#離郷の碑
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那珂川市五ケ山の新観音堂
前回投稿の「山神社・舟地蔵」から新しくなった国道を 300m ほど登って左折した場所です。五ケ山ダム(2018年3月竣工)の建設に伴って湖底に沈むことになった村内から遷された観音様や地蔵様が安置された新しいお堂です。
↓ 国道沿いのパーキングエリアから ~ この先、国道は大きくカーブして写真に写る高架の上を通ります。
その反対側を見ると谷の向こうにお堂が見えます。
お堂へはパーキングから 100m ほど登った辺りの脇道へ入ります。(左折)
↑↓ お堂付近から国道方向
↑ 国道方向は登り坂 ↓逆はだらだら下り坂が続きます。
「離郷の碑」(裏面)
五ヶ山の地名は5つの村があったからだそうです。そのひとつでしょうか「桑ノ河内郷」の位置が記されています。
観音堂(左)と小さめのお堂が並びます。
小さなお堂
弁財天様(左)と番神様(右)
観音堂は施錠されてました。
境内左側の石塔 ~ そばに立つイチョウはすっかり落葉。
↓ 猿田彦大神 ~ 観音堂前の階段に向かって右側で、祭壇は道側に出っぱってます。
↓ 下流・南畑ダム方向に下る脇道。
南畑ダムのパーキングエリア・グリーンピアなかがわ(休園中)入り口、国道につながってます。
2022.12.8 ~ つづく
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)3月15日(金曜日)弐
通巻第8176号
明日(3月16日)、北陸新幹線が金沢から敦賀へ延長
福井県は観光と経済活性化の期待に湧いている
*************************
北陸新幹線は日本海沿岸の糸魚川(新潟)から富山、金沢を通り、若狭と越前の境にある港町・敦賀まで延長される。『古志の国』の再現だ。
敦賀駅は新幹線駅で最高位の三階建て、駅前は商店街が整備され、あちこちに歴史的な遺物やら銅像、記念館がならんで観光客を待��受けている。気比神宮から金ケ崎城跡は後醍醐天皇の御代の激戦地、信長潰走のおりは明智光秀が鉄砲隊を組織してみごと殿軍を務めた。
松原海岸から南へ歩くと、水戸藩の武田耕雲斎以下の天狗党を祀る松原神社、このあたりに渤海使をむかえた迎賓館があった。敦賀は観光資源に恵まれているのである。
筆者、古代史最大のミステリーのひとつである応神天皇、そして継体天皇の取材を数年つづけているため何回も訪れてはいるが、訪れるたびごとに新しい発見がある。
記紀では応神天皇が武内宿弥に連れられて禊ぎに気比神社へ赴き、地元の神と名前を取り替えた。なぜ?
気比神社は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀るが、猿田彦と竹内宿彌もちゃんと祀られている。敦賀の応神を祀る神社のほぼすべてで、武内宿彌を祀っている。その謎を解明するために現地の稗史を調べているのです。
継体天皇は三国に育ち、坂井市にある『天皇宮』に大和朝廷からの使者、大伴金村と物部荒鹿火を迎えた。その近くには執務した高向宮跡がある。また謡曲「花かたみ」の舞台と想定されるのが越前市の「花かたみ公園」と味真野神社。そこから奥へぐんと這入り込むと五星(ごおう)神社がある。応神から継体までの五代をまつる神社だ。このあたりが「文室」(ふむろ)とよばれるのは継体天皇の学問所があったとされるからだ。
脱線すると能の��花かたみ』は各地の能舞台で演じられるが、ことしは3月17日に長野で催される。残念ながら筆者、先約とかさなって鑑賞に行けない。越前郊外の味真野神社境内には、この能を再現する継体天皇と越前妻とが並ぶふたりの銅像が建立されており、王冠は金で輝いていた(それにしても駅から遠いです)。
脱線すると雇ったタクシーは日産EV。『タクシーの電気自動車は初めて』というと運転手は「寒いから暖房を入れると電池の消耗がものすごい」と愚痴をこぼした。
新幹線のはなしに戻すと福井駅前には「ふくみち」として商店街が整備され、武生駅は従来線駅よりかなり遠い田圃の真ん中に「越前たけふ」駅が新装されていた。
沿線にはカメラマンがズラーリ、最後の従来線の車両と新幹線の一番列車を撮影しようと全国から鉄道ファンがあつまって壮観だった。彼らには応神、継体天皇に興味はない。
さて糸魚川、富山(射水)、伏木、倶利伽羅峠、加賀の小松、そして坂井市の称念寺、敦賀気比神宮と、それぞれに芭蕉の句碑が建立されている。『奥のほそみち』は『古志のほそ道』であったというのが筆者の持論である。(拙著『葬られた古代王朝・高志国と継体天皇』、宝島社新書を参照。古志は「高志」、または「越」とも書きます)。
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((( 演目事典より )))
越前国味真野(現在の福井県越前市味真野町周辺)に、応神天皇の子孫である大迹部(おおあとべ)皇子(男大迹皇子、男大迹邉皇子とも表記)が住んでいました。皇子は武烈天皇より皇位を譲られ、継体天皇(450~531)となり都へ旅立ちました。帝は味真野にて寵愛していた照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ:花籠のこと)を届けます。出先で使者を迎えた照日の前は、天皇の即位を喜びながらも、突然の別れに、寂しく悲しい気持ちを抑えられず、手紙と花籠を抱いて、自分の里に帰りました。
大和国玉穂の都(現在の奈良県桜井市池之内周辺)に遷都した継体天皇は、ある秋の日、警護に当たる官人らを引き連れて、紅葉見物にお出かけになりました。そこに照日の前と花籠を持った侍女が現れます。彼女は天皇への恋情が募るあまり、狂女となって故郷を飛��出し、都を目指して旅をしてきたのでした。狂女・照日の前が、帝の行列の前の方に飛びだすと、官人が狂女を押し止め、侍女の持つ花籠をはたき落します。照日の前はこれをとがめ、帝の愛用された花籠を打ち落とす者こそ狂っていると言い、帝に逢えない我が身の辛さに泣き伏してしまいます。
官人は帝の命令を受けて、照日の前に対し、帝の行列の前で狂い舞うように促します。照日の前は喜びの舞を舞った後、漢の武帝と李夫人との悲しい恋の顛末を物語りつつ、それとなく我が身に引き寄せて、帝への恋心を訴えます。
帝は、照日の前から花籠を受け取ってご覧になり、確かに自分が愛用した品だと確認し、狂気を離れれば、再び以前のように一緒になろうと伝えます。照日の前は、帝の深い情愛に感激し、正気に戻ります。この花筐以降、「かたみ」という言葉は、愛しい人の愛用の品という意味を持つようになったと伝えられています。かくして二人は、玉穂の都へ一緒に帰っていくのでした。
(( 以上ご参考までに )))
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2024年11月20日
原爆を見つめた2人の学長 広島大学で企画展「長田新と飯島宗一」(毎日新聞)
広島大の前身・広島文理科大で学長だった長田(おさだ)新(あらた)氏(1887~1961年)と、広島大第4代学長の飯島宗一氏(1922~2004年)。同郷で同窓、同じ大学の学長を務め、原爆がもたらした被害に熱心に向き合った2人の足跡を紹介する展示「信州から来た2人の学長、原爆を見つめる 長田新と飯島宗一」が、広島大医学部医学資料館(広島市南区)で開かれている。
「広島大学創立75+75周年記念事業」の一環。広島大は1949年創立で、最も古い前身校の白島学校が設立された1874年から数えると、2024年は150年の節目となる。前半の75年の学長を代表して長田氏、後半の75年では飯島氏を取り上げた。
2人とも長野県出身で、諏訪中学(現諏訪清陵高)の卒業生。その生涯を県民性や母校からひもとくと共に、広島との出会いや原爆との関わりを示すパネルや書籍などを展示している。
広島に原爆が投下された1945年8月6日、広島文理科大の教授だった教育学者の長田氏は自宅で被爆。同年12月から学長に就任し、大学の復興に努めた。その後、長田氏は広島で原爆を体験した子ども1175人の作文を集めて編集し、51年に手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」を出版した。105人分を収録し、序文で84人の作文を部分的に紹介している。
出版翌年の52年、作文を書いた子どもたちは「原爆の子友の会」を結成し、彼らをねぎらう集会も開かれた。展示では、当時作文を寄せた1人の早志(はやし)百合子さん(88)がその時の写真を提供し、教室に集まった子どもたちが長田氏から本を手渡されている様子や、集合写真などが並ぶ。
病理学者だった飯島氏は、米軍が接収していた被爆直後の解剖資料を返還させるなどした。69年に46歳の若さで広島大学長に就き、東広島市へのキャンパス移転など大学改革を主導。72年に発足した「広島大学原爆死没者慰霊行事委員会」の委員長を務め、74年8月には原爆死没者を追悼する碑を建立した。
被爆30年の75年には、大学の被爆状況や被爆、被災した学生・職員らの記録「生死の火 広島大学原爆被災誌」を刊行。飯島氏が広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)に寄贈したものを今回展示している。飯島氏は母校の名古屋大の学長も務めた。
展示を企画した原医研の久保田明子助教は「広島出身ではない2人が大学人として、広島の大学がどうあるべきか考え、原爆のことに尽力した。その功績と併せ、信州についても知ってもらえたらうれしい」と話している。
入場無料。12月25日まで、平日午前10時~午後4時。土日祝日休館。【根本佳奈】
「無人餃子」閉店ラッシュの中、なぜスーパーの冷凍餃子は“復権”できたのか(ITmedia ビジネスオンライン)
「盛者必衰の理をあらわす」とは、まさしくこのことだ。コロナ禍で日本全国に急増した「餃子無人販売店」の閉店ラッシュが続いている。
それを象徴するのが、���のカテゴリーを代表する「餃子の雪松」だ。2019年7月に無人店舗で冷凍餃子の販売をスタート。群馬県みなかみ町にある老舗中華食堂「雪松」の人気の味を再現した餃子は、「冷凍とは思えないおいしさ」との評判だった。
その結果、コロナ禍真っ只中の2022年には、全国400カ所以上への出店を実現。また、「2023年内に1000カ所を目指す」という経営陣の声も注目を集めた。
『マネー現代』が2024年6月に公式Webサイトで店舗数を数えたところによると、374店舗だったという。ところが11月17日時点で、同じく公式Webサイトでカウントしたら219店舗。2年前から半分ほどの規模にまで縮小してしまったのである。
実際、ネットやSNSではさまざまな地域で「近所の雪松がなくなってしまった」など閉店を惜しむ声が多く寄せられている。
さて、このような話を聞くと、「高級食パンと同じで最初は珍しいから飛びつくけれど結局、たくさん似たような店ができて飽きられちゃうんだよなあ」という感想を抱く人も多いだろう。
確かにそのような面もあるだろうが、個人的にはここまで苦戦を強いられているのは、「ライバル」に足を引っ張られていることも大きいと思っている。つまり、「無人餃子」ブームで客を奪われていた「スーパーで売っている冷凍餃子」が復権してきたのだ。
冷凍餃子の売り上げはパッとしない?
