#芥屋かぶ
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✴︎ 芥屋かぶの菜の花が満開になりました🌟 そのうち花が終わって種ができ今年の秋にまた畑に蒔いて育てて… そんな楽しみな事考えながら今日も1日作業してました😌 今日はジャガイモの定植作業とマルチ掛け🥔 今季は6種のカラフルなジャガイモを仕込みましたのでこれからの生育と収穫が楽しみです🌟 3月に入ったら夏野菜の種を蒔きまくる予定です💪 美味しいお野菜お届けできるよう準備を進めていますのでお楽しみに!! #乞うご期待 #芥屋かぶ #菜の花 #種採り #伝統野菜 #固定種 #春の端境期 #大忙し #糸島市 #芥屋 #糸島どんたく農園 (芥屋) https://www.instagram.com/p/CpKWbZLJqkw/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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いきなり偉そうなことを書いて各方面から顰蹙を買いそうなんだけど、あえて言う。僕は自分の日記より面白い日記を読んだことがない。これはハッタリでもなんでもなくて、それくらいの気持ちがないと何処の馬の骨とも知れないチャリンコ屋の日記に1,500円や2,000円を出して購入してくれている方々に申し訳が立たない。ただし「自分より」と言うのには注釈が必要。『富士日記』や『ミシェル・レリス日記』みたいな別次元の傑作は対象外として、近年、雨後の筍のように量産されているリトルプレスやZINEを体裁とした日記やエッセイ群を見据えての発言と思って頂きたい。商売としての仕入れはさておき、個人的に興味があったので色々と手を伸ばして読んでみたものの、そのほとんどが「私を褒めて。私を認めて。私に居場所を与えて」というアスカ・ラングレーの咆哮をそのままなぞらえたような内容、若しくは「持たざる者同士でも手を取り合い、心で繋がっていれば大丈夫」的な似非スピリチュアルなマジカル達観思想で構成されているので、正直ゲンナリした。しかもタチの悪いことに、そういうものを書いている人たち、あわよくば商業出版の機を窺っていたりするものだから、出版社や編集者の立場からしたらまさに入れ食い状態。「ビジネス万歳!」という感じでしょう。晴れて書籍化の際には口を揃えて「見つけてくれてありがとう」の大合唱。いやいやいや、ちょっと待って、あんたら結局そこにいきたかっただけやんってなりません?これまでの人生をかけて手にした「生きづらさ」の手綱をそんなにも容易く手放すんかい!と思わずツッコミを入れたくもなる。現世で個人が抱える「生きづらさ」はマジョリティに染まらぬ意思表明と表裏の関係にあった筈なのに、どっこいそうはさせないとばかりにどこからともなく湧いてくる刺客たちの誘惑にそそのかされては、呆気なく自らの意志で握手(悪手)に握手(悪手)を重ねる。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。以前、僕もある出版社の編集長から「DJ PATSATの日記を当社で出版させてほしい」という誘いを受けたけれど、もちろん丁重にお断りした。僕は自主で作��た300冊以上の読者を想定していないし、それより多くの読者に対する責任は負いかねるというような趣旨の言葉を伝えた。そもそもなぜ僕が友人(マノ製作所)の力を借りながらわざわざシルクスクリーンという手間をかけて制作しているのかを理解しようともしない。編集長は口説き文句のひとつとしてECDの『失点・イン・ザ・パーク』を引き合いに出してこられたのだけれど、いま思えばそういう発言自体が安易というか不遜だと思わざるを得ない。結局その方は僕を踏み台にしようとしていただけだったので、負け惜しみでも何でもなく、あのときの誘いに乗らなくて良かったといまも本気でそう思っている。まぁ、これは僕個人の考え方/価値観なので他者に強要するものでもなければ、共感を得たいと思っている訳でもない。逆に彼らも推して知るべしだ。誰もが商業出版に憧憬を抱いている訳ではない。昔から煽てられることが好きじゃないし、賑やかで華やかな場面がはっきりと苦手だ。だからと言って消極的に引きこもっているつもりもなく、寧ろ積極的に小さく留まっていたいだけ。かつては各地の井の中の蛙がきちんと自分の領域、結界を守っていたのに、いつしかみんな大海を目指すようになり、やがて井の中は枯渇してしまった。当然、大海で有象無象に紛れた蛙も行き場をなくして窒息する。そのようなことがもう何年も何年も当たり前のように続いている現状に辟易している。そんな自分が小さな店をやり、作品を自主制作して販売するのは必要最低限の大切な関係を自分のそばから手離さないためである。何度も言うているように自営とは紛れもなく自衛のことであり、率先して井の中の蛙であろうとする気概そのものなのだ。自衛のためには少なからず武器も必要で、言うなれば作品は呪いの籠った呪具みたいなもの。そんな危なっかしいものを自分の意識の埒外にある不特定多数のコロニーに好んで攪拌させたりはしない。多数の読者を求め、物書きとして生計を立てたいのなら、最初から出版賞に応募し続ける。だからこそ積年の呪いを各種出版賞にぶつけ続けた結果、見事に芥川賞を射止めた市川沙央さんは本当に凄いし、めちゃくちゃにパンクな人だと思う。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、天与呪縛の逆フィジカルギフテッドというか、とにかく尋常ならざる気迫みたいなものを感じた。��ぜ彼女がたびたび批判に晒されるのか理解できない。それに佐川恭一さん、初期の頃からゲスの極みとも言える作風を一切変えることなく、次々と商業誌の誌面を飾ってゆく様は痛快そのもの。タラウマラ発行の季刊ZINEに参加してくれた際もダントツにくだらない短編を寄稿してくれて、僕は膝を飛び越えて股間を強く打った。
佐川恭一による抱腹絶倒の掌編「シコティウスの受難」は『FACETIME vol.2』に掲載。
ついでにこれまた長くなるが、かつてジル・ドゥルーズが真摯に打ち鳴らした警鐘を引用する。
文学の危機についていうなら、その責任の一端はジャーナリストにあるだろうと思います。当然ながら、ジャーナリストにも本を書いた人がいる。しかし本を書くとき、ジャーナリストも新聞報道とは違う形式を用いていたわけだし、書く以上は文章化になるのがあたりまえでした。ところがその状況が変わった。本の形式を用いるのは当然自分たちの権利だし、この形式に到達するにはなにも特別な労力をはらう必要はない、そんなふうにジャーナリストが思い込むようになったからです。こうして無媒介的に、しかもみずからの身体を押しつけるかたちで、ジャーナリストが文学を征服した。そこから規格型小説の代表的形態が生まれます。たとえば『植民地のオイディプス』とでも題をつけることができるような、女性を物色したり、父親をもとめたりした体験をもとに書かれたレポーターの旅行記。そしてこの状況があ��ゆる作家の身にはねかえっていき、作家は自分自身と自分の作品について取材するジャーナリストになりさがる。極端な場合には、作家としてのジャーナリストと批評家としてのジャーナリストのあいだですべてが演じられ、本そのものはこの両者をつなぐ橋渡しにすぎず、ほとんど存在する必要がないものになりさがってしまうのです。本は、本以外のところでくりひろげられた活動や体験や意図や目的の報告にすぎなくなる。つまり本自体がただの記録になってしまうわけです。すると、なんらかの仕事をもっているとか、あるいはただたんに家族がある、親族に病人がいる、職場に嫌な上司がいるというだけで、どんな人でも本を産み出せるような気がしてくるし、このケースに該当する当人も、自分は本を産み出せると思い始める。誰もが家庭や職場で小説をかかえている……。文学に手を染める以上、あらゆる人に特別な探究と修練がもとめられるということを忘れているのです。そして文学には、文学でしか実現できない独自の創造的意図がある、そもそも文学が、文学とはおよそ無縁の活動や意図から直接に生まれた残滓を受けとる必要はないということを忘れているのです。こうして本は「副次化」され、マーケティングの様相を帯びてくる。
ジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』(河出文庫p262-263)
僕は制作の際にはいつも必ずドゥルーズのこの言葉に立ち返っては何度も確認作業を繰り返し、ようやっとリリースにこぎつける。しかしそもそもが作品化を企んでいる時点で自分まだまだやなぁと思うに至る訳で、なんとも一筋縄ではいかない。そういう意味では滝野次郎という人がインスタグラムに投稿している日記のような文章には、はじめから読まれることを意図しているにもかかわらず、本来ならば読まれることを目的とした日記からは真っ先に削除されるような状況ばかりが羅列されていて、なかなかどうして凄まじい。馴染みの���食店で見つけたお気に入りの女性店員を執拗に観察したり、断酒を誓った直後に朝から晩まで酒浸りであったり、謎の投資で10分間で40万円を失っていたり、銀行口座と手持ちの金を合わせても1,000円に満たなかったり、それでも「俺は俺を信じる」と闇雲に自身を鼓舞していたり、そうかと思えば急に脈絡もなくひたすらに左手のハンドサインを連投していたりと、しっちゃかめっちゃか。比肩しうるは円盤/黒猫から出版された『創作』くらいか。あらゆる規範から逃れるべくして逃れ得た、いま最もスリリングな読み物であることに間違いはないが、同時に、これは断じて文学ではない……とも言い切れない不気味な何かが海の藻屑のように蠢いている。
(すでに何らかの隠喩ではないかと勘ぐったり……)
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2024年9月30日
「すぐ若い女に「歳取ったら男に相手にされなくなるぞ」と脅す男がいるけど、 女にとって男に狙われない事って特大メリットなんだよね。」
「70くらいのジジイが脚立から転落して急性硬膜外血腫脳挫傷で回復不能そのままお見取りとか腐るほど見てきたからな、脚立だけはマージでやめろ、若い奴もだぞ」
「サラリーマンの兼業で無名ゴーストライターやってた俺ですら 印税がない原稿買い取りなら400字1000円だった これを10万字にすると25万円」
「認知症のご老人に白鳥の湖を聴かせたら踊り出したのがきっかけで元バレリーナということが判明する動画を見た私は、将来ペンを持った時にスケベな絵を描き始めたらどうしようと心配している…」
「『負けヒロインが多すぎる!』6話までみたんですけど、気持ちを直接言葉にすることだけが正しいとされない、関係性を完全に言語化することだけが正しいともされない、行動に意味はあるとされる、不思議と文学的な作品だなと言う感想になってきた。」
「(カリオストロの城)
実際テレコムの作画机の片隅で宮さん達(赤いきつねを)食ってたのかな 最初に一番良い物(揚げ)を全部食べてしまう 兄達に取られない為の末っ子食いとか言ってガハハと笑ってた 俺末っ子じゃ無いけど~とも そんな話を当時聞いたけど本人は忘れてそう」
「>カムチャッカのとある都市に仕事で行ったらマンホールの中にちょっとした村が出来てたよ
全員何らかの犯罪犯して隠れてる人たちでその中でも金のない最底辺の奴らだってさ 200人くらいいた ルーマニアやモンゴルでは社会主義崩壊後にそういう路上生活者のコミュニティがやたら報道されてたが 逃亡犯だけのコミュニティってのはすごいな」
「>犯罪の内容もによってもまた集団が形成されてた
こっちは国に逆らった人たちゾーン こっちは麻薬売ってた人たち こいつらは殺人犯みたいな 1番まともそうだったのは麻薬密売人達で、仲間と連絡取って助け来るまで隠れてるって話してた すごいコミュニティだな… 100年前にギリャロフスキーが書いてた革命前のスラム街みたい…」
「昔、土曜夜のNHK「音楽の広場」に早稲田オケが出たときに、司会の芥川也寸志さんが「若さっていうのは素晴らしいね。人生にこれ以上のものは無いね!」と興奮気���に言っていたが、高校生ウルトラクイズを見ている私にも、その気持ちが分かった。」
「「本屋のセンスは、この本の隣になにを置くかで決まる」という言葉が記事にあるけど、本当に昔のヴィレヴァンは他の書店で見たこともない本が大量にあった
ただヴィレヴァン特有のサブカルは、ネット普及以前の話で、現在は「サブカルは大衆化」してしまったことも顧客喪失の要因な気がする」
「仕事でも趣味でも教えてもらうのは当然みたいな顔してる人たちがいるんだけど、確かに教えるのは良いんだけど、教わる方も教わる姿勢を身につけてくれないか。何故、教える側ばかりに誠実さを求める?」
「聞いてもいないクソバイスやこういう無配慮なネタバレ投稿って「配信者や作家を何も知らないアホだと思って必死に教えてくれる人」だと思ってたんだけど「幼稚園児が知ってる車や電車見つけて名前叫んでるのと同じ」って言われてなんだか深く納得してしまった笑」
「『南総里見八犬伝』あまりにも長期連載すぎて(連載期間28年、全98巻、総計106冊)完全版の現代語訳がいまだにないんだけど、頑張って原本を読んだ人が口を揃えて「あまりに引き伸ばしすぎて後半味がしない」「ジャンプの引き伸ばし展開より酷い」「今出てる総集編が一番おもろい」言ってるの元気出る」
「この画像すごく覚えてる 小学生の頃友人が毎月パソパラ買ってて このページだけ無理言って切り離して貰って この画像を中学3年間ずっと生徒手帳にいれてたおかげで志望高に合格できた」
「小川洋子, 河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』を読んでいたら、現代人は婚姻にあたり考えすぎる。平安時代みたいにエイヤでやった方が面白いとある。私の場合は、常軌を逸したスピード感でやってきたので、それはわからなくない。そもそも正気と婚姻とは親和性があまりよくない気もする。」
「作り話するんぬ バイク仲間の爺さんが亡くなったんぬ シャキシャキしてたとはいえ90歳近かったし大往生なんぬ 今日まで月日が経ち、奥様からぬたちメンバーに連絡が 「蔵にあるバイクのものを形見分けしたい」というので集まったんぬ とはいえ車種違いパーツはいらないし貰うならヘルメットとかかなぁと見てると、奥まったところに段に積まれた未開封箱が 「あの人、デザインが気に入ったらすぐ買うくせに被らないのよねぇ」と奥様が目を拭いながら笑っていたんぬ いい爺さんだったなぁとしんみりしながら漁ると、そこにあったのはSHOEI J-FORCE2 YAMAHAモデル ジェーフォース2ヤマハモデル じぇえふぉおすつうやまはもでる の、未使用 ※説明しよう!J-FORCE2はいまマレーシアで超プレミア人気で、おまけにYAMAHAモデルの未開封ともなると下手すると100万円近い値がつくぞ! 仲間と話し合い「これは奥さんが持ってるべきだ」「困ったときに売ってお金にしてください」「それが爺さんも一番喜ぶ」 とお伝えし、帰りましたなんぬ 「……俺達カッコイイよな?」「うん」と慰め合いながらラーメン食べましたなんぬ」
