。しかし、皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を継承することはほとんどなかったのである。 また、これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら影響を与えたことはまったくなかった。 12世紀初めの『宣和画譜(せんながふ)』に、徽宗(きそう)皇帝(在位1100~25年)の所蔵する日本の屏風3点について、「金碧(きんぺき)を多用」しているが、「真」に欠けると批判されている。中国や朝鮮の人々にとって、日本美術は中央様式の地方化したものとしか映らなかったのである。 明治以前の日本で、海外で活躍した美術家は知られておらず、中国・元で客死した禅僧画家黙庵(もくあん)やマカオに追放されたキリシタン画家ヤコブ丹羽(にわ)の活動がわずかに推測されるくらいである。 さらに、日本美術の独自性というのは、たまたま日本には中国や朝鮮半島よりも多くの美術作品が遺っているために、そう思われてしまう場合も多いのである。 たとえば、平安時代のやまと絵は、かつては遣唐使廃止による国風文化の産物だとされてきたが、中国美術史の研究が進んだ現在では、やまと絵とされるものの大半は失われた唐宋美術を反映したものであって、その特徴のほとんどは和様化とはいえないということが明らかになっている。截金(きりかね)を多用した繊細で工芸的な平安時代後期の美麗な仏画も、かつては日本化の極みだとされて賞賛されてきたが、じつは、ほとんど��失われた宋代の仏画の技法を模したものであるということもわかってきた。 近年ブームとなった若冲(じゃくちゅう)や蕭白(しょうはく)ら江戸中期の奇想派については、京都の成熟した町衆文化が生み出したものであっても、明(みん)代の奇想派や長崎の来舶清人(らいはくしんじん)の影響によるものも大きいということが指摘されている。 つまり、日本美術の独自性と呼べる要素は、美術史研究の進展とともにどんどん縮小していっているのである。日本美術を正しくとらえようとすれば、その独自性や美質などにこだわらず、東アジア文化圏を中心とする世界の中で位置づけて眺める必要があろう。 宮下 規久朗 JBPRESS 7/8(月) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=2 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=3 >「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、 日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。 笑www この文章読んでいて、宮下 規久朗とかいう美術史の大センセーの、 自虐的なシナ事大主義的な独自性のないアホぶりがわかった。 この程度で大学教授なら、私にでもできそうな簡単なお仕事だなw この時代になっても相も変わらず、日本文化はシナ朝鮮より劣る的な、 或いは独創性はない的な、みたいなシナチョンスタンスの屁理屈を 大学のエラいセンセーがまことしやかに語っているのに笑った。 そもそも、世界のどの時代のどの文化においても、 完全無欠の民族の文化的オリジナルなどというものはない。 シナ文明も大陸の雑多な民族の文化的要素の集合体ではないか。 それを総称してシナ文明だの、エジプト文明だのと称しているだけである。 そしてその文化もまた他の様々な文化的要素と融合して発展し、 同時にまた、他の民族や地域の文化にも影響を与えるのである。 いわば文化文明は相互に影響しあって発展するものである。 それにこの宮下 規久朗とかいう神戸大学のセンセーって、 美術史が専門だそうだが、シナチョンに何か思い入れがあるのか? ちなみにこの宮下 規久朗センセーのツイッターはこんなの・・・ https://twitter.com/kikuroma 現在の大学にはこの手の人士が多いみたいですな・・・ この論評の■ 「日本美術の特質」への問いかけまでは、 いろいろ��学者の日本美術の特質の紹介で、それぞれの説にも整合性があり、 またこれらの説のすべてがまた日本美術の特色ともいえるだろう。 問題はその次である・・・ ■ 縮小する「日本美術の独自性」って何なんだ? 宮下センセーの論文に通底しているのは・・・ 日本美術など所詮シナの物真似、 日本美術のオリジナリティなんて、 元々からないも同然なのだから、 特筆評価などする価値すらない、 ・・・ということらしい。
果たしてそうだろうか? >皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を 継承することはほとんどなかったのである。 そうだろうか? 私は浮世絵に代表される日本美術はその後の日本人も立派に受け継ぎ、 欧米の美術界に対しても少なからぬ重要な影響を与えつつ、 その後の日本美術にもまた、それを逆輸入してきた経緯があると思う。 「浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性」は現代日本画の世界においても、 日本のサブカルチュアを代表する漫画やアニメーションの表現においても、 グラフィックデザインの表現にも立派に受け継がれているではないか。 一応宮下センセーは明治以降の日本美術がジャポニズムと呼ばれ、 西欧の美術工芸界に大きな影響を与えた事は認めていらっしゃるが、 このことだけでも美術史における日本美術の価値は特筆に値する。 浮世絵に代表される日本美術がフランス・パリ万博からジャポニズムとして 全欧州に発信され、印象派(新印象派、後期印象派)やアールヌーヴォーが生まれ、 それがさらに発展してアメリカ現代美術に発展した経緯が美術史の流れである。 ジャポニズムがイズム=主義として表されている思想は無視できない。 それはシノワズリーという東洋趣味の流行とは大きく一線が引かれるべき、 いわば西欧美術思潮の一つのコンセプトでもあったからだ。
セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」 様々な角度から描いたヴィクトワール山の連作は、 北斎の富岳三十六景からインスパイアされ��らしい。
ゴーギャン「マハナ・ノ・アトゥア」 この平面的な色面構成的な表現は浮世絵からの影響だ。
クリムト「接吻」
金箔を多用した大きな空間をとり単純化されたフォルム、 これも明らかに障壁画などの影響がうかがえる作品だ。
中でも西欧美術に影響を与えたのは江戸の町人文化だろう。 しかし宮下センセーはこれとてもシナ文化の影響にあるというが、 一部にそれらしきものがあっても、それがすべてではないと思う。 仮にシナの影響があったからといって、それが何だというのだ? シナの各王朝文化だって周辺の民族の様々な影響があったのだ。 先に述べたように、元来何の影響もなく発展した文化文明など皆無である。 北斎、広重、歌麿などの浮世絵師はもちろんのこと、尾形光琳の琳派系絵師、 伊藤若冲や丸山応挙などは現代美術を先取りしたコンセプトが確立していた。 立体造形でいえば安土桃山時代の織部好み陶器などはまさに現代美術だ。 以下に掲載した当時の巨匠たちの作品には、 現代美術の概念を先取りしたような先進性を感じるが、 宮下センセーのいうようなシナの影響下にあったがゆえに、 日本美術の独自性は縮小(ない)しているのだろうか?
尾形光琳「紅白梅図屏風」 川や梅の木を特徴を残して単純化させる意匠概念は、 のちに日本のデザインにも多大な影響を与えている。
伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」 この絵は升目描きという、升目ごとに色をいれてモザイク画のように表現した。 現代風にいえばドット画像みたいなもので、このような手法は同時代にはない。 あえていえば新印象派のスーラの点描が近いが、概念が全く違う。
伊藤若冲「鶴図屏風」
墨をつかった白線描の作品。鶴の様々な姿態が単純化されたフォルムと
勢いある線の筆勢がいかされた、ある意味現代の漫画にも通じる作風だ。
丸山応挙「大瀑布図」 この絵は円満院というお寺の住職に贈られたものだが、この寺の庭に滝がなかったので、応挙はこの絵を庭木の枝に掛けて垂らし、下三分の一は地面に寝かせて滝つぼを表した。このような平面絵画を立体的に鑑賞するインスタレーション的手法はこの時代になかった。
丸山応挙「氷図」 湖面に張った氷のヒビを線一本のみで見事にあらわした傑作である。 無駄な要素を一切排除した究極の単純化で凍てつく寒さを表現している。
織部好み茶器 武将古田織部のプロデュースとでもいう「織部好み」の陶器は、「へうげもの」と称され、わざと歪めたフォルムや幾何学模様をあしらった伝統や形式にとらわれない実に現代的な表現だ。 ↑ これら一連の様式もすべて、 シナの模倣だというのか!? 以下はほとんど日本美術を腐すだけの屁理屈。 >これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら 影響を与えたことはまったくなかった。 当たり前じゃないか(笑) そもそも・・・ 日本は江戸時代に265年も鎖国をしていた国なのだから、 明治以前に日本の文物そのものが諸外国に輸出されることもないし、 あってもごくわずか、だから影響も与えるものではなかった。 こんな事日本の歴史をみれば高校生でもわかる話だ。 しかしだからそれ何だというのだ? いったい宮下センセーは何が言いたいのだ? この人は文化は影響を与えれば、 「エライ」と思っているようである。 だから明治以前の日本美術はシナ朝鮮に影響を与えていないから、 シナ美術の物真似レベルの評価に値しないものといいたいのだ。 宮下センセーの「影響を与える、与えない」にこだわる意図は何なんだ? じゃあ、明治以降の日本美術は先進国の西欧に大いに影響を与えたから、 すご~く特筆大書すべき価値があって、西欧より優れているということか? そうではあるまい。上述したように「文化は相互の影響で発展するものだ。 どちらの文化は優秀とか劣っているという問題ではないのだ。 宮下センセーの御説はまるで朝鮮人が 「これはウリジナルニダ~♪」というのを思い出す。 ルネサンス期の西洋美術も西域のイスラム教文化や遠くは、 インドやシナの様式にも影響を受けてきたことは近年の研究、 特に田中英道東北大学名誉教授の研究で明らかになっている。 しかしルネサンス絵画がその後のシナ絵画に影響を与えなかった事は、 西欧絵画が明朝や清朝の絵画より劣っているという事なのだろうか? 宮下流のコンセプトで見れば、こういう事ではないのか? さらに首をかしげたくなるのはシナと朝鮮を同列に置いて語っている事だ。 朝鮮など千年以上も歴代シナ帝国の属国属領に過ぎなかった植民地だ。 こんな国にオリジナルがあろうはずがなく、自ら小中華と誇った事大主義国だ。 なぜ宮下センセーはシナと朝鮮を同等に置きたがるのだろうか? 所詮は事大主義のシナの劣化コピー版が朝鮮に過ぎないのである。 まさか小中華思想が日本より優れている?というのではあるまいな?
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JGmomentⅠ
twitterのモーメント移植
囈【たわごと:筋道の立てない言葉、寝言】自分めも
自分の頭の中と、知識前提でこぼしてるからはたから見たら伝わらないし齟齬しか生まれそうにない
変装がうまいひとが化粧してあげるのほんとすきなの………でも首化粧とか死化粧とかもいい題材ですよね………
まぁ時代錯誤なんですけどね、生首は……でも死体偽装やってそうだからありです…?
にんたまで某変装名人が変装には観察が必要、だから日頃からスケッチをして観察力を鍛える~ってあってですね、絵がうまいんですよ、つまり変装がうまい人は絵がうまいんですよ、……言いたいことわかるな?(という顔
今更だけど舞台OPのとこで田崎さんが福本さんにのとこ二部の伏線かな…
福本さんの潜入先としてどこかの定食屋の厨房とかもやってるかもね
多分ね、日本にいる間は料亭の厨房とか旅館の厨房とかにも出入りしてたと思うんですよね
福本さんの料理帖みたいなのもつくりたいきもちだけ
高身長いかしてモデルやってる福本さんとぼくさーの傍ら減量レシピ本だしてる福本さんとイケメン料理研究家として料理番組と雑誌連載もってる福本さんっていうネタがある(備忘録
まつげが長い&まっすぐ&伏せがちな人の目にはハイライトが本当に入りにくいのでみよさんはそんなイメージ
ゆうきちゅうさ(現パロだと何かすごくて偉い人)の隣にいつもいるイケメン敏腕秘書っていうネタもある
和装のときの色合いといい黄色いレインコート・傘が、もしはたのさんご自身で選んでそれなのだとしたらはたのさんは致命的な部分がおわかりですね
自分の中の過去考察がないと脈略無さすぎるんだけど「揚屋のおねえさん方に遊ばれた(化粧、お着替えなど着せ替え人形てきな)のがきっかけで女装に抵抗がない」というのを踏まえた実井くんを描きたい
かえる場所はどこにあるのか。 いや、そんなものなど葬った。 待っているのは真っ黒な孤独だけだ。 帰る、還る
軽率にきりすと教における白百合の意味など調べてしまい、柩の献花としては普通なのだけれどこっち側が勝手に考察深めてしまっているのでみよさんはピエタやってほしいし、修道女だけどべるにーにの聖テレジアの法悦やってほしい
演者を演じる、というのも好き
あの学生集合写真も合成出きるんだなってわかりました
「必ず救うの軍なきものは必ず守るの城なし」:援軍のくるアテのない城でがんばっても、落城は時間の問題ということ。
「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」中国の兵法家・孫武の言葉。戦いに勝つには敵をよく知り、自分の力を正しくつかんでおくことが何より大切ということ。
猫の目時計:猫の瞳は薄暗い夕方になると、まん丸になる。忍者はこうした猫の瞳の変化で時刻を知ることが出来る。 教養なき忍びは滅びる
任務でペアくんで主従してるのもみたい(の名残が執事
者で学んだことがスパイ���あてはまりまくるからやっぱり忍術の勉強したっての本当だよ?!?!?!???ってなる
戦の規模が大きくなればなるほど事前の調査ってものが必要になってくるでしょ、戦に勝つのは敵より情報収取が優れている場合です(事件の本質の段/庄・乱 メモ
最初のスーツを仕立ててるところもみたい、きんぐすまんみたいな…あーいう…かんじ…
それはそうと軽卒にきんぐすまんパロも、考えたりはしてるんだけどえぐじーとほまた逆方向の愚直さである佐久間さんは正義感でつっぱしるかんじなかな、と
和装の時に軽卒に極道ぱろを考えたりしてたんだけど純真に極道にそだってしまったさくま坊っちゃんもよい 。考えてたのは極道の家で警察官をめざすさくま坊っちゃん……。 和装からの軽卒ごくどうパロのチャートをかるーく考えているので今日はそれをもう少し練る()それはそうと機関員の背中に妖怪背負わせたい(墨でもすたじゃん刺繍でもよい
1話みるとなんで背の低いやつに天井裏~のこめんとが流れたりするんだけど背が低いから天井裏なんて狭いところ点検するんやで…( ˘ω˘ )って毎回なる。別に高いところは跳躍なり腕力なり梯子なりで上れるからな
盆栽にやさしいのはあの数の盆栽あったら家1軒買い替えるよりも高くつくからなんだろうなと思うのです…とくに自分で世話・といよりは作家から(もしくはコレクターから)買い付け⇒維持という意味での世話してそうなイメージ
軽率に忍びの卵とすぱいが脳内でお話しするんだけどスパイとして生き抜いたcvしものが影が薄いことを悩んでいるcvしものにうらやましいな、ってよく言ってる。 すぱいのほうのcvかじはにんじゃのたまごのcvかじの笑いどころがわからなくてすぐツッコミ役になってる
それはそうと機関員たちの見分けつくようになったよな~とか考えてたけど軍人とか学生(当時の)になったらそれこそ見分けつかなくなるわけで、あの時代だったら個性ありありじゃん~~~~って思い直しました(?)
あの姿(見目麗しい・洒落ている)をデフォルトとして印象付けといて、変装するときに一般的な外見にすることで同一視を避けてる感じなのかもしれないな…
今の感覚だと地味で終わってしまうかもしれないけど当時の感覚だと違うよね、スーツ一式仕立てて、ほぼ毎日で、そんな若い男性が複数人いるわけで
機関員世界線の現代なD組記憶もち転成ぱろで、機関員時代の記憶のせいでうまくいきができない機関員のそれぞれの子供時代~みたいな話が!よみたい!のでしっていたら教えてほしいです……(五体投地)にん…のたまごたちの二次だとたまにみかけるので……ありませんか…
自分の体にきすまーくつけられることは厭わないの��唇は奪わせない機関員…などをかんがえた
色の任務はするけどのらりくらりと唇にはしないしさせないんだァ…相手(女性だとして)にも「こんな男にあげちゃだめだよ」とか言ってそうだな~(キャラ指定はしてない)
機関員のうなじにバーコードつけたい
化物として生まれたのか、化物として育っていったのかというお話
愛される人を演じるのは得意なんですよ、(愛なんて知りませんけど)って機関員に言わせたい
在りし日の己を「友人」とか「隣人」とか言いながら話す機関員の物語よみたい
遠近法?で手で顔かくすやつやってほしい
絶対見せてくれないだろうけど機関員の瞳からつたう涙がみたい…かばーによってはわらうしおこるしかなしむだろうけど涙は見せないんじゃないかな
普段着で派手柄シャツきてる機関員がみたいんだよ~~(この呟きには友達と現代においては忍ぶ必要がなくなった機関員たち、という概念が含まれています
機関員たちはカバーを変えてるけれど、「彼ら」のカバーそのものは何も変えずに、人によって感じる印象がかわる、そんな鏡の様な彼らも見てみたい。
「僕らが変わったように思うのならば、それは貴方が変わったのですよ。」「僕らは何一つ、変わることはありませんから」
莫迦なことを言う。人間である以上不変であるはずがないのに。…………しかし、彼らは「人間」なのだろうか
唐突に脳内のはちやさぶろうが脳内の機関員たちに「いちいちカバーなんて作らないで別人に作り変わればよくない?」などといい放った……変装名人め
機関員の心臓抉り出しても死にそうにない感じ書きたい(死にますよ)
めも→風船、現像室、かめら、はーばりうむ、ぱずる、椅子
人はどうしたら神なくして聖者になれるか
あめ…かみなり…のなかに機関員をほうりこみたい(ひどい)
大きめ、派手めの耳飾りしてる機関員みたいな~爪塗ってるのもみたいんだけどさ~
手鏡、化粧台の鏡、姿見、あわせ鏡、無限回廊な大きいあわせ鏡(鏡の間)、ひびの入った鏡、鏡の破片、かーぶみらーなど
からばっじょのなるきっそすな三好とかも描きたいな
軽卒に探偵か詐欺師か強盗をやらせたい(トリックを考える頭がない)
自分の知ってる限りの料理番組の要素まぜこぜにしたふくもとさんの料理番組パロを考えてはいるのです、漫画描けないから……
は~~~満面笑顔の機関員描きたいな!!
