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#自刀の碑
poddyshobbies · 1 year
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油山の2つの石碑
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福岡市内を一望できる展望台へ行く途中にある、油山観音の参道から山道を少しだけ登った場所です、山道は歩きやすいです。
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↑ 参道方向(下り) ↓ 登り
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「鎮西上人霊蹟」
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分岐点 ~ 鎮西上人霊蹟からもう少しだけ登った地点です。
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下り
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長島・寺尾 両烈士自刀の碑  … 1945年8月15日、終戦の勅書から5日後と碑文にあります。
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2023.7.14
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monthly-ambigram · 10 months
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2023-12月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「時事」です◆
今月は参加者の皆様に「時事」のお題でアンビグラムを制作していただいております。  2023の出来事を振り返りながら作品の数々をご覧ください。
今回は諸事情により簡単なコメントとさせていただきます。自身で隅々まで味わっていただけましたら幸いです。
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「二刀流」 図地反転回転型: いとうさとし氏
大谷翔平選手がWBCでもMLBシーズンでも二刀流で躍動。
細くなっている部分、付くか付かないかの微妙な調整が巧みです。
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「YOASOBI/アイドル」 回転共存型:ヨウヘイ氏
YOASOBIがアニメ「推しの子」のOP曲として制作した楽曲。
手書き風にすることでやや乱れた文字の流れもあまり気にならなくなります。
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「アンビグラム情報局」 回転型:Σ氏
Discordサーバ「アンビグラム情報局」開局。
濁点のお作法が揃っているのが気持ちよいです。
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「平面/充填」 回転共存型:うら紙氏
アインシュタイン問題の解決。
かなりの変形具合ですが読めるところへの落とし込みが巧みです。
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「君たちはどう生きるか」 回転型:オルドビス紀氏
宮崎駿監督の新作映画が公開。
書体の選択と文字の配置が絶妙です。
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「青い鳥消失事件」 回転型:くりまろん氏
青い鳥(Twitter)がなくなってしまった。
文字の大きさや形状など大胆な対応付けが面白いです。
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「別班」 重畳型:douse氏
ドラマ「VIVANT」放送。
縦画をやや斜めにしているのと右下の点を分割しているのがポイントですね。
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「熊出没注意」 図地反転回転型: いとうさとし氏
今年は非常に熊の被害が増加した。
「出/注」の対応はどうやったら思いつくのかわからない複雑さですね。
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「音乃瀬奏」 回転型:douse氏
9月デビューのVTuber。
「乃」とさんずいの重なりを許すことですべてぴったり対応しています。
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「鵺の碑/京極夏彦」 回転共存型:兼吉共心堂氏
京極夏彦氏の小説。
大きく崩していても読めるバランスに調整されています。
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「將棋」 回転型:kawahar氏
将棋の藤井聡太竜王・名人が八大タイトル全冠制覇。
「将」ではなく「將」にすることで対応がつけやすくなっています。
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「#ハナミズキ語」 振動式複合型:海氏
海氏が「ハナミズキ語」の命名。
「#ハナ」/「ミズキ」/「語」の三面相です。どこを拾うか、どのように解釈するかが楽しいです。
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「葬送のフリーレン」 回転型:ぺんぺん草氏
「葬送のフリーレン」がアニメ化、放送開始。
姫森ルーナ型。柔らかな書体により読みやすさが増しています。
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「令和の虎」 回転重畳型:ちくわああ氏
チャンネル登録者100万人、総再生回数6億回突破。
「和」と「虎」が読みやすいので一目で読める作品になっています。
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「物価高騰」 鏡像型:.38氏
今年はずっと悩まされた物価高騰。
物騰 高価 という並び。文字送りの常識に縛られないことで文字の過不足のやりくりをしています。
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「特殊詐欺」 図地反転型: いとうさとし氏
特殊詐欺グループの摘発が相次いだ。
「特/殊」「詐/欺」の組で図地反転になります。すべての文字が読みやすいです。
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「観光公害」  敷詰回転共存型:螺旋氏
オーバーツーリズムによる一連の問題。
正位置で横書き、逆位置で縦書きに読みます。「光」がこの形で読めてしまう驚きがあります。
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「生成AI」 鏡像型:douse氏
今年も大きく成長を遂げた。
「成」の斜め対称性の高さに驚きます。
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「生成系AI」 鏡像型:Σ氏
「系」をつけた呼び方も。
くるんとしたあしらいが各所でぴったりはまっています。
最後に私の作品を。
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「アイドル」 回転型:igatoxin(既発表作)
今年の一曲といえばこれでしょう。
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「変な家/変な絵」 鏡像共存型:igatoxin
雨穴氏の小説がヒットし映画化もされました。
時事がお題のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。今年を振り返るといろいろな事柄がありましたが、月刊アンビグラムも今年も無事に一年間発行できました。ひとえに参加者ならびに読者の皆様のおかげだと感謝しております。
さて次回は例年通り「お題フリー」です。締切は12/31、発行は1/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
——————————–index——————————————
2023年 1月{フリー}   2月{TV}        3月{クイズ}        4月{健康}   5月{回文}    6月{本}               7月{神話}   8月{ジャングル} 9月{日本史}    10月{ヒーロー}    11月{ゲー��}  
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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kachoushi · 6 months
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅳ
花鳥誌2024年4月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
6 葛城の神臠はせ青き踏む
 大正六年二月十日、松山に帰省の途中で京阪に寄った。白鳥吟社主催堺俳句会(於開口神社)で出句。西山泊雲・野村泊月・岩木躑躅・原田濱人・島村はじめ・久保田九品太・青木月斗・大橋櫻坡子らが出席。『ホトトギス』の同年三月号「堺俳句会の記」に詳しい。
 この句会は、大阪の『ホトトギス』派の旗揚げに位置する記念碑的な一件で、その詳細は櫻坡子の『大正の大阪俳壇』に詳しい。この句は『新歳時記』にも登録された、虚子の自信作である。大和と河内の国境に位置する葛城山の神一言主は醜貌の女体と言い習わされ、夜しかお出ましにならなかったと謡曲にも出てくる(「葛城」)。
 その引きこもった神に向かって、麓の春を足で確かめて野遊びしております。「山の上からせめて密かに御覧ぜられ度い」(虚子自注「俳句朗読原文」)と悪戯っぽく詠んでみせたのである。「みそなはす」とは、「ご覧になる」の最上級敬語表現で、これまた謡曲に神を主体とした用例がある(「高砂」など)。
 「臠」の字は画数も多く、呪術的なイメージを本来持つが、虚子の字は軽く「糸」の二か所が崩されていて、内容の「滑稽」と対応している。これは活字でなく、虚子の書によってこそ鑑賞が可能で、「臠」は一句の眼目であったことが了解される。
 神や霊魂に命令形を以て呼びかける表現は、江戸俳諧からある。
  塚も動け我泣声は秋の風 芭蕉
  五月雨の空吹き落せ大井川 芭蕉
  笈も太刀も五月にかざれ紙幟 芭蕉
 これらの芭蕉句は、痛切な哀しみや祈りが託されているが、虚子は次にあげる蕪村の例などに学んだか(『蕪村句集講義』)。
  裸身に神うつりませ夏神楽 蕪村
 蕪村の敬語表現「うつりませ」は、祈りとともに一種の滑稽というか余裕があって、そこが夏の禊を「裸身」で具象化する視線と対応している。虚子も、「野遊」の軽々と晴れやかな気分を、この敬語の命令形に託した。命令形は、祈りではあるが、痛切なそれと、軽い挨拶の二種があって、この句は山本健吉の言う俳句の本質「滑稽と挨拶」の典型例と言ってよい。
 ちなみに水原秋櫻子系の俳人の命令形には、自己に執着し、自己に言い聞かせる気分の命令形が多い。
  木の葉降りやまず急ぐな急ぐなよ 加藤楸邨 
  柿若葉多忙を口実となすな 藤田湘子 
  逝く吾子に万葉の露みなはしれ 能村登四郎
 このあたり、命令形の二系統は、俳人の質や俳句観をも照らしだす「鏡」と言ったら言い過ぎだろうか(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
7 雨の中に立春大吉の光あり
 大正七年二月十日、『ホトトギス』発行所句会のものと『五百句』に注記される。
 実景は雨だが、「立春大吉」の御札とその文字に、心中春の光を予感し、見て取る主観句である。もちろん、雨や雨粒にはわずかな光はあるかもしれない。だとしても、それを読み取ろうとする構えから生まれた心象を詠んだ句であることに変わりはない。特にこの句で詠まれた「光」に対する予感は、「立春大吉」の文字から触発されたものであることは、肚にとめておく必要があろう。
 虚子の揮毫では、この「立春大吉」をことさら御札めいて、黒々と墨書したりはしていない。ただし、注意深く見ると「大吉」の「大」の撥ねと、後に来る「光」の字の撥ねとは、対応している。
 そもそも「大」の字の運筆は、先に左に筆先を払い、取って返して右に払うもので、本来撥る字ではない。ところがこの句の虚子の「大」は右の払いの最後が若干撥ねていて、後にくる「光」の右撥ねの呼び出しになっている。こうして一句の眼目は、「光」であることが視覚的にも確認できるところに、虚子の揮毫で句を鑑賞する醍醐味が出てくる。
 「立春大吉」とは、立春の時期に玄関や部屋の入口に張る厄除け札のことである。あたりは雨だが、外界との通路である門口に貼られた「字」から、眼には見えない「光」を感じた。その意味で中七を字余りにする「の」はこの句の重要なレトリックである。
 一般に「中八」の言葉通り、字余りの中でも、中七を字余りにするのは禁忌とされる。俳句のリズムの研究は、五七五が実は休拍・無音の一拍を加えて、六八六であること、さらに前と後の六は伸びる傾向にあることを計測・実証した(別宮貞徳『日本語のリズム』)。これを前提にすれば、中七は延ばして詠まないものなので、ここでの字余りは、おおむねダレるのである。
 ただし、上五で既に字余りがある場合、続く中八は字余りの反復となり、このダレが感じられない。所詮リズムとは反復と同義なのである。
  春や昔十五万石の城下哉 子規
 掲句も上五・中七の連続の字余りだが、掲句の「立春大吉」に、わざわざ「の」を加えた意図は何だったのだろう?類例を挙げよう。
  春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎
 やはり「中八」を、堂々とやっているばかりか、上五に字余りはない。しかし、この句は「槍投げ槍に」ではいけない。あえて「て」を入れ、ひと呼吸を置くことで、投げた槍に歩み寄る主人公に焦点があたる。「槍」の繰り返しが独自のリズムを作っており、中八も気にならない(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
 掲句で言えば、まず上五に「雨の中に」と「の」が用意周到に置かれている点が注目される。この字余りを際立たせる「の」の印象を引き継いで、「立春大吉の」の「の」があることが了解される。
 加えて、「の」の繰り返しは、求心性をもたらす。
  ゆく秋の大和の国の薬師寺の      塔の上なる一ひらの雲 佐佐木信綱
  この庭の遅日の石のいつまでも 虚子
 掲句も字余りの「の」の反復を行うことで、光など一切ない春の雨の中、「立春大吉」の文字にのみ「光」を感じたことを焦点化して見せたのである。
 最後に、先の「葛城」の句との関係で言えば、神仏への祈りというテーマのつながりもある。このあたりに編集の妙を認めることも可能かと思う。
『虚子百句』より虚子揮毫
7 雨の中に立春大吉の光あり 
8 さしくれし春雨傘を受取りし
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国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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thyele · 1 year
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2023年5月13日
朋さん「ハルカマニアに向け印刷会社などにデータを送ったりなどしまして… MAZOHYSTERIAのステッカー2種とTシャツを販売します。 キッズ垂涎のデザインは今夏トツダンでシャレオツな一着となるので是非。 ※川越髏血吐死舞は地元以外でのステッカーやパー券の売り付け・勧誘はありません…。」https://twitter.com/manicure_ojisan/status/1656917788550897665
眞田 一航@アマミツゝキさん「遂に今夜、、、 さなだとだいすけは 20:15〜 だいすけかみて さなだはしもて 目に物見せてやんよ 震エテ待テ、」https://twitter.com/snd151202/status/1656901667059806209
Kayaさん「おはようございます。 今夜はこちら。 配信あり、当日券あり、 アフタートークあり。 お待ちしております🦋」https://twitter.com/Kaya_rose/status/1656777439656439808
UNCLOCK LOVER 頼田陵介さん「オケのmixはまだ残ってるけども楽器類全曲録りおしまい🙆‍♀️ ゴールが見えてきた✌️✨ #UNCLOCKLOVER #2ndALBUM #レコーディング #20230616発売 #吉祥寺SHUFFLE https://t.co/82Iut9pzly」https://twitter.com/yorita_ryosuke/status/1656934262711660544
lucy+peter=esolagoto / 中村真悟さん「あっ!!! すいませんwww」https://twitter.com/lucy_peter/status/1656937011096457217
Kazumahariiさん「https://t.co/h0pUZLP0UB」https://twitter.com/kazumaharii/status/1656937172426199042
