#韓国:1600〜
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日本の東と西の間には長年にわたる対立がある。 関西(西)には京都や大阪などの都市が含まれ、関東(東)には東京や横浜が含まれます。 著者には理由はよくわかりませんが、関西人と関東人はこうした違いを誇りに思っています。 この国の形は歴史的に、多くの軍閥間の同盟関係の変化を伴う、ほぼ二極の軍事対立を生みました。 何世紀も前、京都は帝都であり、大阪は経済の中心地でした。 日本の西には韓国と中国があり、商業と文化の貿易によりこの地域は豊かで強力になりました。 16 世紀の終わり近く、信長という名の武将が日本の大部分を統一することに成功しましたが、仲間に裏切られました。 支配権をめぐる熾烈な争いが続き、1600年にほぼ国のほぼ中央に位置する瀬木原での戦いで最高潮に達した。 勝者は、徳川家康という将軍で、将軍(名目上は天皇に仕えるが実質的には統治する軍事統治者)となり、江戸(現在の東京)に拠点���置きました。 彼の敗北したライバルは、ご想像のとおり、大阪を拠点にしていました。 江戸は、1590年頃に家康が現れて城を再建し、その地域を拠点とするまでは、壊れた城のある小さな漁村にすぎませんでした。 瀬木原の戦いに勝利した後、彼はほぼ寛大な勝利を収めたが、他の武将たちに江戸の世帯を維持し( 事実上の 人質にする)、インフラを構築するために資金と労働力を提供するよう要求した。 5年以内に江戸は人口約15万の大都市になった。 徳川はまた、特にライバルが海外で軍隊や資本を集めるのを防ぐために、国を鎖国し、外国貿易を禁止した。 彼の家族は、19 世紀に幕府が廃止され、日本が外の世界に開かれるまで、日本を統治し続けました。 江戸は東京と改名され、正式な首都となったが、20世紀初頭に大正天皇が東京に移るまで皇室は京都に居住し続けた。
日本のソウルフード: おにぎり | ハッカーニュース
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かなりの歴史好きでも
男性天皇と女性天皇と
男系と女系の区別がついていない人がいてびっくり
天皇家は例外なく父親が皇族である者だけが皇位を継承してきた これが男系の意味 だから父が皇族であれば、その娘が天皇になることは当然あり
飛鳥時代から奈良時代は女帝がたくさんいた 男系の女性天皇だ
それと、どっかの家から婿さん連れてきて皇室の姫様と結婚して子が生まれた場合、この子の母さんが皇族ということで、この人は女系 こういう人が皇位を継承したことはない 女系の場合、男性だろうが女性だろうが、関係なく皇位継承はできない これは実質的に1600年以上継続してきた これが皇室の血統の意味
だから、女系の人が即位するとは、それは皇室の断絶であって新たな王朝の創始になる
そもそも日本国憲法は皇室の血統を受け継ぐ人が皇位継承することを国家機構として定めている 皇族は基本的人権の適用外である その皇室について、女性が天皇にならないのは女性差別~とか言う人は、日本の歴史と、憲法の基本の両方ともご存じない
現在についていえば、愛子様が次の天皇に即位されることは問題がない この点で、男女差別を女性天皇容認の理由とするものは理由が破綻している だが、愛子様がご結婚されてお生まれになったお子は皇位継承の資格がない
その後は秋篠宮家に皇統が引き継がれる 秋篠宮殿下、悠仁様、と皇位が継承されていく ただ、男系の継承者で上皇様のお孫の世代が悠仁様一人であることが皇統継続の危機なのだ 悠仁様に将来男女のお子様が生まれた場合、女のお子様が即位されることは当然可能だ だが、さらにそのお子様が皇位を継ぐことはできず、男の兄弟に皇位がいくだけのこと
解決は簡単 戦後GHQの日本破壊工作で現行法上皇室から追い出された11宮家には、男系の男性が数名いる その宮家にいくつか皇室に復帰してもらえばいいだけの話 こうした例は継体天皇の例に限らず複数あるので問題がない
整理すると男系ならば、女性天皇は当然あり でも女系なら男性でも皇位にはつけない これが皇位継承のルールである 女性だから天皇になれないのはサベツだ~という人間の阿呆さがよくわかる
でも女系天皇推進派は、なぜかこの簡単で根本的な解決策に反対する その理由は、現皇統を断絶させてしまおうという、反日的中韓的思想に染まっているからだ
でも歴史好きで男系女系を知らんというのは、数学過ぎだが微分知らんみたいにありえないので、意図的なポーズかもしれないな 天皇制を実質的に廃絶させようとする勢力の
特に教育関係者にはこういうのが紛れ込んでるので注意しようっと
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王林ちゃん、乳出し超ミニワンピース姿がエッロすぎるwww
今日のピックアップ記事 【動画】 巨乳配信者に誘惑された街のおじいちゃん、我慢できず舐めまくってしまうwww(ポッカキット) 【悲報】 正義の変身ヒロインが街中で敵に負けて公衆の面前で犯されるシーン(オカズランド) 日本人の朝ご飯がヤバすぎる! 一瞬何もないのかと思ったwww【タイ人の反応】(親日国タイの反応) 【韓国】 トランプ米次期大統領のEV補助金廃止検討、韓国バッテリー業界に衝撃、関連銘柄が急落(保守速報) 海外「ついに日本が動いてくれた!」 日本がロンドン地下鉄を運営する事が決定し英国人から歓喜の声が殺到(パンドラの憂鬱) 王林ちゃん、乳出し超ミニワンピース姿がエッロすぎるwww(動ナビブログ ネオ) 名古屋市、1600億円減税(市民税10%減)したら3000億円税収が増えていた 「減税すると税収増」説(日本第一!ニュース録) 【動画】…
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ブチルグリコール価格動向: 価格監視、分析、予測
2024年3月までの四半期
アジア太平洋
2024年第1四半期、アジア太平洋地域(APAC)のブチルグリコール市場は大幅な価格変動がありました。全体として、高い需要と限られた供給が市場を強気に導きました。ブチルグリコールの供給不足により市場が逼迫し、価格が上昇しています。これは、供給制約、貿易の流れの混乱、在庫レベルの制限などが原因です。
リアルタイムのブチルグリコール価格を入手: https://www.analystjapan.com/Pricing-data/butyl-glycol-1248
需要面では、塗料業界が旺盛な購買活動を示し、市場全体の強さを支えました。しかし、市場は需要の低迷と下流企業の慎重な運営により課題にも直面しました。価格動向は、強力な市場ファンダメンタルズ、活発な購買活動、生産コストの増加に影響されました。特に韓国では供給状況が逼迫し、取引活動の増加により価格が急騰しました。韓国のブチルグリコール市場は四半期を通じて着実に上昇し、最新の四半期末価格はエチレングリコールモノブチルエーテルFOB釜山でUSD 1530/MTとなりました。
ヨーロッパ
2024年第1四半期は、ヨーロッパのブチルグリコール市場にとって困難な時期でした。市場価格は供給不足と需要の低迷により変動し、弱気のセンチメントが支配しました。前月の積極的な販売努力により在庫圧力が低下し、塗料やコーティング、接着剤やシーラントなどの下流産業からの強い需要により生産コストが上昇しましたが、経済的障害や受注の低さにより需要は中程度にとどまりました。