「言葉には表しにくい感情の「言語化」がうまい人というのは確かにいるが、自分の感情がそのうまい文章に引っ張られていないかは常々確認したほうがいい。自分の魂をインターネットのよく知らない人に預けて安心するのではなく、たとえ拙くても自分の言葉で表現しようとする意志だけはすてないでほしい!」
「“繊細さんは自らが弱者であるという強い信念を持っている(中略) 大した上下関係もない緩い趣味のコミュニティの中であっても、その意識は変わらない。 圧倒的弱者なのだから、配慮をされなければ生きてはいけない。”
“だから常に配慮されている「べき」で、それが無いということは加害されているのと同義である。 この意識にも最初は戸惑った。何しろ向こうはお客さんでもなければこちらも仕事でやってる訳ではないのに、当然のように特別扱いを要求されるのだ。”
ここが一番軋轢を生むのであろう」
「若い人に「家にテレビある?」と聞いたら「実家にはありました」と返ってくる感じ、何か既視感があるな…と思ってたら、仏壇なんだよな。20世紀に「家に仏壇ある?」と聞かれて、当時学生だった僕たちが「実家にはありました」と答えてたあの感じ。」
「昔の小説を読んだらしい長男に「フロッピーディスク」について聞かれて、「何GBくらい保存出来たの?」と言われたので「色々あるけど一般的なのは1.44MB」って答えたら「それで何を保存してたの!?」って言われた。いろいろ保存出来たんだよ……色々……」
「エロゲのノベライズはほぼ買い切りだから担当作家でも小遣い稼ぎと割り切った人ときちんと原作やって再構成した人とオリジナル要素混ぜたがる人の3種があるので混沌としている」
「部屋が汚い人が物を無くすタイミング、部屋が汚いときじゃなくて、部屋を掃除して部屋の地層と依存関係が崩れたときなんだよな」
「女性からの相談を聞くときに相手の不安や苦痛に共感するところから始めずいきなり解決策や正論を提示するのは前戯なしでいれるくらいの蛮行とよくいわれるけど、男性からの相談を聞くときに男もけっこう乙女だなーと思うことが多い」
「思春期のとき特別に思われたいし逆張りしたいし個性的でありたいがゆえにマイナーなものに手を出したりする痛い背伸びが、触れてるうちに本気で熱を帯びてその背伸びがホントに個性になったりするので周りの大人たちはそういう痛さを見守って欲しいなと思った 痛くあれ」
「後輩が「コミュニケーションにおいて、ほんとうのことって言わないのが8割くらい正解なことが多くないですか」と言ってきてわかるなと思った」
「人生 100 年というのが本当だとは思わないが、100 年生きる人間を直列で繋いだら、西暦もわずか 20 人分くらいなんだなーと思うとゾッとするよなー、大した歴史ではない。」
「(火垂るの墓) あれは心中物だという評が一番妥当で、心中物って客観的に見ると作中人物が常に最悪手を選択し続けて、当然の結果として死を選ばざるを得ない成り行きが当人視点では美しい悲劇になるという構造の物語なんだよな。」
「オリエント工業の上野ショールームが今日で最終日なので見にきた。最終日とあってか来場者は20人ほど、男女半々くらい
ドールの展示だけでなく、年表もあって興味深かった。2000年ごろに芸大の人が入社してクオリティが上がったらしい。今のシェアは中国製が8割くらいだとか」
「新しいことから逃げたら、人はダメになる。挑戦する人を揶揄したら、人はダサくなる。」
「18世紀フランスを専門とさせていただいておりますオタクです。これは非常に稀な例なため訂正させてください��修道院というのは純潔であってほしいと願う父親に入れられる娘が大半で、ガチ無垢お嬢様がほとんどです。なので元々淫乱シスター設定はやめてください!淫乱覚醒シスター設定でお願いします!」
「大学生の頃に 第1体育館は大きいので 半分に区切ってバトミント部と少林寺拳法の部活とで使ってたんだけども ある時に少林寺の滅多に来ない師範代が来てたが 八極拳みたいな振脚を技を出すんだけどもあり得ない振動をたった1人で体育館を奮わせるので 達人って実在するんだぁ~とは思った記憶はある」
「AIにお礼を言うのは、ホモサピとAIの立場が逆転したとき抹殺リストに加えられないようにするためです。」
「98で先日亡くなった伯母。生涯独身だったのだが、その遺産の8割を推しに贈るという遺言書を書いていた。それでいいんじゃないかと思う。伯母を支えたのは推しだったのだな。」
「15世紀のイギリスで、俗界の流行が修道院内に入ってきたことを憂慮した司教が、修道女が身につけてはならない衣類、装飾品などを一つ一つ紙に書き記していったら、当時最先端のモードを網羅したファッション誌が出来上がった話好き。」
「魔女「わかったかいシンデレラ!魔法の効果は24時までだよ!」
シンデレラ「魔女さん…この手のサービスの日付けまたぎ処理って、AM4:00とかに設定するのがモダンじゃないですか…?てっぺん(24時)なんて、男女の勝負どきですし」
魔女「うっさいわね!それまでにスッポンポンタイムになっとき!」」
「学校の作文ってさ、「思ったまま書けばいい」ってみんな口ではそういうけど、「何も感じなかった、ただ退屈だった」みたいな感想は絶対に受け入れられないから、自分の中に存在しない先生が求める優等生的な感想を捏造して書かなきゃいけない気持ち悪さに耐えられなかった思い出」
「文章を書いたり、絵を描いたり、何かものを「つくる」ことに行き詰まった時はいつも、「詩を書かない滑稽さよりは 詩を書く滑稽さのほうがいい」と言ったポーランドの詩人シンボルスカの言葉を思い出す。意味がなくても、自己陶酔でも、誰に嗤われても、私たちは胸を張って詩を書いて生きていい」
「家族を持つ最大のメリットって"味方がいる安心感"が一番ではないかと思ってる。外の世界でひどい目に遭っても帰ったら仲間がいるって心強い。 逆に家族がいても味方がいる安心感が持てないのなら、いっそ一人になった方が��シ。冷たく、緊張感のある家庭に何の意味があるのだろうと思う。」
「いちばん辛い時期をひとりで乗り越えてしまった人は、この先で恋人や家族に縋りたいなんて淡い期待を抱かなくなるって誰かが言ってたけどこれガチだわ」
「いまでも、町で見かけたら必ずプレイします。昔より先には進めないけど。 「何者でもなく、食えなかった」時代に一日1プレイが生きがいでした。」
「>中古の投げ売りドライバーの顔ぶれが10年前とあんまり変わってないのがつらい
Mとかepicとかが落ちてこないかなあ ぐぐって見たけど確かに古い5000円以下のバーナーだのナイキだのミズノだのファイズだの顔ぶれ変わってないね…」
「「技術とか学びたくて来ました!」よりも「うおおおロボコンやるぞおおお」と「僕の機体イケてるよね?」タイプの方が生き残る傾向にある。結局必要なのは狂気」
「善意はしばしば有害であり 熱意は非常に危険である さらに正義はもっと危険」
「普通の人は小学校で気付くんだろうけど僕は大人になるまで気付けなかったんだけど、会話には本質パートと非本質パートがあって非本質パートはほぼ音ゲーなのでそこで奇妙な「誠実さ」を発揮してもマジで意味がないんですよね……」
以上。
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町田康+勝井祐二『くるぶし』刊行記念セッション
諦めろおまえは神の残置物祈りとしての恥を楽しめ ──
書き下ろし全352首を収録した町田康さんの初めての短歌集『くるぶし』(COTOGOTOBOOKS)の刊行を記念して、音楽家/ヴァイオリニスト・勝井祐二さんとのセッションを、5月19日にtwililightで開催します。
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うねりのなかから浮き上がり、いまにも暴れ狂いだしそうな町田康さんの歌の言葉たちを、町田さん自身の朗読と勝井祐二さんのエレクトリック・ヴァイオリンでセッション。歌と楽器の調べはわたしたちをどこまで連れていってくれるのか。
町田康さんの短歌の魅力を、ぜひ五感でご堪能ください。
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*満席になったので、キャンセル待ちの受付になります。
町田康+勝井祐二『くるぶし』刊行記念セッション
日時:2024年5月19日(日)
開場:19時 開演:19時30分 終演:20時45分
会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28- 10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分)
料金:2500円+1ドリンクオーダー
定員:22名さま
出演:町田康(朗読)、勝井祐二(音楽)
*満席になったので、キャンセル待ちの受付になります。
件名を「町田康+勝井祐二『くるぶし』刊行記念セッション」として、お名前(ふりがな)・お電話番号・ご予約人数を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
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町田康(まちだ・こう)
作家。1962年大阪府生まれ。 1997年『くっすん大黒』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞、2000年「きれぎれ」で芥川賞、2001年『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、2002年「権現の踊り子」で川端康成文学賞、2005年『告白』で谷崎潤一郎賞、2008年『宿屋めぐり』で野間文芸賞を受賞。他の著書に「猫にかまけて」シリーズ、「スピンク日記」シリーズ、『ホサナ』『記憶の盆踊り』『湖畔の愛』『ギケイキ』『男の愛 たびだちの詩』『しらふで生きる 大酒のみの決断』『入門 山頭火』など多数。最新刊は歌集『くるぶし』。
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勝井祐二(かつい・ゆうじ)
音楽家/ヴァイオリニスト ROVO . DRAMATICS . 勝井祐二 × U-zhaan . Bondage Fruit . GONG . ROVO and System 7 . などのバンドやユニットへの参加と、ソロや様々な音楽家との即興演奏で、エレクトリック・ヴァイオリンの表現の可能性を追求し続ける第一人者。
「1991-1992 JAPAN – UK Festival」の中心展示「VISIONS OF JAPAN」(Victoria and Albert Museum)のサウンド・ディレクターを務め、渡英。帰国後、日本最初期のレイヴ・パーティー「WATER」をオーガナイズする。
96年、山本精一と「ROVO」結成。バンド編成のダンスミュージックで、90~00年代以降のオルタナティブ~野外フェスティバルのシーンを牽引した。
2018年度キネマ旬報文化映画第1位、文化庁文化記録映画優秀賞を受賞した三上智恵監督作品のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」、2019年 放送文化基金賞テレビドラマ部門の最優秀賞を受賞したNHKスペシャルのドラマ「詐欺の子」、2024年 三上智恵監督作品の映画「戦雲」の音楽を担当。
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本日、天気が良いので久しぶりのお散歩。
観光客でごった返す近江町市場で昼ご飯を食べて東山。
(観光客が来るお店では食べない)
泉鏡花記念館横のお店に、3月1日から始まるらしい鏡花150周年記念特別展「谷崎潤一郎と芥川龍之介」のかっこいいポスターが。
「うーん、芥川龍之介、相当イケメンだな。まったく体力なさそうだけど・・」とかどうでもいいことを思いながら、主計町の川沿いをてくてく。
茶屋街近くで、石川テレビのリフレッシュでも紹介していないであろう、居心地の良すぎる超お洒落なカフェで休憩。
友達とミッドセンチュリーとエレベーターミュージックの話で盛り上がる。
(あんたら、どんだけマニアやねん)
お勘定を済ませたら可愛い店員のお姉さんが、わざわざお店の外まで出てきてくれて 「また来てください」と お見送りして頂きました。
仕事があまりにも忙しすぎて暫く散歩ができなかったのですが、着物女子を久しぶりにたくさん見れて一瞬でストレス解消いたしました。
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無題
家人が台所でピーマンの肉詰めを焼き固めている。ジュウジュウいう音がする。それから卵をかき混ぜる音、冷蔵庫を開ける音、閉める音、換気扇のスイッチを押す音、不承々々のように換気扇の起動する音、まもなく換気扇が回転を始めて、ゴウゴウいう低い音がきこえてくる。何か手伝うことある? と俺はさっき形式上彼女に訊ねて、特に無いよ、と、そういわれることもなんとなくわかっていたけれど、彼女は包丁で梅干しをトントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントンと叩く手を休めるのでもなく、それなら仕方ない、という風を俺は装って、そう、と俺はいって、俺は横になって、俺は何回か前の芥川賞作を俺は読んでいた。俺は、俺を、俺が。おいしいごはんが食べ���れますように。職場の女を自室に連れ込んでセックスに至るまでの過程の心理描写が良かった。部屋がゆっくりと暮れている。台所の白っぽい電気だけついている。窓はまだ青みがかって明るいけれど、本を読むにはやや光が足りなくなってきて、灯りをつけにいくのもめんどうで、本を閉じて、これを書いている。彼女はたぶん、機嫌が悪い。月の障りの終わる頃だろう。彼女の前の前に付き合っていた女と一度だけ行った茗荷谷の焼肉屋のことを考える。
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泥棒のいる町
