#美容はエンタメ
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𝕝𝕟𝕤𝕥𝕒𝕘𝕣𝕒𝕞をご覧の皆様。 こんにちは。 美容はエンタメだ! 岡本太郎にインスパイアされて 芸術は爆発だ!にならって 美容とは何かを考えたら エンターテインメントだなと 思ったのでこのように 表現しました。 どうも、ゆういちです。 年休2日目のイベントをちょろっと 今、愛知県美術館で #岡本太郎展 がやっていて それに行ってきたよぉっていう 話です。 もうなんと言うか... ストー��ーにも書いたんですが。 なんせわたくし美術館や博物館に あまり自ら足を踏み入れる事が なくて... トリックアートとか面白そうって 思った展示会とかしか行った事が なくて。 ですが、今ウィッグの オンラインコンテストの作品製作を しておりまして。 テーマがキュートかアバンギャルドを選んで 参加する形で自分は アバンギャルドを選択したからか。 電車の中吊り広告や駅のパネル 街にあるポスターやチラシ。 色々なところで目に飛び込んできて これは何か作品つくりのヒントに なるかもしれないと。 行ってみようと! 自らの意思で美術館に行って きました。 まだまだ分からないことは たくさんありますが... 作品が誕生する背景だったり 込められた思いや現す意味。 色使いや世界観。 そのどれもが刺激的でした。 今日受けた衝撃を ウィッグ製作に活かしていきたいと 思います。 たまにはこういう休日も 楽しいですね。 600円で阿部サダヲさんが 音声ガイドする端末を借りれて なので最初は何も聞かずに 自分の感覚だけで見て 次にガイドを聴きながら 作品を見ると また違った角度からみれたり。 何も知らない状態で 受ける衝撃と ちょっと理解しながら 見る感覚。 なんでこの色なんだ? なんでこれは直線なんだ? 見れば見るほど沼にハマる。 アートってそういうものなんですかね? ちなみに岡本太郎展は 3/14まで開催中ですので 栄に用事がございましたら 是非、愛知県美術館に寄って 岡本太郎展を見に行って みては... #美容師の休日 #服部裕一 #芸術は爆発だ #美容はエンタメ #アートな休日 #名古屋美容師 #岡本太郎展2023 #愛知県美術館 #年休2日目 #アバンギャルド #対極主義 #手の椅子 (愛知県美術館) https://www.instagram.com/p/Co7jMVIPZtQ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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村上隆氏と左派論客の斎藤幸平氏がReHacQ(高橋弘樹氏が運営するチャンネル)で対談している動画が4連続で上がっていてすべて見た。 ※以下敬称略 結論から言うとこの動画で村上隆が何をやろうとしているのかよくわかったので彼への嫌悪感はすべて消えた。 1動画40分近くあるので見るのは大変だと思うが興味深く見れたので��裕がある人は見てほしい。 一応言っておくとこれはあくまで私の個人的見解なのでその点には注意してほしい。 ざっくり動画の流れを説明すると斎藤幸平が布施英利と対談した際に村上隆が嫌いと悪口を言ったので、村上隆がYoutube?にコメントを書きそれを見てチャンネル運営者の高橋弘樹が対談に誘ったという流れのようだ。 ※斎藤幸平氏はマルキストなので拝金的に見える村上氏の行為があまり好きではない 現在京都で開催中のもののけ展の展示内容を村上隆が斎藤・高橋、両氏に説明しつつ最後に対談という流れになっている。 そこで現代美術とは何か、芸術とはなにか、現代美術のマーケットがどのようになっているのかという基礎的な内容を質疑応答形式で確認していく中で村上隆がどのようなことをやってきたのか、目指しているのかという事も語られていく。 村上隆の顧客はforbes上位に入るような超大金持ちであるだとか、日本人の想像もできないような西洋のお金持ちの間でアートはある種のコミュニケーションツールとして機能しているだとか。斎藤氏や高橋氏のアート素人の目線からの質問として、アートは大衆に開かれるべきなのでそれほどの高額でアートがやり取りされるのがどうなのかという質問などもあった。 ただ、結局動画の内容を見た上で私が理解した村上隆がやっている事というのは以下のようだ。 「西洋を中心とした世界の信じられないようなハイソサエティの間で流通している概念上のアートの文脈に日本のアニメや漫画といったオタクカルチャーのスタイルもアートであると認知させるため芸術活動をしている」ということだ。 それゆえに、彼のアートは"芸術の枠を拡張する"という典型的な現代美術ということになる。 これは別の動画(漫画家の山田玲司のチャンネル)で言及されていたが、村上隆はもともとは典型的な第一世代のオタクで宇宙戦艦ヤマトのファンであった。そこでアニメ業界に憧れはあったが庵野秀明の作品が続けざまに放映されるのを見て業界を諦めたらしい。その結果彼はアニメ以外に興味のある分野として日本画を専攻することになる。 つまり根本的な動機としてアニメは素晴らしいものなので世間に認められるべきだというものがあり、それがスーパーフラットという概念「アニメも漫画も日本画も同じような手法を使っており、同じようなシステム体系であり、アートである」という主張に繋がることになる。 だから、オタクカルチャーを世界に認めてもらう手段として、西洋のハイソサエティのコミュニティを顧客とし、自分の作品をその人たちに売るという行為につながる。 彼はしばしば「高額で売る��とが重要なのではない」と言うがこのロジックを理解すると容易に彼のアートや発言の意図がわかるようになる。つまり西洋のアート文脈を支配しているハイソサエティにオタク系の作品をアートであると認知してもらうには彼らのマーケットに入り込みそれらの作品を売り込む以外に方法がないのだ。だから値段は顧客が勝手に決めることになるし、高く売ることが重要ではないという事になる。目的を達成するための単なる手段に過ぎないわけだ。 またそれが彼の作品がオタクカルチャーの作品をパクったかのような作品群が混じる理由でもある。動画のなかでドラえもんとソニックを混ぜて作った作品がある(ルックとしてはミッキーマウスに似ていたためにディズニーに買われたらしいが) これはつまりドラえもんとソニックを混ぜて作った作品が美術マーケットで売れたということは大本であるドラえもんとソニックもアートである。という論拠になる。むしろ元ネタがある作品をあえて作ることで"漫画やゲーム作品もアートである"という事になる。 "世界のアートとはいったい何なのかという概念を決めているのは西洋を中心とした大金持ちの上位層である"という彼の視座から見ると、日本人は資本主義に組み込まれてすらいないとか、敗戦国の悲哀等という発言の意図も理解できる。 アートとはいったい何なのかというルールを決める場に日本人は存在しない。 だからその世界に入り込みその概念そのものを拡大して自分の好きなオタクカルチャーをアートであると概念を変容させる。 アニメやゲームの制作者や漫画家がエンタメとして世界に売り込むことで楽しんでもらい大衆という社会階層の下からオタクを世界に拡散している。一方で村上隆がやっていることは世界の上位層に対してオタクカルチャーを広めオタクを拡散することだ。 つまるところ上から攻めるか下から攻めるかの違いに過ぎない。 1990年代以降実際にオタクカルチャーは全世界に拡散し人気を得てきた。私もアニメや漫画を楽しむ人が世界中に増えることは純粋にうれしい。直近でもご当地初音ミクに感動した人もいたはずだ。 だから私は村上隆がやろうとしている事に反対しないし、もう嫌いではなくなった。
村上隆が何をやろうとしているのか理解して嫌いではなくなった
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2023/12/26
12月26日 12時過ぎまで灯りがついていたどこかの企業のビルの上のロゴマーク(黄色と青とオレンジのマーク)は2時ごろ起きた時は消えていた。
ホテルのお部屋がとにかく暑いくらいだったので身軽な装備で朝のお散歩に出かけたら、とても体が冷えてこの���一番の手の悴み。 外の温度計は4℃で、当たり前だけれど大阪も寒かった。
昨日イルミネーションを見た大阪中央公会堂や市役所の当たりまで歩いて、昨日までのクリスマスを片付ける様子を眺める。 1時間くらい歩いてホテルに戻り、民俗学博物館で買ったポストカードで友人に手紙を書いた。 定形外なので近くの郵便橋の窓口へ出しに行く。
あまり時間がない中、ほんのひと時だけ大阪港に降り立った! 今回の旅行では自分で調べながら大阪を移動したので、やっとなんとなく地名と位置関係と路線の感じを体感した気がする(いつも友人に教えてもらったままの電車に乗ってしまう)。
大阪にも港があったんだ、と、今回3つ目の観覧車を見つける。そのまま大阪税関の事務所へ向かい広報展示室へ。4階のエレベーターの目の前が展示室で、カスタムくんがお出迎え! 大阪のカスタムくんはフォルムや瞳が、ちゃんと愛される用にキャラクターナイズドされていた。 これだけのために大阪港へ?と言われてしまうんだろうな、と、でもこれ以上の用事もないので早々に友人との待ち合わせに向かった。
大阪へのアクセスの方法がたくさんあって、調べる度に新しい路線に出会う。 途中で乗り換えて環状線という路線で大阪駅へ。 今回まだ梅田へ降り立っていなかったことに、駅を降りて、人が、若者が、商業施設が、目まぐるしくうごめいている様子で気がつく。 でも戻ってきて、それでも東京の方がどこまでも人が多かった。
梅北飲食街のYCという喫茶店でお茶。 いつも見て通り過ぎる、新橋の高架下の寿司ざんまい��たいな場所にあったけれど、中に入るとさぼうるみたいなお店。 友人がいつもいいちこのポスターを写真に撮っているのをみて、私も最近いいちこポスターを見かける度に、あ、と思いたまに友人に報告をしていたところ、いいちこの広告の図録を持ってきてくれた! メルカリで手に入れたとのことで、2019年の広告をまとめたもの。
最近彼女の職場で開催された、好きなもの報告会的な場で、いいちこのポスターについて話たところ、この高度な楽しみは社会の方々にはまだ早かったらしくあまり伝わらなかった様子。 そうゆうの、もう慣れっこのはずなのに、たまに起きてしまうそうゆう雰囲気に“やってしまった…!”と思ってしまう。別に自分の好きなものは誰かのエンタメではないのだから堂々とすれば良いのに、とかそんな話をして新幹線の時間なのでお別れをした。
通っている美容室を教えてもらったので大阪で髪を切るのもいいな〜と思っている。
改札で「良いお年を」とばたばたと別れて、そしたら乗りたい路線が大幅遅延中。 ホームに着いた電車に乗ったところ一向に動く気配がなく、あれ?そろそろ危ないのでは?と地下鉄で向かおうかと時刻を調べると地下鉄では間に合わない感じの時間。
駅員さんに相談し、地下鉄で向かって新大阪で振り替えてもらってください、とのこと。 本当に、本当に焦って悲しくなってしまい、駅員さんにもなんだか言葉当たりが強くなってしまった。 こうゆう、わ〜〜〜!!!という一件があると何もかもがダメな気持ちになって絶望していらいらしてしまう(直したい)。 でも新大阪に到着し、なんかあと2分あるので走ってとにかく走って新幹線のホームへ向かってみたら間に合ってしまった!
大阪駅の窓口で悪態をつくこともなく、冷静に地下鉄に乗っておけばよかった!でも結果乗れてよかった!(そして結果どこでも悪態をつく必要がなかったのに!)と、この30分が今日のハイライトになってしまった気がする。
帰りも隣の座席は空席で、うつらうつらしながら富士山を眺めたりマキタの工場を見つけたりして東京へ戻ってきた。 今、どうかここから無事にお部屋までつけるといいな、と祈りながらこの日記を書いています。
東京はまだ何だかクリスマスだった。
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ゴジラー1.0観ましたよ!
