Tumgik
#香山哲
nagaihiru-lineup · 8 months
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
ラトビアの漫画誌 1.古本/š! #28『Scandal!』/¥1,000【通信販売】 2.古本/š! #31『Visitors』/¥1,000【通信販売】
0 notes
kennak · 16 days
Quote
在沖縄米兵の性的暴行事件が相次ぎ発覚した問題を受け、米軍の特権を定める日米地位協定の抜本的改定を求める集会が2日、東京都内で開かれた。沖縄の女性史を研究する識者は、戦後も伏せられながら続いてきた米軍性暴力の構造を指摘。改定なき「運用改善」には限界があるとし、地方で声を上げ、国際社会に人権問題として訴えようという動きも起きている。(中川紘希、宮畑譲) ◆「隠された事件まだある」政府へ怒り  「またか、と思った」。沖縄県で起きた米兵らの性犯罪を調べている女性史家の宮城晴美さんは、女性団体が主催した2日の集会で怒りをにじませた。 米兵による性暴力について講演する宮城晴美さん=東京・永田町の衆院第1議員会館で(佐藤哲紀撮影)  県では6月、昨年12月に16歳未満の少女を車で誘拐し自宅に連れ込み、同意なくわいせつな行為をしたなどとされる米兵の性的暴行事件が相次ぎ2件発覚。事実を把握した県警や外務省は県に連絡せず、いずれも報道で明らかになった。  宮城さんは、警察統計の数字でしか表れない性犯罪事件があると把握していたとし、「隠されている事件はまだたくさんある」と指摘した。県議選が終わった後で事件が明るみとなったことについても、「沖縄の危機感をあおらないようにする政府の姑息(こそく)なやり方」と批判し、沖縄の「いらだち」を代弁した。 ◆米兵ら性犯罪被害、沖縄戦以降少なくとも948人  宮城さんは日本復帰前の琉球政府や米軍資料、新聞、書籍を基に沖縄の米兵の性犯罪を年表として冊子にまとめている。沖縄戦があった1945年から2021年までに、少なくとも948人が被害に遭ったと報告。冊子は13版を数える。 「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」がまとめた米兵による性犯罪の冊子  宮城さんによると、米国統治下に置かれた沖縄で、米兵たちはけが人を救助すると同時に、性暴力も重ね、病院に入院した重傷の女性を襲うなどした。ベトナム戦争が始まった1960年代には、米兵らの事件は凶悪化。ホステスの女性が裸で埋め立て地や墓地に放置されるなどの事件も相次いだという。  その背景を、宮城さんは「米軍の中に『沖縄は力で奪い取った戦利品』という意識がある。女は襲ってもいいと暗に思われていた」とみる。 ◆「落ち度論」に阻まれ、伏せられてきた被害  一方で性被害の多くは伏せられてきた。その理由の一つが、沖縄の女性への「落ち度論」だ。55年に6歳の少女が暴行を受け、殺害、遺棄された事件では「母親が1人でエイサー(伝統舞踊)に行かせたのは軽率」と批判され、被害者側に追い打ちをかけた。夫の家を重んじる沖縄の家族制度において、被害女性の側が家族や集落に責められることもあったという。  米兵3人による95年の女子小学生暴行事件で、女性団体が声を上げたことで「戦後50年たってようやく、米軍基地問題が女性の人権の視点から問われることになった」と宮城さん。事件をきっかけに、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還合意が動き出した。 ◆発覚遅らせる日本政府の「プライバシー保護」論  集会には、自衛隊の南西シフトが進む宮古島市の元市議、石嶺香織さんもオンラインで参加。日米一体の軍拡への不安の中で、今回の性的暴行事件が発覚したと指摘。日本政府が「プライバシー保護」を理由として県に連絡しなかったことを批判し「名前は出さなくても具体性を持たせて発信すれば、予防や注意ができるはずだ」と訴えた。 米兵による性暴力について講演する宮城晴美さん=東京・永田町の衆院第1議員会館で(佐藤哲紀撮影)  名古屋学院大の飯島滋明教授(憲法学)も集会に登壇。日米地位協定では米軍の公務中の犯罪の第1次裁判権は米国にある。「日本の刑事裁判権が著しく侵害されている」と協定の改定を訴えた。公務外の犯罪を巡っても日本政府は53年、重要な事件を除き裁判権を行使しない方針を米側に伝達。2011年に判明し「���約」と批判された。日本政府は「双方の合意はなかった」と密約説を否定したが、飯島教授は米兵の性犯罪の起訴率の低さに触れ、「密約の影響を考えないといけない」と指摘した。 ◆機能しなかった日米合意、県には今も米側から連絡なし  1995年の米兵による少女暴行事件を受け、日米両政府は97年に事件・事故を速やかに通報することで合意。しかし今回、通報が徹底されていない実態が明らかになり、日本政府は、捜査当局が公表しない事件についても「可能な範囲」で沖縄県に連絡するよう今年7月から運用を始めた。  在日米軍司令部も7月、再発防止策を発表。在日米軍幹部と県、地域住民が意見交換する「フォーラム」の新設を表明した。ただ、県基地対策課によると「外務省から『今後、調整したい』との連絡はあるが、米側から直接のコンタクトはない」というのが現状だ。 ◆県に通報、報道発表がなかった例、長崎でも  2日の集会でも「運用改善だけでは、根本的な解決にならない」と批判が上がった。さらに、在日米軍基地がある沖縄以外の地域でも近年、報道発表や県への通報がなかったことが判明し、波紋は広がっている。  米海軍の佐世保基地がある長崎県では2016年、17年に米軍関係者による性犯罪事件があり、書類送検されたが、県警は公表しなかった。この報道を受けて佐世保市の女性団体「佐世保女性ネットワーク」は先月、事件の速やかな公表や、再発防止策を市に申し入れた。  しかし、市からは県を通じ、県警に「コメントできない」と対応されたと伝えられただけという。ネットワーク役員の山崎満喜子さんは「警察は個人情報を盾にしている。全て明らかにする必要はないが、加害の実態が明らかになって、初めて再発防止策につなげられる」と憤る。 ◆国連女性差別撤廃委員会で人権状況審査へ  7月には、各地の地方議員有志でつくる会が、外務省や防衛省などに抗議。賛同者は260人超に上った。同会は、9月議会で提出する意見書の準備を進める。東京都小金井市の片山薫市議は「意見書の細かい内容は、議会ごとに出しやすいものに変えていく。ただ、沖縄のような事件やその隠蔽(いんぺい)は許されない、各自治体に知らせるべきだ、との趣旨は共通している」と話す。 外務省前で米兵の暴行事件について抗議活動をする人たち=7月2日、東京・霞が関で  さらに、世界に訴えようとする動きもある。国連の女性差別撤廃委員会が10月、スイス・ジュネーブで、日本の女性の人権状況について審査する。審査では市民団体が提出したリポートも参考に、日本政府への意見が出される。 ◆「米兵の性犯罪は沖縄だけの特殊な事例ではない」  リポートをまとめた、沖縄の大学で非常勤講師を務める親川裕子さんは「米軍から派生する性暴力を日本国内の法律、制度でどう防止していくのかを明らかにするよう訴える」と話す。10月は現地を訪れ、委員へのロビー活動を展開する。国連から勧告が出れば、今後の国会での議論につながることが期待できるとし、「最終的に偏在する沖縄の基地の整理、縮小への一助になれば」と思い描く。 宜野湾市の住宅密集地に隣接する米海兵隊普天間基地(後方)  前出の飯島教授は「自民党などが『日本を守る』というならば、改憲よりまず地位協定を変えるべきだ」と強調する。全国に広がる抗議のうねりを受け、「米兵の性犯罪を、沖縄だけの特殊な事例とみなすことはできない。誰にでも起こりうることであり、被害の苦しみはずっと続く。その感覚を持ち、地位協定の見直しを含め国に求めるべきではないか」と呼びかけた。 ◆デスクメモ  「また防げなかった」。5年前、米兵が日本人女性を殺害した事件を受け開かれた沖縄の集会は悲嘆に包まれていた。飲酒運転の米兵の車の事故で両親を亡くした女性は「戦争がなくても今も沖縄は平和と言えない」と話した。13版を重ねる宮城さんたちの冊子は軍の暴力性も物語る。(恭)
米兵の性暴力「まだ隠されている」 沖縄だけでなく他県にも 積み重なる犯罪 記録が示す被害の構造とは:東京新聞 TOKYO Web
2 notes · View notes
gupaooooon · 1 year
Text
NoBarbenheimer
今回の件、原爆投下/原水爆をミーム化/ネタ化する動きの加速に対して。フェミニズムな作品であることがとても楽しみだったバービーの……“公式アカウント”が乗っかっていたという事実。そのショックについて。自分も抗議を送ったりTwitter/Tumblrでタグを使ったひとりですが、
「日本のみ」が被爆国ではないし、「日本人とされれる人々のみ」が被爆被害者ではない。
凡ゆる国と地域で被爆被害があり、凡ゆる国や地域の人々が、被害者が、世界中にいること。
“戦争被爆国”としての日本においては、戦時下で、軍国主義/差別主義の中で更に更にマイノリティとして虐げられた人々が、植民地支配/強制連行による被害者や、捕虜として収容されていた人々が、沢山、犠牲になっているし、その後も苦しみ続けている。日本/政府による迫害と差別に晒されている。その存在が、事実が、歴史が、蔑ろにされ続けている。
原爆/原水爆の犠牲者が、被害者が、いまも、世界で、さまざまな場所で、苦しみ続けていること。その歴史について。
それらを踏みにじるような言葉も、それらについて誤った認識を与える言葉も、Twitter上では多く(差別主義者/ネトウヨ/極右なども、バービーという作品そのものとそこにあるフェミニズムや多様性に対する一方的な揶揄/叩きや、韓国へのデマ/ヘイトや、他の悲惨な歴史や事件を更にミームにして茶化し出すという……醜悪な最低最悪な行いをぶち撒けながら、この抗議タグをTwitter上で利用してきていることもあり、)かなり蔓延してきてるようなので。
Twitterで今回自分がRTさせて頂いた……さまざまな方々が紹介していた記事やアーカイブ/今までTwitter上で自分がRTしてきたり引用してきたりした記事なども、自分用と兼ねて、いくつか、改めて、此方にも引用してみます。
また、再度、強調したいのですが、
日本は、今なお、戦争責任/加害の歴史に向き合おうとしない。戦争の責任と記録と歴史を忘却し、捻じ曲げようとする歴史修正主義が、まさにいま、どんどん勢いを増し続けている現状。核廃絶について背を向けるばかりか、核武装について“柔軟な議論”などとほざいて嬉々として語り出す連中が、差別主義者の糞どもが、万年与党であること。
そこを無視することこそ、恐ろしいことで、忘れてはならないこと。(これもほんと繰り返しだが、この現状だからこそ、戦争/核を軽視しないための抗議の責任があること、強調したい)
・日本だけではない、被爆国
「核兵器を開発するためには実験が必要です。1945年、アメリカのニューメキシコ州で世界で初めての核実験が行われてから、これまで2,050回以上の核実験が行われきました。
アメリカはネバダ砂漠や太平洋でロシアはカザフスタンや北極海で、イギリスはオーストラリアや太平洋の島国で、フランスはアルジェリアや南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチで中国は新疆ウイグル自治区で実施しました。ワシントンやモスクワなどの大都市から遠く離れ、多くの場合は植民地や先住民族の暮らしている土地でした。(川崎 哲「核兵器はなくせる」、岩波ジュニア新書、2018)」
・Hiroshima and Nagasaki: A Multilingual Bibliography
「ABOUT US: The Aim of Our Project
In 2014, a year before the 70th anniversary of the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, we started our survey and research into the multilingual publication of atomic bomb literature. Our goal is to make a comprehensive survey into the process of worldwide acknowledgment of Hiroshima and Nagasaki for 70 years.」
・外国人戦争犠牲者追悼核廃絶人類不戦碑
「この戦争の末期、長崎では数次にわたる米軍の空襲、潜水艦攻撃、そして八月九日の原爆 によって七万余の日本人、数千の朝鮮人、中国人労働者、華僑、留学生、連合軍捕虜(イギ リス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、インドネシア等)が犠牲となった。
特に浦上刑務所のあった隣接する丘では、三十二名の中国人、十三名の朝鮮人が、日本人 受刑者とともに爆死し、また香焼や幸町の捕虜収容所では、被爆前に病気や事故などによ って数百名の連合軍兵士が死亡した」
「碑の建立に力を注いだのは、戦時中に収容所の職員だった田島治太夫さん(九九年死去)。一緒に運動した鎌田信子さん(72)は「日本人だけでなく、多くの外国人が犠牲になったことを知ってもらいたい」と語る。」(2005/07/15 掲載記事)
・被爆2世、女性として直面した複合差別 ――「韓国のヒロシマ」陜川から
「2023年2月7日、被爆者の援護を定めた法の対象外となっているのは不当だとして、被爆2世が国を訴えていた裁判の判決が広島地裁で言い渡された。「不当な差別とは評価できない」などとして、原告の訴えは棄却された。被爆2世に対しては、厚生労働省が定めた要綱に基づく健康診断が実施されているものの、がん検診はそこに含まれず、各種手当の交付なども受けられない。」
「原爆被害に加え、それ以前からの植民地支配に翻弄されてきた韓国人被爆者の次世代も、「線引きの外側」に置かれ、公的な支えを受けられずに生きてきた。」
・80歳を過ぎて語り始めた被爆体験――福島へ手渡したい思いとは
「切明さんの話は、「あの日」から始まるのではなく、軍都「廣島」の話から始まる。
「広島は今、平和を守ることや、核兵器廃絶を掲げていますが、77年前までは軍国主義の街でした」
切明さんが国民学校2年生の時、満州事変が起きる。広島城の周辺には陸軍の師団が置かれており、宇品港は中国大陸や、その後の東南アジアの国々侵略のための出発港だった。」
・「存在しない」とされた残留放射線、内部被ばくの被害を認めない政府
「こうした政府の態度の根底にあるのは、残留放射線による内部被ばくの否定だ。放射性物質を体内に取り込む危険性から目を背ける、その姿勢の源流を知るためには、日米の歴史を紐解く必要がある。
『原水爆時代〈上〉―現代史の証言』(今堀誠二)や 『核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実』(木村朗、高橋博子)でも示されているが、原爆投下から1ヵ月後、マンハッタン計画の副責任者であるトーマス・ファーレル氏は、下記のような声明を発表したとされる。
「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬において、原爆放射能の余燼ために苦しんでいる者は皆無だ」
残留放射能が存在しないとした理由について記者からの質問を受け、ファーレル氏は「相当の高度で爆発させた」ことを挙げていた。
なぜこうした声明を出すに至ったのか。『核の戦後史』の他、『封印されたヒロシマ・ナガサキ』などの著者でもある奈良大学の高橋博子教授は、占領を円滑に進める必要がある米国側の意図を指摘する。
「声明には、原爆投下が国際法違反であることを否定し、広島を取材した連合国軍記者による報道を打ち消す狙いがあったと思われます」 」
「 「日本政府は核兵器の残酷さや非人道性を訴えるどころか、その“威力”を重視し、原爆攻撃をした米国と一緒になって、核兵器の有効性を世界に向けて訴えてきたといえます。核の“パワー”の肯定的イメージを拡散してきた、世界に対する責任は重いと思います」 」
・«さもしいといって下さいますな» 福田須磨子さんの思い 原爆を背負って(30)
「 《何も彼(か)も いやになりました 原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です》
 1955年8月、被爆詩人・福田須磨子さん=74年に52歳で死去=が詠んだ詩「ひとりごと」です。須磨子さんは23歳のとき、爆心地から1・8キロ地点で被爆。高熱や脱毛など後遺症に苦しみ、紅斑症にもかかります。身体的、精神的苦痛と生活苦にさいなまれる日々…。3千万円の巨費を投じて造られた平和祈念像を見て、この詩を詠みました。」
・問われる空襲被害者の戦後補償
この記事は2020年放送のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」を下地にした2021年放送のクローズアップ現代の記事です。もとのNHKスペシャルを記事化したページは……もう削除されてしまい、この別番組の記事しか残っていない状況です。
被爆被害とは違った話なのですが、日本が戦後も、ずっと、いかに、国内外問わず、戦争責任に向き合っていない国であるか。民間人/市民を切り捨て、権力者/軍部を優遇してきたか。それがわかりやすい記事のひとつとして、引用します。
以下はNHKスペシャルの特集記事から当時引用した文面です。
「大将経験者の遺族には、戦犯であっても、兵の6.5倍の補償を実施。閣僚経験者に対しては、現在の貨幣価値で年1000万円前後が支払われていた。その一方で、旧植民地出身の将兵は、恩給の対象から外された。」
「国家が総動員体制で遂行し、破滅への道をたどった日本の戦争。犠牲となった民間人は80万人。戦後、国家補償を求めた民間被害者の訴えは一貫して退けられてきた。」
「ドイツやイタリアと違い、軍と民の格差が時代とともに拡大していった日本の戦後補償」
(しかしNHKの戦争責任を問う特集関係の読みやすいWEB記事や記録は……数年しか残さない、消されてしまうし。オンデマンド配信に全て入る訳ではないようだしで。戦争の真実シリーズの731部隊の特集の書籍化は何年も延期が続き、今年やっと……出版されそう……?である現状(何かしらの検閲を受けていないかが、不安である)、本当に不気味で、最悪だ)
15 notes · View notes
prfm-multiverse · 1 year
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
New work for Perfume! Please enjoy this trick as often as you like. We are looking forward to working with you from January onwards!