神田聖子さん「時代はClassic ROCKの時代に 突入致しました!  全曲オリジナル 🎸優多歌 Live ご覧くださいね♪チャンネル登録宜しくです   2023/5/9目黒碑文谷アピア40ライブ優多歌+山崎怠雅+ふなもと健祐 https://t.co/0I0IexXdqr @YouTubeより https://t.co/FbNBkDxLfl」https://twitter.com/kandaseiko/status/1656088759207890944
真矢さん「是非ご覧ください🙇‍♂️」https://twitter.com/331shinya/status/1656941498192240641
seekさん「アプレゲール×MIMIZUQ Book 本日は ボーカル森 翼 ベースseek ソロロングインタビュー 5周年を目前に控えて かなり深いところまでお話しさせて頂きました 自分たちの活動を振り返って言葉にできるって嬉しいね。 https://t.co/1snFpEpuxg」https://twitter.com/seek_bonshisya/status/1656944868281942016
seekさん「Psycho le Cému 9月発売NEW ALBUM「RESISTANCE」 SETLIST公開 「MYSTERIOUS STUPID TRAP」はアレンジにLM.CのAijiさんをお迎えして 「あなたにくびったけ」は月蝕會議のエンドウ.さんをお迎えして サイコルシェイムの新たな扉を開いて頂きました 全国ツアーでもどんどん披露していくのでお楽しみに https://t.co/pX8KufJCkW」https://twitter.com/seek_bonshisya/status/1656947505786142722
BUCK-TICK OFFICIALさん「\📢お知らせ/ 🔱BUCK-TICK TOUR 2023 異空-IZORA-🔱 「ご来場の際のお願い / 公演・公演当日に関しての注意事項」の内容を更新いたしました。 ツアー特設サイト[TICKET]よりご確認ください。 ご理解とご協力をお願いいたします。 ▶️https://t.co/JGYxcqEtJu #BUCKTICK #BUCKTICK35th #異空 #IZORA」https://twitter.com/BUCKTICK_INFO/status/1656947571577741312
BUCK-TICK OFFICIALさん「🔱BUCK-TICK TOUR 2023 異空-IZORA-🔱 / 5月13日(土)香川公演より 会場でのアンケート配布を実施❗️ \ 記入済みアンケート用紙は、会場に設置のアンケート回収箱へ📥 ※会場では筆記用具のご用意はございません。 ※後日郵送も可。 ▶️https://t.co/g9MfwAQwA5 #BUCKTICK #BUCKTICK35th #異空 #IZORA」https://twitter.com/BUCKTICK_INFO/status/1656947571707764738
RYUICHI KAWAMURA INFOさん「【本日5/12(金)19:00開演!】 e+ Streaming+ Ryuichi Kawamura Live2023「Home」#31“Complete Album VII〜Sora〜” 5月12日(金)開演19:00 ※アーカイブ視聴は5/16(火)まで ※ライブ音源の中から3曲をもれなくプレゼント!! https://t.co/fNY3L0p0nA https://t.co/W4peiDAfjX」https://twitter.com/RYUICHIinfo/status/1656949260162830337
森 翼Tsubasa Mori/MIMIZUQさん「今日はアプレゲールさんの取材でした、 ソロでのロングインタビュー。6/17MIMIZUQワンマンに向けての話やタイでの暮らしについてお話してきました。夜はラジオ。生放送ですよー。 ◆NACK5『BEAT SHUFFLE』に森翼&seekが19:25頃〜リモート出演予定。 https://t.co/0TorUV4b90 https://t.co/seOjB5JqoH」https://twitter.com/mori_tsubasa/status/1656955400997212161
中島卓偉さん「久しぶりの女子限定、男子限定ライヴです! この日はライヴレコーディングします! 是非叫びに来てください! 特に男子頼む! #中島卓偉」https://twitter.com/takuinakajima/status/1656958031656288256
清春さん「New Acoustic Camp 2023 出演決定 9/16 (土) ~ 9/18 (月祝) ※清春の出演日は後日発表となります。 会場:水上高原リゾート200 群馬県利根郡みなかみ町 ファミリーマート先行 5/13(土)12:00 ~ 5/24(水) 23:59 https://t.co/cTv5csHw87 official site https://t.co/2kdhEOICyW #清春… https://t.co/Iy8UtYgqTl」https://twitter.com/ki_spring/status/1656960198576320514
キリ(luin)🥁さん「昨夜はluin池袋手刀◎ 久々の曲と新曲と色々できまして、40分ちょうど良い…そしてやっぱりあっという間でした!この為に生きている〜 どうもありがとうございました(*_ _) 今回らいむらいととカラビンカがご一緒で嬉しかったです♪バンドとしては似てないですが波長が合う感じがしております勝手に🙏」https://twitter.com/kiri_drums/status/1656959711701516288
NewAcousticCampさん「New Acoustic Camp 2023🎪 第二弾出演者発表🎉 ACIDMAN JUN SKY WALKER(S) 片平里菜 清春 locofrank LOW IQ 01 & THE RHYTHM MAKERS PLUS SOIL & "PIMP" SESSIONS T字路s TRI4TH 👆9組のみなさんを解禁しました! 明日5/13(土)正午からはファミリーマート先行がスタート⏰ https://t.co/B75j1qGPHI https://t.co/DgxcjuPeER」https://twitter.com/NewAcousticCamp/status/1656947336168472577
YOSHiPONさん「luin@池袋手刀お疲れ様でした! 新曲もあったり、緊張感あるセトリでした〜 MCで言ってた6/8は池袋ではなく渋谷ChelseaHotelだったりします 笑 良き3マンでした、ありがとう。 https://t.co/uGy49oDGpF」https://twitter.com/YOSHIP0NxxxTOR/status/1656864753783017472
幻覚さん「. FUCKOFF RECORDS から お知らせ 「幻覚」 セルフカバーミニアルバム 『 kill mother fucker 』 を発売する事が決定しました! CD先行発売GIG 08月26日(土)京都MOJO 09月16日(土)高円寺High 詳細は後日。 https://t.co/L7TVRWAzIM」https://twitter.com/genkakuoffical/status/1656962436157816835
BEAT SHUFFLEさん「今日5/12は… ①19:25~ アルバム「時巡りの列車〜Prequel〜」を配信リリースした 【#MIMIZUQ(#森翼 #seek)】がリモート出演☆ 質問はこちら→https://t.co/DxF9dQOecH 締切は今日19:45です。 #bs795 #NACK5 https://t.co/Qnn97WjX0a https://t.co/JJ183gTiUu」https://twitter.com/beat_shuffle/status/1656876967277514754
YUKI / 大崎由希さん「LILLYちゃんがKISAKIさんの30周年プロジェクトに参加しています。 後日発表される詳細をお待ちください🥀」https://twitter.com/yuki_osaki/status/1656611240503046144
LILLYさん「KISAKIさんの30周年プロジェクトで、とある撮影してきました🎥🎥 さて、何に参加したのか😏楽しみに待っててね!!!」https://twitter.com/Lilly_litlili/status/1656610866228514818
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xf-2 · 5 years
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、��界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「��の勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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text-huruhota · 2 years
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墓守と静寂
コレーと先代死神/『GODARCA』バレあり
 多忙な原初のアルカナであっても、自由時間に機関の敷地内を徘徊することは許されている。今日は眠たい訓練もなく、神話生物の方も目立った活動がないのか出動の命令も出ていない。コレーは貯蔵庫にしまわれていたパンをいくらかマントの下に隠し、そそくさと敷地内の共同墓地の一つに向かっていた。  むしゃむしゃとパンを齧りながらしばらく歩みを進めると、苔むした墓地が見えてくる。高い建物の裏手に位置するその場所は、昼間でも日当たりが悪く薄暗くて、ほどよくひんやりと湿気ている。加えてここは人気がなく、盗み食いをしていても見つかりにくい。コレーの気に入りの場所の一つだった。  この区画に眠っているのは、引き取り手のない職員や兵士の骨が主であると聞いている。敷地にも資源にも余裕がなく、それぞれに立てられた墓標はない。墓地の隅に、小さな石の慰霊碑のようなものが一つだけ立てられていた。  慰霊碑に刻印された文字はコレーには読めない。けれど祈る人のいない墓場は、死神にとって気が落ち着くものだ。  静寂。  碑にもたれて座り込み、残りのパンを貪っていると、いつのまにか隣に気配があった。 「?」  パンを含んだまま見上げれば、そこには金髪の、コレーの知らない男が立っていた。  背丈は同期の『節制』より少し低いくらいだろうか。金髪で、見たかぎり雰囲気は若い。どこかの隊員なのか、行儀よく白い制服を身に纏っている。目元は影になっていて見えなかったが、唇はこちらを眺めて微笑んでいるようだった。 「ああ、すまない。昼食の邪魔をしてしまっただろうか」 「……」  もぐもぐと噛み砕いた欠片を嚥下しつつ、首を横に振る。とくに差支えないという意が伝わったのか、男は「ありがとう」とにこやかな笑みを浮かべた。そのまま慰霊碑に視線を移しつつ、ゆったりと話しかけてくる。 「ここにはよく来るのか?」  そう。こくりと男に頷き、そこで食べていたパンが無くなってしまった。最後の一口をしばらく噛んでから飲み込んで言葉を返す。 「静かだから」  コレーの答えを聞いて、男は少し瞬いたようだった。視線が再びこちらに移ったのを感じて、つられて彼をじっと見返してみる。ようやく覗いた男の瞳はコレーのそれよりも薄い水色をしていて、薄暗い墓地の中でも鈍く光ってみえた。 「ああ、そうか。君が『死神』なのか」  手の内の髑髏を見下ろし、どこか納得したように呟く口調に、コレーは聞き返すほどではない違和感を覚えた。自分が『死神』としてこの神話殲滅機関に入ってから数年は経つように思うが、この隊員は自分の顔を知らなかったのだろうか。  首を傾げつつ、そう、と頷く。手持無沙汰になった手で髑髏を抱えてじっと見つめていると、男はその場で片手を広げ、くるりと墓地を振り返った。金色の睫毛に縁どられた瞳が少し伏せられる。 「俺も静かな場所は好きだ」  歌うような口調で彼は続けたが、その声色はどこまでも静かだった。口元には相変わらず貼り付いたような笑みが浮かんでいる。 「だからかな、」  ふと自分の足下を見ると、影が伸びていた。 「全部静かになってもらいたいと思うときがある」  慰霊碑の根元から、男のものでも自分のものではない影が伸びている。古びた石の下からにょろりと現れたその人影は、次の瞬間にはひとり、ふたりとその数を増やし、苔むした墓地の上に広がっていった。  重なり合い蠢くそれらは男でも、女でも、少年でも、老人でもあった。背格好も男女もばらばらの人影たちは、ゆらめき、黙したまま囁き合い、泣き叫び、何かを嘆いている。  それらがすべてここに埋まったものたちの影であることが、コレーには不思議と理解できた。 「君は?」  男が次に言葉を発したときには、ものいわぬ影の海は墓地中に広がっていた。  問いかけた目と視線が合って、――コレーの脳に、機関に到着した際に人づてに聞いた話が浮かぶ。  ひとつ前の『死神』は強力な力を持ち、原初のアルカナとして働いたが、  やがてその力を人間に向けた疑いを持たれ、危険因子として処分された。 「……、」  コレーの直感が、体内に眠る『原初のアルカナ』が告げる。彼は自分と同じものであると。   「――『君は私、』」  いつのまにか黒塗りの影に変わった男の姿に、ゆっくりと片手を伸ばす。地を蠢く影たちが、一斉に自分たちを見つめて動作を止めるのがわかった。  これはきっと、彼らそのものではなく影なのだろう。身体を離れて、なお世界に残る思念の残滓。彼らの嘆きが、彼らをかつて憎悪へと駆り立てた雑音が、意識の内側に流れ込んでくる。ざわざわと迫る音や声の波は、薄れた記憶のなかの怒号や蔑みともどこか被って聞こえた。 「私は君」  ゆるく制服の袖を引いて見上げると、男は瞳だけが光る顔でこちらを見つめる。  静寂。死。  私たちは皆いずれ骨へと変わる。それはこの世に救いを持たないものにとって、唯一最後に約束されている安息である。コレーはそう考えていたし、今でもそう思っている。 「……私は、」  遠くで誰かの笑い声が聞こえた。  あれは隊舎の方だろうか。聞き覚えのある話し声たちを耳が無意識に拾って、頭が勝手に賑やかに話す幾人もの顔を想像した。ふと指先に温度が戻ってくる。 「まあ、うるさいのも嫌じゃない」  少しの沈黙。 「そうか」  男が笑う。パチン、と指を鳴らす音がして、慰霊碑から伸びた黒い影たちはいつのまにか姿を消していた。 「ん���  頷くと、男の大きな手が、そっとコレーの頭を撫でた。それを避けなかったのは、相手への信頼ゆえではない。微かに髪を撫でるその指が、慣れ親しんだ、見送るべき遺体の冷たさを孕んでいたからだ。 「もう休む?」 「……そうするよ」  雲がはがれ、墓地を覆う影が少し薄らぐ。人間のように戻った男の姿も、それと同時にふわりと揺らいでいった。 「親愛なる人類に、」  男が瞼を閉じ、白い指が慰霊碑を撫でる。 「――アルカナに、祝福を」  それは呪詛のようにも聞こえたし、本心からの祝福にも聞こえた。 「コレー」  しばらくその場で瞼を閉じていると、頭上から聞き慣れた声が降ってくる。 あの幽霊よりも背の高い褐色肌の男が、ここに居たか、という顔でこちらを見下ろしていた。 「ミシェラ」  これから食後の昼寝をする予定だったのに。呼んだ口の端から欠伸が漏れる。何の用かと三角座りのままでじっと見上げていると、「ちょっと来い」と腕を引いて立たされる。 「シンが��ってきてる。……新しいやつも一緒に」 「? 新しいやつ」  首を傾げると、未発見のアルカナの捜索に出ていたザラスシュトラがまた適正者――『愚者』のアルカナらしき人物を発見したのだと告げられた。聞くところによると、適正者は十代の女らしい。 「貴様と同じくらいの歳じゃないか」   それであちら側が騒がしかったのだ。納得すると同時に思考が巡る。  最近、長らく空席であったという『悪魔』の席をブルーニュイが埋めたばかりだ。そこに『愚者』のアルカナが発見されたということは、つまり。 「揃った?」 「揃った」  ミシェラが頷く。  初代以来、22種すべてのアルカナが機関に揃うことはこれまでなかった、と聞いたことがある。 「……」  瞳を閉じる。これが吉兆なのか、何か大きな出来事が起こる前触れであるのか。  それは、コレーには知る由もないことだ。そのまま何となく睡眠に戻ろうとした頭に、「オイ」と柔く手刀が落とされる。 「行くぞ」  わし、と頭を軽く掴まれる。手から伝わるのはあたたかく生ぬるい、生者の体温だった。  腕を引かれて、向こう側の喧噪が近くなる。静かな墓地を少しだけ振り返る。 「……おやすみ」  日なたに歩き出す少女の背中を、もの言わぬ慰霊碑が見送っていた。
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toshihikokuroda · 2 years
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基地建設進む石垣島 沖縄
米軍に土地も家も奪われ ここに次は自衛隊か…
2022年6月17日【1面】
現地ルポ
 米中が軍事衝突し、日本が参戦したら、真っ先に戦場になるのが沖縄です。77年前の沖縄戦と同様、住民は“捨て石”にされかねません。自衛隊のミサイル基地建設が強行されている石垣島を訪れました。(斎藤和紀)
 石垣島中央部の平得大俣(ひらえおおまた)地区。於茂登(おもと)岳の麓の森が切り開かれ、15台以上のクレーンが並んでいます。岩を削る音が鳥の鳴き声をかき消し、ダンプカーなどの工事車両が頻繁に出入りしています。防衛省は、中国艦船を想定した地対艦・地対空ミサイル部隊や警備部隊など約570人の配備を計画。2019年から工事に着手し、22年度中の完成を狙っています。
 「米軍に土地も家も全て奪われてここに来た。次は自衛隊か」。於茂登地区の元公民館館長の嶺井善(まさる)さん(56)は声を震わせます。同地区は、沖縄本島にある米軍嘉手納基地などを造るために土地家屋を強制接収された人たちが開拓した地域です。「集落に住む人の3分の2は嘉手納基地に土地を全部とられた」(嶺井さん)といいます。
 (1面のつづき)
「台湾有事」起きたら 石垣住民5万 避難不可能
戦場にしない外交を
 集落の入り口にたつ「開拓之碑」には、最初の開拓民の一人である嶺井善さんの父親の名が刻まれています。20代前半で南城市から単身で移住。手作業で木を切り倒し、大きな石は水牛に引かせて取り除き、家を建てました。生活は苦しく野菜やお茶、パイナップルなど何でも作りました。