死ぬな殺すな囚われるなでございますけれど、夢の中とか脳内で気に入らない、とか眼中にないとかそういう周囲の人を殺してる機関員の話みたい!
問答、過去を惨殺、耄碌して記憶混濁、糸が切れて落涙、アンデッド生きる屍生者の葬列死者の誕生、カバーと素顔彼が俺だった、人間化物、火遊び めも
顔に?似合わず雨で偏頭痛ひきおこす神永さんとか、雨の匂いがするねっていう甘利さん
禁断の果実としてのリンゴ、黄金のリンゴとしてのオレンジ(マルメロ、毒リンゴとしてのトマトとか描きたい
血濡れには基本ならないはずの機関員さんたちをどうにかこうにか血濡れにしたいのと前言ってた頭の中では殺戮犯とかワインとかも描きたい
「だって頭の中(ここ)では僕がカミサマ」
「人を殺したことがあるようなことをいうね」 「馬鹿言わないでくれ、不殺の誓いをたてているんだ」
化物の自覚があるのか、化物と言われたことがあるのか、化物を何と心得るか、化物でいることの自負心、反対に化物でいることの羞恥があるのかとかとか
間諜は生への執着が大事なんですけれども、すぐ生死への冒涜のようなことをさせてしまう許して
生き急いでるか、死に急いでいるのか
任務中にどこに住んでるの?的なニュアンスの「どこに帰るの?」という問いかけに「帰る場所なんてないんだよ」って笑顔で返す機関員さん
かれらは多重人格者…意識的だからカバーといえるのだろうけれど。耄碌してきてから自分が「誰」なのか混乱してほしさある
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Photo
作品に用いる画材は墨や漆喰、アクリル絵の具など。こちらの作品は植物が風に揺れているような様子を描いた静けさを感じる一枚です。 #Repost @ma.sagami with @use.repost ・・・ . 無題 現在、京都で展示しております。 F4 ワトソン紙 333㎜×244㎜ 小さめの作品です。 ................................................... 9月4日(日)〜9月25日(日) 「KAWATA+SAGAMI」二人展 京都そのうちcafe @takuya_asai 京都市下京区塗壁師町119六条院公園ブランコ横 地下鉄五条駅から5分ほどです。 11:30-20:00 OPEN 無休 ※9月12日月曜日は、稲刈りのためお休みを頂きます。 お越しの際はワンオーダーお願いします☺︎ ................................................... #アート #日本 #japan #兵庫県 #hyogo #art #墨絵 #花 #机 #影 #墨 #黒 #窓 #そのうちcafe @junichi_kawata_artwork @bgm.kyoto #佐上まりこ #ばーらー (そのうちcafe SNC) https://www.instagram.com/p/CiUwYzyvcQ1/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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俊樹五百句
虚子の「五百句」と対峙したい。虚子はそれを五十年ほども掛けたが、この作句期間は一週間に過ぎない。出来不出来以前にこの名著なる存在と対峙したかった。俳句の存在意義だけがこの試行錯誤の源である。短い人生である、我が愚行を是非批評して頂きたい。
坊城俊樹 令和4年8月
弔ひの夜に横たはる暑き襤褸 浮浪者の襤褸に星降る夜となりぬ 弔ひの夜の白服なる異形 弔ひの杖に樹海の町暑し 浮浪者の眠る窓とて朧なる 夏の灯のまたたき琴座鳴るといふ 幽霊や露台に支那の戦没者 幽霊の招く小路の風死せり 夏の路地女幽霊絢爛に 星の降る夜へ英雄の霊かぎろふ
国士無双あ���る男へ星流れ 夏の夕遺族は骨を探索す 夏夕べ黒き連鎖の遺族たち 遺族らは夜より黒し星流れ 哀しさは真夏の盆へ地震きたる 地震の町に吠える家守の夜でありし 恋人も濡れる家守の夜となりし 母死して星も死すてふ家守の夜 家守らの目の爛々と星見上ぐ 家守らに昭和の記憶ありにけり
金色の家守は母の野望とも 父がつけし渾名の犬へ星流れ 大蛇の我が天井を護りたる 姫蛇の碑へと真夏の夜の夢 蛍火に意思といふものありにけり 山泣くも山笑へるも蛍へと 犬死して総理も死して蛍へと 一億の蛍の一つ死してをり ほうたるの火に照らされて万華鏡 ほうたるの乱舞を待てる半旗かな
火蛾ひとつ火焔の中を舞うてをり 蛍来る夜は両親へ星降る夜 死ぬ匂ひして晩年の蛍籠 怪しげな教会へ入る蜥蜴かな 万華��の色の蜥蜴や月を追ひ 猊下そは百歳に死し蜥蜴また 猊下死す百一の星流る夜を 猊下逝く蜥蜴は天の星仰ぐ 猊下逝く十の契りを夏の夜に 総理逝きしばらく夜の火蛾として
猊下逝く祇園の夏の夜の契り 星流る方へ杖つき神楽坂 夏の夜の三味の灯しは籠もらざる 懇ろに幽霊を待つ簾上げ いつも見てゐて見てゐない裸かな 貪りて夜の怨霊の裸とも 風通す裸の窓をすべて開け 恩讐もある傷跡の裸体とも カンバスに幾何模様なる裸体 日当たるとやはらかくなる裸体かな
陰翳の裸の体囁ける 因果なる裸体を褒めてゐて死せり 裸体なる女カオスの縮図とも 茅舎忌の我を白痴と思ふかな ヌードデッサンせんと孤高の茅舎の忌 茅舎忌といふ忌まはしき忌なりけり 俳壇に生けるも死ぬも茅舎の忌 茅舎忌の猿股を日に干してあり 金剛の露現今の茅舎ゐて 口唇に薬挿し入れる茅舎の忌
河童忌の屋根に墜ちたる龍之介 河童忌といふ祝祭のやうなもの 蚕豆に天使の翼ありにけり 蚕豆の妻の故郷はカタルーナ 蚕豆といふ処女作のやうなもの 蚕豆を剥き深緑やや遺憾 蚕豆の筋のあたりを背骨とも 蚕豆のやうな赤子を授かりし 蚕豆とは一卵性双生児 バンクシーの絵は白黒に夜の秋
我が瞳孔まもなく朽ちて夜の秋 丑三つのマンゴーゆつくり熟すなり 丑三つの蜘蛛透明な糸を吐く 斬られる待つ丑三つの熟柿かな 愚かなる夢の中なる熱帯夜 しづかなる女の舐める熱帯夜 黒蛇が白蛇を呑む熱帯夜 括れざる腰振る真夜の熱帯を 母さんが父さんを呑む熱帯夜 口唇を襞と思へる熱帯夜
熱帯夜朱き口唇とて腐臭 熱帯夜とはずぶ濡れの吾子の夢 峠路に幽霊を待つ月見草 裏切りの美人薄命月見草 月光やちやん付けで呼ぶ影法師 月見草火星より木星が好き 月見草路地の子やがてゐなくなる 星の降る夜はひとつきり月見草 月見草恐らく祖母は浮気した 新婚の路地の匂へる月見草
日覆を立てる穴とて深淵に 日覆のおほひて赤子腐敗せり ビルよりも高き日除けを立てにけり 男一人日除けを出でず老いにけり 裸族らし我が家の下の夫婦かな 裸にて人に逢ひたく皮を脱ぐ しづかなる蛇しづかなる自死をせり 蟻と蟻獄を出でたる如出逢ふ 灯の蟻といふ見当たらず羽蟻とす あの蛇を保育園へと見失ふ
青条揚羽より高き蝶のなき 金輪際黒筋揚羽見失ふ 黒揚羽より正装の男かな 瑠璃揚羽祖父の遺墨を飛び立てり 暑き電線暑き電線と出逢ふ とぐろ巻く蛇地境を管理せり 大いなる物の崩れががんぼの死 青き星流れて白き星流れず 蟷螂と格闘をして日記とす 暁に麦飯を食ふ祖父の髭
亡霊が炊いた麦飯吾れのため 麦飯の茶碗に描くただの柄 麦飯に卵二つの豪華さよ 麦飯を母は嫌がり父も嫌がり おばQを見て麦飯を食ふ至福 箸は茶で洗ふ麦飯たひらげて 麦飯を父は食はずにバタを食ふ 麦飯といふ軍縮のやうなもの 麦飯にのりたまかけて邪気かけて 仏教にあらず神道麦飯を食ふ
麦飯を御霊に捧ぐことならず 麦飯で鉄腕アトム見てをりぬ 昭和三十六年の麦飯豪華なり 麦飯といふ神道のやうなもの 瑠璃鳴くや御霊のやうな声溢れ 神域を歌へる瑠璃のすきとほる 殉職の御霊へ瑠璃の鳴きにけり 銃弾に斃るるときに瑠璃鳴けり 天照大神きて瑠璃鳴かせ 天辺の虹の上より瑠璃鳴けり
虚子とのみ彫られし墓へ瑠璃鳴けり 坊城家六代目へと瑠璃鳴けり 勾玉の青のひとつは瑠璃の声 瑠璃何か喩へてみれば金剛に 夏燕折り返し来る消防署 三次元を四次元に斬る夏燕 生れ替るなら岳麓の夏燕 青空を巻き込んでゆく夏燕 夏燕鏡を斬りてさかしまに 天辺に仏来給ふ朴の花
朴の花白く翳りて懇ろに 朴の花の中に釈迦尊をらざりき 虎尾草に毛並のありて逆立ちて 虎尾草の揺れて待ちたる未通女かな 金輪際虎尾草と縁切ると言ふ 虎尾草の先くねくねと蠅を追ふ 梧桐に影といふもの濃かりけり 樹海めく梧桐たちに迷ひたる 梧桐を仰ぐ超高層仰ぐ 梧桐の葉とは天狗の団扇かな
梧桐やブランコは立ち漕ぎ続け 梧桐の翳に不良の煙草吸ふ 梧桐に青春である疵を彫り 梧桐の伐られ虚空の天となる 山笠の波動花鳥子より届く 山笠の句の勇壮な波動来る 山笠に恋といふものありにけり 博多つ子純情の夏なりしかな 山笠の日と生誕の日と隣る 純情の山笠に夢馳せてをり
山笠に天神颪とは来たり 金亀虫裏返りたる真夜の褥 黄金虫夜を引き摺りて灯へ入りぬ 灯に入手夜の帝国の黄金虫 羽蟻の夜玻璃にべたりと都市の闇 羽蟻翔ちお日様に溶けなくなりぬ 子を捨てし母は戻らぬ羽蟻の夜 羽蟻の夜金輪際の父は帰らぬ 羽蟻の夜弔問はなほつづきをり 茅舎忌の卍となりて日章旗
露の世へ消ゆる人あり茅舎の忌 茅舎忌の夜が流れてしまひたる 隻眼が見えなくなりぬ茅舎の忌 龍子の絵どこか稚拙な茅舎の忌 茅舎忌の流れ流れて星ゐない 吾妹子の胸やはらかき虎が雨 吾妹子の海へ尿する虎が雨 煙草屋もとうに死に絶え虎が雨 土用波恋愛はもう星屑に 岬越え来る土用波白々と
土用波いよよ怒濤となり崩れ 子が一人攫はれてゆく土用濤 土用濤灯台を越え来たりけり 元総理死にて土用の波濤へと 波怒濤土用の夜の人攫ひ 伝説の出水川とはこの小川 子を攫ひ妹を攫ひて出水川 出水川と記憶流れて悪夢とも 出水川恋の破綻も流しゆく 虚子塔に人来ぬ日なる最澄忌
最澄忌千日回峰終るころ 叡山は星の降る夜の最澄忌 叡山をさ迷ふ夜の最澄忌 最澄の忌の極楽の湯舟かな 最澄忌灯す頃の先斗町 祇園にて猊下と酌みし最澄忌 萍の隠沼として河童棲む 萍を髪に見立てて河童立つ 萍の茂り月光留めたる 妖精が腰掛けてゐる蛭蓆
丑三つの月光にある蛭蓆 優曇華へ星やさしくて月やさし 優曇華のいのち揺らぎて月を待つ 儚きは優曇華の茎なりしかな 優曇華にいのちあかりの灯せり 優曇華に神降臨すひとつづつ 母死して優曇華の情なしとせず 優曇華へ言葉少なき真夜の人 ケルン積む星降る夜となりしかな ケルン積む大岩壁と対峙して
ケルン積むひとつひとつに女の名 行李から恐らく祖父の登山帽 恋をして山登りして死に逝��り ロッククライミングの刹那あの夏を しづかなる人しづかな死夜の秋 夜の秋幽霊ももう寝静まり 恋をして失恋をして夜の秋 瞳の奥の闇へと星の流れゆく 星の降る中に月降る夜の秋 蟻ひとつ彷徨うてゐる夜の秋
死顔の威厳なるかな夜の秋 曾祖父も祖父も今宵は夜の秋 星ひとつ艶然とある夜の秋 夜の秋網膜剥離みたいな灯 羅を着て恋などに惑はされず 浴衣着て金魚の柄を泳がせて 羅を着て老いらくの恋をせむ 羅に序破急といふ恋のあり 妙齢は達磨柄なる浴衣着て 浴衣着て恋に窶れてしまひけり
祖父と祖母らし残像の藍浴衣 羅の包んでをりぬ裸体かな 羅の包み適はぬ恋をして 浴衣着て恋の乳房となりしかな 浴衣着て恋人と逢ふ浜の路地 羅を着て蝮酒召し上がる 浴衣の子星とおしやべりしてをりぬ 後ろ手に団扇はさんで恋浴衣 白兎波間に跳ねて卯波くる 人死して星の卯波となりしかな
卯波寄す森田愛子の臥所へと 九頭竜の卯波漣ほどのもの 夏の波真砂女の卯波とぞなりぬ 月光が卯波流してをりにけり 滴りの金銀の粒金剛に 滴りに輪廻転生ありにけり 滴りて岩壁となる日本海 東京スカイツリーの天辺滴りて 滴りて浅草線の三ノ輪駅 ゆつくりとしづかに歩む蛇ひとつ
蛇の夢見てその蛇を見てをらず 蛇酒といふ極楽の中に死す 滴りの岩壁を行く数学教師 滴りの後ろ姿の女体山 蛇女邪心となりて星流れ 蛇ふたつ絡んでをりぬ月光に 蛇絡みつつ愛欲の中にあり 権現の無数の蛇の降る社 炎帝の統べるままなる総理の死 炎帝へ斬首の鴉羽ばたけり
炎帝いま月の裏側焼きにけり 炎帝といふ今生の大宇宙 勲一等正一位なる墓灼けて 勲一等の軍馬の墓は緑蔭に 暗夜行路書きし墓とて茂り中 暑き固き墓石の如き絵画館 イザベラの墓に彫られし薔薇香る 銀杏並木の緑蔭もとんがりて 茂りてはいつも探せぬ乃木の墓 坊城は俊ばかり付く墓涼し
殉教の墓へマリアの南風吹く 寝棺そのものを横たへ夏の墓 緑なる線対称の銀杏かな 八月の面対称の絵画館 サンドレスとは青山のあつぱつぱ 青山の墓みな灼けて無言なる 夏日燦超高層といふ墓標 無機質の超高層を旱とも ソファーめく茂吉の墓へ夏蝶来 茂吉いま夏蝶となり利通へ
墓に挿す供華も明日より秋薔薇 秋の蝶クルスの墓を懇ろに 夏果てて石より重き絵画館 緑蔭のハチ公の墓何処なり ハチ公の供華はおそらく水羊羹 異国なる地下に眠りて薔薇の墓 夏の蝶マリアの指に触れてより 喪主だけが半袖で乗る霊柩車 蟬の音は聞かず真昼の野辺送り 蟬死して蝙蝠ばかり飛んでをり
蝙蝠は帰る逆さになるために 蝙蝠の裏切る音を聴いてゐる 蝙蝠も消え失せグリム童話の夜 めまとひはめまとひとして囁けり めまとひは無責任なる大家族 婆の眼の脂にめまとひ親しめり めまとひを払ふ多情の口を閉ぢ めまとひの中を葬列続くなり 朱烏夏の夜の夢覚めし頃 茅舎忌の月光ことに夢を食ふ
茅舎忌の虫の音といふ哀しけれ 茅舎忌のシュミーズは幽霊の自慰 そこはかとなく隠微なる茅舎の忌 キリストと生きる男へ茅舎の忌 茅舎忌に金子みすずを読んでをり 白鼻心白夜の夢を見てをりぬ おぼこ今白夜の夢を見てをりぬ 白夜とは神の数だけありにけり 熊に似る男涙の炉辺話 雪女帰らず解けてしまひたき
金輪際なき眼光の鯖を食ふ 鯖を食ふ恋愛をした夢を見て 銀色に無限のありし鯖を食ふ 恩讐の臭みの鯖を食ふ女 鹿島灘あたり怒濤や鯖を食ふ 鯖を食ふ女臀部を揺らしつつ 鯖を食ふ潮の香りを煮てをりぬ 黒潮を炊いて鯖煮となりしかな 鯖食ひ男鯖食ひ女淫靡なる 鯖食うて惜別の情無しとせず
我が生の金輪際の虹に逢ふ 虹死して首都凡庸の空となる 奈落より虚子の墓へと虹の橋 蚊柱となりて青山墓地を舞ふ 吾妹子の子宮男の子を生みにけり 我が家より大いなる虹架かりけり 苔の花とは妖精の小さき眼 苔の花喋るぺちやくちやぺちやくちやと 苔の花海に流れてしまひさう 我が生も淋しからずや苔の花
大漁の夜の纜に苔の花 苔の花阿呆の黄色楽しくて 苔の花金輪際の生にあり 苔の花哀しくなれば咲いてをり 苔の花苔を大地として咲けり 苔の花の夜は近づく大宇宙 未熟児に産まれる人へ苔の花 そよぐことなき苔の花小さすぎ 流星と同じ色して苔の花 苔の花咲きて天動説となる
苔の花影といふものありにけり 囁きの夜に閉ぢたる苔の花 河童忌を星の吹雪と思ふなり 河童忌の蛇口ひねれば湧いてをり 河童忌に砂糖を舐める女あり 河童忌のしんがりの児は引き込まれ 河童忌にベートーベンを聴いてをり 河童忌を皇后陛下畏くも 河童忌の童は杓子定規かな 怒濤とし童押し寄せ河童の忌
滴りて山又山を濡らしをり 絵画館の壁の隙より滴れり 夏の水汲み元勲の墓域へと 滴りに栄枯盛衰ありにけり 滴りて富嶽をすこし潤せり 滴りに奈落といふは先のこと 滴りてゆつくり濡れてをりにけり 滴りて巌の命を疑はず 幻か滴る先に河童の子 滴りて四国三郎ありしかな
蟻ひとり穴ひとつあり佇みぬ 増上寺国葬にあり蟻ひとつ 群衆の蟻群衆の蟻に逢ふ 山蟻の威厳の黒に死してをり 黒蟻と赤蟻言葉交さざる 蟻ひとつ地下迷宮を出で来たる 蟻塚に蟻の声のみ充満す 蟻塚の掘りたての土匂ふなり 蟻地獄静謐といふ美しき あとづさりして身を隠す臆病に
岳麓へ行者道めく蟻の道 蛾の破片ゆらゆら運ぶ蟻の道 ビール飲む眉間に皺を寄せながら 麦酒飲むますます法螺を吹きながら 白魚のやうな指もて麦酒注ぐ 我が世とぞ思ふ望月の麦酒かな 麦酒のむいつか焼かれし喉仏 女ひとり化粧濃くして黒麦酒 蛇苺姉の我が儘永遠に 蛇苺庭に埋めし金魚へも
侯爵の墓の片隅蛇苺 蛇苺男鰥の庭の恋 山笠の西の便りを句に乗せて 博多つ子純情いまも山笠に 山笠の男だらけの怒濤なる 傀儡の関節錆びて夏の雨 白雨きて蛍光灯の切れかかり 関節はぎしぎし老ゆる夏の雨 飴玉が降る音のして夏の雨 連続の数珠の音して夏の雨