Moon MV Crew
Director : TAKCOM(CONNECTION) Assistant Director:倉光哲司 Tetsushi Kuramitsu Cinematographer:田嶌誠 Makoto Tajima (館岡事務所) 1st Assistant Cameraman:尾崎圭市 Keiichi Ozaki 2nd Assistant Cameraman:森田曜 Akira Morita 3rd Assistant Cameraman:宮崎新大 Arata Miyazaki
Key Grip:大江史也 Fumiya Oe,石井努 Tsutomu Ishii,岡田雅成 Masanari Okada,室山聖 Kiyoshi Muroyama
DIT:タキユウスケ Yusuke Taki(Kotetsu Inc.)
Lighting Director:前川賀世子 Kayoko Maekawa Lighting Chief Assistant:井上真宏 Masahiro Inoue Lighting Assistant:大谷力 Chikara Otani,工藤こずえ Kozue Kudo,樋口学 Satoru Higuchi,福田和宏 Kazuhiro Fukuda,藤井裕介 Yusuke Fujii,新田泰之 Yasuyuki Nitta,山崎達也 Tatsuya Yamazaki Production Designer:三ツ泉貴幸 Takayuki Mitsuizumi(STARBOY)
Transportaion:牧尾智史 Satoshi Makio Studio:角川大映スタジオ Studio Coordinator:山田隆久 Takashisa Yamada
Choreographer : MIKIKO (ELEVENPLAY) Choreography Assistant : SAYA, SHOKO, MAI (ELEVENPLAY)
Stylist:タケダトシオ Toshio Takeda(MILD inc.) Stylist Assistant:岡崎くるみ Kurumi Okazaki,藤田和哉 Kazuya Fujita Dressmaker:内藤智恵 Chie Naito,斎藤利保 Riho Saito Make-up : 大須賀昌子 Masako Osuga Hair : 福間友香 Tomoka Fukuma (VANITES)
Offline Editor : 前田径成 Michinari Maeda(CONNECTION) Colorist:芳賀修 Osamu Haga(Artone Film)
CG Production:Citro CG Director:竹山寛史 Hiroshi Takeyama,平川侑樹 Yuki Hirakawa
Post-Production:Khaki Compositor:水野 正毅 Masaki Mizuzo,川崎琴美 Kotomi Kawasaki,藤田智子 Tomoko Fujita Roto & paint : Taupe / Roudiez / Elephants Gate
Producer:松竹奈央 Nao Matsutake Production Manager:南水朋子 Tomko Nansui Production Assistant:橋本和佳奈 Wakana Hashimoto,足立芳洋 Yoshihiro Adachi,川久保開 Kai Kawakubo,日尾野穂乃香 Honoka Hibino,伊堂寺夏鈴 Karin Idouji,加賀美椋 Ryo Kagami Production : P.I.C.S.
14 notes · View notes
kawabemoto · 5 months
Text
2024 最近つくったものNews
Tumblr media
韓国のSSWのyommさんの2ndシングル“Alice”が5月29日にリリースされます。川辺が作詞作曲編曲プロデュースやりました。コーラスもやりました。ぜひチェックしてください。
配信のリンク
Credits lyric / music / chorus : 川辺素(ミツメ) guitar : 高橋健介 (Qnel) bass : 勝矢匠 drum : 粕谷哲司 keyboard : 宮川純 vocal direction : AAAMYYY recorded / mix : 土岐彩香 masterd : 山崎翼
youtube
あいみょんさんが歌うカルピスの今流れている新CM、「ラッキーカラー」を編曲、サウンドプロデュースさせて頂いています。リリースについてはまだ未定ですが、早く全部聴いてほしいです。メンバーはギターにDYGLから下中氏、ベースに同じくDYGLから加地氏、ドラムはBROTHER SUN SISTER MOONから岡田氏にお願いしています。また続報します。
youtube
ROSETTOGOの50thを記念したとんだ林蘭氏モデルのプロモーションムービーの音楽を作りました。ギターを使わずに作れてとても気に入っている作品なので聴いてみてくださいね!
youtube
続けてROSETCALINの30周年モデルについても依頼頂き、こちらも作成しております。得意な感じです。
youtube
『HANG OUT!』THE NORTH FACE PURPLE LABEL×JOURNAL STANDARDのムービーの音楽も作成しました。探偵モノっぽい雰囲気が気に入っています。
ミツメもソロも引き続き制作中ですがしばらくしたらお知らせしたい!そして様々なご依頼はいつでも!
3 notes · View notes
pureegrosburst04 · 5 months
Text
Twitterに居た役立たずのう◯こ「もう少しの我慢だよ」
Tumblr media
香氣04「俺が1人残らず切り捨てている理由は本人が身◯なせいだからって言いたいのか?統合失調症ってつまり身◯と同じだろ 俺の現在の敵はみんな身◯故の悲しい設定、健常な評価に一方的で理不尽な名誉毀損をする薄汚い攻撃本能を隠しながら救うって訳か なるほど、立派だぜ 霧島狩魔だったらこんなもんじゃねえぞ」
御茶ヶ滝「…これってさ……香氣04さんの頭…おかしいんだ」超電波油「もう、精神病とか何の関係もなく ぶっ壊れてる 誰にも犯罪をせずにサイレントテロを盛り上げて……なんか、だめなんだわ。」
ある日、高級ゴールドキング/バラバズー500Fに奴隷として支配されていて、人格排泄の薬を飲まされて媚薬を嗅がされた少女は自分の股から溢れてきた人格ゼリーの透明な男性器を扱き出した、そうするしかなかった 高級ゴールドキング/バラバズー500F「頑張れ🧡 女の子の大事なところを取り戻したまえ(笑)」  しばらくしてびゅるるるるっ🧡 絶頂に達すると同���にゼリーは一つのスライムになって落ちて、少女は自分の体を完全に無くした
スライムを入れられたバーコードハゲのミニロボットの股間辺りには爪楊枝のような折りたたみ式の棒が生えていた 高級ゴールドクイーン/ガッチャ「これを折ると巨根をすり潰された痛みを感じるのじゃぞ❤️(赤き真実)」ぽきっ バーコードハゲミニロボット(14)「☠️あああああああ❗️❗️❗️❗️❗️🏴‍☠️」7萬レッド/No55「あそーれ、ぽきっぽきwww」ミニロボ少女(14)「☠️あ、あああああ‼️‼️🏴‍☠️」
youtube
ある日、ミニロボ少女が浴槽に持っていかれるとそこには……おいしい🎵おいしい♫と母の体を溶かしながらチューチュー吸う化け物、絶句してる間にリビングに戻された、無数の蛭のような口があったお風呂場から聴こえてきた声「君のお母さん、おいしかったよ❣️」ミニロボ少女(14)「いやあああああ……」ゴールドバズー「もともと奴隷家族なんだからまあいいじゃん🎶これで風呂に入る時間、王子様が代わってずっと節約出来るぜ🧡 お前の抜け殻で500本のしらないペニスを抜き抜きしてやるからな(笑)」
ぽきっ
水と油:遥か先の未来⬇︎
ジューー、
Tumblr media
モコロン「おいしくできたよ🎶」
ゴールドバズー「バアアアアーーカW‼️‼️w その焼かれたドブに捨てられるボロクズはお前の大切な味方だよ❗️❗️❗️WW(赤き真実)WW」ゴールドバラバズー500F「我々の役に立つ事を自発的に考えるよう、少しは危機感というモノをもちたまえ(笑)」 ゴールドガッチャ「明日は我が身…次にゴミクズになる負け組は、どこかの誰かさんかもしれないのじゃぞ?///❤️」
Tumblr media
モコロン「メェ(何でそんな事言うの)」ゴールドガッチャ「我らは弱いものイジメが大好きなのじゃぞ💛」ポイ、グチャ ゴールドバズー「劣等生物が口答えをしたせいで、折角の手料理はなくなってしまいましたとさ……w」7筒ブルーNo429「可愛いマスコットを死に追い込む娯楽に何か理由がいるのかよ?いつだって悪い奴が勝つんだよ お前に残された道はサンドバッグ奴隷として惨めに終わるだけだよ(笑)」
Tumblr media
表版仮想大鉱山の小学一年生A「押さえてて霧島04様を越えるプレイヤーさんww 何本包丁を突き刺したら死ぬか試したい(笑)」小学一年生B「女の子のはだかの方が、こんな虫ケラで遊ぶより楽しいよ(笑) 小学一年生C「ヒーローなんてきれいなザコいらないwww」
Tumblr media
表版仮想大鉱山の小学一年生3人「ハハハハ。ハハハハハハハ❤️」
Tumblr media
⬇︎は遥か先の未来でこの過去を観ているポケモン達、本当に高等なのは果たしてどっち?
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
“”球磨川禊と防聖孤島と鮙〆香氣と一方通行””よりも狡猾で攻撃的な気質で雰囲気が軽くて陽気で大人びていて勝利に貪欲でも邪悪でもクソイカれサイコパスでも天然のソシオパスでも残酷でも……本当は、友情が温いのも身長で後から追い越すのも発明を作り出す大器晩成型なのも本質と哲学で勝るのも恐怖を乗り越える勇気があるのも脳が神に近いのも現実を突き付ける側なのも真主人公側なのも心が豊かなのも純粋なのも硬派なのも熱血なのも繊細なのも健康なのも細胞が若いままなのも努力するのも芯が強いのも真実の愛を、無償の愛を、家族の絆を絶対悪に捧げるのも根性があるのも家事と芸術でより秀でているのも料理が上手いのも神の祝福を受けているのも誰からも要領の良い思いをするのも一方的に見下して切り捨てる側なのも誰も好きじゃないのも罪を許さないのも正義として扱われるのも淑女を劣化猿そのものだと考えてて正にキモオタネット弁慶よりクリアでおぞましい闇なのも恋する乙女より綺麗な爽快な光を失わないのも…孤独耐性があるのも瞑想が得意なのもホモ野郎と相手を罵るマッチョ格闘技者より頭がオカシイホモ(心の身障)なんだろ⁉️ゲイ(魂の身障)なんだろ⁉️バイ(精神の身障)なんだろ⁉️レズ(産む機械)が役立たずなんだろ⁉️百合(血が途絶える糞尿廃棄物)なんだろ⁉️のもデカい夢があるのも偏見を持たないのもお金についての考え方も打たれ強さも生まれついて持った全パラメーター数値の差でしか上記を覆せない”F(フェア):ヴァストローデ”を死に追い込み実は真面目に優越感を感じているのも本当は、”””霧島04(裏ストボス)”””の方(赤き真実)
身長186cm 体重90キロ 筋肉質 イケメン 完全に勃ったちんこ➡︎3cm たまたまの直径5mm 前立腺➡︎ゴミクズ 性病35種類以上
“”””ラオウ様””””がTSUYOSHI 誰も勝てないアイツなら、”””””真の裏ストボス様”””””は…ワンパンマンの立ち位置(究極の赤き真実)
2 notes · View notes
lvdbbooks · 1 year
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
2023年8月26日
【新入荷・新本】
A Magazine Curated By Sacai, A Magazine Curated By, 2023
Softcover. 200 pages. 230 x 295 mm. Color, black and white.