 父親が入植してから約7年後に嶺井さんが誕生。朝5時から野菜の収穫を手伝い、学校から帰宅した後は、畑の石拾いやヤギの世話などをしました。おなかをすかせることが多く「あの時は生活が苦しいのが当たり前だった」と振り返ります。
 自衛隊配備は、住民にとって青天のへきれきでした。米軍に追われ、苦労を重ねて開拓した住民は軍への抵抗感は強く、近隣の於茂登、開南、川原、嵩田(たけだ)の4地区は反対決議をあげました。しかし、防衛省は住民の声を無視し、建設を強行しています。
日米共同基地に
 日本政府は「島しょ防衛」と称して、鹿児島沖から奄美、沖縄本島、宮古、石垣、与那国にいたる南西諸島に、自衛隊のミサイル部隊配備を進めています(図)。その背景には「第1列島線」に日米のミサイル網を配備して中国を抑止するという米国の戦略があります。
 米海兵隊は、中国の沿岸地域に臨時の戦闘拠点を設け、地対艦ミサイルで中国を抑止する「遠征前進基地作戦」(EABO)の具体化を加速。念頭に置くのは台湾有事です。
 米軍と自衛隊が台湾有事を想定した日米共同作戦計画の原案を策定したと共同通信が報じました。それによると、中台間で戦闘が起き、日本政府が安保法制に基づき、「重要影響事態」と認定した場合に、南西諸島が米海兵隊の臨時拠点となり、日米で中国艦艇を排除するとしています。
 22年1月の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の共同声明には、台湾有事を念頭に、「南西諸島での自衛隊の体制を強化し、日米の施設の共同使用を増加させる」と明記。日米共同基地化が鮮明となりました。
 そうなれば南西諸島は軍事攻撃の標的となります。石垣市の人口は約5万人で、全員避難させることは不可能です。石垣や宮古島など先島全体では人口11万人にのぼります。加えて、台湾からの避難民も想定され、大混乱は必至です。
避難計画示さず
 政府は、国民保護法に基づき、自治体に「国民保護計画」の策定を義務づけ、「有事」において住民避難などを行うとしています。
 石垣市の国民保護計画によると、観光シーズンや混雑の発生状況などに応じて「複数の避難実施要領のパターン」を事前に作成すると明記。しかし内容は「非公開」(担当者)です。弾道ミサイルを想定した住民参加の避難訓練も石垣市で実施されたことはなく、住民からも「どれだけ上等な計画が作成されても、計画を事前に知らせずに5万人を避難させるのは無理だ」との声が上がります。
 弾道ミサイルや航空機による攻撃があった場合にはコンクリート造りの頑丈な施設や地下施設に避難すると明記。しかし、市の担当者はそうした施設について、「対象施設の指定はしてないが、そんなにないと思う」と述べました。
 また、基本指針には本土から遠い沖縄県の離島での避難には「国が特段の配慮をする」としており、内閣官房や国土交通省は航空機や船舶などの運送手段の「確保に努める」としています。しかし、石垣島で全住民を避難させるための運送手段の確保について、内閣官房は「有事の対処に支障をきたしかねないので答えられない」と回答を避けました。
 マグロ漁師の座波(ざは)幸次さん(61)は、「有事の際に船で逃げるのは現実的じゃない。島に大人数を運べる船はないし、漁船は遅いから真っ先に狙われる。戦争が始まればどこにも出られない」と危惧します。
 また、自衛隊に住民を保護する考えはないことが分かっています。日本共産党の赤嶺政賢衆院議員が18年に暴露した防衛省の内部文書「機動展開構想概案」(12年3月29日付)では、石垣島に敵が侵攻した場合、「(敵・味方の)どちらかの残存率が30%になるまで戦闘」という凄惨(せいさん)なシナリオを想定。しかし、「国民保護」は「自衛隊が主担任ではない」としています。「軍隊は住民を守らない」―。沖縄戦で住民が体験した冷厳な事実です。
逃げ場のない島
 住民からも懸念の声が相次いでいます。
 嶺井さんは、「ウクライナでも軍事基地や人が集まる場所が真っ先に攻撃された。有事になれば島に逃げ場はない。沖縄戦のように、空を見上げて『自分に当たりませんように』って祈るしかない。そうならないための外交ではないのか」と訴えます。「私たちは6年前から『有事になったらどこに逃げるのか』と問い続けたが、市や国は避難計画の内容は秘密だと言う。それでは避難なんてできない。石垣には地下もないし、そんな非常識な話があるか」
 ミサイルの弾薬庫から約400メートルしか離れていない開南地区の小林丙次・元公民館長(60)は、火薬庫が攻撃されれば住民が巻き添えになると懸念。「基地がなければここは戦場にならない。政府は『国を守るため』と言うが、私たちも国民の一人だ」と憤ります。
 住民の約9割が農家である川原地区の具志堅正・元公民館長(60)は、急ピッチに工事が進む現状に不安を抱きます。「戦争が起きてからでは遅い。日中交流を進めてほしい」と言います。「ここは農業や畜産をするなら一等地だ。基地の近くは島の飲料水や農業用水の水源地で、農作物にも影響が出る」と危機感をにじませます。
 基地建設は住民の民意を踏みにじって進められました。賛否で住民が分断させられる中、若者を中心に「石垣市住民投票を求める会」を結成し、18年に基地建設の賛否を問う住民投票の実施を求める署名を、有権者の約4割から集めました。市自治基本条例に基づき実施を求めましたが、推進派の中山義隆市政は���否。現在、那覇地裁で係争中です。同会の宮良麻奈美さん(29)は、「市や国は、住民は『いないもの』として配備を決めた。それなら有事も住民を『いないもの』として扱うでしょう」と懸念します。
 岸田文雄政権は、ロシアのウクライナ侵略に便乗して、敵基地攻撃能力の保有や軍事費倍増など「力には力」で対抗する軍拡路線に突き進んでいます。軍事で対抗すれば軍拡の悪循環に陥り、偶発的な紛争を招く危険性が高まります。
 「石垣島に軍事基地をつくらせない市民連絡会」共同代表で医師の上原秀政さんは、「ウクライナ侵略で明らかなように、基地が標的にされ、住民は避難する暇もなく巻き込まれる。絶対に戦争は起こさせてはいけない」と指摘しました。
 沖縄戦の最中、石垣島は海と空が閉鎖されたことで食料などの物資が届かず、住民は飢餓に襲われたと紹介。旧日本軍が住民を山奥に強制避難させたためマラリアが蔓延(まんえん)し、石垣島で約2500人が亡くなったとして、「直接攻撃されなくても、島に閉じ込められるだけで恐ろしい事態になる」とも危惧します。上原さんは、琉球王国は日本や中国をつなぐ「平和の島」だったとし、「琉球では寝床に刀を飾らず三線を置いていたという。武力ではなく文化や音楽を通じた国際交流が大事だ」と訴えました。
 (4面) (しんぶん赤旗)
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kl-na · 2 years
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2022/5/12 (木) - 柳生
起床。熱は36.8度。
今日はガイドグループの研修(兼定例会)。37度を超えていたら参加を見合わせようかと思っていたが、ギリギリで回避。実際、関節の痛みがなくなって、動くには問題ない。ただ、病み上がりのだるさのようなものはある。頭もまあまあボーッとしている。
母、デイサービス。母の迎えと同じタイミングで、自分も家を出た。 今日は雨。今のところ、大した降りではない。
研修先は柳生だ。 歴史や地理に詳しくない方だと、「柳生一族の陰謀」やらで、柳生家は江戸幕府の近所みたいなイメージが何となくあるんじゃないかと思うが、柳生一族がいたのは奈良なのだ。かく言う自分も奈良に来るまで知らなかったが。
奈良駅からバスに乗って一時間ほどのところ。バスに乗り込んで10分も経つと、田舎の山中といった様相になった。ただ、今日は雨が降っていたので、車窓から眺める風景がなかなか良かった。晴れてクリアな風景も悪くはないが、雨ふりだと風景に変化が伴い、今の季節だと新緑も映えて、実によろしい。
バスから降りると、カエルの声が至るところから聞こえてくる。まだ体が小さいのか、少しキーの高い軽やかな音。うん、良いな。雨の日の研修も捨てたものではない。ワクチンの副反応上がりだが、来て良かった。
久しく出番がなかったGPSロガーだが、YAMAPを起動して、今日の行程の記録を開始する。…もっとも、記録開始のボタンを押したら放っておくだけだが。
行程は、旧柳生藩家老屋敷→摩利支天碑→柳生八坂神社→歯痛地蔵→陣屋跡→天乃石立神社→一刀石→芳徳禅寺→柳生家墓所。柳生観光協会の方に、ガイドをお願いしている。
家老屋敷は山岡荘八が一時期所有していたことがある。そして実際に住み、大河ドラマの原作を執筆していたりもする。…知らなんだ (今回、何も予習せずに臨んでいる)。
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摩利支天碑。最近のもので、建立の際に千葉真一が来てくれたそうな (柳生一族の陰謀つながり)。
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摩利支天碑は小高いところにあり、眺めが良い。手前の建物は廃校になった中学校で、現在はコスプレ撮影会場やドローンの飛行練習場所になっているそうな。
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歯痛地蔵。人徳も商才もある人物が、それ故に謀略に嵌められ、処刑されてしまう。そのとき「三年で柳生を灰にする」と言い残した。果たして三年後の最後の一日、柳生家の陣屋が焼け、灰となった。その亡き霊を鎮めるため、彫られた地蔵。…でも、何で「歯痛」なんだろう (聞くのを忘れた)。
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天乃石立神社。一刀石に行く手前にある、巨石がご神体の神社。一刀石よりも神々しい。後ろ姿はちょっと猫っぽいシルエット。
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芳徳禅寺。柳生家の菩提寺。開山は沢庵和尚。資料館が併設され、柳生関連の古文書や武具などを見ることができる。新緑が美しかった。
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柳生家墓所。少し変わった形の墓石。とっくり型の墓石に、酒樽型の台座、手前の盆はお猪口型という、なかなか振り切った墓もある。
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柳生家墓所から急な坂道を下って、スタート地点の柳生バス停付近に戻る。 バスを待つまでの間に、十兵衛食堂というバス停近��のお食事処で昼食。とろろ定食を頼んだ。美味しい。店屋物の類は安くて、天ぷら丼550円とか。鬼滅うどんという、なかなか興味そそられるメニューもあった。
帰りのバス。研修中、歩いているときは気にならなかったが、帰りのバスではさすがに疲れやだるさを強く感じる。 でも、参加して良かった。柳生はいいところだった。
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新型コロナ。5/12午前 (日本時間) の時点で死者数増加が、アメリカ230人弱、インド24人、ブラジル120人強、ロシア100人弱、メキシコ記載なし、イギリス記載なし、フランス100人弱、イタリア120人弱、ドイツ230人弱。 世界全体での今日1日の感染者数は、577,000人弱の増加。
日本では、今日一日で感染者41741人増加、死者32人増加。感染者数は、東京4216人、大阪3290人、神奈川1841人、愛知2373人、福岡2424人、北海道3176人、沖縄2330人。奈良の感染者数は467人。 (出典: Worldometer、NHK)
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iseilio-blog · 3 years
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春風吹起時
慕春風
廖土盛 松山公學校
緊閉雙唇,帶著威嚴眼神容姿端然站在講壇,多年德之光環,
嚴肅道德家之肖像。我等一年級五十餘名的學生默默的坐著。
時間五分十分的慢慢過去 . . . . . 老師無論時間過了多久,一句話
都不開口。我們就這樣在這波瀾漸漸深刻擴散的恐怖之中,預想
著在事情的必將解決中抱持著些許的希望。 時在初春一月的開端。當時的高等科因為教師不足,一般學生一、
二年級合計約四十名左右,因此一二年級學生,男女合班教學。
到了三月,二年級生即將畢業,而一年級就將成為學校的最上級生,
怎麼說都開始燃燒著自尊心與虛榮心交錯的燦爛希望。然而 xxxxxx
卻說 :老師說雖然是接近台北市,和市內比起來,教育設備還是
比較落後。而且學生的父兄對自己子弟教育的想法不徹底。雖然
是在松山,每年全島一流的中學,或進入實業學校多數的新入生,
市內各小公學校(譯註:日治時期日本人讀 “小學校”。台灣人讀
“公學校”),實在相差太遠。當時,從還不被當成正課存在的漢文
開始,(以支那讀法發音),唱歌或農業由另外專任的老師教。
有一天在大講堂練習紀元節歌,用完了午餐,在第五節上年輕老師
的課的時候的事情。平常對這些吵吵鬧鬧的青少年就感到不滿的
年輕老師,對這些覺得歌唱不過是一種多餘的娛樂而顯得輕視的
學生,什麼時候要好好教訓一番。就在大講堂整理秩序的時候,因為
不太順意,就拔出了用來對付學生的傳家寶刀,大喝一聲,閉嘴 !
. . . . . 的時候, 預料到他那如鶴一般的聲音,迎接的是從烏合之眾
出來,充滿嘲諷,意味深長的 「 哦哼-」 (咳嗽聲)一聲。年輕的
老師生氣了 ;有如此汙辱老師體面的事情嗎 !?在 「 哦哼-」 的
空氣波動中,充了血的眼睛,努力的搜尋著 :「 誰 ?是誰 ?現在
出了怪聲的是誰 ? . . . . 把手舉起來。」 . . . . . 聲音在空間迴響著,
忽然靜默了下來的學生們,只是無事人一般,閃爍著眼睛,似乎
一個都沒有要出來正直的承認。寒冷的北風吹著,把歌唱本放在
鋼琴上面,意氣昂然,大踏步的跨出門檻,年輕的老師走了。看著
他那交激著憤怒與激動的他的背影,有著一抹的寂寞。 聽到自己擔任的班級,有如此不肖之徒對來到教室的導師,從頭
一語不發。學生們無不帶著充滿恐怖與後悔的眼睛看著老師。 靜默而帶著嗚咽,老師含著眼淚開口說話了。
「 長的兩年,短的一年,一起來這裡學習的諸君之中,今天發生
有這樣的同學,我感到很遺憾。過去的上級生也時有所聞如此讓
老師難堪的事情發生。不過,確信今年的諸君不會有這樣的事。
. . . . . . 我應該不會再去追究誰必需負責,不過不是不去分明
這件事的是非。有這樣的人,正是這整個學級的空氣欠缺緊張感
的證據。然而,就今天這件事情,痛感諸君等都有著相同的責任。
希望從今天開始要痛改前非。再兩個月,有的就要出社會,有的
要升級,必需擔負做為最高年級生的重任。無論如何,有求於諸君
的是,在成為賢明的人之前,請先做一個正直的人;這是我有求於
諸君的。古人說 :〈人,必需做凡人。〉請切記此事,做一個真正
的人,然後為國家社會工作。拜託。」 幸運的是,今天打開 同窗生名簿 看的時候,可以看到各位都分別
在各自的事業認真工作,起碼是報答了老師的一端而感到安慰。 ----
後記=被要求寫一篇對 小林先生(小林繁夫)的感想錄,前��後後
已經半年過去。這期間我一個字也沒寫,一再的受到知友 青木君
的催促,對自己的怠慢一直到今天,實在感到非常抱歉。 由於到中南部出差一個禮拜,今天回到家,看到了三張明信片。
一張是十五日來自青木君的催促,後兩張分別是二月八日與
二九日連續兩日,筆跡端正秀麗,來自恩師的信函。 然後最後的一封,(實在是很是失禮 ;不斷的。)
「 青木新居君 企劃的感想錄,取名〈慕春風〉預定在 紀元節 出刊
一事,正快樂的期待中。」 實在慚愧至極,寫下此文。 當然,我等現在製作的如同老師活生生的石碑(慕春風),會永遠
的做為老師具體人格的表現,而為我們永遠保存。每次見到,就
欽慕老師的人格,並為之感化,也必需瞭解老師的教導對我們有著
深長的意味,而傳遞、播種。
(在台北之一偶)
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容姿端然として教壇に立たれた先生の引縮つた口元 ,威嚴の
ある眼差は崇高な教育家の多年の德の光であり嚴肅道德家の
肖像であつた。我一學級五十餘名の生徒は 默然として席に
付いた儘,この學園一偶に捲起した嵐の次第に擴く深刻に
恐怖感ない者なかつた。時間刻刻進五分十分 . . . . . 先生は何時
迄經つて何一言くれなかつた。我我はそれだけに嵐の愈隱か
ならざる事を預想しながら時のみ解決してくれるであろう言う
一事に微かな希望の絆を結んでおた。 時は春の初め,未だ淺い一月の事だつたと覺えておる。當時
高等科の生徒一、二年合せて四十名になるのが普通で教師の
不足からか 每年此の一二年の生徒を男女合併して教えることに
なつておた。三月にもなれば二年級は愈愈卒業であり,一年級
は學校の最上級生になれると言う,何れに取つても輝しい希望?
に燃えておる 酣で自尊心と虛榮心交叉し初ておる時であつた。
xxxxxx 卻說,先生は台北市の近くとは言え,市內に比たら未だ
未だ教育の設備の後れた處で,然も生徒の父兄も自分の子に對
る教育の思想不徹底である松山に居なら 每年全島一流の中學,
或に實業學校に多數の新入生入れて市內の各小公學校の恐畏と
なつておた,當時未だ未だ正課の一つとして存在した漢文(これ
は從來の支那音讀む)を初め 唱歌や 農業 は外に專任の先生に
教えてもらつておた。或日の紀元節の歌の練習に大廣間の教壇
で我我は 晝食を濟まし,五時間目に若い先生に習つ時である。
不斷から此の膨脹しつづ 青二才供に對して手を燒かしておた
此の若い先生は唱歌を一種の必要外の道樂とのみ思い,此の
道樂の先生著しく輕視しておる生徒を何時かは知らしてやろう
と思つておたが 愈愈その時が來たのである。廣い講堂の教壇
に整然と列べさせようとした處,唯では仲仲思う通りに行か
ないので遂に平生から藏しておた下學年に對する傳家の寶刀を
拔いて,大喝一聲,默れ!!. . . . . . 處が豈はからんや;彼鶴
一聲を預想して發したのが 或生徒の皮肉と諷刺と罵倒を含んだ
〈エツヘム〉と言う意味深重なる一言を以つて迎られたので
ある。彼氏若い先生は怒つた!教師の體面を污すにも程がある
, . . . . . 然思つたであろう . . . . . 雜然たる烏合の眾の中から一つ