ゴジラー1.0を公開当日、ゴジラの日の朝一番にドルビーアトモス上映で見てきた。 チケットも高いし、迷ったけど、迫力もあって、選んで良かった。 最初、ドルビーアトモスの紹介動画が流れたのだけど、特徴を際立たせたその没入感と音の迫力に思わず少し泣いてしまった。 自分のツボが謎すぎる。
予告編だけみて、内容の予想を勝手に立て、Twitterに投稿していた。 7月12日の事だ。
「ゴジラ-1.0勝手予想。運良く特攻を避けていた非戦派の主人公が、葛藤の末、 国産核兵器(京大制作)を積んで、唯一残っていたゼロ戦で、戦災を免れていた京都に現れたゴジラ相手に特攻。 日本人が日本人の手で0の日本を-1.0とする。クレーターと化した京都市内。煙の中から咆哮が…。劇終。」
「ゴジラ-1.0勝手予想2。昭和二十年九月二日。 東京湾で戦艦ミズーリが轟沈。連合国は日本の仕業と判断し、十一月、ダウンフォール作戦が発動される。 九州南部を強襲する連合国、迎え撃つ旧軍、そこへゴジラが現れ戦場は大混乱に陥る。 一方国内は物資欠乏、食料危機も迫るのだった…。」
という風でで、さて以下ではネタバレ込みで予想の適否とその他諸々の感想を書き殴っていく。 本投稿は予約投稿を指定しておき、3か月程度経過した後にポストされるようにする。
予想1、「特攻を避けていた主人公がゴジラを倒す為に特攻を決意、とどめを刺したかに見えたが咆哮が響く」 というのは、大枠で正解してしまったと言えるのではないだろうか。 何となく思っていた通りになってしまったことは、却って寂しい感じもする。 しかし、だからといって単調な駄作という事では決してなかった。
さて私も普通に生きてきたので、日本の大衆的な創作物の文脈にあるものを摂取しながら育った。 ある程度色々と見ると、その文脈の中でも頻出の「お約束」があり、それをを感じると却って醒めてしまうというのはよくある。 そうして私は所謂「所謂アンチ邦画派」になってしまった。世の中にも一定数そういう人がいるようで、 私もそうした人と同じように洋画と比べた時になんだか脚本が観客を舐めてないかとか、カメラワークが稚拙でないかとかをついつい考えてしまう。 今回のゴジラでも同じように、主人公とヒロインの心が通う…と思ったら…からのどっこいやっぱり…という展開にはやはり感じ入るもの��ある。 加えて、戦闘機の追加装備の件、私なら爆弾の安全装置が二重なんだと筑波の整備兵氏に嘘をつかせる。 ああやって言葉で説明しないと観客は理解できなかろうと思われている所が割に許せないのである。 座席の後ろに箱があり、大写しにしている時点でそれ位は察せるし、きちんとそういう演出をしているじゃないかと思う。 それと、全体的に生きろとか死ぬなとかセリフにあり過ぎてこれにも難を感じる。 私の感覚では、意外とそういう事は口にしないもので、人間危急の時であってももっと目の前の事を語るのではないかと思う。 生きろ、じゃなく逃げろならまだわかるかな。 比較してもしょうながいけど、シン・ゴジラの「幹事長は任せろ」みたいな物言いが「本物」なのではないか?とか思ってしまう。
一方で、昔は、「戦場から逃げてしまった負い目」とか「戦争のトラウマをひきずっている」とか、「それらを吐露して涙を流す」とかの描写も好きではなかった。 しかし、今、私も三十半ばとなり、自分自身も私を取り巻く現実にも大小様々な嫌な事、辛い事が満ちていて、 そうしたものに囚われながら生を重ねており、それがストーリーの軸になること自体についてはおかしく思わないようになってしまった。 むしろそうした描写に居心地の悪さを感じていたこと自体が、自分の怯えをそれと理解できなかったからだという風に考えるようになってきた。
さて、映画とかを見てちょっと醒める瞬間の話に戻して、 じゃあやっぱり「あ~三丁目の夕日かね、もっとシン・ゴジラみたいなら良かったね」と思うかというと全然そんなことはなかった。 ゴジラ自体が恐ろしすぎて、その「お約束」で逆にバランスを取れているんじゃないかと思わされる位だった。 人間がくちゃくちゃにされてしまうシーンは割と直截的であって、ゴジラの剝き出しの敵意と合わさってそれが恐ろしい。 逆にこの雰囲気だけで全編終わってしまったら、ただ後味が悪いだけになったろうと思う。
自分でも先に触れてしまった事だけど、直近の実写ゴジラといえば「シン・ゴジラ」で、あれは、ある種の「正解」になってしまっていると思う。 シンを鑑賞後にゴジラシリーズを振り返ってみると、要所要所にこれまでのゴジラシリーズのモチーフがあり、 例えば胸躍る音楽である所の「宇宙大戦争マーチ」にしたって、実はシン・ゴジラが初めてではないのであった。 にも拘わらず、初めて/久し振りに「ゴジラ」を見た人をああまで虜にするその新規性と作りこみという点が凄いと思う。
庵野作品だから。庵野作品が好きな人の感想ばっかり私が見ているから、とかもあるかも知れないけど。
でもユリイカのシン・ゴジラ特集の��稿者の真剣味とかもそれはそれはすごい熱量だった。
とまあ、そこと比べられる事が前提でありつつ、 他方「山崎貴のエンタメ」を見に来る人を考慮に入れながら東宝の看板作品を撮るというのはどれ程難しいだろう。 私は、その両方を満足させられるだけのものを感じた。 一方で分かりやす過ぎるほどの分かりやすさを、一方で突き抜けた恐怖を…という感じに。 あれだけ人間を蹂躙できるのだから、浜辺美波ちゃんのところがどっこいも、なしにしようとすればできたと思う。 それを、そうせずに、ハッピーエンドを重ねつつ最後にひと押し崖から突き落とす示唆があるという所で、 私は印象を攪乱され、良いとも悪いとも断言できない深みを覚えたのであった。 正に、「恐れ入り谷の鬼子母神」。
以下、観ながら頭に浮かんでいた事の羅列。順不同。 第二復員省の関西弁のおじさん最高。 東洋バルーンの技術者さん達最高。 浜辺美波ちゃん。 佐々木蔵之介様~。 鐘がなりますきんこんかん♪ ジュラシックパークやん! インデペンデンスデイやん! 電車パクーはファーストゴジラオマージュとしては誰もが喜ぶやつだよねー。 大人の男はタバコを吸うという描写から逃げないのいいね。朝ドラとは違う。 幼い子が出てきちゃうのははずるい。 浜辺美波は、シン・仮面ライダーでも成り行きで一緒に住むことになってしまった魅力的な女の子役だったけど、 まさかゴジラでも同じような役柄になるとは…。彼女の何がおじさん達にそうさせてしまうのだろうか。 にしても「できないよ!」からの「乗せて下さい!」は、あまりに碇シンジ君。 というか逆に、神木隆之介君は既にエヴァで本物の碇シンジ君になっていたか…。
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2023年、会社を辞めてからのあれこれ
7月末に会社を辞めて、5ヶ月が経過した。 8月末からハワイに1ヶ月留学し、9月に帰国。10月からは大学の通信で学芸員課程の勉強を始め、現在に至る。 4単位分の課題とテストは終わり、2単位分は課題を出してテスト日程を調整中。今はさらなる2単位分の課題をやっている。来年の6月までに20単位を取って、7月に実習(3単位分)をクリアできれば、9月には晴れて課程修了となる。その先の転職活動がどうなるのか全く予想がつかないが、とりあえず今は単位取得の心配をする時間……と思うことにする。
勉強と並行して、昨年4月の引っ越しから手つかずになっていた段ボールの開梱も進めた。40個近くあった段ボール(私が一人暮らししていたアパートと実家の一軒家からの引っ越し荷物)を6個まで減らし、もう使わないものは断捨離した。本は古本屋に70冊ほど売り、CDも中古CD屋に30枚ほど売った。 本棚や収納の中にとりあえず入れたものは後で確認して捨てるか残すか判断しなければならないが、その作業ができるスペースを確保するためにも段ボールを減らす必要があったので、年内にここまで進められたことは大きい。
今は課題も進めつつ、服の断捨離をしている。箪笥やクロゼットの中の服をすべてベッドに並べ、迷った時はその場で着てみて、残すかどうか判断する。古くなった服や、買ったものの結局あまり着なかった服をまとめて捨てた。会社員時代によく着ていた紺のブラウスは、襟の部分がすり切れかけていたので、一緒に処分した。このブラウスを着て、その上に黄色いカーディガンを合わせた格好でよく出社していたな、と記憶が蘇った。 手持ちの服を把握できたことで、今後どのような格好をしたいのか、そのためには何を買い足すと良いのかも具体的に考えられるようになった。12月に入ってからは、ブラウスや靴下を新たに買った。裾の縫い目がほどけてしまった夏のズボンと葬儀用のワンピースもお直しに出した。
そして、会社員時代の遅れを取り戻す気持ちで、色々なことをインプットしている。 呪術廻戦や少女革命ウテナなどのアニメを観る。気になっていた音楽をまとめて購入して聴く。読書会でジェンダー・セクシュアリティを考えるヒントになるような本を読み、人と感想を言い合う。(半分は課題のためだが)美術館に行く。舞台や映画を観る。パレスチナに関する展示を見たり、デモに行ったりする。
身辺が整ってきて、今後どう生きるか考える時間も持てるようになった。
会社員時代には、「作家かライターに転職したい」と強く思っていた。 でも時間ができた今は、私は純粋な作家には向いていない気がしてきた。何時間もパソコンや原稿用紙に向かうことを毎日繰り返しても、書けない時は書けない。収入も不安定だ。執筆も人生も計画が立てづらく(私が書きたいのはエンタメでなく純文学寄りの作品なので)、書いたものが誰かの人生を照らすまでには長いタイムラグがあり、場合によっては努力して書いても的外れな批判に晒され、それでも自分なりの良い作品の基準を持ち続けなければならない人生を思うと、それに飛び込むだけの覚悟が今の自分にはないことに気付く。 会社員だったら、とりあえず出社して手を動かせば、日によって出来にばらつきはあっても一応誰かの役には立ったことになり、その労働に対する報酬が月1回支払われる。会社員時代は日々のストレスで「もっと違う生き方がしたい」という気持ちが強まっていたが、私は決して会社員生活自体が嫌いではなかったのだと思う。業務内容や環境に納得できれば、会社員をやっている時間にも楽しみを見出せる気がする。 退社前の私は、文芸を生業にすることの大変さを真剣に想像できていなかった。そして、自分が優位に立っていることを事あるごとにアピールせずにはいられない父がいたことで、分かりやすく成功したいというエゴに囚われてもいた。「作家やライターになることで、自分は本当に幸せになれるのか?」と冷静に考えることができていなかった。 もちろん書くことは続けたいが、権威のある文学賞からデビューして、年間1冊は作品を出して……というような生活を私が目指す必要はないと感じている。自分のペースで、肩の力を抜いて、地道に書いていきたい。
手つかずになっていたタスクが少しずつ片付いてゆき、徐々に心がクリアになっている感覚がある。 来年の秋に学芸員課程を終えた私は、どんな未来を思い描いているのか。 残された時間は、まだ9ヶ月ある。慌てて答えを出そうとせず、散らかった身辺の整理と今後に向けたインプットを粛々と進めながら、冷静に心の声に耳を澄ませたい。
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私なんかにSAC_2045の考察なんてできるわけがない
どうやら自分はアニメとかドラマとか映画が苦手らしい、と最近気づいた。 昔から何となく、違和感というか、集中しきれないなぁ、とは思っていた。 今までその原因を言語化できるほど明確にできていなかったのだけど、どうやら物語の進行ペースを自分で調整できないのが良くないらしい。 自分のペースを崩されるのがそんなに嫌なのか、それとも単に頭の回転が遅いが故なのか。 なんにせよ世間と自分のズレが顕れているような気がしてちょっと辛くなってしまう。
そんなワケで、「好きなアニメ」というものがないぐらいにアニメにこだわりがなかったのだけど、ある日アマプラで「攻殻機動隊」シリーズが無料になっていたのをなんとなしに見始めたところ、不思議なことにちょっとハマってしまった。 たたでさえアニメが苦手な自分なので、複雑な世界観で知られる攻殻機動隊の物語を理解できた自信なんて無いのだけど、「草薙素子のビジュアルが好みだったから」などというファンに怒られそうな理由で旧SACシリーズ(この呼び方で良いんだろーか)を最後まで見終わってしまった。 「素子がエロかった」以外に明確な感想がない。私は世界で一番不真面目な攻殻機動隊ファン、いやにわかです。申し訳ありません、自分の脳みそは下半身にあります。電脳化するときどうしよう。
……いやさすがに物語自体には一切思うところなんて無かったぜ! ってことはないけれど、理解に自信がなさすぎて本当に何も言えることがない。 考察とか書いてる人見ると「わぁ、すごい」という小学生みたいな感想ばかりが頭を埋め尽くしていく。 いかに自分が成長というものができなかったのかを思い知らされる。人生やり直したい。異世界転生キメたい。なろう的世界観で赤ん坊から強くてニューゲームしたい。チートスキルも頼む。 しかし現実はなろうではない。この厳しい現世でどうにかなるしかないのだ。何の話だ?
