#頭の中の四次元ポケット
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bluwave24jp · 1 month ago
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🌊おはようございます
今日は金曜日 計画を立てる日 時間術
考えがまとまらず行き詰まったら 無心のブレインダンプで自分の中から 自分の気持ちを取り出す ペンを止めずに思ったことを ひたすら紙に書き出せば新たな気づきがある 頭の中の四次元ポケット
張り切っていきましょう🔥
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bearbench-img · 4 months ago
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タケコプター
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タケコプターは、日本の人気アニメ「ドラえもん」に登場する架空のひみつ道具です。 タケコプターは、その名の通り、竹とヘリコプターを組み合わせたような道具で、頭の上に装着することで、空を飛ぶことができるようになります。タケコプターは、ドラえもんが四次元ポケットから取り出し、のび太や仲間たちの冒険や移動をサポートする際に使用されます。 タケコプターは、そのユニークなビジュアルと便利な機能から、ドラえもんのひみつ道具の中でも特に人気の高いアイテムの一つとなっています。タケコプターは、空を飛ぶという誰もが一度は夢見る体験を実現してくれる道具として、多くのファンの想像力を掻き立てます。
手抜きイラスト集
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higashiazuma · 7 months ago
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じゃれ本 2卓目の作品
「じゃれ本 オンライン試用版」を使ったセッションで紡がれた物語たちです。前の文の前後関係がわからずに何かを書こうとするとこうなります。参加した本人たちはめちゃくちゃ楽しかったです。
お題:特になし ページ数:8P
『数奇なチョコレート』
どうしてこうなってしまったんだ? 私が早朝にこっそり彼の机の中に仕込んだはずのチョコレートが、どうしてあんな場所から出てきたんだ。 朝チョコレートを入れてからずっと監視してたんだぞ。おかしいだろ。
朝からずっと監視していたが、彼は机の中のそれに気付く気配すらなかった。疑問に思いながら注視していると、教室移動の時間になった。今日はアルコールランプを使った実験の日だ。
もしかしたらあれは元々彼の持ち物だったのかもしれない。アルコールランプのオレンジ色の光を見ながら考えを整理する。監視したところで……それに注意を促すような筋合いもこちらにはないのだ。
揺らめく灯を眺めていると、それに炙られる何か、まで想像してしまうのは悪い癖だろうか、職業病か。黒褐色に燻された「それ」は――まるでカカオ豆、とは悪趣味かと頭を振ったとき、ランプが消えた。煙が、甘い。
香りが部屋に充満していく。煙がゆらゆらと揺らめき次第に形を成し始める。何が起こったのか分からず呆然と見つめていると、それは小さな人の形になった。つやつやとした濃い茶色の、まるでチョコレートのような
教室がざわつく。もしかして、と冷たい汗が背筋をつたったのを感じる。 私が今朝入れたチョコレートに、何か関係のあるものなんじゃないか。すると、その小さな人型のチョコレートは、驚くべきことに言葉を発した。
「つくえ」「こども」「かばん」と目に止まったものの名前が読み上げられる中、「とみこ」という知らない名前が挟まる。人型チョコレートから発された言葉に、びくりと大きな反応を示したのは私ではなかった。
「何故、その名前を…?」 隣、というほどでもない距離で小刻みに震える声。振りほどいたはずの赤い糸が、いつの間にか小指を締め上げていた、というような。人型チョコレートの顔部分に、ぱきんと割れ目ができる。
『コンビニで買ったねこ』
今日びのコンビニには何でもあるから、猫をバーコード決済でお買い上げすることぐらいお手の物だ。だけど道義的躊躇を捨てきれなくて、私はいつもパッケージの前を素通りする。嫌味かのようにスナック売り場の隣だ。
お菓子を選ぼうとするとどうしてもチラチラと目に入ってしまう。かわいい猫たちのパッケージ…三毛、サビ、��チワレにトラ。無視しようとしても暴力的なかわいさが私を誘惑する。棚前で吟味していた客が黒猫を手に
レジへ向かっていった。その客を注意深く見守っていると、レジの店員はまるで何事も無いかのようにパッケージのバーコードを読み取り、こう言った。 「この場で開封して行かれますか?」 「いや、家で開けます。」
「ノワァ」変な声で鳴くなあれ。電子決済されていった「ねこ(?)」を見送り、棚を見ればまだいくつかの在庫があった。真四角のパッケージの中で思い思いに伸びたり縮んだり捻れたりしている。呑気なもんだ。
彼らの何割が、自分が実は玉ねぎが食べられなかったりd払いのキャンペーン対象だったりすると理解しているのだろう。来月の請求書では「国民健康保険料」と同列に並んだりするのだ。……ちょっと見たいかも、いや、
猫だって同じ命なんだからこんなふうに扱うのはやっぱり良くない。しかし猫が国民の健康に寄与しているというのは厳然たる事実だ。間違いない。私が若干不健康な日々を過ごしているのはもしやねこが居ないからでは?
そう思った私は、吸い寄せられるようにひとつのパッケージに手を伸ばした。 レジに持っていくと、店員はやはりこう聞いてきた。 「この場で開けて行きますか?」 私もやはりこう答える。 「家で開けます。」
家に帰りそっとパッケージの蓋を開けると「ノワァ」という鳴き声とともに、ねこは消えた。空になったパッケージからはゴロゴロと小さな音が響く。どちらでも良いのだ。本当にねこでも、本当はねこでなくても。
『どこにでも現れるメガネ』
異変に気付いたのは、弐萬圓堂で眼鏡を新調してから三日目のことだった。週一の楽しみ、サウナ通い。オレンジ色の明かりと蒸しに蒸された空間で、俺は目元に違和感を感じた。 熱い! なんとそこには、
…ない。何もない。熱いのは蒸気を直に受けたからで、俺の虚弱な目を守るべく新調した眼鏡がどこにもない。嘘だろ、もう無くした? あの店主、「こいつは絶対に無くなりませんよ」なんて吹きやがって! そもそも、
眼鏡の紛失防止に眼鏡チェーン以上のものがあると思った俺が馬鹿だったんだ。何が「合図一つでどこでもお供! あなたのお眼鏡に叶います!」だ。俺は蒸気で濡れた顔を拭い、0.2の裸眼でレンズの光を探す。
うすらぼやけた視界で必死に探せど一向に見つかる気配はなかった。もう諦めて新しいメガネを買いに眼鏡屋へ行った方がいいの��はないか…そんな考えが脳裏を過ったときだった。
ふいに、胸ポケットに違和感を覚えた。恐る恐るまさぐると、『あった』。無くしたはずの眼鏡が、そこにあったのだ。なんて便利な眼鏡なんだ、と思うかもしれない。でも俺は、うっすらと気味の悪さを覚えていた。
無くして見付かる。眼鏡はその繰り返しだ。眼鏡が見付かるのは決まって、ニュースでとある地名を見かける時だった。幼い頃だけ住んでいた田舎。何故今更ニュースで名前が上がるのか不明なほど辺鄙な場所だ。
便宜上故郷であるその地は、ちと難解な名がついている。何も見ずに書けと言われたら俺でも無理だ。 …もしかすると眼鏡のやつ、テロップに映るその込み入った字画を解らせたいために、毎度戻ってくるのだろうか?
つまり、この字を覚えれば晴れてこの眼鏡は役目を終えるというわけだ。なるほどね。俺はこれからもこの地名を覚えることはないだろう。いや、いつか死ぬ前くらいには覚えてやってもいいかな。
『おまかせ木綿豆腐』
絹のやつとは作りが違うんでね。多少の荒事ならこっちに任せるのが正解ってもんだ。名前? 『モメン』じゃない、『ユウ』だ。大体あいつがキヌなんて名乗るからセットで豆腐なんて言われることになってんだ。
キヌのやつは今日も得意のスムーストークであんたを誑かしたんだろう。依頼料は高くつくぜ、財布の紐をどれだけ締めても、あいつには湯葉も同然だ。 まあ、任せておきな――それで、あの「高野」と何で揉めたって?
…なるほど。あの土鍋は上物だからな。どちらの取り分かで揉めたってわけだ。で、その土鍋を自分のものにしたいと、そういう話だな?なあに、俺にとっては湯豆腐みたいなもんさ。安心して吉報を待っておけ。
そう言って男はすっくと立ちあがると、土鍋を求めて夜闇に消えて行った。 なぜならそう、この男こそもめ事の仲裁のプロ。ネゴシエーターなんてお洒落な肩書はいらない。『おまかせ木綿豆腐』その人だったのだ。
─というのが、前回君たちに講義した内容だ。きちんと覚えているかね。『おまかせ木綿豆腐』に関連する記述には実はいくつかの相似点が見られてね。同一人物とする説も複数人とする説もあるが共通しているのは、
その「変幻自在性」。まさに豆腐、ないし大豆だ。柔らかく相手を受け止め、誰かの色に染まるかと思えば、ときに肉食獣のごとき強靭さも見せる。変異性の遺伝子が組み込まれている、と言われても疑うまいよ。
豆乳の満たされたプールで悠々と寛ぐ高野とその取り巻きたちを尻目に、私は���敷へと忍び込んだ。
そこにあったのは黄金の土鍋。黄金でできているが、確かに土鍋である。私は難なくそれを手にすると、豆腐を味噌汁に滑り入れる速さで屋敷を後にした。 こうして事件は解決した。おまかせ木綿豆腐におまかせさぁ!
お題:おまかせ縛り ページ数:8P
『お父さんが作るヒンズー教』
「そうだ、ヒンズー教を作ろう」 ある日、父の口から出た言葉だ。 定年退職を迎えた父親が始めるものといえば蕎麦打ちと相場が決まっているが、なぜか父は宗教に目覚めてしまったようだ。
「ヒンズー教はもうあるじゃん。作る前にもうこの世に存在してるから諦めなよ」至極冷静なツッコミも父は意に介さないようだった。「まずは合言葉を考えるか」「よくわかんないけどもっと先にやることあると思う」
「じゃあまずお父さんがヒンズーとして」「お父さんヒンズー教知らないよね?」 まったく分からないまま父の熱意だけが空回りをしている。理由を尋ねるのも嫌だが、掘り下げてくれと父の顔が言っていた。
「…うん、じゃあお母さんは?」 そういう自分だって女神転生シリーズの知識しかないけれど、お父さんに至ってはこうだ。 「母さんには、ラーマをやってもらおうと思う」 マーガリンで覚えたなさては。
「母さんにカーリーをやってもらうわけにはいかないからな」 「そこはヴィシュヌとラクシュミじゃなくて良いんだ」 最早女神転生オタクの会話である。お父さんは黙ってメガテン5をセールで買った方が良い。
「タマにも我がヒンズー教の一柱として重要な役割を与えよう」「タマ…巻き込まれてかわいそうに」何も知らないタマは父に撫でられて満足げにゴロゴロと喉を鳴らしている。「名はタママーンに改名す」「やめて」
タマを膝に抱いてああだこうだと話す父は、それはそれとしてまあ楽しそうではある。もともとこの手の与太話を作るのが好きなヒトなのだ。
この一連の流れだって、先週配信サイトで「RRR」か「バーフバリ」を観たせいに決まっている。些細な愉快をくれたのならまあ良いじゃないか。女神転生シリーズでの知識しかない僕が、文句を言っても仕方ないのだ。
『健全な肉体に宿るユンケル』
健全な精神は健全な肉体に宿る、なんてのは全きウソであり、少なくとも俺の健全な肉体には恐らくユンケルとかが宿っている。しじみの味噌汁とプロテインバーも。筋肉は全てを解決するなんてウソだ。解決してみろ、
なかやまきんに君。筋トレは正義かもしれないが、そもそも現代社会人に残される可処分時間なんてたかが知れている。その貴重な時間をどうやって筋トレに費やすことができようか。かといって、
このままでは肉体は不健全になるばかりだ。もやしまっしぐらだ。いや、それだけならいいが代謝が落ちた体はいずれ摂取した栄養を消費しきれず蓄え始めてしまう。そうなったらもうおしまいだ。
ともあれ対策は早急に行うべきだろう。何故なら健全な肉体でなければ意味がないからだ。精神はこの際置いておく。ユンケル的にはそっちはあんまり役に立てない。自分で頑張ってほしい。そうと決まれば早速、
行きつけの薬局へ―向かうつもりだったが、深夜営業のはずのそこは閉まっていた。シャッターに「本日棚卸」の文字。期限切れになるだろうアプリクーポンを惜しみ、否、惜しむより先に鉄剤だ。イオンなら、いけるか。
その一縷の望みは、すぐさま砕かれることになった。 しまった!深夜営業の薬局が閉まっている時間帯に、イオンが開いてるはずないじゃないか!! 赤と白の看板の下、俺は絶望する。鉄剤。なんとしても鉄剤を。
「ヤーッ!」それは突然のことだった。窮地に陥った俺の耳にあの聞き慣れた声が飛び込んできた。「き、きんに君!!」そう、紛れもなくなかやまきんに君だった。自信に満ちた仁王立ちでそこにいた。「ハッ(笑顔)」
なんて眩い笑顔なんだ。失われていた力が蘇るのが分かる。何が敵かも分からんがとりあえず殴っとけば良いか。やはり筋肉。健全な肉体、頑強な筋肉、それこそがすべてを解決する。
『我が家UFO』
ホログラムで出来た夕暮れの町並み、伸びていく影。少し湿った柔らかい土の上を走りながら、僕らは家に向かっている。僕らの家は、頭上にある色とりどりのUFOだ。
姉ちゃんとその彼氏(現:元カレ)の些細なLINEスタンプ会話が、うっかり「母星」との通信に混線してしまったせいで、呑気な地方都市は太陽系いち愉快な避暑地に変わった。葉巻型の家も金星人からの贈り物だ。
アダムスキー型のホテルは木星人が建てたもので、海王星人にたいへんウケが良く、県外からの観光客にも人気になっている。おまけに日清グループの焼きそば工場まで進出してきたものだから、町はとても賑やかになった
しかし後に大きな問題が発生した。建てられた数々のUFO建築物が人々をアブダクションし始めたのだ。幸いなことに内臓を抜かれキャトられるところまではいかなかったが
普通に改造はされたし記憶も改ざんされた。お父さんが二人いるご家庭も出来れば、長女が増えたご家庭もある。UFOは「家族は複数人」ということしか理解していない。その関係性や成り立ちは二の次だ。
「どうする、姉ちゃん」と僕は言う。「このままいくと元カレが僕らの新しい兄ちゃんだ」 「無理絶対無理、あんな伸びたカップ焼きそばみたいな男。お湯と一緒に流しに捨て――」 瞬間、僕らは同時にはっとした。
僕らの葉巻型ハウスの前に、新たな葉巻型UFOがフォンフォンと音を立てて降りて来たのだ。硬直している僕らの前に、光が射す。この家をプレゼントしてくれた金星人だ! 金星人は優しく微笑んだ。
「このたびはUFO型ハウスのモニターになっていただきありがとうございます」僕たちモニターだったんだ。しらなかった…「住心地はどうでしたか?」アンケート用紙を渡された。とてもよかったに◯をつけた。
『キャンプファイヤーをするスリ』
目の前にはごうごうと燃え盛る火柱がある。いわゆるキャンプファイヤーというやつだ。ぱちぱちと爆ぜる音と顔を焼く熱を浴びながら今までのことを思い返していた。いつものようにスリの獲物を物色していた俺は、
おあつらえ向きな男を見つけていた。取ってくださいと言わんばかりにチラ見えする財布。しかも厚い。おどおどとした雰囲気も丁度いい。財布はあっさり俺の手中におさまり、今日の仕事は完遂だ。そう思っていた。
なのに今、俺は何故こうして積まれた薪の前に立ち尽くしているんだ? 五分じゃ審査が下りないだろうカードや角の折れてない札が詰まった革財布を、まるで炎に投じたがっているかのように。否、焼かれるのは財布か?
そうだ。財布ではなく俺自身を焼けば財布は無事だ。俺が罪に問われることもない。――いや、何を考えているんだ、俺は!困惑する俺の意思を無視するように、俺の手が勝手にチャッカマンを薪の隙間に差し込んだ。
一気に薪が燃え上がる…かと思ったが、一向に炎は上がらない。チャッカマンの小さな火は薪の表面を焦がすだけでなかなか燃え移らない。薪を燃やすにはもっと燃えやすいものを先に入れるんだったか。何か手頃なものは
とポケットをまさぐり、結局スッた財布にいきつく。レシートくらいなら燃やしても良いだろう。財布の中には幾重にも折りたたまれた…異様といえるような長さのレシートが入れられていた。何だこれはと手に取り、
中程の印字に目を剥いた。「割引 50%」と付記された項目。みな人名だ。中には、俺の名も。 何が引かれてるんだ? 人間的価値? 確かに俺はスリだが半額になるほどか? それとも、…命、寿命。その領収書。
気付くと俺は、木組みの中にいた。燃える炎が、全身に纏わりついて行く。たすけてくれ、と声をあげそうに���るが、呼吸すらできない。 目の前に男が立っている。 「ええ、その通りですよ」 男の目に、炎の橙が輝く
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aya-azana · 8 months ago
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スクレイピング・ユア・ハート ― Access to SANUKI ―
あらすじ 平凡な大学院生である丸亀飛鳥。 新規気鋭のイラストレーターで、飛鳥の後輩である詩音。 四年ぶりの再会を経て、二人は奇妙な出来事に巻き込まれていく――――
 物語の始まりなんて、なんでもよかった。  偉人の言葉を引き合いに出して、壮大な問題を提起する冒頭が思いつかない。洒落た言い回しを使った、豪華絢爛な幕開けが思いつかない。ああ、思いつかない。とにかく、思いつかないの。  一般教養が足りないとか、センスがないとか、そんなんじゃない。  ただ、平坦。二十三年生きた人生に山も谷もない。  一般的な都内の中流家庭に産まれ、すくすくと成長し、苦難なく小中高大を卒業。  特に研究したいこともないが、働くのが嫌で大学院へ。研究生活の中で平均くらいの能力を身につけ、今でもゆるゆると日常を謳歌している。  そんな人間が想い描く物語だ。たとえ始まりを豪華絢爛にしたところで、面白くともなんともない。  だから、始まりなんてなんでもいいん『そんなことないわ』  ……そうかしら。それなら、もう少し頑張ってみ「お願いだから止まって、止まって!」  ……どっちよ。  これは、寝る前にするちょっとした妄想。クラスを占拠した悪漢を一人でやっつける、みたいなもの。  目を瞑っているのだから周囲は真っ暗だし、私以外の声が聞こえるわけ「先輩!先輩!しっかりして!」  うーん。うるさいわね。  聞き覚えがある女の子の声。少しガサついていて綺麗な声音ではないのだが、なぜか心地よくて、落ち着く。  ……寝る前に聞く、ちょっとえっちなASMRの切り忘れね「先輩!?」。面倒だけど一度起き『ダメよ』
 身体がビクン、ビクンと震える。
 表面上は高潔な雰囲気を纏っているものの、ねっとりとした厭らしさが滲みでて、根底にある魔性を隠しきれていない女性の声。  今まで一度も聞いたことがない。声の主なんて知るはずがない。それでも狂しいほど切なく、堪らないほど愛おしい。  そんな声が全身を駆け巡り、電撃のような痺れとなって身体を激しく愛撫したのだ。  『貴女の全てが欲しいの』  唐突に発せ���れ��媚薬のような愛の囁きに、動悸が早くなって頬が火照る。恋愛感情に近い心の昂りが瞬く間にニューロンを焼き焦がして、身体にむず痒い疼きを与えた。  『貴女は快楽の熱で、ドロドロに蕩かされていく』  そう告げられると、容赦ない快感が次々と身体に打ちつけられ始めた。  堪らず身を捩ろうとするが、金縛りに遭ったように手足が動ない。舐めしゃぶられるように身体中が犯され、許しを乞うことすらできない。ただ一方的にジュクジュクとした甘ったるい快楽の波が全身に蓄積していく。  やがて許しを懇願することさえ忘れ、頭の中が真っ白に染まってしまう。もう耐えきれない、決壊してしまう。  『そして、深く深く流れ落ちていく』  そのタイミングを見透かしたように、許しの言葉が告げられる。同時に、心の器が壊れ、溜め込んだ全ての快感が濁流のように全身を駆け巡った。  意識が何度も飛びそうになって、頭のチカチカが止まらない。獣のように声にもならない嬌声をあげながら、やり場のない幸福感に身を委ねて甘く嬲られることしかできない。何もかもがどうでもよくなる程、気持ちがいい。  永遠に思えるような幸福な時間を経て、すぅっと暴力的な快楽が引いていくのを感じた。代わりに、深い陶酔の中へ身体が沈み始める。  そして、自然と強張っていた身体から力が、いや、もっと大切な何かが抜けていく。でも危機感はない。  たとえ声の主が猛獣で、彼女に捕食されている最中であっても、私は目を開けず身を任せてしまうだろう。  ゆっくりと身体の輪郭が曖昧になり、呼吸が浅くなっていく。意識が朦朧として何も考えられない。ただ、恍惚たる快楽の余韻に浸りながら、彼女の言葉の通り深く深く、流れ落ちていく。  『おやすみなさい、愛しい貴女』  赤ん坊に語りかけるような優しい声音で別れが告げられる。そして、私の意識はブレーカーが落ちたようにプツンと切れた。  遠くからぼんやり響いた悲痛な叫びは、もう私に届くことはなかった。
 ***    もしあたしにインタビュー取材依頼がきて、最も影響を受けた人物を聞かれたら、間違いなく先輩と答えて彼女への想いを語り続けるだろう。  コラム執筆依頼がきたら必ず先輩の金言を引き合いに出して最高のポエムに仕上げるし、ラジオに生出演したら「いぇい、先輩、聴いてるー?」が第一声と決めている。  現に初めて受賞した大きなイラストコンテストの授賞式の挨拶では、会場にいない先輩に向けて感謝の気持ちを述べた。それほどまで、高校で先輩と過ごした二年間はかけがえのない宝物だったのだ。  だから、あたしという物語の始まりは必ず先輩との思い出を引き合いに出すと決めている。  そんな小っ恥ずかしいことを寝巻き姿で平然と考えてしまう程、あたし��と讃岐詩音は浮かれていた。  なんせ今日は先輩と四年ぶりの再会である。  窓から差込む小春日和の暖かな日差しが、今日という素晴らしい日を祝福しているようにも思えた。
 「詩音、朝ごはんできてるわよー」  「うん」  一階から聞こえたママの呼びかけに応じる、蚊の鳴くような声。自分のガサついた地声が嫌で、どうしても声量が小さくなってしまう。  おそらくママには聞こえていないので急いで自室から出て階段を降り、リビングに移動する。閑静な高級住宅街に建つ一軒家に相応しくないドタバタ音が鳴り響いた。  「危ないからゆっくり降りてきなさいって言ってるでしょ」  ママのお小言に無言で頷きながら、焼きたてのバターロール一個とコップ一杯のスープをテーブルに運ぶ。いつものご機嫌な朝食だ。  「バターロールもう一個食べない?消費期限今日までなの」  ママの問いかけに対して首を横に振って拒否した。少食なあたしにとって、朝の食事はこの量が限界。これ以上摂取すると移動の際に嘔吐しかねない。  「高校でバスケやってた時はもっと食べてたのに。ママ心配よ」  そう言われてしまうと気まずいが断固としてNOだ。先輩との大切な再会をあたしの吐瀉物で汚したくない。  話題を逸らすためテレビをつけると、ニュースキャスターが神妙な面持ちで原稿を読み上げていた。  「横浜市のアトリエで画家の東堂善治さんが倒れているのが見つかり、病院に搬送されましたが意識不明の重体です」  たしか、以前参加したコンテストの審査員だったような。国際美術祭で油彩画を見たような。あと生成AI関連で裁判がうんたら。  「東堂さんは世界的に権威のあ……また、スポンサー契約を交わしていたFusionArtAI社に対して訴……捜査関係者によると奪われた絵……」  ニュースの内容を聞き流していると、概ねの内容は記憶と合致していた。どうやら、高校を卒業してから勉学の道には進まず、創作活動に勤しむようになったあたしの記憶力はまだ健在らしい。少しだけ、ホッとした。  「最近物騒ね。よく聞く闇バイト強盗かしら。ほら、この前も水墨画の先生が殺されたじゃない。詩音も今日のおでかけ、気をつけなさいよ」  「ん、気をつける」  ママを心配をさせないために少しだけ大きな声で返事をして、深く頷いた。  食事を終えた後、アイロンがけされた一張羅に着替えて身なりを整え、先輩が待つ喫茶店へ向かった。    ***    ――――ちょうど三週間前のこと。  本業のデジタルイラストの息抜きとして始めた水彩画にハマり��ハマって、気がつけば丑三つ時。ふと先輩の顔が頭に浮かんだのだ。  丸筆とパレットを置いてから勢いよくベッドにダイブして寝転がり、流れるようにエプロンのポケットからスマホを取り出す。  先輩はSNSを実名で登録するタイプではない。それでも広大なネットのどこかに先輩の足跡みたいなものがないか、淡い期待を抱いて名前を検索してしまう。  そんな自分がちょっと気持ち悪い。  自己嫌悪に陥りつつ検索結果を眺めていると、思いもよらない見出し文を見つけたので間髪入れずにタップした。
 「情報システム工学専攻修士1年生の丸亀飛鳥さんが、AIによる雛の雌雄鑑別システムに関する研究で人工知能技術学会最優秀論文賞を受賞しました」
 ゆっくりとスクロールしながら情報を集める。やがて研究室のホームページに掲載された集合写真にたどり着く頃には、これが先輩の記事であることを確信した。  ……正直言って自分がだいぶ気持ち悪い。  「やっぱり先輩はすごい。うん、とてもすごい人だ」  先輩の活躍ぶりに足をばたつかせながら興奮していると、ピコンと仕事用のアドレス宛に一通のメール。見慣れないアドレスだったが、ユーザー名が目に入った瞬間飛び起き、正座になる。  「marugame.asuka0209って、これ絶対に飛鳥先輩だ!」  偶然にしては出来すぎているが、なんの警戒もなく開封をして内容を隈なく読み込み――――読み終える頃には呆然としていた。  要約すると研究協力の依頼であり、可能であれば一度会って話せないか、という非常に堅苦しい内容である。  気がつくと涙が頬を伝っていた。  四年ぶり、つまり先輩が卒業してから初めて貰った連絡。元気?今度ご飯でも行かない?みたいな、そういうのを期待していたあたしがおバカじゃないか。  ――――いいや、先輩が悪いわけではない。これが普通。むしろ、あたしがおかしい。  何を隠そう、あたしと先輩の間に特別な繋がりはない。友達でもなければ恋人でもない。ただ、バスケ部の先輩後輩というだけで、練習と試合だけが共に過ごした時間の全て。連絡も練習に関することだけ。そんな程度の仲。  「……それでも好き」  あたしに手を差し伸べてくれた先輩に対する想い。四年経ってもこの気持ちは色褪せていない。  でも、これが最後になるかも。もし拒絶されたら、ただの先輩後輩ですらなくなってしまったらどうしよう。そう思うと、胸が苦しくなる。だから今まで一度も自分から連絡できなかった。  ――――涙を拭い、ありったけの勇気を振り絞る。  先輩に会ってお話しがしたい、その気持ちだけで震える指をどうにか動かし、書いては消してを繰り返す。文面が完成しても、何度も声に出して読み上げ続け、早三時間。返信��完了する頃には外が薄明るくなりつつあった。  急にドッと疲れが出て、再びベッドに倒れうつ伏せになり、顔を枕に埋める。そのままうめき声を上げて、湧き出る混沌とした感情を擦り付けていく。  このあられもない姿がママに目撃されていたことは、あたしの人生最大の汚点となるのだった。    ***    ――――いつの間にか私はドアの前に立っていた。  温かみを感じるレトロな木製のガラスドア。ここは大学から離れた場所に佇む、少し寂れた喫茶店の玄関前だ。私の憩いの場の一つで、よく帰り道に訪れている。  ぼーっとしていると、店内が薄暗いからか自分の姿がガラスに反射していることに気がついた。  ガラスに映る、ケープを羽織ったおさげ姿の美少女。うどんのように白い肌が彼女の纏う儚さに拍車をかけている。    彼女の名は讃岐詩音。    私の一個下で、高校バスケ部の後輩だ。  某バスケ漫画に憧れて入部したという詩音は、初心者という点を考慮しても信じられないほど下手だった。  ドリブルやパスはへんてこだし、一番簡単なレイアップシュートすらろくに出来ない。おまけに口数が少ない不思議ちゃんで、趣味と特技がイラストときた。  そのため、次第に周囲から腫れ物のように扱われるようになる。  それでも詩音は部活を辞めず、直向きに人一倍努力を続けた。  しかし、周囲からの扱いは変わることはない。下手っぴが一人で頑張っても嘲笑の対象になるだけだ。  だから私は、詩音に手を差し伸べた。少しでも彼女が笑顔になれるように。  ――――精一杯頑張る彼女の姿が、どこか冷めていた私の憧れだったから。    原因は不明だが、今、私は『詩音』の姿になっている。まるでVRを体験しているようだ。なんにせよ、玄関前で棒立ちを続けるのは迷惑だ。  混乱しながらドアを開けて入店すると、店員がにこやかに迎え入れてくれた。  「いらっしゃいませ、讃岐さんですね。丸亀さんはあちらの席でお待ちです」  会釈をするも、妙な違和感。戸惑いながら店員の案内に従い、席に移動した。そして私は大っ嫌いな女と対面することになる。  緑色の黒髪が綺麗な、リクルートスーツ姿の美女。気品のある見た目をしているが、中身は空っぽ。連絡が来ないから嫌われたと思い込み、自分を慕う後輩を四年間も放置したクズ。そんな女性が私を見て微笑む。
 『久しぶりね、詩音』
 そう、『『私』』だ。まるで鏡を見ているかのように、『私』が机を挟んだ向こう側に存在している。  詩音と四年ぶりに再開したあの日の夢を見ているのだろうか。  唖然とする私を無視して、目の前に座っている『私』は一方的に話を進めていき、本題に移り始める。
 『研究室が推進するイラスト生成AIプロジェクトが難航しているの』
 原因は技術の普��と発展に伴って、目視であっても判別できないAIイラストがウェブ上に溢れかえったことだ。  その結果、クローラープログラムがウェブを巡回してイラストを収集するスクレイピング技術で作られた学習データにAIイラストが混入し、AIプログラムが崩壊する報告が多数出ている。  余談だが、私の研究は養鶏農家から提供される写真を使用しているため、全く影響を受けなかった。それゆえ、最優秀論文賞を繰り上げ受賞してしまったのだ。
 『研究用のデータ加工が大変なのよ』
 これはイラストレーター達が自衛として、データをそのままウェブにアップロードしなくなったからだ。  近頃はデジタル画像を紙に印刷した作品やアナログ作品を造花などで飾り付けてからカメラで撮影する、2.5次元作品が主流となっている。  イラスト本体の解像度劣化やカメラフィルターによる色合の変化、装飾物による境界の抽象化などが原因で、2.5次元作品はAIで学習できない。  修正AIで2.5次元作品を2次元作品に加工しようとしても、誤認識のパレードである。そのため、ゆうに一万を超える大量のデータを人力で加工するしか手立てがないのだ。
 『FusionArtAI社のデータも法外的な値段で八方塞がりなの』
