#飲酒運転ゼロの日
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getrend · 16 days ago
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友人とデイキャンプに行くが、車担当の友人たちが午前中なら大丈夫と酒を飲む。アルコール数値がゼロになるまで1時間ほど寒い中待たされたこともあってイライラ
201: 修羅場まとめ速報 2023/12/19(火) 04:55:47.02 ID:t2OIiSAd 飲酒運転する友人たちと友やめ。 学生時代の友人に付き合ってしばしばデイキャンプに行くが、法改正で会社から支給されたという携帯アルコールチェッカーを持つようになってから車担当の友人たちが午前中なら大丈夫と酒を飲む。 機械の表示がどうであろうとその日酒を飲んだなら飲酒運転には変わりない上、数値が完全にゼロにならなければ運転できないと予定の帰り時刻を遅らされたことも何度かあった。 その日も主に運転をする担当がアルコール数値がゼロになるまで1時間ほど寒い中待たされたので,つい「口だけの謝罪はいらない」と口を滑らせたところ翌日から全員と連絡がつかなくなった笑 私はお酒が嫌いなので飲まないからわからないけどそんなに我慢できないものか……
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yotchan-blog · 28 days ago
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2024/10/31 11:00:05現在のニュース
日立製作所の株価急反落 業績予想上方修正も「期待外れ」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/31 10:56:40) 政府、北朝鮮に厳重抗議 官房長官「さらなる挑発行為の可能性」(毎日新聞, 2024/10/31 10:55:03) 「自民の議員いなくなったのは懸念」 愛知・安城市長が会見で発言(朝日新聞, 2024/10/31 10:52:52) 日本維新の会・馬場伸幸代表に辞任論  首相指名や部分連合にも影響 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/31 10:48:11) 【決算】サムスンの半導体部門、3四半期連続の黒字 7〜9月 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/31 10:48:11) 公明・石井代表が辞任を正式表明 衆院選惨敗 国会までに新体制(毎日新聞, 2024/10/31 10:47:23) 【解説】生物多様性はなぜ大事? 「動植物が色々」だけでない奥深さ(朝日新聞, 2024/10/31 10:45:30) 「なめたらアカン」天童よしみさんとパンダの楓浜、飲酒運転根絶PR(朝日新聞, 2024/10/31 10:45:30) ルネサスの1〜9月決算、26%最終減益 産業機器向け落ち込み - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/31 10:43:15) エネチェンジ、追われた城口洋平CEOが残した傷 会計問題で迷走 ビジネスINSIDE 迷走エネチェンジ㊤ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/31 10:43:15) 北朝鮮ミサイルはICBM級、最高高度は7000km超で過去最高…中谷防衛相が明らかに([B!]読売新聞, 2024/10/31 10:39:30) 防衛相、北朝鮮ミサイルは「ICBM級」 最高高度7000キロ超か(毎日新聞, 2024/10/31 10:39:27) ゼロからわかる!:住宅ローン「変動型」のままで大丈夫? 「固定型」との違いは(毎日新聞, 2024/10/31 10:31:54) 住宅ローン、負担減らすには? 激変緩和措置には落とし穴も(毎日新聞, 2024/10/31 10:31:54) トランプ氏がごみ収集作業員に バイデン氏の失言に乗じてジョーク(毎日新聞, 2024/10/31 10:31:54)
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tomoyoshi-abe · 8 months ago
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春の交通安全県民運動
「こどもが安全に通行できる道路交通環境の確保と安全な横断方法の実践」 「歩行者優先���識の徹底と「思いやり・ゆずり合い」運転の励行」 「自転車・電動キックボード等利用時のヘルメット着用と交通ルールの遵守」 「飲酒運転の撲滅」 を掲げ、県内各地で様々な取組を実施します。 また、運動期間中の4月10日(水曜日)は、「交通事故死ゼロを目指す日」として、交通事故防止のための広報啓発活動を実施します。 以上の文章は、福岡県が発表した春の交通安全県民運動の実施要領の一文です。 この時期は、みなさんもご存知の通り、入園・入学の時期で初めて通園・登��する 子どもたちがいます。なれない道、大きなランドセル、お友達との楽しいおしゃべり、 大人たちは、しっかりと子どもたちを見守っていきたいものですね。 この笑顔をなんとしても守り通す、そんな想いを持って車・バイク・自転車を運転してほしいですね。 皆さんの安全意…
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na1129 · 1 year ago
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きんようび通信No.666📚
2023年9月22日
▲先日行われた内閣改造。岸田総理は最多タイに並ぶ女性5人を大臣に任命したことなどを強調し、「変化を力にする内閣」と命名しました。しかしその後閣議決定された副大臣・政務官における女性の任命はゼロ(改造前は11人)。「おぞましい」とテレビで酷評されていました
▲期待された支持率もUP��ず、多くの人が関心をもっていないことが明らかになりました。大臣に誰がなるかは実は大事なことですが、それ以前の政治への信頼の無さが勝っている感じ。政治的意識を高めるためにも、マスコミにはもっと掘り下げた報道を行ってほしいと思います
▲当然、運動もいろいろ考えないと。先日、初めて原水爆禁止世界大会に参加した人の話しを聞きました。台風の影響で予定が縮小された中でも、被爆者の語りや佐世保港を見る中で心に響くことが多かったとのこと。「慣れてはいけないことがある」と感じた感覚を大事にして欲しいです
▲さて、先日の敬老の日。「去年は役員さんがライフの500円商品券と持って来てくれたのに」と母親がボヤきました。夕方誰かに聞いたようで、「敬老の人が多くてお金が足りずやめたらしい。他の町会は1000人位いるみたいやで」と。笑うに笑えないと顔を見合わせました
▲秋田県仙北市では、敬老祝い金の財源を子育て支援に回す条例が提案されました。楽しみを奪うべきではない・未来への投資こそ必要など意見が出て、結果は否決されました。投資という言葉にひっかかりを感じながら、対立や分断でない方向を議論し目指すことが大事だと感じました
【今日は何の日📆】
【今週の一句🔖】
酒飲み🍻🍶川柳
迷わない
健診こそが
身を守る
【今週の歌🎸】
・Choro Club…Quatrain
来週新しいアルバムが発売される「ショーロクラブ」、むっちゃ楽しみ。レコ発ライブも行く予定です。曲は、2009年発売「Trilogia」のラストに入っているものです😊
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【今週のグルメ情報😋】
・日本酒処845…東京・JR中野駅南口より徒歩30秒
コロナ前に知って、それ以降なかなか行けなかったお店。移転してこじんまりした感じになっていました。お酒の師匠に教えてもらったお店。とてもいい感じですよ😉
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【追伸📌】
敬老の日を何歳から祝うのか地域によって差があるようですが、65歳か70歳からがやはり多いようです。もう少し先ですが、ふと年齢を数えると到達まで10年切ってしまいました😨
#きんようび通信 #内閣改造 #おぞましい #政治的意識 #原水爆禁止世界大会 #敬老の日 #対立や分断でない方向
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takaoito · 2 years ago
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【鬼はどこに住んでいる】昨日は節分。「飲酒運転根絶フォーラム2023」が開催されたサンレイクかすやへ。主催の「はぁとスペース」山本美也子さんとは、共に飲酒運転根絶を進めているいわば同志。11年前、まだLED照明もついていなかった福岡タワーに「0ゼロ」を点灯させたとき以来のお付き合いだ。そんな美也子さんを慕い応援しようと多くの人々が集った会場。「華太鼓」のみなさんによる、飲酒運転撲滅向けた気合いの和太鼓演奏。そして支援者のお一人「愛しとーと」の岩本初恵社長より、寄付金の贈呈と「生きる」をテーマにした講演が行われた。2006年8月25日、福岡市東区の海の中道大橋で幼い3人の命が奪われる悲惨な飲酒運転事故が発生。当時日本で最も飲酒運転事故が多かった福岡県。そんな飲酒運転事故の悲しさを一番知っているはずの福岡県で、なぜ未だ飲酒運転がゼロにならない���か?その解決策はないものか?そんな議論から生まれた一つの気づきがありました。もし自分の愛する人がドライバーを見守っていたら、お酒を飲んで車を運転しようとする人の心に大きなブレーキがかかるのではないか。悲惨な運転事故が減らせるのではないか。そう、お酒や車が悪者ではない。お酒を飲んでハンドルを握ってしまう、人の心に住む「鬼」を退治しなければならないのです。そんな気づきが生んだ一つのプロダクトがあります。私の研究室と、廃材のセレクトショップ「マテリアルマーケット」そして飲酒運転撲滅運動NPO法人はあとスペース」が合同で企画した、ダッシュポードにマグネットで着脱できる、キューブ状の小さな木製フォトフレーム『issho (イッショ)』です。 ぜひあなたの愛する人・大切な人やペットの写真を入れて一緒にお出かけしてください。大切な人といつも一緒でいることを忘れないために!自分の心に住む鬼を退治するために!発売開始から今年2年を迎える『issho』。「MATERIAL MARKET オンラインストア」で販売中です。 <MATERIAL MARKET オンラインストア> https://materialmkt.buyshop.jp/items/50682980 #飲酒運転撲滅 #飲酒運転根絶フォーラム2023 #はぁとスペース #山本美也子 #愛しとーと #岩本初恵 #和太鼓 #華太鼓 #宝船輪光 #博多高校 #粕屋町 #福岡県庁 #福岡県警 #MATERIALMARKET #久保哲也 #久保睦 #木製フォトフレーム #issho #イッショ #九州産業大学芸術学部 #九芸 #ソーシャルデザイン学科 #希望はあちこちに転がっている #findhopetourはじまる #授業と呼ばずツアーと呼ぼう (サンレイクかすや) https://www.instagram.com/p/CoOAft2Swpq/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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a2cg · 2 years ago
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海外旅行と私 ・ 貧乏学生であったので旅行と言えば青春18きっぷを握りしめて国内のJR各駅停車で行けるところが殆どでした。 ・ 数少ない海外旅行の思い出と言えば父親が比較的大きめな仕事を受注したのもありマレーシアに行ったのが印象的でした。 ・ 突然降り始めるスコールにより視界がゼロの中、怯まず100キロ近くのスピードでハイウェイを走り続けようとするタクシー運転手に冷や汗をかいたものです。 ・ お土産にキーホルダーを買ったのですが、サソリが閉���込められたものであり、それがどの土産物屋でも見かけることが出来たので、そこら中にいるんだなと思ったものです。 ・ そしてご祝儀袋に記すこちらの漢字も元々は「サソリ」をかたどったものみたいですね。と言うわけで本日のディナーは「万」で無く「萬」の方の #伊萬里 です。 ・ ランチで行く機会は多数あったのですが、夜は初めてです。まずはエビスビールで乾杯。一緒に出されたゴマダレのついたマグロの刺身が美味しいですね。 ・ 続いての刺身盛り合わせが新鮮でバリエーション豊かです。遅い時間に行ったからかランチでお馴染みの #エビフライ #カキフライ は同じ数なかったので #牡蠣 多めにしました。 ・ 複数の牡蠣が入っていて広がる海の味わいはサクッとあげられていて、うまさ抜群。ウニのオムレツも、優しい餡がかかっており絶妙ですね。 ・ 時間が無いのでパッと飲んでサッと帰りましたが夜も素敵でした。次回はもう少し早めに行って色々と頼んでみたいなと思います。 ・ #新橋ディナー #新橋居酒屋 #新橋和食 #新橋グルメ #とa2cg (新橋 伊萬里) https://www.instagram.com/p/CnxgEBmylxv/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tamanine · 4 years ago
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素敵なことのまえに
2020年4月の東京からは映画館と美術館がなくなり、街に住む意味が消えた。
毎日映画を見に行ってもまだ見切れないほど上映される映画、毎日ライブに行っても絶対に聴ききれない音楽、毎日どこかで開演される舞台、ギャラリーを含めたら美術館にも毎週行けて、無限に古今東西の本を買うことができる、私にとっての東京はだから意味があったのに。
もう無理!となって映画館か美術館か本屋さんに行くと、誰かが私と対話してくれていた。
高校生の時も大学生の時も1人で何かを決めることに慣れていて、行きたい場所があればどこへ行くにも誰の了承も必要なかった。
何もかも嫌になって何処かにいけば世界の断片を、人間の意味を用意してもらえていて、私は仕事をして持っているお金でスッと見にいけていた。
美術館にも映画館にも1人で行ける、だけどいつもそこには誰かが何かを提示してくれていて、そうだね、世界は少しは綺麗ですね、と答えることができた。
2020年4月の東京からは映画館と美術館がなくなり、街に住む意味が消えた。
私は大自然にほとんど興味が無い。新鮮な魚、新鮮な野菜、広い空、波の音、そこにずっと暮らせばかけがえのないものになるのかもしれない。
私の主食は文化で、友達は本で、救いは美術館、劇薬のように効く映画はいつも私を助けてくれた。育った土地に大自然は無く、10代の狭い世界での救いは文化諸々だったからで、文化があったから好きになったのか、好きになったからそのまま生きているのかは分からない。残念ながら人生の別バージョンを知ることはできない。
換気の悪い場所で適当に声をかけてそのまま二度と出会わない飲み屋であったあの人、あのろくでもない人たち、どこかでは素晴しい人なのかもしれなくても、何も持っていない人のようにお酒を飲む人たち、そういう人たちの前で引きこもりの映画好きぐらいの人間として生きるのが好きだ。
役に立つ清潔な人間としてだけ生きるなんてまっぴらだ。
これから東京はどうなるんだろう。
私の愛している、換気の悪い東京。
以下、いろんなことを書くけどエビデンスはゼロです。
ただの思考、今日の思いつき、なんの意味もない話。
正しいことは自分で探してください。
2020年に世界的に流行っている疫病、でも私はこれ、結局検査し尽くして検査し尽くした後に3週間ぐらい静かにする、意外のドラスティックな対処というのは存在しないような気がしている。
偽陽性でどうのこうの、崩壊がどうのこうの、というのはもう他国で落ち着いた様子がある国の記事を読んでいても、結局ガンガンに検査をしまくり、偽陽性を確認するには何回かの検査をするしかなく、誰もがかかりうる、そして病気になることには何一つの罪もない、そういうものなんじゃないかと私は今日は思っている。
疫病の抑えこみに既に成功した国があるのだから、同じことをすれば良いのだ。
オリンピックに目がくらんでいた3月のままではいけない。
本来は、3月の判断は間違いでした、なんとかズルッとオリンピックできないかなって思ってました!とはっきり方向転換をして、ドンドンバリバリ検査を行い(何しろ余計な予算は1兆7000億円ある!GO TO!)、いやー病気にかかってたけどしょうがない!無症状ってこんな割合なんだね〜、と統計をとり、『3週間』そこをなんとか、と期限を切り、期限で何が足りなかったか・充分だったかを判断し、次の計画を立てればいい。
何かを得るには、損切りと諦めと決断をするしかない。
この場合の損切りというのは、生命や生活のことではなく、五輪にかけてたけどダメなものはダメだわ!運命!次の何かを取りにいこう!と判断することであり、弱い命や弱い生活を犠牲にするものでは無い。
アメリカから買う武器を諦めれば良い、沖縄の美しい海を埋め立てるのをやめればいい、原発をもう止めれば良い、おじさんたちのメンツと建前にお金を払うのをやめれば良い。
医療にたずさわっている人たちにまともな休暇とお金を渡すことであり、そのお金ならがんばっても良いよ、という人を再度集めることでもあり、大切にしていると伝えることそのものをもっとまともにやって欲しい。
それにしても自民公明与党は、もはやオリンピックすら諦めている気がする。
もう何にもやる気がないだろう。
暑さ対策はどうしたんだ、朝顔は本当に並べるのか、トライアスロンのために海の水質調査はしているのか、ぴったり一年後にやるんだろう!?じゃあ今調べたまえよ!!改善のチャーンス!!!という動きの気配すらない。どうする気なんだ。もう中止は決まっているんじゃないのか。ワクチンを6000人分来年確保しても間に合わないだろう。接触アプリとアビガンの話をしていた首相からはその後の報告がないじゃないか、どうしたんだ。
それにしても本当にもう、すべてを諦めているように見える。
諦めるなら、その税金、いったん返してくれないか。返してくれるなら自衛のしようがあるんだよ。年間何百万持っていってるんだ、そして何に使っているんだ、いったん返せ、判断ができないなら判断をするためのポジションを人に渡せ。
おじさん・おじいさんたちが、何の判断もせずに、ただ人を恫喝し、「いい感じに!!!」と言っていれば何とかなる時代は完全に終わり尽くしたんだ、終わらせたのはあなたがただ。判断力のある人たちにあとは任せてくれ。現実を見つめられない人間に権力を持つ資格はない。
終わったんだなー、と実感し、勝手に家でリモコンを持ったり妻と楽しく暮らしたりしてくれ。
首相じゃなくなれば動静をチェックされたりしないからきっと気楽だぞ!!!!飽き飽きだろ!