冷凍餃子最大手の味の素冷凍食品(以下:味の素、東京都中央区)の調べでは、2010年4月から2021年3月にかけて、市販用冷凍餃子売り上げ(金額ベース)は約2倍に伸長している。もともと冷凍餃子というものを世に出した味の素は大きなシェアを握っており、「大阪王将」で知られるイートアンドフーズ(東京都品川区)とともにツートップとして市場をけん引している。
ただ、伸長はしているが、ずっと順調に成長しているわけではない。2016~18年の3年は横ばいで、以下のような記事が出るように、王者・味の素もパッとしなかった。
『味の素、「冷凍ギョーザ」の販売が冴えないワケ』(東洋経済オンライン 2019年2月15日)
背景にはいろいろあるが、味の素が2012年に開発した「水なし・油なし」という調理方法が競合品でも当たり前になったことで、「似たような冷凍餃子」ばかりになってしまったことも大きい。
2018年7月には味の素のライバル、イートアンドフーズ運営の「大阪王将」が「水なし・油なし・フタなし」という画期的な冷凍餃子を世に送り出したことで市場は再び成長していくが、3年間の「隙」をつく形で新たなプレーヤーが参入してくる。「餃子無人販売店」だ。
コロナ禍で「無人餃子」が勢力を拡大、しかし……
火付け役の「餃子の雪松」も2018年9月に1号店を誕生させると、その味のクオリティーもさることながら、24時間いつでも購入できる便利さからじわじわとファンを増やし、それがコロナ禍のステイホームで大ブレーク。つまり、スーパーの冷凍餃子の成長が踊り場になった隙をついて、「無人餃子」が勢力を拡大していった、という構図だ。
それがここにきて「無人餃子」があからさまな苦境に陥っている。そのタイミングで、食品業界紙に以下のような記事が出るほど冷凍餃子が好調ならば、「客が奪われている」と見るべきではないか。
『【速報】味の素冷凍食品、「ギョーザ」復権し出足好調』(日本食糧新聞 2024年7月9日)
なぜここにきてスーパーの冷凍餃子は「復権」できたのか。一つは、最大手で業界をけん引している味の素が「顧客の声に真摯に向き合う」という普通の企業なら腰が引けてしまうことに乗り出したことが大きい。
スーパーの冷凍餃子をよくつくっている人なら分かると思うが、「水なし・油なし」さらに「フタなし」などと掲げている商品で説明書き通りにやっても、うまく焼けないことがある。焼きむらができ、底はパリっと焼けても上のほうがまだ凍っていたり、逆に火加減やフライパンによっては焦げ付いて、餃子の皮が取れてしまうなんてこともある。
このようなややネガティブな声、ストレートにいえば「文句」というものに対して普通、食品メーカーはあまりまともに取り合わない。調理環境など個々の事情が影響している場合もあるので、1つ1つ取り合ったらキリがないからだ。だから、「調理方法をもう一度よくご確認のうえ調理してください」などと当たり障りのない対応をしてお茶を濁すのが常だ。
味の素の戦略
しかし、味の素はこの「文句」に真正面から向き合った。「こちらでは何度やってもうまく焼けるのに、焼けない消費者がいることは、こちらが想定していない状況があるはずだ」ということで、冷凍餃子がうまく焼けなかったフライパンの提供をSNSで呼びかけたのである。
これが反響を呼び、なんと全国から3520個も届けられた。しかも、驚くのはここからだ。味の素はそれらを全て検証し、その結果を専用サイトに掲載したのである。
それからほどなくしてリニューアルした冷凍餃子がよく売れたことは言うまでもない。メーカーへの「文句」に対して、ここまで真摯に向き合って改良した餃子を食べてみたいと思うのは、消費者として自然な感情だ。
ちなみに、味の素がやったのは「マネジメント」で知られるピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)氏が言うところの「フィードバック」というものだ。
ドラッカーは、組織外からの情報を得て学習する「フィードバック」が機能している組織のマーケティングは、「セールスや宣伝をしなくても自然にモノが売れていく」状態になると説いた。味の素はドラッカー理論に基づいてマーケティングを成功に導いたのだ。
このように冷凍餃子市場をけん引する最大手が「顧客の声に真摯に向き合う」という範を示したことで、他のプレーヤーも刺激を受けたのか、「冷凍餃子の顧客満足度向上」に力を入れてきたことも大きい。
マルハニチロが14年ぶりにカムバック
分かりやすいのは、14年ぶりに冷凍餃子市場にカムバックしてきたマルハニチロ(東京都江東区)だ。
2024年7月に発売した「赤坂璃宮の餃子」は、その名の通り高級中華・赤坂離宮監修のもとで素材にこだわった高級餃子が「水なし・油なし」で手軽に調理できるというのが売りだ。
また、大阪の中華料理店から餃子の製造・販売メーカーとなった「餃子計画」が2024年9月から発売している「創業の味 生餃子 12個」も分かりやすい。
一般的なスーパーの冷凍餃子というのは、餡を皮で包んだ後に蒸してから冷凍する。しかし、この商品の場合は餡を皮で包んだ「生」のまま急速冷凍している。このような製法をすることで、具材の旨みや香りが抜けないという。
確かに、料理をする人は分かるだろうが、炒め物でも蒸し物でも、一度加熱したものを温め直すと味や香りが若干落ちる。そこで、熱を入れるのは最小限のほうがいいという発想である。
このような形で、各社がスーパーの冷凍餃子の質や顧客満足度を競い合うように上げていけば当然、市場は盛り上がる。そうなると、「これまで無人販売店で売っている餃子がおいしいと思って買ってたけど、スーパーで売っている冷凍餃子コー��ーも充実していいじゃん」という感じで、客がスーパーの冷凍餃子売り場に戻ってくるというワケだ。
「閉店ラッシュ」の要因は他にも
もちろん、「閉店ラッシュ」の要因はそれだけではない。コロナ禍で「24時間無人で餃子が買えるなんて面白い」と注目を集めた「強み」の部分が、近年の餃子ブームで「近場にある有名な店に行けば、どこでも冷凍餃子が買える」という状況になって、かすんでしまったこともある。
冷凍餃子は参入障壁が低い。イオンやライフといったスーパーのPB(プライベートブランド)はもちろん、大手コンビニ3社、無印良品などもオリジナル冷凍餃子を販売している。
極端な言い方をすれば「やる気さえあれば誰でも参入できる」ジャンルだ。実際、UFOやネッシーなどダイナミックなスクープが一面に踊ることで知られる『東京スポーツ』も、少し前に「東スポ餃子」という冷凍餃子の販売に乗り出している。
この動きは2024年に入ってからさらに加速しており、これまで冷凍餃子に無縁だったプレーヤーが「オリジナル冷凍餃子」の販売に乗り出している。
その代表が、ドラッグストア大手のウエルシア薬局(東京都千代田区)だ。同社初の冷凍食品として「黒豚をちゃんと感じる幸せの肉餃子」を2024年4月に発売。2023年に「ドラックストアにあったらうれしい食品」に関するアンケートを行ったところ、冷凍おかず、特に冷凍餃子を求める声が最多だったため、開発をスタートしたという。
百貨店なども参入
「閉店ラッシュ」に苦しむ百貨店も参入している。
広島県内で展開する老舗百貨店「福屋」(広島市)は、同じく広島県内で「広島カープ餃子」などを製造している井辻食産(広島県安芸高田市)とコラボして、消費者と一緒にアイデアを出し合いながら、広島県産の食材を用いた「カラダにやさしい餃子」を開発した。これを「広島新名物 餃子としあわせ」とネーミングして、オンラインショップや百貨店で2024年3月から販売している。
「町おこし」の世界でも冷凍餃子はアツい。草津温泉のある群馬県の草津観光公社では2024年7月、嬬恋高原キャベツなどの厳選食材をふんだんに使った「草津温泉餃子」を発売した。全国にある「道の駅」でも、オリジナルの冷凍餃子を販売している。
このような「どこでも誰でもオリジナル冷凍餃子」という社会状況になってしまうと、いくら群馬県の名店「雪松」の味を忠実に再現しても、無人店舗で24時間購入できたとしても、「馬群に沈む」ことになってしまうのは致し方ないのではないか。
これはスーパーの冷凍餃子にも同じことが言える。今は好調かもしれないが、ちょっとでも景気の良いところには「オレにも甘い汁を吸わせろ」と言わんばかりに新規参入が殺到して、すぐにレッドオーシャンになる、というのが最近の日本のパターンだ。
つまり近い将来、ビールメーカーが作ったこだわりの冷凍餃子とか、有名���ェフが監修した冷凍餃子なんてのが、スーパーの冷凍食品に並んで、壮絶なシェアの奪い合いが始まるのだ。
実際、この原稿を書いているとき、近くの「肉汁餃子のダンダダン」でランチをしたら、「鳥羽周作シェフ監修 究極の餃子定食」を展開していた。
もはや「国民食」というほど普及した餃子カテゴリーの中で、「おいしい」を訴求するのは当たり前だ。それ以外に、どうやって競合と異なる独自のカラーや強みを打ち出し、消費者の支持を得ていくのかは大きなテーマだ。
熾烈な生き残り争いに突入した冷凍餃子プレーヤーたちの次の一手に注目したい。
中井彰人(株式会社nakaja lab 代表取締役/流通アナリスト)見解 日本冷凍食品協会のR6年「冷凍食品の利用状況実態調査」によれば、冷凍食品を利用する機会が増えた理由のアンケート結果では、2024年と2020年の回答の変化が示されている。そこでは「おいしいと思う商品が増えたから」、「野菜など生鮮品の価格が上がったから」という回答が増えていて、中でも価格が上がったという答えが2倍以上に増えている。これでみると、おいしさとコスパが相対的に良くなったことで、スーパーで冷凍食品を選ぶ人が増えたことが背景にあることが伺える。多くの消費者にとって、食品の買物で価格上昇が最大の問題であり、賢く選択していくためには、冷凍食品のコスパがはずせなくなってきているということと解釈出来る。ただ、冷凍食品全体の需要が増えていても、無人餃子はコロナ禍における選択であり、制約がなくなり、かつ、スーパーなどでの選択肢が増えている中では、減少するのはやむを得ないのだろう。
西川立一(ラディック代表/流通ジャーナリスト/マーケティングプランナー)補足 餃子の無人販売店や自販機は、物珍しさで消費者が飛びつき、媒体がこぞって取り上げSNSなどで拡散しブームとなったが、出店戦略やマーケティングを駆使した事業展開ではなかったことから���ブームが沈静化すれば淘汰されるのは当然の結果。
それに対して冷凍のスーパーの販路においては、有力メーカーの商品開発力とマーケティングにより巨大な定番市場を形成している。
その一方で、こだわりやプレミアムのアイテムの商品開発も行われ、それぞれ棲み分けがなされ、市場は活性化している。
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風月句会
2024年8月18日
於:多摩市民館第五会議室 写真:柴田貴薫
坊城俊樹選 栗林圭魚選
坊城俊樹選 特選句
坊城俊樹選 特選句
枡形の黒門渡る送り南風 幸風 白雲の刷毛遣ひよく秋に入る 軽象 弁慶の骨組みあがる倭武多小屋 経彦 山寺の奥の奥なる桐一葉 秋尚 的れきの花天に向け烏瓜 幸風 隠沼の微かに饐えて秋に入る 軽象