 FusionArtAI社は唯一ピュアなイラストデータを扱っているユニコーン企業だ。東堂善治のような大御所アーティストらと契約し、安定して高品質なデータを取得しているらしい。  AIやらNFTやらを壮大に語っているが事業内容がよく理解できない。それに莫大な資金が何処から出ているのか非常に疑問である。  加えて詩音がモニターとして、AIの学習を阻害する絵具を貰ったのだとか。胡散臭すぎる。
 『だから詩音のイラストのデータを全て譲って欲しいの』
 「……は?ちょっと待ちなさい」
 今まで無言で頷いていたが、思わず声が出てしまう。
 『貴女の全てが欲しいの』  「そんなこと言っていない!私は研究協力の依頼を断るように警告したのよ!!」    ことの発端は詩音がイラストコンクールの授賞式で私の名前を出したことである。偶然その授賞式に私の指導教員も来賓として出席していたのだ。  後日、ゼミで彼女の挨拶が話題に出され、私は迂闊にも恥ずかしさのあまり過剰に反応してしまった。  指導教員は詩音が語った人物が私のことだと察した。そして詩音宛に研究協力の依頼を出すよう、私に指示を下したのだ。  なんせ、詩音は今や業界を席巻する超新星。その作品を利用できれば、データの質の担保だけでなく、研究に箔をつけることができる。  下手をすれば詩音が筆を折りかねないその指示に対し、私は強い憤りを感じた。  しかし、上の言う事は絶対。だから大学から離れた喫茶店に呼び出し、密かに依頼を断るように警告したのだ。  ……加えて、授賞式のようなオフィシャルな場で無闇矢鱈に人様の個人情報を出さないよう、情報リテ��シーの講義もみっちり実施した。  詩音は私の言葉を素直に聞き入れてくれた。ただし、研究室の厄介事に巻き込んだお詫び?として、週末に作品撮影のアシスタントをする約束をした。    ――――その撮影日が今日。  そこは、誰も寄りつかない瓦礫まみれのビーチ。  遥か昔、海辺に栄える水族館だった場所。  青空の下、詩音が無我夢中になって作品の飾り付けをしている。  装飾材を補充するため、彼女が水彩画に背を向けた刹那。  額縁からコールタールに似た漆黒の液体が勢いよく溢れ出し、彼女を襲う。  だから私は彼女を突き飛ばして。  悍ましく蠢く闇に、『食われた』。    「……ようやく思い出したわ」  これは、妄想でも夢でもない。相対する『私』の皮を被る怪異が起こした現象だ。  理解不能な存在に生殺与奪の権を握られている。その事実を認識した途端、体に悪寒が走り、鳥肌が立つ。今にも腰が抜けそうだ。  怪異は恐れ慄く私の眼をじっとりと見つめながら、ブリーフケースから同意書とペンを取り出し、机の上に置いた。  『貴女とはいい関係になれると思うの』  そう言いながら、怪異は小指を立てながら厭らしく微笑む。  私の生存本能が、この文字化けした書類にサインをしてはいけないと警鐘を鳴らしている。サインをすれば、死ぬ。  それでも私は震える手でペンを掴んでしまう。    ……だって、私なんかが敵う相手じゃないもの。   怖くて泣きじゃくる無様な私に何ができるの。  そうね。きっと、あっけなく死ぬのよ。  ――――そうだとしても    「大切な後輩を襲ったお前だけは、絶対にぶっ殺してやる!!」    私は決死の覚悟を決め、一世一代の大啖呵を切った。瞬時に怪異に対する怒りの炎が燃え上がり、滞っていた思考が急激に動き始める。  相見えるは常識の埒外の存在。裏を返せば奇想天外な自由解釈が可能であり、不格好でもそれっぽい仮説を立ててしまえば、私にとっては常識の埒内の存在になる。  きっとそう強く信じなければ、目の前の『私』は倒せない。  唇に人差し指をあてながら、ただひたすらに、常識や記憶の間に無理やり関連性を見出して理屈をこじつけることを繰り返す。  やがて、その思考過程を経て、一つの結論に辿り着く。    この怪異の正体は、『クローラーを模した淫獣』だ。    こいつは複数回にわたって人を襲い、心の記憶から作品を抽出していくタチの悪い存在。全ての作品を取り込み終えると、獲物に大量の快楽成分を流し込んで再起不能にする恐ろしい習性を持つ。  おそらく詩音も何度か寄生されていて、今日が最後の日になるはずだった。  ところが、すんでのところで私が身代わりになったため、情報の吸い残しがあると誤認が生じてしまった。それは淫獣にとって重大なエラーである。  そこで、やり直しを試みるも、改めて詩音の同意が必要となってしまった。  だから先日の会話に基づいてこの空間を生成し、『私』の皮を被ってサインを迫っているのだ。――――今、自分が捕食している獲物が『丸亀飛鳥』であることに気が付かずに。  そして、最も重要なことは淫獣が人工的に作られた存在という点である。  これまでの同意書に重きを置くような言動を見ると、魑魅魍魎の類とは思えない。何より、元凶に心当たりがある。  そう、FusionArtAI社だ。淫獣の正体が例の胡散臭い絵の具であり、密かに多数のイラストレーターを襲っているとしたら、全て辻褄が合う。  ――――そうであると信じるの。そうすれば、こいつに一矢報いることができるはずよ。  汗ばんだ手で同意書を手繰り寄せ、ゆっくりとペン先を近づける。  すると、自分勝手に喋っていた淫獣が口を閉じ、紙面をじっと凝視し始めた。それだけではない。空間を構成する全てが、その瞬間を見逃すまいと監視している。  張り詰めた空気の中、私は素早く紙を裏返して、こう書き記す。    robots.txt  User-agent: *  Disallow: /    その意味は、『クローラーお断り』。  今や対魔の護符に等しい存在となった同意書を握りしめ、勢いよく席を立つ。  「私の全てが欲しい……そう言っていたかしら?」  沈黙。詩音の好意や才能を踏み躙った淫獣は、口を開かない。  『An error occurred. If this……』  どこからともなくアナウンスが聞こえるが今はどうでもいい。
 「これが私の答えよ」
 大っ嫌いなクソ女の顔面が吹き飛び、振り抜いた私の拳が漆黒の返り血に染まる。  一呼吸おいた後、心から詩音の無事を願い、静かに目を閉じた。    ***    茜色の空。漣の音。磯の香り……それと、ちょっと焦げ臭い。  そして、私の身体に縋って嗚咽する大切な後輩。  どうやら私は死の淵から生還できたらしい。無事を知らせるため、詩音の頭を優しく撫でる。それでも泣き止まないので、落ち着くまで背中をさすってあげた。  「心配かけたわね。詩音が無事でよかった」  詩音は私の胸に顔を埋めたまま、コクリと頷く。  「先輩も無事?」  「ええ、大丈夫よ」  これ以上、詩音を不安にさせないように気丈な態度をとるものの、重度の疲労を感じ、もはや立つことすらできない。  「ここはまだ危ないから、早く詩音だけでも逃げて」  「やっつけたから、モーマンタイだよ」  詩音が指差す方向を見ると、黒い液体に塗れた水彩画が静かに燃えていた。焦げ臭い匂いの原因はこれか。……やっつけたってどういうことかしら。  些細なことに気をとられている場合じゃない。  先ほどから微かに聞こえる、複数の物音。  何者かが物���で息を潜め、私たちの様子を窺っている。  今や炭になりつつある淫獣の回収が目的か。いや、それは私がでっち上げた荒唐無稽な陰謀論にすぎない。  ここは、電波が届かない人里離れた廃墟。無防備な女二人がいつ襲われてもおかしくない、危険な場所だ。  詩音も気が付いたのか、私に抱きつく力が強くなる。意地でも私から離れないつもりのようだ。高校の時から感じていたが、この子は気が弱いわりに頑固だ。    ――――息が詰まるような空気を、遠くから鳴り響くサイレン音が切り裂いた。    同時に複数の人影が足音と共に遠ざかっていき、私は安堵の息を吐いた。  「もう大丈夫。定刻を過ぎても私から連絡がなかったら、警察と救急に通報するよう、母さんに頼んでいたの」  半分は今のような不足の事態に陥った時の保険として。  「やっぱり先輩はすごい。うん、とてもすごい」  もう半分は、尊敬の念を向けている後輩から刺された際の保険として。……絶対に黙っておきましょう。    ***    ――――事件から三か月後。  結局、私たちを襲った存在の正体は分からず終い。一方、あの場にいた不審な人影は東堂善治を襲撃した闇バイト強盗であった。そのため私達の不法侵入は霞んでしまい、一切お咎めなし。私達の身に何があったか、深く聞かれることもなかった。  まぁ、警察に事情を説明するにしても――――  FusionArtAI社が作ったスライム型の淫獣に襲われてデスアクメしそうになりました。奴らはアーティストの心の記憶に存在する作品データを狙っています。  という私の支離滅裂な説は口が裂けても言えない。それに、FusionArtAI社が不正会計絡みで呆気なく倒産したため、もう追及のしようがなかった。  ちなみに、詩音は黒い液体の正体が亡霊の祟りだと思い込んでいる。だから制汗スプレーとライターで除霊?しようとして、そのまま引火。あの有様となったそうな。  「貴女のおかげで助かったのかもしれないわね」  私の言葉に首を傾げる後輩は、今日も美少女だ。  あの事件以来、私達はお互いの身を案じて一週間に一回は会うようになった。といっても、毎回普通に遊んでいるだけだ。  今日は私の行きつけの喫茶店でまったりとお茶をしている。お紅茶がおいしい。  紅茶の香りの余韻を味わっていると、詩音の手招きが。  またか、と思いつつ耳を寄せる。
 「先輩のケーキ、一口欲しい」
 耳元で囁かれる妙に蠱惑的な声と熱の籠った吐息にゾクッとしてしまう。あの事件で私が晒した醜態から、余計なことを学んでしまったのだろう。  悪戯っぽく笑う詩音。本音を言ってしまうと非常に嬉しいのだが、どうも照れ臭くて顔を背けてしまう。  でも、これから時間をかけて慣れていけばいい。��の事件が私という物語の始まり、いや、――――私達という物語の始まりと決めたから。  二人に降り注ぐ優しい木漏れ日が、これからの日常を祝福しているように思える。  ――――そんな気恥ずかしいことを考えてしまうほど、私こと丸亀飛鳥は幸せだった。
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bunshinovel · 10 months ago
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雑記24.02.10
 ときどき、言葉がなぜそういう形、音になっているのかがきになるというか、引っかかる時があるのは皆日常的に行っていることだとは思わないが、誰もが年に数回は少なくとも思うことなんじゃないだろうかとは思っていて、さっき思ったのは「ひょっとする」の「ひょっ」って何? というものだった。こういうときにインターネットを使うとあっという間に答えが出てくる(ないし、わからないがわかる)、けれど、ここはそれをあえてしないで想像する、ということをしてみよう、というタイミングが来るときもある。これは遊びではあるけれど、なんにせよ、そうやって想像力を試してみるということは悪いことではなく、自分の脳内にあるあらゆることをなんとか、劇場版ドラえもんである描写であせって四次元ポケットからいろんな道具をあれこれ引っ張り出すみたいな、ああいう感じで自分の頭の中にある引き出しをあちこち引っ張ってそこに格納されているあらゆる物事をいちいち手にとって、これでもないあれでもないとやること、のうように想像されるこういうことをやってみることは、楽しい行為であると思う。ということで考えてみるが、「ひょっとして」以外に「ひょっ」が出てくるような言葉があるだろうか。「ひょっとこ」はあるけれど、これは火男の音が変化したものではなかったか、じゃあ「ひょっ」だけでの意味ではないので関係ない、音の感じとして「ひょっ」っていうのは空気を切り裂いているような感じだ、口をすぼめて短く早く空気を吹くみたいな、そういう感じでもある。そしてひょっとするの意味は、もしかして~という意味。だとするなら、これはあるアイデアが頭の中に瞬間的に立ち上がる様を指した言葉で、ある種の擬音語ということになるんじゃないだろうか。と仮説を立てることが出来るのではないか。とここまで考えて、いそいそと検索をしてみる。そうすると、どうも「ふとしたこと」の「ふと」の変化した擬態語らしい。擬音ではなかったか。そしてまた疑問が浮かぶ。「ふと」とは何かと。
 どうでもいいことだが、スーパーで売られている柑橘の種類、この時期は普通のいわゆるみかんと呼ばれる温州みかんの他に、ぽんかん、いよかん、しらぬい、甘平、色々あるけれど、中でもせとか、今年のせとかは、値段が数年前と比べると安くなっているように思う。せとか好きだからありがたい。普通のみかん並みに食べられるようになってほしい。
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helloharuo-diary-2023 · 10 months ago
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過去日記「Novel」からのメッセージ
Wednesday 22 January 2014
坐禅会に行く時間と学校に行く時間はほぼ同じ早朝5時。昨年3月坐禅を始める時にハルオは、考えた。坐禅も良し、そして坐禅を習慣付けて夜型生活を朝型生活に切り替えようと。学校の授業をもっと大切に組んで行こうと。それまでのハルオは、長年夜型生活をしていた。深夜2時、3時は当たり前だった。東京の学校の授業スタートは、朝9:20から。その時間に間に合う為には、御殿場から出発する高速バスを朝6:20の始発に乗らなければならなかった。
今朝は、昨日と同じく禅寺の都合で坐禅会は、お休み。今年に入って増々坐禅修行に取組もうと決意したハルオは、のっぴきならない理由がない限り坐禅会に毎朝参加することを義務づける様にしていた。しかし今日は、坐禅会も休みで学校もあった。茶畑庵から車に乗って御殿場まで進むと雪舞っていた。裾野と御殿場間では、断然御殿場の方が標高高いので雪が降り易い。ハルオは、慎重にドライブをした。道路が凍結したり雪で視界が覆われたりするからだ。
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ハルオは、5:50の高速バスに乗った。昨年秋頃からダイヤ改正があり始発は、6:20から30分繰り上げられていた。余裕を持って東京に行かないといつ何時東名高速内で事故や渋滞に巻き込まれ予定時間を狂わされるのを防ぐ為だった。今朝は順調に進みバスは、7:30すぎに新宿に到着した。ハルオは、時間つぶしにマクドナルドに入ってコーヒーとソーセージマフィンを注文し喫煙席を選んでカウンター席に座った。窓の外は、左右に忙しなく人々が歩いていた。この時ハルオは、気付いた。ポケットWIFIの電源部を���れたことを。それがないとリチャージが出来ないからバッテリーが1日持たない。いつもならインターネットをして時間を潰すハルオだったがWIFIの電源を切って読書に切り替えた。今ハルオが読んでいる本は、「参禅入門」大森曹玄著。1964年、ハルオが生まれた年に出版されたこの本は、読書が苦手なハルオにも読み易い本だった。
新宿駅から市ヶ谷駅まで総武線を使って市ヶ谷の学校まで、電車はいつも混んではいない。学校に着くとジャックダニエルのウィスキーをパロッた音楽イベントの張り紙がエレベーターの横に見た。ハルオは、以前レギュラーで仕事をしていた雑誌を思い出した。今日の授業は、いつもと違い合同プレゼンテーションの日だった。卒業制作を終えた生徒の作品を生徒1人1人プレゼンして行く。プレゼンテーションの会場となる教室に入ると生徒の数は少ない印象を受けた。ハルオは、中央の一番奥の席に座った。それには理由があった。自分の生徒がプレゼンをしたら記録として動画を録りたかったからだ。用意してあった三脚をキャリーバッグから取り出しカメラをセットしようとするとハルオは、又やってしまったと後悔した。三脚のクイックシューを忘れてしまった。静岡と東京の行き来を5年間続けているハルオだがいつも何かしら忘れ物をする自分が嫌だった。にも拘らずまたその過ちを犯してしまった。ただ過ちと言っても旅にトラブルは付き物でそのトラブルをどう知恵を働かせるというのも大事だなと1人納得して済ますハルオもいる。今回は、三脚の上にカメラを置いて手で落下を押さえる様にすることにした。16人の生徒が次々と指名されプレゼンテーションを行った。同世代の女性のポートレイト、卒業後移住する母島の生活のドキュメント、台湾からの留学生は、台湾の古い町並みを撮り、宮崎県の口蹄疫問題で29万頭の牛や豚が殺傷された地元を撮った生徒、巨大物が怖いとその巨大物たる建築物を撮った作品、、、、、様々な作品が紹介された。このプレゼンを真摯に受け止めプレゼン内容の紙に書いて来てる生徒もいれば行き当たりばったりでプレゼンする生徒もいる。後者の方が多く感じた。ハルオは、少しばかりそれで気分が悪かった。そしてハルオにも生徒から意見を求められてハルオは、答えた。「考えること、感じること、その意識を忘れないこと」ハルオは、そうメッセージを送った。メッセージを送っても生徒に受信機がなければ受信ことが出来ない。受信機がなくても時にはメッセージを送り続けることは大切だとハルオは、過去の経験から知っていた。ただハルオは、自分にその資格があるのだろうか?と���自問しながら。
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学校が終ると急いでハルオは、市ヶ谷駅に小走りで向かった。今日は、Uさんのお母さんの告別式だった。告別式の会場は、大森駅からタクシーで10分ほどの臨海斎場だった。ハルオは、急ぐとろくなことがなかった。電車に乗り次は飯田橋駅と知った瞬間「あれれ逆方向?」と乗る方向を間違えたと勘違いをして飯田橋駅で下車。そして逆方向の電車にまた乗った。そしてまた実は間違えていなかったと気付き四谷駅で降りてまた最初の方向の電車に乗車。それは、自分が水道橋駅から乗っていると思ったからだった。水道橋駅には、ハルオのオフィスがありその習慣が仇となった。御陰で臨海斎場までの道のりは遠のいた。大森駅に着いたらまずはバスに乗ろうと考えていたがこのタイムロスとバスの時刻表をネットで見たらバスがこの時間運行していないと知る。タクシーしか手段はないと悟りタクシーに急いで乗り込む。
斎場に到着した時は、告別式の全ての行事が終わっていた。ハルオは、遺影の前で手を合わせて故人のご冥福を祈った。その遺影は、ハルオが撮影した写真だった。昨年Uさんの姪っ子さんが結婚をされた時ハルオは撮影を担当した。その結婚式にUさんのお母さんも参列していた。向き合ってのポートレイトではなくあくまでもスナップショットだったので目線は横を向いていたが遺影の写真として評判が良かった。やはり昨年ハルオの友人のお父上が亡くなりその時も以前ハルオが撮った写真が遺影に使われ、その友人から「ハルオ君は、遺影写真家になれる」と言われていた。奇しくもその機会がまたやって来てしまった。ハルオは、自分が撮影した写真が人の役に立つのなら本望と心の中で思っていた。斎場を後にしUさんとそのお姉さんと3人でタクシーに乗りUさんと故人が一緒に暮らしていた自宅へと移動する。
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UさんとUさんのお姉さんとハルオの3人でタクシーに乗りUさんと故人が一緒に暮らしていた自宅へ移動した。蒲田駅から近いその家に入ると窓の外には、地元の高校が見えた。ハルオとUさんの交流は、20年近くになるがUさんの家には初めて訪れた。つい先日まで故人が使っていた4.5畳の和室には、仏壇があった。斎場の係員が僕らの後から間もなくやって来てお骨と遺影が棚台の上に置かれた。ハルオは、再度故人の冥福を祈った。Uさんは、読書家で本棚にはハルオには縁のなさそうな本がぎっしり並べられていた。UさんもUさんのお姉さんもいつも変わりない表情で告別式の後始末をしていた。僕は、告別式の参列者に用意されたお弁当をソファに座りながら頂いた。この家には、ニーチェという名の雄猫がいる。この猫の話もUさんから何度となく聞いていた。ニーチェは、来客であるハルオを警戒してかあまり姿を見せなかった。コーヒーを飲みながら故人���偲んで思い出話をしたりUさんの少年、学生時代の古いフォトアルバムを見せてもらった。Uさんの大学時代の写真は見た事があったがその前のUさんの在りし日の姿を見たのも初めてだった。ハルオは、もしもUさんが同級生だったらどんな関係になっていたのだろうかと想像していた。悪ガキでもなく、優等生という雰囲気でもなく、生意気そうでもなかった。同じソファに座っていたUさんがニーチェをあやしているとハルオは、ニーチェを自分の膝に引き寄せてみると意外と大人しくしていた。そのニーチェにUさんは驚きiPhoneで写真を何枚か撮った。夕方5時になりハルオは、次の予定、歯医者に行けなければならなかった。Uさんは、ハルオを鎌田駅まで見送ってくれた。
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ハルオは、京浜東北線で鎌田駅から品川駅まで移動した。川崎駅は、ハルオが昔付き合っていた女の子との思い出がある駅だった。あの子は、どうしているのだろうか?会いたいなと思った。そして山手線に乗り換え渋谷駅に行き、更に井の頭線に乗り換え三鷹台駅まで移動した。ハルオは、静岡に移住してからもこの三鷹台にある歯医者に通っている。ハルオは、その歯医者と信頼していた。今回あの治療は、右の奥歯の詰め物が外れてしまったからだった。治療はすぐに終ってしまい時間の予約をして新宿へと向かう。8時発の高速バスになんとか間に合いハルオは、いつもの様に後ろの方の席に落ち着いた。このバスは、超特急便で通常の特急便よりも殆どのバス停を飛ばすので時間が若干乗車時間が短く今夜のバスは順調に東名御殿場バス停に着いた。
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バスから降りて駐車場まで移動したハルオは、いつもの「Today's Fashion」の撮影をすることにした。ストロボを使わずに駐車場の灯りと高感度ISOの組み合わせで撮る。カメラは、駐車場に駐輪してあった誰かの自転車のサドルの上に設置しセルフタイマーを使って10秒後に3枚が撮れる設定にして3回繰り返した。ハルオの愛車のアーティ21スペシャルのフロントガラスは、凍り付いていた。間スプレーの解氷剤を窓に吹き付け、暫くして車を走らせた。
茶畑庵に着く前にスーパーマーケットに寄りタイムオーバーで半額になった焼き鳥や刺身を夕食に買う。茶畑庵も冷えきっていた。ハルオは、1週間前Uさんから分けてもらっていた遺影用の写真をフォトフレームに入れてあったので仏壇の横に置き鈴を鳴らしてもう一度手を合わせて故人の冥福を祈った。
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disolucion · 1 year ago
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22 ルーティーン
東京生活三日目。
アラームで起きる。マンションから歩いて東大理学部へ。
今日もオブザーバーとして検討会に参加。昨日より少しわかる。 負のエネルギーっていうのを使うのか使わないのか。 『ひも』が二種類ある。長いひもと、波のひも。 安定しないとダメだけど安定するのはもっとダメ。 そんな話をしていることはわかった。
その後、病院へ移動。検査してお昼食べて身体測定。
ここまでがルーティーン。
脳波はついに異常がなくなり普通になった。 ああ、来る… ついに… 骨髄液検査が… 明日抜くそう。脳波異常カムバック! 身体は身体測定効果と規則正しい生活で鍛えられつつある。
ルーティーンが終わったら電車で銀座に向かう。
キャリアショップで再発行されたSIMを受け取った。 すぐ家に連絡をしたかったが、慌ただしいからマンションに帰るまで我慢。 マンションに着くと、帰りが遅いとノダさんが心配していた。 新妻感がすごい。なにこれどういうプレイ? ひとまず帰宅が遅くなったことを謝り、こういう場合にと連絡先を交換した。
夕食を食べ終わり、携帯が手に入ったと家に連絡をした。 説明がややこしいから、東京の病院に転院したことにしておいた。 元気でいること、まだ帰れないこと、お金の心配はいらないことを伝える。 スピーカにしてもらい息子二人とも話した。 長男は、事故で帰れないとかありえないと怒っている。 次男は、身体は大丈夫なのかと心配してくれている。 もう少ししたら帰る、ママが困っていたら助ける��はお前たちだと頼んだ。
―――――
東京生活四日目。
土曜日なので、午前中に検査のみ。
脳波に異常はない。他にも異常なし。 検査員から、もう検査の必要なくね?という空気が流れている。 しかし、骨髄液検査は実施された。痛いなんてものじゃない。 この検査考えた奴に週に一度やらせたい。そしたら別の方法考えるだろう。 身体測定という名のトレーニングも土曜はない。
検査が済んだらマンションまで歩いて帰る。 土日はノダさんが来ないので、買い出しに行く。 夜はお好み焼きにした。あんまりおいしくなかった。
―――――
東京生活五日目。
完全休日な日曜日。暇だったので上野まで歩く。
なにか欲しいものあったかなと考えながらブラブラする。 あ、PCがあれば便利だし暇つぶしにもなるし、なんなら仕事も。 そう思って秋葉原まで足を伸ばす。適当なノートPCを手に入れた。 御茶ノ水で乗り換えて丸ノ内線で本郷三丁目へ。
254号沿いのコンビニで夕食の弁当を買って帰る。 路地に入るところで、なんとなく振り向いたら、 道の向こう側にノダさんらしき女性の姿を見かけた。 すぐに見失ったけれど、ノダさんだったように思う。
マンションに戻って、モンテビデオのストリートビューを眺めた。 ヨハンヨンが直進した交差点の先にアメリカ大使館があって笑った。 なにがセーフハウスだよあの野郎。まあ、二度と会うことないだろうけど。
―――――
東京生活六日目。
研究者からは置物扱いされ、検査員からは予算の無駄扱い。 身体測定は拷問に思えてきた。いきなり身体強化されないって… そんな、理科赤点の健康優良中年だけど元気でやっている。
最近、駅前で毎日見かける男がいる。今朝も見た。 サイドと後ろをジョリジョリに刈上げ、上だけツンツン頭。 白いダウンを来た吊り目の男。縦にも横にも大きい。
いよいよ極秘任務に就いているノダさんの出番だと思った。
身体測定が終わって着替えたら、すぐにノダさんに連絡を入れる。 まだマンションにいるか尋ねると、いる、というので待っていてもらう。 いつもは入れ違いで帰ってしまう。 別の場所から監視しているのだろうけど。
マンションに着くと、ノダさんが待機してくれている。 ちょっと待っててと、テーブルにノートを広げて、 毎日見かける白いダウンの男の似顔絵と、脇に特徴を描いた。 ページを破ってノダさんに渡す。
「一昨日から今日まで、毎日見かけた男です。駅のあたりにいます」 「なぜ、私に相談を?」 「ハヤセさんの連絡先を知らないんですよ」
本当はハヤセさんの携帯番号は知っているよ。 でもこれはノダさんの管轄だと思ったから。
「わかりました。誰か頼れる人を探してみます」
彼女は似顔絵を畳んでポケットにしまい、足早に部屋を出て行った。
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sencablog · 1 year ago
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Loved
【2018年11月公開ssの転載】
ドリィムシリーズ・直人の過去恋愛話スピンオフです。
前・中・後編を一つにまとめてます。
一夜以外とのカップリングストーリーですので、攻略対象の脇カップリング等が苦手な方は、閲覧非推奨です。 また、直人は中学生、カップリングとしては『受け』立場ですので、そのような立場逆転が苦手な方もご注意ください。
終盤にちょっとだけ一夜が出てきます。