……ともかく、よーわからんなりに好きになれそーなシリーズだなぁと思い旧SAC以外の最初の劇場版だイノセンスだARISEだと、この攻殻機動隊シリーズの為だけにネトフリに登録し、その複雑さに頭をショートさせながらも鑑賞し続け、つい数週間前ぐらいに最新の「SAC_2045」にたどり着いた。 アニメ苦手マンにしては快挙である。誰か褒めてくれ。褒められ慣れてねぇんだおれは。
で、その「SAC_2045」を見終わった私はあろうことか、その感想みたいなのを書きたくなってしまった。アニメ苦手マンの分際で。 見終わった後もふと気づけば「SAC_2045」について考えさせられてしまいどうにも落ち着かない。 先日公開が始まった映画「攻殻機動隊 SAC_2045 最後の人間」も見にいこうと思っている。なんかアニメシーズン2の総集編みたいなモンだと思ってたら新カットとかもあるらしく……
映画を見る前に軽く頭とか感情の整理をしたいな~と思ったので、このロクに更新されないブログに無責任に書き散らしてみます。 誰も読まないと思うけど一応注意書き。 他の人��書いてた考察とかを引き合いに出してそれに反するようなことも書く予定だけど、当然否定や批判の意とかがあるわけでは無いです。こちとらアニメ苦手マンやぞ。マジのアニメファンとやり合う能力なんてあるわけがない。「多分間違ってるけど自分はこう思いますはいすみません……」ぐらいのテンションです。予防線を張らないと何も安心ができない。自分のアニメIQの無さはよくわかっております。アニメIQとかじゃなくてシンプルに頭が悪い可能性もある。基本このブログは自分の為だけに書かれています。そういうのをネットに放流するのが性癖なだけです。
>>>正直2期ラスト近くまで微妙な作品だと思っていた
「SAC_2045」の1期はネット上ではなんか評判悪いっぽいが、6話までは攻殻シリーズ中でも見やすくてこれはこれで良いと思っていた。 戦闘シーン多めでエンタメ寄りというか、こういう風にわかりやすくしていくのか~と感心したくらい。まぁ古参ファンにとってはキツかったんだろうけど。 短い期間で一気に見た自分にしてみればまぁこういうのも悪くないな~と受け入れられた。 3DCGになった点にも批判が集まっている感覚だけど、これも自分の嗜好的には問題無く、楽しく見られてはいた。6話までは。
……1期を見終わった直後はかなりキツい気分になった。 「コレ大丈夫か?」と。 視聴前軽く見かけていた、批判されている部分。 それが個人的には大して気にならなかったので、そのまま楽しく見続けられるかと思ったのだが甘かった。
江崎プリンが……新参ファンの自分としてもすごく……アレで……
マジで好みじゃなかった。そりゃどんな作品にも苦手なキャラの一人くらいはいるけれども、攻殻において彼女はビジュアル的にも言動的にも目立ち過ぎていた。 「この作品にそーいうの求めてない」――言葉にしてみると傲慢過ぎるようなその感触、どうしても無視できなかった。 新参の自分すら拒否反応を起こしたのだから、古くからのファンの反発が目立つのは自然なことなのかも。
正直2期で色んな新事実が発覚した後も全く好きになれなかった。なんなら今も好きじゃない。 「あ~また美少女がかわいそうな目に遭っちゃう系のヤツか……5億回ぐらい見たわ」というお気持ち。 あのエピソードで印象変わった人結構いるっぽいんですが自分には全く響かなかった。同情を強制されてるみたいで…… タチコマやバトーを始めとするキャラ達と完全に真逆な反応をしてました。血も涙もないのか? ポストヒューマン化した後は元からのハイスペックがさらに過度になり、「メアリー・スー」な印象を受けてかなりキツかった。 「死んじゃったものは仕方ない」じゃないんだよ。どんだけ悪い意味でアニメキャラ的なんだよ。
……こんな受け取り方してる自分にドン引きする。人の心が無いのかもしれない。
まぁネガティブなことを書きたかったワケではないのでこの辺にしときますが。 ともかく、1期を見終わった段階では「SAC_2045」に対しての期待は大きく萎えていた。 一度刻まれたイメージはなかなか変わらない。なんとか気力を振り絞り2期を見始めると少しずつ持ち直してきたけれど、ラスト近くになるまで、いやラストを迎えても微妙な気持ちが振り払えなかった。 まさか最終的に、こんな感想文を書きたくなるような作品になるとは、この時点では思いもしなかった……
>>>強烈なラストが、それ以前のストーリーに思いを馳せるきっかけに
2期の最終話まで、1期を引きずって「エンタメ寄り攻殻」として消化しようとしていた自分にとって、あの最終話は背後から突然後頭部をブン殴られたかのような衝撃だった。 おいエンタメどこいった。考えさせられちゃう系(度を越して軽薄な表現)やんけ!?
始めてあのラストを見た時は喪失感のような、置いてけぼりにされたかのような、本当に自分の中でどう処理していいかわからなくなってしまった。 過去の攻殻シリーズも全容を理解できなかったのは同じなんだけど、自分は深く考えないタチなので「わからんかったけどわからんなりに面白かった~しばらく経ったら見直してみるかな?」ぐらいで終わっていた。 が、今回はソレではどうにも収まりがつかなかった。 モヤモヤを解消したく、「SAC_2045 考察」でググり始め、他の方の考察を見始めたばかりの頃抱いていたのは……「怒り」、だった気がする。
本作はジョージ・オーウェル氏の「1984年」からの引用が多く見られ、その中の一つに「ダブルシンク」というワードがある。 「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」らしい。 らしい、と言っているのは原著読まずにネットで調べただけだからである。どこまでも不真面目。……すみません、いつか時間が出来たら読みます…… で、あの問題のシーン――
1.シマムラタカシのコードを引き抜き、全人類のN化(ダブルシンク)は解かれた。
2.コードは引き抜かれず、そのままN化が続行される。
どちらの結末になったかをはっきりさせないような終わり方は、視聴者をもダブルシンク状態にするのが狙いだった、という考察を各所で読み、ようやくなぜあそこまでぼやかしたのかを悟りました。 そしてすぐに、「そんなのありかよ! 卑怯じゃねぇか!」とキレてしまった。 「物語の解釈は画面の前の君が自由に考えてくれ!」みたいなスタンス、大して珍しくもないし、「無し」とは普段では思わない。 が、この「SAC_2045」はあまりにも事実と確定していない描写が多過ぎる。 例えばこの物語を「つまらない」と評価したとしても、「つまらないと思ったのは貴方が物語がつまらなくなるような解釈をしただけ! 本来はもっと面白い話! 不当な評価だ!」なんて言い訳ができてしまうような。 上手く言い表せなくて��がゆいけど、物語のクオリティそのものを視聴者に委ねているようなやり方に、「無責任さ」――のような何かを感じてしまった。
大体ポストヒューマンがあまりにも反則的過ぎる。 もうヤケクソ気味な言い分だけど、あんなポンポン人が観測する「現実」を歪められちゃうならこのアニメの全描写が信用ならない、夢まぼろしのようなものと解釈しちゃってもいいじゃねぇか、とも考えたことすらあった。 ギャグ系以外では禁忌ともいえる「夢オチ」というヤツ。こんなモン考察したってしゃ~ないだろ、と投げやりな気分になっていました。
まがりなりにも好きだったシリーズがこんな終わり方をしたのがショックでした。好きだったものを嫌いになるのはいつだって辛い。 もう忘れてしまおう、としばらく他のネトフリ作品を見たりしていました。
……すると不思議なことに、忘れてしまおうとしていた「SAC_2045」について、日が経つにつれてどんどん考え続けてしまうようになっていました。 正直今でも「こんなやり方ありかよ」と感じる部分はあるのですが、悔しいことにあの仕掛けの面白さがジワジワと理解できるようになってしまった。 やっぱ考えちまうよずりぃよ………あのコード結局抜いたの!? 抜かなかったの!? うーわ俺自身もダブルシンクしちゃってね!? みたいな。頭悪すぎる表現で申し訳ない。
その結果いつの間にか「2週目」に突入してました。既に見た映像作品をもう一度見るなんて本当に初かもしれない。
ここからはその「2週目」の過程で気づいたことや考えた事を雑に書き並べてみます。
>>>シマムラタカシ以外のポストヒューマンって結局なんだったの
ポストヒューマンの面々は、基本的に人間らしさというものをあまり表に出さない。 出さない、のだが、ポストヒューマンになる前の思想が、なった後の行動にもかなり反映されている様子がある。 その内の一人、矢口サンジは日本に現れた3人のポストヒューマンの中では唯一2期にすらたどり着けない程にあっさりと捕まってしまうのだけど、このキャラは恐らくそういう部分を強調する為のキャラだったのだろう。
犯行理由にも思想が強く表れているし、素子と対峙した時に、彼女の「ボクシングスタイルを使う」という誘いにあっさりと乗る辺りも。 脱線だが、「急に素子がボクシングに目覚めたんだけど……」なんてネットの声も見たが、普通にやり合ったら超演算による変態的な格闘技術全開の相手では勝ち目が薄いので、敢えてボクシング縛りを選択した、と解釈してます。 ボクシング縛りに持ち込んでいたからこそ、バトーが軍隊格闘で乱入した時にあっさり型にハメられたのでは。
……その点ミズカネスズカはマジでなんだったんだ。 数学オリンピックの元チャンピオン、ぐらいの情報しかないし、シマムラタカシに協力していた理由もいまいち不明。 シマムラタカシが操っていただけとか? トグサの回想にそっくりな女性がいたが何か関係があるのだろうか?