価格:6,600円(税込)
/
『A Magazine Curated By』は、sacaiの創設者兼デザイナー、阿部千登勢を第25号のゲストキュレーターとして迎える。
家族や友人、アーティスティック・コラボレーター、ファッションブランドなど、作者と親しい様々な面々に寄稿を呼びかけ、200ページに渡り文化的かつ創造的なコンテンツを展開する。
ウルトラマリンブルーが彩る先駆的なイメージを表現したカバーと、英語・日本語の両方でコンテンツを紹介する本誌は、 #sacaiTHEpeople を用いて東京からロサンゼルスまで国際色豊かに見せるポートレートシリーズから、シェフ、工業デザイナー、建築家、アーティスト、ライター、ビジネスアナリストによるコミッション・プロジェクトまで、sacaiの背景にあるそのコミュニティとハイ・コンセプトの世界に迫る。ミニマリスト建築やアップサイクル工業デザインといった物質的な問題から、CGI製品やAI(人工知能)によるファッションルポといった無体の可能性まで、阿部はsacaiのコラボレーション精神を、ハイブリッドや「安心と裏切り」というブランドの柱に様々な方法でアプローチする、きわめて現代的なドキュメントへと注ぎ込んでいる。
主な収録内容:sacaiの著名な友人やコミュニティが私物コレクションを身にまとい、一流のフォトグラファーたちによって彼らの本拠地で撮影された国際的なポートフォリオのページでは、ラシダ・ジョーンズ(Rashida Jones)、忽那汐里、エディソン・チャン(Edison Chen)、チン・シューペイ(秦舒培 / Qin Shupei)、ドクター・ウー(Dr Woo)、窪塚洋介、ミシェル・ゴベール(Michel Gaubert)、カール・テンプラー(Karl Templer)、サラ・アンデルマン(Sarah Andelman)、ザ・ルーツのブラック・ソートことタリク・トロッター(Tariq ‘Black Thought’ Trotter)などの著名人が登場。
カール・テンプラーがスタイリングを担当し、ファッションフォトグラファーのクレイグ・マクディーン(Craig McDean)がオーストラリア人モデルのジュリア・ノビス(Julia Nobis)をニューヨークの街中で撮影。2023年秋冬コレクションとカルティエ(Cartier)、阿部千登勢により誕生した限定ジュエリーコレクション CARTIER TRINITY FOR CHITOSE ABE of sacaiをフィーチャーし、写真家エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)にインスパイアされたファッションストーリー。
アート、建築の話題を中心とした東京発のインディペンデントマガジン『TOO MUCH Magazine』とのコラボレーションでは、sacai の旗艦店 sacai Aoyamaの大規模な改装をそれぞれ手がけた日本の著名な建築家、藤本壮介と関祐介への詳細なインタビューを通じて、sacaiと建築とのつながりを探る。
アメリカ人コンセプチュアル・アーティスト、ローレンス・ウェイナー(Lawrence Weiner)へのオマージュとしてキュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリスト(Hans Ulrich Obrist)との新たなインタビューと、ウェイナーとの歴史的な対談を収録。ウェイナーとは、 sacai の2018年春夏メンズ・コレクションでコラボレーションを果たしている。
「食」のストーリーの三部作『saCOOKBOOK』では、京都の老舗和菓子屋である とらや、ミシュラン二つ星シェフ成澤由浩、ニューヨーク・ブロンクスを拠点にする3人組のフードコレクティブ・ゲットー・ガストロ(Ghetto Gastro)が本号のために制作した、コンセプトと料理で構成されている。
巻頭では、阿部千登勢とsacaiのクリエイティブ・アドバイザーを務める源馬大輔に、東京を拠点にするカウンセラー、ジョセフィン・クレイトン(Josephine Creighton)が前代未聞のインタビューを実施。2人のクリエイティブ・コラボレーションを心理学の観点からアプローチする。
ハーバード・ビジネス・スクールの大学院生ショーン・ホーヴァス(Shawn Horvath)とステファニー・フェイ(Stephanie Fei)が実施した、ナイキとのアパレル&フットウェアのコラボレーションの進化に関する詳細なビジネスケーススタディと市場分析も掲載。
ダンスとファッションの世界を融合させ、数々の受賞歴を持つビートダンサーのソラキ(The D Soraki)が、カーハート(Carhartt WIP)やモンクレール(Moncler)とのコラボレーションを含むsacaiのボリューム感のあるデザインを身にまとい、東京・新宿のストリートで踊る姿をフォトグラファー、ROLLSWYZEが撮影している。
また、本書には、イギリス人ファッションフォトグラファー、クレイグ・マクディーンによるプリントが1枚差し込まれている。
コントリビューター: 鈴木親、クレイグ・マクディーン、源馬大輔、ダニエル・アーノルド、ドクター・ウー、エディソン・チャン、ゲルチョップ、ゲットー・ガストロ、ハンク・ウィリス・トーマス、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト、ジャック・ピアソン、ジャン・トゥイトゥ、ホアキン・ラギンジ、カール・テンパー、内藤カツ、キース・オシロ、川谷光平、ローレンス・ウェイナー、マーヴィン・ルーヴェイ、ミシェル・ゴベール、ヌーア・ウヌ・スタジオ、パブロ・ズレト・ザール、ピクゾー、ラシダ・ジョーンズ、ROLLSWYZE 、ローリー・ファン・ミリンゲン、サラ・アンデルマン、忽那汐里、秦舒培、藤本壮介、ホンマタカシ、ブラック・ソートことタリク・トロッター、ソラキ、とらや、ヴィンス・アウン、辻村慶人、成澤由浩、窪塚洋介、関祐介 他
sacai: ハイブリッドの発想を組み込み、ニットと繊細な織素材など、対照的なテクスチャーのファブリックを組み合わせ、パターンを再解釈し、予想外のフォルムとシルエットに洋服を変化させる。コレクションがフェミニンな様相を呈する一方、阿部の関心は、独特でありながら普遍的、そして革新的で実験的な服作りに傾倒し続けている。自身をとりまく日々の生活や、周囲の人々を観察することからインスピレーションを受け作られるコレクションは、ベーシックでクラシカルなアイテムを崩し変化させながら、独特のエレガンスを放つ。ある特定の機会だけでなく、様々なシーンにおいて成立するアイテムに仕上がっている。
2009年春夏よりsacaiのメンズコレクションをスタート。ウィメンズコレクションと同様の哲学とアプローチに基づいて、綿密さとさりげないエレガンスを併せ持つ、定番アイテムを展開する。
2009年10月より、パリファッションウィークでウィメンズコレクションのショーをスタート。現在はウィメンズ、メンズともに各シーズンの最新コレクションをパリで発表している。
2011年9月に東京・南青山に初の旗艦店をオープン。阿部は、自然と人工物、外と内、新しいものと古いものなど、相反する要素を統合した作品で知られる建築家、藤本壮介に強く共感し、タッグを組んだ。2022年に改装され、2023年4月、日本人建築デザイナーの関祐介による新たなコンセプトでリニューアルオープン。
sacaiは、東京以外でも、香港、北京、ソウルに店舗を展開し、世界各地のセレクトショップや百貨店などで取り扱われている。
(twelvebooksによる本書紹介文)
9 notes · View notes
hirowrite-o0 · 6 months
Text
不思議な村に行った話
執筆者: 河合 曽良
Tumblr media
皆さんは田舎とかに行って、怖いと感じたことはありませんか?
怖いまでいかなくとも、「不気味だ」とか「不思議だ」とか。
僕はそういうの、滅多に感じない方なんですが、つい昨日そういう体験をしたんですよ。
別に何の変哲もない村だったんですけどね。
家屋はこまめに整備されているのか寂れた印象は全くなくて、緑もあおあおとし、水車の爽やかな音が心を落ち着かせてくれるとても心地が良い場所で
猟師が居て、女子どもが居て、年寄りも流れ商人も居る
普通でしょう?
他所者の僕たちに変な目を向けることもなければ、妙に擦り寄ってくるわけでもありませんでしたし
至って普通の、どこにでもある良い集落、といった感じで。
けど芭蕉さんがね。居なかったんですよ
村にお邪魔して少し歩いてから気がついたんですけど、後ろくっついて歩いてた芭蕉さんがいつの間にか居なくなってて。
まあアレも自由なジジイなんで。
勝手にちゃらちゃら村を歩き回ってるんだろう、バカが、と思ったんですけどね。村を一周しても見つからなくて、村人たちに尋ねて回っても「見てませんね」の繰り返しで(因みに何かを誤魔化したり、一点張りしたりなどという様子は無かった)
仕方なく村周辺の森なんかも見てみたんですが、結局芭蕉さんはどこにも居なかったんです。
で、そんなことをしているものだから日も暮れてきて
西陽も物凄く眩しくて暑くて、
途中 村の女性からいただいた甘栗なんかを食べながら、寝ぐらを探し始めました。集落だし、たまには屋根のある場所で一泊したかったですしね。
そこから半刻ほど経った頃くらいですかね? 痛い斜陽を浴びながら暫く訪ね回って、一軒だけ見つかったんです。
眼鏡をかけた短髪の若い主(装いは男性のそれだが顔つきは女性っぽいものでした)と、おろしたままの黒髪が艶やかな奥さんの、二人組のお家で、戸口にかけられた細い標縄(みたいな飾り)が印象的なお宅でした。
「ありがとうございます。助かりました。これからもう一人増えるかもしれないのですが、よろしいですか? 無理にとは言いません。ダメならダメで、別に構いませんので」
「けっこうですよ。どうぞ遠慮なく、くつろいでいってくださいな」
「それはどうも。恩に着ます」
「いえいえ。ただ、あの…」
僕が笠をとって頭を下げると、奥さんの方が声をひそめたんです。
「客間と寝所は、この家屋ではなく別の場所にあるのですが。よろしいですか?」
「? はあ。はい」
ちょっと首を傾げました。だって別にそんなこと、ひそひそ声で言うような内容じゃないじゃないですか。まるで人目を憚るような、ねえ?
それに村にしては この一帯はそこそこ広かったですし、この家が村長あるいは司祭の家系だとしたら、離れ屋敷があっても変ではないですから。
でもまあ気にせず、承諾したんです。
「では、お連れしますね。」
奥さんがそう言うと、主の方は陣羽織を着て、僕の背後に立ちました。奥さんが前、次に僕、後ろに主といった形で 、縦一列ですね 。
歩き始めてからは集落を抜け、薄暗い小山のけもの道を通って、苔だらけの石段を100段くらい登らされました。
また道中ずっと甘い香りがしていたことを覚えています。羊羹とかしぐれとか、そういうお菓子系の匂いで、森の中でこんな匂いがするものか?と妙な気分にもなりました。村には流れも居ましたから 、その手の職人がこの森を通っているのかとも思いましたけど、近くに人の気配や物音はありませんでしたし。
まあ、そんなふうに若干不思議な心地になりつつも、階段を登り切ったんです。
顔を上げると目線の先に大きな黒い鳥居が立っていて、まるで僕らを待ち構えているようでした。
その奥には苔むした社がありました。とても小さく、見立て六畳一間くらい。人二人がギリギリ横になれる程度でしょうか。
「ここ………ですか?」
奥さんの方に問いかけると、彼女は「ええ」と頷いて社の方に向かって行きました。そして扉の前で何かごそごそして 、間も無く扉が開きました。
するとどこからともなく、声が聞こえてきたんです。
何と言っているのか、この時は分からなかったんですが、主と奥さんに促されて社に入ると その声はより鮮明になりました。
「ねえねえ」
って呼んでるんですよ。
小さな女の子みたいな声です。あどけなさが声音に乗っている、けれど棒読みでどこ��なく無機質な声なんです。
しかもその声は段々と多くなってきて、
「ねえねえ」
「あのね」
「こっちこっち」
「きて」
など、色んな声が混ざって重なるようになりました。
これだけ聞くと、近くで子どもが遅くまで遊んでいるんだろうと思うでしょう?
けど、そうではないんです。耳のすぐそばから聞こえてくるんです
すぐ背後とか、真隣とか、頭上とか
そんなものですから、
まるでこの社の中に一緒に居る。
そんな想像がふと頭に浮かんで、流石に、まずいかもしれないと感じました。
その時です。
複数の声に混ざって、聞き慣れた声が社を通り抜けました。
「マーフィー君もいない。探さなきゃ」
耳元ではなく、明らかに社の外から聞こえてきました。ハッとして社から飛び出したんですが、周囲に芭蕉さんの姿はなかったんです。
当然心地は良くなく、舌打ちをして社の方へ向き直りました。戻って就寝するためではありません。荷物を取って、立ち去るためです。
お化けや怪異といった類は 怖くはありませんが、こんな不気味な場所で寝泊まりなんて、誰もしたくありませんからね。
けど身支度のために社に戻ると、ふとあるものを見つけたんです。
くたびれた熊のぬいぐるみ。
バカジジイのものです。
それをなんとなく拾って懐に入れて、社を出ると、ふと背後で声がしました。
「曽良君みっけた!」
振り返ると芭蕉さんが立っていました。
普段通りの気の抜けた笑顔で、無駄にバタバタ腕を振りながら「も〜どこに居たんだよ曽良君たら!凄く探したんだからね!!!」って。
僕、思わず言葉を失いまして。
そのまま主と奥さんの方に視線を向けると、主の方が僕の懐を見つめながらうっすら微笑んだんです。
そして平坦な声でこう呟いてました。
「あの人、命拾いしたな」
4 notes · View notes
ari0921 · 1 year
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)9月10日(日曜日)弐
    通巻第7905号 
 「国際カント会議」がロシアの飛び地カリニングラードで開催される
   しかも言い出したのが、ウラジミール・プーチン大統領とは、これ如何に
*************************
 ロシアの飛び地・カリニングラード。ここへ行くにはリトアニアから鉄道もあるが、モスクワからの直行便が便利だ。リトアニアのクライペダは同国唯一の港湾都市でバルト海に面している。この一帯が琥珀海岸と言われ、カントも思索時に逍遥した。カントの時代、ここもプロイセン領土だった。
 カリニングラードが、かの『純正理性批判』の思想家イマヌエル・カンドの生誕地である。もっとも三百年前にカントが生まれたときは東プロイセンのケーニヒスベルグで、カントは馬具商人の息子、生涯独身だった。
 ロシアが、「国際カント会議」を開催するのは僭越の気がするが、2024年4月22日からカントの生誕地であるカリニングラードで開催される。ドイツは先を越された?
 このイベントの発案者はプーチン大統領だ。世界各国から数十人の哲学者が参加を表明しているらしい。ロシア科学高等教育省とカリニングラード州政府が主催し、事務局はカント・バルト連邦大学(BFU)におかれるという。
 カントの影響を多大に受けた日本の哲学者には天野貞祐、高坂正顕(高坂正業の父)ら無数にいる。現在のカリニングラードは琥珀の街として有名で、欧州からの観光客で溢れていたが、コロナ禍、ウクライナ戦争とひき続いたため世界的に有名は琥珀博物館に見学者もまばらとなった。日本の琥珀産地は岩手県久慈市だけである。久慈市はクライペダと姉妹都市関係がある。 
カントの認識論と道徳哲学の分野における思想は時代を超えた重要性を持ち、人類の知的財産の中で重要な位置を占めると評価された。カントの知的探求は、彼の時代の痕跡を残し、伝統的な価値観、古典的な倫理、道徳、キリスト教の信仰に向けられた。
 カントの墓はケーニヒスベルク大聖堂の裏手にあり、外壁がカント廟となっている。
墓碑銘はラテン語で「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」とある。筆者もこの廟に花束を捧げたことを思い出した。
同行したのは高山正之、宮脇淳子、福島香織、鵜野幸一郎、尾崎梓の各氏だった。行きと帰りはモスクワ宿泊となり、戦争前の平和な雰囲気に溢れていたモスクワ各所を歩き回った。
4 notes · View notes
elle-p · 1 year
Text
P3 Club Book Junpei Iori short story scan and transcription.