の〈エツヘム〉なる空氣の波動の源る血眼になつて探し求め,
嗅き出そうと懸命になつておた〈誰だ!誰だ,今變な聲を出した
のは . . . . 手を上ろ。〉. . . . . 聲は廣間に響き,急に默つた人間の
塊の中には 唯我が事に非ずと言いだそう 澤山の眼が光つでおる
のみのであつた,誰も自發的に己だと正直に言い出す樣には思れ
なかつた。寒い北風に吹れておた pianoから唱歌帳を疊むと意氣
浩然と大股に教室の敷居を跨いて若い先生は出て行��た。憤怒と
感激に激え乍ら去り行く彼の姿は哀れにも一抹の淋しさが窺れた
のである。 自分の擔任しておる學級から斯かる不逞な徒が居る事を聞いて
教室に入つた先生は 初めから一言を發しなかつた。されど誰
一人としてこの嚴然たる先生の態度を恐怖と後悔に滿ちた眼で
眺めないで居なかつた。 靜かに口を開いた先生は無念の淚に咽びながら言つた。
「 長者は二年,短い者は 一年,共に學で來た諸君の中から今日
の樣な事を起す生徒が居つた事つ私は殘念に思います。過去於
ては上級生で時時不心得な考を持つて先生方を困らした事も
あつた。併し今年の諸君等にはそん事がないと確信しておた
. . . . . . 私はこれ以上にその責任者を追求しないであろうがこの
事は事の是非を分明にしないからではなく斯かる人が居ること
は此の學級全體の空氣が緊張を缺いておる證據であり,然し
今日この事に就て諸君等が皆等しく責任を痛感し,今日以後
必悔い改める事を要望して己まないからである。後二ケ月も
すれば或者は實社會に出、或者は學校の最上級生としての重責
を負わなければならぬ,が何れにしても賢明な人間になる前に
真面目な卒直な人間になつてくれる事を僕は 諸君に求めるので
ある。古人は 〈人間需らく凡人なるべし〉と言われた,どうか
この事を忘れないで真の人間として國家社會の為に働かれる事を
賴みます。」 幸にして今ありし日の同窗生名簿を明けて見た時,皆それそれ
一定の事業に真面目に働いておるのを見る事が出來るのがせめて
の先生に對する報の一端と自ら慰めておる。 後記=小林先生の感想錄を書けと言われたのはもうかれこれ半年
になるであろう。其の間僕は何一つ書かなかつた為に,本書の
發起人たる知友青木君から再三慫恿を受けられ私の怠慢より
今日迄の事を申譯なく思つておる。 所がはからも 一週間程中南部方面に出張して今日歸つて見ると
同僚から三通の葉書を渡された。一通は十五日付けの例の青木君
から慫恿の言葉であり,後二通は二月八日と二九日の二日互り
連續に麗筆跡未だ瑞瑞しい樣な恩師小林先生からのであつた。
然しその一枚の最後に( 無斷で誠に失禮とは思いますが )
「青木新居君かねて御企ての感想錄を 「慕春風」 銘打つて紀元節を
御上梓との事を樂しんで待つています。」 と御喜の言葉を御漏
らしになつておるのを見て私は今日迄一文も書いておないこと
を深く慚愧に堪えなく思つたので早速筆を握り,この下手な
一文を草し初めたのである。 勿論我我が今作る先生の生きたる石碑は先生の人格具體的な
一表現となつて永く我我によつて保存され,そしてそれを見る
度に先生との人格を慕い、感化れるもので先生にとつてよりも
その教へ、德を慕はんとする我にとつてより深い意味を有する
ものであらねばならぬと思うのである。然して更に一步進んで
考へた時,先生を紀念するこの一冊の「慕春風」が餘ににも貧弱な
ものではないかと恐れるものである。何故なれば,この慕春風
が先生の高貴な人格の一表現であるとすれば,我我は到底一文を
も出すに堪え難いもので,この貧弱な才能では到底先生の人格を
表現し得るものではなく,卻つて污すものである事を恐れるもの
である。少くとも私についではこの事が言へるのである。先生の
本島に於ける育英事業の功績に就ては今更言うまでもないことで
殊に先生の才能と人格が播かれた種は今や台灣は勿論,內地は
大陸方面もその良き芽を吹き出しておるものであると信ておる。
斯かる事に思いを至す時真に先生の生きたる紀念碑が東洋の各地
に於て有機的に生長し行くものだと思はねばならない . . . . . .
斯く言へばとて些かもこの慕春風の價值を減するものではない,
先生の良き種は敢えて大林となるが,然し世人はその種の持主
撒主を往往にして忘れるものである。この時に於でこの 「慕春風」
は真に社會に先生の人格を傳へるであらう。
(在台北ノ 一偶)
(2) A time for us Romeo and Juliet 1968 - YouTube
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kachoushi · 9 months
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各地句会報
花鳥誌 令和6年1月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年10月2日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
日本海見ゆる風車や小鳥来る 泰俊 駅近の闇市跡に後の月 同 山門を標とするや小鳥来る 同 師の墓の燭新涼のほむらかな 匠 渡り鳥バス停一人椅子一つ 啓子 紫に沈む山河を鳥渡る 希 ひらひらと行方知らずや秋の蝶 笑 なりはひの大方終了九月尽 数幸
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月4日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
朱の色に蝋涙たれし日蓮忌 ただし コスモスのたなびく道を稚児の列 洋子 抱かれて稚児は仏よ日蓮忌 同 めらめらと朱蝋のうねり日蓮忌 同 ピストルの音轟ける運動会 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月5日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
友の墓秋空の下悠然と 喜代子 棟上げの終はりし実家や竹の春 由季子 菊人形幼き記憶そのまゝに さとみ 長き夜や楽し思ひ出たぐり寄せ 都 強持てに進められたる温め酒 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月6日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
蜜と恋どちらも欲しく秋の蝶 都 八幡の荘園かけて飛ぶばつた 美智子 彼岸花軍馬の像を昂らせ 都 露の手に一度限りの炙り文 宇太郎 杖の歩や振返るたび秋暮るる 悦子 露けしや既視感覚の病棟に 宇太郎 コスモスの乱れ見てゐて老いにけり 悦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月7日 零の会 坊城俊樹選 特選句
天高く誇り高きは講談社 きみよ 華やかに滅びゆく香や秋の薔薇 和子 秋冷を暗くともして華燭の火 千種 白帝は白い梟従へて きみよ 薔薇は秋その夜会より咲き続け 順子 肘掛に秋思の腕を置いたまま 光子 爽やかや罅ひとつなきデスマスク 緋路 一族の椅子の手擦れや秋の声 昌文 邸宅の秋に遺りし旅鞄 いづみ 洋館に和簞笥置いて秋灯 荘吉
岡田順子選 特選句
栗の毬むけば貧しき実の二つ 瑠璃 流星を見ること永きデスマスク いづみ 正五位のまあるき墓を赤蜻蛉 小鳥 秋天の青は濃度を増すばかり 緋路 月光の鏡の中で逢ふ二人 きみよ 聖堂は銀に吹かるる鬼芒 いづみ 実石榴をロイヤルホストで渡されて 小鳥 石榴熟る女人の拳より重く 光子 秋の灯を落して永久のシャンデリア 俊樹 毬栗を踏み宰相の家を辞す 緋路
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月9日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
コスモスの島にひとつの小学校 修二 檸檬の香そは忘れざる恋なりき 美穂 嫁がせる朝檸檬をしぼりきる 朝子 母乳垂る月の雫のさながらに 睦子 タンゴ果て女は月へ反りかへる 同 護送車の窓には見えぬ草の花 成子 やはらかく眉をうごかし秋日傘 かおり 天と地を一瞬つなぐ桐一葉 朝子 流れ星太郎の家を通り過ぎ 修二 正面に馬の顔ある吾亦紅 朝子 傘たゝみ入る雨月のレイトショー かおり 幾千の白馬かけぬく芒原 成子 古備前に束ねてさびし白桔梗 睦子 糸芒戻れぬ日々を追ふやうに 愛 黒葡萄いつもの場所の占ひ師 修二
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月9日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
新生姜甘酢に浸り透き通り のりこ 風を掃き風に戻されむら芒 秋尚 足音にはたと止まりし虫の声 怜 朝露に草ひやひやと眩しかり 三無 出来たての色の重たき今日の月 秋尚 徒競走つい大声で叫びたり ことこ 秋落暉炎のごときビルの窓 あき子 秋祭り見知らぬ顔の担ぎ手に エイ子 秋霜や広がる花を沈ませて のりこ 面取ればあどけなき子や新松子 あき子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月9日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
万葉の歌碑一面に曼珠沙華 信子 金木犀優しき人の香りかな みす枝 昇る陽も沈む陽も秋深めゆく 三四郎 廃線の跡をうづめて草紅葉 信子 駅に待つ猫と帰りぬ夜寒かな 昭子 天の川下界に恋も諍ひも 同 ひらひらとバイクで走る盆の僧 同 蟋蟀の鳴く古里や母と歩す 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月10日 萩花鳥会
夜鴨なく門川暗くひろごれり 祐子 サムライ衆ナントで決戦秋の陣 健雄 これ新酒五臓六腑のうめき声 俊文 露の身や感謝の祈り十字切る ゆかり 虫食ひのあとも絵になる柿落葉 恒雄 すり傷も勲章かけつこ天高し 美惠子
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令和5年10月14日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
魁の櫨紅葉の朱句碑の径 三無 花よりも人恋しくて秋の蝶 幸子 咲き初めし萩の風呼ぶ年尾句碑 秋尚 女人寺ひそと式部の実を寄せて 幸子 豊年の恵みを先づは仏壇へ 和代 篁を透かし二三個烏瓜 三無 日の色の波にうねりて豊の秋 秋尚 曼珠沙華に導かれゆく道狭し 白陶 二人居の暮しに適ふ豊の秋 亜栄子 林檎好き父と齧つたあの日から 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
ガシャガシャと胡桃を洗ふ音なりし 紀子 秋日和小児科跡は交番に 光子 歩かねば年寄鵙に叱咤される 令子 稲の秋チンチン電車の風抜けて 実加 不作年新米届き合掌す みえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月15日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
街騒も葉擦れも消して秋の雨 三無 大寺の風を擽る榠櫨の実 幸風 尾を引きて鵯のひと声雨の句碑 秋尚 水煙に紅葉かつ散る結跏趺坐 幸風 菩提樹を雨の宿りの秋の蝶 千種
栗林圭魚選 特選句
観音の小さき御足やそぞろ寒 三無 絵手紙の文字の窮屈葉鶏頭 要 駐在も綱引き離島の運動会 経彦 小鳥飛び雨止みさうにやみさうに 千種 秋霖や庫裏よりもるる刀自の声 眞理子 句碑の辺に秋のささやき交はす声 白陶 秋黴雨だあれもゐない母の塔 亜栄子 梵鐘の撞木の先や秋湿り 眞理子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
考へる事に始まる端居かな 雪 おは黒を拝み蜻蛉と僧の云ふ 同 道草の一人は淋しゑのこ草 同 朝霧の緞帳上がる音も無く みす枝 秋灯火優しき母の形見分け 同 役目終へ畦に横たふ案山子かな 英美子 孫悟空のつてゐるやも秋の雲 清女 穴感ひ浮世うらうら楽しくて やす香 栗食めば妹のこと母のこと 同 天高し飛行機雲の先は西 嘉和 屋根人を照らし名月たる威厳 和子 秋深し生命線の嘘まこと 清女 蜩に傾きゆける落暉かな かづを
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月18日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
枯れて行く匂ひの中の秋ざくら 世詩明 一声は雲の中より渡り鳥 同 見えしもの見えて来しもの渡り鳥 同 菊まとひ紫式部像凜と 清女 越の空ゆつくり渡れ渡り鳥 和子 秋扇に残る暑さをもて余す 雪 山川に秋立つ声を聞かんとす 同 鳥渡る古墳の主は謎のまま 同 鳥渡る古墳は謎を秘めしまま 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月20日 さきたま花鳥句会
SLの汽笛を乗せて刈田風 月惑 寝ころびて稜線を追ふ草紅葉 八草 残る海猫立待岬の岩となる 裕章 大夕焼分け行く飛機の雲一本 紀花 曼珠沙華二体同座の石仏 孝江 白萩の花一色を散り重ね ふゆ子 秋の野や課外授業の声高に ふじ穂 秋寒し俄か仕立てのカーペット 恵美子 秋空や山肌動く雲の影 彩香 爽籟や赤子よく寝る昼下り 良江
………………………………………………………………
令和5年10月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
生身魂梃子でも動かざる構へ 雪 古団扇此処に置かねばならぬ訳 同 飾られて菊人形の顔となる 同 亭主運なき一枚の秋簾 一涓 菊の香に埋り眠る子守唄 同 叱りてもすり寄る猫や賢治の忌 同 友の家訪へば更地やそぞろ寒 みす枝 叱られて一人で帰るゑのこ�� 同 朝霧が山から里に降りて来し やすえ 隣家より爺の一喝大くさめ 洋子 菊師にも判官贔屓あるらしき 昭子 人の秋煙となりて灰となる 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年10月27日 月例会 坊城俊樹選 特選句
靖国の秋蝶は黄を失ひて 愛 柿に黄をあづけ夕日の沈み行く 緋路 神池の何処かとぼけた鯉小春 雅春 細りゆく軍犬像や暮の秋 愛 うらがへり敗荷の海のなほ明し 千種 英霊の空はまだ薄紅葉かな 愛
岡田順子選 特選句
秋蝶に呼ばれ慰霊の泉かな 愛 鉢物はしづかに萎れ秋の路地 俊樹 年尾忌も近し小樽の坂の上 佑天 道幅は両手くらゐの秋の路地 俊樹 秋天へ引つ張られたる背骨かな 緋路 老幹の凸凹としてそぞろ寒 政江 板羽目の松鎮まれる秋の宮 軽象 御神樹の一枝揺らさず鳥渡る かおり
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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thyele · 1 year
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2023年3月25日
United Products Inc.さん「youソロライブ https://t.co/bBernXz0v8 チケット先行申し込みは今日まで❗️ これ観ないと、いつ観るの? 最高にかっこいいギタリストのライブをぜひ❗️ #ニコリライトツアーズ #ニコリ #JanneDaArc #ジャンヌダルク #you #ギター #shuji #中島卓偉サポート」https://twitter.com/UnitedProducts_/status/1639099729056522240
森 翼mori tsubasa/MIMIZUQさん「タイにライブハウス文化はほとんど無い。ドサまわりして顔と名前を売っていく。昨日はBARに営業へ。すると「日本で一番この歌手が好きだ」とカラオケを歌ってる人がいた。耳をすませば中島卓偉。バンコクの夜がエモかった。@takuinakajima そして…祝!Live決定🇹🇭 昨日頑張ったから今日はお休み☺️ https://t.co/A88nDTrFj7」https://twitter.com/mori_tsubasa/status/1639119983119826947
Karyuさん「[STAFF] Official Fanclub 「K'RONE」更新 • Gallery 良い感じになっている 笑っている(VIP) • Blog 3月24日。 H.U.G(VIP) https://t.co/59vdlMLt9t #karyu」https://twitter.com/karyu_official/status/1639126896083619840
Ryuichi Kawamura officialさん「今夜19時〜 https://t.co/LIpZ7hWJW3」https://twitter.com/RyuichiKawamur2/status/1639132751835320321
Ryuichi Kawamura officialさん「ニコドラ😊 https://t.co/cLyQCnVVcq」https://twitter.com/RyuichiKawamur2/status/1639132843262746624
ryoさん「この先の景色でお逢いしましょう https://t.co/2T8GmlWqZm」https://twitter.com/ryo_dalli/status/1639132875999301638
DETRUIREさん「THE ONENESS 3rdCollection 予約受付中 SGZ Costume FishLeatherLapelFlareJacket ステージ衣装そのままの仕立て、そのままをサイズ展開。再生ポリエステルを使用したサテン生地。ラペル、肩章にFishLeather THE ONENESSスワロ装飾 @SUGIZOofficial @THE_ONENESS_JP #THEONENESS #SUGIZO #DETRUIRE https://t.co/CIPBA9a39F」https://twitter.com/DETRUIRE5923/status/1639113057208274944
