#草石蚕
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ちょろぎ
このイモムシ、あるいはドリルビットのような物体はチョロギという植物の塊茎だ。関東以北では、おせち料理の食材として使われるらしいが、そもそもおせちに縁のない生活をしてきた私にとって、食べたことはもちろん、その存在すらこれまで知らなんだ。もう結構な齢だけどね(笑)。
このユニークな形状は栽培欲求をかき立てるのに充分だった。ただ世間ではそれほど特殊な物では��く、フリマサイトから容易に入手できた。
入手したのが晩秋だった為、冬越しさせてやらなくてはならない。売り主に相談したところ、寒さにかなり強いので軽く土を被せておく程度で良いらしい。畝の一角を使っても良いのだろうけど、まあ初めての栽培だし、念のためバケットに入れて土を被せ、玄関の内側に置いた。
1つも痛むことなく冬越しした塊茎をポットに播種したのが3月の初旬。順調に発芽・生育して、一か月後の4月初旬には畝に定植した。上の写真はさらに一か月後の5月初旬の状況。
同じ畝の6月中旬の状況。定植後草取りすらしていないが、畝全体に広がり繁茂している。花穂も立ち始めた。
葉の形状はバジルに、花の形状は青ジソに似る。いずれもチョロギと同じシソ科だ。花の蜜を吸いに蜂や蝶などいろいろな虫が訪れるが、葉に食害された形跡は見当たらない。
秋になり葉の色が変わり始めた頃、試しに株元を少し掘ってみたが、まだとても収穫出来るような大きさではなかったので、上の写真のように完全に茎葉が枯れ果てるのを待ってから収穫することに(12月下旬)。
茎同様、根も細めなのだけど、がっしりと広がっているせいで引き抜くのは容易ではない。なのでショベルを使って掘り起こしながら収穫していく。
とりあえず根付きのまま集めて、そのあと塊茎を分離していく。かなりチマチマした作業だ。
「チョロギ独特のくびれに泥が残るのでブラシで丁寧に洗い落とす。。。」なんて記事を見かけビビっていたが、バケツに水と一緒に入れてグルグル掻き回したら、意外にもそれだけで充分綺麗になった。このあたりは育てる土質に依るかも知れない。粘土質が強いところだと泥落ちしにくいかも。
鍋で5~6分茹で、一部を晩酌のつまみに。味付けは軽く振った塩だけだが。。。見た目の奇抜さとは��腹に素朴で淡白な味だ。うっすらと甘みも感じる。この茹で時間においてはホクホクとした仕上がりになったが、食感はキクイモのそれによく似ている。
残りは自家製の梅漬けの副生成物である梅酢に浸し漬け込む。数日後に食べてみたが、梅酢の味がしっかり浸みて良い感じになっていた。ただ漬ける場合にはもう少し茹で時間を短くしてカリカリ感を残した方がより適しているかも知れない。
実際にチョロギを育てて食べてみた総合的考察としては、クセのない味と食感は歓迎できるところだが、長い栽培期間と面積当たりの収量、そして収穫作業の手間などは他の作物と比較すると著しく効率が悪い。自給自足生活においては自分が食べる量を確保することが最重要なので、その観点からはこれを大がかりに育てていくことは得策では無いだろう。ジャガイモなら同じ期間で2度収穫出来るし、キクイモならもっと大きな固まりがゴロゴロと簡単に収穫出来るからね。
とは言え目立った害虫もなく、強健で手が掛からないメリットもあるから、他の野菜には適さない場所を使って育てることができるなら逆に合理的かも知れない。あるいはプランターで育てれば土ごとひっくり返して収穫できて作業がラクになるかも。いずれにしてもメインで栽培するような野菜ではなく、食生活に多様性を持たせる為に隅っちょで少量だけ育てるというのが無難なところかと思う(ビジネスでやるなら別だけどね)。
#田舎#田舎暮らし#里山#自然#自給自足#自給農#移住#チョロギ#丁呂木#草石蚕#塊茎#栽培#植物#野菜#根菜類#収穫#調理#ユニーク#countryside#rural life#nature#self sufficiency#agriculture#cultivation#farm#farming#chinese artichoke#plant#harvest#cooking
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF QIN SHI HUANG
的是不我一有大在人了中到资要可以这个你会好为上来就学交也用能如文时没说他看提那问生过下请天们所多麽小想得之还电出工对都机自後子而讯站去心只家知国台很信成章何同道地发法无然但吗当於本现年前真最和新因果定意情点题其事方清科样些吧叁��位理行作经者什谢名日正华话开实再城爱与二动比高面又车力或种像应女教分手打已次长太明己路起相主关凤间呢觉该十外凰友才民系进使她着各少全两回加将感第性球式把被老公龙程论及别给听水重体做校里常东风您湾啦见解等部原月美先管区错音否啊找网乐让通入期选较四场由书它快从欢数表怎至立内合目望认几社告更版度考喜头难光买今身许弟若算记代统处完号接言政玩师字并男计谁山张党每且结改非星连哈建放直转报活设变指气研陈试西五希取神化物王战近世受义反单死任跟便空���士台却北队功必声写平影业金档片讨色容央妳向市则员兴利强白价安呵特思叫总办保花议传元求份件持万未究决投哪喔笑猫组独级走支曾标流竹兄阿室卡马共需海口门般线语命观视朋联参格黄钱修失儿住八脑板吃另换即象料录拿专远速基帮形确候装孩备歌界除南器画诉差讲类英案带久乎掉迷量引整似耶奇制边型超识虽怪飞始品运赛费梦故班权破验眼满念造军精务留服六图收舍半读愿李底约雄课答令深票达演早卖棒够黑院假曲火准百谈胜碟术推存治离易往况晚示证段导伤调团七永刚哥甚德杀怕包列概照夜排客绝软商根九切条集千落竟越待忘尽据双供称座值消产红跑嘛园附硬云游展执闻唱育斯某技唉息苦质油救效须介首助职例热毕节害击乱态嗯宝倒注停古输规福亲查复步举鱼断终轻环练印随依趣限响省局续司角简极干篇罗佛克阳武疑送拉习源免志鸟烦足馆仍低广土呀楼坏兵显率圣码众争初误楚责境野预具智压系青贵顺负魔适哇测慢怀懂史配呜味亦医迎舞恋细灌甲帝句属灵评骑宜败左追狂敢春狗际遇族群痛右康佳杨木病戏项抓徵善官护博补石尔营历只按妹里编岁择温守血领寻田养谓居异雨止跳君烂优封拜恶啥浪核聊急状陆激模攻忙良剧牛垒增维静阵抱势严词亚夫签悲密幕毒厂爽缘店吴兰睡致江宿翻香蛮警控赵冷威微坐周宗普登母络午恐套巴杂创旧辑幸剑亮述堂酒丽牌仔脚突搞父俊暴防吉礼素招草周房餐虑充府背典仁漫景绍诸琴忆援尤缺扁骂纯惜授皮松委湖诚麻置靠继判益波姐既射欲刻堆释含承退莫刘昨旁纪赶制尚艺肉律铁奏树毛罪笔彩注归弹虎卫刀皆键售块险荣播施铭罗汉赏欣升叶萤载嘿弄钟付寄鬼哦灯呆洋嘻布磁荐检派构妈蓝贴猪策纸暗巧努雷架享宣逢均担启济罢呼划伟岛歉郭训穿详沙督梅顾敌协轮略慧幻脸短鹰冲朝忍游河批混窗乡蛋季散册弃熟奖唯藏婚镜紧猜喝尊乾县伯偏偷秋层颗食淡申冠衣仅帐赞购犯敬勇洲束斗徒嘉柔绩笨拥漂狮诗围乖孤姓吸私避范抗盖祝序晓富译巨秀馀辉插察庆积愈端移宫挥爆港雪硕借帅丢括挂盘偶末厅朱凡惊货灭醒虚瑞拍遗忠志透烈银顶雅诺圆熊替休材挑侠鸡累互掌念米伴辅降豪篮洗健饭怜疯宏困址兮操临骗咧药绿尼蔡玉辛辈敏减彼街聚郎泡恨苏缩枢碰采默婆股童符抽获宇废赢肯砍钢欧届禁苍脱渐仙泪触途财箱厌籍冰涛订哭稳析杰坚桥懒贤丝露森危占茶惯尘布爸阶夏谊瓶哩惨械隐丰旅椰亡汽贝娘寒遭吹暑珍零刊邮村乃予赖摇纳烟伦尾狼浮骨杯隔洪织询振忽索惠峰席喵胡租款扰企刺芳鼠折频冒痴阴哲针伊寂嘴倚霸扬沉悔虫菜距复鼓摩郑庄副页烧弱暂剩豆探耐祖遍萧握愁龟哀发延库隆盟傻眉固秘卷搭昭宁托辩覆吵耳閒拨沈升胖丁妙残违稍媒忧销恩颜船奈映井拼屋乘京藉洞川宪拟寝塞倍户摆桌域劳赚皇逃鸿横牙拖齐农滚障搬奶乌了松戴谱酷棋吓摸额瓜役怨染迫醉锁震床闹佩牠徐尺干潮帽盛孙屁净凯撞迴损伙牵厉惑羊冬桃舰眠伍溪飘泰宋圈竞闪纵崇滑乙俗浅莲紫沟旋摄聪毁庭麦描妨勒仪陪榜板慕耀献审蟹巷谅姊逐踏岸葛卧洽寞邦藤拳阻蝎面殊凭拒池邪航驱裁翔填奥函镇丌宽颇枪遥穹啪阅锋砂恭塔贺魂睛逸旗萨丸厚斋芬革庸舒饮闭励顿仰阁孟昌访绪裕勿州阐抢扫糊宙尝菩赐赤喊盗擎劝奋慈尽污狐罚幽准兼尖彰灰番衡鲜扩毫夸炮拆监栏迟证倾郁汪纷托漏渡姑秒吾窝辆龄跌浩肥兽煞抹酸税陷谷冲杜胸甘胞诞岂辞���凉碎晶邱逻脆喷玫娃培咱潜祥筑孔柏叭邀犹妻估荒袋径垃傲淑圾旦亿截币羽妇泥欺弦筹舍忌串伸喇耻繁廖逛劲臭鲁壮捕穷拔于丑莉糟炸坡蒙腿坦怒甜韩缓悉扯割艾胎恒玲朵泉汤猛驾幼坪巫弯胆昏鞋怡吐唐悠盾跃侵丹鑑泽薪逝彦后召吕碧晨辨植痴瑰钓轩勤珠浓悟磨剪逼玄暖躲洛症挡敝碍亨逊蜜盼姆赋彬壁缴捷乏戒憾滴桑菲嫌愉爬恼删叹抵棚摘蒋箭夕翁牲迹勉莱洁贪恰曰侨沧咖唷扣采奔泳迹涯夺抄疗署誓盃骚翼屠咪雾涉锺踢谋牺焦涵础绕俱霹坜唬氏彻吝曼寿粉廉炎祸耗炮啡肚贡鼻挖貌捐融筋云稣捡饱铃雳鸣奉燃饰绘黎卷恢瞧茫幅迪柳瑜矛吊侯玛撑薄敦挤墨琪凌侧枫嗨梯梁廷儒咬岚览兔怖稿齿狱爷迈闷乔姿踪宾家弘韵岭咦裤壳孝仇誉妮惧促驶疼凶粗耍糕仲裂吟陀赌爵哉亏锅刷旭晴蝶阔洩顽牧契轰羞拾锦逆堕夹枝瓦舟悦惹疏锐翘哎综纲扇驻屏堪弥贯愚抬喂靖狠饼凝邻擦滋坤蛙灾莎毅卒汝征赠斗抛秦辱涂披允侦欲夥朗笛劫魅钦慰荷挺矣迅禅迁鹿秤彭肩赞丙鹅痕液涨巡烤贱丈趋沿滥措么扭捉碗炉脏叔秘腰漠翅余胶妥谣缸芒陵雯轨虾寸呦洒贞蜂钻厕鹤摔盒虫氛悄霖愧斜尸循俩堡旺恶叉燕津臣丧茂椅缠刑脉杉泊撒递疲杆趁欠盈晃蛇牡慎粒系倦溜遵腐疾鸭璃牢劣患祂呈浑剂妖玻塑飙伏弊扮侬渴歪苗汗陶栋琳蓉埋叡澎并泣腾柯催畅勾樱阮斥搜踩返坛垂唤储贩匆添坑柴邓糖昆暮柜娟腹煮泛稀兹抑携芭框彷罐虹拷萍臂袭叙吻仿贼羯浴体翠灿敲胁侣蚁秩佑谨寡岳赔掩匙曹纽签晋喻绵咏摊馨珊孕杰拘哟羡肤肝袍罩叛御谜嫁庙肠谎潘埔卜占拦煌俄札骤陌澄仓匪宵钮岗荡卸旨粽贸舌历叮咒钥苹祭屈陋雀睹媚娜诱衷菁殿撕蠢惟嚣踊跨膀筒纹��仗轴撤潭佛桂愤捧袖埃壹赫谦汇魏粹傅寮猴衰辜恳桶吋衫瞬冻猎琼卿戚卓殖泼譬翰刮斌枉梁庞闽宅麟宰梭纠丛雕澳毙颖腔伫躺划寺炼胃昂勋骄卑蚂墓冥妄董淋卢偿姻砸践殷润铜盲扎驳湿凑炒尿穴蟑拓诡谬淫荡鼎斩尧伪饿驰蚊瘟肢挫槽扶兆僧昧螂匹芝奸聘眷熙猩癢帖贫贿扑笼丘颠讶玮尹詗柱袁漆毋辣棍矩佐澡渊痞矮戈勃吞肆抖咳亭淘穗黏冈歧屑拢潇谐遣诊祈霜熬饶闯婉致雁觅讽膜挣斤帆铺凄瑟艇壶苑悬詹诠滤掰稚辰募懿慨哼汁佬纤肃遨渔恕蝴垫昱竿缝蹈鞭仆豫岩辐歹甄斑淹崎骏薰婷宠棵弓犬涂刹郁坎煎螺遮枯台昔瘾蒂坠唔瞎筝唇表吁冤祷甩伞酱范焉娇驼沦碳沾抚溶叠几蜡涌氧弦娱皓奴颓嘎趟揭噹剥垦狭魁坊盐屎郝佩摧栗菊瘦钧匿砖嘘缚嘟盆债霞挽逍畔蕴颈获畏喂脾姬赴囊噪熄锡诀肇璋晕浊伐峡窃枕倘慌垮帕莹琦厢渺脏削锣虐豔薇霉衍腊喧娶遂睁裙韦矢伺钉婴蓄奸廿堵葬蓬鸦尝挨蕾璿挚券厨醇呻霍剃浆葡暨滨履捞咕耕棉烁尉艰妓棺鹏蒸癌纬菌撇惩绑甫崩魄拂汰氓歇萝呒萄蕃曝疋向胏烛腻襄妆髓朴薯颂薛滩橘贰嘲叹枚侮豹巢酬碑翩蚕辽矿屡谴卵撰攀肌冯宴盏阪浦迦颁炼尬胀辟艘株只湘饲爹梨喽侍疫雕黯并铝弗爪鄙钗栽狸谘柄悸喉擅劈秉芷裸锵贾逗寓咚璞烫铅啸炳屿竖惶仕挪栅迄顷窄鸥鲢郊倩兜茧磊抒夷绰溯拙僚芙杖溃凶鸽妒沌祺呐卦聆栖蝇佮唾汇楣匠蛛悼舜耿瞄芋瞒竭茵吼苛浸拯克豆沛掠廊凸搅俺酌倡朦蕉暱焕掏蝉焰狄绳惰芽裹宛御赎燥滔贬悍袂坟颉啤押尴颤钝腥缔粮哑槟簿斧肿纶僵齣辖蹲敷喘扎酿佑肖愈隧嗜檬迳碌襟凋圭寇污哨倪筠桦诈姜旬秃脂噢撼衅庚炫谭惭涩崔贷胡晒琉捏绮膝拭暗醋膨杠鑫瀑喃剖袜逾涅扳惘凳呃掘捍榔窍蜗旷梵暇稻柠抉辗蔚钩卜莺匡蜘祯哔窟亟谛溢黛晦伶逮傍葱刁堤恍匣谍禧轿耸瀚斐忿泓拐驴罕沫绽刃窈渝仄瑛葵噜绣奕窥浏隶蔽仟敛丞诘鳖疤膏锥窕皱晰晖舅孰煽姚钞袱绊焚芦咸沮呕瞪淳丐茹盘菱篠涕衬蚀溉瑄翟怠钰躯肺掷丑奢荫靶纱芸佰峻阱哄肾庄囡阑戳腕菸凹蟾蒐呱巾雏螃盯馈垄毓犀逞姨穆樵阀弥跷搁隙疵憧忏琨阙萱怅辄搏榕饥捣渣眺虞俯绅谤珑咫俏淆蜀楠乞诅匀貂寰迋敞跪囚溺骆憬苇脊瑶疆乍杆眸窜孽卅夭簧徘馒趴鎚啼冗缉絮啄沸萃嘶鸳禽惫徨屐舆邂掀嫖苟檯矫铎棱哗徊拱蕙徬滞吠妞氾芹叩朽侪赦汐丰虔茅棠仑膳魉儡鸯懦渗邵筱畜崖瑕蕊揣擒挂屯莽矽侏弧澈饺奎裘塌饵偎泻蔓彗樽衔茍磋萎廓悯铸茎歼壤浇蚤恃瞻拚汀椒嚼粥磅佫勘脖吨澜锻笙厄嚷伽徽隅寥缤簾烘茜驯噎厦闰煤链锈诫颊俐曳蓓暧郤淌喀昆蔑峙躁菇逅雇殴泌酥缮莓辕骇巍糗扛杏茁琵礁秽岔僻焊嗡诵瞌捌遁赃涡琮卯锯扔苏邹莅隘蹋湛昼岫蛰桩藐汲禄皂濑绒耽粪粤卤曜懋咎痘聂垢瞳闵睿跤鉴躬斟淇莒毯幸骋岱庐殃橄恤叽鳞蒙芥榄楷硫苔麒椎禹喙厘袅亥倌吭诃裔梓蓦岩帜瓣狡惕蒙怯嫩龚嚎豚埠暸唆妃瓢蹄厮讥啃琶愿噱狷搪氢橙咆靡砌筷兑溼呸镀踹冢祟懈术搓攸橡膛俞祉冀炊瓷遐揽鹭茄蜢塘郡韬挟牟糙阎旻赘霆呎炭霄媳瘤猿颺煚铠蝠钜苓傀烬墅璇困愣恬嫉琐嫂淼梳憎搂藻酵屉陡摺箫飨桐蚱曦璧偈蹦昶咙铮嗤戌屌耘裳啾嵘胺笃烹巩厝疚鸶汹蔷沐咽烙畸讳揍曙铐朔涓睬矶岐凄鲫楞鲤荆偕徜饥肮蔼辙恁霈诛鞠茉煜傭嗓酹昙铨艳绷峨揉珈鹃诲臆焰隽熔堇韧扒憨舵肛戊坝抠骷碘鞍冕��肘羔哺霓巳铲蚵惆驹撷稽羹纺蜕趾吊豁褪癸眨臻慷蝙胧沼舱柚抨葭枷靥硝绚绞缆讪褚砗嫣蒲丫鹦蒹憩懊聋盎婊盔峦矜凛铺鹉蜴惚畴羁媛堑泛疮韶憋祁诟搔蜥袒奄忱玖拌悴祠扼髅筑蛤茱骐捶须亢葔艸筛岳岳慵戮跎砰仑炜篱笈瘫吏痊庶厥棘娑沁窘鲸缕硷俨栈蔬鸠闲迢恣昀泠涟眩噫娥荼鳄镖侃虏俾樟榴咛炬窦笠翱莘躇翡姜枭匕藩徉觞拣吱皈墉傌梢巅踌萌幌杭侥栾奠痲夸瘖芯蟀驿耨禾瑾
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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各地句会報
花鳥誌 令和6年8月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和6年5月2日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
ホロホロと鍬に砕ける春の土 喜代子 亡き猫の声かと覚む春の闇 同 四姉妹母に供へる柏餅 由季子 薫風にうだつの揚る港町 都 青嵐甍の波をひとつ飛び 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
誰待つや水子地蔵と風車 毬子 愛宕山水の匂ひのして立夏 光子 湧水の鯉は真珠になりたくて きみよ 虎ノ門ヒルズそれとも蜃楼 光子 そそくさと愛宕詣での蟻ひとつ 三郎 新しきビルの隙間にある新樹 久 常盤木の落葉は坂の底の底 小鳥 日傘手に男の上る女坂 昌文 虎ノ門ヒルズ這ひ来し蚯蚓かな 美紀
岡田順子選 特選句
新緑の堂宇律する木魚かな 毬子 猿寺のへその緒めきし花藻かな 小鳥 耳に髪かけたる指が蝶を呼ぶ 和子 生まれては緋目高といふ名を借りて 小鳥 風車回らぬほどの風を受く はるか そそくさと愛宕詣での蟻ひとつ 三郎 馬駆けし愛宕山とは蝶ひとつ 俊樹 緑蔭のどれも過去向く拡声器 きみよ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
壱岐対馬越えて釜山へ卯波立つ たかし 人を待つ昂りに似て卯浪立つ 孝子 春愁はもつれたあやとりの紐 修二 さまざまの風に出合つて若葉かな 孝子 逃水を追ひいくばくの疲労感 修二 しやぼんだま戦火の子らに向けて吹く 朝子 雲雀の巣踏み潰し行く重戦車 たかし チューリップ手足ふつくり乳母車 成子 八方に餓鬼うづくまる黄砂かな 朝子 糸柳お岩は細き指を垂れ 修二 十字架を仰げば風の薫りけり 孝子 廃校の土俵に花の散りしきぬ 朝子 卯波立つ沖を眺めて昼の酒 かおり
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月6日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
柿若葉母の天麩羅語り種 和魚 ふくよかに葉音さらさら風五月 聰 山匂ひ水音響く五月かな 三無 沖へ帆の連なりわくや風五月 聰 パステルを選びて描く若葉山 ことこ 浅間への雑木若葉の葉音きき ます江 岩に波飛び散る光五月来ぬ 秋尚 日に濡るる若葉見上げつ峠越ゆ 三無 鯖街道歩きしところ穂高見ゆ ます江 甥つ子の声変はりして五月来ぬ 美貴 風五月江の電海へ大曲り 三無 思ひやる言葉を選び五月の夜 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月6日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
蛇穴を出でて振り向く顔もたず 雪 聞きに来よてふは椿の落ちる音 同 女踏む如く男の踏む椿 同 藤房の先に見えざる風生まる かづを 葉桜の神社まはりを鎮めをり 匠 アイリスを活けてサツチモ聞く深夜 清女 朧夜や母に逢ふ夢覚めやすき 笑子 荷を解けば青き匂ひの莢豌豆 希子 葉桜や旧制校のありし跡 泰俊 万象の輝く五月来りけり 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
やはらかき音の騒めき若楓 秋尚 結び目に母の思ひの粽解く 百合子 リハビリを終へて正午や街薄暑 恭子 中子師を偲ぶ五月の句座なりし 亜栄子 樟若葉風に煌めく音静か 秋尚 海の風山の風吹く捩花 亜栄子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
何某の宿祢の杜やかかり藤 都 花祭瑞雲を呼ぶ釈迦の指 宇太郎 余花の雨幹の裂傷深くして 都 新緑にろ過され朝の息甘し 佐代子 手に湿り春椎茸の肉厚く 和子 葉桜の土手ゆく白き犬曳いて 悦子 老眼のルーペで愛でし花楓 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
後遺症無いとは云へず蝶の昼 清女 福助の貯金箱あり五月晴 ただし 手鏡の髪なで乍ら土用干し 世詩明 戻り来て剥がす日めくり四月馬鹿 ただし 花卯木友と語りし通学路 英美子 金色の囲む在所や麦の秋 みす枝 夏来るシャンパングラス走る泡 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
紙灯篭復興祈る輪島初夏 みえこ 初夏の列車に恐竜描かれし あけみ 花水木街路にいつか咲いてをり 令子 折紙の金環太き鯉幟 実加 祭町子等のよろこぶ菓子選び 令子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月14日 萩花鳥会
鴨ゆきて燕戻りて川住居 祐子 花の雨抜けて仮眠の深夜便 健雄 残されしボール一つに浅き夏 俊文 更衣する間も無くて半袖に ゆかり 水田の浅瀬泳ぐや鯉のぼり 明子 急階段挑みて天守若葉風 美恵子
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令和6年5月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
扁額の一字が読めず梅雨の宿 世詩明 若葉風わらべ地蔵をつつみゆく 笑子 お精舎の風鐸ゆらす梅雨晴間 同 路地裏をしよぼしよぼ歩く梅雨鴉 希子 獣めく匂も混じる草いきれ 泰俊 古りたりな三国祭の誘ひ文 雪 牡丹を切りて一日の贅とせん 同 牡丹に待てば現れさうな人 同 退屈を欠伸してゐる葱坊主 同 椿落つ終の一花と云ふ色に 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月17日 さきたま花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
葉桜や百葉箱はぽつねんと 月惑 黙祷の黙に扇子の音止まず 裕章 古民家も古木も包む若葉風 泉 せがまるる父の草笛音の出ず 康子 十薬の干されしままに家売られ 順子 蚕豆は反重力の世界とも 月惑 朝日受け夜来の雨に光る薔薇 彩香 道をしへ誘はれ来れば妓楼跡 裕章 薔薇一輪仏に供へ留守頼む 順子 祝酒ちよこに浮き立つ夏の月 同 結跏趺坐する禅堂に蚊は廻る 月惑 お互ひにためらひもなき更衣 八草 母の日や乳を持ちたる大銀杏 紀花 菖蒲田に挙るサーベルの直線 月惑 五月晴れ複々線の縄電車 良江 母の日の無口の兄の大あくび としゑ 掌に乗る子猫にも髭のあり みのり 夏館蒼穹の野へ開け放つ 裕章
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
万緑を深く映して奥の池 亜栄子 師の句碑に句友の墓碑に黒揚羽 三無 沙羅の花散りて積れる密寺かな 慶月 雨雲の近づく気配蝸牛 久 草むらに昼顔溺れさうに浮く 秋尚 十薬の花もかをりも無縁墓と 亜栄子 D51は永遠や夏野に据ゑられて 久子 新緑のメタセコイアは太古の香 久子 蛙田に昭和の声の残りたる 千種
栗林圭魚選 特選句
子等のこゑ池塘に生るる太藺かな 幸風 鮮やかな青翻へし瑠璃蜥蜴 久 一面の青草の丘登り急 軽象 師の句碑に句友の墓碑に黒揚羽 三無 沙羅の花散りて積れる密寺かな 慶月 暗闇坂薄暑の袖を捲りけり 斉 老鶯やメタセコイアの闇を抜け 亜栄子 新緑の森に山鳩奥の池 経彦 隠沼の静寂破りて蟇 芙佐子 新緑の木漏れ日揺るる年尾句碑 経彦 寺出でて定家かづらの香に触るる 秋尚 キャンパスに続く山道夏薊 久子 花卯木森の昏さに寄り添ひし 斉 草むらに昼顔溺れさうに浮く 秋尚 峠路に仰ぐ卯の花空重く 芙佐子 寄せ墓に甘茶の花の日和かな 亜栄子 ひと筋に姫沙羅の花すつと落つ 秋尚 隠沼にメタセコイアの新樹光 幸風 お絵描きの子らや泰山木の花 斉 野薊のぱつと明るき母の塔 文英 日ざしきて暗さ呼び込む新樹蔭 千種 石仏の眼に��優しきさつき雨 軽象 切株に園児忘れし夏帽子 経彦 菖蒲田の間に間に低き白菖蒲 久子 新緑のメタセコイアは太古の香 同 走り茶を呷り民話の始まれり 経彦 堂前に沙羅の花散る僧の留守 亜栄子 初夏の少し気怠き二人の歩 斉 庫裡裏に零れる実梅夥し 芙佐子 蜘蛛の囲の元禄仏の肩に揺る 慶月
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年5月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
覗くまじ編笠百合の笠の中 雪 伊勢神楽牡丹の庭に舞ひ納む 同 大蚯蚓這ひ出て暗き穴残る 同 花は葉に店に残りし桜餅 ただし 大杉も岩も当時の夏の庭 洋子 かづら橋渡りきりたる夏の声 紀代美 万緑に全身染まる露天風呂 みす枝 胸奥は語らぬことに草を引く 一涓 春炬燵触れたる足のなかりけり 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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天下乌鸦
一
克雷顿从以前起就是邻居家眼中的坏孩子,小小年纪起就逃学、抽烟、喝酒,发展到后来他上不了任何一所学校,整日在街上游手好闲无恶不作。人们都认定他以后一定会成为一个讨厌的恶霸,可克雷顿忽然在二十岁的某一天就像是“开窍”了一样,他终于变得和别人一样了。他不再去街上溜达,打人,他找到了一份的工作,朝九晚五的工作,下班回家吃饭睡大觉,他依旧抽烟,把烟头弹到楼下邻居的头发上时会被骂得狗血淋头。可人们偶尔投来的目光除了鄙夷外也并没有其他,人们再也不怕他了。
克雷顿身体素质��好,如果在别的环境里生活发展,也许他会成为运动员、搏击冠军克雷顿。可是在这样一个地方长大,克雷顿最好的选择也就仅此而已。
他是被DB快递公司雇佣的第20000名快递员,他工作得很卖力,够吃苦耐劳,别人不爱干的他可以闷头干,别人干不了的他可以咬着牙干,也许就是这样的原因,克雷顿在入职半年后就得到了器重。不过,相中他的领导最后发现克雷顿其实没有与人交往的才能,因此克雷顿最适合的工作也就只能当个快递员。
某一天,上头交给克雷顿一个大单子,那是20来个箱子,每个足足有70厘米高50厘米宽,一个箱子就有80��斤以上重。其他人就连把这个硕大的箱子搬离地面都有些难做到,上头指挥着其他人把这些箱子装进克雷顿的快递车里。这个箱子就连两个壮汉都憋紫了脸才能搬得动,他们放下的时候,克雷顿的卡车都在嗡嗡颤动。上头问克雷顿,要不要再给你找个帮手,可克雷顿却拒绝了。
他独自一人驾车前往了快递寄往的终点,结果出乎他意料。他抵达的地点竟是一栋独立别墅。这栋独栋别墅外观非常漂亮,有修建恰到好处的花草。泳池上面铺着一张网,那张渔网里盛满了花瓣。
克雷顿停下快递车,一个带着鸭舌帽的男人在那里等候着克雷顿。他刚刚才和克雷顿通过一个电话,他的声音比他的外表要老成些,他穿得很休闲却看起来价值不菲。
“哦,只有你一个人过来吗?”