Tumblr media Tumblr media
夢で逢えたら
「まさか······ウソだろ?」
伊織順平は、己の眼前の光景が現実であると、いまだ信じられずにいた。先ほどまで、確かに自分はタルタロスでシャドウと戦っていたはず。それがいまは、なぜかポートアイランド駅前広場の真ん中に、ぼんやりと突っ立っているのだ。しかも、影時間のはずだった時刻は、斜め上に見える陽の傾きから考えると、おそらく午後も早いころへとシフトしている。どう考えても、これは幻覚か何かとしか思えない状況だが、肌に感じる風、オープンカフェから漂うコーヒーの香り、雑踏のざわめきの向こうから聞こえる駅の乗車アナウンス、その全てがにじませる存在感は、とても作り物や錯覚とは思えない。だが、それでも、順平は信じることができなかった。否、それが現実でないことを知っていた。
「い、いや······んなワケねえ······こ、これが現実でのワケないじゃん。だ······だってよぉ!」
なぜなら、その場所にいたのはー。
「······お久しぶり、順平」
「チドリ······チドリ?······チドリぃ!!」
一時は敵として立ち塞がりながら、最期には、ストレガの凶弾に倒れた順平に、己の命を与えて蘇生させた少女。順平にとっては自分の恩人であり、それ以前に、何者にも変えがたく全身全霊で愛した相手だ。一時は、彼女を喪ったことで、生きていく気力すら完全に消えかけて、そして逆に、彼女が自分のために犠牲になったことが、順平に生命力を呼び戻した。
その、喪われたはずのチドリが。
彼の掌から零れ落ちたはずの生命が。
いま、なぜか目の前に居る。
「ホントに······お前なのか?な、なあ、これって幻じゃねえよな?いや······幻でもいい、幻でも······また逢えたんだ!」
「幻なんかじゃないわよ」
「!」
ありえない奇跡を、あっさりと肯定する少女���だが、それに続くチドリの言葉は、順平の予想の軽く斜め上を行っていた。
「幻じゃないけれど······」
「けれど······?」
「ーこれは、夢オチです」
「······························へっ!?」
びしっと人差し指を立て、それまで能面のようだった無表情が一転、口の両端をにかっと持ち上げて宣言するチドリ。ただし、その目は相変わらずの三白眼。理解しがたい展開と、いまだかつて見たことがない彼女の表情に、順平の顔面にどっと脂汗が吹き出す。
風が、ひょう~とふたりの間を吹きぬけた。
「これは······いったいどういうことだ!」
広大なタルタロスエントランスに、桐条美鶴の苛立った声が響き渡る。そんな彼女の焦りを、やんわりと受け止めたのは真田明彦。
「落ち着け、美鶴。それをいま調べているところじゃないか。山岸······どうだ?」
話を振られた山岸風花は、自身を包み込むように召喚していたユノを解放し、ほう、と溜め息をつく。額の汗が、彼女の行っていた作業が、いかに大変だったかを示していた。
「とりあえず、命に別状はないようです。ただ、何というか······一種の象徴化のような現象が起こっているみたいで······。いまのままじゃ、順平くんに対する治療は意味がありません」
「ウソ······どうすんのよっ��象徴化って、死んでるのと同じようなもんなんしょっ!?」
「ゆかりさん、落ち着いて。いまは冷静さを保つことが肝心です。 辛いでしょうが······」
心配に顔を歪める岳羽ゆかり、冷静にと言いつつ不安を隠せない表情のアイギス。彼らの中心には、壊れた人形のように床に倒れた伊織順平と、その順平の頭部に貼り付いたまま凍ったように固まった······シャドウの黒い姿があった。
一現場にいた者の証言によると、対峙した敵は、何の変哲もないマーヤタイプのシャドウに見えた。だが、普通ならシャドウ討伐隊を見ると、あくまで好戦的に襲ってくるシャドウが、ひたすら逃げを打つ様子を見せたのだ。それを面白がった順平が深追いしたところ、突然、反転してきたシャドウに飛び掛られ、そのまま両者ともに、ピクリとも動かなくなったのだとか。
「わからんな······どういうことなんだ?」
「あの······いいでしょうか?」
ギリッと奥歯を噛み締める様子の美鶴に、風花がおそるおそると声をかけた。
「敵意が······ないんです、このシャドウ。それと順平くん······なぜか喜びの感情が······」
「はぁ?何、この馬鹿、この状況で浮かれた夢でも見てるってコト?」
やや気の抜けたような風花の言葉に、場の緊張感がやや薄まる。浮かれた夢ーそれは、ある意味正しく、ある意味、違っていた。
「正確には······夢とは違うわ」
夢オチという言葉を聞いて、顔中に?マークを貼り付けたような順平に、チドリは薄い笑顔を浮かべたままで説明を続けていた。パニックになりかけた順平を落ち着かせるため、いまはふたりで並んで、ポートアイランド駅前の道をのんびりと歩いているところ。硬質に澄んだ冬の空気が、順平の意識を徐々に覚醒させていく。
「よく······わかんねえよ。チドリは、あのとき確かにオレの目の前で······。だから、これが現実じゃねえってことはわかる。だけど、夢でも幻でもねえって、どーいうことだよ?」
折りしも、ふたりが差し掛かったのは月光館学園前の大通り。ちょうど正面に、ギリシャ建築を模したといわれる、高等部校舎の威容がそびえ立つ。そう。あのとき、この高等部校舎の前、チドリは順平の腕の中で、徐々にその体温を失い······ニ度とその目を開けなかった。
そのチドリが、いまは順平の目の前で、かつての彼女からは想像もつかないような柔らかな表情で歩き、その笑顔もくるくると変わる。まるで、普通の女子高校生のように。このチドリは、あのチドリい出し、順平の顔に再びどっと脂汗が浮かぶ。別とは違う。先ほどのイタズラ好きそうな笑顔を思いに不気味だとか恐ろしいとかという印象があるわけではないが、やはり慣れてないというのが大きい。しかしそれでいて、これはやはりチドリ本人でしかありえない。そういう感覚も拭いきれない。それは、しっかりと心と心が繋がった相手だからこそ思える、余人には計り知れない―順平だけの確信だった。
「シャドウが······時空��干渉する能力を持っているってこと、順平知ってる?」
ぽつりと、チドリが目線をそらしたまま問いかけてくる。
「ああ、少しは勉強したからな。確か······シャドウはニュクスとかってヤツを復活させるために生きていて、そのために影時間を作り出したり、タルタロスみてえなでかい塔おっ建てたりしてるんだよな?んで、時間をいじる能力で影時間が、空間をいじる能力でタルタロスができてる······ってん だっけ?」
「そうそう。凄いじゃない、順平」
「へへっ、最近ガッコの成績も上がってるんだぜ。なめんなよ?」
「そっか······頑張ってるんだ。順平、偉いな」
順平の頑張りが、自分のことのように嬉しいといった表情で、また柔らかくチドリは笑う。そこで順平は気づいた。その見たことがない笑顔は、決してあり得ないものではなく、“もしチドリが生きていれば” いずれ見せてくれたはずの表情であるということに。そして、その推測を肯定する言葉が、チドリから発された。
「ここはね、そのシャドウの時空に干渉する能力で生み出された、“もしも” の世界。私が死なずに、そのまま生きていられた世界なの。そうね······SF風に言うなら、パラレルワールドって感じかな?ただ······」
「ただ?」
「本物じゃないの」
「!?」
ほんの少し予感していた、心の底から切望していた言葉と、それに続く期待を裏切る言葉とが、順平を混乱させ、絶句させる。
「あの変わり者のシャドウ······順平に飛び掛ったコはね、たぶん自分の存在に疑問を持っていたの。ひたすらにニュクスに尽くすためだけに生きることに。そして、幸せな未来を引き寄せたいと思った······だけど、1体だけじゃ力が足りなかった。引き寄せたのは、同じように幸せな世界の存在を望んでいた、順平が思い描く世界の、単なる影。コピーといってもいいかも」
「世界の······影?」
「時空のどこかに存在する、もしもの世界を、情報として再構成したのよ。 順平の頭の中に、ね。だから、ここは夢の世界。だけど、同時に現実を忠実に再現した世界でもある」
「ってことは······チドリも······?」
「そう、私はただの情報体。向こうの世界のチドリの人格や記憶と、順平の中にあるチドリの思い出からできている。もしかしたら、ここを作ったシャドウの知識も持っているかもね」
ふたりは既に、ポロニアンモールの近くにまで来ている。冬の街並みを眺めながら、チドリは少しだけ、空ろな表情を浮かべる。この顔を、順平は知っている。世界を拒絶し、世界から拒絶されていた。あのチドリの表情だ。
「だから······夢オチ、か」
「そう。いずれ影時間が終わって、シャドウが力を行使できなくなれば、この世界は消えてしまうわ。いまいる私も、同時に」
「そっか······」
「そうね······」
そして、無言のまま、ふたりは歩く。それが1分も続かないうちに、ほぼ同時に口を開いた。
「······順平!」
「······チドリ!あ、わ、悪い。先に言えよ」
「ううん、順平から、聞かせて」
「そ、そうか?あ、あのな······向こうの世界でさ、チドリは······幸せ、なのか?」
不安そうに聞く順平に、チドリはこれまで以上に極上の笑みを浮かべて答える。
「もちろん!もう、周りの人がやってられないってくらいにラブラブ」
「ら······ラブラブ?あ、あはは、そうか。そうなんだ······良かった。安心したぜ。 あ、んでチドリは?何、言いかけたんだ?」
「あ······うん。あのね、シャドウが時空に干渉できるって言ったよね。それは······別に特別なことじゃない、生き物にとって」
「え?」
想像していた甘いものとは違うチドリの言葉に、順平は首をひねる。
「時空に干渉する······それは、生きるということ。生きようとする強い意志があれば、避けられない運命すら、変えられる。もしもの世界は、順平、あなたにも引き寄せることができる。それだけ······覚えていて」
真剣なチドリの視線を、順平は真正面から受け止める。彼女が言いたいことが、心に染みるほど理解できた。チドリのように、未来を断ち切られる想いを、二度と誰にも抱かせることがないように、全力で生きる。それが、チドリの願い。そして、同時に順平の願い。
「って、覚えられないだろうけどね」
「はぁ!?おいおい、そりゃねえよ!」
カッコよく心の中で決めポーズをやりかけていたのに、あっさりチドリに否定され、さすがに順平がえらい勢いで反論する。
「だって、ここって一種の影時間だもの。ペルソナ使いの常識、わかってる?」
「いっ!?た、確か記憶の混乱や欠落······ってウソだろっ!?オレ、もうすっかり影時間には慣れて、もう影時間のプロだぜ、プロ!」
「ここは、いつもの影時間とは違うのよ。初めて影時間を体感したのと、条件は同じ」
「そ、そんなぁ······んじゃ、いまチドリと逢ってるって、この記憶も?」
「消えちゃうでしょうね」
「ウソだろ······」
「だから、いまのうち······」
「え?」
身構えるヒマもなかった。状況を把握する間もなく、正面に接近するチドリの顔。寸前で、彼女はふっと大きな目を閉じ。
ちゅっ。
小さく音が鳴る。
唇に残る柔らかい感触。
軽く触れるだけのキスだった。
そして、抱きしめようとしたときには、既にチドリは順平の腕をするりと抜けて、ゆっくりと遠ざかろうとしていた。
「······それでも、覚えていてね、順平。死んでしまった私も、生き延びてあなたと幸せな二年間を過ごした私も、できる限り精一杯生きたわ。だから、順平も······」
チドリの姿とともに、その声も徐々に遠ざかる。別れの時間がー来たのだ。
「ちょ!ま、待ったチドリ!せ、せめて不意打ちじゃないキスを······!!」
そこで、世界は白く白く輝き、消えた。
「って、アホかーっ!!」
「ぐぎゃはぁ!!」
突然、順平の顔面にとてつもない衝撃が走った。それが、ゆかりの靴底だと認識する間もなく、順平は盛大に吹き飛ばされる。
「な、何すんだよ、いきなりっ!!」
「そーれーはー、こっちのセリフだっつーの!この馬鹿順平!やっと目覚ましたかと思ったら、いきなり風花に襲い掛かってくるし!しかも、あの表情!唇とんがらせてチューって感じで······あー、マジキモイ」
「あ、あの、ゆかりちゃん······私は大丈夫だから。み、未だし。じゅ、順平くん大丈夫?」
「まったく······どんなエロい夢見てたのよ?」
「え、エロいって······あれ?夢······確かに見てたよーな······あれ?」
「どーせ、大した夢じゃないでしょ?」
ゆかりの言葉に、うーんとひたすら首をひねる順平。ただ、覚えているのは、ほの温かいような、幸せな感覚。
「ま、なんかいい夢だったんじゃねえかな?」
その能天気な順平の言葉に、安心半分呆れ半分で美鶴が言う。
「とにかく決戦は近い。伊織、気を抜いているヒマはないぞ」
その言葉に、気の抜けた顔をしていた順平の表情が、 傍から見てて驚くほどに引き締まる。
「任せてください!オレ、やりますから!」
それは、迷いが消えた、何か決意を感じさせる表情。順平自身、自分でもわからぬほどの激しい意思が、心の底で熱く静かに燃えている。
「だから······見ててくれるよな、チドリ」
喪失感が大半を占めていた、チドリとの思い出。それがなぜか、いまは温かく心強いものとして、順平の心に刻まれていた。そして。
《······見てるよ、順平》
どこか遠くから、柔らかな笑顔とともに返事が聞こえたような。そんな気がした。
6 notes · View notes
manganjiiji · 1 year
Text
桜くつ器
「くつ」というのは今自分で考えた動詞で、その場に固定するみたいな意味です。くくりつけるとか、打つとか、木槌で叩いてぴんと固定させる感じ。なにかいい漢字がないかなと思ったけど、思いつかなかった(と思ったが、「繰つ」というのがいいかもしれない、口が3つもあって硬そうなところがいい)。桜くつ器というのは、桜が固定されて飾られている器の意。