東京に住んでいる人間的に、しばらく東京の中にいろ!と言われたら、まあ別に東京の中にいても良いんだけど、東京の人間が東京で遊んでれば良いのかというと全然そうではなく、そういうことじゃないので、わけがわからない。
3月4月には、いろんな県知事がラジオCMでうちの県に来るなと叫んでいたけれど、東横線をとめるわけでも橋を爆破するでもなし、わけがわからなかったし仕事で移動している方々は嫌々異動するうえ知事に脅されるとか何なんだよ、企業に通勤させるなって直接言えよと思っていた。
やってる感は、何にもしてないですよそれ。感て!
政治家が、「感」だけ出してどうするんだよ。
年末年始に家でふんぞりかえる男性陣みたいで早く滅びろという気持ちしかない。
友達と一緒に生き延びて、迂闊に渡韓して映画観たりしたい。
日本だけ何も収まらず世界から締め出されるのがあり得そうで怖い。
去年ポンジュノとソンガンホの最高の掛け合いなどを見れて良かった。私はビリーアイリッシュにいつか会えるんだろうか。
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yukinko22 · 5 years ago
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怪しいインビテーション・フロム彼方  夏休みに、知らない人に誘われて、知らない人たち5人と、知らない国の知らない場所を旅することになった。twitterで、今まで全く交流がなかった人から突然誘われたのだ。なぜ誘われたのかもわからないし、なぜ、自分がその誘いに応じたのかもわからない。  当時の私は、激務で有名な会社の、最も激務と噂される部署で働いていた。会社の机で眠り、近くのジムでシャワーを浴び、充血した目でエクセルを叩く。正月もゴールデンウィークもなかった。ウイグル旅行の誘いが届いたのは、そんな折だった。  メッセージが目に入るやいなや、発作的に行きたいと返事をしてしまったが、後になって疑念が湧いてきた。メッセージの主は、��ったいどんな人なんだろう。私は当時、人と絡まない孤高のスタイルでtwitterをしていたのでDMがきたこと自体初めてだった。  とにかく、行くと言ってしまったのだから、休みをとらなければならない。その時点で夏休みを取得する予定はなかった。取得できるのかもわかっていなかった。 どうしてウイグルなんかに行くんですか  休暇取得を申し出る私に対し、職場のみ���なはやさしかった。みんな忙しいのに、「仕事は引き取るから」「ゆっくり休んで」と言ってくれた。しかし、旅行の詳細を聞くと、同僚たちの善良な笑顔はさっと曇った。  彼らは問う。 「どうして、ハワイでもセブ島でもなく、ウイグルなのか」 「どうして、親しい友人や家族と行かないのか」  もっともな疑問だ。私は、どうして、気が合うかわからない人々と、楽しいかわからない場所に行こうとしているのだろう。自分にもわからない。どちらかといえば、こちらが問い返したいくらいだ。 「どうして私は、知らない人とウイグルに行くのでしょう?」  私は、夏休みまでに仕上げなければいけない書類の山を見つめた。 羽田からウルムチへ  早朝の羽田空港国際ターミナルで、私は疲れ果てていた。休暇を目前にひかえる中で押し寄せる仕事の波に飲み込まれ、家に帰れない日々が続いていたからだ。最終日も仕事が終わらず、徹夜で職場から直接空港に向かう羽目になった。  今回の旅行メンバーは、男性3人・女性3人。私以外は、大学時代のサークルを中心としたつながりのようだった。それだけ聞くと、「あいのり」や「テラスハウス」のような、青春の匂いただよう若い男女の旅行なのだが、グループからはそれをかき消す不穏なバイブスが満ち満ちていた。  なかでも完全におかしいのは、グループの中に「尊師」と「レーニン」を称する人物がいることだ。通常、「尊師」というのは、オウム真理教教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)を意味し、「レーニン」というのは、ロシア社会民主労働党の指導者であり、ソビエト連邦を建国した人物であるウラジミール・イリイチ・レーニンを意味する。  テロ、あるいは革命という形で、国家体制の転覆をめざした宗教的・政治的指導者が、なぜ一同に会しているのだろう。空港前で集合しているだけで、破壊活動防止法(通称・破防法)の適用対象団体となってしまいそうだ。  ともあれ、この時点で、今回の旅行が恋と友情の甘酸っぱい青春旅行になる可能性は限りなくゼロだ。麻原彰晃とウラジミール・レーニンが旅を通じて友情を深め、それがいつしか愛に変わる……。そんな突飛な話��、両者の思想的相違点を考慮すればおよそ考えられないだろう。  私は、国家転覆を試みる宗教家でもなければ、社会主義の革命的指導者でもない。どうしてこの旅に誘われたのだろう。ぷくぷくとふくらむ疑問と不安を乗せて、飛行機は羽田を旅立とうとしていた。 尊師とレーニン  羽田からウルムチへの長い移動中に分かったことがある。尊師は、工学の修士号を持つ知識人であり、特定の宗教とのつながりはないということだ。「尊師」というのは、極めて不謹慎なあだ名にすぎない。  では、旅の同行者にふさわしい安全な人物かというと、そんなことは決してなかった。尊師は、無邪気な下ネタをガンガン投下してくるという反社会的な性質を有していた。  例えば、北京の空港でのことだ。 「マーン・コーヒーだ!見てください!マーン・コーヒーですよ」  尊師は、北京空港内のオシャレなカフェチェーンを指差し、目をキラキラ輝かせて写真を撮りはじめた。そのとき、私は「どこにでもあるチェーン店になぜ興奮しているのだろう」と不思議だったのだが、後になって、それが低レベルすぎる下ネタであることに気がついた。もっと早く気づいてしかるべきだったのだが、工学の修士号を持つ知識人が、そんな知性ひかえめのジョークを言うとは思わなかったのだ。  他の同行者もまた、尊師の被害を受けていた。 尊師 「ちんマ!? ちんマ!?」 同行者「ちんマってなんですか?」 尊師 「ちんマというのは、ちんちんマッサージのことです」 同行者「……」  それ以来、その人は、尊師には何も質問しないと決めたという。  尊師が、大きな身体のうるさいお兄さんである一方、レーニンは、小柄でツインテール姿の、無口でちょっぴりエッチな美少女だった。  ちなみに、ちょっぴりエッチというのは、彼女が尊師の下ネタをときどき拾ってあげていたのを私が面白おかしく書き立てているだけだ。実際には、彼女は、渾身の下ネタをたびたびスルーされ、ときにはうるさいと一喝される尊師を気遣っていたのだと思う。  なので、正確には「レーニンは、小柄でツインテール姿の、無口で心優しい美少女」ということになる。それでいてソ連のコミンテルンを率いる革命的指導者であり思想家だなんて、今すぐアニメの主人公になれそうだ。  それにしても、尊師もレーニンも、私の凡庸な日常生活には絶対にあらわれないタイプのキャラクターだ。二人とも、普段は善良な労働者として社会に潜伏しているらしいので、本当は自分のまわりにもいるのかもしれないが、それを知るすべはない。 「ずいぶん遠いところにきちゃったなあ……」  あまりの非日常感にめまいがした。まだ、目的地にさえついていない。 謎の秘密結社・うどん部   新疆ウイグル自治区は、中国の最西部に位置しており、国境を接して南にはインドがあり、西にはカザフスタン・キル��ス・タジキスタン・パキスタンが連なる。古くからシルクロードの要衝として栄え、ウイグル人・カザフ人などの多民族が住む、ムスリムが多い中央アジア文化圏だ。  今回の旅程は、新疆ウイグル自治区の玄関口であるウルムチを経由し、前半は電車でトルファン、カシュガルを巡り、後半は車でパキスタンとの国境であるタシュクルガンまで足を伸ばすというものだ。  羽田からウルムチまでの移動にまる一日かかるため、実質的な旅のスタートは二日めのトルファンからになる。隣の国のはずなのに、移動の体感的にはヨーロッパと同じくらい遠い。  私たちがトルファンに到着して最初に向かったのは、ウイグル料理店だった。 「やはり我々うどん部としては、まずはラグメンの調査からですよね」  旅行の主催者である女性は、ニコニコしながらそう言った。ラグメンとは、中央アジア全域で食べられている麺類で、うどんのような麺に、トマト味のソースがかかった食べ物だ。  なんでも、今回の旅行は「某大うどん部」という、大学のうどん愛好家サークルの卒業生を中心としたメンバーで構成されているらしい。旅の目的のひとつも、ラグメンを食べることで古代中国で生まれたうどんの起源を探ることにあるのだという。 「うどん部……?」  私は思わず考え込んでしまった。特にうどん好きというわけでもない自分が誘われた理由がわからないと感じたこともあるが、一番の理由は、今回のメンバーが「うどん部」という言葉がもつ牧歌的かつ平和的な響きからはおよそかけ離れた集団のように思えたからだ。  先程言及した「尊師」と「レーニン」が名前からして不穏なのはもちろんだが、他のメンバーたちの話題もとにかく不穏だった。 「前進チャンネル」の話 中核派Youtuberが、警視庁公安部のキャンピングカーを紹介したり、不当逮捕された同志の奪還を訴えたりしている番組の話。 北朝鮮脱北ノウハウの話 中国と北朝鮮の国境地帯に住んでいたことがあるうどん部員による、脱北ノウハウの話。北朝鮮脱北者が、国境近辺に住む中国人民を襲い、金品と身分証を奪いとることで中国人として生きようとするが、中国語が話せないことからバレてしまい、強制送還されるという救いのない事件が多発しているらしい。 スターリンに乾杯した話 「ヨシ」という名前のうどん部員が、スターリンの故郷であるジョージアを訪ねたところ、「ヨシ」は同志スターリンの名前だと歓迎され、「ヨシフ・スターリンに乾杯」と密造酒をすすめられた話。  一言でいうと、うどんは関係ない。  うどんは関係ない上に、思想的にかたよっている。うどんを愛する心に右も左もないと思うのだが、一体どういうサークル勧誘をすればこんなことになるのだろう。世界がもし100人のうどん愛好家の村だったら、中核派は0名、教祖も0名、スターリンの故郷を訪ねた人も0名になるのが普通だ。  ��回の旅行メンバーはたった6人なのに、公安にマークされそうな発言をする人しかいない。思想・良心の自由が限りなく認められたコミュニティであるともいえるが、うどんを隠れ蓑とした何らかの過激な団体である可能性も捨てきれない。謎の秘密結社・うどん部だ。 「こうした旅行は、よく企画されるんですか?」  私は、うどん部の背景を探るべく、おそるおそる尋ねた。 「主催者さんは、旧ソ連圏に関する仕事をしているんです。その関係で、旧ソ連の珍しいエリアへの旅行をよく企画しますよ」 「でも、どういうわけか、たまに、その旅行に行った人たちが仕事や学校を辞めてしまうんですよ」 「この前の旅行では、社会主義国家によくある、労働を賛えるモニュメントをめぐっていたら、一緒に旅行していた学生の友人が『労働意欲が湧いてきた。学校はやめるぞ』と言って、突然中退してしまったんです」 「僕も仕事を辞めたしね」  社会主義国家を旅することで、反社会性が養われてしまうとは……。 「旧ソ連圏への旅行は、うどんとは関係あるんですか?」 「うどんとは関係ありません。ただ、うどん部員には、真っ赤な血が流れているんです」  これまでの話をまとめると、「うどん部」とは、うどんの絆で連帯し、ときに資本主義社会から人をドロップアウトさせる赤い集団ということになる。なにがなんだか、全くわからない。  主催者の女性は、旧ソ連圏に関する仕事をしているだけあって、中央アジア文化に詳しかった。彼女は、うどん部員らしい話題として、シルクロードにおける麺の広がりについて話をしてくれた。 「トルクメン人も、カザフ人も、ウズベク人も、友人たちは口を揃えてラグメンはウイグルが一番美味しいというんですよ」  全中央アジアの人民が認めるウイグルラグメンは、たしかにおいしかった。もちもちした手延べ麺の感触と、オイリーなソースに絡まるたっぷり野菜のバランスがよく、濃い味なのにいくらでも食べられてしまう。  特に、ニンニクでパンチを効かせたラグメンは癖になるおいしさで、そのジャンクかつ中毒性が高い味わいから、勝手に「ウイグルの二郎」と命名されていた。  内装も異国情緒が爆発していた。天井から階段までいたるところがタイルやステンドグラスで彩られている。細やかな幾何学模様を見ていると、確かに中央アジア文化圏に来たのだということを実感する。  