克雷顿打开卡车后面的插销,男人则跟在后面。
“那里面的东西可不轻,你需要我帮忙吗?”
“不需要。”
男人用礼貌中带有几丝怀疑的目光看着他,在克雷顿走到箱子前准备卸货的时候,男人忽然忍不住开口说了句“请小心,”
克雷顿当然不会以为这话是对自己说的,男人看起来非常珍惜箱子里的物体。克雷顿将手掌贴近箱子的下侧,深吸了一口气,在准备抬起的一瞬间他确实明白了为什么无论是上头还是男人都对自己如此叮嘱,百般不确信的模样——这里面到底是什么?书吗?只是书籍可能会那么重吗?石头?克雷顿的半个身体贴在箱子上,可他越施加力量,箱子就越稳稳当当地黏在地上。他对自己的力量一向非常自信,可这会也忍不住诧异了起来。
而男人呢?看克雷顿半天不动的滑稽模样,克雷顿听到他按键的声音,“看来我得再叫几个人过来帮忙,我没想到他们只让你一个人过来了”
他听到他语气中的笑声,也许他是早就知道克雷顿不一定能搬起来,准备看他笑话了。一定是这样。不然怎么他听出了对方语气中那点愉悦来?
他感觉被嘲弄了,有些热血涌上了头。他松开箱子站了起来,喘了几口气。而男人以为他终于打算放弃了,居然也松了口气。"哦,这个箱子确实���重。你别太介意了。"
可克雷顿松了松手脚后又蹲了下来,他把箱子慢慢慢慢地抬了起来,接着扛在了肩膀上。男人立马让出身后的道路,他惊讶地看着克雷顿缓慢而坚定地扛着箱子走下车来。
“放在拿(哪)?”克雷顿气喘吁吁地问,男人则给他开门走了进去,屋子里没有任何装修,像个毛坯房,就连地板也都是水泥和碎沙,只是足够宽敞。
在克雷顿依照男人的话,带着箱子走到指定的位置,他在男人有些担忧的目光中稳稳地放下了这个箱子。
在他放下的一瞬间,男人也松了口气,他这时有些钦佩地看着克雷顿,说道。“你力气真的很大。”
而克雷顿呢,他的眼睛被渗透出的汗水和发丝挡住,他把要吐出来的气含在了嘴里,他没有多看男人一眼就转身往货车的方向走去,“别的货物也放在一起吗、”
而男人呢,倒也没有好意被拒绝的恼怒,而是带着笑容跟在了后面。“是的,我会给你指出位置的,请你务必…小心点。”这回,克雷顿听出他是在关心自己的身体了。
二
克雷顿气喘吁吁地卸下最后一个箱子到指定位置,此时他汗如雨下,衣服被汗水浸透,背部被箱子压弯得厉害,肺发出风箱一般呼呼作响的声音。
男人此时像是忽然想起来还没拿水给克雷顿喝,“我请你去喝些东西吧?真是辛苦你了,这些东西太重了,我以为他们会找几个人过来…”
克雷顿的汗水滴滴答答的掉在了水泥地上,他确实口干舌燥得厉害。也不能说男人的建议完全没让他心动过,只不过——他身上配备的计时器哔哔哔地想了起来,这一般都是有其他任务得做的意思。他几乎是粗鲁地摆了摆手,转身就走。“我不用,我车上有水。”
“唔,那好。说起来,你介意留我一个联系方式吗?”
“为什么?”
“也许我还有东西希望你能来帮我搬。”
男人打开自己的皮夹,从里面拿出了一张名片——夹带着几张钞票,克雷顿也没细看便塞进了兜里。那么重的东西,这是他应得的。他开始报自己的号码,男人笑眯眯的记住了,也没再叫住他。
接下来的几天里,克雷顿依旧是像往常一样生活,他像是要耗光自己的精神一样工作,不过每天回到家躺下的时候,空虚却在蚕食着他。按理来说,他那么辛苦地工作,现在应该累积了一笔不小的财富——可惜他在好几年前就沾染上了赌瘾。赌博带来的刺激让他精神振奋,只可惜他的运气却总是不好,在这上面几乎输光了所有家底。他现在如此卖力的工作也仅仅只够日常减衣缩食的生活和还个零头而已。而且更要命的是——他还在赌。
他又想赌了,此时此刻。他忽然翻开自己的钱包,想要搜刮自己剩下的零钱,接着,他找到了一卷被揉皱的钱包裹着一张卡片,当他铺平的时候,他吃惊的发现那几张钞票的面额都大得惊人。
此时他才认认真真地审视起了那张被他不经意间放在口袋里的名片,上面写了个不常见的职业,这人是个艺术画廊的经理。大概是这么个意思吧。
“培特。”他小声地念出了名片上写的名字,因为他没读过多少年的书,因此听起来多少有点奇怪。
就在他读书的时候,他的手机忽然响了起来,他看到屏幕上有些陌生的号码时一开始吓得简直想直接摁掉——那些讨债的混蛋会换很多号码来骚扰他的生活,他们既想要打压他的精神让他崩溃,又想让他从口袋里掏出更多的钱来给他们,真是群该死的蛀虫。
可再一看,这串号码又有些熟悉——这不就是名片上的那个号码吗?他接了,电话那头的声音肯定了他的猜测。
“我希望这个点打过来没有打扰到你。”
“我不忙,我记得你,你是培特。”
他说完才觉得自己像幼儿园那些学了一点东西却迫切想要老师夸奖的幼儿一样,顿时起了一身鸡皮疙瘩。
“嗯?你真的记了我的电话?我还挺高兴的……总之,你明天有空吗?地点还是和上次一样。”电话那头的声音非常亲切,似乎完全没有感到克雷顿的尴尬一样。
“是搬多重、多大的东西?需要我带箱子过去吗?”克雷顿得弥补上次,他捏着手里刚刚压平了的钞票反省着,他之前太冷淡了。这个男人,这个看起来跟好好先生一样的男人,虽然他身上有人上人那种平日里拿着端着——实际上压根眼里根本没有他们这些下等人的讨人厌的气味。可他给出的高昂的小费确实让缺钱花的克雷顿变得温顺、有礼貌了起来。
“你不用带额外的东西来,我这边早就有所准备。”电话那头这样说道,“实际上,这算是一个比较私人的委托,我希望你可以请假腾出这一天来。当然,金钱方面我会额外补偿你的。”
克雷顿当然没有任何理由拒绝。可反常的是,在挂断后,他却意外的失去了出门赌博的心思。他躺在床上,久违地迅速入睡了。
三
他起床后才发现没在电话里约定时间,不知为何,心里总是有点忐忑。大约早上十点钟,他来到那栋别墅的门口,这栋别墅建在郊区——四周非常安静,阳光在树影间投下光影。那是非常令人感到宁静却又激动的景象。接着,昨天才在电话里听到的声音响了起来,克雷顿见到那个男人——培特,他也像是刚刚到的样子,踩着树细细碎碎的影子朝他走了过来。
“你来得真早,我希望你没有等我太久。”
“…我也才刚来。”
“那太好了,我们就边走边说吧。对了,你要看看我的屋子吗?现在比起上次稍微收拾打扫过了。”
克雷顿没有看别人过得多舒服的自虐欲望,但也没有推辞的理由,只好闷声跟在后面。培特走到了大门前,掏出一串钥匙开了门。进门之后,克雷顿发现上次搬进来的箱子全都不见了——取而代之的是陈列的雕塑,有些看起来像是石膏制作的,有些则像是青铜铸造的。此外还有一些银光闪闪的,手持尖锐枪矛的骑士。
“你应该已经知道了,这就是上次请你搬进来的货物。”培特说着,带着克雷顿走到了那个穿着闪亮甲胄的骑士盔甲跟前。“如果你想上手的话也没关系,这是白铜材质的,也没多稀奇。”
克雷顿伸手抚了一下铠甲的表面,“这些都是你买的吗?”
“不不,都是些客户的赠品,我个人的话更喜欢画作一些。当然,越小巧的东西越好。不过,这些收藏虽然并不昂贵,但也还算有观赏性。我就把其中一部分转移到这边来了。”
他说的话克雷顿并不能说完全听懂,克雷顿唯一理解的是,这个家伙在炫富。他懒得听下去这些与自己的世界相去甚远的事情,于是便急匆匆地打断道:“你在电话里说的事情是什么?”
“噢,你真的很心急。”培特眨了眨眼睛,“如果你想那么快开始聊委托的事的话,这也好。不过在正式的委托之前,你应该不介意我做一个例行检查,帮助我们更好地了解彼此吧?”
接下来,自称培特的男子不知从哪儿拿出了一个记事本和一支笔,他开始询问克雷顿的名字、年龄、家庭住址,身体条件等等——“肺活量五千毫升,你的身体可真好啊。你的短跑成绩是多少呢?……”
克雷顿越听越不对劲,面前的男人似乎对于他的身体素质之类的事情格外感兴趣,他的脑子里第一闪过去的反应就是——
“喂、你、你该不会是器官贩子吧?!”
“嗯?”培特显然也为他的问题而感觉到意料之外,“我做了什么让你产生了这样的误解?”
“你一直喋喋不休地问我的身体情况,你是想要拿我的器官去卖钱吧?”
培特听着克雷顿暴躁的控诉,期间他一直皱着眉头不说话,在克雷顿说完最后一个字后,他忽然憋不住了一般,噗嗤一声的笑了出来。
“他妈的!你为什么要笑?别笑了!你到底要我来帮你做什么?我特意今天请了假可不是为了来回答这些无聊的问题的…如果你真的想对我做什么歹事,我警告你,像你这样的弱鸡还不够我打的。”
“你的想象力……恕我直言,可真是相当丰富。”培特擦了擦笑出来的眼泪说道,“我当然知道你很强,几年前,你在这个地区获得了格斗亚军的头衔呢。不仅如此,我还知道你欠了一屁股债,如果不是急着要赚钱,你想必现在扭头就走了。朋友,别用那种诧异的眼神看我。现在这个世道奇怪的人很多,我更愿意采用更加谨慎的方式,毕竟,这年头很难知道到底该相信谁。
“工作的内容我没法现在就回答你。不过,你可以把之前那些问题都理解成一个面试。一个高薪的面试。如果你最终能通过的话,我愿意支付你那么多的时薪。”
培特比划了一个数字,相比于送快递这种工作,这个数额真是一个天文数字。克雷顿的怨言顿时消失了一大半,倘若有这笔钱,他几乎可以还掉将近一半的欠款——等一下,刚刚培特说的是不是时薪?
“好吧,好吧。”他咬了下嘴唇,“你要我干什么?我先说,杀人放火那种事儿不干。”
培特只是笑。“我还挺喜欢你的,克雷顿你现在只差面试的最后一项了——我会为你祈祷的,希望你能平安无事地通过。”
四
“你要做的事情很简单,你到达指定地点后,会有人把东西送过来给你,接着呢,你要将它带到下一个地点,那里会有其他人交接你的工作——当然,你需要全程都带好帽子和口罩,就把它想象成你日常的工作就行,反正也是送快递而已。”
“就这样?这到底是份什么工作?这是正经的工作吗?”
“你不会真的在期待杀人放火的工作吧?”培特笑了笑,“你付出力气和时间,我付给你报酬,非常公平不是吗?”
他就不该相信那个满嘴谎话的混蛋!当克雷顿看到���一个戴着口罩和帽子,和自己一样神色可疑的人手拿一个包裹向着自己百米冲刺过来的时候,他心里如是想。而且,此人的身后正跟着一辆呜呜作响的警车。
克雷顿咬了咬牙,不掺这浑水只能趁现在逃走。可是,可是……可恶啊!
在他犹豫的时候,包裹已经送到了他的面前,他毫不犹豫地一把抢过,飞奔起来。
他感觉自己从未跑得那么快过,双脚几乎要从地面上飞起来。他为了今天而特训了几天,成效卓越。
路人看见飞奔的克雷顿,纷纷以惊恐或震惊的目光避开道路。克雷顿跑得飞快,刚刚那些惴惴不安全转化为了肾上腺素,他的脑内一片澄明,耳边几乎听不到任何声音,他只是一个跑到目的地的工具而已。直到——一个老妇人颤颤巍巍地从他面前走过,克雷顿大叫着“让开!老太婆!”。可老人不知道是听不见还是腿脚跟不上。两人结结实实地碰在了一起——老太太��接被克雷顿撞得摔了出去。有人忍不住来指责克雷顿,而克雷顿呢,他抬起通红的双眼瞪了对方一眼,那人吓得顿时什么话也说不出来了。
“怪你自己倒霉吧!非要挡我的道。”
克雷顿听到原本拉开距离的警笛声越来越近,他将头一扭,转身朝着人流量极大的小巷冲去。
他最终还是在时间范围内把包裹交给了下个地方等待的人,接着急忙逃到某家街边的喫茶店,将帽子和口罩都丢进垃圾桶里。
不过,几天后他还是被抓了。抓他的警察他认识,“克雷顿,你是个怎么样的人我完全认识,有些人从小就是那么坏,别对我说什么是环境塑造了人,你我都清楚,你那么不遵守教训,违反规矩——你邪恶是因为你的天性如此。”
他在高中的时候经常因为各种理由被这位仁兄逮进警局里,他们也算是熟人了,不过,不是好的那种熟人,克雷顿打心底厌恶他。他之前对培特说过自己不愿做杀人放火的勾当,可如果是杀面前这个白痴警官的话,他还真愿意。
“你知道你为什么在这吗?”克雷顿的缄默让这个警察官相当不满意,他一脚踹在了克雷顿的腿骨上,克雷顿痛得攥紧了拳头。如果不是他的上半身被手铐束缚了,他一定会给那个警察官一拳。
“妈的,不知道。”
“你上周六上午是不是出现在了多兰大道。”
“不记得。”
这次踹的是肚子,克雷顿顿时喷出了自己的胆汁。“那时候有证人看见了你!别想抵赖,你还把��个老人家撞飞了出去,那个可怜的老太太被你撞断了三条肋骨,你难道没有一点羞耻心吗?你那时候是在做什么?”
“我不知道你他妈的在说什么!”
“你那几天都没去上班!别再装蒜了,你个小杂种,你的智力是不足以干这种事的,是谁雇佣了你?你的雇主是谁?说话啊!”
可不管他怎么打,克雷顿都只是鄙夷地看着他。“你个白痴,我什么都没干,我是无辜的。”
“你知道你是不是无辜的,”那个警察说道。“我们会调出你手机的所有记录,检查你的每一条短信和通话记录,等到你在监狱里被一群壮汉操烂屁股后,你会后悔为什么当初你为什么没有坦白这一切来获得法院的从轻发落。”
“我知道你为什么对我发火,从我八岁起到现在你都没晋升过,你个事业不顺的可悲杂种,想对一个无辜的人施压、逼他招供来飞黄腾达。可是你知道吗?你二十年是这个鸟样子,到了退休之后你也还是这个鸟样子,从浪费纳税人的钱到浪费国家的钱,你这个厚颜无耻的混蛋,你这辈子就是在无能中度过的。我诅咒你不得好死。嘿、听见了吗?要是我被关进了监狱,等我出来之后,我第一件事就是找上你的门来,我要操死你的老婆和孩子……你有女儿吗?让她怀上我的孩子然后再掐死她们…这样你就满意了吧?”
那个警官哑然了一会,接着甩门走了出去。而克雷顿呢,他倒出充满憎恨的诅咒后便像是累瘫了一样倒在椅子上,他想起了那个警官临走前带有一丝后怕的神情,他又想起那个被撞飞出去的老太婆和围在他身边的人群看着他的神情,他忽然嘿嘿地笑了起来,这是一种陶醉的笑,他彻底沉入了自己的世界里。
五
克雷顿在几个小时后被从警局放出,他一瘸一拐地走着,一开始还叫嚣着索要赔偿费,不过最后还是被撵了出来。他们看他就像看着一个活生生的瘟神一样。
克雷顿不讨厌他们这么看待他,从前他是一个无足轻重的人,好像谁都有资格来欺负他,朝他吐口唾沫。可是现在已经不一样了,有什么东西已经改变了。
他路过一个报摊,向老板问了时间,五点钟,接着要了一份最近的报纸。他到最后还是不知道自己当时送的是什么东西——不过,他的第六感告诉他报纸上应该有答案。
在他旁边读着报的人把报纸往下移了几厘米,对他说道:“我想此时比起读报,当务之急是你的腿,正好,这附近的公园里有长椅,我们一块去那儿坐坐吧。”
那个令人眼熟的长相,正是培特,从他告诉他“工作”的那天之后,他们就再也没见过了。培特说过自己会销掉电话,到时候自然会联系,不过,从他出现在这里来看,想必这几天他都一直在记录着克雷顿的行踪。
在公园的长椅上,克雷顿卷起裤腿像培特展示了一下刚刚被那个警察狠踹的地方,此时那个位置又青又紫的,培特似乎是在关心他的伤一样皱着眉头,用手指刷过淤青。克雷顿感觉那个位置像是被电了又痒又酥酥麻麻的,立马放下了裤腿。
“只是小伤。你要是有什么事需要我干的话,直接说就是了。”
“好啦,好啦,刚刚在警局里,他们都问了你些什么?”