坊城俊樹選 並選句
女坂飛蝗食みをる葉をよけて 慶月 苔茂る水瓶澄みて銅鑼の音 文英 古民家に故郷の匂ひ黴の壁 経彦 艶歌聴き魚定食終戦の日 亜栄子 森晩夏親しき人のたましひと 幸子 しづけさの箔の重なり秋の蝉 千種 水音に引き寄せられて秋暑し 亜栄子 天の川遠く去りたる人恋ひし れい 秋の蝉途切れ途切れに声つなぐ 秋尚 隧道をよき風抜けて赤のまま 久子 句碑の辺をすっきりさせて涼新た 文英 桐一葉落ちて享年確かむる 千種 父彫りし石灯籠に盆の燭 経彦 秋暑し筧の水に手を濯ぐ 久子 母子地蔵見守るがごと百日紅 貴薫 蟷螂の己が肢を舐む真昼かな 久子 台風の割り込んで来し予定表 三無 供華枯るる寺囲ふかに秋の蝉 貴薫 山城跡ひとり登りて秋の人 秋尚 秋暑や岡本太郎ここにあり 軽象 灼熱を吸い込んでゐるカンナの緋 亜栄子 葉隠に処暑の一水奔りたる 千種 墨の香の濃くやはらかく施餓鬼寺 三無 閼伽桶のひっそり乾き盆のあと 貴薫
栗林圭魚選 特選句
栗林圭魚選 特選句
人気なくただ秋蟬の鳴ける寺 貴薫 萩の枝大きく撓り年尾句碑 文英 隧道をよき風抜けて赤のまま 久子 暗がりの守れる句碑や秋の声 千種 寄せ墓の一基盆花枯れずあり 久子 墨の香の濃くやはらかく施餓鬼寺 三無
栗林圭魚選 並選句
桐一葉続けて一葉陽子墓碑 三無 紫の供華鮮やかに秋涼し 秋尚 古民家に故郷の匂ひ黴の壁 経彦 新涼やメタセコイアは風生みて 三無 雨雲の近づく気配葛の花 貴薫 森晩夏親しき人のたましひと 幸子 白粉花の紅せり出せる句碑の路 慶月 山寺の奥の奥なる桐一葉 秋尚 初秋や太郎抱かるる母の塔 三無 旅に出る友や朝顔色明か 貴薫 此処に多摩横山の真葛原 文英 葛の花覆ひ病院跡さびし 慶月 おしろいや三毛猫するり通り過ぐ 貴薫 桐一葉落ちて享年確かむる 千種 香煙の一穂たてり霊祭 幸風 木を覆ひ垣乗り越えて葛かずら 秋尚 秋の蝉城主の墓へ啼き尽くす 慶月 父彫りし石灯籠に盆の燭 経彦 蟻はらふベンチにとどく水の音 幸子 秋暑し筧の水に手を濯ぐ 久子 母子地蔵見守るがごと百日紅 貴薫 蟷螂の己が肢を舐む真昼かな 久子 台風の割り込んで来し予定表 三無 はだかの子ふくのままの子噴水に 幸子 陽子忌へ竜胆さやか捧げられ 慶月 みぞそばの蕾あつまる雨意の濃し 千種 隠沼の微かに饐えて秋に入る 軽象 灼熱を吸い込んでゐるカンナの緋 亜栄子 噴水やひくき半円十条ほど 幸子 秋草となりて風呼ぶしなやかに 秋尚 葉隠に処暑の一水奔りたる 千種 特攻の叔父の墓参や訪ふ離島 経彦
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【〈千年村〉研究ゼミ】 前期活動報告⑹〜韓国調査篇
韓国千年村調査3日目(8月23日)
中谷研究室学部4年の小谷さくらです。韓国調査3日目の様子をお伝えします! 今日からいよいよ千年村比定地の集落調査が始まります~
<8月23日のスケジュール> 09:00 燕山郡燕岐県 調査 10:30 比豊郡赤鳥県 調査 12:00 昼食 13:00 熊津山城 見学 14:00 扶餘郡悦城県① 調査 15:30 扶餘郡悦城県② 調査 16:00 国立扶餘博物館 18:00 ロッテリゾートホテル到着 19:30 夕食 / 調査の振り返り
7時15分に起床。3日目ともなると朝の準備も手早く終えられるようになります。
ホテル内のレストランで朝食をとり、8時にバスに乗りこんで調査に向かいます~!
9:00- 燕山郡燕岐県 集落調査
図1 燕岐郷校(撮影:2024/08/23 碓井颯)
朝一番で韓国初の集落、燕山郡燕岐県にて調査です!
山と河川に挟まれ、まさに背山臨水の地形に展開されたその集落には李氏朝鮮時代に儒教の学校として各郷に置かれていた郷校がありました。
門が閉まっていて入ることはできませんが、威厳のある朱色の門と立派な建造物は、当時の人々が儒教教育を大変重要視していたことが分かります。 門は3つの扉から構成されていますが、向かって右が入口、左が出口、そして真ん中は祖先や先代の先生方などが通る扉として普段は閉め切られ、祭事などの際に開かれるようです。
燕岐郷校を基点に3グループほどに分かれて集落調査を行いました。
途中で幼稚園に出会ったのですが、石垣を模した塀で囲まれていま��た。昔ながらの韓国住宅は石垣で囲われていますから、石垣が韓国建築におけるアイデンティティであるという意識がある程度現地の方々の中にあるのではないかと推測してみたり、、 ちなみにこの塀のデザインは、この後様々な集落や都市で目にすることになるので次第に慣れていくのですが、普遍的であることに気づく前の自由な想像も楽しいものですね!
図2 幼稚園の石垣(撮影:2024/08/23 小谷さくら)
少し経って、幼稚園から西北方向へ同行していただいた早稲田大学文学部の植田先生と韓先生が、これは寺院ではないかと立ち止まられたのです。しかし私たちの目には民家にしか見えません。しかしよく見ると神社の屋根に確かに「卍」がありました。事前調査でもこの場所に寺院があると記されています。
図3 100年の歴史を持つ寺院(撮影:2024/08/23 戸田剣) 日本でよく目にするような建物ではなく、人々が日常生活の中で気軽に足を運べそうですね!
偶然お坊さんらしき方が通ったので聞いてみたところ、この建物はなんと100年ほどの歴史を持つようです。
寺院付近の住宅は比較的新しいものが多く、道もまっすぐ整理されているので近年形成された住宅地だと推測できます。 玄関扉に以下のような煌びやかな装飾が施されている家が多くありました。先生方によるとこのデザインは近年の流行りだそうです(^^)
図4 新興住宅の玄関扉(撮影:2024/08/23 小谷さくら)
大通り沿いは郷校や寺院の周辺とは異なり、陸屋根の民家や3,4階建てのアパートばかりでした。陸屋根は60年代にブームとなりましたが、結局雨漏りなど不備が多くさらに切妻屋根をかけているそうで、、
図5 大通り沿いの景観(撮影:2024/08/23 戸田剣)
また、村(マウル)の入り口を示す石碑が2つほど見つかったため、少なくとも二つ以上の村が集落内に存在していることが分かります。石碑がつくられた年代にばらつきがあり、一斉に造られたわけではなさそうです。
図6 村の入り口を示す石碑(撮影:2024/08/23 口石直道)
10:30- 比豊郡赤鳥県 調査 小学校の北側の山際に展開された集落です。一つ目の集落と同様に私は植田先生と韓先生とご一緒させていただいておりました。
お二人が東屋で立ち止まって何やらお話されていたのでどうも気になるのですが学生はとりあえず歩いてみようということで、航空写真で発見できた集落の境のため池まで歩くことにしました。
日本の千年村調査あるあるとして犬に吠��られるということがありますが韓国でもそれは変わらないようです。犬の良く吠える村は良い村だと先生がおっしゃっていたのでまあいいかと思いながら歩みを進めていると時折り古い蔵があったり、集落の端には樹齢年の大樹を発 見したり。
図7 民家の様子(撮影:2024/08/23 戸田剣)
図8 村の端に位置する大樹(撮影:2024/08/23 小谷さくら)
時間になってしまったので急いでバスへ戻ると、植田先生と韓先生が比定のデーターベースが間違っていたとおっしゃっていました。すべてを信用できる���ータというのはないものですね。
韓国千年村研究、なかなかに道のりは険しい、、、(T_T)
燕山郡燕岐県の集落をあとにして次なる目的地、熊津山城へ向かいます。
12:00- 昼食
正午を回っていたので熊津山城のふもとで昼食をとることに。韓先生も以前いらしたことのあるお店だそう。前菜が8種類ほどテーブルに並び、いざ食べようと思いきや前菜の後にメイン料理がくるそうでそのボリュームに日本勢は圧倒されてしまいました笑メイン料理は白身魚と緑茶のお茶漬け。和食と変わらないように思えますが、中には味付けが独特なものも。
図9 昼食のお茶漬け(撮影:2024/08/23 碓井颯)
12:30- 熊津山城 たらふく食べてエネルギー補給をしたのでいよいよ熊津山城へ。
前日に見学した上党山城とは異なり、山の頂上を囲むような形で築かれた山城です。
図10 下から見上げた熊津山城(撮影:2024/08/23 小谷さくら)
頂上には王宮址だとされる発掘現場があり、ふもとから見上げた山城の姿と王宮址から眼下に臨める景観は、当時の山城の威厳を十分に想像し得るものでありました。
14:00- 扶餘郡悦城県① 集落調査 熊津山城を後にして本日3回目の集落調査へ。 牛小屋やため池、寺院を示す標識など様々な構造物を発見。しかしそれらのつながりや村の構造をいまいち掴めないという声があがりました。
図11 集落の景観(撮影:2024/08/23 碓井颯)
千年村ではないのだろうか、、少し気を落としながらバスの停車の場所まで歩いていきましたが、バスが停車する前の村役場に集っていた地域の方から暑いからと招き入れていただき飲み物や村史をいただきました。現地の人々の暖かさを体験できました(^-^)
図12 村役場でおもてなしを受けている調査メンバー(撮影:2024/08/23 碓井颯)
15:00- 扶餘郡悦城県② 調査 その後、協議をした上で直ぐ近くに位置する郷校のある集落に向かうことになりました。ここでも郷校を基点に集落を調査しました。
しかし、1番初めに向かった集落より規模が小さく、山と大通りの距離が短かったのでより近代化がみられる集落でした。
図13 郷校の横にそびえたつ大樹(撮影:2024/08/23 小谷さくら)
郷校から少し登ったところには古い家が多くありました。
図14 郷校に近い民家(撮影:2024/08/23 戸田剣)
郷校の隣には現在の小学校が建てられており、この位置関係は様々な集落で普遍的にみられるようです。
図15 郷校の隣に建てられた小学校(撮影:2024/08/23 戸田剣)
郷校の横には樹齢年ほどの大樹が位置��ていて、関係性が考察できました。大樹の先にはお墓が位置していて、典型的な韓国集落の構成要素が実際にどのように配置されているかを体験できた集落でした。
扶余邑を走るバスの車窓からは、広大な錦江の景観が臨めました!川幅はもちろんのこと、河川敷のスケールも日本とは大違いで思わず見惚れてしまいました。
図16 車窓から臨む錦江(撮影:2024/08/23 碓氷創平)
16:00- 国立扶餘博物館 国立扶餘博物館に到着し、解説を聞きながら鑑賞しました。扶余で出土し、韓国の国宝として各地で様々なモチーフに使用されている「百済金剛大香炉」も目にすることができました。
当時の人が残したものを見るだけでもその技術や使われ方にまで想いを馳せれば当時の生活景を鮮やかに思い描くことができますね。
図16 百済金剛大香炉(撮影:2024/08/23 口石直道)
18:00- ロッテリゾートホテル扶余
博物館を後にして、本日の宿泊場所へ。ロッテリゾートホテル扶余は今回の調査に同行していただいているguga都市建築の趙先生が設計されています!