夏の雨身の内の獅子唸るなり 旋律はボブマーリーに似て夏の雨 戦後すぐ膣より産まれ夏の雨 白雨きてボサノバの雨合体す 白雨きてコーラの壜の女体めく おそらくは黄泉の国とて夏出水 夏出水遺品の遺書の何処へと 高貴なる神に押し寄せ夏出水 最果ての鵺の夜へも夏出水 土用波七里ヶ浜で祖父に抱かれ
土用波みたいな嬶の乳房かな 柏翠の療養所へと土用波 土用波森田愛子の身の内へ 土用波虚子と愛子の物語 髪洗ふ乳房の先を湿らせて 髪洗ふ妬み嫉妬を流すとか 女百態懇ろに髪洗ふ 髪洗ふ幼き頃の金盥 あんな女に嫉妬して髪洗ふ 犬洗ふ即ち犬の髪洗ふ
昼寝して夢の合戦破れたり 元首相撃たれし頃の大昼寝 夜よりも昼寝彼の世に近かりし 貪るは蛸か女体か昼寝覚 昼寝して夜には死んでをられたる 昼寝覚女百態消失す 昼寝覚地獄の釜を押し上げて 昼寝覚一年損をした気分 昼寝して虚子と話をして戻る 昼寝覚范文雀と別れ来て
蝙蝠の彼の世此の世と飛翔せり 蚊食鳥煙のやうなる蚊を追へり 蚊食鳥夕焼け小焼けの唄に乗り かはほりの逆さに夢を見る昼間 かはほりに迷子探してもらふ夕 蚊食鳥夜の女は出勤す かはほりは街の電波と交錯す 蚊食鳥幼稚園児はもう家へ 友人の納骨を終へ蚊食鳥 学習院初等科の上蚊食鳥
あぢさゐの萎れし夕べ蚊食鳥 かはほりと月と金星置きどころ 青林檎みたいな乳房持つ少女 青林檎囓る気もなく接吻す 青林檎真夏の夜の夢の中 昭和とはヌード写真と青林檎 麗人の口怖ろしく青林檎 漆黒の夜は青ざめて青林檎 青林檎堅しと思ふ瑪瑙より パテイーデュークショーを観ながら青林檎
青林檎がさつな漢の手に堕ちる 夏の夜の夢とはならず老いゆけり 夏の夜の罪ある墓標御影石 唇は濡れて真夏の夜の夢 夏の夜のネオンサインはジジと切れ 漆黒の真夏の夜の夢となり 入れ墨の夏の女を持て余し 金魚玉夜に入る頃の小宇宙 絢爛の金魚は恋をしてをりぬ 絶縁の夜に浮きたる金魚玉
和服着て振り袖を振る金魚かな 勲一等正二位の飼ふ金魚かな 飛魚の飛んで越え行く隠岐の島 隠れキリシタン飛魚となり戻りけり 飛魚の流刑の島を飛び越えて 炎帝に見つからぬやう昼に寝る 日輪が炎帝をまた拐かす 炎帝に翳といふものありにけり 白日夢とは炎帝が司る 炎帝が紛れ込んだり夢の中
盆栽といふ炎帝の置き土産 炎帝も銀河の裾の一部分 我が霊も炎帝となり銀河へと 観音の笑みて溽暑を遠ざけて 観音の炎暑の唇を赤しとも 陽炎へる陽子の墓や禁色に 墓の苔とて万緑の一部分 観音の胸乳あたりへ夏の蝶 五輪塔とは緑蔭のただの石 乾きたる稲毛氏の墓とて旱
一山の万緑なだれ年尾句碑 薔薇咲かせ流行り遅れの服を売る 昔から麦酒が好きな人の墓 蛍光灯切れかかりゆく夏の果 夏行くや皆んな貧しき灯して 人を待つ心にも似て夜の秋 涼しさの雨の粒とは淋しくて 街の灯の蒼く点りて夏の夜 灯して何読むでなき夜の秋 夜の秋義兄は生れ替りしや
涼しさの夜の灯の鈍色に 堕胎の子いつも走りて汗哀し 夏逝くや雨の音符の翳色に 夜の秋眼の衰への文字歪む 夜の秋炎集めて住む川原 夜の秋己れ空しく酒を飲む 涼しさの夜雨の音の蓄積す 涼しさは恨みに似たり灯を消せば 幽霊坂うすむらさきの夜の秋 幼稚園死んだ子が居る夜の秋
夜の秋やがて孤独の誕生日 蛍光灯切れかかりゆく死者の秋 老いてなほ秋めく恋の行方かな 新涼の飴の色とは濃紫 秋めきて失恋をする七回目 新涼の鏡に映す吾の死顔 頭痛して秋めく我の髑髏 新涼の驚き顔となりし天 新涼の犬に哀しき堕胎過去 八月の女ものものしく太り
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‼️‼️もうすぐ‼️‼️ 来る3月に紀伊國屋全店に SHU墨絵作品『朱雀乱舞』と『桃源の馬』を 載せた書籍『Q Art Catalog』が発売‼️ 全国です✨ ⭐️A4版オールカラー⭐️ そして、5月にはオンライン上でも購入が可能になります✨ オンライン上は幅広い展開で、日本だけでなく 海外へも配信✨こちらは全世界 アマゾン、dマーケット、U next、楽天、 セブンネットショッピング、ひかりテレビbook、 e book、COCORO book と かなり広範囲に渡って配信されます⭐️ (*)📘イギリスの国際日本文化研究 教授タイモンスクリーチ様がSHU Arakawaの作品を評論 「全体に広がる力強い墨の飛沫によって、壮大な鳥が描かれている。羽と火の輪が紙の上を反時計回りにダイナミックに回転する。鳥の羽は右上に上がり、開いた嘴は左下に向かって鳴き声を上げる。これは南を守る見事な朱雀である。その輝かしさが墨の黒色から伝わってくる。」 (タイモン スクリーチ評論) In a vast and power splash of ink creaters a magnificient bird. A circle of feathers and fire turns dynamicaliy in an anti-clockwise movement across the paper. The bird's wings rise to the top right, while its open beak cries downwards to the bottom left. This is the great Scarlet Bird that guards the south. Its brightness is transmitted in the black of ink. ( by Timon Screech) ご存知のように、作品『朱雀乱舞』は 高評価かつ有名な作品で、スペイン世界遺産常設、国連ユネスコ展示、日光東照宮展示、 他受賞多数の作品 作品価値も上がっているとても重要な作品です✨その作品が書籍として入手可能になります✨ 書籍もオンラインも両方から、SHU墨絵作品が 見れるようになりますので、 是非皆さまご高覧ください🙇♂️ 今後もSHU墨絵アートを宜しくお願いします #墨絵 #墨絵師 #墨絵アーティスト #墨アート #書籍全国展開 #Qアートカタログ #紀伊國屋書店へ書籍展開 #日本代表の墨絵アーティスト 💫筆を使わない墨絵アーティスト💫 荒川颼 / SHU Arakawa 【颼墨絵作品 常設展示場所】 ✨常設作品を増設‼️‼️✨ 栃木県栃木市河合町4-16 tel: 050-5359-7563 Eat Me Sandwich 2F ギャラリー結 (*)是非ご来場ください 【ギャラリー営業日/営業時間】 水、木、金 11:00am〜16:00pm 日 11:00am〜13:30pm 定休日 月、火、土 (*)但し、営業日・定休日は都合により変わります ✨✨✨✨✨✨✨✨ 筆を使わない墨絵アーティスト 荒川颼/SHU Arakawa www.shusumie.com Googleで『墨絵』または『ハンド墨絵』でトップ表示 #筆を使わない墨絵師 #墨絵師 #墨絵 #sumie #ハンドドローイング #handdrawing #日本を代表する墨絵師 #墨絵アーティスト #書道好きな人と繋がりたい #画家さんと繋がりたい #飛墨 #hisumi #唯一無二の墨絵師 #唯一無二の墨絵アーティスト #しゅう墨絵 #shusumie #生きる墨絵 #UNESCO #世界遺産 #ライブパフォーマンス #墨ノ祭 #ギャラリー結 #栃木 #tochigi (eat me sandwich) https://www.instagram.com/p/CoDsikhyhoe/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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各地句会報
花鳥誌 令和6年3月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年12月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
氷川丸の円窓いくつ北塞ぐ 昌文 十字架のかたちに燃る蔦紅葉 美紀 倫敦を遠く大使の冬薔薇 佑天 望郷の眠りの中に木の実降る きみよ 女学院に尖塔のかげ冬紅葉 久 冬木立の向かうをつくりものの海 緋路 昏き灯のランプシェードとポインセチア 和子 十字架を解かざる蔦の冬紅葉 光子 凍空や十字架赤き鉄であり 和子 誰も振り返らぬ早過ぎた聖樹 佑天
岡田順子選 特選句
みなと町古物を売りに行く師走 荘吉 窓は冷たく望郷のピアノの音 俊樹 氷川丸の円窓いつく北塞ぐ 昌文 冬館キラキラ星のもれ聞こゆ 美紀 冬日和トーストに染むバタと蜜 季凜 ガンダムを磔にする師走かな 緋路 革命は起こすものかも冬薔薇 緋路 誰も振り返らぬ早過ぎた聖樹 佑天 胼の手の婆キューピーを路地に売る 俊樹 古硝子歪めし冬の空はあを 久
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月2日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
神鏡の底まで蒼く冬の月 かおり 右手上げ思索のポーズ漱石忌 修二 綿虫のうすき影負ふ百度石 かおり 戯れにペアのセーターそれは無理 美穂 冬帝の裾に鉄橋灯されて かおり 赴任地は裏鬼門なり漱石忌 美穂 後戻りできぬ吊橋冬枯るる 愛 大枯野則天去私のここに居る 美穂 綿虫のことづてありと君に来る 愛 牝狐の頭に木の葉町娘 成子 憑き物を落とす霰に打たれをり 愛 落葉踏む音を楽しむ童かな 修二
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月3日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
亡き父よもう雪囲ひ始めしか 喜代子 百二才冬空へ帰られし 同 眠る山内で動めく獣達 都 年忘れ新入り下���でじよう舌なり 同 門松の早や立ち初め禅の寺 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月7日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
冬菊を挿して祈りの夙夜かな 宇太郎 布教師の顎鬚白し報恩講 すみ子 投薬のまた一つ増え落葉蹴る 悦子 入隅に猫の目青し冬館 宇太郎 三途から戻りし者の年忘 同 闇一枚まとひてよりの浮寝鳥 都 露座仏の思惟の指さす空は冬 美智子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月9日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
冬の朝遠くに今日の始む音 恭子 空青く舞ふ白鳥の透きとほり 幸子 塀の猫すとんと消えて師走かな 三無 冬の雲切れて見下ろす日本海 白陶 枯菊のかをり残して括られる 多美女 路地裏に声の弾みし焼芋屋 美枝子 カリオンの音の明るさや十二月 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
寄せ鍋を囲みし人のまた逝きて 秋尚 まろまろと伊豆の山やま冬景色 怜 乾きたる足音空へ冬山路 三無 子離れの小さき寄鍋溢れをり のりこ 床の間に父の碁盤や白障子 三無 ご奉仕の障子新し寺の庭 和魚 信楽のたぬきと見合ふ障子越し 貴薫 煌めきをところどころに冬の山 聰
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
茶の花やエプロンで無く割烹着 昭子 風花にして降るとも降らぬとも 世詩明 ポインセチア抱けば幸せさうに見ゆ 昭子 武生花鳥必死に守る年の暮 みす枝 彩りも音も無く山眠りけり 英美子 雪まろげ仕上げは母の手の加へ 時江 糶終へて皮ジャンパーの急ぎ足 昭子 着膨れて女は手より立ち上がる 世詩明 古暦パリの街角にて終はる 昭子 街師走吹かるる如く人行き来 みす枝
令和5年12月12日 萩花鳥会
冬の月句友ともども偲ばれて 祐子 五羽が風邪萬羽が処分魔の鶏舎 健雄 冬の空めげず生きると決心す ゆかり 一年の抱負も薄れ年の暮 吉之 首かけし手袋母の匂して 美惠子
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令和5年12月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
この先は冬雲傾れ込む山路 あけみ 白菜を抱きかかへつつ持つ女 令子 こんなにも長年参じ近松忌 同 オリオンの名残惜しみて冬の朝 あけみ 晩秋や娘の云ふを聞き入れる 令子 さきたま花鳥句会(十二月十五日) 初霜や狭山の畑を曳く煙 月惑 頑なに一花残して冬薔薇 八草 終焉の一ト日のたぎり冬紅葉 紀花 枝折り戸の軋む庵や枇杷の花 孝江 今年酒老舗の店や菰飾 ふゆ子 くちやくちやの枯葉纏ひて大欅 ふじ穂 廃校を渋柿たわわ守りをり 康子 三年間無事に埋めよと日記買ふ 恵美子 何をするわけでも無しに師走かな みのり 落葉積む赤き帽子の六地蔵 彩香 嫁ぎ来て冬至南瓜を五十年 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
口重き男に隣り近松忌 雪 九頭竜の黙が寒さを増すばかり かづを 散る紅葉散りゆく黄葉なる古刹 同 枯菊や香りと共に燃え上がる 英美子 手焙に触れれば遠き父の事 同 賀状かく龍��空へ飛躍せり 玲子 父母の眠る故郷恵方道 やす香 山眠るひもじき獣抱き抱へ みす枝 鼻水をすすれば妻もすすりけり 世詩明 熟し柿つつく鴉は夫婦らし 同 人にやや離れて生きて帰り花 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
黒門の枡形山に裘 幸風 冬蝶を労はるやうに母の塔 同 眠る山起こさぬやうに歩き出す 白陶 隠れんぼ使ひ切れざる紅葉山 経彦 冬帝と対峙の富士や猛々し 三無 笹鳴や少し傾く城主墓 芙佐子 山門へ黄落の磴細く掃く 斉 黄落の野仏は皆西へ向き 炳子
栗林圭魚選 特選句
蒼天に山脈低く雪の富士 芙佐子 空を抱くメタセコイアの冬支度 三無 SLに群がる揃ひの冬帽子 経彦 かなしことうすれゆきたり冬霞 幸子 笹鳴の過ぐ内室の小さき墓 慶月 法鼓聴く銀杏落葉の女坂 亜栄子 古寺の法鼓の渡る師走かな 久子 冬帝や明るき供花を陽子墓碑 文英 笹鳴や少し傾く城主墓 芙佐子 枯芝の広場の狭鬼ごつこ 経彦
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月19日 福井花鳥会
赤き玉転がしながら毛糸編む 啓子 住み古りて遺木の数多なる落葉 清女 着膨れてストレス無しと云ふは嘘 同 雲たれて空塞ぎをり十二月 笑子 ささやきを交はす綿虫寄り来たり 同 神殿に大絵馬掲げ年用意 同 毒舌も競り合ふ友や年忘 泰俊 それぞれの色を尽して末枯るる 雪 小説を地で生く男近松忌 同 墨をもて仏描きし古扇 同
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令和5年12月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
母と娘の悲喜こもごもや古暦 雪 大いなる一つの鳥居や神の留守 同 近松忌日有り気の一文箱 同 筆に生れ筆に死す恋近松忌 同 初雪や瓦は白く波打てり みす枝 初雪や誰彼となく首縮め 同 さんざめく市井を抜けて見る聖樹 一涓 神々の眠れる山や風の音 ただし 捨て猫のすがる眼や雪催 清女
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月24日 月例会 全選句を掲載いたします。◎が特選句です。 当日の席題は「青」でした。
坊城俊樹選 特選句