中央アジアを旅行するたびに思うのだけれど、彼らの、あらゆる場所を「美」で埋め尽くそうとする情熱はすごい。衣服やクッションの細かな刺繍、木彫りのアラベスク、色とりどりのランタン……。よくみると、料理に使うボウルまで鮮やかな矢絣模様がついている。  私は、ステンドグラスが貼られた天井を見つめた。 「遠い場所に場所にきたんだ」  そう思ったが、どういうわけか実感がなかった。足元だけが、なんだかふわふわしている気がした。 砂漠は空中浮遊する尊師の夢をみるか  午後から本格的な観光がスタートした。最初に訪れたのは、交河城址という遺跡だ。紀元前2世紀頃に作られ、14世紀まで実際に街として使われてい要塞都市だ。地平線が見えそうなほど広い。  地面の上にレンガを重ねるのではなく地面を掘って街を作ったところに特徴があるらしいのだが、これだけの土地を彫り抜くなんて、想像もつかない労力だ。中国の圧倒的なマンパワーを感じる。  遺跡が広すぎる一方で観光客があまりいないため、とても静かだ。どこまでも続く風化した街並みを歩き、静謐な空気に触れ、かつては賑わっていたであろう都市の姿を想う……そんな触れ込みの場所なのだけれど、正直言って、そうしたロマンチックな思い出は一切残っていない。  なぜなら、悠久の大地を包む静寂を切り裂くように、尊師がマシンガントークを繰り広げていたからだ。麻原彰晃がおしゃべりだったのかは知らないが、少なくともウイグルの尊師は非常におしゃべりで、一人で優に5、6人分は話していた。観光中、常にニコニコ動画の弾幕が飛んでいるような状況であり、センチメンタルな旅情の入り込む隙はない。  尊師の話は、基本的にどれも「興味深いがどうでも良く、とにかく怪しい」内容で統一されている。 ・中国の深センで売られている「Android搭載のiPhone」の話 ・中国貴州省の山奥に住むラブドール仙人の話 ・中国の内陸部では旅行カバンの代わりに尿素袋が使われているという話 ・中國の伪日本製品に書かれている怪レい日本语が好きだという話……。  気がつくと、夕暮れ時になっていた。  乾いた大地は茜色に染められて、民族音楽の弾き語りが響く。旅行者としてのセンチメンタリズムが刺激され、私はこの地の長い歴史に思いを馳せる。しかし、次の瞬間には、そんなセンチメンタリズムを切り裂くように尊師の怪しい話が炸裂し、安易な旅情に回復不可能な一撃を加える。  たちまち、私の心の中で放映されていた「NHK特集 シルクロード」の映像は乱れ、テーマソングを奏でる喜多郎は、へなへなと地面にへたり込む。   砂漠で果敢にも空中浮遊を試み転落する尊師、唐突に尊師マーチを歌い始める尊師、中国の怪しいガジェット情報に詳しい尊師……。  トルファンでの私の思い出は、尊師色に染め上げられていった。 遊牧民が���む砂漠の街で不慮のノマドワーカーになる  まさかウイグルで徹夜をすることになるとは思わなかった。  観光を終えてホテルに戻った私を待っていたのは、職場から送られてくる容赦ないメールの数々だった。 「夏休み中恐縮ですが、添付の資料につき18時までにご確認お願いします」 「確認が終わるのは何時頃になるでしょうか」 「こちら���限界です、連絡ください」  休暇を申し出たときの「ゆっくり休んでください」はなんだったのか。そもそも、今日、日本は日曜だし明日は月曜で祝日のはずだ。私が旅行にでかけたのは土曜日なので、まだ夏休みは始まってさえいない。どうしてこんな惨状になっているのだろう。  ひとつ断っておきたいのは、私の職場の同僚たちは、基本的に優しく善良な人たちであるということだ。本当に仕事が回らなくなり、やむを得ずメールをしてきたのだろう。  今回の夏休みは「正月がなかったのはあまりにも気の毒だから」と上司が、わざわざチームに根回しをしてくれてようやく取得に至ったものだ。上司のただひとつの誤算は「現場に人が足りていない」という根本的な問題は、根回し���は決して解決しないということだ。  私はその夜、ホテル近くの雑貨店でレッドブルとコーヒーを買い込み、目を真っ赤にしてキーボードを叩き続けた。  空が白み、まばゆい朝日がきらきらと射しこむ時間になっても、私の仕事は終わらなかった。他の人々には私を置いて観光に行ってもらい、一人で仕事を続けた。そんな私を気遣って、尊師が食事を買ってきてくれた。  ようやく仕事が終わったのは、太陽が高くのぼり、熱された大地が蜃気楼で揺れるころだった。 鳥の声しかしない場所  午後、観光に出ていた他のメンバーと合流し、タクシーで訪れたトルファン郊外はのどかな場所だった。乾いた土地に葡萄溝やバラ園が広がっていて、木陰で商売をするスイカ売りやぶどう売りが、こちらにおいでと手招きをする。  ぶどうはいつも無料だった。一房分を買おうとするのだが、安すぎてお金を受け取ってもらえないのだ。口に含むと、雨の降らない土地で育つ果物特有の凝縮された甘みを感じる。  観光名所とされている遺跡にはだれもおらず、車の音も人の声もしない。絶え間なく響く鳥の声を聞き、強い光が地面に落とす影を見ていると、数時間前まで仕事に追われていたのが、遠い昔の記憶のように思えてくる。  静かな場所だった。太陽が眩しくて、あたまがぼんやりした。  ふと見ると、道端でビニール袋に入れられた羊の頭蓋骨が風化していた。その後も、私たちは、農地の側溝や休憩所のトイレ等、そこかしこで羊の頭蓋骨を見つけることとなる。この土地で暮らす人々には、お弁当がわりに羊の頭を持ってくる風習があるのだろうか。  私は、以前、イランのホームステイ先で「イランでは朝ごはんに羊の脳みそのスープを飲む」「日本でいうと、みそ汁的な存在」と言われたことを思い出した。「羊の頭がみそ汁の具として扱わている地域があるなら、お弁当がわりに羊の頭をぶらさげる人々がいても不思議はない」と思う。  私は、強い日差しから逃れ、木陰に座ってこの土地で暮らしてきた人々のことを思った。日本にはまだ神話の神様さえいなかった遠い昔に、砂漠のオアシスで暮らし、羊を飼い、ときには西瓜で喉を潤していたかもしれない人々のこと。彼らの聞いていた鳥の声と、私たちが聞いている鳥の声は同じだろうか。  夏の光にまみれてきらきらする西瓜の皮と、そばに落ちる暗い影を眺めていると無気力が押し寄せてきて、労働の意義も経済成長の意味もわからなくなった。  私はふと、今回の旅行について話したときの、同僚たちの反応を思い出した。 「どうしてウイグルなんかに行くんですか」  彼らの疑問は、要するに「その夏休みの使い方に、確かな価値はあるのか」という点に集約できる。たまの休みなのだから、確実に楽しく、気分良く過ごせる場所に行くべきだ。彼らはそういっていたのだろう。  同僚たちの疑問に対し、そのとき私は答えることができなかった。  職場の同僚たちは「この先、生き延びるにはどうすればいいか」という話をよくしていた。真夜中から始まる飲み会で、明け方の6時や7時まで話す人もいた。生き延びるとはなんだろう。  生産性が自分の人生を覆い尽くし、人間性がわかりやすい価値で塗りつぶされていくのを受け入れること。「使える」人とだけつるみ、評価されること。夏休みはハワイに行くこと。  生き延びるとは、きっとそういうことだった。  忙しいことには慣れていた。仕事に慣れてしばらくたったあるとき、もう必要がないからという理由で、少しずつ集めていたアンティークの食器や学生時代に好きだった小説を捨てた。重要なのは、「役割」を果たすことであり、社会の共通言語で話すことだと考えた。  でも、私は突然、久しぶりの夏休みを、確実に楽しい場所ではなく、楽しいかよくわからない場所で過ごしてみたくなったのだ。知らない人に誘われて、どういうわけか、そういう気持ちになったのだ。  農家のおばさんからもらって持て余していたぶどうを一粒、口に含んだ。日本のものとは全く違う、知らない味がした。 星降る夜行列車に乗って  疲れからか、やたらと物憂げな気持ちになっていたところに、尊師の「バ〜ニラ、バニラ高収入〜!」という歌声が響いてきて、現実にひきもどされた。そろそろ、この街を離れる時間だ。  それにしても、すっかり考え込んでしまった。私は、「うどん部の旅行に参加した人は社会からドロップアウトしがちである」という話を思い出した。  葡萄溝の木陰で、やたらとメランコリックな気持ちになったのも、この旅行の危険な効果だろうか。このままでは、謎の秘密結社・うどん部の陰謀の思う壺だ。  夜行列車で過ごした夜は、楽しかった。  トルファンのぶどうで作った珍しい白酒をたくさん飲んで、加熱する仕掛けが施されたインスタントの火鍋をつついた。  普段は飲まない強いお酒にはしゃぎすぎて寝てしまい、気がつくと真夜中だった。  夜行列車の窓から空を見上げると、満天の星空だった。肌寒い寝台で、毛布をだきしめながら、流れていく星空を見つめた。まばたきも、呼吸もできなかった。体中の神経が粟立ち、スパークした。  私は、冷凍されていた自分の人生が、急激に自分の身体に戻ってくるのを感じた。  もしかして、私は、生き延びることから遠ざかっているのだろうか。  このときの私はまだ、自分がその数カ月後、仕事を辞める運命にあることを知らなった。 (カシュガル編につづく) 補足とおしらせ  ウイグル旅行記は、長くなってしまったので数回に分けて書きます。今後の予定はこんな感じです。 ・ カシュガルで公安警察から"重点旅客"として熱烈歓迎されてしまった話 ・ ウイグルの果てでゾロアスター教の遺跡を探し、廃墟の温泉に入った話 ・ 突如の軍事パレード開始により限界帰国チャレンジを強いられた話 旅の写真は、twitter(@eli_elilema)にもあげているので、よかったら見てみてください。 ※ 尊師はとても良い人でした。
https://note.mu/elielilema/n/nb8baf42077cd
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unbared · 5 years ago
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Vol.0 / 03
 baredというのは何にも覆われていない、つまり裸であるという意味で、素肌のことをbare skinと言ったりする。unbaredというのはその逆を意味する言葉だ。この場所を“un/bared”としたのは、baredな自分もunbaredな自分も実際そこに明確な境目はなく、どちらもbaredでありunbaredであり得る��ではないか、そのことを認めたい、認め合いたい、と思ったからだ。
 裸であるというのはだけど、どういうことなんだろう。
 裸でいられるということは健全で気持ちのいいことだし、賞賛され、尊重されるべきことだと思う。でも、いつでもどこでも裸でいる必要はもちろんないだろうし、着飾ることだって楽しいし、そうすることで自分を守る必要がある局面だってあるだろう。どちらが良いとか正しいとか、そういうことじゃない。こうして言葉にしてみるとひどく当たり前のようだけれど、でもじゃぁいつ、どこで、誰になら素っ裸の自分を「さぁどうぞ!」と差し出すことが出来るか。それは難しい問いのようにわたしには思える。
 わたしはいま、奄美大島の加計呂麻島というところにいる。本州鹿児島と沖縄のちょうど真ん中くらいにある小さな島だ。10日ほど前、長かった梅雨がようやく明けて夏がはじまった。もうすっかり見慣れた海辺の景色の中で、痛いくらいの日差しが海面に反射してきらきらと揺れている。この島の海の青には本当にさまざまな青があり、外から中から見るいくつもの青色のその深い美しさを、わたしは言葉にすることができない。夜には満天の星空に天の川がかかり、その下で静かに波打つ青黒い海に入れば無数の夜光虫が光る。手足の動きとともに瞬くその小さな光を眺めていると、空から落ちてきた星くずが浮かんでいるようで、心の一番奥のほうが静かに沸き立つのを感じる。
 島に来て一ヶ月と少しが経った。ここではゲストハウスで働きながら、音楽を作ったり文章を書いたりしている。唐突に島の景色をSNSにアップしたら「移住したのか」と何人かに聞かれたけれど、10月か11月には東京に戻る予定にしている。
 島に来たことに大きな理由はない。ただ、東京をしばらく離れるのもいいなということはずっと考えていたし、前回書いたように去年はいろいろなことに疲れていたから、ちょっと違う場所に身を置きたいという気持ちも強くなっていた。そんな折に知り合いの紹介があり、ほとんど何も知らないまま島に来ることを決めたのだった。
