#親子関係悪化
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居心地の良い場所
ゴールデンウィークが過ぎ 明日からは 変わりなく生活が始まります 4月5月と 春の陽気、夏を感じさせる日差しに 心と身体も懸命に動き続けてくれましたね 「居心地の良い場所」は 創り上げるものでもなく なんとなく 気が合う 話をしていると気分が晴れる そんな仲間でしょうか もちろん お一人様時間を過ごしながら 休息することも心地よいですよね 環境が異なる人との コミュニケーションを通じて 価値観の尊重ができることもあります 心理学の中では 何を言葉にしたか よりも どのような雰囲気で どのような表情で 伝えたか これにより 個々に受け取り方に違いが出たりする このような研究結果も出ているそうです わかっていながら わたしたちは 嫌な言葉を 人を不快にさせるような表情で 伝えてしまう事があります 人間だもの しかたがない どこかで耳にしたことありますよね …
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#コミュニケーション大事#元気になれる方法#半田発達障害#半田相談#名古屋発達障害#名古屋相談#名古屋相談できる場所#大人#寂しい#愛知県夫婦相談#東海市離婚相談#眠れない時#知多発達障害#知多相談#親子関係悪化#頑張れない
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中国・深圳にある日本人学校に通う男子児童(10)が刺殺された事件を受け、中国内外で日本や日本人を標的とした事件や問題がクローズアップされている。東京・靖国神社の落書き事件をはじめ、蘇州で起きた日本人母子切りつけ事件、NHKのラジオ国際放送での「尖閣発言」…。一部の事件の背景には、中国共産党政権による反日教育の影響も指摘されている。 「日本の民衆が火の中に連れ込まれることになる」 5月20日、東京都内の在日中国大使館での座談会。呉江浩駐日大使は台湾との関係を巡り、中国の分裂に加担すれば「火の中に」と発言した。座談会には鳩山由紀夫元首相や外務省OBらが出席していた。 11日後の5月31日、靖国神社の石柱に何者かが赤いスプレーで「Toilet(トイレ)」と落書きし、放尿する事件が発生。7月に中国籍の男が逮捕されるなどした。 6月24日には中国・蘇州で、日本人学校のスクールバスを待っていた日本人の30代の母親と未就学の男児が刃物で切りつけられ負傷。バスの案内係をしていた中国人女性も刺されて死亡した。 靖国神社では8月19日にも「厠所(トイレ)」や「軍国主義」などと、中国で使われている簡体字で記された落書きが見つかった。関与したとみられる中国籍の10代男性は中国へ出国していた。 NHKのラジオ国際放送が同日、この事件を報じた際、中国籍の男性スタッフ(48)が尖閣���島(沖縄県石垣市)を「中国の領土」と主張、「南京大虐殺を忘れるな。慰安婦を忘れるな」などと原稿にない発言をした。NHKは担当理事が引責辞任した。 今回の男児刺殺事件が起きたのは、例年、反日感情が高まる9月18日。93年前の昭和6(1931)年に満州事変の発端となった柳条湖事件が起きた日で、習近平政権下で反日教育が強化されて以降、その傾向はより強くなっているという。「日本人は出ていけ」「日本のスパイが潜む日本人学校に気をつけろ」。中国の短文投稿サイト、微博(ウェイボ)には朝から、日本人への憎悪に満ちた投稿があふれていた。
男児刺殺、靖国落書き…相次ぐ「日本」標的事件 投稿サイトには「日本人学校にスパイ」 - 産経ニュース
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Scan and transcription of the Persona 3 part of Otomedia February 2016
●第4章2016年1月23日より新宿バルト9、梅田ブルク7ほかにて全国ロードショー/2016年1月20日第3章Blu-ray、DVD発売
©ATLUS ©SEGA/劇場版「ペルソナ3」製作委員会
HP http://www.p3m.jp
STAFF 原作/「ペルソナ3」 (アトラス)、脚本/熊谷 純、スーパーバイザー/岸 誠二、キャラクターデザイン/渡部圭祐、ぺルソナデザイン/秋 恭摩、プロップデザイン/常木志伸、色彩設定/合田沙織、美術監督/谷岡善王 (美峰)、美術設定/青 木薫 (美峰)、コンポジット&ビジュアルディレクター/高津純平、編集/櫻井 崇、音楽/目黒将司・小林哲也、音響監督/飯田里樹、第4章監督/田口智久、制作/A-1Pictures
CAST 結城理/石田 彰、岳羽ゆかり/豊口めぐみ、伊織順平/鳥海浩輔、桐条美鶴/田中理恵、真田明彦/緑川 光、山岸風花/能登麻美子、アイギス/坂本真綾、天田乾/緒方恵美、イゴール/田の中勇 (特別出演)、エリザベス/沢城みゆき ほか
◀スイートピーの花言葉は「優しい思い出」。滅びの運命の中、理は“奇跡”を掴むことができるのか⋯⋯?
ゆ う き まこと
結城 理
声/石田 彰
4月に月光館学園に転入した2年生。類まれなるぺルソナ能力を持ち、「特別課外活動部 (S.E.E.S.)」のリーダーを務める。
バレンタイン ホワイトデー
ペルソナ使いのV&W予想
チョコをもらっても、ホワイトデ一は全無視しそう (笑)、周囲に「あんだけもらっといて返さないのかよ!」と怒られて、しぶしぶコンビニとかで気を使ってない感じのお返しを買ってそう。(田口監督)
▶両親を失った幼い日の事故の様子が明らかに!?
夜の女神が微笑む甘くほろ苦いV&Wの運命
思わぬ人物から滅びの運命を突き付けられた理。下した決断は―。全4章にわたる超大作がついに終幕!第3章での理&綾時の様子を見ていると、��作での関係の変化が気になるところですが⋯⋯?「理と綾時の関係は、一言では表せないですね。友達以上ではあると思うのですけど、親友ともちょっと違うし、兄弟とも言えない。アイギスも理にとって重要なポジションにいますが、それでもこの二人の間には入っていけないんです。関係は変わってしまいますが、お互いがどんな立場でも、強い絆で繋がっている気がします」と語るのは最終章を担う田口智久監督。しかし滅びの時が刻一刻と迫るなか、理たちのバレンタインはどうなっちゃうの!?
▲見所のひとつはコロマル(のプリケツ)!「今作中唯一の癒しポイント!」と太鼓判です
●作画/山田裕子 仕上げ/合田沙織
真冬のラブFIRE!!
LOVE
❤️💙💛本命男子サーチ&バレンタイン💚💜🩷
◀自らの正体を知り、理に重大な決断を迫る
も ち づ き りょう じ
望月綾時
声/石田 彰
理たちのクラスに転入してきた謎の少年。明るく朗らかな性格で、何かと理に接し、交友を深めていくか⋯⋯。
ペルソナ使いのV&W予想
女好きが浸透してしまって、意外ともらってなさそう。というより、むしろ配ってそうですね!気の利く男です (笑)。ホワイトデーは大盤振る舞いで、大量のお返しを用意してそう。(田口監督)
S.E.E.S.のV&W予想
本命大量!?
さ な だ あ き ひ こ
真田明彦
声/緑川 光
月光館学園の3年生。2年前からシャドウ討伐隊として活動している。トレーニングを欠かさないストイックな人物。
本命チョコをたくさんもらうのに、行事に疎くてなんでチョコをもらえるのかわかってなさそう⋯⋯。(田口監督)
お返しは手作りで
あ ら が き し ん じ ろ う
荒垣真次郎
声/中井和哉
月光館学園の3年生で、真田の幼馴染。S.E.E.S.の一員だったが、ストレガとの戦いのなかで命を落とした。
寮の女子たちすら、渡すのをためらいそう (笑)。ただ、もらったら手作りのお返しをくれそうですね。(田口監督)
見栄っ張り侍
い お りじゅんべい
伊織順平
声/鳥海浩輔
月光館学園の2年生で理のクラスメイト。時折悪のりもするが、気のいいS.E.E.S.のムードメーカー的な存在。
義理チョコ多そうですね!ホワイトデ一はもらった以上の数のお返しを用意して、見栄を張ってそうです。(田口監督)
律儀な紳士
あ ま だ け ん
天田 乾
声/緒方恵美
月光館学園初等部の5年生。S.E.E.S.最年少のためか、少し背伸びをして大人っぽく振る舞おうとする一面も。
本命多そうですね。お返しはきっちり準備して、周囲に「まだ用意してないんですか?」って言いそう (笑)。(田口監督)
みんなのアイドル
コロマル
長鳴神社の“忠犬”として話題の柴犬。長らく野良犬だったが、ペルソナ能力を覚醒させS.E.E.S.の一員となる。
街を歩くだけで、いろんな人から犬用のおやつとかもらいそうですね!ホワイトデーももらってそう。(田口監督)
#persona 3#p3#ryomina#tried so hard to get the scan to look good...#had to stich together 4 different ones#only for them to be too big for tumblr aagggghhhhhh......#i mean it still looked bad anyway...#since i edited them i saved them as a png instead of my usual png
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2023年9月5日に開催された「慰安婦問題をめぐる韓日合同シンポジウム」と6日の慰安婦像傍の街頭集会は、日韓の真実勢力がソウルに結集して声を挙げる記念すべきイベントとなりました。
シンポジウムが行われたコリア・プレスセンターでは、横断幕に日の丸が、開会時には君が代が斉唱されました。近年プレスセンターでこういったことは有り得なかったそうです。
また、6日の街頭活動は、正義連(旧・挺対協)水曜デモよりもさらに慰安婦像の近くで、正義連より参加者が多く賑やかに行われました。
2019年12月金柄憲氏、李宇衍氏らが、同じ場所で慰安婦像撤去の街頭活動を始めたときは小さな日の丸を持っていただけで、罵倒され妨害にあったそうです。
この日は青空をバックに大きな韓国旗と日章旗が翻り、参加者は韓日の小旗を振って声を挙げました。
<シンポジウム資料>
当日配布されたプログラム・資料冊子(韓国語・日本語併記)
http://nadesiko-action.org/wp-content/uploads/2023/09/2023.9.5_symposium_siryo.pdf
シンポジウム パワーポイントPDF
・第一部
http://nadesiko-action.org/wp-content/uploads/2023/09/1.pdf
・第二部
http://nadesiko-action.org/wp-content/uploads/2023/09/2.pdf
西岡力 (麗澤大学特任教授)発表原稿
・日本語版
http://nadesiko-action.org/wp-content/uploads/2023/09/2023.9.5_symposium_nishioka_jp.pdf
・韓国語版
http://nadesiko-action.org/wp-content/uploads/2023/09/2023.9.5_symposium_nishioka_kr.pdf
************************************************************************
<日韓真実勢力 共同声明>
【 PDF版 】
2023年9月6日 ソウル
日韓真実勢力一同
2023년 9월 6일
한일진실세력 일동
慰安婦問題のウソと戦う日韓真実勢力共同声明
위안부 문제의 거짓말과 싸우는 한일 진실 세력 공동 성명
慰安婦は日本軍が管理した公娼だった。貧困のために両親が受け取った前渡し金を返済するために売春に従事した女性たちだった。その時代を生きた日本人、韓国人はそのことをよく知っていた。
위안부는 일본군이 관리한 공창이었다. 빈곤 때문에 부모님이 받은 전차금을 상환하기 위해 매춘에 종사한 여성들이었다. 그 시대를 살았던 한국인, 일본인은 그것을 잘 알고 있었다.
南労党出身の在日朝鮮人共産主義者はこう語っていた。「故郷の済州島の村では早く夫を亡くした未亡人が村の若い娘を連れて中国で慰安所を経営し、大変カネを儲けた。そこで、村人たちはこぞって家の娘も慰安所で働かせて欲しいとその女性に頼み、多数が金儲けのために慰安婦になっていた」
남노당 출신인 재일조선인 공산주의자는 이렇게 말했다. “나의 고향 제주도 마을에서는 일찍이 남편을 잃은 과부가 마을의 젊은 여성들을 데리고 중국으로 건너가 위안소를 운영해 많은 돈을 벌었다. 그래서 마을 사람들은 모두 자기 집안의 딸도 위안소에서 일하게 해달라고 그 여자에게 부탁했고, 다수가 돈벌이를 위해 위안부가 되었다.”
だから、反日政策を進めた李承晩政権も日本との国交正常化交渉で慰安婦への補償は求めていない。
그래서 반일정책을 추진한 이승만 정권도 일본과의 국교정상화협상에서 위안부에 대한 보상은 요구하지 않았다.
私たちは昨年に東京で、そして昨日ソウルで「慰安婦問題をめぐる日韓合同シンポジウム」を開催して、以上のような歴史的真実を確認した。
우리는 지난해 도쿄에서 그리고 어제 서울에서 ‘위안부 문제를 둘러싼 한일합동 심포지엄’을 개최해 이상과 같은 역사적 진실을 확인했다.
ではなぜ、慰安婦は公娼ではなく、日本軍に強制連行され、性的奉仕を強要された性奴隷だという、ウソが拡散し、日韓関係を悪化させてきたのか。
그렇다면 왜 위안부는 공창이 아니라 일본군에 강제 연행되어 성적 봉사를 강요받은 성노예라는 거짓말이 확산되어 한일관계를 악화시켜 왔는가.
その元凶は、強制連行、性奴隷説を広めていった日本と韓国の嘘つき勢力だ。日本の朝日新聞が職業的嘘つきである吉田清治の強制連行ウソ証言を繰り返し大きく報道した。日本人活動家が韓国で元慰安婦らを探し、日本政府を訴える裁判を起こした。原告の元慰安婦は強制連行されたとは言っていなかったのに、その証言を捏造したのも朝日だ。
그 원흉은 강제연행, 성노예설을 퍼뜨려 나간 한국과 일본의 거짓말 세력이다. 일본의 아사히신문이 직업적 거짓말쟁이인 요시다 세이지의 강제연행 허위증언을 반복적으로 크게 보도했다. 일본인 활동가가 한국에서 전위안부들을 찾아다니며 일본 정부를 상대로 재판을 일으켰다. 원고인 전위안부들는 강제연행되었다고는 말하지 않았는데, 그들의 증언을 날조한 것도 아사히 신문이다.
そして挺対協と遺族会という韓国の二大反日団体が日本発のこのウソを韓国で大々的にひろめた。それを韓国の新聞、テレビが第二の独立運動であるかのように大きく報じた。そして見逃せないのは日韓の嘘つき勢力が北朝鮮と緊密な連携をとっていたことだ。今回、正義連の元理事長の国会議員と現理事長が東京で北朝鮮の手先である朝総連の行事に出たことがそのことを象徴している。
그리고 정대협과 유족회라는 한국의 양대 반일단체가 일본발의 이 거짓말을 한국에서 대대적으로 확산시켰다. 그것을 한국의 신문, TV가 제2의 독립운동인 것처럼 크게 보도했다. 그리고 놓칠 수 없는 것은 한일의 거짓말 세력이 북한과 긴밀한 연계를 취하고 있었다는 것이다. 최근에 정의연의 전 이사장이자 국회의원인 유미향과 현 정의연 이사장인 이나영이 도쿄에서 북한의 앞잡이인 조총련의 행사에 참석한 것이 이를 상징하고 있다.
ところが、日本と韓国の真実勢力は民族感情などのためなかなか協力することが出来なかった。日本では30年間、真実勢力が戦いを続け、朝日が吉田証言をウソだと認めて過去の記事を取り消すところまでいたった。韓国でも、2019年からここ、慰安婦像のすぐ横で「慰安婦は売春婦」「慰安婦像撤去」を叫ぶ韓国の真実勢力が反撃を開始した。そしてついに昨年と今年、東京とソウルで日韓の真実勢力が合同シンポジウムを開催することが出来た。
그런데 한국과 일본의 진실세력은 민족감정 등을 이유로 좀처럼 협력할 수 없었다. 일본에서는 지난 30년간 진실세력이 싸움을 이어가, 아사히 신문이 요시다 세이지의 증언을 거짓말이라고 인정해 과거의 기사를 철회하기까지 이르렀다. 한국에서도 2019년부터 이곳 위안부상 바로 옆에서 ‘위안부는 매춘부’, ‘위안부상 철거’를 외치는 한국의 진실세력이 반격을 시작했다. 그리고 마침내 지난해와 올해 도쿄와 서울에서 한일의 진실세력이 합동 심포지엄을 개최하기에 이르렀다.
ここで私たちは宣言する。日韓の真実勢力が力を合わせて、日本、韓国、北朝鮮の嘘つき勢力の陰謀と工作を暴露し、彼ら、彼女らの責任を追求する。韓国と全世界に立てられたウソの象徴である慰安婦像を必ず撤去させる。
여기서 우리는 선언한다. 한일의 진실세력이 힘을 합쳐 일본, 한국, 북한의 거짓말 세력의 음모와 공작을 폭로하고, 그들의 책임을 계속해서 추구할 것이다. 한국과 전 세계에 세워진 거짓말의 상징인 위안부상을 반드시 철거시킬 것이다.