図17 ロッテリゾートホテル扶余(撮影:2024/08/23 碓井颯)
19:30にホテルの地下にあるフードコートで調査チーム全員で夕食を食べながら今日の調査の振り返りをしました。
同行していただいた先生方から様々なご意見、アドバイスをいただき、明日以降の調査の方針、そして今後の韓国千年村の在り方について再考する機会となりました。
夕食後、部屋に戻って韓先生に絵地図の見方を教えていただきました!(^^)
日記を書いたり、調査資料を修正したり、コインランドリーに奔走したりしているとあれもうこんな時間?となり、あたふたと3日目が終わっていきました。
以上、韓国調査3日目、8月23日の日記でした!
明日は今日の反省を生かして引き続き集落調査です!4日目となろうともやはり異国の地です。目に映るものは何もかもが新鮮です。
待ち構えているであろう新たな発見が楽しみですね!
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貉の郵便配達
次もやはり平瀬麦雨氏の報告。「郷土研究」四巻十号に掲載された。
長野県東筑摩郡島内村の役場では、この冬の深夜も貉の郵便配達に何度も起こされたそうだ。 それはここ二、三年、続いていることだという。 戸を叩く音は宿直している書記にも聞こえる。 しかし「郵便、郵便」という大声は老使丁にしか聞こえないらしい。 老使丁はその都度、戸を開けて外を見て「畜生またやられた」と呟く。 この悪戯貉はそこから二丁ばかり離れた小学校の縁の下に棲んでいるという噂だ。 今、この記事を書いている十二月七日午後九時にも、隣家の裏の樹上と小学校あたりとで二匹の貉が哀しげな声で交互に鳴き交わしている。 こいつらが本当に化けるのかどうかは私は知らない。 しかし、村人たちは別に怖がりもせず、大入道に遭った��だの、転がる火の玉の見た、だのと私に話すとき、それらはすべてこの貉の仕業だ、と付け加えるのである。
(小池直太郎『小谷口碑集』 「貉の怪異」)
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昨日ちょうどDMで友だちと わし「1次避難は端折って2次避難に力を入れるんでしょう」 友「能登の人は動かないかもよ」 というやりとりをしていた所でした。 県も悪しかれと考えて立案するわけはないが、能登は昨日ツイートで述べた通り「百姓の持ちたる国」の伝統に誇りと郷土愛を持つ土地柄で、「土地柄」という言葉で判るとおり、日本のコミュニティは、その集落がある土地と密接に結び付いていることを、むかし、日本にいたときに、明治の弾圧を生き延びた「鎮守の森」を巡って歩いたときに学びました。 里山から離されて、いわば丸裸にされた人間の集団だけの「コミュニティ」の脆さ、心の拠り所のなさは、国策で、長野県佐久郡→満洲吉林省→長野県軽井沢町大日向と移転を余儀なくされた有名な大日向村の例がよく示している。 笑われてしまうが、軽井沢の昭和天皇の大日向行幸碑を不思議におもったのを発端に、大日向村の歴史を知って、夏の家と称していた別荘を出てクルマで15分くらいの大日向を訪問したことがあります。 遙か向こうの、向かいに見える佐久の山の麓にあるのがもともとの大日向村と里山だと知って、敗れた国の満洲開拓団として、開墾の術もないような荒れ地の場所を選んだ、その心根の切なさに涙ぐんでしまったことがある。 合理主義は人間の心を掬わない。 指のあいだから水がこぼれてゆくように、人間の感情はこぼれていってしまう。 自治体には、せめて2次避難の指示に従って、自分たちが「よそもの」になる土地に引っ越していかざるをえないひとたちの気持ちを理解してほしいと希います。 人間にとって大切なものであればあるほど、紙の上で等価な交換であるものが、魂において等価であることは少ない。 あるひとびとにとっては魂の死の宣告に等しいことを国や県のひとびとが、ちゃんと理解していることを祈ってます。
XユーザーのJames F. ガメ・オベールさん
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二階俊博という政治屋
二階俊博 東シナ海の資源開発で、中国の横暴を黙認した”江沢民の傭兵”
いつの頃からか河野洋平を「江の傭兵」と呼び変えて中国のポチぶりを揶揄することがネット上で目立つようになった。 河野の中国迎合ぶりは徹底している、年季が入っている。しかし、本当の意味で「江の傭兵」なのは、むしろ二階俊博(国会対策委員長)ではなかろうか、というのが私の感想である。二階は売国奴。 媚中派と罵られても、ひたすら江沢民前国家主席個人に忠誠を励み、文字通り「江の傭兵」となった政治家だからである。
「江沢民記念碑」建設未遂事件
忠誠ぶりは露骨なものだった。まず、江沢民の石碑建設事件である。場所は和歌山県��辺市。黒潮に面したこの町に、江沢民国家主席の石碑を建設したいと 、「和歌山県日中友好交流推進協議会」から市当局に要請があったのは、〇二年八月のことである。中国山東省の石を使って、高さ四メートルもの「日中国交正常化30周年記念碑」を建設し、そこに江沢民の書いた「登高望遠睦隣友好」の文字と重要講話を刻もうというものだった。 この事が明らかになると、市民の間から不満と反対の声が噴出。「 反日政治家江沢民の記念碑などなぜ作る必要があるのか」といった声に押されて、結局、建設は中止になった。この計画の裏にいたのが地元選出の二階俊博だった。 記念碑建設の計画は、そもそも二〇〇〇年に二階が運輸大臣(当時保守党所属)として五〇〇〇人もの訪問団を結成して中国を訪れ、その後に決まったものだった。 「江沢民はちやほやされることが大好きで彼の生まれ故郷の揚州にも、自分の記念館を建設させている」 件の訪問団も江のご機嫌とりだけが目的だったと、ある政界関係者は見ている。 98年の光沢民の来日は悪評プンプンで日本人のアンチ中国感情を刺激するだけに終わってしまった。 面子を潰された江沢民に「日中文化観光交流使節団」と称して五〇〇〇人もの日本人を訪中させて、会見させることで、自分の売り込みを狙ったんですよ。 参加者には二階の後援会関係者も少なくなく、渡航費用も、ほとんどの人が自腹を切っていたらしい。なにしろ五〇〇〇人である。数が数だけに、宿泊先も中心街から離れた不便な場所のホテルを利用せざるをえずクレーム続出のツアーだったようだ。
公的年金で建てた施設を江沢民ラインの政商に売却
江沢民へのサービスはまたある。 舞台はまたしても二階の地元和歌山県。 しかも公的年金で建設され、赤字を垂れ流していたことで批判を浴びた保養施設「グリーンピア南紀」の売却先が問題となった。 そもそもグリーンピアは全国十三カ所にあったが、 〇一年、特殊法人の整理事業にともなって全施設の廃止が決まり(現在は地方自治体などに譲渡)、閉鎖されていたグリーンピア南紀(和歌山県那智勝浦町)の売却話に二階の名前が浮上したのである。 グリーンピア南紀の再建を請け負うと申し入れたのは香港のリゾート会社「香港 BOAO」で当初は五七億円をかけてリニューアルすることに決まっていたものの、突如として同社の蒋暁松会長が計画見直しを明かしたことで、疑問と批判の声が噴出。 調査の結果、公募もせずに売却先が決定され、また 蒋を地元に紹介したのは二階だったということが事実が明るみに出た。 実は 蒋会長は、 中国最南の島・海南島開発にも関わっている「政商」で江沢民とのつ���がりが深い人物である。 二階に江沢民を紹介したキーマンとも噂されている。 二〇〇〇年、 江沢民は海南島で中国版国際会議「ボアオ会議」を招請し、初代のホストを務めているが、その関係から海南島開発については強い発言力を持っていた。( 蒋の会社「BOAO」はここから名づけられた)。 蒋と江沢民のつながりは、 蒋が日中両外務省の諮問団体「 日中友好21世紀委員会」の中国側代表のひとりだということからもわかる。 つまり彼は、単なるビジネスマンではなく半公的セクションの人間でもあったのだ。 「21世紀委員会」のメンバーには常に時の政権トップの息のかかった人物が加わっていることで知られ、中国政府系関係者とは別に、「民間人」の?だけが江沢民サイドの強い意向で、メンバーに選ばれたという経緯があった。つまり二階は江沢民の息のかかった政商に日本の年金保険料で建設された保養施設を公開入札もなく、売却しようとしたのである。 施設の譲渡先がなかったわけではない。大学や福祉団体など二十ヵ所からの申し出があったからだ。グリーンピア南紀は結局、地元那智勝浦町に譲渡されたが、石碑の建設、江沢民の政商への国有資産の売却と、二階の江沢民に対するなりふり構わない媚びの売りようは、あまりにも露骨だった。
東シナ海の資源開発で、中国の暴挙を黙殺した大臣
二階の一連のパフォーマンスに苦虫を噛み潰す中国関係者がいる。 「やり方が露骨で、スマートではない。利益供与のカラクリが簡単に外から見えてしまう 」 また赤裸々な”江沢民愛”について、政界筋はこう推測している。 「彼は自民党から新進党、保守党へと移り自民党に復党するといった具合に、政界を遊泳してきた政治家です。それだけに、復党した自民党の中でも反発する連中は多いし、大派閥の実力者でもない。亡くなった竹下登元首相の中国利権を引き継ごうと必死になって中国の最高実力者に接近してヨイショしたこれが真相ではないのか」 江沢民から胡錦濤やと中国の顔が変わっても彼の忠誠心は変わらない。 二階は第三次小泉内閣で経済産業大臣となったが、大臣就任直後、東シナ海の日中中間線における資源採掘(ガス田)について言及し、中川昭一前大臣が進めた採掘開始の動きを激しく批判した。二階大臣は、結局この問題を放置し、その結果、中国の一方的な資源開発を許す事態を招き寄せてしまった。中国の推進する「東アジア経済協力」にも前向きで対中ODA支援にも積極的である。 かように二階俊博とは実に分かりやすい政治家なのである。
別冊宝島Real 「中国の黒いワナ」 2007年9月9日発行 自公政権「媚中派政治家」列伝-p54- 青木直人
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次世代へつなぐ・わがまち榎本へのエール
※ふれあいえのもと通信39号(9/26発行)掲載
楽生会会長座談会 2020.8.5(榎本福祉会館)
平均年齢は80 歳越え。榎本地域を支える続ける楽生会(老人会)の 4 人の会長さんにお話をお聞きしました!