ドイツでは、1月に活発な購買活動と下流企業の旺盛な需要により価格が上昇しましたが、2月と3月は購買活動の低迷と需要の低迷により価格が下落しました。市場のファンダメンタルズは弱く、各港に在庫が積み重なり、下流需要も低迷しました。四半期前半は需要と生産コストの増加により価格が上昇しましたが、後半は弱い市場ファンダメンタルズと購買活動の低迷により価格が下落しました。ドイツの最新四半期末価格はエチレングリコールモノブチルエーテルFOBハンブルクでUSD 1600/MTでした。
北米
2024年第1四半期、米国のブチルグリコール市場は良好な市場ファンダメンタルズに支えられ、顕著な需要の急増を経験しました。塗料およびコーティング業界からの堅調な需要と北米および南米からのスポット購入の増加により、ブチルグリコールの需要が高まりました。サプライヤーは生産率を上げることを余儀なくされ、プレミアム貨物は割引なしのレートで取引されました。この期間、サプライヤーは好ましい需要条件を利用して市場ダイナミクスに変化をもたらし、生産圧力にもかかわらず市場は引き続き好調を維持しました。2024年第1四半期は塗料およびコーティング業界からの強い需要と地域からのスポット購入の増加により、北米のブチルグリコール市場に成長と機会をもたらしました。
リアルタイムのブチルグリコール価格を入手: https://www.analystjapan.com/Pricing-data/butyl-glycol-1248
MEA
中東およびアフリカ(MEA)地域のブチルグリコール市場は、2024年第1四半期にプラスの価格環境を経験しました。塗料およびコーティング業界からの強い需要、供給の制限、輸送業務の中断が市場価格に影響を与えました。紅海での攻撃により供給不足と運賃の上昇が生じ、価格調整が行われました。
特にサウジアラビアでは物流上の障害や供給不足にもかかわらず、強気の市場が維持され、価格が上昇しました。塗料およびコーティング業界の旺盛な需要が市場活動を活発化させ、価格上昇傾向をもたらしました。サウジアラビアの最新四半期末価格はエチレングリコールモノブチルエーテルFOBジェッダでUSD 1430/MTです。全体として、MEA地域、特にサウジアラビアのブチルグリコール市場は、2024年第1四半期に前向きな価格環境を示し、強い需要と限られた供給により価格が上昇しました。
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【きらびやか朝鮮通信使 行列再現 岡山・瀬戸内、日韓100人が港町歩く】 江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った外交使節団「朝鮮通信使」を再現した行列が5日、寄港地の一つ、瀬戸内市牛窓町地区で行われた。日韓の約100人が華やかな衣装で港町を歩き、観光客らを魅了した。 色鮮やかな民族衣装のチマ・チョゴリなど異国情緒あふれるいでたちで、韓国の楽器を演奏しながら牛窓港近くの出島公園を発着点に約3・2キロを行進。市が��好交流協定を結ぶ韓国・密陽(ミリャン)市の中学生らも新型コロナウイルス禍を経て5年ぶりに姿を見せた。終了後のセレモニーでは李相烈(イサンヨル)・駐神戸韓国総領事と武久顕也市長が“国書”を交換し、善隣友好の精神を確認した。 行列に父親が参加した赤磐市の主婦(33)は「行列はきらびやかで見応えがある。父の勇姿を見ることができ、子どもたちも喜んでいた」と話していた。 地元住民らでつくる実行委が2010年から開いている瀬戸内牛窓国際交流フェスタのメイン行事。日韓の食文化を楽しめるマルシェや、伝統芸能のステージもあった。 通信使に関する当時の外交資料は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されている。(2023/11/5 山陽新聞) 何事も歴史改竄が大好きな韓国。 朝鮮通信使についても歴史改竄しまくりです。だいたい、当時の朝鮮半島では染め物の文化が発展しておらず、色鮮やかなチマ・チョゴリなんて時点でそんなの無いっす!という話ですよ。 朝鮮通信使がどういう経緯で始まったかというと ・徳川幕府成立後、対馬の宗家(宗義智)が国交回復を徳川家から引き受ける ・明を宗主としていた小中華思想の朝鮮は日本を見下していた ・宗義智は朝鮮側に日本が恭順の意を示したかのように国書を偽造 ・偽書によって朝鮮通信使の招致が行われたが、辻褄を合わせるために朝鮮側からの返書も宗家は偽造 こうした経緯で1607年に第一回目の朝鮮通信使が日本に来ました。 日本側、朝鮮側両方の国書を偽造するにあたって対馬の宗家は国王印までも偽造していました。 なお、このあたりの経緯は朝日新聞でも記事になっています。 【朝鮮出兵から国交回復へ 文書や絵画で歴史たどる 名護屋城博物館】(2023/10/12 朝日新聞 神谷祐司) 一部抜粋します ――関ケ原の戦い(1600年)の後、対馬の宗義智が徳川家康の信任を得て国交回復交渉を引き受けた。その過程で対馬宗家は、日本側の国書を偽造して朝鮮からの通信使の招致に成功。そのため、朝鮮側の返書も偽造する必要が生じた。 異国風を演出する竹紙を使い、書き出しの「奉復」(返書)を「奉書」(初めて国書を差し上げる)にするなど改ざんした偽の朝鮮国書(国の重要文化財)が今に伝わっている。―― 対馬藩の宗家としてはすぐ隣の韓国との交易で利益を得られるので江戸幕府と朝鮮王朝両方を騙して実現させたのだろうと思います。 問題は朝鮮通信使の振るまいでした。 一応は幕府へ向かう隣国の使節ということでその移動ルート上にある各藩は粗相があってはならないと手厚くもてなすわけです。(粗相があれば幕府から処罰される理由になりますから) ところが朝鮮通信使の方はというと、これで自分達が序列の上位者であると勘違いして尊大な態度を取り、行く先々で気に入った物を盗み、奪い、食事にもいちいち難癖を付け、家禽の鶏なんかも盗んで羽をむしって食べ始めたりと、とにかくトラブルを起こしまくった上に、お得意の朝鮮儒教思想に基づいた言い訳で正当化、嘘を繰り返す事もあたりまえだったようです。 朝鮮通信使のために各藩が付けた饗応役が相当な苦労をしていたことは想像に難くありません。 歴史を改竄して朝鮮通信使が朝鮮の進んだ文化を伝えたという設定にまでされていたりしますが、実態はまったくそんなことはありません。 詳しくは日東壮遊歌でググってみてください。
李氏朝鮮時代から変わらぬメンタリティ | パチンコ屋の倒産を応援するブログ