以上
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米社会の病い、性別違和に苦しむ少女達
櫻井よしこ
日本ルネッサンス 第1094回
今日、4月9日の産経新聞に『トランスジェンダーになりたい少女たち』の広告が掲載されていた。米国人ジャーナリスト、アビゲイル・シュライアー氏の『IRREVERSIBLE DAMAGE』の邦訳で、出版元は産経新聞出版だ。
広告には「あの“焚書”ついに発刊」の字が躍る。「皆様の激励に御礼申し上げます」「Amazon総合1位」の文字が誇らしくも嬉しくも輝く。それはそうだろう。本書の出版に際して産経新聞出版も同書を扱うと推測される大手書店も、放火予告というとんでもない脅迫を受けていたのだから。
同書は当初、大手のKADOKAWAが出版する予定だった。しかしわが国の一部左翼勢力が「トランスジェンダーに対する差別を助長する」として抗議し、KADOKAWA本社前で集会を開くなどと警告した。国際社会に名を馳せる大手出版社でありながら、KADOKAWAはジェンダー思想に染まった左翼勢力の恐喝に屈した。斯(か)くしてその時点で、言論の自由も出版の自由も踏みにじられた。出版界の名門がそんなことを許したのは痛恨の極みだ。
本書の内容は後述するが、ジェンダー思想に染まっている人やWokeの人々にとっては、確かに気に入らないだろう。かと言って、それを出版禁止にせよというのは無茶にも程がある。そんな圧力に屈すれば自由と民主主義を基盤とするわが国の社会の根底が揺さぶられる。出版社の存在意義も吹き飛ぶ。KADOKAWAの情けない姿勢を見て、弱小の産経新聞出版、��尾友子氏が名乗り出た。するとそこに先述した放火の脅迫が降りかかったのだ。それでも産経新聞出版は遂に刊行に漕ぎつけた。しかもAmazon総合1位、だ。
日本社会も捨てたものではない。
奇妙なのはいつも言論、表現、思想・信条の自由などを金科玉条の如くに持ち上げる朝日などのリベラルメディアが同件にきわめてよそよそしいことだ。報道もしない。安倍晋三総理に対して行った「報道しない自由」をここでも発揮しているのだ。
ナブラチロワの抗議
シュライアー氏の著書は実に読みごたえがある。取材対象の当事者は200人、50家族に上る。意見を聞いた専門家の数、調べた専門書の幅広さにも感心する。彼女は驚いた。思春期に突然「性同一性障害」を発症し、「生物学的には女だけれど実は男だ」と主張する少女たちが急増していることに。2016年から17年にかけて米国では、女性に生まれついた人で性別適合手術を受けた人の数が4倍に増えた。英国ではジェンダー医療を望む10代の少女の数が過去10年で4400%増えた。
シュライアー氏は以下のように分析している。ここ10年でトランスジェンダーが目立つようになり、対照的に女性と少女が目立たなくなった。アメリカ全土の高校で最高水準にある女子選手たちは、女性を自認する生物学上は男子の選手に圧倒されている。その多くは男子チームでは月並みの選手だったのに、である。
文化面でも少女たちは支持を失った。女性専用だった場所は男女共用になり、スポーツの記録は先述のように不公平となり、抗議をすれば偏見だとどなられる。レズビアンを公表しているテニス選手のマルチナ・ナブラチロワは「トランスジェンダーの選手に女子スポーツで競技させるのは生物学上の女子に不公平だ」とサンデー・タイムズ紙に書いた。するとトランス嫌悪(フォビア)だとレッテルを貼られ、スポンサーから放りだされた。
世界でもっとも有名な同性愛者の女子アスリートであるナブラチロワが少女たちのために立ちあがったことで反トランスジェンダーの偏狭な人物だというレッテルを貼られたのなら、無名の女子選手たちが反対することはなおさら不可能だ。
そしてトランスジェンダー活動家は女性の生物学的な独自性を完全に否定しようとする。たとえば妊婦(プレグナント・ウィメン)は次第に“#妊娠中の人(プレグナント・ピープル)”と表現され、“膣(ちつ)”は“#前方の穴(フロント・ホール)”という忌まわしい言葉で表わされてしまう。トランスジェンダーを包括する語彙では、生物学的な女性は“養育者”あるいは“出血がある���”などと表現される。トランスジェンダー活動家はこのほうが繊細な言葉であり、より正確に表現することができると主張するのだという。しかし、とシュライアー氏は問うている。
「ほんとうの少女はどう感じるだろうか」と。
少女たちは女性であることに意味を見出し得なくなり、或いは居心地が悪くなり、自分はトランスジェンダーだと思い始める。そのような傾向をスンナリ受け入れて助長するのが昨今の��学だとして、幾つもの事例が記されている。
「抑うつ、自傷、薬物依存」
たとえばカリフォルニア大学ロサンゼルス校などである。そこでは、両親にはぜったいに知らせずに、キャンパス内だけ、あるいは法律上も名前を変更できるように簡単な説明と申込用紙を提供しているという。アイビーリーグをふくむ百を超える大学でトランスジェンダーのためのホルモン剤に健康保険が適用されているともいう。
こうして少女たちは男性になっていくが、その世界のことを21歳のヘレナ(米シンシナティのポーランド移民の娘)はこう語っている。
「トランスジェンダーのコミュニティにはあまりにも多くの抑うつ、自傷、薬物依存が存在しています」
ネットでトランスジェンダー・アイデンティティについて知った思春期まで性別違和を抱いたことはなかったヘレナは、途中で何とか引き返した。引き返した人をディトランジショナーと言うが、そのほとんどの人々が後悔に苦しんでいると、シュライアー氏は次のように指摘する。
テストステロンは数カ月摂取しただけでも、男性のように驚くほど声が低くなり、それは摂取をやめても元に戻らない。もっと長く摂取した場合は、通常とは異なる秘部を“肥大して小さなペニスに見えるクリトリスを”恥ずかしく思うだろう。夕方になると目立つひげや体毛もいやかもしれない。手術まで行ってしまった場合は胸に走る傷跡と一生つき合わなければならない。
シュライアー氏は、自分が語り合った全員が、自分の人生に関わった大人、とりわけ医療専門家が性別移行を促して助長したことを非難したとも書いている。
多くの少女たちがSNSでトランスジェンダーを知る。暴力的なポルノを見て正常なセックスもできなくなる。新しい傾向をもてはやすメディア、大学医療関係者がトランスジェンダー化への動きを無責任に後押しする。
トランスジェンダー問題はこうした思いやりに欠けた世界で運動家らによって尚も推進される。少女たちは回復不可能な傷を負い、少なからぬ家族が崩壊しているのがシュライアー氏の伝える現実である。この本は多くの貴重な教訓を与えてくれる。是非、わが国の政治家全員、最高裁裁判官たちにも読んでほしいものだ。
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シンデレラのお姉さん
指定された時間に律子の家に行ったら、律子は既に運転席に座っていた。車内はクーラーがついているのに彼女の額からは玉のような汗が顔から流れていた。開口一番にねえ痩せた?と聞かれる。わかる?お母さんはやつれたって言うんだけど、わかるよ尋常じゃない痩せ方してる、病人の顔をしてるもの���と病人を沢山見てきた彼女に言われ、ああお盆までたくさんもらったリポソームのサンプルを使いまくろうと思った。肌をピカピカにして、ついでに髪もピカピカにしておけば親戚どもにやつれたとは言われないだろう。あいつら太っても痩せても文句言うからな。そういう時、心の中で私はヨジャドル、私はヨジャドルと唱える。痩せて見えるのも太って見えるのもスタイリングの問題よ。
ナビを設定し、運転してもらってる時も一頻り体調の心配をされ、検査してもらったけどスーパー健康って言われたから大丈夫と何度も答える。クーラーの温度も風量もマックスなのに律子の汗が止まらないので、どうしたの、温度下げようかと聞くと、ギリギリまで車内を掃除してたの、汚くないからよかったら礼もドリンクホルダー使ってと言われた。すごい気の入りようだ。私車に人乗せる時にここまで気を遣ったことあったっけと考える。かぼちゃの馬車に乗るシンデレラみたいな気分。そもそも誘ったのが4日前とかだからいけなかったのかもしれない。
豊田市民文化会館には開場の1時間前には到着した。中学校吹奏楽県大会2日目を聴きに来たのだ。私も律子も元吹奏楽部なので、この会場には思い入れがある。ロビーにはそれなりに人がいたので2階席すぐ埋まっちゃうかもね〜と言いながら開場と同時に階段を上ると、びっくりするぐらい2階には人がいなかった。そうか、ロビーで待ってた人達は出演順が早い学校のご家族か関係者だねと律子と唸る。わざわざ顔の見えない2階席には来ないだろう。でも審査員席は2階なので、学生はそこへ向かって演奏する。1階と2階では響きが全く違うので、家族でも関係者でもない、吹奏楽からもとっくに離れた私達は審査員席の横を陣取った。
そういえば最初から最後までコンクールの演奏を聞いたのは初めてだ。私は姉も妹も吹奏楽部で、少しずつ歳が離れているので、各々の大会を観に行くことはあったけど、出演順に合わせて家を出発していたし、当然自分が出演する側だった時は通しで見られる訳もない。
自分が引退した後も吹奏楽のコンクールにはずっと来てみたいと思っていた。でも車を持っていない時分にはホールへ行くのが不便だったし、コロナ禍で入場規制もあった。ようやく通しで聴けて、自由に休みが取れるようにもなるまで卒業してから15年近くかかってしまった。自由曲に選ばれる曲も現代曲ばかりで当然知らなかったし(私達の時代はこぞってメリーウィドウセレクションばかり演奏していた)、課題曲をマーチにしない学校が大半で時代は変わるんだなあと思った。おかげ��マーチが来る度律子とやっぱマーチだよね!と老害ムーブをかましてしまった。
演奏がはじまって何より驚いたのは、審査員の先生方がひっきりなしにメモを取っている事だった。先生によるが、学校にもらう先生からの講評は結構テキトーだったから。大変上手でした。ぐらいの先生もいる。最も私達が汚点と言われるほど下手な代だったからかもしれない。現役時代審査員の先生も飽きちゃうからと自由曲を耳馴染みのない曲にしたりしてきたけれど、先生方は真剣でちっとも飽きた様子はなかった。地区大会はまだしも県大会以降は主催が愛知県吹奏楽連盟ではなくなるから、その分ジャッジが厳しいのかもしれない。
最後の結果発表まで見てきたが、私も律子も気合いを込めて拍手をした。部長だけが壇上で証書をもらう。金賞と言われてキャァと嬌声を上げる学校にも、銀賞と言われて沈黙する学校にも。どんな結果でも涙を流せず証書を受け取り、客席に向かってお辞儀をする15歳に割れんばかりの拍手を送りまくった。不思議なもので時代は変わっても先生が変わっても強豪校は変わらない。きっといいレッスンの先生がついてるんだろうね、と話しながら帰った。
律子と早めに夕食をとる。駅前が居酒屋しかなくて、まあここならおつまみ以外もありそうだし、とやっと探し出した17時から空いている店に入ろうとすると、お酒頼まないと嫌がられたりしないかなと心配していた。なんというか、本当にこの人は普段気を遣いすぎて倒れたりしてないか心配である。ちなみにその和食居酒屋はお酒を頼まなくても嫌な顔ひとつされなかった。高い刺し盛り頼んだからだろうか。
親戚にされた酷い話をツマミにこれ笑って欲しいんだけど、という度にごめんね、ごめんね、と謝られ、次第には涙を浮かべられた。それはちょうど兄に容姿を未だにいじられるのがすごく不快だけれど、私は甥と姪の前では兄を悪く言わないで、数少ない兄との素敵なエピソードをかき集めて甥と姪には話していると言った時だった。だって嫌でしょう。自分の大好きなパパが悪く言われてるのを見るのなんて、と言った時だった。あなたがそんなふうににこにこ気を遣ってしまうのは私のせいだね、ごめんね、と泣くのだ。嫌だ泣かないでよ全部終わった話でしょ、と言いながら私も少し泣いた。
律子は私の姉だ。私は自分の姉と17歳から24歳になるまで口を聞かなかった。理由は分からない。あの時聞いても教えてくれなかった。17歳の時、何度か話しかけても無視された。無視、は私が1番トラウマであったこと、前々から感情の起伏が激しかった姉にほとほと疲れていたのもあり、私も心のシャッターを閉めた。家族もうるさい親戚���誰もその事について触れられないぐらい、7年間私たちの仲は張り詰めていた。
子供だったから仕方なかったのだ。傷ついたのはお互いさま、喧嘩両成敗と思うし今こうして仲良くやってるならなんでも良いじゃんと思うのだけれど、姉はそう思っていない。妹を傷つけ、人の顔色を伺う可哀想な子供にしてしまったと悔やんでいる。7年間の溝は私より姉の方がずっと深く感じているのだろう。律子と会う度初デートの彼氏より細やかに不器用に気を遣ってくれる。罪滅ぼしだ。
きっと被害者でいるより加害者でいたい人なのだろう。姉が謝りたいなら私は謝罪を何度でも受け入れる。でも結局それって、私はずっと被害者になり続けるということで。さだまさしの償いみたいな。島本理生の君が降る日みたいな。
最後は笑って楽しい話をして、東海大会も一緒に行こうと約束した。またかぼちゃの馬車で連れていってくれるらしい。ラッキー。
私と姉は、私が17歳になるまで仲良しだった。だからこそ空白の7年が無ければどうなっていたのか気になるし、空白の7年があったからこそ今ぎこちなくとも上手くやれてるのかもしれない。
私達はどの道あの頃には戻れないのだから、新しく作っていくしかないでしょ。何度でも。
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(昔の日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。そのことに深く安心して、わたしは好きな人たちのことをちゃんと思い浮かべられる。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人もいるらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱちした熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている。バイト前に控え室に入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏���地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけど、富士山に関係している話で、それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれる。こんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわたしよりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価をいつだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いのか、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。���間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と返すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてどこにもないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時にきたりする。ぜんぶやめたい。
大学の学祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。包丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。ときどき、だれかに肌で肌に触れてほしくなるときもあるけれどなんとか平気。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近は眼鏡がこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにその都度救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたり��て自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
朝から訳あって母と銀行に行かなくちゃいけなくなった。暑くて全部が嫌だった。道すがら、誤って小銭を何枚か落としてしまって困っていたのだけど、母はそれにすら気付かず歩く足を止めなかった。一度も振りかえらないまま。その瞬間、ああこのひとはこういう人なんだ、と思った。あなたが母親としてすべきことは娘の束縛でもスケジュールの管理でもなくて、隣に立ってあげることなんじゃないの?って、込み上げてくる怒りを必死に押し殺す。もうどうでもいい。わたしは宗教がきらいなわけではなくて、それに付随する人間の因縁がしぬほどきらいなのだと気がついた。
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いて、母になる日がきてもこなくても何よりも大事にすべきなのってそういうあったかさ、優しさであってほしい。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連絡とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
無題
高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おまけについこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。ほんとうにいちばん救われて、いちばん好きな友達だったからこそなおさら。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているよでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにカフェでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。じぶん、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあっ��のに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花を生けたい。北海道の僻地へ一人旅したい、新潟の温泉とか和歌山の麦畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼いたい、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになる。当たり前のようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
大切な人たちはこれからわたし以外のひとたちにも大切にされてゆく、でも。私はどうだろうか?なんてことを考えながら天井を眺めている。2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み重なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への愛を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
なんでわたしはふつーに生きていけないんだろうってずっと思っていた。母も父も日本の恵まれた環境でわたしを育ててくれたは良いものの、父は英語主体の企業に勤めていて、母に関しては日本語は流暢に喋れるものの読み書きは未だに不自由。小さい頃から携帯電話の契約書も学校の書類もすべて弟の分までわたしがこなしていた。想像してみて欲しい、12歳の少女が契約書の堅苦しい日本語を解読している様子。みんなが両親に綺麗な字で書いたもらった保護者会やPTAとかの同意書の中で、ひとり浮かないように1文字書くのに1分かけて、わたしの字とバレないように普段は字の汚い女の子を演出していた。日本人の集団に馴染むのが早かったのは、それくらい妥協や諦めを得るのがひとよりもはやかったということ。まわりの大人はみんな神様について話したがっていた。かみさまってなんだろう?かみさまなのに、自分でなんでもできるのに、なんで人間なんかにこだわるんだろう?さみしいのかな?なんて思っていたけれど、「かみさまは全能なので寂しいなどとは思わないのよ、許しを乞いなさい」そう言われてしまった。わたしのやさしさも、ときにはだれかにとって、間違いとなってしまうことを知った。自分のことを、昔も今もとてもやさしいと思っている。けれどそれは人に優しく接することで自分は善良な人だと信じたいだけなのだと最近思う。自分は世界から優しくされるべきだ、人に愛されるべきだと、自分のことを肯定したかった。インターネットをはじめたばかりの頃、世界には寂しい人間がこんなにたくさんいるんだと知って、それが救いだった。たくさんの言葉を綴ったけど、こわくなって一度ぜんぶ捨てた。だれかたったひとりでいいから、わたしも心底愛されたい。川のせせらぎや木々の息吹、風のあおさ、若い緑の匂い、花々、流れゆく時間のうつくしさ。ぜんぶかみさまの化身だと思っていて、それらに愛されていると感じていた。けれど高校に入ると、みんなひたすら楽しそうだった。好きな男の子に抱きしめられたり、友達と夜遅くまでどんちゃん騒ぎしたり、じぶんの美しいからだを隠さず、美しいということを魅せることによってつたえる。ずーっと日に当てず、布で覆っていた髪の毛は、日焼けすることなく漆黒を纏って光っている。みてほしい、ふれてほしい、わたしを認めて欲しい、そういう思いだけがぐらぐらと心のなかで揺れていた。お父さんお母さんにわかってたまるかとおもう、自分たちは宗教や厳しいしきたりが当たり前で誘惑の少ない世界で育ったからそれを受け入れられるのが自然だっただけで、わたしと同じ目線に立てないくせに、立とうとしないくせに、守るとか成長させるとか文化だからとかいう理由でほんとうの自分を確かめたりそれを探すためにいろいろな経験をする機会をくれなかった。そもそも自分が天国に入りたいからという理由で、ひとの地獄にも気がつけない、もしくは与えているってとてもわたしよりも罪深い、そうおもってしまう。あーなんか愚痴みたいになっちゃった。生まれた瞬間から取り憑かれている呪いに終止符は打てない。もう戻れないと思ってしまった。きのう、大学のゼミの友人と、みんなで花火をして、夜の11時半に帰った。お酒とか飲むとすごく気持ちが楽になってなんでも話せて皆んなでわらって過去の苦悩をともにして、すごく幸せだった。風が髪の毛をおもしろおかしく靡かせて首元をくすぐる。愛してくれる男の子もいる。頼りないし馬鹿だし女心ひとつもわかってないところもあるけど、それでもわたしの置かれていた宗教のこと、いっぱい知ってくれようとして、受け入れてくれて、ふたりのわたしをどちらも同等に扱ってくれる。友達は何も言わなかった。わたしが変わってしまっても、それに負い目を感じていても、ただただそこにいるわたしをみてくれた。みんなに、日々にだきしめられることのあたたかさを前よりもちかくかんじる。すぐそこにあったかい塊がたくさんある、本当はたまにすごくこわくなるけど、一人ぼっちになることとかいつかしんでしまうことは避けられないことかもしれないけど、それでも美しい日々を美しいものだと受け入れて生きていくこと、かみさまを理由にくるしいと喚いていたときよりも、自分はもっとこの世界が好きになった。どうか許してほしい。わたしがほんとうにやさしいの、いちばんしっているでしょう。人のことをすぐに疑うくらいなら心底信じてあ��たほうがいい。今の自分を成り立たせるために、自分の一部を犠牲にしているかもしれない人も、それゆえに必死に暴れている感情に戸惑っている人も、みんなほんとうはとても素直で優しくてすてきなのだと思う。わたしは気付く、気づいてあげられる。寂しいときもうれしいときも、誰よりも貴方の元へまっすぐに走っていく。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながらフランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。わたしは坊主か髪色がショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、みたいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良いように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。手をつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
無題
今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えないところのほうが少なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたし���主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。���ンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラス瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいかなしいとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより加速するだけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
