#近江市場
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この時は2回目の金沢!
前は兼六園周辺をうろうろしてたけど、今回は駅前をうろうろした
北陸の魚はほんとに美味しい〜
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近江町市場 ☕️ #近江町市場 #石川県 #金沢 #金沢市 #近江町 🍶 https://www.instagram.com/p/Co10xBGpxaA/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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芹沢公園 座間市 湿生植物コーナー アジサイ ガクアジサイ
富士フィルム X-H1 XF70-300mmF4-5.6R LM OIS WR
※近隣のモールにてランチ:麺場 田所商店の江戸前味噌野菜らーめん※
#自然#四季#公園#公園フォト#花#あじさい#アジサイ#ガクアジサイ#park#nature#landscape#landscape photography#four seasons#hydrangea#flower#flowers#fujifilm#x h1#xf70-300mm#風景写真
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夏旅2024 新潟散策 - スナップ集
新潟旅 最終回は、道中に撮影したスナップ写真をご紹介。
長岡生姜醤油ラーメン もやしトッピング
長岡駅にて乗り換え待ちを兼ねたお昼ご飯に頂きました。ほんのり生姜が香るあっさり醤油ラーメン。おいしかったですが、薄味好きな私にはちょっと塩辛すぎる気も、たっぷりもやしがあってちょうどよかったかも。
風味爽快ニシテ
新潟のご当地(?)ビール。スッキ��した飲み心地で、日中大汗をかき干上がった身体に染みわたりました。おいしすぎてついつい飲みすぎた…。
町中の歩行者用信号
雪国の自動車用信号が縦向きなのは知っていましたが…、横向きの歩行者用信号は初めて見た。調べてみると雪国故のアーケードが多い新潟県内では、アーケードの高さの都合上、縦向きでは人に接触する恐れのある場所では横向きの信号機がポピュラーらしい。
新潟市水族館内の公衆電話
スポットライトに照らされた公衆電話に惹かれてしまい一枚。このタイプの公衆電話を最後に使ったのは…、まだ携帯電話を持っていなかった中学生時代なので、20年近く前になっちゃうのかな。当時と変わらぬ姿で佇むのが愛おしい。
直江津��
かつて北陸新幹線延伸前までは、上越新幹線と接続し、首都圏と北陸エリアを結ぶ特急がいきかっていた主要駅。現在は地域輸送に特化した第三セクター えちごトキめき鉄道の起点駅として新たな役割を担う。特急停車時には必要だった長いホームもいまではほんの一部しか使われなくなっていることに一抹の寂しさを覚える。もちろん、えきごトキめき鉄道になったからこその楽しさ・味わいもあり、その点が個人的にはすごく好きで応援したいと思う。
高田城 観蓮会
東洋一ともいわれる高田城お堀の蓮を鑑賞。お堀一面を埋め尽くす蓮の花は圧巻でした。
直江津名物 さけめし
旅の最後を締めくくる列車の中でいただいたのは、直江津駅で仕入れた名物駅弁 さけめし。ホロホロとやわらかい鮭の身といくら+出汁ご飯の組み合わせが大変 美味でした。旅の余韻に浸りながら、ペロリといただけました。
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声��広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は��下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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こんばんワイン。
(懐かしい!おぼっちゃまくんか)
来週の火曜まで地元金沢に滞在しておりますので、時間潰しがてら、石川県立美術館へ行ってあまり興味がない展覧会「加賀藩前田家の名刀」を鑑賞してまいりました。
(興味がない。笑)
実家からそれ程遠くはないのですが、中に入ったのはたぶん生まれて初めてです。
(まじか)
天下五剣の名宝のうち、「大典太光世(国宝)」、「無銘義弘・名物富田江(国宝)」、「短刀 銘 吉光・前田藤四郎(重文)」の3振が一堂に展示されるのは、57年振りとのことで「刀剣乱舞」オタク連中に交じって、しっかり鑑賞させていただきました。
国宝の二振りは、足利尊氏から足利義昭と、代々室町将軍家に相伝され、その後、豊臣秀吉から前田利家に渡ったそうです。
本日は偶然にも「国際博物館の日」で、なんとこれらコレクション展は無料でございました。
国宝とはいえ刀三振りと、あとはいろんな刀の解説みたいなのだけなので、僕的には無料が妥当です。
(厳しい沙汰)