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Reposted from @ones_masato ♡スモーキーピンク♡ ONE's MIRROR 原宿本店💒 top stylist MASATO♡ 髪質改善カラー大好評💓 . 1人1人に合わせた似合わせカラー💕 【年間"1600人"のピンクを生み出しています】 色落ちまでかわいいカラー♡ 思わず2度見したくなっちゃう💕 残留させないカラー! ダメージを感じさせないハイトーンカラー🌟 一度はハイトーンにしてみてはいかがでしょうか? . ピンク♡ミルク���ィー♡ラベンダー大好評です💓 . やりたいカラーがどのくらいで出来るか分からなかったり、 どのメニューで予約すればいいか分からない場合など、お気軽にDMください☺️ . . 💕 ダメージを抑えてハイトーンに💕 ♡大人気ケアブリーチ を使用しております! . #韓国カラー #美容学生 #原宿ピンクカラー #ピンクベージュ #ピンクブラウン #ピンクカラー #ピンクヘアー#ピンクアッシュ #ホワイトベージュ #ラベンダーカラー #ラベンダーアッシュ #ラベンダーグレージュ #ミルクティーベージュ #ミルクティーグレージュ #ミルクティーカラー #韓国ヘア#カシスカラー #チェリーピンク #ピンクラベンダー # #ハイトーンカラー #ハイトーン #原宿ハイトーンカラー #原宿ハイトーン #デザインカラー #インナーカラー #ホワイトミルクティー #mirror #ミルクティーブロンド#ハイトーンカラー
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タイポグラフィー(Typography)
“タイポグラフィーという言葉は、ギリシャ語のτύπος typos「形」または「印象」とγράφεινgraphein「書く」に由来しており、その起源は古代に印鑑や通貨を作るために使用された最初のパンチとダイスに遡ります。”
“メソポタミアの都市ウルクとラルサで発見された、紀元前2千年紀のレンガ切手の不均一な間隔は、楔形文字を作成するために同一の文字の再利用が適用された活字の証拠である可能性があります。 バビロニアの円筒シールは、湿った粘土の上でシールを転がすことによって表面に印象を作り出すために使用されました。 タイポグラフィーは、紀元前 1850 年から 1600 年の間に遡るクレタ島の謎めいたミノア印刷物であるファイストス ディスクにも実装されました。”
“可動活字によるタイポグラフィーは、11 世紀の中国の宋の時代 (990 年 - 1051 年) に発明されました。可動活字システムはセラミック材料から製造されており、粘土活字印刷は清朝まで中国で行われ続けました。 木製活字は機械的な扱いの過酷さに対してより耐久性があったが、印刷を繰り返すと文字の表面が摩耗し、活字を交換するには新しい部分を彫るしかなかった 。 金属活字は、高麗時代の 1230 年頃、韓国で初めて発明されました。華隋は、西暦 1490 年に青銅活字印刷を中国に導入しました。 しかし、両方の可動活字システムの普及は限定的であり、この技術は東アジアと中央アジアを越えては広がりませんでした 。”
タイポグラフィーの起源はメソポタミア文明まで遡るそうです。
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北朝鮮のハッカーが盗み出した仮想通貨などの総額は1600億円を越えると韓国の諜報機関が報告
北朝鮮のハッカーが盗み出した仮想通貨などの総額は1600億円を越えると韓国の諜報機関が報告 Source: https://gigazine.net/news/rss_2.0/
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✿ チャプチェ | 잡채 (Japchae) ・春雨を炒めた朝鮮料理。柔らかく戻した唐麺(タンミョン)と呼ばれる春雨と、細切りにした牛肉とタケノコ、同じく細切りにしたニンジン、タマネギ、ホウレンソウ等の野菜、シイタケやシメジ、キクラゲ等のキノコ類をゴマ油で炒め合わせ、醤油、食塩、砂糖等で甘辛く味を付ける。隠し味としてコチュジャンを入れる場合もある。器に盛ってゴマを振りかけ、彩りとして糸状に切った唐辛子等を飾って供する。 ・雜菜と言う漢字表記の通り、元は野菜だけの炒め物であったとされるが、後に春雨を使うことが一般化された。また韓国の春雨はさつまいものでんぷんから作られており、日本で一般的に市販されている春雨に比べるとかなり太い。 ・日本の韓国お料理店ではお惣菜的な扱いをされており、韓国でも料理の付け合せや韓定食の一皿として出される事が多いが、御祝いの席や多くの客を招く際などに作��れる伝統的な前菜で、宴席料理でもある。 ・チャプチェは17世紀初期の朝鮮時代に誕生した。当時の朝鮮王光海君が王宮で宴会を開いた際に、臣下の一人がこの料理を発案して王に献じた。王は余りの美味さにいたく感激し、この臣下に戸曹判書(ホジョパンソ、今で言う財務長官)の地位を与えたと言う。この時代のチャプチェは切った野菜と茸とタケノコを材料とするものであったが、20世紀になってから中華料理の影響で春雨も使うようになった。
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戦後の事件簿 「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた 図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった 1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した 1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない 1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した 1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した 1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した 1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている 1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した 1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること���を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された 1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した 1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた 1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した 1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、���クラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態��った。