 直人がその男性に出会ったのは、人もまばらな、夜のライブハウスだった。  駅前を通り過ぎ、路地裏に入った先の地下にある、小さなライブハウス。その場所のオーナー��知り合ってから、直人がそこへ足を運ぶのは、これで数えて2度目だった。  当時、直人はまだ齢十四の中学生だ。看板の灯りが点くその時間、本来なら、未成年は立ち入れない時間帯だった。  だが、ライブハウスオーナー――橋元の厚意で、直人はマイナーなバンドが代わり替わり音を奏でるステージを、大人たちから少し離れた後ろの方で、ぼんやりと眺めていた。  直人が気になるバンドの出番は、まだ少し先だった。今の演者は全くと言っていいほど興味がないし、好みにも掠らない。  こうして物事に対する興味が極端に薄くなったのがいつからかは、直人自身にも解らなかった。  ただ、気がついたときには"好奇心"というものが自分の中から消えて、与えられるものをただ受け入れる、そんな人生を歩み始めていた。  直人は、ステージの近くでバンドマン達と盛り上がる一部のファンを視界に入れながら、紙コップに入った烏龍茶を一口、飲み込んだ。  ――きっと、自分は好きなバンドが演奏を始めても、あんな風に騒ぐことはないだろう。  喉を下る冷たさを感じながら、そんなことを頭の片隅で考える。同時に、諦めにも似た喪失感が自身を襲った。 「……っ?」  瞬間、直人の体へ衝撃があった。それに合わせて、殆ど減っていなかったカップの中身が僅かに飛び出す。 「うっわ、ごめんね」  知らない男の声と同時に、直前まで吸っていたのか、煙草の香りが直人の鼻腔を突いた。 「いえ……」 「服、濡れたりしなかった?」 「……大丈夫です」 「そう、よか……って嘘じゃん。袖んとこ濡れてるよ」  男は困った様子で上着のジャケットからポケットティッシュを取り出すと、直人へ差し出す。 「ごめん、これしかないや。早く拭かないと染みになるかも」 「……どうも」  直人がポケットティッシュを受け取るも、男は空いた手をそのまま差し出し続ける。 「……?」  直人は一瞬訝しげに思うも、すぐにカップを代わりに持つ気だと悟り、入れ替えるように差し出した。  男にカップを預けると、改めて、濡れた袖口に目をやる。  薄い色の服だったため、洗うまで跡は残ってしまいそうだった。  ……自分自身は別にかまわないけど、母親が煩そうだ。  少しだけ滅入った気分を感じながら、直人は受け取ったティッシュで、濡れた部分を拭き取った。 「……もしかして、高い服だった?」 「え?」 「いや、不機嫌な顔してるから」 「……すみません」 「ん、なんで君が謝る? 汚したの俺だから。弁償しようか?」 「そういうのじゃないので。……ありがとうございます」  直人は残りのティッシュを返そうと、男へ差し出した。 「ああ、あげるよ。それ配ってたから貰ったやつだし。……はい、改めてごめんね」  男は人のいい調子で言いながら、直人へ烏龍茶の入ったカップを返した。  直人は一瞬迷うも、カップを受け取ると、そのままティッシュをポケットへしまった。 「ところで君、未成年だよね」 「……」  これで去るだろう、と思っていた直人に、予想外の質問が投げられる。  バツの悪い質問に慣れ慣れしさまで感じて、直人は気の重さから、思わず視線を床へ落としていた。 「高校生?」  男は直人の隣で壁に寄りかかると、視線を拾うようにしながら問を重ねた。 「…‥ああ、別に注意したいわけじゃないよ。ただの興味」 「……ここのオーナーと、知り合いで」  多少の面倒さを感じつつ、引き気味に答える。 「ああ、橋さんの知り合いかあ。あの人その辺ユッルイもんなあー。もう高校も卒業するしいいよね、みたいな?」 「……高校生じゃない」 「え? ああごめんね、大学生だったか」 「……」  直人は、おもむろに財布を取り出すと、一枚のカードを男へ示した。 「……あっは、マジかあ。そうは見えなかったわ」  それを見た男は、途端に戸惑ったような声を上げた。  直人が男へ見せたのは、塾の生徒証だった。男は"高校受験コース"の表記があるカードを見て、直人が中学生であることを理解した。 「で? 今日は誰見に来たの? それとも暇つぶしの冷やかし?」 「……」  直人は一瞬、事実を知って男が去ることを期待したが、結局すぐに気を取り直して話を続け出した男に、本格的な面倒さを感じ始めていた。  もともと、あまり人との交流が好きではなかった。考えなしに踏み込んでくる相手も、苦手だ。 「……あっは、解りやすいなあ」 「……」  だが、次に耳へ飛び込んだ言葉で、直人は思わず男へ視線を向けていた。すると困ったように笑う、耳のあたりで軽くパーマがかった黒髪の男が目に入る。 「俺ね、今日恋人に振られちゃってさあ。橋さんに愚痴ってたら、たまたま好きなバンドが出るのに気がついて、応急処置で気分上げに来たんだよね」 「……」 「慰めるつもりで、今日のところは俺の相手してよ。���当でいいからさあ」 「……俺、そういうの向いてないタイプだと思うんですけど」 「だからだよ。変に共感してくれる人より、全然興味持ってくれない人の方が楽な時もあるんだよ。君くらいの年齢相手なら、プライドも捨てられるし」 「……」  直人は少し考えたのち、そっと、セットリストに書かれたバンド名の一つを指さした。 「え、本当に?! ちょっと君、いい趣味してるじゃん!」  とたん、一転して男のテンションは上がる。 「俺も今日そいつら見に来たの! え、どこで知ったの?」 「……、」  直人は男の反応へ少しだけむず痒いものを感じながら、質問へ答える。  こんな小さいライブハウスでやるような、マイナーなバンドだ。当然、いままで直人の周りに知っている人間はいなかった。  直人は積極的に人に勧めるような性格でもない。ましてや、相手は名前も知らない年上の相手。好きなものの話題で共感しあうなど、初めての経験だった。  それから、二人は最後のアンコールが終わるまで、同じバンドの話を交わし続けた。  どの曲が好きなのか、こんな話は知っているか、今日の演奏にミスがあった――。この時の直人にとって、これらの会話は学校の友人と交わすどの会話よりも、魅力的なものだった。  *** 「いやあ、今日はありがとうね。今まで、振られたこと忘れてたよ」  ライブが終わり、すっかり夜も更けた頃、まだ少し余韻の残るライブハウスの外へ出て、男が切り出した。 「……こちらこそ」 「あっは、最初面倒そうにしてたから、その言葉聞けてよかったよ。……あ、俺バイクなんだけど、帰り送ってこうか? 学生一人じゃ危ない時間でしょ」 「大丈夫です。そんな遠くないし、ニケツとか、親にバレたら怒られるんで」 「そ。あ、それとさ、またここ来る? 連絡先教えておくから、良かったらまた話そ」  そう言うと、男はチケットの半券とペンを取り出して、連絡先を書き出した。  直人が返答に迷っている間に、早々に書き終えた男がメモを差し出す。直人は、反射的にそれを受け取っていた。  『ニシモリ ミノル』という名前の下に、アドレスと電話番号が記されている。 「……どうも。……俺は」 「橘直人くん」 「……」  直人は一瞬意表を突かれるも、先ほど塾の生徒証を見せたことを思い出す。 「……はい」 「しっかりしてそうなのに変なとこ抜けてんだね。あんま知らない人に名前わかるもん見せちゃダメだよ」 「……」 「じゃ、直人。気をつけてな」  ニシモリと名乗った男は、ヒラヒラと手を振りながら一方的に告げて、駐輪場へと向かっていった。  直人は、あまり感じたことのない、悔しさにも似た奇妙な感情を覚えながら、再び手渡された連絡先へ目を向ける。  自分から連絡することがないのは明白だった。  けれど、また会えるなら、それはいいかもしれないと思った。  直人は渡されたメモと、一度ポケットにしまった、本日二個目になってしまったポケットティッシュを鞄へしまうと、帰るために駅へと歩き出した。 ***  数日後。  直人は学校帰りに、先日も来たライブハウスへと立ち寄っていた。  とはいえ、今日、直人はライブを見に立ち寄ったわけではなかった。  直人は音楽の道に興味があることもあり、これもまた橋元の厚意で、自由にライブハウスへの出入りを許可されていた。  そうして時折、店にあるギターなどを触らせてもらっていたのだ。 「西森君から聞いたよー、直人」 「……何を?」  好きな曲の耳コピーでもしてみようかとギターを構えたところで、直人はオーナの橋元に、からかうような調子で声をかけられた。 「この間のライブの時、二人共仲良くなったらしいじゃん」 「……まあ」 「珍しくない? 直人、学校でもぼっちだろ?」 「ぼっちではない」 「直人はあれかなー、同年代の子より大人といる方が波長が合っちゃう子なのかなあ。あ、あとね、今日、西森君来ると思うよ」 「……来るの?」 「直人が来たら教えてって言われたから、連絡しておいた」 「……」  その言葉に、直人は小さく息を漏らした。  あの日以来、特に直人の方から西森へ連絡を入れたことはなかった。  それは、西森に関わりたくなかったから、という訳ではなかった。単純に、神経を使ってまで連絡するのが嫌だったからだ。  けれど、橋元へそんなことを言っていたということは、きっと、相手の方はある程度、自分からの連絡を待っていたのだ。  だとしたら、会えば「なぜ連絡をくれなかったのか」と聞かれるだろう。  それが、直人にとって、少し気が重い案件だった。  紛らわすように適当に一度弦を弄んで、それにしても、と直人は思う。  自分が面白い人間でないことは、直人自身が一番よく理解していた。  それなのに、わざわざ来たことを伝えるように頼む西森の行動が、直人にはよく理解できなかった。  ましてや、自分はまだ義務教育も終えていない学生で、西森は、少なくとも煙草が吸える年齢だ。――こんな子供を相手にして、楽しいものなのだろうか。  一度考え出すと深みにはまってしまうのが、直人の昔からの癖だった。振り払うように、直人は出だしのコードを模索して、弦を弾く。  ……ああ、この音だ。――そのまま直人が更に続きを弾こうとした時、部屋の扉が開いた。 「お疲れ様でーす」  数日前に聞いた声が、室内へ響き渡る。  直人も、一度手を止めて扉の方へ視線を向けた。 「あ、本当に直人いる! 久しぶり」 「……どうも」  直人は西森の明るい表情に対し控えめに返して、少しだけバツの悪そうな表情を浮かべた。  おそらく切り出されるであろう、なぜ連絡しなかったのかという質問へ、身構える。 「あれ、ていうか直人ギター弾けんの?」 「……、少しなら」 「え、少しってほどでもなくない? 俺は将来有望だと思ってるけどなあ」 「マジ? 橋さんのお墨付きかあ。弾いてみてよ」 「……聞かせられるものじゃないので」  直人はそう言うと、興が冷めたとでも言うように、ギターをスタンドへ戻した。 「ほらー、橋さんが期待させるようなこと言うから辞めちゃったじゃん」 「直人は少し自信と度胸つけなきゃいけないんだから、この位でいーの」 「え、っていうことは何? プロ志望?」  見開いた目が直人を捉える。直人は、その視線に「まあ」と遠慮がちに答えた。 「へえー、成る程なあ。あ、じゃあさ、今度俺んち来なよ。ギター弾き放題だよ」 「……西森さん、弾くんですか?」 「ああ、いいんじゃない? ついでに、西森君にギターちゃんと教わったら?」 「……」  橋元の後押しするような言葉に、直人は西森への視線を改めた。  直人は、橋元の目利きをかなり信頼していた。その橋元が教わる事を薦める相手なら、それなりの腕の持ち主であることは容易く想像できた。 「……西森さんは、なんでギターを?」 「あっは、俺、元バンドマン」 「一時期、うちの箱でも結構人気だったんだよ。若くしてポテンシャルすごくてねー、期待してたんだけど解散しちゃった」 「なんで」 「定番、音楽性の違い」  冗談のような口調で、西森が言った。 「そういうことだから教えることもできるし。多分、直人よりは弾けると思うよ? ちょっとブランクあるけど」 「……考えておきます」 「うん、いつでも言ってね。橋さん、俺ちょっとニコチン入れてくるね」  そう言うと、西森は早々に部屋を出ていった。 「……西森さんって、いくつ?」 「ああ、21だよ。大学生」 「へえ……」  予想通りの年の差に、直人は再び解せない気持ちが湧き上がる。  同じものが好きという親近感だけで、ここまで気にされるものなのだろうか。  ふと、直人は思い出したように時計を確認して、すでに帰宅したほうがい��時間になっていることに気がついた。 「……そろそろ帰ります。ありがとうございました」 「お、そんな時間かー。おつかれー」  橋元に一礼して、直人は急ぎ足気味に、地上への階段を上��た。  そうして建物を出ると、すぐに煙草を吸っている西森の姿が目に入った。 「あれ、帰るの?」 「……親に苦い顔されるので」 「へえ、大変だね。気をつけてね」 「……どうも」 「あ」 「?」 「さっきの話、考えといてね」 「……はい」  微笑みながら手を振る西森へそれだけ答えて、直人は足早に駅へと向かった。  改札を抜け、丁度来た電車に乗り込んでふと、そういえば、と思い出す。  連絡しなかったことに、西森は全く触れなかった。  ギターの話をしていたし、たまたまだったのかもしれない。けれど、聞きたそうにしていたか、と考えると、そうでもないような気がした。 「……」  すっかり日も落ち、ビルの明かりが流れていく電車の景色を眺めながら、直人はイヤホンから流れる音楽へと耳を傾ける。  先日のライブで聞いた曲が流れるたび、直人の脳裏に、西森の顔がちらついた。  その夜、直人は初めて、新く追加されたアドレスへ、メールを送った。 ***
 ――直人が西森へ初めてのメールを送ってから、最初の土曜日。  直人は、自分の家から数駅離れたアパートの一室へ、足を踏み入れていた。  元々は白かったのであろう壁の一部は、煙草のヤニを受け止め続けて、黄色く変色している。臭いも顕著だ。それだけで、この部屋の持ち主がヘビースモーカーであることが伺えた。 「適当に寛いでよ。あ、それとも早速弾く?」  部屋の持ち主である西森は、飄々とした調子で、肩身の狭そうな様子を見せる直人へ言った。 「……」  直人は返答に困ったように一度辺りを見回すと、一先ず、落ち着けそうなところへ腰を下ろした。 「あっは、そんな畏まんなくっていいって。適当にいこうよ、適当に」 「……いえ……」 「あー、お互いのことよく知らないのがいけないのかな。なんだかんだ、そんなに話してないしね。んじゃ、なんか話すか」 「……、」 「手始めに、直人、飲み物なにが好き?」  勢いよく言葉を重ねてくる西森に気圧されるものを感じつつ、直人も必死に言葉を捻り出す。 「……水?」 「あっはは、要はなんでもいいってことだな! 適当に持ってくるからちょっと待ってて」  直人の返答に笑い声を立てると、西森はキッチンの方へ姿を消していった。  直人はそれを確認して、小さく一度息を吐いた。  まだよく知らない、年上の人の部屋に来て、緊張しないわけがない。  直人は、過去に西森へメールをした自分を、少し恨めしく思った。こういった、落ち着かない状況が、直人は何よりも苦手だ。そこへ、解っていたのに自分から飛び込むようなことをしてしまった。  やっぱり、早々に帰ってしまおうか。西森に対し、この先どう立ち振舞っていいのか解らない。  直人がそんなことを考え始めたとき、西森が、直人のもとへ戻ってきた。  透明な液体の入ったペットボトルが、直人の前に置かれる。 「……ありがとうございます」  直人は、置かれたそれをまじまじと見る。店でよく見る、ミネラルウォーターのパッケージが直人を見つめ返していた。 「なにがいいか考えたけど面倒になったから水持ってきた。好きなんだろ?」 「……まあ……」  西森を見ると、西森は缶コーヒーを手にしていた。腰を下ろすと、早々に飲み始める。 「……ん? やっぱコーヒーが良かった?」 「……いえ……」 「冷蔵庫ん中にあるから、飲みたかったら勝手に取ってきていいよ。熱いのがいいなら粉あるし」 「どうも……」  そんな西森の態度を見て、先ほど直人の脳裏にあった、帰ろうという考えは消え去った。  この間から、なにかと直人の中ではこういったパターンが目立っていた。  直人が一人気にし出して後ろ向きになることを、西森が自然と覆していく。 「……」  ――俺は、気楽さを感じているのだろうか。  直人の中に、一つの考えが湧き上がる。浮かんだそれは直人にとって、とても貴重な感情だった。 「直人って基本喋んないんだな。大丈夫? 学校でちゃんと友達いる?」  伺うような西森の視線に、直人は「はっ」とする。 「います」 「そ? ならそのクールさちょっと分けて欲しいわ。俺なんて前の恋人にウザイって言われたもん」 「……」 「もしかして、直人もそう思ってる?!」 「……そんなことは」 「つーかさ、俺にも橋さんみたいな感じで接してよ。橋さん、俺より年上なのに直人もっと砕けてたよね」 「橋元さんは……、親戚のおじさんみたいな感じなので」 「わっは、おじさんっ! そっか、中坊から見たら橋さんはおっさんだよなー。本人聞いたら傷つきそうだけど」 「……すみません」 「はは、面白いからそのままでいいよ。……俺は? 俺はギリギリお兄さんでしょ?」  ニヤリ、と、試すような、それでいてからかうような視線で、西森が直人を見る。  直人は思わず視線を逸らすと、小さく頷いた。 「よかったー。今度橋さんに自慢しよっと」  直人が視線を戻すと、西森の楽しそうな表情が目に入った。  だが、そこまで楽しそうにする理由が直人にはいまいちピンとこず、不思議そうな表情を浮かべてしまう。  自分と話して、こんな反応をされることも滅多になかった。 「はい。じゃあ次、直人の番」 「え?」 「親睦を深めるために俺のことなんか聞いて。なんでもいいよ、今日の朝飯でも、明日の天気でも」  考え、いま��での西森の言葉と態度で、直人の中に、僅かな好奇心が湧き上がった。 「……明日の天気」 「雨」 「……本当に?」 「ほんとほんと。俺の予報結構当たるから」  西森の適当そうな言葉が返る。直人は徐々に、言葉を投げかけるのが楽しくなるのを感じた。  それはライブハウスで出会った夜、同じ話題で盛り上がった時に、とても良く似ていた。  ――この人と話すときは、何も考えなくていいのかもしれない。  直人のその気づきは、普段は無口な直人から、言葉を引き出す鍵になった。 「……あの」 「ん?」 「もし、昔作った曲とかあれば……聴いてみたいんですけど」 「おっ、聞いちゃう? ちょっと待って、どっかに音源あると思うから」  言うやいなや、西森は生き生きとした様子で引き出しの一つを漁り出す。  恥ずかしげの欠片もない西森の態度に、直人は尊敬の念を抱く。  自分なら、きっとあんな対応はできない。先日のように、聴かせるられるものじゃない、と一蹴してしまう。  ……こんなことじゃ、いけないのだろうけど。  直人が自己嫌悪に陥りかけていると、一枚のディスクを手にした西森が戻ってくる。 「インストだけど。作曲はボーカルで俺は編曲。割と気に入ってるほうかな」  そう説明しながら、西森がCDをプレイヤーにセットする。 「橋さんは俺たち人気だった、なんて言ってたけど、あくまで内輪の話だからあんまり期待しないでね」  かち、と、再生ボタンを押す音が室内に響く。  数秒後、ギターの音を筆頭に、曲が流れ始めた。  ���ースやドラムが混ざる中でも、直人は特に、ギターの音に集中する。  安心して聴いていられる、安定した演奏。逆に、時折微妙に乱れるベースの音が気になるほどだった。 「……うっわ、懐かしくて恥ずかしくなってきた! 俺、煙草吸ってくるから、適当に聞いてて」  直人があまりにも真剣に聞いていたせいか、西森はそう言い出すと、煙草を手にしてベランダへ消えていった。  直人は西森の行動に少しだけ驚きながらも、すぐに曲へと意識を戻す。   橋元さんの目利きは、やはり間違っていない。――そして、このギターが、とても好きだ。    それから直人は、西森が戻ってくるまで、ずっと一人、曲を繰り返しかけ続けていた。 ***  その後、直人たちは部屋を移動して、ギターを弾き始めることにした。  西森は、CDの曲の感想について、直人に何も聞かなかった。そのため、直人も西森のギターがとても気に入ったことを、伝えそびれていた。  改めて直人が案内された部屋には、ギターが二本と、編曲に使っていたのであろう、音楽機材が置かれていた。  西森の自室と違い壁の変色はなかったが、その代わり、自作と思わしき、防音の壁が作られていた。 「ギターは好きな方弾いていいよ。違いとかわかる?」 「……一応」  直人は、二種類のギターへ近寄ると、まじまじと観察する。  学校や塾の帰り、楽器屋に寄ってギターを眺めたり、好きなアーティストが使用しているギターを調べたりと、それなりの知識は頭に入れていた。 「つーか直人はさ、そんなにギター弾きたいのに持ってないの? ……まー、安いもんでもないか」 「……値段もあるけど……、親が、こういったことに批判的なので」 「ふーん。前にも思ったけど、直人んちって親が厳しそうだよね」 「……」  直人は、西森の言葉を無視して、片方のギターを手にする。あまり、家のことは話したくなかった。 「俺も直人にはそっちが合ってると思うなあ」  西森は、直人の感情を悟ったのか、単純に興味がなかったのか、すぐに話題を切り上げて、直人の手にしたギターへ話を移した。 「……弾けんの?」  挑発するような視線を直人へ向けて、西森が言う。  もちろん、ギターが弾けるのか、の意味ではない。"人前で"弾けるのか、という問いだった。  直人は、暫し無言で視線を落とすと、部屋にあった椅子へと移動する。  そうして、音を確かめるように、何度か弦を弾いた。  西森はそれを見て、小さく笑う。直人は気づかないふりをして、何を弾こうか、と、最初の音を探り出した。 「ねえ、このあいだの弾いてよ」 「……このあいだ?」 「俺が来るまで、なんか弾こうとしてたじゃん」 「……」  ああ、と、直人は思い当たる。耳コピーをしようとして、西森が来たから中断した曲だ。  直人は言われたとおり、最初の音を弾こうと指を添える。 「あ、ちょっとたんま」  と、その瞬間、西森から静止が入った。 「……?」 「あの時、なに弾こうとしてたか当てるから」  言うと、西森はCDラックから一枚のケースを取り出し、直人に見せた。 「このアルバムの3曲目」 「……」  正解だった。直人は驚くも、聞き込んでいれば最初の一音で解るものかも知れない、と思い至る。  実際、自分も最初の音を見つければ後の音も続けられる。この曲が好きなことは知っているし、イントロクイズのようなものだ。 「コピーすんだろ? 原曲は聴きながらのほうがいいよ」  はい、と、西森はポー��ブル型のCDプレイヤーとヘットホンを直人へ手渡す。  直人はそれを躊躇いなく受け取ると、装着し、再生ボタンを押した。  元の曲を聞きながら、ギターのパートを一つ一つ確認していく。  西森はそんな直人の姿を、少し離れた壁に寄りかかりながら見守っていた。 「直人見てるとノスタルジックになるわ。昔の自分思い出して」 「……」 「あ! 今ちょっと嫌な顔しただろ?!」 「……別に」 「嘘つけ。言っとくけど、お前結構わかりやすいからな」  そんなやり取りをしながら、直人は自分の口角が小さく緩むのを感じた。悪くないやりとりだった。  その後、直人は好きにギターを弾き、なにかの曲を演奏すれば、西森が所々でアドバイスを語った。  西森は、直人一人ではいつ気が付いたか解らない、色々な技術を教えてくれた。だが、直人は技術を教わる喜び以上に、自分が好きだと思える弾き手に教えてもらえることが、嬉しかった。  そして気付けば、外は暗くなり、直人が帰らなければならない時間も近づいていた。 「……」  携帯で時間を確認して、直人は名残惜しくなるのを感じた。  直人にとって、家は決して居心地のいい場所ではない。息苦しくて、常に親――特に母親の――顔色を伺わなければいけない場所だ。 「なあ、直人んちって門限破ったらどうなるの?」  そんな直人の様子に気がついたのか、西森が何気ない調子で問いかけた。 「……怒られる」 「まあ、それはそうだろうけど。普通に怒られるのとは違うの?」 「……うまく言えない。ただ、普通に怒られるのとは違うと思う」 「へえー……」  西森は曖昧な返事をしながら、直人をじっと見つめる。その視線に、直人は気まずさから思わず視線を逸らした。 「……帰りたくないんだよね?」 「え?」 「俺のこと利用してみる?」  にやり、と、今日何度目かの試すような笑みを浮かべる。そして直人は、今ようやく、その笑みの中にいたずらっぽいニュアンスが含まれていることに気がついた。 「うまいことやれば、今日は帰んなくて済むかもよ?」 「……だけど……」 「あっは、お利口さんだなあ。最初に会った時からずっとそうだよね」 「……」 「直人の親ってさ、子供の交友関係とか全部把握してるタイプ?」  直人はいきなり何を、と思うも、西森の考えが気になって、質問へ答えることにする。 「……むしろ、全然気にしてないと思う。多分、信頼してくれてるんだと思うけど」 「はは、子供信頼してる親が、息子にそんな顔させる訳無いじゃん」 「……」 「携帯貸してみ?」 「……?」  直人は訝しげに思いながら、西森へ携帯を差し出す。  西森は携帯を受け取ると、なにやら操作をして、直人の携帯からどこかへ電話をかけ始めた。 「……、」  西森の行動に気づくと、直人はすぐさま携帯を取り返そうと手を伸ばす。  なんとなく、どこへかけたのかは予想がついた。  が、直人が携帯へ伸ばした手は、ひらりと軽快な動きで交わされてしまう。 「ちょ……」 「ああ、どうもお世話になっております。私、直人君のご学友の兄で橋元と申しますが」 「……?!」  わざとらしい声色で吐き出された言葉に、直人は言葉を失った。 「いいえ、こちらこそ。……ええ、ご本人もそばにいますよ」  西森は、普段の適当そうな態度とは打って変わり、真面目な態度で話していた。  直人の母親にかけたのであろうことは、直人にも予想がついた。ただ、何を言おうとしているのかまでは、予想がつかなかった。 「……はい。それで、私は���学生なのですが、今日は弟と一緒に、直人くんの勉強を見させていただいておりまして――」  それから西森が電話を直人に代わるまで、直人はただ、呆気にとられながら成り行きを見守ることしかできなかった。  西森は最後まで、臆面もなく、直人の母へありもしない話をつらつらと並べていた。  直人が傍目から理解できた、西森の作り話はこうだった。  ――橋元の名を借りていない弟の存在を作り出し、直人と共に勉強を教えていた。直人はとても優秀だったため、本人の希望もあって、このまま泊まり込みで勉強を教えたい――。  もともと、外では人のいい顔を浮かべる母親だ。この申し出を、断る可能性は低かった。加えて明日は休日だ。尚更、断る理由は少ない。  結果、最終的に直人に電話を代わり、絶対に迷惑をかけるなということ、そして、後日お礼を持って行きなさい、という約束だけして、母親は通話を終えた。 「……」  直人は暫く、受け取った携帯を眺めるしかなかった。確かに名残惜しさは感じていたが、泊まる気など微塵もなかったし、こんなことになるなど考えてもいなかった。  そして、明日母親の顔を見るのが、少しだけ怖かった。 「あれ、浮かない顔してるね」  西森は、椅子の背もたれに肘を起きながら座ると、直人の顔を覗き込んだ。 「……、……勝手に進められても」 「迷惑?」 「……」  直人は視線を逸らす。厚意でしてくれたことなのは解るため、頷くことはできなかった。 「でも、結果は良かったじゃん? なにを気にする必要がある?」 「……建前とか、大人の対応とか、そういう……」 「そういうのさ、面倒くさくない?」 「……」 「いいならいい、嫌なら嫌でいいじゃん。大体、勝手に話進めたけど、俺、強制はしてないよ。選択肢を与えただけ。帰りたかったら帰ってもいいんだよ」  直人がぎこちなく視線を西森に向けると、西森は何でもない表情で、直人のことを見つめていた。 「……なんで……」 「別に。そのほうがお互いウィンウィンじゃねって思っただけ」 「……お互い?」 「興味ない相手は構ったりしないでしょー。直人、あんまりガキっぽくないし、俺は一緒にいて結構楽しいよ。音楽の趣味も合うしね」  そう言って、西森は笑顔を浮かべる。  その顔を見て、直人は再び言葉に詰まった。――こんな好意の向けられ方をしたことは、今までなかった。 「一日くらいハメ外してみなよ。これ本当は内緒だけど、橋さんも心配してたんだよ。直人はいつも肩身が狭そうだって」 「……」  橋元が自分のことを気にしているのは、直人も薄々気がついていた。かと言って、橋元は積極的におせっかいを焼くほうでもない。だから、直人も適度な距離感で付き合っていた。  だが、こうして西森に行動されたあとに伝えられると、自分が思っていたよりも心配をかけていたように感じて、込み上げてくるものがあった。 「……はい」  少しして、直人は静かに、頷きを返した。 「あっは、ほんと面倒くさいやつ! とりあえず飯にしよ。いい時間でしょ」 「あ……」  リビングへ移動しようとする西森を、直人が静止する。 「ん? 腹減ってない?」 「いや……、なんなら、作りますけど」 「え、作れるの?!」 「両親が忙しい時とか、俺が作るから」 「うっわ、マジか。……うーん、でもまた今度でいいや」 「……そう、ですか」  そう言うと、西森は先に部屋を出ていく。  直人は「また今度」という言葉に少々疑問を覚えつつも、急いで西森の後を追った。 ***  夕食を終え、先に入浴を済ませた直人は、西森の自室でぼんやりと座っていた。  こんな時間に自宅以外の、それも、出会って数回の人物の部屋にいることなど、直人は初めてだ。  緊張よりも、不思議な感覚がずっとまとわりついていた。 「……お、服のサイズぴったりだね。やっぱ直人デカいよな」  タオルを頭にかけて戻ってきた西森の声に、直人は振り返る。 「俺も最初解んなかったし、年齢間違われること多いでしょ」 「……まあ、割と」 「だよねー。あ、そう言えばさあ……」  西森は置きテーブルのそばに腰を下ろすと、置いてあった煙草の箱から中身を一本取り出して、トントンと机で弄ぶ。 「さっき直人の母親に電話した時、うしろで子供の声してたんだけど、あれ弟?」 「……そうだと思います。8歳下の弟がいるので」 「うわ、直人お兄ちゃんかー。なんか納得」 「……そうですか?」 「うん。俺、一人っ子だからこんなんに育ったんだと思うもん」  言いながら、西森は「あはは」と愉快そうに笑った。 「でも、直人いいお兄ちゃんなんだろうなー。さっき電話の時、うしろで嬉しそうに『直人から?』って聞いてたし」 「……仲がいいとは思うけど」  答えて、直人の脳裏に弟の顔がよぎる。少しだけ、帰らなかったことへの罪悪感が湧き上がった。  弟の隆弘は、あからさまなお兄ちゃんっ子だった。両親が忙しいせいもあってか、休みの日などは、よく直人と遊びたがった。  もしかしたら、今日は退屈な思いをしているかもしれない。 「あ、ところでさ。これもあとで聞こうと思ってたんだけど」  西森は話題を切り替えると、傍らにあった一冊の雑誌を手に取り、未だ火の点いていない煙草を引っ掛けたままの手で、ちょいちょいと直人を呼び寄せた。  直人は仕草に従い近寄るも、手にある煙草が気になってしまう。 「……吸っててもいいですよ」 「ん? ああ、ごめんね。本当はさー、もうやめたいんだけどね」  そう言うも、西森は今度こそ煙草に火を点ける。 「ずっとそう言ってるのに結局吸っちゃうんだよなあ。……あ、でね、これ」  西森は煙草を咥えながら、雑誌の1ページを直人へ示す。そこには、いくつかのバイクの写真が並んでいた。 「今度買い換えよっかなって思ってるんだけど、迷ってるんだよね。直人はどっちが格好いいと思う?」 「……」  直人は、指定された二台のバイクに視線を向ける。正直、直人自身にはバイクへの興味など微塵もなかった。  格好良さなどもあまり解らない。強いて言うなら、どちらも同じように、格好良く見える。 「……、」  なかなか答えを返さない直人を見て、西森は吹き出すように大きく煙草の煙を吐き出した。 「……すみません」 「いや違くてさ、迷うとかじゃなくて、すっげーどうでもよさそうな顔で見てるんだもん。そんな反応……、ふっ、初めて見たっ……」  言いながら、尚も西森は小刻みに肩を震わせる。 「っ……ごめん、今度から直人にこの手の質問はしないようにするよ。あー、面白かった」  満足したように言うと、西森はまだ点けたばかりの煙草を早々に灰皿へと押し付けつた。  直人は西森の反応に戸惑ったまま、どうしていいのかを迷う。 「というか直人ってさ、音楽以外は何が好きなの?」  そして突然切り出された質問に、はっとした。  音楽以外で好きなもの。……直人はすぐに、その答えには辿り着けなかった。 「無いんだ」  西森が頬杖を付きながら、目を細めて問う。 「……かも、しれないです」 「知らなかったものを知ったら、意外と好きになるかも」 「それは、あるかもしれない」 「煙草は?」 「? 未成年……」  疑問とともに答えかけた次の瞬間には、直人の唇は、西森の唇によって塞がれていた。 「っ……?!」  突然のことに直人が混乱しているうちに、西森の手が頭部へ回され、舌が直人の唇をこじ開ける。直人がそれに気がついた時には、既に口内に煙草の味が広がっていた。  そのまま暫く舌を弄り回され、呼吸が怪しくなってきた頃、ようやく直人は解放された。 「っは……、なに……」 「今日のお礼の代わりかな」 「……?」  まだ理解が追いつかない直人をよそに、西森の手が直人の手首を掴んだ。 「俺ね、女の人だと勃たないんだよ」 「……、」  じり、と、西森が僅かに距離を詰める。馴染みのないシャンプーの匂いが、直人の鼻腔を掠めた。 「バンド解散しちゃった本当の理由も教えてあげようか。俺がベースの人好きになっちゃってキモい無理だで仲間割れ。音楽性の違いも確かにあったけどね」 「……、……」  普段、あまり動揺することのない直人の心臓が、徐々に脈拍を上げた。どうしていいのか、適切な対応が、すぐに導き出せなかった。 「怖い? なら振り払ってもいいよ。今ならまだ終電にも間に合うし」 「……、な、んで」  結果、この状況で、直人の口からこぼれた言葉は、それだった。 「ん?」 「最初から……、これが目的だった?」  直人の控えめな視線が、西森に向けられる。  すると、試すような表情で直人を見ていた西森が、小さく笑い声を立てた。 「自分でもびっくりなんだけど、なんか、すげー好きなんだよね。直人のこと」 「……」 「いや、もうほんとびっくり。2時間くらい前まではこんなことする気全然なかった」  苦笑いで吐き出された言葉が嘘か本当か、今の直人には、判断ができなかった。 「ただ、嫌だったら本当に帰っていいよ。強姦する趣味はないし」 「……、」  直人は、迷うように視線を落とす。同時に、すぐに決断に至らない自分に気がついた。  そしてそれは、拒否して関係が壊れる恐怖からではない。直人は、そういった物にあまり執着しない性格だった。  ――なら、これは。  ゆっくりと、直人は西森の肩へ手を伸ばした。 「……あっは、マジで?」  西森が、逆に驚いたような表情を浮かべる。 「……知らなかったものを知ったら、意外と好きになるかも」  直人が、冗談交じりに言葉を発した。 「余裕そうだけど、男相手で反応するの?」 「それは、知らない」 「……何事も経験だよね。目瞑って違うこと考えててもいいよ」  そんなやり取りを終えると、西森の先導で二人はベッドへ移動する。  直人は自分の奥底にある感情までは捉えられないまま、今は、西森に身を委ねることにした。  ***  翌朝、直人は鈍い体の痛みで目を覚ました。  そして、次の瞬間には煙草の匂いが鼻に触れる。見ると、傍らで先に起きていた西森が、煙草を吸っているのが目に入った。 「ん、おはよ」  直人が目を覚ましたのに気がついた西森が、軽い挨拶を投げる。  直人は起き上がろうと身をよじるも、だるい体と走る痛みのせいで、上手く起き上がることができなかった。 「無理しないほうがいいよ。寝起きキツイでしょ」 「……」  直人は思わず小さなため息をつく。そして昨夜のことを思い出して、僅かに瞼を落とした。  ――最初に直人が西森の手で欲を吐き出した時点で、西森は、ここでやめても構わない、と申し出てくれた。  だが、��れを断って受け入れることを選んだのは、直人だった。  受け入れたのは、ここでやめるのは何か違うと感じたことや、直人自身にも伴う気持ちがあったからだった。  男同士の性行為については直人も多少なりとも知識はあったが、終わってみれば痛みばかりが記憶に残り、気が滅入る思いが無いといえば、嘘だった。   西森は回数をこなすしかない、などと言っていたが、今の直人に、その言葉を信じることはできなかった。  それでも、心のどこかには満たされたものも感じて、西森を責める気は、微塵も起きなかった。 「飯食えそう?」 「……まだいい」 「そ。んじゃ休んでなよ。俺、ちょっと買い物行ってくる」 「……うん」 「あ」 「?」 「さっきメール来てたよ。はい」  西森が直人の携帯を手渡す。直人はそれを受け取ると、新着メールの差出人を確認した。  それは、直人の母親からのメールだった。 『今日は家に隆弘が一人なので、早めに帰宅してください』  本文には、それだけが書かれていた。 「……西森さん」 「ん?」 「今日、早めに帰ります」 「え、帰れる?」 「帰ります」 「……飯食ったら鎮痛剤だな。とにかく買い物だけ行かせて」  呆れたような苦笑を浮かべると、西森はどこか早足で部屋を出ていった。  直人は携帯を握り締め、枕に顔を埋めると、二度目の溜息を吐きだした。  体の痛みからではなかった。……急激に込み上げた罪悪感が、直人を襲っていた。  西森と体を重ねたこと自体には、不快感も後悔もない。ただ、家族の事を思うと、もの凄く重い罪を犯してしまったような気持ちに見舞われた。  そしてそれは、西森に見送られ、帰りの電車に乗り込んだあとまで続いた。  ――自分は昨日、同性と体を重ねたのだ。  ここにいる誰も、そんな事実は知らない。なのに、誰の視界にも入りたくないと感じてしまう。  出来るだけ気を逸らすように、直人はイヤホンをして、外の世界を遮断する。  ――だけどまた、西森さんに会いたい。  プレイヤーの音量を上げる。昨日、散々聞いたギターの旋律が、脳内に響く。  西森が自分に向けた言葉のひとつひとつが、音に乗って流れていく。  ――会いたい。  その後も、音に埋もれて身を隠すようにしながら、直人は自宅への家路を急いだ。 ***