克雷顿给他复述了在警局发生的事情——当然,除了辱骂的部分。
“果然,提前销毁和你接触的一切证据是对的,你应该也把名片扔掉了吧。”
“当然啊。所以你要我送的东西到底是什么?果然是赃物吧?”
“是客户委托的商品。”
“后面还有警车呢,你当我白痴吗!”
“你真想知道?”培特看着公园广场上停留的鸽子。
“废话。”
“我的本职会让我认识一些拥有昂贵藏品的大客户,他们会给自己的收藏品买所谓的保险,而我所要做的,就是让这些藏品以一些‘非常’的手段损坏或者‘彻底消失’。”
“…哈?你在骗保?”
“啧啧,”培特不赞成的撅起嘴唇,“我的朋友,我这么做又伤害了谁呢?那些向我购买这项服务的客户?警方?还是那些赚得盆满钵满的保险公司?或者说是你和其他人,你们这辈子很难再有机会遇到这种天上掉馅饼一般的工作了。”
克雷顿无法反驳,他不甘心地继续问道。“你做这些是为了什么?你看起来压根不差钱。”
“如果我跟你说是为了找乐子,你相信吗?”
培特回望他,克雷顿忽然呼吸一滞,培特的声音模模糊糊地在他耳边响起“难道你要欺骗自己说自己从未感受到过吗?克雷顿。我之前跟你说过,我很欣赏你,因为我在你的身上看到了……你和我……我们都享受这种刺激的生活,游走在法律和道德边缘的感觉。”
“——滚开!”
他不记得自己最后对培特说了什么,他落荒而逃了。
不过,培特知道他会回来的,不是今天,就是明天。他就这样坐在长椅上,看着那个无可救药的身影踉踉跄跄消失在茫茫黑暗之中。
end
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クマ目撃情報
R5.10.21現在 目撃等 78件
NO.
目撃日
目撃時間
目撃場所
地域
目撃・痕跡
1
4月19日
女鹿山中
吹浦
山菜とりの際に山中で��マを目撃
2
4月28日
10:35
月光川ダム付近
遊佐
さんゆうに水を汲みに来た際に、クマを目撃
3
5月5日
下当付近
高瀬
田にクマの足跡
4
5月7日
吉出上金平付近
遊佐
道路でクマを目撃
5
5月15日
小野曽
吹浦
クマが道路を横断し、杉の木を登るところを目撃。その後山中に消えた。
6
5月17日
17:45
吉出~蚕桑間
遊佐
道路でクマを目撃
7
5月23日
10:50
女鹿 三崎公園付近
吹浦
国道を秋田方面に向かうクマを目撃。秋田方面に向かった。
8
6月5日
16:10
升川地内
高瀬
民家の蔵に侵入したクマが出てきたところに遭遇し、クマは逃げ去った。
9
6月6日
平津 文殊大橋付近
蕨岡
畑にクマの足跡を発見。親子のクマと思われる。
10
6月11日
滝ノ浦
吹浦
大鳥神社前にクマと思われるフンを発見
11
6月14日
17:00
宿町五
吹浦
集落の畑から国道7号線吹浦バイパスを横切るクマを目撃
12
6月24日
藤井公民館付近
遊佐
��井公民館付近でクマと思われるフンを発見
13
7月3日
18:40
丸池様付近
吹浦
丸池様付近にてクマと思われる動物を目撃
14
7月16日
13:20
横町三
吹浦
旧吹浦小学校付近の松林にいるクマを目撃
15
7月16日
15:40
横町二
吹浦
海禅寺で目撃、集落内に侵入したと思われるが発見に至らなかった。NO.14と同一と思われる。
16
7月20日
8:30
ブルーライン入口看板付近
吹浦
道路を横断するクマを目撃した。NO.14.15との関連は不明。
17
7月23日
22:30
上蕨岡
蕨岡
クマと思われる黒い影を目撃した。
18
7月27日
11:00頃
女鹿 八幡神社付近
吹浦
階段を登り山の方向に向かうクマを複数の住民が目撃した。
19
7月28日
18:50
野沢字水上地内
遊佐
野沢から藤井に続く道の山際付近でクマを目撃した。
20
8月4日
野沢字水上地内
遊佐
桃や梨が食害及び枝を折られる等の被害
21
8月7日
杉沢字水上沢
蕨岡
牛舎外においていた飼料が食い荒らされる被害
22
8月15日
杉沢字奥屋
蕨岡
厩舎外においていたホールクロップサイレージ(飼料)が食い荒らされる被害
23
8月16日
18:30
女鹿 三崎公園付近
吹浦
海岸側から国道を横断するクマを目撃した。
24
8月23日
升川 直世
高瀬
梨が食い荒らされる被害
25
8月27日
18:00
金俣
遊佐
道路を横断し、㈱幸輪方向の林の中に入ってい��ところを目撃した。
26
8月29日
褄坂
蕨岡
飼料用とうもろこしが食い荒らされる被害
27
8月31日
10:00
鳥崎地内 林道
吹浦
林道を横切っていくクマを目撃した。
28
9月2日
7:00頃
月光川ダム付近
遊佐
道路を横切るクマを目撃した。
29
9月3日
藤井北付近
遊佐
ホールクロップサイレージ(牧草)がクマに荒らされる被害
30
9月3日
杉沢字水上沢
蕨岡
牛舎内に侵入し飼料を食い荒らされる被害
31
9月3日
杉沢字東部
蕨岡
水稲の踏み倒し、食い荒らされる被害
32
9月8日
白井新田字東部
遊佐
果樹(梨)が食い荒らされる被害
33
9月10日
5:32
文殊大橋付近
遊佐
道路を横断するクマを目撃した。上蕨野方向竹林に立ち去った。
34
9月12日
野沢字水上地内
遊佐
果樹(梨)梨が食い荒らされる被害
35
9月12日
13:30頃
杉沢地内
蕨岡
太陽光ソーラーパネルの点検中、雑木林でクマを目撃した。
36
9月13日
石辻
蕨岡
ホールクロップサイレージ(稲)が食い荒らされる被害
37
9月14日
18:30頃
宮山坂公園付近
遊佐
下校中の中学生がクマを目撃した。
38
9月15日
18:00頃
文殊大橋付近
遊佐
河川側から平津山へ道路を横断するクマを目撃した。
39
9月19日
開畑
蕨岡
果樹(梨、栗)の枝が折られ食い荒らされる被害
40
9月19日
褄坂
蕨岡
果樹(栗)が食い荒らされる被害
41
9月21日
小野曽
吹浦
小野曽集落北側の道路で道路を横断し林に入るクマを目撃した。
42
9月22日
吉出蕨野畑地内
遊佐
クマによるものと思われるハウスの破損、フンを発見
43
9月23日
8:00頃
胴腹の滝付近
遊佐
胴腹の滝付近の道を横断しているクマを目撃した。
44
9月25日
6:00頃
野沢水上地内
遊佐
林から田を通り、林に入るクマを目撃した。
45
9月30日
9:00頃
広野地内
遊佐
クマを目撃した。集落近くの栗の木のクマによる食害を確認した。
46
10月1日
丸子地内
遊佐
345号線金子園芸様近くの栗の木のクマによる食害を確認。クマが移動先については不明。
47
10月1日
19時頃
開畑(湯ノ尻)地内
蕨岡
豚舎敷地内にクマが侵入。作業者は避難した。
翌日早朝に現場を確認、痕跡によりクマは敷地外に出たと思われる。
48
10月2日
上蕨岡地内
蕨岡
柿の木にクマの爪痕を確認した。
49
10月2日
平津 文殊大橋付近
蕨岡
畑にクマを足跡を確認した。翌日(3日)早朝も新たな足跡が確認されている。
50
10月3日
野沢字久保川原地内
遊佐
クマにより多数の栗の木が枝を折られ食害を確認した。
51
10月3日
当山字大尻沢付近
高瀬
クマにより多数の栗の木の枝が折られ食害を確認した。
52
10月5日
杉沢字水上沢
蕨岡
牛舎内に侵入し飼料を食い荒らす被害を確認した。6日も同様の被害を確認し、窓ガラスを割って外に出たようである。
53
10月6日
9:30頃
月光川ダム付近
遊佐
道路を横切るクマを目撃した。
54
10月6日
褄坂地内
蕨岡
クマにより多数の柿の木の枝が折られる被害を確認した。付近の栗の木にも同様の被害があった。
55
10月8日
6:30頃
野沢字久保川原地内
遊佐
川沿いで熊を目撃した。
56
10月8日
杉沢南
遊佐
柿の木が折られ柿が食い荒らされる被害
57
10月8日
開畑地内
蕨岡
複数の栗の木の枝が折られ食い荒らされる被害
58
10月8日
金俣地内
遊佐
養蜂箱が破壊され食い荒らされる被害
59
10月9日
袋地地内
遊佐
家の裏のコンポストが倒され生ごみ等が荒らされる被害
60
10月10日
7:00頃
三川地内
蕨岡
集落周辺でクマを目撃した。
61
10月10日
16:30頃
野沢字水上地内
遊佐
柿を食べるクマ2頭を目撃した。
62
10月14日
21:41頃
大蕨岡字村前
蕨岡
道路を横断するクマ3頭を目撃した。
63
10月15日
8:00頃
袋地地内
遊佐
柿、栗の木が折られ、コンポストの生ごみ等が荒らされる被害【NO.59と同じ場所】
64
10月15日
上吉出地内
遊佐
柿が食い荒らされており、足跡を確認した。
65
10月17日
6:30頃
白井新田地内
遊佐
農道でクマを目撃した。集落方向に向かったと思われるが目撃、被害は確認されていない。
66
10月17日
杉沢字奥屋
蕨岡
厩舎外においていたホールクロップサイレージ(飼料)が食い荒らされる被害【NO.22と同じ場所】
67
10月17日
蚕桑地内
遊佐
柿の木がクマによる被害を受けていることを確認した。
68
10月18日
16:30頃
金俣地内
遊佐
道路を横断するクマを目撃した。
69
10月18日
21:08
開畑地内
蕨岡
太陽光発電所付近で道路を横断するクマを目撃した。
70
10月19日
8:00頃
宮山坂付近
遊佐
道路から林の中を移動するクマを目撃した。
71
10月19日
9:00頃
下藤崎地内
西遊佐
西山の松林内で移動するクマを目撃した。
クマの移動経路等は不明。
72
10月20日
平津新田地内
遊佐
畑にクマの足跡、柿の木付近にフンを確認した。
73
10月20日
富岡地内
高瀬
畑にクマの足跡を確認
74
10月20日
宮田地内
稲川
畑にクマの足跡を確認
75
10月21日
8:00頃
石淵地内
高瀬
車で道路を走行中、クマが道路を横切った。
76
10月21日
10:00頃
歴史民俗学習館(旧菅里中)付近
高瀬
歴史民族学習館奥の墓地でクマを目撃した。
77
10月21日
10:30頃
遊ぽっと-歴史民俗学習館(旧菅里中)の間付近
柿の木の下で柿を食べるクマを目撃した。
78
10月21日
14:00頃
下藤崎付近
道路沿いの雑木林でクマを目撃した。松林方向に向かった。
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FAN ART BOOK | VEGAN FOOD FROM A-Z | COVERS Date: 2020-d.d. Link to all files: One Drive
CONTENT LIST Last updated : 29 Mai 2023
Chapter 1 - Fruits and Berries [POKEMON HGSS]
Acai berry | 阿萨伊浆果 (Ā sà yī jiāngguǒ)
Acerola cherry | 西印度樱桃 (Xī yìndù yīngtáo)
Apple | 苹果 (píngguǒ)
Apricot | 杏 (xìng)
Avocado | 鳄梨,(èlí)
Banana | 香蕉 xiāngjiāo
Barberry | 刺檗 (Cì bò)
Bilimbi | 三敛 (Sān liǎn)
Blackberry | 黑莓 hēiméi
Blueberry | 蓝莓 lánméi
Boysenberry | 波森莓 (Bō sēn méi)
Breadfruit | 面包果 miànbāoguǒ
Buddha’s hand | 佛手柑 (Fóshǒu gān )
Burmese grape | 木奶果 (Mù nǎi guǒ)
Cainito/Star apple | 金星果 (Jīnxīng guǒ)
Canistel | 蛋黄果 (Dànhuáng guǒ)
Cantaloupe | 哈密瓜 Hāmìguā Carob | 长角豆(Cháng jiǎo dòu)
Cherimoya/custard apple/sugar-apple | 毛叶番荔枝 Máo yè fān lìzhī
Cloudberry | 云莓 (Yún méi)
Cluster fig/Gular | 聚果榕 (Jù guǒ róng) Coconut | 椰子 (Yēzi) [Tyson]
Cranberry | 蔓越橘 (Màn yuè jú)
Dates | 椰枣 (Yē zǎo)
Dragon Fruit | 火龙果 (Huǒlóngguǒ) Durian 榴莲 Liúlián
Gac fruit | 木鱉果 (Mù biē guǒ)
Grapes | 葡萄 (Pútáo)
Jackfruit | 菠萝蜜 Bōluómì
Kiwi | 猕猴桃 (Míhóutáo)
Logan | 龙眼 Lóngyǎn
Lychee | 荔枝 Lìzhī
Mango | 芒果 Mángguǒ
Mangosteen |山竹 shānzhú
Naranjilla | 奎東茄 (Kuí dōng jiā)
Orange | 橙 (Chéng)
Papaya | 番木瓜 (Fān mùguā) Passion fruit 百香果 (bǎixiāng guǒ) Peach 桃子 (Táozi)
Pear | 梨 (Lí)
Persimmon | 柿子 (Shìzi)
Pineapple | 菠萝 Bōluó
Pomegranate | 石榴 (Shíliú)
Physalis | 灯笼果 (Dēnglóng guǒ)
Rambutan | 紅毛丹 Hóng máo dān
Raspberry | 樹莓 (shù méi) Salak | 蛇皮果 (Shé pí guǒ)
Starfruit | 杨桃 (Yángtáo)
Strawberry | 草莓 Cǎoméi
Tangerine | 柑橘 (gān jú)
Watermelon | 西瓜 Xīguā
Guava | 番石榴 (Fān shíliú) Goji | 枸杞 (Gǒuqǐ) Goose berry | 醋栗 (Cù lì) Grapefruit | 葡萄柚 (Pútáo yòu) Elephant apple | 第倫桃 (Dì lún táo) Fig | 无花果 (Wúhuāguǒ) Honeydew melon | 蜜露瓜 (Mì lù guā) Kumquat | 金柑 (Jīngān) Lemon | 柠檬 (Níngméng) Lime | 青檸 (Qīng níng) Mamey Sapote | 马米果 (Mǎ mǐ guǒ) Persimon | 柿子 (Shìzi) Plum | 李子 (Lǐzǐ) Pomelo | 柚子 (Yòuzi)
Foods made from fruit
Candy Apple | 糖苹果 (táng píngguǒ)
Dried fruit | 果干 (guǒ gān)
Jam | 果酱 (guǒjiàng)
Juice | 蔬果汁 (shūguǒ zhī) Apple juice | 苹果汁( píngguǒ zhī) Orange juice | 橙汁 ( chéngzhī)
Comics
Meowth’s Easter Egg (Avocado)
Chapter 2 - Nuts and Seeds [SONIC]
Acorn / oak nuts | 橡子 (Xiàng zi) Almond | 杏仁 (Xìngrén) Brazil nuts | 巴西堅果 (Bāxī) jiānguǒ Caraway seeds | 葛縷子 (Gé lǚ zi) Cashew | 腰果 (Yāoguǒ) Chestnuts | 板栗 (Bǎnlì) Chia seeds | 奇亚籽 (qí yà zǐ) Linseed/Flaxseed | 亚麻籽 (Yàmá zǐ)
Hazelnut | 榛子 (Zhēnzi) Egusi | 埃古斯 (Āi gǔ sī) Hemp seeds | 大麻籽 (dàmá zǐ) Kola nuts | 可乐果 (Kě lè guǒ) Macadamia | 澳大利亚坚果 (Àodàlìyǎ jiānguǒ) Peanut | 花生 (Huāshēng) Pecan | 碧根果 (Bì gēn guǒ) Pili nut | 菲島橄欖 (Fēi dǎo gǎnlǎn)
Pine nut | 松子 (Sōngzǐ) | Pinjekjerne Pistachio | 开心果 Kāixīn guǒ Poppy seeds | 罌粟籽 Yīngsù zǐ Pumpkin seeds (Pepita) | 南瓜籽 Nánguā zǐ Sesame seeds | 芝麻籽 (Zhīma zǐ) Sunflower seeds | 葵花籽 (Kuíhuā zǐ) Walnuts | 核桃 (Hétáo) Watermelon seeds | 西瓜籽 (xīguā zǐ)
Sesame seeds | 芝麻 (Zhīma) [Hamtaro]
Nut butter | 坚果酱 (Jiān guǒjiàng)
Chapter 3 - Grains [BNA]
Whole grains
Corn | 玉米 (Yùmǐ) | Mais
Millet | 小米 (Xiǎo mǐ) Oats | 燕麦 (Yànmài) Rice | 大米 (Dàmǐ) Rye | 黑麦 (Hēi mài) Sorghum | 高粱属 (Gāoliang shǔ) Spelt | 斯佩耳特小麦 (Sī pèi ěr tè xiǎomài) Teff | 苔麸 (Tái fū) Triticale | 小麦 (Xiǎomài)
Foods made from grains
Bread | 面包 (Miànbāo)
Dessert | 甜点 (Tiándiǎn)
Dumplings
Flatbread | 饼 (Bǐng)
Pasta | 意式面食 (Yì shì miànshí)
Porridge | 粥 (Zhōu)
Noodles | 面条 (Miàntiáo)
Chapter 4 - Legumes/Pulses [FINAL FANTASY VI]
Soy milk | 豆浆 (Dòujiāng)
Faba beans | 蚕豆 (Cándòu) Black-eyed peas | 黑眼豆 (hēi yǎn dòu) Kidney beans | 腰豆 (yāo dòu) Black beans | 黑龟豆 (hēi guī dòu) Chickpeas | 鹰嘴豆 (yīng zuǐ dòu) Mung beans | 绿豆 (lǜdòu)
Chapter 5 - Mushrooms [POKEMON ORIGINS]
Part 1
Part 2
Chapter 6 - Vegetables [SUPER MARIO RPG]
Green vegetables
Bok Choy | 大白菜 (Dà báicài)
Broccoli | 西兰花 (Xī lánhuā)
Leeks | 韭葱 (Jiǔ cōng)
Napa cabbage | 小白菜 (Xiǎo báicài)
Potato | 土豆/马铃薯 (Tǔdòu/mǎlíngshǔ)
Sea vegetables
Sea vegetables part 1
Root vegetable
Turnip | 无菁 (wú jīng) Kohlrabi | 苤蓝 (pié lán) Radish | 萝卜(luó bo)
Gourds
Acorn Squash | 橡果南瓜 (xiàng guǒ nánguā)
Butternut squash | 灰胡桃南瓜 (Huī hútáo nánguā)
Cucumber
Pumpkin | 南瓜 (nánguā)
Other vegetables
Lotus | 莲花/荷花 (héhuā/liánhuā)
Tomato | 番茄 (fānqié)
Chinese Yams | 山药 Parsnips | 欧防风 Jersusalem artichokes | 洋姜 Galangal | 高良姜 Water chestnut | 荸荠 Okra | 秋葵 Chinese artichokes | 甘鹿仔 Artichokes | 菜蓟
Eggplant | 茄子 (Qiézi)
Bitter Melon | 凉瓜 (Liáng guā)
Bell Pepper | 菜椒 (cài jiāo)
Brussels sprouts | 抱子甘蓝 (Bào zǐ gānlán) Cauliflower | 菜花 (Càihuā)
Chapter 7 - Herbs, Spices, and Condiments [HAMTARO]
Condiments
Sriracha | 是拉差 ( Shì lā chà ) [HAMTARO Panda]
Vinegar | 醋 (Cù) Hot sauce | 辣酱 (làjiàng) Soy sauce | 酱油 (jiàngyóu) Oil | 油 ( yóu )
Herbs and Spices
Cardamom | 白豆蔻 (bái dòukòu) Saffron | 番红花 (Fān hóng huā) Vanilla | 香草 (xiāngcǎo)
Asafoetida | 阿魏 (ā wèi) Bay leaves | 月桂叶 (yuèguì yè) Barberry | 小檗属 (Xiǎo bò shǔ) Clove | 丁香 (dīngxiāng) Chilli | 辣椒 (làjiāo) Corriander | 芫荽 (Yánsuī) Cumin | 孜然 (zī rán) Ginger | 姜 (jiāng) Mace/Aril | 假种皮 (jiǎ zhǒng pí) Mustard | 芥末 (jièmò) Nutmeg | 肉豆蔻 (ròu dòukòu) Paprika | 红甜椒粉 (hóng tián jiāo fěn) Sumac | 盐肤木属 (yán fū mù shǔ) Star anise | 八角 (bājiǎo) Tumeric | 姜黄 (jiānghuáng)
Anise/Aniseed | 茴芹 (huí qín) Chicory | 菊苣 (jújù) Chives | 北葱 (běi cōng) Dill | 莳萝 (shí luó) Garlic | 蒜 (suàn) Lavender| 薰衣草 (xūnyīcǎo) Lemon grass | 香茅 (xiāng máo) Onion | 洋葱 (yángcōng) Pepper | 胡椒 (hújiāo) Poppy Seed | 罂粟籽 (yīngsù zǐ) Sage/Salvia | 鼠尾草 (shǔ wěi cǎo/) Salt | 食盐 (shíyán) Thyme | 百里香 (bǎilǐxiāng)
Basil | 罗勒 (Luólè) Cassia cinnamon | 肉桂 (ròuguì) Ceylon Cinnamon | 锡兰肉桂 (xī lán ròuguì) Horehound | 欧夏至草 (ōu xiàzhì cǎo) Lemon balm | 香蜂花 (xiāng fēng huā) Liquorice | 光果甘草 (guāng guǒ gāncǎo) Lovage | 欧当归 (ōu dāngguī) Oregano | 牛至 (niú zhì) Parsley | 欧芹 (ōu qín) Peppermint | 辣薄荷 (là bòhé) Rosemary | 迷迭香 (mí dié xiāng) Spearmint | 留兰香 (liú lán xiāng) Terragon/Estragon | 龙蒿 (lóng hāo) Vanilla | 香草 (xiāngcǎo) Watermint | 水薄荷 (shuǐ bòhé)