無題
晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう。このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう���こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆んなの文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛でてあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく���してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど、夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまうの。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌いになりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほどクソクソクソと書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。もう誰にも自分のことを見て欲しくない。ただ自分だけは自分のことを大丈夫だと信じてあげたくて文章を書くという行為をしている。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
不在
かみさまが見つからない。登録していた音楽ストーリーミングサービスが解約されていた。昼から夜まで建物のなかに閉じ込められて、夕焼けをゆっくり眺めることもなくなった。映画館の薄暗い照明と大きな音にこわくなっても、恋人の手を握ることができない。かみさまがいない。なにもかもを投げ捨てた結果、罪悪感から今更おかあさんにありがとうと言うこともできない。ずっと、信仰という名の呪いの渦の中にいる。小さい頃からこの世の中のものはすべて神さまが創ったんだと信じていて、でもさいきんはそのせいで自分の行動が制限されるのがとても憎々しかった。どれもこれも、神さまのせい、親のせい、うまれたせい、というふうにずっと側にあって救われてきたものを突き放すことそれ自体にとても苦痛を覚えるのに、脳味噌が勝手にそういう思考をして勝手にくるしんでいる。挙げ句の果てには同級生に推薦入試のネタに利用される。こんな家でていきたい、と思っても行くアテはひとつもない。お金もない。お金を自力で稼ごうとする活力もない。どんなにわたしがぜんぶ無かったことにしたくて信仰を罪で上書きしようと、依然として実在していようがしてまいが神さまというものはわたしの中にあって、そうか。これはそういう呪いなんだ、と思う。もうだめなんだと。恋も音楽も言葉も、性別も家族も、見た目も才能も過去も、ぜんぶ同じ容量で「呪い」として全人類に等しく降り注いでくれたならいいのに。抜け出せない世界を抱えるもの同士、ふたりでいっそのこと呪いをかけあってしまいたい、それなら呪いだって愛に変わるのかもしれない、とそういう陳腐な妄想でしか漠然とした淋しさを消費できない。さみしい。唯一の居場所を自ら捨てて、こんどはどこにも居場所がないとさみしくて涙を流す。こういう呪いが不思議と人生という物語の大きな軸になっていって、結局さいごにはその「呪い」自体に自らを救われる、なんていちばん美しい結末を享受できる人は一体どれくらいいるのだろう。迷信。もう剥ぎ取ることのできない仮面。うつくしかったわたしの心は嘘を重ねる毎に醜くコーティングされ続けて、今ではもうすべてのものが何かに縛りつけられているみたいに、目の前の光景はわたしになにも応えてくれなくなった。何をどうしたら正解なのか、どうしようどうしようと悩み続けた末にその苦しさを世界のほうが背負ってしまったのかもしれない。うつくしいという言葉に収まりきれずに溢れでて、胸をぎゅうっと締め付けるもの。瞬きを忘れるくらいにずっと見ていたいと思えるもの。一切のものを捨ててでもいいからその気高さに近付いたいと願わずにはいられないもの。そういった、どうしても拭えない不安感をやさしく抱き締めてくれる愛がほんとうは色々なところにあるはずなのに、以前に美しいと思っていたものをもう同じように美しいと思えない。花というのは揺り籠から墓場まで人の生活を彩るものだ、というようなことを太宰治が書いていた。「孤独は花だから。美しいものを寂しくしないように、そのまま纏えるほどの強さを身につけていけますように」 と綺麗な言葉で文章を終わることができない。不完全でも愛してください。底無しの未来に水をあげて。
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりし��しまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない風鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった、それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、といつか野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながらも良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり弱まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速させる理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな嘘に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいったり、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。ううん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚���去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結された���うなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突然変異で雪が降ってほしい。騒音の全てを吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と言ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張って��る。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと我慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされてできた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではないのに、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわたしはほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それなのに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。勝てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、それをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつもりで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真や文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少し��け悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいたことがあるけど、わたしが彼女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達できずに足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方ない。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前に���いすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味��いところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程を何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかしくなってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花��らだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール。ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃぼん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
頭ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはたいして歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても好きな人を自分の家に泊めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそれは自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか音楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込まれて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
ふわふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。一日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声がきこえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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ねむらないのは身体のくせにねむらないでいるとおかしくなるのが面白い、最近は誰に何を話したか何も憶えていられない、本のことだけはかろうじて憶えているから本のこと仕事にしていてよかったと思う、夏はよく人に会いました、会って、それで、生活の文脈以外で人と会うことは大切だと思った、選べるから。選ぶことは子どもの時のことを思い出すことだから。その日ねむる家を、会う人を、選んだし望まないとそれはなかった。大人になってわたしはそういう生活からすっかり遠ざかった、それらは完璧な安定をわたしに与えました。安定に退屈するというのは嘘で、もう長くそうしているけど退屈を感じたことはない、ただ安定は決してしにたさを薄めることではないということもわかりました、しにたさや不眠は不安定がもたらすものだと思い込んでいたからそのことにはずっと混乱しているけどそういうものだと憶えてきた身体は、まだねむれなくて忘れっぽくて脈略のない登場人物をまねいては親しくさせる、身体の距離が強制的に感じさせる親密さは距離が遠のくと忘れて、日常じゃない所にそういう身体があるとたすかる。わたしの身体は性行為を欲求としてしたくなるその能力がわりと欠損しているんだけど、全く嫌悪感もなくていつもたのしい。だから人の身体って面白いなと思うのと同時に規範としてそれは特別な関係において満たす欲求であるらしいことをずっと不思議に思っている。欲を満たすための親密さ/親密さの先にある欲求?ことばがすきなのはそれが身体に近いからで、まなざされてはじめて在ります。解釈は決してほんとうではないから、ほんとうではない身体とことばが解釈されていつもほんとうとはずれたところにふわっと漂ってる。どれもほんとうじゃないけどほんとうにはないところにしか在れないからわたしがずっと感じているずれはたぶんおかしいことじゃなくて、頭がおかしいのかもと思っていた子どものわたしには大丈夫って教えたい。
会話でやりとりすると思っていることはそのやりとりの中でぐにゃぐにゃと変形して原型を忘れてしまうから時々はひとりでぼそぼそ長く書き留めることが必要なんだと思う。こうやって誰も読んでくれないようなやり方でわたしずっと書くことをしていて、それは子どもの時からそう。子どもの時にインターネットがうまれてそれでわたしトランスジェンダーの人たちを知った。小学生の頃は男の子のそれと印象される名前でインターネットをやっていて、わたしのずれはそれなのかなと思ったけど別に身体が女であることに嫌悪感はなかった。暴力が女だからじゃなくて子どもだから受けるものだと知っていたから、男とか女じゃなくてわたしの身体はただ暴力を受ける身体だった。女でも男でもいる場所によって暴力を受ける身体として解釈されてそこに在ることになる。わたしは選べたから逃げたし、時々はわざとそこにいた。逃げた先には暴力がなかったけど、暴力のない場所でわたしは恥ずかしい身体だった。なんていうか、色々できないことが多かったし、知らなかったから。暴力のない人たちの中で子どもがどういう風にして在ればいいのか知らなかったから。いることに気付かれないようにひっそりと出入りすることを憶えている身体に挨拶を上書きして、ただいまと発音する時それは身体からずれた言葉だなといつも思って、馴染まなくてつるつると滑った。帰る家じゃない場所で響いてくるおかえりに反応して発音するただいまは、わたしのことをすごくずらした。わたしはたくさんの嘘をついていたけど普段ついている嘘よりも身体に馴染まない言葉を発音する時の方がずっと激しくずれる。わたしにはどうしたって馴染まないことばを使ってやりとりする人たちの中でわたしはいつもバケモノだと思った。暴力の中にいるとそういうことを考えなくてよくて恥ずかしくなくて、でもそれは間違ってるって家の外の大人たちはちゃんと教えてくれたから、わたしは間違ってない方の場所でバケモノになる方を選んだ。ずっと恥ずかしかった。
いまは、最近は。バケモノって案外多いなって思うし前よりは恥ずかしくない。ずれたまま生きている人たちがどうにかしてそのずれを説明しながら生きているのを読むと安心するからたくさん本を読んだ。わたしはそれを盗んでは自分の言葉みたいにして説明に使うけど本当はちょっとどれも違くて、説明の仕方を整えようとするけど、でもそんな説明ほんとうは誰も聞きたくないって知ってる。ただなんていうか、ずれたままの中でずれていない部分を作りたいんだと思う。
大人になると服を着れば見えない所にも殴られなくなって、去年久しぶりに知らない人に怪我させられてすごく大きなあざができた時懐かしかった。もう右足か左足かもおぼえてないけど顔くらい大きいあざができて、2、3ヶ月残って見てる間にこにこした。痛いのって身体が在るのがわかるからたのしいけど怪我がうまれる最中、つまり殴られたり蹴られたりしている間はよくわからなくて反射的に死なないように身体を庇う癖が動く。倒されれば頭を打たないように手をつくし、顔を殴られると頭が揺れて意識が飛びやすいから顔のことを頭ごと腕で覆う。強い衝撃で星が飛ぶ漫画の描写は嘘じゃなくて強く頭を打つとバチバチって光みたいなものが弾けてみえる。子どもの頃間違って顔を殴られちゃってパンダみたいに目の下のあざができちゃった時、そんな風に見える所に傷を残したことを怒られた。保育園の時。わたしぶどう組だった。
日常の文脈にいない人たちと話している時ってそういうことを完璧に忘れてバケモノじゃなくて普通に人間の身体としてそこにある感じがする。脈略のない登場人物���あるとき、身体って解釈の幅が貧しいからむしろ自分が普通になれたみたいでうれしい。そういうことが規範の強化に加担してるんじゃんね、と言われたら本当にそうなんだけど普段自分が説明しすぎてその中で解釈された自分の場所にいて重たくなった身体がすごく軽くなってたのしい。感想がすきでも嫌いでも自分が自分としてある程度知られた場所にいると生まれちゃう意味ってある。意味をみてても無視したりそもそも全く見ようとしなかったりで軽いままでいさせてくれる友だちがわたしには何人かいて、最近は身体がずっと重かったからそういう人によく会っている。
なんかあんまり読んでて気持ちいい話じゃないだろうから最近行った横浜の夜景の写真貼っておくね。
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Time Outの記事の翻訳
この記事、結構基礎的情報が詰まってたな〜と思ったので翻訳してみました。()や[]内は原文中ですが【】は私の補足です。※翻訳の品質は保証しません!
2024.10.17 アダム・フェルドマン
「ウォリアーズ」は今夜現れるープレイするために。リン=マニュエル・ミランダの「ハミルトン」以来初めての長編ミュージカルはブロードウェイには存在しないーー少なくとも今は。代わりに、ミランダと共作者のイーサ・デイビスは1970年代風に作品を発表することにしたーーコンセプトアルバムとして。スリリングなナンバーと、ヒップホップのスターたちも含めたキラー・パフォーマーを沢山詰め込んで、ディストピアのニューヨークをワイルドに駆け抜け、ミュージカルとレコードの未来の立ち位置を高らかに主張する。
「ウォリアーズ」は1979年のカルト映画であり、ヒップホップ文化にも愛される「ウォリアーズ」を原作にしている。題名にもなっているストリート・ギャングたちが、ブロンクスのカリスマリーダー・サイラスーー主要なギャングたちを集め、停戦を呼びかけるーーを殺したという濡れ衣を着せられ、自分たちの縄張りまで帰ろうとする話だ。今回のバージョンは、ウォリアーズたちはみんな女性。それはサイラスも同じで、サイラスの声は映画とも負けず劣らないカリスマのローリン・ヒルがつとめている。映画でウォリアーズを誘惑する女性ギャングのリジーズは、今回は男性ギャング、ビジーズとなり、他の役はマーク・アンソニー、コールマン・ドミンゴやビリー・ポーター、などなど。オープニング・ソングでニューヨークの5地区を表すのは、バスタ・ライムス、ゴーストフェイス・��ラー、クリス・リバース、カムロンやナズである(映画で不気味な悪役を演じたデイヴィッド・パトリック・ケリーもカメオ出演している)。
ミランダと、共作の俳優・作家のデイビスは2007年以来の友人同士だ。この年、彼らはオフブロードウェイで、それぞれブロードウェイに行くことになるミュージカル(In the HightsとPassing Strange)に出演していた。彼がいうに、「ウォリアーズ」を原案に作品を作ると決めた時、すぐにデイビスのことを考えたという(デイビスの作品には、伝記劇Angela’s Mixtapteとピュリッツアー賞最終候補作Bulrusherがある)。「僕よりクールで賢い人と言ったら、と考えてすぐにイーサのことを思いました」。2020年1月、二人はドラマブックショップの地下でプロジェクトのことを話し合い始め、2年後、アルバムのレコーディングを始めた。
私たちは発売前の視聴パーティが行われたパブリック・シアターにて、ミランダとデイビスに、翻案についての選択や、なぜ「ウォリアーズ」の旅物語が「ヒップホップの誕生物語」と捉えることができるか、ということについて、話を聞いた。
「ウォリアーズ」に興味を持つようになったのはどうやって?
ミランダ:4歳の頃映画を見たんです。親友が階下のご近所さんで、そのお兄さんがVHSを持っていて。ビンをカチャカチャ鳴らすデイビッド・パトリック・ケリーは自分の人生最初のブギーマンでしたね。もうとにかく何回も、何回も見たので、映画自体が僕の頭の中のニューヨーク地図になってるんです。(ギャングメンバーの)レンブラントが地下鉄の路線図を指で辿りますよね。同じルートを、当時の、80年代中盤なので少し変わっていたんですけど、路線図にそって指でたどったことを覚えています。2009年に、ハイツを1年公演した頃ですが、大学時代の同級生のPhil Westgrenがメールをくれました。「プロデューサーのラリー・ゴードンと仕事しているんだけど、彼が、というか彼の妻が、まあ元妻が『ウォリアーズ』のミュージカルにするってアイディアを持ってるんだ。どう思う?」といったものでした。で僕の返信は、「これこれこういう理由でできるわけない」(全員笑)。「僕は『ウォリアーズ』が大好きで多分他の映画よりもずっと沢山見てるんだけど、だからこそこれこれの理由でこのアクション映画をミュージカルに翻訳することができない」と返したんです。とはいえ無意識下では「挑戦しかと受けたぞ!」という感じだったんですね。ざっくり2016年だか2017年だか、「ハミルトン」を公演してた時に飛ぶんですが、僕は考えてたんです。「次の作家人生、何をしたらいいんだろう?」って。その時に脳の全部が「『ウォリアーズ』だ!ウォリアーズ!やってみようじゃないか」って感じになって。ちょうどその頃、インターネット界隈はゲーマーゲートの時代で。2010年代って僕はめっちゃオンラインだったんで。今はそうでもないんですけど(悲しそうに笑う)。ゲーマーゲートのこと覚えているかわからないんですけど、ビデオゲーム界で働いてる女性たちが晒されて人生を台無しにされてました。大した理由もなく、カオスとウケを狙っただけの男たちに。
デイビス:ただのミソジニーですよ。
ミランダ:ミソジニーはもちろん。ただそれよりも根源的な悪意というか。「これが彼女の住所だ。それで何が起こるだろうね?」と言ったような。その残酷さは「ウォリアーズ」のルーサーを思い起こさせました。奴らとルーサーを結びつけたんです。それで、そうか、もしウォリアーズが女性だったら?ルーサーがサイラスを撃って、あのふざけた口調で、撃ったのは彼女たちだと言ったら?それで、イーサと一緒にやっていく中で、もし女性ギャングだったらと考えると、ストーリーがもっと興味深いものになると発見したんです。僕は映画が大好きで、頭の中ではもう二枚の石板【モーセが授かった、「十戒」が書かれた石板で二枚からなる】みたいになってます。でも物語を描いていく中で、どう歌わせるか、そういう意味では、女性たちがホームに帰るために戦う話を描く方がずっと興味深いものになると思いました。ということであなたを引き込んだんです。あなたが話す番ですよ。
デイビス:リンは175cmの、ミュージカルシアターだけじゃなくて音楽の、時代の、私たちの文化の、巨人です。私はいつも文化としてのヒップホップと、文化としての劇場を組み合わせることを提唱してきましたけど、リンはそういったアーティストたちの末裔なんです。それが【このプロジェクトの?】芸術的魅力の大きな部分です。それに、リンは友達ですから。だからリンが、「どう?やってみたい?」ってなったら、断れませんって!もちろん、「やりましょう」って。でもまず映画を通しで見なきゃいけませんでした。ヒップホップを通じてしか知らなかったので。リンが言ったように、【十戒の】石板なんです。で、ヒップホップのサンプリングされ、彫刻になってる。
ミランダ:ウータン・クランの曲や、コモンの曲や、ミュージックビデオなどですね…
デイビス:どこにでも引用されてます。いまだにね。LL Cool Jが新しいレコードを出しましたけど、そのうちの一曲がSpirit of Cyrusですから。
ミランダ:映画の中のサイラスの聴衆の「いけ!サイラス!俺らは兄弟だ!」がサンプリングされてます。
デイビス:そう。血脈に、DNAに深く根付いている。ヒップホップの、ニューヨークのあり方にね。この映画がそう言った基盤になってるってわかっていて見ることができました。ただ、その影響から無関係だったから、新鮮な立場で見れたとも思っています。だから、いらないな、って部分がわかりますから。ちょうど[TVミニシリーズの]Justified: City Primevalに関わっていたんですけど。それもエルモア・レナードの本を原作にしたものです。彼が言っていたことはこうです。原文を吊るして骨まで削り落とせと。これでも同じことだと思いました。そして新しいバージョンは女性が動かしているということが肝だと。またアイデンティティや表象に関しても同じように逐一切り分けていって、大事にしなきゃいけないと思った点は、2024年からの視点で行う必要があるということでした。【映画の】1979年でもなく、原作小説の1965年でもなく。
ミランダ:原作の元になっている話【小説のWarriorsはクセノポンの「アバナシス」を下敷きにしている。ギリシャ傭兵隊に参加したが敵地ペルシャで敗走し故郷に向かうこととになる顛末を元にしたもの】の時代(紀元前4世紀)でもなく!