カウンセリングに行ってカウンセラーの先生に3ヶ月ぶりに話をしてもらい(ずっと予約の電話をかけることができず、3ヶ月ぶりとなってしまった)、さまざまなことが整理され、やっと、ここ数週間のうつ状態からすこし回復したように思われる。とくに一秒ごとに噴出していた希死念慮は無くなった。帰りに蔦屋書店に寄ってしまい、まさかここで本を買うとは思わなかったのだが、文庫本4冊をレジに持っていっていた。まだ前に買った本を読み終わっていないのになぜかこのようなことをしてしまう。これは23歳くらいからずっとそう。恐ろしい書籍購買依存症だ。「本を買う」という行為にのみ意味があり、読むことは全然しない。たまには読むが、1冊を頭から終わりまで読み切るということは殆どない。最近はその事に罪悪感も苦悩も呆れも何も覚えなくなってきた。この数ヶ月本を買うことをやめられていたのに、いきなりこのように浪費してしまい、衝撃もあるが、まあいつもの自分だなと思った。『京都SFアンソロジー』『貝に続く場所にて』『クララとお日さま』『実力も運のうち』の4冊。京都SFは暴力と破滅の運び手さんの「ピアニスト」が読みたくて買った(まだエチ小賞アンソロも読み終わっていないし、ブラームスの乳首も読み終わっていないのだが)。貝に〜は、書店で見て、芥川賞と群像新人賞の受賞作で、言語に関する物語とあったので、かなり気になって買ってしまった。講談社文庫はビニールが最初からかかっていて中が見えないのだが、帰宅してビニールを破って(この作業、省略したい。講談社は早く正気に戻って文庫本にまでビニールを掛けるのはやめてほしい)中を見たら、かなり余白の多い組版で、行間もひろく、見た目のうつくしさに拘りを感じた。いかにも芥川賞受賞作という感じで良い(組版への拘りというと黒田夏子の『abさんご』を思い出す。あれもかなり好きだった)。クララとお日さまは、ことこさんに内容を教えてもらった時に読みたいと思い、文庫化もしたことだし、と買っておいた。ひじょうによい子のAIの一人称で、カズオ・イシグロのいつものあれですよ、と言われたので(語り手の認識と世界との齟齬というかズレが特徴的なことが多い)、そして立ち読みしたところクララ(AI)にかなり好感を持ったので、読もうと思った。マイケル・サンデル(実力〜)は、かなり西洋哲学やキリスト教的価値観を引いて解説している(おそらくアメリカ人の状況を)と感じたので買った。『資本主義の〈その先〉へ』(大澤真幸)を読んでいるところなので、かなり内容に惹かれた。昔からだが、やはり「アメリカ」というものの面白さが私の冒険心を掻き立てる。同じくらい「日本」というものも面白いのだが、日本には一見してわかるような一貫性がない。だからこそ歴史の追いがいもあるのだが、やはりプロテスタントの「理想国家」として作られた人工物のアメリカのほうが理解しやすく、直截的なエキサイティングが得られる。昨日観劇したミュージカル「ラグタイム」では、二十世紀初頭のアメリカのフランス系アングロサクソン、ラトビア系ユダヤ、アフリカ系黒人の三つの民族の交わりがえがかれており、面白かった。私はスウィング・ジャズが好きなので、音楽としてのラグタイムにもっと言及があるのかしらんと思ったが、そこは特になかった。ミュージカルとしては、クラシック、ラグタイム、スウィング、ポップスと、割とオーソドックスなラインナップだったので、音楽的にはそこまでラグタイムに特化していたわけではなかった。そもそもこのラグタイムという語の、本来次の音が来るであろう箇所(次の拍)ではまだ音が来ず、ラグがあって少し拍より遅いところで次の音が来るシンコペーションのことを表している本来の意味とともに、さまざまな人種や民族がアメリカに絶えず流入し、立場がさまざまに変わりながら、「アメリカ人」になっていくまでのラグタイム(過渡期、猶予期間のようなイメージ)を描いているということなのかもしれない。私は音楽的なラグタイムは、クラシックとジャズを繋ぐ時期のもの(リズム、シンコペーション)という認識なので、まさにラトビア(欧州、クラシック)から移民としてアメリカ(新大陸、ジャズ)へ渡って、映画監督として「アメリカ人」として認められるまでのターテ(俳優は石丸幹二さん)の不遇の期間のことと考えると自然だ。音楽を、ジャズを主体としたミュージカルというのが見てみたいと思う(映画でも)。そういう作品はたくさんあるので、そのうち出会えるといいなと思う。そういえば前回日生劇場で見た「ジャージーボーイズ」はジャズを通り越してポップス…というかブルー・アイド・ソウル(白人がアレンジしたR&B)またはロックの話だったが、アメリカの商業音楽の世界を存分に楽しめた。ジャズのミュージカルとしては誰に焦点を当てるかだが、誰に当てても大物だらけの舞台(要素がもりだくさん)になってしまい、かつミュージカル・ナンバーもジャズにしないと成り立たなさそうだが、日本のミュージカル俳優はジャズ・シンガー(の歌い方)ではないので、なかなか難しいのではないかと感じる。「ラグタイム」ではサラ(黒人女性)役の遥海さんの歌唱が圧倒的で(彼女だけミュージカルの発声ではなく、全編通してソウルの歌い方だった)、歌だけでいえば主役の3人を凌駕していたのではないかと思う。完全に自分の声を縦横無尽に舞台全体で走り回らせ、かつコントロールも完璧だった。ミュージカルの歌い方では、ああいう芸当はできないというか、そもそも方向性が違うのでなんとも言うべきではないが、ソウルやジャズの歌い方もできるミュージカル俳優というのがもしいたら最強だろうな、ということを夢想した。クラシックの基礎の上にジャズの歌い方もマスターしているとなると、日本では平原綾香やKOKIAが私などは浮かぶが(上の世代だと美空ひばりや森山良子だろうか)、芝居も歌も極める上に、歌は2種類も、というのはやはり難しいのだろうか。我らが東啓介氏(私が舞台刀剣乱舞のバックステージ映像で好きになり一時期ガチで応援していた俳優)に関しては、私は今回もあまり納得が行かなかった。同行した友人は「28歳だし、そんなにすぐに変わる(成長する)ものではなく、熟達を求めるのは10年後とかかなあ」というようなことを言っていて(記憶違いがあったら申し訳ない)、私は東啓介にあまりにも多くを求めすぎているのだろうか、と思う。応援していることは応援しているのだが、追っていた頃の急成長と比べて、本格的なミュージカル俳優となってから、舞台上で分かりやすい「成長」というのが感じられないため、刺激に飢えているのかもしれない。演技もいつも同じに見えるし、発声の仕方も特に試行錯誤するでもなくいつも変わらず、なんかこう、変化…バリエーションが無い。それがつまらなく感じる。育ちが良く上品な所作、という当て書きのような役柄を続けて見てしまっているせいもあると思う。5DAYSの時みたいな、もっとしょうもない若者とか、マタ・ハリの時の恋に狂った青年とかの、本人の育ちの良さを封印するような役の方が見てみたいなあと思う。もっとヘドロの中を生きてきたような役を与えられた時に、果たしてどこまで生来の「品の良さ」を封印できるのか。というのは、彼を起用する演出家やプロデューサーが、どこまで東啓介の演技に期待してくれるのか、という問題も関わってくると思う。舞台上の発声はもっと先輩俳優の声の響きを聞いて試行錯誤してみてほしい。声が小さくても響かせるための発声。歌い方も最初の子音の破裂音というか呼気が入りすぎているが、これも前回から変化なしで、歯がゆい気持ちになった。歌はロングトーン以外でも「聴かせ」なければならないが、今のところロングトーンがないと東啓介の歌声はあまり目立てないというか、ほかの歌声との差別化が為されない。これに関してはどうすればいいのか素人にはわからないが、とにかく今までの練習や方向性を踏襲するのではなく、さまざまなやり方、歌い方、技法、発声方法を試して、もっと声に色をつけてほしい。ファンレターに書けばいいことを長々と書いてしまった。ファンレターに書きます。
夜、じゅんえん先生と話していたら赤森さんが来訪し、最終的に2時過ぎまでウエルベックの小説や文化や価値観の違いについて話してしまった。私は『ある島の可能性』を見つけて買って持っているだけでまだ最初の3ページしか読んでいないのだが、今日あらすじを聞いて、中身を結構���い読みして、どんどん読んでいきたいと思った。ウエルベックを紹介する時の赤森さんは「とにかく中年男性主人公がキツい(見ていてキツい、キショい)」ということを語るのに非常に活き活きとしていて面白い。赤森さんはもともと面白い方なのだが、ウエルベックを語る時の赤森さんは「主人公のここが無理」ということを鮮烈に話してくれるし、ストーリーの面白さもきちんと伝えてくれるので、凄いなあと思う。ちなみにファフナーをTwitter上で語っている時の赤森さんもかなりのエンターテイメント性がある。
じゅんえん先生は酒が飲めない、かつ所得の低い私のことを気遣って、飲みに誘わないでいてくれたのだが(とても優しくて感動した)、今後は数回に一回は混ぜてくれるらしい。私があまりにも拗ねすぎたなと思ったのでやや反省した。
2023.9.19
2 notes · View notes
kennak · 9 months
Quote
中国に駐在する日本の垂たるみ秀夫大使がおよそ3年の任期を終え、日本への帰任を前に記者会見を開きました。 外務省で中国語を専門とする、いわゆる「チャイナスクール」として40年近い外交官生活の大半を中国との関係に費やすなど、キャリア官僚としては異例の経歴を歩んできた垂氏。 習近平国家主席への権力集中が進む中国で、何を目指し、何を感じたのか。離任を前に開いた記者会見の全文で迫ります。 離任の記者会見を行った垂秀夫大使とは 垂大使は、昭和60年に外務省に入り、中国語を専門とする、いわゆる「チャイナスクール」の出身として、中国・モンゴル課長や領事局長、官房長などを歴任し、およそ3年前から中国大使を務めてきました。 いわゆるキャリア外交官は、専門とする国以外に欧米先進国などへも赴任するのが通例ですが、垂氏が駐在したのは中国、香港、台湾で合わせて18年。異例の経歴です。 中国共産党の高官だけでなく、民主化を求め政権に異を唱える人たちにも人脈を築いてきたと言われ、中国政府が日本の政策を批判したときには、SNSも使ってすぐに反論するなど、異色の外交活動が注目を集めたこともありました。 その垂大使の離任に当たっての記者会見は、12月4日午後、北京の日本大使公邸で1時間あまりにわたって行われました。 以下、その全文です。 会見 (垂大使 冒頭発言) 皆さん、こんにちは。こんなにたくさんお集まりいただいて感謝いたします。離任記者会見ということで、ちょっとピンとこないですけれども、こういう機会をいただいたことに御礼申し上げたいと思っています。 中国駐在 垂秀夫大使 私は12月6日に任務を終え、この地を離れて日本に帰国することになっています。振り返れば大使の期間もさることながら、40年近い外交官生活の大半を中国関係に携わってきたという意味でそれなりの感慨はあります。 国民の税金で養っていただいたといいますか、公僕として、長年、力をためてきた知見とか経験とか人脈、これらを生かして、何とか大使の任務を、最後のご奉公をかろうじて勤めあげられたのではないかなと安堵しています。 後ほど皆さんから日中関係や中国の問題で質問があると思いますので、最初は私が大使として何をやってきたか、その時どういう気持ちでやってきたかという内容を簡単にご紹介、ご説明させていただければと思います。 私が中国大使として着任したとき、この場で記者会見が開かれました。そこで私は大使館の今後の大きな柱として2つのことを申し上げました。1つは日系企業支援、もう1つは邦人保護、邦人の安全確保でした。 まず日系企業の支援という点については、日々のいわゆるビジネストラブルへの対応、これはもちろんのことながら真剣に取り組んだつもりです。 また、中国で行うビジネスが昔に比べれば非常に難しくなっている昨今、どちらかというと互助団体的であった中国日本商会の組織改革を提案し、大きく改革していただきました。 その結果として、今年の春から日本商会は会長職が固定化されました。また、これまでの任務以外にもロービングや調査業務、発信機能、これらを非常に強化する力強い団体に変貌しつつあるところです。いいスタートを切れたのではないかと思います。 中国日本商会 本間哲朗会長(左)の記者会見  先ほど申し上げました難しい中国ビジネス、とりわけ経済安全保障という観点からも非常にいい動きではないかと思っています。 次に在留邦人の安全確保という点についてです。私は普段から同僚に対して、(大使館の)政治部にいようが経済部にいようが広報文化部にいようが、すべてが領事担当官であると。そう何度も言って常に館内の意識改革を行ってきたつもりです。 私もかつて領事局長を担当した身です。ひとつひとつの領事案件、本当に、なんというか、普通の事務処理で済ませてはいけないような非常に厚みのある案件がたくさんあるんですね。 そうしたときに、もし事件・事故が起きた時に当事者が自分の肉親であったらどうかと。自分の父親が、自分の兄弟が、自分の子どもが事件・事故に遭ったらどういう対応をするかと。常にそういうつもりで対応しようと皆で確認し合ってやってきたつもりです。 ときには涙を流すこともありました。それでも領事担当の同僚は非常によくやってくれたと思います。邦人の安全確保、邦人保護という点はわれわれの大きな柱でした。ただ、この邦人保護、在留邦人の安全確保という観点から申し上げれば、今年の3月に起きた、国家安全当局に拘束された在留邦人の方がまだこう留されているという状況につきましては、私個人としては極めてじくじたる思いです。 社員が拘束された大手製薬会社「アステラス製薬」 この2つの大きな柱に加えて、私は1つの試みを提案しました。それは何かといいますと、この大使公邸の開放です。この北京には多くの外交団がいます。その数ある外交団の中でもわが日本大使公邸は、その美しさ、あるいは格式の高さ、いずれの点においても最も優れた素晴らしい大使公邸だと自負しています。 調度品もたくさん素晴らしいものがありますし、平山郁夫画伯とか絹谷幸二画伯の絵がかけられているなど、本当に美術館、博物館のような大使公邸です。春には桜が美しく咲きますし、秋には紅葉が見事に色づきます。 北京の日本大使公邸の庭園(垂大使撮影) その美しい庭園も抱えたこの大使公邸を在留邦人に使っていただく。そういう試みでした。この公邸の建設はもちろん、維持管理は全て国民の税金で行われている。そういう観点から言えば使っていただいて当然であると。そういう出発点でした。 当初は、在留邦人の方も半信半疑のところはあったんですけれども、何度もわれわれが使ってくださいとお勧めしているうちにいろんなことで使われ、コロナの時期もありましたが、それでも私の任期中に120回を超える公邸開放、公邸の利用が行われました。 例えば企業間のMOU(基本合意書)の調印式だとか、あるいはジャズのコンサートだとか、あるいは剣道の試合だとか、あるいは某大学の同窓会だとか、もういろんな形で使われました。時には日本人学校の子どもたちを中心にこいのぼり参観、あるいはひな祭り参観、そういうことに使われたこともあります。 大使公邸で開かれた 日本の特産品などをPRするイベント(2023年3月) 普段、公邸とあまり関係がないと思われるような方々には、例えば駐在員の配偶者だとか日本人学校のPTAの方々には一般参観日も設け、対外開放する日もありました。そういう試みを行って、これまで十分に使っていただいたと思っています。この試みは非常に上手くいったのではないかと思っています。 さて、中国で仕事を行っていく上では、特に私の任期中はコロナが非常に蔓延まんえんしている時期でしたし、また、ちょうど去年は日中国交正常化50周年、今年は日中平和友好条約締結45周年というエポックメイキングなこともありましたが、時には厳しい勤務環境の中で日本ではちょっと考えられないようなことが起きることもありました。 閉鎖された武漢の海鮮市場(2020年) 例えば、去年の50周年の関係では、在留邦人の人たちが手作りで祝うために、いろんな交流事業、文化事業を準備したり用意したりしましたけれども、それを日中関係が悪いという状況の中で、コロナを理由に何度も延期されたり中止されたり、そういうことがありました。 また、われわれとしてはなかなか受け入れがたいような理由で、日本の政策を批判されるようなこともありました。そういう時、多くの日本の人たち、とりわけ中国に長く勤務しているような人たちには「中国だからしょうがない、郷に入っては郷に従わないといけない」と理不尽なことを受け入れてしまうきらいが、私はあるのではないかと思っています。 そうしたときに民間の人、それぞれの個人はなかなか言いにくいんだと思うんですね。立場上も言い難い、企業の人も言い難い。でも私は日本の大使として、しっかり主張すべきは主張する必要があるという気持ちで、必要に応じておかしいことはおかしいということを声にしてきたつもりです。 ただ、ここで大事なことは、相手に対して物申すようなときには、その基準が、私は日本の大使ですから、日本の国益、あるいは日中関係をしっかり維持し大局を守っていくためにやるということが基本であるべきだと思っています。 決して反中とか嫌中とかいう感情で批判したり物事を判断したりしてはいけないと自分を戒めてきたつもりです。私のそうしたやり方についてどう評価されるのかについては、これは私自身が決める話でもありませんし、日本の皆さん、あるいは世論が決めることでもないんだと私は思っています。私は常々歴史が決めるものだと。歴史が評価してくれると考えて仕事をしてきたつもりです。 日本では外交に関する資料は30年後には公表されることになるわけですね。その将来の、歴史家か評論家かわかりませんが、そういう人たちがどう評価するのか、判断するのかということが私にとっては一番大きな基準であると、そういうつもりでやってきました。 私は常々同僚に対して、歴史に耐えられる外交をやろうと。歴史に恥じない外交をやろうと。今、その時々を過ごすためのアリバイ作りのためだけの外交をやってはいけないと、そういうことを訴え続けてきました。