 こちらでの生活にはだいぶ慣れてきたように思う。朝は7時前に起きて7時半からお昼まで働き、夕方から夜までまた働く。日付が変わる頃には眠くなり、布団にもぐる。そういう生活の中でun/baredの原稿を書いたり、制作途中の音源のミックスをしたり、ギターを弾いたり本を読んだり、休みの日には取りたての免許で山道を運転し、少し離れた浜まで泳ぎに行くこともある。友達もできたので、この間は1日ぶらぶらと島のあちこちで遊んだ。お酒もときどき飲んでいるし、何度か人前で演奏したりもし��。穏やかにだけどぐんぐんと、音を立てるように日々が過ぎている。


 特別な何か、例えば人生を変えるような出会いとか、ものすごい名曲が降りてくるとか、この先のビジョンが見えるとか。そういうことを期待してこの島に来たわけじゃない。むしろそういう類のことはなるべく考えないようにしている。ただ、自分が自分のまんまで生活し、暮らすこと。この場所で見て、聴いて、感じて、出会って、なにを想い、考えるのか。それらを静かにじっくりと観察すること、あるいは形に残すこと。変化があるかもしれないし、ないかもしれない。どちらでもいい。自分が自分に、ゼロに戻る時間になったらいい。そう思ってここに来た。
 それはつまり裸の自分になる、ということで、それはつまりun/bared、ということだよなぁ、ということに気が付く。なんか、そういうタイミングなのかもしれない。そういうことってある。
 裸といえば、この場所にきて生まれて初めて裸で海に入った。夜、誰もいない浜に出て、星を見ながら波の音を聴いていると、そのまま海に入りたい衝動がむくむくと湧いてくる。わざわざ着替えるのも面倒なので、服のままじゃぶじゃぶ入ることもあるけど、着ているものをぽいぽい脱ぎ捨てて泳ぐことも多い。はじめは少しどきどきしたけどすぐに慣れた。素っ裸で真っ黒い海にぷかぷかと浮いていると、細々した思考がどんどん遠ざかって散り散りになっていくのがわかる。そして最終的にぽっかりと、頭も体も空っぽになる。ただただそこに存在している自分の身体。何ものでもなく、だけどわたし自身でしかあり得ない、わたし。
 さまざまな角度から、裸であることを学び、裸である練習しているのかもしれない。そんなことを考える。この夏が過ぎて秋も終わろうかという頃、すっかり日焼けした素っ裸の身体で、東京に帰りたいと思う。
Photo: Rika Tomomatsu Model: Nozomi Nobody Styling: Nozomi Nobody & Rika Tomomatsu Text: Nozomi Nobody
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vexationsofannatto60 · 5 years ago
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アメリカ社会が「銃乱射事件を許さない」という点では意見が一致しているにも関わらず、銃の規制では対立するのは、言うまでもなく、乱射事件が頻発する原因を、「銃の氾濫」という「社会の問題」と捉える人間と、「乱射犯人の異常性」という「個人の問題」と捉える人間の、二種類の人間がアメリカ社会に存在し、対立しているからだ。
アメリカが世界でも突出した「銃社会」であることは、子供でも知っているこの時代の「地球の常識」である。子供といえば、家族で回転寿司に行って、卵を食べた長男だけが食中毒になったら、食中毒の原因はまず間違いなく卵だろう。同様に、銃が氾濫した「文明国」で銃乱射事件が多く、銃が氾濫していない「文明国」で銃乱射事件が少ないのなら、銃乱射事件の多さは、当然、銃の氾濫にあるとか考えていいはずだ。原因を特定する際に注目すべきは「違い」だからだ。この道理が、アメリカの銃乱射事件の頻発の原因を犯人個人だとしたがる連中には見えないのか、見ないようにしているのか、見えていて敢えて棚上げにしているのか? ともかくここで最初の「バカはほっといて、この世の���わりまで身内で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動が湧き上がるわけだが、今はぐっとこらえて、話を先に進める。
銃社会アメリカには、家庭の戸棚や引き出しに、あるいは薬局や酒場のカウンターの裏に、拳銃やライフルが置いてあることに何の違和感も持たない人間が、地球上の他のどの「文明国」と比べても桁違いに多いのだろう。一言で言えば、アメリカは世界一「銃に慣れている」人間が多い国なのだ。しかし「慣れている」と「鈍感」は表裏一体である。だからこそ、銃規制のような[正解が初めから分かっているようなこと]で、���を二分するような対立が起きてしまう。
「銃に慣れている」人間にとって、「銃の氾濫」は「自動車の氾濫」程度の問題でしかないので(=普通のことなので)、当然、銃乱射事件の根本原因は、銃乱射事件を起こした犯人にあるということになってしまう。ちょうど(「銃に慣れている」アメリカ人と同じように)「自動車に慣れている」地球上のあらゆる「文明国」の市民たちが、自動車による死亡事故の根本原因を「自動車の氾濫」にではなく、死亡事故を起こした個々の運転手や個々の自動車や個別の状況に求めるのと同じ構造だ。そこにまで思いが至れば、一部アメリカ人の「銃の氾濫に対する鈍感ぶり」も、殊更異様なことだとも思えなくなり、先に言った「この世の終わりまで身内同士で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動も多少は治まる。所詮、同じ穴の狢、というわけだ。
大抵のことに人間は慣れてしまうし、一旦慣れてしまえば「異様」は「普通」になり、まさかそれが今目の前で起きている問題の根本原因だとは思えなくなる。これは人間の「半合理主義」(←半分だけ合理的になって、どうせ最後は死ぬだけの自身の生涯の無意味さを曖昧にする主義)の弊害だが、人間は人間である限り、この主義を乗り越えることはできないので、ココをどうこう言っても始まらない。
はっきりしているのは、銃乱射事件を起こすのは、[それが職業というわけでもないのに、いざとなったら(自分の中で二進も三進もいかなくなったら)、(拳でも棍棒でも包丁でもなく)銃にモノを言わせようと思う人間]だということ。すなわち、銃規制に反対する者(=[市民から銃を取り上げること]に反対する者)は、それが自衛のためだと主張していたとしても、悉く、銃乱射事件を起こす可能性のある側の人間だということ(逆に言うと、社会から[個人所有の銃]をなくせと主張する者は、いざとなっても銃には頼らないつもりの者たちだ)。仮に、銃の攻撃から身を守る「抑止力」として、銃を所持しているのであって、自分は決して銃で人は殺さない(殺そうとしない)と主張する者があったら、彼らに、本物と見分けのつかない、しかし殺傷能力はゼロの精巧なモデルガン(たとえば空砲しか撃てない拳銃)の所持を提案してみればいい。その提案は必ず拒否されるだろう。[銃規制に反対する]とは、��まりはそういうことなのだ。いざとなったら実際に誰かを撃ち殺すつもりがある(撃ち殺しても「許される」と思っている)からこそ、銃を持っていたい。そういう人間にとっては、実際に殺傷能力がある銃でなければ、所持している意味などない。
もちろん「自分が殺されるくらいなら相手を殺すべき」は、生命現象の根本原理である。「黙ってやられるくらいなら、先に相手のやっちまえ」ルールは、人間が生命現象である限り否定できないし、排除もできない。しかしだからこそ、人間に銃など渡してはダメなのだ。「いざとなったら誰かを殺す」という本性を人間から取り除くことは不可能(それがソモソモの本性の定義だ)。しかし、そういうふうにアタマに血が上りがちの存在である人間に与える「手段=道具」は、選ぶことも制限することもできる。「手段=道具」は、人間の本性には属していない「外部」だからだ。そして、与えられる「手段=道具」としての銃は、その殺傷能力の高さ(逆に言えば、お手軽さ)ゆえに問題なのだ。それを使えば、誰もが手軽に誰かを大量に殺せてしまえる。
更にここで気づかなければならないのは、銃乱射事件を起こすのは、必ず「自分には他の誰かを銃で撃ち殺すだけの/当然の/やむにやまれぬ理由がある」と考える人間だということ。イカれていようと「正常」だろうと、銃乱射事件の犯人達は、間違いなく「自分が大切だと思うモノを守るために」他人を撃ち殺している。銃規制に反対する者の考え方と全く同じである。ことによると、銃乱射事件の犯人たちを突き動かすのは、犠牲的精神ですらあるのかもしれない。自ら無法者として裁かれ殺されるコトを覚悟の上で、「大切なもの」を守るために「凶行」に及ぶわけである。であるなら、そこにあるのは悪意どころか、悲壮的な善意である。やれやれ、ここでも人間の半合理主義が祟ってる。
銃規制に反対する者は、悉く、銃乱射犯予備軍だと見做して構わない。しかし、だからと言って、ただちに全員を牢屋ヘぶち込めというのではない。彼らは、人間存在に対する認識が単純で、「善人」や「悪人」などという[定義が曖昧で幼稚な概念]を用いて社会を理解し、全ての「犯罪者」が、彼ら自身にとっての「正当な」「理にかなった」「他の何よりも重要な」「止むに止まれぬ」理由で「犯行」に及ぶのだということも洞察できないが、それ以外は、我々と変わることのない善良な市民だ。
自動車事故がそうであるように、銃乱射事件も人間自体の制御を試みてもなくなりはしない。自動車事故に関して言えば、人間社会はそれが一定程度発生することを「受け入れて」いる。自動車そのものは社会から排除せず、人間の振る舞いによって自動車事故を回避しようとするなら、そうする(受け入れる)他ないからだ。しかし、銃乱射事件はどうか? その発生を、自動車事故並みに「受け入れる」ことは、殆どの人間や社会にとって悍ましいことであるはずだ。自動車事故だって、できればゼロにしたい。しかし、銃乱射事件は、「できれば」ではなく、是が非でもゼロにしたいはずだ。なら、人間をどうにかしようとしてもダメで、銃をなくすしかない。なんと言っても、ないものは使えな��のだから。(ちなみに、乱射殺人は故意だが、��通事故殺人は過失であり、同列に考えるべきではないと思うなら、とんだお人好しである。飲酒運転、スピード違反、あおり運転、過積載、信号無視などはもちろん、たとえ交通ルールを守って制限速度で走っていても、生身の人間がウロウロしているすぐ横で1トン前後の重量物を、猛烈な速さで動かしているのは、ショッピングモールの真ん中で誰もいないところを狙って水平に拳銃をぶっ放してるのと変わらない。これで誰か死ねば、表面上は過失でも、実質は故意である。)
もう一度言おう。[いざとなったら撃つ]人間だけが銃乱射事件を起こす。そして、それは大抵ごく普通の善良な人間だ。銃乱射事件を起こす可能性があるからと言って善良な人間をあらかじめ社会から取り除くことはできない。だから、銃の方を社会から取り除くのである。
銃規制に反対する者たちの意見を聞き入れることは、銃乱射事件の犯人の云い分を聞き入れることに等しい。銃乱射事件を許さない立場なら、銃規制に反対する者たちの意見は無条件で退けて構わない。
また、銃規制に反対を表明することは、自分が銃乱射事件の犯人予備軍であることを表明するのに等しい。だから、銃規制には反対しつつ、しかし銃乱射事件は許さないと表明するのは、銃規制反対者とはすなわち銃乱射事件犯人予備軍という構造に気づかないほど、自分は愚かなのだと表明するのに等しい。
2019/09/10 アナトー・シキソ
ひとつ言い忘れた。 銃の所持や射撃は、たとえばラジコンヘリを蒐集したり飛ばしたりすることと同じで、趣味=道楽の一つだと主張する輩には、他人の道楽のために自分の子供が殺されるのはごめんだと言えば充分。また、銃の所持や射撃は、古くからの守るべき伝統だと主張する輩には、チベットの鳥葬だって、日本の晒し首だって伝統だった。ヨーロッパの決闘もそうだ。そうそう、世界中にある「名誉殺人」の類は悉く伝統だ。「女は家庭を守るもの」も伝統だったし「父親の意見は絶対」も伝統だった。「結婚相手は親が決める」も「赤ん坊にハイハイをさせない」も「殺した敵部族の脳を食べる」も伝統だった。伝統は必ずしも[守り続けるに値するもの]ではない。むしろ、何かが行われ続けているとき、その理由が「伝統だから」の一つきりなら、その「真価」を問い直してみるべきだ。アメリカの「伝統」である「個人の銃の保持」は、はた迷惑という点で、「名誉殺人」の伝統とどう違う?