>>>シマムラタカシ、自分の理想を全肯定していなかった説
正直シマムラタカシもプリンと並んで……って程ではないにしてもあまり好きになれないキャラだった。 ナヨナヨし過ぎで同族嫌悪が凄い。これは自業自得か。 こんなナヨナヨ中学生の手のひらの上で、9課が終わってみればほぼ完封と言って良いほどに踊らされていた、というストーリーもあってう~ん……とモヤっていて、彼に対してそんなにしっかり考察しようとは思わなかった。
ただ、ネットの考察を通して「1984年」の知識を得ていくにつれて、妙に気になるキャラになってきた。
「ビッグブラザー」だの「ミニラブ」だの「ダブルシンク」だの、これらの「1984年」由来のワードは物凄く乱暴に言えば敵側、悪役側の名前だったり、その悪役が掲げているキーワードだったりする。
シマムラタカシは「1984年」で悪役として描かれた者達を、一概に悪と解釈しなかったのでは、という考察を見たが、自分はむしろ悪であることをはっきり自覚している気がする。
根拠は1期の彼が学校にいた頃の一連のシーン。 この辺り、1期の中ではかなり理解しがたかったが、これまた考察の「妄想と現実が入り混じっている」という解釈に助けられ、ようやく腑に落ちかけている。 まぁ恐らく、空挺部隊がやってきたくだりの方が妄想なんだろうけど(軍隊が大真面目に学校に攻め入るワケないし)…… この妄想、妄想にしては都合良くないのだ。なんせ空挺部隊にシマムラタカシ自身が撃たれちゃうから……
まるで自分が罰せられるべき人間であると考えているかのようだ。
最終局面、素子がN化作業中のシマムラタカシの元にやってきた場面。 いくら素子がNにならないロマンチストだったとして、ポストヒューマンである彼ならいくらでも妨害できたはず。 だが、そうはならなかった。 コードを抜かれて全てが水の泡になるリスクを背負ってしまった。 これは素子がコードを抜かないことを選択することがわかっていたから、という考察があって、あり得ると思う。
が、自分はシマムラタカシが自分の思想を全肯定しきれておらず、その迷いは掲げるキーワードを「1984年」の悪役由来のモノに設定したり、素子がNにならなかった時点で彼女を妨害することを止めた、という形で表れてしまったのではないだろうか。
これ、自分が知る限り自分オリジナルの考察もとい感想なんでちょっと気に入っている。 まぁ無理あるとも思うけど。
>>>で、結局コード抜いたの? 抜かなかったの?
結論から言うと、「抜いた」と自分は考えている。 これこそ雑な言い分ですが、コードの描写後の一見それまでと辻褄の合わないような流れがN化した後、誰かが見ている仮想現実の描写だった、として。 いくらでも都合良くできる「現実」の光景にしては、ボーマが車椅子のままだったりプリンが泣き出してしまったりと、都合良くなりきれていないと感じる。 Nキメちゃったんなら、誰の視点だったとしてももうちょい理想的で構わんやん? というクソ雑な理屈です。
まぁ自分の願望も含まれているとは思う。 自分はダブルシンクという考え方に現実逃避的なニュアンスを感じてしまっているから。 そりゃ自分だって大した人生歩んでないので理想の仮想現実に心惹かれなくは無いが……やはり何の苦労もなく理想を手に入れる、という行為には妙にモヤモヤしてしまう。 ちょっと脱線だけど、個人的にはシマムラタカシの計画の肝は「自覚のないうちに」行われる、という部分だと思う。 嫌いな言葉が「努力」と「苦労」である自分ですらモヤるのだから。
辻褄の合わないような描写も疑似的な記憶を植え付けられることすらある攻殻の世界観だと絶対に説明つけられないことではないと思う。これこそ乱暴な考察過ぎるが。
あとこれは考察漁って思い出したことだけど、旧SACにて素子は「夢は現実の中で戦ってこそ意味がある」というセリフがあった。 こんな事言っちゃう素子がコード引き抜かないなんてある……?
ただ「じゃあコード抜いた方に賭けるんかぁ~!? 賭けるか!? 金とか命とかよぉ!?」と言われるとチワワみたいになってしまうけど(ネット上に抜かなかったに5兆円賭けるとか言ってる人いてすげぇ~ってなった)。 それに、元は即コード抜いちゃうような思想だった素子がプリンを見て考えを変えた、というのもありそうに思える……
……なんか考えをまとめればまとめるほど、抜かなかった方が色々綺麗にまとまる気がしてきた……うぅ……
>>>ラストシーンの各キャラの反応から考えてみる
ここでいうラストシーンは、素子がコードを掴んで暗転した直後から。 まずは素子、バトー、トグサ、プリンとその他のメンバーに分けて考えてみる。
こんな慈悲のない分け方をするのは心が痛いけれど、まずはその他のメンバー。 「ずっと一緒に働いていたはずのプリンが新人として加入してくる」、という妙ちくりんな展開にも違和感を抱いた印象は感じられない。 ここだけ切り取れば、まぁ普通にコードは抜かれてないからこういう構図が成り立っちゃってるんだろうな~という解釈が一番無理がない。
次はプリン。9課メンバーに改めて自己紹介しようとするタイミングで涙ぐんでしまう。 明らかにそれまでの記憶……9課メンバーと一度敵対してしまった事実を認識している。 「ゴーストがない」のでN化できないとはいえ、素子やシマムラタカシならその記憶を消してやり直す、なんてこともできなくは無さそうだが、恐らくそうはしていない。 仮にこのシーンが、誰かの仮想現実��光景だったとするとプリンにこういう反応をさせる必要は基本的にはないはず。 コードがどうなっているにしても、現実の光景ではあるのだろう。
……あれっ、コレ前述した「都合良くなりきれていないからコード抜いてる!」という主張を自分で否定してしまったじゃねぇか! いつの間にか「コード抜いてなかったとしたらあのシーンは仮想現実」という謎の先入観を持ってしまっていた…… 現実であればボーマが車椅子のまんまのかわいそうな状態であることにも説明はつく。 でも現実であればなんで「それ以外のメンバー」が初対面っぽい感じなの? という疑問も出てくるけど。 まぁそれこそクソ雑に疑似記憶ブチ込んで~ってすればいい話か。 次は素子。9課メンバー全員で話しているシーンからは特に特別な感情は読み取れないが、その後のバトーと二人きりの場面でのセリフ群からは明らかにそれまでの記憶をしっかり持っていることが読み取れる。
次はバトー。9課のムードメーカー的な部分がある彼であれば、「新人の」プリンがやってくればしっかり反応してあげる、と思うのだけど、このシーンでは浮かない……というか、何とも言えない表情。プリンにも言葉はかけない。 そこだけを切り取れば、以前の記憶――プリンが死んでしまったという事実を知っていて、複雑な思いを抱いている。 あるいは、ロマンチックな解釈だが記憶は無いが本能的に「何か」を感じ取っているとか。
コードを抜かなかった素子がバトーにだけは事実を伝えた、という考察をしていた方もいた。 この想定なら、その後の素子への「あんまり一人でしょい込むんじゃねぇよ」というセリフの解釈も綺麗にできる。 全人類をNにすることを選んだ、という大きすぎる事実を一人で抱えるな、という。 まぁ逆でもいいけど。N化、というある種の救いを人類に手放させてしまった、という事実を以下同文。 最後はトグサ。プリンに対して普通にコミュニケーションを取っているので、一見「その他のメンバー」と同じ条件のように思えるし、バトー「だけ」は事実を知っている、と解釈している人も結構いた。 が、何とも言えない表情をしているバトーを気遣うように肩を叩く様子は、全てを知っているようにも思える。 勿論、単純に「どうした?」という気持ちを込めた行動なのかも知れないが……流石にちょっと苦しいか。それなら「旦那?」と問いかけるぐらいだと思うし。 素子が事実を伝えたのはバトーとトグサの二人だったのだ、という解釈もあるだろう。
が、自分にはまた違う考えが思い浮かんだ。 トグサが全てを知っている、と想定するとする。 しかしバトー「だけ」と考える視聴者が出る程に、彼は最初なんともないような態度でプリンと接している。
だったら、「その他のメンバー」も同条件、つまり事実を全て知っていた可能性があるのでは……?