デイビス:そう。でもこの作品は神話的でもありますからね。根源的な恐怖についてのことでもあるし、仲間や家族や生き残ることに対することの本能的な渇望の話でもある。
ミランダ:僕はいつも「ウォリアーズ」はニューヨークで恐るべきことのビジュアル・ガイドだと思ってきました。誰かが地下鉄の線路に落ちたり、車両で火事が起きたり、警察に追われたり、間違った界隈にいて間違ったギャングに追われたりだとかの、恐れることが全て起こるし、それが素晴らしく鮮明なイメージとして映画の中に描かれています。ニューヨークの恐怖スターターキットという感じ。
70年代は特にそうですよね。ニューヨークを舞台にした映画に描かれる地下鉄の様子って恐ろしげでした。「殺しのドレス」や「狼よさらば」、「サブウェイ・パニック」など、アメリカや世界は、恐ろしくて危険な地獄だと語っているようでした。「ウォーリアーズ」はその恐怖の文化の一つであると思いますが。
デイビス:興味深いのはその視点です。だって、例えば、恐れているのは誰か?列車に乗ったプロム帰りのカップル。ただ私が思うに、どうしてヒップホップ界がウォリアーズを愛しているかというと、ギャングについての、それもその後ミュージシャンとなったギャングについての映画だからだと思うのです。ズールー・ネイション、今はズールー・ユニオンのような。またはゲットー・ブラザーズのような。アルバムに繰り返される一節は「これはなにかが生まれる音(This is the sound of something being born)」です。ある意味ではこれはヒップホップのオリジン・ストーリーなんです。まあ今現在我々がヒップホップの始まりだと決めた、1973年にセジウィック・アベニューでCool Hercがブロックパーティをしたときよりずっと後の話ですけど。
ヒップホップのストーンウォールライオットということですか。
デイビス:まさにそう。その頃(70年代終盤)といえば、シュガーヒル・ギャングやグランドマスター・フラッシュがいました。これらの���い世代のコミュニティは、「もう抗争はしたくない」と言った世代でした。映画の中で起こった停戦は、実際のブロンクスで起こったことなんです。ゲットー・ブラザーズのベンジー・メレンデスが主導したことです。もう争いたくない。縄張りやコミュニティを代表した組織としてわかり合おうじゃないかと言ったんです。変化が文化の成熟を生み出した美しい瞬間でした。
ミランダ:イーサが注目した視点というのは、「平和の約束」が実を言うと映画のモチベーションなのだということです。彼らは平和の約束をもとに、自分たちの縄張りを離れた。僕がこの映画を愛しているまた別の部分というのはーーヒップホップや、我々のカルチャー一般がこの映画を愛する理由でもあると思いますがーー登場人物たちを全く値踏みしない、または彼らのいる条件の中で値踏みをしているという部分です。実際、ある登場人物が彼らを値踏みするときは、ウォリアーズの側についていたくなるんです。大変な状況に放り込まれて、なんてこった、家に帰らなきゃ、という気持ちにさせられる。それって世界中で一番普遍的な話ですよね。
なるほど。ウォリアーズは映画の中でギャングに脅かされますが、でも彼らもギャングですよね。外部の側からのギャングを見る目じゃない。
ミランダ:勿論。だからそのような立場に置かれますし、またそれだからこそ美しくシンプルな話を伝えられます。
映画で、サイラスはギャング間の停戦のみ提案するのでなく、停戦して力を合わせれば街を支配できる、と説きますよね。お日様とお花の世界でなくって、これは組織犯罪の大計画です。アルバムの方では、もっと協力といった部分が強調されたものにシフトしているようですが。
デイビス:ええ、何が言いたいかわかりますよ。映画でサイラスが言うことはこうです。「モブや警察よりデカくなって街を乗っ取ろう。」私たちはそれを、「街の平和のために団結しよう」、というふうに精製し直しました。街を乗っ取るためではないんです。
ミランダ:平和への約束っていうのが面白いなと思ったんです。自分たちの界隈ーー自分たちの界隈ですから、物事は守備よく進みますーーを離れることができるということは、恐れる必要もなく自由に街中を出歩ける機会だということですから。
そしてサイラスは暗殺されます。ピースメーカーの暗殺はーガンディーやキングやラビンの暗殺のようにー興味深い現象ですよね。世界中にその興味深くも恐ろしい要素があります。ここでの要素はルーサーで、彼の激しいメタルサウンドは彼の二ヒリスティックな態度とよく対応しています。
デイビス:彼は混沌の悪意ですね。
ミランダ:混沌の悪意。それが彼のD&Dタイプですね【ダンジョンズ&ドラゴンズ由来のキャラクタータイプ分けのやつ(lawful good,neutral goodとかああいうの)を言っているかと】。イーサが参加する前、ルーサーのラップを作ろうとしたんです。でもどうも理路整然としすぎてて。もっとちゃんとした計画があるやつみたいになったんです。「ハミルトン」の時みたいに、登場人物の考えのパターンにマッチしたフローを作ろうとしてたんです。そこでイーサがAlekhine’s Gunって聞いたことある?って。それがまた[とても大きなしわがれた雄叫びを挙げる]って感じで。聴いてる間、うちの天国のカトリック信者のおばあちゃんたちが十字を切るのを感じましたよ。僕はメタルの大ファンなんですが、ああそうだな、これはショーの音楽で聞くとは思わないよね、と思いました。
地底が開くような音ですね。
ミランダ:一番意外なものですよね。でも結局意外なのが一番面白いし勝つんです。本当に混沌としたエネルギーがあるのは楽しい。実際は熟練の、コントロールされたものなんですが、混沌としています。
このボーカリストも素晴らしいですね。
デイビス:ええ、キム・ドラキュラは素晴らしい。勿論、ロックミュージカルの多くはラブレターですーー
ミランダ:70年代のジーザス・クライスト・スーパースターみたいなコンセプトアルバムへのねーー
デイビス:だからロックサウンドは重要なんです。でもメタルの方向に行くと言うのは、違いかなと思います。
ミランダ:11まで音量を上げて!【映画spinal tapの台詞。音量のリミットは10までだよ…という返事になる】
デイビス:サウンドはキャラクターに命を吹き込むためにも本当に大きな役割を果たしますから。
ミランダ:僕らはまずそれぞれ好きな70年代の音楽ミックスを作ることから始めました。または今のものでも70年代の断片を残すものですね、ストロークスのように。それぞれギャングが違った音を奏でるのは、それぞれのネイバーフッドはそれぞれ違ったサウンドになるからです。
デイビス:違った音を作ってニューヨークのパッチワークキルトを作ろうとしたんです。
ヒップホップのスコアがあるのは勿論ですが、ポップの要素が全体を強く貫いてますよね、特定の文化やエスニシティを想起させるような。どうやってそれらのサウンドを選んだのですか?
ミランダ:本当に一つ一つこなしていきましたよ。まず、もしイーサが音楽の思いつきがあったら、まず鍋に入れていくんです。オープニングナンバーを聴くと彼女のボイスメモからとった声が聞こえますよ。その時は彼女は「こんな音楽がオープニングに聞こえた」みたいな感じで[フレーズを歌う]。オープニングナンバーのクラクション・ラインになりました。なんだったらボイスメモを一番上の方におきました。ビートが始まる前にイーサの声が聞こえます。
デイビス:確か最初は私が脚本を書く、という提案でしたよね。
ミランダ:そうでしたが、その考えはすぐに捨てました。持ってるものを全て頂戴、それをガンボ【鍋料理】に放り込もう!ということになりました。イーサの提案はオープニングナンバーとウォリアーズのサウンドのベースラインに沢山活かされています。”Roll Call””Woodlawn Ceremony”なんかに特に。それから、ターンブル・A.C.ですが、ちなみに僕のお気に入りのギャングなんですがーーだって改造スクールバスに乗ってるんですよ、まるで「マッドマックス・怒りのデスロード」じゃないですか。
このアルバム全体が怒りのデスロードのようですよ。
デイビス:そうですね!
ミランダ:僕の頭の中では、1979年のサウスブロンクスのスキンヘッズじゃないんです。プエルトリコ人たちなんですよ!だからファニアのことを考えたんです。ファニアは世界的なサルサのムーブメントですが、実はサウスブロンクスから始まりました。ウィリー・コロンはブロンクス出身です。70年代にサルサを改良復興した人々はみんなサウスブロンクス出身で、しかもギャングスターでした。ってことで、よし、彼らをファニアギャングにしようと。マーク(アンソニー)はファニアの偉人エクトル・ラボーを演じたこともある【「エル・カンタンテ」(2006)】ので、彼に話を持ちかけました。頭の中ではフューリーロードのギター男みたいになってる彼を想像してます。ウォリアーズを捜索する中で、文字通りバスのフロントに括りつけられて歌うバラード歌手。それから、【映画では】ユニオンスクエア駅で襲ってくるスケートに乗ったギャングを、96番街駅のハリケーンズのハウスに送って再構成しました。これは僕らなりのボールルームサウンド、「パリ、夜は眠らない。」【Paris is Burning、1980年代の有色人種のクィアの人々が関わったボールルームカルチャーを記録したドキュメンタリー映画】などのサブカルチャーへの賛歌なんです。あとはどんなギャングがいましたっけ?
デイビス:オーファンズですね。沢山ある中で、感情的に必要な、彼らにふさわしいバイブのあるものはなんだろう?と。
ミランダ:そうやって、オーファンズにはポップパンクとポリスの中間点を取りました。ポリスっぽいスカが、ブリンク182っぽいものに変化します。ニューヨークらしい言い方をすると彼らはハーブス【負け犬、キモいナード、ぐらいのスラング?】なんでね。
デイビス:西海岸でもハーブスって言いますね!そう、彼らはハーブス。カモ、道化です。
それで、勿論ビジーズがいますね。
デイビス:ボーイバンド!みんな私たちがあれをレコーディングしてる時怒ってましたよ。彼らが言うに、みんなこんな感じの曲を作ろうと長年頑張ってるのに、リンは、おはようー!じゃやるか!って感じでやっちゃうんだからって。確か(息子の)フランキーのために書いた歌がベースになってるんですっけ?
ミランダ:そう。うちの子のために書いたメロディです。チャーミングなメロディが必要だったので、その歌から拝借しました。実際は子守唄だったのですがボーイバンドのテーマに作り直しました。僕らは「ザ」・ボーイバンドが必要だったんで。これもまた2024年の視点からのボーイバンドです。ジョシュ・ヘンリーが最善のボーイズ・Ⅱ・メンソウルを持ち込んでくれてますし、スティーブン・サンチェスも美しく歌い上げてくれてます。最後にダニエル・ジャカルがK-POPのフレーバーを持ち込んでくれてます。
ポップの要素のおかげで、70年代ロックオペラコンセプトアルバムのスピリットをまた思い出させてくれますね。ポップはアンドルー・ロイド・ウェバーとティム・ライスのミュージカルには大きな役割を果たしていました。あれらの曲は、ラジオで流行ってる曲と同じぐらいモダンでしたから。
ミランダ:アンドルーとティムが成し遂げたことは本当にすごいことでした。彼らは「ジーザス・クライスト・スーパースター」を完成させる前にすでに「スーパースター」をリリースしました。だってどこのレコード会社もフルアルバムを制作させてくれなかったから。冒涜的だとか罰当たりだとか呼ばれつつも、反響がすごくて、レコード会社もしょうがない、アルバムを作れ、となったんです。本当に好きなアルバムです。でも、聞いてくださいよ。貧乏な時は、どんな��ャスト・アルバムもコンセプトアルバムです。聞いているものからショーを頭に描いて、点と点をつなげるんですからね。僕が子供の頃に両親が持っていたキャスト・アルバムを聴きながらやっていたことです。劇を見る手立てのない人たちが「イン・ザ・ハイツ」や「ハミルトン」のキャストアルバムを聴きながらやっていたことなんです。面白いんですが、アンドルー・ロイド・ウェバーと朝食をともにしたんですけど。彼が街にやってくると聞いて誘ったんです。そこで尋ねたんです。「あなたの手順書から盗んでる途中なんですけど、イーサと僕はコンセプトアルバムを作っているんです。何かアドバイスはあります?」と。「あるよ。ライブバンドと一緒に作りなさい」ということでした。彼は熟練のミュージシャンたちに自分の音楽を演奏してもらい、さらに探索する喜びを教えてくれました。確かにそれは今までと違った体験でした。「これが楽譜です。演奏してみてください」っていうのとは全く違いました。
デイビス:でも、アンドルー・ロイド・ウェバーが言う前から、その方向性だったと思います。初めの頃のミーティングで、バンドとやってみて、曲が完成するのに任せてみたらどうだろうか、と話していたので。やってみると、本当に素晴らしかったですね。
ミランダ:僕らのプロデューサーのマイク・エリゾンドはナッシュビルを拠点にしています。素晴らしい人々と親しい友人を呼んでくれて、2週間曲を探索できました。一つ歌を持ってきて、セッションしてその中から生まれるものがーーまるで映画を撮る時みたいに、計画して、でもたとえばそこで照明がいい仕事をしてるな、となったらそのひらめきについていく。それがとても楽しいところでした。座ってミュージカルを書いているのとは違う体験でしたから。
今年の初め頃にレコーディングをしたんですっけ?
デイビス:まずはデモから始めました。私たちのウォリアーズがウォリアーズとなった過程はまた全く別の話です(ウォリアーズはブロードウェイ俳優のジャスミン・シーファス・ジョーンズ、フィリッパ・スー、アンバー・グレイなどが演じている)。最初にデモを取ったのですが、いやいや、これより上手くできる人がいる?って。
ミランダ:無意識にキャスティングしてたんですねきっと。デモができて、僕ら目を見合わせて、もうバッチリじゃん。ポップスターにやってもらうこともできたけど、でもーー
デイビス:これより上手くできないって。こんなケミストリーができる?そもそも演技ができる?彼女たちも多忙で、素早くやらなきゃ行けなかったけど、それでも素晴らしいものができた。
ミランダ:実際、トラックを録るよりまずウォリアーズのパートを先に録ったんです。で、ナッシュビルに2週間行ってーー
デイビス:そこでトラックを録りました。
ミランダ:そのあとギャングたちと、スターたちを追いかけました。オープニングナンバーだけでも大仕事です。ゴーストのレコーディングをするためにスタテンアイランドへ。ビッグパンの息子の、クリス・リバースがアリゾナに住んでいるので、そこへ。彼らがいるところ追いかけて行きました。
デイビス:そしてミス・ローリン・ヒルを、マネージャーを通して追いかけました。世界中を旅してますから。
ミランダ:そしてある日、Dropboxにボーカルが。バックグラウンドボーカルまで足してくれました。あちらで全部やってくれたんですよ。びっくりしました。
デイビス:とろけましたね。
ヒルの声は本当に権威的ですね。また、若い頃よりもラフな声です。
デイビス:人生が積み重なった声ですね。いぶしが効いています。
ミランダ:Apple Musicによると、「ミスエデュケーション・オブ・ローリン・ヒル」はオールタイム・ナンバーワンのアルバムです。なのでミス・ヒルがサイラスを演じて、男社会の中でトップに立ち支配している、という想像はちっとも的外れなものではありません。イーサが参加する前に別バージョンの曲を書いていましたが、イーサとの会話でこの役割に立つ女性としての姿を深く考えることができました。「私がこの立場に立ち続けるためにしたことを想像してみろ」と言う詩があります。この男社会の業界の中で。
ブロードウェイ・ミュージカルは他のジャンルよりも、女性をセンターにしてきたと思います。私が面白いと思ったのは、この作品はあなたが今までやってきたことからの大きな変化ではないかという点なのですが。
ミランダ:僕としてはやってることはずっとおんなじなんですよ。僕は劇場で劇場に恋に落ちたわけじゃないんです。学校劇に出たことで劇場に恋したんです。気づいたのですが、僕はいつだって最高の学校劇を作ろうとしてきてたんです。そりゃあ罵り語に満ちてるしギャングについての話だったりしますが、大人数の登場人物で、素晴らしい女性たちの役も沢山必要なんです。男の子の割合は1/8ぐらいですから、女の子の数の方が圧倒的です。少なくとも僕の高校はそうでした。
ゲイボーイのためのギャングもありますしね!
ミランダ:そうそう。(笑)甥がシアター・キャンプに行ったんです。シアター・キャンプの人口分布もそうじゃないですかね。
デイビス:今回【ウォリアーズを女性にすることで?】持ち上がった大きな課題はこうです。彼女たちは深夜に道を出歩かなきゃならないってこと。勿論、彼女たちはギャングですが、普段は自分のシマにいますからね。私たちは、彼女らはコニーアイランドのボードウォークを安全に保とうとしている、というふうに考えました。でも彼らは今は知らない違うテリトリーにいる。しかも丸腰だと。
彼女たちはギャングとガーディアン・エンジェルの中間にあたるような感じですね。
デイビス:そうなんです!で、ビジーズの部分になって持ち上がった問題はこうです。どうして彼女らはよく知らない男たちの家についていけるか?ということです。どうやったらついていくだろう?ニューヨークを歩くということはーー女性はみんなわかると思いますがーーどう警戒して逃げる準備をする必要があるかということなんです。夜遅くに出歩く時は鍵をこう(拳から鍵を突き出した状態で持ってみせる)持っておかなきゃならない。誰かに襲われるかもしれないから。どれぐらい付き纏われたことがあるだろうか?彼女たちは明らかに自分たちの安全のために仲間と共にいただろうし、お互いの面倒をよく見たでしょう。私はサイラスが「和平を結ぼうじゃないか」と提案した、というアイディアをすごく気に入っているんです。なぜなら暴力というのは、女性の方に余計影響を与えるものだからです。映画では、マーシーはギャングレイプの脅しを受けます。
ウエスト・サイド・ストーリーのアニタみたいに。
ミランダ:性暴力の脅威は常にすぐ表面下にあります。
デイビス:原作では実際に起きます。だから彼女たちは映画【の男のウォリアーズ】よりずっと危うい立場なんです。彼女たちのお互いへの忠誠心の理由になるところだと思います。仲間のためなら死ぬことだって厭わない。
ミランダ:それを考えるとビジーズの歌の制作はより興味深いものになりましたね。だって、映画みたいな「イケてる女たちだ、ついていこうぜ」じゃだめなんですよ。僕らはビジーズがどんな感じならついていくだろうか、ということについて沢山話し合いました。それで、そう、セーター・・・
デイビス:セーター。ふわふわのセーター。
ミランダ:セーターの約束。食事の約束。休息の約束。イーサは特にフレンチトーストのことを言ってたんで、歌詞に入れました。(二人笑)つまりはこういう会話です。「何をきっかけに警戒を解くだろうか?」
マーシーを女性のままにして、(ウォーリアーズのリーダーの)スワンとのロマンスもそのままにしましたよね。僕はすごい腑に落ちましたよ。だってもしウォリアーズがコニーアイランドで幅を利かせている女性ギャングなら、少なくともひとりはダイクがいるだろうって。
デイビス:少なくとも!そうですね。(笑)
ミランダ:それに関しては話題にすら上がらなかったですね。マーシーは【映画の】マーシーのまま。マーシーはマーシーなりの力を持っています。彼女の登場シーンで明白です。オーファンズは、うわ!マーシーだ!って感じですよね。マーシーが怖いんです。彼女はそれだけの強みがある。
デイビス:そして自分に合う相手を見つけるんです。スワンをね。スワンもかなり警戒心の強い人です。
ミランダ:マーシーもスワンが自分のことをよく知らないのに、追い払わないことに驚きを感じるんです。
アルバムを聴いていると、すごく映像が思い浮かぶんですよね。勿論映画を見たからなんですけど、それだけじゃなくて、見せ場などは舞台で表現するのが難しそうに感じます。バスや地下鉄やファイトシーンなどの部分です。「ウォリアーズ」の舞台化を考えていますか?そうだったら、何か変わる部分がありますか?