Ryuichi Kawamura officialさん「皆さんありがとうございました🫶🏻 ブログ更新しました! https://t.co/KcpMpGUeyo」https://twitter.com/RyuichiKawamur2/status/1639142632390815744
遊吟 Shinjiさん「6月4日大阪ワンマンライブ情報😚👍✨ 是非祝いに来て下さい😚🙏✨ 予約受付開始は3月25日21:00〜 それ以前の受付はできませんのでご了承下さい。 ※ [email protected]に名前、日付、会場名、チケット枚数、連絡先を記入して送信してください。 https://t.co/WAWXTuCpzX」https://twitter.com/yugin_shinji/status/1639140494713430017
BUCK-TICK OFFICIALさん「星野英彦 自伝本「Simply Life 〜Life goes on〜」 本日分完売いたしました。 #BUCKTICK #BUCKTICK35th」https://twitter.com/BUCKTICK_INFO/status/1639149289791430666
Ryuichi Kawamura officialさん「アメブロを投稿しました。 『今日からこちらでブログを始めさせて頂きます✌️』 #アメブロ #河村隆一 https://t.co/zkszWue3C9」https://twitter.com/RyuichiKawamur2/status/1639150108267929600
金髪豚野郎K助(偽殿下)さん「カイエの新曲のプリプロ音源を再生したら、こんな感じに… 音源作成したのが舜ちゃんなのでまあ納得ですけど 曲名いつの間に決まったんや… どっかで聞いたことある曲名や ヒデキはこのタイトルで詞書くんか… あ!カイエ京都出身だからか!? (°_°) https://t.co/4QhXA7qDO9」https://twitter.com/goldenpigdrumer/status/1639150567741345793
☕️ふなもと健祐🥁さん「昨日は碑文谷APIA40にて、【優多歌】さんの後ろで🥁叩きました! めっちゃ楽しかったー! 回を重ねるごとにグループのサウンドが良くなっていく実感が堪らないです。 APIA40ならではの迫力の動画もあるのでぜひ観てください! ベースとドラムのソロもあるよ。 https://t.co/kyDrMBr2fD」https://twitter.com/funamoch1/status/1639155802471809025
Hiroshi Nar/ひろしNA・燻裕理さん「3月24日0時31分にひろしnaは天国に旅立ちました。」https://twitter.com/aroenemo/status/1638968925953343488
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小美玉たかしさん「ごきげんよう♪いよいよ明日です♪皆さん逢いに来て下さい♪」https://twitter.com/TAKASHI_OMITAMA/status/1639162448581390338
KINGRYOさん「こんにちは✨ 2023.3.24(金)16:15 ご挨拶忘れていてスイマセンKING RYOです!! ライブまでまったりと過ごします☺️ https://t.co/tDLvLpvewk」https://twitter.com/kingryoworld/status/1639164030379241473
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KING OFFICIALさん「【当日券あり】 2023.3.24(金) 上野音横丁 HARUniAImaSHOW 出演:怪人二十面奏/KING/10.8℃の世界線/SEVENTY WAY OP GUEST:ヘラwith Ohanami Fever OPEN 17:30 / START 18:00 当日券あり。 直接会場にお越しください   ■入場チケット 入場チケット前売¥4,000(+D) / 当日¥4,500(+D) https://t.co/IMW7HD3FSR」https://twitter.com/KINGOFFICIAL114/status/1639177439325880321
十三月 紅夜さん「🌐ACM:::-O Next Live🌐 この日のワタクシはVocal & 照明⚡️ 西邑氏が全曲ギターを演奏する新モードでお送りします! 新曲も盛り沢山🔥 是非来てね✨🌹 ・ 『美NEO_G.』 3月27日(月) @池袋音処手刀 🪐予約 https://t.co/oXXWhr7Ppb ※ アンケート欄に「お目当てのグループ」をご回答下さい🛸 https://t.co/sA7t1sBBKj」https://twitter.com/jusangatsukouya/status/1639184984094416896
十三月 紅夜さん「ACM::: リハ、行って来ました🔥 初の4人編成!!! 新曲もとっても良い感じ✨🌹 ワタクシのソロ曲もあります❣️ 熱い夜にするよ!!!! 楽しみにしていて❤️‍🔥 #AConcreteMur https://t.co/iouGdafrno」https://twitter.com/jusangatsukouya/status/1639186031017889793
中島卓偉さん「翼くん、なんやよくわからんけど、なんか、凄い、この感じ、って言うか、ありがとう。 #森翼 #中島卓偉」https://twitter.com/takuinakajima/status/1639196638123282433
Karyuさん「1番暴れるつもりで御座います🫂 https://t.co/eUbw6YZlWA」https://twitter.com/karyu_official/status/1639197427935903748
SOPHIA 松岡充の return to OSAKA~本当に進化したのか?!~さん「/ #SOPHIA 松岡充の return to OSAKA ~本当に進化したのか?!~ 🕒3/17 今夜9時からオンエア✨ #松岡進化 #松岡充 🌻充先生、春を感じてます🚙🛞⛳️🏌️‍♂️ \ 📡#radiko ⇨ https://t.co/BfGwgs7J1v https://t.co/xGPmEsRYnR」https://twitter.com/MATSUOKASHINKA7/status/1636688422428626944
3LA@SPOILMANクラファン残5日!さん「Burn Myself Magazine vol.2 (ZINE) sik高澤編集のZINEです。 3LAもコラムのコーナーを持ちました。 長文で怪文書「地方vs東京について」を寄稿しています。 https://t.co/sz8o6GRJJt https://t.co/Hcm1iDnttp」https://twitter.com/3LA_Disc/status/1638901225990258688
3LA@SPOILMANクラファン残5日!さん「split / sik + mogro (Flexi + ZINE) sik x mogro、静岡ローカルのスプリット作Flexi、DLコード付。リリースを重ねてきたsikは今回の曲が一番良いです。The LoyettesのDeepaさんコーラスも神。 ZINEは別売りしているBurn Myself ZineのVol.2と同じです。 https://t.co/nqaIsFknn9 https://t.co/L5cOgUPVlV」https://twitter.com/3LA_Disc/status/1638901011388715010
KOSUKE SAITOさん「明日はsikでベース弾きます! ずっと気になってたTKA4で演奏します。雰囲気良さそうで楽しみ! 三島のmogroも一緒です!」https://twitter.com/anagumataro1/status/1639148284299325441
Akira Takazawaさん「明日3/25(土)東高円寺TKA4にてsik:mogroスプリットのレコ発です。 タイミング合えばよろしくお願いします。 https://t.co/yA9MasMJw8」https://twitter.com/Akira_Takazawa/status/1639198757979037696
Yoshikiさん「.@ybyyoshiki も 近々US, ASIA などの海外へ進出する予定です。ありがとう。Thanx We are also planning to expand overseas, including the US and ASIA, in the near future. Thanx! #YOSHIKI https://t.co/pXDXPOF57k #YoshikiWine #ybyyoshiki @YOSHIKISTORE https://t.co/aZnB0vmRGo」https://twitter.com/YoshikiOfficial/status/1639200890648424448
森 翼mori tsubasa/MIMIZUQさん「とても味わい深い夜でした。卓偉さんの音楽にありがとうです!」https://twitter.com/mori_tsubasa/status/1639200920386043904
GOETHE [ゲーテ]さん「高級時計ブランド「HUBLOT」との連載、 『YOSHIKIが迫る挑戦こそ力』。 第2回は、数々のミリオンセラーを世に送りだしてきた 幻冬舎の見城徹社長とのクロストーク。 3月25日発売のゲーテ5月号を要チェック! @hublot @hublot_japan @yoshikiofficial #PR #HUBLOT #ウブロ #YOSHIKI #GOETHE https://t.co/VXaBwAF4s8」https://twitter.com/GOETHE_magazine/status/1639190317953089538
ROCK_AND_READさん「4⽉12⽇発売『ROCK AND READ 106』表紙公開 BUCK-TICK 櫻井敦司/今井寿 星野英彦/樋⼝豊/ヤガミ・トール THE LAST ROCKSTARS Petit Brabancon MUCC 葉⽉ 有村⻯太朗 cali≠gari PENICILLIN SuG 武瑠 咲⼈ ⾼松浩史 ハラグチサン The Brow Beat アルルカン RAZOR KISAKI https://t.co/l9aJUDkLLf https://t.co/BOX8VdS13M」https://twitter.com/rock_and_read/status/1639191333251473409
sikさん「明日Otonashi Recordsにて購入できます。 “Grinding”という曲でThe LoyettesのDeepa(@swervecity620)氏が参加しています。 格好良いです!」https://twitter.com/sik_bm_records/status/1639202209144659969
sikさん「zineとFlexi Discを新しく取り扱ってもらいました。 今自分がやってる事を既にやってきてる方達に扱ってもらえて嬉しいです! ZINEは定期的に発行して回覧板や糸電話のようなSNSとは違う回線の物にしていきます。」https://twitter.com/sik_bm_records/status/1639201079035588608
sikさん「後日また書きますが、3LA水谷氏以外にもFurther Platonic、Nobody Celebrates My Birthday、ミウラレオ、yOshi、颯爽etcのInterview、コラムが掲載されています。 年に3-5回くらい発行したいと思ってます。 今回はなかなか良い内容だと思います!」https://twitter.com/sik_bm_records/status/1639204355957202948
SPICE[音楽情報メディア]/e+さん「【インタビュー】 #deadman 再結成後、活動を続けるなかで芽生えたものとは? 「もう“いつ終わろう”っていう言葉は出てこなくなりました」 https://t.co/NoPxr3m77A https://t.co/XvaSVeZWto」https://twitter.com/spice_mu/status/1639205437475278848
Hydeさん「[STAFF] 6月より開催する全国6都市全18公演のワンマンツアー『HYDE LIVE 2023』のHYDEIST会員限定チケット先行受付中! ▼受付期間 3/27(月) 23:59 まで 詳しくは↓ https://t.co/MUeNHwEvbL #HYDE #HYDELIVE2023 #声出し解禁 #BEAUTYANDTHEBEAST https://t.co/rroryRhwER」https://twitter.com/HydeOfficial_/status/1639206065555529730
Yoshikiさん「ありがとう。 大好評すぎて生産が追いつかない🤣 #嬉しい悲鳴 です! #YOSHIKI https://t.co/PgMtbG2EdK #YoshikiWine #ybyyoshiki @ybyyoshiki @YOSHIKISTORE https://t.co/aMtktr5yA2」https://twitter.com/YoshikiOfficial/status/1639207791373205504
中島卓偉さん「#中島卓偉 #YouTubeメンバーシップ 第7回配信 只今、配信準備中。 この後【20時から】配信! まもなくです! ▼配信アドレスはこちら https://t.co/rLwE6m0Rdo ▼メンバー登録はこちら https://t.co/2MA4aYeofR #卓偉 #アコースティック #弾き語り #たまらん #配信 #LONGWAY https://t.co/UNbgYDuGCV」https://twitter.com/takuinakajima/status/1639209289360482309
Yoshikiさん「昨日1日、今年初めてのオフのはずだったのに。。働いてしまった😱🤣 #YOSHIKI @Yoshiki_Staff」https://twitter.com/YoshikiOfficial/status/1639211813186449409
Yoshikiさん「このカードも持ってる人? Do you have this card too #YOSHIKI #YoshikiVISAカード(#VIP/#VISA) #YoshikittyMastercard にて先行抽選受付中! 3/26(日)23:59時 まで Tickets詳細 https://t.co/zGS4Zg4iZI https://t.co/BQzrzXffxp  #世界一豪華なDINNERSHOW https://t.co/HpYb8yp6Jj… https://t.co/pJbHmoPLwO」https://twitter.com/YoshikiOfficial/status/1639214055369113600
3LA@SPOILMANクラファン残5日!さん「「地方vs東京について」とタイトルつけてますがそんな対立軸なんてもはや存在しないと言い切っています。 過去の人たちが作り上げた当時の価値観では現代の人は幸せにはなれません、という課題です。 新興宗教が流行るのも納得です。」https://twitter.com/3LA_Disc/status/1639205194616700929
恐さん「相手を変えるのは 難しい 相手が 蛹のままなら 僕が蛹以外のものに なるしかない」https://twitter.com/bpmkyou/status/1639217196961501184
niguさん「ツイキャスのアーカイブですがまさかの8カメでした。 朝から仕込みをして頂き手刀のマジを見ました…† とある曲で僕が十字架になる演出はビールケースをわざわざセッティングし摩天楼さんの演技指導でそれ様にカメラスイッチしておりましたよ。 他にも細かい演技のカメラワークは見どころ満載。」https://twitter.com/nigu_chang/status/1639219778664681473
首振りDollsさん「🧠Ailiph Doepaリリースツアー出演決定🧠 ⚡︎2023/06/11(日) 🧠福岡Queblick アイリフドーパ「ブレイン E.P.」リリースツアー BRILLIANT BRAIN TOUR OPEN: 18:00 /  START : 18:30 ADV / ¥3,500 ▶︎TICKET e+にてチケット発売中!! https://t.co/z74FhMM3DA https://t.co/pNXjtUAXtt」https://twitter.com/KubihuriDolls/status/1639220513028595712
Ailiph Doepaさん「【ツアーゲスト解禁🧠⚡️】 5/14(日) 名古屋 w/DEVILOOF 5/21(日) 仙台 w/PRAISE / SABLE HILLS 6/9(金) 心斎橋 w/おとぼけビ〜バ〜 6/11(日) 福岡 w/首振りDolls 6/17(土) 町田 w/おはようございます / ulma sound junction 🎟チケット発売中(詳細は下記HP)⬇️ https://t.co/BFUYuYqIgy https://t.co/tGLOwIJPnL」https://twitter.com/Ailiph_Doepa/status/1639220519156195331
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【福井県謡曲古跡めぐり越前/嶺北編】12箇所目  2021/3/22
能「楠露」「桜井駅」
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
《福井県福井市新田塚》
南北朝時代の延元3年〔1338〕7月2日、南朝方の忠臣新田義貞の戦死の場所と伝えられています。敦賀の金ヶ崎城の戦いでは、途中城を脱出して金ヶ崎救援の対策中に落城、恒良親王は捕えられ、嫡男の義顕と尊良親王は自害しました。その1年後藤島城攻撃に向う途中、この地で敵と遭遇、矢傷を負って深田に倒れ自害して果てました。