確かに、プリンは一度9課と敵対関係になってしまった。 しかし、9課のメンバーは元々プリンに対し好意的で、もしかしたら同情的だった。 故に、プリンの「9課とやり直したい」という希望を叶えようと、全てを忘れてしまったように振舞ったのかも知れない。 だがバトーはプリンと特に関係性が深く、彼女の事を思い出さないままに死なれてしまった後悔がある。
優しい男でもある彼「だけ」はどうしても、プリンに対して忘れた演技ができる自信が持てなかった。 そしてあのような煮え切らない反応をしてしまい、トグサに気遣われた……なんて、ロマンチック過ぎるだろうか。
実のところあの場にいた全員が、全てを忘れてはいなかった、という想定は、ある意味で綺麗にまとまる部分があるように思える。 少なくとも「疑似記憶無双じゃい! 電脳ってのはこういう時の為にあるんだよォ~~~!!」とヒャッハーするよりはカッコいい理屈にはなる。タブン。
この想定では、コードを引き抜かない選択をする意味はあまり無いと思う。 コードを引き抜いたが、ほんの少し優しい仕掛けをした、と考えたほうが収まりはよさそうだ。 もう9課には戻れない、と自らの理想に向かって歩めないプリンに、素子がその苦悩をくみ取った上で、「夢は現実の中で戦ってこそ意味がある」という自らの哲学にのっとり、また9課に戻るというある意味での茨の道へ、その背を押した。 しかし、プリンの境遇、シマムラタカシの思想にも思うところがある素子は、「プリンが9課メンバーを直接あるいは間接的に死に追いやった」というあまりにもどうしようもない事実だけは、疑似的にだが消し去ることにした。 それで素子は、9課メンバーに疑似的な記憶を与えたり記憶を消したりこそしなかったが、プリンに関して「忘れたことに、無かったことにしろ」と命じ、彼らはそれに従った。 ……自分で書いてなんだけど、ちょっと感動的過ぎないだろうか。 恥ずかしくなる筋なんてないはずなのに恥ずかしくなってきた。 これも前述のシマムラタカシについてと同じく、自分の知る限り自分オリジナルの考察なので、すっかり気に入ってしまったのだけど、逆のコードを抜かなかった説を強力に支えている根拠はまだある。
素子のバトーと二人で話していた時の、
「おそらく次に人類が特異点を迎える時、それはこの星を飛び出しはるかかなたへと広がっていくだろう。忘れないで。私たちがこの時代に存在していたことを」
というセリフは、コードを抜かなかった、つまり人類がN化、ダブルシンクという特異点を迎えたので、そのさらに次はもっとスケールの大きいことになる、という解釈が自然だと思う。 でもこれも、「N化、ダブルシンクすら止めてしまったからこそ、次は本当に抵抗できないほどに大きな波なのかも知れない」とも言えるのでは。苦しいか。
現実で戦って欲しい(自分自身にはそんな度胸が無い癖に)という願望があるからか、どうしても「コードを抜いた」という自分に都合の良い解釈をしてしまっている。 結構コード抜かなかった説の方がうまく説明つけられてる部分あるのに。
もしやこれもダブルシンクってヤツなんだろうか……
>>>
ということで考察――じゃない感想文でした。 これ、映画見に行く予定の日の前日にひぃひぃ言いながら書いています。 しかも深夜。深夜テンション。 確実に誤字、勘違いだらけでしょう。辛い。
なんでこんな夏休みの宿題を31日にやるみたいな状態になっているかというと単純に忙しかったから…… もう劇場版公開してから2週間ぐらい経ってるんだわ。ネタバレ踏まないようにするの大変だった。 勢い任せに書きなぐったので、朝起きてみたら悶絶するかも知れない。あぁ怖い。 映画版見てまたなんか思いついたらこっそり修正したい。
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はぎはぎと揺する
���ーキョーアートブックフェアへ、東京都現代美術館に。MoT。なんと朝から小雨が降っていて、さすがに真冬用のコートを出したら暑いだろうな…?(人よりも極度に暑がり)と思ったが、それしかコートがなかったので着ていく。なんと、寒かった。全然暑くなかった。なんなら手袋も欲しいくらいに寒い瞬間もあった。45分に着いた時には開場前の列はほぼ無いくらいだったが、同行した友人と合流した11時ちょうどには、列は伸びに伸びていた。それでもすぐ入れたし、混雑は午後のほうが濃厚だった。昼時に「2階のサンドイッチ」で席を取れたのは奇跡かもしれない。私たちが座ったあとからどんどん人が来て「席ないね」と言って去っていった。
おいしすぎる美術館ごはん。カマンベールチーズとクルミと鶏肉とマスタードのサンドイッチ。パンが堅くておいし〜い。いつぞや流行ったマリトッツォみたいにクリームたっぷりのなんらかのサンドイッチ(?)も中にさらに固めのクリームチーズが入っており、なにもかもが泣くほどうまかった。こんなに美味しいことがあっていいのか?カフェラテを含め価格は2000円ほど。こんなに美味しいなら2000円は納得であった。外国の味がした。
アートブックフェアはかなり海外のクリエイターや印刷所、プレスの参加が多く、会場も全然日本じゃなくて面白かった。日本語で説明してくれるブース主の方もいたが、英語や、日本語が書かれたボードを使って教えてくれる方もいた。使う言語が限定されていない場というのは、厳密な商業主義の現場でなければ、気楽で愉快でいいなあと思った。私は英語の聞き取りもできないし、文を組み立てて話すこともできないが、読むことはできる。一冊、欲しいと思った英語の本があったが、価格的に断念した。今回は価格でかなり断念した。いい事だと思う。結局買って帰ったのはステッカー3つと、ワークショップで手作りしてもらった缶バッジ1つ。ブックフェアでの買い物というより、ブックフェアに行ったおみやげ、という感じかも。いつか資金をためてきちんと本を買いに行きたい。それでも特殊印刷や特殊紙のブースがかなり楽しく、ステッカー等もそこで買えたので、ブックフェアの本質的な部分もきちんと楽しんだ。ブックには様々な側面がある。コンテンツ(内容)よりも私は外側、装丁やデザインに興味があるので、その部分のアートを求めるのもまたブックフェアの客であるとは、一応言えるだろう。そもそも、私が内容に興味がある本というのはものすごく限られている。新刊の日本語のハードカバーでも買うか買わないかだから(私はかなり日本語を偏愛している)、日本語以外の、テーマが抽象的であったり思想・哲学の方面からの着想によるアートが内容であれば、あまり意欲がわかない。どちらかといえば、思想・哲学や抽象思考について文字がぎっしりと詰められた学術書のほうが読みたい。もしくはフィクション。日本語の小説は文体の好き嫌いがあるので苦手だが、英語なら文体のこともなにもよくわからないので、好き嫌いがない。その代わり、自分の読みが正しいのかどうかもわからないので、本当に小説を読めているのかはわからない。でもまあ小説とは多少なりともどの言語であれそういう側面があって、母国語だからわかるというものでもないしな、と思うと、言語による文章を自分の中に取り込むことは、言語の種類が変わったところであまり変わらないのかなと思う。もしくは地続きな話なのかなと。そのうち、サリンジャーの小説は、内容を覚えているのだし、英語で誤読せず読めるようになりたいなとは思う。辞書を引いてもいいので、ふつうのものをふつうに読めるようになりたい。解釈や意味付けはその先の話として。
芥川賞を受賞した『ハンチバッグ』、書店で何気なくひらいたら初っ端から面白すぎて即座にレジに向かってしまった。半分くらいまで読んで止まっている(施設の中の食堂の描写あたり)。ほかにも『N/A』とか『##NAME##』とか、気になるものはあるが、どれもだいたいテーマというか行き着く先は同じだろうなという気がする。ハンチバッグも含め。まずたぶん女の話だし、未婚の女の話だし、つまりある程度は少女の傷つきのその後またはそのままの話だし、芥川賞候補がほとんどそんな感じになっているのは、というか純文学のシーンがだいたい「そこ」に焦点をあてているのは、世相を反映しているというか、それこそが世相���面白いなあと思う。いま、新人の男性の純文学の書き手って誰がいて、何を書いているのだろうか、と思うくらいには(想像がつかないくらいには)女性から見た世界のほうが、どうやら面白く感じる人が多いようだ。女には問題がいっぱいある。そもそも自分が女なのか、と疑問に思う人は、そもそも自分は男なのか、と疑問に思う人より相当多いだろうと思う。女のほうが性欲が弱い、または性欲への発達が遅い、または弱い人が多いから。男のほうがどうやらセックスしたいという欲望はかなり抗いがたいものとしてあるようだ、というのを、文化的なものなのか本能的なものなのかはさておいて、現状そうらしいと、どうやら確かに感じてきた。女とセックスしたいという欲望が自分に強く生まれれば、自分は男だという自認を持つのは直接的な理由として有り得るだろうが、女はそこまで「男とセックスしたい」というのは、セックスを知る前にはそれほど(割合的に)多いことではないと思う。男とセックスしないままだと、たぶん元々性欲が強くない女は、男とセックスしようとはそんなに思わないと思う。そうなると、性自認は女性だが、性的指向はアセクシャルだろうか?と思う人がどんどん増えると思う。私自身はセックスを経験するまではまったくセックスに興味が無かったのだが、経験したら、その後確かに性欲というものを、とくに、他人に向かう性欲というものを感じるようになった。これは1回電流を通してみないと、回路が開かないようなことかもしれない。個人差がある話だと思うので自分のこと以外はわからないが、男はそこまで文化的に後押しされなくても性欲の力で「男」に目覚められるのに対し、女は文化的にかなり後押しされないと、男と番うことに対して積極的にはなれないのでは?と感じている。男は基本的に女にとっては「加害者」だし、ふつうに考えてあまり関わりたくない。これはとくに日本だからというのがあるかもしれない。このあたりの事情が最近噴き出していて、女から見た世界のほうが、男から見た世界より、よほど面白いものになっているのではないだろうか。あくまで純文学新人賞の話であって、現実の男性から見た世界の面白さの話ではありませんが。
絲山秋子『神と黒蟹県』、井戸川射子『共に明るい』、凪良ゆう『汝、星のごとく』と合わせていきなりハードカバーを4冊買った。凪良ゆうの本屋大賞は、わたしが読むものではないだろうなと思っていたが、たまたま久しぶりに通話した友人に「尋常じゃない」という感じの感想を言われて、とにかく読んでほしいとのことだった。私がそういう物語に対してどういう反応を示すのか、私も興味がある。黒蟹県も一編読んで、こういう小説は「いい小説」だなあ、と、エンタメではないのに、物語というよりは語り、ナラティブなのに、「落とし所」があるのって、話として偉いよなあと思った。私はいしいしんじの『四とそれ以上の国』の各編に、とくにこれを感じる。面白い小説は読みたくなくて、「いい小説」が読みたい。いい小説というのは、結局は村上春樹が言うような「いい小説」になるのだろうが(ちなみに村上春樹の小説は、私はあまりいい小説とは思わない。いつもファンタジーで因果関係がよくわからないから)、そうすると『老人と海』とかを読んだほうがいい。『人間の絆』も買ってあるが読んでいない。これは『月と六ペンス』が最高に良かったために買ってある。井戸川射子は、詩が好きなので、芥川賞受賞後第一作の小説を買ってみた。詩は好きだが、小説はあんまり?と思ったので、芥川賞受賞作は読んでいない。でも今回のはなんとなく詩っぽいんじゃないかなと思ったのだった。勘です。とくに中身を立ち読みしたわけでもない。
社会学の教科書が開かれなさすぎてそろそろ埃をかぶっているが、まあ、人生の全てが勉強なのでいいか、と思う。専門用語はいくらかおさらいしてから試験に臨もうと思うし、家族の章だけは読み終わった方がいいと思うが、それ以外はもういいやと思っている。英語は一日さぼるとそれだけ単語が抜けていくが、最近は単語よりも文意そのものを読み間違えていることが多いので、焦らず落ち着いて読む技術に集中したい。まあもうできることも限られているので、足掻いても仕方がない。
明日は午前中お金を下ろしてから歯医者に行って、午後はアルバイトの面接で、明後日にはもう荷物を纏めて受験地のホテルにチェックインしている。とにかく受験票と元気な体があれば大丈夫、と言われたので、それだけ忘れずに持っていこうと思う。
2023.11.26
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質問者さん-- お嬢様が偶に仰られている「これからの若者は『何者か』にはなれない」論について詳しくお聞きしたいです。 東京藝術大学お嬢様部さん-- 現代人の好みの細分化・多様化とそれに応えるサブスクのアルゴリズムによって、個々の界隈で創作から受容まで閉じてしまい、その界隈だけでの有名人にしか構造上なれないのでは、ということです。界隈が乱立する世の中において「何者」も、小山の大将とさして変わらないニュアンスになります。 最もわかりやすく「何者」かになれそうなエンタメ界でも、昨今の好みの分断や、サブスクのアルゴリズムでその人に合ったものだけが徹頭徹尾送られてくる構造の中、不可能になってきています。 YouTubeで100万人の登録者がいようが、アイドルでセンターになろうが、その界隈から少し離れただけでさっぱり無名、というのがこれからの時代です。YOASOBIや米津玄師レベルでも、あまり音楽を聴かない層には無名に近いですし。 ましてや、現代美術というニッチな世界では、みんながと��あえず名前を知っていて、好き嫌いあっても一目置くというような「何者」は50代より上��有名作家がせいぜいです。 ですから旧来のような「何者」観は不可能だと割り切って、焦らないで淡々と自分のことをやるというのがいいのではないかと思っています。
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プロ野球を観た
日本がWBCに沸いた今春、我が家にもWBC旋風が吹き荒れていた。近藤選手の応援歌が好きだなあなどと思っていたら世間は日ハム時代の方を使うべきだという意見が主流だったようでちょっと凹んだ思い出がある
それから季節は過ぎても野球へのフワっとした興味は続き、観戦に行ってみたい気持ちは日に日に高まっていった。立地を考えて甲子園か京セラに絞る。甲子園周辺はこれまでも結構縁があったため、今回はオリックスの試合に決めた。よく連絡を取る友人がオリックスファンだったのも大きかった。舞台バンド漫画の話しかしない私が、急に野球を見たいのでついてきてくれとのたもうたのだから不審に思っただろうが、友人は快諾してくれた。一瞬友人カップルの観戦デートに混ざる可能性が出てなんだか面白くて話に乗ったものの、正気に戻った彼女が別日程をとってくれた。水差し女にならなくてよかった
(余談なんですが、物心つかない頃に千葉に観戦に行ったことはあります。「里崎!里崎!」とコールしたことしか覚えていない。確かキャッチャー。知っている野球選手を里崎選手一本で押し通していたら野球ファンの周囲の人間はみんな曖昧な笑みを浮かべてきました。何?)