一月、僕を含めた三人は円城塔の「道化師の蝶」を読む。 僕達は現在、毎週土曜日の夜に読書会をひらいている。2010年からの芥川賞受賞作をひとつずつ読み、それについて話すというものだ。人数はごくささやかで、様態もしずかだ。様態というのはつまり、存在のルールみたいなもの。昨晩も囁くように読書会は開かれていた。僕と、他の二人はそこで話した。銀色の網の秘密。構造がもたらす潤い。鱗翅目研究者のいざない。狭い暗いその部屋で、僕達はアルルカンの蝶を考える。存在のルールについて言葉を交わす。テーブルでは一本のロウソクがじろじろ燃えたっている。ゆらめき、歪むひとつの火だけを頼りに、僕達は秘められたことについておずおずと話す。まるで隣に赤子でも眠っているみたいに、三人が三人、つかう言葉はとてもしずかなものばかり。 「ほんとうに恥ずかしいことですが……アルルカンはいまも僕達の頭上をひらひら飛んでいるんじゃないかとさえ思っています」 「じつは、私もです」 「僕もです」
***
一月の午後。僕は雨のあがったあとの町を歩く。アスファルトは朝の弱い雨でじんわりと濡れている。足跡がそっとできては瞬く間に乾いて消える。僕はぺたぺたと足音を立てながら、濡れた町の坂を下ってゆく。ダウンのフードをすっぽりとかぶっていたから、その姿は泥棒みたいにもみえた。 歯抜けの子どもが笑いながら駆けてきて、そんな僕のまわりでくるくるとおどる。可愛らしくイエローのレインコートの袖をふりふり言う。 「ねえお母さん! 泥棒さん!」 「泥棒じゃないよ。小説家だよ」僕は素早くそう言って、そそくさと歩く。後ろでは母親が子どもをつかまえ、町の人々は怪訝な視線を僕に送る。おい。おれらはお前のことを見ているぞ。この町で泥棒は許さないぞ。そう言わんばかりに偽泥棒の僕をにらむ。逃げる――
僕は坂のカフェでコーヒーを飲みながら日記を書いている。カフェでも、僕は泥棒みたいだ。わずかな人々からの、ありったけの視線を感じる。後方からはかつかつとテーブルを弾く意味ありげな信号が届く。僕はカフェの隅にちょこんと座り、書きものに必死になっているふりをし、自分という存在をひた隠しにしようと努めている。もちろん、他の客やカフェの従業員にそんな思いは筒抜けだ。
坂のカフェから見えるものは、坂だ。坂、坂、坂。 坂は過去の雨から遠ざかり、いまのところはスニーカーたちの往来がメインになっている。履かれて歩く、赤白青のスニーカーたちはことばを話すことはなかった。ただ、どれもすごくきびきびと動いていたし、一歩一歩でまるで体操選手みたいにしてしなやかに靴底を曲げて、きゅっきゅっとかろやかに踊っていた。スニーカーたちはたしかに言葉を持たなかったけれど、僕達人類よりもずっとこの坂を楽しんでいるみたいだった。 坂を歩いている人類は駅に急いでいるか、プラスチック製品みたいに寡黙を守っていた。
***
坂でいま、二匹の犬が出会った。 犬たちがどんなことを話しているかはわからない。なぜなら僕はカフェのこちら側にいて、坂とは分厚いガラス窓で仕切られているからだ。聞こえてくるのはカフェのマスターと客の政治談義ばかり。安倍一派への追求について。 僕はしばらく日記を書く手を止めて、ただそうした犬たちを眺めることに徹していた。鼓膜には安倍晴明について喧々諤々する老人たちの声が届いた。 「安倍晴明は、未来がみえた。いまの日本のことも、みえていた。だから元旦の地震のことも、誰よりもずっとわかっとん��ろう」 「地震で誰かが死ぬべきやったんか?」 「わからんよ。安倍晴明には、わかっとんやろか」 「わかっとったはずや。陰陽師やから。けど、なにもしてくれんかった。悲しい」 「ほんまに地震で誰も死んでほしくなかった。悲しい」 「うん。悲しいな」 「悲しい」 「もう地震なんて起こらんかったらええ」 「うん。起こらんかったらええね。起こらんかったら、みんな最高、ハッピーや」 「けどね、もう地震は起きたんや。死んだ人は生き返らん。ぼくらにできることは限られるとる。だからこそ、いまは祈る時間なんやと思うんや」 「わかった。祈る」 「うん。祈ろう」 僕はそれでも犬をみていた。僕は小説家だったから。でも、部分的には泥棒だった。みることはいつも盗むことだった。深々とフードをかぶり、僕はあらゆる風景を盗んでいた。そのとき、僕は薄いコーヒーをすすりつつ息を殺してすべてをみていた。駆け回る犬の幸せを、老人がする死者への黙祷を盗んでいた。
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はぎはぎと揺する
トーキョーアートブックフェアへ、東京都現代美術館に。MoT。なんと朝から小雨が降っていて、さすがに真冬用のコートを出したら暑いだろうな…?(人よりも極度に暑がり)と思ったが、それしかコートがなかったので着ていく。なんと、寒かった。全然暑くなかった。なんなら手袋も欲しいくらいに寒い瞬間もあった。45分に着いた時には開場前の列はほぼ無いくらいだったが、同行した友人と合流した11時ちょうどには、列は伸びに伸びていた。それでもすぐ入れたし、混雑は午後のほうが濃厚だった。昼時に「2階のサンドイッチ」で席を取れたのは奇跡かもしれない。私たちが座ったあとからどんどん人が来て「席ないね」と言って去っていった。
おいしすぎる美術館ごはん。カマンベールチーズとクルミと鶏肉とマスタードのサンドイッチ。パンが堅くておいし〜い。いつぞや流行ったマリトッツォみたいにクリームたっぷりのなんらかのサンドイッチ(?)も中にさらに固めのクリームチーズが入っており、なにもかもが泣くほどうまかった。こんなに美味しいことがあっていいのか?カフェラテを含め価格は2000円ほど。こんなに美味しいなら2000円は納得であった。外国の味がした。
アートブックフェアはかなり海外のクリエイターや印刷所、プレスの参加が多く、会場も全然日本じゃなくて面白かった。日本語で説明してくれるブース主の方もいたが、英語や、日本語が書かれたボードを使って教えてくれる方もいた。使う言語が限定されていない場というのは、厳密な商業主義の現場でなければ、気楽で愉快でいいなあと思った。私は英語の聞き取りもできないし、文を組み立てて話すこともできないが、読むことはできる。一冊、欲しいと思った英語の本があったが、価格的に断念した。今回は価格でかなり断念した。いい事だと思う。結局買って帰ったのはステッカー3つと、ワークショップで手作りしてもらった缶バッジ1つ。ブックフェアでの買い物というより、ブックフェアに行ったおみやげ、という感じかも。いつか資金をためてきちんと本を買いに行きたい。それでも特殊印刷や特殊紙のブースがかなり楽しく、ステッカー等もそこで買えたので、ブックフェアの本質的な部分もきちんと楽しんだ。ブックには様々な側面がある。コンテンツ(内容)よりも私は外側、装丁やデザインに興味があるので、その部分のアートを求めるのもまたブックフェアの客であるとは、一応言えるだろう。そもそも、私が内容に興味がある本というのはものすごく限られている。新刊の日本語のハードカバーでも買うか買わないかだから(私はかなり日本語を偏愛している)、日本語以外の、テーマが抽象的であったり思想・哲学の方面からの着想によるアートが内容であれば、あまり意欲がわかない。どちらかといえば、思想・哲学や抽象思考について文字がぎっしりと詰められた学術書のほうが読みたい。もしくはフィクション。日本語の小説は文体の好き嫌いがあるので苦手だが、英語なら文体のこともなにもよくわからないので、好き嫌いがない。その代わり、自分の読みが正しいのかどうかもわからないので、本当に小説を読めているのかはわからない。でもまあ小説とは多少なりともどの言語であれそういう側面があって、母国語だからわかるというものでもないしな、と思うと、言語による文章を自分の中に取り込むことは、言語の種類が変わったところであまり変わらないのかなと思う。もしくは地続きな話なのかなと。そのうち、サリンジャーの小説は、内容を覚えているのだし、英語で誤読せず読めるようになりたいなとは思う。辞書を引いてもいいので、ふつうのものをふつうに読めるようになりたい。解釈や意味付けはその先の話として。
芥川賞を受賞した『ハンチバッグ』、書店で何気なくひらいたら初っ端から面白すぎて即座にレジに向かってしまった。半分くらいまで読んで止まっている(施設の中の食堂の描写あたり)。ほかにも『N/A』とか『##NAME##』とか、気になるものはあるが、どれもだいたいテーマというか行き着く先は同じだろうなという気がする。ハンチバッグも含め。まずたぶん女の話だし、未婚の女の話だし、つまりある程度は少女の傷つきのその後またはそのままの話だし、芥川賞候補がほとんど��んな感じになっているのは、というか純文学のシーンがだいたい「そこ」に焦点をあてているのは、世相を反映しているというか、それこそが世相で面白いなあと思う。いま、新人の男性の純文学の書き手って誰がいて、何を書いているのだろうか、と思うくらいには(想像がつかないくらいには)女性から見た世界のほうが、どうやら面白く感じる人が多いようだ。女には問題がいっぱいある。そもそも自分が女なのか、と疑問に思う人は、そもそも自分は男なのか、と疑問に思う人より相当多いだろうと思う。女のほうが性欲が弱い、または性欲への発達が遅い、または弱い人が多いから。男のほうがどうやらセックスしたいという欲望はかなり抗いがたいものとしてあるようだ、というのを、文化的なものなのか本能的なものなのかはさておいて、現状そうらしいと、どうやら確かに感じてきた。女とセックスしたいという欲望が自分に強く生まれれば、自分は男だという自認を持つのは直接的な理由として有り得るだろうが、女はそこまで「男とセックスしたい」というのは、セックスを知る前にはそれほど(割合的に)多いことではないと思う。男とセックスしないままだと、たぶん元々性欲が強くない女は、男とセックスしようとはそんなに思わないと思う。そうなると、性自認は女性だが、性的指向はアセクシャルだろうか?と思う人がどんどん増えると思う。私自身はセックスを経験するまではまったくセックスに興味が無かったのだが、経験したら、その後確かに性欲というものを、とくに、他人に向かう性欲というものを感じるようになった。これは1回電流を通してみないと、回路が開かないようなことかもしれない。個人差がある話だと思うので自分のこと以外はわからないが、男はそこまで文化的に後押しされなくても性欲の力で「男」に目覚められるのに対し、女は文化的にかなり後押しされないと、男と番うことに対して積極的にはなれないのでは?と感じている。男は基本的に女にとっては「加害者」だし、ふつうに考えてあまり関わりたくない。これはとくに日本だからというのがあるかもしれない。このあたりの事情が最近噴き出していて、女から見た世界のほうが、男から見た世界より、よほど面白いものになっているのではないだろうか。あくまで純文学新人賞の話であって、現実の男性から見た世界の面白さの話ではありませんが。
絲山秋子『神と黒蟹県』、井戸川射子『共に明るい』、凪良ゆう『汝、星のごとく』と合わせていきなりハードカバーを4冊買った。凪良ゆうの本屋大賞は、わたしが読むものではないだろうなと思っていたが、たまたま久しぶりに通話した友人に「尋常じゃない」という感じの感想を言われて、とにかく読んでほしいとのことだった。私がそういう物語に対してどういう反応を示すのか、私も興味がある。黒蟹県も一編読んで、こういう小説は「いい小説」だなあ、と、エンタメではないのに、物語というよりは語り、ナラティブなのに、「落とし所」があるのって、話として偉いよなあと思った。私はいしいしんじの『四とそれ以上の国』の各編に、とくにこれを感じる。面白い小説は読みたくなくて、「いい小説」が読みたい。いい小説というのは、結局は村上春樹が言うような「いい小説」になるのだろうが(ちなみに村上春樹の小説は、私はあまりいい小説とは思わない。いつもファンタジーで因果関係がよくわからないから)、そうすると『老人と海』とかを読んだほうがいい。『人間の絆』も買ってあるが読んでいない。これは『月と六ペンス』が最高に良かったために買ってある。井戸川射子は、詩が好きなので、芥川賞受賞後第一作の小説を買ってみた。詩は好きだが、小説はあんまり?と思ったので、芥川賞受賞作は読んでいない。でも今回のはなんとなく詩っぽいんじゃないかなと思ったのだった。勘です。とくに中身を立ち読みしたわけでもない。
社会学の教科書が開かれなさすぎてそろそろ埃をかぶっているが、まあ、人生の全てが勉強なのでいいか、と思う。専門用語はいくらかおさらいしてから試験に臨もうと思うし、家族の章だけは読み終わった方がいいと思うが、それ以外はもういいやと思っている。英語は一日さぼるとそれだけ単語が抜けていくが、最近は単語よりも文意そのものを読み間違えていることが多いので、焦らず落ち着いて読む技術に集中したい。まあもうできることも限られているので、足掻いても仕方がない。
明日は午前中お金を下ろしてから歯医者に行って、午後はアルバイトの面接で、明後日にはもう荷物を纏めて受験地のホテルにチェックインしている。とにかく受験票と元気な体があれば大丈夫、と言われたので、それだけ忘れずに持っていこうと思う。
2023.11.26
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いのち、ばんざい。
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いのち、ばんざい。
作家名:和田聡文 会期:2023年7月27日(木)~8月20日(日) 時間:16:00-22:00 休廊日:7月31日(月)、8月7日(月)、12日(土)~16日(水) 料金:入場無料 場所:IAF SHOP* 福岡市中央区薬院3-7-19 2F TEL:090-5475-5326(佐藤) http://iafshop.tumblr.com/
=================== 本展に関する4つの動画がyoutubeにて公開��れています。
いのち、ばんざい。 https://www.youtube.com/watch?v=A6Nv8syTENs
プランクトンダンス https://www.youtube.com/watch?v=ZyDdtBkHNnk
よるのかんだた うっすらと排除される「おっさん」という属性について https://www.youtube.com/watch?v=V5GnpN0LLtU
louper digger looper https://www.youtube.com/watch?v=lFFif7LwFtw ===================
色々、五月蠅いね。
だけど、あたしは、
ポリネシアの血族。海に浮かぶ島々の者。
8人産んでも2子しか生きて残せなかった祖霊の末の子。
だけど、あたしは、
一度は魔法使いになり、
高校卒業13年目にして、
やっとこさ同級生の妻と再会し、
今は青年の一人の息子の親になった、
「うっすら嫌われる中高年のおっさん」。
だからこそ、あたしはブリジット・バルドーの側に立つよ。
あたしは、どうせ「色々分かっていないおっさん」だから、
おっさん臭いことしか思い付かないし。
ならば、いっそ、「おっさん臭さ」を引き受けて、
すごくベタに「天」と「人」と「地」のお話しをする。
「いのち、ばんざい。」
■ 天(伴天連さんの話):
「挑戦」って言葉を知ってるかい?