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡���絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった 1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された 1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された 1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった 1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された 1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた 1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、��おも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた 1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された 1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した 1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅��郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した 1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された 1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合���せた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した 1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った 1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、��関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した 1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた 1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路���ら約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した 1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された 1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している 1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった 1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、���女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、���傷となり、数日後に死亡した 1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、���に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示���予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった 1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った 1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した 1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した 1952年6月10日、��津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した 1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した 1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった 1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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<何度も繰り返されてきたパンデミックとの闘い。新型コロナウイルスとの付き合い方は、歴史を学べば見えてくる──。感染症対策の第一人者、國井修氏による2020年3月17日号掲載の特集記事全文を、アップデートして緊急公開します>
歴史は繰り返す。
過去のSARS(重症急性呼吸器症候群)や新型インフルエンザ、エボラ熱の流行時と似たようなデジャブを感じる人も少なくないのではないだろうか。メディアは食い付き恐怖をあおり、SNSではフェイクや非難・中傷が行き交い、店からはマスクやトイレットペーパーがなくなり、便乗商法や悪質商法が横行する。
どうやら、これは現代のみならず、今から400年近く前にも同様の世相が見られたようだ。1630年にペストに見舞われたイタリア・ミラノを描いたアレッサンドロ・マンゾーニ著『婚約者(いいなづけ)』(1827年)には、外国人排斥、権威の衝突、専門家への軽蔑、暴走する世論、生活必需品の略奪、さらにユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだというデマ、異分子への弾圧と迫害など、理性を失った人間が自らを恐怖の淵へと引きずっていく姿が描かれているという。
「見えない敵」は恐ろしく、実体より大きく感じてしまうもの。不安やパニックに陥ると人間は周りが見えなくなり、正しい判断がしづらくなるのはいつの時代でも同じらしい。
新型肺炎については、少しずつデータが出そろい、次第に敵の戦術や威力が見えてきた。中国、そして日本や韓国を含むアジアで感染者が流行し始めた頃は「思ったほど」怖くない相手と思っていた。3月初めごろまではそう思っていた欧米の専門家も多かったと思う。
しかし、欧州全域に広がり、死者が急増してから、このウイルスの「思ってもみなかった」威力も浮き彫りにされてきた。
私は学生時代にインドなどでコレラ、赤痢、マラリアなどにかかり、医師になってからは破傷風、デング熱、シャーガス病、リューシュマニア症、エボラ熱などの患者を診た。国連や国際機関を通じて、新型インフルエンザ、コレラ、HIV、マラリア、結核などの感染症対策にも当たってきた。
そんな私から世界の状況を見ると「なぜこんなに騒いでいるのか? 世界にはもっと騒ぐべきものがあるし、もっと注目すべきものがあるのに......」という本音もあった。