友人がチョイスしてくれた観戦日は、女子をターゲットにした「織姫デー」(七夕とかじゃないんだ)という日だった。公式サイトを中心に事前情報や観戦マナーなどを仕入れるにつれてこの織姫デー、なんだか凄そうだというのがわかってきた。 イケメン投票で選ばれた選手がアイドルさながらにこちらを見つめる画像と黄色いネットの声は、最初にイメージしていたプロ野球のイメージとかけ離れていて驚いた。 野球を盛り上げるために色んな種類のプロが頑張っているのが感じられて、観戦前から「プロ野球、すげ~~」と感服しっぱなしだった。友人との共通の後輩に似た選手がいたので彼を推しと定めて(どの界隈でもとりあえず誰が好きかをなんとなく設定しておくと楽しさが倍増するタイプなので)当日に向けて姫になりきるべく色々と楽しく準備した。しかし来る当日朝、愛車のボンネットが熱々になって私は待ち合わせに2時間遅刻し、すべての準備を台無しにしてドーム前に半泣きでたどり着いた。ハンカチも、渡したかったお土産も忘れた。最悪の滑り出しだ。普通に心配してくれた優しすぎる友人に連れられていざ京セラドームへ
私はアイドルにもスポーツにも疎いため初めてのドームとの邂逅で、お上りさんのように大感動してしまった。 ドームでっかすぎる!巨大な水色のどら焼きみたいな摩訶不思議な建物。宇宙人が乗り捨てていったUFOですよと言われると、信じられないにしてもそういうコンセプトなのかなぁと思ってしまう。調べると自分が生まれる前に完成していたらしい。恥ずかし��
駅からドームの中まですごい盛況ぶりで、アイドルに扮したイケメン選手ののぼり(!?)が立っており、観客を出迎えてくれた。普段どんな比率なのかはわからないが確かに女性も多く見受けられた。友人のチケット発券を待つ間におじさん達が選手の批評をしたり、制服の学生達や、両チームのユニフォームを着た子達が楽しそうにしているのを見た。いいなぁ~。 事前に見た球場飯やグッズが気になっていたが、冷やかす気が起きないほどどの店も賑わっていた。友人曰く京セラの球場飯は微妙らしい
ドーム内へ続く入り口から見えたのはマウンドではなく対岸の客席だった。想像より遙か遠くに米粒大の人間がぎっしりと並んでいて、遠近感がめちゃめちゃになって混乱した。えっこんなに広いの・・・・・・?!なんというかハリーポッターのハーマイオニーのビーズバッグの中がめっちゃデカい魔法みたいだった。遅刻してきたのにずっと京セラの外観と内観に興奮している私を友人はどう思っただろうか。
チケットを片手に友人は内野席をずんずん進んでいく。5500円ならこの辺かな?の予想をぶっちぎって前へ進んでいき、選手の背番号が易々と見えるようなものすごいところで着席した。5500円で、この近さ。舞台ならこうはいかない。収容人数と飲食で収益を上げているのだろう。しかも選手達もちゃんと食べていけるお給料の仕組みになってるのが完成されてる。ありがたい
子どもが待つグラウンドに選手がやって来た。ものすごく遠い距離でボールを回している。めっちゃ速い。生で観るまでこんなに大きな規模感でやっているとは知り得なかった。ライオンちゃんがこの日のゲストでやってきていて一気にごきげんよう感が増す場内。そういえばなんか良い匂いがする柔軟剤を入り口で貰った
空きっ腹に入れたビールが午前に車がぶち壊れたことを気持ちよく忘れさせてくれたところで試合が始まった。友人が横から解説を添えてくれるが周りの音にかき消されて聞こえなかったので、確かにデートで来たら自然と距離が縮まるかもなぁとか考えながらぼーっと観ていたら山﨑選手が先頭打者に打たれて一気に試合に引き戻された。つくりものではないのでうかうかしてたら二度と同じ瞬間は見られないのだ
「相手の下位打線の時とかにご飯を買えば良いよ」と言われていたが、どちらの攻撃も面白くてずっと座席から離れられなかった。あと横浜の応援歌がめちゃくちゃ良くて、体が勝手に動いてしまった。不勉強なもので一つ一つのプレーを事細かに記憶したり記録するのは出来なくてアホの感想になってしまうけれど、全部に一喜一憂して楽しかった。打って喜び打たれて関節が白く浮き出るほど手を握りしめたり、あとトンネルエラーも見られたし、謎のドッカン投球(申告敬遠だそうだ)もあった。打たれて「わ゛ーーー😵!!!」と叫んだ声がバシッと決まった好守備に「わ゛ーーーっ~~🫣🥹😙😙!?」に変化したり。
そして生まれて初めてホームランを拝むこともできた。斜め上をまっすぐヒューンとボールが渡っていったのが今も忘れられない。訳のわからない言葉を口走りながら跳びはね、ぐちゃぐちゃのハイタッチをした。もっと周りの喜び方を観察したり森選手に賛辞を送るべきだったのに、すべてがそっちのけになってしまうほど興奮した。森選手はなんと2本もホームランを打ち、2本目も我を忘れてしまった。もうホームランを前に冷静さを保つことは無理なんだと思う。友人も今まで聞いたことがない声でなにか叫んでいた
試合はオリックスが勝利した。スターターキットのような試合だった。友人はほっとしていた。私の初観戦が充実したものになるか気をもんでくれていたようだ。ありがたい。あとお土産でめっちゃ美味しい韓国海苔のおやつと可愛いおちょこと北海道ラーメンをくれた。神。 私もオリックスが勝ってくれて良かった。小賢しい私は遅刻と勝利で±トータルプラスになっただろうと踏んですっかり調子こきに戻って意気揚々と祝杯をあげに居酒屋に向かったのだ。選手の皆さんがもぎ取った勝利がこんな浅ましい操作に使われて申し訳ない。素晴らしい試合をありがとうございました
プレー以外でも退屈させない工夫がそこかしこに見られて、総合エンタメですやんと思った。球団アイドルの女の子に手を振られてガチ照れした。たっぷり3時間を楽しみ尽くした休日だった 。奇跡的に1枚だけとれた1789が中止でしょげていたところに野球選手にジェンヌと通ずるものを感じてツボが刺激された。同時に宝塚も観た感じ。あ~オリックスバファローズ♪の歌と中川選手の応援歌(好みで覚えやすかった)をハミングしながら帰った
今度はオペラグラスを持って行きたい。ピッチャーの手がどうなってるのか観察したい。ユニフォームのズボンってどんな素材なんだろう。めっちゃ伸びそう
ミリしらならぬ1試合観戦後のミリしりを書いていたけど似てる人コーナーになったので消しました。
私が事前に注目しようとしていた太田選手は怪我で出場できなかったようです。太田選手がまた治癒されたら絶対見に行きたいと思います
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K-POPをフェミニストアートとして読む
(G)-IDLE『Nxde』MV考察
はじめに
K-POP アイドルグループ、(G)I-DLE(アイドゥル)は2022年10月にリリースした新アルバム『I love』で、発売と同時に iTunes Top Album 部門全世界40地域で1位を獲得し、タイトル曲『Nxde(ヌード)』は韓国国内音源サイト全てで1位を独占する「パーフェクトオールキル」を達成した。また、タイトル曲『Nxde』はビルボードワールドデジタルソングセールスチャートで13位にランクインし、彼女達の影響力が韓国国内に止まらないことが示された((G)I-DLE 日本公式サイト 2022)。
「ヌードという言葉の検索結果をジャックしたかった」とメンバー達が話しているように、この楽曲が韓国社会の性被害問題に与えた影響は大きい。(G)-IDLE は韓国語で「아이들」と表記されるが、英語の「I(アイ)」の読みとしての「아이(アイ)」には、韓国語で「子ども」という意味がある(들は複数を表す接尾辞)。以前までは、韓国のポータルサイトで「아이 누드(子ども ヌード)」と検索すると、児童ポルノに関するサイトや画像がヒットしていたが、「아이들 (アイドゥル)」による『누드(ヌード)』という楽曲が発表されたことで、検索結果が彼女達の新曲のプロモーションで埋め尽くされるという現象が巻き起こったのだ(Sato 2022)。
タイトルだけでも社会に肯定的な影響を与えた『Nxde』は、歌詞に込められたメッセージ、様々なオマージュを用いた皮肉たっぷりのミュージックビデオ(以下MV)で、彼女達を「まなざしの対象」として消費する社会への反抗を表している。本稿では、この『Nxde』が、エンタメ業界及び社会全体に蔓延るmale gazeや商業主義を告発しながら、ステレオタイプを批判し、「ヌード」という言葉の再領有を試みている点について考察する。
モンロー、バンクシーへのオマージュによるmale gazeおよび商業主義の告発
「私が一番イケてる」とガンを飛ばす2NE1の『I AM THE BEST』、容姿を揶揄してくるアンチに唾を吐くMAMAMOO の『HIP』、自分らしくでいるときが完璧なのだと歌いあげる ITZY の『WANNABE』など、ありのままの自分で強く堂々と生きる姿を提示する、所謂「ガールクラッシュ」コンセプトは、K-POP市場において不動の人気を集めてきた。しかし、今回の(G)-IDLE による『Nxde』は自己肯定や個人の関係を描き出すことに終始せず、K-POP産業や社会の構造を俯瞰して捉え、痛烈に批判しているという点で、他とは一線を画している。
「Why you think that 'bout nude 'Cause your view's so rude」というフレーズに始まるMVのコンセプトはバーレスク。メンバーの衣装やブロンドの髪は明らかにマリリン・モンローへのオマージュだ。商業映画の中でmale gazeを向けられ、快楽の媒体として消費され続けたモンローに扮したメンバーは、スマホやカメラを手にした「鑑賞者」たちに囲まれながら歌い踊る。「私は裸で生まれたのであって、そこに卑猥な意味づけをしたのはお前達だ」という力強い歌詞さながらに、妖艶さを誇張するようなポーズを取りながらも、表情には彼女達の意志が感じられる。「見られている」という状況をその外側から写した映像という点では、女性を視線の客体として肖像化してきた絵画の構造に類似しているが、彼女達は見られていることに自覚的であり、その視線を拒否するどころか、見ている側であるはずのこちらに視線を跳ね返す勢いで、しかとカメラを見据えているようである。そこに、性的ファンタジーが投影された受け身の女性像はない。
モンローを引き合いに、女性たちに向けられてきたまなざしを可視化したことに加え、曲中 2:49での「변태는 너야(変態はお前だ)」という歌詞と共に裸の女性のイラストがシュレッダーにかけられるシーンは、バンクシーの『Love is in the Bin』を彷彿とさせる。アートが常に採点され、その所有権を争って金が積まれていくというオークションの商業主義を批判したバンクシーのパフォーマンスの引用によって示唆されるのは、女性(アイドル)たちを厳しい美的基準のもとで常にジャッジし、素行を監視し、採点し、競わせ、消費することで利益を産み続けてきたエンタメ業界の有害性への批判の姿勢だ。
また、シュレッダーにかけられることになるイラストの女性が、輪郭を保ったままスキャンダル記事の断片から成るコラージュに変化していくシーンは、身体の断片化や平面化によって、女性を性的欲望の対象(=モノ)として描いてきた家父長的な映像・ショービジネス界隈の悪しき「伝統」への皮肉を感じさせる(Mulvey 1975: 809)。
このように『Nxde』は、有名作品のオマージュを通し、女性 (アイドル)の身体が他者のまなざしによって占有され、評価され、利益のために利用されている構造を強く批判しているのである。