◯さて榎本、いかがです? 〈‥ということでゆるゆるとプロローグ〉
濱田: 放出に生まれ、放出で育ち88 年。戦争の一番厳しい昭和18 年に卒業した榎本小の卒業生は250人。今も同窓会は続いていて、昨年は11人。今年はどうかな。
脇田: そやな‥小学校の思い出といえば、消防署を折り返してのマラソン大会。大きな建物もないから見渡せたし、ズルのしようもなかったな。
境: 放出に高層マンションが建ち始めた頃、この地に。東京オリンピックの頃には東京に、万博の頃には吹田住まい。ずっとサラリーマン生活で子どものPTAにも係ることもなく、楽生会が地域活動の始まり。
坂東: 大阪は仮の住まい、老後は徳島に帰るつもりで。しかし折角建てた故郷の屋敷も30 年間両親が住んだ後は空いたまま。広すぎて売りたくとも売れず‥。
◯ズバリ、榎本の魅力は?〈理由はわからんが何となく住みよい〉
濱田:寺が2つに神社が1つ。長い歴史財産をもつ放出。ずっとこの地で鉄工所をしてきたが、70 歳で車も仕事も全部卒業。11 年前に家内に先立たれたが、娘も息子も放出住まい。まだまだ百まで住みますよ。
脇田:サラリーマン時代、転勤になるかなとも思っていたが、私がどこかに行こうと家族はここに住み続けると。便利やしね。特に娘には住心地良過ぎたかも(笑)
坂東:子ども3 人が榎本小、今津中と通ううち、家内が様々な活動に参加、榎本でネットワークができ、そして手芸クラブを立ち上げ定住。
境:転勤を重ねてきたが、ここに来て住まいを購入。もう動かないと覚悟を決めたのは、やはりその居心地の良さでしょう。
◯マイブームを教えて下さい〈次は八十の手習いやな、何しよう〉
坂東:60 過ぎて子どもの勧めで夫婦でパソコンを。家内は指一本打ちで株を始め、亡くなるまで1 日1回はパソコンに向かっていたね。私は独学でCAD を習得。設計が好きなんでCAD なら精密な線引きができるし、酒も飲まんのでパソコンで遊んでいます。
境:津軽三味線を始め30 余年、この10 年ほどは鶴見区の小ホールで月に2 回、民謡の講習会を(現在は休止中)。民謡で人の役に立てればいいなと。
濱田:放出は古くは水害の多いところ。児童公園の大きな石碑にも大橋房太郎さんの治水の偉業が記されてますな。
坂東:そのお陰もあってか、大阪っていうか、ここらは豪雨災害も少ないね。また大雨が降っても今津公園のポンプが作動するとみるみる引いていく。
脇田:それでも昔は雨降ったら、床下まではよく水に浸かっとったな。地震に台風、コロナも予想外の災害やね。
◯自粛期間はどのように?〈地域のイベントは引きこもりがちな高齢者を誘ういい機会〉
境: 1 年に20 や30 は演奏活動をしていたけど今は中止。教室も休止中。飲みに行くのも自粛中(笑)
坂東: コロナ以前から、特に男のひとり暮らしは外へ出てこない。年寄りが増えているのに、楽生会は減る一方。私自身50 歳になって町会の班長になり、地域に係わり始めて30 年。その頃に出そびれると、いよいよ億劫になるのかな。まつりや行事があると声かけて出る機会も作れるが‥。
脇田: 百歳体操なんかも中止で、みんな家でじっとしてどうにかならんかなと心配。卓球は再開したが、みんなで集まってできることはないかなと考えている。今年は盆踊りもないしな。
◯ご家族のお話をお聞きしたいです〈元気の秘訣はやはり家族愛〉
境: 生家は製材業。兄弟は中学校卒業したら家業に勤めていた。私は林業試験場で技術を身に着け、28 歳の時、結婚して故郷を離れ東京へ。運輸会社でトラックの運転をしていたが大阪の営業所開設とともに転勤。35 歳過ぎて経理を習い、真面目が取り柄で勤めてきました。え、今?あはは。
坂東: 最近はずっと家内の病院へ行くのが日課のようになっていたが‥いくつもの病院へ出向き、夜間の付き添いも。車は特別仕様(接近アラーム付)ですが、今はキーも取り上げられて(笑)。初盆を迎え、老後の資金計画を含め、様々な面で家内には感謝しかない。また葬儀の参列者の多さに地域との関わりの厚さをあらためて実感。娘たちにも地域とのつながりの大切さが伝わった。「私らも出来ることはせなあかんな」との感想は嬉しい。
◯児童の見守り活動も15 年〈声かけてくれるのは嬉しいな〉
脇田:馴染みの子どもも増えて、中学生や高校生も挨拶してくれるのは、長く見守り活動が続いている証拠かな。こっちからの声掛けは難しい世の中やけど、普段でも声かけてくれるのは嬉しいな。
境:見守り活動が始まった頃の子らが働きはじめて、年金を払う歳に差し掛かってる。回りまわって助けてもらってるんかもね。
脇田・坂東:昔の子どもいうたら、上が下を見るのは当たり前。それが自然につながってゆく。夕方遅くなっても、親も「どっかで遊んでんねんやろ」ぐらいにしか思ってない。親の言うことは聞かんでも年長の子が世話してたな。今は子どもも忙しいし、自由もなくてかわいそうやな。
◯今後の楽生会は?〈なんとか次へと繋げたい〉
脇田:鶴見区でも老人会は3 分の1 ぐらいに。大方は会長の引き継ぎが難しく潰れてゆく。本人は元気でも奥さんが認知症になったり介護が必要になったりと。榎本も役員の後継でそれぞれ苦労している。歳を重ねるごとに、頼みに来られた前会長の想いが分かってきた。
◯榎本へのエールを!〈これからも地域のために〉
濱田:「奉仕」という気持ちを忘れたらあきません。そしてまだまだ地域のためにがんばりたい。
坂東:地域のためにと手伝ってきた事は間違ってなかった。身体が続く限り、楽生会のために尽くしたい。
境:地域との関係をできるだけ密にして、自分に出来ることが、少しでも人の役に立てばと願っている。
脇田:会議以外で、地域でこんな風に喋ったことはない。たまにはこんな時間もええな。
本年度は敬老慰安大会の開催も見合わされました。 マスクを外し自由に語り合い外出できる日常が1日でも早く戻ります様に。 和やかな時が流れ、癒やしの空気に満ちたこの日。 地域の先輩の皆さまに心より感謝いたします。
脇田 広志 さん(榎本在住77 年)榎本・放出出身 NPO 法人理事会監事・榎本第3楽生会会長(2018 年楽生会会長就任) 一番の若手!
濱田 照雄さん(榎本在住88 年)榎本・放出出身 榎本第1 楽生会会長、放出の歴史地域・中高野街道が南北に走る2町会
坂東 尚さん(榎本在住50 年)徳島県吉野川市出身 榎本第2 楽生会会長。電気設備設計士。60 歳から独学でCAD 習得。
境 傳(つとう) さん(榎本在住46 年)岩手県東磐井郡出身 榎本第4楽生会会長。50 の手習いで津軽三味線を。 日本民謡鶴見区連合会事務局長他
楽生会〜楽しく前向きに生きていこう〜
「カラオケ ・ 健康体操 ・ グランドゴルフ」の3つの部会を作り、年間行事としては歩こう会、菖蒲・紅葉・梅の花に誘われての行楽会などがあります。 平成17年より 子どもみまもり隊 を組織して週1回木曜日安全な下校を目指して12箇所に立ち、子どもに声を掛けています。 60歳以上で榎本校区に居住される方は入会できます。
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20200906
雑記(母の白滝、河口浅間神社、ベアフットシューズ)
母の白滝。河口湖北岸にある河口浅間神社の境内を抜けて寺川の沢沿いに三つ峠登山道を20分程登ると上流部に父の白滝とその下流に母の白滝がある。
この河口浅間神社の参道の杉並木は樹齢800年余り。幹周り7m、樹高45mの巨木が11本並んでいる。
今から1200年程前の平安時代前期、貞観(じょうがん)6年(西暦864年)に大噴火を起こした富士山を鎮める為に建立された。貞観大噴火の溶岩流の上に出来た森が現在の青木ヶ原樹海である。またかつては剗の海(せのうみ)と呼ばれる巨大な湖が存在していたが西湖や精進湖を残し大半がこの時の溶岩によって埋まってしまった。
貞観大噴火の約5年後の貞観11年(869年)には東北で貞観地震が起こったが、この地震は震源の場所など東日本大震災と多くの類似性が指摘されており東日本大震災が1000年に一度の地震と言われる由縁となっている。
地元では中国は秦の時代に渡来したと言われる徐福の伝説があり、この参道のど真ん中に何故か徐福を祀る波多志神社なる祠が鎮座している。
当時の秦朝はシルクロードを介した国際色の豊かな国家であり現在の漢民族や東アジア的な中国のイメージとは趣きを異にしたのではないか。また徐福を含め渡来した秦(はた)氏は景教(古代キリスト教ネストリウス派)のユダヤ人だったという説がある。
機織(はたおり)というようにこの秦氏は養蚕を伝えたといわれ、この河口湖北岸地域や富士山麓一帯はガチャマン(織機をガチャンと織れば一万円儲かるの意)と言われる程に絹織物で大いに栄えた。
私の感覚でこの地域にはアイヌや縄文系ともまた違う中東や中央アジア、西洋人との混血の様な顔つきの人が多い気がする。この北岸地域に所縁ある私の母親や親戚も色素が薄かったりアジア人離れした顔つきで、医療関係の大学に通っていたダニエル・ラドクリフ激似の母方の従兄弟が母系を辿ってミトコンドリアDNAを調べたところカザフスタンや中央アジアの辺りがルーツだったらしい。以前テレビで世界不思議発見のキルギスだったかカザフスタンの特集を見ていた母親が謎の郷愁の念を抱いていた。
眉に唾する日ユ同祖論(日本人とユダヤ人が共通の先祖を持つという説)なるトンデモな話も、もしかすると?と浪漫に思いを馳せる次第であります。ユダヤ人は正直わかんないけど兎に角色んな人が入ってきている。
図書館の郷土史コーナーなんかに行くと、胡散臭い郷土史家たちの徐福伝説関連の自費出版本がたくさん収蔵されており、そのほとばしる情熱とは裏腹の親類縁者の厄介もん扱いをつい想像してしまう。拓本マニアだったみうらじゅんの祖父は拓本に関する自費出版本「拓本による京の句碑・上」を親戚の集まりで一人一冊売りつけたという。(ちなみにこの本Amazonで売ってた。下巻は未刊行。)
参道の並木とは別に、境内には樹齢1200年余りの七本の杉のご神木が鎮座している。コンパクトな敷地内にこんだけでかい木があるとこも珍しいのではないか。パワースポットとしても知る人ぞ知る穴場なのだそうです。富士五湖方面にお越しの際は河口浅間神社是非ともお立ち寄りくださいませ。
なんつー寺社仏閣探訪記が書きたかった訳ではなくて滝までの山道でビブラムの五本指シューズを試したかったのだ。Vibram Five Fingersっちうやつ。
登山歴のほとんどを地下足袋でやってきたが若干飽きてきた。
普段ランニングではAmazonで3千円弱で売ってるSAGUAROなる中華メーカーのビブラムのバッタもんシューズを履いているのだが指先が分かれていないもののこれが普通に履き心地が良い。じゃあ本物はもっと良いだろうと思うにも新品で買うと2マソ弱もするのである。そんな高い靴を試したこともないのにネットで買う勇気もなく、また実店舗で試し履きしてからネットで安く買う図太さもないのでどうしたもんかなと思ってたところ、ヤフオクで3千円で出品されており4千円で落札した次第である。
相場は一万円以上するので自分にぴったしのサイズが出品されたことも含め割かしお買い得だったのではないだろうか。ソールの状態も良い。ただ秋冬のモデルで素材が少しモコモコしている。色がいまいち好きじゃないので染めQで黒にした。染めQのスプレー2本で4千円だったので靴の送料含めなんだか高いんだか安いんだかよくわからんことに。
地下足袋を今まで履いてきたので山道で履いてみた感じ、足裏の感覚は正直そこまで感動する程の差を感じなかったが、全部の指が動く気持ちよさや指が包まれている感覚は今までにないものではある。ちょっとした散歩とかハイキングそれかむしろタウンユース?で履いた方が良さげな感じもした。都市空間の人工的で平らな地面のほうが眠ってた足の裏の感覚を取り戻せるかも知れない。ランニングは踵が擦れてすぐ駄目になりそうだ。
一日100円積み立てとけば170日で新品が買えると考えれば、普段履きにして履き潰すのを躊躇しないで済むかしら。
まあこの靴とりあえずおすすめです。
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの��を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論���「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道��)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」���
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私���この国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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2月6日夜9時30分
「不条理の文学」と言われた作家、アルベール・カミュ(1913年~1960年)の『ぺスト』(1947年)が、世界各地で密かなベストセラーになっているという。猛威を振るう新型コロナウイルスに右往左��する人間の姿が、カミュが描いたペスト禍の世界と重なるからだ。
だが私はむしろ、カミュのもう一つの代表作『異邦人』(1942年)の方が好きだ。この作品も、カミュが生まれ育ったアルジェリアが舞台で、養老院から母親の死を告げる電報が届いたシーンから始まる。「きょう、ママンが死んだ」――。
先週2月7日の深夜、私のスマートフォンにも、チーンという緊急ニュースを伝える音が鳴った。
〈 李文亮医師が、2月6日夜9時30分に死去した 〉
私は思わず、床から飛び起きてしまった。このコラムで2週にわたって伝えてきた李文亮氏が死去したのだ。新型コロナウイルスの発生に対して12月31日、初めて警鐘を鳴らした湖北省武漢市中心病院の医師で、自らも感染し入院していた。享年34。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70225?page=2
故・李文亮医師と妊娠5ヵ月の妻・付雪潔、5歳の息子
李氏には妻と5歳の息子がいて、今年6月に妻が第二子を出産予定だった。李氏が死去した7日、妻がSNSで声明を発表した。
〈 私は付雪潔、襄陽出身で李文亮医師の妻です。私はどなたからも寄付を受け取りません。ネット上で流れている、私が援助を求めているという情報は、事実ではありません。
李文亮医師と私たちに手篤くしていただいた社会各界の方々に感謝します! 同時に、私は李文亮の「私は去る」という原稿を完成させます!