二百万余の英霊よ竜の玉 昌文 暦売る神となりし日遠くして 慶月 極月や足踏みかすか男衛士 音呼 ◎聖マリア棘やはらかき冬薔薇 和子 楽団の喧騒を待つポインセチア 順子 幔幕のうちは見せざり年用意 千種 聖夜待つランプの中の空青し 和子 悴んで十字架を小学生仰ぐ 順子 ◎十字架に鳩の休息クリスマス 要 朱き鯉悴みもせず行者めき 軽象 一枚の青空に垂れ冬薔薇 和子 著ぶくれのままカフェオレを飲むつもり 光子 著ぶくれの犬にユニオンジャックかな 佑天 冬帝のふくらませゆく日章旗 和子 ◎冬深む宿痾なる瘤持つ鯉へ 光子 ◎身じろがぬ寒鯉威してはならぬ 慶月 寒禽の寄り添うてゐる像の肩 政江 ◎擬態して聖夜の街に紛るるか 炳子 旧華族らしき猫背を外套に 順子 二の鳥居辺り冬帝在し険し 慶月 寒鯉の鐚一文も動かざる 千種 凍雲に閂かけよ大鳥居 月惑 ◎大鳥居いくつも潜りクリスマス はるか ◎きらめける虚構を踏みぬ霜柱 妙子 オルガンを踏み込むクリスマスの朝 光子 ◎くちびるの端で笑つて懐手 和子 数へ日の水あをいろに神の池 要 外套のポケットに怒りを握る 和子 冬ざれの鯉の影なき池の底 炳子 上野は勝つてゐるか像の極月 慶月 歳晩や動きさうなるさざれ石 眞理子 聖樹の灯巻き込んでゆくボロネーゼ はるか 冬眠の蛇を諾ふ斎庭なる 光子
岡田順子選 特選句
◎神の鳥冷たき影を像に置く はるか ◎極月や足踏みかすか男衛士 音呼 初対面黄色のマフラーして彼女 政江 花柊零るる坂の神父館 要 未知の先あるかのごとく日記買ふ 妙子 聖マリアと棘やはらかき冬薔薇 和子 ◎枯蓮のいのちの水に眠る朝 佑天 裳裾冷たき暁星のマリア像 俊樹 なかなかに僧には会へぬ師走かな 眞理子 十字架に鳩の休息クリスマス 要 鷗外の全集売れぬ隙間風 俊樹 窓越しに著ぶくれの手が師を招く はるか 朱き鯉悴みもせず行者めき 軽象 一枚の青空に垂れ冬薔薇 和子 著ぶくれの犬にユニオンジャックかな 佑天 霜晴や空ラのリヤカー巡回す 千種 ◎英霊の言の葉の外年詰まる 軽象 寒禽の寄り添うてゐる像の肩 政江 年逝くや素木の鳥居乾くまま 要 擬態して聖夜の街に紛るるか 炳子 数へ日の嵌つてしまふ小津映画 炳子 大鳥居いくつも潜りクリスマス はるか きらめける虚構を踏みぬ霜柱 妙子 オルガンを踏み込むクリスマスの朝 光子 ◎くちびるの端で笑つて懐手 和子 ◎手つかずの落葉を散らす神の鳥 はるか 数へ日の水あをいろに神の池 要 ◎外套のポケットに怒りを握る 和子 サグラダファミリアみたいな銀杏枯れ 俊樹 風冷た悲しくなけれども涙 政江 二百万余の英霊よ竜の玉 昌文 ◎微動だにせぬ零戦と年忘れ 俊樹
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【かいわいの時】享保十六年(1731)*八月十五日:狂歌師油煙斎貞柳没(大阪市史編纂所「今日は何の日」) *ママ。『朝日日本歴史人物事典』他では没年を享保十九年(1734)としています。
江戸時代の狂歌作者。永田氏。名は良因、のち言因。通称は善八、家号は鯛屋、号は由縁斎、信乗軒、精霊洞、霜露軒、珍菓亭、又生庵、鳩杖子、長生亭など。家は代々禁裡御用を勤めた菓子商。父は山城大掾貞因といい歌学を松永貞徳に、俳諧を安原貞室に学び、狂歌も好んだ。叔父は俳人花実庵貞富、弟は浄瑠璃作者として有名な紀海音である。貞柳も和歌や俳諧を好んだ。 寛文12(1672)年『後撰夷曲集』に8首入集、延宝7(1679)年『銀葉夷歌集』に23首入集して、狂歌に頭角を表す。豊蔵坊信海(玉雲翁)について信乗と名乗り、元禄1(1688)年信海が没すると、その弟子黒田月洞軒に師事し、雲洞と号す。同6年、師信海の狂詠を選した『八幡拾遺』の下書きを月洞軒に送ったが、月洞軒は「難波江の藻にうづもれて居はせいでよしなき歌のゑらびだてかな」「げに玉の雲の翁が狂歌をばかゞやく月の洞にとへかし」「玉のやうな月はむさしにあるものをたのまでくらき雲の洞かな」と3首の狂歌で叱責した。月洞軒との繋がりはこののちも続いているが、これに遠慮したのか、貞柳自身の歌集の出版も最晩年までみられない。享保9(1724)年出火に遭って高津の菩提庵に閑居したが、狂名は世に広まった。同19年、81歳で没し、下寺町光伝寺に葬られた。歌集としては『家づと』『続家づと』『置土産』『机の塵』などがある。文化6(1809)年には無心亭有耳が『貞柳翁狂歌全集類題』を刊行した。その狂歌は雅俗折衷で平明、とりわけ機知に富む。享保11年、南都古梅園松井和泉が家製の大型墨を叡覧に供したことを聞いて、「月ならで雲の上まですみ登るこれはいかなるゆえん成らん」と詠んだ。これが世上にもてはやされ、油煙斎と呼ばれ、狂歌中興の名をほしいままにした。芥河貞佐ら多数の優れた弟子を擁し、門流は全国に広がった (園田豊)。『朝日日本歴史人物事典』より。
(写真)「御堂前鯛屋」 『絵本御伽品鏡 上』1739(国立国会図書館蔵)より。 我宿ハ 御堂のまへに 菓子所 油煙斎とも 人ハいふなり
長谷川光信画、油煙斎貞柳詠の狂歌入り大坂名物絵本。半紙本2巻1冊。墨摺り。刊記に元文4年(1739)正月買板、千草屋新右衛門とあるように、享保15年(1730)板の求板本である。貞柳の序に「つら/\風に乗し月にあかし、名所よしあしの其しな/\を絵にうつす長谷川氏の筆すさみ、ゆゑん斎に懇望し、絵のはたらきを狂歌に顕はし梓にちりはめ」云々とある。内容は見世、物売り、芸能、祭礼、行者、遊戯、職人、景物など、大坂の名物尽くし絵。見開き1図に二つの物事を扱う。画題は「御堂前鯛屋(御菓子所)」「万歳楽・春駒」「帳屋見世・大黒舞」「今宮戎・西宮」「六十六部・寒こり」「紙子屋一閑・越後獅」「飛たんこ・沈香屋」「のぞき・はみかきや」「夏屋扇見世・住吉踊」「入のこし(目薬)・人形廻し」「煮売舟・豆蔵」「堺庖丁・蓬艾売」「傀儡師・鳥貝舟」「猿廻し・面の糯屋」「講釈・まんざい」「野郎・尤踊」「米まんぢう・杉山膏薬」「蛍売・女郎屋」「瓦屋・高津の景」「神子・返魂丹」「豕子糯・鉄輪役」「曝嚊・柳の道場」「遊山舟・沙魚釣舟」「牡蛎売・百日行人」「油掛の地蔵・琉球芋」「鱣かばやき・蕎麦切屋」「貝まはし・枕の曲梯子の長兵衛」「親子奴・天満飴売」「竹田(からくり人形)」。光信得意の諸芸風俗図であり、当時の社会、生活資料として尊重される。(鈴木淳)(2017.2)(参考文献)黒川真道編『日本風俗図絵』7(日本風俗図絵刊行会 1914)。書誌の解題/抄録より。
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国を蝕み弱める五つの害虫 聖人のまねをしても、昔と事情が違う今の世の中で上手くいくはずがない。野良仕事を止め、 以前 ( まえ ) に兎が 打 ( ぶ ) つかって 転 ( ころ ) んだ木の根っこを見守り続けて、次に兎が 打 ( ぶ ) つかるのを待つ男の 二の舞 ( にのまい ) になる。 ⦅興国四具[韓非]から続く⦆
[国を滅ぼす害虫]は、次の五つ。王様が駆除せず放置していたら、遠からず国は滅びる。 1_学者:今になっても昔の聖人をたたえて[仁義]を看板に使い、もっともらしい服装や態度、飾り立てた言葉によって、現行の法に異議をとなえ、王様の心を乱している。 〖仁徳者の意味〗 王様の個人的仁徳に頼る儒家の「教え]は、国を 保 ( たも ) つ上で、有害無益(因みに、「焚書坑儒」は、韓非の思想を実行したものだと言われている)。 孟子は「幼児が深い井戸の側を歩いていて、その中に落っこちそうになるのを見れば誰もが手を伸ばして助けようとする。これは、幼児の親に恩を売ろうとか、他人に褒めてもらいたいとかではなく純粋に善意から出た行い。人には無償の善意がある」と言ったが、明らかに間違っている。「人は性悪。偏った考えで不正をし、無秩序になれば困るので、王様を尊敬させ、礼儀を教えたり、法律を作って犯罪を取り締まったりして、社会の安全を守れば、[善]となる」と 説 ( と ) く聖人も居た。 糠 ( ぬか ) さえ腹いっぱい食べられない者が白米や肉を食べたいと思うだろうか。 粗末な 木綿 ( もめん ) も着られない者が色鮮やかな絹を着たいと思うだろうか。 政治を行う場合にも、火急の��題が解決しないうちに、不急のことに力を用いるべきではない。 高尚で 難 ( むずか ) しい言葉を使う者は賢者と言われ、人をだまさない[貞信]な人物は仁者と呼ばれているが、広く国民に知らせるべき法を、難しい言葉で書いても、国民が理解することはできない。高尚で難しい言葉など無用だ。 無位無官の者なら、人を利益で動かす財力も押さえつける権力もなく、人をだまさない人物に頼りたくなるかもしれないが、王様は、人を統率し、国の財力を使うことができる。賞罰を加える権限を使い、[術]によって家来の正体を見抜こうとすれば、たとえ相手が 田常 ( でんじょう ) や 子罕 ( しかん ) のような 姦臣 ( かんしん ) だろうとも、だまされるわけがない。 数少ない[貞信]な人物だけでは何千何百とある官職を 充 ( み ) たすことはできず、官吏が少なくなれば、犯罪の取締りが行き届かなくなって、治安が悪化する。 [法・術]に 長 ( た ) けた王様に必要なのは、法の確実な執行であって、人徳者を求めたり、人の誠実さに頼ったりすることではない。 〖天網恢恢〗 子産 ( しさん ) (孔子に評価されている人物)が外出したときのこと、彼の馬車が 東匠 ( とうしょう ) の村の入口を通りかかると、死者を 悼 ( いた ) む女の泣き声が聞こえてきた。 子産は御者の手をおさえて車をとめ、しばらくの間聞きいっていたが、役人をさし向けると、女をとらえて尋問した。 女は自分の夫を絞殺したことを白状した。 後日、御者はこう尋ねた。「どうしておわかりになったのですか」。 子産はこう答えた。 「あの泣き声におそれがあったからだ。人は自分と親しい者が病気になると、まず心配し、死ぬときはおそれ、死んでからは悲しむ。ところがあの女は、死んだ者を悲しんで泣いているはずなのに、泣き声には悲しみがなくおそれがあった。さては何かがあるなと思ったのだ」。 ある人が言った、「子産の政治のやり方は、ご苦労なこと。自分の耳や目に頼らなければ悪事がわからないようでは、鄭の国では捕まる悪者はさぞ少なかろう。刑吏にまかせず、比較検討の方法によらず、法の基準を明らかにせず、ただ自分一人の耳と目を使い、知恵をしぼって、悪人を見つけようというのだ。策のない話ではないか。それに、対象としなければならない物は数多いのに対し、自分一人の知恵はわずかなものだ。少ないもので多いものに勝つことはできない。人間の知恵では、物を知りつくすことはできないのだ。だから、物は物によって治めねばならない。同様に、下にいるものは多いが、上にいるものは少ない。少ないものは多いものに勝てない。すなわち、王様は家来を知りつくすことはできないのだ。だから家来のことは家来自身によって知らねばならない。こうしてこそ、体を使わなくても万事は治まり、頭を使わなくても悪者を捕まえることができる。 宋 ( そう ) の国にこういう言葉がある『雀が一羽空を飛ぶ それを必ず落とすのは いくら 羿 ( げい ) (弓の名人)でも無理なこと天下に網をめぐらせば 逃げる雀はいなくなる』。悪人を見つけるにも、天下に張りむぐらした網があれば、一人として逃がすものではない。この理を知らず、自分の推察を弓矢として使うのでは、いくら子産でも必中は無理だ。『知恵で国を治める者は国に害を及ぼす』という老子の言葉は、子産にあてはまるだろう」と。 〖恥を 雪 ( すす ) ぐ〗 斉 ( せい ) の 桓 ( かん ) 公が酒に酔って、冠をなくした。 それを恥じてひきこもり、三日たっても朝廷に姿を見せなかった。 宰相の 管仲 ( かんちゅう ) が桓公をこう 諭 ( さと ) した。 「��んなことは、王様としての恥とは言えない。善政をもってつぐなえばよろしいのです」。 「なるほど」。と言って、倉を開いて貧しい国民に 施 ( ほどこ ) しをし、囚人を調査して、罪の軽い者を釈放した。 三日たつと、国民はこんな歌を歌った。 「お殿様、お殿様、どうか、もう一度冠をなくしてくださいな」。 ある人が言った、「管仲は 小人 ( しょうじん ) に対しては桓公の恥を雪いだが、君子に対して新たに恥をかかせたのだ。桓公が貧困者のために倉を開いて食料を与え、囚人を調査して罪の軽い者を釈放したことが[義]でないとすれば、それで恥を雪ぐことはできない。ところがそれが[義]であるとすれば、桓公は[義]を行わずに保留しておき、冠をなくすのを待っていたことになる。つまり、桓公は冠をなくしたから、[義]を行ったのだ。すなわち、小人に対しては冠をなくしたという恥を雪いだが、君子に対して、新しく、[義]をおろそかにしていたという恥をかかせたわけだ。そればかりではない。倉を開いて貧乏人に食料を与えることは、功績のない者に賞を与えること。囚人を調査して罪の軽い者を釈放するのは、悪人に罰を加えぬこと。功績のない者に賞を与えれば、国民はつけあがって高い望みを持つ。悪人に罰を加えなければ、国民は平気で悪事をはたらく。これは世を乱す 本 ( もと ) だ。恥を雪ぐなどと言えたものではない」と。 〖矛盾〗 歴山 ( れきざん ) で農民が 田地 ( でんち ) の境界を争っていた。 舜 ( しゅん ) が出かけてともに農耕にしたがったところ、一年にして境界のあぜは正しく定まった。 黄河の漁師が釣場を奪いあっていた。舜が出かけて漁師の仲間に加わると、一年で釣場は年長者に譲られるようになった。 東夷 ( とうい ) の陶工が作る陶器は粗悪だった。ところが舜が出かけて一緒に作るようになると、一年で陶器は立派になった。 この話を聞いて孔子は感嘆した。 「農業といい、漁業といい、陶器作りといい、本来の職分ではないのに、舜自ら赴いたのは、間違いをなおすためだ。これは何と立派な[仁]だろうか。自ら労働を実践することによって、国民を習わせたのだ。これこそ聖人の徳の力というものだろう」。 ある人が儒者に尋ねた。 「このとき、 堯 ( ぎょう ) は何をしていたのか」。 「堯は天子だった」と、儒者は答えた。 そこで、ある人が反論する、「それならば、孔子が堯のことを聖人というのは、どんなものだろうか。すべてを見とおす聖人が天子の位にあれば、天下からすべての悪を追い払えるはずだ。もし天子として堯がそうしていたのなら、農民も漁師も争うわけがないし、陶器が粗悪なはずもない。そうなれば、舜は徳を施すすべがない。だから、舜が間違いを正したことは、堯に失政があったことを意味する。舜を賢人というならば、堯がすべてを見とおす聖人だったということはできない。堯を聖人というならば、舜が徳を施したということはできない。両立は不可能である」と。 楚 ( そ ) の国に 盾 ( たて ) と 矛 ( ほこ ) とを売る男がいた。 男はまず自分の売る盾の宣伝をした。 「この盾の丈夫さときたら、たいしたものだ。何で突いたって、突き通せるものではない」。 次に、男は矛の宣伝をした。 「この矛の鋭さときたら、たいしたものだ。どんなものだって、突き通せないものはない」。 ある人が尋ねた。 「その矛でその盾を突いたら、どうなる」。 男は返答できなかった。 何よっても突き通すことのできない盾と、何でも突き通すことのできる矛とが、同時に存在することはできない。 堯と舜とを同時に誉めたたえることができないのは、この盾と矛の例えと同じだ。 また、舜がなおした間違いは一年にひとつ、三年で三つだ。 舜は一人しかいないし、その寿命には限りがある。ところが、世の中の間違いには限りがない。限りがあるもので、限りのないものを追求したところで、いくらも防げるものではない。なおせる間違いはものの数ではない。 ところが、賞罰によるならば、世の中の間違いは必ず防ぐことができる。 「法にかなう者には賞を与え、はずれる者には罰を加える」と、命令を出せばその日のうちに、国民はこれに従うようになる。 十日も経てば、命令は国中に行き渡るだろう。一年もかけることはないのだ。 舜は、堯に賞罰をつかわせようとせず、わざわざ自分で出かけた。 知恵のない話ではないか。 それに、自ら労働を実践して国民を導くことは、堯や舜にとってさえ難事業だった。 だが、権威の力によって国民を正すことなら、[法・術]に 長 ( た ) けた王様でなくともできる。 