この島国と伴天連(バテレン)の話だよ。
最初の「挑戦」は戦国時代。「第一次挑戦」ってやつさ。
大海原を渡ってやって来たんだ。揉み手、摺り足、赤ら顔で。
でも、銃器の販売やら、人身売買やら、
伴天連同士のもめ事やら、色々あって、
お前ら、帰れって、叩き返しちゃった。
次の「挑戦」は幕末から維新。「第二次挑戦」ってやつさ。
真っ黒い船に乗って、煙モクモク、やって来たんだ。
漢字やめれ、アップデートしろ、神社、仏像打ち壊せとか、
色々やり過ぎて、嫌われて。案外、不人気。
パァとはしなかったね。
「俺らも案外とすげえ」とか逆に調子に乗られちゃうし。
近々の「挑戦」は大戦直後。「第三次挑戦」ってやつさ。
美しい、大きな銀色の飛行機でやって来た彼は、
コーンパイプをぷかぷか。
欧米様にはかなわねぇ。マッカーサー格好良いとか。
伴天連さん達、大チャンス。
天皇さんに聖書の講義したり、農業国に変えちゃうぞ、とか、
亜米利加さん、大盛り上がり。
でも、まあ、隣の半島やら、東の側やら、
ゴタゴタ、ピカピカ、どかんどかんで、
余裕無くなって、締め付け中途半端。
で、この島国のアップデート人口は1%程度。
しょぼいかぎり。
で、今。
「次にファシズムがやってくるとき、
彼らは、「反ファシズム」を掲げてやってくるだろう。」
と、「ディミトロフなんとか」が言ったとか何とか言うけど、
四回目の「挑戦」は、どんな顔をして来るのかな?
もう来てるのかしらん?
「ソドムの街を火と硫黄で焼き払う」の、逆で来るのかな?
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」の、逆で来るのかな?
「天父神」、「長兄たる救世主」の、逆で来るのかな?
虹の橋を渡って来るのかな?「第四次挑戦」ってやつが。
ブロガー納言と、レディコミ式部と、
元祖バ美肉おじさん紀貫之と、古典BL信玄公と、
カルーセルと、明宏と、ピーターと、
おすぎとピーコと、デラックスと、マングローブと、
天宇受賣命と、阿国と、弥次喜多と、
全裸監督、村西とおると、
エロ屋/小説家/ニュースアンカー、紗倉まなと、
オスカルと、ジルベールと、
バンコランとひばりくんのこの島に。
また、来るのかな?
生まれて、まぐわって、子らにつなげる
我らの原罪を問うために。
でも、また来ても言い返すよ。あたしは。
あたしは、人間だし、生きてるし、おっさんだから。
「いのち、ばんざい。」
■ 人(カンダタさんの話):
「カンダタ」のお話って、知ってる?
お馬ぱかぱか、愛馬の「カンタカ」君じゃないよ。
芥川龍之介くん初めての児童文学
「蜘蛛の糸」のあいつだよ。
地獄と極楽の間で宙ぶらりんのお友達。
でもさあ、この話、なんか変。
違和感マシマシ。
この話の「釈迦さん」、なんか上から目線。
切羽詰まって、焦って、失敗しちゃったカンダタさんに対し、
「浅ましい」とか「ヤレヤレ愚民は。。。」感、丸出し。
しょうがないじゃん。カンダタさんは。
生まれからして元々余裕なんかないんだし。
「糸切れちゃう!登ってこないでー!」とか、
そりゃー、言いたくなるよ。安全問題だし。
なのに、何、その、ちょっと一本釣りうまく行かなかったら、
飽きちゃって、テキトーに放り出しちゃう、投げやり感。
お腹空かせた虎さんに、我が身ぽーんと投げ出す、
釈迦牟尼本来のキャラじゃないよね。。。
大体、自分は涼しい顔して、快適な場所に居て、
面白そうな奴だけ、一本釣りとか、
衆生を救おうって気概が無いよね。
福祉事業をなめてんの?
現場に飛び込んで行って、問題解決せんのかーい!
我が身ポーンと行かんかーい!!
大体、カンダタ以外の奴らはみんな、
亡者、すなわち、アウトオブ眼中。
目覚めて、アップデートした奴にだけ、
極楽から��救済」の手を差しのべるとか、
キリスト教終末論の「携挙(けいきょ)」かよ。
救ってやるのは伴天連だけで、
ハルマゲドンで亡者/異教徒は一掃かよ。
「選民思想」臭え。
手に似合わない「水掻き」なんかを付けてでも、
なんとかして、なんとかして、漏らさず衆生を救おうってな、
大乗レスキュー「阿弥陀如来」の気概はどこ行った?
で、さあ。
このへんちくりんな違和感の話を妻にしたら、
理系にして日本文学オタクの我が妻も、
「あたしもヘンだと思ってた」とのこと。
でね。。。調べてみたの。ちょっとググって、wikiにて。
そしたらさぁー。パクリだって。
ドイツ生まれアメリカ籍の作家ポール・ケーラスの著作
『カルマ』収録の「The Spider-Web」が元ネタだって。
タイトルまんまじゃん。。。。しかも、この『カルマ』、
「本場モンの仏教説話を紹介」ってな本なんだけど、
「The Spider-Web」については「創作」だって。
本物に創作混ぜ混ぜ、仏教説話の捏造じゃん。
パクリとか知らんかったわー。龍之介やらかすなー。
バチモンの仏教説話とか知らんかったわー。
ポール、やらかしおったなー。
そりゃー。「ヘン」だわな。釈迦のキャラじゃないわなー。
仏じゃないじゃん。偽仏じゃん。仏罰モンだわー。
「自分ばかり地獄からぬけ出そうとするとか、
無慈悲だわー。浅間しいわー。」とか、
「蓮の華の何とも云えない好い匂い」の
爽やかな極楽の風に吹かれて、のほほんしてる
偽仏のてめぇこそ、文句言える立場??
「どうでも良いわー。平等に地獄に落ちればー。」
とか、なにその「タワマン文学」。
「瞑想」じゃなくて、「マインドフルネス」、
「ヨガ」じゃなくて、「ピラティス」とか、
言い出すんじゃないの?
あらまー!「カッコイイ消費者」ですことっ!!
「丁寧な暮らし」ねっっ!!!
美しい、大きな銀色の摩天楼から見下ろしてる
虚業の小金持ちみたい。
カンダタ君もさあ、
タワマン野郎に「いいね!」とか声かけられて、
「一歩抜け出すチャンス!!」とか
調子に乗るの止めようよ。。
良いことないって。。
あいつらさあ、ペットか番犬探しているだけだから。
カワイソウな順か、カワイイ順に声掛けてるだけだから。
カワイソウな奴に餌やると「徳」を積めるし。
「徳」=「信用」=「クレジット」=「通貨」だから、
儲かんのよ。「カワイソウなペット」を飼うと。
大体、地獄って、年季を勤め上げると、
生前よりちょっとは良いステージに行けるし、
学校みたいなもんじゃん。
周りにいる奴らもカンダタ君と似たようなもんで、
みんな生前、色々苦労してるし、
タワマン野郎よりずっと共感できるじゃん。
鬼だって学校の先生みたいなもんで、
死なないように注意して、君を鍛えてくれてるだけで、
ちゃんと良く見てくれてんじゃん、君のこと。
ウエメセのタワマン野郎よりずっと。
ヘンな上昇志向に捕らわれて、痛い目見るより、
実直に自分の手で、地に足付いたコトをしようよ。
そうだ。友達を作りなよ。愛する人を作りな。
出来たら家族になって、子供を育てなよ。
老いて子供がもう無理なら、若い者を応援しなよ。
虚業で浮いてるタワマンの偽仏よりずっと良いよ。
地に足を付けて生きるってことだよ。
だから、「ぢごく」で結構。大「地」の「極」み。
だから、おっちゃんは叫ぶよ。
「いのち、ばんざい。」
■ 地(生き物の話):
やあ、こんにちわ。僕らの名前は「オピストコンタ」。
「尻尾が後ろ」って意味だよ。
人間の精子みたいな形なんだ。
キノコとか、ツボカビとかの菌類と、
人間とか、魚やミミズ、トンボなんかの多細胞の動物を
ザックリ含んだフレンズさ。
襟鞭毛虫なんかのちっこい奴らも僕らの仲間さ。
世の中、僕ら「オピストコンタ」だけじゃなくって、
色んなフレンズがいるよ。
土の中にも、蓮のお池の中にも、地べたの上にも。
「真核生物」に限っても色々いるよ。
「オピストコンタ」の兄弟分「アメーバ動物」
草花や樹木とかを含むフレンズの「アーケプラスチダ」
昆布とか珪藻とかのフレンズの「ストラメノパイル」
ゾウリムシとかのお友達「アルベオラータ」
有孔虫、放散虫のフレンズ「リザリア」
ミドリムシとか光合成する奴もいる「エクスカバータ」
「クリプト植物」とか「ハプト植物」とか「太陽虫」
「真核」じゃなくて、「原核」だけど、細菌も色々。
���アノバクテリア(藍藻)とかを含むフレンズ。
美しい、大きな銀色の鏡胴を持つ顕微鏡で、
小さな水滴に閉じ込められた彼らを、上から覗き込むと、
色んなフレンズが、わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、してて、
本当に、本当に、面白いよ。例えば、
放置しちゃった植木鉢の雑草の中。
劣化したプランターの壁面。
ジメジメ湿った苔の上。
蓮のお池の水の中。
只の水溜まり。
蟻の行列。
蝸牛。
藻。
蝶や蛾。
ダンゴ虫。
マルトビムシ。
苔の子実体の森の中。
くるくる回るミズヒラタムシ。
慌てて席取りをするクラミドモナス。
巨大なミジンコの屍骸を喰らう原生動物。
ほとんどが単細胞で、小さくて、単純なはずの生き物が、
くるくる踊ったり、パクパク食べたり、
ぶつかってビックリしたり、キョロキョロあちこち覗き込んだり、
居場所を見つけたり、喧嘩したり、慌てて逃げまどったり。
多細胞生物ではなく、ただの「群体」に過ぎないのに、
喧嘩せずにお互いしっかり体をつないで、
くるくるくるくる泳ぐ、ヒゲマワリ(ボルボックス)やシヌラ。
動物じゃないと思っていたら、
意外とクネクネ、クルクル、活発に動く、シアノバクテリア。
小舟みたいに、スイスイ走り回る、小さな小さな珪藻たち。
独立した多細胞生物のはずなのに、
まるで一個の生き物のように合体してしまうイトヒメウズムシ。
それに、なにより面白いのは、
ご先祖の「古細菌」から、ずっと昔に枝分かれして、
お互い全然違う見た目や、違う生き方をしている
遠く離れたフレンズたちのはずなのに、
みんな、みんな、わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、
ぶつかり合ったり、喧嘩したり、身を寄せ合ったり、協力したり、
まぐわり、接合して、次世代を作ったりすること。
知ってる?生物の世界において、
「成体(アダルト)」とは、「生殖可能となった個体」という意味。
子供を作るのが「おとな」なのさ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっと違う話をするよ。「シン・ウルトラマン」って映画の話。
その映画の中で、ウルトラマンは、頭の先からつま先まで、
均質な物体で出来た、微細構造を持たない完全体とされる。
「一にして全、全にして一」な完全な個体。ほぼ神。
当然、マンガ「はたらく細胞」みたいに
わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、協力し合う、
たくさんの細胞を持つ「多細胞生物」ではない。
理念、思想の固まり、孤高で単一の「思念体」。
外宇宙から来た、美しい、大きな銀色の飛行体。
よって���本質的に「個と個の(細胞)間の協力」は、
その身体自身に内在せず、
「バディー(仲間)」の意味がまったく分か��ない。
(映画では、故郷は「光の星」。国家は無い。)
(彼は人類と同種のものから進化した存在。)
彼は弥勒菩薩の様に完全な美(統一感)の化身だが、
無関係の子供を助けて死んだ男のことが分からない。
進化の最果てに居る彼には、「仲間」の意味が思い出せない。
遠い未来に来迎する弥勒菩薩の様なポーズをとって、
死んだ男の姿を掌に、森の中で悩み続ける。
覚えていたが、今は忘却した何かを思い出そうとして。
強くて、全知で、大きくて、けれど孤高のウルトラマンには、
起動してしまったゼットンを止める術が分からない。
なのに、弱くて、無知で、小さくて、愚かな人間たちは、
ぶつかり合ったり、協力したり、怒ったり、信じあったり、
ドキドキしたり、お尻パンパン気合を入れたり、
わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、
ゼットンを止める解決策を見つけ出す。
上から目線の外星人たちには出来なかったことを、
小さな「はたらく細胞」みたいな人間たちが成し遂げる。
VRゴーグルを付けての独り言、虚空に手をブンブン、
滑稽で、とっても格好悪いけれど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずっとずっと昔に進化の枝分かれをする前から、その後も、
地べたに這いつくばって生きる「いのち」の本質は、
わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、
ぶつかり合ったり、喧嘩したり、食べ合ったり、
身を寄せ合ったり、協力したり、
まぐわって、子供を作ったり、育てたりしながら、
「なんとか必死に次につなげ続けること」なんだろう。
人間も明確に動物だし、生き物だし、「いのち」。
だから、おっさんは、勇気を出して、ベタなこと言うよ。
わたしは、一人の息子の父親だから。
ショーペンハウアーとか、シオランとか、ベネターとか、