 まだ陽も登りきらない、休日の静かな住宅街。  気だるげな体を意識しないようにしながら、直人は予備で持ち歩いている自宅の鍵を取り出し、玄関を開いた。  とたんに、馴染みのある空気が肺の中へ入り込む。そのことで、自分が煙草の香りに鈍感になっていたことに気がついた。  とにかく着替えよう、と部屋へ向かおうとするのと同時に、軽快な足音がリビングから近づいてくるのに気がついた。 「直人! おかえり!」  音の方を見ていると、弟の隆弘が、嬉しそうに直人を出迎えた。 「ただいま。……母さんたち、出かけるって?」 「うん」  答えて、隆弘は不思議そうな表情で直人を見た。 「……どうかした?」 「直人、変な臭いがする」 「……」  直人は一瞬ぎくりとして、だが、すぐに西森の部屋で着いた煙草の臭いだと思い至った。 「ごめん、すぐに着替える。ご飯は?」 「食べた」 「そう」  答えて、直人は逃げるように自分の部屋へと向かう。隆弘は、再びリビングへ戻ったようだった。  気持ちわるいものが胸中を渦巻く。  ――罪悪感。  多分それが一番近いだろうと、直人は思った。  今日、帰ってきた母親に会うことを考えると気が重い。自分は、悪いことをして帰ってきたのだ。  なのに、それに反して、西森に会いたいという気持ちは消えはしない。  着替えを持って、バスルームへと向かう。一瞬鏡に映った自分の顔は、酷く疲れた顔をしていた。  なぜか、昨日の夜の出来事が脳裏に蘇って、咄嗟に鏡から視線を逸らす。とにかく今は、全てを一度リセットしたかった。  シャワーを軽く浴び、選択機を回して廊下へ出ると、再び隆弘がリビングから顔を出した。 「直人、今日は一緒にお絵かきしたい」 「……」  いつもならば二つ返事で頷く言葉だった。でも、今日は酷く居心地が悪い。 「……ごめん、ちょっと休みたい」 「じゃあ、直人の部屋で書いてていい?」 「……いいよ」 「わかった!」  一転して嬉しそうに答えると、隆弘は絵かき道具を取りに別の部屋へとかけていった。  直人は小さく溜め息を吐くと、ベッドへ向かうために自室へと歩き出した。  両親があまり家にいないこともあってか、直人は普通の兄弟より、少し強めに隆弘のことを気にかけていた。  でも、今は少しだけ、煩わしい。そして、そう感じてしまう自分に、また嫌気がさした。 「……、」  直人が自室へ辿り着き、ベッドへ身を投げ出したのと同時に、部屋の扉が開いた。  そのまま、隆弘が絵かき道具と、最近好きな戦隊物の人形を手にして、静かに直人の部屋と入ってくる。  そして床に画材を広げると、何を言うでもなく、真っ白の画用紙に色を走らせ出した。 「……」  直人はそんな隆弘の様子を、同じく何も言うでもなく見守る。  隆弘は、いつからか妙に空気に敏感になっていて、こうして、何も言わずとも適切な行動をしていた。 「……隆弘」 「うん?」 「今日、天気予報、見た?」 「見た! おひさまだった!」 「……そう」  答えながら、直人は昨日の西森との会話を思い出した。    "……明日の天気"  "雨"  直人は、おもむろに窓の外へ視線を向ける。  当たると、言っていたのに。 「……はずれ」  ぽつり、と、直人が呟く。  視界の先には、雨なんて振りそうもない、晴れ晴れとした青空が広がっていた。 *** 「お疲れ様でーす」  乱雑と物が置かれたライブハウスの一室に、飄々とした言葉が飛び込んだ。 「お、西森くん。いらっしゃい」  自身がいつもかけている眼鏡を拭いていた橋元が、手を止めて振り返った。 「今日は誰が来んの?」  西森は、机の上にあったフライヤーを一枚手に取って確認する。 「うーん、あんまりピンとくる奴いないなあ」 「はは、たまにはそういうのも見てみたら? 意外と新しい発見があるかもよ」 「今はいいや。あんま興味ない」  素っ気無くそう言って、西森はフライヤーを机に戻した。  そうして、いつか直人が弾いていたギターのもとへ向かうと、手に取り戯れるように弦を弾いた。 「……ねえ、橋さん」 「ん? どうかした?」  橋元は眼鏡をかけ直して、改めて西森を見る。 「俺、直人のこと食っちゃった」  西森はふざけるように目を細めて言うと、ジャン、とギターで軽快な音を鳴らす。 「……え?」  対照的に、橋本は呆気にとられた顔を見せた。 「え? ……え、まって、直人あれでも中学生だよ?! 解ってる?!」 「もちろん」  再びジャン、と、今度はフラットな音を鳴らす。 「っていうかなんでそうなった?! 無理やりか?! 直人のこと脅したのか?!」 「ひっど。親戚のおじさんは過保護だなあ」 「おじ……!」 「残念ながら合意のもとです」  今度はジャカジャカジャン、とオチをつけるような音を奏でると、西森はギターを戻して傍らの椅子へ腰を下ろした。 「……ちょっと、頭が追いつかないんだけど」  橋元は言いながらこめかみを押さえた。 「びっくりだよね。俺もびっくり」 「……本当に合意?」 「合意も合意、大合意。疑うなら直人に聞いてみたら」 「……聞いて正直に言うかなあ、直人のやつ……。しかしなんだって直人も……」  はあ、と、橋元は大きなため息を吐いた。 「直人も立派な男だってことだよ」 「あのねえ、普通の男はそう簡単に男と寝たりしないんだって」 「世間一般的にはそうだよねえ。なんで直人は良いって言ったんだろ」 「だから、断れなかったんじゃないの」 「そんなことないよ。俺、ちゃんと挿れる前にやめていいよって言ったもん」 「生々しいこと話さなくていいから。……直人はああ見えて建前とか凄く気にするんだよ。だから」 「それも知ってる」 「……」 「わかりやすいのにわっかんないな、アイツ」  西森は妙に真面目な顔で言いながら、煙草の箱を取り出す。 「禁煙。吸うなら外」 「はいはい」  火の点いていない煙草を一本加えて立ち上がると、西森は部屋の外へ歩き出す。 「……西森くん、直人で遊んでるわけじゃないよね」  すれ違いざま、橋元が言う。 「……本気だから不安になってるんじゃん?」  再び目を細めて言うと、西森は今度こそ部屋を後にした。  一人部屋に残った橋元は、西森の消えた先を見ながら、眉をひそめる。 「……変に近づかせない方が良かったのかなあ……」  独りごちると、頭を抱えるようにして机に肘をついた。 ***  直人が西森と一晩を明かした日から、一週間が経っていた。  ――あの日以来、直人は西森と一度も顔を合わせていなかった。  ライブハウスも、避けるように帰路を急いだ。ギターを弾きたい気持ちはあったが、それ以上に、橋元と顔を合わせるのが嫌だった。  もしかしたら、西森と会ってしまうかもしれない。あんなにも会いたかった気持ちが、なぜか今は、戸惑いへと変わっていた。  塾のない放課後。この日も直人は、真っ直ぐに自宅へと帰るために駅を通り過ぎた。  時々、他校の生徒や高校生の姿が目に入る。彼らを見て居心地が悪くなるのは、もう何度目かわからなかった。  同じ男と体を重ねてしまった事実は、直人の中で、だんだんと後悔になろうとしていた。  学校で友人たちが下世話な話をするたびに、直人は、人知れず耳を塞ぎたくなった。    ――ヴヴッ… 「……?」  制服のポケットの中で、直人の携帯が震えた。  直人は、届いたメールの送信主を確認する。――西森だった。  気持ちがざわつくのを感じながら、直人は内容を確認する。 『最近ライブハウス来ないね』  件名の部分に、それだけ書いてあった。 「……」  無視して携帯を閉じてしまおうとして、直人の歩みは止まった。  無視してしまいたいのに、言葉の意図を考えてしまう。  『最近来ないね』。その言葉のあとに続くのは、"どうして"、だろうか。  ……それとも、"会いたいのに"、だろうか。  あの日、西森は直人に好きだと言った。そして、直人はその言葉を受け入れた。  なのに、あれから直人は西森と一切の連絡を取っていない。本来なら、連絡が来ないほうが不思議だった。  なんにせよ、きっと西森は待っていてくれたのだろう、と、直人は思い至った。 「……、」  直人は、返信ボタンを押して、文字を打ち込み始める。 『今日は行く』  送信を済ますと、通り過ぎた筈の駅へと、踵を返した。  路地裏を抜け、ライブハウスへ続く階段を降りると、直人は緊張した面持ちで、スタッフルームの扉を開いた。 「お、直人じゃん。久しぶり」  すぐに、橋元の笑顔が直人を出迎えた。  直人が部屋を見回すも、どうやら、室内には現在橋元しかいないようだった。 「……西森��んは?」 「西森くん? ちょっと前に帰ったよ」 「え……」  橋元の言葉に、直人は唖然とする。今日は行くと言ったのに、なぜ帰ってしまったのか解らなかった。 「……用事?」 「さあ? そろそろ帰るわーって出てったよ」 「……そう」 「で、直人は? 久々に弾きに来たんじゃないの?」 「……、」  橋本の問いへの返答はせずに、直人は再びライブハウスの外を目指す。  訳がわからなかった。携帯を取り出して、西森へのメールを打ち込む。 『行ったけどいなかった』  感情のまま、そう送った。  送ってから、直人は「はっ」とした。そもそも、西森は今日会おうだなんて、一度も言っていない。  近くの電柱で足を止めると、寄りかかって一息ついた。こんなにも動揺した自分に、直人自身も驚いていた。  きっと西森相手じゃなければ、仕方がないの一言で済ませている。  直人がそのまま若干の気疲れを覚えていると、再び、西森からのメールが届いた。 『暇ならうちに来なよ』  また、件名の部分にそれだけが書かれている。 「……」  今度は返信をせずに、直人は携帯をしまう。  あまり自覚したくはない期待を抱きながら、直人は、西森の部屋を目指して歩き出した。 ***  二回目になる部屋の一室のインターホンを押して、直人は中からの反応を待った。  緊張。恐怖。いま、直人が抱いている感情を表すならば、その類のものだった。  でも、それらの中に、ほんの僅かな楽しみが混ざっている。  直人が自分の足元を見ながら待ち続けていると、ゆっくりと、扉の開く音が聞こえた。 「おっひさ」 「……」  久し振りに見る西森の目を細めた表情に、直人は少しだけ、憤りを覚えた。 「あがりなよ。暇してたんだ」  そう言って部屋の奥へ戻る西森を追うように、直人も部屋へ入り込む。相変わらず、部屋の中には煙草の臭いが染み付いていた。 「どうする? 久々に弾く?」  部屋に入るも口をつぐんだまま立ち尽くす直人へ、西森が軽い調子で問う。  それでも直人が視線を合わせないまま黙り込んでいると、やがて、西森が吹き出した。 「あっは、すっげー不満そう」 「……おちょくられた気がしたから」 「わかってんじゃん」  臆面もなく答えると、西森は直人の側へ歩み寄った。 「一週間も恋人をほったらかしにした罰でーす」  小さく腰を曲げ、直人を覗き込むようにしながら言う。その口角は、ざまあみろ、と言いたげに上がっていた。 「……それは、」  反論しようとした直人を遮るように、西森が直人の額へ軽いデコピンを繰り出した。 「なに、ん……」  そしてそのまま、自らのそれで直人の唇を塞ぐ。 「…っ……、」  直人の肩に掛かっていた学生鞄がずり落ちる。西森の舌は、すでに直人の口内で好き勝手に遊んでいた。 「……っ、ちょっと、待って」  直人が一度は腕で西森を引き剥がすも、西森は簡単には食い下がらなかった。 「やだ。早く直人慣れさせたいもん」 「っ……!」  再び、西森が直人の唇を塞ぐ。今度は、先程よりも強く頭を抑えられた為、簡単に引き剥がすことができなかった。  直人が舌の感触へ気を取られているうちに、西森の手が、下半身へと滑り込んでいくのが解った。 「……、」  直人が、意図的に鞄を床へ落とす。  これ以上、抵抗する気が起きなかった。  罪悪感も、後ろめたさも、もう何も考えたくなかった。  ――ずっと会いたかったのは、自分の方だ。  その考えが直人の脳裏をよぎった瞬間、直人の腕は、西森の背へと回されていた。  今は、全部どうでもいい。  直人は西森へ身を委ねると、ゆっくりと、思考を手放した。 ***  直人と西森が再び体を重ねた日を境に、直人は、頻繁に西森の部屋へと出入りするようになっていた。  その頃には体もすっかりと慣れて、時には、直人から体を求めることもあった。  西森と体を重ねている間は、人間関係のしがらみも、家族間での責任も、全部忘れらる。  それが、直人が西森を求める、一番の理由だった。  そしてそれが「なにか違う」ということは、直人も薄々気がついていた。自分よりずっと大人な西森が、そのことに気がつかない訳もないと思っていた。  でも、西森はいつまで経っても、直人へ何も言わなかった。  そんな関係が続いていたある日、西森は一人、橋元の元を訪れていた。  いつかも見たような、眼鏡を拭きながら西森を出迎える橋元を横目に、西森は、適当な椅子へ腰掛けて、小さく溜め息を吐いた。 「どうしたの。西森くんが溜め息とは珍しいね」 「んー……。やっぱり、年の差って難しいのかなあって思ってさ」 「直人と上手くいってないの? ここに来る時とか仲良さそうにしてるじゃん」 「まあね」 「……惚気なら聞かないよ」 「仲はいいよ、仲は」 「どういう意味」 「直人はさあ、甘えられる人がいないんだよね、きっと」 「……なにかあったの」 「これでいいのかなあ、って思ってさ。いや、俺がどうとかじゃなくて、直人のためにね」  頬杖を付きながら、伏せ目がちに西森が続ける。 「俺は、直人を甘やかすの全然いいんだよ。直人のこと好きだし、えっちできるし。でも、直人をダメにしてるかもなあって」 「……直人はしっかりしてるから、大丈夫だと思うよ、俺は」 「それ。そういうのに、押しつぶされてんだよ、きっと」 「……」  橋元が、眼鏡をかけ直して西森を見る。 「離れたほうが直人のためかなあ、って思うんだけど、離れちゃいけない気もすんだよね」 「……難しい話だね」 「でしょ? もし、俺がもう会わないようにしよう、って言ったら、直人どんな顔するかなあ」 「……。頷いて終わりじゃないかなあ」 「でしょ?! でも、それって強がりでさ、そのあと直人どうやって生きてくんだろう、とか色々考えちゃうんだよ」 「西森くん、そんなに面倒見良かったっけ?」 「ね。俺もびっくり。前の恋人に散々ウザイって言われたのに」  はあ、と、西森は再びため息を吐く。 「次、直人にしたいって言われても、俺、拒否しちゃうかも」 「そしたらきっと悲しんじゃうよ、直人」 「だよねー。でもこんな気持ちで直人抱けないし」  西森はトントンと指で机を叩くと、急に立ち上がった。 「だめだ。ニコチン入れてくる」  そう言って、スタッフルームを出て行った。  西森を見送った橋本は、苦笑を浮かべる。 「……やっぱり、変に近づかせない方が良かったのかなあ……」  いつかのようにそう独り言を零すと、頭を切り替えるように、傍らにあったノートパソコンを弄りだした。 *** 「直人、そのギター、あげるよ」  西森が唐突に直人へ切り出したのは、直人の卒業も近づいた、冬の日だった。 「……え……」  西森の言葉を聞いて直人が零したのは、喜びではなく、戸惑いだった。 「卒業祝い。それに、いい高校受かったんだし? よく頑張りましたのご褒美」 「……」  直人は、弾いていたギターをまじまじと見る。買えば、結構な値段がするギターだ。 「あ、でも今日はまだね。そうだな……、直人が高校に入学して、俺にやりたいことをしっかり宣言できたらあげる」 「……卒業祝いじゃないの?」 「俺にとっても大事なギターだからね。そう簡単にはあげない」  西森は目を細めながら言う。からかうような冗談を言う時、西森はいつもこの表情を浮かべた。 「……わかった」 「うん。……あ、そろそろ帰んないとまずい時間だろ」  部屋の時計を確認して、西森が言った。直人は、相槌を打ってギターを元の場所に戻す。  この頃には、体を重ねる回数も減っていて、西森は、時間になると直人を返すようになっていた。  直人は物足りなさを感じるも、拒絶されたときのこと思うと、強く出ることはできなかった。 「……」  西森と別れ、一人電車に揺られながら、直人は、小さな予感を感じていた。  ギターをあげる、という話。時期的に、卒業間近なら、確かに卒業祝いでもおかしくはない。  ただ、なにか。直人の中に、一抹のさみしさが湧き上がっていた。  その後、直人は高校に上がり、約束通り、西森からギターを受け取った。  「音楽の道に進みたい。だから、軽音部にも入った」――そう、直人は西森へ伝えた。  西森は、いつものように目を細めて笑みを浮かべると、おめでとう、と、直人へ軽いキスをした。  でも、それだけだった。  ――そして、それ以来、西森はライブハウスへ姿を現さなくなった。  直人が橋元に西森のことを聞くも、橋元は、俺にも解らない、と言うだけだった。それが嘘か本当か、直人が知ることはできなかった。  直人は、自分から西森へ連絡をしなかった。西森がライブハウスに来なくなった、という事実が、直人をそうさせていた。  以前に感じた、小さな予感のせいもあった。あれは紛れもなく、別れの予感だったと、直人は思った。  そのうち、直人は西森のことを考えるのを、やめることにした。  結局、西森から貰ったギターも殆ど触る気が起きず、直人はバイトの貯金で、新しく安価なギターを買った。  それから、直人が成人を迎えて西森の年齢を超えても、西森と直人が言葉を交わすことは、二度となかった。 *** 「……というのが、あのギターにまつわる話」  薄暗い一室のベッドの上で、直人は、そう、話を締めた。  直人の腕の中では、年下の、今の恋人である一夜という名の少年が、すっぽりと収まっている。 「たしかに、自然消滅だな、それは」  直人の言葉に、一夜は静かにそう返した。 「でも、直人さんがあのギターを新居に持ってこなかったの、納得したかも」  西森から貰ったギターを、直人は新居へ越すと同時に、ライブハウスへ預けていた。  そして、直人が今回過去を振り返ることになったのは、そんなギターにまつわる一夜の要求がきっかけだった。  いい加減、昔の恋人とギターのことをちゃんと聞きたい――何度目かのまぐわいの後、一夜は、直人へそう強く申し出た。  一夜はなかなかに察しがよく、直人がなんとなく誤魔化せばいつもそれを悟って引き下がるが、この日の一夜はそうではなかった。  だから、直人も潮時かと、あまり積極的に話したくは無い過去の話を、一夜へと語ることにした。 「今度こそこれで全部だから。……これ以上は聞かれても困る」 「うん、サンキュな。……それにしてもさ」  一夜は改めて直人を見ると、続ける。 「前に、直人さんがその……西森さんを見かけたことがあっただろ?」 「……クリスマスの時だっけ」 「そう。なんか、その時見た人と、少し印象が違う気がするんだけど」 「……うん」  直人は静かに答えると、思い出すように、遠い目で視線を逸らした。 「だから、俺も西森さんかははっきりと解らなかった。ただ、煙草の銘柄が一緒だったのと、バイクが、昔俺に訊いたのと同じだったから」 「なるほどな……」  年齢も、自分の目測だと三十代くらいだった、と、一夜は思い返す。それなら、大体の条件は話の人物と一致している。 「……俺にとっては、あまりいい経験ではないから。それを君に重ねて、もどかし���気持ちをさせてしまったとは思ってる」 「それは……、まあ、仕方ないしな。直人さんの気持ち、わかるし」  一夜にとって、今のような距離感で直人と過ごせるまでは、とても長く感じることだった。  だが、直人自身が感じた思いを汲めば、そうなってしまうのかもしれない、とも思った。 「……ギター」 「ん?」 「一夜が聞きたいなら、今度、聴かせる」 「……マジか」 「うん、簡単なものだけど」 「それでいいから聴きたい」  目に見えて嬉しそうな一夜の反応に、直人も微笑を浮かべる。堪らなくなって、一夜を抱きしめる腕に力を入れた。 「じゃあ、予定の会う日に」 「ああ、楽しみにしてる」  どちらからともなく軽いキスを交わして、「そろそろ寝よう」とお互いに瞼を落とす。  滅多に口にすることはないが、直人は、腕の中の少年に出会えてよかったと、何度も思ったことがあった。  そしてこの先は、それを伝えていきたいとも、思っていた。  思い返せば、どちらも出会いのきっかけは、決して良いものではなかった。  でも、だからこそ。  こうして今があることが、直人は、なによりも幸せに感じた。  きっとこの関係は、この先も強く、続いていく。   傍らから聞こえる小さな寝息を聞きながら、直人も、ゆっくりと眠りに落ちていった。
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barskydance · 2 years ago
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bluwave24jp · 2 years ago
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おはようございます 今日は金曜日 計画を立てる日 #時間術 考えがまとまらず行き詰まったら 無心のブレインダンプで自分の中から 自分の気持ちを取り出す ペンを止めずに思ったことを ひたすら紙に書き出せば新たな気づきがある #頭の中の四次元ポケット 張り切っていきましょう
https://twitter.com/bluewave24jp/status/1623797709386944512
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nejiresoukakusuigun · 2 years ago
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新宿、午前五時、始発、各駅停車伊勢原行
Garanhead
 俺は金曜の朝から新宿にいた。台風接近のニュースはあったが、どうしても教科書をつくる会社に行くつもりだった。先週、電話で内々内定をもらったはいいが、辞退する気でいたのだ。少なくとも先日の俺はそうだった。代々木八幡駅を通過する俺はそうだった。快速急行新宿行きでまどろむ俺は。夢の中で意気込んで気分を高揚させていた。  寝ぼけて固めた決意は、春の昼頃に見せられる夢のようにいともたやすく流れてしまう。溶けたことも分からない。その日の明け方に降った雪に混ざり、どこへ行ったのかも分からない。  ゴールデン街と言われればゴールデン街だし、そこは微妙にゴールデン街ではないと言われればゴールデン街ではない、そんな半端な場所に建つ居酒屋で夜通し飲んだのは安酒で長く居られたからだ。イタリア人が暴れていた。何もおかしくないのに俺はそいつを笑っていた。台風のせいにして俺は内々内定を蹴れなかった。
 各駅停車で代々木八幡を去る俺は、少なくともアルコールではない何かにこっぴどく負けて、ひどい気分だった。  結局俺の未来はこの各駅停車にあった。一番のろいが、一番早くどこかに辿り着く電車に乗っているのがいい。伊勢原までは誰も俺には追いつけない。  昼も夜も景色の変わらぬ地下駅は東北沢。  誰かが降り席が一つ空いたので俺は座る。  人と人との間に挟まる形になるが、安酒で足腰がへろへろなので、座席があるだけでありがたい。  内々内定はありがたいのだ。これが欲しくて涙を飲んだ人がきっと何百人もいるだろう。とは言え、顔は一人として思い浮かばない。グループ面接の時のあの筋肉質の女の子も今はもうちっとも思い出さない。あの子とオフィスで働く夢まで見たのに。  あの子と下宿のベッドで目を覚ました時、俺は小田急ロマンスカーミュージアムに遊びに行く夢が頭から離れなかった。あの子とあの子の子供と俺で海老名に行き、小田急ロマンスカーミュージアムでジオラマを前に青木慶則の「セブンティ・ステイションズ」を聞きながらぼんやりしてもいい。  乳房をブラに詰め込む彼女をぼんやり見つめながら聞いた音は、竜巻インバーターの悲鳴だったろうか。
 代々木上原で隣の席が空いた。ロングシートの端はオセロの端くらいに優先して取るべき場所だ。急いで尻を持ち上げようとしたが、そこに小さな影が滑り込んできて俺は席を取られる。  青いリュックを背負った少年だった。始発電車とは縁遠い、違和感のある存在だ。怪我しているのか三角巾で左腕を吊っていた。文句の一つも言いたくなるが、相手が幼い少年であるという事実と、負傷を抱えているという現実が、俺の口元で鬱陶しく飛び回っていた。  また電車が走り出す。すると、少年はリュックからPSPを取り出して遊び始めた。左腕は動かないが指は動くらしく、胸元に引き付けて手の平で機体を包み込むように持ち、アナログスティックを器用に摘んでいた。  もしやと思って覗き込むと、やはりモンハンだった。しかも俺が中学生の時にやり込んだ2ndGだ。何でいまさらこんな過去作を。今はニンテ���ドースイッチでもっと何バージョン先の未来のモンハンが出ているのに。  少年は癖のある立ち回りをしていた。俺の知らないモンハンの動きをしていた。周りに教えてくれる大人がいないのだろうか。日本の教育はどうなっているのか。  少年は低い声で「覗くなよ」と凄んできた。やけに貫禄のある言い方だった。俺は謝りもせずただ背筋を伸ばした。  が、やはり気になって、ちらちらとゲームを観察していると、少年が舌打ちをしてきた。お節介かもしれない。しかし、俺はこのゲームが粗雑にプレイされていると我慢ならないのだ。何かアドバイスでもと思ったが、ちょうど電車は豪徳寺に停まり、少年は歩きPSPをしながら下車していった。駅員よ、注意をしろよ。  ガンランスは砲を使わなければいけない。突いて下がるだけならランスを使えばいいのだ。そんな助言をするべきだったか。しかし、冷静になれば、俺も最初はガンランスを使い出した頃、似たような立ち回りをしていたのを思い出す。もし、あの過去で俺のような年長者が口を出してきたら、あの時の俺は従っていただろうか。いや、きっと同じように舌打ちをしていたはずだ。だからこれでいい。良かったのだ。  このまま始発に乗り続けていいのか。  引き返して内定を辞退するべきではないのか。  もし、この電車に未来の俺が乗り込んできて、俺の隣に座り、そう助言してきたらどう受け取るだろう。不快にはなるだろう。なるだろうが、一考はすると思う。一考はするけれどやはり確実な未来を選択する。このまま座席に居続けるだろう。わざわざ座った席を手放して、次にいつ座れるか分からない空席を待ちたくはない。  本当に?  次の経堂駅で男が乗ってきた。左腕にギブスを巻いていた。スーツ姿で俺よりも一回りは年上そうに見えた。俺はどきりとした。隣に座られて何か話しかけられたらどうしよう。どぎまぎしていたが、その男は窓際に立ったままスマホをいじり始めていた。  和泉多摩川で男はスマホをスーツのポケットにしまい、それから俺を凝視していた。まるで何か言いたそうに見えたのは錯覚だろう。が、だんだんと腹が立ってきた。心の中を見透かされているような気がして苛ついてくる。何でここまで不機嫌になってしまうのか。しかし、変に調子が狂うのだ。  やがて、登戸に到着して男は歩き出したが、降りる前に一度立ち止まった。俺の方を覗き見ていた。一秒だけ過去と未来の時を止めて、彼はそろりと下車する。何なんだ一体。俺は過ぎゆくホームを覗いた。あの男は改札口への階段に向かって歩き出していた。その背中はやけに憂鬱そうに見えた。  何かを言いたかったのだろうか。俺があの少年の雑なモンスターハンターを見るのと同じように、彼には俺がまずい人生の選択をしていると分かっていたのだが、「それを指摘するのはお節介だろう」と思って助言を控えたのではないか。