ステレオタイプを模倣し批判する
「Baby how do I look? How do I look? 아리따운 날 입고 따따랏따라(美しい私を纏ってタッタラッタラ)」という『Nxde』のサビは、鑑賞者の性的な視線によって作り出された女性像及び、女性達が彼らを満足させるために纏ってきた「美しい私」の空虚さを暴き出す。ここで使われている動詞「입다(イプタ)」とは、衣服などを身に纏う・着るという意味で、「美しい私」の着脱可能性を示唆している。このサビの歌詞は、日々良きものとして消費されるアイドルたちの煌びやかな外見や振る舞いが、彼女らのありのままの姿ではなく、あくまで消費者達、業界関係者達のrude な視線によって着せられた括弧付きの「美しい私」に過ぎないことを暗示しているのではないだろうか。
『Nxde』のMV中では、この括弧付きの「美しい私」が過剰に強調されており、例えばメインボーカルのミンニは『Diamond is a girl’s best friend』のモンローを思わせるピンクのドレス に身を包み、冒頭のAメロで以下のように歌う。
Hello my name is 예삐 예삐요 ハロー。私の名前はかわい子ちゃん
말투는 멍청한 듯 몸매는 섹시 섹시요 話し方はおバカみたい。だけど体つきはセクシー
舞台・衣装・ヘアメイクも相まって、この歌詞が「美人でセクシーな頭の悪い尻軽」という、いわゆる「blonde bombshell」ステレオタイプのことを指していることは明白だが、艶やかなクラブの舞台に立つ彼女をMVという媒体(もうひとつの舞台)を通じて見せることで、このステレオタイプがあくまで仰々しい演出の一部であり、「彼女たちはショーのためにそれをわざわざ演じている」ということを見る側に気づかせる。
さらに、この歌詞に続くウギのパートでは、「그럼 다이아 박힌 티아라 하나에 내가 퍽이나 웃게 퍽이나 웃게(だからダイヤのついたティアラ1つで、私が喜ぶとでも思った?)」と、『Diamond is a girl’s best friend』で提示されるような「美しくおバカで何よりも高価なダイヤを求める女性像」を信じて近寄った者たちを突き放す。
ダイヤを渡せば我がものにできるような意思のない存在だと思っていた対象(女性)が、主体性を持って反論してくるという状況は、欠陥(lack)として扱われ、排除される女性の存在によってマスキュリニティの優位性が保たれてきた男性中心社会(Irigaray 1974: 308 女性を不完全な他者とすることで男らしさとは何なのかの輪郭が形作られるので、イリガライいわく、女性は男性の「鏡」。偶然か意図的か、MVにも鏡のシーンが出てくる...!)を動揺させる。このように、『Nxde』は欲望の対象をまなざすrudeな視線によって女性の身体に映し出される「美しい自分」像が、本当の彼女達個人とはかけ離れていることを示しながら、家父長的で一方的な性的消費が行われている社会構造を批判しているのである。
「ヌード」という語の再領有
「美しい私を纏う」というサビからは、また別の意図も読み取ることができる。それは、「ヌード」という単語に肯定的な意味を見出し再領有することで、それが指すところの彼女たちの身体自体をも回復する試みである。美術界における「ヌード」とは、男が抱く異性愛的欲望を投影した「女」のイメージを意味し、描かれる対象である女性たちは徹底的に受動的な立場に置かれ、主体性を認められず、彼女たちが何者であるか、何を考えているのかなどの情報は性的幻想化の障害として徹底的に削除されてきた(笠原 2018:109)。作詞・作曲・コンセプトの提案まで担ったリーダーのソヨンは、この伝統的な「ヌード」への意味づけからの解放を目指しているようである。ソヨンは自分の本来の姿を「ヌード」と表現して曲を書いたのに、「エロい歌なの?」「扇情的すぎるのではないか」という会社の反応に、「絶対に世に出さなければ」と思い、ヌードが猥褻な言葉ではないということを世間にわからせてやると決心したのだと、出演したTV番組で語った(Todoroki 2022)。
また、サビ前の「꼴이 볼품없대도 어쩌면 네게도 다신 사랑받지 못한대도 (不恰好だとしても、もしかしたらあなたにもう愛されることができないとしても) Yes I'm a nude」という歌詞からの流れも考慮すれば、サビで纏う「美しい私=nudeの私」とは、他人の欲望を映し出す平面的な女性像ではなく、素のままの自分を意味していることが読み取れる。「Nxde」が収録されたアルバムのテーマが自己愛であることも考えれば、曲名の 「Nxde」で「u」が伏字になっている理由も見えてくる。彼女たちが描く「ヌード」に、性的な視線でまなざしてくる u(you)は必要ない。(G)I-DLE は「ヌード」という単語を自己愛の対象である「素のままの自分」として読み替え、女性の裸が欲望によって消費されることに反抗しているのだ。
さいごに
本稿では、(G)I-DLE の最新曲『Nxde』のMVを、male gazeと商業主義批判、ステレオタイプ批判、「ヌード」の再領有という3つの観点から考察した。
自分自身の身体は他者に占有され、評価されるべき物ではない。私は私の生まれたままを受容して、他者から気に入られないとしてもその態度を貫くのだ。このような強い意志を感じさせる『Nxde』が、K-POP史における画期的なフェミニスト的楽曲のひとつであることは間違いない。「あるべき姿」の強要に抗するメッセージを打ち出したグループのメンバー全員が、痩身で白い肌、大きな眼に整った顔立ちであることは、representationの面で限界があると言わざるを得ないだろう。それでも、韓国の美の基準を満たし、テレビに出演し、韓国だけでなく世界に向けて発信できる人気アイドルという地位を存分に利用し、社会に問題を投げかけていることの意義は非常に大きい。
カムバック前に公開された動画 “I love” Interview における、わざとらしく欲望を掻き立てるような編集とと煽るような台詞は、フェミニストによる批判をシャットアウトしてきた「まなざす」人々のMV視聴を促進したに違いない。そうして扇情的な映像を期待した彼らは、最後に「変態はお前だ」と言い放たれるのである。
参考文献・サイト
Aya Sato,2022,「わいせつな検索結果を一掃…韓国アイドルの歌が起こした変化」COSMOPOLITAN(https://www.cosmopolitan.com/jp/k-culture/korean entertainment/a41741485/gi-dle-new-song-nxde/). (G)I-DLE 日本公式サイト,2022,「(G)I-DLE、Mini 5th『I love』米国ビルボード「トップアルバムセールスチャート」にランクイン」(G)I-DLE 日本公式サイト,(https://gidle.cubeent.jp/news/992). 笠原美智子,2018,『ジェンダー写真論』里山社. Laura Mulvey, 1975, "Visual Pleasure and Narrative Cinema." Luce Irigaray, 1974, "Speculum of the Other Woman." Yuki Todoroki,2022,「過激だと反対され…(G)I-DLE ソヨンが明かす「Nxde」の制作秘話」COSMOPOLITAN(https://www.cosmopolitan.com/jp/k-culture/korean entertainment/a41827839/221101-gidle-nxde/).
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2022年の振り返り
お久しぶりです。
この師走のめちゃくちゃ忙しい時期にですね、自分はなんと親知らずを全抜き手術を敢行しておりました。親知らず抜かないとだねーとかかりつけの歯医者さんに言われまして、どうも生え方が良くないから一度大きい病院で見てもらった方がいいと言われ、大きい病院でCTを撮ってもらったところ、親知らず4本抜いちゃった方がいいねということになりまして。そんでまあ、それだけの本数抜くなら全身麻酔して1日入院が良かろうということでですね。それで退院したのが29日でした。全身麻酔というものはすごくてですね。一瞬で寝落ちして次の瞬間には終わってるくらい「無」になるんですが、その代償として術後7時間くらいすさまじい吐き気と倦怠感に襲われ、立つこともままならず、数日たった今でも体力の消耗が回復しきっていないという大変体に負荷がかかるものでした。口の中痛くてご飯食べられなかったらどうしようとか思ってたけど、それよりも胃が食べ物を受け付けてくれなくてしばらくおかゆやうどんを啜る日々になりそうなのもちょっとしんどい。
まあそんな話ばかり続けても暗くなるばかりなんでね。今年の振り返りをちょっとしようかなと。
今年は意識して本を読もう!と目標をたてた割には冊数的にはそんなに…な感じ。やっぱり気力にムラがあるのがいかん…。あとスカイリムのAEとポケモンが悪い(他責思考)
じゃあ内容は、と読書ノートを読み返すと、これはそんなに悪くなかったかなあといった感があるかなと。ジョージ・オーウェルの「一九八四年」「動物農場」を年初に読んでるのはやはり現在進行形で東欧の情勢を危うくさせている出来事がきっかけなんだろうなとか、それだけでなく「息吹」「ゴジラSP」など割とハードめなSFもしっかり読んでるんだなあとか。やっぱり読書ノート書くとこういう風に振り返ることができるのが良い。これは今後とも続けていきたい。…こうして振り返ると、今年一番の本は「ゴジラSP」かな、と。自分がゴジラ好きなのもあるけど、SFとしてエンタメとしてかなり高い水準で完成されている作品でもあるので。ゴジラ知らない人でもSF好き!って人には是非読んでもらいたい一冊。
あと、今年は県内だけだけど展示会とか企画展とかはそこそこ行けたんじゃないかなと。印象深いのは、印刷技術が生まれたあたりの書籍を展示した「理想の書物」とクッキー箱や香水の瓶まで展示されていた「ミュシャ展」かな。あとはふらっと立ち寄った「佐藤忠良展」もすごく良かった。特に「佐藤忠良展」はエネルギッシュな「生」が銅像内から放散されていて、美術館から出た後もしばらく余韻が続くような、かなりすごい作品たちでした。
それと、映画か!映画今年何本観たっけな…思い出せない…。これは読書ノートに続いて映画ノートも書く必要があるかもしれない。そういえば「シン・ウルトラマン」は今年だったっけか…。特撮好き・怪獣好きとしては今年一番をあげたくなる人情はあるにはあるが…!やっぱり粗が目立つのと途中でスンって醒めちゃうのが致命的すぎる。今年一番の一本はやはり「 LAMB/ラム 」で決まりかなと。映像の静謐なしんとした美しさと、罪悪と喪失と、それを織り込むように日々の穏やかな暮らしとアダの愛らしさが展開される本作は、ラストの衝撃も込みで唯一無二の作品だと思う。R15だけどそんなにグロテスクじゃないからA24の映画初めて見る!って人におすすめしたい一本。
こうして振り返るとそれなりに充実してなくもない…ような気もする。体重もちょっとだけど落ちたしな、うんうん。
来年も変わらず、でも少しはなんとかしながら生きていきたいと思います。
それではみなさんよいお年を!