日本時間3月27日現在、世界の新型肺炎感染者数は202カ国・地域で51万2701人、うち2万3495人が死亡した。これに対して、昨年から今年(3月21日現在)の約6カ月間にアメリカのインフルエンザ流行による患者数は少なくとも推定3800万人、死者数2万4000人に上る。
有史以来、人類が闘い続けてきた結核は、今でも年間推定1000万人が発病し、150万人が死亡する。日本でも年間1万5000人が発病し、2200人が死亡する。日本国内の新型肺炎による患者数・死亡者数をはるかに超え、同じように飛沫感染する病気でありながら、結核に相応の注目は集まらない。
WHO(世界保健機関)の報告によると、新型肺炎感染者の8割は比較的軽症で、呼吸困難などを伴う重い症状や、呼吸不全や多臓器不全など重篤な症状、さらに死亡のリスクが高いのは60歳を超えた人や糖尿病、心血管疾患、慢性呼吸器疾患などの持病のある人だ。
8割が比較的軽症というのは安心材料で、感染しても無症状や軽い症状のため検査を受けていない人も含めると、この割合は実際にはもっと高いだろう。重症化しても、その半数が回復しているが、ウイルスによる肺炎には有効な薬がないことから治療が困難なことも確かだ。
ただし、新型肺炎でなくとも、統計上、日本では毎年9万人以上、1日平均で260人が肺炎で死亡しており、その多くが高齢者や基礎疾患のある人である。通常の季節性インフルエンザでも、日本では2018年の1年間で3000人(1日平均9人)以上が死亡しており、これらと新型肺炎の比較も重要である。
未知の病原菌が出現し始めた
もちろん、今やるべきことは、流行の拡大を抑えること。特に、オーバーシュート(感染爆発)を防ぐことだ。2月24日に日本の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が、「今後1~2週間が感染拡大のスピードを抑えられるかどうかの瀬戸際だ」という見解を示し、データ上は拡大のスピードを抑えられたように見えている。
しかし、その後、流行拡大の中心は欧米に移り、今、まさに各地でオーバーシューティングが発生している時期である。
もはやウイルスを封じ込めることができそうにないが、このまま感染が拡大したらどうなるのだろうか。それを考える際に、感染症の歴史から学べることはないだろうか。
人類の歴史は感染症との闘いともいわれる。メソポタミア時代、既に疫病は四災厄の1つに数えられ、古代エジプトを含むさまざまなミイラのゲノム解析などから、天然痘など感染症との闘いの跡が見える。
感染症は歴史上、戦争を超える��牲者をもたらしたといわれる。第1次大戦の死者1600万人、第2次大戦の死者5000万~8000万人に比べ、1918~1919年に大流行したスペインインフルエンザでは5000万人が死亡。
ペストは何度も世界的大流行(パンデミック)を記録し、特に14世紀にヨーロッパを襲った「黒死病」と呼ばれる大流行では、推計死者数は1億人に上るともいわれる。
ほかにも世界で7回のパンデミックを起こしているコレラ、強い感染力と致死力でインカ帝国やアステカ帝国を滅ぼした天然痘、「現代の黒死病」と呼ばれ、治療しなければ致死率が100%近かったエイズなど、「恐ろしい感染症」はたくさんある。
これらに対する医療技術や医学の進歩はつい最近のことである。初めてのワクチン開発が1798年、細菌の発見が1876年、抗生物質の発見が1928年で、わずか100~200年前の出来事だった。
このような治療薬やワクチン、診断法の開発、また公衆衛生の改善によって、人間は感染症との闘いで優位に立てるようになった。感染症を征服できるとの認識も高まり、1967年には米公衆衛生局の医務総監が「今後、感染症の医書をひもとく必要はなくなった」と述べている。
「勝率」を上げるだけでなく、「完勝」するための根絶計画、すなわち患者をゼロにし、病原菌をこの世から完全に排除する努力も行われた。そして、完全試合が成功した。1980年に根絶宣言をした天然痘である。
そして、次の完全試合として、小児麻痺を引き起こすポリオをターゲットにした。ところが、1970年頃より人類が遭遇したことのない未知の病原菌がこの世に出現し始めた。
ウイルスでは、SARS、エイズ、ジカ熱など、細菌では、腸管出血性大腸菌感染症(O157)、レジオネラ肺炎、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌感染症(MRSA)など、寄生虫ではクリプトスポリジウム症、プリオン(蛋白質性感染粒子)ではクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)などがある。
ポリオという1つの病原菌を根絶する前に、40以上の新たな感染症がこの世に出現してしまったのだ。この多くは人獣共通感染症とも呼ばれ、もともと野生動物などにすんでいた微生物がヒトに感染したものだ。SARSはコウモリ、ラッサ熱は野生げっ歯類、高病原性鳥インフルエンザは水禽類(カモなど)が宿主と考えられる。
古くから分かっている病気も含めると、人獣共通感染症はWHOで確認されているだけでも150種類以上ある。
薬剤耐性菌という新たな恐怖 このように、新たな感染症が発生し流行する背景には何があるのだろうか。1つは近年、森林伐採や土地開発などに伴い、自然環境が破壊され、生態系が崩れる地域が増えたことだろうか。
私は1990年代に、エボラ熱が流行した中央アフリカのガボンを調査で訪れたことがある。熱帯雨林の中にある村に向かい、夜行列車やジープで何時間も移動した。
真っすぐで広い道が森の奥深くまで続く。外資系会社が直径数メートルもある巨木を伐採し輸送するためである。その道沿いでは、サル、ワニからネズミまで、さまざまな野生動物が売られていた。
そんな村の1つで、エボラ熱が発生し、周囲に拡大していった。以前なら村の風土病で終わっていたかもしれない。しかし、村から都市への人の移動、人口密度の増加、航空網の発達などによって、アフリカ奥地の風土病は都市に侵入し、さらに世界に広がる時代になったのである。
蚊が媒介する新興感染症、また人獣共通感染症も多い。蚊の種類は異なるが、デング熱、ウエストナイル熱、黄熱、ジカ熱、チクングニア熱、マラリアなどがそうだ。
これらは熱帯地方だけでなく、日本のどこでも流行する可能性がある。実際に、マラリアは大正時代以前は全国各地で流行し、年間2万人以上の患者、1000人以上の死者を出していた。
またデング熱は、1960~2010年で世界での発生率が30倍に増加した。人口増加、都市化、海外旅行の増加、地球温暖化が原因といわれている。世界で毎年推定1億〜4億人が感染するが、日本でも年間200例以上の輸入例が報告され、2014年には代々木公園を中心に160例の国内発生が報告された。
ウエストナイル熱も、起源であるウガンダのウエストナイル地方から世界に広がった。アメリカ大陸では1999年に初めてニューヨーク市で発生したが、その3年後には全米各州に流行が拡大した。2018年の全米の感染者数は2647人、死者数は167人に上る。
2つ目の背景として、近年では抗生物質に対する薬剤耐性菌が問題となっている。
病原菌が完全に死滅する前に薬を途中でやめてしまう、有効量よりも低用量の薬を処方または服用する、純度の低い粗悪な薬が出回る、などが原因で、生き残った病原菌が薬に対する耐性を強め、薬が効かなくなってくる。また、それが周囲に伝播していくのである。