江戸時代の明暦2年〔1656〕この地の百姓が、水田の中より古冑を発見。当時の福井藩軍学者井原番右衛門が義貞の物と鑑定。〔1660〕年に藩主松平光通が石碑を建て、遺跡を顕彰しました。写真の堂の中にこの石碑があります。新田義貞の鉄製銀象嵌冑には、元応元年〔1319〕8月の刻銘があり、重文に指定され市内西木田の「藤島神社」あるそうです。
 新田塚の場所は、芦原街道の交差点大宮交番より少し芦原よりの街道筋にあります。
藤島の戦い
新田義貞は、攻めたてて足利高経(斯波高経)を逃走させると、河合城に3万余騎の軍勢を集めて、足羽七城を攻撃しました。
黒丸城に斯波高経が籠ったため、軍勢を進めましたが、新田勢に加わっていた平泉寺(へいせん-じ)の衆徒が北朝に寝返って、藤島城に籠城します。
そのため、平泉寺衆徒の籠った藤島城を攻撃することになり、新田義貞は味方を鼓舞するため、僅か50騎程度で、加勢するため大回りするコースで向かったようです。
しかし、その途中に、北朝勢も斯波高経や吉見頼隆が、小黒丸城(黒丸城)から出陣した得江頼員、細川出羽守、鹿草公相(彦太郎)ら軍勢300が藤島城へ援軍として向かっており、両軍は遭遇して戦闘状態となります。
これが、1338年閏7月2日、藤島の戦い。
僅かな手勢の新田義貞は、中野宗昌の退却進言に対して、部下を見殺しにして生き残るのは不本意であるとし、共に戦ったと言います。
燈明寺畷(とうみょうじなわて)の水田にはまって、馬が動けなくなったところを矢を浴びて落馬した新田義貞は、更に眉間を射���かれました。
そして、新田義貞は、頚を太刀で掻き切って自刃したと伝わります。
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xf-2 · 6 years
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毛沢東はソ連と仲違いした時、長年にわたって途方もない予算と将兵の養成が必要な通常兵器より、短期間に決定的な抑止力を高める核・ミサイルが効果的であると認識した。
 そこで人民の半分が餓死してでも「両弾一星」(原・水爆と人工衛星)を完遂するという決断をした。
 その根底には、中国という国家は人民(約8億人)の半分、4億人を犠牲にしても国家は生き残れるという意識であった。
 また、「政権は銃口より生まれる」と喝破したように、国共合作で国民党軍を日本軍と戦わせ、共産党軍は後方にいて増勢につなげ、続く内戦で勝利して政権奪取につなげる考えがあった。
 実際、430万人いた国民党軍は150万人となり、120万人しかいなかった共産党軍は400万人となり、累次の内戦で約800万人が戦死したとも言われる。
中華人民共和国の建国後の犠牲者
 毛沢東は建国10年後の1958年から61年までの3年間、人民公社を地方ごとに造って自給自足で生き延びることができるように大躍進運動を行う。
 しかし、公社間の競争精神は実体の伴わない過大報告となり、結果的には約2300万人が餓死したと言われる。
 毛は失敗を認めて国家主席を辞任。1962年1月の中央工作会議で劉少奇国家主席が「三分の天災、七分の人災」と述べて大躍進を批判する。
 しかし、建国以来続けてきた反右派闘争に勝利して1964年に復権する。この15年間に約950万人を虐殺したとされる。
 1966年からは10年に及ぶ文化大革命が続く。この間の政治的な痛めつけでの死亡(約2000万人)や餓死者はほぼ1億人にも上ったとみられている。
 3度の批判を生き残った鄧小平は毛の死去(1976年)後の78年末に「改革開放」の大号令をかけ、今日の大発展につながっていく。
 しかし、どこまでも社会主義市場経済で、共産主義体制の維持が前提であった。
 胡耀邦が総書記に就任(1980年2月)してチベットの惨憺たる有様に衝撃を受け、失政の責任は共産党にあるとして、政治犯の釈放や信教の自由と僧院の再建などの自由化政策を進めるが、共産党幹部の批判を受け87年1月解任される。
 続く趙紫陽も学生たちの民主化要求に柔軟な対応を示し、天安門広場に出かけ学生を説得するが失敗に終わる。
鄧小平は共産党政権維持への懸念を深め、中国人民解放軍による武力弾圧を決断し、民主的な抵抗を戦車で粉砕する(「天安門事件」、「6・4事件」とも呼称)。
 趙は3週間後(6月23日)に解任され、上海市委員会書記であった江沢民が抜擢される。
 天安門事件の死者は発表されていないが、米国の秘密文書によると、死者は1万454人、死傷者は4万人以上となっている(方政・釈量子対談「生き証人が語る 血塗られた天安門の虐殺」、『WiLL』2016.7号所収)。
 改革開放後の経済的発展は貧富の差を拡大させ、犯罪や暴動も頻発した。400万人の死刑囚収容施設は不足する状況で、死刑免除と引き換えに外国への労働者として派遣しているとも言われる。
すべてにおいてスケールが違う中国
 列挙すればきりがないが、広大な領土と巨大な人口、困難な統一、近代化の遅れ、そして何よりも言論の自由がない共産党独裁の強権政治で「物言えば唇寒し」だ。
 他方、愛国無罪が大きな「虚言」を蔓延らせる。
 日本では厚生労働省の為体で統計の信頼性が揺れているが、中国は国家ぐるみで、GDP(国内総生産)さえ疑問視されている。
 内乱や自然災害、イナゴの異常発生による蝗害などが絶え間なく起き、その都度100万単位の死者・餓死者を出してきたとされるが、何一つ正確な数字の公表はない。
 秦の始皇帝が即位したBC221年から共産党結成の直前1920年までの2140年間に160回の内乱があり、累計年数は896年で、13年おきに約6年間の戦闘が起きてきたとされる。
 また、この間に5150回の天災、うち1035回の旱魃、1037回の水害が発生。旱魃や水害は2年に1回、蝗害も含めた天災は5カ月に1回の頻度で発生してきたことになる。
 施政が行き届かない広大な領土ゆえに、何か起きれば大飢饉に直面した。1810年900万人、1811年2000万人、1849年1375万人、1876~78年1300万人の死者を出す大飢饉が発生している。
 20世紀に入ってからも、1928~30年の大飢饉では西安市のある陝西省で200万人が流民となり、1930~32年には1000万人が餓死している。
 なお、支那事変で日本軍が開封を占領した1938年、蒋介石軍が日本軍の追撃阻止のため、黄河の堤防を決壊させ、下流域(河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54000平方キロ、北海道の6割)の水没で100万人死亡、被害者は600万人に上ったとされる(『郭沫若自伝』は日本軍の無差別爆撃と対外宣伝した)。
 このため、3省の農地が農作物ごと破壊され、河南省では1942年に凶作、続く翌年は蝗の大群発生で、300万人が餓死したという。
 こうした餓死者が出ると、得体の知れない茸も食し、子供を交換して食すこともあったとされる(易子而食…子を替えて食らう)。
中国人による中国人の斬殺
 問題は人為的な残虐行為で、『揚州十日記』がある。
 明朝滅亡時、満清の軍隊が南下して勢力を南京に及ぼそうとした時、南京政府の要所、揚州城の攻防で王秀楚という人物が家族や兄弟と逃げ回る間に体験した記録である。
 わずか10日間の出来事であるが、中国社会で昔から蔓延るあらゆる慣習が見て取れる。
 指揮官の逃亡、兵士の略奪・強姦・放火・惨殺などの暴虐、金品の強要や強奪などが展開される。
 2人の女性が逃げ回り、足が泥の中にぬかって脛まで没している。「1人が女の子を抱いていたのを、兵卒は鞭で叩いてその子を泥の中に捨てさせ、そのまますぐ追い立てて行った」。
 数十人のものは牛か羊かのように駆り立てられて「少しでも進まぬと直ちに笞を加えられ、あるいはただちに殺された。女たちは長い綱で数珠を通したように頸をつながれ、一足ごとに躓き転んで、全身泥まみれになった」。
 「どこにもかしこにも幼児が馬の蹄にかけられ、人の足に踏まれて、臓腑は泥にまみれ、その泣き声は曠野に満ち満ちていた」
 「途中の溝や池には死骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた。池はそのために平らになっていた」
 逃げ回った挙げ句、通りに出た。
 「通りには人の首が重なりあって横たわっていたが、真っ暗で誰が誰やら見分けがつかなかった」
 「(中略)城壁の下には死骸が積み上げてあるため、歩くのに難渋した。何度つまづいては起き上がったか知れなかった。何かに驚かされるたびに、地面に倒れて死骸の真似をした」
 彼らは掠奪や強姦ばかりでなく、火災も起こす。四方に火事が起こり、「こっそり戸外に出て見ると、畑の中には死骸が積み重なっていて、中には息絶え絶えにまだ生きているのもあった」。
 男(兵士)は幼女と男児を連れた婦人を捕えた。
 「男の児が母を呼んで食べ物をねだった。その男は怒って一撃すると、脳が砕けて男の児は死んだ。男は婦人と幼女を引いて行った」
 隠れていた場所に「数人の兵卒がやって来て引き出されたことが二度ほどあったが、その都度少しばかりの金を握らせると行ってしまった」。
 こうして10日間で80万人が清軍の刀下で虐殺されるという血腥い「大屠殺」が展開され、繁華の揚州は凄惨な生き地獄と化したという。
揚州を落とした清軍は騎虎の勢で数日後に南京に入る。南京王朝の福王や陪臣はいち早く逃亡し、文武百官はみな薙髪して清軍に降伏する。
 余談であるが、清軍豫王とまみえた揚州督鎮は「史可法ここに在り!」と大呼するが、武運拙く、ついに捕えられる。
 豫王は「降れば則ち富貴ならん」と諭すが、史可法は「われは天朝の重臣なり。あにいやしくも生を偸(ぬす)みて万世の罪人となるべけんや。わが頭(こうべ)、断つべし、身屈すべからず」と断る。
 豫王は3日間説得し続けるが、最後は涙を揮って部下に斬らせたという。
中国の極刑さまざま
 手元に『図説 中国酷刑史』(尾鷲卓彦著、徳間書店)がある。
 酷刑とは残酷極まりない刑罰のことで、中国の酷刑を可能な範囲で紹介したものである。
 「彼らは手足を釘で打ちつけられ、鮮血をしたたらせて架刑(はりつけ)にされている劫賊(ごうとう)に、これっぽちの憐みすら寄せないどころか、その“五花斬人(きりきざみ)”のさまを観賞するという奇怪な光景まで演じた」
 「街頭や横丁において、首が切り落とされた様子を微に入り細をうがって、活き活きとしゃべりたてるかと思えば、われ先に鮮血にまみれた人頭や半裸の女性の屍体を覗き込む。なかには饅頭に血を吸いこませ、それを食べて肺結核を治そうとする者さえあった」などの記述もある。
 酷刑には官刑と私刑の別があり、官刑では「拷問・斬首・絞縊・首枷・足枷・站籠(立った姿勢で首枷)・抽腸・鞭打ち・凌遅(寸刻みで切り裂く)・銃殺・見せしめ」が列挙されている。
 私刑では「吊り下げ・熱湯あびせ・目えぐり・耳削ぎ・活き埋め・舌抜き・火あぶり・沈め殺し・釜ゆで・圧殺・宮刑・人喰い・足ぜめ・頭髪そり・入れ墨・首切断・バラバラ屍体」などが記されている。
 読んでいて、「心胆を寒からしめる」どころか、こんな国家・社会があるのかと恐ろしくなってくる。日本人には想像を絶する奇想天外な国家・社会のようだ。
 本多勝一著『中国の旅』にも、「飢えた軍用犬の餌」にした話(文庫本p20)や「電線にコウモリのようにぶらさげ火あぶり」にした話(同p231)、「腹をたち割り、心臓と肝臓を抜き取って食う」話(同)などがある。
 臓器を煮て食したのは日本兵ということになっているが、筆者には日本人の行動様式とは思えない。読者はどう思われるだろうか。
 月刊誌『SAPIO』(2015年7月号)は、「毛沢東は『資治通鑑』を17回も読み、ライバル抹殺の手本としていた」とのリードで、「『人ブタ』『食人』『生きたまま肉を削ぐ』 歴史書に描かれた中国4千年『残虐の伝統』」の表題を付けた一文を掲げた。
 その中で、「人ブタ(手足を切断し丸裸で厠に放る)」「凌遅」「大量虐殺(一族の公開処刑や赤ん坊を空中に投げ槍で刺す)」「人食い」「ムチ打ち・炮烙(銅製円柱に罪人を縛り付けて焼き殺す)」「站籠」などを挿絵入りで説明している。
中国人による日本人大虐殺
 拙論の本題は中国人が日本の軍民に暴行を加え、また惨殺・虐殺した事件の検討である。いくつもあるが、ここでは3つを取り上げたい。
(1)旅順猟奇虐殺事件
 日清戦争(1894.8~95.5)間の11月21日に起きた事件である。
 近代化に邁進中の日本は、戦争においては���利することと国際法を順守する文明国家であることを強調する必要があり、戦場に国際法の専門家を同道し、第2軍司令官大山巌大将は「我軍は仁義を以て動き、文明に由て戦ふものなり」と訓示していた。
 勝利の報が続々と届いていた矢先の惨事に、影響を最小限にする方策で伊藤博文首相と陸奥宗光外相は振り回される。
 旅順市街に突入した日本軍兵士は、3日前に生け捕りされた3人の生首が、道路わきの柳の木につるされているのを見る。鼻はそがれ、耳もなくなっていた。さらに進むと、家屋の軒先に針金でつるされた2つの生首があった。
 米国人記者も「ワールド」紙で、「日本軍が旅順になだれ込んだ時、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐でつるされているのを見た。また、表通りには、血の滴る日本人の首で飾られた恐ろしい門があった。��の後、大規模な殺戮が起った。激怒した兵士たちは、見るものすべてを殺した」と書いている。
 清国兵は残酷を極めた方法で傷をつけ、第2軍兵士の死体を放置した。
 死者、あるいは負傷者に対して、首を刎ね、腹部を切り裂き石を詰め、左腕を切り取り、さらに睾丸などまで切り取り、その死体を路傍に放置した。これは捕虜の扱いではなく、猟奇事件でしかない。
 この残酷さが日本軍に復讐心を燃え上がらせ、生首が兵士たちの激昂を誘ったとされる。
 攻撃の包囲網を狭められた清国兵は「袋の鼠」同然となり、軍服を脱ぎ捨て便衣兵となって民家に逃げ込んだ。
 復讐心は便衣兵の徹底捜査となる。また、市民の中には武器をもつ者もいた関係から、彼らも加害者とみなされた。
 歩兵第2連隊の加部東常七上等兵は「旅順市街に闖入するや、戸々軒々、家中を捜りて、(略)小暗き家の片隅に潜む一人の敵兵。オノレッ!とばかり・・・。直突一閃! 胸板深く突き通せば、彼、苦しさの余り、我剣刃を握れり。コワ・・・仕損じたり。と力を極めて引けば、四指を落としてがくりと倒るる所を亦一刺。魂、天涯に飛んで骸のみ」と手記に記している。
 この連隊では清国兵28人を斬殺した一等兵を筆頭に、21人、17人など、11人で166人の清国兵を屠ったという(以上、井上晴樹著『旅順虐殺事件』)。
 旅順郊外の萬忠墓には被難者計1万8百余名(かなりが便衣兵か)と明記されているそうである。数はともかく、事件は両国の将兵が確認し、内外の記者数名が報道し確認している。
 しかし、非は我に有りとのことか、中国は旅順の猟奇・虐殺をほとんど報道してこなかった。
(2)昭和2年の「南京事件」
 「長江(注:揚子江の上流域)流域上下二千浬(カイリ)に亘り、三千余名の在留邦人が暴徒の迫害から遁れて、財産を捨て地盤を棄てて内地への引揚げを断行したことは、我日本としては空前の史実であり世界的にも希有の事変である」
 「彼らの我邦人に対する嫌悪と軽侮の念は、十数年来の排日によりて遺憾なきまでに蓄養された。その今日あるはむしろ予想されていなければならなかったはずだ」と悔しさを隠さない。
 これは、合法的に南京・蘇州・漢口・重慶などに居留していた日本人が昭和2年の春、中国人によって襲われ、引揚げざるを得なかった日本人襲撃事件の実相を、直後に結成した「中支被難者連合会」が証言や公文書を用いて再現した『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』の「序」である。
 少し説明が必要であろう。事件発生時までの3年間、外務大臣は幣原喜重郎であった。
 上海などで中国の横暴がしばしばあり、英米などは軍艦を出動させて鎮圧してきた。しかし、幣原外相は話し合い解決を主張し、軟弱外交と批判されていた。
 こうしたことから、南京の日本領事は「北伐軍を刺激しない」「無抵抗主義で対応する方が効果的」として、荒木海軍大尉らが準備した領事館前の土嚢を撤去し、機関銃は倉庫に隠した。
 そこに事件が起き、兵士と暴徒の侵入を許し、婦人までが凌辱・強姦の「忍ブベカラザル検査」(「検査」は領事の表現)を受けたのだ。
 中国が事件を起こしても、武力対処は一切斥けた。こうした日本外交に対する思いが「今日あるはむしろ予想されて」の謂いであり、悔しさが滲んでいる。
 これこそが「南京事件(昭和2年)」と呼ばれるもので、今日、「南京大虐殺」(昭和12年)として非難されているものは、事件でなく追撃戦であった。
(3)通州虐殺事件
 北京の東方約20キロのところに通州がある。「冀東(きとう)防共自治政府」の管理下にある通州保安隊に守られて日本人居留民は生活していた。
 盧溝橋事件から3週間後の29日(1937年7月)から翌30日未明の間に、保安隊は国民党軍と示し合わせたかのように警備を解き、女子供を含む邦人257人(日本の警備隊32人を含む)が惨殺された。
 居留民たちの救援活動を取材するために、たまたま来ていた同盟通信社の安藤利男記者も襲撃を受けるが九死に一生のチャンスを得て脱出に成功し、後に『虐殺の通州脱出記』を書いている。
 午前2時半ごろ保安隊の動きが怪しいとの電話があり、その後は不通。4時頃からは銃声も聞こえる。7時ごろになると市街南方辺りで白煙や黒煙が上がり、銃砲声も激しくなる。
 8時になると、記者たちが泊まっていた近水楼の支那人ボーイが他所から口も利けない状態で駆け込んできて、「特務機関付近の通りの邦人商家、カフェー辺りで、日本人が多勢殺されてゐる。太変です・・・」の第一報をくれたという。
 また、奇跡的に生き残った人たちも、色々と証言しており、虐殺事件の状況はかなり正確に伝わっている。
 1か月後には『主婦の友』が人気作家吉屋信子をカメラマンともども派遣。その時も証拠は至る所に残っており、女性の目で子細に記録している。
 しかし、平成28(2016)年7月、現地を訪ね『慟哭の通州―昭和12年夏の虐殺事件』を上梓した加藤康男氏によると、通州市は北京市に吸収されて、「もはやこのあたり一帯に通州虐殺事件に関連した建物は何一つ残されていない。旧城内は、90年代ごろから徹底的に破壊し尽くされてきた」という。
 事件から5カ月経った12月下旬(日本軍が南京で入城式を行った1週間後)、冀東防共自治政府と日本側との間で弔意賠償金の支払いや慰霊碑建立の決着が図られた。