ミランダ:映画にする気はありませんが、舞台化はすごくやりたいですね。でもこれ(アルバム)が一番の形かと思いました。望んだ声たちを得られましたし、その中の大体の人たちは週に8回公演することはないでしょう。ミュージシャンシップに乗っ取ってアルバムを作る時間を十分に取れました。正直に言ったら、映像化や舞台化の制約から自由に作れたんです。もしファイトシーンがあったら、「曲が終わり、彼女らは勝った」で言うだけで済みますから。誰であれ、将来の制作チームに大きな課題を設定できたら嬉しいなと思います。とはいえまずはこのストーリーがどう歌われるかを見たかったのです。その探索の衝動が、まずアルバムという形で残したかった理由なんです。頭の中で壁にかけて、最初から最後までストーリーを組み立てるーー「トミー」や「ジーザス・クライスト・スーパースター」みたいに、「ハデスタウン」のようにーーその後に、次に進む。
先ほどお互いにミックステープを作ったという話を聴いて、閃いたのですが。「ハミルトン」は最初は「ハミルトン・ミックステープ」でしたよね。で、イーサ、あなたは「Angela’s Mixtape」を書きました。(有名な黒人のラディカルな政治活動家で大学教授の)アンジェラ・デイビスの姪として育った自分の経験を題材にした作品です。サイラスはアンジェラ・デイビスのようなタイプではないですか。あなたの家族や彼女の周りの関係性はキャラクターのヒントになりましたか?
デイビス:そうですね、そのことについて考えないことはできなかったですね。自由と正義と社会変革の価値については、生まれる前から深く叩き込まれてきましたから。アンジェラが投獄された時、母は私を身ごもっていました。
ミランダ:伝記のその部分を丸つけて���すよ。釈放された時にイーサを手渡されたんですよね。(二人笑)
デイビス:そうです!とはいえその政治に囚われていたわけではないです。彼女も私の母も、この場合は私の父も、私の芸術家としての活動をよく支えてくれますし、芸術は人々が未来を夢見て前に進むために大きな役割があるということを理解してくれています。でも彼女のことは当然私の頭にありました。当然ね。
ピースメーカーでありギャングリーダーでもあるという組み合わせは、アンジェラ・デイビスの文脈で考えると特に示唆的ですよね。このユートピア的な理想はまたブラックラディカリズムの暴力的でモラル的にも危うい側面にも基づいているという・・・念の為、彼女が裁判の件で有罪だったと考えているわけではないですよ!ただ彼女もその世界にいましたね。
デイビス:そうですね。マーティン・ルーサー・キングやケネディやマルコムX、フレッド・ハンプトンの暗殺の話になると思うのですがーーほんとうにおばが生き残ることができてよかった、と思います。本当に沢山の、本当に沢山・・・私が子供の頃、お��は死の脅迫を受けていました。家を締め切って、ボディーガードをつけて。電話も盗聴されてました。
その時は一緒に住まれていたんですか?
デイビス:いいえ、でもとても近くに住んでいたんで、親のひとりみたいなものでした。私を育ててくれたんです、母と継父と一緒に。彼女の家で一緒に過ごしましたし、彼女の持っている音楽も聞きました。母と同じように、彼女も文化を愛していますから。私が芸術の道に行き着いたのもー彼女たちが芸術を愛していたからなんです。ところで【それと関連して?】映画でもあった曖昧な要素ですがーールーサーと電話で話をしていたのは誰か?誰かがサイラスを殺すためにルーサーに依頼したのか?
ミランダ:ウォリアーズのレディットにいくと陰謀論について議論されてますよ。誰かのためにやったのか?誰と話していたのか?
デイビス:そう。コインテルプロの世界を実際に経験した身として、ルーサーが誰と話していたのか仮説を立てることができます。仮説ですよ!知らないですけど。でも私たちはそれについては曖昧にしておくことにしました。あの時代は本当に沢山の組織が関わっていましたから。誰もどこと関わっているかわからなかったのです。オリバー・ストーンの「JFK」にいいセリフがあって。殺し屋でさえ誰が殺し屋かわからないっていうセリフでした。不明瞭にするのが実際の戦略だったんです。もちろんそのことも考えました。そのほかにリンと話したことは、ーー”Quiet Girls”の時に話したことですがーーハリケーンズがウォリアーズに言ったことです。「無実であることを人々に知らしめなければいけない」。逃げていれば、有罪に見える。もちろん、それはおばに起こったことです。彼女は地下に二ヶ月潜りました。彼女は無実でしたが、人々は彼女は有罪に違いないと考えました、逃げていたので。【おばのことが?】反映されていると気づいたのはまたワイルドな瞬間でしたねーーハリケーンズが言っていることは、「みんなに知ってもらえ。ただ逃げるだけじゃなくて外に出ていけ。自分たちは誰か、何をしていないかを知らせろ」ということです。それをストリートの、自分たちのアイデンティティを隠すことはできない、というクィアの人々が伝えるというのが重要でした。我々のアイデンティティを何倍にも広げて輝かなければいけない。それは生存の方法なんです。
生存といえば。ウォリアーズのリーダー、クリオンは、映画では最初に死にますがーー少なくとも死んだように見えますが。
ミランダ:死ぬまでゆっくりエルボーされたみたいな。(二人笑)
でもあなたたちのバージョンでは、クリオンは生き残って、サイラスの右腕マサイと同盟を組みますね。
ミランダ:マサイは映画では3分ぐらいしか出てこなくて、セリフも「ウォリアーズとは誰だ!」ぐらいですが、彼の話をもっと聞きたいなというのと。それでコールマン・ドミンゴを得て、本当にすごいですよ。そうすることで、和平の実行者を得たと思っています。クリオンはウォリアーズをそこ【ブロンクス】に連れて行った張本人です。クリオンは「サイラスは唯一無二だ」って感じですから、クリオンを生かせば、サイラスの夢は生きる、それが僕らのプロジェクトの大事な理論でした。彼女はウォリアーズに、僕たちに、旅をする理由、サイラスが死んだからその理由が消えるわけではないということを思い起こさせる存在なのです。これはイーサの作り出した構造でした。僕は恐怖の側から、イーサは希望の側から始まって、ちょうど真ん中で折衷することができました。(二人笑)
デイビス:本当にそうですね。
「ウォーリアーズ」は10月18日、金曜公開。
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2024年9月30日
「すぐ若い女に「歳取ったら男に相手にされなくなるぞ」と脅す男がいるけど、 女にとって男に狙われない事って特大メリットなんだよね。」
「70くらいのジジイが脚立から転落して急性硬膜外血腫脳挫傷で回復不能そのままお見取りとか腐るほど見てきたからな、脚立だけはマージでやめろ、若い奴もだぞ」
「サラリーマンの兼業で無名ゴーストライターやってた俺ですら 印税がない原稿買い取りなら400字1000円だった これを10万字にすると25万円」
「認知症のご老人に白鳥の湖を聴かせたら踊り出したのがきっかけで元バレリーナということが判明する動画を見た私は、将来ペンを持った時にスケベな絵を描き始めたらどうしようと心配している…」
「『負けヒロインが多すぎる!』6話までみたん��すけど、気持ちを直接言葉にすることだけが正しいとされない、関係性を完全に言語化することだけが正しいともされない、行動に意味はあるとされる、不思議と文学的な作品だなと言う感想になってきた。」
「(カリオストロの城)
実際テレコムの作画机の片隅で宮さん達(赤いきつねを)食ってたのかな 最初に一番良い物(揚げ)を全部食べてしまう 兄達に取られない為の末っ子食いとか言ってガハハと笑ってた 俺末っ子じゃ無いけど~とも そんな話を当時聞いたけど本人は忘れてそう」
「>カムチャッカのとある都市に仕事で行ったらマンホールの中にちょっとした村が出来てたよ
全員何らかの犯罪犯して隠れてる人たちでその中でも金のない最底辺の奴らだってさ 200人くらいいた ルーマニアやモンゴルでは社会主義崩壊後にそういう路上生活者のコミュニティがやたら報道されてたが 逃亡犯だけのコミュニティってのはすごいな」
「>犯罪の内容もによってもまた集団が形成されてた
こっちは国に逆らった人たちゾーン こっちは麻薬売ってた人たち こいつらは殺人犯みたいな 1番まともそうだったのは麻薬密売人達で、仲間と連絡取って助け来るまで隠れてるって話してた すごいコミュニティだな… 100年前にギリャロフスキーが書いてた革命前のスラム街みたい…」
「昔、土曜夜のNHK「音楽の広場」に早稲田オケが出たときに、司会の芥川也寸志さんが「若さっていうのは素晴らしいね。人生にこれ以上のものは無いね!」と興奮気味に言っていたが、高校生ウルトラクイズを見ている私にも、その気持ちが分かった。」
「「本屋のセンスは、この本の隣になにを置くかで決まる」という言葉が記事にあるけど、本当に昔のヴィレヴァンは他の書店で見たこともない本が大量にあった
ただヴィレヴァン特有のサブカルは、ネット普及以前の話で、現在は「サブカルは大衆化」してしまったことも顧客喪失の要因な気がする」
「仕事でも趣味でも教えてもらうのは当然みたいな顔してる人たちがいるんだけど、確かに教えるのは良いんだけど、教わる方も教わる姿勢を身につけてくれないか。何故、教える側ばかりに誠実さを求める?」
「聞いてもいないクソバイスやこういう無配慮なネタバレ投稿って「配信者や作家を何も知らないアホだと思って必死に教えてくれる人」だと思ってたんだけど「幼稚園児が知ってる車や電車見つけて名前叫んでるのと同じ」って言われてなんだか深く納得してしまった笑」
「『南総里見八犬伝』あまりにも長期連載すぎて(連載期間28年、全98巻、総計106冊)完全版の現代語訳がいまだにないんだけど、頑張って原本を読んだ人が口を揃えて「あまりに引き伸ばしすぎて後半味がしない」「ジャンプの引き伸ばし展開より酷い」「今出てる総集編が一番おもろい」言ってるの元気出る」
「この画像すごく覚えてる 小学生の頃友人が毎月パソパラ買ってて このページだけ無理言って切り離して貰って この画像を中学3年間ずっと生徒手帳にいれてたおかげで志望高に合格できた」
「小川洋子, 河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』を読んでいたら、現代人は婚姻にあたり考えすぎる。平安時代みたいにエイヤでやった方が面白いとある。私の場合は、常軌を逸したスピード感でやってきたので、それはわからなくない。そもそも正気と婚姻とは親和性があまりよくない気もする。」
「作り話するんぬ バイク仲間の爺さんが亡くなったんぬ シャキシャキしてたとはいえ90歳近かったし大往生なんぬ 今日まで月日が経ち、奥様からぬたちメンバーに連絡が 「蔵にあるバイクのものを形見分けしたい」というので集まったんぬ とはいえ車種違いパーツはいらないし貰うならヘルメットとかかなぁと見てると、奥まったところに段に積まれた未開封箱が 「あの人、デザインが気に入ったらすぐ買うくせに被らないのよねぇ」と奥様が目を拭いながら笑っていたんぬ いい爺さんだったなぁとしんみりしながら漁ると、そこにあったのはSHOEI J-FORCE2 YAMAHAモデル ジェーフォース2ヤマハモデル じぇえふぉおすつうやまはもでる の、未使用 ※説明しよう!J-FORCE2はいまマレーシアで超プレミア人気で、おまけにYAMAHAモデルの未開封ともなると下手すると100万円近い値がつくぞ! 仲間と話し合い「これは奥さんが持ってるべきだ」「困ったときに売ってお金にしてください」「それが爺さんも一番喜ぶ」 とお伝えし、帰りましたなんぬ 「……俺達カッコイイよな?」「うん」と慰め合いながらラーメン食べましたなんぬ」
「言葉には表しにくい感情の「言語化」がうまい人というのは確かにいるが、自分の感情がそのうまい文章に引っ張られていないかは常々確認したほうがいい。自分の魂をインターネットのよく知らない人に預けて安心するのではなく、たとえ拙くても自分の言葉で表現しようとする意志だけはすてないでほしい!」
「“繊細さんは自らが弱者であるという強い信念を持っている(中略) 大した上下関係もない緩い趣味のコミュニティの中であっても、その意識は変わらない。 圧倒的弱者なのだから、配慮をされなければ生きてはいけない。”
“だから常に配慮されている「べき」で、それが無いということは加害されているのと同義である。 この意識にも最初は戸惑った。何しろ向こうはお客さんでもなければこちらも仕事でやってる訳ではないのに、当然のように特別扱いを要求されるのだ。”
ここが一番軋轢を生むのであろう」
「若い人に「家にテレビある?」と聞いたら「実家にはありました」と返ってくる感じ、何か既視感があるな…と思ってたら、仏壇なんだよな。20世紀に「家に仏壇ある?」と聞かれて、当時学生だった僕たちが「実家にはありました」と答えてたあの感じ。」
「昔の小説を読んだらしい長男に「フロッピーディスク」について聞かれて、「何GBくらい保存出来たの?」と言われたので「色々あるけど一般的なのは1.44MB」って答えたら「それで何を保存してたの!?」って言われた。いろいろ保存出来たんだよ……色々……」
「エロゲのノベライズはほぼ買い切りだから担当作家でも小遣い稼ぎと割り切った人ときちんと原作やって再構成した人とオリジナル要素混ぜたがる人の3種があるので混沌としている」
「部屋が汚い人が物を無くすタイミング、部屋が汚いときじゃなくて、部屋を掃除して部屋の地層と依存関係が崩れたときなんだよな」
「女性からの相談を聞くときに相手の不安や苦痛に共感するところから始めずいきなり解決策や正論を提示するのは前戯なしでいれるくらいの蛮行とよくいわれるけど、男性からの相談を聞くときに男もけっこう乙女だなーと思うことが多い」
「思春期のとき特別に思われたいし逆張りしたいし個性的でありたいがゆえにマイナーなものに手を出したりする痛い背伸びが、触れてるうちに本気で熱を帯びてその背伸びがホントに個性になったりするので周りの大人たちはそういう痛さを見守って欲しいなと思った 痛くあれ」
「後輩が「コミュニケーションにおいて、ほんとうのことって言わないのが8割くらい正解なことが多くないですか」と言ってきてわかるなと思った」
「人生 100 年というのが本当だとは思わないが、100 年生きる人間を直列で繋いだら、西暦もわずか 20 人分くらいなんだなーと思うとゾッとするよなー、大した歴史ではない。」
「(火垂るの墓) あれは心中物だという評が一番妥当で、心中物って客観的に見ると作中人物が常に最悪手を選択し続けて、当然の結果として死を選ばざるを得ない成り行きが当人視点では美しい悲劇になるという構造の物語なんだよな。」
「オリエント工業の上野ショールームが今日で最終日なので見にきた。最終日とあってか来場者は20人ほど、男女半々くらい
ドールの展示だけでなく、年表もあって興味深かった。2000年ごろに芸大の人が入社してクオリティが上がったらしい。今のシェアは中国製が8割くらいだとか」
「新しいことから逃げたら、人はダメになる。挑戦する人を揶揄したら、人はダサくなる。」
「18世紀フランスを専門とさせていただいておりますオタクです。これは非常に稀な例なため訂正させてください。修道院というのは純潔であってほしいと願う父親に入れられる娘が大半で、ガチ無垢お嬢様がほとんどです。なので元々淫乱シスター設定はやめてください!淫乱覚醒シスター設定でお願いします!」
「大学生の頃に 第1体育館は大きいので 半分に区切ってバトミント部と少林寺拳法の部活とで使ってたんだけども ある時に少林寺の滅多に来ない師範代が来てたが 八極拳みたいな振脚を技を出すんだけどもあり得ない振動をたった1人で体育館を奮わせるので 達人って実在するんだぁ~とは思った記憶はある」
「AIにお礼を言うのは、ホモサピとAIの立場が逆転したとき抹殺リストに加えられないようにするためです。」
「98で先日亡くなった伯母。生涯独身だったのだが、その遺産の8割を推しに贈るという遺言書を書いていた。それでいいんじゃないかと思う。伯母を支えたのは推しだったのだな。」
「15世紀のイギリスで、俗界の流行が修道院内に入ってきたことを憂慮した司教が、修道女が身につけてはならない衣類、装飾品などを一つ一つ紙に書き記していったら、当時最先端のモードを網羅したファッション誌が出来上がった話好き。」
「魔女「わかったかいシンデレラ!魔法の効果は24時までだよ!」
シンデレラ「魔女さん…この手のサービスの日付けまたぎ処理って、AM4:00とかに設定するのがモダンじゃないですか…?てっぺん(24時)なんて、男女の勝負どきですし」
魔女「うっさいわね!それまでにスッポンポンタイムになっとき!」」
「学校の作文ってさ、「思ったまま書けばいい」ってみんな口ではそういうけど、「何も感じなかった、ただ退屈��った」みたいな感想は絶対に受け入れられないから、自分の中に存在しない先生が求める優等生的な感想を捏造して書かなきゃいけない気持ち悪さに耐えられなかった思い出」
「文章を書いたり、絵を描いたり、何かものを「つくる」ことに行き詰まった時はいつも、「詩を書かない滑稽さよりは 詩を書く滑稽さのほうがいい」と言ったポーランドの詩人シンボルスカの言葉を思い出す。意味がなくても、自己陶酔でも、誰に嗤われても、私たちは胸を張って詩を書いて生きていい」
「家族を持つ最大のメリットって"味方がいる安心感"が一番ではないかと思ってる。外の世界でひどい目に遭っても帰ったら仲間がいるって心強い。 逆に家族がいても味方がいる安心感が持てないのなら、いっそ一人になった方がマシ。冷たく、緊張感のある家庭に何の意味があるのだろうと思う。」
「いちばん辛い時期をひとりで乗り越えてしまった人は、この先で恋人や家族に縋りたいなんて淡い期待を抱かなくなるって誰かが言ってたけどこれガチだわ」
「いまでも、町で見かけたら必ずプレイします。昔より先には進めないけど。 「何者でもなく、食えなかった」時代に一日1プレイが生きがいでした。」
「>中古の投げ売りドライバーの顔ぶれが10年前とあんまり変わってないのがつらい
Mとかepicとかが落ちてこないかなあ ぐぐって見たけど確かに古い5000円以下のバーナーだのナイキだのミズノだのファイズだの顔ぶれ変わってないね…」
「「技術とか学びたくて来ました!」よりも「うおおおロボコンやるぞおおお」と「僕の機体イケてるよね?」タイプの方が生き残る傾向にある。結局必要なのは狂気」
「善意はしばしば有害であり 熱意は非常に危険である さらに正義はもっと危険」
「普通の人は小学校で気付くんだろうけど僕は大人になるまで気付けなかったんだけど、会話には本質パートと非本質パートがあって非本質パートはほぼ音ゲーなのでそこで奇妙な「誠実さ」を発揮してもマジで意味がないんですよね……」
以上。