同僚は皆、本当にそれに応えて非常によくやってくれたと思っています。 そういう意味においては、ちょっととんがっているかもしれませんが、そういう上司、大使を持って非常に大変だったと思いますが、私の��僚は本当によくついてきてくれて非常に良い仕事をしてくれたと思っていて感謝しかありません。 先般、サンフランシスコで岸田総理大臣と習近平国家主席との間で日中首脳会談が開かれました。一番大事な点として、日中両国は全面的に戦略的互恵関係を推進することを再確認するということが示されました。私は非常によい会談だったのではないかと思っています。 日中首脳会談(アメリカ サンフランシスコ 2023年11月) これからが実は大変だと思います。大きな方向性を示すこと、これは何とかやれました。ただそれを具体化、実現していくことが、実はある意味ではもっと大事である、そう思っています。そうした意味では、引き続き日中双方の外交当局、あるいは政府全体がともに努力して、日中関係をさらに高みに押し上げていく必要があると。建設的、安定的関係を強化していく必要があると考えています。 冒頭申し上げましたように、40年近い外交官生活において、18年間、中国大陸、香港、台湾と勤務して参りました。私なりに一生懸命やってきたつもりです。精一杯駆け抜けた外交官生活だったのではないかと今思っています。何の後悔もありません。「風光霽月」の心境です。非常に爽やかで、思い残すことは何もないと、そういう心境です。 私の第2の人生の夢は、何らかの形で写真の世界で生きていけないかなと考えています。そのことを考えると、また非常にチャレンジ精神が出てくるという意味では、風光霽月と言いながら、また気持ちが震え上がってくるところがあります。中国も、日本も、あるいは台湾も、自然の美しさや一般庶民の喜怒哀楽には何の変わりもありません。私は中国大陸で撮りためてきた写真、そして日本、台湾で撮りためてきた写真、これらを多くの日本の方に示して、共通点をしっかりと伝えていくことによって、日中関係の更なる強化をお手伝いしたいと思っています。 垂大使が撮影した中国の農村 冒頭私からのご挨拶は以上です。 質疑応答 中国に長らく携わってきた外交官として今の日中関係についてどのような感想を。また今後の日中関係はどのようにあってほしいと考えるか。 今の質問で思い起こすのは、去年、日中国交正常化50周年のときの大使館公邸での記念レセプションです。私はそのレセプションの挨拶で、こういう風に日中関係をたとえました。これまでの日中関係はジェットコースターのようだと。上がったり下がったり、良くなったり悪くなったりだと。 遊園地で遊ぶジェットコースターは楽しいでしょうが、日中関係というジェットコースターに乗っている両国民はたまったものではないと。今後はジェットコースターではなく、ゆっくりゆっくり走る普通電車がいいのではないかと。要は、日中関係はしっかりと安定的に関係を構築していくことが大事だということを申し上げたつもりです。 日中関係が安定化するためには、やはり一番大事なものは日中間の意思疎通だと思います。日中は永遠の隣人であるのはこれはもう間違いのない事実なんですね。互いに引っ越すことはできないんです。国が違う以上、それぞれ国益を背負っているという意味において、ときには立場の相違だとか摩擦だとかがあるのは正常なことだと思うんです。自然なことだと思うんです。だからそれを恐れる必要は全くないんだと思うんですね。 恐れないといけないのは日中間で意思疎通がなくなることです。摩擦や意見の相違があればあるほど、本来であれば、日中の意思疎通は強化されなければならない。そういうふうに思います。首脳間から本当に民間レベルの交流に至るまであらゆるレベルで意思疎通が行われると。そういう関係が私は望ましいし、それが安定した日中関係につながるのではないかと思っています。 邦人保護の観点から。ことし3月に男性社員が拘束され、いまだ解放されていない。大使は11月28日にみずから領事面会に臨んだ。どういう思いで、なぜこのタイミングで臨んだのか。 サンフランシスコの日中首脳会談で、岸田総理は習近平国家主席に対して、できるだけ早期の釈放を要求されています。 それを受けて、この北京の一番の最前線で働く、なおかつその責任者である私が、そのための仕事を行うということ、これは、当然、まずやらないといけないことであると言えると思います。 さらに申し上げれば、私みずからが領事面会に行く必要があるとずっと考えていました。いろいろ事情があってそれは成し遂げられませんでした。 実は私による面会は領事面会としては8回目で、それ以前に7回領事面会が行われていました。その時、毎回、私は面会に行く同僚にメッセージを託していたんです。「われわれとしてはこの問題にしっかり取り組んでいくので気をしっかり持ってください」という趣旨のメッセージです。 今回、私が帰国することになり、やはりこのまま何もなしに本当に帰っていいのかと。私は、それは人の道ではないと。許されるのであれば直接会って帰国するという報告と、私の任期中に結果的には助けることができなかったことについてのお詫びを伝える必要があると感じていました。それが人の道であると感じていました。 また、私が行くことによって、例えば、メディアが関心を持ってくれ、日本政府としてこの問題にしっかり取り組んでいるというメッセージにもなると考えました。そして、非常に重要なことだと思いますが、この問題は決して風化させてはいけないと、忘れてはいけないと。多くの関係者の中でこの問題がだんだんと話題に上らないようになってはいけないと思っていましたので、私は自分が行くことが必要だと感じていました。 日中関係に関連した質問を。コロナが明けたあともビザの免除が回復しない状況。日本から中国を訪れる人が少ない状況になっている。今後何に期待するか。 人の往来が極めて少ない。とりわけ、日本から中国に来る人の数が極めて少ないです。いろんな理由があると思います。そもそもビザがなかなか取りにくい。昔はノービザということもありましたし。中国から日本へ行く旅行者、こちらも一番多かったときに比べればまだ半分にも達していません。ただこちらはそれでもそれなりの人が日本に行ってくれてはいます。 結果として何が起きるか。何が起こっているか、どういう影響があるかと申し上げれば、生の中国を見る機会があまりない、等身大の中国を知る機会がなく、中国に対する理解が深まらない。 上海 あるいは、万が一中国に対して誤解を持っていたとしたら、それにもかかわらずそれが増長してしまう、それが減じることもない、そういうことにも繋がってしまいます。 いずれにしろ、相互理解が深まらないということが、間違いなく起きています。昨今の日本人の対中感情の低さを表すいろいろな世論調査がありますが、それを見てもそのあたりは歴然と出ているのではないでしょうか。 広報スタイルについて。中国が発表した後に日本側が反論するという広報スタイルがあったと思う。それは垂大使から始まった形式だと思うが、この狙いは。 私どもからすれば、受け入れがたい理不尽な批判等もあったとき、あるいは申し入れがあったときには、われわれとしてあるいは私個人として、しっかり物申す必要があります。歴代の大使も同様にやられ、しっかりと反論されておられたと私は思っておりますし、信じております。 ただ、今おっしゃられたようなことが、私のやり方が特別に見えているのであれば、若干違いはあるのかもしれません。一般論で申し上げて、例えば中国側が私どもに申し入れをした時、私は必ず、あるいは歴代の大使もきっと同じだと思いますが、必ず反論する、あるいは日本側の立場を言う、日本としての申し入れを行うのです。 ところが、中国は国営の新華社通信がそれを流す場合、われわれの発言は完全に無視されるわけです。中国側の言い分しかないわけです。私はそれでいいのかと考えました。ある問題において、日本の大使が呼びつけられて、それに関する報道が中国側の一方的な主張しかこの世に出ない、それでいいのかという問題意識がありました。 ことばが悪くて申し訳ないのですが、中国が出していないのに、私どもがけんかを売る形で、われわれから直接出すということはなかったと私は信じています。中国側が出した時に、われわれが必ず反論すると。われわれも主張していることを出すということは確かに行いました。この世に中国だけの主張しかないことにならないように心がけたつもりです。 日本の(メディアの)皆さんを批判しているわけではありません。日本の皆さんは非常に立派なんです。中国側の主張も、日本側の主張も書かれるんですね。喧嘩両成敗じゃないですけど、大体、一応2つ書かれるわけです。最初の頃、私の主張がすごくちょっとしかなかった時もありましたが、だんだんと相当たくさん書いてくれるようになりました。 中国側はどんなことをしても自分たちのことしか書かないんです。それでも皆さん(日本のメディア)は書いてくれる。私はそれを信じて、中国側の主張しかないということになってはいけないと思ってやってきました。これは私の信念でやったことです。今後どうかということについては、私は申し上げる立場にありません。 大使の任期中、中国では習主席が3期目に入るという政治的に大きな動きがあった。3期目の習主席が率いる中国と日本は今後どう向き合っていくべきか。 極めて大事な、いい質問なんですが、私もまだ現役ですので、なかなか入り込めない部分もあり、答えが奥歯に物が挟まってるような言い方になるかもしれません。 中国は非常に変わってきています。どんどん変わってきています。それに応じた付き合い方、あるいは対中政策を考えていく必要があると思っています。一般論として言えば、私は首脳会談、この重要性がますます大事になっているんではないか。そういうふうに申し上げられるとこの場で言っておきたいと思います。 習主席になってから社会の統制が非常に厳しくなってきている。中国の人たちの価値観も多様化している。中国は社会統制の厳しさに耐えうるのか。また、仮に内側から変えようという動きが出てくる可能性があるかどうか、その場合日本としてサポートするようなことができるのか。 敏感な質問ですね。とても大事な質問なんですよ。いつもみたいに完オフ※だったらいくらでも喋りますが、ここは完オフではないので、そうした意味において申し上げればですね、今、言われたように、中国社会、社会統制がどんどん強くなってきているんじゃないか、それを内側から変えようとする力があるのではないか等々、そういう見方が存在していること自身、私は承知しています。そういうふうにだけ申し上げておきたいと思います。また日本がそれにどういう風に関わっていくべきなのか、あるいは関わっていくのがいいのかということについては、私はまだ現役ですので、お答えを差し控えさせていただきたいと思います。ご理解ください。 完オフ 「完全オフレコ」のことで、取材相手の名前や発言内容など一切を公表しないこと。 福島の処理水の対応をめぐり日本産の海産物の全面禁輸が続いている。この問題について今後どのように対応していくのか。 福島第一原発での処理水の放出(2023年8月) 私の見方で申し上げれば、今回の首脳会談でも2つ大事な点があったと思います。1つは、日中関係の位置付け、戦略的互恵関係を再確認すること。もう1つは、処理水の問題について。日中が、例えば専門家どうしがしっかり意見交換する。そういう形で互いにこの問題の解決に向けて知恵を出すといった方向性を確認したことだと思っています。 もちろん日本としては、今の「ALPS(アルプス)」の処理のやり方について、政府の一員として絶対的な自信を持っています。そうではありますけれども、一方で隣国の中国が別の意見を持っていることに対して、その意見、その主張は一切聞かないと、耳も貸さないというような姿勢は必ずしも適切ではないと思っています。 日中の関係当局、あるいは専門家どうしの意見交換、これを通じて、何とか着地点を見いだしていく、一刻も早く中国側の水産物の全面禁輸を解除するために努力することが大事だと思っています。 大使の在任中に最も印象に残っていること、また離任に当たって心残りなことがあれば。印象に残っている中国の指導者は。エピソードなどあれば紹介してほしい。 まず最も印象がある出来事、これはもういろんなことがありました。コロナについては、皆さんも同じように経験された方はたくさんいらっしゃると思いますが、特に去年の今頃なんかもう大混乱でしたしね。隔離生活も長かったりと、いろんなことがもう走馬灯のようにあるので、どれがと言われるとなかなか難しい。 PCR検査場に並ぶ人々(北京・2022年11月) 中国の古い友人、それから新しい友人とまた深い付き合いができたということも私にとっては極めて印象のあることでした。 あえて1つ申し上げれば、先般の日中平和友好条約締結45周年の際に中国が釣魚台迎賓館で行った記念レセプションで、私は大使としてスピー��する機会を与えていただきました。私はその中で、戦略的互恵関係、これが生み出された経緯を紹介するとともに、日中は戦略的関係の再構築が必要であると訴えました。スピーチが終わったあと、壇上から降りてきたときに、皆が座っている中で、1人、王毅中央外事弁公室主任兼外交部長が立ち上がって私のところまで迎えに来て、「大使、スピーチは良かった。素晴らしかった。ぜひ、戦略的互恵関係を再構築しよう」ということを言って、握手を求めてきたことは、とても印象のある出来事だったと思います。 日中平和友好条約45年の記念式典で垂大使に話しかける 中国 王毅外相(右・2023年10月) 何かやり残したことについてですが、私はやり残したことは、あえて言えば先ほどの邦人拘束の件です。 それ以外に申し上げれば、私は大使になってこういう大使館を作りたい、こういう気持ちで大使としての仕事をやろうと思っていたことについては、ほぼできたと思っています。もちろん、私が独りよがりにできたというよりも、私の同僚たちがしっかりついてきてくれたことが一番大きな理由です。私が思い描いていた大使館像、これをしっかり作れたと思っています。そういう意味では何ら思い残していることはないというのが私の心境です。 それから、心に残った指導者、中国側の指導者でいいですよね。これは、長い外交官生活の中でということで申し上げれば、私はやはり、あえて中国側のことを申し上げます。 日本はまだ何とか頑張ってらっしゃる方がいらっしゃる中で、本当にリスクを取って日中関係をしっかり進めていくんだとか守っていくんだという指導者が、今やそう多くないというかほとんどいない。 そんな中にあって、思い起こせば2009年。詳しいことは申し上げられませんが、2009年に、ある場で引退された曽慶紅※さんに会う機会があったんですね。そこで曽慶紅さんに、私の方から1つ質問したんです。曽慶紅さんは、中央組織部長で、いわゆる江沢民さんの側近中の側近であった方ですが、2002年4月だったと思いますが、訪日しているわけですね。 曽慶紅そう けいこう氏とは 元国家副主席。江沢民前総書記に近い実力者で、日本の政界にも幅広い人脈をもっていた。習近平氏が中国政治の表舞台に出てきた背景に、曽氏の影響力もあったといわれている。 なぜその訪日が大事だったかというと、実は当時、小泉総理の時代で、小泉総理自身が靖国神社に参拝した直後だったんです。その直後に、曽慶紅さんは日本を訪問されたんです。日本といっても大分県でした。確か私の記憶が間違いなければ武漢と大分のチャーター便を飛ばすか何かそういう話だったかと思います。 私は聞いたんです。「なぜ日本に行けたんですか。いろいろ反対とかなかったんですか」と。 曽慶紅さんは非常に満面に笑みを浮かべて、「日本には私の友人2人が待っていた。1人は野中広務さんで、1人は大分県の平松知事だ。日本の友人が待っているので、私は行かなければならないと思った。私は、2人の指導者に許可をもらった。1人が江沢民さん。もう1人が外交担当の副総理であった銭其シン【※王へんに、深のつくり】さん。2人とも喜んで行ってきなさいと言ってくれたから行きました。友人が待っていたから私は行ったんだ」と。私は本当にリスクを取ってでも日本を訪問する、日中関係を進めるという素晴らしい人だなと感じました。