私は砂粒となる前に、故郷の黒土白雲のことが、また想い浮かんだ。子供の頃を何度想い返したことか。風は舞い降り、雪は真白だ。
生きられたら本当にいいのに。でも死ななければならない。もう二度と妻の瞼に触れることもできない。子供を連れて東湖の春の日の出を見ることもできない。両親を連れて武漢大学の桜を見ることもできない。白雲の深いところまで凧を揚げることもできない。
たまには、まだ生まれぬ子供の夢を見ることもある。彼もしくは彼女は、生まれるやいなや、大勢の人の中から私を探す。子供よ、ごめんなさい! 私には分かっている。あなたはただ、一人の平凡な父親だけを求めているということを。それなのに私は、いつのまにか平民の英雄になってしまった。
まもなく夜が明ける。私は去らないといけない。一枚の保証書を持って(李医師の病気を公傷にするという武漢市政府の証明書が出された)。これは、私のこの世で唯一の携帯品だ。
私を理解し、愛してくれた世間のあらゆる人々に感謝する。黎明の頃、私が山の丘を乗り越えるのを皆が待っていることを、私は知っている! だが、私はもう疲れ切ってしまった。
この世で、私は泰山より重くありたくない。また鴻毛より軽いことを恐れてもいない。私の唯一の望みは、氷雪が溶けた後に、皆々が変わらず大地を熱愛し、祖国を信じることだ。
春の雷鳴が鳴り響く頃、もしも誰かが私を祈念したいというなら、ごく小さな墓碑を立ててほしい! 別に偉大だとか書くことはない。ただ私という人間がこの世に存在していて、姓と名があって、畏れを知らなかったと証明してくれればいい。
墓碑銘に添えてほしいのは、この一句だ。
彼は生きとし生ける者(蒼生)のために話をした 〉
本当に、涙なしには読めない「遺書」だった。こんなけなげな若い医者を、武漢市公安局はデマを流した犯罪人扱いし、そのニュースを国営テレビ(CCTV)が全国放映し、見せしめにしたのだ。
武漢市人民政府のお粗末
2月7日、武漢の10人の大学教授が、実名で長い追悼文を発表した。そこには次のようなくだりがあった。
〈 中華人民共和国憲法第2章の第35条では「公民の自由」を謳っており、「中華人民共和国の公民は言論、出版、結社、行進、デモの自由を有する」とある。また憲法第2章の第51条には、「中華人民共和国の公民が自由と権利を行使する際には、国家的、社会的、集団的利益及びその他の公民の合法的自由と権利を損害してはならない」とある。
李文亮医師を始めとする8人の医師の言行は、完全に憲法35条及び51条の精神に合致している。彼を烈士として追悼すべきである 〉
同日夜には、SNSの呼びかけで、武漢市民が8時55分から9時5分まで追悼の意を示した。それは、最初の5分で明かりを消して、スマホを空に向かって翳す。次の5分で音を鳴らすというものだった。
私もSNSの映像で見たが、9時からの5分間というもの、1100万都市武漢市が、地響きを立てたように鳴り響いていた。
同日、武漢市人民政府(武漢市役所)は、ホームページ上で「公告」を出した。その全文は以下の通りだ。
〈 武漢中心病院の李文亮医師が、新型肺炎に感染して、全力の救急活動も効果なく、不幸にも世を去った。われわれは深い哀悼を表し、深く惜しむ。その一線での堅守、ウイルスとの戦いに敬意を表し、その家族に誠意を持って慰問を示す! 〉
この一市民の死に対する異例の公告は、李医師の死を契機として、武漢市民の怒りが市政府に及ぶのを回避しようとしたためと思われる。この全文は、中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』にも転載されたから、党中央の指示で行ったことも示唆している。
だがネット上では、すぐに「一篇の公文から、武漢市政府の執政レベルが分かる」と題した長文の文章がアップされ、ものすごい勢いで回覧された。筆者は「劉正義」という匿名の人物だが、何とこのわずか67文字の公告に、6ヵ所もの誤りがあるというのだ。
まず、李医師が勤めていた病院は、「武漢中心病院」ではなく「武漢市中心病院」である。市政府職員が市立病院の名前さえ間違えるとは何事だというわけだ。次に、李医師が感染したのは、ただの「新型肺炎」ではなく「新型コロナウイルス肺炎」である。もしかして市政府職員はこの病気のニュースさえ見てないのではと疑念を呈している。
また3ヵ所は、中国語の語句や文法の誤りで、「こんな中国語レベルの低い職員を武漢市は雇っているのか」と批判された。最後の1ヵ所は、「公告」というのは、国家行政公文処理弁法」の規定によれば、国家の名義でしか出せない。そのため「訃告」とすべきで、「公告」は国家に対する武漢市政府の越権行為であり、かつ公務員試験を合格した人たちの職場とは思えないというのだ。
この長文の文章は、皮肉な言葉で締めくくられていた。
〈 天国にも訓戒書はあるのかな? この世にはもうデマをアップする人はいないのに 〉
首都北京に迫る危機
同日、北京でも意外な機関が、李文亮医師に関する通知をホームページ上で発表した。「泣く子も黙る」と言われる習近平政権の特高警察、党中央紀律検査委員会・国家監察委員会である。
〈 中央の批准を経て、国家監察委員会は調査チームを湖北省武漢市に派遣することを決定した。これは群衆が反応した李文亮医師に関連する問題を全面的に調査するためである 〉
8日には「調査チームが武漢に到着した」という続報もアップされた。
中国メディアは、陳一新中央政法委員会秘書長が中央指導チーム副チーム長となって、王賀勝天津市衛生計画委員会主任が湖北省党委常務委員となると伝えている。つまりこのコンビが武漢へ赴き、李文亮医師の件を調べ上げるというわけだ。
陳一新副チーム長は、湖北省の党委副書記兼武漢市党委書記(武漢市トップ)を務めていた経験があるので、地の利��あるということだろう。それにしても、突然のものものしさである。
2月7日、北京では、雪が降った。市を東西に流れる通恵河の川べりに、奇特な人が「送別李文亮!」という巨大な雪文字を彫った。北京でも、李文亮医師の問題が沸騰しているのだ。
それは、2200万人が住む首都北京にも、新型コロナウイルスの危険が迫っていることと関係している。武漢がある湖北省を含む地方から、春節の大型連休を終えて人々が戻ってきており、感染が拡大しているのだ。
2月6日の段階で、すでに市内85ヵ所のマンションなどが、感染者を出して封鎖となっている。今後とも封鎖地区が増えて行けば、北京が「第二の武漢」と化してしまうリスクも指摘されている。北京っ子たちは、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)を思い起こし、恐怖に駆られている。多くの市民が依然として、自宅に引きこもり状態だ。
本来、今年の春節休暇は1月24日から30日までで、31日が仕事始めとなっていた。ところが政府は、2月3日を仕事始めとすると変更し、さらに2月10日からにすると変更。10日に正月休みはようやく明けたが、2月21日から仕事始めにするという会社や機関も多い。
すでに北京市教育委員会は1月26日、市内の大学・高校・中学・小学・幼稚園を当分の間、休校とし、インターネットによる自宅教育に切り替えると発表している。
春節期間中、映画館など人が集まる場所の営業が停止され、それは現在も続いている。映画産業は春節期間中の興行収入を70億元(約1100億円)を見込んでいたが、すべて吹っ飛んだ。他にも、観光産業と飲食産業はそれぞれ、5000億元(約7.8兆円)以上の損害を被るという試算が出されている。
北京市新型コロナウイルス肺炎防衛活動指導小グループ弁公室は2月9日、10項目を決定し、翌10日に通知した。要約すると以下の通りだ。
1)居住地区の封鎖管理の厳格化 2)地区の往来人員、車両の登記の厳格化 3)北京にやって来る人員の登記の厳格化 4)重点地域(湖北省など)の人々の管理サービスの厳格化 5)集中隔離の厳格化 6)公共空間管理の厳格化 7)レンタル家屋の管理の厳格化 8)基本生活の保障の強化 9)全民防護意識の強化 10)党員幹部などの模範行動の強化
この通知は、10日から市民生活が正常化するどころか、北京市人民政府が「首都防衛戦」を布告したということだ。
北京市人民政府の最高責任者は蔡奇党委書記で、習近平主席の福建省、浙江省時代からの最も忠実な僕(しもべ)の一人として知られる。ちなみに、2017年6月に蔡奇党委書記が誕生して以降、私はこのトップを評価する北京っ子に出会ったことがない。
習近平政権瓦解の始まりか
北京は3月に、年に一度の「両会」の季節を迎える。「両会」とは、3月3日から始まる中国人民政治協商会議(政府への公的諮問機関)と、3月5日から始まる全国人民代表大会(国会)だ。
だが今年は、延期される可能性が高いのではないか。何せ北京市人民政府は新たに「公共空間管理の厳格化」を通達したばかりで、会場となる人民大会堂に隣接した故宮博物院はいまだに閉鎖されたままだ。
「両会」が延期されるとなると、文化大革命の嵐が吹き荒れた毛沢東時代以来のこととなり、極めて異例の事態だ。
だが習近平主席のホンネは、「首都防衛戦の最中である」として、延期したいところではないか。なぜなら「両会」を開けば、新型コロナウイルス問題の責任を追及する「政局」になってしまうからだ。
中央政府としては、武漢市の対応が悪かった、湖北省の対応が悪かったとして、トカゲの尻尾切りで済ませたいところだろう。だが、感染の被害は中国全土に拡大しており、もっと全体的な危機になりつつある。「危機」は「政府への不信」に置き換えてもよい。
習近平主席の支持者は、圧倒的に庶民層である。だが、いま怒りの声を上げ始めているのもまた、庶民層なのだ。
それに対し習政権は、庶民層の怒りと不安を収めようと、CCTV(中央広播電視総台)など官製メディアを駆使して、「コロナウイルスから治った」「もう退院できた」という全国の患者たちの姿を、これでもかというほど報じている。中国のテレビニュースだけを見ていると、新型コロナウイルスの危機は、もう去ったかのようだ。
「首都防衛戦」に失敗し、北京が「第二の武漢」になれば、それは習近平政権の瓦解の始まりを意味する。この2月が正念場である。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)2月14日(水曜日)弐
通巻第8132号
こなた習近平が尊敬する思想家はマルクスと毛沢東である