世界で発生している薬剤耐性の3分の1を占めるのが結核だ。推定で年間48万人以上の薬剤耐性結核患者が発生しているが、診断・治療されているのは3割程度で、その治療成功率は56%である。
マラリアに対する薬剤耐性も課題である。特効薬とされたクロロキンを含め、これまで開発された薬剤のほとんどに耐性ができてしまった。薬剤耐性マラリアはいつも、東南アジアのメコン河流域の国々で発生し、世界に広がっていく。
薬の不適切な使用や偽薬の蔓延などが原因とみられている。近年開発された特効薬であるアーテスネート製剤にも耐性が出てきたため、現在、この地域では封じ込め作戦が展開されている。
抗生物質は人間だけでなく、畜産業、水産業、農業など幅広い分野で用いられ、そこで発生する耐性菌がヒトに伝播することも知られている。特に、家畜の病気の予防や成長促進のために大量の抗生物質が使用され、さまざまな耐性菌が発生し、人間にも伝播している。
対策がなければ、薬剤耐性菌による死亡者数は、2050年までに世界全体で年間1000万人に上り、経済損失は100兆ドルと推定されている。
このように、新興感染症として出現した病原菌のほとんどは、封じ込めや根絶ができていないが、国の自助努力と国際協力によって、その拡大はほぼ抑えられている。データやエビデンスを積み、研究・開発を進めることで、敵との闘い方が分かってきたものもある。
診断が困難で致死率が高かったHIVは、僻地の村の中でも15分で診断ができるようになった。完全にウイルスを除去できないものの、30種類以上の薬が開発されて死亡率は急減した。
新型肺炎についても、世界中に感染が広がっているが、オーバーシューティングを回避し、流行のピークを下げて遅らせるための介入ができれば、他の疾病と同様にうまく闘い、付き合っていけると思う。
新型肺炎との闘いはまだ終わっていない。いやまさにその真っただ中にあるものの、現存する他の感染症も忘れてはならず、また、将来の新たな感染症の出現も考えて、中長期的な準備もしなければならない。今後、われわれはどう対処すればいいのだろうか。
感染症には国境がなく、新たな病原菌はどこからやって来るか分からない。早い段階で疑わしき情報は全て把握し、確認して、対策を早めに実施しなければならない。
これに対して2000年にWHOは「地球規模感染症に対する警戒と対応ネットワーク(GOARN)」を立ち上げ、世界200カ所以上の研究・援助機関などと協力し、世界中の感染症流行への対策、調査、人材育成を推進している。
新たな感染症が発生した国が情報を隠す場合があるので、対策が遅れないよう、改正した国際保健規則(IHR)を遵守させ、WHOへの通報義務も強化している。
また、将来起こり得る感染症の流行を止めるワクチンの開発を目的として、2017年のダボス会議で「感染症流行対策イノベーション連合(CEPI)」が発足した。政府、民間企業、慈善団体、市民団体などによる革新的パートナーシップだが、今回の新型肺炎でもワクチン開発のため製薬企業や大学などとの連携が進んでいる。
私が勤めるグローバルファンドは、3大感染症(エイズ、結核、マラリア)の2030年までの流行終息を目標に支援を進めているが、エボラ熱や新型肺炎では緊急支援を行い、新たな感染症流行への対応にもつながる保健システムの強化についても援助している。
3月28日現在、すでに26カ国の開発途上国から新型肺炎に関する支援要請があり、5日以内に申請書をレビューして支援を決定しているが、そこでは将来の新たな感染症にも対応できる検査室機能の強化やサーベイランス(感染症の発生動向調査)の強化なども支援対象となる。
将来に向けて、日本は何をすべきだろうか。今回のような危機が起こったときに出てくるのが、日本にもCDCをつくるべきだとの議論だ。CDCとは、ジョージア州アトランタに本部を置く米国疾病対策センターである。
感染症対策以外にも、慢性疾患予防・健康増進、出生異常・発達障害などさまざまな保健分野をカバーし、10以上の研究所・センターを持つ。関連事業も含めた予算は1兆円を超え、日本の国立感染症研究所の100倍以上。職員は1万人以上で、国立感染症研究所の約30倍近くもいる。
世界各国に事務所を抱え、低中所得国の感染症対策の支援も行っている。CDCの実力で驚くべきなのは、データ情報の収集・分析力、いつでもどこでも現場に駆け付けて対策を行う機動力、大規模な調査・実践・人材育成に費やせる資金力である。
人材育成では世界的に有名なEIS(Epidemic Intelligence Service)という2年間の専門家養成コースがあり、これまでに3000人以上を育ててきた。
現在の日本の国家予算でCDCと同じインフラ・人材を整えることは困難だろう。可能なのは、国立感染症研究所や国立国際医療研究センター、国立保健医療科学院などの国立の関連組織・施設に加えて、長崎大学熱帯医学研究所などの大学・研究機関、保健所などの行政組織、企業が持つ研究センターなどを有機的につなげることだ。
また、今回の世界への社会的・経済的インパクトに鑑みて、将来のバイオテロなどの危険性も考えなくてはならず、日本の自衛隊、その医務官との円滑な連携・協力も強化する必要がある。
米国にはCDC以外に、米国陸軍感染症研究所(USAMRIID)などのバイオテロを含む特殊災害・緊急事態に備えて研究・人材育成、有事の時に準備・計画をしている機関がある。さまざまな「最悪のシナリオ」を想定しながら、日本国内の関係機関・組織を強化、そしてつなげる必要がある。
心配なのが日本国内の人材だ。世界で多くの感染症が流行しているが、そこで働く日本人は少ない。危機管理は頭で考えて準備・計画するだけでうまく実践できるものではない。現場で場数を踏んだ専門家、オペレーションの分かる管理者が必要だ。
最近、国立感染症研究所の実地疫学専門家養成コース(FETP)や厚労省の感染症危機管理専門家(IDES)養成プログラムなどを通じて、日本人専門家の養成も行っているようだが、彼らを実際にどのように有効活用するか、どうスキルアップさせるかも考える必要がある。
また、このような対策に必要な「専門性」にも様々なものがあり、単に「感染症の患者が診られる」医師だけで対策はできない。感染症疫学、公衆衛生の専門家はもとより、リスク・コミュニケーション、リスク・マネジメント、ロジスティクス、情報管理などの「本物のプロ」を平時から同定し、またそれが不足するのであれば育成し、有事にどのように活用するかを計画しておく必要がある。
今回、日本の状況を聞くと、必ずしも初動の段階から「本物のプロ」が活用されておらず、専門家会議の立ち上げも必ずしも早かったわけではないよう��。
感染症との21 世紀型の新しい闘い方も模索する必要があるだろう。新型肺炎では医療機関で感染が拡大し、医療従事者も感染している。問診、体温・呼吸・脈拍・血圧などのバイタル測定は医療従事者が直接診察しなくとも、ウエアラブルやスマートフォンでできる時代である。
人工知能(AI)による診断技術は分野によっては専門医に勝ることもある。世界ではその開発と応用が急ピッチで進んでいる。デジタルヘルスなど技術革新に期待したい。
新型肺炎の流行は、日本の健康危機管理の在り方を問うものではあるが、より広い視野に立って、その背景にある世界の状況、地球環境の問題、ヒトと自然との共生・共存について考えるいい機会でもある。