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zbcmaster-blog · 5 years ago
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こんにちは。
国際ゼロベースコーチング協会、
エグゼクティブコーチのプロファイラー伊藤慎悟です。
「ハ人間(脳)にはやめた方が良い事 でも。。。
暑い→ビール飲みたい→減酒ができない。
はい、昨日も飲みましたw
しかも浜松でガンガン飲んで帰宅w
 一昨々日も昨日も今日も冒頭は同じ!
超常刺激、どうでしたか?
そうは言っても
夜中にゲームしまくって
エロサイト見まくって
酒飲んでジャンクフード食べる
やめらんねーとと。
そう、そんなあなたは
ズバリ運動しましょう!
運動、キッツイ運動を
短時間とも言いますが
とにかく運動をしましょう。
刃牙の板垣センセも
おっしゃってました、昔。
嫌なこと、悩みがあっても
正拳突き100本で忘れられると!
ちなみに私はそのために
ジム通いを始めましたが結局
ジム通いは朝一に。
サーフィンのトレーニングを
しようかとサーフスケート買いましたが
海で少しやるだけ。
結局、飲んでますね。
ジャンクフードはかなり減ってますがw
何かいい代替案ないでしょうか?
頼みの運動を朝にしてるので
見つからず。。。。
========================== 
信頼とは信頼に値する材料が
あるからするというものではなく、
まず先に信頼してしまうことなのです。
信頼されると人はそれにこたえようとするものです。
- ジョセフ・マーフィー -
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「何がしたい?何ができる?」
国際ゼロベースコーチング協会の
プロファイリングをベースにした
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    ⇩
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国際ゼロベースコーチング協会 
エグゼクティブコーチ 伊藤慎悟
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spiritworldcommunication · 5 years ago
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インターネットからの脱出
2018/4/25発行 ZINE"霊界通信 2018 S/S Issue"収録 by gandi
Escape from the Internet
ぼくが初めてインターネットに触れたのは15年ほど前のことだ。ちょうど21世紀になりたてくらいの頃だろうか。当時出来たての情報カリキュラムの授業での出来事だ。少し起動に時間のかかる箱型の機械のスイッチを入れると、テレビ型のモニターの向こう側から世界中のあらゆる情報が飛び込んでくる。その斬新さに、ぼくは舌を巻いた。しかもその情報がすべて生々しい。なにかがテレビとは明らかに違う。 ぼくはテレビが嫌いな子供だった。今でこ��落ち着いてきたものだが、当時のテレビの演出はとにかく過剰で、ギラギラした悪趣味なセットの前で空疎な会話をする芸能人たちの姿にはとにかくウンザリするばかりだった。人の車を壁にぶつけて壊して喜ぶようなノリにも全くついていけなかったし、ディレクターの指示で拉致同然に、突然半年間も海外を旅させるような嗜好にも「こんなことが許されるのか」と子供ながらに怒りを覚えた(たとえそれが口裏合わせ済みのことだったとしてもだ)。そしてそれらの行動に何一つ意味はない。彼らの行動原理は「ノリ」だけで、洞察に基づいたものがない。徹底的に空疎なのだ。 空疎なテレビの世界の中でも、群を抜いて空疎だったのはひな壇の芸人たちだった。彼らは空疎さという一点において洗練されつくしていた。「なんでやねん」と投げられる言葉に、タイミングよく再生される乾いた観客の笑い声。「なんでやねん」。彼らが本当にそう思っているのか、かなり疑わしかった。「なんでだよ?」でもその「なぜ」を正面切って考えようとする人間は、そこには一人もいないように見えた。 (※もっとも、その空疎さこそなんでも重苦しく考えたがる彼らの前の世代への意図的反抗なのだと分かったのは、ずっと後になってからの話だ) しかしインターネットは違った。誰もが手作りの簡素なホームページを作り、それぞれが勝手なことを論じていた。そこには「なんでやねん」というツッコミを入れる人間はいない。それゆえ誇大妄想としか思えないことを100ページ以上に渡って、延々と書き連ねているような人も少なくなかった。誇大妄想。 テレビだったら芸人の「なんでやねん!」の一言でかき消されたに違いない。しかし人の誇大妄想の中には、社会を抜本的に変革してしまうような考えがしばしば含まれている。たとえば革命家。革命家は周囲の冷笑を意に介さず、空気も読まずに延々と妄想を深め続ける。すると次第に感化される賛同者が出てくる。保守派からすれば狂人に思えない賛同者たちが。 息苦しい日々の中で、ぼくはインターネットに光を見出した。 ぼくはテレビと同じくらい学校の雰囲気というものが嫌いだったが、それは教室がテレビの相似形のように見えたからだ。 端っこの席で、目立たないが誰も思いつかないようなことを考えているヤツの考えは、いつだって声がデカくてノリがすべての野球部の声にかき消される。その身も蓋もない事実に、ぼくはホトホトウンザリしていた。この構造はずっと変わらないに違いない。きっと大学でもそう。社会に出てもそう。死ぬまでそう。いつか全部叩き壊す。そうでなければ刺し違える。そんな風に自分に何度も言い聞かせなければ、グレてしまっていただろう一少年に、インターネットはこっそりナイフを渡してくれたのだ。ぼくは友人たちへ 「テレビよりインターネットの方が全然面白いぞ」と触れ回った。友人たちは興奮するぼくの話を、肯定するでも否定するでもなく聴いてくれた。インターネットが面白いということは少しずつ広まり始めていた。 率直に言って、ぼくはインターネットの「世界中の情報がリアルタイムで入ってくる」という側面は、そこまで重要ではないのではないかと思う。それは既存のメディアでも出来ていたことなのだ。インターネットの本当にクリティカルな点は「人間の生々しい声が、誰にも検閲されないまま聞ける/言える」という点にある。それも平等にだ。どんなに虐げられていた者にも、数千円のスマートフォンさえあれば平等にその機会はやってくる。
誰がジャンクな記事を量産しているのか
だから生々しい声が聞こえなくなったら、そこでぼくのインターネットへの関心は尽きる。聞いたこともないような考えや、社会によって巧妙に隠された呼び声を聞くために、ぼくらは本を読みネットを見る。決して誰かが仕込んだ一般論を聞くためじゃない。ぼくは「失敗しない生き方をするための十の方法」なんて記事を見かけるたびにいつもウンザリしているが、こういう記事は一体誰が書いているのだろう?全く失敗しなかった人だろうか。それとも派手に失敗した人だろうか。 あまりに不思議に思って周囲にこぼしていたら、知人の大学生が書いていた。同級生やサークルの仲間も結構な割合でやっているという。 バイト感覚で家計の足しにしているのだそうだ。 1文字0.1円。2000文字程度の記事を10個仕上げて2000円貰うんです、と彼は言う。プロのライターが最低1文字3円からということを踏まえると信じられない値崩れだ(もっとも最近はプロの現場でも1文字1円というケースが珍しくなくなったが)。 そんな金額ならスーパーでレジ打ちした方がずっと効率がいいように思えるのだが、仲間内のパーティに出席できたり、就活のときネットメディアに関わっていたことが有利に働いたりと、色々とメリットはあるらしい。「ちょっとした承認欲求や仲間内で意識の高さを演出するために、」 場合によっては損得度外視で引き受けることもあるという。 しっかり見ていれば分かることだが、中には高校生が書いているケースもある。記事の最後に「この記事を書いた人」というツイッターリンクが付いていて、そこに行くと高校生だということが分かる。 なるほどこれらの記事は(誰もがうすうす気づいてはいるだろうが)プロではなく文章の素人がタダ同然で書いているものなのだ。インターネットの記事が人に見てもらえるようにするには、内容よりもグーグルのロボットから高い評価を受けるためだけにとにかくコストを抑え、量産することが大事だ。そして言うまでもないことだが1文字0.1円では、一つ一つの記事に真剣に向き合う時間はない。 必然的にすでにインターネットに載っている文章をコピー&ペーストし、適当にリライトするという作業になる。もち��ん直接取材や、図書館に行って原典を確認するなんてことはあり得ない(つまり、何かのきっかけで一度間違った情報がインターネットに掲載されると、永遠に誤情報がコピーされ続けるということになる)。著者は自分の考えを述べようにも、記事が問題としている内容に、真剣に向き合って考えているヒマはない。そもそも書かせている側が、著者に対して端から何も期待していないのだ。 こうした記事が、毎日数千、数万とインターネット上にアップされている。多くの場合は記事と見せかけた広告で、そうでなければ広告収入のために書かれたテキストだ。記事の書き方はこう。「ランキング形式のまとめ記事にしてください。まず1位と2位に、定番のA社とB社のアイスクリームを挙げます。そして3位くらいにクライアントさんのこの新作アイスクリームをランクインさせてください。1位だと広告だって思われてしまうので、3位くらいがよいでしょう。4位以降は適当でいいです」。もちろん、ぼくは必ずしも広告が悪いと言っているわけではない。問題は企業が、あたかも主流的意見であるかのような記事もどきを、ジャンクのように量産することにある。 ぼくらは日々これらの量産されたジャンク記事に囲まれて生活している。好もうと好まざろうと、スマートフォンにニュースアプリやツイッターをインストールしている限り、絶対に目にすることになる。グーグルで何かを検索しても、個人のサイトやブログにたどり着くケースは今や稀だ。インターネットの笑ってしまうような(しかしひょっとすると社会を揺るがすかもしれない)誇大妄想は、十年の月日をかけて、当たり障りのない一般論を装った、どこかの企業広告へとすり替えられたのだ。 こうしたゴミのような広告の山から逃れたい人はひょっとするとインスタグラムのような、社会性とあまり関係のないメディアだけを見るようになるのかもしれない。インスタグラムはアカウントのジャンク化を恐れて、拡散機能をあえて弱めにするなどの対策をしているようだ。だが言ってしまえば、それは騒がしい広告記事から耳を塞いだだけのことで、決して生々しい声を取り戻したというわけではない。 そしてこうしたジャンクな記事は、恐らくあと五年もしないうちに人工知能が書くことになるだろう。人工知能なら、もっとうまくやるに違いない。ビッグデータから得た集合的無意識──当たり障りのない一般論や、何かのきっかけでセレブが発言した、流行の考え方──を、それらしい言葉でまとめて無限に生産するのだ。しかしそれは、あの、テレビや雑誌といった旧メディアが作っていた空疎な時間と、一体何が違うというのか。