政治を行うのに、どんな王様にでもできる方法をとらず、堯や舜でさえ難しい方法を使おうというのだ。 〖昔と今の違い〗 大昔の世、まだ人間は少なく、獣や蛇の方が数多くいたから、人間はそれらに対抗することはできなかった。そこに一人の聖人が現れた。彼は木の上に鳥の巣のような家をこしらえて、人間が獣や蛇の害を避けるようにしてやった。 国民は喜んで、彼を王として迎え、 有巣 ( ゆうそう ) 氏と呼んだ。 また、人間はそのころ草木の実や貝類を 生 ( なま ) のままで食べていた。 食べ物は生臭く、悪臭をはなち、胃腸をこわして病気になる者が多かった。 そこに一人の聖人が現れ、木をこすりあわせて火をおこし、生の食べ物に火を加えるようにした。 国民は喜んで、彼を王として迎え、 燧人 ( すいじん ) 氏と呼んだ。 時代はくだり、天下に大洪水が起きたことがあった。 そのとき、 鯀 ( こん ) と 禹 ( う ) が排水路を切り開いた。 もし、 禹 ( う ) の時代になってから、木の上に家をこしらえたり、木をこすりあわせて火をおこしたりする者がいたら、 鯀 ( こん ) と 禹 ( う ) に笑われたに違いない。 さらに時代はくだって、 夏 ( か ) の 桀 ( けつ ) と 殷 ( いん ) の 紂 ( ちゅう ) が暴政をしいたときのこと、殷の 湯 ( とう ) と 周 ( しゅう ) の 武 ( ぶ ) がそれぞれ彼らを倒した。 殷・周の時代になってから、排水路を切り開く者がいたら、湯と武に笑われたに違いない。 とすれば、昔の聖人である 堯 ( ぎょう ) ・ 舜 ( しゅん ) ・ 湯 ( とう ) ・ 武 ( ぶ ) のとった方法を、現在世の中でそのまま手本にする者が、新しい時代の新しい聖人に笑われることも、またたしかだ。聖人とは、昔にとらわれ一定不変の基準に固執する者ではない。現在を問題とし、その解決をはかる者をいうのだ。 宋の国で、ある男が畑を耕していた。そこへウサギがとびだし、畑の中の切り株にぶつかり、首を折って死んだ。それからというもの、彼は畑仕事をやめにして、毎日切り株を見張っていた。もう一度ウサギを手に入れようと思ったのだ。でも、ウサギはそれっきり出てこない。彼は国中の笑い者になったという。 昔の聖人のやり方のまねで、現在の政治ができると思っている者は、この切り株を見張った男の同類だ。 昔は男が畑仕事をしなくても、食べ物は草木の実で足りた。女が布を織らなくとも、着る物は鳥の羽根や獣の皮が十分あった。働かなくても生活にこと欠かず、人口は少なく、財物はありあまっていたので、国民の争いはなかった。だから、厚賞重罰を用いるまでもなく、国民は自然に治まっていたのだ。 ところが今は違う。一人で五人の子持ちはめずらしくないから、子供の子供がまた五人ずつとして、祖父の在世中に孫が二十五人もいることになる。こうして人口が増加する割りに物資が増えないから、いくら働いても生活は楽にならない。そのため、国民の間に争いが起こる。どんなに賞罰を強化しても、世の中は乱れずにはすまない。 かって 堯 ( ぎょう ) が王だったときには、王のすみかは、屋根切りそろえないままの 茅 ( かや ) で、たる木は丸太のままの 櫟 ( くぬぎ ) という粗末な家だった。また、王の食べ物は、粗末な 粥 ( かゆ ) とアカザや豆の葉の煮汁であり、王の衣服は、冬は鹿の皮、夏は 葛 ( かずら ) だった。 今なら門番の暮らしでさえこれほど質素ではない。 禹 ( う ) が王のときには、みずからすきくわを手にして国民の先頭に立ち、ふくらはぎの肉がなくなり、すねの毛がすり切れるほど働いた。 現在の奴隷の労働でさえこれほど苦しくはない。 こうしてみると、昔、天子の位を譲ることは、門番の暮らし、奴隷の労働を捨てることにほかならなかった。天下を譲るとはいっても、たいしたことではなかったわけだ。 ところが今では、県知事ともなると、自分が死んだ後も子孫が馬車を乗りまわすほどだ。今の県知事が重視されるのはこのためだ。 つまり、人が地位を退く場合、昔の王は簡単にやめ、今の県知事がなかなかやめないのは、位の実益があるからだ。 水を谷まで汲みに行かねばならない山の住民は、 髏臘 ( ろうろう ) の祭に水を贈り物にするという。 ところが、水害に苦しむ低地の住民は、反対に人をやとって排水路をつくっている。 また、不作の年があけた春には、いとけない弟にさえ食べ物を分けてやらないのに、豊作の秋ならば、通りすがりの旅人でも必ずもてなすが、これもけっして肉親を粗末にし、旅人を大切にするわけではない。現実に食べ物の量が違うからだ。 これと同じく、昔、財物を軽んじていたのも、[仁]という徳目のためではなく、財物そのものがありあまっていたからだ。現在、財物を奪いあうのは、道徳が低下したのではなく、財物そのものが少なくなったからだ。 王位をやすやすと譲ったのも、人格が高潔なのではなく、王位そのものの権威が低かったからだ。 現在、県知事の座を争うのは、争う人の人格が下等なのでは���く、県知事そのものの実権が大きいからだ。 量・実益の多少こそが、今、新しい聖人が政治を行うにあたっての基準だ。 昔、罰が軽かったのは、治める者が慈悲深かったからではない。今、罰が重いのは、治める者が残虐だからではない。世の中の変化に応じて、そう変わったのだ。��から、「時代とともに、物事は変わり、物事に応じて、対処の仕方もかわる」ことを知らなければならない。 [ 仁 ( じん ) ]は、儒家の説く最高徳目。慈愛、博愛の意味に近い。それは堯・舜など古代の天子が実現していたとされる。儒家は、堯・舜の時代の[仁]にならうことを主張した。 昔、周の 文 ( ぶん ) 王は、 豊 ( ほう ) ・ 鎬 ( こう ) の間に百里平方の領土を持ち、[仁義]による政治を行って野蛮な 西戎 ( せいじゅう ) をてなづけ、天下を統一した。 その後、 徐 ( じょ ) の 偃 ( えん ) 王は、漢水の東に五百里平方の領土を持ち、[仁義]の政治を行い、その結果、領土を献上して徐に朝貢する国は三十六を数えた。自国を攻められるのを恐れた 楚 ( そ ) の文王が、先手を打って徐を滅ぼした。 つまり、周の文王は[仁義]の政治によって天下を統一したが、徐の偃王は[仁義]の政治によって、国を失ったのだ。 昔役に立った[仁義]が、今では役立たないということが、これでわかる。 舜の時代、 有苗 ( ゆうびょう ) という蛮族が反乱をおこした。 禹 ( う ) が征伐しようとすると、舜はこう言った。 「それはいけない。こちらの道徳ができていないのに武力を使うのは、正しいやり方ではない」。 それから三年というもの、修養に努めてから、舜が 盾 ( たて ) と 斧 ( おの ) をとって舞楽を舞うと、それだけで有苗は帰順したのだった。 ところが、その後、 共工 ( きょうこう ) (伝説中の舜の対立者)との戦いでは、鉄の 槍 ( やり ) は敵陣に届くほど長くなり、堅固でない甲冑では、体を傷つけられたという。盾や斧の舞いは昔は役に立ったが、今では役に立たないというのがわかる。 古くは、国は道徳を競いあい、次に智謀を競いあい、今や、競いあうのは力だ。 斉 ( せい ) が 魯 ( ろ ) を攻めようとしたときのこと、魯では 子貢 ( しこう ) (孔子の弟子)を使者として斉に送り、魯を攻めることの不利益を説かせた。斉の答えはこうだった。「あなたの言葉はごもっともだが、我々が欲しいのは領土であって、あなたの言葉ではない」。そして、斉は魯にむけて兵を起こし、魯の城門から十里の所まで領土を拡げた。 [仁義]の政治を行った徐は滅ぼされ、子貢の雄弁に関わらず魯の領土は削られたことからも、[仁義]や雄弁は、国を保持する力ではないことがわかる。徐��魯が[仁義]や雄弁を使わず、力によって立ち向かったとしたら、相手がいかに大国の斉や 楚 ( そ ) でも、この二国を思いのままにはできなかっただろう。 儒家 ( じゅか ) や 墨家 ( ぼくか ) の学者どもは、「昔の聖人は天下の国民すべてを愛し、わが子を見る親のようだった…刑吏が刑を執行するとき、王は音楽を慎んだ。死刑の判決を知ると、涙を流した」と言って、昔の聖人をたたえている。 しかし、王様の国民への愛で政治が行えるというのは 幻想 ( げんそう ) にすぎない。 刑をのぞまず涙を流したのは、[仁]によったからだが、それにもかかわらず、刑を執行したのは、法によったからだ。昔の聖人でさえ、涙を流しながらも結局は法に従ったではないか。 天下にかくれのない聖人である孔子でさえ、自らの体得した学問道徳を天下に説いたとき、彼の説く[仁義]に感服して弟子となった者はわずか七十人、[仁義]を身につけたのは孔子一人だった。 一方、[法・術]に 長 ( た ) けた王様とはいえない 魯 ( ろ ) の 哀 ( あい ) 公でさえ、ひとたび王位につくや、領民のうち誰一人としてその支配を拒む者はなかった。 国民はもともと権力のままになびくもの。権力はたやすく国民を服従させるものだ。 だからこそ、孔子が家来、哀公が王様という関係ができあがった。 孔子は哀公の[義]にひかれたのではない。その権力に服従したのだ。 つまり、[義]という点では、哀公は孔子に及びもつかないが、権力を使えばその哀公でさえ孔子を家来とすることができるのだ。 今の学者どもは、王様に、権力を使うことを薦めず、[仁義]に努めるよう 説 ( と ) いている。 王様という平凡な人間に孔子の弟子のようになれと言ってもムリな話だ。 スープを用意できないのに、餓えた人に食事を進めるのでは、餓えた人を生かすことにならない。草地を切り開き穀物を作ることもできないのに、民に物を貸し、施し、また褒美をあたえることを勧めるのは、民衆を豊かにさせることにならない。今の学者の言葉は、根本を論じないで、末端にこだわり、空虚な聖人のことばを唱えて民衆を悦ばすことしか知らない。これは絵に描いた餅と同じである。このような議論を、[法・術]に 長 ( た ) けた王様は決して受け入れたりしない。 墨子の博愛主義は絵空事、深遠広大な論は実用できない。墨翟は、天下に明察と認められたが、世の乱れを解決できなかった。 墨子が雄弁ではない理由を問われて田鳩は答えた、「昔、秦伯がその娘を晋の公子に嫁がせたとき、行列を飾り立て、美しい刺繍を施した衣を着た腰元七十人を従えて晋に行かせました。晋の人々はその腰元の中の妾を大切にして公女を大切にしませんでした。これでは妾を立派に嫁がせたと言えるのであって、公女を立派に嫁がせたとは言えません。楚の人で宝玉を鄭へ売る者がおりました。木蘭の櫃を作って入れ、桂椒の香で香りづけし、真珠を綴ったものをかけ、玫瑰で飾り、翡翠を連ねました。鄭の人はその櫃を買い、中の宝玉を返しました。これは立派に櫃を売ったと言えるのであって、立派に宝玉を売ったとは言えません。今の世の論説を見ますに、皆言葉巧みに飾り立てたものばかりです。世の君主はその飾られた文ばかりに気を取られ有用かどうかは考えません。墨子の言説は先王の道を伝え、聖人の言葉を論じ、人々に告げ知らしめるものです。もしその言葉を巧みにしますと、恐らく人々はその飾られた文に気を取られ、その本質を考えないでしょう。飾られた文によってその有用性が損なわれてしまいます。これは楚の人が宝玉を売り、秦伯が娘を嫁がせるのと同じことです。ですから言葉数は多くても雄弁には致しません」と。 墨子が木鳶を作ったとき、三年かかって完成したが、飛ばしたところ一日で壊れた。 弟子が言った、「先生の技巧は木で作った鳶を飛ばせてしまうほどです」と。 墨子は言った、「私は車の梶棒を作る者の技巧には及ばない。八寸か一尺の木材を用いて、ひと朝ほどの時間もかけずに作り、しかも三十石の荷を引き、遠くへ運べるほど力が強く、長い年月保つことができる。今、私は鳶を作ったが三年もかかって作り、飛ばしたところ一日で壊れたのだ」と。 恵子がこれを聞いて言った、墨子は技巧というものを心得ている。梶棒を作ることを技巧であると言い、鳶を作ることを拙いと言ったのだ」と。 郢 ( えい ) ( 楚 ( そ ) の都)の人が、夜、 燕 ( えん ) の宰相にあてて手紙を書いていた。 灯りが暗いので、燭台を掲げている係りに、「灯りを挙げよ」と命じた。 その時つい間違って手紙の中に、‘灯りを挙げよ’と書きこんでしまった。 燕の宰相は手紙を受けとると、「灯りを挙げよとは、明をたっとべということだ。つまり賢人を任用せよということだな」。 よろこんで国王に上奏した。 国王も感心して賢人を用いたので、国はよく治まった。 治まることは治まったが、それは手紙の言わんとすることではなかった。 くつを買おうとした 鄭 ( てい ) の男の話。 この男は、足の寸法を計ってひかえておいたのに、くつを買いに行くとき、持っていくのを忘れてしまった。 くつを買う段になってこの男、「寸法書きを忘れてきたから」といって、家に取りに戻った。 寸法書きを持ってきたときには、店はもう閉まっていて、くつは買えなかった。 誰かが、「その場で、足に合わせてみればいいのに」と言うと、男の答えるには、「足なんか信用できない。寸法書きの方が確かだよ」。 子供たちがままごと遊びをしているときには、土が飯であり、ドロが汁であり、木片が肉だ。 しかし、夕方、家に帰って食べるのは、本当の食べ物だ。 土やドロは玩具であって、実際に食べることはできないからだ。 大昔の伝説を誉めたたえる者は、言葉はりっぱだが実際の役には立たない。 昔の聖人の[仁義]を口にしても、国を治めることはできない。 これも玩具であって、実際の役に立たないのだ。 伯楽 ( はくらく ) (伝説的な馬の鑑定・調教名人)は嫌いな相手に名馬の鑑定法を教え、気に入った相手には駄馬の鑑定法を教えた。 名馬は、そうめったに現れるものではないから、鑑定人の利益も少ない。 ところが駄馬となると毎日のように売買されるから、利益が大きいというわけだ。 周書 ( しゅうしょ ) に「程度の低い言葉が、ときとして高度の役に立つ」というが、これもその一例だろう。 桓赫 ( かんかく ) がこう言った。 彫刻をするときには、鼻は大きいほどよく、眼は小さいほどよい。 大きすぎる鼻は小さくできるが、小さすぎる鼻は大きくはできない。 小さすぎる眼は大きくできるが、大きすぎる眼は小さくはできない。 [仁義]に 惹 ( ひ ) かれて国を弱めたのが、 三晋 ( さんしん ) (韓・魏・趙)だ。 [仁義]に惹かれることなく、国を強大にしたのが、 秦 ( しん ) だ。 その秦が今になっても天下を統一できないのは、まだ政治が完全でないからだ。 鄭 ( てい ) 県の 卜子 ( ぼくし ) という者が、妻にズボンをつくらせた。 妻が尋ねた。 「今度は、どんなのがよろしいでしょう」。 「前のと同じにしてくれ」。 妻は新しいズボンを破って、はきふるしたズボンと同じにした。 卜子の妻は町に行って、スッポンを買った。 帰り道、 潁 ( えい ) 水まで来た。 スッポンも喉が渇いているだろう、水を飲ませてやろうと思って、水の中に放した。 スッポンは逃げてしまった。 ある男が、年寄りの相手をして酒を飲んだ。年寄りが一杯飲むと自分も一杯飲んだ。 また、 魯 ( ろ ) の国に、行儀を気にする男がいた。年寄りが酒を口に含んだが飲めずに吐き出した。それを見て、男もまねをして吐き出した。 また、宋の国に行儀よく見せようとする男がいた。年寄りが飲みっぷりよく 盃 ( さかずき ) を干すのを見て、飲めないくせに自分も干そうとした。 2_遊説家:うそ八百を並べ立て、外国の力を借りて私欲をとげんとし、国の利益を忘れている。 外交について意見を述べる家来は、 合従 ( がっしょう ) 派か 連衡 ( れんこう ) 派か、さもなければ個人的うらみを国の力を借りて晴らそうとする者。 合従とは、六つの弱国を連合して 秦 ( しん ) に対抗しようとする策。「小国を救ってともに秦を討たなければ、天下すべてを失う。天下が秦のものになれば、自国を保つことも難しくなり、王様の権威は失われる」と言うが、秦に小国が連合してむかう場合、小国間の連合がくずれないとはかぎらない。連合がくずれれば、秦に乗ぜられ、兵を進めて戦えば敗れ、退いて守れば城は落ちる。 連衡とは、秦に従属して、他の弱国を攻撃しようとする策。