人獣共通感染症の対策は、ヒトおよび動物の健康の両者が相まって初めてできるものだ。その実現と維持のためには、ヒトと動物の健康維持に向けた世界規模の取り組みが必要で、「One world-one health」、一つの世界、一つの健康という概念が広がっている。
さらに、人類がこの地球上で安全に安心して生きるには、人間の健康と命を考えるだけでなく、地球環境や生態系の保全、動物の健康や命の保護も積極的に考える必要がある。このような考え方をプラネタリー・ヘルス(Planetary Health) と呼んでいる。用語や概念だけでなく、実践につながるムーブメントになることを期待している。
「見えない敵」との闘いは将来も続くだろうが、実はその敵とは自分自身、地球にとって最も恐ろしいのは人間なのかもしれない、と私は時々思う。こんなときほど、冷静に自分自身や自分たちの社会を見つめ直し、考える時間が必要なのだろう。
(筆者はジュネーブ在住。元長崎大学熱帯医学研究所教授。これまで国立国際医療センターやユニセフ〔国連児童基金〕などを通じて感染症対策の実践・研究・人材育成に従事してきた。近著に『世界最強組織のつくり方──感染症と闘うグローバルファンドの挑戦』〔ちくま新書〕)
<本稿は、本誌2020年3月17日号掲載の「人類と感染症、闘いと共存の歴史」を加筆・アップデートしたものです>
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本ホームページの概要
韓国について世界の人々に問う ホームページ概要紹介
この内容は『韓国の歴史を直視する』と題して出版されました。 書籍版について詳しくはこちら
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このホームページは、韓国の反日の誤りを指摘し、正常な日韓関係の構築を願ったものです。
問い1 朝鮮の始まりについて 韓国人が「大切に思っている朝鮮民族」とその始まりを記しました。朝鮮半島の人たちの先祖は、漢・匈奴・扶余・挹婁・沃沮・濊・貊・女真・韓・韃靼などの多くの種族です。 韓国大統領は「民族は何よりも幸福をもたらすものである」といっていますが、1950年6月に勃発した北朝鮮軍の韓国侵攻では、同じ民族の北朝鮮によって韓国の民間人12万人もが虐殺されても、「民族は最も幸福をもたらすもの」といえるのでしょうか。 ▶ 問い1目次へ
問い2 統一新羅の成立と滅亡について 韓半島の南半分にあった馬韓・辰韓・弁韓の中の小国が、周囲の小国を次々と武力併合して、高句麗と新羅・百済が建国されたことを記しています。この三国は数百年間にわたり攻撃と侵略を繰り返し、数世紀を経て新羅が半島を統一しました。そして今、この戦う性向は日本に向けられています。 ▶ 問い2目次へ
問い3 高麗の建国と滅亡について 後三国時代を経て、高麗の建国、モンゴルへの従属、二度の日本侵攻、拉致した婦女子や処女の元への何度もの提供などを記しています。 統一新羅は、王が享楽に耽り、反乱が頻発し、衰弱した新羅は異民族の高麗に自ら併合されました。これは日本が朝鮮を併合した状況と酷似していますが、韓国はこの併合を黙って認めています。 ▶ 問い3目次へ
問い4 李氏朝鮮の建国と統治について 1388年に軍事クーデターで権力を握った李成桂が、新国家創設に反対した有力者を殺し、反対派を処分して、高麗王から李成桂へ統治権を譲渡させたことを記しました。この状況は、大韓帝国皇帝が日本の天皇に統治権を譲渡した時と同一ですが、韓国はこれを不法かつ不当と言っていません。 ▶ 問い4目次へ
問い5 李氏朝鮮中期の状況について 統治者たちが現実離れした論争に明け暮れ、政治を顧みなかったことを記しました。やがて朋党が形成され、政治と無関係な嘘の情報戦による権力闘��で、政敵の殺し合いが260年も続き、この争いは李氏朝鮮が消滅するまで尾を引きました。 ▶ 問い5目次へ
問い6 李氏朝鮮末期の状況について 17~19世紀の李氏朝鮮末期の悲惨な実態を記したものです。 農��の餓死が頻発し、貴族や官吏は農民から過酷に搾取し、その結果一部地域の人口は1600~1858年の258年間で減少気味で、道路や橋は放置され、山は禿山で、都市は悪臭が満ちて不潔で狭く、農民は働く意欲に欠け、奴婢は財物として扱われ、人々は身分制に縛られ、統治者は朋党を組んで権力闘争に明け暮れ、誰も国のことなど考えませんでした。 この状況を見たフランス人は著書で「朝鮮は併合されロシア領となるだろう」と記しました。 ▶ 問い6目次へ
問い7 朝鮮の近代化とその阻止 女真族によって建国された清国を野蛮国と看做し、朝鮮だけが唯一の文明国との思想に染まり、日本や西洋を夷狄として排除したことを記しました。 開化派は3回も朝鮮の近代化に取り組みましたが、その度に国王と保守派は彼らを殺害し、あるいは国外へ追いやりました。そして大韓帝国と改称し、1899年に大韓帝国皇帝の絶対的専制政体を宣告した大韓国国制を制定して近代化を封じたのです。 ▶ 問い7目次へ
問い8 朝鮮の変化について 日本統治により変化した朝鮮の実態を記しました。 重要な変化は、奴婢(奴隷)を開放し、良賤の身分制を解体し、朝鮮人が平等で自由に活動したことです。この他、餓死や搾取と身分制が無くなり安心して子供を産み育てる環境ができたので年平均人口増加率が過去1660年間に比して約15倍になり、軽蔑され無視され使用が禁止されていたハングル文字を4271校の小学校と1562校の簡易学校で教え、約30万戸の朝鮮人の商店と約4000社の朝鮮人経営の工場が建設されたことなど、25項目の変化を記しました。 これらの変化は、「日本は世界一過酷な植民地支配により朝鮮人を奴隷状態にして賠償に値する収奪行為を行った」結果であると言えるのでしょうか。 ▶ 問い8目次へ
問い9 日本の朝鮮からの撤退後について 日本が撤退時に残してきた有形物と無形なものを記し、注ぎ込んだ資金は現在価値で約122兆円+A+B+C+D円となることを示しました。 しかし、請求権問題を最終的に解決した日韓条約に従って、日本は韓国の国家予算の2.3倍ものお金を支払い、122兆円+A+B+C+D円の請求を韓国にしていません。 さらにODAとして現在の韓国の基礎施設を構築した113項目7,000億円(当時の価格で)以上の支援を行い、サムスンや浦項製鉄などの創業・発展期には要望に応じて日本の企業と銀行が技術と資金を惜しみなく提供しました。 ▶ 問い9目次へ
しかし、韓国は、反日を国是とし、解決済みの問題を掘り起こして、さらなる賠償と謝罪を要求しています。
このホームページは、「恩を仇で返す韓国の行為」の是非を問うものです。
▶ 全体の目次へ
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書籍『韓国の歴史を直視する』 このホームページの内容は『韓国の歴史を直視する』と題して出版されています。書籍でじっくり読まれたい方は、下記のサイト(幻冬舎ルネッサンス新社)より各購入ページにてご購入ください。
著者/徳田 克
ISBN/9784344931442
判型/A5・448ページ
出版年月日/2020.11.25.