 一年。もう一年。本当に人生を考える時間があってもいい。俺の心は右に左に忙しなく揺れ続ける。次の一年こそは乗る駅も降りる駅も間違えない。そんな乗客になる。  そのために親にもう一年学費を払ってもらい、俺はこの始発から降りて、折り返しの新宿行きに乗り換える。そんな選択肢も捨てがたくなってくる。  新百合ヶ丘を通過し、柿生に着くまでに、俺の心は「ここで下車してやろう」という信念で塗りたぐられていた。引き返そう。新宿へ戻ろう。  近しい未来を覗く度、俺は遠くの過去がかけがえなく思えた。この先の自分を考える時間なんていくらでもあったはずだ。でも、大学生が社会人の自分を想像するというのは、まるで自分の葬儀で流れる音楽を選ぶくらいに現実味のないテーマだった。  三駅先の景色なんて三駅先に行かなくては分からない。そういうものではないか。  でも、終点が近づくたびに俺たちは降りたホームからどう振る舞うかを決めなくてはいけない。  町田に列車が滑り込んだ。俺はふらつきながら降りていく。そして、ホームの券売機でそのまま次のロマンスカーの切符を買っていた。完全座席指定制で小田原まで行ける。伊勢原という未来を飛び越えようとひとまず決めた。その電車に果たして俺は乗っているだろうか。もしも乗っていなかったら、大人しく俺は小田原でまたロマンスカーに乗って、新宿まで折り返していこう。乗っていたら話しかけて、一緒に温泉にでもいこう。箱根湯本までは近いはずだ。  俺は券売機の上にある料金表を見ながら、竜巻インバーターの音を見送る。  その列車は、始発。午前五時に新宿を出発した伊勢原行。僕の未来が乗っているかも知れない列車であり、僕の過去が降りなかったかも知れない列車だ。  ロマンスカーのあのミュージックホーンが聞こえてくるまで、どうしていようか。  慌ただしくなる前の町田駅で俺は、購入した切符の匂いを嗅ぎながら考えていた。
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longgoodbye1992 · 2 years ago
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声からの出会い
川崎駅近くのビジネスホテルから駅へ向かいながら、会って最初の一言は「はじめまして」がいいだろうと考えていた。
向こうは俺の顔を知らない。ある有名バンドのボーカルに似ているとは話していたが、顔写真はいらないと断られた。反面、向こうは知り合いの猫の写真を送ってきた時に、その猫を抱いているのを自分と忘れており、思いがけない形で顔を見た。思ったよりも目鼻立ちがはっきりしていて可愛らしく、胸ポケットにマルボロが入っているのがその子らしかった。
駅のエスカレーターを上っているときに、待ちあわせ場所に着いたとLINEが入る。時刻はまだ予定より五分早い。女性と待ち合わせした中で自分が遅いのは初めてだった。
エスカレーターの途中で聴いていたAmazonミュージックから久保田利伸の「LA・LA・LA LOVE SONG」が流れてきて、何だか滑稽だった。
待ち合わせ場所の改札口が見えてきたとき、その子に通話をかけた。数コールして出た声は少し寝起きっぽい低い声だけど、その子らしい少年味のある少し鼻にかかった女の子の声だった。
「改札いるよ。どこいる?」
「俺もう少しで改札。黒い帽子被ってるよ」
「あっ、見つけた」
周りを見渡すと一人の女性が俺に向かってきた。
マスクをしているから写真の印象とは違った。そして思ったよりも背が高かった。
「エリちゃん?」
「うん、えっ、だよね?」
「あっ、よかった。はじめまして」
「はじめまして。じゃあ行こっ」
俺が歩いてきた方へエリは歩き始める。店は任せていた。
歩くスピードは男らしいくらい早かった。
「いつ東京着いたの?」
「今朝の七時くらい」
「はやっなにしてたの?」
「浅草行って船乗ってレインボーブリッジくぐってた」
「面白いことしてんね」
「さっきまで寝とった���ろ」
「そう、モンハンやってたら夜遅くなったけど、ちゃんと起きたかんね」
通話なときと同じ会話のテンポで、ほんとにこの子なんだなと思った。
エリと出会ったのは通話アプリの掲示板だった。
五月半ばの初夏の日差しが暑くなってきた頃。
ボーイッシュで鼻にかかった声の音域が何とも魅力的だった。最初、アプリでの名前はシェリーだった。後から聞くのだが、シェリーは実際のあだ名で、本名のエリをもじって友人たちがつけたらしい。
話していくうちに出身が同じ県であること、高校の最寄り路線が同じということ、俺が大学時代に住んでいた市に今住んでいるということで、距離感が一気に縮まった。
バンドをやっていたということで、地元のライブハウスやスタジオの話題で盛り上がる。
歳は四つ下だから、後輩のような妹のようなそんな人懐っこさがどこか可愛らしくて、週に一度は話すようになった。
サバサバした口調や性格だが、アニメの話になると声色が変わり、一緒に「時をかける少女」を見たときは酔っていた事もあるんだろうが、普通の女の子の黄色い声になっていた。そのギャップが可笑しかった。
「来週東京行くから飲もうよ」
「いいよ」
エリの休みに合わせて東京へ着く日を調整した。
そしてその日を迎えた。
エリについていった先は早くからやってる居酒屋だった。
「ここでいい?」
「いいよ」
「ここ煙草吸えっからいいんだよね」
席に座る。
「お腹すいたー、何も食べてない」
「好きなのたくさん食べな。でも飲むときあんま食わんのやろ?」
「そう、だからちょっと食べてあとは飲む!生でいい?」
「いいよ」
俺がオーダーしようとするのよりも先に、エリは大きい声で店員さんを呼んでオーダーした。これもあまりない体験だった。
「嫌いなもんある?」
「ちょこちょこあるけど、エリちゃん好きなの選びなよ」 
「しめ鯖は?」
「大好き」
「じゃあしめ鯖」
「紅生姜天いいな」
「あたしも思った」
ビールを持ってきた店員さんに手早くオーダーを言う。牛タンとタコ唐もオーダーした。
乾杯してビールを飲む。美味かった。
「緊張しとるわ俺」 
「あたしもだよ」
「慣れてるやろ友達多いだろうし」
「そういうわけでもないよ」
「そうなんか、あっ、そういえば土産持ってきた」
「えっ、なに?」
前にエリと話した地元で有名なかぼちゃのパイとクラフトジンを持ってきていた。
「あー!そのパイ!」
「好きって言ってたからさ」
「ありがとうめっちゃ嬉しい」
「あとこのクラフトジンも飲んでみて」 
「ありがとう!」
これで少し緊張が解けた。
「帰りに渡すから持っとくよ」 
「うん!」
一気に声色に女性っぽさが出てきた。
あれこれと話した後。
エリがポケットからマルボロを取り出す。
「あっ、ライター忘った」
俺はリュックから同じマルボロとライターを出した。
「好きに使っていいよ」
「ありがと!無くなったら煙草もらうわ」
「いいよ、他のも持ってきとるから」
二人で煙草を吸った。
仕事の話やら最近の休みが変わった話やらをしているうちに互いに酔いもまわってきた。
今の仕事は楽しいらしい。
ウーロンハイと緑茶ハイが好きなのは通話で知っていた。生ビールのあとはずっとウーロンハイだった。
エリは元々楽器屋で働いていたり音楽業界に精通していたから、話題は音楽の話になっていった。
ビートルズではイエローサブマリンが一番好き。
一番好きなバンドはHi-STANDARD。
仕事で横山健と撮った写真を見せてきて羨ましく思った。
「地元には戻ってこないんか?」
「うーん、仕事がなー。それにあたしまだまだやりたいことあるからさ」
「でも子供生みたいんだろ?」
「そうなんよ。今すぐでも欲しい。そしたら実家近いほうがママに頼れるからいいんよね」
「難しいとこやな」
「そうなんよねー」
エリは完全に酔っていて、顔の表情筋がやわやわだった。
俺がスマホを向けるとエリはポーズを取り出した。
「顔隠すポーズやめろー」
「えー、しゃあないなぁ」
おそらく俺は今までで一番いい表情の写真を撮った気がした。
屈託のない、エリの魅力が溢れていた。
「カラオケいくか」
「いく」
店を出てカラオケに行くことにした。
会計で俺が支払っていると、胸ポケットに千円の束を入れてきた。というよりも突っ込んできたという言い方が適当かもしれない。
「いらんよ、俺が誘ったんやから」
「いいって、いいって。ほらいこう」
店の斜め向かいにあるカラオケ館へ。
「なんかさ」
「なに」 
「思ったより似てたよ」
「ああ、あのボーカルに?」
「そう!」
また屈託のない笑い顔だった。
部屋に入る。
「はくび歌う」
「はくび?」
「あたしKing Gnuめっちゃ得意だから」 
「それさはくじつっていうんだよ」
「嘘、ずっとはくびはくびって言ってたけど」
「周りのやつも知らんかったんかな」
「めっちゃ恥ずい」
バンドでギター・ボーカルをやっていただけあって歌はうまかった。
「声が似てるって言われ大塚愛歌ってよ」
「いいよ」
黒毛和牛上塩タン焼680円を歌った。確かに声質はピッタリだった。本当は俺の好きな桃ノ花ビラを歌ってほしかったが次回に取っておこうと思った。
俺はというと、ワンナイトカーニバルやらミッシェル・ガン・エレファントを歌ったら声が潰れてしばらく歌えなくなった。
エリのオンステージだったけど、楽しそうな姿を見ているだけで幸せな気持ちになった。
煙草を吸いに喫煙室に行ったとき、酔ってフラフラのエリがしゃがみ込んだ。
少し躊躇ったあと、エリの頭を撫でた。
湿気でボサボサになっていた頭を何度も撫でた。
「今朝シャワー浴びてないから」
頭を振った。ポンポンと頭に触れた後に、手を元の場所に戻した。
可愛らしくてしょうがなかった。
それは妹を可愛がる兄の気持ちなのか、酔った後輩の面倒を見る先輩の気持ちなのか、それとも本気の気持ちなのかわからなかった。
ただ、その髪を撫でたい。それだけだった。
部屋に戻ってまた歌の時間。
今度はファジーネーブルをエリは飲み始めた。
ELLEGARDENの「make a wish」を一緒に歌った。ELLEは共通の趣味だった。
あっという間に三時間が終わった。
支払いのとき、一万円札をだした俺の上から、エリはクレジットカードを置いた。
「五千円ある」
「あるよ」
エリに渡した。
外は雨が降っていた。
エリは少し派手目な柄の傘を持ってきていて、開いて俺も入れてくれた。
エリから傘を受け取ってエリに雨がかからないように歩いた。
空いた左手でエリの頭をまた撫でた。エリは大人しかった。
「楽しかったよあ��がとね」
「うん、めっちゃ酔ったー」
「まだまだやなー」
「強いなー」
改札につく。
リュックから土産を取り出して渡した。
「ありがとう」
「また飲もうな」
「うん」
「また休みの日通話しよう」
「あたし連絡まめじゃないから連絡して」
「うん、わかったよ。気をつけてかえってな」
「ありがとう、そっちもね」
またエリの頭を撫でた。嫌がる様子はなかった。
エリは改札をくぐっていった。
足はふらふらだった。
ホテルへ戻りながらエリにLINEを打った。
ベッドでうとうとしてると返信が来た。
どうやらお風呂に入ってベッドに入ったらしい。
吐いてスッキリしたから明日はちゃんと仕事に行けると書いてあった。
飾らない性格ってこういう子を言うんだな。
そう思って眠りについた。
未だに答えはわからない。
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kitaorio · 3 years ago
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たまご
 始発までまだ時間がある。  箱の中は外の静けさを無視し四打ちの音に満たされ、いつになく盛り上がっていた。  今日のメインであるDJがCDをリリースし、そのリリースパーティーとしてのイベントなのだが、今いる客の中でそのCDを聞いてきているのはほぼ皆無である。ほとんどは週末の夜になにか踊れるイベントはないかとフライヤーやネットでイベントを集めた中で一番盛り上がりそうなここを選んだ奴らだ。俺もその一人で、特に誰と待ち合わせるまでもなく、週末の夜にスパイスをふるような気分でここに来ていた。  地下にあるそのクラブはフロアが吹き抜けになっており、フロアから見て二階になるバーカウンターからDJブースを見下ろせるようになっている。俺は氷がとけだらしなく伸びてしまった酒を片手にフロアの喧噪をながめ、たまに下で踊ったりしていた。  そんなに広くはないフロアの正面にブロックを白いペンキを塗りたくって作られているDJブースがあり、フロアはここ以外にはほとんど照明がなく、その両サイドに天井まで届くようなスピーカーがある。天井を見上げるとミラーボールがあり、曲の盛り上がりに合わせ放射されるレーザーの明かりが乱反射しフロアに不規則な流星群を描いていた。背丈以上の高さのスピーカーの前で音の波間をただようクラゲのように揺れていると、音圧で服と腹に同じリズムが刻まれる。170bpm以上のテンポで刻まれているビニルの振動は時として早すぎてついていけないぐらい。音は止まる事がなく次から次へと疾走し、体は音圧の津波に流され、いつまでも留まる事のない浮遊感、焦燥感に似たそれでいていらだちのない多幸感に包まれる。時間の概念は融けだし目前で起きている事は終わりのないリズムの濁流こそがすべてで、溶け込んでしまった肉体を低音で揺さぶれる事で感じるだけなのである。思考は肉体と一緒に形をなくし、ウイスキーに落としたインクの一滴になる。盛り上がりの中にある混沌とした調和、フロアに響く新譜とスタンダード、未知の旋律、既知のリズム、シンセベースの連符、サイン波の歪み、潮溜まりに追い込まれるようなタメ、スモークの香り、泡立つリバーブ、湖底に揺らぐ絢爛、浮上の嬌声、踊、跳、音、乱、美、響、光、煙、幸、輝、悦、快、!。  音の中でおぼれている間はなにも考えず、ただただ体が動くままに動いている。ふと、今までの炭酸が何もしないのにパチパチと弾けるような高揚感が静まり、いつもの面々の一人にもまだ遭遇できないでいる漠然とした孤立感に、なんとなくの身の置き所のなさを感じていた。営業終了までしぶとく踊りつつけているつもりだったのだが、何となく腹も減ったので、どうする当てもなく夜明け前の街に出て漂よう事にした。  夜道は街頭で明るく、闇夜という言葉がこの世から消滅してしまうのではないかといらぬ心配をしながら、シャッターの閉じた駅まで歩き、適当な店が見つからず、駅周辺を足の向くままさまよっていた。  この時間に営業している店は、飲むか食べるか、もしくは色気のある店ぐらいだ。  今は腹が減っているだけであり、パーティーで手持ちぶささをごまかすのにいつも以上にタバコに火をつけていたせいか舌に苦い皮膜が張っているような感じがしている。こういう味のわからない時はできるだけ安くジャンクな食べ物で腹をごまかそうと思った。この時間に安くジャンクでというと、ラーメンとドンブリものに落ち着く。ただ何となくの食欲に選択するのも馬鹿馬鹿しい話なので、安い方を選び駅から少し離れた所にあった牛丼屋に入る。  街頭の明かりに慣らされた目には、牛丼屋の中の刺々しいほどに純白の蛍光灯の明かりは、なにやら消毒液を思わせるような体に障る清潔感を感じ、せっかくクラブでまとってきた夜の不健康が流されてしまうような気がした。  牛丼と生卵を頼み、渋皮のように舌にまとわりつくニコチンを水で流していると頼んだものが出される。  俺が食べようとした直前ぐらいからか耳障りな音が聞こえてくる。  入口から見てコの字型のカウンターの出入り口すぐに座ったのだが、奥の方から泥を混ぜてるような、高い所から粥を落としているような、ベチャベチャとした音を立てて食っている爺がいる。何を考えているのか知らないが、そいつは周りを見回しながら、そして見回した先の奴と目が合うとそいつに向かい見せつけるように大口を開けてわざとらしく口を動かしている。しつけのなってない犬だってもう少し静かに食べるのにもかかわらず、どういう環境で生きていたらそのような食べ方ができるのか不思議なぐらいだ。  内心ムカムカしながら箸を付けようとした時、その爺がこっちに口の中のものを見せるように大口を開けながら、その店で一番安い食べ物である牛丼を掻き込んでいた。  まばらに黒いのが混じるぼさぼさ頭、毛玉だらけのセーターに歯はほとんどが抜けていて、目元は野卑という言葉の似合う人にケンカを売るような好戦的で濁った視線。骸骨に皮を張っただけに見える肉のない顔についた口は、必要以上に大きく開かれているせいもあって上の前歯が3本、下の前歯が4本ぐらいだろうか、タバコやけをしているのか茶色い濁った色素が染みつき杭みたいになっているのが目に入った。  火傷跡みたいにヒリヒリとした嫌な感情が立ち上がり、運ばれてきた膳の中にあった生卵を反射的にぶつけてやろうかと思ったが、握った所で辞めた。  そのかわりに俺はほぼ呪詛に近い感覚で、死ねばいいと思いつつにらみつけていた。  卵じゃ煮え立つ感情には弱いので、湯飲みをぶつけてやろうか、それともしょう油瓶をぶつけてやろうかと思いながら、自分も箸を動かしていた。  だいたい、あの年にもなってまともに飯を食えない奴に生きている理由があるのだろうか、少なくとも人の目に触れる所に出してはいけない、どこか洞穴にでも押し込んで、一日に一回握り飯でも放り込んでおくぐらいで充分じゃないか、といらだちを増幅させ、ガンをつけ続ける自分を正当化し続けた。向こうもこっちをにらんでいる。ここは目がそらした方が負けなのである。  ほとんど獣のケンカみたいな状態で、何か動きがあったら投げつけてやろうと七味唐辛子の瓶を視界に入れながら、爺にガンをつけつつ丼を掻き込んでいた。  俺の丼の中はあと二口ぐらいだろうか、爺の方が目をそらした。腹の中に沸いていたヘドロみたいなむかつきは少しは引いたのだが、残ったのは情けない野良犬のいがみ合いのようなケンカの勝利だけであった。丼の底に小島のように固まっている牛肉のかけらとご飯の固まりを一気に掻き込んだ所で玉子の存在に気付いた。爺にむかついていたばかりに追加した玉子を丼に落とすのを忘れていた。食べて丼を置いたら勢いよく出て行こうかと考えていた所に気がつき、そこ置いていっても良かったのだが、卵を忘れていた自分に気が抜けそのままもって出る事にした。  店員に気付かれないよう、そしてできるだけさりげなく、上着のポケットに玉子を移す。  始発にはまだ時間があり、駅も開く気配がない。駅周辺をただようチリの気分になりながらのろのろと歩いていた。  上着のポケットにつっこんだ右手には卵がにぎられている。  店で出された時よりも手のぬくもりで暖められ、カルシウムのざらつきに包まれた、ずしりとした下ぶくれの珠が手の中にある。  クラブの中でふらふらしていた時とは違い、牛丼屋の中でざらついてしまった気持ちのやりどころのない嗜虐心を、手中の卵にぶつけた。手の内で転がるそれは、紛れもなく卵なのだが、そっと力を込めると指先の肉を受け止め、中身を守ろうとする殻の抵抗に遭う。割れてしまうと上着が台無しになるなと思いつつも、右手はポケットの中に閉じこもり、卵にじんわりと圧を与えては離すという蹂躙を繰り返していた。指先の乱暴は駅前の一区画をさまよい、気を取り直して飲もうと探しているスツールに座して少しの酒をすすれる店がことごとく営業を終わらせているのをみてまわるまで続いた。次の区画にうつる頃には指先の暴行は肉による緩やかな締め付けから爪での直接的な加害に変わっていた。爪も殻も肉の中で作られ、その中を守るためのものだ。爪がざらついた表面をなぞる。手のひらで転がしていた時には工芸品を思わせるようななめらかな表面に感じたのだが、爪の先でつぶさに観察してみると、コンクリートを思わせる引っかかりを見つける事ができる。下ぶくれ部分の緩やかな面を人差し指の先で一通りひっか��、その曲面すべてを爪がなぞると、ポケットの中でごそごそひっくり返し反対側のとがった部分を爪でなぞる。指を頂点目指してはわせている時のグイッというラインの持ち上がり方と、頂から下りる時の直滑降のスピード感が気持ちよく、何度となく人差し指が登り降りを繰り返した。そのうち頂点に加害をはじめた。ガリガリと引っ掻く音がするのではないかと思えるほど、しかし殻が割れないほどに加減をしながら、目では判らなくとも顕微鏡でつぶさに観察したら見えるのではないかと思うるような傷は付いているだろうと、微細な世界へ思いをはせながら爪を押し当て動かし続ける。孵化する可能性のない白色レグホンの卵への継続的な暴力は終わる事はなく、酒とスツールを求め駅周辺をただよう間に、ついには打撃を加えるようになった。親指と薬指とでしっかりと押さえ、人差し指の先でノックするようにたたく。指先に伝わる殻のガードは、割れないでいて服が汚れないで済む事の安心と、なかなか割れない殻に対して冷淡に見つめるような気持ちとが入り交じり、飲み屋を求めてさまよっているだけにもかかわらず、ジャケットのポケットの中で行っている事に対し、熱湯と氷の両方が混じる事がなくよどみ続けるような壊したい衝動とそうしたくない迷いがぐるぐると入り交じっていた。  結局入れる店が見つからず、ポケットの中に入れた卵を指先でつつきつつコンビニで買った酒をあおり、ざらついた感情を溶かしながら始発までの時間を過ごしていた。駅前に戻ると地下鉄の入口の近くで丸まって寝ているサラリーマンらしきスーツの男がいた。地下鉄の入口は始発が出るまではその門戸を閉ざし、雨が降ろうが風が吹こうが始発待ちの客を優しく向かい入れる事はなく、やっと開いたとしてもベンチは冷たく、構内でゆっくりくつろげるような所もあるわけではなく、ただただ地上と電車の途中をつなぐ通路として、モグラやミミズが入ってこれないようにコンクリートで四方を固めているだけである。  始発にはまだ待たなければならない。  俺は卵をどうしたものかと思いながら、冷たい夜風が避けられる所はないかと探していた。風よけになりそうなスキマを見つけては入ってみて居心地を試してみるのだが、どこも完全には風から守ってはくれない。唯一風がなさそうな所はスーツ姿の男がビジネスバッグを抱えるようにして丸まっている。  その男は器用に寝ていて、ビジネスバッグを抱え、体に新聞紙をかけているつもりでいるのだが、寝ぼけながらも新聞紙を深くかぶろうとしたのだろうか、丸まっている体の中心にバッグやら新聞やらが集まり、まるで巣を守る動物のようになっている。  寒空の下で寝ていられるのを感心する一方で、俺の頭の中では妙案が浮かんでいた。  この男を立派な親鳥にさせてやろう。  近くの公衆便所に行きトイレットペーパーをこぶし大ぐらい取り、それを細かく裂いた。そして新聞とバッグを抱えて寝ている男の中心に、鳥がそうするように卵の安住の場所を作ってやるのである。  起きないようにゆっくりと、けれども気付かれるのもつまらないので素早く、男の側に近づいた。ビルとビルのスキマである男の仮宿はちょうど街頭の明かりが直接目に入らないような所であり、俺が近づいた事でかろうじて男の体を照らしていた明かりも全く入り込まなくなってしまった。ほぼ暗闇の中、男が抱えてる新聞とカバンの上にトイレットペーパーの羽を広げるなければならない。  俺は男の前に近づいた体勢のまま、できるだけ物音を立てないよう、そしてすぐに逃げられるように前屈をするような姿で作業していた。試行錯誤する余裕はなく、一発勝負である。手のひらの上でトイレットペーパーの巣を作り、置くのではなく、ギリギリの所まで降ろしてから落とすようにして新聞とカバンの土台の上に巣を作った。少し斜めになってしまったが成功である。いよいよ卵を置き完成させる。できるだけ巣の中心に、卵が心地よいであろうポジションに安置できるよう、細心の注意を払いながら巣の中に卵を置く。トイレットペーパーで作った羽の中、人差し指と親指に運ばれゆっくりと卵は沈み込む。巣にすっかりと沈み込んだのを感じると、だめ押しでぐらつかないように人差し指でそっと押し込んだ。  そのとき、男のいびきが止まる。  俺もそれに合わせ、一瞬の硬直で男にあわせる。秒針が少し進むぐらいでしかないが、男が目を覚ましてしまうとせっかくの妙案が台無しになってしまう。俺は自分を電信柱だと思いこみ、男に気配を感じさせず目を覚ますきっかけを与えないようにした。  再び男が寝息を立て始めると、俺は体の硬直を説き卵に異変がないかを人差し指で触れる事で確認した。  無事に卵が巣の中にたたずんでいるのを確認すると、近づいた時と同じようにゆっくりと素早くそこから遠のいた。  街灯の明かりが戻り、男の体の中心には卵が鎮座している。  巣作りをし終わり、煙草をくわえながら“親鳥”を見ていると地下鉄のシャッターが開いた。地下へと続く階段は白々と色気のない照明で照らされていた。のろのろと階段を降りながらあの男、目を覚ましたらどんな顔をするのだろう。そう思うと今まで俺の気持ちの底に横たわっていた砂地に落ちた氷のような暗い感情が熔けたような気になり笑いがこみ上げ、くしゃみをするような短い咳払いみたいな笑い声がでてしまった。  長く続く地下鉄の階段に俺の笑い声の破片が少しだけ響き、あとは俺の足音だけになった。
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kurihara-yumeko · 4 years ago
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【小説】The day I say good-bye (1/4) 【再録】
 今日は朝から雨だった。
 確か去年も雨だったよな、と僕は窓ガラスに反射している自分の顔を見つめて思った。僕を乗せたバスは、小雨の降る日曜の午後を北へ向かって走る。乗客は少ない。
 予定より五分遅れて、予定通りバス停「船頭町三丁目」で降りた。灰色に濁った水が流れる大きな樫岸川を横切る橋を渡り、広げた傘に雨音が当たる雑音を聞きながら、柳の並木道を歩く。
 小さな古本屋の角を右へ、古い木造家屋の住宅ばかりが建ち並ぶ細い路地を抜けたら左へ。途中、不機嫌そうな面構えの三毛猫が行く手を横切った。長い長い緩やかな坂を上り、苔生した石段を踏み締めて、赤い郵便ポストがあるところを左へ。突然広くなった道を行き、椿だか山茶花だかの生け垣のある家の角をまた左へ。
 そうすると、大きなお寺の屋根が見えてくる。囲われた塀の中、門の向こうには、静かな墓地が広がっている。
 そこの一角に、あーちゃんは眠っている。
 砂利道を歩きながら、結構な数の墓の中から、あーちゃんの墓へ辿り着く。もう既に誰かが来たのだろう。墓には真っ白な百合と、あーちゃんの好物であった焼きそばパンが供えてあった。あーちゃんのご両親だろうか。
 手ぶらで来てしまった僕は、ただ墓石を見上げる。周りの墓石に比べてまだ新しいその石は、手入れが行き届いていることもあって、朝から雨の今日であっても穏やかに光を反射している。
 そっと墓石に触れてみた。無機質な冷たさと硬さ��けが僕の指先に応えてくれる。
 あーちゃんは墓石になった。僕にはそんな感覚がある。
 あーちゃんは死んだ。死んで、燃やされて、灰になり、この石の下に閉じ込められている。埋められているのは、ただの灰だ。あーちゃんの灰。
 ああ。あーちゃんは、どこに行ってしまったんだろう。
 目を閉じた。指先は墓石に触れたまま。このままじっとしていたら、僕まで石になれそうだ。深く息をした。深く、深く。息を吐く時、わずかに震えた。まだ石じゃない。まだ僕は、石になれない。
 ここに来ると、僕はいつも泣きたくなる。
 ここに来ると、僕はいつも死にたくなる。
 一体どれくらい、そうしていたのだろう。やがて後ろから、砂利を踏んで歩いてくる音が聞こえてきたので、僕は目を開き、手を引っ込めて振り向いた。
「よぉ、少年」
 その人は僕の顔を見て、にっこり笑っていた。
 総白髪かと疑うような灰色の頭髪。自己主張の激しい目元。頭の上の帽子から足元の厚底ブーツまで塗り潰したように真っ黒な恰好の人。
「やっほー」
 蝙蝠傘を差す左手と、僕に向けてひらひらと振るその右手の手袋さえも黒く、ちらりと見えた中指の指輪の石の色さえも黒い。
「……どうも」
 僕はそんな彼女に対し、顔の筋肉が引きつっているのを無理矢理に動かして、なんとか笑顔で応えて見せたりする。
 彼女はすぐ側までやってきて、馴れ馴れしくも僕の頭を二、三度柔らかく叩く。
「こんなところで奇遇だねぇ。少年も墓参りに来たのかい」
「先生も、墓参りですか」
「せんせーって呼ぶなしぃ。あたしゃ、あんたにせんせー呼ばわりされるようなもんじゃございませんって」
 彼女――日褄小雨先生はそう言って、だけど笑った。それから日褄先生は僕が先程までそうしていたのと同じように、あーちゃんの墓石を見上げた。彼女も手ぶらだった。
「直正が死んで、一年か」
 先生は上着のポケットから煙草の箱とライターを取り出す。黒いその箱から取り出された煙草も、同じように黒い。
「あたしゃ、ここに来ると後悔ばかりするね」
 ライターのかちっという音、吐き出される白い煙、どこか甘ったるい、ココナッツに似たにおいが漂う。
「あいつは、厄介なガキだったよ。つらいなら、『つらい』って言えばいい、それだけのことなんだ。あいつだって、つらいなら『つらい』って言ったんだろうさ。だけどあいつは、可哀想なことに、最後の最後まで自分がつらいってことに気付かなかったんだな」
 煙草の煙を揺らしながら、そう言う先生の表情には、苦痛と後悔が入り混じった色が見える。口に煙草を咥えたまま、墓前で手を合わせ、彼女はただ目を閉じていた。瞼にしつこいほど塗られた濃い黒い化粧に、雨の滴が垂れる。
 先生はしばらくして瞼を開き、煙草を一度口元から離すと、ヤニ臭いような甘ったるいような煙を吐き出して、それから僕を見て、優しく笑いかけた。それから先生は背を向け、歩き出してしまう。僕は黙ってそれを追った。
 何も言わなくてもわかっていた。ここに立っていたって、悲しみとも虚しさとも呼ぶことのできない、吐き気がするような、叫び出したくなるような、暴れ出したくなるような、そんな感情が繰り返し繰り返し、波のようにやってきては僕の心の中を掻き回していくだけだ。先生は僕に、帰ろう、と言ったのだ。唇の端で、瞳の奥で。
 先生の、まるで影法師が歩いているかのような黒い後ろ姿を見つめて、僕はかつてたった一度だけ見た、あーちゃんの黒いランドセルを思い出す。
 彼がこっちに引っ越してきてからの三年間、一度も使われることのなかった傷だらけのランドセル。物置きの中で埃を被っていたそれには、あーちゃんの苦しみがどれだけ詰まっていたのだろう。
 道の途中で振り返る。先程までと同じように、墓石はただそこにあった。墓前でかけるべき言葉も、抱くべき感情も、するべき行為も、何ひとつ僕は持ち合わせていない。
 あーちゃんはもう死んだ。
 わかりきっていたことだ。死んでから何かしてあげても無駄だ。生きているうちにしてあげないと、意味がない。だから、僕がこうしてここに立っている意味も、僕は見出すことができない。僕がここで、こうして呼吸をしていて、もうとっくに死んでしまったあーちゃんのお墓の前で、墓石を見つめている、その意味すら。
 もう一度、あーちゃんの墓に背中を向けて、僕は今度こそ歩き始めた。