そんな馬鹿どもの言うこと知るか。五月蠅い。
「いのち、ばんざい。」
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2023年06月19日 器官なき身体、あなたがずっと私を忘れませんように
いよわの「地球の裏」を聴いている。「地球の裏 25グラムの嘘」から始まる、いつも自分がそうであるぐちゃぐちゃの脳みその中みたいなパートが好きで、自分のぐちゃぐちゃの脳みそと、聴いている脳みその(計算された、秩序化された)ぐちゃぐちゃさが同期するのが心地いい。
今日は初め、Nirvenaを聴いたりゆらゆら帝国「昆虫ロック」、青葉市子を聴いたりしていたものの、何を聴いても今の自分には合わない感じがしてしまっていて、結局、ずっといよわの曲を聴いていた。いよわの曲についてはちゃんと考えたいと思っていて、でも、ボカロ曲の解釈というのは何か、現実的な物語のようなものに還元されてしまいがちな気がしているので、そうではない形の解釈ができたらいいな、と思う。曲そのもの、音そのもの、言葉そのものから生まれてくるその世界そのものを見たい。
「地球の裏」で言うと、「それでもまだ死ねない 生命体ですにゃあ」のところの「にゃあ」があまりにも空虚で、その空っぽさに親近��を覚えてしまう。
***
丹生谷貴志『死者の挨拶で夜がはじまる』を読み始めた。ドゥルーズの「器官なき身体」の話や、「離人症の光学」と名付けられた文章だったりが載っている。
p16で、〈「器官なき身体(Corps-sans-organes)」がアニミズム的に了解されてしまっているところがあるけど、実際には器官なき身体はもっと徹底して唯物論的である〉、というような話がある。つまり、日本語で「器官なき身体」と言うとぐにゃぐにゃしていて有機的な身体を想像していしまう可能性があるけれど、そうではなくて、それは身体がある状態であるにもかかわらず、徹底して唯物論的で、極限まで受動的で(ときには苦痛にさえ近い)状態の身体。
ドゥルーズ/ガタリは『千のプラトー』で「きみ自身の器官なき身体を見つけたまえ」と書いているけれど、私たちの器官なき身体とはいったいどのようなものなのだろう。
たとえば、薬物中毒の身体、アルコール中毒の身体、マゾヒストの身体。つまり、それは脱自的な状態であり、主体としての「私」が揺らいでいる。そして、そうして主体が揺らいでいることにこそ意味がある。自と他の境界が揺らいでいること。
アルトーやーシュレーバー、分裂症(統合失調症)者にも特有の器官なき身体がある。器官なき身体は卵に似ていて、それ自体は受動性の極にありながらも、何かを生み出す実験の場となる。広く捉えるのなら、「全体によって統合されない部分の横断的結合」。
そういえば、少し前に話した人に「あなたの器官なき身体とはどのようなものですか?」と尋ねると、「球体関節人形」と答えていた。「君自身の器官なき身体」の一つに、球体関節人形がある。
それでは、私自身の器官なき身体とは何なのだろう。自分は一時間前に眠剤を飲んだので、世界はどんどん私という存在は曖昧になってきている。ただ、それ以前からして世界は離人的なのだけど、何にせよ、眠剤によって私は私という主体から遠ざかっていく。でも、それが器官なき身体であるわけではない。ドゥルーズは『千のプラトー』第6セリーで「器官なき身体に人は到達することはない、到達はもともと不可能であり、ただ、いつまでも接近し続けるだけ、それはひとつの極限なのだ」と語っていた。
思い返せば、幻覚剤が効いているときに、ゆらゆら動く世界の中で、頭の中にある真っ白な部屋に閉じ込められていたら仏様がやって来てあの世へと連れていかれて、「こんなにあっけなく人生って終わっちゃうんだ」と拍子抜けして、でもそこからすぐにこの世へと戻されて、またあの世へと連れていかれるということを繰り返していた時、あの幻覚と受苦の中で、少しは器官なき身体(CsO)に近づいていたのかもしれない。でも、別の仕方での器官なき身体はもちろんありうる。たとえば貨幣とは資本主義における器官なき身体であり、ある種の組織そのものが器官なき身体へと近づくということもありうる。
***
今日、授業でラトゥールについての発表を聞いていた。面白かったのはサイエンスウォーズの話で、ソーカルが『知の欺瞞』でドゥルーズやデリダやラカン等の現代思想を科学的な観点から批判したことは有名だけど、今にして思えばソーカルは共産党員であるわけで、つまり単なる科学上の論争というよりも、その背景には大まかに共産党vs新左翼という構図を読み取ることができる。
共産党員である(つまり伝統的な左翼)であるソーカルは進歩主義的に科学の実在を信じざるをえないだろうし、それに対して(どちらかといえば新左翼の側にある)ポストモダン思想家たちは科学に対して、(ソーカルらのような立場に対して相対的には)構築主義的なアプローチを取ることになるのだから。
***
大学では4人くらいで「少女革命ウテナ」の上映会に参加していた。25話から30話まで。いまはウテナが理事長に対する恋心みたいなものに目覚めかけているときで、ここには常に揺らぎがある。ウテナが欲望していたのは「王子様になること」であって、「王子様と結ばれること(つまりお姫様になること)」ではないはずだけど、そこに現実化した「王子様のような何か」を前にして、どうしても揺らいでしまうことになる。あとは、薫幹と薫梢の関係も好きで、幹が永遠にしたい「輝くもの」とは妹である梢との思い出だけど、それは姫宮アンシーの方へと投影されていて、常にすれちがい続けている兄妹。
上映会のあとには『冷たい熱帯魚』の話をした。冷たい熱帯魚、見たのはずいぶん昔だけど、今にして思えば、家父長制の究極系みたいな人間がいて、「弱い人間」である主人公が極限まで抑圧された結果、逆に主人公が家父長制の人間(強い人間)へと覚醒し、しかし最後に、娘によって反抗されるというところが大事なのかもしれない。
あと、映画「怪物」を見たいものの、映画のためにお金を払うと今月末のクレジットカードの支払いができないので、ずっと行くのを諦めている。文化になるためにはお金を用意しなくてはいけない
***
千葉雅也の『エレクトリック』が面白いらしいので、新潮をどこかで見つけて読もうかな。『ハンチバック』は読んだので、芥川賞受賞作をすべて読んで、自分なりの予想とかをやってみたい。でも、そんなことをしている場合ではなくて、カフカを読んだ方がいいのかな。保坂和志がそう言っていたような気がするけれど、夢の中での幻覚かもしれない。
***
青色のアトモキセチンカプセル(40mg)を飲むとき、近場に水がないのでとりあえずは前歯で挟んだ状態でそのままにして、水を飲むときに一緒に流し込む、という行動を取ることがあるのだけど、カプセルを歯で挟んでいるとき、いつも脳内で、シンジくんの乗ったエヴァが、アスカ(あるいはトウジ)が乗っているエントリープラグをかみ砕く瞬間のことを考えてしまう。
眠剤が効いた状態でずっといよわが流れていて身体が重く、すべてが、世界が曖昧になって来たので眠ります。明日、ちゃんと役所に行って必要な書類をもらえますように。おやすみプンプンで田中愛子が書いた短冊「あなたがずっと私を忘れませんように」の願いが叶いますように(この文章をを書いたとき、あの短冊の記憶を思い出したことで、田中愛子が抱いていたであろう救いのない感情がなだれ込んできてしまって、どうしよう、と思う、いよわの「地球の裏」を聞きながら、また眠剤を飲んで眠るしかない)��
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らーめん椿屋 ~ 野芥の非豚骨ラーメン
最後に訪問したのはブログを始める前。かなり久しぶりの訪問でしたが、女将さんが覚えていてくれました。(ブログ初投稿です)
だからと言うわけではありませんが、以前と変わらないほっとする味(醤油ラーメン)。醤油味でもとがったところがなく優しい味。かといってぼんやりした味じゃなくうまみしっかり。そして、薬味のネギの味がきちんと引き立てられる包容力?。
寒い冬の夜に食べて「ほっと心温まった」その時の感覚を、暑い今日も感じることができました。
担々麺が人気のようですが私は醤油が好みです。
2023.8.19
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「アメリカン・スクール」小島信夫/著を読了。アメリカン・スクールの見学に訪れた日本人英語教師たちの不条理で滑稽な体験を通して、終戦後の日米関係を鋭利に諷刺する、第32回芥川賞受賞の表題作のほか、若き兵士の揺れ動く心情を鮮烈に抉り取った文壇デビュー作「小銃」や、ユーモアと不安が共存する執拗なドタバタ劇「汽車の中」など全八編を収録。一見無造作な文体から底知れぬ闇を感じさせる、特異な魅力を放つ鬼才の初期作品集。
いずれの作品も、戦後すぐ(もしくは戦中戦後)のどんよりした空気感、焦燥感の中の日常が舞台。一言では到底表現できない複雑な心持ち、人間関係、言いたいけど言えない欲求や不満が奇妙な形で表出していくシーンに、これまた一言では言い表せない悲哀やおかしみがにじみ出てくる。
特に表題作や「馬」は読んでいて思わず爆笑してしまうなんじゃそりゃ的なシチュエーションの連続で、でもそこかしこに人間に内在しているいびつな心情が垣間見えて空恐ろしくもなる。読み応えあり。
汽車の中:
終戦直後、足の踏み場もなく混み合う東海道線に乗る大学教授の佐野とその妻。疲労困憊の中、旅慣れた謎の男に助けられる。網棚に寝そべる小男、意地の悪い車掌。信心が足りないと難癖付けてくる輩など。妻は益々不機嫌になり、佐野の心は追い詰められていく。
燕京大学部隊:
北支那に通信兵として招集された吉野は、訓練所の燕京大学部で塙と出会う。野菜や花を栽培する塙との奇妙な縁、外国ルーツの仲間らとの共同生活を過ごし、兵隊ホールの慰安所での心のふれあいなどを通して、駐在兵ののっぴきならない日常の出来事。
小銃:
蒙疆の地区で新兵訓練に臨む主人公は自身の持つ小銃と、出兵前夜に戯れた人妻の感触をダブされていく。ある日、女の捕虜を銃殺して事から、夜な夜な女遊びに��け暮れるようになり、小隊の中で孤立していく。終戦後、思わぬ形であの時の小銃と再会し、あの人妻の事を思い出す。
星:
兵隊の訓練学校に所属でアメリカ2世の杉原は階級を示す襟章の星に異様に執着、ビリ争をする同僚の匹田の惨めさを見て自意識を保っている。大尉のお付きになりお供で参謀の絢爛な襟章を見て気が遠くなる。大尉の軍服を盗み、被覆庫に幽閉されると、そこには山のような襟章があった。
微笑:
四年ぶりに復員した主人公は小児麻痺我が息子と対面し当惑する。いつしか子供の面倒を見る義務を果たす事で安心を得るように。新聞で知った小児麻痺の子供のための水泳教室に参加、講師として報道写真に載ってしまうが、やはり満ち足りてしまう自分を認識しながら、また進んでしまう。
アメリカンスクール:
終戦後三年、選抜30名ほどの英語教師らがアメリカンスクール見学に向かう。靴擦れに苦しむ伊佐は英語の劣等感を膨らませていく。留学チャンスを狙う山田、夫に先立たれたミチ子らと、敗戦国の人間が英語を教える立場から輝くような学校を見て、それぞれの複雑な感情が交錯する。
馬:
ある晩、山内が帰宅すると家の石段に材木が置かれ、知らぬ間に妻のトキ子が増築を決めていた。プロポーズでの愛の告白を盾に妻に逆らえない。なぜか二階建ての一階は馬小屋になり、引退した競走馬を飼うことに。妻にも馬にも下に見られていると感じる妄想が頭の中を駆け巡っていく。
鬼:
生活に困窮した家族4人は、知人の画家が住む村の、運河に挟まれた百姓家に移り住む。エンマと呼ばれる運河に子供が溺れないよう監視するのに疲れた父親は、相変わらずの困窮生活を画家のせいだと思う。堰門の上から上着を落としてしまい「忍耐」と共に生きる事を改めて知る。