近江町市場で人が映らないように写真を撮るのは大変です。
5分くらい待って、人が滅茶苦茶少なくなったところで何とか撮影成功。
市場の二階にランチを食べに行ったのですが、魚屋さんで見たこともない巨大な「ほっけ」が売られており、お値段を見たら2800円~3400円くらいでございました。
(尋常じゃないくらい大きかった)
知らない観光客のイケオジが、高そうなガラス張りの冷蔵ケースの中に鎮座している能登牛の写真を撮りまくりながら、僕に「な、な、なっ、見てみ!すげーなこの能登牛!」といろいろ解説入りでランゲージされました。
(いつも誰かに声かけられる人)
毎度のことなので、観光客のふりをして最後まで聞いておりました。
(結構疲れる)
兼六園横の戦国武��ショップ「武将庵天翔」には一度も入ったことがございませんのでいつかは入って武将グッズを購入したいと思います。
帰り際、京都でもおなじみ「茶和々」でいつものように何か買おうと思ったけどやめました。
最後に、ドイツ人観光客と一緒に金銀のソフトクリームの置物を撮りまくりました。
(欧米人に大人気だった)
Tschüss!(チュース)
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越前勝山城
柴田勝家の一族である柴田勝安によって築城され、江戸時代は勝山藩の藩庁であったが明治になって廃城。
建物も壊されたが、元の場所から2kmほど離れたところに博物館の模擬天守として1992年創建。
姫路城に似せられた模擬天守は日本一の高さ57、8メートルの威容と美しさを誇る。
まだ雪の残る山並をバックに桜に囲まれた春の景色は絶景
どの角度から見ても惚れ惚れする美しさ🥰
入城すると一応お堀
そして石垣
先ずはぐるりと周囲を一周
四方の石垣にある龍は九頭竜川と、市内で発掘される恐竜に因んでとのこと
こんなところにも龍が
周囲を一周し、いよいよ掘りにかかる石橋を渡って本丸に
三匹の龍がお出迎え🐉
左に回って入り口に。立派な石回廊はラピュタの城みたい
こちらも立派な門構え
中は虎口っぽい
近くの白山神社も桜に包まれてました。
最後にもう少し😁
#photographers on tumblr#travel#cool japan#castle#photography#photo#instagood#tour#landscape#バイクで行く景色#history#福井県#日本の城#桜#雪山#ツーリング#日本の歴史
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元NHKアナ・鈴木健二さん死去 95歳 老衰 「クイズ面白ゼミナール」などで人気
「クイズ面白ゼミナール」の司会やベストセラー本「気くばりのすすめ」の著者で知られる元NHKアナウンサーの鈴木健二(すずき・けんじ)さんが3月29日、老衰のため福岡市内の病院で死去した。「NHK首都圏 NEWS WEB」などが発表した。95歳だった。関係者によると30日に通夜、31日に告別式が近親者で営まれた。
文字通りテレビ放送とともに歩みを重ねた昭和を代表するアナウンサーだった。東京の下町に生まれた生粋の江戸っ子で、東北大卒業後、テレビ放送開始の前年の1952年にNHKに入局。報道ジャンルで活躍していたが、66年に生活情報番組「こんにちは奥さん」の司会で主婦層の人気も得ると、81年から「クイズ面白ゼミナール」の司会として活躍。最高42・2%(82年9月12日)を記録するなど高視聴率を誇った。抜群の記憶力で台本やセリフを頭にたたき込む一方、当意即妙の受け答えをちりばめ、人気アナウンサーとしての地位を不動のものにした。
82年に執筆した「気くばりのすすめ」は文庫本を含めると400万部を超える大ベストセラーになるなど、アナウンサーとしての枠を超えて活動。83年から85年までNHK紅白歌合戦の白組司会で出演者よりも派手な衣装で登場するなど、注目を集めた。84年、引退する都はるみにアンコールをお願いする際の「私に1分間時間をください」という言葉は流行語にもなった。
その後、理事待遇となったため当時の定年より2年延長して59歳で定年退職。NHK退局後は、講演活動を行う一方、熊本県立劇場館長や盛岡県立図書館長などを歴任した。
兄の映画監督・鈴木清順さん(2017年逝去、享年93)も���寿となるなど長生きの家系でもあった。鈴木さんは平成が終わる2019年2月に90歳で「昭和からの遺言」を執筆、反戦への誓いを訴えていた。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)9月17日(火曜日)肆
通巻第8414号 <前日発行>
「チャイナ・ルネッサンス」(華興資本)CEOの包凡は何処へ消えた
チャイニーズ・ヒルビリー・エレジー(その5) 新興財閥の興亡、「あの人は、いま?」
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アリババCEOだった馬雲(ジャック・マー)は金融子会社「アント」の上場を目指していた。デジタル人民元を準備中だった中国共産党は、この動きを軽快した。上場直前に共産党は「延期」を指令した。その後、馬は海外へでた。アントは彼の手を離れた。馬は世界の顔だから中国共産党も不当な逮捕拘束を控えている。