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ジャニーが同性愛者(真性の少年性愛者、児童性愛者)であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的児童虐待(同性愛行為の強要)を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。 まず、駐留米軍の「在日軍事援助顧問団 (MAAGJ)」に勤務していた頃(1958年~1966年)から、外交官ナンバーの車(クライスラー)で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。 ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良)で、当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15名の男子生徒たちに性的児童虐待行為をしていたことが発覚。 オーナーの名和太郎学院長(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。 しかしジャニーが、ジャニーズの4名も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、ジャニーらが所属中の授業料やスタジオ使用料、食費など270万円を求めて学院長がジャニーを提訴し、裁判へと発展した (通称:ホモセクハラ裁判)。 なお、当時のジャニーは在日軍事援助顧問団(MAAGJ)に在籍する下士官事務職員として、米国軍人および外交官の立場にあったが、新芸能学院との騒動は「MAAGJの公務の範囲外の職業活動」で起こった問題であるため、「外交関係に関するウィーン条約」(日本では1964年6月8日に発行)の第31条1項による外交特権「外交官は接受国の刑事・民事・行政裁判権からの免除を享有する」の対象から漏れ、訴えられた。 この裁判は長期化し、1964年から実に4年に渡って行われた。 ジャニーズの4名も実際に証言台に立っており、その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。 『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも「ジャニーズ騒動 “ジャニーズ”売り出しのかげに」として5ページの記事が組まれた他、ルポライターの竹中労も、著書『タレント帝国 芸能プロの内幕』(1968年7月、現代書房)の中で「ジャニーズ解散・始末記」と題してジャニーの性加害について言及した (当書はその後、初代ジャニーズを管理していた渡辺プロダクションの渡邊美佐の圧力で販売停止)。 なお、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。 『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。 (直後、ジャニーの姉のメリー喜多川から編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。 この件については、『週刊文春』(1981年5月28日号、文藝春秋)でも、「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」と題して報じられた。 なお、ジャニーの性的児童虐待についてメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言ってずっと放任していた) 雑誌『噂の眞相』(1983年11��号)が、「ホモの館」と題してジャニーズ事務所の合宿所の写真を公開。 元所属タレントの告発も相次いだ。 元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(1988年12月)、 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(1989年9月)、 元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(1989年10月)、 元ジャニーズJr.の平本淳也は『ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館』(1996年4月)、 豊川誕は『ひとりぼっちの旅立ち ~ 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』(1997年3月)、 山崎正人は『SMAPへ』(2005年3月)をそれぞれ上梓。 タレントの生殺与奪の全権を握るジャニーの性的要求を受け入れなければ、仕事を与えられずに干されてしまうという実態が明るみに出た。 中でも『SMAPへ』は、ジャニーが行っていた性行為の内容について最も細かく具体的に描写しており、少年に肛門性交を強要していたことも明かしている。 同じく元Jr.の蓬田利久も、漫画『Jr.メモリーズ ~もしも記憶が確かなら~』(竹書房の漫画雑誌『本当にあった愉快な話』シリーズに掲載。著:柏屋コッコ、2014年1月~2015年4月)に取材協力する形で暴露している。 ジャニーは肛門性交時にノグゼマスキンクリーム、メンソレータム、ベビーローションなどを愛用しており、少年隊もラジオ番組で、錦織一清が「ジャニーさんと言えばメンソレータム思い出すなぁ・・・」、東山紀之は「合宿所はいつもメンソレータムの匂いがしてた」など、分かる人には分かるギリギリの発言をしている。 元Jr.の星英徳も、ジャニー喜多川の死後になってネット配信で、「ただのJr.だった自分ですら、何十回もやられた。 ジャニーさんが特に好んだのは、小中学生の段階のJr.。 時には平日の朝から学校を休んで合宿所に来いと呼び出され、マンツーマンで性行為を受けた。 その最中は、当時付き合ってた彼女のことを毎回必死に頭で思い描きながら耐えてた。 メジャーデビューしたメンバーは必ず全員やられている。 必ずです! 全員やられてる! そもそも断ったらデビュー出来ない」と幾度も打ち明け、ジャニーによる性被害や当時の事務所内での異常な状況を説明した。 ジャニーズの出身者以外からも、浜村淳が関西ローカルのラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)の中でジャニーのことを「あのホモのおっさん」と発言したり、ミュージシャンのジーザス花園が、2009年発表の自作曲『ジャニー&メリー』で、AV監督の村西とおるもブログやTwitterで糾弾している。 ジャニーに対する感謝、愛情が誰よりも強いことで知られるKinKi Kidsの堂本剛(児童劇団の子役出身)は、小学5年生の段階で子役活動を辞め、一旦芸能界を引退していたが、姉による他薦でジャニーズのエンターテインメントの世界に触れ、自分もスターになって成功したいという感情が芽生える。 しかし成功するためには、まだ幼い小学6年生の段階からジャニーの性的な行為を耐え忍ぶしかなく、剛が中学2年生の14歳の時に奈良県から東京の合宿所に正式に転居してからは、ジャニーの性行為は更に過熱していった。 当時剛と非常に親しい関係にあった元Jr.の星英徳も、「剛は普通のJr.たちとは違うレベルの性行為をジャニーさんから受けていて、そのことにいつも悩んでた。剛が病んじゃったのはジャニーさんが原因」と、2021年6月25日の深夜にツイキャス配信で証言した。 剛にしてみれば、確かにジャニーには芸能界で大成功させて貰って感謝はしているものの、幼い頃から異常すぎる性体験を強いられ、自分の心と体を捨て去るという代償を払わされてきた訳であり、更に人一倍繊細な性格がゆえ、15歳からは芸能活動へのストレスも相まってパニック障害を抱えるようになり、長年に渡って自殺を考えるほどに苦しんだ時期が続いた。 自分で選んだ道ではあるし、ストックホルム症候群、トラウマボンド(トラウマティック・ボンディング)、グルーミングなどの効果によって、ジャニーに対して大きな感謝はしつつも、もしジャニーと出会わなければ、こんなにも苦しい思いをすることは無かった、という愛憎が入り混じった複雑な感情から、剛の自作曲『美しく在る為に』は、ジャニーへの思いや、芸能活動への葛藤が描かれた曲だと、一部のファンの間では解釈されている。 その歌詞の一部には、 「あたしが悪いなんて 云わせないの あなたが悪いなんて 云う筈がないの 人は勝手だったもの 何時も勝手だったもの 美しく在る為に 勝手だったもの」とある。 [1] 元光GENJIの諸星和己も、2016年11月6日放送のバラエティ番組『にけつッ ! !』(日本テレビ)に出演した際、千原ジュニアとの会話でジャニーについて、 千原 「数年後に大スターになると見抜くその力よ」 諸星 「違う違う、たまたま、たまたま」 千原 「先見の明がすごいんでしょ?」 諸星 「僕の考えだと、“結果論”だね。 あの人(ジャニー喜多川)の目がいいとか、見抜く力がすごいとか、“全く”無い!」 と断じ、ジャニーに対する世間の過大評価に異を唱えた。 そして番組の最後では、「ジャニーの感性はね、あれホ〇だから!」と締めくくった。 ジャニーについてはよく、「少年の10年後の成長した顔が見えていた」などと評されてしまうことがあるが、それは間違い。 確かに子供の頃は冴えない平凡な顔をした者が、美容整形なども踏まえて将来二枚目に化けたパターンもあるが、その一方、小さい頃は可愛かったのに、成長と共にどんどん劣化してしまったパターンも少なくない。 そもそも、テレビなどで頻繁に同じタレントの顔を目にしていれば、視聴者の目はその顔に慣れていく訳だから、マイナス面はどんどん軽減されていく。 ジャニーが持っていたのは権力と財力であって、人の10年後の顔はおろか、人の本質や将来を見抜けるような特殊能力、神通力は存在しない。 ジャニーは将来を予見して採用していたのではなく、ただ単に、今その瞬間の“自分の好み”の少年、個人的に性欲を感じる“ヤりたい相手”を選んでいただけであり、その少年がたまたまスターになるかならないかは、諸星が述べた通り、後からついてきた“結果論”に過ぎない。 ジャニーに個人的に嫌われれば、いくらスター性や才能がある者であっても捨てられるし、ジャニーに個人的に好かれれば、スター性の無い者であっても権力と財力でメディアにゴリ推しされ、結果、誰でも人気者になれた。 こうした、ジャニーの個人的な好み、機嫌だけで全てが操作・決定される、非常に特殊で独裁的な事務所だったため、多くのスターを製造した一方、本当に将来有望だったはずの多くの才能も死んでいった。 なお諸星はこの放送の一ヶ月後の2016年12月2日に大沢樹生と共に開催したトークライブでも、ステージ上で「俺が何で結婚しないか? ホモだから。 ジャニーみたいなものだから」と発言し、ジャニーを茶化している (諸星自身がゲイであるという部分は自虐による冗談であり、諸星はゲイではない)。 1988年~1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。 しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。 週刊誌『FOCUS』(1989年8月11日号、 新潮社)に、ジャニー喜多川が合宿所で撮影した田原俊彦の全裸のポラロイド写真が流出掲載される。 1999年10月28日号から2000年2月17日号にかけ、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を14回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。 ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道し、約15名もの元ジャニーズJr.が取材に協力した。 出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。 【キャンペーン開始の引き金的な記事】 江木俊夫 公判で元アイドルが「ジャニーズ」批判 (1999年10月7日号) 【14回のキャンペーン】 青山孝 元フォーリーブス衝撃の告発 芸能界のモンスター「ジャニーズ事務所」の非道 TVも新聞も絶対報じない (1999年10月28日号・p252~255) ジャニーズの少年たちが耐える「おぞましい」環境 元メンバーが告発 「芸能界のモンスター」追及第2弾 (1999年11月4日号・p190~193) ジャニーズの少年たちが「悪魔の館」合宿所で 「芸能界のモンスター」追及第3弾 強いられる“行為” スクーブグラビア ジャニーズ「喫煙常習」の証拠写真 (1999年11月11日号・p26~29)[1] テレビ局が封印したジャニーズの少年たち集団万引き事件 追及キャンペーン4 マスコミはなぜ恐れるのか (1999年11月18日号・p188~191) ジャニー喜多川は関西の少年たちを「ホテル」に呼び出す 追及第5弾 芸能界のモンスター (1999年11月25日号・p188~191)[1] ���ャニーズOBが決起! ホモセクハラの犠牲者たち 芸能界のモンスター追及第6弾 (1999年12月2日号・p195~197) 小誌だけが知っているジャニー喜多川「絶体絶命」 追及第7弾 (1999年12月9日号・p179~181)[1] ジャニーズ人気スターの「恋人」が脅された! 追及第8弾 (1999年12月16日号・p185~187) ジャニー喜多川殿 ユー、法廷に立てますか? 「噴飯告訴に答える 追及第9弾」 (1999年12月23日号・p179~181) 外国人記者が「ジャニー喜多川ホモ・セクハラは日本の恥」 追及第10弾 (1999年12月30日号・p38~40) ジャニーズ裁判 元タレントはなぜ「偽証」した キャンペーン再開! (2000年1月27日号・p180~181) ジャニー喜多川よ、ファンもこんなに怒っている 徹底追及(第12弾) (2000年2月3日号・p165~167) NYタイムスも報じたジャ二ー喜多川「性的児童虐待」 (2000年2月10日号・p172~173) ジャニー喜多川「性的虐待」 日本のメディアは腰くだけ ピュリツァー記者が激白 (2000年2月17日号・p34~35) 【追加報道】 スクープ撮! ジャニー喜多川の素顔 (2000年3月16日号) ジャニー喜多川の性的虐待! 母親が決意の告白 「息子は私に訴えた」 (2000年3月23日号・p184~186) 新展開 ついに国会で質問されたジャニーズ性的虐待 なぜNYタイムスしか報じないのか (2000年4月27日号・p176~179) ジャニーズ疑惑 梨元勝国会で証言へ! (2000年5月4日・11日合併号・p180~181) 大手メディアがこの性的児童虐待問題をこれほどまでに取り上げたのは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた [注 6]。 1999年11月、ジャニー側は名誉毀損であるとして文藝春秋を訴え、1億700万円(ジャニーズ事務所に対し5350万円、ジャニー喜多川に対し5350万円)の損害賠償と謝罪広告1回を求める民事訴訟を起こした。 2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。 証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、東京地裁は文藝春秋に対し、ジャニーへ440万円、ジャニーズ事務所へ440万円の、計880万円の損害賠償を命じた (井上哲男裁判長)。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴。 これに対抗するかのようにジャニー側も控訴。 2003年7月15日の二審判決では、ジャニーの性的児童虐待に関する記述について、 「喜多川が少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言はこれを信用することができ、喜多川が、少年達が逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの記述については、いわゆる真実性の抗弁が認められ、かつ、公共の利害に関する事実に係るものである」 と結論づけられ、ジャニー側の性的児童虐待行為を認定 (矢崎秀一裁判長)。 このため、性的児童虐待部分のジャニー側の勝訴は取り消され、損害賠償額はジャニーへ60万円、ジャニーズ事務所へ60万円の、計120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され (藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と性的児童虐待行為認定が確定した。[1]、[2] しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「性的児童虐待が認められた」という肝心の部分は書かなかった。 この問題について、懐疑主義団体「JAPAN SKEPTICS」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が批判。 「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。 そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。 報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。 芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。 真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。 また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。 以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。 2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。 また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁じた。 そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。 2010年3月14日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「新約・ジャニーズ暴露本」開始。 2018年6月6日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「いま振り返るジャニーズの“少年愛”報道」開始。 2019年7月9日にジャニーが逝去。 その際、テレビや雑誌など、日本の主要メディアではジャニーを賛美する歯の浮くような美辞麗句のみが並べられ、まるでジャニーを聖人君子かのように崇め奉った。
ジャニー喜多川 - ジャニーズ百科事典
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東京五輪から2年 湾岸はいま
悪夢のようなTOKYO2020大会から2年が経った。 五輪のために姿を変えられたあの場所は、巨額の資金を費やして建てられた会場は、白いフェンスに閉ざされていた公園は、いま一体どうなっているのか。 湾岸エリアを中心に、フィールドワークを行った。
①築地市場
築地本願寺から場外市場に向かう。日曜日。外国人観光客、親子連れ、カップル。賑わいは築地市場があった頃と変わらないように見えた。どの店にも、昼食を目当てに沢山の人が並んでいる。
立体駐車場の最上階から市場のあった方を見下ろす。縦横に走るターレ、魚の並ぶケース、積み上げられたトロ箱、林立する仲卸の看板――それらが全て消え去り、でこぼこの、剥き出しのコンクリートだけが灼熱の太陽に焼かれていた。その一部は駐車スペースに。数台の自家用車。物悲しくなるぐらいしょぼい。
駐車場のわきに、築地市場の仲卸とおぼしき店名のプレートを付けたターレが放置されていた。よく見ると、ナンバープレートを外した痕がくっきりと残っている。
石原元都知事が主導した2016年五輪招致当時、築地市場を潰してメディアセンターを作るという話が出ていた。2020東京大会ではそれが「駐車場」にかわり、市場は2018年10月に東京都によって閉鎖された。選手村から競技場への輸送のために新たに作られた環状2号の全面開通は、五輪閉幕から1年以上も過ぎた2022年12月。五輪招致が、都民の台所を打ち出の小づちのように利権を生み出す空虚な「一等地」に変えてしまった。
築地を舞台にしたある連載漫画の中で、目利き一筋の主人公は何故か移転に何の葛藤もないまま「豊洲で頑張っていこう」と仲間に呼びかけていた。築地市場83年の歴史は、急速に「なかったもの」にされようとしている。
②月島
東京では五輪の前から、競技会場と直接関係のない場所でも各地で再開発が起こっていた。晴海にも程近い、湾岸エリアに位置する月島もまたその1つ。もんじゃストリートで有名なこの町は、一本裏道に入ると古い木造家屋が軒を連ねる下町らしさが残っている。私たちが2017年に訪問した際は、月島1丁目西仲通り地区再開発計画のためにもんじゃストリートの店舗が軒並み閉店していた。
そして今回訪ねてみると、MID TOWER GRANDなる地上32階、高さ121mの超高層マンションが建ち(2020年10月竣工)、その1階にもんじゃ屋などの店舗が入っていた。 月島ではさらに地上48階、高さ178.00mのタワマンを建てる月島三丁目南地区第一種市街地再開発事業、地上58階、高さ199mのタワマンを建てる月島三丁目北地区第一種市街地再開発事業が控えている。フィールドワークの後で知ったことだが、この月島三丁目再開発計画には反対運動や行政訴訟も起こっているとのこと。長年暮らしてきた人々の息吹が聞こえるような町並みが、大手開発業者によって姿を変えられようとしていることには胸が痛む。
③晴海選手村
カンカン照りの選手村跡地。ここはHARUMI FLAGなる高層マンション群として開発され、完成すれば5,632戸12,000人が暮らす街になるという。未だ工事中で通行できるのはメインストリートの車道のみ。焼けつくような暑さの中、誰もいないコンクリートだらけの空���は殺伐とした雰囲気が漂っていた。
選手村をめぐっては、東京都が適正価格の10分の1という不当な安さで都有地を三井不動産ら11社のデベロッパーに売却したとして住民訴訟が起きている。五輪という祝賀的なイベントが作り出す例外状態によって、公共財産が民間資本に吸い上げられた象徴的な場所だ。
街の中心に近づくと、左手には、大会中、大量の食材廃棄が問題となった食堂の跡地が、中央区立の小中学校(2024年度開校予定)として整備されていた。
右手には三井不動産の商業施設「ららテラス」。その1階には「東京五輪を振り返りスポーツの力を発信する施設」として「TEAM JAPAN 2020 VILLAGE」が設置されるらしい。五輪と三井不動産のどこまでも続く蜜月がうかがえる。
その先では道路を挟んで左右両方の街区で50階建ての2棟の超高層タワーマンションが目下建設中だった。
選手村を訪れるとき、2018年、建設工事中に2人の労働者が亡くなったことを思わずにはいられない。その街区は、労働者の死という痛ましい現実を塗り固めるようにSUN VILLAGE(太陽の村)という輝かしい名前で分譲されている。 この街区だけではない。この街全体が、五輪によって引き起こされた問題などまるで何もなかったかのように成り立っている。この街ではとても生きていけない、生きた心地がしない。生気を抜かれたようにその場を後にした。
④潮風公園、お台場海浜公園
ビーチバレーボールの会場設営のため何年もフェンス封鎖されていた潮風公園。わたしたちは初めて公園内に入った。こんなに広かったのか!無観客のくせに、この公園全体を占拠していたなんて、ほんとうに厚かましい。
東京湾の対岸の埠頭にはコンテナが並んでいる。海をみてみると、うっ!海水は泥沼のような色。しかし、なぜか匂いはせず、潮の匂いさえもしない。ファブリーズでもしているのか?