かたやプーチンが尊敬してやまないのはソルジェニツィン
*************************
習近平が尊敬する思想家はマルクスと毛沢東である。習のまわりを囲む御用学者らは毛沢東思想礼賛のカチカチの共産主義者だ。欧米に留学し近代経済学や国際金融を学んで,多少は中国の経済『改革』を進めてきた改革思考のブレーンは不在となった。朱容基も、李克強も居なくなった。周小川も易鋼も退官し、そして胡春華も閑職に飛ばされた。
一方、ロシアのプーチン大統領が尊敬してやまないのはアレクサンドル・ソルジェニツィンである。
ソルジェニツィンはゴルバチョフ、エリツィン、プーチンの三人の指導者とそれぞれ別個に懇談したが、もっとも共鳴した政治家は、じつはプーチンだった。そしてプーチンもソルジェニツィンの考え方に深く共鳴し、尊敬していた。
ノーベル文学賞受賞の作家にして哲学者の残した言葉をプーチン大統領はよく演説に引用する。
「彼の心、魂、思考は祖国への痛みと尽きることのない祖国愛で満たされていました。こうした感情が彼の創作活動の原動力となったのです」とプーチン大統領は、2018年にソルジェニツィンの記念碑除幕式で演説している。
「彼は何百万人もの人々を苦しみや厳しい試練に陥れた「全体主義体制」と(純朴な)「ロシア人」とを明確に区別した。20世紀のロシアが産んだ社会政治思想家である。その知的遺産が今日までロシア政治に影響を与えている」
代表作は『イワン・デニーソヴィチの一日』で、実際にソルジェニツィンは、8年間強制収容所で過ごした。労働収容所や外国への亡命生活で何年も過ごし、共産主義イデオロギーに幻滅し、ロシアナショナリズムとキリスト教正教会の価値観に強い関心を抱く。
ソルジェニツィンは土着の愛郷心と魂を重視する宗教への回帰を訴えた。ソ連指導部に対し、共産主義イデオロギーを手放し、国内の発展を妨げる世界中の左翼政権への支援をやめるように呼び掛けた。
「私たちの国は、国民の内的、道徳的、健全な発達を考慮して導かれるべきです。私たちは女性を、お金を稼ぐための強制労働、特にバールやシャベルから解放すべきです。学校教育と子供の育成を改善する。土壌、水域、ロシアの自然全体を保護し、都市の健康な生活を回復しなければなりません��
この共産党指導部への公開書簡のため、1974 年 2 月、ソルジェニツィンは逮捕され、「大反逆罪」と「ソ連の市民権」を剥奪された。ソルジェニツィンは西側諸国を放浪し、1976年に米国バーモント州に定住した。
▼ソルジェニツィンの葬儀にはプーチンもメドベージェフも参列した
国家の独立を維持し、ロシアとその国民の利益を守る��とが、ソルジェニツィンの創作活動の重要なテーマとなった。
やがてペレストロイカの雪解けが訪れ、ソルジェニツィンは市民権を回復、1994年、ロシアに帰国した。2008年にモスクワで死去。享年89歳だった。
葬儀にはプーチン、メドベージェフにくわえてロシア科学アカデミー会長、ロシア科学院学長らが参列した。何千人もの一般の人々が花束を捧げた。
2022年のヴァルダイ・フォーラムで演説したプーチン大統領は、「西側諸国は新植民地主義と一極性によって『盲目』になっている」としたソルジェニツィンの言葉を引用した。
西側諸国の外交政策に対するソルジェニツィンの批判は時間の経過とともに強まるばかりだった。
ソルジェニツィンは米国が複数の国を占領していると非難した。
「ボスニアでは9年間、コソボとアフガニスタンでは5年間、そしてイラクでは3年間。こうした状況が続いているが、現地の状況は長期化するのは確実だ」
彼はまた、東欧での軍事的プレゼンスを拡大し続け、同国を南から包囲し続ける米国にとって、ロシアはいかなる脅威にもなっていないと指摘した。
それは「『小さな自由』であり、大きな意味での『自由』を風刺したものにすぎません。責任や義務感のない自由です」とソルジェニツィンは1975年にフランスのジャーナリストとのインタビューで語った。
ソルジェニツィンにとって、道徳的発達は、事実上、社会的、政治的問題と切り離せない価値であり、義務感や個人の責任は、現代の西洋の思想家や指導者の中では信じられていない。
プーチンの演説の言葉の端々、その行間に秘められているのはソルジェニツィンの思想なのである。
毛沢東とマルクスの幻惑に浸り,全体主義に盲進する短絡的な習近平とプーチンを同列に論じるのは基本的な誤謬といえる。
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各地句会報
花鳥誌 令和6年3月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年12月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
氷川丸の円窓いくつ北塞ぐ 昌文 十字架のかたちに燃る蔦紅葉 美紀 倫敦を遠く大使の冬薔薇 佑天 望郷の眠りの中に木の実降る きみよ 女学院に尖塔のかげ冬紅葉 久 冬木立の向かうをつくりものの海 緋路 昏き灯のランプシェードとポインセチア 和子 十字架を解かざる蔦の冬紅葉 光子 凍空や十字架赤き鉄であり 和子 誰も振り返らぬ早過ぎた聖樹 佑天
岡田順子選 特選句
みなと町古物を売りに行く師走 荘吉 窓は冷たく望郷のピアノの音 俊樹 氷川丸の円窓いつく北塞ぐ 昌文 冬館キラキラ星のもれ聞こゆ 美紀 冬日和トーストに染むバタと蜜 季凜 ガンダムを磔にする師走かな 緋路 革命は起こすものかも冬薔薇 緋路 誰も振り返らぬ早過ぎた聖樹 佑天 胼の手の婆キューピーを路地に売る 俊樹 古硝子歪めし冬の空はあを 久
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月2日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
神鏡の底まで蒼く冬の月 かおり 右手上げ思索のポーズ漱石忌 修二 綿虫のうすき影負ふ百度石 かおり 戯れにペアのセーターそれは無理 美穂 冬帝の裾に鉄橋灯されて かおり 赴任地は裏鬼門なり漱石忌 美穂 後戻りできぬ吊橋冬枯るる 愛 大枯野則天去私のここに居る 美穂 綿虫のことづてありと君に来る 愛 牝狐の頭に木の葉町娘 成子 憑き物を落とす霰に打たれをり 愛 落葉踏む音を楽しむ童かな 修二
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月3日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
亡き父よもう雪囲ひ始めしか 喜代子 百二才冬空へ帰られし 同 眠る山内で動めく獣達 都 年忘れ新入り下戸でじよう舌なり 同 門松の早や立ち初め禅の寺 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月7日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
冬菊を挿して祈りの夙夜かな 宇太郎 布教師の顎鬚白し報恩講 すみ子 投薬のまた一つ増え落葉蹴る 悦子 入隅に猫の目青し冬館 宇太郎 三途から戻りし者の年忘 同 闇一枚まとひてよりの浮寝鳥 都 露座仏の思惟の指さす空は冬 美智子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月9日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
冬の朝遠くに今日の始む音 恭子 空青く舞ふ白鳥の透きとほり 幸子 塀の猫すとんと消えて師走かな 三無 冬の雲切れて見下ろす日本海 白陶 枯菊のかをり残して括られる 多美女 路地裏に声の弾みし焼芋屋 美枝子 カリオンの音の明るさや十二月 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
寄せ鍋を囲みし人のまた逝きて 秋尚 まろまろと伊豆の山やま冬景色 怜 乾きたる足音空へ冬山路 三無 子離れの小さき寄鍋溢れをり のりこ 床の間に父の碁盤や白障子 三無 ご奉仕の障子新し寺の庭 和魚 信楽のたぬきと見合ふ障子越し 貴薫 煌めきをところどころに冬の山��聰
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
茶の花やエプロンで無く割烹着 昭子 風花にして降るとも降らぬとも 世詩明 ポインセチア抱けば幸せさうに見ゆ 昭子 武生花鳥必死に守る年の暮 みす枝 彩りも音も無く山眠りけり 英美子 雪まろげ仕上げは母の手の加へ 時江 糶終へて皮ジャンパーの急ぎ足 昭子 着膨れて女は手より立ち上がる 世詩明 古暦パリの街角にて終はる 昭子 街師走吹かるる如く人行き来 みす枝
令和5年12月12日 萩花鳥会
冬の月句友ともども偲ばれて 祐子 五羽が風邪萬羽が処分魔の鶏舎 健雄 冬の空めげず生きると決心す ゆかり 一年の抱負も薄れ年の暮 吉之 首かけし手袋母の匂して 美惠子
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令和5年12月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
この先は冬雲傾れ込む山路 あけみ 白菜を抱きかかへつつ持つ女 令子 こんなにも長年参じ近松忌 同 オリオンの名残惜しみて冬の朝 あけみ 晩秋や娘の云ふを聞き入れる 令子 さきたま花鳥句会(十二月十五日) 初霜や狭山の畑を曳く煙 月惑 頑なに一花残して冬薔薇 八草 終焉の一ト日のたぎり冬紅葉 紀花 枝折り戸の軋む庵や枇杷の花 孝江 今年酒老舗の店や菰飾 ふゆ子 くちやくちやの枯葉纏ひて大欅 ふじ穂 廃校を渋柿たわわ守りをり 康子 三年間無事に埋めよと日記買ふ 恵美子 何をするわけでも無しに師走かな みのり 落葉積む赤き帽子の六地蔵 彩香 嫁ぎ来て冬至南瓜を五十年 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