Angelica | 当归属 Allspice | 多香果 Bible leaf | 脂香菊 Borage | 琉璃苣 Caraway seeds | 葛绿子 Chervil | 有喙欧芹 Fennel seeds | 茴香籽 Fenugreek | 葫芦巴 Galangal | 高良姜 Grains of Paradise | 天堂椒 Marjoram | 墨角兰 Sorrel | 酸模 Wasabi | 山葵
Chapter 8 - Other Foods [PROMARE]
Drinks
Tea | 茶 (chá) Ice Tea | 冰茶 (Bīng chá) Water | 水 (Shuǐ)
Coffee
Plant milk | 植物奶 (Zhíwù nǎi)
Desserts
Cake | 蛋糕 (dàngāo)
Christmas cake | 圣诞蛋糕 (Shèngdàn dàngāo)
Gingerbread | 姜饼 (Jiāng bǐng)
Mooncake | 月饼 (Yuèbǐng)
Norwegian cardamom buns | 挪威豆蔻面包 (Nuówēi dòukòu miànbāo)
Pretzel | 椒盐卷饼 (Jiāoyán juǎn bǐng)
Food
Plant-based meat | 素肉 (Sù ròu)
Junk food | 垃圾食品 (Lājīshípǐn)
Nutrition
Carbohydrates 碳水化合物 (tànshuǐ huàhéwù)
Protein 蛋白质 (dànbáizhí)
Omega - 3
Calcium 钙 (gài)
Iodine 碘 (diǎn)
Iron 铁 (tiě)
Manganese 锰(měng)
Phosphorus 磷 (lín)
Potassium 钾 (jiǎ)
Selenium 硒 (xī)
Zinc 锌 (xīn)
Zinc 锌 (xīn) 2
Vitamin A
Vitamin B1
Vitamin B2
Vitamin B3
Vitamin B7
Vitamin C
Vitamin D2
Vitamin D3
Vitamin K
Chapter 9 - English Chinese Russian Norwegian [DRAGON BALL SUPER] Places | 地方 (dìfāng) | место | Steder
Bakery | 面包房 (miànbāo fáng) | Пекарня | Bakeri
Tea Party | 茶话会 (cháhuàhuì) | чаепитие | Teselskap
Picnic | 野餐 (yěcān) | пикник | Piknik
Food | 食物 (shíwù) | еда | Mat
Fruit | 水果 (Shuǐguǒ) | фрукты | Frukt
part 1
part 2
part 3
part 4
Edible mushroom | 食用菌 (Shíyòng jūn) | съедобные грибы | Spiselig sopp
Berry | 浆果 (jiāngguǒ) | ягоды | Bær
part 1
Vegetables | 菜蔬 (Shūcài) | овощи | Grønnsak
part 1
part 2
Legumes
part 1 (beans) part 2 (mung beans)
part 3 (soy)
Spreads
part 1
Drinks
Soda
Other food
Pumpkin | 南瓜 (nánguā) | тыква | Gresskar Pumpkin spice latte | 南瓜香料拿铁 | Тыквенный пряный латте | Gresskarlatte
Oats | 燕麦 (yànmài) | Овёс | Havre Oatmeal | 麦片粥 (màipiàn zhōu) | Овсяная каша | havregrøt
Coconut water | 椰子水 (yēzi shuǐ) | Кокосовая вода | kokosvann
Vinegar | 醋 (cù) | уксус | eddik
Pretzels | 椒盐卷饼 (jiāoyán juǎn bǐng) | крендель | saltkringler
Sugar and Tea
French fries | 薯条 (shǔtiáo) | Картофель фри | pommefrites
Sweet potato fries | 甘薯条 (Gānshǔ tiáo) | сладкий картофель фри | Søtpotet fries
Anpan | 豆沙面包 (Dòushā miànbāo) | Ан-пан | Anpan
Youtiao | 油条 (Yóutiáo) | Ютя | Youtiao Soy milk | 豆浆 (Dòujiāng) | соевое молоко | Soya melk Xidoufen | 稀豆粉 (Xī dòu fěn) | гороховый суп | Xidoufen
Bonus Chapter
Notice
Hamtaro [2021 09]
Meowth [2021 10]
Super Mario [2021 11]
Moomin [2021 11]
Wizardmon and Gatomon [2021 11]
Rosalina and Geno [2022 01]
Shadow and Amy [2022 03]
Meowth, Pikachu, Lucario [2022 04]
Moomin, Hamtaro, Kirby [2022 05]
Dexter’s Lab + Powerpuff Girls [2022 11]
Morgrem and Hattrem [2022 11]
Lucario, Smolive, Lechonk [2022 11]
Celebration
Happy New Year 1 [2022 01]
Happy New Year 2 [2022 01]
Happy New Year 3 [2022 01]
Veganuary 1 (Meowth Pikachu) [2022 01]
Veganuary 2 (Ambipom) [2022 01]
Vegnauary 3 (Geno) [2022 01]
Veganuary 4 [2022 01]
Happy Easter [2022 04]
Happy World Kindness Day [2022 11 13]
Happy New Year [2023 01]
Veganuary 1 (Team Rocket) [2023 01]
Veganuary 2 (Dragonite) [2023 01]
Veganuary 2 (Lucario and Sirfetch’d) [2023 01]
Veganuary 4 (Gengar) [2023 01]
Happy Easter (Weavile) [2023 04]
Happy Halloween and World Kindness month (Pokemon) [2023 10-11]
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅲ
花鳥誌2024年3月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
『年代順虚子俳句全集 第二巻』明治三十九年の項に「四月中の作句と覚ゆるもの」とある中の一句。『ホトトギス』には同年七月号に載る。「さくら狩」は和歌以来の言葉で、いささか俗な「花見」に比べて、雅趣のある言葉だ。「鷹狩」同様、花を求めて歩く意がある。筵を敷いて眺める「花見」が「静」だとすれば、「さくら狩」は能動的な含意を持つ。星野立子はこう解釈する。
桜を見に山に分け入りました。桜の名勝地吉野とか鞍馬でしょうか。山道を辿っていると百姓家か、由ある人の住居か、ある家の垣根が長く続いているあたりに出ました。どのような人が住んでいることかと思いながら通り過ぎました。桜狩というのですから花を見る目的で山路を歩いているのでありましょう。その山人の垣根づたいも一再ならずあったかも知れません。兎に角、山に住んでいる人の家の垣根づたいを過ぎ去ってなお奥の方へ分け入りつつある時の情景であります。
散在する山間の桜なればこその「狩」である。そして、立子がほのめかすように、「山人」という言い方に一種の軽い��謎」があって、家の主人をあれこれ想像する気分も受け取れる。
謡曲の世界を背景に見ようとする向き(清崎敏郎「研究座談会」)があるのは、脇が桜を訪ね、桜にちなんだ精霊のシテが山人の仮の姿で現れるような能を想定したのであろうが、そのような曲はない。「狩」の言葉の持つ雅趣が、そういう踏み込んだ解釈を提示させる事情は理解できる。
中七の「垣根づたひや」という言い回しには、軽い浮かれた感じがあり、そこに山間に「一花所望」とばかり、花を求めて逍遥する気分の楽しさを感じ取ればよい。句全体もア行音が繰り返され、リズムがいい。
なお、1番「美しき人や蚕飼の玉襷」は他者を詠んだ「他」の句。2番「山寺の宝物見るや花の雨」は自分を詠んだ「自」の句。3番「芳草や黒き烏も濃紫」は、「他」、そしてこの句は「自」ということで、虚子は意識して配したか。自他の区別は虚子が親しんだ連句の発想である。四句「や」が入った句が続いた。
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
大正二年二月十一日、三田俳句会で発表されたものである。この句会は岡本癖三酔(廉太郎)が起こしたもの。『ホトトギス』には同年三月号に載る。『贈答句集』の前書には、「大正二年・俳句に復活す」とあって、小説に転じていた虚子のいわゆる「俳壇復帰」を象徴する句として位置付けられてきたが、実態は、陰影に富んでいる。
虚子が遠ざかっている間、河東碧梧桐の活動は旺盛で、俳句の流れは碧梧桐によって、古典的世界を離れ、詰屈な文体に新奇の題材を衒った新傾向俳句が流行していた。周囲からも、当時隆盛の自然主義の影響もあって、俳句はいずれ季題中心の世界から離れると考えられていた。虚子は、当時「負け組」と捉えられていたのである(拙稿「明治末年の俳諧史―池田常太郎『日本俳諧史』をめぐって」『連歌俳諧研究』一三三号)。
しかし実際は、大方の予想に反して虚子が平明にして余韻ある俳句、古典文芸としての俳句を主張し実践することで、後の『ホトトギス』王国を築くに至ったということになる。その時の虚子の戦略は、日露戦争後の不況と青年の「煩悶」を前提に、村上鬼城・飯田蛇笏・原石鼎ら不遇の若者の主観的俳句を拾い上げるとともに、地方の中間層を開拓して俳句の大衆化に向かうという二つの路線を用意していたようだ。作家の発掘と俳句愛好者の「市場」開拓という双方を兼ねる複眼が、虚子の戦略であった、ということになる(拙著『近代俳句の誕生』「Ⅳ 大虚子への道程」)。
掲句へ戻ろう。強くとも、駘蕩たる春風から湧いてくる「闘志」とは、単純な情熱ではないだろう。争いを好まなかったように見えるが、虚子に「比類のない勝負師の魂」を見て取ったのは山本健吉(「俳人虚子」『俳句』昭和三十四年五月)だった。勝ち負けは、彼の脳裏に常にあり、彼に盾ついた者は、たいてい最後に敗れ去り、虚子は黙殺による勝利を、常に収めている。だが、そのような意識は、ほとんど表面に現したことがないのは、自制力が強かったからだ、とも言っている。
後に赤星水竹居の『虚子俳話録』(昭和二十四年)で、虚子はこうも振り返っている。
私は自分の事は結局自分で解決せねばならぬと、いつも考えています。病気の時なんか苦痛をこらえながら、いっそう深くそんな事を感じます。
俳壇復帰の直前、腸を病んで長期にわたり臥せっていたから、この句の成立に関連しては、考えておくべき問題である。こうした我慢強さが、何に由来するかと言えば、健吉の見るところ、それは自身を恃む気持ちの強さによる、ということなのである。
水竹居も健吉も、この粘りと寡黙と忍耐強さを徳川家康のようだと比定している。
なお、掲句と一対の次の句は、隆々とした力強い太い筆勢。特に「春」と「闘」は、力感に溢れ、一句の眼目となっている。
『虚子百句』より虚子揮毫
1 美しき人や蚕飼の玉襷
2 山寺の宝物見るや花の雨
3 芳草や黒き烏も濃紫
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
6 葛城の神臠はせ青き踏む
国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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1 . 在西伯利亚熊前偃旗息鼓的民族外宣
不知道从何时开始,中国出现了一个蹊跷现象,就是网络环境中充斥着杀伐之气。其蹊跷之处在于现实中分明很胆小平和的人,一旦进入网络,其民族豪情和斗争气焰就无比高涨。
当然这很大一部分得益于我们政府宣传上的努力,因为知道民众生活艰难,心中怨愤,再不宣泄就会酿成隐患。好在本身也和周边国家矛盾不断,因此也就有了煽动的素材。不管有心无意,都要不时在媒体上挑起一些事端。就算没事发生,也可以翻一些旧账,拉出一些“历史仇恨”来,提醒大家“勿忘国耻”,以持续这火焰不灭。
并且这工具使顺手了,也就八面玲珑,皆可致用。好比国内发生一些伤害百姓的事件,引起民愤时,就可以抛出民族大义。例如食品安全吃坏了身体,疫苗作假打坏了孩子,大家满腔怒火时,媒体就开始摆弄“爱国”手段,频繁播报某某国家辱华了,或者日本教科书乱写了,如此一来争议焦点自然逐步转移,倒也屡试不爽。
正如前几十年的威胁有“帝,反,修”,今日又有“西方反华势力”,总之“颠覆势力”的阴影从没消散过,所以挑动民族仇恨也就成了官方的常规操作,无论西方列强还是左邻右舍,都被我们挞伐了无数遍。
由网络征讨的范围来看,中国显然是世界上民族主义最强的群体,他几乎与全世界为敌。但又有个怪诞之处,就是这个民族主义具有很强的选择性,会对某些国家十分克制,比如我们的邻邦俄罗斯。近几十年中,除了中苏交恶被批驳了一段时间“修正主义”之外,中国对其一直是和颜悦色。而且就算对方背叛了社会主义阵营,走了代议制的歪路。中国也不以为意,很快就与其“睦邻修好”,成为肝胆相照的老朋友。
中国最激烈的战场通常在纸面上,往往“笔杆子”比“枪杆子”更凌厉,然而一群锋芒毕露的民族主义对一个国家温言细语,必然是对方有让他们感到惊恐的实力,以至于政府文宣和红小兵们都小心翼翼,时刻避免着触怒这个脾气不太好的“友邦”。
2 . 沙俄如何在中国栽种恐惧 1 领土
要了解中国对俄罗斯的恐惧,就要彻底地分析这个民族。中国对俄罗斯的恐惧不仅仅存在于当朝政府,而是有久远的历史根由的。
早在叶卡捷琳娜二世时期,这位女帝就开始觊觎中国的领土,并在内部起草了《关于对华战争的意见》 ,宣称黑龙江流域原为俄国所有,但后来因为正筹备与奥斯曼帝国的战争而作罢。
此后中国与沙俄签订了第一份国际条约《中俄尼布楚条约》,俄罗斯也对中国的企图具备了大体雏形。沙俄意图吞并黑龙江的太平洋出海口,因此在 1858 年英法联军攻占中国期间威逼清廷签订《瑷珲城和约》,割占黑龙江以北、外兴安岭以南 60 多万平方公里领土及江东六十四屯地区。
1860 年英法攻占北京,沙俄再次趁机发难,以“调停人”的角色逼迫清政府签订了《中俄北京条约》,割占乌苏里江以东的外满洲(包括库页岛)约 40 万平方公里的领土,并获得海参崴这个太平洋出海口。
《北京条约》并不是沙俄的最终目的,而是为后续侵占土地提供条约根据。1864 年,新疆回民反清起义,沙俄军队趁机入侵中国西部(外藩),强占伊犁西北,陈兵塔城威逼清廷签署了他们起草的《中俄勘分西北界约记》,以此占据了唐努乌梁海西北。两国在此后的 1869 年又签订了《乌里雅苏台界约》,沙俄再次吞并唐努乌梁海西北 4 万平方公里地土,同一年还签订了《科布多界约》,将乌梁海十佐领割占。
唐努乌梁海正式易主是在 1921 年,苏俄红军进驻此地宣布其“独立”,为图瓦共和国。而又于 1944 年直接将其吞并。
时隔不久中国西北出现了动乱和割据政权,沙俄趁浩罕入侵新疆之际,立刻出兵进占伊犁。并在 1879 年胁迫满清签订《中俄交收伊犁条约》以割让伊犁以南及以西领土,以及赔款 500 万卢布。后来双方改订为《伊犁条约》,这个条约包括此后几年的五个子约一共割让塔城东北和伊犁,喀什噶尔以西约 7 万多平方公里领土。
以上所述的领土割占,是官方至今所承认的。自 1858 年起,中国在沙俄手中总计损失 161 万平方公里土地。这并不包括存在争议的《尼布楚条约》之前的领土归属,有很多人认为此前满清也曾割让百万平方公里土地,比如贝加尔湖沿岸地区,以及当今哈萨克斯坦的一部分,而他们的丧失都是沙俄直接侵占或以划分边界等手段导致的。
3 . 沙俄如何在中国栽种恐惧 2 屠杀
清朝对沙俄是异常忍让甚至可说是卑躬屈膝的,一方面是惧怕沙俄的军事实力,一方面还因为满清后期朝政不稳,因此在与沙俄接触的一两百年间竭力避免着战争冲突。而俄国真正给中国政府和民间带来的恐惧,是在此后对中国人的屠杀中种下的。其中最骇人听闻的是 1900 年庚子俄难中的“海兰泡大屠杀”和“江东六十四屯惨案”。
1900 义和团起义,沙俄瞅准时机,以“保护铁路”之名出动军队在黑河挑起事端,以执行其“黄俄罗斯计划”。 7 月 16 日,俄军逮捕了此地所有中国人。并于次日将中国人赶到黑龙江边,挥刀将中国人赶进水里。
俄军的目的是彻底抹灭这个地区的中国人,因此采用了异常残忍的手段。他们起初打算将中国人淹死在黑龙江里,然而有些人企图逃走,他们便组成阵列将其围住,逃跑者皆被刺刀捅死。一些妇女乞求他们放过婴儿,但官兵顺势就将婴儿挑在刺刀上捣碎。——整个事件其人性灭绝的程度让史学家们惊骇。据记载:此事过后,血肉狼藉,无论死活,皆投诸江。 海兰泡屠杀持续了 6 天,共杀戮 5000 多人,数日后黑龙江中死去的尸体上浮,以至于浮尸蔽江,水面浑浊,满目油腥。
而就在同时,俄军为了彻底解决《中俄北京条约》里中国侨民在江东六十四屯的居留权问题。将海兰泡的手法如法炮制,他们首先搜捕各屯的中国居民,驱赶其进入一座大屋中,然后点燃房屋将他们烧死。此后俄军沿路枪杀居民,最后将剩余的居民逼入江中,此次又杀死 2000 余名中国人。
两次屠杀共造成 7000 余中国人罹难。在此后的一个月中,俄军沿黑龙江和乌苏里江再发起多宗驱逐,袭击和屠杀中国人的行动。
在这两起事件之后,沙俄也顺利地将海兰泡和江东六十四屯的中国居民财产,耕地等悉数征收。
上述事件是沙俄帝制时期制造的灾难,此后的苏维埃执政时期,同样发生了对华侨的迫害。——列宁在执行新经济政策后,将几千名中国人划入有产阶级或资本家行列,很多人因此被判刑入罪。此后在斯大林“大清洗”时期,苏联当局把远东华侨当作“反革命民族分子”和“有害分子”逮捕、杀害或发配到西伯利亚高寒地带,海参崴这个中国人聚居区的华侨被尽数驱逐。
苏联不止对于中国人,同时对一切少数民族和他国侨民也采取了全面的打压。苏维埃政府褫夺了他们的财产和申诉权利,并罗织罪名将其发配边疆服劳役,此举让很多人死在了流放地,以至于各国侨民,尤其是中国侨民的数量锐减。
4 . 沙俄如何在中国栽种恐惧 3 掠夺
俄国一直对东部的出海口有所企图,因此在中国东北的活动最为频繁。 1945 年二战结束前夕,苏联红军以对日宣战为由进入东北,造成了这个地区深重的灾难。
在战争几近结束之前,国民政府与苏联就《中苏友好同盟条约》谈判,提出日本的在华资产应归属中国作为战争索赔。苏联表示支持,但此后却在与罗斯福的私下商议中要求恢复俄国在日俄战争中失去的东北特权,而更进一步的目的则是为了将东北的日本资产全部占有。
因此红军刚进入东北,就迅速将所有日资产业宣布为战利品接收。苏军立即开始拆卸工业设备,进行了贪婪的掠夺,当时的工业企业无一幸免,其中沈阳最重要的工业基地鞍山钢铁遭到了最严的破坏。东北的工业停顿,工矿,物资,粮食,牲口,甚至连铁路的枕木,都当作战利品运往苏联。
此外,苏联红军还对满洲的银行和金融储备机构的大量贵金属,包括黄金,铂金,白银,钻石,以及债券、纸币等一并席卷而去。完全无视国际法中海牙陆战章程中对被占领国的规则。
苏联数日驻军就抢夺了中国多年抵抗日军并作为战胜国的大部分成果。曾有老一辈见证人看到沈阳满目疮痍,说:“没有打仗,为什么破坏如此厉害”。后来才知道是苏联红军所为。
荒唐的是,中国并不是战败国和敌对国,但苏联同样把中国本土物资一并掠夺。苏军在对日本人进行掠杀俘虏的过程中,同时亦对东北的本土居民进行抢掠和强奸,其野蛮的行径比日军尤有过之,以致当地人对苏联红军的厌恶远超日本殖民者。
当时被苏军劫掠的并不仅限于东北,苏联对其他国家的做法也如出一辙。他们在德国亦是风卷残云,拿走一切能带走的,并索求巨额赔款,即便在东德投靠自己之后也是不依不饶。
此外苏军在其他被占领国家如波兰,爱沙尼亚,拉脱维亚,立陶宛,罗马尼亚,匈牙利,捷克和斯洛文尼亚等,亦���行着疯狂的掠夺,杀戮和强奸。
5 . 斯拉夫的侵略性
毫无疑问俄罗斯是这个世界上最具侵略性的种族,他们的文化中存在着强烈的民族情结,俄罗斯的历史本身就是侵略和吞并的历史。
斯拉夫民族曾被蒙古统治,他们本身的版图并不大,但却极富进取心,带有蒙古人游牧的特性和攻城略地的扩张意识,对于土地存在异常狂热的需求。
俄罗斯经历数百年才具有国家的雏形,通过一系列东西两向的疆土扩张,直到伊凡三世迎娶亡国的东罗马公主带来了斯拉夫与罗马文化的融合,让当时的莫斯科公国自称为“第三罗马”,这成为俄罗斯入主西方的标志。
俄罗斯此前向西的扩张止步于欧洲列强的抵御,因此只能向西伯利亚扩张。而对欧洲进行真正的蚕食,是在彼得一世时期,他希望重整俄罗斯在西方的疆域,因此悍然对瑞典发动了战争。在近二十年的战役中,俄国战败瑞典占领了芬兰湾,里加湾沿岸的土地,得到了波罗的海的出海口。
此外,俄罗斯对曾占领东罗马的奥斯曼帝国存在一种侵略执念,他认为自己是被占领的基督教世界的拯救者。因此为争夺神圣罗马的继承权,俄罗斯将奥斯曼帝国视为了宗教上的宿敌。两国之间的战争跨度 200 多年,终于在彼得遗志的继承人叶卡捷琳娜这里战胜了土耳其,取得了黑海出海口。
俄罗斯对欧洲领土的欲望最强,因为这里同时也是宗教权利的核心。沙俄第一次著名的大型战役,就是和法国天主教争夺伯利恒主导权,从而将宗教问题上升为政治问题引爆的克里米亚战争。而这也是俄国争霸欧洲的序曲。此后数百年间,俄罗斯都与西方各国陷入互相征讨的胶着中。
6 . 俄罗斯的谋略和冒险主义
欧洲在文化和宗教上都对俄罗斯具有强烈的抵触心理,这是一种血统和气质上的对立。但让欧洲惧怕的是,这个民族偏又富有极大的韧性,正如他可以持续数百年地争夺宗教遗产。此外,俄罗斯在战争中极富谋略,尤其善于见缝插针和见机发难。
俄罗斯的眼睛窥伺着全世界,他观察各个国家的矛盾,从而寻找涉足的机会。如同克里米亚战争,就是趁拿破仑称帝让西方出现罅隙时插足欧洲的举动。而在二十世纪阿富汗与巴基斯坦就普什图尼斯坦出现争端时,俄罗斯就顺势把势力渗入了中东。