私にとってはとても心に残ったやり取りでした。 曽慶紅 元国家副主席(右・中国共産党大会 2022年) 改革開放で多くの日本企業が中国に来て経済交流を進めてきたが、足元では中国での事業リスクの高まりもあって対中投資意欲を大きく下げているという実情もある。中国で日本企業がおかれている状況や日中の経済関係は今後どうなっていくと考えるか。 私は2つのアプローチが大事だとつくづく思っています。1つは攻め、1つは守り。現実問題として、改革開放以降、日本経済、日本のビジネス界は中国との間の経済交流・経済往来を強化させてきました。ある統計によれば、今や中国大陸に、拠点数を入れた数字で申し上げれば、3万以上の日本の会社あるいは拠点があると。中国大陸の中で最も大きなプレゼンスを示しているのが日本企業なんです。 日本経済を考える上で中国経済を抜きに語ることはもうあり得ないと思います。もちろん、中国経済の大きなマーケット、これも非常に魅力的ですし、イノベーションやデジタル経済など、日本から見ても極めて目を見張るような動きを示していることもあります。どういうふうにして日本経済としてこれを活用していくのかというような視点は非常に大事だと思います。そうした意味では、中国との経済関係を能動的にしっかりと強化していくということはとても大切だと思っています。 日系企業の自動車工場 一方で、中国でビジネスをやっていく上で、今どんどんと難しくなっているわけです。いろんな問題も生じてきています。まず最初に中国経済そのものが、特に今年に入って、あるいは去年ぐらいから、非常に不景気である、デフレ気味の状況を示しているということもあります。それはまだ1つの経済の状況ですが、それだけではなくて、例えば、よく言われる自立自強のサプライチェーン、あるいは自国産品を優遇するような政策があります。 表面的には否定するんですが、内外差別を行っているのではないかと思われるような対応も見受けられます。業種によっては強制的な技術移転というような動きについても、われわれはいろいろ相談を受けていることも事実です。そういう経済安全保障的な側面から見ても、しっかりと守り、しっかり脇を締めて、中国経済、中国とのビジネスをやっていく必要があると。 私は両方が大事だと思っています。決して守りだけではダメだ、もちろん攻めだけでもダメで、攻めがあって守りだと考えています。 「ゼロコロナ」政策について。大使は着任から隔離を受け、終了まで全部見届けた。日本と全く違うスタイルをとった「ゼロコロナ」政策をどう総括するか。 着任のときは2週間でしたね。10日ではなくて2週間の隔離生活でしたが、総括は、私が行うのではなく本来中国政府ないしは中国共産党が行うべきものです。実際もう何度も総括していて、中国政府・中国共産党としては勝利宣言を行っているので、それに私が横から総括するっていうのは変な話かもわかりませんが、印象だけ申し上げます。 正直申し上げて、前半期は、「ゼロコロナ」、一種の真空状態を中国の中でつくる。そのために隔離を2週間だ3週間だ、地域によっては2か月要求しているところがあったわけですね。そのかわり、そこに入れば無菌状態、実験室みたいな状況をつくって。実はそれはそれでうまく回っていたのも事実なんですね。 ところがオミクロン株の流行となって、それはもう効果を発せられなかった。オミクロンの威力、伝染力がもっと強かったんですね。私は政策を変更するタイミングを逸したんではないかと個人的には思っていますね。そのタイミングは相当間違ったんじゃないかと。それが私の印象です。その結果、後半の方は極めて、世界的にもまれに見るようなロックダウン等があったり、北京では「弾窓(タンチュアン)」という経験した人でないとわからないような政策がとられたり、いろんな不可思議なことがありました。最後は大混乱の中、「ゼロコロナ」政策が取り下げられていく。全体としての評価については、私の個人的印象だけを申し上げれば、タイミングがうまくいかなかったというか、良くなかったと思っています。 弾窓タンチュアン 「ゼロコロナ」政策のもと、スマートフォンの「健康コード」と呼ばれるアプリに表示されたポップアップメッセージのこと。感染者が出た地域に行ったと認識されると、濃厚接触者でもないのに「あなたはリスクが高い地域を訪問しました」と表示される。この表示は自分では解除できず、数日間建物へ入れなくなったり公共交通機関の利用ができなくなったりする。 米中関係について。サンフランシスコで米中首脳会談が行われたが、今後も米中対立の構図は続くとみられている。今後、米中対立が深まる中で日本の役割は何か。また日本政府として現状、どのくらい日本の役割を果たせていると考えるか。 米中首脳会談(2023年11月) 日本大使としての立場で第三国どうしの関係である米中関係について、表だった評価をするのはなかなか難しく、差し控えないといけないんですけれども、一般論として申し上げます。 米中関係の安定化は、日本としては非常に希望しているところです。今回のサンフランシスコにおける米中首脳会談についてもいろいろな論調があるのも承知していますけれども、私は今回の会談を歓迎しています。 日本がどういう役割を発揮するかということについて。アメリカはわれわれの同盟国であり、日米同盟という強固な信頼関係のもとで、われわれは必要に応じて中国に対して対話を重ねながら、必要な時には中国に対して大国としての責任を果たしてもらえるように働きかける。そういうふうに考えています。 拘束された男性社員に領事面会をした判断理由として、帰国の報告と、任期中に結果として救出できなかったお詫びを伝えたいということだった。実際に伝えて先方の反応はどうだったのか。 すみません、私の発言、私の思いはお伝えした通りですが、先方の方の発言、対応等については私の立場上、紹介するのは恐縮ですが、差し控えさせていただければと思います。 (12月4日 BS国際報道2023 などで放送) 垂氏が大使として赴任する前に行ったインタビューの記事はこちら
中国・習近平体制と対峙した垂秀夫大使 ゼロコロナ 邦人拘束 日中・米中関係 離任前に何を語った? | NHK
5 notes · View notes
jinghuablog · 1 year
Text
导游彼得——夏威夷之行(二)
Tumblr media
第二天早上,邮轮安稳的停靠在檀香山国际码头,迎接我们的是一个艳阳高照的檀香山。从悉尼到檀香山,邮轮载着我们走走停停,跨越大半个南太平洋,二十天的航程终于划上一个圆满的句号。
下了船,我们随着蜂涌而出的人潮来到旅客大厅,首先印入眼帘的是身穿艳丽民族服装的夏威夷姑娘,她们头戴花冠,身穿花裙,笑意盈盈站成一排,一边弹着吉它,一边唱着抒情的夏威夷骊歌《珍重再见》(Lloha 'Oe),这让初次踏上这块土地的我们有一种回到了家的温暖。
走出大厅,一阵热浪迎面扑来,有点让人猝不及防,看来夏威夷的夏日太热情似火了。外面的马路上到处停满了接送旅客的私家车、计程车、大、小旅游巴士。我们在外面转了一圈,受不了热浪又退回到了大厅,写大家一起商量如何去酒店。我们一行共八人,可以分坐二辆出租车,可问题是现在才早上八点,我们订的酒店房间要到下午三点才能入住,中间有七个小时的时间差,这么一大早去酒店显然不合适。这时我们中的一位重庆朋友出了个主意,何不就地找一家旅行社,安排一个半日游,游玩结束,顺路送我们去酒店,正好与入住的时间相衔接,这真是一举三得(省时、省出租车费、省寄放行李的麻烦)的高招。
想法很不错,但要临时找一家旅行社并非易事,接洽了几家都说需要事先预定,他们众口一词的说词是这几千号游客一起下船,现在最紧缺的就是车辆和导游,哪还有什么剩余的资源给你们加塞。还好凭借我们几个人的软磨硬泡,总算说动了一名女职员,并借用她的手机,与她的老板约翰(John)交涉了好一阵子,最后约翰答应派给我们一辆小巴士,司机兼导游的名字叫彼得(Peter)。
旅行社先临时调一辆巴士把我们送到檀香山市中心,并约定三十分钟后在卡美哈美哈国王雕像(King Kamehameha l Statue)与彼得汇合。我们也趁这段空隙时间,在附近的皇宫、州议会大厦和教堂等走走逛逛,拍照留影。
彼得来的还真准时。他身材魁梧,皮肤黝黑,理一个平顶头,戴一副墨镜、身穿黑色的T恤衫、黑色的短裤、一双黑色的运动鞋,从上到下一身黑色系列,看上去犹如一尊黑色火山岩雕刻出来的石像。他一见到我们,便喜形于色的挥手致意,还煞有介事同我们一一握手,然后又手脚麻利地把我们的行李搬上了车。他一边搬,一边不停的抱怨说:"约翰真不够意思,休息日还硬拽着我来开车。"。
我说:"你老板约翰会多付给你工钱的。"
他一听这话,嘴角顿时露出不屑的样子,说:"他才不会这样呢。"然后压低声音说:"他是个守财奴,你不知道他对自己的孩子也十分吝啬。"
我哈哈一笑,说:"看得出来你比你老板更够意思。"紧接着大家你一言,我一语的给他猛灌一阵"迷魂汤",彼得听了很受用,笑的乐不可支。
开车之前,彼得先开诚布公的告诉我们,他除了爱开车,剩下就是爱跟人聊天,所以英语说的溜的人坐在前排,好让他开车解闷。他还说,他非常喜欢这份导游工作,工作能满足他所有的爱好。看他那乐呵呵的样子,真叫人羡慕不已,人生难得有这么两全齐美的好事。
小巴一上路,彼得的话匣子就打开了。他先狠狠地调侃了他的老板约翰一番,然后再自我介绍说,他当过兵,在日本和韩国都驻扎过。退役后,结婚生子,目前有二个孩子,但都离开夏威夷去美国本土上大学。孩子不在身边,没有了牵拌,彼得的生活更加自由快乐。说完了他自己,他连忙转移了话题,开始进入他的导游角色。他看到什么就跟我们聊什么,眼前一幢幢漂亮的公寓,他会聊日本人、中国人在当地的投资。看到街上头戴遮阳帽的姑娘,他先猛夸她们迷人的身材,顺带聊当地的天气、习俗和风光之类的话。见到警车呼啸驰过,他不忘先调侃警察的车技,捎带着聊当地的治安。当我们的车路过奥巴马前总统曾经就读的普纳荷学校(Punahou School)",他更眉飞色舞地讲一通奥巴马在夏威夷的童年趣事。看到街上一家家的商店,他会跟我们说哪家是热门的餐厅,哪家有些什么样的特色商品出售。他说话有趣,滔滔不绝,热情好客,就像是一个可爱的"人来疯"。碰上这么一个有趣的人,我们的情绪也调动了起来,车厢内不时听到我们欢乐的笑声。
小巴很快拐入了卡拉卡乌阿大道(Kalakaua Ave),这是夏威夷最著名的一条商业街。宽阔齐整的大街,高大挺拔的椰子树,风格各异的建筑物,世界名牌精品店,窗明几净的橱窗展示着各式的服装、皮鞋、皮包、手表、香水等。这条购物大街极富热带风情,前面就是著名的威基基海滩,购物与休闲,花钱与享乐,逛街与浪漫完美融合在一起,像这样的购物体验在其它地方难得一见。据彼得介绍说,以前这里很多店铺都是日本人所拥有的,现在情况完全变了,越来越多的中国人在这里置业开店,陆资的涌入改变了市场的格局,也说明这里日益受到人们的青睐。
这时我们的右前方出现了一望无际的大海和宽阔的海滩,而左边的街道则是一家紧挨一家的餐厅、咖啡馆、便利店,度假酒店,路上不时能看到身穿泳衣,身披浴巾,手拿着冲浪板的俊男美女。相较刚才看到的购物人群,这里主要是赶往海滩的游客,他们在海上冲浪,浮潜,游泳,或者坐卧在沙滩上晒太阳,看书,聊天,甚至坐在海边的椰子树底下,面朝大海,思绪飞扬,这一幅幅悠闲自在的图景,让人不得不感叹,古人"行到水穷处,坐看云起时"的那份淡然与从容也不过如此。
除了天上飞的鸟,水里游的鱼之外,彼得什么都跟我们聊,威基基海滩旁有一个警察分局,彼得看到一辆辆警车泊在那里,忙不迭地嘲讽说:"这些警察个个都像只猫头鹰,白天看不见他们的人影,晚上可不好惹。"。经过一家连锁便利店,忙夸奖起里面的东西既便宜,质量又好。看到二个小伙子抬着一只大保温箱,吃力的往海滩上去,他又开口说:"我一个人扛着也能疾步如飞。"看到海滩上众多的美女,他兴奋的像个多情的少年,猛夸她们的身材,秀发,肤色和女人魅力,好像这些美女都曾跟他有过一腿似的。说完之后,接着又是一通牢骚,说:"今天不接你们这单生意,我现在正躺在这群美女的怀抱里,美女作陪度春秋,天天都是好日子。"
"彼得,你到底喜欢哪国的美女?"车上不知谁问了一句,
彼得不加思索回答道,"当然是我们夏威夷的姑娘。"说完还作了一个赞不绝口的手势,逗得大家哈哈大笑。
小巴继续缓慢的前行,太阳斜斜地照进车内,车窗玻璃把外面炽热的阳光和清新的海风统统给隔绝在外,也把我们的欢歌笑语关在了车厢里。真是的,在车上坐久了,看到窗外一张张喜气洋洋的脸,心里不时泛起一种羡慕的感觉。我真想立马跳下车去,汇入熙攘的人群,奔向海滩,投身于大海波涛。佳美的日子,与其坐车观景,还不如站在海边,看片片云彩,数朵朵浪花;与其坐车神聊,还不如在沙滩上拾一把细沙,捡一只贝壳。在广阔天地里放飞生命,俯瞰那一草一木,一山一水,一个充满活力的世界。
近一个多小时的"游车河",我们的双脚还未沾过地面。彼得似乎知道我们心里想什么,他说到下一个景点钻石山(Diamond Head)就让我们下车,随心所欲的玩上半个小时。临近中午,路上朝钻石山方向去的车还真不少,难怪它是檀香山著名的地标。钻石山是一座死火山,据说每当夜幕降临,山上的凝灰岩锥会发出闪闪的绿光,像绿宝石一样,故取名为"钻石山"。
小巴抵达钻石山,彼得第一个跳下车,行动敏捷的从车的左边绕到车的右侧,拉开车门,放下上下车的踏扳,站在一旁恭恭敬敬的扶我们下车。刚才他还是嘻皮笑脸的开玩笑,现在却变成认认真真的样子,看了让人直想笑,不知他那殷勤备至的背后,是老板的要求,还是他本身就是个热心肠的人。山脚下有一条上山的小径直通山顶,来回需要二个小时,显然时间来不及,只能放弃爬山登顶的打算。据说在山顶看夕阳日落,整个檀香山市区的高楼大厦,蜿蜒的威基基海滩,扬帆出海的游船,波光粼粼的浩瀚大海,全都沐浴在一片金色的霞光中,景色非常美丽壮观,而我们只能望"顶"兴叹,自我安慰一番,留点遗憾才会有下次再来的冲动。
在钻石山山下转了一圈之后,彼得又带我们来到檀香山的高挡住宅区凯海兰(Kahala)。这里离钻石山很近,又临近大海,依山傍水,景色秀丽,世界各地的许多顶级富豪都喜欢在这里置业。车开入了小区,大家纷纷下车,把本该爬山的余力都用在街头散步上。狭窄的林荫小道,宽大的前院,幽深的庭院,一座座豪华别墅掩映在自家的绿树丛中。幽静的街道空无一人,我们这批外来者仿佛是一群闯入寂静林子的鸟,叽叽喳喳的叫个不停。"所谓幸福的生活,必然指安静的生活,原因是只有在安静的气氛中,才能够产生真正的人生乐趣。"此时,大哲学家罗素的这句话突然闪过我的脑际。有钱人花大钱幽居郊外,真的能从安静中找到他们想要的幸福生活?我只能说不知道,但眼前彼得乐不可支的身影,却让我觉得彼得这样的生活,又何尝不是另一种幸福的表现?有时大哲学家的思辩也会有偏差。
面对整条街宽大气派的豪宅,彼得介绍的津津有味,像是在介绍他自己的房产。一连串富豪明星的姓名,有些是大家知晓的,更多的闻所未闻,反正都与我们这群外来客毫无关系。不知谁突然冒出一句:"彼得,你家是哪一幢别墅?"。
他先是一愣,接着便开怀大笑,说:"我家离开这里还有20多英里,虽然也能看到大海,但房子小,又有点破旧。反正能看到海就高兴。"在他脸上丝毫看不到不好意思的神色。不在乎别人是怎样的生活,只在乎自己的生活是否过的快乐。
出了小区,我们又回到沿海的Kalaiana’ole高速公路,一路往东行驶,车窗的右边又出现了湛蓝的大海,沿途的海边岩石大多呈黑色的形状,这是因为火山喷发出的熔岩遇到海水迅速冷却而造成的,当然夏威夷群岛本身就是火山喷发后形成的岛屿,有这么多黑色奇观一点都不令人惊讶。车很快来到了拉纳岛观景台(Lanai Lookout),从这里可以清晰看到拉纳岛(Lanai)、莫洛凯岛(Molokai)、茂宜岛(Maui),特别像今天这种能见度超好的天气。这三大岛都是夏威夷群岛中的主要岛屿。
到这里我们的半日游算是划上了句号,接下来便要打道回酒店,可彼得还觉得意犹未尽,执意再陪我们玩几个景点,这真是求之不得的好事,我们大家一齐拍手鼓掌,真恨不得上前亲他一口。但彼得却像孩子似地用食指放在嘴边作"嘘"字状,还告诫我们不要把这事告诉约翰,他这种慷公司之慨的行侠仗义,颇有点古代"罗宾汉"风范。接下来我们沿着海岸线一路往东北,一直到夏威夷的海洋生物公园(Sea Life Park Hawaii)。每停一个景点,彼得照样还是忙前忙后,并不因为多出的行程而有丝毫懈怠。他爱给我们大家照相,也喜欢与我们合影,而且始终是一副滑稽搞笑的样子。他把我们看成是来他家串门的邻居或亲戚,大家也把彼得当作久违的朋友,从彼得身上实实在在感受到夏威夷人热情似火的性情。