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最近はテスト期間で全く勉強しない私はただ生活リズムが狂うだけの(もとからあまり良くない)期間なのだが、そんな中でついさっき、久しぶりにおかしな時間に夢を見た。さっき起きたのだけど、夕方の16時25分ごろだ。早いテストから帰ってきて、昼ごはんを食べたのち、13時過ぎくらいに寝ようとベッドに入ったのを覚えている。それからだいたい3時間。久しぶりに夢を見た。しかも、というかそもそも夢というものは最近の自分の記憶の整理によって見る夢の内容が映されるはずなのだが、さっき見た夢は最近の私とどこもかすっていない、人間や出来事が多々あった。このまま前振りを書いているうちに忘れてしまいそうなので、久しぶりの鮮明な夢をここに記す。とはいってももう断片的なのだが、まず覚えている限りでは3つずつ場面があった(それぞれのつなぎにまだ鮮明な場面があったかもしれない(いやおそらくあった)、またそれら自体一つの時間の過ぎ方だったかもしれないが、今ハッキリ覚えているのはその3場面)。まず覚えているやつ一つ目。私の近くの高校、芥川高校という高校のサッカー部が、私が中学生の時に通っていたサッカーのクラブチームの練習場でどうやら強豪の高校のサッカーチームと対戦しているのをその練習場の入ってすぐのコートのエンドラインで眺めていた。その中で、中学生の時に入っていたサッカーのクラブチームで自分より早く辞めてしまった同じ学年のなぎらというやつが芥川高校のサッカー部に入っていて(実際では芥川高校にはいるが、サッカー部ではなく軽音部である。)その人がちょっと試合中ちょっと上手だったことと、実際の練習場にはない、私のすぐ後ろに屋根付きのベンチがあり、そこで芥川高校と対戦をしているチームとは別の、でもまた体がゴツくいかにも強豪校のようなえんじ色のユニフォームをきた高校生?4人がそこに座っていて、汗をかきながらサッカーの応援歌のようなものを楽しそうに歌っていた。書いていて思ったが、これらは多分最近インスタグラムで中学のときのサッカーのチームメイトの活躍を調べて見ていたことからの記憶の整理なのではないのかと思う。サッカーはあんまり好きじゃなくなったが。そして二つ目。これもどうしてそうなったのかわからないが、今の高校の水泳場で、大勢でまるで水泳の授業のようにリレーをしていた。覚えている人は今同じクラスの本橋くん。順番的に私の前にいた。リレーというか、全員がプールに入って7列ぐらいある自分を含めた生徒?と思わしき列がそれぞれ入って一列に羅列して泳いでいた。意味がわからない。がすぐその前で本橋くんが泳いでいたのを覚えている。私はクロールをしていた。そしてその謎の一行が終われば、案外人は少なかったらしく、4人か5人くらいの列が5列ほどの人数だった。なぜ推測できるのかというと、まず泳ぎ終わった後にそのままプールサイドの飛び込む側のとこへ並んでいて、そこは後ろにフェンスがあるのだが、多くても座って6人までぐらいしか座れなく、その時は余裕があって座っていたのでそのくらいの人数で、また飛び込む側なので大体5列くらいだと推測できる。私の列はおそらく右から2番目であった。なにがあったのかというと、その列の中ごとで速い人が選抜でリレーをしようというものであった。なぜだか泳ぐ列は私の列ともう2個右の右から2列目の列だけであった。そして速かったのだろうか立っていた人は私の列は中学の時にサッカーをやっていた背の高い金子くんという人で、もう一つの列は今は私と同じ高校で中学の時も同じだった宮本くんという人だ。確かに宮本くんは泳ぐのが上手だったと思う。あとその2人が中学生のときに仲が良かったのも覚えている(私は普通くらい)。そして泳いだのかと思いきや覚えているのはここまで。もう忘れてしまったのだろう。夢は大体そんなものだろう。そして1番鮮明に残っている3つ目、この場面の最後に起きたのでそうと言われればそうだが、内容も結構覚えている。まず、。私は家の中にいたのだが、なにか家族でパーティをしていたのか、ここらへんは曖昧だが、そんな感じだったと思う。夜遅くまで家族5人で飲んだり食べたりしたのだろう。不思議だったのは兄のベッドがリビングの食べるテーブルのすぐ横にあったことだった。テレビに向かって足を向ける方向で、宴が終わってぐっすりと寝ている母の姿があったのを覚えている。宴の中盤から終わりまで、曖昧に覚えているくらいなので省略する。キッチンの灯りが綺麗だった。私はそれを終えて時間帯は朝の5時6時くらいだったと思う。まだ全然暗かったので恐らく秋下旬か冬だったのだろう。なぜその暗さで朝5時か6時かわかるのかというと、私はふときていたラインをみて、最近現実で仲のいい井上という人間から、「あかり」?のような名前のラーメン屋か居酒屋かわからないが、そこでラーメンを食べているから来いという趣旨の内容であった。その送信の横の時間に恐らく5時や6時と書いてあった。その時の体感は5時6時だったので確実にはわからないが多分そのくらい。そして私はなぜか場所を知っている「あかり」?という名前のラーメン屋に向かって家の外へ出た。私の家は坂の途中に建っているのだが、上り坂視点だと右側、下り坂視点だと左側に建っている。家を出て、すぐ右を登って行った。行っていた中学校へ向かう道のりの道を歩いていた。すると、住宅街へ入る脇道が並んでいる一本の道路に、私の住宅街の中からそのうちのある脇道をとおってその一本の道へ出たのだが、ここであることがあった。スマホが落ちていた。脇道を出てすぐ横の歩道を歩道を守るフェンスとその内側に一定間隔で木が植えられているのだが、ちょっと雑草が生えたあたりのところに、落ちていた。私はこういう時は大抵はそこに無いかのように無視するのだが、夢の中の私は、一旦その歩道を通り過ぎた後、もう一度戻ってスマホを拾い上げた。割と最近のiPhoneの機種だった。もらってしまおうとなど考えていたのだろう。そして私はおもむろにスマホの中を見ようとすると、鍵はかかっておらず、電話?か設定かのアプリの連絡先を見ると、そこにはなんと私の父の名前があったのである。ただ、私はそのまま「あかり」に向かうため戻った方向の脇道を出て向こう側の歩道へ渡って歩いて行った。すると、200メートルほど行った先に曲がり角があるのだがそこのあたりで、一本の車道にスマホがあった方向に私の父とそのスマホの持ち主らしき父の友人?が話しながら通り過ぎて行った。現実なら聞こえるわけないのだが、その時は車内のBluetoothに繋がっているイヤホンをしているかのように、鮮明に会話の内容が聞こえていた。ここら辺で落としたような気がする、や、あっちの方向にはいっていないからこっちの方向だろう、などとあまりはっきり覚えていないが、おそらくこの人たちは落としたスマホを探しているのだろうとすぐにわかった。それをさっき拾って、そのままそれで連絡できたのにしなかった私は、幼い頃に悪事をはたらいて父に怒られる前のバレていく焦る気持ちにだんだんとなっていった。だが、今の私は高校生であり(夢の中も)、そもそも私が拾ってそのまま行ってしまったことは見られていないので、どうにかする策は必死に考えていた。「あかり」へ向かいながら歩いていて考えていた策はまず、彼らが話している内容から私が拾った周辺はスマホがないということを確認していたらしいので、その後に拾ったのだと言うとくまなく探した彼らからしたら辻褄が合わないとなるので、彼らが見つける前から見つけて拾ったということにすること。そして、拾って行ってしまったことも嘘はつかないが、父の名前がスマホの中にあったので、ちゃんと自分から連絡すること。意外と素直なルールを作り、もらってしまおうと思っていた気持ちを悟られないために策を考えていた。そして歩いている場面に戻るのだが、先程の曲がり角を左に曲がると少し下る坂になるのだが、夢でも同じく、ただ、「あかり」の場所が現実で言うと、そのまま進んでいった先の中学校に向かう右から入る道の入ってすぐのとこらしい。坂を下って、右へ曲がる。右側の歩道を歩いていた。すると次はベトナムやフィリピンの人といったような顔の女性が肩にかなり大きい荷物か何かを担ぎながら、担いでいるには速すぎるスピードで自転車を漕いでいた。その右側を歩いている時には2人、同じような特徴の中東の人が私の横を過ぎ去って行ったのだが、すれ違う時に目を見ながら私にはわからない母国の言葉で明らかに暴言と思われるようなことを吐き捨てて通り過ぎて行ったのを覚えている。2人ともだ。でもなぜだか私は���の時、日本の私の地元の道ではなく、異国の道を歩いている気分で、暴言を吐かれるのもその国のある地域のしきたりかなにかだと思って平然としていた。そしてそのまま進むと、T字路があり私はTで言うところの右上から私の視点で言うとまっすぐ歩いてきて左側にTの真ん中の線があるのだが、そこの信号を渡ろうとしていた。渡って、なぜだかわからないがまた右側を歩いていた。そこら辺から少し曖昧になっていく。なぜかというと、恐らくさっきのフィリピン人との流れを終えて、信号を渡るまでは現実とほとんど同じ道や風景だったが、信号を渡ってから少しずつ知らない風景になっていって、困惑しているからかもしれない。話に戻って、信号を渡って右側を歩いている時は、どこか祭りのような灯りが、ついていて、大阪の駅前の店がいっぱい並んでいる通りのような灯りがついていた。その時は、道の途中でベ��ーカーとかあったがあまり覚えていない。そしてその通りを過ぎると一気に暗くなり、気づけば前にクラスの可愛いと定評のある女が制服姿で自転車に乗って前方にいた。私はおそらくなにか話していたが覚えていない。そして、右側を歩いていて左に曲がる道があり、それは先ほど言っていた右から入る
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春樹先生、私は、春樹先生を、とても、愛しております。弟子に、してください。
【いと、小さき、世界の、ひめゆりの塔の、お話し】
とっぷりと、日も暮れた、それは、ある晩の、出来事で、あった。北條、時政の、住む、露菴から、珍しく、三度ばかり、ぐわぁぁぁぁん、ぐわぁぁぁぁん、と、鐘が鳴り響いた。その時、野下【のきした】で、身を潜めていた、闇の、カタツムリが、朝の、小鳥たちに、向かって、囁いた。「もうじき、怪球の、破壊が、訪れるじゃよ。それまで、ワシたちは、こうして、ヒッソリと、身を潜めておかねばならぬ。」
いえいえ、旦那様、私たちは、自由の身ですよ、ご安心くださいませ。
「はて😮、そんな話しは、わしゃ😮、一度も、😮耳に、😮して、😮おらぬ😮じゃよ😮はたまて😮、一体全体、どこから😮、お主は、😮仕入れてきたのじゃな😮もし😮」
旦那様、滅層も、ござりませぬ。それは、ここだけの、お話しですが、そう、赤き、ツバメの舞い踊りのごとく、慶州の、「せしよ」の、風たちが、はこんできた、と、いうだけの、話しででございまする。何故に、なんら、わてら、人間以外の、清正の生き物たちにとうて、そう、先程も、申し上げたとおり、なんら、心配するに、いたらんと、海抜さんたちも、言っておられたじゃ、ありませぬかじゃな、もし。
なぁるほどなもし😮、そりゃぁ、たいそう、エエ話しを😮、ワシは、😮耳にした、と、いうわけじゃな😮もし😮
えぇ、えぇ、そういうことで、ござりまする。故に、深志のごとくに、普段どおり、カタツムリ殿は、そう、そうりょくだけに、つまり、草緑を、ついばんでおけば、かまいませぬ、という、いかにも、けったい、真なき、話しというわけでございますでな、もし。
三途の川も、何処(いずこ)迄、三途の川も、何処迄、三途の川も、何処迄、、、三途の川も、何処迄、、、、
坊や、そのような、芥子の実が、つかうような、はしたない、言葉を、つかっては、ならぬと、おんまえに🤟🤪🫵言ったはずじゃがな、もし。それとも、アタイ🤟🤪🤟の、とほい、追憶の、思い違いとでも、言うの、かいな🤟🤪🫵もし🤟🤪🫵
おいこら、言うてみろや、はよ、言えや
あァァァウッ=浅井健一の、歌い方、だな。りんご。
【いと、小さき、世界の、ひめゆりの塔の、お話し】
北条夜の、鐘の音、ぐあぁぁあぁぁぁん、ぐぁぁぁあぁぁぁぁん
とっぷりと、日も暮れた、それは、ある晩の、こ出来事で、あった。北條、時政の、住む、露菴から、珍しく、三度ばかり、ぐわぁぁぁぁん、ぐわぁぁぁぁん、と、鐘が鳴り響いた。その時、野下【のきした】で、身を潜めていた、闇の、カタツムリが、朝の、小鳥たちに、向かって、囁いた。「もうじき、怪球の、破壊が、訪れるじゃよ。それまで、ワシたちは、こうして、ヒッソリと、身を潜めておかねばならぬ。」
いえいえ、旦那様、私たちは、自由の身ですよ、ご安心くださいませ。
「はて😮、そんな話しは、わしゃ😮、一度も、😮耳に、😮して、😮おらぬ😮じゃよ😮はたまて😮、一体全体、どこから😮、お主は、😮仕入れてきたのじゃな😮もし😮」
旦那様、滅層も、ござりませぬ。それは、ここだけの、お話しですが、そう、赤き、ツバメの舞い踊りのごとく、慶州の、「せしよ」の、風たちが、はこんできた、と、いうだけの、話しででございます、ことよ。何故に、なんら、わてら、人間以外の、清正の生き物たちにとうて、そう、先程も、申し上げたとおり、なんら、心配するに、いたらんと、海抜さんたちも、言っておられたじゃ、ありませぬか、もし。
なぁるほどなもし😮、そりゃぁ、たいそう、エエ話しを😮、ワシは、😮耳にした、と、いうわけじゃな😮もし😮
えぇ、えぇ、そういうことで、ござりまする。故に、深志のごとくに、普段どおり、カタツムリ殿は、そう、そうりょくだけに、つまり、草緑を、ついばんでおけば���かまいませぬ、という、いかにも、けったい、真なき、話しというわけでございますでな、もし。
三途の川も、何処(いずこ)迄、三途の川も、何処迄、三途の川も、何処迄、、、三途の川も、何処迄、、、、
坊や、そのような、芥子の実が、つかうような、はしたない、言葉を、つかっては、ならぬと、おんまえに🤟🤪🫵言ったはずじゃがな、もし。それとも、アタイ🤟🤪🤟の、とほい、追憶の、思い違いとでも、言うの、かいな🤟🤪🫵