メリークリスマス!と言えないアメリカ
ジャンクな記事が生まれる要因は他にもある。世界的なポリティカル・コレクトネスの流行だ。ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)とは「 政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと(Wikipedia)」とある。 ポリティカル・コレクトネスの観点からすると、たとえば「看護婦」という言い回しは男性がその職業につけないイメージを与える可能性があるので間違っており、男女ともにイメージすることができる「看護士」と言い換えるべきということになる。同様に「保母」は「保育士」とすべきだし、「肌色」は人種的配慮に欠けるので「ペールオレンジ」に言い換えるべきとするのがポリティカル・コレクトネスの考え方だ。 この考え方は確かにある程度まで間違っていないように思えるのだが、少し考えると行き過ぎは文化を破壊しかねないということが安易に想像つく。例えば「メリークリスマス」という言葉は、宗教的配慮に欠けるという観点からすでにアメリカでは 「ハッピーホリデイズ」と言い換えられている。 クリスマス飾りににキリスト像やマリア像などを持ち込むのもご法度だ。十字架なんて問題外。宗教色を一切葬り去らねば、イスラム教徒や仏教徒に失礼じゃないか、というわけだ。そのうちクリスマスに赤色を使うのもNGになるかもしれない。赤はキリストの血を表すからだ。 しかしそのようなものを果たしてぼくらはクリスマスと言えるのだろうか。これは「政治的な正しさ」を盾にした、キリスト教文化への破壊行為ではないのだろうか。なぜポリティカル・コレクトネスの人たちはこんなに偏屈な考え方をするのだろう?これではまるでポリティカル・コレクトネス原理主義だ。ポリティカル・コレクトネス教以外のあらゆる宗教は絶対に認めないという原理主義的一神教だ。 たとえあなたが仏教徒だっとしても、笑顔で「メリークリスマス!」と言えばよいではないか。実際日本人はずっとそうだったのだ。キリスト教の人たちが宗教的に大事にしている行事ならば、わざわざそれに目くじらを立てることはない。むしろ「楽しそうだからぼくらも参加させてほしいのだが、仏教徒なんだけど構わないかね?」と言うのが本当の寛容ではないだろうか。それとも一神教徒の人たちには、そういう考え方は難しいのだろうか。 しかしポリティカル・コレクトネスの人々はそうは考えない。頑固に公の場でメリークリスマス!ということを許さない。「そんなに偏狭な態度をとっていれば、かえって息苦しい社会になってしまわないだろうか」「むしろ反動が起こって事態はよっぽど悪くならないだろうか」などと考えていたら、案の定バックラッシュがやってきた。2016年のアメリカ大統領選の時にドナルド・トランプ現大統領が「自分が大統領になったら再びメリークリスマスと言えるようにする」と公約したのだ。大統領選の結果はご覧の通りだ。トランプ大統領は、メリークリスマス!すら堂々と言えなくなってしまった息苦しい社会に不満を持つ人たちの支持を得て当選したのだ。 言うまでもなく、本来あらゆる文化的伝統行事は民族性や宗教性と密接に関わりあっているのであって、そこから宗教色を徹底して排除しようとすれば、ただの無味乾燥で無秩序な騒ぎになってしまう。宗教や民族にまつわる文化的行事が、現代的価値観からすれば理不尽としか言いようのないものを含んでいるのは当然のことだ。伝統行事は、むしろ常にその時代の価値観��全面的には折り合わなかったからこそ、時代が変わったからといって廃止されることはなく、時代を超えてずっと尊敬され続けてきたのだ。それを現代人の価値観にそぐわないからと言って安易に排除をしようとするのは、今の時代の価値観が未来永劫続くと考える現代人の傲慢であり、次の世代���の想像力の欠如ではないだろうか。 日本よりはるかに多民族・多文化社会であるアメリカでポリティカル・コレクトネスの考え方が発展したということはある程度理解できなくもない。あまりに価値観が多様過ぎて、「寛容」や「思いやり」でカバーできる範囲をとっくに超えているのだ。ある人々にとって帽子を被ることが礼装であり、またある人々にとって帽子を脱ぐことが礼装である社会では、ポリティカル・コレクトネスがなければ一方的に少数派が追いやられるばかりなのかもしれない。だが、日本は全く状況が違う。常に周囲と価値観を合わせたがり、少数派になることを恐れがちな日本人は、アメリカとは性格が逆で、少数派が自ら少数派であることを捨て、自発的に多数派になりたがる傾向がある。そのような価値観だから世界的にも類をみない寡民族・寡文化社会になってしまったのだ。 有り体に言えば、我々の社会は空気を読むことが大好きだということだ。互いに周囲の顔色を見回して、自分が人とズレてはいないか、誰かが変わった考え方をしていないか、絶えず監視し続ける。今のインターネットは、テレビのような旧メディアと変わらない。これはもはや「ムラ」社会だ。特異な考え方は、誇大妄想が広がる前に「ツッコミ」をして「修正」する。これをポリティカル・コレクトネスの考え方が加勢する。今時の言葉で言えば「炎上」というのかもしれない。そして最後には「まとめ」として「総括」されるのだ(なるほど「総括」とはどこかで聞いたような言葉だ!)。 「炎上」は一見、正しい意見が間違った意見を修正する、社会の自己浄化作用のように見えなくもない。しかしその一方で、特異な発想の芽を潰していると言える。この調子だとそのうちわざと「ボケ」る者が出てきて、毎度お約束のように「炎上」させるようになるかもしれない。人と違うことが怖い私たちは、そうやって永遠に続く終わりのない日常に「お祭り」というリズムを作るのだ。やがて「ボケ」と「ツッコミ」は、「なんでやねん!」(=なぜなのか)という言葉本来の意味を失い、次第に儀礼化していくことだろう。その裏で、本当に特異な考えをする人の声はどんどん見えなくなっていく。社会は変化することなく終わらない日常となり、まるであのバラエティ番組のように、空虚な戯れが延々と続いていくのだ。
本物の共産主義社会が到来する
更に悪いことに、こうしたインターネットの記事たちは各ユーザーに合わせ最適化され、そのユーザーが関心を持っていそうなことばかりをサジェストするように出来ている。例えばあなたがあるニュースアプリでLGBTについての記事を読んだとしよう。そのアプリは次からLGBTについての話題で一杯になるのだ。するとあなたは思う。「今、社会はLGBTに相当な関心を持っているに違いない」。こうしてそれぞれが勝手に「北朝鮮問題が」「仮想通貨が」「アイドルが」「ネ��画像が」社会的関心事の中心であると考え始めるのだ。自分でフォローする人を選べるSNSはもっとひどい。「反安倍政権の世論が盛り上がっている」ように見える人と「安倍政権の高支持率が続いている」ように見える人のタイムラインは永遠に交わることがない。一体なんでこんなことが起こるのだろう。 本来、インターネットというプラットフォームは、「インターネットエクスプローラー」という名前が示す通り、欲しい情報を自分から「探検」することによって手に得るというツールだった。インターネット全体の記事が少ないときは、確かにそれで機能していた。欲しい情報に達するためには色んなページを回らなければならなかったし、必ずしも耳に聞こえのよくない情報も触れなければならなかったからだ。まさにそれは山あり谷ありの探検のようだった。今はどうだろう?ネットには異常な量の記事が溢れかえっている。ぼくらはそれを、到底すべて読み切ることはできない。こんな状況では、誰も冒険などしたがらないだろう。探さなくても、自分にとって気持ちのいい(都合のいい)当たり障りのない情報にすぐ触れることが出来るのだから。 こうした理由から、インターネットの記事が爆発的に増加することに反比例して、ぼくらが新しい世界に触れる体力は日に日に減っていっているように思われる。誰も好き好んで不都合な意見を聞きに行ったりはしない。大量の記事が出回ってあれもこれも読まなければならない中で、誰かの言葉と真剣に向き合う時間も多くはないだろう。ぼくらは気付かぬうちに少しずつ心の体力を奪われているのであって、自分を肯定してくれる安全・安心な言葉だけを聞き続けるようになっている。 そしてそんな世界すらももうすぐ終わる。もうすぐ人工知能がぼくらを真綿にくるんで、いびつな現実を視界から追いやってくれるに違いないからだ。近い将来、ぼくらは全く違う価値観の人と話して不愉快になることも、ほとんどなくなるだろう。アルゴリズムが話の合わなそうなフォロワーを、初めからミュートしておいてくれるからだ。イラストや音楽の才能のなさに思い悩むこともない。内輪のコミュニティの住人、いわゆる「界隈」と呼ばれる人々が、あなたを先生、先生とどこまでもチヤホヤしてくれるからだ(もっともそのアカウントの「中の人」が本物の人間であるという保証はどこにもないのだが)。当然恋人ができないと思い悩む必要もない。本物の人間よりずっと美しいホログラムと恋愛をするのは、今や普通のことだからだ。しかもその恋人は、あなたの過去の発言をデータベース化しているから、絶対にあなたの嫌がることを言わず、あなたが喜ぶことしかしないのだ。 さらに言おう。恐らく近い将来、人間は一切の仕事もする必要がなくなる。人工知能が自己発展する農場や工場を作り、自動運転カーで勝手に出荷してくれるからだ(驚くべきことに、アメリカのGM社はすでにこのシステムを運用し始めているという)。レジも無人だからバイトもいらない。経営も人工知能がビッグデータに基づいてやるのが一番効率的だ。 機械に職を奪われ、失業率は上がるのに生産力も上がり続けるから、先進諸国はベーシックインカム導入を余儀なくされるだろう。なんのことはない、共産主義社会の到来だ。それも前世紀の不完全な共産主義ではなく、マルクスが予見した本物の共産主義だ。ほとんどのことを機械に任せ、人はクリエイティブな仕事、もとい「趣味」しかしなくなるのだ。そのクリエイティブな「趣味」だって、本当に行われるのかどうか随分怪しいように思える。全てが満たされた世界で、クリエイションをしようと思う人間なんて本当にいるのだろうか。 まるで夢物語だが、そういう世界は必ず来る。それも数十年以内に。その世界では人間にどこまでも優しくて都合の良いコンピューターという名の天使が、寿命が来るまでぼくらを甘やかし続けるのだ──まるで真綿で首を絞めるように。そんな世界では、特異な意見も、ラディカルな発想も必要ない。誰一人不満がないので、そもそも社会が変革する必要がない。 怒りも悲しみもなく、誰一人傷つかない世界。そこで天使のような、あるいは幽霊のようなホログラムが、残り少なくなった人間たちに奉仕している。人間は恋愛対象に何かと面倒な同じ人間よりも人工知能を選ぶようになり、人口もどんどん減ってゆくだろう。
"BLACK IS BEAUTIFUL."