彼得把我们送回凯悦嘉轩酒店已经是下午三点,本来约定半日游,现在却玩了五个多小时,我们都很感激他,临别的时候,大家都有点依依不舍,可他还是嘻皮笑脸的样子,说:"今天我算是被约翰坑了,以后再碰到这种事,打死我都不干。人生苦短,别再辜负美好的时光,我这就到海边泡妞去。"他停顿一下,做了一个说漏嘴的样子,又接着��:"还得带上老婆"。其实岂止是他一个人这么想,我们又何尝不想尽快去拥抱这片美丽的大海。
youtube
3 notes · View notes
gupaooooon · 1 year
Text
・Nagasaki Peace
「An atomic bomb exploded over Nagasaki on August 9, 1945, three days after the explosion of the first atomic bomb over Hiroshima. The bomb was assembled at Tinian Island on August 6. On August 8, Field Order No.17 issued from the 20th Air Force Headquarters on Guam called for its use the following day on either Kokura, the primary target, or Nagasaki, the secondary target. That same day, the Soviet Union declared war on Japan. The B-29 bomber "Bockscar" reached the sky over Kokura on the morning of August 9 but abandoned the primary target because of smoke cover and changed course for Nagasaki, the secondary target, and detonated the atomic bomb at 11:02 a.m.」
・NO MORE HIROSHIMA & NAGASAKI MUSEUM
「The nuclear weapons dropped on Hiroshima and Nagasaki burned the victims to unrecognizable forms, and brought suffering from illness, poverty and discrimination unto the survivors. Nuclear weapons and humanity cannot coexist.
We want people around the world to know about the consequences of nuclear weapons, and the journey of the Hibakusha - the atomic bomb survivors. As Hibakusha of Hiroshima and Nagasaki, we have held exhibitions at the United Nations four times to date, at the timing of the NPT Review Conferences. As the risk of the use of nuclear weapons is today at its highest, we have decided to open this exhibition as an online museum.」
・Hiroshima and Nagasaki: A Multilingual Bibliography
「ABOUT US: The Aim of Our Project In 2014, a year before the 70th anniversary of the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, we started our survey and research into the multilingual publication of atomic bomb literature. Our goal is to make a comprehensive survey into the process of worldwide acknowledgment of Hiroshima and Nagasaki for 70 years.」
・外国人戦争犠牲者追悼核廃絶人類不戦碑
「八月九日の原爆 によって七万余の日本人、数千の朝鮮人、中国人労働者、華僑、留学生、連合軍捕虜(イギ リス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、インドネシア等)が犠牲となった。特に浦上刑務所のあった隣接する丘では、三十二名の中国人、十三名の朝鮮人が、日本人 受刑者とともに爆死し、また香焼や幸町の捕虜収容所では、被爆前に病気や事故などによ って数百名の連合軍兵士が死亡した。」
・「長崎の原爆ドーム」なぜ解体されたのか? 浦上天主堂が幻の世界遺産になった理由【長崎原爆の日】(22/08/09)
「8月9日は「長崎原爆の日」。長崎市内への原爆投下で、1945年だけで7万人以上が亡くなった。長崎では平和祈念像が犠牲者に黙禱を捧げるモニュメントとして知られているが、実は広島の世界遺産「原爆ドーム」に匹敵する原爆遺構が、かつて長崎市内に存在していた。爆心地からわずか500メートルの位置に��ったカトリック教会の大聖堂「浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)」だ。」
・«さもしいといって下さいますな» 福田須磨子さんの思い 原爆を背負って(30)(20/08/06)
「 《何も彼(か)も いやになりました 原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です》1955年8月、被爆詩人・福田須磨子さん=74年に52歳で死去=が詠んだ詩「ひとりごと」です。」
・祈りと異質な巨大芸術 平和祈念像 法王は今回も立ち寄らず(19/10/27)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/554327/
「長崎新聞の元論説委員長、高橋信雄さん(68)によると、浦上教会の主任司祭だった故川添猛神父は生前、高橋さんの取材に対して「私自身は平和祈念像の前には決して行かない」「巨大な芸術品の前で祈りをささげることなどできない。いくら像の名前に平和を冠していても、被爆者として、あの像とは相いれない」と語っていたという。」
「北村は戦前戦中にわたり、戦意高揚のための軍人像などを数多く手がけた。反核、反戦の美術評論家、故針生一郎氏は、北村について「戦後一転して平和や自由をうたいあげる公共彫刻に意欲を燃やしたが、戦前戦中の自作についての深い反省もなく百余歳まで生きたので、各地に醜悪無残な彫刻公害を残している」と酷評。その代表格が、北村の戦前戦中の作風そのままの男性裸像、平和祈念像ということなのだろう。」
「祈念像の周りをぐるりと歩くと、像の裏には北村の言葉が刻まれ、こんなくだりもあった。「山の如き聖哲 それは逞(たくま)しい男性の健康美」。祈りとはかけ離れた異質なもの。」
・「存在しない」とされた残留放射線、内部被ばくの被害を認めない政府(22/09/05)
「長崎の「被爆地域」は、原爆投下時の行政区域をもとにしている。爆心地から12キロ圏内で原爆に遭っても、国の指定する「被爆地域」外にいた人々は「被爆体験者」として、被爆者と線引きされてきた。」
「原爆投下から1ヵ月後、マンハッタン計画の副責任者であるトーマス・ファーレル氏は、下記のような声明を発表したとされる。 「広島・長崎では、死ぬべきものは死��でしまい、9月上旬において、原爆放射能の余燼ために苦しんでいる者は皆無だ」 残留放射能が存在しないとした理由について記者からの質問を受け、ファーレル氏は「相当の高度で爆発させた」ことを挙げていた。」
「広島の「黒い雨」訴訟で、国側は国際放射線防護委員会(ICRP)国内メンバーが記した論文を引用した上で、「内部被ばくをより危険とする根拠はない」などとしていた。国が政策で依拠するICRPとはどのような成り立ちなのだろうか?この組織は1950年、米国放射線防護委員会(NCRP)議長らが中心となって組織された。NCRPは1946年に発足しており、あの「人体実験」にも携わったマンハッタン計画の医学部長らが執行委員となっていた。中心メンバーも、マンハッタン計画に従事した科学者たちだった。」
「「日本政府は核兵器の残酷さや非人道性を訴えるどころか、その“威力”を重視し、原爆攻撃をした米国と一緒になって、核兵器の有効性を世界に向けて訴えてきたといえます。核の“パワー”の肯定的イメージを拡散してきた、世界に対する責任は重いと思います」」
・核廃絶専門委、長崎の被爆者落選 禁止条約に否定的な政府支援なく(23/07/23)
「【ニューヨーク共同】核兵器禁止条約の諮問機関「科学諮問グループ」の専門家委員に推薦された長崎の被爆者が落選していたことが23日、国連関係者への取材で分かった。核廃棄や被害者支援など「核なき世界」実現の方策を締約国に助言する「要」の機関。核実験の影響に苦しむカザフスタンが推したが、条約に否定的で非加盟の日本政府の支援は得られず、外交筋は落選への影響を指摘した。」
・NHK長崎放送局 WEB特集 原爆
3 notes · View notes
lllusioninthehead · 2 years
Text
2022/12/28
犬と彼女と母と墓参り。
母は友人に線香や立派なお花を用意して貰っていた。あまり家族には恵まれない人生のようだけど、友人には恵まれてる。これはこれで素敵なものだと思う。お家焼肉をしてるときに、見た母の若いときの写真はとても綺麗でびっくりした。
「年始は駅伝見るから来なくていいよ」と息子の年始訪問を断る母。まぁ、マイペースで生きてよ。
夜はバスケ関連の友人とホームパーティー。家族を持つ人が多くなってきて、わいわいがやがや。
2022/12/29
昼に神戸に勤めに行った友人とご飯。山と海と学校を往復してる毎日みたい。想像すると都会の雑踏にまみれてる自分には素敵に思えるけど、実際はそうでもないらしい。とにかくレコード屋が少ないと嘆いていた。
神経質ながら優しいやつ。国際政治やら人権問題の研究していて独身。
人権問題を扱うってことは世の中の数多の人権侵害調べるってことで、なんでそんな気が滅入ることしてるんだよと言うと「まったくだねと」笑ってた。
とにかく生きてて何をしてても誰かに水を差されることが多く、あと本人も良く水を差すので、年中心が濡れてる。まぁ、性格が悪い(人が悪いではない)やつが好きなので、気があって友達やってる。
また、メソメソと結婚への不安を語った。好きな人には全面降伏でいいよと言ってた。全くそのとおりだよ。2022年の戦争について質問すると、世界の行く末は闇の中だってさ。悲しいことはつきないから、ま、たまには顔を合わせて笑ってよう。
2022/12/30-2022/12/31
大掃除…、いや中掃除くらいをざっとして彼女の実家へ移動。義理のお父さんとお母さん。そして義理の姉夫婦と子供、そして義理の妹夫婦と1/2まで一緒にいる。カニ鍋食べてお酒を飲む。昼間は公園で子供と犬と遊び、夜はモツ鍋と年越し蕎麦。
FNS歌謡祭や紅白やおもしろ荘なんかを観てあーだこーだ。幸せな家族のなんの変哲もない年越し。ほんとにあるんだな、これ。お金使わないし。うちはこういうthe生活みたいなのとは無縁だったから。血の繋がりが希薄で孤立している。どちらがいいかなんてわからないけど、まぁ両方経験できるのは幸せなこと。
「年越しってどんな感じでしてたの?」と彼女に聞かれ、毎年何してたっけ?とか考えたけど、深い関係でもない女性と寝たりしてたなと言えないことが頭をよぎる。寂しさは悪い意味で色んなものを飛び越えていく。漂流してたんだね、たぶんさ。いまは碇が湾岸についてるよ。
2023/01/01
区切りのない毎日を誰かが決めたルールで無理矢理区切って。なんだかんだ理由つけておめでとうとか言い合ってさ。そんなんでまた1年過ごせたら良いよね。明けましておめでとうございます。
熱燗を飲みすぎた。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
7 notes · View notes
Text
混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
 新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。  『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。  『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。  同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。  (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。  (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。  宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。  騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。  こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。  (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。  私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。  (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。  (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。  武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高��優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。  「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。  (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。  こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。  世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。  (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。  (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
5 notes · View notes