 都合の悪い慰霊碑はいつしか地下に埋め隠されたが、再開発で偶然に発見された。
 その状況を「北京日報」(2001.8.24付)は、「日本軍が中国を侵略した証拠、通州区で慰霊碑が見つかる」との見出しで報じたという。
 「1938年日本軍のもので、我が国の抗戦軍民が倒した日寇のいわゆる『慰霊碑』だった。・・・文字はいずれもひどくかすれているが、『大東亜共栄』など日本の侵略理論も記されている」
 「通州区の文物所所長によれば、・・・1937年7月29日早朝に通州の2万人余が蜂起、この偽政府(注:冀東防共自治政府)を占領した上、日本人五百人余りを撃ち殺した。翌日、日本軍は大規模な報復を行い、偽政府に二つの慰霊塔を立てることを要求、塔の前には慰霊碑も立てた」
 殺害者二百数十人を「五百人余」に倍増し〝抗日の成果″を誇っているし、また5か月後の話し合い決着を「翌日」として日本の傲慢な要求に見せかける中国一流の誤魔化しがある。
 加藤氏は、「南京や盧溝橋はもとより、満州各地にある旧大和ホテルに至るまでが『対日歴史戦』の遺跡として宣伝利用されていることを考えると、雲泥の差である。『通州虐殺事件』の痕跡は極めて都合が悪いので、完膚なきまでに消し去ったものとしか考えられなかった」と述べる。
おわりに
 通州虐殺事件について、「東京日日新聞」(昭和12年8月6日付、毎日新聞の前身)は、「敵は第29軍の首脳部の命を受け26日頃から通州襲撃の保安隊及び正規兵と連絡をとり、北清事変議定書によって正規兵は天津市内に入るを得ざるを以て便服に着替へて大胆にもトラックを以て続々天津付近に侵入。機関銃、迫撃砲、小銃、青竜刀などを蔬菜や貨物の下に隠して運び込み、時の到るのを待って居た」と報道している。
 天津では中国軍から攻撃を受けるや否や、日本軍が反撃に出て撃滅したため大事に至らなかったが、通州虐殺事件は天津の日本租界・軍関係機関、その他の邦人多数居留区域と共に、2年前から襲撃計画が練られていた同時多発テロであったのだ。
 同紙は「約1万5千人を虐殺し、掠奪を恣にしたうえ、日本租界を占領しここに青天白日旗を翻して天津から邦人を一掃する」ことになっていたかもしれないと書いている。
 加藤氏によると、中国共産党は、通州事件を「反正」(過ちを正すこと、即ち冀東防共自治政府の消滅)として評価し公認しているという。それなのに、「なぜ痕跡を抹殺しようとするのだろうか」と疑問が沸く。
 筆者は次のように思う。旅順猟奇虐殺事件や通州虐殺事件は、虐殺現場の目撃者があり、「事件の存在」が証明される。これらの事件を大きく取り上げると、「南京大虐殺」についても「事件存在」の「明確な証明」が求められる。
 しかし、習近平さえ英国女王の晩餐会で「存在の証明」で「友好のプレイアップ」を図ったが、逆に「非存在」の暴露になってしまい、“はい それまでよッ!”となりかねなかった。
 南京事件は大虐殺の「状況証拠」から離れていくばかりだ。いかがであろうか。
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sumiekawakami-blog · 4 years
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甲斐駒ヶ岳〜黒戸尾根から〜 正面に仙丈、北岳、富士山、後方に八ヶ岳の絶景と「仙人が舞う」霊峰を満喫
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甲斐駒ケ岳 2967m へ黒戸尾根経由で標高差約2200mの旅
「甲斐駒に行きましょう」と、山友のSさんから突然のお誘い。おりしも2020年は昨年の洪水の被害で南アルプス連峰全域に及んで長野側からのアクセスができないため、山梨県白州から標高差2200mの旅となる。ただえでさ黒戸尾根は鎖場や梯子が続く体力と気力の勝負のルート。その上、コロナ感染予防の対策で七丈小屋は定数50人を8人に限定しているため、行くならテント泊しかない。
そもそも東京から山梨県に移り住んだのも、ここ日野春からの甲斐駒の荘厳なたたずまいに恋したからだった。でも数年前北沢峠から初めて登った憧れの頂きからはあいにくの雨で眺望はなく、表面は白い花崗岩がざれていて、あたかも月面に舞い降りたようだった。前日に登った仙丈ヶ岳の緑あふれる稜線があまりにも美しかったこともあり(北沢峠にキャンプすると、一日目は仙丈に二日目は甲斐駒に登れるのだ)、「甲斐駒は眺める山で登る山ではない」と決め込んだ。家から毎朝拝められるだけあって、私にとってはまさに「近くて遠い山」となった。Sさんは「眺めていたらムラムラと登りたい気持ちが湧いてきた」というが、試しに真夏特有の真っ青な空に突き抜ける頂を眺めてみると、あまりの険しさにゾクゾク感しかみなぎらない。
ところが、七合目にある七丈小屋の管理人で自身も国際的に活躍する登山家である花谷泰広氏の解説によるバーチャル登山の動画が私の心を揺さぶった。「里山、山岳信仰の聖地としての歴史、そしてアルパインの醍醐味、その全てが楽��める」と語る花谷氏。山道のあちこちにお地蔵さんなどの石像が残存し、現在でも修行の信者さんが毎年頂上へお参りに登るだけで、縄文時代の土器までが発見されたという。遥かなる歴史に思いを馳せて、いま一度雲の上に突き出たその頂を眺めると、「おいで」と語っているようにも見えないこともない。
5:20am 竹宇(ちくう)甲斐駒ケ神社 (770m)出発
竹宇駒ヶ岳神社は名水百選でも知られる尾白川渓谷への入り口でもある(白州には甲斐駒神社と名がつく神社が二つあるので注意)。日が上がった朝五時過ぎ、駐車場にはすでに車が20-30台停まっていて、テント泊や車中泊をしたパーティーが身支度をしていた。神社で登山の安全をお願いし、神社前の吊り橋を渡る。下には南アルプスから流れる清流が朝日を浴びて光っている。
橋を渡るといきなり九十九(つづら)折りの急登。下界は連日「危険な暑さ」(!) が続き、本日は都心に比べれば過ごしやすい北杜市でも最高気温は33度を超える予報だ。日陰では気温が下がるとはいえ、テント泊の重装備の登りに息が上がる。しばらく行くと川の声は聞こえなくなり、ここから笹の平までは比較的穏やかな上り。樹林帯の山道をまったりと行く。
7:40 笹の平 2:20(コースタイム2:30)
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名前の通り、笹に覆われた平地だが標高1500mといえば、八ヶ岳でいえば主峰・赤岳の登山口のある美濃戸口と同じくらい。つまり、普段なら登山口に立つ前にすでに二時間以上歩いたことになる。笹の平はまた横手甲斐駒神社からとの合流地点でもある。横手甲斐駒神社を起点とするこの「横手道」は、1817年の開山以来、信者たちが頂上にある本宮を目指す道として現在でも使われている。開山の祖・権三郎は、古来より「仙人が集い、俗世の者は入山が許されない」とされてきたこの山を霊峰とするため、生家の松本から何度も出向いて許可に漕ぎ着けた上、「木を渡って岩をよじ登り、身の毛もよだつ絶壁を伝い、岩下に伏し、飢餓と戦い、辛苦を重ね、神や仏の加護で頂上を極めた」。「駒嶽開山威力不動尊御由来記」(小林千代丸著、1931年)という。かつはこの参道に33体の石像があったというが、そのうち現存している何体がここから少しずつ姿を現す。苔に埋もれ、顔の輪郭も薄くなった地蔵像が歴史の深さを物語る。
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熊笹の森に続くなだらかな坂をのんびり進むこと数分、ジグザクの急登が始まる。これが噂の「八丁登り」だ。のどかな森林風景だが、暑さで大量の汗をかき、汗を拭おうとすると、ポシェットのハンカチまでぐっしょりだった。慌ててアミノバイタと水を補給。
ジグザクを抜けると樹林帯に岩がにょきにょきとそびえ立つ苔の森にやってくる。朝日に輝く苔と時折顔を出すきのこを楽しみながら尾根を目指す。
8:10 前屏風の頭 樹林帯が終わり岩場にかかった鎖が現れた。ここで少し休憩。この先「刃渡り」と呼ばれる岩場が始まる。
10:05 刀利(とおり)天狗 標高2049m 笹平から2:25(コースタイム2:00)
ところどころ両側が切れ落ちて狭い岩場が現れるのが「刃渡り」と呼ばれるゆえんか。時々、ふわっと風が抜けて暑さが吹き飛ぶ。梯子や鎖場を超える途中でいくつもの石像が姿を現すと、すぐ上が刀利(とおり)天狗の祠(ほこら)だった(三合目付近)。ここまで出発からすでに四時間半で本日の終点・七丈小屋までは約半分の行程か。標高は2000mを超えたが、これでも長野サイドの登山口である北沢峠と同等というから、恐るべし黒戸尾根!しかし「これからが本番」と気を引き締めた瞬間に下りが始まり、長くダラダラと続いている。白樺の林の木陰が太陽の陽を浴びて美しいが、降りた分は登り返さなければならないと思うと楽しめない。下りが終わると鞍部(コル)に至る。ここが5合目か。このあたりに五丈岩という岩掘った礼拝所(明治25年)の跡があるというが、見つからないまま五合目の祠(ほこら)まで進む。
10:55 am 五合目の祠(ほこら)刀利天狗から0:50 (コースタイム1:00)
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切りたった岩の下に並ぶ石像郡。山谷氏のバーチャル登山ビデオによれば、ここにある石碑の多くは昔からこの地に祀られていたが、何体かは昨年2019年の大雨の際に流されたのち、地元や甲斐駒神社の関係者が文化財保護のためにこの場所に集めたもの、という。この際、崩れ落ちたハシゴも修復された。そもそも、これらの石碑は信者が担いで登ってきたといわれるが、一人では持ち上げられないほど重いものもあったという。
ここから鎖、ハシゴが続くが、みなさんの努力のおかげできちんと保全、修復されている。中には垂直に近いハシゴもあるが、ゴツゴツの表面加工をしたプラスチック(?)で太い丸太型になっている。八ヶ岳・赤岳の真教寺尾根や、北アルプス槍ヶ岳頂上直下にかかっているアルミ材のハシゴに比べれば、断然安定感もあり滑りにくい。
六畳橋(6合目)を超え核心部へ
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六条橋と呼ばれる長い橋を超えると、いよいよ本日の核心部。鎖・ハシゴの連続で慎重に進む。と、二つ目の橋を上がったところに、大きな岩場が出現。片足を欠けて上に上がった時、ぐらっと重い荷物に体が揺さぶられる。えっ。次はどこに足をかけるの?真下は橋で、その橋のしたには昔使われていたという古い橋が二重になっているが、その下はどうなっている?一瞬、固まってしまい、思わず前を進んでいたSさんに声をかける。
「待ってくださぁい!どこに足かけましたぁ〜?」と、私。 「あっ、そこに削った場所があるから!そうそう、もう少し上!」 岩にしがみついた状態で、足をかける窪みを探す。「あっ、ありました、階段状のくぼみが!」 片足を次のくぼみに、そして鎖を両手で持って、そう、三点確保!腕に力を入れて、ぐいっと体を上げると、うまくリズムがとれた。岩をよじ登ったところで今度は片側が切り立った岩場。緊張の連続で半分涙目になった。こんな気持ちを味わったのはここ数年で初めてだった。
怖いという感情は極めて主観的なもので、怖いと思えた場所も経験値で乗り越えられる場合もあれば、まったく安全と思えた場所が気象状況で地獄になることもある。私は一人で登ることが多いので、怖いと思ったら無理をせず引き返すことにしているし、実際に引き返して、二度目、三度目で登れた場所もある(冬の天狗岳には三度目でようやく登れた)。今回のように、一緒に登人がいてくれる場合、いつもよりちょっぴり背伸びができる。山友に感謝。
12:05 am 七丈小屋 五合目より約2時間(麓より6:45、休息含む)(コースタイム約7時間)
手元のガーミンで8キロの表示を見た時点であと1時間はかかるかと覚悟していたが、あっけないくらいあっさりと小屋が姿を表した(実際なんの表示も見なかった)。走行距離9.5 km。二時ごろにはなると覚悟していたけれど、コースタイムより速く着いたのにびっくり。
(小屋は戦後、古谷さんという方が青少年の育成のために建てたと言われる)。小屋の前の水道からは噂通り冷たい水が迸っていた。まずは喉の乾きを癒し、上から下まで汗びたしだったので、ここで失礼して水をかぶらせていただいた。
テン場はトイレのある第二小屋を通り過ぎて、梯子を登ってからさらに上の場所にある。歩いて3分ほどと言われたけれど、疲れていたせいかいつまでたっても着かない。どこかで間違えたのだろうか?一度小屋まで戻って、道順を確認すると「一本道ですから迷いませんよ」という。実際、一本道で迷いようはないのだけれど、それほど疲れていたということか。
テン場からは、真正面に鳳凰三山のオベリスクと富士山が見える。
今回の山行の目的のひとつは、 新型コロナウィルス感染と共に生きる「新生活」に対応した一人用テントを試すことだった。各自設営、食事もジェットボイルのみ共有。コロナ下では「マイテント、マイフード」がスタンダードになっていくのかも。設営して明日の天気をチェック。着いた時には景色が見えたのに、だんだんと雲行きも悪くなってきた。明日は昼から雨の予報。下りが苦手の私たちは果たして雨の中、今来た険しい道のりを下れるのか‥‥。しかしここまで来て、頂上を踏まずに帰るのも惜しい。日の出と共に行動し、万が一雨が降った場合も焦らず慎重に下る、と方針を立てた。早めに就寝。テン場からトイレまでは歩いて3、4分あり、山道は一部切り立っているところもあるので、夜用をたすには要注意。
Day 2: 4am 起床 4:50 am 出発
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七丈小屋の由来はすばり「七合目」(2,400m)。「合目」というのは標高や距離ではなく、歩行時間や労力といった主観的な要素で決まったものらしい。テントからみた風景だとかなり上まで来たような気がするが、頂上まではコースタイムにして二時間半、標高差は2967-2400=567m。甲斐駒ヶ岳神社からの標高差2200mと照らし合わせても70%の行程というのもうなずける。
テン場は東側に面しているので五時前になるとすでに空が朝焼けで染まっている姿が見える。ここからが本番!鎖場が続き気は抜けないが、東には鳳凰三山(地蔵岳のオベリスク)と富士山、そして正面には甲斐駒ヶ岳の白い山頂が見えてくるのでモーチべーションは全開に!だんだんと木が少なくなっていき、森林限界を超えつつあることが肌で感じられる。8合目御来迎場 5:48 8合目から左にそれた場所に岩小屋があるというが、見つけることはできず。
この猛々しい岩肌が夏山の稜線の醍醐味。時々、一陣の風が抜け、標高の���さを教えてくれる。そしていよいよ、黒戸尾根の象徴とも言われる「烏帽子岩の二本の剣」(9合目)とその後ろに姿を現す鳳凰三山と富士山!(6:19 am)
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富士山、鳳凰三山をバックにそびえる烏帽子岩の二本の剣(9合目)
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9合目を超えると、白い花崗岩の岩肌が輝く山頂が近くに見えてくる。しかし、歩くとこれが非常に長く感じられる。ようやく甲斐駒ヶ岳神社の本殿に到達(6:40am) 信者の方々の山道はここが終点というが、山頂はまだ先の祠。
山頂(6:55) 正面は仙丈ヶ岳、左手は富士山、そして右手には八ヶ岳!
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あれだけ心配していた天気も山頂では雲一つない晴天となり、正面は仙丈ヶ岳、左手は富士山、そして右手には八ヶ岳という絶景が楽しめた。小屋からは約二時間で上がってこられた。一昨年前の夏、仙丈ヶ岳(3,030m)からこちらを眺めていたことを思い出し、あれから二年の月日を経て、自分が反対側の甲斐駒から仙丈ヶ岳に対峙しているという、ちっぽけではあるけれど満たされた瞬間を味わえた。 実際は仙丈ヶ岳の方が60メートルほど高いけれど、黒戸尾根から登れたという自信と2年間の奇跡を踏み締めて、気持ち的にはちょっとだけ高いところにいる。
長い長い下り。。。
帰り道、鞍部手前の五合目小屋跡に立ち寄る。明治時代に修験行者のために小屋を開いた植松嘉衛氏のレリーフが今も残っている。5丈岩は岩を削ってつくられた礼拝所という。
5合目小屋跡
ここまで順調な下りだったが、小雨が降り始めちょうど刃渡りに差し掛かったところで雷が鳴った。周りは何もないまさに刃の上を渡っている状態だ。まだ遠いだろうと立ち止まってのんきに写真を撮っていたら、後ろから走ってきた男性の二人組が「伏せろ!」と声をあげる。驚いて伏せるとがらがらがらーっとすぐ近くに雷が落ちた。えー、こんなところで?後ろの男性二人は猛スピードで駆け抜けるけれど、両方が切り立った峰で走るだけの余裕がなく、足がすくんだところでまた落雷。がらがらがらー。思わず鎖を思いっきり握りしめてしまった。後ろからNさんが「手を離して!」の声。周りに遮るものがない露出した岩場で鉄にしがみつく、というNGをやらかした!慌てて岩場から降り、今後は木下に隠れようとすると、またしても「木の下は危ない!」との声。。。落雷の怖さを全く理解していない自分の不甲斐なさ。。。
八丁坂ならぬ八丁滑りとカエルの恐怖
森に入り、ひとまず落雷の危険は回避することができたが、次の難所は八丁坂という急な坂。雨のおかげで路面の泥がつるつるになっており、どう降りても滑ってしまう。ストックを立てて踏ん張るもののつるりとお尻から入ってしまい身体中泥だらけに。おまけに地面には大きなカエルがゲコゲコと飛び回り、落ちた瞬間に地面でカエルと睨み合うことになりかねない。後ろからきたトレランのみなさんは転びもせずスイスイと駆け抜けて行くので、私の脚力と技術不足のせいなのだろうが、すでに足が弱っているところで思わぬ難所となった。
しかし悪天候も一時的で、八丁坂を越えてるとあとは比較的なだらかな野山が続く。ホトトギスの花弁が愛くるしく帰りを迎えてくれた。
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shakuhachi-kataha · 4 years
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第22回 ミニ講座  「虚鐸伝記」を読み解く 其の六  最終回! 虚無考案、新しい修行スタイル!
いよいお大詰め!
 