「最近調子はどう?」
 墓地を出て、長い長い坂を下りながら、先生は僕にそう尋ねた。
「一ヶ月間、全くカウンセリング来なかったけど、何か変化があったりした?」
 黙っていると先生はさらにそう訊いてきたので、僕は仕方なく口を開く。
「別に、何も」
「ちゃんと飯食ってる? また少し痩せたんじゃない?」
「食べてますよ」
「飯食わないから、いつまでも身長伸びないんだよ」
 先生は僕の頭を、目覚まし時計を止める時のような動作で乱雑に叩く。
「ちょ……やめて下さいよ」
「あーっはっはっはっはー」
 嫌がって身をよじろうとするが、先生はそれでもなお、僕に攻撃してくる。
「ちゃんと食わないと。摂食障害になるとつらいよ」
「食べますよ、ちゃんと……」
「あと、ちゃんと寝た方がいい。夜九時に寝ろ。身長伸びねぇぞ」
「九時に寝られる訳ないでしょう、小学生じゃあるまいし……」
「勉強なんかしてるから、身長伸びねぇんだよ」
「そんな訳ないでしょう」
 あはは、と朗らかに彼女は笑う。そして最後に優しく、僕の頭を撫でた。
「負けるな、少年」
 負けるなと言われても、一体何に――そう問いかけようとして、僕は口をつぐむ。僕が何と戦っているのか、先生はわかっているのだ。
「最近、市野谷はどうしてる?」
 先生は何気ない声で、表情で、タイミングで、あっさりとその名前を口にした。
「さぁ……。最近会ってないし、電話もないし、わからないですね」
「ふうん。あ、そう」
 先生はそれ以上、追及してくることはなかった。ただ独り言のように、「やっぱり、まだ駄目か」と言っただけだった。
 郵便ポストのところまで歩いてきた時、先生は、「あたしはあっちだから」と僕の帰り道とは違う方向を指差した。
「駐車場で、葵が待ってるからさ」
「ああ、葵さん。一緒だったんですか」
「そ。少年は、バスで来たんだろ? 家まで車で送ろうか?」
 運転するのは葵だけど、と彼女は付け足して言ったが、僕は首を横に振った。
「ひとりで帰りたいんです」
「あっそ。気を付けて帰れよ」
 先生はそう言って、出会った時と同じように、ひらひらと手を振って別れた。
 路地を右に曲がった時、僕は片手をパーカーのポケットに入れて初めて、とっくに音楽が止まったままになっているイヤホンを、両耳に突っ込んだままだということに気が付いた。
 僕が小学校を卒業した、一年前の今日。
 あーちゃんは人生を中退した。
 自殺したのだ。十四歳だった。
 遺書の最後にはこう書かれていた。
「僕は透明人間なんです」
    あーちゃんは僕と同じ団地に住んでいて、僕より二つお兄さんだった。
 僕が小学一年生の夏に、あーちゃんは家族四人で引っ越してきた。冬は雪に閉ざされる、北の方からやって来たのだという話を聞いたことがあった。
 僕はあーちゃんの、団地で唯一の友達だった。学年の違う彼と、どんなきっかけで親しくなったのか正確には覚えていない。
 あーちゃんは物静かな人だった。小学生の時から、年齢と不釣り合いなほど彼は大人びていた。
 彼は人付き合いがあまり得意ではなく、友達がいなかった。口数は少なく、話す時もぼそぼそとした、抑揚のない平坦な喋り方で、どこか他人と距離を取りたがっていた。
 部屋にこもりがちだった彼の肌は雪みたいに白くて、青い静脈が皮膚にうっすら透けて見えた。髪が少し長くて、色も薄かった。彼の父方の祖母が外国人だったと知ったのは、ずっと後のことだ。銀縁の眼鏡をかけていて、何か困ったことがあるとそれをかけ直す癖があった。
 あーちゃんは器用だった。今まで何度も彼の部屋へ遊びに行ったことがあるけれど、そこには彼が組み立てたプラモデルがいくつも置かれていた。
 僕が加減を知らないままにそれを乱暴に扱い、壊してしまったこともあった。とんでもないことをしてしまったと、僕はひどく後悔してうつむいていた。ごめんなさい、と謝った。年上の友人の大切な物を壊してしまって、どうしたらよいのかわからなかった。鼻の奥がつんとした。泣きたいのは壊されたあーちゃんの方だっただろうに、僕は泣き出しそうだった。
 あーちゃんは、何も言わなかった。彼は立ち尽くす僕の前でしゃがみ込んだかと思うと、足下に散らばったいびつに欠けたパーツを拾い、引き出しの中からピンセットやら接着剤やらを取り出して、僕が壊した部分をあっという間に直してしまった。
 それらの作業がすっかり終わってから彼は僕を呼んで、「ほら見てごらん」と言った。
 恐る恐る近付くと、彼は直ったばかりの戦車のキャタピラ部分を指差して、
「ほら、もう大丈夫だよ。ちゃんと元通りになった。心配しなくてもいい。でもあと1時間は触っては駄目だ。まだ接着剤が乾かないからね」
 と静かに言った。あーちゃんは僕を叱ったりしなかった。
 僕は最後まで、あーちゃんが大声を出すところを一度も見なかった。彼が泣いている姿も、声を出して笑っているのも。
 一度だけ、あーちゃんの満面の笑みを見たことがある。
 夏のある日、僕とあーちゃんは団地の屋上に忍び込んだ。
 僕らは子供向けの雑誌に載っていた、よく飛ぶ紙飛行機の作り方を見て、それぞれ違うモデルの紙飛行機を作り、どちらがより遠くへ飛ぶのかを競走していた。
 屋上から飛ばしてみよう、と提案したのは僕だった。普段から悪戯などしない大人しいあーちゃんが、そ��提案に首を縦に振ったのは今思い返せば珍しいことだった。そんなことはそれ以前も以降も二度となかった。
 よく晴れた日だった。屋上から僕が飛ばした紙飛行機は、青い空を横切って、団地の駐車場の上を飛び、道路を挟んだ向かいの棟の四階、空き部屋のベランダへ不時着した。それは今まで飛ばしたどんな紙飛行機にも負けない、驚くべき距離だった。僕はすっかり嬉しくなって、得意げに叫んだ。
「僕が一番だ!」
 興奮した僕を見て、あーちゃんは肩をすくめるような動作をした。そして言った。
「まだわからないよ」
 あーちゃんの細い指が、紙飛行機を宙に放つ。丁寧に折られた白い紙飛行機は、ちょうどその時吹いてきた風に背中を押されるように屋上のフェンスを飛び越え、僕の紙飛行機と同じように駐車場の上を通り、向かいの棟の屋根を越え、それでもまだまだ飛び続け、青い空の中、最後は粒のようになって、ついには見えなくなってしまった。
 僕は自分の紙飛行機が負けた悔しさと、魔法のような素晴らしい出来事を目にした嬉しさとが半分ずつ混じった目であーちゃんを見た。その時、僕は見たのだ。
 あーちゃんは声を立てることはなかったが、満足そうな笑顔だった。
「僕は透明人間なんです」
 それがあーちゃんの残した最後の言葉だ。
 あーちゃんは、僕のことを怒ればよかったのだ。地団太を踏んで泣いてもよかったのだ。大声で笑ってもよかったのだ。彼との思い出を振り返ると、いつもそんなことばかり思う。彼はもう永遠に泣いたり笑ったりすることはない。彼は死んだのだから。
 ねぇ、あーちゃん。今のきみに、僕はどんな風に見えているんだろう。
 僕の横で静かに笑っていたきみは、決して透明なんかじゃなかったのに。
 またいつものように春が来て、僕は中学二年生になった。
 張り出されていたクラス替えの表を見て、そこに馴染みのある名前を二つ見つけた。今年は、二人とも僕と同じクラスのようだ。
 教室へ向かってみたけれど、始業の時間になっても、その二つの名前が用意された席には、誰も座ることはなかった。
「やっぱり、まだ駄目か」
 誰かと同じ言葉を口にしてみる。
 本当は少しだけ、期待していた。何かが良くなったんじゃないかと。
 だけど教室の中は新しいクラスメイトたちの喧騒でいっぱいで、新年度一発目、始業式の今日、二つの席が空白になっていることに誰も触れやしない。何も変わってなんかない。
 何も変わらないまま、僕は中学二年生になった。
 あーちゃんが死んだ時の学年と同じ、中学二年生になった。
 あの日、あーちゃんの背中を押したのであろう風を、僕はずっと探してる。
 青い空の果てに、小さく消えて行ってしまったあーちゃんを、僕と「ひーちゃん」に返してほしくて。
    鉛筆を紙の上に走らせる音が、止むことなく続いていた。
「何を描いてるの?」
「絵」
「なんの絵?」
「なんでもいいでしょ」
「今年は、同じクラスみたいだね」
「そう」
「その、よろしく」
 表情を覆い隠すほど長い前髪の下、三白眼が一瞬僕を見た。
「よろしくって、何を?」
「クラスメイトとして、いろいろ……」
「意味ない。クラスなんて、関係ない」
 抑揚のない声でそう言って、双眸は再び紙の上へと向けられてしまった。
「あ、そう……」
 昼休みの保健室。
 そこにいるのは二人の人間。
 ひとりはカーテンの開かれたベッドに腰掛け、胸にはスケッチブック、右手には鉛筆を握り締めている。
 もうひとりはベッドの脇のパイプ椅子に座り、特にすることもなく片膝を抱えている。こっちが僕だ。
 この部屋の主であるはずの鬼怒田先生は、何か用があると言って席を外している。一体なんの仕事があるのかは知らないが、この学校の養護教諭はいつも忙しそうだ。
 僕はすることもないので、ベッドに座っているそいつを少しばかり観察する。忙しそうに鉛筆を動かしている様子を見ると、今はこちらに注意を払ってはいなそうだから、好都合だ。
 伸びてきて邪魔になったから切った、と言わんばかりのショートカットの髪。正反対に長く伸ばされた前髪は、栄養状態の悪そうな青白い顔を半分近く隠している。中学二年生としては小柄で華奢な体躯。制服のスカートから伸びる足の細さが痛々しく見える。
 彼女の名前は、河野ミナモ。僕と同じクラス、出席番号は七番。
 一言で表現するならば、彼女は保健室登校児だ。
 鉛筆の音が、止んだ。
「なに?」
 ミナモの瞬きに合わせて、彼女の前髪が微かに動く。少しばかり長く見つめ続けてしまったみたいだ。「いや、なんでもない」と言って、僕は天井を仰ぐ。
 ミナモは少しの間、何も言わずに僕の方を見ていたようだが、また鉛筆を動かす作業を再開した。
 鉛筆を走らせる音だけが聞こえる保健室。廊下の向こうからは、楽しそうに駆ける生徒たちの声が聞こえてくるが、それもどこか遠くの世界の出来事のようだ。この空間は、世界から切り離されている。
「何をしに来たの」
「何をって?」
「用が済んだなら、帰れば」
 新年度が始まったばかりだからだろうか、ミナモは機嫌が悪いみたいだ。否、機嫌が悪いのではなく、具合が悪いのかもしれない。今日の彼女はいつもより顔色が悪いように見える。
「いない方がいいなら、出て行くよ」
「ここにいてほしい人なんて、いない」
 平坦な声。他人を拒絶する声。憎しみも悲しみも全て隠された無機質な声。
「出て行きたいなら、出て行けば?」
 そう言うミナモの目が、何かを試すように僕を一瞥した。僕はまだ、椅子から立ち上がらない。彼女は「あっそ」とつぶやくように言った。
「市野谷さんは、来たの?」
 ミナモの三白眼がまだ僕を見ている。
「市野谷さんも同じクラスなんでしょ」
「なんだ、河野も知ってたのか」
「質問に答えて」
「……来てないよ」
「そう」
 ミナモの前髪が揺れる。瞬きが一回。
「不登校児二人を同じクラスにするなんて、学校側の考えてることってわからない」
 彼女の言葉通り、僕のクラスには二人の不登校児がいる。
 ひとりはこの河野ミナモ。
 そしてもうひとりは、市野谷比比子。僕は彼女のことを昔から、「ひーちゃん」と呼んでいた。
 二人とも、中学に入学してきてから一度も教室へ登校してきていない。二人の机と椅子は、一度も本人に使われることなく、今日も僕の教室にある。
 といっても、保健室登校児であるミナモはまだましな方で、彼女は一年生の頃から保健室には登校してきている。その点ひーちゃんは、中学校の門をくぐったこともなければ、制服に袖を通したことさえない。
 そんな二人が今年から僕と同じクラスに所属になったことには、正直驚いた。二人とも僕と接点があるから、なおさらだ。
「――くんも、」
 ミナモが僕の名を呼んだような気がしたが、上手く聞き取れなかった。
「大変ね、不登校児二人の面倒を見させられて」
「そんな自嘲的にならなくても……」
「だって、本当のことでしょ」
 スケッチブックを抱えるミナモの左腕、ぶかぶかのセーラー服の袖口から、包帯の巻かれた手首が見える。僕は自分の左手首を見やる。腕時計をしているその下に、隠した傷のことを思う。
「市野谷さんはともかく、教室へ行く気なんかない私の面倒まで、見なくてもいいのに」
「面倒なんて、見てるつもりないけど」
「私を訪ねに保健室に来るの、――くんくらいだよ」
 僕の名前が耳障りに響く。ミナモが僕の顔を見た。僕は妙な表情をしていないだろうか。平然を装っているつもりなのだけれど。
「まだ、気にしているの?」
「気にしてるって、何を?」
「あの日のこと」
 あの日。
 あの春の日。雨の降る屋上で、僕とミナモは初めて出会った。
「死にたがり屋と死に損ない」
 日褄先生は僕たちのことをそう呼んだ。どっちがどっちのことを指すのかは、未だに訊けていないままだ。
「……気にしてないよ」
「そう」
 あっさりとした声だった。ミナモは壁の時計をちらりと見上げ、「昼休み終わるよ、帰れば」と言った。
 今度は、僕も立ち上がった。「それじゃあ」と口にしたけれど、ミナモは既に僕への興味を失ったのか、スケッチブックに目線を落とし、返事のひとつもしなかった。
 休みなく動き続ける鉛筆。
 立ち上がった時にちらりと見えたスケッチブックは、ただただ黒く塗り潰されているだけで、何も描かれてなどいなかった。
    ふと気付くと、僕は自分自身が誰なのかわからなくなっている。
 自分が何者なのか、わからない。
 目の前で展開されていく風景が虚構なのか、それとも現実なのか、そんなことさえわからなくなる。
 だがそれはほんの一瞬のことで、本当はわかっている。
 けれど感じるのだ。自分の身体が透けていくような感覚を。「自分」という存在だけが、ぽっかりと穴を空けて突っ立っているような。常に自分だけが透明な膜で覆われて、周囲から隔離されているかのような疎外感と、なんの手応えも得られない虚無感と。
 あーちゃんがいなくなってから、僕は頻繁にこの感覚に襲われるようになった。
 最初は、授業が終わった後の短い休み時間。次は登校中と下校中。その次は授業中にも、というように、僕が僕をわからなくなる感覚は、学校にいる間じゅうずっと続くようになった。しまいには、家にいても、外にいても、どこにいてもずっとそうだ。
 周りに人がいればいるほど、その感覚は強かった。たくさんの人の中、埋もれて、紛れて、見失う。自分がさっきまで立っていた場所は、今はもう他の人が踏み荒らしていて。僕の居場所はそれぐらい危ういところにあって。人混みの中ぼうっとしていると、僕なんて消えてしまいそうで。
 頭の奥がいつも痛かった。手足は冷え切ったみたいに血の気がなくて。酸素が薄い訳でもないのにちゃんと息ができなくて。周りの人の声がやたら大きく聞こえてきて。耳の中で何度もこだまする、誰かの声。ああ、どうして。こんなにも人が溢れているのに、ここにあーちゃんはいないんだろう。
 僕はどうして、ここにいるんだろう。
「よぉ、少年」
 旧校舎、屋上へ続く扉を開けると、そこには先客がいた。
 ペンキがところどころ剥げた緑色のフェンスにもたれるようにして、床に足を投げ出しているのは日褄先生だった。今日も真っ黒な恰好で、ココナッツのにおいがする不思議な煙草を咥えている。
「田島先生が、先生のことを昼休みに探して��したよ」
「へへっ。そりゃ参ったね」
 煙をゆらゆらと立ち昇らせて、先生は笑う。それからいつものように、「せんせーって呼ぶなよ」と付け加えた。彼女はさらに続けて言う。
「それで? 少年は何をし、こんなところに来たのかな?」
「ちょっと外の空気を吸いに」
「おお、奇遇だねぇ。あたしも外の空気を吸いに……」
「吸いにきたのはニコチンでしょう」
 僕がそう言うと、先生は、「あっはっはっはー」と高らかに笑った。よく笑う人だ。
「残念だが少年、もう午後の授業は始まっている時間だし、ここは立ち入り禁止だよ」
「お言葉ですが先生、学校の敷地内は禁煙ですよ」
「しょうがない、今からカウンセリングするってことにしておいてあげるから、あたしの喫煙を見逃しておくれ。その代わり、あたしもきみの授業放棄を許してあげよう」
 先生は右手でぽんぽんと、自分の隣、雨上がりでまだ湿気っているであろう床を叩いた。座れと言っているようだ。僕はそれに従わなかった。
 先客がいたことは予想外だったが、僕は本当に、ただ、外の空気を吸いたくなってここに来ただけだ。授業を途中で抜けてきたこともあって、長居をするつもりはない。
 ふと、視界の隅に「それ」が目に入った。
 フェンスの一角に穴が空いている。ビニールテープでぐるぐる巻きになっているそこは、テープさえなければ屋上の崖っぷちに立つことを許している。そう。一年前、あそこから、あーちゃんは――。
(ねぇ、どうしてあーちゃんは、そらをとんだの?)
 僕の脳裏を、いつかのひーちゃんの言葉がよぎる。
(あーちゃん、かえってくるよね? また、あえるよね?)
 ひーちゃんの言葉がいくつもいくつも、風に飛ばされていく桜の花びらと同じように、僕の目の前を通り過ぎていく。
「こんなところで、何をしていたんですか」
 そう質問したのは僕の方だった。「んー?」と先生は煙草の煙を吐きながら言う。
「言っただろ、外の空気を吸いに来たんだよ」
「あーちゃんが死んだ、この場所の空気を、ですか」
 先生の目が、僕を見た。その鋭さに、一瞬ひるみそうになる。彼女は強い。彼女の意思は、強い。
「同じ景色を見たいと思っただけだよ」
 先生はそう言って、また煙草をふかす。
「先生、」
「せんせーって呼ぶな」
「質問があるんですけど」
「なにかね」
「嘘って、何回つけばホントになるんですか」
「……んー?」
 淡い桜色の小さな断片が、いくつもいくつも風に流されていく。僕は黙って、それを見ている。手を伸ばすこともしないで。
「嘘は何回ついたって、嘘だろ」
「ですよね」
「嘘つきは怪人二十面相の始まりだ」
「言っている意味がわかりません」
「少年、」
「はい」
「市野谷に嘘つくの、しんどいのか?」
 先生の煙草の煙も、みるみるうちに風に流されていく。手を伸ばしたところで、掴むことなどできないまま。
「市野谷に、直正は死んでないって、嘘をつき続けるの、しんどいか?」
 ひーちゃんは知らない。あーちゃんが去年ここから死んだことを知らない。いや、知らない訳じゃない。認めていないのだ。あーちゃんの死を認めていない。彼がこの世界に僕らを置き去りにしたことを、許していない。
 ひーちゃんはずっと信じている。あーちゃんは生きていると。いつか帰ってくると。今は遠くにいるけれど、きっとまた会える日が来ると。
 だからひーちゃんは知らない。彼の墓石の冷たさも、彼が飛び降りたこの屋上の景色が、僕の目にどう映っているのかも。
 屋上。フェンス。穴。空。桜。あーちゃん。自殺。墓石。遺書。透明人間。無。なんにもない。ない。空っぽ。いない。いないいないいないいない。ここにもいない。どこにもいない。探したっていない。消えた。消えちゃった。消滅。消失。消去。消しゴム。弾んで。飛んで。落ちて。転がって。その先に拾ってくれるきみがいて。笑顔。笑って。笑ってくれて。だけどそれも消えて。全部消えて。消えて消えて消えて。ただ昨日を越えて今日が過ぎ明日が来る。それを繰り返して。きみがいない世界で。ただ繰り返して。ひーちゃん。ひーちゃんが笑わなくなって。泣いてばかりで。だけどもうきみがいない。だから僕が。僕がひーちゃんを慰めて。嘘を。嘘をついて。ついてはいけない嘘を。ついてはいけない嘘ばかりを。それでもひーちゃんはまた笑うようになって。笑顔がたくさん戻って。だけどどうしてあんなにも、ひーちゃんの笑顔は空っぽなんだろう。
「しんどくなんか、ないですよ」
 僕はそう答えた。
 先生は何も言わなかった。
 僕は明日にでも、怪人二十面相になっているかもしれなかった。
    いつの間にか梅雨が終わり、実力テストも期末テストもクリアして、夏休みまであと一週間を切っていた。
 ひと夏の解放までカウントダウンをしている今、僕のクラスの連中は完璧な気だるさに支配されていた。自主性や積極性などという言葉とは無縁の、慣性で流されているような脱力感。
 先週に教室の天井四ヶ所に取り付けられている扇風機が全て故障したこともあいまって、クラスメイトたちの授業に対する意欲はほぼゼロだ。授業がひとつ終わる度に、皆溶け出すように机に上半身を投げ出しており、次の授業が始まったところで、その姿勢から僅かに起き上がる程度の差しかない。
 そういう僕も、怠惰な中学二年生のひとりに過ぎない。さっきの英語の授業でノートに書き記したことと言えば、英語教師の松田が何回額の汗を脱ぐったのかを表す「正」の字だけだ。
 休み時間に突入し、がやがやと騒がしい教室で、ひとりだけ仲間外れのように沈黙を守っていると、肘辺りから空気中に溶け出して、透明になっていくようなそんな気分になる。保健室には来るものの、自分の教室へは絶対に足を運ばないミナモの気持ちがわかるような気がする。
 一学期がもうすぐ終わるこの時期になっても、相変わらず僕のクラスには常に二つの空席があった。ミナモも、ひーちゃんも、一度だって教室に登校してきていない。
「――くん、」
 なんだか控えめに名前を呼ばれた気はしたが、クラスの喧騒に紛れて聞き取れなかった。
 ふと机から顔を上げると、ひとりの女子が僕の机の脇に立っていた。見たことがあるような顔。もしかして、クラスメイトのひとりだろうか。彼女は廊下を指差して、「先生、呼んでる」とだけ言って立ち去った。
 あまりにも唐突な出来事でその女子にお礼を言うのも忘れたが、廊下には担任の姿が見える。僕のクラス担任の担当科目は数学だが、次の授業は国語だ。なんの用かはわからないが、呼んでいるのなら行かなくてはならない。
「おー、悪いな、呼び出して」
 去年大学を卒業したばかりの、どう見ても体育会系な容姿をしている担任は、僕を見てそう言った。
「ほい、これ」
 突然差し出されたのはプリントの束だった。三十枚くらいありそうなプリントが穴を空けられ紐を通して結んである。
「悪いがこれを、市野谷さんに届けてくれないか」
 担任がひーちゃんの名を口にしたのを聞いたのは、久しぶりのような気がした。もう朝の出欠確認の時でさえ、彼女の名前は呼ばれない。ミナモの名前だってそうだ。このクラスでは、ひーちゃんも、ミナモも、いないことが自然なのだ。
「……先生が、届けなくていいんですか」
「そうしたいのは山々なんだが、なかなか時間が取れなくてな。夏休みに入ったら家庭訪問に行こうとは思ってるんだ。このプリントは、それまでにやっておいてほしい宿題。中学に入ってから二年の一学期までに習う数学の問題を簡単にまとめたものなんだ」
「わかりました、届けます」
 受け取ったプリントの束は、思っていたよりもずっとずっしりと重かった。
「すまんな。市野谷さんと小学生の頃一番仲が良かったのは、きみだと聞いたものだから」
「いえ……」
 一年生の時から、ひーちゃんにプリントを届けてほしいと教師に頼まれることはよくあった。去年は彼女と僕は違うクラスだったけれど、同じ小学校出身の誰かに僕らが幼馴染みであると聞いたのだろう。
 僕は学校に来なくなったひーちゃんのことを毛嫌いしている訳ではない。だから、何か届け物を頼まれてもそんなに嫌な気持ちにはならない。でも、と僕は思った。
 でも僕は、ひーちゃんと一番仲が良かった訳じゃないんだ。
「じゃあ、よろしく頼むな」
 次の授業の始業のチャイムが鳴り響く。
 教室に戻り、出したままだった英語の教科書と「正」の字だけ記したノートと一緒に、ひーちゃんへのプリントの束を鞄に仕舞いながら、なんだか僕は泣きたくなった。
  三角形が壊れるのは簡単だった。
 三角形というのは、三辺と三つの角でできていて、当然のことだけれど一辺とひとつの角が消失したら、それはもう三角形ではない。
 まだ小学校に上がったばかりの頃、僕はどうして「さんかっけい」や「しかっけい」があるのに「にかっけい」がないのか、と考えていたけれど、どうやら僕の脳味噌は、その頃から数学的思考というものが不得手だったようだ。
「にかっけい」なんてあるはずがない。
 僕と、あーちゃんと、ひーちゃん。
 僕ら三人は、三角形だった。バランスの取りやすい形。
 始まりは悲劇だった。
 あの悪夢のような交通事故。ひーちゃんの弟の死。
 真っ白なワンピースが汚れることにも気付かないまま、真っ赤になった弟の身体を抱いて泣き叫ぶひーちゃんに手を伸ばしたのは、僕と一緒に下校する途中のあーちゃんだった。
 お互いの家が近かったこともあって、それから僕らは一緒にいるようになった。
 溺愛していた最愛の弟を、目の前で信号無視したダンプカーに撥ねられて亡くしたひーちゃんは、三人で一緒にいてもときどき何かを思い出したかのように暴れては泣いていたけれど、あーちゃんはいつもそれをなだめ、泣き止むまでずっと待っていた。
 口下手な彼は、ひーちゃんに上手く言葉をかけることがいつもできずにいたけれど、僕が彼の言葉を補って彼女に伝えてあげていた。
 優しくて思いやりのあるひーちゃんは、感情を表すことが苦手なあーちゃんのことをよく気遣ってくれていた。
 僕らは嘘みたいにバランスの取れた三角形だった。
 あーちゃんが、この世界からいなくなるまでは。
   「夏は嫌い」
 昔、あーちゃんはそんなことを口にしていたような気がする。
「どうして?」
 僕はそう訊いた。
 夏休み、花火、虫捕り、お祭り、向日葵、朝顔、風鈴、西瓜、��ール、海。
 水の中の金魚の世界と、バニラアイスの木べらの湿り気。
 その頃の僕は今よりもずっと幼くて、四季の中で夏が一番好きだった。
 あーちゃんは部屋の窓を網戸にしていて、小さな扇風機を回していた。
 彼は夏休みも相変わらず外に出ないで、部屋の中で静かに過ごしていた。彼の傍らにはいつも、星座の本と分厚い昆虫図鑑が置いてあった。
「夏、暑いから嫌いなの?」
 僕が尋ねるとあーちゃんは抱えていた分厚い本からちょっとだけ顔を上げて、小さく首を横に振った。それから困ったように笑って、
「夏は、皆死んでいるから」
 とだけ、つぶやくように言った。あーちゃんは、時々魔法の呪文のような、不思議なことを言って僕を困惑させることがあった。この時もそうだった。
「どういう意味?」
 僕は理解できずに、ただ訊き返した。
 あーちゃんはさっきよりも大きく首を横に振ると、何を思ったのか、唐突に、
「ああ、でも、海に行ってみたいな」
 なんて言った。
「海?」
「そう、海」
「どうして、海?」
「海は、色褪せてないかもしれない。死んでないかもしれない」
 その言葉の意味がわからず、僕が首を傾げていると、あーちゃんはぱたんと本を閉じて机に置いた。
「台所へ行こうか。確か、母さんが西瓜を切ってくれていたから。一緒に食べよう」
「うん!」
 僕は西瓜に釣られて、わからなかった言葉のことも、すっかり忘れてしまった。
 でも今の僕にはわかる。
 夏の日射しは、世界を色褪せさせて僕の目に映す。
 あーちゃんはそのことを、「死んでいる」と言ったのだ。今はもう確かめられないけれど。
 結局、僕とあーちゃんが海へ行くことはなかった。彼から海へ出掛けた話を聞いたこともないから、恐らく、海へ行くことなく死んだのだろう。
 あーちゃんが見ることのなかった海。
 海は日射しを浴びても青々としたまま、「生きて」いるんだろうか。
 彼が死んでから、僕も海へ足を運んでいない。たぶん、死んでしまいたくなるだろうから。
 あーちゃん。
 彼のことを「あーちゃん」と名付けたのは僕だった。
 そういえば、どうして僕は「あーちゃん」と呼び始めたんだっけか。
 彼の名前は、鈴木直正。
 どこにも「あーちゃん」になる要素はないのに。
    うなじを焼くようなじりじりとした太陽光を浴びながら、ペダルを漕いだ。
 鼻の頭からぷつぷつと汗が噴き出すのを感じ、手の甲で汗を拭おうとしたら手は既に汗で湿っていた。雑音のように蝉の声が響いている。道路の脇には背の高い向日葵は、大きな花を咲かせているのに風がないので微動だにしない。
 赤信号に止められて、僕は自転車のブレーキをかける。
 夏がくる度、思い出す。
 僕とあーちゃんが初めてひーちゃんに出会い、そして彼女の最愛の弟「ろーくん」が死んだ、あの事故のことを。
 あの日も、世界が真っ白に焼き切れそうな、暑い日だった。
 ひーちゃんは白い木綿のワンピースを着ていて、それがとても涼しげに見えた。ろーくんの血で汚れてしまったあのワンピースを、彼女はもうとっくに捨ててしまったのだろうけれど。
 そういえば、ひーちゃんはあの事故の後、しばらくの間、弟の形見の黒いランドセルを使っていたっけ。黒い服ばかり着るようになって。周りの子はそんな彼女を気味悪がったんだ。
 でもあーちゃんは、そんなひーちゃんを気味悪がったりしなかった。
 信号が赤から青に変わる。再び漕ぎ出そうとペダルに足を乗せた時、僕の両目は横断歩道の向こうから歩いて来るその人を捉えて凍りついてしまった。
 胸の奥の方が疼く。急に、聞こえてくる蝉の声が大きくなったような気がした。喉が渇いた。頬を撫でるように滴る汗が気持ち悪い。
 信号は青になったというのに、僕は動き出すことができない。向こうから歩いて来る彼は、横断歩道を半分まで渡ったところで僕に気付いたようだった。片眉を持ち上げ、ほんの少し唇の端を歪める。それが笑みだとわかったのは、それとよく似た笑顔をずいぶん昔から知っているからだ。
「うー兄じゃないですか」
 うー兄。彼は僕をそう呼んだ。
 声変わりの途中みたいな声なのに、妙に大人びた口調。ぼそぼそとした喋り方。
 色素の薄い頭髪。切れ長の一重瞼。ひょろりと伸びた背。かけているのは銀縁眼鏡。
 何もかもが似ているけれど、日に焼けた真っ黒な肌と筋肉のついた足や腕だけは、記憶の中のあーちゃんとは違う。
 道路を渡り終えてすぐ側まで来た彼は、親しげに僕に言う。
「久しぶりですね」
「……久しぶり」
 僕がやっとの思いでそう声を絞り出すと、彼は「ははっ」と笑った。きっとあーちゃんも、声を上げて笑うならそういう風に笑ったんだろうなぁ、と思う。
「どうしたんですか。驚きすぎですよ」
 困ったような笑顔で、眼鏡をかけ直す。その手つきすらも、そっくり同じ。
「嫌だなぁ。うー兄は僕のことを見る度、まるで幽霊でも見たような顔するんだから」
「ごめんごめん」
「ははは、まぁいいですよ」
 僕が謝ると、「あっくん」はまた笑った。
 彼、「あっくん」こと鈴木篤人くんは、僕の一個下、中学一年生。私立の学校に通っているので僕とは学校が違う。野球部のエースで、勉強の成績もクラストップ。僕の団地でその中学に進学できた子供は彼だけだから、団地の中で知らない人はいない優等生だ。
 年下とは思えないほど大人びた少年で、あーちゃんにそっくりな、あーちゃんの弟。
「中学は、どう? もう慣れた?」
「慣れましたね。今は部活が忙しくて」
「運動部は大変そうだもんね」
「うー兄は、帰宅部でしたっけ」
「そう。なんにもしてないよ」
「今から、どこへ行くんですか?」
「ああ、えっと、ひーちゃんに届け物」
「ひー姉のところですか」
 あっくんはほんの一瞬、愛想笑いみたいな顔をした。
「ひー姉、まだ学校に行けてないんですか?」
「うん」
「行けるようになるといいですね」
「そうだね」
「うー兄は、元気にしてましたか?」
「僕? 元気だけど……」
「そうですか。いえ、なんだかうー兄、兄貴に似てきたなぁって思ったものですから」
「僕が?」
 僕があーちゃんに似てきている?