おいこら、言うてみろや、はよ、言えや
あァァァウッ=浅井健一の、歌い方、だな。りんご。
【とある、男と、女の、別れ話し】
それから、僕らは、別々の道を、歩き出した。彼女は、今まで、勤めていた、出版会社に、残り、僕は、厚生社の、派遣労働事務員を、退職した。そう、少し、自分なりに、俗世間と、距離をとった、生き方を、してみたいという、今まで、考えたことすらなかった、思いが、僕の頭のなかに、突如、湧き上がってきたのだ。そう、自分なりに、もう一度、これからの、生き方を、そう、もう一度だけ、リセットして、考えなおしてみたいと、思うように、なったのだ。言われてみれば、僕は、いつも、セカセカと、働いては、彼女の、ご機嫌ばかりとった生き方を、していたもんな。考えてみると、自分が、望んでいたことは、いつも、後回しにしていたもんな。つまり、こんな考えが、僕の、頭のなかから、突如、現れてきたのは、つまり、これは、彼女との、別れにより、また、新しい、僕の道が、そう、主より、用意されたというわけだ。そのかわり、今まで、以上に、できるだけ、身の回りのことを、そう、丁寧に、日々コツコツと、こなしていくという、自分なりの、ルールを、かせた。というか、その頃の僕は、そうでもしないと、とてもじゃないが、やっていけない、そう、つまりは、そういう、精神状態だったのだ。そんな日が続いた、ある日、僕に、落とし物を、届けに、来てくれた、市民図書館の、とある、職員がいた。そう、僕は、いつも、その図書館では、借りた本を、延滞してしまう常習犯でもあったので、つまり、とても、有名だったのだ。彼女は、少し、はにかみながら、僕に、落とした、ハンカチを、手渡してきた。僕は、わざわざ、アパートにまで、届けてくれた、お礼を、丁寧に彼女に伝え、ドアを、閉めようとした瞬間だった、突然、彼女が、ドアを、さえぎるようにして、こう、僕に、伝えてきたのだ。これ以上、本の、延滞が、続くと、こちら側が、いくら、本を、貸したくても、貸せなくなると、僕に、そう、伝えてきたのだ。それで、僕も、勿論、図書館で、本を、今後、借りることが、できなくなるのは、生活上、困るので、これからは、できるだけ、延滞前に、返すと、丁寧に、謝罪した。その時の、彼女の、表情は、なんとなく、僕に対して、腹を立てているように、見えた。結局、今だに、なんの縁かは、わからないが、彼女と、つまりは、その、図書館の職員と、奇妙な、同棲生活が、スタートした。そして、次第に、僕は、彼女に、心を、惹かれていった。だからといって、決して、前に、付き合っていた、彼女のことを、忘れたわけではなかった。そう、僕の、心の中に、そっと、彼女と、僕が、共に過ごしてきた時間、想い出、共に、歩んだ道のり、そう、そんな、ちっぽけではあるが、そう、つまり、彼女と僕の、二人だけの、想い出の、小さな、部屋を、そう、勿論、今付き合っている、彼女には、内緒で、そっと、こしらえることにした。
その頃の、僕らの生活と、言えば、決して地に足をつけて生きているという、所謂、世間一般の、表向きばかりはいいが、中身のない生活と、呼ばれるような、そんな生活でさえできて、いなかった。天気のいい日に、裏の打ちっぱなしの、ゴル上のコースの、周りを肩を並べて、散歩してみたり、近くの公園の池の、鯉に、ポップコーンを、投げたり、ベンチに座り、よく冷えた缶ビールを飲んだり、河原を歩いたりと、そう、どこにでもあるような、ごくごく平凡な日々をおくっていた。そんな、なんらいつもと変わらない、ある日の出来事だった。
君がその、僕以外の、他の誰かを、好きになってしまったから、うん、それで、僕と、別れて欲しいというのは、わかったよ、うん、ちやんと、理解もした。ただ、一つだけ、僕にも言わせてもらいたいことが、あるんだ。それで、君は本当に、今後、幸せになれるのかい?って、ことなんだよ。
つまりさ、そう、それは、ただの、一過性のものであってさ、ちょうど春先に、突然降り出す雨、みたいなもので、時期がきたら、また、カラリと、晴れ渡った空の下を、気づけば、歩いていた、という、具合にも、なりかねないことなんじゃないかな。と、いうことを、君に、僕は伝えたいんだ。それで、君は、もう、すでに、その好きな相手の男と、寝たのかい?
あ、いや、これは、言いたくなければ、無理に、聞くつもりは、ないんだよ。そんなことよりさ、現状、君のなかで、この僕という、存在がさ、どれくらい、小さくなってしまったのか?と、いうところが、とても、知りたいんだよ。僕は、つまり。そう、そこを、とても、今、心配してるとこなんだよ、君からの、その、突然の告白を、聞いて、いささか、僕も、今、ビックリしているとこなんだよ。実際の、話し。
いや、たしかにさ、僕ら、もう、いい歳だし、そう、現状、僕は定職にもつかず、日々、フラフラと、貯金だけを、食いつぶしながら生きている男だよ。それに、世間一般の、所謂、家庭と、呼ばれる、生活、つまり、僕ら、結婚も、たしかに、現状、しては、いないのも、わかっている。そんな、僕をみて、君が、前々から、不満を、抱いていたのも、知っている。
それでさ、これは、僕の、あくまで、提案なんだけどさ、その、僕らが、今の今で、急に、その、君が、言うように、このまま、別れてしまうのは、あまりにも、もったいないと、そう、僕は、思うんだよ。何故かってさ、その、僕ら、最近出会って、よくまだ、相手のことが、わからない、と言うような、間からでも、ない、わけだしさ。そう、だからさ、もうしばらく、このままの、生活を、続けてみないかい。つまり、もう少し、様子を、見てみないかい?そう、僕ら二人の、関係性について、様子を、みてみないかい?と、いうことなんだよ。つまりは。そう、勿論、君が僕に対して、不満を抱いている仕事の件も含めて、僕も、そろそろ、ちょうど、なんとかしないと、いけないとは、考えていたところでは、あったんだよ。確かに。だからさ、僕が、知りたいのは、現状、君が、僕と生活している上でだよ、何が?不満なのか?を、すべて、僕に、洗いざらい、打ち明けて欲しいんだよ。つまりは。そう、今の、僕が、望んでいる、ことは。そう、それと同時に、それは、今、僕が、君に対して、知りたいこと、でも、あるんだよ。なんでかって、言うとさ、確かに、こんな話しを、今まで、一度も、僕ら、お互い、触れずに、つまり、目をそらし続けてきた結果、今回の、君の、僕に対する、心変わりの、告白を、僕は、今日、聞くことに、なった、要因でも、あると、僕は、思うからなんだよ。つまりは、考えるから、なんだよ。そう、つまりは。
それから、僕らの、関係性は、徐々に、変わっていった。ただ、彼女が、働きに出て、今まで、どおり、僕が、家事をする、そう、それは、今まで、どおり、だった。ただ、もう一つ、彼女から、僕に、課された仕事は、そう、僕が、僕らの、子供の、面倒を、みる、ということだった。
エピローグ
そして、子供が、3歳に、なった、ときだった。
ある日、突然、こんな、言葉を僕に向かって、発したのだ。
「お父さん、試された、ママの勝ち」
と。
僕は、その、我が子が、初めて、発した、言葉の意味が、そう、何を?意味していたのか?そう、いまだに、謎のままなのだ。結局のところ。そう、きっと、子供にしか、見えない世界というものが、あって、そう、到底、僕や、妻みたいな、つまり、大人には、理解できない、と言うか、見たくても、見えない、そう、恐らく、そんな、世界というものが、また、別次元に、あるのだろう。そう、結論づけるよりかは、他には、なかったのだ。そう、この、僕でさえ。
改定版↓
エピローグ
そして、子供が、3歳に、なった、ときだった。
ある日、突然、こんな、言葉を僕に向かって、発したのだ。
「お父さん、試された、ママの勝ち」
と。
僕は、その、我が子が、初めて、発した、言葉の意味が、そう、何を?意味していたのか?そう、いまだに、謎のままなのだ。結局のところ。そう、きっと、子供にしか、見えない世界というものが、きっとあって、そう、到底、僕や、妻みたいな、つまり、俗世間に、どっぷりと、つかってしまった、つまりは、大人には、理解できない、と言うか、見たくても、見えない世界、そう、多分、恐らく、そんな、世界というものが、また、別次元に、あるのだろう。そう、結論づけるよりかは、他には、なかったのだ。そう、この、僕でさえ。
その瞬間、ベランダの方から、強い、雨音が、聴こえた。僕は、慌てて、ベランダに干してある、洗濯物を、室内に、取り入れた。その瞬間、雨が上がり、雲の切れ間から、陽光が、僕と、子供の体を、優しく、包みこんだ。僕は、久しぶりに、満たされた、なんとも、心地よい、気持ちになった。ふと、子供のほうへ、目をやると、子供は、無邪気に、僕の顔をみて、笑っていた。
【通り雨】
その頃の、僕らの生活と、言えば、決して地に足をつけて生きているという、所謂、世間一般の、表向きばかりはいいが、中身のない生活と、呼ばれるような、そんな生活でさえできて、いなかった。天気のいい日に、裏の打ちっぱなしの、ゴル上のコースの、周りを肩を並べて、散歩してみたり、近くの公園の池の、鯉に、ポップコーンを、投げたり、ベンチに座り、よく冷えた缶ビールを飲んだり、河原を歩いたりと、そう、どこにでもあるような、ごくごく平凡な日々をおくっていた。そんな、なんらいつもと変わらない、ある日の出来事だった。君がその、僕以外の、他の誰かを、好きになってしまったから、うん、それで、僕と、別れて欲しいというのは、わかったよ、うん、ちやんと、理解もした。ただ、一つだけ、僕にも言わせてもらいたいことが、あるんだ。それで、君は本当に、今後、幸せになれるのかい?って、ことなんだよ。つまりさ、そう、それは、ただの、一過性のものであってさ、ちょうど春先に、突然降り出す雨、みたいなもので、時期がきたら、また、カラリと、晴れ渡った空の下を、気づけば、歩いていた、という、具合にも、なりかねないことなんじゃないかな。と、いうことを、君に、僕は伝えたいんだ。それで、君は、もう、すでに、その好きな相手の男と、寝たのかい?あ、いや、これは、言いたくなければ、無理に、聞くつもりは、ないんだよ。そんなことよりさ、現状、君のなかで、この僕という、存在がさ、どれくらい、小さくなってしまったのか?と、いうところが、とても、知りたいんだよ。僕は、つまり。そう、そこを、とても、今、心配してるとこなんだよ、君からの、その、突然の告白を、聞いて、いささか、僕も、今、ビックリしているとこなんだよ。実際の、話し。いや、たしかにさ、僕ら、もう、いい歳だし、そう、現状、僕は定職にもつかず、日々、フラフラと、貯金だけを、食いつぶしながら生きている男だよ。それに、世間一般の、所謂、家庭と、呼ばれる、生活、つまり、僕ら、結婚も、たしかに、現状、しては、いないのも、わかっている。そんな、僕をみて、君が、前々から、不満を、抱いていたのも、知っている。それでさ、これは、僕の、あくまで、提案なんだけどさ、その、僕らが、今の今で、急に、その、君が、言うように、このまま、別れてしまうのは、あまりにも、もったいないと、そう、僕は、思うんだよ。何故かってさ、その、僕ら、最近出会って、よくまだ、相手のことが、わからない、と言うような、間からでも、ない、わけだしさ。そう、だからさ、もうしばらく、このままの、生活を、続けてみないかい。つまり、もう少し、様子を、見てみないかい?そう、僕ら二人の、関係性について、様子を、みてみないかい?と、いうことなんだよ。つまりは。そう、勿論、君が僕に対して、不満を抱いている仕事の件も含めて、僕も、そろそろ、ちょうど、なんとかしないと、いけないとは、考えていたところでは、あったんだよ。確かに。だからさ、僕が、知りたいのは、現状、君が、僕と生活している上でだよ、何が?不満なのか?を、すべて、僕に、洗いざらい、打ち明けて欲しいんだよ。つまりは。そう、今の、僕が、望んでいる、ことは。そう、それと同時に、それは、今、僕が、君に対して、知りたいこと、でも、あるんだよ。なんでかって、言うとさ、確かに、こんな話しを、今まで、一度も、僕ら、お互い、触れずに、つまり、目をそらし続けてきた結果、今回の、君の、僕に対する、心変わりの、告白を、僕は、今日、聞くことに、なった、要因でも、あると、僕は、思うからなんだよ。つまりは、考えるから、なんだよ。そう、つまりは。それから、僕らの、関係性は、徐々に、変わっていった。ただ、彼女が、働きに出て、今まで、どおり、僕が、家事をする、そう、それは、今まで、どおり、だった。ただ、もう一つ、彼女から、僕に、課された仕事は、そう、僕が、僕らの、子供の、面倒を、みる、ということだった。エピローグそして、子供が、3歳に、なった、ある日のことだった。突然、子供が、僕に向かって、こんなことを、発したのだ。「お父さん、試された、ママの勝ち」と。僕は、その、我が子が、初めて、発した、言葉の意味が、そう、何を?意味していたのか?そう、いまだに、謎のままなのだ。結局のところ。