俄罗斯最成功的是对中国的入侵,几乎每次都把握着中国政局遭逢内乱或外患的时机,然后将其作为自己进军侵占的契机。
最典型的例子莫过于中日甲午战争,俄罗斯趁中日两国军力大损之际,立刻以拯救者的姿态强行进入东北,要求清政府“租借”旅顺和大连海口,以获取辽东半岛的不冻港,扩大自己的制海权。
而除了善于把握战略机会外,俄罗斯在外交上也十分狡黠,善于运用军事讹诈和合纵连横的手段。——在叶卡捷琳娜打算侵占土耳其之前,就曾与普鲁士,英国及丹麦签约,将土耳其孤立,此后才大举进军。而后趁英国和法国疲软无暇他顾之时,又建立了俄罗斯-奥地利联盟再度进击土耳其。
除叶卡捷琳娜的欧洲联盟外,最著名的连横策略就是二战前夕苏联和德国秘订互不侵犯条约,密谋了对波罗的海的瓜分,同时为苏联缓解了西面的压力。
而另一边苏联同样和轴心国之一的日本签订了《苏日中立条约》,承认伪满洲国,以换取日本对“蒙古人民共和国”的承认。
欧洲不止一次联手制约俄国,但也不止一次被俄国分裂。俄国在战略上最大的特点就是并不在乎对方的意识形态是否和自己合拍,只在乎对本国的利益。为此他可以和任何阵营结盟,也可以和任何阵营反目,他原本就不属于这世界的任何阵营。
而俄罗斯最让各国顾忌的一点是,他十分富于军事上的冒险精神。通常西方国家需要权衡利弊的问题,俄国都毫不介意大胆尝试。
这个���家既偏执又具备超常的动员能力,对目的和成果都很急切。他们建造了世界第一座核电站,也第一个进入太空领域。并且敢于第一个将马克思主义实现在国家政治层面。
彼得一世第一次入侵瑞典,就是一个很大的冒险主义决策。因为瑞典斯正值强盛,但俄罗斯不惜与其鏖战二十年夺得波罗的海的领土。
另一个军事上十分大胆的行动是在 1979 年,苏联为维持中东影响力而意图控制阿富汗,直接派军进入了这个国家并刺杀其总统。这个举动也让苏联陷入了泥潭。
而最著名的一次冒险行动是在古巴部署弹道导弹,其间俄罗斯在运送导弹的同时一直对美国谎称没有战略武器,以致在美国发现其真实目的后,立刻升级为一次核威慑的对抗。
冒险主义对俄国是一种突进战略,尽管这种战略不是每次都成功,但也确实让他们获得了丰厚的利益。尤其在古巴导弹危机中,尽管美国赢得了表面上的胜利,但私下撤走了位于土耳其和意大利的核武装部署。俄罗斯在没有失去原本任何利益的情况下解除了近在眼下的芒刺。
7 . 俄罗斯的民族性和信仰
俄罗斯的侵略性实际上一直被他们的宗族信仰所巩固和助长,哪怕经历不同的政体,经历数次文化和社会的革命。他们都围绕在这个信仰之下,这就是基于东正教精神的大俄罗斯主义。
俄罗斯很难与外族成为真正的胞襟,就在于他们强烈的斯拉夫宗族精神。这种精神源于他们对罗马教权的主观上的继承,让其具有了民族救世主义的信念,形成了他们“帝国转移”的宗教观。
所以俄罗斯对于拜占庭具有强烈的占有欲,他们认为自己是基督教唯一的正统,是将在宗教和政治上继承罗马财产的民族,是继东罗马和西罗马之后的第三个罗马。
但俄罗斯从来不是严格意义的神权国家。正如彼得一世曾改组过教会,无论是神权对政治的影响,还是政治对神权的利用。宗教在俄罗斯都是为了更深切地建立民族纽带。
因此基督教在这里蜕变为神圣帝国的理想,俄罗斯将他们的意志扩展到全人类来看待自己的征服和救赎。这是集体主义的,民族主义的信仰。即便不信教的俄罗斯人,也会不自觉将自己归属于东正教的氛围。即便是无政府主义者,也会将自己维系在俄罗斯的民族情结中。
俄罗斯建立了他们原生态的一元性宗教,在他们看来,多神论,多信仰,甚至多教派,都是不纯正的。锡安和伯利恒从东正教被确立之时就转移到了俄罗斯,再次占领君士坦丁堡就是新教统的确立。
他们站在民族主义的立场理解信仰,并不认为曲解了基督精神。他们将神授的权柄转化为世俗的权力意志,让他们成为手持刀剑与火焰的救世军。东正教的苦行,极端和冰冷对他们而言是一种精神体验,所以俄罗斯的救世情怀不是弥赛亚式的拯救,他带有更少的怜悯,带有清洗和净化的成分。
而这样的意志确实让他们得以建立功勋:俄罗斯曾推翻了蒙古的统治,成功在欧洲抗击拿破仑,同时在第一次和第二次世界大战中抵御了德国。这一切都助长着俄罗斯的民族认同。
俄罗斯的国徽就是他们帝国理念的象征。这个徽记除苏俄时期,一直沿用至今。——它的主体是一个双头鹰,一手握着权杖,一手握着象征基督权威的十字圣珠“ globus cruciger ”,这意味着对神圣罗马和拜占庭权威的继承。中间的骑士是杀龙者圣乔治,代表着勇武和胜利。双头鹰上各有一个冠冕,同时又被缎带连接到顶端的冠冕上,意味着神权与皇权在俄罗斯这里的统一。
这宣示着俄罗斯对世界的企图,他们会行使天赋神权对外族进行征服和主宰,并将自己的意志加于他们。
对外侵略不止一次让俄罗斯遭受重创,甚至导致政权的崩溃。但统治者更迭之后,俄罗斯依然故我地对外扩张。任何意识形态都没改变俄罗斯的民族精神。无论何种政体,无论男帝或是女帝,俄罗斯的战争意识和侵略主张都一以贯之地进行。就好像叶卡捷琳娜本身是普鲁士人,但他同样能领导俄国。即便是无神论的苏俄时期,斯大林的扩张计划也是沙文主义的。——正如基督教的统一必须是建立于东正教信仰的大一统。共产主义的大一统也应该是围绕着苏联斯拉夫民族的大一统。
所以领导俄罗斯的是永远是一种精神而不是宪章,每一代杰出领袖都会在战争中树立自己的权威,将自己的形象建立在英雄崇拜之上。彼得一世就是在征服了瑞典之后才被封帝。叶卡捷琳娜也以征服奥斯曼成为女帝。亚历山大一世抗击了拿破仑让俄国被誉为欧洲救世主。而斯大林更是淋漓尽致发挥了英雄主义的领袖艺术,在德国大军压境之时举行红场阅兵,然后士兵们直接开赴战场。
8 . 中国和俄国,截然不同的民族性
俄国和世界很多国家都发生过战争,毕竟他是一个在战争中建立的帝国。然而在战争后,他仍可以和奥地利交流,和德国交流,和英国法国交流,甚至和土耳其波兰交流,但唯独对中国会另眼相看。
历史中日耳曼文化和斯拉夫还有所交融,但中国对俄罗斯而言是完全的异族。俄罗斯对其是纯粹的予取予求的态度。这并不是单纯由民族力量决定的,而是这两个在地域上接壤的民族秉性截然不同。
最根本的区别在于两个民族对待信仰的态度,俄罗斯信靠宗教,信仰凝聚和激励着整个民族,给予他们神圣的加持。在他们看来,没有信仰引导的精神是不可想象的。
而中国恰恰是一个严厉打压宗教的国家。中国人大多是无神论,或者说功利性宗教。
通常归属于信仰的国家对于无信仰民族是很轻视的。虽然就功利来说中国人更精明,俄国人显得更单一,但最终吃亏的往往是中国。因为精明的人对利弊看得很重,而俄罗斯更具有原始的掠夺性,以至于很多时候难以用利益去衡量其行为。
中国的民族性格比较细腻,而俄罗斯比较粗犷。但耐人寻味的是,中国人对工作远没有俄罗斯严谨。俄罗斯的严谨和刻板在某种程度上和德国相若,他们往往表现出一种对细节极尽严苛的追求。
这种背反的倾向还表现在艺术领域,俄罗斯生来相信灵感的指引,并重视灵感在艺术中的表达,他们是充满浪漫和感性的。俄罗斯人热衷于舞蹈,文学,音乐和绘画。他们的文化是由社会一切群体所共同继承的,即便是普通民众,也会让表演,晚会,戏剧等节目融入他们的生活。
而中国的艺术传播土壤很贫瘠,更是不入主流的,艺术熏陶受限于中国的阶级分化。相较人文来说,中国更倾向于资本意识,一种剥离了文化的资本意识,在这一点上,中国比资本主义的西方走得更远。
这实际上和两国的政治传统有关:俄罗斯对西方文化抱有开明的态度,从彼得一世引进西方的技术,到叶卡捷琳娜对欧洲学术界的支持,俄罗斯的开放态度就从未停止。
这和中国政府保守的政治态度不同。正如同处一个时代的彼得大帝和康熙皇帝,就可以看到政治倾向导致的截然不同的国家走向。
因为俄罗斯具有难以切割的民族主义纽带,因此并不担心被西方思想“颠覆”。而中国的民众和统治阶层从来都是对立的,中国政府时刻担忧着民间的动乱。
所以在两国的民族情结上就产生了很微妙的对比。俄罗斯是文化开放的国家,然而在民族性上是排外的。中国政府很保守,但却是世界上最媚外的政府,洋人在中国都能享受到超国民的待遇。
所以在俄国基本不会看到外国人的聚居区,尤其是全世界都存在的唐人街,在俄罗斯是受到压制的。——俄罗斯联邦移民局多次宣称,俄政府不会允许外国移聚居区在其境内发展,“唐人街”也不会在俄罗斯出现。
斯拉夫民族性中一直存在着与外邦的对立情绪,而政府也总是会为此背书。这和中国的外交观念完全相反,——政府会严防过激的对外情绪,朝廷会压制民间高涨的民族主义。中国政府畏惧不安定的局面,而俄罗斯却认为民族情绪必不可少。中国始终是纸面的民族主义,因为政府很怕惹火烧身。而俄罗斯从不担忧民族主义壮大,这正是他们国家巩固的基石。
民族性的区别更表现在对权力的态度上,中国和俄罗斯皆存在权力崇拜,尽管如今的俄国是代议制政府,但他们在某种程度上依然信奉集权对国家的领导。然而俄国人绝不会拥护一个懦���的政府,一个不能代表斯拉夫精神的政府。而在中国这里,气节通常只存在于民间,政府总是息事宁人的一方。尤其是政府常年执行的弱民疲民政策,实际上是弱化民族精神的。俄罗斯人的气节,总是在整个民族推动的战斗和胜利中巩固。而中国人的气节,总在政府的一次次打压和背叛中消沉。
其实这正是历史中两个国家理念上的鸿沟。——俄罗斯是侵略和进取的东正教斯拉夫主义,而中国是处于守势的儒家道统。这样的民族意志对俄罗斯来说,不啻为一个送到嘴边的猎物。
9 . 俄罗斯强权光芒下的中国孔乙己
俄罗斯在历史上一直是一个让中国难堪的国家,他对中国的姿态异常高傲和野蛮。其实俄国和中国都明白,在民族性和价值观方面两者截然相反,所以永远不可能站在对等的地位。
要明白俄罗斯对中国的态度,除了海兰泡和江东六十四屯这类惨绝人寰的事件,最有代表性的就是日俄战争。这场战争的惨烈和造成的破坏触目惊心,日俄双方为争夺中国的利益都付出巨大代价。不过这段战争最让人注意的是两个交战国本身在第三方国家交战,却将中国视为一块可以肆意践踏的土地。两军过处烧杀抢掠,赤地千里,完全将满清朝廷和中国平民视若无物。
后来苏俄与中国共同站在了社会主义阵营,苏联仍将中国视为属国看待,在许多方面对中国的政治政策进行“指导”和干涉。在两国缺少理念共识之后,苏联也开始在各方面刁难中国。仅 1964 年 10 月至 1969 年 3 月,就挑起边境事件 4189 起,更在 1968 年越过乌苏里江侵入中国七里沁岛轧死和撞死渔民,随后又在 1969 年与中国发生了珍宝岛和铁列克提武装冲突。”
即便在今日,中国和俄罗斯保持着常态的外交和援助关系,俄罗斯也不时地在各个领域敲打着中国政府。
比如之前大使馆在网络上用中文庆祝海参崴的建城纪念日,并告诉大家,这座城的俄文名字意谓:“统治东方”。
还有正当中国外交部长访俄之际,宣布在中越争议区内为越南开采南海油田。或者在中越两国海域属权争执不下的时候卖潜艇给越南。以及在中国与印度发生边境冲突时卖战机给印度。
不过中国对俄国素来以忍让著称,即便发生了卖军火给敌对国的事,我们的外宣还是可以绕着弯子找出“俄罗斯卖给对方军火其实也不是什么坏事”这样的辩解辞。
中国历来的的宣传规则是:凡是不伤害自己的对象,大可声色俱厉,无所顾忌,因为心中知道是安全的。但对于会付诸行动伤害自己的人,就一定是噤若寒蝉,战战兢兢。甚至双方出现任何一点微小的罅隙,一定是中国尽力圆场,拼命维护。民间但凡发出一点不满,都要竭力封杀,并大骂这些群众“不顾大局”,“别有用心”。
我们政府对俄国正是一种十足的孔乙己式的卑怯和自欺欺人的态度。因为自己在俄罗斯这里吃瘪太多,面子上挂不住,因此只能一面装聋作哑,一面用些模棱两可的说辞来为自己开脱。就好比对日本,会大义凛然地说忘记历史等于背叛,而一旦提到俄国的侵略,就躲躲闪闪地说纠结于历史毫无意义。
而俄国也从不顾虑自己的行为会让中国丢脸,因为他知道中国自会找一个台阶下,至于这个台阶是否下得有些跌跌撞撞,丑态百出,俄国是并不在意的。
并且中国最大的标准就是毫无标准。对每个国家的态度是根据对自己的压迫来定义的。加上舞文弄墨的技艺首屈一指,甚至连自己都会相信那些编造的谎言。比如疫情期间,美国封锁海关,国内大骂“不讲道义”。但俄罗斯驱逐中国人,绥芬河口岸关闭,作为第一批禁止中国游客入境的国家,中国的反应就异常温婉。
而就连对方没有遵守约定,不按期交付卖给中国的导弹,媒体们都能总结出一个暖心的理由来。
既然国际是一个舞台,大家也就看着孔乙己的一举一动。一来二去,所有国家都明白了这个政府的秉性。中国和俄罗斯的关系甚至成为了各国对中国分析的参照,所以周边国家无论大小,对中国都异常强硬,正因为他们一直在从中国的历史角色中揣摩。
其实中国政府对俄罗斯的情结很复杂,他一方面明白中国不过是俄罗斯和他国利益的角逐场,是俄罗斯沙文主义的演武场。一方面又因为自身的外交一直陷于困顿,而唯一看在利益上还能对自己表示口头支持的大国就只有俄国,一旦与俄国交恶,中国的处境会变得十分孤立。
此外中国政府的不安还有一个深层理由,就是中国在历史上从来没有真正的支持者和利益共同者。——每每俄国入侵欧洲时,欧洲国家总会联合将其围堵。但在入侵中国时,其他国家不是袖手旁观就是与俄国一起瓜分利益。所以说中国的这份被孤立感是由来已久的。
目前俄罗斯对中国的企图是被利益按捺住的,因为中国一直在给俄罗斯输血,尤其在他受到全世界制裁的时候。然而中国一旦中断一切形式的支援或者说对这种支援无以为继,那么俄国的反复无常会立马显现。因为这终究是两个毫无渊源,也没有彼此认同感的国家。
10 . “爱国者”们的“爱俄罗斯”情结
世界上各个国家都经历过战争,且大部分都有被侵略的过往。但是唯独在中国这里,存在着长期为侵略者唱赞歌的举动。这在世界上任何一个民族都难以理解,估计作为征服者的俄罗斯自己都难以理解。——中国大概是他欺压过的最驯良的民族。
为什么至今仍有很多中国人崇拜俄罗斯,崇拜他们的历任领袖。这并不是因为俄国多具有魅力,也并不是俄罗斯对中国有多少实质性帮助。而是作为被侵略者对于强权的深刻恐惧,——俄罗斯割占了中国庞大的土地,掠夺了中国大量的财富,且以十分残忍的方式屠杀中国人。这一切已经形成了一个骨子里挥之不去的恐惧烙印。
中国的“爱俄罗斯”群体对俄罗斯的朝拜,和受害者为欺凌自己的政府摇旗呐喊是出于同一心理学动机,——企图通过对强者表示拥护而表明自己和他站在同一边。鞍前马后地侍奉,都是寄望于对自己的欺压会温和一些。
那些受到中国“尊敬”的老朋友,——斯大林,勃烈日涅夫,普京,他们冷峻的面孔会让这些人背脊发凉,如同西伯利亚的凛冽寒意,带来死亡和凌虐的恐惧。这让他们不由地跪下了膝盖,并在口头上表示崇拜。这就给自己的心理压力寻找到一个不那么卑微的出口,毕竟,“崇拜”比“臣服”“畏惧”等还是要好听一些。
所以说你可以看到无数人在网络中叫嚣“勿忘国耻”,但只要一联系到俄罗斯,这些言论就会被网络封禁,让这份“国耻”被自己私下吞回去。
当前某些中国官员和红小兵对沙俄的恐惧,或者说“崇拜”,已经达到历史顶峰。这的确是举世奇观,因为即便是割地赔款的大清,也没见历史记载过他的子民为沙俄唱赞歌,大家还是分辨得出这是民族仇敌。
不过在我们这一届政府,自从著名谀臣郭沫若先生赞颂斯大林开始,就示范了如何抛弃一个中国人的尊严,示范了如何打破了无耻卑贱的底线,示范了如何将人格中仅存的一丝气节彻底阉割。郭老先生的作为,即便在中国数千年的阉人行列中,也无人能望其项背。
并且,他的那些徒子徒孙们也就有了可以效尤的榜样。所以我们才有了今日如此之多的,继承着郭沫若遗志的,为俄罗斯唱赞歌的“爱国者”和“爱俄罗斯”者。
中国的朝廷中,历来缺的是岳飞,但永远不缺秦桧,就和现在声称骂俄国“是别有用心”的这群国贼一样,在强权到来之后,只会迅速跪服并协助对方瓜分中国。从宋朝到今日,正是应验了一句常言:自古如此。
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イタリアにおける新型コロナウイルス感染状況は、凄まじいばかりだ。「全土崩壊前夜」といった類の煽り気味で絶望的なニュースが飛び交う。
だが、なぜイタリアでこれほど感染が拡大したのか、といった視点が決定的に欠落しているように思える。
そこで、鄧小平が断行した対外開放、つまり「中国人の移動」という観点からイタリアを襲っている惨状の背景を考えてみたい。
おそらくイタリア社会における中国人――その大部分は対外開放以後に海外に「走出去」して飛び出して行った新華僑世代――の振る舞いを捉えることで、ヨーロッパ全体を覆いつつあるパンデミック危機の背景を知ることが出来るはずだ。
中国人がいないと米作りが成り立たない 今から7、8年ほど前になるが、香港の中国系書店で『“不死的中国人”――他們干活、掙銭、改変着意大利、因此令当地人害怕』(社会科学文献出版社 2011年)なる書籍を購入した。
地下にしっかりと根を張りながら咲き誇るタンポポの表紙に魅かれたと同時に、日本語に訳すと『“不死身の中国人”――彼らは働いて、カネを稼いで、イタリアを変えている。だから土地の人に怖がられる』となる書名が醸し出す反中・嫌中の雰囲気が気になったからだ。
それにしても不思議に思ったのは、この本が北京の出版社から刊行され、しかも香港の中国系書店に置かれている点だった。
じつは、この本は中国人が著したものではなく、2人の若いイタリア人ジャーナリストがイタリア全土を駆け巡り、イタリア社会で生きる中国人の姿を克明に綴った
『I CINESI NON MUOIONO MAI:LAVORANO,GUADAGNANO,CAMBIANO L’ITALIA E PER QUESTO CI FANNO PAURA』(R.Oriani&R.Stagliano Chiarelettere 2008)
の翻訳である。
筆者にはイタリア語が分からないので、翻訳の出来不出来は判断のしようがない。が、なにはともあれページを追ってみた。
すると、中国人のイタリア社会への逞しくも凄まじいばかりの浸透ぶりが、溢れんばかりに綴られていた。
たとえば西北部の穀倉地帯として知られるピエモンテでのこと。
1980年代末に「紅稲」と呼ばれる雑稲が突然変異のように発生し、増殖をはじめ、稲の生産を急激に低下させた。ところが紅稲は除草剤や除草機では駆除できない。やはり1本1本を人の手で丁寧に抜き取るしかない。だが、肝心の単純労働力は不足するばかり。
そこへ、農家の苦境をどこで聞きつけたのか、大量の中国人がやって来た。イタリアで半世紀以上も昔に忘れ去られてしまった田の草取りの方法のままに、彼らは横一列に並んで前進し、紅稲を抜き取っていく。
<7、8月の灼熱の太陽を受け泥に足をとられながら、手足を虫に咬まれ、腰を曲げ、全神経を紅稲に集中する。想像を超える体力と集中力、それに一定の植物学の知識が必要だ。紅稲は一本残らず抜き取らなければ正常な稲に害が及ぶ。抜くべきか残すべきかを知っておく必要がある>(同書より抜粋)
過酷な作業ながら収入は少ない。だが喜んで中国人は請け負う。
ある日、田圃で中国人が脱水症状で倒れた。彼らに「健康を考慮し、明日からは10時間以上の作業を禁ずる」と告げた翌日、雇い主が田圃に行ってみたが、誰もいない。慌てて宿舎に駆けつけると、彼らは荷物をまとめて立ち去るところだった。
「毎日10時間しか働けないなんて、時間のムダだ」と、口々に言う。雇い主は、「中国人は疲れることを知らない。気が狂っている」と呆れ返る。
かくして同書は、「中国人がいないとイタリアの米作りは成り立たなくなってしまった」と嘆く。
「中国人って1カ所には留まらない」 農業に次いで、大理石の石工、ゴミ処理工場労働者、ソファー・皮革・衣料職人、バー、レストラン、床屋、中国産品の雑貨商などが中国人に依存するようになり、中国人はミラノを「イタリアにおける中国人の首都」に���て、ありとあらゆる産業を蚕食していった。
その大部分は浙江省や福建省の出身者で、多くは非合法でイタリア入りしている。教育程度は他国からの移民に比較して低く、それゆえイタリア社会に同化し難い。
苦労をものともせず、倹約に努めるという「美徳」を備えてはいるものの、それ以外に目立つことといえば博打、脱税、密輸、黒社会との繋がりなど……。どれもこれも、胸を張って誇れるビジネスではない。文化程度の低さは、勢い生きるためには手段を選ばないことに繋がる。
これがイタリアで増加一途の中国人の現実である。
イタリア人は彼らを通じて中国を知る。だが中国人は、そんなことはお構いナシだ。
子供を��タリアの学校に通わせ、イタリア人として育てようとしている両親もいることはいるが、カネ儲けに邁進しているので、学校や地域社会で偏見に晒されている子供の苦衷なんぞを推し量る余裕も意識も持ち合わせてはいない。
同書の著者が、アンナと呼ばれる20歳の美しい中国娘に「夢は?」と尋ねる。すると彼女はこう答える。
<夢! そんなもの知らないわ。中国人って1カ所には留まらないものなの。あっちがよければ、あっちに行くわ。おカネの儲かり次第ってとこね。この地に未練なんてないの。もう14年は暮らしたけど、とどのつまりは行きずりのヒトなのネ……>
この印象的なシーンで、同書は終わっている。
アンナも他の中国人と同様に「とどのつまりは行きずりのヒト」なのだろう。
だが、新型コロナウイルスが「行きずりのヒト」と共に世界中を動き回ったとするなら、イタリアのみならず人類にとっては、やはり危険過ぎるというものだ。
対外開放でカネ・ヒト・モノが流入 1975年の時点で、イタリアでは400人前後の中国系住民(旧華僑世代)が報告されているが、鄧小平が対外開放に踏み切った1978年末から7年ほどが過ぎた1986年には、1824人になっている。
以後9880人(1987年)、1万9237人(1990年)、2万2875人(1993年)へと急増していったが、彼らは新華僑世代である。1990年代半ば、新華僑はイタリア在住外国人としては6番目の人口を擁していた。
1986年から1987年の間の1年間に見られた5倍以上の増加の主な要因は、1985年1月にイタリア・中国の両国間で締結(同年3月発効)された条約によって、イタリアへの中国資本の進出が促された点にある。
人民元(カネ)と共にヒト、つまり中国人労働者が大量にイタリアに送り込まれるようになった。また中国料理・食品(モノ)への嗜好が高まったことも、中国人労働者(ヒト)の流入に拍車を掛けたはずだ。カネ・ヒト・モノが中国からイタリアに向かって流れだしたのだ。
新華僑世代も旧華僑世代と同じように、同郷・同姓・同業などの関係をテコにして「会館」と呼ばれる相互扶助組織を持つようになる。1980年代半ばから1990年代末までの10年ほどで十数個の相互扶助組織が生まれた。これこそ新華僑世代増加の明らかな証拠だろう。
商品の発送元は温州市 彼らは強固な団結力をテコに、自らの生活空間の拡大を目指す。
たとえば、2010年前後のローマの商業地区「エスクィリーノ地区」には、衣料品、靴、皮革製品などを中心に2000軒を超える店舗がひしめいていたが、その半数は中国人業者が占めていた。
現在はそれから10年ほどが過ぎているから、その数はさらに増したと考えて間違いないだろう。
彼らが扱う商品の発送元は、浙江省温州市である。温州は、遥か昔の元代(1271~1368年)から中国における日用雑貨の一大拠点として知られる。新型コロナウイルスを巡っては、2月初旬に湖北省武漢市に続いて封鎖措置を受けた。
ローマの商業地区と新型コロナウイルスによって危機的レベルにまで汚染された中国の都市がモノとヒトで日常的に結ばれていたことを考えれば、イタリアの惨状が納得できるはずだ。
友人のイギリス人は、感染拡大の背景にはイタリア人の生活様式もあると指摘する。
イタリア人はオリーブやトマトといった健康的な食生活によって、肥満の多い欧州先進国においては珍しいほどに長寿国で、高齢者が多い。周辺先進国に比べて核家族化が進んでおらず、3世代同居も珍しくない。特に高齢者には敬虔なカトリック信者が多く、教会でお椀を共有してワインを飲む習慣があるという。