「顔のつくりとかは、もちろん違いますけど、なんていうか、表情とか雰囲気が、兄貴に似てるなぁって」
「そうかな……」
 僕にそんな自覚はないのだけれど。
「うー兄も死んじゃいそうで、心配です」
 あっくんは柔らかい笑みを浮かべたままそう言った。
「……そう」
 僕はそう返すので精いっぱいだった。
「それじゃ、ひー姉によろしくお伝え下さい」
「じゃあ、また……」
 あーちゃんと同じ声で話し、あーちゃんと同じように笑う彼は、夏の日射しの中を歩いて行く。
(兄貴は、弱いから駄目なんだ)
 いつか彼が、あーちゃんに向けて言った言葉。
 あーちゃんは自分の弟にそう言われた時でさえ、怒ったりしなかった。ただ「そうだね」とだけ返して、少しだけ困ったような顔をしてみせた。
 あっくんは、強い。
 姿や雰囲気は似��いるけれど、性格というか、芯の強さは全く違う。
 あーちゃんの死を自分なりに受け止めて、乗り越えて。部活も勉強も努力して。あっくんを見ているといつも思う。兄弟でもこんなに違うものなのだろうか、と。ひとりっ子の僕にはわからないのだけれど。
 僕は、どうだろうか。
 あーちゃんの死を受け入れて、乗り越えていけているだろうか。
「……死相でも出てるのかな」
 僕があーちゃんに似てきている、なんて。
 笑えない冗談だった。
 ふと見れば、信号はとっくに赤になっていた。青になるまで待つ間、僕の心から言い表せない不安が拭えなかった。
    遺書を思い出した。
 あーちゃんの書いた遺書。
「僕の分まで生きて。僕は透明人間なんです」
 日褄先生はそれを、「ばっかじゃねーの」って笑った。
「透明人間は見えねぇから、透明人間なんだっつーの」
 そんな風に言って、たぶん、泣いてた。
「僕の分まで生きて」
 僕は自分の鼓動を聞く度に、その言葉を繰り返し、頭の奥で聞いていたような気がする。
 その度に自分に問う。
 どうして生きているのだろうか、と。
  部屋に一歩踏み入れると、足下でガラスの破片が砕ける音がした。この部屋でスリッパを脱ぐことは自傷行為に等しい。
「あー、うーくんだー」
 閉められたカーテン。閉ざされたままの雨戸。
 散乱した物。叩き壊された物。落下したままの物。破り捨てられた物。物の残骸。
 その中心に、彼女はいる。
「久しぶりだね、ひーちゃん」
「そうだねぇ、久しぶりだねぇ」
 壁から落下して割れた時計は止まったまま。かろうじて壁にかかっているカレンダーはあの日のまま。
「あれれー、うーくん、背伸びた?」
「かもね」
「昔はこーんな小さかったのにねー」
「ひーちゃんに初めて会った時だって、そんなに小さくなかったと思うよ」
「あははははー」
 空っぽの笑い声。聞いているこっちが空しくなる。
「はい、これ」
「なに? これ」
「滝澤先生に頼まれたプリント」
「たきざわって?」
「今度のクラスの担任だよ」
「ふーん」
「あ、そうだ、今度は僕の同じクラスに……」
 彼女の手から投げ捨てられたプリントの束が、ろくに掃除されていない床に落ちて埃を巻き上げた。
「そういえば、あいつは?」
「あいつって?」
「黒尽くめの」
「黒尽くめって……日褄先生のこと?」
「まだいる?」
「日褄先生なら、今年度も学校にいるよ」
「なら、学校には行かなーい」
「どうして?」
「だってあいつ、怖いことばっかり言うんだもん」
「怖いこと?」
「あーちゃんはもう、死んだんだって」
「…………」
「ねぇ、うーくん」
「……なに?」
「うーくんはどうして、学校に行けるの? まだあーちゃんが帰って来ないのに」
 どうして僕は、生きているんだろう。
「『僕』はね、怖いんだよ、うーくん。あーちゃんがいない毎日が。『僕』の毎日の中に、あーちゃんがいないんだよ。『僕』は怖い。毎日が怖い。あーちゃんのこと、忘れそうで怖い。あーちゃんが『僕』のこと、忘れそうで怖い……」
 どうしてひーちゃんは、生きているんだろう。
「あーちゃんは今、誰の毎日の中にいるの?」
 ひーちゃんの言葉はいつだって真っ直ぐだ。僕の心を突き刺すぐらい鋭利だ。僕の心を掻き回すぐらい乱暴だ。僕の心をこてんぱんに叩きのめすぐらい凶暴だ。
「ねぇ、うーくん」
 いつだって思い知らされる。僕が駄目だってこと。
「うーくんは、どこにも行かないよね?」
 いつだって思い知らせてくれる。僕じゃ駄目だってこと。
「どこにも、行かないよ」
 僕はどこにも行けない。きみもどこにも行けない。この部屋のように時が止まったまま。あーちゃんが死んでから、何もかもが停止したまま。
「��ーん」
 どこか興味なさそうな、ひーちゃんの声。
「よかった」
 その後、他愛のない話を少しだけして、僕はひーちゃんの家を後にした。
 死にたくなるほどの夏の熱気に包まれて、一気に現実に引き戻された気分になる。
 こんな現実は嫌なんだ。あーちゃんが欠けて、ひーちゃんが壊れて、僕は嘘つきになって、こんな世界は、大嫌いだ。
 僕は自分に問う。
 どうして僕は、生きているんだろう。
 もうあーちゃんは死んだのに。
   「ひーちゃん」こと市野谷比比子は、小学生の頃からいつも奇異の目で見られていた。
「市野谷さんは、まるで死体みたいね」
 そんなことを彼女に言ったのは、僕とひーちゃんが小学四年生の時の担任だった。
 校舎の裏庭にはクラスごとの畑があって、そこで育てている作物の世話を、毎日クラスの誰かが当番制でしなくてはいけなかった。それは夏休み期間中も同じだった。
 僕とひーちゃんが当番だった夏休みのある日、黙々と草を抜いていると、担任が様子を見にやって来た。
「頑張ってるわね」とかなんとか、最初はそんな風に声をかけてきた気がする。僕はそれに、「はい」とかなんとか、適当に返事をしていた。ひーちゃんは何も言わず、手元の草を引っこ抜くことに没頭していた。
 担任は何度かひーちゃんにも声をかけたが、彼女は一度もそれに答えなかった。
 ひーちゃんはいつもそうだった。彼女が学校で口を利くのは、同じクラスの僕と、二つ上の学年のあーちゃんにだけ。他は、クラスメイトだろうと教師だろうと、一言も言葉を発さなかった。
 この当番を決める時も、そのことで揉めた。
 くじ引きでひーちゃんと同じ当番に割り当てられた意地の悪い女子が、「せんせー、市野谷さんは喋らないから、当番の仕事が一緒にやりにくいでーす」と皆の前で言ったのだ。
 それと同時に、僕と一緒の当番に割り当てられた出っ歯の野郎が、「市野谷さんと仲の良い――くんが市野谷さんと一緒にやればいいと思いまーす」と、僕の名前を指名した。
 担任は困ったような笑顔で、
「でも、その二人だけを仲の良い者同士にしたら、不公平じゃないかな? 皆だって、仲の良い人同士で一緒の当番になりたいでしょう? 先生は普段あまり仲が良くない人とも仲良くなってもらうために、当番の割り振りをくじ引きにしたのよ。市野谷さんが皆ともっと仲良くなったら、皆も嬉しいでしょう?」
 と言った。意地悪ガールは間髪入れずに、
「喋らない人とどうやって仲良くなればいいんですかー?」
 と返した。
 ためらいのない発言だった。それはただただ純粋で、悪意を含んだ発言だった。
「市野谷さんは私たちが仲良くしようとしてもいっつも無視してきまーす。それって、市野谷さんが私たちと仲良くしたくないからだと思いまーす。それなのに、無理やり仲良くさせるのは良くないと思いまーす」
「うーん、そんなことはないわよね、市野谷さん」
 ひーちゃんは何も言わなかった。まるで教室内での出来事が何も耳に入っていないかのような表情で、窓の外を眺めていた。
「市野谷さん? 聞いているの?」
「なんか言えよ市野谷」
 男子がひーちゃんの机を蹴る。その振動でひーちゃんの筆箱が机から滑り落ち、がちゃんと音を立てて中身をぶちまけたが、それでもひーちゃんには変化は訪れない。
 クラスじゅうにざわざわとした小さな悪意が満ちる。
「あの子ちょっとおかしいんじゃない?」
 そんな囁きが満ちる。担任の困惑した顔。意地悪いクラスメイトたちの汚らわしい視線。
 僕は知っている。まるでここにいないかのような顔をして、窓の外を見ているひーちゃんの、その視線の先を。窓から見える新校舎には、彼女の弟、ろーくんがいた一年生の教室と、六年生のあーちゃんがいる教室がある。
 ひーちゃんはいつも、ぼんやりとそっちばかりを見ている。教室の中を見渡すことはほとんどない。彼女がここにいないのではない。彼女にとって、こっちの世界が意味を成していないのだ。
「市野谷さんは、死体みたいね」
 夏休み、校舎裏の畑。
 その担任の一言に、僕は思わずぎょっとした。担任はしゃがみ込み、ひーちゃんに目線を合わせようとしながら、言う。
「市野谷さんは、どうしてなんにも言わないの? なんにも思わないの? あんな風に言われて、反論したいなって思わないの?」
 ひーちゃんは黙って草を抜き続けている。
「市野谷さんは、皆と仲良くなりたいって思わない? 皆は、市野谷さんと仲良くなりたいって思ってるわよ」
 ひーちゃんは黙っている。
「市野谷さんは、ずっとこのままでいるつもりなの? このままでいいの? お友達がいないままでいいの?」
 ひーちゃんは。
「市野谷さん?」
「うるさい」
 どこかで蝉が鳴き止んだ。
 彼女が僕とあーちゃん以外の人間に言葉を発したところを、僕は初めて見た。彼女は担任を睨み付けるように見つめていた。真っ黒な瞳が、鋭い眼光を放っている。
「黙れ。うるさい。耳障り」
 ひーちゃんが、僕の知らない表情をした。それはクラスメイトたちがひーちゃんに向けたような、玩具のような悪意ではなかった。それは本当の、なんの混じり気もない、殺意に満ちた顔だった。
「あんたなんか、死んじゃえ」
 振り上げたひーちゃんの右手には、草抜きのために職員室から貸し出された鎌があって――。
「ひーちゃん!」
 間一髪だった。担任は真っ青な顔で、息も絶え絶えで、しかし、その鎌の一撃をかろうじてかわした。担任は震えながら、何かを叫びながら校舎の方へと逃げるように走り去って行く。
「ひーちゃん、大丈夫?」
 僕は地面に突き刺した鎌を固く握りしめたまま、動かなくなっている彼女に声をかけた。
「友達なら、いるもん」
 うつむいたままの彼女が、そうぽつりと言う。
「あーちゃんと、うーくんがいるもん」
 僕はただ、「そうだね」と言って、そっと彼女の頭を撫でた。
    小学生の頃からどこか危うかったひーちゃんは、あーちゃんの自殺によって完全に壊れてしまった。
 彼女にとってあーちゃんがどれだけ大切な存在だったかは、説明するのが難しい。あーちゃんは彼女にとって絶対唯一の存在だった。失ってはならない存在だった。彼女にとっては、あーちゃん以外のものは全てどうでもいいと思えるくらい、それくらい、あーちゃんは特別だった。
 ひーちゃんが溺愛していた最愛の弟、ろーくんを失ったあの日。
 あの日から、ひーちゃんの心にぽっかりと空いた穴を、あーちゃんの存在が埋めてきたからだ。
 あーちゃんはひーちゃんの支えだった。
 あーちゃんはひーちゃんの全部だった。
 あーちゃんはひーちゃんの世界だった。
 そして、彼女はあーちゃんを失った。
 彼女は入学することになっていた中学校にいつまで経っても来なかった。来るはずがなかった。来れるはずがなかった。そこはあーちゃんが通っていたのと同じ学校であ��、あーちゃんが死んだ場所でもある。
 ひーちゃんは、まるで死んだみたいだった。
 一日中部屋に閉じこもって、食事を摂ることも眠ることも彼女は拒否した。
 誰とも口を利かなかった。実の親でさえも彼女は無視した。教室で誰とも言葉を交わさなかった時のように。まるで彼女の前からありとあらゆるものが消滅してしまったかのように。泣くことも笑うこともしなかった。ただ虚空を見つめているだけだった。
 そんな生活が一週間もしないうちに彼女は強制的に入院させられた。
 僕が中学に入学して、桜が全部散ってしまった頃、僕は彼女の病室を初めて訪れた。
「ひーちゃん」
 彼女は身体に管を付けられ、生かされていた。
 屍のように寝台に横たわる、変わり果てた彼女の姿。
(市野谷さんは死体みたいね)
 そんなことを言った、担任の言葉が脳裏をよぎった。
「ひーちゃんっ」
 僕はひーちゃんの手を取って、そう呼びかけた。彼女は何も言わなかった。
「そっち」へ行ってほしくなかった。置いていかれたくなかった。僕だって、あーちゃんの突然の死を受け止めきれていなかった。その上、ひーちゃんまで失うことになったら。そう考えるだけで嫌だった。
 僕はここにいたかった。
「ひーちゃん、返事してよ。いなくならないでよ。いなくなるのは、あーちゃんだけで十分なんだよっ!」
 僕が大声でそう言うと、初めてひーちゃんの瞳が、生き返った。
「……え?」
 僕を見つめる彼女の瞳は、さっきまでのがらんどうではなかった。あの時のひーちゃんの瞳を、僕は一生忘れることができないだろう。
「あーちゃん、いなくなったの?」
 ひーちゃんの声は僕の耳にこびりついた。
 何言ってるんだよ、あーちゃんは死んだだろ。そう言おうとした。言おうとしたけれど、何かが僕を引き留めた。何かが僕の口を塞いだ。頭がおかしくなりそうだった。狂っている。僕はそう思った。壊れている。破綻している。もう何もかもが終わってしまっている。
 それを言ってしまったら、ひーちゃんは死んでしまう。僕がひーちゃんを殺してしまう。ひーちゃんもあーちゃんみたいに、空を飛んでしまうのだ。
 僕はそう直感していた。だから声が出なかった。
「それで、あーちゃん、いつかえってくるの?」
 そして、僕は嘘をついた。ついてはいけない嘘だった。
 あーちゃんは生きている。今は遠くにいるけれど、そのうち必ず帰ってくる、と。
 その一週間後、ひーちゃんは無事に病院を退院した。人が変わったように元気になっていた。
 僕の嘘を信じて、ひーちゃんは生きる道を選んだ。
 それが、ひーちゃんの身体をいじくり回して管を繋いで病室で寝かせておくことよりもずっと残酷なことだということを僕は後で知った。彼女のこの上ない不幸と苦しみの中に永遠に留めておくことになってしまった。彼女にとってはもうとっくに終わってしまったこの世界で、彼女は二度と始まることのない始まりをずっと待っている。
 もう二度と帰ってこない人を、ひーちゃんは待ち続けなければいけなくなった。
 全ては僕のついた幼稚な嘘のせいで。
「学校は行かないよ」
「どうして?」
「だって、あーちゃん、いないんでしょ?」
 学校にはいつから来るの? と問いかけた僕にひーちゃんは笑顔でそう答えた。まるで、さも当たり前かのように言った。
「『僕』は、あーちゃんが帰って来るのを待つよ」
「あれ、ひーちゃん、自分のこと『僕』って呼んでたっけ?」
「ふふふ」
 ひーちゃんは笑った。幸せそうに笑った。恥ずかしそうに笑った。まるで恋をしているみたいだった。本当に何も知らないみたいに。本当に、僕の嘘を信じているみたいに。
「あーちゃんの真似、してるの。こうしてると自分のことを言う度、あーちゃんのことを思い出せるから」
 僕は笑わなかった。
 僕は、笑えなかった。
 笑おうとしたら、顔が歪んだ。
 醜い嘘に、歪んだ。
 それからひーちゃんは、部屋に閉じこもって、あーちゃんの帰りをずっと待っているのだ。
 今日も明日も明後日も、もう二度と帰ってこない人を。
※(2/4) へ続く→ https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/647000556094849024/
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recordsthing · 4 years ago
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鎖を花に 縄を糸に
 何もしてないのに、全部が解決してハッピーエンドで永遠に。そんな日が来ないことは重々承知していた。だからこそ、緩慢で怠惰で堕落した生活を受け入れようとしていたんだ。
 いつものように同じベッドの上、二人で寝ようとしていたある日、晴ちゃんが少し悲しそうに、でも何かを決心したような強い瞳でこちらを見てきた。
「頼みがあるんだ」
「……なーに?」
 一瞬だけ返事をためらってしまう。晴ちゃんはこの生活の中でずっと怯えているのか、話しかけてくるときはあたしの名前を呼んでから話すようにしていた。それなのに、どうして今日は呼んでくれないのだろう。こちらの様子を窺う余裕もないくらい、いや、窺う必要がないくらいに決めたことがあるのだろうか。
 ある程度ついている予測と嫌な予感を交えながら、晴ちゃんの口が動くのを待った。
「もう、こんな生活、やめたい……」
「…………そう」
「でも、わかんないんだ……どうしてこんなことになってしまったのか……プロデューサーも……家族も怖くて、ファンの人たちのあたたかった言葉が全部感じ取れなくなって……オレになにがあったのか……オレだけがわからなくて……このままじゃいけないって……わかってるのに……ごめん、ごめん……」
 せぐりあげる声で紡がれる謝罪の言葉が、あたしの心も心臓も切り刻んでいくようだ。あんなこと、その場凌ぎでなんの糧にもならないってわかってた。それでも、晴ちゃんにいつものように笑ってほしかった。何もかもが上手くいって、また日常に戻れるはずだという淡い期待が、今あたしも晴ちゃんも傷つけている。
「しきぃ……おしえて……オレ……どうすれば……」
 きっと、誤魔化すことだってできる。なんともないよ、あたしがなんとかするからって言ってもいい。でも、その先は?ずっとこのまま一生嘘をついて、地獄の釜で煮られるような苦痛を二人で共にしてていいのだろうか。自分は耐えられる。だって全部自業自得だから。でも、目の前の愛しい恋人は一体なにをしたというのだろうか。酷い目に遭わされて、記憶を無理やり封じてしまってまた苦しんで、今もこうして震えてる。
 ……大丈夫、細心の注意を払おう。できることさえちゃんとしてれば、きっとなんとかなるはずだ。
「あのね、晴ちゃん。前に交通事故にあったって言ったじゃん?」
「うん……?」
「あれはね、全部嘘。晴ちゃんが傷つかないように、またいつもの日常に戻れるようについたんだ。ごめんね」
「……そっか」
 初めて話したはずなのに、さほど驚いた様子がない。きっと薄々察してはいたのだろう。
「だから、これから本当のことを話すね?ずっとずっと残酷で、悲しい話をするけどいい?」
 言葉の代わりに、ゆっくり頷いてくれた。
 落ち着いて、できるだけマイルドに。変な表現を使いすぎないように。そのせいか、思考のために酸素を使ってしまって、声が上手く出ない。話をする度に晴ちゃんの顔がどんどん青ざめる。あたしに向けられたものじゃないってわかってるのに、胸が締めつけられるように痛い。
「あたしが助けられたら良かったんだよね……ごめんね……」
 そんな言葉で強引に話を打ち切った。話が終わって様子を見ると、両腕で自分を抱きしめるようにして震えている。
 特になにかを考えたわけじゃないけど、その震えを包み込むようにして抱きしめる。
「……思いだした……」
 ぽつりと零れたその言葉に少しだけ解放された気になる。
「ウソだろ……なんで、アイツが…………アイツがぁっ!!?」
「っ!!!」
 想像したくはなかった。晴ちゃんがこんなに傷ついてる理由。
 晴ちゃんを襲ってナイフで傷つけた犯人は、晴ちゃんが知ってる人だったということ。
 晴ちゃんが机の上に立っている。危ないよ、と駆け出そうとした足が動かない。天井から長いものがぶら下がっている。太くて長いソレは、人がぶら下がったとしても切れることはないだろう。
 嘘だよね?声を出そうとしているのに、口が開いたり閉まったりするだけで音が出ない。目の前の恋人の身長が少し伸びる。そして、少しだけ宙に浮かんだままになって空中で重力を失ったかのようにぶらん、と横に上下に揺れる。ぎし、ぎしと言う音が痛々しすぎる。まだ間に合う。まだ応急処置をすれば間に合うはずだから、動いてよ、ねえ。
「晴ちゃん!」
 はっ、となって目が覚める。今まで見た夢の中で間違いなく最悪の夢だ。背中も手も冷や汗が伝って、びしょびしょだ。両腕で包んでいたぬくもりはまだ確かにそこにあって、大きな息とともに安堵を覚える。ただし、その顔には涙の跡がしっかり残っていて、悲しい気持ちに襲われる。
 あの後、ひたすら晴ちゃんを落ち着けさせようと背中を一定のリズムで叩いてかけられる慰めの言葉をずっとかけていた。夜が明けてもずっとそうやって必死に声を出したせいか、喉が少し痛い。アイドル失格だな、なんてもう辞めてしまった世界のことに少しだけ思いを馳せる。
 でも、起きた晴ちゃんになんて声をかければいいんだろう。結局二度晴ちゃんを傷つけただけで、これからのことなんて何も考えられない。すぅ、すぅという寝息がなんとも愛おしくて今はこれだけでもいい。
 今のあたしにできることは、夢が現実にならないように、強く抱きしめて離さないことだった。
 不意の感触で目が覚めると、晴ちゃんの顔が目の前にあった。柔らかい感触があたしの唇に当たっている。
「起きたか?」
 口が放され、少し寂しそうな声でそう聞かれる。
「王子さまはお姫さまのキスで目覚めるのでした、あれ?逆だったっけ?どっちでもいいか♪」
 わざとらしく明るい口調でそう言うと、少しだけ微笑んでくれた。晴ちゃんの笑顔が見れたことで、少しだけ安心する。
「……どうすればいいんだろう、オレ」
 顔見知りの相手、程度だったらこんな風には思わないだろう。きっと晴ちゃんにとって身近な人間が関係しているのかもしれない。あまりこういう時に名案が閃くタイプじゃないから、とりあえず常識的な返答をすることにした。
「とりあえず……警察に行こうか?」
 旅館でチェックアウトを済ませて、タクシーを呼んで駅へと向かう。荷物は場所を転々としているのもあるけど、必要な時に必要なものだけ買っているので小さなリュック一つに収まる程度だ。できるだけ現場に近い警察署の方がいいだろう、ということで新幹線で晴ちゃんが元々住んでいたあたりまで戻ることにした。切符の買い方……というか乗り方は正直覚えてはいないけど、晴ちゃんがいればなんとかなるだろう、と思った。
 なんだかんだベッドの上で時間を使ってしまったせいか、駅に着いたころには日が落ちてしまっていた。ただ、そのおかげか人が少なくて晴ちゃんが怯えずに済みそうで良かった。もちろん、夜というより土地柄のせいもあるのだろうけど。
 券売機の前でフリーズしてると、晴ちゃんがさっさと操作してくれて支払い画面になった。金額が表示されて、少しだけ申し訳なさそうにする姿が少し愛らしい。カードを入れて支払いを済ませると、切符が四枚出てくる。晴ちゃんが取って、あたしに二枚渡してくれる。
「これ、ここに二枚同時に入れればいいから」
 改札に入れて晴ちゃんがホームの方に向かって行く。同じようにしてついていこうとすると、振り向いた晴ちゃんが目を見開いて驚いた。
「志希!切符取り忘れてるぞ!」
「あれ?持っとかなきゃいかないの?」
「ったく、しっかりしてくれよな……」
 なんだか慌てたり焦ったりしてるものの、少しずつ晴ちゃんが���々の話し方とか喋り方に戻ってる気がする。あたしといることでそうなってるなら、たまらなく嬉しいことだ。とっとと戻って改札から出てたそれをポケットにしまって、晴ちゃんの元へと向かう。
「なんか不安だから、オレが持っておくよ……」
「わーお、一蓮托生だねっ!」
 ポケットから切符を差し出して、晴ちゃんについていく。全然人がいない構内を進んで、エスカレーターに乗ると目当てのホームにたどり着いた。なんとなく贅沢、というか移動で不満を抱えたくなくてグリーン車の席をとった。夜の新幹線を待つ人はまばらにいるが、わざわざグリーン車に乗るような人はいなさそうだ。待ってる時間にも人が傍にいると、晴ちゃんが不安がってしまいそうなのでありがたい。
 十分ほどして、アナウンスが流れる。晴ちゃんが前に出すぎてたあたしを引っ張ってくれて、黄色い線の内側まで戻される。新幹線が目の前を高速で通って行って、髪型と服がたなびく。速度を落ちていって、静止したかと思うと扉が開いた。
「ねえ、本当に大丈夫?乗ったらもう引き返せないよ?」
 別にそんなことはない。途中下車したっていいのだから。これは、ただの確認だ。
「大丈夫、だって今度は志希がいるから」
 手を繋いで新幹線へと乗り込む。廊下側だと通る人が近いことがあるため窓側の席に座ってもらう。景色を見るのにも丁度いいし、気晴らしになってくれたらいいな、程度のものだ。しかし、晴ちゃんは席について早々眠ってしまった。そりゃそうか、気疲れもあるだろうしいっぱい泣いてたから。
 手を繋いであたしは起きておくことにした。しっかり寝ていて眠くないのもあったが、この二人だけの時間を少しでも長く感じていたかったから。
 数時間して、目当ての駅まで来た。晴ちゃんの家まではまだ大分距離があるが、眠そうにしていたため近くのビジネスホテルで一夜を過ごすことにした。さすがに都心に近いせいか、夜中に近い時間だというのに、人がそれなりにいる。人が降りて進んでいくのを見ながら、人ごみにぶつからないように待つ。少しすると、ホームに人っ気が少なくなって進みやすくなった。晴ちゃんの近くに人が来ないように警戒しながら、切符をうけとって改札から出る。
 こういう駅の近くには、格安のホテルが複数並んでいることが多い。別にわざわざ安いところを選ぶ理由もなかったが、晴ちゃんを早く寝かせてあげたかったため、とりあえず近場のホテルに駆け込んだ。未成年だからなにかうるさいこと言われないかな、と心配だったが向こうも慣れているのか問題なくチェックインできた。エレベーターに乗って、部屋へと向かう。明日はどうしようかな、シャワーは……明日でいいや。
 あたし自身も疲れていたのかもしれない。晴ちゃんを連れて部屋に入った途端に、二人共々ダブルベッドに倒れて意識を失ってしまった。
 目が覚めると、全く同時に起きたのか寝ぼけまなこの晴ちゃんと目が合った。
「おはよ、シャワー浴びよっか」
「うん……」
 二人で寝ぼけながら、服を脱いでシャワー室へと向かう。ユニットバスなのが少し嫌だけど、今更そんなことを気にしてもしょうがない。服を脱いで、狭い浴槽で二人重なるようにしてシャワーを浴びる。
「なんか……恥ずかしいんだけど」
 晴ちゃんとはずっとこうやって一緒にお風呂に入って、身体を洗ってあげたりしたけど、そんなことを祝てたのは久々だ。恥じらい、という感情が生まれたことが嬉しくもあり寂しくもある。
「まぁまぁ、疲れてるだろうしあたしが洗ってあげるから~♪」
「んぅ……」
 体に触れると、確かな体温と反応が伝わってくる。恥ずかしいところを手で隠そうとするのがなんともいじらしくて意地悪したくなっちゃうけど、今はまだ抑えておくことにした。一通りボディーソープで身体を包んで、シャワーで一気に洗い流す。身体から滴り落ちる水と泡が、垢を巻き込んで流してくれる。
「次はオレがやるから」
「そう?じゃあお願い♪」
 浴槽に座り込んで、目を閉じて待つ。晴ちゃんの指があたしの髪を掻き分けて、ごしごしと洗ってくれる。髪が長いせいで大変だろうに、しっかり洗ってくれる。こうしているときのあたしの背中は無防備だろうけど、後ろにいる恋人はきっと信頼に応えてくれるって思えるこの時間が心地いい。
 そんな時間に浸っていると、シャワーが頭の上から降り注ぐ。しゃあー、という水の音と共に頭が軽くなってスッキリしていくのがわかる。頭を振って目を開けると、晴ちゃんは自分の頭にシャワーを当てていた。
 シャワーを元にあった場所に戻して、一緒に浴槽から出る。ホテル特有の大きめのバスタオルが身体を包んでくれる。しっかり拭き残しがないようにして、着替える。朝食をとるには既に時間は過ぎている。今日のやるべきことは決まっているが、さてどうしようか。
「早く行こうぜ、こういうの後に残しとくと気持ち悪いしな」
「そうだねー」
 身支度をして、ホテルをチェックアウトする。向かうべきは、とりあえず警察署だろう。
 途中のハンバーガー屋さんで遅い朝食を取ってから、警察署で事情聴取を受けた。本当はあたしが付き添って上げたかったけど、守秘義務とかなんとかで同席させてもらえなかった。対応してくれたのは優しそうな婦警さんで、ちゃんと話を聞いてくれたらしい。どうやら騒動も知っていたらしく、ずっと心配していたとのことだった。正直そこまでいくと口だけじゃないのかな、って疑ってしまうのはあたしの悪い癖だ。
「それで、どうだったの?」
「うん、心当たりがある人がいるなら捜査しやすいから助かるって……でもやっぱり証拠がないと大変だって……」
「……そうだよね」
 あたしが余計なことをしなければもっと捜査が早くなって、意外にあっさりと事件が解決したのかもしれない。自分の身勝手さに嫌になる。
「あのさ、志希」
「なーに?」
 あたしの名前をわざわざ呼んだ。なんとなく嫌な予感がする。
「オレ、そいつの家に行きたいんだ。誤解ならいいんだけど、どうしてそんなことをしたのかって……聞かなくちゃ」
 その一軒家はオレの家の近くにある。アニキの友達で、家が近いこともあってかよく遊んでもらっていたんだ。これならプロデューサーの名刺を持っていたことも説明がつく。オレの家に遊びにも来ていたし、名刺を盗んだりこっそりコピーするのもそんなに難しくないだろう。オレが狙われたのも……わからなくもない。ただ、もちろん他人の空似だって可能性がある。その微かな可能性を信じて、呼び鈴を押した。少しして、インターホンがつながる。
「どなたですか?」
「結城……晴です」
「晴ちゃん!?ちょっと待ってね!」
 どたどたと音がして、玄関を開けて出てきたのは昔からのアニキの友達で、オレもよく遊んでもらった相手だ。アニキの一つ上だから、大学に入ったばかりだったっけ。髪は茶髪になってるしどことなく遊んでいる雰囲気がある。
「急にどうしたの?まぁいいや、上がって上がって!」
「……っす」
 前の印象通り、どちらかというと気のいい兄ちゃんって感じで、とてもオレを襲うようには見えない。家に上がらせてもらおうとすると、靴の様子から一人しかいないことがわかる。
「……一人なんすか?」
「ああ、両親は仕事でね。お茶とお菓子をもってくから先に部屋に行っててよ」
 少し古い木材でできた階段を昇って、部屋へと向かう。8畳の狭すぎず広すぎない部屋には、本棚と机とベッドがある。ただ、本当になんとなく机の上の写真立てに目線をやると、そこに映っていたものに驚いて思わず駆け寄ってしまう。
「オレだ……」
 そこに入っていた写真は、アイドルをやっているときのオレだ。よく机の上を見てみると、プラスチックの敷台の下にオレが載っている週刊誌の記事や写真が所狭しと敷き詰められている。疑念が確信に変わって、身体に力が入らなくなる。腰が抜けて膝から下の感覚がなくなって、その場に崩れ落ちる。
「あー、見ちゃったか」
 振り返ると、そいつは部屋の入口にお茶とお菓子を盆に乗っけてやってきていた。
「せっかくお茶に色々仕込んだのに……無駄骨になっちゃたな」
 盆をその場に落として、派手に食器が割れる。お茶とお菓子が飛び散って辺りを汚した。
「なんで……こんなことするんだよ……」
 その言葉に口端を歪める。汚い大人のような笑みを浮かべてこちらを見る。
「君と会ったのは、三年くらい前だったね。あの頃は小さい子供……弟みたいな子だと思ったんだよ。失礼かもしれないけど、見分けがつかなくてね。でも、そんな君がアイドルになったっていうじゃないか!驚いたね!サッカー仲間だった君が可愛らしい衣装を着てステージの上に立っていたんだから!その時の興奮といったら……もう言葉じゃ言い表せないほどだった。会って話をするために家にも行ったんだけど、忙しそうな君とは中々会えなかったんだ。そんなときにたまたまあいつの部屋で名刺を見つけてね。もう僕にはそれが天国へのチケットに見えたよ!あとはそういうことに詳しい友達に頼んで君を襲ったってわけさ!」
 あまりにも衝撃的な言葉が流れてきて、理解が追いつかない。
「そんな……理由で……オレを……」
「君はもっと自分が魅力的だということと、無防備であることを自覚した方がいいよ。あの時の続き……ここでさせてもらおうか!」
 そいつがオレに近づこうとした瞬間、声も出さずにその場に前向きに倒れた。立っていた場所に代わりに立っている人物がいる。
「正��のヒーロー志希ちゃん、ここに参上!……こういうのはキャラじゃないけどね」
「……ありがとな」
 こっそり家に入ってくれていた志希はぎりぎりのところで助けてくれた。後少し早かったら証拠が掴めなかったし、遅かったとしたらまた酷い目に遭わされていただろう。もっとも、志希がいるってわかっていたから、後者の状況になることは初めから頭になかったのだけれども。
「ナイスタイミングだったね~♪」
 志希がこちらに近づいて、オレのポケットからボイスレコーダーを取り出す。
「これがあれば警察もちゃんと動いてくれるでしょ~♪ささ、通報通報」
 確かにボイスレコーダーがあれば、さっきの発言で捕まえることができるだろう。しかし、よくよく考えるとなぜオレのポケットにそんなものが入っているのだろう。録音するなら別に志希が持っててもよくないか?確かにオレが持っていた方がちゃんと録音できるだろうけど、壊されでもしたらどうするつもりだったんだろうか。
「大丈夫、予備のボイスレコーダーを晴ちゃんに仕込んでるから♪」
「……なあ、それ聞いてねーんだけど」
 気まずい沈黙が流れる。そのうち、どちらからともなく笑ってしまって、全てが解決したことをお互いに喜び合った。
 あれからアニキの友達は逮捕されて、押収されたパソコンからもう一人の共犯者も逮捕された。何日も事情聴取に付き合った後、オレは家族の元へと帰った。両親もアニキ達も一日中泣いて、片っ端から出前をとったり、オレの好きなものばっかりの料理で祝ってくれた。ひたすらに喜んで騒いで、戻ってきたものをひたすらに喜んだ。いや、まだ取り戻してないものがある。それを埋めるため、今オレは志希と共に事務所の前にいる。ある資料を持って。
「晴ちゃんとアタシのアイドル復帰から二人の新ユニット結成と新楽曲!これは沸き立つよね!」
 今例の二人逮捕されて、またオレの名前が悪い方向に広まってしまっている。それを全部吹き飛ばすために、二人であれこれ作戦を練った結果これしかない!となった。
「でも上手くいくかな……オレら結構サボってたし」
「ん~?事前に連絡したけど別にいいって!アタシこう見えて優秀だからね~♪」
 ちゃっかりしている。でもそのおかげで、緊張とか色々そういうのが抜け落ちてしまった。
「……晴ちゃん、本当にいいの?」
「何がだよ」
「アイドル活動してたら、またああいうことになるかもしれないよ?」
「その時は、志希が守ってくれるんだろ」
 返事の代わりに、ウィンクで返される。
「せっかくならさー、付き合ってることも公表しちゃおうよ♪そっちのがやりやすいし」
「……好きにしろよ」
「あれ?否定しないんだ」