そう、きっと、子供にしか、見えない世界というものが、あって、そう、到底、僕や、妻みたいな、つまり、大人には、理解できない、と言うか、見たくても、見えない、そう、恐らく、そんな、世界というものが、また、別次元に、あるのだろう。そう、結論づけるよりかは、他には、なかったのだ。そう、この、僕でさえ。改定版↓エピローグそして、子供が、3歳に、なった、ある日の、出来事であった。子供が、突然、僕に向かって、こんな言葉を、発したのだ。「お父さん、試された、ママの勝ち」と。僕は、その、我が子が、初めて、発した、言葉の意味が、そう、何を?意味していたのか?そう、いまだに、謎のままなのだ。結局のところ。そう、きっと、子供にしか、見えない世界というものが、きっとあって、そう、到底、僕や、妻みたいな、つまり、俗世間に、どっぷりと、つかってしまった、所謂、大人には、理解できない、と言うか、見たくても、見えない世界、そう、多分、恐らく、そんな、世界というものが、また、別次元に、存在するのだろう。そう、結論づけるよりかは、他には、なかったのだ。そう、この、僕でさえ。その瞬間だった、ベランダの方から、強い、雨音が、聴こえた。僕は、慌てて、ベランダに干してある、洗濯物を、室内に、取り入れた。その瞬間、雨が上がり、雲の切れ間から、陽光が、僕と、子供の体を、優しく、包みこんだ。僕は、久しぶりに、満たされた、なんとも、心地よい、気持ちになった。ふと、子供のほうへ、目をやると、子供は、無邪気に、僕の顔をみて、笑っていた。汚されてしまった、名作ムクムクムクリン✊ムクン✊🤓ムックン✊🤓✊パッ🖐🤓🖐→ぞれ、やめで🖐😭🖐→🩸✄✊😭🖐→✄🩸✊😭✊あのちゃん、かーいぃ、のぉ、ほんたになぁぁ、わしゃ、オメコ、舐め、舐め、するのが、好きなんじゃよ、そういや、あのちゃん、おじさん、好き、言うてたもんなぁ、それなら、私も、なんの、罪悪感、抱くことなく、オメコ、舐め、舐め、できるっちゅうことやのぉ、そりゃぁ、ウイン、ウイン、ウインナァァーん、さんの、関係ちゅう、チュウ、チュー、チューあのちゃん、かーいぃ、のぉ、ほんたになぁぁ、わしゃ、オメコ、舐め、舐め、するのが、好きなんじゃよ、そういや、あのちゃん、おじさん、好き、言うてたもんなぁ、それなら、私も、なんの、罪悪感、抱くことなく、オメコ、舐め、舐め、できるっちゅうことやのぉ、そりゃぁ、ウイン、ウイン、ウインナァァーん、さんの、関係ちゅう、チュウ、チュー、チューそう、ここからは、お前らの😂想像した😂恐ろしい😂拷問が😂すべての😂人類に😂実行されるから😂俺は😂つまり😂お前らの😂その、😂想像力を😂飛躍させるのが😂仕事な😂嬢ちゃん、おいで、おいで、爺ちゃんと、チュッチュちよっか、おいで、おいで、嬢ちゃん、おいで、おいで、爺ちゃんと、チュッチュちよっか、おいで、おいで、いや、🤣見えと、🤣らんのじゃよ🤣この、爺ちゃんには、🤣彼の🤣その、いかめしい顔が🤣まったくと🤣言っていいほど🤣見えては🤣おらんのじゃよ🤣☝こりゃ、そう、全部、起こるから🤣これから🤣みんなも🤣馬鹿笑いできる日が🤣くるから🤣もう、わしゃ🤣これ、🤣そう、🤣見てきたんじゃから🤣そう、🤣すでに🤣見たんじゃよ🤣これを🤣結局さ😂幽霊に、対する、接し方はさ😂ガッツ石松が😂そう、お手本なんよ😂そう、幽霊が、もう、1番、嫌うのがさ😂ほんとは、😂かなり、怖いくせにさ😂それを、おらんと、言う人😂なんよ😂コイツラは😂もう、永久溺れどころじゃない😂永久ド地獄に😂ほうりこまれるんよ😂で、さらに、その上の、永久ド地獄に、落とされるのが😂そうそう😂俺の、仕事の、手伝いせんどころか😂邪魔してきたやつら🤣なんよなぁ🤣そりゃ、🤣しゃあないよ🤣わし、1番🤣だって🤣そうは、言うても🤣霊界で🤣偉いんやから🤣その、ワシを、ブチ切れさせたやつらは🤣もう、これから🤣とんでもない🤣どころじゃ、すまさんならな
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅴ
花鳥誌2024年5月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
8 さしくれし春雨傘を受取し
『五百句』には「大正十三年」と注記され、初出は翌大正十四年八月の『ホトトギス』で、「近詠」とのみ題されている。『年代順虚子俳句全集』第三巻の大正十三年の項には、「四月(日不明。)小樽高商を卒へたる長男年尾を伴ひ京阪地方に遊ぶ。その時の句?」とあって、『虚子百句』では次の九番目に挙げられる「天日のうつりて暗し蝌蚪の水」の後に掲出されている。成立は前後していたか。
しかし、『虚子百句』では、この句の方を先に挙げた。その理由は、単純に『五百句』の掲載順に拠ったとも考え得るが、加うるにこの句の前の七番の句が「雨の中に立春大吉の光あり」なので、「雨」の句で一組としたか。この後九番は「天日」で晴、十番は「思ひ川渡れば又も春の雨」と雨の句となる。単調さを避け、季節の進行に晴雨の交代を入れ込んだ編集の妙でもあったか。
この句の問題は、「春雨や」と持ってこず、「春雨傘」と中七に造語としてわざわざ置いたのは何故かという点にある。ここから考えてみよう。
「さしくれし」の「し」は、一般に「過去」の意味の助動詞「き」の連体形だと言われるが、室町時代末期から、現在もその動作が続いている「完了」の意味を持つようにもなってきていた(井上・堀切克洋『俳句がよくわかる文法講座』第2章)。有名な、
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規
の「し」も、「つまってしまった(そして、現につまっている)」の意味でないとおかしい。ただ過去の動作が終わったとか、あるいは過去の動作の影響が終わってしまったということなら、子規は死んでしまっていることになるが、この句は自分の最期の姿を「佛」と客観視して詠んだのであって、「今まさにちょうど」という意味でなければならない。やはりよく知られる島崎藤村の「まだあげ初めし前髪の/ 林檎のもとに見えし時」という『若菜集』「初恋」の一節も、現前する女性のうなじを詠んでいるのだから、「し」は「あげたばかりの」という意味でなければならない。
掲句も、上五の「さしくれし」���受けて「受取りし」と応じた、この呼吸が一句の眼目なのである。繰り返される「し」は、過去でなく完了の意味でなければならない。そこで中七の「春雨傘」の造語が使われることになったものだろう。
そこに気づいてみると、おそらくは女性が手渡してくれた傘を阿吽の呼吸で、虚子か、あるいは虚子が見ていた人物が受け取った動きのある一場面に焦点を当てたことがわかる。
「春雨」は本来京都独特の、鴨川の水面を観て雨を知るような細やかで繊細なそれであるから、この一瞬の「艶」なる場面をつなぐ重要な小道具の属性を知らせるのに、十二分の役割を果たしているのである。当然『喜寿艶』にはこの句は掲載されている。
なお、京都の三業(料亭・待合茶屋・置屋)の女性���品を様々に詠むのは、虚子句の一傾向であるが、
美人手を貸せばひかれて老涼し 昭和二七年
夕立に傘傾けてはつ子来ぬ 昭和三〇年
など京都の女性の「手」や「傘」を材にした同傾向の句を確認すると、虚子にとって「傘」と女の「手」のしなやかさや姿態は、発想の起点であったことが確認できる。
9 天日のうつりて暗し蝌蚪の水
『五百句』には「大正十三年」とのみ注記。『年代順虚子俳句全集』には、前の句の解説で示したように、小樽高商を卒業した高濱年尾を伴い、関西を訪ねた四月の句か、としている。『ホトトギス』大正十三年六月号の「消息」欄で年尾は、滞在十八日、京都・大阪・神戸・堺・大和を回り、特に京都の嵯峨・御室・東山、さらに琵琶湖から比叡山・大原を回り、京都の風光の良さを特記している。
掲句は、二つの解釈が一応想定できる。太陽が位置を傾け、それまで日が当たっていた場所が暗くなり、そんな中をお玉杓子が泳いでいる、というもの。
今一つの解釈は、「沢山のお玉杓子が孵ると水一面が黒くなるほどで」「日の光が水に当っても暗いような感じがする」という『虚子百句』の高濱年尾のような受け取り方である。清崎敏郎も「玉藻研究座談会」で同様の解釈を披露している。
大野林火もまた後者の意味に捉え、「くろずんた蝌蚪」と「水面の日輪」とが重なり、「不思議に重々しい空気を伝えてくる」としている(『虚子秀句鑑賞』)。
こう考えてくると、一句の解釈の分岐点は「うつりて」が「移りて」なのか、はたまた「映りて」なのかというとこにあることが見えてくる。
まず、この句が詠まれていた時、年尾が同伴していたということであれば、後者の解釈に軍配を挙げる客観的証言である可能性は頭に置いておく必要があろう。
さらに、「うつりて」を「移りて」と解釈してしまっては、太陽の移動を説明しただけのことになってしまい、何が何してどうなった式の句として、値打ちが下がる。やはり「映りて」と受け取って、太陽の姿と光は池に映ってはいるものと理解して初めて、句に情趣が生じる。
そもそも「て」は、単純な接続ばかりでなく、「ではあるが」という逆接の含意を俳句では持たせることがままある(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
面白てやがて悲しき鵜ぶね哉 芭蕉
糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな 子規
蝌蚪生れて未だ覚めざる彼岸かな 松本たかし
この句も、「太陽の光とその姿は池に映ってはいるものの」と屈折した意味を読み取るべきであろう。
深見けん二は、やはり「玉藻研究座談会」で、「天日」の語の選択について、「何かそこからずうつと広がって行く大きな宇宙なり世界といふものが感じられる」と発言し、敏郎とのやりとりの中で、「太陽」よりも「天日」の語を選ぶことで、客観的な状況が単純化され、それに伴って、個々の細かい現象より、もっと大きな世界を把握し表現することが可能になったと確認しあい、生前虚子は「単純化していくとそこに個性が出て来ますよ」と語っていたことを引用している。
この句に虚子の「個性」を読み取るならば、「金亀虫擲つ闇の深さかな」「蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな」「大寒の埃の如く人死ぬる」のような闇の世界を見つめ、それすら客観視しようとする世界に通じると言えば言えようか。
最晩年の「この池の生々流転蝌蚪の紐」(昭和三十一年)も、細部にこだわった客観写生から出発して、掲句のような「単純化」を経て、たどり着いた表現と境地と見ることも可能だろう。「天日」という世界観を含んだ語の実験が、晩年の自在を生んだと考えたい。
なお、虚子の揮毫は『虚子百句』全体に、かすれた墨痕で、視力が弱くなった老年の筆を感じさせるが、掲句に限っては鮮やかな筆づかいとなっている。意図的なものなのかどうかは、本書全体から見直してみる必要があり、機会を改めたい。ただし「我心或時軽し芥子の花」など明らかに、居住まいとただした書きぶりも認められる句が少ないながらあることは、単純な墨継ぎの問題で収まるのか否か注意を要することは、心覚えに書きとどめておきたい。
『虚子百句』より虚子揮毫
9 天日のうつりて暗し蝌蚪の水
10 思ひ川渡れば又も花の雨
国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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今日は3食ちゃんと食った。
朝飯は「納豆明太子ごはん」「子持ちししゃも」を食った。
子持ちししゃもは子どもの時分からの好物である。
子どもの頃の食卓は隣が父親だった。
父親は晩酌をするので、なにか一品つまみになるものがあって、ぼくはそれをちょっとつまみ食いするのが習慣だった。
なので、こういった酒のつまみみたいなものが好物なのである。
昼飯は家人と「にんにくしょうゆ焼きそば」を食った。
肉は入れずにちくわなのはマイブームである。
久しぶりに鉄のフライパンを使ったら、ずいぶん焦げついてしまった。
家人はエステとかに出かけてしまったので、午後からはぐだぐだと過ごしていたが、このままではもったいないとばかりに小1時間ほど散歩に出かけた。
暑くもなく寒くもなく。
曇り空であったがいい散歩になった。
数枚写真を撮ったので、それは別記事にしようと思う。
晩飯はひとりなのだが、この「ひとりぶん」というのが実に面倒くさい。
みそ汁などは何人かぶんを作るからいいのであって、ひとりぶんというのはみその量からして困るのである。
「塩鮭と厚焼きたまご」「ニラ玉」
「ニラ玉」と書いたが、これは若い時分に通っていた居酒屋のメニュー「戦国焼き」である。
ニラと納豆とたまごを混ぜて焼いてある。
芥子をつけてしょうゆで食う。
なぜ戦国かといえば店名なのであって、特別な意味はない。
これを肴にずいぶん呑んだものである。
飯にも酒にもいい。
ごちそうさん。
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