口重き男に隣り近松忌 雪 九頭竜の黙が寒さを増すばかり かづを 散る紅葉散りゆく黄葉なる古刹 同 枯菊や香りと共に燃え上がる 英美子 手焙に触れれば遠き父の事 同 賀状かく龍天空へ飛躍せり 玲子 父母の眠る故郷恵方道 やす香 山眠るひもじき獣抱き抱へ みす枝 鼻水をすすれば妻もすすりけり 世詩明 熟し柿つつく鴉は夫婦らし 同 人にやや離れて生きて帰り花 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
黒門の枡形山に裘 幸風 冬蝶を労はるやうに母の塔 同 眠る山起こさぬやうに歩き出す 白陶 隠れんぼ使ひ切れざる紅葉山 経彦 冬帝と対峙の富士や猛々し 三無 笹鳴や少し傾く城主墓 芙佐子 山門へ黄落の磴細く掃く 斉 黄落の野仏は皆西へ向き 炳子
栗林圭魚選 特選句
蒼天に山脈低く雪の富士 芙佐子 空を抱くメタセコイアの冬支度 三無 SLに群がる揃ひの冬帽子 経彦 かなしことうすれゆきたり冬霞 幸子 笹鳴の過ぐ内室の小さき墓 慶月 法鼓聴く銀杏落葉の女坂 亜栄子 古寺の法鼓の渡る師走かな 久子 冬帝や明るき供花を陽子墓碑 文英 笹鳴や少し傾く城主墓 芙佐子 枯芝の広場の狭鬼ごつこ 経彦
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月19日 福井花鳥会
赤き玉転がしながら毛糸編む 啓子 住み古りて遺木の数多なる落葉 清女 着膨れてストレス無しと云ふは嘘 同 雲たれて空塞ぎをり十二月 笑子 ささやきを交はす綿虫寄り来たり 同 神殿に大絵馬掲げ年用意 同 毒舌も競り合ふ友や年忘 泰俊 それぞれの色を尽して末枯るる 雪 小説を地で生く男近松忌 同 墨をもて仏描きし古扇 同
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令和5年12月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
母と娘の悲喜こもごもや古暦 雪 大いなる一つの鳥居や神の留守 同 近松忌日有り気の一文箱 同 筆に生れ筆に死す恋近松忌 同 初雪や瓦は白く波打てり みす枝 初雪や誰彼となく首縮め 同 さんざめく市井を抜けて見る聖樹 一涓 神々の眠れる山や風の音 ただし 捨て猫のすがる眼や雪催 清女
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月24日 月例会 全選句を掲載いたします。◎が特選句です。 当日の席題は「青」でした。
坊城俊樹選 特選句
二百万余の英霊よ竜の玉 昌文 暦売る神となりし日遠くして 慶月 極月や足踏みかすか男衛士 音呼 ◎聖マリア棘やはらかき冬薔薇 和子 楽団の喧騒を待つポインセチア 順子 幔幕のうちは見せざり年用意 千種 聖夜待つランプの中の空青し 和子 悴んで十字架を小学生仰ぐ 順子 ◎十字架に鳩の休息クリスマス 要 朱き鯉悴みもせず行者めき 軽象 一枚の青空に垂れ冬薔薇 和子 著ぶくれのままカフェオレを飲むつもり 光子 著ぶくれの犬にユニオンジャックかな 佑天 冬帝のふくらませゆく日章旗 和子 ◎冬深む宿痾なる瘤持つ鯉へ 光子 ◎身じろがぬ寒鯉威してはならぬ 慶月 寒禽の寄り添うてゐる像の肩 政江 ◎擬態して聖夜の街に紛るるか 炳子 旧華族らしき猫背を外套に 順子 二の鳥居辺り冬帝在し険し 慶月 寒鯉の鐚一文も動かざる 千種 凍雲に閂かけよ大鳥居 月惑 ◎大鳥居いくつも潜りクリスマス はるか ◎きらめける虚構を踏みぬ霜柱 妙子 オルガンを踏み込むクリスマスの朝 光子 ◎くちびるの端で笑つて懐手 和子 数へ日の水あをいろに神の池 要 外套のポケットに怒りを握る 和子 冬ざれの鯉の影なき池の底 炳子 上野は勝つてゐるか像の極月 慶月 歳晩や動きさうなるさざれ石 眞理子 聖樹の灯巻き込んでゆくボロネーゼ はるか 冬眠の蛇を諾ふ斎庭なる 光子
岡田順子選 特選句
◎神の鳥冷たき影を像に置く はるか ◎極月や足踏みかすか男衛士 音呼 初対面黄色のマフラーして彼女 政江 花柊零るる坂の神父館 要 未知の先あるかのごとく日記買ふ 妙子 聖マリアと棘やはらかき冬薔薇 和子 ◎枯蓮のいのちの水に眠る朝 佑天 裳裾冷たき暁星のマリア像 俊樹 なかなかに僧には会へぬ師走かな 眞理子 十字架に鳩の休息クリスマス 要 鷗外の全集売れぬ隙間風 俊樹 窓越しに著ぶくれの手が師を招く はるか 朱き鯉悴みもせず行者めき 軽象 一枚の青空に垂れ冬薔薇 和子 著ぶくれの犬にユニオンジャックかな 佑天 霜晴や空ラのリヤカー巡回す 千種 ◎英霊の言の葉の外年詰まる 軽象 寒禽の寄り添うてゐる像の肩 政江 年逝くや素木の鳥居乾くまま 要 擬態して聖夜の街に紛るるか 炳子 数へ日の嵌つてしまふ小津映画 炳子 大鳥居いくつも潜りクリスマス はるか きらめける虚構を踏みぬ霜柱 妙子 オルガンを踏み込むクリスマスの朝 光子 ◎くちびるの端で笑つて懐手 和子 ◎手つかずの落葉を散らす神の鳥 はるか 数へ日の水あをいろに神の池 要 ◎外套のポケットに怒りを握る 和子 サグラダファミリアみたいな銀杏枯れ 俊樹 風冷た悲しくなけれども涙 政江 二百万余の英霊よ竜の玉 昌文 ◎微動だにせぬ零戦と年忘れ 俊樹
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ジョン万次郎上陸之地記念碑
2018年2月18日に糸満市の大度海岸でジョン万次郎上陸之地記念碑の式典が盛大に開かれました。
式典には、糸満市の上原昭市長をはじめ、ジョン万次郎の直系5代目となる子孫の中濱京さんなど全国から万次郎ファン約260人(新聞では220人)が建立を祝いった様です。この式典を沖縄のローカルテレビ製作会社が番組を作成し県内のニュースや新聞で放送されています。
市長は「日帰り観光地だった糸満観光を、整備、活用し滞在型、体験型を作り上げる」と観光事業の本格的な参入を目指すと宣言しています。
実際に糸満市は今年から大型リゾートホテルの開業がいくつか進行しています。
ただ、ジョン万次郎は沖縄の県民との交流や会話は一切していませんし、今回の記念碑は郷里の土佐の方向に向かって立っていると説明していますが、薩摩藩から土佐に向かったのは1852年10月5日のことなので、1851年1月2日とか3日ではありません。また、小型ボートで一人万次郎がアメリカから沖縄にたどり着くことができるはずありません。
沖縄県の報道にあるジョン万次郎の話は微妙に違うので正しくジョン万次郎の物語を簡単に紹介しておきます。
【ジョン万次郎の軌跡】
土佐の中濱で漁師の子として生まれた「万次郎」
1841年1月、15歳になると親元を離れて先輩漁師の筆の拯、重助、五右衛門、寅右衛門4名と初めての漁に出ますが、土佐清水市の足摺岬(あしづり)の沖合で嵐に遭い船は遭難。一週間くらい漂流し無人島鳥島に漂着します。
5人はアホウドリを捕まえるなど自給自足で5ヶ月間を過ごした頃、捕鯨船「ジョン・ハウランド号」が鳥島に近づいてきました。助けを求めるとホイットフィールド船長が船に乗せてくれます。
言葉は全く通じませんが、最初に着いた島はハワイ。
3名はハワイで船を降りますが、万次郎は船長とアメリカに行くことになり、東海岸のマサチューセッツ州フェアヘーブンで船長の養子になります。
1843年までの2年間学校で勉強し、1846年にアメリカを出て、アフリカの南を経由してグアム、琉球に上陸するも全く言葉が通じなく豚と牛をもらって船で返されてしまいます。
万次郎は琉球を「マンビコシン」という島だと思ったと回想している。
しかし、万次郎はこの時、鎖国している日本で四国より琉球はゆるゆるな島だと感じたので、帰国の島は琉球にしようと決めます。
琉球を出てグアムへ向かう途中、船長が病気でマニラで船を降りることになり、船の中で新しい船長を選挙で選ぶことになります。万次郎は1位になるが先輩のエンキーに譲りハワイを経由してアメリカに戻りました。
1849年、サンフランシスコでゴールドラッシュが起こります。
万次郎は日本に帰国するための資金を得るために東海岸から西海岸まで船で8ヶ月かけてサンフランシスコへ行きました。
7ヶ月で約400万円(当時600ドル)を稼ぐと、ハワイに渡り日本人仲間を連れて日本に戻ろうと誘います。
重助は既に亡くなっていて、寅右衛門は結婚していてハワイに残ることになります。筆の拯は伝蔵と改名して五右衛門と3名で日本に帰ることになります。
金山で稼いだ金でアドベンチャー号を買い、更に中国のお茶を買い付けている巨大船「サラボイド号」にアドベンチャー号と共に乗せてもらうことができ、グアムを経由して琉球に到着。
漂流から10年、琉球に上陸した3名でしたが、日本語も忘れていて、琉球の言葉もわからなかったために7ヶ月間取り調べを受け、その後当時支配していた薩摩藩に1ヶ月間滞在。
当時は、取り調べ調書は琉球から薩摩藩に送られ、薩摩藩から江戸城に送られていたので時間がかかっていました。
1852年10月5日に解放された万次郎は土佐に戻ることができました。
帰国後の万次郎は江戸城付きの武士になり中浜万次郎と名乗ります。
1853年ペリー来航
当時、中浜万次郎は江戸城付きの武士になっていたが、スパイ容疑がかかっていてペリーと会うことは禁止されました。
1860年、日米脩好通商条約
品川から咸臨丸がアメリカのサンフランシスコに出向することになります。
艦長「勝海舟」万次郎は通訳として乗船。福沢諭吉も軍艦奉行のお付きで乗船していました。万次郎以外は全員初めてのアメリカ、船の知識も経験も万次郎が一番優れていました。
アメリカの帰りにハワイを経由すると、ハワイでは万次郎が有名人で大人気だったのを見た咸臨丸の乗組員は万次郎のすごさに驚きます。
日本に戻り、明治維新後は現在の東京大学で英語の教師になり1898年72歳で永眠。雑司ヶ谷霊園に眠る。
ということで、ジョン万次郎がアメリカで勉学したのは2年間。
特に造船技術を学びクジラ漁で地球の約7週分を移動しました。
ジョン万次郎がいなければ、勝海舟も福沢諭吉も生前アメリカに渡ることはできなかったかもしれません。
特に、ペリーとの会談で両国の事情を知っているジョン万次郎が同席できていたならば、明治維新は違う形で早まったのではないかとも思います。
明治維新後のジョン万次郎は、本人の希望や能力は生かされることなく英語の教師にされてしまいます。「ABCの歌」を日本に伝えたことは有名ですね。
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