 当たり前だ。というか二人で失踪して復帰してって時点で、なにかあると勘繰られるのは普通だろう。
 だけど、本当の理由はそうじゃない。偶然降り注いだ不幸で鳥籠の中に一緒に縛られるよりか、お互いがお互いを愛し合って思いあって縛りあうように生きていくほうが何倍も何十倍も何百倍もいいから。
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t82475 · 4 years ago
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続・くのいちイリュージョン
1. 女性だけのイリュージョンチーム「コットンケーキ」に所属していたあたし、御崎芽瑠(みさきめる)がフリーのマジシャン、谷孝輔(たにこうすけ)と出会ったのはほんの4か月前のことだった。 恋人同士になり、専属のパートナーになって欲しいと頼まれた。 悩んだ末、あたしはコットンケーキを辞め、彼のアシスタントになって生きることに決めた。 2. 以前は撮影スタジオだったというフロアの半分に客席のソファとテーブルが並んでいる。 残り半分があたし達のステージだ。 ちらりと見たところ、客席は結婚式の披露宴みたいに着飾った人ばかりだった。 ここってものすごく高級なクラブなの? 「会員制の秘密クラブさ。会費は安くないらしいよ」 「すごいね」 「みんな俺たちを見に来てくれてるんだ。ドキドキするステージにしよう」 「うん!」 〇オープニング ステージが暗くなって、中央にスポットライトが一本当たった。 ゴーン。 鐘の音のSE(効果音)。 あたし一人で進み出た。 衣装は真っ赤な忍者の上衣、ショートパンツに網タイツとブーツ。覆面で顔を隠している。 身を屈めて爪先で小走り。ときおり物陰に隠れるようにして周囲を伺う。 あたしは敵地に侵入したくのいちだ。 絶対に見つからないよう、気配を殺して・・。 〇 スネアトラップの罠 がたんっ!! 大きな音がして、くのいちが消えた。 ピーッ、ピーッ! 呼び子が響き、ステージ全体が明るくなる。 くのいちは頭上高くに吊られていた。 片方の足を縄に絡められて、逆さになって激しくもがいている。 これは森で動物などを捕獲するために使うスネア・トラップという罠だ。 目立たないように張ったワイヤを引っ掛けると、縄の輪が足に掛かり、立ち木をしならせたバネの力で吊り上げられる。 「獲物がかかったか!」 黒装束の忍者が登場した。コースケだ。 長いマントを翻し、背中に太刀を背負っている。 黒忍者は逆さ吊りになったくのいちの手首を捕らえると、後ろ手に組ませて縄で縛り上げた。 さらに覆面を剥ぎ取って、その口に懐から出した白布を詰める。 「舌を噛んで自害されては困るからな」 にやりと笑うと、前髪を掴んで前後左右に振り回した。 ・・あたしは悔し気な表情を浮かべながら振り子のように揺れた。 揺れ幅が小さくなると、再び髪を掴んで揺らされた。 全体重を片足で受けているから長く続けると足首を痛めるけれど、そのために足首部分を分厚くしたブーツを履いているから耐えられる。 〇 逆さ吊りオリガミ 黒忍者は小さな箱を載せた台を押してくると、くのいちが揺れる真下に据えた。 一辺がわずか30センチほどのサイコロ形の箱である。 その箱の蓋を開け、くのいちを吊るす縄を緩めてゆっくり降下させた。 くのいちの頭が箱に入り、続けて肩、胸、腰と沈んでゆく。 こんな小さな箱にどうやって人間の身体が入るのか不思議だった。 くのいちの膝まで箱に入ったところで、黒忍者は足首に絡んだ縄を解き、さらに左右のブーツを脱がせた。 網タイツだけになった脚を上から押し込んで箱の蓋を閉じる。 黒忍者は背中の太刀を抜くと、箱にぶすりと突き刺した。 すぐに抜いて別の角度で再び突き刺す。 これを何度も繰り返した後、黒忍者は箱の面を内側に折り込んで半分の大きさにした。 さらに折って小さくする。 箱をゲンコツほどの大きさまで折り畳むと、黒忍者はその台まで二つに畳んで運び去ってしまった。 〇 皮張り椅子からの出現 ステージが暗くなって、反対側に置いた皮張りの椅子にスポットライトが当たる。 黒忍者はその椅子に艶のある大きな黒布をふわりと被せた。 すぐに布を外すと、そこにくのいちが腰掛けていた。 縄で後ろ手に縛られ、白布の猿轡をされた姿は変わりがない。 黒忍者はその口から覗く布の端を摘むとずるずる引きだした。 咳き込むくのいち。 その首を両手で締め上げる。 くのいちは首を振りながら苦しみ、やがて動かなくなった。 ・・コースケの首絞めは容赦なしだ。 あたしは息を詰まらせ、ちょっぴり感じながら気絶する演技をする。 黒忍者はくのいちの頬を叩いて意識を失ったことを確認する。 大きなビニール袋を持ってくると、くのいちの上から被せ、袋の口を縛って床に転がした。 〇 透明袋のスパイク刺し 椅子が下げられて、キャスター付の薄い金��台が登場した。 金属台の広さは畳一枚分ほど。 黒忍者はくのいちを入れたビニール袋を金属台に乗せた。 袋の中ではくのいちが目を覚ましたようだ。 ・・あたしは身を捩ってもがくふりをする。 この後、後ろ手に縛られた縄を抜けてビニール袋から脱出するけれど、そのタイミングが難しいんだ。 コースケがアドリブで芸をすることもあるし。 痛! こらコースケっ、女の子を足で蹴るなぁ。 喜んじゃうじゃないか~!! 黒忍者がくのいちを袋の上から蹴って、くのいちが苦しむ。 その間に頭上から大きな器具が降りてきて、ビニール袋のすぐ上で停止した。 鉄板は金属台とほぼ同じ大きさで、100本以上の金属針(スパイク)が下向きに生えていた。 生け花に使う剣山(けんざん)を逆さにしたような形状である。 四隅に布ロープを掛けて吊るしているようだ。 もしロープが切れたら鉄板は落下して、鋭く尖ったスパイクがくのいちを貫くことになるだろう。 黒忍者は火のついた松明(たいまつ)を持つと、4本の布ロープに順に火を移した。 燃え上がる布ロープ。 透明な袋の中ではくのいちが必死に縄を解こうとしている。 4本あるロープの1本が燃え尽きて切れた。 鉄板は大きく揺れたが、まだ宙に浮いている。 反対側の1本も切れた。 鉄板がぐらりと傾き、それにつられて残りの2本が同時に切断された。 がちゃん!! 大きな音がして鉄板が落下した。 ちぎれたビニールの破片が舞い散る。 観客の誰もが息をのんでステージを見つめた。 金属台にスパイクが突き刺さっているが、そこに人影はなかった。 最後の瞬間まで、袋の中には確かにくのいちが閉じ込められていた。 いったいどうなっているのだろう? ステージが明るくなった。 黒忍者がマントを広げると、その陰からくのいちが現れた。 拍手の中、並んでお辞儀をする。 ・・やったね! コースケの目を見て微笑んだ。 コースケも笑ってあたしの頭を叩いてくれた。 3. 「じゃあ、お仕事うまくいったんですね!?」ノコが聞いた。 「まあね」 「いいなぁ、私も見たかったです」 「ダメよ。会員でないと入れないお店だから」 ノコはコットンケーキの後輩で、あたしとちょっと特別な関係にある女の子だ。 「・・だいたい片付きましたね」 「ありがとう、助かったわ」 「メルさんのことなら何でもお手伝いしますよ~♥」 ここはコースケのマンション。 彼の専属になって、あたしは前のアパートを引き払いコースケと一緒に住むことにした。 一緒と言っても、籍は入れない。ただの同棲だけどね。 ノコは引っ越し荷物の整理に手伝いに来てくれたのだった。 「お茶、入れるわ」 「お茶よりも・・」「何?」 「コースケさんはまだ帰らないんですよね?」 「うん。彼、ショーの打ち合わせで、戻るのは夜になるって」 「なら、触れ合いたいです、メルさんと」 「もう」 「えへへ」「うふふ」 あたし達はくすくす笑いながら着ているものを全部脱いで裸になった。 忍者の長いマントを互いの首に巻く。 マントは忍者装束が趣味のあたしがノコと一緒に過ごすときに必ず着けるアイテムだった。 「拘束してもらえますか?」 「ノコってマゾなの?」「はい、ドMです♥」 相変わらず素直ではっきり言う子。だから好きなんだけど。 ノコはマントの下で後ろに手を合わせ、あたしはその手首に手錠を掛けてあげた。 「ああ、これで私に自由はありませんよね」 後ろ手錠の具合を確かめるノコ。 その顎に指をかけて持ち上げた。そっと唇を合わせる。 キスの後、後ろから回した手で左右の胸を揉みしだく。 この子はあたしより小柄なくせに、おっぱいが大きくてふわふわ柔らかいんだ。 股間に手をやると、そこはもうしっとり濡れていた。 「はぁ・・ん」 カナリアみたいに可愛い声。 こんな声で鳴かれたら、あたしも濡れてくるじゃないの。 ソファに揃って倒れ込んだ。 乳首を甘噛みすると、ノコは全身をびくんと震わせた。 「・・俺がいないときを狙って、何やってるの」 振り向くと、ドアが開いてコースケが立っていた。 4. 「コースケ! 帰るのは夜だって・・」 「のはずだったけど、早く済んだから帰ってきたの」 コースケは頭を掻きながら呆れたように言う。 「ま、こんなことになっているだろとは予想してたけどね」 「すみませーんっ、メルさんを食べようとしちゃって」ノコが謝った。 「俺は気にしないよ。それに食べようとしてたのはメルの方じゃないの?」 「・・」 あたしはノコの上から離れた。 赤くなっているのが自分で分かる。 二人の関係はコースケ公認だけど、彼の見ている前でこの子とエッチするほどあたしの心臓は強くない。 「わははは。メル、それじゃ欲求不満だろう?」 「ばか」 「楽しませてあげるよ。ノコちゃんもね」 「うわ~い」 そんな簡単に喜んじゃダメよ、ノコ。 コイツがこんな風に言うときは、だいたいロクでもない目に会うんだから。 コースケは皮張りの椅子を持ってきた。 それ、この間のステージで使った椅子。 「はい、メル。ここに座って、前に両手出して」 「この格好で?」「もちろん」 コースケはあたしを椅子に座らせると、前に出した両手首を縄で縛った。 さらに肘を折らせて手首の縄を首に巻いて括り付けた。 あたしは手を前で合わせたまま、下げられなくなった。 椅子ごと大きな黒布を被せられた。 「動いたら後でお仕置き。いいな?」「う、うん」
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「さあノコちゃん、メルを好きにしていいよ」 「うわ~いっ」 後ろ手錠のノコが這って黒布の下に入り込んできた。
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自分は膝立ちになると、あたしのマントの中に頭を挿し入れた。 ちゅう。 「きゃ」 おへその下を吸われた。そ、そんなに強く吸わなくても。 ノコの口は下へ下へと移動する。 あ、それ下の毛! 汚いよぉ。 「そろそろ諦めて足を開いてくださぁい、センパイ♥」 だ、だ、だっ、だめぇ。 両足の間にノコの肩が割り込んだ。 「はんっ!」 クリを吸われた。 「あ・・、あん、はぁん」 舌の先で転がされる。 「あ、あ、あああ」 我慢する気はすっかり失せた。 あたしは身を反り返らせて喘ぎ続ける。 「れろれろ。メルさんのおつゆ♥ 美味しいです」 「ば、ばか。そんなとこ、」 「噛みますよぉ。イっちゃってください」 「あ、やっ」 きゅん!! 衝撃が駆け抜けた。一瞬、意識が遠のく。 ノコの顔が上がってきて耳元で囁かれた。 「抱いてあげたいんですけど、手錠してるんでダメなんです。・・代わりにキスしますね♥」 「あぁっ!」「んんっ!」 ノコとあたし、両手を拘束された女同士がディープキスをする。 はあ、はあ。 肩で息をして、もう一度吸い合った。 ぱちぱちぱち。 「いいねぇ。堪能させてもらったよ」 のんびり拍手してからコースケが言った。 「はあ、はあ。コースケぇ。もう許して」 「そうだな。じゃ、そのままバニッシュしてよ」 「そ、そんな、無理」 「無理じゃないさ。それくらいできないとこの先困るぞ」 「きっとできます! メルさんなら」 もう、ノコまで無責任に。 「じゃ、いくぜ。・・ワン、ツウ、スリー!」 コースケは椅子全体を覆う黒布を両手で持って外した。 そこには後ろ手錠のノコだけが膝立ちで屈んでいた。 あたしが座っていた椅子の座面には、半透明の液体が広がって溜まっていた。 5. 翌日。 喫茶店に現れたサオリさんは以前より綺麗になっていた。 「待たせたかしら」「いえ、あたしも来たばかり」 「メルちゃん、何だか綺麗になってない?」 「あたしこそ、サオリさんが綺麗になったって思ったんですけど」 「え? あはは」「うふふ」 コットンケーキのリーダー、サオリさんと会うのはチームを辞めて以来だった。 あたしが円満に退所できたのはサオリさんが応援すると言ってくれたからで、あたしはとても感謝している。 「どうしてるの?」 「クラブで彼とイリュージョンのお仕事をやってます」 「そっか。頑張ってるのね」 「まだ続けてできるかどうかは分からないんですけど」 「コットンケーキだって最初はそうだったわ。・・それで、どこのお店?」 「それはまだちょっと、」 あたしは言葉をにごす。 秘密クラブで拷問イリュージョンやってます、なんてこの人には言えないよ。 サオリさんの目がきらりと光った。 「そう・・、詳しくは聞かないけど、いろいろなお店があるわ。危ない仕事はしないでね」 「無茶はしません。彼を信じて頑張ります」 「分かった」 サオリさんは笑って手を握ってくれた。 「じゃあ何も���わない! 自分の信じた道を進むのよ、メルちゃん」 「はい!」 6. 「くのいちの拷問とは考えたもんでんなぁ。客の評判は上々でしたで」 クラブのマネージャーが言った。 ガッチーと名乗る不思議な関西弁を喋るおじさんだった。 あたしとコースケは先週のステージの評価を聞きに来たのだった。 「来月も頼みますわ。それも好評やったら出演枠を毎週とる、ちゅうことで」 やった! あたしはコースケとガッツポーズをする。 「・・まぁ、できたら、できたらでよろしおまっけど、次は、もちょっと過激にしてくれたら、ええかもしれませんな」 「過激に、ですか?」コースケが聞く。 「過激に、ですわ。そちらのメルさんでしたか、可愛い顔やさかいグロな演出やったら喜ばれますわ。エロでもよろしいけど」 「分かりました、やります。まかせてください」 彼が胸を叩いた。 グロかエロって、あたしがやるんだよね。 コースケ、大丈夫? 安請け合いしちゃっても。 7. 東京から車で2時間の高原。 そこは小さな湖に面したキャンプ場だった。 次の出演が決まったお祝いに、あたしとコースケは二人でゆっくり過ごそうとやってきた。 キャンプなんて面倒くさいし汚れるからホテルがいいと言ったあたしに、大人気の絶景キャンプ場だから行こうと誘ったのはコースケだ。 「・・誰もいないじゃないの」 「あれ? おっかしいなぁ~。平日は空いてるのかなぁ~?」 「コースケ、知ってたんでしょ」 「わはははっ、まあいいじゃねーか」 「こんな寂しいところで二人だけなんて、どういうつもりよ!」 「誰もいなけりゃ、エッチし放題だぜ」 「え」 「ほら、今夜は晴れてるし、外でするってのはどう?」 これで喜ぶんだから、我ながら単純な女だと思う。 コースケはキャンプの料理も上手だった。 フライパンで焼いたピザとペンネ、チキンとキノコのホイル焼きを食べるとお腹いっぱいになった。 「マシュマロ、焼けたぜ」 「わ、食べるぅ」 パチパチ燃える火を前に並んで座っていると自然といい雰囲気になる。 あたしが身を寄せると彼が肩を抱いてくれたりして。 「キャンプも悪くないだろ?」 「うん、バカにしてごめんね。・・今度はノコも連れて来たいな」 「ああ、あの子なら喜ぶだろうね」 「見てっ。星がすごーい!」 「おお、まさに満天の星だ」 「こんなにたくさんの星見るの、初めてだよー」 見上げていると、頬に彼の手が添えられた。 顔を向けてキス。 「今日は優しいのね、コースケ」 「俺はいつでも優しいぜ?」「うそ」 「どう? 今なら何されてもいいって気分にならない?」 「そうね。・・いいよ、今なら」 「よっしゃ。じゃ、早速」 へ? コースケは立ち上がると暗がりの中を歩いていった。 もう、せっかくロマンチックな雰囲気だったのに。 バタン! あれは車のハッチバックの音。 「お待たせ~」 「何、そのキャリーケース」「見てな」 コースケはポケットから鍵を出すとキャリーケースの蓋を開けた。 大きな塊がごろんと転がり出た。 サージカルテープでぐるぐる巻きにされた布の袋だった。 テープを剥がして袋の口を開くと、中に膝を抱えて小さくなった女の子が入っていた。 「ノコ!!」 「えへへ。こんばんわぁ、メルさん」 「あんた、いつから」「えっと、朝からですぅ」 朝から? じゃ、あたし達がドライブして、ランチ食べて、コスモス園行って、それからえ~っと、ともかくいろいろしてる間、ずっと!? 「はいっ、頑張りましたぁ」 「水分補給も兼ねてカロリーゼリー持たせてたから問題ないぜ。トイレは無理だけど」 「私、漏らしたりしてませんよぉ。エライでしょ? ・・そろそろ限界ですけど」 「その袋は防水だよ。中でやっちゃって構わないって言っただろう?」 「女の子なのに、そんなことできませんっ。それに私、メルさんのためならボーコー炎になってもいいんです」 「そーいう問題じゃないでしょ!」 ともかくノコを袋から出して、トイレに行かせる。 ノコは裸で汗まみれだった。 「着るものあるの? それじゃ風邪引くわ」 「大丈夫です。メルさんに暖めてもらいますから」 「え? きゃっ」 やおらノコはあたしの服を脱がせ始めた。 「コースケ! 笑って見てないで何とかしてっ」 「俺、ノコちゃんの味方」「え~っ」 コースケは全裸になったあたしとノコを向かい合って密着させた。 反物のように巻いた布を出してくると、あたし達の首から下に巻き始めた。 とても薄くてゴムのように伸びる布だった。 きゅ、きゅ、きゅ。 弾力のある布が肌を絞め付ける。 き、気持ちいいじゃない。 「マミープレイに使う布だよ。メルはぎゅっと包まれるのが好きだろ? 性的な意味で」 「性的な意味は余計っ。・・否定、しないけど」 肩と肘、手首まで布に包まれる。 これ自力じゃ絶対に抜けられない。 「おっと、これを忘れてた」 あたしとノコの股間にU字形の器具が挿し込まれた。 「ちょっと重いから落ちないようにしっかり締めててね、ノコちゃん」 「はい!」 ノコ、何でそんな殊勝に応じるの。 やがて布はあたし達の膝から足首まで巻かれ、さらに二重、三重に巻かれた。 「口開けて、メル」「んっ」 コースケはあたしの口にハンドタオルを押し込んで上からガムテを貼った。 猿轡、あたしだけ!? 「よっしゃ、頭も巻くぞ」 あたし達は首から上も布を巻かれて一つの塊になった。 そのまま地面に転がされる。 「いいねぇ、女体ミイラ」 布の巻き具合とあたし達の呼吸を確認すると、コースケはおごそかに宣言する。 「二人揃ってイクまで放置。時間無制限」 えええ~っ!? 「俺は君らを肴にホットウイスキーでも飲んでるわ」 8. まったく動けなかった。 動けないけれど、女の子二人で肌を合わせて強く巻かれているのは気持ちよかった。 ちょっと息が苦しいのはノコの巨乳があたしの胸を圧迫するせい。 まあ仕方ないわね。 「メルさぁん♥」 耳元でノコが甘い声を出した。 あたし達は頬と頬を密着させた状態で固定されているから、この子の声は耳元で聞こえるんだ。 ぺろ。ぞくぞくぅ! 「んんっ、んんん~っ!!(ひぃっ、耳を舐めるな~!!)」 思わずのけ反ると、股間のU字器具が膣壁を刺激した。 「ひゃん!」「ん~っ!(ひゃんっ!)」。 あたしとノコは同時に悲鳴を上げる。 これ、うっかり力を入れるとヤバい・・。 ぶーんっ。 そのU字器具が振動を開始した。 「あぁ~んっ!!」「んんっ~ん!!!」 双頭バイブっ!? コースケめ、仕込んだなぁ!!! ノコがびくびく震え、同期してあたしもびくびく震えた。 膣(なか)で暴れるバイブは的確にGスポットを突いた。 耐えられずに下半身に力を入れると、それは刺激となって相手のGスポットに伝わる。 そしてさらに大きな刺激が返ってきて、こちらのGスポットをいっそう強く責めるのだった。 「はん! はん! はぁんっ!!!」「ん! ん! んん~んっ!!!」 コースケは双頭バイブのリモコンを気ままに操作した。 あたし達は震え、もがき、快感を増幅し合った。 イキそうになる前にバイブは停止して、その度に二人とも半狂乱になった。 疲れ果てたけれど、眠ることも休むこともできなかった。 あたしもノコも被虐の嵐の中をどこまでも堕ちた。 明け方近くになってコースケはようやくイクことを許してくれた。 ノコが声にならない声を上げて動かなくなり、それを見てあたしも安心して絶頂を迎え、そして意識を失った。 とても幸福だった。 朝ご飯の後、コースケが撮影した動画を見せてもらった。 スマホの画面の中で、あたし達を包んだミイラがまるで生き物のようにびくびく跳ねまわっていた。 9. クラブからさらに過激なネタと求められて、コースケは新しいイリュージョンを準備した。 機材の費用はクラブが出してくれるという。 続けて出演契約できたら、という条件だけどね。 「どう? いける?」「大丈夫、いけるよ」 あたしは新調したガラス箱に入って具合を確かめている。 クリスタルボックスに似ているけれど、幅と高さの内寸が50センチずつしかないから中で身を起こすことはできない。 高価な耐熱強化ガラスで作った箱だった。 絶対に成功させないといけないよね。 「じゃ、隠れて」「分かった」 あたしは底の扉を開けて、その下に滑り込んだ。 燃え盛る火の下でも安全に過ごせる隠れ場所。 「蓋、浮いてるぞ」「え、閉まってない?」 「太っただろ、メル」「失礼ねーっ。バストが大きくなったの!」 「そりゃあり得ねー」「言ったわねー。なら今夜確かめる?」「よし、徹底的に確かめてやる」 軽口を叩き合いながら、あたしは自分の位置を調整する。 「ごめん、一度押さえてくれる」「おっしゃ」 ぎゅ。かちゃり。 仰向けになったあたしを押さる天板が下がって、あたしはネタ場の空間にぴたりとはまり込んだ。 「どう?」「気持ちいい」 「何だよそれ。・・浸ってないで、とっとと出てこい」 「もうちょっと」 「あのねぇ~」 それからあたし達は次のステージの構成を決めて、ネタの練習を続けた。 10. 次のショーの本番当日。 「ノコ、何であんたがここにいるのよ」 「えへへ。私も手伝いに来ました」 控室にはノコがいた。 コースケと同じ黒い忍者の装束で顔に覆面をしていた。 「あんたもコットンケーキ辞めさせられちゃうよ」 「大丈夫です。ちゃんと顔隠してやりますから」 「それでバレないほど甘くないと思うけど」 「やらせてやれよ。ノコちゃんも覚悟して来てるんだ」 コースケが言うなら、とあたしはノコのアシスタントを認めた。 アシスタントと言ってもノコは黒子で機材の出し入れなどを手伝う役だ。 「・・御崎メルさん、来客です。フロアへどうぞ」「あ、はい!」 来客? 客席に行くと、そこにはセクシーなイブニングドレスの女性が待っていた。 「サオリさん!! どうしてここに!?」 「コットンケーキのリーダー��秘密クラブのメンバーだったらいけない?」 「いけなくはないけど・・、驚きました」 「ショーのプログラムに『Kosuke & Meru』ってあって、もしやと思って来たらやっぱり貴女だったのね」 「知られちゃったんですね。恥ずかしいです」 「いいのわ。わたし、今日はすごく楽しみにしてるんだから」「?」 サオリさんは微笑んだ。今まで見たことのないくらい色っぽい微笑み方だった。 「ここでやるってことは、メルちゃん、きっと可哀想な目に会うんでしょ?」 「え」 「正直に言うとね、女の子が酷いことされるのが大好きなの。拷問されたり、無理矢理犯されたり」 「・・サオリさん、やっぱりSだったんですか」 コットンケーキ時代、サオリさんの指導がとても厳しかったのを思い出した。 あたし達後輩はいつも泣かされて、このドS!とか思ったものだった。 「うふふ。逆かもしれないわよ」 サオリさんは笑っている。 「ま、まさか、ドM!?」 「わたしのことはいいじゃない。ステージ、怪我しないよう頑張ってね!」 「・・はいっ」 控室に戻り、ノコに「サオリさんが来てる」と伝えた。 「ぎょぼ!」 何、その驚き方は。 11. 〇 緊縛木箱と性感責め スポットライトの中に黒忍者のコースケと黒子のノコが登場した。 テーブルを出して、その上に空の木箱を置いた。 すぐに木箱を持ち上げると、テーブルの上にはくのいちのあたしがうつ伏せになって縄で全身を縛られていた。 衣装は先月のステージと同じ赤い上衣にショートパンツと網タイツだけど、ブーツと覆面は着けていない。 その代わり最初から口に縄を噛ませて猿轡をされている。 緊縛はタネも仕掛けもない本物だった。 背中に捩じり上げてほぼ直角に交差させた両手首と二の腕、胸の上下を絞め上げる高手小手縛り。 両足は膝と足首を縛り、後ろに強く引かれて背中の縄に連結されている。 決して楽じゃないホッグタイの逆海老縛り。 ショーが始まる前からこの姿勢で木箱に仕込まれていたのである。 黒忍者はくのいちの足首の縄を首の方向へ強く引いた。 テーブルについた顎に体重がかかる。 さらにその状態で太ももの間に手が侵入し、突き当りの部分が激しく揉み込まれた。 ・・くっ! あたしは両目をぎゅっと閉じて恥辱に耐える。 きついけど、これはまだまだ序盤なんだ。 今度のショーではお客様の前で性的な責めを受ける。 コースケは本気で責め、あたしは本気で苦しみ本気で感じる。 二人で決めたシナリオだった。 やがて膝と足首の縄が解かれ、右足と左足を黒忍者と黒子が掴んで開かせた。 逆海老の後は180度に近い開脚。 黒忍者は苦無(くない:忍者が使う短刀)を持ち、先端をくのいちの股間に突き立てる。 ショートパンツが破れない程度に突くけれど、それでも確実に女の敏感な部分が責められている。 「ん、あああああ~っ!!」 ・・耐えられずに声が出た。 あたしは喘ぎながら身を震わせる。 完全に被虐モードだった。じっと忍ぶ力なんて残っていない。 スポットライトに照らされて光る粘液がテーブルを濡らす様子が客席からも見えたはずだ。 〇 鞭打ちレビテーション ぐったり動かなくなったくのいちに大きな布が被せられた。 テーブルの後ろに黒忍者が立ち、両手で持ち上げる仕草をすると、布に覆われたくのいちがゆっくり上昇した。 2メートルほどに高さに浮かんだところで、黒忍者は一本鞭を手にする。 振りかぶって布の上からくのいちを打つ。 ぴしり。「あっ!」 鞭の音と呻き声が聞こえた。 ぴしり。「んっ!」 ぴしり。「んんっ!」 ぴしり。「んあっ!」 ぴしり。「ああーっ!!」 5度目の鞭打ちで布がずれ落ちた。 ・・この鞭打ちにも一切タネがない。 布が被せられているとはいえ、あたしはコースケの鞭を本当に受けている。 絶対に逃げられない拷問。 「女の子が酷いことされるのが大好きなの。拷問されたり、無理矢理犯されたり・・」 さっき聞いたサオリさんの言葉が蘇った。 あたし、本当に酷いことされてる! 鞭で布が落ちると、そこには高手小手で縛られたくのいちが浮かんでいた。 黒忍者は両手を振ってテーブルの上にくのいちを降下させた。 もう一度布を被せ直して、再び浮上させる。 鞭打ちが再開された。 ぴしり。「あぁっ!」 ぴしり。「んん~っ!!」 黒忍者は鞭を置くと、宙に浮かぶ布の端を掴んで引き下ろした。 ばさっ。 そこにあったはずの女体は消えてなくなっていた。 〇 ミイラ短剣刺し ステージ全体が明るくなった。 隅の方に敷かれていた黒布がむくむく膨み、中からくのいちが立ち上がった。 猿轡は外れていたけれど、高手小手の緊縛はそのままだった。 その場から逃げようとするが、黒忍者が両手を合わせて呪文を唱えると、何かに固められたかのように動けなくなって黒子に捕らえられた。 黒忍者は反物のように巻いた布を持ってきた。 これはあのキャンプで使った薄くて弾力のある布だった。 その布をくのいちの頭から足先までぐるぐる巻きつけた。 薄手の布の下にはくのいちの顔が透けて見えていたけれど、何重も巻くうちに見なくなって、全体が白っぽいミイラになった。 くのいちのミイラは床に転がされた。 黒忍者は短剣を持って掲げる。刃渡り10センチほどの銀色の短剣だった。 やおらその短剣をミイラのお腹に突き刺した。 「きゃあっ!!」激しい悲鳴。 さらに3本の短剣を出して、胸の上下と顔面に刺す。 ミイラは1本1本刺される度に悲鳴を上げてびくびく跳ね、短剣を突き立てた箇所には真っ赤な染みが広がった。 〇 ガラスの棺 透明な箱が登場する。 細長い棺(ひつぎ)のような形状をしていて、人が入るとしたら横たわるしかない大きさだった。 黒忍者はミイラから短剣を抜き、肩に担いで棺の中に入れた。 黒子が蓋をして南京錠の鍵を掛ける。 黒忍者は松明(たいまつ)に火を点けた。 照明が消えて真っ暗になった。 ステージの明かりは黒忍者が持つ松明だけである。 黒忍者は棺のまわりを歩きながら、松明で棺の中を照らした。 すると、何と、棺のミイラが燃え始めた! その火は次第に大きくなって、棺の中いっぱいに燃え広がった。 わっ。観客がざわつく。 一瞬だけ、棺の中にくのいちが見えたのだ。 しかしすぐにその姿は炎の中に消えてなくなってしまった。 ・・ヤバい!! あたしは棺の底に背中をつけて隠し扉を開けようとしていた。 ガチで両手を縛られているから動かせるのは指先だけだった。 その指に、あるはずの扉のフックが掛からない。 見つからないっ、見つからないよ!! 網タイツの足がちりちり焼け始めた。 火が小さくなって静かに消えた。 やがて照明が点いてステージが明るくなる。 黒忍者と黒子が棺の前後を持ち、斜めに傾けて中身を客席に向けた。 皆が目をこらした。 棺の中は黒い粉が溜まっているだけで、その他は何も入っていなかった。 くのいちの女の子は灰になってしまったのだろうか? 黒忍者が客席の後方を指差す。 黒子がほっとしたように両手を叩いた。 そこにはくのいちが立っていた。 忍者の衣装は灰で黒くなり、網タイツは焼けて穴が開きその下は赤くただれていた。 ・・あたしはステージに向かって走っていった。 ふらふらしながら、どうにか倒れずにすんだ。 拍手の中、揃って頭を下げる。 うずうずした。 お客さんの前だけど、もう我慢できない! あたしはその場でコースケに抱きついた。 黒忍者とくのいちはそのまま長いキスをした。 12. 喫茶店。 あたしはサオリさんと向かい合って座っていた。 「怪我したって本当?」 「火傷しただけです。脚に痕が残りますけど」 「可哀想に・・」 「大丈夫です。イリュージョンするのに問題ありません」 生足を出すのはちょっと難しいけどね。 「クラブの仕事はどうするの?」 「続けます。ただ、出演は減らそうって彼と相談してます」 「それがいいかもね。クラブを辞めないのなら、わたしはメルちゃんが苦しむシーンをこれからも楽しめるし」 「サオリさん、それ酷いですよ」 「あはは。じゃあ、今度はわたしが苦しんでみましょうか」 「見たい! でもいいんですか? コットンケーキのリーダーがそんなことして」 「コットンケーキでやればいいんでしょ? 拷問イリュージョン」 「まさか本気で言ってませんよね?」 「半分本気よ。ノコちゃんもやりたいって言ってるしね。貴女達のネタ見て興奮してるみたい」 「ぎょぼ!! 知ってたんですか、あの子のこと」 「リーダーを舐めちゃダメよ。そのときはメルちゃんもゲストで参加してくれる?」 「はい!」 13. 椅子に座ったあたしにコースケが黒い布を被せた。 「さあ、皆さま、ここに黒布に包まれたくのいちが一人!」 あたしは布の下から両手を前に出してひらひら振ってみせる。 「はい!」 真上から頭を叩かれた。ぱすっ。 「おおっ」「きゃっ!」 驚きの声が聞こえる。 あたしの頭はぺたりと潰れて、肩の高さで平らになってしまったのだった。 ここは公園。 あたしとコースケは通行人の前でイリュージョンをしていた。 赤と黒の忍者装束。 ノコ���スマホの撮影担当で、ときにはネタの手伝いもしてくれている。 動画サイトに上げた『Kosuke & Meru のニンジャ・イリュージョン』は少しずつ閲覧回数が増えて、ほんの少しだけど収益を出すようになってきた。 「では、最後のイリュージョン!」 コースケはあたしの身体に布を巻き始めた。 薄くて弾力のある布を何重にも巻いて、あたしをミイラにする。 全身をきゅっと締められる感覚。 その気持ちよさにきゅんと濡れてしまいそうだ。 コースケは別の大きな黒布をあたしの上に被せた。 「はい!」 その黒布はふわりと広がって地面に落ちた。 あれ? 黒布を上げると、そこにはミイラに巻いていた薄い布だけが解けて落ちていた。 中身の女性はどこに消えたの? おおーっ。パチパチ! 一斉に起こる拍手。 その音をあたしは地面に置いたトランクの中で聞く。 今日も大成功ねっ。 この後、あたしはトランクに入ったまま帰ることになる。 荷物になって運ばれるのは悪い気分じゃない。 今夜はノコも一緒に過ごすことになっているから、またきっと酷い目に会うだろう。 「・・酷い目に会う女の子が大好きなの」サオリさんのセリフ。 あたしも大好きです。 ほのかな性感と被虐感に満たされた。 狭いトランクの中で回収されるのを待ちながら、あたしは甘くトロトロした時間を過ごすのだった。
~ 登場人物紹介 ~ 御崎芽瑠(みさきめる):25才。コースケとイリュージョンの新しい仕事��始める。イリュージョンチーム「コットンケーキ」元メンバー。 谷孝輔(たにこうすけ):30才。フリーのマジシャン。メルの恋人。 ノコ : 22才。コットンケーキの現役メンバー。メルのペット。 サオリ : コットンケーキのリーダー。30台半ばくらい。 前作 でコースケに誘われたメルが彼と一緒に頑張るお話です。 布や袋を使うというお題で拷問イリュージョン。 短剣をぶすぶす刺したり、火で燃やしたり、女の子は最初から最後までずっと緊縛されているとか、いろいろ楽しませてもらいました。 無茶といえば無茶ですが、ここはメルちゃんの精神力がスゴイから可能ということにしておきましょうww。 この先コースケくんとメルちゃんは秘密クラブとユーチューバーの二足の草鞋(わらじ)で生きるのでしょうか。 それともどこかで名を売ってメジャーなイリュージョニストになるのでしょうか。 くのいちイリュージョンのお話はこれで終了しますが、機会があればいつか描いてあげたい気もします。 (お約束はしませんよ~) 挿絵の画像はいただきものです。 黒布の下には実際に女性が椅子に座っています。 2枚目は分かりにくいですが、椅子に座った女性に向かい合ってもう一人女性が膝立ちになっています。 ノコちゃんがメルを責めるシーンはこの写真に合わせて書かせていただきました。 それではまた、 ありがとうございました。 # このコロナ禍中、皆さまの健康とお仕事/商売が無事であるよう祈っております。
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