 
 
「虚鐸伝記」徹底分析!もいよいよ最終回です。
 
 
 
 
いやー「虚鐸伝記」全文写すの大変でした…。
見たこと無い漢字いっぱい出て来るし。でもネットで探せるんですね。便利な世の中です。またそれらをネット上に惜しみなく公開して下さっている方々に感謝です。
偏とかもよく分からない時は、手描きで検索できるサイトもあるんですよ。
↓こちら
https://mojinavi.com/tegaki
もう感謝しか無いです。
 
 
 
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虚風と虚無別れの図。虚無、行脚の始まり。
 
(虚風が虚無に「なんじゃその怪しい格好は?!そちは気でも違ったか?」と聞いている場面。)ホントにそう書いてある笑。
 
 
 
 
  
今回も、
以下、漢文が「虚鐸伝記」
かな文字入が「虚鐸伝記国字解」です。
その下に私の簡単な日本語訳。
 
 
 
 
遠行即服上施手巾著脚絆草鞋大包歩袱(方五尺也)以蔽副子乾坤張以之中結以結之行李盡盛于此以負之
 
 
 
「遠行には即ち、服上(ふくじょう)に手巾を施し」とは、遠き所に行くときは着るものの上に、手巾を持って、帯の上を引きしめし事也。「脚絆、草鞋(そうあい)をつけ」とは脚絆をはき草鞋をはきし事也。大包歩袱(だいほうふく)とは、風呂敷の事也。「方五尺」とは、五尺四方の風呂敷なるゆへなり。「副子(ふくす)をおふ」とは、其風呂敷にて、ふくすを包みし事也。乾坤(けんこん)張にて風呂敷をのばせし事也。「中ゆいをもって是を結び」とは中ゆいにて、袱子の中をしめたる事也。道中入用の道具をふくすの中に入ておふ也。行李とは唐音あんりとよむ、道中の用意物をすべていふ事也。
 
 
 
遠方に行くときは手巾 (*) で裾を上げ脚絆をつけ、草鞋を履き、五尺四方の風呂敷で袱子(ふくす)と乾坤張(けんこんばり)を被い行李を包みます。
 
 
 
 
(*)手巾とは、裾を上げる為の紐の事。尻端折をするわけにもいかなかった為、紐で上げたそうな。
【尻端折(しりばしょり)】とは、和服の着装法で、長着を労働に便利なように裾をまくり上げて帯にはさむ方法、または、その名称をいいます。男は、背縫いを帯にはさみ、女を裾回り全体を折り上げて両褄(づま)を帯にはさみました。江戸時代、婦人の道中姿の際にも脚さばきがいいため行なわれました。(着物用語大全より)
http://www.so-bien.com/kimono/yougo/siribasyori.html
 【袱子(ふくす)】禅僧が行脚するときなどに用いるふろしき。
【乾坤張(けんこんばり)】旅の虚無僧が持つ木札で、つまり位牌であり、行き倒れで死んだ時の墓標の代わりになる板。
【行李(こうり)】竹や柳、藤などで編んだ篭の一種。直方体の容器でかぶせ蓋となっている。衣料や文書あるいは雑物を入れるために用いる道具。衣類や身の回りの品の収納あるいは旅行用の荷物入れなどに用いられた。
行李の写真↓ (wikipediaより)
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(袱子は風呂敷のことなのですが、大包歩袱も風呂敷のことで、風呂敷で風呂敷を被う事になってしまいますが、この時代の袱子はまた違うものだったのかもしれません)
 
 
 
往以見虚風虚風怪問曰狂客此何状乎對曰在昔先師普化禅師遊于城市振鐸而爲狂小子亦欲倣之
 
 
 
「ゆいて虚風にまみゆ」とは、右の形にて「虚風怪しみ問て曰く、狂客は、是なんの形ぞや」とは、虚風、虚無を見てそちは気が違いはせぬか、わけもないふりをしてとたずねし事也。虚無こたえて曰く、昔普化禅師、城下或は市町に遊び歩き鐸を振りて、狂人のごとく偈をとなへし給へし也。われも其まねをして、かくかたちをするといふ事也。
 
 
 
虚無がこのような格好でいたら、虚風が「何と言う怪しい格好よ、気が違ったか?」と聞くと、「むかし普化禅師が狂人のように鐸を振りながら偈を唱えて市中を歩いていたのを真似して、この格好してる」と虚無が答えた。
 
 
 
 
(かなり斬新なスタイルだったようです)
 
 
 
且小子新制法度以完圓笠號天蓋以脱爲不敬蔽以對客此即市中之棲遅幽居且我輩之僧死則袱巾以包尸副子以爲席中結以結之埋之土中乾坤張以爲碑銘虚鐸以爲楽葬行脚中死者欲一以之爲法焉意夫子意如何乎
 
 
 
是は虚無が又いはれし事也。われは今ほうしきといふて、編笠を天蓋と名づけて、ぬぐを無礼として、かづきながら人にあふ。これ町中に住みながら隠者の心也。われらがやうなる僧の死するときは、大ふろ敷に死がいをつつみ、中ゆいにしてそれをむすび、ふくすを下にしきて、うずむる也。しかれば其上に、けんこんばりたてて、墓のごとくし、虚鐸を吹て、これをとぶろふ。これをもほうしきとせんとおもふが夫子とは虚風を指していふ。心に何とおぼしめすと虚風に問かへせしなり。
 
 
 
また虚無が言うには、私は新しい様式として編み笠を天蓋と名づけ、脱ぐのは無礼とし、被ったまま人に会うことにした。これは町中に住みながら隠者として暮らす心得です。仲間の僧が死んだ時は大風呂敷に死骸を包み、袱子を下に敷き埋めます。その上に乾坤張を立ててお墓のようにして、虚鐸を吹き弔います。この新しい様式をどう思いますか?
 
 
 
虚風感賞唯々而辞別 
(虚風は感謝してさようならを言った)漢文そのままの訳
 
 
虚風其いふ所、一々理あり。尤に思ひ其心をかんじ、賞美して、行脚の身は、げにかく有べき事とうなづいておられしなり。それより諸国を遊行する為に虚風の許を辞して別れ行きし也。 
(「虚鐸伝記」と翻訳がかなり違う…)
 
 
虚風が言うには、一々ごもっとも。褒めてまさにそのようにあるべきじゃとうなずいていた。虚無は諸国を行脚する為に虚風の許を辞して旅立って行きました。 
 
 
 
爾後虚無廻遊于五畿七道以弄虚鐸音 
 
 
 
これはそれより後、虚無が日本国をまはりて、虚鐸を吹いて此宗門を世人にすすめてまわりし事を明せり。五畿は王城の近辺五ケ國なり。七道は東海、東山、北陸、南海、山陽、山陰、西海道、第日本八道の国也。
 
 
 
その後、虚無は日本全国を廻り虚鐸を吹いた。
 
 
 
 
【五畿七道】(ごきしちどう)とは、古代日本の律令制における、広域地方行政区画。
五畿は五畿畿内ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国。現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部を合わせた地域。
七道東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の��道。
 
Tumblr media
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/kodaimichi2.htmlより
 
 
 
 
(ようは、虚無は今の北海道をのぞいた日本国内全部をまわったということです。円空さんや芭蕉よりもすごい!その足跡は一切残さず!もし本当だったら歴史の教科書に載ってるくらいの偉業!)
 
 
 
世人問曰子是何者乎對曰僧虚無於此乎世人稱此徒爲虚無僧
 
 
 
是は虚無に世間の人々が、其すがたの異形なるを見て、ふしぎにおもひて、其元の名は何といふぞとたづねし時、其返事に、われは出家にて、虚無と申すものなりと、いはれしを聞いて、世の人が、時代によびつたへて、きょむ僧といひし事なり。それより今に惣名となりたる也。虚無僧といひつたう事、此僧よりと知るべし。
 
 
 
世間の人々が虚無の格好をみて不思議に思い名前を聞いたところ、我は出家して、名を虚無と申すものなりと言った。それが云い伝えられ、きょむ僧という事になり、それが今の虚無僧のはじまりとなった。
 
 
 
 
(これもまたいきなり虚無僧のはじまり宣言ですが、1494年の「 三十二番職人歌合」では虚妄僧、1690年「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」には虚毛僧、1837年「守貞謾稿」のは菰僧、「嬉遊笑覧」には古無僧、など、虚無僧の漢字は色々あり、虚無が始まりではありません。しかしながら、最初の頃はやっぱり世間の人に「変な格好」と思われてたのかな。)
 
 
 
 
 
諸国門人多爲此状甚則至于爲鉄頭帯頬當佩長刀或匕首
 
 
 
諸国に多く弟子出来たりし事也。いずれも弟子となりし輩、すべて虚無の形をまなびて、其すがたに取つくろふ事になりし、中にもいたって、物数寄するものは、くさりはちまち、ほうめんをきて、太刀よろひどうしなどさして通行せし。つまびらかには知らざりが其比(そのころ)は、皆々武門の浪人の面々、此宗門に入て、日本国中を武者修行のために、国々をめぐりて、あるきしが、浪人時の渡世ともなり、還俗して其国々の仕官奉公するもおほかりけるとなり。
 
【鎖鉢巻(くさりはちまき)】鎖を細かく編んでとじつけた鉢巻き。また、布の中に鎖を入れた鉢巻き。
【放免(ほうめん)】鉾のようなもの。 
 
 
そして諸国に弟子ができる。その弟子たちは虚無の真似をして、鎖鉢巻きに刀をさして歩いた。みんな浪人なのでこの宗派に入門して、武者修行の為に諸国を巡り歩くのが浪人時の渡世になり、還俗してその国々の仕官奉公する者も多かったそうな。 
 
 
 
(「正しい浪人の過ごし方」のお手本)
 
 
 
 
虚無帰江州暫住志賀之邉而傳之儀道
 
 
 
其後虚無は、江州の志賀の辺に住みしが、ここに儀道といふ人に、虚鐸をつたえられし事をあかせり。
 
 
 
 
その後、虚無は志賀の辺りに住み、儀道という人に虚鐸を伝えたそうな。
 
 
 
儀道傳之自東自東歴八代 可笑 空來 惠中 一黙 普明 知來 而傳知來
 
 
 
是は八代の名にて八伝なりし。儀道は虚鐸を自東におしへ、自東より八代を経て知来に至る。
 
 
 
これは八代続き、可笑、空來、惠中、一黙、普明、知來と伝わった。
 
 
 
 
(全員、謎)
 
 
 
此時既無有虚鐸之名唯稱嘘鈴而爲曲耳其稱尺八者華和共爾未知誰命之
 
 
 
其知來に伝へて、吹きしみぎりは虚鐸の名を知るもの少しもなし。ただ虚鈴と称し、吹きようの名とするばかりなり。又尺八とよびきる事は、唐(から)にても日本にても同じ事也。たれか名付けしといふ事知れず。かんがへ見るに、笛竹の寸尺に応じて始めに付けたりと聞ゆ。しかれども一節切も吹きたり。
 
 
 
その知來に伝わる頃は虚鐸の名を知る人は少なかった。虚鈴といわれていただけ。又、尺八という言い方は唐でも日本でも同じであった。誰が名づけたかは分からない。笛の長さで名づけられたと考えられる。一節切も吹かれていた。 
 
 
  
(この「虚鐸伝記国字解」に再三出て来る誰も虚鐸って知らずに間違えて虚鈴って言ってるの嘆きの言葉が最後にも出てきました。よっぽど修正したかったのでしょうが、結局「尺八」って唐でも日本でも言われてる、とのこと。最初から「尺八」と言う名で伝わったのに、長さで「尺八」って名づけられてるらしいよ、なんて言い添えられている。まだこんな小さな廃宗になった宗派のことだから良いものの、昨今の日本の歴史修正主義者たちを見ているようで怖い…)
 
 
 
 
知來傳之予予傳之無風或就他師而爲無盡調曲
 
 
 
知來はこれを予に伝ふとは、予は遁翁自身の事也。此伝記を知りたる人故に、虚鐸の曲をならはれし事なり。其後遁翁より無風におしへられしが、無風は其以後他の師をあれやこれと取て、いろいろの手を習ひし事也。其いにしへの宗門の事、古義をば失ふことなかれとのみ申のこされたり。宗僧心得給ふべし。
 
 
 
知來はこれを私に伝えた。私は虚鐸伝記作者の遁翁です。虚鐸も習っている。その後遁翁から無風へ伝わったが、彼は他の師匠幾人かにもついて、色んな手を習っている。そのいにしえの宗門の事、古い教えを失う事のないようにと言い残している。宗派の門人たちは心得るように。
  
 
 
 
 
(遁翁の弟子、無風は他の師匠からいろんな手(技法)を習っているとのこと。これは困ったものだと言う意味なのか、尺八の時代は変わって行くという暗示なのか…)
 
  
 
【完】
 
 
 
  
 
最後はわりとあっさりと終わってしまった。
 
 
 
 
この本は中塚竹禅著「琴古流尺八史観」昭和54年(1979)により、偽書と断定されているわけですが、その中でどの辺りが頗る怪しいのか著者によると、
 
第一、年代の記入が全然ない事
第二、著者遁翁の伝記が不明な事
第三、記事の材料の出所が不明な事
第四、原本がドコに在りドコから出たか不明な事
第五、正勝公は虚無僧の元祖に非ざる事
以上の理由で私(中塚竹禅)は此の虚鐸伝記は、只一篇の戯曲小説の類に過ぎないものだと断定するのである。
 
 
 
 
との事。
 
 
 
何故にここまでする必要があったかと言うと、
 
 
 
偽書作成の背景として、明暗寺が関東(鈴法寺)の支配を脱し、京都において普化尺八の本寺として、その独自な活動を展開するに至ったのが、明和四年(1767)のことであると考えられるが、京都の市民の間において尺八が流行するに至った時代であり、そうした時代に触発されて、明暗流本寺が独立し、まことしやかな普化宗の偽書が成立されるに至った。(中塚竹禅)
 
ここで言う、「関東の支配と脱し…」というのは、1760年から七年間に亘って明暗寺と一月寺・鈴法寺が本寺・触頭の意志統一から争った事を指しているようである。
また、徳山隆氏は『普化宗の網紀(こうき)は同書成立当時だいぶゆるんできたようすであり、金銭目当に町人の入宗を認めたり、虚無僧特権を悪用してのゆすり・たかりの行為も出てきたようで、1773年には不法の虚無僧取締強化のための幕府の令達が出されている。こうした幕府や世間の反発に対抗し改めて普化宗の正当性を主張するために本書創作の必要性があったのかも知れない』と述べられている。つまり覚心や例の四居士を開祖として設定して、普化宗や虚無僧寺の正当性を主張し時の幕府の公認を得ようとしたのである。(山口正義著「尺八史概説」)参照。
【網紀(こうき)】一般的に規律のこと。
 
 
 
「虚鐸伝記国字解」(1795)の前に「虚霊山縁起」(1735)、「尺八筆記」(1764~72)が成立しており、もっと前に「暮露虚無僧本則」(1628)や「和漢三才図会」(1712頃)など、この虚鐸伝記国字解の下地となる内容が少しづつあちこちに記されており、「虚鐸伝記国字解」の創作は、集大成であったかもしれない、とのことです。
 
 
 
 
しかしながら、内容は盛りだくさんで面白かったですね。
伝説として楽しませていただきました🎵
 
 
 
 
この「虚鐸伝記国字解」を読むだけで、なんと西暦600年の唐代から、1300年代の楠正勝のこと、そしてこれが書かれた江戸時代1700年代後半に至るまで時空を超えた旅が出来て、1000年以上にわたって尺八は受け継がれているという事実は揺るぎないわけで、ますます尺八愛が深まるということです💓
 
 
 
だれか壮大な尺八の創設映画を作ってくんないかなぁ笑。
 
 
 
 
あ、NHKの大河ドラマでいいじゃん! 
 
 
 
 
日中友好物語から、仏教の歴史に、戦国時代と盛りだくさん💓 
いいと思うなぁ。 
 
 
 
作ってくれたらビデオ買います。うちにはテレビは無い笑。
(今時ビデオって言わんか!)
     なごり惜しいですが、
「虚鐸伝記」徹底分析!はひとまずおしまいです。
 
 
 
 
お付き合い頂きありがとうございました🙏
 
 
 
 
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