であるとするなら、中国人の「移動」という極めて今日的要因がイタリアの社会的・文化的伝統という“宿主”を得たことで、被害の拡大に繋がったとも考えられる。
中国人の数は40万人超 いま手元にある『海外僑情観察 2014-2015』(《海外僑情観察》編委会編 曁南大學出版社 2015年)を参考にし、近年のイタリアにおける中国人の状況を素描しておきたい。
中国人の人口は全人口の0.49%で30万4768人(2013年1月1日現在)。これに非合法入国者を加えると、実際は40万人超ではないか。
中国系企業が集中している地方は西北部のロンバルディア(1400社)、中部のトスカーナ(1万1800社)、東北部のヴェネト(8000社)、北部から中部に広がるエミリア・ロマーニャ(6800社)であり、貿易を主にして2万5000社前後。他にアパレルや製靴関係が1万8200社、レストラン・バー・ホテルなどが1万3700社を数える。
「イタリアにおける中国人の首都」であるミラノを見ると、イタリアが2008年のリーマンショック以後、経済危機に陥ったにもかかわらず、中国系企業、殊に食品関連は急増。同市で外国からの移住者が経営する600社のうち、中国人移住者のそれは17%を占めている。
アパレル産業の中心でもある中部のプラトでは、人口20万人余のうちの3万4000人を中国人が占めている。じつに7人弱に1人だから、一大勢力だ。彼らは有名ブランドの下請けから始まり、いまや伝統的な家内工業的システムを駆逐し、新たなビジネス・モデルを構築しつつあるという。
2014年4月、東北部のパドヴァには中国人経営のアパレル・チェーン店「CVG」が創業し、有名なファストファッションブランドの「H&M」や「ZARA」のライバルとして急成長を見せる。イタリアにおける中国系企業の小売り最大手は「欧売集団」で、イタリア全土で34軒のスーパーマーケットを経営しているという。
――以上は飽くまでも『海外僑情観察 2014-2015』に基づいたものであるが、ここからもイタリア社会への中国人の浸透度がある程度は理解できるだろう。
AC AFP via Getty Images AC Milanのイメージ写真 「ACミラン」の経営にも中国の影 「イタリアにおける中国人の首都」ミラノの象徴といえば名門サッカーチームの「ACミラン」だが、ここの経営にも中国人が大きく関係していた。
2014-15年シーズン終了後、ACミランのオーナーだったシルヴィオ・ベルルスコーニ元首相は、タイの青年実業家「Mr.Bee」ことビー・テチャウボンとの間で売却交渉を始め、2015年5月にACミラン株の48%売却で合意した。
Mr.Beeは、タイの「康蒂集団」と『星暹日報』の両社を傘下に置くサダウット・テチャブーン氏の長男である。
サダウット・テチャブーンは華人2代目で、華字名は鄭芷蓀。父親の鄭継烈が起こした建設業を引き継ぎ、1990年代初頭から積極経営に転じ、タイ国内のみならず中国やオーストラリアでの不動産開発やホテル経営にも乗り出した。
その後、タイの老舗華字紙『星暹日報』を買収し、2013年11月には広東省政府系の「南方報業伝媒集団」からの資本参加を得て、紙面も一新。それまでの繁体字からタイの華字紙としては初の簡体字横組みとし、電子版の配信、中国版Twitter「微博」の活用なども始めた。
当然のように論調にも南方報業伝媒集団の強い影響が感じられる。『星暹日報』は、タイにおける中国メディアの“別動隊”とでも言えそうだ。
さて、アブダビの資産管理会社「ADS Securities」と中国政府幹部が資金源と伝えられていたMr.Beeだが、ACミラン買収資金に苦慮していた。そこで彼が資金援助を申し入れた相手が、「阿巴里里集団」を率いる馬雲(ジャック・マー)であった。
2016年8月、ACミランは中国企業のコンソーシアム(共同事業体)に約832億円(株式の99.93%)で売却され、2017年4月にベルルスコーニ元首相はACミラン経営から撤退した。その後、2017-18年シーズン途中で中国系オーナーの債務不履行が原因で、最終的にはアメリカのヘッジ・ファンドが新オーナーに就任した。
華僑・華人の本質は移動 こう見てくると、「アンナと呼ばれる20歳の美しい中国娘」から現在の中国を代表する企業家・資産家の馬雲まで、じつに多くの中国人がイタリアと関わりを持っていることが分かるだろう。
同時に対外開放以後に顕著になった中国人の「移動」という現象が、合法・非合法に限らず世界各地の社会に様々な影響を与えていることも確かだ。武漢から感染が始まった新型コロナウイルスもまた、その一���と考えるべきではないか。
華僑・華人研究の第一人者である陳碧笙は、中国が開放政策に踏み切った直後に『世界華僑華人簡史』(厦門大学出版社 1991年)を出版しているが、同書で彼は、帝国主義勢力が植民地開発のために奴隷以下の条件で中国人労働者を連れ出した、つまり華僑・華人は帝国主義の犠牲者だという従来からの見解を否定した。
そして、華僑・華人の本質は、
「歴史的にも現状からみても、中華民族の海外への大移動にある。北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低いところから高いところへと、南宋から現代まで移動が停止することはなかった。時代を重ねるごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」
との考えを提示した。
この主張をイタリアのみならず今や危険水域に達しつつあるヨーロッパ、アメリカ、日本、韓国、東南アジア、さらには感染報告が比較的少ないアフリカ、南米、そしてウズベキスタン、タジクスタン、キルギスタンなど中央アジアの国々にまで重ねてみるなら、新型コロナウイルスはもちろんのこと、中国発の“未知の危機”を今後も想定する必要があるだろう。
極めて逆説的な表現ながら、いまこそ国境を閉じて富強を目指した毛沢東の“叡智”を見返す必要を痛感する。新型コロナウイルスを「毛沢東の怨念」と見做すのは、筆者の偏見だろうか。
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おかいこぐるみ
上から下まで絹物をまとうことを「おかいこぐるみ」といい、ぜいたくな生活をいう。ぜいたくさを揶揄するようなことばだろう。 横浜のシルク博物館にはさまざまなシルク製品、着物やスカーフが展示されていた。織り機や繭玉も並び、生きている蚕たちもいた。「眠」(みん)というほとんど動かない状態の蚕は、まだ小さかった。脱皮と眠を4回繰り返し、蚕は繭をつくりはじめるという。蚕のつくる繭ひと粒から糸は1200mほどとれるそうで、着物一式をつくるには繭は9000粒必要だそうだ。おかいこぐるみは9000頭の蚕の吐いた息だ。栲象さんは首をくくりながら息を吸って吐いてしていたのだなあと思った。ビニル袋のなかの栲象さんに声をかけてみたくなったが緊張してできなかった。
横浜のシルクセンターにあるBankART SILKへ『宮本隆司:首くくり栲象』と題された写真展を観に行った。写真家・宮本隆司氏による「首くくり栲象」の写真集が出たばかりで、その出版記念展覧会とのことだった。栲象さんは昨年3月31日に亡くなられた。ちょうど一年だ。 栲象さんは自宅の庭でまいにち首を吊るパフォーマンスをおこなっていた。パフォーマンスといってもかならずしもひとに見せるためではなく、まいにち習慣としておこなっていたから、ご本人はアクショニストと名乗っていた。アクションとか行為とか、首をくくることをそのように呼んでいた。踊りや首吊りは若い頃からで、庭で首をくくるようになったのは五十歳くらいからだったという。二十年以上、まいにち庭の木で首をくくった。 わたしは(わたしを含むおおくの観客は)、首くくりを踊りのようにとらえていたと思う。じっさい栲象さんはしばしば舞踏やダンス、演劇の公演に関わっていたし、振付であったり踊り手であったり役者であったりした。
庭は庭劇場といった。木戸銭はほんとうに木の窓枠のところに箱が置かれていて、客たちは千円入れて首くくりを見た。庭劇場は月に2、3日あった。だいたい夜だった。こんもり緑の茂った入���口を抜けて、小さな庭にこしらえられたベンチに座る。明かりも手製だったろうか。電球のきいろっぽい明かりが乙女椿の木を照らし、使い古された赤い縄が下がっている。布きれをかんたんに編んだような縄だ。音楽やせりふはない。庭に年取った男が出てきて首を吊る、それだけ。 いや首吊りではなかった。あごを縄に引っかけるようにしていた。踏み台にのぼり、両手で縄を掴む。輪っかにあたまをとおす。まるで首吊り自殺のようだが、しかし縄は気道を締めつけることはない。あごで支えている。息は止まらない。よおく見ればわかった。でも、ぶらりと体が揺れるさまにはどきどきした。この老人が目の前で死んでしまうのではないかという恐怖ではなく、首吊りのような姿勢でぶらぶら揺られているのがなんだか気持ちよさそうに、ということはないが、すくなくとも見ているわたしは気持ちいいような感じで、どきどきした。こわさと興奮とリラックスとはみんなすぐ近くにあった。 墨を溶いたようなうす闇から栲象さんがあらわれ、ゆっくりゆっくり歩いて、縄に近づく。体が地面を離れるまで、歩みや手足は、踊りはゆるやかだ。手を離す。ぶらんと体が揺れる。木と縄と風に体がゆだねられ、しかしさっきまでの緩慢な歩みからリズムが崩れない。揺れたまま、しばらく過ぎる。木の実、みのむし、振り子、イヤリング、いろいろな連想がはたらいた。その月の題により、栲象さんの動きはことなった。わたしがみたあるときは、花や草が伸びてゆくように腕が伸ばされた。両手が縄を掴み、けんすいのように力がこめられ、縄からあたまははずされた。ほどけるようだとも思った。手を離し、着地した。どんっと鳴った。音をたてることもあれば静かに土におりることもある。おなじ首くくりはない。踊りや演劇の一回性のきわきわを見ている。着地したとき、ああ重力だと思った。生きているかぎり重力からまぬかれない、重力の世話になっている、あたりまえのことにハッとした。日々繰り返される着地により縄の下の土はへこんでいた。 何度か首くくりは繰り返され、小一時間経っている。栲象さんはぬれ縁にそっとのぼり、暗い部屋のなかへ消え、縄と土と木だけが、あるいは花も風もか、残され、終わる。まっくらになる。やがて明かりがついて、栲象さんがひょこりと首を出し��おしまいですとでも言うようにあたまを下げる。庭公演はだいたいこんな感じだった。いってしまえばぼろぼろの家と庭、ぼろをまとった男。おかいこぐるみの対極みたいな住まいと身なりか。まいにち全体重があごにかかるから、歯ががたがただと言っていた。 亡くなられたことを知ったときとても驚いた。驚き、かなしくなった。いつまでも栲象さんは庭劇場にいらっしゃる気がしていたから。わたしがただの客だからそう思うのだろう。なまみのにんげんだと思っていなかったのか。筋肉の軋みや重力をありあり感じていたのに。
ちいさな写真展にはつぎつぎ客が訪れていた。しずかな展示だった。白いがらんとした箱に写真が並んでいて、ああ栲象さんは亡くなられたんだなあとも思ったし、生きているときとなにも変わらないなあとも思った。すれちがった女の人の上着から白檀のような香りがした。 わたしはただの客というかふぁんというかそれだけだから、数度話したけれども、栲象さんはわたしのことをおぼえておいでではなかったと思う。栲象さんと深く関わりのあるひと、そうでないひと、いろいろなひとの記憶に栲象さんは残り、影響を与えつづける。栲象さんの庭には乙女椿の木があった。春にはピンクの花の下で首をくくった。わたしは乙女椿の花をみるたび栲象さんを思い出す。花の影に、緑の揺れに、骨のきしみに、わたしは(わたしたちは)栲象さんをみる。ありきたりな言い方をすれば栲象さんはひとびとのなかに生き続けている。いっぽう肉体や息がこの世にもうないのだから、もう栲象さんはどこにもいない。栲象さんの首くくりは二度とおこなわれず、二度と見ることはない。不在と偏在は永遠で、ひとしい。
横浜には昼に着いたが、まっすぐ写真展へは向かえなかった。こわいとかかなしいとかそういうわけではなかったが、なんとなく気持ちがざわめいていた。とてもいい天気なのもあった。じぶんをもったいつけるみたいにうろうろ散歩した。山下公園でベンチにすわりおにぎりを食べ、船やかもめを眺めた。インド水塔を見上げた。このあいだインド水塔という題の小説を書いた。親子が山下公園を歩く話で、石川町の駅から出て…というスジだから、親子は山下公園のはじからはじまで歩いてインド水塔へたどり着いたわけだが、いちいちそうとは書かなかった。野暮だと思ったのだが、書かなかったことまで読んでくれるひとはどれほどいるだろう。伝えたいことは書くべきだとも思ったが、そんなこまかいことを伝えたいのかどうかよくわからない。わからないことはわからないままにしておくので、読みとってくれなくてもよいし、書かないけどなんとなく空気や息のようなものは伝わっている気もすると、わたしは不安になったあとでやけにふてぶてしくかまえるフシがある。 象の鼻あたりを散歩し、BLUE BLUE横浜でシャツを見ていたら、店のにいさんに髪型をほめられた。わたしのツーブロックを指し、「けっこう(深いところまで)いってますよね」と言った。それで、はらをきめて写真展へ向かえた。
庭劇場の終演後、お部屋で焼うどんをごちそうになったことがあった。本が山積みの部屋だ。夏の晩で、しまわれていないままのこたつにかめむしが這っていた。こたつふとんもなかみもやけにひんやりしていた。 栲象さんの写真はくっきりしていた。カメラはわたしの目よりするどくて、わたしが見逃していたものがありあり写っていた。乙女椿のつくりものみたいなピンクの花が、栲象さんの上でぽっかり咲いている。べつの写真にはあしもとにどくだみが咲いていた。とっくりのセーターに虫食いの穴があいていた。 写真展では首くくりの映像も上映されていた。映像はのっぺりして見えた。庭の奥行きや立体感、流れる風がうしなわれていた。これはしかたない。踊りは記録することができない。無音の映像はたぶん夏だろう。曇り空で、わたしは昼の首くくりを初めてみた。栲象さんは上着の前を開けているので痩せた胸がのぞいていた。生白い肌だ。手指は節くれだち、しわが寄り、日に焼けている。お顔も。「今日が一番若い」と栲象さんは言っていた。庭について、「この地は、脳細胞の庭ではない。草木国土、ことごとく仏性の庭です」と書かれていたこともあった。
小説に栲象さんのことを書いたことはない。さすがにおそれおおいし、実在の人物をそのまま書くのはやはりためらわれる。けれども、わたしの書く年寄りだとか踊る男だとかの描写には、どこかに栲象さんのすがたがあるようにも思う。あこがれや影響をまぬかれないと思う。 このあいだ出した「蝸牛関係」という小説は、若者とじいさんがつきあう話だが、じいさんの体やひとりずまいの家のあれこれを書いたとき、栲象さんのすがたがあたまにあったかもしれない。書いているときは栲象さんのことを思い出しはしなかったが、意識の外に、ふかくに、残光やにおいがあった。きょう写真のなかで栲象さんが濡れ縁に腰かけるすがたを見てそう思った。栲象さんのほうが体幹がしっかりしているし美男子だと思うけど。
買った写真集を抱えて、おなじ建物のなかのシルク博物館を見物した。ずいぶんむかしに行ったきりだったけど、あいかわらず古くてうす暗くて(資料の保存のため、おそらく蚕をおどろかせないため)情報量がやばい。養蚕の歴史や、染色の歴史、服飾の歴史がかたられる。蚕たちがケースの中でうごめいている。糸つむぎや織り機がならび、外国の子どもたちが面白そうにさわっていた。繭玉の人形もあった。なぜ絹につやがあるのか、色が入りやすいのか。関連の書籍も並び、何時間でもいられそうだ。 わたしが会った、あるいは写真のなかなどで見たことのある栲象さんは古びたニットとかTシャツで、シルクをまとったすがたは見たことがなかったが、あざやかなきものも似合いそうだと思った。首をくくる縄や、ずぼんはくすんだ赤色だった。あれよりもっとはっきりした色や柄も着こなしそうだ。すらっとしてらしたから。写真集を持ったままそのようなことを考え、なんだか栲象さんいっしょに歩いて展示を眺めているようだと思ったが、ただのふぁんですのでそんなことは一度もありえなかった、心のなかでさえ話しかけるのはむずかしかった。まいにち首をくくるという行為だけことばにすると、どうもオカルトめいた儀式のようだが、じっさいの栲象さんはしゃきしゃきした男のひとでことばもたたずまいも頑丈だった。演劇人という感じだった。そういうひとが、雨風にかたむきかかった家の庭で、風や草木といっしょになって、花の下で首をくくっているのは、ほんとうにふしぎで素敵だったのだ。生きているから首をくくり、首をくくって生活していた。あばら家に体があり生活があった。
そうして、着るとか服とかのことを考えて、わたしは野田秀樹の『キル』のことも思い出していた。『キル』はモンゴルを舞台とするファッション戦争の物語で、世界征服=制服であり、着るは切る、KILL、生きるであり、アニメのキルラキルにも影響をあたえた作品だろう。堤真一の初演バージョンをビデオでみた。 「ミシンが夢を見た。大草原の夢を縫っていた。ミシンが足を踏むたびに、草原は広がって��った。ボビンケースから紡ぎ出される野心の糸がモンゴルの野を駆け巡り、蒼き狼を縫いつけて、吠えかかる日をミシンは夢見た」…冒頭の語り。なんどもなんどもみたのでけっこうせりふをおぼえている。
テムジン「それともこのミシンの夢は、死んでいく俺の景色なのか? だったら、慌てることはない。急ぐのは生きているときだけだ。俺の葬式は青空の日を選んでやれ。それも飛びっきり真っ青な空だ。そうか、ああ、そうか、ただ見上げればよかったのだな。モンゴルの空の青さが、ここにある。空の青さは、世界のどこまでも続いているんだな。この世が生まれた時から、青い空は世界の制服なのだ。その青空の風と光の中に、さあ、俺の骨を砕いてばらまくがいい。モンゴルの草原に向けてばらまけ。熱い風と白い光が俺をモンゴルに帰してくれる。その日、俺は生まれるだろう。ミシンが夢を見た日、俺は産声をあげるだろう」
ラストシーン、堤真一演じるテムジンの長ゼリは、死にゆくテムジンの夢なのか、これから生まれてくるテムジンが母親のはらのなかで夢を見ているのか、どちらもおなじことなのか。 母親たち、女たちの声がする。テムジンが愛した女の名はシルクという。 「産まれてきた子はみんななにも着ていないんですねえ」 「なにを着せてやりましょうかねえ」 「とびっきりのこの青空を着せてあげてくださいよ」 目がつぶれるような真っ青の布が舞台を覆い、おしまい。脚本のト書きには「それまで劇中いっさい青はつかわれていない」と添えられており、青はとくべつな色であり、生と死の色だと、初めてキルをみた十五歳のときからわたしに印象づけられている。栲象さんの庭劇場にも青色はなかった。青いものは身にまとっていなかったし、庭劇場はだいたい夜におこなわれたから。闇と土の黒と、明かりの黄色と、くすんだ赤や茶の服と、古いページの白など。
きょうは真っ青に晴れた日で、ああそうか、たぶん亡くなった栲象さんの写真展と、場所がシルクセンターだということ、来る前からずっと、わたしは『キル』のことを連想していた。風の強い山下公園でインド水塔を見上げながら、せりふはよみがえっていた。「ミシンが夢を見た」。シャツを物色するまえにのぞいた古いビルでも、ガラスのふちどりがいい青色だなあとスマホのシャッターを押していた。 ずっと好きな戯曲、おぼえているせりふ、好きだったひと、ほしい服、じぶんの書いたもの、好きな色、いとしいものたちはあたまのなかでまざりあい、呼吸する。息は糸になる。おかいこぐるみは9000頭の蚕の息で、いのちをまとっている。栲象さんの息はあらゆるところに溶けている。くるまれている。このあいだ四十九日を済ませた祖母の亡くなった日も、蚕のことを思い出していた。きょうみた「眠」の蚕たちはこわくなかった。かんおけにおさまった祖母は白い着物を着せてもらっていた。絹だったろうか。さっき映像の中で、首をくくる栲象さんの横をふとった猫がとおりすぎたが猫は見向きもしなかった。蚕は糸を吐くころ、体がすこしちぢみ、透きとおってくるという。 博物館で、ご自由にお持ちかえりくださいと、絹糸をひとふさもらった。栲象さんの白髪あたまに似ていた。
帰り道、たまたまのぞいた雑貨屋でいいものがあったので、というか、わたしもそこそこ感傷的なところがあるんだよな、青いカップを買った。なめらかな焼き物で、土からつくられた。使う前に「目止め」をしてくださいねと店員さんにいわれた。うつわにひびが入らないように、よごれが染みにくくなるように、米のとぎ汁でうつわを茹で、冷まし、洗ってかわかす。米のとぎ汁を得るために、きょうはごはんを炊き、カレーをつくった。うつわはいま鍋のなかでねむっている。写真集は、あしたこのカップでお茶を飲みながらゆっくり開いてみようと思う。
首くくり栲象さんについて、都築響一さんの書籍より↓
早く壁にぶち当たりたいんです。 http://roadsiders.com/special/
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蒋经国:一个亲手终结“蒋经国时代”的人 | 短史记
作者:谌旭彬 2018/01/13
1988年1月13日,也就是30年前的今天,蒋经国在台北去世。
再多的“客观规律”,再多的“大势所趋”,历史终究得由人来创造 —— 无论后人如何评价蒋经国在台湾转型中所扮演的角色,都无法否认一个事实:没有蒋经国,台湾的转型,会变得更加复杂、艰难和前途莫测。
(蒋介石夫妇对弈,蒋经国观战)
与时代潮流站在一起
有人讲,蒋经国是主动在顺应自由民主的时代大潮。也有人讲,这种顺势而为其实是被动性质。
纵观其主政台湾的20余年,“主动”与“被动”或许都是伪命题。因为,蒋经国本身,也是这时代潮流的一部分。
1、“民本政治”的信仰者
一个威权领袖的政治信仰如何,在某种程度上,决定着其威权统治的实质。
蒋经国也不例外。他早年所受家教,是父亲信奉的传统儒家经典;青年时代长期滞留苏联,深受影响;回国后又曾接受父亲为其量身定制的“思想改造”。
1956年,蒋经国在��我所受的庭训》中,如此回忆父亲对自己的家教:
“父亲指示我读书,最主要的是四书,尤其是孟子;对于曾文正公家书,也甚为重视。后来又叫我看王阳明全集等等。民国十一年,父亲要到福建去的前一天,还写信告诉我说:‘孟子须熟理重读,论语亦要请王先生讲解一遍,你再自学,总要以彻底明白书中的意义为止。你于中文如能懂一部四书的意义,又能熟读一册左孟庄骚菁华.则以后作文就能自在了。每篇总要读三百遍,那就不会忘记了。’”
“不久又来信叮咛地说:‘孟子文章之好,异乎他书,你如将来要做好文章,必须熟读孟子。’”
“父亲所以特别提示我要熟读孟子,不但要我学会他的笔调,能做好文章:同时更教我从思想上注重下列的几段文字:”
“(一)五亩之宅,树之以桑,五十者町以衣帛矣。鸡、豚、狗、彘之畜,无失其时,七十者可以食肉矣。百亩之田,勿夺其时,数口之家,可以无饥矣。谨庠序之教,申之以孝悌之义,斑白者不负载于道路矣。七十者衣帛食肉,黎民不饥不寒。然而不王者,未之有也。”
“(二)自暴者,不可与有言也,自弃者,不可与有为也。言非礼义,谓之自暴也。吾身不能居仁由义,谓之自弃也。仁,人之安宅也,义,人之正路也。旷安宅而弗居,舍正路而不由,哀哉!”