価格/1500円+税
目次はこちら
韓国について世界の人々に問う
――日韓関係を見直す――
はじめに
私たちは、韓国のテレビドラマ『冬のソナタ』や『チャングム』を熱心に見て感動していました。ソウルオリンピックを成功させた韓国は近代化された国家として、道路も広く整備され、ビルも立ち並び、ソウルの中心部の綺麗な繁華街にはあらゆる商品が並び、食べ物も美味しく、産業の発展も素晴らしいものがあります。
そして秋にはソウルを少し出ると道端に白やピンクや赤色のコスモスの花が綺麗に咲いており、美しく優しい風景が嬉しくなり、韓国に好感を持っていました。
しかし残念なことにここ数年、韓国の反日活動はますます激しくなっているように思われます。そして韓国は日本を敵国であると思っているかのような感じさえします。韓国は「反日」を国是の如くしており、「親日」は犯罪であるかの如く非難を集中的に浴びせています。
その背景には、朝鮮を日本が併合した事は不法かつ不当であり、その間に日本がしたことは全て許せず、その痕跡もなくしたい感情があるように見受けられます。
しかし、いかなる国と国との関係であっても正常に交流することだけが、双方の国民にとって必要な大切なことです。両国民を幸せにする方法はいつまでも相手を攻撃し、謝罪と賠償を繰り返し要求し続けることではないと信じます。
良くても悪くても、好きでも嫌いでも過去は変更不可能です。過去に囚われて未来を犠牲にすべきではありません。
韓国が激しい反日の牙をむいてくると、日本人も戸惑い、やむなく自衛のために対応策を考えざるを得なくなります。このような状態は両国の将来にとって決しても好ましくありません。この現状から脱して両国の正常関係を構築するための活動を双方が開始すべきだと思います。
悪意や敵意は必ず反作用としての悪意や敵意を増幅して生み出します。憎悪や侮蔑はより強い憎悪や侮蔑となって跳ね返ってきます。攻撃はより大きな反撃を受ける危険性があります。
大切なことは、「隣人を愛せよ」との精神に則り、許し難いことも許し、認め難いことも認め、相互に相手を攻撃や批難することをやめ、相手の存在を認めて評価し尊重してこそ、真の良好な関係が生まれると信じています。
朝鮮をより良く理解するために、ここでは朝鮮の歴史を学び直し、日頃疑問に思っている事柄を率直に提示したいと思います。
この「問い」を通じて、今後の両国の人々の考え方や認識の相互理解を深め、違いは違いとして認めた上で、お互いの立場を理解して尊重することから、両国の関係を構築しなおす基礎が生まれてくると思います。
そして、正常な関係を構築することだけが、両国民が真に幸せになる唯一の方法であると信じています。
世界の人々に、この思いの是非を問う次第です。
日韓関係を見直す会
Tokuda Masaru
代表 徳田 克
CONTENTS
はじめに
問い1:朝鮮の始まりについて
問い2:統一新羅の成立と消滅について
問い3:高麗の建国と滅亡について
問い4:李氏朝鮮の建国と統治について
問い5:李氏朝鮮中期の状況について
問い6:李氏朝鮮末期の状況について
問い7:朝鮮の近代化とその阻止
問い8:朝鮮の変化について
問い9:日本の朝鮮から撤退後について
おわりに
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7. 名も無き国民の声 2020年03月18日 17:25 1256.11 文「燃えたよ…。まっ白に…燃えつきた…。まっ白な灰に…。」 8. 名も無き国民の声 2020年03月18日 17:26 kospiも1600割れたしグランドワロスも近いな 9. 名も無き国民の声 2020年03月18日 17:28 抜けた・・・完全に底抜けた 今日の対応策発表がトドメを刺したわ
/);`ω´)<国家総動員報 : ハゲタカ「逝け!!!!」韓国「逝くな!!!!」韓銀「最終防衛ラインKIKO線で防衛中(絶望」日本「1250突破!!!!」詰む→
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フランス ラ・アーグ 2012年 1京1600兆ベクレル/年の汚染水を海に放出 カナダ ブルース 2012年 1280兆ベクレル/年の汚染水を海に放出 福島 現在 20兆ベクレル/年の汚染水を海に放出 韓国 2012年 2京9230兆ベクレル/年の汚染水を海に放出
有象無象さんはTwitterを使っています: 「フランス ラ・アーグ 2012年 1京1600兆ベクレル/年の汚染水を海に放出 カナダ ブルース 2012年 1280兆ベクレル/年の汚染水を海に放出 福島 現在 20兆ベクレル/年の汚染水を海に放出 韓国 2012年 2京9230兆ベクレル/年の汚染水を海に放出 https://t.co/R8u2gKRpRO」 / Twitter https://twitter.com/marqlestat/status/1159679522599391233
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