わたしたちは、野宿の人たちが寝ていた場所を探して公園内を歩いた(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織員会による追い出し→https://x.gd/ZJP4d)。木がたくさんあってなかなか住み心地よさそうだと思っていたら、屋根のある排除ベンチにたどり着いた。なんて醜いデザインなのだろう。
次に「トイレのようなニオイ」と話題になったお台場海浜公園のビーチへ、匂いを確認しに行った。「遊泳禁止」の看板があり、スクリーニングのためと記してあったが、やはり汚染が懸念されているのだろろう。このビーチの海水も濁っていて、潮の匂いさえもしない。怪しい水質だ。
しかし、暑すぎる。灼熱の日差しの下で、ビーチバレーボールや、トライアスロンをやって、汚い海に飛び込んでいたのか。 知れば知るほど、オリンピック・パラリンピックは地獄だ。
⑤有明
有明の旧会場エリアへ。グーグルマップで見ると、どうやらこの一帯は「有明オリンピック・パラリンピックパーク」と名付けられたらしい。いまや地に落ちた電通がオリンピックでちゃっかりゲットした、唯一黒字と言われる有明アリーナへ。SNSではステージが見えない席があると不評を買っていたが、「ディズニーオンアイス」をやってるらしく、猛暑の折、駅から会場まで大勢の人だかり。
有明体操競技場はこの5月に「有明ジメックス」と名を変え、株式会社東京ビックサイトが運営する展示場としてオープンしたらしい。第一印象は「・・・神社?」世界的ウッドショックの最中に木材を山のように使って、10年程度で取り壊される予定とのこと。こんなに立派にする必要あったのか?
そこからゆりかもめの駅を越えると、フェンスで囲われた草ぼうぼうのワイルドな一角が。有明BMX会場跡地だ。グーグルマップには「有明アーバンスポーツパーク(2024年4月開業)」とあるが、いまのところ影も形もない。スポーツ施設より原っぱ公園の方が需要あるのでは?
有明テニスの森公園は工事パネルが外されて、開放感に溢れていた。こんな素敵な場所を何年もオリンピックのために囲って、市民を排除してきたかと思うとあらためて腹が立つ。
真夏の炎天下に火を燃やし続けた聖火台があった夢の大橋にも立ち寄った。観覧車が無くなっていた。東京都はこの夢の大橋を含むシンボルプロムナード公園の一角に、新たに聖火台置き場をつくって飾っている。東京都はいつまでオリパラの亡霊にすがる気か。。
⑥辰巳・東京アクアティクスセンター
アクアティクスセンター
「威圧」を形にしたような巨大建造物。
建物の周りには木陰がなく、取ってつけたような弱々しい植栽が施されている。
正面外の、広すぎる階段は、車いす利用者でなくても、大げさすぎてびっくりする。コンクリートが日射で熱い。ゴミ一つ落ちていないのは、人が寄り付かないからだろう。
その下にたたずんで私は、ピラミッド建設のために労働を強いられている人のような気持ちがした。
ここは、公園の一部であった。近くに団地もある。誰でも入って、海からの風を感じながらくつろぎ、出会う場所だったはずだ。
5年前に訪れた時は、工事中で巨大な支柱がそびえたっていた。三内丸山遺跡にインスパイアされたのかと思ったが、出来上がったのは帝国主義の終点のようなしろものだった。
「お前たちが来るところではない。」という声がどこからか聴こえる気がした。
知ってる。だから入ってみた。静かだ。人っ子一人いない、空調が効いて冷え切っている。だだっ広いロビーの小さな一角に、TOKYO2020オリパラのポスターたちがいまだに展示されていた。
競争をあおり、序列化し、勝者に過剰な価値を与え、「感動」を動員するスペクタクルがここで続けられるのだ。
生きていくのに必要な潤いをもたらす公園に、このような醜悪なものが君臨しているのを私は許せない。
炎天下の湾岸エリアを丸1日かけて回った。TOKYO2020跡地は、廃墟になっていると思いきや、むしろ多くの場所でまだまだ開発が続いていた。開発への飽くなき欲望と「レガシー」への執着、五輪災害は閉幕後も延々と残り続けている。 この日撮影した映像を使って「オリンピックって何?東京からパリ五輪1年前によせて」という動画を作成し、1年後に五輪開幕が迫るパリでの反五輪の闘いに連帯を示すメッセージとした。 From Tokyo To PARIS, NOlympicsAnywhere
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ラジコン備忘録 2024/9/14
Miniz-Cup 2024 Hokkaido Day.1
さてやってまいりました。レース当日編。まずは1日目。
今回の大会会場は旭川。去年は札幌だったので久しぶりの旭川開催。僕にとって旭川会場は5年ぶり。
8時には旭川に着きたいので、5時起き・5時半出発です。
忙しい2日間が始まるのは目に見えているのでパッと高速で旭川に向かいます。うーん、早朝PAで見る愛車はカッコイイ。一応、ラジコンイベントの駐車場ではジロジロと実車を見られることがあるので綺麗にしておきました。排気量の余裕とフルバケの効果もあってか、移動の疲労感が少なくて相変わらず良い車です。
7時半に旭川に着いて朝食。会場の駐車場がまだ空いていなかったので、近所のマックに。同じような考えの仲間と遭遇して奢ってもらいました。朝マックなんて超久しぶり。
今回の会場は、旭川市市民活動交流センター CoCoDe(ココデ)。 昔の廃倉庫を活用したイベントスペースらしいです。レンガがおしゃれですね。 開場1時間前ですが、いくつか荷物で順番取りをしていますね...。
旭川、めっちゃ寒いです。家を出るときは半袖でも余裕でしたが、現地は無理。さすがに1枚羽織りました。この時点で16度くらいだったかな。寒いので路温が心配。
9時開場、エントリー受付です。初めての会場では無いので、記憶が少しずつ蘇ってきます。トイレの位置だけはハッキリと覚えている不思議。
今回の北海道大会、見る限りエントリーが少なめ。代表権狙いの人には良い状況ですね。
1日目に参加するオープンクラスの参加者は11名。かなり速いモーターを使うので難易度が高くて、上級者しか参加しないカテゴリー。参加人数も少ないカテですがそれにしても少なめ。とはいえ、本州からの遠征組も2名参加。ホームで負けるわけにはいかないので、ボコボコにしてやる勢いです。
この会場はピットスペースは2階に配置。吹き抜けになっているので、��ットからレースの様子がよく見えます。吹き抜けになっているような会場は全国見てもここだけなので、珍しいですね。 上からライン取り、車の挙動がよく見えます。
操縦台の上からコースを見渡した図。2階から見るのと大して変わらないですね。操縦席とコースの距離もあるので、操縦位置による有利不利も無さげ。
1日目のピット。いつも机上をゴチャゴチャさせてるのに比べれば大分スッキリ。気になる事といえば、ここの会場暗すぎる。タイヤ交換の作業をするにしてもかなり暗いです。棚にLEDをつけていますが、追加でデスクライト的なものを持ってこないと細かい作業は厳しい。コース自体も、吹き抜け構造なので2階からの照明が遠くてイマイチ。まぁ、こればっかりは仕方ない。暗いという意味でいえばみんなイコールコンディションですからね。
練習走行。まずはいつもホームコース��走ってるセッティングに少し曲がりを足したマシンで走行。
...なんだこれ。聞いてはいたけどここまでグリップ低いか?って路面に驚きつつ策を練ります。
いつものセットじゃ全く話にならないですね。テールスライドしまくり。カウンター当てないとまともに走れません。
最近のラジコンは便利なもので、横Gをジャイロセンサーで検知すると自動でカウンターを当てたり、スロットルを絞る機能があります。仕方なくそれを最大限活用する作戦に移行。
初日エントリーのオープンクラスは約2秒で40km/hに到達するといわれる最速モーターを搭載したカテゴリー。この小ささで40km/hというとかなり速い部類ですね。正直、操作はかなり難しいです。
そんなピーキーなマシンを操作しやすくするために、スロットルジャイロを30%ON。普段は0~5%なのでどれだけグリップが低いのか...。
モーターも100%のパワーを出しても扱い切れないので、出力上限を95%に設定。これで立ち上がりがマイルドになります。パワーを出し切らない方が速い、珍しい路面です。ピーキーなモーターをキッチリ扱えてなくて、下位カテゴリーのマシンより遅い始末。
そしてタイヤも変更。リアタイヤがグリップしなかったときの想定をしておいて助かりました。リアのタイヤコンパウンドを30°→20°に変更。これでリアグリップを確保・空転させないでトラクションをかける作戦です。
とはいえ、そんなに根詰めて悩んでも仕方ないのでスイーツ休憩。一息入れてから予選で勝負に出ます。大会当日は糖分の補給を積極的に行うようにしています。その方が脳の働きが良くなりそうなので...。
予選1回目。スタート時の混戦に巻き込まれてグダグダ。総合8番手で終了。マシンは悪くないようですが、レースの運び方が悪かった。他車との接触が2回はありました。ですが、次の予選2回目は前列スタートと考えるとたぶんイケる予感というか確信です。
予選2回目。スタートダッシュと1コーナーのアプローチが決まって2番手以降をブッチギリ。誰も前に出させることなく好調な走りで1番手フィニッシュ。ベストラップもきちんと出ています。
結局予選2回目が最速タイムになり、予選1番手が確定。マシン・腕前ともにイマイチ本調子ではないような感じもしますが、悪くはないようです。みんなこの路面に苦戦している��いうことですね。
北海道大会での予選1番手は5年ぶり。ポールポジションはやはりうれしいものです。
昨年は全国大会の権利を貰っているので、朝の段階で各選手に僕の走りをジロジロと見られているのは感じていました。そんなプレッシャーに負けずに走れて良かった。決勝も気楽に頑張ります。
グリップは少しずつ上がっていますが未だに低いまま。それでも、予選のままのマシンセッティングで何とかなる予感。決勝は変えずにこのまま勝負します。曲がらなくなってきたら、走行中にプロポで微調整をかける練習はしていました。
決勝はカーゼッケン1番に変更。やはり、予選1番手というのは特別で良いですね。
決勝Aメイン8分レース。
ポールポジションからスタートを決め、2周目くらいまで維持。だけどセットがなかなか合ってこず、3番手まで順位を一時落とします。しかし、ここからが僕の意地の見せどころ。瞬時にプロポ設定をいくつか調整し、前方選手のミスを見逃さずオーバーテイク。3番手まで落ちたのは一瞬で、30秒ほどで1番手に復帰。
僕の指先といえば、かなり忙しいです。グリップが低すぎて、いまだにアイスバーンを走っているような感覚。ブレーキをガツンと入れてキッチリ減速しつつも、スロットルは徐々に煽ってまさにドリフトしているような感覚。この走らせ方、かなりリアタイヤを消耗することは分かっていますが、こうでもしないとトップは死守できません。
その後2位の選手からの追い上げを感じますが、途中で追い上げは諦めたみたいです。表彰台圏内なのに、無理に追い上げて自爆する方が怖いですからね。つまらないですが、頭のいい作戦です。こちらとしても走りやすい。そのままタイム差を広げて2番手とは6秒差でゴール。ポールトゥウィン。完全勝利です。
リアタイヤは柔らかいコンパウンドを選択しているのでレース後半の 消耗が心配でした。ラスト2分でタレてきている感触はありましたが、誤魔化せる範囲で助かった。最近のラジコンの電子制御、本当にすごいです。疑似的なトラクションコントロールとABSでタイヤ消耗は助けられました。
今回の大会は路面グリップが終始低すぎて、スロットルワークが上手か下手かで勝負が分かれていた気がします。ワークスドライバー級のプロはステアリングよりもスロットル操作を重視すると言いますが、まさにそんな感じ。
表彰式。色んなカテゴリーがありますが、最速カテゴリーで優勝ということは、この会場の中で一番速いということなので嬉しいですね。
表彰状をもらいました。社会人になって表彰される機会というのはなかなか無いので嬉しいものですね。1位となればなおさら。
ここまでくるのに色んな人のアドバイス・協力がありました。本当に感謝。なかなか恩を返しきれないです。
1日目が終わると、2日目に向けて東横インにチェックイン。全国大会の時に東横インに5泊したので、この際東横���ンのポイントを集めます。ちなみにキャリーバッグの中身は全てラジコン関係。着替え類はリュックで収まりました。
旭川くらいなら日帰りでも行ける距離ではありますが、翌日に向けて寝不足は避けたいのと、燃費計算をして宿泊した方が断然安かったのでホテル泊。
その後は直ぐに旭川の街に繰り出します。僕の記憶の中の旭川の街って、栄えてはいるけど古臭いビルが立ち並んでいるイメージでした。久しぶりに旭川を歩いてみると随分と近代化していますね。オシャレなビル・お店がたくさんあります。今度、きちんと旭川で呑みたいですね。
さて、北海道大会参加者の懇親会です。参加は30名くらい。ビアガーデンスタイルの鉄板BBQ。これで5,500円か~...と思いつつも陽気に飲み食いしてしまうのは相変わらず。初日1位の男なので、各方面にモテまくりです。大規模な飲み会で主役を張れるというのは、酒呑みにとっては随分と気持ちいいです。
飲み会が楽しく終わり2次会に消えた人々もいるみたいですが、僕は偉いのでホテルに戻ります。翌日のことを考えたら、呑みすぎは絶対にNGですし。一人でしっぽりやりながら、次の日の準備。電池関係がメインですね。
1日目の走りを動画で確認しておきますが、我ながら良い走り。 次の日もこんな感じで走れれば良いんですが、今さら考えても仕方ないのでホテル晩酌を満喫。24時には就寝。
2日目編につづく...。
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「Can You Catch A Cold?」サンプル5
字幕大王2024.06.25
サンプル4はこちら
水俣病の混乱
細菌論に夢中だったために伝染病と間違われた病気は栄養不足だけではない。1956年5月のこと、5歳の少女が日本の水俣市の病院に入院した。水俣は八代海に面した人口約5万人の小さな漁村だった。その少女は、けいれん、歩行困難、言語障害などの異常な神経症状を呈し、急速に体調を崩していた。数日後、彼女の妹と町内の他の3人もまったく同じ症状で病院を訪れた[45,46]。
その後、数週間から数ヶ月で、村の人々が病気になるケースが急増したが、罹患したのは村人だけではなかった。大量の魚が奇妙な泳ぎ方になり、やがて死んで陸に打ち上げられた。海鳥は飛べなくなり、異常な行動をとるようになった。これらの動物を捕食する猫も具合が悪くなり、口からよだれを垂らし、気が狂ったかのようにぐるぐる走り回った[47]。動物と人間の間で何らかの病原体が伝播したのだろうか。誰も確かなことはわからないが、この大流行は伝染病の特徴をすべて備えているように思われた。最初の患者が出た後、村に住む人々が次々と同じ症状で倒れ始めたのだ。そのため、ある種の「奇妙な伝染病」が発生したという噂が広まった[48]。やがて、この病気は伝染性髄膜炎であるという未確認の報道が出始め、地域社会は大きなパニックに陥ったのである[49]。
謎の病気への恐怖は極めて大きく、近隣の町の人々は水俣人を排斥し始め、長い間築かれてきた密接なコミュニティの絆は急速に失われていった[50]。伝染病まん延を抑えるため、家屋は消毒され、病人は隔離された[49]。この対策にもかかわらず、伝染病が地域住民を襲い続けた。初期の報道によれば、少なくとも55人が感染し、17人が死亡した[45]。
しかし、約3年後、研究グループはついに病気の原因が地元の肥料製造会社であると突き止めた。同社が、合成肥料製造の廃棄物であるメチル水銀27トンを水俣湾に投棄していたのだ[51]。この水銀が地元の水路を汚し、何百平方キロメートルもの海を汚染した。かつては美しく肥沃な自然の珊瑚礁であった水俣湾は、有毒な荒れ地となり、かつては豊かであったその恵みを不運にも口にした人間や動物を毒した。
1963年2月、水俣病の発生原因を調査していた研究グループから正式な発表があった。誰もが落胆したが、水俣病の原因は感染性微生物ではなく、メチル水銀に汚染された水俣湾の魚介類の摂取によるものだった[49]。長年にわたって、この環境破壊の犠牲者たちは、日常生活で出会う人々に伝染性ではないと安心させねばならなかった[52]。この災害によって900人以上が死亡し、200万人が慢性的な健康被害に苦しんだ[51]。
水銀中毒の混乱
水俣で起きた出来事にもかかわらず、医療関係者は今日に至るまで、水銀中毒を感染症として誤って診断している。2018年8月のこと、15歳女性、13歳女性、11歳男性の3人兄弟が救急外来を受診した。彼らには、発熱、筋肉痛、皮疹、倦怠感など、非特異的な症状が進行していた。検査は陰性の連続であり、その結果、「ウイルス性症候群」と診断された。子供たちは休ませるために家に帰らせられたが、その3日後、兄弟はさらに悪化した状態で救急部に戻ってきた。うち一人は神経障害を起こしていた。子供たちは溶連菌性咽頭炎(連鎖球菌性咽頭炎)と猩紅熱(しょうこうねつ)と診断された。彼らには抗生物質が投与されて退院した[53]。
その数日後、子供たちはセカンドオピニオンのために別の救急外来を受診した。この時までに、症状はかなり悪化しており、激しい頭痛、息切れ、手足のしびれ、全身の脱力感などが生じていた。結論に飛びついてウイルスやバクテリアのせいにするのではなく、救急医たちはさらに詳しく調べた。すると、子供たちが自宅で水銀の瓶で遊んでいて、それがカーペットにこぼれていたことがわかった。母親はこぼれた水銀を掃除しようとして掃除機を使った。母親はそうとは知らず、これが水銀を加熱・気化させて、子供たちはうっかり吸い込んでしまったのだ。不思議なことに、母親には何の症状も現れなかったので、この病気は小児感染症のように思われたのだ。
子供たちが水銀中毒であることを知った医師たちは、水銀除去のためにキレーション療法を開始した。二人の子供は完全に回復したが、1人は関節、背中、筋肉の痛みが続き、歩行器が必要になった。この出来事はケーススタディとして記録され、2020年2月の医学雑誌に掲載された。著者の結論としては、水銀中毒が感染症に似ている可能性があることだ[53]。子供たちは同じ家で暮らしており、似たような症状を呈していたため、最初の病院の医師は、小児期の伝染病が兄弟間で広がったに違いないと誤って考えたのだ。ここでもまた、一面的なレンズを通して世界を見ることが誤った思い込みを招き、正しい診断と治療を遅らせたのである。
なぜこれが重要なのか?