「秦に従属しなければ、諸国から攻撃を受け、国の安全はおびやかされるだろう」と言うが、秦に従属すれば、 版図 ( はんと ) (戸籍と地図)を献上して領土をまかせ、 印璽 ( いんじ ) を献上して保護を 乞 ( こ ) わなければならない。版図を献上すれば領土は削られ、印璽を献上すれば国の名誉は地に落ちる。領土が削られれば国は弱まり、名誉が地に落ちれば、政治は乱れる。 連衡策をとって秦に従属すれば、この策を進言した者は、秦の力を借りて国内の官職を手に入れるだろう。 合従策をとって小国を救えば、この策を進言した者は、国の威を借りて小国に対して自己の利益を求めるだろう。国家の利益は未確定でも、彼らは領地をもらい厚い俸禄を手に入れる。 進言した結果が成功すれば権力を握っていつまでも重んじられるし、たとえ失敗に終わっても、財産を蓄えて引退するだけのことだ。 このように、王様が家来の進言を受けたあと、成功しないうちに進言した者の爵禄をあげ、失敗しても罰を加えないとしたら、遊説家たちがあてずっぽうの説をたてて、まぐれ当たりを期待しないわけがない。 国を滅ぼし、身を破滅させながら、王様が遊説家のでたらめに乗せられてしまうのは、王様が公益と私利の区別を知らず、遊説家の言葉の当否を察することができない上に、失敗しても罰を加えないからだ。 「外交こそは、大きくは天下に王たるの道、さらには内政を安定させる道である」という遊説は偽りだ。 他国を攻める力を持っている国でも、内政が安定し、治安が保たれている国を攻めることはできない。 国内の政治で[法・術]を用いなければ、富国強兵は不可能、外交に頭を使っても意味がないのだ。 「袖が長けりゃ舞はじょうず、銭が多けりゃ商売繁昌」という 諺 ( ことわざ ) がある。 何か計画を立てた場合でも、国がよく治まり兵力が強大であれば簡単に成���するが、政治が乱れ兵力が弱い国では失敗し易い。 同じ計画を立てても、秦のような強国では、十回 躓 ( つまづ ) いても失敗に終わることはまれだが、 燕 ( えん ) のような弱国では、一回 躓 ( つまづ ) いただけで成功ののぞみはほとんどなくなる。差は、家来の力量ではなく、内政という元手にあるのだ。 周は秦から離れて 合従 ( がっしょう ) 策をとたことがあったが、一年にして秦に滅ばされてしまった。 衛 ( えい ) は 魏 ( ぎ ) と離れ秦と結ぶ 連衡 ( れんこう ) 策をとったが、半年で滅んでしまった。 もし、周と衛が、合従・連衡といった外交策に頼らず、内政の強化に努めていたら…法を明確に示し、賞罰を確実に行い、土地を開発して経済を豊かにし、国民に死力をつくして国を守らせていたとすれば、どんな強国でも、この堅城の下に兵を疲れさせ、乗ぜられ反撃をくうような愚挙を試みるはずがない。侵略しても利益少なく、戦えば大きな損害を被っただろうから。 楚 ( そ ) の王が 呉 ( ご ) を攻めたとき、呉は 沮衛 ( そえい ) と 厥融 ( けつゆう ) を慰問の使者として、 楚 ( そ ) 軍の陣に送った。 ところが 楚 ( そ ) の将軍は、こう言った。 「こいつらを縛れ。出陣の儀式だ。 犠牲 ( いけにえ ) として血を太鼓に塗ろう」。 二人を縛りあげて尋ねた。 「呉は 占 ( うらな ) いをしてから、お前たちをよこしたのか」。 「その通りだ、吉と出た」。 「殺されて、血を太鼓に塗られるのだ。それでも吉か」。 「だからこそ吉なのだ。呉が我々をよこしたのは、もともと将軍の出方を見るためなのだ。 将軍が怒れば、呉は堀を深くし、 砦 ( とりで ) を高くして備える。 怒らなければ、あわてることもない。 だから、わたしが殺されれば、呉は守りを堅くするはずだ。 また、国が占いをするのは、一臣のためではない。 一臣が殺されることによって一国が救われるなら、まさしく吉ではないか。 またもうひとつ。死人に魂がないとしたら、血を太鼓に塗ったところで何になる。もし魂があるとしたら、いざ戦いというときに、我々は太鼓が鳴らないようにして見せよう」。 楚 ( そ ) の将軍は、これを聞くと二人を殺すのをやめた。 宋 ( そう ) の雄弁家である 児説 ( げいえつ ) は、「白馬は馬でない」という 詭弁 ( きべん ) によって、 斉 ( せい ) の 稷下 ( しょくか ) に集まった学者たちを屈服させていた。 その彼が、白馬に乗って関所を通ったことがあった。 ところが、やはり馬として通行税を取りたてられた。 すなわち空論によって国中の学者を屈服させることはできても、実物に当たって点検すれば、関所の役人一人だますことさえできないのだ。 「白馬は馬でない」…「馬」という概念には、白馬も栗毛も黒馬も含まれている。ところが、「白馬」という概念には、栗毛や黒馬は含まれない。故に、「白馬は馬でない」。このような論法は 名家 ( めいか ) という学派の 公孫竜 ( こうそんりゅう ) が唱えた。 鋭い矢じりをさらに 砥 ( と ) ぎ、 弩 ( いしゆみ ) にかけて射れば、眼をつぶってでたらめに矢を放っても、矢の先端は必ずひとつの点に突き刺さる。 だが、直径五寸の的を設置し十歩離れて狙うとすれば、 羿 ( げい ) や 逢蒙 ( ほうもう ) のような弓の名人でなければ必中させることはできない。 基準がなければやさしく基準があれば難しいのだ。 だから、王様が基準を持たずに聴けば、進言する者はでまかせ放題に、長広舌をふるうが、基準を持った上で聴けば、どんな知恵者でも失言をおそれ、でたらめは言わない。 王様が、進言に対して基準を持たず、ただ言葉の巧みさに感心するようであれば、口先の巧みな者が甘い汁を吸い続けることになる。 斉 ( せい ) 王の食客の一人に、絵 描 ( か ) きがいた。 あるとき、斉王が彼に尋ねた。 「いったい何を描くのが難しいか」。 「犬や馬でございます」。 「では何がやさしいか」。 「化物でございます」。 誰でも犬や馬は知っていて、毎日その物を目にしている。 だから、いい加減には描けないのだ。 一方、化物の類は、もともと形がなく、誰も見たことがない。 どう描いてもいいからやさしいというわけだ。 3_遊侠:徒党を組んで義侠を結び、暴力による抗争をして名をあげようする。 犯罪者として処罰されながら、兄弟に危害を加えた相手に復讐すれば 廉 ( れん ) として賞讃され、友人を辱めた相手に友人と一緒に報復すれば 貞 ( てい ) として賞讃される。世間の評判を気にして「廉」や「貞」を処罰の対象としなければ、国民が力を競って争い、役人の手にあまるようになる。 暴力によって国法を 蔑 ( ないがし ) ろにする遊侠の徒を赦してはならない。 4_側近:私財を蓄え、賄賂によって有力者にとりいり、戦士の功労を握りつぶしている。 衛 ( えい ) のある男が、娘を嫁にやるとき、こう教えた、「できるだけへそくりをためることだ。嫁に行っても追い出されるのはごく当たり前のこと、ずっと居られる方がまれだからな」と。 娘は嫁入り先で、こっそりへそくりをためていったが、やがてそれがばれて、姑に追い出されてしまった。しかし、娘が家に帰ったとき、持ち物は嫁に行ったときの倍となっていた。 親父 ( おやじ ) は娘に教えたことが間違っていたと悟るどころか、財産を増やしたのは、賢明だった、と自慢した。近ごろの官僚連中も、みなこれと同じ穴のムジナだ。 楊朱は宋国の東を通ったとき、宿屋に泊まった。そこには召し使いの女が二人いたが、同じ召し使いでも醜い方が格上、美しい方が格下だった。 不思議に思った楊朱がわけを尋ねると、宿屋の主人がこう答えた、「美しい女は、自分でも自分のことを美しいと思うておるもの。わしにはそんな女、美しいとは思えなんだ。一方醜い女は、自分でも自分は見にくいと思うておる。わしにはこんな女を醜いとは思えなんだ」と。 これを聞いた楊朱は弟子に言った、「行いがりっぱであり、しかも決して自分のことを立派だと思わぬような人は、どこへ行っても必ずその真価が認められようぞ」と。 5_商人:ろくでもない容器や贅沢品を買いだめし、時期をみてはそれを売って、農民が苦労して得るのと同じ利益を、労せずしてむさぼっている。 国民は、危険を避けるため有力者を頼って兵役を逃れようとし、要職者に賄賂を贈って便宜を図ってもらおうとする。その思惑が叶えられるなら、利己をはかる者がはびこり、国に尽くす者はいなくなる。 側近を通して請願すれば爵位が金で買えるようでは、商人らの身分を下げることはできない。 不正に 儲 ( もう ) けた金が市場で通用すれば、商人の数は減らない。 儲けが農業の倍あって農民や兵士よりも身分が高いとなれば、節操ある人物が減り、商人が増えるのは、当然だろう。 [法・術]に 長 ( た ) けた王様は、商人や無為徒食する者の身分を低くして、その数を減らそうとする。 ⦅洞察六兆[韓非]に続く⦆
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我々とは何か
「我々は何処から来たのか 我々とは何者か 我々は何処へ行くのか」(P.ゴーギャン 1897)
ゴーギャンの晩年における畢生の大作であるこの絵と、有名な絵の題名の言葉は、深く私たちの心に突き刺さる。題名のこの言葉が、回答の宣言の文型ではなく疑問の文型であることは象徴的だ。この根元的な問いは、わからないままに私たちの中にはつねにあるような気がする。この南洋の森の中のような薄暗い絵は、そのことに関するゴーギャンの無言の回答、ということなのだろうか。
「我々は何処から来たのか 我々とは何者か 我々は何処へ行くのか」
我々とは何者か
しかし、「我々とは何者か」と問うときの「我々」とは何を指しているのだろうか。この絵をしばし離れて考えてみたい。
禅問答のように聞こえるかもしれないが、「我々とは何者か」と問うときに、問う者と応える者の間で最低限「『我々』という観念」は共有されていなければならない。そうでなければ、それは何か?と問うこともできない。 私たちがそれぞれ「私である」と思っているものは、実は「私の意識」のことではないか。「あれをした」とか「これをした」といった行為や経験の主体は、私そのものというより、その経験をしたことを覚えていて、考えを巡らし、ときに振り返る「私の意識」である。そして「私の意識」が、経験したことをあれこれと意義づける。
「我思うゆえに我あり」とデカルトは言ったが、このときの「思う我」とはまさに「私の意識」のことである。つまり、「私の意識」=〈意識〉とは、私たち自身である、と言ってもよいと思える。
しかし、大きくとらえれば「私」なのだが、「私の意識」と呼べない部分も、私の中には実はある。身体性の問題がその一つである。「私の身体」は、ほとんど「私の意識」の外にあるといえないだろうか。 痛みでもないかぎり、私は、私の「臓器」の存在をほとんど意識することができない。まして臓器の動きをコントロールすることなどできない。これらは、意識的にコントロールできないという意味の「不随意筋」によって動いている。意のままに動かせる「随意筋」で動いている手足や指は、たしかに意識的に動かすことはできる。しかし、スポーツや楽器演奏などの高度で繊細な筋肉のコントロールを、意識がおこなってはいるとは言いがたい。むしろ意識は、往々にしてスムーズな動きの邪魔をする。そういった筋肉の繊細な使い方を上達させるために、アスリートや音楽家は、意識を消し去ることを長い時間をかけて訓���をする。また訓練を越えて上手な人は、普通の人はどんなに意識的に頑張っても及ばない「天才」と呼ばれる。 特別に高度なことでなくても、普通の人が自転車に乗ることもやはり意識的にやっているわけではない。どう自転車でバランスを取っているか、言葉を使って意識的に説明することはむずかしい。あるいは表情筋を意識的に動かして、表情を作ることはできなくないが、顔の表情の多くは無意識に現れてしまうものである。
■〈私〉と〈自分〉 トール・ノーレットランダージュは、「私の意識」を〈私〉、その〈私〉も含む全体としての自分を〈自分〉と呼んだ(または、self1とself2と呼んでいる)。〈私〉は〈自分〉の一部である。
人間は、視覚や聴覚、触覚などを通して、絶えず外界から情報を取り込んでいる。その情報量を計算すると1000万ビット/秒ほどになるという。一方人間があれこれ考えごとをするとき、つまり意識の中でどれくらいの情報量を処理しているかというと10ビット/秒程度であるという。ということは〈自分〉として取り込んでいる情報の100万分の1ほどしか、〈私〉は使っていないということになる。逆にいうと、私であるところの〈私〉が知らされていない100万倍の情報を〈自分〉は受け取っているのに、それを〈私〉は教えてもらえない。しかし〈私〉は、渡された毎秒10ビットの情報を、〈私〉が経験した、すべての、「生な」情報、と思い込んでいる。(→「会話の木」)
〈自分〉は、その多量な情報をいったいどうしてしまうのだろうか。 〈自分〉は多量な情報から、〈私〉=私の意識が扱えるように、ごく少量の情報へ、気づかれないように裏でこっそりダウンコンバートしている。その処理の過程で落とされた情報のうち、いくらかが無意識の底に沈み、多くの情報は完全に捨て去られる。無意識の底にサブリミナル情報としてとらえる作用は「閾下知覚」と呼ばれている。
コンピュータ的に言えば、〈私〉というアプリケーションは、OSからマウスや画面タッチの情報をイベントとして受け取って動いている。しかし実際には、OSのさらに下にあるBIOSがハードウェアからの電気信号パターンを常時監視/処理してマウスの位置やクリック、何本かの指でのピンチ操作という、仮想の意味を創作して上へ返している。そういった状況に似ている。
ジュリアン・ジェインズは〈意識〉に関しての卓越したこんな比喩を語っている。 〈意識〉は懐中電灯のようなものである。暗闇に置��れた懐中電灯に部屋の様子を報告させたら、部屋は明るくて何でも日中のように見えていることになるだろう。懐中電灯が見ようとするものには、常に光が当たっているから。 〈意識〉に心の中を報告させれば、すべてが自明のことのように映るだろう。しかし実際には意識が差し向けられていない心の物陰で、多くの心の事態は動いている。 「だるまさんがころんだ」(「ぼんさんが屁をこいた」)のようでもある。
つまりわれわれは〈意識〉に閉じ込められている、とも言えるのではないかとわたしは思う。
これまでのことをまとめると、私が私自身と考えている〈私〉とは、私の意識であり、マクロに見ると高度な楽器演奏もできないし、自転車に乗ることすらもできないほどたよりない。またミクロに見ても、〈自分〉というハードウェアが経験から得られる生な情報のうちの、ほんの少しの調理済みの情報だけを、もらっているに過ぎない。でも、やっぱり〈私〉こそが私のすべてだと思って生きている。
もちろん、こういった〈意識〉によって、人間は他の動物とは決定的にちがう文化、文明、芸術、科学、宗教などを生み出して、はるかな髙みに立つことができたわけであるが。
〈意識〉の起源
ジェインズは、この〈意識〉の起源と本質のありようについて、大胆な仮説を提示する。ここではジェインズにそって〈意識〉がどうやって生まれたのかを追ってみよう。
ジェインズによれば、人間が他の動物とはまったく異なる精神生活を始めたきっかけは「言葉(話し言葉)」にあったという。 言葉は、呼び声からはじまり次に修飾詞そして命令、最後に名詞の順にできていった。言葉のもっとも重要なエンジンは「比喩」の機能である。何のようか、という視点である。それによって語彙はじょじょに増えていった。
■〈二分心〉の時代 たがいにある程度の意思疎通のできるまで言葉を獲得した頃、人の精神生活/心の在り様はどんなものだったのだろうか。ジェインズはその時代を〈二分心〉の時代と名付けている。 その時代の人々の心(脳)は、二つの役割に大きく分かれていたという。一つは発起する心であり、自分の行為や行動を想起し、自分自身に命令をくだす心である。もう一つは、第一の心の命を受けて、それを忠実に実行しようとする心である。この第二の心は冷静で、客観的/論理的/合理的な判断をくだすことができる。それに対して第一の心は、情動的ないし欲望的な存在である。これらの二つは具体的には、右脳(脳の右半球)と左脳(左半球)に対応している。