“(三)天之将降大任于是人也,必先苦其心志,劳其筋骨,饿其体肤,空乏其身,行拂乱其所为;所以动心忍性,增益其所不能。人恒过,然后能改;困于心,衡于虑,而后作;征于色,发于声,而后喻。入则无法家拂士,出则无敌国外患者,国恒亡。然后知生于忧患,而死于安乐也。”
(1935年,蒋经国与妻子蒋方良在苏联合影)
1956年的蒋经国,已能够充分理解父亲所交待的那些须特别重视的文字,所承载的思想内涵。他如此阐释:
“这里第一段的意思是指出:一个革命救国的远景和蓝图。也就是说,我们从事革命工作的目的,一切要为着人民安乐和国家富强,力求达到老者衣帛食肉,黎民不饥不寒的境地。第二段指出行己立身,不可自暴自弃,定要居仁由义。第三段指出革命事业及人格的完成,并非一蹴而就。必须经过许多艰难困苦的环境,和各种难堪和不可忍受的磨折;甚至遭人污辱毁谤,亦当逆来顺受,然后可以达到。……古人说:‘能受天磨方铁汉,不遭人忌是庸才。’确为经验有得之言。”
在同一篇文章里,他还回忆了自己从苏联回国后,父亲针对自己的“思想改造”:
“父亲因为我童年就已出国,而在外国时间又太久,怕我对于中国固有的道德哲学与建国精神,没有深切理解,所以又特别指示我研读国父遗教。民国二十六年五月十二日来信说: “你以后看书,应多注重中国固有道德,建国精神与其哲学。孙文学说一书,实为中国哲学之基础:而三民主义则为中国哲学之具体表现,译文决不能彻底阐明其精神。俄文译本更将其中之精华舍弃未译,故你应将孙文学说看完二遍之后,即看三民主义中民族、民生与民权各讲之原书全文:并应将其心得批评之点摘记另录,以备呈阅。民生主义中,批评马克思主义各节,尤为重要;应切实用客观态度,悉心研究看完。主义之后,再看军人精神教育一书,亦在中山全书之中;如能了解以上各书,则中国之政治、社会、经济与哲学,皆可得其基础矣。”
身为宋明儒学信徒的蒋介石,最终将自己的儿子也培养成了一个儒家“民本政治”的信仰者。
多年后,宋楚瑜仍记得蒋经国对自己说过的一句话:
“政府不要跟民众斤斤计较。”
这话背后不见得有“民主”,但显然有“民本”存焉。
1950年代,台湾修筑中部横贯公路,蒋经国深入一线,与筑路工人同吃同住,同在水龙头上喝生水,同在工棚里啃馒头。年近古稀时,仍下到台湾各处穷乡僻壤里去探求民隐,如寻常老农般脱鞋涉水,如寻常路人般在路边小饭馆买盒饭吃……
这背后也不见得有“民主”,但显然有“民本”存焉。
2、晚年认可了市场经济
蒋介石对蒋经国的“思想改造”是成功的,但再成功的“思想改造”,也无法消磨掉曾经有过的痕迹。
30年代,蒋经国在赣南的实验,仍带有明显的苏联色彩 —— 严格控制百姓,以运动式手段搞经济文化建设。1945年后,蒋经国也曾对赣南时代的同仁承认,“赣南新政”并无多少效果,只是徒然让百姓受苦:
“回忆赣南建设的过程中,人民出了不少的钱,做了不少的工程,但是并没有得到应得的效果。我们做事,初意虽在于为民众谋利,而有时结果反而使民众受苦。……今天并不否认,自己在赣南得到了许多做人做事的经验,但是有许多经验,就是一种人民受苦的代价。”
但这种反思,似未及深入到体制和学理层面。去台后,蒋经国启动“十大建设”,仍明显带有苏联“集中力量办大事”的计划经济色彩。
(赣南时期,蒋经国在控诉室接待告状者)
这种“计划经济”,也体现在蒋经国对台湾“均富”的追求之中。据宋楚瑜回忆:
“经国先生一直记得上海打老虎的经验,那是他一生难忘的痛苦教训。……所以他主政期间,对民生基本物价的稳定,特别是米价、油价,非常重视。……所以一方面开放市场经济与自由贸易,另一方面却不准民生必要的物资掌握在财团手中,水、电、油、交通、金融、烟酒等,均透过国营事业严格控制价格。……国际油价波动,台湾什么油都可以涨,渔业���油、农业用电不准随便涨。台湾什么烟酒都可以涨,基层在抽的‘新乐园’牌香烟不准涨;原住民深山取暖、家家煮菜要用的米酒不准涨,但高价位的烟酒可以多涨一些,用来贴补中低收入者,并维持稳定民生物价……”
“外界谈‘台湾经济奇迹’多半只讲经济成长这部分。但真正的 ‘奇迹’,是既能经济成长,同时又让人人赚到钱、注意到‘均富’。从1972年经国先生担任‘行政院长’,到1988��过世,台湾的人均所得从482美元成长到5829美元。但同时间,最高所得五分之一家庭与最低所得五分之一家庭的收入差距,仅从4.49倍微调到4.85倍。全世界没有一个国家或地区,能同时让人均所得成长12倍,但贫富差距却能限缩于8%。这代表着经济成长的果实是由全民共享的,财富不是集中于少数人手中的,这更是‘均富’理念的彻底实践。”
“均富”的初衷,无疑是很好的。
不过,实现“均富”的手段 —— 国营企业、计划经济、价格管控,伤害了台湾的市场经济的完整性。
早在1952~1954年间,台湾经济学界就曾批评过国民党对“国营经济”和“计划经济”的迷恋,史称台湾政学两界的“财经大辩论”。
受此次论战影响,胡适于1954年3月6日公开站出来演讲,自我忏悔曾信奉国营企业和计划经济,并敦促领袖和当局也出来忏悔对国营企业和计划经济的迷恋:
“在政府任职的许多官吏,他们认为中国经济的发展只有依赖政府,靠政府直接经营的工业、矿业以及其它的企业。从前持这种主张最力的,莫过于翁文灏和钱昌照;他们所办的资源委员会,在过去二十年之中,把持了中国的工业、矿业,对于私有企业(大都是民国初年所创办的私有企业)蚕食鲸吞,或则被其窒息而死。……在二十七年前,我所说的话也是这样的。……现在想起,应该有个公开忏悔。不过我今天对诸位忏悔的,是我在那时与许多知识分子所同犯的错误。……”
“我希望政府的领袖,甚至于主持我们国营事业、公营事业的领袖,听了这些话,翻一翻《自由中国》、《中国经济》、《中国文摘》等,也不要生气,应该自己反省反省,考虑考虑,是不是这些人的话,像我胡适之当众忏悔的话,值得大家仔细一想的?大家不妨再提倡公开讨论:我们走的还是到自由之路,还是到奴役之路?这是一个很重要的问题。……大家都应该忏悔。我们应该自己‘洗脑’;被别人‘洗脑’是不行的。我以为我们要自己‘洗脑’才有用,所以我今天当众‘洗脑’给大家看。”
这场论战,只是台湾“市场经济PK计划经济”的历史的一小部分。不过,自1960年代起,在尹仲容等人的努力下,台湾的经济体制改革终于定下了“自由市场”的方向;
蒋经国的经济理念,也渐渐有所改变 —— 1985年,他接受美国《时代》杂志香港分社采访时,曾明确声明:台湾采行的是市场经济,鼓励自由贸易。
(赣南时代,蒋经国作演讲训话)
3、他也是民主自由大潮的一部分
一个以“民本”为政治信仰、推崇“均富”的执政者,一个市场经济和自由贸易的认同者,是可以成为民主自由大潮的一部分的。
1950年代台湾的“基层自治”,党外力量参与选举时,常不免受到体制种种刁难。1954年,非国民党人士高玉树竞选台北市长,国民党轻敌,允许自由选举,诚实计票,结果大吃一惊:赢下多数选票的人是高玉树。当局本欲宣布选举无效,只是碍于美国“大使馆”已经报告高玉树获胜。
事情捅到蒋介石处,蒋经国建议蒋介石批准同意此次选举结果。
1969年,蒋经国批准同意在“基层自治”选举中实行演讲制度,候选人可以通过演讲来阐述解释自己的政策。台湾自此开启了一条独特的民主转型路径 ——“自由先行”。
所谓“自由先行”,具体到台湾,扼要说来主要包括两点:1、50年代的“基层自治”,给予了台湾民众有限度(维持国民党的“全国性”)的政治自由;2、同时期开启的对私营经济的扶植,则开启了经济自由的大门。
这两大自由先行,为1986年的转型打下了基础。
蒋经国在台湾转型过程中的种种举措,被宋楚瑜等人称作“不流血的宁静革命”。这或许有些言过其实。不过,蒋经国当年,确实与时代潮流站在一起,是时代潮流的一部分,而不是站在时代潮流的对立面。
与时代潮流站在一起,并不是一件容易的事情。
不该再有“蒋经国时代”
1978年5月20日,蒋经国出任第六届“总统”。
就职的当天下午,他对外发布了三点“指示”:
第一,今后不希望再有“蒋经国时代”这一类名词出现在报纸杂志上。“今天是一个民主的时代,不应再有个人英雄主义的色彩,如果真有时代的话,只有群众的时代,而没有个人的时代”。
第二,今后不希望称呼他为“领袖”。“个人只是一个普通的党员,一个普通的国民,只愿以党员与国民的身份,与全体同志及全国同胞一起共同奋斗”。
第三,今后不希望有“万岁”的口号出现。“只有国家民族的万岁,只有三民主义及国民党的万岁,没有个人的万岁”。
1985年,在“国民大会行宪纪念日”庆祝会上,蒋经国又有一个公开声明。其内容是:
1、蒋家人“不能也不会去竞选下一任总统”;2、国民党“不能也不会”以实施军政府的方式来统治国家。
次年,蒋孝武外放新加坡,以示不传子的决心;“军系中常委”缩减至四人,是蒋氏父子执政台湾以来名额最少的一次。四人当中,袁守谦与高魁元早已不再统兵;宋长志和郝柏村中的排名,从上一届的第十四、十五名,降至第十七、十八名。这是在用行动宣示未来的台湾不会出现军政府。
(1970年,蒋经国与学者潘文渊握手留影)
1986年4月,蒋经国指定严家淦、谢东闵、李登辉、谷正纲、黄少谷、俞国华、倪文亚、袁守谦、沈昌焕、李焕、邱创焕、吴伯雄十二人,组成专门研究和平转型的“革新小组”。蒋经国要求他们:
“先选择最重要的来做,而且要快做,不要拖。”
这年5月,蒋经国又发出指示,让体制内人士主动与“党外公共政策研究会”中的人士沟通。此后,国民党对“党外组织”的政策,明显转向以沟通为主,不再是竭力压制。
改革遭遇掣肘,蒋经国启用了李焕。在与李焕的长谈中,蒋经国交待了自己设想的三个改革目标:
第一,国民党需要彻底改造,才能在完全公开的政治制度里竞争。实际上,自六十年代开始,蒋经国已开始对国民党本身的年轻化、现代化改造;至80年代,大部分国民党代表,是通过竞争选举上来的,而非依赖威权体制的赐予。
第二,取消“戒严”,解除报党禁。这实际上就意味着政府需要回归到宪法层面去施政,意味着四六宪法重新启动生效。
第三,“两岸统一”。蒋经国说:“我们必须采取主动,踏上统一之路。台湾和大陆终究必须统一。两岸若不统一,台湾恐怕将越来越难独立存在。”(据陶涵《蒋经国传》)
对于第三点,蒋孝勇晚年颇为感慨:
“他(笔者注:指蒋孝勇)强调,父亲辞世之前,实际上已通盘检讨了大陆关系及整体施政,并且已有相当雏型,‘这包括两岸统一在内,父亲是绝对不会放弃这件事的。’至于这几年有人表示曾担任过密使,为两岸领导人传过话一事,蒋孝勇表示据他所知,曾经表态过,但没有正式接触。在台湾,两蒋主政近四十年。蒋经国于一九八七年,也就是他在世最后一年的七月间,邀约地方父老茶叙时感慨地说,他在台湾住了将近四十年,已经是台湾人了。蒋经国当时希望,大家‘超越一切地域、派系、小我利益之上,开阔心胸,把眼光放到大陆’。蒋孝勇说,他父亲讲‘我已经是台湾人’这句话的意思,其实是‘除了认同台湾之外,更希望在台湾的人民,了解自己也是中国人’,后来却被断章取义。宁静革命,在蒋孝勇的心目中,早在他父亲辞世之前就展开了。他强调,除了人事布局尚未完成之外,蒋经国的一连串民主改革措施,为台湾社会日后的安定祥和开创了先机。”(《蒋孝勇的最后告白》,蒋孝勇口述,王力行,汪士淳整理)
(蒋经国怀抱孙女蒋友梅)
1986年9月28日,135个反对派人物在台北市圆山大饭店集会,组建“民主进步党”。蒋经国没有采取激烈行动:
“副官闻讯,跑进蒋经国卧室向他报告,他点点头,没有回应,过了半小时才交代副官通知几位核心高级官员到官邸开会。党政军要员迅速赶到七海新村接待室。蒋经国坐在轮椅上出现,开口就说:‘时代在变,环境在变,潮流也在变。’接下来又讲了几分钟这类有哲学意味的话。他说,国民党过去‘太骄傲、太自负’,现在起,不能再跟从前一样。虽然警备总部已准备一份抓人名单,蒋经国却说:‘抓人解决不了问题……政府应该避免冲突,保持镇定。’他指示‘行政院新闻局’起草一份公开声明说,组织新政党的问题已在研究中,尚待做出决定,目前的政策不变:亦即没有所谓合法的反对党。因此‘政府’在此时并不承认民进党。他又说,国民党中常会应加快研究政治革新,公布一个时间表,让民众了解党的改革方向。”(陶涵《蒋经国传》)
不承认,不镇压,实际上等于默认禁令的解除。所差的只是一道正规手续。
“时代在变,环境在变,潮流也在变”,这类的讲话,1986年前后频繁出自蒋经国之口。这个以“民本”为基本政治信仰的执政者,已看清了时代的潮流,并选择成为潮流的一部分。他明白,仅从“民本”出发“爱民如子”,已不再适应时代的需要;民众已不再满足于做“被爱”的“子民”。他们希望自己爱自己,希望自己治理自己。这是“民本”与“民主”的大区别。
改革不会没有代价。沈昌焕曾警告蒋经国“这样可能会使我们的党将来失去政权”。他的回答是:
“世上没有永远的执政党”。国民党必须有新的观念,有新的做法,“唯有如此,才能与时代潮流相结合,才能与民众永远在一起”。
1988年1月5日下午,蒋经国向“总统府机要室主任”王家骅口述遗言:
“我现在身体不好,万一长眠不起,众人不要怀忧丧志,仍应继续努力,推行民主宪政建设以完成统一中国大业。”
1月10日,蒋经国在病床上回忆半个月前在“行宪纪念大会”所受的侮辱(有人对他高举“老贼下台”的横幅),“好长一阵子无语之后”,对陪侍的蒋孝勇叹道:
“我一辈子为他们如此付出,等到我油尽灯枯时,还要给我这种羞辱,真是于心何忍。”
(1973年,蒋经国下乡走访屏东渔民)
1月13日,蒋经国与世长辞。
他亲手终结了“蒋经国时代”以及下一个“蒋经国时代”出现的可能性。
(题图:1949年撤离大陆前夕,蒋氏父子登山远眺溪口故里景致)
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【蚕の影と魂の記憶】 筑波山の森の中に、神を呼ぶ声が響く。 雅楽の笙(しょう)の和音が優しくも荘厳に 空間を満たし、絹糸をほどくように 訪れた人々の心をスルスルと解いていった。 巫女さんの艶やかな装束が舞う。 三番叟(さんばそう)の鈴の音に魂が震え、 自然と涙が滲む。 わたしのなかの遥か遠い記憶を呼び覚まし、 太古の眩しい光が全身へと、流れてゆく。 (今思えば、そのエネルギーは金色姫だったのかもしれない。) 〝今〟という瞬間は、大地や草木、人々の水に 響き合い 重なり合い 日本人としての誇りを抱いた記憶が、 再び、ハートへ刻まれてゆく。 神々の優しい息づかいを確かに感じながら。 2022.10.22 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 有り難い、神聖な儀式に参加させて頂けたことを@tukubahanayagi の皆様、筑波山神社の皆様に改めて感謝申し上げます。 この神社には三柱の女性の神様が祀られています。稚産霊命・埴山姫命・木花開耶姫命。 ある時、神様占いで石長比売(イワナガヒメ)がわたしの守神であると知りました。木花咲耶姫のお姉さんですね。やっぱりご縁を感じずにはいられない、蚕影山神社なのでした💫 #蚕影山神社 #木花咲耶姫 #金色姫伝説 #筑波山神社 #筑波山 https://www.instagram.com/p/CknoJzOyE9d/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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俊樹五百句
虚子の「五百句」と対峙したい。虚子はそれを五十年ほども掛けたが、この作句期間は一週間に過ぎない。出来不出来以前にこの名著なる存在と対峙したかった。俳句の存在意義だけがこの試行錯誤の源である。短い人生である、我が愚行を是非批評して頂きたい。
坊城俊樹 令和4年8月
弔ひの夜に横たはる暑き襤褸 浮浪者の襤褸に星降る夜となりぬ 弔ひの夜の白服なる異形 弔ひの杖に樹海の町暑し 浮浪者の眠る窓とて朧なる 夏の灯のまたたき琴座鳴るといふ 幽霊や露台に支那の戦没者 幽霊の招く小路の風死せり 夏の路地女幽霊絢爛に 星の降る夜へ英雄の霊かぎろふ
国士無双あがる男へ星流れ 夏の夕遺族は骨を探索す 夏夕べ黒き連鎖の遺族たち 遺族らは夜より黒し星流れ 哀しさは真夏の盆へ地震きたる 地震の町に吠える家守の夜でありし 恋人も濡れる家守の夜となりし 母死して星も死すてふ家守の夜 家守らの目の爛々と星見上ぐ 家守らに昭和の記憶ありにけり
金色の家守は母の野望とも 父がつけし渾名の犬へ星流れ 大蛇の我が天井を護りたる 姫蛇の碑へと真夏の夜の夢 蛍火に意思といふものありにけり 山泣くも山笑へるも蛍へと 犬死して総理も死して蛍へと 一億の蛍の一つ死してをり ほうたるの火に照らされて万華鏡 ほうたるの乱舞を待てる半旗かな
火蛾ひとつ火焔の中を舞うてをり 蛍来る夜は両親へ星降る夜 死ぬ匂ひして晩年の蛍籠 怪しげな教会へ入る蜥蜴かな 万華鏡の色の蜥蜴や月を追ひ 猊下そは百歳に死し蜥蜴また 猊下死す百一の星流る夜を 猊下逝く蜥蜴は天の星仰ぐ 猊下逝く十の契りを夏の夜に 総理逝きしばらく夜の火蛾として
猊下逝く祇園の夏の夜の契り 星流る方へ杖つき神楽坂 夏の夜の三味の灯しは籠もらざる 懇ろに幽霊を待つ簾上げ いつも見てゐて見てゐない裸かな 貪りて夜の怨霊の裸とも 風通す裸の窓をすべて開け 恩讐もある傷跡の裸体とも カンバスに幾何模様なる裸体 日当たるとやはらかくなる裸体かな
陰翳の裸の体囁ける 因果なる裸体を褒めてゐて死せり 裸体なる女カオスの縮図とも 茅舎忌の我を白痴と思ふかな ヌードデッサンせんと孤高の茅舎の忌 茅舎忌といふ忌まはしき忌なりけり 俳壇に生けるも死ぬも茅舎の忌 茅舎忌の猿股を日に干してあり 金剛の露現今の茅舎ゐて 口唇に薬挿し入れる茅舎の忌
河童忌の屋根に墜ちたる龍之介 河童忌といふ祝祭のやうなもの 蚕豆に天使の翼ありにけり 蚕豆の妻の故郷はカタルーナ 蚕豆といふ処女作のやうなもの 蚕豆を剥き深緑やや遺憾 蚕豆の筋のあたりを背骨とも 蚕豆のやうな赤子を授かりし 蚕豆とは一卵性双生児 バンクシーの絵は白黒に夜の秋
我が瞳孔まもなく朽ちて夜の秋 丑三つのマンゴーゆつくり熟すなり 丑三つの蜘蛛透明な糸を吐く 斬られる待つ丑三つの熟柿かな 愚かなる夢の中なる熱帯夜 しづかなる女の舐める熱帯夜 黒蛇が白蛇を呑む熱帯夜 括れざる腰振る真夜の熱帯を 母さんが父さんを呑む熱帯夜 口唇を襞と思へる熱帯夜
熱帯夜朱き口唇とて腐臭 熱帯夜とはずぶ濡れの吾子の夢 峠路に幽霊を待つ月��草 裏切りの美人薄命月見草 月光やちやん付けで呼ぶ影法師 月見草火星より木星が好き 月見草路地の子やがてゐなくなる 星の降る夜はひとつきり月見草 月見草恐らく祖母は浮気した 新婚の路地の匂へる月見草
日覆を立てる穴とて深淵に 日覆のおほひて赤子腐敗せり ビルよりも高き日除けを立てにけり 男一人日除けを出でず老いにけり 裸族らし我が家の下の夫婦かな 裸にて人に逢ひたく皮を脱ぐ しづかなる蛇しづかなる自死をせり 蟻と蟻獄を出でたる如出逢ふ 灯の蟻といふ見当たらず羽蟻とす あの蛇を保育園へと見失ふ
青条揚羽より高き蝶のなき 金輪際黒筋揚羽見失ふ 黒揚羽より正装の男かな 瑠璃揚羽祖父の遺墨を飛び立てり 暑き電線暑き電線と出逢ふ とぐろ巻く蛇地境を管理せり 大いなる物の崩れががんぼの死 青き星流れて白き星流れず 蟷螂と格闘をして日記とす 暁に麦飯を食ふ祖父の髭
亡霊が炊いた麦飯吾れのため 麦飯の茶碗に描くただの柄 麦飯に卵二つの豪華さよ 麦飯を母は嫌がり父も嫌がり おばQを見て麦飯を食ふ至福 箸は茶で洗ふ麦飯たひらげて 麦飯を父は食はずにバタを食ふ 麦飯といふ軍縮のやうなもの 麦飯にのりたまかけて邪気かけて 仏教にあらず神道麦飯を食ふ
麦飯を御霊に捧ぐことならず 麦飯で鉄腕アトム見てをりぬ 昭和三十六年の麦飯豪華なり 麦飯といふ神道のやうなもの 瑠璃鳴くや御霊のやうな声溢れ 神域を歌へる瑠璃のすきとほる 殉職の御霊へ瑠璃の鳴きにけり 銃弾に斃るるときに瑠璃鳴けり 天照大神きて瑠璃鳴かせ 天辺の虹の上より瑠璃鳴けり
虚子とのみ彫られし墓へ瑠璃鳴けり 坊城家六代目へと瑠璃鳴けり 勾玉の青のひとつは瑠璃の声 瑠璃何か喩へてみれば金剛に 夏燕折り返し来る消防署 三次元を四次元に斬る夏燕 生れ替るなら岳麓の夏燕 青空を巻き込んでゆく夏燕 夏燕鏡を斬りてさかしまに 天辺に仏来給ふ朴の花