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𝕝𝕟𝕤𝕥𝕒𝕘𝕣𝕒𝕞をご覧のみなさん。 こんばんは。 自己陶酔型男子です(笑) 2023年1月8日…今日は何~? 今日は生誕‼️ 私の36歳(学年は37の代) 早生まれの計算ややこしい(笑) おぎゃーって泣いたかどうかは 分かりませんが母上の胎内から 飛び出してはや36年。 36になりましたというと 「えっ?嘘でしょ?」と言われる 事が多く…事実ですとお伝えする と「全然変わんないよね」と。 見た目と中身の話でしょう(笑) きっとどこかにおいてきました💦 最近、やっと遅刻することが なくなってきました。 心と身体のバランスがとれずに 苦しんだ日々もあります。 仕事に行きたい気持ちと それを拒む身体… 心療内科の先生のもとに数回通い 自分自身の気持ちの整理と 眠るための準備の整え方とか 工夫したりして今は安定してます😊 そして、今年は兎年! なんと言っても僕も兎年。 今年は癸卯らしいです。 調べによると僕は丁卯みたい。 癸卯って何って話ですが 干支って十二支と十干の組み合わせ らしいのです。 癸卯(みずのとう)の意味 癸卯は 十干の10番目にあたる癸と 十二支の4番目にあたる卯の 組み合わせで 十干十二支では40番目に あたる組み合わせです。 を表し、 卯が木の陰のエネルギーを表します。 <癸の意味> 「癸」は雨や露、霧など、 静かで温かい大地を潤す恵みの 水を表しています。 十干の最後にあたる癸は 生命の終わりを意味するとともに 次の新たな生命が 成長し始めている状態を 意味しています。 <卯の意味> 「卯」は穏やかなうさぎの様子から 安全、温和の意味があります。 また��� うさぎのように跳ね上がるという 意味があり 卯年は何かを開始するのに 縁起がよく、希望があふれ、 景気回復、好転する よい年になると言われています。 2023年はどんな年になる? 2023年は 癸卯の年で、「癸」と「卯」の 組み合わせから、これまでの努力が 実を結び、勢いよく成長し 飛躍するような年になると 考えられます。 つまり、2023年! 今まで積み重ねてきたものが 勢いよく成長する年になる。 とまぁなんともワクワクする 1年になることが予想されます。 実際のとこ、成人式のお支度での 髪型も自分も納得出来てお客様も 鏡を見せた時にリアクションの声が 今まで体感してきた感じより 大きかった。 「すごい可愛い。」とか 「想像以上です。」とか 「これがやりたかったんです。」とか 想いをデザインにして表現する。 ということの大切さや深さを 知った今年の成人式のお支度でした。 ヘアスタイルはストーリーと 投稿でまたアップさせて頂きます。 来週はいよいよ脱腸の手術という 色々1月は忙しくなりそうだ(笑) 最後に。 今年はもっとエンタメな美容師 目指して色々と頑張る所存ですので InstagramやらTikTokやら YouTubeやら。 真面目なのも、ふざけたやつも 全部愛してください(笑) 2023年もよろしくお願いします。 それではまた次の投稿で お会いしましょう。 ヾ( ▔•ω•▔ )バイビー ✯ #bershka #gu #tommyhilfiger #drmartens #hublot #supreme #roen #semanticdesign #プチプラ #低身長コーデ #メンズファッション #menworkwear #オシャレになりたい #髪も服もオシャレに #美容師ファッション #ゆう服 #オシャレな人と繋がりたい #名古屋 #名東区美容師 目指せ #インスタグラマー #fashionista #fashion #streetstyle #outfitoftheday #swag #swagger #36歳の誕生日 #instafashion #ゆういちの独り言 #癸卯 ✯ WEARもやってるよ! チェックしてちょ( *˘ ³˘)♡♡♡ ♱ サロンの予約はトップの リンクからできます!! ファッション語るもよし 美容を語るもよし 僕以上にあなたを 素敵に出来る美容師なんている? ジプシーなんてやめて うちにおいでよ。 (ローランド風に) 調子乗っちゃって(笑) (Nagoya-shi, Aichi, Japan) https://www.instagram.com/p/CnKbbQlPj1E/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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230331 金
あのさ。
まず納期の脅迫感でストレスMAXという状況に陥るじゃない。もうこの時点で「休みたい 遊びたい なんか食べて寝たい」という欲求もMAXになる。
その欲求が消えるくらいまでエネルギーとメンタル削るとおかしくなるので一応日常動作や建設的思考ができるくらいまではバッファ残してあるのだけど ちょっと気を抜いた途端に8~10時間くらい「遊んで」しまう。
もうあまりの「仕事以外なんもできてなさ」に「勝手になんかするか寝たい」という「生物として全然ふつうの欲求」が爆発する。
爆発しない方が深刻な事態になるのでこれは「なっていい」やつ。
そして寝るにせよ遊ぶにせよ合計で最低16時間くらいは「仕事できなく」なる。これは睡眠時間削ってオフィスから出ずに仕事してりゃ4日に一度は発生する休息時間。
基本、無理ゲーを望んでいるのでそこに被害感情とかは一切感じないのだが「なーんでクリアできねーんだ」って感じ。
大食いといっしょな��だよな。胃袋パンパンになるまでずっと「同じ料理」と向き合ってるとどんなに美味い料理(有意義な仕事)でも食事が作業化し無味乾燥になってしまう。感受性がカスになる。
そう、感受性がカスになると「なんでこんな脳への刺激が乏しい手続きをヘトヘトになりながらやっているんだ?」という不感症人間特有の「そもそも論」的なやつが脳に渦巻いてくる。
刺激に対して「飽きた。眠い」以外の返しができなくなる。そこに罪悪感や悔しさを感じる為には「ブルーロックの新刊」でも読むしかない。
ちなみにブルーロックも読んでから3日でブーストが切れるし何度も同じ巻をコスって読むとブースト効果も薄れるから容易には使えない。
カフェインといっしょ。常飲しちゃダメなやつ。
ああーまた16時間サボっちゃったよー 思ったけど普通っつーかスケジュール詰め込みすぎた事のほうが問題だよな。見積もりミス。
理性とは別の本能と紐づいた「メタ理性」が「ここで休めさもないと倍おかしな事になる」つってブレーキかけてきて、そのブレーキのエフェクトが「労働からなんの悦びも刺激も得られなくなる」という形で表れている。
例えばこれが仮に「子供の為」「家族の為」だとマインドセットしてもメタ理性が「だったら家族作らなきゃよかったじゃん」というツッコミ入れてくる。
いや、そしたらマジで人生つまんなすぎて氏んでただろと返しても「じゃあ氏ねば?」と返してくる。そう、休むオア・ダイくらいの脅迫を突きつけてくるのだ。
返せよ、欲。感受性と人間らしさ返せよ、と言いたい。
俺は人間らしく命の為にエンタメ仕事にしがみついて大食いワークで優勝したいのだ。お金儲けとかじゃあない。このスポーツで勝ちたい。
目標に対しフィジカル面が追いついていないのを感じる。
もっと早く動きたい。もっと早く、もっと長く! もっと楽しく!
もっともっと快楽を感じられる時間を持続したい、試合を愉しみたい!!
なぜ萎える、なぜ不感になる? なぜなぜなぜ???
もっと飢えろ、もっとしがみつきたいと感じろ。なぜ動かん。
ほとんどの罵倒をそよ風のようにスルーできる耐性をつけすぎてしまった。
自分の脳がレンダリングする鼓舞や脅迫では全然テンション上がらない。
この思考もツルツルに滑ってる。ただのエミュレーション、技術で書いてる。
感情も欲求もゼロ。まるでChatGPTが出力する無難テキスト。
やる気がめちゃくちゃ湧いてくる「めちゃくちゃボール」もっとくれ。
そう、それをもらいすぎて安請け合いしタスク増えすぎた結果、首回らなくなってるんじゃないか。快楽と興奮を報酬に据え過ぎなのか。
お金の為なんかじゃあない。何かのゲーム、なにかの意地、なにか病的で利己的な欲に基づくしがみつき・・・・
そうだ、ストーカー。お絵描き大食いストーカー精神。ストーカーですら追いきれないほど早く動き把握できない程の情報量で負荷かけてくるターゲットに欲が萎えてしまいストーキング行為をやめたくなってる。
このターゲット、果たしてこのまま追い続けて自分のものにする事なんてできんのか???
という疑問まみれになってんだ。獲物がでかすぎるし動きが早すぎる。捕まえられない監視もできない喰う事もできない。狩猟者(ハンター)としての敗北。ハイエナになんてなりたくないし既に手元にあるやつで満足するような善性も発揮したくない。
「雄」か。これは「最悪にエゴイスティックな雄になりたい」という欲求なのだ。クレバーで妥当なカロリー消費で人生マネジメントしてるインテリ野郎にはなりたくない。
しらんがなオブしらんがな だな。
雄度を上げろ、雄度を上げろ、雄度を上げろ。 ゲームのルールを護りながら試合と勝利に執着する「獰猛冷静ストーキングストライカー」になれ。インパルス走れ。永久記憶不滅。
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食事だけじゃない倫理的な観点からのヴィーガンの世界 - 動物性素材・動物実験の忌避はもちろん、動物を使用したエンタメ(動物園・水族館)や乗馬など避ける
ヴィーガニズムの本質的な意味とは ヴィーガニズムは単なる食生活の選択ではありません。 動物への配慮と尊重を基本とした包括的な生活様式なのです。 食事における動物性食品の忌避は、ヴィーガン生活における一側面に過ぎません。 真のヴィーガニズムは、私たちの生活全般における動物との関わり方を見直し、より倫理的な選択を目指す生き方といえます。 日常生活における動物性素材との向き合い方 私たちの身の回りには、想像以上に多くの動物性素材が使用されています。 革製品は靴やバッグだけでなく、財布や腕時計のベルトにも使用されています。 衣服にもウールやシルク、ダウンジャケットなど、動物から得られる素材が数多く含まれています。 ヴィーガンの視点では、植物由来の代替素材や環境に配慮した人工素材を選択します。 美容における動物との関わり 化粧品業界では長年、動物実験が当たり前のように行われてきました。 マスカラや…
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2024-7-13 土曜日
・今日の星の動き
今日は月が1日中天秤座♎️をすすみます。
社交の天秤座。色んな人に公平に接することができます。人と会うのも楽しいし、流行を追ったり、人の色々な生き様を観察して、社交術を磨きたい1日。
①3時ごろから15時ごろまで、月は双子座の木星とトライン。
自然と楽観的になりやすい時。月が天秤座、木星が双子座で、どちらも風のエレメントです。風のエレメントは、情報や知識を表します。色んな情報に触れたり、人とコミュニケーションを取ることで、明るくなるきっかけがありそう。
②14時ごろから翌日の午前4時ごろまで、月は獅子座の水星とセクスタイル。
言葉に関する作業が捗りやすい時。例えば、書類系の仕事を片付けたり、読書をしたり、コミュニケーションにも向きます。
バランス感のある天秤座の月と、ゴージャスさ・エンタメ性のある獅子座の組み合わせなので、インスタでオシャレなポストをしたりするのも、オシャレなポストを見て自分の参考にするのにも良さそうな時間帯。
流行のファッションを研究して、魅力ある人間になって周りにちやほやされるというのも、美の金星を���配星に持つ天秤座のパワーなので、ファッション研究をするのも良さそう。
・まとめ
今日は人に興味を持って過ごしたい日。人と情報のやり取りをしたり、ネットに転がってる人の意見を調べたり、人脈と情報をうまく活用して、世界を渡り歩いていきましょう。
シャイな人は、ドキュメンタリーを見て、世界に色んな人がいるのを感じてみるのも良さそう。
おしゃれに興味がある人は、ファッションやメイク、美容研究をしてみましょう。
ホロスコープ作成サイト
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