2021年4月にアリババは3,000億円の罰金を課せられた。この金額は2019年のアリババの国内売上高の4%に相当し、中国で過去最大の独禁法違反の罰金となった。
「江沢民派の財布」と言われた肖建華(明天証券グループ代表)は香港の豪華ホテル「フォーシーズンズ」でボディガードに囲まれて暮らしていた。
或る日、突然、中国からやってきた公安部隊に拉致され、数ヶ月して北京で拘束されていたことが分かった。懲役13年がくだされ、刑務所に入れられた。
肖建華は中国株式インサイダー取引の黒幕だった。兄貴分が米国へ逃れた郭文貴だ。彼は米国でユーチューブ局を立ち上げ、さかんに習近平の金銭スキャンダルを暴露していたが、根拠のない話が多く、そのうち投資家を募ったファンドの詐欺罪で逮捕された。
大連実徳集団CEOの徐明は習近平の政敵だった薄煕来と、薄が大連市長時代から親しく、息子の英国留学の胴元になり、政治コネでビジネスを広げた。一時は破竹の勢いを見せ、プライベートジェット機に有名女優を乗せて薄のもとに届けたとか(名前がでたのはファンビンビンなど)、真偽のほどをたしかめようもない噂も多かった。薄失脚と同時に拘束され、刑務所で怪死を遂げた。
辛辣な共産党批判で知られ、「任大砲」とも「中国のトランプ」とも呼ばれた任志強は「華遠地産」のCEOでもあり、「中国の不動産王」を言われた。汚職撲滅で辣腕を振るっていた王岐山と親しかったので図に乗って習近平批判も展開した。
不動産価格の高騰が社会問題化すると、「貧乏人が家を買おうなどと考えるから不満が出る」、株価が高騰すると「学生が株を買うなんて100年早い」とこっぴどく批判した。
王岐山が海南集団の不正事件発覚で政治的影響力をうしなうと、任志強も拘束され懲役18年の刑を喰らった。
王岐山の政治力をもってしても庇えなかった。
2023年に世界の経済誌を騒がせたのは中国人チャオ・チャンポン(趙長鵬)が2020年に上海で設立した暗号通貨取引のプラットフォーム「バイナンス」の大がかりな不正取引だった。
中国国内では暗号通貨取引が規制されているため、他の金融商品などを扱い、アリペイやウィチャットペイ等でも支払いが出来るため、商いは急展開した。なにしろ暗号通貨市場は100兆円にもなろうと予測されていた。
当時、暗号通貨ビットコインは世界の80%を中国人が購入し、資産の海外移転をすすめた。つぎにバイナンスが目をつけたのは世界の悪党たちがマネーロンダリングに活用することだった。初期に180ヶ国12万人のユーザーは忽ちにして世界で1・5億人のユーザーに膨れていた。ユーザー数で言えば、TIKTOKに迫る。
▼世界の悪党達がマネロンにバイナンスを活用した
バイナンスは中国国内の規制がつよくなってシンガポール、ドバイ、マルタなどへ移動し、本社登記地を曖昧にしつつ、暗号通貨取引を展開、テロリスト、イラン、シリア、ハマスなどが活用した。この管理体制の杜撰さが犯罪を助長したため、米司法省から提訴され、趙長鵬は禁固四ヶ月、個人での罰金が5000万ドル、くわえてバイナンスCEOの辞任だった。バイナンスには6400億円の罰金が課せられた。ついでながらビットコイン価格はスタンダード&チャーター銀行の予測するところ、トランプ当選なら12・5万ドルにハリスなら7・5万ドルに留
まるとしている。
さて「「チャイナ・ルネッサンス」(華興資本)CEO包凡は何処へ消えたか?
2023年2月に突如失踪し、世界中が大騒ぎとなった。彼は中国初の本格的なインベストバンクを創設し、急成長のテンセント、JDコム、摘々(DIDI)などの金融面を支援して国際金融界も注目していた。
CEOの包凡(バオボン)は上海生まれで地元の高校から復丹大學を卒業後渡米し、JPモルガン、クレディスイスで腕を磨きこんだ。ロンドン、NYC、香港において国際金融に辣腕ぶり発揮し、200年にチャイナ・ルネッサンスを設立した。
行方不明ながら一年後の24年2月にCEO辞任を(獄中から)表明し、現在は別の経営陣が同社を運営しえいる。
チャイニーズ・ヒルビリー・エレジーの一幕。
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横浜市営地下鉄 ブルーライン 湘南台 下飯田 青空
境川遊水地公園 今田遊水地 横浜市泉区 中央広場 やなぎ
富士フィルム X-Pro3 XF35mmF1.4R
前回と違い、この日は、ポカポカ、割と暖かかったな。
※近隣モールにてランチ:大戸屋の江田島産 大粒牡蠣フライ定食※
#鉄道#鉄道のある風景#公園#公園フォト#青空#青空フォト#青空写真#x pro3#富士フィルム#xf35mmf1.4r#fujifilm#train#railway#railway photography#風景写真#鉄道写真#鉄道風景写真#landscape photography#landscape
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