〈二分心〉"Bicameral mind" の直接の意味は、「二つの部屋(箱)の心」である。また「二院制の心」という意味でもある。二院制(上院/下院ないし衆議院/参議院)は、二段階の手続きで人がなすべきことを決めて実行していく体制、といった意味合いであろう。しかし役割から考えると、二院制よりも立法と行政という二権による運営に近いように自分には思える。
右脳は、一種の「神」として、「人」である左脳に君臨していた。この命令する声=内なる神は、いわゆる現代の宗教における神とは違うが、働きとしてはほぼ同じである。絶対的に正しく、疑うことなく人が実行すべきことを人に示すものである。左脳は、疑うことなくただこれに従った。
■内なる神の声 その頃の人たちは、群れによる狩猟採取の生活をしていたと考えられている。群れの中にはリーダーとして、ほかの者に命令をする者もいただろう。このリーダーの声も、多くの群れの中の者たちは、同じように従うべきものとして聴いたことだろう。そしておそらく自分の内なる声よりは、リーダーの声に従ったのだろうと思う。そうしなければ、群れが存続していくことがむずかしくなってしまう。どうしても従えない者は、群れを出て行くしかない。 現代の感覚から言えば、群れの中の人たちは何に従うべきか、葛藤が生じたのではないかと想像される。しかし実際にはそうではなかった。なぜならば、人にはまだ「葛藤」するための〈意識〉が芽生えていなかったのだ。人はまだ、ほかの動物たちと同じように、素直な存在だった。何かを疑うことはまだ学んでいなかった。 たとえば人から見ると狡猾そうに見える、ハイエナなどの動物はたしかにいる。しかし実際のところは、ほかの動物に比べて少しだけ頭の回転の早い動物が、うまく立ち振る舞っているにすぎない。
ジェインズによれば、この〈二分心〉の時代は、言葉を獲得した数万年前からほんの3000年ほど前まで続いていたという。その間ずっと、人はこの〈二分心〉という形で精神的な生を送っていた。 これはにわかには信じがたいことであるが、さまざまな事例でジェインズはこれを裏付けていく。
私たちホモ・サピエンスは、今から1万年ほど前に狩猟採取の生活から農耕生活に移ったとされる。最古の文明であるメソポタミアは、8000年〜6000年前、つまり3000年前の2倍ほどさかのぼった頃のことである。その他のいくつかの古代文明も、3000年前ころには成立していた。 つまり都市ができ、文明が成立するころ、人はまだ〈意識〉もなく暮らしていたということになる。〈意識〉もなく、文明といった多くの人が参加するような社会が本当に運営できるのだろうか。また文明の中には、多くの複雑な制度や道具、発明品などの人工物があった。そういったものを自覚的な〈意識〉抜きで、作り出せるものなのだろうか。その理由もさまざまに述べられている。
では〈二分心〉の時代は、どうやって次の時代へ移行していったのだろうか。そして移行した先の時代とはどういう時代だったのか。
■〈意識〉の時代 文明の中でなした多くの発明品の中に、「文字」というものがあった。文字は交易のための覚書から始まった。誰それにどれほどの貸しがあるかを、両者が目に見える物理的な印として残すことは有効であったにちがいない。そしてその有用性は、さまざまなものの「記録」に波及していった。そしてその時その時のできごとを客観的に記録することもできるようになった。またその「記録」によって過去のできごとをありありと思い出すことができた。 この言葉による「記録」という「過去の記憶」は、人が明日とるべき行動の指針ともなった。それにしたがえば、ときに右脳やリーダーの声以上に、まちがいがなかった。さらにその指針は自分一人のための覚え書きとしてだけでなく、多くの人に世代を超えて伝わっていく有効なものとなっていったはずである。言葉は、過去の記憶を記録にとどめだけでなく、未来を想像し計画することを可能にした。
こうして過去と未来を、つまり「時間」を今までにない新たなかたちで人は手に入れ直した。私という意識にとって、時間はキーとなる観念である。過去にこうあって、未来にこうなるものとして、はじめて「私のアイデンティティ」という物語りが立ち上がる。 また時間によって、反省や悔恨、夢や希望といった感情を育んでいったことだろう。その過程で思いやりや嫉妬も学んだ。
ジェインズによれば、情動(affect)は動物も持ちうるもので、恐怖、恥、交尾、怒り、興奮、親和などがその代表である。これらはやがて、不安、罪悪感、セックス、憎しみ、喜び、愛へ変化していった。そして感情(emotion)とは、過去や未来の情動に対する意識(awareness)であるという。ということはつまり、人間がとても大切にしている「感情」すら、意識によってもたらされたものであって、〈二分心〉の時代には「感情」はなかったということになる。
〈意識〉によって、人は合理的な思考や哲学的な思考を深めていくとともに、たくさんの知識や知恵を手にしていった。ギリシャ時代の多くの哲人や思考家は、それをもっとも象徴するものである。今あるほとんどの学問の原点はギリシャにある。 しかしその一方、人々は同時に大いなるものを失ってもいった。右脳から発せられる内なる神の声である。お役御免となった内なる神の声は、ときとともに途切れ途切れになり、ついには神々は沈黙した。神を失った人々が、新たな、自らの統治者として選んだものこそが〈意識〉であった。
これが〈意識〉の起源である。 〈二分心〉時代の次なるこの時代を〈意識〉の時代と呼ぶことができるだろう。そして〈意識〉の時代は、たった今も続いている。
〈二分心〉の時代の人々の精神的な暮らしぶりとは、どんなものであったのか。その頃の人は蒙昧といえばたしかに蒙昧だったのかもしれない。しかしそれは今の私たちから見た相対的なものであって、むしろ後悔もなく、憂いもない、幸せな時代であったような気もする。そういった想像は、野生の動物たちが幸せかと問うのに似ている。 しかし一方、現在も進行中の〈意識〉の時代は、〈二分心〉の時代とくらべて、はたしてどれほど幸せな時代といえるだろうか。
■〈二分心〉という発想 ところでジェインズは、どうやって〈二分心〉という想を得たのだろう。 ジェインズは、人類最古の著作「イーリアス」を詳細に紐解いた。そしてこの長編の神々を語る叙事詩の中に、意識や心が語られていないことを発見した。一見して意識や精神活動を表すような単語も詩中に見えるが、その言葉の使われ方を吟味すると、まだ精神性を表すような意味では使われていないという。たとえば「プシケー」という「魂」や「心」を洗わす言葉は、その言葉の原義である「血」や「息」という意味でしか使われていない。 日本の能楽師である安田登氏も、漢字において同様の指摘をしている。孔子による「論語」の中には「心」という漢字ばかりでなく、心を表す「忄」(���っしんべん)のつく漢字も出現しないという。まだそれらの漢字は作られていなかった。文字がないということは、その観念が人々の中に根づいていなかったことを意味している。だからこそ孔子は、生まれようとしている「心」の正しい用い方を説いたのだという。
これら書物による〈二分心〉の考察は、一つの検証でしかない。他にも古代の墓や偶像などから、帰納統合(→コンシリエンス)的に〈二分心〉が導かれている。
〈二分心〉の残照
〈二分心〉の時代から〈意識〉の時代への移行は、世界中で起きた。ある地域では比較的早く、ある地域ではかなり遅く。近い地域どうしでは、移行が伝播もしていった。そしてもちろんどの移行も一瞬にして起こったわけではない。
■預言と宗教 神々の声がじょじょに聞こえなくなっていったとき、困った人たちは預言者らを頼った。託宣者、預言者や巫女、あるいは口寄せの術を使う者は、神の声が小さくなっていった時代にあって、神の声を“まだ”聴くことのできる少数の人たちだった、と考えられる。人々は必死の思いで、これらの人に頼ったにちがいない。 また、消えゆく神の声をなん��か留めようと言葉にまとめたものは宗教の聖典となった。大まかではあるが、宗教もそんなふうにはじまっていったと考えることができる。
ところで旧約聖書に、イブが悪魔の化身のヘビから知恵の林檎を食べさせられて、以後知恵とともに羞恥心などを覚えて楽園から追放された、というくだりがある。これは「知恵の林檎」を「意識」に置き換えると、これまで書いてきたことに深く符合するのは非常に興味深い。
■詩、音楽、芸術 「イーリアス」がそうであるように、初期の書物の多くは詩という形式で書かれている。 詩とは韻律を持つ文である。おそらく内容は文に書かれる前に、口頭で伝承してきたと考えられる。口で覚えて伝えるためには韻律をもっていた方が有利であるし、韻律(音楽)を司る右脳は、元々神の居座であった。 詩、音楽、そしてほとんどの芸術は、失ってしまった内に生きていた神を指向していると考えられる。
■統合失調症、憑依 また、統合失調症や憑依、催眠といった心理学的な現象についても、〈二分心〉の名残りという観点から説明が可能であるとしている。
■科学、真実 ジェインズのさまざまな論考は、基本的には「科学」をベースに置いたものである。しかしついに、その科学についてさえ、ジェインズは〈二分心〉の崩壊に対する反応のひとつと読み解いてみせる。 人の活動のほとんどは「内なる神」の確実性を追い求めることであった。宗教は「内なる神」から、造物主やすべてを統べる存在としての「神」を、直接求める活動であった。科学の出発点は、「神」を求める過程で分離したプロテスタントが帯びた合理主義的側面の先にあった。そうして科学革命がはじまり、今にいたっている。(もちろんこれはキリスト教史的な見方で、それですべてとはいえないが、大筋は納得できる。)
本書の最後一文は、以下のように結ばれている。 「真実という概念そのものが、文化に与えられた指針であり、大昔の確実性に対して誰もが抱く根深いノスタルジアの一部なのだ。(真実を)世界中を巡って探し求めることができるという考えそのものが、失われた神々を求めてきた直接の結果だ。」
あわいの時代
前述の安田氏は、〈二分心〉から〈意識〉の時代へ移ろう中間の時を「→あわいの時代」と呼んだ。そして〈あわいの時代〉で起きたことを、身を以て演じることによって読み解こうとしている。
さらに、ジェインズや安田氏はこんな予感を綴っている。それは現代という時代は〈意識〉の時代からさらにその次の時代へいたる第二の〈あわい時代〉ではないか、と。 〈意識〉の次の時代がどのようなものかは、まだ誰にも描けていない。それはすぐにでもやってくるものなのか、それともこの100年世紀あるいは1000年世紀をかけて起こることなのだろうか。
■次なる時代 〈二分心〉が、左脳と右脳のプリミティブな協調の時代で、〈意識〉の時代が左脳優位の合理を指向した時代であったとすると、次の時代の在り様は以下のような3つが考えられるだろうか。
右脳の時代。感覚や感性の時代。
右脳と左脳の、新たな関係性がもたらす時代。
左脳でも右脳でもない、第三の何か新しいものの優位となる時代。
3.は、まさに想像を超えたものであり何とも言いようがないが、1.または2.であるとすると、いずれにしても、しばらく力を発揮できなかった右脳の進展に関するものとなる。さて、どうなのだろうか。
■自律した言葉 「話し言葉」によって〈二分心〉の時代が開かれ、「書き言葉」によって〈意識〉の時代が開かれたのだとしたら、次の時代がどういうものであるにせよ、それはコンピュータとネットワークという技術(ICT)によって開かれるものであることは、まちがいのないように感じる。旅の行き先はわからないが、出発のきっかけはおそらくそこにある。
歯車やスチームエンジンの延長にあるコンピュータという「機械」によって人間が変えられてしまう、というイメージに違和感を抱くのなら、こう言いかえてもよい。「言葉の自律」が次の時代が開くと。
左脳が生み出したおそらく最大の発明品であるICTのベースは、数学理論に裏付けられたものである。ベースがそうであるにせよ、ICTが結果として実現したものとは、言葉それ自体が生命をもって生きていけるダイナミックな仕掛けとしてのメディアだったのではかいか。 文学的な「生きた言葉」という言い方があるが、まさにICTによって、言葉は舞台上の俳優のように「生きた」ものとなり、自らの役割を自律的に演じることができる。
ICTによって言葉を制御するものは、歯車やエンジンではなく、プログラミングという言語である。つまり言語を生かすための仕組みもやはり言語であったということである。言語はもともとそのような再帰的な自律性を秘めていたということなのだろう。
「話し言葉」とは、実体としてみれば空気の震えでしかない。「書き言葉」も、粘土や紙に印されたシミでしかない。ICTが実現しようとすることは、そのシミに生命を与えて動き出させることである。 雪舟は室町時代の伝説的な水墨画家であるが、少年雪舟が自らの涙で床に描いた鼠は、あまりにリアルでついには動き出したという。そんなイメージがする。
こうしてふり返ると、我々という人=ホモ・サピエンスは、「言葉」を生み出した動物というより、「言葉」によって形作られてきた動物である、といえるのかもしれない。
■ひずみ いつでも人は、自分のいるその時その時を、特別な時代と感じるものなのかもしれない。しかし、それでもやはり、この20世紀の終わりから21世紀はじめという時代は、さまざまなひずみをはらんだ時代、あるいはひずみが露わになった時代のように感じる。
よく言われるように、技術(左脳の作り出したもの)そのものが悪いわけではないとわたしも思う。しかし、それを誤って使う人が悪いのだ、という言説にはわたしは賛同できない。たんに人が、この技術の進展の早さについて来られなかったためのひずみであったのだとわたしは思う。
原子力という安全に制御するにはあまりに大きすぎる力、戦争と原水爆弾による危機、つもりに積もった世界規模の人工の自然破壊、ICTという有効な道具があるというのに起きている意思疎通に関する不具合、AIのシンギュラリティは我々を天国に導くのかそれとも地獄へ導くのか。どの技術についても、自らの左脳が生んだ道具の有能さに、我々自身が追いつけていないうようだ。
このような世界で起きているさまざまなひずみを見ていると、どれも〈意識〉の限界を示唆しているような気が強くするのである。
これが〈意識〉の時代の終焉を示すものであるなら、次に起きることはこれを解消するものでなければならないだろう。そう考えると少しは希望もわいてくるのであるが。
■ふたたびゴーギャン さて、ふたたびゴーギャンの問いにもどろう。 わたしがこれまで述べてきたことは、「我々とは何か」というものであり、「どこから来たのか」であり、そして「どこへ行くのか」であった。わたしがというより、ゴーギャンやジェインズ、安田登、そしてノーレットランダージュという人たちが表したことであり、わたしもそれに共振したにすぎない。でもかれらの指摘は、どれもわたしがこれまでほとんど聴いたこともなかった重要な問いかけであり、読み解きの物語りであった。そしてそれはわたしを夢見させた。結局はまだ解けない謎でもあるけれども。
デザインと〈意識〉
デザイナーとしてのわたしは、ここまで事情があきらかになれば、何か先も見えるのではないかと無謀に夢想した。誰もわからないのだから、大いにこの問いを楽しみたいと思った。たとえ〈私〉には、100万分の1しか事実が知らされていないのだとしても。
あまりに大きな話なので、デザインとこれまで述べてきた〈意識〉がどういう関係にあるのか、自分でもなかなかうまくまとめられない。しかしデザインは、新米とはいえ芸術や科学を親に持つ営みであるのだから、〈意識〉とまったく関係がないとはいえない。いや大いに関係があるはずである。 しかし寡聞にして、デザインと〈意識〉が、このように結びつけて語られるのを聴かない。
わたしはデザインをスタイリングの問題とは思わない。しかしまた、認知に関わる、わかりやすさや使いやすさの問題とも考えない。この二つの側面はたがいに対立するものではないし、どちらも等しく重要なものである。むしろデザインは、それらを���きく包み、それらの向こうにあるものだと思う。