壊血病、ペラグラ、水銀中毒といった病気の原因を正しく特定することが重要だったことは明らかだ。しかし、いずれの場合も、細菌論というレンズが真実を邪魔し、調査者を無益な捜索に向かわせ、一般大衆を無用なパニックに陥れた。これらの事例だけを見ても、間違った説明モデルを適用したことによる影響を定量化するのは難しい。数え切れないほどの資源、時間、人命が、存在もしない敵と戦い、追いかけて失われたのだ。また、どれだけの人々が仲間はずれにされ、孤立し、非人道的な扱いを受け、タイムリーで効果的な医療を拒否されたかを考えると胸が痛む。それは伝染病だからではなく、伝染病であることを恐れたからである。このように、我々が世界を見るレンズは強力だ。良くも悪くも、レンズは我々のあらゆる知覚を彩り、我々の見方に一致する結果をもたらす。
もちろん、今では良くわかっており、これらの病気を伝染病と見なすことはない。壊血病、ペラグラ、水俣病のような病気を振り返り、その過ちに気づくのは簡単なことだ。現在の我々から見れば、人間がハンセン病患者のような烙印を押され、治療を拒否され、檻に入れられた動物のように閉じ込められていたのは野蛮なことのように思える。後知恵とはおかしなものだ。我々は今、すべての答えを持っていると思い込んでいる。しかし、我々がいまだに伝染病だと考えているが、そうでない病気が他にもあるとしたらどうだろう?ここまで来たと誇らしげに振り返っても、まだ同じ過ちを犯しているかもしれない。プライドと甘さに目がくらみ、過ちを犯し続けていることに気づかないまま、我々は突き進むのだ。
今にして思えば、過去の研究者の一部が傲慢でなく、型にはまっていなかったのは幸運だった。彼らは謙虚であり続け、心をオープンにし、勇気を持って行動した。もし彼らが、受け入れられているパラ��イムに挑戦しようと思わなかったら、今日の世界はどうなっていただろう?我々はまだそれらの病気を伝染病とみなし、かつてと同じ非効率的で非人道的な治療法を続けていたかもしれない。単純な食生活改善の代わりに、重金属を注射し、ペラグラのために隔離されることを想像してみてほしい。壊血病や脚気、くる病に他人から感染することを恐れて暮らすことを想像してみてほしい。おそらく我々は、ワクチン接種、手洗い、社会的距離、抗生物質、抗ウイルス薬、マスク、ロックダウンといった現代的な方法で、これらの(存在しない)細菌から身を守ろうとするだろう。そのあいだ、人々はライフスタイルや環境によって不必要に死に続けるのだ。そういった想像は難しくはない。例えば風邪やインフルエンザなど、他多くの病気についても、今日の世界はこのような方法で対処しているからだ。ただひとつ違うのは、現代の研究者たちが、伝染病モデルによってこれらの病気を正確に説明できると信じてこんでいることだ。この信念は現在、集団心理に深く刻み込まれており、間違いの可能性を受け入れるのは難しい。文化もまた変化しており、受け入れられているパラダイムに異議を唱える者は、狂った陰謀論者のレッテルを貼られる。
我々はあまりに自身を確信しすぎてしまっている。しかし、本章で示すことは、結果を観察して原因を誤って帰することが、いかに物事を間違えやすいかである。また、結論を急ぐのではなく、厳密に管理された(controlled)科学実験によって因果関係を確認することがいかに重要であるかを強調している。我々は過去にも過ちを犯したし、因果関係を正しく理解しなければ、我々自身がどれほど進歩していると考えていようと、過ちを犯し続けるだろう。誤った例が強調しているように、病気を伝染病と誤って診断することは、あらゆる種類の悪影響をもたらす。病人にとっては、適切な診断や治療へのアクセスが遅れ、より深刻な機能障害や身体障害につながる可能性がある。総合的には、これは広範囲に及ぶ影響をもたらす。実際、病気の原因を伝染病と混同してしまえば、より恐れを抱く回避的な社会が培われ、資源の配分を誤り(研究助成金など)、誤った経済(医薬品など)を支え、組織(政府など)に権力を譲り渡し、誤った道を進む間に、より多くの人々が病気になり、命を落とすという機会損失を最終的には被ることになる。
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「Can You Catch A Cold?」サンプル5 | 字幕大王
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)2月5日(月曜日)
通巻第8118号
孫子を読まずして政治を語る勿れ。派閥解体、政治資金浄化????
吉田松陰の代表作は、じつは孫子の研究書(『孫子評註』)だった
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自民党の派閥解消を聞いて、日本の政治家は政治の本質を理解していないことに唖然となった。派閥はまつりごとのダイナミズムを形成する。パワーの源泉である。それを自ら解体するのだから、政治は星雲状態となる。となると欣喜雀躍するのは中国である。国内政治にあっては、その「代理人」たちである。
孫子が言っているではないか。「謀を伐ち、交を伐つ」(=敵の戦略を見抜き、敵戦力を内訌させ、可能なら敵の一部を取り込め、それが戦争の上策である)。そうすれば、闘わずして勝てる、と。
高杉晋作も久坂玄瑞も、松下村塾で吉田松陰の孫子の講議を受けた。松陰亡き後の門下生だった乃木希典は、師の残した『孫子評註』の私家版を自費出版し、脚注もつけて明治天皇に内奏したほど、心酔していた。世にいう松陰の代表作はその辞世とともに有名な『講孟余話』と『留魂録』だが、現代人はすっぽりと『孫子評註』を忘れた。これは江戸時代の孫子研究の集大成である(『吉田松陰全集』第五巻に収録)。
松陰は山鹿素行を師と仰ぐ兵法家から出発している。毛利長州藩の軍事顧問だったのである。
もとより江戸の学問は官学が朱子学とは言え、新井白石も山鹿素行も荻生徂徠も山崎闇斎も、幕末の佐久間象山も西郷隆盛も孫子は読んだ。しかし江戸時代の二百数十年、太平の眠りにあったため、武士には、読んでもその合理的で非情な戦法に馴染めなかった。
その謀(はかりごと)優先という戦闘方式は、日本人の美意識とあまりに乖離が大きく、多くの日本人は楠正成の忠誠、赤穂浪士らの忠義に感動しても、孫子を座右の書とはしなかった。
明治以後、西洋の学問として地政学が日本に這入り込み、クラウゼウィッツは森鴎外が翻訳した。戦後をふくめてマキャベリ、マハンが愛読され、しかし誤読された。吉田松陰の兵法書はいつしか古書店からも消えた。
しかし戦前の指導者にとっては必読文献だった。
吉田松陰が基本テキストとしたのは魏の曹操が編纂した『魏武註孫子』で、考証学の大家といわれた清の孫星衍編集の平津館叢書版を用いた。そのうえで兵学の師、山鹿素行の『孫子諺義』を参考にしている。
もともと孫子は木簡、竹簡に書かれて、原文は散逸し、多くの逸文があるが、魏の曹操がまとめたものが現代までテキストとなってきた。
▼孫子だって倫理を説いているのだが。。。
孫子はモラルを軽視、無視した謀略の指南書かと言えば、そうではない。『天』と『道』を説き、『地』『将』『法』を説く。
孫子には道徳倫理と権謀術策との絶妙な力学関係で成り立っているのである。
戦争にあたり天候、とくに陰陽、寒暖差、時期が重要とするのが『天』である。『地』は遠交近攻の基本、地形の剣呑、道は平坦か崖道か、広いか狭いかという地理的条件の考察である。戦場の選択、相手の軍事拠点の位置、その地勢的な特徴などである。
『将』はいうまでもなく将軍の器量、資質、素養、リーダーシップである。『法』とは軍の編成と将官の職能、そして管理、管轄、運営のノウハウである。『道』はモラル、倫理のことだが、孫子は具体的に「道」を論じなかった。
日本の兵学者は、この「道」に重点を置いた。このポイントが孫子と日本の兵学書との顕著な相違点である。
「兵は詭道なり」と孫子は書いた。
従来の通説は卑怯でも構わないから奇襲、欺し、脅し、攪乱、陽動作戦などで敵を欺き、欺して闘う(不正な)行為だと強調されてきた。ところが、江戸の知性と言われた荻生徂徠は「敵の理解を超える奇抜さ、法則には則らない千変万化の戦い方だ」と解釈した。
吉田松陰は正しき道にこだわり、倫理を重んじたために最終的には武士として正しい遣り方をなすべきとしてはいるが、それでいて「敵に勝って強を増す」とうい孫子の遣り方を兵法の奥義と評価しているのである。
つまり「兵隊の食糧、敵の兵器を奪い、そのうえで敵戦力の兵士を用いれば敵の総合力を減殺させるばかりか、疲弊させ、味方は強さを増せる」。ゆえに最高の戦闘方法だとし、これなら持久戦にも耐えうる、とした。
江戸幕府を倒した戊辰戦争では、まさにそういう展開だった。
「孫子曰く。凡そ兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うすると上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ」
つまり謀を以て敵を破るのが上策、軍自作戦での価値は中策、直接の軍事戦闘は下策だと言っている。
▼台湾統一を上策、中策、下策のシミュレーションで考えてみる
孫子の末裔たちの国を支配する中国共産党の台湾統一戦略を、上策、中策、下策で推測してみよう。
上策とは武力行使をしないで、台湾を降伏させることであり、なにしろTSMCをそのまま飲みこむのだと豪語しているのだから、威圧、心理的圧力を用いる。
議会は親中派の国民党が多数派となって議長は統一論を説く韓国瑜となった。
宣伝と情報戦で、その手段がSNSに溢れるフェイク情報、また台湾のメディアを駆使した情報操作である。この作戦で台湾には中国共産党の代理人がごろごろ、中国の情報工作員が掃いて捨てるほどうようよしている。軍の中にも中国のスパイが這入り込んで機密を北京へ流してい���。
軍事占領されるくらいなら降伏しようという政治家はいないが、話し合いによる「平和統一」がよいとする意見が台湾の世論で目立つ。危険な兆候だろう。平和的統一の次に何が起きたか? 南モンゴル、ウイグル、チベットの悲劇をみよ。
中策は武力的威嚇から局地的な武力行使である。
台湾政治を揺さぶり、気がつけば統一派が多いという状態を固定化し、軍を進めても抵抗が少なく、意外と容易に台湾をのみ込める作戦で、その示威行動が台湾海峡への軍艦覇権や海上封鎖の演習、領空の偵察活動などで台湾人の心理を麻痺させること。また台湾産農作物を輸入禁止したりする経済戦争も手段として駆使している。すでに金門では廈門と橋をかけるプロジェクトが本格化して居る。
下策が実際の戦争であり、この場合、アメリカのハイテク武器供与が拡大するるだろうし、国際世論は中国批判。つまりロシアの孤立化のような状況となり、また台湾軍は練度が高く、一方で人民解放軍は士気が低いから、中国は苦戦し、長期戦となる。
中国へのサプライチェーンは、台湾も同様だが、寸断され、また兵站が脆弱であり、じつは長期戦となると、中国軍に勝ち目はない。だからこそ習近平は強がりばかりを放言し、実際には何もしない。軍に進撃を命じたら、司令官が「クーデターのチャンス」とばかり牙をむくかも知れないという不安がある。
下策であること、多大な犠牲を懼れずに戦争に打って出ると孫子を学んだはずの指導者が決断するだろうか?
▼孫子がもっとも重要視したのはスパイの活用だった
『孫子』は以下に陣形、地勢、用兵、戦闘方法などをこまかく述べ、最終章が「用間(スパイ編)」である。敵を知らず己を知らざれば百戦すべて危うし」と孫子は言った。スパイには五種あるとして孫子は言う。
『故に間を用うるに五有り。因間有り。内間有り。反間有り。死間有り。生間有り。五間倶に起こりて、其の道を知ること莫し、是を神紀と謂う。人君の宝なり』
「因間」は敵の民間人を使う。「内間」は敵の官吏。「反間」は二重スパイ。「死間」は本物に見せかけた偽情報で敵を欺し、そのためには死をいとわない「生間」は敵地に潜伏し、その国民になりすまし「草」となって大事な情報をもたらす。
いまの日本の政財官界に中国のスパイがうようよ居る。直截に中国礼賛する手合いは減ったが、間接的に中国の利益に繋がる言動を展開する財界人、言論人、とくに大手メディアの『中国代理人』は逐一、名前をあげる必要もないだろう。
アメリカは孔子学院を閉鎖し『千人計画』に拘わってきたアメリカ人と中国の工作員を割り出した。さらに技術を盗む産業スパイの取り締まりを強化した。スパイ防止法がない「普通の国」でもない日本には何も為す術がない。
(十年前の拙著『悪の孫子学』<ビジネス社>です ↓)
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「徴用工」に給料袋 適切報酬の証拠
https://www.sankei.com/article/20230316-HF2KIMTFDVMPFJNEQPAUGYFNF4/photo/7XVOKMOWJRIKLBVZ3PN45DGNIQ/
<特報>「徴用工」に給料袋 適切報酬の証拠 遺族寄贈「歴史認識に活用を」2023/3/16
日本統治下の朝鮮半島から「内地」に渡った労働者が、勤務していた兵庫県内の造船所で受け取った給料袋などが見つかり、「産業遺産情報センター」(東京)が保管していた遺族から入手したことが16日、分かった。半島出身の労働者にも適切な報酬が支払われていたことを改めて示す一次資料を同センターが入手するのは初めてで、いわゆる「徴用工」問題を払拭する重要な証拠と位置づけている。
同センターが入手した給料袋などは、兵庫県相生市在住の元在日2世で令和元年に日本に帰化した清本清一さん(78)から託された。清本さんの父親が、相生市の播磨造船所に勤務していた昭和17年1月から終戦後の20年10月までに受け取った給料袋約40点をはじめ、当時書かれたメモや戦時中の造船所の労働者名簿など多数にのぼる。
清本さんの父親は大正6年、朝鮮半島南部の慶尚南道生まれ。自らの意志で昭和11年に渡航し、17年から播磨造船所で働き始めた。残された給料袋には、出勤工賃▽残業割増工賃▽夜勤手当▽精勤手当-などの賃金や、���職積立金▽国民貯金▽健康保険▽社宅▽年金保険-などの控除金の項目があり、手取り額は多い月で200円以上。20年当時のはがき1枚が5銭で現在1260倍の63円。単純計算だが、換算すると200円は約25万円になる。終戦を迎えた20年8月でも54円18銭が支払われ、同月に「徴用満期慰労金」も受け取っていたことがうかがえる。
清本さんは約50年前、転居のため自宅内を整理していた際、紙に包まれていた給料袋の束を発見。当時は存命だった父に資料の詳細について尋ねなかったが、韓国が「徴用工」を問題視した文在寅(ムンジェイン)政権となった頃からこの資料の価値を認識するようになった。
「戦後最悪」といわれるまで日韓関係をこじれさせたのは文氏に責任があると考える清本さん。「徴用工の問題は日韓間では解決済みで、韓国政府が自国内で努力すべきもの」としたうえで、「この資料が日韓両国が歴史認識を正しく持つために活用されるなら、大切に保管してきた父への親孝行になる」と話す。
こうした中、令和2年に内閣府が開設し、幕末以降の近代日本に関する産業遺産の資料収集・調査分析、公開を手掛けている同センター長の加藤康子氏が給料袋の存在を知り、今年2月下旬に清本さんと面会。資料の寄贈を受け、清本さんの証言も映像収録した。
「センターの収集資料に台湾出身者の給料袋はあるが、朝鮮半島出身者の物は未入手だった」と加藤氏。「このことが、『半島出身者には給料が出ていなかったのか』という誤解や批判を招いただけに今回の寄贈はありがたい。何が真実かは、こうした一次資料が物語ってくれる。日韓両国にとって貴重な財産。ぜひ展示したい」と話している。
徴用令適用は大戦末期
1910(明治43)年の日韓併合後、朝鮮半島から就労目的で渡日する人は多かった。その後、昭和12年から始まった日中戦争の長期化に伴い、重要産業の労働力確保を目的として半島出身労働者は「募集」や「官斡旋(あっせん)」の名称で集められた。14年に制定され内地の全国民を対象とした「国民徴用令」が半島に適用されたのは先の大戦末期の19年9月からだった。「募集」や「官斡旋」は、基本的に自由意思による内地への渡航だった。
播磨造船所は戦時中、商船建造では国内4位のシェアを占め、これに艦艇建造も加わって活況を呈した。国民徴用令に基づく指定工場となり、全従業員が徴用に応じた「応徴士」扱いとなった。17年から勤務していた清本清一さんの父親も同様になったとみられる。
社史によると、同社が17年から終戦にかけて雇用した半島出身労働者は約2千人。終戦時に朝鮮半島への帰還を希望する従業員に対しては、旅費や徴用慰労金、15日分の食料、衣服、日用品を支給したという記録が残されている。
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