建築家であるぼくの父はもう80を超えているのだが、生まれつきの難聴で、ぼくが幼いころから話がなかなか通じなかった。どのくらい聞こえないかというと、ちょうど携帯電話の着信音が聞こえない、というくらいだ。大きな声で向き合って話すと半分くらい伝わる。ハッキリ言うと、身体障害者だ。 しかし父は一度も自分を障害者だと認めなかった。確実に貰えるはずの障害手帳も障害年金も、絶対に受け取らなかった。破産して、収入がゼロになり、家族の食い扶持を繋げなくなった時でさえだ。「なに、誰だってハンディキャップの一つや二つあるんだ、それをいちいち騒ぎ立てるなんてみっともないことだ」それが父の口癖だった。そして父は自分を「ツンボ」であると自称していた。「ツンボ」は差別用語だからやめなさい、といくら母が言っても「ツンボがツンボで何が悪い!」と絶対に聞かないのだ。 父の発言は無茶苦茶だ。第一、本当に障碍で苦しんでいる人に対するシンパシーがない。それに「ツンボ」なんて言ったら、ポリティカル・コレクトネスの人々からは避難轟々だろう。 だが、一方で父は障碍者に対して全く差別的ではなかった。車椅子で困っている人がいれば助けたし、その一方で車椅子でも態度が悪ければその場で怒鳴り合いの大喧嘩していた。外国人に対してもそうだ。父には中国人の友達がたくさんいた。酒が入れば毎回、歴史問題の議論で怒鳴り合いになるくせに、ずっと仲良しだった。二、三か月すると、何事もなかったかのようにまた飲んでいるのだ(そうしてまた喧嘩になるのだが)。 父は女性に対しての考え方も、世代から考えれば相当リベラルだった。あれだけ父権的なくせに、結婚当初、父が食べるまで食事に手をつけようとしなかった母に対して「そんな下らないこと今すぐやめろ」と叱りつけたのだという。家族の風呂に入る順番についてもそうだ。ぼくが生まれてからはいつも父と母は喧嘩ばかりしていたが、よく考えれば父と母はずっと対等だった。父はいつだって対等な喧嘩相手が欲しかったのかもしれない。 当時はわからなかったが、父が「ツンボ」を自称していた理由が、今ならなんとなく分かるような気がする。父はきっと「ツンボ」を忌避するのではなく、自分が「ツンボ」を格好いいものにしてやる、と考えたのではないだろうか。 この考え方はマルコムXの言う「 Black is beautiful. 」に似ている。かの有名なアメリカ黒人公民権運動の活動家だ。マルコムは、黒人は白人と平等、とは言わなかった。そうではなくて「"黒"こそ美しい」と言ったのだ。 話によると、幼いころは「ツンボ」のことで相当ひどくイジメられたらしい。しかし父は社会に同情を買うような態度を取りたいとは思わなかった。思うに父は「ツンボ」である自分が圧倒的に凄い建築を作ることによって「ひょっとしてツンボだったからこそ、この人はすごい建築家になれたのではないか?」と、人に思わせるような、価値観の転倒を引き起こそうと企んだのではないだろうか。 ポリティカル・コレクトネスの人たちにとっては「ツンボ」は永遠に良くないものであって、忌避されることはあっても、凄いものとして日の目をみることは未来永劫ない。果たしてそれで問題は本当に解決したと言えるのだろうか。「ツンボ」な自分を「ツンボ」と断言する父のやり方は、テレビではもちろん流せないし、インターネットだったら炎上間違いなしだ。けれどもぼくは、ハッキリ言ってテレビよりも、今のインターネットよりも、父のやり方は圧倒的に「クールなやり方だ」と感じてしまう。
インターネットからの脱出
しかしこのような「クールなやり方」は決してインターネットでは出来ないだろう。 ぼくらは薄々気づき始めているが、インターネットにはそのシステム自体に欠陥がある。リンクシステムが、情報のシェアを容易にしすぎたため、一人ひとりが考えることを放棄し始めたのだ。このような社会では父やマルコムXのような革命家気質の強力な個人はお呼びではない。むしろ自分では考えず、薄い情報をまき散らし続けるような人間(インフルエンサー)が影響力を持つ。集団主義の時代だ。多数派はポリティカル・コレクトネス一神教を盾に、他のあらゆるマイノリティが、自分の力で立ち上がろうとする膝を折ろうとする。「『黒は美しい』なんて言わなくていいの、黒も白もなく、みんな平等なの」と。それは「ブラックの血が流れていることに誇りを持つな」と言っているに等しいということに、彼らは気づかない。その考えは、ぼくには、すべての人間を根無し草にしようとしているようにすら思える。そうしてこのように作られた一見当たり障りのない「正論」が、「拡散」機能によって無限に増殖してゆくのだ。 抵抗する方法がある。全てのリンクを一度切ってしまえばいい。インターネットには「罪」もあるが、それ以上の「功」がある。インターネットは個人の発信したいという欲望を爆発させ、流通経路を用意し、個人が本をつくるハードルを劇的に下げた。だったらもう一度紙の本にすればいい。紙の本にはRTもシェアもない。ただ、一対一の読者と書き手がいるだけだ。書き手は読者に差し迫ってくる。逃げ場��どこにもない。RTして他人に共感を求めることはできない。目の前の相手と一対一で対峙するしかない。もしも読んでいて、本当に思うところがあるならば、自分で、自分なりのやり方で発信するしかない。やり方は文章でも動画でも音楽でもなんでもいい、ただ自分だけの力で、やり遂げるしかない。 ぼくはアナタと一対一で話したいのだ。隣の誰かに「ねーどう思う?」なんて聞いてほしくない。ぼくは今、他ならぬアナタと話しているのだ。(了)
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xf-2 · 6 years ago
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駅前に置かれた自転車の前かごにゴミがあふれていることがある
放置自転車の前カゴにゴミがたくさん入れられている。なぜだ。だれかの自転車であることが明らかなのにゴミ箱にされている。
もしかしたらカゴという形状のせいか。人はカゴの形をしているものをゴミ箱と見間違えるのだろうか。
仮説。人はカゴを見るとゴミを捨てたくなる。なので自転車の前カゴのゴミはカゴのせい。これを実験で検証することにした。
駅前にいれものを置いて比べてみる
新宿駅前東口の広場に4種類の箱を置いてどれだけゴミが入るか調べてみる。土曜日の午後4時あたりで人通りも多い。
置く場所は柱のそばなどのデッドスペースに。人通りに干渉しないが目につきやすいところにした。
自転車の前カゴのように「だれかのもの」であることにしたかったのでダンボール箱を置いてその上にいれものを置くことにする。「だれかの荷物」という設定である。
なお、いれものには各々マクドナルドのドリンク容器を1個ずつ入れておくことにした。ゴミの呼び水である。
エントリーNo.1 カゴ状のもの
自転車の前カゴはカゴであるからゴミを入れられるのではないか。と思ってカゴ(スチールバスケット)を用意した。ダンボールの上に設置すると、これは公共物ではなく誰かのものであるなという感じがする。
ドリンクの空き容器を一つ置いてみるとどうだろう。みごとにダメな見た目になった。
エントリーNo.2 本物のゴミ箱
つづいては自分の部屋からゴミ箱を持ってきた。使い古して薄汚れたプラスチック製で、ああ、ゴミ箱だなあ、感はとても高い。
しかしこれはダンボールの上に置かれているし誰かの持ち物である可能性も高い。そしてカゴ状のもののように中がはっきりとはわからない。ドリンクのゴミが入ってることも少しわかりにくい。
これでもしカゴよりも入れられるゴミが少なければ、カゴ形状の方が箱形状よりもゴミを呼ぶことが証明されるはずだ。
エントリーNo.3 デザインが入った箱
今度はカゴではなく箱、それもデザインが入ったものにした。よりゴミ箱から遠くして、ゴミを入れにくくさせてみた。
これでもしゴミが入らなければ、自転車の前カゴにデザインされた木箱をつけるとよりゴミが入らなくなるかもしれない。
エントリーNo.4 骨壷が入ってそうな桐箱
今度は箱に意味をもたせてみた。骨壷用木箱で検索して出てきた桐箱である。独特の立方体形状だけでもゴミを入れにくいが、その横に仏具っぽいものを置いてみた。
意味。意味がすごい。これがなんだかはっきりとはわからないが意味が溢れ出した。
さあ結果はどうなるか?
1.カゴ 2.ゴミ箱 3.(装飾つき)木箱 4.骨壷的な箱
である。ダンボールや大きな箱のせいで一人で持ち運べる限界がきて4種類になった。「ダンボール背負ってるお父さん、見たよ」と保育園の人から後日連絡があった。さすが新宿の往来。すぐにでも忘れてほしい。
さて、仮説である「自転車の前カゴのゴミはカゴであるせい」が正しいのであれば1.カゴが優勝するはずだ。
もちろん2.ゴミ箱の強さはあるだろう。しかし街にこんな部屋みたいなゴミ箱あっても誰もゴミを入れないのではないか。誰かの持ち物だろうし…
3.おしゃれ木箱については優勝はないだろうがどれくらい入れられないのか差がつくといいなと思う。4.骨壷的な箱は未知数だ。
ここから2時間ほど待ってみた。
2時間後、結果は…!?
2時間待った。2時間待つ間にしたことといえばビールを飲んだことだ。デイリーポータルZに書き始めたころは20代半ば。よもや記事の最中に暇になって酒を飲みだす大人になるとは思わなかった。薄汚れた大人のただれた実験結果がこちらである…
かごにはゴミが1つ入っていた
かご形状のところには1つ。思ったよりも入っていなかった。やはり自転車であることが入れられる条件なんだろうか。さて今度はゴミ箱であるが…
ゴミ箱強し、3つ
ゴミ箱には3つ入っていた。さすがにゴミ箱は強かった。あきらかにあんなところに家のゴミ箱があるのはおかしいのだが、人間はゴミ箱を見るとゴミを入れるようにできているのかもしれない。
おしゃれな木箱にはゴミはゼロ
装飾のされた木箱にはゴミが入ってなかった。すぐ近くにゴミが置かれたスペースがあったのもあるが、それでもこれは「ゴミを置いてはいけない」「だれかの荷物」と認識されたのだろう。
自転車の前についてるのがカゴでなく蒔絵の描かれた漆塗りの箱であったならゴミがきっと入らないだろう。駅前に停めるべきは漆自転車だ。
さあ、最後に意味がありすぎた骨壷用の木箱だが…おどろくべき結果に!
骨壷用木箱は逆にゴミが減っていた
なんと骨壷用の木箱はもともと呼び水用に入れていたドリンクの空き容器が持ち去られていた。なんと!
「不謹慎さ」が出てきたと言ったが同じように感じた人がいたのだろう。「だれだ、こんなところにゴミを入れたのは…」と善良な人が怒り、ゴミを持ち去ったのだろう。おお、申し訳ない申し訳ない…
桐箱と仏具風小物入れのセットの意味の強力さはゴミをへらすほどなのだ。自転車の前カゴからゴミをへらすもっとも効果的なものは「意味」だ!
ポイ捨てには敬虔な気持ちで対応を
1.カゴ…1 2.ゴミ箱…3 3.(装飾つき)木箱…0 4.骨壷的な箱…-1
という結果が出た。2時間という短い時間ながらも結果が出た。しかもマイナスなんて数字が出るとは…。朝9時から夜7時まで骨壷的な箱を駅前に置いておくと10時間なのでだいたい5個のゴミがなくなることになる。自転車の前カゴに最適な形は桐箱。そして仏具っぽい意匠を施すことではないか。
自転車の前カゴだけに限らず、ゴミが問題になるところはすべて神聖な意匠でかためていくことで解決するかもしれない。もしくは私達が駅前を神聖な場所だと崇めるかだ。ああどうか私以外の人類が全て鉄道ファンでありますように…
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takaoito · 4 years ago
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明日の0時に、 オンライン黙祷を。 あの痛ましい海の中道大橋飲酒運転事故から明日で14年。 飲酒運転が引き起こす事故の凄惨さを忘れないため 昨年福岡県では8月25日に黙祷を行いました。 しかし今年は新型コロナの影響で 一つの場所に集まり祈ることができません….. そこで今年は、オンラインでの黙祷を開催します。 バラバラでもいい。ご自宅で、仕事場で、外出先で。 明日の正午0時に祈りましょう!願いましょう! ご自身を、家族を、大切な人を守るために、 飲酒運転のない明日を、一緒に誓いましょう! <イベントページ>オンライン「飲酒運転『ゼロ』を誓う黙とう」 https://www.facebook.com/events/310640236677289/?notif_t=plan_user_associated&notif_id=1598230022015566 <ファンファン福岡>記事 https://fanfunfukuoka.aumo.jp/articles/331994?fbclid=IwAR2i9zik3whCgTuFaCBTgq826a3O6zMCrc3TCZ90565-iuhLnVPxQG4_rkY 2020年はオンライン上で「飲酒運転『ゼロ』を誓う黙とう」 <「飲酒運転『ゼロ』を誓う黙とう」開催概要> ◻︎ 実施日:8月25日(火) 11:40~12:10(予定) ◻︎ 実施方法:ZOOMによるオンライン視聴(最大3,000人が視聴可能) ◻︎ 視聴方法:下記リンクをクリックし、名前、メールアドレスを入力 ◻︎ 問い合わせ:TEAM ZERO FUKUOKA(西日本新聞社メディアプランニング部内) Eメール:[email protected] ※ 事前申し込み不要。11:30ごろから下記リンクをクリックして視聴    ↓ https://us02web.zoom.us/j/87124827291#success <プログラム> ◻︎ 11:40 開始 飲酒運転撲滅啓発映像放映 ◻︎ 12:00 飲酒運転「ゼロ」を誓う黙とう ◻︎ 12:01 飲酒運転「ゼロ」を誓う言葉  (交通事故をなくす福岡県県民運動本部長 小川洋福岡県知事) ◻︎ 12:05 飲酒運転「ゼロ」を誓う言葉 (NPO法人はぁとスペース 山本美也子理事長) ◻︎ 12:10 終了予定 #オンライン黙祷 #飲酒運転ゼロの誓い #黙祷オンライン #8月25日 #TEAMZEROFUKUOKA #小川知事も参加 #海の中道大橋飲酒運転事故 #飲酒運転ゼロの日 (海の中道大橋) https://www.instagram.com/p/CEQRimdF1jT/?igshid=101zdtwju7kab
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etanchan · 3 years ago
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病んだ時まとめ
健康になりつつあるので、あの頃の事を忘れないように記しておこうと思う。病名はまず最初に持続性気分障害と言われ、少し通院しましたがその後症状悪化し家から出られなくなり病院にも行かない時期が1年くらい?ありました。その後少し回復してから病院に行くと、適応障害だと言われました。気分障害と適応障害だった時(軽症)と、病院に行けてない時(重症、多分うつ)、健康になった今��、3種類の体調の経験があるわけですね。