それは「認識」の問題と捉えるべきなのかもしれない。 デザインとは、広い意味での道具(道具、メディア、制度)を、人がどのように認識するものとして作るのか、を問題意識とする行為ではないのか。 認識という作用それ自体は、意識下〈私〉のものであるが、それが対象としているのは、無意識や身体性を含む全体としての〈自分〉である。 認識の問題は、コインの裏表として表現と現象の問題と響きあっている。
デザインのことを考えていく中で、〈意識〉の問題に行き当たったのであるけれど、なんだかどうも、デザインの「床」をぶち抜いてしまったような気もしている。この上自分は、デザインの上に立っていられるのだろうか。
(180221)
「ユーザーイリュージョン」 ー 意識という幻想(トール・ノーレットランダージュ) 「神々の沈黙」ー 意識の誕生と文明の興亡(ジュリアン・ジェインズ) 「あわいの時代の『論語』」ー ヒューマン2.0(安田登)
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平成28年(2016年)3月9日(水曜日)の第190回国会 厚生労働委員会 第3号で当時議員だった初鹿明博氏が当時厚生労働大臣だった塩崎恭久氏にアートメイクとタトゥーの事で質疑応答しています。どの場には今でも現職の多数の議員たちや現厚労大臣の田村憲久氏も同席しております。厚生労働副大臣、厚生労働大臣政務官、厚生労働委員会専門員もおります。 政府参考人として警察庁長官官房審議官も出席しています。 「○初鹿委員 次は、今度はタトゥーなんですよ。タトゥーが今問題になっております。
彫り師の方が略式起訴をされたんです。何でかといったら、タトゥー、入れ墨を入れる行為は、厚生労働省が、医業だと。医療だから、医師法違反だということで起訴をされました。
この彫り師の方、そのまま罰金を払ってもよかったんだけれども、いや、このままだとタトゥーの文化が廃れていってしまう、それに、今まで法律に明文規定もないものが、ある日突然、一枚の通達で仕事が全くできなくなるというのは職業選択の自由に反するんじゃないか、また、芸能人やスポーツ選手でも、今はタトゥーを入れている人はたくさんいますから、そういうファッションとして入れたい方の、それこそ幸福追求権を侵害するんじゃないか、憲法違反の疑いがあるんじゃないかということで、これは訴訟を起こしているんですね。
お伺いしたいんですけれども、大臣、医療というのは何ですか。
○塩崎国務大臣 大変広い概念であろうと思いますけれども、狭義に考えれば、やはり、人体に侵襲を加えるということが医療の本質ではないかというふうに思います。
○初鹿委員 辞書で調べると、「医術・医薬で病気やけがを治すこと。治療。療治。」と書いてあるんですよ。要は、病気やけがを治すことが医療だと思いますし、多くの人はそう思っていると思いますよ。
入れ墨を彫るという行為は、何か病気を治している行為でしょうか。治している行為じゃないと思います。治していることではないと思います。
古代の時代から、これは卑弥呼の時代からずっと世界じゅうでやり続けられている行為であって、そして、また最近のタトゥーとか、見ていただければわかりますけれども、非常に芸術的なわけですよ。これを医療だといって、では、お医者さんがタトゥーを彫れますか。彫れますか、彫れないですよ。なぜなら絵を描けないからですよ。ですよね。絵が描けないわけですよ。要は、だから、医者の世界と別に競合しているわけでも何でもないわけですよ。それを医療だといって規制をするのは、私は少しやり過ぎではないかというように思うんです。
海外��例を調べてみました。そうしたら、海外は、私が調べた限りでは、医療としているところは一つも見つかりませんでした。ただ、例えば、アメリカだと、州によって異なるんですが、ライセンス制にしていて、きちんと規制をかけております。イギリスは登録制で、衛生環境等で規制が定められていて、監督官庁に立ち入り権限が認められているわけですね。また、イタリアも、これは規制はないんですけれども、法律はないんですが、ガイドラインがある。フランスは届け出制だということですし、また、オランダもライセンス制。また、オーストラリアもそうなんですね。
そういうことを考えると、医療として規制をするんじゃなくて、海外の例のように、きちんと法律を別個つくって、それで届け出制なり許可制なり、または免許制でもいいですけれども、きちんと管理をするようにしたらどうなのかなと思うんですよ。
一部、和彫りの彫り師の方が暴力団と関係があるとか、そういうことが過去、事件になったり指摘をされたりしたこともありますが、ちゃんと許可制にすれば、そういうことは要件にしてこれを排除することもできると思うんですよ。今このまま医療だといってそのままにしていると、どんどん地下に潜ってやるようになります。
実際に、これはもともと、発端はアートメークなんですが、アートメークから始まっているんですが、アートメークをやっているエステサロンに二十件ぐらい電話をかけてみました。アートメークをやっているところに、私じゃなくてスタッフにかけてもらいましたが、ほとんどのところが、アートメークはやっておりまして、医者じゃないけれども経験をした人がやるので大丈夫ですと答えていました。
結局、こういう、規制をしてもそのとおりになっていないわけですよ。それを追っかけていって全部取り締まりをするのではなくて、別個の法律をつくればいいじゃないですか。例えば、医療と似たような行為で、はり、きゅう、あんま、マッサージや柔道整復というのは、それぞれ別の法律をつくって、医業類似行為だということで法律で認めていますよね。それと同じような観点に立って、入れ墨の彫り師についても何らかの法律をつくって、きちんと許可制にして、業としては認めていくという方向を検討してもいいのではないかと思いますが、大臣の御見解を伺います。
○塩崎国務大臣 先生からこの御質問をいただくということで、私も厚労省の中でいろいろ議論をしました。
個別の事案は、もちろん、私は判断をする、コメントする立場にはございませんが、今の解釈は、入れ墨行為というのは、針先に色素をつけて皮膚の表面に墨などの色素を入れ込むという、侵襲をする、そういう行為であって、当然、保健衛生上の問題が起こり得る、感染症になる、そういうおそれがありますから、全く医師免許を有しない者が業として行えば、医師法第十七条に違反するものと考えるという考え方自体はあり得ることだということだと思います。
今はそういう理解で行われているということでございますが、しかし、おっしゃるように、一つの言ってみれば文化的な側面もあると考えられるわけで、もちろん、銭湯なんかに行きますと、入れ墨をした人は入ってもらったら困ると書いてあるような社会的位置づけでもあるということでありますが。
いずれにしても、私どもとしては、国民的にどういう考えで整理すべきなのかということを議論していただき、また、先ほど、柔道整復師とかそういうことの例が取り上げられましたが、それぞれの方々はそれぞれの団体としての声を上げられていろいろ議員立法などがなされたということも考えてみると、どういうニーズがあるのかということは、当事者あるいは関係者、こういった方々がどういうふうに考えているのかということを押さえるとともに、社会の中で今申し上げたような位置づけになっているということも含め、しかし一方で、今、先生が御指摘のように、世界でもいろいろ扱いがそれぞれの国によってあるように、それぞれの文化で対処しているわけでありますから、そこのところは議論を深めていただくということが大事なのかなと私は個人的にも思いますし、きょう、厚生労働省の中で議論したときも、そのようなことだというふうに思いました。
○初鹿委員 恐らく、初めてこういう質問を受けたので即答できないと思いますが、この質問をきっかけに、少し検討していただきたいと思うんですよ。
これから二〇二〇年に向けて、オリンピックを招致することで外国人もたくさん来るわけですよね。オリンピックの選手でも、入れ墨をしている選手はたくさんいますよ。日本の芸能人でも、ちょっと調べたんですけれども、宮沢りえさんだとか浜崎あゆみさんだとかもしているわけですよ。サッカー選手の澤穂希さんもしているし、ベッカムとかもしているわけですよ。
そういう方が来て活躍をしたら、ではこのワンポイントの入れ墨をしてみたいなという人がふえてくる可能性も高いわけじゃないですか。それに、そういう観光客の人たちが、では温泉に入るだ何だといったときに、入れ墨だからだめですよといつまでも言っている時代じゃなくなってきていると思うので、これを一つのきっかけとして議論を深めていって、できればきちんとライセンス制みたいなものをつくって、衛生管理や、また、暴力団などが排除できるような仕組みをつくっていただきたいということをお願いさせていただきます。」
そもそも「肌に肌色をいれてシミを隠すアートメイクは医療行為か」への返答として厚労省が医療と見なすと答えた所から始まります。でも医師は肌色を入れてシミを隠す発想がないと医師自身が言っている。
ここでは刺青行為が医療とされている所が世界中で日本以外無い事、アートメイクに規制をかけても医療とは関係ないサロンで行われており、規制してもその通りになっていなことが上げられています。
そもそもアートメイクは医療機関でなくサロンで行われていたもので、医療の領域にサロンがあとから侵入したのではない、つまり医師の仕事にニセ医者が入り込まないように作った医師法を適用させること自体が法の成り立ちからも外れていることが分かります。 現状サロンアートメイクは激減しましたが無くなった訳ではありません。 塩崎議員は「針先に色素をつけて皮膚の表面に墨などの色素を入れ込むという、侵襲をする、そういう行為であって、当然、保健衛生上の問題が起こり得る、感染症になる、そういうおそれがありますから、全く医師免許を有しない者が業として行えば、医師法第十七条に違反するものと考えるという考え方自体はあり得る」と答えています。つまり「侵襲」するから医療と考えられると。
「先生からこの御質問をいただくということで、私も厚労省の中でいろいろ議論をしました」とも言うことで「侵襲をするから医療」とは厚労省の考えだと推測できます。通達に書かれていることは法律を根拠としたことではなく厚労省の法解釈だと言う事。塩崎議員も「今の解釈は」とはっきり言っておられます。 そして「侵襲するから医療」だからこそタトゥーも同一視して摘発逮捕裁判まで行ったわけです。 そしてアートメイクより深く侵襲するタトゥーは医療でないとされた。 それなのにそれより明らかに侵襲の浅いアートメイクだけ医療とするのは辻褄があいません。
初鹿氏「今このまま医療だといってそのままにしていると、どんどん地下に潜ってやるようになります。」:まさにこれで、非常に大きな需要があるからこそいくら医療に限定しようとしても、医療以外のアートメイクをなくすことはできません。オンラインで受講できる時代ですから受けたい人はどんどん受けて開業します。
また、現在コロナで出来ないけれども外国人が来日して観光ビザでありながらアートメイクを施しお金を稼いで帰る、観光ビザの海外アーティストを呼んでコースを受講し講習代を与えると言う入国管理法違反が起こっています。
極端な規制をしたことで別の犯罪を誘発しているのです。
タトゥーに歴史的背景があるようにアートメイクも古事記に記載があるほど古くから日本にあり、TEBORIアートメイクで海外でも通じ、日本式アートメイクが世界中で流行っています。日本の一般アーティストが作ったアートメイクは世界中で浸透しています。きちんとした文化的背景が出来上がっているのです。
コロナ後にまた外国人が来日して憧れのTEBORIをその生誕地日本で受けようとしたら、医療機関でしか受けられないとなったら。 そして日本国民はコロナ後また韓国で受けるようになり、国富の流出が起こります。アートメイクをライセンス化すれば多様な雇用が生まれ、美容商材を扱う企業も増収が見込まれます。それが納税と言う形で国や行政に入り、それが日本社会全体のために使わる、全く公益にかなった事です。国民の利益や保全のために出されるべき通達が全く逆の効果を出してしまっています。 衆議院で行われたこの会議記録は多くの国会議員の知るところであり、また国民も自由にアクセスできます。厚労省はまさか塩崎議員と議論した事を全て否定はできないでしょう。それなら国民に選ばれた国会議員に嘘を話したと言うことになり背信行為にもなります。 「どういうニーズがあるのかということは、当事者あるいは関係者、こういった方々がどういうふうに考えているのかということを押さえるとともに、社会の中で今申し上げたような位置づけになっているということも含め、しかし一方で、今、先生が御指摘のように、世界でもいろいろ扱いがそれぞれの国によってあるように、それぞれの文化で対処しているわけでありますから、そこのところは議論を深めていただくということが大事なのかなと私は個人的にも思いますし、きょう、厚生労働省の中で議論したときも、そのようなことだというふうに思いました。」 厚労省は私達一般アーティストの意見も満足されていてまたサロンでやりたいお客様も「当事者」として抑えるべきです。
日本の社会のなかでの位置づけは「アートメイクは入れ墨」であり、それでも刺青とは逆にタトゥーほどの険悪感をアートメイクは持たれていません。それは「入れ墨」のイメージがあまりに国内で固定しており、メディアまでが犯罪と刺青を結び付けるような報道をして両者には関連があるかのように国民に思わせてきたため、あえてアートメイクと言う和製英語を作って使ってきたからです。
(現在タトゥー人口も増え以前に様に刺青=反社会勢力と考える人は減りました。それでも一度ついた発想の習慣はなかなか抜けるものではないようで、それが非常に残念です。きちんと考えたうえでの話ではなく、思い込みのイメージに囚われているように見えるからです。また��トゥーの事を知らないから恐怖を感じていたり、付き合いがないから偏見に囚われている部分も見られると思います)
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河田潤一さん×佐上まりこさん二人展、土曜オープンしました◯柔らかな曇り空ですね。絵とコーヒー、ひと息つきにぜひどうぞ。 #Repost @ma.sagami with @use.repost ・・・ 風のまにまに。 少し生ぬるく、風が吹く。 木のボードに描きました。 . フクロウが豆鉄砲、 みたいな顔、笑。 京都にあります、そのうちカフェさんで展示いたします。 そのうちカフェさんのInstagramはこちら ↓ @takuya_asai 𓃗𓃗𓃗 ................................................... 9月4日(日)〜9月25日(日) 「KAWATA+SAGAMI」二人展 ※無休ではありますが、急遽お休みをいただくことがございますのでご了承くださいませ。 京都そのうちcafe 11:30-20:00 京都市下京区塗師屋町119 地下鉄五条駅より徒歩5分 京阪清水五条駅より徒歩10分 お越しの際はワンオーダーお願いします。 ................................................... F6 410㎜×318㎜ 墨 漆喰 mixed media #アート #日本 #japan #兵庫県 #hyogo #art #painting #drawing #contemporaryart #ふくろう #墨絵 #梟 #low #墨 #黒 #森の中 #そのうちカフェ #佐上まりこ #ばーらー (そのうちcafe SNC) https://www.instagram.com/p/CiT3dByvauN/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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