朴の花白く翳りて懇ろに 朴の花の中に釈迦尊をらざりき 虎尾草に毛並のありて逆立ちて 虎尾草の揺れて待ちたる未通女かな 金輪際虎尾草と縁切ると言ふ 虎尾草の先くねくねと蠅を追ふ 梧桐に影といふもの濃かりけり 樹海めく梧桐たちに迷ひたる 梧桐を仰ぐ超高層仰ぐ 梧桐の葉とは天狗の団扇かな
梧桐やブランコは立ち漕ぎ続け 梧桐の翳に不良の煙草吸ふ 梧桐に青春である疵を彫り 梧桐の伐られ虚空の天となる 山笠の波動花鳥子より届く 山笠の句の勇壮な波動来る 山笠に恋といふものありにけり 博多つ子純情の夏なりしかな 山笠の日と生誕の日と隣る 純情の山笠に夢馳せてをり
山笠に天神颪とは来たり 金亀虫裏返りたる真夜の褥 黄金虫夜を引き摺りて灯へ入りぬ 灯に入手夜の帝国の黄金虫 羽蟻の夜玻璃にべたりと都市の闇 羽蟻翔ちお日様に溶けなくなりぬ 子を捨てし母は戻らぬ羽蟻の夜 羽蟻の夜金輪際の父は帰らぬ 羽蟻の夜弔問はなほつづきをり 茅舎忌の卍となりて日章旗
露の世へ消ゆる人あり茅舎の忌 茅舎忌の夜が流れてしまひたる 隻眼が見えなくなりぬ茅舎の忌 龍子の絵どこか稚拙な茅舎の忌 茅舎忌の流れ流れて星ゐない 吾妹子の胸やはらかき虎が雨 吾妹子の海へ尿する虎が雨 煙草屋もとうに死に絶え虎が雨 土用波恋愛はもう星屑に 岬越え来る土用波白々と
土用波いよよ怒濤となり崩れ 子が一人攫はれてゆく土用濤 土用濤灯台を越え来たりけり 元総理死にて土用の波濤へと 波怒濤土用の夜の人攫ひ 伝説の出水川とはこの小川 子を攫ひ妹を攫ひて出水川 出水川と記憶流れて悪夢とも 出水川恋の破綻も流しゆく 虚子塔に人来ぬ日なる最澄忌
最澄忌千日回峰終るころ 叡山は星の降る夜の最澄忌 叡山をさ迷ふ夜の最澄忌 最澄の忌の極楽の湯舟かな 最澄忌灯す頃の先斗町 祇園にて猊下と酌みし最澄忌 萍の隠沼として河童棲む 萍を髪に見立てて河童立つ 萍の茂り月光留めたる 妖精が腰掛けてゐる蛭蓆
丑三つの月光にある蛭蓆 優曇華へ星やさしくて月やさし 優曇華のいのち揺らぎて月を待つ 儚きは優曇華の茎なりしかな 優曇華にいのちあかりの灯せり 優曇華に神降臨すひとつづつ 母死して優曇華の情なしとせず 優曇華へ言葉少なき真夜の人 ケルン積む星降る夜となりしかな ケルン積む大岩壁と対峙して
ケルン積むひとつひとつに女の名 行李から恐らく祖父の登山帽 恋をして山登りして死に逝けり ロッククライミングの刹那あの夏を しづかなる人しづかな死夜の秋 夜の秋幽霊ももう寝静まり 恋をして失恋をして夜の秋 瞳の奥の闇へと星の流れゆく 星の降る中に月降る夜の秋 蟻ひとつ彷徨うてゐる夜の秋
死顔の威厳なるかな夜の秋 曾祖父も祖父も今宵は夜の秋 星ひとつ艶然とある夜の秋 夜の秋網膜剥離みたいな灯 羅を着て恋などに惑はされず 浴衣着て金魚の柄を泳がせて 羅を着て老いらくの恋をせむ 羅に序破急といふ恋のあり 妙齢は達磨柄なる浴衣着て 浴衣着て恋に窶れてしまひけり
祖父と祖母らし残像の藍浴衣 羅の包んでをりぬ裸体かな 羅の包み適はぬ恋をして 浴衣着て恋の乳房となりしかな 浴衣着て恋人と逢ふ浜の路地 羅を着て蝮酒召し上がる 浴衣の子星とおしやべりしてをりぬ 後ろ手に団扇はさんで恋浴衣 白兎波間に跳ねて卯波くる 人死して星の卯波となりしかな
卯波寄す森田愛子の臥所へと 九頭竜の卯波漣ほどのもの 夏の波真砂女の卯波とぞなりぬ 月光が卯波流してをりにけり 滴りの金銀の粒金剛に 滴りに輪廻転生ありにけり 滴りて岩壁となる日本海 東京スカイツリーの天辺滴りて 滴りて浅草線の三ノ輪駅 ゆつくりとしづかに歩む蛇ひとつ
蛇の夢見てその蛇を見てをらず 蛇酒といふ極楽の中に死す 滴りの岩壁を行く数学教師 滴りの後ろ姿の女体山 蛇女邪心となりて星流れ 蛇ふたつ絡んでをりぬ月光に 蛇絡みつつ愛欲の中にあり 権現の無数の蛇の降る社 炎帝の統べるままなる総理の死 炎帝へ斬首の鴉羽ばたけり
炎帝いま月の裏側焼きにけり 炎帝といふ今生の大宇宙 勲一等正一位なる墓灼けて 勲一等の軍馬の墓は緑蔭に 暗夜行路書きし墓とて茂り中 暑き固き墓石の如き絵画館 イザベラの墓に彫られし薔薇香る 銀杏並木の緑蔭もとんがりて 茂りてはいつも探せぬ乃木の墓 坊城は俊ばかり付く墓涼し
殉教の墓へマリアの南風吹く 寝棺そのものを横たへ夏の墓 緑なる線対称の銀杏かな 八月の面対称の絵画館 サンドレスとは青山のあつぱつぱ 青山の墓みな灼けて無言なる 夏日燦超高層といふ墓標 無機質の超高層を旱とも ソファーめく茂吉の墓へ夏蝶来 茂吉いま夏蝶となり利通へ
墓に挿す供華も明日より秋薔薇 秋の蝶クルスの墓を懇ろに 夏果てて石より重き絵画館 緑蔭のハチ公の墓何処なり ハチ公の供華はおそらく水羊羹 異国なる地下に眠りて薔薇の墓 夏の蝶マリアの指に触れてより 喪主だけが半袖で乗る霊柩車 蟬の音は聞かず真昼の野辺送り 蟬死して蝙蝠ばかり飛んでをり
蝙蝠は帰る逆さになるために 蝙蝠の裏切る音を聴いてゐる 蝙蝠も消え失せグリム童話の夜 めまとひはめまとひとして囁けり めまとひは無責任なる大家族 婆の眼の脂にめまとひ親しめり めまとひを払ふ多情の口を閉ぢ めまとひの中を葬列続くなり 朱烏夏の夜の夢覚めし頃 茅舎忌の月光ことに夢を食ふ
茅舎忌の虫の音といふ哀しけれ 茅舎忌のシュミーズは幽霊の自慰 そこはかとなく隠微なる茅舎の忌 キリストと生きる男へ茅舎の忌 茅舎忌に金子みすずを読んでをり 白鼻心白夜の夢を見てをりぬ おぼこ今白夜の夢を見てをりぬ 白夜とは神の数だけありにけり 熊に似る男涙の炉辺話 雪女帰らず解けてしまひたき
金輪際なき眼光の鯖を食ふ 鯖を食ふ恋愛をした夢を見て 銀色に無限のありし鯖を食ふ 恩讐の臭みの鯖を食ふ女 鹿島灘あたり怒濤や鯖を食ふ 鯖を食ふ女臀部を揺らしつつ 鯖を食ふ潮の香りを煮てをりぬ 黒潮を炊いて鯖煮となりしかな 鯖食ひ男鯖食ひ女淫靡なる 鯖食うて惜別の情無しとせず
我が生の金輪際の虹に逢ふ 虹死して首都凡庸の空となる 奈落より虚子の墓へと虹の橋 蚊柱となりて青山墓地を舞ふ 吾妹子の子宮男の子を生みにけり 我が家より大いなる虹架かりけり 苔の花とは妖精の小さき眼 苔の花喋るぺちやくちやぺちやくちやと 苔の花海に流れてしまひさう 我が生も淋しからずや苔の花
大漁の夜の纜に苔の花 苔の花阿呆の黄色楽しくて 苔の花金輪際の生にあり 苔の花哀しくなれば咲いてをり 苔の花苔を大地として咲けり 苔の花の夜は近づく大宇宙 未熟児に産まれる人へ苔の花 そよぐことなき苔の花小さすぎ 流星と同じ色して苔の花 苔の花咲きて天動説となる
苔の花影といふものありにけり 囁きの夜に閉ぢたる苔の花 河童忌を星の吹雪と思ふなり 河童忌の蛇口ひねれば湧いてをり 河童忌に砂糖を舐める女あり 河童忌のしんがりの児は引き込まれ 河童忌にベートーベンを聴いてをり 河童忌を皇后陛下畏くも 河童忌の童は杓子定規かな 怒濤とし童押し寄せ河童の忌
滴りて山又山を濡らしをり 絵画館の壁の隙より滴れり 夏の水汲み元勲の墓域へと 滴りに栄枯盛衰ありにけり 滴りて富嶽をすこし潤せり 滴りに奈落といふは先のこと 滴りてゆつくり濡れてをりにけり 滴りて巌の命を疑はず 幻か滴る先に河童の子 滴りて四国三郎ありしかな
蟻ひとり穴ひとつあり佇みぬ 増上寺国葬にあり蟻ひとつ 群衆の蟻群衆の蟻に逢ふ 山蟻の威厳の黒に死してをり 黒蟻と赤蟻言葉交さざる 蟻ひとつ地下迷宮を出で来たる 蟻塚に蟻の声のみ充満す 蟻塚の掘りたての土匂ふなり 蟻地獄静謐といふ美しき あとづさりして身を隠す臆病に
岳麓へ行者道めく蟻の道 蛾の破片ゆらゆら運ぶ蟻の道 ビール飲む眉間に皺を寄せながら 麦酒飲むますます法螺を吹きながら 白魚のやうな指もて麦酒注ぐ 我が世とぞ思ふ望月の麦酒かな 麦酒のむいつか焼かれし喉仏 女ひとり化粧濃くして黒麦酒 蛇苺姉の我が儘永遠に 蛇苺庭に埋めし金魚へも
侯爵の墓の片隅蛇苺 蛇苺男鰥の庭の恋 山笠の西の便りを句に乗せて 博多つ子純情いまも山笠に 山笠の男だらけの怒濤なる 傀儡の関節錆びて夏の雨 白雨きて蛍光灯の切れかかり 関節はぎしぎし老ゆる夏の雨 飴玉が降る音のして夏の雨 連続の数珠の音して夏の雨
夏の雨身の内の獅子唸るなり 旋律はボブマーリーに似て夏の雨 戦後すぐ膣より産まれ夏の雨 白雨きてボサノバの雨合体す 白雨きてコーラの壜の女体めく おそらくは黄泉の国とて夏出水 夏出水遺品の遺書の何処へと 高貴なる神に押し寄せ夏出水 最果ての鵺の夜へも夏出水 土用波七里ヶ浜で祖父に抱かれ
土用波みたいな嬶の乳房かな 柏翠の療養所へと土用波 土用波森田愛子の身の内へ 土用波虚子と愛子の物語 髪洗ふ乳房の先を湿らせて 髪洗ふ妬み嫉妬を流すとか 女百態懇ろに髪洗ふ 髪洗ふ幼き頃の金盥 あんな女に嫉妬して髪洗ふ 犬洗ふ即ち犬の髪洗ふ
昼寝して夢の合戦破れたり 元首相撃たれし頃の大昼寝 夜よりも昼寝彼の世に近かりし 貪るは蛸か女体か昼寝覚 昼寝して夜には死んでをられたる 昼寝覚女百態消失す 昼寝覚地獄の釜を押し上げて 昼寝覚一年損をした気分 昼寝して虚子と話をして戻る 昼寝覚范文雀と別れ来て
蝙蝠の彼の世此の世と飛翔せり 蚊食鳥煙のやうなる蚊を追へり 蚊食鳥夕焼け小焼けの唄に乗り かはほりの逆さに夢を見る昼間 かはほりに迷子探してもらふ夕 蚊食鳥夜の女は出勤す かはほりは街の電波と交錯す 蚊食鳥幼稚園児はもう家へ 友人の納骨を終へ蚊食鳥 学習院初等科の上蚊食鳥
あぢさゐの萎れし夕べ蚊食鳥 かはほりと月と金星置きどころ 青林檎みたいな乳房持つ少女 青林檎囓る気もなく接吻す 青林檎真夏の夜の夢の中 昭和とはヌード写真と青林檎 麗人の口怖ろしく青林檎 漆黒の夜は青ざめて青林檎 青林檎堅しと思ふ瑪瑙より パテイーデュークショーを観ながら青林檎
青林檎がさつな漢の手に堕ちる 夏の夜の夢とはならず老いゆけり 夏の夜の罪ある墓標御影石 唇は濡れて真夏の夜の夢 夏の夜のネオンサインはジジと切れ 漆黒の真夏の夜の夢となり 入れ墨の夏の女を持て余し 金魚玉夜に入る頃の小宇宙 絢爛の金魚は恋をしてをりぬ 絶縁の夜に浮きたる金魚玉
和服着て振り袖を振る金魚かな 勲一等正二位の飼ふ金魚かな 飛魚の飛んで越え行く隠岐の島 隠れキリシタン飛魚となり戻りけり 飛魚の流刑の島を飛び越えて 炎帝に見つからぬやう昼に寝る 日輪が炎帝をまた拐かす 炎帝に翳といふものありにけり 白日夢とは炎帝が司る 炎帝が紛れ込んだり夢の中
盆栽といふ炎帝の置き土産 炎帝も銀河の裾の一部分 我が霊も炎帝となり銀河へと 観音の笑みて溽暑を遠ざけて 観音の炎暑の唇を赤しとも 陽炎へる陽子の墓や禁色に 墓の苔とて万緑の一部分 観音の胸乳あたりへ夏の蝶 五輪塔とは緑蔭のただの石 乾きたる稲毛氏の墓とて旱
一山の万緑なだれ年尾句碑 薔薇咲かせ流行り遅れの服を売る 昔から麦酒が好きな人の墓 蛍光灯切れかかりゆく夏の果 夏行くや皆んな貧しき灯して 人を待つ心にも似て夜の秋 涼しさの雨の粒とは淋しくて 街の灯の蒼く点りて夏の夜 灯して何読むでなき夜の秋 夜の秋義兄は生れ替りしや
涼しさの夜の灯の鈍色に 堕胎の子いつも走りて汗哀し 夏逝くや雨の音符の翳色に 夜の秋眼の衰への文字歪む 夜の秋炎集めて住む川原 夜の秋己れ空しく酒を飲む 涼しさの夜雨の音の蓄積す 涼しさは恨みに似たり灯を消せば 幽霊坂うすむらさきの夜の秋 幼稚園死んだ子が居る夜の秋
夜の秋やがて孤独の誕生日 蛍光灯切れかかりゆく死者の秋 老いてなほ秋めく恋の行方かな 新涼の飴の色とは濃紫 秋めきて失恋をする七回目 新涼の鏡に映す吾の死顔 頭痛して秋めく我の髑髏 新涼の驚き顔となりし天 新涼の犬に哀しき堕胎過去 八月の女ものものしく太り
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沖縄県「染織品」
2022年現在、経産省指定伝統的工芸品は全国で〝236品目〟あり、内13品目が沖縄県の染織品です。
1.久米島紬(くめじまつむぎ)
14世紀に「堂之比屋」が養蚕の技術を導入して織り始めたことが起源と伝えられ、1975年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定された後、2004年には重要無形文化財に指定されました。
2.宮古上布(みやこじょうふ)
宮古島に自生する苧麻を用いて16世紀には完成しています。
精緻なかすり模様と光沢感のある生地も特徴的ですが、何と云っても〝軽い〟が特徴で、一反は250g程度。
かすり模様を織り出す滑らかな麻織物で、この薄い生地は沖縄の気候に適した高級着物として人気が高く「東の越後、西の宮古」と伝えられる逸品。
1975年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定された後、1978年には重要無形文化財に指定されました。
3.読谷山花織 (ゆんたんざはなおり)
手で模様を構成する「手花織」のほか、花綜絖という装置を用いた「緯浮花織」「経浮花織」、紋織物の花織などがあります。 「花織」とは、「オージバナ(扇花)」、「カジマヤー(風車)」、「ジンバナ(銭花)」の3種類ある小花模様を縞の中に浮き織りにしたもので、15世紀には琉球王朝の御用布とされ、当時は地元住民以外の庶民は着用することが出来なかったと伝えられています。
1976年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定されました。
4.読谷山ミンサー(ゆんたんざみんさー)
絣模様が特徴的な木綿の紋織物。
「ミンサー」とは、アフガニスタン起源の織物で、チベットから中国に伝えられ琉球の織物技術として発展したもので「綿(ミン)で織られた幅の狭(サー)い帯」が語源で〝細帯〟を意味します。
読谷山ミンサーは、15世紀にはおられていて、立体的な幾何学上の柄を表すところから「グーシー花織」と呼ばれ、鮮やかな色彩が人気です。
1976年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定されました。
南風原花織(はえばるはなおり)
沖縄県鳥尻郡南風原町で主に生産される伝統的工芸品で、明治時代に伝承の記録が残っています。1914年(大正3)に南風原村立女子補修学校で技術習得が進み花織や浮織技術を発展させたと伝わっています。ヤシラミ花織、クワンクワン織り、タッチリー、チップガサーなど、南風原花織だけの独特な模様や名称が存在する立体的で華やかな織物です。
6.琉球絣(りゅうきゅうかすり)
〝琉球絣〟は14世紀の中国貿易で伝わり琉球時代の生活に関係する自然や動物、植物などの模様を描いた沖縄県の絣発祥とされ経済産業省指定伝統的工芸品として沖縄本島で織られる織物のことを指し、特に沖縄本島の〝南風原町周辺〟で織られる織物に限定され「南風原花織」とは区別されています。
伝統絣柄は600前後あり、1983年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定されました。
7.首里織(しゅりおり)
〝首里織〟は、王府の城下町として栄えた現在の「那覇市」「西原町」「南風原町」辺りで格調高く洗練された上流階級用として生産された織物です。
特に花織と絽織を市松に配した「花倉織」や平織に経糸だけを浮かせた「道屯織(ろーとんおり)」は王家や貴族のみ使用が許されていました。
1983年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定されました。
8.与那国織(よなぐにおり)
16世紀から生産されていた平織の民族衣装「ドゥタティ」、細帯「ガガンヌブー」、紋織物の「花織」、紋織物の「シダティ」という4種類の総称が「与那国織」です。
戦後は古い漁網で伝統を継承したそうです。
1987年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定されました。
9.喜如嘉の芭蕉布(きじょかのばしょうふ)
喜如嘉の芭蕉布は、13世紀には織られていた県内最古の織物として1974年に重要無形文化財となり、1988年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定されました。
バショウ科の糸芭蕉(いとばしょう)という多年草から繊維を取り出して織られる〝大宜味村〟の織物で、特徴は〝肌触り〟と〝風通しの良さ〟で現在まで伝統が繋げられています。
10.八重山ミンサー(やえやまみんさー)
17世紀に石垣市八重山郡竹富町で主に帯として生産される織物で、1989年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定されました。
特徴は、4つの四角と5つの四角の絣模様で手括りの木綿の絣糸を使い緯糸の打ち込みに手投げ杼や刀杼を用いて織られる技法です。 伝承では、「いつの世までも変わらぬ愛」を意味する絣模様は、男性の求婚に女性が返事の代わりに贈っていたと伝わっています。
11.八重山上布(やえやまじょうふ)
八重山上布は〝八重山ミンサー(〟と同じく17世紀に石垣市八重山郡竹富町で生産され琉球王府に納められていた記録に残っている織物で、明治時代には組合が結成され産業として盛んになりました。
八重山ミンサーが〝帯〟として織られ、八重山上布は白地に赤茶色の染料で絣模様を捺染した手織りの麻織物で、着心地の良さが人気となっています。
1989年に八重山ミンサーと共に経済産業省指定伝統的工芸品に指定されました。
12.琉球びんがた
沖縄を代表する顔料を用いた染色技法が特徴の〝琉球びんがた〟ですが、”びん”は色、”がた”は模様を意味します。
染料よりも日差しに強い顔料を使い、塗り筆で色を入れ、それをこすり筆で塗り込み浸透させていくという技法で、藍型(イェーガタ)や糊引(ヌイビチ)と呼ばれるこの技術の発祥は13世紀の琉球王府時代に王族や士族の衣装に使われ、その技術は手厚く保護されて発展したと伝わっています。
13.知花花織(ちばなはなおり)
2012年に経済産業省指定伝統的工芸品に指定された伝統的工芸品で、沖縄市で生産されます。 模様が縦に連続して浮く経浮花織(たてうきはなおり)と刺繍のように糸が浮く縫取花織(ぬいとりはなおり)の技法が特徴で、お祭りや行事などの〝晴れ舞台〟で着用する着物として18世紀頃には現在の形で織り始められたと伝わっています。
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桑の畑 作業開始、、、 スーパー遅い始まりです😂 農家といえば! ワークマンの作業着です🙆♀️ 安くて動きやすい 流石だね💪 ・ ぐんま養蚕学校の先生に 少し教わるまで 長い枝残してます。 ・ 今回は、 枯れ草取り 使わない細い枝を切り落とす 2時間くらいで2/3終わり あれ!? 案外早いな。 桑足りるかな?笑 ・ とはいえ 汗をかき心地よい時間 ・ 桑へご挨拶 桑さん、桑さん こんにちは♪ 今年はいっちゃんが 管理するからね たーくさん葉をつけてね! ここに居てくれてありがとう。 君達がいるから 私はお蚕さんを飼えるから。 生きてここに居てくれて ありがとう😊 少し弱い子には頑張って💪 と、声がけしながら 切る切る切る✂︎ 作業は2.5時間程。 ・ 今の私には 丁度いいサイズだな。 あと、1時間くらいで 今日の作業終わりそう。 ・ その後は、 土の上にある 枯葉と枯れ草を集めよう。 ・ 0.5箱用の桑だけど 桑くれしてみないと わからないよね。 1箱にはなんとなく 足りなそうだから、 少なくしてよかった。 ・ ここへ向かうとき ニヤニヤしてくる自分がいて 最後は笑顔でした😂 ・ ワクワクするよね❣️ ウキウキな気持ちを ありがとう💪 手は多少だるいけど、 楽しい🙆♀️ まだまだやれるね。 ・ 目指せ #養蚕農家👩🌾 まだまだこれから #桑畑 #桑園 #ありがとう剪定✂︎ (Annaka) https://www.instagram.com/p/CZqlFrIFqu4/?utm_medium=tumblr
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