まず、軽症時に最初におかしいと思ったのは、よく分からないタイミングで涙が出てくることでした。人目があっても泣いてしまうので大変困りました。次に、電車に乗れなくなりました。手が震えたり、気持ち悪くなったりして、ここで病院に行きました。薬を貰ってなんとか電車に乗らなければならない場面を凌ぎました。ただ、私は元に戻れないような気がして、薬を飲むのがとても嫌だったので、なるべく飲まないようにしていました。自分が病んでることを認めたくなかったんですね。最後にバイトに行けなくなりました。家に帰りたくないので出勤はするんですが、泣いたり考えがまとまらなかったりして全く仕事にならず、早退しまくってしまい、そのままフェードアウトしました。この頃から家に近寄りたくなくなりました。元々そんなに好きじゃ無かった家族ですが、病院に行くようになってからは特に距離を取ろうとしていました。多分自分が今おかしいって事をバレたくなかったんだと思います。丁度大学4年の初夏頃でした。当時付き合ってた人の家(千葉)に入り浸る結果となりました。
大学4年といえば学校に行く必要がほとんどないですよね。それをいい事に千葉の家に引きこもってしまいました。必然的に病院が遠くなったので、行かなくなりました。いつの間にか夜眠れなくなりました。夜眠れなくなってからの症状の悪化が激しかったなぁと今になって思います。あの時薬をもらって眠れていればもう少し早く抜け出せた気がします。最近夜中に目が覚めちゃうなぁ→寝付きが悪いなぁ→夜寝れないから昼間もぼーっとするなぁ→最近全然眠れてない気がする みたいな感じで徐々に悪化していきました。全く眠れないのでどうすれば眠れるようになるのかググりまくりました。全部試したけどダメでした。一度だけ個人輸入で眠剤の海外ジェネリック薬品を買いましたが、よくわかりませんでした。今病院に行ったら絶対にSSRIを飲まされる。と思っていました。SSRIを飲んだら最後、依存があって死ぬまで飲み続けることにる。と思っていました。もしくは、依存状態を断ち切るのが困難で辛いことだと。どっちにしろ元の元気だった頃の自分には戻れない気がして、病院には絶対に行けないなと思っていました。なので自分でなんとかしようと思い、色々調べました。結果、うつはセロトニンの不足だからセロトニンを作ればいいんだと思い、トリプトファンとナイアシンのサプリを買って、朝日を浴びるために散歩などをしました。バナナも毎日食べました。眠れるようにはなりませんでした。ナイアシンのサプリはナイアシンフラッシュという血管が膨張して血流が良くなった結果全身に痒みが出る症状が起きますので、購入の際は「ノンフラッシュ」を買ってくださいね。私はフラッシュが好きでした。
全く夜眠れなくなってから、死にたいと思うようになりました。死にたいというのも私は2種類あって、「悲しい、つらい、死にたい、消えてしまいたい、(リストカットざくー)」みたいなタイプと「強迫的に、私は死ななければならないと思い込んで疑わない(THE希死念慮)」みたいなタイプがありました。前者は他人との関わりがうまくいかない時に現れがちでしたが、後者は何も無いのに突然湧いてくるので予知が出来ず厄介でした。そして夜眠れない時に現れるのは必ず後者でした。前者は今ある苦しみから逃げる為の行動なので、物を壊したり自分を傷つけたりする行動に出がちなのですが、後者はとにかく死ななければならないと思ってしまっている為どうやって死ぬかを冷静に延々と考え続けるので毎日怯えていました。自分に殺される!みたいな恐怖。体を1mmでも動かしたら死にに行ってしまうと思い、ベッドの中で硬直していました。検索履歴が面白くなりがちでした。どうにかして死のうと方法をグーグルで模索する毎日でした。家の中にいる時はハイター、外にいる時は電車に凄く気をつけました。最終的には心霊にすら殺してくれと希望を抱きました。死のうと思えば簡単に死ねる!という謎の切り札を抱えて生きていました。生きやすくなった部分も少なからずありましたが、僅かに残った理性が常に自殺を実行してしまうかもという恐怖に怯えていて、気が休まる時間が全くなくなりました。昼間に活動している時もふとぼんやり希死念慮に襲われてしまい、死なないように気を張っているので体も硬直してしまい、どこにも行ってないのに疲れてしまいました。また、自律神経が逝ってしまい、真夏なのに長袖を着て寒いと感じたのがとても印象深いです。
この頃になると最早涙は出ませんでした。感情の起伏がつらいとすごくつらいぐらいしか無くなってました。アニメの「日常」の個人的にめっちゃ面白いと思ってた話を見ても全然笑えなくて、あ、これはやばいなと悟りました。
卒業論文を書かなくてはいけませんでした。本当は1年休学して、万全の状態の論文を提出したかったのですが、学費などそんなことが許される環境ではなかったので、とにかく書きましたが、結果ゴミが出来上がりました。ゼミの先生のところに行くたびに泣いていました。ゴミを提出して、大学を卒業しました。卒業式には出ませんでした。メンブレしそうだったので、辞めときました。体調が良かったら本当は行きたかったです。卒業式欠席の件で親と揉めました。申し訳ないと思っています。当日はバイト��てました。
卒論を書き上げた私が次にやるべきことは就活でしたが、それもやっぱりできませんでした。周りはみんな内定を貰っていたので、やらなくちゃという思いはありましたが、体調や金銭面で全くやりませんでした。特にバイトを辞めてしまい、収入がないまま千葉と実家の往復でお金を使い果たしてしまい、その日の食事すら危うい日々を送りました。しばらくは食事を作ることで食事代を頂いていました。何もできないので家事だけはやりました。掃除洗濯料理と睡眠が主な仕事でした。昼間でも良いのでとにかく睡眠時間を稼ぎました。恋人がいない日中は眠れる日が割とありました。その頃は完全に分離不安があり、毎朝仕事に行ってほしくないと号泣、1人の部屋で嗚咽、みたいな壮絶な精神状態だったのでその波が引いた頃泣き疲れて眠れる時がありました。眠っていれば1人で不安に思う時間を減らせるので、なんとか頑張りました。寝ている時に、起きている夢を見ることがよく起こりました。起きて、トイレに行って着替えて、スーパーに買い物に行って帰ってきて料理を始める。という夢を見るので、起きてからデジャヴが連続して、これも夢なんじゃないかと、どんどん浮世離れする自分が怖かったです。恋人に対する分離不安は異常でした。家のドアを見るだけで頭痛発熱しました。ボーダー(境界性パーソナリティ障害)かもしれないと思いました。うつ、ボーダー、アダルトチルドレン、いろんな言葉が私に当てはまりました。とにかく狂っているので、なんでもいいからカテゴライズされたかった。他にもそういう人がいるって認識したかった。
1年以上そんな生活でしたが、途中でお金がなきゃと思い、千葉で新しくバイトを始めました。運が良く、いろんな事情を持った個性豊かな人たちが働いていました。結果、私程度が紛れ込んでも浮かない職場でした。そこで少しずつですがかなり色んな感情や感覚を取り戻せました。新しい人間関係ができたり、お金を稼ぐことで少しだけ自信がついたような気がします。逆に精神病んでる人が仕事辞めたら終わりだと思った方がいいですね。あとは堕ちるだけって感じがします。この間に恋人は体調を崩し、心療内科にかかり適応障害だと診断されました。彼は彼なりに仕事で色々蓄積があった様ですが、私がかけた心労がないわけない。病んでる人と一緒にいると自分も病んでくるのはマジなので、ちゃんとセルフケアをしなければいけませんね。まぁ原因と四六時中一緒にいるので、自分のケアなんてできないですけどね。ここまでで重症パートは終わりです。
バイトを始めても相変わらず夜はあんまり眠れないし、恋人への分離不安は改善しませんでしたが、それでも強い希死念慮に襲われることは減りました。他人との関わりの中で死にたいと思うことは何度もありましたが、自分に殺されるかもしれない恐怖はあまり感じませんでした。自分が乗る電車は幾分平気になりましたが、外から眺める電車は怖かったです。今も少し怖いです。自分の体が千切れる妄想が始まってしまいます。この頃の症状は、体の硬直や緊張、頭痛、不眠が主なものでした。時を同じくしてダイエットを始めたのがきっかけて、寒さを感じやすくなっていました。お腹と背中にカイロを貼って、それでもまだ震えていました。
バイトもかなり続いて、お金も貯まってきたので就活をしなければいけませんでした。就活を始めると同時に、また通院しようと思いました。どんな事が待ち構えているか分からないので、就活と仕事で病む前にと先手を打ちました。千葉にある病院でお世話になりました。そこで最初にもらったのが統合失調症の薬でした。診断は適応障害でした。600mgまで飲める薬を12.5mgだけ飲みました。不安への対処療法でした。それと長く続いた不眠も、ルネスタという薬で驚くほど簡単に楽になりました。ルネスタは脳の活動を抑える事で眠りに誘う作用があるのですが、飲んでベッドに横になると、次の瞬間朝になっているというちょっとしたタイムスリップを味わうことができました、毎晩。夢を全く見ない(覚えてない)ので本当に瞬きをしただけで時間が過ぎている感覚です。眠っている間は「眠れない」「死にたい」と考えなくていいので、眠っている実感がなくてもかなり楽になりました。眠気が残る事もなく、一部の人に出る苦味もなく、わたしにはとても合っている薬でした。ただ作用時間が早く、睡眠直前の会話を覚えていない事が多々ありました。健忘というやつですね。寝る前のツイートも記憶ないので、朝起きて自分のつぶやきを見るのが面白かったです。眠れるようになると思考がクリアになりました。あんなに書けなかった履歴書が書ける様になり、とても嬉しかったです。数件面接で落ちましたが、現役就活生のときのような悩みはありませんでした。多分それしかやる事がなかったからでしょう。結局、就活して1ヶ月ぐらいで無事に就職先が見つかりました。
就職してしばらくは私のお薬デッキに変化はありませんでしたが、3ヶ月ほど経った頃、仕事中の頭痛と動悸が出てきました。明らかにあいつのせいだという原因が分かっていた為、仕事を辞めたいと申し出ると、異動させてやるからなんとか続けて欲しいと言われ、言われるがままに異動しました。そこで仕事の休みのサイクルが変わり、転院しました。転院直前には1ヶ月分の痛み止めと胃薬が出るほどには、仕事のストレスが体調に出ていました。異動先は穏やかで、転院先の先生はよく話を聞いて対処療法を提案してくれて、そこから1年ほどは穏やかに回復に向かいました。ただし薬はたくさん増えました。筋弛緩剤、抗うつ剤、別の作用の眠剤。あと副作用への対処で下剤。とにかく薬を飲んで普通の生活を敢行するというか、繕うというか。アクティブな病人。健康とは程遠いですが、元気に過ごす事ができるようになりました。最初の頃はあんなに薬を飲むのを嫌がっていた私ですが、眠剤との出会いで薬というものをすっかり信用しました。転院先の先生の豊富な知識と与えてくれる選択肢が適切だった為に、あれよあれよと増える薬を飲みまくりました。飲んで普通に生活できるなら全然いい!と思えるぐらいには薬に頼りきりになっていました。依存は無かったと思いますが、持ってるだけでお守りみたいな力があったのは確かでした。
そんな私が減薬に至ったのは、またしても異動と転院がきっかけでした。思いの外長く続いた千葉での生活を終え、地元に戻ることになりました。異動先には、私が嫌いな人間歴代TOP3に入るレベルのストレスの権化がいました。私はそのストレスの権化とつい最近まで、約8ヶ月一緒に働きました。転院先の病院では少し悪化を認められ、新しく精神神経用の薬を飲みました。うつとか統合失調症で使われる薬ですね。正直死にたいとかはあまりなかったのですが、睡眠に影響が出てしまっていました。ルネスタを増やしたりなどもしました。症状としては千葉にいた時の方がキツかったのですが、薬の量が1番多かったのはこの時でした。減薬の決め手はシンプルにストレスの権化が異動して私の元を去ったからです。あの日は嬉しくて嬉しくて、友人と記憶がなくなるまでお酒を飲みました。ストレスの権化と一緒に働いてた時は、仕事に行くモチベがゼロで、ノーメイクに髪を少し梳かした程度の身なりでしか仕事に行けてなかった私ですが、奴が去った瞬間に体が軽くなりフルメイクにヘアセットをキチンとやるようになりました。気力がみなぎってくるとはこの事。圧倒的に生活という生きる営みが楽しくなりました。ストレスの権化が異動するという話をした時の主治医はたいそうホッとした顔をしていました。そこから先生の勧めで、少しずつ減薬を開始し、時間をかけて種類と量を減らしていきました。今もその最中です。1番大きいのは、毎日出してもらっていた眠剤を、頓服に変更し1ヶ月に5錠でやりくりしている点です。自然な入眠ができることの素晴らしさ。きちんと夢を見ること。毎日健康を噛み締めています。時たま疲れすぎて眠れなくなる時もありますが、その時は気負わずに薬に頼っています。少しずつ戻っていけたらいいなと思います。
ここ最近、ほんとに1週間とかのマジ直近の話です。眠れない日がありました。あれ、眠れないなと思った瞬間、不眠のつらい日々がフラッシュバックし不安になってしまいました。冷静に眠剤を飲んで眠りにつきましたが、その日から「また寝れなくなるかも」という恐怖から、眠ろうとするのが怖くなってしまっていて。とりあえず眠剤飲んで強制終了させてるのですが、逃げているというか、依存になってしまわないかが不安で、不安な気持ちになると自然な睡眠ができないような気がして、無限ループでここのところ毎晩自信を無くしています。死ぬほどはしゃいで疲れれば、きっと自然睡眠取れるよね。省エネせずに生きていこ。
ここまでで病みまとめでした。思い出しながら書いたので10日ぐらいかかりました。最長の投稿かも。もう記したから忘れてもいいね。辛かったこととかぜんぶ忘れたい。
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akabou · 3 years ago
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[赤帽連合会]令和3年「秋の全国交通安全運動」が実施されます
 令和3年9月21日(水)から30日(木)までの10日間にわたり、秋の全国交通安全運動が実施されます。 交通事故死ゼロを目指す日は9月30日(木)です。 今回の全国重点施策は以下4点の徹底です。 「子供と高齢者を始めとする歩行者の安全の確保」 「夕暮れ時と夜間の事故防止と歩行者等の保護など安全運転意識の向上」 「自転車の安全確保と交通ルール遵守」 「飲酒運転等の悪質・危険な運転の根絶」
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